180: ◆ywLV/X/JUI 2012/07/16(月) 18:12:07 ID:cQUKwSTU0
投下します。書き手スレにも書きましたが、割り込み等お気軽にどうぞ。
タイトルはフィンランドのバンド、nightwishの有名曲から。
※このSSにはインモラルなネタや暴力的な箇所があります。受け付けない方は読むのをお控えください。
また、鬱要素もあります。
けいおんが好きな方は、読むのを控えた方が無難かもしれません。
それでもご笑覧に付して下さる方は、よろしくお願いします。
タイトル: 紬「END OF ALL HOPE」
タイトルはフィンランドのバンド、nightwishの有名曲から。
※このSSにはインモラルなネタや暴力的な箇所があります。受け付けない方は読むのをお控えください。
また、鬱要素もあります。
けいおんが好きな方は、読むのを控えた方が無難かもしれません。
それでもご笑覧に付して下さる方は、よろしくお願いします。
タイトル: 紬「END OF ALL HOPE」
181: 2012/07/16(月) 18:14:23 ID:cQUKwSTU0
連休が終わって、寝て起きれば学校だという午前一時。
紬は自室でティーカップを拭いていた。
この連休を利用してフィンランドの別荘に行った際、持ってきたものだ。
別荘の管理者によると、骨董品と言うには価値に欠けるが、
時代物と言えるくらいには古い物らしい。
北欧を思わせる模様や物珍しい形状も気に入ったが、
何より左利き専用という点が紬に持ち帰りを決意させた。
ティータイムで、澪に使ってもらおうと思ったのだ。
澪は左利きに配慮した商品が少ないと度々零していた。
もしかしたら、ティータイムで供しているティーカップも、
澪は内心使いづらいと思っていたのかもしれない。
「澪ちゃん、気に入ってくれるかな」
紬は独り言を呟くと、そろそろ寝ようかとティーカップを机に置いた。
どうせこのティーカップは、明日使う前に水洗いするのだ。
学校へと持って行く前に、埃だけでも落としておこうかと思い立ったに過ぎない。
鞄へとティーカップを仕舞う為、紬は机の脇に置いてある緩衝材に手を伸ばした。
自然、机上からもティーカップからも視線が外れる。
「こんばんは、紬ちゃん」
「えっ?」
か細い声が机から聞こえて、紬は慌てて机上へと視線を戻した。
そして目に映った光景に、紬は絶句した。
更に手に持ちかけた緩衝材を、驚いた拍子に床へと落としてしまった。
無理もない。
ティーカップの横に小人が居て、手を振っているのだから。
「驚かないで欲しいな」
小人は無理を言うと、優しげに微笑んだ。
「えっと……」
紬はそれ以上の言葉を続けられず、状況を把握しようと小人に見入った。
大きさはティーカップと同じくらいで、赤い帽子と灰色の服を身に着けている。
その顔立ちは怒っているようにも笑っているようにも見え、
男のようにも女のようにも見える。
「自己紹介がまだだったね。
僕は……日本語は不得手だから、ピッタリな言葉が見つからないけど。
まぁ、妖精とか精霊とかが近いんじゃないかな。英語ならエルフが近いのかな。
僕の国の言葉でいいのなら、フィンランド語でトントゥと呼ばれてる存在だよ」
「トントゥ……フィンランドの伝承で聞いた事があるわ。
物に宿る妖精で、持ち主にとっては座敷童のような存在よね」
紬はフィンランドに今までに何度も訪れている為、
フィンランドに伝わるトントゥの話を聞く機会は多々あった。
持ち主に幸福を授けて災厄から身を守る反面、
怒らせたりすれば物から出て行き災厄が訪れる。
それが日本の伝承にある座敷童を連想させた為、
紬の印象に深く残っている話だった。
ただ、本当に実在するとは思っていなかった。
否、今にしてなお、眼前の光景を信じかねている。
夢の中なのか幻覚なのか現実なのか、分からない。
182: 2012/07/16(月) 18:15:47 ID:cQUKwSTU0
「座敷童が何かは知らないけど、トントゥを知ってるなら話は早い。
僕はこのティーカップに宿ってるトントゥなんだ。
だから、綺麗に拭いてくれた紬ちゃんにお礼がしたい。
願い事、一つ叶えてあげるよ」
トントゥは得意気に、指を一本立てた。
「え?いいの?」
紬は戸惑いから一転、トントゥの申し出に飛び付いていた。
不意に転がり込んだ幸運を非現実的の一言で切って捨てられる程、紬は成熟していなかった。
「うん。持ち主に幸福を与えるのも、僕等の役割の一つだからね。
とは言っても、主な役割は災厄から守る事だし、
僕等は神様じゃなくて妖精に過ぎないから、何でも叶えられる訳じゃないけど。
可能な限り、叶えられるよう努めるよ」
「そうね……」
紬は指を顎に当てて考え込んだ。
紬とて、幾つも願いを抱え込んで生きている。
HTTで武道館ライブを実現させたいし、
皆に幸せになって欲しいとも思っている。
だが、それらの願いはすぐに切った。
自分の努力次第で可能なものを願う事は勿体なく思えたし、
自力で叶えるからこそ価値がある類のものなのだ。
叶えてもらうならば努力ではどうにもならないもの、
それも到底自分の力の及ばないものにすべきだと考えた。
紬はその基準に則って、予てから抱いていた願いを取捨選択していった。
そうして最終的に選んだ願いは、トントゥの言う可能な範囲を超えているように思われた。
それを自覚して言うせいか、紬の声は遠慮がちなものとなった。
「じゃあ、女性同士でも妊娠できる世界にして欲しいかな」
紬は女性同士の恋愛が好きだった。
それも自分自身の性癖ではなく、趣味として好きだった。
その為、愛し合う女性同士を応援してやりたかった。
同性愛に対する心理的な差別意識なら、まだ各人の意思で乗り越えられるかもしれない。
同性の結婚とて事実婚で対応可能であるし、それどころか法的に認めている国もある。
ただ、出産に関しては、もう本人達の努力や意思で解決する事ができない。
その問題を解決する事が、大きな一助になると紬は確信していた。
183: 2012/07/16(月) 18:16:59 ID:cQUKwSTU0
尤も、トントゥの様子を見るに、やはり期待はできそうもなかった。
トントゥは紬の願いを聞いてから、腕を組んで唸っている。
「うーん、難しいお願いを言ってきたね」
「やっぱり、無理?じゃあ、そうねぇ……」
やがて口を開いたトントゥの言葉に、紬は然して失望せずに返すと再考を始めた。
元々、叶える事が難しいだろうと分かっていたのだ。
「あっ、いやいや、できるよ」
だが、慌てたように手を振りながら言うトントゥによって、紬の思考はすぐに中断された。
「え?でも、さっき、難しいって……」
「ん?ああ、そうか。
日本語だと、難しいって、できないと同じ意味になる場合があるのか。
うん、難しいってのは、文字通りの意味でしかないよ。叶えるから安心して」
「ああ、そう言えば、フィンランドの妖精だったわね。
でも、困難な事に変わりはないんでしょ?
ティーカップを拭いただけなのに、そこまでして貰うのも悪いわ」
無償も同然で叶えてもらう手前、あまり負担を掛ける事は憚られた。
少なくとも、遠慮を前置する儀礼くらいは見せたかった。
「それは気にしなくていい。それが僕等の役割だから。
だから本来、お礼って言っちゃったのも、おかしな話だったんだけどね。
感謝の気持ちを込めてる、ってアピールかな。
それはさておき」
トントゥはここからが本題だと言わんばかりに、身を乗り出して続けた。
「紬ちゃんのお願い事は、女同士の生殖行為でも妊娠できる、でいいんだよね?
それとも、他のに変える?」
一旦遠慮するという儀礼は踏んだ。
それに、新たな願い事など思い付いてない。
紬は頷きながら言う。
「ええ、それでお願いして、いいかしら?」
トントゥも首肯とともに、言葉を返してきた。
「うん、了解したよ。
じゃあ、おやすみ、紬ちゃん」
トントゥはそれだけ言うと、ティーカップの裏に回り込んだ。
紬が慌てて覗きこむと、もうそこにトントゥの姿は無かった。
「今のは、何だったのかしら……」
紬は呟くと、ふと強烈な眠気を覚えた。
考えてみれば、時刻は既に一時を回っているのだ。
眠気に対して、無理に抗う時間では無いだろう。
紬は腕を枕に、机へとうつ伏した。
ベッドに向かう事さえ、億劫だった。
184: 2012/07/16(月) 18:18:12 ID:cQUKwSTU0
*
朝、目覚めた紬が大きく伸びをすると、何かが床へと落ちる音がした。
それと同時に、背中が軽くなった。
床を振り向いて見ると、カーディガンが転がっていた。
机で眠ってしまった紬に、誰かが掛けてくれたのだろうか。
ただ、親にせよ家政婦にせよ、深夜に紬の部屋に入るとは考え難かった。
と、すると、昨夜に会ったトントゥだろうか。
「あっ」
トントゥの存在に思い至った紬は、思わず声を上げていた。
未だに昨日の出来事が夢なのか現実だったのか、判断は付いていない。
だが、願い事を叶えると言ったトントゥに、
女性同士でも妊娠できるようにと頼んだはずだ。
その願い事が叶ったのか、紬は早急に確かめたくなった。
もし、叶っているのなら、昨夜の事は夢ではなく現実だったという証左になる。
いや、もう現実だったと確信していいのかもしれない。
紬は落ちたカーディガンをハンガーに掛け直しながら、そう思った。
.
妊娠という性的な事象を、親に訊く事は憚られた。
学校で友人相手に訊く事にした紬は、逸る気持ちに急かされるように学校へと急いだ。
ティーカップを緩衝材に包んで、鞄に入れる事も忘れなかった。
ただ、学校でもすぐに訊く機会が訪れた訳ではない。
ホームルーム前では中々気心の知れた友人が揃わず、
揃った時には既に時間も押していた。
また、授業間の休みも短く、訊く事は憚られた。
漸く紬に確かめる機会が訪れたのは、昼休みになってからだった。
昼食はいつも、律や澪、唯といった面々と机を寄せ合って食べている。
ライブ前では梓が混じる事もあるが、今日は姿を見せていない。
ライブが予定されていない事もあり、自分の教室で純や憂と昼食を共にしているのだろう。
昼食を食べ終わり、更にその後の話題にも切れ目が訪れた。
その頃合いを見計らって、紬は切り出した。
「ねぇ、女性同士の妊娠って、可能かしら?」
紬は婉曲に探るような事はせず、単刀直入に訊いた。
可能ならば奇異の目を向けられるかもしれないが、
喜ばしい事なのでその程度は受忍するつもりでいた。
また、不可能だとしても、逃げる言い訳の算段はあった。
「いや、ムギ、それは無理だろ……」
唯と律が唖然とした顔をして押し黙るなか、真っ先に反応したのは澪だった。
いきなり何を言い出したのか、と言わんばかりの呆れ顔が浮かんでいる。
「ムギちゃん、レベル上がり過ぎだよ」
唯も言葉を取り戻し、澪に続いてきた。
紬の女同士の恋愛、即ち百合に対する思い入れが強くなり過ぎだと言いたいのだろう。
185: 2012/07/16(月) 18:19:48 ID:cQUKwSTU0
「あ、違うの。そういう百合云々の話じゃなくって、科学的な話というか。
ほら、IPS細胞ってあるじゃない?
ああいうもので、可能になるかって話なの」
紬は内心に広がる落胆を押し隠して、用意していた言い訳で繕った。
「ああ、IPS細胞か。そういう話もあるよな。
でも、倫理的にどうなんだろ?
ああいう技術は医療倫理に留まらず、宗教的な問題や社会文化的な問題もあるし、
容易に出産できる事で種々の問題が出てくるかもしれないし。
その辺が難しくてよく分からないから、何とも言えないな」
澪の意見に、紬も同様の思いを抱いていた。
難しくてよく分からないからこそ、願い事に”生殖行為”という言葉を敢えて含めたのだ。
紬は幼い頃から、
「よく分かっていないモノには突っ込むな」と、父親に事ある毎に言い聞かされてきた。
実際には、トントゥに願いを委ねた事自体が、
既に父親の教えに沿っていない事なのかもしれない。
それでも事業家にして投資家の父から刷り込まれた哲学が、
願いの内容という土壇場では活きた形になっていた。
「私は澪ちゃんやムギちゃんみたいに頭が良い訳じゃないから、
難しい事は分からないんだけどね。
でも、まだ実用化には至っていないんでしょ?
だから、ムギちゃんの質問に答えるならこうなるよね。
今は無理だよ、って」
珍しく的確な答えを返す唯に続いて、澪も言い足してきた。
「そうだな。本来想定している用途の再生医療にさえ、
まだまだ使えるような技術水準じゃないみたいだしな」
澪の補足で話に区切りが付いたと、紬は判断した。
後は礼を言って、この話を終わらせようと思った。
元々、昨夜の願いが叶ったかどうか確かめる為の問いでしかない。
「でも……女同士でも妊娠できたら、素敵だよな。
好きな人の愛を授かって、赤ちゃん産みたいし」
紬が話題を切るよりも早く、それまで黙っていた律が言葉を挟んできた。
「……ごめんな、律」
神妙な口調で謝る澪に、律が慌てて手を振った。
「あ、いや。ただ、夢物語に憧れただけだよ。
ほら、好きな人と結ばれてるだけでもさ、幸運の賜物だし。
これ以上の幸せを求める程、私は欲深くないからさ」
「でも、本当は赤ちゃん、欲しいんだろ?
私が女じゃなかったのなら、律の幸せ、叶えてやれたのに」
澪は本当に申し訳なさそうだった。
自分の恋人の幸せを叶えてやれない、その歯痒さが声にも表情にも表れている。
紬も歯痒かった。
自分の願いが叶ってさえいれば、友人の幸せも叶っていたはずだった。
「みーおっ、そんな顔しないで。私は充分、幸せだからさ。
それに澪が女で、良かったと思うよ?
私、聡以外の男の人に耐性無いから、男の人と仲良くやれる自信ないし。
その大きな胸も、私の大好きな居場所だし」
「律……ありがとな。孕ませてあげられない分、愛して包んでやるよ」
大好きな居場所だと言われた胸に、澪が律の小さな体躯を引き寄せて抱いた。
律の顔に、安らかな笑顔が広がる。
「えへへ、やっぱり、大好き。
赤ちゃんの夢物語よりも、現実のこの感覚が大切だと思ってるよ、みぃおっ」
夢物語よりも現実を喜ぶ律とは対照的に、紬は内心沈んでいた。
願いが叶っていない事から推せば、やはり昨夜のトントゥは夢でしかなかったのだろうか。
あれが夢ではなく現実だったのなら、どんなに良かった事か。
紬は嘆息したくなった。
ただ、夢だったのなら、眠っている紬にカーディガンを掛けたのは誰なのか。
紬はふと、疑問に思った。
186: 2012/07/16(月) 18:21:45 ID:cQUKwSTU0
*
紬達の部活には、頻繁にティータイムが入る。
そのティータイムを迎えると早速、紬はバッグから左利き専用のティーカップを取り出した。
トントゥが宿っている事は夢だったとしても、
ティーカップ自体にはまだ有用な使い道がある。
左利きの澪に是非とも、使い心地を試してもらいたかった。
紬は左利き専用のティーカップを水洗いして充分に拭くと、
他のティーカップとともにテーブルに並べた。
勿論、左利き専用のティーカップは澪の手前に配した。
模様も形状も違うティーカップが一つだけ配られた事に、
澪は訝しげに眉を顰めた。
だが、このティーカップの説明を受ければ、
澪の表情は一転して喜びに満ちるだろうと。
紬はその時を楽しみにして、紅茶を五つのティーカップに注いだ。
「待ってましたー。この時を楽しみに、部活に来てるんだよねー」
注ぎ終わったティーカップに早速口を付け、唯が嬉しそうな顔を浮かべた。
「唯先輩、部活の本分は練習ですからね」
窘めつつも、紅茶を飲む梓の顔は満悦が走っている。
二人の反応に紬は満足したが、一番反応が気になる相手は澪だった。
紬は澪に向けて、紅茶を飲むように促す。
「ねぇ、澪ちゃん。澪ちゃんも、早速飲んでみて?
紅茶は他の人と同じだけれど、そのティーカップ、面白いコンセプトがあるの。
あ、取っ手は左手で掴んでね」
今まで紅茶を飲む時、澪が左右どちらの手を使っていたか。
そこまで紬は観察していなかった。
「コンセプト?確かに、私だけ皆のとは違うけど」
澪は言われた通りに左手で取っ手を掴み、紅茶を口に含んだ。
そして喉が嚥下を示して上下し、澪がティーカップから口を離す。
「どう?」
「どうって……。普通、だけど」
期待を込める紬に対し、澪の返答は素っ気無かった。
「なぁ、ムギー。澪のティーカップには、どんな意味があるの?」
律が興味津々といった様子で訊いてきた。
187: 2012/07/16(月) 18:23:28 ID:cQUKwSTU0
「実はそれ、左利き専用のティーカップなの。
別荘にあったから、使い心地が気になっちゃって。
それで、澪ちゃんに使い心地を試してもらおうと思ったの。
あまり、使い心地良くなかった?」
紬は律に応えつつ、再度澪へと話を振った。
「んー、そう言われてみれば、若干飲みやすいかも。
ただ……ティーカップって、別に複雑な操作や力が必要な訳じゃないから、
いつものでも別に不便は感じてないんだよな」
澪はそう言った後で、気付いたように付け加えた。
「あ、ごめんな、ムギ。折角、持って来てもらったのに」
「え?ああ、気にしないで。
気になったってだけだから、試してもらって助かったわ」
言葉とは裏腹に、紬は胸中でまたも落胆していた。
澪の喜ぶ顔を想像していただけに、その反動は大きい。
「なぁ、澪ー。ちょっと、私にも試させてもらっていい?」
律が手を伸ばして、取っ手を掴んで持ち上げた。
が、使い心地が良くないのか、ティーカップを口元に傾ける動作は拙かった。
「んー。左利き専用なだけあって、右利きの私には使いづらいな」
普通に扱えた澪とは違い、律は使いづらさを訴えている。
「面白そー、私にも試させてー」
続いて唯も試したが、その動きは律同様に拙かった。
「むー、確かに。これ、使いづらいね。
でも、澪ちゃんには、普通に使えるんでしょ?
なら、このまま使っちゃえば?って、ムギちゃんの物だけど」
唯の視線が、澪と紬の間で交互に揺れる。
その視線を受けて、紬は澪へ向けて問いかけた。
「どうする?私は澪ちゃんが気に入ってくれたのなら、
明日からも澪ちゃんに使い続けてもらうのもいいかなって思ってるけど。
いえ、その方が、有効活用できていいかな。
どうせ、右利きの私には上手く扱えないんだし」
澪は考え込むように顎に手を当ててから、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめん、ムギの気持ちは有り難いんだけど……。
やっぱり私、皆と同じものがいいかな。
その方が、仲間って感じがして。
特に、このティータイムって、バンド名になるくらい私達を象徴するものだから、
皆と一緒の方がいいかな」
考えてみれば、澪の歌詞にはメンバーの連帯を大切に思うものも多かった。
澪は最もHTTの結び付きを重視しているのだ。
ティーカップの使い心地以前の問題だったと、紬は己の浅慮を恥じた。
「そうね、そうよね。分かったわ」
「ホントごめんな、ムギ」
尚も謝る澪に、紬は手を振って返す。
「いえ、謝らなくていいわ。逆に嬉しいくらいよ。
澪ちゃんが私達との繋がりを、本当に大切に考えてくれてて」
半ば本心で、半ば残念だった。
.
学校から再び持ち帰ったティーカップを眺めて、紬は溜息を吐く。
願い事は叶わず、澪の役も為さない。
期待が二重に裏切られた反動故か、このティーカップが憎らしく思えた。
「要らないわ」
幾ばくかの怒りとともに、紬は家のゴミ捨て場へと投げ捨てた。
少し自棄になっている自覚はあったが、
このティーカップを見る度に怒りは再来しそうだった。
精神の衛生に対する配慮だと割り切って、紬は部屋へと戻った。
紬は今夜もまた、机にうつ伏していた。
昨夜とは違い、作曲の合間の仮眠、のつもりだった。
だが、結局睡魔には勝てず、そのまま眠りに落ちてしまった。
朝起きた時、紬の背にカーディガンは掛かっていなかった。
188: 2012/07/16(月) 18:24:56 ID:cQUKwSTU0
*
トントゥの件から、幾週間もの日が月を跨いで流れた。
その頃にはもう、紬はもうトントゥの事など忘れかけていた。
今日も緩々と流れる時間を、大切な部活の仲間とティータイムを通じて共有している。
「ムギー、今日も私のには」
「分かってるわ、レモン、でしょ?」
律にみなまで言わせる必要もなく、
紬は冷蔵庫からレモンの輪切りが入ったタッパーを取り出した。
律はここ最近レモンティーに嵌ったのか、頻りと紅茶にレモンを入れている。
「またレモンティー?
最近、りっちゃん酸っぱい物ばかり食べたがるねー。
ティータイムのスイーツも、フルーツばかり欲しがるし。おめでた?」
唯がからかうように口にすると、律が甲高い声で応じた。
「あーら、この子ったら何言ってるのかしら」
二人のやり取りを眺めながら、ふと紬はずっと忘れていたトントゥを思いだした。
だが、すぐに頭から追い払った。
叶わなかった願いなど、あまり思い出したい事ではない。
「それはそうと……最近、食生活大丈夫か?
食が細くなったんじゃないか?」
心配するような澪に、梓も続く。
「そうですよ。最近の律先輩、体調を崩す事多くないですか?
頭痛とか腹痛とか、果ては胸痛とか。だるそうな事も多くなりましたし。
一度、病院で見てもらった方がいいんじゃ」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。
確かに最近食欲ないけど、寧ろ丁度いいくらいだし。
だってさ、何かお腹、出てきた感じするんだよね。
果糖とか摂り過ぎかなぁ」
律は愚痴を零した後で、付け加えた。
「ま、近々クリニックに行こうとは思ってるからさ。
体調を崩す事が多いってのも、その時に併せて聞いてみるよ」
「併せて聞くって、りっちゃん、他にも何か具合が悪い事あるの?」
明るい唯にしては珍しく、不安そうな顔が浮かんでいる。
189: 2012/07/16(月) 18:25:58 ID:cQUKwSTU0
「大した事じゃないよ。ここんとこ、女の子の日が不順でさ。
病気を疑ってる訳じゃないけど、念の為に行ってみるよ。
って、そんな顔すんなよ。どうせ、ストレスか何か」
律は唐突に言葉を切ると、口元を手で押さえて机に蹲った。
吐き気を堪えているのだと動作で分かったが、咄嗟の事に紬は動く事まではできなかった。
「り、律っ?」
「りっちゃんっ?」
叫ぶ澪と唯の声が交差する中、律は拙い動作で腰を浮かせて言う。
「ちょっ、ごめ、お手洗い、っ」
口元に手を当てたまま、律は腰を屈めて駆け出した。
弾かれたように澪が後を追い、それに連れられるように紬も続いた。
唯や梓も付いてきているらしく、後ろから慌ただしい足音が聞こえてくる。
律は言葉通りに、手洗いの個室に駆け込んでいった。
その中に澪も入って扉を閉め、すぐに鍵の閉まる音も響いてきた。
この先に入る資格がある者は、確かに澪だけだろう。
紬はその行動に納得して、唯達とともに個室の前で待った。
程無くして水を流す音が聞こえ、それに嘔吐の音が混ざった。
排尿とは違い、水を流す程度では嘔吐の音までは消せない。
お世辞にも綺麗な音ではないが、紬には個室の中の二人が美しく思えた。
澪は律の吐瀉物を厭わず、律も澪に見せる事を厭っていない。
そこまで互いに見せ合える仲なのだと、不安の中で紬は二人の絆を再確認した。
律の嘔吐が止むと、もう一度水の流れる音が響いた。
そして扉が開き、中から澪に支えられて律が出てきた。
朗らかな普段の姿とは対照的に、酷く窶れている。
「あー、予定変更。明日にでも、病院行ってくる」
律は開口一番、そう言った。
「いや、できれば今日の方がいいよ。一緒に付き添おうか?」
申し出る澪に対して、律は手を振った。
「いや、一人で大丈夫だよ」
律は拙い足取りで蛇口に向かうと、口を漱ぎ始めた。
重大な病が宣告されなければいいけど、と。
紬は祈るような気持ちだった。
.
190: 2012/07/16(月) 18:27:16 ID:cQUKwSTU0
次の日、午後から律は学校へと姿を見せた。
その表情は明るく、昨日の窶れていた姿が嘘のようだった。
「りっちゃん、大丈夫だったの?」
気になって紬が問い掛けると、律は首を左右に振った。
「うん、大丈夫、大丈夫。
それよりさ、今日の部活で、重大発表があるんだ」
「こんな調子で、律は私にも病院での事を教えてくれないんだよ。
何か隠してるんじゃないだろうな?」
澪は口調こそ訝るような調子だが、震える声音には不安が表れている。
紬も不安だった。
あまりにも深刻な病名だからこそ、律は空元気に振る舞っているのではないか、と。
「隠してる事なんて、何もないよ。
まだ発表してない事があるってだけで。部活の時のお楽しみ」
「どうして今、言えないの?」
内心の不安の表れだろうか。
紬は自然と詰問するような口調になってしまった。
「梓にも聞いてもらいたいからさ。
親にもまだ言ってない、トップシークレットなんだ」
胸を張る律に、紬はそれ以上の追及を諦めた。
今何を言っても、律ははぐらかすだけだろう。
「ふーん、部活が楽しみだねー」
唯の純粋な声が、場違いなような気さえした。
.
191: 2012/07/16(月) 18:29:00 ID:cQUKwSTU0
部活の時間になり部員が全員集まると、澪が早速律を促した。
「で?重大発表ってのは、何なんだ?」
待ってました、と言わんばかりに律が立ち上がった。
だが律が口を開く前に、梓の横槍が入る。
「重大発表?何ですか?それ」
「りっちゃんたらね、午後から学校に来るなり、
今日の部活で重大発表があるって言ったんだよ」
唯が説明すると、律が後を引き取った。
「そ。皆に聞いて欲しかったからね」
律は勿体ぶるような間を置いてから、宣告するような語勢で言葉を放った。
「実は私、できちゃいましたー」
紬は一瞬、律が何を言っているのか理解できなかった。
律の言葉には、主語が欠けている。
「あの、できたって?何が、できたんでしょうか?」
皆を代表するように、梓が問うた。
「ん、赤ちゃん。唯の言うとおり、おめでただったよ。
私が体調崩してたのって、妊娠の兆候を示してんだろうってさ」
紬はまたしても、律が何を言っているのか理解できなかった。
それは皆も同じらしく、一様に黙り込んでいる。
その中で一番早く声を取り戻した者は、澪だった。
「冗談はいいから。で、重大発表ってのは、何なんだ?」
「冗談じゃなくて、本当だよ。
まぁ実際には確定じゃなくて、陽性って事だけどさ。
そのうち、確定させる為の検査もあるんじゃないかな」
尚も言動を撤回しない律に、立ち上がった澪が苛立ちを募らせた声で迫る。
「いい加減にしろ。付いていい嘘と、悪い嘘があるぞ。
浮気しただなんて、冗談でも言うな」
律は首を傾げたが、すぐに澪の言っている事を理解したらしい。
笑顔を浮かべて、澪に言う。
「あー、大丈夫、大丈夫。
私、澪以外の人とは、してないからさ。
つまりね、これ、澪の子だよ」
自分の腹部を指差した律に、すかさず澪の怒鳴り声が向かった。
「ふざけるなっ。女同士で、妊娠なんてできるかっ。
もし妊娠が本当なら、お前は私というものがありながら、男に身体を許した事になる。
浮気なんて絶対に、絶対に許さない。
これ以上ふざけた事を言うなら、私に殺される覚悟で言えっ」
「お、落ち着いて、澪ちゃん」
只ならぬ澪の剣幕に、紬は慌てて宥めにかかった。
192: 2012/07/16(月) 18:31:39 ID:cQUKwSTU0
「ああ、悪いムギ。ちょっと、興奮し過ぎたみたい。
律の馬鹿な嘘に、何ムキになってるんだろうな」
澪は溜息を吐くと、気分を落ち着けるように深呼吸した。
だが、その行動を無にするような言葉が、律から放たれた。
「なっ、何でそんな事言うんだよ、澪ー。
だって、事実なんだからしょうがないじゃん。
私だって不安なのに、澪に助けて欲しいのに。重いのは分かるけど、現実受け止めてよ」
「はい、ストップ」
再び澪が激しないように言うと、紬は律に向き直った。
律の顔も声も、嘘を言っているようには見えない。
病院の検査で陽性ならば、想像妊娠のケースも考え難い。
だが、女性同士で妊娠できない事は、事実なのだ。
「ねぇ、りっちゃん。その事、親にもまだ言ってないって言ってたけど。
でも、りっちゃんは未成年なんだから、
病院の先生から御両親に連絡しなかったの?」
「病院っていうか、クリニックだけど」
紬にはどうでもいいと思える事を訂正してから、律は続けた。
「連絡はしたがってたよ。
でも、皆に……特に澪に先に伝えたかったから、自分で言うって言っておいた。
そうしたら、納得してくれたみたい。
絶対に親に伝えるようにって、しつこく念を押されたけどね」
その時の様子が、紬には目に浮かぶようだった。
親に妊娠を知られたくない女子高生を前に、対処に惑う医師の姿が脳裏に過ぎる。
紬はその映像を頭から振り払うと、律への質問を続けた。
「それはそうと、りっちゃんは妊娠の可能性を考えてたの?
妊娠の検査をしたっていう事は、妊娠するような心当たりがあったの?」
律は首を振った。
「んーん。そもそも、私の方から妊娠の検査なんて頼んでないし。
向こうからやってきたんだよ。
どうも私の症状から推測しての検査だったらしいよ」
「症状から妊娠の検査に結び付いたって事は、りっちゃんが行ったのは産婦人科なの?」
今度は、律の首が縦に揺れた。
「うん。正確には、泌尿器科と産婦人科を持ってるクリニックだけど。
もともと、生理不順でクリニックには行こうとは思ってたし。
私の体調が崩れてたのも、そういう器官に原因があるのかなって思ってたし」
泌尿器科と産婦人科の組み合わせは、
女性専用の医療クリニックとしてよくある形態だった。
デリケートな症状を抱えた律が向かう先としては、納得できる。
「その検査の前に、男性経験とか訊かれなかった?
それには、ノーと答えたの?」
再び、律の首が縦に動いた。
「うん、訊かれたよ。女の子としかしてないって、正直に答えたよ。
それでも検査はされたけどね」
「本当に、そう答えたのか?
本当に男性経験がないって答えたのなら、そもそも検査なんてしないはずだけどな」
澪が疑う様な口振りで、割って入って来た。
だが、その時の産婦人科医の胸中が、紬には何となく理解できた。
妊娠を疑って産婦人科に来たが、土壇場で怖くなってしまった女子高生。
そこで男性経験を誤魔化す事で逃げようとした。
そう産婦人科医は思い、妊娠検査を行ったのだろう。
勿論それは、律の言が真実だという前提が必要となる。
ただ、紬には律の真摯な態度が、嘘を言っているようには見えない。
193: 2012/07/16(月) 18:34:36 ID:cQUKwSTU0
「まぁまぁ、澪ちゃん。
ここは一日、様子を見てもいいんじゃないかしら。
お互い、冷静になる冷却期間が必要だと思うの。
りっちゃんも、ちゃんと御両親には言わなきゃ駄目よ?」
「はぁ、分かったよ。このまま話を続けても、拗れるだけだしな」
澪は疲れたように言うと、椅子へと腰を落とした。
続いて律も首肯で紬への同意を示すと、目を伏せながら言った。
「うん、ちゃんと親にも言うよ。
今日のところはムギの言う通り、これ以上はこの話を続けない方が良さそうだね。
今日は急の事だから動転してるだけで、
明日になれば澪も冷静に話を聞いてくれるかもしれないし」
澪の睥睨が、律を射竦めた。
また怒声が飛び出るかもしれないと紬は警戒したが、澪は黙って睨み続けるだけだった。
それでも、律に対する威圧としては十分だったようだ。
律は気圧されるように後ずさると、背を翻しながら言う。
「あー、今日のところは、もう帰るね。
部活、って気分じゃないし」
それは紬とて同様だった。澪には聞くまでも無いだろう。
唯や梓も同様らしく、抗議の声は上がらなかった。
律が部室を去った後で、梓が声を潜めて言う。
「どう、思います?妊娠、本当だと思いますか?」
「うーん、あずにゃんは、どう思うの?」
「……嘘を言ってるようには、見えませんでした」
唯に問い返された梓は、紬と同様の感想で応じていた。
「でも……女の子同士じゃ、妊娠なんてできないよ?」
唯の言っている事は正しい。
梓もそれを理解しているのか、反論はしなかった。
紬も理解していた。
理解しているからこそ、あの日の夜、トントゥに女性同士でも妊娠できる世界を願ったのだ。
トントゥに思い至った紬は、思わず息を呑んだ。
そうだ、自分には女性同士でも妊娠できる事に、心当たりがあるのだ、と。
だが、その願いは叶っていなかったはずだ。
──本当に叶っていないのだろうか?
紬は何か、重大な思い違いをしている気がした。
誰も言葉を発しない重苦しい空気が続いた後で、澪が呟くように言った。
「つまり、どちらかが嘘なんだろ?
妊娠か、貞潔かの、な」
「本当の話に嘘が混じる、それって話全部が真実らしく見えちゃうからね。
全部ならともかく、一部だけって、気付きづらいし。
詐欺師が良く使うテクでもあるし」
澪へと同調する唯の言葉に、紬は危うく声を上げそうになった。
すんでの所で堪えたが、胸は激しく早鐘を打っている
「ああ。それでもし、律の妊娠が嘘なら。
吐いていい嘘と吐いてはいけない嘘があるっていうのを、厳しく教え込むよ。
それで、済ませてやる。
でももし、私に対する貞操が嘘だったのなら」
澪の表情が歪み、声にも凄みが篭った。
「どこまでやってしまうか、私にも分からない。
禁忌を犯さない自信さえない」
澪に圧倒されるように、部室に再び沈黙が下りた。
.
194: 2012/07/16(月) 18:36:23 ID:cQUKwSTU0
唯達と別れて一人歩く帰り道、紬の脳裏に唯の言葉が蘇る。
紬に思い違いを気付かせた、キーワードが。
──全部ならともかく、一部だけって、気付きづらいし
願いは叶っていたのだ。ただ、紬の想定と異なり、変化が一部に訪れただけだった。
それが故に、気付く事が遅れてしまった。
不完全な形で叶ったのではない、単に紬の想定が勝手な思い込みだっただけだ。
紬の願った「女性同士が妊娠できる世界」では、
それが当たり前に受け入れられた世界を想定していた。
目が覚めれば女性同士の妊娠が普通となった、非日常的な世界に変わるのだと。
自分だけが、新しい世界へと行くように。
だが実際には、単に女性同士で妊娠できるようになっただけで、
人々の意識や社会体制までもが変わった訳では無いのだ。
非日常な世界に変わるのでもなく、行くのでもない。
女性同士の妊娠という非日常が、日常の世界へと持ち込まれただけだった。
非日常がやって来ただけだった。
そう、願いは叶っていた、杓子定規に。
己の誤算に、紬は唇を噛み締めた。
そこまで想定できなかった事が恨めしかった。
半信半疑のまま軽い気持ちで願った事を悔いていた。
止まない悔恨を抱えたまま、紬は帰路を歩く。
明日以降への不安も、その胸に併せ抱いて。
195: 2012/07/16(月) 18:37:19 ID:cQUKwSTU0
*
次の日の休み時間、律が不満げに愚痴を零してきた。
「ねー、聞いてよー、ムギー。私が家に帰った時には、親ももう知っててさ。
あの先生、何で電話するかな。
ちゃんと、私から言うって言ったのに」
クリニックの担当医が律の家に電話をして、親に律の妊娠を伝えたと言う事らしい。
律は不服そうだが、紬には納得できる行動だった。
妊婦は未成年であり、しかも高校生なのだ。
律の意に反して親に連絡したとしても、責める気になれない。
「仕方ないわよ。事が事だもの」
自然、紬は律の担当医を擁護するような口調になる。
「そうは言うけどさー、お蔭で親に怒られまくっちゃったよ。
後で気付けば、私が部活やってる間の着歴は、親からの電話で埋められてたしさー。
もうちょっと、皆私を信用して欲しいよ」
それは担当医や親だけに向けた言葉ではないだろう。
紬には律が”皆”という語に、澪も含めているような気がしていた。
「それで、御両親は何と?」
「猛反対。酷いよね、命を何だと思ってるんだって感じ。
でもいいもん、澪さえ居れば、私は頑張れるし。
昨日は衝撃的だったのか、あんな感じだったけど。
でも一日置いて冷静になってるだろうから、きっと自覚してくれる……って信じたいよ」
紬は今朝、一人で登校してきた澪を思い出しながら言う。
「そう言えば今朝は、りっちゃん、一人で登校したみたいだけど……。
澪ちゃんとはまだ、その事を話してはいないの?」
律は頬を膨らませ、斜め下に顔を向けた。
「澪ったら、酷いんだよ。先に勝手に行っちゃって。
私は澪の事、信じたいのに。
そういう態度取られると、信じたい気持ちがあっても、どんどん不安になっちゃうよ」
まだ、澪とは会話を交わしていないらしかった。
確かに今日の澪は、朝からずっと律を避けるように過ごしていた。
それでも時折律に向ける視線には、確かな憤怒が込められていた。
今も澪は教室に居ない。
それも律を避ける行動の一環であるかのように、紬には映った。
──教室。
澪の不在を確かめた時、紬はここが教室である事を思い出した。
それと同時に、澪の意図にも気付く。
「ねぇ、りっちゃん」
呼び掛けて律の注意を引くと、紬は大仰に口を固く結んで見せた。
同時に、視線を左右へと激しく振った。
律は紬の言いたい事に、気付いてくれたらしい。
「ああ、そっか。話は後にしようか。紅茶でも飲みながら、ね」
周囲の耳がある場所で、妊娠の話をすることは危険だった。
いつかは露見する事だが、律の家庭から学校に話が通るまでは噂にさえすべきではない。
澪はそれを見越して、律を避けていたのだろう。
「ええ。後で、ね」
紬は頷いた。
恐らく澪は部活の時に、律と話をするつもりでいる。
部員は全員、律から妊娠の話を聞いていた。
澪にとって、憚らずに話せる場となるのだ。
仮に澪が律の妊娠の話に触れずとも、律からその話を展開する事だろう。
紅茶でも飲みながら、という律の言葉がそれを示している。
その方が、紬にとっても安心できた。
他人の居る場では避けるべき話題だが、今の澪と律を二人きりにして話し合わせる事も不安だった。
澪が冷静に構えられるか疑わしい、否、澪が正気を保てるか疑わしかった。
そしてその原因は、自分にあるのだ。
悪いのは律でも澪でもない、自分なのだ。
紬はその重さに目眩すら感じながら、放課後を待った。
.
196: 2012/07/16(月) 18:38:36 ID:cQUKwSTU0
部活が始まり部員が揃うと、早速律が口を開いた。
「ねー、澪ー。昨日の事だけど、信じてくれる気になった?」
その単刀直入な問い掛けに、早急に話を付けたい律の不安が表れていた。
胎児を宿す律にとって、パートナーである澪の理解は急務なのだ。
紬は紅茶の用意を諦めて、話の展開を見守る事にした。
ティーカップや熱湯といった凶器を、荒れるであろう話の場に置きたくなかった。
また、危険な結果に結び付くような兆候があれば、即座に介入できる態勢で居たかった。
唯や梓も紬と同じ考えを抱いているらしく、律と澪に注意深い視線を注いでいる。
「どうしても妊娠したと、言い張るんだな?」
澪の口から低い声が漏れ、瞳の端が吊り上った。
「だって、嘘じゃないし。親も知ってる事だよ?
いずれ学校にも連絡いくと思うから、妊娠はすぐに明らかになると思うよ?」
「……相手は、何処の男だ?
いや、何処の誰であろうと。堕ろせ。早急に、だ」
澪は不気味な程、落ち着いた声で静かに言った。
その声音とは裏腹に、顔は憤怒に歪んでいる。
「なっ、相手は、澪だよ?
澪の子供、堕ろすなんてできないよ……」
律の声は、段々と小さくか細くなっていった。
「女同士で、妊娠なんてできる訳が無い。
幼稚な事を言うな」
澪の声は静かながらも、震えが交じっている。
怒りを無理矢理抑え付けている、その苦心が紬にも伝わってきた。
「でも、事実、澪としかしてないんだから、しょうがないじゃんっ。
何なら、DNA鑑定でもする?それで、結果は明らかになると思うよ」
「その費用を、律は持っているのか?親が出すんだろ?
結果が分かりきっている事に、十数万円もの費用を親が出すと思うのか?
中絶費用だって、親に工面してもらうんだろ?その上更に、そんな費用まで求めるのか?」
澪の言う事は正論だった。
二十万円は勿論、十万円も大金である。
それを紬は、経験を通してよく承知していた。
一年生の頃、唯にギターを入手させる為、琴吹系列のショップで値切った事があった。
二十五万円を五万円で購入した事は、当然のように父親の耳にも入った。
結果、紬は厳しく叱責された。
それは金銭の感覚を学び直そうと、紬にアルバイトを決意させた契機でもあった。
197: 2012/07/16(月) 18:39:44 ID:cQUKwSTU0
「確かに、親だって、澪と同じ考えなんだろうけど……。
でも、澪が信じてくれないんだもん」
律とて、それが大金であると分からないはずもない。
澪の言葉に、効果的な反論ができずにいる。
対する澪は表情を穏やかに転じて、諭すように言う。
「安心しろ。いいか、律。私はお前を許すよ。
本当は浮気だなんて、許せるはずもない。
お前を刺し頃して私も氏にたいくらいだ。
でも、律の事が好きだから……許してあげたいんだ」
「だから、浮気なんて、してないって」
律の抗議を無視して、澪は続けた。
「多分律だって、赤ちゃん欲しさにヤっちゃったんだろ?
その幸せを叶えてやれない私だって悪いんだ。だから、許すよ。
ただし、ケジメは付けろ。その子は堕ろせ。
男とも縁を切れ」
「男なんて居ないよっ。どうして、どうして信じてくれないの?
私、出産は初めてで、不安なのに。
パートナーの澪に、励ましてもらいたいのに。
どうして、堕ろせなんて言うの?
この子の事、認めてよ。愛してあげてよぉ……」
律の口から、悲痛な声が漏れ出た。
「他のヤツと浮気してできた子なんて、愛せる訳も無いだろ。
今ならまだ間に合う。頼むから堕ろせ。
それで、無かった事にしてやる。無かった事にしてやれる」
澪の表情には、またも怒りが滲み出ていた。
穏やかな表情を繕う事など、初めから困難だったのだろう。
それは昨日に見た澪の剣幕を思い出せば、容易に推せる事だった。
そもそも、許す方向へと思考を転換した事だけでも、
相当な葛藤を一夜のうちに経たはずである。
「やだっ、絶対に産むもんっ。澪の子だもん。
中絶なんて、絶対にしないからっ」
律は叫ぶように言うと、澪を真正面から見据えた。
澪は最早表情を繕う事はせず、律を憤怒の形相で睥睨している。
198: 2012/07/16(月) 18:42:26 ID:cQUKwSTU0
「あの、律先輩。声、抑えて下さいよ。
もし、誰かに聞かれたら……」
二人が睨み合う中、梓が遠慮がちな声で言葉を挟んだ。
律は気付いたように目を落とすと、「ごめん」と一言だけ呟いた。
「それに、澪先輩の言う事、尤もだと思いますよ。
今ならまだ、間に合います。
学校には適当な理由付けて休んで、その間に……その、お腹の手術すれば……。
学校には、バレなくて済むかもしれません」
律が大人しくなった機に、梓が畳み掛けるように言った。
「梓まで、何言ってるんだよぉ……」
律の口から、涙交じりの声が漏れた。
それでも、梓が言葉を撤回する事は無かった。
それどころか、更に言葉を募らせている。
「律先輩の為ですよ。学校にバレたりしたら、
最悪……退学だって有り得るんですよ?
大体、育てる資力も能力も無いのに産んだら、生まれてくる子だって可哀想ですよ」
「資力は何とかするもん。
能力だって、どんなベテランの母親だって、
初めて産んだ時は初心者だったんだ。
母親って、赤ちゃんと一緒に成長していくものだって、育児誌にも書いてあったし」
もう律は、育児誌も読み始めているらしい。
本当に出産する気でいるという事が、紬にも伝わってきた。
「確かに、りっちゃんの言う事は、正しい面もあると思うよ。
でもね、退学になる可能性については、ちゃんと考えたの?
今後のキャリアや将来設計に重大な影響が及ぶって事、ちゃんと考えたの?」
律を諭す唯の意外な言葉に、紬は驚いた。
唯は本来、キャリアや将来といったものへの関心が、最も薄い者だったはずだ。
普段は興味がないよう装って、実際には考えていたのだろうか。
否、と紬はすぐに認識と視点を改めた。
唯の言葉の意外性は、律に訪れている状況の深刻さを表しているのだ、と。
唯という刹那的な快楽主義者でさえ、キャリアや将来設計という言葉を口にしてしまう程に。
「何だよ、何だよ、皆して。
資力だの、キャリアだのって、要はお金とか地位とかじゃん。
それが不要とは言わないけど、人生それだけじゃないし。
愛情こそが私の人生のメインだもん。だから、好きな人の赤ちゃんは絶対に産むから」
尚も抗う律に、澪が苛立ったように声を荒げて迫る。
「いい加減にしろ。浮気した分際で、愛がメインだなんてふざけてるのか?
色欲がメインじゃないか、説得力が無いんだよ。
大体、相手の男とはどうなってるんだ?
有り得ない事を言うばかりで、話に全く出てこない。逃げられたのか?
愛がメインだと言うのなら、そんなヤリモクの男は捨てて、
腹からもそんな男の種は堕ろして、私の所に帰ってこい。
それが金や地位に勝る純愛だ」
「馬鹿澪っ。逃げてるのは、澪の方じゃん。
澪の方こそ、私の事、信じてよ」
律の声が震えを帯び、瞳にも薄っすらと涙が滲んだ。
「誰が馬鹿だっ、馬鹿は男に弄ばれたお前の方だろっ」
澪は怒気露わに叫ぶと、拳を握り締めて律へと振りかざした。
律の身体が怯えたように縮こまり、唯と梓の顔にも緊張が走る。
199: 2012/07/16(月) 18:43:50 ID:cQUKwSTU0
「駄目よ、落ち着いて、ね?澪ちゃん」
危険だと咄嗟に判断した紬は、素早く澪の手を掴んで言った。
到底、見過ごす事などできなかった。
これは律と澪が以前見せていたスキンシップではない、怒りに任せた暴力だ。
「律、お前、分かってるのか?
もし、妊娠が学校にバレたら、梓が言ったように最悪退学だって有り得るんだぞ?
いや、不純異性交遊なんだから、出産すると言うなら多分、退学だ。
純愛だったり、反省して堕ろすというなら、まだ温情が期待できたかもしれない。
でももう、純愛じゃないのは明白だ。堕ろすしか無いんだよ」
紬に手を掴まれたまま、振り解こうともせずに澪は言った。
もしかしたら、暴力に走りそうな自分を止めて欲しいのかもしれない。
「純愛だよ……澪も、純愛でしょ?」
澪へと問い掛ける律の声は縋るようだった。
「私に言わせれば、浮気に純愛なんてない。
それに、学校から見ても、だ。
相手の男さえ明らかにできないような妊娠を、純愛だと認めるとでも思うのか?
不埒で不純で、淫らな欲に身を任せて避妊を怠ったとしか思わない」
澪の言葉は冷徹ながらも、尤もな言説だと紬とて思う。
相手を隠す妊娠など、不純異性交遊の結果としか学校には見えないだろう。
ただ、紬には律の言う事が真実だと分かっていた。
分かっているからこそ、律が不憫だった。
「ひ、酷いよ、澪。私、澪としかしてないのに、淫らなんて……。
私、本当に男なんて居ないのに」
律の瞳に溢れる涙は、今にも零れそうだった。
信じてもらえない悲しみや悔しさが、紬にも伝わってくる。
ただ、澪には伝わらないだろう。
「そこまでその男を庇うのか?それは、まだ浮気が継続中だって事だ。
既に捨てられてたとしても、浮気である事に変わりはない。
まだその男を強く想っているって事だからな。全く反省してない。
私の下に帰ってこないなら、絶対に許せない。絶対にだ」
澪の腕に力が篭り、紬の拘束を解こうと動いた。
だが、澪が紬の拘束を脱するよりも早く、律が動いた。
「馬鹿澪っ、もういいしっ。
私、一人でも頑張るっ。澪の無責任っ」
律は涙を溢れさせながら叫ぶと、背を翻して部室を飛び出していった。
無責任という言葉が刺さって、紬は咄嗟に後を追った。
「待って、りっちゃんっ」
それでも部室を出る直前で足を一旦止め、澪を振り返って言う。
「ごめんね、澪ちゃん」
自分の願い事が原因で、澪と律を苦しめている。
その事に対する謝罪だった。
事情を知らない澪には通じないだろうが、謝らずにはいられなかった。
尤も澪は、腕を掴まれた事に対する謝罪だと思ったらしい。
掴まれていた腕を振って、答えていた。
「いいよ、そんなに痛くなかったし。
それより、律を頼むな」
紬から解放されても、澪は律を追おうとはしなかった。
自分が追いかけても、冷静に向き合えないと自覚しているのかもしれない。
それが澪に残された最後の自制心のように、紬には思えた。
「ええ、分かったわ」
紬は請け負うと、再び駆け出した。
律を心配して追いながら、澪の自制心がいつまで保つかも不安視していた。
.
200: 2012/07/16(月) 18:45:21 ID:cQUKwSTU0
校門を出てから程無くして、紬は律に追い付いた。
既に律は走っていなかった。
時折嗚咽を漏らしながら、たどたどしい足取りで俯き気味に歩いている。
紬は横に並びながら、声を掛けた。
「りっちゃん、大丈夫?」
「えっ、ムギ……」
急に声を掛けられて律は驚いたようだったが、紬の顔を確認すると安堵が広がった。
唯や梓と違い、紬は先程澪に加勢していない。
逆に、殴る素振りを見せた澪から、律を庇ってさえいる。
律にとって紬は唯一、安心して話せる相手なのだろう。
「酷いよね。澪も、梓も、唯も」
実際、律は紬に同意を求めるように、澪達を批判してきた。
「皆、りっちゃんの事が心配なのよ」
紬は非難された彼女達を庇った。
「唯と梓はムギの言う通りかもしれないけど……。
でも、澪は違うもん。
私が妊娠したと知って、堕ろさせようとして。
澪の方こそ、ヤリ目じゃんか。あんな無責任な奴だとは思わなかったよ」
律は吐き捨てるように言った。
「あの、りっちゃん。場所、変えない?
そういう話は、ここではしない方がいいと思うの」
紬と律は、まだ学校の近くに居るのだ。
通学路という事もあって、帰宅途中の生徒の姿も散見されている。
「いーや、ここでいいよ。よく考えたら、隠す必要なんてないんだし」
律の顔には、暗い影が浮かんでいた。
思いつめたようなその表情に、紬は不安を感じて問い掛ける。
自棄になっていないだろうか、と。
「りっちゃん……?でも、学校とかに知られたら、問題よ?」
「ていうかさ、どうせ学校にはバレるよ。
だって私、産むもん。隠しようがないし」
「でもそれじゃ……最悪、学校に居られなくなっちゃうわ」
律の居ない学校生活など、想像もしたくなかった。
「ん、構わないよ。この子が居るから」
紬の思いとは裏腹に、律は自分の腹部を擦りながら答えてきた。
自分達の悲しみも知って欲しいと、紬はそれを言葉にして伝える。
「私達が悲しいわ。澪ちゃんだって、りっちゃんが居なくなったら悲しむはずよ」
「何さ、澪なんて。無責任のヤリ目じゃんか。
悲しむだなんて、するかどうか」
律の頬が拗ねたように膨らむ。
201: 2012/07/16(月) 18:46:20 ID:cQUKwSTU0
「それは違うわ、常識とあまりにも掛け離れた現象だから、信じられないだけよ。
きっと、近いうちに、澪ちゃんも真実だと気付くと思うから」
言いながら紬は、暗い気分に陥っていった。
そのうち、各地で身に覚えのない妊娠をする同性愛者が増え、
それが基に常識は覆されていくだろう。
だがそこに至る過程では、不信故の諍いや望まぬ妊娠が多々生じてしまう。
自分の浅はかな願い事が原因だと思うと、その重さに押し潰されてしまいそうだった。
「じゃあムギは……ムギは私の言う事、信じてくれてるの?
私が澪以外としてないって事、信じてくれてるの?
このお腹の子が、澪の子だって事、信じてくれる?」
律の瞳が不安に揺れた。
この原因を招来した者としての責任感が、否が応でも高まって口を衝く。
「勿論、信じるわ。だから、その話は別の場所でしましょう?
私のお家なんて、どうかしら?大した持て成しはできないけれど。
ここでは澪ちゃんにも迷惑が掛かるわ」
「澪に迷惑は掛からないよ。
どうせ皆、女の子同士の妊娠なんて有り得ないって思うだろうから」
紬は驚いて律の顔を見つめた。
それを常識として認識しているのなら、どうして律は自分の妊娠を受け止められるのだろうか。
「でも……りっちゃんは……」
妊娠という言葉を躊躇って紬が言い淀んでいると、
律が察したように言葉を放ってきた。
「私の場合はさ、澪としかしてないって、分かってるから。自分の事なんだし。
だからこれは、澪の子でしか有り得ないんだ。
きっとね、神様か何かが、私に授けてくれた奇跡なんだよ。
澪の子を産みたいっていう私の願いを聞き届けてくれたんだよ」
実際には、神ではなくトントゥだった。
そして律の願いを聞いたのではなく、紬の願いを叶えた結果である。
紬が暗い顔で黙していると、律は続けて言った。
「だからさ、この奇跡を逃したら、きっともう、澪の子は授かれないし。
奇跡が二度も起こるはず、ないからさ。
いや、無下に扱ったりしたら、逆に罰が当たりそう。
んーん、そういう事情を抜きにしても……。澪の子、堕胎なんてできないよ」
律が出産に意固地になっている理由が、紬にも分かった。
澪の子を堕胎したくない、という思いだけではない。
律はこの懐胎を、奇跡だと捉えている。二度と訪れない奇跡だと。
律にしてみれば、この僥倖を絶対に逃したくはないのだろう。
出産を思い留まらせる事が、紬にはますます困難に思えてくる。
「でも……相手の澪ちゃんが、それを望んでいないのなら。
澪ちゃんだって親になるのなら、準備が必要なはずよ。
パートナーの意思を、無視する訳にはいかないと思うの」
紬は縋るように澪の名を口にした。
律にとって澪は、依然最も強い影響力を持っている。
「うん……私だって子供を山車に、澪の将来設計を拘束するつもりはないよ。
澪にとっては計画外で常識外の妊娠だったんだし、育児なんて期待してない。
私だって、以前までは女の子同士の妊娠なんて、有り得ないって思ってたくらいだからさ。
だから、これは私の我儘。この子は私一人で育てるよ。えぐっ」
不意に、律の言葉に嗚咽が混じる。
それとともに、瞳から大粒の涙が滴り落ちた。
「澪にはただ……認めて欲しかっただけで……。
少しでいいから、愛してあげて欲しかっただけで。
それで不安な私を、励まして欲しかったんだよぉ……」
「りっちゃん……帰ろう?家まで、送るわ」
泣きじゃくる律の背を撫でてやると、小さな痩せた身体から震えが伝わってきた。
せめて澪に認められない孤独から救ってやりたいと思った。
澪にトントゥの件を話そうと、紬は決意した。
そうして、律が宿している胎児は澪の子だと伝えたかった。
信じてもらえるかは分からない。
だが、不安に拉がれて泣く律を見ては、話さずには居られなかった。
202: 2012/07/16(月) 18:47:44 ID:cQUKwSTU0
*
その日の夜、紬は早速澪へと電話を掛けていた。
無機質なコール音はすぐに止み、代わって澪の声が紬に届く。
「ムギ、どうしたんだ?今日、律の事で、何かあったのか?」
開口一番、澪は律の事を問うてきた。
部室を飛び出していった律の事が、心配で仕方がないのだろう。
「いえ、特に何も無かったわ。
用件自体は、りっちゃんの事ではあるんだけどね」
「ああ、困った奴だよな。
本当は私を裏切った律と、律を誑かした男を八つ裂きにしてやりたいよ。
やる訳にはいかないけど、さ」
澪の静かな声には、怒りと狂気が篭っていた。
真実その願望を抱いている、けれど必氏に抑えている。
その胸中が伝わってきた。
「その事なんだけどね。りっちゃんは、裏切っていないわ。
荒唐無稽な話に思えるかもしれないけど、電話を切らないで最後まで聞いて欲しい。
りっちゃんが宿している子は、澪ちゃんの子で間違いないと思うの」
「おいおい、ムギまで何だよ……。そりゃ私だって律を信じたいけど。
でもそれが有り得ないって、分かりきった事だろ?」
澪の声は怒りから一転、呆れたような調子を帯びていた。
女性同士の妊娠が可能か否か、問うた時の反応を彷彿とさせる。
あれは確か、トントゥが現れた次の日だったと。
紬には能天気だったあの頃が懐かしく思えた。
「ええ、有り得なかったの。
私だって、自分が噛んでいなかったら、きっと信じきる事はできなかったと思う。
でもね、私が絡んだ結果、女性同士でも妊娠できる世界になってしまった。
だから分かる、あれは、澪ちゃんの子だと」
女性同士で妊娠が可能な事と、律の孕む子が澪との結果である事。
厳密な論理だけで言えば、前者から後者は導き出せない。
単に可能性が生まれるだけだ。
ただ、女性同士では妊娠ができないという前提さえ崩れれば、
紬には律の言う事を疑う動機など皆無だった。
律と澪の強い絆は、紬とて分かっている。
「ムギが絡んでる?
琴吹グループでそんな薬が開発された、とか言い出すんじゃないだろうな?
そんな架空の物語の設定にありがちな話、現実に信じると思うのか?
律が浮気した、どうあってもこの事実は揺らがないよ」
ただ、当の澪は律を信じていなかった。
妊娠は男女間の交が必要になるという科学は、それ程までに強く一般に信仰されている。
203: 2012/07/16(月) 18:49:54 ID:cQUKwSTU0
「んーん、違うの、人力じゃないの。魔法みたいなものなの。
ある夜にね、トントゥっていうフィンランドの精霊が現れて、
願い事を一つ叶えてくれるって言うから、女性同士でも妊娠できる世界をお願いしたの。
その結果が、りっちゃんの妊娠よ。ごめんなさ」
「更に荒唐無稽になってるよっ」
割り込んできた澪の叫び声によって、紬の言葉は遮られた。
「あのな、ムギ。そんな冗談で笑える心境じゃないんだ。
頼むから、空気を読んでくれ。私の心にも配慮してくれ。
今の私に、これ以上無茶な話に付き合う余裕はないんだよ」
無理もない反応だと、言った紬本人でさえ思う。
それでも律に澪の理解を届けてやりたい、その思いに急かされるように口を動かす。
「ええ、確かに信じ難い話だとは思うわ。
でもね、私の話を信じるかはともかく、りっちゃんに対してはどう思う?
りっちゃんが嘘を言っているように見えるかしら?
私には、あの辛そうな顔や声が、嘘を言っているようには見えないの。
私よりも付き合いが長くて深い澪ちゃんには、釈迦に説法かもしれないけど」
「ああ、嘘を言っているようには見えないな。だからこそ、だからこそだよ。
律は本当に妊娠してるって、それがひしひしと伝わってくるんだよ。
律は、私よりも大切な人を作って、そいつを隠してるんだよ……。
あの悲痛な姿は、そいつを想う一心故の姿なんだよ……」
律の真摯さと自身の常識を重ねあわせて、澪なりに合理化した解釈なのだろう。
紬はその解釈を崩すべく反駁する。
「隠す必要があるとは思えないわ」
「幾らでも理由なら考えられるさ。
相手も高校生で退学にさせたくないとか。
或いは既婚者相手の不倫で、相手の家庭に不和を齎したくない。
もしかしたら社会的な地位のある相手で、
女子高生相手の途轍もないスキャンダルになるとかかもしれない。
何れにせよ、相手の男は逃げてるんだ。
逃げていないのなら、自ずと相手は明らかになるはずなんだ。
律は私を犠牲にして、逃げた相手を庇ってるんだよ……」
澪が列挙したように、隠す理由など幾らでも想像できる。
そして澪が挙げたどれもが、現実的に考えられるものだ。
それでも紬は、澪の考えの穴を探して足掻く。
「でもそれなら、澪ちゃんを巻き込む理由がない。
澪ちゃんの子だなんて、言うかしら?」
「その理由だってあるよ。律は暗に、私に味方に付くように言ってるんだよ。
これは私と律との間の子供、それを強引に通させる事で、相手の男を隠すつもりなんだ。
勿論、当事者同士が認めても、周囲は認めず妄言だと思うだろうさ。
でも一人で狂言を喚くより、二人で狂人を装った方が周囲は諦めやすい。
そういう目論見があるんだよ」
そこまで言った澪の声が、不意に虚ろなものへと転じた。
それはもう紬に説明しているのではなく、独り言を呟いているようにしか聞こえない。
「酷いよな……私を裏切っておいて、私に加担させようとしているんだから。
私から律を奪った男を庇う為、私を利用しようとしてるんだから。
許せないよ……律も相手も、あの胎児も……。
どうして私にそんな残酷な仕打ちを強いるんだよ……律ぅ……」
容赦のない想像に苛まれる澪の姿が脳裏に浮かび、紬は胸が軋む思いだった。
言動から律の意図を推測して、澪はその結論に辿り着いたのだろう。
確かに尤もらしい推理だが、澪にとって残酷な結論だった。
自然、紬は慰めるように言う。
「考え過ぎよ、澪ちゃん。
りっちゃんはそんな人じゃないわ。
澪ちゃんの事を愛しているし、浮気だってしていないわ。
……悪いのは、私なの。私があんな事を願ったせいで、こんな事になってしまっているの。
ごめんなさい、私、こんな事になるなんて思いもしなくて……」
先程遮られた謝罪の言葉も併せて言った。
対して澪は、暫く言葉を返してこなかった。
紬が不審を感じた頃、漸く澪が口を開いた。
その声は低く暗い。
「なぁ、ムギ。どうしてお前は荒唐無稽な話を捏造してまで、律を庇うんだ?
律の有り得ない話にも加勢するんだ?
もしかして、お前」
澪の声に凄みが篭り、紬へと迫ってきた。
「知ってるんじゃ、ないだろうな?
律の相手、昨日聞いているんじゃないだろうな?
それで律の目論見に加担する為に、ふざけた話をでっち上げてるんじゃないだろうな?」
204: 2012/07/16(月) 18:51:09 ID:cQUKwSTU0
「りっちゃんは、そんな企みなんてしていないわ。
澪ちゃんを利用するなんて、りっちゃんにできる訳がない」
紬は悲しみを抱きながら答えた。親友から疑われた事が悲しかった。
紬以上に澪と深い関係を持つ律は、更に深い悲しみを味わっていただろう。
そう思うと、律が堪らなく不憫だった。
「私もそう思っていたよ。裏切られたけどな。
なぁ、知ってるなら答えてくれ、律の浮気相手を。
お前も知っていて律が庇いたがる相手って、もしかして弟の聡か?
近親相Oなら、律が悟られたくない理由になる」
あまりの推量に、紬は言葉を返せなかった。
澪は律の近親にまで、疑いの目を向けてしまっている。
崩壊寸前の澪の心が分かって、憐憫と恐怖の情が紬の胸に湧く。
「いや……或いは。それなりの地位があって既婚者で、紬も庇いたくなる相手って。
もしかして、お前の父親か?それなら、律がお前に話した事も納得が」
「ふざけないでっ。そんな訳ないでしょうっ」
反射的に紬は叫んでしまっていた。
一瞬のうちに沸き立った怒気と反発を、抑える事ができなかったのだ。
それでも紬はすぐに冷静さを取り戻し、自分を顧みながら謝る。
「ごめんなさい、怒鳴ってしまって」
元はと言えば、自分が悪いのだ。
それなのに澪を怒鳴るなど言語道断だと、紬は深く反省した。
「いや……私が悪い、言い過ぎたよ。今のはあんまりだったよな、ごめん」
紬の一喝で澪も冷静さを取り戻したのか、
自身の言葉を恥じ入るように謝ってきた。
205: 2012/07/16(月) 18:52:11 ID:cQUKwSTU0
「いえ、私が悪いの。澪ちゃんは本来、何も悪い事なんてしてないんだから」
にも関わらず、澪に謝られる事は恐縮だった。
「どうだろうな。私がもっと律の事を良く見ていれば、
こんな愚行に走る前に止められたかもしれない。
それに……浮気される側にだって、原因はあるのかもしれないし」
「澪ちゃん……お願いだから、自分を責めないで」
非の無い澪が自責を感じる事に、紬は言いようのない遣り切れなさを覚えた。
「別に自分を責めてる訳じゃないよ。
それはそうとムギ、そろそろ電話、切るな。
どうも疲れてるみたいだし、少し休みたいんだ。
本当はあんな事、言うつもりじゃなかったのに。どうしちゃったんだろうな、私。悪かった」
紬の父に対する失言を指しているのだろう。
紬の方こそ、その後に怒鳴った事を恥じている。
「いえ、私の方こそ、ごめんなさい。
それに誰だって、前後不覚になる事はあるわ。
今回は事が事だから、尚更ね。
お休み、澪ちゃん。また明日」
「ああ、お休み」
澪と通話を終了した紬は、深い溜息を吐いた。
結局、トントゥの話は信じてもらえず、目的を果たせなかった。
勿論、物証さえあれば、トントゥを見せさえすれば信じてもらえるだろう。
だが宿っているティーカップは、既に捨ててしまっている。
とうに清掃業者に回収され、その行方を追跡するなど不可能だった。
そもそもティーカップがあっても、トントゥが姿を現すとは限らない。
──否
それ以前の問題だと、紬はトントゥの伝承を思い出して震えた。
トントゥは宿っている物を粗末に扱われれば、出て行ってしまう性質がある。
そうしてその後に、災厄を齎すのだ。
今の惨状が、その災厄なのだろうか。
「だったらっ、私一人を苦しめればいいじゃないっ。
捨てたのは私よっ、私なのよっ?
なのにどうして、澪ちゃんやりっちゃんが、ああまで苦しまなければならないのっ?
やるなら、私に災厄を降らせてぇっ」
もう此処には居ないトントゥへと向けて、半狂乱に紬は叫ぶ。
口では不条理を訴えながらも、心では察しが付いていた。
紬の願い事と結び付けて、間接的に災厄を齎したのだと。
それに紬はトントゥそのものを迫害したのではない。
宿っている器を粗末に捨てたのだ。
だからこそ、紬の居場所に災厄を齎している。
その一つがHTTであり、やがては世界そのものなのだ。
「どうすれば、いいのよ……」
紬は力無く呟いた。
澪との電話では目的を果たせずとも、彼女の危うい心理状態がひしひしと伝わってきた。
破綻しかけた精神を崩壊寸前の自制心で留めている、そんな印象を受けた。
時間はあまり残されていない、だがどうすれば良いのか分からなかった。
206: 2012/07/16(月) 18:53:41 ID:cQUKwSTU0
*
だんだんと、澪は部活で律の妊娠の話をしなくなっていった。
ただ、それは決して澪が落ち着いた兆候ではない。
手段を電話に変えただけで、律に対する堕胎の強要は激しさを増して続いている。
それを紬は、律から聞いて知っていた。
一方、律の方でも澪の要求を躱すようになってきたらしい。
最近では律はもう、澪からの電話を取る事がなくなったと言っていた。
澪も同様の愚痴を、紬に対して零していた。
律が電話を取ってくれなくなった、と。
紬は双方から相談を受ける相手でもあった。
律は唯や梓を避けてこそいないが、堕胎を勧める側として信用は置いていないらしい。
澪もまた、律とよく話す紬に情報を期待しているのか、頻繁に話し掛けられた。
澪からの電話が鳴ったのは、そんなある日の事だった。
シャワーを終えたばかりの紬は、ドライヤーを止めて応答した。
「はい、もしもし」
「あームギ、夜遅くに、悪いな」
澪はすっかり憔悴しきった声で言った。
「いえ、とんでもないわ。どうせ今、特にする事がなかったから。
いくらでも、電話に付き合えるのよ」
澪に遠慮させまいとする配慮を込めた。
自分には特にできる事がないのだから、せめて不安の捌け口としての役割くらい果たしたかった。
「そっか。なぁ、律の事なんだけど……。もう一回だけ、最終確認させて欲しい。
本当に、紬は律の相手を知らないのか?
いや、以前は知らなかったとは思うけど、例えばその後で。
律の方から、相手を匂わせるような言動とか、なかったか?」
「ええ、りっちゃんは主張を変えていないわ。澪ちゃんの子だと」
律に対する支持を改めて明らかにすべきか、紬は一瞬迷ってから遠慮がちに付け加えた。
澪の反論を誘いたくはないが、律を突き放したくもない。
「私も、その事に付いては……りっちゃんを信じてる。ごめんなさい」
澪の大仰な溜息が、スピーカーを通して聞こえてきた。
「まだ律は相手の男を庇っているのか。
それで律は、やっぱり産む意思を撤回していないんだよ、な?」
「ええ、そうね。何とか思い留まらせたいのだけど……」
律は一人でも育てる気でいるが、そう簡単な事ではないだろう。
ましてや、退学処分という危険性も孕んでいる。
何より澪の納得を得ないまま律が出産に踏み切れば、
惨事を招きやしないかという危惧もあった。
今の澪は、それ程までに危うく紬には映る。
207: 2012/07/16(月) 18:55:03 ID:cQUKwSTU0
「ああ、絶対に出産なんてさせない。必ず思い留まらせるよ。
浮気の結晶である新生児の存在なんて、絶対に許さない」
澪の口から狂気じみた言葉が漏れて、紬を不安にさせた。
無茶をするのではないかと、それが気懸かりだった。
「確かに、中絶が一番、現実的な解決策でしょうね。
りっちゃんは勿論、生まれてくる子にとっても。
でも、急いた事をしては駄目よ?
りっちゃんの理解を得ながら、説得していかないと」
「そんな悠長な事を言っているような状況じゃない。
それはムギも分かっているだろ?
律はいつ処分されるか分からない、そんな状況なんだって事」
澪の言う通りだった。
学校では既に、律が妊娠したという噂が広まりつつある。
律は周囲に警戒する事無く、妊娠の話をするのだから当然かもしれない。
このままでは、何れ学校側も噂を無視できなくなるだろう。
「それは……そうなんだけど。
確かに、早く解決しないといけないんだけど……」
言いながら紬は、歯痒い思いに囚われた。
自分が招いた事なのに、有効な解決策を打ち出す事ができない。
まるで、自分がただの観察者のように思えてくる。
悲劇に踊らされる二人を、見ている事しかできないのだから。
「ああ、本当に早く解決しないといけない。
学校が具体的な処置に乗り出すまでがリミットだ、それまでに律を流産させないと。
今の律は、学校から事実確認や出産の意思を問われたら、普通に産むって答えそうなんだ。
そんな態度を取る律に、学校が穏便な措置で済ますとは思えない」
何処か引っ掛かる思いを抱きながらも、澪の言う通りだと紬とて理解した。
もし中絶すれば、学校も退学処分までは下さないかもしれない。
ただ、出産するとなれば、話は変わってくる。
それでも紬は、律の心にも配慮して欲しかった。
律の心とて、崩れそうな程に脆い状態なのだ。
「ええ、分かるわ。
りっちゃんは学校が相手でも、産む意思を撤回したりはしないでしょうね。
でも、りっちゃんも今は辛い心を抱えているはずだから……。
急ぎつつもできるだけ穏便に説得しましょう」
「ああ、できる限りは、な。
じゃ、ムギ。夜遅くに悪かったな。そろそろ切るよ。
あ……ムギは私に協力……してくれるんだよな?」
「ええ、りっちゃんにベストな選択を取ってもらいたいから。
じゃあ、また明日ね、澪ちゃん」
勿論、今回の騒動に責任を感じているという理由もあった。
「ありがとうな、ムギ」
澪が電話を切るまで待ってから、紬は携帯電話を手から離した。
ドライヤーを再開する気になれず、紬はそのままベッドに身を投げた。
どうせもう、髪は大方乾いている。
208: 2012/07/16(月) 18:55:55 ID:cQUKwSTU0
仰向けに天井を見つめながら、紬は溜息を漏らした。
律の説得が不可能に近い事など分かりきっている。
だが律の出産に賛成する事もできない。
このジレンマに紬は苦しめられている。
そういえば澪と律の会話もジレンマに陥っていると、紬は思った。
律は部活以外の場、即ち電話で澪と話そうとはしていない。
苛烈な堕胎の強要を受ける事になるからだ。
反面、部活の場では澪に胎児の話を持ちかけている。
律は澪の理解が欲しいのだから、会話を避け続ける事はできない。
紬達の監視や加勢を儚くも期待できる部活こそが、律が出産の話をできる唯一の場なのだろう。
ただ、澪は逆に、部活の場でそういった話を執拗に拒んでいる。
律を守る為にも、澪は噂が広まりつつある学内で妊娠の話はできないのだ。
部活の場では澪が避け、それ以外の場では律が避ける。
これでは、律と澪の間に話し合い自体が期待できない。
いっその事、この自室を提供するというのはどうだろうか。紬は考えた。
家族の居ない時間帯を選んで、唯と梓も呼べば。
律と澪の双方が安心して話せる環境ができあがる。
ただ、と続けて紬は思う。
今更話し合った所で、律が中絶を承諾するとは思えない。
そもそも、今まで律は頑なに説得を拒み続けているのだ。
この状況下で、澪は一体どうするつもりなのだろうか。
絶対に出産させないと口にしていたが、打つ手はないように見える。
だが、先程の澪との会話を一つ一つ思い返してみても、諦める様子は見当たらない。
そういえば、と紬は今更のように気付く。
澪は確か、電話の冒頭で『最終確認』と口にしていた。
次の手で終わらせるような口ぶりだ。
やはり澪には、何か策があるのだろうか。
律に堕胎を呑ませるような策が──
紬は唐突に目を見開いた。いや待て、と、自分の思考を糾しながら。
澪はこの電話で、堕胎や中絶という言葉を使っただろうか。
違う、別の表現を使ったはずだ。
確か──
紬はその記憶に至った時、背筋を冷たい感覚が突き抜けた。
背骨が氷柱になったように、固く冷たく身体が硬直する。
──流産
そうだ、自分の記憶が確かならば、澪は”流産”という言葉を使っていなかっただろうか。
『それまでに律を流産させないと』と。
「嘘っ……」
紬の口から、小さな叫び声が漏れた。
記憶違いであって欲しいと、言葉の綾であって欲しいと、紬は願った。
辞書上の意味では堕胎が流産に包含されるにせよ、ニュアンスはまるで違ってくる。
堕胎が専ら人口妊娠中絶を意味するのに対し、
流産は広く妊婦の意思を要しない自然妊娠中絶までも含む。
一般の会話では、妊婦が意思しない中絶の意で使われる事が多い表現だった。
それを”させる”とはどういう事か。
紬は震えた。
布団を頭まで被っても、震えは止まらなかった。
歯の鳴る音が、布団の中に篭って響いていた。
209: 2012/07/16(月) 18:57:24 ID:cQUKwSTU0
*
夜が明けても、紬は不安に苛まれたままだった。
澪が恐ろしい事を考えているように、思えてならない。
澪が怖かった。律が心配だった。
だが、学校での澪は、落ち着いた態度を見せていた。
昨夜の電話で見せた焦燥は、欠片も感じ取れない。
その事が逆に、不自然なものとして紬には映る。
単に自分が疑心暗鬼に陥っているだけなのか、
それとも澪が繕った態度で恐ろしい胸の内を隠しているのか。
紬には判断を下す事ができなかった。
部活になっても、澪は穏やかなままだった。
最近はずっと刺々しい雰囲気を放っていただけに、
唯や梓はあからさまな安堵を顔に浮かべている。
尤も紬には、澪の態度の豹変は違和感しか齎していない。
澪が穏やかになる要因など、まるで思い付かないのだ。
一方で紬は自身が抱く不審を、昨夜の電話が原因だと自覚してもいた。
その電話のせいで猜疑に嵌り、神経質になっているだけかもしれない。
そう思い、何度もバイアスのない視点で澪を見ようと試みた。
だが、部活が始まってそう時間が経たぬうちに、澪の言葉で紬の不審は決定付けられた。
「なぁ、律。そのお腹の赤ちゃんの事なんだけど。
今まで私、自分の都合だけ押し付け過ぎていたかもしれないな」
紬は自分の耳を疑った。
あれ程中絶に執着していた澪が、急に態度を軟化させたのだ。
加えて、澪から学内で妊娠の話を振った事も不自然だった。
唯や梓の顔にも、安堵から一転して不安が浮かんでいる。
尤も、この二人は不審故ではなく、
澪が出産を認めてしまうのではないかという懸念故かもしれない。
「えっ?澪、それって……」
律は驚いた様子を見せた後、表情に期待を浮かべて澪に言った。
その顔に、訝る様子は見受けられない。
「いや、何も律の言い分を全て認めた訳じゃないぞ。
ただ、私も自分の意見に凝り固まっていたというか……。
だからさ、今までの自分の意見を見つめ直す意味も兼ねて、
もう一回律とじっくり話し合いたいんだ」
澪は優しそうな表情と声で言った。
律に対するこのような澪を、紬はここ暫く見ていない。
「う、うん。そうだね、私も澪とは、話したいと思ってたし。
でも……まだ、私の言う事を信じてくれた訳でも、
出産に賛成してくれる訳でもないんでしょ?」
「それを冷静に確かめる為の、話し合いだろ?
でも、私は律を信じたいし、律の幸せに全力を尽くしたい。
だから、律のどうしても産みたいっていう意思を確認できたのなら、
前向きに検討してみたいとは思ってるよ」
律の顔に喜色が広がり、弾むような声が爆ぜる。
「わぁっ、うん、絶対に私ね、産みたいんだ」
「待てよ、律。今話し合う訳じゃないって。部活の最中だし。
部活の時間が終わって、校内がある程度静かになってから、だ。
周りに聞かれたい話じゃないしな」
やはり、澪は部室で話を付けようとしていた。
どういう心境の変化だろうか。紬の猜疑は、更に深まる。
210: 2012/07/16(月) 18:59:01 ID:cQUKwSTU0
「えー?どうせ産むんなら、もうバレたっていいんじゃないの?
私ね、早く澪と赤ちゃんのお話がしたいよ。
それに部室の近くなんて屋上使う人しか来ないし、
部室は防音だから話し声も漏れづらいよ」
急く心を抑えられないのか、律は口を尖らせていた。
「まだ完全に認めた訳じゃないからな。まぁ、かなり前向きに考えてはいるんだけど。
それに、だ。出産するのなら、律が学校に籍を置いたままという形が理想だ。
だから、その方法も併せて、相談したいと思ってる。
一応、考えはあるけど、計画段階だからまだ学校側には知られたくないんだ」
「え?私、退学にならずに赤ちゃん産めるの?
澪達と一緒に卒様もできるんだっ。やっぱり澪は凄いね」
律は感心したように言った。
恋人の聡明さを誇るような表情も浮かんでいる。
「あの……それって、学校で話し合う必要あるんですか?
家で話せば、もっと安心して話せるんじゃ……」
紬も気になっていた事を、梓が問い掛けていた。
確かに今まで律は部活以外では澪を避けていた。
ただ、澪が出産に前向きな考えを示した事で、律の警戒も解けている。
今なら家で話すよう誘う事も可能だろう。
「家族の目とかあるから、さ。当事者同士で水入らずに、真剣に話したいんだ。
それに、親を如何に納得させるか、っていう話もあるから、
当の親や家族に聞かれる訳にはいかないんだ。
だから、家は使えない」
「あ、そうですよね。私の家は不在がちだから、つい見落としてました」
梓は納得したようだった。
加えて、律の家には聡も居るのだ。
澪が今まで律との連絡に電話という手段を用いていたのも、
家族の目を気にしての事かもしれない。
紬も納得したが、澪の豹変にまで得心がいった訳ではない。
そもそも紬は、澪が翻意した事そのものに不審を抱いているのだ。
211: 2012/07/16(月) 19:00:03 ID:cQUKwSTU0
「うーん、でも……やっぱり出産は、色々と問題があると思うけど。
澪ちゃんに考えがあるとしても、そう簡単に乗り越えられる困難じゃないような。
それに、やっぱり、女の子同士で妊娠は考えられないよ」
否定的な言葉を挟んだ唯に、律が顔を曇らせて噛み付いた。
「何言ってんのさー。お子様の唯には分かんないよーだ」
「律先輩。唯先輩は、律先輩を心配して言ってるんですよ?
そういう言い方は、良くないです」
梓は律を窘めると、唯に向けて言葉を続けた。
「ただ……確かに、唯先輩の言う事は私も尤もだと思います。
でも……律先輩が譲らない以上、どうしようもありません。
当の本人に出産を強行されれば、それまでですからね。
だから、律先輩の事を一番よく分かってる澪先輩に賭けるしかないんです。
どういう結果が、出るにせよ」
「そりゃ、りっちゃんに意地を通されたらそれまでだけどさ。
でも、だからと言って、根負けして我儘を通しちゃうのは……」
「それは唯先輩の言う通りです。
でも、このまま律先輩一人を暴走させるより、
澪先輩が絡んだ方が良い方向にいくと思います。
澪先輩は我儘を通させたというより、現実的な判断をしてるんだと思いますよ」
唯と梓は、律が頑なに主張を変えない為、
澪が根負けして意見を翻したと思っているらしい。
このまま平行線の関係を続けたまま出産されるよりも、
いっそ認めてしまってフォローした方が良い、と。
確かに澪がそういう判断を下したのなら、この豹変も有り得る話だろう。
だが紬は、昨夜の電話で澪の意思を確認している。
僅か一夜にして、考えがここまで変わるとは到底思えなかった。
嫌な予感が、背筋を突き抜ける。
「何だよー、澪は根負けしたとかじゃないって。
私の言う事が正しいって、やっと分かってくれたんだよ。ね?みぃおっ」
律は唯と梓の会話に不満を訴え、澪にも同意を求めた。
「それを確認する為の話し合いだよ。
それで、その話し合いの時なんだけど。
悪いけど、ムギ達は部室の階段の下辺りで、人が来ないか見張っててくれないか?
誰か上って来そうなら、携帯にコールしてくれ。
手間を取らせて申し訳ないとは思うけど」
ムギ達、と澪は言った。唯達でも、梓達でもなく、ムギ達と。
その事が、自分に対するメッセージのようにも紬には感じられる。
そういえば澪は昨日の電話を切る直前、紬に協力を求めていた。
まさか、この事を言っていたのだろうか。
「ん?私達は、その話し合いには参加しないの?
澪ちゃんの考えっていうのも、凄く気になってるんだけど」
唯が表情に不安を浮かべて言った。
唯はあくまでも出産に反対であり、その意見を反映させたいのだろう。
「ごめんな、デリケートな問題だから、律と二人きりで話し合いたいんだ。
今までこの問題を、二人きりで面を合わせて話し合った事が無かったし。
今日に結論が出るとは限らないけど、出た時には報告するから」
申し訳なさそうに言う澪に、梓も加勢する。
「まぁ、そうですよね。やっぱり、二人きりで話す事も必要だと思います。
それに見張りは必要になる訳ですし。
私は構いませんよ、澪先輩。見張り、任せて下さい」
「うーん、あずにゃんがそう言うなら、仕方ないね。
二人を見張りに立たせて、私だけ参加する訳にもいかないし。
ん?そうだ、ムギちゃんもそれでいいの?」
唯の視線が紬に向いた。
二人が同意しては、紬だけ拒んでも意味は無い。
それに、久し振りに嬉しそうな表情を浮かべる律に、水を差したくもなかった。
何より、澪の視線が刺すように紬へと注がれている。
昨日の約束を反故にしないだろうな、と言っているようにさえ見えた。
紬は嫌な予感に包まれながらも、澪の無言の圧力に屈するように頷く。
「ええ、任せて」
紬も同意を返すと、澪の表情に安堵が広がった。
「良かった、ありがとうな、本当。
それで、まだ校内から人が減るまで時間が掛かるだろうから、練習しようか。
ここ最近、あまり本格的な練習できてなかったよな」
梓と律が嬉々として同調し、唯も特に不服を零さず従った。
紬も皆に追随してキーボードを弾いたが、どうしても集中できなかった。
澪の意図が、気になって仕方がなかったのだ。
212: 2012/07/16(月) 19:01:11 ID:cQUKwSTU0
*
「ごめんなさい、何度も迷惑掛けちゃって」
複数回の練習を終えた後、紬は両手を合わせて謝った。
演奏に集中できず、何度も間違えてしまった。
「いや、まぁ久し振りだったからね。
私もリフるべきなのに、乱れちゃってた箇所あったよ。
歌詞も間違えちゃったしね。
そういえばりっちゃんも、ビートがいつも以上に早かったよね」
唯が擁護してくれたが、紬の演奏に問題があった事は明白だった。
「本当にごめんなさい……」
「まぁ、いいですよ。皆さん、最近の騒動で精神的にも疲れてるでしょうし。
私だって、カッティングを何度もミスって、曲の勢いを削いじゃいましたし」
改めて謝る紬に、梓が慰めるように言ってくれた。
「うん、演奏を重ねればすぐに勘を取り戻すさ。
それで、できればもう一度、といきたい所だけど。
あまり遅くなる訳にもいかないから……そろそろ、話を始めようと思うんだ」
澪が切り出すと、律が待ち構えていたように立ち上がった。
「うん、ずっと待ってたんだ。澪が信じてくれる日。
それに、早く澪の策を聞きたいよ」
「じゃあ、私達は外に出ますか」
先導するように梓がドアへと向かう。
「くれぐれも、早まった決断しちゃヤだよ?
りっちゃんは、私達のメンバーなんだから、ね?
バンド活動が最優先だよ?」
唯は未だ心配しているらしく、未練がましく律と澪を見遣って言う。
「唯先輩、心配せずとも、澪先輩が上手くやりますよ。信じましょう。
それに、人生の優先順位を決めるのは本人です。押し付けはよくないです」
「うん……そうだよね。信じてる。じゃあ、出ようか」
ドアの前に辿り着いた梓から窘められて、唯も歩き出した。
「そうね。出ましょうか」
紬も歩き始めた時、澪が念を押すように言う。
「頼んだぞ。誰も入れないでくれ」
澪の視線は唯にも梓にも一瞥すら投げる事なく、紬の目へと注がれていた。
昨夜に受けた協力の要請を、強く想起させる。
「ええ、分かってるわ」
唯と梓も含めて誰も入れるなと、澪は言っているのだろう。
だからこそ、自分だけに視線を送っていたのだ。
まるで澪と共犯の関係になった気分だった。
少なくとも、澪は紬に対して共犯の意識を抱いているに違いなかった。
ただ、紬は澪の企みに盲目的に追従するつもりはなかった。
紬はどちらかに肩入れしようとは考えていない。
勿論澪の力になってやりたいが、律が心配だという意識も強くある。
「ありがとうな」
「いえ、気にしないで」
紬は澪の礼に手を上げて返すと、唯や梓と共に室外へと出た。
そして校内が既に静かである事を確認しながら、階段を降りていった。
.
213: 2012/07/16(月) 19:02:26 ID:cQUKwSTU0
紬達三人は澪に言われたように、部室に通じる階段の下に構えた。
もし人が上に向かいそうなら、澪は携帯電話に連絡を入れるように言っていた。
だが、それは念の為に言っただけだと察せられる。
この階段の上には、屋上と軽音部の部室しかない。
もしこの階段を登る生徒が居るのなら、噂に惹かれて軽音部の内情を見る為だろう。
それは軽音部の部員が張っているだけで、阻止できる事だった。
実際には澪は見張りを期待しているのではなく、抑止効果を期待しているのだ。
その事情を分かっているから、紬達は敢えて見られやすいよう廊下にまで姿を出している。
ただそれは、二人でも同じ事なのではないか、と紬は思った。
自分が上に向かっても、抑止効果は期待できる、と。
澪が本当に律の出産に付いて話し合うのか、それを確かめたかった。
今まで多くの事を見落としてきた。
だからこそ、気付けた不審には全力で対応したい。
紬は唯と梓を見遣った。
上に向かおうにも、この二人から止められる可能性が高い。
特に梓は澪を信じており、紬が介入する事を良しとしないだろう。
せめて上に向かう口実を考える必要があった。
それもできる限り、早急に。
唯も澪達の話が気になっているのか、浮かない顔をしていた。
その唯を、梓が頻りに「大丈夫ですよ」と慰めている。
悲観的な唯と楽観的な梓という構図は、普段とは逆のものだった。
「ムギちゃんは、どう思う?
澪ちゃん、上手くやってくれると思う?」
唯が心配そうな声で、紬にも話を振ってきた。
唯は澪が律に甘い事をよく知っている。
「唯ちゃん、今ここで、そういう話はダメよ。
見張ってる意味さえ、なくなるでしょう?」
紬は窘める事で、唯の問いを躱した。
「あ、ごめんね。そうだよね。
上の会話が聞かれなくても、私達の会話からでも分かっちゃうもんね」
詳細までは知られずとも、妊娠の事実を裏付けてしまう。
唯もその事に気付いて、素直に謝ってきた。
214: 2012/07/16(月) 19:03:39 ID:cQUKwSTU0
「まぁでも、ここから聞こえる範囲の教室には、誰も残ってなさそうですけどね」
梓が明かりの消えている教室を順に見遣りながら言った。
屋上に向かう者どころか、教室に残っている者さえ少ない時間なのだ。
そこまで考えた時、紬は上へと向かう口実に思い当たった。
「あっ」
声を上げて唯と梓の注意を引くと、気付いたように言う。
「そうだ、見落としがあったわ。屋上に人が残ってないか、確かめてきたいの。
ここ、任せていいかしら?
迂闊ね、警戒するのは下だけじゃないのに」
「この時間帯にですか?
屋上に残ってる人なんて、居ないと思いますけど」
梓の言う通りだと紬とて思う。
それでも退けない。
「私もそう思うわ。でも、念には念を入れたいの。
澪ちゃんは念入りに警戒したがっていたでしょう?」
「んー、確かにムギちゃんの言う事は一理あるかも。
オカルト研究会辺りが、宇宙と交信ごっこしてるかもしれないしね」
唯の加勢は有り難かった。
唯が加勢せずとも無理矢理通すつもりではあったが、それでも自然を装えるに越した事はない。
「ああっ、言われてみれば」
オカルト研究会の名が出た事で、梓も納得したように声を上げた。
「じゃあ、行ってくるわね」
「でも……ムギ先輩に任せてしまって、いいんですか?
私が確認に行っても……」
「任せて。私が言い出した事なんだし」
「すいません」
梓は単に先輩への遠慮を示したかっただけらしく、あっさりと頭を下げていた。
紬は梓の頭が上がるまで待ってから言う。
「いいのよ。それでもし、私が部室の扉を開ける音が聞こえたのなら。
それは屋上に人が居た、っていう事よ。
その時は帰ってもらっていいわ。きっと、話し合い自体が中止になるだろうから」
部室に紬が足を踏み入れるケースは、勿論今言った事に留まらない。
紬は部室内の様子に怪訝を感じたら、躊躇せずに入ろうと思っていた。
澪の言っていた話し合いの件が真実ならば、その必要はない。
明らかに澪の言葉とは違う現象が、部室内で起こっていないかと紬は警戒しているのだ。
それを確かめる為には、特に律の表情を注意して見るつもりだった。
「はい、分かりました」
「まぁコールするより、そっちの方が確実だもんね」
梓と唯が順に承知したので、紬は礼だけ言って階段を上り始めた。
本当は、紬の抱いている疑念を話してしまえば、
口実など作らずとも簡単に部室へと向かえた。
ただそれでは、紬の疑念通りだった場合、澪が不利な立場に置かれる。
律と澪のどちらも大切にしたい紬は、何が起こっていても自分の胸中に留めたかった。
例え澪が行っている事が、どれ程非人道的だとしても──
それを行わせた原因は、自分にあるのだから。
215: 2012/07/16(月) 19:05:10 ID:cQUKwSTU0
*
部室の扉に設置された窓を覗く前から、既に紬の嫌な予感は確信へと変わっていた。
扉へと近付く度徐々に、叫びのような声が漏れ聞こえてきていたのだ。
話の内容までは分からないが、異常な事態だと断言できる要素だった。
紬は踏み込む覚悟を固めつつ、扉の窓から室内を覗き込んだ。
途端、衝撃と驚愕、そして悲しみが紬を貫く。
ある程度の異常を織り込んでいたとはいえ、事前の心構えなど簡単に吹き飛んだ。
瞳に映る光景は、あまりにも凄惨だった。
腹部を庇うように両手で押さえる律、そして腹部目がけて拳を振るう澪。
律の表情は涙と悲痛で崩れ、澪の表情は怒りと興奮に歪んでいる。
扉に張り付いた事で、防音の部屋からでも微かに声が漏れてくる。
「止めてっ、赤ちゃんが氏んじゃうっ、私の赤ちゃん、氏んじゃうっ」
「こうするしかないんだよ、馬鹿律っ」
紬は一瞬の硬直の後、すぐに動いた。
ドアノブを捻り、室内へと踏み込んだ。
そして声が外に漏れないよう、すぐに扉を閉ざす。
今の澪に唯達が気付かないようにという、咄嗟の判断だった。
紬が踏み込むと、律と澪の動きが一瞬止まった。
二人の緊張に満ちた瞳が、紬へと注がれる。
途端、澪の表情が緊張から安堵に変わった事で、紬は危うく嘔吐しかけた。
やはり澪は、自分に共犯の意識を抱いている。
自分もこの残酷な行為に加担しているように感じられて、
紬の胸に息苦しい程の自責が圧し掛かった。
「ム、ムギっ。助けてっ」
先に声を上げた者は、律だった。
手を上げて、紬の方向へと駆け出そうとする。
だが足が勢いづく前に、澪の手が律の襟首を掴んでいた。
「無駄だよ、律」
澪はそう言うと、律の身体を引き寄せた。
律の細く小さい体は、澪の力に簡単に翻弄される。
振り回されるように引き戻され、再び腹部へと拳が見舞われた。
「止めてったらぁっ。私の赤ちゃんが氏んじゃうよぉ……止めてよぅ……」
律は腹部を咄嗟に腕で庇うと、涙ながらに訴えた。
だが、澪に容赦する気配は見られない。
更に律を殴ろうとする仕草に、紬も堪らずに声を張り上げる。
「澪ちゃんっ。お願いだから、止めて……」
澪は動きを止めると、怪訝な表情を紬に向けてきた。
「ムギ、どうして止める?
お前は私に、協力してくれるはずだろ?」
協力という言葉に、律の顔が翳った。
「こんなやり方まで、認める訳ないでしょう?
こんな酷い方法に、協力なんてできる訳がない」
紬は激しく首を振った。
「じゃあ、どうしてこの部室にまで来た?
梓達に見張りを任せて、私の加勢にきてくれたんじゃないのか?」
「確かに梓ちゃん達に見張りを任せてはいるけれど……。
ここに来た理由は、澪ちゃんに不審を感じて、りっちゃんが心配になったから、よ」
「じゃあ、昨日私に協力するって言ったのは、嘘なんだな?
お前は嘘を吐いていたんだな?」
澪の表情が、怒りに歪んだ。
紬は目を逸らしながら答える。
「あの時は、こんな方法を取るだなんて、想像もできなかったから。
できる限り穏便に説得するって、約束もしてくれていたから。
電話の後で不審に気付いて……今日の澪ちゃんの態度もおかしかったし」
本当は、電話が終わった段階で予想はあった。
律を強制的に中絶に追い込むのではないか、と。
想定していたのは物理的な暴力ではなく、脅迫の類ではあったが。
216: 2012/07/16(月) 19:07:21 ID:cQUKwSTU0
「それが無理だって、分かりきった事だろっ?
だから、こうするしか無いんだよっ」
澪は振りかぶった拳を、素早く律の腹部に見舞った。
虚を衝かれた律はまともに受けて、腹部を抑えて蹲る。
「えぐっ、赤ちゃんが、私の赤ちゃんが……。
止めてよ、可哀想だよ、氏んじゃうよ……助けてあげてよぉ……」
律は苦しそうな呻き声の合間々々に、哀願するような声を出した。
涙の溜まった瞳で、上目に澪を見遣りながら。
その憐憫を誘う姿勢にさえ、澪は表情を変えていない。
「澪ちゃん、お願いだから……止めて?
こんな方法、犯罪よ?」
紬も嘆願するように言った。
もし、澪が止めないのなら。実力行使も辞さないつもりだった。
「だから何だ?どうせ、相手の男は頃したかった。
その対象が胎児になった所で、私の行為に変わりはないんだよ。
いいさ、犯罪を経て刑事裁判にまで発展すれば、
相手の男の素性も明らかになるかもだしな。
マスコミ万歳」
澪は正気とは思えないような事を言ってのけ、蹲った律の腹部を蹴った。
腕で庇ってはいるものの、衝撃は腹部へと突き抜けたらしい。
律は小さな悲鳴を漏らすと、腹部を更に庇うように床へと俯せた。
「無意味だよ、律」
澪は律の背面から子宮を圧するように、足で強く踏み付けた。
律の口から、苦しそうな呼吸音が漏れる。
その合間を縫うように、断絶的な声が押し出されてゆく。
「止めて……助けてあげて……。
この子を、殺さないで……澪ぉ……優しかった頃に戻ってよぉ……。
澪ぉ……氏んじゃうよぉ、私の赤ちゃん、氏んじゃうよぉ……」
言葉で説得するような悠長は、もう限界だと紬は悟る。
「澪ちゃんっ、りっちゃんから退いてっ」
紬は咆哮とともに突進し、その勢いで澪を律から退かせようとした。
だが澪をその場から剥がすには至らなかった。
澪の力は、紬は想像していた以上に強い。
階下にまで届く程の声を張り上げて、唯達に助けを求めたくさえなった。
部室の扉が開く音を聞いて、既に唯達は帰ったかもしれない。
紬が指示した通りに。
それでも唯達が帰っていない可能性はある。
また、唯達でなくとも、誰かが声を拾ってくれるかもしれない。
だが紬は気付いていた。律は悲鳴を上げながらも、極力声量を抑えている事に。
犯罪に及びつつある澪を庇いたいのだろう。
そんな律を見ては、紬も我慢せざるを得なかった。
それに、澪の対面を守りたいのは、紬とて同様なのだ。
「邪魔するなっ、ムギっ。お前はもう、下に戻って見張ってろ。
全部私でやる。刑事責任も全て私が被る。
だから邪魔するな」
澪は紬を突き飛ばしながら、更に律の背部や腰、臀部に足を幾度も踏み下ろした。
制服の背が澪の足跡で汚される度、律の口から悲鳴と嗚咽が溢れる。
「そういう問題じゃないのっ、澪ちゃんっ。
駄目っ。お願い、りっちゃんに乱暴しないでっ」
紬は澪の脚にしがみ付いて、哀願を込めて言う。
律の身体から澪の足を払う事はできずとも、圧力を軽減させる事はできる。
少なくとも、勢いを付けて踏み下ろす事はできない。
澪は邪魔な紬を排除してくるかもしれないが、
どれだけ攻撃されても紬は離れないつもりだった。
217: 2012/07/16(月) 19:08:35 ID:cQUKwSTU0
だが澪は、紬に手を出しては来なかった。
代わりに心底から凍るような笑みを浮かべて、狂ったように言う。
「ああそうか。もっと、手っ取り早い手段を取れば良かったんだ。
手を突っ込んで、胎児を引き摺り出してやる。
それで流産は確定だ」
紬の顔から血の気が引いて、気が遠くなりかけた。
ブラックアウトしそうな視界の中、澪の手が律のスカートへと伸びる。
律は身を捩って逃れようとしているが、澪に圧されているので動きは鈍い。
紬の手が澪を止めようと動けば、自由になった澪の足が律へ踏み下ろされるだろう。
どうしようもない絶望の中、紬は足掻くように言う。
「止めて……りっちゃんが氏んじゃうわ……」
澪の手が、止まった。
「律が……氏ぬ?」
我に返ったように、澪は呟いた。
胎児の殺害を実行できても、律の氏には耐えられない。
その様相が、ありありと表れている。
紬はこの機を逃さず、畳み掛けるように言う。
「ええ、そうよ。
そんな無茶な事をすれば、出血多量か感染症か、りっちゃんの命まで消えちゃうわ。
勿論、腹部を殴ったり踏んだりする事だって、内臓破裂の危険があった。
中絶じゃ済まないわ」
紬は医学の専門的な知識がある訳ではない。
それでも、生殖器から胎児を引き摺り出すような行為が、
律に致命的な傷を与える事くらい想像できた。
澪とて、それが分からないはずもない。
ただ、極端な興奮状態の中で、冷静さも思考も欠いていただけなのだ。
だから、指摘されれば容易に気付く。
「でも……でも、こうするしか……」
澪は絶望したように言う。
紬が抑えている脚からも、既に力が抜けていた。
その隙を逃さずに、律が澪の足下から脱した。
そのまま小走りに、律は澪から遠ざかってゆく。
澪が反応する前に、紬は咄嗟に足を引っ張って転ばせた。
澪が転んだ機に、守るように律の前面に立って言う。
「ごめんなさい、澪ちゃん。
でも、りっちゃんを氏なせる訳にはいかないから。
勿論、澪ちゃんに犯罪を犯させる訳にも」
澪は地に臀部を付けたまま、上半身だけ起こしてこちらを見遣ってきた。
澪に視線を向けられた事で、律に恐怖心が再来したのだろう。
律は紬の背に隠れながら、制服の裾を掴んできた。
掴む指から、確かな震えが伝わってくる。
「律……どうして、どうしてそんな目で私を見るんだよ……。
律ぅ……」
澪の絶望に満ちた声が、室内を劈いてゆく。
紬にまでその絶望が伝播して、身体が悲しみに震えた。
それでも紬は、澪を諭すように言う。
二度とこのような行為に、及ばぬように。
「ねぇ、澪ちゃん。澪ちゃんが、りっちゃんを愛しているのは分かるの。
でも、暴力に訴えても無駄よ。
りっちゃんはきっと、最後まで胎児を守り抜こうとする。
それを暴力で排除して中絶させようとすれば、どうしても母体に致命的な負担は避けられないの。
文字通り、りっちゃんの命が盾になってしまうの」
「じゃあ……じゃあ、律は。
自分の命を盾にしてまで、何処かの男の種を守ろうとするのか。
私よりも、そんなにその男の事が大事なのか……」
澪は屈辱と嫉みに震えた声を響かせ、拳を握りしめた。
「これは、男の人のじゃないよ?澪の子だよ?
何度でも言うけど、私、他の人と、関係してないから」
紬の後ろから、律が掠れた声で言った。
嗚咽で声が枯れていても、絶対に伝えたい事なのだろう。
「まだそんな事、お前は言うのか……律ぅ……」
澪が再び興奮する前にと、紬は律を伴って歩き出す。
ともかく、今の不安定な澪から、律を遠ざけたかった。
「澪ちゃん、冷静になろ?私も色々、考えるから。
忘れないで、私は二人の味方だから。
私は二人が最も幸せになれるよう、頑張るつもりだから」
紬は扉に向かいながら、澪を見て言った。
本心からの言葉だった。
澪は追いかけて来なかった。
力ない視線を、部室から出て行く紬達に送っていただけだった。
218: 2012/07/16(月) 19:09:58 ID:cQUKwSTU0
*
部室から出た直後、律は涙を執拗に拭いた。
それでも瞳は赤いままで、泣いた跡が顔の至る所に残っている。
「下、まだ唯達が残ってるんでしょ?」
唯や梓に泣いていた事を悟られたくないのか、自分の顔を気にしながら律は言う。
それは意地や羞恥よりも、澪に対する心象が悪くならないようにという配慮故だろう。
「大丈夫よ、多分帰ったし、残っていても私が上手く言い繕うから。
少なくとも、部室で起こった事は、私の胸の内に留めておくわ」
紬の言葉で、律は幾分か安心したようだった。
紬は律を先導して、階下へと歩き出した。
階下には、まだ唯と梓が残っていた。
扉の閉まる音が聞こえなかったのかもしれない。
「あ、ムギちゃん、やっと戻ってきた。
随分遅かっ……って、りっちゃん泣いてるっ?」
律の表情を確認した唯が、驚いたように言う。
「な、何があったんですか?」
梓も続いて驚きを露わにしたが、説明する気はなかった。
それは律と約束を交わしていなくとも、同じことだったろう。
「何でもないわ。ちょっと、揉めちゃっただけみたい。
さ、唯ちゃん達も帰りましょう?」
「でも……」
梓は躊躇うように、上を見た。
澪が下りてこない事に、不審を感じているのかもしれない。
「私は室内の会話を聞いていないから、事情は知らないわ。
ただ、りっちゃんや澪ちゃんの様子を見れば、聞かない方がいいって分かるの。
梓ちゃんも、それは分かるでしょ?二人の問題なのよ、コアな部分に立ち入っちゃ駄目なの」
仲間に嘘を吐く後ろめたさはあったが、澪と律を守らねばならない。
紬は胸中で梓に謝りつつも、澪を糾さぬよう釘を刺した。
「じゃあ、結果もまだ聞けないんだね?
その、どういう選択したのか、とか」
唯が気になる事は尤もだと、紬とて思う。
それでも、明かす訳にはいかない。
「ええ、そうみたいね。でもそれは、澪ちゃんが言っていた事でもあるわ。
今日に結論が出るとは限らないって」
紬は唯を躱すと、再び律とともに歩き出した。
これ以上質問を受けて、嘘を重ねたくはない。
唯と梓は澪を待つつもりなのか、紬達に付いて来なかった。
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219: 2012/07/16(月) 19:11:06 ID:cQUKwSTU0
校舎を出て暫く歩くと、律が呟くように言った。
「ムギの家、こっちじゃないでしょ?いいの?」
既に涙こそ止まっているものの、声は未だに掠れていた。
「ええ、家まで送るわ。心配だし」
「うん、ありがと」
律も一人では心細いのか、素直に紬の申し出を受けていた。
そうしてまた暫く無言が続いた後、律が再び口を開く。
「あのね、あの後……話し合いが始まった途端、
澪はいきなり堕胎を迫ってきたんだ。
最後通告だ、とか言って」
誰かに話を聞いてもらいたいのかもしれない。
ただ、澪の対面に関わる為、唯や梓には話せない。
何が起きたか知っている紬にしか、話せないのだ。
紬は律が話すに足る時間を確保できるよう、歩調を緩めた。
「それで私が断ったら、澪ったら……お腹を、パンチしてきて。
怖かった、怖かったよぅ」
思い出す事で辛くなったのか、律の顔から再び涙が落ちた。
「あの、りっちゃん。辛いのなら、無理しない方がいいわ。
話したくなった時に、またいつでも聞くから」
どうせ事情はもう、推知できている。
澪が話し合いの前に見せた態度は、律を安心させる為に装っていたものだったのだ。
家で暴力的な方法に訴える事は、家族に阻止される危険があった。
それに、一般家庭に防音など然して期待できない。
加えて澪は焦っていた事もあり、家で実行できる状況が揃うまで待てなかった。
そこで紬の協力を得た事で、部室で決行しようとしたのだろう。
勿論、実行後は簡単に露見してしまう事だ。
だが、捨て身の澪に取って、後の事はどうでも良かったに違いない。
とにかく、律を流産させる事が先決だったのだ。
「んーん、今聞いて欲しい。ムギが迷惑じゃなければ、だけど」
紬の言葉に、律は首を振った。
「迷惑だなんて。りっちゃんが抱え込んじゃう事の方が、余程心配だもの」
220: 2012/07/16(月) 19:12:23 ID:cQUKwSTU0
「ん、ありがと。
それでね、私はこの子を守ったんだけど、澪の攻撃は激しくて。
私はもう駄目かもって、思った。赤ちゃん守れないって」
前方に通行人の姿を確認した事で、律は一旦口を噤んだ。
こんな時でも、律は澪に対する配慮を忘れていない。
つくづく、律は澪が好きなのだと再認識させられる。
通行人を遣り過ごしてから、律は言葉を続けた。
「でもムギが来てくれて、助かったよ。
あ、いくつかパンチ受けたり、踏まれてお腹が圧迫されちゃったけど……。
この子、影響ないよね?あのくらいで、氏んだりしないよね?」
「それは……大丈夫だと、思うけど。りっちゃん、そこまでダメージ受けてないみたいだし。
でも、分からないわ。専門の人に、診てもらった方がいいかも」
律を安心させたいが、素人の紬に判断を下せる事ではない。
「それは、できないよ。
だって、殴られたり踏まれたりしたって、言える訳ないから」
「でしょうね。だから適当な理由を付けて、診察してもらえばいいわ。
胎児の様子に不安があるから、精密な検査をして欲しいとか言って。
母親が胎児を過度に心配するのは多分普通の事だから、
お医者さんも不審には思わずに診てくれると思うの」
紬の助言に、律は感心したように頷いた。
「ああ、そうか。そういう手もあるね。ありがと、ムギ」
「いえ、気にしないで」
「んーん、ムギには感謝してるよ。ムギには色々と助けてもらってるし。
でも……」
律が続きを言い淀むように、目を伏せた。
紬は辛抱強く待った。律を急かしてはならない、と。
221: 2012/07/16(月) 19:13:56 ID:cQUKwSTU0
暫く沈黙が続いた後、律が躊躇いがちな声で言った。
「ねぇ、ムギ。さっき澪が言ってたけど、協力ってどういう事?」
今度は紬が躊躇ったが、律を相手に隠すつもりはない。
「昨日ね、澪ちゃんから相談を受けていたの。
その、りっちゃんに堕胎してもらう為の、ね。
どういう方法を取るかまでは明かされてなかったけど、
できる限り穏便に説得するって、約束してくれたから……。
だから、澪ちゃんに協力を約束したの」
説明する言葉が言い訳じみてしまい、澪を盾にしているようで良心が咎めた。
それでも、律の信頼を失いたくなかった。
それは自分の名誉の為ではない。
律が自分という慰撫を失ってしまう事を避ける為だった。
「そっか……そうなんだ。
じゃあムギも、私の中絶に賛成、って事なんだね」
紬はまたも躊躇ったが、結局言った。
「ええ、そうね。
やっぱり出産は退学の危険性が高いし、上手く育てられるかどうか。
それに、澪ちゃんの事もあるわ」
「澪、か。強く反対してたもんね」
律は寂しげに言った。
「ええ、多分澪ちゃんは、りっちゃんが退学になる事や、
経済的に行き詰る事だけを理由に、強硬に反対してるんじゃないと思うの。
嫉妬が、一番近いのかな。
澪ちゃんは、胎児がりっちゃんと自分の子だと信じていないわ。
浮気相手の存在を確信してる。だから、許せないのよ。
他人の子を産もうとしている事が」
紬の単なる想像ではない。
実際に澪も、相手の男に対する嫉妬心を胎児と絡めて度々口にしていた。
その事で律を口論の度に責めてきた。
だからこそ律にも納得がいくのだろう、反論は一切挟まずに頷いている。
「そうだよね、そう見えちゃってるんだよね。
私、信じてもらえてないんだよね。
もし産んじゃったら、澪はもう二度と私と仲直りしてくれないよね」
律は悲しみを隠すように、繕った笑みを浮かべた。
それでもまだ紬には、律の見通しは楽観的に思えた。
222: 2012/07/16(月) 19:14:50 ID:cQUKwSTU0
「それどころか、産ませてくれるかさえ分からない。
更に強硬な手段を使ってでも、阻止してくるかもしれない」
「でも、澪は今日、ムギに説得されて退いていたよ?
もうあんな事、してこないんじゃないの?」
確かに澪は、律の命が危険に晒されると聞いて止まった。
だからと言って、次がないと言い切れるのだろうか。
澪の精神は、日が経つにつれて破綻してきている。
律の氏と流産を秤にかけて、出産を認める方向に傾くとは思えない。
嫉妬を源泉に動く澪は、思考を別の方向に傾かせるのではないだろうか。
その懸念を、紬は口にする。
「いえ、そうとも限らないわ。次は、りっちゃんもろとも、かもしれない。
その後、自分自身も手にかけるかもしれない。
実際に澪ちゃんは言っていたわ、お前を刺し頃して私も氏にたいくらい、って」
「でも……それは今日、できなかったよ?
私を澪は氏なせる事ができずに、止まったよ?
なのに今後、私を……手にかけるかもしれないの?」
律の声は震えて、縋るようだった。
嘘を言ってでも慰めてやりたい、でも、一凌ぎでは今後に危険が及ぶ。
その鬩ぎ合いを経て、紬は後者の考えを取った。
「ええ。今日の段階ではまだ、りっちゃんを取り戻す方向だった。
でも、胎児とりっちゃんの命が不可分に近いと、澪ちゃんは今日改めて分かった。
この状況で、次に澪ちゃんはどう考えるかしら。
徐々に精神が危うくなっている澪ちゃんは、こう考えるかもしれない。
ならいっそ、りっちゃんを頃して、永遠に自分のものにしてしまおうって」
紬は反応を窺うように律を見遣った。
律は考え込むように黙っていた。
その深刻な横顔が気になったが、紬はなおも続けて言う。
「そしてその事は、日が経つにつれて実現の危険性が大きくなるの。
出産予定日が迫って、出産が現実味を帯びれば帯びる程、澪ちゃんの嫉妬心も大きくなる。
現に、りっちゃんが浮気の結晶を産み落とすっていう現実に、
澪ちゃんはどんどん耐えられなくなっていってるわ。
それは勿論、澪ちゃんの中での話なんだけれど」
「そっか。今日はまだ出産がそこまで現実的じゃなかったから、
私の命で止まるだけの精神的余裕が澪にあったってだけなんだね。
それが今後、私を命ごと奪う方向に変わっていくかもしれないんだね」
自分自身へと説明するように、律は言った。
声に出す事で、改めて確認しているのだろう。
「あくまで、私の推測だけどね」
「んーん、説得力はあったよ。確かに澪は、日に日に怖くなってった。
それに今日の事は逆に、澪にそういう覚悟を固めさせちゃったかもしれないし。
あ、ムギ。送ってくれて、ありがとね」
気付けば、既に律の家の近くまで来ていた。
「ここでいいの?家の前まで、送るつもりだけれど」
「いいよ。今の家族、ちょっと見せられなくってさ」
律の妊娠は、彼女自身の家庭にまで不和を齎しているらしい。
律に逃げ道はない、その事が紬の悲しみをいや増す。
それでも、他人の家庭に立ち入る事は憚られた。
「そう?じゃあ、この辺で。また明日ね、りっちゃん」
「ん、また明日なー」
最後に律は、空元気を見せた。
笑顔を浮かべて、手を振っていた。
対して、紬は笑顔を返せなかった。
律の方が余程、辛い思いを抱えていると分かっているのに。
223: 2012/07/16(月) 19:16:49 ID:cQUKwSTU0
*
翌日、律の顔を見て紬は驚いた。
所々にガーゼが貼られたその顔に、他の生徒も興味を示したらしい。
律はそれに対して「出来物だよ」の一言で説明していた。
だが、紬には出来物では説明できない程に腫れて見えたし、
ガーゼの隙間からは痣も覗けた。
まるで、殴られた痕のように。
だが澪は昨日、顔までは殴っていなかったはずだ。
とすれば昨日、紬と別れた後で何かあったのだろうか。
紬は気になったが、答えを聞く機会はすぐに訪れた。
休み時間に、律が目配せしてきた。
紬と目が合うとすぐに律は立ち上がり、教室から出て行った。
目配せがサインだと感じ取った紬も、すぐに後を追う。
律に導かれた先は、部室だった。
「来てくれてありがと、ムギ」
紬は入ってすぐ、律の礼に迎えられた。
その事で、やはり目配せは付いてくるよう促す合図だったのだと、紬は分かった。
「意味ありげな視線送ってきたから、気になって」
「気付いてくれて良かったよ。
ムギには、色々と説明しなきゃいけないと思ったから」
律はそう言うと、椅子に腰掛けた。
紬も倣うように、椅子へと座る。
「ああ、そうだ、その前に。まず、このガーゼだけどさ。
実は、吹き出物とかじゃないんだ」
「でしょうね」
他の生徒も多分、薄々嘘だと勘付いていただろう。
「うん、ムギに言っちゃうとね、お父さんに……とうとう殴られちゃった。
腫れたし、痣にもなってるから、隠してるけどね。
仮に出産しても、経済的援助は一切しないって、そう断言もされたよ。
まぁそれもショックだったけど、殴られたのはもっとショックだったな。
今まで、娘の私、可愛がってくれてたから」
可愛がっていたからこそ、出産を認める事ができないのだろう。
紬と律以外の者から見れば、相手の素性さえ不明なのだ。
「痛かったでしょう?」
そうとしか言えない自分が歯痒かった。
殴られる前から既に、律は家の中で針の筵だったというのに。
「うん、痛かった。
それで、本題だけど……その、出産の事なんだ」
「あの、そういう話、ここでは。
そうだ、学校が終わったら、私の家に来ない?
私の部屋なら、危険もなく話せるわ」
紬は一応、ここに来る時に後ろを気にはしていた。
誰も付いて来なかったはずだが、それでも盗み聞きの不安は消えない。
224: 2012/07/16(月) 19:18:12 ID:cQUKwSTU0
「あー、もういいんだ。そういうのに敏感にならなくっても。
だって私、堕ろすから」
律は言った直後、顔を机に俯せた。
「え?あの……」
紬は驚きに目を見開いて、律を見つめた。
今、律は確かに堕ろすと言った。その事は紬も理解している。
そしてそれは、紬が望んでいた事でもある。
それでも唐突な事に、紬の反応が理解に追い付かなかった。
紬がどう反応していいか迷っているうちに、律が顔を上げて言う。
「まぁ、そういう事があったから……堕ろす事にしたんだ。
でも本当は……昨日の事があったから。
澪の事、犯罪者になんて、できないから」
「そう……」
相変わらず、掛ける言葉が見つからない。
「うん。いつか澪は多分、私をこ……手にかけると思う。
それでなくとも、昨日は赤ちゃんを……」
律の身体が震えた。
「大丈夫?」
「うん。澪をね、子頃しにしたくはないんだ。
どうせ澪は私もろとも、近いうちにこの子を……だから。
だから、私が頃すんだ……」
そう言い切った律の頬に、涙が一筋零れた。
激情に衝かれるように、律は続けて言う。
「昨日の事で、改めて分かったよ。
澪は自分が犯罪者になったとしても、この子を許す事がないんだって。
だって、昨日、澪の目論見が成功しても、どうせ逮捕されてたんだし。
ムギにも諭されて、その事が漸く私にも分かった。
澪の事、好きだから……そんな人にしたくないんだよぉ……」
律は再び顔を机に伏せて、痛々しい嗚咽を漏らした。
紬はその背を擦ってやった。
授業に遅れてしまっても構わなかった。
225: 2012/07/16(月) 19:19:36 ID:cQUKwSTU0
一頻り泣いた後で、律は再び顔を上げて言う。
「それでね、ムギには澪を責めて欲しくないんだ。
この子を頃すのは、あくまで私なんだから。
唯達は事情をあまり知らないから、
親に諌められた事で堕胎の理由を通すつもりだけど。
ムギは、昨日何があったか分かってるから。
ムギは澪の殺意も分かってるから……私が堕胎する事で、
澪が悪いって誤解するんじゃないかって。
悪いのは私だから、私だからね?澪を絶対に、責めないであげて?」
この懇願こそが、紬を呼んだ本題である気がした。
律は本当に澪が好きなのだ。
「澪ちゃんを責めるだなんて、とんでもないわ。
私だって、中絶には賛成だったんだし。
それにりっちゃんは、悪くなんてないわ。悪いのは、私なの」
声が震えて、トントゥの顔が憎々しく脳裏を過ぎった。
自分が願わなければ、トントゥさえ居なければ。
紬は何度目か分からない遅すぎる後悔に、再び胸を掻き毟りたくなった。
「ムギも悪くないよ。私の事、考えての事でしょ?
それと……澪にはまだ、話してない。唯にも、梓にも。
澪達には、部活の時に改めて堕胎を告げようと思う。
親に殴られて経済的援助をしないって言われた、それを堕胎の理由にしてさ」
律はそう言うと、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「私って、本当に最低で馬鹿な女だよね。
本当はさ、この顔だって、ここまで殴られずに済んだんだ。
お父さんにも、娘を殴るような嫌な思いをさせずに済んだんだ。
だって、殴られる時点では既に、堕胎を決意してたんだから。
殴られた事がショックなのは本当だけど、
それでもそのまま殴らせる事で、堕胎の理由を作ろうとしたんだよ。
澪や唯達を、本心を探られずに納得させられるように。
上手く理由思い付けないからって親を利用して、本当に私は」
自分ばかり責める律が痛ましくて見ていられず、
紬は思わず抱き付いていた。
226: 2012/07/16(月) 19:20:27 ID:cQUKwSTU0
「止めて……止めてよ、りっちゃん。自分を責めないで。
悪いのは、全て私なの。
私が、あんな事を願ったから」
激情を迸らせる紬に、律の訝しげな声が挟まれる。
「願う?」
「そうなの、私の願いなの。
信じてもらえないかもしれないけど、ある夜にトントゥっていう妖精が現れて……。
願いを叶えてくれるって言うから、女性同士でも妊娠できる世界をって、願っちゃったの。
そうしたら、こんな事に。
いや、もしかしたら、願いが叶ってないと思った私が、
トントゥが宿っていたティーカップを捨てたから。
その事で、復讐してるかもしれないの。だから、悪いのは私なの。
本来、全ての苦しみは、私が被るべきなの。
ごめんなさい、私、こんな事になるなんて思わなくて。
私……私……」
紬は長い独白の後、堪え切れずに嗚咽を漏らして泣いた。
「なーに言ってるんだよ。もしそれが本当なら、澪の子を孕めて幸せだったよ。
んーん、ムギの言う話とは関係ないと思うよ。
だってムギ、普段からそういう事を願ってるでしょ?
だから偶々、私が奇跡かなんかで妊娠した事が、自分のせいに思えてるだけだよ。
それにその話が本当なら──いや、とにかく。
トントゥとかいう妖精だって、その事で合理化を図る為に、
紬の脳が生み出した幻の記憶かもしれないし。
だから、ムギは悪くないよ」
律は怒るどころか、紬の髪を撫でながら優しく言った。
その優しさに甘えるように、紬は更に泣きじゃくる。
「ごめんなさい……私……私……」
「ムギは悪くないよ、よしよし」
律は紬が泣き止むまで、ずっと紬の髪を撫でてくれた。
まるで自分が幼き頃の、母のように。
227: 2012/07/16(月) 19:21:47 ID:cQUKwSTU0
*
律の中絶の手術を翌日に控えて、紬は澪の自室へと呼ばれた。
「なぁ、ムギ。律が中絶する理由だけど……。
親から殴られたり、経済的援助をしないっていうのは、嘘なんだろ?」
紬が部屋に訪れて開口一番、澪が言った。
やはり澪も、その理由を信じていなかったらしい。
律が部活で中絶の経緯を告げた時、
澪だけではなく唯や梓の顔にも不信が浮かんでいた。
ただ、律の中絶それ自体は皆が望んでいた事であり、誰も疑義を唱えようとはしなかった。
理由を糾して話が混乱してしまうよりも、中絶という結論それ自体を尊重すべきだと考えたのだろう。
あの時の、喜びも表せず異議も言えない重い雰囲気を、未だに紬は憶えている。
「殴られたりしたのは、本当でしょうね。
実際に、顔を腫らしていたし」
紬は迷った末、そう答えた。
だが、澪にそのような逃げが通用するはずもなかった。
「私が聞いているのは、事実かどうかじゃない。
殴られたのは本当だろうけど、律が中絶を決意した理由はそれじゃないんだろ?
律はムギにはそれを、言っていたんじゃないのか?
律が中絶すると言った時、ムギはあまり驚いてなかったし」
「仮に本意が別にあったとしても、りっちゃんは言わなかった。
なら、それを尊重してあげましょう?」
嘘を吐き通す自信もなく、紬は躱す事しかできない。
「私のせい、なんだろうな。
あんな事した、翌日だったんだし」
澪は顔を逸らした。言われるまでもなく、分かっている事らしい。
紬が何も言い返せずに黙っていると、澪は続けて言う。
「いや、せい、っていうのは違うな。
だって、私の望みどおりに、律は中絶に至った訳だし。
なぁ、ムギ。私は律を殴った夜……恐ろしかったんだ。
何度も、いっそ律を頃してしまおうかって、そういう衝動に駆られてたよ。
自分の中に生まれてくるどす黒い衝動を抑えられない、そんな恐怖があったんだ。
だから、律が中絶を決断してくれて、安心したよ」
「そう……」
紬や律の予感は、やはり間違っていなかった。
澪はいずれ、律を頃していただろう。
そうならなかっただけでも、僥倖と思うべきなのかもしれない。
「なぁ、ムギ。今になって言うけど……あの時、止めてくれてありがとな。
それを言いたくて。電話とかじゃなくて、直接。
もし、止めてくれなかったら……私は……狂ったまま……律を……」
澪の身体が震えた。
一応、澪が暴力を振るった事は、胎児には影響を与えていなかったらしい。
だがあのまま続けていれば胎児は勿論、律さえも危うかったろう。
「いえ、私にも責任がある事だから。
それに、その話はここでは止めましょう?
澪ちゃんのご家族、居るんじゃないの?」
「一階だよ。それに、今更聞かれたって構わない。
律の事は、もう、赤裸々になってるんだし。
それで……なぁ、ムギ。律、学校に居られるかな?」
澪は案じたように言う。
そちらこそが本題だろうか、そう紬は思った。
「ええ、大丈夫だと思うわ。
澪ちゃんがその為に、署名活動を頑張っているんだし」
既に、学校側も律の妊娠を把握していた。
中絶の手術で長期休学する為に、律の両親が届け出たのだ。
その判断は正しいと紬も思う。
梓はかつて学校側には適当な理由を付けて休めば良いと言っていたが、
それでは露見した時に更に不利な立場へと追い込まれる。
今、学校側は、律の処分を巡って紛糾していた。
さわ子が退学にさせまいと頑張っているらしいが、退学を望む教員も居るとの事だ。
澪はその事で、校内で律の退学阻止を求める署名活動に奔走している。
紬や梓、唯も協力しているが、澪の熱意には特に鬼気迫るものがあった。
本当に律を愛しているのだと、その事が伝わってくる。
「ああ、上手くいくといいな。復学も、手術も」
祈るように言う澪に、紬も合わせる。
「きっと上手くいくわ」
上手くいって欲しいと、心から願った。
勿論、トントゥ以外の存在に願った。
228: 2012/07/16(月) 19:23:04 ID:cQUKwSTU0
*
医師の話によると、中絶の手術は成功したらしい。
術後の経過も良好で、今は学校側が処置を決めるまで自宅待機という状態だった。
ただ、良好というのは肉体的な観点でしかないと、そう紬は思わざるを得ない。
退院後、紬達が見舞いに訪れた時、律は明らかに意気消沈していた。
消え入りそうな儚さが、細い体躯の全面から醸されている。
小さい体ながらも元気を讃えていたあの頃とは、まるで別人のようにさえ思えた。
唯が声を掛けても、梓が声を掛けても、また紬が声を掛けても。
律の返事からは、力が抜けていた。
それどころか学校側が紛糾している処分にさえ、律は関心を示さなかった。
ただ署名活動をしている事に、礼を述べるだけだった。
それだけならまだしも、澪の前でさえ律は塞ぎ込んでいるらしい。
澪も律の慰撫にならないのなら、自分など何の役も為さないのかもしれない。
そう思いながらも、紬は足繁く律の見舞いを続けた。
その間にも日に日に、律の精神は衰弱していっているように見えた。
ただ、今日の律は珍しく多弁だった。
「ねぇ、ムギ。
日が迫るにつれて、澪の嫉妬心が大きくなるって言ってたけど。
それ、多分本当だね。あのままだったら、大変だったかも。
私も中絶の手術の日が迫るにつれて、罪悪感が大きくなっていったから」
律が一息にここまで長い発言をした事など、見舞いに訪れてからは初めてだった。
律が元気を取り戻す兆候になれば良いが、発言の内容を聞く限りそうは見えない。
「りっちゃんが罪悪感を抱く事じゃないわ」
紬が慰めるように言っても、律は首を振って返す。
「いや、私が頃したんだよ」
「そんな事、思っちゃ駄目。私が、悪いのよ」
「ムギは悪くないって。
そうだ、一応確認だけど、ムギだけが来る時間だよね?」
最初のうちは部員全員で見舞っていたが、
律の方から個別のスケジューリングを希望されていた。
全員と話す事は体力的に辛いという理由だった。
「ええ、私の時間ね」
「うん、後二時間は親も聡も居ないから、その辺の事、話せるね。
ムギには話したい事が、あるんだ。迷惑じゃなければ、聞いて欲しいな」
その為に個別の見舞いを要望したのではないか、紬はそう思って頷く。
もしかしたら親や聡の不在も偶然ではなく、律が人払いした結果かもしれない。
「ええ、迷惑なんかじゃないわ」
「ありがと。それで、さっきの話の続きだけどね。
日が迫るにつれて罪悪感は大きくなったけど、
本当に大きくなったのは、寧ろ手術の後だったよ。
取り返しが付かない事をしたんだなーって、改めて分かって。
その事が、実感を伴って襲ってきて。
そしてそれは、日が経つごとに、大きくなっていくんだ……」
律がシーツの袖を掴んだ。
何か言葉を掛けるべきだろうか、それとも今はまだ黙って聞くべきだろうか。
紬が判じかねているうちに、律が続けていた。
「そんな経験の最中に居るから、分かる。
きっと澪は……仮に私が出産をするまで耐える事ができたとしても、
その後は耐えられなかったんだろうなーって。
産まれた赤ちゃんを見れば、取り返しが付かないって思うだろうって。
日が経つにつれて、その実感がどんどん澪の暗い感情を助長していって……。
そして結局、どっちにしろ赤ちゃんの命は短い事になってたと思うんだ。
本当は、澪の子でもあるのにね。
だから、私」
突然、律が紬に抱き付いてきた。
229: 2012/07/16(月) 19:24:07 ID:cQUKwSTU0
「私、こんな自分嫌なんだよっ。澪の事、嫌いになりそうな自分がっ。
澪のせいで赤ちゃんの氏が不可避だったって、そんな思考したくないんだよっ。
澪の為に下した決断なのに、澪の事を嫌いになったりしたら、赤ちゃんも可哀想だよっ。
ママどうして頃したのって、そう言われてるような気がするんだ……。
私、澪の事を嫌いになりたくないよっ。
澪を憎みたくないよ……ずっとずっと、好きなままでいたいよ……。
そうじゃなきゃ、私の行為、意味ないじゃん……」
「嫌いになんて、ならなくていいの。
澪ちゃんもりっちゃんも、悪くないんだから」
紬は律の身体を抱きとめて、慰めるように言った。
そして以前律がそうしてくれたように、柔らかい髪を優しく撫でた。
あの時の律が見せた母のような抱擁を、自分は実践できているだろうか。
自問してみても、自信のない答えしか返ってこない。
「ねぇっ?ねぇ、ムギは……。
ムギは、澪の味方で居てくれるよね?ムギだけは、澪の味方だよね?
ムギは澪の事、嫌ってないよね?好きだよね?
私が澪をどう思っても、ムギは澪の味方してくれるよねっ?」
律は顔を上げると、慌ただしく言葉を並べて懇願してきた。
自身よりも澪を案じている、その姿勢が切ない程に伝わってくる。
「ええ、澪ちゃんの味方よ。澪ちゃんを嫌いになったりしないわ。
だから、安心して?」
「うん……ありがとう……。その事、お願いしたくて。
それで……」
それで個別のスケジューリングを頼んだ、という事なのだろう。
「うん、分かってる。任せて。
勿論、りっちゃんの味方でもあるけどね。
りっちゃんも澪ちゃんの味方なんだから、丁度いいわね。
二人の味方が同時にできて」
「うん、私も澪の事、好きであり続けるよ。ずっとずっと、好きだよ……」
律は儚げに笑った。
透き通るような美しさで──
.
翌日、紬は律が自頃した事を聞かされた。
澪を頼んだ事が遺言だったのだと、その時になって漸く悟った。
律は自分の言葉通り、最期まで澪を愛し続けた。
それでも紬は、律を祝福する気には勿論なれなかった。
ただただ、悔しさと悲しみ、そして自責に心を嬲られるばかりだった。
230: 2012/07/16(月) 19:25:19 ID:cQUKwSTU0
*
自室に招いた澪を見て、根を詰め過ぎてやしないかと紬は不安になった。
律が自頃してから日を経て、澪も大分回復してきたようだった。
律が自頃した当初は、阿鼻叫喚の如き取り乱しようだった。
律を追って自頃するのではないかと、本気で心配した程である。
それでも紬が懸命に支えて、学校に通えるようにまでなっている。
勿論、唯や梓の協力もあった。
律が生前に言い残した言葉を、取り敢えずは実践できた形になる。
学校側も律の自殺を経て、考えを改めたらしい。
生徒に対するカウンセリング体制を整え、
また仮に生徒の妊娠があってもサポートする方向へと変わった。
律の氏が中絶の罪悪感である事を、重く見た結果だろう。
勿論それは遺書にあった内容であり、
律の自殺の理由がそれだけではない事を紬は知っている。
律は澪を憎みたくなかったのだ。
憎んでしまえば、澪の為に中絶した意味さえ失われる。
胎児の氏を無駄にしない為には、澪を愛し続けるしかない。
だから憎しみに傾く心を抑えられないと悟った時、律は自殺を決断したのだろう。
憎しみに完全に転化する前に、愛したまま氏のうと。
中絶を経て弱っていた精神状態も、それに拍車を掛けたに違いない。
紬は改めて律を悼みつつ、紅茶の差し入れを持って澪に話し掛けた。
「いいポスターが出来上がりそうね」
澪は今、新しい部員勧誘のポスターを作っていた。
欠けたドラムを埋めなければならないのだ。
「うん。今度こそ、入ってくれるといいな」
部員集めは難航していた。部から自殺者が出たのだから、当然かもしれない。
「ええ。でも、頑張り過ぎないでね」
律が居ない悲しみを埋めるように、澪は部活に没頭していた。
幾ら回復してきたとはいえ、精神には深い傷痕が残っているはずである。
自身の心身も労わって欲しかった。
だからこそ休息の意味も込めて澪を自室に呼んだのだが、
ここでも澪は部活の作業に手を付ける始末だった。
「分かってるよ。ただ、何かしてないと、思い出しちゃうからさ」
何を思い出すのか、聞くまでもない。
そしてその気持ちは、紬にも分かる。
律の自殺当初は澪のフォローに没頭していた事が、紬にとって慰めにもなったのだ。
それでも、休息は必要だろう。
「気持ちは分かるけどね。ティーブレイクしましょ?ね?」
「そうだな。折角淹れてもらったんだし、貰おうか」
「作品に紅茶が飛ぶといけないから、こっちのテーブルで」
紬が紅茶を別の机へと置くと、澪もつられたように立ち上がった。
「んっ」
だが、歩く事はなかった。
立ち上がると同時に姿勢を崩して、倒れ込んでしまった。
「みっ、澪ちゃんっ?」
紬は慌てて駆け寄ると、澪の名を叫んだ。
だが意識は既になく、返事も当然のように聞こえてこない。
咄嗟に呼吸と脈拍を確認すると、気を失っているだけだと分かった。
その事に少しだけ安堵して、紬は救急車を呼んだ。
.
231: 2012/07/16(月) 19:26:47 ID:cQUKwSTU0
医療機関に着く頃には、既に澪の意識も戻っていた。
ただ付き添った紬は念の為と、澪には精密な診察を受けてもらった。
澪が搬送された先は先進的な医療機関という事もあり、規模の割に設備も整っている。
澪は大袈裟だと言っていたし、紬にもその自覚はあった。
最近は些細な事にさえ、どうしても念を入れるようになってきている。
色々と見逃してきた事への後悔が、そうさせてしまっているのかもしれない。
ただ、不意の意識喪失は、重大な病のサインともなりうる。
心労と過労の蓄積だと片付ける事は、些か安直過ぎるだろう。
それに丁度MRIが予約なしで撮れる時間帯という事もあり、タイミングは良かった。
混んでいないのだから、結果も今日のうちに聞ける事になる。
尤も、総合病院や大学病院以外でMRIを設置している医療機関は、もともと穴場ではある。
それでも折角の機会、活かした方がいいだろう。
澪の診察結果は、すぐに出た。
紬も診察室に付いて行こうとしたが、職員に遮られた。
「個人情報がありますので、ご友人の方は申し訳ございませんが……」
「そうですか。澪ちゃん、一人で大丈夫?」
「そんな過保護にしなくても平気だよ。
どうせ、念の為に撮っただけなんだ。何もないよ」
幾ら空いているとはいえ、迅速過ぎる事が気になった。
異常が発見されていなければいいが、と思いながら待合室へと戻る。
だが紬には、待合室の椅子へと腰を落ち着ける間もなかった。
澪が診察室に入ってすぐに、取り乱したような叫び声が漏れてきたのだ。
澪の声だと判断した紬は、咄嗟に駆け出した。
院内だという意識は、簡単に吹き飛んでいた。
職員が止める間もなく診察室に入った紬は、取り乱す澪と宥める医師双方の視線を浴びた。
「ム、ムギっ。聞いてくれよ、この人達、おかしな事言うんだよっ」
「お、落ち着いてください、秋山さん」
医師が制止する声も聞かずに、澪は続けた。
「私、男性経験ないのに、この人達、私に胎児が居るって」
途端、紬の身体を雷に打たれたような衝撃が突き抜ける。
見落としていた。女同士で妊娠できるという事は、こういう事なのだ。
──それにその話が本当なら、澪だって妊娠していてもおかしくないよ。
律がかつて言いかけた言葉が、補完されて紬の脳裏に蘇る。
そう、澪は律と交わっていた。
澪が妊娠する事だって、有り得るのだ。
232: 2012/07/16(月) 19:27:55 ID:cQUKwSTU0
「まぁ、落ち着いてください。ここでは他の来院者の方の妨げになります。
今、説明しますから。
取り敢えず、別室に行きましょう」
紬と澪は、小さな別室へと移った。
急患室と書かれたプレートで、事故等で運ばれた人を一時的に待たせる場所だと知った。
今は誰もこの部屋に居ないので、説明するには絶好の場所なのだろう。
「あの、まず秋山さん。ご友人の方に話を聞かれても、構いませんか?」
紬の方を一瞥してから、医師は言った。
先程は職員が有無を言わせずに、紬を遮っていたはずだ。
「ええ、構いません。それより、どういう事なんですかっ?」
澪が認めると、医師の顔にあからさまな安堵が広がった。
面倒な来院者だと思い、付き添って来た紬に宥める役を期待しているのだろう。
「ええ、ですから、MRIで全身を見た結果、胎児が子宮内に発見されました。
胎児が長らく居た影響が蓄積して、今回の貧血に至ったんだと思います。
それで、残念ですが、この胎児は、今でこそ辛うじて氏んではいませんが……。
流産は、確定です。
非常に身体が小さいまま、顔の形ができていますが、
内臓や循環器、呼吸器が見受けられません。
これでは体外に出れば、生きる事はできません。
そして母体に留まっていても、今から臓器が作られる事もないでしょう。
妊娠それ自体はかなり前らしく、既に脳や顔は成長しきってますから。
今回の件でも明らかなように、このまま母体内に留めれば、
母体にも悪影響を及ぼします。
できるだけ早い時期に、母体から摘出すべきです。
それで、これがその、映像です」
医師は澪に言葉を挟ませずに長々と説明した後、ボードにMRI写真を貼り付けた。
紬はその写真には目もくれず、澪を見つめていた。
証拠を見せられた事で、澪の表情には苦悶が浮かんでいる。
認めざるを得ないが受け入れられない、その様相が表れていた。
「まだ未成年ですから、御両親を呼びましょう。
御両親も知るべき事ですし、摘出手術の段取りも整えなければなりません。
それまで、ここで休んでいてください。
連絡先は、来た時に書いて頂いた連絡先の、ご自宅欄でよろしいですね?」
初診の患者に渡される用紙には、病状の他に住所や連絡先も書かなければならない。
その連絡先を医師は確かめているのだ。
だが澪は、全く別の事を口にしていた。
「何で……妊娠なんて……。私、律としか、同性としかした事ないよ?
なのに、妊娠したって事は……つまり……」
医師は溜息を吐いて立ち上がった。
「最近、そういう事を訴える同性愛者の方が増えてきているそうですね。
ですが、それは医学的には有り得ない事です。
パートナーの方に露見したくない気持ちは分かりますが、
現実を見てきちんと話し合う事が大切です。
それでは、用紙のご自宅欄に連絡しておきます。お待ちください」
医師の言葉で、紬の願いの影響が所々に出始めていると知った。
それでもまだ虚言で片づけられ、医学界は見解を改めていないらしい。
紬は額を指で抑えて、下を向いた。
自分のせいで方々に不信と諍いが広がっている。
ましてや、双方が妊娠する事も有り得るのだ。
実感を伴う後悔が、紬を苛む。
233: 2012/07/16(月) 19:29:03 ID:cQUKwSTU0
「つまり……律の言う事、本当だったって事か?」
絶望的な澪の呟きを聞いて、紬は視線を戻した。
澪は顔色を青白くして、なおも呟く。
「律は本当に、私の子を身籠っていたのか?
なのに私はそれを信じられず……律に中絶させて、律も自殺に追い込んだのか?
私が、律を、頃した、のか?自分の、子供、も」
真実に気付いた澪は、青白くなった顔を両手で掴んで震えた。
自我の全てが砕け散ったかのような、痛ましい姿だった。
そしてその姿以上に、澪の心は追い詰められているだろう。
紬は澪を見ていられず、視線を逸らした。
逸らした先には、先程医師が貼り付けたMRI写真があった。
確かに一目で奇形と分かる。顔以外、何もできていな──
「っ」
紬の視線は、その顔に釘付けになった。
怒っているようにも笑っているようにも、男のようにも女のようにも見える。
帽子のような突起さえ見えた。
よくよく見れば不完全な身体部分も、服を着ているように映った。
一夜しか見ていないが、それはトントゥの姿と重なっている。
「そんな所に……居たの……」
紬は唖然とした声を漏らした。
トントゥはもう居ないのだと、探す事自体を諦めていた。
だが実際にはティーカップから出て行っただけで、すぐ近くに居たのだ。
ティーカップの使用を拒んだ、澪の下に。
紬は漸く全てが分かった。
トントゥは紬の勝手な解釈で、ティーカップを捨てられた事に立腹したのだろう。
そもそもトントゥは、一夜にして願いを叶えるとは言っていない。
だから紬の意識の間隙を衝いて、願いに沿う形で復讐していたのだ。
気付けるはずもない事を見落とさせて、紬が自責に苛まれる姿を楽しみながら。
そう、トントゥは特等席で、非日常が齎す災厄をずっと観ていた。
「なぁ、ムギ。そういえばお前が前に言ってた話、本当か?」
絶望に怒りが混ざった声を靡かせて、澪が立ち上がった。
律の妊娠が自身との結果だと分かった以上、澪に紬の話を疑う理由もなくなる。
「お前のせいで女同士が妊娠できる世界になったっていうのも、本当なのか?」
澪の両手が、紬の首に向かって伸びてきた。
律を氏なせた絶望と、紬に対する怒り。
その二つが織りなす凄まじい情念が、澪の声にも顔にも感じられる。
自分を頃して、澪自身も氏ぬつもりなのだろう。
「お前と私が、律を氏なせたようなものだな」
紬は否定するつもりも、抵抗するつもりもなかった。
ただ、圧迫されて声が出なくなる前に、これだけは言いたかった。
「ごめんなさい」
本当は澪の腹を殴りたかった。
そうして、そこに居るトントゥを──
<FIN>
234: 2012/07/16(月) 19:31:12 ID:cQUKwSTU0
>>181-233
以上で完結です。
お読み頂いた方、ありがとうございました。
それでは失礼します。
以上で完結です。
お読み頂いた方、ありがとうございました。
それでは失礼します。
コメントは節度を持った内容でお願いします、 荒らし行為や過度な暴言、NG避けを行った場合はBAN 悪質な場合はIPホストの開示、さらにプロバイダに通報する事もあります