154: 2012/08/29(水) 11:59:10 ID:eIu5qoLM0

梓「天使に、ふれたよ」

155: 2012/08/29(水) 12:00:19 ID:eIu5qoLM0

  

 still [副] 
 ――(接続詞的な用法として)それにもかかわらず,それでも

156: 2012/08/29(水) 12:01:12 ID:eIu5qoLM0

1.


「梓ちゃん、稽留(けいりゅう)流産してるかもしれない」

 憂は私の眼をしっかり見詰め、ゆっくり、説き伏せるように言い放った。

「何、それ」

 思わず呟いた言葉は、しかし私の心情そのものだった。知っている言葉のはずなのに、全く頭に入ってこない。意味について考えようとすればするほど思考が震えて、上手く枠に収まってくれない。状況が、まるで理解できない。薄桜色の診療医を身に着けている憂が、とても遠くの存在に思える。

 何だろう、これは。

 私は、妊娠11週目の定期検診に来たはずで、流産の話を聞きに来たわけじゃない。時間的に、夕飯の買い物だってしなくちゃいけない。けれど、診察室の椅子から立ち上がることが出来ない自分がいる。今すぐ耳を塞いで逃げ出したいのに、よく分からない何かが、それを頑なに拒んでいる。
 何か話すべき、と口を開いたけれど、言葉を紡ぐことができない。
 
 憂は辛そうに表情を歪めたが、すぐに眉目を律し、大きな決意を宿したようなそぶりで私に告げる。

「あのね、梓ちゃん。落ち着いて聞いてほしいの」 

「――」
けいおん!Shuffle 3巻 (まんがタイムKRコミックス)

157: 2012/08/29(水) 12:02:31 ID:eIu5qoLM0

2.


「梓!」

 夫の声がして、ふと我に帰る。先ほどまで診察室にいたはずなのだが、私はいつの間にか産婦人科の待合室に移動していたらしい。廊下の明かりが落とされて、周囲はすっかり薄暗くなっていた。
 
「あかちゃん、しんじゃうかもしれない」

 大きく上下していた夫の肩が一瞬だけ重苦しく止まり、僅かに崩れていく。

「そんな……」

 恐らく、憂から連絡を受けて駆けつけてきたのだろう。ワイシャツとスラックスは、所々に雨水と思しき透明な染みをつくり、ネクタイも乱れていた。申し訳ない気持ちで一杯になる。
 看護師の女性が窓口から顔を出し、夫に声をかける。

「○○さんのご主人ですね? 詳しい病状を説明いたしますので、診察室へどうぞ」

夫が頷いて私を見る。看護師も気遣わしげに私の方を伺う。

「梓さんも、いらしてください。旦那さんと一緒に、もう一回確認してみましょう。……もう、1回」

 もう、1回。その一言に、看護師の祈りが詰まっているような気がした。間違いであって欲しい、と。
 無論そうであって欲しいと思う。その為だったら、何度だって検査を受けてもいい。けれど、身体の方は思う通りに動いてくれなかった。もう一つの可能性を、それを認めざるを得ないことが、たまらなく、怖かったのだ。

「大丈夫か? あまり辛かったら、無理しなくていいぞ」

 その言葉で、どうにか首を振り、夫の差し出した右腕に掴った。

158: 2012/08/29(水) 12:03:26 ID:eIu5qoLM0

 ディスプレイに、見慣れた胎児の白い影が映った。経膣プローブによって超音波撮影された、私の赤ん坊だ。
 その影は私の胎内でじっとしていて、まるで眠っているようにも見える。声をかければ動き出すんじゃないだろうか。そんな気さえする。

 この場にいる全員が、固唾を呑んで画面を凝視している。
 私も、夫も、看護師も、憂も。
 でも、最後まで胎児は動いてくれなかった。小さな身体からは想像も出来ないほどの逞しい音色を聞かせてくれていた心臓も、今は嘘のように静まり返っている。

「CRL(頭からお尻までの長さ)が10週と2日の数値を示しています。前回9週目の定期検診までは順調に増加していった事から推察すると、ほぼ10週と2日で心拍が止まったと考えられます」

 憂が夫に説明している。夫は拳を握りしめ、下唇を噛みながらエコー写真を見つめている。

「助からないんですか? どうにか、ならないんですか!?」

「おそらく、胎児側が何らかの染色体異常を持っているために引き起こされた、自然淘汰的な物だと思います。妊娠初期の流産は、ほとんど、これが原因なんです。残念ですが、赤ちゃんを信じるしかありません」

 母子手帳を握りしめる。出産予定日が確定したその日に申請して、交付してもらったものだ。それが前回の定期検診で、9週と3日目のことだった。そのわずか6日後、赤ちゃんの心臓は止まってしまったらしい。
 今日が11週の3日目だから、もう9日も経っている。気付いて、あげられなかった。私のお腹のなかに、ずぅっと居たのに。

 その事実がようやく頭の奥まで染みわたってきて、大きなしゃくりと共に涙がこぼれた。

「梓ちゃんは、悪くないよ。稽留流産は、自覚症状が無い場合がほとんどなの。この週数だと胎児側に原因があることが多いから、梓ちゃんに責任は無いと思う。それにまだ、流産と決まったわけじゃないんだから、あまり自分を責めちゃ駄目だよ」

 憂は優しく、私に言い聞かせる。

「ただ、覚悟はしておいて欲しいの。1週間後また来て駄目だったら、稽留流産が確定するわ。そうなると、早めに手術して赤ちゃんを外に出してあげなきゃいけなくなる。
 放っておいても自然に流産されてしまうけれど、私はあまり勧めたくない。出血と痛みが酷くなるし、その間も母体は胎児を異物として認識しているから、免疫力が低下して感染症のリスクも上がってくるの。
 手術すれば、より安全に次のお産が始められるから、考えておいてくれないかな」

 夫に肩を抱かれ、泣きながら私は頷いた。ただ、頷くことしかできなかった。

159: 2012/08/29(水) 12:04:47 ID:eIu5qoLM0

3.


 再検診までの1週間、私はインターネットで自分と同じ症状の人が居ないか調べようと思っていた。
 もしかしたら、今からでもやり直せるかもしれない。民間療法でも怪しい通販でも構わないから、とにかく、何かに縋りたかったのだ。

 “稽留流産 11週 再検診”

 検索エンジンにかけると1万件余りもヒットする。自分だけでは無いことに少しだけ安堵し、一番上に上がっていた妊婦用の質問サイトをする。
 記事を最後まで追っていったが、結局、私の望んだ症例は得られなかった。週数や症状の微妙な差異はあれど、みんな稽留流産と診断され、ほんの細やかな期待も裏切られて流産し悲しみに暮れる。

“どうか、一人で抱え込まないように”

 そう、経験者たちは口を揃えたように結んでいる。

 それでも、と微かな希望を求めて幾つかのサイトを廻ったが、2日ほどで何もする気が起きなくなった。1日の大半を、布団に包まってじっと過ごすようになっていた。
 不治の病に侵され余命を宣告された患者の気分というのは、こういう感じなのだろうか。
 つわりが無くなっていたのが、唯一の救いだったのかもしれない。もし続いていたなら、自分が母親であることを、強く意識してしまいそうだったから。


 そんな私を助けてくれたのは、純だった。

 再検診を3日前に控えた夕方、携帯電話に着信があったのだ。

160: 2012/08/29(水) 12:06:22 ID:eIu5qoLM0
「あ、梓? ひさしぶりい! 純ちゃんだよん☆」

 眠りすぎて痛む頭に、純の元気な声が突き刺さる。
 何時もならほっとするその声が今は鬱陶しくて、でも何故だか切ることは出来ないでいる。
 純も私の雰囲気を察したのか、気勢を削がれたように黙り込んでしまった。
 携帯電話を耳に当てたまま、ただ沈黙だけが過ぎ去っていく。
 
「……うん。それどころじゃ無かったよね、ごめん」

 どれくらいの時間、黙していたかは分からない。さして長くは無かったと思う。けれど、静寂を破ろうと発せられた純の声は、ひどく沈んでいた。

「話は、憂から聞いた。だから梓、きっと落ち込んでいるだろうな、て。その……ごめん。無神経だった」

「良いよ」

 自然にそんな言葉が流れていた。

「気にしないで、良いよ。純の気持ち、分かったから」 

 まるで言霊のように私の内に浸透して、心を軽くしていく。
 さっきまでは純を疎ましいとすら思っていたのに、なんて現金なんだろう。
 
「あたしさ、ネットで調べたんだ。そしたら、ごく僅かだけど、助かった症例があったの。心臓がとまったはずの胎児が、再検診では元気に動いていた、って。
 梓の赤ちゃん、助かるかもしれないんだよ!」

 純の言葉に胸が詰まる。
 何も言う事ができない。

「だからさ、梓。もう落ち込んじゃ駄目だよ。ひょっとしたら今こうしている間にも、赤ちゃんの心臓がバクバク動いてて、梓に聞かせてあげたい、っと思っているかもしれないじゃない。早く検診してくれぇえええってさ」

 上手く笑うことができない。代わりに、涙としゃくり声ばかりがこみあげてくる。

「本当だよ。憂も言ってたんだ。“赤ちゃんは最初 雲の上にいて、自分からパパとママになる人を選んで、産まれてくるんだ”って。
 産まれてから3歳までの子に話を聞くと、何割だかが、示し合わせたようにそう答えるんだって。“パパとママが楽しそうだから、その一員になりたくて降りてきた”り、“ママが落ち込んでいて、慰めるために降りてきた”って言うの。“胎内記憶”、だったかな。
 だから雲の上に戻った赤ちゃんは今、梓を元気づけたい、って思ってるんじゃないかな。でもあんまり梓が悲しそうにしていると、赤ちゃんも責任を感じて出てきづらくなるじゃないの」

「うん……うん」

 純の想いを、無駄にしたくない、と思った。
 憂が言うのなら、それは本当のことなのかも知れない。私に言わなかったのは、何か思ってのことなのかも、と。そう、思うことにした。
 何より、私はその希望に縋りたかった。

「再検診の日には、私も立ち会うから。大丈夫。何もかも、上手くいくよ」



 電話を切った後も、温かい何かに押されるように泣き続けた。
 空が暗くなった頃にようやく泣き止んで、赤く腫らした眼を見た夫に、強く抱きしめられた。
 
“どうか、一人で抱え込まないように”

 経験者たちの書き込みが、優しくリフレインしていた。

161: 2012/08/29(水) 12:07:35 ID:eIu5qoLM0

4.
 

 憂が静かに首を振った。
 肩に置かれていた夫の手が震えて、純が何かを呟いた。私は、そうか、と思った。自分でも意外なほど、落ち着いていた。
 
 その日のうちに手術をすることが決まり、手続きを済ませる。

 手術前検査を待つ間、純はことある毎にごめん、と呟いていた。自分の発言を悔いてのことだろう。だから私は、そのたびに純を慰めた。その時の私を救ってくれたのは本当だし、今もし独りだったら、確実に取り乱していただろうから。
 夫と共に説明を受け、同意書にサインをした。病名、稽留流産。手術名、子宮内容除去術(清掃術)。

 どうにか平静を保っていられた心が、前処置の辺りから少しづつ揺らいでいった。
 ラミナリア(子宮口を拡げるための、棒状のスポンジみたいなもの)が挿入されて、痛みで視界が歪む。しばらく重い痛みが続き、変に気持ちが揺れて涙がこぼれる。

「これから病室に移動します。手術まで、そこで安静に過ごしてください」

 車椅子に乗せられ、看護師の先導に従い純、私、夫の順番で病棟へと進む。車椅子は、夫が押してくれていた。

 突き当りを曲った光景は、さらに私の気分を沈めた。
 お腹の大きな母親たちのなかに、何もない私が混ざると、そこには違和感しかなかった。
 動揺を誰にも気取られたくなくて、つい足元ばかりを見てしまう。何だか滑稽だ。


 手術室には憂がいた。マスクをしていて表情は分からなかったが、逆にそれが安心をもたらしてくれた。

「すぐ、終わるからね。赤ちゃんを、きれいに出してあげるから」

 おねがい、と言おうとして、私の意識は暗転した。

162: 2012/08/29(水) 12:09:21 ID:eIu5qoLM0

5.

 
 20XX年の8月4日13:50頃、胎児はようやく私の胎内を離れ、うまれてきた。私のわがままで、2週間も、待たせてしまった。
 超音波では分からなかったが、どうやら女の子だったらしい。
 私と夫は、彼女に“幸(さち)”と名付けた。短い人生でも幸せであってほしい、という祈りを込めて。


 流産によって子供を失くした母親を、“天使ママ”と呼ぶらしい。幸は天使になって、雲の上に帰ってしまったのだ。
 わずか10週と2日で居なくなってしまった幸は、戸籍に載ることもできず、埋葬すら叶わない。
 日付だけ書かれた母子手帳と、今までに撮ってきたエコー写真が3枚。
 その僅かなパーツたちが、幸がこの世に存在していたことを証明する全てだ。


 術後1週間は安静にするように言われていたが、どのみち何もする気が起きなかった。生理のような鈍い痛みがずっと続いていて、自分が母親であったこと、もう子供は氏んでしまったことが否応なく思い出されていたからだ。

 仕事帰りの夫に当り散らしたこともあった。夫は疲れているだろうに、泣きわめく私を宥めつつも、決して怒らなかった。夫が眠ったあと、申し訳なくてまた泣いてしまった。
 でも結局、そういった周囲の人たちに救われてもいた。私の母や義母も何かと気遣ってくれていたし、純と憂も仕事の合間を縫って、励ましのメールを送ってくれていた。私は孤独ではなかった。
 それなりの時間を必要としたけれど、皆のために、早く立ち直りたいと思うようになった。そして、何でも良いから恩返ししたいと。私に向けられているのは、紛れもない、奇跡のような善意たちだったから。

163: 2012/08/29(水) 12:10:23 ID:eIu5qoLM0


 だから、ある日純から送られたメールに凍り付いてしまった自分を、私は恥じた。

 “辛いだろうけど、悪い夢だったと思って忘れよう。まだ、次があるよ ^-^ ”

 その通りだと、思った。早く、忘れて、立ち直ろう。そう、思った。


 でも、その日から、“私”の、“何か”が、ずれた。
 自分が自分でないような、でもそれすら肯定できない違和感が、がん腫瘍に変性した脳細胞のように、頭の片隅にこびりついてしまったのだ。

164: 2012/08/29(水) 12:11:37 ID:eIu5qoLM0

6. 


 スズムシが鳴き始めた初秋の夜、久々に夫婦で外出をした。高校生時代からのファンだったジャズピアニストが、桜ヶ丘でコンサートをするからだ。
 チケットをくれたのは、憂だった。

「お世話になった医大の先生から貰ったんだけど、梓ちゃんが好きだったな、と思って。ペアチケットだけど、私には相手もいないし。細やかだけど、快気祝いってことで」

 術後の生理も始まり、容体はすっかり安定していた。
 表向きは回復を見せていた私を、周囲は祝福してくれた。
 とくに夫の表情が日に日に軽くなっていくのを見ると、かなり負担をかけてしまっていたのだろう。
 だから、私は、間違っていないはずだ。そう。あれは、悪い夢だったのだ。


 地味ながらも根強い人気を誇っている奏者なだけあって、会場には幅広い世代の観客が集まっていた。チケットのもぎりに、長い列ができている。
 流れに乗るように一歩進もうとした所で、何人か前に居た女の子が転んだ。幼稚園児くらいの彼女に、祖父らしき老人が慌てて屈む。女の子はちょっとだけ泣きそうになりながらも、どうにか立ち上がってみせた。老人の顔が綻んで、女の子の頭をなでる。
 急に、胸がきしむ。これ以上は、見てはいけない。なのに、眼球が固定されたように動かない。足が、震えている。夫が声をかける。列が止まったせいか、後ろからどよめきが聞こえる。
 気を取り直して歩き出そうとするが、駆け寄ってきた青年の声に、また注意をそらされる。老人から話を聞いた青年は女の子を見て安堵し、青年と同じくらい若い、後から来たお腹の大きな女性の肩を抱く。

 もう、私は動けなくなる。自分の鼓動が速すぎて、胎児のそれを思い出す。脂汗が噴出してくる。もう、いい。もう、見るな。もう、もう。

 女の子は、女性の大きくなったお腹に耳を預けると、やがて弾んだ声をあげた。


 ―― 決定的だ、と思った。

165: 2012/08/29(水) 12:12:44 ID:eIu5qoLM0

 思わず駆け出していた。誰かを突きとばしたが、そんな事どうでもよかった。夫が追いかけてくるのが分かったけれど、そっとしてほしかった。速く、この場から逃れたかった。

 方向も構わず滅茶苦茶に走りつづけて、躓いて転んだ先に、傾斜の感覚と、芝生の感触があった。水の流れる音から、そこが河川敷だという事に気付く。いつか唯先輩と、演芸大会の練習をした所だろう。ふと、唯先輩の甘い声を思い出す。その懐かしい感情がトリガーとなって、一気に感情が噴出した。

「あああああああああああ!!」

 突っ伏したまま地面に向かって咆哮するも、叫びは際限無く湧き出てきて、身体を突き抜けて爆散する。

「どうしてよ! どうして!? どうして私なのよ!! 私が何をしたっていうのよ!」

 自分でも信じられないくらいの声が出た。右の拳で何度も芝生を殴りつける。涙と鼻水と涎が、蛇口の壊れた水道のように溢れてくる。

「忘れられない! 忘れられるわけ、ないじゃない!! 幸は、幸は……!!」

 私の子供なのに!!!

「どうして私だったの!? なんで、あの子じゃないのよ!」



「 ―― あの子が氏ねば良かったのに!!」



 は、
   とすべてが止まる。今、何を言った?

  

「……何よ」

 言葉の意味を後追いして、後悔に押しつぶされる。いっそ、粉微塵に砕いてほしかった。

「本当に、氏ぬべきなのは、私じゃない」


 それから、嗚咽が止むことはなかった。止める気も無い。悲しくて情けなくて申し訳なくて、いっそ消えてしまいたかった。こんな母親だから、幸に嫌われてしまったのだ。選んでくれた幸の期待を、最悪な形で裏切ってしまう、最低な母親。それが分かったから、黙って雲の上に帰ってしまったに違いない。


「……あの、どうかしたんですか?」 

 女性に心配そうな声を掛けられるも、私は顔を上げることができない。
 放っておいてください、親切にしないでください、私には、そんな資格はありません。

 鼻声でそんな事を口にすると、しばらくして頭を撫でられた。
 やめてくださいごめんなさい、と繰り返し唱える。

 でも、女性の手は止まらない。とても懐かしく、落ち着く感触に、さらに声をあげて泣いた。女性の手が困惑したように止まったけれど、すぐに撫で始める。心なしか、少しだけ優しくなっている。

「大丈夫だから。もう泣かないで、あずにゃん」

166: 2012/08/29(水) 12:14:21 ID:eIu5qoLM0

7. 


 差し出されたホットミルクが、口内に甘い余韻を残して通り過ぎる。ほっと息をつくタイミングが、唯先輩と重なっていた。。
 唯先輩の部屋は、どこか高校時代の彼女を彷彿とさせるような、懐かしい雰囲気があった。降り注ぐナツメ球のオレンジが、私のノスタルジーを煽っているのかも知れない。

「おいしい? あずにゃん」

 鼻を啜って頷くと、唯先輩は相変わらずの人懐こい笑顔を見せた。大学時代よりもずっと大人びた唯先輩が、この時ばかりは幼く感じる。

「えへへ、でしょ? でもこれ、意外と低カ口リーなんだよ。砂糖の代わりに、羅漢果(らかんか)顆粒って言うのを入れてるんだ。だから糖尿病を気にせず、何杯でもいけるんだよ」

 おそらく、憂あたりに勧められたのだろう。唯先輩は今年で27歳になるはずだから、そろそろ健康に気を遣い始める年齢なのかもしれない。相変わらず、甘いものばかり食べていそうだし。……もっとも、一つ下の私が言えることじゃないのだろうが。

 私が流産したことを、唯先輩は知っているのだろうか。いまだに憂と同居しているのなら、何か聞いていてもおかしくは無い。なのに、唯先輩はそんな素振りを見せず、ただ莞爾(かんじ)とした笑みで私を見つめている。

「ひさしぶりだね。あずにゃんの結婚式以来、かな」

「はい」

 と両手でマグカップを包んで、思い出したように付け加える。

「あの時は、ありがとうございました」

 披露宴で、唯先輩たちが放課後ティータイムの演奏をしてくれて以来だから、もう4年になる。それは今も幸せな宝物として、心の一番奥で輝いている。

「あずにゃんは、今、幸せ?」

 唯先輩も両手でマグカップを包んだ。視線は、私の左手の薬指。
 答えは決まっているのに、すぐ言葉にできない自分がいた。

「……しあわせ、です。夫は優しいし、憂たちとも、未だに仲が良くって。困ったことがあると色々助けてくれます。お金があるわけでも無いけれど、何とかやって行けてます。それだけでも、たぶん、幸せなんだと思います」
 
 マグカップを握る力が強くなる。それでも、ぬるめに作られたホットミルクでは優しい熱さを感じるだけ。私は、幸せなのだ。

「そっか」

 唯先輩はさみしそうに視線を逸らしたけれど、すぐにくしゃっと笑った。
 
「良かった」

「私、流産したんです」

 その笑顔を見ることが辛くなって、言ってしまった。唯先輩から笑顔が消えていく。ああやはり、言うべきじゃ無かった。こんな重いこと、誰も聞きたくはないだろうに。前に、進まなければいけないのに。でも話さなければ、唯先輩が悲しみそうな気がして。そんな唯先輩は見たくなくって。

「1か月くらい前のことです。稽留流産という病気で、産まれる前に赤ちゃんを失くしました。女の子だったそうです」

「そっか」

 唯先輩は頷くだけだった。何を言うべきか、困っているのかもしれない。

「それはもちろん、悲しかったです。未だに思い出して泣いちゃう時があります。唯先輩にまで、見られました。
 駄目ですよね、いつまでもウジウジしちゃって。夫も憂も、純も父も母だって、皆、励ましてくれたのに。支えてくれているのに、私だけが前に進めないでいるんです」

「……あずにゃん」

「どんなに悲しんだって、幸は、生き返りません。どうにもならない以上、考えるべきじゃないんです」

「あずにゃん」

「唯先輩すみません。こんな重い話、聞きたくなかったですよね。私がこんなだと、幸も責任を感じちゃいます。忘れたほうが、むしろ幸のため 「あずさちゃん!!」 」

 唯先輩の口から、今までに聞いたことの無いほどの大声が出た。それは私の心身を一瞬で見えない何かに縫い付けて動かなくしてしまう。

「それ以上は、め、だよ。あずにゃん」

167: 2012/08/29(水) 12:16:04 ID:eIu5qoLM0

 学生時代耳なじんでいた口調なのに、懐かしさなんて微塵も感じない。
 怒りと悲しみと愛しさが入り混じったような、形容しがたい表情をしていた。
 それはたぶん、“大人になった”唯先輩なのだと思った。

「あずにゃんが忘れたら、誰が幸ちゃんを憶えているの? そんなことされて、本当に幸ちゃんは嬉しいと思う?」

 答えることができない。違う。回答なんて分かりきっている。でも、私は。

「あずにゃんは真面目で良い子だから、周囲の期待に応えようとするんだよね。善意なら、なおさら。それはあずにゃんの素敵なところだと思う。
 でもね、あずにゃん。
 それだけで、私たちは友達になれたのかな?」

 首を横に振る。確かに真面目なだけでは、仲良くなれなかっただろう。練習をしつこくせがむ後輩を、先輩たちは疎まなかったから。
 一緒になって毎日のようにお茶をしたり、当たり前のように卒業旅行に連れて行ってくれたから。
 遊んでばかりの唯先輩や律先輩。窘めつつも、結局は乗せられてしまう澪先輩。唯先輩たちの御ふざけに悪ノリしてしまう、意外と快楽主義なムギ先輩。個性も演奏技術もてんでバラバラなのに、一緒にいると楽しくて。私たちは、何時の間にか“放課後ティータイム”になっていた。

「昔言ったよね。“あずにゃんはあずにゃん”って。
 真面目なとこも可愛いところも、練習したいと言いつつ一番はしゃいじゃう所も、清濁硬軟すべてひっくるめたあずにゃんと、私たちは友達になったんだよ。憂も純ちゃんも、さわちゃんも後輩たちも、皆そうだったんじゃないかな」

 そうかもしれない、と思った。いや、昔から分かっていたことでもあった。きっと、お腹の子を掻き出したとき一緒に出て行ってしまったのだろう。

「悲しいときは、悲しんでいいんだよ。一生懸命泣いて悲しんで、涙からっぽにしちゃおうよ。独りでいるのが辛かったら、いつでも頼ってよ。みんな、絶対支えてくれるよ? 少なくとも、私はあずにゃんを裏切らない」

 唯先輩は自分の左手の中指に右手を添え、私に笑みを向けた。一瞬だけ、高校時代に遡ったような気がして、胸がつまる。理由は、よく、分からない。

「自分のペースで、思い立った時に立ち上がるんだよ、あずにゃん。ゆっくりでも良いから、自分の好きなように足を動かすの。それが、“前に進む”ってことなんだよ。そんなあずにゃんを、誰も責めたりしないよ」

 す、と頬を伝うものがあった。無理しなくて良い。私は、私のままで良いのだ。

「幸は」

 視界が揺らいで見えなくなる前に、唯先輩に聞いてみたいと思った。

「幸は、しあわせだったでしょうか」

「当然だよ」

 唯先輩はにっこり笑った。

「幸ちゃんは、自分が短い命だと知っていたんだよ。それでも良いって言って、あずにゃんの所に来たんだと思う。あずにゃんと、パパが、とても仲良くしていたから。短い間だけでも良いからその一員になりたかったんじゃないかな」

 それは、いつか純が話していた“胎内記憶”のエピソードと重なった。

「だから、それが出来て、満足だったんだよ」

「幸」

「しあわせだったんだよ、あずにゃん」

「さち」

 泣いているのに、気持ちがとても暖かかった。

「さち、さち、さち……!!」

 唯先輩に抱きしめられながら、娘の名前を呼びつづけた。大粒の涙が、ぼろぼろと零れ落ちていく。

 ただ、ただ、あふれて止まらなかった。

168: 2012/08/29(水) 12:17:15 ID:eIu5qoLM0
8. 


「梓ちゃん、すっかり元気になったね。笑顔が、とっても綺麗」

 憂の顔が嬉しそうに綻んだ。そういえば、久々に憂の笑った顔を見た気がする。
 流産してから2か月が経っていた。私の身体は、もう何処も心配無いらしい。
 あれだけ母親であることが辛いと思っていたのに、いざ憂から“次のお産”というワードを聞くと、いつの間にか心ときめいている自分がいた。

 唯先輩の腕の中で泣いたあの日から、解放されたように、心が軽く、はずんでいた。頭に巣食っていた腫瘍のような違和感も、涙とともに流れ去ってしまっていた。
 幸のことを、忘れる必要なんか、ない。そんな簡単なことに気づいただけなのに、世界の何もかもが、私を褒め称えているように見えて仕方がなかった。
 
 幸は、私の娘。娘が氏んで、悲しまない母親はいない。当たり前のことだ。
 だから、悲しんだって、良い。前さえ向いていれば、それで、良い。

 幸が来てくれて、嬉しい。
 幸は天使になってしまって悲しいけれど、それもひっくるめていい思い出になっていて。
 幸は、永遠に私の娘なんだ。
 そう思える事が、とても誇らしかった。
 それを、幸にも伝えたい、と思った。

 私は部屋の片隅に封じてあったダンボール箱から、一枚のルーズリーフを取り出した。色あせていない上質紙には、消えないようにしっかりボールペンのインクを染みこませてある。大きく記された詩の表題は、4人の先輩たちの直筆で、カラフルに彩られていた。周りに、丸や下線やメッセージなどが躍っていて、書いたときを思い出して温かい気持ちになった。

「天使に、ふれたよ」

 表題を読み上げると、これ以上無いほど、私と幸の関係と、しっくり合致した。まるで2人のために誂えたように錯覚してしまうのは、行き過ぎた我儘だろうか。

169: 2012/08/29(水) 12:18:11 ID:eIu5qoLM0

「ねぇ、思い出のカケラに、名前をつけて保存、するなら、“宝物”がぴったりだね」

 歌いながら新しいルーズリーフに詩を写すと、積み重なってきた想いたちがボールペンを伝って、紙に流れていくのが分かった。


   ―― そう ココロの容量が いっぱいになるくらいに過ごしたね ときめき色の毎日


 本当に、楽しかった。妊娠を知ったその日から、夫と一緒になってはしゃいでいた。定期検診のたびにどんどん大きくなっていく身体。心臓の音が思ったよりも力強くて。予定日を知った時も驚いた。その日はなんと、バレンタインデーだったから。


   ―― 君は空に帰ってしまって 心が空っぽになって


 ペンは走り続ける。これから紡ぐのは、私と、幸の、“私たちのための”、歌。副題、"Still-born"。


   ―― 涙が溢れても 君のことは忘れられない


 幸にはもう会えないけれど、歌声は、雲の上の彼女に届くはずだから!

「でもね、 会えたよ! すてきな、天使に」

 少し、瞳がうるんだ。でも、それが私の、想い。だから、このままで、良い。


   ―― 君とはまだ お別れじゃない これからも


「――親子だから」


   ―― すこしの間だと 分かってて それでも


 歌詞が出来たら、唯先輩たちに見てもらおう。そして、この想いを、音楽に乗せよう。


   ―― 君は来てくれたんだね




 開け放した窓から涼しい風が吹いてきて、ルーズリーフの端を、ゆっくり楽しげに揺らしていた。



「ずっと、永遠に、一緒だよ」







 お し ま い

170: 2012/08/29(水) 12:20:41 ID:eIu5qoLM0
以上です
ご高覧いただいた皆様に、感謝を
ご意見・ご感想、お待ちしております

引用: 唯「君へのメッセージ」