150:◆K5gei8GTyk 2017/09/10(日) 16:07:47.11 ID:xaav314N0
「人を、人たらしめるものとはなんなのでしょう」
「文明、というと範囲が広すぎるような気がします」
「知恵、というと抽象的すぎるような気がします」
「普段から書物に齧りついているからでしょうか」
「私にはその答えが、言葉なのではないかと思います」
「たしかに、人の他にもコミュニケーションを取る生物はいます」
「でも、そのどれもが人のような進化を経ていないのも事実だから」
「だから、言葉なのだと、信じています」
「きょうび、言葉の通じない人なんて、滅多にいるはずもないのだし」
『五十二ヘルツの鯨』
「文明、というと範囲が広すぎるような気がします」
「知恵、というと抽象的すぎるような気がします」
「普段から書物に齧りついているからでしょうか」
「私にはその答えが、言葉なのではないかと思います」
「たしかに、人の他にもコミュニケーションを取る生物はいます」
「でも、そのどれもが人のような進化を経ていないのも事実だから」
「だから、言葉なのだと、信じています」
「きょうび、言葉の通じない人なんて、滅多にいるはずもないのだし」
『五十二ヘルツの鯨』
151: 2017/09/10(日) 16:08:26.22 ID:xaav314N0
「ねえ、文香」
事務所のソファに腰かけて本を読んでいると、なにやら声がかかりました。
「五十二ヘルツの鯨って、知ってる?」
声のする方に目線を向けると、いつの間にか奏さんがすぐそばにいました。
湯気の立つマグカップを啜りながら、微笑んでいます。
一言も返せないでいると、彼女はそこから更に相好を崩しました。
私には、わけがわかりませんでした。
事務所のソファに腰かけて本を読んでいると、なにやら声がかかりました。
「五十二ヘルツの鯨って、知ってる?」
声のする方に目線を向けると、いつの間にか奏さんがすぐそばにいました。
湯気の立つマグカップを啜りながら、微笑んでいます。
一言も返せないでいると、彼女はそこから更に相好を崩しました。
私には、わけがわかりませんでした。
152: 2017/09/10(日) 16:10:23.18 ID:xaav314N0
「五十二ヘルツの鯨っていうのはね、世界で最も孤独な鯨のこと」
「その正体は全く不明で、どんな種なのかすら定かではないらしいわ」
あくまでも彼女は歌うように続けます。
「五十二ヘルツっていう数字は、鳴き声の周波数。でも普通の鯨は五十二ヘルツなんかでは鳴かないそうよ」
「みんなはもっと低い周波数帯で鳴いてるの。どの種も。どの個体も」
「その鯨を除いてはね。それが、最も孤独だっていう理由」
「その正体は全く不明で、どんな種なのかすら定かではないらしいわ」
あくまでも彼女は歌うように続けます。
「五十二ヘルツっていう数字は、鳴き声の周波数。でも普通の鯨は五十二ヘルツなんかでは鳴かないそうよ」
「みんなはもっと低い周波数帯で鳴いてるの。どの種も。どの個体も」
「その鯨を除いてはね。それが、最も孤独だっていう理由」
153: 2017/09/10(日) 16:13:06.40 ID:xaav314N0
「不思議だと思わない?」
彼女が笑いかけるような仕草を見せましたが、私はただ、そのさまを見ていることしかできません。
「文香はそうは思わないの?」
「少し残念ね」
彼女は再びマグカップを啜ります。
きっと、悪い冗談じゃないかと思いました。
でなければ夢だと。
「鳴き声だけじゃなく、海中の軌跡も他の鯨とは異なるらしいの」
「たった一匹きりで、冷たい海の中を泳ぎ続けていて、寂しくならないのかしら」
「でも、寂しいという感情すら、知らないのかも」
彼女が笑いかけるような仕草を見せましたが、私はただ、そのさまを見ていることしかできません。
「文香はそうは思わないの?」
「少し残念ね」
彼女は再びマグカップを啜ります。
きっと、悪い冗談じゃないかと思いました。
でなければ夢だと。
「鳴き声だけじゃなく、海中の軌跡も他の鯨とは異なるらしいの」
「たった一匹きりで、冷たい海の中を泳ぎ続けていて、寂しくならないのかしら」
「でも、寂しいという感情すら、知らないのかも」
154: 2017/09/10(日) 16:13:57.26 ID:xaav314N0
いよいよ私は読んでいた本を閉じ、胸元に抱えました。
「……鯨だってコミュニケーションを取る生き物っていうでしょ」
「自分と同じ姿の相手に言葉が通じないって、どんな気持ちなのかなって、思ったんだけど」
恐怖で足が竦んで、その場から動けなくなってしまいそうになります。
夢でないなら、なんだというのでしょうか。
「……そんなに黙りこくらなくっても、いいじゃない」
喉が引きつって、声も出ません。
「……鯨だってコミュニケーションを取る生き物っていうでしょ」
「自分と同じ姿の相手に言葉が通じないって、どんな気持ちなのかなって、思ったんだけど」
恐怖で足が竦んで、その場から動けなくなってしまいそうになります。
夢でないなら、なんだというのでしょうか。
「……そんなに黙りこくらなくっても、いいじゃない」
喉が引きつって、声も出ません。
155: 2017/09/10(日) 16:15:10.97 ID:xaav314N0
どうして彼女はさっきから、ずっと唸り声を上げているのでしょう?
156: 2017/09/10(日) 16:16:31.38 ID:xaav314N0
断続的な響きが耳に痛くて、私は顔をしかめてしまいます。
「気分が悪いの?」
おどろおどろしい音の響きは、いっそう私を苛みました。
「……待ってて、誰か呼んでくるから」
テーブルにマグカップを置いて、彼女は足早にどこかへ去っていきました。
それに伴って、嫌な響きは徐々に薄れてきていて、小さく息をつきます。
「気分が悪いの?」
おどろおどろしい音の響きは、いっそう私を苛みました。
「……待ってて、誰か呼んでくるから」
テーブルにマグカップを置いて、彼女は足早にどこかへ去っていきました。
それに伴って、嫌な響きは徐々に薄れてきていて、小さく息をつきます。
157: 2017/09/10(日) 16:17:27.04 ID:xaav314N0
はっとして私は携帯を取り出します。
プロデューサーさんに伝えなければと思い立ったからです。
奏さんの様子が明らかにおかしいこと。
そして、その彼女がどこかへ消えてしまったこと。
震える手で操作し、電話帳から彼の名前を選択します。
ほどなくして回線が繋がりました。
落ち着かなければ。早口に訴えたい気持ちを必氏に思い直し、何度か深く呼吸をします。
「あの、」
プロデューサーさんに伝えなければと思い立ったからです。
奏さんの様子が明らかにおかしいこと。
そして、その彼女がどこかへ消えてしまったこと。
震える手で操作し、電話帳から彼の名前を選択します。
ほどなくして回線が繋がりました。
落ち着かなければ。早口に訴えたい気持ちを必氏に思い直し、何度か深く呼吸をします。
「あの、」
158: 2017/09/10(日) 16:18:59.96 ID:xaav314N0
耳元からは、聞き覚えのある底低い唸り声がするばかりでした。
了



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