266: ◆ikbHUwR.fw 2017/09/30(土) 10:19:10.85 ID:ktVirj9S0
投下いたします。

267: 2017/09/30(土) 10:20:37.39 ID:ktVirj9S0
ほたる「あの……白菊ほたる、です……」

ほたる「この世には、不思議なことってたくさんありますよね」

ほたる「私も、今朝は不思議と犬に吠えられなかったです。……不思議じゃないですか? ……そうですか」

ほたる「他には……お風呂で触れてもいないボディソープが倒れたりとか、急にシャワーが冷水になったりとか」

ほたる「お風呂って怖いですよね。裸で、無防備で。顔を洗おうと目を閉じたときとか」

ほたる「背後に――いえ、目の前に、なにかいるんじゃないかって思ったことはありませんか?」

ほたる「なにかってなんだ? その、なんでもいいんですが……そうですね、たとえば」

ほたる「『自分』がいた、なんてどうでしょう?」

ほたる「……こんな感じ、でいいのかな?」



『エル』


アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場(3) (電撃コミックスEX)
268: 2017/09/30(土) 10:21:44.54 ID:ktVirj9S0
 加蓮は浴槽に張ったお湯に手を浸し、その温度を確認した。
 少し熱いかな? と思い、水を継ぎ足しながら、差し込んだままの手でゆっくりとお湯をかき回す。
 水を止め、なまぬるくなったお湯から手を引き抜く。たぶんこのぐらいでいいだろう。
 浴槽のふちをまたぎ、普段入浴するときよりは少なめに張ったお湯に身を沈める。
 底面におしりをつけ、脚を伸ばすと、おへその上あたりまでぬるいお湯が上がってきた。かすかに揺らぐ水面が肌をなでているようで、少しこそばゆく感じた。

 加蓮は、半身浴というものを試していた。
 ダイエットや美容にいいと、一時期流行っていたものだが、なんとなく機を逸してしまい、これまでにやってみたことはなかった。
 しかし先日、事務所で先輩アイドルの川島瑞樹から勧められたこともあって、いちどくらい試してみようかな、という気持ちになった。なにも難しいことはない、ぬるめのお湯におなかのあたりまで浸かり、20分から30分ほど待つ、ただそれだけだ。

 手でお湯を掬い、ちゃぷちゃぷともてあそぶ。
 ……うん、そんな気はしていたけど、やっぱりこれはなかなか、

「退屈だね」

 思わずひとりごとがこぼれる。
 なにもしない20分というのはなかなかに長い。近々捨てるつもりの雑誌でも持ってくればよかったか、しかしお湯に入る前だったらともかく、今から取りに行くのは面倒だ。

 特にできることもなく、基礎代謝の重要性について熱心に語る瑞樹の顔をぼんやりと思い返した。自分よりはむしろ、いっしょにその場にいた奈緒のほうが真剣に聞いていたような気がする。そういうの興味あったりするのかな? そういえば、そのあと2日前の夕食を覚えているかという話になったのは、いったいなんだったんだろう。

 シャンプーのボトルの隣に並んだ、防水のデジタル時計に目を向ける。表示は『17:52』、お湯に入ってから5分が経過していた。
 早めに切り上げるにしても、5分はあまりに根気がなさすぎるだろう。お試しの1回とはいえ、せめて10分以上は続けないと格好がつかないし、効果もあるとは思えない。できればキリよく18時までとしたいところだけど。
 ……なにもすることがなく、ただじっとしているというのは、どうも昔を思い出してしまって好きじゃない。

「アタシにはあんまり向いてないかなー」

 代り映えのしない浴室の風景を眺め続けるのにも飽きて、ふぅと息をつく。
 ……あー、ダメダメ、眠っちゃいそう。
 意識が遠のいていくような感覚を振り払い、いつの間にか降りていたまぶたをこじ開ける。
 景色が一変していた。

269: 2017/09/30(土) 10:22:53.39 ID:ktVirj9S0
 自宅の浴室であることは間違いない。だけど、なぜかタイル張りの床が見えた。それから浴槽が見えた。
 浴槽には人が入っていた。加蓮だった。
 加蓮は、加蓮を上から見下ろしていた。

 思わず悲鳴を上げた。
 上げたつもりだった。
 しかし、「きゃあ」とも「わあ」とも、発したはずの声は出ていなかった。

 ――なにこれ!? どうなってるの!?

 そう叫んだつもりの声も、やはり空気を震わせることはない。
 真上から見下ろすようなアングル、この視点が本当なら、今自分のいる位置は天井付近だ。つまり、浮いているということになる。
 そんなことってある?

 戻らないと、と思った。状況がわからず頭は混乱していたが、視界は意思の通りに、浴槽の中の加蓮に向かって移動していった。
 体当たりでもするように、もうひとりの自分に突っ込む。一瞬、頭の中が白く光った気がした。 

 ぱちりと目を開く。見慣れた浴室の風景がそこにあった。
 下半身にお湯のぬるさを感じ、深い眠りから覚めたように五感が働き始める。
 胸に手を当てる。どくんどくんと早めの鼓動が伝わってきた。

 ……生きてるね、うん。

 お湯に浸っていない上半身からは汗が流れていたが、半身浴の効果ではなく、今この瞬間にドッと湧き出たような気がする。冷や汗というものだろう、これは。
 加蓮はシャワーで軽く体を流し、浴室を出た。
 視界の端にちらりと映った時計には『17:55』と記されていた。

 動悸はしばらく治まりそうにない。



270: 2017/09/30(土) 10:24:20.17 ID:ktVirj9S0
「あら加蓮ちゃん、半身浴やってみた?」

「あー、あれ一応やってみたんですけど、すごい汗かいて、しばらくぐったりしてましたよ、あはは」

「体力を消耗するものね、わかるわ。最初のうちは短い時間から慣らしていったほうがいいわよ」

「そうですね、そうします」

 後日、加蓮は事務所で会った瑞樹とそんな会話を交わした。
 しかしこれは口先だけの社交辞令であり、加蓮は再び半身浴に挑むつもりはなかった。
 変に心配されても面倒だからと、誰にも相談することはなかったが、あんな恐ろしい体験をするには、一度だけで充分だ。

「……って、思ってたはずなんだけどねぇ」

 あの不思議な出来事から1週間が経過したその日、加蓮は浴槽に張ったお湯の温度を調整していた。
 日が経って恐怖心が薄れてきたのか、あれはいったいなんだったんだろうという、好奇心が上回った。
 全く怖くないと言えば嘘になるけど、あのときは戻ろうと思って戻れたんだから、おそらく危険はないはずだ。

 お湯の温度も量もほぼ同じ、時間帯もおよそ同じぐらいにした。
 浴槽に入り、脚を伸ばす。あとはどうしたんだっけ? そうそう、目を閉じるんだったかな。
 現実的に考えれば、あれはきっとうたた寝でもして、短い夢を観ていたのだろう。
 それならそれでいい、夢だったと確認できれば納得もいくし、怖くもなくなる――んだけど、

 ――まさかホントにできちゃうとはね。

271: 2017/09/30(土) 10:25:18.92 ID:ktVirj9S0
 つぶやいた声は声にならない。
 恐怖がぶり返しそうになるのを必氏に抑えながら、目の前に手を持ってくる。手は見えなかった。
『あっちに動こう』と念じる。視界はするすると空中を泳ぐように移動した。
 動いた先は洗い場の鏡の前。鏡には浴室の、後方の壁が映っていた。
 なるほど、透明人間ってことだね。

『幽体離脱』という言葉がふと浮かぶ。たぶん知っている言葉の中ではそれが一番この状況に近い。
 幽体とはいっても、漫画やアニメで描かれる幽霊のような人型はとっていない。足どころか手もないわけで、どうやらなにかを動かすようなことはできない。
 思い立って、浴室のドアに向かって動いた。目の前にぐんぐんとドアが迫る。視界いっぱいが磨りガラスのドアで埋まる。そして、景色は脱衣所になった。ドアをすり抜けた。 
 再度ドアをすり抜けて浴室に戻り、浴槽の自分の姿を確認する。胸がかすかに上下していて、呼吸している様子が見て取れた。どうやら体は眠っているのと変わらないようだ。前回と同じなら、この本体に触れることで目が覚めるはず。

 ……だけど、その前に、

 加蓮はドアの反対側、浴槽の接している壁をすり抜けた。この向こうは建物の外になる。
 お隣の家の外壁が目の前にあった。壁と壁の隙間にそって、念じるままに移動し、家の前の道路に出る。
 とっくに見飽きた街並みを、沈みかけた夕日が橙色に染めていた。
 どこか遠くの空で、カラスの鳴き声が響いていた。

 もっと上へ、と思ったら空高く飛び上がった。
 あっちの方向へ、と思ったらその通りに空中を泳ぐことができた。
 もっと速くは?
 速度が上がる。『風を切る』ではなく、風が自分の中を通り抜けていく感覚があった。

 声が出せたなら、笑っていたと思う。
 高揚していた。こんなに楽しい気分になったのは、いったい、いつ以来だろう。

 ――すごい! アタシ、空を飛んでる!!

272: 2017/09/30(土) 10:26:11.95 ID:ktVirj9S0
 しばらく辺りを飛び回った加蓮は、浴室で眠る自分の体に戻った。前回と同じく、なにごともなかったように、ただ時間だけが経過していた。
 お湯から上がり、浴槽のふちをまたぐときに若干体がふらついた。意識が離れているあいだも肉体はずっと半身浴の状態にあったから、長くお湯に浸かりすぎたのだろう。時計を見ると開始から30分が経っていた。

 じっとりと汗をかいた全身をシャワーで流し、浴室を出る。
 髪を乾かし終える頃には、もう指一本も動かしたくないほど疲弊していた。
 ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めながら、先ほどの体験を思い返す。
 楽しかった。そしてこの現象はどうやら、条件を整えれば、自分の意志で起こせるようだ。
 体は疲れていても、心はこれ以上ないくらいに晴れやかだった。



273: 2017/09/30(土) 10:27:17.70 ID:ktVirj9S0
 翌日になっても疲労は抜けきらず、加蓮はレッスンで多くのミスをやらかし、トレーナーから散々に怒られた。

「調子、悪いのか?」

 レッスン終了後、加蓮と共にレッスンを受けていた奈緒が問いかけた。

「風邪とかじゃないよ、半身浴ってのやってみたら、思ったより疲れちゃって」

「ああ、こないだ川島さんが言ってたアレか。けっこう体力消耗するよな」

「奈緒もやってみたんだ? どうだった?」

「どうって……普通だよ。汗かいて疲れた、体重は変わってない。そんなすぐ効果が出るようなもんじゃないだろ?」

「そうだね」

 そういえばダイエット効果なんてものがあるんだっけ、すっかり忘れていた。美容のほうも忘れていたぐらいだ。
 そして、奈緒は幽体離脱はできなかったようだ。当たり前かな、誰でもできるようなら、もっと大騒ぎになってるだろうし。きっとあれは、アタシだけが特別なんだ。

「体って、重いよね」

「アホか、加蓮はもう少し太れ」

「じゃあ今から食べに行こっか? 最近この近くでみつけたお店、お客さん少なくて居心地いいんだ」

「……いちおう訊いとくけど、何屋?」

「誰でも知ってるハンバーガー屋さん」

「やっぱりか、うーん……駄目だ、あたしはパスで」

「えー、なんで?」

「ダイエットしながらファストフード食ってどうすんだよ。意味ないだろ」

 奈緒も全然太ってないのにな。

「だったら、アタシひとりで行こうかなー」

「でも、もうすぐ雨降るぞ」

 レッスン室の窓に目を向ける。暖かな陽光が差し込んで、きらきらと輝いていた。

「……いい天気に見えるけど? 天気予報でそうなってた?」

「予報とかは見てないけど、湿気の具合でなんとなくわかるんだよ」

「エスパーみたいだね」

「軽率に召喚ワードを口にするな。来たらどうする」

「これで来たらむしろ本物だよね」

 加蓮は笑った。奈緒もつられたように笑った。エスパーは、どこかでくしゃみでもしているかもしれない。
 超能力か、今だったらそれも信じられる気がする。奈緒の天気予報だって、見ようによっては一種の予知能力みたいなものだろう。

 だけど、アタシのは、もっとずっと面白いよ。



274: 2017/09/30(土) 10:28:31.35 ID:ktVirj9S0
 加蓮はレッスンでの反省を踏まえ、離脱は3日以上の間隔を置くこと、時間は最大でも30分までとルールを定めた。いくら楽しいからといって、アイドルの活動に悪影響は与えたくない。
 それと、離脱中はきっと、なにをされても起きることはない。たとえばお風呂の外から家族に呼びかけられた際に、全くの無反応では心配するだろう。戻ってきてみたら本体が病院に担ぎ込まれていたなんて事態にもなりかねない。
 だから、離脱をするのは家の中でひとりきりのときだけと決めた。加蓮の母は専業主婦であるため、チャンスはそう多くない。自然と『3日以上の間隔』というルールにも合致した。

 何度か試してわかったのは、最大の飛行速度はだいたい全力で走るのと同じくらい、ただし長時間飛んでいても疲れるということはないので、結果的に走るよりもずっと速い。
 それから、交通機関は使えない。いちど駅で電車に入ってみたら、動き出した車両が体を貫通して走り抜けていった。あのときの光景はなかなかのホラーだった。
 つまり、移動の手段は自身の飛行のみ。ルールで決めた時間制限もあるから、それほど遠くまで行くことはできない。

 奈緒の家は距離がありすぎて無理だ。だけど、凛の家ならそんなに遠くないので、ちょくちょく覗きに行ったりもした。
 ふだんは格好つけてるけど、自室でひとりのときはけっこうだらけてるとか、なかなか気合いの入った下着を隠し持ってるとか、よく知っていたつもりでも、意外な顔が見えたりして面白かった。幽体離脱様様だ。
 もちろん、それでからかったりはしないけどね。



275: 2017/09/30(土) 10:29:22.83 ID:ktVirj9S0
 最初のような感激こそ徐々に薄れていったものの、空を飛ぶというのは、他の何物にも代えがたい快感だった。

 解放されて初めてわかった、人間というものは苦痛に苛まれながら生きている。常に、絶え間なく。
 体の重さ、呼吸をする苦しさ、それから痛み。
 生まれてからずっとそうだから気にならないだけで、人間は、生きているというだけでいつも痛みを感じている。それは健康であってもだ。

 思えば、自分は普通の人より多くの痛みを味わいながら生きてきた。今でこそ日常生活に不便を感じない程度には健康になったものの、昔はなにもなくても常に自覚できるほどの苦痛があった。他人の『体調を崩した』が、自分にとっての日常みたいなものだった。
 なんでアタシだけ、と世界を呪ったこともある。そして、大人になるまで生きていられないのではないかという恐怖もあった。

 だから、これはきっと神様がくれたご褒美だ。
 あんなに苦しんできたんだもの、このぐらいの見返りがなくちゃ、割に合わないよね。



276: 2017/09/30(土) 10:30:21.91 ID:ktVirj9S0
 加蓮は、ふだんは立ち寄ることもない駅の前を、上空から見下ろしていた。
 少し経って、ひとりの男性が改札口から出てくる姿が映る。それは加蓮の担当プロデューサーだ。
 急な残業とかはなかったみたいだね、よしよし。

 何日か前、ちょっとした世間話に交えて「プロデューサーって、どのあたりに住んでるんだっけ?」と訊いてみた。
 彼はプライバシー意識が高いのか、日頃から自身の情報を漏らすことがなかった。加蓮の他にも数名のアイドルをプロデュースしているが、その誰もが、彼の住所については知らないようだった。
 ひとり暮らしである、ということだけ、以前耳にしたことがある。346プロは福利厚生に手厚いと有名で、住宅手当なんかもかなり出ているだろうから、わざわざ遠くから通っているという可能性は低いはず、おそらく都内だろうとまではアタリをつけていた。
 プロデューサーの目にかすかな警戒心が宿るが、加蓮はそれには気付かないふりをして、「この仕事だと遅くなるときもあるでしょ、終電逃したりはしないの?」と続けた。
 彼は少し迷った様子を見せつつも、最寄り駅の名前を口にした。それぐらいでは住所の特定まではできないと思ったのだろう。
 加蓮は心の中で拍手を贈った。その駅は、降りたことはないが通り過ぎたことは数えきれないほどある。加蓮の家からもそう遠くはない、まっすぐ飛んで行けば往復してもまだ時間の余る距離だった。
 その後は、「そのあたりって行ったことないな、近くに遊ぶようなとこあるの?」などと適当な話題を振って話を終わらせた。

 ――では、ご案内してもらいましょうか。

 てくてくと歩くプロデューサーの横をぷかぷかと浮かんでついていく。
 駅から遠かったらどうしよう、という一抹の不安は杞憂に終わり、彼は、あまり大きくはないが新しめに見えるアパートの前で足を止めた。
 加蓮はエレベーターに向かう彼にはついていかず、郵便受けを見て部屋番号を確認した。そしてまっすぐ上に飛び、プロデューサーよりも早くその部屋の中に入った。

277: 2017/09/30(土) 10:31:12.47 ID:ktVirj9S0
 へえ、意外と綺麗にしてるんだね、というのが第一印象だった。
 しかし、よく見てみるとそれは、片付いているというよりは物がない。物がなさ過ぎて散らかしようがない、という部屋だった。
 そこそこ広めのワンルーム、だけどせっかくの面積を無駄にするように、机がひとつと小さなタンスひとつ、あとはベッド、それしかなかった。備え付けのクローゼットが開いていて、ワイシャツやスーツが掛けられているのが見えた。机の上にはノートパソコンが乗っている。つまり最低限の衣類とパソコンしかない。
 いかにも、寝に帰るだけの部屋という感じだ。日頃から「仕事が恋人」と言っている彼らしいかもしれない。

 恋人といえば。

 うん、どう見ても女の気配はないね。
 この部屋に通い詰めるのは、いくらなんでも不便すぎるだろう、付き合っていれば多少なりとも私物を置くはずだ。それに……
 加蓮は部屋の壁を眺めた。正確には、壁にある加蓮のポスターを眺めた。それも壁紙に直接貼っているのではなく、簡素なものではあるが額縁に入れて飾られていた。
 なーんか嬉しいな、こういうの。……まあ、隣には奈緒のポスターがあって、更に隣には美嘉のポスターが飾られてるんだけども。
 職業がアイドルのプロデューサーだと知っていても、仏のように慈悲深い女でない限り、この部屋は嫌がるはずだ。そんな女はいない。

 玄関の方からカチャカチャと音がする。上がってきたプロデューサーが鍵を開けているのだろう。
 もうちょっとゆっくりしていきたいところだけど、そろそろ時間がヤバイかな。
 加蓮は玄関に向かい、ちょうどドアを開いたプロデューサーの胴体を突き抜けていった。

 ――また今度ね。



278: 2017/09/30(土) 10:32:21.10 ID:ktVirj9S0
 加蓮は、離脱時間をもっと延長してもいいのではないか、と考えていた。
 最近は体が半身浴に慣れてきたのか、自らが課したルールの30分いっぱいまで離れていても、それほどの疲労は感じなくなっていた。少なくとも前のように翌日のレッスンにまで影響が出るということはない。
 不安があるとすれば、お湯の温度だ。30分離脱してから目覚めたとき、お湯はかなり冷めている。あれ以上温度が下がったお湯に浸かっていたら風邪を引いてしまうかもしれない。
 だったらお湯を多めに、普通に入浴するときと同じくらいの量でやってみたらどうだろう? 多少は冷めにくくなるはず、だけど体力の消耗は大きくなるかな?
 なにごともやってみなくちゃわからない、失敗したら失敗したで、今後の糧にすればいいんだ。だって人生は長いんだから。

 そもそも、それで離脱はできるのだろうか? という疑問もあったが、実際にやってみると、あっさりと体から抜け出せた。どうやら離脱の条件にお湯の量は関係なく、温度が重要らしい。

 その日、加蓮が肉体から離脱して10分ほど経ったころ、突然ぐらりと視界が揺れた。
 めまい? と思いながら空中に静止する。違う、幽体にめまいなんて起こるはずがない。
 揺れてるのは加蓮ではなかった、地面が揺れていた。

 地震……けっこう大きいかな?
 
 空中にいる加蓮は振動を感じることはない。だが自分自身が揺れに含まれることなく、景色だけが揺らいでいるというのは、どこかゾッとする光景だった。大地や建物がゆらゆらと揺れるさまは、なにか得体の知れない巨大な生き物が身をくねらせているようにも見える。
 地震は、30秒もかからずにおさまった。道中で足を止め、様子をうかがっていた人々がわらわらと動き始める。遠くの方では、止まっていた電車も走り出した。
 建物が倒壊するほどの規模ではなかったにしろ、まるで一時停止していた動画を再生したかのように、さっさと動き始める地上の人々の姿が、加蓮には、なんだか異様に映った。

 加蓮は、はっと我に返って反転し、元来た道を全速力で飛んだ。
 自宅から現在地まで、およそ10分の時間がかかっていた。当然、帰りにも同じくらいの時間がかかる。

 体は! アタシの体は大丈夫!?

279: 2017/09/30(土) 10:33:08.13 ID:ktVirj9S0
 ほぼ一直線に自宅の浴室に戻り、即座に自分の体に飛び込む。
 これで目が覚めるはずだった。今まではずっとそうだった。
 しかし、今回に限っては、そうはならなかった。加蓮の幽体は、体を素通りした。

 揺れで体勢が崩れたのか、加蓮の体はいつもより深く浴槽に沈んでいた。今日は普段より多くお湯を張っていた、その水面は、ちょうど顔の半分あたりにあった。鼻も口も、その下だ。
 眠り続ける加蓮の顔は、穏やかに目を閉じたまま、紫色に染まっていた。
 
 ――嘘でしょ。

『窒息』という単語が脳裏をよぎる。
 体に戻ることはできなかった。何度繰り返しても、建物の壁や他の物質と同じようにすり抜けてしまう。
 どうする? まずお湯から出さないと。それから、人工呼吸? 心臓マッサージ? 救急車を呼んで……
 思考が氾濫する。その全てが、今の加蓮にはできないことだった。すべての物質をすり抜けるこの状態では、浴槽から体を出すという、ただそれだけもかなわない。
 家の中に人はいない。加蓮は離脱の際は家族のいない時間を選んでいた。当分家に帰ってくることはない。
 壁を抜けて屋外に出る。そこから少し飛んだ先にある大通りでは、たくさんの人が、地震なんてなかったような顔をして歩いていた。

 ――助けて!

 声の限りに叫んだ、つもりだった。

 ――向こうの家にアタシがいるの! お風呂でおぼれてるの! 誰かきて、助けて!

 反応はない。道行く人の目の前をめちゃくちゃに飛び回っても、体の中を突き抜けても、誰ひとりとして、そこにいる加蓮に気付くことはなかった。

 どうしてこんなことになっちゃったの? 空なんて飛んだから? みんなの家を覗き見したから? アタシそんなに悪いことしたの?

 ――無視しないでよ!!

 焦燥と絶望が怒りに転換され、気付けばそう叫んでいた。
 それから道行く人々に、思いつく限りの罵倒の言葉をひたすら浴びせかけた。そのひとつも、音になることはなかった。

 地震発生から、どれだけの時間が経っただろう? 蘇生措置が間に合うのはどのくらい?
 わからない。
 わからないけど、たいして知識を持ってるわけじゃないけど、そんな時間は、もうとっくに過ぎているだろうことだけはわかる。

 ……嫌だ。

 せっかくアイドルになったのに、まだまだ、これからだったのに。

 誰か……聞いてよ。

 泣けるものなら泣いていただろう。しかし、どれだけ振り絞っても、声も、涙も出なかった。



 ――わたし、まだ、氏にたくないよ。 



280: 2017/09/30(土) 10:33:59.76 ID:ktVirj9S0
 その日観測された地震は、震度5強、マグニチュード5.5と発表された。
 地震の多い日本では、さほど珍しくもない規模である。これにより、1人の氏者と16人の重軽傷者が出た。
 大多数の日本人にとっては『いつもの地震』であり、大きな話題になることもなく、忘れられていった。
 だが、346プロダクションの内部は、それからずっと重苦しい空気に包まれていた。
 地震による人的被害、その唯一の氏亡者が、346プロ所属アイドルの北条加蓮だったからだ。
 氏因は水氏。地震発生時入浴中だった加蓮は、なんらかの理由で意識を失い、浴槽の湯に沈んで窒息したと見られている。

 そしてもうひとり。
 地震発生時、屋外を徒歩で移動中だった白菊ほたるが、マンションからの落下物を頭部に受け、昏倒。通行人が119通報し、病院に搬送された。検査では脳に損傷や出血は見られなかったが、丸一日以上もの間、意識不明だったという。
 ケガそのものは重いものではなく、入院も3日程度だったらしいが、それ以降、346プロのアイドルたちが事務所でほたるの姿を見かけることはなかった。彼女は寮住まいだったが、寮の自室にも戻っていなかった。

「地震を自分のせいだと思っているのかもしれない」

「アイドルを辞めるつもりでは?」

 そんな噂が流れ、加蓮の訃報によるショックも冷めやらないアイドルたちの表情を、より一層曇らせた。

281: 2017/09/30(土) 10:34:41.33 ID:ktVirj9S0
 地震からおよそ1ヶ月が経過した頃、ほたるが事務所を訪れた。
「みんな、久しぶり」と手を振るその顔は、どこか固く、緊張しているように見えた。
 ほたるが語ったところによると、この1ヶ月、ほたるは負傷の連絡を受けて見舞いにやってきた母親と共に、鳥取県の実家に帰省していたらしい。休養の理由については、頭部に衝撃を受けたことによる、軽い後遺症が残っていると説明した。

 それから数日後、ほたるから担当プロデューサーに「しばらくは仕事は受けずにレッスンに専念させてほしい」と申し出があり、プロデューサーとトレーナーで協議し、これを承諾した。
 休養を明けてからのほたるは、ブランクのせいか、それとも後遺症の一環か、歌にもダンスにも、どこかぎこちなさが見られ、到底ステージに上げられるレベルではないと判断されたからだ。他の寮住まいのアイドルから、「箸の使い方がヘタになった」と言ってスプーンやフォークで食事しているとの報告も上がっている。
 復帰当初は、はたしてカンを取り戻せるのだろうかと危ぶまれたものだが、仕事を取らない代わりに他のアイドルよりも多くスケジュールされたレッスンを、ほたるは執念にも似た熱心さで取り組み続け、歌やダンスの違和感はまたたくまに改善されていった。表現力に至っては、前よりもいいぐらいだとトレーナーは言った。
 また、後遺症のひとつに、自分のロッカーの場所を覚えていないといった軽度の記憶障害があったが、同僚アイドルたち、特に寮住まい組の協力もあり、今では日常生活に困るようなことはないらしい。

282: 2017/09/30(土) 10:35:49.39 ID:ktVirj9S0
 その日、ほたるは予定されていたレッスンを終え、事務所をあとにした。
 346プロの寮は事務所にほぼ隣接して建てられており、歩いて2分もかからず帰宅することができる。しかし、そのときのほたるは、寮の前を素通りした。
 大通りに出たあと、駅とは反対方向の、あまり栄えているとはいえない区画に足を進める。同僚のアイドルたちは、通常このあたりにやってくることはないと、事前に調査を済ませてあった。

 ほたるはひとつの建物に足を踏み入れた。
 そこは全国展開しているファストフードのチェーン店で、立地条件のせいか、客はあまり多くない。ほたるはさっと店内を見回したあと、空いているレジカウンターの前に進み、店員に向けて言った。

「ポテトのLください」



   ~Fin~

283: 2017/09/30(土) 10:36:25.86 ID:ktVirj9S0
終わりッス。
ありがとうございました。


引用: 【モバマスSS】世にも奇妙なシンデレラ