1: 2024/02/24(土) 13:51:16 ID:lbZXYy86MM
「ちょっとお昼寝」と横になった綴理先輩が眠りについたまま一年が経ちました。すーすーと穏やかな寝息をたてて、透き通る水晶を思わせる美しい寝顔はさざ波ほども揺らがず、やはり今日も目を覚ますことはありません。
綴理先輩は眠りつづけています。せめてどうか、素敵な夢を見ていますようにと、わたしは今日も祈るのです。
綴理先輩は眠りつづけています。せめてどうか、素敵な夢を見ていますようにと、わたしは今日も祈るのです。
2: 2024/02/24(土) 13:53:30 ID:lbZXYy86MM
長い眠りについた綴理先輩は病院でひと通りの検査を受けたものの、異常なし、原因不明との診断が下りました。尿、血液、髄液、脳波……どこにも異常はないのでした。ただ、目を覚まさないというだけで。
したがって入院する理由もなく、綴理先輩はご家族の元で休学することになりました。そのためわたしも綴理先輩のお宅へ毎日通い詰める生活を送ることになったのです。ちゃんとお世話しないといったいどんなことになっているか不安でしょうがなかったですし、今日は目を覚ましたのではないか、今ごろ困っているのではないかと、気が気ではありませんでしたから。
とはいえ、毎日学校終わりに遠出して帰ってくるのはさすがに大変で……しばらく経ったある日、どうか蓮ノ空の寮で綴理先輩をお世話させていただけませんかとご家族にお願いしたところ、ありがたいことにご了承をいただけたのでした。
そういうわけで、綴理先輩は今日も蓮ノ空で眠っています。
もちろんわたしの誇りにかけて、美しさに一片の陰りもありません。
したがって入院する理由もなく、綴理先輩はご家族の元で休学することになりました。そのためわたしも綴理先輩のお宅へ毎日通い詰める生活を送ることになったのです。ちゃんとお世話しないといったいどんなことになっているか不安でしょうがなかったですし、今日は目を覚ましたのではないか、今ごろ困っているのではないかと、気が気ではありませんでしたから。
とはいえ、毎日学校終わりに遠出して帰ってくるのはさすがに大変で……しばらく経ったある日、どうか蓮ノ空の寮で綴理先輩をお世話させていただけませんかとご家族にお願いしたところ、ありがたいことにご了承をいただけたのでした。
そういうわけで、綴理先輩は今日も蓮ノ空で眠っています。
もちろんわたしの誇りにかけて、美しさに一片の陰りもありません。
3: 2024/02/24(土) 13:55:41 ID:lbZXYy86MM
毎日のルーチンワークは決まっています。
朝、身支度をすませると綴理先輩の部屋へ行きます。もしかすると目を覚ましていらっしゃるかもしれないので、ノックは欠かせません。二回ほどノックをして、静寂をすこし聞いてから鍵を開けます。
部屋の中は変わりありません。綴理先輩が眠りにつく前とまったく同じレイアウトで、手をつけないようにしています。唯一変わったところがあるとしたら、夜間や授業中にわたしがいない代わりとして、アボガードさんを置いています。
綴理先輩はやはり眠っています。寝相もまったくないため、わたしが昨晩かけた布団の柔らかな窪みもそのままの形で残っています。ぴっちりと、キレイな仰向けで眠っている綴理先輩の姿にもすっかり慣れてしまいました。本来は、猫のように丸まって眠る方だったのですが。
まずはカーテンを開けて、朝日を十分に部屋の中へ取り込みます。陽の光で目を覚ます、なんてインスタントな期待はありません。とにかく朝と夜という生活リズムを綴理先輩の身体に教えているわけです。
「おはようございます、綴理先輩」とわたしはニッコリ挨拶します。何度繰り返しても、至福の瞬間です。あるいは、この瞬間にこそわたしは目覚めたのではないかと錯覚するほどの瑞々しい鮮烈さに身体中を打たれます。
今日という日が始まる、今日もまた綴理先輩のお世話をすることができる、そこに内包された幸福のかたまりをわたしは�筋みしめるのです。
朝、身支度をすませると綴理先輩の部屋へ行きます。もしかすると目を覚ましていらっしゃるかもしれないので、ノックは欠かせません。二回ほどノックをして、静寂をすこし聞いてから鍵を開けます。
部屋の中は変わりありません。綴理先輩が眠りにつく前とまったく同じレイアウトで、手をつけないようにしています。唯一変わったところがあるとしたら、夜間や授業中にわたしがいない代わりとして、アボガードさんを置いています。
綴理先輩はやはり眠っています。寝相もまったくないため、わたしが昨晩かけた布団の柔らかな窪みもそのままの形で残っています。ぴっちりと、キレイな仰向けで眠っている綴理先輩の姿にもすっかり慣れてしまいました。本来は、猫のように丸まって眠る方だったのですが。
まずはカーテンを開けて、朝日を十分に部屋の中へ取り込みます。陽の光で目を覚ます、なんてインスタントな期待はありません。とにかく朝と夜という生活リズムを綴理先輩の身体に教えているわけです。
「おはようございます、綴理先輩」とわたしはニッコリ挨拶します。何度繰り返しても、至福の瞬間です。あるいは、この瞬間にこそわたしは目覚めたのではないかと錯覚するほどの瑞々しい鮮烈さに身体中を打たれます。
今日という日が始まる、今日もまた綴理先輩のお世話をすることができる、そこに内包された幸福のかたまりをわたしは�筋みしめるのです。
4: 2024/02/24(土) 14:00:54 ID:lbZXYy86MM
カーテンの次は窓を開けます。とたんに、冬の朝のひんやりと清浄な空気が足元へ這うように流れ込んできます。部屋の暖かさを多少逃がしてしまいますけれど、空気の入れ替えは重要です。もちろん、綴理先輩という身体を通して循環しているうちは、空気が汚れるということはあり得ないのですが、山の植物が創り出した新鮮な空気を取り入れることができるなら、そうするに越したことはありません。なにせ、雲とか、空とか、どんぐりとか、そういった自然が大好きなお方でしたから。
それから布団をはいで、綴理先輩の身体を確認します。やはり昨晩みた姿から、指先ひとつ動いている気配はありません。
温めた濡れタオルを用意してから、「失礼します」と声をかけて、綴理先輩の腰に触れます。わたしは毎朝、この瞬間を恐れます。もし、綴理先輩の身体が冷たくなっていたらどうしよう、と。眠っているのと見分けがつかないだけで、ただの冷たくて硬いむくろになっていたらどうしよう、と。
幸い、この日もその嫌なイメージは裏切られ、綴理先輩の腰からは生きた人間の温もりと柔らかさを感じ取ることができました。
わたしは安心して、心の中でほっと息をつきます(あからさまに安心したりはしません。そもそも不安に思っていること自体失礼なことでありますから)。
そして腰を支えながら綴理先輩の膝を立てると、パジャマを膝あたりまで脱がし、オムツの交換を始めます。まずはオムツをテキパキと脱がして、その状態を確認します。夜間のうちに排尿されることもありますし、そうでないこともあります。新しいものをつけるまえに、あらわになっている腰や、おしり、太もものつけ根、それからお股を濡れタオルで入念に拭いていきます。陶器のように白く美しい肌なのに、人の柔らかさをもっているのが不思議で、何度繰り返しても妙な感覚をともなう作業です。ひととおり拭いてしまうと、肌に残った水分が冷えてしまわないうちに、新しいオムツをつけてパジャマを元通りにし、完了です。
ほかに、お顔や、お口、髪の毛といったところをお手入れして、窓を閉めると、朝のルーチンはおしまいです。あとは登校する時間になるまで、わたしは綴理先輩の手を握って過ごすのです。
手を握りながら、その横顔を眺めていると、わたしは自分の感覚がだんだんと引き延ばされていくのを自覚します。
それはたとえば、月を眺め続けているときの感覚と似ています。
ある夜、綴理先輩はこんなことを言っていました。
それから布団をはいで、綴理先輩の身体を確認します。やはり昨晩みた姿から、指先ひとつ動いている気配はありません。
温めた濡れタオルを用意してから、「失礼します」と声をかけて、綴理先輩の腰に触れます。わたしは毎朝、この瞬間を恐れます。もし、綴理先輩の身体が冷たくなっていたらどうしよう、と。眠っているのと見分けがつかないだけで、ただの冷たくて硬いむくろになっていたらどうしよう、と。
幸い、この日もその嫌なイメージは裏切られ、綴理先輩の腰からは生きた人間の温もりと柔らかさを感じ取ることができました。
わたしは安心して、心の中でほっと息をつきます(あからさまに安心したりはしません。そもそも不安に思っていること自体失礼なことでありますから)。
そして腰を支えながら綴理先輩の膝を立てると、パジャマを膝あたりまで脱がし、オムツの交換を始めます。まずはオムツをテキパキと脱がして、その状態を確認します。夜間のうちに排尿されることもありますし、そうでないこともあります。新しいものをつけるまえに、あらわになっている腰や、おしり、太もものつけ根、それからお股を濡れタオルで入念に拭いていきます。陶器のように白く美しい肌なのに、人の柔らかさをもっているのが不思議で、何度繰り返しても妙な感覚をともなう作業です。ひととおり拭いてしまうと、肌に残った水分が冷えてしまわないうちに、新しいオムツをつけてパジャマを元通りにし、完了です。
ほかに、お顔や、お口、髪の毛といったところをお手入れして、窓を閉めると、朝のルーチンはおしまいです。あとは登校する時間になるまで、わたしは綴理先輩の手を握って過ごすのです。
手を握りながら、その横顔を眺めていると、わたしは自分の感覚がだんだんと引き延ばされていくのを自覚します。
それはたとえば、月を眺め続けているときの感覚と似ています。
ある夜、綴理先輩はこんなことを言っていました。
5: 2024/02/24(土) 14:02:47 ID:lbZXYy86MM
「ゆらゆらだ」
月明かりで影が落ちるほど、あかるい満月の夜でした。わたしたちは二人、しんとした校庭で散歩とお話をしていたのでした。
なんのことかと思って傍らの綴理先輩を振り向くと、その視線はじっと夜空の月に向けられていると気付きました。もちろん、月は揺れていませんでした。
「ゆらゆらですか?」とわたしは聞きました。
「うん、さやもみてみて」
困惑しながらも、わたしはとにかく綴理先輩の真似をすることにしました。じっと月を眺める……。我慢強くつづけていると、たしかに月のまばゆい輪郭がにじんで揺らぐような感覚がありました。要するに、目の錯覚のたぐいだろうとわたしは思いました。月のまばゆい光の残像と、地球の自転で位置がずれるのとで、じっと見ていると揺らいで見えるわけです。
「はい、ゆらゆらですね」とわたしが言うと、
「お~同じだ」と綴理先輩は喜びました。
わたしは小さな不安を感じました。綴理先輩がじっと月を眺めるのをやめなかったからです。月の柔らかな微光に照らされた綴理先輩は美しい。というか、美しすぎました。まるでこの世のものではないような高貴さで、その非現実感にわたしは不安を覚えたのです。
月明かりで影が落ちるほど、あかるい満月の夜でした。わたしたちは二人、しんとした校庭で散歩とお話をしていたのでした。
なんのことかと思って傍らの綴理先輩を振り向くと、その視線はじっと夜空の月に向けられていると気付きました。もちろん、月は揺れていませんでした。
「ゆらゆらですか?」とわたしは聞きました。
「うん、さやもみてみて」
困惑しながらも、わたしはとにかく綴理先輩の真似をすることにしました。じっと月を眺める……。我慢強くつづけていると、たしかに月のまばゆい輪郭がにじんで揺らぐような感覚がありました。要するに、目の錯覚のたぐいだろうとわたしは思いました。月のまばゆい光の残像と、地球の自転で位置がずれるのとで、じっと見ていると揺らいで見えるわけです。
「はい、ゆらゆらですね」とわたしが言うと、
「お~同じだ」と綴理先輩は喜びました。
わたしは小さな不安を感じました。綴理先輩がじっと月を眺めるのをやめなかったからです。月の柔らかな微光に照らされた綴理先輩は美しい。というか、美しすぎました。まるでこの世のものではないような高貴さで、その非現実感にわたしは不安を覚えたのです。
6: 2024/02/24(土) 14:06:41 ID:lbZXYy86MM
だからわたしは言いました。
「綴理先輩、あんまり月を眺めつづけると良くないですよ」
「そうなの?」
くるりと、綴理先輩がこちらを向きました。月の光が顔半分をすべって、また新しく現れた美しさにわたしは言葉を詰まらせます。
「そ、そうです」とわたしはなんとか声を出しました。それから、頭にぱっと出た言葉をそのままつづけました。「西洋では狂気をルナティックともいいますし、日本でも、ほら、『Kの昇天』って授業であったじゃないですか。月明かりに狂って、入水してしまう人のお話、でしたっけ」
「わぁ、さや物知りだ」
「すみません、うろ覚えです……きっと花帆さんが詳しいのでしょうが」
「かほ……『K』の昇天……あ、こずも『K』だ。それは困る」
それまでの美しさからうって変わって、しょんぼりする綴理先輩に、「花帆さんや梢先輩は関係ないですからね!」とフォローして。
綴理先輩の手を握りながら、そんなことを思い出します。結局、月世界へ行ってしまったのは、あなただというのに。
ピピピ、とアラームが鳴りました。学校の時間です。名残惜しむように、わたしはそっと綴理先輩の手を撫でて、それから離しました。
「いってきます」
もちろん返事はありませんでした。
「綴理先輩、あんまり月を眺めつづけると良くないですよ」
「そうなの?」
くるりと、綴理先輩がこちらを向きました。月の光が顔半分をすべって、また新しく現れた美しさにわたしは言葉を詰まらせます。
「そ、そうです」とわたしはなんとか声を出しました。それから、頭にぱっと出た言葉をそのままつづけました。「西洋では狂気をルナティックともいいますし、日本でも、ほら、『Kの昇天』って授業であったじゃないですか。月明かりに狂って、入水してしまう人のお話、でしたっけ」
「わぁ、さや物知りだ」
「すみません、うろ覚えです……きっと花帆さんが詳しいのでしょうが」
「かほ……『K』の昇天……あ、こずも『K』だ。それは困る」
それまでの美しさからうって変わって、しょんぼりする綴理先輩に、「花帆さんや梢先輩は関係ないですからね!」とフォローして。
綴理先輩の手を握りながら、そんなことを思い出します。結局、月世界へ行ってしまったのは、あなただというのに。
ピピピ、とアラームが鳴りました。学校の時間です。名残惜しむように、わたしはそっと綴理先輩の手を撫でて、それから離しました。
「いってきます」
もちろん返事はありませんでした。
7: 2024/02/24(土) 16:56:22 ID:lbZXYy86MM
午前の授業を終えると、わたしは部屋へ戻ります。お昼休みの時間は限られているので、急がなければなりません。
コンコンとせわしなくノックを二回。中へ入ると、もちろん綴理先輩は眠っています。
朝と同じようなケアを済ませると、今度はベッドのリクライニングを操作して、綴理先輩の上半身を起こします。
「綴理先輩、今日はタコさんウインナーですよ」とわたしは声をかけました。
そうなのです、お昼は綴理先輩がわたしのお弁当を待ってくださっているのです。
本来ならあり得ないことでした。綴理先輩のような患者は通常、経口摂取をすることはありません。誤嚥の危険性が高いからです。綴理先輩も当初は胃へ管を通すことが検討されました。けれど偶然、わたしの作ったお弁当なら問題なく食べることができると判明したのです。それは奇跡のような光景でした。こうして蓮ノ空の寮で綴理先輩のお世話を許されているのも、この食事のおかげかと思われます。
コンコンとせわしなくノックを二回。中へ入ると、もちろん綴理先輩は眠っています。
朝と同じようなケアを済ませると、今度はベッドのリクライニングを操作して、綴理先輩の上半身を起こします。
「綴理先輩、今日はタコさんウインナーですよ」とわたしは声をかけました。
そうなのです、お昼は綴理先輩がわたしのお弁当を待ってくださっているのです。
本来ならあり得ないことでした。綴理先輩のような患者は通常、経口摂取をすることはありません。誤嚥の危険性が高いからです。綴理先輩も当初は胃へ管を通すことが検討されました。けれど偶然、わたしの作ったお弁当なら問題なく食べることができると判明したのです。それは奇跡のような光景でした。こうして蓮ノ空の寮で綴理先輩のお世話を許されているのも、この食事のおかげかと思われます。
8: 2024/02/24(土) 16:58:08 ID:lbZXYy86MM
「はい、あーん」
わたしがお箸でタコさんウインナーをお口へ近づけていくと、ぱくりと自発的に口に含んでくれます。そして目を閉じたまま、もぐもぐと十分に咀嚼して、なにも問題なく飲み込んでくれるのです。
次を催促するように、ぽかりと空いたお口へ、次はご飯をすすめます。そしてまた、もぐもぐ、ごくん。
不遜ながらも、わたしはこの綴理先輩の姿に、可愛いと感じてしまいます。母性のようなもので胸がときめくのです。こうして食べてくれるのが、わたしのお弁当だけという事実がまた、蜜のように甘美でした。
しばらくして、綴理先輩はお弁当をすべて食べ終えました。どこか満足げに見えるのは、わたしの気のせいなのでしょう。「おいしかった」と、いつかのように言ってくれたら、どれだけ満たされるかと思いますが、それは欲張りというものです。
食後、指歯ブラシで綴理先輩のお口の中を丁寧に掃除して、口元をきれに拭うと、お昼はおしまいです。
「それじゃあ、また明日、楽しみにしていてくださいね」
お医者さんと相談して、お弁当はお昼だけ、あとは水分補給のみで十分ということになっています。不思議なことに、綴理先輩の身体がそれ以上を必要としないのです。
常識の通用しないことばかりですが、むしろわたしからすればしっくりきます。夕霧綴理に前例がないのは当然ですから。
さて、わたしも自分のお弁当を食べ始めます。花帆さんたちに誘われることもありますが、基本は綴理先輩と食べるようにしています。ご飯は一緒に食べるのがおいしいですから。
ふと見ると、昼下がり、窓から入った日差しが、綴理先輩の布団に明るい四角形をつくっていました。それはあの日と同じ形で、同じ大きさの、暖かな四角形でした。
わたしがお箸でタコさんウインナーをお口へ近づけていくと、ぱくりと自発的に口に含んでくれます。そして目を閉じたまま、もぐもぐと十分に咀嚼して、なにも問題なく飲み込んでくれるのです。
次を催促するように、ぽかりと空いたお口へ、次はご飯をすすめます。そしてまた、もぐもぐ、ごくん。
不遜ながらも、わたしはこの綴理先輩の姿に、可愛いと感じてしまいます。母性のようなもので胸がときめくのです。こうして食べてくれるのが、わたしのお弁当だけという事実がまた、蜜のように甘美でした。
しばらくして、綴理先輩はお弁当をすべて食べ終えました。どこか満足げに見えるのは、わたしの気のせいなのでしょう。「おいしかった」と、いつかのように言ってくれたら、どれだけ満たされるかと思いますが、それは欲張りというものです。
食後、指歯ブラシで綴理先輩のお口の中を丁寧に掃除して、口元をきれに拭うと、お昼はおしまいです。
「それじゃあ、また明日、楽しみにしていてくださいね」
お医者さんと相談して、お弁当はお昼だけ、あとは水分補給のみで十分ということになっています。不思議なことに、綴理先輩の身体がそれ以上を必要としないのです。
常識の通用しないことばかりですが、むしろわたしからすればしっくりきます。夕霧綴理に前例がないのは当然ですから。
さて、わたしも自分のお弁当を食べ始めます。花帆さんたちに誘われることもありますが、基本は綴理先輩と食べるようにしています。ご飯は一緒に食べるのがおいしいですから。
ふと見ると、昼下がり、窓から入った日差しが、綴理先輩の布団に明るい四角形をつくっていました。それはあの日と同じ形で、同じ大きさの、暖かな四角形でした。
9: 2024/02/24(土) 16:59:44 ID:lbZXYy86MM
「ちょっとお昼寝」と綴理先輩は言いました。
練習がひと段落ついたときのことでした。わたしたちは綴理先輩の部屋に戻って休んでいました。
このとき綴理先輩は自分のベッドではなく、わたしのお膝にころんと転がりました。身体の大きな方ですけれど、それはまるで子猫のように。
「ちょっとだけですよ? あまり寝すぎると、夜に眠れなくなっちゃいますからね」
「さやも寝る?」
この問いかけを、わたしはよく思い出します。このときの空気を、鮮明に思い出すことができます。
綴理先輩は顔をわたしのおなかのほうに向けて、すでに目はぼんやりとしていました。閉じられた窓からは冬の日差しが入り込んでいて、ベッドに明るい四角形をつくっているのを見ることができました。しずかに聞こえる暖房の風音、冷蔵庫の低い振動音、その中にまぎれる、すーすーという綴理先輩の呼吸音。
わたしは綴理先輩のさらさらとした髪を撫でて、微笑みました。
「いえ、わたしはこうしてますから、すこし経ったら起こしますね」
そっか、と綴理先輩は言いました。それが最後に聞いた言葉になりました。
練習がひと段落ついたときのことでした。わたしたちは綴理先輩の部屋に戻って休んでいました。
このとき綴理先輩は自分のベッドではなく、わたしのお膝にころんと転がりました。身体の大きな方ですけれど、それはまるで子猫のように。
「ちょっとだけですよ? あまり寝すぎると、夜に眠れなくなっちゃいますからね」
「さやも寝る?」
この問いかけを、わたしはよく思い出します。このときの空気を、鮮明に思い出すことができます。
綴理先輩は顔をわたしのおなかのほうに向けて、すでに目はぼんやりとしていました。閉じられた窓からは冬の日差しが入り込んでいて、ベッドに明るい四角形をつくっているのを見ることができました。しずかに聞こえる暖房の風音、冷蔵庫の低い振動音、その中にまぎれる、すーすーという綴理先輩の呼吸音。
わたしは綴理先輩のさらさらとした髪を撫でて、微笑みました。
「いえ、わたしはこうしてますから、すこし経ったら起こしますね」
そっか、と綴理先輩は言いました。それが最後に聞いた言葉になりました。
10: 2024/02/24(土) 17:01:23 ID:lbZXYy86MM
あのとき、わたしも一緒にお昼寝しますと返していたら……あるいは、わたしもあなたと同じ月世界へ行けたのでしょうか。
なんてことを思ってみて、やっぱり首を振ります。
綴理先輩にぶつける感傷にしては、センチメンタルに過ぎるように思えました。そんな悲劇に酔う必要はないのです。だって、わたしの気持ちはもっと地に足のついたものなのですから。
なんてことを思ってみて、やっぱり首を振ります。
綴理先輩にぶつける感傷にしては、センチメンタルに過ぎるように思えました。そんな悲劇に酔う必要はないのです。だって、わたしの気持ちはもっと地に足のついたものなのですから。
11: 2024/02/24(土) 17:02:50 ID:lbZXYy86MM
夜になると、寮には朝とは違ったざわめきが巡ります。部活から帰ってくる人、食堂へ行く人、お風呂へ行く人、友達の部屋へ遊びに行く人……みんな消灯時間までの間に、やるべきをやるのです。朝ほど時間に追われていないせいか、ざわめきがありつつも、張りつめた感じはありません。
なんとなく落ち着いていて、みんな、明日に備えてリラックスモードなわけです。
綴理先輩にも、もちろんそんな時間が必要です。
「それでは、お身体を拭いていきますね」
あたたかい濡れタオルを手に、わたしは綴理先輩に声をかけます。それから、だらりとして重たい腕を少し持ち上げ、丁寧に拭き始めました。
肘のあたりから手首のほうへ、すりすりと、柔らかな腕の内側と外側を入念に、それでいて綴理先輩の美しく白い肌を間違っても傷つけることがないように、濡れタオルで拭いていきます。
手首のまわりをするすると回すようにタオルを這わせ、それから指の一本一本を入念に、小指、薬指、中指……と包み込むように拭き取ります。すらりと白魚のように美しい指をもつお方ですから、ここは一層丁寧にしなければなりません。
指の股にタオルの端をすっと入れて、拭き取る。となりの指の間も同じように、タオルの端をすっと入れて、拭き取る。起きているときにこんなことをしたら、きっとくすぐったいと、笑われてしまうでしょうね。
拭いていくのと同時に、指の一本一本を、関節ごとに曲げて動かしていきます。ぐっぱと開いたり閉じたりを繰り返して、綴理先輩が動かしていない部分が、固まってしまわないように。
目を覚ましたとき、身体が思うように動かない、なんてことになると、きっと悲しまれてしまうでしょうから。
ある程度拭くと、この季節、タオルはすぐに冷えてしまいます。そばに用意した熱々の湯桶でタオルをほぐし、じゅっと水を切って、パンパンとはたいて適温に調節します。わたしの手はお湯で真っ赤になってしまいますが、このやり方が一番、タオルが適温になるのです。
なんとなく落ち着いていて、みんな、明日に備えてリラックスモードなわけです。
綴理先輩にも、もちろんそんな時間が必要です。
「それでは、お身体を拭いていきますね」
あたたかい濡れタオルを手に、わたしは綴理先輩に声をかけます。それから、だらりとして重たい腕を少し持ち上げ、丁寧に拭き始めました。
肘のあたりから手首のほうへ、すりすりと、柔らかな腕の内側と外側を入念に、それでいて綴理先輩の美しく白い肌を間違っても傷つけることがないように、濡れタオルで拭いていきます。
手首のまわりをするすると回すようにタオルを這わせ、それから指の一本一本を入念に、小指、薬指、中指……と包み込むように拭き取ります。すらりと白魚のように美しい指をもつお方ですから、ここは一層丁寧にしなければなりません。
指の股にタオルの端をすっと入れて、拭き取る。となりの指の間も同じように、タオルの端をすっと入れて、拭き取る。起きているときにこんなことをしたら、きっとくすぐったいと、笑われてしまうでしょうね。
拭いていくのと同時に、指の一本一本を、関節ごとに曲げて動かしていきます。ぐっぱと開いたり閉じたりを繰り返して、綴理先輩が動かしていない部分が、固まってしまわないように。
目を覚ましたとき、身体が思うように動かない、なんてことになると、きっと悲しまれてしまうでしょうから。
ある程度拭くと、この季節、タオルはすぐに冷えてしまいます。そばに用意した熱々の湯桶でタオルをほぐし、じゅっと水を切って、パンパンとはたいて適温に調節します。わたしの手はお湯で真っ赤になってしまいますが、このやり方が一番、タオルが適温になるのです。
12: 2024/02/24(土) 17:04:38 ID:lbZXYy86MM
それから同じように、全身を拭いていきます。
柔らかな二の腕、細い首回り、隠された耳の裏、熱い脇、美しい胸元、すらりとしたおなか、大きな背中、スッキリした腰、流れるようなわき腹、きれいなお尻、それからお股、しなやかな太ももとふくらはぎ、立派な脛、柔軟な足首、さらさらする踵と足の裏、筋の通った足の甲、そして可愛らしい足の指も一本一本。
綴理先輩の身体も起こしながら、肘を曲げ、膝を曲げ、肩を回し、筋肉をほぐし、間違っても床ずれなんて起きないよう、わたしはケアをしていきます。
この作業はほとんど全身運動で、綴理先輩の身体がすっかりキレイになる頃には(もともとキレイであることは前提として)、わたしは息も切れ切れになってしまいます。
ふぅと肩で息をすることの、なんという充足感でしょう。わたしは毎夜、この作業を通じて、いっそう綴理先輩のことを理解できるような気がしています。
身体の部位ごとに異なる感触……わたしの指の肌へのくい込み方の違い、滑り方の違い、あたたかさの違い……。そういった綴理先輩の情報を、わたしは身体で覚えることができるのです。
「お疲れ様でした、綴理先輩」
とわたしは声をかけます。すーすーと寝息をたてているだけに見える綴理先輩ではありますが、こうして全身を拭かれるというのも、全身運動には違いないのです。だから頑張った綴理先輩を、ちゃんと労ってあげなければなりません。
「明日はシャワーの日ですから、楽しみにしていてくださいね」
カレンダーを見て、わたしはそう言います。シャワーは月水金の曜日制と決めていました。体力を消耗するからです。
それから、カレンダーは忘れることのできない日付が明日であることも示していました。一か月ほども前から、わたしはその日付を意識せざるを得ませんでした。
明日でちょうど、綴理先輩が眠りについて一年になるのです。
一年という、ただの暦上の区切りに、さしたる意味はないかも知れない。頭の中ではそう思っていても、しかし、どうにも意識は向いてしまうものでした。
ぴったり一年で目を覚ますなんて、そんなファンタジーあるでしょうか?
もしそうなれば、わたしは───。
わたしは?
柔らかな二の腕、細い首回り、隠された耳の裏、熱い脇、美しい胸元、すらりとしたおなか、大きな背中、スッキリした腰、流れるようなわき腹、きれいなお尻、それからお股、しなやかな太ももとふくらはぎ、立派な脛、柔軟な足首、さらさらする踵と足の裏、筋の通った足の甲、そして可愛らしい足の指も一本一本。
綴理先輩の身体も起こしながら、肘を曲げ、膝を曲げ、肩を回し、筋肉をほぐし、間違っても床ずれなんて起きないよう、わたしはケアをしていきます。
この作業はほとんど全身運動で、綴理先輩の身体がすっかりキレイになる頃には(もともとキレイであることは前提として)、わたしは息も切れ切れになってしまいます。
ふぅと肩で息をすることの、なんという充足感でしょう。わたしは毎夜、この作業を通じて、いっそう綴理先輩のことを理解できるような気がしています。
身体の部位ごとに異なる感触……わたしの指の肌へのくい込み方の違い、滑り方の違い、あたたかさの違い……。そういった綴理先輩の情報を、わたしは身体で覚えることができるのです。
「お疲れ様でした、綴理先輩」
とわたしは声をかけます。すーすーと寝息をたてているだけに見える綴理先輩ではありますが、こうして全身を拭かれるというのも、全身運動には違いないのです。だから頑張った綴理先輩を、ちゃんと労ってあげなければなりません。
「明日はシャワーの日ですから、楽しみにしていてくださいね」
カレンダーを見て、わたしはそう言います。シャワーは月水金の曜日制と決めていました。体力を消耗するからです。
それから、カレンダーは忘れることのできない日付が明日であることも示していました。一か月ほども前から、わたしはその日付を意識せざるを得ませんでした。
明日でちょうど、綴理先輩が眠りについて一年になるのです。
一年という、ただの暦上の区切りに、さしたる意味はないかも知れない。頭の中ではそう思っていても、しかし、どうにも意識は向いてしまうものでした。
ぴったり一年で目を覚ますなんて、そんなファンタジーあるでしょうか?
もしそうなれば、わたしは───。
わたしは?
13: 2024/02/24(土) 17:06:17 ID:lbZXYy86MM
「綴理先輩、明日でぴったり一年みたいですよ」
なにかを誤魔化すように、わたしは綴理先輩に話しかけます。
いったい何を誤魔化したのか、わたし自身にもよくわかりませんでした。
なにか得体の知れないざわめきが胸の中に生まれていました。
その正体を暴くのが怖くて、わたしはとにかく口を開きます。
「ねえ綴理先輩、この一年いろんなことがありましたね。沙知先輩が卒業式のあと、この部屋に来てくれたことを憶えていますか? お家の関係ですごく忙しそうだったのに、長い時間いらっしゃってくれました。いまでも時々、連絡がくるんです。ふふ、本当に愛されてますね。
わたしの後輩の話は、どれくらいしたでしょうか? 可愛い子です。一年前の自分はどうだったろうかって、よく思い返します。わたしも先輩として頑張ってみてはいますが、やっぱり綴理先輩のようにはなれません。
花帆さんも瑠璃乃さんも、梢さんも慈さんも元気ですよ。たまにみんな来てくれたとき、なんとなく、綴理先輩も嬉しそうに見えます。
それから───」
物憂げなベッドルームに、言葉は尽きることがありません。一年という年月には、実際、それだけの重みがあるのです。
綴理先輩が眠っている間に、モノクロの冬は去り、春の陽だまりに桜が咲いて、新緑が芽吹き、海がきらきらと眩しい夏が来て、厚く薫る紅葉に胸をふくらませ、ふっと冷たい風とともに、また寂しい冬が来ました。
時間は絵巻のようにくるくると転がり進み、綴理先輩だけがいつかの地点で取り残されています。あるいは、わたしの心も、綴理先輩と同じ場所にありました。
一年。一年。一年。
綴理先輩に語りかけながらも、わたしの頭の中で、その単語が繰り返されます。そこにはどういうわけか、靴裏に貼りついたガムのように、苦い気持ちがべっとりとくっついていました。
もちろん、喜ばしい記録でないのは確かです。眠りが長ければ長いほど、綴理先輩の苦しみは増えることになりますから。
ただ、このぼんやりとした気持ちは、それだけでは説明できないような気がしていました。
”わたしはなにか恐れている”。少なくとも、その事実を認めないわけにはいきませんでした。
なにかを誤魔化すように、わたしは綴理先輩に話しかけます。
いったい何を誤魔化したのか、わたし自身にもよくわかりませんでした。
なにか得体の知れないざわめきが胸の中に生まれていました。
その正体を暴くのが怖くて、わたしはとにかく口を開きます。
「ねえ綴理先輩、この一年いろんなことがありましたね。沙知先輩が卒業式のあと、この部屋に来てくれたことを憶えていますか? お家の関係ですごく忙しそうだったのに、長い時間いらっしゃってくれました。いまでも時々、連絡がくるんです。ふふ、本当に愛されてますね。
わたしの後輩の話は、どれくらいしたでしょうか? 可愛い子です。一年前の自分はどうだったろうかって、よく思い返します。わたしも先輩として頑張ってみてはいますが、やっぱり綴理先輩のようにはなれません。
花帆さんも瑠璃乃さんも、梢さんも慈さんも元気ですよ。たまにみんな来てくれたとき、なんとなく、綴理先輩も嬉しそうに見えます。
それから───」
物憂げなベッドルームに、言葉は尽きることがありません。一年という年月には、実際、それだけの重みがあるのです。
綴理先輩が眠っている間に、モノクロの冬は去り、春の陽だまりに桜が咲いて、新緑が芽吹き、海がきらきらと眩しい夏が来て、厚く薫る紅葉に胸をふくらませ、ふっと冷たい風とともに、また寂しい冬が来ました。
時間は絵巻のようにくるくると転がり進み、綴理先輩だけがいつかの地点で取り残されています。あるいは、わたしの心も、綴理先輩と同じ場所にありました。
一年。一年。一年。
綴理先輩に語りかけながらも、わたしの頭の中で、その単語が繰り返されます。そこにはどういうわけか、靴裏に貼りついたガムのように、苦い気持ちがべっとりとくっついていました。
もちろん、喜ばしい記録でないのは確かです。眠りが長ければ長いほど、綴理先輩の苦しみは増えることになりますから。
ただ、このぼんやりとした気持ちは、それだけでは説明できないような気がしていました。
”わたしはなにか恐れている”。少なくとも、その事実を認めないわけにはいきませんでした。
14: 2024/02/24(土) 17:07:59 ID:lbZXYy86MM
「ああ、よかった!」
と誰かが大きな声で言いました。その声で、わたしは自分が起きたことに気づきました。
津波を思わせるほど激しい光の奔流をかき分けて、目を開きます。どういうわけか、ひどく身体が重たい。
「さやかちゃん! さやかちゃん!」
「……かほ……さん……?」
見上げた先に花帆さんがいて、わたしは声を返そうとしました。けれど、喉がぜんぜん動いてくれなくて、ひゅーひゅーと、すり切れた風のような音しか出すことができませんでした。
花帆さんは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていました。どうして泣いているのか、わたしにはわかりませんでした。
「私、綴理のこと呼んでくる!」
と視界の外で誰かが言って、部屋から慌てて出ていきました。それからわたしは、ここが自分の部屋ではないことに気づきました。部屋の照明は知らない照らし方をしていて、天井は白く無機質でした。
「ここ……は……」
かろうじて絞り出した言葉に、花帆さんはしかし、わんわんと泣いて答えます。なにか言葉が混じっていましたが、わたしはそれを聞き取ることができませんでした。
と誰かが大きな声で言いました。その声で、わたしは自分が起きたことに気づきました。
津波を思わせるほど激しい光の奔流をかき分けて、目を開きます。どういうわけか、ひどく身体が重たい。
「さやかちゃん! さやかちゃん!」
「……かほ……さん……?」
見上げた先に花帆さんがいて、わたしは声を返そうとしました。けれど、喉がぜんぜん動いてくれなくて、ひゅーひゅーと、すり切れた風のような音しか出すことができませんでした。
花帆さんは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていました。どうして泣いているのか、わたしにはわかりませんでした。
「私、綴理のこと呼んでくる!」
と視界の外で誰かが言って、部屋から慌てて出ていきました。それからわたしは、ここが自分の部屋ではないことに気づきました。部屋の照明は知らない照らし方をしていて、天井は白く無機質でした。
「ここ……は……」
かろうじて絞り出した言葉に、花帆さんはしかし、わんわんと泣いて答えます。なにか言葉が混じっていましたが、わたしはそれを聞き取ることができませんでした。
15: 2024/02/24(土) 17:09:50 ID:lbZXYy86MM
「あなたはずっと眠っていたのよ、さやかさん」
花帆さんの代理をつとめるようにして、違う方向からおだやかな声が聞こえました。
「こずえ、さ」言いかけて、喉が詰まりました。「せんぱい……」
「本当に良かった……」とつぶやく梢先輩も、声が震えていて、瞳がうるんでいるのがわかりました。
なに一つ理解することができませんでした。
わたしは昨日、綴理先輩のお世話をして、自分の部屋へ帰って、そして眠って……。
綴理先輩が眠りについてから、今日でぴったり一年を迎えるはずでした。
しかし、とにかく、身体が重くて仕方ありません。それに、ひどく、痒い──。
「あ、動いちゃだめだよさやかちゃん!」
はっとする声で制止され、わたしはびっくりして止まってしまいます。ほんのちょっと、腕を動かそうとしたのでした。
それすら満足にできる気配はなかったのですが、ただ気づきがありました。布団の端から出て、頭上へ伸びているいくつかの透明な管……。その末端がどこにつながっているのか、そしてどこから伸びているのか、わたしは怖くて辿ることができませんでした。
あなたはずっと眠っていたのよ、という先ほどの梢先輩の言葉が思い起こされました。
「ちがうっ」
「さ、さやかちゃん……?」
ちがう、ちがうと、なにかが絡まる喉を無理やり動かして、わたしは訴えました。
「眠っていたのは、わたしじゃないんです!」自分の声で喉が痛みましたが、止めるわけにはいきませんでした。「眠っていたのは……月世界へ行ってしまったのは、わたしじゃないっ……月に魅入られたのは、わたしじゃなくて……」
「さやかさん、落ち着いて! そう、久しぶりだものね、混乱していても当然のことだわ」
梢先輩の制止が、わたしにはひどくうっとおしく感じました。頭は回っているのです。ただ口が上手く回ってくれないだけなのです。
それがどうしてわかってくれないのか?
花帆さんの代理をつとめるようにして、違う方向からおだやかな声が聞こえました。
「こずえ、さ」言いかけて、喉が詰まりました。「せんぱい……」
「本当に良かった……」とつぶやく梢先輩も、声が震えていて、瞳がうるんでいるのがわかりました。
なに一つ理解することができませんでした。
わたしは昨日、綴理先輩のお世話をして、自分の部屋へ帰って、そして眠って……。
綴理先輩が眠りについてから、今日でぴったり一年を迎えるはずでした。
しかし、とにかく、身体が重くて仕方ありません。それに、ひどく、痒い──。
「あ、動いちゃだめだよさやかちゃん!」
はっとする声で制止され、わたしはびっくりして止まってしまいます。ほんのちょっと、腕を動かそうとしたのでした。
それすら満足にできる気配はなかったのですが、ただ気づきがありました。布団の端から出て、頭上へ伸びているいくつかの透明な管……。その末端がどこにつながっているのか、そしてどこから伸びているのか、わたしは怖くて辿ることができませんでした。
あなたはずっと眠っていたのよ、という先ほどの梢先輩の言葉が思い起こされました。
「ちがうっ」
「さ、さやかちゃん……?」
ちがう、ちがうと、なにかが絡まる喉を無理やり動かして、わたしは訴えました。
「眠っていたのは、わたしじゃないんです!」自分の声で喉が痛みましたが、止めるわけにはいきませんでした。「眠っていたのは……月世界へ行ってしまったのは、わたしじゃないっ……月に魅入られたのは、わたしじゃなくて……」
「さやかさん、落ち着いて! そう、久しぶりだものね、混乱していても当然のことだわ」
梢先輩の制止が、わたしにはひどくうっとおしく感じました。頭は回っているのです。ただ口が上手く回ってくれないだけなのです。
それがどうしてわかってくれないのか?
16: 2024/02/24(土) 17:11:57 ID:lbZXYy86MM
今日でぴったり一年を迎えるはずだったんです。
ぴったり一年を迎えて、わたしはすっかり”安心”できるはずだったんです。
「かほ、花帆さん! まえに話したじゃないですか……Kの昇天です。月に魅入られて、月世界へ行ってしまった、あの話です。月を眺めていたのは、わたしじゃないんです」
言いながら、わたしはなぜ自分がそんな迂遠なことを言ったのか、理解できませんでした。苦しい喉を無理に動かして、とにかくわたしは自分じゃないということを伝えたかっただけなのです。わざわざ例え話をする必要はないはずでした。
あるいは、とっさに言葉になるほどに、わたしはあの時の、月光に映し出された綴理先輩の美しさに囚われてたのでしょうか。
「ちがうよ、さやかちゃん」
と花帆さんは言いました。涙をぐっと抑えて、その言葉はひどく冷静でした。
「違うんだよ」と花帆さんは繰り返します。「Kの昇天は月そのものじゃなくて、月明かりで映し出された、影に狂わされちゃうお話なの。そうして影に誘われて、海にのまれて溺氏しちゃうの」
さっと潮がひくように、音が遠くなるのを感じました。
それはどこかメタファーじみた台詞でした。
あるいは、最初から。
「綴理、はやくはやく!」
「綴理パイセンこっちー!」
どたどたと、遠くから慈先輩と瑠璃乃さんの声が聞こえてきます。二人の足音に混じって、もう一人分の足音も。
もうすぐそこに『あの人』が来ています。
わたしは目を閉じてしまいたかった。けれど出来ませんでした。
どうして目を閉じようとしたのでしょう? よくわかりませんでした。
忙しい足音は、近づくほどに優しくなっていました。それはきっと、寝たきりだったわたしのために。
そして光の中で声がする。
「───────」
ぴったり一年を迎えて、わたしはすっかり”安心”できるはずだったんです。
「かほ、花帆さん! まえに話したじゃないですか……Kの昇天です。月に魅入られて、月世界へ行ってしまった、あの話です。月を眺めていたのは、わたしじゃないんです」
言いながら、わたしはなぜ自分がそんな迂遠なことを言ったのか、理解できませんでした。苦しい喉を無理に動かして、とにかくわたしは自分じゃないということを伝えたかっただけなのです。わざわざ例え話をする必要はないはずでした。
あるいは、とっさに言葉になるほどに、わたしはあの時の、月光に映し出された綴理先輩の美しさに囚われてたのでしょうか。
「ちがうよ、さやかちゃん」
と花帆さんは言いました。涙をぐっと抑えて、その言葉はひどく冷静でした。
「違うんだよ」と花帆さんは繰り返します。「Kの昇天は月そのものじゃなくて、月明かりで映し出された、影に狂わされちゃうお話なの。そうして影に誘われて、海にのまれて溺氏しちゃうの」
さっと潮がひくように、音が遠くなるのを感じました。
それはどこかメタファーじみた台詞でした。
あるいは、最初から。
「綴理、はやくはやく!」
「綴理パイセンこっちー!」
どたどたと、遠くから慈先輩と瑠璃乃さんの声が聞こえてきます。二人の足音に混じって、もう一人分の足音も。
もうすぐそこに『あの人』が来ています。
わたしは目を閉じてしまいたかった。けれど出来ませんでした。
どうして目を閉じようとしたのでしょう? よくわかりませんでした。
忙しい足音は、近づくほどに優しくなっていました。それはきっと、寝たきりだったわたしのために。
そして光の中で声がする。
「───────」
17: 2024/02/24(土) 17:13:24 ID:lbZXYy86MM
目を覚ましたときの全身のびっしょりとした汗に、わたしは辟易としました。
暖房を強くしすぎたのでしょうか? たしかに、そろそろ春が近づいて、夜の冷え込みも弱くなってくる季節ではありました。
さて。
本日も綴理先輩のお世話が始まります。
暖房を強くしすぎたのでしょうか? たしかに、そろそろ春が近づいて、夜の冷え込みも弱くなってくる季節ではありました。
さて。
本日も綴理先輩のお世話が始まります。
18: 2024/02/24(土) 17:15:08 ID:lbZXYy86MM
毎日のルーチンワークは決まっています。朝、身支度をすませると綴理先輩の部屋へ行きます。もしかすると目を覚ましていらっしゃるかもしれないので、ノックは欠かせません。二回ほどノックをして、静寂をすこし聞いてから鍵を開けます。
綴理先輩はやはり眠っていました。今日もまた寝相ひとつなく、すーすーと美しい寝顔をしていらっしゃいます。
まずはカーテンを開けて、朝日を十分に部屋の中へ取り込みます。さっと明るくなった部屋の中に、綴理先輩の横顔が宝石のようにかがやきました。
「おはようございます、綴理先輩」とわたしはニッコリ挨拶します。何度繰り返しても、至福の瞬間です。あるいは、この瞬間にこそわたしは目覚めたのではないかと錯覚するほどの瑞々しい鮮烈さに身体中を打たれます。今日という日が始まる、今日もまた綴理先輩のお世話をすることができる、そこに内包された幸福のかたまりをわたしは�筋みしめるのです。
綴理先輩はやはり眠っていました。今日もまた寝相ひとつなく、すーすーと美しい寝顔をしていらっしゃいます。
まずはカーテンを開けて、朝日を十分に部屋の中へ取り込みます。さっと明るくなった部屋の中に、綴理先輩の横顔が宝石のようにかがやきました。
「おはようございます、綴理先輩」とわたしはニッコリ挨拶します。何度繰り返しても、至福の瞬間です。あるいは、この瞬間にこそわたしは目覚めたのではないかと錯覚するほどの瑞々しい鮮烈さに身体中を打たれます。今日という日が始まる、今日もまた綴理先輩のお世話をすることができる、そこに内包された幸福のかたまりをわたしは�筋みしめるのです。
19: 2024/02/24(土) 17:16:30 ID:lbZXYy86MM
「おはよう、さや」
20: 2024/02/24(土) 17:18:23 ID:lbZXYy86MM
ふと、赤い満月が視界につらつきました。
はっとして振り返ったものの、そこにはいつも通り綴理先輩の部屋があるだけで、なにもおかしなところはありません。
月に似たなにかと見間違えたのかとも思ったのですが、それらしいものも見つかりませんでした。変なの、とひとりごちます。朝方に変な汗をかいて、少し疲れているのかもしれません。
綴理先輩は変わらず眠っています。わたしはいつものように綴理先輩のケアを済ませると、その清らかな手をとって、登校するまでのあいだ、ゆるやかな時間を過ごします。
そうしていると、なぜだか妙に、眠たくなってきてしまいました。いつもならこんなことはないのですが、やっぱり寝方が悪かったのかな、疲れているのかな、なんて思います。
手をつないだまま、綴理先輩のベッドに身体を預けると、あたたかくて、いっそう眠気が強くなってきます。
視線の先にカレンダーがあって、わたしは眠たい頭のまま、明日の日付に気を取られました。それからツキマカセの一節をつぶやきました。
まどろんだ朝の時間に、歌詞がただよい溶けていきます。
ふわりとあくびが出ました。そろそろ限界みたいです。
おやすみなさいと、わたしは綴理先輩のかたわらで目をつむりました。
はっとして振り返ったものの、そこにはいつも通り綴理先輩の部屋があるだけで、なにもおかしなところはありません。
月に似たなにかと見間違えたのかとも思ったのですが、それらしいものも見つかりませんでした。変なの、とひとりごちます。朝方に変な汗をかいて、少し疲れているのかもしれません。
綴理先輩は変わらず眠っています。わたしはいつものように綴理先輩のケアを済ませると、その清らかな手をとって、登校するまでのあいだ、ゆるやかな時間を過ごします。
そうしていると、なぜだか妙に、眠たくなってきてしまいました。いつもならこんなことはないのですが、やっぱり寝方が悪かったのかな、疲れているのかな、なんて思います。
手をつないだまま、綴理先輩のベッドに身体を預けると、あたたかくて、いっそう眠気が強くなってきます。
視線の先にカレンダーがあって、わたしは眠たい頭のまま、明日の日付に気を取られました。それからツキマカセの一節をつぶやきました。
まどろんだ朝の時間に、歌詞がただよい溶けていきます。
ふわりとあくびが出ました。そろそろ限界みたいです。
おやすみなさいと、わたしは綴理先輩のかたわらで目をつむりました。
21: 2024/02/24(土) 17:19:00 ID:lbZXYy86MM
おしまい
引用: 【SS】眠れる ◯ のDOLL
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