194: 2016/08/26(金) 23:48:42.27 ID:b6IVJofBo


最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a

前回:開かない扉の前で◇[Diogenes] R/a

◆[Paris] A/b


 お兄ちゃんは、やさしくて、強くて、おおきくて、あたたかい人だった。

 わたしに怒りをぶつけたことも、数えるほどしかない。 
 わたしが車の前に飛び出しそうになったときと、わたしが友達と喧嘩したとき。
 あと、何度か。もう思い出せないような記憶だけれど。

 いつも落ち着いていて、感情の揺れ動きというものとは無縁で、
 そのせいでわたしは、お兄ちゃんの本心というものを、結局知ることができなかった。

 韜晦とやわらかな微笑。沈黙と本棚。
 ジャンルを選ばない音楽と映画の海。煙草の匂い。

 お兄ちゃんが氏んだあと、わたしは何度か、彼の部屋に何度かこっそりと忍び込んだ。
 本当は、"こっそり"する理由なんて、どこにもなかったんだけど。
 
 大きな本棚につめ込まれたたくさんの本は、わたしにはよくわからないものばかりだった。

メイドインアビス(1) (バンブーコミックス)
195: 2016/08/26(金) 23:49:11.32 ID:b6IVJofBo

 お兄ちゃんが遺したお金。
 
 それをわたしはどうすればいいんだろう?
 
 どうしてお兄ちゃんは、それをわたしに遺したんだろう。
 
 ひょっとしたら、わたしはそれが知りたかったんだろうか。

 あの人が何を望み、何を考え、どんなつもりで生きていたのか。
 急にいなくなってしまったせいで、それを聞けなかったから。
 
 あの微笑の裏に含まれていた何かの存在に、わたしはたしかに気付いていたのに、
 結局、それを知ることができなかったから。


196: 2016/08/26(金) 23:50:46.83 ID:b6IVJofBo



 鏡の向こうに、よくわからない街があって、よくわからない何かがいて、わけがわからないまま、変な扉に行き着いた。
 
 ケイくんとふたりで何度か話し合いを重ねた結果、確からしい経緯はそんな具合だった。

 そうしてわたしたちはその扉をくぐった。それがわたしたちの直前までの認識だ。

 そして現在。

 わたしたちは、真昼の住宅街に立っている。

 今度は、外国風の街並なんかじゃない、日本の、しかもどこかで見たことがあるような景色だった。

 すぐ傍の児童公園で、ちいさな子供をつれた主婦たちが話をしている。
 通りの並木にはかろうじて緑。

「……ケイくん」

「……ん」

 お互いに、唐突な変化に言葉を失う。

「ここ、どこ?」

「さあ」

「ミラーハウスは? 遊園地は? へんな街は? 夢?」

「さあ」

「いったい何が起きたんだろう」


197: 2016/08/26(金) 23:55:17.66 ID:b6IVJofBo

 わたしたちは辺りを見回して、何かの手がかりになりそうなものを探す。
 が、何もない。どこを見ても、現実的なものしかなかった。

「ひょっとして……出口だったのかな」

 わたしの思いつきに、ケイくんは訝しげな表情で「ふむ」と考えこんだ様子を見せた。

「というと?」

「さっきまでの、あの、変な場所からの、出口。で、なんか、別の場所から出ちゃった、みたいな」

「……・ふむ」とケイくんはもういちど鼻を鳴らす。

「いまいち納得いかないが、そう考えてもよさそうだな」

 そう言って不審げに目を眇めると、彼は視線をあちこちにさまよわせた。

「……いや、でも待て」

「うん?」

「今何時だ?」

 言われて、わたしははっとした。


198: 2016/08/26(金) 23:56:53.29 ID:b6IVJofBo

 ケイくんが腕時計を見て、考えこむように唸った。

「何時?」

「午後二時半」

 わたしは空を見上げた。曇っていたけれど、厚い雲の向こうに太陽の光が見える。
 ……蒸し暑さを覚える。

 さっきまでは夜で……その前までは? 昼過ぎだった? ……もう、覚えていない。

「……太陽の位置」

「時計、アテにならないかもしれないな」

 わたしは携帯を取り出して画面を見てみる。
 時間は……。

「……ん」

 やはり、午後二時半頃になっていた。

 それと同時に、おかしなことに気付く。
 電波が入っていない。


199: 2016/08/26(金) 23:57:28.98 ID:b6IVJofBo

「どうした?」

「電波が」

「電波?」

 ケイくんもまた、ポケットから携帯をとりだして画面を見る。彼はまた不可解そうな顔になる。

「ホントだ。通信できない」

 いろいろと試してみたけれど、やはりダメだった。ネットに繋がらない、データ通信ができない。
 
「……どう思う?」

 とわたしは訊ねた。

「……わからない。ここ、どこだろう?」

 ふたたび不安を感じ始めたわたしたちは、とにかくあたりに手がかりを探してしまう。
 本当はすぐそばにいる人に、いろんなことを訊いてしまえばよかったんだけど、それはなんとなく憚られた。
 
 どうしてだろう。

 公園ではしゃぐ子供たち、談笑する母親たち、やわらかな真昼の日差しを浴びて光る街路樹の葉。
 邪魔者みたいに、思えたからだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていたとき、不意に、わたしの脳裏をよぎる記憶があった。


200: 2016/08/27(土) 00:00:02.39 ID:GZdGvjcio


「……ねえ、ケイくん」

「ん」

「わたし、ここ知ってる」

 ケイくんは、返事をくれなかったし、わたしもそれを待たなかった。
 意識が、どこかに引きずり込まれるような感覚。

 目の前の景色に吸い込まれたような。

「……大丈夫か?」

「……え?」

「顔色、悪い」

 少し、驚いたのかもしれない。
 ケイくんは、何も聞かないでくれた。
 
 彼は、本当に、不思議になるくらい、何も訊いてこない。

「とりあえず、案内してくれるか」

「……どこへ?」

 そう訊ねると、ケイくんは不思議そうな顔をした。

「……近場のコンビニかな」

 わたしは少し考えてから、納得した。


201: 2016/08/27(土) 00:00:50.66 ID:GZdGvjcio



 知っている場所とは言っても、そう何度も来たことがあるわけではなくて、案内なんてほとんどできなかった。
 それでも近くを歩いて、なんとなく大きな道路に出そうな方向へと向かっているうちに、ようやく一軒のコンビニに辿り着いた。

 歩いているうちに、わたしは何か奇妙な感覚を覚えた。

 何かがおかしい。

 通りを走っている車、歩いている人々、街並。なんだろう、見慣れない街だからだろうか?
 よくわからない。どこが、というのではない。何かがおかしい。そう感じる。

 ひとまず、わたしたちは店の中に入ってみる。
 
 そうして、やはり、街を歩いているときと似たような感覚を覚える。

 わたしはそれが何なのかよくわからなかったけれど、
 ケイくんは少し入り口で立ち止まったかと思うと、すぐに傍にあった新聞を手にとった。
 
 慌てた様子で。そんな彼の姿を、わたしは初めて見た。

 彼は手にとった新聞の隅を見ると、わたしを手招きしてその一部を指で示した。

 違和感のあるニュース。一面。でもそこじゃない。
 日付だ。

 2008年9月12日、とあった。

「……あ」

 遅れて、状況を理解した。
 首を巡らせて、店内の様子を見る。

 棚に並んでいる商品、雑誌の表紙、駐車場に並んでいる車、信号の形。
 
 ケイくんが、何か言いたげにわたしを見る。わたしは言葉を返せない。

 七年前の日付だ。


204: 2016/08/28(日) 23:01:35.25 ID:jitnn6u/o




 店の軒先で煙草に火をつけて、ケイくんは黙りこんだ。

 わたしはただ、その隣にしゃがみこんで、通りを走る車の流れを見つめていた。

 空は2008年の空で、道路も2008年の道路で、信号も2008年の道路で。
 終わったはずの漫画が表紙を飾る雑誌があって、キャンペーンポスターは過去の日付のままで。
 それをどう消化していいかわからなかった。

 タイムスリップ? 過去の世界? いろんな考えが浮かんでは、打ち消されていく。

 二本目の煙草に火をつけたあと、ケイくんがポツリと、

「厄介なことになったな」

 と、そう呟いた。
 わたしはしゃがんだまま彼の顔を見上げた。
 こっちを見てはくれなかった。ただ、どこを見ているのかもわからない目で、遠くの方をじっと睨んでいるように見える。
 あるいは、何も見てはいないのかもしれない。

「厄介なことになったね」

 わたしもそう言った。彼はひとりごとのように続ける。

「望む景色。過去の思い出。ありえたかもしれない可能性。あるいは……」

 都市伝説の、噂だ。続きは、なんだったっけ。そうだ。氏者との再会。

 2008年。
 そうか、とわたしは思う。

 まだ、お兄ちゃんが生きている。

「……ああ、そうか」と、ケイくんがおかしそうに笑った。

「なに?」

「いや。リーマン・ショックの直前だ」


205: 2016/08/28(日) 23:02:07.78 ID:jitnn6u/o



 リーマン・ショックが起きた年だった。

 そのときはまだ消費税は5%だったし、アメリカに黒人大統領は誕生していなかった。

 スマートフォンなんて言葉すら普及していなかったし、ラインなんて存在もしていなかった。

 マイケル・ジャクソンもスティーブ・ジョブズも、
 ガルシア=マルケスも、J・D・サリンジャーも、
 志村正彦も忌野清志郎もアベフトシだって生きていた。

 そのはずだ。
  
 けれど、わたしにとってもっとも重要なことは、そうではない。 
 わたしにとって重要なのは、ここではまだ、お兄ちゃんが生きている、ということ。

 周囲の人たちに少しだけ悲しみを振りまいたあと、あっというまに忘れ去られてしまったひとつの氏。

 その氏は、ジョブズやマルケスや清志郎の氏と比べるとあまりにもちっぽけで、些細で、軽微だった。

 世界は、その氏によって傷一つ負わなかった。

 お兄ちゃんの氏は、世界、あるいは人類、社会、なんでもいい、それらにとって何の損失でもなかった。

 にもかかわらずわたしにとっては、他の誰かの氏よりも、"お兄ちゃん"の氏こそが問題だった。

 たとえその氏が、わたし以外の誰かにとっては、ただ何千分の一のものでしかなかったとしても。

 大きなはずのものが小さく見えて、
 小さなはずのものが大きく見える。

 いつもそうだ。



206: 2016/08/28(日) 23:03:56.69 ID:jitnn6u/o



 おかしな状況に置かれていることは明白だった。

 確かなのは、携帯電話の通信機能が使えないこと。
 周囲の状況から見ても、通りすがりの人たちがしている会話の内容から言っても、ここが七年前の九月だということ。
 
 悪い夢だとしても、まだ覚めてくれそうにはない。

 問題は単純だ。

 仮にこの奇妙な事態が現実だとしても、それが何を意味していて、
 わたしたちに何を求めているのか(あるいは、いないのか)、それがわからないこと、
 それがわたしたちを黙り込ませた。

 幸運なことは、三つあった。

 紙幣のデザインが変更されたのは、2008年より更に前。
 だから、使おうと思えば、財布のなかに入っていたお金は(まったく問題ないわけではないが)使えそうだったこと。

 そしてわたしは、遊園地に行く前に、お兄ちゃんの遺したお金のうち、けっこうな額を引き落としていた。
(特に深い理由があったわけではないけれど、たくさん、無駄にしてしまいたかったから)

 おかげで、とりあえず数日間、状況に光明が見えなくても、どうにか生きていくことはできそうだった。


207: 2016/08/28(日) 23:04:26.49 ID:jitnn6u/o

 ふたつ目の幸運は、わたしたちが投げ出されたこの場所が、どこか遠い国や世界ではなかったこと。
 よく知る街ではないが、わたしたちの住むところまで、そんなに時間もかからずに向かえそうだった。

 おかげでわたしたちがひとまずとるべき行動は、ひとまず決まった。

 家へと向かうこと。
 向かったところでどうなるか、という問題については、ふたりとも考えないことにした。
 
 まずはとにかく、状況をより正確に理解したかった。
 
 もし、家に行ってみて、何もわからなかったとしたら、また、例の遊園地へと向かってみよう、とケイくんは言った。
 何か、ヒントがあるかもしれないから、と。

 もちろん、この状況が、"ヒント"や"解決法"なんてものをわざわざ用意してくれるような、
 そんな善意あるものなのだとしたら、の話だけれど。

 最後の幸運は、ひとりではなかったこと。

 本当のところ、いちばんの幸運はそれだった。


208: 2016/08/28(日) 23:05:10.40 ID:jitnn6u/o



「わたしのせいなのかな」

「なにが」

「この状況」

「なぜ?」

「望んだ景色、氏者との再会。ひょっとしたら、わたしが望んだから……」

「ああ、望んでたのか」

「なかったとは、言い切れない、かな」

「まあ、だとしても、違うだろうな」

「どうして?」

「七年前まで戻る理由がない。"この時間"でなくちゃいけない必然性がない」

「……」


209: 2016/08/28(日) 23:05:47.77 ID:jitnn6u/o

「仮におまえの望みの結果こんな状況になったとして、おまえに何の罪がある?
 妙な噂話をきいて、それに何かを期待したとしても、そんなのはちっとも悪くない。
 こんな結果になることを誰が予測できた? こんなバカげた出来事の責任を追及するなんてナンセンスだ」

「……うん。ケイくん、なんかやさしいね」

「違う。妙な思い込みで気でも使われたら鬱陶しいから言ってるんだ」

「なんか、冷静だね」

「言ったろ。そのうち覚める夢だと思うことにしたんだ」

「……」

「会いに行くか?」

「え?」

「叔父さんにさ」

「……うん」


210: 2016/08/28(日) 23:06:34.90 ID:jitnn6u/o



 会ってどうしたいのか、それもよくわからないまま、それでもわたしはお兄ちゃんに会いたいと思った。
 ケイくんは、黙ってそれを受け入れてくれた。
 
 とにかく近くの停留所に向かい、そこから路線バスに乗って地下鉄駅を目指した。
 
 乗り合わせた乗客たちはわたしたちのことをごく当たり前の存在のように受け入れていて、それがひどく落ち着かなく思えた。

「聞いていいかわからないけど」

 座席に座ってから、ケイくんはこちらを見ないまま口を開いた。

「なに?」

「さっきの住宅地。知ってるって、なんで知ってたんだ?」

「……」

「答えたくないならいいけど。放り出されたのがあそこだってことに、意味があるのかもしれないから」

 黙っている理由が思いつかなかったから、わたしは簡単に答えた。

「お母さんの家があるの」

「……お母さん?」

「うん。お母さんの家」

 ケイくんはそれ以上何も訊いてこなかった。


211: 2016/08/28(日) 23:08:13.62 ID:jitnn6u/o

 小学校にあがる前の年から、母とは一緒に暮らしていない。

 いきさつは複雑だけれど、結果だけ言ってしまえばシンプルだ。

 母はわたしの父とは違う男の人と再婚し、その人との間に、わたしにとっては異父妹となる娘を産んだ。 
 そうしていまは、親子三人で、バスが背後に置き去りにしてきた街で暮らしている。

 どうしてわたしが母と離れて生活しているのか、その理由についてよく考える。
 
 わたしが、母の再婚を嫌がったから。母の再婚相手となる男性を受け入れられなかったから。
 
 そのあたりのことはよく覚えていないし、事情を知っているだろう祖父母も、お兄ちゃんも、何も教えてくれなかった。
 
 訊ねれば教えてくれただろうけど……。

 わたしが小学校にあがる頃から、母はわたしの暮らす家(つまり、母にとっての実家)にも顔を出さなくなった。
 お盆も正月も。たまに顔を出したかと思えばすぐに帰った。電話すらほとんどよこさず、祖母からのメールにも返信がないらしい。

 だからわたしは母の電話番号を知らないし、メールアドレスも知らない。ラインのIDだって、わからない。
 それでいいと思っている。仮に知っていて、わたしが連絡をしたとき、返信がこなかったら、どうしていいかわからないから。

 今でも覚えているのは、小学校一年生のときの運動会。母は見にくると言っていて、わたしは前日からそれを楽しみにしていた。
 当日の朝になって、母から祖母に連絡があり、妹が熱を出したからいけないと言われたらしい。
 
 それから半年間、母はほとんど連絡をよこさず、ひさびさに実家に顔を見せたのは、家族旅行のおみやげを置きにきたときだった。
 わたしは母に期待することをやめた。

 あるいは、母にというよりは、
 自分が愛される存在だと、そう思うのをやめたのかもしれない。

「……雨が降りそうだな」

 ケイくんの言葉につられて、わたしは窓の外を見た。
 灰色の空がいまにも泣き出しそうだった。


214: 2016/09/02(金) 20:58:30.47 ID:RUM4aPGwo



 バス停を降りて、わたしはケイくんと一緒に、自分の家の近くまでやってきた。

 新聞の日付を信じるなら、今日――と言ってしまうのは違和感があるけれど――は金曜日。
 時間的に、お兄ちゃんはまだ学校にいるはず。それが終わったら、バイトに向かうはずだ。

 最初に、わたしの家へと向かうことにした。
 とにかく、そこに自分の家があるのだということを確認しておきたかった。
 
 この混乱した状況のなかで、頼りにできるかもしれないもの。 
 それをたしかめておきたかったから。

 たとえば、ずっとむかしに一度行ったことのある街に、長い時間を経てもういちど訪れたときのような、
 既視感と違和感をないまぜにしたような奇妙な感覚が、わたしの視界を霧のように覆い尽くしていた。

 ちがうのは、普通とは逆だということだ。
 あったものがなくなっているのではなく、なくなったものがある。

 その不思議な感覚。

 街を歩きながら、その感覚は強まっていく。


215: 2016/09/02(金) 20:59:00.25 ID:RUM4aPGwo

 近所にあった、潰れてしまった個人商店。
 店主のおじさんが亡くなってから、経営を奥さんが継いだのに、うまくいかずに潰れてしまった。

 道路から店の中を覗くと、顔見知りだったおじさんは、レジの向こうで新聞を読みながら座っていた。
 耳にのせた鉛筆、浅黒い肌。強面だったけど、おもしろい人だった。

 よく、お兄ちゃんとふたりで、ここに買い物にきた。アイスを買って、軒先のベンチで一緒に食べた。
 
 近所の公園には、むかし居着いていた白い猫がそのままの姿で眠っていた。
 わたしたちの足音に気付いたのか、少し目を開いたあと、静かにすがめて、また眠り始めた。

 わたしが中学に上がる年の冬、その猫は道路で氏体になって見つかった。

 道の途中でわたしは立ち止まる。そしてこれがどういうことなのかと考える。


216: 2016/09/02(金) 20:59:42.66 ID:RUM4aPGwo

 あの交差点には信号ができて、あの道は新しい道ができてから誰もつかわなくなって、
 あの建物は取り壊されてコンビニになって、幅員の狭いあの道路は広くなって、
 そんなことばかり、目につく。

 その景色は思っていた以上にわたしを混乱させる。
 ささやかなはずのひとつひとつの変化が、わたしの前にまざまざと立ち現れる。
 
 いつのまにかたくさんのことが変わっていったこと、
 そのひとつひとつの変化を自分が忘れていたことを、否が応でも意識させられる。

 そうしてようやく辿り着いた自分の家の景観も、変わっていないようで、やはり変わっている。

 ……いや、それだけだろうか?
 
 何か、違和感がある。

 目の前にある家と、自分が暮らしていた家。
 そのふたつの間に、何かもっと絶対的な乖離があるような気がした。

 時間の流れだけでなく。
 

217: 2016/09/02(金) 21:00:43.32 ID:RUM4aPGwo

「……ねえ、ケイくん」

「ん?」

「これが夢じゃないとして、さ」

「ああ」

「わたしたちが、元の時間に戻れる手段がなかったとしたら、どうなる?」

「……どうなるって、どうにもならないだろうな」

「うん。そうだよね」

 そのときは、どうすればいい?
 誰がこんな話、信じてくれる?

 警察にでも言ってみる?
 それとも、家族を頼る?

 想像すると、ちょっと背筋が寒くなる。

 目の前にある自分の家が、他人の家のように見えたせいで、そんな不安を覚えてしまった。

 それまでわたしは、なんとなく、祖母やお兄ちゃんに話せば、なんとかなるのではないかと思っていた。
 事情を話して、説明すれば、わたしがわたしだと解ってもらえるのではないかと。

 そんな根拠のない自信がぐらぐらと揺れてしまう。
 
 自分の家。そのはずだ。目の前にいるのに、その自信が、薄れていく。


218: 2016/09/02(金) 21:01:18.13 ID:RUM4aPGwo

「……あの」

 と、か細い、頼りない声が後ろから聞こえて、わたしたちはびくりとした。
 驚いて振り返ると、面食らったのか、彼女は身を竦めた。

「……あの。うちに何か、用事ですか?」

 赤いランドセルを背負った、女の子。

 その顔を見て、最初に覚えたのは驚きと戸惑いだった。

"うち"。

 言葉が出ないわたしの横で、ケイくんが口を開いた。

「きみは?」

「……」

 怯えたような、警戒したようなようすで、彼女は視線を逸らした。

「えっと……この近くに住んでる人に用事があって、たぶんこのあたりなんだけど。佐野さんのおうちって、ここかな?」

 一瞬、ケイくんが何を言っているのかよくわからなかったけど、状況を咎められないためだと少ししてからわかった。
 少しでも下手を打てば、面倒なことになりかねない。

 警察でも呼ばれたら? 身分証でも出す? かえって疑われそうだし、自由も保障されるとは限らない。
 

219: 2016/09/02(金) 21:01:47.50 ID:RUM4aPGwo

「……いえ、知りません。うちは碓氷です。この近くには、そういう苗字の人は住んでいないと思う」

"碓氷"。碓氷。碓氷。

 女の子はそれだけ言うと、玄関へと向かい、扉の前で立ち止まったかと思うと、肩越しにこちらを振り向いた。

「……まだ何か?」

 怪訝そうな表情。

 わたしは、とっさに、訊ねた。

「ねえ、あなた――名前、なんていうの?」

「……」

 彼女は、何か迷うような素振りをみせたあと、仕方なさそうな顔で、その名を口にした。


220: 2016/09/02(金) 21:02:18.69 ID:RUM4aPGwo

「ホノミです」

「……ホノミちゃん?」

「はい」

「……稲穂の穂に、海って漢字だったりする?」

 彼女は不可解そうに眉をひそめた。

「わたしのことを知ってるんですか?」

 穂海。穂海。

「あなたの苗字、碓氷って言うの?」

「……いえ。わたしの苗字は、茅木です」

「ずっと前から、ここに住んでるの?」

「……はい。あの、お姉さん、誰ですか?」

「わたしは……」

 わたしは。
 誰なんだろう。


221: 2016/09/02(金) 21:03:18.06 ID:RUM4aPGwo

 不意にケイくんの手がわたしの腕を掴んだ。

「いろいろとありがとう」と彼は言う。

「引き止めてごめん。時間に遅れるかもしれないから、俺たちはもう行くよ。さよなら」

 少女は静かに頭をさげて、「いえ」と視線を落とした。

 ケイくんに引っ張られたまま、わたしのからだはわたしの家だったはずの場所から離れていく。
 頭がくらくらする。

 あてもないくせに歩き続けて、しばらくしてから、ケイくんは口を開いた。

「さっきの、誰だ?」

「……」

「おまえじゃないよな」

「……うん」

「誰だ」

「……妹」


222: 2016/09/02(金) 21:04:12.89 ID:RUM4aPGwo

「さっき言ってたっけ。でも、同居してないって……」

「うん。妹は」

 わたしたちが放り出された、あの住宅街で、お母さんと、わたしがお父さんと呼べなかった人と一緒に暮らしている。

「だったらなんで……」

「……わかんない」

 何がどうなって、そうなったのか。どうしてこの時間にいるのかもわからないのに、
 その時間の知っているはずの場所が、わたしの知っている過去と違うなんて、
 意味がわからない。

 いったい、この状況は、なんなのか。

「お兄ちゃんを、さがさないと」

 わたしの言葉に、ケイくんは戸惑ったような顔をした。

「たしかめないと。いったいここが何なのか。じゃないと……」

 わからなくなる。不安になる。世界が足元から崩れていくような気がして。
 わたしたちが元いた場所が本当に現実だったのかすら、
 わたしの記憶がたしかなものなのかすら分からなくなってしまいそうで。

 ケイくんは思い悩むように髪をかきあげて、

「分かった」
 
 と頷いてくれた。


225: 2016/09/07(水) 00:27:26.46 ID:EcShruDUo




 ずっと前に、ケイくんが言っていたことがある。

「ときどき、不思議になるんだよな」

 この世界にはたくさんの人間がいて、たくさんの生き物が居て、俺はたまたま、"俺"だ。

 俺として生まれて、この腕、この脚、この体を、この心を、心らしきものを、"俺"だと感じる。
 だから、"俺"は俺の身に起きたことを、俺の気持ちを、何か重大なことのように感じる。

 でも、それは結局、俺が俺だから思うだけで、
 客観的に見れば、どこにでもあるありふれた、陳腐で凡庸なものにすぎない。

 それはきっと、現在と過去との関係に似ている。

 私達の意識は"今"にある。
 だから、今起こっている事、今抱いている気持ちを、なにか特権的なものとして扱ってしまう。

 けれど、連綿と続く過去を振り返ってみれば、
 その一瞬一瞬に抱いてきた気持ちだって、「今」と同じくらい大切なものだったはずだ。

 その価値が本来同一であるなら、今だけを特別扱いする理由はない。


226: 2016/09/07(水) 00:27:52.90 ID:EcShruDUo

 要するに私たちは、意識というまやかしにごまかされて、物事の価値を見誤っているのだ。

"わたし"の意識がここにある。だからわたしは、いま、ここにあるわたしを、何か大切なもののように感じる。
"わたし"の意識はいまにある。だからわたしは、いま、この瞬間を、何よりも重大なもののように感じる。

 けれど、数直線を書いてみて、一秒ごとに並べてみれば、わたしの生れる前であろうと、わたしが氏んだあとであろうと、
 一秒はひとしく一秒でしかない。

 わたしたちは、「自分」という余計なものさしを持ってしまったせいで、世界の価値を勘違いしている。

 大きい物を小さく感じ、小さいものを大きく感じる。
 近しいものほど重要で、遠いものほどささやかで。
 そんな勘違いを、平然としてみせる。

 彼の言葉の意味は、わたしには半分もわからない。
 それでもなんとなく、わたしなりの解釈のようなものもある。
 
 物事は本来的に等しく無価値だ、ということだ。



227: 2016/09/07(水) 00:28:19.01 ID:EcShruDUo




 最初に向かったのは、お兄ちゃんが昔働いていたスタンドだった。
 
 時間は四時を回った頃だった。

 この年の平日、この時間帯なら、お兄ちゃんは既に店先に出て働いているはずだった。
 けれど、いない。

 お兄ちゃんはいない。

 どうしてだろう、と考えても、何もわからなかった。
 何が「どうして」なのかすらわからない。とにかく、何もかもが今はわからなかった。

 わたしたちはしばらく店の前で立ち止まったあと、再び歩き出した。
 
 次に目指したのはお兄ちゃんが通っていた高校だった。
 とにかく彼の姿を確認したかった。


228: 2016/09/07(水) 00:28:44.54 ID:EcShruDUo


 
 制服姿の学生たちが校門からまばらに外へと流れていく。

 わたしとケイくんはふたりでその場に立ち尽くす。

 祈るような気持ちだった。
 
 とにかくお兄ちゃんがこの世界にもいることを確認したかった。
 そうすることでしか、この世界がわたしの知っているものだと確信が持てない。
 
 わたしはどこにいるのか。
 それが知りたかった。

 不思議なことに、お兄ちゃんを見つけることはとても簡単だった。

 数分も経たないうちに、お兄ちゃんは昇降口から姿を現した。

 あの頃の姿をしていた。
 わたしが子供だった頃の姿で、生きていた。

 誰かと一緒に。


229: 2016/09/07(水) 00:29:24.26 ID:EcShruDUo

 それは女の子だった。
 
 黒髪を背中まで伸ばした、綺麗な女の子だった。
 それが誰なのか、わたしはすぐにわかった。
  
 わたしが生まれる前から、お兄ちゃんと仲が良かったひとりの女の子。
 いつからか、お兄ちゃんが、彼女の話をすることはなくなった。

 少なくとも、バイトを始めた頃には。

 そのふたりが、並んで歩いている。
 楽しそうに笑いながら。

 どうしてわたしはそれにショックを受けたんだろう。
 自分でもよくわからなかった。
 
 彼らはわたしたちの姿をちらりと見てから、そのまま横切っていった。

 お兄ちゃん、と、
 とっさに呼びそうになって、思いとどまったわたしをわたしだけは褒めてあげたい。

「あの!」

 他人相手にするみたいな言い方で、わたしは彼らを呼び止めた。
 

230: 2016/09/07(水) 00:29:57.20 ID:EcShruDUo

 見知った人が、自分に向かって見せる怪訝げな表情が、どれだけ自分を傷つけるのか、
 わたしはそのときはじめて知った。
 
 ふたりは立ち止まって、戸惑った表情でわたしの方を見る。
 
 冷静に考えれば当たり前なのだ。
 お兄ちゃんは、この年、まだ高校生で、わたしのことを知ってるとしても、
 わたしのこの姿を見て、わたしだとわかるわけがない。

 それでも何かを期待せずにはいられなかった。

 その冷たい目を見ていても。

「あの、碓氷遼一さんですか」

 わたしの問いに、お兄ちゃんは、何か戸惑ったような顔になった。

「……きみは誰?」
 
 その問いに対する答えの代わりに、わたしは質問を重ねた。

「碓氷愛奈という女の子を、知ってますか?」

 お兄ちゃんは、
 首を横に振った。

「知りません。……きみは誰?」


231: 2016/09/07(水) 00:30:36.03 ID:EcShruDUo



 人違いでした、と無理のある言い訳をしてから、わたしはその場を後にした。
 
 ずいぶん歩きまわった。長い距離を移動した。
 そのせいで髪だってボサボサだったし、埃だらけのところを通ったせいで服だって汚れていた。
 
 そういえばお腹だってすいたような気がする。何か食べたっけ?

 頭がくらくらした。

 知りません。知りません。
 
 不思議な感じがした。
 これまでに味わったことのないような感覚だ。
 自分のからだが自分のものじゃないような感覚。

 いったいなにが起こったんだ、とわたしは自分に問いかけてみる。

 さっきのはたしかにお兄ちゃんだった。
 でも、お兄ちゃんはわたしの名前を訊いてもわからないと言った。
 じゃああれはお兄ちゃんじゃない?

 違う。お兄ちゃんは氏んだ。
 氏んだのに、どうして生きてるんだ。
 
 それはここが2008年だから。
 でもお兄ちゃんが生きていた2008年なら、わたしだってたしかにいたはずなのに。
 お兄ちゃんの傍に生きていたはずなのに。

 ……やっぱりこれは、悪い夢?


232: 2016/09/07(水) 00:31:08.85 ID:EcShruDUo

 くらくらと揺れる視界を引きずったまま、何かから逃げるみたいに歩く。

 ケイくんが後ろから声をかけてくれている。
 うん、大丈夫だよ、とわたしは答えている。それも分かる。

 大丈夫ってなんだ?

 お兄ちゃんがわたしを知らないなんてありえない。
 そうじゃなかったらわたしはどこにいるってことになるんだろう。

 でも、ありえないなんてことを言ってしまえば、そもそもこの状況自体がありえないものだ。
 2008年? タイムスリップ?

 奇妙な夢だと、そう考えたほうがずっと納得がいく。
 こんなわけのわからない状況を、理屈で理解しようとする方が、狂気の沙汰だ。



233: 2016/09/07(水) 00:31:36.94 ID:EcShruDUo

 高校から離れて、大通り沿いの薬局の敷地に入り、店のそばの自販機まで歩いていく。
 機械に背中をもたれて、わたしは息を整える。
 
 心臓の拍動が現実的だった。

 喉が渇く。息が詰まる。手の先がしびれるような感覚。そのどれもがぜんぶぜんぶ現実的だった。
 でも、夢というのはそういうものだし、そうであるならこれが夢ではないと言える保証なんてどこにもない。

 手のひらで顔を覆った。
 どうすればいいのかわからなかった。

 ケイくんは何も言わない。わたしも今は何も言ってほしくなかった。

 何を考えればいいのかも今はわからなかった。

 とにかく今すぐに誰かがこの場にきて、分かりやすい説明をしてくれないものかと思った。
 さもないと今すぐにだって叫びだしてしまいそうだった。

 そこに、声が降り立った。


234: 2016/09/07(水) 00:32:04.85 ID:EcShruDUo

「どうしたの?」

 わたしは、黙ったまま、視界を遮っていた手のひらを下ろした。
 声のした方には、小さな女の子が立っていた。

 中学生くらいの、女の子。
 でも、お兄ちゃんの高校の制服を着ている。どこか探るような、瞳。

「あんた、誰」

 怪訝げに訊ねたのは、ケイくんだった。警戒? 興味本位に声をかけられたことに対する苛立ち?
 でも、彼女は怯みもせずに、言葉を続けた。

「迫間 まひる」と彼女は名乗った。でも、名前なんて知ったところで彼女のことはひとつもわからないままだ。

「何の用?」とケイくんは取り合わなかった。

「べつに?」と迫間まひるは笑った。

「ちょっとおもしろそうだと思って。さっき、碓氷に話しかけてたところを見たからさ」

 わたしは、返す言葉を失った。どう答えるのが正解なのか、それが分からなかった。

「あんた、碓氷遼一の知り合いか?」

「ん。ま、ね。でも、わたしあの子にはそんなに興味ないんだよね。どっちかっていうと、きみたちの方」

「……」

「ちょっとさ、どっかでお話しない? ちょっとくらいなら、奢るよ」

 笑った彼女のその言葉に、頷いてしまったのはどうしてだろう。
 他に頼るものがなかったからか、その笑みに、何か懐かしいものを感じたからか。

 それは両方だったのかもしれない。



237: 2016/09/11(日) 21:57:45.84 ID:p119a274o



「夢ってことにされたら困るかなあ」と迫間まひるは言った。

「だってこの世界があなたの夢ってことになったら、
 わたしの存在だって夢ってことになっちゃうでしょ。そりゃ、否定はしきれないけどね」

 平然と笑いながら、彼女はカップのなかのメロンソーダをストローでかき混ぜる。
 からからと氷が鳴る。

 高校からさして離れていない場所、道路沿いのファミレス。
 わたしとケイくんは彼女と向い合って座っている。

 興味本位だよ、とあっさり言った、目の前の女の子に、わたしたちの身に起こったことをすべて話してしまったのは、
 彼女が無関係の第三者だからかもしれない。

 彼女がわたしの話を信じようが信じまいが、わたしたちにデメリットはない。
 それにわたし自身、状況を整理するために、誰かに話を聞いてほしい気持ちがあった。


238: 2016/09/11(日) 21:58:11.27 ID:p119a274o

 迫間まひる。彼女については、奇妙な印象をどうしても拭えなかった。
 
 軽薄で何も考えていなさそうにも見えるし、何かを重く抱え込んでいそうにも見える。
 気安く親しげな雰囲気も感じるが、どこか踏み込ませようとしないような一線も感じられる。

 得体が知れない、何を考えているかわからない、そんなイメージ。

 彼女の言葉について少し考えた後、わたしはカップを持ち上げてストローに口をつけた。
 ファミレスとはいえ、ひさびさにゆっくりと落ち着ける場所にきて、静かに飲み物を飲むことができる。
 
 いいかげん、状況が混乱しすぎてわけがわからなくなっていたところだ。
 こういう機会があったのは、ちょうどよかったのかもしれない。

 迫間まひるは、夢だとしたら困る、と言った。

「でも、そうだとしたら……いったいなんなんだろう」

 正しい答えを期待したわけじゃない。ただ、考えるヒントがほしくて、そうひとりごとのように呟いた。


239: 2016/09/11(日) 21:58:44.36 ID:p119a274o

 むー、と子供みたいな顔で唸りながら、まひるは自分の鼻の頭を親指で撫でた。
 どうやらそれが彼女の何気ない癖らしい。

「とっても現実的な解釈をしてみてもいい?」

「……なに?」

「ぜんぶ、きみたちの妄想」

「……」

 ケイくんが溜め息をついた。

「白昼夢、でもいいよ」

「妄想? この状況が?」

「ううん。きみたちが、七年後の未来の人間だって話」

 わたしは、彼女の言葉の意味がわからずに眉をひそめた。
 彼女はメロンソーダに口をつけて楽しげに笑った。

「現実的に解釈すると、ね」

「どういう意味?」


240: 2016/09/11(日) 22:00:21.30 ID:p119a274o

「きみたちの話を総合すると――」とまひるは座席の背もたれに体重を預けた。

「変な鏡、変な女の子、変な街、変な景色。そこに関してはおいておくとして……。
 君たちは、2015年から2008年までタイムスリップした、ってことだよね?」

「……うん」

「まず、タイムスリップなんてことは日常的にはありえない。
 現にそれを目の当たりにしたわけじゃないわたしとしては、
 きみたちがわたしをからかってるって考えるのがいちばん現実的。じゃない?」
 
 ……確かに、彼女の立場からすれば、そういうことになる。

「だから、妄想か白昼夢。精神疾患かドッキリでもいいけど?」

 軽薄に笑うまひるの表情を見て、それまで黙ったままだったケイくんが舌打ちした。

「嫌な奴だな、あんた」

「ん? なにが?」

「言いたいことははっきり言えよ」
 
 ケイくんは、本当に苛立っていたみたいだった。表情はいつにもまして機嫌悪そうだった。
 
 その表情に、まひるは笑う。


241: 2016/09/11(日) 22:01:25.34 ID:p119a274o

「いくら凄まれたって、きみたち2015年から来たんでしょ? そのときにはわたし二十代だし。
 逆に過去のきみたちがもしこの世界にもいるとすれば、街のどこかでランドセル背負ってるわけだよね?
 そう思えば、あんまり怖くはないかなあ。むしろ笑っちゃうくらい」

 ケイくんはまた舌打ちをした。彼の不機嫌さの理由が、わたしにもなんとなく分かる。
 柳に風が吹くような手応えのなさ。

 たしかに話を聞くけれど、親身になるというのではない。
 バカにするわけでもないけれど、真剣に考えているというのでもない。
 まひるには、結局、他人事なのだ。

「ま、あんまり怒らせてもあれだし、結論から言っちゃうけど……つまりさ。
 夢とか妄想とか言ってても、話が進まないんだよね。否定しきれないから」

「話が進まない?」

「うん。だから、きみたちの認識がとりあえず間違っていなくて、かつ、夢でもないってことから話を進めようよ」

「……」

 それはつまり、今、この状況が、わたしたちに現実として降りかかっていると認めること。
 常識的な考え方を一旦放棄して、超自然的な仮説を検討してみること。
 それはある意味で当たり前のことなのに、どうしても、そう考えるのは困難だった。


242: 2016/09/11(日) 22:02:45.99 ID:p119a274o

「そういう前提に立って話をしてみようか」

 少しだけ前のめりになって、まひるは笑みを浮かべたまま続ける。

「まず状況の整理。きみたちは2015年の人間。で、今は2008年。つまり、きみたちは七年後から来た」

「俺たちの認識からすれば、ここが七年前ってことになる」

「……つまり、タイムスリップってことだよね」

 そこまではわたしたちも考えていた。あまりに白々しくて、まともに考える気にもなれなかった。
 そんなことを真面目に考えるのが馬鹿みたいに思えて。
 けれど……そんな理由で思考停止することの方が、バカみたいなのかもしれない。

「少なくともそういうことになるけど、変わったのは時間だけじゃないよね?」

 まひるの言葉に、黙りこむ。

 そこからが問題になる。
 
 お兄ちゃん――わたしの叔父――碓氷遼一。
 さっき、対面した。わたしは彼を間違えない。

「ねえ、確認するけど、きみの言うお兄ちゃんっていうのは、碓氷のことでいいんだよね?」

 まひるは、そう言った。

「……うん」


243: 2016/09/11(日) 22:03:27.76 ID:p119a274o

「碓氷遼一。間違いない?」

「そう」

「でも、碓氷はきみの名前に反応しなかった。一緒に暮らしていたはずなのに」

「……うん」

「くわえて、きみが碓氷と暮らしていたはずの家には、きみじゃない女の子が住んでいた」

「……」

「大きな変化はこのくらいかな?」

「……そう、だね」

「じゃあ、ここからは仮定」

 そのいーち、と言って、まひるは子供っぽく指を立ててから、メロンソーダにまた口をつける。

「世界が変わっちゃった、って可能性」

「……変わった?」

「つまり、作り変えられた」

「……一気に規模が大きな話になってくるね」

 わたしの呆れた溜め息に、まあ可能性だから、とまひるは笑った。

「ま、これも夢とかと同じかな。否定もできないし、かといって認める根拠もない。それはふたつめも同じだけどね」

「……ふたつめって?」

「そのに」と今度は指を二本立てて、まひるは楽しげに笑う。ケイくんが呆れたような溜め息をついた。

「並行世界」


244: 2016/09/11(日) 22:04:12.84 ID:p119a274o

「……並行世界」

 正直にいうと、わたしが最初に考えた可能性もそれだった。

 わたしたちは時間だけでなく、世界も移動したのではないか、と。

「並行世界」とケイくんが呟く。

「枝分かれした世界。可能世界。多世界解釈」

「言い方はなんでもいいけどね。"論理空間における異なる諸事態の成立"とか?」

 呪文のような聞き馴染みのない言葉を吐いて、まひるは空になったカップの中の氷をかき回す。
 からからと氷が鳴る。

「"他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。"」

 まひるはそう続けた。

「ま、受け売りだけどね」

「……並行世界だとしたら、なんなの」

 わたしの言葉に、まひるとケイくんがそろって押し黙った。

「並行世界だとしたら、何が分かるの」

 わたしが知りたいのは、説明じゃない。
 そうだとして、それがいったい何を意味していて、それをわたしがどうできるのか、というところだ。

 この状況がいったいなんなのか。わたしが知りたいのはそれだけだ。
 

245: 2016/09/11(日) 22:06:00.45 ID:p119a274o

「そんなの知るわけないよ」とまひるはきょとんとした顔で言った。

「ある状況が何を意味しているか、なんて人間に分かるわけないじゃない?
 わたしがこの街に生まれたことは? あの両親のもとに生まれたことにどんな意味があるのか?
 わたしがわたしとして生まれたことにどんな意味が? そんなの説明できないよ」

 わたしたちにできる説明はいつだって、"どのように"だけだよ。
"なぜ"はわからない。そういうものでしょう?

 ましてやきみにそれをどうできるかなんて、そんなところまで考える義理はわたしにはないよね?

 今度はわたしが黙る番だった。

「……でも、そうだなあ。ね、一個質問していい?」

 わたしはなんとなく、このまひるという女の子を怖いと感じ始めていた。
 でも、どこかで、それと同じくらいの真逆の気持ちも覚え始めている。
 
「きみの知ってる碓氷遼一ってさ、どんな人間だった?」

「……どんな、って」

「質問を変えるね。きみは、さっき出会った碓氷遼一と、きみの知っている碓氷遼一との間に、何か違いのようなものを感じなかった?」


246: 2016/09/11(日) 22:06:26.94 ID:p119a274o

「違い……?」

「うん。違い」

 違い。
 
 ――知りません。……きみは誰?

 わたしは。
 たしかに、違和感を覚えた。

 誰かとふたりで、楽しげに並んで歩くお兄ちゃんの姿。
 それは、たしかに、わたしが知っているお兄ちゃんの姿とは遠い。

 それは、わたしが知らなかっただけなのかもしれないけど、でも、それにしたって、
 さっき見たお兄ちゃんには、昔からずっとお兄ちゃんが宿していた影のようなものが感じられなかった。
 あの韜晦を感じられなかった。

 それとも、今のわたしが、この頃の彼と同年代くらいの年齢だからそう思うだけなのだろうか。

「ないかな?」とまひるが言った。

「……あるといえば、あるような気も。でもそれは、こちらの見方の問題かもしれないし」

 わからない、と曖昧に首を振ると、「そっかあ」とまひるは少し残念そうにした。

「どうして、そんなことを訊くの?」



247: 2016/09/11(日) 22:07:04.81 ID:p119a274o

「んや。どっちにしても彼は、きみのことを知らなかったわけだ」

「……」

「きみ、名前、なんだっけ?」

「愛奈。……碓氷愛奈、です」

「この世界――って呼び方、なんかバカバカしいけど。ここで碓氷……遼一の方と暮らしている女の子は、なんだっけ?」

「わたしの、妹。父親が違う……」

「ふむ。なるほどね」

「なにか、分かるの?」

「いや、まあ、思いつきっていうか、今現在の情報だけで判断すると、だけどね」

 そう前置きしたあと、まひるはちょっと躊躇する素振りを見せた。

「……なに?」

 ケイくんが、小さく舌打ちした。それでも彼は何も言わない。
 わたしはまひるの目を見る。

「つまりさ、仮に並行世界の仮説が正しいとして、ここがきみにとってどんな並行世界かっていうと」

「……うん」

 わたしは一瞬、寒気のような感覚を覚えた。
 続く言葉は、あっさりと吐き出された。

「ここは、きみがいない世界なんだよ」


250: 2016/09/19(月) 21:30:53.90 ID:XGrTCyqCo



 初期値鋭敏性って言葉を知ってる?

 ものすごく簡単に言うとね、『最初の状態が少し違うだけで結果は大きく変わる』みたいなこと。
 
 たとえば、この世界にはきみがいない。
 碓氷愛奈という少女がいない。

 最初からいなかったのかもしれないし、もしかしたら氏んでしまったのかもしれない。
 
 ううん、氏んでしまったのだとしたら碓氷が名前くらいは知っているだろうから、いなかったんだろうね。

 その結果どうなるだろう?

 たとえばきみは碓氷と暮らしていた。詳しい事情は知らないけど、とにかく碓氷と暮らしていた。
 そして、きみの母親がきみのお父さんとは違う人との間につくった子供は、碓氷とは暮らしていなかった。

 でも、この世界ではその子が碓氷と暮らしている。
  
 名前や見た目はそのままだったの? それっておもしろいね。


251: 2016/09/19(月) 21:31:28.20 ID:XGrTCyqCo

 勝手な想像で悪いんだけど、つまりきみのお母さん、再婚して子供を産んだんだよね。 
 半分血の繋がった妹と一緒に暮らしていなかったってことは、つまり、きみは母親と暮らしていなかった。

 どうしてそうなるのか、わたしにはよくわからないけど。

 じゃあ仮に、この一連の流れにきみがいなかったら、どうなるかな。

 仮に。きみのお母さんは、きみのお父さんと結婚しなかった。あるいは、きみのお父さんとの間に子供をつくらなかった。
 
 そして離婚したとして、きみの妹のお父さんと再婚するとする。

 きみの妹が生まれる。そして彼女がきみの家で暮らしているということは、
『きみがいないから』、きみのお母さんはきみの家で暮らしている、とか、あるいは子供を預かってもらっている、とか。

 そこには碓氷遼一が住んでいるわけだから、ふたりは当然、一緒に暮らすなり、一緒に過ごすなりしていることになる。

 きみがいない。
 だから、この世界はこうなってる。

 どうかな。納得できないかな。


252: 2016/09/19(月) 21:31:57.30 ID:XGrTCyqCo



 わたしは黙り込んだ。何を言えばいいのかよく分からなくなってしまった。
 頭をよぎったのは、校門から出てきたときの、お兄ちゃんのあの表情。
 
 楽しそうな笑顔。

 あんな顔を、わたしは見たことがない。
 お兄ちゃんはいつも、大人びた表情をしていて、どんなときも、平然としていて、
 あんなふうに、子供みたいに楽しそうに笑うことなんてなかった。

 グラスに浮かぶ結露に触れる。視線が自然と落ちていく。
 何も言える気がしなかった。

 耳から入ってきた情報をうまく整理できない。
 
 それじゃまるで……。

 わたしがいたから。 
 わたしがいたから、お兄ちゃんは。
 
 誰とも笑い合わずに、
 寂しさを隠すような顔で、
 生き続けていたかのような。

 わたしがいたから。

 お兄ちゃんはお母さんと一緒にいられなくなって。
 わたしが――いたから。


253: 2016/09/19(月) 21:32:28.28 ID:XGrTCyqCo

「――納得できないな」

 そう言ったのは、ケイくんだった。

 まひるが、目を丸くする。

 ケイくんは退屈そうに前髪を揺すり、ウーロン茶の入ったグラスに口をつけた。

「どうして?」とまひるは言った。

 ケイくんは少し間を置いてから、静かに話し始めた。

「……理屈は分かる。たしかに、そういうふうに考えることもできる。
 でも、それがどうして『そう』じゃなきゃいけない?」

「どういう意味?」

「仮にこの世界が並行世界だとする。ここが『こいつ』のいない世界だとする。
 でも、『だから』こうなったなんて言い切れるか?」

「……というと?」

「並行世界なんてものを仮定してしまえば、可能性は無限だ。
 こいつがいなかった世界、こいつがいた世界。俺たちが見たのがそのふたつだとする。
 ここがたしかに、そういう世界だとする。でも、だ」

 彼はまっすぐにまひるを見据えた。ほとんど、睨むような目で。


254: 2016/09/19(月) 21:32:55.83 ID:XGrTCyqCo

「『こいつ』がいなかったからこの世界はこうなのか? 
 あんたの言葉を借りるなら、初期値鋭敏性……その初期値の差だけで、本当に世界がここまで違っているのか?」

「でも、そうじゃないとしたらなんなの?」

「たしかに、この世界は、可能性として有り得るかもしれない。実際に目の前に広がってる。
 でも、並行世界の存在を前提にするなら、『こいつがいても、こいつの叔父がそうだった世界』だってどこかにあるんじゃないのか?」

 まひるは、考え込むように目を伏せた。

「『こいつが母親と暮らした世界』『こいつが妹と暮らしていた世界』あるいは『叔父がいなかった世界』。なんだって言えるだろう」

「……」

「どうしてこいつの妹が、『こいつのいない世界』でも同じ名前で同じ顔なんだ?
 あんたの言う初期値鋭敏性ってものを問題にするなら、こいつの母親が同じ相手と再婚すること、同じ名前をつけることだって変じゃないか?」

「……」

「もっといろんなことが変わってもいいはずだ。でも、違いはそういうところだけだろう。
『こいつがいなくて』、『叔父が別人みたいになっている』。『妹が叔父と暮らしている』」

「……でも、だったら、どう説明するの?」

「作為的すぎるんだよ」
 
 ケイくんは不快そうに眉間に皺を寄せて、吐き捨てるようにそう言った。


255: 2016/09/19(月) 21:33:22.36 ID:XGrTCyqCo

「並行世界なんて普通に生きてたら存在すら確認できないんだ。それなのに俺たちは巻き込まれてる。
 変な状況だ。その変な状況を、自然現象みたいな理屈で解釈するのが間違ってる。
 仮に無数の並行世界があったとしたら、俺たちは何かの悪意によって、この世界に招き寄せられたんじゃないのか」

「誇大妄想的だね」

「はじめから妄想的な説明しかできないような事態なんだよ」

「じゃあ、いったい何なの?」

「こういうのはどうだ? ここは無数の並行世界の中で、もっともこいつにとって不愉快な世界だっていうのは」

「……」

「単にこいつがいなくて叔父が変化してるっていうのは、まあ納得がいく話だ。
 でも、どうしてそこに妹のことまで関わってくる? それだと分かるような妹がいる?
 初期値鋭敏性って理屈に則るなら、こいつの家は引っ越してるかもしれないし、誰かが氏んでるかもしれない」

 隕石が降って人類が滅亡してるかもしれないし、解決不能の疫病が蔓延して危機に瀕しているかもしれない。
 でも、ここはこうだ。


256: 2016/09/19(月) 21:34:17.75 ID:XGrTCyqCo

 仮に並行世界間の移動が無作為なものだったとしたら、もっとわけのわからない世界に巻き込まれたってよかったはずだ。

「だからこれは、誰かの悪意なんじゃないのか?」

「悪意?」

「俺には、そうとしか思えないけどね。俺たちの前に、あんたみたいな人間が現れたことも込みで、だ」

 ケイくんは、そう言ったきり黙り込んだ。まひるは何も反論しなかった。

「……そうかもね。たしかに」

 けれど、わたしはなにひとつ救われなかった。
 並行世界? ふたりとも、それを前提に話をしている。
 でも、そうじゃないとしたら? 世界が無数なんかじゃなく、このふたつしかなかったとしたら?

 だとしたらやっぱり、わたしがいる世界と、いない世界しかなくて。
 わたしがいない世界の方が、お兄ちゃんは幸せそうだった。

 そういうことにはならないだろうか。


257: 2016/09/19(月) 21:34:46.55 ID:XGrTCyqCo

「ところでさ、きみたち、このあとどうするの?」

「……このあと?」

「だって、この世界にあなたたちの居場所なんてないんじゃない?」

「……」

 ケイくんがまた、何かを言いかけた。

「ごめん、言い方が悪かった。行き場がないんじゃないかな、って思ったの」

「……だったら?」

「ふたりとも、うちに来ない?」

 その一言に、わたしたちは呆気にとられた。

「……どうして?」

「どうしてって、人助けに理由はいらないでしょ?」

「……胡散臭いな」


258: 2016/09/19(月) 21:35:13.06 ID:XGrTCyqCo

 ケイくんは睨めつけるような目でまひるを見ている。
 さっきからずっとこうだ。

「いい加減、イライラするな、あんたと喋ってると。
 人助け? 冗談じゃない。あんた、そういう人間じゃない。見れば分かる。
 目を見れば分かるんだよ。そういうの、通じる相手を選べよ」

「余裕ないね、きみ。でもいいの? 泊まるアテ、あるの?」

 そう言ってまひるは窓の外を見た。もう、暗くなりかかっている。

「明日以降、どうするかは置いておいて。とにかく今日は宿が必要なんじゃない?」

 ケイくんは舌打ちした。

「何考えてるんだ、あんた」

 まひるは、少し考えるような間を置いたあと、笑った。

「おもしろそう、かな」

 また、ケイくんは舌打ちをした。
 

261: 2016/09/24(土) 00:57:39.77 ID:diwmELugo



 まひるの部屋は地下鉄駅から十分ほど歩いたところにある六階建てのマンションの一室だった。
 彼女はそこで一人暮らしをしているという。

 トイレ、浴室洗面所、バルコニー、エアコン、クローゼット付き1K。

 玄関で靴をそろえると、「どうぞ」と彼女はわたしたちを室内に手招きした。

「狭いし一部屋しかないけど、まあ三人寝れないこともないからね」

 おじゃまします、となんだか奇妙な気持ちでつぶやきながら上がり込んだ部屋には、あまり物が置かれていなかった。
 テレビ台の上のテレビ、本棚の中の本、
 小さな収納ラックには、無機質な印象の部屋のなかで少しだけ浮かび上がった旧世代のゲーム機。

「ゲームなんてするんだ。意外」

 場にそぐわない素直な感想をわたしが漏らすと、まひるはきょとんとした顔で、「しないよ?」と返事をよこした。
 だったらどうしてあるんだ、と思ったけれど、考えないことにした。

 まひるが一人でこの部屋に住んでいる理由だってわたしには関係ないし、
 彼女の部屋にゲーム機があるかないかだってどっちだってかまわない。

 絨毯の上にはちいさなクッションとシンプルなテーブル、その上にはカバーに覆われた文庫本。

 たしかにやりようによっては三人寝られなくもなさそうだった。
 それでも、見ず知らずの他人を泊める気になるのは不思議だったけど、
 けっきょくわたしたちには他に行き場なんてなかった。



262: 2016/09/24(土) 00:58:10.15 ID:diwmELugo

「とりあえず、ふたりとも、お風呂入る? すぐ沸かすけど」

 間延びした口調でそんなことを言うと、彼女は手慣れた様子でぱたぱたと浴室の方へと向かった。

「ありがたい、けど……」

「ん?」

「着替えが……」

 わたしの声に、彼女は廊下の向こうから返事をよこした。

「あ、うん。わたしの貸すよ。ちょっと小さいかもしれないけど。ケイくんも」

「……俺に女物の服を着ろっていうのか」

「借りる立場で贅沢言っちゃだめだよ」

 まひるの言葉に、ケイくんは溜め息をついて額を押さえた。

「……いい。今日はこの服で寝るから」

 あはは、とまひるの声が浴室で響いた。

「冗談だよ。ちょっと待ってて、たぶん、あると思うから」

263: 2016/09/24(土) 00:58:56.62 ID:diwmELugo

 まひるは白い柔らかそうなタオルで手を拭きながら部屋に戻ってくると、
 クローゼットの方へと近付いて、取っ手を握る。

 そして一瞬硬直した後、

「ちょっとそっち向いてて」

 と照れたように笑う。
 わたしたちは顔を見合わせてから、体ごと後ろを向いた。

 そのまま横目にケイくんの顔を見ると、彼は気まずそうに天井に視線を向けていた。
 こんなケイくん、はじめてだ。

「あったあったー」

 軽い声のあと、クローゼットを閉める音がした。

「もういいよ。ごめんね」
 
 わたしたちが振り返ると、たしかにまひるは女物の服と一緒に、男物の青いパジャマを持っていた。
 
「あとこれ、下着」

 と彼女はにっこりと笑ってわたしたちの目の前でトランクスを広げた。
 なんとなく気まずくて、わたしは目をそらした。

「……誰のだか知らないけど、さすがに下着は借りる気になれない」

「大丈夫だよ。未使用だもん。ほら」

 と言って、彼女は下着についたままになっているタグをこちらに見せた。


264: 2016/09/24(土) 00:59:24.77 ID:diwmELugo

「……一人暮らしなんじゃないのか?」

「ん、そうだよ」

「彼氏が泊まりにくるとか?」

「まさか。そんなのいないもん」

 だったらどうして男物の下着を常備しているんだろう。
 
「ま、あんまり詮索しないのが良い男だよ、ケイくん」

 そうやってまひるが当たり前のように「ケイくん」と呼ぶのに、わたしはなんとなくもやもやしたものを感じたけれど、
 たぶん彼女に他意はないのだろうし、ケイくんも気にしたふうではなかったし、
 そもそもそういうあれこれについてわたしは何かを言えるような立場ではなかった。

「そういえば、ふたりはどんな関係なの? 愛奈ちゃんの事情はなんとなく聞いたけど、ケイくんは?」

 どんな関係、と言われて、わたしたちはまた顔を見合わせた。
 

265: 2016/09/24(土) 01:00:00.78 ID:diwmELugo

「……どんな、と言われてもな」

 困ったように、ケイくんが頭を掻いた。

「ともだち、かな」

 わたしはケイくんの方を見ないようにしながらそう答えた。

「ふうん」

 まひるはなんだか意外そうな顔をした。

「まあいいや。さっき何も食べなかったけど、お腹すいてる? なにか作っちゃうけど」

 さっきまで彼女に何か得体の知れないような印象を抱いていたわたしは、
 そんなふうに親切にされると、申し訳ないような、うしろめたいような気持ちになった。
 
 それでも、今日(という言い方でいいかわからないが……)は遊園地に行く前からずっと歩きっぱなしで、
 湯船につかってゆっくり休みたい気持ちも、着替えて体を落ち着かせたい気持ちも、否定できなかった。

 わたしはケイくんの方を見た。

 彼はまだ困り顔をしていたけど、わたしの方を見て小さく頷く。

「甘えておこう。どうせ俺らには関係のない相手なんだし」

「そうそう。お姉ちゃんに甘えておきなよ」

 まひるはからから笑う。


266: 2016/09/24(土) 01:00:49.82 ID:diwmELugo

「お姉ちゃんって、おまえいくつだ?」

「ん。高三」

 高三、とわたしはちょっと驚いた。
 身長や体型が子供っぽいせいで、てっきり一年生だと思い込んでいた。

「きみたちは?」

「……高一だった」

「じゃあ、どっちにしたってわたしがお姉ちゃんなんだね」

 まひるは満足げに腕を組んで頷いたかと思うと、キッチンへと向かった。

 カウンターの上に置いてあった髪留めをとったかと思うと、髪を後ろでひとつに結んで、制服のまま冷蔵庫を開ける。

「何食べたい?」

 わたしは、少し考えたけれど、結局、思いついた言葉をそのまま吐き出していた。

「……オムライス」

 まひるは面食らったような顔をした。

「オムライス? で、いいの?」

「……うん」

「ケイくんも?」

「なんでも、ありがたくいただきます」

 まだ少し皮肉っぽい調子でそう呟くと、ケイくんは羽織っていたシャツを脱いで、床に腰を下ろした。
 クッションはおろか絨毯すら拒否するように、フローリングの上で。ケイくんらしいな、とわたしは思う。

「わたし、手伝う」

 そう言ってキッチンに向かうと、まひるは楽しそうに頷いた。


270: 2016/10/02(日) 22:47:58.07 ID:PZbkCpiXo



「あのさ、愛奈ちゃんって、ひょっとして」

「……」

「あんまり料理とかしない?」

「……ごめんなさい」

 手伝うとは言ったものの、わたしの行動は「手伝い」にすらなっていなかった。

 オムライスをつくるのはまひるに任せて、わたしはコンソメスープ作りを任されたのだけれど、
 具材を包丁で切り分けるというたったそれだけの作業さえ、手間取ってしまう。

「あんまり、やったことなくて。ダメだと思うんだけど」

「ううん、べつにダメってことはないと思うけど。でもなんか意外だったから」

「意外?」

「うん。普段は家の人がしてるの?」

「……うん。意外って、どういうこと?」

「なんとなく、自分のことは自分でするタイプなのかな、って」

「そうできたらいいんだけど」

「そうかな」

 まひるは一瞬、わたしから目をそらした。

「自分のことを全部自分でできるのって、ひょっとしたら寂しいことかもしれないよ」


271: 2016/10/02(日) 22:48:32.26 ID:PZbkCpiXo



 まひるのつくってくれたオムライスと、わたしの切り分けた不格好なじゃがいもの入ったコンソメスープを食べてから、 
 ケイくんは何も言わずにそっぽを向いた。

「ケイくん」

 とわたしが声を掛けると、彼は仕方なさそうに笑って、

「ごちそうさま」

 と言った。そんなリラックスした様子の彼を、わたしは随分久しぶりに見たような気がした。
 そんなに久しぶりではないはずなんだけど、そう思うとわたしの胸がちくりと痛んだ。

 夕食を食べ終えて少し休んでから、まひるは片付けを始めた。

 わたしは食器を洗うのを手伝おうとしたけれど、「お風呂、入っちゃいなよ」と断られて、
 厚意に甘えてしまうことにした。


272: 2016/10/02(日) 22:49:00.33 ID:PZbkCpiXo



 ひとりきりの浴室、見慣れないシャワーノズル、自分のものとは違うシャンプーボトル。

 わたしはシャワーを浴びながら自分の姿を見た。
 
 ひどく頼りない体に思える。
 何かおかしいような気がする。頭と体のバランス、手足の長さ、指先のかたち。

 なんだかひどく子供っぽく思える。

 わたしはなるべく鏡を見ないようにしながらシャワーを浴びて、髪と体を洗い、
 少し抵抗を覚えながら、ヘアゴムで髪を留めて、浴槽に体を浸した。

 ゆっくりとあたたまってく体、めぐっていく血。
 それを感じながら、これはやはり現実なんだろうと思った。

 今、わたしの身に起こっていることはすべて。


273: 2016/10/02(日) 22:49:37.91 ID:PZbkCpiXo

 お兄ちゃんのこと。ケイくんのこと。まひるのこと。お母さんのこと。穂海のこと。
 
 考えて、考えても、ぜんぜん、なんにも分からない。
 
 わたしの身に何が起きて、これからわたしがどうすればいいのか。

 ひとりきりで考えていると、急に心細くなる。

 浴槽の中で膝を抱えて、右手を後ろに回して自分のうなじに触れてみる。
 
 ここが、わたしの知っている世界とは別の世界だとしたら、
 わたしは、どうしたら元いた世界に帰れるのだろう。

 元いた世界は、どうなっているんだろう。
 あちらから、わたしはいなくなってしまっているはずで、 
 だとしたら、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、心配しているはずだ。

 ケイくんだって、こんな変なことに巻き込まれているより、早く帰ってしまいたいはずだ。

 でもわたしは、帰りたいんだろうか。
 お兄ちゃんのいない世界に。

 わたしはいつも誰かを巻き込んで、誰かの重荷になってばかりいる。
 祖父母だってきっと、わたしがいない方が……。
 
 わたしがいなければ、お母さんと喧嘩したりせずに、今でも一緒にいられたかもしれない。
 ひょっとしたら、お兄ちゃんだって、この世界でそうしていたように……。

 ケイくんは、違うと言ったけれど、わたしは、
 わたしは、やっぱり、わたしが生まれなかった方が、何もかもうまくいったんじゃないか、と、
 そんなふうに考えてしまう。


274: 2016/10/02(日) 22:50:44.34 ID:PZbkCpiXo


 
 考えごとに沈んでしまうとどうしようもなくなってしまうもので、
 ひとりでいるといっそう深みにはまってしまうから、わたしはそうそうに浴室を出て、
 まひるに借りた着替えを着て、ドライヤーで髪を乾かして、そのあいだずっと鏡で自分の姿を見ていた。

 顔。

 わたしの顔は、わたしにはやはり、どこか、おかしく見える。
 
 変な思いが、浮かんでは消えていくけれど、
 わたしはわたしがどうしたいかと考えるのをやめて、
 ケイくんと、祖父母のことを考えることにした。

 巻き込んでしまったケイくんを、元の世界に帰してあげないと。
 祖父母だって、きっと心配しているから。
 
 だからそのために、わたしは帰らなきゃいけない。
 元いた場所に。


275: 2016/10/02(日) 22:51:18.41 ID:PZbkCpiXo



「明日からのことなんだけど」

 少し買い物をしてくるから、といって、まひるは部屋を出ていった。
 気を利かせてふたりきりにしてくれたのかもしれない。

 実際、わたしはケイくんとふたりで話したいことがあった。

 ケイくんは濡れたままの髪をタオルで拭きながら、我が物顔で冷蔵庫をあけて、
 中に入っていたミネラルウォーターをコップに注ぐ。

「……ケイくん」

 わたしの声を無視して、彼はふたつめのコップを用意して、そっちにもミネラルウォーターを注ぐ。
 わたしは何も言わずに差し出されたコップを受け取った。

「……」

「感謝の気持ちは?」

「……ありがとう。ケイくんのじゃないけど」

「ま、そりゃそうだけどな」

「……それで、明日からのことって?」


276: 2016/10/02(日) 22:51:51.00 ID:PZbkCpiXo

「とりあえず、どうするかってこと」

「どうするか」

「そう。こんなとこ、長居したっていい気分にはならないし、早々に帰りたいだろ」

 やっぱり、ケイくんはそうなんだろう、とわたしは思った。
 
「……ごめん。巻き込んで」

「え?」

 彼はちょっと驚いた様子でこちらを見てから、タオルで耳の辺りを拭いて、

「いや、そうじゃなくて」

「ん?」

「……まあ、いいや。とにかくそれで、ひとまず今日はここに宿を借りるとして、明日から」

 ケイくんはちらりとテーブルの上を見た。
 煙草と携帯。当然この年にはまだスマートフォン用の充電器なんてないから、電池が切れたらそのままだ。
 もっとも、どっちにしても使い物になりそうにはないんだけど。


277: 2016/10/02(日) 22:52:18.63 ID:PZbkCpiXo

「煙草、吸いたいの?」

 ケイくんは首を横に振った。

「……いや。さすがにな」

 まあ、ここで堂々と吸われても戸惑ったところだ。

「それで明日からなんだけど」

 と、何度か遮られた話の続きを、ケイくんは仕切り直した。

「分からないことだらけだけど、元の世界に戻る方法を探さないといけないよな」

「あるのかな」

「一応、思いつくのはふたつあるな」

「……言ってみて」

「まず、あの遊園地にもう一回行ってみる」

「……うん。だよね」

 あそこから来たのなら、あそこから帰れるかもしれない。
 それはいちばんまっとうな考え方だ。

 入口と出口が同じものだとしたら。

「じゃあ、明日、行ってみよっか」

「ああ」

278: 2016/10/02(日) 22:52:52.69 ID:PZbkCpiXo

「……でも、もうひとつって?」

「あのときの、黒い服の女がいただろ」

「あのとき」

 ミラーハウスの中で見た、あの女の人。

「あの女を探す、っていうのだ」

「でも、見つかるかな」

「分からない。でも、あいつも俺たちと同じ場所を通ってきたはずだ。だったら、こっちにいるかもしれない」

 どっちにしても、骨が折れるけどな。ケイくんはそう言って、壁にもたれた。

「あの女が、何か知ってるかもしれない。まあ、ミラーハウスにもう一度行って、それで帰れるっていうのが一番だけどな」

 ケイくんが言ってるのは、きっと、「そうじゃなかったとき」の話だ。
 あの遊園地のミラーハウスにもう一度行っても、何も起こらなかったとき。
 わたしたちは途方に暮れてしまう。だからそのときは、あの女の人を探すしかない。

 でも、どっちも駄目だったら?

 ……そんなことは、いま考えても仕方ない。

「それじゃ、あした、ひとまず遊園地に行ってみようか」


279: 2016/10/02(日) 22:53:19.83 ID:PZbkCpiXo

「……なあ、大丈夫か?」

「なにが?」

 ケイくんは、自分でも何を訊いたのかよくわからない、というふうにもどかしげに首を振った。

「いや。べつにいいんだけど」

「……変なの」

 そう言ってから、わたしはミネラルウォーターに口をつけた。

 少し考えてから、

「大丈夫だよ」

 と答える。

「わたしは大丈夫」

 そう言った。自分に言い聞かせていたんだと、そう気付いたのはあとになってからだった。
 

280: 2016/10/02(日) 22:53:45.61 ID:PZbkCpiXo



 しばらくするとまひるが帰ってきた。買い物というのはどうやら歯ブラシだったらしくて、

「さすがに買い置きなかったから」

 と笑っていたけど、わたしとしては男性用下着の買い置きがあることの方がよっぽど不思議だった。
 それでもさすがに、世話になっておいて深く立ち入る気にもなれない。

 当たり前のようにわたしたちによくしてくれるまひるを見ながら、彼女のことがどんどんと不思議になっていく。
 
 この人は、どこか、お兄ちゃんに似ている。そう思った。

「ねえ、まひる」
 
 と、声を掛けてから、呼び捨てでいいものかどうか、ためらったけれど、
 
「なに?」

 と気にしたふうでもなく返事をしてくれる彼女の表情を見て、考えないことにした。

「ちょっと気になったんだけど、まひるは、お兄ちゃんと、どういう関係なの?」

「関係? ってほど、関係はないけど」

「知り合いではあるんだよね?」

「うん。そうだね」

 まひるはテーブルの上に置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを見て、
「わたしも飲もー」とコップをもうひとつ持ってくると、クッションの上に腰を下ろした。


281: 2016/10/02(日) 22:54:14.50 ID:PZbkCpiXo

「部活の後輩なんだよね。碓氷。碓氷くん。わたし、文芸部の部長でさ」

「文芸部……」

「きみたちのいた世界ではどうだった? そっちでも、碓氷は文芸部?」

「たしか、そのはず」

「そうなんだ。不思議なもんだよね、性格は、聞くかぎりじゃ全然ちがうのに。
 これはやっぱり、ケイくんの言ってた話の方が信憑性があるかな」

 それはともかく、とまひるは確かめようのない話を打ち切った。

「それで、碓氷は部員なんだけど……正直、わたしは彼のこと、あんまり好きじゃないんだよね」

「……どうして?」

「説明を求められると、難しいかな。いい子だと思うよ。友達も多いし、彼女もいるし。
 でも、うん。そうだね。碓氷の方の問題じゃなくて、わたしの問題かな。
 わたしが、碓氷を個人的に好きじゃないだけ。なんていうか、気質の問題かな」

「気質……?」

「うん。気質」

「よくわからない」


282: 2016/10/02(日) 22:54:42.38 ID:PZbkCpiXo

「碓氷は前向きで、過去にこだわらなくて、良いやつだよ。悪いことも間違ったこともあんまりしない。
 人気者ってほどじゃないけど、後輩にも先輩にも好かれるタイプだし。
 誰かを思いやれるし、面倒見もいいし、見た目もまあ悪くないし、でも……」

「……でも?」

「正しすぎる。正しすぎる人とは、話があんまり成立しない」

「……」

「だから、わたしはあんまり好きじゃない」

 本当に、個人的にね。まひるはそう言った。

 正しすぎる人とは、話があんまり成立しない。
 正しすぎる人は、怖い。


283: 2016/10/02(日) 22:55:20.34 ID:PZbkCpiXo


 中学校のとき、母の日にお母さんにプレゼントをするか、という話になった。
 その頃よく話していた、四人くらいのグループでの話だ。
 
 わたしは、母の日にプレゼントをしたことがない。
 母の日に顔を合わせたことなんて、ほとんどないから。

 だから、プレゼントはしたことがない、と言った。

 グループの中のひとりは、驚いた顔をしていた。

 そのくらいはしようよ、と、困った子を見るような顔で笑った。

 そこで話は終わった。
 べつに言い訳したかったわけでもないし、話を聞いてもらいたかったわけでもない。
 それでもわたしの中には、少しだけ、肌に刺さった抜けない棘のような暗い気持ちが残った。

 惨めさに近い何か。
 
 正しさは、どんなときでも正しいのだろうか。

 あるいは母にも、何かあるのかもしれない。
 わたしが、母の日に何も贈れないのと同じように、
 母にも何か、『できない理由』があったのだろうか。

 よくわからなくなる。
 
「うん。だからわたしは、碓氷が苦手」

 中途半端な沈黙を嫌ったみたいに、まひるはそう言ってかすかに笑った。
 わたしは、少しだけ反応に困って、小さく笑った。
 笑えたと、思う。



286: 2016/10/11(火) 20:22:36.75 ID:5Z2H/xJxo



 翌日の朝早く、わたしたちは学校へ出かけるまひると一緒に家を出た。

 早めに出かけると言ったわたしたちに、まひるは忙しい中でトーストを焼いてくれた。
 着る服も、彼女が用意してくれた。服ならばいくらでも用意できるというような様子だった。

 わたしは制服姿のまひるを見送ってから、

「もし遊園地にいって、そのまま帰れたら、服を返せないね」

 と言った。ケイくんはバカバカしそうに笑った。

「妙なこと気にするんだな」

「借りたものは返さないといけないでしょう?」

「時と場合によるだろうな」

 ケイくんはそう言ってしまうと、あっというまに階段を降りていった。
 

287: 2016/10/11(火) 20:23:50.05 ID:5Z2H/xJxo

 その朝は爽やかな秋晴れで、
 わたしはそれが自分にとって過去のものなんだと、一瞬わからなくなってしまった。

 通りに出ると、空に流れる雲も道路を走る車も、並ぶ建物のひとつひとつも、
 何もかもすべていつかは変わっていってしまうものばかりで、
 そのままの形で保たれるものなんてひとつもないのだという気がした。

 わたしたちは近くのバス停に立ち、時刻表を見て、言葉もなく立ち尽くす。

 ねえ、ケイくん、と、わたしは声を掛けようとしたけれど、
 言葉は喉のあたりに詰まってわたしを息苦しくさせるだけだった。

 こんなバカげた状況のなかでも、わたしは未だに正しい振る舞い方を探してしまって、
 それがわからないからいつまで経っても戸惑ってばかりだ。

 この世界に来る前から、ずっとそうだ。

 浮かび上がらないように、変だと思われないように。

 バスに乗ってからも、わたしたちの間に会話なんてほとんどなかった。
 いつだってわたしは、わたしを取り巻く世界のルールがわからないままで、
 どう振る舞うのがふさわしいのか、ずっとわからない。


288: 2016/10/11(火) 20:24:19.30 ID:5Z2H/xJxo



 遊園地までの道のりは、あちらの世界で――感覚的には昨日――通ったのと同じ道のはずだった。

 暗い道の先の坂。その先の橋。不思議と、前通ったときと印象は変わらない。どうしてだろう。
 
 二人きりで歩いていると、なんだかまた、夢の中を歩いているように現実感が薄れていく。

 ねえ、ケイくん、とわたしはもう一度声に出しかけて、やっぱり何も言わなかった。

 帰りたくない、なんて、そんなことを言いかけたのはどうしてだろう。

 自分でもよくわからなかった。


289: 2016/10/11(火) 20:24:50.61 ID:5Z2H/xJxo



 橋の上で、立ち止まった。もう少し歩けば、あの遊園地にたどり着く。

「どうした?」と、ケイくんは首をかしげる。

 わたしはうまく言葉にできない。

「ケイくん、わたしは、このまま帰っていいのかな」

「……どうして」

「お兄ちゃんが、言ってた。ずっと前に言ってた。起きたことには、必ず意味があるはずだって」

「……意味」

「何かが必ずあるはずなんだって言ってた。だとしたら、わたしが今ここにいることにも、何か意味があるのかもしれない」

「あのさ、それは」

「分かるよ。ケイくんはきっと、そんなの嘘だっていう。でも、この世界はケイくんの言うとおり、わたしにとってだけ奇妙な世界で……」

 ケイくんは、静かにわたしの顔を見る。
 彼の表情はいつだって真剣だ。

 彼はそういう人だ。
 一見、斜に構えていて天邪鬼のようにも見える。でも違う。彼は、彼と同じ話法を使う人の話を、絶対に聞き流さない。
 彼は自分独自の価値観と考え方を持っている。価値観の合わない人間にも、その価値観を基準に話をする。

 だから、そういう人には彼が、意味の分からない、理屈の通じない人のように見える。
 そうではない。

「だから……」


290: 2016/10/11(火) 20:25:18.10 ID:5Z2H/xJxo

 だから?

 だから、なんだというのだろう。

 わたしたちにだってわたしたちの世界があって、
 こっちに迷い込んでいるあいだに、あっちがどうなっているかなんて、確かめないと分からないのだ。

 ケイくんにはケイくんの事情があって、わたしはそれを自分の都合で邪魔できない。

「……ごめん。なんでもない」

 わたしはケイくんの方を見ることができなかった。
 顔をそむけたまま、止めていた足をふたたび動かす。

「とりあえず、この後どうするにしても、あの場所の様子だけ確認しておこう」

「……うん」

「まだ何にもわからないんだ。ひとつずつでも、いろんなことを確かめないと」

 わたしはもう一度頷く。

291: 2016/10/11(火) 20:25:53.84 ID:5Z2H/xJxo

 
 ケイくんの言うとおり、今は余計なことを考えない方がいいのかもしれない。
  
 そう思って、わたしは再び歩き始めた。
 そのとき、不意に気がついた。

「……ねえ、ケイくん」

「なに?」

「わたしたちが最初に来たとき、遊園地ってどのタイミングで見えたっけ?」

「……遊園地? どうだったかな。最初に目に入ったのは観覧車で」

 たしか、坂を登りきったときに、と、ケイくんは言いかけて、立ち止まった。
 彼は橋を戻り、坂道の上へと引き返す。

 そこから、遊園地の方を見る。

 わたしも彼のことを追いかけた。

 観覧車は、見えない。

 わたしたちは目を見合わせる。
 
「……とにかく、言ってみなきゃな」

「うん」

 けれど無駄だった。
 遊園地のあった場所には草木が生い茂り、木々の枝に邪魔されて敷地内に入ることすら難しかった。
 ほとんどの遊具やアトラクションは取り壊されるか撤去された様子だった。立入禁止の看板だけがやけに綺麗だった。
 ミラーハウスの姿なんて、見つけることすらできなかった。

 わたしたちは立ち尽くした。


294: 2016/10/18(火) 21:24:38.91 ID:FmM+TSu0o




「気は済んだ?」

 そう後ろから声をかけられるときまで、わたしたちはずっと一言も喋らなかった。
 
 驚いて振り返った先には、ひとりの女の人が立っている。

 黒い服を来た女……。

 あなたは、と一瞬声をあげそうになって、言葉を止める。
 ミラーハウスで見た女の人だと、そう考えてしまった。

 けれど、違う。眼帯をしていない。

 喪服のような真っ黒な恰好。裾の長い黒いワンピース、灰色のストール。
 長い前髪の隙間から覗く瞳はつぶらで愛らしい。
 けれど……その笑みは、どこか作り物めいている。

 いつのまに、そこにいたんだろう。
 まったく気が付かなかった。気配も、足音も感じなかった。


295: 2016/10/18(火) 21:25:06.25 ID:FmM+TSu0o

「誰かが紛れ込んでるとは思ってたけど、ずいぶん皮肉な話ね」

 女の人……いや、違う。
 服の色が暗いせいで錯覚していた。

 顔を見ても、体格を見ても、同年代くらいの女の子だ。
 
 それなのに、なぜだろう、違和感があった。
 
 白い白い肌。
 冷たそうな肌。

 何か、変な感じがする。

 風景からどこか浮かび上がっているような不自然さ。
 けれどふと目を離した隙に、すぐにでも消えてしまいそうな存在感のなさ。

 この世のものではないような、と、そんな陳腐な言葉さえ出てきそうになる。

「はじめまして、アイナ」

 と、彼女は、わたしのことを正しい名前で呼んだ。
 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。

 わたしの名前を、知っている。


296: 2016/10/18(火) 21:25:42.19 ID:FmM+TSu0o

 ケイくんが、わたしの半歩前に踏み出した。

「あんたは?」

 彼の言葉に、彼女は笑う。

「名乗ったところでどうするの? 名前なんて知ったからって、それで何かが分かるつもり?」

「違う。名前はどうでもいい。聞きたいのは、あんたが何かってことだ」

「何って?」

「どうして、こいつの名前を知ってる?」

「……」

「こいつが普通の奴なら、まあ、名前を知っていることもあるかもしれない。
 でも、こいつは普通じゃない。こいつの名前を知ってる奴なんて、どこにもいるわけがない」

 女は、笑っている。

「紛れ込んだって言ったな。この状況を引き起こしてるのは、おまえなのか?」

「そういう言われ方は心外」

 と女は言って、ひらひらとスカートを揺らしながらケイくんに歩み寄る。


297: 2016/10/18(火) 21:26:22.94 ID:FmM+TSu0o

「勝手に入り込んできたのは、あなたたち」

「……」

 たしかに、とわたしは思った。
 わたしたちが勝手に来て、勝手に巻き込まれた。

「でも、わたしが連れてきたと言えば、そうかもしれない」

「何者なんだ、おまえ」

「よく知らないの。気付いたらこうだったから。というか、その話、今、大事?」

 その声に、ふと、思い出すことがあった。

 ミラーハウスを抜けた先の、見慣れない街並の先。
 あの坂道の上の広場で、からたちに吊るし上げられた少女。

 この子の声は、あの子にそっくりだ。


298: 2016/10/18(火) 21:26:55.69 ID:FmM+TSu0o

「大切なのは、あなたたちがどうしたいかってこと。帰りたいんだったら、帰り道を用意してあげないこともない」

「……いやに親切だな。何か目的があって、ここに俺たちを巻き込んだんじゃないのか?」

「勘違いしないで」と女は言う。

「あなたたちは偶然巻き込まれただけ。だから、あなたたちのことはどうでもいい。ていうか、使い回しのこの世界自体、もうどうでもいいんだけど」

 話していることの意味がわからなくて、わたしとケイくんは黙り込んだ。

「……どうも、わからないな」

「べつに、分かってもらう必要もないから。それで、どうする? 帰りたいなら、案内するけど」

「……」

 巻き込まれた?
 紛れ込んだ?

 ……。

 ――残っている建物のなかにはミラーハウスがあって、その奥にひとりの女の子がいる、って話。 
 ――なんでもその子が、訪れた人間の望む景色を、なんでも見せてくれるって話だ。


299: 2016/10/18(火) 21:27:53.01 ID:FmM+TSu0o

 ……わたしたちが見た景色は?
 わたしたちが見たのは、鏡の中に、一人の女の人が入っていく光景。

 わたしたちは、そのあとをついてきた結果、ここについたに過ぎない。

「……ねえ、あなた、本当に、人の願いを叶えられるの?」

 わたしの問いかけに、ケイくんも女の子も、そろってこっちを見た。

「ここは、誰かが望んだ世界なの?」

「……そういう言い方もできる、ってだけ」

 退屈そうに溜め息をつくと、彼女は前髪を指先で弄りはじめた。

「……さっき、わたしの名前を呼んだ。あなたは、わたしのことを知ってるんだ」

 女は、表情を動かさない。わたしの声を無視して、そっぽを向いている。

「皮肉、って、言った。それ、どういうこと?」

「――ねえ、帰りたいの?」

「この世界は、何なの?」

「帰るの? 帰らないの? どっち?」


300: 2016/10/18(火) 21:28:19.06 ID:FmM+TSu0o

 この子がミラーハウスの主で、現に誰かの望んだ世界を見せる力があるとするならば、
 ここは誰かの望んだ世界だ。

 単純に想像するならば、わたしたちがミラーハウスの中で追いかけてきた、あの眼帯の女の人。
 彼女の望む世界だということになる。

 けれど……この子はたしかに言った。

 使い回しの世界だと、たしかに言った。
 意味するところはよくわからないけれど、それはつまり、この世界は本来、違う用途で生まれたということだ。

 この世界が、誰かの望んだ景色の、そのひとつの形だとしたら?
 これを望むのは、誰だろう?
 この世界を、もっとも望みそうな人は?

 ――あちらよりもこちらで、より幸福そうな表情をしていたのは?

「……この世界のような景色を、誰かが望んだ。だからあなたは、その誰かをここに連れてきた。違う?」

 彼女は溜め息をついた。

「そうなるかな」

「……教えて。この世界を、誰が望んだの?」

 わたしは、本当は、訊くべきではなかったのかもしれない。

「本当に知りたいの?」と呆れた調子で溜め息をつく。本当は知りたくなかった。けれど、訊かずにはいられない。
 見なくてもいい景色も、聞かない方がいい真実も、そこらじゅうにあるのだと、わたしは知っていたけれど。

「……碓氷遼一」

 と彼女は言った。

「あなたの叔父さんが、わたしのお客さん」

 そう言って、彼女は顔をしかめた。


301: 2016/10/18(火) 21:28:50.62 ID:FmM+TSu0o
つづく
開かない扉の前で◇[Stendhal] R/b
302: 2016/10/19(水) 07:31:52.85 ID:BHG24tQh0
おつです

引用: 開かない扉の前で