303: 2016/10/25(火) 23:52:26.64 ID:yOBfSdwMo
最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a
前回:開かない扉の前で◆[Paris] A/b
◇[Stendhal] R/b
姉が家を出ていったとき、愛奈は泣かなかった。
僕だって、驚きはしたけれど、すぐに戻ってくるに違いないと思っていた。
両親と姉との間でどんな話し合いがあったのか、詳しくは僕も知らない。
僕が中学生だった頃の話だ。
当時姉はシングルマザーだった。二十四歳で、まだ若かった。
年若くして結婚し子供を産んだ彼女は、ときどきそれを後悔しているふうでもあった。
一度、姉は僕の前で口を滑らせた。
「別に愛奈を産んだことに後悔はないけど……」
でも、と彼女は続けた。
「早まったかな、とは思う」
僕はそれを聞いたとき、姉のことを咎める気にはなれなかった。
十も年の離れた姉の人生を、十四歳だった僕は理解することができなかったし、
それから何年か経つ今でも、彼女のことをどうしても一方的に憎むことができない。
304: 2016/10/25(火) 23:52:57.71 ID:yOBfSdwMo
生きることは迷路を歩くようなものだ。
長く続く回廊はいくつにも枝分かれし、そのときどきに違った扉を僕たちの前に差し出す。
僕らはそのたびに、その時なりに最善だと思える道を選ぶ。
時に簡単に開きそうな扉を、時に進みたい方向に続いているように見える扉を、時に自分でもなぜそれを選ぶのかわからないような扉を。
そして、一度選んだ扉の先から引き返すことはできない。
通路を遡ってみようとしたところで、他の扉は既に閉ざされてしまっている。
日々は選択の連続で、僕たちはその先の未来を覗き見ることができない。
一見易しそうに見える扉の先が幸福に続いているとは限らず、そのとき最善に思えた選択が間違っていなかったとも限らない。
選んできた扉が選ばなかった扉よりも良いものだったという保証はどこにもなく、
選ばなかった扉が選んだ扉よりも良いものだったとも言い切れない。
そのなかに、どうしても忘れることができない『選ばなかった扉』がある。
あの扉を選んでいたらと、後悔してしまう扉がある。
姉にとっても、きっと。
あるいは、僕にも。
305: 2016/10/25(火) 23:53:30.52 ID:yOBfSdwMo
◇
目が覚めたとき、そばにはすみれがいた。
雨の音と、空気の奇妙な冷たさ。現実感は希薄なのに、肉体には奇妙な疲労感がある。
「やっと起きた」
と、傍らから声が聞こえた。
すみれが傍に居た。
僕は体を起こして、周囲を見回す。
どこかの廃墟のような場所に、僕はいた。
眠ってしまっていたらしい。
灰色の空から雨が降っている。意識を失う前までのことを思い出そうとするが、頭がぼんやりとしてはっきりしない。
「遼一?」
「……うん。大丈夫。ここ、どこ?」
すみれは溜め息をついた。
廃墟のような建物……。天井はある。左側には壁があり、右側には壁がなく、外に繋がっている。
右手に広がる空間には背の高い野草が生い茂っている。その向こうは、高いネットに覆われている。
なんだろう、と思ってすぐに気付く。ゴルフの打ちっぱなしの施設のようだ。どうやら、長い間使われていない廃墟のようだが。
「わかんない」
とすみれは首を振った。
306: 2016/10/25(火) 23:53:57.98 ID:yOBfSdwMo
「眠る前までのこと、ちゃんと覚えてる?」
「……なんとなくは」
僕は首を巡らせて、もう一度周囲の様子をうかがう。
どうやら、僕は放置させた古いソファに横になって眠っていたらしい。
「あの、ざくろって子は?」
訊ねると、すみれは複雑そうな顔でまた首を横に振った。
「わかんない。わたしもさっき目覚めたばかりで、何がなんだか」
「……どこなんだろう、ここ」
「分からない。ね、遼一。さっきまでのって、夢じゃないよね?」
「……どうなんだろう。ここじゃ何にも、分からない」
「遼一が目をさますまでの間、ちょっとだけ、考えてたんだけど」
すみれはそう言って、ソファの側の壁にもたれる。
「やっぱり、いくら考えてもわかんない。ひとまず、ここがどこなのか、確認しないといけないよね」
「……だね」
「時計見る限り、一応時間は午前八時ってところかな。携帯は圏外だし……」
「うん。分かった」
「どう? 歩いても平気そう?」
「ああ。ここにずっといても、仕方ないしね」
307: 2016/10/25(火) 23:54:25.70 ID:yOBfSdwMo
ひとまず立ち上がり、僕たちは建物の出口を探す。と言っても、すぐ傍に階段があって、どうやら事務所の方に繋がっているらしい。
ガラスの破片、破れた緑色の絨毯、周囲から伸びた草花が道をいくらか覆っているが、歩けないほどではない。
階段を登りきると、閉ざされたままの扉があったが、誰かが以前通ったのだろうか、ガラスが割れていて、人ひとりが通れるくらいの穴が空いていた。
抜けた先の事務所は散乱していた。なにかの書類、古い雑誌やカレンダー、何かのメモ。
右手には出入り口があった。僕らは何の問題もなく外に出ることができた。
外から建物の様子を振り返ると、閉められたシャッターにはスプレーで落書きがされていた。
出た先には舗装された道がある。とはいえ、公道というよりは、何かの施設内のような雰囲気だった。
山の中のようで、道の周りは高い木々に覆われていて遠くまでは見通せない。
地図もなければ現在地もわからない僕たちは、とにかく歩き回ってみることでしか状況を掴めない。
「見覚え、ある?」
「いや」
「だよね」
厳密にいえば、既視感のような感覚はある。
けれど、それが具体的にいつ、どこを示すものなのかは、分からない。
「見覚えのない場所にいるっていうことは、やっぱり夢じゃないのかもね」
「かもしれない」
とすると、あのミラーハウスの出来事も、その先の奇妙な空間も、あのざくろと名乗った少女も夢ではなく、
ここは、あの子が示した扉の先なのだろうか。
308: 2016/10/25(火) 23:55:00.39 ID:yOBfSdwMo
――鏡の国。あるいは、あなたたちの言葉を借りるなら……
――あなたたちが、心の底から笑えるような場所。
ざくろは、そう言っていた。
あの不穏な扉の先、幻想のような街並の向こう。
その先が、打ちっぱなし施設の廃墟? ……たしかに笑い話だ。
「あのざくろって子」
また、僕がその名前を出したとき、すみれの表情はまたこわばった。
「何者なんだろう」
「……さあ?」
施設から離れるように歩いていく。
本当に山の中なのか、丘のようになった場所から、僕たちは道にそって坂を降りていく。
「変なことになっちゃったな」とすみれは疲れたみたいに息を吐いた。
「別に困りはしないだろう」と僕は言った。
「なにが?」
309: 2016/10/25(火) 23:56:24.93 ID:yOBfSdwMo
「ここがどんなところでもさ」
「どうして?」
「そのつもりで来たんだから」
「……」
『ここじゃないどこか』に行こう、とすみれは言って、
僕は彼女の手をとったのだ。
「そうかもね」とすみれは言う。
月曜日の夜の、ただの気まぐれ。
彼女の手をとったとき、僕の気持ちはもう、普段の生活から離れたがっていた。
だから、いい。
奇妙なことが起きても、なんでも。
「今日は火曜の朝なのかな」
「昨日は月曜だったから、そうなるのかな」
「八時……普通だったら、もう学校に行ってなきゃいけないのにね」
「今更だね」
「うん。そうかも」
310: 2016/10/25(火) 23:57:28.43 ID:yOBfSdwMo
そう言ってすみれは、リズムをとって跳ねるように前方へと足を伸ばしていく。
「朝の割には、空気があったかいね」
「そうだね……」
「今のところ、ライオンに追われそうな気配もないし、周囲の様子も、異世界みたいな調子じゃないし」
「……ま、ライオンがいないだけありがたいね」
「遼一がミラーハウスに入ろうとするから、あんな目に遭ったんだよね」
「結局食べられなかったし、いいんじゃないか」
「……そういえば、あれ、結局なんだったのかな」
すみれが、独り言のように呟く。
「ざくろの話を聞く限りでは、どうやら心象世界というか、心象風景みたいなもの、みたいだったらしいけど」
「あんたの心の中にはライオンがいるわけ?」
「しかも風船でできたライオン」
「仮面をつけた子供たち。目のある月」
「ふむ」
「橋のない閉じ込められた街。骸骨でできた壁」
「……」
「あんたの心象風景、病みすぎじゃない?」
「……深層心理のあり方までは、僕にはどうしようもないかな」
311: 2016/10/25(火) 23:57:54.56 ID:yOBfSdwMo
「……少し、解釈してみてもいい?」
「解釈?」
「あの子、象徴って言ってた。あれは要するに、見たままそのものの姿じゃなくて、あんたの中の何かの象徴なんだよね、きっと」
「ふむ」
「とすると、それを解釈することってできそうじゃない?」
「つまり、夢占いとか、夢分析みたいなこと?」
「そのふたつを同列にならべるの、わたしはちょっと抵抗あるんだけど、詳しくないし、どっちかっていうと夢占いかな」
「なるほど」
「もちろん、適当な話になるけどね。まずあのライオン……」
「ライオン、ね。いきなり追われたんだっけ」
312: 2016/10/25(火) 23:58:26.99 ID:yOBfSdwMo
「あれ、追いつかれたら氏ぬ、って思ったよね」
「だね」
「焦燥感……それも、身の危険を覚えるくらいの。そういうものが、あんたの中にある」
「ふむ」
「でも、そのライオンは風船でできてた。風船ってことは、中身がない、空っぽ、実体がない。
つまり、何か具体的なものじゃなくて、抽象的でとらえどころのない恐怖」
「それらしいっていえば、それらしいね」
「くわえて、あの街には橋がなかった。水路に阻まれていた。しかも水路を挟んだ向こう側には、あたたかそうな光があって、人の気配がした」
「……」
「あんたにとって、温かい人の気配は『橋の向こう』……たどり着けない場所にあるもの、ってところかな」
「月は?」
「何か大きなものに見下されている、って感じかな。ライオンと橋のことを含めて考えても、あんたは出口のない場所に閉じ込められて、追い込まれてる」
「なるほど」
「いくつか並んだ銅像のうち、あんたに似てる銅像だけ、中身が空洞になってた。他のはそうじゃなかった。
つまり、『他の人には中身があるのに、あんたには中身がない』、と、あんたは思ってる」
313: 2016/10/25(火) 23:59:02.16 ID:yOBfSdwMo
「子供たちの仮面と人形劇は?」
「わかんない。でも、人形師が子供たちに渡した飴玉は、『あんたの分だけなかった』。あんただけ、それを与えてもらえない」
「……地下のワイン庫は?」
「わかんない。ただ、あの子は扉が望む世界の入口、みたいなことを言ってた。その入口が、あんたの場合かなり分かりづらい場所にあった。
他の民家とほとんど変わらないような家の、しかも奥まで入らないと分からない地下への階段のさらに奥。
しかも、その中は暗闇。ようするに、あんたの望みは、深くて暗い場所に隠されてる。あんた自身でも見つけられないような場所に」
「……へえ」
「どうかな。おもしろくない?」
「こじつけっぽいかな」
「けっこういい線いってると思うんだけどな」
僕は、あの地下室で見つけた本に書かれていた一文を思い出す。
あのときはわからなかったけれど、今は思い出せる。どこかで読んだ本に書いてあった。あれはラテン語だ。
"In vino veritas."――酒の中の真実。
そしてあそこはワインの地下貯蔵庫……『酒の中』だった。もちろん、あの言葉は額面通りの意味ではないはずだけれど。
だとすると、あの地下貯蔵庫の奥の扉が、『僕の真実の望み』なのかもしれない。
まるで、偽物があるかのような言い草だ。
「面白い話ではあるかもね」
「あんまりピンとこない?」
「どうかな。そんな言い方したら、たぶんどうとでも受け取れそうで……」
314: 2016/10/25(火) 23:59:28.30 ID:yOBfSdwMo
と、言いかけたところで、立ち止まる。
「……すみれ、ここ」
「ん?」
「この道。見覚えがあるんだけど」
「……見覚え?」
「ここ、あの遊園地の敷地じゃないか?」
「え……?」
僕の言葉に、すみれは辺りを見回す。
「この道。通った記憶がある」
「え、でも……こんな場所だった?」
道の脇は背の高い野草に覆われている。広い敷地のほとんどすべてが埋め尽くされている。
昨日あの遊園地に辿り着いたときは、こんな様子ではなかったはずだ。
もちろん、夜だったから視界は悪かったけれど、こんなに草が生い茂ってはいなかった。
「でも、この先、たぶん、僕らが入ってきた道だ」
「……とにかく、進んでみよう」
315: 2016/10/26(水) 00:00:21.34 ID:DgPI5o6Ho
僕らは話すのをやめて、少し早歩きになって道の先に進んだ。
やがて、木々に覆われた視界が開け、道の先が見える。
小さなゲートがあり、近くには立入禁止の看板があった。
すみれは、黙ったまま後ろを振り向く。呆然とした様子だった。
「ホントだ……」
僕も、彼女にならって確認してみる。
様子は随分と違うけれど、たしかに同じ場所だ。
「……ここ、バイクとめた場所だよね」
「ああ」
「……バイク、ない。盗まれちゃった?」
「……いや」
「でも、ないよ」
「……もしかしたら、もっと面倒なことになってるのかも」
「面倒なことって?」
「……まだ、分からないけど。ひょっとしたら、ここも、あの変な世界の続きなのかも」
「続き?」
鏡の国、望む景色、心の底から笑えるような場所……。
ざくろと名乗ったあの子は、いったいどこに行ったんだろう。
……とにかく彼女に、今のこの状況について説明してもらわなければならない。
318: 2016/10/30(日) 01:14:47.09 ID:gpegxq/7o
◇
足がなかったから、歩き通すしかなかった。
すみれのバイクはどこにもなかったし、ざくろの姿も見つけられなかった。
ようやく大きな道路に出たのは、三十分以上何もない道路を歩き続けたあとで、
やっとのことで見つけたコンビニの新聞で、僕たちは妙なことに気付いた。
「八月十八日」
発見したのはすみれだった。見た記憶のある表紙の雑誌だ、というところから違和感を覚えたらしい。
新聞は、一月以上前の日付になっていた。
これは妙なことになったな、ということで、でもとりあえず疲れていたから、近くにあったファミレスに入って休むことにした。
すみれはハンバーグを頬張って美味しそうに笑みを漏らす(意外な感じだった)。
僕は若鶏の唐揚げを食べながらあたりの様子ばかりを気にしていた。
「それ、一個ちょうだい」
「どうぞ」
「わたしのも分けたげる」
「ありがとう」
319: 2016/10/30(日) 01:15:15.67 ID:gpegxq/7o
「なんだか変なことになったね」
そう言いながらも、彼女はどうでもよさそうな感じだった。
「年号は合ってた」と僕は言った。
「うん。日付だけ違った」
「言われてみると、ちょっと暑い」
「秋服なのが恥ずかしいよね」
「たしかに」
周りはみんな、まだ薄着だ。
僕はすみれが切り分けてくれたハンバーグを咀嚼してから、水を飲んだ。
「……あの子、いないね」
すみれは、辺りを見回しながら言った。ざくろのことだろうか。
むしろ、この場にざくろが居合わせたとしたら、それはそれで不思議なことだと思うんだけど。
「そりゃ、八月なら、わたしのバイクもあそこにはないよね。まだ行ってないんだから」
「でも、遊園地の遊具が撤去されてたのは? 逆なら分かるけど、ないのはおかしくない?」
「ホントだ。なんでだろう?」
「なんでだろうね」
見当もつかなかった。
「これ美味しい」とすみれは嬉しそうに笑う。
「ホント美味しい」と僕も頷く。
どっちも物事を真正面から考えるのは苦手なタチみたいだ。
320: 2016/10/30(日) 01:15:50.31 ID:gpegxq/7o
「ね、タイムスリップしたのかな、わたしたち」
「だから、遊具がなかったろ。それに、あんなに草は生えてなかった」
「んじゃ、並行世界だ」
「SFだな」
「他にないもん。いや、夢とかでもいいけどさ」
「たしかに他にないかも」
「ね。だったらさ、この世界にはこの世界のわたしたちがいるのかな?」
「たぶん、そうじゃない?」
「じゃ、学校なんかは、この世界のわたしたちが行ってるんだよね」
「そうなるね」
「だったら、わたしたち、自由だよ」
「……」
素晴らしい思いつきみたいに、すみれは笑みをうかべた。
いたずらを思いついた子供みたいな顔で。
「わたしたち、明日の予定がないんだよ。学校も行かなくていいし、家に帰らなくてもいいし、勉強もしなくていい」
「ふむ」
「それってさ、最高じゃない?」
本当に楽しそうに、すみれは言う。
「わたしたち、この世界では、何者でもないんだよ」
それって、最高だよ。すみれはもう一度繰り返した。
たしかに、と、僕は思ってしまった。
321: 2016/10/30(日) 01:16:16.82 ID:gpegxq/7o
だって、何もしなくていいのだ。
バイトなんてしなくてもいい。家に帰らなくてもいい。学校なんて、行かなくてもいい。
見たくないものは見なくていいし、やりたくないことに追われて時間と自分をすり減らすこともない。
ああ、と僕は思った。
それって最高だな。
「遼一、財布にいくら入ってる?」
「そんなに入れてないけど……」
「でも、いくら入ってる?」
「……三万ちょっと」
「けっこう入ってる。わたし、十五万ある」
「なんでそんなに?」
「家出少女だから」
「初耳」
「そのうち帰る気だったけどね。お金を使い果たしたら。ううん、そんなことどうでもいい」
そんなことより、とすみれは言う。
322: 2016/10/30(日) 01:16:43.47 ID:gpegxq/7o
「八月でしょう?」
「みたいだね」
「観たい映画があるの」
「……映画?」
「見逃したの。いろいろあって」
「……はあ」
「家の近くの映画館でやってなかったの。だから見れなくて」
「うん」
「……やってるかな?」
「かもね」
「観たい」
「あのさ、僕が言うのもなんなんだけど」
「なに?」
「帰る方法、探した方がいいんじゃない?」
「なんで?」
「宿がない」
「ホテルでもいこうよ」
「金は尽きるよ」
「バイトでもしようよ」
「無理だろ。そんなことするくらいなら、元の世界に戻ったほうが楽じゃない? 学校やめてバイトしたっておんなじだろ」
「あー、そっか。バイトはなしだ」
この子は本気で言ってるんだろうか。
323: 2016/10/30(日) 01:17:20.33 ID:gpegxq/7o
「でも、悪くないかもね」とすみれは言った。
「なにが?」
「元の世界に戻ったら、わたしたち、学校やめてさ、ふたりで働いて一緒に住むの」
「なんで?」
「ふたりで働けば、お金、なんとかなるでしょ。それでさ、お互い好き勝手するの」
「……」
「何にも縛られないで過ごすの。ね、不思議な感じ。そんなふうにできるんだなって、今思った」
……この子は。
本当はすごい子なのかもしれない。
「たしかに、そうできたら楽しいかもね」
「でしょう?」
素晴らしい思いつきみたいに、すみれは笑う。
「観たい映画みてさ、行きたいところに行ってさ。仕事なんて、やめたいときにやめちゃって、
明日のことなんて考えないでお金使って、そういうふうに……そんなふうに生きてさ」
「……」
「……分かってるよ。嘘だよ。真に受けないでよ」
「いや」と僕は首を横に振った。
「悪くない」
ひとりじゃないなら。
そう思った。
324: 2016/10/30(日) 01:17:47.35 ID:gpegxq/7o
「でも、まずは帰らないとな」
「……遼一、帰りたいの?」
「帰りたいか帰りたくないかはひとまずおいておいて、帰り道を見つけてから考える方が安全だ」
「わたし、帰りたくない」
「……」
「だって、ここが本当に別の世界だったら、わたしたちは、それを言い訳にできるよ」
「言い訳?」
「わたしたちは、自分の意思で全部を投げ出したわけじゃない。ただ、変な出来事に巻き込まれて、帰れなくなっただけ。
帰れなくなったから、仕方なく、好き勝手生きてくだけ。でも、帰ったら……帰ったら、自分で選ばないといけないんだよ」
「……投げ出すか、投げ出さないかを?」
すみれは頷いた。
言い訳。
たしかにな、と僕は思った。
都合のいい言い訳だ。
帰り道が、見つからない方が。
「……状況を整理してからにしない?」
「……」
「僕やきみの家がどうなっているか確認して、できたらざくろを探して、帰る手段を探して……。
それでも見つからなかったら、どうにかしてこの場所で生き延びる方法を探すしかない」
「……うん、そうなるよね」
325: 2016/10/30(日) 01:18:19.24 ID:gpegxq/7o
この世界で生きていく?
たいした夢想だ。無理に決まってる。
でも、どうしてだろう。
この子が言うと、できそうな気がした。
笑い話だ。
「……ね、遼一」
「うん?」
「そういうことで、いいからさ」
「うん」
「明日、映画観に行かない?」
「あのさ」
「分かってる。でも観たいの、観たかったの、我慢したの。我慢してたの、ずっと!」
「……」
「……我慢してばっかりだった」
「……うん。それは分かる」
「駄目、かな」
「いや。いいよ、それは別に。でも、今晩はどうする? 食べ物は、まあ、金があるからどうにかなるとして……」
「だから、ホテル」
「いつ帰れるのかわからないし、収入のあてもない。金ばかり使ってられないよ。服の替えだってないんだし」
「……そっか」
すみれは、そう頷きかけて、ううん、と首を横に振った。
326: 2016/10/30(日) 01:18:59.38 ID:gpegxq/7o
「ある!」
「……ん?」
「この世界のこの時間に、わたしたちがいるなら、ある」
「……どういう意味?」
「わたしたちがこの世界にいるなら、この世界で同じような姿をしてるなら、わたしたち、自分の家に行ける。そこには服がある」
「……」
こいつ。
正気か?
「わたしたちは、わたしたちのふりをすることができる」
「同じ姿をしているとは、限らない」
「だったら、確かめないとね」
すみれは、さっきからずっと、楽しそうだ。ここに来る前よりも、ずっと。何かから解き放たれたみたいな顔をしている。
あるいは僕も、笑っているかもしれなかった。
327: 2016/10/30(日) 01:20:11.81 ID:gpegxq/7o
それからすみれは、何かを思いついた顔で、また笑みを浮かべる。
「八月なら、わたし、家にいない」
「どうして?」
「この頃も、家出してたから。……そうだ。夏休みなんだ」
「……」
「遼一、わたしの家に行こう」
「どうして?」
「“わたし”、いないはず」
「ここが違う世界なら、いるかもしれない」
「どっちにしても、行かなきゃ確かめられないよ」
「……」
「行こう」
僕は思わず笑ってしまった。
そうだ。
これ以上、何がどうなるっていうんだ?
僕らのせいじゃない。
変なことに巻き込まれたんだ。手段は選んでいられない。
「悪くない」と僕は言った。
330: 2016/11/08(火) 16:20:15.11 ID:bli0Pg8Ro
◇
そして僕らは八月の夏空の下を歩いた。
目が覚めた直後、少しだけ降っていた雨は、歩いているうちにいつのまにか止んでしまっていた。
今はもう、清々しいくらいの晴天だ。
バス停までの道のりをすみれは鼻歌をうたいながら歩く。
「いい天気」と笑う。
「たしかに」と僕も頷く。
「絶好のお出かけ日和」
「そうだね」
僕は少しだけ笑う。
「なんで笑うの?」
「あんまり楽しそうだから。そういうイメージはなかった」
「そりゃ、あんたにしたらそうかもね」
「そうだね」
「雨と晴れ、どっちが好き?」
「どっちも」
「雨が好きって言うと、変な顔されない?」
「かもしれない」
331: 2016/11/08(火) 16:20:41.41 ID:bli0Pg8Ro
「変な顔されるから、言う相手を選ぶようになった」
「そういうこともあるだろうね」
「そんなことばっかり」
「かもしれない」
そんな話をしながらバス停についた。
空は本当に綺麗な青色をしていて、僕は何かを思い出しそうになった。
それが何か大切なものだったような気がして、少し考えてみたけれど、結局何も思い出せないままだ。
「わたしの家、ちゃんとあるかな?」
すみれは、そんなことを心配しはじめた。
この世界がどういうものか、今ここがどういう状況なのか、彼女はどうでもいいみたいだった。
ただ、着替えと金と寝る場所だけが問題だというみたいに。
たしかに本当はそれ以外に問題なんてないのかもしれない。
すみれといると不思議な気分になる。どうやっても生きていけそうな気がしてくる。
332: 2016/11/08(火) 16:21:16.35 ID:bli0Pg8Ro
◇
すみれの家があるという住宅地についたのは昼過ぎのことだった。
そこは僕の知っている場所だった。姉が住んでいるはずの場所だ。
すみれには何も言わなかった。僕は彼女の案内に従いながら、姉の家を探してみたけれど、どこにもその家は見つからなかった。
なんだか不思議な気分になった。どういう基準でこの世界が変化しているのか、僕にはよく分からない。
知る必要もないのかもしれない。
すみれの家につくと、彼女は堂々と玄関の扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていた。
「ふむ」と彼女は少し考えるような素振りを見せた後、ポケットから小さなキーケースを取り出してその中の一本を鍵穴に差し込んだ。
鍵はあっさりと開いた。
「開いた」とすみれは僕の方を振り向いて笑った。僕も笑っておいた。
不思議だと思ったけれど、あんまり深く考えないことにした。
深く考えたところでどうなるというものでもない。
彼女は当たり前のように玄関の扉を開けた。「ただいま」とすら言った。
「誰かいるかもとか、思わないの?」
僕は一応、そう訊ねた。
「見つかって、何か問題ある?」
「ないとも限らないと思うけど」
「まあ、たぶん大丈夫」
333: 2016/11/08(火) 16:22:10.12 ID:bli0Pg8Ro
「そういえば、妹がいるって言ってなかった?」
「……たぶん、この時間はいない」
その言い方に何か含みを感じる。
すみれは靴を脱いで、当然のように家の中へと上がり込んでいく。
「なに止まってるの?」
「上がっていいの?」
「それこそ、不自然でしょう」
「……たしかに」
すみれは廊下を進み、奥になった階段を昇る。
僕はそれを追いかけた。
他人の家の匂いがした。
334: 2016/11/08(火) 16:22:49.87 ID:bli0Pg8Ro
「……ね、あの、変な街、あれは、心象みたいなものだって話、したでしょ?」
「ああ、うん」
彼女は階段を昇りながら、こちらを振り向かずに話し始めた。
「さっきは言わなかったけど、あの、ざくろって子」
「……うん」
「わたしの妹にそっくりなの」
「……」
「ていうかね、わたしの妹、ざくろって言うんだ」
「……」
「どういうことだと思う?」
「さあ?」
「だよね」
僕らは揃って首をかしげた。
335: 2016/11/08(火) 16:23:16.88 ID:bli0Pg8Ro
すみれの部屋は、色褪せて見えた。
「わたしの部屋だ」と彼女は言った。
「本、CD、雑誌、DVD、服、小物……うん。わたしだ」
「ホントに?」
「見て」と言って彼女が僕にさしだしてきたのは、古い学習机の上に置かれていた一冊の教科書だった。
「わたしの名前」
たしかにそこには、咲川すみれと書いてあった。
「去年のだけど、たしかにわたしの名前」
「……」
「あとの問題は、こっちのわたしがどういう生活を送っているかだけど……」
「こっちのすみれ、今もどこかにいるのかな?」
「どういう意味?」
「こっちのすみれがあっちに行ってたりして」
「めんどくさそう」
「……こっちのすみれも似たような性格だとしたら、鉢合わせしても問題なさそうな気はするな」
「そうかも」
すみれは軽く笑った。
336: 2016/11/08(火) 16:24:00.30 ID:bli0Pg8Ro
「それで、これからどうする?」
「ん。どうしよっか」
すみれはそう言いながらベッドに横になった。
「……疲れた?」
「まあ、うん。歩きっぱなしだったし」
「たしかに」
「ねえ、ちょっと眠ってもいい?」
「……誰か来たらどうする?」
「どうしようね……」
そう言いながら、彼女は瞼を閉じてしまった。
そのまま寝息を立てはじめる。僕は溜め息をついた。
まあ、べつにいいか、と思った。
誰かに見つかって、たとえば不法侵入かなにかで警察を呼ばれて、それで?
僕たちは奇妙なことに巻き込まれた。そして自分の家を訪れて休んだ。
それはそんなに悪いことだろうか?
ひょっとしたら、たいして悪いようにはならないかもしれない。
そう考えるのは開き直りなのか。
それとも僕は、本心ではこんな事態をどうでもいいと思っているのかもしれない。
337: 2016/11/08(火) 16:24:36.77 ID:bli0Pg8Ro
そんなことを考えて、頭を使った気になったところで、僕も少し眠くなった。
僕はすみれに一応声を掛けてから、部屋の隅にあったクッションを枕にしてカーペットの上に座り込む。
どうしてこの部屋が色褪せて見えたのか、少し分かった気がした。
この部屋にあるものは、色彩が薄いのだ。
鮮やかな色のものがほとんどない。それは不思議と心地よい気がした。
僕はそのまま眠ることにした。
何か悪いことになるかもしれない、とも思う。
でも、その予感は本当だろうか?
“悪いこと”ってなんだ?
現状以上の悪いことなんて、どうやったら起きるんだ?
僕にはよく分からなかった。
340: 2016/11/14(月) 23:35:56.55 ID:BhEqprmAo
◇
目をさましたのは夕方を過ぎた頃だった。
「起きた?」と、すぐ隣からすみれの声が聞こえた。なんだか楽しそうだった。
「うん……今、何時?」
「四時ちょっと前。お腹すいたから、ごはん買ってきちゃった。なにか食べる?」
そう言って、彼女は傍に置いてあったビニール袋に入ったおにぎりを取り出した。
スナック菓子に炭酸飲料、よく見ると酒とつまみと煙草も入っている。
「……酒盛りでもするの?」
「あはは」とすみれは他人事っぽく笑う。
「どう? お腹すいてない?」
「先に、シャワーを浴びたいかな」
「あー、そっか。替えの服、ないけど」
「いいよ。明日買う」
「うん。選んであげる」
すみれは楽しそうだったし、僕も否定しなかった。
341: 2016/11/14(月) 23:36:32.13 ID:BhEqprmAo
「誰も帰ってきてないの?」
「たぶん。そういう家だから」
どういう家だよ、と僕は思ったけど、べつに問い詰める気にもならなかった。
「歯ブラシ買ってきたよ。いる?」
「いる」
「あとね、インスタントカメラ」
「なんで?」
「いえーい」
ぱしゃ、とすみれは勝手に僕の写真を撮った。
「……なに、急に」
「なんとなく」
本当に理由はなさそうだった。
342: 2016/11/14(月) 23:37:14.46 ID:BhEqprmAo
とりあえず僕はすみれの案内に従ってシャワーを浴びて、それから部屋に戻ってすみれの買ってきたおにぎりを食べて、
この世界のすみれの部屋のなかで、遠慮がちに煙草を吸った。
僕はいくらかすみれに遠慮を感じていたけれど、よく考えればこいつだってこの世界においては不法侵入者なのだ。
そう考えると何もかもがどうでもいいような気がして、何かおもしろいものでもないかと部屋をあさってみたりした。
「あ、クローゼットの引き出しはあけないでね」
「なんで」
「下着が入ってるから」
「この世界では違うかもしれない」
「とかいいつつ開けようとしない」
「下着がひょっとしたらジョン・コルトレーンのレコードになっているかもしれない。その可能性を誰かに否定できると思う?」
「遼一、意外と欲求に素直。言葉はひねくれてるくせに」
なにせ途中で酒が入っていた。アルコールが入ると性格が変わる。気分が変わる。気持ちが変わる。
からだのなかの物質の変化。それだけで景色すら違って見える。
すみれの顔だって紅潮していて、気分よさげに緩んでいて、おかげで僕も気分がよかった。
343: 2016/11/14(月) 23:37:41.71 ID:BhEqprmAo
「ね、そんなに下着って見たいもの?」
「べつに。物珍しいから」
「見せたげよっか?」
「……」
「ん?」
「冷静に考えると、そこまで見たいものでもないかも」
「うそつき」とすみれは笑った。たしかに僕は今嘘をついたような気がする。
とはいえ彼女も本気ではなかったらしく、どうでもよさそうに溜め息をついただけだった。
「遼一」
「なに?」
「何か話をして」
「何の?」
「遼一の」
「話すことなんてなんにもないよ」
「ホントに?」
344: 2016/11/14(月) 23:38:16.25 ID:BhEqprmAo
「本当に」
「でも、何か話して」
「どうして?」
「なんとなく、だけど。わたしと遼一は仲間だから」
「仲間」
仲間。面白い表現だった。
「ね、遼一はどうして氏にたがりなの?」
「べつに、氏にたがりってわけじゃない」
「そう?」
「ただ、なんていうか……そうだな」
「うん」
「たとえば、僕らは、べつに望んで生まれてきたわけじゃないだろ?
頼んだわけじゃない。頼んだわけじゃないのに、勝手に生んだんだ」
「……うん」
「勝手に生んでおいて、後は何が起きても知らないから好きに生きろなんて、無責任だって思わないか?」
「……」
「生んでやっただけで感謝しろとか、育ててやった恩がどうとか、親には感謝して当たり前だとか、そういうの……気持ち悪いんだ」
「……ふうん?」
「退屈?」
「少しね」
345: 2016/11/14(月) 23:38:42.18 ID:BhEqprmAo
◇
それから二時間ほどばかみたいな話をしながら過ごしたけれど、その間玄関の扉の開く音は一度もしなかった。
すみれのいうとおり、そういう家らしい。
酒を飲んで満足した僕らはふたたび眠ることにした。シングルのベッドで薄いタオルケットにくるまって抱き合って眠った。
べつに何もしなかった。不思議とお互い文句も言わなかった。
当たり前のように朝が来て、そのときもやはりすみれの家で、日付もおかしなままで、すぐ傍からすみれの寝息が聞こえた。
そうして僕たちは片付けをしてからすみれの家をあとにした。
まずは服屋の開店を待つ為に、近くにあるという喫茶店に行ってコーヒーを飲んで暇を潰した。
特に話すこともなかったから、雑誌ラックに立ててあった雑誌で暇をつぶしながらトーストを食べた。
服屋に行くと僕よりもすみれが楽しそうにはしゃいだ。僕は普段の自分なら選ばないようないくつかの服を買わされた。
不思議と悪い気はしなかった。
買い物を済ませたあと映画館に向かった。
すみれの観たがっていた映画は昼過ぎからの上映で、僕たちはそれまでウィンドウショッピングをしながら暇を潰すことにした。
ただなんとなく、目抜き通りを歩きながら。
篠目あさひが僕の前に姿をあらわしたのは、そんなときだった。
346: 2016/11/14(月) 23:39:15.83 ID:BhEqprmAo
◇
はっきり言って、僕は篠目の姿を見たとき、とても混乱した。
図書委員。そう、図書委員。僕と一緒に図書カウンターの中にいた。そういうことを思い出す。
すると、どんどんと「ここに来る前」の自分のことを思い出してしまう。記憶はするすると頭の中に巻き取られていく。
篠目あさひは僕の顔を見て唖然としていた。
「碓氷……?」
僕は彼女の「唖然とする表情」なんてものを初めてみた。
けれど、表情のことを除いてしまえば、篠目あさひは僕の知っている篠目あさひのままだった。
顔つきも背丈も喋り方も、篠目あさひはあくまでも篠目あさひ的だった。
そして、僕はあくまでも冷静になろうと心がける。この篠目あさひは、僕の知っている篠目あさひではない、と。
「……あなた、誰?」
「……誰、って」
どういうこと、と僕が訊ねようとしたとき、篠目の視線は僕から逸れて人混みの方へと流れていった。
僕は、その視線の流れを追う。隣にいたすみれも、同じようにした。
さすがにどきりとした。
そこにいたのは僕だった。
僕と、生見小夜だった。
仲良さそうに、並んで笑って歩いている。
なるほど、と僕は思って、篠目の方をもう一度見る。
彼女は、僕ではない『僕』を見ていた。
349: 2016/11/23(水) 23:04:07.22 ID:kC6D1Zgdo
◇
映画の予定を繰り下げて篠目あさひと喫茶店に入ったのは、たいした理由があってのことじゃなかった。
それでもそのまま映画館に入る気にはなれなかったし、篠目も僕に聞きたいことがあるような顔をしていた。
ただひとり、予定を狂わされたすみれだけが少し不機嫌そうにしていたけれど、
僕の都合を考えて仕方ないと思ってくれたらしい。最後には黙っていた。
「あなた、誰?」
と、街で僕と顔を合わせた直後、開口一番に篠目は言った。
「誰、と言われても」と僕は困ってしまった。
とにかく落ち着いて話でもしてみようじゃないか、と僕らはどちらが言い出すでもなく喫茶店に入った。
別に聞きたいことがあるわけでもない(こっちの篠目の話を聞いたところで、僕には何の関係もない)。
それでも話す気になったのは、単に興味が湧いてきたからだ。
350: 2016/11/23(水) 23:04:41.34 ID:kC6D1Zgdo
人には、人生のうちにどんな努力をしても絶対に顔を見ることのできない相手がひとりだけいる。
それは自分自身の顔だ。
鏡は左右が反転している。映像を撮っても写真を撮ってもそれが「実際の顔」とは言えない。
そんな自分の動いている姿を、僕はさっき目の当たりにしてしまった。
そのせいで、なんとなく、この世界にやってきたことは、僕にとって何か意味のあることなんじゃないかという気がしてきた。
ただの誇大妄想かもしれない。
そして実際にテーブル席で篠目と向かい合って座ると、彼女が自分のいた世界の彼女とどう違うのかわからなくなってしまった。
「あなた、誰?」
そうもう一度訊ねてきた篠目の様子は、やはり僕の知っている彼女とさして変わらないように思えた。
「碓氷遼一」
と僕は言う。
「うそ」
と篠目は言う。
まあ、そういうだろうと分かっていたので、
「だよね」
と頷く。
351: 2016/11/23(水) 23:05:20.64 ID:kC6D1Zgdo
「似すぎてる」
「うん?」
「兄弟では、ない」
「兄弟にしては似すぎている」って意味だろうか?
「あなた、碓氷の何?」
何、と来た。
難しい質問だった。
「逆にひとつ聞いてもいい?」
篠目は怪訝げに眉を寄せただけで返事をよこさなかった。
彼女らしいと言えば彼女らしいけれど、そんなふうに警戒してみせる篠目の表情をあまり見たことがなかったから、少し意外に思う。
「きみは、碓氷遼一のなに?」
「わたしは……」
言葉に詰まったあと、篠目はひらひらと店内に視線を泳がせた。
広い店じゃない。僕ら以外の客は二、三組。店員がコーヒーを運んでくる。僕は何も言わずに口をつける。
352: 2016/11/23(水) 23:05:46.79 ID:kC6D1Zgdo
篠目はそれから何も言わなかった。続く言葉はいつまで待っても出てこなかった。
答えが浮かばない、というふうではない。
言いたい答えがたしかにあるけれど、言葉にしたら嘘になってしまうというような表情で口をつぐんでいる。
僕は質問を変えることにした。
「さっき、碓氷遼一がいたね」
「やっぱり違うんだ」
「なにが?」
「他人事みたいな言い方するから」
「残念だけど、あれもどうやら碓氷遼一だ」
「……」
話してもよかったし、話さなくてもよかった。
篠目を前にすると不思議な気分になる。
この世界の人間に対して、僕は何を言ってもいいし、何も言わなくてもいい。
なぜなら、本来関係がないから。
自分が圧倒的優位者になったような、万能感――錯覚。
353: 2016/11/23(水) 23:06:21.91 ID:kC6D1Zgdo
「篠目あさひ」
と、僕は声に出してみた。
篠目は目を細めた。
「……あなた、誰?」
本当に、篠目だ。
彼女は、思考の道筋を言葉にしない。
僕は、その思考を結論から逆流して推測するしかない。
何も語らずに氏んだ人間の行動から、何をしようとしていたのかを推測しようとするみたいに。
どうして名前を知っているのか、と彼女は思ったのだろう。
だから、何者なのか、と訊ねてきた。
「図書委員?」
と僕は訊ねてみる。
篠目はさすがに不気味に思ったみたいだ。僕はなんだかおかしくなって笑った。
「遼一、性格悪ーい」
となりで退屈そうにコーヒーを飲んでいたすみれが口を挟んできた。
僕もさすがに自重することにした。
354: 2016/11/23(水) 23:06:51.19 ID:kC6D1Zgdo
「女の子いじめたいだけならもう行こうよ。わたし、映画見たいんだってば」
「ん。まあ、それでもいいんだけどね」
「……あなたたち、何なの?」
「言わないよ」とすみれは言った。
「ていうか、言ったって信じないでしょ?」
まるで悪者みたいな台詞だ。
僕らがさっきから言っている言葉は。
「それ以前に、あなた、遼一とどういう関係なの?」
「委員会仲間じゃないの?」
すみれの言葉に僕が適当な返しをすると、篠目は意外そうな顔をした。
「……違う。学年が一緒なだけ」
「……へえ。なるほどね」
こっちの僕は図書委員じゃないらしい。納得がいくといえばいく話だ。
355: 2016/11/23(水) 23:07:19.61 ID:kC6D1Zgdo
「……話が進まない」
焦れたように、篠目は吐き捨てる。僕は笑いだしたくなる。
「なにせ、話を進めたいなんて思ってないからね」
それでも、篠目は席を立たない。
知り合いに瓜二つの人間が、自分を知っている。
彼女じゃなくても、投げ出したら落ち着かないだろう。そう思うと不憫な気もしてくる。
「篠目はさっき何をしてたの?」
昔からの友達みたいに、あっちの篠目に話しかけるよりずっと気安く、僕はそう訊ねた。
篠目は少し考え込むような様子だったが、このままでは埒があかないと思ったのか、結局話し始めた。
「碓氷を見てた」
「……なぜ?」
篠目は答えない。
「好きだからでしょ」とすみれがあっさりと言う。
「あなた、ストーカー?」
篠目は答えない。
否定すらしないのが答えのようなものだった。
358: 2016/12/05(月) 00:49:45.97 ID:AU9ivydQo
◇
そこからべつに話が弾むわけもなくて、篠目と僕らは別れようと思ったんだけれど、
お互いに別れるためのきっかけもなくて、最後にはなぜか彼女を映画に誘っていた。
ここまで来ると僕の気まぐれにすみれも慣れきっていて、諦めたように「どうぞお好きに」と笑っただけだった。
別に悪い映画でもなかったけど、篠目は「期待はずれだった」と観終わったあとに肩をすくめた。
「観たかった映画なんだろ」
「観なかったほうがよかったかも」
「なんだかそれって寂しいな」
「うん。だから、観なければよかったの」
僕とすみれの会話を横で聞きながら、篠目は戸惑ったように視線を泳がせていた。
あの浮世離れしたような態度とは違う。
まるで、ごく普通に、コミュニケーションが苦手な女の子みたいだった。
359: 2016/12/05(月) 00:50:21.99 ID:AU9ivydQo
僕たち三人は、それからまた喫茶店に入った。
別に話したいことがあったわけでもないけど、別れるきっかけも掴めなかった。
沈黙を持て余しながら、僕は、ずっと気にしないようにしていたことについて考えてしまった。
学校のこと、バイトのこと、家のこと……。
そのあたりのことは、べつにどうでもいい。
誰かが迷惑しているかもしれない、誰かが割りを食っているかもしれない、でも、そんなのは俺の知ったことではない。
気がかりなのは、ひとつだけ。
愛奈が、どうしているのか、と、それだけ。
でも、それだってきっと、罪悪感が後付した心配に過ぎないのかもしれない。
自分の気持ちなんて、自分でもよく分からない。
360: 2016/12/05(月) 00:50:59.84 ID:AU9ivydQo
◇
ずいぶんと長い沈黙を破ったのは、篠目だった。
「ねえ、あなたたちは、何者なの?」
「……何者?」
何者。何者なんだろう。それもよくわからなかった。
「そんな質問、するだけ無駄だよ」
そう言ったのはすみれだった。僕もそう思った。
「……そうかもしれない」
さっきまでとは違う様子で、篠目は頷く。
「ねえ、あなたたち、ひょっとして、何か困ってる?」
「……どうかな。困っていると言えば、困っているかもしれない」
「実はね、わたしも困ってるの」
そうですか、と僕は思った。それ以外に感想の見つけようがなかった。
361: 2016/12/05(月) 00:51:27.30 ID:AU9ivydQo
篠目は僕らにかまわず話を続けた。
「あのね、碓氷――もうすぐ殺されるの」
「……」
はあ、と思った。
「殺される?」
「うん。ねえ、最近この街で起きてる殺人事件について、知ってる?」
急に、物騒な話になってきた。
「学生が殺されてるの。四人。全部夕方の四時頃。ナイフで刺されて。何回も何回も刺されて」
「……」
「次は碓氷が殺される」
362: 2016/12/05(月) 00:51:52.32 ID:AU9ivydQo
「……ちょっと待ってもらっていい?」
「なに?」
「犯人は捕まってないんだよね」
「そう」
「誰が疑わしいとか、そういうのは?」
「なんにも分からない」
「じゃあ、どうしてきみは次に狙われる人が分かるの?」
「夢で見たから」
篠目は自分でもちょっと笑いながら言った。
「全部、夢で見たの。殺される人の顔、殺される瞬間の出来事。夢で見た通りの人が、夢で見た通りに殺された」
「……」
からかっているんだろうか、と、少し思う。
363: 2016/12/05(月) 00:52:21.26 ID:AU9ivydQo
「今は……碓氷が殺される夢を見る」
すみれがバカバカしそうに笑った。
「だってよ、遼一。どうする?」
「そうだね、どうしようね」
本当に、どう反応していいのか、困った。
「あんまり、いい気分はしないかもしれないな」
べつに篠目の言うことを真に受けたわけじゃない。
夢で見た……? 誇大妄想かなにかとしか思えない。
でも、僕らは既に不思議なことに巻き込まれていて、だから、彼女の言葉を否定する理由もはっきりとは見つけられない。
だからといって、それが自分にとって重大なことだとは、あまり思えない。
どうしてだろう。
「……僕たちも困ってるんだよ」
篠目は、僕の顔をじっと見つめてくる。
「実は僕たちはこの世界の人間じゃないんだ」
と、僕もやはり、言いながらその言葉のバカバカしさに吹き出してしまった。
この世界の人間じゃない。おもしろい。
「並行世界って言って伝わるかな。とにかく、こことは違う世界から来て……こことは少し違う世界から来て……放り出されたんだ」
「……帰れないの?」
「……そうだね」
帰りたいかどうかも、よくわからない、と、そう言ったら混乱してしまうだろう。
364: 2016/12/05(月) 00:52:54.45 ID:AU9ivydQo
「当然、この世界には僕の居場所に僕がいて、この僕の居場所はどこにもない。それは楽ではあるんだけど、大変でもある」
「分かるような気がする」
「とにかく、厄介な状況ではあるんだ」
「それなのに映画を観てたの?」
「うん。途方に暮れてたから」
「……」
篠目は呆れたみたいに溜め息をついた。
「……帰る方法、あるの?」
「どうかな……あったら、考えることが減っていいんだけどね」
篠目は僕の言い方が引っかかるみたいに眉を寄せた。
365: 2016/12/05(月) 00:53:27.04 ID:AU9ivydQo
「……行き場がないなら、わたしの家に来る?」
今度は、その言葉を僕らが訝しむ番だった。
「帰る手段を探すにしても、そうしないにしても、とにかく、拠点は必要でしょう?」
「家の人は?」
「いないから大丈夫」
「……」
「そのかわり、手伝ってほしいことがある」
「……なに?」
「事件を未然に防ぎたいの」
僕は、少しだけ考えた。
「協力しろ、と?」
「そういうことになる」
「ふむ」
「おもしろそうだね」とすみれは言った。本当に面白がってるみたいだった。
まあ、たしかに、いつ帰れるかもわからないのに、いつまでもすみれの家にいるわけにもいかない。
とはいえ、それは篠目の家でも同じことではあるのだが……。
「……答えは後でいい。とにかく、今日はうちに来たらいい」
僕は少しの間篠目の表情をうかがったが、結局溜め息をついて頷いた。
「まあ、とりあえず、助かることは助かるしね」
368: 2016/12/09(金) 00:46:26.21 ID:vWhZ8IiDo
◇
篠目の家には誰もいなかった。誰もいない家ばかりにやってきてしまう。
「親御さんは?」と訊ねると、
「離婚調停中」と返事がかえってくる。
そうですか、と僕は思った。
僕とすみれはすぐさま篠目の私室に通された。彼女は僕たちのためにコーヒーを入れてくれた。
「粗茶ですが」
「コーヒーだと思うけど」
「粗コーヒーって語呂悪いし」
そうですね、と僕は思う。
「それにしても、本当に碓氷そっくり」
「本人だからね」
「仕草がぜんぜん違うのに」
そう言われても、僕はこっちの僕をあまり見ていないから分からない。
369: 2016/12/09(金) 00:46:57.15 ID:vWhZ8IiDo
篠目の部屋は意外と普通な感じだった。一番目につくのは本だ。綺麗に整頓されている。他のものは収納されているらしい。
「綺麗な部屋だね」と僕はとりあえず思ったとおりの感想を言った。
「散らかってますが」と篠目は言う。
「いや、綺麗だって言ったんだけど」
「社交辞令です」
本当に、この子との会話は難儀だ。
「掃除とか整頓とか、好きなので」
「ふうん」
「遼一は嫌いでしょ」と、堂々とした態度でクッションに腰を下ろしたすみれが言った。
「なんでそう思う?」
「部屋、散らかってそう」
正解だ。僕は掃除とか片付けとか、そういうあれこれが大の苦手だった。
基本的に自室は混沌としている。
何がどこにあるのか、どうしてそれがそこにあるのか、僕は自分のことなのに分からなかったりする。
370: 2016/12/09(金) 00:47:29.95 ID:vWhZ8IiDo
「ふたりは恋人同士?」
「ふたりって、誰と誰?」
篠目の質問に問を返すと、彼女は僕とすみれを交互に指差した。
「違うよ」
「うん。違うね」
「ただのお友達?」
「友達ですらない」
「どういう関係?」
「しいていうならセフレだね」
「せふれ」
すみれの軽口を、篠目は鸚鵡返しした。
「知らない世界」
「すみれ、適当なこと言わないでくれる?」
「でも、わたしたちの関係を言い表す的確な言葉だと思うの」
「どこが」
「お互いがなんかもやもやして、すっきりしなくて、楽しいこととか気持ちいいことがしたくて、一緒に行動してる」
「……それが?」
「観念的」
違うと思う。
371: 2016/12/09(金) 00:47:57.06 ID:vWhZ8IiDo
「あの。そういうの、よくないと思います」
篠目が僕の方をまっすぐに見てそう言った。
「僕もそう思う」
「よくないと思うのに、そういう関係なの?」
「そういう関係じゃない」
「つまり、なんとなくもやもやして、楽しいことがしたいから一緒に行動しているわけではない?」
「……ではない、こともないかもしれない」
「つまり、観念的フレンド」
「その言い方やめて」
僕はなぜか落ち込んだ。
372: 2016/12/09(金) 00:48:22.81 ID:vWhZ8IiDo
「それで、結局、どういう関係?」
答えないと、またすみれと篠目がふたりで話を混沌とさせるような気がしたから、僕は真面目に答えることにした。
質問に真剣に答えるというのは、あんまり得意ではないんだけど。
「偶然会って、話してるうちに……意気投合、して」
「したっけ? 意気投合」
「したことにしてくれ。話が進まないから」
頭を抱える僕を見て、すみれは楽しそうにけらけら笑った。
「それで、妙な都市伝説の話になった」
「都市伝説?」
「そう、都市伝説。廃墟の遊園地のミラーハウスに行くと……」
そこまで言って、そういえばこの話を僕に教えてくれたのは篠目だったと思いだした。
「聞いたことない? その話」
篠目は首をかしげた。
「聞いたことない」
「……」
それがなにを意味するのか、今の僕にはよく分からなかった。
373: 2016/12/09(金) 00:48:53.84 ID:vWhZ8IiDo
「……とにかく、その噂のミラーハウスに行って、出てきたら、こっちにいた」
「つまりふたりは、行きずりの関係」
「その言い方やめて」
「……行きずりって、何かダメな言葉だった?」
「ダメじゃないよ。遼一の頭がやましいだけ」
勝手にやましいことにされてしまったが、今の流れだと否定もしにくい。
すみれはそのまま、篠目の方を向いた。
「えっと……名前、なんだっけ?」
「篠目あさひ」
「あさひ。変な名前」
「あなたは?」
「咲川すみれ」
「綺麗な名前」
「……それ、変な名前って言われるより妙な気分ね」
すみれはちょっと嫌そうだった。
374: 2016/12/09(金) 00:49:26.53 ID:vWhZ8IiDo
「ふたりは並行世界から来たって言ってたけど、そのミラーハウスが原因ってこと?」
「そう。まあ、いろいろあったんだけど……」
すみれが、面倒そうに手を振った。僕もひとつひとつ説明する気にはなれなかった。
「望んだ景色を見ることができる、って噂だったんだ」
「景色?」
「そう。ミラーハウス。で、出てきてみたら、この世界だった」
「じゃあ、ここはあなたたちが望んだ景色?」
「……そういう解釈になるかな、やっぱり」
「あなたたちの世界って、こっちとどう違うの?」
「遊園地の様子が違った。乗ってきたバイクもなくなってた」とすみれは言う。
「噂も流れてた」と僕。
「あとは?」
「……きみの言ってた、殺人事件って奴。けっこう話題になってるんだろ?」
「あ、うん。ワイドショーなんかで取り上げられてる」
「じゃあ、それもあっちにはなかった」
「殺人事件を望んでたの?」
「……ある意味じゃ、そうかもね」とすみれは皮肉っぽく言った。
僕はもうひとつ思いついたことがあったけど、言ったら何を言われるかわからなかったので黙っておいた。
375: 2016/12/09(金) 00:49:54.82 ID:vWhZ8IiDo
「何か、思い当たることがあるって顔、してるよ」
それなのに、篠目はあっさりと看破してしまった。
本当に、この子はどっちの世界でも変わらない。
僕の韜晦を、彼女はあっさりと見透かしてしまう。
相性が悪いのだ、きっと。
「……さっき、僕がいた」
「うん」
「生見小夜と歩いてた」
「……イクミサヨ?」
すみれが、怪訝げに眉を寄せた。
「僕の、幼馴染。あっちじゃ、あんまり話をしなかった」
「生見さん? そうなの?」
「じゃあそれじゃない? 遼一」
とすみれ。
「望んだ景色。たぶんそれだよ。生見さんってこと一緒にいたかったんじゃない?」
「……」
僕は何も答えなかった。否定も肯定も、できそうにない。自分でもよくわからなかった。
そうと言われれば、そうかもしれない。
376: 2016/12/09(金) 00:50:20.88 ID:vWhZ8IiDo
「自分でもよくわからない」と僕は正直な気持ちを話した。
「ともかく、わたしたちに関係する目に見える変化って、それくらいだもん」
「……すみれの方だって、何か変わってるかもしれない」
「それは否定しないけど」
「ところで」
と篠目は話を区切った。
「わたし、あなたのこと、なんて呼んだらいいの? 碓氷って呼んだら、混乱しちゃうでしょ?」
「それを言うなら、僕も篠目を篠目と呼んだら混乱する」
「わたしのことはあさひでいい」
「じゃあ、僕も遼一でいい」
「遼一。うん、分かった」
「……」
すみれは何か言いたげな顔をしていたけれど、結局何も言わなかった。
377: 2016/12/09(金) 00:51:17.33 ID:vWhZ8IiDo
「でも、どうすれば帰れるのかな、そうすると」
「……とりあえず、そっちに関しては、ひとまずいいよ。考えてもわかりそうにないし」
僕はそこで話を変えた。
「それより、あさひの夢の話」
同級生と同じ顔をした同じ名前の女の子を、下の名前で呼ぶというのは、慣れるまで変な気分がしそうだった。
「それと、殺人事件の話」
「そうだったね」
「一応きいておくけど」とすみれは口を挟んだ。
「誇大妄想の類じゃないよね?」
篠目――あさひは、少し虚空を見つめてから、ぼんやりした調子で、
「保証はできないかも」
そう、困ったように呟いた。
380: 2016/12/18(日) 23:47:26.38 ID:YpustQk1o
◇
「ちょっと順番が前後するけど、最初に事実から話すね」
あさひはいくらか悩んだような素振りを見せたあと、そう言って話し始めた。
「最初に報道された事件は、先月のこと。七月二十日。地下鉄駅の通路の物陰。夕方。混雑している時間帯だった」
「……今日、何日だっけ?」
「八月十九日」とあさひは言った。ちょうど一ヶ月が経とうとしているわけだ。
「殺されたのは、近くの高校の二年生だった。刃物かなにかで。何箇所か刺されて」
「……」
「ちょうど夏休みに入ったばかりで、どこかに出掛けて帰っているところだったみたい。犯人は捕まってない。
人混みの中だったのに、犯人の目撃情報は極端に少なかった。でも、ないわけじゃなかった」
「目撃情報……」
「そう。殺された男の子と言い争っていた人がいたのを見た人がいた。
その人によると、同年代くらいの男の子と険悪な雰囲気だったのを見たらしい」
381: 2016/12/18(日) 23:48:33.94 ID:YpustQk1o
「……ちょっと待って」
「なに?」
「犯人、捕まってないんだったよね?」
「うん。でも、報道された情報はそこまで。あとは、ワイドショーなんかでいろんな憶測を挙げてたりしたけど、すぐに事情が変わった」
「……ああ、そうなるよな」
「ん、どういうこと?」
話を黙って聞いたままコーヒーを飲んでいたすみれが顔を挙げた。
「ひとつの事件として見るのと、連続の事件として見るのでは事情が変わってくるだろう」
「ああ、そういう……」
「あれこれ憶測しているうちに、データが増えたってことだな」
こくり、と、あさひは頷いた。
382: 2016/12/18(日) 23:49:01.49 ID:YpustQk1o
「二人目はね、うちの学校の女の子だったよ」
「……」
「七月二十七日。この子は、家の近くの雑木林で氏体が見つかった。
おんなじように、刃物で刺されて亡くなってた。こっちは目撃者なんてほとんどいなかった。
人気のないところで、氏体が見つかったのも、翌朝になってからだったって」
「……うちの学校、か」
それは、僕にとっても、自分の学校ということだ。
「僕の知ってる子かな」
「分からない。弓部 玲奈さんっていう、先輩だった」
「……ユベ、レイナ」
知らない名前だった。
「あさひは、知ってる人?」
彼女は、少し、何かを思い出すような表情になった。
「綺麗な人だったよ。でも、怖い人だった」
「怖い?」
「なんだろう、ね。どことなく、なんだけど」
383: 2016/12/18(日) 23:49:34.04 ID:YpustQk1o
「一応、定石通りの質問をしてみるけど、その前にひとつ」
「なに?」
「あさひは、その事件について、いくらか調べているんだよな?」
こくり、とまたひとつ頷く。
「ニュース、新聞、ワイドショーで調べられるだけの情報は、一応。
それから、被害者の友人関係なんかも、できるかぎり……。ツテがないから、同じ学校の人のことだけだけど」
「……なるほど」
あさひはそこで、ふう、と溜め息をついた。
「一応、これが、報道されてるふたつの事件」
僕は怪訝に思って質問した。
「……"報道されてる"。ずっとそう言ってたな」
「そう」
「順番が前後する、って言ってたのは?」
「うん。そういうこと」
「どういうこと?」
話を半分に聞いていたすみれが、どうでもよさそうに訊ねる。
384: 2016/12/18(日) 23:50:10.49 ID:YpustQk1o
「報道されてない殺人があるんだろ」
「どうしてそれを、あさひが知ってるわけ?」
「うん。だからね……それを、夢で見たんだ」
すみれは「ふむ」と眉を寄せた。
「胡乱な話になってきたね」
「ずっと胡乱だよ」と僕は言った。
「最初からずっと」
「そうだね」とすみれは頷く。
「正解」と、だいぶ遅れて、あさひも頷いた。
385: 2016/12/18(日) 23:50:37.21 ID:YpustQk1o
「まず、わたしが夢を見るのは、わたしが眠っているとき。あたりまえだけど……」
「まあ、そうだろうね」
「夢を見るタイミングはバラバラだけど、最初に見たのは七月の頭頃だった」
「……頭、か」
「うん。数日間。変な夢だなって思ってた。次の夢を見たのは、七月半ば頃。それが、最初に報道された事件」
「……どちらも、夕方に刺し殺される夢だった、ってこと?」
「うん。一つ目は、学校帰り、だと思う。詳しい様子までは分からないけど、物陰から突然、刺し頃した」
「……ひとついい?」
「なに?」
「あさひは、頃しの場面を夢で見てるんだよな?」
「そうだね」
「それが本当か、本当だとして、実際に起こったことを見ているのか、そこらへんの事情は一旦棚上げする。
でも、その場面を見てるんなら、犯人の姿や顔は分かるんじゃないのか」
「ううん。分からない」
「どうして」
「犯人の視点の夢だから」とあさひは言う。
「わたし、人を頃す夢を見てるの。いまは、碓氷を頃す夢を見てる」
なるほど、と僕は思った。
386: 2016/12/18(日) 23:51:04.85 ID:YpustQk1o
「夢で見た内容は……報道された内容とは、一致してる?」
「少なくとも、二件目と三件目……さっき話した、氏体が見つかったものについては、一致してた」
「駅と、雑木林」
「そう」
「犯人の声は、聞き取れなかった。でも、いくつか、被害者側の声は聞き取れるものもあった」
「どんな?」
「それは……少し曖昧だから、あとで整理したい」
「了解。一件目と四件目の被害者は?」
「……行方不明ってことになってる」
「どこの誰なんだ?」
「うちの学校の生徒」
「……」
ずいぶん、偏っている。
「駅での殺人じゃ、目撃情報があったんだよね」
「そう。氏体は発見されていないけど、警察も二人の行方不明を事件と関連付けて調べてもいるみたいで……」
「とすると、犯人は……」
こほん、とすみれが咳払いをした。
「遼一と同じ学校の生徒で、三人の同校生徒と何かの形で関わりがあり、かつ、二番目の被害者とつながりのある人物」
僕とあさひはとりあえず頷いた。
387: 2016/12/18(日) 23:51:31.29 ID:YpustQk1o
「そのうえで」とあさひが言葉を引き継いだ。
「碓氷とも、何かの形で知り合いだと思う」
「……でも、このくらいのこと、警察ならすぐに分かるはずじゃない? どうして犯人が捕まってないの?」
「犯人が学生ではない可能性、単に無差別殺人である可能性、いずれかが模倣犯である可能性、
行方不明が事件とは無関係の可能性、行方不明の人間が犯人である可能性……」
「……多角的視野」
「それでも、いくらか絞ってはいそうだけど」
「次の夢を見たってことは……犯行は続く可能性が濃厚ってことか」
「もし、行方不明になったふたりが、本当に殺されているなら、だけど」
なるほど。これは、厄介な話だ。
あさひの夢を信用するなら、情報はかなりまとまって手に入る。なにせ彼女は、犯人の視点で当の出来事を見ているのだ。
でも、そこで得た情報を信用しない場合、可能性は一挙に広がってくる。犯人どころか事件の全容さえ、はっきりしなくなる。
この世界の碓氷遼一が、本当に殺されるかどうかでさえ……。
それで、"誇大妄想の類じゃないと保証はしかねる"わけだ。
388: 2016/12/18(日) 23:52:38.84 ID:YpustQk1o
「行方不明になったふたりは、さっきも言ったけど、うちの学校の生徒。
一人目が、沢村 翔太。二人目が、寺坂 智也」
少なくとも、氏体は発見されていない。
あさひの夢では、沢村は、どこかの公園かなにかにある公衆トイレのような場所で。
寺坂は、どこかの古い建物……小学校かどこかの、使われていない校舎のような場所で。
それぞれ刺し殺された……というより、"刺し頃した"、という。
「発見された二人の名前は、さっき言った通り、弓部先輩と……もう一人は、他校の、鷹野 亘って人」
「そのうち、殺されたこと、殺された日時が分かっているのも、発見されたふたりだけってことだ」
あさひは頷いた。
「鷹野 亘くんは、七月二十日、弓部先輩は七月二十七日」
「夢を見るようになってから殺されるまで、数日のスパンがあるとすると……最初の事件は、七月の上旬か」
「そうなる、と思う。最初に夢に出てきたのは沢村くん。学校に来なくなったのは、たぶん、七月六日頃」
「寺坂っていう奴の方は?」
「夢を見たのは、八月の頭頃だった。でも、夏休みに入ったから、いなくなったのがいつなのかは……」
「いなくなったのは、たしかなの?」
「……確証があるとは言わないけど、彼、野球部だったらしいから、一応聞いてみたら、部活に出てないって」
389: 2016/12/18(日) 23:53:09.65 ID:YpustQk1o
僕は、頭の中であさひの話を整理してみる。
まず、最初にあさひは、同じ高校の生徒、沢村翔太が公衆トイレかどこかで殺される夢を見る。
そして、彼は七月六日に失踪する。
次に、七月の半ば頃、駅で他校の生徒が殺される夢を見る。
七月二十日に、鷹野亘が実際に殺される。これは報道もされる。怪しい人物の目撃情報も、ここであった。
さらに三番目は、弓部玲子という同じ高校の先輩だった。
彼女は自宅近くの雑木林で、殺された(おそらく)翌朝に発見される。
最後が寺坂智也。使われていない校舎のようなどこかで、彼は殺される。
寺坂がいついなくなったか、実際にいなくなっているのかについては、はっきりとはしないが、それらしくはある。
そして八月十九日の今、篠目あさひは碓氷遼一を頃す夢を見ている。
……それにしても。
参ったな。
知っている名前がいくつかある。
「とにかく、人がこれ以上氏ぬのは困る。協力してほしい」
特に困っていなさそうな口調で、あさひはそう言った。
「……そうは、言っても、どうする気?」
390: 2016/12/18(日) 23:53:38.01 ID:YpustQk1o
「そんなに難しくないよ」とあさひは言う。
「他のときは、知らない人ばかりだったから、名前を知ったのはあとになってからだった。でも、今回は違う」
「……」
「次は、碓氷が殺される。時間は、おそらく夕方。だったら、碓氷を監視しておけばいい」
おいおい、と僕は思った。
てっきり、ミステリー的な展開になるんだと思っていたぞ、と。
「一人じゃ心許なかった。それに、人の命が懸かってるのに、「おそらく」じゃ行動したくない。
そのためには、時間も足も何もかも足りなかった。でも、三人いれば大丈夫」
「ちょっと待って」とすみれ。
「わたしも頭数に入ってるの?」
あさひはすみれが飲み干したコーヒーカップを指差した。
う、とすみれは呻いた。安い賃金になりそうだった。
「ちゃんと犯人を捕まえたら、わたしもあなたたちに協力する。悪い話では、ないと思う」
ふう、と知らず溜め息が出た。
391: 2016/12/18(日) 23:54:10.21 ID:YpustQk1o
「……とすると、そろそろこの世界の僕のところにいかないとまずいわけだ」
「できたら、あまり目を離したくない」
それはそうだろう。なるほど、ストーキングにも道理があったわけだ。
「場所は?」
と僕は訊ねた。
「場所が分かれば、追いかけなくても済むかもしれない」
「本当に夢のとおりに起きるとは限らない」
「……」
それを言ったら、殺人自体がそうなってしまう。
「なるほどね」と、とりあえずそう言っておいた。
たしかに……氏んでからじゃ遅い。
「それで……僕はどこにいるんだろう?」
「わからない。家かな?」
「だとしたら問題」とあさひは言う。
「碓氷は、自宅で刺されるみたいだから」
394: 2016/12/28(水) 21:36:22.44 ID:YME1DXE2o
◇
この世界の僕の行動範囲について、僕は何も知らない。
家の位置は、とりあえず一緒だと考えていいと思う。
でも、生見小夜と行動を共にするということを、この僕はしない。
それをしているという時点で、僕にとっては理解不能の他人と変わらない。
そうなってしまうと、結局は足を使うしかなかった。
頭でいくら考えたところで優位になんて立てやしない。
とにかく僕たちは――安くはない交通費を払ってまで――僕の家に向かった。
思った通り、場所は僕の知っているところに違いなかったし、様子もあまり変わったようには感じなかった。
問題は、僕の姿が見えないことだった。
困ったことに、家の中にいるのかどうかさえ分からない。
僕の家は民家の並ぶ通りにあったから、どうしても人目につくし、長時間ぼーっと立っているわけにはいかない。
そうなると距離を置いてどこかから様子を窺うしかない。
そういうことのできそうな場所は、近所の駄菓子屋の前のベンチとか、子供たちが遊ぶ公園とかしかなかった。
395: 2016/12/28(水) 21:36:52.33 ID:YME1DXE2o
見通しが悪いせいで、怪しまれずにずっと目を離さずにいるというのはほとんど不可能なように思える。
「ずいぶん人がいいよね」と僕は言った。あさひは何のことだか分からないみたいだった。
「きみは夢を見ただけだろ?」
「ん。まあ」
「夢なんて所詮夢だろ。誰にも内容なんてわからないんだし、知らんぷりしてほっといたって良いわけだ」
「べつにそれでもいいんだけど」とあさひは言う。
「寝覚めが悪いでしょう」
「夢だけに?」
「まさしく」
「なるほど」
八月の日没は遅い。公園のベンチから道端を眺める僕たちに見向きもせずに、男の子たちが遊んでいる。
すみれが退屈そうにあくびをした。
「不謹慎だよ」と僕は咎めてみせた。
「僕の命がかかってるんだぜ」
「あはは」とすみれは安っぽく笑った。僕も笑った。
396: 2016/12/28(水) 21:37:22.89 ID:YME1DXE2o
「何してるんだろうね、僕は」
「生見さんと、さっき街にいたし、帰ってこないかもね」
「電話番号とか、知らないの?」と僕はあさひに訊ねてみた。
「誰の?」
「僕の」
「どうして?」
「あったら便利かなと思って」
「だって、碓氷と話したことないもん。遼一は、そっちのわたしに番号教えてたの?」
状況が状況だけに、何気ない質問もいちいちややこしい言い回しになってしまう。
「そういえばお互い教えてなかったかも」
「ほらね」とあさひは言ったけれど、何が「ほらね」なのか分からなかったし、たぶんあさひにも分からない。
397: 2016/12/28(水) 21:37:52.31 ID:YME1DXE2o
「たいくつ」と眠そうな声ですみれが言った。
「遼一、何か面白い話をして」
「面白い話?」
「そう。じゃあ、あんたの話をしてよ」
「僕の? どんな?」
「そうだなあ……。あんたは、どうしてこんなところに来ちゃったの?」
「……」
すみれはどこか眠たげな顔で、どうでもよさそうにそう訊ねてきた。
あさひもまた、興味はなさそうだった。
「僕の家族の話をしたっけ?」
「家族? ……どうだったかな。聞いたような、聞いてないような。たぶん聞いてない。
でも、親に対する恨み言を言ってたのは覚えてる」
「恨み言……?」
そんなの、言ったっけか。
「勝手に産んだんだ、って」
「ああ……」
僕はそのことについて、特に何も言い足さなかった。
398: 2016/12/28(水) 21:38:21.55 ID:YME1DXE2o
そうだな、と僕は考えた。どこから話せば伝わるだろう。
きっと、どこから話したところで、うまく伝わらないんだけど。
「僕にはひとり姉がいるんだ」
「お姉さん?」
「そう。けっこう歳が離れてて……もう結婚してるんだけど」
「ふうん」
「それで子供を産んだ。僕が……そうだな、たしか、八歳くらいのときだったはずだよ」
「お姉さんはいくつだったの?」
「二十歳かな」
「じゃあ、お姉さんとの年の差より、お姉さんの娘との年の差のほうが小さいのね」
「うん。だから、そうだな。妹みたいな存在なのかもしれない」
「……妹、ね。それが?」
399: 2016/12/28(水) 21:38:49.45 ID:YME1DXE2o
「うん。でもね、姪が生まれて一年経ったかどうかって頃に、姉は離婚したんだ」
「ふうん」
すみれは特に興味も沸かないようだった。それはそうだろう。珍しい話でもない。
「姉は家に戻ってきて、僕らと一緒に暮らしてた。
でも、更に一年が経った頃、新しい恋人ができたんだ」
「はあ」
「それで妊娠した」
「……」
「姉は当然のように子供を産んで再婚しようとしたけど、姪は嫌がった。
嫌がった……うん。物心ついてない頃のことだから、本人がどう思っているかは分からないけど……。
とにかく、強い拒否反応みたいなものを見せた」
「……なるほど」
「でも、子供が出来た。姉は再婚しないわけにはいかなかった。
相手の男の方も、拒絶されると他の男の子供のことなんかどうでもよくなったみたいで……。
姉は姪を残して家を出て、その男と、その男の子供と暮らし始めた」
「それで?」
「なにが?」
「今は?」
「今もだよ」
すみれは少しうんざりしたみたいだった。
それから少し考え込んだあと、ああ、なるほど、と小さな声で呟いた。
400: 2016/12/28(水) 21:40:09.21 ID:YME1DXE2o
「だから、なんだね」
「なにが」
「勝手に生んでおいて、って奴」
僕は少し考えた。
「……うん。そうなのかもしれないな」
姪を放り出した姉。
姪のために何もしようとしない姉。
そのまま、もう、数年が経ってしまった。
いろいろと事情はあるらしかった。
新しく姉の夫になった男は、なかなかに困った人間で、
結婚する前こそ僕や僕の両親の前で大きなことを言っていたけれど、
今となっては姪の面倒を見る気なんてさらさらなさそうだった。
その男の両親にとっては姉とその男の子供が初孫にあたるらしく、
こっちの姪のことばかり気にかけるうちの両親には、「こちらのことも考えろ」と腹を立てているらしかった。
401: 2016/12/28(水) 21:40:38.38 ID:YME1DXE2o
そもそも、最初の男と姉が分かれたのだって、若くして結婚した姉が、結婚生活というものにうんざりした部分が大きかった。
同年代の人間はまだ好きなことをして遊んでいるのに、育児や家事に追われて好きに出かけることもできない日々。
その感覚は僕にだって理解できないわけじゃない。
でも、勝手だとも思う。
勝手な理由で姪は生まれた。勝手な理由で、まず実の父がいなくなった。
禍根を残さないようにという理由で、養育費を求めないかわりに、姪と顔を合わせないようにと姪の実父は言われた。
当時としてはそれが最善だと思えた。……今となっては、何が良かったのか分からない。
どちらも子供だったのだ。
勝手に産んで、
放り投げて、
それでも子供は親を愛さなければいけないのだろうか?
……いや。
それでも子供は、不思議と親を愛してしまう。そうであるからこそ、親を求めてしまう。
姪を見ていると、そう思う。
それは、とても痛ましい景色だ。
姉はもう、あたらしい子供と、あたらしい旦那と、あたらしい家で、あたらしい生活を始めていて、
それはもう、姪と姉が一緒に暮らしていた時間を、量的にはずっと上回ってしまっている。
僕はいつも不思議だった。
姪を放っておいて、それで当たり前の家庭のような生活を送れる姉の神経が。
彼女の側には彼女の都合があるのだろう……僕にだってそれは分かる。
けれど……。
402: 2016/12/28(水) 21:41:16.18 ID:YME1DXE2o
「それで?」
「うん?」
「それが、どう繋がるの?」
ああ、そういえば、僕がこっちにきた理由について話していたのだった。
「……いや、うん。どうだろうな」
「?」
「あんまり、関係なかったかもしれない」
「なにそれ」とすみれは笑った。
僕も合わせて少し笑った。
そうして今も、姪は僕と一緒に、姪にとって祖父母にあたる僕の両親と暮らしている。
今でも、姉と顔を合わせる機会がたまにあると、情緒不安定になる。
異父妹と会えば、なおさら。
だから僕は……金を……貯めようと思った。
きっと、姉はあの子に何もしないから。姉があの子にすることは、すごく限られているから。
403: 2016/12/28(水) 21:41:42.41 ID:YME1DXE2o
勝手に産んだんだ。勝手に産んだんだから、親にはその責任ってものがある。
それを親が果たさないなら……誰かが代わりにやらなきゃいけない。
それでも子供が親や大人を恨んだら、黙ってその言葉を引き受けなきゃいけない。
だって、本当に、産んだのは大人の勝手なんだから。生まれて苦しむことを、子供が選んだわけじゃないんだから。
そう、思った。でも結局……僕だって、姉と同じことをしているんだ、今は。
「……僕も、放り出して逃げてきたんだな」
結局、どれだけ言い繕ったって、そういうことだ。
僕だって、つらくなって逃げ出してきたんだ。
その日、僕たちは日が沈むまでその公園にいた。
暗くなってから、「僕」と生見がふたりで並んで一緒に僕たちの前を横切っていった。
こちらに気付きすらしなかった。
僕たちは暗くなってから、あさひの家へと戻ることにした。
そしてゆっくりと休んだ。僕は愛奈のことを考えたけれど、
逃げ出した身でどれだけ考えてみたところで、結局は帳尻合わせめいていた。
404: 2016/12/28(水) 21:42:17.43 ID:YME1DXE2o
つづく
開かない扉の前で◆[Cassandra] A/b405: 2016/12/29(木) 09:44:14.64 ID:tVI7sGHC0
おつです
引用: 開かない扉の前で
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