406: 2017/01/08(日) 20:55:48.62 ID:683/AOgXo


最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a

前回:開かない扉の前で◇[Stendhal] R/b

◆[Cassandra] A/b


 お兄ちゃんが氏んだと聞かされた日、わたしは泣いた。
 
 そのときの自分が何を思ったのかもわからない。何を考えていたのかもわからない。
 わけもわからずに、それでも両目からぽろぽろと涙がこぼれるのを止められなかった。
 
 何がそんなに悲しかったのか。

 彼にもう会えないのだと、そのときに実感していたわけでもない。
 かわいそうだと、彼を哀れんでいたのでもない。

 それでもわたしは泣いていた。
 
 泣いている自分を、悔しいとも思った。
 どうして泣いてしまうのか、と。

 そんな自分を卑怯だとも思った。
 理由は、今でもよく思い出せない。

 それでもお兄ちゃんは氏んでしまって、
 氏んでしまった以上は二度と会うことができない。
 それはとても当たり前のことなのだ。

メイドインアビス(1) (バンブーコミックス)
407: 2017/01/08(日) 20:56:18.37 ID:683/AOgXo

 お兄ちゃんのことについて考えるとき、わたしが思い出すのは彼の笑顔のことだった。
 
 怒ることも悲しむこともなければ、思い切り笑うということすら、彼はしなかった。

 とても穏やかに笑った。破顔する、というのとは違う。表情はゆっくりと変わっていく。
 その表情のゆるやかな変わり方が好きだった。

 けれどあれは、今思えば、
 意識的にそうしようとしていたからこそ、あんなふうに静かだったのではないだろうか。

 お兄ちゃんについて、わたしは何も知らない。
 一緒に過ごしてきたのに、なにひとつ思い出せない。

 本が好きだった。音楽が好きだった。映画が好きだった。ひとりで旅行にいくのが好きだった。
 それから?

 わたしはお兄ちゃんについて、いったい何を知っていただろう。


408: 2017/01/08(日) 20:56:44.57 ID:683/AOgXo



 あなたの叔父さんが、わたしのお客さん。

 そう言って、女は苦しげに顔をしかめた。
 わたしは、ああ、やっぱりそうだったのか、と、そんなふうに思った。

「お兄ちゃんが、この世界を望んだの?」

「そういう言い方もできる」と彼女は言った。

「お兄ちゃんは、この世界にいたの?」

「それは確か」

「お兄ちゃんは……」

 わたしは、何を訊ねるべきかもわからないまま問いを重ねようとした。
 それを遮ったのはケイくんだった。

「なあ、帰れるんだろ?」

 彼はうんざりしたような口調でそう言った。

「帰れるんだったら、とっとと帰ろう」

「でも」


409: 2017/01/08(日) 20:57:12.06 ID:683/AOgXo

「いいから、帰るぞ」

「ケイくん!」

 わたしの声に、彼は気まずそうに視線をそらした。

「少し、話をさせて。お願いだから」

 彼は押し黙る。わたしは黒服の女の方へと向き直った。

「ねえ、あなたはお兄ちゃんが何を望んだのか、知ってるの?」

 女は溜め息をついた。

「わたしがそれを知っているとして、それを聞いてどうするつもりなの?」

「知らないの?」

「……残念だけどね、わたしは知らない」

 彼女はそう言った。

「どうして? あなたが願いを叶えたんじゃないの?」

「……ねえ、少し落ち着いてくれる? ……うるさい」

 その冷たい言葉の響きに、わたしは背筋がざわつくのを感じた。


410: 2017/01/08(日) 20:57:39.27 ID:683/AOgXo

 ふう、ともう一度、彼女は溜め息をつく。

「どうでもいいでしょ、そんなこと。不満なら、そう。
 ほら、わたしにも守秘義務っていうのがあるって思ってくれてかまわない」
 
 とにかく、わたしがそれをあなたに伝える義理はひとかけらもない。

「うるさい」

 と今度はわたしが言った。

「教えろ」

 女の人は少し面食らったみたいだった。

「やめろよ」とケイくんが言う。

「もう少し待って」

「やめろって」

 彼はそう言ってわたしの肩を掴んだ。

「聞いてどうする」

「どうって?」

「いいから帰るぞ」

「どうして?」

「夢なんだよ。全部悪い夢なんだ。考える必要のないことなんだよ。どうでもいいだろ、そんなこと」

「ちょっと黙ってて!」

 口調が荒くなるのを止められなかった。

「……大切なことなの」


411: 2017/01/08(日) 20:58:16.12 ID:683/AOgXo

「本当に知らないの」

 女は言う。

「わたしは結果から推測できるだけ。何を望んでいたかは本人にしか分からない。
 だいたいのことは分かるけど、でもそれは、あなたたちが見たものから推測できるものとおんなじ」

「……お兄ちゃんは……」

 わたしが。
 この世界にはいなくて。
 わたしのかわりに穂海がいて。

 お母さんがいて。
 お兄ちゃんは……。

 思っていたのか。
 
 わたしがいなければ、
 わたしがいなければ幸せだったって。

「――どうするの? 帰るなら、帰る。帰らないなら帰らない」


412: 2017/01/08(日) 20:58:58.29 ID:683/AOgXo

「……ね、ケイくん。お兄ちゃんは、わたしなんていないほうがよかったんだって思う?」

 わたしの肩に手をおいたままのケイくんにそう訊ねる。
 彼は、少しの間黙っていた。

 それから、心底呆れた、馬鹿馬鹿しいというふうに溜め息をついて見せた。

「あのな、冷静に考えてみろ」

 その声のあまりの軽さに、わたしは戸惑った。
 ケイくんはまるで、小さな子供の言い間違いを諌めるような調子で続けた。

「たしかにこの世界にはおまえがいなかった。でもよく考えてみろ。もうひとつ大きな違いがある」

「……大きな違い?」

「時間だよ」とケイくんは言った。

「叔父さんはここだと高校生だ。おまえの叔父さんは二十代だったんだろ。
 そう考えれば単純だろ。叔父さんはやり直したいことがあったんだよ」

「……やり直したこと?」

「それが何なのかは俺にも分からない。でも、そんなの、誰にだってあるだろ?
 やり直せるものならやり直したいことなんて、誰にだってある、と思う。
 叔父さんの心の底にはそういう願いがあったんだと思う。あのとき女の子に告白してればとか、そういう類の」

「……」


413: 2017/01/08(日) 21:00:18.11 ID:683/AOgXo

「誰にだってあるんだ。後悔してることなんて。だから叔父さんは別の可能性を見てみたかったんだ。
 そう考えるほうが自然じゃないか? いや、そもそも……この世界が本当に叔父さんが望んだ世界なのか?
 俺たちは、べつの誰かがくぐった扉からここに来たんだ。だったら、その人の望んだ世界って考えたほうが自然だ」

「……」

「さっきこいつは、この世界を望んだのは碓氷遼一だと言った。でも、本当にそうかなんて分からない。
 仮にそうだったとしても、おまえのことを叔父さんが疎ましく思っていたなんてことにはならないと思う。
 叔父さんはただ、実際に自分が辿った人生とは別の可能性を見てみたかっただけなんじゃないのか?」

「……」

「なあ、思い出せよ。おまえの叔父さんは、おまえのことを疎ましく思っていたと思うか?
 叔父さんがそう言っていたか? 生きていた頃、叔父さんはどういう人だった?
 ――その人は、そういう人だったのか?」

 お兄ちゃんが。
 どういう人だったか。
 そんなの。

「……わかんない」

 頭のなかが、ぐるぐると、混乱していた。いろんなことが頭をよぎって、わけがわからない。

「わかんないよ……」

 お兄ちゃんは……わたしを。


414: 2017/01/08(日) 21:01:29.25 ID:683/AOgXo

「おまえがいなければ幸せだったなんて、そんなことあるわけない。
 そんな考えは責任転嫁だ。おまえの叔父さんは、そんなふうに身勝手な考え方をする人だったのか?」

「……違う」

「だったら」

「違うけど!」

 わたしは、
 何を思えばいいのか、わからない。

「でも、そうなのかもしれない」

「……帰ろう。悪い夢なんだよ、こんなのは」

 空はきれいな秋晴れで、
 わたしの吐き出した息をどこまでも高く吸い込んでいく。

 少し日差しはあたたかで、
 それでもわたしの視界は灰色にくすんでいる。


415: 2017/01/08(日) 21:02:02.36 ID:683/AOgXo

「ねえ、本当にここは、お兄ちゃんが望んだ世界なの?」

 女は、不自然に慎重そうな仕草でわたしとケイくんの表情を順番に眺めた。
 そして一言、

「そう」

 と頷く。

「……ケイくん、ごめん」

「……なんだよ」

「ケイくんは、先に帰って」

 後ろから、息を呑む気配が伝わってくる。

「わたしは知りたい。お兄ちゃんが望んだ世界のこと。この世界が、どうなっているのか」

「……知ってどうするんだよ」

「わからないけど……」

「よく考えろよ。この世界には、叔父さんはいないんだ。
 この世界にいるのは、昔の、しかもおまえが知ってるのとはべつの叔父さんなんだ。
 どれだけたしかめたって、叔父さんが本当に何を望んでいたかなんて分からない」

 それに第一……と、ケイくんはそこで言葉を止めた。
 続きは言われなくても分かっている。

 お兄ちゃんは、氏んでしまった。
 氏んでしまった人間の願いなんて、知ったところで何になるだろう?


416: 2017/01/08(日) 21:02:29.25 ID:683/AOgXo

「でも知りたいの」

「……」

「お兄ちゃんのことを知りたい。お兄ちゃんが、どうしてこの世界を望んだのか。
 何に苦しんで、何が悲しくて、何を望んでいて、何を思って、わたしにお金を残したのか」

「……人のことなんて、理解できないよ、きっと」

「でも、それはわたしにとって大事なことなの。どうしても、知りたい」

「たいしたことない話なのかもしれないよ」

「それならそれでかまわない」

 そう口では言ったけれど、本当はわたしは、何か望んでいたのかもしれない。
 お兄ちゃんがもっていた望み。お兄ちゃんが考えていたこと。

 そこに何か、意味深いものがあることを。

「……わかったよ」

「うん。それじゃあ、先に帰ってて」


417: 2017/01/08(日) 21:04:33.16 ID:683/AOgXo

「何言ってんだ、バカ」

 と言って、彼はわたしの頭を軽く叩いた。

「いたい」

「おまえみたいな危なっかしいのを放っておけるか」

「……ケイくんって、お人好しだよね」

「うるさいな。でも、なるべく早く済ませよう。……おまえの家族だって、心配してるかもしれないだろ」

「……あ、うん。そうかも。ケイくんの家族もね。……やっぱり帰ったほうがいいんじゃ」

「うるせえ」

 と、ケイくんはまたわたしを叩いた。

「どうせまひるに服を返さなきゃいけなかったんだ」

「……ふたりとも、まだ帰らないんだね?」

 黒服の女は、呆れたみたいに溜め息をついた。

「まあ、べつにいいんだけど」


418: 2017/01/08(日) 21:04:59.03 ID:683/AOgXo

「……ごめんね」とわたしは一応謝っておいた。

「でも、わたしから教えられることはないよ」

 女はそう言って、わたしから目をそらした。
 何かを隠したように感じられた。

「気が変わったら、すぐに言って。
 ここまで来るのは不便だろうから、どこかに場所を変えることにする」

「……場所」

「そうだね。……このあたりで一番高い建物のてっぺんにいることにする」

「このあたりって……どのあたりだよ」

「この時期だと……うん。あと二年もすれば、一番じゃなくなるはずだね」

「……あ」

 どこだか、分かった。

「じゃあ、もし帰りたくなったら、そこに来て」

 そう言って、女の人は去っていった。

421: 2017/01/15(日) 21:52:52.11 ID:G30ej1Nao



 女の人が去ってしまったあと、わたしたちはとりあえず歩いて、ようやく見つけたファミレスに入ることにした。

 本当は、あの女の人を呼び止めようと思った。彼女にいろいろなことを確認するのが、一番手っ取り早いはずだからだ。
 彼女はお兄ちゃんの望みを知らないと言っていたけれど、それでも顔や姿は見たはずだし、言葉も交わしただろう。

 そのときの様子や、お兄ちゃんの何気ない言葉のひとつでも聞き出せれば、これからの行動方針の参考くらいにはなったかもしれない。

 でも、彼女に話す気はなさそうだったし、それならいくら詰め寄ったところで仕方ない。
 それに、なんとなくだけれど……わたしは彼女に、なんとなく嫌な雰囲気を感じていた。

 その嫌な雰囲気というのは、別のどこかで感じたことがあるもののような気がしたけれど、それについてはあまり考えないことにした。
 考えるべきことは他にあった。

「さて」とケイくんが口を開いた。

「これからどうする?」

 それが問題だった。
 
 ここに来るまでの間少し考えてみたけれど、やはりたいしたことは思いつかない。
 頭に血がのぼっていたからといって、よくまあ考えなしに沈没間近の豪華客船に進んで残ろうとするようなことをしてしまったものだ。

 いくらか気分が落ち着いた今になっても、やはり間違った判断だったとは思わないが、それにしてもとっかかりがなさすぎる。


422: 2017/01/15(日) 21:53:22.56 ID:G30ej1Nao

 とりあえずわたしたちはドリンクバーを頼んだ。割高にはなるが、お腹は空いていないし仕方がない。

 日が出てきて気温があがったせいか、少し暑さを感じていた。まだ残暑が抜け切らないらしい。
 だというのに熱そうなコーヒーをすすりながら、ケイくんは拗ねたみたいにわたしと目を合わせようとしなかった。

「あの、怒ってる?」

「怒ってはない。腹が立つだけだ」

「それって同じでは?」

「……そうだな。『頭にくる』じゃなくて、『腹が立つ』ってことだ」

「えっと?」

「なんとなくで解釈してくれ。べつにいいんだ、俺のことは。俺は最初から負けてるんだ」

「……何に?」

 ケイくんは答えるかわりに、カップをテーブルの上に置いた。

「いいんだって、俺のことは」

 もどかしそうに首を横に振って、ケイくんは話を変えた。


423: 2017/01/15(日) 21:54:23.00 ID:G30ej1Nao

「それより、これからのことを話そう」

 そう言われても、わたしにはケイくんの態度が気になって仕方なかった。
 さっきは心強さが勝ってなんとも思わなかったけれど、彼はどうして残ってくれたんだろう。
 
 無理矢理にだってわたしを従わせることだって、彼ならできたはずだ。

 乗りかかった船だから責任を感じているのだろうか。
 
「最初に決めておきたいことがある」

「あ、うん」

「まず、期間。多少金はあるが、何日もこっちで耐えられるような余裕はない」

「期間……」

「余裕がなくなるとストレスが溜まる。ストレスが溜まると何をやってもうまくいかない。先の見通しは大事だ」

「……うん。そうだね」

「寝床に関しては、まあ、まひるがアテにできるだろうが……だからってずっと世話になるわけにもいかない」

 わたしは頷いた。そう考えると、わたしたちにはあまり時間的余裕はない。
 彼女は「帰りたくなったら会いに来て」と言ったけれど、それだって、いつ気が変わるか、忘れてしまわないか、わかったものじゃない。

 それに……もし、元来た世界で同じように時間が流れていたとしたら、家族も心配している。
 下手をしたら、浦島太郎みたいになりかねない。


424: 2017/01/15(日) 21:54:57.94 ID:G30ej1Nao

「だから、あんまり長くいることはできない。長くても一週間だ」

「一週間」

「ひとつの目安だ。本当なら、今日明日で帰れるのが一番いい」

「……そうだね」

 いろんな事情を考えるなら、一週間でも、ケイくんとしては多すぎるくらいだろう。
 わたしはケイくんに甘えている……いつもそうだ。
 
 わたしは、黙って頷いてから、心のなかで更に短く期限を定めた。
 ……今日を含めて、三日。明後日まで。もし、それで収穫がなければ、きっといつまでいても変わらない。

「とりあえず、ひとつめはそれでいいな。次は、勝利条件だ」

「勝利条件、というと」

「何をしたら、目的が達成されたことになるのか、だ。何を探してるかも分からずに歩き回っていても埒が明かない」

「目的……」

「おまえは、叔父さんが何を望んでいたのかを知りたいと言った。俺には、そのためにこの世界でできることなんて、見当もつかない」

「……」

 わたしにも、よく分かっていなかった。この世界で何をしたら、お兄ちゃんの気持ちが分かるのか?
 そのためには、きっと、この世界のお兄ちゃんの様子や、その周りで起きている出来事を見るしかないのだろう。

 その結果、お兄ちゃんの望みについてなんて、なにひとつわからないかもしれない。
 でも、わたしが知りたいのは、この世界のこと。お兄ちゃんのこと。



425: 2017/01/15(日) 21:55:26.69 ID:G30ej1Nao

「さっきも、似たようなことを言ったかもしれないが、一応改めて言っておく」

「……うん」

「他人の心なんて覗いたところで、きっとろくなことはない。知れるとしても、知らないでいるのがマナーだと思う」

「……うん。そうだね」

 他人の日記が目の前にあるからといって、興味本位でそれを眺めて、その人の思いを覗くのは、きっと浅ましい行為だ。
 そのなかに、他人を呪う言葉や、他人を蔑む言葉がないとも限らない。
 もしそれを見つけてしまったら、わたしはお兄ちゃんに落胆せずにいられるだろうか……?

 きっとわたしは、どこまでも勝手な生き物なんだろう。

 わたしはケイくんの言葉を受けて、頷いた。

「でも、やります。お兄ちゃんには悪いけど。わたしはお兄ちゃんのことを、知らなきゃいけないって思う」

 いけない、ね、と、ケイくんは小さな声で呟いた。

「そのために、最初にわたしがすることはひとつ」

「というと?」

「この世界のお兄ちゃんと、話すこと」

「……そうなるよな」

 そうなる。何よりもそれが手っ取り早い。
 少なくとも、何かの足しにはなるはずだ。

 この世界からわたしがすくい上げることのできるものなんて僅かに違いない。
 それでもやるしかない。
  
 日記ひとつ残さなかったお兄ちゃんの心の中を、わたしは勝手に覗き見る。
 彼の思いをわたしが知らなければ……彼は、報われない、ような、気がする。


426: 2017/01/15(日) 21:56:38.00 ID:G30ej1Nao

「……さっきは詳しくは言わなかったけど、ひとつ疑問があるんだよな」

「というと?」

「あの女、俺たちがこの世界に"紛れ込んだ"って言ってただろ」

「たしか、言ってたと思う」

「ここが叔父さんの望んだ世界だ、というようなことも言った」

「うん」

「でも、"紛れ込んだ"って言い方をされると、俺たちは別の人間の扉に紛れ込んだ気がしないか?」

「……あの、眼帯の人?」

「そう。仕組みがわからないから何とも言えないけど、単純に想像したら、あの人の望んだ世界に紛れ込んだような気がするんだよな」

 わたしは少し考えたけれど、ケイくんが言ったとおり、仕組みがわからないので何とも言いがたかった。

「……まあ、俺の考えすぎかもしれないし、問題にもならないのかもしれない」

「あの女の人は、"使い回し"とも言ってたよ」

 わたしの言葉に、ケイくんが頷く。

「意味深ではあるが……まあ、俺たちには関係のない話かもしれない」

「少し気にはなるけどね」


427: 2017/01/15(日) 21:58:02.88 ID:G30ej1Nao

「そういえば」と、思い出したようにケイくんが声をあげる。

「"このあたりで一番高い場所"って、どこのことだ?」

「ああ。それ」

「分かるのか?」

「うん。二年で一番じゃなくなるって言ってたから」

「……」

「二年後に、そこより大きなビルが完成するはずだから」

「……ビル?」

「うん。そのビルが完成するより前なら、一番高い場所は……」
 
 街の中心部に十五年以上前からある、ひとつのオフィスビル。
 保険会社が保有している三十階建のそのビルの頂上には、無料で開放されている展望台がある。

 彼女はきっと、そこで待っている。


430: 2017/01/22(日) 20:29:04.65 ID:oH4Ybz8Uo



 両親の不在が、わたしの心の奥底に暗い影を落としているわけじゃない、とは、もちろんわたしには断言できない。
 けれど、それを理由にわたしが何かしらの性格上の欠陥を持っていたとか、精神的不安定さを抱えていたとか、そういうこともなかった。
 と思う。たぶん。

 問題なんて、誰だって大なり小なり抱えているものだ。
 他人のそれと比べて、自分のそれが特別違うものだとは、わたしは考えない。戒めるまでもなくそういう実感がある。
 
 ケイくんはそれを、初期値の違いだと言った。
 
 ケイくんのお母さんが言い残した言葉や、ケイくんのお父さんがケイくんのお姉さんにしたことや、
 ケイくん自身が考えたたくさんのことについて、わたしはほんのすこしだけ知っている。
  
 べつに秘密にしているわけじゃない、とケイくんは言ったけれど、
 わたしはそのことについて誰かに話す予定もないし、また話すべきでもないと思っている。

 ケイくんはわたしとは違う。抱えている問題も、持っている強さと弱さの質も、わたしとはまったく違う。
 でもそれは、人間がふたりいれば当たり前に浮き彫りになるような個体差でしかない。


431: 2017/01/22(日) 20:30:14.27 ID:oH4Ybz8Uo



 やることは決まった。
 とはいえ、("この世界の")お兄ちゃんが学校を終えるまでは、話しかけるのも簡単ではない。
 
 幸いまひるはお兄ちゃんと部活が一緒だと言っていたから、彼女を頼ればなんとかなるかもしれないが、
 どちらにしても放課後までは手も足も出せない状態ということになる。

 そうなるとわたしたちにできることは、昼の間は何もないことになってしまう。

 途方に暮れたわたしにケイくんが提案したのは、図書館に行くことだった。

「元いた世界とこの世界がどの程度違うのか、把握しておいて損はないと思う」

 迂遠な方法だという気もしたが、たしかに試してみる価値はありそうだった。
 ひょっとしたらこの世界は、わたしたちが気付いているよりももっと大きな形で違っているかもしれないのだ。
(日本の首都が東京じゃなくなっているとか)

 とにかく地方紙のバックナンバーならば図書館の蔵書にあるはずだし、
 それを見ればこの世界に起きたさまざまなことについて、いくらか学べるかもしれない。
 問題は、わたしたちが、七年以上前の記憶をしっかりと持っているかどうかということだ。


432: 2017/01/22(日) 20:30:47.89 ID:oH4Ybz8Uo

 さて、図書館には駅からバスで三十分近く揺られなければならない。

 停留所の名前は「図書館前」で、着いてしまえば目前に駐車場を挟んで白くて大きな建物がそびえている。
 
「……ねえ、ケイくん、ところで、今日って何曜日?」

「……さあ?」

 わたしたちは朝起きてから、テレビも新聞も見ていなかった。携帯は使い物にならない。
 日付すら怪しい。

「休館日だったりして」

「いや。車がいくらか停まってる。大丈夫だろ」

 実際、図書館は開いていた。自動ドアをくぐった先にはコルクの掲示板がある。
 わたしたちはそこで開館予定の案内ポスターを見た。

 やさしいことに、かたわらの壁にはホワイトボードがあって、そこには今日の日付があった。
 九月十三日。少しさびしく見えるが、おそらく何かの催しや企画があるときに記入するスペースなのだろう。

「……あれ」

「どうした」

「土曜日だね」

「ああ。休館日は月曜だろ?」

「うん。ううん、そのことじゃなくて……」


433: 2017/01/22(日) 20:31:34.00 ID:oH4Ybz8Uo

 ケイくんは不思議そうに眉を寄せた。

「学校。休みでしょう?」

「……ああ、そうか」

 お兄ちゃんの学校が終わるまでの時間潰し。そのつもりだった。でも、そもそも今日、お兄ちゃんが学校に行っているとは限らない。

「ちゃんと確認しとけばよかったな。時間を無駄にした」

「ううん、どっちにしても、休みってことになったら、簡単に捕まえられないよ」

 まひるに相談して、と言いかけて、朝方、まひるが制服姿で学校に行くと言っていたのを思い出す。

「……部活に出てるかも」

「ああ、同じ部活って言ってたな」

「出てれば、だけど……」

「……あてもなく探すよりは、いくらかマシだろうな。どっちにしてもまひるにはもう一度会いにいかなきゃいけないだろうし」

 どうする、とケイくんは訊ねてきた。わたしは少し考えた。

「……ちょっとだけ、新聞見ていこう。焦ったところで仕方ないし」

 べつに、何かを恐れて後回しにしたつもりではない、と、自分ではそう思っている。


434: 2017/01/22(日) 20:32:07.79 ID:oH4Ybz8Uo


 受付で新聞の縮刷版の位置を教えてもらい、あまり人気のない館内を歩いていく。
 
 この図書館には何度も来たことがあるわけではないが、わたしの知っているそれとかわりはなさそうだ。
 土曜日とはいえ、近くに大学があるせいだろうか、わたしたちより少し上くらいの学生たちの姿がいくつも見受けられた。
 
 新聞の縮刷版というものをあまり目にしたことはなかったけれど、眺めてしまえばなんということはなかった。

 わたしたちは特に調べたいことがあってきたわけではない。
 とにかく起きたことだけ確認したいだけだ。そうであれば、見出しだけ追っていっても事足りる。
(書いた人には失礼かもしれないけど、時間もまた有限の資源なのだ)

 そして少なくとも全国紙の見出しには、わたしたちに大きな違和感を与えるような内容のものはなかった。

 なつかしさは、あったかもしれない。
 昔は理解できなかった出来事。なんだか騒がれているなあと思っていただけのこと。
 そういうことを、この年になって改めて見てみると、世界の見え方が変わるような感じがした。

 わたしは、世界は徐々に変わっているんだと思っていた。
 でも、そうではないような気がした。

 世界が変わったのではなく、世界を見るわたしのまなざしの方が変わったのだ。
 そんな感じがした。それもまた錯覚なのかもしれない。

 世界は変わっている。でも、その変わり方は、いつもそんなに大きくは変わらないのかもしれない、と。
 少なくとも……まなざしの変化ほど大きく変わることはないだろう。


435: 2017/01/22(日) 20:32:39.68 ID:oH4Ybz8Uo

 わたしがそんなことを思っていると、ケイくんが不意にわたしの肩を指先でとんとんと叩いた。

「なに?」

 今度は、指をよっつならべて上下に揺らし、「ちょっとこい」のジェスチャー。
 図書館だからって、小声なら話せると思うんだけど。人気のある場所でもないし。

 わたしはケイくんの横に近付いて、彼が手にしていた紙面に目を下ろした。
 地方紙……2008年、8月……。

 ささやき声で、「これ見ろ」とケイくん。
 
 その言葉にしたがって、わたしは見出しに目を落とす。

 少年 遺体で発見……。刺殺……現場には凶器と見られるナイフ……先月の事件……関連を調べて……。
 被害者の名前は……。

「……沢村翔太……?」

「こんな事件、あったか?」

「……あった、のかな。わかんない」


436: 2017/01/22(日) 20:33:51.38 ID:oH4Ybz8Uo

「書き方によると、どうもこれだけじゃないみたいだ。この前にも、何かあったらしい」

「……だったら、なかったと思う」

 そんなことがあれば、辺りで騒ぎになっていたはずだし、ニュースだってうるさかったはずだ。
 第一、お兄ちゃんだって、この時期は高校生で、それだったら、話題の端にのぼっていてもおかしくないはずだ。

 そんな記憶は一切ない。不安がらせないためにニュースを知らせなかった?
 でも……こういうことがあるからあなたも気をつけなさい、と、おばあちゃんならそのくらいのことは言ってきそうだ。

「どうも、はっきりしないかな……」

「俺は記憶にないんだよな。他のニュースは、ああ、たしかにこんなことがあった、って思い出せるのもあるんだが……」

 これはピンとこない、とケイくんは肩をすくめた。

「まあ、関係ないかもしれないが……少し物騒だ。俺たちも気をつけた方がいいかもな」

「うん。……ね、ケイくん」

「なに」

「少し、外を歩かない?」


437: 2017/01/22(日) 20:34:31.78 ID:oH4Ybz8Uo

 わたしたちはロビーにあった自販機で紙カップのあたたかい飲み物を買った。
 ケイくんはコーヒー、わたしはカフェラテだ。

 湯気が立つカップを持ちながら、入口から出てすぐに脇の道に進んでいく。

 丘陵地に立つこの図書館の南側には、なだらかな坂道に並ぶ木々の間を縫うような遊歩道がある。
 秋になれば紅葉が綺麗だけれど、見頃にはまだ早い。木々の葉は瑞々しいとまでは言えないにせよ、緑に青に染まっていた。

 鬱蒼としているというほどではないけれど、遠くを見ることはできないほどに、植物は密生している。

 たぶん、誰かが通りがかりでもしないかぎり、誰もわたしたちに気付かないだろう。
 誰も、わたしたちを見つけられないだろう。そんな気がする場所だ。

 少し、肌寒い気もした。日差しはかすかに暖かかったけれど、吹き込む風は冷たい。
 木漏れ日は弱々しく儚げに思える、と、もし口に出したら感傷的だと笑われただろう。

 わたしはモネの絵を思い出した。思い出したあと、あれに比べたら、目の前に広がる景色は少し、当たり前すぎると感じる。 
 あるいは……モネが絵にしたもともとの景色も、こんなふうに当たり前のような姿をしていたのだろうか。

 モネのような景色を見るための才能が、わたしにはないだけで?

 ……よく分からない。


438: 2017/01/22(日) 20:35:12.36 ID:oH4Ybz8Uo

 わたしはカフェラテに息をふきかけてから口をつけた。
 少し熱い。

「ねえ、ケイくん」

「なに」

「ありがとう」

「……なにが」

「わたしのわがままに付き合ってくれて」

「成り行きだから」

「最初からそうだった?」

 ケイくんは返事をしてくれなかった。わたしは彼の表情を横目で覗く。
 いつものように退屈そうだ。
 そういえば、今朝からずっと、彼は煙草を吸っていない。……たいした意味は、ないのかもしれないけれど。

「ごめんね」

「いいよべつに」

「うん。あのね、ケイくん」

「なんだよ」
  
 少しうっとうしそうに、前を向いたまま、ケイくんは言う。 
 彼のそういう態度はぜんぶ、きっと、見かけより柔らかいものなんだと、わたしはなんとなく気付いていた。

「手をつないで歩きませんか?」

 わたしは、そう言ってみた。
 

439: 2017/01/22(日) 20:35:53.00 ID:oH4Ybz8Uo

 ケイくんは、呆気にとられたみたいだった。

「なぜ?」

 わたしはケイくんが右手に持っていた紙カップをするりと奪った。
 そうしてから、彼の左手の前にそれを差し出す。

 彼は左手でそれを受け取る。
 開いた右手をわたしの左手が掴んだ。

「……なんだよ、いったい」

「なんでもない」

 これはわたしのずるさかな、と少しだけ思った。
 
 わたしは、少しずつ、余裕を取り戻しつつあった。
 お兄ちゃんのこと、穂海のこと、お母さんのこと、考えることはたくさんあった。知りたいこともたくさんあった。
 
 でもそれは、眼前をすべて覆い尽くしてしまう暗幕のような悩みではなくて、
 ただ本棚の片隅に並べたままいつまでも手をつけられない読みさしの本のようなものなのだ。

 もしその本を読み終えることができなかったとしても、きっとわたしは生きていける。
 ただ、今はそのことが、どうしても気になっているだけで。
 
 そんなふうに考えるだけの余裕が、今のわたしにはあった。


440: 2017/01/22(日) 20:36:21.68 ID:oH4Ybz8Uo

 だからわたしは、彼の指に自分の指を絡めてみて、どきどきしながら軽く握ってみたりした。
 これはわたしにはけっこう勇気のいることだったんだけれど、
 ケイくんは平然と左手でカップを持ってコーヒーなんて啜っている。

 こなれた感じの態度がなんとなく寂しかったけど、わたしはわざと彼の顔の方を見ないことにした。
 嫌がられないだけでよしとしよう。

 文句のひとつも言わないというのは、これはもう相手がケイくんだということを考えれば奇跡のようなものだ。

 とはいえ会話が急に途切れてしまって、わたしは少し不安になった。
 そこでケイくんの方を見ると、彼もちらりとこちらを見た。

 目が合うと、わたしは照れとも困惑ともつかない落ち着かないきもちに胸の奥がざわつくのを感じて、
 思わずごまかすように笑ってしまった。

 彼は合わせて笑ってくれることもなく、はあ、と呆れたような疲れたような溜め息をつくと、不意に、
 ――キスをしてきた。

 一瞬だった。
 一瞬だったので、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。

「ケイく……」

 思わずわたしは手をはなしそうになった。
 ケイくんは放してくれなかった。おかげで距離を取ることもできない。
 今のは何かと訊ねるには、距離が少し近すぎる。


441: 2017/01/22(日) 20:37:58.45 ID:oH4Ybz8Uo

 それからも彼は何にも言わなくて、わたしも何も言えなくて、木の葉の落ちる音が聞こえそうな静寂があたりに満ちていた。
 
 いやだったとかそういうわけではなくて、
 とはいえ、前もってなにかあるべきじゃないかとかも思うし、
 でも、いまの状況ですることとは思えなくて、
 かといって、わたしの態度だってたしかにいまの状況にはそぐわないものだったかもしれなくて、
 でもそもそもどんなつもりでそんなことをしたのかとか、
 いろいろ考えているうちに分からなくなって、

 思わず、

「ケイくんは……」

 と、声が出てしまった。

「……ん」

 返事をしてくれたことに、まずほっとした。

「……なんか、慣れてる?」

 彼は立ち止まった。

「あのな」

「だって、なんでもないみたいだった」

「……あのなあ」

「違うの?」

 ケイくんは黙った。


442: 2017/01/22(日) 20:38:24.59 ID:oH4Ybz8Uo

「……そろそろ行こうぜ」

 とケイくんは言った。

「うん」

 そうだね、とわたしは頷いた。
 今するような話では、ないのかもしれない。

 わたしとケイくんとの間に、どのような言葉がふさわしいのかも、よくわからない。

 たとえばこんなタイミングで、好きです、付き合ってくださいなんて話をするものだろうか?
 そういうのは、足場がしっかりしている人たちがする話なのだ。

 無人島に遭難したふたりの男女が、結婚してください、なんて話をするだろうか?
 そんなのは結局、平穏が前提の余興にすぎない。

 もしするとしても、こうなるだろう。

『もし、無事に帰ることができたら、僕と結婚してくれないか』

 そう、全部は無事に帰ってからのお話だ。
 わたしはイメージの中で、男役をケイくんにして、女役をわたしにしてみた。

 返事はこうなった。

『でもね、ケイくん、わたしは、結婚とか、家族とか、そういうものがよくわからないの。
 誰かとずっと一緒にいるってことがどういうことなのか、ぜんぜん想像できないの』

 あっというまに過ぎ去ってしまった唇の感触がそれでも得がたいものに思えて、 
 わたしはしばらくカフェラテに口をつけることができなかった。


445: 2017/01/29(日) 22:20:40.92 ID:XRiiSy5uo



 そんなよく分からないやりとりのあとも、わたしたちはふたり並んでバスに乗らなきゃいけなかった。
 妙にそわそわと落ち着かない沈黙は、けれどそんなに居心地悪くはなかった。

 ケイくんは何も言わなかったけれど、ひょっとしたら……もう、頭を切り替えているのかもしれない。
 
 図書館に行ったのは、完全に、とまでは行かなくても、わたしたちのこれからの行動を考えると無駄足に近いことだった。
 
 もちろんまるっきり収穫がなかったとは言わないけれど、それは今の状況には関係のないものだ。
 
 とにかくわたしたちは図書館からとんぼ返りして、今度はお兄ちゃんが通っていた高校に向かうことにした。

 昨日来たばかり……お兄ちゃんの姿も、昨日見たばかりだ。

 さて、危惧すべき問題はいくつかあった。
 
 一、まひる、お兄ちゃん、そのどちらかが学校にいてくれるかどうか。
 二、いるとして、問題なく接触することができるか。
 三、その両方に問題がなかったとして、お兄ちゃんと向き合ってちゃんと話をすることができるか。
 四、仮に会話することができたとして、わたしはそこから何か意味あることを引き出すことができるか。

 とはいえやるしかなかったし、やるとなれば考えることは少なかった。


446: 2017/01/29(日) 22:21:24.46 ID:XRiiSy5uo

「まひるは文芸部だったな」

「うん」

「少し厄介だな。部室の位置がわからないんじゃ、いるかどうかも確認できない」

「……そうかな?」

 ケイくんは少し不思議そうな顔をした。
 
 校門についたときは、人の姿はあまり見当たらなかった。土曜の昼下がり。
 それはそうだろう、という気がした。

 それでも人がまったくいないわけではなかった。わたしは昇降口の方から校門に向かって歩いてくる二人組の女子生徒に目をつけた。

「少しいいですか?」

 とわたしは声をかけた。ケイくんは面食らったみたいだった。

「はい」

 少し戸惑ったみたいに、二人は立ち止まってくれた。

「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですけど、文芸部の部室はどちらでしょう?」

「文芸部……? 知ってる?」

 ふたりは顔を見合わせて、首を横に振った。

「でも、文化部なら南校舎でしょ?」

「南校舎……」


447: 2017/01/29(日) 22:21:50.45 ID:XRiiSy5uo

「――ねえ、ちょっと。まずいよ」

 ふたりの片割れが、不意に小声でそう言うのが聞こえた。

 もうひとりも、あ、というふうに口を抑えた。

 それから少し考える素振りを見せて、

「ご用事でしたら、職員室の方にご案内しますよ」

 少しこわばった顔でそう言い加えた。
 さて、どうしたもんかな、とわたしは考える。

 さすがに職員室は避けて通りたいところだ。

「ああ、そうですね。そっちを訊けばよかったんでした。でも面倒でしょう。職員室の場所だけ教えてもらえますか?」

 二人組は戸惑ったような表情になる。

「三年の迫間まひるさんを知っていますか? 文芸部の方で、わたし、彼女に部活のことで呼ばれてきたんです」

 ふたりは顔を見合わせた。
 
「ええと、わたしたち、他校の者でして。文化祭のことで何か相談があるとかで……」

 口からでまかせをいいながら、わたしは、他校の人だったらきっと制服で来ただろうなあ、とぼんやり思った。
 でも、ふたりはそのあたりのことを疑問に思わなかったらしい。

「ああ、そうなんですか」とほっとした様子で息をついていた。

「職員室は、昇降口から入ってすぐのホールを右に曲がると見えると思います。やっぱりご案内しましょうか?」

「いえ、場所だけ分かれば大丈夫です。顧問の先生に案内してもらえるはずですから」

 どうもありがとうございます、と頭を下げて、わたしは堂々とした素振りで昇降口に向かった。


448: 2017/01/29(日) 22:22:16.82 ID:XRiiSy5uo

「無理がある」とケイくんは言った。

「そう?」

「他校の人間なら制服を着てくるはずだ」

「それはわたしも考えた」

「どうせ職員室にいけば案内してもらえるなら、最初から職員室の場所を聞くだろう」

「言われてみれば」

「よくこんな無茶する気になったな」

「だっていざとなったら逃げちゃえばいいし。それに、堂々としてればそんなに疑われないかなあって」

「……まあ、それはそうだろうが。でも、妙に警戒されてたな」

「うん。人ってもっと他人に無関心なものだと思ってたよ」

「まあ、普段ならそうかもしれないけどな」

「……普段? って?」

「高校生の氏体が見つかったばっかりだって、さっき新聞で見たろ」

「ああ……」

 なるほど。知らない人を警戒するくらいはするか。

「とはいえ、俺たちはどう見ても高校生にしか見えないだろうから、そんなに疑われはしないだろうけどな」

「男女二人組だしね?」

「それは理由になるのかな……」

「男二人よりは疑わしくないと思う」

「……まあ、そういう人もいるかもしれない」


449: 2017/01/29(日) 22:22:47.85 ID:XRiiSy5uo

 話しながら、わたしたちは昇降口に入った。靴は、少し迷ったけれど、適当な下駄箱に隠して、脇に置いてあったスリッパを借りることにした。

「とりあえずまひると合流できないと、ただただリスキーだね」

「南校舎か……。どうやっていくんだろうな」

「外観で大雑把な位置は把握できるでしょ。ま、職員室を避けて歩こうよ」

 そういうわけで、左右に伸びた通路の様子を窺い、物音をあまり立てないようにしながら、わたしたちは左側へと進んだ。

「ちょっとどきどきするね」

「ちょっとどころじゃない」

「後悔してる?」

「乗りかかった船」

「泥舟でごめんね」

「沈んだら竜宮城でも探すよ」

「竜宮城……うん。そうだね……竜宮城か」

「どうした」

「ううん。この世界が竜宮城かもしれないよね」

「ああ?」

 ケイくんはちょっと苛立ったみたいな顔をした。
 ピリピリしてる。さっきはあんなことしたくせに。


450: 2017/01/29(日) 22:23:24.48 ID:XRiiSy5uo

「ほら、浦島太郎が元の世界に戻ると……」

「ああ、なるほど」

「それはちょっと困るね」

「本末転倒だな」

「うん」

「まあ、玉手箱さえ開けなきゃいいだけだろ」

「そうかな?」

「そんなもんだろ」

「どうかな」

 わたしたちは「こっちかな?」という方向に進んでいく。平然と話をしながら。
 足音もあんまり隠していない。
 
 人気がないから調子に乗った、というわけではないけれど、あんまり隠れたら帰って誰かに勘付かれそうな気もしたのだ。

 実際、いざとなれば逃げればいい。なにせわたしたちには、捕まってバレたところで困るような身元なんて存在しないのだし。

 そう考えると、わたしたちはけっこう危険な存在なのかもしれない。

 何をやっても咎められない……。
 
「……あとで考えよ」


451: 2017/01/29(日) 22:24:14.05 ID:XRiiSy5uo

「こっちの方かな」と思った方に、都合よく渡り廊下があった。とりあえず、「南校舎」という名前の通り想像すれば、だが。

「問題はここからだな。何階建てだ、ここは」

「四階建てかなあ」

「部室にプレート、あると思うか?」

「あったら嬉しいね」

 そうして、実際あった。使用されているらしい教室には、プレートが取り付けてあった。
 そして、どの教室からも、話し声も物音も聞こえない。ほとんどの部活は活動していないらしい。

「不思議なくらい都合がいいな」

「信号に引っかからない日だってあるよ」

「おんなじ話か? それ」

「わたしたちが校門にいたときに、まひるが気付いて降りてきてくれれば、いちばん都合がよかったよね」

「……まあ、そういう言い方をすると、そこまで都合がいいわけでもないか」

「人気がないのは……事件のせいかな、やっぱり?」

「それもありそうだ」

「リーマンショックを予期してみんなナイーブになってるのかも」

「後に起きることを知っている立場にいる人間としては」とケイくんは言った。

「そういうふうに見えなくもないだろうな」


452: 2017/01/29(日) 22:24:50.61 ID:XRiiSy5uo




 文芸部の部室は三階にあった。扉の向こうから話し声が聞こえる。
 雰囲気は、どうやら生徒たちだけだが……顧問でもいると面倒だ。かといって、ここで突っ立っていても危ない。

「どうする?」とケイくんが小声で言った。

「まひるがいなかったらまずいよね」

「顧問がいてもまずい」

「そうだね。じゃあ、こういうことにしない?」

 わたしはわざとらしく人差し指を立てて見せた。

「もし不法侵入を咎められたら……バカで非常識で考えの足りない人のふりをしよう」

「……全部事実じゃねえかよ。身元の確認されたら?」

「んー、偽名とかでいいんじゃない?」

「……もう真面目に考える気ないだろ」

「失敗したときのこと考えたって仕方ないよ」

 言いながらわたしは扉をノックした。

「バカ!」

 とケイくんが控えめな声で呟くのを無視して、わたしは引き戸を開けた。


453: 2017/01/29(日) 22:25:24.83 ID:XRiiSy5uo


「失礼します。まひる、いますか?」

「あ、愛奈ちゃん」

 まひるは平然とこちらに手を振ってきた。ホワイトボードに向かって、何かを書き込んでいるところだったようだ。
 他の部員たちは、三、四人。全員生徒だ。教師はいない。賭けには勝ったらしい。

 まひるは笑う。

「大胆だね。とりあえず、中入っちゃって。ケイくんも」

「……まひるは動じないね、ケイくん。すごいよね」

「俺に言わせれば、おまえも似たようなもんだよ」

 ケイくんは溜め息をついた。

 さて、とわたしは少し緊張しながら部室の中の生徒の顔を見回す。

 お兄ちゃんは……いない。

 わたしは溜め息をついた。安堵なのか落胆なのか、自分でも区別がつかなかった。


457: 2017/02/05(日) 23:19:36.48 ID:SatUv8IDo

「よくここまで来られたね、ふたりとも」

 まひるはにっこり笑う。その笑顔がなんとなく、作り笑いめいていた。
 どうしてだろう、と少し考えて、まあそういうこともあるだろう、と納得する。

 わたしだって教師や大人に取り囲まれれば愛想笑いくらい浮かべる。
 まひるが誰に対してそうしていたって、誰かに責められる謂れもないだろう。

「先輩、その人たちは?」

 訝しげな顔をする部員たちに、まひるは平然と返事をする。

「わたしの友達」

「が、どうして部室に?」

「さあ? どうしてだろう?」

「あ、ううん。お兄……」

 言いかけてこの呼び方はまずいかな、と思い直す。

 そもそも、呼び方以前の問題か。他の人がいる前で、わたしが「碓氷遼一」を知っているように振る舞うと不自然だ。

「それで、どうだった?」

 まひるはそう訊ねてきた。わたしは頷いた。


458: 2017/02/05(日) 23:20:03.88 ID:SatUv8IDo

「うん。まあ、どうにか」

 帰る方法は見つかった、とこれだけで伝わるだろうか?

「どうして学校に?」

「少し確認したいことができたから」

「ふうん……? そっか。そうだね。うん。ちょうどよかったかもしれない」

「……何が?」

「そのまえに、ね、ふたりとも、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんだ」

「……相談?」

 どちらかというと相談したいのはこちらの方なんだけど、と思いながらも、あたりの目を気にして頷く。

 部室にいる生徒はまひるを含んだ四名。全員が女子。さっき「先輩」と呼んでいた人がいたから、下級生も含まれるのだろう。

「実はね、今月末にうちの学校の文化祭があるんだよ」

「はあ」

「それでわたしたち文芸部も、部誌を出すことになってるんだけど……」

 まひるはそこで一呼吸おいて、にへらっと笑った。

「ちょっと困ったことになってるんだよね」


459: 2017/02/05(日) 23:20:38.20 ID:SatUv8IDo

「困ったこと?」

「手伝ってくれるとうれしいかな」

「断る」

 ときっぱり言ったのはケイくんだった。

「あはは。ケイくん、わたしのパンツ履いてる分際で偉そう」

 軽い口調のまひるの呟きに、三人の部員たちが顔を見合わせてこそこそと話を始めた。

「下着……」「どういう関係……?」「変態……」

「頃すぞ」とケイくん。まひるは平気そうに笑う。

 ていうか、まひるの風評にも被害がありそうだけど。

「否定しない……」「まさかほんとに……」「先輩って意外と……」

 やっぱり。

「それで相談って?」
 
 ケイくんが見知らぬ女の子にどういう目で見られようとわたしは痛くも痒くもないので、話をそのまま進めることにした。
 まひるは目を丸くしたあと、ちょっとつまらないような顔をして、「そうそう」と話を戻す。


460: 2017/02/05(日) 23:21:45.07 ID:SatUv8IDo

「部員たちがね、部誌に寄稿してくれないんだよ」

「はあ。それは大変ですね」

 ケイくんはあからさまに不機嫌な顔をして、勝手に部室の奥に入り込むと、出しっぱなしにしてあったパイプ椅子にドンと腰掛けた。

「このままだと部誌の総ページ数が8ページ」

「ずいぶんぺらぺらだね」

「うち2ページは表紙、と表紙裏の白紙」

「実質6ページか」

「そのうち5ページの担当者はわたし」

「……この場にいる奴らは何をやってるんだよ」

 ケイくんの呆れたような口調に、三人の部員たちが顔を見合わせる。

「この三人はまあ、がんばってくれてるんだけど、みんな一年生だからね。ちょっと遅れがあるのは仕方ないし」

「他の部員は?」

「大半が幽霊部員。ほら、わたし人望ないから」

 そうは見えないけれど……。

「でね、よかったらふたり、何か書いてくれない?」

「は……?」

 ケイくんはイライラしているみたいだった。
 わたしもまあ、戸惑いはした。


461: 2017/02/05(日) 23:22:27.02 ID:SatUv8IDo

「部外者だよ、わたしたち」

「うん。そうだけどまあ、べつに問題ないし」

 ないんだ。ありそうなのに。

 開け放した文芸部室の窓からは中庭の大きな欅が見えた。
 首でも吊れそうな太い枝だな、とわたしはぼんやり思う。

「……大半が幽霊部員っていっても、全員じゃないんだろ?」

「まあ、あと数人はいるんだけど……なんか面倒で」

 まひるがあっさりした口調でそう呟くと、他の部員たちが困った顔で頷いた。
 それにしても、この子達も順応性が高い。まひるが平然としているから、気にしていないのかもしれない。

「一応、わたしも部長だし、書いてくれそうな人に声かけたりもしたいところなんだけど」

「しろよ」

「うん。でもね、あんまり興味を持てる相手がいなくてさ」

「先輩ひどい」「ひどーい」

 部員たちの声。みんながからからと笑った。

「こっちも興味なくて、あっちも書く気ないのに、書いてくれって声かけるのって、ほら、失礼じゃないかな?」

「……」

 どうやらまひるは、真剣にそう思っているようだった。


462: 2017/02/05(日) 23:22:58.23 ID:SatUv8IDo

「だからって、わたしたちに言われても」

「うん。べつに無理に頼もうとは思わないんだよ。薄くても問題ないっちゃないわけだしねー」

 でもほら、見た目がね、とまひるは苦笑する。

「多少厚い方が、迫力あるでしょ?」

「そんなの、数枚分白紙の原稿並べて、タイトルに『タブラ・ラサの不可能性』とでも書いとけよ」

「あは。意味分かんないけどそれ採用」

 まひるは本当に面白そうに笑った。

「ケイくん、名前はなんて書いておく?」

「俺の名前でやるな」

「でもケイくんのアイディアだし」

「ページの水増しなんて、読む奴の心証悪くするだけだ」

「でもほら、なんか現代アートっぽくない? 他人の顔色窺わない感じもまた」

「バカかよ」

 ふたりが話す姿は、とても自然なものに見えて、わたしはそのせいでいくらか落ち着かなくなる。
 

463: 2017/02/05(日) 23:23:32.55 ID:SatUv8IDo

「他に部員はいないの?」とわたしは訊ねた。

「他……?」

 まひるは、その話はさっきしたはず、と言わんばかりの顔をした。
 わたしは少し考えた。

「えっと……ほら、前に話してた、碓氷って人とか」

 ああ、という顔を彼女はする。

「今はいないよ」

「どうして……?」

「用事があるって言って、抜けちゃってる」

「……ね、彼は原稿を書いたの?」

「ううん。いまのところ。気が向いたら書くって言ってたけど、わたし興味ないし」

「……」

 わたしは興味があるんだけど、とまひるに言ったところで仕方ない。


464: 2017/02/05(日) 23:24:15.61 ID:SatUv8IDo

「まあ、ふたりとも、よかったら部誌に協力してよ。ほら、バックナンバー参考にしていいから」

 そう言ってまひるは壁際の書棚を指差す。

「……そのうち戻ってくると思うよ」と、最後にまひるは言った。
 
 わたしは溜め息をついて、書棚に近寄る。
 仕方ない。今は待つしかない。自然に顔を合わせるために。

 いや、この場で会うことが果たして自然なのか、わたしにはわからないけど。

 退屈しのぎに、わたしは示されたバックナンバーのいくつかを手に取った。

「ところで、あの、質問なんですけど」

 さっきからこそこそ話をしていた部員たちが、わたしとケイくんを交互に見ながら口を開いた。

「ふたりは付き合ってるんですか?」

「いいえ?」

「先輩とはどういう関係なんですか?」

 ケイくんは何も答える気がないらしい。わたしは小さく溜め息をついた。

「わたしは会ったばかりだけれど」と言ってから、ケイくんを指差す。

「この人は下着を借りるくらいの関係性らしいですね」

 ケイくんは、好きに言え、というふうに肩をすくめてみせた。


465: 2017/02/05(日) 23:24:50.99 ID:SatUv8IDo

「服が汚れた。替えがなかった。そいつが持っていた。借りた。それだけだよ」

 端的でありながらも不機嫌そうな強い口調に、女の子たちは圧倒されたみたいだった。

 気になることがまだあるようだったけど、さすがにそのまま続ける気にはならなかったらしい。
 三人が黙ると、今度はまひるが手を打ち鳴らして、またホワイトボードに向かった。

 わたしたちのことはとりあえず放置して、話し合いを再開するらしい。
 内容は、どうやら、さっき言った文化祭のこと。
 
「ついに今月末かあ。あっというまだね」

「しばらくバタついてたもんね……」

「でも、本当に文化祭するつもりなのかなあ。何かあったら……」

「そうは言っても、そんなこと言ってたら学校来られないし」

「それはそうなんだけど……」

「こら。話聞いてる?」

「はい」「聞いてます」「すみません」

 ……バタついてた?


466: 2017/02/05(日) 23:25:19.15 ID:SatUv8IDo


「ねえ、まひる……」

「ん?」

「バタついてるって?」

「あ、えっと……知らない? あの、ほら。うちの高校の生徒が……」

「……ひょっとして、例の氏体か?」

 黙っていたケイくんが口を挟むと、まひるは気まずげに頷いた。

「そうそう。さすがに、うちの高校だけで二人目だからね……」

「怖いよね」「犯人、捕まってないんだよね?」「さすがにもう終わりじゃないのかな……」
「関連性が見つかったってテレビで言ってた」「なにそれ?」
「ほら、一人目の男の子と、うちの学校の沢村って人が同じ中学で……」
「だったら、無差別じゃないってことなのかな?」「でもさ、無差別じゃないとしたら、うちの学校の生徒が怪しくない?」
「たしかに。個人的な恨みとかでってことでしょ?」「でも、沢村先輩は知らないけど、弓部先輩が恨まれるとは思えないけど……」
「……あのさ、わたし知ってるんだけど、うちの部の碓氷先輩ってさ……」「碓氷先輩?」
「被害者の男子生徒ふたりと同じ中学だったんだって……」「え、嘘」「じゃあ何か知ってるのかな?」「心当たりあったりして」
「本人が犯人だったり?」「ちょっと、やめなよ」「ごめん、冗談」「でも、可能性としてはあるよね。全員と繋がりあるわけでしょ?」

「みんなストップ。あんまり良い趣味じゃないよ。不安なのも分かるけど、今は忘れよ?」

 まひるの声で、女の子たちの会話が止んだ。
 まひるが趣味の良し悪しを気にするのは少し意外だった。


467: 2017/02/05(日) 23:27:28.67 ID:SatUv8IDo

 わたしは少し今の話題について考えてから、部誌のバックナンバーを手慰みにパラパラとめくりはじめた。
 なんとはなしに目を通し始めたのだが、不思議と目が止まるページがあった。


  おなかがずいぶんすきました
  すきました ので ごはんをたべます
  たぶん いつもの サラダとスープ
  玉子がない から うまくいかない

  あとで掃除をしようと思って
  こたつに入って テレビをつけて
  そうしたらほら もう動けない
  今日の降水確率は
  どうやらずいぶん高い様子で
  平らな平らな灰色ぐもは
  気鬱のわけには恰好で

  灰色の雲があるせいと
  いつもの玉子がないせいで
  こんな怠惰な生活です
  そういうことにしておきました


「生活」と題された詩のようだった。
 作者の名前はない。

 四つか五つほど、似たような詩が並んでいる。
 こういうのだったらわたしにも書けるかもしれない。


468: 2017/02/05(日) 23:28:21.65 ID:SatUv8IDo

 ……そういえば。
 お兄ちゃんは、元の世界の、お兄ちゃんは、高校時代、何かを書いていたはずだ。
 わたしはそれを読んだことがある。お兄ちゃんに隠れて、勝手に部屋に忍び込んで。

 どんな内容だったっけ……?
 
 ――風船は、がらんどうなので、

 ――からかうように、ぱちんと弾け、

 ……なんとなく、思い出せる部分と、思い出せない部分がある。

 少し、思いつく。
 ひょっとしたら、この世界のお兄ちゃんと話すよりも、お兄ちゃんの考えに近付けるかもしれない方法。

 この世界の、この時間のことをヒントに、お兄ちゃんと過ごした日のことを、わたしが思い出す。
 そうすることによって、わたしは改めて彼に近付けるかもしれない。

 それはちょうど、本と読み手の関係のようだ。

 ある種の読み手が文章を読むとき、彼は文章そのものを読んでいるだけではない。
 文章から読み手自身の思想や記憶を連想し、“書かれていないこと”を読み始める。

 そうすることによって、文章は完成する。
 この世界、この時間という“文章”を、
 わたしという読み手が、わたしの記憶と思想のはたらくままに任せ、“解釈”する。
  
 結果、そこに新しい“物語”が生まれる。
 それは不可能ではなく、突拍子もない夢物語でもないように思える。

 試しにやってみよう。
 お兄ちゃんは、どんな文章を書いていたっけ?
 

469: 2017/02/05(日) 23:28:56.67 ID:SatUv8IDo




  風船は がらんどうなので、
  軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
  針でつつけば ごらんのとおり
  からかうように ぱちんと弾け
  川面に浮かんだ あぶくのようだ
  
  風船は がらんどうなので
  割れてもだれも気にしません
  割れてもだれも気にしないのに
  割れてもだれも気にしないことを
  みんながみんな気にしていません

  みんな気にせずぷかぷか浮かんで
  よくも平気でいられるものだ
  どんなにぷかぷか浮かんでも
  どうせ割れるか萎むかするのに


470: 2017/02/05(日) 23:29:29.73 ID:SatUv8IDo





 ――そうだ。
 
 お兄ちゃんは……“風船”が好きだった。
“好き”? 違う。
 愛着を持っていた、と言っても間違いだ。

 お兄ちゃんは、風船に、“何か”をオーバーラップさせていた。

 お兄ちゃんの書いた文章を隠れて読んだとき、なぜだかたまらなく怖くなったことを覚えている。

 そこに何が書いているのかは、わたしにはわからなかったけど。
  
 お兄ちゃんはやさしくてあたたかい人だった。

 でも、それは本当だろうか? 仮に事実だったとして、それだけ、だっただろうか。
 
 あの韜晦の裏に、お兄ちゃんが隠していたもの。
 わたしはそれを、もしかしたらどこかで目にしていたんじゃないか……?


473: 2017/02/12(日) 23:17:09.70 ID:VA9fawCVo



 リノリウムの床の上、並んでいたいくつもの扉のことを思い出す。
 高い天井、開けた空間、壁に向かって、けれど壁に接さず、扉は三つずつ規則正しく並んでいた。
 
 それぞれに異なった意匠、色合い、大きさ、高さ、厚さ。
 けれど、それらは本質的に似通っていた。

 人間そのものと似ている。

 人にはそれぞれ、個性というものがある。固有性というものがある。
 髪や肌や目の色に始まり、性別、目鼻立ち、手足の長さ、爪の形、体型、骨格、歯並び……。
 どれをとっても個性があり、ほとんど誰とも重ならない。どこかが似通っていてもどこかで違っている。

 人間の顔がある。
 目が大きいのもあれば小さいのもある。鼻の位置が高いのもあれば低いのもある。
 髭が生えているものもあればないものもあり、唇が薄いのもあれば厚いのもある。

 でもそれはあくまでバリエーションであり、個々の違いは、さまざまな顔を一貫する共通点に比べればごく些細だ。
 
 扉もそうだ。
 意匠は違う。大きさも厚さも、それぞれ違う。デザインのコンセプトだってそうだろう。
 
 でも、本質は同じだ。

 その扉たちは、どこも繋がっていない。
 ドアは本来、遮断の為の壁に、開閉できる開口部を作る為に存在している。
 
 つまり、扉は壁についていなければ意味がない。ただ扉だけがあるならば、それは何の用も成さない。

 どこにも繋がっていない扉。いくつ開け放してみてもどこにもたどり着けない扉。
 
 そこはドアのショールームだった。


474: 2017/02/12(日) 23:18:10.74 ID:VA9fawCVo

 あの夏、わたしとお兄ちゃんは手を繋いで、ドア製造工場のショールームに向かった。
 当時わたしは小学生で、お兄ちゃんは高校生だった。

 関連企業の製品宣伝を兼ねた催事が、その事業所の敷地内で行われた。
 
 子供向けのヒーローショーがあるというので、退屈していたわたしと、珍しくバイトが休みだったお兄ちゃんは、そこを訪れた。
 
 そういうことは覚えているけれど、印象に残っているのはむしろ、賑やかな催しものではなく、立ち並ぶドアの光景だった。

 どこにも行き着けず、繋がれず、ただそこで無表情に立ち並ぶだけの無数の扉。
 
 それをわたしは少し怖いと思った。

 あのときお兄ちゃんが言ったことを、わたしは不思議と思い出せる。

「たくさんあるね」とお兄ちゃんは言った。

「うん」

「全部ここで作ってるんだろうね」

「なんだか不思議」

「なにが?」

「なんだか……分からないけど、少し怖い」

 お兄ちゃんは、そうだね、と少し笑った。

「たぶん、どこにも繋がっていないからだろうね」

 そうだ。
 お兄ちゃんはそう言った。

「扉を開けてもどこにも辿り着けないのは、怖いね」


475: 2017/02/12(日) 23:18:36.34 ID:VA9fawCVo



 扉が開く音がして、わたしは物思いを中断させられた。

「おかえり」とまひるが扉の方を見て笑った。

 わたしはそちらに視線をやる。

「あ」と思わず声が出たけれど、小さすぎて、たぶん誰にも気付かれなかっただろう。

「ただいま戻りました」

 と、彼はそう言ったあと、わたしとケイくんの方を見て怪訝げに眉を寄せた。

「誰……」

 そう訊ねかけて、彼は息を呑んだ。
 
 わたしたちは、彼と既に顔を合わせている。
 昨日、まひると出会う前、この学校の校門で、わたしは一度彼に声を掛けた。

 碓氷愛奈を知っていますか。
 知りません。君は誰ですか。


476: 2017/02/12(日) 23:19:13.30 ID:VA9fawCVo

「わたしのともだちです」とまひるは言った。

「部長の……?」

「部誌の製作の手伝いをしてくれます」

「……部外者なのに?」

「碓氷くんよりあてになるもの」

「……相変わらずひどい言いようですね」

「それより、頼んでたものは見つかった?」

「ああ、ありましたよ。これでよかったんですよね?」

 そう言って彼は、一冊の本をまひるに差し出した。

「あ、うん。これこれ。ありがとう」

 わたしはまひるのほうをちらりと見た。彼女は嬉しげに本の表紙をこちらに向ける。

"R62号の発明・鉛の卵"……安部公房だ。

「ねえ、きみ、昨日……」

 お兄ちゃん……"碓氷遼一"は、わたしの方を見て何かを言いたげにする。
 わたしは体がこわばるのを止められない。

 ああいったい、この人を前にしてわたしに何が分かるだろう。
 

477: 2017/02/12(日) 23:20:01.88 ID:VA9fawCVo

 それでもここは……お兄ちゃんが望んだはずの世界だ。
 
「こんにちは」とわたしは笑ってみせた。

 碓氷遼一は面食らったような顔をした。

「ああ、こんにちは」

 まひるも人が悪い、と言うべきなのか、それとも、彼がここに来ることを言わなかったのは彼女なりの気遣いと考えるべきか。
 たぶん、後者なんだろうな。なんとなくそう思う。

「昨日も会った気がするけど……」

「そうですね」とわたしはかろうじて答える。

「ああ、やっぱり。それで、手伝いって……?」

 碓氷遼一の質問に、まひるが答える。

「うん。部員たちのやる気がないから、よその人に協力してもらおうと思って」

「いやだから、部誌ですよね……?」

「筆名使えばバレないバレない」

 三人の下級生たちがクスクス笑う。
 わたしとケイくんは顔を見合わせて軽く溜め息をついた。


478: 2017/02/12(日) 23:22:22.32 ID:VA9fawCVo


「許可取ってるんですか?」

「いや、だからね、碓氷くん。バレないんだってば」

「……マズイですよ、いくら夏休みだからって部外者は」

「うんうん、そうだね。碓氷くんはいつも正しいね」

「……聞く耳持たないんだからなあ、まったく」

 ああ、本当だ。
 この碓氷遼一は――お兄ちゃんとは違う。

 まったく、違う。ぜんぜん。顔つきや、姿形は似ているのに、仕草も表情も言葉も……全部お兄ちゃんじゃない。

 本当に、こんな人から、わたしのお兄ちゃんについての何かが分かるんだろうか……?

 自分の不安を、頭を振って否定する。

 だからこそ、と、ついさっき考えたばかりのはずだ。 
 


479: 2017/02/12(日) 23:23:20.31 ID:VA9fawCVo

「ねえ、碓氷くん、それでお願いがあるんだけど」

「なんですか」

「そっちの子。愛奈ちゃんていうんだけど、その子に原稿の書き方教えてあげてくれる?」

「……なんで俺が」

"俺"だって。
 こんな人が、碓氷遼一を名乗っていると思うと、なんだか変だ。

 ……いや、違うのだろうか。

 ここがお兄ちゃんの望んだ世界だとしたら、むしろ、この姿こそが、お兄ちゃんが望んだ自分のあり方なのかもしれない。

 そう考えると、無性に落ち着かない気分になる。

「こっちの」と、まひるはケイくんの腕を引っ張った。

「子には、わたしが教える」

「俺は書かない」

「きみは書くよ、ケイくん」

 妙に確信のこもった声で、まひるは言った。ケイくんは返答に窮したみたいだった。


480: 2017/02/12(日) 23:25:00.35 ID:VA9fawCVo

「そういうわけで協力してあげて」

「協力って、部長、未経験者なんですか、ひょっとして」

「うん。いや、どうかな? 知らない」

「知らないって……」

 碓氷遼一は頭を抱えた。

 なんだか、こういうふうに見ると、お兄ちゃんというよりは、ただお兄ちゃんに似ているだけの、同い年くらいの男の子に見える。

 いや……一応、高校二年生だから、わたしの一個上なのか。
 じゃあ、先輩ってことになる。そう考えて思わず笑うと、碓氷遼一はこちらを見て毒気を抜かれたように溜め息をついた。

「きみ、書けるの?」

「書けます」

「何を?」

「風船についての詩とか」

「風船……?」

 碓氷遼一は怪訝そうな顔をした。
 ピンとこないらしい。


481: 2017/02/12(日) 23:25:49.07 ID:VA9fawCVo

「詩……?」

「小説がいいよ」とまひるが言った。

「部長はやたら小説推しますね」

「小説がいい。なんでもありだから」

「詩だってなんでもありでしょう」

「そう? 詩ってむずかしくない?」

「人によると思いますよ」

「でも愛奈ちゃんはきっと小説向きだと思うんだ」

「本人の意思に任せましょうよ」

「じゃあ本人の意思と碓氷くんの手腕に任せるから、よろしく」

 そう言うとまひるはケイくんの方を向いた。本当に放り投げるつもりらしい。

「……参ったな」

 口車に乗せられた格好になった碓氷遼一は、困ったように顎のあたりを人差し指で掻いた。


482: 2017/02/12(日) 23:26:27.79 ID:VA9fawCVo

「よろしくお願いします」と、わたしは言う。
 緊張や違和感もどこへやら、ふたりのやりとりを見ているうちに、わたしはこの状況が楽しくなってきた。

「……わかったよ」

 わたしは心の中でまひるに感謝した。大事なことは何も伝えていないのに、彼女はしっかり配慮してくれる。
 恩返し、考えとかないと。

 さて、とわたしは頭を切り替える。

 この人に隠された、お兄ちゃんの望みを暴いてやる。
 きっと、どこかに含まれているはずだ。

 そうして、確かめてやる。
 どうしてこの世界に――お兄ちゃんの望んだはずの世界に――わたしがいないのか。
 
「よろしくお願いします。……碓氷先輩」
 

485: 2017/02/19(日) 22:38:14.27 ID:EnAtfhS9o




「何を書くにせよ」と碓氷遼一は言う。

「結局は本人がどういうつもりなのかだけが問題なんだ」

「どういうつもり、っていうと?」

「何を書きたくて書きたくないか。だから本来強制されることでもないし教わることでもない」

 碓氷遼一は、ずいぶんとはっきりとした言い回しを好む様子だった。
 そこには予断や冗談が挟まる隙間さえなさそうに思える。

 それについての判断を一旦保留にして、わたしは彼との会話を続ける。

「つまり、ひとりで考えろ、と?」

「それが一番だと思う」

 そんな会話のあとに彼はわたしの前に原稿用紙をさしだした。
 引きうけたようなことを言っていたけれど、どうやらあんまり乗り気ではないらしい。


486: 2017/02/19(日) 22:38:43.65 ID:EnAtfhS9o

 まあ、とはいえわたしとしても、本当は文章の書き方なんてまったく興味がない。
 
 原稿用紙を受け取って、筆記用具を借りる。シャープペンシルを手に考え込んだふりをする。
 さて、何を話したものだろう。

「碓氷先輩」

「なに?」

「ちょっと意見を聞きたいんですけど」

「うん」

「突然、未来から来たって言われたら、どうします?」

「時をかける少女か?」

 言われてみれば。

「何言ってんだって思うだろうけどな」

「ですよね」

「タイムリープもの?」

「え、何が?」

「いや、そういう話を書くのかと……」

「なんでわたしが?」

「……」

 碓氷遼一は不機嫌そうに眉をひそめた。さすがにちょっとからかいすぎたか。


487: 2017/02/19(日) 22:39:10.08 ID:EnAtfhS9o

「えっと、それはともかくです」

 ああそうか、この状況だと、碓氷遼一にとってわたしは、一個下のよくわからない後輩ってことになるんだな。
 なんだか不思議な感じがした。

 彼から見たら、まるで物語みたいだろうな。

 たとえばほら、ある日突然奇妙な女の子に出会う。
 その子と話して仲良くなる。そして何かのきっかけで、彼女が未来から来たことを知ってしまう。
 実は彼女は彼の姪で、氏んでしまった彼の面影を追って不思議な力で時間を遡ってきたのだ、と。

 あとひとつくらい何かを足せば、本当に物語みたいだろう。
 もっとも、それを裏側から眺める気分はあんまり良いものとは言いがたかった。

 本当に、ときどき、生活というものは、「物語みたいだ」と、他人事のように思わせてくれる。
 その現実感の遠さが、反対に「物語らしさ」を剥奪していくような気がする。

「……ともかく?」

 わたしははっとして彼の顔を見た。怪訝気な表情。おかしなやつだと思っているのかもしれない。


488: 2017/02/19(日) 22:40:32.22 ID:EnAtfhS9o

「未来から来たっていうのは、とりあえず、いいです。じゃあ、未来を知ってるって言われたら?」

「信じないだろうと思うよ」

「そうですよね」

「確かめようもない」

「うん。たしかに。なるほど……」

「それがどうしたの」

「ううん。未来を知ってても、誰も信じてくれないなら、意味がないなあ、って」

「まるで知ってるみたいに言うね」

「あはは」

 とわたしはこっちの世界に来てからはじめてわざとらしく笑った。
 ケイくんやまひるほど、気の抜ける相手ではない……。相性が、あまりよくない、ということだ。

 なんとなく、"当たり前のことを、当たり前にできる、当たり前な人"、という感じがする。


489: 2017/02/19(日) 22:41:00.64 ID:EnAtfhS9o

「知ってることは知っていますよ」

 でも、わたしは正直に答えることにした。

 結局のところ、率直さというものを軽視するべきではないようだ。
 曖昧にしたってごまかしたって、話はいつまでも進められないままだ。
 
 もやもやとさせていたってストレスが溜まるだけの平行線。
 そんなに時間があるわけでもない。切り込んでいかなければならない。

 もちろん、かといって、こんな言葉、どうせ信じてもらえないだろうけど。

「どのくらい未来について?」

「七年後くらい。まあ、知っていることは、ですし、当たらないかもしれないけど」

「じゃあ訊きたいことがひとつあるんだけど」

「はい?」

「ハンターハンターってちゃんと完結する?」

「……わたしが知るかぎりでは、まだ終わってませんね」

「そっか。ふうん。いつ終わるんだろう」

 ……前言撤回。
 この人も、やっぱり、どこか変だ。

 お兄ちゃんとは、違う意味で。


490: 2017/02/19(日) 22:41:26.84 ID:EnAtfhS9o

「碓氷先輩って……変ですね?」

「心外だな」

 といって、碓氷遼一は溜め息をついた。

「カサンドラってあるだろ」

「はい?」

「カサンドラ」

「……なんですか、それ」

「ギリシア神話。知らない?」

 有名だと思ったけど、と碓氷遼一は首を傾げる。本当に変わった人だという気がしてきた。
 参考になるんだろうか? 色んな意味で。

「神様の寵愛で予知能力を手に入れたんだけど、神様の呪いでその予知を誰も信じてくれなくなったっていう、女の人」

「なんですか、その……」

「うん。タチ悪いよね、神様って。まあ、神様っていうか、アポロンなんだけどね」

 ああ、アポロンなら納得。やりそう。

「まあ、そんなのなくたって、予知なんて誰も信じないだろうけどね」


491: 2017/02/19(日) 22:42:02.03 ID:EnAtfhS9o

「先輩は……」

「ん?」

「未来と過去、どっちかを見られるとしたら、どっちが見たいですか?」

「ん。柳田国男とか好きなの?」

「違います。ただの質問です」

「そっか。残念」

 どうして柳田国男が出てくるんだろう。衒学趣味な人なんだろうか……。

 いや、違う……。

 柳田国男。
 お兄ちゃんも読んでた。

 柳田国男なんて読む高校生、なかなかいない。

 ひょっとしてお兄ちゃんは……。
 自分の知識を、ひけらかえしたかった? だから、こんなふうに?

 あるいは、誰かに話を聞いてもらいたかった?

 もしかしたら、もっと単純に、自分の好きなものについて、誰かと話したかったのかもしれない。

 今の段階じゃ、何も決めつけることはできないけど。


492: 2017/02/19(日) 22:43:08.56 ID:EnAtfhS9o

「そうだなあ。どちらかというと、未来がいいな」

「どうしてですか?」

「過去のことは、まあ、本なり映画なりで、事実はどうあれ、なんとなく輪郭は掴めるだろう。
 でも、未来のことはどうしようもない。見当もつかない」

「……三日以内に」

「ん?」

「世界的な金融危機が起きますよ」

 あるいは、起きないかもしれないけど。
 本当のところ、わたしは、「この世界」については何も知らないし。

 碓氷遼一は目を丸くして、何か考えるような間を少し置いたあと、笑った。

「それは困ったね」

 カサンドラ。
 でも事実は逆だ。

 わたしは過去が見たかった。だからわたしはここにいる。

「ところで、先輩」

「ん?」

「人を頃したいって思ったこと、ありますか?」

 なんてことのない調子で言ったつもりだったけど、碓氷遼一は言葉に詰まったみたいだった。

「ないよ」

 と、それだけだった。「なにその質問」、なんて戸惑った声もない。

「きみはあるの?」

 その反撃に、わたしはうまく応えられなかった。


493: 2017/02/19(日) 22:44:42.07 ID:EnAtfhS9o

 それからわたしは、どうでもいい会話をしながら、適当な文章をでっちあげた。
 何かをでっちあげるのは苦手じゃない。わたしの存在だって気持ちだってほとんどでっちあげのようなものなのだ。

 碓氷遼一はアドバイスらしいアドバイスをしてくれなかったけど、それが逆によかったのかもしれない。
 おかげで余計なプレッシャーもなく自由にやらせていただけた。

 わたしの書いた文章が小説じゃなかったことに、まひるは少し不満げだったが、それでも感謝はしてくれた。

 文章を書きながら、わたしは、お兄ちゃんが書いた詩のことを思い出した。

  “風船は がらんどうなので、
   軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
   針でつつけば ごらんのとおり”

 あの詩の風船は、まるで、人間のことのようだった。
 
"針でつつけば ごらんのとおり"……。
 
 わたしの頭をよぎったのは、ケイくんが図書館で見つけた新聞記事。
 刺殺……凶器と見られるナイフ……。そして、さっきの噂話。

 でも、この連想には根本的な破綻がある。
 
 あの詩があった世界では物騒な事件なんて起きていなかった。
 この世界にはあの詩は存在しない。
 
 だから、繋がりにもヒントにもなるはずがないのだ。
 
 でも、
 もしこの世界が、お兄ちゃんの願いを反映しているとしたら?

 その自問の答えを、わたしははっきり言葉にできずにいた。


496: 2017/02/26(日) 21:48:31.59 ID:epIMuzcfo



 結局、部活が終わる頃には夕方になってしまっていた。
 どちらにしても、今はまひるを頼るしかないから、待っていなければいけなかったんだけど。

 そうして帰り道、わたしはケイくんとまひるのふたりに声をかけた。

「ねえ、まひる、悪いんだけど、今晩も……」

「うん。かまわないよ」

 まひるは本当に気にしない様子だった。

「それでね、ケイくん」

「ん?」

 ケイくんはなんだか気疲れした様子で、名前を呼んでも反応が鈍かった。

「悪いんだけど、今日は先にまひると帰っていてくれない?」

「……はあ?」

「お願い」


497: 2017/02/26(日) 21:49:19.28 ID:epIMuzcfo

「……どうするつもりだ?」

「べつに、深く考えてるわけじゃないんだけどね」

 ちらりと、碓氷遼一の方を見る。
 彼は荷物をまとめて、立ち上がるところだった。

「気になることがあって」

 確証も何もない、ただの直感。
 そんなもののために、わたしは今行動を起こそうとしている。

「……」

 ケイくんは、静かにわたしを睨んだ。

「……なに?」

「なんでもない」

 まひるは、少し不思議そうな顔をしていた。

「いいの?」

「なにが?」とわたしは訊ねる。

「愛奈ちゃんがいいなら、いいんだけど……」

 わたしは二人の方を見て、頷いた。

 それから、部室を出ていった碓氷遼一の姿を追う。


498: 2017/02/26(日) 21:50:12.95 ID:epIMuzcfo



 わたしの考えは、ひょっとしたら見当違いのものなのかもしれない。
 余計なものに気を取られているだけの。

 きっと、間違いだ。
 でも、もしそれが本当だったら、わたしは、それをケイくんに知られたくないと思った。

 自分で、たしかめたいと、そう思った。

 碓氷遼一は家への道のりを歩く。

 きっと、このまま帰るつもりなのだろう。

 昨日見たときは、あの人と一緒だった。
 あの人……名前はなんと言ったっけ?

 たしか、そう、生見……。 
 生見小夜とか、そんな名前だったっけ。

 子供の頃、顔を合わせた記憶がある。

 高校に入る頃には、たしか疎遠になっていたと思うけど……。

 こっちでは、少し状況が違うらしい。


499: 2017/02/26(日) 21:50:55.47 ID:epIMuzcfo

 さて、とわたしは考える。碓氷遼一は、振り返らずに歩いていく。

 それは当然だ。

 尾行なんてされたら、普通ならすぐに気付く、と、そう思う人は安易だ。
 歩いているとき、人は普通、そんなに振り返ったりしない。
 慣れた道なら尚更だ。

 後ろから近付いて友達を驚かせようとして、なかなか気付かれなくて焦れたことのある人だって、少なくないだろう。

 後を追うことは、容易いとまでは言わないが、難しいことではない。

 そう自分に言い聞かせながらも、わたしの心臓は弾んでいた。
 
 追って、何があるというのだろう? その答えは、自分でも分からない。


500: 2017/02/26(日) 21:51:50.04 ID:epIMuzcfo

 夕暮れ時の見慣れた道を歩きながら、
 わたしは何もかもぜんぶが夢みたいだと思った。

 空に架かる電線の影、隊をなして飛ぶ鳥の群れ、オレンジがかった寂しい街の夕暮れ。

 懐かしい気持ち。
 それは風景のせいだろうか。それとも夕焼けの切なさのせいだろうか。

 胸の奥に何かがつかえるような……苦しさ。

 わたしは、いま、ひとりぼっちで、氏んだ人の背中を追っている。

 夕焼けの街の中を。
 徐々に伸びていく自分の影を見ながら。
 その濃さに戸惑いながら。

 どこかで間違えてしまった気がする。

 わたしは、何かを間違っている。

 いったい何を?

 碓氷遼一。
 お兄ちゃん。

 何を憎んで、何を求めていたのか。
 分からない。

 見えるのはいつも背中だけだ。
 どこまでいっても、わたしはもう彼に追いつけない。


501: 2017/02/26(日) 21:52:58.31 ID:epIMuzcfo

 わたしがいらなかったのだろうか。
 何を憎んでいたのだろうか。

 分からない。

 遠く、前方を歩く、姿。
 それが奇妙に眩しく見えた。

 その瞬間、

「お兄ちゃん!」

 と声が響いた。

 遠くて、何を話しているのかは、わからない。

 でも、彼女が彼に飛びつくのは見えた。

 ランドセルを背負った少女。
 昨日出会った少女。

 茅木穂海。わたしの妹だったかもしれない子。
  
 遠目でも分かるくらいに、幸せそうに笑っていた。


502: 2017/02/26(日) 21:53:36.27 ID:epIMuzcfo

 彼は彼女を抱き上げた。
 
 わたしは、自分の感覚を恥じた。

 何を心配していたのだろう、わたしは。
 あんなふうに、彼はあたたかに笑っている。

 その横顔が、わたしの立っている場所からでも見えた。

 碓氷遼一は、殺人者かもしれない。
 どうしてそんなことを思いついてしまったんだろう。

 あんなふうに笑う人が、人を頃すなんて。

 しばらく、彼らの姿を眺めていた。
 ふたりは何か言葉を交わしたあと、手を繋いで去っていく。わたしの方なんて、見向きもせずに。
 わたしの存在になんて、気付きもせずに。

 ああ、わたしは、あの景色のなかに、どうしていられなかったんだろう。
 わたしがいた世界では、あんなふうにふたりが手を繋いで歩くこともなくて。
 だから――。
 
 わたしは結局、どこまで行っても……。

 視線を外す。もう、帰ろう、と、そう思った。
 これ以上見ていてもつらいだけだ。わたしはいったい、この世界に何を期待していたんだろう。

 わからなくなって、俯く。自分の影のかたちだけが、やけにくっきりと疎ましい。


503: 2017/02/26(日) 21:54:35.60 ID:epIMuzcfo


 ――不意に。
 
「お兄ちゃん!」

 と、また声が聞こえた。

 さっきと同じ、子供の声。
 でも、響きが違う。

 今度の声は、なんだか、さっきより切迫した、悲痛な――。

 思わず、道の先を振り返った。

 状況が、さっきとまったく違う。
 
 碓氷遼一は……? 倒れている。隣に、穂海がいる。膝をついて、彼を呼んでいる。
 誰かが、傍に立っている。手に、何かを持っている。あれは……。

 刃物……?



504: 2017/02/26(日) 21:55:38.59 ID:epIMuzcfo

 刃物を持った「誰か」が、緩慢な動作でこちらを見る。
 灰色のパーカー、ジーンズ、深く被ったフードと前髪、それから距離のせいで、顔は見えない。

 若い男……だろうか。
 
「誰か」は、わたしの方を向いたまま、何かを迷うみたいに立ち尽くしていた。
 頭が、うまく働かない。景色の意味が掴めない。
 
 突然、わたしの後ろから、怒声のようなものが聞こえた。
「誰か」は、わたしの背後の方を見たのだろうか。そうして、なんだか場違いに落ち着いた様子で走り去っていく。
 
 ――観察してる場合じゃない。

 碓氷遼一。
 わたしの叔父。
 お兄ちゃん。

 刺されたの?

 駆け寄ろうとするのに、うまく足を動かせている感じがしない。それでもいつのまにか、わたしは彼の傍に立っていた。

 血が、アスファルトを濡らしている。
 
「愛奈」と、わたしを呼ぶ声に、そのときはじめて気付いた。
 顔をあげると、ケイくんが傍に立っていた。

「救急車、呼べ。携帯は使いものにならない。おまえなら公衆電話のある場所と場所の説明くらいできるだろ」

「……ケイくん、なんで」

「いいから呼べ。……いや、救急車でなくてもいい、ここらへんは民家が多い。誰か人を呼べ」

505: 2017/02/26(日) 21:56:10.70 ID:epIMuzcfo

「ケイくん……」

「いいから。あとはその子に付き添っていてやれ。とにかく誰か来るまでここにいろ。
 それから、誰かにその子とそいつを任せられそうなら、できたら身を隠せ。面倒になったら動きにくい」

「ケイくんは……?」

「今の奴を追う」

「……でも、刃物」

「おまえはここで待ってろ」

「ケイくん!」

「大丈夫だ」

 何の根拠もないくせに、ケイくんは平然とそう言った。
 どこか、怒っているみたいに見えた。

 本当にケイくんは行ってしまって、わたしは、穂海と、苦しげに息をするお兄ちゃんと、その場に取り残された。

「誰か」とわたしは声をあげた。泣きじゃくる穂海の耳にすら届かなかったのではないかと思うくらい、頼りない声だった。
 どうして……こんなふうになってしまうんだろう。
 
 それから、まぶたをギュッと閉じて、働かない頭を無理やり動かそうとする。

 ――救急車。 
 いま必要なのはそれだけだ。

 お兄ちゃん、ケイくん……。

 頭のなかでぐるぐると、言葉にすらならない何かが、渦を巻いていた。
 

506: 2017/02/26(日) 21:57:03.55 ID:epIMuzcfo
つづく
開かない扉の前で◇[Munchausen]
507: 2017/02/27(月) 09:21:29.79 ID:RRp8jG5w0
おつです

引用: 開かない扉の前で