508: 2017/03/05(日) 22:09:04.17 ID:A88cUmTAo
最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a
前回:開かない扉の前で◆[Cassandra] A/b
◇[Munchausen]
妙なことに巻き込まれて、随分経ったような気がしていたけれど、考えてみればまだ二日目の夜だった。
言ってしまえば退屈な日常からの脱却だけが目的だったのに、並行世界やら殺人事件やら奇天烈なワードばかりが飛び出してくる。
業報というならば、そうなのかもしれない。
あさひの家には本当に彼女以外誰も帰ってきていなかった。
僕とすみれは彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら休むことにした。
しばらくすると、すみれは昼間買った僕の服を広げてタグを外しはじめる。
「明日はどれ着る?」と彼女はご機嫌な様子だった。
暢気なものだと感心するが、この状況では彼女みたいな態度の方が正解なのかもしれない。
あさひは僕たちのくだらないやりとりにいちいち頬を緩ませていた。
509: 2017/03/05(日) 22:09:45.49 ID:A88cUmTAo
そんなふうにしていると、つい色々なことを忘れそうになって、だから僕は人と話をするのがあまり好きじゃない。
エネルギーというのは針のように集中させておくべきだ。
その他一切を犠牲にしても達成するべき何か。そのために残しておくべきだ。
何もかもに怒り、腹を立て、祈っていてもどうしようもない。
果たすべきこと、守るべきことがあるなら、そのひとつのことだけをひたすらに思うべきだ。
無闇に怒ったり悲しんだりするのは、エネルギーの浪費だ。
有限の資源を散逸させていても仕方ない。
見事に、散逸してしまっている。
それが今の僕だ。何の気力も湧かない。
510: 2017/03/05(日) 22:10:19.89 ID:A88cUmTAo
二日目。
そろそろ元の世界のことを思い出してしまう。
軽い気持ちの逃避行だったが、さすがに一時の熱がさめると冷静に我が身を顧みずにはいられない。
あちらでも同様に時間が経っているなら、そろそろ捜索願でも出されかねない。
妙な騒ぎにでもなったら面倒だが……まあ、そのときは、「何も覚えてない」でやり過ごそう。
すみれは僕に買わせた服を眺めて満足気に頷いている。
僕の方は、たいした理由ではないけれど、彼女はどうしてこんなところに来てしまったんだろう。
それもまた、どうでもいいことなのかもしれない。
放置されたままになっているはずの彼女のバイクのことを思い出したりするのは不毛だ。
僕らはその夜、余計なことはあんまり話さずに過ごした。
あさひもすみれも、この世界の僕が氏ぬかもしれないことなんてどうでもいいと思っているみたいに見えた。
そして、僕は実際に、どうでもいいとも思っていた。
ただ僕にはいつも、愛奈のことが気がかりだった。
僕が氏んでしまったら、いったい誰が彼女のために何かしてやれるというんだろう。
そう思うのは思い上がりだ。自分でもそう分かっている。
けれど……。
511: 2017/03/05(日) 22:11:06.76 ID:A88cUmTAo
結局のところ、僕は言い訳がましいだけの人間なのかもしれない。
そう結論づけてしまうと、それ以上は考えずに済んだ。
どんな言葉を並べたところで、言い訳にしか聞こえないからだ。
あさひとすみれが何かを話している。きっと、生活にまつわることだろう。
食事と睡眠と……。そういうことを遠くに感じてしまうのはきっと、現実逃避なのだろう。
「明日はどうしようね」と僕はふたりに声をかけてみた。
「どうしようって?」
「刺されるのは夕方だろう」
「ああ、そういう意味」
それまで何をして過ごせばいいんだろう。僕たちにはやるべきことなんてひとつもないような気がする。
「そうだね」
とすみれは頷き、あさひは考え込んだ。
「うちでオセロでもしてたら?」
「なんでオセロなんて」
「だって、暇をつぶせそうなのがオセロくらいだもの。それともテレビでも見てる?」
映画のDVDなら何枚かあるよ、とあさひはなんでもない顔で言う。
冗談かどうか、わかりにくい。
512: 2017/03/05(日) 22:11:34.05 ID:A88cUmTAo
「あさひはどうするの」
僕の質問に、彼女は困った顔をした。
「わたしは……碓氷のストーキング」
「……ああ」
そういえば今日も、彼女は昼間から、碓氷遼一の姿を追っていたんだっけ。
彼は生見小夜と一緒に歩いていた。
その姿を、彼女は延々と追いかけていたのか。
なるほど、そうなると、あさひと一緒に行動するのはよくないかもしれない。
同じ顔をした人間が同じような場所にいたら面倒ごとになるのは目に見えている。
そういうことなら、僕らは別行動をとるのがいいかもしれない。
513: 2017/03/05(日) 22:12:04.53 ID:A88cUmTAo
「じゃあ、昼間は暇つぶしでもしていようか」
と、その夜はそういう話でまとまったのだけれど、実際に時間を持て余すと何をしていいか分からなかった。
どうやら僕には、余暇を使い切ることで不安や憂鬱を見ないふりをする傾向があるらしい。
暇な時間が出来ると余計なことばかり考えてしまうのだ。
あさひは早くに出掛けてしまって、その朝、僕とすみれはふたりで家の中に取り残された。
鍵は玄関の植木鉢の下に入れておいてくれればいいから、と、月並みな隠し場所を教えられた後、
僕らはモーニングコーヒーを飲みながらオセロに興じたけれど、すぐに飽きてしまった。
「変な話」
とすみれは苛立たしげに言った。
「どこまでいってもわたしたち、楽しいことなんてできないのかもね」
そうだね、と僕も頷いた。
これは心のありようの問題なのかもしれない。
傾向。
514: 2017/03/05(日) 22:12:41.71 ID:A88cUmTAo
「ねえ遼一、あさひの話、信じた?」
「さあ?」
「どうでもよさそう」
「実際どうでもいい」
考えるだけ無駄だ。
やるべきことは決まってるんだから。
「遼一は、何考えてるかさっぱりわからないね」
「そうかもね」
何も考えていないんだから当たり前だ。
「すみれは信じたの?」
「半信半疑。夢を見たのは本当かも」
「だったらどうでもいいだろう」
「どういうこと?」
「どっちにしても、あさひに協力するしか、今のところ出来ることもない」
帰る手段をさがさなければ、とは思う。
でも、それは、鞄の中にしまいこんだままの課題をしなければと思うような、そんな程度の気持ちだ。
愛奈のことさえ、僕は投げ出してしまいたいのかもしれない。
自分のことだってよく分からない。
515: 2017/03/05(日) 22:13:11.22 ID:A88cUmTAo
愛奈は僕を軽蔑するだろうか。
それは少し嫌だという気がしたけれど、仕方ないという思いもある。
もともと、無理筋だったんだ。
僕は、いったいなんなんだろう。
どうしてこんな場所にいるんだろう。
いつだって、そんなことばかり考えてしまう。
自分が何を望んでいたのかさえ、よく分からない。
こんなときにも思い出すのは、不思議と愛奈のこと。
それから小夜のことだ。
僕はオセロの白石を置きながら考える。形勢は不利だ。
いつだってそうだ。白いものは黒いものに塗りつぶされていく。
それでも僕は石を置き続ける。でもどれだけ局地的に白い領地を取り戻せたところで、結局は黒く塗りつぶされている。
516: 2017/03/05(日) 22:13:44.93 ID:A88cUmTAo
隅ばかりを取られているのだ。
そういう傾向がある。
何度ひっくり返したつもりになったって、大勢は決している。
それでも石を置ける限りは石を置き続けるしかない。
終わりない後退戦。
「遼一、弱いね」
呆れたようにすみれは言う。
そうだね、とまた僕は頷く。
「僕もそう思ってたところだ」
結局、あさひが一旦家に戻ってきた昼過ぎまで、僕らはコーヒーを飲んで過ごした。
せっかくの新しい服だったけれど、すみれに選んでもらったものだったけれど、
だからといって出掛けたくなるほど、僕は殊勝な性格ではないようだ。
519: 2017/03/12(日) 21:11:20.70 ID:zo+DbQl8o
◇
間違えたのはおそらく僕だ。
すみれは何もしなかったし、あさひだってじっと耐えていてた。
我慢できなかったのは僕だけだ。
自分自身に嫌気がさす。
本当に嫌気がさす。
そういうとき、僕は自分なんか氏んじまえばいいんだと思う。
跡形もなく消えてなくなってしまえばいいんだ。おまえなんていないほうがマシだった。
どこにもおまえの居場所なんてないんだ。誰もおまえを必要となんてしていない。
おまえの無能が人に迷惑をかける。おまえの存在が人を不愉快にさせる。
なによりも誰よりも僕自身が――僕に苛ついている。
520: 2017/03/12(日) 21:11:46.49 ID:zo+DbQl8o
あさひは午後三時頃に一度自宅へと戻ってきて、僕とすみれのふたりと合流した。
それから碓氷遼一の家へと向かった。遼一は昨日と同じような時間に、昨日と同じ道を歩いていた。
僕たちは一定の距離をとって碓氷遼一の背後を歩いていた。彼が家につくまでずっとだ。
彼が家についてしまうと、日が沈んで空が暗くなるまで、前と同じ公園から様子をうかがうしかなかった。
問題が起きたのは、すみれが飲み物を買いにいったときだった。
僕たちは三人とも、少しのあいだ、家から目を離していた。
ずっと眺めていたら、通りすがりの人間に怪しまれる。監視するにも、うまくごまかしながらやらなければいけない。
当然、素人の拙い小細工など、素人に看破されてもおかしくない。
「こんにちは」
と、僕らはあっさり背後を取られた。
「俺に何か用事?」
振り向いてはいけない、ととっさに思った。顔を見られてはいけない。
それは僕の声だった。
どう聞いても僕自身の声だ。
僕とあさひは二人で固まった。
521: 2017/03/12(日) 21:12:13.96 ID:zo+DbQl8o
「……ああ、碓氷くん」
と、あさひは無理がある冷静さで反応した。
「こんにちは。家、このあたりなの?」
「それは無理があるな」と碓氷遼一は言う。
「ごまかすのはなしにしよう。いったいどういうつもりなんだ?」
「……」
「正直言ってあんまり愉快じゃないよ、篠目」
「ばれちゃった」
あーあ、というふうに、あさひは作り笑いをした。
僕は口を挟まずに、振り向かずにいる。
「それで、篠目、ここ数日、いったいどうしたっていうんだ?」
522: 2017/03/12(日) 21:12:55.45 ID:zo+DbQl8o
碓氷遼一の質問に、あさひは黙り込んだ。
当然と言えば当然だ。
夢であなたが刺されていたので、なんて、そんなことを言ってどうなる?
篠目は何も言わずに苦笑する。
「言えないのか」
「ちょっとね」
「正直さ、篠目……こう言い方はしたくないんだけど」
彼は吐き捨てるように言った。
「気味が悪いんだよ」
その瞬間、頭がカッとなった。
「悪いんだけど、俺はおまえがあんまり好きじゃないし、だから周囲をうろつかれると迷惑なんだ」
僕は顔を上げない。振り返らない。
「わかった」
と、少しの沈黙を挟んで、あさひはそう言った。
523: 2017/03/12(日) 21:13:23.36 ID:zo+DbQl8o
悪いね、と碓氷遼一は言った。
悪いなんてこれっぽっちも思っていない声だった。
それが僕にはわかる。
――だから。
背を向けて立ち去ろうとした碓氷遼一の肩を掴み、強引に振り向かせてその頬に拳を突き出した。
頭に血が昇っているのが自分でも分かった。
そうして僕は、気付けば何度もこう繰り返していた。
おまえは僕じゃない。おまえが僕であってたまるものか。
そんなこと認められない。おまえなんか僕じゃない。
僕はおまえを認めない。
碓氷遼一は、僕の顔を見て呆然とした様子になった。
それから立ち上がって、まとまらない考えを振り切ろうとするみたいに、そのまま歩み去っていく。
僕は彼の背中を追いかけようとする。足を動かして、でも覚束ない。彼の背中に追いつけない。
玄関の扉。碓氷遼一が吸い込まれていく。……違う。そうじゃない。そこはおまえの居場所なんかじゃない。
おまえなんかがいていい場所じゃない。
玄関の扉の前で膝をつく。
耳に入ってくる音は自分が吐き出す呪詛だけで埋め尽くされていた。頭のなかだって、今起きたことでいっぱいだった。
あんな姿をしている人間は、あんな言葉を吐く人間は僕じゃない。
524: 2017/03/12(日) 21:13:56.59 ID:zo+DbQl8o
落ち着いて、と誰かが何度も繰り返しているのが聞こえた。
落ち着いて、遼一。
僕は呼吸をする。脳に酸素が行き渡っていない感じがした。それを自覚できたら、あとは深呼吸をすればよかった。
吸って吐いてを繰り返しているうちに、届いていた声の主がわかるようになる。すぐそばのあさひだった。
僕はなぜか泣いていた。
何かが耐えきれなくなってしまった。
自分がどうして泣いているのかもわからないのに悲しくて仕方ない。
たったあれだけのやりとりが、どうして僕をこんなに打ちのめしたのか、自分でもわからない。
「大丈夫だよ、ねえ、遼一。ほら、行こう?」
あさひはそう言って僕の肩をそっと撫でた。
僕は、立ち上がろうとして、
最初はただの違和感で、
次にやってきたのが熱だった。
僕はうしろを振り返って、
そこに誰かが立っていた。
「……え?」
525: 2017/03/12(日) 21:14:41.85 ID:zo+DbQl8o
あさひのその声が、奇妙に遠く聞こえた。
自分の背中を見る。何かが、突き立てられている。
――刺さっている。と、そう思った途端、急に血の気が引いた。
意識が酩酊するようにぐらつく。
「あ……」
何かに気付いたような、あさひの声。
いや、僕も、その瞬間、気付いた。
あさひが見ていた、碓氷遼一が自宅で刺される夢。
それは違ったんじゃないか。
この世界の碓氷遼一ではなく、この僕が刺される景色を、彼女は夢に見たのではないか、と。
そんな符号に、頭が回る。
ナイフを握る誰かを、見る。
見覚えが――ない? ある?
――ある。
これは……誰だ。
526: 2017/03/12(日) 21:15:14.47 ID:zo+DbQl8o
――おまえさ、人生楽しくねえだろ。
見覚えが、ある。クラスメイトだった。名前は覚えていなかったけれど、あさひの話を聞いているうちに思い出せた。
僕がこの世界に来る前、放課後の教室で、生見小夜とふたりで話をしていた男子。
沢村翔太。
この世界では、篠目あさひが、連続殺人の被害者のひとりとして数えていた人物。
たしか、氏体は見つかっていなかった、と言っていた。
氏んでいなかった?
でも、どうして……。
彼は、僕の顔を見て、不愉快そうに口元を歪ませて、一言、
「氏ね」
と、簡単そうにそう言った。
一瞬のうちに、ぐるぐるといろんな思考がまわったけれど、
痛みのせいで、すぐに途切れた。獣みたいなうめき声が自分の口から漏れるのがわかった。
後ろから、足音が遠ざかっていく音がする。
僕は、痛みにやられながら、自分の声を聞いた。
それはたぶん、頭の中だけで響いていた。
おまえは、ほっとするべきだよ、と。
ようやく氏ねるかもしれない。
よかったな、と。
529: 2017/03/26(日) 21:48:13.22 ID:oBysWUhXo
◇
生きていることが嫌になったのがいつのことだったのか、僕はよく覚えていない。
取り立てて理由があったわけでもないと思う。
両親は健在、肉体は健康、金に困っているわけでもなければ、人生観を揺るがすような大きな出来事があったわけでもない。
ただ、子供の頃からずっと思っていたことがあった。
人はいつか氏ぬ。
どうせ氏ぬ。
何を大切にしても、何を守ろうとしても、何を欲しがっても、結局は全部なくなってしまう。
それ自体は、今にして思えばたいしたことではないのかもしれない。
その事実以上に僕を打ちのめしたのは、誰もその気持ちに共感してくれないことだった。
僕の不安、僕の絶望、僕の恐怖、それを誰もわかってくれなかった。わかろうとしてくれなかった。
そんなことを考えるのは幼稚でくだらないとでもいうみたいに。
はっきりとした答えなんて、誰も僕に教えてくれなかった。
530: 2017/03/26(日) 21:48:40.73 ID:oBysWUhXo
何を得ても、結局はすべて失われてしまう。
そう考えた途端、僕の意識はもはや「今ここ」ではなく、無時間的無空間的な「どこか遠く」に運ばれてしまう。
目の前に起きる出来事のひとつひとつに反応し、感情を揺さぶられることが馬鹿らしいことに思えてしまう。
結局のところ、僕の身に起きることのすべては、そう遠くない未来になかったことになってしまうのだ。
誰かの記憶に残ったところでその誰かもいつかは氏ぬ。
僕らが遠い昔の人間に思いを馳せるときのように、あらゆる人間の感情は意味のないものとして消え去ってしまう。
現に、過去に生きたなんでもない人たちのことなんて、僕はなにひとつわからない。
どうせなくなってしまうなら、なんとなく生きるというのもひとつの手立てだろう。
でも、どうせなくなってしまうなら、何もせずに氏んでしまうというのも、ひとつの手立てなのではないか。
苦しむくらいなら、悲しい気持ちになるくらいなら、最初から全部ほしがらなくてもいいんじゃないか。
そうやってただ消えていってしまえれば、それはもう、ひとつの正解なんじゃないか。
それを子供っぽい理屈だと、誰かは笑うかもしれない。
その誰かの言葉だって、氏んでしまえば何の関係もないものだ。
面倒だと思うことも、嫌だと思うことも、全部やめてしまって。
ただ誰からも忘れ去られたように消えてしまえれば、と。
僕はそんなことを思っていた。
531: 2017/03/26(日) 21:49:09.82 ID:oBysWUhXo
◇
次に目をさましたとき、僕は半分安心して、半分絶望していた。
すぐ傍にはあさひとすみれがいて、僕はあさひのベッドに横になっていた。
すみれは泣きはらしたような真っ赤な目で僕を見て、
「氏に損なったね」
と言った。
ああそうか。氏に損なったんだ。そう思った。
こういうときの僕は諦めがいい。
今はまだそのときじゃないんだ。そう思えた。
「刺されたような気がする」
「うん。刺されたよ。でも、浅かったみたい」
「浅かった」
「病院にはいけなかったから、わたしとあさひがなんとかしたよ」
「悪かった」
「うん。でも不思議」
「なにが?」
「氏なないでって思っちゃった」
思わず笑うと、背中がずきりと痛んだ。よく生きていたものだ。
532: 2017/03/26(日) 21:50:05.81 ID:oBysWUhXo
「刺した奴は?」
「逃げた」
「……ごめんなさい」
そう声をあげたのは、あさひだった。
「……なにが」
「気付けるはずだった。刺されるのが、遼一かもって」
彼女は俯いて、こちらを見ようともしない。
そう考えるのはわからないでもない。
でも、違う。
「気付けるわけないよ」と僕は言った。
「わかるわけないんだ。そういうものなんだよ」
慰めのつもりでさえなかった。あさひは納得しかねるように首を横に振る。
533: 2017/03/26(日) 21:50:38.70 ID:oBysWUhXo
僕は、体を起こす。そうすることができた。
痛みというのは不思議なものだ。l
どれだけ頭で考えたところで、自分は肉の塊でしかないと、嫌でも実感させられる。
「沢村翔太だった」
と僕は言った。
すみれはピンと来ない顔をした。反対に、あさひはすぐに何のことだか分かったみたいだった。
「……沢村くん?」
「間違いないと思う。顔を見た」
「どうして沢村くんのこと……」
「あっちで、知り合いだった」
「でも、沢村くんは」
「ね、何の話してるの?」
言っている意味がわからない、というふうに、すみれが苛立たしげな顔をする。
僕は一度話を整理することにした。
534: 2017/03/26(日) 21:52:16.14 ID:oBysWUhXo
「僕とすみれが元いた世界に、沢村翔太っていう名前のクラスメイトがいた。
僕を刺したのは、そいつだ。顔を見た」
「……沢村翔太、ね。なるほど。なんでかはわからないけど、そいつが通り魔なのね」
「でも」とあさひが口を挟んだ。
「沢村くんは、もう氏んでる」
「え?」
「七月の始め頃、わたしは沢村くんが刺し殺される夢を見た。それから彼は行方不明になってる」
「……あれ、でも、じゃあ、どういうこと?」
「氏体は見つかってない」と僕は言った。
「あさひが夢で見たのは、刺されるところまでだ。氏んでなかったのかもしれない」
現に、僕だってあさひの予知夢の通り、「碓氷遼一の自宅で」「夕方」「誰かに刺された」。
そして生きている。
「……だったら、その沢村って奴を捕まえればいいのかな」
「でも、おかしいよ」
535: 2017/03/26(日) 21:52:46.30 ID:oBysWUhXo
あさひは戸惑ったみたいに声をあげた。
「沢村くんが犯人だったら、最初に沢村くんを刺したのは誰なの?」
「……それは、わからないけど、でも、たぶん、考える必要はない」
「どうして?」
「どっちにしても、僕らが連続通り魔犯をどうにかするには、現に僕を刺した沢村を捕まえるのが手っ取り早い」
「そう言われれば、そうだけど」
刺されたっていうのに、随分冷静だな、と自分で思う。
けっこうショックを受けている気もするけど、それもどこか遠い。
「問題が、ひとつだけあるかな」
考え込むような沈黙のあとに、あさひがそう口を開いた。
「沢村くんは、氏んでないにせよ、行方がわからないってこと」
「……それは、困ったな」
「少し休もうよ」とすみれが言った。
「あさひだって、今朝は夢を見なかったんでしょ?」
「ん……まあ。誰かが刺されるような夢は、見なかったけど」
「だったら、ちょっと休憩にしよ? すぐにどうにかできるような問題でもないよ、きっと」
ね、と言って、すみれは僕の頭を枕の方に押しやった。
「……休憩」
僕にはなんだか、それが珍しい言葉のように思えた。
539: 2017/04/14(金) 23:09:44.53 ID:8CFPILJCo
◇
沢村翔太の氏体が発見されたというニュースが流れたのは、その日の夕方のことだった。
僕たちはそのとき、あさひの家でゆっくりと"休憩"をしていた。
沢村翔太の氏体は僕が通っていた高校の校門で発見された。
当然のように刃物で刺された形跡があったらしいが、ひとつ問題があった。
それは、発見された段階から、既に氏後かなりの時間が経っていた、という点だ。
少なくとも今日や昨日殺されたわけではなさそうだという。
夕方のニュースでは、それ以上詳しいことは教えてくれなかった。
540: 2017/04/14(金) 23:10:17.22 ID:8CFPILJCo
"休憩"はそのように打ち破られ、僕たちは起きたことと起きなかったことについて検討することになった。
「遼一を刺したのは、間違いなく沢村翔太だったの?」
「間違いなく、と言われると、自信はないけれど、おそらく」
僕達の前にはあさひの家のダイニングテーブルが広がっている。
そのうえには三人分のコーヒー。
景色はどこまでも静物だ。
現実感は既になくなっていた。人の生き氏にも、自分が刺されたという事実も、
今の僕にはなんだか他人事のように思えてしまう。
ときどきそんな感覚に支配されている。
僕の視界を僕はただ眺めているだけで、そこに僕はなにひとつ関わっていないような錯覚。
541: 2017/04/14(金) 23:10:42.86 ID:8CFPILJCo
僕は沢村翔太に刺された。
そう思う。
けれど、絶対の自信はない。
状況が状況だったし、今となっては記憶さえも曖昧だ。漠然とした印象でしかない。
あのとき僕は、自分に向けられた悪意のようなものを、ただ沢村翔太に重ねてしまっていただけなのかもしれない。
けれど……少なくとも、沢村翔太だった、と僕は思う。
「でも、沢村翔太は氏んでいた」
少なくとも、沢村翔太が刺されたのが昨日今日のことでないというのなら、僕を昨日刺したのは彼ではない、と言える。
普通の状況だったなら。
「疑問がふたつあるね」
すみれがそう口を開いた。
「遼一を刺したのが沢村翔太じゃなかったとしたら、遼一を刺したのは誰だったのか。
もうひとつは、沢村翔太が殺されたのが昨日より前だったんだとしたら、なぜいまさら氏体を運んだのか?」
「運んだ?」とあさひが疑問を口にする。彼女の言葉にすみれは頷いた。
「校門なんて目立つところにわざわざ置いたってことは、見つけてほしかったってことでしょう?」
夏休み中とはいえ、学校には教職員も部活動をする生徒たちも出入りしている。
そこに付け加えるなら、どうして「誰かに見つかるような危険を冒してまで」校門前に氏体を置き去りにしたのか。
542: 2017/04/14(金) 23:11:09.28 ID:8CFPILJCo
「これを全部、納得のいくように、矛盾ないように説明するのは、意外と簡単だよね」
すみれの言葉を聞いて、彼女が僕と同じ可能性に思い当たっていたことがわかった。
たしかに説明するのは簡単だった。新たな疑問こそいくつも出てくるものの、矛盾をなくすのは簡単だ。
「遼一を刺した沢村翔太と、発見された氏体である沢村翔太は別の人間」
その言葉に、僕は頷く。あさひだけが、なんだかピンとこないような顔をしていた。
「えっと、つまり、どういうこと?」
あさひは体験していない。だからとっさには思い浮かばないのだろう。
けれど僕たちは、既に同じ人間がふたり以上存在できる状況を知っている。
僕たち自身だってそうなのだ。
「どちらかはわからないけど、どちらかが、"別の世界"から来た沢村翔太だ、ってこと」
特に驚いた顔もせず、ああ、なるほど、とあさひは頷いた。
「沢村翔太は僕らと同じような方法で、別の世界からこの世界へとやってきた」
「そして、どちらかがどちらかを頃した。状況を整理すると、どっちがどっちを刺したかも簡単かもしれないね」
「というと?」
「どうして沢村翔太の氏体を、誰かに発見される危険もいとわずに校門まで運んだのか。
それは氏体を発見させることで、何を誇示するためだったのかな?」
「誇示」
たしかに、わざわざ人目のつくところに氏体を運んだということは、発見させることで何かを誇示したかったからかもしれない。
誰に対して?
「これは単純な推測だけど、沢村翔太の氏体を、しかも氏後かなりの時間が経った刺殺体を見つけると、どうなる?」
「どうなる、って」
「……沢村くんは、容疑者ではなくなる」
あさひの言葉に、すみれが頷いた。
543: 2017/04/14(金) 23:11:48.25 ID:8CFPILJCo
「これも単純な推測で証拠は何もないけど、あさひの夢の話と総合すると、ひとつの仮説が生まれる。
あさひの夢では、最初に刺されたのは誰だっけ?」
「……沢村くん」
「そうだったよね。最初に殺されたのは、沢村翔太。氏体は見つかってなかった。それが今になって発見された」
僕たちはそれを、ふたつの可能性で考えていた。
まず、沢村翔太はあさひが夢で見た通りに殺されていて、氏体が発見されていないため行方不明のままだった可能性。
もうひとつは、あさひの夢がただの夢でしかなく、沢村翔太の失踪は立て続きに起きた殺人とは何の関わりもないという可能性。
「沢村翔太は、沢村翔太を容疑者から外す為に沢村翔太の氏体を今になって置き去りにした」
すみれのその言葉は、荒唐無稽なようで筋が通っている。
誰も氏者を疑わない。
「だとしたら、今になってその必要が出てきたってことだよね。どうしてかな?」
僕はその言葉で、誇示、と言った彼女の言葉の本当の意味を理解できた。
「碓氷遼一を頃しきれなかったから」
僕は思い出す。
あのとき、僕の傍にはあさひがいた。
けれどあさひには、沢村翔太の顔がよく見えなかったはずだ。僕の体が間に挟まっていたし、彼も帽子を目深に被る程度の対策はしていた。
だからあさひには、彼の顔は見えなかった。
けれど、刺された僕は、彼と目が合った。
「単純に考えて、これは遼一に対するアピールだよね」
すみれの言葉に、けれどあさひが首を傾げる。
544: 2017/04/14(金) 23:12:18.78 ID:8CFPILJCo
「でも、それっておかしくない? 遼一たちなら、沢村くんがふたりいる可能性にすぐ思い当たるでしょう?」
「沢村翔太が、刺した相手が"こっちの遼一"じゃないって気付いてればね」
ああ、そうか。
沢村が、自分が刺したのが"こっち"の碓氷遼一だと思っていたら、その碓氷遼一に顔を見られたと思ったのだとしたら、
氏体を見せつけることには意味がある。少なくとも告発されることはなくなる。
でも、そうかもしれない。
あさひの話によれば、殺人の大半は人混みの中や、日没前に起きた。
まるで目撃されることを恐れていないみたいに。
それもそう考えると自然なことかもしれない。
現に犯人は発覚を恐れていなかったのだ。
氏体を置き去りにするところを見つかったところで、痛くも痒くもなかったことだろう。
沢村翔太は氏んでいるからだ。
現場から沢村翔太の痕跡が発見されたところで怖くもない。
そのとき沢村翔太は既に氏んでいるからだ。
「顔を見られて、沢村翔太が犯人だと誰かに気付かれたら、氏体を見せつけてやればいいわけか」
なるほど。
そう考えると、こちらに来たとき僕やすみれが考えたことなんて、ずいぶん控えめだったかもしれない。
545: 2017/04/14(金) 23:13:33.75 ID:8CFPILJCo
「疑問がひとつだけある」
すみれはそう話を続けた。
ひとつだけで済むだろうか、と僕は思ったけれど、口は挟まない。
「どうして沢村翔太は、遼一を頃しきらなかったのか、ってこと」
「……そばに、わたしがいたからじゃない?」
あさひの言葉に、すみれが首を横に振る。
「だったら最初から、ひとりでいるところを狙ったはず」
「……たしかに」
もし顔を見られても、氏体を出せば追われずにすむ。だったらその場で逃げなくても、頃しきってしまえばよかったはずだ。
そういう自負があったからこそ、彼は隣に人間がいる場面で僕を刺したのではないのだろうか。
「そもそもの問題なんだけど」とあさひが口を開いた。
「どうして沢村くんは人を頃したりするの?」
「そんなの考えたってわかんないよ」
すみれの答えはあっさりしていた。
「人が人を頃す理由なんてわかるわけないでしょ」
ああ、でも、と彼女は続ける。
「自分を頃す理由なら、なんとなくわかるような気がするけどね」
548: 2017/04/28(金) 19:58:22.56 ID:qSeWuhbBo
◇
自分を頃すという言葉には二種類の意味がある。
一方は精神的な、一方は肉体的な意味を孕んでいる。
誰でも自分を"押し頃す"ことがある。
滅私奉公という言葉の通り、自分を"頃して"公に従うことは美徳に数えられる場合さえある。
また、"自殺"する者もある。
自分が嫌になったとき、自分自身でいることに安らげないとき、自分を許せないとき。
あるいは、自分自身を諦めたとき、何もかもに疲れ果てたとき、深い悲しみや絶望に囚われたとき。
人は自らの手で自らを縊る。
そういうことを考えると、生きるということは……としたり顔で何かを語りたくなる。
そのどれについてもよく知らないくせに、それらしいことを嘯きたくなる。
沢村が自分を頃したとしたら、それは精神的な意味でも肉体的な意味でもないような気がした。
その意味が、今の僕にはわかるような気がする。
549: 2017/04/28(金) 19:58:49.31 ID:qSeWuhbBo
生きるというのは岐路の連続だと、誰かがそれこそしたり顔で言っていた。
僕たちは刻一刻と迫りくるいくつもの可能性の中から常にひとつを選び取り続ける。
不断の選択。
自分は何も決断していないと思っている人間がいるとしても関係ない。
彼はただ一秒ごとに決断しないということを決断し続けているだけに過ぎない。
目の前に似たような扉が三つある。作りも同じように見える。たどり着く場所がどこかは分からない。
そのどれかを開いて身をくぐらせてしまえば、もう後戻りはできない。
選ばなかった扉は二度と開くことはできない。
僕たちはその扉の向こうにあったはずの景色を決して見ることはできない。
けれどもし、それを覗き見ることができたら。
その扉の向こうに、自分が選んだものより上等な景色が広がっていたとしたら。
そこを自分によく似た誰かが歩いているとしたら。
その自分を、その扉をくぐったかもしれない自分を……。
その扉を選ばなかった自分は……。
その景色を眺めている自分は……。
550: 2017/04/28(金) 19:59:39.62 ID:qSeWuhbBo
◇
両親が悪い親だとは思わない。
でも、問題のない親だとも思わない。
どこの家だって似たようなものだ。何かしらの点で、家庭は完璧ではない。
完璧な人間がいないのだから当たり前のことだ。
今現在の自分の性格や精神の在り方を家庭環境や周囲のせいにしていいのは子供の内だけだ。
そもそも人間の在りようにおいて、何かひとつの原因にすべて由来が帰結してしまうほど単純なものなんてひとつもない。
すべては複雑に、曖昧に、重なり合い、結びつき、混じり合っている。
それでもなお生きようとするなら、よりよく生きようとするなら、何かのせいにしていても始まらない。
自分のせいにしても始まらない。
それは僕のせいではないし、誰かのせいでもない。
それでも僕はそれを受け入れ、消化し、あるいは自分なりに削り取ることで生きようとするしかない。
それでも僕は、ふとした瞬間に、ああ、あれが原因だったのかもしれないな、とぼんやり思う。
何かのせいにする、というような鋭い気持ちではなく、ただ、ガラス越しに魚を眺めるようにぼんやりと。
あるいは、祖父のせいであったのかもしれない、と。
551: 2017/04/28(金) 20:00:16.61 ID:qSeWuhbBo
◇
祖父は不潔な生き物だった。
ろくに体を洗わないものだから肌はいつも浅黒く汚れ、酒を飲むと赤みがかっておそろしく奇怪に思えた。
背中を曲げ、足を引きずって歩く彼は、服もほとんど洗わずに毎日を過ごした。
味の濃いものを好んで食べるせいで血圧が高く、目はいつも赤く充血していた。
朝新聞配達をしている以外では、家にいても何もしていることはない。
ただ畑を耕して、ぼろぼろの自転車で出かけて……彼の日々はそんなものだった。
父とは何か必要がないかぎり会話しようとせず、ただ四六時中家で顔を突き合わせている母だけが祖父の相手をしていた。
僕とは、年に一度か二度しか会話しなかった。
母にとって祖父は舅だった。
血縁はなく、だから私は他人なのだ、と母はときどき漏らしていたことがあった。
祖父はよく嘘をついた。それもつまらない嘘を。
都合の悪い話になると逃げる癖があった。
畑仕事の後に手を洗おうとしないので、彼が食卓に現れるとテーブルがひどく汚れた。
薄黒い手で子供に触れるのを母はひどく嫌い、祖父を罵ったものだった。
彼が歩くとそこかしこが汚れた。それを母が咎めると、祖父は意地の悪いようににんまりと笑い、何も言わずに歩いていくのだ。
552: 2017/04/28(金) 20:01:23.15 ID:qSeWuhbBo
もう頭がおかしくなりそう。わたしが我慢しなくちゃいけないの? どうしても頭に来るの。
そう言って母が父に言った。あなたから言ってください。あなたのお父さんでしょう。どうしてあなたは何も言わないの。
父は答えない。
ねえ。と母。
父は答えずにテレビを見ている。
お父さん? と母は父を呼ぶ。
不意に父は母を振り返り、笑った。
今の見たか、と父は言う。
何を、と母。
今の車のCM。新型だ。
話を聞いて。
聞いてるよ。
だったらどうして返事をしないの?
ジジイのことだろう。俺にどうしろって言うんだ。
あなたのお父さんでしょう? わたしのお父さんじゃない。
……。
都合が悪くなると聞こえないふりをするのね。本当に親子って似てくるのね。
なに?
そっくりって言ったのよ。
553: 2017/04/28(金) 20:01:51.29 ID:qSeWuhbBo
それは僕にとっては呪いに近い言葉だった。
僕は祖父を嫌っていた。蛇蝎のごとく、と言ってもいい。
蝿や蛾を厭うように、祖父のことを避けていた。
汚いから、なんだか、気持ち悪いから。
姉は、そんな僕の感情を、母による洗脳だ、と言った。
子供にとって、親は絶対みたいなところがあるから、わたしたちはお母さんが嫌ってたから、おじいちゃんが嫌いだったけど……。
今にして思えば、おかしいのはお母さんの方だったのかもしれない。
なるほど。
でもそれは……一緒に暮らさなくなってから姉が言ったことで……一緒に暮らさなくなったから言えることだ。
ましてや、愛奈のことでさんざん喧嘩した母を、姉は煩わしく思っているのだろうから。
どこでもいいから母の間違っているところを探して、それを理由に母を間違っていると思いたいのだろう。
何もかもが複雑で、誰が悪いというのも簡単じゃない。
554: 2017/04/28(金) 20:02:22.53 ID:qSeWuhbBo
父は祖父について何も言わなかった。ときどき、本当にときどき怒鳴りつけるように叱ることはあったけれど、それだけだ。
よくよく考えてみれば、父は家のことを、ほとんどすべて母に任せきりだったかもしれない。
僕や姉や祖父のことも。
ひょっとしたら愛奈のことも。
母はよく我慢していたのだと思う。
それでも一度歯止めがきかなくなってしまうと、ほとんど狂ったように祖父を責めた。
幼稚園児のようなことだ。
食事の前には手を洗え、風呂に入る前には体を流せ、服は毎日取り替えろ、嘘をつくな。
父がいないところでは、ただ祖父はニンマリと笑うだけだ。
父がいるところでは、すぐに部屋に戻っていなくなってしまう。
全員が揃うのは、いつも夕食のときだけで、
だから夕食の時間になると、よく母が祖父を怒鳴りつけたものだった。
手を洗ってください。
洗った。
汚いでしょう。
汚くない。
服だって何日取り替えてないんですか?
替えたばかりだ。
父は黙っている。
母はこらえようとする。
555: 2017/04/28(金) 20:02:49.48 ID:qSeWuhbBo
やがてどちらもが怒鳴り声をあげはじめる。
父もそれに混ざる。
僕と姉はただ黙々と食事をとっている。
夕食というのは基本的に苦痛な時間だった。
食事を食べ終えるまでそこから離れてはいけないという、一種の地獄のようだった。
このような経験によって得られた(と、僕が思っている)性質がふたつある。
まずは、食事を食べるのが早いこと。
これは学校でよく驚かれたものだった。
もうひとつは、近くで大きな声を張り上げられても、まったく反応しないこと。
名前を呼ばれても、それに気付かないこと。
前者はともかく、後者は少し問題だった。
おかげで、とは言いたくないが、今にして思うと、僕があんまり人と仲良くなれなかったのも、
彼らが話している内容を、本当の意味で聞いてはいなかったからかもしれない。
556: 2017/04/28(金) 20:03:17.79 ID:qSeWuhbBo
父は祖父にそっくりで、親子は似てくるものだという。
母は祖父と血のつながりのない人間だ。
では僕は?
姉は?
姉は女性だから、また違うかもしれない。
でも、僕は?
父が祖父に似ていくように、僕も父に似ていくのだろうか。
だとしたらそれは、祖父の三番目の模造にすぎないのだろうか。
僕の生は。
だとすれば……。
僕もまた、やがてはあんなふうに、汚く、不潔な生き物になり、
子や孫から毒虫のように嫌われて、妻を亡くし、日がな一日退屈に過ごし、
誰かに嫌がらせをしては、あんなふうにニンマリと笑うようになるのか、と。
だとするともう、生は一種の絶望でしかないように思えた。
僕はもう、ただ、いつかは、あんなふうに嫌われて、あんなふうに生きるだけの生き物なのだと。
僕は不潔な生き物の卵なのだと、そう思った。
557: 2017/04/28(金) 20:03:52.78 ID:qSeWuhbBo
◇
愛奈は僕ほどではなかったけれど、彼女が生まれた頃も祖父はまだ生きていたので、その影響はたっぷり受けていた。
まず、名前を読んだり話しかけたりしても、なかなか返事をしないこと。
次に、誰かが近くで口論や喧嘩をしていたりすると、咳をすること。
口論が止まらなければ止まるまでいっそう烈しく、愛奈の咳は続く。
「ねえ、お兄ちゃん。パパに会いたいな」
何年か前、愛奈はそう言ったものだった。
「パパがどんな人だったか、覚えてる?」
「うん。あのね、眼鏡かけててね、茶髪でね、背はそんなに高くなくて……」
愛奈の思い出は、二歳か三歳頃の記憶にしては、正確だった。
そういうものなのかもしれない。
「でも、氏んじゃったの」
そういうことに、彼女の中ではなっていたらしい。
実際には氏んでいなかった。ただ離婚しただけのことだ。
そして今は、別の女の人と結婚して、普通に子供を作っているという。
たぶんうまくやっているんだろう。
558: 2017/04/28(金) 20:04:19.65 ID:qSeWuhbBo
「ママはどうしてあいなのとこにいないの?」
「うん……」
「あいなのこと……」
嫌いなの、と、訊こうとしたんだろうな、と思って、胸が詰まるような思いがした。
僕は愛奈のことを抱き上げた。
そうだ、そのとき僕たちは、見晴らしのいい丘の上の公園で、ベンチに腰掛けて、一緒にジュースを飲んでいたんだ。
あの初夏の日暮れ。
「愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ」
僕はそう言った。きっと、愛奈は僕の言葉の意味の、半分だって理解しちゃいなかっただろう。
「一緒にいるから大丈夫だよ」
それでも彼女は笑ってくれた。
誰も、望んで生まれてきたわけじゃない。勝手に作って、勝手に産んだんだ。
勝手に生んでおいて、後は何が起きても知らないから好きに生きろなんて、無責任だ。
生んでやっただけで感謝しろとか、育ててやった恩がどうとか、親には感謝して当たり前だとか、そういうのは気持ち悪い。
勝手に産んだんだ。勝手に産んだんだから、親にはその責任ってものがある。
それを親が果たさないなら……誰かが代わりにやらなきゃいけない。
それでも子供が親や大人を恨んだら、黙ってその言葉を引き受けなきゃいけない。
誰もやらないなら、僕がやる。
だから僕は……でも、今の僕は……。
何を思っているのかさえ、自分ではわからない。
559: 2017/04/28(金) 20:04:47.28 ID:qSeWuhbBo
つづく
開かない扉の前で∵[Pollyanna]S/a560: 2017/04/28(金) 20:26:13.85 ID:QuXR8FPI0
おつです
引用: 開かない扉の前で
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