562: 2017/05/12(金) 21:48:58.54 ID:070JmTtio
最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a
前回:開かない扉の前で◇[Munchausen]
∵[Pollyanna]S/a
それは蒸し暑い初夏の日差しが少し弱まり始めた日暮れ前のことで、
わたしと遼ちゃんは近所の公園でベンチに並んで座っていた。
その頃の愛奈ちゃんはほんの小さな赤ん坊で、
だからわたしもまだ彼女に醜い嫉妬や羨望を覚えたりはしていなかった。
わたしと遼ちゃんを見ると大人たちはいつも不思議そうに首をかしげたものだった。
わたしたちは一緒にいても一緒にいるだけで、何かで遊んだりはしゃいだりはしなかった。
ただお互いがそれぞれに好き勝手なことをして、なんとなくそばから離れないでいた。
わたしは遼ちゃんのことが好きだったし、遼ちゃんもわたしのことを嫌ってはいなかったと思う。
だからわたしたちは、ほとんどくっつくみたいにして、ベンチに隣り合って座ったまま、
たとえば彼が黙々とルービックキューブの面を揃えようとしているのを、
わたしは口も挟まずに眺め続けていたりしていた。
それがたぶんわたしたちの関係の最初のかたちで、なんとなくだけど、それはずっとそうなんだろうと思っていた。
563: 2017/05/12(金) 21:49:27.80 ID:070JmTtio
遼ちゃんは、同じ年頃の男の子と比べても取り立てて変わった子というわけではなかった。
口数が少なくて周囲から一歩引いたようなところはあったけれど、
それは達観していたり老成していたりというよりはむしろ、引っ込み思案で及び腰な性格が理由のように見えた。
そんな彼とわたしが仲良くなったのは、べつにお互いの波長があったからとか、そんな特別な理由があったわけではなく、
ただお互いに周囲に上手く馴染めなくて、偶然に話す機会があって、たまたま家が近かったから、ということでしかない。
小学二年生のときに転校してきたわたしを、最初に学校まで案内してくれたのは遼ちゃんだったし、
登下校を一緒にしているうちに、いつのまにか一緒にいるのが当たり前のようになって、
特に話すこともないのに四六時中一緒にいたりして。
だからわたしはわたしが遼ちゃんの特別だと思っていたし、
遼ちゃんも遼ちゃんがわたしの特別だと思っていたと思う。
一緒にいたときは、そういうことをぼんやりとしか感じられなかったけれど、
ずいぶん時間が経った今にして思えば、ああ、あのときわたしたちは、たしかに互いの特別だったのだな、と、
そんなふうに思うのだ。
564: 2017/05/12(金) 21:50:08.85 ID:070JmTtio
◇
遼ちゃんとわたしが疎遠になったのに、なにか大きな事情があったわけではない。
それまでお互いがなんとなく一緒にいたのと同じように、
なんとなく一緒にいることができなくなって、距離ができてしまったのだと思う。
それでもわたしは遠目で遼ちゃんの様子をうかがっていたけれど、
中学を卒業する頃には言葉を交わすことだってめったになくなってしまっていた。
それでも一緒の高校に進学したから接点がまったくなかったわけでもないけれど、
不思議なもので、理由や大義名分でもないと話しかけることもむずかしくなってしまった。
昔はむしろ反対で、特別な理由でもないかぎりあんまり離れもしなかったのに。
それはたぶん愛奈ちゃんがいたからなんだろうけど、
愛奈ちゃんのせいと言ってしまうのは、当然ながら身勝手な話で、
事実としてはわたしのせいなのだろうと思う。
いつしかわたしは、遼ちゃんと話すのが怖くなった。
いつからか、彼の瞳にわたしが映っていないような気がして、怖くなった。
目の前にいても、どれだけ近くにいても、彼にはわたしのことなんて見えていないように思えた。
その目を見ているのが怖かったのだ。
565: 2017/05/12(金) 21:50:44.72 ID:070JmTtio
それでも年をとるにつれて、人間関係も広がっていって、
わたしは遼ちゃんがいないときに話せる相手を見つけられたし、
遼ちゃんだってそれは同じだと思う。
ときどき女の子とふたりで話しているところを見かけることもあった。
部活の先輩とか、委員会で一緒の子とか。
そういうとき、彼はいつもそれが当たり前のようなごく自然な顔をしていた。
おかげでわたしの方も、気にしている自分がなんだかばかみたいに思えて、
あんまり彼のことを気にしないように努めるようにしていた。
努めている、ということは、気にしている、ということなんだけど。
そういうわたしの気持ちというものは、心の奥底の方で固着してしまって、
たとえば彼と同じ空間にいるだけで彼のことを少し気にしてしまうのも、それでも話しかけられずにいるのも、
わたしのからだが自動的におこなってしまう反射のようになっていた。
これが恋なのかどうかさえ、わたしにはよくわからない。
566: 2017/05/12(金) 21:51:10.33 ID:070JmTtio
◇
「生見って、好きな奴とかいるの?」
同じクラスの沢村くんがそう話しかけてきたのは、九月のある放課後のことだった。
夕方のバイトまで少し時間があまって、友達はみんな部活に出ていて、
暇だから教室に残って本でも読んでいようかと思っていたら、彼がわたしのところにやってきたのだ。
わたしは正直、この沢村くんという人があまり得意ではなかった。
よく話しかけられるし、それに返事もするのだけれど、
彼にはなんだか、相手の顔色や話をうかがうようなところがまったくないように思えた。
それはそれで美徳ではあるのかもしれないけど、
わたしは彼のそういう態度が、相手に対する見くびりのように見えて苦手だった。
そんな相手に向けられた突然の質問だったから、わたしは思わず戸惑った。
「どうして?」
興味本位だよ、と沢村くんは笑った。
「生見ってあんまり男子と話してるとこ見ないから、どうなのかなって思って」
わたしはあんまり男の子と話すのが得意じゃない。
特に理由があるわけではなくて、昔から話す機会が少なかったから、
何を話せばいいのかわからないのだ。
ちょっとした会話のやりとりくらいだったらできるけど、
個人的な話をすることはあんまりない。
話しかけてくるのだって、沢村くんを含むほんの一握りで、
その誰もが、わたしだから話しかけるというよりは、分け隔てなく話しかけるというような人ばかりだった。
567: 2017/05/12(金) 21:52:17.14 ID:070JmTtio
「どうって、べつに」
人の話を相槌を打ちながら聞くのはそんなに苦にならないのだけど、
話題が自分のこととなると、いつも言葉に迷ってしまう。
他の友達に同じことを訊かれても、うまく答えられない。
ただ、いつも、思い浮かぶのは同じ顔で、でもそれだけだ。
それが恋なのかどうかさえ分からない。
たぶん恋なんだろうなと思う。
でも、それをいまさらどうできるのか、わたしにはよくわからない。
とっさに、「沢村くんの方はどうなの?」と訊いてみた。
訊くべきじゃなかったのかも、と思ったのはあとからだった。
沈黙を嫌う臆病さから、会話をできるだけ長引かせようとしてしまうのは、わたしの悪い癖だ。
興味のないことを訊いてしまうなんて、失礼なことだ。
遼ちゃんといたときは……無理な会話なんて、しないでいられたのにな。
そう思うけど、そんな思いすらもう今では慣れきってしまっていた。
沢村くんは、何かを言いかけて口ごもってしまった。
そういえば、と思い出して、わたしは言葉を付け足す。
「ほら、弓部先輩……」
568: 2017/05/12(金) 21:52:45.67 ID:070JmTtio
わたしが弓部先輩の名前を出した瞬間、彼は表情をこわばらせた。
「弓部先輩?」
「うん。あれ、違うっけ?」
沢村くんが弓部玲奈というひとつ上の先輩に好意を寄せていたのは結構有名な話で、
わたしの耳にもその噂が聞こえてきたから、とっさに口に出してしまったのだけれど……。
彼の表情を見るに、避けた方が無難な話題だったのかもしれない。
「弓部先輩がなに?」
「ううん。なんか前に、ほら、ふたりがいい感じだって噂があったから」
嘘だった。
沢村くんが一方的に、弓部先輩に言い寄っている、という内容の噂だった。
それを直裁的に言うのはさすがにはばかられて、わたしは言い換えた。
「あの人とはなんでもないよ」
不機嫌そうに息をつくと、彼はそっぽを向いた。
子供みたいな人だな、と思う。
569: 2017/05/12(金) 21:53:42.22 ID:070JmTtio
話題を変えようと思って、わたしは頭の中から彼に関する情報を探す。
「えっと、沢村くん、今日は部活はいいの?」
「ん。ああ、いいんだ」
「部、休みなの?」
「そういうわけじゃないけど……まあ、べつに絶対参加ってわけでもないから」
「なにかあったの?」
興味なんてないのに、やっぱり話を続けてしまう。
これってひどいことだよな、とやっぱりわたしは自分で思う。
でも、やめられない。
人にどう思われるかが怖くて、いつも、人の顔色をうかがってしまう。
「べつにいいだろ」
案の定、沢村くんは不機嫌になった。
「それより、さっきの質問の答えが気になる」
「質問?」
「だから、好きな奴とかいるの?」
「……」
答えなければいけないのだろうか。
そう思ったときには、わたしの視線は、自然と、遼ちゃんの席の方へと向いていた。
どうしてだろう。
ばかみたいだ。
570: 2017/05/12(金) 21:54:08.24 ID:070JmTtio
「……碓氷?」
「――」
とっさに、息を呑んだ。
「よく、目で追ってるもんな」
「……そんなこと」
あるけど、まさか沢村くんに気付かれているとは思わなかった。
彼はもっと、鈍感な人間だと思っていた。
勝手な侮り。反省するべきかもしれない。
「あいつのこと、好きなの?」
「そういうわけじゃ」
「趣味悪いな」
「……」
――余計なお世話だ。
と、言ってしまえない自分が、歯がゆかった。
571: 2017/05/12(金) 21:55:04.26 ID:070JmTtio
その瞬間、廊下から足音が聞こえてきた。
足音は、わたしたちの教室へと近付いてきて、やがてその主が姿を見せた。
わたしは心臓が跳ねるのを感じた。
イヤフォンをつけたまま、彼は一瞬、わたしと沢村くんの方に視線をよこした。
それからすぐに、興味を失ったように目を逸らし、自分の机へと向かう。
わたしはなんだか、この状況を誤解されているような気がして、
そう思うとたまらなく不安になって、思わず声をかけてしまった。
「どうしたの?」
聞こえなかったのか、彼は机の中から何かを取り出したかと思うと、それを持ってそのまま教室を出ていこうとした。
その背中に、沢村くんが鋭い声をかけた。
「無視かよ」
その声に、彼はこちらを振り返って、驚いたような顔をした。
何か、深く傷ついたような顔をしていた、と思う。
わたしの目が、信頼に値するならば。
572: 2017/05/12(金) 21:55:49.94 ID:070JmTtio
少しの沈黙のあと、何も答えない彼に向けて、沢村くんが言葉を続けた。
「何考えてるか分かんねえんだよな、こいつ」
「ちょっと……」
「どうせ聞こえてねえよ。音楽聴いてるんだろ。俺たちの声なんて聞くつもりありません、って態度だ」
「やめなよ」
どうしてそんなことを言うのか、わたしにはまったくわからなかった。
彼がしたことが、そんなふうに言われても仕方ないほどのことだとは、わたしにはどうしても思えない。
「気に入らないんだよな。いつもつまんないって顔してさ、自分だけどっか周りから一歩引いてるみたいな顔して、
気取って距離置いて、馴れ合わないのがかっこいいとでも思ってるのかもしんないけど、
ただ誰にも相手にされてないだけだろ」
「やめなって。どうしてそんなこと言うの?」
どれだけ止めても、沢村くんはわたしの声なんて聞こえないような表情のまま、声を荒げていた。
「ムカツくんだよ。こいつ、俺たちみたいな奴のことバカだと思ってんだ。
何の悩みもない脳天気で気楽な奴らだと思ってる。そういう奴ってのは態度で分かるんだよ。
顔を見れば分かる。自分だけがつらいと思ってる顔だ。自分だけが不幸だって思ってる顔だ。自分だけが特別だと思ってるんだ」
573: 2017/05/12(金) 21:56:26.01 ID:070JmTtio
そこまで言ってしまうと、彼は口を閉じて不満そうな顔をした。
わたしは何を言えばいいのかわからなくて黙り込んでしまった。
彼はただ――遼ちゃんは、ただ、何かを諦めたような顔をして、小さく口を開いた。
「……ごめん」
その声は、いつもと同じ。以前と同じ。穏やかで、でも、どこか、頼りないような、芯がぶれているような、声。
遼ちゃんの声は、何かの皮膜を挟んだみたいに遠く思えたけれど、それ以上に、
久しぶりに彼の口から聞いた言葉が、そんなものだなんて、そんなのあんまりだ、と思った。
わたしの気持ちも、遼ちゃんの表情も、まったく気にした素振りもなく、
歯止めがきかなくなったみたいに、沢村くんは言葉を続けた。
「おまえさ、人生楽しくねえだろ」
遼ちゃんは、その言葉を受けて、表情をほんの少しだけこわばらせた。
わたしは言葉を失った。
逃げるようでもなく、腹を立てたようでもなく、彼はそのままの表情で、背を向けて教室を出ていった。
574: 2017/05/12(金) 21:57:25.54 ID:070JmTtio
何も言わねえのかよ、と、沢村くんが不機嫌そうに吐き捨てた。
怒りに似た感情が、じわじわと胸の内側で固まっていった。
わたしは沢村くんを睨んでいた。
「……なに?」
言ってしまうのは怖いような気もした。
でも、結局わたしは言わずにはいられなかった。
「勝手なこと言わないで」
「……なにが」
「――遼ちゃんのこと、なんにも知らないくせに、勝手なこと言わないで」
そう言ってしまうのはとても怖いことで、わたしは思わず泣きそうになった。
間違っても沢村くんの前で涙なんて見せたくなかったので、わたしは荷物を持って慌てて立ち上がった。
575: 2017/05/12(金) 21:58:11.84 ID:070JmTtio
教室を出てすぐのところを、遼ちゃんは歩いていた。
「ねえ、待って」
思わずそう声をかけたけれど、何を言えばいいのかは考えていなかった。
彼がゆっくりとした動作で振り返る。
その瞳が、ちゃんとわたしの方を見ていることに、少しだけ安堵する。
「……その、ごめん、ね?」
とにかく、謝らなければ、と思って口にした言葉だったけれど、
本当はそんなことを言いたいわけじゃなかった。
遼ちゃんは、作り笑いを浮かべた。
「いいよ、べつに、気にしてないから」
そんな表情に――わたしが騙されると、彼は本当に思ったんだろうか。
わたしが、彼の強がりを見破れないと、彼は本当に信じたんだろうか。
そのことが無性に悲しかった。
576: 2017/05/12(金) 21:59:00.06 ID:070JmTtio
「あのさ――」
遼ちゃん、と言いかけて、口に出すことができなかった。
「――碓氷くん」
言葉にできたのは、まるで他の人のことを言っているような呼び方で、
わたしはその事実がひどく苦しかった。
それでも彼は、それが当然のことのように、表情ひとつ変えなかった。
いつのまにわたしたちは、こんなに遠くなったんだろう。
「なに?」
「えっと、その、さ」
うまく、言葉にできない。言いたいことは、ちゃんとあるはずなのに。
わたしが言いよどんでいるうちに、彼はあっさりと話をやめにしてしまった。
「ごめん。今日用事あるから、もう行かなきゃ」
諦めに近い感情が胸に浮かぶのをとめられなかった。
それは、そうだ。
わたしはもう、彼にとってなんでもない。特別でも、なんでもない。
もう彼には別の友達がいて、別の特別がいて、だからきっと、わたしなんていなくても平気なんだろう。
「……そっか、ごめん」
彼はそのまま、わたしに背を向けて歩きはじめてしまった。
取り残されたまま、わたしは少しの間じっと立ち尽くしていた。
わたしも、バイトにいかなくちゃ、と、そう思ったのは少し後のことで、
そう思えるようになるまでの間、わたしはずっと、考えても仕方のないようなことばかりを、ずっと考えていた。
遼ちゃん、と言いかけて、口に出すことができなかった。
「――碓氷くん」
言葉にできたのは、まるで他の人のことを言っているような呼び方で、
わたしはその事実がひどく苦しかった。
それでも彼は、それが当然のことのように、表情ひとつ変えなかった。
いつのまにわたしたちは、こんなに遠くなったんだろう。
「なに?」
「えっと、その、さ」
うまく、言葉にできない。言いたいことは、ちゃんとあるはずなのに。
わたしが言いよどんでいるうちに、彼はあっさりと話をやめにしてしまった。
「ごめん。今日用事あるから、もう行かなきゃ」
諦めに近い感情が胸に浮かぶのをとめられなかった。
それは、そうだ。
わたしはもう、彼にとってなんでもない。特別でも、なんでもない。
もう彼には別の友達がいて、別の特別がいて、だからきっと、わたしなんていなくても平気なんだろう。
「……そっか、ごめん」
彼はそのまま、わたしに背を向けて歩きはじめてしまった。
取り残されたまま、わたしは少しの間じっと立ち尽くしていた。
わたしも、バイトにいかなくちゃ、と、そう思ったのは少し後のことで、
そう思えるようになるまでの間、わたしはずっと、考えても仕方のないようなことばかりを、ずっと考えていた。
579: 2017/05/26(金) 22:24:21.80 ID:ws1FOXtoo
◇
遼ちゃんが学校に来なくなったのは、
そんな会話をした翌週の火曜日だった。
わたしはその前にほんのすこしだけ彼と話をした。
それなのに、彼にはわたしの言いたいことなんてなんにも伝わっていなかったみたいだった。
それも仕方のないことなのかもしれない。
わたしは結局、彼にとってはもうなんでもないのだろうから。
それでも、もはや何の関係もないような相手だったとしても、
気になって仕方なくて、ストーカーみたいに家の近くまで行ってしまったわたしは、
やっぱり少し変なんだろうか。
580: 2017/05/26(金) 22:24:48.98 ID:ws1FOXtoo
インターフォンを押して訪ねてみるつもりにはどうしてもなれなくて、
(……扉を開けた彼が、わたしの姿を見つけてあの目を向けてくるのが怖かった)
結局家のまわりをぐるぐるするだけで、
近所の人の目が気になって、すぐに引き返すことにした。
その途中で、昔よく遊んだ児童公園を見つけたものだから、
あたかもそこで一休みするのが目的だったというように、
自販機で温かい飲み物を買ってベンチで休むことにした。
少なくともそれならば、誰にも何も言われることはない。
そう思っていたんだけど……。
「人探し?」
突然そう声を掛けられて、わたしはビクリとした。
581: 2017/05/26(金) 22:25:20.59 ID:ws1FOXtoo
振り返ると、そこに立っていたのはひとりの女の子だった。
小学生くらいの――ふつうの、女の子。
でも、なんだろう……? 何か、おかしいような気もする。
どこが、というわけではないのだけれど……。
彼女は、わたしが座っているのとはべつの、ひとつ隣のベンチに腰掛けて、
膝の上に白い猫をのせていた。
「こんにちは」と彼女は笑った。
その笑顔は、なんだか、どこか、技巧的に見えた。
つくりものめいて見えた。
「こんにちは」とわたしは鸚鵡返しした。
わたしがこの公園に入ってきたとき、この子はいただろうか?
ぜんぜん、気が付かなかった。
女の子は、そこにいるのが当たり前のような、そこが彼女のための空間であるかのような、
そんな雰囲気をたたえていて、その表情は、わたしをほんの少しだけ萎縮させた。
固まってしまったわたしに、
「人探し?」
と、彼女はもう一度訊ねてくる。
582: 2017/05/26(金) 22:25:49.44 ID:ws1FOXtoo
とっさにうまく返事ができなかったわたしを見て、女の子はくすくす笑った。
なんだか、ずっと年上の女の人にからかわれているような、そんな気さえした。
「人探しってわけじゃ、ないけど……」
「そうなんだ。はずれ」
少女はそう言いながら、膝の上の猫の背中を柔らかに撫でた。
「……どうして、そう思ったの?」
わたしがそう問いかけると、彼女はまた――例のつくりものめいた表情で――笑う。
「ただの勘、みたいな? でも、やっぱりあんまりアテにならないね」
「……あなた、誰?」
「わたしのことは、いいじゃない」
そう言って彼女は、それ以上踏み込ませないと言うみたいに、すぐに言葉を続けた。
「それより、ねえ、お姉さん。突然なんだけど、何か叶えたい願いとか、ある?」
「……え?」
「なんでも、ひとつ、ひとつだけ、願いが叶うよって言われたら、どんなことを願う?」
わたしは、その突然の質問に、一瞬だけ漠然とした景色をイメージして、
それからすぐ、わからなくなった。
583: 2017/05/26(金) 22:26:33.64 ID:ws1FOXtoo
公園はもう、夕日の橙で染め上げられていた。
影が濃く長く伸び始め、景色のなかの黒はひそやかにその領土を広げ続けている。
秋の風のざわめき、しめやかな虫の声、子供たちの話し声が、道の向こうから聞こえてきた。
そんな景色のなか、彼女の表情だけが、工芸品のように浮かび上がっている。
この場にそぐわないような、
それでもなんだか、輪郭が景色に滲み溶け込んでいるような、
奇妙な存在感。
「……お姉さん、お返事は?」
小さい子供を相手にするみたいな話し方で、彼女はわたしに答えを求めた。
「どうして突然、そんなことを?」
「ただの世間話だよ。こういう話、嫌い?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
「ねえ、どうかな? お姉さんは、どんなことを望む?」
……やっぱり、変な子だ。
どこがというわけじゃないのに、どこかがおかしい。ずれている。
「……あなたは?」
584: 2017/05/26(金) 22:27:35.87 ID:ws1FOXtoo
「わたし?」
驚いたみたいに、彼女は目を丸くして、
「それを訊かれるのははじめてかな」と、小さな声で呟いた。
「わたしはね、うん。決まってるの」
「どんなの?」
「そうだなあ。会えなくなった友達と、もう一度会えますように、かな」
「……ふうん」
わたしは、その願いごとが、とても自然で当たり前のものに見えて、
彼女に奇妙な恐れを抱いていた自分を、ほんのすこしだけ軽蔑した。
「お姉さんは?」
「……うん。そうだね。だったら、わたしは」
どうしてだろう。
当たり前みたいに、答えてしまった。
「……友達と、仲直りできますように、かな」
「喧嘩したの?」
「ううん。そういうわけじゃ、ないんだけど。なんだか、お互い、距離ができたっていうか……」
「それって、きっと……寂しいよね」
どうして、そんな話をしてしまったんだろう?
ひょっとしたら、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
ずっと、ずっと。
585: 2017/05/26(金) 22:28:46.52 ID:ws1FOXtoo
「ねえ、お姉さん。だったらさ、その願い――」
その瞬間、ぞわり、と、悪寒のようなものが、背筋を走ったのがわかった。
「――叶えてあげようか?」
その、なんでもないような、たった一言で、わたしは硬直してしまった。
子供向けのアニメのモノマネみたいな、よく聞くような台詞なのに。
わたしは、どうしてか、途方もなく不安になった。
とっさに首を横に振ったのは、臆病だったからだろうか。
「そう……? 残念」
本当に残念そうに、彼女は溜め息をついた。
「……そういうことは、自分でなんとかしたいの」
わたしのその言葉は、半分くらいは本音で、半分くらいは、言い訳だ。
「そういうものなんだ」
なんだか納得がいかないような顔で、彼女は首をかしげる。
その仕草のひとつひとつは、ごく当たり前の、少女のように見えるのに。
586: 2017/05/26(金) 22:30:55.53 ID:ws1FOXtoo
「でも、わたし、お姉さんのこと、好きになっちゃった」
「……え?」
「だから、応援するくらいはいいでしょう? 上手くいきますように、って」
「……うん」
その言葉には、どうしてだろう、素直に頷けた。
ほんの少し、心が軽くなった気がする。
「うん。だったら――応援するね」
ありがとう、と言いかけた瞬間に、少し強い風が吹いた。
砂埃が舞い上がって、わたしはとっさに目を瞑った。
わたしが再び目を開けたとき、女の子の姿は、もうそこにはなかった。
風にさらわれでもしたかのように。
不意に、後ろから足音が聞こえる。
振り返ると、そこに見覚えのある女の子が立っていた。
さっきまでの子とは違う。ランドセルを背負っている。
「……愛奈ちゃん?」
わたしがそう声を掛けると、彼女は怯えたように視線を揺らした。
でも、どうしてかこちらから目を離そうとはしない。
587: 2017/05/26(金) 22:31:40.60 ID:ws1FOXtoo
いろんなことが一度に起きて、わたしは少し混乱した。
さっきの女の子は、どこに行ったんだろう。
あたりを見回しても、さっきの子はいない。
愛奈ちゃんが、わたしの目の前にいる。
何かを言いたげに、こちらを見ている。
「あの……わたしのこと、分かる?」
遼ちゃんとわたしが疎遠になる前までは、何度か顔を合わせたことがある。
中学の頃だって、まったく会っていなかったわけではないはずだ。
覚えているかもしれない、と思ってそう訊ねたのだけれど、
愛奈ちゃんの返事はもっとはっきりとした肯定だった。
こくん、と彼女は頷いた。
彼女の表情は真剣で……なんだか、切羽詰まっているように見える。
「あの、小夜さん」
「……どうかしたの?」
「……お兄ちゃん、知りませんか」
「え? わたしは、見かけてないけど」
そうじゃない、と言うみたいに、彼女は首を横にぶんぶん振った。
588: 2017/05/26(金) 22:32:53.31 ID:ws1FOXtoo
「家にいないんです」
「……そうなんだ。どこかに行ったのかな」
また、首を横に振った。どうしたんだろう。何が言いたいんだろう。
「……家に、帰ってこないんです」
それは、さっきと同じ意味の言葉じゃないのか、と、少し怪訝に思ってから、
わたしは彼女の言いたがっていることに思い当たった。
「……いつから?」
「月曜の夜から、ずっと、帰ってこなくて」
「……月曜の夜?」
今日は……木曜日だ。
家に帰っていない?
無断外泊? あの遼ちゃんが? ――まさか。
「小夜さん。お兄ちゃんがどこに行ったか、知りませんか」
愛奈ちゃんは、震える声でそう言ってから、嗚咽をこぼした。
「お兄ちゃん、このまま帰ってこなかったら、わたし……」
遼ちゃんが、いなくなった? どうして?
何かの事故に巻き込まれた? もっと悪いこと?
それとも、彼は……。
「……わたし、ひとりぼっちになっちゃう」
愛奈ちゃんは、本当に小さな声で、怯えたようにそう呟いた。
彼女の瞳からぽろぽろと涙が流れるのを、わたしは呆然と眺めていた。
591: 2017/05/31(水) 23:23:22.50 ID:41WFJZmZo
◇
泣きじゃくる愛奈ちゃんをベンチに座らせて、わたしは自販機で温かいお茶を買って彼女に渡した。
ありがとうございます、と、こんなときも愛奈ちゃんは礼儀正しかった。
「それで、遼ちゃんが家に帰ってないって……」
愛奈ちゃんは、わたしの言葉にこくんと頷いた。
それ以上、続きはないらしい。
遼ちゃんが、帰ってこない。
遼ちゃんが、いなくなった。
わたしはそれを、どうしてだろう、意外だとは思わなかった。
遼ちゃんはいつも、そこにいるのにいないような顔をしていた。
いついなくなってもおかしくないような、そんな。
でも、同時に、ありえない、とも思った。
遼ちゃんが愛奈ちゃんを残してどこかにいなくなるなんて、ありえない。
それはわたしの、勝手な思い込みだったのだろうか?
592: 2017/05/31(水) 23:23:50.16 ID:41WFJZmZo
愛奈ちゃんは俯いたまま深く息を吐き出して、それからゆっくりと吸い込んだ。
そしてわたしの方を見上げる。
「月曜日、お兄ちゃんはいつもみたいに学校に行きました。
わたしが最後にお兄ちゃんに会ったのはその日の朝です。
お兄ちゃんは高校に入ってから、ほとんど毎日、学校が終わったらそのままバイトに行っていました」
とても小学生とは思えない、丁寧で落ち着いた話し方だった。
そういう子なのだ。
「火曜の朝に、おばあちゃんがお兄ちゃんのバイト先に連絡しました。
バイト先の人によると、お兄ちゃんは閉店までしっかり働いていたそうです。
特に様子がおかしいわけでもなかったと言われたそうです。
おばあちゃんは、何かあったのかもしれないと言って、バイト先の人に事情を説明しました」
愛奈ちゃんの話し方はとても真剣だったけれど、なぜだろう、
それが子供の言うことだというだけで、ある種のおかしみのような気配が生まれる。
それって悲しくないだろうか?
593: 2017/05/31(水) 23:24:21.60 ID:41WFJZmZo
「おばあちゃんが、学校には風邪を引いたと連絡して、バイト先の人にも似たような説明をしました。
どうして、とわたしは思ったけど、もしお兄ちゃんが戻ってきたとき、妙な噂になるといけないから、と言ってました。
そうして今日になりました。おじいちゃんはいつものように仕事に行って、おばあちゃんもいつもみたいに家事をしています。
まるで困ったことなんてなんにも起こってないみたい」
それを恨まないであげてほしいな、とわたしは思った。
どんなときでも、そうせずにはいられないのだ。
「小夜さん、お兄ちゃんを、どこかで見かけませんでしたか?」
愛奈ちゃんは、何かにすがりつくみたいな目でわたしの方を見た。
残念だけど、とわたしは首を横に振った。
「わたしが遼ちゃんを見たのも、月曜日が最後なの。わたしが見たとき……」
遼ちゃんは。
そうだ。
――怒るのって、エネルギーがいるだろう。
ああ、あのときのあの言葉は、もしかしたら、
そんなエネルギーは残っていない、という意味だったのかもしれない。
遼ちゃんは……。
「遼ちゃんは……普通だったよ」
そのときわたしは、愛奈ちゃんに嘘をついた。
それがどうしてなのかは、自分でもよくわからない。
そうですか、と愛奈ちゃんは目を伏せた。
594: 2017/05/31(水) 23:24:51.84 ID:41WFJZmZo
愛奈ちゃんはそのあと、何かを考えるみたいにずっと黙り込んでしまった。
そうしてまたポロポロと涙をこぼし始める。
自然と溢れてきてとまらないみたいに。
そうやって涙を流せるのが、ほんのすこしだけ羨ましいとも思った。
同時に、ほんのすこしだけ、怒りに近い感情が自分の中で渦巻くのに、気付かずにはいられなかった。
どうしてだろう。
でも、それは、わたしがどうこう言えることじゃない。
愛奈ちゃん。
彼女は知ってるんだろうか?
遼ちゃんのことを、ちゃんと分かっていたんだろうか?
595: 2017/05/31(水) 23:25:20.85 ID:41WFJZmZo
◇
遼ちゃんのお姉さんが愛奈ちゃんを残して家を出ていったときから、
遼ちゃんのなかで何かが変わったのがわたしには分かった。
彼はそのときから、ごく当たり前の子供時代を投げ捨ててしまったように思えた。
まるでそこで得られるものが取るに足らないがらくたにすぎないというように、
何かを楽しむことも、何かではしゃぐことも、声をあげて笑うことだってしなくなった。
ただ気遣うような愛想笑いと、本音の見えない追従があるだけ。
その韜晦に秘められたものがなんなのか、わたしはほんのすこしだけ分かるような気がしていた。
それも、分かったつもりになっていただけなのかもしれない。
596: 2017/05/31(水) 23:25:53.00 ID:41WFJZmZo
「どうしてこんなことになるんだろう?」
公園のベンチに並んで腰掛けて、ただぼんやりと過ごしていたとき、
遼ちゃんは突然そう言った。
わたしは遼ちゃんから、愛奈ちゃんのことやお姉さんのことを聞かされていたから、
遼ちゃんが気にする理由もわかるような気がした。
でも、それは遼ちゃんが抱え込むようなことではないはずだ、とも思った。
だって、わたしたちはそのとき、まだほんの子供だった。
今だってまだ、子供でしかない。
「僕にはどうしても分からないんだよ」
本当に、心底疑問だというふうに、彼は言うのだ。
「愛奈ちゃんのこと?」
「どうして平気なんだ? どうしてそんなことを、平気でできるんだ?」
「平気じゃ、ないのかもしれないよ」
「だとしても……」と遼ちゃんは言う。
「平気じゃないとしても、そんなのおかしい」
「うん……」
でも、仕方ないよ、と、わたしはそう言った。
遼ちゃんは苦しげに俯いた。
「……間違ってる」
――遼ちゃんのことを、わたしは、愛奈ちゃんは、分かっていたんだろうか?
そんな疑問の答えは、とっくのとうに分かりきっている。
分かるわけなんか、ないのだ。
597: 2017/05/31(水) 23:26:19.38 ID:41WFJZmZo
◇
立ち上がろうとしない愛奈ちゃんを連れて、彼女の家まで向かった。
遼ちゃんの家に行くのは初めてではないけれど、珍しいことではあった。
遼ちゃんは自分の家に友達を連れて行こうとはしなかった。
どうしてなのか、遼ちゃんは言おうとしなかったけど、わたしにはなんとなく分かるような気がする。
遼ちゃんの家にわたしが行ったとき、遼ちゃんのお母さんとお祖父ちゃんは口喧嘩をしていた。
いつもなんだ、と遼ちゃんは恥ずかしそうに言っていた。
そういうことなのだろうと思う。
愛奈ちゃんはわたしを家の中に招いてくれた。
もう、お祖父ちゃんはとっくに亡くなっている。
家には遼ちゃんのお母さんがいた。
愛奈ちゃんの面倒を見るために、それまでしていた仕事をやめて家にいるようになったのだと聞いていた。
「なんだか久しぶりじゃない?」と、当たり前みたいに笑うおばさんが、
わたしはほんのすこしだけ怖かったけれど、ほんのすこしだけかわいそうだと思った。
遼ちゃんがいなくなったのに。
まるでそれを認めたくないみたいに。
598: 2017/05/31(水) 23:26:58.54 ID:41WFJZmZo
わたしは、それをそうだと分かったうえで、それでも他に放つ言葉を見つけられなかった。
「遼ちゃんのことなんです」
「ああ、うん」
おばさんはキッチンに向かって、麦茶とコップを用意してくれた。
もう九月なのに、風は冷たいくらいなのに。
それがなんだか寂しいと思った。
「帰ってこないの」
おばさんはそれ以上何も言わなかった。
どうぞ、と差し出されたコップに口をつけて、麦茶を飲む。
「どうしてだろう?」
「どうしてでしょうね」
「何も言わずに無断外泊なんてする子じゃないし、もう三日も連絡がないなんて……」
「警察には?」
おばさんは小さく首を横に振った。まるでその言葉を恐れていたみたいだった。
599: 2017/05/31(水) 23:27:31.93 ID:41WFJZmZo
それから彼女はつけっぱなしになっていたテレビに視線を向けた。
ぼんやりとした、何も見ていないような目だな、とわたしは思う。
小夜ちゃんはランドセルを置いて手を洗った。
それから自分の分のグラスをもってきて麦茶を口にすると、鞄を広げてプリントを取り出した。
宿題らしい。
宿題。
「小夜ちゃんは、何か聞いてない?」
期待のこもった目で、おばさんはわたしを見た。
「すみませんけど、何も。遼ちゃんとは、あんまり話してなかったから」
「そう、よね。子供の頃、仲が良かったって言ってもね」
そうじゃない、とわたしは思ったけれど、うまく説明できる気がしなかった。
ただ、遼ちゃんはわたしに何も教えてくれなかった。
ただそれだけなのだ。
600: 2017/05/31(水) 23:28:21.25 ID:41WFJZmZo
「何か、抱えてることがあるなら、話してほしいって、わたしはそういうことを言ったんです」
「……それって、いつ?」
「月曜の、朝です」
「……」
「遼ちゃんは、わたしには何も言ってくれなかった」
いろんな可能性が、あるとは思う。
何かに巻き込まれた、と、そう考える方が、もしかしたら自然なのかもしれない。
でもわたしは、遼ちゃんは自分の意思で、どこかに行ってしまったような気がしてならない。
遼ちゃんは……。
どうしてわたしは、遼ちゃんと一緒にいることができなかったんだろう。
以前のように、ただ一緒にいるという、ただそれだけのことができなくなってしまったんだろう?
どうしてもそれがわからない。
601: 2017/05/31(水) 23:29:12.04 ID:41WFJZmZo
「何か、追い立てられてるみたいだな、と、思ってはいたの」
おばさんは、そう言った。
「思ったことを口に出さない子だったし、自分でこうと決めたことは、絶対に譲らないところがあったから……。
危なっかしいとは、思っていたの。でも、当たり前みたいに過ごしているから、わからなくなっちゃった」
自嘲するみたいに笑って、彼女は言葉を続ける。
「ねえ小夜ちゃん。わたしが悪いんだと思う?」
「おばさんは、わたしが悪いと思いますか?」
「……」
「わたし、ひとつだけ分かることがあります」
「……?」
「何が起きたにせよ、遼ちゃんはきっと、自分のせいだ、自分の責任だって思ってます」
「……そうかもしれない」
そう言って彼女はまたテレビに視線を投げ出した。そうして何かに気付いたみたいに声をあげた。
わたしも画面に目を向ける。
602: 2017/05/31(水) 23:29:40.20 ID:41WFJZmZo
隣町で殺人があったとの報道。
氏んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
誰かに刺されていたらしい、と言っていた。
職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訊ねたときに氏体を見つけたのだという。
不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。
姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。
バイクがないから、今回もただ帰っていないだけなのかもしれない、と。
妹の方は、真面目で挨拶もちゃんとする良い子だった、と同じ人物。
何かに巻き込まれていないといいんだけど、と、そこで話は終わった。
氏体。
おばさんの表情がこわばるのが見て取れた。
大丈夫ですよ、心配しなくてもきっとそのうち帰ってきますよ。
そんな気休めがわたしにはどうしても言えなかった。
遼ちゃんは帰ってこないかもしれない。そう思うと胸が締め付けられるような思いがした。
603: 2017/05/31(水) 23:30:16.23 ID:41WFJZmZo
◇
翌日の学校にも、やはり遼ちゃんの姿はなかった。
不思議なことに、その日は沢村くんも学校を休んでいた。
うるさいくらいの健康優良児だった彼が病欠なんて、珍しいと思ったけど、わたしは気にも留めなかった。
わたしはその日、クラスの人たちや、文芸部の人なんかに話を聞きに行った。
でも、誰も遼ちゃんのことなんて誰も知らなかった。
文芸部の部長さんは、「ただの風邪じゃないの?」と不思議がっていた。
クラスメイトたちは、「そんな奴居たっけ?」とでも言いたげだった。
わたしの苛立ちが誰かに伝わればいいと思った。
最後に、わたしは図書室に向かった。
図書委員の女の子はわたしと同じ学年で、篠目さんという名前だった。
彼女に、碓氷くんのことについて知らないか、とそれとなく訊ねた。
「来てない」と彼女はそっけなく言った。まるでわたしなんてとっとといなくなってほしいみたいな言い方だった。
「いないの?」と彼女は聞いてきた。
「そうみたい」
「遊園地かもしれない」
「遊園地?」
「そんな話をしたから」
冗談だと思って、わたしはそれ以上話を聞かなかった。
誰も遼ちゃんの行方について知らない。
どうしてわたしたちは後悔ばかりなんだろう?
606: 2017/06/13(火) 21:58:06.30 ID:9E37mtxco
◇
お姉さんの友達は、なんだか遠くに行ってしまっているみたい、と、公園で出会った少女が教えてくれた。
「遠く?」
彼女は例の精巧な表情で、戸惑ったように俯いた。
「具体的には、ちょっと、わからないかも」
「……どうして、遠くだって思うの?」
「探してみたの。ほんのすこしだけど。でも、見つからなかった」
本当にちょっと話をしただけなのに、彼女はわざわざ探してくれたんだろうか。
……わたしは遼ちゃんの特徴も伝えていないのに。
その空回りのやさしさがうれしくて、わたしは彼女の頭を撫でた。
彼女は不思議そうな顔でわたしの顔を見たあと、にっこりと笑った。
その表情のまま、言葉を続ける。
「たぶん、何かに巻き込まれたんだと思う」
不穏な言葉に、わたしは頷く。そうだね、と。
それ以外に何も考えられない。
607: 2017/06/13(火) 21:58:38.92 ID:9E37mtxco
「わたしにも探れないくらいだから、ひょっとしたら、神様と同じくらいの力に巻き込まれたのかも」
その大袈裟な言い回しがなんだかおかしくて、わたしは笑ってしまった。
「がんばって、探してくれたんだね」
「ん……まあ、がんばって、ってほどではないんだけどね」
「……神様と同じくらいの力って、どういうこと?」
女の子は、わたしの質問に首を傾げた。
「そのままの意味。わたしが探せないくらい遠くってことは、神様と同じくらいの大きさの力だと思う」
なんとなく、この子の持つ不思議な雰囲気を感じ取ってはいた。
だから、神様と同じくらいの大きさ、という彼女の不思議な比喩のことも、すんなりと受け入れられた。
「どうすればいいのかな」
「友達のこと?」
「うん。何かに巻き込まれてるんだったら、心配だな」
「どうしようもないよ」と彼女は言った。
その言葉には、深い実感のようなものがこもっていた。
どうしようもないことをたくさん知っているみたいに。
608: 2017/06/13(火) 21:59:31.31 ID:9E37mtxco
「でもね、ほんのちょっとなら、手助けできると思う」
そう、彼女は言った。
「ほんのちょっとだけど」
「本当?」
「うん。言葉を伝えることくらいなら、できるかもしれない」
言っている意味はよくわからなかったけれど、わたしは頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして。それで、なんて伝えたらいいかな」
訊ねられて、口ごもった。
なんて伝えたらいい?
わたしは彼に、何を言いたいんだろう。
「……そう、だね」
「うん」
609: 2017/06/13(火) 22:00:04.43 ID:9E37mtxco
わたしは――。
その言葉が、届かないと知っているから、彼女に言ったところで、どうにもならないと知っているからこそ、
いま、言葉にすることができるような気がした。
でも、それはただの錯覚でしかなくて、言いたい言葉なんてちっともまとまらない。
遼ちゃんに言えることなんて、本当にあるんだろうか。
だってわたしは、これまでずっと、遼ちゃんと言葉も交わしていなかったのだ。
そんなわたしが何を言ったところで、遼ちゃんに伝わったりするのだろうか。
彼はどこかに行ってしまった。それは、彼自身の意思のようにも思える。
わたしに、引き止める権利なんてあるだろうか。
愛奈ちゃんのことを言い訳にしてしまうのは簡単だ。
でも、わたしは、本当は愛奈ちゃんのことなんかより……。
「……」
本当に、どうしてわたしたちは、いつも後悔ばかりなんだろう。
「お姉さん?」
「そうだね。じゃあ、一言だけ、お願いしてもいい?」
彼女は頷いた。
「それじゃ、あのね――」
610: 2017/06/13(火) 22:00:37.70 ID:9E37mtxco
つづく
開かない扉の前で◇[Stockholm]R/b611: 2017/06/14(水) 09:30:14.36 ID:Jvevh6V10
おつです
引用: 開かない扉の前で
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