612: 2017/06/23(金) 23:09:37.44 ID:GsKuZ8lzo


最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a

前回:開かない扉の前で∵[Pollyanna]S/a

◇[Stockholm]R/b


 沢村翔太の氏体が発見された日の夜、僕は自分の荷物を確認していた。
 この世界に来るときに持っていた荷物。

 つまり、バイト帰りに咲川すみれと会って逃避行を始める前までに、
 僕が背負っていた鞄に入っていた荷物のことだ。

 ここ何日かの間、妙な話にばかり付き合わされて、そういうことをする機会があまりなかった。

 鞄の中にはお気に入りのMDプレイヤー。それから水を入れていた水筒。財布。
 使い物にならない携帯電話。それから、一冊の本。

 なんだか懐かしいような気持ちで、僕の持ち物を眺めてみる。
 プレイヤーにはいろんな音楽を片っ端から詰め込んだプレイリスト。
 聴き尽すことはいつまで経ってもできないような気がする。

 水筒は、まだ少し中身が残っていた。
 それももう飲むことはできないだろう。できるにしても、したくはないだろう。

 財布には多くもなければ少なくもない金。
 それも、すみれと来てからいくらか使って減っていってしまった。
 月初めに給料が出たばかりだったので、たまたま金が多く入っていたが、それもやがては尽きるだろう。
 
 携帯電話は、鳴らないし、どこにも通じない。ライトと時計とカレンダーとメモ帳くらいにはなるかもしれない。
 でも、もともとそうだった。僕の携帯はライトと時計とカレンダーとメモ帳くらいの機能しか果たしていなかった。

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613: 2017/06/23(金) 23:10:36.46 ID:GsKuZ8lzo

 このわずかな持ち物を見て、これが僕の人生なんだと思った。
 
 これが僕がここまで持ってきた人生のすべてなのだ。
 それ以外のほとんどすべては、僕には得られなかったか、得られたにしても失われてしまったか、
 あるいは僕が望んで手放してきたか、とにかくそのいずれかなのだ。

 今、現にここにあるもの。それが僕のすべてなのだと思う。

 こんなものを後生大事に抱え込んでいたって仕方がないじゃないか、と僕は思った。

 最後に、本の表紙に目を止めた。
 
 たしか、図書館の除籍本をもらったのだったか。
 それとも、どこかの店で自由文庫の棚を見つけて、手に取ったのだったか。

 それは、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』だった。

 僕はパラパラとページをめくって、その詩集をぼんやりと眺める。
 そのうちの一節に目が止まる。
 
『かなしみ』と題された、有名な詩だった。

 少しだけ、いろいろなことを思い出せそうな気がしたけれど、
 それがなんなのかは結局わからないままだ。そんなことばかり繰り返している。
 
 何をなくしたんだろう。
 あるいははじめから持っていなかったのか。

 かつて僕がほしいと思っていたもの、どうしても手に入れたいと望んでいたもの、
 それがなくては耐えられないと思うほど好きだったもの、どうしようもなく求めてしまったもの。
 そのどれもが、なぜだろう、ひとつたりとも鞄に残っていない。

 あるいは、ひょっとしたら、そんなものは最初からなかったのかもしれない。

 どうしてだろう。

614: 2017/06/23(金) 23:11:16.82 ID:GsKuZ8lzo

「遼一……?」

 不意に声を掛けられて、頭をあげた。

 すぐ傍に、すみれが立っていた。僕は自分が篠目あさひの家のリビングのソファに腰掛けていることを思い出した。

「どうしたの?」

「いや、少し」

「少しって。まだ休んでないと、傷治らないよ」

「どうせすぐには治らないよ」

「そうは言っても休んでてもらわないと」とすみれは言った。

「もしかしたら荒事になるかもしれないし」

「荒事?」

「沢村翔太のこと。もうひとりの方は、生きてるかもしれないんでしょ」

「ああ、うん」

「何か考えごと?」

「……いろいろね。なんだか急にわからなくなって。ねえ、すみれ、あのさ」

 彼女はキッチンの水道でコップに水を飲んで、それを一気に飲み干した。
 それから僕の方を向きもせずに訊ねてくる。

「なに?」

「それって僕らがやらなきゃいけないことなのかな」

 てっきり、責められるかと思ったけど、違った。

「ごめんね」

 彼女は、そう言って謝った。


615: 2017/06/23(金) 23:11:48.41 ID:GsKuZ8lzo

「そうだよね。べつに、わたしたちがやることじゃないのかもしれない」

「……どうしたの?」

「……刺されるなんて思ってなかったから」

 ああ、そうか、と納得した。
 それは、そうだ。

 僕が刺されて、すみれとあさひはそれを見た。

 僕らはどこか現実感がないまま過ごしていた。
 でも、あの痛みは、熱は、本物だった。

 人が刺されれば、血が出るのは当たり前だ。
 僕らは気付かないふりをしていたのかもしれない。

 すみれがあんまり落ち込んだ顔をするものだから、僕は言い出しづらくなってしまった。

 べつに、刺されて、氏ぬのが怖くなったわけじゃない。
 ただ、自分が考えなくてはいけないことが、他にあるような気がするだけだ。


616: 2017/06/23(金) 23:12:29.10 ID:GsKuZ8lzo

 僕は、この世界の僕のことを思い出す。
 彼が、僕が、あさひに投げかけた言葉を思い出す。

 あんなふうに、あんな言い方を、あんな態度を、あんな……。

 あの姿を見て、僕にはすべてが分からなくなってしまった。

 何が正しくて、何が間違っていたのかも。
 最初からわからなかったのに、一層、分からなくなってしまった。

 僕は溜め息をついた。

「沢村翔太が……沢村翔太が犯人だったとして、次に何をするか、僕らには分からない。
 あさひが今夜、夢を見るかどうか。後のことは、それから考えよう」

「……うん」

「ねえ、すみれ。さっきは妙な弱音を吐いたけど、僕は沢村翔太を止めるつもりだよ。
 もし彼が続ける気なら、だけど。だって、この世界の僕が氏んだら……」

 この世界にもいるはずの、愛奈が悲しむだろうから。
 でも、どうなんだろう。僕が氏んだら、愛奈は悲しむだろうか。

 ……この世界なら、そうかもしれない。

 だとすれば、僕がここに来たことにも、意味があるのかもしれない。
 それはただ、ごまかしだという気もするけれど。

 あるいは僕は、ただ、彼が正解だったと、そう思っているのかもしれない。

「……とにかく、僕はやる。すみれこそ、不安なら無理に付き合うことないよ」

「わたし?」

「一応女の子だから」

「一応って何?」 
 
「言葉のあやだよ」

 すみれは笑った。


617: 2017/06/23(金) 23:12:54.90 ID:GsKuZ8lzo



 その晩に見た夢のことを、あさひは次の日の朝教えてくれた。

 僕たちはあさひの家の近くのコンビニで朝食を買った。
 サンドイッチとパンとおにぎりと、食べ物はたくさんある。飲み物だってある。
 寝床があって食べ物があって……足りないものが思いつかない。

「碓氷がまた襲われる」

 灰皿の傍で煙草を吸う僕とすみれに、彼女はそう教えてくれた。
 
「どっちの?」

「分からない」

「刺されてた?」

「うん」

 傷はほとんど痛まなかった。
 まるで自分が不氏身でもなった気分だった。

 さて、どうしようね、と誰かが言うべきだ。でも僕は言わなかったし、二人も何も言わなかった。

 ただ、あさひだけが少し俯いた。

「ごめんね」

「なにが?」

「なんだか、巻き込んじゃったね」

「きみだってそうだろう」と僕は言った。実際、彼女だって巻き込まれた側だ。


618: 2017/06/23(金) 23:13:28.22 ID:GsKuZ8lzo


「わたし、なんにも知らないふりをしてればよかったのかな。碓氷だってきっと、わたしに助けてほしいなんて思ってないだろうし」

「かもね」

 でも、それは僕達にはどうでもいいことだった。

「ねえ、あさひ。あなたは間違ってないと思うよ」

 そう言ったのはすみれだった。僕はふたりのやりとりを黙って聞いていた。

「それは、あなたは見て見ぬふりをすることもできた。でも、止めようとしてる。それって正しいことだと思う。
 正しいことがなんなのか、わたしにはわからないけど、知ってしまったからにはどうしても見逃すことのできないことってあるもの」

「……ありがとう」

 とあさひは言ったけれど、僕は別のことを考えていた。
 
 でも、考えるのは後にすることにした。

 どのみち今は、このふたりと行動を共にするべきだろう。
 

619: 2017/06/23(金) 23:14:35.31 ID:GsKuZ8lzo

「……それで、どうする?」

 僕たちは一度あさひの家に戻り、そこで話をすることにした。
 僕の問いかけに、二人は目を見合わせる。

「また、張るのか? 後手に回って、今度もやられっぱなしじゃ同じことだろう」

「どういう意味?」

「いまのところ、あさひの予知夢は百発百中だ。僕も刺された。あさひの夢を頼りに現場を抑えるだけじゃ後手に回ることになる」

「でも、他に……」

「もし沢村翔太が、僕達と同じように世界を渡ってきたとしたら、沢村翔太はどこに潜伏しているんだろう?」

「どこ、って?」

「僕達に宿がないように、沢村翔太にも宿がないかもしれない」

「ちょっと待って。まさか、沢村翔太の居所を探ろうって話?」

「もちろん見つけられる確信があるわけじゃないけど、ただ何かが起きるのを待っているよりはいい」

 そうだね、とあさひは言った。

「たしかに、そうかも。何かが起きる前に沢村くんを取り押さえられたら……」

「……そういえば、ひとつ疑問があるんだけど」

 すみれの言葉に、僕とあさひは彼女の方を見る。

「取り押さえて、どうするつもり? まさか、説得が通じるなんて思ってないよね?
 仮説が正しいなら、沢村はもう四人頃してるんだよ」

 僕はあさひの方を見た。どうする。『どうする』?


620: 2017/06/23(金) 23:15:25.64 ID:GsKuZ8lzo

 沢村翔太はこの世界の人間ではなく、既にこの世界の人間を四人頃していて、更に頃し続けようとしている。
 沢村翔太はこの世界では既に氏んでいる人間だ。

 警察に引き渡す? ……それも、不可能ではない。
 おかしなことだと思われはするだろうが……。

 いや、でも、こんな状況の僕達が証言なんてできるはずもない。
 たとえその場を目撃したとしても。

 かといって、捉えて説教をしたとしても、彼にはもう失うものなんてないだろう。
 同じことを繰り返さないなんて、保証はどこにもない。

 どうなる?
 どうなるんだ?

 あさひは何も言わない。

 僕はそのとき、ごく自然にひとつの打開策を思いついていたけれど、
 それをこの場で口にだすのは憚られた。

「あさひ。次に碓氷遼一が刺されるのは、やっぱり夕方?」

「……うん。そうだと思う」

「場所は?」

「たぶん、だけど……あの、碓氷の家から少し歩いたところの、丘の上。住宅街に、広い公園があるの、分かる?」

「……ああ、うん」

「あそこ、だと思う。碓氷のそばには、小学生くらいの女の子がいた」

「……遼一、大丈夫?」

「うん……」


621: 2017/06/23(金) 23:16:13.71 ID:GsKuZ8lzo

 愛奈。
 愛奈。
 この世界に来てから、僕は愛奈の姿を見ていない。
 見られなくてよかった、という気もする。
 もし、愛奈の姿を見てしまったら、僕はまともではいられないかもしれない。

 どうにかなってしまうかもしれない。
 
 結局僕は、愛奈を利用していただけなのだろう。

 ただ、理由がほしかった。
 だから、愛奈を、そこに押し込めた。

 それはきっと愛情じゃない。
 憐憫ですらない。

 けれど思考は、つじつま合わせのように愛奈について考えてしまう。

「沢村翔太が、どこに潜伏しているか、か」
 
 すみれが、考えをまとめようとするみたいに人差し指で額を抑えた。

「少なくとも、この世界の沢村翔太の家、ってことはなさそうだね。
 家族がいてもいなくても、失踪したり氏体が見つかったりしてるわけで、人目を集めやすい」

「ということは、その近辺というのもあり得ないだろうな」

「かといって、学生の身分でホテルみたいな宿泊施設っていうのも、考えにくいよね」

 僕らがそうであるように、彼も普通に働いたりはできないはずだ。
 一時的にはともかく、いつまでも身を隠し続けることはできないだろう。


622: 2017/06/23(金) 23:17:23.72 ID:GsKuZ8lzo

「となると、どうなるの?」

「金がかからず、人目につかず、頻繁に出入りしたりしても誰にも怪しまれない場所……」

 僕の言葉に、あさひがひとつ条件を付け加えた。

「もうひとつ。氏体を隠していても見つからないような場所」

「……そうか」

 沢村翔太は、この世界の沢村翔太の氏体を校門まで運んだはずだ。
 そうなると、それまで彼は、その氏体をどこかに隠していたことになる。

「でも、氏体の隠し場所は、潜伏場所とは限らないんじゃない?」

「……たしかに」

「……そもそも、沢村はどうやって氏体を校門まで運んだんだ?」

「そんなの……」

 沢村が車で身動きをとっている、という可能性もない。
 運転技術に関しては、年齢的には考えにくいが、べつにどうとでもなるだろう。
 ただ、その車をどうやって手に入れるのか、という問題が残る。

 もし盗んだりしたなら、そこからたちまち足がつくということも考えられる。
 
 車じゃないとすると……。

「鞄に詰め込んで、タクシーかなにかで近くまで移動した。そこから徒歩で移動した、とか」

「それは難しいと思う。沢村の氏体は五体満足の状態で発見されたんだろうから」

「根拠は?」

「もしバラバラだったら、報道されてるはずだから」

「……」


623: 2017/06/23(金) 23:17:56.57 ID:GsKuZ8lzo

 バラバラ殺人が起きると、ワイドショーかなにかではすぐに猟奇的だと騒がれるが、実際には違う。
 
 あれは、人間の氏体をなんとも思っていないからできることだ、というわけではない。

 殺人の隠蔽を目論んだときにこそ、バラバラ殺人は意味を持つ。

 氏体は重いし、そのまま運ぼうとすればどうしても目につく。

 車かなにかに隠すことができれば別だが、そうできないときは、鞄にでも詰め込んで運ぶしかない。
 
 そして、鞄に詰め込むなら、なるべく目立たないように、小さく切り分けて、少しずつ運んで隠すのがいい。

 氏体を切り分ける行為は、人を頃してしまった人間がとる行動としては、かなり合理的だ。

 そうだ。そう考えると、逆に考えてしまえば。

「沢村翔太の潜伏場所は、学校から近いのかもしれない。車を使わなかったと考えると、だけど」

「学校の近く……。でも、そんなところに、氏体を隠すようなところなんて……」

 ない、だろうか。
 氏体は臭う。人が立ち寄る場所には隠せない。普段誰も近付かないような場所……。

 どこかに隠すとしたら、どうする? 



624: 2017/06/23(金) 23:18:25.30 ID:GsKuZ8lzo

「……あさひ。沢村翔太は、どこで殺されたんだっけ?」

「……え?」

「夢で見たんだろ?」

「あ、うん……。どこかの、公衆トイレみたいなところだったと思うけど」

 公衆トイレ。

 沢村に氏体を隠すつもりがなかったとしたら、
 氏体は、沢村が移動するまで、ずっとそこにあったんじゃないのか。

 ……そんな考えは突飛だろうか?
 沢村は失踪したことになっていた。彼を探す人がいれば、近辺はくまなく探すだろう。

 ……そうだろうか?
 沢村が氏んでいたと、そう知っていたのはあさひだけだ。
 
 ただの家出だと思われていたら、そんな詳しい捜索なんてするだろうか?

 ……今は仮説でいい。

「"学校帰りに刺された"。あさひはたしか、そう言っていたっけ?」

「……うん。そうだったと思う」


625: 2017/06/23(金) 23:19:23.78 ID:GsKuZ8lzo

 この条件を満たしている場所はないか?

 学校帰りだと言うなら、学校の近く。そうでなければ、氏体を運ぶのは難しい。
 氏体があった場所から校門まで、沢村翔太は、おそらく背負うか何かして、それを運んだ。

 しかも、誰にも見咎められずに。それが可能な距離だった。

 そして、誰にも見つからないような場所。

 使われていないような公衆トイレ……あるいは、その近く。
 公衆トイレ……。近隣に、公園なんかはあるが、人通りがないわけじゃない。
 異臭騒ぎでも起きれば、すぐに氏体は見つかるだろう。

 ……公衆トイレ?

「ねえ、あさひ、本当に公衆トイレだった?」

「……どういう意味?」

「それ、学校のトイレじゃなかったか?」

 僕の言葉に、あさひは静かに息を呑んだ。


626: 2017/06/23(金) 23:20:03.85 ID:GsKuZ8lzo

「……わからない。視界、揺れてたし、暗かった。夕方だっていうのと、なんとなく、どこかの公衆トイレだったってことしか」

「ね、遼一。さすがに学校のトイレだったら、あさひでも気付くんじゃない?」

「男子トイレでも?」

「……そっか」

「……学校のトイレ、だったかもしれない。でも、どうだろう。断言はできない」

「でも、沢村翔太が殺されたのって、たしか七月の始め頃って言ってなかった?
 夏休みならともかく、生徒がたくさん出入りしているような場所で頃して、発覚しないもの?」

「あさひの夢の話だと、刺されたのは全部夕方頃だ。
 言葉に惑わされそうになるけど、七月の日暮れは遅い。空が赤くなったり周囲が薄暗くなったりするのは、
 おそらく六時過ぎから七時くらいだろう。そのくらいの時間なら、熱心な運動部くらいしか残っていないと思う。
 これは仮定だけど、もし沢村が校舎内の、あまり使われないようなトイレで殺されたとしたら、見つからない可能性はある」

「仮定、仮定ね」

「そもそも、断定できる根拠がないから、仮説くらいしか立てられない。
 それに外れていてもべつに損はしない。前と同じように、あさひの夢に出た場所に向かえばいいだけだ」

「わかってる。べつに文句はないよ」


627: 2017/06/23(金) 23:21:36.04 ID:GsKuZ8lzo

「でも、その仮説に従うと、沢村くんは、氏体を学校のどこかに隠していたってことになるのかな」

「……でも、休み中ならまだしも、登校日でしょう? そんなに長い時間、隠しきれる?」

「ありえるかもしれない」とあさひは言った。

「あると思う。誰も近付かないような、氏体の隠し場所。
 うちの高校、もともとは東校舎に部室棟があったんだ。でも、南校舎が新設されて、そっちに移った。
 老朽化が理由って話だったけど、東校舎は取り壊されずに残ってる。
 でも、本校舎からだと結構歩かないといけないから、あんまり人が近付かないんだ」

「だとすれば」と僕は言った。

「沢村翔太自身も、そこに隠れている可能性がある」

「ぜんぶ、憶測だけどね」と、すみれが言う。僕は頷いた。

「確認する価値はあると思う」

 誰も異論は唱えなかった。
 もちろん、これが全部、子供の遊びのような馬鹿げた仮説の上に立っているものだと、三人とも分かっていた。
 

630: 2017/07/07(金) 23:53:41.35 ID:Vagz1NDvo



 沢村翔太について、僕が思い出せることはほとんどない。

 けれどあえて語ろうとするなら、彼は特に印象的な部分のない男子だった。

 風変わりなようにも見えなかったし、特に大きな問題を抱えているようにも見えなかった。
 どこにでもいるような、と言ってしまうと違うけれど、かといって、何か特別なところを感じたことはない。

 僕達は三人並んで高校に向かった。制服なのはあさひだけで、僕とすみれは私服姿だった。
 誰かに怪しまれたら一発でアウトかもしれない。

「いざというときは、街で偶然会った遼一に、わたしが用事を頼んだことにするよ」

 あさひはそう言ってくれたし、その言い訳は実際心強くもあった。
 そのくらいの理屈なら、ある程度通るだろう。

 ある程度、だけれど。


631: 2017/07/07(金) 23:55:08.55 ID:Vagz1NDvo


 僕たちは昇降口から堂々と校内に入り込んだ。
 誰かに何かを言われるかもしれないとも思ったが、誰も何も言わなかった。

 それどころか、僕ら以外にも私服で出入りしている生徒はいるようだった。
 事件続きだというのに、警戒心が薄いものだ。

 それもまた、仕方のないことなのか。
 それとも何か、僕が知らないことがあるのか。
 
 どっちでもかまわないと僕は思った。

 あさひの案内にしたがって、僕らは東校舎に向かった。
 渡り廊下の先の扉には鍵がかかっていたが、彼女が少し揺するとすぐに開いてくれた。

「知ってる人は知ってるの」と彼女は言った。


632: 2017/07/07(金) 23:56:16.54 ID:Vagz1NDvo

 そのまま進もうとして、僕は立ち止まった。

 先を歩いていたふたりが、僕の方を振り返る。

「……どうしたの?」

「二人とも、ここで待っててくれない?」

「どうして?」

「沢村はナイフを持ってる」

「だから?」

「一応、きみたちは女の子だし……」

「その細腕でフェミニスト気取り?」

 すみれの挑発に、僕は黙った。

「それに……」

「『それに僕は、氏んだってかまわないから』って?」

「……そういう意味じゃないけど」

「あんたは怪我してる。一人の方が危ない。じゃない? わたしも行く」

 そう言って、すみれはあさひの方を向いた。

「あさひはここに居なよ」

「……でも、わたしが言い出したことだし」

「でも、あんた、とっさに動ける? 庇わなきゃいけない相手がいる方が危ないんだよ、こういうのは」

「……」

「決まりね」


633: 2017/07/07(金) 23:57:07.27 ID:Vagz1NDvo



 あさひを校舎の入口に残して、僕とすみれは東校舎の中へと進んでいった。
 
「ねえ、遼一。本当のことを言うと、ひとりになりたかったんじゃない?」

「分かってたなら、叶えてくれてもよかっただろう」

「危ないってば」

「別に僕が氏んだって、きみは構いはしないだろう?」

「ここまで来てそれを言う? 後味が悪いじゃない。わたしがあんたをここに連れてきたんだからね」

 僕らは廊下を歩いていく。すべての窓は板で塞がれていたから、人目を気にすることもなかった。

「こんなところで氏んでらんないでしょう? わたしたちはこれからだって、心の底から笑える場所にいかないといけないんだからね」

 すみれの言葉に、僕は思わず笑ってしまった。

「遼一が笑った」

「そんなに珍しい?」

「とても」

「そうかい」

 どうでもよかった。ただなんとなく笑ってしまっただけだ。

「ねえ、すみれ。僕らはあの扉をくぐってきたわけだけど……
 あの女の子は、望む景色を見せるって、そう言ってたけど……」

「……それが?」

「僕らは、心の底から笑える場所に行こうって、そう話したよね」


634: 2017/07/07(金) 23:57:34.38 ID:Vagz1NDvo

 一階には、何もなかった。念のためにトイレも覗いたけれど、誰もいないし何の痕跡もなかった。
 階段を昇りながら、話を続ける。

「ひょっとしたら、ここがそうなのかもしれない」

「どういう意味?」

「つまりね、この世界では、僕は……『僕』は、心の底から笑っているのかもしれない。
 僕たちは、その景色を、たしかに、『見せてもらって』るんだ」

「……」

「だから、僕は思ったんだ。僕が心の底から笑うには、世界の条件を変えるしかないんだ。 
 とっくに手遅れで、そんな景色は、もともと僕がいた場所にはありえなくて、だから、僕はここに来たのかもしれない」
 
 すみれは何も言わなかった。二階もまた、一階と同じように窓が塞がれていて薄暗い。

「そんなのわかんないよ」とすみれは言った。

「でも、それはこんなところじゃないよ、きっと。わたしたちには分からないものが、きっと隠れてる」

「……そうかもね」

「わたし、けっこう後悔してるんだ。こんなのさっさと終わらせて、帰ろうよ。
 そうしたら、一緒にお茶でもしようよ。ね、遼一。わたし、あんたがいれば、そこそこやれそうな気がするんだ」

「……その言葉は、嬉しいけどね」

 でも、僕が思い出したのは、生見小夜のことだった。
 そういうものだ。

 僕たちは三階に続く階段を昇った。



637: 2017/07/17(月) 23:39:27.50 ID:oH0qBvMao


 三階にたどり着いた瞬間に、空気がぴしりと音を立てて変わるのを感じた。
 
 具体的に何がどう違うというわけではない。
 
 ただ何かが決定的に変わっていた。
  
 閉ざされた窓、薄暗闇の廊下、ずっと続いている。

 教室の扉はすべて閉ざされている。
 誰の気配もない。

 ただいつまでも続いているのだ。

 やめておけばよかった、と僕はほんのすこしだけ思った。

 僕はこんなところに来るべきではなかった。
 僕はこんなところに来るつもりではなかったのだ。

「大丈夫?」とすみれが訊いてきた。何がだろう、と僕は思う。

「真っ青だよ」と彼女は言った。

 僕は首を横に振る。

 大丈夫? と僕は頭の中で繰り返した。


638: 2017/07/17(月) 23:39:54.31 ID:oH0qBvMao

 僕はただ歩いていただけだ。
 何もおかしなところなんてない。

 すみれが喉を鳴らすのを聴いた。

 僕たちはただ廊下を歩いている。

 薄暗い、光の刺さない、埃っぽい空気。
 なんだか、少し前にもこんな場所を歩いた気がする。

 どこだろう。
 もしかしたら、あの地下貯蔵庫だろうか。

 この世界に来るときに覗いた、あの。

 僕は不意に、あのときに見つけたラテン語の本のことを思い出した。
 ただ箴言を並べただけのような言葉たち。
 
 今の僕は、いくつか、その言葉を思い出せるし、その意味も知っている。
 あのときは、不思議と忘れていた、というより、意識できなかった。そういうつくりなのだろう。

"In vino veritas."――酒の中の真実。

 酒の中。

 ワインの貯蔵庫。カタコンベ。あの暗闇、饐えた匂い。
 僕は一度、あの貯蔵庫の先にあった扉が、僕の望みだったんじゃないか、と、そう思った。
 
 さっきすみれに話したのだって、そういうことだ。


639: 2017/07/17(月) 23:40:25.75 ID:oH0qBvMao


 でも、そうなのだろうか?
 
 そうではなくて、ひょっとしたら、あの光景こそが、僕にとっての真実だったんじゃないか?
 あの空虚、あの暗闇。

 あそこには愛奈の姿も、愛奈を思わせるものも存在しなかった。

 そして埃をかぶった本にはこんな一節があった。

"Peior odio amoris simulatio"――愛の見せかけは憎しみよりも悪い。
"Aliis si licet, tibi non licet."――たとえ他人が許しても、自分自身に許されはしない。
"Non omne quod licet honestum est."――許されることすべてが正しいとは限らない。

 あの光景は……僕が愛奈を、本当の意味で愛してもいないし、大切にもしていないのだと、突きつけていただけなんじゃないか。
 僕にとってはあの空虚こそが真実で、
 金を貯めるとか、愛奈と過ごすとか、そんなのはすべて言い訳でしかなく、
 僕はただ、愛奈を大事にするという大義名分の上に、自分自身の生を懸命に生きることから逃げているだけなんじゃないか。

 それを僕は心の奥底ではわかっているんじゃないか。

 そんなことばかりが、どうして頭をよぎるのか?

 最初から気付いていたからじゃないのか?

「……」

 不意に、僕は立ち止まった。
 気付いたのは、そうしてからだった。

「遼一……?」

 肩越しに振り返るすみれ。
 その向こうに、立っていた。

 沢村翔太だった。


640: 2017/07/17(月) 23:40:51.97 ID:oH0qBvMao

 僕の視線の先を追って、すみれのからだがきゅっと小さく縮こまるのが分かった。
 僕はなんとなく、こうなるのが分かっていたような気がした。

「遼一」とかすかな声で彼女が僕のことを呼んだ。
 
「すみれ、悪いんだけど、やっぱり君はあさひのところに戻ってくれないか?」

「え……?」

「少しふたりで話したいことがある」

「でも」

「大丈夫だから」

 すみれはしばらく僕と沢村のことを交互に眺めていた。
 沢村はその間何も言わなかった。どこかに行こうともしなかったし、襲い掛かってくるようなこともなかった。
  
 どうしても納得がいかないような顔をしていたけれど、すみれは結局そのまま階段の方へと戻っていった。

「無茶しないで」と最後に彼女は言ったけど、僕がする無茶なんて何があるだろう。

 さて、と僕は沢村と向かい合う。
 
 沢村は黙ってこっちを見ている。

 鏡でも見ている気分だった。


641: 2017/07/17(月) 23:41:20.36 ID:oH0qBvMao



「久しぶりだな」と沢村は言った。
 
「会ったばかりだろう」と僕は言った。

 沢村の様子は、僕がこちらに来る前と、なにひとつ変わっていないようにも見える。
 姿も、立ち居振る舞いも、何もかも。

「それもそうだな。痛かったか?」

「少しね」、と僕は言う。「でも、ほんの少しだよ」

「さっきの子は?」

「友達だよ。たぶんね」

「おまえはひとりじゃなかったんだな」
 
「そうだね。……ねえ、いくつか聞きたいことがあるんだけど」

「そうだろうな」と彼は言う。「俺も話したかったのかもしれない」

「僕に?」

 いや、と彼は言う。

 誰かに、さ。


642: 2017/07/17(月) 23:41:46.59 ID:oH0qBvMao

 きみは、ひとりでこっちに来たんだな。

「そうだな」、と彼は言った。「ひとりだった」

 いったい、いつこっちに来たんだ?

「それは、どっちの意味だ? あっちの時間か、こっちの時間か」

 両方かな。

「おまえがいなくなってから、三日と経っていなかったと思う。どうだったかな。一週間くらいだったかな。
 覚えていないな。なにせ、けっこう前だから。おまえはいつ頃こっちに来たんだ?」

 ついこの間だよ、と僕は言う。
 八月十八日。

「それはすごいな」と沢村は言った。

「一昨日じゃないか。ずいぶんこの世界に慣れてるな」

 そうか、と僕は思った。
 今は、八月二十日。

 それで、きみはこっちの、いつに来たの?

 そのズレが、僕の気になっているところだった。

「たいした時間じゃない」と彼は言った。

「ほんの半年前だよ」

 僕の疑問のひとつは、その一言で解けた。



643: 2017/07/17(月) 23:42:31.20 ID:oH0qBvMao

 僕がこちら側に来る前、沢村翔太はまだあちらにいた。
 沢村がこちらに来るタイミングは、だとすれば、僕よりも後だったはずだ。

 にもかかわらず、どうして沢村は僕たちが来るよりも前に、人を殺せたか?

 簡単なことだ。

 こちらとあちらを行き来したとき、僕たちだって同じ日から同じ日に飛んできたわけじゃない。
 あの扉をくぐったときに、時間のズレがあるのだ。
 
 そして、沢村の場合は、僕たちよりも大きく過去にずれた。

 理由は知らない。理由なんてなさそうだ。

「それで、ここに来たのはどういう用件だ? というより、ここに俺がいるとよく分かったな」

 べつに確信があったわけじゃないんだけどね、と僕は言う。
 まぐれ当たりだよ。

 沢村は嘲笑した。

「やっぱりお前は、そういう奴だな」

 その言葉の意味が僕には分からない。

「それで、もうひとつの質問の方だ。用件は、いったい何だ?」

 僕は呼吸を整える。


644: 2017/07/17(月) 23:43:01.72 ID:oH0qBvMao



「きみはいったい、どうして人を頃したりしたんだ?」

「やっぱり、止めに来たんだな?」

「少し違う。話を聞きに来た」

「返答次第じゃ、俺を殺さなきゃいけないからか?」

「……」

「そうなんだろ?」

「……」

「まあいいさ。なんだったっけ。どうして人を頃したりした、って?
 どうしてそれがわかったんだ? って、これは自白だな」

「知る限りだと、四人だ」

「……四人? どうして知ってる?」

「知ってる奴がいた」

「そうか……。まあ、そういうものかもしれないな」

「……それで?」

「なんだっけ?」

「どうして頃したか、って話」

「まるで審問官だな」

「どうでもいい」

645: 2017/07/17(月) 23:43:28.27 ID:oH0qBvMao

「審問っていうのは、よくないぜ」
 
「……」

「審問っていうのは、つまり、善悪や当否を裁く側の人間の語法だ。
 客観性、公平性を拠り所に、他人の是非を決める立場の人間の話法だ。
 でもな、そんな俯瞰的な立場なんてありえない。客観性も公平性もありえない。
 にもかかわらず審問を行うとどうなると思う?」

「……」

「錯誤するんだよ。自分が裁く立場に値する上位者で、自分の判断が正当なはずだと誤解してしまう。
 だから、何かを裁くっていうのは地獄なんだ。自分がまるで、ひとつも瑕疵のない善人のような気分になってしまう……。
 まあ、俺が言えたことでもないけどな」

「それは自虐?」

「かもしれない。いや……こういう話をするときは、どうしても自虐的にならざるを得ないもんだ」

「でも、どうでもいいんだ。……どうして頃した?」

「その答えも、同じだな。『なぜ』なんて分からないよ。そうだろう?
 どうしてここに行き着いたかなんて、俺たちには分からない。俺だって、結果として人を頃した自分を知っただけだ」

「そういうので煙に巻かれたくない。教えてくれよ。なあ、きみは、生きてて楽しかったんじゃないのか?
 だったらどうしてこっちにいるんだ? どうしてこっちに来たんだ?」


646: 2017/07/17(月) 23:44:00.75 ID:oH0qBvMao


「俺がそう言ったか?」

「……」

「生きてて楽しいって、俺が一回でも、俺の口から言ったか?」

「……なんなんだよ」

「べつにいいさ。どう思ってもらっても。俺がおまえを詰ったのは、ただ不幸ぶった顔つきが気に入らなかったからだよ」

「……」

「自分以外を馬鹿だと思って、平気で他人を侮って、そうして平気で羨むような、そんな拗ねた目が気に入らなかった。それだけだ」

「……」

「例の廃墟の遊園地。なあ、おまえもあそこを通ったんだろ? 俺もそうだよ。そこでざくろに会った。
 ざくろに会って、こっちに来た。あいつはとんだ詐欺師だよ。あいつには、望みを叶えるなんて器用な真似できやしなかったんだ」

「……どういう意味だ?」

「気付いてなかったのか? あいつは俺たちの望みなんて叶えちゃいないよ。
 あいつにできるのは、ただ、ふたつの世界を結ぶことだけだ。適当な口車に乗せておけば、
 こっちに来た段階で、乗せられた奴はこう思う。『ああ、自分の形がこういうふうに叶った世界なんだ』ってな」

「……どういうことだ?」

「分からないか? ふたつ、よく似た異なる世界がある。客はどちらかの世界から来る。
 すると、その変化に気付く。そしてその変化を、『自分の願望の投影』として解釈する。
 ああ、本心では自分はこういうことを望んでいたのか、と、勝手に受け取る。
 だからこの世界は俺たちにとって、事後的に『願いどおりの景色』に見えるんだ」

「……」

「本当はざくろにそんな力はない。あいつは、繋ぐことしかできない」


647: 2017/07/17(月) 23:44:40.91 ID:oH0qBvMao


「なあ、そんなことはどうでもいいんだよ。どうして頃したりしたんだ?」

「分からないか? 本当に?」

「……」

「別に煙に巻きたいわけじゃない。それはそんなに難しい話じゃないからだよ。
 ただ、まあ、そうだな。順番に話そう。俺だってこっちに来てから、いろいろ見たよ。
 いろんなものを見て、いろんなことを考えた。そうしてそのうち嫌になって帰りたくなった。
 でも、改めて考えてみると分からないんだ。本当に俺はあっちに帰りたいのか? 帰ってどうするんだ?
 誰が俺を待っているわけでもない、誰も俺を求めちゃいない、そんな場所にもう一度帰って、平気で暮らしたいのか、って」

「……」

「答えはすぐ出たよ。別に帰りたくなんてない。どうだっていいんだ、こっちもあっちも」

「理由になってない」

「聞けよ。そうしているうちに、こっちで過ごしている俺の姿を見て、馬鹿らしくなったんだ。
 ああこいつはなんでこんなにばかみたいに笑ったりしてるんだろう、どうしてばかみたいに生きてるんだろうって。
 そうしたらだんだん憎らしくなってきた。感じないか? 俺の顔で、俺の声で、まるで楽しそうに笑う自分を見て、
 なあ、おまえなら頃したくならないか?」

「……他は」

「ん?」

「他の人たちは、どうして?」

「……ああ、なんとなく、個人的に、な」

「……」

「弓部玲奈、鷹野亘、寺坂智也……俺が頃した。理由に関しては言いたくないけど、そうだな。よくある理由だよ」

「よくあってたまるか」

「こういう状況になったら、俺でなくても誰か頃したくなるさ。だろう?」

「……」


648: 2017/07/17(月) 23:45:07.84 ID:oH0qBvMao

「おまえを殺そうとした理由と、ほとんど変わらないよ。
 気に入らないから……あるいは……逆恨みって言ってもいい」

「そう分かってるなら、どうして頃した?」

「失うものなんてないからさ」

「だったら、殺さなくても別によかった」

「でも、頃しても別によかった」

「……」

「平行線だよ。これ以上は」

「……小夜は」

「……」

「小夜も、頃す気だったか?」

「……どうだろうな。おまえの次には、頃したかもしれない。
 そう言ったら、おまえは俺を頃してでも止めるだろう?」

「……」

「俺にはわからないな。おまえは全部持ってるようにみえるよ。
 俺が持ってないもの、全部持ってて、そのうえでそれを蔑ろにしてるように見える」

「……」

「俺はおまえみたいになりたかったんだ」

  ああ、本当に、鏡でも見ているみたいだ。


649: 2017/07/17(月) 23:45:48.84 ID:oH0qBvMao




「安心しろよ。もう殺さない」

「……」

「今まで、たまたま誰にも見つからなかったから、続けてきただけだ。
 誰かに追われてまで、そんな面倒をしてまで、続ける気はない」

「それを僕は信じるか?」

「さあ。信じてくれてもかまわないし、信じなくてもかまわない。
 どっちにしろ、俺はやめるよ……とりあえず。あとのことは、ざくろ次第だな」

「……ざくろ」

「ああ」

「あの子は……何なんだ?」

「知らない。ただ、あるがままのものだと思うよ」

「……なあ、きみは知ってるのか? あっちに、帰る方法」

「……そうだな。知っている、と言えば知っている。ざくろに会えばいい」

「だから、そのざくろは、どこにいる?」

「あいつはどこにでも現れる。待ってりゃそのうち会えるだろう」


650: 2017/07/17(月) 23:46:20.07 ID:oH0qBvMao

「……きみは、どうする気だ?」

「言ったろ。ざくろ次第だって。でも、そうだな……。
 おまえは、頃してやりたいな。いつか、頃してやりたい。でも、とりあえずやめておいてやるよ。
 どうせ、氏んだも同然の人間だ。野垂れ氏ぬのを待つさ」

「……」

「おまえ、帰りたいのか?」

「……ああ、そうだね」

「だったらひとつ、教えておいてやるよ。ざくろに言えば、たしかにあっちに連れ戻してくれる。
 でも、さっきも言った通り、ざくろにできるのは繋ぐことだけだ。
 そして、俺やおまえがそうだったみたいに、ざくろの案内にしたがってあっちとこっちを行き来するとき、
 時間がずれるんだ。そのズレは、大きいときもあれば、小さいときもある。
 一週間で済むときもあれば、何年もズレることもあるらしい。言いたいこと、分かるか?」

「……」

「俺たちの肉体はそのままだ。そのまま、何年もずれ込むかもしれない……。
 それは、扉をくぐってみなけりゃ分からない。一種の賭けだな。
 つまり、俺たちはもう、こっちに来た時点で、ざくろの扉をくぐった時点で、俺たちは元通りになんて戻れない。
 そういうことを、よく考えておいた方がいいぜ」

「……覚えておくよ」

「そうだな。そうしてくれ。……それじゃあ、お別れだな」


653: 2017/07/30(日) 23:00:13.24 ID:bDeKvJGbo

 ◇

 その日の夕方、僕たちは碓氷遼一の姿を探した。

 彼の家の近くの公園に、僕らはまた訪れた。
 
 何度似たようなことをやっても懲りない。
 ほかの手段が思いつかない。

 公園のベンチには一人の女の子が座っていた。

 それは見覚えのある女の子だ。

 穂海だ。

 彼女は僕に気付いて、なんだか変な生き物を見るような目をした。

「お兄ちゃん?」

 穂海は僕のことをそんなふうには呼ばなかった。


654: 2017/07/30(日) 23:00:55.86 ID:bDeKvJGbo

 穂海。

 姉は愛奈の父親である元夫と離婚したのち、再婚し、穂海を産んだ。

 そして今、夫と、穂海と、三人で生活している。
 愛奈だけを残して。

 僕はそれをまちがいだと思った。

 そんなのはどこか変だ、いびつだ、おかしい、あってはならない、と思った。

 けれど……。

 どうして穂海がここにいるんだ?

 どうして穂海が僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだりする?

「お姉ちゃんは?」と僕は試しに聞いてみた。

「お姉ちゃん?」

 穂海は首を傾げる。

「……誰のこと?」

「誰って、愛奈だよ」

「……お兄ちゃん、どうしたの?」

 僕は立ち上がった。


655: 2017/07/30(日) 23:01:24.41 ID:bDeKvJGbo


「お兄ちゃん、その人たち誰?」

 穂海はすみれとあさひを見上げた。

 こんなに滑稽な話があるものだろうか?

 碓氷遼一がどうしてあんな人間なのか。
 どうして僕はあんなにも、彼に相容れない印象を覚えたのか。
 
 結局のところ何もかもがはっきりしていた。

 この世界には愛奈はいないのだ。

 愛奈がいない世界で、僕はずいぶん幸せそうだ。

 愛奈さえいなければ、何もかもうまくいったみたいに。

 きっと姉は、母との間に何のしがらみも持っていないだろう。
 穂海もまた、祖父母に愛されて過ごしているのだろう。

 この世界の僕は、僕として生きているのだろう。
 平然と。
 当たり前に。

 問題なんてなにひとつないかのような顔で。


656: 2017/07/30(日) 23:02:19.34 ID:bDeKvJGbo

 そんなことが許されていいのか?

 僕たちがその場から離れてすぐに、後ろから声が聞こえた。

 振り返ると、碓氷遼一がこちらを睨んでいた。
 少し、怯えているようにも見える。

 僕はその姿を、ただ、なんとなく、見つめる。

 赤の他人でも見つめているような、
 でもどこか、何か大切な、忘れてはいけないものが宿っているような、
 そんな姿を。

 彼は穂海の手を掴んだ。

 彼のような素直さで、僕は愛奈を愛しているのだろうか?

 僕と彼とで、何が違った?

 僕はどこで間違えてこんな生き物になった?

 どうして僕は、こんなところに来てしまったんだ?

 何もかもがわからない。


657: 2017/07/30(日) 23:02:45.78 ID:bDeKvJGbo



 その日の夜、僕らはあさひの家で休んだ。

 翌朝あさひは夢を見なかった。

 テレビのニュースでも、誰かが刺されたなんて情報は流れてこなかった。

「ねえ遼一、あのとき、あいつとどんな話をしたの?」

 すみれはそのことについて聞きたがったけれど、僕はうまく説明できなかった。

「でも、とにかく止まったみたいね」

 たしかにその通りだった。あさひはもう夢を見なくなった。
 でも、考えてみればおかしな話だ。

 どうしてあさひは、沢村の目線の夢を見たのだろう?

 どうして沢村が殺そうとした人々の夢ばかり見たのだろう?

 この街には、氏んでしまう人間なんてたくさんいるはずなのに。
 これからも、たくさん氏に続けるのに。
 どうしてあさひは、沢村に関わる氏だけを前もって教えられたのだろう?

 きっと、どれだけ考えても、正解なんてないんだろうと僕は思った。

 世界がふたつある理由を、あのざくろという女の子すら知らないのかもしれない。
 
 僕たちは、「なぜ」を知ることができない。
 物事はいつだって、ただそうあるだけのもので、
 僕たちがしているのは、ただ解釈でしかない。
 
「とにかく、遼一が止めてくれたってことなんだよね」

 すみれはそう言って話をまとめた。

「違うよ」と僕は言った。

「僕は何もしてない」

 その言葉を言った瞬間、僕は本当に泣きそうになってしまった。
 僕は何もしていない。ただ振り回されていただけだ。


658: 2017/07/30(日) 23:03:13.56 ID:bDeKvJGbo




 僕たちはあさひのいれてくれたコーヒーを飲みながら話をした。
 これが夢だったらどんなにいいだろうな、と僕は思った。
 
「これからどうするの?」

 あさひにそう訊かれたときも、僕はうまく返事ができなかった。

「帰るよ」とかろうじて返事ができた。
 
 荷物を整理しなければいけないな。
 
「方法は?」

「分からないけど、でも、見つかると思う」

 そんな話をしながら、僕の頭をよぎっていたのは、沢村の言葉ばかりだった。

 元通りの時間に帰れるとは限らない。
 
 そもそも、帰ってどうする?
 お前は帰りたいのか?

 僕のことなんて誰も待っていないかもしれないな、と僕は思った。
 
 でも、それも仕方ないことだろう。
 いつまでもあさひに迷惑をかけているわけにもいかない。

「とにかく、探してみないことにはな」

「そっか」とあさひはあっさりと頷いた。

「いろいろありがとう。がんばってね」
 
 ありがとう、がんばってね、か。
 用済みって意味だ。

 なんて、そこまで卑屈でもないけれど。


662: 2017/08/19(土) 00:34:53.20 ID:h/9wnguTo




 僕とすみれはあさひの家を後にして、夏の街を静かに歩いた。

 誰も彼もが僕に比べるといくらかマシな顔をしているように見えた。
 程度の差こそはあれど、僕ほどろくでもない顔をしていそうな人間はそういないだろう。 
 なにせ、鏡を見なくても自分でそうだと分かるくらいなのだ。

 抱え込んだ荷物、着まわした服、充電の切れた携帯電話、MDプレイヤー。

 いつ戻ってきてもいい、とあさひは言った。
 あてがなかったら今晩だって、と。でも僕は、もうあさひの家には戻らないだろうと思った。
 二度とあさひに会うことはないだろう。そんな確信に近い予感が僕の胸のうちにはあった。

 僕とすみれはあてもなく八月の街を歩いた。

 空には押し潰したようなはっきりとしない灰色雲がのっぺりと広がっていた。
 太陽が隠れたせいでくすんだ街の色彩は、その雲と相まって平坦な印象をもたらした。

 陽の光が届かない空の底で、僕たちは迷子の蟻のように歩くのをやめられない。


663: 2017/08/19(土) 00:35:32.27 ID:h/9wnguTo

 沢村翔太が言っていた話を、僕はなぜかすみれにするつもりになれなかった。

 この世界の仕組み、ざくろのこと、沢村のこと、その全部が、言ってはいけないことのような気がした。

 ねえすみれ、きみはあっちに帰りたいか?

 そう訊ねてみたかった。

 あんたはどうなの、と、そう聞かれたとき、答えが思いつかないからだ。

 沢村は、ざくろには願いを叶える力はないと言った。
 
 ただ、世界がふたつに分かれていて、それを僕たちは願いが叶ったように錯覚しているだけだと。

 本当だろうか?

 なら、どうして、愛奈がいないんだろう?
 愛奈だけがいないんだろう?

 碓氷遼一がいた。
 沢村翔太がいた。
 篠目あさひがいた。
 生見小夜がいた。
 穂海さえも、そこにいた。

 それなのにどうして、愛奈だけがいないんだ?

 この世界がふたつに分かたれていることには、意味がないのだろうか?
 あるのだとしたら、どうしてそこに愛奈だけがいない?

 僕は、この世界から何を汲み取ればいい?

 どこにいけば――心の底から笑うことができるのだろう。

 僕は贅沢を言っているんだろうか。
 沢村の言ったように、僕はただ不幸ぶっているだけなのかもしれない。


664: 2017/08/19(土) 00:36:30.93 ID:h/9wnguTo

 僕がやらなければいけないこと。
 僕がしたいこと。

 僕が望んでいること。
 僕が欲しかったもの。

 そのどれもがなんだか、とても陳腐でありふれていて、簡単に掻き消えてしまいそうに思える。

 アーケード街の外れのコンビニに立ち寄って、すみれは久し振りに煙草を吸った。
 僕も一本分けてもらった。

 八月の終わり頃、もう景色は秋に近付いていく。
 街路樹の緑さえも、少しずつ褪せていく。

 でも、それは僕には関係のないことだった。
 
 夏が過ぎ秋が来ようと、それは僕には関係のない夏で、僕には関係のない秋だ。

 僕の居場所はここではない。

 でも、だったら、どこがそうだと言うんだろう。

 いったいどこに、僕の居場所なんてあるというんだろう。


665: 2017/08/19(土) 00:37:11.02 ID:h/9wnguTo

 僕は、愛奈にそれを求めていたのかもしれない。

 彼女が、僕の居場所になってくれること。
 僕を必要としてくれること。

 でも、愛奈もいつか、大人になるだろう。
 僕の力なんて必要としなくなるだろう。

 僕以外の誰かに手を差し伸ばされて、そっとその手を受け取るだろう。
 僕はそれを止められないし、止めたくもない。

 そうなるのがきっと、愛奈にとって良いことだから。
 でも、そのとき僕は、何もない僕は、どうすればいい?

 どこにいけばいい?

 誰がいてくれる?

 僕には何もない。

 僕は……。

 煙草が燃えている。灰になっていく。煙が体の中に沁みていく。
 それを眺めているだけだ。


666: 2017/08/19(土) 00:37:53.48 ID:h/9wnguTo


 不意に、風が吹き抜けて煙を巻いた。

 空耳だろうか?
 誰かが僕の名前を呼んだ気がした。

「どうしたの?」とすみれが言う。

 僕は首を横に振った。

「いや」

 空耳に決まっている。
 僕の名を呼ぶ人なんて、この世界には誰もいない。

 いたとしても、それは、僕ではない僕を呼んでいるだけだ。

 けれど、そのときもう一度風が吹いた。

 声が、何かの声が、耳に届いたような気がする。

「すみれ」

「ん?」

「いま、何か聞こえた?」

「……さあ。風の音なら」

「……そっか」


667: 2017/08/19(土) 00:38:20.50 ID:h/9wnguTo

 小夜啼鳥の物語を思い出す。

 僕は何を期待しているんだろう。
 作り物の夜鳴きうぐいす。ナイチンゲール。

 誰かが僕に何かを呼びかけた。
 そんな気がしただけだ。その声は、どちらにしても僕には聞こえなかった。

 ただ風が吹き抜けただけだ。

「――」

 そう思ったのに、不意に僕の視界を、ひとりの少女がかすめた。

 最初は勘違いだと思った。僕の知っている彼女と、着ている服が違ったから。

 でも、そうとしか思えない。僕は何かを言おうとして、すみれに声をかけようとした。
 そのときには、すみれが声をあげていた。

「――ざくろ!」

 僕達の前を横切っていった少女は、そんな声はまるで聞こえていないみたいに通りの向こう、人混みの中へと歩いていく。
 
 その後姿を、すみれは呆然とした様子で眺めていたけれど、やがてこらえきれなくなったみたいに駆け出した。

 僕は少しの間、どうしたものか考えた。すみれを追おうと思わなかったわけじゃない。
 でも、何かが僕の足を動けなくさせていた。

 身動きが取れるようになった頃には、すみれの姿は僕には見えなくなっていた。

 後ろから肩を叩かれたのもそのときだ。

 驚いて振り返った先に、さっき通り過ぎていったのと同じ顔がにっこりと笑っていた。

 黒衣のざくろだ。

「こんにちは」と彼女は言った。

 僕はその一瞬で、何かを悟ったような気になってしまった。

「こんにちは」と返事をした。


670: 2017/08/22(火) 00:28:01.18 ID:Scz7BVnko



 さざめき立つ街並みの中で、僕達は灰皿を挟んで隣り合って並んだ。
 
 すみれのことを追うべきなのかもしれない。僕はそう考えている。
 この世界で一度はぐれてしまったら、僕は二度とすみれと会えないかもしれない。

 でも、追う気にはなれなかった。
 すみれが気にならなかったわけじゃない。でも、それ以上に、この子に確認したいことがあった。

「ずいぶんと久し振りな気がするね」

 手始めに、僕はそう声をかけた。

「そう?」とざくろは不思議そうな声をあげる。

「ほんの少しだよ」と。あるいは本当にそうかもしれない。

「僕はきみのことを探していたんだよ」と、そう言ってみた。
 でも、それは半分くらいは嘘だ。どうでもいいから、そう言ってみただけのことだ。


671: 2017/08/22(火) 00:28:27.49 ID:Scz7BVnko

「いくつか質問があるんだけど」と、僕が言おうとしたのと同じことを、ざくろは僕に訊ねてきた。

「いい?」彼女は僕の方を見ていた。僕は少し考えてから頷いた。

「どうぞ」

「そう。ありがとう」

 彼女は僕にそうお礼を言ってから、手に持っていた缶コーヒーのプルタブをひねってあけた。

「あなた、何かした?」

「"何か"?」

 言葉の意味が分からず復唱すると、彼女はうかがうように僕の顔を見た。

「ううん。ちょっと変な感じがしてね。気のせいなのかもしれないけど、何かが入ってきた感じがしたの。あなたのところに」

「……何かって、何?」

「それがわからないから聞きたかったの。でもいい。知らないみたいね」

「……他の質問は?」

672: 2017/08/22(火) 00:29:44.84 ID:Scz7BVnko

「うん。こっちに来て、どう?」

「どう、って?」

「楽しめてる? あなたの願いが叶った世界」

 ざくろは白々しく笑ってコーヒーに口をつけた。
 僕は溜め息をついた。

「僕の方からもいくつか質問してもいいかな」

「どうぞ」

「きみは誰?」

「わたし? わたしは、ざくろ」

「そう。前も聞いたね。すみれの妹さんも、そういう名前らしい。きみにそっくりだって」

「ふうん。そう」

 特に興味もないというふうに、ざくろはそっぽを向いた。

「それはそうでしょうね。だって、わたしがそのざくろだもん」

「……"どっち"の?」

「あえていうなら――」とざくろは素直に応じてくれた。

「あっちのざくろ」

「次の質問をしてもいい?」

「どうぞ」


673: 2017/08/22(火) 00:30:57.39 ID:Scz7BVnko

「きみは何が目的で、こんなことをしてるんだ?」

「失礼な言い方。わたしはただ、みんなの望みを叶えてあげたいだけ」

「沢村翔太に会ったよ」

「……誰、それ?」

「きみが連れてきたうちの一人だよ」

「そう。そんな人もいたかも」

「彼が言うには、きみには人の望みを叶える力なんてないらしい」

「――」

 ざくろの表情が、ほんの少しだけ不快そうに歪んで見えた。

「きみにはただ繋ぐことしかできない。そう言ってた。僕にはよく分からなかった。でも、考えてみれば納得もいくんだ」

「……どうして?」

「僕と沢村が同じ世界にいたからだよ」

「……」

「僕の願いを叶えた世界と、沢村の願いを叶えた世界、そのふたつが一致していたからってわけじゃないだろうね。
 単に、きみが僕達を運べる先が、この世界がなかったから、と考えた方がしっくり来る」

「……」

「つまりきみは、僕たちをからかっていただけなんだろう?」

 ざくろは何も言わない。僕はそれを答えだと思った。


674: 2017/08/22(火) 00:31:29.88 ID:Scz7BVnko

「昔ね、一匹の猫がいたの」

 ざくろは不意に、そう話し始めた。僕たちの周囲にはいまだ絶えない雑踏が当たり散らすように響いている。
 
「その猫を助けた女の子が氏んでしまった。世界は女の子を失ったまま、ずっと続いていた。
 でもね、あるとき、ひとりの男の子が現れたの。その子は知らず知らず、ずっと後になってから、再びそこに立ち戻った。
 ……言っている意味、分かる?」

 何の話かはわからない。僕が首を振ると、ざくろはこう言った。

「一度去った時間を、再び訪れたの」

 ……つまり、過去に戻った、という意味だろうか。

「そしてその男の子は、ううん、その男の子じゃないんだけど、分かりやすく言うと、その男の子は、
 その女の子を助けてしまった。猫は轢かれて氏んでしまった。それが最初」

「……」

「そのときから、世界はふたつに分かれたんだって。たくさんの場所を行き来したから、わたしはその光景を見ることもできた」

「……世界が、ふたつに分かれた」

「そう。猫が氏んだ世界と、猫が氏んでいない世界」

「そんなことがあり得るの?」

「それを問うことに意味があると思う?」とざくろは大真面目に言った。

「現にあなたは世界をふたつ眺めているのに?」

 僕は一瞬呆気にとられて、それから笑った。

「たしかにね」


675: 2017/08/22(火) 00:32:06.87 ID:Scz7BVnko

「その男の子がそうだったように、あるいはわたしがそうなってしまったように、そういう不自然な力を持ってしまう人はたくさんいるみたい」

「不自然な力」と僕は繰り返した。不自然な力、不自然な力。

「ふたつの世界を繋ぐことができるのも、わたしが最初じゃないみたいだし。
 あの子たちはふたりでひとつだったから、片方が氏んじゃってからできなくなったみたいだけど。それにわたしみたいに、時間までは変化しなかった。
 ああ、ううん。この今はまだ、彼女は生きてるか」

「……なるほど」

 さっぱりわからないけれど、理解できそうにもなかったので、わかったふりをして話を続けることにした。

「つまり、種は二つあるわけだ。不自然な力と、分かたれた世界」

「そう。おもしろいでしょう?」

「そしてきみの力は、世界と、時間を、移動する力?」

「そう。そして、誰かを巻き込むこともできる」

「当然、願いを叶える力なんて持っていないわけだ」

「そう。あの抽象的な世界のことは、わたしにもよくわからないけど、たぶん、あなたが言った通りのものだと思う」

 心象風景――。

 そして、ざくろの言葉が真実ならば、この世界の在り様は……。

「バタフライエフェクト」

「そう。なんだかあなたとは、趣味が合いそうね」


676: 2017/08/22(火) 00:32:35.88 ID:Scz7BVnko

 初期値鋭敏性。
 
 猫が生きるか氏ぬか、少女が生きるか氏ぬか。

 その些細な変化から始まって、世界にはあらゆる変化が起きた。

 結果、この世界には愛奈がいない。穂海は当然に、この世界の僕と一緒にいる。
 
 穂海は穂海という名前で、僕は僕のままで、愛奈だけがいない世界。

 おかしな世界。
 不自然だという気もする。
 
 でも、そうと言われれば、そうとしか思えない。

 そこにざくろのような存在が介入する。

 あちらの世界から姿を消し、こちらの世界を訪れる人間が現れる。
 そうしてさらなる変化が加わる。

 互いが繋がった状態が、既にひとつの世界になってしまったように。

 これは悪意でもなんでもない、ただほんの少しいびつなだけの変化。

 この世界の僕は生見小夜と一緒に歩き、
 この世界のあさひは僕と同じ委員会ではなく、
 この世界の姉は僕たちと一緒に暮らしている。

 そのすべては、何の作為でもなく、ただ、結果的にそうなってしまっただけの話。


677: 2017/08/22(火) 00:33:15.34 ID:Scz7BVnko

 きっと、そうなんだろうな。
 なるほど、としか今は思えない。

 分かっていたことだ。

 僕が生きていることにも、愛奈がいないことにも、なにか劇的な理由があるわけじゃない。

 僕はただここに来てしまっただけの人間で、そこには何の意味も理由もない。

 ここに来るべきではなかった。

「ねえ、あなたは後悔してるの?」

 僕は正直には答えなかった。

「そういうわけじゃない」

 でも、知らなければよかった、と思った。
 こんな世界が存在することを、知りたくはなかった。
 
 僕があんなふうに生きていた世界が存在することを、知らなければよかった。
 そう思った瞬間、僕の胸にふとひとつの疑問が浮かんだ。

「きみは……何がしたかったの? 本当に、僕らをからかっているだけだったの?」

 彼女は口を閉ざして、そのまま微笑みを浮かべた。


678: 2017/08/22(火) 00:33:46.73 ID:Scz7BVnko

「……ねえ、帰りたい?」

「……」

「あなたは帰るべきだって、わたしは思う」

「そうかもしれないね」

「今、あなたを送り帰すことができる。どうする?」

「今?」

「そう。今。これを逃したら、いつになるかわからないし、わたしの気が変わってしまうかも」

「どうして、今、そんなことを言う?」

「もう十分に、堪能してくれたみたいだから」

「……すみれは」

「心配しないで」とざくろは言う。

「あれでもわたしの姉だもん。悪いようにはしない。すぐに帰ってもらう」

 そのときのざくろの笑みには、何か昏いものが含まれているように見えたけれど、僕にはそれがなんなのか、よく分からなかった。

「……帰るよ。僕も、帰るべきなんだと思う」

 そうだ。
 これ以上こんなところにいても仕方ない。
 この世界には、何の用事もない。僕の願いが叶った世界でもなんでもない、こんな他人事の世界には。


679: 2017/08/22(火) 00:34:21.57 ID:Scz7BVnko





「少し、目を瞑ってくれる?」

 そう言って彼女は僕の手をとった。
 刺された傷が、今になってほんのすこしだけ痛んだ。

 瞼を閉ざす。

「開けて」と彼女は言った。

 そのときにはもう、僕はあの、一度見た奇妙な場所にいた。

 あの、地下貯蔵庫。

 背後には扉がある。
 
 あたりは真っ暗闇だ。

 ざくろの言葉を信じるなら、ここは既に僕の心象風景。

 このからっぽの真っ暗闇が。

「出口までは、案内してあげる」

 そう言って、ざくろは近くにあった燭台を手に取ると、マッチを取り出して火をつけた。

 あっさりとしたものだな、と僕は思った。
 そんなものなのかもしれない。



680: 2017/08/22(火) 00:34:48.62 ID:Scz7BVnko

 ざくろの先導に従って、僕は歩き始めた。

 埃っぽい、黴臭い空気の中、僕は隣にすみれがいないことをほんのすこしだけ寂しく思った。

「すみれのことなら、大丈夫。わたしが全部伝えておくから」

 ざくろはこちらを見ずにそう言った。

「ねえ、沢村が言ってたのを聞いたんだけど、もうひとつ質問があるんだ」

「なに?」

「きみはたしかに、世界を繋ぐことができる。でも、その繋いだ先の時間は、大きくズレることがあるって」

「……うん」

 ざくろは否定しない。

「だったら僕も、元いた時間には帰れないのかな」

 ざくろは考えるような間を置いた。

「わからないけれど、でも、大抵の人の時間が大きくズレるのは、その人達が行きたい時間を持っていないからだと思う。
 だから、あなたの場合は平気だと思う。帰りは、もとの時間に行くことが多いの」

「もうひとつ、質問してもいい?」

「なに?」

「すみれと僕は、一緒に帰ることはできなかったの?」

「できなくはないけど……」ざくろは少し言いにくそうにした。

「でも、さっきは一緒にいなかったでしょう?」

 なるほどな、と僕は思った。

「さっきから、どうしたの?」

 ざくろはまた前を向き直った。僕は蝋燭の灯りがちらちらと揺れているのを眺めながら、言葉を続けた。 

「――きみは嘘をついているよね?」


681: 2017/08/22(火) 00:35:41.13 ID:Scz7BVnko

 ざくろが、ゆっくりとこちらを振り返った。その表情からは、何の感情も読み取れない。

「どうしてそう思うの?」

「そんなにたいした疑問じゃない。根拠も、そんなに多くもない。でも、さっきからきみの言葉は不自然だ。
 すみれと僕が一緒に帰れたなら、どうしてすみれと僕が一緒にいたときに姿を現さなかったんだ?」

「それは、たまたまはぐれたときに会ったから……」

「違うね」と僕は言った。反駁する隙を与えないように、口を動かす。

「きみは僕とすみれが別行動するタイミングを狙っていたんだ。僕がひとりになる瞬間を」

「……いきなりどうしたの?」

「そして、きみは僕だけを先に元の世界に帰してしまいたかった。僕が厄介だったんだ。
 すみれに対して何かをするために、きみは、僕にいられると不都合だった。違う?」

「……」

「いったい何をするつもりなんだ?」

「ここまで来て、今更それを言うのね」

「正直、してやられたよ。目を瞑るだけでここまで戻ってくるなんて思ってなかった。
 それに、気付くのも遅れた。だけど、さすがに見過ごせない。きみはいったい、何を企んでいるんだ?」


682: 2017/08/22(火) 00:36:25.11 ID:Scz7BVnko

 僕は立ち止まる。ざくろもまた、僕を待つように足を止めた。
 暗闇の中で、彼女の姿の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がり、足元にだけ闇と同化する影を作っている。

 ふう、と短く、ざくろが溜め息をついた。
 ほんの少し、また、何かを考えるような間をおいて、彼女は口を開く。

「本当は、誰もに言いたい話ではないんだけどね」

 そんな前置きをしてから、ざくろがこちらを向き直った。

「言っても、ピンと来ないでしょうけど……あなたと一緒の時間にすみれが帰ってしまうと、少し困るの」

「……どうして?」

「わたしが氏んでいるからよ」

 ざくろは表情もろくに変えずにそう言った。

「わたしは父に殺されるの。すみれがバイクでどこかに出かけているときに。
 ううん。あなたとすみれがこの世界にやってきた夜に、わたしは父に殺されたの。
 そして父に殺されてから、わたしはこういう存在になった」

「……」

 僕の頭は、その言葉の意味をよく理解できなかった。
 目の前にいる少女が、急に得体の知れない怪物のように見え始める。


683: 2017/08/22(火) 00:37:02.52 ID:Scz7BVnko

「それは……おかしい」

「どうして?」

「きみがあの夜に氏んで、そういう存在になったんだとしたら、おかしい。
 だって、きみはあれ以前からも、僕たちのような人間をこっちに繋いでいたんじゃないのか?」

 かろうじて頭を働かせながら、僕はどうにかそう訊ねた。
 ざくろの答えはシンプルだった。

「わたしは時間から解き放たれた。わたしの時間はもう、あなたたちと同じようには流れていない。
 普通の時間が一本の線だとしたら、わたしの時間は二本の線を無作為に行き来する、線と線とを結ぶ線。
 だから、あの夜にあなたたちと出会ったわたしは、あの夜に生まれたばかりのわたしではなかった」

「……言っている、意味がわからない」

「だからね、わたしはすみれを、あなたの時間に帰したくないの。
 だってそうでしょう? 自分が逃げ出している間に妹が殴り殺されていたなんて、そんなにショックなことはないじゃない?」

「……」

 僕はうまく答えられない。説明されたことのすべてが、なんだか本の中の出来事のように現実感を伴わない。

「これでいい? だからわたしはこう言ったの。"悪いようにはしない"って。だって、わたしのお姉ちゃんだもの」

 ざくろはそれだけ言うと、自分の言った言葉を振り払おうとするみたいに歩くのを再開した。

 僕はもう何も言わずに、彼女の後を追いかけた。


684: 2017/08/22(火) 00:37:32.09 ID:Scz7BVnko

 そのとき、不意に僕の足が何かに躓いた。

 音に気付いたのか、ざくろは立ち止まってくれる。僕は蝋燭の灯りで、その何かの正体を見た。

 それは写真立てだった。
 中には、セピア色に褪せた一葉の写真が入れられている。
 僕は吸い込まれたようにその写真立てを手に取った。

 映っているのは、僕と、姉と、それから愛奈だった。
 
「どうしたの?」とざくろの声が聞こえた。

 不意に僕は泣いてしまいたくなった。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう?
 どこで間違ってしまったんだろう?

 それが、本当に、ただ、一匹の猫の生氏を境に、食い違ってしまうだけのものに過ぎなかったのだろうか。
 そう思うとたまらない気持ちになった。

 姉さん。
 愛奈。


685: 2017/08/22(火) 00:38:00.18 ID:Scz7BVnko

 巻き戻しの方法はないのか? やり直すことはできないのか?
 どうしてこんなことになってしまったんだ?

 僕はその場に膝をつき、写真立てを地面に落とした。
 顔をあげることもできないまま、ただぼんやりと、頭の中をさまざまな言葉がよぎるのを、ずっと止められずにいるだけだった。

 もう、どこにも行きたくないような気がした。
 ずっとこの場に、ただ蹲っていたい気分だった。

 僕は、ほんの少しの間だけ、本当に涙を流した。

 ふたたび僕が立ち上がったのは、何かの覚悟を決めたから、というわけではない。

 ただ、衝動のような強い感情が、胸のどこか昏い部分から、滲み出てくるのを感じる。

「ねえ、ざくろ――」

 僕の声は、自分でも分かるくらいに冷えていた。
 それでも、そうしないわけにはいかなかった。

 ざくろは、僕の言葉を待っている。何も言わずに、ただじっと待っている。
 だから僕は、もう体の内側にその考えをとどめ続けることができなかった。

「――ひとつ、お願いがあるんだけど」


686: 2017/08/22(火) 00:38:32.08 ID:Scz7BVnko
つづく
開かない扉の前で¬[Jerusalem] S
687: 2017/08/22(火) 09:01:29.48 ID:lGorYEpT0
おつです

引用: 開かない扉の前で