722: 2017/09/11(月) 00:25:18.53 ID:NPrJqGUeo
最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a
前回:開かない扉の前で¬[Jerusalem] S
∴[Dorian Gray]K/b
理由があったわけじゃない。
きっかけがあったわけでもない。
それでも、嘘でも誇張でもない。
自分が、自分を取り巻く景色が、
何が足りないわけでもなく、何が欠けているわけでもなく、
それなのに、
俺は、ただ、憂鬱でしかたなかった。
なんとなく。
わけもなく。
嫌いというのとは違う。憎いと言っても、もちろん違う。
楽しめないわけでもないし、何もかもに価値がないと悲観しているわけでもない。
ただ、なんとなく、どこか遠いような、何か隔たりがあるような、そんな奇妙な感覚。
起きながら眠っているような、夢を見ながら醒めているような、あるいはそれは、たとえるならば、
一枚の皮膜。
その一枚の皮膜が、俺の視界をときどき覆う。
723: 2017/09/11(月) 00:25:52.05 ID:NPrJqGUeo
夕方のニュースが、救急車のサイレンが、月曜の朝の曇り空が、真夜中に観た映画が、
誰かと過ごした思い出が、いつか読んだ本の些細な台詞が、地下鉄の吊りが、
ダムの傍にある「いのちの電話」の看板が、コンビニの優先で流れるポップソングが、
全部が鋭い刃物みたいに、やけに刺さって仕方なかった。
棘みたいに付けなくて仕方なかった。
その棘が、いつのまにか俺の中で少女のイメージをとった。
どこかで見たというわけではない、現実に見たというわけでもない。
ドラマや映画や小説や漫画や、そんなありとあらゆるもののなかの、
その『傾向』と『性質』を備えたものを寄せ集めて作り上げられたような、
ひとりの、泣いている女の子。
きっと、誰の中にもいる、俺の中にもいる、ひとりの少女。
彼女の視線を、俺はふとした瞬間に感じる。
振り返っても、その姿はない。ただのイメージなのだから、当たり前だ。
でも、彼女はいる。
夕方のニュースや、動物の氏体や、あるいはもっと日常的な風景の一部として。
空気に混じった塵のように、いろんなものに形を変えて、その少女は世界に存在し続けている。
724: 2017/09/11(月) 00:26:18.09 ID:NPrJqGUeo
◇
屋上の合鍵は、そもそもは俺の持ち物ではなかった。
去年生徒会長をしていた先輩が、職員室に出入りできるのを良いことに、屋上の鍵を持ち出して合鍵を作った。
そうして鍵を作った彼女は、その鍵を一回千円でカップル相手に貸すことで金を儲けていた。
それに満足すると、彼女はそれを俺によこした。
俺は選ばれたわけではなく、彼女がその気になったときに、たまたま彼女の近くを通りかかっただけにすぎない。
「内緒だよ。これがバレたら、大変なことになるから」
誰にも言わない、って、約束してくれたら、あげるよ。
そうして俺は、開かないはずの扉を開ける鍵を手に入れた。
偶然。
すべて、偶然なのだと思う。
初期値鋭敏性。
俺はたまたま、屋上に至る扉を開ける鍵を手に入れた。
授業をサボって昼寝をする癖がついた。
そして、ふとした瞬間、碓氷愛奈が俺の領域にひょっこりと顔を見せた。
725: 2017/09/11(月) 00:27:04.09 ID:NPrJqGUeo
◇
自分でノブをひねって扉を開けたくせに、彼女は扉が開いたことが不思議でしかたないような顔をしていた。
そうして俺が煙草をふかしているのを見て、なんだか変な顔をした。
まるで俺を見た瞬間に、何か別のものを見つけたみたいな顔だ。
俺もまた、彼女を見た瞬間、何かを思い出しそうになった。
その目が、表象の少女に似ていた。
碓氷愛奈は、普通に笑い、普通に喋り、普通に過ごす、普通に振る舞う、けれどどこか寂しそうな女の子だった。
でも、寂しそうな女の子なんてどこにでもいる。抱えこんだ寂しさなんてありふれている。
だから、たぶん、そこじゃない。
俺が碓氷愛奈を特別に思ったのは、それが理由じゃない。
それは理由のひとつだったかもしれないけど、すべてじゃない。
俺はその答えを知っている。
時間だ。
726: 2017/09/11(月) 00:27:38.40 ID:NPrJqGUeo
◇
誰にも告げ口をしない、という条件で、屋上の共有を持ちかけてきた碓氷愛奈は、
少しすると当たり前のような顔で俺の時間に割り込んでくるようになった。
自分でも意外なことに、俺はそれを不愉快とは思わなかった。
ただ、自分が不愉快に思っていないという事実に、少しだけ苛立った。
まるで誰かにかまってほしかったみたいじゃないか。
ひょっとしたら、それは事実かもしれないけれど。
そんな俺たちは、べつに他人同士の関係から進もうとも思わなかった。
彼女はべつに俺と友達になりたかったわけではなく、俺の方もそうだった。
だから平気だったのかもしれない。
彼女が近くに居ても、鬱陶しくなかったのかもしれない。
要するに、彼女は俺に興味を持っていなかったし、興味がないのに興味があるふりをしたりもしなかった。
ただの暇つぶしのように、俺たちは話をしていた。
今にして思えば、罠だった。
あらゆるものは、最初から特別なわけじゃない。
時が経つにすれ、その重大性が増していく。
ふと見た花よりも、育てた花が愛しいように、
見ず知らずの猫の氏よりも、飼い猫の氏が悲しいように、
暇つぶしでやっていたことが、いつのまにか自分から切り離せない性質になるように、
反復した感情が、そのとき以上のものに膨らんでいくように、
時間がすべてを変える。
碓氷愛菜は、俺にとって、他の誰かとなんら変わるところのない、いてもいなくてもいいような存在だった。
そして、何かの転機があったわけでもなく、理由やきっかけがあったわけでもなく、俺たちはただなんとなく過ごし続けた。
だから、俺は気付きすらしなかった。
碓氷愛菜のことなんてなんとも思っていないと、俺はそう思い続けてきた。
727: 2017/09/11(月) 00:28:19.68 ID:NPrJqGUeo
◇
「名前、なんていうの?」
彼女がそう問いかけてきたとき、俺も彼女の名前を知らなかった。
べつに知ろうとも思わなかった。それは、そんなに重要なことではないように思えた。
何組なのかとか、部活はどこで委員会は何だとか、得意や苦手がなんだとか、期末テストの順位とか、そんなことはどうでもいいことに思えた。
話をされたら聞いたかもしれないし、覚えたかもしれない。
でも、実際、そのときまで、名前のことが話題になることはなかった。
俺は彼女の質問に答えなかった。
「ねえ」
俺が彼女の質問を無視するのは、よくあることだった。そのたびに彼女は、俺の肩を揺すった。
どうでもいいことでも。どうでもいいことなら特に、彼女はそうした。それ自体が目的みたいに。
俺はやっぱり、そうされるのが不思議と不愉快ではなかった。
この理由は説明できると思う。
他の人間の言葉は、俺に裏側の痛みを感じさせることが多く、彼女の言葉はそうではなかった。
彼女の棘は外ではなく内に向いていた。だから、俺には刺さらなかった。
そういうことなのだと思う。
だから、俺は彼女が不愉快ではなかったのだと思う。
もちろん、こんなのは全部、後付の理屈でしかないのかもしれないが。
728: 2017/09/11(月) 00:29:21.99 ID:NPrJqGUeo
「ねえ、名前……」
本当は名前なんてどうでもよかったんだけど、俺は教えなかった。
どうでもいい質問をされるたびに、俺は答えない。彼女は不満そうにする。
俺はそれを楽しんでいた。いつのまにか。
「当ててみたら」
と俺は言った。
彼女は少し考えた素振りを見せてから、
「佐々木小次郎」
と真顔で言った。俺は笑わなかった。
「ハズレ?」
「当たると思ったのか」
「じゃあ宮本武蔵?」
「……」
「今度から武蔵くんって呼ぶね」
「……慶介」
「ん?」
「佐野慶介」
「慶介……」
くだらないノリに気恥ずかしくなって、思わず明かした俺の名前を、彼女は響きをたしかめるみたいに繰り返した。
「わたし、碓氷愛奈」
「へえ、そう」
729: 2017/09/11(月) 00:30:10.89 ID:NPrJqGUeo
「慶介、くん。慶介くん。ふうん」
「なんだよ」
「なんでもない。ふうん。慶介くん、ね」
「俺がつけたわけじゃない」
と思わず俺は言い訳した。
「親がつけたんだ」
「べつに文句なんて言ってないでしょ?」
「何か言いたげだったろ」
「べつに、普通の名前だと思うけど」
「……そうかよ」
「ケイ、くん、かな」
「なにが」
「呼び方」
「なんで」
「だって、なんか、慶介くんって、そぐわない」
「……文句じゃないのか、それは」
「そうじゃなくて、その呼び方が、この場にね」
「……何が言いたいのか、わからないんだけど」
「符牒があったほうが楽しい」
「そうかい。よろしく、あーちゃん」
「それ、わたしはべつにいいけど、ケイくんは平気なの?」
俺の方が平気じゃなかったから、その呼び方は二度と使っていない。
俺は碓氷愛奈には負けっぱなしだった。
730: 2017/09/11(月) 00:30:55.87 ID:NPrJqGUeo
◇
碓氷愛奈。
特別な存在じゃない。
みんなのうちのひとりだ。
ささやかな存在だ。
たとえば、ある日突然彼女が氏んでも、世界は傷一つ負わないだろう。
周囲の人たちに少しだけ悲しみを振りまいたあと、あっというまに忘れ去られてしまうだろう。
あまりにもちっぽけで、些細で、軽微な存在。
彼女の寂しさも、悲しみも、きっと世界にとってはよくあるもので、
取り沙汰するにも値しない、とてもささやかなもので、
彼女のそれよりも重大な問題が、きっとそこらじゅうに転がっている。
でも、俺の隣にいたのは彼女だった。
731: 2017/09/11(月) 00:31:35.80 ID:NPrJqGUeo
◇
倒れた碓氷遼一と、
泣きじゃくる女の子と、
走り去っていく誰か。
そのとき、呆然と立ち尽くしていた碓氷愛奈は、
その場で一番気にかける必要のない存在だった。
それなのに俺は、彼女のその表情を見て、
どうしても、なんとかしなければと思った。
この悪趣味な出来事の連続の、その始末をつけなければいけないと思った。
傍にいた方がよかったのかもしれない。
別の方法なら、もっとうまくいったかもしれない。
でも、俺は腹を立てていた。
いったいこの世界は、この子にどれだけ悪趣味な景色を見せ続けるんだ、と。
どんな理由があって、どんな必要があって、この子を傷つけているんだ、と。
だから俺は追いかけた。
正解だったのか、間違いだったのかは分からない。
知りたかったことを知れた、とは思う。
でも、知りたくなかった、とも思う。
それは後悔しても仕方ないことだ。
一度、開けてしまった扉。くぐり抜けてしまった扉。それはもう、閉じてしまっている。
やっぱりあっちの扉に進めばよかった、なんて理屈は通じない。
やり直しはきかない。
とにかく俺は追いかけて――碓氷遼一に出会った。
734: 2017/09/14(木) 00:35:02.46 ID:HJEIAEvso
◇
進む道はどこまでも古びていた。
古臭い家の並ぶ通り、夕焼けの下で景色は馬鹿みたいに幻想的だった。
俺は、彼の姿をあっさりと見失っていた。
曲がり角を曲がったときにはもう、背中も見つけられなくなっていた。
でも、結局、その人を見つけるのは簡単だった。
通りには路地がいくつもあった。一本道だったわけでもない。
身を隠そうとするなら、それは簡単だったろう。
あるいは、俺は見失ってしまったのだから、言い逃れでもされればそこまでだったかもしれない。
けれど、俺には彼がそうだと分かった。
きっと、俺だから彼がそうだと分かった。
735: 2017/09/14(木) 00:35:28.87 ID:HJEIAEvso
街を切り分けるような河川の上に伸びる橋。
その歩道の欄干の上で両腕を組んで、彼は水面を見下ろしていた。
あたりはもう暗くなりはじめていて、互いの顔すら影がさしてはっきりそれとは分からない。
それでも、俺ははっきりとそれが誰だか分かったし、そのことに気付いた瞬間、多少混乱した。
なにせ、さっき倒れていた人間と同じ顔をしているのだ。
細部は違うかもしれない。けれど、それは明らかに碓氷遼一だった。
悪い夢でも見ているのかと思った。
立ち止まったままの彼に近付いて、俺はその横顔を確かめる。
ここ数日で、何度か見ただけの顔。知らないはずの顔。
それがもう、俺にとってはその他大勢とは違う意味を持っている。
何も言わずに、俺は隣に並んだ。
736: 2017/09/14(木) 00:35:55.39 ID:HJEIAEvso
そうして気付く。
背丈はほとんど同じくらいだ。
顔立ちも、お互い、同年代なんだと思えるくらい。
服装だって、髪型だってそうだ。今の俺と、何も変わるところがない。
「……訊いてもいいかな」
俺は、そう声をかけてみた。
どう思うのだろう。彼には俺が、どう見えているのだろう。
同年代の普通の学生だと、思われているんだろうか。
まさか、未来から来たとは思いもよらないだろう。
「――あんた、なんて名前?」
彼はちらりとこちらを見た。まるで興味がなさそうな顔だ。
――ふと、彼の呼吸が浅いことに気付く。
「名前……」
何か感じ入るところがあったかのように、彼は繰り返した。
「名前……そうだね。誰なんだろう、僕は」
「何言ってんだ?」
「ときどき、僕は思うんだ。僕はひょっとしたら、僕が僕自身だと思っている当の人物ではないのかもしれないって。
僕は僕を僕だと思い込んでいるだけの別人なんじゃないかって。僕は、本当は、碓氷遼一じゃないんじゃないかって」
「心配するなよ」と俺は言った。
「あんたはたぶん碓氷遼一で合ってるよ。そんなことを疑い始めたらキリがない」
「きみは僕を知らないと思うけど、そう言ってもらえると安心できるよ。ありがとう」
回りくどい言い回しをする奴だ。俺はいくらか面倒になったが、一応は年上相手だ。言わずに置いた。
737: 2017/09/14(木) 00:36:25.84 ID:HJEIAEvso
「少し訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
「どうぞ」と彼は言った。俺は頷いて頭の中で言葉を整理した。
「さっきあっちで、碓氷遼一が刺されてるのを見た」
「――」
「一瞬、混乱したよ。どうして二人いるのかって。でもすぐに分かった。
あんた……『あっち』の碓氷遼一だな?」
彼は、そこでようやく、能面のようだった無表情に、ほんの少し驚きの色見を加えた。
「『あっち』、って?」
「あんたも、ざくろに会ったんだろ?」
彼は黙り込んだままだった。沈黙が、肯定のようなものだ。
「ざくろが言ってた。ここは使い回しの世界だって。『碓氷遼一がわたしのお客さん』だって、あいつは言ってた。
考えてみればそうだ。『あっち』のあんたは、こっちに来たことがあるんだ。あいつは、帰ったとまでは言ってなかった」
「きみは?」
「俺の話はあとでするよ。たぶん、話が前後するから」
「そう」
「――なんだかつらそうだな」
「気にしないでくれ」
「……そうか」
気にするなというなら、気にすることはないだろう。それにたぶん、彼の様子も、俺の質問と無関係ではない。
738: 2017/09/14(木) 00:36:58.34 ID:HJEIAEvso
「俺が訊きたいのは、どっちにしてもひとつだ。――あっちで碓氷遼一が刺されていたことと、あんたは、関係があるのか?」
「……」
「単純な質問のはずだ」
「……そうだね」
「それは、どっちだ?」
「……僕が刺した」
何かを諦めたみたいに、彼はポケットから小さな刃物を取り出した。
血が、ついている。
「ホームセンターで売ってた。アウトドア用品だね。
こっちでも六月のあれはあったみたいだから、てっきり売ってもらえないかと思ったけど、運がよかったな」
他人事みたいに、彼は言った。
ほんの少しだけ、俺は身勝手な怒りを覚えていた。
「なあ、そんなことはどうでもいいんだ。……どうして、そんなことをした?」
いや、違う。本当に俺が訊きたいのは、そんなことじゃない。
いつのまにか、俺だって知りたくなっていた。
739: 2017/09/14(木) 00:37:26.20 ID:HJEIAEvso
その疑問をうまく言語化できないうちに、碓氷遼一は答えにもなっていない答えをよこした。
「……どうして、なんだろうね」
彼は、逃げもしない。
べつに、捕まってもいいと思っているわけでもなさそうだ。
ただ、何もかもがどうでもいいみたいに、投げやりになったみたいに、彼はただ、水面を見ていた。
「よくわからない。よくわからないな……。よくわからない」
俺は何も言えなかった。何を言えるだろう。俺は彼のことなんてなにひとつ知らないのだ。
「わからないんだ。どうしてだろうね、どうしてだろう……」
耳を塞ぎたくなる。彼は何度も同じ言葉を繰り返した。
どうしてなんだ?
どうしてこんなところにいるんだ?
どうしてこんなことになったんだ?
わからない。わからないな。
740: 2017/09/14(木) 00:37:58.41 ID:HJEIAEvso
「きみもざくろに会ったのか?」
やがて、さっきまでの話なんて忘れたみたいに、彼はそう訊ねてきた。
まるで、本当に、刺したことなんて忘れたみたいに見えた。
今話していたことを全部、忘れてしまったみたいに。そのくらい、彼の表情には、不思議な静寂があった。
「きみはもう知ってるかな。どうなんだろう。ねえ、ざくろには、人の望みを叶える力なんてなかったんだ。
この世界は、ただ、分かれてしまったふたつの世界で、ざくろにできるのは、それを繋いで、そこを行き来するだけだったんだって」
「……」
「だからね、全部、意味なんてなかったんだ。この世界の僕が小夜と一緒にいたことも、愛奈がいないことも、穂海が笑ってることも。
全部、全部、誰が望んだわけでもない、ただ、そうなっただけのこと、らしいんだ」
「……」
「そんなのさ、そんなの、あんまりじゃないか?」
「……」
「ああ、ごめん。きみに言っても、わからないよな」
「分かるよ」と俺は言った。彼は不思議そうに目を細めた。
「俺は、愛奈とこっちに来たんだ」
また、彼の表情にひびが入った。
「2015年……七年後。俺と愛奈は、そこから来た。あんたを探しに来た」
「……ああ、そうか。時間が大きくズレることもあるって、ざくろはそうも言ってたな。そういうことも、有り得るのか」
「……」
「僕を探しに、か。……じゃあ、七年後、僕は愛奈の傍にはいないってことかな」
「……」
「……探してもらうほどの人間じゃないのに」
「そうみたいだな」
彼はそこで、初めて笑った。
741: 2017/09/14(木) 00:38:44.76 ID:HJEIAEvso
「どうして、刺したか、か……。うん。たぶん、だけど、認めたくなかったんだろうな。
愛奈がいない方が、僕が幸せそうだなんて、そんなのさ、そんなの……」
あんまりだ、と、彼はまた繰り返した。
俺には、この人の考えてることなんて、かけらも分からない。
でも、言いたいことはある。
「だったら、幸せになればよかっただろ」
彼は俺の目をまっすぐに見た。
「愛奈がいた方が幸せだったって、こっちのあんたには愛奈がいなくて残念だったなって、笑えれよかっただろ。
愛奈がいなくてかわいそうだって、そう思えるくらい、あんたが幸せになったらよかっただろ。
そう思えなかったってことは……あんたが、ざくろの言葉に釣られてこっちにいるってことは、結局、違うんだろ。
あんたは……心のどこかで、愛奈がいるせいで不幸だって、いない方が幸せだって、自分で認めてたんだろ」
そうじゃない、と、言ってほしかった。口にした言葉が自分に刺さって仕方なかった。
だって、そんなの……あんまりだ。
愛奈が求めていた人。
愛奈が一緒にいてほしかった人。
その人が、そんなふうに思ってるなんて、心のどこかのひとかけらでさえ、そんなことを考えてるなんて、思いたくなかった。
俺は否定してほしかった。
そして、実際、彼は否定した。
「それは、少し、違うと思うんだ」
742: 2017/09/14(木) 00:39:23.44 ID:HJEIAEvso
何かを伝えようというよりは、自分の考えていることを整理しようとしているみたいに、彼は言葉を続けた。
「愛奈のせいじゃない。それは分かる。それは結局のところ、僕の問題なんだ。
でも、愛奈がいない世界では、僕はそんなことで悩んでいないみたいだ。だから、結局、それもバタフライエフェクトなんだろうね」
「……初期値鋭敏性」
「そう。どうしてだろうな。愛奈は大事だ。愛奈のために、がんばらなきゃ、って。あの子が何か困ったら、僕がなんとかしなきゃって。
僕が、あの子の、親代わりとまではいかない、それでも、寄る辺になれたらって、そう思ってた。それが僕の責任だ。
誰もやらないなら、僕がやらなきゃいけない。そのためなら、僕の人生なんてどうなってもいいって思った」
そう言ってから、ほんのすこしだけ間を置いて、いや、違うな、と彼は自分の言葉を否定する。
「違う。最初から僕は、自分の人生なんてどうなってもいいと思っていて……ただ、そこに愛奈という大義名分を当てはめただけなのかもしれない」
「……」
「わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。
愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。
そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった」
743: 2017/09/14(木) 00:40:06.58 ID:HJEIAEvso
「……なんとなく、わかったような気がするよ」
「……なにが?」
「あんたは、背負い込みすぎたんだ」
彼はからっぽな目をしていた。
「……そう、なのかな」
「あんたはもっと、愛奈を大事に思うのと同じくらい、自分のことも大事にしなきゃいけなかったんだ」
「……」
愛奈が、あんなふうになった理由が分かった気がした。
あんなふうに自分を責めてばかりいる理由が。
この人は、ずっとこんな顔をしていたんだ。
愛奈の前で、幸せそうになんて笑ってなかったんだ。だから愛奈は不安だったんだ。
ずっと、自分が周りを不幸にしてるって思い込んでいたんだ。
この人は――愛奈のためにがんばって、愛奈のために、自分を擲って、そうすることで自分自身の人生から逃げて、
そうすることで、愛奈を不安にさせていた。
金を貯めて、遺して、それがこの人なりの、大事に仕方だったんだろう。他にやり方が思いつかなかったんだろう。
だから愛奈は――この人といても、安心できないままだったんだ。
自分がいてもいい存在なんだって、そう思うことができなかったんだ。
……それをこの人のせいだと、そう言って責める権利が、俺にあるだろうか?
何も背負っていない俺が?
この人はきっと、今、俺と同い年くらいで。
俺はただ、倦んでいただけで、誰のためにも生きていなかった。
744: 2017/09/14(木) 00:40:37.15 ID:HJEIAEvso
理由はどうあれ、この人は愛奈のために生きて、氏んだ。
愛奈の生を支えようとして、それを一面的には成し遂げた。
彼を取り巻く空虚が、こうして、別の世界で刃物になって誰かを悲しませようとしている。
それを俺は、裁けるだろうか。身勝手だと、自分の問題で他人を傷つけるなと、憤る権利があるだろうか。
法になら、あるかもしれない。
でも、俺自身には、ないような気がした。
それでも……どうして、どうしてもっと、上手くいかなかったんだ、と、そんな言葉を吐きたくもなるけれど、
結局そんなのは、他のありふれた後悔と同じで、言っても仕方ない結果論なのかもしれない。
「刺して、しまったな」
長い沈黙の後、彼はそう、静かに呟いた。
「……もう、戻れないな」
その言葉に、不意に恐怖が湧き上がるのを感じる。
やってしまったこと。そのせいで彼は、もう本当に、幸せになんてなれないかもしれない。
彼が幸せになれなかったら、愛奈だってきっと、そうなのだろう。
あるいは、本当の意味で、彼が未来で幸せになれなかったのは、
この時点で、彼がこの世界の自分自身を刺してしまったからなのかもしれない。
そう気付いた瞬間、たまらなくなった。
自分には何も変えることができないんだと、そう言われたような気がして。
何かを言わなければいけないと、そう思ったけれど、言葉なんてひとつも思いつかなかった。
彼の瞳は、とても空虚な色をしていた。
俺の言葉なんて、届きそうになかった。
747: 2017/09/21(木) 21:31:02.42 ID:OWT49ye5o
◇
本当は、俺は、腹を立てていたはずだった。
愛奈を残して、氏んでいってしまった人。
碓氷遼一を刺し、愛奈を混乱させた人。
その両方に腹を立てていて、その両方が目の前にいたのに、
俺は彼になにひとつ言う気になれなかった。
自分に彼を裁く権利があるなんてどうしても思えなかった。
それなのに、結局俺は何も言えないままだった。
何を言うべきだったのかも、わからない。
碓氷遼一は、どこかに行ってしまった。
748: 2017/09/21(木) 21:31:42.61 ID:OWT49ye5o
愛奈は救急車を呼べただろうか。
こちらの世界の碓氷遼一は、無事なんだろうか。
そんなことがとりとめもなく頭のなかで浮かんでは消えていったけれど、
本当のところ俺はなにひとつ考えられなかったのかもしれない。
誰が悪かったんだろう、と俺は考えてみた。
どう答えたとしても、それは間違っているような気がした。
どれかひとつでも違えば、誰も悲しまない世界はあり得たかもしれない。
でも、もうそんな段階じゃない。
ありとあらゆる間違いを正してしまえば、きっと世界の在り様は、今とはまったく違っていたのだろう。
そうしていたら、この世界と同じように、愛奈は生まれていなかったかもしれない。
俺だって、愛奈とは出会っていなかったかもしれない。
いまこの瞬間に至るまでの道筋を否定しまえば、それは誰かの存在を否定することになるだろう。
蝶のはばたきが誰かを消してしまうかもしれない。
あるいは、蝶のはばたきが別の何かを生んでいたかもしれない。
そんなことを考えて、どうなる?
749: 2017/09/21(木) 21:33:47.58 ID:OWT49ye5o
俺はひとりで橋の上に取り残されたまま、夕陽が西の山の向こうに沈んでいくのを眺めていた。
煙草をふかしながら、ここ数日のあいだに自分の身に起きたことを順不同に考えてみる。
ただこうなってしまっただけのことだ。
碓氷遼一は、これからどうするのだろう。
俺は、彼に何かを言うべきじゃなかったのか。
何かを変えられるなんて、思い上がっているわけではない。
それでもなにか一言くらい、言えたはずじゃないのか。
そんなことを考えているうちに日が沈んで夜が来てしまった。
あたりは夕闇に包まれて真っ暗だ。
煙草はなくなってしまった。
俺は考えているのがバカバカしくなって、もと来た道を戻り、碓氷遼一が刺されていた場所に戻ることにした。
警察が来ていた。俺の知っている顔はもうどこにもなかった。
750: 2017/09/21(木) 21:34:13.32 ID:OWT49ye5o
◇
愛奈と連絡を取る手段はなかった。
でも、あいつのことだから、俺と合流しようと思えばまひるの部屋に戻るだろう。
少し時間はかかったけれど、結局俺もそこを目指すしかなかった。
案の定、彼女はそこで泣き疲れたみたいに眠っていた。
隣に座っていたまひるが、茶化すみたいな口調で声を掛けてくる。
「遅いよ。どこでなにしてたの?」
「……ちょっと」
どう説明していいかわからなくて、そうごまかすしかなかった。
まひるは小さく溜め息をつくと、困ったように笑った。
「愛奈ちゃん、心配してたよ。ケイくんに何かあったら自分のせいだって」
「……こいつは、この期に及んでまだそんなこと言うのか」
少し、軽率だったかもしれない。こいつの心境も、もっと慮るべきだった。
そんなこと、いまさら言ったって仕方のないことだけれど。
751: 2017/09/21(木) 21:34:48.56 ID:OWT49ye5o
このところ、いろいろあって疲れていたんだろう。
声を潜めるでもなく話をしているのに、愛奈は目をさますようすもなかった。身じろぎさえもしない。
――俺が出会った相手について、俺はこの子に話すべきだろうか。
話すとしたら、どんなふうに話したらいい?
こいつのせいじゃない。
でも、こいつはきっと、全部を聞いたら、やっぱり自分を責めるのだろう。
自分なんていらないんだって、繰り返すだろう。
「ケイくん」
「……ん」
「お風呂入る?」
「……」
まひるは、当たり前みたいな様子だった。
変な女だ、と思う。俺たちは妙なことばかり言っているのに、なんにも揺らいでいない。
752: 2017/09/21(木) 21:35:16.73 ID:OWT49ye5o
「……ちょっと、気になってたことを聞いてもいいか?」
俺が不意にそう声をかけると、まひるは何気なく頷いてくれた。
「この部屋のことなんだけど」
「家賃?」
「違う。そんなの聞いても役に立たないだろ。そうじゃなくて、男物の下着とかやらないゲームとか、そういうものについて」
ああ、とまひるは困り顔をした。答えてもらえないなら、それでいい。そう思ったんだけど、やっぱり控えるべきだったかもしれない。
「気になる?」
「言いたくないなら、別にいい」
「あ、ううん。そういうわけじゃないんだけど、誰にも話したことがないから、どうかな、うん……どう話そうかな。
少し気持ちの悪い話だと思うし、たぶん、引いちゃうと思うんだ」
「……無理にとは、言わない」
753: 2017/09/21(木) 21:35:42.54 ID:OWT49ye5o
「そうだよね……。うん。クローゼットの中は、女の子の秘密なんだ」
「……何言ってんだ?」
「うん。……クローゼットの中にはね、男物の衣類だけじゃなくて、ゲームとか、おもちゃとか、少年漫画とか、いろいろ入ってる」
「……実は心の性別が違うとか?」
「ちがうちがう。そんな言い方失礼だよ。わたしのは、なんだろうね、ちょっと、変なんだと思うんだけど」
要領を得ない話し方で、でも、まひるは話してくれるつもりがあるみたいだった。
「……愛奈ちゃん、寝てるね。少し、歩きながら話さない?」
俺は、愛奈をひとりにするのがなんとなく嫌だったけど、かといって、ここで彼女が目を覚ましたときに、何を言えばいいのかも分からなかった。
しかたなく、俺はまひると一緒に部屋を出た。
754: 2017/09/21(木) 21:36:18.37 ID:OWT49ye5o
◇
少し歩くだけで、賑やかな通りに出た。
ちょっと離れたところに飲み屋街があるらしくて、通りは騒がしい大人たちでいっぱいだったけれど、
おかげで俺たちは妙な沈黙を持て余さずに済んだ。
そういう空間だから、かえって話しやすかったのかもしれない。まひるはよどみなく話を始めた。
「わたしにはね、弟がいるんだ」
「……弟? って、ことは、弟の私物?」
まひるは首を横に振った。
「ううん。氏んじゃったの。わたしが幼稚園の頃だったから、二歳の頃だったかな」
「……氏んだ?」
「うん。氏んじゃった」
「それは……」
「まあ、それはいい。……ううん、良くなかったのかな、よくわかんないんだけどね」
「……」
755: 2017/09/21(木) 21:36:49.14 ID:OWT49ye5o
「それでね、なんだろうな。べつに普通に生きてたつもりなんだけどね。中学くらいの頃かな。
同級生の男の子がね、なんだかゲームの話とかしてるの。わたし、あんまり興味ないタイプだったんだけど、
そういう話聞いてるとさ、ああ、弟も生きてたら、そういうゲームとかやってたのかなって思って、
そう思ったら、なんか買っちゃって」
「……」
「もちろん、やらないんだよ。でも、一回そうやってからね、なんか、ああ、こんな漫画読んでたんだろうな、とか、
年頃になったらこんな服着て、きっと下着もこんなのつけて、なんて、そんなふうに、想像して……。
まるで生きてるみたいに。きっとこのくらい背が伸びて、こんな顔になって、って、想像して……。
それが、うん。わたしのクローゼットの中身」
「……」
「ごめんね、説明しないで服貸しちゃって。気味悪いよね」
「……俺は、別にいいんだけど」
「直さなきゃ、って、思っているんだけどな。誰にも言えないし、みんな知ったら気味悪がるよね。
でも、でもね、そうしてるときはさ、なんだか、生きてるみたいな感じがするんだ。傍にいるみたいな感じがする。
変だよね。氏んじゃってるのに。でもなんだか、存在するのとは違う形で、傍にいるみたいな感じがするんだよ」
それからまひるは、思いついたみたいにこちらを振り向いた。
「ひょっとしたら、そっちの世界では、わたしの弟が生きてたりするのかな」
「……」
「だとしたら……わたしは……」
その言葉の続きを、まひるが口に出すことはなかった。
俺は彼女の言葉の頭のなかで繰り返した。
存在するのとは違う形で、傍にいる。
758: 2017/10/04(水) 23:12:54.56 ID:nIJhl30co
◇
さっき聞いた話を、うまく整理できなかった。
何かが掴めそうだという気がしたが、そんなのは結局錯覚に過ぎないのかもしれない。
部屋に戻ろうというまひるを先に行かせて、俺はそのあたりを適当に歩くことにした。
煙草を吸いたかったけれど、今は持っていない。
いつのまにか、雨が降り出していたみたいだった。
道路を行き交う車の群れは、濡れ始めた黒い路面にヘッドライトの光を散らしながら進んでいる。
自分の身に何が起きているのか、わからなかった。
何がこんなに、頭を痛めているのか。
視界が滲むのはどうしてか。
この感情を、どこに向ければいいのか。
俺にはもうわからない。
759: 2017/10/04(水) 23:13:23.72 ID:nIJhl30co
結局、まひるの部屋に戻る以外に、方法なんてなさそうだった。
でも、愛奈が目をさましたら、俺は何を言えばいいんだろう。
おまえの叔父さんと話したよ。
彼にもいろいろあったみたいなんだ。
抱え込んだ重い荷物があったみたいなんだ。
そんなことを、愛奈に告げてどうなる?
またあいつは自分を責めるだけだ。
でも、どう足掻いたって、もう俺は否定できない。
いっそ全部知らない方がマシだった。
なにもかもがぐるぐると渦巻いて、複雑に頭の中で絡まって、
それをどうすることもできない。
そんなときに、愛奈の姿を見つけた。
コンビニの軒先で、吸い慣れない様子の煙草を吸いながら、愛奈は屈みこんでいた。
今に泣き出しそうに見えた。
彼女に何を言えばいいのか、そればかりを考えている。
雨が降り出している。
どうして、こんなことになったのか。
それを考えても意味がないと、知っている。
760: 2017/10/04(水) 23:13:50.56 ID:nIJhl30co
「……何してるんだよ、こんなところで」
軒先でかがみ込む彼女に、俺は静かに歩み寄った。
返事はない。くわえた煙草から、煙だけが立ち上っている。
いったい、何をどういえばいいんだろう。
「煙草なんてやめとけよ」
口を衝いて出るのは、そんなどうでもいいような言葉だけだ。
俺には何にも言えやしない。
それでも、返事はない。
「愛奈」
名前を呼んでも、顔をあげすらしない。
泣いているみたいだった。
「……なんで」
と、彼女はようやく声を出した。
絞り出すみたいな声だった。
「ケイくんは、吸ってるくせに、わたしはだめなの」
出てきたのがそんな言葉で、俺は少しほっとしてしまった。
どうしてだろうな、と思ってしまう。
こいつが煙草を吸うのが嫌だなんて、わがままだ。
俺が言えた義理じゃない。
「それは……なんでか、分からないけど。でも、よくない」
「じゃあ、ケイくんもやめてよ」
その表情が、縋りつくみたいで、俺は困ってしまった。
「……考えてみる」
愛奈はゆっくりと立ち上がって、灰皿に煙草を投げ捨てた。
底に溜められた水に落ちて、煙草は静かに音を立てた。
761: 2017/10/04(水) 23:14:18.26 ID:nIJhl30co
「……ごめんなさい」
これだ。
自分が嫌になる。
「どうして一言目が"ごめんなさい"なんだよ。"大丈夫だった?"とかだろ、普通。謝る理由がどこにあるんだ?」
「だって……」
「言ったろ」
俺は愛奈の手から煙草とライターをかすめ取った。
そこにどんな意味があるのかはわからない。
でも、もう考えるのも面倒だった。
ただ、煙草に火をつける。
いつものように。
「セロトニンの不足だよ」
愛奈は何も言わなかった。そのことにほっとしたなんて、どうかしてる。
762: 2017/10/04(水) 23:14:53.87 ID:nIJhl30co
どんな言い方をすればいいのかわからない。
それでも、何も言わないでいるのも、違うような気がした。
いや、違う。
俺は、ひとりで抱え込むのが嫌だったのかもしれない。
「首尾はどうだった、って、訊かないのか?」
「首尾?」
「犯人、追いかけただろ、俺」
「……どうだったの?」
本当は、そんなことはどうでもいいみたいな顔だった。
こいつの見た景色の意味を、俺は知らない。
自分の大切な人が、血だまりの中にうずくまっている風景。
その人が、自分を知らないという事実。
自分じゃない誰かが、その人を呼んでいる光景。
こいつにしかわからない。
763: 2017/10/04(水) 23:15:30.89 ID:nIJhl30co
「……ケイくん」
「ん」
「ケイくん」
「なんだよ」
「ケイくん……」
「だから、なんだよ」
「ケイくん……帰ろう?」
俺は返事をしなかった。
やっぱり、すがりつくみたいな表情をしていた。
「わたし、もう、やだ」
それでいいのか、と聞きたかった。
このまま帰ったら、きっとこいつは、本当にこの世界から何も持ち帰れない。
ただ、傷つきにきただけだ。
「……なあ、愛奈――」
なんて言えばいい?
764: 2017/10/04(水) 23:16:42.58 ID:nIJhl30co
「俺は……」
俺は、知っている。ひょっとしたら、伝えるべきなのかもしれない。
この世界にいる叔父さんとは違う、『おまえを知ってる叔父さん』が、こっちの世界に来てるんだよ、って。
ひょっとしたら、話せるかも知れないって。
俺は、伝えるべきなのか?
でも、そうしてどうなる?
結局、結果はなんにも変わらない。
なにも言えないまま、俺は喋るのをやめて煙草の煙を吸い込んだ。
こいつが自分を責め続けるのは、きっと、なんにも変わらない。
不意に、愛奈が俺の手のひらから煙草の箱を奪い取った。
何かを証明しようとするみたいに、彼女はそこから一本、煙草を取り出してくわえる。
そして、一瞬、
するりと流れ込むように距離が詰められて、彼女のくわえた煙草の先と、俺の吸っていた煙草の先が触れた。
思わず、思考が止まった。
彼女が息を吸うのが分かった。
火が移ると、彼女は「どうだ」という顔をしてみせる。
それから、なんにも気にしていないみたいな顔で、俺の方から目をそらす。
彼女の手が、静かに俺の手をとった。
俺は何も言わなかった。
雨が降っている。
何を言えばいいのか、わからないままだ。
767: 2017/10/09(月) 22:06:30.82 ID:mlE9det0o
◇
「ねえ、ケイくん」
「ん」
「わたし、わたしさ」
「……なんだよ」
「わたし――」
768: 2017/10/09(月) 22:07:12.25 ID:mlE9det0o
◇
結局、離す理由も見つけられなくて、手を握りあったまま、俺たちはまひるの部屋に戻った。
扉の前で、ほんの一瞬だけ目を合わせて、その手を離した。俺も愛奈も両方とも何も言わなかった。
まひるは当然みたいな顔で俺たちを迎え入れた。それから、夕飯のこととか、風呂のこととか、あれこれと訊いてきた。
煙草の匂いのことや、今までどこでどうしていたのかなんてことは、まったく訊いてこなかった。
俺は、さっき愛奈に言われた言葉のことを考えた。
――ケイくん……帰ろう?
――わたし、もう、やだ。
「なあ、まひる」
「……ん?」
「明日、俺たち、帰るよ」
まひるは、俺の方を見て、いくらか驚いたような表情をした。
「明日?」
「うん」
「帰れるの?」
「たぶん、大丈夫だと思う」
確認の意味で、愛奈を見る。彼女は静かに頷いた。
「うん。大丈夫」
「そっか。……なんだか、急に来て急に帰っちゃうんだね」
769: 2017/10/09(月) 22:08:07.11 ID:mlE9det0o
まひるは不思議な表情を見せた。単に、別れを惜しんでいるというのでもなさそうな。
それはそうだ。惜しむほどの関係性なんて、俺たちの間にはない。
だったら、これはなんなんだろう?
よく分からないけど、気にしないことにした。
まひると愛奈はふたりでキッチンに立ち、遅い夕食を作り始めた。
俺は窓の外で降る雨を聞きながら何かを考えようとする。
料理が出来上がると、三人揃って食事をとった。
まひるの料理はこなれていて美味かった。
それがなぜだか悲しくて仕方ない。身勝手な感情だとわかっているつもりなのだけれど。
この世界を去ると思うと、愛奈の身に起きたさまざまなことのすべてが俺の頭にのしかかってきた。
母親のこと、叔父のこと。
――わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。
俺にはよくわからない。
――愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。
わからない。
―― そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
わからない。
770: 2017/10/09(月) 22:08:43.59 ID:mlE9det0o
誰のせいなのか、何が間違っていて、何が正しいのか。
誰も悪くないなら、どうしてなのか。
それを知りたい。
夕食を食べ終えると、愛奈は壁にもたれて静かに座っていたが、やがて、疲れていたのだろう、目を閉じて眠ってしまったようだった。
俺は彼女の閉じた瞼からのびた睫毛の長さを、なんとはなしに眺めている。
小さな女の子みたいに見える。
迷子になって、不安で、寂しくて、怖くて、どうしたらいいかわからなくて、それでも涙をこらえている、そんな子供みたいに見える。
いつだって、本当は泣き出したいくらい不安なくせに、寂しいくせに、
取り繕って笑って、無理をして、それで本当にときどき泣いて、少しあとには何もなかったみたいな顔で笑おうとして。
……こいつのために、何ができるんだ、なんて、そんな思い上がりは持ってない。
そんなに殊勝な人間じゃない。
考えてみれば分かる話だ。
どうしようもないことばかりだ。
親と暮らせない。頼りにしていた家族が氏んだ。
それはきっと、替えがきかないものだ。
他の何かでは、埋めることのない空白だ。
その空白のせいで、こいつは今だって崩れそうになっている。
取り戻せないとわかっているのに、すがりつこうとしている。
『……わたしのせいかなあ』『ごめんね』『……ごめん。巻き込んで』
『わたしのせいなのかな』『……ケイくん、ごめん』『……ごめんね』『……ごめんなさい』
『……ね、ケイくん。お兄ちゃんは、わたしなんていないほうがよかったんだって思う?』
もう、その扉は開かないのに。
開かないと、自分でもわかっているはずなのに。
それでも、こいつは、ずっと、今までも、これからも、ずっと、開かない扉の前で、もう来ない迎えを待ち続ける。
期待しているわけでもないのに、離れることもできずに、いつまでも。
771: 2017/10/09(月) 22:10:07.65 ID:mlE9det0o
◆
「ねえ、ケイくん」
「ん」
「わたし、わたしさ」
「……なんだよ」
「わたし――生まれてこないほうが、よかったのかな」
バカ言えよ、と俺は言った。
772: 2017/10/09(月) 22:10:48.82 ID:mlE9det0o
◇
それでも、俺の言葉なんて、信じてないみたいな顔をしていた。
いったい、どうしたらこいつは自分を許してやれるんだ?
どうして、自分が悪いって、自分のせいだって、そんなふうに自分のことばかり責めるんだ?
誰かのせいにして泣きわめいたっていいはずだ。
誰かを恨んだっていいはずだ。
おまえのせいじゃないって、俺は、何度も言ってきたつもりだ。
おまえに責任なんてない。おまえに何の罪がある? おまえがいなければ幸せだったなんて、そんなことあるわけない。
何かが、この子を縛り付けているんだ。
からたちの枝みたいに絡みついて、がんじがらめにして、逃げられなくしている。
俺は……。
773: 2017/10/09(月) 22:11:18.95 ID:mlE9det0o
◇
「ケイくん」
考えごとに沈み込んでしまっていた。
声に顔をあげると、まひるが困ったような顔をしてこちらを見ている。
「……ん」
「コーヒー、飲む?」
「……いや、いい。ありがとう」
「そう?」
首を傾げてから、彼女は含み笑いを見せた。
「……なんだよ?」
「ううん。なんか、ケイくん、ひねくれものって感じなのに、お礼は素直に言うんだなって思って」
ひねくれもの。……まあ、いい。
「べつに、礼くらい言うだろ」
「うん。それはまあ、そういう言い方をすればそうなんだけどね」
「感謝の気持ちくらいなら、言葉に……」
――あのね、ケイくん。
――わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。
―― それはね、言葉っていうの。
そうだ。
……俺は、教えてもらったんだった。
言葉にしないと分からないというなら、言葉にするしかない。
その結果、伝わらないかもしれない。何も変わらないかもしれない。
774: 2017/10/09(月) 22:12:35.96 ID:mlE9det0o
でも、ぐだぐだと考えるのを続けるくらいなら、
いっそ俺も、覚悟を決めるべきなのかもしれない。
それが、なんのためにもならない結果になったとしても。
「……どうしたの、急に黙り込んじゃって」
「いや」
「さっきから、へんなの」
「ちょっと、いろいろ考えてたんだ」
とりあえず、頭のなかで漠然と、自分がやることを決めた。
そうしてしまってからは、それ以上そのことについて考えないことにする。
余計なことを思いついたら、決意が鈍ってしまいそうだ。
それで、思わず俺は、碓氷遼一のことを考えてしまった。
――だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった。
あのときの彼の表情が、どうして、なんだろう、瞼の裏にちらついて、離れない。
775: 2017/10/09(月) 22:13:02.00 ID:mlE9det0o
つづく
開かない扉の前で◆[Rapunzel]A/b776: 2017/10/09(月) 22:38:38.91 ID:Jcchw+/1o
乙
引用: 開かない扉の前で
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