863: 2017/11/11(土) 00:14:56.81 ID:Ch5AfJxSo



最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a

前回:開かない扉の前で◆[Rapunzel]A/b

◇[Monte-Cristo] R/b



 ――夕陽が傾こうとしていた。

 夜が近付いている。

 橋の上を離れて、僕はひとりで歩き始めた。

 何処に向かうでもなく、何処に行くでもなく、歩くしかなかった。

 橋の向こうからこちら側にやってきて、僕はもうあちら側には戻れない。
 懐には血に濡れたナイフがある。

 僕が見たもの。僕がしたこと。いろんなことがよくわからないうねりになって胸の内側を這いつくばっている。

 けれどそれは重要ではない。

 たとえこれがあろうがなかろうが、僕がしたことはひとつだ。
 僕は一人の人間を刺し、一人の少女を泣かせた。

 穂海のあの表情。

 僕が僕を刺したときの穂海のあの表情。
 あの表情!

メイドインアビス(1) (バンブーコミックス)
864: 2017/11/11(土) 00:15:23.17 ID:Ch5AfJxSo

 さっきまで、僕と話していた彼。
 彼の名前は、なんというのだろう。
 愛奈がこの世界にいる、と聞かされたとき、僕の頭を支配したのは一種の諦めだった。

 もう、何もかもがあからさまに示されてしまった。

 僕はもう、愛奈のためになんて言葉を言う資格を失ってしまった。

 たったひとりの大切な存在。大切にしてきた存在。大切にしなければいけないと信じてきた存在。
 彼女に見抜かれてしまう。

 芝居は終わりだ。

 彼女は知る。彼から聞いて知る。僕の醜さを、あるいは勘付いていたかもしれない僕の妄執を、彼女は知る。

 僕は氏ぬ。愛奈にはきっとなにひとつ残せないままで、愛奈のためになにもできないままで、
 僕自身すらなにひとつ得られないまま、氏ぬ。

 僕はこんな姿のままで氏んだのだ。
 だから愛奈は僕を探しにこんなところまで来なくてはならなかったのだ。

 どうしてだろう、はっきりとそうわかった。 

 街は夕焼けに染まっていく。空は紫を帯びていく。
 途方に暮れているわけにはいかない。

 僕はどこかに向かわなきゃいけない。
 どこかに……でも、どこに行けるっていうんだろう。

 僕を迎え入れてくれる場所なんて、はじめからどこにもないのに。


865: 2017/11/11(土) 00:15:49.33 ID:Ch5AfJxSo



 
 川沿いの道をぼんやりと歩きながら、僕はこれまでのことを思い出そうとしていた。
 
 いったい何が僕をこうしてしまったのか、それが分からないままだ。

 河川敷の遊歩道を、誰かが散歩している。僕はその姿を眺めている。
 街並みが昏くなっていく。

 やがて、僕は自分の進む道の先に、ひとりの人間を見つける。

 彼女は、待ち構えるように立っていた。

 僕からは何も言わなかったし、彼女も僕のことを呼ばなかった。
 それでも目を合わせて、お互いの姿を認めているのが分かる。

 立っていたのは篠目あさひだった。

 僕は彼女の立ち姿に、ひどくつくりものめいた気配を感じた。
 その表情のひとつにさえも。


866: 2017/11/11(土) 00:16:16.78 ID:Ch5AfJxSo

「少し、話そうか」と彼女は言った。彼女にしては、とても明晰な声音だった。

 僕は返事をせずに、彼女の傍まで歩いていった。

 彼女は歩き出し、僕はその隣をついていく。
 街はよく見知ったはずの空間だ。それなのに、どことなく、異郷のような雰囲気がある。
 それと同時の言い知れぬ懐かしさ。

 これはいったいなんだろう。

「今朝、夢を見たの」

 その溶けるような一言だけで、彼女が僕の存在に驚かない理由が分かった気がした。

「遼一」と、まだ一言も言葉を発していない僕のことを、彼女はそう呼ぶ。
 もう、気付いているのだ。

「あなたがやったんでしょう?」

 僕は、返事をしなかった。どう返事をすればいいのかも、わからない。

「ねえ、遼一……どうなの」

 彼女は、その答えを既にわかっているはずだ。それなのにどうしても、僕の口から言わせたいらしい。


867: 2017/11/11(土) 00:17:17.22 ID:Ch5AfJxSo

 まるで裁判所みたいだ。

『タルトを盗んだのはあなた?』

 もし問われたら、僕は認めるしかないだろう。

『だったら、首を刎ねないとね。刑が先、判決は後』

 どうせ罪状は否定できない。
 止めてくれるアリスもいない。

「……僕が刺した」

 結局、認めるほかないような気がしたし、そもそも、認めたところで失うものなんてないような気がした。

 たとえ誰が知っても知らなくても、僕自身は知っている。
 そうである以上、僕にとって僕は刺した僕以外の存在ではありえない。

 だったら、他人が知っているか知らないかなんてことは、些細なことだ。

「どうして?」とあさひは続けた。僕は彼女の方を見ない。僕と街の間にはまだ一枚の鱗がある。それが剥がされきっていない。

 僕はそれをどうしたらいい?

「わからない」と、そう答えるしかない。
 でもそれは逃げだ。僕は許せなかった。

 愛奈がいない世界の僕が幸福な顔をしているのを許せなかった。

 どうして?
 それは僕ではないのに。

 いつもそうだ。
 まだ、何か、剥がれていない膜がある。

 そして僕は、できるならそれを剥がさないでいたい。


868: 2017/11/11(土) 00:17:45.02 ID:Ch5AfJxSo


「僕には、何が正しくて何が間違ってるのか、もう分からない」

 そんな、取るに足りない一言を、あさひはすぐに笑った。

「そんなの、最初から誰も知らないよ」

 そのとおりだと、僕は思った。

「……ねえ、遼一、わたし、少しだけ分かったの」

「……何を?」

「ねえ、わたしの家にいかない?」

「……」

「少し、あなたは落ち着くべきだと思う」

 僕は、ほんのすこしだけ考えて、結局従うことにした。
 なんだか、何もかもがどうでもいいような気がした。


869: 2017/11/11(土) 00:18:43.47 ID:Ch5AfJxSo



 そしていま、僕とあさひは夕日がさしこむ彼女の家のダイニングで差し向かいになってテーブルを挟んで座っている。
 
 あたりには沈黙が――無音とは違う、沈黙が――漂っている。

 あさひが入れてくれたコーヒーがカップに入っている。綺麗な意匠のソーサーには金色のマドラーとスティックシュガー。
 
 あさひは何も言わずに僕にそれを差し出して、僕は何も言わずにそれを受け取るでもなく受け取った。
 違う、受け取ったつもりなんてない。でも、気付いたら差し出されていて、受け取ったことになっていた。

 いつもそうだ。

 いつだってそうだった。

 いつのまにか、僕は受け取っていた。受け取るつもりのないものを、差し出されていた。
 そして、抱え込んで、いつのまにか、その重さで崩れ落ちそうになる。

 引き受けたつもりのないものを、いつのまにか引き受けている。

 夕日が沈めばやがて夜が来る。
 
 外では雨が、蒸気のような雨が、辺りを覆い隠そうとしている。

 僕らは屋根の下にいる。
 壁があり、床があり、窓がある。

 雨は、外に吹き付けている。

 ここではない。


870: 2017/11/11(土) 00:19:11.42 ID:Ch5AfJxSo

 床に投げ捨てた僕の鞄から、MDプレイヤーが顔を覗かせている。

 スティングの例の曲を思い出す。

 シェイプ・オブ・マイ・ハート。

『I know that the spades are the swords of a soldier
 I know that the clubs are weapons of war
 I know that diamonds mean money for this art
 But that's not the shape of my heart』

 知っている。

 スペードは兵士の剣、クラブは戦う為の武器、
 ダイヤは賭けで得られる富を象徴する。
 けれどハートは……僕のハートの形をしてはいない。
 
 あんなに綺麗な輪郭じゃない。

 あんなかたちなんかで、人のハートは表し切れない。

 頭の中で、その曲を流し続ける。

『Those who speak know nothing
 And find out to their cost
 Like those who curse their luck in too many places
 And those who fear are lost』

 優雅と言えば優雅な時間かもしれない。


871: 2017/11/11(土) 00:19:49.14 ID:Ch5AfJxSo

「すみれは――」と、あさひは口を開いた。

「どうしたの?」

「さあ。どうしたんだろう」

「遼一は、帰ったんじゃなかったの?」

「そうするはずだった」

「遼一たちがいなくなってから、もうずいぶん経ったから、てっきり帰ったんだと思ってた」

「僕としては、それは昨日くらいの話なんだ。なんなら、今日かもしれない」

 帰り道の途中で、僕はざくろに頼んでこの世界に帰ってきた。
 そして出てきたら、日付はずいぶん変わっていた。変な話だ。

 あさひからすると、もう三週間くらいは経っていることになるのだろう。

 僕もまた、ざくろと同じような動きに巻き込まれてしまった。
 もはや僕にとっては、空間と同じように、時間もまた座標に過ぎない。


872: 2017/11/11(土) 00:20:17.50 ID:Ch5AfJxSo

「どうして……碓氷を刺したの?」

「どうしてだろうな」

「……」

「許せなかった。許したくなかった。でも……」

 でも、なんだ?

 続く言葉なんて、言い訳にしかならない。

「いいよ」

「……なにが?」

「たぶん、わからないから、もういいよ」

 そう言ってあさひはうつむきがちにコーヒーに手をのばす。
 僕もそれを真似て淹れてもらったコーヒーに口をつけた。

 美味しい、というのは分かる。
 これをたぶん、美味しい、と呼ぶんだろう、と、それは分かる。

 僕は責めてほしかった。
 責めて責めて責めて責め抜いてほしかった。

 間違ってるってそう言ってほしかった。

 ごめんなさいと、謝らせてほしかった。
 それは、でも、加害者の理屈だ。

 赦しを求めることすらも、おそらくはしてはいけない。
 裁かれることすらも、求めてはいけない。

 誰かを傷つけるというのは、たぶん、そういうことだ。


873: 2017/11/11(土) 00:21:09.16 ID:Ch5AfJxSo

「遼一について、ほんのすこしだけ、わかったようなことを言ってもいい?」

「……どうぞ」

「遼一はたぶん、子供の頃、特に勉強しなくてもテストで良い点がとれたし、何もしなくても足が早かったでしょう」

「……どうだろうな。よく覚えてない」

「きっと、そうだと思う。だからなの。だから、遼一は自分が嫌いなの」

 決めつけたような言葉。それは、でも、もう、耳慣れてしまった言葉だ。
 それに、間違いだとも、あまり思わない。

「出来たっていう経験があるから、出来なくて当たり前のことでも、できるはずだと思っちゃう。でも出来ない。だからつらい。
 最初から出来ない人は、ある意味で楽よ。出来ないことをできるようにするために、努力するって訓練を子供の頃からするからね。
 半端に恵まれちゃった人ほど滑稽なものってないよ。――遼一って、かわいそうね」

「……わかったような、ことを、言うね」

「そう言ったもの」

 僕は、べつに否定しなかった。

「気に入らないことを、許せないのね。思い通りにいくことばかりだったから、気に入らないことがあると、許せなくなるのね」

 あさひは、そうやって僕の幼児性を暴いた。

「――わたしと一緒」

 そう言って笑う。そして彼女は話を続ける。

「生きるはずの人を頃すことと、氏ぬはずの人を生かすことと、いったいどんな差があるんだろう」

「その説によると」と僕は反駁する。

「医者と殺人者の間に違いがないように聞こえるね」

「『人間が生きものの生き氏にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね』」

「ブラックジャック?」

「そう」

 彼女はくすくす笑う。僕は……笑えない。

 タルトを盗んだのは赤のジャックだ。




874: 2017/11/11(土) 00:22:03.14 ID:Ch5AfJxSo

「それでも……」

 と、僕は言う。

「それでも、誰かを傷つけるべきじゃない」
 
「……」

 そうじゃないと、姉のことを赦してしまうことになる。
 でも僕は、もう、責める権利を失ってしまった。

 どんな理屈があっても、感情があっても、事実があっても、
 人を傷つけた人間は、人を傷つけた人間を責められない。

 それをもし認めてしまえば、
 理屈さえあれば、感情さえあれば、事実さえあれば、誰かを傷つけてもいいことになる。
 
 だから僕は……。

「綺麗な言葉だね」と彼女は言った。

「嘘みたいに綺麗な言葉」

 僕は何も言わない。


875: 2017/11/11(土) 00:22:29.61 ID:Ch5AfJxSo

「でも、望むと望まざるとに関わらず、わたしたちが生きているのはきっとそういう世界なんだよ」

「……」

「それはきっと、遼一も知っていることでしょう?」

「でも、刺すことはなかった」

 他人事みたいに、僕はそう言った。

「刺すことは、なかったな……」

「後悔してるの?」

「たぶんね。きっと、沢村もそうだったんだと思う」

「……」

「もう帰れない」

「それじゃあ、これからどうするの?」

「……」

「碓氷は、氏なないよ」

 あさひは、不意にそう言った。

「碓氷は氏なない。何事もなかったみたいに、生き続けるよ。
 碓氷の代わりに遼一が刺された。そのときの傷を、遼一は碓氷に返した。
 ひょっとしたら、それだけのことなのかもしれない」

「それは……慰め?」

 彼女は首を横に振った。

「違うの。これは、きっと事実なの。あなたが彼を刺したことで変えられることなんて、最初から、ひとつもない。
 あなたは――何も変えられないの」

 その言葉は、けれど、
 今の僕には、どうでもいいことだった。



878: 2017/11/15(水) 23:47:04.50 ID:lNunJpruo



 話はたいして弾まなかった。
 
 窓の外で夕日が当たり前に沈んでいき、僕達の沈黙は湿気のようにべたついて鬱陶しくなりはじめている。

 僕達が宿を借りたときと同様に、すみれの家族は帰ってくる気配すら見せなかった。

 やがてあさひは立ち上がった。

「何か飲む?」

「何かって?」

「お酒ならある」

「酒……?」

「なんだろう、ワインだったかな」

 
 彼女はダイニングを出て行った。キッチンに酒を取りに行ったのかもしれないし、こっそりと警察を呼ぶつもりなのかもしれない。
 どちらでもいい、と僕は思った。

 結局、彼女はすぐに戻ってきた。グラスをふたつとワインのボトルを抱えて。

 僕は立ち上がって彼女からボトルを受け取った。


879: 2017/11/15(水) 23:47:33.60 ID:lNunJpruo


 彼女は不慣れな様子で栓を抜き、グラスを並べてそこに注いだ。

「よかったのか?」

「いいの」と彼女は言う。

「どうせわたしのものじゃないし」

 自分のものじゃないから、問題なんだと思うのだけれど。
 とはいえ、それをいまさら僕が気にするのは、なんだか妙な話だという気もする。

「どうぞ」と彼女は僕にグラスを差し出した。
 ほんのすこしだけ迷ったのはどうしてだろう。

 ワインなんて口にしたこともない。

 けれど僕はそれを受け取った。

 彼女は、また僕と差し向かいの位置に座りなおす。
 そしてグラスをこちらに掲げた。

 触れ合ったガラスの縁が鈴のような音を鳴らす。

 僕はほんの少し、その臙脂の液体を口に含んで飲み下した。

 味はよく分からなかった。


880: 2017/11/15(水) 23:47:59.78 ID:lNunJpruo

「本当はね」、と、僕は話し始めた。

「今よりほんの少し普通に近い子供だった頃には、未来に対して希望をもっていたことだってあったんだよ」

「本当に?」

「いや、嘘かもしれない」

「どっちが嘘なの?」

「そうだな。つまり、今よりは、希望を持っていた、かもしれない。でも、それは今よりずっとぼんやりとしたものだった」

 ぼんやりと……そう、ぼんやりと。

 僕は、思っていた。
 
 希望、というよりは、むしろ、欲望のようなものを。

 けれどそれは近付けば近付くほど曖昧になってまた遠ざかるような代物だった。

 真夏の逃げ水のような。


881: 2017/11/15(水) 23:48:32.34 ID:lNunJpruo

「たとえば、僕にも好きな子がいた。それが、今よりは強かった希望というものかもしれない。でも、よく考えてみると分からないんだ。
 僕は別に、その子と一緒にいたいとか、どこかへ行きたいとか、何かをしたいとか、そんなことは考えたこともなかった。
 一緒に夏祭りに行きたいとか、クリスマスを過ごしたいとか、あるいは好きな音楽を言い合ったり休日に出かけたりね、
 そんなこと、僕は別にしたくなかったんだ。映画なら一人で観る、食事も一人の方がいい、本の感想なんてあまり言葉にしたいものじゃない。
 そうしてふとわかったんだ。僕には、『誰かと一緒に何かをしたい』って欲望がことごとく抜け落ちてるんだって」

 一人の方が楽だ。

 何処へ行くのも気楽でいい。
 好きなところに行けるし、好きなタイミングで移動できるし、好きなものを食べられるし、好きなときに帰れる。
 気まぐれや気分で行動しても誰にも文句をつけられることがない。

 誰かに気を使って合わせたりしなくていいし、誰かに付き合わされることもない。
 乱されない、揺るがされない。

 乱されないから、誰のことも疎まずに済む。
 誰のことも嫌わずに済む。
 
 どれだけ好きだと思っていた相手だって、何かの事情で、嫌気がさしてしまうことがある。
 落胆してしまうことがある。失望してしまうことがある。

 そんなのはごめんだ。

 僕は、僕の中の誰かに対する思いを、ずっと守っておきたい。
 それを永遠のように保持していたい。

 だったら、知らなければいい。知らせなければいい。
 覆い隠して、見ないようにして、見えないようにして、触れないことで、それは永遠になる。
 
"Mundus vult decipi, ergo decipiatur."


882: 2017/11/15(水) 23:49:24.15 ID:lNunJpruo

 あさひは何も言わない。僕はまたグラスに口をつけて考える。
 
 少し、違うような気がした。
 そこにはまだ、自覚している以上の何かが秘められている気がする。
 それがなにかは分からないが、何かがまだ明かされていない。僕自身にすら語られていない。

 僕の希望、僕の欲望、僕の失望。僕をこの場に運んできたなにものか。
 それは大河が海に流れ着くような宿命だったのか。
 それとも風に乗った種が地表に根を張るような偶然だったのか。

 あるいはそんな考えは、犯した罪から逃れたいがための責任転嫁か。

 いずれにせよ、そこに何か隠されている。
 
 けれど、そんなことを考えて何になるんだろう。

 イメージしてみる。

 愛奈は、さっき出会った名前も知らない誰かと一緒に、僕を探しにくる。
 愛奈はどんな姿をしているのだろう。

 それは僕の知っている愛奈の姿とどのくらい違うのだろう。

 七年。そのとき僕は愛奈の傍には居ない。きっと氏んでしまうんだろう。

"vulnerant omnes,ultima necat."
 

883: 2017/11/15(水) 23:49:57.05 ID:lNunJpruo

 僕のいない世界。
 それはずいぶん簡単にまわりそうな気がする。

 何もかもがうまく回るような気がする。

 僕という余計な歯車をはじき出した機械。
 それはずいぶん綺麗に動きそうに思える。

 僕は所詮余計もので、いるだけ邪魔なまがいもので、
 不潔な生き物の卵で、
 所詮いつかは誰にとっても不愉快なだけの何かになる。

 それはもう決まっていることのように思える。

 そんなふうに思うのはけれど、あるいは自己憐憫にすぎないのだろうか?
 
 愛奈を守ろうと思った。愛奈のために生きようと思った。
 それはどうしてだ?
 
 それはきっと、そうでもしないと僕は、誰にも存在を許されないような人間のままだと思ったからだ。
 僕の醜さを僕は知っている。
 
 その縋りつくような惨めさを、僕だけは知っている。

 だからこそ僕は、誰かのために生きることでしか、誰かのために生きると決めることでしか、
 自分の存在を了解できなかった。

 自分がここにいてもいいのだと、どうしても思えなかった。

"Aliis si licet, tibi non licet."


884: 2017/11/15(水) 23:50:32.24 ID:lNunJpruo

 僕が考え込んでいる間にあさひは立ち上がった。何かつまむものをとってくる、と彼女は言う。

 僕は返事をしなかった。

 どう考えても間違っている。 
 どこかしら間違っている。どこがというのではない。何かが欠けている気がする。

 数分後、あさひはナッツとキャンディチーズを盛り合わせた皿を持ってきた。
 差し出されたチーズの包みをほどきながら、僕はまだ考えていた。

 僕は愛奈のために生きることで僕自身を認めようとした。
 そうすることが正しいように思えたから、褒められるべき、許されるべきことのように思えたから。
 
 愛奈は僕にとって生きる理由になった。
 生きていていい理由だった。

 逆を言えば僕は愛奈がいなければ怪物の卵に過ぎず――
 つまり愛奈は恰好の理由だった。

 僕が周囲に、僕はここにいてもいい存在なのだと、そう主張するための、彼女は理由に過ぎなかった。

 愛情ではない。

"Peior odio amoris simulatio" 


885: 2017/11/15(水) 23:51:25.50 ID:lNunJpruo

 いつのまにか空になったグラスにあさひがワインを注いでくれた。僕はそれに口をつける。

 僕は、僕自身が生き延びるために、生きていていいんだと信じたいがために、愛奈を利用した。
 
 そうすることで許されようとした。
 
 僕は愛奈がいることでしか許されないと思っていた。
 けれど――この世界には、愛奈がいない。

 愛奈がいない世界で、碓氷遼一は許されている。
 あるいは、自分自身を許している。

 居て当たり前の存在のように、受け入れられるのが当然のような顔で、
 生見小夜と街を歩き、
 穂海と手を繋ぎ、
 平然と笑い、
 当たり前に歩き、
 あさひを気味悪がる。

 僕と同じ怪物の卵なのに。
 愛奈がいないと生きていることにさえ自信を持てないのに。

 どうして碓氷遼一は笑っていられた?
 そんなことが――許されるのか?

"Non omne quod licet honestum est."


886: 2017/11/15(水) 23:52:06.74 ID:lNunJpruo

 認めよう。

 僕がこんな有様になったのは、おそらく、祖父の姿のせいじゃない。
 そこに起因する(と僕が思っていた)僕の憂鬱さえも、本当はそうではない。

 おそらくは、そういうものだ。

 どれだけ皮を剥いで肉を抉って見せたところで、自分では見えない、自分では辿り着けない、そういう場所に真実が存在する。
 僕の目では、僕がどんな人間か、どうしてこんな有様になってしまったのか、確かめられない。

 僕にとっての真実は、つまりこういうことだ。

 僕自身の憂鬱の原因を家庭環境に押しこめ、
 その憂鬱を愛奈を利用することで軽症で済ませようとして、
 それによって自分の正当性を担保し、その正しさで誰かを審問し、
 そして傷つけることで裁いたつもりになった。
 
 審問の話法。

 誰かを裁くとき、裁く者の善悪は常に留保される。

 そして僕は人を傷つけ、
 僕の傍には誰もおらず、
 僕は誰にも必要とされず、
 僕の代わりは山ほどいる。

 愛奈にとって、あの彼がその役をなすように。
 生見小夜にもきっと、ふさわしい誰かがいるだろう。

 もともと僕が演じる役は用意されていない。

 僕はもう、誰かの劣化品ですらない。

 怪物の卵。
 いや、怪物そのものだ。

 認められたいだけの、許されたいだけの、受け入れられたいだけの、求めるだけの、
 与えることも認めることも許すことも受け入れることも愛することもできないままの、
 怪物だ。


887: 2017/11/15(水) 23:53:12.01 ID:lNunJpruo

 ――ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……。
 ――……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの。

 小夜は、そう言ってくれた。

 でも、僕に何が言えたっていうんだ?

 全部全部話したら、小夜だってきっと僕のことなんて見放していっただろう。
 小夜が僕を気にかけてくれたのは、僕が何も話さずにいたからという、ただそれだけの理由に過ぎないように思える。

 ただ彼女は、不可解を理由に気にしていただけで、すべてが明るみにさらされれば、すぐにうんざりしていっただろう。
 僕はそう思う。それが事実だと思う。それが事実だとしか思えない。

「ねえ、遼一――遼一は、何が欲しいの?」

「……え?」

「何が欲しくて、ここまできたの?」


888: 2017/11/15(水) 23:53:51.13 ID:lNunJpruo

 ……必要としてくれる人がほしかった。必要としてくれる人が必要だった。

 そうじゃないと自分が存在していていいのかわからなかった。

 誰にとっても不必要な存在なら、早々に消えてしまいたかった。

 誰かに、ここにいてもいいんだと、
 僕はここにいるんだと、
 それでいいんだと、
 言ってほしかった。

 俺は間違ったのか。ほかに何かやりかたがあったのか。俺は何かを見逃したのか。
 自分のせいにするのは傲慢だと誰かが言う。どんなときでも正解を選べるなんて空想だって。
 それは事実だ。僕たちは無謬ではいられない。

 でも、そういう問題じゃない。

 どうすればよかった? どうすればいい? どうしてこんなことになってしまうんだ?

 この期に及んで自分のことばかり考えてしまう。
 
 ――碓氷くん、変わったよね。距離をおいて、測って、近付けないようにしてる。
 ――昔は違った。もっとまっすぐ、わたしと向い合ってくれた。今の碓氷くんは、何を考えてるのかわかんない。
 ――昔は……遼ちゃん、そうじゃなかった。

 過去や、犯した罪や、醜さなんて、そんなものは所詮ごまかしにすぎないのかもしれない。

 僕は単に、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。
 誰かに、そばにいてほしかったのかもしれない。


889: 2017/11/15(水) 23:54:17.11 ID:lNunJpruo


 小夜啼鳥の童話を思い出す。
 
 遠い遠い昔の話だ。
 時の中国の皇帝の、絢爛豪華な御殿には、風光明媚な御苑があった。
 
 その広大な地にあるものはなにもかもがすべて美しくきらびやかで、訪れた人々はそこにあるなにもかもに感心し褒めそやしたが、
 そのなかでももっとも美しいのはさよなきどりの歌声だと、誰も彼もが口を揃えて譲らなかった。

 旅行者たちは国に帰るとまっさきにその鳥の声について語り、学者たちはやはりさよなきどりの声にまさるものはないと本を著し、
 詩人たちはきそってその歌声を言葉のなかに顕そうとした。

 けれど、その皇帝は、その広大な庭の持ち主である皇帝は、それまでさよなきどりの声を耳にしたことは一度もなく、
 その鳥の存在さえ、御苑について誰かが著した本を読んで初めて知ったくらいだった。

 そこで彼は、さよなきどりの歌声をどうしても聞いてみたいと、侍従長に命じてこれを探させた。

 さて、侍従長が御殿の台所で下働きをしている娘をつかまえて、彼女に話を聞いてみると、彼女はなんでもないことのようにこう言ったのだ。

 ――まあ、さよなきどりですって、わたしはよくしっておりますわ。ええ、なんていいこえでうたうんでしょう。

 ――きいているうちに、まるでかあさんに、ほおずりしてもらうようなきもちになりましてね、つい涙がでてくるのでございます。


890: 2017/11/15(水) 23:54:56.00 ID:lNunJpruo

 下働きの娘は侍従長をさよなきどりの元に案内し、その鳥に皇帝の前で歌うように説得した。
 鳥はその言葉を受け入れる。

 さよなきどりの歌声に、そのあまりのうつくしさに、皇帝の目からは涙があふれて止まらなかった。

 そして、鳥は皇帝に召し抱えられた。
 鳥かごを与えられ、外出を許されるのは日に何度かで、出かけるときは決してひとりにはしてもらえず、
 けれどそれでもさよなきどりの声はうつくしいままだった。

 それからずいぶん経ってから、皇帝のもとに、別の国からの贈り物として、細工物のさよなきどりが届けられた。

 ネジを巻くと、宝石がちりばめられた細工物の鳥は、本物とまごうばかりの声を鳴らす。

 節も乱さぬその細工鳥に、御殿の人々は夢中になった。なによりも、見た目は本物よりもずいぶん綺麗だったからだ。

 けれど、誰もが気付かぬうちに、本物のさよなきどりは姿を消した。
 それでも、細工の鳥の音があるというので、誰もそれを気にとめない。

 それからずいぶん経った後、ふとした瞬間に、けれど作り物のさよなきどりは壊れてしまう。

 どうにか直すことはできたものの、大切な部品が疲弊していて、しかもそれを直す手段がない。
 皇帝は、大事にしなければならないと、年にたったの一度だけ、その鳥の音を鳴らすことにする。

 それから更に五年が経ち、皇帝は病に伏せる。

 ―― それで、どうなったっけ?

 よく思い出せない。


891: 2017/11/15(水) 23:55:31.20 ID:lNunJpruo

 小夜啼鳥。
 さよなきどり。
 よなきうぐいす。
 ナイチンゲール。

 さよなきどりの声。

 誰もが聞いている。
 当たり前のように、その声に励まされ、癒され、慰められている。

 僕は―― そんな声を聞いてみたかった。誰もが耳にしたことのある、その声を、僕も、聞いてみたい。

 けれど僕は、そんな声を聞いたことがない。そんなものがあるなんてことすら、信じられない。

 僕だけが、その声を聴くための聴力を持っていないかのような、そんな気さえする。

 鳥の声は、僕の耳には届かない。
 
 それとも、僕は、宝石細工の小夜啼鳥の出来損ないだろうか?

 使い物にならなくなって、誰にも相手にされなくなるだけの。
 同じ節ばかりを繰り返す、聞き慣れてしまえば退屈なだけの。

 ――なかなかいいこえでうたうし、ふしもにているが、どうも、なんだかものたりないな。

「……僕は、認められたい。必要とされたい。自分が、居てもいい人間なんだって、思いたい」

 どうしてだろう。
 どうして僕は、そう思えないんだろう。
 
 どうしてそんなことを、重要なことだと思ってしまうんだろう。


892: 2017/11/15(水) 23:56:45.58 ID:lNunJpruo

 きっと、気にしていない人なんてたくさんいる。

 当たり前に、自分を許せる人、認められる人、そういう人もいる。
 その人達なりの苦渋に悩まされながら、それはけれども、僕のそれとは、少し違うような気がする。

「……誰かの評価でしか自分の価値をたしかめられないとしたら、それはとても不幸なことだと思うけど」

 あさひは、見透かしたようなことを言う。僕はグラスの中身を飲み干す。

 たしかに、と僕は思う。自分で自分を肯定できないなら、どこにいっても幸福になれはしないだろう。
 どこにいっても、心の底から笑えやしないだろう。

 でも――誰にも愛されず、誰にも必要とされず、そんな自分を、どうして肯定できたりするだろう。

「あなたの欲望のなかに、"あなた"はいない。"誰か"の欲望のなかにしか、"あなた"はいない。"あなた"の欲望の中にも、"誰か"はいない。それって、悲しいことだよね」

 あさひの言葉は、けれど、僕にはよくわからないままで、ただ、今は小夜の言葉を思い出している。

 ――ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……。
 ――……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの。

 愛奈。
 いつか、愛奈が、僕にとっての小夜啼鳥になってくれると思った。

「――言ってほしい言葉を言ってくれそうな相手を探していただけなんだね」
 
 ――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない。



895: 2017/11/17(金) 00:26:06.60 ID:yCFgfYGCo



 僕とあさひの間にそれ以上の会話はなかった。思考もまた、それ以上は続けられなかった。
 虚ろに広い洋室のなかで、僕たちは向かい合って座ったまま目も合わせなければ言葉も交わさない。
 ただ酒を飲み交わすだけだ。

 遠くの方から犬の鳴き声が聴こえる。車の走る音が聴こえる。誰かの怒鳴り声が聴こえる。
 けれどそれらすべてが今この場所とは関係がない。

 やがてあさひはもう降参だというかのように何も言わずに立ち上がった。
 階段を昇る足音が聞こえ、ドアが開き閉まる音が聞こえ、やがてシャワーの水音が聴こえはじめた。
 あとは勝手にしろと言われたみたいだった。

 僕はグラスの底に残った何ミリかの赤い液体を口に含む。

 電灯のあかりがよそよそしく刺々しい。もはや沈黙すらない、静寂ですらない無音がここにある。耳鳴りのような無音だ。

 しばらくぼーっとしている。何も考えられない、何も思いつかない、何も思い出せない。そんな時間がずっと続いていた。
 時計の秒針の音がやけにうるさく、苛立たしいほどに遅く感じられる。

 不意に、叩きつけるような音が響きはじめ、そういえば雨が降っていたんだ、と僕は思い出した。

 窓の外を眺める。外では雨が降り続いている。犬の鳴き声が聴こえる。
 景色が灰色、灰色だ。

 その夜僕は眠れなかった。あさひはもう僕の前に顔を見せなかった。
 僕は勝手に浴室を借りてシャワーを浴びて、ダイニングのテーブルに突っ伏してイヤフォンをつけて音楽を聴いて夜を過ごした。

 少しも眠れられないままやがて朝日が昇った。

 ふと思い出して鞄をあさると、すみれの煙草が入っていた。
 僕は身支度を整えて外に出た。雨は止んでいたが、街はひどく静かに青褪めている。
 夢の中にいるみたいだと僕は思った。

 煙草に火をつける。その光がやけに暖かかった。
 さて、どこにいこうか、と僕は考える。


896: 2017/11/17(金) 00:26:34.68 ID:yCFgfYGCo



 でもどこにも行き場なんてありそうにもなかった。

 僕はイヤフォンをつけて音楽を聴きながら街を歩くことにした。

 どこまで歩いてみても何も見つけられそうにない。何も聴こえやしない。

 イヤフォンから流れてくる音楽、とめどなく流れてくる音楽、遠い時間の遺物。
 
 聴こえてきたのはSUM41だった。

 姉が遺したものではない、僕が、僕が入れた曲だ。

「pieces」だった。

This place is so empty
My thoughts are so tempting
I don't know how it got so bad


897: 2017/11/17(金) 00:27:19.20 ID:yCFgfYGCo

 ひどく肌寒い。どこにも行き場がない。
 結局僕はどこにもいけないままだ。

 橋を越えた先に、昨日僕がはじめて人を刺した場所があった。

 もう何も残ってはいない。それは過ぎてしまったことだ。取り戻せない。
 通り過ぎてしまった扉だ。

 そのまま歩いていく。見覚えのある景色。いつか、小夜と一緒にいた公園。
 昨夜の雨に濡れて、灰色の景色はひどくうつろに、心細く見えた。

 ベンチに腰かけて、どうしてこんなことになったのかと僕は考える。

 空気はとても綺麗で、綺麗な分だけその空虚を引き立てていた。
 
 イヤフォンからは音が鳴り続いている。

 血の代わりに音が流れているみたいな気がした。

 そんなふうにからっぽになって、自分じゃないもので自分のなかを満たして、
 そのときはじめて僕はようやくほんのすこしだけ安らぐことができる。
 

898: 2017/11/17(金) 00:27:51.86 ID:yCFgfYGCo




 ――ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?


 ――こわくないよ。うん。へいきだもん。


 ――ね、お兄ちゃん、わたしね……。


899: 2017/11/17(金) 00:28:19.05 ID:yCFgfYGCo

 


 
 そうして、考えるのをやめたときに限って、頭の中に声が響く。
 思い出そうとしたときは、かけらさえも思い出せなかったのに、そんなときにばかり思い出せる。

 あるいは、考えるのをやめたからこそだろうか。

 あの高いビルの上、展望台から眺めた景色。
 どうしてあんな場所にいったんだっけ。もう、覚えていない。

 でも、愛奈と僕は、ふたり、電車に乗って、街を歩いて、そうしてあの塔に向かったのだ。

 あのとき、どんな言葉をかわしたんだっけ。
 
 僕は、なんて答えたんだっけ。


900: 2017/11/17(金) 00:28:48.02 ID:yCFgfYGCo




 空は白から青へとうつり、光は薄闇を簡単そうに満たしていく。
 やがて幕が開くように景色は色を変えていく。

 僕はまだ濡れたベンチに腰掛けている。

 街の景色がうつろいはじめ、人々が姿を見せ始めた頃、僕は歩き始めた。

 ――どうして、高いところってのぼりたくなるんだろうね?
 
 どうしてだったかな。

 もう一度昇れば、思い出せるだろうか。


903: 2017/11/21(火) 01:00:50.00 ID:ogkZSEtjo



 霧雨に煙る街を僕は歩いた。

 場所も姿も僕の知っているままの高いビルを見上げて、僕はひどく落ち込んだ気分になる。
 
 僕は、こんなところに昇りたくなんてない。

 そう思った。それなのに、足は止まらない。

 このまま外にいたって、どうせずぶ濡れになっていくだけだ。

 他に行くべき場所も戻るべき場所もない。選べる道なんて他にはなかったのだ。
 
(――本当に?)

 そんな声が聴こえた気がしたけれど、それは錯覚だと自分でもわかっている。


904: 2017/11/21(火) 01:01:17.53 ID:ogkZSEtjo

 建物の中には人の姿がなかった。
 
 奇妙な空間に迷い込んでしまったような、そんな違和感を覚える。

 人の姿がない。にもかかわらず、気配がある。気配だけがある。

 誰かの話し声が聴こえた。
 でも、それさえも、そんな気がしただけのことだ。

 夢の中に迷い込んだような、不思議な感覚だった。

 僕は、入ってすぐの場所にあった、展望台への直通エレベーターの扉の前に立つ。
 
 エレベーターは、今は上に止まっているらしい。
 ボタンを押してからしばらく待たされた。

 いくらか間抜けな音を立ててから、扉は開いた。僕は他にやりようも思いつかずに、結局その扉をくぐるほかなかった。


905: 2017/11/21(火) 01:01:47.76 ID:ogkZSEtjo

 ガラス張りの窓の向こうで街が離れていく。
 ああそうだったと思い出した。

 高いところに昇る理由。

 ――ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?

 ――たぶん、なんだけどね……。

 ずいぶん時間がかかるエレベーターだ。
 ゆっくりと昇る小さな小箱だ。

 辿り着く場所は決まっているくせにもったいぶっている。

 結末はもう決まってるのに。
 
 扉が開いて、そうしたら僕にはもう分かってしまう。

 エレベーターが音を立てて止まる。
 待ちくたびれたと僕は思った。


906: 2017/11/21(火) 01:04:04.26 ID:ogkZSEtjo


「――あなたを止める。絶対に。それがわたしの責任だと思うから」

 ――不意に聴こえたその声に、眩暈がしそうになった。

 僕は、けれど急がなかった。
 通路をゆっくりと歩いていく。不思議なくらい寒々しい空気があたりを満たしている。

 やがて階段が見えてきた。 
 向こうに大きな窓が開けている。

 その前に、ふたりの少女が立っている。

 片方はこちらに背を向けて、もう片方は、その子を挟んでこちらを向いている。
 ふたりは向かい合っている。

 黒い衣装の二人組。

 僕は、彼女たちを知っている。

 片方はすみれ。
 片方はざくろ。

 ふたりはよく似ている。そのことを僕は知っている。
 鏡写しのように似ている。

 すみれの背後には階段があり、ざくろの階段には窓が――窓がある。


907: 2017/11/21(火) 01:04:58.71 ID:ogkZSEtjo

「……間一髪、で、間に合わなかったね」

 すみれの肩越しに、ざくろと目が合う。彼女はおかしそうに笑った。

「何の話?」自分に言われたものだと思って、すみれは訊ねる。
 それから、視線が彼女を向いていないと気付いて、こちらを振り返った。

「……遼一」

 すみれもまた、僕に気付いた。
 彼女は見慣れない黒い服に着替えていたし、片目が眼帯で隠されていた。
 それでもすみれはすみれだった。
  
 時間。
 
 僕は、何を言えばいいかわからなかった。
 ただ、高い場所に向かおうと思っただけだったのだ。

「結局ね、あなたたちは何も変えられないの」

 ざくろは、僕達ふたりを見下ろしながら、言う。

「なんにも、変えられない」

 すみれが、ざくろに向き直った。

「そんなの、分からない」


908: 2017/11/21(火) 01:05:25.12 ID:ogkZSEtjo

「無理なの」とざくろの声がした。

“背後”からだった。

「変えられないの。少なくとも、“今”のわたしにもすみれは追いついていない」

 振り返ると、そこにざくろがいる。同じような姿のままに。
 もう一度、僕は前を見る。そこにもやはり、ざくろがいる。

 さすがに、混乱しないわけにはいかなかった。

 何よりも、正面に立っているざくろが、驚いたような顔をしていたのが意外だった。

「変えられないの」と、今度は別の場所から聴こえた。階段を昇った先の壁の影から、またざくろが現れた。

「“今”のわたしにも、やっぱりすみれはわたしに追いついていない」

 今度は、そのその背後から、またひとり。

「“わたし”は、ここにいる最初の“わたし”は、この光景を見た。だから知ってる」

 今度は、正面に立つざくろの背後から、現れた。
 何もない場所から不意にあらわれるようにして。

 万華鏡めいた景色だった。

「ずっと先の未来まで、すみれがわたしに追いつけないことを、わたしは知っている」

「嫌がらせって、さっきすみれは言ったよね。そのとおり」

「ねえすみれ、そのとおり。どうしてこんなに未来のわたしが集まったんだと思う?」

 次々と現れる。
 ミラーハウスの中にいるみたいだ。
 どのざくろの視線もすべて、すみれへと向かっている。

「嫌がらせ、だよ」

 そう言って、ざくろが笑い、その影からまたざくろが現れる。
 声は重なり響き合う。


909: 2017/11/21(火) 01:06:01.31 ID:ogkZSEtjo

「ねえすみれ――本当にわたしを捕まえられる?」

「本当にわたしを止められる?」「わたしは無理だと思うな」「現に捕まえられていないから」「あなたにわたしは止められないから」

「だからこれは鬼ごっこなの」「終わらない鬼ごっこなの」
「あなたはまだわたしを捕まえてくれない」「わたしは待ってるのに」
「あなたはまだわたしを諦めてくれない」「からかわれてるだけだってわかってるのに」

「絶対に無理なの」「アキレスと亀なの」
「同じ場所にとどまるためには絶えず全力で走っていなければならない」
「あなたが走ればわたしも走る」
「同じ速さでわたしも走る」

「ランニングマシーンみたいなものなの」
「あなたがどれだけ速く走っても、地面が反対に進んでいくの」
「あなたがどれだけ速く走っても、わたしは更に遠ざかっていく」「時間が流れれば流れるほどわたしは遠ざかる」
「だからあなたはわたしに追いつけない」「追いつけないの」

「これはもう決まっていることなの」
「ねえすみれ、あなたは最後のわたしを見つけられる?」
「諦めなくてもいいし、諦めてもいい」
「続けてもいいし、続けなくてもいい」

「だって結果は変わらないから」
「あなたは永遠にわたしに辿り着けないから」

「あなたがわたしの扉をくぐる」「わたしはわたしの扉をくぐる」
「あなたが見つけるわたしはいつもわたしには過ぎ去った時間で」
「その時間のわたしが捕まっていないことをわたしは知っている」
「だからこれは嫌がらせなの」
「ううん、拷問なの」

「あなたが大好きだよ、すみれ。放課後の校舎と、ガソリンの匂いと、木洩れ日の並木道と、古い図書館と同じくらいに」
「あなたが大嫌いだよ、すみれ。神話と、冷たい言葉と、馴れ馴れしい人と、あの痛みと、家族と、お酒と同じくらいに」
「あなたは追いつけない」「――だって、一度、逃げ出したものね」


910: 2017/11/21(火) 01:06:29.94 ID:ogkZSEtjo




 ――不意に哄笑が響き、

 ――光が溢れ、

 ――“ざくろ”たちは姿を消した。

 なにもかもが夢だったみたいに、さっきまでと同じように、立っているのはひとりとひとり。
 すみれとざくろが、また向かい合っている。

「……ね、すみれ、それでもわたしを追いかける?」

 にっこりと、ざくろは笑う。
 その問いの答えを、ざくろは既に知っているのだ。
 すみれがざくろを追い、そしてざくろを捕まえられていないことを、ざくろは知っている。

 ざくろが不意に手のひらを胸の前で広げ、
 彼女の指先がぼんやりと光った。

 その淡く鈍い光が、ゆっくりとその手から離れていく。
 静かに、その光がかたちをなしていく。
 ざくろの背後に、扉があらわれた。

「ね、すみれ、どうする? この扉の先に、あなたが望んでいる景色は、きっとないけど」

 すみれは、けれど、
 とうに覚悟は決めていたというような声で、応えた。

「それでも、ここに集まったあなたの中で、一番向こう側にいたあなたのその未来を、わたしが捕まえているかもしれない」

「そう。そうかもしれない」


911: 2017/11/21(火) 01:07:10.27 ID:ogkZSEtjo

 すみれは、ふと、僕の方を振り返った。

「遼一、ごめんね。やっぱりわたしが、巻き込んでたみたい」

 その片目が、瞳が、綺麗だと思った。

「もうひとつ、ごめんなさい。でも、わたしはもう、自分のことで手一杯だから。
 遼一、あなたも、自分のことは自分でなんとかして」

 どうにかして、あげたかったんだけどね、と、すみれは言う。

「気にしてないよ」と僕は言った。

 彼女は頷いて、ざくろへと向かっていく。ざくろの体は、すみれの手をすり抜けた。
 それを知っていたみたいに、すみれはそのまま手を伸ばし、ドアの把手を掴む。

 扉が開く。
 その向こうには、けれど――

 深い、深い暗闇が横たえている。

「――待っててね」

 そんな声が、かすかに聴こえた気がした。

 それがすみれを見た最後だった。


914: 2017/11/24(金) 00:56:49.61 ID:pmjGcbbto




 僕とざくろだけが、展望台に取り残された。

 さっきまで見た光景、それも今はどうでもいいもののように思える。

 階段の上にざくろが立っている。

 その表情が、穂海のそれと重なる。
 穂海のことなんて、ろくに覚えちゃいないのに。
 
 僕が初めて人を刺したときの、あの穂海の顔を思い出す。

 穂海は僕を許さないだろう。僕が穂海でも、そうするだろう。
 僕自身もまた、僕を許しはしないだろう。

 もし許してしまったら、帳尻が合わなくなる。
 僕も、誰かを許さなくてはならなくなる。

 だから僕は、僕を許してはいけない。
 でも、許さないというのは、どういうことを指してそう呼ぶんだろう。
 ただ許さないと、そう思い続けていれば、許さないことになるのか。
 
 それともそれは、ただ、許していないと思い続けることを咎から逃れる免罪符に使っているだけなのか。
 
 よくわからない。

 誰かが誰かを傷つける。それに傷ついた誰かがまた誰かを傷つける。
 傷つけられた誰かは誰かを許さない。傷つけた誰かも誰かを許さない。
 誰がツケを払うんだ?

 それでも、復讐なんて無益だなんて月並な言葉で割り切れるほど、話も事も単純じゃない。
 痛みは、循環しないといけない。


915: 2017/11/24(金) 00:57:24.18 ID:pmjGcbbto


「あなたはどうするの?」とざくろは言う。

 僕は答えられなかった。

「それにしても、驚き。どうしてここに来たの?」

「……」

「めぐり合わせっていうのかな」

 答えない僕に、ざくろは退屈そうな溜め息をついた。

「どう思う? すみれは、わたしを捕まえられるかな」

「……期待してるの?」

 僕のその問いに、彼女は、馬鹿な質問をした子供を見るように目を細めて、唇を歪めて笑う。
 上弦の月のようだと、僕は思った。
 
 見下されているみたいだ。

 いや、今は、現に、見下されている。
 見下ろすこと。
 見下されること。

 なぜだろう、今になって、沢村が僕を不快に思っていた理由が分かった気がした。
 これは……不快だ。


916: 2017/11/24(金) 00:57:52.50 ID:pmjGcbbto






『ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?』

 ――たぶん、だけどね……高い場所からの方が、よく見えるからだよ。

『よく見えるって、なにが?』

 ――いろんなもの。自分が普段立っている場所。いろんな場所を、俯瞰できる。

『フカン?』

 ――高いところから、見下ろせる。そうすると、遠くまで見渡せるし、低い場所から見るよりも、街がどうなっているのかわかりやすい。

『ん、んん?』

 ――視点を変えれば、いや……見方を変えれば、うつる景色も違う。そうすることで、自分が立っている場所を確認できる。

『……んー?』

 ――自分がいる場所についてよく知るためには、自分がどこに立っているかを知るためには、高い場所から見下ろすことも必要なんだ。

『変なの』

 ――なにが?

『だって、ここから見える街のどこにも、お兄ちゃんも、あいなもいないよ』

 ――……。

『あいな、ここにいるもん』

 ――……。

『お兄ちゃんは、どこにいるの?』



917: 2017/11/24(金) 00:58:18.23 ID:pmjGcbbto




「つまらない、ね」

 ざくろは、そう言った。

「わたしはもういくけど、あなたは?」

 僕は答えない。

 僕は階段を昇る。
 そして、ざくろを通り過ぎ、窓の傍へと歩み寄る。

 見下ろす街は、以前と変わらない。

 でも、この街は、僕の知っている街ではない。

 よく似ているけれど、違う。
 この街に愛奈はいない、この街は愛奈を知らない。

「ねえ、聴こえてるの?」

 ざくろの声が、今は、耳障りだ。

「ねえ、人を刺すって、どんな気持ちだった?」

 ざくろの声が、今は……。

「そんなふうになっても、生きていたいものなの?」

 今は……。

「……うるさいな」

 僕は、うしろを振り返らずに、そうとだけ言った。彼女はおかしそうにケタケタと笑う。


918: 2017/11/24(金) 00:59:12.09 ID:pmjGcbbto

「何がおかしいんだ?」

「ううん。誰かを傷つけた人間が平然としてるのって、おもしろい。それって、もっとなじってほしいって意味でしょう?」

「……すみれの目は」

「なに?」

「すみれの目は、きみがやったんじゃないのか」

「……それがなに?」

「気になっただけだよ。姉の目を抉る気持ちはどんなだろうって」

「……」

「誰かを傷つけた人間。加害者。たしかに、そうだな。べつに、言い訳する気も自己弁護する気もない」

「……」

「でも、審問っていうのは、よくないらしいよ」

「知ったようなことを言う。わたしは"被害者"だよ」

「一面的にはね」と僕は言う。「でも、刺した」

「順番が違う」とざくろは言う。「わたしが最初に傷つけられた」

「滑稽だな」と思わず口に出さずにはいられなかった。

「きみが自分で言ったんだろう。"わたしは時間から解き放たれた"って」

「それでも、"このわたし"を基準にした時間的前後は存在する。それが世界の時間とは異なる意味だとしてもね」

 それはつまり、彼女もなんのことはない、僕らと同じ地を這う蟻だということだ。


919: 2017/11/24(金) 00:59:38.57 ID:pmjGcbbto

「傷つけられた人間は、誰かを傷つけてもいい?」

「……」

「だったら、きみを傷つけた人間が、誰かに傷つけられていたとしたら、それは許される?」

 今度はざくろが黙り込む番だった。

「べつに文句を言いたいわけじゃない。僕が言いたいことって、そんなことじゃないんだ。
 きみを貶すつもりも、裁くつもりもない。僕にだってそんな資格はない。
 傷つけたとか傷つけられたとか許すとか許されたって話は、たぶん、単純じゃないんだ」

「……」

「傷つけるって、そもそもなんだろう? どうすれば、誰かを傷つけたことになる?
 情状酌量の余地があればいいのか? それとも過失ならば見過ごされるべきか?
 故意でなければいいのか? 反省や後悔の有無は判断材料になるか? ――無駄なんだ、そんな話」

「……」

「どんなに着飾って見せても、言葉で正当化なんてできやしない。正しさっていうのは法律とは別の問題なんだと思う。
 僕らは、この世に生まれた時点で、"正しさ"とかいうものに対して取り返しようのない遅れを持たされてるんだ。
 どれだけ言葉で取り繕ったところで、上手にごまかしてみせたって、僕らは逃げられない」

「――逃げられない。だから、誰かを傷つけても仕方ない?」

「違うよ」

「だったら、なんて言いたいの?」


920: 2017/11/24(金) 01:00:22.84 ID:pmjGcbbto

 傷つけることを肯定すれば、僕は姉が愛奈にしたことを認めることになる。
 姉を許してしまうことになる。

 けれど、姉を許さないことは、姉のしたことを間違いだったと思うことは、
 それはそのまま、穂海の生誕を呪うことになる。
 彼女が生まれたことを、間違いだったと呼ぶことになる。

 傷つけることを否定すれば、僕は僕自身を認められないし、ざくろを認められないし、姉を認められない。
 自分が生まれたことそのものが間違いだったような気さえしてしまう。

 そうだとすれば、それは僕を産んだ両親の判断が間違いだったことになり、
 とすれば両親を産んだ祖父母が間違っていたことになり、
 けれどそうなれば、その判断に至るまでのあらゆるすべてを間違いと呼ぶことになり、
 結果、この世界は"誤った世界"になってしまう。

 正しさなんてものは存在しない。
 どこにも存在しない。

 僕達が普段正しさだと思っているものは、すべて、なあなあの決まりごと。
 単なる社会規範、慣習、あるいは、"法律"の言い換えにすぎない。

 ものを盗むのはよくない。
 でも、所有という概念そのものが、人間が勝手につくった決め事にすぎない。
 人間は自然の占有者、借地人にすぎない。


921: 2017/11/24(金) 01:00:50.77 ID:pmjGcbbto

 だから僕たちは、正しさなんて言葉とはさっさと手を切ってしまえばいい。
 正しさとか、間違いとか、そんな言葉遊びに付き合ってやる必要なんてない。

 それは単に、「それがあった方が円滑に話が進むから」という、ただそれだけのルールに過ぎない。
 サッカーを円滑に進めるために、「ボールに手で触れてはいけない」とルールを決めておかなければいけないのと同じだ。

 誰かがはじめたその遊びのルールのなかに、僕たちはいる。

 ―― そのうえで、けれど、僕は僕を許せない。

 だったら、なんて言いたいの? ざくろはそう言った。

「――もっともらしいことを言って、正当化しようとするんじゃねえよってこと。
 たとえ誰に傷つけられたにせよ、順番がどうだったにせよ、ざくろ……"きみ"も刺した。
 たしかにきみも傷つけられた。でも、"それとこれとは別"なんだ」

 ざくろは短く嘆息して、やはり笑った。

「肝に銘じておく」と言ったけれど、どうやらその気はなさそうに見える。

「それで――あなたのそれは、審問ではないの?」

 どうだろうな、と僕は思った。

「もう、行くね」とざくろは言った。

「あなたと話してると……とても、胸が、ざわざわして、落ち着かない」

「じき落ち着くよ」

「……どうして?」

「さっきのきみたちには、そんな様子なかったからな」

「……そう、そうね」

 それからざくろは、ゆっくりと瞼を閉じた。
 苦しそうに、胸のあたりを手で抑えていた。 
 その指先が静かに体を昇っていく。

 彼女の爪が首筋に力強く食い込んでいくのを、僕はぼんやりと眺めている。

「消える……いつかは、消える。いずれにせよ、血は流れているもの」

 言い聞かせるようなその響きが、静けさにこだましたように思えた。
 僕は窓の外を見下ろしている。

 ふと、沈黙が静寂に変わった。

 振り返ると、彼女はいなくなっていた。


922: 2017/11/24(金) 01:01:23.70 ID:pmjGcbbto



 ――怖くない?

『なにが?』

 ――高いところ。

『こわくないよ。うん。へいきだもん』

 ―― そっか。

『お兄ちゃんこそ、こわくないの?』

 ――うん。平気だよ。

『ホントに? なんか、つらそうに見えるよ』

 ―― そう?

『ときどきね』

 ―― そっか。ときどき、そう見えるか。

『ね、お兄ちゃん』

 ――ん。

『お兄ちゃんのこと、ときどき、ずっと遠くにいるみたいに思うの』

 ――遠く?

『うん。なんだかね、さっき、お兄ちゃんが言ってたみたいに。
 あいなや、ママや、おばあちゃんたちのこと、高いところから、フカン、してるみたいって』

 ――俯瞰、してるみたい、か。


923: 2017/11/24(金) 01:02:08.14 ID:pmjGcbbto

『うん。だからかもしれない。一緒にいても、お兄ちゃんはひとりだけ、高いところにいるの』

 ――……。

『違う場所から、あいなたちのこと見てるの』

 ――……。

『お兄ちゃん、わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ』

 ――……。

『いつか、お兄ちゃんが、わたしたちといっしょにいられるようになったら、いいね』

 ――……。

『高いところから景色を見るのもきれいだけど、ほんとにそこに行かないとわからないことってたくさんあるでしょう?
 それに、ここは少し、さびしいもの。こんなくもりぞらの日は、よけいにそんな感じがするね』

 ――……。

『それにほら、あんまり高すぎると、見えなくなってしまうものってあるでしょう』

 ――……。

『なんていうんだっけ? ほら、えっと……灯台……』

 ――……灯台下暗し……?

『そう! お兄ちゃんは、灯台だから。……そっか。だから、お兄ちゃん、そこにいるんだね』

 ――……?

『お兄ちゃんは、高いところから、みんなを案内して、みんなの船が迷わないようにしてるんだね』

 ―― そんなに、いいもんじゃないよ。

『そうかなあ。でも、高いところは、きっと寂しいから』

 ――……。

『だから、ときどきはおりてきて、そしたら、あいながいっしょにいてあげるから』

 ――……。

『だから、お兄ちゃんも、あいなといっしょにいてね』



924: 2017/11/24(金) 01:03:07.70 ID:pmjGcbbto





 どうして今更思い出すんだ?

 どうして今まで忘れていたんだ?

 もう戻れない。戻り方を忘れてしまった。
 
 高い場所から降りる。
 俯瞰するのをやめる。

 それってどうやるんだ?

 壁があるみたい、と小夜は言った。

 自分だけが、周りから一歩引いてたような顔をしている、と沢村は言った。

 あなたのそれは、審問ではないの? ざくろすら、そう言った。

 つまりそういうことだ。

 壁を作り、距離を置き、上段に構えて自分すらを裁く。
 そうすることで僕は僕を維持してきたのだ。

 僕は僕自身を裁き続けることで僕自身を維持してきたのだ。

 かくあらねばならないという像を自らに強いて、
 そうやってここまで生きてきた。

 何かの期待に答えるように、何かのルールに則ったように、自分を縛り付けて歩かせてきた。
 

925: 2017/11/24(金) 01:03:35.93 ID:pmjGcbbto

 他の生き方なんて、僕は知らない。
 知ったところで今更だ。

 戻れない。……戻れない。

 展望台の窓から街が見える。何にも変わらない。
 ガラスに映り込んだ自分の顔つきにすらうんざりする。
 そして不意に、その表情をのせた肩の向こうに、扉を見つけた。

 振り返ると、扉がある。
 
 不意に、耳に、声が届いた。
 どこか遠くから、運ばれてきたような、声。

 ――わたしは、待ってる。

 それは、ついこのあいだ聞いたような、ずっと長いあいだ聞かなかったような、そんな声だ。
 甘く優しく耳朶を打つ。

 その響きに、僕は、今、何かを思い出そうとしている。
 扉を、見つめる。


928: 2017/11/26(日) 23:22:27.49 ID:L2HTNNmfo



 僕は、窓の外の景色にもう一度目をやる。

 この窓からは世界を見渡せる。そんな気がする。
 ここにいるかぎり、何もかもわかりきっている。そんな気さえする。

 けれど今、かすかにガラスにうつる僕自身の顔と、その背後の扉が僕の呼吸をひそかに荒くさせる。

 さっき聴こえた声は、なんだったんだろう。

 時がたつに連れて、それが単なる空耳とは思えなくなってきた。
 なにか、啓示のようなものにすら感じられる。

 けれど、今は、それは何かあやふやなものとしてしか、僕のなかには存在していない。
 
 振り返った先の扉を見たときも、たいした感慨なんてわからなかった。

 なぜとか、どうしてとか、そんな言葉は言い飽きた。

 問題は、僕にこの場所を離れる気があるかどうか。
 それだけだという気がする。

 体ごと振り向いてしまうと、僕はもうその扉と向き合うしかない。

 僕は、把手をつかみ、扉を開く。
 その先にあるのは、やはり、暗闇にしか思えない。

 横たえた暗闇、その先にもきっと、何か劇的な変化なんてもwのはないのだろう。
 ただ、今ここにあるすべてと変わらない何もかもがあるだけなのだろう。
 
 それでも僕は、その扉の先へと向かうことにした。

 誰かが泣いているような気がした。


929: 2017/11/26(日) 23:23:03.95 ID:L2HTNNmfo




 
 扉をくぐった先は、けれど、さっきまで見ていた景色となんら変わらないものだった。
 展望台、高い場所、さっき見た通りだ。
 鏡の中に入ったみたいにさっきまで見下ろしていたのと同じ景色が広がっている。

 けれど、さっきまでとは違う。何かが、違う。

 一瞬、僕は自分が元の世界に帰ってきたのかと思った。
 でも、それが間違いだとすぐにわかる

 大きな窓から外を見ると、相変わらずの曇り空の上に、月がふたつ、浮かんでいる。

 まだ昼だというのに、やけにはっきりとした輪郭で、たしかに浮かんで見える。

 僕は、窓に背を向けて歩き始めた。
 もう扉の先の景色は向こう側につながっていない。ただ厄介なオブジェに過ぎない。

 展望台の窓から離れ、僕は階段を降りる。
 どこかには行かなければいけないんだ。

 通路の先には冷え冷えと鋭い光を宿すエレベーターの扉がある。
 僕は人の気配のない通路を進んでいく。
 エレベーターは閉ざされている。

 僕は、スイッチに触れる。
 下に向いた矢印の背景が、橙色に灯る。
 
 やがて機械の音が聞こえる。近付いてくる。


930: 2017/11/26(日) 23:23:46.28 ID:L2HTNNmfo

 音を立てて扉が開く。
 僕は、しばらく迷っていた。

 ――お兄ちゃんのこと、好きだよ。

 そんな声が聞こえる。

 ――でも、それだけじゃ足りないから、お兄ちゃんはここにいるんだよね。

 そんな声が。

 エレベーターは降り始める。
 僕は空に程近い場所から離れつつある。
 もう鳥の声も姿も見えない。離れていく。

 町並みが近付いていき、やがて、建物の影になって完全に見えなくなった。

 エレベーターはそれでも降り続けている。

 一定のスピードで、動いているかどうかもわからないほど静かに。
 

931: 2017/11/26(日) 23:24:24.87 ID:L2HTNNmfo

 そのままどのくらいの時間が経っただろう。

 変化があるまで随分と長い時間だった。
 あまりにも長過ぎたせいで、暇つぶしに時間を計ってみたけれど、二百を越えたあたりで諦めてしまった。

 それでもまだ扉が開かない。

 僕は下降している。

 下降していく。

 いいかげん、機械音にうんざりしてきた頃、ゆるやかにエレベーターが止まった。
 
 突然、扉が開く。

 僕は、自然と一歩を踏み出した。

 何も思わず、何も考えず、気付いたら進んでいた。

 その先は暗闇で、振り向くともう、扉はどこにもなかった。


932: 2017/11/26(日) 23:25:01.94 ID:L2HTNNmfo

 そして僕が立っていた場所は、西欧風の箱庭めいた街だった。
 すみれと一緒に、僕が最初に辿り着いた街。

 他人事みたいな街灯の灯りが、やけに刺々しく僕に降り掛かってくる。

 景色は夜、空の色は黒、月の数はふたつ。

 僕はまた放り込まれている。
 今度は風船のライオンもいない。
 
 仮面の男も子供もいない。

 そうだ。
 ここは広場だ。

 飴が配られていた広場だ。

 その中心に、僕は立っている。

 そして、『誰か』が僕を取り囲んでいることに、そのときようやく気付けた。


933: 2017/11/26(日) 23:25:32.79 ID:L2HTNNmfo

 前方に高い石段があり、その上に木製の古い椅子が置かれている。誰かがそれに腰掛けている。

 あたりを見回すと、四方もまた同様だった。石段があり、誰かが腰掛けている。

 みんな仮面をつけていた。

 正面の誰かが言った。

「きみは氏ぬ」

 それは僕の声に似ていた。

「逃れようもなく氏ぬ。何もできないまま氏ぬ」

「きみは人を傷つけた」

「もう戻れない」

「許されない」

「きみはきみが許さなかった人と同じことをした」

「もう許されない」

「誰一人きみを受け入れようとはしない」

 彼らは僕を見下ろしてる。

 彼ら、あるいは、それは僕だ。
 彼らが口にした言葉は僕が僕に告げ続けた審判だ。

 僕がさっきまで立っていた場所がそこだ。


934: 2017/11/26(日) 23:26:02.63 ID:L2HTNNmfo

 不意に、公園の隅に据えられた樹上から声がした。

「きみ自身を否定し、裁き、審問しているとき、きみは否定されるべききみ自身から逃れて、否定する側に立っている」

 それもまた僕の声だった。
 木の枝は、彼らが立っている石段よりも高い場所にある。

「きみは、自分を上段から審問し、裁くことで、裁かれる場所、本来立つべき場所から逃れ出ている」

 そして今度は、建物の上から。

「そう言っているきみは、どこに立っているんだ?」

 繰り返されている。

「いまのそのきみの思考さえも、裁かれるべき場所に立っていなかったきみを裁く語法でしかない」

 思考はより高い場所へと向かっていく。
 木を越え、建物を越え、塔を越え、やがて鳥も雲も越え、そしていつかは、ああ、そうだ。

 あのふたつの月は、あの眼差しは、僕が僕を見ている目そのものなのか。

 そうやっていつしか、僕の思考は地上から離れていった。
 僕が現に生きている場所を離れ、抽象的で観念的な空間へと向かっていった。

 それがまるで重大な本質的な問題であるかのように。

 けれど、そうすることで僕は、自分を取り巻く周囲の何もかもを地上に置き去りにして、いつしか概念化していた。

 自分が立っている場所を履き違えれば、自分が何を求めているかも、自分が何をなすべきかも、見失って当然なのかもしれない。


935: 2017/11/26(日) 23:26:30.69 ID:L2HTNNmfo

 僕らはどこまで行っても地を這う動物だ。
 空は僕らの住処ではない。

 そんな当たり前のことを、僕は忘れてしまっていたのだろうか。

 言うなればこれは裁判だ。
 
 裁判官はひとり、被告も原告もひとり。
 
 すべてが僕で、でも、全員が僕から離れている。

 僕が立つべき場所は、裁判官の席ではない。
 
 被告席だ。

 原告席は僕が傷つけた人のものであって、僕のものではない。
 裁きの法も、僕が決めることではないし、裁きをくだすのも、僕の役目ではない。

 僕が立つべき場所はここだ。

 そう気付いた瞬間、僕の周囲にいた僕の姿が消え失せた。

 空を見る。
 あの月も、もうどこかへ消えてしまっている。


936: 2017/11/26(日) 23:27:09.27 ID:L2HTNNmfo

 そしてふたたび視線を地上に戻したとき、僕の目の前に広がっていたのは、
 見覚えのある、僕の過ごしていた街に似ている、そんな場所だった。

 不意に、声が聴こえた気がする。

 愛奈の泣き声。
 
 誰にも秘密で部屋の隅で泣いていた愛奈の声。

 穂海の泣き声。

 僕が僕を刺したときの、穂海の泣き声。

 裁くのは、誰かの仕事だ。
 
 目の前に広がっているのは公道だった。
 夜の景色の中で、ときどき車がヘッドライトの光を撒き散らしながら走っていく。
 人通りは少なく、街灯の灯りも乏しい。

 そこで僕は、道路の向こう、横断歩道の先に立っている、ひとりの男を見つける。

 二十代半ばくらい、だろうか。

 体つきは細く、頼りない。彼はポケットから煙草を取り出してライターで火をつけた。
 
 どうしてだろう。

 それが僕自身の姿だとすぐに分かった。
 

937: 2017/11/26(日) 23:28:04.63 ID:L2HTNNmfo

 そうして、わけもなく、ただ、直感した。
 これから見る景色が、おそらく、僕に下される判決なのだろう。

 誰かが僕に下す審判なのだろう。

 歩行者信号はまだ赤のままだ。

 自動車が何台か通り過ぎていく。
 男はまだ煙草を吸っている。

 僕は自分の目に見える景色をなんだか不思議に思った。 
 自分が既に氏んでしまった人間だという気がしてきた。

 信号が点滅を始める。

 車の音が響く。
  
 通りの向こうの男は信号を見ている。暗がりのなかで、それがはっきりとわかる。

 不意に車のエンジン音が近付いてくる。

 見覚えのない車だ。
 僕はその車に気を取られる。

 自動車用信号は黄色になっている。
 車は減速しない。

 その車が交差点にさしかかったとき、ヘッドライトの光が、向こう側の歩道の影を照らした。
 そこには誰かが――立っている。

 僕は、背筋が粟立つのを感じた。
 ほんの一瞬のことだったのに、男の背後に立つその人物が、僕が少し前に見た人間と同じ顔をしていることに気付く。
 
 ――沢村翔太だ、と僕は思う。
 
 沢村翔太が、僕と話したときと、変わらない姿のまま、そこに立っている。

 一瞬の出来事だった。

 沢村の腕が、男の背中へ伸びていく。突き飛ばすような……あるいはその通りの……スピードで、伸びていく。

(――ヘッドライトの灯りに目を灼かれる)

 思わず、車の方を見る。減速する様子はない。このまま通り抜けようとしている。

 歌うような鳥の鳴き声が、遠くの空から聴こえた気がした。

(――煙草が指先を離れていく)


938: 2017/11/26(日) 23:28:44.00 ID:L2HTNNmfo

939: 2017/11/27(月) 08:24:34.62 ID:dYikqQdJ0
おつです

引用: 開かない扉の前で