940: 2017/11/28(火) 01:09:15.76 ID:OSRTiBSYo


最初:開かない扉の前で◆[Alice] A/a

前回:開かない扉の前で◇[Monte-Cristo] R/b

∴[Cheshire Cat]K/a


 おそらくは、夢のような光景だ。

 俺は、その光景の中で、愛奈を眺めている。

 愛奈の隣には、俺ではない誰かがいる。
 俺ではない誰かの隣で、愛奈は笑っている。

 そんな光景を見た。

 そこに俺はいない。

 愛奈の笑顔に、俺は必要とされていない。

 俺が居なくても、きっと、愛奈は生きるだろう。
 それは、愛奈がいなくても俺が生きるのとパラレルだ。

 それはきっと、愛奈が見た世界。
 あるいは、碓氷遼一が見た世界。

 自分なんかいなくても、世界は平気で回ると、そんな当たり前のことを、まざまざと見せつけるだけの景色。

 それは、当たり前で、どこにでもある景色で、でも、
 当たり前のことを、どこにでもあるものを、それでも悲しいと思うのは、いけないことだろうか。

メイドインアビス(1) (バンブーコミックス)
941: 2017/11/28(火) 01:10:11.13 ID:OSRTiBSYo

◇ 


 広場の中央近くに花壇があった。

 花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
 
 花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
 
 花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。

"ざくろ"だ。

 枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。

 夜の景色は、さながら"星月夜"。
 種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。

 そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。

 その壁には扉があり、木の枝に覆われている。
 そのなかに秘められたように、ひとりの女の子が、磔のように吊るし上げられている。
 からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。

 それが誰だか、俺は知っている。

"ざくろ"だ。

 彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している。


942: 2017/11/28(火) 01:11:35.16 ID:OSRTiBSYo

 どうして俺は、こんなところにいるんだ?
 俺は、愛奈と一緒に、帰ろうとしていた。もうすぐ、階段を昇りきり、扉を過ぎ去るはずだった。

 それが、どうして今、こんな場所にいる?

 からたちの枝にとらわれたざくろは、何も言わない。

 彼女の声は、背後から聞こえた。

「おはよう」と彼女は言う。

 振り返ると、そこに黒衣のざくろがいる。

 広場の中央、ざくろの木の下に彼女はいる。

 ここは、と訊ねることは無駄だという気がした。

 どうして、と問いかけることも、同じように。

「あなたに、選ばせてあげようと思うの」

 ざくろは、俺の方をまっすぐに見ている。
 
「何を?」

「あなたを、これからある地点に連れて行こうと思う。そこであなたには、選択権が与えられる」

「ある地点……」


943: 2017/11/28(火) 01:12:02.97 ID:OSRTiBSYo

「それを話さないと、フェアじゃないね」

 ざくろはそう言って笑う。

「これからあなたが見る景色で、あなたは何かをすることもできるし、しないこともできる。
 何もしなければ、あなたは、今のまま、そのままでいられる。でも、何かしてしまえば、あなたは……
 今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない」

「……」

 言葉の意味を、測りかねる。頭はまだ、うまく働かない。

 彼女の言っている意味が、よくわからない。
 
 言葉通りの意味だとしたら、俺がそこで、何かをする理由がないような気がする。
 何かしたら消えて、何もしなければ消えずに済むのなら。

「すぐに連れていく」と彼女は言った。

「目を、少し、瞑ってくれる?」

「ひとつ、いいか」

「なに?」

「それが済んだら、俺はもとの場所に帰れるのか?」

「……あなたがそれを選びさえすればね」

 そして俺は目を瞑る。

(――鳥の声が聴こえる)


944: 2017/11/28(火) 01:12:30.30 ID:OSRTiBSYo




 そして、俺は、ここに立っている。

 交差点の前、横断歩道の傍、
 道路の向こう側に、誰かが立っている。

 それは、碓氷遼一の姿に見える。

 彼はただ、ぼんやりと、視線をこちらに向けている。

 俺は、不意に気付く。
 
 自分の斜め前に、ふたりの男がいる。

 片方は、煙草に火をつけて、立っている。二十代半ば頃の、男だろうか。
 その横顔、それは、碓氷遼一のそれに似ている。

 あるいは、そのもののように見える。

 その後ろに立っている誰かは、彼の様子をうかがっている。

 ヘッドライトの光がちらついている。向こうから車がやってきている。

 不意に、音が止まった。

「ここは、碓氷遼一が氏ぬ地点」

 とざくろの声が聞こえた。

 一切は音を失っている。彼女の声だけが聴こえる。
 時間が止まっているみたいだった。いや、その通りなのだろう。

「背中を突き飛ばそうとしているの」とざくろが言う。

 俺は、斜め前に立つふたりの男を眺める。

「あなたは、これから起きることを、変えられるかもしれない」

 でも、よく考えてね、と彼女は言う。

「何が起きるかを、よく考えてね」


945: 2017/11/28(火) 01:13:50.47 ID:OSRTiBSYo

 一台目の車が通り過ぎる。
 世界が音を取り戻し、時間が当たり前に流れる。

"これから起きること"。

"突き飛ばそうとしている"。

"氏ぬ地点"。

 突き飛ばされることで、碓氷遼一は氏ぬ、ということか。

 それは、つまり、突き飛ばされなければ、碓氷遼一は氏なないかもしれない、ということか。

 向こうにいる碓氷遼一は、それを眺めている。
 信号は赤だ。
 彼はそうすることしかできない位置に放り込まれた。

 俺は?

 俺は、俺は……こちらにいる。手の届く距離にいる。

 だとすれば。

 俺がここで、"何かを"すれば、碓氷遼一は氏なない。

"あなたには選択権が与えられる"とざくろは言った。

 信号はまだ赤のままだ。


946: 2017/11/28(火) 01:14:16.22 ID:OSRTiBSYo

 碓氷遼一が氏ななければ、どうなる?

 愛奈は、泣かずに済むだろうか。
 少なくとも、あんなに、自分を責めたりせずに済むんじゃないか。

 時間さえあれば、碓氷遼一と話し合い、わかり合うことができたんじゃないか。

 そう考えれば、俺が取るべき選択なんて、決まっているような気がする。

 ――けれど。

"でも、何かしてしまえば、あなたは……今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。

 消える?

 それって、どういう意味だろう。
 
 頭をよぎるのは、親頃しのパラドックス。

 ここで、碓氷遼一を助けてしまえば、
 愛奈は俺と向こうの世界に行くことなんてなくなり、
 そこであったなにもかもがなかったことになり、
 俺も、こんなところに迷い込まないことになる。
 そして、ここにいる俺がいなくなってしまえば、碓氷遼一を助けるものもいなくなる。

 そうなれば碓氷遼一は氏んでしまい、
 そこから先の何もかもがなかったことになり、
 愛奈は俺と向こうの世界に行くことになる。

 そして俺はここでまた碓氷遼一を、助けるか助けないか、選ぶことになるかもしれない。

 それって、どういうことだろう?

"今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。

 ざくろを見れば、その結論は出るかもしれない。

 彼女が時間を無制限に行き交うこともできるように、俺もまたそういう存在になるのかもしれない。
 永遠に、時間の檻のなかに閉じ込められ、そこから脱することができなくなるのかも。

 あるいは、そんなことすらなく、ただ未来だけを変えて、今ここにいる俺だけが消え失せてしまうのかもしれない。


947: 2017/11/28(火) 01:14:45.33 ID:OSRTiBSYo

 もっとシンプルに考えよう。

 ここで俺が何かをすれば、その時点から過ごしたすべてがなくなってしまう。
 これから生まれる命、これから氏んでいく命、これから付けられる傷、これから癒えていく傷。
 そのすべてが、なかったことになり、世界はバタフライエフェクト的に変化していく。

 初期値鋭敏性。

 それが愛奈を消したように、俺がここで何かをすることで、誰かが消えてしまうかもしれない。

 誰かの未来を書き換えてまで、俺は愛奈の悲しみをいくらか軽くすることを選べるのか。

 いや、もっとシンプルに、だ。

 ここで俺が何かをすれば、
 愛奈と俺がさまよった数日間のすべてが、なかったことになってしまう。
 
 木々の遊歩道も、夜のコンビニも、何もかも。

 俺は、それを失えるだろうか?
 なくしてしまってかまわないと、思えるだろうか?


948: 2017/11/28(火) 01:15:15.68 ID:OSRTiBSYo

 起きてしまったことを、本当に変えられるのか?
 そんなのありえない、とも思う。けれど、ざくろなら、ざくろだったなら。
 
 彼女なら、できてしまうかもしれない。この俺が消え失せて、愛奈が悲しまない未来を、作れるかもしれない。

 逆から、考えてみよう。

 ここで俺が何もしなければ、碓氷遼一は氏ぬ。
 ざくろの言葉を信じるなら、それなら俺は、このまま存在し続けられる。
 そして、元いた場所、愛奈がいる場所に、帰ることができる。
 
 ……けれど、碓氷遼一を見頃しにしたその後に、俺は愛奈と一緒にいられるだろうか?
 それを、俺自身は許せるだろうか?

 いつのまにか、また、音が消えている。

 ざくろが、傍らに立っている。

「……おまえは、いったい何なんだ?」

 そう問いかけずにはいられなかった。

「こんなの、どこに選択権があるっていうんだ。どっちを選んだって、ろくな結果にならない」

 ざくろは、俺の姿を笑っている。楽しんでいる。

「おまえは、いったい、何がしたいんだ? どうして、俺をここに連れてきたんだ?」

「あなたが、いちばん、まともなままだったから」

 ざくろは、そう言った。

「まともな人は、苛立たしい」

 吐き捨てるような彼女の言葉を、俺は聞いた。
 悲しそうな目をしている。そんな場違いな印象を覚える。

「もっと傷ついて。わたしは、それを見たいの」

 何がどう狂ったら、ひとりの少女が、こんな姿になるっていうんだろう。
 こんな、神様みたいな姿に。



949: 2017/11/28(火) 01:15:43.45 ID:OSRTiBSYo

 うんざりだ。
 何が正しいとか、間違ってるとか、裁くとか裁かれるとか、痛みとか、何の話なのか、さっぱり分からない。

 俺はここに立っていて、生きていて、
 人が氏ぬ姿は見たくない。
 誰かが悲しむ姿も見たくない。

 誰かを好きになったりする。
 誰かを憎んだりする。

 ただそれだけのことじゃないのか。

 それだけで十分じゃないのか。

 ……違うのか?

 不意に音が聴こえる。
 エンジン音が近付いてくる。
  
 歩行者信号が点滅する。

 車のヘッドライトが近付いてくる。
 
 斜め前の男が手を伸ばした。

 きっと一瞬の出来事。
 それがスローモーションに見える。

 誰かを突き飛ばそうとする手。

 選択権が与えられている。
 選択権?

 選択権――。

 ――生まれてこないほうが、よかったのかな。

 俺は、


950: 2017/11/28(火) 01:16:28.12 ID:OSRTiBSYo

◆(K/c)



 突き飛ばそうとする誰かを、気付けば組み敷いていた。

 車はブレーキすら踏まずに通り過ぎていく。

 横断歩道の信号が青になった。 

 誰もが呆然としている。

 俺に抑えつけられた誰かも、音に驚いて振り向いたこちらの碓氷遼一も、
 あちらで眺めているしかなかった碓氷遼一も、俺自身でさえも。

 頭で考えたことなんて、そんなに多くない。

 でも、嫌だった。

 目の前で、大事な人の大事な人が氏ぬのも、誰かを見頃しにして生き延びるのも、
 そんなふうに生きていく自分も、嫌だった。

 子供のわがままのような感情だとわかっている。

 理屈なんてあったもんじゃない。

 それでも、どうして、どうして俺が“そんなこと”に巻き込まれなきゃいけないんだ。
 誰かが氏ぬとか、殺されるとか、どうしてなのか知らない、わからない。そんなの、俺には関係ない。

 どうしてそんなものを強いられなければいけない?

 俺はただ、もっとシンプルに生きていたいだけだ。
 小難しい利害なんて、向いていない。
 正しいとか、間違っているとか、そんなものに振り回されたくない。
 
 この結果が、より悪い結果を引き連れてきたとしても、俺は、こうするしかにあ。

 たとえ、こうしたことで俺自身が消えてしまっても、愛奈と一緒にいられなくなっても、
 こうしなかった俺のまま愛奈と一緒にいるよりは、ずっと愛奈の方を向いていられる気がする。
 
 会えなくなったとしても。
 
 あの木々の遊歩道、夜のコンビニ。
 それはたしかにあったことだ。

 俺は、それを知っている。

 たとえ、消えてしまったとしても。
 
 ――存在するのとは違う形で、傍にいる。
 
 たくさんの言葉が、声が、音が、景色が、急に胸をいっぱいにして、
 気付けば俺は泣いていた。


951: 2017/11/28(火) 01:18:40.43 ID:OSRTiBSYo




「残念ね」と声がする。


「お別れね」と声が言う。


 お別れ。

 お別れだ、と俺は思う。


952: 2017/11/28(火) 01:19:18.80 ID:OSRTiBSYo




「ケイくんは……灯台みたいだね」

「……灯台?」

「うん」

「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」

「どうして?」

 身動きがとれない。
 迎えにも行けない。

 彼女のところに行くことができない。

 ――お別れだ。


955: 2017/12/06(水) 01:28:15.19 ID:IzyndCNto

◇[Nightingale]


 僕はそれを眺めている。

 誰かが、沢村の体を突き飛ばし、馬乗りになって彼を抑えつけている場面を見ている。

 ただ見ている。

 景色はざらつき、歪み、音は遠くなりはじめていた。

 僕の意識はどこか遠いところへとさらわれつつある。

 やがて、断線するように、ぷつんと視界が途切れた。

 真っ暗な景色の中、最後に聴こえたのは甲高い鳥の声だった。


 ――わたしは、待ってる。


 鳥の声。
 
 神さまの言いつけを破った男は、怪魚に呑まれてしまう。
 作り物の小夜啼鳥に心を委ね、本当の小夜啼鳥を軽んじた王様は病に伏す。



956: 2017/12/06(水) 01:29:31.72 ID:IzyndCNto


 不意に、僕は光のない真っ暗な場所に立っている自分を発見した。
 
 光源なんてひとつもないのに、自分の体だけが確かに見える。ほのかに光っているみたいに思えた。

 僕の目の前を、二人の少女が通り過ぎていく。追いかけっこをしているみたいだった。

 彼女たちの笑い声は僕の耳には届かない。片方はいつまでももう片方に手を伸ばして、もう片方はいつまでも片方から逃げ続けている。

 ここまでおいで。
 
 彼女たちの姿が暗闇に飲み込まれて見えなくなる。

 僕の体に宿った光が、不意に足元から広がっていく。
 やがて景色は、暗闇ではなくなった。

 そこに広がっているのは、鏡の迷路だった。
 鏡、鏡、鏡。奥行きも広さも、とても分からない。

 足元には砕けた何かの破片がある。

957: 2017/12/06(水) 01:29:57.74 ID:IzyndCNto

 僕はここに至るまでの道筋を思い出そうとする。

 始まり。すみれに誘われて黒いドラッグスターに乗って街を駆け抜けたときのこと。
 碓氷遼一と生見小夜の姿を見たあのときのこと。
 篠目あさひの夢の話を聞かされて、あっさりと信じたときのこと。
 碓氷遼一と顔を合わせたときのこと。
 沢村翔太と話をしたときのこと。
 碓氷遼一を刺したときのこと。

 すみれ。

 すみれは、どこに行ってしまったんだろう。
 
 心の底から笑える場所が、きっとどこかにあるはずだと、僕を誘った女の子。

 でも、僕にはもう分かっていた。

 自分で自分を肯定できないなら、どこにいっても幸福になれはしないだろう。
 どこにいっても、心の底から笑えやしないだろう。

 そして今、僕は僕自身を肯定できない。

 心の底から笑うことなんて、できやしない。
 幸せになんて、なれやしない。

 でも、もうそんな段階じゃない。


958: 2017/12/06(水) 01:30:36.08 ID:IzyndCNto

 ミラーハウスの鏡が砕けていく、そんなイメージが流れ込んでくる。
 鏡の破片のひとつひとつに、僕が出会った人々の顔があった。
 愛奈、穂海、すみれ、あさひ、ざくろ、沢村、碓氷遼一、名前も知らない誰か。
 
 そのどれもが音を立てて床に落ちて砕けていく。僕はただその様子を眺めている。

 鳥の声はまだ聴こえている。

 僕の体は何かどろりとした液体の中へと沈んでいく。

 さっきまで見えていた景色は既になくなり、僕を今まで運んでいた奇妙な力ももう失われている。
 そんな気がする。

 僕は深いところへ落ちていく。

 光のないところ、暗い海の場所のようなところ。

 僕の意識は曖昧になり、思考は脈絡を失い始めた。
 
 まず言葉が、
 次に声が、
 最後に音がなくなった。


959: 2017/12/06(水) 01:31:28.07 ID:IzyndCNto

 ふとした瞬間まばたきをして、目を開けたら、僕の目に飛び込んできたのは、ひとつの扉だった。

 どうして突然、目が覚めるように体の感覚を取り戻したのか、
 思考が正常さを取り戻したのか、そんなことは僕には分からない。
 
 問題は、目の前に扉があり、その背景は真っ黒だということだった。

 ただ、空間に浮かび上がるように扉だけがそこにある。

 交差点で見た光景。
 僕を、彼が助けていた場面。

 別に、僕を許したから助けたわけではないだろう。
 
 彼はただ、僕が氏んでしまったら悲しむ人がいるから、僕を助けたに過ぎない。

 僕のためじゃない。

 それでも僕は、その景色に従うことにした。
 もう、この扉の先に何が待っていたとしても、その景色に従おう。

 今の僕にできるのは、ただそれだけのことに思えた。

 いったいどこに連れて行かれるかは分からない。

 拍子抜けするような場所かもしれない。

 また暗闇の中なのかも。

 それでもかまわないと思った。

 僕は、今までだってずっと流されていただけだし、これからだってそうしていくだけだ。


960: 2017/12/06(水) 01:32:26.73 ID:IzyndCNto




 
 ふと目を開くと、僕はあのミラーハウスの前に建っていた。

 東の空に太陽が浮かんでいる。

 朝が来たのだと僕は思った。


961: 2017/12/06(水) 01:33:01.30 ID:IzyndCNto



 僕は、もといた世界に戻っていた。
 すみれと旅に出る前にいた、あの当たり前の日常の世界に。

 僕があちらに行っている内に、こちらでは二週間が経っていた。
 家に帰り着いた僕を迎えたのは両親と愛奈で、愛奈は泣きながら僕に抱きついてきた。

 僕に何も言わなかったし、僕に何も求めなかった。ただ何も言わずに帰ってきた僕に抱きついてなかなか離してくれなかったのだ。
  
 彼女が胸の内側に溜め込んでいるわがままのことを僕は思う。
 こんな顔をさせたのが自分自身なのだと思う。

 その上で僕は謝らなかった。
 それはエゴだという気がしたのだ。


962: 2017/12/06(水) 01:33:43.66 ID:IzyndCNto




 まずは家族に、次に警察に、それから学校に、バイト先に、それぞれ事情を聞かれた。
 二週間ものあいだ、いったいどこで何をしていたのかというのだ。

 僕はそのすべての問いに、何も覚えていない、と答えた。

 本当のことを話しても信じてもらえるとは思えなかったし、当人が覚えていないと言ってしまえばそれ以上追及もできないだろう。
 
 実際、僕はあれから今までの間に過ごしたあの時間のことを、もはや現実のようには思えなくなっていた。

 あれは悪夢のようなものだったのではないか。でも、それでも僕はたしかに僕自身を刺したのだ。
 記憶にあるかぎり、それは事実なのだろう。

 バイト先の上司は無断欠勤を咎めてしばらく腹を立てていた。どうやら家出でもして遊んでいたものと思われているようだ。
 僕はべつに言い訳しなかったし、聞き流すことに決めていた。そんなことにかかずらって消耗している場合じゃなかった。

 さいわい、学校では交友関係の狭さが幸いして、僕に何かを訊ねるような相手は二人しかいなかった。

 ひとりは狭間まひる。

「怪しいなあ」と、いつものようにどうでもよさそうな顔で追求してきたが、僕は相手にしなかった。
 彼女はいつものように、たまには部活に出てね、部誌の原稿を出してね、と、決まり文句のような言葉を吐いていなくなった。

 もうひとりは篠目あさひだった。

「ひょっとして行ったの」と彼女は言った。その話し方が、向こうのあさひとどこか違うような気がして、僕は不思議に思う。

「どこに?」と僕は訊ねた。

「遊園地」

 相変わらずの説明を省いた喋り方が、かえって僕を安堵させた。

「そうだね」とだけ、僕は答えた。他のことは一切喋らなかった。

 そのようにして僕は以前のような僕の――意味もなく価値もなく欲望もない――日々を取り戻した。
 
 思えば思うほど、夢のような体験だったと思う。
 でも、夢ではない。

 沢村翔太は、この世界にはいなくなっていた。
 何よりも恐ろしいのは、誰も彼のことを気に留めていないということだった。


963: 2017/12/06(水) 01:34:15.16 ID:IzyndCNto




 隣町で殺人があったとの報道が、連日ワイドショーを賑わせていた。
 
 氏んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
 誰かに刺されていたらしい、と言っていた。

 職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訊ねたときに氏体を見つけたのだという。

 不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。

 姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。

 いまだ行方不明のままの二人の少女を、警察は目下捜索中だという。

 おそらく、見つかることはないだろう、と僕は思う。



964: 2017/12/06(水) 01:34:54.46 ID:IzyndCNto



 
 周囲は、僕のことを腫れ物かなにかのように扱った。
 
 家族は家出だったんじゃないかと疑っていたし、バイト先の人はあまり具体的な話を聞きたがらなかった。
 学校ではもともと腫れ物扱いだ。

 部活に顔を出すと、部長にしつこくあれこれ聞かれるんじゃないかと思ったが、そうはならず、むしろ他の生徒の視線の方が疎ましかった。
 妙な噂が流れているらしいということだけは分かったが、その詳しい内容を教えてくれる宛もない。

 僕はイヤフォンをつけてMDを流し、学校での時間を受け流し続けた。

 以前と同じ生活だ。

 僕は、僕自身を刺したとき、この日常へと帰ってくることを諦めた。
 それなのに、今、ここで当たり前に生活している。

 何もかもが嘘だったみたいに。

 

965: 2017/12/06(水) 01:35:30.81 ID:IzyndCNto



 
 久し振りに部室に顔を出すと、相変わらず物静かそうな部員たちがこそこそと何かを話していた。
 僕は自分の定位置に腰掛け、本を広げた。

 二週間。二週間学校に来なかったからといって、変わったことなんてほとんどなかった。

 テレビや新聞はさまざまなことをやたらと喚いていたけれど、僕にはそれが実感を伴って迫っては来ない。

 今目の前にあること、今僕が過ごしている場所。
 
 そのすべてがなんだか嘘みたいに思える。

 定位置に腰かけて本を開こうとしたところで、部長に話しかけられた。

「調子はどう?」

「……特に、変わりないです」

 彼女は、相変わらずの妙な笑みをたたえたまま、僕の隣に椅子を持ってきて座った。

「なんだか、落ち込んでるみたいに見えるよ」

「そんなことは、ないです」

「そうかなあ」

「そのはずです」

「はず、か」

 部長はくすくす笑った。

「おかしいですか?」

「碓氷くんは、相変わらずおもしろいね」
 
 どこか、おかしかっただろうか。僕にはよく分からなかった。

「はず……うん。はず、ね」

 部長はそう何度か繰り返すと、おかしそうに笑った。

「そんなにおかしいですか?」

「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと弟に似てたから」

「……部長、弟さんいたんですか?」

「うん。氏んじゃったけどね」


966: 2017/12/06(水) 01:36:35.85 ID:IzyndCNto




 部室のドアがノックされたのはその会話の少しあとのことだった。

 扉を開けて入って来たのは小夜だった。

 彼女は部室の中を見渡して、僕の姿を見つけるとすぐに近付いてくる。

「ちょっといいかな」

 いくらかためらいがちな様子で、それでも彼女は僕の方をまっすぐに見ていた。
 どこか懐かしい、澄んだ瞳。
 
 いつも思っていた。
 この子の目はどうしてこんなに穏やかに見えるんだろう、と。

 彼女に言われるがままについていくと、向かった先は屋上に至る階段だった。

 昇りきると、屋上に向かう扉がある。
 けれど、その扉は開かない。鍵が閉まっているのだ。

 彼女はその扉の手前、一番上の段に、敷いたように積もった埃を気にすることもなく座り込んだ。

「とりあえず、座ったら」

 彼女がそう言うので、僕は仕方なく隣に腰を下ろした。

 直接話すのは久し振りだというのに、以前よりもすんなりと彼女と一緒にいられるような気がする。

 いろいろあったせいで、僕の中にあった妙なものがうまく機能していないのかもしれない。

 それでも戸惑っていないわけではなかった。どうして、急に声をかけられたりするんだろう。
 彼女の表情が少しこわばっているのが、頭の中で、向こうで見た彼女のそれと勝手に比較される。

 僕は、あんなふうにこの子を笑わせることができない。
 
「聞きたかったの」と、振り絞るように小夜が言った。

「でも、何から聞けばいいのか分からない。難しくて。何を言えばいいのかも、ずっと考えてたんだけど」

 でも、でもね。

「心配した。帰ってこないんじゃないかって、心配、したよ」

 僕は言葉を失った。

 そんな言葉を言われるなんて、想像もしていなかった。
 そんな言葉を僕に言うのは間違ってるって、ふさわしくないって、そう言おうと思って――やめた。


967: 2017/12/06(水) 01:38:05.23 ID:IzyndCNto

 それは、きっと僕が決められることではないんだろう。

「ごめん。今まで、ずっと、何も言ってこなかったのに、突然こんなの、変だよね」

 何も言えない僕に、彼女は言葉を続ける。
 堰き止めていたものが溢れ出るみたいに。

「ね、遼ちゃん。いったい何に巻き込まれてきたの? 神様と同じくらいの力って、いったいなに?」

「……どこで、それを言われたの」

「教えてくれた人がいたの。いつのまにか、いなくなっちゃったけど」

「……そっか」

「そういえば……」

 何かを思い出したように彼女は顔をあげて、それから、言いづらそうに口を歪ませた。

「……ね、何か、声が聴こえたりした?」

「声?」

「聴こえなかったなら、べつに、いいんだけど……」

 声。

 小夜には、全部話すべきかもしれない。僕がしたこと、僕が見たこと、僕が行った場所。
 信じてもらえないだろう。それでも、すべてを語るべきだという気がした。

 僕が、逃げ出したことを。

「少し、長い話になると思う」

「……うん。大丈夫」

「声は……たぶん、聴こえたと思う」

 小夜は、その言葉に、安心とも動揺ともつかない、不思議な表情を浮かべた。

「そっか。……聴こえたんだ」

 それから僕は、長い、長い話をした。
 
 僕が、人を刺すまでの話を。


968: 2017/12/06(水) 01:38:35.40 ID:IzyndCNto

 話を終えた僕の膝に、彼女は静かに手を置いた。 
 どうしてそんなことになるのか分からなかった。

「ごめんね」と、それでも小夜はやっぱり謝るのだ。

「どうして、謝るの?」

「気付けなかった」

 まるで、自分に責任の一端があるかのような顔をする。
 彼女は――僕の一部を引き受けているみたいな顔を、する。

「どうして、怒らないの」

「……」

「どうして、責めないの」

「……」

「僕は、きっともう……」

「ね、遼ちゃん。昔、遼ちゃんが話してくれたお話、覚えてる?」

「……話?」

「うん。神さまの命令に逆らって、大きな魚に食べられた預言者のお話」

 ヨナ書。怪魚に呑まれた男の話。それをいつか、小夜に話したことがあっただろうか。

「あのお話の終わりを覚えてる? どうして、悪いことばかりをする街を、神さまが裁かなかったのか、って」

「……」

「"あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか"」

「……」

「ねえ、遼ちゃん。遼ちゃんがしたことが、たとえ許されないことだったとしても、だから嫌いになったりなんて、できないよ。
 遼ちゃんもきっとそうでしょう? 愛奈ちゃんが誰かを傷つけたって、きっとあの子と一緒にいるでしょう?
 正しさなんて……きっと、無視できないにしても、いちばん大切なものじゃないんだよ」


969: 2017/12/06(水) 01:39:46.37 ID:IzyndCNto

 小夜啼鳥の童話の終わり。
 それを突然に思い出す。

 あの話の最後、病に伏せた王のもとに、本物の小夜啼鳥が姿をあらわすのだ。
 変わらぬ美しい声で歌うと、鳥は、ふたたび窓辺を去っていく。
 細工鳥もよく働いたから壊してはいけないと王を諌め、自分のことを誰にも秘めるべきだと助言をして、
 また歌いにやってくると約束を残して。

 その歌声で、王の病は癒える。
 そして、彼の亡骸を拝むつもりでやってきた家来たちに、顔を上げてこう言う。

 ――みなのもの、おはよう。

 ああ、そうだ。

 眠りから覚める。朝が来る。そこで物語が終わったんだ。

 そこは美しい世界じゃない。何もかもが平等な世界でもない。
 小夜啼鳥は歌う。幸福な人のこと、不幸な人のこと、貧しい漁師や百姓のこと、王の王冠ではなく心のことを歌う。
 完璧な世界ではない。小夜啼鳥は、その世界のあるがままを歌う。

 劇的な許しもなく、圧倒的な平和もなく、何もかもが満たされる結末ではなく、ただ王は、ありふれた日常へと帰っていく。

 複雑で不平等な、この世界。心の底から笑える場所なんて、きっと、この世界のどこにもない。
 
 きっと、僕が生きるべき場所も、そんなふうに、何もかもを簡単に割り切ってしまうことのできない、この日常なのだろう。

 けれど今は、単純に、小夜の声が、言葉が、嬉しくて、それだけで何かを取り戻せたような気がした。

「ねえ、遼ちゃん――もう、ひとりで抱え込まないでよ」

 僕は、思わず両手で顔を抑えてしまった。

 返事さえ、うまくできない。

「わたし、ここにいたよ。遼ちゃんが、話してくれるの、相談してくれるの、ずっと待ってた。
 待ってただけ、だったけど、でも、そばにいたんだよ」

 膝の上にのせられた手のひらに、ほんの少し力がこもった気がした。

「わたし、遼ちゃんのこと、ずっと、待ってたんだよ」
 

970: 2017/12/06(水) 01:40:15.11 ID:IzyndCNto

 僕は、うつむいたまま、小夜の言葉を噛み締めながら、同時に背後にある扉のことを考えた。
 屋上へ出る扉。決して開かない扉。僕はその先の景色を知ることができない。
 そこにあるもの、ないもの、決して知ることができない。

 たとえばその先にはざくろやすみれがいて、あるいは愛奈やあの男の子がいるのかもしれない。

 僕はおそらく、不釣り合いに恵まれている。

 同じことをした誰かより、おそろしいくらいに恵まれている。

 それを、受け取ってもいいのだろうか。

 僕はそれにふさわしいだけのことをしてきたのだろうか。

“あなたの欲望のなかに、"あなた"はいない。"誰か"の欲望のなかにしか、"あなた"はいない。"あなた"の欲望の中にも、"誰か"はいない。それって、悲しいことだよね”

 僕は――。

「小夜」と、その音が、自分の口から出るのを、久し振りに聴いた気がする。

「一緒に居て欲しい」

「……うん」

「もう、ひとりじゃ無理なんだ」

「……うん」

「わけが、わからなくなって、もう、どうしようもない。だから……」

「――愛奈ちゃんを、守ろうとしてたんだよね」

「……違う、僕は」

「違わないよ。……大丈夫だよ、遼ちゃん」

「……」

「遼ちゃんが愛奈ちゃんを守るなら、わたしが遼ちゃんを守るから」

 彼女の指先が、僕の頬にかすかに触れた。自分の手のひらで抑えているせいで、その姿が全然見えなかった。
 触れられるまで気付けなかった。

「やっと、話してくれたね」

 僕の手を、彼女は僕の目から引き剥がす。
 泣き顔を見られるのも、相手が小夜なら、仕方ないことだと自然に思えた。


971: 2017/12/06(水) 01:40:58.47 ID:IzyndCNto




 僕が戻ってきて数日が経った頃、母さんがひそかに教えてくれた。

 僕がいない、その間に、姉さんがこの家を訪れたという。

 ただでさえ僕がいなくなって気を揉んでいた――であろう――母さんに、姉さんが言ったことは、母さんの感情を烈しく揺さぶった。

 戸籍を移したい、と姉は言ったのだ。

 どういうこと、と母は訊ねた。

 いいかげんはっきりさせたほうが、母さんも楽でしょう、と姉は言う。

 わたしが楽かどうかの問題じゃないわよね、と母さんが言った。

 そこでわたしの責任にしようとしないで。どうしてそんなことを言い出したの?

 姉は答えなかった。

 結局その日はそれ以上話をしなかったという。

 突き詰めて言えば、それは金の話だった。

 専業主婦として穂海を育てている姉は、夫の収入を頼りにして生活している。
 夫の方が、一緒に暮らしているわけでもない他の男の子供に金を出すのを渋っているのだろうと母は推測していた。

 それがアタリだろうと僕も思った。

 学校からの集金が遅れるようになってからしばらく経つ。
 ついには、口座に金が入っていないから給食費の引き落としができないと通知まで来ていた。

 両親に、娘の食費や衣料品代を出したという話もまったく聞かない。

 そして、弟である僕が行方不明になっていたときでさえ、両親にそんな話をしたわけだ。
 ここまで来ると、なんだかよく分からない。

 姉のことを悪い人間だと思ったことは一度だってない。
 根っからの悪人だと思ったことなんて、一度だってない。
 
 一度だって、ない。

 それでも、もう、そういう問題ではないのだ。

 正しいとか、悪いとか、そういうことではなく、僕たちは、それでもこの日々を生き延びていくしかない。
 この日常を、やり過ごしていくしかない。



972: 2017/12/06(水) 01:42:15.58 ID:IzyndCNto



 その日から、僕と小夜はふたりで帰るようになった。

 べつに、それで何が変わるというわけではない。
 何かが解決するというのでもない。ただ、何気ない話をして、一緒に歩くだけのことだ。

 久し振りに話してみると、どうやら互いが互いにそれぞれの様子を窺っていたのだと分かってバカバカしくなった。

 もっと早く話していればよかった、と小夜は言った。僕は、あまりそうは思わない。
 今ある結果に、そんなに不満は抱いていない。それに、贅沢は言えない。

 この結果だけでも、僕には十二分だ。

 ある日、校門の手前で、篠目あさひに呼び止められた。

「どうしたの」と訊ねると、彼女は少し不思議そうな顔をした。

「前と違う」

「何が」

「顔」

「……まあ、いろいろあったから」

「そう」

「……何か、あったんじゃないの?」

「うん。沢村翔太のこと」

「……沢村?」

「もう、心配しなくていい」

 僕には、その言葉の意味がよくわからなかった。
 行方知らずになった沢村が、帰ってきた、という意味だろうか。
 でも、沢村が、こっちに戻ってくるなんて、僕には思えない。それに、それを篠目が僕に話す理由も分からない。

「……妙な夢でも見た?」

「ううん。しばらく見てない。だから大丈夫」

 篠目の言うことは、やはり、よくわからない。

「わかった。ありがとう」

 とにかくそう伝えると、彼女は何も言わずに僕に背中を向けた。僕もまた、もう彼女に用はないと思った。

「それじゃあね、遼一」

 何気なく、その声を聞き流して、
 驚いて振り返った瞬間には、篠目あさひの背中はどこにもなかった。

 遼一、と、僕を呼ぶのは。
 その彼女が、“沢村のことは心配しなくてもいい”ということは……。

「……遼ちゃん?」

 隣にいた小夜が、心配そうに僕を見上げているのに気付く。

 僕は、それ以上深くは考えないことにした。
 
 すみれのこと、ざくろのこと、気にならないわけではない。
 でも、きっと、いくら考えたって、もう分からない。



973: 2017/12/06(水) 01:42:38.21 ID:IzyndCNto




 終わりかけの夏はいつのまにか過ぎ去って、季節は秋に変わり、けれどまだ、紅葉の見える季節にはなっていない。

 やがて、景色はまた移り変わっていくだろう。

 僕は通い慣れた道を小夜と一緒に歩いている。

 それだけのことで、以前より、心がいくらかマシになっている。
 けれど、問題はここからだ。

 僕が見過ごしてきた欲望。
 僕が軽んじてきた僕の言葉。

 それを拾い上げてもらった。
 僕がしてしまったもの、僕が軽んじてきたもの、僕が大切にしたいもの。
 それと、向き合っていかなければいけない。

 守ったり、守られたりしながら。このからっぽの僕自身を、誰かにふさわしいように、少しでもマシにしていきながら。

 小夜と別れ、僕は自分の家の扉の前に立つ。

 そのあたりまえの日常の空間に、向かっていく。

 扉を開ける。

「ただいま」と僕は言う。

 少しして、とたとたと、軽い足音が聴こえてくる。
 リビングの扉から、愛奈が半身を覗かせて笑った。

「――おかえりなさい!」


976: 2017/12/11(月) 00:54:34.49 ID:S5mn3zpLo


◆[L'Oiseau bleu]A/a


 わたしがいない間に、二週間が経っていた。
 わたしが帰ってきてから、二週間が過ぎた。

 季節はもう、秋へと移ろっていた。

 わたしが帰ってきた日の夜、おばあちゃんはわたしを抱きしめてくれた。

 警察の人に事情を聞かれたけど、どう答えればいいのかわからなくて、何も言えなかった。
 
 二週間の間野宿をしていたにしてはわたしの服装は綺麗で、どこかにさらわれていたとしても綺麗で、
 だから結局警察は、不良少女の家出という現実的な解釈をしたのだと思う。

 たいしたことは聞かれないまま終わってしまった。
 
 おばあちゃんは高校に届け出てはいなかったみたいで、だからわたしは、
 季節の変わり目にタチの悪い風邪を長引かせていただけだと、周りには思われていたようだった。

 その奇妙な現実的な感覚は、かえってわたしの頭を混乱させた。

 わたしの世界では相変わらずお兄ちゃんは氏んでいて、相変わらずお母さんは傍にはいなかった。

 お兄ちゃんが貯めてくれたお金もそのまま残っていた。ただ時間だけが流れていた。
 そのせいでまるで、あの世界で起こった何もかもが悪い夢だったんじゃないかという気さえした。

 ――言ったろ。そのうち覚める夢だと思うことにしたんだ。

 結局、彼の言葉の通りになったのかもしれない。

 そのうち覚める夢。

 けれど、夢から覚めたはずのわたしの傍に、ケイくんはいない。


977: 2017/12/11(月) 00:55:00.90 ID:S5mn3zpLo

 それがどうしてなのかは、分からない。
 でも、よく考えてみたら、ケイくんがこっちに帰ってきていたとしても、わたしはケイくんを見つけられないかもしれない。

 同じ高校に通っているとはいえ、この学校の生徒なんて何百人といて、
 その中で彼だけを見つけ出すなんて至難の技だし、わたしは彼のクラスも知らなかった。

 もちろん見つけ出そうと思えば名前を頼りに探すことだって出来ただろうけど、それはしなかった。

 屋上の鍵は閉まったままになっていた。彼はわたしの前に姿を見せない。
 そうである以上、ケイくんは帰ってきていない、と考えるのが、自然なことに思えた。

 それでも毎晩夢を見るたびに、ちらつくのはざくろの言葉、ケイくんの声。

 
 ――俺と、もう関わらないでくれないか?

 ――だからね、"血は流されないといけない"。

 
 不吉な響きと、拒絶の言葉。

 それがわたしの心を不安にさせなかったと言えば、嘘になる。

 一週間前の土曜、わたしはひとりで例の遊園地の廃墟へと向かった。

 同じような道のりを一人で歩いて、ミラーハウスのあった場所まで。
 その日は雨は降っていなかったし、奇妙な物音も聴こえなかった。
 
 ミラーハウスだった建物は、もうどこにもなかった。


978: 2017/12/11(月) 00:55:27.45 ID:S5mn3zpLo



 ケイくんのいないままの高校で、文化祭が開催された。
 どこにも行き場もないまま、わたしはあちこちをうろうろしたり、校舎裏で本を読んだりして過ごした。

 たまにクラスメイトに話しかけられたりもしたけど、何かを手伝えとか、そんなことも言われなかった。

 べつに仲が悪いわけでもない、苦手なわけでもない、ただひどく疲れていたし、
 わたしが顔を出して楽しい顔をするのは、果実だけを横取りするようで憚られた。
 
 それに、楽しい顔なんてできそうにもなかった。水を差すくらいなら、誰にも見咎められないところにいた方がいい。

 校舎裏の古い切り株に腰かけたまま、ページをめくる手がふと止まった。

 風が肌を撫でていった。

 わたしは思う。

 苦しかったのだろうか?
 つらかったのだろうか?
 悲しかったのだろうか?
 寂しかったのだろうか?

 こっそりとお兄ちゃんの部屋から持ち出した本。

 紙面に目が止まる。

 
"かたわらにいないと
 あなたはもうこの世にいないかのようだ
 窓から見えてる空がさびしい
 ひろげたまんまの朝刊の見出しがさびしい"

 

979: 2017/12/11(月) 00:55:53.41 ID:S5mn3zpLo

 こちらの世界に帰ってきてから、わたしは、お兄ちゃんの部屋の本棚の中身と、祖母が残していたアルバムを眺めた。
 
 写真に映るのが嫌いな人だったけれど、それでも、お兄ちゃんの姿はそのうちの何枚かにちゃんと残っていた。残っている。

 その写真の中で、お兄ちゃんは笑っている。笑っていた。

 そうなのだと思った。

 いつか、遠くの薔薇園に、家族で行ったことがあった。
 家族で、といっても、祖父母とお兄ちゃんと、それからわたしだけだったけれど。

 生憎の曇り空で、人気は少なかったけれど、西洋風の庭園に広がる色とりどりの薔薇たちは、
 見られるかどうかなんてはじめから気にしていないかのように綺麗だった。

 そんな景色のなかで、わたしはお兄ちゃんと、少しだけ話をした。

 どんな話をしたんだっけ。たしか、神さまの話だ。神さまの、悲しみについて話をしたのだった。
 それはどこにでもありふれていて、取るに足らないもので、それでも捨て置けないものなんだと。
 そんな話をしたのだった。

 そのとき、お兄ちゃんは、どんな顔をしていたっけ?

 わたしは、そのとき何かを言って、くだらない、子供っぽいことを、きっと言って、
 お兄ちゃんはそのとき、笑っていたのだった。

 そうだった。笑っていた。

 笑っていたのだと、わたしは思い出した。


980: 2017/12/11(月) 00:56:20.12 ID:S5mn3zpLo

 苦しかったのだろうか?
 つらかったのだろうか?
 悲しかったのだろうか?
 寂しかったのだろうか?

 きっと、そのどれもが正解だ。

 でもきっと、それだけじゃなかった。

 それだけじゃなかったと、わたしは信じてもいいだろうか。

 ……違うか。

 それだけじゃなかったと、今のわたしは、そう思える。

 きっと、それだけじゃなかったと、そう思う。
 
 そんなふうに思うことに、誰かの許可なんて、いらない。

 誰かに許してもらう必要なんて、どこにもない。

 ここにいることも。
 誰かを好きになることも。
 誰かと一緒にいようと思うことも。

 そうしてもいいのだろうかと、誰かに求めたところで仕方ない。

 きっと、そうなのだろう。

 そう言ってしまいたくなるのは、きっと、自分に自信がないからで、
 それでも、誰かに許してもらえることを期待しているからで、
 その浅ましさが、弱さが、でも、どうしてだろう、わたしには、
 
 そんなに、悪いものだとも、思えないような気がしていた。


981: 2017/12/11(月) 00:56:54.98 ID:S5mn3zpLo





「……何やってるんだ、こんなところで」

 不意に、そんな声が聞こえた。

「ひとりなのか?」

 聞き覚えのある声だなあ、とわたしは思った。
 なんだか、まどろみのような心地だった。

「……なんだか、悪いような気がして」

「何が?」

「楽しむのが」

「誰に」

「……ううん。どうだろう、いろんな人に、かな」

「楽しむのに、悪いも何もないだろう」

「ほら、それでも、お通夜に携帯でお笑いの動画を見る人はいないでしょう」

「……ひどい例えだな」

「でも、そういうこと。遠慮というよりは、粛み、という感じ」

「分からなくは、ないけどな」

「笑えないわけでも、楽しめないわけでもないの」

「……」

「でも、今はもう少し、喪に服していようかと思って」

「喪、か」



982: 2017/12/11(月) 00:57:21.21 ID:S5mn3zpLo

「……ね、どこに行ってたの?」

「長い話になる」と彼は溜め息混じりにいって、わたしの背後に腰掛けた。
 同じ切り株に、わたしたちは背中合わせに座っている。

 風がまた吹き抜けて、本のページをめくる。
 木々の梢で赤らんだ葉が、いくつかひらひらと舞い落ちていく。

「どうしても聞きたいっていうなら、話してやってもいい」

「そんなに、興味があるわけじゃないかな」

「……なんだよ。気になるだろ、少しは」

「聞いてほしいの?」

「いや。でも話すよ。面倒なところだけ、省略するけど」

「うん。そのくらいが、ちょうどいいかな」

 彼がわたしの背中にかすかに体重をかけた。
 
「ね、ちょっと重い」

「悪いな。さっき帰ってきたばっかりで、疲れてるんだ」

「……さっき?」

「ちょっとした賭けに巻き込まれてたんだ。もっとも、俺がどう動くかが対象の賭けで、俺が賭けたわけじゃないけど」

「ふうん」

「まあ、でも、結果だけ見れば、俺は騙されなかったってことになるんだろうな。あいつの負けだ」

「……じゃ、勝ったの?」

「だから、俺は参加者じゃなかったんだよ。……でも、まあ、勝ったっていえば、勝ったな。ここにいるわけだから」

「大変だったんだ」

「そう、大変だった」


983: 2017/12/11(月) 00:57:49.29 ID:S5mn3zpLo

「……帰ってこないんじゃないかって、思ったよ」

「俺も、そう思ったよ」

「でも、帰ってきたんだ」

「帰ってこないと、また拗ねる奴がいそうだったからな」

「……大丈夫だったよ」

「それはそれで、ちょっと残念な気もするものだな」

「そうなの?」

「いなくても大丈夫って言われるよりは、いないと困るって言われた方が嬉しい」

「……」

「たぶん、そんなもんだよ。多かれ少なかれ、人間なんて。誰かに、必要とされたがってる。必要としてくれる誰かを必要としている」

「そうかも」

「でも、大変だったよ。なあ、俺がどうやって帰ってきたと思う?」

「わかんない。そもそも、どこに行ってたの?」

「ちょっと、いろいろな。案内役がいないせいで、あちこち時間を飛んで回ってたんだ。ざっと、三日間くらい、望む時間につくまで行き来してた。
 途方に暮れたよ。なんだかよく知らない世界まで混じってくるし、あいつらの追いかけっこも続いてたし」

「……そうなんだ?」

「ああ。大変だった。……伝わらないか?」

「うん」

「参ったな」


984: 2017/12/11(月) 00:58:49.17 ID:S5mn3zpLo

「ね……」

「ん」

「帰ってきてくれて、よかった」

「……」

「ホントは、不安だった。心配、してた。だって、だってさ」

 さっきから、高ぶっていた気持ちをどうにか押さえ込んで、ようやく落ち着いてくれたと思ったのに、
 だからもう、振り向いても平気だと思ったのに、また、だめになりそうだ。

 それでも、もう、振り向こうと思った。
 彼の顔が見たくなった。

「ケイくんがいないと、困るよ、わたし」

 彼は、わたしが振り向いた気配を感じたのだろうか、肩越しに少しだけ首をかしげて、わたしと目を合わせて、笑った。

 ケイくんは、何気ないふうを装ってみせた。

「そうかい」

 その照れ隠しが、ひどく懐かしい。

「言ってくれた言葉、無効になったりしないよね?」

「……どれのことだ?」

「全部」

「……ま、そうだな」

「ね、だったら、わたし、ケイくんと一緒にいてもいいかな」

「……」

「だって、ケイくん言ってたもんね。わたしがいなきゃ、困るんだって」

「……そんなこと、言ったっけか?」

「言ったもん」

「……言ったな」

「だよね」

985: 2017/12/11(月) 01:05:16.57 ID:S5mn3zpLo

「……なあ、なんか」

「なに?」

「ちょっと、変わったか?」

「……そう、かな。そんなこと、ないと思うけど」

「いや、でも」

「もしかしたら、気分が変わったからかもしれない」

「気分?」

「もう少し、信じることにしたから。いろんなもの」

「……そっか」

 わたしは立ち上がった。校舎の向こう側から、楽しそうな声が聴こえる。
 こことそことの距離は、ほんの少し、遠い。

 でも、今はべつに、ここでいい。このままでいい。

 わたしは、切り株の上に膝を揃えて載せて、彼の首筋に自分の腕を回した。
 肩に頭をのせてみたら、彼はくすぐったそうに身をよじった。

「なんだよ、急に」

「べつに、なんでもないよ」

「……敵わないな、ホントに」

 そんな声が、当たり前に帰ってくることが、今は嬉しくて仕方ない。
 彼には、それがちゃんと分かっているんだろうか。
 
「ケイくん」

「……なんだよ」

「……おかえりなさい」

 彼は、おかしそうに笑って、それから、首筋にまわしたわたしの手の甲を、指先で撫でた。

「……ただいま」


986: 2017/12/11(月) 01:17:31.85 ID:S5mn3zpLo

 空は晴れやかに澄みわたっている。

 わたしたちは自分たちの身の回りに起きたことなんてひとつも変えられないままだった。

 彼の話だとあの追いかけっこは終わっていないらしい。きっとまだ、彼女が彼女を追いかけている。
 
 あの扉をくぐって、何度も何度も繰り返しているのだろう。
 たどり着けるかも分からない場所を目指し続けている。

 それをどうするべきなのか、どう思うべきなのか、わたしにはわからない。

 過去は変えられないし、開けられない扉は開けられないままだ。
 今となっては、お兄ちゃんの真意なんて、鍵のかかった扉の向こうにしまい込まれている。
 わたしはやっぱり、その扉を潜り抜けることができない。

 でも、その向こうが、悲しみや寂しさだけではなかったはずだと、今のわたしは、信じることができる。
 それだけではなかったはずだと、思い出すことができる。

 そして今は、彼が傍にいてくれていて、それを許してくれていて、
 だからもう、足りないものなんてひとつもないような気がしている。
 わたしは心の中だけで誰かにごめんなさいを言った。その意味は、きっと誰にもわからないし、わたしにも本当はよくわかっていない。
 でも、ごめんなさいを言った。


987: 2017/12/11(月) 01:29:23.04 ID:S5mn3zpLo


「少し、寒くなってきたね」

 なんて、そんなことを、平然としたふりをしながらいいながら、
 きっと、今日のこの瞬間のことを、わたしはいつまでもいつまでも忘れないだろうな、と、ぼんやりと思った。

「……そうだな」と、ケイくんは、なんでもいいような相槌を打った。

 また風が吹いて、落葉をさらっていく。

「そろそろ、行こうか」

 わたしは、そう言って彼の体から離れて、立ち上がった。

「どこに?」と彼は言う。それでも、わたしに合わせて立ち上がる。

「わたしたちは日常に帰らないとね」

 は、と彼は笑った。

 わたしたちは、手を繋ぎ直して、校舎裏の切り株に背を向ける。
 
 無言のまま前を見ている彼の横顔を見て、
 そういえば、まだちゃんと、わたしの方から好きだって言ってないな、と、どこか場違いなことを思ったけれど、
 それは、次の楽しみに、照れた彼の顔をもう一度見るために、とっておこうと、そう思った。

 そんなことを考えたとき、わたしの胸の内側に、なんともいえないあたたかくて満たされた感じがじんわりと広がって、
 それはあまり覚えのないもので、わたしを少し戸惑わせたけれど、
 でも、ぜんぜん悪い気はしなかったから、これはよいものだなと思った。

 この気持ちを言葉にしようと思ったら、きっと簡単なんだろうな、とわたしは思った。
 でも、言葉にはしないことにした。きっと、その方がいい。

 冷たい風がまた吹き抜けていくけれど、わたしの手のひらは、彼の手のひらに包まれたままだった。


988: 2017/12/11(月) 01:29:50.01 ID:S5mn3zpLo
おしまい

989: 2017/12/11(月) 02:56:15.90 ID:52Bwdkhwo
おつです

990: 2017/12/11(月) 08:09:42.77 ID:Ivh/A9Kfo

引用: 開かない扉の前で