1: 2016/12/28(水) 22:57:58.43 ID:EcbIESBTp.net
百物語って、いいわよね。

その虚実がどうであれ、普段あんなに楽しそうに日々を送っている私たちが。
実は各々心の内で”とあること”を恐れながら、眠れぬ夜を過ごしていると思うと……。

あの笑顔が。途端に仮面に見えてきて────私たちの結びつきすら、まやかしに思えてきてしまう。

だけど。
それに替えて私たちは、互いが各々胸の奥に抱える闇を垣間見ることができるの……。だから。

だから────ふふ、これはある意味、ペルソナの裏の明かし合い……。

さっきはああ言ったけど、この夜遊びは私たちがより真に繋がりを強くするための、通過儀礼なのかも知れないわ。

大好きよ、みんな。
だから、私の闇を。

ミンナモ、キイテクレナイ……?
2: 2016/12/28(水) 23:01:59.98 ID:QWtWKpxQa.net
 

梨子「千歌ちゃんと、曜ちゃんと……果南ちゃん以外の人は知らなかったかもしれないけど……


 

3: 2016/12/28(水) 23:03:49.25 ID:QWtWKpxQa.net
大好きなピアノを弾く中で、どうしようもない壁にぶつかってしまった私は。”海の音”を聞くために、お父さんに無理を言って。
お仕事のつてを頼って、ここ……内浦に越してきたんだ。

そして、色々あった結果。私は3人のお陰で”海の音”を聞くことができた……。

でも、その話には続きがあってね。

5: 2016/12/28(水) 23:04:25.37 ID:QWtWKpxQa.net
ふふっ……ううん。
私がAqoursに入って、これからずうっと続いていく私とみんなの物語……っていうのは、確かにとってもきれいなお話だけど。
今から話したいこととはちょっと違うかな、千歌ちゃん。

これから話すことは、その、”海の音”について。

もっと言えば、普通だったら聞こえないような……そんな”音”たちについてのこと……。

7: 2016/12/28(水) 23:05:12.99 ID:QWtWKpxQa.net
”海の音”を聞いてからしばらくして、私はあることに気付いたの。

”音”が、聞こえる……って。

8: 2016/12/28(水) 23:06:13.32 ID:QWtWKpxQa.net
あの、海で聞いたみたいな。
旋律の生まれようのない場所で、確かに私の耳に届く……どんな楽器でも奏でられないような、幻想的で不思議な音楽が。

”音”は、私以外には聞こえないみたいだった。

例えば、家族で行った発端丈山でのハイキング中。
私が”音”に出会って足を止めたのに、お父さんとお母さんは、そのときただきょとんとしてるだけだった。

”海の音”は、千歌ちゃんと曜ちゃん。それから私の、3人で聞いたよね。
だけど、私の家族には聞こえなかった。
そのとき、こっそり携帯の録音機能を使ってもみたけど。当然のように何も記録されてなかったわ。

10: 2016/12/28(水) 23:06:43.28 ID:QWtWKpxQa.net
どういう人が、どういう条件で”音”を聞けるのかは、わからない。
どういう原理で奏でられているのかもわからない。

そして、それは唐突で。法則性すら掴めないまま突然聞こえてくるの。

でもその”音”たちは、とっても綺麗で離れがたい魅力があって……気が付くと私は、時間のあるときには、”音”を探すのが趣味みたいになってた。

それに、その”音”を聞ければ。Aqoursの曲を作るのに、とても参考になるような気がしていたから。

11: 2016/12/28(水) 23:07:37.48 ID:QWtWKpxQa.net
だから私は、色んなところに行って、色んな”音”を聞きたくて。

……それは、”音”を聞けそうだって思い当たる様々なところに足を運んでは、耳を澄まして過ごしていた週末。

思った以上にたくさんの”音”に出会えて。新しい遊びを知った子供みたいに市内のあちこちを駆け回り、少し疲れた私が。帰ってきた沼津の駅前で休んでいたときのこと。

行き交う人たちの足音に、知らない誰かが口々に言葉を交わし合って生まれたざわめきと、アスファルトを踏み鳴らす黒くて堅いゴムが身を軋ませる音。

大きな音。小さな音。関係のない音。無駄な音。汚れた音……。

12: 2016/12/28(水) 23:08:22.74 ID:QWtWKpxQa.net
駅から出てすぐの木陰のベンチに腰掛けながら。私は今日、たくさんの”音”たちを聞く度に研ぎ澄まされていった鋭い感覚を、持て余していた。

東京にいたころは日常ですらあったはずの人ごみの音が、だからかその日はとても耳に障ったのを覚えてる。

だけど。
今まで”音”が聞こえた場所はどこも自然豊かで、人があまり寄りつかないようなところだったはずなのに。
そのときふと、もしかしたらこういう雑踏の中にも……かき消されてしまっているだけで、”音”はあったんじゃないかって思い付いて。

私はもう何度もやってきたように目を閉じると、静かに自分の感覚を拡張させていった。

13: 2016/12/28(水) 23:10:02.20 ID:QWtWKpxQa.net
 

ザワ…ザワ…

ミーーーンミーンミーンミー…

プップー!!

どこでお茶しよっかー?

ジジジッ…ジワジワジワジワ…

カッカッカッ…

モデルルームやってまーす!

あっつ……

ブロロロ…

ガラガラガラ…

ザワ…


14: 2016/12/28(水) 23:11:46.15 ID:QWtWKpxQa.net
”音”は聞こえない。でも。

(まだだ。まだ深まれる……

そのときの私は、まるで確信があるみたいに集中をやめなかった。

きっと自分の感覚と、それに裏打ちされていると感じていた思い付きに。変なプライドのようなものが芽生え初めていたのかも知れないわ。

だから、最初にそれに気付いたとき。
本来の目的を忘れて、ついつい追わなくていいものを追ってしまったのね。

15: 2016/12/28(水) 23:13:12.18 ID:QWtWKpxQa.net
 
 

ぼそっ…



17: 2016/12/28(水) 23:14:47.91 ID:QWtWKpxQa.net
それは、小さな囁き声だった。

まるで、今までずっと雑踏のざわめきに混じっていて。
私の集中が高まったことで聞き分けられるようになったみたいに、急に……でも違和感なく耳に届いてきた、声。

ぼそ…ぼそぼそっ…

どうやらお目当ての”音”では無かったようだけど。
私は自分の感覚を正しく高められていることに気を良くして、その声を意味あるものとして受け入れるための調整を始めた。

18: 2016/12/28(水) 23:15:49.63 ID:QWtWKpxQa.net
あんなにうるさかったざわめきが、遠く、小さなものになっていく。

ぼそ…ぼそ…ぼそ…

反対に、囁きはより鮮明に、確かなものへと変わっていった。

もしかしたらこれは、あの”海の音”たちとはまた違う。自然から溢れるモノの、新たな形を私がとらえられるようになったのかもしれないって……。
そのときの私は、そう思ってた。

ぼそ…はっ…ぼそ…

囁きに混じる、僅かな息遣いまでもが感じられてくる。
どうやらそれは、思ったよりずっと近くから聞こえているみたいだった。

はあ…ちゃ…ぼそ…

吐息の合間には、舌が唾液に絡まり口の中で立てた水音も聞こえる。

19: 2016/12/28(水) 23:16:46.39 ID:QWtWKpxQa.net
もうすぐだ。もうすぐ声の奏でる、その意味にたどり着ける。

…ん…った…

合う……チャンネルが。

(ああ、でも

チューニングが。

(聞こえないはずの声が聞こえるって

あるいは、波長が。
いま、完全に────

(なんか。オバケみたいで、気持ち悪いかも────

21: 2016/12/28(水) 23:17:41.72 ID:QWtWKpxQa.net



「なんでわかったの

 
 

22: 2016/12/28(水) 23:19:26.85 ID:QWtWKpxQa.net
氷水が頭から浴びせられたのかと思った。
その声は、私の腰掛けるベンチの、すぐ隣から聞こえたから。

それは、人間の喉がまったく水分を失ってしまった状態で無理やり絞り出されたような、ありえない響きを湛えた声だったわ。

これからどれだけ恐ろしい時間が始まるのか検討も付かなくて。首を折り肩にうずめてそのときに備えた。

体は、動かないわけじゃない。
これ以上の反応を示して、”それ”に興味を持たれることが恐ろしくて……ただ、心から動きたくなかったの。

いつの間にか、囁き声は聞こえなくなっていた。

でも、確かに”いる”。

さっきまで私以外座る人なんていなかったはずの木製のベンチ。
その、私の横に。

息遣い、気配、存在感────視線。
目を閉じていても、他の五感がそれを補い。さらには想像の力を借りて。勝手に、私の横に心の冷える像を結び出す。

23: 2016/12/28(水) 23:20:08.68 ID:QWtWKpxQa.net
女。

掠(かす)れ、潰れていたけど。
確かにそれは女の声だった。

だからきっと、黒くて長い髪。
ノースリーブのワンピースから覗く肌は、夏の日の下でもなお青白く。
枯れ枝のような病的に細い手足。
でも、何もかも弱々しい容姿の中で。目だけは爬虫類を思わせるようにまるまると大きく、しかし焦点を結ばず虚ろなまま……。

だけど、今。
その虚ろな瞳は、久しく関心を抱くことのなかった外の世界を────つまり、私を。
じっ……と、しゃぶりつくようにのぞき込んでいるの。

24: 2016/12/28(水) 23:22:02.02 ID:QWtWKpxQa.net
妄想だ。
ただの妄想のはず。

でも、目は開けられない。開けたくない。

私は何も口に出さなかった。
でも、それは私の考えを読むように言葉を紡いだ。

考えが読まれた。
心が、筒抜けになった────

どうして……?

わかってる。

それは。

チャンネルが合ってしまったから。
チューニングが整ってしまったから。
波長が、重なってしまったから。

だから。

目を開ければ、間違いなくいま私の横にいる声の主を。生気のない虚ろな瞳を。見つめ返してしまう。

そう、思っちゃったの。

25: 2016/12/28(水) 23:22:39.99 ID:QWtWKpxQa.net
恐怖に押しつぶされそうになった私は。伸びてくる蜘蛛の脚ような指先が、私のまぶたをこじ開けようとする想像を消し去りたくて。
力を込めて目をきつく……更にきつく、つむる。

(ずっと、いたの……?

私がここで耳を澄ます、その前から。
このベンチに腰掛ける、ずっと前から。
今朝沼津の駅から市中へ散策に向かう、遥か前から。

……いいえ。私は知ってる。

だって、”それ”が私と繋がったように……。
”それ”の心に浮かんだある情景が、私にもまるで思い出したかのように。僅かだけど流れ込んでいたから。

深夜。人々が寝静まり、闇に沈む駅前。
電車も止まり、タクシーも活動を終える、僅かな時間。

この町の、真の夜の時間。

それは、その間もずうっとここに居て。
そして、聞くものの居ない囁きを、寒々と呟き続けて────

26: 2016/12/28(水) 23:23:24.42 ID:QWtWKpxQa.net
そのとき、唐突に気配が薄れていった。

でも、消えた訳ではなかったみたい。

だって、私の耳には。座っていた人が立ち上がるときに立てる衣擦れの音と。
その後に続く鋭いヒールの音が、ゆっくりと遠ざかっていくのが聞こえていたから。

こつん…こつん…

こつん…こつん…

って……。

27: 2016/12/28(水) 23:25:14.22 ID:QWtWKpxQa.net
やがて、雑踏の喧騒が音の津波みたいに一気に戻ってきたのに驚いて。
私はようやくきつく結んでいた目を見開くことができた。

身体中がじっとりと汗ばんでいて、あごの先を伝って落ちたのか。足元のコンクリートには、私の汗でできた水玉模様がいくつも浮かんでた。

勇気を振り絞って、ベンチの隣に目を向ける。

そこには、やっぱり誰もいなかった。

でも、木洩れ日が揺れる木製のベンチの、座る部分に。
滲んだ黒い染みみたいなものがあるのを見つけたの。

そんな染み、ここに座るときには全く気付かなかった。
でもそれは、気付かなくても仕方のないくらい、うっそりとした影のような滲みで。

その染みは、よく見ると。
まるで長い間、何かがずっとそこにあったみたいな。

ううん……。
歪んだ丸と、そこから伸びる潰れた楕円が、線対象に二つ並んだ……。

見れば見るほど、ちょうどそこに腰掛けていた誰かの……お尻と、太ももの跡に似て。
誰かがずっと……ずうっと、座っていたせいでできたもののように見えてしまった。

そしてそれは、手で触れて確かめたり。ましてその上に座るようなことは、絶対にしたくない。
そんな、鳥肌が収まらなくなる嫌な予感を感じたのも……良く、覚えてる。

28: 2016/12/28(水) 23:27:26.55 ID:QWtWKpxQa.net
梨子「それからは場所を選ばずに耳を澄ますのはやめたし。不用意に”音”以外のものを追うこともしないようになったわ

曜「う、うう……

曜「私たちのきれいな思い出の地続きのところで、そんな気味の悪い話が待ってたなんて……

千歌「でも、あれから私。あの不思議な音、ぜんぜん聞こえないよ?

曜「あれ……?千歌ちゃんも?

果南「……きっと、梨子には元々そういう力があって。”海の音”は、梨子の影響でそばにいた2人にも聞くことができたのかもしれないね

ダイヤ「その不気味な”声”について……私生活に支障はありませんの?

梨子「う~ん……追わなきゃ、大丈夫……なのかな……

ダイヤ「追う?

梨子「うん。話の中でチャンネルとか、チューニングとかって表現したけど……なんて言えばいいのかしら、耳ありきっていうか……

花丸「うんと……耳で波長を合わせてしまうと、他の器官でも音の正体をとらえられるようになっちゃう……とか……

梨子「そうそう、そんな感じ。さすが花丸ちゃん

ルビィ「え……?じゃあ、実際に声の正体を見ちゃったこと、あるの?

梨子「ううん。そんな気がしてるだけ。それからも何度か、これは……っていう嫌な気配がしたことはあるけど……

梨子「確かめる勇気もないから、そんな予感がしたときは一目散に逃げちゃうし。それが無理だったら別のことに意識を向けて無理やりやりすごすことにしてるの

梨子「”音”をクリアに聞くのって、結構集中が必要だからね

29: 2016/12/28(水) 23:28:13.22 ID:QWtWKpxQa.net
鞠莉「でも、梨子のその力には本当にアプリシエートしないとね!

梨子「あ……あぷ……?

鞠莉「感謝よ!か・ん・しゃ!向こうのビジネスじゃ常套句よ?

一同「「ああ……

善子「でも、なんで感謝なのよ。そんな怖いことに繋がる力が……

鞠莉「だって、その力があったから千歌たちは結ばれたんだし

曜・梨子「「む、結ばれたって////

善子「それは……そう、かもしれないけど……

鞠莉「それに、Aqoursの音楽制作にもきちんと役立ってるんでしょ?ミス・コンポーザー(作曲担当さん)……?

梨子「……くすっ……まあ、企業秘密かしら

千歌「なにそれー、最後に感じわるーい、ぶーぶー

曜「っていうか絶対参考にしてるよね……それが目的って最初に言ってたし

梨子「じゃあ、聞きたい……?

千歌・曜「「え?

梨子「いいよ……話してあげる。私が”音”を────

曜「やめ!やめー!

梨子「えー、どうしてー?あんなに聞きたそうなにしてたのに~

曜「聞きたくない聞きたくない!ね?千歌ちゃん!!

千歌「う、うん……

花丸「り……梨子ちゃん……

ルビィ「うう、こわいよう……

 

・桜内梨子
『音の話』 おしまい


 

44: 2016/12/29(木) 23:31:24.67 ID:wqdQp5Dpa.net
話の中で、家族で発端丈山に遊びにいったとき、”音”を聞いたって言ったけど。

でも、その”音”は、何か変で。他の”音”には、ないものがあった。

それは────歌……。

鼻歌?ハミング?口ずさんだメロディー……?

とにかく、その”音”は正確には”音だけ”じゃなくて。

純粋な旋律ではない、誰かの口や喉から奏でられた。
そう……さっき私が語ったような、”声”が混ざっていた。

あの日、沼津の駅前で怖い思いをしてから、まだそれほど時間が経っていない休日。
私は、発端丈山にいた。

45: 2016/12/29(木) 23:31:59.14 ID:wqdQp5Dpa.net
駅前のことから、しばらく”音”を探すことは控えてたけど。
”音”に混じる”声”……その存在がどうしても気になって。

後悔するのを承知で、再び山を登った。

果たして、山の中腹辺りで歌声が聞こえてきた。

つい先日の恐怖が蘇り、思わず体に緊張が走ってしまう。

乱れそうになる息と、既に早鐘を打ち出した心臓の鼓動を鎮めるように深呼吸を重ねながら。
私は目を閉じて、感覚の深化を図った。

そして包まれる。
優しく。でもどこか力強く。綺麗で、心惹かれる旋律に。

”海の音”と同じ。

”音”は、出所がわからない。
海や山の、どこでも聞こえるわけでもなく、ある一定の場所じゃないと聞こえないのに。
それは遠くもあり、近くもあり。
まるで、山や海そのものが奏でているような。
そんな感覚を受けるものだった。

でも、違う。

”音”に混じる”声”。

美しくて、うっとりと聴き惚れてしまいそうな、梁塵を動かすような歌声。
それは見事に調和して、”音”と一つのものと錯覚してしまいそうだけど。
私の感覚は、”音”と”声”が別のものだと訴えていた。

46: 2016/12/29(木) 23:32:33.24 ID:wqdQp5Dpa.net
声は、あるひとつの方角から響いてきていた。

広がった感覚が閉じてしまわないよう、ゆっくりと目を開ける。

深い緑に覆われた登山道には、休日の午前中だと言うのに、私以外の人影はまったくない。

その、登山道の曲がり角。
ちょうど良い大きさの岩に腰掛ければ休憩のできそうな少し開けた空間に、薄く延びる獣道のような草木の割れ目が見えた。

その奥から、歌声は聞こえるようだった。

不思議な感覚だった。
いつの間にか恐怖は薄れている。
気が付くと風景が揺れていた。
私は、その獣道を踏みしめているようだった。

ふらふらと、覚束ない足取りで。
ゆらゆらと、────”声”を目指す。

そう、頭で考える前に、体が勝手に動いてしまっていた。
ふらふらと。ゆらゆらと。
何も考えずに。
恐れるでもなく、拒むでもなく。
ただ、焦がれていた。
”声”をもっと聴きたかった。

それはまるで、闇夜に光へ魅せられ引き寄せられる、蛾か蝶にでもなった気分だった。

47: 2016/12/29(木) 23:33:07.35 ID:wqdQp5Dpa.net
獣道が途切れる。

道なき道は、夏にしては草の背が著しく低く茂っているため、そこだけ円形に縁取られた広場のような場所に繋がっていた。

広場の中央には樹齢の深そうな大木が一本。ぽっかりとひらけた空に向けて、どれも太い幾本もの枝を伸ばし、その偉容をいからせている。

歌声は、この木から聞こえるようだった。

(この”歌”は、あなたの……

人間には重ねられない年月を経て。物言わぬ無生物が、未だその域にない数多のそれらを束ね統べたような旋律へ乗せ、無上の歌を歌い上げている。

恍惚とした表情を浮かべたまま、私は更にその木へと歩を進めていた。

私の持つ常識を遥かに超越した計り知れない自然の姿を目の当たりにし。
その木と”音”と”歌声”が備える荘厳な雰囲気に呑まれ、自然と涙が溢れてきた。

聖霊。

そんな言葉が頭をよぎる。

”音”の正体は、こういった聖霊のような力を得たものたちによって率い、奏でられた、文字通りの幻想曲なのかもしれない。

48: 2016/12/29(木) 23:33:54.70 ID:wqdQp5Dpa.net
いまだ朦朧とした意識を抱えたまま、私は大樹を中心にすえてぐるりとその周りを歩き出した。

耳でだけでなんてもったいない。
この偉大な聖霊を、余すことなく、五感の全てで感じたいと思った。

少しずつ歩みを進める。
視線を大樹に預け、この風景を生涯忘れることのないよう、網膜へと焼き付けるために。

少しずつ、少しずつ。

と。
そのとき気が付いた。
私が木の周囲を歩き出してからも、更に歌声が大きくなっている。

”音”に乗せて私の耳へ届くそれは確かに歌でありながら、相変わらず意味のある言語などは掴めずにいた。
しかし、この開けた場所にあっても。歌声は僅かずつだが鮮明に、そして大きくなっているのだ。

小さな、胸騒ぎがした。

なんだろう。
うまく働かない頭でゆるゆると思考が巡る。

なにか、見落としているような。

思考は全くまとまらない。
だけど、そんな予感がした。

やがて、獣道を正面とした木の裏側がよく見えるようになるころ。

「あ

掛かっていたまじないが解けるように、一瞬で意識が覚醒する。

大木の裏側。そこから伸びる、一際太い枝に。

49: 2016/12/29(木) 23:34:50.85 ID:wqdQp5Dpa.net

 

縄に吊られた、肉の塊がぶら下がっていた。


 

50: 2016/12/29(木) 23:35:56.16 ID:wqdQp5Dpa.net
瞬時に口を抑える。
それは、漏れ出しそうな悲鳴をかみ頃すためのものだと後から気が付いた。

声をあげてはいけない。
この歌声を、邪魔してはいけない。

自分の内で弾けそうな恐怖の発散という本能的な衝動よりも、そのことへの忌避感が勝ったのだ。

声だけでなく、音すら立ててはいけないような気がしていた。
だから私は、その枝の下から視線すら充分にそらせずにいた。

否が応にも視界に入る、日常では目にすることのないおぞましい色彩に血の気が引く。

寒気に続いて、吐き気がやってきた。

望まない観察は、それでも少しずつ進む。

肉の塊だと感じたものは、赤黒くただれた人間”だった”もののようだ。

毛髪もまばらに、もはや内外の要因で変色し果てたロングスカートがなければ、性別すらわからなかったであろう有り様だ。
氏後相当な時間が経過しているのだろう。

不思議と、異臭やたかる虫の姿はない。
赤黒い体の所々から白いものが覗いている。
その理由は、そうして白骨化が始まっていたからなのかもしれない。

51: 2016/12/29(木) 23:36:51.76 ID:wqdQp5Dpa.net
私は息も整わないまま、あるひとつのことを考えていた。

さっきまでこの木が歌い上げていると思っていた”声”は、今やその肉塊以外にはない座標から響いている。

聖霊によるものなどと祭り上げて、あまつさえ感動に涙をこぼしたあの歌声は、腐乱氏体が紡いでいたのだ。

異様な光景に、一旦取り戻した現実感が再び薄れていく。

だけど、それでもおかしいと思った。

────”氏体”が、歌を歌っている。

今、私は完全に”音”に波長が合っている。
それは、”音”に混じる”声”に対しても同じだ。
私の耳は、歌声が長音のあとにこぼす息継ぎの気配すらとらえていた。

なのに、である。

(オバケが、いない……?

これほど”声”を受け入れている状態で目を開けたことは、一度としてない。

でも、それは”声”を聞いてしまったとき。いつも目の前に濃密なこの世ならざる者たちの気配を感じていたからだ。

今、それはない。
ただ”声”だけが私の耳に届いている。
美しく、いまではどこか物悲しく聞こえる歌声だけが。

52: 2016/12/29(木) 23:38:05.14 ID:wqdQp5Dpa.net
…………。

だけど……。
実は私は、途中から気付いていたのかもしれない。

大木の枝に首を吊り、生前を全く偲ばせないほどに傷んでしまったその体では。
首に紐で括られた一冊の五線紙ノートの、あるページが風に揺れていた。

風が止み、ノートのページがこちらへと向く。

そこには、五線譜の並んだ紙いっぱいの大きな文字で。短く、こうとだけ書かれていた。



『音がきれいなので』



”音”は止まない。
そして、”歌”もまた、止め処なかった。

53: 2016/12/29(木) 23:39:37.44 ID:wqdQp5Dpa.net
歌うことに夢中なのか。
こんなにも彼女の歌が聞こえているのに、だけど私の心には僅かもその思いの断片が流れ込んでこない。

それでも私には、分かってしまった。

彼女も、私と同じように”音”を聞くことのできる人間だったのだろう。

何があって彼女がそれを踏み切るに至ったかは、想像も及ばない。

でも、彼女は歌いたかった。
この美しい”音”に合わせて。

だからこの場所を選び。生合っては決して交わることのないその”音”へ”歌”を乗せるため。
彼女は首を吊ったのだ。

そして、彼女は歌った。

知らず、二度目の涙が溢れてくる。
恐怖、憐憫、陶酔、そして憧憬。

理解も感情も定まらないまま、次から次に胸に痛みが押し寄せ、それが疼く度に瞳から涙がこぼれ落ちた。

彼女は、”音”とひとつになろうとしている。
だから、腐れ落ちゆくかつての体から僅かでも離れることなく。まるで魂がとらわれてしまったかのように、その内から歌うのだ。

彼女にとって、首から伸び、枝に交わるその縄こそが、”音”と彼女を繋ぐ絆だった。

何故なら。

歌声とは、喉で奏でるものなのだから。

54: 2016/12/29(木) 23:41:14.05 ID:wqdQp5Dpa.net
それから、私は時間を見つけて山を登るようになった。

彼女に会いに。
そして、その”歌”を聞きに行くために。

最近、彼女の歌声を真似て曲を作り、専門ではないがそれに合う歌詞を付けた。
それだけその調和はすばらしかったし、そして聞く者が私だけで途絶えるのは惜しいと思ったのだ。
なにより、彼女の存在を誰かに知って欲しかった。

Aqoursのみんなは絶賛してくれたし、聞いてくれた人々の反応も上々だった。
でも。出所を知れば怖がられてしまいそうなので、曲以外の彼女にまつわる事柄はメンバーにも内緒にしておくつもりだ。

彼女と出会ってからそう時は経っていなかったが。
”歌”を聞きに行く度、少しずつではあるが確実に彼女の歌声は”音”へと重なりつつあった。

だが、歌声が彼女の肉体から離れ、”音”に完全に溶けこむには、まだ長い年つきが必要だと感じる。

私は、彼女の歌声が”音”そのものになる、そのときまで。

見届けたいと、思っている。

 

・桜内梨子
「音の話(異聞)」 おしまい



56: 2016/12/30(金) 00:33:53.01 ID:oAD/uXUJa.net



曜「それに気が付いたのは、小学校低学年のころだったかな


 

57: 2016/12/30(金) 00:34:56.65 ID:oAD/uXUJa.net
私の泳ぐ後ろから、ときどき何かが追いかけてくることがある……って。

 

今じゃ高飛び込み一筋だけど、昔の私は平行して競泳もやってたんだ。

自分で言っちゃうのは面映ゆいけど、地元のスイミングスクールの同年代じゃ私より速い子を探すのは苦労するくらい、競泳も得意だったんだよ。

だけど、気付いちゃったんだ。
泳ぐ楽しさだけじゃなくて、私の意識にタイムが絡むようになったころから。

水を掻いて進む私を追いかけてくるようになった、その影の存在を。

58: 2016/12/30(金) 00:37:46.02 ID:oAD/uXUJa.net
スイミングスクールって、けっこうな人数が一度に泳ぐんだけど……。

普段の練習中とか、アップするようなときは、一つのコースに3、4人くらいがあてがわれて。
みんなで一定のペースでコースを往復するから……誰かが泳いでる自分を追いかける感覚なんて、私たちにとっては日常的なものだったのかも知れない。

でも、それは違うの。

だって、あれが私を追いかけてくるのは。
決まってコースをひとりきりで泳いでいるはずのときだったから。

59: 2016/12/30(金) 00:38:38.07 ID:oAD/uXUJa.net
初めて追いかけられたのは、スクールで行われる進級審査の日。

私の通ってたスクールは、沼津市内じゃ一番大きなところで……ああ、うん。そこそこ、果南ちゃん。
やっぱり沼津でスイミングスクールっていったらまずここ、ってくらい有名だよね。

未来の競泳選手育成を名目にしたクラスなんかもあって、コースも50mが基本。
そんな、体育館なんか目じゃないくらいおっきな屋内温水プールだけじゃなくて。すぐ近くの別棟には、いつも私が使ってる立派な高飛び込みとシンクロ用の深めのプールまであって……。

そのとき私はまだ競泳者用のクラスに入れる年齢じゃなかったけど、そのための審査みたいなのには予め参加できた。

それを兼ねていたのが、当時私が通ってた泳法クラスの進級審査。

毎週日曜日に定例で開催される審査で。
決められた泳ぎをして、その型がしっかりできてるか。距離をこなせるか。規定タイムには届いてるか。
……って感じで、結構カッチリ審査されちゃう。
クリアできれば、次の段階の泳ぎや技術を教わっていいことになってて……。

私もその審査を受けるんだけど、審査自体は何の心配もいらない。言ってしまえばおまけみたいなもので。
小学校高学年からの競泳者用のクラスを目指してた私は、その日の審査は規定タイムよりずっと速い別のタイムを狙ってたんだ。

60: 2016/12/30(金) 00:39:03.38 ID:oAD/uXUJa.net
距離は50m。課題泳法は背泳ぎ。

入念な準備体操と注意事項の確認が終わって。順番待ちもそこそこに、すぐに私たちの番がやってきた。

『……続いて第3のコース、渡辺曜さん

コースの前に用意された椅子に腰掛けて、儀式めいた競泳お決まりの呼び出しに応えてから、一斉に水に入る。

私はスタート台の足にあるバーを掴んで体をかがめて、スタート姿勢を取った。

『ちょっと早いけど、渡辺さんなら競泳クラスから声の掛かる規定タイム、出せちゃうかもね。どうかしら……目指してみない?

コーチの言葉が頭をよぎる。
最初は乗り気じゃなかったけど……チャレンジするからには、達成したかった。

それは、泳ぐことがただ楽しかった私の中で。速いタイムを求める欲望が、初めて形になった瞬間だったのかもしれない。

61: 2016/12/30(金) 00:39:59.59 ID:oAD/uXUJa.net
号砲一発。

壁を蹴って一目散にコースへ躍り出る。
潜水で十分な加速を得て、他のコースのみんなをグングン引き離しながら。私は水上を滑るイメージを大切に腕を掻き続けた。

(はやく、すばやく、きれいに────だけどはやく!

本来は高学年用の目標タイムを出すのはやっぱり難しくて。練習中でもそう何度も出せたことはなかったけど。
その日のコンディションはいつもよりずっと良くて。
どんなにむちゃをしても型が崩れないような。そんな頼もしい確信に従って、私は更にギアを上げることにした。

屋内プールの天井の目印が、早くもコースの半分を泳ぎ切ったことを知らせたとき。

(すごい!いつもよりぜんぜん……

心がちょっと緩んだのか。
頭の位置が少しずれて、鼻に水が入りそうになった私は。
しまったって思いながら水を避けて首を下に向けたの。

そのときだった。

(え……?

引き離された他のコースの子の横に、黒い影が見えたんだ。

(なに……?

他のコースの子の横。
私しかいないはずの第3コース。

そこで泳ぐ、黒い影を。

62: 2016/12/30(金) 00:41:51.72 ID:oAD/uXUJa.net
そう、影は黒かった。

スクールでは、みんな帽子を被る。
私たちは低学年だから、溺れたときに目立つ赤い帽子。高学年は黄色の帽子。競泳クラスは、白いゴム製の帽子……。

黒い影は、長い髪の毛の黒だった。

バシャ…バシャ…

自分の水を掻く音に混じって、聞こえるはずのない水音が聞こえてくる。

泳法は、わからない。

クロールじゃない。
だって、腕を回していないから。

背泳ぎじゃない。
だって黒い髪は、その殆どが水中に隠れていたから。

平泳ぎでもない。
だって、その影は息継ぎをしていなかったから。

バタフライでもない。
だって、それがばた足キックをしているのが見えたから。

(いやだ。あれに、おい付かれたくない……

影を観察していたのは、一秒にも満たなかったかもしれない。

でも、私は一瞬でそれがいやなものだってわかった。
そして、なぜだかそれに追いつかれてはいけないということも。

63: 2016/12/30(金) 00:43:55.93 ID:oAD/uXUJa.net
バシャ…バシャ…

黒い影から視線を切っても。
足元から聞こえるはずのないあの音が、ずっと聞こえてくる。

(はやい……

顔を水に浸けて。手は使わずに身体の横にだらりと添えて。ばた足するだけの泳ぎ方のはずなのに。

さっきの光景が頭にちらつく。

それは、他のコースの子たちよりも手前に。つまり、普通の背泳ぎより速く。
私に追いつきそうな勢いで。影が、少しずつ近づいてくるイメージ。

(いや……こわい……!もっとはやく泳がなきゃ!!

パニックになりかけながら、それでも日頃の練習の賜物なのか。
手足を千切れんばかりに働かせつつも、どうにか型を保ったまま私は泳ぎ続けた。

ばしゃ…ばしゃ…

(近い……さっきよりぜったい……

呼吸が荒い。
全力を越えた運動をしているんだから、当たり前だよね。

でも。
こんなに私は苦しいのに、あの影はきっと。
一度も息継ぎをしないまま。少しずつ、確実に私との距離を詰めている。

そんな想像だけで、暖水のはずのプールが氷水になったような鳥肌が全身に浮かんだ。

さっき半分過ぎたはずのコースを、それの数倍は時間がかかった気がしながら。
ついに私が天井に印された残り5メートルを示す赤いラインの下を越えたとき。

ぐちゅ…

足先に。

絡みつく湿った髪の毛の感覚が伝わった。

(いる!すぐわたしのあとに!足もとに!!!!

遂に恐慌状態に陥った瞬間。

 

今度は、手の甲に激痛が走った。

64: 2016/12/30(金) 00:44:27.60 ID:oAD/uXUJa.net
プーーーー……ン

プール内に鳴り響く電子音。
私が圧倒的なタイムでゴールしたことを知らせる音だった。

ゴールのへりに腕をかけ、破けそうな勢いで弾けている心臓の音を聞きながら。プールサイドに強く打ち付けて鋭く痛む左手の甲を押さえる。

でも、私の視線は痛めた手にではなく。
未だみんなが泳いでいる、コースの後方をさまよっていた。

すぐ足元にあったはずの影は、嘘みたいに消えていた。

ただ、私の足の指に。
数本の濁った黒い髪の毛を残して。



私の両隣で泳いだ子たちは、そんなもの見なかった、って言ってたし。
館内で流されていた記録用の映像を何度確認しても、私のすぐ後ろを追いかける影なんかは映ってなかった。

だけど。
すごいタイムが出たから、海に出てて来れなかったお父さんにも見てもらおうって。喜んで家族向けに販売されてるその映像データを買おうとしたお母さんを。
その腰に抱き付いて、必氏に止めたのを覚えてる。

だって、家で繰り返し映像を見ている内に。何かの間違いで、いつか写り込んでしまいそうな気がしたから。
あの影が、私の足元で息継ぎもせずに。
ずっと追いかけてくるその姿が。

65: 2016/12/30(金) 00:45:40.46 ID:oAD/uXUJa.net
それからもときどき、影は私を追いかけた。

それも決まって、私がひとりでコースを泳ぐときに。

どうやら背泳ぎだけじゃなくて。クロールや平泳ぎ、バタフライのときにも、その影は現れるみたいだった。

今まで気付かなかっただけで、もしかしたらずっとそうだったのかも知れない。

黒くて目が見えないほどの長さの髪に、背格好は同じくらい。
なのに、私より必ず少し速く泳いで、追いかけてくる影。

怖くて、気持ち悪かった。
イヤでイヤでたまらなかった。

だけど、泳ぐことは好きだったから、競泳をやめることはなかった。

いつしか私は、あんなのに負けてたまるかって思えるようにもなっていた。

でも。

飛び級で競泳者クラスに抜擢され、技術も定まり、私も体力がついてきて。
選考会や大会で泳ぐ距離が長くなって、コースをターンする必要が出てきたころ。

私は、競泳を辞めた。

ターンをするのが、苦手だったんだ……。

66: 2016/12/30(金) 00:46:44.06 ID:oAD/uXUJa.net
……別に、ターンがへたくそだったわけじゃない。

タイムだって、どんどん速くなってたよ。

でも、あんなに好きだった競泳を辞めてしまいたくなるくらい。
ただただ、ターンのことが苦手だったの。

だって、今まで気配を感じているだけだったそれが、まざまざと見えちゃうようになったんだよ?

それに追いかけられてる予感を感じながら、ターンを決める。
すると、やっぱりすぐ横を通り抜けるあの水中の影が。
長い髪を水に振り乱して。
私の方を向いて、そこだけ妙に真っ赤な口を開いて。

にぃい……って笑う、その姿を。

67: 2016/12/30(金) 00:47:37.95 ID:oAD/uXUJa.net
なんだったんだろね、あれは。

でも、最近思い返してみたとき。
あの影が現れるのは、私がひとりでコースを泳ぐとき以外に、もうひとつ。
決まりがあったのに気が付いたんだ。

あの影が現れるタイミング。
進級審査、選考会に記録会。そして、競泳大会。

それは、私が本気で泳ぐとき。

追いかけられるから、速くなる。
それに影は、なぜか”私より少し速い”だけで。
ゴールまでに私に追いついたことは、一度もなかった。

だから、思うんだ。
もしかしたら、あの影は私が自分の限界を越えるようなタイムを求めたときに産み出してしまった……。
それこそ、私の影みたいなものだったのかも知れない……って。

ほら、よく子どもにはそのときにしかない不思議な力があるって言わない?

ちょっと不気味で変な形で現れてしまったけど。
あの影が、その話で言うところの私の不思議な力だったんじゃないかな。

それが原因で力の使い道を辞めちゃったんじゃ、本末転倒だけど。

ふふっ……。

それもまた、力の上手な使い方がわからない”子どもっぽい”感じがして。

ちょっと、可笑しくない?

68: 2016/12/30(金) 00:52:54.46 ID:oAD/uXUJa.net
ダイヤ「不思議な、話ですわね……

鞠莉「ホラーじゃなくて、ミステリアスパワーの話だったのね!ソーエキサイティン!!

果南「いやいや、かなり不気味な話だったと思うんだけど……

花丸「確かに……マル、とっても怖かったずら……

ルビィ「ルビィも……これから泳いでるとき、思い出しちゃいそう……

梨子「ああ。ルビィちゃんって確か、曜ちゃんに泳ぎを教わってた(※)こと……



ルビィ「うゅっ……その節はいろいろお世話になりました

善子「確か学校のプールを借りて練習してたときに、溺れかけたって聞いたけど

ルビィ「違う!あれは……その、ルビィが泳ぐのへたっぴで、体力もなかっただけで……

曜「あはは、安心してよみんな。話の中でも言ったけど、あれってどうも私にしか見えないみたいだから

69: 2016/12/30(金) 00:56:31.03 ID:oAD/uXUJa.net
千歌「曜ちゃん急に競泳やめちゃったからどうしたんだろうって思ってたけど、そんなことがあったんだ……相談してよ、もう……

曜「相談……かあ……

曜「……相談して、千歌ちゃんはどうにかしてくれたのかなあ……?

千歌「でもでも!何かアドバイスとかさぁ……

曜「ごめんごめん、いじわる言っちゃった。あのころの私は結構本気で怖くなっちゃっててさ。
 いくら他の人には姿が見えないからって、何もしない保証はない……って思ってて

曜「……つまり、誰かを巻き込みたくなかったんだよ

千歌「曜ちゃん……

曜「一度は負けるかこんちきしょう!みたいに思えてたのが、一転してもう無理!って辞めちゃうくらいだもん

曜「いやぁ、実際ターンしたあと。あれの横を泳ぐのは本当にキツかったなあ……

ダイヤ「今……影の正体に気付いて……競泳を辞めたこと、後悔はしてませんの?

曜「……、うん……

曜「高飛び込みも面白いし……何より珍しいし♪

曜「それに、なんかそんなことして泳ぐの速くなっても、ズルしてるみたいで……続けてたにせよ、今くらいなってみたら、きっと後味悪かったんじゃないかなぁって思うよ?

果南「あはは。それって、2つの意味で?

曜「ふふっ……うん!

 

・渡辺曜
『本気の話』 おしまい


 

72: 2016/12/30(金) 01:02:04.55 ID:8Q63SMdJd.net
最近思い返してみたとき、気が付いた。
あの影が、自分の生み出したものなんじゃないかって。

でも、結局それも間違ってたことに。間もなく気付くことになる。

73: 2016/12/30(金) 01:03:35.47 ID:8Q63SMdJd.net
あれは、学校のプールでルビィちゃんに泳ぎを教えていたとき。

ちょっと気合いを入れてしごき過ぎて、ルビィちゃんが溺れかかってしまったのだ。

(ヤバい!

そう思った私は、本当に久し振りに本気で泳いだ。

プールサイドからルビィちゃんまでは15mくらい。
私がクロールで本気で泳げば、数秒にも満たない距離。

でも。

バシャ…バシャ…

水中を掻き進む私の耳に、懐かしくもおぞましい、あの音が響いてきた。

いる。
私のすぐ後ろ。
プールには、間違いなく私とルビィちゃんしかいなかったはずなのに。
それが。
泳いでる。
追いかけてきてる。

私は、頭の片隅で暴力的に広がろうとしている耐え難い恐怖を。ルビィちゃんを助けるという一念で何とか抑えつけながら。

(待っててルビィちゃん!!

時間を引き延ばされていつまでも目標にたどり着けそうもない感覚に負けそうになる自分を、必氏に奮い立たせていた。

75: 2016/12/30(金) 01:05:57.55 ID:8Q63SMdJd.net
そう言えば、この影があらわれるといつもこうだった。

絶対にこんなにないはずのルビィちゃんまでの距離が、果てしなく遠く感じる。

影が出れば、タイムは確かに速くなった。
でも、そのあとの私の疲労具合は……?

今になって確信する。

これは、私が泳ぐのを速くするために自らが産み出した影などではないということを。

ばしゃ…ばしゃ…

近づいてくる。
髪を振り乱し。
息継ぎもせず。
手も使わずに。
ばた足だけで。

足先に、ずるりと、影の髪が。

「ルビィちゃん!!

同時に、指先に命の暖かさが触れていた。
どうやら私は、ルビィちゃんまでたどり着けたようだ。

影は消えている。

”ゴールに付けば影は消える”

それが、決まりだから。

たったこれっぽっちの距離で、数百メートルを本気で泳いだような疲労に襲われながら。
プールの底に足を付き、ルビィちゃんを抱える。

「げっ!げぼっ!ごっほ!!

「良かった!少し水を飲んだだけだ。早くプールサイドに────



とぽ…

 

咳き込むルビィちゃんを抱える私の背後で、プールのものとは思えない粘度を湛(たた)えた水音がした。

77: 2016/12/30(金) 01:08:32.08 ID:8Q63SMdJd.net
もうひとつ。思い出した。

影に追いかけられたとき。私は必ず完永していた。
追いつかれるのが怖かったから。
”ゴール”に付けば、影は消えるはずだから。

でも、今は……?

学校の25mプールの中で、もう10mほど先に。
私が飛び込んだプールサイドと反対の壁が、揺らめく水面にきらめいていた。

『ゴールしてなかった

何故か、そう思ってしまった。

早くルビィちゃんをプールサイドまで運んで、応急手当てをしなければならない。
でも。

『追いつかれてしまった

再び思考が勝手に巡る。

足が動かない。

プールの底のザラザラした感触が、いつのまにかぬるりと湿った大量の髪の毛を踏み締めるものへと変わっていた。

振り返ることもできない。

だって、すぐうしろには。

私に追いついたあの影が────

78: 2016/12/30(金) 01:09:25.76 ID:8Q63SMdJd.net
視線の右から。音もなく。
夏の日差しすら吸い込む澱んだ黒い髪に包まれた、丸い頭が回り込んでくる。

さっきまであれほど打ち乱れていた心臓が。冷たい手に握りしめられたかのように熱と勢いを失っていく。

ぽちゃ…

私の正面で動きを止めると、影が沈めていた顔を上げる。
私の顔を、水面から覗き込もうとするように。

目元は、濡れた髪が張り付いてよく見えなかった。

────あのときと同じではない。

影は、今の私と変わらない背丈になっていた。

だけど、今ならわかる。
やはりこの影は、決して私を模したものではないということが。

そして、今までゴールするまで追いつかれることがなかったのは。
ただ私が必氏になり、限界を越えて泳げただけで。
そうやっていつも、どうにか追いつかれずに済んでいただけだということが。

髪の毛と水面の隙間から、いびつに盛り上がった鼻と、あの日々と変わらず妙にそこだけ赤々と色を持つ口が覗く。

その、赤い口から。

「ごがガ……ゴぼ……ボガベ……こポ……

遠い水底から沸き上がるような。
身体を芯から冷やす水音が、聞こえてきた。

79: 2016/12/30(金) 01:11:04.65 ID:8Q63SMdJd.net
気が付くと私は、プールサイドでルビィちゃんの手当てを終えていた。

「ごめんなさい……曜ちゃん……

バスタオルの上で、力なくルビィちゃんが囁く。

「ううん。私こそ無茶させてたのに、気付かないでごめんね……?

何事も無かったように、平然と応答する私。

でも、確かに私の耳には、最後に聞こえたあの水音が残響していて。
それはいくらタオルで拭っても。時間が経っても。
もう、消えてくれそうになかった。

『ごがガ……ゴぼ……ボガベ……こポ……

水音の裏に潜むその声が、高いものか低いものかもよくわからない、支離滅裂な響き。

しかし私には。それは確かにこう言ってるように聞こえたのだ。

『やっと……追いついた……

と。

80: 2016/12/30(金) 01:12:06.24 ID:8Q63SMdJd.net
今のところ、私の身体に何の異常もみられないし、周辺で何か起こる様子もない。

あれの正体がなんなのか。それも結局、全くわからないままだ。

でも、私はあることだけを確信して、静かに胸を撫でる。

 

私は、競泳をやめて正しかったのだ。



・渡辺曜
『本気の話(異聞)』 おしまい


 

92: 2016/12/30(金) 11:51:20.98 ID:vmaliTVla.net



善子「あれは、中学生のころ


 

93: 2016/12/30(金) 11:52:41.26 ID:vmaliTVla.net
ふと目が覚めてしまった早朝。
まだ日が昇るまではたっぷりある、日の出の遅い季節の朝。

寝直そうとしても、どうしてか全然眠れなくって、どうしようもなくなった私は。
早朝の街の散歩をすることにしたの。

そのころ見ていたアニメに、”朝焼けの刑氏者たち”みたいなタイトルがあって、それにハマってた私は……。
まあ、朝焼けを見て。
堕天したかったのよ。

94: 2016/12/30(金) 11:54:36.27 ID:vmaliTVla.net
早速着替えて。アニメのオープニングを口ずさみながら、この辺で一番見晴らしのいい公園を目指す。

まだ夜の気配を残した冷たい空気を吸い込みながら、徐々に紫から赤らんでいく空を眺めていたら、結構気分が乗ってきて。

「早起きも悪くない、かも……♪

なんて、堕天使らしくもない言葉を呟いてみたりもしたわ。

それは、”早起きは三文の徳”の三文が現代に直すとどれくらいの価値があって。結局早起きが得なのか損なのかどっちだったのかを思い出そうとしながら。
空のよく見える交差点を右に折れて、今度は急に空の狭くなる通りに差し掛かったときのこと。

再び暗くなった視界を慣らすために、ゆっくりと瞬きを繰り返していると。
どこからか、か細い声が聞こえてきた。

~ィ…~…

声って言うか、鳴き声……?

なんだろうって思って、足を止めて耳をそばだてていると。

ミ…~…ィ…

やっぱり聞こえる。
多分、ネコか何かの子どもの声。
親とはぐれてしまったのかしら。

私は、さっきのアニメの導入が、こんな朝。
主人公が寒さに震えるネコみたいなマスコットキャラを助けたことから始ったことを瞬時に思い出して。
もし本当に子猫が助けを求めてたら、拾ってそのマスコットと同じ名前にして飼ってやろうかなんて考えながら。
鳴き声のする方へ足を向けることにした。

せっかくこんなに早起きしちゃったんだもん。
それくらいのお駄賃を拾ったって、バチは当たらないわよね?

それに、飼うにせよ飼えないにせよ。
こんな悲しい声で、きっと助けを求めている生き物のことを知らんぷりできるほど。
私の考える堕天使は、そこまで血も涙もない存在じゃなかったのよ。

95: 2016/12/30(金) 11:56:22.89 ID:vmaliTVla.net
ミィ~…ミィ~…

鳴き声がはっきり聞こえてきた。
方向はこっちであってたみたい。先を急ぐ。

ミィイ~…ミニャァア~

次第に声が大きくなる。
それにしても、そんなに衰弱してないようで何よりね。

ミー…ミィイ~…

今や声は完全にクリアに聞こえてて。
そして、どうやらそれはビルに三方を囲まれた有料駐車場の中からのものらしかったわ。

ミニャアー…ミギーィイ…

一番最初の考えを撤回する。
どうもこの声の主は弱っても、ましてや幼く弱々しい子どもでもなさそうだったから。

ミギァアア!ミニュォアオー!!

……。

随分と元気ね……。
近くで聞くと、まるで遠吠えみたいだって思ったわ。
一つしか声が聞こえないから、ケンカではないみたいだけど。

ミャァアアア!マァァオオァア!!

でも一応、ここまで来ちゃったからには。
どんな元気なノラ動物が朝から騒いでいるのか、気になるし……。

私は、声の主のいるであろう駐車車両の下を、そっと覗き込むことにした。

だって、ノラ動物はノラ動物でも。もしかしたら眠っている間に尻尾を車のタイヤに挟まれて今ごろ助けを求めてるような、ドジな野良動物って可能性も、無くはないでしょう?

ミギィィイイイイ!!!ミギャァァァアアアアア!!!!

覗き込んだ先。
この時間にまだ夜の暗さを残す、深いグレーのセダン車の下に居たのは。

 

ナァアアオおオァアああォ!!!むぎャアあああああああああ!!!

96: 2016/12/30(金) 11:57:28.72 ID:vmaliTVla.net



仰向けで車にへばり付いた、”ニンゲン”だった。


 

97: 2016/12/30(金) 11:58:50.84 ID:vmaliTVla.net
車に引かれてるんじゃないってことは、一瞬でわかる。

何故なら、性別もわからないそれは。地面に触れることなく、本当に車へだけにへばり付いていたから。

マァアあああアアァァァアアアア!!モガァォオオオォォォオおあぁ!!!!

意味不明な叫びを上げながら、それは私に気付いたように顔をこちらに向ける。

その顔は、口以外の器官が福笑いみたいにめちゃくちゃに並べられていた。

ミギャッ!おギャッ!オォォオオオオオオォォオオオぎゃ!!!ァアあァア!!!

髪を振り乱すまま。
口の真横と、本来の鼻の位置にある目が私をとらえて。
何かを訴えるように見開かれた。

耳を塞ぎ、私は駐車場をあとにする。

ゴァアアァアア!!ギャアアアァァアアアアア!!!

声は、まだ聞こえる。

ドゴン!ドゴッ!バゴン!

おまけに、何かが金属に打ちつけられるような音も。

自然と溜め息が漏れてきた。

ァアァアア…バァオォァァア…

朝焼けを待たず、家に帰って寝直そう。

ミャ~…ナァア~…

ああ……やっぱり。

~ィ…ミ…

早起きなんて、するもんじゃなかったわ。

98: 2016/12/30(金) 20:56:45.89 ID:J4Ftnhgv0.net



鞠莉「私のパパがリゾート施設の運営と開発をお仕事にしているのは、みんな知ってるわよね


 

99: 2016/12/30(金) 20:59:02.99 ID:84x9OhzYa.net
そんな家の子どもだから、小さい頃からよくニューオープンするホテルの落成式とか、オープニングセレモニーには顔を出しててね。

そういうイベントって、夜に行われることも多くて。
体力のない子どものうちには、結構ハードな部分もあったのよ。

でも。
ちょうど会場はホテルなんですもの。

疲れた私をすぐに休ませるために、パパの計らいでイベントが終わると会場の客室を一つ。必ず用意しておいてくれてるのが、いつからかお決まりになっていたわ。

それも、頑張った私へのご褒美ってことで、飛びっきりのスイートルーム♡

だから、私はそういうイベントも全然嫌いじゃなくて。
次はどんなすごいお部屋に泊まれるのかしら、なんて。むしろ楽しみにしていたくらいだったわ。

私がある程度大きくなってからも、その決まり事がなくなることはなくって。
いつしか私は、ニューオープンするホテルのスイートルームに対する”ゴイケンバン”みたいになっていたわ。

100: 2016/12/30(金) 20:59:36.46 ID:84x9OhzYa.net
バッドポイントその1。
照明が明るすぎて今一つゆったりできない。
調光できるようにするか、弱めの光源と間接照明を用意すること。

その2。
部屋はモダンなデザインなのに調度品がテクノに寄り過ぎ!面白いけど、アクセントで留めておかないとちぐはぐな印象をもたれちゃうわ。

その3。
テラスが勿体ない!
せっかく景色がいいのに、机も座るものも無いんだもの。木製だったら安価でもそれなりにこの部屋に合うものが用意できるはず。これは必ず揃えておくこと!

みたいな感じでね。

101: 2016/12/30(金) 21:00:51.10 ID:84x9OhzYa.net
最初は何となくパパに小さな不満を漏らすだけだったんだけど、それが言われたとおりにしたらずいぶんと部屋が良くなったって気に入られてね。
今ではすっかりオーニングセレモニーの出席と変わらない、私のお仕事にされちゃったわ。

これは、今年の春。
日本の……どこだったかしら。ゴルフ場と一体で開発された、随分と山の中にオープンするリゾートホテルのイベントに参加した夜のことよ。

いつものようにパーティーを終えて、部屋へと案内される。

複合リゾートとしてはよくある話なのだけど。ゴルフ場との兼ね合いで、ホテルはまだ正式にオープンしたわけじゃなかったから、私以外に客は取ってなかったの。

だからスタッフだって、管理のための必要最低限しかまだ詰めていない。
小さい頃は私の世話係の者が一緒に泊まっていたけど、それだって付けなくなってからは随分と経って久しい。

そして、スイートルームは大概フロントからは遠い位置にある。

つまり、私は広い部屋で、広いフロアで。いえ、それどころか、この広いホテルで。
その夜、一人きりだったのよ。

案内された部屋に入るとき。
振り返った廊下の長さと暗さときたら。それはもう、経験のない人だと心細くってたまらなくなっちゃう光景だったかも知れないわ。

102: 2016/12/30(金) 21:01:27.01 ID:84x9OhzYa.net
とは言っても、私にとってはそういうのは慣れっこのこと。

いつものように、セレモニーの夜のもう一つのお仕事に手を付けがてら。まずはパーティーでかいた汗を流すためにバスルームへ向かったわ。

途中、”ゴイケンバン”として気付いたことをまとめるために持ち込んだボイスレコーダーを手に、これまでの内装の評価を手短に吹き込むことも忘れずにね。

とっても広い脱衣所に、2つ並んだ洗面台にはアンティークで上等な鏡が、こちらも2枚並んで設置されてる。

バスルームへ来る前に一通り目を通した幾つかの部屋も、デザインから調度品まで、なかなかのレベルで纏まってた。

デザイナーの意地と誇り。技巧を凝らした意匠とそれらの調和に、自然と賞賛の口笛が漏れる。

パーティーは疲れちゃうけど、だからこそその後のお楽しみはこうでなくっちゃ!

私は楽しい夜を過ごせそうな予感と、ドレスや装飾品の類をすべてとっぱらった開放感。
その2つが混じり合って弾ける胸の軽やかさのままに。バスルームへ続く磨り硝子の引き戸を勢い良く開け放ったわ。

シャイニー!

103: 2016/12/30(金) 21:03:11.58 ID:84x9OhzYa.net
…………。

瞬間。私は頂点まで登り詰めたテンションが、底の抜けたみたいに低下していくのを感じたわ。

こう言うの、日本の難しい言葉でなんて言うんだったかしら。
ノーズ……ホワイト……んん!鼻白む、ね。

そう。あんなに楽しい気分に弾んでいたはずの私は、一瞬で鼻白んじゃったの。

だって、バスルームは完全な状態じゃなかったんだもん。

三畳くらいはたっぷりあるバスルームは、部屋と同じく白とブラウンで統一されたシックな雰囲気で。
完成していたら、もう私は本当にハッピーな気持ちで鼻歌交じりにバスタイムを過ごせてたんだろうけど。

でも、その肝心のバスタブが。
ビニールで覆い隠されていたの。

104: 2016/12/30(金) 21:04:01.07 ID:84x9OhzYa.net
天井にテープか何かで止められたビニールが、床でもテープで止められていて。バスタブがどんな様子かはうかがえない。

コンクリートでも乾かしてるのかとも思ったんだけど、床全体に敷き詰められた大理石はツルツルピカピカだし。
そのビニールにも何か内側で作業をしたような汚れとかが飛び散っている様子もなかった。

どうやらそこまで大きなものでない、数本ネジを絞めるだけみたいな細かい作業が済んでなかったみたいね。

(それくらい済ませて起きなさいよ!

なんて、なおのこと腹を立てながら。
件の居残り作業には湿度とかは関係無さそうだと勝手に判断して、私はシャワーホースに繋がるバルブを捻った。

一瞬冷水がほとばしったあと、すぐに暖かいお湯が続く。
良かった、水は通っているみたい。

本来ならフロントにいるスタッフに電話で確認して別の部屋を用意させるか。せめてシャワーを使っても問題ないかの確認くらいはするべきだったかもしれないけど。
パーティーで疲れていた上に待たされるのも嫌だったし。

それに。
せっかく盛り上がった気分に水を差された私は、そんな手間すら我慢できないくらい、もうほんとに頭に来ていたの!

いくらデザインが良くっても、完成してなければ何もかも台無し!採点に能(あた)わじ!赤点!零点!即落第!

持ち込んだアロマを焚いて、つま先まで伸ばせる湯船でうっとり夢気分……。
そんな楽しげな計画が音を立てて目の前で崩れていくのを感じながら。
プリプリ湯立つ頭に、少しぬるめに調整したシャワーをしばらく浴びせかけてみたけど。いっこうに冷える気配はなくって。
私はいよいよこのホテルでの”ゴイケンバン”の仕事をボイコットする決意を固め始めた。

そんなときだった。

105: 2016/12/30(金) 21:04:39.48 ID:84x9OhzYa.net



「ねえ、どこ?


 

106: 2016/12/30(金) 21:06:48.79 ID:84x9OhzYa.net
顔や髪、胸で弾けるシャワーのボタボタいう水音に混じって、そんな声が聞こえてきたのは。

呼ばれたなら、返事をしなくっちゃ。

怒れる頭でもそれくらいの余裕は感じながら、なんの疑問も持たずに応答のために口を開く。

「はぁ~────

 

まず思ったのは、”何の用だろう”だった。



たまの休暇で揃ったパパやママに、リビングから呼びつけられるような気安さで。
部屋に呼んでいた親愛なる友人に、じゃれつかれるような心地よさで。
でもどこか。今すぐ片付けなければならない案件の指示を求めて駆け込んできた、世話役の持つようなひっ迫感で。

そのいずれの響きも、先の声は有してた。
だから私は、とりあえず返事をしようとしたのよ。

だけど。

107: 2016/12/30(金) 21:07:33.05 ID:84x9OhzYa.net
「ぁ────

爆発するように張り詰めた緊張の糸が、応答を未だ終えずに震える声帯を締め上げるように。私の声をかすれさせた。

ここは両親の揃ったホームじゃないし。心を分けた友の住まう内浦の土地でもなければ。世話役が抱える火急の案件の残った夜でもない。

私は、いったいなにに返事をしようとしたのかしら。

良くない予感に急かされるように、ぬるま湯につむっていた目をそっと開く。

その瞬間、天井から何かが千切れるような音と共に。バスルームに闇が訪れた。

竣工間もないホテルの照明が、切れたのよ。

脱衣所の照明は、磨り硝子の扉を通して変わらずにバスルームに光を投げかけていた。
でも。その光も、不自然に弱かったわ。

なにが私を呼び。なにに私は返事をしようとしたのか。

答えは、磨り硝子の向こうに”立っていた”。

108: 2016/12/30(金) 21:08:09.72 ID:84x9OhzYa.net
まず見えたのは、磨り硝子で滲んだ黒だった。

髪。黒くて長い。ボサボサの。

続いて、薄茶けた白と、肌色と。その影の上の方に二つ並んだ小さな黒。

見てる。
磨り硝子の向こうから。
ぼろ布を纏った、髪の長い女が。

そして。

「ねえ、まり、どこ?

呼んでいた。私を。
私の名前を。

109: 2016/12/30(金) 21:10:40.43 ID:84x9OhzYa.net
『知らない誰かに呼ばれたら。決して応えてはいけないよ

しわくちゃの声が頭に蘇る。
大好きだったグランマ。
日本の、こんなどこかの山の奥に住んでいた。
数えるくらいしか会ったことのない。でもどれも優しい思い出の中に縁取られた。もう会うことの叶わない、ママのそのまたママの声。

あれは、警句だった。そしてそれは、まったく正しいものだった。
奪われたんだ。あの不完全な返事から。私の情報が。

「まり、どこ?ここ?

金属でできた小鳥がこわごわとさえずるような不安定な高音を震わせて。半透明の扉の向こうで、それが私を求めてまた一歩前に進んだ。

がしゃん、と扉が小さく軋む。
ほとんど全身が硝子へと密着し、鼻と思しき位置に歪んだ肌色が浮かんだ。

「まり、いる?いる、いる

がしゃん、がしゃん、がしゃん、がしゃん

しゃべるたびに、磨り硝子が揺れる。
私との間にある障壁に気付かないみたいに。それはひたすら呼び、そして歩き続けていた。

「まり、ここ、ここ、ここ、ここ

がしゃん、がしゃん、がしゃん、がしゃん、がしゃん

影は少しずつ横にずれている。
引き戸の開閉箇所に向けて。

ごくり。と、小さく喉が鳴った。

110: 2016/12/30(金) 21:12:16.58 ID:84x9OhzYa.net
と、影が扉への衝突を止める。

「ここ、あける

磨り硝子の向こうで、影が横に垂らしていた棒のようなものを。ゆっくりとぎこちない動きで扉の引き手のあたりに移動させていた。
扉の概念を知らなかったそれが、今はもうその構造を理解し。手を使い、開こうとしているみたいに。

今、私は返事をしなかった。
でも、一度繋がってしまったら返事じゃなくても。例えば呼吸ひとつ、物音ひとつからでも、奪われるんだって。
根拠はなかったけど、そう感じて。
次の瞬間には肩を抱いていた両手で素早く口を押さえていた。

がりゃ…がが…がらら…がが…

いったいどうすればあんなに立て付けの良かった引き戸が鳴ることがあるのか。まるで検討のつかない音を響かせながら、少しずつ扉がスライドしていく。

物音を立てないように動きを固めていた体は、今や別の要因で僅かも動かせなくなっていた。

恐怖、困惑、憔悴。そして何よりも夢を見ているような非現実感が、私の体を彫像のように強ばらせていたから。

111: 2016/12/30(金) 21:14:16.89 ID:84x9OhzYa.net
が…が…が…

開いた扉の向こうには、やはり薄茶けた白のぼろ布を纏い。土で汚れたくすんだ肌色と、野放図に荒れた黒の長髪を持つ女が立っていた。

密着していた磨り硝子が失われ、影のできていた部分が脱衣所からの逆光で潰れたせいかしら。
女の顔は扉が開くことで、逆に不鮮明になっている。

だけど、抑揚の一定しない妖しい声は。よりクリアに私の耳に届くようになっていた。

「まり、いる?

手で押さえられた口が、何事が応えようとしてしまう。

その声はこれほど薄気味悪い感情を与えながらも。私に抗いがたい返答の衝動を強くもたらすものだったわ。

無防備な状態でこれを聞いてしまえば。条件反射みたいに、返事をしないことはまったく不可能なように思えるほど。
そう、例えば。それこそさっきの私みたいに。

112: 2016/12/30(金) 21:15:30.87 ID:84x9OhzYa.net
「まり、どこ?

そして、それがゆったりとした動きで腕を前に突き出した。

その指先では。まるで土の下からついさっき這い出てきたかのように爪が割れ、あるいは剥がれ。例外なくどす黒い汚れがこびり付いていた。

「まり、まり

その手が、歩を進め、やがて私の体へと触れる。

固定されたシャワーヘッドからとめどなく温水を浴びているはずなのに。私はまるで冷水に身を浸しているような感覚の齟齬に襲われて、どうしようもなく鳥肌が立ったものよ。

「まり?まり?

呼吸すら止め、暴れる心臓以外の動きを失った私は。未だ逆光の向こうで潰れるそれの黒い瞳に、まるで映っていないかのように扱われていた。

氷みたいに冷たい手が、シャワーに濡れそぼつ私の体の表面をゆるゆるといったりきたりする。

「まり、ちかい、どこ?ここ?

おぞましさに吐き気すらわいてきたけど。目をぎゅっと結んで、ひたすら耐えがたい接触をやり過ごしたわ。

113: 2016/12/30(金) 21:17:41.40 ID:84x9OhzYa.net
「まり、どこ

(うるさいっ!早くいなくなれ!

「まり、いる

(見えてないなら、さっさと諦めてよ!

「まり、まり

(私の名前を呼ばないで!

「まり、まり、まり、まり、まり

(そんなに私を欲しがって、あなたはどうしたいの!?

 

「まりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまりまり



目と鼻の先で尋常ではない悪寒が膨張していくのを感じて。
私は思わず目を開けてしまう。

そこでは、下から私の顔を覗き込む白目のない墨のような瞳が、キスするような距離で待っていて。

私は、ついにそれと目が合ってしまった。

ぐいっ

それが歯のほとんど抜け落ちた口を薄く開き、嬉しそうな声を上げながら、私を抱きしめるようにかかえ込もうとして────

114: 2016/12/30(金) 21:18:10.03 ID:84x9OhzYa.net
 


「まり、みーつけた


 

115: 2016/12/30(金) 21:20:02.90 ID:84x9OhzYa.net
瞬間。私の体は足元から滑るように垂直に倒れ込んでいた。

意図したものかは……わからない。ひょっとしたら、あまりの恐怖に腰が抜けてしまったのかも知れないわ。

実際、シャワーで塗れた足場に尻餅をついた私は、すぐさま動き出すことができなかったから。

目の前でシャワーの水滴を集めて粒を浮かべる氏斑の生じた足。
その先の爪が、手と同じように割れ、剥がれ。泥にまみれて所々化膿している様子が見えた。

私は力の入らない体を引きずって、脱衣所を目指してみっともなくも赤ちゃんみたいに膝を突いて女の横へと回り込んだ。

「あれ?まり?どこ?どこ?

まるで大事なものを落として見あたらなくなってしまった子どものような声音で、それが私を求めてバスルーム内をキョロキョロと見回す気配を感じた。

あれが、脱衣所にはある。
どんな効果があるのかはわからないけど。このままあのおぞましい存在に好きにされるよりは、何かをしてあらがいたかった。

116: 2016/12/30(金) 21:21:14.66 ID:84x9OhzYa.net
バスルームに反響するはずのシャワーの音が。この出来事への無関係を装うように、ずっと遠い場所から聞こえているような気がした。

「まり、うごいてる?ここ、でる?

背後から塗れたバスルームの床をひたひたと踏みしめて。それが少しずつ私に迫っている。
私の出した音でしかこの存在を知ることのできない、盲目のゴーストが。

もう猶予がないと悟って、バスルームのふちから手を伸ばす。

────ガッタァアアンン

指先の引っかかってしまった足の高い脱衣籠が、すごい音を立ててひっくり返った。

「まり、いたぁあ

ニタリ、なんて。本来聞こるはずのない、口が笑みの形になる粘ついた音が、首のすぐ後ろから聞こえた気がした。

気付いたときには、私はうつ伏せのままバスルームの床を滑っていた。

足首には冷たい輪の感触。

掴まれて、引きずり込まれていたの。

引きずられながら。
私は親指を力いっぱい握り込んだわ。

117: 2016/12/30(金) 21:22:19.94 ID:84x9OhzYa.net
『オフホワイトの壁と、木で統一されたブラウンの調度品のバランスがとっても目に優しいの!

興奮気味の私の声で、今や評価なしとなったはずのこの部屋の内装についてを語る様子が、楽しげに聞こえてきた。

「まり?ふたつ?

困惑のような色を声に覗かせて、足を掴むそれの動きが止まる。

『そこに計算尽くで配置された間接照明のもたらす柔らかい色合いが加わって……うぅ~ん!吸う空気まで甘く感じちゃう!

「まり!まり!

愛玩動物がはしゃいでいるのを見て喜ぶような、超越的で残酷な響きが私の名を呼び。

『ベッドだって当然、とうっ!……あっはは!すっごい沈み込むー!キングサイズでふっかふか!それがふたつも!?



「まり────ひとつになろ


 

118: 2016/12/30(金) 21:23:17.11 ID:84x9OhzYa.net
突如、私を襲い続けていた途方もない寒気が失われた。

シャワーが大理石を叩き続ける雨だれに似た水の音とその暖かさが、まるでそれに代わるように存在感を取り戻す。

荒れた息が次から次にこぼれていた。
声を出さないようきつく噛みしめた口は、歯がくっついてしまったみたいに開きそうになくて。
鼻だけでその荒い呼吸を捌かなくちゃいけなくって、とっても苦しかったわ。

その私の指先には。

”ゴイケンバン”としての仕事に用いる、ボイスレコーダーが握られていた。

119: 2016/12/30(金) 21:23:50.88 ID:84x9OhzYa.net
『うぅ~ん!吸う空気まで甘く感じちゃう!────キングサイズでふっかふか!

でも、どうやらそれも湿気の多いバスルームに持ち込んだせいで壊れてしまったみたいだった。

だって、脱衣所までの道みちに吹き込んだ私の声を順番に再生するはずのそれは。

『あっはは────ベッド────当ぜん────おふほわイト────目に────目に────めに、めニメにめに、めに────あっはは────っはは────っはは────っはは

ファイルをまたいで、めちゃくちゃにデータを再生するようになってしまったんだから。

『────っはは────っはは、はは、ははあはははははははははははははははははははははははははは

そして、ループする私の笑い声は。いつしかあの金属のさえずりへと代わって。

それは最後にこう呟いて、電源が落ちたの。

120: 2016/12/30(金) 21:24:42.93 ID:84x9OhzYa.net



『こ……れで、ずっと……いっしょ。だよ────まり



121: 2016/12/30(金) 21:30:35.69 ID:84x9OhzYa.net
鞠莉「で、これがそのボイスレコーダーなんだけど────

一同「「きゃーーーー!!!

鞠莉「イッツジョーク♪(ぴーす)

ダイヤ「いったい!どこからが!ですの!この大うそつき!!(ぽかぽか)

鞠莉「ちょっ、ダイヤたたかないでよ、いたいって♡

ダイヤ「さっさと白状なさい!

鞠莉「もーう、オバケより怖いんだから、ダイヤってば……話は全部ほ・ん・と。このボイスレコーダーは新しく買ったやつで、そこだけジョークです♪

果南「じゃあさ……話に出てきたボイスレコーダーはどうしたの?

鞠莉「果南までそんなに怖い顔しちゃって~。んもう、美人が台無しだぞ?

果南「鞠莉!!

鞠莉「Oops!ふふ、さすがにちょっとしつこかったかしら?

鞠莉「オタキアゲよ、オタキアゲ。その筋でユイショあるお寺に、預かって貰ったわ

曜「えっ、それって────

鞠莉「あら……?残念だけど”ここ”じゃあないわ。すぐに手放したかったから、最寄りで見つけた専門のお寺さまに持ち込んで、即エスケープよっ

梨子「エスケープって……

鞠莉「うん。それはもう、ダットのゴトクね

ルビィ「失礼だけど、なんとなく目に浮かびます……

122: 2016/12/30(金) 21:31:19.57 ID:84x9OhzYa.net
鞠莉「……と、まあ……。ほんとはそうするつもりだったんだけど。ニコニコ顔の優しそ~なお坊さまが、経緯を聞きたいって仰って

ダイヤ「まあ、供養するんですもの。当然のお話ですわ

鞠莉「あんっ、エスケープのくだりはずっと冗談よ?ここからは真面目な部分ですからね

果南「わかったわかった。話が進まないよー、もう

一同「「……はあ……

鞠莉「ごめんごめん。それで、ね。
 こっちもそのつもりだったし、ある程度整理して詳しく話してたの。そしたらそのホトケの顔が、私の身分を語ってるところでみるみるとんでもない剣幕に変わっていってね。ついには一喝閃いて────

 

『御山を削った首魁の娘かぁっ!!

 

鞠莉「……って……

123: 2016/12/30(金) 21:34:04.00 ID:84x9OhzYa.net
鞠莉「ひどい話よね。あんなに怖い目にあって、藁にもすがる思いで頼ってきたいたいけなレディーに向かって、大声で怒鳴るなんて

一同「「…………

鞠莉「結局、声を荒げられたのはその一度きりだったけど。終始ピリピリした雰囲気の中経緯を説明させられたあと。いくつかぶっきらぼうなやりとりを交わして、私への聴取はおしまい

鞠莉「最後にはこっちの包み金を突っぱねて。代わりに二度とこの土地に手を加えるなって、目も合わせずに追い出されたわ

ダイヤ「それではその後、随分とそちらでの運営はやり辛くなったのではなくて……?

鞠莉「その辺は心配ゴムヨウ。ウチの渉外部(ネゴシエーター)は腕利き揃いだから。きっとほとぼりの冷めた今頃は、多方面の懐柔も完了してるでしょうね

鞠莉「今回の教訓は、計画地点に対しては地質学的見地からだけではなく、民族学的な調査も欠かさないようにせよ……ってところね。
 ミスは起こるものよ。でもその代わり、同じミスを二度と繰り返すつもりはないわ

124: 2016/12/30(金) 21:35:15.97 ID:84x9OhzYa.net
一同「「…………

鞠莉「……(ニコッ)以上!────Aqoursきっての薄幸美少女(灰被り)こと小原鞠莉ちゃんの、春先のお話をお送りしましたっ

曜「薄幸美少女……

ルビィ「って書いてシンデレラ……

梨子「自分で言っちゃうのね……

善子「……私、実は結構同情してたけど……

花丸「うん、なんか自業自得に思えてきたずら

鞠莉「Oh……相変わらずマルのゼッポウは鋭いわね……

千歌「ま、まあまあ……鞠莉ちゃんもみんなを必要以上に怖がらせないよう、わざとお尻の方でふざけただけで……

鞠莉「ちかっち……わかってくれるのはあなただけよ……

花丸「わかってるけど、やりすぎずら。へたくそずら

鞠莉「オォーゥチッッ!!!!

千歌「花丸ちゃ~ん(汗)

 

・小原鞠莉
『ホテルの話』 おしまい


 

125: 2016/12/30(金) 21:42:05.42 ID:84x9OhzYa.net



あの日、私がその部屋に泊まったのは偶然ではなかった。



127: 2016/12/30(金) 21:44:18.28 ID:84x9OhzYa.net
バスタブにビニールが張られていた理由を、後日当該ホテル清掃班のチーフから聞き出すと。こんな答えが返ってきた。

バスタブに限らず。あの部屋は誰も出入りしていないはずなのに、気が付くと泥や土の汚れが生じてしまい。
それは何度清掃しても。どんなに注意深く人の出入りを管理しても。決して収まることはなかったそうだ。

もちろん、そんな部屋に私を泊まらせるつもりなどなかった。

施錠の行き届いた場所に原因不明の土塊が生じるなんて。どう考えても瑕疵ありとして、私以前に客を取る部屋としてそこは機能し得ない。
耐久や密閉などをよく洗い、再び一から調査しなおして原因を明らかにした上で改修を施し、ようやく客室としての価値を取り戻すことができるのだから。

しかし、どこでどう歪んだのか。
私は、あの部屋に泊まることになった。

私の就前泊は、慣例としてグループ全体に知られている。
もちろん今回とて、計画案は支配人まで専決で決裁が回っていたはずだ。

それを、改ざんした人間がいる。

当日までの間。まるで計画通りに事が動いていると、業務に携わる全ての人間へ疑問を抱かせることなく動かして。

128: 2016/12/30(金) 21:46:35.22 ID:84x9OhzYa.net
油断ならない、恐ろしい手腕だ。

その手腕で。顔の見えない何者かは、あの部屋で私とそれを邂逅せしめた。

何者かは、それの正体を知っていたのだ。
おそらく直接対峙した私すら知り得ない、あれに取り憑かれてしまった者がどうなるのかという、その末路すら。

当然。あの夜、怒りにまかせ部屋を変えずシャワーを浴びた、私のその気性すら知悉の上なのだろう。

思い起こすだに背筋が凍る。

部屋に現れたあのおぞましいゴーストに、ではない。
手足のように悪意なき無数の人間を操り、人知れず私を陥れようとした、この獅子身中の虫に対してだ。

パパが珍しくお酒に酔うとき。決まって口癖のようにこぼしていた言葉が今、私の胸に重くのしかかる。

『人の上に立つ人間は、”更に”を求め上ばかり意識を向けてしまう。だが、それではいけない。
 人の上に立っている、それゆえに。私たちは上にではなく足下へこそ、気を払うべきなのだ

経営者への道は、なんだかんだでとっても険しいものになりそうね。

────ただ、退屈だけはしなさそうだと。

私の内に棲まう黒くて冷たい何かが、顔の見えない誰かを想い。
静かに、そう笑っている気がした。

 

・小原鞠莉
『ホテルの話(異聞)』 おしまい


 

132: 2016/12/30(金) 22:46:59.56 ID:84x9OhzYa.net



果南「もうずいぶんと昔からウチを利用してくれている常連さんに。ある日こんなことを頼まれたんだ


 

133: 2016/12/30(金) 22:49:27.18 ID:84x9OhzYa.net



『果南ちゃん……僕を、ナイトダイビングに連れて行ってくれないか

 

中学三年の、夏を目前に控えたころだった。

どうも、父さんたちには内緒で……装備もポイントへのボートも自分で用意するから、ガイドだけ頼めないか、って言う……そんな話。

……妙な話だと、思ったよ。

それに、夜に誰もいない……誰もこない場所で。男の人とふたりきりになるっていうのも、常識的に考えたらあり得ないよね。

でも、常連さんはよくご家族でもウチを利用していたし、お子さんも大切にしてたから。
そういう……女としての不安は、ひとまずまったくなかったんだよね。

で……ううんと……常連さんじゃ少し言い辛いから、これからはおじさんって言うね。

最初は私もおじさんの話は断ったんだ。

うん……普段私もみんなに何も考えてないみたいに内浦の海を勧めてるけどさ。
ダイビングって、適当にやれば命に関わるレジャーなんだよ。

今だってまだぜんぜんなっちゃいないけど、当時の私なんて父さんたちの手伝いをするのが精いっぱいで。
誰かひとりの人間の命を、責任もって最初から最後まで預かるなんて、考えてもみなかった。

134: 2016/12/30(金) 22:50:01.63 ID:84x9OhzYa.net
でも……そう言っておじさんの話を断ってからしばらく経って……。

それからだったかな。
ウチへときどき仲間や家族でダイビングをしに来ていたおじさんの様子が、どんどんおかしくなっていったのは。

ダイビング中に単独行動を取ろうとしたり。酸素残量も尽きかけてるのに、海にいつまでも残ろうとしたり。

そのうち父さんも怒って。ガイドの言うことが聞けないなら、もうウチでは面倒見ないって、直接おじさんに怒鳴っちゃうくらいでさ。

おじさんの顔……ずいぶん疲れてたな。

目が落ちくぼんで、顔はどこか青ざめてて。白髪も増えたみたい。

そしてときどき。私の方をじっと見て、悲しそうな顔をしながら。ふう……って、ため息をつく。

今考えれば、この頃のおじさんは、本当に異常だった……かな。

いくら潜りたいポイントとタイミングがあったって。どんなにダイビング好きの人だろうと、普通ああは落ち込まない。
ましてやダイバーの基本中の基本であるはずの安全第一の大原則を蔑ろにしてしまうほど入れ込むなんて、それこそ常軌を逸してる。

でも、当時の私は。
ただおじさんが海を覗くとき。濁るみたい渦を巻いて明るい色を失っていくその目の様子が頭に焼き付いて……忘れられなかったんだ。

そんなこともあって。おじさんがこうなっちゃった原因……その責任の一端が自分にもあるんじゃないかって思えてきちゃってさ。

ついに我慢できなくなって、お客さんの台帳からこっそりおじさんの番号を調べて。
この前のこと、考えてみるから詳しく話を聞かせて欲しいって……電話しちゃってた。

135: 2016/12/30(金) 22:51:17.88 ID:84x9OhzYa.net
その夜は風もなくて、雲も少ない月と星がよく見える静かな夜だった。

約束がなかったら絶好の天体観測日和だったなって思ったから、間違いないよ。

おじさんが注文したポイントは、陸(おか)からも、他のどの定番ポイントからも遠くて。
確かに内浦の海のことを専門に扱う人じゃないと、一人ではたどり着けないような場所だった。

でも、それはつまり。
何の変哲もない海のど真ん中。
浅瀬も岩礁も見当たらない、夜の闇にぽっかりと沈む、ダイビングに全く適さないような────

おじさんがどこかから用意した、小さなエンジンを積んだ人間2人と装備品を載せれば足の踏み場もないようなボートの上で準備を終えた私は。そっと海を覗き込む。

(こんな場所で……おじさんは、なにを見たいの……?

夜の海中を遠く貫くはずの強力なライトの光をあざ笑うように減衰し、その全て飲み込んでなお暗さを深める闇の塊を前に。

私は、初めて潜ったナイトダイビングが遥かに霞むくらいの恐怖を感じていた。

136: 2016/12/30(金) 22:51:56.41 ID:84x9OhzYa.net
「本当にありがとう。果南ちゃん

「僕もこのポイントを目指して、ひとりでボートを操縦した夜が、両手じゃ足らないくらいあったよ

「でも、何度やっても潮の流れが掴めなくて……ここにたどり着けたことは、一度としてなかった

「だから。こればっかりは内浦の海を良く知っている人じゃないと、できないことだったんだ

ボートに括り付られたGPSと海を交互に眺めながら、おじさんはそんなことをつぶやいた。

おじさんが用意したボート……こんな舟、私は今まで淡島でも内浦でも、見かけたことがない。
おじさんが、文字通り”用意”したんだろうね。

ダイビングの装備一式だけじゃない。

ボート。エンジン。計器類に、その電源……。

おじさんはこの夜のために、いったいどれだけのお金と。そして時間をつぎ込んだのか……。

137: 2016/12/30(金) 22:52:44.10 ID:84x9OhzYa.net
おじさんの準備も終わり、私たちは海に入った。

得体の知れない生が見えない闇で蠢いているかも知れないぶん。
きっと宇宙空間よりもずっと不気味な広がりが、私を包む。

ポイント周辺にはブイも浮いてなくて、繋留索も降ろせる深さじゃ無い。

本来なら絶対ボートには人を残すべきだったけど。
おじさんをひとりで海に潜らせるよりは、帰ってからボートが見当たらないことの方が、いくらか許容できる不安な気がして。
私はおじさんに付いて、立ち昇る気泡がなければどちらが上かもわからない暗闇を掻き分け続けた。

水への感覚も慣れて、落ち着いて周囲の状況が確認できるようになっても。
やっぱりそこは魚も泳がない、海底すら見えないような、暗いだけの海だった。

『海に入ったら、僕に好きにしていい時間をくれないかな

本当に危ないと私が判断するまでが、おじさんに与えられたこの夜の海での時間。

何が目的かもわからない。
おじさんがおかしくなってしまうほどに求めた、ナイトダイビング……。

138: 2016/12/30(金) 22:54:00.49 ID:84x9OhzYa.net
おそらく、傾斜方向に30メートルほど潜ったころ。

それは唐突に現れた。

”それ”?

うん……。

”それ”っていうのは……。

女の、ひと……なのかな……。

前触れもなく。気配もなく。気泡もまとわずに。

黒の長髪と白いワンピースを、水の流れに揺らめかせ。

濁った瞳に。ぽかりと開いた口と。酷く黄色掛かった肌。

そして、女のひとは。

 

上下逆さまの姿勢だった。



139: 2016/12/30(金) 22:55:14.76 ID:84x9OhzYa.net
悲鳴をあげたつもりだった。

でも、水中ではレギュレーターから気泡が撒き散らされるだけで。
その悲鳴は私をより恐怖させる以外には、誰にも届くことはなかった。

この水中で届くべき相手────おじさんは、女のひとが現れてから身じろぎひとつせずにその場にいた。

女のひとの正面で。
まるで、見とれてでもいるかのように。

いや……。

身じろぎひとつしないっていうのは、間違いだったかも知れない。

おじさんの肩は、確かに小刻みに震えてたから。

私が悲鳴を上げ終える。

でも、それから。
何もできなかった。

そこから逃げることも。動くことすら。

まるで金縛りにあったみたいに。
でも、不思議なことに本来動けなくなれば沈んでいくしかない身体の位置だけは、そのままだった。

140: 2016/12/30(金) 22:57:01.10 ID:84x9OhzYa.net
こんな、夜の海の外れ。
なんの水中装備も付けていないのに、女のひとは現れてからずっとそのままの姿勢で。
水の流れに、髪とワンピースをゆらゆらと遊ばせていた。

虚ろな瞳。
開かれた口。
黄ばんだ肌。
よく見ると薄汚れた白いワンピース。
どこからも漏れない気泡。

やっぱり、おかしかった。

女のひとは、ヒトじゃなくて。
生きていなくて。

これじゃ、まるで────

やがて、ようやくおじさんが動いた。

待ち焦がれたように。慈しむように。
ゆっくりと、女のひとに両手を伸ばし近づいていく。

それはきっと、ハグ────抱きしめようとするみたいに。

141: 2016/12/30(金) 22:58:01.78 ID:84x9OhzYa.net
ご…ぽ…

急に、気泡が漏れた。
女のひとの口からだったよ。

それを合図に、女のひとが初めて動きを見せた。

小刻みに。
痙攣するように。
手足をばたつかせ。
首を少しだけの角度で。
でもめちゃくちゃに、素早く上下左右に振り乱して。

それはまるで、何かが女のひとに入り込み、動かし方を確認しているみたいな。
生理的に受け入れがたい、胸の悪くなる動きだった。

ごぽ…ごぱっ…

一際大きな気泡が、女のひとの口から足の方へと立ち昇って消えていく。

おじさんは、女のひとの顔を間もなく胸に迎えられるくらいに近付いていた。

ごぼん…ぼ…ごば…

おじさんのレギュレーターから気泡が漏れる。

ごぼん…ぼ…ごば…

何か、同じ言葉を囁いているみたいだった。

ごぼん…ぼ…ごば…

これから抱きしめる、女のひとに向けて。

ごぼん…ぼ…ごば…

それは多分。

ごぼん…ぼ…ごば…

 

”ゆるして、くれ……”、と……。


 

142: 2016/12/30(金) 22:58:53.84 ID:84x9OhzYa.net
おじさんの腕に包まれる瞬間。
おじさんの脇から僅かに覗いた女のひとの口が、うっすらと笑ったように見えた。



『絶対……許さない……



声が聞こえた。
それは、潮に錆び付いた弦楽器のような、安定感のない耳障りな高音で。

『お前を……絶対に、許さない……

耳を塞ぎ、声の限りを叫んでかき消したくなるような。心の底から気味の悪い旋律だった。

でも、塞いだところで。叫んだところで。きっと無駄だってわかってた。

何故なら、水中で人の言葉なんて、聞こえるはずがないんだから。

『お前を絶対、許さない……

憎悪で塗りたくられたような、絶望的な言葉の響き。

私は、水中で聞こえるはずのないその声が。
女のひとの薄い笑みに歪んだ口から漏れたものだと気が付いたとき。

おじさんは”これ”に許しを乞いたくてここまできたんだって、ようやく理解したんだ。

そして、どうやらその許しが、得られなかったんだということも……。

143: 2016/12/30(金) 23:00:12.64 ID:84x9OhzYa.net
ボートに上がってからも。おじさんは装備も降ろさずに、ずっと似通った言葉をうわごとのように呟き続けていた。

ごめんな……。
すまなかった……。
ゆるしてくれ……。
ぜんぶ僕が、わるかったから……。

水中で、気が付くと女のひとは消えてなくなっていた。

”居なくなっていた”じゃないのは、私がそう感じたからで。
決して言い間違いじゃない。

とにかく、こちらも比喩じゃなくてその場から力なく沈んでいってしまうおじさんを引っ張って。
私はくたくたになりながらもなんとかボートまで戻ってこれた。

おじさんが全然泳いでくれなくて、このままじゃ危なかったから。
ウエイトを外して水中で捨ててきちゃったのは仕方のないことだけど……。
海のことを思うと、少しだけ胸が痛む。

一度は消えた女のひとが、今度は水面に現れてずっと追いかけてくるような、不気味な想像に取り付かれながらも。
何とか私はボートを走らせた。

目の前に見えてきた、夜の闇に小さくいくつか浮かぶ淡島からの光に気が付いたとき。

私は古い例えに聞いたことのある、夜の海っていう氏者の世界から。
生ある者の居場所に戻ってこれたような。
そんな気がして。

こっそり、涙ぐんだのを忘れない。

144: 2016/12/30(金) 23:01:34.62 ID:84x9OhzYa.net
果南「……って言う話なんだけど

曜「果南ちゃん……これは、ヘビーすぎるんじゃ……

ルビィ「夜の海……ただでさえ怖いのに、もうぜったい泳げないよぅ……

果南「もーう、大袈裟だなぁみんな

梨子「え?おじさんどうなったの……?まさか……それが果南ちゃんが見た最後の姿だった……とか……

果南「ないない!ないよそんなこと!
 それからは憑き物が落ちたみたいに前までのおじさんに戻って、今でもときどきウチのショップを利用してくれてるよっ

善子「そう……(ぼそっ)良かった……

ダイヤ「と言いますか……よくそんな体験しておいて、また海に潜れますわね……

果南「うーん……ダイビング、好きだからなぁ……別にそのポイントで泳ぐわけじゃないんだし

鞠莉「果南はやっぱりダイビングストゥーピッドね。略してダイスピ!

果南「いや、それ意味わかんないよ……鞠莉……

千歌「……ダイスピ、と大好き、を掛けてるってこと……?

鞠莉「オー……チカ!ナイスセンス!ユアービッグコメディアン!!

千歌「えへへ~

梨子「逆にこの辺は気にしなさ過ぎ……

 

・松浦果南
『ナイトダイビングの話』 おしまい


 

145: 2016/12/30(金) 23:30:13.59 ID:84x9OhzYa.net
 


果南ちゃんのお話で……みんな、全然気にしてないみたいだけど……。



146: 2016/12/30(金) 23:31:22.67 ID:84x9OhzYa.net
”憑き物が落ちたみたいに前までのおじさんに戻って”……って……。
それって、どういうこと……?

だって、おじさんは……女のひとに会いたくておかしくなっちゃって……。
やっと会えたその女のひとに、許してもらえなかったんじゃないの……?

帰りのボートで。壊れちゃったみたいにずっと謝り続けてたのは、どうして……?

どうしたらそんなことがあったあとに、何事もなく日常に戻って……またダイビングを興じれるようになるの?

”海に入ったら、僕に好きにしていい時間をくれないかな”

おじさんが言ったっていうこの言葉が、気になって仕方なかった。

果南ちゃんが思わず止めるようなことを、おじさんはしようとしてたってことじゃないの……?

そして、それは結局。

しなかったのか。
できなかったのか。
する必要がなかったのか。
あるいは気付かれずにしていたのか。

147: 2016/12/30(金) 23:33:08.55 ID:84x9OhzYa.net
……。

おじさんは、海からボートまで果南ちゃんに引き上げられた。

でも、それに関して暴れたり拒んだり。果南ちゃんに反発するようなことはなかった。

女のひとの言葉に消沈していたからともとれるけど……。
そうじゃなくて。もうその場にいる必要がなくなったって風には、考えられない?

必要がなくなったのは、したかったことが済んだから。

おじさんがしたこと。

おじさんだけがしたこと。

果南ちゃんは、見てるだけだった。

でも、おじさんは……?

おじさんは……。

女のひとに、許しを乞うた。

……でも。

”許しを乞うた”ことにこだわっては、だめな気がする。

だって、おじさんは”許されなかった”んだから。

許してもらえる可能性が僅かでもあったのか。
それとも最初から許されることは絶対になかったのか。

とにかく。

女のひとは許さなかった。

でも、おじさんは日常に戻れた。

この図式を見ても、因果関係が全然見えてこない。
つまりそれは、このふたつは等号で結べない事柄ってことなんじゃない……?

”許しを乞う→許されない→日常に戻る”

では、ない。

どこかで、何かが抜け落ちてる。

でも、わかりかけてる。
喉もとまで出掛かっている。

それはきっと、果南ちゃんの話で。その抜け落ちた部分も、きちんと語られているから。

148: 2016/12/30(金) 23:34:19.06 ID:84x9OhzYa.net
他に……他に、海でおじさんがしたこと。

ひとつだけある。

女のひとを、ハグ────抱きしめようとした。

でも、それは果南ちゃんの主観。

おじさんの背中に隠れてしまって。
おじさんが何をしたのかは、結局おじさんにしかわからない。

……。

思考が進まない。

おじさんのことだけを考えていては、たどり着けないのかも知れない。

考える余地があるのかわからない。
でも、”女のひと”のことも、考えてみなくちゃ……。

そんな気がする……。

 

女のひと。

女のひとは、いつの間にか消えていたってことだけど。

女のひとが現れたのは、確かに意識の外からで、急にだったかもしれない。
だから、消えたのも気が付いたらっていう理屈は……通らなくはない。

でも、女のひとを見つけたときと、消えたときとでは。

────そうだ。

違い。違いがある。

ふたつの、決定的な違いが……。

149: 2016/12/30(金) 23:35:39.47 ID:84x9OhzYa.net
ひとつは、見つけたときは2人は移動していたのに。
消えたときはその場に留まっていたこと。

突然現れたように見えても、そこは強力な水中ライトの光も減衰してしまう、暗い夜の海の中……。

女のひとは急に現れたんじゃなくて、”ずっとそこにいた”のかもしれない。

だって、おじさんはそのポイントにたどり着きたくて、果南ちゃんにガイドをお願いしたんだから。

果南ちゃんは女のひとを見て、悲鳴を上げた。
突然海の中に、居るはずのない不気味な存在が現れたんだから。しょうがないことだと思うし、それが普通だよね。

でも、おじさんは肩を震わすぐらいで。他に何か大きな反応をすることはなかった。

何故なら……。
おじさんは、女のひとに必ず会えるって、知っていたから。

つまり、おじさんにとって。
そこにいけば女のひとが居るってことは、当たり前のことだったんじゃ……ないかな……。

じゃあ、なんで、消えてしまったの?

なんで、”どこかに行ってしまった”り、”居なくなってしまった”じゃ、だめだったの?

わざわざ果南ちゃんが”居なくなった”じゃなくて、”消えてなくなった”って言葉を使ったのは……果南ちゃんがそう感じたからだけじゃなくて。

本当に、そうだったから……。

もうひとつの決定的な違い。

それは、おじさんが行動したことで、女のひとが消えたこと。

逆に……だけど。
女のひとを見つけたときに、おじさんは何かしたの?

ううん。
果南ちゃんが特別語る必要がないくらい。
ただ2人は……おじさんは、泳いでいただけ。

でも、おじさんが”それ”をしたから、女のひとは消えた……。

150: 2016/12/30(金) 23:39:17.24 ID:84x9OhzYa.net
これが、ふたつの決定的な違い。

ひとつは。
見つけたときは移動してたのに、消えたときは止まっていたこと。

もうひとつは。
見つけたときは何もしなかったのに、消えたときは何かをしたこと。

おじさんが何をしたかは、さっき考えた。

”許しを乞う”ことじゃない。

それは”許されない”に繋がるだけで、そこからはどこにもたどり着けないから。

大切なのは、きっともうひとつの方。

女のひとを、抱きしめるような動きをしたこと。

おじさんがそうしようとして。
そのあとは、最後に女のひとが笑ったように見えただけで。
果南ちゃんには氏角になって、どうなったかは見えていない。

抱きしめるような動き。

……どこを、抱きしめようとしたの……?

151: 2016/12/30(金) 23:39:58.72 ID:84x9OhzYa.net
 


────女のひとの顔を間もなく胸に────


 

152: 2016/12/30(金) 23:40:32.54 ID:84x9OhzYa.net
逆さまになった女のひと。
顔のすぐ上には、首がある。

抱きしめるように、胸に顔を迎え入れようとして。



おじさんは、女の人の首を絞めた。



謝りながら。
許さないと罵られながら。
女のひとが消えるまで。

女のひとを……もう一度、■すまで───

153: 2016/12/30(金) 23:41:29.90 ID:84x9OhzYa.net
もう、考えたくないずら……。

怖い……。
マルは、怖い。

果南ちゃんの話が怖い。
夜の海中に現れた、逆さまの女のひとじゃなくて。

それよりも、おじさんが一番怖い。

果南ちゃんがその夜、淡島に浮かぶ光を見て涙ぐんだって言う、生ある者の居場所の方が。

オラにとっては……何より怖い……。

154: 2016/12/30(金) 23:42:29.26 ID:84x9OhzYa.net
”許しを乞『いながら首を絞める』→許されない(織り込み済み)→女のひとを『消す』→日常に戻る”

これが答え。

抜け落ちていたのはおじさんの■意と。
女のひとの、二度目の■……。

155: 2016/12/30(金) 23:46:11.15 ID:84x9OhzYa.net
おじさんと一緒に現れた果南ちゃん。

自分を見て悲鳴を上げた女の子。
自分の存在を知らない人。

力を振り絞って、その場に繋ぎ止めた。

 

────まるで金縛りにあったみたいに────



逃げてしまわないように。
でも、沈んでいなくなってもしまわないように。

伝えたかった。見て欲しかった。

これから自分を害する。あるいは過去にも同様にそうした、人間の悪意を。

暴力で奪われ断たれた、自分の未来と、その無念を。

怨む思いが強すぎて。考えてもみなかった突然の救いの存在に、うまくすがれなかったけど。

叶うなら。女のひとはきっと、こう言いたかったのかもしれない。

”許さない”という、呪いの言葉ではなく。

それは、切なる願いの言葉。



      ”たすけて”



・国木田花丸
『ナイトダイビングの話(異聞)』 おしまい


 

166: 2016/12/31(土) 20:51:26.14 ID:OBG71OEid.net
 


ダイヤ「我が黒澤家はご存じの通り、沼津市一帯の漁港を統べる網元ですわ



167: 2016/12/31(土) 20:52:53.00 ID:OBG71OEid.net
その黒澤家ですが、私(わたくし)たち姉妹からそれとなく知れることかもわかりませんが、代々女系がちで。
近辺の網元の次男坊や、子飼いの有力な網子から婿(むこ)を取ることが習わしとなっているの。

婿たちは女中心の嫁ぎ先で、やはり気苦労が多いのかしら。
揃って短命で、おじいさまも私が物心つく頃には既に他界されていたわ。

お父さまだって。今でこそ当主然と振る舞われ、多くの分野で黒澤の名に相応しい辣腕をふるっていますが。
それは裏に真性の黒澤の血を持つお母さまの取り計らいと、なによりおばあさまからもたらされた威光があったればこそのご活躍なのですわ。

そう、おばあさま……。

168: 2016/12/31(土) 20:53:26.05 ID:OBG71OEid.net
私は、おばあさまが大好きだった。

お稽古事の合間を縫ってこっそり通った隠居所で。
私やルビィを膝に乗せ、おとぎ話のような在りし日の黒澤家の活躍譚を。まだ幼い私たちにもわかりやすい言葉でゆったりとお話してくれた、麗らかなその縁側が。
今でもありありと瞳の裏に思い起こせる。

戦後の動乱期。
男の少なくなった沼津の海を、僅かな年寄りと若い女性たちだけで守りきったその手腕を指して。網子たちに留まらず、家の者にすら敬して遠ざけられ。
亡き今もなお”黒澤権現(ごんげん)”などと渾名されている、大傑物。

でも、私にとっておばあさまは。
お日さまの匂いのする胸で孫を優しく抱き留め。とびきりおいしいお菓子をひと摘まみ、みんなには内緒だよと手のひらに握らせたあと、いつも楽しいお話を聞かせてくれる……。
そんな、掛け替えのない大切な……家族だったの。

169: 2016/12/31(土) 20:54:24.17 ID:OBG71OEid.net
そのおばあさまが亡くなられたのは、私が中学に上がってしばらく経った、ある冬の朝のことでしたわ。

物事の分別が身になりだしてから、初めて経験する身内の氏。

大変な悲しみだった。
短くない間。何をやってもおばあさまの喪失感へと繋がり、それから先へとまったく手がつかないほどに。

でも、いつまでもそうしている訳にはいきませんわ。
私以上に感情を隠さず涙に暮れるルビィへ対する姉としての体面もありましたが。
それ以外にもうひとつ、大きな理由があったのです。

告別式までは、お母さまが取り仕切って下さった。
だけど、隠居の四十九日の法要は次代の黒澤家当主が、つまり私が。
名代として、顔見せも兼ねた喪主役を受け持つのが、かねてよりの決まりだったの。

当時私はまだ中学二年とは言え、歴史ある黒澤の家の冠婚葬祭。それを言い訳にしてゆるがせにするなど、できるはずもありません。

いいえ、大好きだったおばあさまの大切な法要をそのようにするつもりなど、そも私にはさらさらありませんでした。

必ず、立派に勤めてみせる。

それが、おばあさまに対しての、私からできる精一杯のはなむけになると。そう信じたから。

170: 2016/12/31(土) 20:55:39.81 ID:OBG71OEid.net
四十九日を間近に控えたある日。

参列者への連絡も既に済み、お母さまから喪主としての作法の手ほどきを概ね受け終え。
あとは式場の拵えを詰めるのみとなっていた私は、隠居所でその週末を過ごしていました。

おばあさまを喪った悲しみの区切りを付けるには、やはり故人との思い出に溢れたこここそが相応しいと思い。私は隠居所を法要の式場とすることにしたのですわ。

黒澤の家から山よりに歩いて10分と経たない位置にあるその屋敷は、隠居所とは言え、本宅とも引けを取らない広大な敷地を有していて。
枯れた古い井戸や小さな築山、果ては四阿(あずまや)といった庭園の要素もそこばく散り。その中心に構えられた平屋も、隠居した老人と数名の家事手伝いが寝食を送るには十分すぎる間取りを抱えていました。

そんな主(あるじ)を失った隠居所で。
私は休みなく手伝いたちへ指示を出し、ときにはこの手も加えながら。日のあるうちに間もなく迫った式のための模様替えを、すべて済ませてしまいました。

丸一日頑張ってくれた手伝いたちをねぎらい、昼過ぎより進捗を確認しにいらしていたお母さまに続けて、その全員を帰すころには。
ちょうど冬の日も暮れようとしていたかしら。

171: 2016/12/31(土) 20:56:12.94 ID:OBG71OEid.net
そうして、急ぐように法要の準備を推し進めた裏には。こんな心算が私の胸の奥で疼いていたのです。

私はひとり、おばあさまの面影の色濃く残るこの場所で。
誰にも邪魔されず、最後に一晩だけ。もう一度その優しい日々を、静かに偲んで過ごしたかった。

四十九日という悲しみの区切りを前に、やはり私も幼かったのでしょうね。
そんな、子供じみた浅いわがままを、密かに通そうとしていたの。

お母さまも、このような私の企みはすべて見通した上で。
何も言わずに、『隠居所の空気に慣れておきたい』などという苦しい私の申し出を承知し。
ひとりでその夜を明かすことを許してくれたのだと……そう思いましたわ。

172: 2016/12/31(土) 20:57:28.67 ID:OBG71OEid.net
おばあさまが好んで籠もり、日がな一日書を読み文をしたためたと伝え聞いていた書斎に、そっと足を踏み入れる。

伝え聞いていたというのは、理由があります。

私たちが隠居所を訪れたと知れると。おばあさまはそこですっぱりと読み書きを止め、孫を迎えるため書斎から出てこられてしまい。
私はそのときの様子を、一度として見たことがなかったの。

隠居所における家事手伝いの中の一番の古株が。今日、私の手を取り声を振るわせながらそのことを教えてくれたのを思い出しながら。
私は”黒澤権現”などと隠れて呼んでいたのは、そう言えばおばあさまのことを深く知らない遠い縁者や子飼いの者たちばかりだったことに気が付く。

なんて事はない。

おばあさまの優しさを知っていたのは、私とルビィだけじゃなかった。
その人となりに触れた者のそれぞれの心に、ちゃんと。おばあさまの本当のお姿が、息づいていたのね。

173: 2016/12/31(土) 20:58:13.33 ID:OBG71OEid.net
書棚に並ぶ書物の背表紙ひとつひとつを撫でてから、そっと文机に腰を下ろす。
文机の隅には、おばあさまが愛用されていたと思しき文房四宝が。寸分の狂いもなく美しく整えられ、まとめられていた。

私の知らない。だけどきっとため息の漏れそうな量の知識と筆の腕を備えたおばあさまの横顔が、目の前に浮かんでくるようでしたわ。

こんなおばあさまとも、共に時間を過ごしてみたかった。

知らず知らずのうちに、うっすらと浮かんだ涙で視界が微かに滲んでいました。

それから、しばらくそうした後。
少し冷えてきた私は、今夜はこの部屋で床を構えるのも悪くないと思いながら。
法要の準備でかいた昼の汗を流しゆったりと暖まるため、予め湯を張っておいた湯殿を目指そうと書斎の扉へ振り向いた。

そのときでしたわ。

冬のそれとは違う寒気を感じ、足が止まってしまったのは。

私の背後で。

 

書斎の扉が、廊下の方へ大きく開け放たれていたから。


 

174: 2016/12/31(土) 20:59:49.44 ID:OBG71OEid.net
書斎に限らず、隠居所の端にあるような小さな部屋は。あるときを境にすべて障子や襖などの引き戸から、特殊な機能を備えた開き戸に変えられていました。

おばあさまの視力がとても弱くなりだしたのは、亡くなられる一年半ほど前。

目の悪くなってからのおばあさまは、引き戸によく足先をぶつけられ。
そのたびに敷居から引き戸を外してしまったり、あるいはぶつけた足指を痛めるようなことが頻繁にあったようです。

おばあさまはその不便をついぞ口に出すことはありませんでしたが。手伝いたちからそういった報告を多く受けるようになったお母さまが、お父さまへと口利きし。
やがて腕の良い大工が呼ばれると、茶の間や客間といった、襖を取り払い大人数を招くことのできる造りの座敷を除いた、小さな部屋の扉は。あっという間に引き戸から開き戸へと、すべて置き換えられてしまいました。

開き戸は奥と手前、どちらにも開く風変わりな構造になっていて。
取っ手はついているものの、手元で操作しておくことで、それを介さずに戸のどこかを軽く押すだけで開くことのできる設定が可能という。おばあさまの現状に良くかなった代物でした。

そして。
扉は開いたままの状態で放置されると。

自動的に閉まる機能を有していたはずなのです。

175: 2016/12/31(土) 21:00:35.36 ID:OBG71OEid.net
その扉が。

厳粛な心持ちでこの書斎へと臨んだ私が、振り向いて確実に閉めたはずの扉が。
開いている。

それも。僅かに閉まりきらなかったと言うのなら、まだ機能の不調と考えることができるというのに。
完全に開け放たれる形で。

いつの間にか、震えが起こっていました。
寒い。こんなに扉が開いて。
どうりで冷えるはずですわ。

……いいえ。これは……違う。

足が、前に出ない。

戸を閉めなければ。
あるいは、この部屋から出てしまっても構わない。
とにかく、じっとしている必要はない。
寒いなら、なにか行動すればいい。

でも、できませんでしたわ。

……怖かったの。

開いたままの扉から覗く、廊下のほの暗さが。

壁によって覆い隠された、扉の枠より外の隔たりが。

暗がりから冬の冷気に乗り静かに部屋に流れ込んでくる。
ありもしないはずの、誰かの息遣いが。

176: 2016/12/31(土) 21:02:40.47 ID:OBG71OEid.net
ぱん!

両手で挟むように頬をはたき、怖じ気た自分に喝を入れる。

いい加減な妄想にとらわれるのは、止めにしなければ。
しっかりするのよ。
私は黒澤ダイヤ。次期黒澤家当主。そして、おばあさまの孫娘。

そうとも。あの、おばあさまの────

この屋敷のかつての主(あるじ)を心に思い浮かべた瞬間。凍り付いたように動かなかった足が自然と前に出ていました。

ここは、おばあさまの城。
時代の荒波をあるいはしのぎ、あるいは捌き、あるいは巧みに乗りこなし。
この地の多くの人間へと幸いをもたらした英傑の最後に授けられた。ささやかでつましい安息の地。

その場所に、心が安らうことはあれど。いったいなにを恐れることがあったというのでしょうか。

177: 2016/12/31(土) 21:04:22.96 ID:OBG71OEid.net
心が落ち着き、冷静に思考の手綱を握れるようになってくる。

例えば、そう。

扉は、設定により普通の開き戸と遜色ない働きをすることもまたできたはず。

おばあさまが亡くなられてからすでにひと月余り。
その間も手伝いたちを週に一度はここへと寄越し、管理を滞らせることはなかった。

清掃する上で勝手に閉まっては手間となるそれらの扉を、そのままにしておく理由はもうないのです。

彼女たちが効率を優先し扉の設定を弄り、そのまま直すことを忘れていたとして。
私はその程度のことに勘気を振るうほど、心を貧しくしたつもりはありませんでしたわ。

そうして。
特殊な構造ゆえに。きちんと閉めたつもりでも具合が整わず、戸が閉まりきらないこともあるでしょう。
寒暖差から生じた空気の流れに。閉まりきらなかったその扉が、大きく開くこともあるでしょう。

それに、仮にそうではなかったとして……。

私はもう一つ。
可能性と言う名の非現実的な、とある空想に思考を遊ばせながら。
体の芯から静かに寄せる穏やかで優しい波が、得体の知れない寒さに凍えかけた身体を、また少し暖かくするのを感じていたの。

178: 2016/12/31(土) 21:05:08.98 ID:OBG71OEid.net
私は先ほど。開いた扉の奥に、正体の分からない何者かの漏らした幻の吐息を見出し怯えました。

ですが、怯える必要など。恐れる必要など、なかったのです。

先ほど思考でなぞったように、この屋敷が誰の城だったかを思い出す。
この部屋で誰が多くの書と戯れていたのかを────私は知っている。

「おばあさま……

知らず、その名を呼んでいました。

亡くなられたはずのおばあさま。
その、おばあさまが。隠居所を懐かしみ、あるいは私がきちんとやっているかを気になさり。
”戻って”いらっしゃった……。

そんな温もりに満ちた空想に身を委ねるだけで。私はどんな極寒や恐怖にさらされたとしても、前を見据え歩んでいける気がしていましたわ。

現実がなんであれ、構わない。
今日、この場所で。私にこのような優しい幻をもたらしてくれたという、その事実が。
隠居所で夜を明かそうと考えた、私のすべての祈りを肯定してくれているように思えて。
ただただ、嬉しかったの。

179: 2016/12/31(土) 21:05:47.84 ID:OBG71OEid.net
扉の前に立ち、取っ手を握る。

大した力をかけずとも、軽い腕の動きに従って戸は閉まっていきました。

すぐに部屋を出ようとしなかったのは、優しい幻へと遭遇したこの部屋で。
無意識にまだもうしばらくここへと残り、余韻を楽しみたいと思ったからなのかも知れません。

ゆっくりと、音もなく閉まる戸。
書斎からの光がだんだんと絞られ、照明の落とされた廊下の闇が徐々に深くなっていく。

闇。
闇が、増えていく。



────『闇が、増えてしまったよ



180: 2016/12/31(土) 21:07:03.19 ID:OBG71OEid.net
突如、思考が弾けましたわ。

それは、おばあさまの言葉。

改装を終えた隠居所に戻ったその日。
隣で手を引き新しい間取りと扉の仕組みを案内する私の横で、かすかなため息に乗せ誰に宛てるでもなく静かにそう零していたのが耳に蘇る。

目を弱くし、心酔されていた書の手遊びにも支障を来すばかりでなく。
日々の生活にすら看過できない不都合が生じ。
その不都合を、ほとんど頭越しの改装で取り除かれ。
果てには住み慣れた伝統と格式ある屋敷の姿は、大きく変わることになった。

私はこの瞬間まで、その言葉はそんな流れの中で募ったおばあさまの憤懣が、似合わなくも小さな形となって溢れたものだと思っていました。

ですが、それはただ事実を述べた言葉だったと。たった今、気が付いたのです。

181: 2016/12/31(土) 21:08:30.42 ID:OBG71OEid.net
引き戸から開き戸への改装。

障子や襖は二枚一対が基本でも、開き戸は一枚で事足りる。

必然、扉に必要な面積は減り。代わりに壁の面積が増えた。
壁の面積が増えれば、屋敷の中で見通せない部分が増える。
見通せない部分が増えれば……。

そう、『闇が増えた』のです。

そして。
その『闇』とは。単純に目や光の届き辛い箇所だけを指した言葉だったのでしょうか。

…………。

答えは、否ですわ。

閉まりかかった扉の取っ手に添えられた私の手。

扉と壁に挟まれ、僅かに覗く廊下の『闇』の中から。

 

その手首を掴もうとするしわくちゃの手が伸びてくるのを、私は見たのです。


 

182: 2016/12/31(土) 21:09:52.11 ID:OBG71OEid.net
全身が一瞬で粟立ち、扉の取っ手から大きく飛び退く。

間一髪、その手に掴まれずに済んだ手首で。微かな空気の層をかすめた産毛が、そよぐこともなく凍り付くように総毛立ち。
遅れて身体の奥より響いてきた激しい動悸が、再び私から整然とした思考を奪っていきました。

(え────なに────こわい────つめたい────さむい────おそろしい────

紛糾する雑多な平行思考に妨害されながらも。私はチカチカと出力の一定しない頭で、なんとかあるひとつのことだけを確認していました。

”おばあさまの手”は、
あんなに大きくも。
痩せていても。
骨が浮いても
────そして、蟲のように細長くもない。

それに何より。

その指は、6本もあるはずはなかったのです。

183: 2016/12/31(土) 21:11:10.26 ID:OBG71OEid.net
闇は。

闇に潜むものは、おばあさまなどでは決してない。

『くれぐれも、気をつけるのですよ

隠居所を後にする際に呟いた、お母さまの言葉。
そのときは深く考えずに当たり障りない返答で聞き流してしまったそれは、いったい何に対しての警告だったのでしょうか。

『お嬢さま……老婆心ではありますが、ご無理だけはなさらぬよう、ご自愛いただきたく存じます

いやにかしこまった、手伝い頭の辞去の句。
短くない付き合いの中で、ここまで丁寧な挨拶をされたのは今日が初めてでした。

当主見習いとして表舞台に立とうとしている私を気遣ったものともとれますが、私はそのように思い詰めた表情をさらしていたつもりはありませんし。
これより隠居所で過ごす時間を思って、むしろその顔は穏やかですらあった気がしますわ。

手伝い頭は、なにを思いその言葉を辞去の句としたのでしょうか。

『ダイヤは、闇が怖いかい……?

斜陽に濡れる縁側で。私に手を引かれたおばあさまが、間もなく降りてくる夜のとばりを。もう余り見えなくなった瞳で、睨(にら)みながらひとりごとのように囁いた言葉。

あの日の私は、なんと答えたのかしら。

ただ、それに続くおばあさまの穏やかな声と。私の手を握るその指に優しく、だけどしっかりと力が籠もったことだけは。今でも忘れ得ないのです。

『そうだね……おばあちゃんもダイヤといっしょなら、きっと怖くないよ……

184: 2016/12/31(土) 21:14:00.58 ID:OBG71OEid.net
おばあさまは、闇を恐れていた。
そしてその闇は、常にこの隠居所の隅に、暗がりに。わだかまっていた。

目が弱ったからなのか。それとも体の変調の兆しがまず目だったのか。
とにかく。目を悪くし、隠居所へ改装が施されてから一年と間を置かず。おばあさまはこの世を去った。

大層な宿痾を抱えていたという事実はありません。
ただ老衰と、お医者さまは看られました。

視力が弱まり、趣味のひとつを失われたとて。
あんなに矍鑠(かくしゃく)としたおばあさまが。
あの、強い意志と自己を持たれたおばあさまが。
ただそれだけが原因のように弱り、衰え、そして亡くなられるなど。
私には到底、信じることができませんでした。



おばあさまを害した存在が、目の前にある。

 

気付いたときには、私はそう確信していました。

あの、手が。闇が。
闇に潜むなにかが。
おばあさまを苦しめたのだと。

185: 2016/12/31(土) 21:16:02.03 ID:OBG71OEid.net
隠居所は、いつから存在したのでしょう。
それこそ黒澤の家が興り、富をなした頃とそう変わらない時期からここに構えられていたと、おばあさまのお話に聞いたことがある。

それでは、あの『闇』は?

今日まで存在すら知らなかったそれの起源に、心得などあるはずもありませんでした。

だけど。

四十九日の準備を進める中で、私はあることが気になって仕方がなかったことを思い出す。

それは、作法の理解の肥やしにしなさいとお母さまから手渡された、黒澤家の慶弔史の中に見つけたものでした。

代々当主から当主へと引き継がれてきた数冊の冊子には、黒澤の名の下に興された催事が日付や主たる参加者といった細やかな内容まで、びっしりと記録されていたのですが。
そんな詳細な記録にあって、本来ならよく耳にするはずの祝い事が全くと言って良いほど抜け落ちていたのです。

黒澤が女系の家であり、迎えた婿が短命であるのは先に話した通りです。
ですがそれにしても、何代にも渡りその祝い事が全く行われていないのは。異質なほどに不可解なものでした。

…………。

慶弔史には、黒澤の家で喜寿の祝いが催されたという過去が。ただの一度として、記録されていなかったのですわ。

186: 2016/12/31(土) 21:17:11.21 ID:OBG71OEid.net
”喜”という字の草書体が、”七十七”に見えることに由来する長寿の祝いのひとつ。

数えで61をことほぐ還暦の祝いは、当然婿のものですら幾度も行われた記録があり。
70の古稀にあっても、隠居したかつての女当主のものであれば珍しくない祝い事として記されています。

ですが、77の長寿祝いである喜寿が行われたという描写は。慶弔史を一読する中で、まったく見つけることができなかったのです。

私にまだ知らされていないだけで、黒澤家には喜寿だけを行わない特別な事情があるのかとも考え。すぐ次の80の祝いである傘寿が催された記録を求め、更に慶弔史をもう一読してみても。
やはりそれ以降の長寿祝いが行われた記録は、一切認められませんでした。

黒澤家は古稀を最後に長寿祝いをしないのだろうと、そう勝手に結論付けたあの日の私が。
膨大な慶弔史のうちの、かつて執り行われてきた葬儀の記録の中で。その享年をそれぞれ記憶に定着するほどしっかりと確認しなかったのは迂闊だったのか、それとも幸運だったのか……。

ですが、その不可解の正体も、今なら理解できる。
長寿祝いに関して、黒澤家は喜寿以降のものを行わないような特別な事情があるわけでもなんでもない。もっと単純なこと。

それは、黒澤家の人間には誰一人として77歳を迎えた者がいないという。ただそれだけの理由だったのです。

187: 2016/12/31(土) 21:18:24.09 ID:OBG71OEid.net
連綿と続く黒澤の歴史をひもとけば、折々に多様な試練や苦難があったことは想像にかたくありません。

そして、その中で関わったすべての人間が、黒澤の名に対して良い感情持つということは、残念ながらありえないことですわ。

ときには大小の摩擦が生じ、係争に発展するのもやむを得なかったこともあったでしょう。
ですが黒澤はそのたびに勝利し、敗れた者の上に更なる発展を重ねてきました。

あの闇は。
何十年、何百年。繰り返され、そして堆積したそれらの人々の負の感情が膿み腐り、形となったものなのか。
それとも、その中のたったひとつの敗者が強烈に黒澤を呪った結果なのか。

とにかく。黒澤の人間は、その存在に蝕まれ。喜寿を迎えられない一族となっていたのです。

188: 2016/12/31(土) 21:19:10.18 ID:OBG71OEid.net
おばあさまはもちろん。
長くここで過ごした手伝い頭も、そして現在の黒澤の家を掌握するお母さまも。その存在に遠からず理解があった。

だから2人は、警告していた。

そして……お母さまは……。

隠居所で夜を明かしたいと申し出たとき、お母さまの瞳に浮かぶ逡巡の色を見ました。

あれは、いつまでも身内の氏にとらわれる次期黒澤家当主としての私の心の弱さを認めるかどうか、懊悩していたのではなく。
私が建前で上げた”隠居所の空気に慣れる”という言葉に動揺し、惑い。
それでも。私にも自らのその目で隠居所に潜む闇を見極めるときがきたと考え、試練を与えると決めた。そういう目だったのだと。
そのとき、私は思い至ったのです。

黒澤の家に生まれた女であれば、決して避けて通ることのできない。
あの、闇との邂逅という……長く辛い試練を……。

189: 2016/12/31(土) 21:20:33.20 ID:OBG71OEid.net
手は扉の奥へと消え、閉まりきった開き戸に今はなんの動きも見られない。

それでも私は再び震えが起こり、止まらなくなっていました。

あれは、あのおばあさますら蝕み害をなした。恐ろしく、そして底の知れない闇。
そんなものに立ち向かえるはずがないと、そう思ってしまったのです。

絶望と怯懦にかられ、涙が溢れてくる。
おばあさまはいったい何年……いや、何十年……これと向き合い続けてきたと言うのでしょう。

足と、腰の力が抜け。書斎の中央で無様に座り込んでしまった。
座り込んだまま。もう私は一歩たりとも”ここ”から動けなくなってしまったことを、頭の片隅で静かに受け入れている自分がいました。

私は遠い未来。だけど、確実に訪れるいつか。
おばあさまややがて隠居するお母さまに続き。”ここ”であれに魅入られ、取り殺される。

状況と記録から敷衍しただけの、根拠のない確信。

でもそれは、どんな高名な占い師から告げられる神託よりも確かな深い絶望と悲しみを、私にもたらしていました。

あの闇を見た私にしか。
黒澤の女にしかわからない、冷たい予感と緩やかな諦観を。それはまとっていたから……。

190: 2016/12/31(土) 21:21:46.49 ID:OBG71OEid.net
愛すべき肉親へ仇なした存在があり、やがてそれが自分へも牙を剥くことを悟る。

二つの甚大な事実にさらされ、私は隠居所という『闇』の胃袋の底で。
ただ力なくくずおれることしかできませんでした。

そんな、時間の把握すら手離した放心の中。
僅かでも闇と接触した因果か、氏人も同然の感覚の空白に見舞われていた私の耳に。
いつから響いていたのか。かすかな……声が聞こえることに気が付きました。

最初は、また私の弱い心が放埒にも仕立て上げた幻なのかとも思いましたわ。
だってそれは、先ほどと寸分違わぬ芸のない像を、私の感覚に結んでいたのですから。

だけどその幻は、空虚に鈍麻した私に根気強く。幾度も形を持って現れては、繰り返し同じ残響を私の耳に与えていきました。

すなわち。おばあさまの声で。

────「ダイヤ

────「ダイヤ

────「ダイヤ……

私の名を呼ぶ声が、聞こえていたのです。

191: 2016/12/31(土) 21:23:29.99 ID:OBG71OEid.net
丸まっていた背筋に芯が通う。
目が光をとらえ、皮膚は冷え切った体温を噛みしめることを思い出す。

(私は、なにを……

(それに、これはいったい……?

蘇った五感と思考を持て余すように、現状を飲み込むのに時間がかかりました。

そして、おばあさまの声が。
もう聞くことの叶わないと思っていたその声が。
あの扉の向こうから聞こえていることを理解した瞬間。

私は言葉にできない怖気を感じ、扉から一番遠い書斎の奥。
座布団を弾き飛ばし、文机の角に背をぶつけるまで後ずさっていました。

どん!

壁に文机がぶつかる音と打ち付けた背骨の痛みが、どこか自分に無関係のように霞んで頭に伝わってくるのは。
私の全神経が、扉の向こうへと注がれていたせいなのでしょう。

192: 2016/12/31(土) 21:25:04.83 ID:OBG71OEid.net
あれがおばあさまのはずではないということは、もう知っている。
あれがおばあさまをまね、私の名を呼んでいるのだ。

それはきっと、戯れに。
私がその正体を理解したのを見通した上で。
ただ私が怯える様を見て。闇の中に目を細め、愉(たの)しむために……。

私は、そう思いました。
事実あの『闇』には、単に無機質ではない。そういう屈託のない残酷さを持っているように感じていたからです。

────「ダイヤ……

悔しさに、更に涙が滲むのを止められませんでした。
おばあさまを冒涜するような行いに。不条理な自分の運命を突きつけられた際にも感じることの無かった怒りすら、ふつふつと湧いてくるようでした。

────「ダイ、ヤ……

こんなに悔しいのに、こんなに許せないのに。
そんな感情たちに報いることもできない自分の不甲斐なさが何より情けなくて。いつしか嗚咽が止めどなく私の喉から溢れていました。

193: 2016/12/31(土) 21:25:48.11 ID:OBG71OEid.net
 


────「ダイヤ……怖い、のかい……?



194: 2016/12/31(土) 21:26:49.86 ID:OBG71OEid.net
そのとき、声が初めて私の名以外の言葉を紡いだのです。
私はその言葉の意味を理解しながら、更なる恐怖と憤りを感じるものだと思っていました。

ですが、私の胸に去来した感情はそのいずれでもなく。
暗い色ばかりに塗りつぶされたその場所に一筋の光を投げかける、それは暖かな温もりをもたらしたのです。

「おばあ、さま……?

すがるような声が私の口から漏れていました。

────「大……丈夫……

知っている。
これは、この安心は。
まねるだけでは決してなぞることはできない、日溜まりの縁側を想起させる響きは。

「おばあさま!

おばあさまだ。
間違いない。扉の向こうに、本物のおばあさまがいる!

195: 2016/12/31(土) 21:28:06.74 ID:OBG71OEid.net
……いいえ。

わかっていました。
扉の向こうにいるものは、『闇』なのだということは。

ですが、その声は。
声と、意志だけは。
おばあさまご自身のものであると、確信できたのです。

────「ダイヤ……大丈夫……

ああ、おばあさま……。

氏してなお『闇』にとらわれ、安息を与えられず。
それでもこうしてあらがい形をなし、私のために声を届けてくれている。

体を後ろから包み込む柔らかな感触と心地よい体温が。そのとき確かに背中へと蘇り、私を優しく抱きとめているようでした。

でもそれも、きっと長くは続かない。

────「大丈夫だよ……

────「げっげげっ……

強大な力に抑え込まれるように。
困憊した意志が目前でいざなう睡魔に蝕まれるように。
徐々にその声は、おばあさまのものからかけ離れていきました。

────「げ……しょだ……げげげげっ

────「書棚に……げ……見つけげげげっげげっげっ

 

げたげたげたげたげたげたげたげたげたげたげたげたげたげたげたげた



あとには、何の感情も感じさせないような不気味な笑い声だけが残り。
長い間、書斎だけでなく屋敷全体の壁を揺するように、反響し続けるだけでした。

196: 2016/12/31(土) 21:41:33.00 ID:OBG71OEid.net
おばあさまが自分の名に宛てた最後の言葉に従い、私は震える手で書棚に収められたら書物を端から改めていました。

そのほとんどが今の私には読むことも理解することも難しい、古い和漢の典籍でした。
日を違えていればあるいは読み解き、おばあさまの深遠なる才知を尋ねる道しるべとしたかった。

ですが、今優先されるべきことは別にあったのです。

やがて、表紙に千代紙をあしらった私家版のような装丁の一冊を手に取りました。
それは、おばあさまの万(よろず)覚え帳だったように思われましたわ。

そこには水茎の跡もうるわしい筆致で、あのおぞましい闇に関する冷徹な観察がつづられていたのです。

概ねは、私がこの夜に思い至ったことを裏付けする内容で占められていました。

短命の当主たちが織りなす黒澤の歴史。
その裏で暗がりに口を開け、一族の生き血をすすり続ける闇の存在。

ただ、おばあさまは私の幾層倍もの正確さでそれらの情報を理解し、解釈していらしたのでした。

例えば。黒澤の短命は過去と比すれば、問題にならないほど和らいでいること。

197: 2016/12/31(土) 21:42:48.38 ID:OBG71OEid.net
あらゆる網元の隆盛期、江戸の後期。

黒澤は頻繁に当主を夭逝させ、ときには末端の分家筋まで動員し体裁のやりくりを迫られていたそうです。

幸いにも当主は子を為すまでは存命であり、本家の血はそのような中でも途絶えることなく脈々と受け継がれてきました。

同時に、それらの子はどれも麒麟児とも言える才覚を有し。
短い生涯を終えるまでの僅かな間、黒澤に存分な益をもたらし、あるいはそれを守り抜いたのでした。

私が幼い縁側におばあさまへとねだった在りし日の黒澤の活躍譚は、ほとんどがこの頃に起こった出来事だったのだと思います。

とにかく、当時の黒澤は恐ろしいまでの短命に脅かされる血族でした。

転機が訪れたのは、嘉永七年の年の瀬。
西暦では1854年。ペリーが再び浦賀に来航し、開国を取り付けた頃と言えば……ふふ、鞠莉さんや千歌さんにも、ぴんときていただけるでしょうか。

……ある災害が、駿河湾を中心とした町々を襲ったのです。

198: 2016/12/31(土) 21:43:25.49 ID:OBG71OEid.net
それは、現代の日本が抱える最大の憂慮のひとつ。南海トラフ巨大地震が、ここ沼津に最後の爪痕を残したものであり。
名を、安政の大震災といいます。

安政東海地震とも呼ばれるそれは。煙草を四、五本。たっぷりと喫(の)み終えるほどの初期微動を経て。
その揺れを倒れ伏した体が更に振るい上げられるほど大きなものへと変貌させると、この沼津の町並みを瞬く間に飲み込み破壊の限りを尽くしたのでした。

震源からやや距離を置いたとは言え、石高も小さく人のそう多くはない沼津藩においてさえ。2000に届く家屋が潰れ、亡くなられた方は伝わっているだけでも50にも昇ったと記録されています。

幸運なことに人氏には出さなかったものの、当然黒澤の屋敷にも被害が及びました。
修繕不可能な箇所も多く、後に折を見て大規模な改築が施されたとありました。
それは、再建と同義のものだったのでしょう。

そして、被害は屋敷だけには収まりません。
陸(おか)と海。二つの社会を両輪とする網元にとって、この震災は非常に大きな痛手が生じる出来事となったのでした。

ですが。
その頃からだったそうです。

黒澤の当主たちが、隠居のことを考えられるようになったのは。

199: 2016/12/31(土) 21:43:57.49 ID:OBG71OEid.net
短くは30を遥か前に、長くとも50に届くことは決して無かったその血を引いた者が。
ある日加齢による自らの衰えを感じ、家長から身を引くという道に初めて思いを馳せたとき。
いったいどのような感情が押し寄せたのか……。

私が推し量るには余りあるものとだけ、断言できることですわ。

その後も黒澤の者は。少々長ずるようになったとは言え、当時の成人後の平均的な寿命を大きく割りながらも代を重ね。家は途絶えることなく存続を守りました。

短命かつ女系という単純で、それゆえに致命的な欠陥を孕みながらも、これほどまでに隆盛した家の存在は。
まさに奇跡としか言いようのないものに、私には思えました。

そう────”奇跡”。

ですが。おばあさまは書の中でこれを指し、”呪い”と結論付けておられたのです。

200: 2016/12/31(土) 21:45:28.60 ID:OBG71OEid.net
それは、契約。

家の興りに際し、ある者が古来沼津に伝わった地を這う暗渠(あんきょ)に住まう神に願い。一族の繁栄と継続を手にしたと記された、伝来の絵巻物があったそうです。

ですがそれは、本当に神だったのでしょうか。
そのような人の目も届かぬ土の下に、光から逃れるように身を隠す存在は。神というよりは、もっと……。

果たして彼の家は、この地にあっては五百年の栄華を約束され。

代わりに男の性と、残された女はその半生を奪われたのです。

契約により名を縛られたその家は、願をかけた地下水脈から一族のくびきを得て、こう名乗るようになりました。



────暗く、冷たい川。

 

そう……”黒澤”、と……。

201: 2016/12/31(土) 21:46:18.30 ID:OBG71OEid.net
私は、ふたつだけ。心得違いをしていたようです。

ひとつは。あの『闇』は、外から来たものではなく。
私たちの根源に、遺伝子に。魂に刻まれた。
内より生じた地に落ちる影のようなものだったということ。

そして、もうひとつは……。

202: 2016/12/31(土) 21:48:12.27 ID:OBG71OEid.net
黒澤の短命が以降薄れる時期が、他にももう何度かありました。

おばあさまの生まれる四代前。
三軒隣の民家が失火し、周囲の家々を巻き込む大火災に発展したことがありました。
風の強い、乾燥した冬の夜だったそうです。

やがて黒澤の家にも火の手が迫り、塀の一部と敷地のはずれにあった土蔵を焼き尽くしたところで、ようやく鎮火しました。

短命ゆえに趣味にかける時間など皆無であった当時の黒澤の者たちにとって、土蔵はほとんど形だけの存在でした。

古くなった家財を筆頭に。かつての漁の結果や膨大な網子の身元などをまとめた、場所を取る帳簿類。

そんな、あまり金銭的な価値のないものばかりが押し込められた土蔵の奥深く。
値打ち物という観点ではなく、あるいは黒澤家にとって真に価値のあったかもしれない、一族の歴史を綴った書に混じり。
あの契約についてを記した伝来の絵巻物が共に焼失したという記録を。
おばあさまは四代前の当主の覚え書きに見たとありました。
 
その後。
黒澤で当主を務めた者は、ほとんどが隠居を経てから亡くなるようになったのです。

奇しくもその頃は、新政府主導の維新が推し進められ。古くからある人を集め使うような労働体系に変化が求められるようになった時代であり。

それは網元を指しても例外ではなく。
安定期に入り右肩上がりとはいかなくとも常に現状を維持し続けていた黒澤家にあっても、緩やかな衰退の道を歩み始めたときだったのです。

それはまるで、契約が弱まったかのように……。

203: 2016/12/31(土) 21:50:04.99 ID:OBG71OEid.net
更に時代は移ろい。

老朽化した屋敷が増改築されることになったそうです。
おばあさまが、物心ついたばかりのときでした。

重要な柱の位置を除き、ほとんどその姿を新たにした屋敷を目にし。
まるで新築の家に臨むような心地で自分の屋敷を日々散策したと、おばあさまは綴っています。

そして。
次の隠居は、更に寿命を延ばしたのでした。

おばあさまはここで、概ねのことに気付いていました。
短命の黒澤家。女ばかりが生まれる不可思議。そうしてたどり着いた、いにしえの契約。
そしてそれが、時代を経て弱りつつあること。

おばあさまは更に踏み込みます。
契約の薄れは、気の遠くなるような時間によって均等に生じているのではなく。
屋敷に重なる事件により、ひとつずつ大きく変化しているのだと────

大震災による再建。土蔵の焼失。そして、経年劣化による増改築。

そのいずれの後も、黒澤家の葬儀の間隔は明確に開き。
それとぴたりと符合するように、繁栄にも翳りが生じました。

おばあさまはそのことを理解した上で、最後の手を打っていたのです。

204: 2016/12/31(土) 21:54:18.51 ID:OBG71OEid.net


いつまでも遠い過去に結ばれた陰惨な呪いに、縛られている必要はない。

私たちは確かに大きな力と富を得たやも知れない。
だが、代わりに大切なものを失いすぎた。

それは本来。家族の間で当然のように交わされる言葉であったり、触れ合いであったり、温もりを分け与えること。

母は子に処世術と算盤(そろばん)の弾き方だけを教えると斃(たお)れ。
その子はまた祖父母の顔もまともに見たことがない孫であるなどという事実が、いったいどれほど悲しいできごとであるか。

”黒澤”の名を最初に戴いた者には、そんなこともわからなかったのだろうか。

私たちは、ただ”普通”に生きたかった。
ただ普通に生きて。親は子に愛情を注ぎ。子はあるいは兄を敬い、あるいは弟の涙を拭ってやり。祖父母がそれを眺め、完爾と頬を緩める。
そんな風に、家族で愛を育みたかった。

もう良いだろう。
私たちは、大いに手に入れた。そして、大いに支払った。

この、先祖たちの血であがわれた代償で以て。私たちはこれより、”普通”に生きていく。

短命も、女系もここで捨て。
超常の力に均(なら)された道を歩むことなく。

私たちの道は、私たちで切り拓いていくのだ。



墨で刻まれたおばあさまの言葉は力強く。
そして、どこか悲しみに溢れていました。

205: 2016/12/31(土) 21:55:44.29 ID:OBG71OEid.net
黒澤の屋敷には、古い井戸があったそうです。
それが枯れたのは、例の大地震の折でした。

井戸とは、地下に流れる水を汲み留め、用いるためのものです。

そう、”地下”に……”流れる水”を……。

黒澤の隆盛に最も歯止めが掛かったのは、いつだったのか。
それは、地震により陸(おか)も。海すらもめちゃくちゃとなった、その後のことではなかったでしょうか。

黒澤の寿命が飛躍的に延びたのは、いつだったか。
それは、地震により断層に異常が生じ、井戸が枯れたころではなかったでしょうか。

願いをかけた地下水脈は。
黒澤を縛った契約の先方は。

とうの昔に、息絶えていたのです。

ならば、未だ黒澤の血を汚し、啜り続けているこれは。
契約ではなく。奇跡でもなく。

おばあさまの唱えたとおり、”呪い”と呼ぶにこそ相応しいものなのでしょう。

おばあさまが打った、”呪い”から解き放たれるための最後の手。

それは、私のもうひとつの心得違いに深く関わる事柄でした。

206: 2016/12/31(土) 21:57:16.06 ID:OBG71OEid.net
”隠居所は、いつから存在したのでしょう。
それこそ黒澤の家が興り、富をなした頃とそう変わらない時期からここに構えられていたと、おばあさまのお話に聞いたことがある。”

そう、おばあさまは嘘は言っておられない。
隠居所は、確かにずっとこの場所にありました。

土地と、呪われた血に縛られる代わりに繁栄を約束された。
”黒い澤”に井戸の水を引く、この場所に。

私のふたつめの心得違い。

 

『本宅の別に隠居所が造られた』のでは、なく。
『隠居所が、かつての本宅だった』のです。


 

207: 2016/12/31(土) 21:59:09.00 ID:OBG71OEid.net
おばあさまが当主を継いでまずなされたこと。

それは、新たな本宅を建て。かつての本宅を隠居所と改めることでした。

『闇』は────”呪い”は、そこでしか蠢けない。

”黒い澤”無き今。移動することすら叶わないそれは、一つの場所にしか身を置けず。
かつて吸い尽くした黒澤の血を壁蝨(だに)のように腹へと蓄え、干上がる水が如くただその身が枯れ行くのを待つしかない存在に成り下がっていたのです。

もちろん、おばあさまはあらゆる可能性を考慮され。
かつて沼津の地下を這い回った水脈の跡と、現在生きている新たな水脈を、地質調査により入念に調べ上げた上で。
周囲には『時代は伝統と格式より利便性だ』とうそぶき、交通の便の良い今の敷地へと────つまり、過去にもこれからも地下に水脈の通うことのない場所へ。
黒澤家の本宅を移されたのです。

208: 2016/12/31(土) 22:00:37.41 ID:OBG71OEid.net
巨大な財を備えた網元でさえ、一時はあえがざるを得ないほどの莫大な費用が掛かったと聞きます。

そこへ、間もなく控えた大戦の余波と、戦後の混乱も加われば。
およそ凡百の舵取りでは沈む以外道がないような未来が待っていたはずでした。

それを驚嘆すべき辣腕で乗り切り。あまつさえ以前にも劣らぬ財をなし、多くの力なき網子たちへと手を差し伸べ。
結果おばあさまが何と渾名されるようになったかは、既にさんざん語った通りです。

おばあさまは決意を貫き。
契約を捨て呪いを超克し。
自らの手で成功を勝ち取ったのでした。

ただ、唯一気がかりだったのは。
それは、いまだ黒澤の家には男児が生まれなかったということです。

209: 2016/12/31(土) 22:02:33.75 ID:OBG71OEid.net
自分の子は女でも不思議ではなかった。

何故ならおばあさまも、かつてあの屋敷で生まれた身だったから。

しかし、お母さまが生んだ子が女であったことには首を傾げたそうです。
お母さまは仕込みから出産、そして養育までのすべてを、隠居所から避けて為されたはずの子だったからです。

それも、私とルビィ。二人揃っての女児となると、いよいよ以て疑問は深まるばかりでした。

おばあさまはどうしても男児が欲しかったという訳ではなく。
ただ人並みの営みを送れているという、その実感を望んだだけでした。

事実、おばあさまは私とルビィに格別の愛情を注いで下さいました。
そして、その愛に報いれたのか自信はありませんが。私たちもおばあさまを、心よりお慕いしておりました。

話を戻しましょう。

当初私が思い及び、その事実を恐怖と嘆きで以て迎えた黒澤の短命は。
往時を鑑みればほとんど普遍的と言っても差し支えないほどの水準を取り戻しつつあったのです。

しかし、今なお男児を為さないことだけは。それ単独で見ても異様なほど、何らかの執着を感じさせるものでした。

210: 2016/12/31(土) 22:04:00.52 ID:OBG71OEid.net
おじいさまが長く伏せっていた病が元で、入院先の病院で亡くなられてから一年ほどが経ったときのことです。

私とルビィの養育が一段落したとし、家督をお母さまへと譲ると。
おばあさまは信用の置ける手伝い数名を連れ隠居所に居を移しました。

長きに渡り黒澤の血を食い物としてきた『闇』の現在を見極め。あるいはその最期を見届けるために。

結果として、闇にはもう何の力もなく。せいぜい日々暮らす中で、不気味な干渉の手を黒澤の人間へと伸ばすだけでした。

ある日おばあさまは、湯殿の鏡に苦悶に引きつる女の顔を見ました。
また別の日には、台所で流しの下の棚の中から伸びる手に、足を撫でられたとあります。
縁側に面した掃き出し窓には、夜半張り付いてニタニタと笑う不気味な影が一度ならず浮かび。
閉めた筈の襖がいつの間にか少しだけ開いているようなことなど、日常茶飯事だったそうです。

どれも備えがなければ、確かに背筋の寒くなるようなことばかりです。
ですが、おばあさまにはそれの正体に関する理解がありました。
ため息を噛み頃すことはあれど、そのことに恐怖することはなかったのです。

日々弱っていくそれの悪意に、おばあさまは後は消滅を待つばかりだと。それを見届け、黒澤の盤石を密かに祝うのみだと考えたのでした。

211: 2016/12/31(土) 22:04:31.36 ID:OBG71OEid.net
と。

ここまで墨痕鮮やかに流れていた麗筆が、突如醜く歪みうねり出しました。
おばあさまが目を患われたのは、この時期からだったのだと知れます。

そして間もなく行われた、隠居所の改装。

屋敷には『闇が増え』、弱っていたはずのそれは俄かに力を取り戻したようでした。

視力の薄れたおばあさまの耳には、絶えず私の声で邪悪な言葉が囁かれ。
そして、黒澤を呪うルビィの笑い声が止むことも、またなかったそうです。

卑俗かつ下劣な手段でしたが……私たちに対する愛が深いだけ、その呪詛はおばあさまの精神に耐え難い負担をもたらしたと……。
もう……かすれてほとんど正確に読むことのできない文字で、その心境が吐露されていました。

212: 2016/12/31(土) 22:06:20.27 ID:OBG71OEid.net


声が聞こえた。

昨日手伝い頭に紹介されたばかりの新顔が、私を呼んでいるようだ。

強烈な老眼鏡と拡大鏡を二つ通しても、もうほとんどなぞることのできなくなったそれほど小さくないはずの文字が踊る本を閉じ、書斎を出る準備をする。

手伝いは、賓客の来訪を伝えていた。
そうとも、孫が来たのだ。自分の趣味など省みるに値しない。

部屋を出る際に、いつもと同じように覚束ない足元が戸を軽く蹴り上げてしまう。
少し前までなら、また指に怪我を負っていたかもしれない。
だが、扉はぶつかった勢いのままに静かにその身を廊下へと大きく開いていた。
指に痛みは残っていない。

作法として習い性とした摺り足で歩く癖は、この年となっては意識して矯正することも難しい。
そのせいでいらぬ心配を娘夫婦にかけ、決して小さくない苦労と手間もかけさせた。
その配慮には感謝こそすれ、含むところは僅かもない。

視界の大部分を失ったとて、既に体の一部となっているこの屋敷の間取り。
それを歩幅と僅かな色や明かりで補強し、いつしか孫たちとの無言の約束の場所となった縁側を目指す。

213: 2016/12/31(土) 22:07:12.82 ID:OBG71OEid.net
壁に手を伝ったまま廊下の角を曲がり、縁側に面した屋敷の一隅へとたどり着いたときだった。

「「だーれだ!

突然背後から響く、二つの小気味よい声を聞いた。

「ルビィと、それにダイヤもだね。まったく……2人とももうそんな年でもないのに、こんないたずらをして……

振り向くなり小言をひとつ。

自分でも言葉と表情がまったく一致していないのは自覚している。
それでも、この瞬間を前にして。つり上がる口の端(くちのは)を留める手段というものを、私はついぞ知らなかった。

「ごめんなさい、おばあさま。私は何度も止めたのですが、ルビィが聞かなくって……

「えへへ……ごめんね、おばあちゃん。なかなかお姉ちゃんと2人でおばあちゃんに会いに来れることってないから、つい嬉しくっなっちゃって……その気持ちをおばあちゃんにも分けてあげたかったんだ。びっくりしちゃったかな……

「ありがとう、2人とも。だけど、もうおばあちゃんもこんなにしわしわなんだ。あんまりびっくりさせすぎると、そのままお迎えを寄越すことになってしまうかも知れないよ

冗談めかした口調に乗せ、ありったけの親愛を込めて2人の肩を抱きすくめた。

214: 2016/12/31(土) 22:07:35.68 ID:OBG71OEid.net
 


はずだった。



215: 2016/12/31(土) 22:12:49.46 ID:OBG71OEid.net
両手は空を切り。私は頼りを喪失した勢いに踏みとどまれず、無様に廊下の板張りに倒れ込んでいた。

その、耳に。

「じゃあさ、そのまま氏ねばよかったのに

「しぶといなぁ、くそババア

二つの孫娘の声のまま、口汚い罵言(ばげん)が囁かれる。

そうか、これは……。

「ほんと、耄碌具合が見るに耐えないからさぁ……

「早く氏んでよね、お・ば・あ・ちゃ・ん♪

声が遠ざかっていく。

嘲るだけ嘲り気が済んだのか。あるいは一時的に力を使い果たしただけなのか。────おそらくは前者なのだろう。

さきほどまで確かに存在した二つの気配は、屋敷の壁へと溶けるように消えていった。

この分では昨日この屋敷に入った新顔とそれを紹介する手伝い頭という場面から、遊ばれていたのだと知れる。
なぜなら私は新顔の手伝いなる人物について、その声と僅かな輪郭のみしか認識できていなかったからだ。
初めからそのような人物など、存在しなかったのだろう。

手伝い頭に孫娘姉妹。そして、存在しない新顔の手伝い。

随分と手の込んだ真似をされたものだ。
ここまで周到に愚弄された経験は今までにない。

嘲りの言葉の通り、私も衰えたのだろう。
そして、それに加え急激に進行した弱視も相まり、不徹底にも萎びた心へ隙が生じ────付け込まれた理由も頷ける。

つまり、こうして。

屋敷には日ごと、闇が増えていったのだ。

 

~~~~~

216: 2016/12/31(土) 22:14:02.27 ID:OBG71OEid.net
~~~~~

 

本来なら、闇の消え去ったこの隠居所を。かつて過ごした美しい思い出のまま、孫たちに残してやりたかった。
だが、どうやらそれも叶わないことのようだ。

詰めが甘かった。
家族との暖かな時間を孫たちには送らせてみせると豪語しておきながら、そんなささやかなことすら守り通すことができないとは。
私も最期に焼きが回ったようだ。

いや、それでは済まされない。
これから氏にゆく私の心境より、残された彼女たちの純粋な心をより推し量るべきはずだろうに。

この屋敷は孫たちにとって。ときたま気紛れに訪れては、かつて隠居と戯れた日溜まりの日々を呼び起こす助けとなるものではなく。
彼女たちにもまた、忌むべき過去の呪いが夜闇に蠢く鬱々とした場所として記憶されることとなるだろう。

ああ。だけどもう、私には何もできない。
力関係は、今や完全に逆転してしまった。

ダイヤは、大丈夫だろうか。
あの子は姉という手前、人一倍強がってはいるが。本当はとても臆病で人恋しい甘えたがりの、か弱い女の子なのだ。

私の拙い昔話を喜び、そして皺の深い醜い笑顔を見て美しいと笑い返してくれた。心のきれいな、私の大切な孫娘よ。

217: 2016/12/31(土) 22:15:58.99 ID:OBG71OEid.net
気高く勇壮な黒澤の祖先たちに乞う。

どうか、私に力を。

あの子が闇に魅入られ、泣き出しそうになったとき。
たったひとこと、こやつの胃袋の底から形を成し。その口を借りて名を呼び、安心させてやりたい。

私がいると。
お前を愛していると。
お前は必ず、この闇を克服できるのだと。

都合の良い願いなのは、わかっている。

だがどうか、祈らせて欲しい。
長きに渡る黒澤の呪いが、私を最後に途絶えることを。
そして、謝らせて欲しい。
私の見通しが甘かったばかりに、お前たちに辛い役回りを課してしまったことを。

実はもう、手がうまくうごかない。
めも、よくみえない。

これだけの文をかたちにするのに、いったい何かげつかかったことか。

ありがとう、ダイヤ。
わたしに、まごをあいするよろこびをおしえてくれて。

ありがとう、ルビィ。
わたしに、かぞくがふえるよろこびにははてがないことをおしえてくれて。

ふたりとも、おかあさんをたいせつに、おとうさんをたいせつに。
あねを、いもうとを、たがいをたいせつに。

そしてやがてであう、あるいはすでにであった、こころをわけるともがきやおもいびとを。
どうか、たいせつにしてほしい。

ふたりのおばあちゃんになれて、わたしはきっとくろさわのれきしでいちばんのしあわせものだったよ。

だいじょうぶ。
やみなんかに、くろさわのちはぜったいにまけないから。


218: 2016/12/31(土) 22:18:07.61 ID:OBG71OEid.net
それを最後に、覚え帳にはただ白紙の頁が続くのみでした。

読みふけるうちに、時刻はとうに深夜に差し掛かっていたようです。

いつの間にか再び書斎の扉は開け放たれ。
そしてそこから覗く暗がりの廊下や天井、窓の向こうから。
無数の耳を覆いたくなるような声が聞こえていました。

「「こ……で……ここ……ネ……でシね……

声は私に、ひたすらこう訴えていたのです。

「「ここで氏ねここで氏ねここでシねこコデしネここでしネコこでしねここで氏ねココデシネコこでシねここでシネここでしねここデシねここで氏ね

おばあさまを喰らい長らえたとて。
消滅までそう時間の残されていない焦りと渇きを満たすため。それは私にどうしてもこの屋敷で氏を迎えて欲しいようでした。

ですがその怪異に。私は自らの感情がもう僅かでも動かされるような力もないように感じていたのです。

219: 2016/12/31(土) 22:19:48.70 ID:OBG71OEid.net
加えて私には、あるひとつの決意が生まれていたのですわ。

おばあさまの願った通り、もう血の一滴。毛の一毫(ごう)。恐怖の感情のひとかけらすら、黒澤の糧をこの闇に与えてやるつもりはない。

お母さまや私はもちろん、それはルビィのものとて。

ルビィ……まだ幼い、愛しい私の妹。

万にひとつ、おばあさまの魂を喰らったことで。日のある隠居所で『闇』が自由に像を結べるほどの力を蓄えていたとき。
純真なその心を与しやすいと見て、手を出さない保証はどこにもありません。

この場所で四十九日の法要を行うのは、辞めにしよう。

そして────

220: 2016/12/31(土) 22:20:32.54 ID:OBG71OEid.net
「そこまでですわ

私の口から漏れたものとは思えない冷酷な響きが、冷え切った書斎へ針のように突き刺さっていました。

「才知と不屈を備えた黒澤の血は、さぞ甘美だったでしょうね。ですが、それももう喰い納めですわ

「「ここで……氏ね……

「いいこと……?あなたの存在は私が。遠くない未来、必ず終わらせて差し上げます

「「ココデシネ……ココデシネ……ココデシネ……

「そして、返して貰いますわ。
 あなたが貪った祖先たちの幸せを。時間を。
 何より、その腹の底に取り籠めた、おばあさまの魂を

「ダイヤや、ここで氏んでおくれ……

「そう、私は黒澤ダイヤ。
 私が憎いなら、時も、場所も選ばず。如何様にも掛かってきなさい。
 ですが、私があなたに恐れをなすことは。感情を動かすことは。そしてためらうことは、もうないでしょう

「お姉ちゃん、ここで……氏んで?

「答えは、『いいえ』ですわ。
 それでは、ごきげんよう……”黒き澤”の影────

221: 2016/12/31(土) 22:22:02.30 ID:OBG71OEid.net
声は既に止み、隠居所には静謐が訪れていました。

遅い時間でしたが、私は本宅に電話を入れると、迎えを寄越し屋敷を後にします。

本宅に戻った私を迎えたのは、この時間普段ならお休みなられているはずのお母さまの、熱い抱擁でした。

やはりお母さまは知っておられたのです。
隠居所にまつわる暗い過去と、今もそこに蠢く不気味な闇についてを。

そして、お母さまのその涙に。
母を奪った屋敷への憎しみと、そこにまだ頼りない娘を送る不安のため。今宵眠れぬ夜を過ごされていたことを、私は知ったのです。

そんな母に、私は黒澤家に連なったすべてを悟るに足る濃密な時間を送ったことを。
そして、その果てに打ち立てた自らの決意を。おばあさまへの思いと共に、静かに語ったのでした。

222: 2016/12/31(土) 22:22:58.99 ID:OBG71OEid.net
後日。
おばあさまの四十九日の法要が黒澤家本邸にてしめやかに執り行われました。

当初の予定から式場を変更した理由について。参列者へはある事実が通知されています。
それはもちろん方便でしたが、終着するところは偽りのないものでした。



先の改装の際、隠居所において老朽によるもはや修繕の及ばない構造的瑕疵が見つかりました。
ただしそれは、ただちに問題の生じるものではなく。隠居が逝命(せいめい)するまでは、その短い畢生(ひっせい)が穏やかなものであることを願い。あえて対応を施さなかったところであります。

さて。先に連絡した式場にありましては、名代として喪主を勤める愚女たっての希望もあり、亡き母の思い出の溢れた隠居所を使用する予定でありました。
しかしそのような理由から、此度の法要に際し事前に人を入れて屋敷を調べましたところ、芳しくない結果を得てしまい、こうして直前と相成ってしまいましたが、式場の変更をご連絡差し上げた次第であります。

御参列いただく皆々様にあられましては、何卒格別のご理解を賜りたく存じ上げます。


223: 2016/12/31(土) 22:25:32.04 ID:OBG71OEid.net
おばあさまの手記にあった黒澤の寿命が延びた時期について。皆さんは覚えておいででしょうか。

震災。火事。そして屋敷の老朽化。
そのいずれもが、”黒き澤”との契約に関わる事物が失われた際だとも触れましたわね。
震災では、契約の先方。
火事では、契約の記録。

……では、屋敷の老朽化は何を失ったのでしょう。

正確には、それぞれにもう一つ。
すべてに繋がったものが失われていたのですわ。

224: 2016/12/31(土) 22:26:50.31 ID:OBG71OEid.net
単純なことです。

震災、火事。それらは、屋敷を歪め、あるいは焼き払うもの。

地震で屋敷の柱が傾(かし)いだから、建て直した。
火事で屋敷の一部が消失したから、修繕した。
時間の流れに屋敷の基盤が腐ったから、装いを新たにした。

そう。『闇』は隠居所に、あるいはその敷地に憑いていたのです。

土地や屋敷に憑いているが故に。敷地内の間取りが替わる度、『闇』は自らの一部を失ったかのようにその力を弱めたのです。

おばあさまの目のために施された改装では、見通しを捨てたことで逆に力を与えることになってしまいましたが。
形や材質を変えるほどのそれは、確実に『闇』から多くの力を奪うものなのです。

そんなことは当然承知のはずのおばあさまがそうなさらなかったのは。
ひとえに私たち姉妹に家族の温もりを形として残したいと願ったからにほかなりません。

225: 2016/12/31(土) 22:28:06.81 ID:OBG71OEid.net
ですが……私は決意したのです。

闇がおばあさまの魂を完全に喰らい尽くしてしまうその前に、解放する。

それは、黒澤の血を与えずに衰弱を待っているのでは遅すぎる。
遅滞なく闇を屠るには、隠居所を棄てなければならない。

それでも。
おばあさまとの思い出の場所を更地に変えてでも。
闇から、すべてを取り戻すと。

私はあの夜。
心に……そう、決めたのですわ。

226: 2016/12/31(土) 22:32:16.44 ID:OBG71OEid.net
曜「今、隠居所のあった場所には……何も、ないんだね……

ダイヤ「ええ、私がお母さまにお話をして、すべて均(なら)していただきました。
 今は人を寄り付かせないよう周囲を塀で囲まれた、ただの空き地があるだけですわ

果南「私と鞠莉は、ずっと昔……一度だけダイヤに連れられておばあさまにお目通りをいただいたことがあるけど……

果南「噂で聞いたよりずっと、その……普通、でさ……孫が友だちを連れてきたことを喜ぶ、優しいおばあちゃんって感じの眼差し。よく覚えてるよ

鞠莉「うん。私の髪を綺麗だねって優しく撫でてくれ手が、あったかくってね

ダイヤ「……そういえば、そんなこともありましたわね

花丸「マルもじいちゃんに聞いたこと、あるずら。黒澤のご隠居さまは、それはそれは立派な方で……ふふ、若い頃は玉(ぎょく)のような美しさとその手腕をかけて、沼津の網金剛なんて言われてたって……

花丸「金剛は金剛石と、金剛夜叉明王。五大明王に数えられる、悪だけを喰らい善を護る、戦勝の仏様のこと。
 つまり、その名に例えられたダイヤちゃんのおばあちゃんは、勝利の女神さまだったんだね

梨子「金剛石……ダイヤモンドね。くすっ、ダイヤさんといっしょだ

千歌「うん。私たちを見守って……名前をくれて……一つに繋いでくれたダイヤちゃんも、そうだよ……。黒澤の家の女性(ひと)はみんな、きっと勝利の女神さまなんだね

ダイヤ「あの千歌さん、梨子さん、さすがに……少々面映ゆいのですけど……

227: 2016/12/31(土) 22:36:54.15 ID:OBG71OEid.net
ルビィ「ひっ……ぐずっ……

善子「ルビィ……?ねえ、どうしたのよ……

ダイヤ「……ほら、ルビィもいつまでも泣いていないで。(なでなで…)次はルビィの番でしょう?

ルビィ「だ……ぅっく……だって……やっぱりルビィ……お姉ちゃんだけに全部押し付けて……

ダイヤ「もう……いつも言っているじゃない。私はお姉ちゃんだから……こうしてルビィに怖い思いをさせずに済んで……ルビィを守れて、それだけで嬉しいんだって……

ルビィ「お姉ちゃん……おね、え……

ぎゅっ

ダイヤ「大丈夫、大丈夫よ……。私は何も失ってないし、もう怖いことは何もないから……

ダイヤ「優しい旦那さまを迎えて、男の子を産んで。そして、お母さまのように旦那さまをよく支え、長く連れ添って。
 最後は旦那さまより一足早く冥土に渡り、あちらでその到来が1日でも遅れるよう祈って過ごす

ダイヤ「ルビィの願ってくれたその通りに。私はめいいっぱい、幸せに生きてみせますわ……

 

・黒澤ダイヤ
『隠居所の話』 おしまい


 

229: 2016/12/31(土) 22:56:35.67 ID:OBG71OEid.net
長い長いダイヤの話が、ようやく結びを見た。

凄まじい話だった。
内容もさることながら、それを理路整然と語りきるダイヤの能力に、ただただため息が募る。

そんな、途方もなく長い話だったけど。
それを最後まで聞き終える前に、私たちには共通して確信を持てることがひとつだけあったはずだった。

230: 2016/12/31(土) 22:58:24.45 ID:OBG71OEid.net
ダイヤは、妹煩悩だ。

仮にルビィが黒澤の血にまつわる呪いについてを予め知っていたとして。
そのダイヤが、こういう場だからと言って、いたずらにそれを語り。わざわざ妹の恐怖をほじくり返すような真似をするはずはない。

知っていなかった場合については……考えるまでもない。
このような場で到底話せるはずはないし、そもそも篤い手回しもなしに話して良い内容じゃない。

つまりこれは、なんらルビィへと不安をもたらすものではない────”既に終わった”話なんだと。

それだけは私たちの誰もが、ダイヤの話を聞き終わる前に思い至ったはずの、共通の確信だった。

231: 2016/12/31(土) 23:00:05.50 ID:OBG71OEid.net
そして、私には別の要因でもうひとつ。
ダイヤの話に安心して耳を傾けられた理由がある。

それを説明するためには、まずは私の名と、それから家のことについて話さなければならない。

ダイヤが黒澤の起こりを諳んじた風に習えば、私の祖先は淡島の海辺に生きる人間だったということになる。

私の祖先たちは淡島に根を下ろし、そして内浦の海を統べる黒澤に束ねられ、網子として生活を送っていたのだろう。

そしてそんな中、遠い過去ではあるけど。その働きが網元の目に留まり、時の黒澤当主に一度だけこの家の長子が婿として召し上げられたらことがあったそうだ。

今でこそ網子としての暇を得て別の活計(たずき)を頼っているけど。
往時は淡島で最も腕の良い漁家(ぎょか)として扱われていた頃もあったとか……操舵の片手間におじいが語った昔話に、何度か聞いたことがある。

つまり、直系ではないけど。私の血を辿ればどこかの代で、黒澤と交わっていた時期が確かにあったのだ。

要するに。

私と黒澤姉妹は、遠い遠い親類と言うことができるのだろう。

232: 2016/12/31(土) 23:01:14.90 ID:OBG71OEid.net
小さい頃から互いの家の人間に聞かされて、私たちは何となくそのことを知っていた。
だけど多分、そんなことは関係なく。私たちはきっと、友だちになれたんだと思う。

それを指して一度だけ、ダイヤのことをふざけて御前(ごぜん)様と呼んだことがあった。

あのときの悲しそうな顔と、私を窘める小さな声の震えは。私とダイヤを互いに深く傷付け────そしてそのことに気付いた私たちへと、より強い結びつきをもたらした。

だからやっぱり”そんなこと”は。
私たちには、まったく関係のないことだったんだ。

233: 2016/12/31(土) 23:02:09.68 ID:OBG71OEid.net
松は、潮風から村を守る防風林を。
浦はそのまま、静かな入江を。

────松と、浦。

共に海辺を連想する言葉。
それら二つをまとめ、名字にいただいた私、松浦果南は。
黒澤ダイヤの遠い親類である前に。

『私たちは友だちでしょう……違うの?果南……

彼女の、誰より近しい親友でいたかったから。

234: 2016/12/31(土) 23:03:18.77 ID:OBG71OEid.net
そんな彼女が、祖母の氏からしばらく経った雪の降り積もる夜。
私を家に呼び出し、あなたにも無関係ではない話だと切り出し語ったのが、先の黒澤家の呪いに関する話だった。

当時のダイヤは今日とは違い、まだところどころを詰まりながら、途方もない時間を費やしはしたけど。
それでもちゃんと、すべてを話してくれた。

”既に終わった”ものとは言え。薄気味悪さと根の深さを、ただ耳にしただけの者にさえ強烈に印象付けるその話を聞き。
それを実際に経験し、それでも私の前にこうしてなんら変わることなく在ってくれた親友を。私は涙とともにきつく、きつく抱き締めた。

彼女は……。
ダイヤは、今妹へそうしているのと同様に。私にも変わらない慈しみで以て応えてくれたけど。
その瞳が薄く潤んでいたのは、きっと見間違いではなかったはずだ。

235: 2016/12/31(土) 23:06:12.94 ID:OBG71OEid.net
あれから数年。

出会いからあの日を経て、そして今日に至るまで。
私たちは遠い親類ではなく、誰より近しい親友の立場を選び、共に過ごしてきた。

だけど。
今日ばかりはその立場を違えたとして、誰かが傷付くことはないと思った。

今、私の目の前には互いが互いを想い、呪われた血の終焉を喜び睦まじく分かち合う姉妹がいる。
そして、それを見つめ柔らかく目を細める仲間たちがいる。

それは、長く姉妹の心の底に押し込められた自らの家の暗部をさらけ出し。
そしてそれを受け入れてくれる────そうするに足る誰かと、こんなにもたくさん出会うことができたことを意味していた。

その姉妹へ。
2人の親友として。そして、このときに限っては。遠い時間を遡り、かつて血を分けた家族として。

さきわう彼女たちの血やその行く末を思ってほころぶ頬と、暖かい色を帯びて高鳴る胸の鼓動を。

私には、止めることができなかった。



・松浦果南
『隠居所の話(異聞)』 おしまい



238: 2017/01/01(日) 00:24:59.65 ID:CUqj/LlTd.net
 


善子「そういえば、こんなこともあったわね



239: 2017/01/01(日) 00:26:52.38 ID:CUqj/LlTd.net
中学の修学旅行で泊まった、関西のホテルでの話よ。

修学旅行の初日の夜。

夕食も終わり、就寝までの僅かな間。
生徒たちの待ちに待った自由時間が始まり、微熱にかかったみたいに頭のぼんやりしてしまう雰囲気が、なんとなくホテル全体から感じられた。そんな中。

ホテル内の散策も終え、一人で向かったお風呂上がりに……その……も、催した私は……大浴場の帰りに通りがかったロビーの端にあるお手洗いで……あれよ。えっと……お花を、摘むことにしたの。

そこはかなり立派ホテルで。
各部屋に備え付けのトイレがあるにも関わらず、ロビーに示されたお手洗いの案内の先には、男女障害者で入り口が分けられているのは当然として。
その中にも、まるで大きな駅の構内にあるものと変わらないくらいの個室が用意されてたわ。

私は設計者が一体どういうタイミングでこの数の個室が溢れる想定をしたのか、全く想像のできないまま。
端から端まで、利用している人が誰もいない扉の中から。特に意識もしないで、真ん中らへんの洋式の個室を選んだの。

240: 2017/01/01(日) 00:27:49.03 ID:CUqj/LlTd.net
それからしばらくして。

うんと……済ませることを済ませて、佇まいを整えていると。

コン…コン…

私の個室のドアを、ノックする音が聞こえた。

コンコン

人を待たせていることを了解した上で、もうすぐこの扉を開ける意志を示すノックを返す。

間もなく降りてきた沈黙の中。
私は立ち上がり、気持ち素早く浴衣の裾を正しながら、個室を出ようとしたわ。

その瞬間。

言葉にできない気味の悪さを覚えて。スライド錠を滑らそうとした姿勢のまま、動きが凍り付くように止まってしまったの。

その怖気の正体は、ついさっき考えていたばかりのはずなのに。人心地付いたせいで頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていたことを、ようやく思い出したときにやってきた。

241: 2017/01/01(日) 00:29:19.44 ID:CUqj/LlTd.net
このトイレにあって。その個室は埋まりようのないくらい空いていた。

そして、それらが埋まるほどの人々が大挙して個室を訪れたような物音も。
そもそも、リノリウム張りのトイレに響く足音の一つすら、私の耳には聞こえた覚えがなかった。

この扉の向こうにいる誰かは、足音もなく女性用のトイレへと入ってくると。
開いている他のドアへは目もくれず、私が使用中の個室の前に立ち。
そして、ノックをした……。

ようやくひとつ。水気を失い固くなった唾を、喉へと絡ませながら飲み込む。

そうだ。
クラスメートが何か用があって、私を探してここまでやってきたのかも。

クラスメート、クラスメート。この扉の前にいる誰かは、きっと私のクラスメート……。

思い付いたばかりのことを。呪文のように繰り返して自分に言い聞かせる。

だけど、すぐに気が付いたわ。

ひとりで大浴場に向かった私が、その帰りにロビー脇のトイレの、この個室を利用しているなんて。
一体誰に把握できると言うの?

242: 2017/01/01(日) 00:29:53.96 ID:CUqj/LlTd.net
 


コン…  コン…



243: 2017/01/01(日) 00:30:57.90 ID:CUqj/LlTd.net
扉一枚を僅かに隔てたその向こうで。冷気を思わせる無機質な音を、ゆっくりと二度響かせる得体の知れない誰かの手が、再び小さく動いていた。

今度は、ノックを返せない。
そして、私はもはや個室からも出られなくなっていたことに。今更ながら気付かされる。

コン… コン…

更なる沈黙が降りるのを待つことなく。個室を空けるよう急かすのが目的で立てられたわけではない音の暗号は、その間隔を短くして三度。
私の目の前の扉を震わせていた。

まずい。これは、よくない。

今すぐに何とかしないと、きっとつまらないことに巻き込まれる。
ううん。既に巻き込まれているんだから、もっとつまらないことがこれから起こるって言った方がいいのかもしれない。

244: 2017/01/01(日) 00:32:20.93 ID:CUqj/LlTd.net
コン…コン…

四度目。

でも、ノックを返してみたところで。勇気を出して扉を開けてみたところで。
それが何の解決にも繋がらないことは、これまでの経験でよくわかってた。

コンコン…

まるで、だんだんと痺れを切らすように。ノックの間隔が詰まり、音の鋭さは増していく。

だけど、私には何の手立ても浮かばなかった。

それどころか、この状況を諦めるように思考にもやがかかり始め。
やがてくるその瞬間へ耐えられるよう。心が感じることを放棄し、鈍くなっていくのがわかる。

245: 2017/01/01(日) 00:33:12.25 ID:CUqj/LlTd.net
コンコン!

乱暴と言っても差し支えない硬い音と同時に、がちゃんがちゃんと小さく個室の扉全体が揺れていた。

そうやって防衛反応を示し始めた私の心身の中で。
それでも、全身から冷えた血液を集め熱を失った心臓だけは。小刻みに、でも開いた口からとっとっとっとっ、と、小さく音が漏れてしまうほど激しく脈打っているのがわかった。

つまり、心に置いてきぼりにされ。
私の体の肝心なところは、未だに鈍さを手に入れられないでいたの。

246: 2017/01/01(日) 00:33:46.92 ID:CUqj/LlTd.net
ゴンゴン!

手の甲全体で叩きつけたような、悪意の伴った暴力的な音が。守りを固めたはずの心からも、一瞬で熱と平静さを奪っていく。

清掃。清掃じゃない?
それなら他に空いている扉を無視して、使用中の個室のドアに執着する意味が理解できる────

247: 2017/01/01(日) 00:34:50.85 ID:CUqj/LlTd.net
ガンッ!ガンッ!

わかってた。何もかも。
扉の外にいる誰かが、常識を解すなら。

手と、心。

こんなにも互いを傷付ける音を出してしまう前に。何でも構わない。
自分の意志と、それの疎通を促す呼び水となる、言葉を……。声を、かけるはずなんだって。

248: 2017/01/01(日) 00:35:42.18 ID:CUqj/LlTd.net



ドゴッ!ドゴォ!!


 

249: 2017/01/01(日) 00:36:52.60 ID:CUqj/LlTd.net
拳で殴りつけたような大きな音とその衝撃に、悲鳴を上げて軋む扉。

私は、一人でいる時間が多かったとはいえ。
それでもいつも優しく接してくれるクラスメートたちが楽しそうに笑い合う様子を眺め。それなりに幸せだった今日一日の記憶を思い返しながら。
やっぱり自分は、その輪に入れる人間ではないってことを思い知らされているような気がして。

場違いに、とても悲しくなったのを覚えてる。

250: 2017/01/01(日) 00:37:59.11 ID:CUqj/LlTd.net
気が付くと、扉へと続いた悪意の音は止んでいた。

まだ乱れたままの心音を感じながら、ため息をひとつ付く。
どうやら胸の悪くなる時間は終わったみたいだった。

私はスライド錠を解放しようとして。いつの間にかきつく閉ざしていた目蓋をそっと開き、視線を手元へと戻した。

そのとき。

違和感があった。

なんだろう。扉の内側が、やけに暗く感じられたから。

それは、癖のように体へと染み付いた反射運動で。
つまり。
私は暗くなった光源の様子を確認するため、視線を個室の扉の上の方へと向けてしまったの。

251: 2017/01/01(日) 00:39:00.43 ID:CUqj/LlTd.net
腕。白い腕があった。

扉と天井の隙間に、しがみつくようにのせられた肘から先の腕があり。それが、通路から個室へと入るはずの照明を遮っていた。

びくっとして硬直した体に、少し遅れて一瞬で鳥肌が広がる。

 

────何かが、ここに入ろうとしている。

 

そう思ってしまい、悲鳴が漏れそうになった。

ギィィイイイ…

だけど、それはまるで私に代わって叫んだように響いた金属音に、押し留められることになる。

252: 2017/01/01(日) 00:41:04.62 ID:CUqj/LlTd.net
(そんな。なんで────

血の気が遠くなるのを感じながら。
私は、悲鳴を上げ自分を失えたのならどれだけ楽だったか、ひらすら悔やんでいたわ。

金属音の悲鳴は、荷重のかかった蝶番が苦しみながら身を開く音で。
それは、硬直する私の指先が、引きつる瞬間の腕の動きに従って、個室のスライド錠を開放してしまったことによるものだった。

凍り付いたみたいに動かない冷たい私の体を置き去りにして、ゆっくりと扉は開いていく。

その、隙間から。

縦に並んだ二つの瞳が、感情を感じさせない眼差しで、個室の中の私をじっと見つめていた。

私の目よりもずっと低い位置から。

どうやったのか。その低い位置で、顔を真横に。地面と水平に支えたまま。

253: 2017/01/01(日) 00:45:39.12 ID:CUqj/LlTd.net
どれくらい経ったかな。
もしかしたら、十秒も無かったのかもしれない。

でも、ふたつの虚ろな眼孔に見すくめられていた私には。その時間が数分はあったように感じられたわ。

とにかく、突然だった。



チッ…



短く、鋭い水音が聞こえてきた。
それは多分、舌打ちだったんだと思う。

それが合図だったみたいに、縦に並ぶ二つの目が数回、ゆっくりとまばたきをすると。
扉の縦辺へと沈むように、私の視界から消えていった。

へたへたと。先ほど立ち上がった便座に、再び座り込む。
さっきまで扉の前に佇んでいた何者かの気配は、今はもう完全に感じられなくなっていた。

254: 2017/01/01(日) 00:47:30.05 ID:CUqj/LlTd.net
扉を開けると、左右を確認しながら個室を出る。

そのとき。それがまるで悪い冗談だったかのように、あの血の凍るような金属音が再び扉から響くことはなかった。

入るときもそうだったはずよ。
個室の扉は、普通だったらあんな音を立てるはずがないわ。

でも、私は直前に見ていた。
扉の上で、乗り出すようにその縁を掴んだ、白い腕が置かれているのを。

もう一度。
さっきまで使っていた個室の扉では何となく憚られたから、隣の個室の扉を。
今度は縦辺を両手で掴んで、体重を掛けて動かした。

ギィィイイイ…

リピート再生のように、金属の上げる悲鳴が再びトイレ中へと響き。
先ほどの光景を思い出してしまった私は、丸めた背中からまた鳥肌が全身へ広がっていくのを感じていた。

我慢できなくなり、私は入り口の荷物台から入浴道具を引ったくると。
今ではその広さに薄ら寒さすら感じるようになったそのトイレを、振り返ることなく逃げるように後にしたわ。

255: 2017/01/01(日) 00:48:49.06 ID:CUqj/LlTd.net
顔は、スライド錠より更に低い位置から私を見つめていた。

だけど、その扉の上には。肘から先の腕が、ずっと預けられたらままだった。

想像してしまったのよ。私は。

個室の前で、中の人物が出てくるのをノックで急かす。
関節どころか、体の形すら定まらない。
でも、パーツだけは人間のものが揃った、その不気味な影を。

 

そして私は……トイレで手を、洗い損ねたの。

256: 2017/01/01(日) 00:54:55.86 ID:CUqj/LlTd.net
案の定ダイヤさんの話でかなり時間を取られてしまったため、少なめですが今夜はここまでにしておきます

あけましておめでとうございました。完結までもう少々お付き合い下さい


ダイヤさんお誕生日おめでとう!

257: 2017/01/01(日) 01:18:45.05 ID:UpwgzjVZ0.net

258: 2017/01/01(日) 02:01:32.08 ID:ZeyVz8pe0.net
おばあちゃんの話は涙腺にくるからやめろっていってんだろ

【ラブライブ】千歌「ねえねえっ!今夜みんなで、百物語しよーよ!」後編

引用: 千歌「ねえねえっ!今夜みんなで、百物語しよーよ!」