1:◆gijfEeWFo6 2013/05/16(木) 00:22:38.51 ID:R6BEvH9r0

 前の仕事をやめる時に貰った退職金と、今までの貯蓄で、何とか新しいアイドルプロダクションを作る事ができた。

 購入した事務所は比較的新しく、古い物件ではないがやや小さい。一般的な収入で一個人が建てるならこの程度が限界か。いや、俺が貧乏なだけかもしれない。

 とりあえず正式に設立を終えた。だが、残念な事にアイドルが一人もいない。

 最初はアイドルのスカウトから始めないといけない。

 だけど俺は男だ。いきなり近寄ってきた男にアイドルにならないかと誘われたら、よほど危機感のない女性では無い限り、俺を怪しむだろう。

 女性の従業員がいてくれれば、男の俺よりも幾ばくか容易にスカウトできるだろうが、アイドルが一人もいない今、給料なんか出せない状態だ。

 やはり、どんなに成功確率が低くても自ら足を運び、声をかけていく必要がある。

 ……それなりに困難だ。
 

アイドルマスター シンデレラガールズ シンデレラガールズ劇場(12) (電撃コミックスEX)

2: 2013/05/16(木) 00:25:26.25 ID:R6BEvH9r0

 世の中そう甘くない。自分の手でここまで来れたけど、こんなんでこれから上手くやっていけるだろうか……

 ――って、自分で起業するぐらい、俺はこの仕事が大好きじゃないか。今から弱気でどうする。ここまで来たら絶対アイドルになってくれる人を見つけてみせる。

 俺は腹を決め、アイドルになれそうな人をスカウトするべく、事務所を出て、人の多い駅前辺りに向った。

 下手したら通報されかねないが、アイドルに向いてそうな女性へと片っ端から声をかける。

 逃げられたり、無視されたり、悩まれたけど断られたり、何故か雑談になったり、色々な反応を貰ったが、俺は挫けない。
 

4: 2013/05/16(木) 00:32:00.59 ID:R6BEvH9r0

「見つからないなぁ……」

 いつの間にか夜になっていた。気がつかないうちに相当な時間歩き回っていたらしい。だが、未だに一人もアイドルになってくれる人が見つかっていない。なってくれそうな人はそれなりにいたが、流石に所属アイドルが一名もいないのは問題のようだ。当たり前だが。

 スカウトではなく、オーディションでもいいのだが、作ってすぐの事務所に果たして人が来るだろうか。案外来るかも知れないが、その子達がアイドルに向いているかどうかは未知数だ。やはり自分の足で探す方がいい。

 駅前の大きな広場にあるベンチに腰掛け、ぼんやりと人混みを見渡す。駅は相変わらず人が多い。

 一日中歩き回って疲れた俺は、ベンチで思う存分体を休めた。くつろぎながら、何となく、空を見上げた。

 星が綺麗だった。大都市だと明るくて見づらいものだが、それにも関わらず、たくさんの星が夜空で瞬いていた。
 
  

5: 2013/05/16(木) 00:48:00.08 ID:R6BEvH9r0

 星の観察に飽きて、そろそろ事務所に戻ろうかと視線を戻した時、視界に映る一人の少女に、思わず目が留まった。その少女は、夜空を見上げて佇んでいた。

 女性にしては身長がやや高く、少し華奢だが体つきはとてもいい。不健康に思えるほど白い肌に、整った顔立ち、透き通るような青い瞳、そして、道行く人々の興味を惹く、肩まで伸びる銀髪。
 真っ白なジャケットと黒いTシャツに、濃い青のジーンズを着こなしている。少女は日本人の顔立ちではなく、ロシア人やアメリカ人のような……分からないが、とにかく、西洋系の顔立ちだった。

 とても、綺麗な少女だった。端麗な容姿に加え、知的で理性的な雰囲気、冷たい眼差し、感情の読めない無表情も合わさって、かなり独特のオーラを放っていた。

 精巧に作られた等身大の人形が立っているのではないかと思わず錯覚してしまうほど、少女は美しかった。

   

6: 2013/05/16(木) 00:55:14.84 ID:R6BEvH9r0

 気がつけば、少女の近くまで歩み寄っていた。本当に、傍から見たら変質者である。

「なぁ、君――」

 空を見上げていた青い瞳が、ゆっくりと俺に向けられた。お互いの視線がしっかりと合わさり、何故か緊張が体を走る。
 彼女の瞳から目が離せない……いつの間にか彼女が持つ、深く澄んでいる、宝石のような青い瞳に見蕩れていた。

「アイドル、やらないか?」

 気がつけば、震える手で名詞を差し出していた。

 動悸が激しい……俺はかつて無い輝きを持つ少女を前に興奮していた。

 目の前の少女をプロデュースしたいと、心の底から思った。
  

7: 2013/05/16(木) 00:57:54.40 ID:R6BEvH9r0

「ヤー……私に何か、ご用ですか?」

 差し出した名刺には目も暮れず、その青い瞳は俺の目を捉えて離さない。

「アイドルやってみないか? 君なら絶対に、トップアイドルを目指せると思う……」

「アイ、ドル?」

 失礼を承知で、名詞を少女の目の前に突き出す。とにかく、受け取って欲しかった。
 少女は胸元に突き出された名詞に目を落とした後、受け取ってくれた。

「アイドル……ですか?」

 少女が、名詞と俺を交互に見ながら戸惑ったように言う。今まで無表情だった彼女の表情が変わった事に、何故だか小さな喜びを感じた。
  

9: 2013/05/16(木) 01:17:38.43 ID:R6BEvH9r0

「……そう、アイドルだ。君なら、どんなアイドルよりも輝けるって思ってる」

 何を言ってるんだ俺は……ナンパじゃないんだぞ。一人焦るものの、彼女は無表情のまま特に反応は示さなかった。目を見開いたまま微動だにしてない。

 少女はそうしたまま数秒間固まっていたが、おもむろに口を開いた。

「流石に、今すぐには決められません……ごめんなさい」

 少女は申し訳なさそうな声色そう言った。あまり表情に変化が無いけれど。

 ただ単に断るためにそう言ったのかも知れないが、それも仕方ない。年頃の女性から見ると俺は大分怪しいだろうし、警戒もするだろう。

 あまり感情を表に出さない少女からは、何も読み取れない。果たして、アイドルをやってくれるかどうかは分からないが……とにかく、名詞を渡せただけ良しとしよう。

「それじゃ、俺はこれで……いきなり申し訳なかった」

「いえ、大丈夫です。お話、ありがとうございました」
   

10: 2013/05/16(木) 01:19:36.68 ID:R6BEvH9r0

 俺は、後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去った。

 少し離れた所で、未練がましく一度だけ振り返る。

 ――少女は、俺の名詞を握り締めながら、また夜空を見上げていた。その深い青の瞳には、きっとたくさんの星々が映っているのだろう。

 あの子をトップアイドルへと導きたい。あの子と一緒に、トップを目指したい。

 初対面で、自分でも気持ち悪いと思うが、純粋にそう思った。
 

19: 2013/05/17(金) 00:10:07.09 ID:ge1OIQK00

 あの少女と出会ってから二日経ったが、未だに連絡は無い。やはり無理だったか。

 本来なら二日間ずっとスカウトに明け暮れている筈だったが、あの少女がずっと頭の中に残っていてスカウトする気が起きなかった。

 昨日も今日も、少女を待ち続けて恐ろしく少ない事務仕事を淡々とこなしていた。

 ……いつまでもこうしてはいられない。

 いくらあの少女に心奪われたとは言え、このまま何もしないでいるとこの事務所は潰れる。

 俺は重い腰を上げ、外出の準備を始めた。また、スカウトしに行く為である。

 ものの数分で準備を終え、扉を開けて外に出る。

 ――事務所の前には、一人の少女が佇んでいた。
 

20: 2013/05/17(金) 00:18:37.90 ID:ge1OIQK00

 ほっそりとした、か細くて、雪のように白い足。紺色のショートパンツに、白いTシャツ、薄い生地の青いパーカー。とても綺麗な、痛んだ箇所が見当たらない、肩まで伸びるさらさらの銀髪に、目立つ西洋系の整った顔立ち……目の前に立っているのは、見覚えのある少女……

 ――青い瞳と、目が合った。

「あぁ……えっと……」

 突然の事に目を白黒させてしまう。そんな俺を、彼女は無表情で見つめている。

「アイドルになろうと思ったので、ここに来ました」

「え? あ、そうか……別に、名刺に書いてあった携帯の番号に連絡してくれてもよかったんだぞ?」

 何もわざわざ住所を調べて足を運ぶ必要は無い。
  

21: 2013/05/17(金) 00:23:19.43 ID:ge1OIQK00

「アイドルになるのに、書類などは書く必要はないんですか?」

 彼女が上目で問いかけてくる。

「まぁ、必要だけど……アイドルになりたいかどうかを言うのであれば、別に電話でも……」

「そうでしたか、でも、もう来てしまったので」

 もっともだ。

「来てくれてありがとうな、喜んで歓迎するよ。どうぞ、入ってくれ」

「お邪魔します」

 俺に続いて事務所へと入る少女。興味深そうに室内を眺めている。
 

22: 2013/05/17(金) 00:31:41.62 ID:ge1OIQK00

「誰もいないんですね」

「あぁ、俺が社長兼プロデューサー兼事務員だ」

 少女がきょとんと首を傾げる。その仕草がとてもあざとくて可愛い。そんな、男を悩頃するような仕草を無意識にやっているのが怖い所だ。

「ヤー……私以外の他のアイドルは今日はいないんですか?」

 随分と痛い所を突く……もしかしたらアイドルになるのを断られてしまうかもしれないが、正直に話そう。

「他のアイドルはいないんだ」

「そうなんですか」

 あまり表情に変化は無く、彼女は興味がなさそうにそう言った。反応が非常に素っ気ない。
  

23: 2013/05/17(金) 00:40:38.46 ID:ge1OIQK00

「えーっとな……絶対に警戒させちゃうし、不安にさせてしまうからあまり言いたくないけど……当分の間、二人っきりでいる事がある……」

「ヤー……私は大丈夫です。気にしないでください」

 本当に気にしていないように見えるが、やはり、嫌がってる可能性も十分にある。彼女との距離には気をつけなければ。

「ありがとう……気休めにもならないと思うけど、アイドルに手を出す気とか毛頭ないから、一応安心して欲しい」

 二人っきりだから意識とかはしてしまうかもしれないが、それは仕方ないだろう。彼女は男性の意識を掻っ攫うほどの美貌を持っているのだ。

「それで、どうして話を受ける気になったんだ?」

 何となくそう聞くと、暫しの間、彼女は沈黙した。やがて、口を開く。

「アイドルは、夜空で輝く星のようです。私も、あの星々のように輝きたいと、そう思いました」

 その青い瞳に強い意思を携えて、少女はそう言った。
 
 アイドルになりたい気持ちは強そうだった。もしかしたら、昔から興味はあったのかもしれない。
 

24: 2013/05/17(金) 00:55:46.89 ID:ge1OIQK00

「そっか……よし、任せてくれ。アイドルは大変だろうけど、一緒にがんばろうな」

「ダー。アイドル、がんばります」

 ほんの少しだけ、少女は表情を和らげる。

「カーク ヴァス ザヴート?」

 彼女は突然、流暢な外国語で俺へと問いかけてきた。

 戸惑っている俺を見て、少女は小さく微笑んだ。初めて見る彼女の笑顔はとても可愛らしくて、思わずマジマジと見つめてしまう。

「フッ、貴方のお名前は? と聞きました」

 そんな俺の状態を知ってか知らずか、外国語で言った質問を日本語に翻訳して、少女は再度俺に問いかけた。

「……え? あ、えっとな、俺はPって言うんだ、君は?」

 慌てて自分の名前を告げる。正直、彼女の微笑みに衝撃を受けていて若干上の空だった。
  

25: 2013/05/17(金) 01:03:32.74 ID:ge1OIQK00

「……P、ね。……ミーニャ ザヴート アーニャ」

「ミーニャ・ザヴート・アーニャって言うの?」

 彼女は静かに首を横に振った。

「ミーニャ ザヴートは、私の名前は――です、という意味で、自分の名前を教える時に使うんですよ。アーニャは、ええと……ニックネームよ。私はアーニャ……正式にはアナスタシアです。よろしく、プロデューサー」

 彼女が屈託のない笑みを浮かべながら、手を差し出した。

「あぁ、よろしく」

 俺も手を伸ばして、彼女の手をとり、握手を交わす。

 アーニャは、さっきまでとは打って変わって随分と表情が豊かになっていた。

 アーニャが浮かべた笑顔は、どんなアイドルにも、彼女が言う夜空の星々にも負けず劣らず輝いているように思う。

 この少女となら、どこまでもいけそうな気がした。 
 

34: 2013/05/18(土) 01:13:12.14 ID:6UTIRfNY0

「よし、まずはアイドルの基礎を学びながらモデルのお仕事だな」

「私が、モデルですか?」

「あぁ、女性向けファッション誌のモデルだ。載るのは一ページだけだと思うけど、それでもちゃんとした仕事だ。やってくれるか?」

「ダー。任せてください」

 ファッション業界にもコネクションはある。それを使ってもよかったが、試しに応募したら一発で採用された。

 表情の変化がやや乏しいが、それでも彼女はとても魅力的な容姿をしている。それに、モデル向きの体型だ。

 アーニャにはアイドルになる為に必要なレッスンを受けてもらいながら、当分はこういうモデル系の仕事をやってもらおう。
 

35: 2013/05/18(土) 01:16:34.64 ID:6UTIRfNY0

 ――数日後、新しいプロダクションでの初めての仕事へと、俺とアーニャは向った。

「初めての仕事は緊張しますね」 

「気軽にやってくれて大丈夫だ。それに、余計不安になったら申し訳ないけど、俺も付き添うから」

「一人よりも、ずっといいです」

 本当に緊張しているのかと疑問を抱くほど、アーニャはいつも通りだ。

 彼女は表情の変化に乏しい。今日もいつも通りのように見えるが、多分、言葉通り緊張はしているのだろう。

 安心させたり、緊張をほぐす事は出来ないかもしれないが、それでも出来る限りの事をしてあげよう。プロデューサーにできる事なんてたかが知れているが。
  

36: 2013/05/18(土) 01:31:32.36 ID:6UTIRfNY0


 質素で、小さな控え室に通されたアーニャは、相手の会社が指定した服に着替えて、後はずっと椅子に座って呼ばれるのを待っていた。

 着替えたアーニャは、ファッション性の高いカジュアル系の黒いパーカーに、赤いカットソー、青を基調としたチェックのスカートを着用。すらりと伸びる白い足を膝下まで黒いソックスで覆っている。
 アーニャはよくショートパンツを好んで着ているが、スカートも中々に似合う。

 暫くしてスタッフがやって来た。いよいよ撮影が始まるようだ。

「ヤー。がんばります……」

「がんばれ。応援してる」

 いつもよりも少しだけ表情を硬くして、アーニャはカメラの前に向う。

 スタッフと一言二言言葉を交わした後、アーニャがぎこちなく、ポーズを取った。

 カメラのシャッターが切られる。

 十数分後、撮影は終わった。

 アーニャは撮影中は終始無表情だったが、不思議な事に何も言われていない。要求された事を淡々とこなし、撮影は無事終了した。
  

37: 2013/05/18(土) 01:38:19.54 ID:6UTIRfNY0

 安堵したような表情を浮かべながら、アーニャが戻ってくる。やっぱり、初めての仕事で緊張していたらしい。

「お疲れ様」

「プロデューサー、私、上手くできていたでしょうか?」

「あぁ、とっても上手くできていたと思う。本当に、お疲れ様」

 ポーズを取る時に少しだけぎこちなさはあったけど、この仕事で撮るのはムービーじゃなくて写真だ。何も問題は無い。

 とりあえず、最初はこの現場の空気にがんばって慣れてもらおう。

「拍子抜けかもしれないけど、もう仕事は終わりだ。帰ろう」

「えーっと、この後は確か、ダンスのレッスンですね」

 アーニャにはレッスンを受けさせている。環境が変わってまだ緊張が抜け切っていない時に辛いだろうけど、アイドルになるには必要な事だ。

「レッスンは大変か?」

「ダー。ですが、レッスンは楽しいです。私に才能があるかどうかは分かりません。でも、精一杯がんばります」

 彼女は楽しそうにそう言った。その言葉を聞いて、少しだけ安心する。

 こうして、アーニャの初めての仕事は無事成功に終わった。
 

38: 2013/05/18(土) 01:44:15.94 ID:6UTIRfNY0

 後日、アーニャがモデルとして掲載されるファッション誌を購入したら、一ページ一杯に大きく載っていた。

 無表情だったけど、アーニャの美しさが存分に伝わってくる写真だった。会社的にはアーニャの着ている服を見てもらいたいのだろうが、多分、大体の人はアーニャに視線が行くのではなかろうか。

 たった一つの雑誌に一ページ分掲載されただけなのに、どこからともなくモデルの仕事がたくさん来た。

 この事を教えると、アーニャも目を丸くしていた。

「ヤー。驚きました……けど、嬉しいです」

 本当に嬉しそうな表情を浮かべるアーニャを見て、俺も思わず頬が緩む。

「まだまだ始まったばかりだ、一緒にがんばっていこうな」

「ダー。今は実力が足りませんけど、いつかは歌ったり、踊ったりもしてみたいです」

「アーニャならきっとできるよ。トップアイドルだって目指せるさ」

 アーニャは、輝いている。その整った容姿も魅力の一つだが、彼女はもっと本質的に、そういう素質があるように思う。

 アーニャは、もっと輝ける。俺はこれからもずっと彼女を支えていきたい。彼女を近くで見ていたい。

「プロデューサー。私、もっとがんばりますね」

 微笑むアーニャ。

 彼女の笑顔だって、もっと見たい。
  

43: 2013/06/03(月) 00:00:25.00 ID:0Xna/RKR0

「知ってます。プロデューサーはこの仕事に対してとても真剣で、それに、私の助けになってくれています」

「そういって貰えると嬉しいよ」

 私がそう言うと、照れくさそうにプロデューサーは笑った。
 プロデューサーが栞の挟んだ本をしまい、立ち上がる。

「それじゃ、次の仕事の書類、確認しようか」

「はい」
 

44: 2013/06/03(月) 00:07:12.23 ID:0Xna/RKR0

 ――アーニャが所属して半年が経った。アーニャは、今ではもうライブが出来るくらいに成長した。

 ダンスなんかは飲み込みがとても早く、驚異的な速度で成長。歌だってとても上手だ。昔は全然行かなかったらしいが、アイドルになってからはカラオケでよく歌の練習している。どうでもいいがよくアーニャに連れ出されて一緒に行く事も多い。

「そういえば、アーニャが載った雑誌を集めてたらとうとう本棚埋まっちゃったよ」

「別に捨てていいですよ?」

「収納する事はあるかもしれないけど、捨てる事はないよ。全部残しておきたいんだ。俺に付いて来てくれた、たった一人のアイドルだからな」

 もう何ヶ月も経つが、事務所は未だに俺とアーニャで二人きりのままだ。最初こそ意識してしまっていたが、今ではもう慣れた。

 アーニャは事務所内ではあまり喋らず雑誌を読んだり、寝転がったりしてくつろいでる。やましい気持ちなど無いが、一応俺も男だし、それを考慮するとアーニャは無防備すぎる。

 男に対して抵抗があまり無いのだろうか? 若干不安だ。
   

45: 2013/06/03(月) 00:12:05.92 ID:0Xna/RKR0

 普段アーニャとの会話は少なく、事務所は無言の空間に支配される事が多い。だけど、何故かその空気が苦では無い。むしろ心地いいくらいだ。不思議である。

 もっとも、相手がどう思っているかは分からない。少なくとも嫌われてはいない……筈。嫌われてたら男と二人っきりの空間とか御免だろうし。多少の信頼はあるのだろう。


 相変わらずアーニャにはモデルの仕事がたくさん来る。最近は有名な雑誌にも取り上げられるようになって、知名度も高くなってきた。

 アイドルになってそんなに時間は経っていないが、そろそろ本格的なアイドル活動をしてみてもいいだろう。

「それじゃ、営業行ってくる。外出する時は鍵よろしくな」

「ダー。お留守番は任せてください」

 アーニャには申し訳ないが、今の所、俺のプロダクションの知名度はいかんせん低すぎる。アーニャに実力があっても。新人アイドルと無名のプロダクションだ。いい仕事が取れ無い事がある。

 最初の方はコネで何とかしよう。アーニャは何者も寄せ付けない高い実力を持つが、それを世に知らしめるきっかけが必要だ。幸い、芸能関係者との繋がりは結構ある。
 
 俺は携帯を取り出し、芸能界関係の知り合いへと電話をかけた。
 

46: 2013/06/03(月) 00:15:06.61 ID:0Xna/RKR0

「アーニャ、この仕事、できそうか?」

 俺がアーニャの為にとった仕事は、色々なプロダクションのアイドル達がたくさん集まるライブだ。合同ライブとかではなく、一人一人、または一グループが順番にやっていく形式のものだ。テレビにも映るし、規模は非常にでかい。

 参加するアイドルは、実力があっても大衆には知られていないアイドルが七割と、人を呼び込む為に大人気で知名度も高いアイドルが三割。

 このライブで新しい曲を発表するアイドルもいる。きっとたくさんの人が来るだろう。

「一人で参加するアイドルは、実は少ない。大体三人とか五人とか、グループだ」

 この仕事を受けた場合、アーニャは一人で、初めてのライブなのに一人で舞台で立つことになる。それはとっても勇気が必要だと思う。大きな仕事ではあるが、俺は利益を求めてはいない。無理強いなんてしない。

 俺なんかについてきてくれたアイドルだ。アーニャの意見を尊重したい。

「当たり前だけど、無理強いはしない。初めてなのに、大勢の観客の前に一人で立つっていうのは、凄い勇気が要る事だって、アイドルをやっていなくても分かる」
 

47: 2013/06/03(月) 00:20:46.35 ID:0Xna/RKR0


「一人ではありません」



 彼女がきっぱりとそう言う。
 アーニャが俺の手を取り、両手で包み込んだ。

「ヤー……私には、プロデューサーがいます。私は大丈夫です、任せてください」

「アーニャ……無理してないか? 気なんて遣うなよ、俺はアーニャの意見を尊重する」

 アーニャは優しい子だ。本当に無理しているかもしれない。
 心配になって思わず声をかけたが、彼女は静かに首を横に振った。

「大丈夫です。ただ、私の事、見守っていてください。ずっと――」

 上目遣いで俺を見やる。その青く澄んだ瞳に、視線が吸い込まれそうだった。

 どこかで、似たような事――

「心配しないでください。アイドル、楽しいです。ありがとう、プロデューサー」

 ほんのりと頬を桜色に染め、アーニャが笑った。

 まさか――

 いや、アーニャは違う、大丈夫だ……。俺を家族のように思って、心を開いてくれているだけだ。きっと、そうだ。

 きっと……
 

58: 2013/06/10(月) 00:19:49.32 ID:qRVxqJ9e0

「ヤー。髪が伸びて来ました、そろそろ切らないと」

 机で事務仕事を淡々とこなしていると、アーニャが前髪を弄りながら唐突にそう告げた。書類からアーニャに視線を移す。出会った時と比べると確かに伸びている。
 
 毎日のように顔を合わせている事もあり、言われるまで気付かなかった。

「俺が切るか? なんてな」

 笑いかけながら、九割冗談、一割本気で言ってみる。過去に女の子の髪を切った事が何回もあるのだ。自信は若干ある。

「切ってくれるんですか?」

 冗談のつもりだったが、アーニャは真顔で食い付いてくる。その予想外の反応に、動揺してしまう。ただ冗談に乗ってきただけだよな?

「アーニャがいいって言うんなら、切るけど……」

 冗談とは告げずに、俺は続けた。心の底ではアーニャの髪に触りたいとでも思っているのだろうか。了承されるわけないというのに。
 年頃の女の子が男に髪を触れさせるわけが無い。
 

59: 2013/06/10(月) 00:30:18.28 ID:qRVxqJ9e0

「そうですか。では、お願いします、プロデューサー」

 予想をあっさり裏切り、アーニャは俺を放心させる一言を放つ。

「は?」

「髪切ってください、私の……」

 真っ白で柔らかそうなアーニャの頬に、赤みがさす。

 どこかで……どこかで似たような事があった気がした。

『髪……切っていただけませんか?』

 ――いや、嘘だ。俺ははっきり覚えているじゃないか。思い出したくないだけだ、過去を。

「プロデューサー?」

 呼ばれて、はっとする。アーニャが心配そうに俺の目を覗きこんでいた。

「大丈夫ですか? 汗を掻いてますけど」

 頬を小さな雫が伝う。確かに、汗だ。
 やはり、思い出したくない。昔の事なんて、忘れたい。
 

60: 2013/06/10(月) 00:41:46.65 ID:qRVxqJ9e0

「大丈夫だ。それより、やっぱり切るのは無しだ。女の子の髪を男が軽々しく触るべきじゃないしな」

 そうだ。女の子の髪を、軽々しく触るべきじゃない。
 
「……むむ。男に二言はあってはいけませんよ」

「悪かったって、冗談のつもりだったんだ、許してくれ」

 可愛らしくむくれるアーニャは、天使の如く愛らしい。さらさらの銀髪も、正直言うと触りたかった。
 ……プロデューサーがこんなのでどうする。

 気を引き締めて、俺は再び仕事に取り掛かった。

「もうすぐレッスンだろ、準備しろよ」

「ダー。分かってますよ……もう、プロデューサーのバカ」

 後半は小さい呟きだったけど、しっかり聞こえてるって。バカとは何だ。

 女の子って男に髪触られて平気なんだろうか。
  

61: 2013/06/10(月) 00:56:30.77 ID:qRVxqJ9e0

 代わり映えの無い日常が、暫く続いた。アーニャはいつもと変わらずレッスンを受け、仕事をこなし、学校で勉学に勤しむ。
 俺もアーニャの為に外を回り、仕事を取り、そして事務所で書類やらメールやらスケジュールやらを整理する。
 
 だが、今日は少しだけ違う。今日が、例のライブの日だ。

 もしかしたら今日を区切りに日常が変わるかもしれない。それくらい大規模なライブだ。

 故にライブ自体が初めてのアーニャにとってはプレッシャーと負担がかなりのものだろう。

 何か出来る事は無いものか……

「アーニャ、大丈夫か?」

 楽屋にて、用意された衣装に着替え、メイクも終わったアーニャに声をかける。いつも通りに見えるが、やはり少なからず緊張はしているのだろう、表情が硬い。

「やはり、少し緊張します」

「ごめんな……俺にはただひたすら応援する事しかできない……」

「ニェート。プロデューサーがいてくれるだけで、心強いです……」

 アーニャが、ぎゅっと、左手を胸の前で強く結ぶ。
 ほんの少し瞳を濡らして、上目で彼女は俺を見上げる。その表情は、何か言いたげだ。

「プロデューサー……!」

 不意に、アーニャが俺に抱きつく。正面から両腕を背後に回され、しっかりと抱きしめられた。
 彼女の柔らかい胸が押し付けられているが、突然の出来事に動揺してそれどころではない。
  

62: 2013/06/10(月) 01:07:53.46 ID:qRVxqJ9e0

「どうした? やっぱり、怖いか?」

「怖いです。一杯、一杯人がいて」

 ワイシャツに顔を埋めながら、ぼそぼそと、独り言のようにアーニャは呟く。
 やっぱり、いきなりこんなに大きなライブは酷だったんだ。俺は、間違ってしまった。アーニャなら行けると勝手に思い込んで、アーニャにこんなに負担を掛けて……

 自分の過ちに苦悩していると、アーニャが俺を抱きしめる手に力を込めた。

 アーニャの体温に触れて、少しだけ心が安らぐ。
 自然と、アーニャを抱きしめる手に力が入ってしまう。

 暫くの間、普通ならダメな行為だが、俺とアーニャは抱き合っていた。
 恋人同士のような抱擁ではなく、彼女を落ち着かせるためのものだから問題ないと、自分に弁明する。

「プロデューサー、ごめんなさい……もう、大丈夫です」

 目を落とすと、アーニャが上目遣いでこちらを見上げていた。
 思わず見蕩れてしまうくらい、綺麗で、優しい笑みを、アーニャは浮かべていた。

 完全に緊張が解けてはないようだが、色々と吹っ切れたらしい。

 元気になってくれて、よかった。
  

63: 2013/06/10(月) 01:20:18.20 ID:qRVxqJ9e0

「プロデューサー、貴方がいるから、きっと……ナジェージダ……希望を持てます」

 アーニャが、俺の胸に頭を預ける。

「ヤー……今の私は、空の向こうまで届くような歌、歌えると思います」

「あぁ……アーニャならきっと歌える」

 アーニャを半年以上見てきた。下手すると、そこら辺の恋人なんかよりも、ずっと長い時間、一緒にいた。

 だから、確信が持てる。アーニャなら、出来ると。

 一番最初の舞台がこんなにも大きな舞台だと、アーニャからしてみれば全てが初めての事で、負担が大きい事も分かっている。
 それでも、アーニャなら出来る気がした。

 ――アーニャは、輝いているから。

 夜空に浮かぶ星なんかよりも、ずっと強く、ずっと明るく。

「ありがとう、プロデューサー。私、できそうです」
 

64: 2013/06/10(月) 01:47:18.95 ID:qRVxqJ9e0

 アーニャを呼び出しに、スタッフが楽屋に訪れる。抱き合ったままだったので、ノックされた時にお互い慌てて離れた。

「出番だ、行くぞ」

「ダー。がんばります」

 舞台へと、アーニャが向う。
 
「がんばれ、アーニャ」

 その堂々とした後ろ姿に、言葉を送る。

 アーニャの晴れ姿、見せてくれ。
 

65: 2013/06/10(月) 01:56:39.55 ID:qRVxqJ9e0

 そして、舞台にアーニャが立った。

 たくさんのスポットライトの光が、彼女を照らしだす。後ろの大きなスクリーンには、アーニャの姿が映し出された。

 彼女はあまり有名ではないが、観客も新人アイドルを品定めに来ている人が多い。
 美しい容姿と神秘的なオーラを持つ彼女の魅力はすぐにライブ会場の人達に伝わり、既に観客席からはたくさんの応援の声と歓声が上がっている。

 やがて、観客の喧騒に負けないぐらいの大音量で流れ始める曲。

 アーニャは不敵に、楽しそうな表情を浮かべながら、何回も練習したダンスを観客に披露した。

 彼女のダンスは、全体的に動きが小さくて軽やかなものであり、決して激しいものではないが、そこそこに難しい振り付けだと聞いていた。だが、彼女は一つもミスをせず、汗を浮かべながらも、動きを鈍らせる事無く、踊る。

 そして、前奏が終わり、アーニャは歌いだした。 

 アーニャのよく通る綺麗な声は、喧騒に包まれるライブ会場によく響き渡った。

 本当に楽しそうに微笑みながら、美しい声色の歌声を届けて癒し、踊りで楽しませる。

 アーニャは、やはり夜空に浮かぶ星のようだった。贔屓でもなんでもない、絶対にアーニャは他のアイドルなんかよりも、誰よりもずっと輝いている。
  

66: 2013/06/10(月) 02:00:02.57 ID:qRVxqJ9e0

 広いステージで、たった一人で踊り、歌う。そこに加えてたくさんの観客。精神的負担がどれほどのものか知らないが、彼女は全てを完璧に成し遂げた。

 誰もが釘付けになっていた。余所見をする者なんていない。例え他に好きなアイドルがいたとしても、誰もが一度は目を吸い寄せられる、そんな雰囲気と美貌を持つ少女がアーニャだ。

 アーニャの初めてのライブは、大成功に終わった。

 突如現れた新人は多くの人々の関心を集め、故に色々な所で取り上げられ、一躍人気者となった。

 アーニャがたくさんの人に評価されて、凄く嬉しかった。アーニャもとても喜んでいた。

 あの再開が無ければ、最高の日だったのだろう。

 忘れていた、ライブにはあのプロダクションも参加していた事に。
 気付かなかった、あのアイドル達が、参加していた事に。
  

67: 2013/06/10(月) 02:07:05.27 ID:qRVxqJ9e0

「プロデューサー?」

 一仕事終えたアーニャに飲み物を持って行こうと、自販機にお金を入れていたら、プロデューサーと呼ばれた。

 声は女性のもので、明らかに俺に向けられている。今この場には俺しかいないのだ。

 だが……人違いな筈だ。アーニャの声ではないのだから。

「返事くらいしたらどうなのかしら? プロデューサー」

 この声を、知っている。アーニャにも劣らない、透き通った綺麗な声の主を、知っている。

 小銭を自販機に入れようとしたまま、固まった。
 恐る恐る、声をかけてきた女性へと視線を移す。

 そこに立っていたのは――

「……久しぶりだな、千秋」

「久しぶりね、プロデューサー」

 ――黒川千秋。

 ライブ衣装だと思われる黒いドレスに身を包んだ、長い艶やかな黒髪と端整な顔立ちの、やや長身の女性。

 過去に俺がプロデュースしていたアイドルだ。
 

68: 2013/06/10(月) 02:12:40.29 ID:qRVxqJ9e0

「私の出番はずっと先よ……だから、今貴方とお話がしたいわ。ついてきて」

 放心している俺の手を掴んだかと思うと、強引に引っ張る。俺は抵抗せずに、彼女に大人しくついて行った。

 千秋の楽屋へと、二人で入る。アーニャの楽屋と似たような部屋だ。

 千秋は背もたれの無い椅子を指差し、座って、と促す。その椅子に座ると、千秋は唐突に俺の膝の上に乗っかった。

「おい、千秋……!」

「別にいいでしょう? 昔はよくこうしていたんだから」

 言葉に詰まる。確かに、過去にはよく、恋人のように寄り添っていた事があった。

「貴方も私の髪に顔を埋めていいのよ? 遠慮なんてしなくていいわ」

「遠慮する。そして離れてくれ、流石にまずい」

 昔のような過ちは犯さない。アイドルからの好意は、絶たなければいけない。

「嫌よ」

 きっぱりと、千秋がそう告げた。千秋は、根は悪くないが、昔からよく我が侭を言っていた子だ。そして、俺はその我が侭をよっぽど無茶なものでは無い限り、聞いてあげてた。

 だが、今回ばかりは、その我が侭を聞けない。俺は千秋を押し退けて強引に立ち上がる。
  

69: 2013/06/10(月) 02:17:37.12 ID:qRVxqJ9e0

「話しは何だ?」

 なるべく早くアーニャの元へ帰りたかった。

「一年振りの再会なのに、どうしてそんなに冷たいの?」

 彼女が肩を震わせ、俯き、悲しそうにそう言った。

「もう二度と、あんな事が起きないように……な」

 千秋を見て、一年前の出来事を思い出す。思い出したくも無い、過去を。アーニャのステージに立つ姿を思い出して、必氏に過去を振り払う。

 ――でも、無駄だ。一度思い出してしまうと、もう止められない。

「千秋……傷は?」

 そう聞くと、千秋はいきなり衣装を脱ぎ始め、下着姿を俺に晒した。

 呆気に取られている俺に、彼女が近づく。

 鎖骨の横と肩、左の二の腕に大きな傷跡が残っていた。これでは、水着になる仕事や、露出の多い服は着れない。
  

70: 2013/06/10(月) 02:21:07.60 ID:qRVxqJ9e0

「プロデューサー。私、この傷が大嫌いよ」

「あぁ……」

 忌々しそうに、彼女が告げる。
 俺は彼女の傷跡を見て、思わず涙を零してしまう。理由は分からない。色々な事が浮かんでは消えて、何が理由で涙が出たのか自分でも分からない。
 
「俺が……いなければ……」

 千秋がこんなに苦しい思いをしているのは、俺のせいだ。
 みっともなくて、情けないのも分かっているが、涙は止め処なく流れ続けた。

「ねぇ、プロデューサー? 貴方がこの傷にキスをしてくれたら、私、この傷を好きになれると思うの」

 だから、と彼女は続ける。

「この傷に、キスをしてくれないかしら?」

 そんな事……

「お願い、プロデューサー。触れる程度で、いいの」

 普段の強気な態度からは想像できない弱々しい千秋を見て、心が揺らぐ。

 おぼつかない足取りで千秋に近づき、華奢な体躯に手を伸ばす。

 そして、彼女の両肩を掴んだ。

「あぅ……プロデューサー」

 彼女が頬を桜色に染め、恥ずかしそうに視線を逸らした。

 鎖骨の横と肩に刻まれた大きな傷跡に、顔を近づける。

 少し触れるだけだったが、俺は確かに彼女の傷跡にキスをした。
 
 鎖骨の横にある傷跡に口付けをし、次いで肩の傷跡に口付けをする。その後、左の二の腕の傷跡にも口付けを終えて、何故か荒い息をつく千秋から離れた。

「ごめんな……」

「ふふっ。何で謝るの? 私はとっても嬉しかったわ。ありがとう、プロデューサー」

 彼女が再度衣装を着ながら、そう言う。

 

71: 2013/06/10(月) 02:23:41.36 ID:qRVxqJ9e0

 何で、笑えるんだ……アイドルじゃなくても、傷が残るなんて嫌だろうに。

 ましてや、その原因である俺に対して、どうしてそんな幸せそうな表情を見せる。

 千秋は、やはり何も変わっていない。  
 
「二人は、どうしてる?」

 気になって、聞いた。

「二人は貴方の事なんて忘れて新しいプロデューサーと仲良くやってるみたいよ。ふふっ……がっかりした?」

 意地の悪そうな表情を浮かべ、問いかけてくる。少しだけ、寂しい気持ちはあった。

「別に」

「私は、変わってないわよ……私には貴方以外、考えられない。一年間、ずっと貴方の事だけを考えて生きてきた」

 変わって欲しくないという気持ちも、心のどこかにはある。

 でも――

 千秋は変わるべきだって、思う。

 本来の姿に、戻って欲しい……その方が、きっと幸せになれる。


72: 2013/06/10(月) 02:28:00.49 ID:qRVxqJ9e0

「それじゃ、連絡先を交換しましょう? プロデューサー」

「ダメだ」

 きっぱりと断る。このままじゃ、いつまで経っても彼女は変われない。

「傷跡、もっと愛してくれないと嫌よ」

 間髪入れずに、彼女がそう告げた。その言葉は、的確に胸の傷を抉る。
 傷跡が何だ、そんなもの……

 ――ダメだ……傷跡を出されてしまっては、千秋の願いを、断れない。

 彼女の傷跡には、負い目がある。

 千秋を傷つけた償いは、しなくてはならないのだ。一度逃げているのだから、なおさら。

 結局、千秋と連絡先を交換した。

 ……彼女を傷つけてしまった責任を、今度こそ果たさなくてはならないのだ、逃げるわけには行かない。

 今度は、逃げない。

  
 

75: 2013/06/10(月) 09:19:58.56 ID:qRVxqJ9e0

 後日、千秋に呼び出された俺は、二人で人気のない公園のベンチに座り、話していた。

 千秋は変装し、じっくり見ても千秋だと分かる人間はいないだろうが、だからと言って絶対安全というわけでもない。正直二人きりで会うのは避けたかった。

「本当に、あの二人は薄情よ。貴方がいなくなって数週間経てば元通り、今では新しいプロデューサーに好意を寄せているわ」

「……あいつらも、何も変わっていないのか」

 女は恋愛しないと氏ぬ病気にでもかかっているのか。

「でも、前も言ったけど、私は無理よ。私には貴方しかいないもの」

「千秋の気持ちは嬉しいよ……でもな……」

 千秋は、アイドルだ。アイドルじゃなければ、どんなによかった事か。

「分かってるわよ。最初からいい答えなんて期待してないわ」

 拗ねたような口調で彼女はそう言う。

「でも、傷跡は愛して欲しいの」
 

76: 2013/06/10(月) 09:25:13.16 ID:qRVxqJ9e0

 千秋がおもむろに上着を脱ぎ捨て、下着姿を空の下に晒した。

 人気が無いからと言って、こんな事して言い訳がない。

「ちょっと、やめろ千秋」

「じゃあ、早く終わらせましょう? 終わらない限りずっとこのままよ」

 慌てて止めさせようとするも、半ば以上分かっていた事だが。あっさりと拒否される。

 俺の口から異様な呻きが漏れた。仕方ない、彼女の言うように終わらせよう……素早く。

 千秋の長身の割りにほっそりとした肩を抱き、痛々しく残る傷跡に軽く唇を押し当てる。

 千秋と言えば、うっとりとした表情をしながら、俺の頭の後ろに腕を回して抱え込む始末。昔はクールだったのに、何故こうなってしまったのだろうか……今も、テレビとかでは変わらずクールではあるのだが。

「ねぇ、舐めて?」

「は?」

 不意に、彼女が変な事を言う。

「ただのキスでは満足できなくなってしまったわ……だから、舐めて欲しいの」

「…………」

 俺は本当に千秋を変えられるのだろうか。

 やはり、俺達は出会うべきではなかったのだ。

 頬を紅潮させ、傷跡を舐めるように催促してくる彼女を見て、そう思った。

 ……だが、何を言ったって過ちはなくならないし、現状も変わらない。
  

77: 2013/06/10(月) 09:36:55.68 ID:qRVxqJ9e0

 抵抗を諦め、彼女の願いを聞き入れる事にする。

 傷跡に再度顔を近づけ、舐めた。短い時間で、丁寧に、傷跡を舌でなぞる。

「あっ……んん……」

 千秋が小さな声で喘ぎ、俺を抱える手に力を込めた。顔が固定されて動かせない。早く終わらせたいのに。

「千秋、離して」

「ご、ごめんなさい……気持ちよくて……」

 全身性感体か何かなのか、千秋は。

 解放された俺は、さっさと残りの傷跡を舐めて、彼女の要求を満たす。

「ふふふっ。やっぱり、私には貴方しかいないわね」

 クスクスと小さく笑みを零しながら、手を伸ばして俺の手を握る。
 暫くの間、俺の手の感触を楽しむように細い指先を動かし、強く握ったり、軽く握ったりするのを繰り返す。

「――もう一度、私の……私だけのプロデューサーになってくれないかしら」

 頬を真っ赤に染め、瞳を潤ませて、彼女は言った……もう一度、プロデューサーになってくれと。
 
  

78: 2013/06/10(月) 09:39:02.39 ID:qRVxqJ9e0

「悪いけど……それは無理だ」

 今の俺には、アーニャがいるから。

 それに、今千秋のプロデューサーになると、また彼女を傷つけてしまう。
 彼女が俺を好いている限り、千秋のプロデューサーにはなれない。

「……そう……やっぱりあの女が、私達の邪魔をしているのね……」

 聞き取れない声量で何かを呟いたかと思うと、千秋は俯き、口を噤んだ。

 俯いているが、彼女の表情は見えた。

 背筋がぞっとするような、冷たく、無機質な、能面のような表情に千秋はなっていた。

 彼女は瞳に暗い光を宿して、じっと地面を見つめている。

 何も変わっていない。

 再会した時から、分かっていた事じゃないか……

 黒川千秋は、一年以上経っていても、何も変わっていなかった。
 

93: 2013/06/13(木) 00:19:33.21 ID:nZwE3DqZ0

「? ……この栞、確かプロデューサーの」

 ふと、アーニャは事務所のソファの近くに落ちている栞に気付き、それを拾い上げた。
 四葉のクローバーを押し花にし、それを使った手作りの栞だ。手作りのようではあるが、かなり丁寧に作られている。

 アーニャはそれに心当たりがあった。この栞はプロデューサーの物だ。前に見たことがある。

 この事務所には基本的にアーニャとプロデューサーしかいない。アーニャの物では無いのなら、必然的にプロデューサーの物だろう。

 持ち主が分かったのはいいが、今、プロデューサーは仕事関係で外出しているため、渡せない。

 でも、きっと机に置いておけば気付くだろう。そう思ってアーニャは、プロデューサーの机に、拾った栞を置いた。

 その時に、ふと気付く。
 

94: 2013/06/13(木) 00:22:48.43 ID:nZwE3DqZ0

 机には、プロデューサー最近いつも読んでいる本が机に置いてあった。そして、机に置かれたその本にはもう一枚の栞が本に挟まっていたのだ。

 ――また栞?

 アーニャは好奇心からプロデューサーの本を開き、挟まっている栞を見る。
 
「……?」

 本に挟まっていたもう一枚の栞も、四葉のクローバーの押し花栞だった。
 拾ったのと比べると、作りやデザインは違う。だが、四葉のクローバーを押し花にし、それを使った手作りの栞だ。

 似たような栞が二枚……
  

95: 2013/06/13(木) 00:25:21.53 ID:nZwE3DqZ0

 プロデューサーは栞を作るのが趣味なのだろうか。

 もしそうだとしたら、こっちの本に挟まっているのもプロデューサーの手作り?

 もう一枚の栞を見て、プロデューサーが四葉のクローバーを探し回り、それを栞にしている光景を思い浮かべてしまい、アーニャは思わず苦笑してしまう。

 プロデューサーには失礼だけど、その姿は少し違和感がある。

 アーニャは小さく笑みを零しながら、本を閉じて元の位置に戻した。

 何故二枚も似たような栞を持っているのだろう。四葉のクローバーが好きなのだろうか。


 そういえば、四葉のクローバーの花言葉って、確か――









 ――Be Mine






  

108: 2013/06/15(土) 23:34:52.44 ID:TvI+0mXv0

 スタジオ付近の楽屋にて、俺とアーニャは抱き合っていた。傍から見たら恋人に見えるかもしれないが、誤解だ。
 彼女の緊張を解くためにやっている。

 前にあった大規模なライブにアーニャが参加した時、初めてのライブで緊張し、彼女は思わず俺に抱きついてしまったのだが、何故か緊張が解けて、落ち着いたらしい。

 それ以降、酷く緊張する仕事の時はこうして抱きしめて落ち着かせるようになった。

「アーニャ、何だか甘えん坊になってないか?」

 俺の胸に顔を埋めるアーニャは、笑みを浮かべながら頬を胸板に擦りつけている。甘えてくる小動物みたいだ。

「……ごめんなさい」

「別に怒ってはいないが……」

 落ち込む彼女を見て、慌ててフォローする。ただ、年頃の女の子、しかもアイドルにそういう事を許してしまうと、万が一がある。アーニャが落ち着くと言っているなら是非思う存分胸を貸したいが、状況によりけりだ。

「最近、悩んでいませんか? プロデューサー」

「そんな事はないよ」

 悩んでいる事を察知された事に動揺し、間髪入れずに言葉を返してしまった。いくらなんでも不自然すぎる。
 

109: 2013/06/15(土) 23:41:08.49 ID:TvI+0mXv0

「私でよければ、いつでも相談に乗りますよ?」

「別に大丈夫だ。ありがとうな、アーニャ」

 ふわふわの銀髪を撫でる。アーニャの髪は手触りが凄くいい。やはり女の子の髪は触り心地が最高だ。男が無闇に触っていいものではないが。

 アーニャが頬を桜色に染めて、恥ずかしそうに身じろぎした。
 
 本当は誰かに相談したい気分だ。ただ、他人に相談できるような内容でもない。誰が信じるんだ、人気があって有名なアイドルに想いを寄せられているなんて事。信じられるとそれはそれで厄介だし。やはり他人には言いづらい。
  

110: 2013/06/15(土) 23:52:37.51 ID:TvI+0mXv0

 アーニャは撫でられて、くすぐったそうにしながら、口を開く。

「やっぱりプロデューサーといると、心が安らぎます。家にいるよりも、他の誰かといるよりも」

 アーニャの言葉を聞いて、はっとする。似たような事が、前にも会った。

 一年半ぐらい前の出来事だが、よく覚えている。


 もしかして、アーニャは――


「プロデューサー? どうかしましたか?」

「何でもないよ……」


 浮かび上がった想像を、慌てて振り払う。

 思い込みが激しくなってる。よく考えたら、あるわけない。アーニャが俺に好意を寄せているなんて、ある筈もないだろう。

 過去にそういう事があったから、変に意識しているだけだ。
 
 彼女は俺を男とし見ているのではなく、父親のように慕っているだけだ。
 
 長い間一緒にいたから、信頼してくれているだけなんだ。

 きっと、そうだ。  
 

111: 2013/06/15(土) 23:58:37.97 ID:TvI+0mXv0

「プロデューサー? 大丈夫ですか?」

「へっ? あぁ……大丈夫」

 放心していたらしい、注意しなければ。

「アーニャ、もうすぐ撮影始まるぞ。俺は関係者の人達に挨拶してから行くから」

「分かりました……いってきますね、プロデューサー」

 名残惜しそうな表情を浮かべ、アーニャは離れた。軽く身支度を整えて、彼女は撮影場所へと向って行く。

「ごめんな、アーニャ」

 仕事をするアーニャをいつものように傍で見守ってやりたかった。

 携帯で、ある女性にメールを送る。

 彼女が楽屋を出て行って数分後、一人の女性がこの部屋へと足を踏み入れた。

 
 ――黒川千秋
 

112: 2013/06/16(日) 00:00:03.12 ID:NK2CTEj/0

「会いたかったわ、プロデューサー」

「俺はもう、プロデューサーじゃないだろ」

 今更ながら、指摘する。正直どうでもいい事だ。

「私のプロデューサーは貴方だけよ。こんな事、言わなくても分かるでしょう?」

「……そうか」

 千秋が俺との距離を縮め、手を伸ばした。するりと、俺の左腕に両手を腕を絡ませ、腕を抱くようにして密着した。そして、街中を歩く恋人のように、彼女は寄り添う。千秋の豊満な胸の感触が腕を通して伝わってきた。

「……少しは恥らったりしないのかしら、貴方は」

「顔に出ないだけだ、恥ずかしいに決まってる」

 俺の言葉を聞いて、彼女は頬を染めながら魅惑的な笑みを浮かべた。

「ふふっ。嬉しい」
 

113: 2013/06/16(日) 00:07:58.28 ID:NK2CTEj/0

 ぎゅっと、千秋が俺の腕を強く抱いた。
 腕を抱きながら、千秋が頭を俺の肩に乗せる。千秋は、心の底から幸せそうな表情を浮かべていた。

 その表情は、ずるい。

 千秋は綺麗でお淑やかで、清楚だ。そんな人に求愛されて、喜ばないわけが無い。
 正直、千秋の事はかなり好いている、今も昔も。

 だから傷を負わせた事に負い目を感じるし、彼女が求める逢い引きも拒否しない。

 だけど、このままでは――
 
「プロデューサー。いつものように、傷跡にキス、して?」

 上目遣いに、彼女が告げる。猫のようにじゃれ付きながら。

 俺が頷くと、彼女は上着を脱ぎだし、真っ白な肌を晒す。高級そうな黒いレースの下着は、とてもよく彼女に似合っていた。
 じっと胸に視線を注がれている事に千秋は気付き、恥ずかしそうにしている。それに気付いた俺は慌てて目を逸らす。

「……別に、気が済むまで見るといいわ」

 千秋が顔を真っ赤にしながらそんな事を言う。何でそんなに俺の理性を飛ばそうとしてくるんだこいつは。
 

114: 2013/06/16(日) 00:11:43.91 ID:NK2CTEj/0

「……早く、キスして……恥ずかしいの」

 そう懇願されて、俺は慌てて彼女の体に触れる。
 痛々しく、それでいて深く残っている傷跡に顔を近づけ、触れるだけの軽いキスをした。残りの二箇所にも同じようにキスをする。

「うぅ……」

 その間、千秋はずっと顔を真っ赤にして身動ぎ一つせずに固まっていた。

「そんなに恥ずかしいなら頼まなければいいのに」

「嫌よ……こうでもしないと貴方は私に触れてくれないもの」

 確かにそうだが。

「私の出番、もうすぐだから、今日はこれで失礼するわ」

 そう言って彼女は、身支度を整え始めた。脱ぎ去った上着を拾い、身につけ、鏡を見ながら軽く髪を梳いて整えている。
 一通り身支度を終えた彼女は、くるりとこちらを振り向く。

 振り返った千秋は、誰もが魅了される、魅惑的な笑みを浮かべていた。

「では、また会いましょう、プロデューサー」
 
「またな」

 千秋が小さく手を振った。俺も小さく返す。

 くすくすと笑みを滲ませ、千秋は楽屋を出て行った。
   

115: 2013/06/16(日) 00:14:55.59 ID:NK2CTEj/0

 暫くの間、千秋が出て行った扉を、ぼーっと眺めて佇んでいた。
 
 不意にアーニャを思い出す。

「アーニャの様子を見に行くか……」

 呆けている場合じゃない、アーニャの所に行って仕事を応援しよう。

 俺は楽屋を後にして、アーニャのいる撮影場所へと向った。

 質素で綺麗な長い廊下を、一人歩く。迷路のように入り組んでいて、迷いそうだが、アーニャの撮影場所は分かる。

 十字路を真っ直ぐに突き進んだ時、ふと、視界の端に黒髪の女の子が映った。前髪が目を隠すぐらい長い、どこか仄暗い雰囲気の女の子。

 何故か、思わず足を止めそうになる。 



 気のせい、だよな?


 

117: 2013/06/16(日) 00:31:54.43 ID:NK2CTEj/0





「プロデューサーさん」






 廊下に響く、少女の声。

 透き通った綺麗な声は、間違いなく俺に向けられたものだ。周囲には俺一人しかいないのだから。

 声には聞き覚えがある。

 気のせいではなかった。


 振り返り、廊下に佇む少女を見つめる。俺をプロデューサーと呼んだ少女は、黒を基調とした衣装を着こなしている。仕事場に向う途中だったのだろうか。

 長い前髪に隠れてしまっているが、隙間から彼女の澄んだ青い瞳が見えた。

 目の前の少女は間違いなく、俺が過去にプロデュースしていたアイドルだ。



 千秋の話が本当なら、彼女は新しいプロデューサーを好きになっているらしいが――





 ――俺をじっと見つめる少女は、何故だか千秋同様、何も変わっていない様な気がした。

 

 
 

567: 2014/01/15(水) 02:11:05.82 ID:xNrYVDgF0

 ――鷺沢文香。

 それが、少女の名前だ。

 アイドルの中でもトップクラスの顔立ちだが、アイドルには向かない大人しめの性格で、喋るのがあまり得意ではない。儚げな雰囲気を纏い、護ってあげたくなるような気持ちにさせる少女だ。
 
 テレビで見かけることは少ないが、ライブにはよく出ているのを俺は知っている。

 「久しぶり、です……プロデューサーさん」

 「久しぶりだな、文香……」

 小さく足音を鳴らして、俺の方へと近づいてくる文香。

 手を伸ばせば触れる距離まで近づいた瞬間、倒れこむようにして、抱きついてきた。

  

568: 2014/01/15(水) 02:15:14.73 ID:xNrYVDgF0


 「……どうして、私を置いていったんですか」

 俺の背中に両手をしっかりと回し、上着に顔を埋めて、くぐもった声で悲しそうに文香は言う。

「…………ごめん」

 色々言いたいことが浮かんでは、言葉にできずに消えていく。結局、謝ることしかできなかった。

 絶対に離さないといわんばかりに、彼女が抱きしめる手に力を込める。

「文香……大丈夫か……?」

 呼び掛けると、彼女が僅か数センチだけ、離れた。 

「……プロデューサーさんのいない世界が、どれほど寂しくて、切なくて、悲しいものだか分かりますか? …………私はもう――」

 文香が顔を上げる。その澄んだ青い瞳は、暗い光が灯っていた。

「――貴方がいないと、ダメです……」
   

569: 2014/01/15(水) 02:16:37.62 ID:xNrYVDgF0

 そして、また頬を胸板に擦りつけたかと思うと、俺の上着をぎゅっと強く握り、震え始めた。

 「貴方のいない世界が、こんなにも価値の無いものだとは思いませんでした……プロデューサーさんの事を考えてしまって……本を読むことさえ、満足に集中できませんでした……」

 胸元が、水を吸収して湿り気を帯びる。文香は、肩を震わせて泣いていた。 
 
 「……プロデューサーさんに出会う前は……いえ、プロデューサーさんと出会ってからも、私は本が好きで……ずっと本を読んでいました……」

 確かに、文香は本を読むのが好きだった。事務所でも控室でも、どこでだって彼女は本を読んでいた。
 
 本を読んでいる文香の姿は美しく、たまに仕事を忘れて魅入っていたことを思い出す。
  

570: 2014/01/15(水) 02:20:32.31 ID:xNrYVDgF0

 「……それぐらい本が好きな、私ですが……プロデューサーさん……最近の私を、知っていますか?」

 文香がポケットから三枚の写真を取り出す。文香と俺のツーショットの写真と、俺が写っている写真が二枚だった。
 俺が写っている写真二枚には、背後に他のアイドルも写っているのだが、背後に写っているアイドルの顔は、黒く塗りつぶされていた。それを見て、背筋に冷たいものが走る。

 「……私……本よりも、プロデューサーさんの写真を見ている方が、長いです」

 涙をたくさん零しながら、文香が笑みを浮かべた。

 「……大変です、プロデューサーさん……どうすればいいでしょうか……?」

 「文香……」

 俺は、どうすればいいのだろうか。

 傷つけたのは、千秋だけでは無い。そんな事、分かりきっていた筈なのに……。

 何を考えるべきで、どんな言葉をかけるべきなのか何も思い浮かばない。 
 
 

571: 2014/01/15(水) 02:22:26.88 ID:xNrYVDgF0

 「プロデューサーさん……キス、してくれませんか?」

 「それはダメだ」

 大体、今俺達が話しているここは、普通の通路だ。いつ人が来てもおかしくないのだ。

 しかも、文香は俺に抱きついている。それすらも十分に危うい。

 文香には申し訳ないが、彼女の肩を掴んで強引に引き離す。顔を顰めて離すまいと文香も力を込めるが、非力な彼女が成人男性の力に敵う筈も無く、あっさりと文香を引き剥がす事に成功する。

 「……………」

 「文香の気持ちは嬉しい……だけど、ごめん……」

 文香が俯く。ぽたりぽたりと、彼女の頬を涙が伝い、滴り落ちた。

 「――ごめんなさい……プロデューサーさん……私、アイドル、やめます」

 「お、おい……文香……」

 文香が顔を上げる。その表情は涙に濡れていたが、満面の笑みを浮かべていた。とっても綺麗な笑顔だった。

 「そうすれば……プロデューサーさんは恋人になってくれるんですよね?」
  

572: 2014/01/15(水) 02:26:35.95 ID:xNrYVDgF0

 文香の言葉を聞いて、千秋の姿が脳裏に浮かんだ。仮に俺がどちらかを選んでも、まず間違いなくどちらか一方が傷つくだろう。

 自惚れでは無い。恐らく、選ばれなかった方は傷つく。流石にないとは思うが、もう一度惨劇が起きるかもしれない。

 そんな事なら俺はどちらも選ばずに二人とも傷つける。どんなに恨まれようとも、責められようとも、片方を選ぶわけには行かない。

 「無理だ。文香がアイドルでなくても、俺は文香の恋人にはなれない」

 「……そうですか」

 文香が、また俯いた。彼女がどんな顔をしているのかは、前髪に隠れていて、見えない。

 「……プロデューサーさんは、優しい人ですから、答えは知っていました……だから――」

 彼女が唐突にポケットに手を突っ込み、さっきの三枚とは別の、もう一枚の写真を取り出した。

 その写真を、俺に突き出す。



 「――その優しさにつけこんでも、いいですか?」



 文香が俺に突き出した写真には、俺と千秋が写っていた。

 正確には、下着姿の千秋の体にキスをしている俺と、頬を赤らめて恥ずかしそうに瞳を閉じている千秋の姿が写っていた。

 いつの間にか、盗られていたらしい。千秋と二人で会っていた所を。
  

573: 2014/01/15(水) 02:28:00.65 ID:xNrYVDgF0

 「プロデューサーさん……今度は、キスしてくれますよね?」

 文香が頬を紅潮させて、一歩踏み出す。その表情は期待に満ちていた。

 「断ったら、ばら撒くのか?」

 そう問うと、彼女は動きを止める。そして、くすくすと笑みを零した。

 「……ごめんなさい、プロデューサーさん。脅迫は……本気じゃないと機能しないんです……」

 表情から見て取れる。
 鈍く、それでいて、怪しく、力強く煌めく青い瞳は、彼女が本気だと言う事を示していた。

 「……この写真、一枚じゃないです……ですから、強引に奪っても、無駄、です……」

 俺の目から、涙が零れた。何に対する涙なのかは、分からない。

 「プロデューサーさん……キス、してください」

 ――千秋をこれ以上傷つけるわけには行かない。ここは、文香のいう事を聞くしかないのか……。
 

574: 2014/01/15(水) 02:30:28.89 ID:xNrYVDgF0

 祈るように目を閉じて、静かに俺を待つ文香。彼女の肩に手を掛け、少しだけこちらに寄せながら、辺りを見回して人がいない事を確認する。

 覚悟は決めた。

 彼女の小さな吐息を肌で感じられる所まで、一気に顔を近づける。文香のふんわりとした甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。

 軽く唇同士が触れ合う。文香が流した涙の味がした。

 唇を離しても、文香が追いかけてきてまた触れ合う。それを抵抗せずに受け入れる。

 それが何回か繰り返された後、ようやく解放された。

 文香は頬を紅潮させて荒い息をつきながら、満足そうな表情を浮かべる。

 そして、おもむろに彼女は携帯を取り出した。 

 「……連絡先……教えてください……プロデューサーさん」

 ぼんやりとした頭で、文香と連絡先を交換する。

 彼女は、終始幸せそうな笑みを浮かべていた。

 「……それでは……失礼します。メールは……ちゃんと返してくださいね……」

 ちゅっ、と俺の首筋に小さくキスの跡をつけて、文香は去って行った。





 何も変わらない。


 何も変わっていない。


 時間が経てば解決すると思っていた俺が、浅はかだった。
  


145: 2013/06/18(火) 23:23:53.95 ID:jEUSMPQr0

 文香と別れた後、アーニャの所へ行って、仕事が終わるまで彼女の仕事風景を見守りながら待った。

 何もする事がないと、思い出す。
 文香や、千秋と過ごした日々を。
 ファンよりも近い所からアイドルを応援したいという夢を叶えるため、俺はプロデューサーという職に就いた。一般的にプロデューサーと言うのは製作総指揮者を指すらしいが、俺の入ったプロダクションでは何故かマネージャーのような扱いだった事を思い出し、苦笑する。

 あの頃は、楽しかった。アイドルと一緒にひたすら上を目指して、努力していた時代。

 彼女達の努力は無事に実った。ファンから愛され、老若男女問わず、たくさんの人達に応援されるアイドル達の姿が、目の前にあった。

 アイドル達の努力が報われて、安堵した。

 彼女達の幸せそうな笑顔を見て、この職に就いて良かったと、心の底から思った。

 アイドル達を応援する観客達に、満面の笑顔を浮かべて歌と踊りを楽しそうに披露する彼女達が、好きだった。

 俺はただ、アイドルの傍で、アイドルを応援できれば、それでよかった。

 ――なのに、どうして、あんな事になってしまったのか。




「プロデューサー? 大丈夫ですか?」

 気がつくと、アーニャが目の前に立って心配そうに俺を見上げていた。

「大丈夫だよ。仕事、お疲れ様……それじゃ、帰ろうか」

「ダー。では、着替えてきますね」

 何もないように振舞ったが、誤魔化せていないかもしれない。
 楽屋に向うアーニャの後ろ姿を見送る。堂々と背を伸ばして歩く彼女は、大人びて見え、それに、とても美しかった。

 ――今の俺にはアーニャがいる。もう、誰も傷つけたくない。千秋も、文香も……アーニャも。

 だから……千秋と文香から、過去から、逃げるわけにはいかない。

   

146: 2013/06/18(火) 23:25:44.90 ID:jEUSMPQr0

『千秋さんとはもう会わないでください』

 これが、文香から来た最初のメールだった。
 
 メールには書かれていないが、きっと会ったら写真がばら撒かられるのだろう。

 さっそく俺は、千秋にメールを送った。

『千秋、ごめん。俺はもう千秋と会えない』

 内容は簡素なものにした。

 着信拒否をするべきかどうか迷っていると、メールを送ってから十秒も経たずに、千秋から電話が掛かってきた。

『どういう事なのかしら、説明しなさい』

 携帯から聞こえる彼女の声は、明らかに怒りに満ちていた。
  

147: 2013/06/18(火) 23:29:58.94 ID:jEUSMPQr0

「千秋、このままだとお前をまた傷つけてしまう。だから、もう、会えない……すまない」

『貴方に会うのを拒絶された事の方が、何よりも傷つくに決まっているじゃないッ!!』

 耳を劈くような悲痛な叫び声が、心を締め付ける。

『好きよ……貴方の事……好きなの……貴方が……愛してるわ。だから……貴方が、アイドルと付き合えないと言うのなら――』

 千秋は泣いているようだった。

 彼女は涙声で、とんでもない事を言い出す。

『――私は、アイドルをやめるわ……』

「それだけは、ダメだ!」

 思わず声を荒げてしまう。ただ、それぐらい聞き捨てなら無い事だった。
  

148: 2013/06/18(火) 23:38:46.27 ID:jEUSMPQr0

「自分を変えるために、お前はアイドルになったんだろ……アイドルをやめたら、また、戻ってしまう」

 濁った瞳の千秋を思い出す。最初に千秋と出会った時、彼女からは生気を感じられず、まるで人形のように見えた。

 そんな彼女を見ていられなくて、俺はアイドルにならないかと、千秋を誘った。

 千秋は知り合って間もない俺に、家庭環境を話してくれた。

 良家の一人娘で、それ故に束縛されている事を話してくれた。

 押し付けがましく、それがエゴだという事も自覚しているが、何とか千秋を救ってあげたかった。

 両親を説得できたら、アイドルをやってくれるかと彼女に聞いた。千秋は頷いた。

 俺は、千秋の両親を必氏で説得した。土下座だってした。とにかく、千秋の目の前で、みっともなく懇願した。

 説得している内に、千秋が自分の胸の内を吐露した。泣き叫び、想いを必氏に両親に伝えていた。

 それも効いたのか、何とか彼女の両親から許しを得る事ができた。それによって、千秋はある程度の自由を得た。

 アイドル活動に励む内に、徐々に笑顔を取り戻していく千秋を見て、嬉しかった。

 千秋の浮かべる笑顔が、大好きだった。

 だが、いつの間にか、彼女は――


『今の私は、過去の私と同じ様なものよ……貴方がいないから』

   

149: 2013/06/18(火) 23:41:43.50 ID:jEUSMPQr0

「……千秋は、とても楽しそうにアイドルやってるじゃないか……あれは嘘なのか?」

 テレビに映る千秋、雑誌に載っている千秋、ポスターに載っている千秋、どれも作り物の笑顔には見えなかった。

 長い間、千秋を近くで見てきたのだ、例え写真でも作り物の笑顔かどうかは分かる。

『貴方が、テレビや雑誌できっと私の事を見てくれていると思いながら仕事をしていたの……貴方には、笑顔を見てもらいたいから』

 彼女の声は、震えている。普段の強気な彼女からは想像もできない、弱々しい声色だった。

『……プロデューサーが、私の笑顔が好きだと言ってくれたから……貴方に笑顔を見せたくて、ライブも、CMも、バラエティも、絶対に笑顔を絶やさなかったの……貴方がいなくなって一年間、私は貴方を四六時中想いながら、アイドルをやっていたのよ……』
  
 だって、と千秋は続ける。

『私の笑顔を近くで見たくなって、貴方が戻ってくるかもしれないから……だから、私……ずっと……ずっと……』

 千秋がとうとう声を上げて泣き出した。彼女がこんなにも子供のように泣き喚くのは、両親を説得した時以来だった。

「千秋……ごめん……でも、会えない……せめて、時間をくれ……」

 今すぐ傍に行って抱きしめてあげたかった。でも、それは叶わない。
  

150: 2013/06/18(火) 23:46:31.37 ID:jEUSMPQr0

『……何もいらない……私はプロデューサーさえ傍にいてくれれば、何もいらないのに』

「千秋……」

 電話の向こうから聞こえてくる、彼女の嗚咽。

 千秋が、消え入りそうな声で、プロデューサー、プロデューサーと、俺を呼び続ける。

 それがあまりにも悲痛で、思わず目頭が熱くなった。抑えきれず、目尻から涙が零れる。
 自分があまりにも無力で、何も出来なくて、情けなくて……その事実に苛まれて、泣いた。

 暫く、会話は無かった。

『……電話はいいのよね?』

 千秋が、唐突に問いかけてくる。

『会うのはやめるわ……でも、電話はいいわよね?』

 文香からのメールには、千秋と会うなとだけ書かれていた。屁理屈かもしれないが、電話やメールは今の所問題ない。

 ――時間の問題かもしれないが。
  

151: 2013/06/18(火) 23:51:25.21 ID:jEUSMPQr0

「電話やメールは大丈夫だ。ただ、仕事中にはしないような」

『仕事中にはしないわよ』

 千秋は根っこが真面目だから、そこら辺の心配は無いだろう。

「それじゃ、またな……仕事、がんばれよ、千秋」

『プロデューサー、ちゃんと、メールは返しなさいよ』

「あぁ……」

 通話を切ろうとするが、中々ボタンを押せなかった。通話はまだ続いている。千秋も切ろうとしていないのだろうか。

『プロデューサー、早く通話……切りなさいよ』

「千秋が切ってくれよ」

 そんな名残惜しそうに言われると、余計切りづらい。

「……」

『……』

 微妙な間が広がった。耐え切れず、叫ぶ。

「おやすみ、千秋! 今度こそ、切るから」

『おやすみなさい、プロデューサー』

 やっと、通話を切る。


 携帯を投げ、身を投げるようにして布団に倒れ込む。暫くそのままじっとしていたが、うつ伏せから仰向けになって天井を仰ぐ。


 何もかもが前途多難だった。千秋の事も、文香の事も。


 俺は、どうすればいいのだろうか。

  

160: 2013/07/01(月) 01:51:54.70 ID:tKoIBJwk0

 今回の仕事は野外ライブだ。たくさんのアイドルや歌手が集まるそれなりにに大きなライブ。
 だが、プロデューサーが都合があるからと言って、アーニャとプロデューサーはライブ会場に二時間ほど早く来た。

 暫く、楽屋で雑誌を読んだりして暇を潰していたアーニャだが、プロデューサーが少しスタッフと話してくると言ったきり戻って来ない事に気づく。
 携帯にかけてみても繋がらない。

 アーニャはプロデューサーを探すために楽屋を出る。

 アイドル活動は楽しいし、同じアイドルの友人だってできた。でも、プロデューサーとの時間も減っていって、最近は一緒にいれない事も多い。それが、どうしようもなく寂しかった。

 せめて休憩時間や空いた時間はプロデューサーと過ごしたい。アーニャは戻って来ないプロデューサーを探しに会場の方に向かった。

 一通り歩き回って探すも、プロデューサーの姿はなかった。
 芸能関係者やスタッフと話している姿は見かけない。トイレにしては長すぎる。一体どこに行ったのだろうか。
 

161: 2013/07/01(月) 01:57:44.97 ID:tKoIBJwk0

 一人で探すのに限界を感じたアーニャは、そこら辺で準備をしていたスタッフにプロデューサーの行方を聞いた。

「君の所のプロデューサーだったらさっきそっちの方に行ったけど」

 スタッフが指差す方向は、森だった。入口から砂利道がずっと奥に続いている広く、深い森。

 森の中でも散歩してるのかな。言ってくれれば喜んでついていったのに。
 不意に、木々に囲まれた道をプロデューサーと二人で歩く姿を想像してしまう。少しだけ恥ずかしかった。

 今からでも合流して一緒に散歩しよう。アーニャは森の中へと足を踏み入れた。

 だが、五分ほど歩いてもプロデューサーは見当たらない。そもそも人がいない。

 スタッフの人が見間違えたのかな……

 時間はまだある。もう少しだけ進んでみよう。 
 アーニャは構わず歩を進めた。

162: 2013/07/01(月) 01:59:35.66 ID:tKoIBJwk0

 森の中は日光があまり届かず、微妙に薄暗い。それに、静かだ。

 砂利道がずっと続いているため、迷うことはないが、もう十分は歩き続けている。そろそろ戻るべきか。

 やはりスタッフの見間違えだったのだろう。

 踵を返し、ライブ会場に戻ろうとした時、遠くから微かに声が聞こえた。

「プロデューサー?」

 やっぱり、プロデューサーはこっちに来ていた?

 プロデューサーに会えるのが嬉しくて、小走り気味に声の聞こえた方へと向かう。砂利道から外れたが、迷うほどのものではない。

 遠くに、人影が見えた。それを見て、アーニャは思わず足を止める。
  

163: 2013/07/01(月) 02:02:57.73 ID:tKoIBJwk0

 周りの木々よりも二回りほど大きな大樹。その樹木にプロデューサーは背をつけている。
 プロデューサーの目の前には一人の女性がおり、プロデューサーの両肩を掴んで、後ろの樹木に押し付けていた

 その女性には見覚えがある。

 ――鷺沢 文香。先輩アイドルで、トップアイドルの一人。あまり話したことはないが、一緒の仕事をする事が多く、その度に挨拶しに行った覚えがある。

 プロデューサーは、何故か文香に体を押さえつけられていた。だが、抵抗はせず、ただ顔を逸らしてじっとしている。

 文香が一言二言、プロデューサーに何かを告げた。内容までは聞こえない。

 プロデューサーは少しだけ悲しい表情を浮かべ、文香を見つめた。

 そして、二人は顔を近づけ、口づけを交わす。一度だけではない。息継ぎをしては、何度も繰り返した。
 やがて文香が舌を差し込んだ。プロデューサーの舌を吸っては、奥に舌を突き入れ、そして激しく絡ませる。
 
 鷺沢 文香というアイドルは大人しく、人と話すのを苦手としているように思えた。男の人となると、なおさら。

 なのに、なぜ、プロデューサーと……

 目を見開いて、アーニャは固まった。
  

164: 2013/07/01(月) 02:14:42.63 ID:tKoIBJwk0

 どうして……どうして二人が、キスをしているのだろう。

 相手はアイドルで、プロデューサーはプロデューサーなのに……本当は、ダメなのに……なんで……

 体中をどす黒い何かに焼かれるような感覚がした。胸がズキズキと強く痛む。

 思わずその場にへたり込んでしまう。痛む胸を押さえながら、目から涙が零れた。

 胸が苦しくて、心が痛かった。ただ、プロデューサーが文香とキスをしているのが、嫌だった。

 暫くの間、遠くで口付けを交わす二人を見つめたまま呆然としていたが、不意に我に返り、慌てて立ち上がった。

 きっと酷い顔をしている……今の姿をプロデューサーに見られたくない。

 アーニャは素早く涙を拭い、二人に気付かれる前に立ち去った。

 ふらふらとした足取りで何とか楽屋まで戻り、机に突っ伏してアーニャはまた泣いた。
  

165: 2013/07/01(月) 02:26:30.52 ID:tKoIBJwk0

 プロデューサーが困らせたくないから、ずっと我慢してきた。

 プロデューサーに拒絶されるのが怖くて、プロデューサーとの関係が壊れるのが怖くて、この数ヶ月間ずっと抑えてきた。

「好き、です……プロデューサー」

 いつからか、アーニャはプロデューサーに惹かれていた。
 ずっとプロデューサーと一緒にいたせいかもしれない。でも、それは理由の一つだ。

 本当は、プロデューサーと恋人になりたい。

 アイドルだから、それは無理だと、プロデューサーを困らせるだけだとずっと自分に言い聞かせて、アーニャは我慢してきた。

 だけど、プロデューサーはアイドルである鷺沢 文香と恋人のような事をしていた。
 
 それを見て、もう抑える必要はないのだと、想いを伝えるのを我慢する必要はないのだと、吹っ切れた。


 それに、まだプロデューサーがあの女のものになったと決まったわけじゃない。 


 だって――

 ――文香と口付けを交わすプロデューサーは、笑顔や幸せとは程遠い悲しみに暮れた表情をしていたから。

「プロデューサーが笑顔を見せるのは、私だけ……」

 取り戻そう、プロデューサーを。

 あの女から。
  

176: 2013/07/09(火) 20:21:45.72 ID:NbDNoAnw0

 最近、アーニャの様子がおかしい。

 とにかく全体的に距離が近いのだ。アーニャが雑誌を読む時も、俺と会話する時も、とにかく近い。

 今日だって、休憩するためにソファに座ると、アーニャも隣に座った挙句、肩に頭を預けてくる。

「アーニャ、最近、どうかしたか? 一人暮らしが寂しいのか?」

 流石におかしいと思い、アーニャに問う。
 アーニャは一人暮らしだ。もしかしたら寂しいのだろうか。最近一緒にいれる事が少なくなっているのも拍車をかけているのかもしれない。

 だが、アーニャの答えは違った。

「ニェート……私はただ、プロデューサーの近くにいたいだけです」

「それは……」

 ……アーニャ?
 

177: 2013/07/09(火) 20:25:13.24 ID:NbDNoAnw0

 アーニャが、肩が触れ合うぐらい身を寄せながら、至近距離で俺と視線を合わせる。

「プロデューサー……もう分かっているとは思いますが、私はプロデューサーの事が好きです」

 アーニャは真剣な表情で、自らの想いを俺に伝えた。

「……どうして」

 どうして俺なんかを。
 アーニャはきっと、錯覚している。そこら辺の恋人なんかよりもずっと長い間、男と二人っきりで生活していたから、錯覚してしまったのだろう。寂しいが、どうせ一時の感情だ。

 その事を伝えようとするも、先に彼女が口を開く。

「プロデューサーを悲しませる人は、許しません」

「悲しませる人……?」

 暗い光をその目に灯し、アーニャは上目遣いに俺を見上げる。彼女の瞳は、深海の如く薄暗く、吸い込まれそうなほど深い青に満ちていた。

「鷺沢文香……私は彼女を許しません」

 ――私の、大切な人を悲しませたから。


 俺は、気が遠くなった。気絶までは行かないが、しっかりと地に足をつけていないと倒れそうだ。
  

178: 2013/07/09(火) 20:29:30.75 ID:NbDNoAnw0


「プロデューサーといると、とっても安心します」


「プロデューサーだけが、真剣になって私の容姿を褒めてくれました。大多数の人は面白半分に見物していくだけでした」


「今までずっと一人ぼっちでしたが、今の私には、プロデューサーがいます」


「プロデューサーは、私の大切な人です」


「プロデューサーの悲しむ姿を、見たくありません」


「私がプロデューサーを笑顔にしてみせます」


「この事務所にずっといれば、プロデューサーはもうあの人会う必要はありません。ですから、ずっとここにいてください」


「プロデューサー、外の事は全て私に任せてください」


「プロデューサー、愛しています」


「プロデューサーは、私の事、好きですか?」


「これからも、ずっと一緒ですよ……プロデューサー」


「プロデューサーとずっと一緒でいられるこの事務所だけが、私の居場所です」
   
 

179: 2013/07/09(火) 20:33:39.18 ID:NbDNoAnw0

 豪雨に体中を打たれながら、力なくひと気のない道路を歩いていた。
 外は既に真っ暗で、寒い。

 頭を冷やしながら、今までの事を振り返る。

 俺は別に、心の底からアイドルの想いを否定したいわけじゃない。あんなにも可愛くて、優しい子達に愛されて、幸せ者だと思う。

 でも、アイドルとプロデューサーだ。

 昔、応援していたアイドルが、プロデューサーと結婚した時の衝撃を、今でも覚えている。

 当時俺は小学生だったが、そのアイドルの事が本当に気に入ってて、とても悲しい思いをした。

 アイドルの気持ちに応えてしまったら、あの悲しさをファンに味あわせる事になる。

 それだけは避けたかった。アイドル達にファンを裏切らせるわけにはいかない。
  

180: 2013/07/09(火) 20:41:01.77 ID:NbDNoAnw0

 アイドルの気持ちには、応えない。

 俺は、迷いなくその結論に達する。

 だが、文香がそれを許しはしない。
 千秋の事がある以上、文香には従わなければならない。何とか、説得できないものか。

 コンクリートの塀に手を付き、降り注ぐ雨を一身に受けながら、考える。

 どうすればいい……このままじゃ、いずれ……

 考えても、何も思いつかない。急に目頭が熱くなり、そのまま雨と共に涙が流れた。

 嗚咽が込み上げ、雨に紛れて一人むせび泣く。

 不意に、雨が遮られた。

 壁に手をついて項垂れる俺に、誰かが傘をかざしてくれたらしい。傘の雨を受ける音が響く。

 一体誰が――






「……こんばんわ……プロデューサーさん……」





    

181: 2013/07/09(火) 20:49:48.29 ID:NbDNoAnw0

 振り返ると、赤みがかった茶髪を上の方で二つに結んだ、小動物のような雰囲気を持つ、可愛らしい顔立ちの少女がいた。荒れのない綺麗で滑らかな肌に、全体的に華奢でか細い体。彼女は、ふわふわした感じの、全体的に桃色で統一された可愛らしい洋服に身を包んでいた。

 その左手には、白い傘が握られている。

 見間違えようがない。俺が一番最初にプロデュースしたアイドルだ。


「智絵里……」



「あの……お久しぶりです……プロデューサー……」



 智絵里の、傘を持つ左手の手首には、痛々しいリストカットの跡が残っていた。
 

196: 2013/07/16(火) 21:22:51.73 ID:CxRQw2Xu0

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

―――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――



「緒方……緒方智絵里……です」

 目の前の、赤みがかった長い髪を二つに束ねた少女は、俯きながらも時折こちらに視線をよこしながら名乗った。

「あの……その……えぇと……が、がんばります……ので……見捨てないでくれると……その……うれしい……です」

 アイドルとしてやっていけるぐらい十分な魅力を持った女の子だが、性格がアイドル向きじゃないように感じる。
 ただ、彼女の意志は強そうだった。その意志が折れない限りは、可能性はいくらでもあるだろう。

「よろしく。緒方さん」

 そう言うと、彼女はオドオドしながらも、

「……よろしくお願いします。プロデューサーさん」

 と返した。

 小動物みたいな子だな。智絵里を見てそんな感想を抱く。

 
 ――こうして、俺はプロデューサーとして、智絵里はアイドルとして動き出す事となった。
  

197: 2013/07/16(火) 21:24:19.07 ID:CxRQw2Xu0

 智絵里は運動が苦手なようで、ダンスなんかはトレーナーからよく注意を受けている。基礎の段階から、中々進まなかった。

 歌も聞けるレベルではあるが、大衆に聞かせるにはまだまだ実力不足だ。

 内気な性格も変わらず。

 前途多難ではあったが、智絵理は挫折する事なく努力を続けた。
 

198: 2013/07/16(火) 21:28:47.45 ID:CxRQw2Xu0

 運動不足と指摘され、落ち込んでいる智絵里に、俺は一つ提案をする。

「智絵里、体力をつけるために一緒に走らないか?」

 一人では少し難しいだろう。だが、他の人と一緒ならやりやすいかもしれない。そう思って、提案した。
 彼女はお願いしますと言って、提案を受けてくれた。

 俺達は一緒に、暇な時間に外を走るようになった。

 最初、智絵理は一キロ走るのも辛そうだったが、根気強く続けていく内に、努力が実り、智絵里は長く走れるようになっていった。


 毎日ランニングを続けた結果、少しずつではあるものの体力がついてきて、智絵里は少しだけ自分に自信が持てたようだ。

 少しだけ自信を持つようになった彼女を見て、俺も嬉しい気持ちになる。
  

199: 2013/07/16(火) 21:32:50.06 ID:CxRQw2Xu0

 だが、残念な事に問題はまだたくさん残っている。

 体力面は改善してきたものの、智絵理の運動神経が壊滅的で、結局ダンスが上手くできずに注意されてばっかりだった。

「智絵里、今度は一緒にスポーツしてみないか?」
  
 今度はスポーツに誘った。智絵里は見るからにスポーツが苦手そうだが、やってみると少しぐらい変わるかもしれない。

 智絵里は、全然できなくても見捨てないでくださいとだけ言って、また提案を受けてくれた。

 見捨てるか。智絵里が諦めてないのに、俺が見限ってどうする。

「とりあえず、野球でもするか」

 思い立ったが吉日、ソフトボール用のバットとソフトボールを購入し、広い公園へと向かった。

 ソフトボール用のバットなら軽いから智絵里でも大丈夫だと思っていたが、ちょっと重たそうだった。

 バットを構える智絵里に、下投げで、子供でも打てそうな球を放ってやる。

 彼女は過去に一度も経験した事が無いらしいので当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、中々バットには当たらなかった。

   

200: 2013/07/16(火) 21:35:27.90 ID:CxRQw2Xu0

 空振りする度に涙目になっていく智絵里が、可愛かった。

 かすりもしていないが、一球一球必氏に当てようとしているのが見て取れる。

 今にも泣きだしそうだが、彼女は諦めていなかった。

 やっぱり、アイドルになる素質はある。
 それに、どんなにダメ出しされても、彼女は未だにアイドルになる事を諦めていないし、挫折してしまいそうな気配も見せない。
 
 この子なら、トップアイドルを目指せる気がする。
 プロデューサーとしての経験が浅いので断言はできないが、直感的にそう思った。

 そして、もうかれこれ五十球ぐらい投げたような気がする。

 今までと同じように、下投げで軽くボールを投げた。

 智絵里は初期の頃よりもだいぶ様になっているフォームで、バットを構えている。

 次の瞬間、智絵里は飛んできたボールをバットの芯で捉え、そのまま青空に向かって大きく打ち上げた。

「え?」

 打った本人も度肝を抜かれたように驚いているのが滑稽で、可愛かったのを覚えている。

 ホームランとまでは行かないが、それなりの距離をボールは飛んで行った。

「……やった! 当たった!」

「あぁ、おめでとう」

 嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる智絵里。

 彼女の笑顔が、とても眩しかった。
  

201: 2013/07/16(火) 21:37:24.73 ID:CxRQw2Xu0

 それから、智絵里を少しでも動けるようにするため、色々なスポーツを彼女に教えた。

 スポーツと言っても、二人で少し練習する程度だが。

「えいっ!」

 彼女が爪先でサッカーボールを蹴る。
 威力は弱いが、ボールは真っ直ぐに飛び、俺の足元へと転がってきた。

「上手いな」

 転がってきたボールを、蹴って転がし、智絵里へと返す。

「えへへ……偶然です」

 智絵里はくすぐったそうにしながら、楽しそうに微笑む。太陽のように温かくて、優しい笑みだった。

 彼女はコツを掴んだのか、その後は大体正確なパスが出せるようになった。

 

202: 2013/07/16(火) 21:39:29.61 ID:CxRQw2Xu0

 それからというものの、テニスやバトミントン、キャッチボール、バスケットボールでフリースローの練習など、アイドル活動からは程遠い事をやっていた。

 だが、驚くべき事に効果はあった。

 少なくとも以前よりは数倍、智絵里は動けるようになっていた。ダンスも、注意される事が少なくなり、まだ完璧とは言えないが、人並み以上にこなせるようになった。

 ダンスも以前とは比べものにならないほど上手くなっていた。
 智絵里は、プロデューサーさんのお陰ですと言いながらも、とても嬉しそうにしていた。

 智絵里は前よりも格段に自信がついてきて、少しずつアイドルとしての片鱗を見せるようになってきた。
   

203: 2013/07/16(火) 21:41:08.52 ID:CxRQw2Xu0

「プロデューサーさん……えっと……今度は歌を頑張りたいので、一緒にカラオケに来てくれませんか?」

 相変わらず内気な性格は変わらないが、それでも智絵里は少しずつ変わってきていた。
 はっきりと喋れているし、視線だって外さない。

 今日だってほんの少し緊張しているようだが、俺にカラオケに着いて来てほしいと頼みに来た。
 前の智絵里なら年上の男に何かを頼むなんてとてもじゃないが無理だろう。

「一人は心細いもんな、分かった。仕事が終わったら行こう」

 彼女からの頼みでは断れない。というより、智絵里からの頼み事は断れない。断った瞬間どんな表情をするのかと想像してしまうと、断れなくなる。

 智絵里は、トレーナーに言われた事を思い出しながらカラオケで、場違いにもほどがあるほど真剣に練習した。
 俺はソファーに座って、智絵里の歌をずっと聴いていた。常日頃思っているが、やはり智絵里の声は綺麗だ。

 時折音を外したり、音程が分からなくなったりして焦る智絵里はとても可愛かった。

 カラオケでの練習は一時間と控えめだが、智絵里と俺は毎日のようにカラオケに行った。

 元々音痴というわけではなかったので、毎日のレッスンと自主トレーニングで、すぐに智絵里は上達していった。歌の方の才能は凄いらしい。
  

204: 2013/07/16(火) 21:43:27.88 ID:CxRQw2Xu0

 智絵里は、月日が経つにつれて明るい女の子になった。

 オドオドしたような表情は消え失せ、常に優しい微笑みを携えている。

 元からとても可愛かったが、最近の智絵里は更に可愛さに磨きがかかっていた。

 小さなライブを行っては大量のファンを獲得し、モデル雑誌に乗れば、会社から次もお願いしたいと依頼が来る。

 こうして、智絵里は人目に触れる機会が多くなっていき、確実に知名度と人気を伸ばしていった。
  

205: 2013/07/16(火) 21:47:11.20 ID:CxRQw2Xu0

 数カ月が経ち、智絵里にもとうとう大規模なライブの話が来た。

 智絵里に伝えると、とても喜んでいたが、どこか不安そうでもあった。

 無理もない。今まで彼女が行ってきたのは、小さなライブばかりであり、大規模なライブはこの仕事が初めてだ。


 当日、智絵里は緊張していた。

 楽屋で衣装に着替えた智絵里は、遠目からでも分かるくらい震えていた。

「プロデューサーさん……私、怖いです……」

 まるで出会った頃のような様子の智絵里に、思わず苦笑する。
 やっぱり、根本的には変われないのかな、などと思いつつも、震える彼女を見てどこか微笑ましい気持ちになった。

「なぁ、智絵里……よく聞いてくれ」 

 智絵里の肩を掴み、智絵里と目を合わせる。

「昔から、お前はできるっていう言葉がどうにも苦手だった。何を根拠にそんな事言えるんだ……根拠もないのに無責任な発言だなって、そう思った」

 智絵里の震えが少しだけ収まっていくのが分かった。直に触れているから。

「でもな、今ならお前ならできるって言う人の気持ちも分かる。何故だか知らないけど、智絵里なら出来るって思う。気休めにもならないかもしれないけど」

「大丈夫です……プロデューサーさんが傍にいてくれるから」

 智絵里が、ぎゅっと、俺の腰に手を回した。抱き合っているような状態なので、見られたらまずいが、少しの間なら大丈夫だろう。

「智絵里……お前なら出来るよ。だから、頑張って」

 右手を彼女の背に回し、ぽんぽんと軽く背中を叩いて励ます。
  

206: 2013/07/16(火) 21:52:03.03 ID:CxRQw2Xu0

 数分間、軽く抱き合うような形で、智絵里が落ち着くまでずっと身を寄せ合っていた。
 智絵里からいい匂いがするし、体は柔らかいし、色々大変だったが、何とか持ちこたえる。

「……プロデューサーさん、もう、大丈夫です……ありがとうございました」

「そうか」

 抱きしめる腕に少しだけ力を込めた後、智絵里は離れた。
 不安はどこかへ吹き飛んだのか、智絵里はいつもの優しい微笑みを浮かべていた。

「行ってきますね、プロデューサーさん……私の事、ずっと見守っていてください」

「あぁ……見守ってるよ。いつまでも」

 智絵里はひまわりのように温かく明るい笑みを浮かべながら、楽屋を出て行った。

 その後ろ姿は、数分前の智絵里の状態からは想像もできないくらい堂々としていた。
  

207: 2013/07/16(火) 21:55:44.62 ID:CxRQw2Xu0

 そして、彼女はステージに立つ。

 大衆の歓声を浴びながら、今まで培ってきた全てを、観客に魅せる。

 妖精のような儚さと、太陽のような明るさを持つ智絵里に、会場の人間の大半が心を奪われた。

 音楽が止まり、観客へ向けて智絵里が深々と礼をした時、会場を震わせるほどの歓声が、会場全体に響き渡った。






「好きです……プロデューサーさん」

 マイクの電源は既に切られ、小さく放たれたその言葉は誰の耳にも届かない。








「プロデューサーさん……一緒にいたいです……これからも……ずっと……」






   
 

214: 2013/07/22(月) 02:18:28.50 ID:G4bqFBQ+0

 智絵里はあのライブ以降、知名度と人気が劇的に上昇し、一躍有名人となった。

 智絵里は見事にチャンスをモノにしたのだ。

 喜んでいる智絵里を見て、心の底からこの仕事に就けてよかったと思う。

 これからも見守っていこう、アイドル達を。


 ☆


「今までよくがんばったな、智絵里」

 車の運転中、助手席に座る智絵里に労いの言葉をかける。

「あ、ありがとうございます……」

 恥ずかしそうに眼を伏せる智絵里。相変わらず仕草が可愛らしかった。
 その姿を見て、男性は保護欲を掻き立てられるのだろう。

「あ、あの、プロデューサーさん……その……これ…四葉のクローバーを押し花にして綴じ込んだ栞です、どうぞ。いつも……ありがとう…」

 赤信号で車を停車させている時に、感謝の言葉と共に、智絵里が唐突に四葉のクローバーの栞を差し出してきた。

「嬉しいよ……ありがとな、智絵里」

 本当に嬉しかった。態々プレゼントを用意してくれたくらいだから、それなりの信頼関係を築けてこれたのだろう。
 よかった。

「これからも……これからもずっと……私の事、見守っていてくださいね?」

「言われなくても」

 ずっと見守ってるよ。
  

215: 2013/07/22(月) 02:20:02.30 ID:G4bqFBQ+0
 ☆

「智絵里を別のプロデューサーに任せる? それじゃ、俺は首ですか?!」

 携帯に、社長からのメールが届いていた。内容は、話があるから社長室に来いとの事。
 社長から告げられたのは、智絵里を別のプロデューサーに任せるというものだった。

 いくらなんでも、急すぎる。

「待て待て、そう急ぐな。話は最後まで聞け」

「あ……す、すみません、取り乱して」

 驚いたからとはいえ、立場も年齢も上の相手に声を荒げてしまった。冷静にならなくては。

「智絵里君はもうアイドルとして完成してきている。後はスケジュール管理だけ出来る人間を当てればいい」

 それよりも、と社長は続ける。

「私は君の能力を買っている」
  

216: 2013/07/22(月) 02:21:07.23 ID:G4bqFBQ+0

「能力、ですか? 私は、何も持っていませんよ」

 社長は突然なにを言い出すのだろうか。能力だなんて心当たりがない。

「正直、これから話す事は、智絵里君に対して非常に失礼な内容ではあるが、どうか許してほしい」

 そう前置きしてから、社長は語り出した。

「智絵里君は我がプロダクションの面接を受けに来て、無事受かった。だが我々は、彼女の見てくれが非常にいいから採用しただけであって、それ以外は最低評価だった」

「見てくれがいいから、それ以外を一切吟味せずに合格させたという事ですか?」

「あぁ、何度も言うが、彼女は容姿だけなら抜群だ。面接の時からアイドル向きの性格ではない事は把握していたが、採用した」

 有名なプロダクションの割には随分と適当な面接ですね。心の中でそう思ったが、口には出さない。
  

217: 2013/07/22(月) 02:24:36.07 ID:G4bqFBQ+0

「私はそれなりに忙しいが、仕事の報告は全て目を通している。智絵里君が最初の頃はモデルすらも満足に出来ていないことも知っている」

 昔の智絵里は、笑顔を作るのが下手だった。その上、カメラマンに写真を取られるのを恥ずかしがって、すぐ終わる筈の仕事が結構長引いたりもした。

「トレーナーの方に話を聞くと、智絵里君は歌の方は優秀だが、ダンスの方は致命的と聞いた。二回ほど、レッスン現場を覗かせて貰ったが、確かに致命的だった」

 確かに、智絵里の運動能力は平均よりも下かもしれない。でも、努力で克服できた。過程はそれなりに辛いものだったが、智絵里は努力でそれを克服した。

「私はね、彼女のプロデューサーが君じゃなかったら、今の智絵里君はないと思っている」

 その言葉を聞いて、思わずいきり立つ。

「そんな事ありません! 智絵里は確かに気弱な性格ですが、意志だけは強かった! 現場でどんなに怒られても、トレーナーにどんなにダメ出しされても、智絵里は諦めなかった!」

 智絵里の強い意志を感じて、俺も真剣に彼女と向き合って、彼女をプロデュースしていくと決めた。
 
「智絵里は、自分には才能がないと落ち込んでいたこともありました。才能がないかもしれないと自覚していながら、それでも智絵里は必氏にアイドルを目指して努力を続けたんです!」

 好きなのに、才能がない。それがどれほどの恐怖なのか、俺には分からない。

 ただ、想像以上に辛い筈だ。
 
 それでも、彼女は努力をやめなかったし、挫折もしなかった。泣き言は多かったが、アイドルを諦めるような発言はしなかった。
  

218: 2013/07/22(月) 02:26:33.41 ID:G4bqFBQ+0

「首になる事を覚悟して言いますが、俺の能力云々よりも、まずは智絵里の努力を褒めてやってくださいよ! 俺がいなくたって、いずれ智絵里はトップアイドルになれましたよ!」

 言いたい事を好き勝手に、状況も相手も考えずに吐き出す。俺はもう、終わりかもしれない。

 荒い息を整えながら、恐る恐る社長を見る。

「はっはっはっ。なるほど、そうか……すまなかったな」

 社長は苦笑いを浮かべながらも、頬を指先で掻きながら、言葉通り、すまなそうにしていた。
 顔に出ていないだけで、本当は物凄く怒っているかもしれない。急いで謝罪しよう。

「あ、あの、社長――」

「どっちにせよ、智絵里君は別のプロデューサーに任せるよ」

 俺の言葉は社長に遮られてしまう。そして、どっちにしろ智絵里の担当は外されるらしい。
  

219: 2013/07/22(月) 02:38:49.67 ID:G4bqFBQ+0

「智絵里君の意志の強さと、努力は認めるよ。だけど、やはり、君も関係しているとは思うんだがな」

「いえ、その……」

 何て返したらいいか分からず、口籠ってしまう。

 小さく笑みを浮かべながら、社長が本題に入ろうと、話を切り出した。

「――君に少しの間、休暇を与えよう。その間に新しくアイドルをスカウトし、その子をプロデュースしたまえ」


「は?」


 なんて無茶な話なのだろうか。

 でも、社長は本気のようだった。


「出来るかね? 少々難題を吹っかけているという自覚はあるが、君にやってもらいたいんだ。君ならきっと素質のあるアイドルを見つけられると思うし、トップアイドルにも出来ると思う」

 なんて無責任な発言なのだろうか。漫画やドラマじゃないんだぞ。

 にやにやと笑みを浮かべながら、俺の返答を待つ社長。

 平凡な社員が、社長の持ちかける話を断れるわけがなかった。

 


「分かりました。新しくアイドルをスカウトして、プロデュースします」

 上手くいくかどうかは知りませんけどね、と心の中で付け加える。

「おぉ、そうか。君ならきっと、我がプロダクションに多大な利益をもたらすアイドルを見つけてくれるだろう。期待してるぞ」


 結局は金か。馬鹿野郎が。

 受けてしまったものは仕方がない。

 なるべく、社長が満足できるような結果を残せるように、頑張ろう。


   

229: 2013/07/28(日) 02:12:15.32 ID:ImNOXPS30

 ☆

 まずは女の子をスカウトする所から始めなくてはならないのか……

 猛暑の中、汗水垂らしながら人の多い場所、特に若者が集まるような所に足を運ぶ。

 人見知りというわけではないが、複数人で行動している女性達にスカウトしに行くのは、ナンパをする勇気も経験もない俺には少しハードルが高い。かと言って、一人の女性に近寄れば警戒される。

 何なのだ、これは。どうすればいいのだ。

 悩んでいても仕方がない、とりあえず動こう。突っ立ってるだけでは可能性すら得ることができない。

 とはいえ、ただ闇雲に練り歩いても中々機会に巡り会えない。

 普通に面接を受けに来た子から選ぶのはダメなのだろうか。スカウトなんて難しい事をいきなり吹っかけてくるなんて。
   

230: 2013/07/28(日) 02:14:45.57 ID:ImNOXPS30

 長い間、恐ろしく暑い中を歩き回っていたせいか疲れてしまい、近くにあったひと気のない公園のベンチで休むことにした。

 曇り一つない青空を、恨めしく見つめる。いくらなんでも暑すぎる。

 飲み物でも買おうかとベンチを立った時、ふと、遠くのベンチに座っている女性が目に入った。

 眼鏡のお陰で、女性の姿はよく見える。

 どこか思いつめたような暗い表情をしているが、とても美しい顔立ちなのが見て取れる。綺麗で艶のある黒髪、陶器のように白い肌、華奢な体躯、儚げな雰囲気。本当に綺麗な女性だった。
 
 あの人なら、アイドルになれそうだな。そんな事を反射的に思い浮かべる。
  

231: 2013/07/28(日) 02:17:30.15 ID:ImNOXPS30

 アイドルになれそう、じゃない。アイドルになれるぞ、あの人なら。そんな空気が漂ってる。雰囲気が若干暗い気もするが……

 俺はスカウトしに来てるんだ。相手はちょうど一人だし、強気で行こう。

 遠い所から一直線に女性の下へと向かうのはかなり精神的に来るものがあるが、構わず歩き続ける。

 彼女が俺を捉え、歩み寄る俺を見据えた。思わず足を止めそうになってしまう。恐ろしい緊張感だ。警察呼ばれたらどうすればいいのだろうか。
 
 色々な事が頭を駆け巡っている間に、いつの間にか彼女の目の前に辿り着いてしまった。緊張で背筋が強張る。

 目の前の女性が、何も言わずにただ視線を送ってくるだけなのも緊張に拍車をかけていた。
  

232: 2013/07/28(日) 02:20:31.42 ID:ImNOXPS30

 やはり、彼女はとても美しかった。近くで見ると、よく分かる。キメ細かい滑らかそうな肌に、まさに高嶺の花と言った感じの、高貴な顔の作り。
 ただ、瞳は虚ろで光を灯しておらず、ぼんやりと濁っていた。表情もどこか無機質で、全てに無関心と言わんばかりの空気を纏っている。

 彼女のくぐもった瞳には、何が映っているのだろうか。俺を見つめてはいるが、俺の姿が映っていないように見える。
 人形のように、生気の感じられない。

 彼女をアイドルに誘ったら、何か変わるだろうか。

 もし、彼女がアイドルになったら、何が変わるのだろうか。


 無気力にベンチにもたれかかる彼女に向けて、内ポケットから取り出した名刺を差し出す。


「アイドル、やってみないか?」

 真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ、告げる。

 いつの間にか、緊張は解けていた。
  

233: 2013/07/28(日) 02:22:50.81 ID:ImNOXPS30

「アイ、ドル?」

 彼女は初めて反応を示した。


「そう、歌ったり踊ったりしてるアイドルだ。君はとても綺麗だから、アイドルになるための素養は十分だと思う」

「綺麗でも、何でも……アイドルなんて、親が許しはしないわ」

 親が許さない。という事は、彼女自身はまだ心の底からアイドルになるのを嫌がっているわけではないのだろうか。それとも、断るための嘘か。

「アイドルになるのが嫌だったら、はっきり断って欲しい。でも、もし少しでもアイドルになりたいっていう気持ちがあるんだったら俺が君の親を説得する」

 俺がそう言うと、無理だ、と言いたげに彼女は首を横に振る。

「あの両親を説得だなんて、無理よ」

「もし、仮にもし、両親を説得出来たら、君はアイドルになるかい?」

「えぇ、なってもいいわよ。出来たらの話だけれど」
  

234: 2013/07/28(日) 02:26:37.71 ID:ImNOXPS30

 表情や、雰囲気で読み取れる。
 彼女は……俺にも、両親にも、何も期待していない。

 何にも期待されていないのは少々切ないが、とりあえず彼女の両親を説得してみよう。

 アイドルになって欲しいというのもあるが、何よりも、彼女の笑顔が見たかった。

「君の名前は?」

 受け取った名刺をポケットにしまうのを見届けながら、彼女に名前を聞く。

 彼女が顔を上げ、俺を見据えながら、名前を告げた。



「黒川千秋」


  

242: 2013/08/06(火) 14:03:16.48 ID:fO/OURY80

 昔から、私に自由なんてなかった。

 親が……家系が優秀だから、娘である私も優秀である事を求められた。

 勉強は勿論、運動も、習い事もたくさんした。

 親に甘やかされた事など一回もない。常に何かを教えられながら今まで育てられてきた。

 自由に外を楽しそうにはしゃぎ回る子供たちが、別の世界の人間に見えた。

243: 2013/08/06(火) 14:05:21.12 ID:fO/OURY80

 唯一人とまともに触れ合う事ができる小学校も、上手く馴染むことができなかった。
 当たり前だ、満足に遊ぶ時間さえ取る事も出来ない上、流行りの話題についていく事すらできない私に、友人なんてできるはずもないのだ。

 小学校卒業後、私は中高一貫校へと入学した。

 中学生になったというのに、何故か環境は変わらない。いつも通りの、勉強と習い事の毎日。

 クラスメイトは、勉強にしか興味がないのではないのかと思うぐらい、勉強熱心な人達ばかりだった。
 授業中静かなのは当たり前で、先生が授業と関係ない話をすれば容赦なく続きを催促するような、真面目な人達。放課後、彼らがどこかへ遊びに行くなんて話をするのは稀だ。

 私は友人が欲しかったが、何故か友人関係を築こうとする人間は少なく、また、機会も得られず、結局、私は中学高校共にずっと独りだった。
  

244: 2013/08/06(火) 14:13:04.76 ID:fO/OURY80

 親の望みに応え、私は優秀であるように努めた。

 小学校の時から既に勉強三昧だったのだから、流石に成績はよかった。
 運動能力には恵まれ、常に上位をキープした。
 たくさんある習い事だって全て器用にこなした。


 大体の事は、何でも出来た。

 でも……私は、自分がどれだけ優秀であっても、何も嬉しくない。

 テストの点が良くても、運動ができても、ピアノやヴァイオリンが弾けても、ダンスが踊れても、何も嬉しくない。

 何ができようとも、私が自分からやろうと思ってやったことではないのだ。



 中学を卒業した私は、高校へと進級した。

 高校では、三年分の内容を一年で終わらせ、残りの二年は受験勉強だった。

 苦痛だった。何も考えず……何も考えることができずに、ただ勉強と課せられた習い事をこなす日々が。
  

245: 2013/08/06(火) 14:14:53.51 ID:fO/OURY80

 成長しても、反抗期なんてもの迎えることはない。もう、体に染みついてしまっているのだ。親に何かを課せられ、それに従う事が。
 仮に反抗なんてしたって、どうせ無駄だ。そういう親なのだから。

 親に思いっきり逆らう妄想をしたことがある。一種のストレス発散なのだろう。勿論、実行なんてできない。妄想は妄想だ。

 私はこのまま、何一つ自分の意志で生きる事が出来ないまま、老いて氏んでいくのだろうか。
 高校二年辺りから、毎日のように自身の暗い未来を思うようになった。

 変わらない世界と変われない自分。つまりは永遠に変わらない。

 想いを伝える事すらできない。だから、一つも変わらない。

 鳥籠……いや、牢獄だ。


 ――仄暗い、牢獄。

  

246: 2013/08/06(火) 14:16:16.84 ID:fO/OURY80

 私は、ここでこのまま朽ちて屍になるのだろう。

 恨みながら――自分にとって無意味な人生を、逆らう事の出来ない情けない自分を、牢獄に閉じ込めた親を、何もかもを恨みながら。

247: 2013/08/06(火) 14:19:26.45 ID:fO/OURY80

「あなたの結婚相手が決まったわ……会うのは――」

「…………」

 私が二十歳になった時、結婚を決められた。相手は私との結婚を望んでいるらしい。

 一度、会わされて話をさせられたが、印象は良かった。
 顔がよくて、学歴だって凄い。それに、とても優しそうな人だった。非の打ちどころのない、まさに完璧な男の人だ。

 結婚すれば、何か変わるだろうか。

 答えは、すぐに出た。

 ――きっと、何も変わらない。

 だって、私は結婚の話を拒否することができないのだから。

 私に、結婚の話を断るという選択肢が無い時点で、何かが変わるわけがないのだ。







 結局、私は――


 ――永遠に、牢獄の中だ。




 

248: 2013/08/06(火) 14:23:59.10 ID:fO/OURY80

 変えられないのなら、変わることが出来ないのなら、どうすればいいのだろう。

 私は、どうして何もできないのだろう。

 ぼんやりとした視界を、空へと向ける。

 暗い気分とは裏腹に、空は晴れ晴れとして、強い日差しを大地に送り込んでいた。

 ふと、視界の端に男の人が映ったのが見える。何となく、視線を男に寄越した。

 男の人は神妙な顔つきをしながら真っ直ぐにこちらへと向かって来ている。何か用だろうか。

 身なりは普通のサラリーマンのようで、あまり特徴のない顔の男だった。強いて言うなら、眼鏡をしていて真面目そうな印象を受けるぐらい。

 その男は、私の目の前まで来ると、足を止めた。

 男はポケットに手を突っ込むと、一枚の名刺を取り出し、私へと差し出す。

 私が名刺を受け取ると、彼は口を開いた。



「アイドル、やってみないか?」



 今まで変わらなかった世界が、少しだけ、変わったような気がした。
  

255: 2013/08/14(水) 20:00:46.72 ID:sI7aX5Qj0

 ☆

 黒川千秋という女の子は、両親を説得なんてできるはずがないと言った。

 彼女は、出会って十分すら経ってもいない男の俺に、自らが置かれている環境を打ち明けた。

 ずっと自由にできず束縛されて生きてきたこと。今までの人生に、自分の意志なんてなかったこと。結婚すら勝手に決められたこと。全てを千秋は話した。
 今までも、これからもこの生活はずっと続く。千秋は暗い表情でそう言った。

「私には、勇気がないの」

 千秋を見て驚く。彼女の頬には涙が流れていた。

 見ず知らずの人間な上、大人で、しかも男である俺に、ここまですべてを打ち明け、涙を見せるのは、明らかに異常だ。

 一人の理解者すら得られないまま、今まで過ごしてきたのか?
 

256: 2013/08/14(水) 20:05:34.84 ID:sI7aX5Qj0

「何とかする」

「え?」

 無意識の内に漏れていた言葉。千秋は顔を上げ、涙を流しながらも、驚いた表情をしていた。

「もう一度聞くけど……アイドルに興味はある?」

 涙を拭いながら、千秋は頷く。

「変わりたい……自分を、変えたい」

 相変わらず悲しみに暮れた表情だったが、瞳には強い意志が灯っていた。
 もしかしたら、彼女はきっかけが欲しかったのかもしれない。

 だから、彼女に契機を与えよう。

「分かった。何とか、してみる」

 ここまで来たら、引き返す事なんて不可能だ。

 今彼女に告げたように、何とかしてみよう。



 千秋の笑顔が見たい。

 そして、今度は彼女と共にトップを目指そう。
 
  

258: 2013/08/14(水) 20:06:55.97 ID:sI7aX5Qj0

 ☆

 後日、俺は千秋と待ち合わせをし、二人で黒川の家に訪れた。

 今日は、両親が二人とも休みで家にいると、千秋に教えてもらった。
 そして、千秋がその日に大事な話があるということを両親に伝えたらしい。俺の存在は伝えていないようだが。

 俺は、これからお邪魔するであろう黒川家を眺める。千秋の家は話に聞いていた通り、大きな家だった。流石、資産家と言ったところか。

 インターホンを鳴らし、召使いが応じた。黒川千秋さんのことで話があると両親に伝えて欲しいと言い、千秋の姿をインターホンで確認させる。

 十数秒後、門が開き、一人のメイド服に身を包んだ召使いが、こちらへと向かってくるのが見えた。

「こちらへどうぞ」

 俺と千秋は、大きな部屋へと通された。この部屋は、千秋もあまり来たことがないという。
  

259: 2013/08/14(水) 20:09:48.54 ID:sI7aX5Qj0

 広い部屋に、高そうな素材でできた赤い絨毯。その上に、黒いテーブルと、大きなソファがあった。

 千秋の両親がソファに座り、俺と千秋も向かいのソファへと腰を下ろす。

 千秋の両親は、どちらも恐らく四十歳を超えているはずだが、どこか若々しく見える。千秋から聞いていたほど厳しそうな人たちには見えないが、まだまだ緊張は解けない。

 父親の方は、娘と共にいきなり訪問してきた俺の存在に少し動揺しているようだった。

「それで、話とは何だね?」

 千秋の父親が問い掛ける。その表情は少々厳しく、眼光が鋭い。

 緊張しながらも、名刺を渡して自己紹介をした。そして、娘である千秋をアイドルプロダクションに迎え入れたいという旨を、俺は告げた。

 母親の方は反応が薄く、涼しい顔をしているが、父親の方は眉間に皺を寄せ、難しそうな表情をしている。

 千秋は両親の顔を直視できないようで、俯いて唇を噛みしめていた。
  

260: 2013/08/14(水) 20:11:24.63 ID:sI7aX5Qj0

「アイドルの件、どうでしょうか?」

「ダメだ」

 父親は、きっぱりと無慈悲に告げる。

「千秋、お前はもうすぐ結婚するのだと伝えただろう。アイドルなんかやっている場合ではない」

 冷たい目で、無感情に、彼は続けた。その話の内容は、部外者である俺が今すぐ反論したいほど、残酷なものだった。

「お願いします! 千秋さんを、我がアイドルプロダクションに所属することを認めてください」

 こんな胸糞悪い身内話を聞かされながらも、結局、俺は頭を低くしてお願いするしかないのか……!

「君も、こちらの都合を考えずに無理矢理意見を通そうとするのはやめたまえ、見苦しい」

 この、分からず屋が!
 

261: 2013/08/14(水) 20:13:01.39 ID:sI7aX5Qj0

 土下座すればいいって問題ではないが、こうなったら、土下座してやる。

 俺は立ち上がると、ソファの横、赤い絨毯の上に膝をつけ、土下座した。

「お願いします。どうか、千秋さんのアイドル活動を認めてください」

「君もしつこいな、もう出て行きたまえ」

 殆ど相手にされていない。ただ、引き下がるわけにはいかない。


「嫌です、認めてくれるまで――」


「――お願いします」


 唐突に言葉を遮られる。驚き、思わず後の続く言葉を飲み込んだ。

 その声は、か細くて、弱々しくて、震えていたけれど、確かに、千秋のものだった。

「……アイドル、やらせてください……お願いします」

 彼女の視線は、真っ直ぐに父親へと向けられていた。
  

262: 2013/08/14(水) 20:14:44.47 ID:sI7aX5Qj0

 強い意志の籠った視線を受け、少なからず彼女の父親は狼狽えた。そして、怒りの表情を浮かべた。

「千秋……? 君の仕業だな?」

 ぎろりと、元凶である俺を睨み付ける父親。

「私は、アイドルになります。だから、結婚はお断りします」

 相変わらず怯えが混じってはいるが、彼女は確かに自分の意志を、両親に告げたのだ。

 気高く、凛とした雰囲気の片鱗が、彼女からは滲み出ていた。
  

263: 2013/08/14(水) 20:19:54.23 ID:sI7aX5Qj0

「そんな勝手が許されるか!」

 父親が憤慨し、怒鳴った。あの弱々しい態度はどこへ行ったのか、父親の剣幕に物怖じせず、彼女は言い返す。

「勝手なのはどっちですか! いつだって、私の意志を蔑ろにして!」

「お前には私達の跡を継ぐ義務があるのだと言っただろう! 故に私達はお前を、後継者として相応しい優秀な者へと育てなくてはならない、黒川家はいつもそうしてきた!」

「だからと言って、それを私に押し付けないでください」

 いつの間にか、千秋は涙を零していた。それを拭おうともせず、必氏に、勇気を出して、彼女は抗った。

「お前だな、余計な事をしてくれたのは! 今すぐ出て行け!」

 今までずっと耐えて、溜めこんできたものを吐き出すかのように、千秋は強い口調で親を責めた。

 父親は千秋を相手にするのをやめ、今度は標的をこちらへと変えてきた。

 今にも掴みかかってきそうなほどの剣幕で捲し立てているが、怖気づくわけにはいかない。千秋がここまで頑張ったんだ。俺も頑張らないと。

「では、認めてください。千秋がアイドルになることを」

「認められるか! お前――」

 突如、テーブルに強い衝撃が走り、大きな音が鳴った。辺りが一瞬にして、静まり返る。
  

264: 2013/08/14(水) 20:26:35.17 ID:sI7aX5Qj0
 
「少し、落ち着きましょう」

 どうやら、千秋の母親がテーブルを殴ったらしかった。正直、こっちの方が怖い気がする。

「あなた、千秋の我が侭、認めてあげましょう」

「え?」

 千秋も、俺も驚く。父親だって驚いていた。

「お、お前、何を……」

 明らかに狼狽える父親。彼の態度は気にも留めず、母親は続けた。

「今までずっと我が侭を言わずに、耐えて頑張って来たんだもの。初めての我が侭ぐらい許すべきだと思うの」

「…………だが」

 初めての、我が侭?
 本当に、今までずっと……



 そこから十数分後、母親に説得された父親は千秋をアイドルプロダクションに預ける事を認めた。

 泣きじゃくる千秋を傍目に、何とかなってよかったと俺は一人安堵する。
  

 精神的には疲れたが、終わってよかった。

 時間がかかるだろうなと、長期戦だって覚悟していた。

     

265: 2013/08/14(水) 20:28:20.92 ID:sI7aX5Qj0

 とりあえず、一件落着か……



 事態は収束し、黒川家の玄関にて、今日は別れることとなった。

「これからよろしくな、千秋」

「えぇ……よろしく、プロデューサー」

 千秋は、ようやく笑顔を見せてくれた。

 あまりにも綺麗で、美して、魅力的な笑みだった。



 ――頑張ろうな、千秋。

  

273: 2013/08/22(木) 22:05:50.51 ID:uYchJNEx0

 ☆


 一連の出来事を経て、千秋は見事アイドルになった。

 昔から色々と習い事をしていた千秋にとって、ボーカルやダンスと言った基本的なレッスンは簡単らしい。自信満々に余裕だと言ってのけ、実際に余裕そうだった。

 また、親から学業の方もしっかりとやることを条件として言われていたが、心配する必要はないと彼女は言い切る。


 黒川千秋は、次第に変わっていった。本来の姿に戻ったと言うべきか。

 両親を説得する時から見えていた凛としたオーラが、普段からも滲み出るようになった。高嶺で力強く咲き誇る花のような存在感を彼女は持っている。

 初めて会った時は今にも崩れてしまいそうなぐらい儚く、弱気な彼女だったが、今では真逆の我の強い性格へと変貌した。お陰で、お嬢様らしく、我が侭をよく言う困った子になってしまった。

 本来の姿へと戻った彼女は、常に強気で自信満々だ。その上、大きな仕事に対するプレッシャーなんか殆ど感じない、鋼のようなメンタルを備えている。

 こんな強い子が何故今まで大人しく縛られて生きてきたのか、生き生きとした彼女を見る度にいつも疑問に思う。

 もはや苦笑を禁じ得ないほどの変わりようだったが、前よりも魅力的になっているのは確かだった。
 

274: 2013/08/22(木) 22:14:49.79 ID:uYchJNEx0

「プロデューサー、飲み物が欲しいわ」 

「何買ってくる? コーヒー?」

「それでいいわ。お願いね」

 収録から戻ってきて早々、プロデューサーをパシリに使う困ったちゃんである。

 俺は近くの自動販売機まで向かい、コーヒーを買った。ついでに自分の分も購入し、二つの缶コーヒーを両手に持って、千秋の元へと向かう。
 
 戻って来てみれば、千秋は椅子に座りながら、共演した俳優と仲睦まじく話をしているようだった。

 柔らかい笑みを浮かべて楽しそうに話す彼女はやはり魅力的だ。

 二人の会話が終わるまで待っていようと、少し遠巻きに佇む。
  

275: 2013/08/22(木) 22:21:04.28 ID:uYchJNEx0

 千秋が俳優と話しながらも、挙動不審にきょろきょろと辺りを見渡し始めるのが見えた。

 もしかして、俺を探しているのか?

 暫くして、柱の陰で缶コーヒーを飲んでいた俺に気づいたらしい。千秋が俳優と一言二言交わした後に別れ、こちらへと歩み寄ってくるのが見えた。

「何をやっているのかしら……私を放って」

 お嬢様は大変不機嫌な様子だった。

「話しているのを邪魔するのも悪いかと思って……」

「愛想笑い浮かべるのも楽ではないの。今度からはさっさと戻ってきてくれるかしら」

 何とも俳優さんに対して酷い言い草である。
  

276: 2013/08/22(木) 22:35:02.65 ID:uYchJNEx0

「聞いてるの?」

「聞いてる聞いてる。今度から気を付けるよ」

 まったく、困ったお嬢様だなぁ……

 とりあえず、今日の仕事は終わりだ。千秋も疲れているだろうし、さっさと撤収しよう。

 千秋に帰り支度をさせ、その間に俺は関係者の方々に挨拶して回り、時間を潰す。

 支度を終えた千秋と合流し、駐車場に止めてある車に乗り込んで帰路についた。 
  

277: 2013/08/22(木) 22:41:04.23 ID:uYchJNEx0

 車を運転中にふと思い出す。

「そういえば、千秋が内のプロダクションに来て一カ月ぐらいか」

「時が経つのは早いわね……でも、とっても充実しているわ」

 不敵にほほ笑む彼女が、車内のミラーに映っている。本当、彼女はよく笑うようになった。

 彼女は着実に実績を上げ、知名度と人気を上げて行っている。勿論、活動を始めてまだ一カ月程度だからたかが知れているが、何というか……伸びが凄まじい。

 俺の目に狂いはなかった。彼女をスカウトできて、本当に良かったと思う。
 

278: 2013/08/22(木) 22:47:52.85 ID:uYchJNEx0

 ――ただ、一つだけどうしても心苦しいことがあった。

「なぁ、千秋」

「何かしら」

 きょとんと首を傾げる千秋。

「……俺は、本当にこれでよかったのかが分からないんだ」

 このまま行けば間違いなく千秋は人気になるだろう。何もなければ、いずれはトップアイドルに君臨できるほどの才能と実力を彼女は持っている。

 だが、そうなってしまった場合……

「千秋は、家柄に縛られて自由が無いと言っていたよな」

 千秋は、自由を取り戻した。アイドルになることで。
 彼女がアイドルになりたいと言ったから、両親は千秋がアイドルになることを認めた。

 だけど、このまま行ってしまえば……彼女はまた自由を失う。
  

280: 2013/08/22(木) 22:50:25.87 ID:uYchJNEx0

「アイドル活動を続けているうちは恋愛できない。それに、このまま行けば多忙になる。つまり、今度はアイドルに縛られる事になる」

「あぁ、そんなこと」

 千秋は涼しい顔で俺の言葉を一蹴した。そんなことって。

「自由はあまりないでしょうね、大学にも行かなければならないし、アイドル活動もしなければいけない。恋愛も無理ね」

 でも、と彼女は続ける。

「知識はなかったけれど、アイドルはとても楽しいわ」
 
「そう……か」

 それが彼女の本意なのかどうかは分からない。別に強がりのようには見えないが。
  

281: 2013/08/22(木) 22:53:13.10 ID:uYchJNEx0

「私ね、アイドルになれて本当に良かったって思っているの。今の私には意志があって、目標がある……それに、友達だって、できた」

 最後の方は少しだけ気恥ずかしそうだったが、嬉しそうな笑みを浮かべる千秋を見て、少しだけ心が救われた。

 意志も、目標も、仲間さえもいなかった人生は、どれだけ辛いものだったのだろうか。平凡な人生を送ってきた俺には想像すらできない。

「それに、プロデューサーには話したわよね? 私は昔から習い事をたくさんしてきたの。だから、忙しいのは平気よ」

「はは……それは、頼もしいな」

 黒川千秋はとってもいい子だ。

「でも、プロデューサー? ちゃんと私に見合った仕事を頼むわよ」

 少々我が侭だけど。  
  

324: 2013/10/01(火) 02:10:30.98 ID:NK9G7r+V0

 ★

 千秋が事務所に所属して二カ月ほどが経った。

 その間に、千秋とは色々な所に出かけた。
 向かう場所は、遊園地だったり、カラオケだったり、ゲームセンターだったり、お洒落なカフェだったり。

 勿論、仕事も習い事も学校もあるわけだから、自由な時間なんて本当に限られている。

 それでも、少ない自由を彼女は喜び、楽しんだ。

 喜ぶ千秋の姿が嬉しくて、俺もよく彼女の我が侭に付き合った。

 千秋はかなり多忙な生活を送っているが、大学の成績は落ちず、ダンスや歌唱力を着実に伸ばし、淡々と習い事をこなしている。
 送られてくるファンレターの数や、売上だって増えている。

 なんて優秀なのだろうか。


 大勢の観客に見守られる舞台の上で、物怖じせずに堂々と、煌びやかに歌って踊っては満面の笑みを浮かべ、大衆歓声を一身に受ける彼女の姿は脳裏に焼き付いて離れない。

 千秋と過ごす日々はとても充実していた。

 本当に、この仕事を選んでよかったと思う。
   

325: 2013/10/01(火) 02:16:49.26 ID:NK9G7r+V0

「プロデューサー。私の水着、どうかしら?」

 砂浜で黒いビキニを惜しげもなく晒す千秋。辺りに人は少なく、撮影のためのスタッフしかいない。
 これから撮影の仕事だが、初めての海ということで少し浮かれているようだった。

「ねぇ、プロデューサー。聞いているのかしら?」

「似合ってるよ。とっても綺麗だと思う」

「ふふ。褒めてもらえて嬉しいわ。プロデューサー」

 長い黒髪を弄りながら、可愛らしく彼女は微笑んだ。

「ほら、撮影始まるみたいだ。がんばれ」

「えぇ、任せて。ちゃんと見守っていてね……プロデューサー」

 はにかみながら仕事場へ駆けていく千秋を、手を小さく振りながら見送った。
  

327: 2013/10/01(火) 02:33:16.33 ID:NK9G7r+V0

 その後、順調に進んでいく撮影を見守っている中、不意に携帯がなった。
 智絵里からのメールだった。

 今現在、智絵里は違う地方にある事務所へと一時的に移籍している。
 会うには少し遠い上、今や大人気アイドルである智絵里は多忙で、この二ヶ月間一度も会えていない。
 そのことに寂しさを感じるが、智絵里が察してくれたのかマメにメールを送ってきてくれている。

 ただ、今日送られてきたメールの内容は少しだけ嬉しいものだった。

『もうすぐ、そっちの事務所に戻れます! またPさんと一緒にお仕事したいです』

 今や智絵里には新しいプロデューサーがついているだろうから、残念ながら一緒に仕事はちょっと難しいだろうけど、智絵里と話せる機会が増えるのは、素直に嬉しかった。

 少し、問題もあるが――
  

329: 2013/10/01(火) 02:39:52.05 ID:NK9G7r+V0

 智絵里の担当を外されたことを伝えたとき、智絵里が大泣きしながら離れたくないとしがみついてきたことを思い出す。

 挙句の果てに一時的移籍の話も入ったものだから、更に泣き出して宥めるのがとても大変だった。

 幸いなことに、移籍期間が短く、そのことを伝えて何とかなだめる事が出来たが、普段大人しい智絵里があそこまで頑なに離れたくないと泣き喚いて駄々をこねるとは誰もが想像できないだろうし、とても驚いた。

 それなりの信頼関係を築けていたということなのだろうか……少し違う気もするが。

 あれから二カ月と半月ほどが経った。流石にもうあんなことは起きないだろう。

『久々に智絵理と会えるのが楽しみだよ。
 ただ、一緒に仕事をするのは難しいかな』

 絵文字の一つもない質素な文章を返す。
 返信はすぐに帰ってきた。

『社長がたまにならいいって言ってました。だから、お願いします』

 大手プロダクションだと言うのに存外適当だ。

『分かった。また一緒に仕事がんばろうな』
  

332: 2013/10/01(火) 02:46:17.35 ID:NK9G7r+V0

 脳裏に浮かぶ、智絵里の仕事風景。

 何事にも一生懸命で、いつも精一杯頑張っていて、常に努力を惜しまない彼女の姿。

 幼くて、可愛らしい、どこか放っておけないような雰囲気の少女。

 テレビに映る智絵里は、堂々としていて、最初の頃とは比べものにならないぐらい成長している。

 今は千秋で手一杯だが、余裕ができたら、きっと、また、智絵里と一緒に仕事がしたいな。
 

333: 2013/10/01(火) 02:48:54.95 ID:NK9G7r+V0

「携帯を見つめながらにやにやしているの、気持ち悪いわよ」

 いつの間に戻ってきていた千秋の言葉に、はっと我に返る。

「あぁ、呆けていた……すまん。撮影は終わったのか?」

「まったく、スケジュールを覚えていないのかしら? 今は休憩よ」

 確かにそうだった。智絵里のことでいつの間にか頭が一杯になっていたようだ。反省しなければ。

「ねぇ、プロデューサー。仕事が終わったら、近くの有名なスイーツ店で甘いものを食べたいのだけれど」

「分かった。いいよ」

 こんな風に、千秋は少しずつ自分のしたいことを伝えられるようになっていた。
 今まで抑制されていた分、少々我が侭になりがちな所もある。だが、それでも俺は彼女の変化を喜ぶ。

 時々かかってくる仕事の電話に対応しながら、俺は千秋の撮影を見守っていた。
 そうしている内に、時間はあっという間に過ぎる。
 撮影が終わったらしく、水着に厚手の白いパーカーを羽織った千秋がこちらへと近づいて来た。

「それじゃ、行きましょう」

 一通りスタッフや監督に挨拶をして回った後、俺と千秋は現場を後にした。
   

334: 2013/10/01(火) 02:50:16.04 ID:NK9G7r+V0

 車を運転して十分、千秋のナビゲートの元、店に辿り着く。

「ここのケーキね、とっても美味しいって評判なの」

 千秋に案内されて着いたスイーツ店は、明らかに男性客が一人で来れそうにないような雰囲気だったが、千秋がいるので何とか耐えられるだろう。

 本来なら男と二人でこういう店に来ること自体好ましくないが、一応千秋は変装しているし、まだそこまで知名度も高くはないから恐らくは大丈夫だと信じたい。

 こういう油断が悲劇を生まないことを祈るばかりだ。

「ふふっ。私はこれとこれにするわ。プロ……Pさんはどれにする?」

 メニューを見ても口の中が甘ったるくなりそうなものばかり。
 無難に、比較的大人しめのパフェを頼んだ。

 オーダーした品は案外早く来た。
 見るからに甘そうなパフェを少しずつ口に運ぶ。

 ふと、視線を千秋に移すと、ケーキをおいしそうに咀嚼しているところだった。

 彼女の、綻んだ笑みでお腹一杯だ。
 もう幾度となく思ったことだが、やっぱり、彼女は美しくて、可愛い。
 

336: 2013/10/01(火) 02:57:54.04 ID:NK9G7r+V0

 会話を挟みながら、少しずつスイーツを片づけていく。千秋は終始楽しそうにしていた。
 そして俺が頼んだパフェは甘ったるすぎて吐きそうだった。

 店を出て、車に乗り込もうとしたその時、凄い勢いで駐車場へと入ってきた車があった。
 車はあまり詳しくないが、見るからに高価そうだ。一体どうしたというのだろうか。

 車から降り立ったのは高そうなスーツに身を包んだ若い男だった。端正な顔立ちに、凛々しい瞳で、明らかに優秀そうなオーラが漂っている。
 彼は、こちらに視線を送っていた。正確には、千秋を見ていた。
 

337: 2013/10/01(火) 02:58:51.55 ID:NK9G7r+V0

「――千秋さん!」

「っ! あなたは……」

 驚いた表情をする千秋。どうやら知り合いらしい。

 男と千秋は一言二言会話を交わすものの、その後は会話が続かず、暫くの間、彼女達の間には沈黙が広がった。
 何やらお互い、気まずそうだった。俺は席を外すべく車に乗り込む。ただ、二人の会話は聞こえてしまった。

「千秋さん……やはり、僕ではダメですか?」

 男が意を決したように口を開き、沈黙破る。

「ごめんなさい……何度も申し上げたように……私は……」

 辛そうに、彼女は顔を俯かせた。

「あっ、えーとっ……困らせるつもりはなかったんです。こちらこそ、ごめんなさい」

 あたふたと、暗い表情をする千秋を見て焦る男。

「本当に、申し訳ありません」

 千秋は、深々と頭を下げた。
 それを見て、男は困ったように頭を書いた。

「本当……諦めが悪くて、申し訳ない。まぁ、気が向いたらいつでも連絡ください」

 照れ笑いのようなものを浮かべて、男は去っていく。
 その間も、千秋は頭を下げていた。

  

338: 2013/10/01(火) 03:01:37.28 ID:NK9G7r+V0

「もう、行ったぞ」

「そう……」


 車の中で、彼女は彼について話してくれた。

 本来なら結婚するはずだった男であり、自分の自由の効かない境遇を理解してくれるただ一人の人だったことを、彼女は話した。


「そうか……」

「本当に裏表のない、良い人よ。あの汚い世界でどうやったらずっとそんな性格でいられるのかってくらい」

 確かに、いい人そうだった。勿論、猫かぶりかもしれないし、絶対に良い人だとは言い切れないが、それでも俺は彼が良い人であるように感じる。

「千秋の望まないことだし、外野の勝手な想像で悪いんだけどさ――」

 彼を見て思った。

「――彼はきっと、千秋を幸せにしたと思うぞ」




 ――俺がそう言った時の、千秋の筆舌し難い暗い表情はきっと忘れることが出来ない。
   

346: 2013/10/02(水) 23:44:34.41 ID:I8tE2cV30

 ★

「――彼は、きっと千秋を幸せにしたと思うぞ」

 プロデューサーにそう言われた瞬間、胸の内がぞわりと震えた。

 どうして? 私が他の人と一緒になってもいいの? ……そんなことを思った。

 だけど、思い出す。私はプロデューサーにとって、ただのアイドルでしかないことを。

 プロデューサーにとって私は、他の男と添い遂げても何も思われない程度の女……担当アイドルでしかない。

 そこまで考えて、胸を抉られるような痛みに襲われる。本当の痛みではないし、顔にも出さないけれど、確かに胸が……心が痛んだ。
 

347: 2013/10/02(水) 23:52:09.30 ID:I8tE2cV30

 最近、よく、心が痛くなる。

 プロデューサーが女の人……アイドルや、事務員や、スタッフなんかと話しているのを見ていると、胸が痛む。

 胸がきゅーって痛んで、ぞわりと寒気のようなもの感じて、気付けばプロデューサーの手を取って強引に話を切り上げさせる。
 そのことをちょっと怒られたりもしたけど、あのままでいられるよりはずっと……ずっとマシだった。

 自覚はしている。

 これはきっと、恋なのだろう。

 四六時中、プロデューサーのことを想っていて、ずっとプロデューサーを独り占めしたいと思っているのだから。
  

348: 2013/10/03(木) 00:03:46.54 ID:xVaSIjXO0

 プロデューサーが笑いかけてくれるのが、好きだった。プロデューサーの笑顔を見ると、温かい気持ちになれる。

 プロデューサーに応援されると、いつだって張り切って仕事が出来る。

 箱入りだった私に、少しずつ世界を教えてくれるプロデューサー。
 プロデューサーとのお出かけが楽しくて、嬉しくて、いつも楽しみにしていた。

 他愛のない会話ですら楽しくて、私はいつも笑みを零す。
  

349: 2013/10/03(木) 00:05:10.87 ID:xVaSIjXO0

 プロデューサーと一緒に出掛けたいから仕事を頑張って早く終わらせる。
 プロデューサーと一緒にいたいから、環境を出来る限り変化させないように、学業も習い事も頑張る。
 プロデューサーに褒めてもらいたいから、喜んでもらいたいから、笑顔が見たいから、私を見てもらいたいから、お仕事を頑張る。
 プロデューサーに触れたいから、積極的に手を取る。
 プロデューサーとたくさんお話しがしたいからいつも積極的に話しかける。
 プロデューサーと一緒にいたいから、出来る限りオフの日でも会いに行く。
 プロデューサーとデートがしたいから、時間ができたらプロデューサーを誘って色々な所に出かける。
 プロデューサーが好きだから、プロデューサーが他の女の人と話すのが嫌で、無理矢理割り込んで、話を終わらせる。
 プロデューサーが好きだから、プロデューサーが居眠りしている時にずっと寝顔を眺めて、挙句の果てにキスをしようとしてしまう。
 プロデューサーが好きだから、いつだってプロデューサーを見てしまう。
 プロデューサーが好きだから、プロデューサーにはもっと私を見て欲しい。
 プロデューサーが好きだから、プロデューサーも私のことを好きになって欲しい。
 プロデューサーが好きだから、私はアイドルをやっている……?

 プロデューサーが好きだから。

  

350: 2013/10/03(木) 00:15:40.19 ID:xVaSIjXO0

 …………?

 私は、いつからこんなにプロデューサーのことを想うようになったのだろう。
 
 自分の意志で動けるようになって、友達も出来て、目標も出来た。

 プロデューサーと一緒に仕事した時間だって長くない。まだ、三か月程度だ。

 なのに、私の隣にプロデューサーがいるのは当たり前だと感じるようになっていて、プロデューサーがいない時があると違和感を感じて、落ち着かなくなってしまう。

 プロデューサーが仕事で出かけると、プロデューサーが告げた、帰ってくる時間までずっと時計と睨めっこ。

 家に帰ると途端に寂しくなって、プロデューサーにメールを送ったり、電話をする。

 友達と出かける時もあるけれど、プロデューサーのことは頭から離れない。

 私はもうダメみたいだ。

 いつか、プロデューサーが私を好きになって、私を愛してくれるところを想像したり、プロデューサーとの結婚生活を思い描いたり……妄想ばかりするようになってしまった。

 まだ、プロデューサーがどんな人なのか、全て把握していないというのに、想いは止められない。
    

351: 2013/10/03(木) 00:18:20.36 ID:xVaSIjXO0
 
 顔を上げると、前を歩くプロデューサーが視界に入った。

「好きよ……プロデューサー」

 プロデューサーの背中に、想いを投げかける。

 声は小さく、周囲の喧騒に掻き消されてしまう。

「私を愛して……プロデューサー」

 想いは、伝わらない。

 いつか、伝えられる時が来ることを信じて、私はその時を待つ。

 だから、早く私のことを好きになって……プロデューサー。
  

352: 2013/10/03(木) 00:19:18.27 ID:xVaSIjXO0
描写不足でごめんなさい
寝ます

353: 2013/10/03(木) 00:29:34.73 ID:4A/xD1gLo

この千秋は後ろから刺すタイプのヤンデレですわ(白目)

354: 2013/10/03(木) 00:38:24.02 ID:OEdwIQ9V0
なにがすげぇってここまでやばいアイドルをピンポイントで見つけ出すPの審美眼だな。

355: 2013/10/03(木) 07:28:42.93 ID:7OWK8am3O



引用: モバP「新しくアイドルプロダクションを作った」