1:HAM ◆HAM/FeZ/c2 2013/01/10(木) 21:21:17 ID:u6HRYI5w
「おはよう」

彼女が起きだしてきた。

「おはよう」

僕は笑顔で彼女を迎えるが、口の端が不自然になってしまった。

「お腹すいた」

よし、気付かれなかったようだ。
テーブルに向かう彼女を横目に、焦げついたフライパンをこっそり洗う。
また目玉焼きに失敗した。
何がサニーサイドアップだ。黒点しかないじゃないか。
部屋の中は焦げくさいにおいでいっぱいだが、彼女は気づかない。

そういう病気なんだ。
ふらいんぐうぃっち(12) (週刊少年マガジンコミックス)
2: 2013/01/10(木) 21:23:10 ID:u6HRYI5w
創作発表板に投下した過去のものです
三点リーダやクエスチョンマークなどをちょっとだけいじってますが
それ以外はほとんど元のままです、多分

3: 2013/01/10(木) 21:26:26 ID:u6HRYI5w
ソラニンという名前の病気が流行り出したのは、年号が変わって間もなくの頃だった。
僕は当時、彼女との同棲生活をスタートさせたばかりだったこともあり
TVをつける余裕もなく自分のことで精いっぱいだった。

初めは珍しい症例として時々取り上げられるだけだったが、僕がその病気を知る頃には
国民の5%近くが感染していた。

今ではもう20%の国民が感染しているらしく、大きく取り上げられることも減った。
そのかわり、社会は大混乱で、日本はもうどうしようもないところまで来た。
海外のニュースでは大騒ぎらしいが、日本もそれどころではない。

国民の20%だ。5人に一人は感染者だ。
僕も、彼女も、それに感染しないなんて、誰が断言できるだろう。

4: 2013/01/10(木) 21:29:01 ID:u6HRYI5w
ソラニンは脳の病気だ。
脳の中から芽を出し、脳を侵す。
脳をスキャンすれば、まるでジャガイモのように芽を出した影がくっきり映るそうだ。

人から人へはうつらないらしい。
原因不明の治癒不能。
医学の発達でかろうじて進行は遅らせられるものの、今のところ治る手立てはないそうだ。

人から人へうつらないのになぜ感染者が膨れ上がったのか。
最初の感染者は誰なのか。
治す手立ては発見されるのか。
神も仏もいないのか。

なにもかもわかっていない。
僕も、国も。

5: 2013/01/10(木) 21:30:58 ID:u6HRYI5w
ソラニンに感染すると、なにかを失う。
それは、聴覚だったり、視覚だったり、言語だったり。
記憶だったり、運動能力だったり。

人によってさまざまだそうだ。
ある一定期間の記憶だけを失った人もいれば、昨日の記憶もない人もいる。
下半身だけが動かなくなった人もいるし、右目だけ見えない人もいる。
日本語だけを忘れ、カタコトの英語で話すようになった人もいるらしい。

病気が進行すれば、さらに失うものが増える。
生ける屍になる。いつかは。

恐ろしい。

6: 2013/01/10(木) 21:33:54 ID:u6HRYI5w
彼女の異変に気付いたのは、1カ月ほど前だった。

仕事から家に帰ると、どうも家の中が焦げくさい。
カレーを焦がしたようだ。

「ただいま」

「おかえり」

「どうしたん、焦げてるよ」

「え?」

彼女はニコニコ笑いながら、なべの底をお玉でかき混ぜていた。
笑いながら、何を言ってるのかわからない、といった顔をした。
ぐるぐる、ぐるぐる、鍋をかき混ぜる。

7: 2013/01/10(木) 21:38:20 ID:u6HRYI5w
「焦げてるって」

僕は慌ててガスを止めたが、彼女はまだ理解できないようだった。
換気扇を回し、鍋の中身を別の鍋に移している僕を、奇妙な目で見ていた。

鍋の底で黒く固まるコゲを見てようやく、彼女も変だと気づいたらしい。

「鼻、詰まったのかな」

グスグスと鼻を鳴らし、呟く。
でも僕は、そんな、風邪とかそんなもので片付く話じゃないと予感していた。

やはり彼女は感染していた。
嗅覚を、失っていた。

8: 2013/01/10(木) 21:40:40 ID:u6HRYI5w
病院で見せられた、脳のスキャン。
見事に芽が、咲いていた。

その晩、彼女は僕の胸に顔をうずめて泣いた。
涙が出なくなるまで泣いた。

「においが、しない……」

「あなたのにおいが、わからない……」

そう言って、何度も泣いた。
僕はどうすることもできず、ただ抱きしめて頭を撫でた。

ごめん。なにもできない僕で、ごめん。

9: 2013/01/10(木) 22:45:57 ID:u6HRYI5w
それからというもの、彼女は嗅覚のない生活を送ることになった。

僕は、最初は鼻づまりの延長のようなものとして考えていた。
だけど、そんな程度ではないようだ。

「これ、シチューみたいな味がする」

カレーを食べながら、彼女が言った。

「辛くないの? カレーだよ、これ」

「舌がピリってするけど、辛さが、わからないの」

だそうだ。それから彼女はカレーを作ってくれなくなった。

10: 2013/01/10(木) 22:47:32 ID:u6HRYI5w
というか、辛いもの全般が食卓に出なくなった。
舌がピリピリするだけで美味しくないのだそうだ。

明太子とかワサビとか、好きなんだけどなあ。
彼女のためだ。仕方ない。
どうしても食べたいときは、自分で買ってきて食べることにする。

そうしているうちに、いつの間にか夏になっていた。
外に出るのは億劫だけど、この部屋も蒸し暑い。
遠くでセミが鳴く声がする。

室外機が唸りをあげて夏に対抗しようとしている。
静かなのに、うるさい。

11: 2013/01/10(木) 22:51:10 ID:u6HRYI5w
ベランダから外を見ると、真っ青な空が広がっていた。
雲が並んで、千切れて、広がって、飛んでいる。

ベランダの下では向日葵が花を広げようとしている。
一階は大家さんの敷地だ。
花の綺麗さを話題にしようと思ったが、彼女は花の匂いも嗅げないんだ。

少し考えて、その話題を振るのはやめにした。

「ねえ、去年の冬のこと、覚えてる?」

突然話題を振られた。

「ん……覚えてるよ、いろいろと」

そう、いろいろあった。

12: 2013/01/10(木) 22:55:12 ID:u6HRYI5w
「あのとき、別れないで、本当によかった」

「……」

そう、僕たちは一度だけ、一週間だけ、他人になった。
よくある話だ。
いわゆる倦怠期。
僕たちもそれにかかった。

「ねえ、あなたは?」

「うん、僕も、別れないでよかったと、本当に思う」

元に戻れて、本当によかった。
そう思う。
あのときの一人寂しい夜とか、君が最後に編んでくれたマフラーとか、一人の年越しとか。
思い出して寂しくなってきた。

「本当に?」

「本当」

「嘘」

13: 2013/01/10(木) 22:58:24 ID:u6HRYI5w
嘘じゃない、と言おうとした僕よりも先に、彼女は堰を切ったように喋り出した。

「私が、ソラニンにかかって、私のこと、重荷になってる」

「あのとき別れてれば、あなたはそれを知らず、きっと幸せだったわ」

「辛いもの好きだったのにね」

「お香も焚かなくなったもんね」

「花も飾らなくなったよね」

「それもこれも、私が……」

あとは、言葉にならなかった。
また彼女は泣いた。
僕はどうすることもできず、ただ抱きしめて頭を撫でた。

14: 2013/01/10(木) 23:03:58 ID:u6HRYI5w
「失うものは、人によって違うんだってさ」

僕は、頭の中で整理する前に言葉にした。

「ソラニンで失うものは、自分自身が決めるんだってさ」

「それ、誰が言ってたの」

「テレビに出てた、偉い学者さん」

「……」

言葉は続く。
それが彼女を慰めるのか、傷つけるのか、判断できないまま。

「君は、嗅覚を失うことを、望んだ?」

15: 2013/01/10(木) 23:07:30 ID:u6HRYI5w
「……」

長い沈黙。
こんな言い方でよかったのか。
いや、そもそもこんな不確定な話を聞かせて、僕はなにがしたいんだろう。

「望んでない」

彼女はきっぱり言い切った。

「ほんの少しの、心の声で、失うこともあるんだって」

「……覚えてない」

においを拒絶するとしたら、僕の体臭がきつかった、とか、そんな理由だろうか。
そうだとしたら、少々ショックだ。
いやかなりショックです。

16: 2013/01/10(木) 23:10:08 ID:u6HRYI5w
もし、そうだとしたら、絶対に喧嘩はしたくない。

僕のことを忘れられたら、と思うと、怖くて。

「僕のこと、忘れないでくれよ」

「……うん」

届いたかな。
真夏だって言うのに、少し寒さを感じた。
悪寒でないことを祈ろう。

23: 2013/01/12(土) 14:38:41 ID:WPmSbLIc
「さ、夕食の食材でも買いに行こうか」

「うん」

「今はなにが旬かな」

「……夏野菜のカレー、食べたい?」

「……うん」

「じゃあ、それ、作ろ」

24: 2013/01/12(土) 14:42:46 ID:WPmSbLIc
「カレーは嫌じゃないの」

「いいの」

「辛くなくてもいいからね」

「……うん」

甘口と中辛の間に決めて、僕らは近所のスーパーにでかけた。
なんだか少しだけ距離が近づいた、気がした。

遠くなかったはずなのに。

不思議だ。

手をつないでスーパーまで歩いて行った。
影が伸びる伸びる。なんてことない光景だけど、笑えてきた。

25: 2013/01/12(土) 14:44:21 ID:WPmSbLIc
「ね、ナスは入れようね」

彼女はポイポイとナスをかごに投入する。

「オクラは?」

「サラダも作ろうね」

彼女はポイポイとジャガイモやトマトをかごに投入する。
却下されたようだ。なんでだ。

「お、牛肉が安い」

「夏野菜カレーなら鶏肉だよね」

彼女はポイポイと鶏肉をかごに投入する。
僕の意見はどこに行った。

26: 2013/01/12(土) 14:49:02 ID:WPmSbLIc
「パプリカもいいよね」

彼女はポイポイとパプリカをかごに……

「いや、これ嫌いなんだ」

投入する前に、僕が止めた。

「なんで?」

「色が嫌い」

「きれいじゃん」

「でも形はピーマンじゃん」

緑色じゃないピーマンは変だ。
ピーマンは食べられる。小学生じゃないんだから。
でもパプリカは無理。生理的に無理。

27: 2013/01/12(土) 14:55:27 ID:WPmSbLIc
「むう」

彼女はちょっと不機嫌になったけど、なんとかパプリカは阻止した。
そのかわりピーマンで手を打った。

……ピーマンって夏野菜じゃないよな。
まあいいや。

「お腹すいた」

袋の中のジャガイモは、ソラニンを思い出すからあんまり好きじゃないけれど。
でもカレーにもサラダにも必要だ。

そう、ジャガイモに罪はない。

28: 2013/01/12(土) 15:01:28 ID:WPmSbLIc
結果から言うと、カレーは旨かった。

久しぶりの味だ。

彼女も嬉しそうだった。

それが僕を安心させた。

そして、一緒に皿を洗って、一緒にドラマを見て、シャワーを浴びて、寝た。

「おやすみ」

「おやすみ」

どこかで「さよなら」と聞こえた気がした。

29: 2013/01/12(土) 19:43:11 ID:WPmSbLIc
次の日、僕は目をこすりながら、白い天井を見上げていた。

なんだか変だ。
でも、知っている天井だった。
なんだろう、この違和感は。

窓の外を見ると、今日は天気が悪いのか、空は一面曇っていた。
こういう朝は気分が悪い。
スカッとした青空が見たいのに。

なんだかのどの調子が少し悪い。
そういえば昨日は冷房をかけっぱなしにしてしまった気がする。

30: 2013/01/12(土) 19:47:55 ID:WPmSbLIc
「おはよう」

彼女が先に起きていた。
声に元気がない。
顔色も悪いようだ。

「夏風邪、引いちゃったかも」

鼻をすする音がする。

「熱は?」

僕は彼女のおでこに手をあてる。

「……手、冷たい」

彼女が笑う。
違う、君が熱いんだ。

31: 2013/01/12(土) 19:52:36 ID:WPmSbLIc
「熱あるよ。もうちょっと寝てな」

薬を探そうと棚を漁りながら、また違和感を感じた。

顔色が悪いだって?

もう一度彼女に近づいて頬を手で挟む。

「冷たいよ」

違う、君が熱いんだ。
君の頬は熱いんだ。
なのになぜ、君の顔色はそんなに悪いんだ。
なぜそんなに青白いんだ。

……白い。白すぎる。
まるで人形のように。
氏人のように。

32: 2013/01/12(土) 19:55:29 ID:WPmSbLIc
急に気分が悪くなり、流し台に吐いた。
口からは胃液しか出ない。
昨日、なにを食べたっけ。

横を見ると昨日の鍋があった。
ああそうか、カレーを食べたんだ。

蓋を取って中を覗くと、真っ黒な液体が入っていた。

「なんだ、これ……」

彼女が心配そうに、僕の背中を撫でてくれる。

「これ、なに……」

「昨日のカレーじゃん」

「焦げてる……」

「焦げてないよ」

33: 2013/01/12(土) 19:56:58 ID:WPmSbLIc
脳が鈍く回転を始める。
昨日のカレー。
昨日は焦げていなかったのに今日は真っ黒だ。

訳がわからない。
僕は頭を振る。
ひじがガラスのコップにあたり、床でガラスの割れる音がした。

「あらあら、危ないから、ほらどいて」

彼女が片付けようとしゃがみこむ。
僕もしゃがみこんで、ガラスを拾おうと……

「痛っ」

「あらあら、大丈夫?」

指先を切ってしまった。
指先から墨汁が流れ出す。

34: 2013/01/12(土) 19:58:21 ID:WPmSbLIc
遠くでテレビの音がする。

「今日は全国的に快晴です」

アナウンサーが天気予報を告げる。
フラフラとベランダへ向かう。

「ねえ、どうしたの? 本当に大丈夫?」

彼女の声が後ろで聞こえる。
君こそ、熱があるんだから早く寝なさい。
そう言おうとしたが声にならない。

空を見上げると真っ白な曇り空だった。

下を見下ろすと真っ白な向日葵が僕を見上げていた。

僕はようやく理解し、声をあげて泣いた。

★おしまい★

36: 2013/01/13(日) 03:34:19 ID:5gD7d/rU
「色が嫌い」の一言のせいで色覚を失ったのか

引用: 男「あの頃の僕らにはもう戻れない」