1: 2014/06/27(金) 22:54:07.08 ID:cMGVLU1+0
※咲の十二国記パロです

といっても世界観を取り入れただけで話はオリジナルですので
閲覧は自己責任でお願いします。ほんのり菫咲風味

3: 2014/06/27(金) 22:59:13.91 ID:cMGVLU1+0
咲には両親がいない。

物心ついた時より大きな商家の下働きとして働き、とりあえずの日々を細々と生きていた。

商家の主人からは小さな粗相をしては頭ごなしに叱られ、

姿が見えないからサボっていたのだろうと決め付けられ容赦なく叩かれたりもした。

きっと、反抗もせずじっと耐え続けていたのも主人からしたら気に入らなかったのだろう。

一日に数回は難癖を付けられ、いびられたがそれでも内容は貧相であれ一日二食の食事は約束されており

冬は辛かったけれどなんとか越せる寝床も用意されていた。

ここより叩き出されて、外の世界で生きていくほうが何倍も辛いだろう事を、

商家に出入りする旅商人の噂より咲は聞き知っていた。
 

4: 2014/06/27(金) 23:05:58.48 ID:cMGVLU1+0
この世界は天帝により12の国が定められ、それを治める王がいた。

咲がいるこの国も、その十二のうちの一つだったが……

数十年前に前王が倒れて以来、まだこの国に新王は立ってはいない。

国を治める王は、麒麟という神獣によって人の中より選ばれる。

選定された瞬間より、王は人では無くなり、神にも等しい存在になるのだという。

玉座に座り、その治世が正しく続く限り、王は不氏となり国はいつまでも栄える。

だが反面、王が民を省みず悪政を敷くならば天が許さない。

そのため、この国の前王は数十年前に、100年弱の治世を経て天から見放された。

聞いた噂によると前王は悪婦に溺れ、政治を省みなくなったのだという。

長く王の傍らで支え続けた麒麟の声にも耳を傾けず、その神獣を失道させてしまってからはあっという間だったらしい。

5: 2014/06/27(金) 23:12:23.36 ID:cMGVLU1+0
王を神にした麒麟を失えば、王はもはや神ではない。

そうして、酷い病に冒された前王が氏んでから数十年。

新しい麒麟による選定は始まっているらしいが、今だ新王が即位したという話は聞こえてこない。

その間に、この国には災いが満ち溢れるようになってしまった。

「隣町でまた妖魔が出たそうだよ…」

「南の方では、干ばつが酷いらしい…」

「それでごうつくな役人が税の上前を撥ねてしまうから…」

商家を訪ねてくる旅人からは気が滅入るような噂しか聞こえてこない。

この世界では王が玉座に在るだけで、国はある程度安定する。

今のように空位な状態が続くと、国中に天変地異が起こり、人を襲う妖魔の出現も増えるのだそうだ。

だから咲は思う。

例え今、主人より酷い扱いを受けていようとも、自分がこの商家より放り出されたら

一日も経たずに身包み剥がされるか、妖魔の餌食になり人生は終わることだろう。

だから、単なる憂さ晴らしに主人より殴られたのだとしても……それに逆らう道は咲にはなかった。

6: 2014/06/27(金) 23:16:58.78 ID:cMGVLU1+0
ある寒い日のことだった。

朝の仕事をある程度終えた咲は、桶を持ち裏の勝手口より井戸へと向かう。

桶に井戸から水を組み入れ、それが終わると赤くなってしまった指先に息を吹きかけ咲は一息ついた。

昨日尋ねてきた旅商人が言っていたが、今年は天災が続き農作物が大打撃を受けたらしい。

今はまだいいが、これから雪が降れば食料が品薄になり世間の生活は更に辛くなるだろうと。

本当に、聞こえてくる話はそんな気が滅入るものばかりで…

このまま新王が立たない時期が続けば国は更に疲弊しているのだろう。

明日は我が身に降りかかる火の粉かもしれない、人生に明確な目的があるわけでもないが

それでも明日一日を無事に生きていきたいと思いながら、咲は小さく息を吐いた。

そろそろ仕事に戻らなければ主人に怒鳴れるかもしれない。

殴られるだけならまだいいが食事抜きになったら本当に辛い。

早く戻らなければ。

そうして、冷えた指先に力を込め、水がたっぷり溜まった桶を持ち上げた瞬間……

咲は視界の先に佇む人影に気付いた。

7: 2014/06/27(金) 23:23:57.61 ID:cMGVLU1+0
咲「えっ」

ついつい短い声を上げてしまったのは、咲の他に人がいるとは思わなかった事と。

佇む人影に見覚えがなかったからだ。

確実に、家内の者では無い。

ならば、ここは商家の奥まった庭先でもあるし…

もしかしたら商家を尋ねていた旅商人が迷って入り込んでしまったのだろうか?

だけど突如現れた人影は、どうも長旅を主にする旅商人の格好でもないような気がした。

落ち着いた色彩の身なりだが纏っている生地は高価なものだと思う。

咲よりも少し上ぐらいの年頃の少女に見えた。

少女は言葉も無く、ただ、じっと咲を見つめていた。

咲「……?」

そんな不躾な視線を受けて、咲は首を捻った。

だが、いつまでもここで見つめ合っている訳にもいかないと目の前の少女に話しかけた。

咲「あの。店にいらしたお客様でしたら、申し訳ありませんが表に廻って頂きたいのですが……」

そう言いながら、家屋を回り込む道筋を一方的に教える。

旅商人には見えなかったが、そうでなければ彼女がここにいる説明が付かない。

強盗するような身なりにも、雰囲気にも見えないのだから。

すると意外にも咲の言葉に従うように少女はその場より歩き出す。

ほっ、と咲は安堵の息を付く。

8: 2014/06/27(金) 23:27:14.47 ID:cMGVLU1+0
どうやら、本当に迷い込んでしまったのかもしれない。

無愛想だが、世の中、色んな人がいる。

こんな気難しそうな商人がいても可笑しくはないのだ。

だが、咲が感じた安堵はすぐに消える。

自分が指し示した道筋を辿る事無く、真っ直ぐ向ってきたのは…咲の眼前だ。

咲と、たった一歩程の距離で立ち止まった少女に「あの、」と焦り気味に咲は声を掛ける。

だけど、その問いかけに答える事無く、代わるよう伸びてきたのは腕だ。

驚き、咲の体がビクリと震える。

それでも逃げに入らなかったのは、無愛想な少女だが咲を見下ろすその瞳には

咲の主人のような蔑みの色が見えなかったからだ。

伸びてくる腕の先、その指先が咲の目尻に触れる。

ヒヤリとした指先の冷たさと共に、痛覚へと響いた痛みに咲は顔を顰めた。

昨日廊下の掃除をしていたら主人がやってきて、有無も言わさず殴られたのだ。

後から、咲と同じような下働きから聞いたが旅商人との交渉が思っていた程上手くいかず、

手当たり次第、見かけた者に当り散らしていたのだそうだ。

まさしく、そんなとばっちりを受けた咲の目尻 は理不尽に受けた暴力から腫れて赤くなっていた。

今日は寒かったから痛さは引いていたが、触れられた事で痛みを思い出してしまった。

9: 2014/06/27(金) 23:31:25.07 ID:cMGVLU1+0
咄嗟に、触れたままの指先を退けてもらおうと、咲は眼前に立つ少女に訴えようとした。

が、見上げる先にある端正な顔立ち。その瞳が気難しげに細められた。

そして、形の良い唇が開く。
 
菫「遅くなって申し訳ない」 

見上げる先の、少女の声は静やかだったけれど。

なにか真摯な想いが込められたその声を聞き咲は混乱を覚える。

だって、初めて出会った少女だ。

こんな身なりの良い知り合いなど咲にはいないし、見たことも無い。

そんな人間が、なぜ、突然咲に謝るのだろう?

咲「あの、すみませんが。人違いではありませんか?」

咄嗟にそう言い返していた。だって、その理由が一番しっくりくる気がする。

世の中には同じ顔の人間が数人いるというのだから、

きっとこの少女は咲と他の見知らぬ誰かと間違えているに違いない。

10: 2014/06/27(金) 23:34:43.37 ID:cMGVLU1+0
だが、そんな咲の希望的観測を否定するよう少女は首を左右に振る。

菫「私が、貴方を見間違うはずがない」

咲「で、でも、初めてお会いしましたよね?」

少女は素直に頷く。

ほらね!と、咲は言葉を返そうとした。だが、

菫「それでも、ずっと…私は貴方を探していたんだ」

咲「え?」

どういうことですか?と咲が声を返そうとした瞬間。

家屋の方より怒鳴り声がした。

主人「おい!」 

その鋭い声に対して、咲は長年通して受けたきた恐怖が植え付けられている。

ひっ、と短い悲鳴を上げながら、咲は声がした方より数歩後ずさった。

自然、目尻に添えられていた指先も離れる。

咲の視界の片隅に、その指先を丸め握り締める少女が見えたが構っていられない。

まずい所を見られた、咲にはその気はなかったが怒鳴り込んでくるに違いない。

主人からすれば、咲はサボっていたように見えたはず。

11: 2014/06/27(金) 23:37:31.18 ID:cMGVLU1+0
主人「そんな所で何をやっている!?」

野太い怒鳴り声と、寒さで悴む指先で咲は持っていた桶を地面に落としてしまった。

バシャリと汲んだ水が辺りに染み渡り、その向こう側から荒々しい足音を響かせ主人がやってくる。

主人「本当に愚図な奴だ、水汲み一つできんとは!」

主人がそう言葉を吐き捨て、水溜りの上を水滴を飛ばしながら咲の前まで来ると、

太い腕を伸ばし有無を言わさず咲の髪を鷲掴みにした。

髪の毛一本一本を強く引っ張られる痛みに、咲は顔を歪ませるが…

きっと、今感じる痛み以上の折檻がこの先待っているに違いない。

恐怖でぶるりと震えた体が強い力で引き摺られる。

頭皮が感じる痛みに逆らえず足を縺れさせながらも数歩分、家屋へと近づいた瞬間。

主人と、咲との背後より硬い声が響いた。
 
菫「その手を離せ」

主人「あ?」

険呑な主人の声。

髪を掴まれているせいで咲は振り向けないが、

主人は訝しげな表情を浮かべ後ろを振り向いたようだった。

12: 2014/06/27(金) 23:40:08.04 ID:cMGVLU1+0
聞こえてきた声は確かに少女のもので、

怒りの余り咲にしか意識がいっていなかった主人はやっとその存在に気付いた。

主人「…どこの馬鹿か知らないが、こいつは我が家の下働きだ」

主人「水汲み一つできん、役立たずな愚図を主人である俺がどうこうしようとお前には関係ないだろうが!」

はやくここから出て行け!!

そう、少女に向かい口汚く吐き捨てた主人の声に咲が怯えた。

だが罵声を浴びせられた少女が、言葉を返すよう主人に向かう。

憤怒の塊であり、手の付けられない暴君である主人に対して少しの怯みもみせず、

一言一言はっきりとした口調で、だ。

菫「お前が、主人ではない」

少女の声に咲が目を見開くのと、「なにぃ?!」と怒り出そうとした主人の唸り声が響くのは同時だったと思う。

だが、主人の声が続く前に少女は再び言い放った。

菫「私の主人だ」

13: 2014/06/27(金) 23:42:45.62 ID:cMGVLU1+0
瞬間、地面を見るしかなかった咲は我が目を疑う。

堅いはずの地面がぐにゃりと水面のように波打つと、そこからにょきりと腕が生えた。

それも人の腕とは違う、まるで鳥の羽の如く羽毛を生やした腕だ。

その先に繋がる、女人の姿をした体躯が地面より完全に這い出てくると

咲の髪の毛を鷲掴みしていた主人の腕を、横から掴み取った。

主人「な!?」

驚く主人の声が、すぐに悲鳴へと変わる。

咲もミシリ、と人の骨が軋む音を確かに聞いた。

同時に、鷲掴みされていた髪の毛が開放される。

その反動でよろけながら後退し、眼前で改めて起こった光景に対して息を呑む。

地面より這い出てきたのは鳥人間とでもいうのだろうか。

人では、無い。

咲は商家を訪れる旅商人から、存在する姿形だけを噂として聞き知っていた。

あれは…

主人「…よ、妖魔だ……!」

主人の震える声が答えだった。

現れた女形の妖魔は主人の腕を掴んだまま、それを捻り上げる。

14: 2014/06/27(金) 23:44:57.72 ID:cMGVLU1+0
先程骨が軋む音がしたように、そのまま力が掛かっていけば確実に主人の骨は粉々になるだろう。

狂ったように悲鳴を上げまくる主人の姿を呆然と咲は見返している。

人を襲い、喰らうと言う妖魔が主人を殺めてしまったら…次は咲の番なのだろうか。

こんな貧相な体格の咲だから、妖魔は先に主人を襲ったのだろうか。

埒もあかない事をつらつらと考え込んでいたら、

そんな思考を遮るように一際、甲高い主人の悲鳴が響き渡った。
 
ビクリ、体が震える。

現実に気付いた咲は恐怖で哂いはじめた足をどうにか動かし、後ずさりしようとする。

途中、踵が地面に躓き視界が廻る。

あ、と思った瞬間に、咲は後ろへと倒れこもうとしていた。

すぐに感じるだろう、地面との衝撃の痛みを想像して咲は目を強く瞑る。

だが、痛みは訪れなかった。体も地面に倒れ込んでもいない。

背後へと倒れ込もうとした咲を柔く抱き止めたのは、

いつの間にか咲の後ろに回りこんでいた少女の腕だった。

触れ合った布越しの暖かさに咲は一瞬怯んだが、掴んだままの腕に、更に強く引き寄せられる。

15: 2014/06/27(金) 23:47:21.84 ID:cMGVLU1+0
そうして、頭上から響く声を聞いた。
 
菫「黙らせろ」

『御意』

少女の声に対して、脳裏に響く女性の声を咲は確かに聞いた。

直感的に、今の女性の声は目の前の女怪の声なのだと気付く。

事実、少女に言われた通り妖魔が捻り上げていた主人の腕を開放すると、

すぐにその顔面を異形の手の平で鷲掴みにした。

途端、今まで辺りに響き渡っていた主人の悲鳴はくぐもった呻きに変わる。

女怪に頭部を鷲掴みにされた主人は、そのまま宙吊りになり家屋の方へと連れて行かれる。

途中、主人の悲鳴に気付いたのだろう、

家屋の中から息を顰めてこちらを窺っていた他の下働き達が逃げ出す悲鳴が聞こえた。

去っていく妖魔と主人の後ろ姿を震えながら見つめていた咲だったが、更に怖い事実に気付く。

あの妖魔を従え、命令を下せる咲の背後に立つ少女は一体何者なのだ?

16: 2014/06/27(金) 23:50:12.62 ID:cMGVLU1+0
コクリ、唾を呑み込み咲は自身を抱きとめる少女を仰ぎ見ようとする。

だがその途中、視界の隅の地面がまた、ゆらりと波打った。

ズズズ、と地面より這い出てきたのは虎ほどの大きさの獣だが、

全身の毛並み真っ赤で……なにより、目が六つある。

どう見ても新しく現れた妖魔であり、尚且つ、その六ツ目が一斉に咲を凝視した。

咲「……っ!!」

正気の限界。

恐怖なのか、次々と起こる出来事に対して耐え切れなくなったのか、咲の意識はくらりと揺れた。


視界が廻り、灰色の空が見えたが…すぐにあの少女の覗き込むような顔が見えた。

その双眼は咲を見下ろしながら、どこか気遣うように揺れていた。

そんな眼差しを受けた事は、生きてきて一度も無い。

どうして…

薄れ行く意識の中にあって、咲の少女に対する恐怖も少しずつ薄れていった。

17: 2014/06/27(金) 23:52:12.78 ID:cMGVLU1+0


背後より抱きとめていた体が重みを増し、守ろうとした人が気を失ったのだと菫は気付く。

くたりと垂れた咲の頭を自らの胸元へと引き寄せる。

そして、短く舌打ちをした。

『御無礼を致しました、台輔』

菫「…いや、私も考えもなしにお前を呼んだからな。ただ、この方にはすまないことをした…」

現れた獣の姿をした使令は、菫にしてみれば見慣れた姿だったが。

妖魔に馴染みのない人間ならば、確かに酷い恐怖を覚えてしまっただろうに。

抱き止めた体躯とて触れ合う部位から小刻みに震えていたのを感じていた。

でも、気が早ってしまった……

自分の浅はかさに呆れるが、それほどまでに菫は浮かれていた。


ようやく見つけた、腕の中で確かに存在する王の姿に。

33: 2014/07/04(金) 00:19:44.81 ID:dhnWXJcK0
蓬山において、女仙よりずっと聞かされて育ってきた。

麒麟である自分が、数多の人の中より唯一人の王を選ぶ事になると。

そしてその王気を感じる事ができるのはこの世で唯一人、麒麟だけなのだと。

そうしてもうどれ程の年月、菫は主を探し続けただろうか。

王になるため昇山する者もいたが、その人々の中に菫の意識を引く存在はいなかった。

だから、菫自身が探し始めた。

数年、緩やかに衰えていく国を見下ろしながら、この国を救うための王を探し続けた。

そうして今日、突如として、その気配を感じとったのだ。

ジワリと胸に熱が灯ったような気がした。

急かされるよう、空へと飛び出し向かった。

感じ取った存在に近づけば、近づく程に濃くなる王気の中心。

そこに佇む姿を見た瞬間、菫はこの人なのだとわかった。

随分と頼りない姿形だったが、それは上辺の形に過ぎない。

まぎれもない王気。

彼女こそが、菫が、この国が、ずっとずっと捜し求め続けていた王なのだ。

34: 2014/07/04(金) 00:22:59.78 ID:dhnWXJcK0
そしてその存在が今、とうとう菫の腕の中にある。

体勢を整え、抱き上げると随分と軽く思えたのが気のせいではないだろう。

先ほど触れた目尻や、頬に残る痣を見る限り、随分とここの家主より酷い扱いを受けてきたのだろう。

菫「……」

菫は顔を歪ませる。

元々麒麟は慈悲の生き物だが、王が関われば話は別だ。

殺生もよしとはしないが、王が望めば菫はそれを実行するだろう。

麒麟にとって王とは特別な存在なのだ。

だからこそ、先ほどここの家主に対する怒りを抑えきれなかった。

自分もまだまだだな、と息を付くと丁度、使令の女怪が戻ってきた。

『縛り上げ、一室に放り込んでおきました』

菫「ああ、それでいい…この分だと他に働く者達にも酷い扱いをしていたのだろうな。文官に相談し、役人を入れさせよう」

『御意。後ほど伝令に走ります』

菫「頼む」

『王の御容態は?』

菫「誓約はまだ交してはいない。…早く交わせれば、よかったのだが…」

35: 2014/07/04(金) 00:26:30.57 ID:dhnWXJcK0
そうすれば、彼女は人では無く神籍を持つ王になる。

不老長寿を含めた神通力がその身に宿れば、

こうして見下ろすだけで菫の目に付く数多の外傷も多少は癒えたかもしれないのに。

ふと、鼻腔に届いた鉄染みた匂いに気付き自然、顔が歪んだ。

女形の使令が、そんな菫の機微を察して腕を差し出してくる。

『台輔。血がお辛いようでしたら私がお運び致しますが?』

菫「………」

黙りこみ、菫は眼下の体躯を見下ろす。

視界に写る肌には腫れやかさぶたが目に付くだけだが。

確かに血の匂いがその体躯より香ってくる。

きっと纏う服の下に手当てもされず放って置かれた裂傷があるのだろう。

その事実に、ここの家主に対して更に強い不快感を覚えた。

尚且つこの身は神獣であり血の穢れを嫌う。

肉は決して口にしないし、血に長く当てられれば不調もきたす。

その事を使令も分かっているから、菫を気遣うのだ。けれど。

36: 2014/07/04(金) 00:30:23.38 ID:dhnWXJcK0
菫「……いや、いい」

頭を左右に振ってから、菫は咲を抱き上げる腕に力を込めた。

血の穢れに対する拒否感よりも、誓約も交わしていない存在をこの腕より手放す方が余程恐ろしいと感じた。

やっと、やっとで探し当てたこの少女を。

菫「戻るぞ」

短く告げると女形の使令は、それ以上は何も言わず菫に向かい頭を垂れた。

次いで六ツ目の使令が眼前に進み出てくると、地面すれすれまで半身を折り曲げる。

菫は慣れたよう、その赤い毛並みの上に腰掛ける。

いつの間にか横に立っていた女形が用意した厚手の布を受け取ると、それで腕の中の存在を厳重に包んだ。

準備が整い、腰を降ろす赤い毛並みを撫でると菫を乗せたままの獣が起き上がり地面を歩き出した。

それは、すぐに駆け足となり、地面を蹴っていた四足は徐々に空気を蹴って空を駆け始める。

速度が増し受ける風圧から守るよう、菫は更に強く咲を抱き込むと瞼を閉じた。



■  ■  ■


37: 2014/07/04(金) 00:33:28.12 ID:dhnWXJcK0
咲が瞼を開けた瞬間、見知らぬ天井が見えた。

だから記憶が混乱したのは確かで、尚且つ身を起こした場所が今だかつて経験した事もない、

柔らかい布団が敷き詰められた豪奢な寝台の上だったから腰が抜けそうになった。

慌てたようにその場所から駆け下りると、床に倒れこみながらも自分の姿に気付く。

纏っている清潔な白い寝間着は生地も良く、

こんな品、旅商人より諸侯への献上品だと見せられただけで触った事もない。

しかも、体中に受けていた打撲や裂傷の痕には包帯が巻かれ、塗布された消毒薬の臭いがした。

震える腕を上げ、頬に手の平を当てるとそこにも柔らかい布が貼り付けられていて、

全身を丁寧に手当てされている事がわかった。

だが、どうして自分がそんな扱いを受けるのか咲に心当たりが無い。

記憶も混濁している。

38: 2014/07/04(金) 00:36:45.18 ID:dhnWXJcK0
ここで目覚める前、自分には今まで生きてきた場所があったはずだ。

恐ろしい主人と、最低限の生活を送る中でいつの時も肌寒さに震えていた商家での生活。

そんな場所から、なぜ突如としてこんな豪奢な部屋の中に寝かされる事になったのか。

咲はぐるり、室内を見渡す。

置かれた調度品や室内の細工、その一つとっても…商家の主人の部屋のものより煌びやかで繊細に見えた。

暫し、天井に施された細工に見惚れてしまっていたが、

ハッと正気に戻ると咲はその場に立ち上がった。

咲「……」

幸いにもここには咲一人だけのようで、辺りに人の気配も感じない。

そんな中で自分の状況が掴めないのだから、自身が動き出すしかない。

纏っていた質の良過ぎる寝間着に気後れは覚えたが、

裸のままで歩き回る訳にもいかないし考えない事にする。

39: 2014/07/04(金) 00:41:20.26 ID:dhnWXJcK0
どれくらいここで横になっていたのか、歩き出した体は多少軋んだ。

その痛みに顔を歪めながらも、重厚な扉に手を当てて押すと思ったよりもすんなり開いた。

頭半分、通路に顔を出し辺りを見渡す。

ガランとした廊下は左右両側に延び、どちらを見ても無限に続いているような錯覚を覚える。

一体、どれ程大きな建物なのだろうか、ここは。

また、胸中に生まれてきた気後れに押し潰されそうになるが

咲は意を決して、誰もいない通路へと足を踏み出した。



どれ程歩いたのか…同じような景色が続く通路を暫く歩き続けた。

途中、余りの人気の無さに、見知らぬ扉の先を覗いてみたがどれも豪奢な間取りの部屋だけで。

鍵の掛かっている部屋もあったがやはり人気はなかった。

不安に押し潰されそうだったが、そのまま暫く進むとやっとで開けた場所へと辿り着く。

そうして、抜きぬける風を感じた。

建物を抜けた先には、東屋があり中庭のような空間が広がっている。

40: 2014/07/04(金) 00:44:24.29 ID:dhnWXJcK0
やっと外に出たのか、と咲は小さく息を吐いた。

そのまま外へと向かう。このまま歩いていけば、街道にでも出るだろうか?

そうすれば荷馬車に乗れるかもしれない。

咲自身が置かれている状況がわからないこの現状より、

どこかの町にでも辿り着けば自分がどうすればいいのか判断できる。

多分、自分は何かの手違いでこんな場所に運ばれてきたのだろう。

間違いだと分かればいらぬ面倒事に巻き込まれるのは必然で。

その時、咲には何の後ろ盾も、親すらいないのだから反論する術がない。

ならばこのまま逃げてしまった方がいい。…その後どうするかは、町に無事ついたら考えよう。

無一文だが、身に纏う衣服と交換すれば暫くの旅費にはなるはず。

そう道筋を考え、続く芝生の上をサクリサクリ歩き始めた。

が、そんな思惑は5分ほど歩いた所で閉ざされてしまう。

41: 2014/07/04(金) 00:48:59.96 ID:dhnWXJcK0
咲は呆然と、途切れた芝生の向こうに広がる雲の海を見つめていた。

吹き抜ける強い風に視界を細めると、雲の合い間を縫って、雲の下にある街の明かりが確かに見えた。


そんな、馬鹿な―――――戦慄く唇でどうにか呟く。


咲「こ、ここは、空の……上?」

菫「雲海の上にある居城だからな」


独り言だった。

誰かに向かっていった言葉でもなかったが、それに対する答えが背後より届く。

咲は驚いて振り返った。

そこには背の高い、見覚えのある姿が立っていた。

秀麗な顔を僅かに顰めながら、咲だけを凝視するその眼差しは…咲の記憶を呼び起こす。

ここで目覚める前、咲が最後に見た姿だ。

やはりこの少女が咲をここへ連れてきたのか。

だが、見つかるのが早いと思う。

部屋を抜け出した時に人の気配はしなかったし、何よりあそこからかなり咲は歩いたのだ。

事実、少しの息切れと動悸を咲は覚えていた。

42: 2014/07/04(金) 00:54:38.73 ID:dhnWXJcK0
だが、目の前の少女は少しの体調の乱れもみせず、

まるで咲の後ろに立っていたのが当たり前という風情で佇んでいる。

咲「どうして、ここが…」

菫「私にあなたを見失えという方が無理な話だ。どこにいても居所は分かる」

咲「?」

意味がわからない。もしかして見張られていたのだろうか。

怪訝な表情を浮かべた咲の胸中などお構いなしに淡々と問われる。

菫「…ここにいる理由も確かめず、逃げようとしたのか?」

核心の言葉。しかも的確であり、咲は責められている気がした。

咲「………だって、こんな所、怖いじゃないですか」

知る人など誰もいない。むしろ、人すらいない。

尚且つ、空へと隔離されたこの景色。

なにもかも現実離れしている。

そう咲が吐き出した言葉をどう思ったのか……少女はその双眼をスゥ、と細める。

43: 2014/07/04(金) 00:58:08.43 ID:dhnWXJcK0
菫「元々、いた場所よりも?」

咲「…っ!」

鋭く指摘され、咲は咄嗟に包帯が巻かれた腕を擦った。

…手当てされているが、擦れば仄かな痛みを感じる。

確かに、今まで咲がいた場所は決してよい所だったとは言えない。

それでも、咲にはあの場所でしか生きていく術が無なかった。

生傷は耐えなかったが、あそこにいる限り咲は自分がどこに立って、何をすればいいのかは理解していた。

間違っても今のように、現状を理解できず足元が覚束無い感覚を受けた事はないのだ。

だから、ジリ、とその場より一歩後退する。背後より、強く吹き抜けてくる風を感じた。

そんな様子の咲へと、少女の言葉は続く。

菫「私の話を聞く気もないか?」

咲は頷く。咲には理解できる世界だけでいいのだ。

今までそうやって、目立たず生きてきた。

咲「聞いて面倒事に巻き込まれるのは御免です。…お願いです、下に降ろして下さい」

菫「………」

44: 2014/07/04(金) 01:01:25.31 ID:dhnWXJcK0
そう言い捨てた咲の言葉を聞き、一瞬見返す先にある紫色の瞳が動揺したかのように、ゆらり揺れた。

気難しそうな少女の眉が顰められ、思案するよう押し黙る。

そのまま、どれだけの時間が経過したのか。

きっと1、2分の事だったと思うが咲には凄く長い時間に思えた。

菫「なら、一つだけ。私の頼みを聞いてくれたら帰してやる」

咲「…頼み?」

訝しげに咲が聞き返すと、少女は浅く頷いた。

菫「今から、一文の文句を言う。他愛も無い、まじないのようなものだ」

菫「それを私が言い終えたら『ゆるす』と言え」

咲「???」

菫「『ゆるす』だ。それだけでいい。簡単だろう?」

咲「言えば、帰してくれるんですね?」

菫「ああ、……信じるか信じないかは勝手だがな」

そう硬く言い放つ少女の姿を、改めて咲は見つめる。

45: 2014/07/04(金) 01:06:00.74 ID:dhnWXJcK0
考えてみれば不可思議な存在だ。

どこからともなく現われ、こんな奇怪な所に住んでいる。

しかも、どんな手品かは知らないが彼女は人に恐れられる妖魔をも従えている。

決して普通の人間とは言えず、咲は少女に対して恐れを抱いてもいいはずなのに……

なぜか、そんな気持ちは沸いてこなかった。

多分、彼女は気難しい雰囲気を纏ってはいるが、いつの時も咲の意志を尊重しようとする。

体格を考えても、妖魔を従えるその力を考えても、咲に対してそんな譲歩など無用のはずなのに、

どうしてか少女は咲の声を聞こうとしていた。

なぜ……そう思った瞬間。

あの時、妖魔に怯え、咲が気を失おうとした時。

閉じる寸前の、視界の向こうで咲を気遣うようにして揺れた彼女の瞳を忘れてはいない。

だって、咲は生まれてこの方、あんな風に誰かに気遣われた瞬間など唯の一度も無かった。

だから、気が付いたら言っていた。

46: 2014/07/04(金) 01:09:38.20 ID:dhnWXJcK0
咲「…あなたは、嘘を付く様には見えないから…信じます」

その言葉が届いたのだろう、少女は一瞬目を見開く。

と、すぐに薄っすら微笑んだ。

気難しそうな雰囲気は成りを顰め、どこか嬉しそうに笑う姿を見るのは初めてで、

咲は自分がそんなに可笑しな事を言っただろうか心配になってきた。

咲「何ですか?」

菫「…いや、たかが言葉一つで。私も随分単純だなと思って」

咲「???」
 
混乱する咲を前に、少女は浮かべていた笑みを消すと一気にこちらへと詰め寄ってくる。

後ろに逃げる間さえ与えず、ずいっと眼前に立ち塞がった姿を咲は見上げる。

咲「あの」

声を掛ける。が、それに反応するでも無く、少女はすぐに目の前で膝を折った。

咲はぎょっとする。

突如消えた姿を追いかけ、下を向くとまるでそこに蹲るようにする少女の姿があって、

そのまま放っておけば彼女の頭が、自分の足に当たってしまうと焦った咲は足を引き下げようとする。

47: 2014/07/04(金) 01:13:55.50 ID:dhnWXJcK0
が、その足首をガシリと掴まれた。

咲「え?」

そのまま、掴まれた足の先、そこに少女の額が当たった事を悟ると同時に

その声が嫌に鮮明に辺りへと響いた。

 
菫「ゴゼンヲハナレO ショウメイニソムカズ チュウセイチカウト セイヤクモウシアゲル」


言葉の羅列。

これがまじないの文句なのか。だけど足に触れる感触の方に強く意識が引かれて、

彼女が何を言ったのか咲には良くわかっていない。

菫「言え」

怯んだ咲を制するよう、鋭い言葉が飛ぶ。

咲「ゆ、…」

菫「はやく!」 

怒鳴られ、ビクリと肩が揺れた。

酷く心が急かされ、言われたままに咲は叫んだ。

48: 2014/07/04(金) 01:19:21.42 ID:dhnWXJcK0
咲「ゆるす!」


瞬間、目の前で火花が散る。

雷に打たれたような、電流が体を駆け巡る衝撃に対して何の心構えもしていなかった。

痛いのかすら分からず、ただただ体を貫いていった強い衝撃に耐え切れず、咲の意識は途切れた。


そうして、次に目覚めた時は、芝生の上に大の字で寝っ転がっていた。

雲一つない薄暗い空を見上げ、吹き抜ける風を肌が感じる。

パチリ、パチリと瞬きを繰り返して、何か、違和感を覚えた。

それが何なのかは分からなかったけれど、芝生の上に起き上がると

隣よりカサリと芝生を踏み締める音がする。

自然、意識が引かれ横を向く。
 
そこには、吹かれる風に長い鬣を揺らして、じっと咲を見つめている美しい獣の姿があった。

咲「……」

咲は呆然と、その姿を見返している。

どこかで、この姿を見かけたような気がする。

普通の獣ではない。纏う雰囲気が、もはや違う。

それを証明するよう、獣は咲に向かって応えた。

49: 2014/07/04(金) 01:23:41.12 ID:dhnWXJcK0
菫「まずは謝罪を」

その声を聞き、咲は瞳を限界まで見開く。

だって、つい先程まで会話を交わしていた声だ。

間違いない。どこか硬く神経質そうな声は、咲をここへと連れてきた少女の声そのもので。

ならば、目の前の……額に一角を持つこの獣はあの少女なのか。

戦慄く唇を幾度か開閉させて何か言おうとするが …その前に、咲の脳裏に閃いた光景がある。

あれは、いつぞや商家の使いで街に出た時だ。

使い先の小塾へ行き人を待つ間。広い部屋の壁に掛けられた美しいタペストリーを見上げていた。

物語を描いたそれを見上げていると、やってきた小塾の先生が教えてくれた。

タペストリーに描かれているのはいつかの時代に立ったこの国の王と、それを支える神獣の姿なのだと。

煌びやかに描かれた人物の横に、一角を持つ獣の姿が確かに描かれていた。

あの獣の名前、商家を訪れた旅商人よりも幾度か、その名前を聞いた。

確か、国の王を天意で持って選ぶという神獣の名前。

咲は戦慄くからようやっと音を搾り出す。

50: 2014/07/04(金) 01:31:19.15 ID:dhnWXJcK0
咲「麒麟…じゃあ、さっきのは…」

菫「御察しの通り。麒麟が天意を得た王と交わす誓約」


菫「もはや貴方は、この国の王だ」


淡々とした声で喋り続ける目の前の麒麟を眺めながら、咲は返す言葉も失った。

菫「誓約により御身はもはや人では無く、神と成った。主上、どうかこの国を救って頂きたい」

咲「私…が?」

菫「貴方しかいない。この才州国にも、私にも」

そう言って寄ってくる獣は、咲の傍でゆっくりと頭を垂れる。

鼻先が咲の頬を掠め、艶やかな鬣の合間を縫って、紫色の瞳が揺れていた。

あの少女と、全く同じ色の瞳が。

咲「………」

ただ、その揺れる瞳に吸い寄せられるよう、延ばした腕の先……

手の平で眼前を流れる鬣を撫でた。

神獣と呼ばれる獣は、咲が触れても嫌がりはしない。

むしろどこか満足気に伏せられる瞳を見届けてからも、

咲は暫しの間、その鬣を撫で続けていた。

そうして、ふと、自分が感じていた違和感の正体を知る。

倒れる前までは確かに感じていた全身を覆う、緩やかな痛みが引いてたのだ。

どこまでも歩いていけそうな体力の源も、体の奥底にふつふつと感じる。

だけど、だけど。

この触れる先の、美しい獣を残していけと?

咲の、先ほどまで心中にあった気持ち。

ここから逃げるため、立ち上がろうとする気力は……もはや咲の中には残っていなかった。



■  ■  ■


58: 2014/07/04(金) 21:12:14.72 ID:dhnWXJcK0

平凡な両親に育てられ、頭は悪く無く体格も悪くはない。

何をやらせても普通以上には物事をこなし、

尚且つ、持ち前の柔軟な思考を発揮し人付き合いに苦労した事もなかった。

そんな智美が官職になるための試験である科挙を受けたのは、育ててくれた両親を安心させてやりたいだけで

今のこの国を憂う気持ちなど少しもなかったと思う。

とりあえず、合格すれば一生、安泰した暮らしを約束されたと思ったし。



ここ才州国の前王が崩御したのは、智美がまだ小さい頃の話だ。

なので智美は王が平常無事に国を治めていた期間を覚えてはいない。

両親より、王が道を踏み外すまでは本当に良い時代だったと話にだけは聞いたことはあるが、

あくまでも話の中での出来事だ。

現状、こうして智美が見てきた世の中は、天変地異と出現する妖魔により疲弊した大地と、

そこから出てくる僅かな富に群がる畜生共の姿だった。

59: 2014/07/04(金) 21:17:43.64 ID:dhnWXJcK0
畜生とは、僅かに実った作物の値を吊り上げる悪徳商人はもちろん、

それに乗じて税を不正に吊り上げる役人も同じ括りになる。

正直者は馬鹿を見る、なんて、正しくその言葉通りの世界だ。

真っ当に生きようとすれば毟りとられるだけの世で、

平穏無事に搾取される側にも廻らない道といえば、官史になるのが一番手っ取り早いと智美は結論づけていた。

幸い智美にはその能力があり尚且つ人当たりも悪くない。十分やっていけると思った。

だから僅かに貯めていた小金を握り閉め、試験を受け、試験官にそっと賄賂を配ると

数日後には見事合格者の中に智美は名を連ねていた。

両親に報告したら本当に喜んでくれた。

智美は今まで、真っ当に生きて苦労してきた彼らを見てきたので、

合格した方法はどうであれこれでよかったのだと思った。

官として王宮に勤める限り、世間一般以上の賃金は約束される。

苦労してきた両親にも、多少は楽を味合わせてやれるだろうと…

智美はこの国の王宮勤めでの生活を始める事となったのである。

60: 2014/07/04(金) 21:20:45.23 ID:dhnWXJcK0
宮勤めを始め、智美が未だ主が不在の王宮を客観的に見渡し感じた事は、

前王が残した膿は未だ深いという事だった。

悪婦に溺れ、政治を省みなくなった前王に対して真摯に苦言を呈した忠臣は排除され、

都合のいい甘言だけを呈し生き残った奸臣だけで動かしている仮王朝だ。

前王が崩御し、その罪を誑かした悪婦にだけ被せ処断した奸臣達はこの十数年、

主がいない王宮を隅々まで牛耳り、まるで自分達がこの国の王のように振舞っている。

事実、未だこの国の王は選定されてはいない。

不在の玉座を見上げながら、どこか虚しい想いを抱いたのはやはり智美は関係無いと言いながらも、

心のどこかでこの国の人間だと理解しているからだろう。

両親のように真っ当な人間が、真っ当に評価され、生き易い世の中になればいいと智美とて思う。

だが、この膿が蔓延る王宮を見る限り…その心は容易く挫かれてしまう。

排除されると分かっているのに、道を正そうとするものはいない。

そんな仮王朝を十数年も維持し続けてきてしまったのが、この才州国の現実だった。

61: 2014/07/04(金) 21:23:47.56 ID:dhnWXJcK0
それから暫くは上辺だけの笑顔を浮かべ、智美は王宮を渡り歩いてきた。

文官が集まって会合を開いたとて、それが国の民のためのものでは無い事は明白で。

むしろ、どうすれば多くの税を民に掛けられるか、民より金を集められるかという話を

豪勢な食事を用意させながら行う。

果たしてこの準備された食事だけでどれだけの民の飢えが凌げる事だろう。

智美の脳裏に両親の姿が掠めた。

周りより胸糞が悪くなるような話を聞きながら、智美は愛想笑いを浮かべ続けている。

だけど箸を手に持ち、それを口元まで運ぶ事は最後までできなかった。

自分のそんな心情に戸惑いを覚えたのも事実で…

智美はこんな世界を覚悟の上で役人を目指したはずだが

現実、その世界を味わってみれば胸の内に芽生えくる葛藤に苦しんだ。

一番怖かったのは、こんな世界に自分が染まり切る事だったのかもしれない。

感覚が麻痺して、いつか自分も、周りの役人達と同じように民より金を毟り取り、

豪奢な食事を食べながら、それに対して罪悪感を抱かなくなるのだろうか。

そうして吐きそうになる想いをどうにか堪え、飲み込み、智美は小さく息をついた。

62: 2014/07/04(金) 21:28:26.45 ID:dhnWXJcK0
ある日の事だった。

いつもの文官の集まりだったが、何か雰囲気が違った。

人数も多いし、秘密裏で何かを行うという雰囲気でもない。

ただ広い卓の上に置かれたのは集まった人数分に対する茶器と茶請けで、内容はやはり豪勢なものだった。

下界では高騰している砂糖をふんだんに使用した甘菓子を見て、智美は煮え切らない心情込みで胸焼けを起こす。

きっと良い茶葉を使った茶にも自分が口を付ける事はないだろう。

貼り付けた笑みを崩す事無く、心情では現状に辟易しながらただ時間が過ぎるのを智美は待つ。


そうして、全ての文官達が席に着くと最後にこの室内へと入ってきた姿があった。

智美は初めて見る姿で、随分と背の高い少女だった。

自分と同じくらいの年に見えるその少女は案内された席の側に立つと卓を一瞥し、

開口一番に「用意した膳を下げさせろ」と鋭く言い放った。

どよめく文官の一人が「折角貴方様のためにも用意しましたのに…」と言葉を詰まらせるが彼女は顔を顰めて言い返す。

菫「これだけの菓子を用意するのに、民がどれだけ苦労すると思う?唯でさえ南は干ばつで作物が全滅だと言うのに」

文官「ですがっ」

菫「くどい。その南の地域を救うために備蓄を調整する集まりだったはずだが…」

菫「諸官らは、高価な甘菓子を口にしながら飢えに苦しむ民を想えるのか?」

文官「……」

居心地が悪そうに押し黙る周りの文官を眺めながらも、少女が言い放った内容に智美は胸がすく思いがした。

そこまで突っ込まれてしまったら、もはや誰一人、卓の上に用意された菓子に手を伸ばす者はいまい。

63: 2014/07/04(金) 21:32:50.64 ID:dhnWXJcK0
そんな官の様子を見渡した少女は、もはや席に着くことなく言葉を続ける。

菫「数字だけを出して簡潔に調整してもらおう。冬も迎えるし、その事も考慮してな」

だが、その声に応える声はない。

周りの文官、誰も彼もがただ居心地悪そうに少女とは目線も合わせようとしないのだ。

智美はその空気を敏感に感じ取る。

きっと、この腐った王宮内で長年培われてきた空気だ。

正論を述べる存在を煙たがり排除しようとする。

ある者は正論を拒絶するために視線を上げず、ある者は面倒事に係り合いにならないために横を向く。

そうして、物事が進まなくなり有耶無耶の内に私腹を肥やす畜生がいて変わりに民が氏んでいく。


咄嗟に、智美は席を立ち上がった。

思ったよりも大きな物音が室内に響き、一斉に視線が智美に集まる。

様々な温度の視線を受け、最後に気難しい表情を浮かべながら智美を見返す紫色の双眼を見る。

気持ちは周りの同僚達よりも、少女に向かって智美は言い放った。

智美「僭越ながら、皆様もお忙しい身でありますし若輩の私が確認をし数字を纏めましょう。一日、お時間を下さい」

菫「……」

智美「長官殿にも後ほど、必ずご意向を伺いに参ります」

64: 2014/07/04(金) 21:36:35.50 ID:dhnWXJcK0
智美はそう言って、この場で最年長である文官に意向を仰ぐ。

年長者の彼の面目を守るためだ。その智美の判断は正しかったようで、彼は咳払いすると仰々しく頷いた。

途端、周りの文官も同調するように声を上げ始める。

そんな空気に納得したのか、最年長の文官が場を纏めるように宣言した。

文官「では、智美に一任する。よろしいか?」

菫「…ああ、後日報告を待つ」

少女は智美を一瞥し頷くと、一度も席に腰を降ろす事無くその場で踵を返した。

一斉に頭を下げる周りに倣って、智美も頭を下げる。

一人分の足音が遠ざかって行き完全に室内より出て行ったとわかると、一気に場の空気が緩んだ。

そうして、先ほどの年長者である文官が忌々しげに吐き捨てる。

文官「…新たな王を見つける事もできぬ獣が。小賢しい…」

その言葉を聞き、智美は目を見開くと同時に心中で深く納得した。


智美(あれが、この国の麒麟か…)


ならばあの若さで、周りの文官達が頭を垂れるもの分かる。

彼女は天意を得て王を選定する神獣であり、この国の台輔だ。

65: 2014/07/04(金) 21:41:51.05 ID:dhnWXJcK0
緊張が切れ、ざわつく室内にあって智美はここで生きていくための一つの道筋をやっと見つけたような気がした。

腐りきった王宮の中にあって、そんな周囲と同化もせず気高く正論を突き通そうとする麒麟の姿に

この国の残された良心を見たような気がする。

期待してもいいのだろうか、あの慈悲の獣に。

この沈み行こうとする国の中にあって、周りと同じように沈むのでは無く救おうと抗う彼女のように。

智美も、その力になれるだろうか。

そう思い至った瞬間、もう随分と会っていない両親が心の中で笑ってくれたような気がした。



それから智美は精力的に行動を起こすようになった。

始めからこの膿が溜まる王宮の中に在って智美は表立って反抗したりはしない。

幸いにもこの身は今まで人付き合いが良く人当たりも良かったので、誰からも敵対心を向けられてはいなかった。

無害で便利な若輩者として通していたのがここでの利点になったのだ。

尚且つ仕事もできるから、周りのコネだけで入った役人などは智美を頼るようになる。

そんな中で智美は、台輔と官との間を器用にも取り持つようになっていった。

66: 2014/07/04(金) 21:45:33.51 ID:dhnWXJcK0
台輔が出る会議には極力出席するよう調整し、その意向を汲んだ書類を作成する。

その際に正論だけを述べる台輔の意見だけを上官に報告すれば

波風が立つのは当たり前で、進む事案も進まなくなってしまう。

だから少しの賄賂の意味を含めた数字を上乗せして書類を作成し、事案自体を通りやすくした。

苦いとは思うが今はまだこうする事でしか物事が上手く廻らないのだ。

この方法で、南の地域へと廻す備蓄品はなんとか確保した。

ぎりぎりではあるが民が冬も越せる数字だ。

一息付きながら、智美は思う。

見渡す限り、この王宮の中に在って台輔には味方が少な過ぎる。

というか真っ当な正論を通そうとする人材が少な過ぎるのだ。

賄賂や私腹を肥やす事を前提に政をするのが当たり前となっている。

これが、十数年膿を落とそうとしなかった、この国のツケだ。

そのツケを何の罪咎も無い民が一番に背負う現状がある。

せめて、せめてどこかに必ず存在するはずの、新たな王が立ってさえくれれば。

この流れを、変えられるかもしれないのに。

67: 2014/07/04(金) 21:49:05.20 ID:dhnWXJcK0
そう切に願いながらも、智美とてもはや台輔である少女の苦悩も理解していた。

周りがこれだけ新王を願うのだから、それを選定する役目を担う少女へと圧し掛かる重圧は相当なものだろう。

だが会議等でみる限りあの少女がその辛さを顔に出す事は無い。

だからその姿勢を助けたいと智美が思うようになったのはきっと必然だったのだと思う。



今日中に纏めた書類を手に、智美は台輔の執務室へと向かう。

時間が時間だから、本人が不在でも纏めた物を執務室に置ければいいのだ。

文官長への調整はすでに済み、智美が纏めた事案は今回も一応は通った。

水害で発生した難民に対する慰労金だったが、その3割は役人の袖の下に消えてしまっている。

それでも、何も出ないよりはマシだ。

すでに薄暗くなってしまった廊下を歩いていくと、途中、暗闇の中に蹲る姿に気付いた。

目を凝らして、それが台輔だと分かると智美は慌てて駆け寄っていった。

智美「大丈夫ですか?」

そう声を掛けて、彼女と同じよう傍らに膝を付き少女の様子を伺う。

68: 2014/07/04(金) 21:52:45.83 ID:dhnWXJcK0
俯く様からは表情は分からなかったが、食いしばるよう唇を噛み締める様には気付いた。

「台輔」と短く呼んだが、彼女は手を貸そうとした智美の腕を押しのけて立ち上がる。

菫「大丈夫だ」

そう短く吐き捨てるが、智美が見上げる先には顔色が青くなった少女の様子が見えた。

智美「……」

どう見ても、大丈夫には見えない。

その事を更に言い募ろうかと思ったが、瞬間、ぐにゃりと地面が波打つ。

そこからズズズ、と這い出すよう姿を現したのは赤い毛並を持つ妖魔で、台輔の使令だ。

智美をそこに置いて、歩き出した背に赤い毛並を持つ使令が従うよう続く。


もはや深夜に差し掛かろうとする時間帯。

そんな中彼女がどこへ行こうとしているのかが智美には分かった。

智美(…王を、探すのか…)

智美が王宮に上がって暫くこの少女を見掛けなかったのもそのせいだ。

聞いた話によると、執務をこなし空いた時間ができるとこうやって王を探しに国中を巡っているらしい。

天意なるものが麒麟ではない智美にしてみれば、どうのようなものか検討も付かないが、

ここまで王の選定とは麒麟にとって過酷なのだろうか。

69: 2014/07/04(金) 21:56:37.27 ID:dhnWXJcK0
ただ去っていこうとする背中には疲れの色が濃く残り、

彼女がどれ程の無理を溜め込んでいるのかはよくわかった。

台輔にしてみれば王の選定に加え、こんな敵だらけの王宮であっては心休まる暇もないだろう。

誰も信じる事ができなかったのも良く分かる。

智美は地に膝を付け、唯独り、去っていこうとする背中を見上げながら悔しく思う。

今やこの王宮を、この国を憂うのは慈悲の麒麟だけではない。

少なくとも、その言葉を聞き、その姿勢を見て、目覚めてしまった智美がここにいる。

とりあえず思いついたら即行動の智美は、持っていた書類を足元に置くと勢いを付けて駆け出した。

去っていこうとする背に追いつくと、呼び止める変わりにその腕をガシリと掴む。

瞬間、すぐ隣より獣の鋭い唸り声がした。

向けられる獣特有の敵意をビシバシ感じたが、智美とて怯んではいられない。

いつまでもこの麒麟一人に国の重圧を背負わせる気はないのだ。

智美「台輔、貴方はもう少し周りを見返すべきだ」

智美が言い放つと、腕を掴まれた先の少女が胡乱気にこちらを見下ろしてくる。

70: 2014/07/04(金) 22:00:59.02 ID:dhnWXJcK0
菫「なんだと?」

訝しげな声。突然の申し出だから、当たり前の反応か。

だが智美は怯まずに言葉を続ける。

智美「独りで全てを背負い込もうとする貴方の気持ちは分からないでもない。けど貴方と同じ立場に立とうとする者はいる」

少なくとも、ここに一人は。

智美が見上げる先の、紫色の瞳が驚いたように見開かれる。

智美「台輔がどこかにいる王を信じるように、どうか、この国の民も信じて頂きたい」

菫「お前…」

掴んだ腕を離し、その姿へと続けて訴える。

智美「王がいない今、あなたがこの国に残された良心なんだ。倒れてもらっちゃ困る」

眼前の少女だけが、この膿の吹き溜まりのような王宮の中にあって唯一、

民の側に立ち意見を言い続けてきた。それを、智美は見てきたのだ。

ついつい言葉に少しの素が出てしまったが、言いたい事は言った。

後は、台輔の出方を待つ。だけだが……

71: 2014/07/04(金) 22:05:14.92 ID:dhnWXJcK0
彼女は未だ唸り声を上げて智美を威嚇していた使令に手の平を翳し宥める。

そうしてから、改めて智美に向き直ると静かに尋ねた。
 
菫「何度か集まりで助けてもらった事があるな、見覚えがある。名は?」

智美「智美と申します」

菫「智美か。覚えた」

浅く頷いた台輔は、体を半分だけ反転させる。

智美が止めたのにも関わらずまた王を探しに行こうとするその姿に、思わず体が前のめりになる。

が、智美が何かを言う前に半向きしたままの姿勢で彼女はぽつりと呟く。

菫「一つだけ、訂正しておこう。私は王を探すのを苦だと思った事は無い」

智美「え?」

菫「むしろ、会えない事が辛い。そのために私は生きているようなものだからな」

智美「…台輔」

いつの時も前だけを気高く見据えていた少女の、どこか寂しげな姿に智美は返す言葉が思いつかない。

智美が呼ぶと彼女は応えるように薄っすら笑った。

菫「ただ執務は少しだけ苦痛に思っていた。いらん事案が多すぎて気が滅入っていたが、ここ暫く落ち着いていたな」

お前が助けてくれていたのだろう?と続けた少女の言葉に、智美は素直に驚いた。

72: 2014/07/04(金) 22:09:14.20 ID:dhnWXJcK0
台輔が自分の行動の真意に気付いていたのかと思うと同時に、その眼差しをじっと智美へと向けてくる。

菫「智美、ここで私はどうすればいいと思う?」

ここで。この、膿が蔓延る王宮の中にあって、唯一の国の良心のために何をすればいい。

智美は考えるよりも直感で、彼女の問いに答えを返していた。はっきりと。

智美「貴方の味方を増やすべきだ」

もはや沈むしかない仮王朝に同調する馬鹿はいらない。

いずれ必ずこの神獣が見つけ出してくれるだろう新たな王を迎えるためにも

真っ当な思考を持った、この国を生き返らせるための同志が必要だ。

そんな智美の言葉を聞き台輔も思う所があったのだろう。彼女は頷いた。

菫「わかった。力を貸してくれ、智美」

国を導く神獣から、直接の御達しだ。

その願いに臣下である智美が逆らう理由も無い。

両腕を上げて胸の前で拳を合わせる。

眼前に佇む神獣へと向かい、智美は「御意」と深く拝礼した。

73: 2014/07/04(金) 22:13:03.97 ID:dhnWXJcK0
そうして、王宮の中にあって地盤を固める作業が始まった。

智美は今まで過ごした中で、こちら側へと引き込む人材にはある程度目星を付けてはいる。

視野を広くして人と物事を見渡すのは嫌いじゃなかったし。

重要なのはこちら側に引き込んだ人物が、信頼に足るかどうかだ。

結局、権力や金に目が眩んで後に裏切るようならばこちらの足元が掬われる。

もっぱら現在の権力者より煙たがられている人物は有力だと思うが。

報告に向かった台輔の執務室において、智美は部屋主に幾人かの候補名を上げておいた。

後日、顔合わせしてみようという事を伝え、その了承を取る。

すると途中、台補が何かに気付き智美へと言った。

菫「台輔とかまどろっこしい。菫だ、内輪では菫でいい」

智美は反射的に大きく頷く。打てば響く。そんな感じで。

智美「了解した。菫ちん」

菫「…………菫ちん?」

智美「ワハハ。ちょっと砕けすぎたかな?」

目の前の神獣に尋ねたら、なんとも言えない渋い顔をされた。

菫「……まぁ、その……好きにすればいい」

どこか呆れの色を含んだ菫の言葉を聞き智美は笑った。

74: 2014/07/04(金) 22:18:06.78 ID:dhnWXJcK0
そのまま言い募りはしなかったが智美とて場の空気は読める。

あくまでもこの砕けた本性を曝け出すのは、堅すぎる台輔との内輪話の時だけだ。

智美が楽なのもあるが、この少女に対しても僅かながらの気休めになってくれればいいな、とは思う。

王のため、国のため、民のためにと心を傾ける菫は、いつの時も尖った雰囲気を崩さない。

智美はそんな彼女の硬い表情しか見たことがなかったから。

表立っては見せず、水面下で台輔に同調する仲間を智美は増やしていく。

こうやって動いてみて気付いたのだが、智美は物事の中間に立ち、人との間を取り成すのを苦には思わなかった。

むしろ様々な人間性があるのを発見できるのが面白いと思える。

その中でも権力に媚を売る畜生共に対してはかなり敏感に感じ取っていた。

上辺だけで浮かべる笑顔ならば智美に勝る者はいない。

気安い人柄で近づき、相対する人間の本性をゆっくり嗅ぎ取る。

そうして、一人、また一人と。

いずれ、必ず、この国のために立ち上がってくれる志を宿した人間だけを智美は探し続けた。

75: 2014/07/04(金) 22:21:16.46 ID:dhnWXJcK0
そうやって日を重ねる中で、ある日の事。

智美と、信頼できる同じ文官と朝の打ち合わせを行うため、台輔である菫の執務室へと向かう途中。

大きな音と共に向かうべき先の扉が突然、勢いよく開かれた。

びっくりして立ち止まった二人の前に、室内から飛び出してきたのはもちろん部屋主である菫で。

彼女は、珍しく焦ったように何もない上空を何度か見渡すと、すぐにその足元より使令の獣を呼び出した。

文官「台輔?」

智美の隣に立つ文官が訝し気に声を掛けるが、それに反応する事無く……

というか、智美達の存在に未だ気付いてないような気がする。

実際、菫は結局こちらを一度も見ずに、呼び出した使令の背に跨ってしまう。

と、その四肢が地を駆け出し始める。

智美「あ…」

今度は智美が呼びかけようとしたが時すでに遅し。

反対側に続く廊下へと勢い良く駆け出して行ってしまった後ろ姿を二人して、呆然と見送っている。

一瞬の出来事で智美と文官 、どちらともなく向き合った。

智美「どうしたんだろーな?」

文官「随分、急いでいるようでしたが…」

智美「まぁ…うーん。暫く待ってみるかな」

76: 2014/07/04(金) 22:24:50.44 ID:dhnWXJcK0
そう智美が言うと、文官も異論は無いようで頷いた。

どうせ宮内においては休日に当たる。

そのまま台輔の執務室にて、持ってきた書類を纏めながら二人してかの少女を待つ事にしたのだった。


それから午前中は何も音沙汰がなかった。

女御(召使い)が準備してくれた昼食を取りつつ、書類を纏める作業をずっと続けていた二人だったが

……さすがに夕方に差し掛かった頃。

今日はもう切り上げた方がいいですかね、と文官が智美に声を掛けたらタイミング良く部屋の外が慌しくなった。

遠くから女御の声が聞こえ、やっとでここの部屋主が帰ってきたのかと廊下の外へと様子を見に行く。

扉に手を掛け、それを内側へと引いた瞬間、目の前を大急ぎで通り過ぎようとした菫の姿があった。

智美「台輔?」

菫「!」

気付いたように立ち止まった菫が、智美を振り向く。

そこで智美も菫がその腕の中に、布で包まれた何かを仰々しくも抱き込んでいる事に気付いた。

まるで人程の大きさだな、と智美が思った瞬間、包む布の合い間を縫って栗色の髪の毛が見えた。

智美は驚いて、菫を見上げる。

菫「今は説明する暇がない。後で呼ぶ」

77: 2014/07/04(金) 22:28:41.66 ID:dhnWXJcK0
菫はそれだけを短く智美へと伝えると、再び腕の中の存在を抱え歩き出す。

通路の先にいた女御が彼女を迎え、共へと奥に消えていく姿を智美は呆然と見送っていた。
 
それから、智美は言われた通り辛抱強く執務室に残って彼女を待ち続けている。

一緒にいた文官には時間も時間だし先に帰ってもらった。

温くなった茶を啜り、集中できずに指でぴらぴら書類を弄びながら智美はひたすら待つ。

何故だか理由を聞くまでは帰る気にはなれなかった。

そうして、どれくらい時間が過ぎただろう。もはや室内にいても夜の静寂を色濃く感じる。

きっと深夜に差し掛かっても不思議では無い頃合だ。

それでも智美は呼ばれないし、菫も帰ってこない。

智美「………うぐぐ、よし!決めた!」

僅かに残っていた茶を一気に呷ると智美はその場に勢い良く立ち上がった。

そうして、迷うことなく廊下へと駆け出していった。

78: 2014/07/04(金) 22:31:48.59 ID:dhnWXJcK0
進む廊下の先に、僅かに光が洩れている一室を見つけた。

智美が訪れたこの区域が、台輔としての菫に与えられた居住区域であるのを知っている。

高い地位故に、与えられた場所は広かったが菫はあまり人をそこに入れようとしない。

本人曰く自分でできる事は自分でやるし、手を出されるとかえって煩く思ってしまうので

最低限の生活の手伝いをしてくれる女御だけを置いているのだという。

余計な事を言わぬ、もの静かな佇まいが印象的な初老の女性だったはず。

智美もその女御には何度か会った事はあるし、先程も菫と一緒にここへと消えていった姿を見かけた。

さすがに深夜に差し掛かる時間帯でもあるし、菫であればすでに彼女は下がらせているとは思うが。

ならば、目の前の光が洩れる部屋にいるのはここの区域の主である菫しかいない。

きちんといるんじゃないか、と憮然とした面持ちで智美は光の筋が続く先へと近づいていく。

微かに空いたままの扉、その隙間よりそうっと智美は室内を覗いた。

そうして、覗いたままの姿勢で暫くの間、智美はその場より身動きする事ができなかった。

室内は仄暗い。

灯された明かり一つだけで照らされる部屋は、広いはずの室内を思う以上に狭く見せている。

ただ、その光が灯る中心に見えたのは、この部屋に備え付けられた寝台で。

その広すぎる白いシーツに力無く横たわる姿を智美は初めて見た。

79: 2014/07/04(金) 22:34:58.29 ID:dhnWXJcK0
菫や智美と同じぐらいの年頃の少女に見えた。

じっと寝台の上に横たわるその少女だけを見つめる菫の視線は平常にも増して険しい。

まるで儚い風情の少女が消えていくのを許さぬよう、力無く投げ出されたその片腕を手に取り

細い指先を口元へと押し当てたまま、菫は微動だにしなかった。

智美はそんな雰囲気の菫を初めて見る。

神獣であるがため、どこか淡白な印象が強く残る菫ではあったが

こうして一つの存在に対して強い執着を見せる姿を意外に思う。

同時に、智美は閃いた。

神獣と定義される菫の、その強すぎる執着が滲む姿勢の意味するところ。

もはや、閃きは確信に近い。

無意識に手の平が触れる先の扉を押していた。

ギィと響く音に、見つめる先の菫の肩が小さく揺れる。

彼女は口元に当てていた指先を離し、ゆっくり智美へと振り返った。

菫特有の紫色の双眼と確かに視線が交わったのを悟ると智美は抱いた確信を、呟く。

智美「見つけたのか」

80: 2014/07/04(金) 22:38:35.06 ID:dhnWXJcK0
そう呟いた智美の言葉に主語はなかったが、言われた意味を菫ならば理解している。

事実、彼女は智美の前で一度、寝台の上の姿を一瞥するとゆっくりと頷いた。

智美「………」

静かな衝撃故に、智美は続く言葉を咄嗟に思いつかない。

ただ、代わるよう仄暗い室内へと一歩、二歩と進んでいく。

そうして寝台の側に座る菫の側へと辿り着き、彼女が数多に存在する人の中から選んだ姿を見下ろした。

菫「…不安か?」

菫の問い掛けは、きっと智美が見つめる先に横たわる少女の姿に対してだろう。

確かに、彼女は自分や菫よりも格段に華奢で儚げで頼りない体格に見える。

しかも仄かな明かりに照らされる頬は痩せこけ、手当てされた白い包帯が異様に際立っている。

果たして、この少女が今までどんな場所にいて、どんな扱いを受けてきたのか智美とて容易に想像が付いた。

きっと、幸せだとは言い難い境遇だったに違いない。

だから、頼りない姿だと言ってしまえばそこまでだけど。

それだけではない事を、智美は菫を通して知っている。

不安か?その問いに対して、智美は首を左右に振って否定する。

81: 2014/07/04(金) 22:41:45.19 ID:dhnWXJcK0
智美「菫ちんが選んだ王だ。きっと…この国を救ってくれる」

そうだろう?あえて軽く言い返すと、智美の答えをどこか構えながら待っていた菫は

肩透かしを食らったような表情を浮かべる。

が、すぐに智美の真意を理解したようで菫は苦笑を浮かべた。そして頷く。

菫「ああ」

否定しない菫の声。こういうのは王バカとでもいうのだろうか。

ただ、どこかホッとしたように目尻を緩めた菫の視線は、彼女の、唯一の主へと一心に向けられていた。



その後、智美は菫より今まで起こった詳細を聞いた。

突如とて感じとった王気を辿り、迎えに出向いた先での出来事諸々。

王たる儚い風情の少女はある商家の下働きだったらしいが。

そこでの扱いが、菫から見たらとてもじゃないが許容できるものではなかったらしい。

まぁ、痩せこけた肢体や負った外傷を見る限り、その怒りは智美とて理解できた。

口にするのも嫌そうに顔を歪める菫の言葉に相槌を打ちながら、

智美は彼女に言われた通り、後日その商家に対して監査を入れる事を了承した。

82: 2014/07/04(金) 22:44:49.61 ID:dhnWXJcK0
こんな世の中だから、きっとその商家は氷山の一角に過ぎないだろうが。

廻りへの牽制を含めた見せしめにはなるだろう。

だが、いつかはもっと根本よりこの国の腐った仕組みを覆さねばなるまい。

そのためにも、麒麟と誓約を果たした正規の王が必要なのだ。


智美「え、まだ誓約してないのか?」

菫「その前に気を失ってしまったんだ」

智美「菫ちん…まさかそのまま何の説明もなしに攫ってきた訳じゃないよな?仮にも仁の獣だろ?」

菫「??王気を纏っているし、間違い無く私の主だ。ここに連れてくるのは当たり前だろう?」

智美「……ワハハ。目を覚ました時に混乱しなきゃいいけどなー……」
  
どこか一般の感覚とずれているこの国の台輔に、智美は多少呆れておく。

が、そんな心配などせずとも数日間、名前も知らぬ菫の主が目を覚ます事は無かった。

誓約を交わさず神籍にも入ってないから余計、体調不良が続いているのかもしれないと

世話をしてくれた女御は言っていたが。

83: 2014/07/04(金) 22:50:00.91 ID:dhnWXJcK0
2日後ぐらいしてとうとう、熱を出し始めてしまった時の菫の狼狽振りといったらなかった。

息を乱し赤く染まった顔を見下ろして、青くなってしまった菫が

彼女を無理に抱き起こそうとしたのを智美と女御の二人で慌てて止める。

智美「おいおい、菫ちん、やめろー!」

菫「離せ!はやく、誓約を…私を置いていくのは許さない…!」

智美「お、重っ!?そんな深刻に考えなくても」

女御「台輔、今までの疲れが溜まってらっしゃるだけです、お、落ち着いて下さい!」

智美は酷く脱力した。と同時に仕方ないかな、と思う部分もある。

多分この神獣たる少女は自らの胸の内に渦巻く感情でいっぱいいっぱいなのだ。

智美とてどんなに菫がその身を粉にして自らの主を探してきたのかよく知っている。

その存在が確かに目の前にいるというのに、麒麟として心を通い合わせる事もできない現状に酷く戸惑っていた。

だからこんなにも菫は苛々し続けているのだ。


だが、しかし。彼女にはこの国の台輔としての役目がある。

真面目の代名詞みたいな奴だから、心ここに在らずの癖に菫がその役目を疎かにするような事はない。

ただ、役目が終わると今までのように外へ向おうとはせず、

変わりに自らの内殿に引き篭もるようになってしまったのだから周囲は不思議に思っただろう。

84: 2014/07/04(金) 22:56:09.86 ID:dhnWXJcK0
ちなみに、麒麟と誓約を交わしていないのならば未だ眠り続ける少女はまだ王ではない。

ならばこの存在を表立って知らせる事もないだろう。

新たな王の存在を知れば、保身のため取り込もうと躍起になってくる畜生共の姿は容易く想像できた。

菫「せめて誓約を果たし、現状を理解して頂くまでは公にしないほうがいいだろうな」

智美「だな。あいつら、新王が出てきたら必ず自分達の都合のいい事しか言わないぞ」

そうやって今までこの王宮にて権力を思いのままにしてきた畜生共だ。

見苦しいな、と心底嫌そうに呟く菫に対して、智美も違いない、と人が悪そうに笑った。

 

次の日の、官の集まりの時での事だった。

代わり映えの無い奏上を官が読み上げる中にあって、突如として勢い良く立ち上がった姿があった。

座っていたはずの椅子が倒れ、その音が広い室内によく響いたため集まった全ての官の視線がそこへと向かう。

智美も同じで、自らの視線を向けると……珍しい事に、台輔の長身が見えた。

周りがざわつき始める中にあって、彼女はその場に立ち竦んだまま微動だにしない。

ただ何も無い空間をじっと睨み上げている姿を不思議に思った。

まるで自分達には見えない何かが、彼女には見えているような視線。

…そういえば、そんな姿を、つい最近智美は見かけたような気がした。

85: 2014/07/04(金) 22:59:41.78 ID:dhnWXJcK0
あれは、確か…と思い出そうとしたが、

先に台輔である菫が、突如として動き出したから思考は中断した。

ざわつく周りを気にも止めず、その場で踵を返した彼女は早足で歩き出す。

側に付いていた官が慌てたように、その背に声を掛けたが振り返る事も無く

菫はあっという間に室内から出て行ってしまった。

後に残された官達が訝しげに言い合う中、結局この集まりが終わっても菫が戻ってくる事はなかった。


菫の様子が気にはなった智美は、仕事が片付いたら顔を出してみようかなと一人廊下を歩いていた。

丁度行きかう人も無く、人気の無い廊下へと足を踏み入れた瞬間。

ぐにゃり、硬い床が波打った。

驚き智美がそこで足を止めると、目の前の地面から姿を現したのは鳥の羽を生やした女怪の姿だった。

智美はすぐにそれが菫の使令だと思い至る。

現れた彼女は感情を含まない声で智美へと伝える。

『台輔がお呼びです。主上がお目覚めになられたと』

智美「!」

『どうぞ。東の、中庭へ』

智美「??なんで、そんな所に」

『丁度女御が席を外している時にお目覚めになられ、無理に動かれたようです。急ぎ、台輔が王気を辿りました』

86: 2014/07/04(金) 23:03:51.64 ID:dhnWXJcK0
それでか、と智美は先程の菫の様子に合点がいった。

先ほどの何もない空間を睨み上げていた菫の様子。

あれは、彼女にしか感じ取れない王気を辿る仕草だったのか。

と、同時に智美は麒麟の少女に向かって、ほら見たことか、と言ってやりたい。

付き合い始めてわかるのだが、菫は真面目すぎる上に不器用過ぎる。

しかも言葉が足りない癖に、行動力だけはあるので更に手に負えない。

まだ何の説明もしていない主に対して、あの不器用すぎる様で彼女の真意を上手く伝え切れるのだろうか。

智美はとても心配になってきた。


とりあえず知らせにきてくれた使令へ了承の意を伝えると、

智美は言われた通り中庭へと早足で向かった。

そうして、この日に見た光景を生涯忘れないと思う。

薄暗くなった中庭の中でも、その姿は浮かび上がるよう目に焼きついている。

視線の先に佇む少女に対しては、弱々しく目を閉じている儚い姿しか見たことがなかった。

それが、今、確かな意思を宿した双眸を持ってして智美を見返している。

87: 2014/07/04(金) 23:06:55.90 ID:dhnWXJcK0
確かに全身は今までの辛い生活のせいか痩せ細ってはいるが、見返してくる瞳に怯えや嘆きは無い。

それに少女の傍らには、珍しい一角を掲げた獣が寄り添うように付き従っている。

一つの国に、たった一頭だけ存在する麒麟の姿。

それが今、確かに隣の少女に向かって深々と頭を垂れた。

智美は目を見開く。

神獣である麒麟は、相手が神仙であろうと他者に頭をさげることは本能的に不可能な孤高の生き物。

だがしかし、その麒麟が唯一叩頭する存在がある。

自らが、天意を持って選定した主たる王がそれだ。


つまりこの瞬間、智美が見つめる先に佇む少女は麒麟との誓約を経た、

正真正銘の、この国の王だという事。

 
智美は咄嗟に込み上げてくるものを飲み込んで、その場に膝を付いた。

湧き上がる熱を堪え、眼前の対の存在を食い入るように見つめる。

ここにやってくるまで智美は自分自身をそんなに愛国心の強い人間だとは思っていなかった。

むしろ、生きるための選択の結果でしかなかったのに。

ただ訪れてまじまじと眺めてきた歪みが酷い王宮の光景は自分の心境に変化を与えた。

そして、今まで生きてきた自分の国を省みて……どうしようもなく虚しくなったのだ。

88: 2014/07/04(金) 23:11:13.06 ID:dhnWXJcK0
王がいなければ天変地異の果てに人の心も容易く歪んでしまう。それが当たり前になってしまう。

事実、智美は麒麟の少女に出会うまでは半信半疑、その世界を許容していた。

でも、違うと気付いたのだ。

智美の平凡な両親が真っ当に評価され、真っ当に生きていける世界を願う事はいけない事ではない。

この国の、本来の姿。

王が平常に存在する世界になれば、人は、きっと今よりも遥かに希望を胸に抱いて生きていけるはず。

智美は、先に王たる少女の傍らを佇む麒麟を見る。

実際、人としての付き合いはあったが神獣としての彼女を見るのはこれが初めてだった。

けれどその鬣の奥にある紫色の双眸は、確かにあの少女と同じもので。

その視線と絡んだ瞬間、麒麟が智美に向かい頷いてくれたような気がした。

その動作に智美の行動は後押しされる。

麒麟の横に佇む王へと智美は向き直る。

両膝を地に付け、両方の手の平を地に付ける。

静かな湖面のような瞳を見上げ、そして次の瞬間、その姿に向かい深々と叩頭した。

智美だけの願いではなく、この疲弊してしまった国の大地と、そこに生きる全ての民の願い。

大丈夫。菫が選んだ王だ。

その想いを込めて、智美は叩頭したまま一声を張り上げた。


智美「長らくお待ちしていました。主上」

 
きっと、この国は生まれ変わる。



■  ■  ■


96: 2014/07/11(金) 00:17:19.59 ID:HdAV1VQi0
朝、いつもの時間に起きるのは習慣で。

今日とて起床の時間になれば自然にぱちりと瞼は開く。

見上げる先に映る天蓋は変わらぬ光景だったけれど、

それを見上げている自分の心境は昨日までとは明らかに違った。

起き上がるよりも、何かを動作するよりも先に……意識が一つの気配を探す。

すぐにあの気配を確かに探し出し、安堵するかのよう口元は緩んだ。

やはり夢ではなかった。

そう確信を持ってから、上体を起き上がらせ寝台より両足を下ろす。

と同時に、床が不自然に波打った。

ズズズと床の平面より這い出すよう姿を現したのは 六ツ目の虎のような獣。

その赤い毛並を揺らした体躯が自分の足元へと辿り着くと、頭を深く垂らした。

『台輔、お呼びで』

問われ、浅く頷く。

菫「何も変わりはなかったか?」

『はい、恙無く。ただ、ずっと気を張られているようで…眠りは浅かったよう感じました』

話を聞きなるほどな、と相槌を打った。

菫「それで、もう起きているのか。…すぐに向かう。お前は引き続き傍に侍り守れ。決して目を離すなよ」

『御意』

会話を終えた瞬間、赤い毛並を揺らす獣の体躯が再びズズズ、と堅いはずの床底へと消えて行く。

獣の毛先一本、完全に消えてしまったのを確認してから徐に寝台より腰を上げた。

これからはいつもの朝を送る動作でいい。

まずはきちんと身嗜みを整えてから…御前に馳せ参じねばと考えていた。


■  ■  ■


97: 2014/07/11(金) 00:21:55.35 ID:HdAV1VQi0
咲が所在無さ気に広すぎる寝台の隅に腰を降ろしてから、どれくらいの時間が経っただろうか。

商家で下働きをしていた頃の生活を体がよく覚えているから、日の出前に目は覚めてしまった。

本来ならば他の下働き達と一緒に薪割りや水汲み等、朝の仕事をしている時間帯のはずだったが

質の良い寝巻きを身に纏い、自分にしては広すぎる部屋に置かれた、

これまた立派な寝台に腰掛けている現実はなんとも居た堪れない心地にさせた。

何かしなければ、働かなければという概念はもはや染み付いてしまっていて。

だけどそんな事をする必要がないと知らされたのは……つい昨日の事だったはずだ。

朝になり、確かに夢から目覚めたはずだと思っていたが

こうして立派過ぎる部屋にいる現状では、咲は未だ夢を見ているような心地でしかなった。

下働きしていた頃は、仕事に追われ余計な事を考える暇もなかったのだが

こうして一人、立派すぎる部屋に置かれているといらぬ事を考えてしまいそうだった。

自分が王様とか、やっぱり夢なんじゃないかとか。勘違いだったんじゃないかとか。
 
咲は落ち込みそうな思考に気付き、ハッと顔 を上げると振り切るようにぶんぶん頭を左右に振る。

いけない、取り合えず体を動かそう。

そうだ。いつものように掃除でもしてれば気が紛れるかもしれない。

こんな立派な部屋なんだし、せめて自分が使わせてもらった礼も兼ねて拭き掃除や掃くぐらいはするべきだろう。

そう決めると床に降り立ち、部屋の隅に雑巾や箒がないかを探す。

だが、どこを見ても立派な調度品や細工が施された柱や壁が続いているだけで。

引き出しを開けても同じようなものだった。

99: 2014/07/11(金) 00:27:40.68 ID:HdAV1VQi0
…なるほど、元々咲がいた粗末な共同部屋とは次元が違う。

掃除用具なんてものを置くはずがないじゃないかと今更ながら気付き顔を赤くした。

本当に、昨日までの自分の世界と余りに違いすぎて。

今一度ため息を落とすと部屋の外へ向かおうとした。

この部屋にないのならば、外の違う部屋にでもあるのかもしれない。

咲は細かな細工が施された扉の前に立つと取っ手に手を掛け、それを押して外へ出ようとする。

だが、自分が扉を押す途中……なぜか扉が自動的に外側へと開かれる。

取っ手を持ったままだった咲の体は心構えもしていなかったから、

自然、引かれた扉と一緒に一気に前へと引っ張られてしまった。

あれ、と思った瞬間。

頭上より静かな声が振ってくる。

菫「何をしている」

取っ手を持ったままに頭上を見上げると。

開いた扉の間より、自分をじっと見下ろしている背の高い少女の姿がある。

秀麗な容姿は出会った頃と変わらず……その紫色をした瞳を認識した瞬間。

咲は先日に触れた、神獣の姿を鮮明に思い出していた。

この片腕を伸ばし、解いた鬣の感触も良く覚えている。

だから彼女へと返す言葉も忘れ、まじまじとその姿を見上げてしまった。

だって、未だに信じられない。……こんな綺麗な人の、本来の姿があの神獣だという事実が。

菫「主上」

咲「………」

菫「聞いているのか?」

咲「……あ、私の事ですか?」

自分の事を言われていると気付かなかった。

だが、ここにいるのは咲と麒麟の少女だけで。

そういえば昨日もそう呼ばれた気がしたけれど実感が沸かない。

100: 2014/07/11(金) 00:33:27.92 ID:HdAV1VQi0
ただ、先ほどからどうにも反応が薄い咲を不思議に思ったのだろう。

見上げる先の紫の瞳が怪訝そうに揺れる。

菫「貴方以外に誰がいる。なにより、他者など私が認めん」

迷いない、強い口調の声。

自分が言われた訳でもないのだが、慌てたように咲は手を掛けていた取っ手を離すと、

「すみません」と声を上げ後ろへと下がった。

怪訝な顔つきはそのままだったが、咲が下がった事を確認してから

彼女は中途半端に開いたままの扉を完全に引き、そして咲を追うようにして室内へと足を踏み入れる。

無意識に緊張した咲の喉がコクリ、と鳴る。

はっきり言って、必要以上に緊張してしまうのは仕方ないと思う。

だって、どう考えても眼前の少女と、自分とでは今まで生きてきた世界が違い過ぎるのだ。

この立派過ぎる部屋に彼女は溶け込んで見えるけれど、

それを眺めている咲はやはり場違いな気がしてならない。

菫「………先ほどの」

突如声を掛けられ「え?」と肩が震える。

思わず言葉の途中で言い返してしまったからだろうか。眼前の少女の眉間に皺が寄った気がした。

機嫌を損ねてしまったのかもしれないと、咲は焦るが。

彼女はそんな自分を尻目に、言葉を続けた。

菫「先ほどの問いに、まだ答えてもらっていない」

咲「問い?」

101: 2014/07/11(金) 00:37:27.55 ID:HdAV1VQi0
菫「こんな早朝に扉を開け、どこに行こうとしていた?まさか心変わりをしたのではあるまいな」

菫「王になる事は了承したはず。まさか、また逃げようなどと…」

咲「!?ち、違います!違う、そうじゃなくて…」

菫「では、なぜ外へ…」
 
詰め寄ってきそうな気配を感じ取り、慌てて咲は言葉を返す。

咲「あの、情けない話ですが。こんな立派過ぎる部屋に一人でいると、色々と不安な事が浮かんできてしまって」

咲「だからいつものように掃除でもして気を紛らわせようとしたんです」

咲「でも、道具が見付からなかったから外へ探しに行こうかと……」

菫「…掃除?」

咲「はい」

素直に頷く咲を一瞥し、彼女は訝しげに歪めていた表情を一応は緩めた。

刻んでいた険は薄くなったが……変わって呆れた空気が彼女の気配に滲む。

菫「……王である貴方がする事ではない」

咲「でも、この部屋を使ったのは私ですからこれぐらいは…」

菫「必要無い。他にする事は山とある」

続こうとした咲の言葉は、途中で容赦なく断ち切られる。

その強い口調に、咲は自分が責められている気がして自然と怯えるよう口を噤んでしまった。

次いで、鋭く向けられる眼光から逃げるように俯く。

実際、怖いと思った。

脳裏に浮かんだのは……商家での生活で。

102: 2014/07/11(金) 00:44:02.82 ID:HdAV1VQi0
暴虐不尽な主人により一方的に責められ続けた日々を思い出し身も心も竦んだ。

余計な事は言わない、目立ってはいけない。

そうやってひっそりと生活するのが一番、安全なのだと今まで信じてきた。

眼前に立つ少女より向けられる鋭い眼光はかつての主人を思い出し、途端に何か言葉を返す気力も萎えた。

咲は下を向いたまま、じっと嵐を過ぎ去るのだけを待ち続けた。

互いに無言のまま、どれくらいの時間が過ぎたのか。

気付いたのは俯いたままでも鼓膜へと届いた…深いため息の音が聞こえたからだった。

ビクリ、と体が震える。だが咲は顔を上げる事はできなかった。

だって、顔を上げて眼前に立つ少女の、更に深い落胆が浮かぶ顔を見るのだけは嫌だった。

自分から顔を伏せて逃げた癖に、期待外れだったと見られるのが、思われるのが嫌なのだと感じている。

自分でも随分虫のいい話だと思った。

でも。顔を上げて…彼女より帰れ、と容赦なく言われれば。

まだ傷は浅い内に、夢のようなこの現実から目覚める事はできるのではないかと気付く。

だから俯いたまま唇を噛み締めると、意を決して咲は顔を上げようとした。
 
だが。顔を上げて、咲の視界に見えたのは…背を向けた少女の姿で。

想像していた通りの拒絶の言葉はなかったけれど。なにか見限られたような気がして心がチクリと痛む。

思わず「あの」とその背に咲は声を掛けた。

すると彼女は出て行こうとする足を止めた。が、背を向けたままに言う。

菫「…まずは食事の用意をさせる。それが終わったら、これからの事を詳しく話すから」

いいな、と言われ反射的に了承の返事をする。

そんな咲の声を聞き届けたのだろう後ろ姿は、他には何も言わずに歩き出す。

そのまま扉の向こうへと消えて行き、重厚な扉は閉められた。

残された咲は、再び朝の静寂の中に一人。

広すぎる部屋の中に在って、所在無く佇むしかなかった。
 
 
■  ■  ■

 

103: 2014/07/11(金) 00:50:59.63 ID:HdAV1VQi0
やる気に目覚めた智美は、徹夜で処理し続けた書類の山を抱えながら意気揚々とやってきたのだが。

扉の外より声を掛けて、まずは反応が無いのを不思議に思った。

2度、3度と声を掛けても返事がないのを訝しく思う。

結局、書類を抱えたままの腕が上げた悲鳴に負けて、痺れを切らせて勝手に扉を開けて中に入って行ったのだが。

まずはキョ口リと室内を見渡した限り姿は見えない。

きっと奥の個人的な執務室にいるのだろう。

何があったかは知らないが、こうも反応がないのならば彼女の機嫌は期待しない方がいい。

どうしたというのか。折角彼女が長く探し続けていた王も無事に見付かったと言うのに。
 
取り合えず、智美は入ってからすぐにある机台に抱えていた書類の山をドサリと預ける。

そうして開放された腕の痺れを払う意味も込めてぐるぐる廻しながら、奥に続く部屋へと向かった。

案の定、覗いた室内の先、奥に置かれた書斎机の向こうに。

こちらに背を向けて椅子に座り込むこの部屋の主の姿を確認した。

智美「何回も呼んでるんだがなー…どうしたんだ?菫ちん」

背中が怖いぞ、と軽い調子で声を掛けると、眼前の菫が纏う剣呑さが増したような気がした。

おっと、これはいらぬ火に油を注いでしまったか、と智美は苦笑いを浮かべながら更に奥へと進む。

重厚な書斎机に手の平を置き、その向こうで相も変わらずやってきた智美へ背を向け、

無言を突き通し続けるこの国の台輔に負けじと名を呼んだ。

智美「おーい、菫ちん。こんな近くで呼んでも気付かない程、耳が遠くなったのかな?」

菫「………煩いぞ、智美」

根負けしたのか、小さくではあるが返ってきた菫の声に満足して智美はにんまり笑みを形作る。

智美「どうしたんだ?これからやる事はたくさんあるってのに……」

智美「そんなに燻ぶってちゃ、物事も上手く進まないぞ?折角見つけた主上にも愛想尽かされちゃうかもなー」

菫「……っ!!」

104: 2014/07/11(金) 00:58:04.97 ID:HdAV1VQi0
短くだが息を呑む気配。仕草。

その姿を見逃さなかった智美は脳裏にピンとくるものがあった。瞬時に状況をある程度理解する。

だから、ワハハと軽く見せていた調子を解くと精一杯の呆れを滲ませ言ってやる。

智美「………菫ちん、昨日の今日で、もうやらかしたのか?」

菫「………」

無言は肯定と受け取る。

智美「主上に、何か言っちゃったのか?」

菫より返ってくる言葉は無い。

ただ見つめる先の背中を眺めながら、図星だと気付いた智美は浅く息を吐いた。

智美「不器用な癖に、人に誤解される事だけは器用なんだから。まさかいつもの調子で冷たくあしらったのか?」

さすがに、それは私も許さないぞと。智美にしては珍しく語尾を荒げる。

いくらこの国の神獣であろうとも、その菫が選んだ少女が王であり

つまる所、この才州国に属する智美の王でもあるのだから。

その王を蔑ろにするのなら智美とて怒る権利はあるはずだ。

だから再度、菫へと詰め寄ろうとした瞬間。

今まで背を向けていた菫がくるり、とこちらに向き直る。

突然の事だったから、詰め寄ろうとして大きく開けた口はそのままに、言葉だけが行き場を失った。

智美「………」

ああ。つまる所、眼前の少女は天帝より一つの国へと授けられた尊い神獣の癖に。

こうして人間臭く悩み、智美の目の前で途方に暮れそうになっているのだ。

額に手を当て、智美は天を仰ぎたくなってしまった。取り合えず抱いた怒りは急激に萎んでいく。

105: 2014/07/11(金) 01:03:29.59 ID:HdAV1VQi0
大きく開けたままになっていた口をゆっくり閉じる。

できるだけ穏やかな口調を心掛けてから、智美は菫へと言った。

智美「何があったのか言ってくれ。私でやれる事はするから」

菫「………」

智美「菫ちん」

強い口調で名を呼ぶ。

菫はようやくその重い口を開けた。そして、ぽつりぽつり、言葉を返してくる。

菫「私はただ……主上に朝の挨拶と。そ…側に居たかっただけで」

智美「うんうん」

健気じゃないか、そう素直に智美も思うけれど。

むしろ、不遜な態度が有名な菫をここまで健気にさせる、王たる少女の末を頼もしく思った。

で?と先を促すと……更に、ぽつりぽつり、返ってくる言葉は続く。

菫「だけど、扉を開けて窺うよう外に出ようとした姿が見えたから。…どこか堅い様子も分かったし、だから」

菫「もしや突然心変わりしてまた去ろうとしてるんじゃないかと。そう思ってしまったらつい責める口調になってしまったんだ…」

聞きながら、その時の光景が鮮明に智美の脳裏に浮かぶ。簡単に想像できる。

ああ、やはり……なんとも不器用な少女だ。

智美「で、実際はどうだったんだ?…心変わりして去ろうとしてたのか?」

尋ねると、菫はゆっくり首を左右に振る。違う、という仕草に無意識に智美もほっと安堵の息を吐いた。

この傾きかけた国であって、やっとで見つけた王たる少女だ。

できるならば、無理矢理ではなくて、自発的に王として勤めを果たして頂きたい。その決意をして欲しい。

智美「じゃ、なんで?」

菫「なんでも部屋の掃除をしたかったと。そのまえに道具を探しに行こうとしていたらしい」

智美「………掃除?部屋の?」

菫はコクリと頷く。

106: 2014/07/11(金) 01:10:14.62 ID:HdAV1VQi0
菫「自分が使ったからと。でもそんなことは王のする事ではない、だから必要無いと言った」

智美「………」

智美は話を聞いていて、別段菫の行動を可笑しいとは思わなかった。むしろ、正しい事を言ったと思う。

そして、王たる少女の行動も……昨日まで市井の片隅で生きてきたのならば、仕方ないのかもしれないとも思えた。

菫から聞いた話や、彼女が負っていた傷から連想するに…きっと圧迫された生活を送ってきたのだろうし。

だがそれは菫よりも世間を知っていて、なおかつ柔軟な思考で物事を考えられる智美ならば思い至れる訳で。

つまり、智美が結論付けるに彼女らの行き違いの根本は価値観の差であり、どちらが悪いという話では無い。

ただ、 まだ初対面に近い状態で菫の不器用さだけが向こう側へと伝わってしまったのは頂けないと思った。

智美「それから、主上は何て言ったんだ?」

菫「………何も」

智美「何も?」

菫「俯いてしまって、そのまま暫く待っても顔を上げてすらくれなかった。…鈍い私でも、拒絶されている事は分かる」

菫「ならば、必要とされていないのにあのまま側に留まることはできんだろうが」

気のせいでなければ…語尾は震えていたかもしれない。

こんな菫は王を探して彷徨っていた頃に等しく感じた。

智美「…菫ちん」

気遣いを持って名を呼ぶと、彼女は軽く頭を振った。そして、言葉を続ける。

菫「そういう事だ。…私は、どうすればあの人の側に居てもいいのか…」

菫「麒麟の時の話ではあるが…触れてもらえるのかわからない」

そうしてまた、菫は紫色の瞳を不安気に揺らした。

項垂れる麒麟を前に、仕方なさそうに智美は微笑を浮かべる。

智美「じゃあ、菫ちんは私に何をして欲しいんだ?」

何も知らずにやってきた自分を下がらせるでもなく、こうして中に通したのは多分、頼みたい事があったからだろう。

事実、菫は浅く頷いてから言った。

107: 2014/07/11(金) 01:17:01.56 ID:HdAV1VQi0
菫「主上には一方の王としての教養を学んでもらわねばなるまい。今まで学を身に付ける機会も少なかったようだから」

菫「そのために信頼に足る師も用意する。…それらを傍で世話する役目を、お前に頼みたいんだ」

智美「私でいいのか?誤解を解くためにも菫ちんが側についた方がいいんじゃ…本当はそのつもりだったんだろ?」

菫「…………」

やはり、無言は肯定でしかなくて。暫くの後、菫は首を左右に振った。

そのまま俯き加減に、ぽつりと呟く。智美にと言うよりは……まるで自分に言い聞かせるように。

菫「私は……きっと嫌われてしまっただろうから」

だから。と、菫は首を巡らせ全く関係のない方向を徐に見上げる。

その視線を智美が追いかけても、開かれた窓より白い雲と、青い空しか見えない。

だが何かを感じ取るよう向ける菫の様子から、彼女が何を見ているのかは推測できた。

多分菫がじっと見つめる先には、彼女しか辿れない王の気配があって。

智美から見れば遠くに在る王へと一心に心を傾けている麒麟が目の前にいるだけだ。

本当に、不器用な事この上ない。

智美「まぁ、台輔が決めて、命じるのなら。……私は従います、臣下ですから」

菫「頼む」

間髪入れずに、返ってきた堅い声を聞いて。

これ以上、この場で何かを言い返すのは得策ではないと智美は判断する。

だから徐に目の前の書斎机に預けていた体を起こし一歩分だけ後退すると、姿勢を正した。

そして、胸の前で合掌をし「御意」と、遠くを見たままの台輔に向かい智美は一礼したのだった。


■  ■  ■

108: 2014/07/11(金) 01:26:31.68 ID:HdAV1VQi0
時間を見計らって、智美は目当ての部屋へと辿り着く。

扉の前に立つと丁度中より「今日はここまでですので、お疲れ様でございました」と柔い声が聞こえた。

だから、たっぷり一拍置いてから「失礼します」と声を掛けて扉を開く。

中には丸い机が置かれていて、対照的な位置に座る二人の人影があった。

一人は老齢で温厚な雰囲気の老人で…学の師だ。

市井より、菫が信頼に足る人物だと御呼びした先生で。

事実、智美も初対面で顔合わせした時はその柔らかな物腰、態度に好感を持った。

そしてそれは先生の目の前で「ありがとうございました」と丁寧に礼を述べる少女も同じだったのだと思う。


彼女が、咲が、この国の王だ。


最初こそかちこちに緊張した面持ちだったが。

こうして先生に教えを請う回数が増える度に、彼女らの師弟としての親しさが増しているような気がする。

師「丁度良くいらしゃいましたな。それでは主上、また明後日参上致しますので」

咲「はい。宜しくお願い致します」

咲はたまたま今まで学門より遠ざかる生活を送っていたから無知に近い状態だったが。

元々の素養は高いのだろう、こうして師に教わればそれこそ水を吸い込む綿のように知識を習得していった。

そうやって師より学問と道徳を学ぶ事も大事だけれど、

彼女が一番に目を輝かせたのは、奥まった場所にあった書庫で。

勉学や執務の合間を縫ってはよく一人で車庫に篭り書物を読み耽っている有様だった。

109: 2014/07/11(金) 01:31:48.52 ID:HdAV1VQi0
智美なんかは官吏の試験の時にはそれこそ山のように書物を読んだけれど。

それが過ぎ去ってしまえば、余り手にする事も無い。

仕事柄、資料を纏めるときなんかは書物を手に取るが…咲はどうやら読むこと自体がとても好きなようだった。

そんな事をつらつらと考えていたら、目の前を通り過ぎようとした先生に気付き智美は慌てて拝礼する。

そんな自分を見て目を細めて笑う老人は、軽く相槌を打ってから智美が開けたままだった扉より出て行く。

どうやら予定通り、今日の授業は終わったようだ。

振り向き、まだ室内に残っていた咲へと智美は明るい声を掛ける。

智美「今日はどうでしたか、主上?」

咲「頭がいっぱいです。…先生と話してると本当に、覚える事がたくさんあるんだなって」

咲「私は今まで、すごい狭い世界で生きてきたんだなって思ってしまいます」

智美「申し訳ありません。無理をさせているとは思いますがこれも御身と、この国のためなのだとお思い下さい」

智美「主上が御座におられるようになってから…朝廷は元より国府の中も俄かに慌しくなって参りました」

咲「はい」

智美「どうか、しっかりとしたご自身の知識を持ってから。朝廷、そしてこの国を、民を覧になって下さい」

智美「一方的な意見だけを聞き頷くのではなく、起きる物事の本質を見誤らぬよう。…ここでは誰が敵で、誰が味方なのかを」

咲「……端から見ればとても華美であるのに、怖い所なんですね。ここは」

智美「主上が立たれるまで仮王朝を正す事ができなかったのは、一重に私を含め、諸官らの不徳の致すところです」

智美が言い切ると、その先を遮るように咲は首を左右に振る。

110: 2014/07/11(金) 01:37:17.99 ID:HdAV1VQi0
咲「諸官全てに咎がある訳ではないでしょう。少なくともこうして度々私を助けてくれている智美さんは味方だと思っています」

迷いの見えない声。思わず面食らった智美は暫し無言になる。

臣下として、王からのその言葉に歓喜しなかったと言えば嘘になるが。

ただ、真っ直ぐな態度、そして言葉に一抹の不安も覚えた。

できれば、この清らかさを智美とて守りたいと思うが……

先程咲が言っていた通り、王がいるこの場所は華美に見えるが怖い所なのだ。

王が御座に立った事でもはや朝廷内でも表面には見えぬ駆け引きは始まっている。

智美「…言い切ってもよろしいので?先程言ったはずです、一方的な意見だけを聞くのでは物事の本質を見誤られる」

脅しのような文句になってしまったけれど。

それに対して、咲はしっかりとした口調で言葉を返してくる。

咲「王としてではなく、人として。目の前に立つ人間が真摯に心を持って受け答えしてくれているかどうかは分かるつもりです」

咲「私は商家の下働きも長かったですし…人の裏の顔というものを盗み見てきましたから」

智美「……ご苦労なさっておいでだったか」

咲「細々とでも生きていくためですね。顔色を窺っていれば、どうにか嵐を避ける事もできましたから。でも…」

咲「私が今この場に立っているという事は。かつての私のような人間を一人でも減らす事ができるということですよね?」

智美「………」

咲「そのためにこうして本を読み、師に師事を仰いでいるのだと。最近になって、ようやく分かってきました」

初めて彼女を見たときに感じた儚さを払拭するかのような態度だと思った。

まだ、途中ではあるけれど。期待してもいいのではないだろうか。この真摯な王に。

だってこの国は……彼女が、咲が立つまでにもう随分と苦しみ抜いた。

一握りが富を得る狂った構造をずっと続けてきたが、

それを許さなかった天が、彼女をこの国へと授けたという事なのだろう。

111: 2014/07/11(金) 01:42:19.78 ID:HdAV1VQi0
だから、根負けしたように智美は固く発していた空気を解くと苦笑を浮かべる。

智美「主上の言う通りだと思います。私は…、いえ私個人としても、貴方を助けたいとは思っているから」

それを聞いた咲は、顔を緩めると智美に向かって綻ぶように笑った。

淡い色彩ではあるけれど、それが窓より差し込む光に溶けていくようで。

ああ、いいな、と思うと同時に釣られるよう智美も笑みを深くする。

いつか、こんな暖かい気持ちに溢れた国になればいいと思う。

王だけでなく、官吏だけでなく、民の一人までもが全て……気持ちよく笑える国になればいい。

そのために、眼前に立つ王だけは守らねばなるまい。

ところで、ふと気付く。

智美「そういえば…」

咲「はい?」

この後の予定は執務になるはずだから。

部屋まで送り届けて尚且つ、仕事の手伝いをするのが智美の役目だが。

咲が纏めた荷物を智美が持った所で。ふと落とした言葉に反応するように咲が顔を向ける。

その朱色の瞳と視線が合ったのを確認すると智美は続けて言った。

智美「主上は今日、台輔にお会いになりましたか?」

何気なく尋ねた智美がそう言った瞬間、ビクリと咲の体が震えた。

そんな仕草を智美が見逃すはずも無い。

事実、先程までの咲の穏やかな雰囲気は立ち消えて、むしろ堅く身構える気配に智美は眉を潜めた。

112: 2014/07/11(金) 01:46:23.49 ID:HdAV1VQi0
そして、そんな自分が抱いた疑問を咲もすぐにわかったのだろう。

本当に、眼前の少女は頼りなさそうに見えて、実際は聡いのだ。人の機微にも良く気付いている。

そんな彼女がぎこちなくではあるが言葉を返してきた。

咲「え、と。朝に……様子を見に来てくれました」

智美「はあ。じゃあ、きちんと顔は出してるんですね…ならよかったです。何を話したのか、お伺いしても?」

咲「………」

なにせ、智美は実質、台輔の菫の命で咲に付いていると言っても過言では無い。

彼女らの遣り取りを知っておけば、なにかと動きやすくもなるのだ。

だから、と。智美は目の前の王より続く言葉を待っていたが。

……なにか、とても歯切れが悪い。

智美「主上?」

訝しい声で呼ぶと観念したように、咲は言葉を返してきた。

咲「あの、話という話は……何も」

智美「……何も?」

まさか、と思わず智美は言い返すが咲はそうなのだと頷く。

咲「私も口下手な方なので…本当は色々と話したいことは考えているんですが。目の前にしてしまうと、どうも…」

とても言いにくそうな咲の言葉。

いやいやいや、王だけのせいではあるまい。

王が言い出せぬのであれば、その半身である麒麟が気遣えばいいのだ。

けれど、それすらもなかった様子を智美は悟る。智美は再び天を仰ぎたくなった。

113: 2014/07/11(金) 01:51:32.85 ID:HdAV1VQi0
なんてことだ、やっぱり菫の不器用さだけが誤解されて伝わってしまっている。

初期の頃の対応の差なのだ。

無意識であれ身構えられてしまっている事に、きっと一番堪えているのはあの麒麟の少女だろうに。

呆れて、吐き出しそうな息をぐっと飲み込み……口元を緩めると、智美は問う。

智美「あの。主上は…台輔が苦手ですか?」

すると、びっくりしたように咲は目を見開いた。

例えるならば、そんな事を言われるのを予想してなかったみたいに。

だから、お、と智美は意外に思う。

事実、咲は首を左右に振って言葉を返してくる。

咲「苦手とかそんなんじゃないです。まだ浅い付き合いですが彼女の真面目な所とか、自分自身に厳しい所は尊敬しています」

咲「けど今の私では、彼女と釣り合わない気がして…毅然とした彼女を目の前にすると、どうしても気後れしてしまうんです」

智美「………」

咲「だから、頑張ります。智美さんが言ってくれたように。きちんと勉強して、色んな事を見て、聞いて……」

咲「彼女が、菫さんが認めてくれるような王を、目指しますから」

智美「主上」

ああ、やばい。

智美は素直な咲の言葉を聞きながら。

今はきっと自分の執務室にいて不貞腐れているだろう麒麟の少女を怒鳴りつけてやりたい気分に駆られた。

だって今、咲の素直な気持ちを聞かねばならなかったのは智美ではない。

なによりもその悩みを聞き、支えなければいけないのは…王の半身である麒麟でなければいけなかったはずだ。

なんでここにいないんだ菫ちん!と。素を曝け出して智美は心中にて菫を罵る。

114: 2014/07/11(金) 01:58:33.17 ID:HdAV1VQi0
彼女らの間に入る智美は、互いの躊躇が勘違いだと咲の言葉を聞いて気付けたが。

知らぬ菫なんかは、咲に嫌われていると思っている。

だから朝に咲の様子を見にいっても深く踏み込めないし、声を掛ける事もできない。

躊躇して勝手に落ち込んで、その空気を無意識であれ咲も感じ取り気後れしている。

なんて悪循環。

不器用な半身同士なのかと、智美なんかは思ってしまうが。

ため息は幸せが逃げていく…落としたいのを懸命に堪えて、まずは彼女らの誤解を解く事から始めねばと思った。

そうでなくとも頼りないと見られがちな咲を侮り、奸臣は媚を売り繋がりを持とうと躍起になっている。

王と麒麟がぎこちない関係などと知られたら奴らの付け入る隙を与えるかもしれない。

本当に、やるべき事はたくさんあった。

咲「智美さん?」

名を呼ばれ、ハッと現実に気付く。

顔を向けると、不思議そうに自分を見返している咲の姿があって。

反射的に明るい笑顔を浮かべると「何でもないです」と智美は言葉を返した。

まずは、今日の予定を終わらせよう……咲と今日の分の執務を終えたら、

酒を持って菫の所に突撃して、説教してやる。

そう心に誓いながら、智美は荷物を持つと「行きましょう、主上」と声を掛けたのだった。



■  ■  ■



126: 2014/07/18(金) 00:06:56.00 ID:l402pkcK0
智美「十分に、身辺にはお気を付け下さい」
 
そう智美に言われた言葉を咲とてよく覚えている。

智美「端からは華美に見える宮中は、今や恐ろしい所なのです」

そう言った彼女の言葉を最近、咲も痛感している。

ましてやこの身は学も無く、見た目も弱々しく他者の目に映るのだろう。

朝議にて玉座に座った時に、安堵と侮りを持って下段より数多の官吏の目に見上げられたのをよく覚えている。

今まで臆病に生きてきた自分だったから、様々な感情が含んだ視線に晒されて無様にも足元は震えていた。

それでもそんな自分を自覚して、せめて数多の目より震える足元を終始隠し通せたのは

あの時、広い朝議の間の中で自分は一人ではないのだと咲には分かっていたから。

形式的な儀礼や奏上など長い時間だったが。

その間ずっと自分の後ろに付き添っていたこの身の半身の存在に、挫けそうな気持ちは支えられていた。

ちらり、と横目に見上げた時も相も変わらず背筋を伸ばし凛と佇む姿に、咲の身も心も引き締まったのを良く覚えている。

見縊られてはならぬ、と気持ちを振り絞ってあの時、顔を上げた。

127: 2014/07/18(金) 00:10:51.59 ID:l402pkcK0
かつての自分は生まれてからずっと一人だと思っていたから、

臆病だったのだと思いたい。けれど今は違うのだ。

出会ってからずっと半身の気難しい顔しか見てないけれど、

それでもその表情が緩んだ時に、この身を気遣うようにして揺れた瞳を知っている。

その時に自分は初めて誰かに必要とされているのだろうか、と生まれて初めて思った。

それが時を経た今では一国に必要とされているのだと理解した時には驚いたけれど。

ならば、自分には分不相ながら王という役割に挑戦してみても良いのではないか。

そう思えるようになっていた。

まだ過去の臆病さを忘れた訳ではない。

けれど孤独だったあの頃とは違い、この身を助けてくれる人達がここにはいる。

少し前の自分では到底、考えられなかった状況だけれど。

128: 2014/07/18(金) 00:13:28.95 ID:l402pkcK0
今日は十二国のうちの一国、雁州国の王と麒麟が揃ってここ才州国の新王である咲に会いに訪れていた。

咲「遠路はるばるお越し頂きまして…」

霞「あらあら。固い挨拶はなしで良いのよ」

哩「私達は隣国同士やけんね」

深々と頭をさげる咲に雁州国の王、略して延王である霞と同国の麒麟である哩が気さくに微笑みかける。


雁州国は、霞が王となってから既に500年も続いている大国である。

そんな国の王を目の前にして、咲はあまりの恐れ多さに縮こまっている。

霞「ふふ。どうか楽にしてちょうだいな、采王」

咲「そ、そうは言いましても…」

霞「采の新王は謙虚なお人柄なのね」

おろおろとする咲に霞はひとしきり笑って、咲に告げる。

霞「でもようやく四州国のなかの一国が落ち着いてくれて良かったわ」

哩「何せ残りの巧州国と恭州国は、現王同士の仲が悪いせいか諍いが耐えんとね」

咲「そうなんですか?」

周りの国には疎い咲が、きょとんとして2人に尋ねる。

129: 2014/07/18(金) 00:19:27.83 ID:l402pkcK0
霞「塙王洋榎と供王セーラは何故か互いを好敵手扱いしていて、何かと争ってばかりなのよね」

咲「はぁ…大変ですね…」

他国でも色々とあるんだなあと、咲は呟いた。

霞「采王はまだ他の国のことについてはあまり知らないようね」

咲「は、はい。自分の国のことで手一杯で…勉強不足ですみません」

恐縮して頭をさげる咲に、霞はふふと笑みを浮かべる。

霞「まだ即位して日が浅いですものね」


十二国のうち四大国、四極国、四州国とに分けられる。

四大国に分類するのは慶東国、範西国、奏南国、柳北国の四国。

四極国に分類するのは戴極国、漣極国、舜極国、芳極国の四国。

そして四州国に分類する才州国、雁州国、巧州国、恭州国の四国。

この十二国それぞれに、神籍を持つ王とその麒麟が存在する。


霞「何か分からないことがあったら、遠慮なくいつでも聞いてちょうだいね」

哩「私達に答えれる範囲でなら、いくらでも教えてやるけん」

咲「はい。ご親切にありがとうございます」

咲は再び深く腰を折って、大国の王と麒麟に感謝の意を示した。



■  ■  ■

131: 2014/07/18(金) 00:23:15.11 ID:l402pkcK0
内殿の人気の無い廊下を歩きながら、咲は無意識に苦笑を浮かべた。

もはや夜半に差しかかろうという頃合。

今日一日も執務と勉学とを終えた咲の日課は、

こうして自由になった時間に内殿の奥にある書房に篭る事だった。


十分に、身辺にはお気を付け下さい。


智美の言葉が再び脳裏に過ぎる。

彼女は咲に出歩く際には自分を呼ぶか、信頼の置ける者を必ず付き添わせろと言っていたけれど。

ここ数日通っているが人と擦れ違う事もなかったし、

国作りに精を傾ける周囲にいらぬ手間を掛けさせたくもなかった。

だから、今日も今日とて一人きりで目的の書房の扉へと辿り着く。

音を立たせずに扉を少しだけ開けると、その隙間より体を中へと滑り込ませる。

そして、開いた扉を閉めるとすぐ横の棚の上に置かれていた燭台に火を灯した。

その灯りを中心に、照らされるたくさんの書架が並ぶの光景がある。

……本当に、この光景を見るだけで咲の胸の内は熱くなった。

下働きをしている時、商家の使いで小学を訪れた際に

子供達が色々な本を広げている様子を羨ましく思ったのを覚えている。

好奇心だ。あの中にはきっと色んな世界が書かれているのだろう、と。

132: 2014/07/18(金) 00:27:31.82 ID:l402pkcK0
書架の前を歩き、何冊かの本を手に取ると更に奥に置かれていた机へと向かう。

その上に火の灯った燭台を置き、持ってきた本を脇に置くと、その中の一冊を机の上で広げた。

商家で簡単な読み書きと計算は覚えていて、今では先生からの師事により難しい単語や言葉も理解している。

ある程度の本は咲一人で読めるようになっていた。

知識は必要だ。無知であるがために様々な官吏より物事を言われ、採決を求められようとも、

今の咲にはどれが良くてどれがいけない事なのか判断が付かない。不安に押し潰されそうになる。

今は智美が側にいて手伝ってくれてはいるが、

いつかは自分の裁量で物事を決められるようにならなければいけないだろう。

そうでないと、侮られる。ここは怖い所なのだと彼女は言っていた。

事実、何もできぬ王だと言われ、決め付けられたらきっと見た目も弱々しい咲の言葉など誰も聞いてくれなくなる。

それでは王でいる意味がないだろう。

かつての自分のような力無い存在を無くすと咲は心に決めたのだ。

それに自分は元より、自分を助けてくれる周囲の人々すら侮られるのは我慢ならない。

だから、誰に何を言われても正しい判断ができる自信が欲しい。

あの凛とした延王のように、力強く国を導く存在になりたい。

灯りに照らされた文字を一心に追う。すると周囲の些細な物音でさえ耳に届かなくなる。

本は色んな世界があるのだと咲に教えてくれていた。



■  ■  ■

133: 2014/07/18(金) 00:31:28.70 ID:l402pkcK0
内殿の奥にある書房へと続く薄暗い廊下に複数の足音が響く。

夜の静けさに反する荒い足音は、その主の心境を現しているかのようだった。

なぜなら事実、男は焦っていた。

宮中に官吏として上がったのはもう何年も前の事で。

その時にも、多額の金とコネと駆使して今の地位を手に入れた。

それから今までの月日の間に甘い汁を吸ってきたと思えばあの時使った大金など塵にも等しいだろう。

そして、それはこの先も変わらぬはずだったのだ。

この国には長く王が不在だった、だから王はいないものとしての宮中の仕来りが出来上がっていた。

自分もその慣例に従い、コネと賄賂とで今の地位にいるが……

つい先日、宮中にて青天の霹靂が起きたのだ。

とうとうあの無愛想で融通の効かない麒麟が、天意を得て選定した王に従い姿を現した。

後に周囲より聞いた話では自分だけでなく多くの官吏は何も聞いていなかったという。

呆然と下段より上段を見上げる先に坐する王たる少女を見上げながら、まず不安に駆られたのは

今までの宮中にあった自分達の自由が効く仕来りがそのまま通用するかという事だった。

自分だけは無く、自分に便宜を計ってくれた上官や同僚なども戦々恐々としている。

彼らと同様、今更処罰されるのも甘い利権を手放すのも考えられない事だった。

134: 2014/07/18(金) 00:35:58.22 ID:l402pkcK0
ならば、まだこの宮中の仕来りも何も知らぬ王を引き込んでしまえばいい。

上官よりそう言われた言葉に光明を見た気がした。

確かに思い返してみても、上段の玉座に坐する王である少女は聞いた歳の割には線が細く、頼りなく見えた。

強気に引き込めば案外すんなりとこちらの意に従ってくれるのではないかと考えたのだ。

ただ、そんな自分達の考えを読まれたかのように、件の王は滅多に内殿より姿を現さなくなった。

朝議には出てくるが、その際は半身たる麒麟の少女か

王の出現により自分らと袂を別った官吏らが必ず側に付いている。

それが原因で自分達からは悪目立ちするようになった官吏が一人いた。

あの裏切り者、新米でまだ若く人の良さそうな笑顔をいつも浮かべていた少女。

命じた事には素直に従い、他人との間に波風を立たせた事も無かった。

反抗心など微塵も見せなかったはずなのに。

こうなってしまって気付くと、奴はちゃっかり麒麟たる台輔の右腕として収まっていた。

しかもあの頃は、ただ使い勝手が良い便利な奴でしかないと見縊っていたが。

本性を現してからはほとほと手を焼いている。

浮かべる笑みは変わらないのに、返す意見が正論で辛辣なのだ。

慈悲と偽善とを煩く言ってきた台輔の言葉を更に現実味を乗せて奏上もしてくる。

まさか、あんなに頭が切れる奴だと思っていなかった。

135: 2014/07/18(金) 00:39:40.81 ID:l402pkcK0
それで、罪悪感を思い出し自分達を見限ろうとする官吏達も増えてきた。

このままでは近い将来に身の破滅は見えている。

もう形振り構っていられなかった。

こうなれば、王たる少女より自分達に対する安全の確約が欲しい。

情に訴えてもいい。それにまだ月日は浅いから、

言い包めればあの裏切り者よりも自分達の言葉を信じるかもしれないではないか。

いや、信じさせねばいけない。

そのために大金を使って、内殿の天官、数人抱き込んだのだ。

奴らから、最近の王は一日の執務を終えると奥にある書房に一人篭る事も確認済みだ。

ならばその時に直接訴えるしかない。

なにより、自分達を守るためだ。


人気の無い廊下を足音荒く走り抜ける。

薄暗い視界の向こうに、奥にある書房の扉が薄っすら見えた。

胸の内が、酷く急いた。

だがその瞬間、少し先の床が不自然に波打つ。

まるで水面に波紋が走るよう、コポリと水音が響く……と同時に獣の唸り声が聞こえた。

ビクリと体が震えて自分を含めた周囲の荒い足音がその場で止まった。

目を凝らし薄暗い廊下の先を見る。

すると波打った床より何か……大きな体躯が這い上がってくる様が見えた。

136: 2014/07/18(金) 00:42:48.61 ID:l402pkcK0
こんな内宮の奥で…有り得ない猛獣の姿。

しかも暗闇の中六つの紅い瞳が爛々と輝き、それだけでも眼前に現れた猛獣が只の獣ではない事を悟る。

妖魔だ、と苦々しく口元を歪める。

脳裏にあの無愛想な麒麟の少女の姿が浮かぶ。

きっと彼女の使令に違いないと気付いて腸が煮え繰り返った。

本当にあの麒麟は綺麗事ばかり抜かしていつもこちらの邪魔ばかりする。

この先に進みたいが……現れた妖魔はギラギラ敵対心を向けてそこから動かない。

自分を含め周囲の人間はもはや、突如として姿を見せた猛獣の姿に怯えてしまっていた。

睨み合ってから数秒、背後にいた一人が短い悲鳴を上げて逃げ出すと後は雪崩だった。

情けない、と思いながらも再び薄暗い廊下に響いた獣の唸り声を聞き、

結局自分は振り返って逃げ出した。

妖魔が追ってくる気配は無かった。

今日は失敗には違いない。……ただ簡単に諦める訳にはいかなかった。

今に、今に見てろと。男は唇を噛み締めながら薄暗い廊下を走り続けた。

137: 2014/07/18(金) 00:46:07.08 ID:l402pkcK0

去っていく人の気配が感じなくなるまで、妖魔はその場に留まっていた。

どれくらい時間が過ぎただろうか、六つの瞳を徐に瞬きさせると周囲に撒き散らしていた警戒を解いた。

もはやこの薄暗い廊下に人の気配は感じない。

ペ口リ、大きな舌を出して鼻先を舐めるとゆっくりとした動作で振り返った。

そのままのそり、のそり、廊下の先まで四足で歩く。

すぐに奥に行き当たり……そこにあった扉の前に辿り着くと頭を上げて室内の気配を探った。

きちんと人の気配をある事を確認してから扉の前に重い腰を降ろす。

そのままに体躯も曲げると、扉の前を陣取るようにして丸くなる。

部屋の中より、まだ物事を終える気配を伺う事はできなかった。

そうして丸めた体躯に頭を乗せて六つの瞼を閉じてからどれくらい経ったか。

何かを感じて、閉じていた瞼がピクリと震えた。

頭を上げて瞼を開く。……すると、薄暗い廊下の向こうより誰かがここへと近付いてくる。

先ほどの粗野な雰囲気を纏った輩が戻ってきたのだろうかと警戒したが。

見えた姿と感じた気配に、抱いた警戒はすぐに霧散した。

言葉も無く六つ目で、主人である台輔の長身の姿を見上げる。

彼女は、書房の扉の前を守るよう身を丸めていた使令の姿を見て何があったのかをある程度悟ったようだ。

気難しげに眉間に刻まれていた皺が深くなる。そして、そのままに書房の扉へと視線を向けた。

そんな台輔の仕草を見届けてから、自然に、扉の前に陣取っていたこの体躯を少しだけ脇に移動させる。

当り前のように、台輔は開けた扉の前へと足を進める。そのまま僅かに扉を開けて彼女は中へと入っていった。

パタン、と扉が再び閉められてから。誰もいなくなった薄暗い廊下を六つ目で一瞥する。

そうしてまた扉の前へと移動すると、重い腰を床に降ろし体躯を丸めて瞼を閉じたのだった。



■  ■  ■

138: 2014/07/18(金) 00:49:35.49 ID:l402pkcK0
菫が書房の中に入ると、書架が立ち並ぶ暗い通路の奥より燭台の明りが漏れているのが見えた。

角を曲がると、奥に置かれている机に向かい座り込む王の背が見えた。

机の上には何冊もの本が積み重なっていて、脇に置かれた燭台の炎が微かな空気の流れの変化からか揺れている。

なぜかいつまで経っても動かないその背を不審に思い近付いて行く。

あと2、3歩程の所で……微動だにしない姿の理由が分かった。

机に向かう姿の頭が必要以上に真下に垂れている。

覗き込むよう身を屈めると、俯いたその顔は翳っていて瞼は閉じられていた。

机の上には読んでいた途中の本が開かれたままになっている。

本の文字を追い掛けている内に、生まれた眠気に抗えなかったという事なのだろう。

菫「…………」

そんな姿になぜか興味を抱き、言葉を掛けるでも無く観察するように見つめる。

彼女がここ数日、空いた時間に書房に通い詰めている事を聞いて気にはしていたけれど。

こうして直にその様子を目の辺りにして見れば、その姿勢を嬉しいと感じている。

だって、この人は努力をしてくれている。

智美に言われたが、この人にしてみれば全く違う世界に突然にも放り込まれたようなものなのだという。

与えられた権限と地位は確かに誰よりも高いが、それに伴う責任も果てしなく重いはずだからと。

ただ、玉座に坐したという幸運に浮かれるのでは無く。

そこにある責任を誰よりも重く受け止めて、悩み、こうして少しでも理解しようと僅かな時間を削って頑張っている姿に

半身である菫が心を動かさないはずがないではないか。

139: 2014/07/18(金) 00:52:58.95 ID:l402pkcK0
だから、疲れて眠ってしまった姿を見つめていて心中に生まれてくるのは申し訳ない、という気持ちと。

だがこの人が主でよかった、という強い想いだ。

麒麟として生を受け、生涯を共にする見た事もない王に対して一度も不安を抱かなかったとは言えば嘘になる。

けれどこの国のために、民のために……寝る間も惜しんでこうして頑張っている、

彼女の姿を確認できれば過去の不安は杞憂でしかなかったということだ。

だからいつだって、菫は主に対して助けてやりたいという 気持ちを持っている。

今だってもし咲がこうして書房に篭もる前に、菫に手伝って欲しいと一言くれれば、喜んで付き合っただろうに。

疲れ果て一人眠ってしまった姿も、自分が一緒だったなら僅かな時間も放置しておかなかったはず。

些細な事なのかもしれないけれど。……やっぱり、自分を頼りにして欲しいとは思う。

こんな菫の葛藤を智美なんかは、素直に気持ちを伝えればいいじゃないか、と軽く言ってくれるが。

それができれば、菫とてこんなに悩んでいない。もはや自分の性分なのだ。

じっと見上げてくる朱い色の瞳を見下ろせば、心中に滲む緊張から何も言えなくなってしまう。

しかも、これ以上嫌われたくないという怖気が更に菫から言葉を奪ってしまうから。

憮然とした表情しか反応を返せない自分は、多分、この主にいらぬ心配を掛けている。

違うと伝えたい、嫌ってはいない、苦手にも思ってない。

むしろ、誰よりも心を寄せているのだと伝えたい。

今だって、こんな感じで眠っている姿にならば側に寄っていけるし、冷静に考える事もできるけど。

あの朱色の瞳に、意志を持ってじっと見つめられると……どうにも緊張して駄目だ。

無意識に、菫は息を吐く。机の上に置かれた燭台の炎が揺れた。

140: 2014/07/18(金) 00:56:59.14 ID:l402pkcK0
蝋はもはや残り少なくなっていて、すぐにでも明かりとしての効力を失うだろう。

それを一瞥した菫は、徐に燭台に顔を近づけると灯る炎に息を吹きかけ消す。

仄かに明るかった室内は一瞬にして暗闇に包まれた。

それでもこの暗闇に視界が慣れてくれば、窓より差し込む月明かりのお陰である程度周囲の様子は分かる。

とりあえず疲れて眠ってしまった主をこのままにしてはおけないだろう。

座ったままの体勢でもあるし、朝を迎えたら体を痛めてしまうかもしれない。

菫は咲へと腕を伸ばし、その背を支え、膝裏に差し込むとそのまま苦も無く抱き上げた。

そのまま踵を返し数歩歩いた所で、無意識に、片眉が訝しげに上がる。

なぜなら抱き上げた体躯が想像するよりも軽く感じたからだ。

月明かりだけに照らされた主の顔を見下ろす。

ここへ連れてきた時に比べれば血色も良くなり、体格も彼本来のものに回復してきたと思う。

けれど、菫と比べて格段に劣る体躯である事には変わりない。

この華奢な体躯で、菫は元より自分を含めたこの国をこれから支えていくのか。

体躯を抱えなおしながらどこか身が引き締まる想いがした。

麒麟として選んでしまった責任から?いや、麒麟とか王とか関係なく。

この国のために懸命に努力しようとしてくれる彼女を、自分が支えてやりたいのだと本心より思ったからだ。

書房の扉の前に立つと、自然とその扉が開く。

どうやら扉の前でここを守っていた使令は出てこようとする自分らの気配を敏感に悟ってくれたらしい。

開いた扉の隙間を通り抜けると、また扉が静かに閉まる。

その裏にいた獣の姿が菫を見上げると、六つ目が穏やかに瞬きした。何もありませんでした、という意思表示と受け取る。

そう菫が理解して頷き返すと、六つ目の獣は頭をこちらに向けて垂らしたままにその体躯が床の下へ除々に沈んでいく。

その姿が完全に床にできた水面へと吸い込まれていってしまったのを確認してから。

菫は徐に踵を返し路寝へと向かったのだった。


■  ■  ■

141: 2014/07/18(金) 01:03:17.04 ID:l402pkcK0
智美「内宮の奥に関る者だけでも綺麗にしないとやばいな」

智美の声に、昨日あったことを伝え終えた菫は頷く。

菫「使令の話では5,6人いたそうだ。数が多い、おそらく天官だけではないな」

智美「ああ、外から手引きした奴がいる。…菫ちん、内宮を纏める内宰は人格者だと言ってなかったか?」

菫「私はそう思っている。…過去に仁重殿の人事についても、私の意向を酌んでくれたからな」

菫「明確な理由があって通す筋より大きく外れなければある程度は許容してくれる。それに賄賂や不正といったことも嫌ってたと思う」

ふむ、と智美は顎に手を当てて考え込む。

智美「……心変わりしたか。それとも、内宮の官吏全てを掌握してないのか…」

菫「後者ではないか?以前より、この宮中では人格者は煙たがられる」

菫「それでも内殿の内宰に収まり続けていたのは今までここに主上がいなかった事と、政局からは遠ざかっていたからだ」

智美「まぁ。話は分かるな……けど、新たな王が立った事で遠ざかっていた政局に野心が生まれたんじゃないか?」

智美「菫ちんが信じたいのは分かるけど、違うんだって言い切れないのは……わかるよな?」

菫「…………」

智美の言葉を聞いた菫は暫し押し黙る。

彼女の言いたい事が良くわかったから。王が選ばれたことで今の宮中は必要以上に慌しくなっている。

昨日までは当たり前だったことが、今日には様変わりしていることだって十分に考えられるのだ。

ただ、菫も理解している。

智美が心配する通り、王である少女にこの先、何かしらの危害が及ぶ事だけは絶対に排除しなければならなかった。

使令は付けてはいるが、万能では無い。

なにより居住するこの場所だけでも、安全を当たり前にして過ごして欲しいと思うのは間違っていないだろう。

智美「私は顔を合わせた事ないけど……内宰って名前はなんていうんだ?」

問われ、菫は思考を中断させると脳裏に一人の官吏の姿を思い浮かべる。

不正が蔓延る宮中の中にあって、随分と落ち着いて自らの考えを譲らぬ女性だったのが強く印象に残っている。

だから、その名前を菫はすぐに思い出した。

眼前の席に座り、じっと菫の返事を待っている智美へ「内宮を仕切る内宰は、塞という天官だ」と伝えた。



■  ■  ■

151: 2014/07/18(金) 21:26:59.18 ID:l402pkcK0
―少しだけ、時間は遡る。


純はこれでも随分と我慢をしてきたと思う。

軍に入ったのは自分の荒い気性に合っていると思ったからで、数年過ぎた今ではその選択は間違ってなかったと信じている。

新米の一兵卒の頃は、そりゃ生意気だとか口が悪い奴とか(否定はしない)で随分、上から目を付けられたりもしたが。

それでも自分で言うのはなんだけど兵としての能力はそこそこあったよう思う。

訓練の中で練習試合などしても上位には食い込んだし、実戦においても冷静に状況判断ができていたから

気がつくと一兵卒から伍長になり、そのまま数年後には両長を越えて100兵を纏める卒長を務めるまでになっていた。

上からの小言を聞く機会が増えたのは頭痛のタネだったが…それでも発言や行動の自由は増していった。

すると、不思議と一兵卒の頃は気にもしなかった責任を感じるようになってくる。

誰よりも気性の荒い自分だったが、部下である兵に対して責任を覚えてしまうとかつてのような無謀は控えるようになっていった。

なにより軍の上部で権力をもち居座る頭の悪い奴らは嫌いだったが、同僚や部下である兵卒らは元の自分のよう気性は荒く、

口は悪いけれど根はいい奴らばかりだったと知っていたから。

その誰もがただ今の腐った国の姿に絶望して燻っているだけ。

幾ら能力が高くとも、権力や金がなければこれ以上の出世が望めないのが現状で。

それは純にも同じ事が言えた。運と能力だけで卒長にまで辿り着いたが庶民の出であり金も無く、

軍に対して権力を持つ顔見知りもいない自分にはこれ以上の出世は望めないだろう。

どう考えてみても、自分よりも遥かに愚鈍で頭の廻らなさそうな奴が高い身分と金とコネだけで出世していく様を

横目に見ていれば現状に絶望し、燻ってくるのも仕方ないと思う。

それでも純は卒長に収まってからは随分、我慢していたのだ。

無能な上からの命令を聞き、無謀な事をやらされもした。

昔の自分ならば、すぐに憤慨し反抗していたかもしれないけれど。

152: 2014/07/18(金) 21:31:53.54 ID:l402pkcK0
現状において、百人の部下を持つという責任がどうにか純に冷静さを与えていた。

それでも上からの無謀な用件が増えてくる度に、部下を守るために聞き入れてもらえないと分かっていながら

何度も進言したりもした。そんな事を繰り返す内にいつの頃からか上より自分が煙たがられているのには気付いていた。

だが、どうしても譲れない一線が確かにあったのだ。

そんな純の我慢の限界を越えさせてしまったのは、上より与えられた最大級に無謀な命令のせいだったと思う。

今になってみれば、あれは扱い辛くなってきた純を排除するために画策された命令だったのかもしれないが。

残念ながら自分は戦場などにおける状況判断は得意だったが、影で行われる謀計に対してはとんと無知だった。

文句があるなら正面から来い、喧嘩なら買う、という気性であったし。

そんな自分が上官より呼ばれ与えられた命は、

『城下にて謀反の疑いある者を捕縛し、抵抗するのならばその場で処罰しても良い』というものだった。

聞いただけならば軍属として素直に従えばいいだけの命令だったが。

その標的である名前を聞いた瞬間、上官に対してすぐに任務了承の返事を純は返せなかった。

上官より言われた名は……城下の庶民の間では人望が篤いと噂される町医者の名前だったから。

なにより、純自身も直に会った事があって手当てを受けた事もある。

姿を思い浮かべてみても、気さくで、医者としてというよりは人として一本の筋がきちんと通った人だったと思い出している。

それにあの医者は純の素人目から見ても、人を救う事に誇りを持っていた。

王の不在で苦しみに喘ぐこの国に対して、更に謀反でもって混乱に陥れる無法者とは到底思えなかったのだ。

だが眼前に立つ上司は、国府の秋官に言われ、その町医者に対して動かぬ証拠も揃っているのだという。

その厭らしい上官の笑みを見て、謀計に疎い純でも直感的に悟った。

民衆から思う以上の人望を集める医者の存在が、権力を握る奴らからみて目障りになったのだ。

しかもあの町医者は人格者で民衆だけでなく、権力者にとって元より目障りな知識人にも知り合いは多いと聞く。

だから奴らは将来を見据え、自分達の地盤を確固たるものにするために

反乱分子の核となりうる邪魔者の排除に乗り出したに違いない。

153: 2014/07/18(金) 21:36:09.61 ID:l402pkcK0
きっと人格者である町医者に証拠など元から無かったに違いない。奴らは勝手に証拠を作って罪を被せようとしている。

しかもその役を庶民の出で何かあった時の使い捨てが効く純に任せようとしている。

多分、町医者を処罰した後も、もし庶民より反発が出たとしても

命じた権力者では無く実行した純を処分する事で事無きを得ようとする魂胆まで見えた。

笑みを浮かべたままの上司を見返しながら、純はカッと頭に血が昇り目の前が怒りで真っ赤に染まった。

が、唇を噛み締め、拳を握り締める事で怒りの爆発をなんとか抑えた。

ここで喰って掛かっても、腐った軍とは言え純は軍属の身。上官の命に背けばそれだけで処罰の対象となる。

自分だけならまだしも今は百の兵を抱える責任のある身だ。おいそれとその場で上官に向かい反発する事はできなかった。
 
感情の含まない了承の意だけを告げて、上官の前を後にする。

期限だけを言われ、方法は問われなかった。……だが、どうすればいい。

ただ周囲より人望のある人格者を腐った権力者の命に従い断罪せよというのか。
 

誠子「お前も運がないな」

軍の宿舎に帰り、純の副官でもある両長の誠子に粗方の事情を説明するとそう言われた。

彼女は自分と同郷であり、腐れ縁の友人でなにかと気安い間柄だ。

裏表無く言い合える相手でもあったから…誠子に言われ、純は苛立たし気に舌打ちをする。

純は庶民の出でここまできたが、結局は上から理不尽な理由を押し付けられ足元を掬われようとしている。

上官の命に従い人格者である医者を処断すれば、きっと純がここで培ってきた人望は容易く地に落ちるだろう。

それに軍属としてでは無く純の個人的な感情でも、あの医者を亡き者にはしたくはない。

だが上官の命に逆らったら軍の中での純の立場は危うくなる。

154: 2014/07/18(金) 21:41:20.86 ID:l402pkcK0
今でさえ目を付けられているのに、危険分子として警戒されれば有事の際には真っ先に最前線に送られかねない。

純一人だけの事ならそれも自身の責任として納得しようが、

今の自分には誠子を含めた100人の部下がいる。彼女らをこんな馬鹿げた理由で危険に晒したくはなかった。

誠子「まぁ…飲むか」

そう言って酒瓶片手にやってきた誠子に純は大人しく付き合う。

呑まなければやってられない心境でもあったから。

ただそんな素直な自分の様子を見て、誠子は明日は雨が降るかもな、とからかう。

そんな彼女をギ口リと睨んでから差し出された器をしぶしぶ受け取ったのだった。


それから、二人で夜通し飲んだ。

自室の窓を開けると城下の街が見渡せる。時間帯は夜だったから、城下の街に灯った明りが煌々と灯っていた。

それでもあの灯りの下で愉快に騒げるのはこの国の中になって一握りの人間だけだ。

もはや、この才州国の前王が崩御してから何十年にもなる。

煌々と灯りが灯っているのはこの広い国の中と言えど、きっとこの首都だけだろう。

王宮は王が不在でありながらその代わりの権力を握り、仮王朝に組する者だけでこの世の春を謳歌している。

純も誠子も前王が崩御したのは小さい頃だったから、平常無事に天命を受けた王がこの国を治める時代を経験したことは無い。

ただ、世の中はこんなにままならないものなのかと気落ちはしてきていた。

アルコールも入っているから余計そう思うのか。この国の未来に希望が持てなかった。

例え才能があったとしても、能力が高いとしても……先に立つのは金とコネの世界だ。

それは宮中でも街中でもここ軍の中でも変わらない。

155: 2014/07/18(金) 21:47:16.73 ID:l402pkcK0
純はたまたま運が良くてここまでこれたが、今日のように上官より命じられれば

筋が通っていなくても力の無い身では従うしか生き残る道は無い。それが無性に息苦しく思った。
 
だからこんな夜には思うのだ。

どこかに……この広い国土のどこかに、この国の生まれの王が存在するのだろう。

郷里の親や老人が過去を懐かしんでいたように。

天命を受けた正規の王が立てば、この国は変われるのだろうか。

人格者である医者が、その徳のままに尊敬され評価され謀殺される事も無い。

むしろ王不在の宮中にて、権力を欲しいままに法も人としての筋も捻じ曲げる畜生共を黙らせる事ができるだろうか。

軍属として出現する妖魔から人を守るために、または罪を犯した者に剣を握る事に躊躇いは無い。

だが何の咎も無い人間を理不尽な理由で屠るために剣を握る事は許容できなかった。

それは軍属以前の、純の中にある越えてはいけない一線だったのだと思う。

それをきっと、付き合いの長い誠子も良く分かっている。


暗い夜空が昇る朝日により白み始めた頃。空になった酒瓶を傾けながら、誠子は言った。

誠子「無理だな」

純「ああ」

詳細は全て省いた。ただ言われた言葉に対して純は当り前だという風に相槌を打つ。

夜通し呑んだはずだが、互いに少しも酔ってはいなかった。

純の返事を聞いて、誠子は一拍置いてから席を立ち上がる。そして、まだ座ったままの純に対して言った。

誠子「半刻経ったら、10名程連れてくる…性根が良さそうな奴を。そいつらに今回の事を話そう」

誠子「私たちは責任がある分、動けない。だが、そいつらが何かしら動いたら………仕方ない」

純「…そうだな」

誠子に言われ、純は頷く。

156: 2014/07/18(金) 22:00:11.87 ID:l402pkcK0
誠子「よし。片付けておけよ、机の上。後、換気もしっかりとな。お前が酒臭かったら真実味に大いに欠ける」

純「こんな事でごちゃごちゃ言うようなら、何かする前に俺が轢頃してやる」

誠子「わざわざ馬持ってくんのか、まぁ、言うだけはタダだ。……睨むな睨むな、行ってくる」

去っていく背に、純はうるせぇと声を投げた。微かに誠子が笑った気配だけが残っている。ただ道は決まったのだ。

軍属としての立場があって、だけれど、咎の無い人間を頃す事はできない。

純と誠子が出した、これが答えだった。

それから誠子が言った通り。半刻して10人程兵を連れて戻ってきた。

純は先刻、上官より命じられた内容をそのままに話した。

淡々と事務的に言うだけ。城下で名の通っている町医者に謀反の疑いが有り、と。

上官からのお達しで捕縛する旨、抵抗したらその場で処断する事も厭わない事。

そして、そこからは誠子が続けて決行日を告げた。

明日の日没、集合する場所と時間だけを純と同じく事務的に淡々と述べる。

それを聞きながら、やってきた兵たちの表情を見ると、一様に強張っていた。

こんな世の中だ。彼らとて町医者の評判は聞き知っている。

これが、なんの咎の無い人間一人を謀頃する任務なのだと理解したようだった。

その中で一番若くて素直そうな、軍に配属されてまだ慣れてない感じの若造が、

意見を言うために唇を開くのが見えた。が、その前に純の後ろに立つ誠子が制する。

以上だ、明日の集合場所に遅れるな、と。

そして解散とだけ言い放って……部屋からの退去を無言で命じた。

去っていく中で、若造の表情は全く納得していなかった。

そんな表情を浮かべている兵が4、5人はいた。これならばきっと大丈夫だろう。

全ての兵が去っていってから誠子は「これでいいか?」と尋ねてきた。

純は「…これしかねぇだろう」と呟いただけだった。

157: 2014/07/18(金) 22:04:24.62 ID:l402pkcK0
次の日の早朝。

昨日の夜と朝とでは気温の温度差があったようで、宿舎から出ると周囲は久しぶりの霧に覆われる光景があった。

全く大した機会だと思う。

早朝のため自然と出てくる欠伸を噛み頃しながら。人目に付きにくい宿舎の影に腰を降ろす。

欠伸をもう一つした所で、誠子がやってきた。

誠子「4人だな」

言われ、純は頷く。

身を隠す純の隣に誠子も腰を降ろして暫くの後。早朝の宿舎より、霧に紛れて出ていく4人の人影があった。

その中の一人は、昨日任務を告げてから一番我慢できないという顔付きをしていた若造だ。

その決意に染まった顔を見て、純はそれでいいと思った。自分が昔に忘れてしまった熱だと思う。

有り得ない事だとは分かっているが、もし王が玉座に座り庶民の意見が僅かでも届く国になっていれば

自分もあんな顔付きになれただろうか。

少しだけ羨ましいと思いながら、去っていく4人の背中を誠子と共に純は見送った。

珍しい事に、その日の霧は、昼過ぎまで晴れる事はなかった。


その日の日没に決行されるはずだった任務は空振りに終わった。

標的である町医者はもはや逃げてしまった後で、無人の家屋だけが残されていた。

怒り心頭の上官より言われ、追っ手も放ったが捕縛したという報は届いていない。

後日聞こえてきた噂によると、4人の若者に付き添われ隣国に逃げ切ったという。

158: 2014/07/18(金) 22:11:24.84 ID:l402pkcK0
その話が城下に流れた時は庶民の中では痛快劇として話題になったが、上官の怒りは留まる事を知らなかった。

きっと奴も裏では宮中の権力のある官史より言い付かっているのだろう。

誰かが責任を取る事になる。もちろん上官が取るはずはない。そのために純に命を下したのだろうから。

ただ、純にしてみれば……この時まで本当に我慢していたのだ。

色々と、……慣れない長をやったり、柄にもなく周囲に気を使ったりしていて。

本当に我慢の限界だったのだ。

だから眼前のいかにも高そうな机を容赦なく叩くと、自分から全ての責任と取ると啖呵を切ってやった。

出鼻を挫かれた上官は目を白黒させていたが、その動揺が濃い姿に更に言ってやる。

今回の件は全て自分だけの責任で、両長副官及び部下一兵卒に至るまで責任は無いと。

そう、宮中におわす官吏殿にいってやれ、と啖呵を切ってやったのだ。


気が付くと、純は牢に繋がれる身になっていた。

ただ数日後、隣の牢に誠子が入ってきた事は素直に呆れた。

純「てめぇな…」

俺の苦労を無にしやがって…と恨み言をいってやると、もはや一蓮托生だと言い返されてしまった。

本当に自分も馬鹿だと思うが誠子も大概だと思う。

ただ苛立つ思考の中で、こうした道連れは誠子だけに留める事ができたのはきっと幸いだったのだろうなと思った。

罪状はなんだったのか。任務失敗か、それとも上官に対する反抗か、

気付かぬ内に何かの罪を被せられたのかもしれない。


牢に入れられたままに数日が過ぎた。

そんな中、食事を持ってきた牢番が教えてくれた。

牢番「あんたらいい時期に牢に入ったな」

純「牢にぶち込まれる事がいいことかよ、あんた、頭大丈夫か?なんなら代わってくれよ」

牢番「いや、そういう事じゃなくてよ。今にあんたらには恩赦が出るかもしれねぇって事だよ」

純「……恩赦?」

159: 2014/07/18(金) 22:17:05.71 ID:l402pkcK0
何か目出度い事があって、罪が軽減される事だと思ったが。今のこの国で何か目出度い事など望めるのだろうか?

純が訝しげに牢番を見返すと、彼は言った。

牢番「とうとうこの国にも新王が立ったんだよ。それで近く恩赦が言い渡されるんじゃねぇかって話」

純「え……」

思わず返す純の言葉が掠れた。そのまま無言になってしまう。

その間にも食事を置く門番は何かを言っていたけれど耳に入っては来なかった。

ただ、静かな衝撃が心中にある。

聞き間違いではなかったのか?こんな薄暗く窓もない所に何日も置かれていたせいで幻聴でも聞いたのではないか。

だって…もはや何十年も不在だった玉座に、天命を受けた誰かが立ったのだと牢番は言う。

言葉を失った自分の代わりに隣の牢にいる誠子が声を上げる。

誠子「嘘じゃないのか?…ほら、宮中の馬鹿官吏が偽王でも持ち上げた、とか…」

純「それはねぇよ。だって、あの無愛想で有名な麒麟が選んだんだろ」

誠子「本当なのか…」

呟く誠子の声には驚きを突き抜けた感がある。純とて同じ気持ちだった。

純「…どんな」

無意識に訊いていた。

純「……主上は、この国の王はどんな人間なんだ?」

語尾に向かう程に純は顔を上げていた。だが、見上げる先の牢番はなぜか口を噤んだ。

先程まで は自慢げにぺらぺらと話していた癖に。

どうしたと言うのか。苛立ちを持って純が睨み上げると、牢番は焦ったように言った。

牢番「そ、そんなに睨むなよ!…噂通りこええなあ、あんた。俺も人伝に聞いただけだ」

牢番「俺もそこまでは知らねえんだ。……年頃の少女ではあるらしい」
 
そういい終えて去っていく牢番の背をどこか夢現の心地で見つめる。

……変わるのだろうか、この国は。

だが、しかし。現実で牢に繋がれている身で心配する事ではないな、と気付き。

純は誠子と共に苦く笑ったのだった。
  

160: 2014/07/18(金) 22:23:12.16 ID:l402pkcK0
それから暫くして本当に恩赦が実施され、牢より出られる事になった。

と言っても軍にはもはや居場所はないだろう。

上官に逆らったようなものだし、純や誠子としても今の軍にはなんの希望も持っていなかった。

ただ、働き口を探さなければいけないだろう事は思案したが。

まぁこのご時勢だ、腕には覚えがあったからどこかの用心棒にでも付ければ御の字だと思った。

しかしながら恩赦が言い渡されて、牢より出され……あれよあれよという間に周囲の景色がどんどん変わっていく。

小汚なかった体もいつの間にか洗われそこそこの服を着せられた純と誠子はなぜか……王宮内に佇んでいた。

純「どうなってんだ??」

どこかは知らない、知るはずもない。…こんな所、場違いにも程がある。

けれど背後に立った官吏が更に先に進めと促してくる。

場違いな場所で勝手が分からないのもあるから、促されるままに見えてきた一室の中に足を踏み入れた。

王宮の中にあって、今まで目にしてきた華美さが無くなる。

想像していたよりも質素な室内を不思議に思った。

その部屋の奥に置かれた机の向こうに、入ってきた自分達を気にするでもなく黙々と作業を続ける官吏の姿がある。

考えなくても、この部屋の主だろう事は分かる。

案内してくれた官吏が深々と頭を下げた事からも、そこそこの立場にいる人なのではないだろうか。

官吏を部屋より下がらせると残された自分達を一瞥し、筆を持ち作業していた手を置く。そして徐に立ち上がった。

何か、言えばいいのだろうか。

だがどう考えてみてもここはかつて所属していた軍とは余りに勝手が違う。

礼儀作法など無いに等しい身としては、眼前の官吏にどう対応すればいいのか迷った。

塞「突然こんな所に連れて来られて戸惑っているでしょう?」

そう言いながら、柔和な笑みを官吏は浮かべる。

161: 2014/07/18(金) 22:33:03.23 ID:l402pkcK0
聞こえた言葉にも敬語は無く、気安い態度に張っていた気が薄れていく。

そんな自分達へと楽にしていいから、と言い彼女は続けて話を聞いてくれないかと言ってきた。

穏やかな物腰。かつては軍属ではあったが、今まで牢に繋がれていた自分らに向ける態度でもないような気がした。

意味が分からず、取り合えず頷く。

それを見届けた彼女は、純達をここへと呼び寄せた理由を話し始めた。

塞「単刀直入に言えば、手を貸して欲しいの」

純「俺達が、……いえ、私達がです、か?」

塞「ええ。…それと無理に敬語は使わなくてもいいよ。私もその方が楽だから」

純「………」

純は混乱して、横に立つ誠子を伺うように見る。

彼女の心情も自分と同じようなものだろう、困惑が瞳に浮かんでいた。

けれどそんな顔を巡らせると誠子は尋ねる。

誠子「まず、なぜ…私達、なんですか?」

もっともな意見だと、官吏は頷き素直に答える。

塞「腕が立つ者が数人欲しかったの。…けれど信頼できる者でなければ駄目」

塞「腕が立っても金を積まれ裏切るのが目に見えている輩には到底任せられない。それは現役の軍人でも同じこと」

純「……」

彼女の言った事を信じるのならば。こうしてここに呼ばれた純と誠子は信頼できるという事なのだろうか。

だが目の前の人物に見覚えは無い。全くの赤の他人である自分らをどうして彼女は信頼に足ると判断したのだろう。

そんな訝しげな純の表情を読んだようで。官吏は理由を言い続ける。

162: 2014/07/18(金) 22:39:57.38 ID:l402pkcK0
塞「司刑の秋官に懇意にしてる者がいるの。今の件を相談したら丁度良い人材がいると貴方達の名前と立場とを教えてくれた」

塞「こんな世の中でよくそんな無謀をしたものだ、と。話を聞いて驚いたわ」

塞「例え不憫に思っても、上官に逆らい罪の無い者を逃がすのには覚悟が必要だったでしょう。軍属であれば尚更」

純「…………」

全く知らぬ他人より事の本質を指摘されて、驚いたのは純と誠子も同じだった。

言葉も無く目を見開いたままの自分らへと説明する声は続く。

塞「責任を取って必要のない罰を受けていた貴方達がこうして牢を無事に出られたのは、新王即位による恩赦でもあるけど…」

塞「それだけじゃない。秋官が数ある罪人の中で貴方達を気を掛けたのも、軍の一兵卒達より減刑を求める嘆願書が上がっていたからよ」

塞「不思議に思って、事の詳細を秋官が調べて行くと……まぁ、こうして貴方達の本当の理由が分かったというわけ」

だから、と彼女は言う。

塞「人望もある、しかも権威より優先するものがあると分かっている。だから貴方達は信頼できる、と私は判断した」

塞「こうして自分の目で見て人柄も分かったし。秋官には話を通して、正式に貴方達の身柄の責任は私が引き継ぐわ」

なに、どこかの街で日雇いの用心棒をするよりは余程快適で実入りもいいと思うよ、と。

とんとんと話を進めていく官吏を見返しながら……純はこれは夢ではないかと疑う。

だって昨日まで薄暗い牢の中にいたはずなのに。それが気が付いたら、王宮にて求職されている?

そこで、ふと気付いた。

純「俺たちに、手を貸してもらいたい事って…」

誠子「それに。あんた……いや、貴方は」

純も誠子も疑問は溢れる泉のようにあった。

けれど……まずは、眼前に佇む官吏の素性と目的だ。

指摘すると、ああ、と気付いたように官吏は体躯を震わせて笑った。

163: 2014/07/18(金) 22:47:32.08 ID:l402pkcK0
塞「ごめんごめん、気ばかり急いてしまっていて。…ここは王宮の奥にある内宮。私はそこを纏める内宰で塞っていうの」

塞「実は新王が立ってからというもの内宮は色々と荒れていてね…だから私はこの混乱をどうにか収めたい」

塞「それに、内宮として何より最優先させる事を貴方達に頼みたいから」

純「優先させる事…?」

訝しげに聞き返 すと……ええ、と塞は大仰に頷いた。


塞「貴方達にはここ内宮で大僕の立場となり……主上の身辺を警護してもらいたい、という事よ」


もはや、何に驚けばいいのか分からなかった。

確かつい先日に牢に繋がれている身で国を、王を心配する事もないなと苦笑を浮かべていたはずなのに。

現状、夢でなければむしろ、大きく係わろうとしていないか?

どちらとも無く隣に立つ誠子と顔を見合わせる。

なんとも言えない顔をしていた。多分、純も同じ顔をしているだろう。と

どこか他人事のように思ったのだった。


■  ■  ■

176: 2014/07/24(木) 21:07:27.39 ID:mTNIwpCd0
2人、官吏が氏んだと聞いた。

宮中では無い。たまたま当たった休みで城下に降りて飲み屋に行き諍いに巻き込まれ、

たまたま刃物を握った暴漢に刺され事切れたのだと言う。

その話を智美が聞いた時、まず“やられた”という思いが胸中を過ぎった。

なぜなら氏んだ二人の官吏は内宮に係わる天官であり知っていた…というより探していた名前だったからだ。

理由は簡単で。先日に内宮の奥で未遂に終わった事件の詳細を菫から聞き、

それを元に情報を集めて外部に手を貸した不届き者の名をやっとで炙り出した、その矢先の出来事だったから。 

偶然だと思うべきか、必然だったと思うべきか。

都合が悪くなったからこちらが大元に辿り着く前に消されたと見るのが妥当だろう。

手掛かりが潰された事を素直に残念に思うが、見方を変えれば相手側にとっては痛い所を突かれたという事だ。

できればその氏体を検分して氏亡当日にどんな交友関係でその場に行き、

どんな殺され方をしたのか詳しく知りたいが……無理だろうなとは思う。

宮中ならまだしも、城下ならば一介の官吏である智美の采配の及ぶ所では無い。

しかもここ宮中であっても、智美はまだ官吏としては新米も同然で確たる実績もないから。

ただ、台輔である菫の後ろ盾がある故に、周りよりは一目置かれてはいる。

177: 2014/07/24(木) 21:11:22.52 ID:mTNIwpCd0
もちろん智美とて自分のこんな状況にいつまでも甘えていようとは思わない。

だが自分の実力を周囲に認めてもらうのは追々でいいとは思っていた。

どうせ今まで宮中にて高位に配されている官吏の殆どは実力ではあるまい。

そんな腑抜けをちまちま排除するよりも、今は菫がやっとの思いで探し当てた王を守る事に専念したかった。
 
そう思って脳裏に浮かんだ姿。 

第一印象こそ儚げで頼りない姿だと思ったものの、あの人がそれだけでない事が徐々に分かってきた。

なんというか、思慮深い。客観的に物事を見る思考にも優れている。

さすがあの菫が選んだだけの事はあるな、と思う。

王とは国の中で最高の権力を持つ者だ。

それを手にし溺れて短命に幕を閉じた王朝は歴史を見ても数多くある。

無学であるらしいから、それを知っているかどうかはわからないけれど。

あの人は王である自分の採決が導き出す結果の大きさをよく知っている。

すぐに結論を出すことを恐れ周囲の声も聞こうとする。まだこの環境に慣れないのもあるかもしれないが。

それでも、あの人の姿勢を智美は素直に好感を抱いている。

何より王とか臣下とか以前に、決めた目標に向かって頑張ろうとしている人を見れば

助けてやりたいと思うのは人として当然だろう。

少なくとも智美はここ宮中にあって忘れかけていた、そんな心境を取り戻そうとしている。

178: 2014/07/24(木) 21:15:53.54 ID:mTNIwpCd0
何も分からないと自分を恥じて悩むのは正常な人間の思考だ。

だからそれを補うために様々な事を聞き、見て、学びたいと願うのも健全な人間の思考なのだと思う。

それを実践しようとしている商家の下働き出の王を、学もないのにと見下し侮る輩はたくさんいる。

ひ弱そうな姿を見て脅して説き伏せれば意のままに操れると見縊る奴らもいるのだろう。

だがしかし、ようやくあの麒麟がこの国のために見つけてくれた、正常な思考を持った王だから。

みすみすそんな輩の好きにさせる気は毛頭無い。

少し前の、尊敬もできない上官のために嫌々仕事をやっていた頃に比べれば、

敵が増えたとはいえ今の現状に智美はある種の遣り甲斐を感じ始めていた。


ふと、背後より名を呼ばれる。

思考を中断させて振り向くと、仲間である官吏が近付いてきた。

この度の件を台輔に報告するかの判断を求められる。再び考え込んだのは数秒。

顔を上げると智美は首を左右に振って言った。

智美「まだいい、内容が内容だからな。台輔は慈悲の生き物でもあるし」

智美「責任は無いと知っていても人が氏んだことに心を痛めるだろう」

智美「もう暫くこの案件が纏まってから、私から報告する」

目の前の官吏が頷くのを見届けてから、この案件の洗い直しも告げた。

なにせ目星を付けていた有力な証人が消されてしまったのだから。

仕方無いな、と互いに言い合いその官吏と別れると、

智美は予定通り、王である少女の執務の手伝いをするため宮中の廊下を歩き出した。

179: 2014/07/24(木) 21:19:32.09 ID:mTNIwpCd0
人気の無い通路の角を曲がった時だった。

突如、壁のように立ち塞がる存在に気付いて智美は慌てて歩みを止める。

寸前で気付いてなんとか衝突する事は回避できたようだった。

ほっと胸を撫で下ろすと同時に…立ち止まったまま、智美は訝しげに顔を上げる。

注意散漫だった自分も悪いが、こんな往来の真ん中で立ち止まっている方も悪いと思う。

多少の険を込めて眼前で佇む姿を智美は見上げた。

眼前の官吏は自分に向かって軽く一礼し「ちょっとよろしいですか?」と声を掛けてきた。

智美「………」

反応に迷ったのは、突如として声をかけられどう対処すればいいのか考えたからだ。

戸惑う自分とは対照的に冷静なその姿から考えて、多分彼女はここで智美を待ち伏せしていたのだろう。

しかしながら今まで見てきた官吏とは明らかに違う彼女の態度に智美に迷いが生じる。

眼前の官吏は格好から推測しても智美よりも身分は上だろう。

ならば新米にも等しい自分に対する態度でない。

菫以外の上官からは頭ごなしに命じられるか、敵意を込めて言われる事に慣れていたから。

そう思うと、自分の周囲も随分と騒がしいもんだよな、と今更ながら智美は気付いてしまった。

迷う心を取り合えず落ち着かせると、余裕を纏ってこちらからも一礼を返した。

智美「反応が遅れまして申し訳ありません…失礼ですが、貴方はここで私を待っていたのですか?」

多分、廻りくどく言わない方がいい。

眼前の官吏は今までの上官達のような愚鈍な相手には見えなかった。

すると智美の問い掛けに対して彼女は「いかにも」と頷く。そのままに、彼女は自らを名乗った。
 
塞「私は塞と言うの」

180: 2014/07/24(木) 21:23:43.45 ID:mTNIwpCd0
その名を聞いて、智美は目を見開いてしまった。 

確かつい先日菫より教えてもらった、内宮を治める内宰の名前だとすぐに気付いた。

この女性がそうなのか、と…極力、顔に浮き出た動揺を掻き消しながら智美は眼前の姿を見た。

なるほど、菫が人格者であると言っていた意味が分かるような気がする。

初対面の格下である智美に対する丁寧な態度はもとより、その落ち着いた物腰は不思議な安心感を与えた。

智美も自分の名を名乗ると続けて言葉を返す。

智美「こんな場所でわざわざ……私に何か御用でも?」

塞「ええ。内密の相談と言うのも可笑しく聞こえるかもしれないけど」

塞「主上や台輔に直接口上しようとも考えたけど、どうしても型式通りになって周囲に目立ってしまうから」

塞「なら、一番近い貴方にまずは話を聞いてもらうのが最善かと思いこうして待っていたの」

智美「はあ……」

塞「ここには他には誰もいない。回りくどく言い合うのは互いの時間の無駄にもなるでしょう。……率直に打診したい」

塞「ここ最近、内殿の不穏な空気に主上や台輔に近い貴方もさぞ憂慮しているでしょう。その事について…」

智美「内宰殿。…お待ちを」

話を続けようとする塞を途中で止めたのは、智美なりに判断が付かなかったからだ。

確かに眼前に現れた官吏は実直そうで信頼に足るように見える。

だが宮中に上がってまだ短い間であれ、そんな官吏が変貌する様を多数見てきた智美だったから。

塞のこれからの核心の話をそのまま聞いても良いものかどうか迷った。

智美「まず、確認したい事が」

塞「分かることであれば」

智美「内宰殿が言う、内宮の不穏な空気とは私が胸中で思うそれと合致していると?」

塞「そのように、私は思ってる」

その言葉を聞き、一拍置いてから智美は言葉を返す。

181: 2014/07/24(木) 21:28:54.79 ID:mTNIwpCd0
智美「なら先日深夜にて主上の御前に無断で近付こうとした輩がいた事や、城下にて天官二人が亡くなった事に対して…」

智美「内宰殿はどのように考えていらっしゃる?私の見識不足でなければ、内宮で起こった出来事は貴方の管轄だ」

塞「…………」

智美は物怖じもせず意見を述べながら、じっと眼前に立つ官吏を観察している。

気のせいでなければ、鷹揚に構えていた塞の態度に揺れが見えたような気がした。

それがどんな感情での揺れなのかは残念ながら読み取れない。

ただ、彼女が熟考するかのように押し黙ったのは数秒。続けて浅く頷くと言った。

塞「噂通り、よく物事を聞き視野が広い御仁のようね。素直に、台輔は良い人材を得たと思う」

塞「貴方が抱く懸念についても分かった。確かに私はここ最近の内宮で起こる様々な事案に対処し切れていないのが現状」

智美「ならば、これ以上私が貴方の話を深く聞くことができないのは分かるでしょう」

智美「貴方が私の側からみて信頼に足るという確証が何も無い。…打診を受ける事はできない」

言い切る智美に、塞は先ほどよりも分かり易く、顔に落胆の色が滲んだ。

塞「……貴方と、私の根本の目的は同じだと確信している。内宮にあって、主上を御守りしたい」

大いに結構な意見だ。智美とて賛同する。……その真摯な言葉の裏に、何も思惑が無いと分かればの話だが。

智美「確かに同じです。だからと言って易々とその意見を受け入れられない」

智美「……宮中はそんな場所であるのだと、ここで生きてきた貴方なら一番良く知っているでしょう」

塞「どうすれば信頼に足ると?」

智美「主上や台輔に対して不穏な動きをするのが貴方ではないと証明できれば」

智美「そのために貴方の管轄で起こった祥事を明確にして頂きたい」

智美「例えば先日たまたま城下に降り、たまたま不慮の事故に巻き込まれ氏んだ天官の事件の詳細、その交友関係なども詳しく」

もしかしたら、そこから途切れたはずの黒幕に辿り着けるかもしれない。余り期待はしていないが。

だが、塞はそんな智美の言葉を聞くと律儀にも頷いた。「できる限りの事はしよう」と言う。

182: 2014/07/24(木) 21:38:15.22 ID:mTNIwpCd0
智美とて信頼できる仲間は欲しいと思っている。が如何せん塞は立場が立場だ。

期待の大きい分、万が一裏切られたらこちらの痛手になる。慎重にならざるを得ない。

だからこれ以上は、深く話さない方がいいと智美はこの場に見切りを付けた。

話は終わったとばかりに智美は一礼すると、眼前の女性の横を通り過ぎて行こうとする。

が、数歩歩いた所で背後より、この身を呼び止める塞の声がした。

塞「貴方が言った件は元より内宮を治める私が責任を持って追求する。あと再度言うけど主上を御守したいという言葉に偽りは無い」

塞「台輔と貴方とが許してくれるなら…私が信頼を置いている者を、主上の身辺を守護するために置かせてもらいたい」

智美は進もうとしていた足を止めると、振り向く。

そして……振り向いた先に佇む塞を見返すと、ゆっくりと首を左右に振って言った。

智美「内宰殿。先程の話が全てです。貴方を信頼できない限り、貴方の手の内の者も近づける訳にはいかない」

智美「愚鈍では無い貴方には理解できるはずだ。…この国も、あの麒麟も、大勢の民も、長く苦しんだと思う」

智美「その苦しみより救ってくれるのが唯一天命を受けた王だというのならば…その存在を絶対に失う訳にはいかないのです」

塞「………」

智美「どうか、主上がこの国を立て直すためにも。まずは活動の主軸となるこの内宮を綺麗にする事から手伝って頂きたい」

それが、互いを信頼できる道にもなるだろう、と。続く言葉が無くとも塞に智美の気持ちは伝わったと思う。

返ってくる彼女の言葉も無いのがその証拠だ。…これで、この場所での会合は本当の意味で終わった。

智美は再び彼女に向かって一礼すると踵を返し、今度こそ振り向くこと無く歩き出した。
 
ただ、徐々に遠ざかっていく背後の気配を掴みながら収穫はあったと感じていた。

菫の人の見る目も、どうして、中々侮れない。

あの実直な姿勢でもし胸中に野心を隠し持っていたのならば、智美の人の見る目も総じて鍛え直さねばいけないだろう。

……ただ、叶うならば将来、本当に仲間になれればいいかもしれないと思った。


■  ■  ■

183: 2014/07/24(木) 21:43:11.11 ID:mTNIwpCd0
塞より一連の話を聞いた純は眉を潜めた。

納得できないとその顔にはありありと浮かんでいて、眺めていた塞は苦笑を浮かべる。

ちなみに同じく話を聞いていた誠子も、どちらかといえば純よりの雰囲気を纏っていたと思う。

なるほど、腕に覚えのあるこの二人は確かに官吏には向きにはしないだろう。素直に感情が表情に出てしまう。

純「塞殿の方が身分が上なのに、なぜ簡単に引き下がってきたんですか?」

塞「純、前に言った通り。ここでは敬語はいらないよ、堅苦しいのは肩が凝るしね」

純「………なんで、塞の方が偉いのに。若輩者の意見なんかを聞き入れてきたんだよ」

純「目的も同じなんだろうが?俺には理解できねぇし、むしろそんな生意気奴、轢き頃してやりてぇ」

許しが出た途端、素直に口悪く純が言葉を吐き捨てると、それを聞いていた塞は目を丸くする。

座ったままに書斎机の向こう側に立つ純を見上げながら、その隣にいる誠子に尋ねた。

塞「ねえ、誠子。これが軍の標準語なの?」

純を指しての塞の問い掛けだと理解した誠子はいいえ、と言う。

誠子「違いま……いや、純だけの特色だと。こいつ、小さい頃から何度言われても口の悪さだけはどうにもならなかったから」

誠子「軍でも随分と悪目立ちしてましたよ、ブチ切れると上官にもこの勢いだから、随分と煙たがられてたよな」

純「てめぇ、ばらすなよ!」

誠子「もうばらしてるだろうが。自分で言っていてこれだからな……仕方ない奴だ」

誠子が呆れて言うと、図星だったのだろう純は口元を歪ませて苛立たし気にそっぽを向いた。

そんな彼女らの気安い遣り取りを眺めながら、塞は見飽きない人達だなと素直に思う。

ここ宮中では余り見かけない、裏表の無い性格の彼女らといると確かに気が楽になると思った。

184: 2014/07/24(木) 21:49:07.70 ID:mTNIwpCd0
塞「まぁ、全ては今言った通り。相手側が信頼できないというのも、こんな場所だからね。理解はできる」

塞が再度そう言い放つと、眼前に立つ純と誠子は神妙な顔付きになる。

純「……なら、俺らは御役御免かよ?腕を買ってもらったようなもんだから、役に立てないのなら必要はないだろう?」

純の率直な言葉を聞いて、塞はすぐに首を左右に振って答える。

塞「貴方達を引き入れたのは内宰としての私の采配だよ。予定通り、大僕として働いてもらう」

塞「ただ、暫くはその本来の目的から外れるとは思うけど」

そこまで塞が言い切ると、じっと聞いていた誠子が口を挟んでくる。

誠子「純も言っていたが。あんたの方が階級が上なのに何故その若い官吏にそんな譲歩するんだ?素人考えで恐縮だが…」

誠子「塞の特権で台輔に直接直訴してもいいはず。主上を守りたいというあんたの言葉を、慈悲の麒麟なら無下にしないだろう?」

なかなか的確に聞き返してくる誠子に塞は素直に感心した。同時に、純と誠子との関係性も分かってきたような気がする。

軍において判断力と決断力に優れていたのは純で、その補佐の為物事を冷静に見て進言し時には抑え役になっていたのが誠子なのだろう。

面白いな、と思いながら塞は言葉を返す。

塞「私が、内宰の立場に立って表立って台輔に進言すれば2つの点で不利になるような気がしてね」

「「?」」

塞「まず内宰として直接台輔に進言すれば形式に沿わねばならず、万人の目に留まり周囲にいらぬ疑念を抱かせる事にもなるでしょう」

塞「前に言った通り……内宮は疑心暗鬼に満ちてる。落ち着くまでは、いらぬ波風を立たせたくはないの」

塞「もう一つは……その若い官吏を無視して事を進めようとすれば筋が通らないと、私は思ってる」

純「……筋が、通らない?」

意味がわからない、という感じの純の声を聞き、どう伝えようかと塞は少しだけ言葉を探した。

塞「軍で生きてきた貴方達には想像するのは難しいとは思うけど。ここ宮中では、違った意味で貴方達が見てきた軍内部以上に歪んでる」

塞「謀略や貶め合いが蔓延っていた中で私がこうして無事なのは、今まで内宮に主上がいなかった事と極力派閥が関わる政局から逃げていたから」

塞「せめていつか立つだろう王のために。この内宮を少しでも正す事で精一杯だった。まぁ現状を考えると、それすら達成しているか危ういけど」

純「………」

185: 2014/07/24(木) 21:54:18.95 ID:mTNIwpCd0
塞「歪む宮中にあって唯一、民の側に立ち正論を言い続けていたのが麒麟である台輔だけ」

塞「私が彼女を助けてやれたのは、内宮での多少の自由を通してやる事と、安全に過ごせるぐらいのことだから」

塞「故に、あの台輔を今までずっと支えてきたのは他の誰でも無い。あの頭の切れる若い官吏だという事」

誠子「………」

塞「それに直接話を交してみて、彼女が彼女なりに主上と台輔とを守ろうとしている事がよくわかった」

塞「なら今更、私が上の階級だからと言って無理に我を通そうとすれば…宮中を蝕んでいた今までの愚官と変わらないよ」

塞「事実、主上と台輔の最も近くで助けているのがあの官吏だとすれば、まずは彼女に筋を通してから事を進めるべきだと思う」

そこまで言い終えて、塞は眼前の二人を見比べる。

誠子はある程度理解してくれたのだろう、顔に浮かんでいた険が薄れている。

一方、対照的に純は未だ顔を歪ませたままだ。

誠子「なら、向こうの信頼に足る条件というのは?」

よく分かっている。うん、と頭を上下に揺らしながら塞は言葉を返す。

塞「あの若い官吏に言われた事は、私も憂慮していた事案だったから。内宮は私の管轄でもあるし」

塞「まずはここに溜まる不安を取り払う事からはじめようと思ってる。手を貸してほしいの」

誠子「はい」

塞「実は先日、天官二人が城下にて事件に巻き込まれて氏んだの。不自然で謀殺だろうと思うが理由がはっきりしなくて……」

塞ぐ「その詳細を調べようと思ってる。そうだね……誠子は私と一緒に来てくれる?」

誠子「分かりました」

頷く誠子を見届けてから、塞は腰を降ろしていた椅子から立ち上がる。

186: 2014/07/24(木) 22:00:55.45 ID:mTNIwpCd0
そして書斎机を大きく廻り込み、誠子を見てから、その後ろにいる純へと視線を移す。

彼女は相変わらず顔を歪ませたままにどこか不満そうにしていた。

分かりやすいなあ、と思いながら塞は苦笑を浮かべる。

そのままに、俺は?と鋭い視線を向けて聞いてくる純に言った。

塞「貴方はもう少し、この宮中という場所を良く見て来なさい。但し内宮の奥は駄目。まだ私達は信頼されていないから…」

誠子「いいんですか?こいつ喧嘩っ早いし口汚いからいらぬ誤解をばら撒くかも…」

純「誠子、てめぇ……」

そのまま睨みあいを始めた二人を押し留めながら塞は言う。

塞「純なら大丈夫。確かにふとした瞬間に素が出るようだけどね。十分に自制はできているし、本人もそれをよく分かってる」

塞「要所、要所で我慢もしてきたから軍で卒長を務め上げるまでになったのだと思うし…」

ね?と、気安く塞が問えば純は面食らったように目を見開き、次いでどこか居心地が悪そうに視線を泳がせる。

塞の見方でしかないが。多分純は今まで自分の荒い性格をよく分かっていて、怖がられたり貶されたりする事には慣れ切っているが

こうして認めて褒められる事に慣れていない気がした。だから、こんな些細な意見で見せる反応がどこか可笑しい。

塞「まぁ、そういう事だね。じゃあ誠子は私と一緒に。…純は、私がこれ以上深く言わずとも分かっているでしょう」

そう塞が言ってやると意外にも、純は素直に「分かってます」と頷いた。

その経歴からは想像し難いが、存外素直なのかもしれない。

塞は良い発見をしたなと思いながら、誠子を連れ立って部屋を後にしたのだった。


■  ■  ■


187: 2014/07/24(木) 22:06:16.22 ID:mTNIwpCd0
国一つを想像してみても、随分と大きい。

元を正せば、商家の小さな世界しか知らなかった咲がなんの因果か一つの国を治める事になるのだから…

本当に人生とは何が起こるか分からないものだ。

今日の執務を終えて、付き合ってくれた智美にお疲れ様でしたと声を掛けられる。

咲は柔く笑むと、智美こそ付き合ってくれてありがとうと言葉を返した。

明るい笑顔を浮かべた智美はその表情をすぐに解くと、変わって申し訳なさそうに柳眉を下げて言う。

智美「この後、また書房に篭られるのでしょう?」

問われ、咲は素直に頷く。やはりそうですか、と智美はそのまま言葉を続ける。

智美「本当は私もお手伝いさせて頂こうとしたのですが。火急の用件ができまして、残念ながらお供する事ができません」

咲「智美さん。それは構いません、物が分からぬ私の相手をするよりも、貴方はこの国にできる事をまずは優先して下さい」

咲にしてみれば素直な気持ちだった。まだ短い付き合いではあるが、眼前に立つ歳若い官吏の聡明さを咲なりに理解しているつもりだ。

自分に時間を掛けるよりも、彼女はその優秀な頭をこの国のために生かしたほうがいい。

だけど、迷う事なく告げた咲の言葉を聞いた智美は相変わらず苦笑を浮かべたままだ。

智美「主上は物分りが良すぎる。国の大事もそうですが、そのために皆が貴方を第一に考えているのだとご理解下さい」

智美「時に、ふてぶてしく言い付けるのも必要な事ですよ」

咲「そういうものなんですか…」

咲も苦笑いを浮かべて言い返す。それを聞いた智美はどこか人悪そうに笑むと頷いた。

188: 2014/07/24(木) 22:10:17.34 ID:mTNIwpCd0
智美「ただ主上にもっと我侭を言って頂きたいという事です。謙遜は美徳ですが…その姿勢を素直に受け取ってしまう奴もいるので」

智美「それでいらぬ事を考えすぎて、結局足踏みして近付けないのは奴が悪いのだと…私なんかはわかってんだけどな…」

咲「??智美さん?」

智美「ああ、何でもないです。さて先程の話に戻りますが…この後お一人で書房へ篭るのならば、御身をお止めせざるをえません」

咲「駄目なんですか?」

吃驚して、咲は目を見開く。今まで咲一人で書房に篭る事を止められた事は無かったから。

智美「実は…未遂で終わりましたが先日、主上が一人で書房にいらっしゃった時に許可無く立ち入ろうとした輩がいたようです」

智美「それなりの人数もいたようなので、歓談しに近付こうとした訳ではないでしょう」

咲「……!」

全く気付かなかった。智美に言われて、改めて咲は自身の立場に気付く。

咲「……私が、邪魔だと?」

恐る恐る尋ねると、智美は数秒考える素振りをしてから言う。

智美「そう考えるよりは…主上に自分達の主張を聞き入れてもらいたのでは」

智美「まぁ、どんな主張を奏上したいのかは想像し易い。きっと聞くのも馬鹿らしい内容でしょうがね」

咲「それに……私ならきっと、意見が通り易いとも思われているんですね」

智美の言葉を聞いていて、咲もすぐにその点に気付いた。

智美「主上が立ってから時機が浅いのもあります。王朝の始まりは混乱が付き物ですし」

智美「先見の無い、馬鹿な奴らが凶行に走る事もあるでしょう。ですがそれを素直に受ける訳にはいきません」

お分かり頂けますか?と智美に問われ……咲はコクリと頷いた。

189: 2014/07/24(木) 22:14:49.32 ID:mTNIwpCd0
ただ、…彼女が、ここは怖い所なのだと言っていた言葉を鮮明に思い出している。

本の中に埋もれる事ができないのは残念だと思うが、彼女らが自分の身を第一に考えてくれているのはよくわかっていた。

智美「そんな訳で、御身だけ書房に篭るのは控えて頂けると…お供できればよかったのですが私等も今日は手が離せなくて…」

咲「いえ、智美さんの言っている事はよくわかりました」

大人しく自室に戻ります。そう咲が言葉を続けようとした直前、先手を打つよう智美が言葉を続けた。

智美「ああ、でも。…一人だけ、主上にお供できる人物がいます」

咲「?」

智美の言葉に咲はきょとんとした表情になる。

智美「台輔が、暇そうにしておられるはずですから」

そう智美が言った瞬間、咲は反射的にびくりと仰け反ってしまった。

そんなこの身の動揺を智美とて見ていたはずだがなぜか彼女はニコニコ笑ったままだ。

智美「主上もお分かりの通り。台輔は馬鹿が付くほど真面目な方なので」

智美「どうせ、今日一日の仕事は午前中で綺麗に終わらせてしまっているはずです」

智美「そのまま必要の無い明日の予習までやってそうですから、是非とも主上に付き合ってもらいましょう」

咲「い、いえ…智美さん、これは私の我侭みたいなものなので、そんな事に無理に…菫さんを巻き込むのは…」

ぶわりと嫌な汗が額に浮いてきたのが分かる。事実、咲は非常に焦っていた。

智美が言う通り、あの真面目で実直な菫の性格を咲とて知っている。

そんな彼女を、咲の我侭にも等しい行為に付き合わせるのは不味い気がした。いや、不味い。

きっとあの眉間に寄っている皺を更に深くして、無知な咲に対し呆れ果ててしまうかもしれない。

期待など元々はされていないとは思うが。それでもこれ以上底辺には向かいたくないと咲は思っていた。

だから、ブンブンと首を左右に振って咲は智美にやめましょう、と訴える。

だが智美はニコニコ笑ったまま名案だと言わんばかりに声を上げる。

190: 2014/07/24(木) 22:19:01.41 ID:mTNIwpCd0
智美「適材適所ってやつです。それに主上、先程私は申し上げたでしょう?」

咲「…先ほど?」

智美「主上はもっと我侭を言うべきだと。人の話に耳を傾ける貴方の姿勢は好きですが。それと気遣いから遠慮してしまう事は違います」

智美「貴方はこの国の王なのですから。何より麒麟である台輔は主上の半身だ。他の誰より貴方にとって気遣いなど無用であるはずです」

咲「…………」

言葉も無く黙り込んでしまったのは、智美の言葉が不意に心に響いたからだ。
 
智美「それに本当は台輔の口から言うべきなんですが。あの人本当に不器用過ぎて見てるこっちが苛々してくるから言っちゃうけどな…」

咲「…え?」

智美「圧倒的に言葉が足りないだけです、台輔は。だから主上が不安に思うのは仕方無い」

智美「けど台輔は他の誰よりも、貴方の事を大事に思っていますから」

咲「………」

智美「これだけは、私が保証します」

咲「………そうだったら。…そうだったら、いいですね」

智美の言葉を素直に嬉しいとは思えた。

だけど返す咲の言葉はどこと無く頼りない。智美が信頼に足る人物なのはもはや疑いようも無いけれど、

やはり菫自身から言われた言葉では無いから、素直に飲み込めなかった。

智美「と、そんな訳で。主上はここでもう暫くお待ち下さい。台輔を呼んできます」

智美「なに、彼女の事だから顔には出さずとも貴方の願いであると理解すれば、文字通り飛んで来るかもしれない」

麒麟ですしね、ワハハと笑って踵を返す智美の背に咲は震える声で言う。

咲「そ、そこまでは……」

智美「例えですよ、全否定はしませんが。では、明日またお会いしましょう」

191: 2014/07/24(木) 22:24:26.28 ID:mTNIwpCd0
開いた扉の向こうに立った智美が振り向き様に言う。

続けて言おうとした咲の意見は、その明るい笑顔に絆されたよう掻き消える。

結局、同じような笑みを顔に浮かべると…智美に向かって咲は頷いて見せた。

咲「また、明日。宜しくお願いします」

咲の言葉に、はいと明るい声を残して智美は部屋の扉を静かに閉めて去って行ったのだった。



そうして一人部屋に残された咲は何かを考えるしかない訳で。

席に腰を降ろし、気を紛らわすために書物などを開いてそれに視線を落としてみたりもしたが。

なんというか…意識がどうしても、智美が閉めていった扉に向かっていって仕方無い。ソワソワしている。

だって今度あの扉が開いて姿を現すのは、自分の半身だという事だろう。

智美より色んな話を聞いてしまった今だから、変に期待しているだろうか、自分は。

できれば智美が言っていた事が本当で、やってきた彼女と少しでも多く話ができればいいと思う。

気になる扉をちらちらと見るが、それが開く気配は一向に無い。

気が急いて、咲は席から立ち上がった。そのまま閉まったままの扉へと向かう。

躊躇いもなくそれを押すと、扉を開けて……咲は外に続く廊下を見渡した。

192: 2014/07/24(木) 22:29:40.47 ID:mTNIwpCd0
続く長い廊下には誰かの足音すら聞こえない。…つまりは、半身は未だにここへ向かってもいないのだろう。

そう確信した瞬間、溢れる泉のよう、心中に焦りが噴出した。

なぜそう思ったのか、ただ咲は今からでも遅くはないと思い込んでしまった。

去って行って結構経つのに。智美を呼び止めて、やはり菫を呼ばなくてもいいのだと伝えなければいけないと思った。

そして、今日は大人しく自室へ帰ろう…あそこでも、書物は開けるから。

咲は人気の無い廊下を駆け出す。

静かな空間に、自分が廊下を走る足音だけが響き始めた。



幾つ目かの角を曲がろうとした時だった。

いつまで経っても見えてこない智美の後ろ姿に焦りが募っていた咲だったから、

普通に考えれば、時間が経ちすぎている事に気付いていいはずなのに。

それすら頭から綺麗に抜け落ちていた咲は、ただ智美の後ろ姿を呼び止める事しか頭に無かった。

だから注意もせずに廊下の角を曲がろうとした瞬間。

向こうより、咲と同じようにやってきた人影に気付いていなかった。

しかも咲は急いでいた事もあり、躊躇いもなく反対側からやってきた人物へと勢いをつけてぶつかって行ってしまった。

驚いて小さな呻き一つ上げ、咲は背後へと転がる。

193: 2014/07/24(木) 22:33:41.72 ID:mTNIwpCd0
微かに赤くなった鼻の付近を覆い、廻った視界の焦点を合わせようとする。

ぶつかって倒れこんだ自分とは対照的に、眼前で揺らぎもせずに佇む人影を咲は見上げた。
 
咲「………」

純「………」

転んだ自分を見下ろしながら、大きく眼を見開いたままに女性が佇んでいる。

その長身な体躯に動き易そうな軽装を纏い、腰に官吏には不要な鞘を下げ重そうな剣が差さっている。

物騒なそれを見て……まず咲の脳裏に過ぎったのは先程、智美が言っていた言葉だ。

智美『先見の無い、馬鹿な奴らが凶行に走る事もあるでしょう』

ヒヤリと肝が冷えて、今更ながら単独で行動していた自分の浅はかさに咲は気付く。

あんなにも咲の身辺に気を配ってくれていた仲間の言葉を忘れ勝手に安全な場所から抜け出し、咲はこんな所で正気に返っている。

コクリと唾の飲み込んで…眼前にて剣を携え咲を見下ろしている女性の出方を注視する。

今に、その剣を抜いてこの身を脅すのだろうか。

戦々恐々とする咲に近付いてくると、眼前の見知らぬ女性は咲に向かって手を差し出した。

純「すまねぇ。立てるか?」

とりあえず相手に敵意がないことが分かって、咲はほっと息をついた。

咲「こちらこそ、勢いよくぶつかってしまってすみません」

咲「急いでいたから注意散漫でした。どこか怪我はしていませんか?」

そう咲が尋ねると、女性は一拍置いた後に手を振って否定する。

純「……いや、別にねぇ。俺はぶつかった時の衝撃も強くなかったし…こっちこそ注意力散漫ですまねえな」

ここ宮中では余り耳にする事のない、どこかぶっきらぼうな言葉を懐かしく思い咲は自然に頷く。

194: 2014/07/24(木) 22:39:56.51 ID:mTNIwpCd0
それに咲と同じように相手もこちらを気遣う気配を確かに感じたから、当初に持っていた警戒心はその時点で霧散してしまった。

咲「お互い様ですね」

純「お互い様、か」

互いに苦笑を浮かべ、そう結論付けて頃に。眼前の女性は名前を名乗った。

純「純だ。最近、宮中の警護に入ったばかりでまだここに慣れてねぇから…少し迷ってる」

咲「そうなんですか」

相槌を打ちながら、咲も名前だけを名乗った。

そのまま彼女が先程言っていた事実をもう一度確認する。

咲「純さんは、迷っているんですよね?」

純「ん、ああ。…広いな。このままいけば外にいけるか?」

尋ねられて咲は、首を左右に振って答える。

咲「いえ、反対方向だと。ここから先は内宮で、進めば路寝へと続いています」

純「! マジかよ。……内殿の奥か。バレる前に戻らねぇと」

頭をガシガシ掻いて、心底困り果てた表情を浮かべた純を見上げ咲は苦笑する。

なんというか、今まで宮中にあって見てきた本心をひた隠そうとする官吏の姿とは違い、

抱いた感情が素直に表情に出る人だなと思う。

だから、心底困った気配を感じ取った咲は純に向かい言った。

咲「外宮に近い内殿までなら案内できると思います」

純「……いいのか?」

咲「私もそこにいる官吏に用事があるので…途中まででよかったら」

「頼む」と実直に請われた咲は頷く。

「では、こちらに」と、純を先導するために再び続く廊下を歩き出した。

195: 2014/07/24(木) 22:41:41.68 ID:mTNIwpCd0
今回はここまでです。
次はまた金曜日に投下予定です。

197: 2014/07/24(木) 22:45:43.62 ID:K8QrN+s10

ほんといつも面白い。
来週も楽しみにしてる。出張頑張って

198: 2014/07/24(木) 23:28:59.43 ID:8wh500PSO

引用: 菫「見つけた。貴方が私の王だ」咲「えっ」