202:◆CU9nDGdStM 2014/08/01(金) 00:50:35.12 ID:/NWhJ0i10



【咲-Saki-】菫「見つけた。貴方が私の王だ」咲「えっ」【前編】



咲「純さんは、元は軍にいたんですか?」

純「ああ、首都州師の常備軍に。俺がなんで辞める事になったのかは面白い話でもねぇし、今の軍に未練もねぇから省くが」

純「ただ俺は平民出身で、この肩書きがある限りいくら頑張っても無駄足でしかないと分かった」

咲「………軍も、内部の腐敗は濃いという事なんですね」

純「平たくいえばそうだな。…けど、これから変わっていくかもしれねぇとか少しは期待してる」

咲「?どうして」

純「そりゃ。この国にも麒麟が選定した王が立っただろうが」

咲「!!」

純「すでに底みたいな世界だからな。天意を受けた王が立って、この国が少しでも変わると期待してもバチは当らねぇ」

なぁ?と、賛同を求められても咲はすぐにそうだと頷く事はできなかった。

俯きながら搾り出すように声を吐き出した。

咲「……王に、余り期待しない方がいいかもしれません」

純「咲?」

咲「なぜならこの国で生きてきた癖に、この国の事を何も知らないから。…自分ひとりを囲む狭い世界で手一杯だったから」

咲「民の苦労も、純さんのように軍の現状を憂う余裕もなかった」

純「………」

咲の言葉を聞いて何を思ったのだろうか、純は押し黙った。

そのまま二人分の足音だけが広い廊下に響いて消えていく。


目的の場所まで辿りついた咲が 「ここです」と純を案内し終えると、彼女は「助かった」と素直に礼を述べる。

ぐるりと周囲を見渡して……ここなら分かる、と続けて言った純に咲は安堵して微笑を浮かべた。
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203: 2014/08/01(金) 00:54:08.36 ID:/NWhJ0i10
咲「では、私は用事がありますのでここで」

そう咲が告げると純は分かったと頷く。

だが咲が再び歩き出そうとする前に、彼女は淡々とした口調で言った。

純「お前が言っていた通り。軍の腐敗は濃いが、多分それはここ宮中でも同じだなと思った」

純「あの人は、それを俺に知って欲しくて宮中を見ろと言ったんだと思うし」

咲「………純さん?」

訝しく聞き返す咲だったけれど、そんな自分を知ってか知らずか純はただ言葉を続ける。

純「それとな。さっき初めて会ったばかりの咲に俺の気持ちを愚痴れたのは…多分、無意識であれお前が俺に近いと感じたから」

咲「………」

純「このままである事に、納得はしてねぇだろ」

王となった以上、この国をどうにか良くしたいとは思う。そのために咲はできる限りの事を努力しようとしていた。

そうだ、と。純の言葉を聞いて咲は思い出している。

咲「私は今、様々な事を学ばなければいけません。ここに来て日が浅いのは私も同じで。だけど貴方より私の方が、余程物を知らない」

咲「だから…純さんがよければ後日、軍の事情をもっと詳しく教えて頂けませんか?」

純「夏官なのか、咲は?」

ここにいる以上、どこかの官吏だとは思っていたが。そう尋ねてくる純の問いに苦笑を浮かべて咲は「そんなものです」と頷く。

205: 2014/08/01(金) 00:58:13.59 ID:/NWhJ0i10
そんな咲を眺めていた純が、熟考するよう黙ったのは数秒の事だろう。

見定めされているかなとは思うが。咲にしてみれば純から生の軍の様子を聞きたいと思ったのは本心だ。そこに裏心など無い。

じっと純に見られていた自分を彼女なりにどうにか判断したようだ。浅く息を吐くと、純は頷いた。

純「…じゃあ、咲も宮中の事を俺に教えろ。それでお互い様、だろ?」

純の言葉に咲は概視感を覚えて笑う。

咲「ふふ、お互い様ですね」

確かに、と。咲も了承の意を込め頷いてみせたのだった。

純「じゃあ。明後日、この時間にここで待ち合わせ。どうだ?」

咲「分かりました」

この時間帯ならば、執務も終わっているはずだ。

必ず来ます、そう咲が言葉を返すと純はどこか楽しそうにして頷く。

じゃあまたな。と軽く言い去っていくその背に咲も同じよう、再会の約束を投げ掛けたのだった。


■  ■  ■



206: 2014/08/01(金) 01:02:00.28 ID:/NWhJ0i10
その後、内殿の一室に智美の姿を見つけた咲が呼びかけると殊更驚かれた。

なぜこんな所に一人でいるのかと智美らしく無く責めるように問われ、当初の心境を思い出して咲は答える。

時間が経っても菫が来なかったので心配になって来てしまったと。

それを聞いた智美は納得し難い表情を浮かべていたが……結局は大仰に溜息を吐いてそうでしたか、と頷いた。

何も用事が無いと思っていた菫が自室より抜けていて、探すまでに時間が掛かってしまったのだと智美は言う。

それを聞いていた咲は、密かに胸の内でほっと安堵していた。

自分に呆れてあの半身がやってくるのが遅れた訳では無かったから。

今ならば、菫は向かっているはずだと。だから一緒に部屋まで行きましょう、と智美が言う。

手が離せない仕事があると言っていた彼女を再び拘束してしまうのは気が引けたので、

一人で戻ります、という咲の言葉に今度こそ、智美は妥協をしなかった。

これだけは譲れないという言葉に根負けした咲は智美に連れられて、元いた部屋に戻る。


室内の窓辺に見覚えのある長身が佇んでいた。

一歩部屋に足を踏み入れると、菫が今までにない眼光を滾らせ咲と智美とを睨み付けてくる。

隠しもしない、その剣呑な雰囲気。

咲「………」

乾いてしまった喉を無理に潤すために、咲はゴクリと唾を飲み込んだ。

207: 2014/08/01(金) 01:05:13.48 ID:/NWhJ0i10
背後に控えていた智美が気楽な声で、じゃあ私は仕事に戻りますから、と。

この室内に漂う冷たい空気を無視して、無常にもさっさと去って行ってしまった。

結局残された咲は不機嫌な菫を目の前にして、続く言葉を全て忘れてしまいそうになっていた。

何か言わなければ。そう悶々と悩んでいると、俯き加減になっていた咲の視界が突如翳る。

怪訝に思い少しだけ顔を上げたら、いつの間にか窓辺に立っていた菫が至近距離まで近付いてきていた。

じっと自分を見下ろすその瞳に、何か探られているような気がして少しの居心地の悪さを感じた。

だから、それを紛らわすためにも掛け無しの勇気を持って咲は「あの」と声を掛けた。

咲「菫さん、その……」

たどたどしい咲の言葉を補うよう、菫は双眸を細めるとすぐに言葉を返してくる。

菫「ああ。貴方は私に、何か言う事があるのではないか?」

一瞬、言葉に詰まった咲だったけれど。

彼女が今この部屋にいる理由を思い出し、慌てて声を上げる。

咲「……ええ。あの、都合がよければ、これから書房で私の勉強を手伝ってくれないかと……」

菫「…………」

咲の言葉をを聞いた菫は、すぐに「いいだろう」と頷く。

了承の仕草、当たり前だといわんばかりの半身の態度に、竦みそうになっていた咲の心は温かく緩んだ。

よかった、と。そう咲が安堵の息をは吐こうとした直前、頭上より相変わらず淡々とした菫の声が振ってきた。

208: 2014/08/01(金) 01:08:46.26 ID:/NWhJ0i10
菫「その他に…」

咲「……?」

続く言葉を不思議に思った咲に、更に言葉は振ってくる。

菫「その他にまだ……貴方は私に何か言う事があるのでは?」

咲「他に、ですか?」

意味深な菫の言葉。だがそれが咲の何を知りたくて、自分へと尋ねているのか検討が付かない。

そして菫に言われて心中に生まれた困惑は、すぐに咲の表情に直結したのだと思う。

続く言葉も無くそんな咲を見下ろしていた菫は暫くの後、徐に双眸を閉じると諦めたよう浅く首を左右に振った。

菫「いや、いい。………私には言いたくないのだろう……」

咲「…え?」

菫の最後の言葉は、咲に伝えるというよりは自身だけに言い聞かせるような小声であったから、上手く咲には聞き取れなかった。

咲は訝しく声を上げるが、眼前に立つ彼女はこの会話を終えるよう踵を返した瞬間だった。

菫「行くぞ」

その場に佇む咲に移動を促す言葉。

不機嫌な様子は変わらないが、それでも先程彼女が言ってくれた通り、咲に付き合ってくれるという事なのだろう。

よかった、そう思って慌ててその長身の後に咲は続こうとする。

部屋の出入り口まで辿り着いていた菫が、追いかけてくる咲を見返してきて言った。

菫「これだけは言っておく」

咲「?」

菫「貴方は自分の立場をもっとよく考えるべきだ。何かがあってからでは、全て遅い」

咲「………」

209: 2014/08/01(金) 01:11:51.26 ID:/NWhJ0i10
足を止め、辿り着いた先の長身の見上げながら咲は思う。

どこか苦しそうに顔を歪めているその姿を菫自身は気付いているのだろうか。

ああ、もしかして……自惚れかもしれないけれど。

自分が彼女にそんな感情を抱かせているのだとしたら、素直に申し訳なく思う。

だから考えるよりも先に本能で。咲は菫に向かって深く頷いていた。

それを見届けた菫の表情が、多少は緩んでくれた気がする。

と、同時に。背後よりこの場には不自然な、水面に水が跳ねる音がした。

不思議に思って咲は自然な動作で振り向こうとする。

だがその前に菫の先を促す声に急かされ、結局背後より聞こえた音に対する疑問は掻き消えてしまった。

菫は僅かに前を歩く咲の背を見て、ふと今までいた室内へと視線を巡らせる。

自分達が出た事で無人になったそこには、いつの間にか六ツ目の獣がこちらに頭を垂れて鎮座していた。

その自分の使令の姿を一瞥し、小声で菫は命じる。

菫「相手の正体が分からんのが気になるが。凶行の影が見えたのなら構わん、排除しろ」

『御意』

更に深く頭を垂れたままに、その獣の姿が硬い床にできた水面の底に沈んでいく。

それを見届ける前に。先を行く咲の後を追いかけるため、菫もその場より歩き出したのだった。


■  ■  ■



210: 2014/08/01(金) 01:16:05.16 ID:/NWhJ0i10
王として拙いながらも一日の執務を智美に手伝ってもらい、それらを終えてから自室に戻る日々。

殆どはそれから自室にて書房より運び入れた書物を広げ読み耽っていたが。

たまに、こっそり抜け出す時間ができた。

純に出会えた事は本当に幸運だったと思う。

宮中にいる官吏達とはまた違った視点での情報を、彼女は咲に与えてくれる。

だから、その日も執務を終え自室に戻ってから抜け出した時の話だ。

3度目ぐらいだったか、初め出会った頃に比べたらお互いに対して気安さを覚え始めた頃だった。


咲「常備軍?」

咲が疑問を口にすると、横に座る純は頷いて言葉を続ける。

純「ああ、首都や各州に駐屯する軍の事だな。例えばここ首都には禁軍左右中3軍と首都州師左右中3軍が常備している」

純「これらは王が直接指揮できる六師だ。軍の規模も一番大きい。また、各州にはそれぞれの余州師の軍がいる」

咲「それも王が動かすんですか?」

その問いに対して純は首を軽く左右に振る。

咲が持ってきた揚げ菓子の最後を頬張り、咀嚼し終えると続きをゆっくり話す。

純「いいや、各州師はその州を治める州候が指揮する。んで、実際にできるかどうかは知らねぇが…」

純「国内の全ての州に在る州師軍を集めれば、王師に対抗できる数にはなると言われているな」

純の話を興味深く聞いた咲は無意識に頷く。

211: 2014/08/01(金) 01:21:47.81 ID:/NWhJ0i10
つまり…天の采配というべきか、王が絶対的な軍事力を握る訳ではなく

もしものために、民の側にも王に抵抗する術を与えているという事。

確かに愚王の存在はいずれ天が許さぬだろうが…今までに読んだ歴史書にも書かれていたよう、

すぐに王が退位する事にはなるまい。その過程で数多の民の血が流されるのだとしたら、

もしものために王に対抗する術を民自身に与えたのも天という訳だ。

客観的に見て面白いと思う。そこで咲はふと、考える。

王ではなくて、一介の歴史学者にでもなれれば自分の性に随分と合っていただろうに。

周囲の声など気にせず 、一日中本に埋もれて過去を考察する。

考えるだけでも、心が躍るような気がした。

純「おい、咲」

呼ばれ、現実に呼び戻される。

声を辿って横を向くと、反応が薄い自分を訝し気に見下ろしている純の姿が見えた。

その顔を見上げ、咲は「すみません」と苦笑を浮かべる。

こうして付き合ってもらっている彼女に失礼な事をしたな、と返す言葉を脳内で探す。

確か、彼女より基本的な軍の話を聞いていた。

それを思い出したと同時に胸中に沸いてきた疑問を咲は伝える。

咲「えっと…じゃあ。純さんは元々、首都州師の軍にいたんですよね?」

純「ああ。上官職になろうと思わなければ学が無くとも腕さえあればやっていけたからな。一応これでも卒長まで勤めてたんだぜ?」

そこまで話を聞き、咲はきょとんとした表情になる。

212: 2014/08/01(金) 01:26:11.02 ID:/NWhJ0i10
だって、最近読んだ書籍の中に浅くではあるが軍組織の内容が説明されたものがあったから。

咲「卒長といえば軍の中でも多くの部下を従える立場だと読みましたが。どうして軍を辞めてしまったんですか?」

咲「素人考えで恐縮ですが…それなりの立場だったのなら色々と惜しい気がします」

すると、見つめる先の純の表情が徐々に渋い顔へと変わっていく。

暫く顔を歪めたまま無言を貫き通していた彼女は、ふと片腕を上げるとガシガシ頭を掻いてから観念したように答えた。

純「我慢できなくなったって事だな。まぁ、元々生きていく選択肢として軍属を選んだんだ」

純「事実、荒い仕事は性に合ってたけどよ。いかんせん木偶な上官との折り合いがつかなくて…」

咲「………?」

そこで彼女がどうして軍を辞めたのかを簡単に説明を受けた。

上司からの理不尽な命令や、卒長としての部下や仲間に対する葛藤。

それでも命令に従うか、それとも背くかを悩んだ挙句……結局は、仲間と軍を離れる事を選んだという彼女の話。

だが、その話を聞きながら咲は愕然としている。

咲「そんなの、純さんが悪い訳じゃないのに」

思わず心に溜まった気持ちを口より吐き出す。それでも咲の胸中に芽生えた怒りが薄くなった訳ではない。

筋が通ってないのは純のかつての上官の方だ。

証拠も何も無かったという、純が庇った相手の犯した罪も定かではない。

けれど軍属であれば筋の通ってない話でも上官より命じられれば従う他ないという事。

理不尽だ、ならば一体誰が、どこで間違いを正すのだろう?

213: 2014/08/01(金) 01:30:07.99 ID:/NWhJ0i10
何気なく話をしていた純にしてみれば、咲のそんな反応は予想外だったのかもしれない。

彼女は興味深そうに咲を見返している。そしてそれはすぐに苦笑へと変わっていた。

純「深く言い過ぎたな。咲が悩む事じゃねぇよ。もう終わった事だしな」

純「それに俺自身も我慢の限界だったから丁度よかったんだ。……でもよ」

途中で言葉を途切った純は徐に腕を伸ばすと、くしゃりと隣に座る咲の髪の毛を掻き混ぜる。

仕草は柔らかいもので、視界を揺らしながら咲は大人しく衝撃を享受していた。

純「いい奴だな、咲は」

咲「え?」

純「いや、まぁ…怒ってくれてありがとう。ってのも、可笑しいか…だけど意外だな」

純「こんな所にいる役人なんて、もっと自分勝手で矜持の高い奴らばかりだと思ってた」

咲「……それは、喜んでもいいんでしょうか」

純「俺にしてみれば安堵してるんだぜ?今まで見てきた官吏は相手をよく見もせず上から目線で物をいう奴が多かったし…あ、すまねぇ」

言葉の途中に入る謝罪の声。多分彼女なりに言い過ぎたと感じたのだろう。

咲へと伸ばしていた腕を戻しながらバツが悪そうに片眉を曲げている。

だけど純の言った事は事実だ。だから咲は首を左右に振る。

咲「いいえ、純さんは間違ってないと思います。実際苦しむ民よりも、私利私欲のため動いている官吏がいないとは言い切れない」

咲「ほんと……何もできなくて、ごめんなさい」

純「ん?咲が謝る事じゃねぇよ。それにそんな中でもお前みたいに真面目な官吏もいるんだからな。安心した」

214: 2014/08/01(金) 01:33:44.19 ID:/NWhJ0i10
純「新王も立ったしこの国も変わっていくだろうさ。…なぁ、主上ってどんな感じの人なんだよ?」

咲「え?」

突如、純に問われた内容に咲は口籠る。

改めて隣に座る純を見上げると、その瞳には明らかに期待の色が浮かんでいた。無意識に咲の額に汗が滲む。

純「咲ならここの官吏として朝廷に出てるだろうし見たことあるよな。やっぱ威厳とかすげぇんだろ?」

咲「い、威厳…?」

思わず返す咲の言葉が震える。

全く持って自分に備わってないだろう資質を問われ素直に落ち込みそうになったが、

向けられる期待の眼差しに何かしらの返答をしなければなるまい。

しかし、今この場で純に本当の事を話すのは躊躇われた。

新王に期待を寄せる彼女の気持ちを壊したくなかった。

咲「実は私もここには上がったばかりで。ま、まだ見習いの身なんです。だから朝廷に出廷できるのなんて先の話で……」

声が揺れているのは心の不安が滲み出ているからだ。だけどそれは違う意味で純を納得させたようだった。

咲の言葉を疑いもせずに純は「なんだ」と表情を緩める。

純「お前も新参者なのか、なら俺と一緒じゃねぇか」

咲「…はい」

純「なら色々知らねぇのも仕方ねぇよな。まぁ可笑しいと思ったんだよ、初めてぶつかった時もすぐに謝ってくるし」

純「ここの官吏みたいに垢抜けてねぇ奴だなぁって」

鋭い指摘に咲は笑みを浮かべながらも内心ヒヤリとしている。

215: 2014/08/01(金) 01:37:15.06 ID:/NWhJ0i10
纏うものが良くなっても自分の中身はまだそのままなのか、純の注意力が人一倍優れているのか。

どちらにせよ、この話をこれ以上続けていればいらぬ事を言ってしまいそうだったし

時間も時間だったのでその旨を咲は純に伝えた。

純は疑いもせずに気安く頷くと、じゃあまたなと笑った。

後日、また会う約束を交わして彼女とはそこで別れたのだった。



人気のない通路を歩きながら咲は先ほど純に教えてもらった話の内容を思い出している。

彼女がかつて在籍していたという軍の内情。

出世するのも金次第で、私利私欲のために理不尽な命令をも強要される。

王とか平民とか関係なく素直に怖いと感じた。

なぜなら状況は変われど咲自身にも理不尽な境遇には身に覚えがあるからだ。

今の純の話も、即位してから見てきた宮中も……そして、かつて自分が下働きとして働いていた商家も。

結局全て同じではないか。理不尽に、筋が通らないと分かっていながら物事が進んでいってしまう。

肌が粟立ったと同時に、再び自分の途方もない立場に気付き後れしそうになる。

正せるだろうか、今でさえ周りからは何もできないだろうと見縊られているのに。

自分に、今までこの国を蝕んできた歪みを正していく事が果たしてできるだろうか。

224: 2014/08/08(金) 00:06:25.62 ID:AgaGssca0
咲は深く考え込んでいた。だから注意力は散漫になっていたのだろう。

それでも続く通路を黙々と歩いていて、先の角を曲がった瞬間。

突如として飛び出してくる人影が視界を掠めた。反射的に足を止めて咲はビクリと体躯を揺らす。

眼前に飛び出してきた姿を認識する前に、ぶつからないために背後に下がろうとする。

が、その前に眼前の姿は背後に下がろうとする咲の足元に飛び付き、平伏した。

そのまま腕が伸びてきて下がろうとする咲を逃がさぬように服の裾を掴まれた。

咲「!?」

平伏しているせいで顔は見えないが、官吏特有の格好をした中年ぐらいの男性に見えた。

咲には見覚えはなかったが、きっと朝廷に集まる多くの官吏の中の一人なのではと思う。

男「どうか、奏上する事をお許し下さい」

咲「あの…」

返す言葉が詰まる。

迷いも無く咲へと飛びついてきた姿から想像するよう、この官吏はやはりここを通る咲を待ち伏せしていたのだろうか。

とりあえず手を差し出しながら咲は上体を屈め、まずは顔を上げてくれと声を掛けようとした。

だがその前に、足元に平伏する姿の声は続く。

男「ご察しの通り。御前を無作法に穢す行為は許されない事です」

男「ですが、どうしても主上に奏上したい旨がありまして…恥を偲んでお待ち申し上げておりました」

225: 2014/08/08(金) 00:10:20.99 ID:AgaGssca0
咲「私に、わざわざですか?」

顔を伏せていてもその声や雰囲気で官吏の必氏さが伝わってくるようで、思わず咲も続く彼の言葉に耳を傾ける。

男「私は夏官を務めておりますが、主上にお耳に入れたい事がございます」

男「保身のためかと思われるかもしれませんが、そうではなくて、これは…」

声に必氏さが増す。彼の話を聞きながら、夏官の役割を咲は思い出している。

確か国府の中で軍や警備、土木事業を担う官吏だ。

その官吏の中の一人がわざわざこんな宮中の奥まった場所で待ち伏せしてまで咲に話したい事とは一体何なのだろうか。

途切れた官吏の言葉の先を咲は待つ。彼は意を決したように伏せていた頭を上げようとする。

酷くやつれた顔が見えた。が、そのままに官吏の顔が不自然に上下に揺れた。「がっ、」と掠れた声がする。

一瞬の事で、咲は何が起きたのか理解できなかった。

いつの間にか、眼前の官吏は咲の服の裾を掴んだまま床に倒れ込んでいた。

やつれた顔は再び伏せられ、倒れ込む背はピクリとも動かない。

咲が呆然とその姿を見つめていると、更に長い柄の棒が何本か伸びてきて倒れ込む姿を抑えつける。

官吏「ご無事ですか、主上」

気が付くと何人かの守衛にこの場は囲まれていて、その中央を割ってまた咲には見知らぬ官吏が出てきた。

気のせいでなければ、床に倒れ込む姿と似たような色の服装だったと思う。

ただ、状況が目の前でどんどん変わっていく咲は状況が正確に把握できていなかった。

突然意見を述べようと飛び出してきた官吏にも驚いていたが、その話を聞く前に突如として床に打ち倒されてしまったのだ。

言葉を失った咲を前に、目の前の恰幅の良い官吏は守衛達に迷いなく指示を送る。

226: 2014/08/08(金) 00:14:18.06 ID:AgaGssca0
その光景を呆然と眺めていた咲が「あ」と声を上げたのは守衛に打ち倒された官吏がそのままに引き摺られていこうとしたからだ。

彼は結局、何を咲に意見したかったのだろうか。

それが気になったから思わず体躯が前屈みになるが…その動作を制するように、目の前の官吏が咲に向かって言った。

官吏「御前をお騒がせしました、主上。お怪我はございませんか?」

咲「え?はい、私は何も。ただあの人は大丈夫なんでしょうか?気を失っているようですが」

その問いに、官吏は殊更丁寧に言葉を返してくる。

官吏「主上が気に留める価値もない輩です。…間にあってよろしかった」

咲「?間に合って、とは」

咲が再び言葉を返した先で、官吏は改めて咲に拝礼すると身分を名乗る。

官吏「王の身辺警護を纏めております射人でございます 。実は主上が即位してから宮中にはよからぬ噂が蔓延っていまして」

官吏「主上に無理に取り入ろうとする、などと。……先ほどの輩も、その一味でございましょう」

咲「………」

官吏「主上を守るべき同じ夏官よりそのような輩が出た事、恥じればこそ返す言葉もございません。ですが詮議の程は責任を持って執り行います」

恰幅の良い体躯が眼前で感極まったように震える。その迫力と切々とした声に咲は反射的に頷いた。

事実、咲には彼の意見に反論する要素が何も無かった。

守衛を引き連れた目の前の射人の役目として、それは慣例に従っているのだろうと思ったし。

すると、拝礼より顔を上げた射人は先ほどとは撃って変わって人の良さそうな笑みを浮かべる。額が滲む汗で光っていた。

官吏「お許し頂けて感謝の言葉もございません。…ただこうして直にお側に馳せる事ができたのは不幸中の幸いと申し上げましょう」

そこまで射人が言って、咲もふと疑問が沸いた。

227: 2014/08/08(金) 00:19:04.47 ID:AgaGssca0
確かにその立場は王の身辺警護が役目ではあるが…目の前の官吏の姿を咲は見た記憶が無い。

頭を傾げると、そんな自分の疑問を悟ったのだろう、射人は言葉を返してくる。

官吏「直にお目にかかるのは初めててございます。私は確かに王の警護を任されておりますが…」

官吏「主上は即語から今まで朝議以外は内宮に籠られておられました。射人と言えと、内宮の守備はまた勝手が違います」

官吏「大僕がその役目かと存じますが、その前に台輔がきっと主上の事を考え何かと気をお配りになっていらっしゃったのでしょう」

咲は目を見開く。射人の言葉を聞き、確かに自分は即位よりこの方内宮より外に出た記憶が無い事を思い出している。

そういえば数日前に智美とて言っていたではないか。自分では気づかなかったが、無謀にも踏み込もうとした輩がいたと。

王朝の初期は混乱が付き物で…先見の無い、馬鹿な奴らが凶行に走る事もあるでしょう、と。

今にして思えば周囲で支えていてくれた官吏達は、あの半身である麒麟も含め自分よりも遥かに高い危機感を抱いていたに違いない。

ならば今、飛び付き、進言しようとした官吏もその一人だった?

ヒヤリとしたものが背筋を走る。気をつけろと言われていたのに無謀だったのは自分の方だ。

ほっと息を吐いて、改めて眼前の射人を見返すと咲は礼を言った。

咲「そうだったんですか。あの、助けてくれてありがとうございました」

官吏「臣下として当然の事でございます。ささ、内殿までご案内致しましょう。どうぞこれよりは私の事もお見知りおき下さい」

再び上げた顔には、人の良さそうな笑顔が浮かんでいた。

釣られるように咲も微笑むと、もちろんです、と射人に言葉を返したのだった。


■  ■  ■


228: 2014/08/08(金) 00:22:47.29 ID:AgaGssca0
その日の夜に自室の片隅で燭台を灯し書物を読んでいると、控えめに扉が数回叩かれた。

次いで「よろしいか?」と半身の麒麟の声が聞こえてきたので咲は驚いて顔を上げる。

毎朝義務のよう咲の元へ顔を出してくる菫だが、こうして夜も遅くに突如としてやってくる事は今まで一度もなかった。

咲は驚きより立ち直ると「どうぞ」と入室を促した。

机の上に広げていた書物を綴じて、椅子より立ち上がるのと自室の扉が開くのとは同時だったと思う。

振り向くと、開いた扉の隙間より菫がその身を滑らせて入ってくる所だった。

そして、改めてこちらへと向き直った半身は待っていた自分と視線とが合うと軽く会釈をしてきた。

反応する代わりに咲はぎこちなく笑う。


情けない話だが未だに、半身であるはずの彼女との距離を掴めていない。

智美のような第三者がいてくれれば多分、普通に話せているとは思うのだけれど。

こうして一対一になると……緊張が表に出てきてしまい咲にしてみれば上手く話す事ができているか不安だった。

菫「………」

しかし、折角やってきてくれた彼女に対して自信がないからと無言を貫く訳にもいくまい。

意を決して咲は声を掛ける。

咲「こんな時間にどうしたんですか?」

すると扉の前に立つ菫は、すぐに何かを言おうとして唇を開いた。が、またそれを閉じてしまう。

咲「?」

どこか言いにくそうな雰囲気。

迷いの無い言動が常の菫にしては珍しいな、と思い咲は首を傾げる。

でも多分こんな時間にわざわざやってくるのだから、なにか大切な話なのではないだろうか。

229: 2014/08/08(金) 00:26:42.26 ID:AgaGssca0
長くなるといけないし、まずは席を勧めようと咲は続けて菫に声を掛けた。

咲「菫さん、まずは席に…」

菫「今日」

言葉の先を遮るよう聞こえてきた菫の固い声に、咲の言葉は不自然に途切れてしまった。

菫「執務を終えてからどこに行っていた?」

指摘され、咲はドキリとする。

咲「………」

そのまま思案したのは数秒。素直に事実を言えばよかったのだが、なぜか咲は言えなかった。

多分彼女にこうして真正面から問われ、今更ながらに自分の今までの行動が軽薄だったのではないかと気付いたからだ。

内緒で行動していた後ろめたさもあったし、その過程で会った純や射人にいらぬ迷惑を掛けたくもなかった。

彼女らはいい人だし、何より素直に答えてこれ以上目の前に立つ菫より呆れられるのを恐れた。

すぐに答えない咲をどう思ったのか、彼女は固い声のままに言葉を続ける。

菫「様子を見にいったら留守だった」

菫が訝し気に思っているのがその声からも伝わってくる。何か答えねば。

咲「書房に」

咄嗟に咲はそう言葉を返していた。すると今度は菫が押し黙る。

咲の言葉の先を、真摯に待つ彼女の気配に後押しされる。

咲「書房に書物を取りに行っていて……暫くしてすぐには戻ったんですが。いき違いになったのかもしれませんね」

菫「………」

230: 2014/08/08(金) 00:30:39.53 ID:AgaGssca0
咲「それからはここにいたんですが、すみません」

瞼を伏せて詫びる。

視界が下がったから菫の様子は伺えなかったが、暫く経った後に微かに溜息を落とす彼女の気配を感じた。

やはり呆れてしまったのだろうかと心が小さく痛んだ。

菫「智美からも言われていただろう。今はまだ宮中も不安定なんだ、軽はずみな行動は控えるように、と」

もう一度顔を伏せたままに咲は「すみません」と呟く。

そして、思わず喉元まで競り上がってきた言葉を、続けて吐き出しそうになった。

いつも必要以上に硬い空気を纏って硬い言葉を吐き出すしかない半身に、本当はずっと尋ねたかった。

本当に、自分でよかったのかと。本当は後悔しているんじゃないのかと。

こんな…何も知らぬ、できぬ王で。

だからこうして言葉を交わす程に、失望感を抱いているのではないのかと。

言葉も無く、溜息を落とすのはそのせいなんでしょう?そう聞きたい。

けれど俯いたままに咲は唇を浅く噛み締める。吐き出そうとした言葉を寸全で飲み込んだ。

だから、きっと目の前の菫から見れば咲は謝ってからずっと黙っていたようなものなので。

必然的に、この沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。

相変わらず硬い声のまま「分かっているのなら、いい」とだけ短く言う。

咲は伏せていた顔を恐る恐る上げる。

目の前には、閉めた扉の前から少しも動いてない菫の姿がある。

相変わらず眉間には皺がより険しい表情を浮かべていた。ただ紫の瞳がじっと咲を見下ろしていて、

顔を上げた咲の視線とが自然に合うと、彼女はそれを待っていたかのように咲を呼んだ。

231: 2014/08/08(金) 00:34:29.14 ID:AgaGssca0
菫「主上」

未だに自分がそう呼ばれる立場に慣れない。

他人よりも、彼女からは特別にそう思う。だから呼びかけに対して反応は鈍かった。

それでもたっぷりの時間を掛けて「はい」と咲は返事をする。

菫「私に何か伝えねばならぬ事があるのではないか?」

その言葉に既視感を覚えた。……前にも言われたような気がする。

ただそれを思い出す前に、彼女の言葉の硬さが消えているのを不思議に思った。

どこか見透かされるようじっと見つめられているのに多少の居心地の悪さを感じる。

きっと今、嘘をついたばかりだからだ。

動揺を悟られないよう咲はゆるりと首を左右に振る。

だって今更言えるはずもない。彼女にこれ以上失望されたくはないから。

心の中でごめんなさいと言って。現実では「何も、ないです」と。

そう静かに言葉を返していた。

目の前の菫は「そうか」と言い、何かを考えるように顔を伏せてしまったのだった。


■  ■  ■


232: 2014/08/08(金) 00:37:54.64 ID:AgaGssca0
智美「で。それで大人しく引き返してきたのか」

菫「…………うるさい」

智美「いやいやいや、言わなきゃ駄目な事だろ。なんで菫ちんは変な所で押しが弱いんだ」

声を上げる智美から逃げるよう菫は顔を背けてしまう。

だって、そんな事を改めて他人より言われぬとも自分自身で痛いほど理解している。

けれど主人が言いたくないというのに、どうして、しもべである自分が無理強いできるか。

顔を顰めながら情けない言い訳を必氏に考えている。

だが、本当は智美が声を上げている事は正しい言い分なのだと理解していた。

顔を背けてしまった自分を立ち上がって見降ろしている智美は、同じように顔を顰めた。

智美「信頼できる人間だけを近づけていたはずだ」

智美「だけど昨日、わざとらしく菫ちんを訪ねてきた奴が何を言ったのか忘れてないだろ」

そう指摘された事を菫とて忘れる訳が無い。



一日の仕事を終え、明日の支度すら終えてから執務室より退室しようとしていた頃。

その時は丁度良く、一日の報告をしに智美もいたから彼女も一緒に迎える事になった。

そんな時間の来訪者を互いに訝しく思ったのを覚えている。

やってきたのは一人の官吏だった。確か夏官の格好をして随分と恰幅の良い男だったと思う。

迎えた菫には見覚えが無かったが、側に控えていた智美の顔色が変わった事には気付いた。

だが、彼女は自分が口を挟むのは場違いだと理解しているから何も言わない。

そのまま深々と頭を垂れた官吏が言ったのは別に特別な事でもなんでもない。

233: 2014/08/08(金) 00:44:09.41 ID:AgaGssca0
ただの挨拶みたいなもので、菫の立場であればこういった歯の浮くような媚を込めた台詞を言われた事など幾度もある。

ただ台輔である自に顔を覚えてもらいたいだけできたのか…まったく逆効果である。

辟易したが、それでさっさと話が終わるのならば下手に場を荒立てる必要もないと菫は判断した。

早く終わらせるために適当に相槌を打っていたが、変わり映えもしない挨拶も終わりに近づいたと思われる頃。

突然に官吏はこんな事を言ったのだ。

官吏「主上にはお会いしましたが、本当に良き王を選んで下さった。私のような者にも気さくに言葉を交わして頂けました」

官吏「ですので、是非とも台輔には突然無礼とは思いましたがどうしても御礼を申し上げたくて」

目の前で垂れる頭を胡乱気に見下ろしていた菫の瞳が驚きから大きく見開かれた。

待て、今こいつは何と言った。

思わず側で控える智美に顔を向ける。

彼女は相変わらず強張った表情のままで、顔を向けた自分と視線とが合うと浅く首を左右に振った。

智美にとっても預り知らぬという仕草、ただ、彼女は声の音は出さず唇だけを動かして言う。

智美(すぐに確認する)

それに対して果たして自分はきちんと頷けただろうか。

だが気付いたら今一度正面に向き直っていて。目の前の恰幅の良い官吏も言い終えた頭を上げた瞬間だった。

腰を低くしたままに、額に汗を浮かべながら官吏は言う。

官吏「今日はまずはご挨拶までに。どうかこれからも主上共々、お見知りおき下さい」

そう言って、反応の薄い自分に対して深々とお辞儀をしてから官吏は退室していった。

234: 2014/08/08(金) 00:49:24.12 ID:AgaGssca0
その姿が消えていったのを確認してから無意識に菫は主の気配を辿っていた。

そして瞬時に、いつものよう自室のいる気配を確かに感じ取る。

少しだけ動揺が薄れた。………だが少し前までの事は分からない。

どうする、あの人に付けている使令を呼び戻すべきか。

いや、今不確定な話も聞いたばかりでもあるから、主人を守っているはずの使令を引き離すのは躊躇われた。

智美「菫ちん、さっき伝えた通り。まずは状況を確認してくる」

押し黙ってしまった自分の前を早足で横切りながら智美が言い放つ。

だから軽はずみな行動はするなよ、と釘を刺されて…ようやく自らが酷く思い詰めている事に気付いた。


智美が退室し、その扉が閉まる音が響いて思考は冷静さを取り戻す。

一人残された部屋の中で徐に利き手を上げて手の平で顔半分を覆い、重い息を吐いた。

そして今一度、主の気配を辿る。

菫「………」

大丈夫、確かに存在する事を確認してほっとした。

自分をここまで揺れ動かすのは真実、主であるあの人しかあるまい。

その事を菫とて、こうして直に思い知っている。

ただ何も知らぬ他者より無遠慮にあの人の事を言われただけでこの様だ。

とりあえずは辿れば感じ取れる気配に今は安堵している。

だけど、あの人には信頼のおける者しか側に近づけなかったはずだ。

だから智美も側で話を聞いていて顔を強張らせていた。

自分たちの知らぬ瞬間に、顔を合わせていたという事なのか?

235: 2014/08/08(金) 00:53:46.04 ID:AgaGssca0
だが冷静になってあの官吏の話を思い出してみても、多分以前からという訳ではない。

それに言っていた話が真実かどうかも分からないではないか。

ならば攪乱?だとしたら何のために…

悶々と色々な可能性を考えていたら結構な時間が経っていたらしい。

窓から差し込む光は随分と弱まっている。そんな中で部屋の片隅にある燭台に明かりが灯るのに気付いた。

思考の渦に嵌っていた意識を現実へと戻す。

灯された明かりを辿るように視線を向けると、いつの間にか智美が戻ってきていた。

照らされるその横顔は……残念ながら、先ほどこの部屋を出て行った時と同じく強張ったままだ。


智美「確認してきた」

そう開口一番に智美が言うには、あの官吏が言っていた通り。

以前からの事ではなく今日の出来事だという。

朝からは執務もあるし、菫の主が智美と一緒にいたのは智美本人からも確認済だ。

ならばその執務が終えた後という事なのだろう。

騒ぎがあったのは確かで、起こった時間も執務が終えてからと考えれば辻褄が合う。

どこで何があったのかまでは確認できなかった。なぜなら騒ぎを収めたのが夏官達で詳しく話すのを渋ったからだ。

それでも結果として、彼らが騒ぎを内密で収めて、巻き込まれた主を内殿まで無事に送り届けてくれたという話だから

感謝こそすれ、無理に聞き出す事もできなかったという。

236: 2014/08/08(金) 00:57:55.62 ID:AgaGssca0
ただ、そこまで聞けば不安を抱くのは仕方ない。内殿まで送り届けたという事を考えれば。

菫「………外宮に行ったのか」

呆然と呟いた菫に対して、智美は数秒考えてから言い返す。

智美「多分。…どうしてわざわざ内宮より外に行く必要があったのか」

それが分からない、と智美は呟く。

智美「まだ短い付き合いでしかないけど。主上は決して愚かな人じゃない」

智美「自分の欠点を知って、それを克服しようとする人が愚鈍であるはずが無い。それでも外に行く用があったというのならば」

不自然に智美の声が途切れる。

菫「……あったというのなら、なんだ。まさか、また逃げようとか」

問い掛ける菫の語尾は自然に荒くなる。

そんな菫の言葉に対して智美は首を左右に振って、それは無いと断言する。

だって、今でも書房から書物を持ち返り徹夜を続けている人が今更逃げ出す算段をしていたとは到底考えられない。

けれどそのまま思案気に智美は顎に手を当てて呟く。

智美「まぁ、……誰かに会いに行ったと考えるのが妥当かな」

菫「誰に」

即聞き返してくる菫に対して、落ち着けと智美はなだめる。

智美「私が知るはずないだろ。……それを確認するのは、菫ちんの役目だろう?」

菫「ぬ…」

237: 2014/08/08(金) 01:00:34.09 ID:AgaGssca0
突然、矛先が自らに向いた事に対して菫は怪訝な表情を浮かべた。

当たり前だろう、と言わんばかりに智美は頷いた。そして外の暗さを指差しながら彼女は言う。

智美「時間も時間だし。事前に謁見を申し入れてもないのに一官吏である私が出向くのはさすがにまずいからな」

智美「その点、菫ちんはきちんと立場もある。仁重殿のここから正寝までもいけるだろ?」

智美「守衛や官吏に見つかったって王の半身である麒麟なら納得するだろうし」

菫「…だ、だが」

明らかに狼狽している菫を見て、智美は呆れを滲ませた。

智美「おいおい、こんな時まで“自分は嫌われているから行けない、訊けるはずがない”とか情けない事言わないよな」

的確な指摘に思わず菫は渋面になる。図星という仕草。

ただ、それを見返す智美は「誤解、まだ解けてないのか」と呟くと片腕を上げて頭を掻いた。

そのまま押し黙る事数秒。再び唇を開いた彼女は、どこか言葉を探すように慎重にそれを菫へと吐き出す。

智美「……王と、麒麟の問題だ。一臣下の私如きに図れない部分もあるのかもしれない。けどな…」

智美「これから一生付き合っていくんだ。この国のためにも、こんな状態のままじゃいけないって事ぐらい分かっるてんだろ」

菫「……っ」

智美の言葉が痛い程正論であると分かっているから反論できない。

燭台の明かりにだけ照らされた彼女の顔に冷たいものが陰ったような気がした。

智美「台輔」

そう呼ばれる時、いつもは明るい彼女が柄にもなく真剣になる時なのだと菫は知っている。

238: 2014/08/08(金) 01:04:06.27 ID:AgaGssca0
だから、その先を聞きたくないと思ったのは菫の本能だ。

智美は菫にとって、とても恐ろしい事を言おうとしている。

智美「私は一臣下だ、この国の」

菫「………」

智美「だからこの国の行く末をまずは憂う。なぁ台輔。麒麟としてのあんたが駄目だと言うのなら……」

智美「あの人を諦めて、あんたは次の王を探すのか?」

冷たく突き放すよう言われた言葉に心が掻き乱される。

カッと胸の内が熱くなるのが分かった。

深く思考するよりも胸中に耐え難い拒絶感で溢れる。瞬時に朱に染まった顔面を菫は歪めた。

慈悲の獣のはずの彼女がそんな本性をかなぐり捨てて、菫は激高した。

菫「ふ、ざけるな!!」

眩暈がした。怒りに似た衝動に突き動かされ、続けて吐き出す言葉に迷いすらない。

菫「私の主はあの方だけだ!主上が…あの時私に許す、と言ったから!他になんて、考えない、絶対にっ!」 

認めない、と。そう思った瞬間、ようやく菫自身も理解した。

例え後に冗談だと言われても、絶対に許容できない一線がそこにはあった。

智美は珍しくも激昂する菫をじっと見返している。

いや、こうして感情を酷く顕わにする菫の姿を見るのはこれで2回目だったか。

確か最初は彼女が無断で連れて来た王である少女が高熱で寝込んでいる時だった。

あの時も、暴れ出した彼女をなだめるのに苦労した。

239: 2014/08/08(金) 01:11:07.95 ID:AgaGssca0
いつの時も毅然として感情の起伏が薄いはずの彼女は、唯一王に関する事柄にだけは感情豊かに反応してくれる。

智美から見ればとても分かりやすい。

ただ智美にしてみれば菫の本心がやっとで聞けたから。冷たく纏っていた空気を緩めると苦笑を浮かべた。

智美「それを聞いて安心した。じゃあ大丈夫だよな?」

目の前の菫にしてみれば、溜まった怒りの矛先を智美に挫かれたようなものだったらしい。

怒鳴ろうとしていた口を開いたままに「は?」と間抜けな声を上げる。

智美「ワハハ。その調子で今日何があったのかを詳しく聞いてくるといいぞ」

智美「ついでに互いの遠慮からくる誤解が解ければ、菫ちんにしてみればほんと上出来上出来。がんばれー」

そこまで言われた菫は、ようやく智美の思惑を正確に理解した。

菫「……っ!!」

結局、菫は何も言い返せずに言葉を飲み込む。

智美は言いたい事は言い切ったと大きく息を吐いた。

智美「それじゃそろそろ自分の溜まってる仕事を捌きに戻るな」

そう言って、自分に乗せられて固まったままの菫を見上げるとワハハと笑って告げる。

智美「明日一番に結果聞きにくるからな。微力ながら菫ちんの分かり難い健気さが主上に伝わるよう天帝に祈っておくよ」

菫「…………!!」

駄目押しだ。菫がもはや決めた事を反故しないだろうという事は分かっていたが、強く背を押すぐらいの事はしてもいいだろう。

これから自分には徹夜の仕事が待っているが…それでも少しの希望を持って事に当たれそうだ。

やれやれ、と凝った肩を鳴らしながら智美は菫の部屋を後にする。

外に出て扉を閉めるまでに結局、彼女より返ってくる声は無かったが。

扉を閉める瞬間、観念したよう瞼を伏せる姿が見えて、智美はたまらず苦笑を浮かべたのだった。

240: 2014/08/08(金) 01:14:47.98 ID:AgaGssca0


つい昨夜の出来事を思い出しながら目元に出来た隈を強く擦る。

溜まった書類に埋もれながら、それでも頭の片隅には王と麒麟の事を気にしていたと思う。

どちらも性格は違えども、素直で真面目だ。

その事を天帝に感謝こそすれど、残念に思った事など一度もない。

だから智美の視点からすれば彼女らの仲違いなんて些細な擦れ違いにしか見えなかった。ただ深く話し合えばいいだけだ。

これで少しは歩み寄れるだろう、と智美なりに思っていたのだが。

額を手の平で覆いながら低く呻く。

どうやら擦れ違いは智美が思う以上に大きかったという事なのだろうか。自分の読みもまだまだと浅く息を吐いた。

ただ約束通り菫の所に結果を聞きにきて、残念ながら彼女が主人に対して深く原因を聞いてこれなかったという事は理解した。

ついでに仲直りというか、歩み寄りも不発に終わったと。

後者は平和な時ならば、微笑ましく智美なりに精いっぱいからかいを持って見守ってやりたいと思っていたが

今の足元の不安定な状況ではそうしてやることもできない。

塞達や、 昨日の騒ぎの件も不安要素として智美の頭の中には残っている。

まだ塞達の方は対等だと思っているが、昨日の騒ぎは何か嫌な予感がしていた。

詳しく内容も分からず結果として外に借りができたようなものだし。

本当に……今更言っても仕方ない事だが、王と麒麟の間がもっと親密であればこうも悩んでいないと思う。

取りあえず結果が芳しくなかった事をいつまでも責める訳にはいかないだろう。

それに真面目な菫の事だ、きっと智美が思う以上に後悔しているに違いない。

ならば自分が今日の執務の間にでも、主上にそれとなく聞いてみようかなと智美が思った矢先。

目の前で顔を背けていた菫より「待て」と短い言葉で呼び止められた。

241: 2014/08/08(金) 01:18:18.03 ID:AgaGssca0
先程までの不機嫌さが消え、明らかな声質の違いに気付き智美は訝しく思う。

見上げてくる視線には真剣さが感じられて智美はますます不思議に思った。

菫「私がやる」

智美は目をぱちくりと瞬きさせて「え?」と聞き返す。

菫「今日からお前に代わって、私が主上の側に付く。……すまなかったな、今まで無理を言って」

智美「え、いや……菫ちん?」

意味が分からず怪訝な表情を浮かべていると、彼女の声は続く。

菫「お前は今日から自分の仕事をしろ。主上の執務の際の補佐は私がやると言っている、終わってからの送り届けもな」

智美「え、いいのか?でも菫ちんの台輔としての仕事だって」

菫「仕事はお前よりは溜まって無い。それに今日の分とて昨日の内にある程度終わらせている」

腰を降ろしていた椅子より立ち上がると机をぐるりと回り込み、置かれた棚の上にある紙の束を手に取った。

菫「昨日、忘れていっただろう?」

紙の束を掲げながら智美に向き直り、菫は言う。それを注視した智美は「あ」と声を上げた。

すっかり忘れていたが、菫が持っているのは主上との執務の際に必要な資料や書類やらだ。

いつもは持ち帰って添削や明日の纏めなどやっていたのだが。昨日は自分の仕事に手いっぱいですっかり忘れてしまっていた。

それを持った菫は、これに一通り目は通しておいたから引き続き智美に代わって執務の補佐もできるだろう、と言葉を結ぶ。

明らかに昨日とは打って変わった菫の姿に智美は困惑を深めるしかない。

智美「………どうしたんだ?菫ちん。それに、昨日駄目だったのに、いいのか?」

王の補佐をするという事だろう?それは、昨日菫が会いに行って歩み寄りができなった主の事なのに。

だから少し前まで彼女は不機嫌そうに顔を歪めていたはずなのに。 

242: 2014/08/08(金) 01:20:56.72 ID:AgaGssca0
見つめる先の菫は手に持っていた紙の束を再び棚の上に置くと、俯いたままの姿で答える。

菫「……昨日、主上と向き合っている時に。お前に言われた言葉を思い出していたんだ」

菫「これからずっと付き合っていくのだろう、と。それか諦めて次を探すのか、と」

昨夜は勢いもあってつい言ってしまったが、今になって考えてみれば麒麟に対して随分と失礼な事を言ってしまったなと思う。

謝った方がいいかな~と智美が反省していると、菫の硬い声が続いた。

菫「ごめんだ、と思った」

智美「…菫ちん?」

菫「私は確かに神獣だが、人並みの感情だって持っている。やはり、昨日お前に怒鳴り返した時と同じ気持ちが滲んだ」

菫「あの方を探し出すまでの辛さをもう一度味わえと言われたら、ごめんだとしか言えん。次の王など次の麒麟に任せる」

智美「…………」

菫「なら、私には一つしか選択肢が無い。あの方とこれから付き合っていく方を選ぶ」

菫「そう思ったらな、昨日あの時に。視線を合わせて向き合う事すらできない現状に酷く後悔したんだ」

菫「本当の事を言ってくれなかったとしても、あの方に言えないと思わせてしまった私が悪いのだと」

そう気付いたから。菫は俯いていた顔を上げる。

気のせいでなければ菫はどこか吹っ切れているように見えた。

事実、彼女の纏う空気に昨日まであった迷いが確かに薄れている。

智美「………」

243: 2014/08/08(金) 01:25:40.16 ID:AgaGssca0
どうやら昨日の彼女らの接触は失敗だけだったというわけでもないらしい。

あの菫の考えが、変化するぐらいに。

そして智美にしてみればそれは嬉しい誤算だと言える。

智美「本当に、任せてもいいんだな?」

菫「ああ、一度決めたからには迷わん。それに私は王気も辿れるからな、探って見守るならやはり私の方が適任だろう」

智美「…ああ、なるほど」

麒麟である彼女は、王である少女の居場所を辿る事ができる。

智美「なら私は仕事の合間に昨日の騒ぎをもう少し詳しく調べるよ。昨日恩着せがましく菫ちんに言いに来た奴、あいつの事も」

菫「頼む」

返ってきた菫の声に気持ちが後押しされる気がした。

頷くと智美はゆっくり踵を返す。

眠気はいつの間にか消えていて、代わりに思い出したかのように体は空腹を訴えていた。

そういえば昨日も色々あったからまともに食べていない。そして智美には今日とてやることはたくさんあるのだ。

ああ、朝はしっかり食べてから動き出さなくちゃな、と。

当たり前の事を考えながら、智美は菫の部屋を後にしたのだった。


■  ■  ■



252: 2014/08/15(金) 00:06:29.70 ID:MbMrc5gK0
怨嗟の声が聞こえる。


使令の背より渇いた大地へと降り立つ。

枯れた木片を踏み締めた音が響くが、それはすぐにでも吹く風に晒され塵となりどこかへと消えていってしまった。

粒子になってしまったそれが目に見えるはずもない。

けれど、まるで追いかけるように降り立った場所から遠くを、遥か遠くを見つめた。

あそこはどこだったろうか。それでもこの国のどこかだ。

場所など、もう忘れてしまったが……元々は緑豊かな丘だったのだろう。

けれど本来あるべき緑の葉や芽は地に落ちて久しいと感じた。

枯れ切った木々だけが並ぶ、寒々とした光景をよく覚えている。

風が吹く度に、水気の失った木肌が力なく鳴いているような気がした。

大地だけで、こうも氏にかけている。立場上その事実に心が痛まないはずもない。

無意識に遠くを見つめる視界を細めた。

そして、気付いた。枯れた大地の向こうで………何か、黒い筋が幾つも立っている。

253: 2014/08/15(金) 00:09:42.00 ID:MbMrc5gK0
遠すぎるから黒い筋の真下で何が起こっているかまでは分からないが。

あれが地面より上がる黒い煙だという事は分かった。と同時に鼻腔に何かの匂いが掠める。

嫌な臭いだと思った、その匂いが何なのか考えるよりもまずは心中に嫌悪感が滲んだ。

するといつの間にか背後に姿を現した女怪がこの身を労わるよう声を掛けてきた。

『台輔、あれは穢れです、近付いてはなりません』

お体に障ります、と。忠告を受けた事で閃くよう、あれが何かを理解した。

遠すぎて何も聞こえなかったが……つまり女怪が心配する通り、あの下では何かの争いが起こっていて

この身が最も忌み嫌う血が流されているのだと。そして全てに炎が放たれているのだろうと彼女は言っている。

菫「戦か?」

短く問えば、表情を動かさずに女怪は答える。

『そこまで大事ではないでしょう。民草の暴動と州師の鎮圧、互いの力の差は歴然です。すぐに騒ぎは収まりましょう』

女怪に悪気など微塵もない。彼女はいつの時もまずは、この身を第一に心配してくれる。

だけど彼女の言葉の内容は慈悲の獣と呼ばれる自分の立場であれば許容し難いものだった。

胸の内が窮屈に締め付けられる。

254: 2014/08/15(金) 00:13:50.59 ID:MbMrc5gK0
蓬山より降りてこの国を見て廻って、目に映る現実に打ちのめされるのはもう何度目なのか。

それでもこうして耳に届く怨嗟の声に背を向ける事はできない。

助けてくれ、と誰にでもなく求める声はこの氏にかけた大地に無数に溢れていた。

その一つ一つに応えてやりたいが……この身は余りにも無力だ。

使令がいなければ何一つできず、目の前に映る悲惨な現実を憐れむしかない。

浅く息を吐いて、女怪と背に乗ってきた使令に命じた。

菫「……まだ息がある者だけでも、助けて安全な場所まで連れて行ってやれ」

『ですが、台輔。小さな規模の争いといえど一人一人運ぶのでしたら時間がかかります』

菫「私は大丈夫だ。ここならば血の穢れも遠いしな。それに一人でも多くこの国の民を救ってやりたい」

自分が言い切ると、躊躇った女怪も使令も最後には頷いて地面の下に消えていった。暫くは戻ってはこないだろう。

立ち昇る煙が見える。焦げ臭い匂いに混じってたくさんの怨嗟の声も聞こえる。

枯れた大地に、苦しむ民の声が満ちていて……自分に架せられた重圧に押し潰されそうになる。

救いたい、けれど今の自分には何一つ現実を変える力など無い。

立場はあれど、十何年も腐敗が進んだ宮中には自分の意見に耳を傾ける者もいない。

神獣として人の善意を信じたいと思っていた、それは神獣である麒麟の性だ。

けれど何度この凄惨さを宮中に訴えたか分からぬが全てが徒労に終わっている。

痩せた土は作物を枯らせ、妖魔が跋扈する氏にかけた大地はそこに生きる民を長く苦しめ続けている。

ならば、せめてこんな時にこそ、人は人のために力を集うべきなのではないか。それが正道だ。

256: 2014/08/15(金) 00:18:18.16 ID:MbMrc5gK0
けれど、そんな民の生活と掛け離れた場所にある宮中では、この訴えがどうしても届かない。

愕然とした、そうして何一つ変える事ができずに……目の前に広がる現実を自分は憐れむしかない。

このどうしようもない現実を、唯一変えてくれるかもしれぬ存在を望んだ。

それは自分だけはなく今この瞬間理不尽な現実に晒されているこの国の民すべての願いのはずだから。 

自分が存在する以上……どこかに必ず存在するこの国の“王”を誰もが待ち望んでいる。

無力な自分ではあるけれど、それでも唯一、待ち望む“王”を探し出せるというのならば、

他の何においても第一に努力をする。

だからどうかこの切なる願いを聞き届けて欲しい。

この才州国を、この国の民を救って欲しい。

見つめる視界を更に細めると、立ち昇っていた黒い煙が消えようとしている。

それでも救いを求める怨嗟の声が途切れる事は無い。

それはきっと、この氏にかけている国のために“王”が立ち上がるまで続く事だろう。

大地は広い、途方もない程だ。この先からたった一人の人間を見つけ出さなければいけない無謀。

けれど心は決めている。だって自分はまだ見たこともない夢現のような存在に、こうやって呆れるほど縋り続けている。

立ち消えてしまった煙の白い筋を見届けてから決意するよう瞼を閉じた。
 
必ず、必ず、見つけ出す。
 
それはもう執念といってもいい程の想いだった。

257: 2014/08/15(金) 00:22:33.30 ID:MbMrc5gK0
だからあの時突如として天啓の如く感じ取った気配に、素直に体は震えた。

その余韻を味わうことなく、むしろ振り切るように使令の背に跨って向かった先に見つけた姿に確信を抱く。

寒い日だった、もしかしたら朝には少しの雪が降っていたかもしれない。

見つめる先の井戸端に佇む姿は水汲みの合間に寒さで赤くなった指先を必氏に擦り合わせていた。

少し離れた場所に降り立った自分にまだ気付いてもいない。
 
自分から言葉を発するでもなく、ただ食い入るように見つめていて気付く。

質素な服の袖から除く腕は異様に細い。一目見ただけで、今まで酷な生活を送ってきただろう事は明白だった。

だから心が痛い程に締め付けられ、同時に自分自身の今迄を恥じた。

この国の凄惨な現実と、そして今の今まで目の前に確かに存在する姿に対して何もしてやれなかった事に対する後悔。

一国に唯一の神獣と言われ持て囃されても、宰輔としての高い地位があったとしても、

こうして民一人を不幸から救う事さえできなかったのが自分だ。

無力だ、余りにも……そう思い至った頃に。

井戸端で水を汲んだ桶を持った少女がやっとで自分の存在に気付いたようだった。

ふと、伏せがちだった顔を上げて、朱い色の大きな瞳が自分の姿を射抜く。

想像していたよりも真っ直ぐに見上げてくる視線を受け、体に震えが走ったのを悟られはしなかっただろうか。

いいや、それよりも。あの時もう一度強く確信した。

やはり目の前にいる少女に違いないのだと。

この身が執念と言っていい程の想いで探し続けた主人であり……この国の王なのだと。

258: 2014/08/15(金) 00:26:30.10 ID:MbMrc5gK0
笑いたくなったし、泣きたくもなった。

けれどごちゃ混ぜの感情は、眼前の少女にしてみれば突如現れた自分の存在に戸惑う声に打ち消される。

ああ、そうだろうなと表情には出さすに肯定する。

自分を見つめる視線に微かな怯えが見えて少しだけ心が痛んだ。

初めて会ったのだから当り前の反応なのに、呆れる事に自分はその時には

もう、彼女にだけは拒絶されたくないと思い込んでいた。


今までたくさんのこの国の人達と接してきた。

麒麟として、人として対峙して…色々な事たくさん見て来たのだ。

この言葉を聞き賛同してくれる人達も確かにいた、だけどどうしてもこの言葉が届かない時も多々あったから。

それでどうしようもない現実に絶望して、どうしても顔を上げられない日々もあった。

神獣と言えど、たかが麒麟一人ではこの国を支えるには余りにも無力で。憐れむだけでは誰も救えない。

故に……勝手な話だけれど、本当に自分はまだ見た事もない主人に呆れる程に縋り続けてきたのだ。

どうしても、挫けそうになるこの心の指針が必要だった。

育ててくれた女怪や女仙がずっと言い聞かせてくれた話。

麒麟としての生涯を一緒に歩いてくれるはずの主人を、自分は夢のように求め続けていた。

259: 2014/08/15(金) 00:30:00.58 ID:MbMrc5gK0
咲「信じます」

きっと彼女にしてみれば何気ない一言だったと思う。

けれどそのたった一言が、どれ程自分の心に響いたのかは知らないだろう。

じわりと心に沁み込んでくる言葉に何かを言い返すよりも、考えるよりも先に、

自分の心がふっと軽くなったのを覚えている。

自然、顰め面は緩み両端の口角は柔く吊り上がった。

あの時自分はどれくらい振りに笑ったのだろう。

国を支えなければいけない重圧に心を押し頃してどれくらい経っていたのか。

たかが一言。だけど、その一言が確かにこの身の苦心を和らげた。

出会ったばかりと言っても過言ではない自分を、躊躇いもせずに信じると言ってくれた。

この国のために誓約を交わせばきっと生涯を共にすることを悟っているから、

一緒に歩いて行く事を知っているから、こうも容易く縋りたくなるのだ。

今まで一人で重圧に耐えてきたものを、彼女とならば分かち合ってもいいのかもしれないと……

その時、ようやく自分は気付くことができた。

260: 2014/08/15(金) 00:33:50.99 ID:MbMrc5gK0
菫「貴方しかいない。この才州国にも、私にも」

本心だ、紛れもない。そして思い至った事。

救って欲しかったのは確かにこの国だったけれど。

でも一番に救われたかったのは自分自身だった。

おそるおそる触れてくる手の温かさ擦り寄るよう、本性の獣の頭を近付ける。

甘えるような仕草、こんな自分を自分自身が初めて知った。

結果として主人になるこの少女を騙した形になってしまったけれど。

誓約を交わした後に、結局は自分を責めもせず許すよう鬣を撫でてくれたその細い腕の温かさを絶対に忘れない。

一人なのではないのだと教えてくれたのは間違いなくこの人だ。

きっとこの先。氏にかけた国を支えていく重圧を、この人と二人で背負っていかなければならないのだろう。

それは麒麟として生まれた自分の宿命であり、自分に選ばれてしまった彼女の運命だ。

過酷な運命に巻き込んでしまったことは分かっている。

すまない、と思いながらも…縋る事を教えてくれた手を離すことはもはやできない。

その代わり絶対に、絶対に自分がこの人を支えてみせると心の中で誓う。

麒麟としての義務からではなく、こうして触れてくれる彼女の温かさに報いたいと思う自分の本心からの願いだった。


■  ■  ■



261: 2014/08/15(金) 00:39:07.46 ID:MbMrc5gK0
人差し指でその箇所をとん、と示すと机を挟んで座る姿が必要以上にビクリ震えたのを菫は見逃さなかった。

その硬く余所余所しい反応に気落ちしなかったと言えば嘘になるが。

今までの、自分の不器用で逃げ腰な対応の結果だ、これは。

それを取り除き、歩み寄りたいと願ったから、今までのように退くことなく菫はここにこうしている。

そっと顔を上げて傍らの姿を見つめる。

主人の横顔は卓上に置かれた書類に向き合ったまま。

緊張が滲み出ているのが近い距離からも気配で菫に伝わってきた。

比べても仕方ない事なのだが、今まで智美から彼女との執務の様子を掻い摘んで聞いてきた限り。

智美と自分とでは、明らかに態度が違う事に気付かされて言い様のない焦燥感に苛まれてしまった。

吐き出したい息をぐっと堪えて、指摘した箇所に菫は説明を加える。

菫「違う。今回の案件は、その州の……隣の陳述書だ。地図を」

自分の気落ちを悟られないよう淡々と告げると、はい、と強張った彼女の声が短く返ってくる。

菫に指摘されて慌てたよう席から立ち上がると、彼女は卓上に広がった書類の中より版図が描かれた地図を探し出そうとした。

慌てるな、と菫は声を掛けようとしたが。

その前に咲が卓上の書類を掻き混ぜたために、脇に置かれていた飲み物が入った杯がぐらりと揺れる。 

あ、と焦った声が続く。菫もその光景を眺めていたから、思わず腕が伸びた。

ぐらぐら、と視界の先で不安定に触れる杯を支えようと伸ばした指は、けれど直前で何かに当たり遮られてしまう。

262: 2014/08/15(金) 00:43:37.16 ID:MbMrc5gK0
それが自分と同じように、揺れる杯を支えようと伸ばされた彼女の指先だと気付いたのは、

一瞬だけ、互いの指先が触れ合ったせいだ。

じわりと沁み込んでくる温かさは自分が思う以上の動揺を心の中に生んだ。

思わず弾いた衝撃は自分のものなのか、それとも彼女のものなのか判断が付かない。

でも後にして考えてみれば、お互いに焦ってしまって弾き合ったというのが正しい事実だろう。

菫にしてみれば嫌悪感からではなく、ただ吃驚したから思わず、だ。

だが弾かれた指を宙に浮かせたまま、ふと、立ち上がったままの咲を見上げると、

想像以上に顔を強張らせてこちらを見下ろす視線とぶつかった。

菫は思わず口を開く。そのまま、違うと言い募ろうとした。

咲が嫌だから手を払った訳ではなくて、ただ驚いて思わず自分も払ってしまっただけなのだと。

だから……そんな、そんな傷ついた顔をしないで、誤解しないでくれ、と。

そうきちんと言わなければいけないと思った。

でも言葉を発する前に、結局二人とも揺れる杯を支える事ができなかったのだから。

まるで菫の弁明を遮るようにガシャン、と床に落ちたそれが殊更大きな音を立てた。

咲「…っ」

伝える機会を確実に逃したと気付いたのは、強張った表情を浮かべていた彼女が割れた音に気付いて、

慌てて床にしゃがみ込んだ姿を見送ったから。

菫「………」

すみません、そう言い返してくる声に、先ほどまで弁明しようとしていた自分の言葉は容易く消されてしまった。

263: 2014/08/15(金) 00:48:53.64 ID:MbMrc5gK0
開いたままの唇を1、2度、意味も無く開閉させると…菫は観念したように唇を噛み締めた。

くそ、と心中で毒付いてから床にしゃがみ込む姿に言う。

彼女は床に割れた破片に今まさに手を伸ばそうとしていたから、ついつい声が鋭くなった。

「よせ」と短く制止の声を上げる、と。その肩が再び不自然に揺れたように見えた。

事実、動作を止められた彼女はしゃがみ込んだまま首を回してこちらを見上げてくる。

先ほどと同じ、そのどこか強張った表情を見返しながら……菫はまたやってしまったと心中で項垂れた。

弁明すればいいのか、怒ってるんじゃなくて、と。

でも一度唇を開けば言いたいことがいっぱい在り過ぎて上手く伝える自信がまるでない。

むしろ、何かを言えば同じことの繰り返しで…更にこの人の心が遠くなるのではないかという怖気が自分を閉口させた。

結局、事務的な事だけを簡潔に伝える事にする。

菫は自分も席より立ち上がると、しゃがみ込む咲の側に寄り腕を伸ばす。

割れた破片を拾う直前に止めたから、所在無さげに宙に浮いていた指先を掴むと

そのまましゃがみ込む姿を立ち上がらせた。

本当に、自分で思うのもなんだが、きちんとした目的があればこうも容易く触れる事ができるのに。

それは伝える言葉も同じだ、立ち上がらせて向き合う形になった咲は、自分を見上げたままに困惑している。

菫は淡々した口調のままに彼女に言った。

菫「御身がする事ではない。…人を呼ぶから」

いいな、と少しだけ口調を強く言い含めれば、咲は何かに気付いて目を見開き。

そして、続けて落ち込むよう顔を俯かせてしまった。


■  ■  ■


264: 2014/08/15(金) 00:51:58.70 ID:MbMrc5gK0
智美「で、どうなんだ?」
 
菫「…………」

智美「菫ちんの不器用さを思い出したらちゃんと会話できてんのか心配になっちゃってなー、何回様子見に行こうとしたか」

菫「お前は私の保護者か」

智美「いや、ほんと保護者的な気分だわ」

菫「そんな事より、そんな理由で仕事を疎かにしてはいないだろうな?」

宮中の立場上、部下にあたる官吏が国を動かす仕事を疎かにするなど菫の真面目な性格上、許すことはできない。

そしてそんな自分の剣呑な雰囲気を感じ取ってか、智美は苦笑いを浮かべると頷いた。

智美「菫ちんが主上に付いていてくれたし、溜まってた私自身の仕事は全部片付いた。あとは日課で処理できるぞ」

それを聞いて菫は顔には出さないが胸中で安堵した。

智美が仕事を今まで溜めていた原因は、元を正せば自分の我儘から出てきたようなものだという事は分かっていたから。

それを解消できた事に対して素直に気分が楽になった。だから重かった口も軽くなる。

菫「……拒絶は、されていないと思う」

「お!」と分かり易く目を見開いた智美は興味津々に言葉を返してくる。

智美「私から見れば主上は、元々菫ちんを嫌ってなんかないぞ」

菫「それは…あの人がお前に対しては心を許しているから、そう見えるんだ」

智美「じゃあ、菫ちんに対しては違うのか?心を許してないって?」

265: 2014/08/15(金) 00:57:51.90 ID:MbMrc5gK0
ずけずけと言ってくる智美の言葉に心が不規則に波打つ。

ああ、他人からでもそんな話を聞きたくなかったのかと、今さらながら自分の心境に菫は気付く。

菫「お前のように気安い態度で迎えてくれないとは感じる。話せば答えてくれるが、どこか余所余所しく思えるんだ」

智美「そんなことないと思うけどなー…」

菫「私だって、側で支えてやりたいと思っている」

菫「王に対する麒麟の本能かもしれんが。でもそれだけじゃなくて、私自身が助けたいと思っているから」

智美「………」

こんな時に真面目な顔をして茶化さないのだから、本当に智美はいい性格をしていると思う。


その時執務室の扉が控え目に叩かれた。

扉のすぐ向こうにいるのは女御のようで、彼女は来客を告げてくる。

菫に今日これからの来客の予定はなかったが、智美が「来たか」と言い席より立ち上がった。

視線を向けると、 彼女は今まで座っていた席を直してから座る菫の斜め後ろに移動する。

形式に沿った行動だと思ったから菫も気分を改めた。

女御に入室を許可すると、扉が開いて一人の官吏が一礼をして入ってきた。

微かに菫は目を見張る。……自分にしてみれば知らぬ顔ではなかった。

266: 2014/08/15(金) 01:04:00.22 ID:MbMrc5gK0
塞「このような内輪の場を設けて下さって、ありがとうございます。台輔」

菫「………いや」

声に躊躇いがあるのはどう反応していいか迷ったからだ。

やってきたのは、塞という名の官吏だ。内宰の立場にあって、形式上では何度も顔を合わせた事があるが。

それ以外でこうも近くで対峙するのは初めてだと思う。

菫からすれば、訪ねてきた姿に含むところはない。

が少し前に智美と相談した内容が頭を掠めたから面食らってしまった感はあった。

思わず自分の斜め後ろに控える智美に視線を向ける。

きっと彼女の事だ、菫が抱く動揺なんて手に取るように分かっているだろう。

案の定、睨んだ自分をなだめるように苦笑を浮かべた智美が言った。

智美「状況が変わったので……助けになる者には歩みよろうかと。台輔の人の見る目を信じます」

その言葉は以前、智美との会話の中で、菫が塞の印象を説明した時の事を言っているのだろう。

あの時自分は塞の事を人格者だと言ったが、今この場にやってきた塞を見返してもみてもあの時言った事は間違っていないと思う。

背筋をピンと伸ばし、向ける眼差しは揺れず明確な意思を感じる。

塞「私を覚えていて下っていたのですか?」

塞の声に顔を向けると菫は数秒、悩んでから結局は頷いた。

菫「立場も、だが……なにかと便宜を図ってくれた事には感謝している」

短い言葉だったが、それを聞いただけで塞も菫が何に対して礼を言っているのかを悟ったようだった。

その上で、彼女は首を左右に振って言う。

塞「些細な事です。結局私の立場でも、台輔のためにはあれぐらいの事しかできませんでしたから」

真摯な言葉だと思った。だから無意識にも菫は信じたいと思っている。

これは麒麟の性なのかもしれないが、それを抜きにしても菫の目からは塞は誠実な人間に見えた。

273: 2014/08/22(金) 00:05:10.02 ID:7kcfjkgB0
一区切りの会話を終えると、それを見計らったように智美が口を開く。

智美「内宰殿…こうしていらっしゃったという事は、今まで以上に台輔を助けて下さると。そう解釈してもよろしいので?」

思ったよりも真っ直ぐな智美の言い様に菫としては驚いたが、対する塞は迷う事なく頷いた。

塞「立場があった私を貴方が訝ったのも分かります。力が足りなかったのも事実。だからこそ、ここで正したいと思うのです」

塞「国を纏めるべき役目にある宮中を正常に戻したい。それが本来の私の役目。主上が坐した今ならば、それが可能だと」

塞「……台輔からすれば今更とお思いでしょうが、どうか。私の愛国心を今一度信じて頂けないでしょうか?」

一言一言に迷いは見えなかった。

菫が向ける視線を真正面から反らしもしない。

誠実な態度に、声が伴っていると菫は感じた。

これがもし塞の偽りの姿だとすれば、菫は人間不信に陥るかもしれないが。

でもきっとこの女性は信じていいと思う。

「言い分は、よく分かった」と塞に言葉を返す。

元々、菫自身ならば彼女に含むところはない。

だから後の判断は、菫の背後に控えている智美に委ねる事になる。

274: 2014/08/22(金) 00:09:41.50 ID:7kcfjkgB0
まぁここに塞を招き入れたのも智美だから、菫が答えを出す前にとっくにこの話の道筋は付けていたのだろう。

時に智美は本当に良く頭が回る。

ここまで深い話を交わして止めもしなかったのは智美なりに、塞をある程度信頼していたからだと思う。

情報を共有しても大丈夫な人間だと判断した。

事実、智美は塞の意見に対してすぐに言葉を返す。

智美「でしたら、以前に私が伝えた事案を覚えておいでか?」

塞「“信頼”が欲しいという話でしたか」

智美「ええ。今の内宰殿の話を聞いた限り、目指すところは同じだと思います。主上のために宮中の不安要素を取り除きたい」

智美「ならば、私の頼み事も叶えて頂けたのでしょう」

頼み事?菫がその疑問を口にする前に、塞は迷いなく言葉を返してくる。 

塞「貴方が教えてくれた話。呆れた話ではあるけど、右往左往する官吏の中には無謀に走る輩もいるという事なのかと」

塞「普通の精神ならば、主上に対する狼藉を恐れ多いと恥じなければいけないのに」

智美は呆れたように口元を緩めると頷く。

智美「王に対する畏怖よりも、今まで吸ってきた蜜の欲が勝ったのでしょう」

塞「やはり今までの私が力不足でした。以前の私は周囲からの圧力がありましたから…」

塞「人事の調和を計るためにも、打診を受ける要望全てを無理だと跳ね除ける事はできませんでした」

菫「どこの管轄からの口出しが一番酷かったか?」

塞「夏官です。元々、内宮の警備のために夏官の兵士は迎え入れなければなりません」

塞「その際に私が一人一人、人物をきちんと見定める事ができればよかったのですが…向こうの言い成りになっていた時もありました」

塞「ですから先日貴方が私に頼んだ事……天官が二人、城下で事件に巻き込まれ氏んだという話を私なりに調べてきたんです」

275: 2014/08/22(金) 00:15:09.19 ID:7kcfjkgB0
それを聞いた時点で菫はぎょっとする。

と同時に胸を締め付ける痛みを苛まれた。

なぜなら菫は人の生き氏を無条件に憐れんでしまう。そういう生き物だ。

抱いた痛みを唇を噛み締めて堪えると、菫は目付きを鋭くし、背後に佇む智美を睨んだ。

だって今、塞が言った話は菫にしてみれば初めて耳にする。

しかし彼女は智美から聞いていたと言っていた。つまり智美は自分には伏せていたのだ。

菫の非難するような視線を受けると智美は「仕方ないだろー」と言って硬い表情を崩す。

智美「ただの事件かもしれないから、余計な心配をさせたくなかったんだよ。主上にも、菫ちんにも」

智美「見知らぬ他人でも自分に関係した何かで命を落としたと思えば心を痛めるだろう」

智美「台輔は神獣として特に顕著だ。それが限りなく黒だと分かっていても、氏んだ人間に同情してしまう」

智美「今みたいに中途半端な情報の時に、そうなって欲しくなかったから言わなかったんだ」

菫「………っ」

心の締め付けは続いてるが、それと一緒に智美に抱いた怒りをどうにか飲み込んだ。

智美の言っている事が正しいと判断して、その意見を言い返せないからだ。

事実、自分がその話を聞いていれば…きっと氏んだ人間に同情していただろう。

調べたいと智美に言われたら、氏人に鞭打つなと言っていたかもしれない。

噛み締めた唇を解くと浅く息を吐き出す。菫は塞へ視線を戻す。

菫「…今は中途半端な情報ではないのだろう。主上に許可なく近付こうとした輩を手引きしたのが、氏んだそいつだと言うのなら」

菫「こちらがそれを辿ろうとしたから消されたと智美は思っている。だから、塞殿に頼んだ」

塞「正しい見解だと思います。確かに氏んだ天官は、夏官の兵士を迎い入れる際に強く打診を受けて招き入れた官吏達です」

276: 2014/08/22(金) 00:21:31.73 ID:7kcfjkgB0
塞「形式上は私の部下にはなりますが、私の息の掛かった者達ではなかった」

塞「だから、氏んだ時もすぐに私の耳にまで入ってこなくて。話を聞いた時は驚きました」

智美「氏因は調べる事ができましたか?」

そう智美が問うと「ええ」と塞は頷く。

塞「形式上とはいえ彼らは私の部下です。報告書に目を通す事は出来ますし、手の内の者を現地に遣わせて確認する事もできる」

塞「はっきり言えば、作成された報告書はでたらめも言い所。氏因は些細な喧嘩に巻き込まれて刺されたという話ですが」

塞「酒場の名前も場所も架空で……実際の氏因は刺氏ではなくて、溺氏だったようです」

さすがにその答えには智美も驚いたようだった。

塞「現地で聞き込みをして、川より氏体を揚げた町人達にも確認したので間違いないでしょう。やはり、口封じされたと見ていいかと」

塞「官吏が二人も溺氏したのであれば不自然だし事件性を調べられますが、喧嘩に巻き込まれた事にしてしまえば事故で片付けられる」

智美「……ほんと、汚ないことを」

保身のために仲間を頃す、そんな理不尽が通る世界なのだ……まだ、この国は。

ふと声を聞いた気がした。この国に降りてからずっと、事ある毎に菫を苛み続けている怨嗟の声だ。

と同時に、必然のように主である少女の姿が脳裏に浮かぶ。

智美は儚いと言っていた姿だが、菫からすれば、思い浮かべる姿は眩しくて目を細めたくなる。

暗い世界の中で、あの姿だけが菫にしてみれば希望に思えた。

277: 2014/08/22(金) 00:28:45.57 ID:7kcfjkgB0
こうして負の連鎖を繰り返そうとする世界を唯一、変える事ができるはずの人。

誰でもなく王としての資質を、麒麟の本能が感じ取っている菫だからそれがよく分かっている。

助けて欲しいと願うのも自然な流れで、それが国に対してなのか、民に対してなのか…

それとも自分自身に対してなのかはよく分からなかった。

ただ心の内側で落ち込みそうになる自分に触れてくれる手の平を想像した。

いつかの日に、鬣を柔く撫でてくれ温かさをまだ忘れてはいない。

顔を俯かせ、菫は自嘲気味に口角を吊り上げた。

こんな些細な瞬間にも自分はあの人に縋ろうとしている。


菫(……?)

と。思案に沈もうとする意識が引かれた。

俯き加減だった顔を上げて、菫は何もない宙を見上げる。

どこかで咲が移動し始めようとする気配を敏感に感じ取った。

今の今まで、その存在を思い浮かべていたからいつもより鮮明に感じ取っていると思う。

菫(…主上)

心の中で呼び、菫はふらりと席を立ちあがる。そして思案した。

今日の執務は自分が手伝い終わっているから、自室に送り届けて菫はこうやって智美らと自室で話し込んでいたのだ。

だから今日はあの人が外に出る用事はないはず。外出する旨も聞いていない。

278: 2014/08/22(金) 00:33:00.27 ID:7kcfjkgB0
しかし感じる王気はもはや移動を始めていた。

確かに自室から出て続く廊下を歩いている。

ゾワリと心が波立った。

智美「台輔?」

不自然に立ち上がったまま停止していた自分を不思議に思った智美が呼びかける。

宙を見上げていた顔を降ろし、智美と塞とを交互に見渡してから言った。

菫「…塞殿の話も理解した。先日、主上を助けたと言って私に不意打ちにも面通ししてきた奴も夏官だったな」

智美を見れば彼女は頷いた。菫は短く舌打ちする。

菫「思い通りに事が運ばなくて、裏からでは無く正面より取り入ろうとしているのかもしれん」

菫「私は今までの態度があるから期待していないだろうが…主上なら、本当に優しいから。その隙に付け入ろうと…」

智美「十分考えられるな。あわよくばこの先、主上の一番近くで守ることになる大僕、小臣の役目を掌握したいのかも」

智美「射人だったか奴は…そうなれば外宮でも、内宮でも主上に対する影響力が強まってしまう」

智美がそこまで言うと、側で話を聞いていた塞は「そうだったのですか」と言ってきた。

何か得心した表情を見返すと塞は答える。

塞「この頃、夏官より打診を受けていました。おっしゃった通り、主上が即位したので内宮の大撲と小臣の役目をくれと」

菫「!!塞殿」

塞「ご安心を、断っています。以前ならどうかは分かりませんが、今の状態なら私に大声を出して圧力は掛けられない」

塞「それに、それらの役目を任す人材は私の信の置ける者と決めています。もちろん台輔にもお目通りさせますし……」

塞「この国の王を守るのですから、不確定な輩は許せない」

意外にも強い塞の言い様に菫は少しだけ驚いた。

279: 2014/08/22(金) 00:37:26.52 ID:7kcfjkgB0
終始物腰の穏やかな官吏に見えたが、譲れない芯があるのだと気付く。

塞「それに、その役目を任そうと思う者は私なりにきちんと見つけていますので」

菫「え?」

塞「落ち着いたら、お目通りさせます。…一人、少々口が悪すぎるかもしれませんが、根は良い人ですので」

そう言って塞はにこりと穏やかに笑った。

智美「何となく話は通ったかな。取りあえずはこの案を落ち着かせないと塞殿の話も詳しく聞けない。まずは煩い外野をどうにかしないと」

塞「同感です。しかも台輔にまで近づこうとしているのでしたら、もう形振り構ってられない状態なのかもしれません」

智美「そうやって尻尾を出してくれればいいんですが」

しみじみと智美が呟くと「そうだな」と菫は相槌を打った。次いで塞に向き直る。

菫「ここまで折り入って話をしたのだから。もはや貴方に対して信頼した、と言っておく」

ちらりと背後を向けば智美が薄ら目を細めて笑っていた。反対しないという態度。

そうでなくても、今まで会話を交わして菫も肌で感じている。塞は誠実な人格者だ。

塞「勿体無いお言葉です。今まで力になれなかった分、お役に立てるよう勤めます」

菫は頷いた。そして徐に歩き出すと、そのまま部屋を横切ろうとする。

智美「台輔?」

智美の呼ぶ声に、辿り着いた部屋の扉を押しながら菫は振り返った。

菫「すまないが、確かめたい事ができた。智美、後は任せてもいいか?」

280: 2014/08/22(金) 00:41:44.05 ID:7kcfjkgB0
そう言いながら菫は一瞬だけ宙を見上げる仕草をした。

それだけで、不思議そうにこちらを眺めていた智美も気付いたようだった。

智美「分かった。今の話をもう一度、塞殿と確認してみます。報告は後日でよろしいですか?台輔」

本当に、こんな時の智美の物分りの良さは有難いと感じる。

菫「ああ、それでいい。途中だが失礼する。…塞殿もこれから、宜しく頼む」

すぐに「御意」と一礼を返す塞を見届けてから、菫は押した扉の向こうへ体を滑らせた。

背後でパタン、と扉を閉めて……再び何もない宙を見上げた。

けれど菫には辿る気配がはっきりと見えている。

どこに?

不安が胸中を掠める。

あの人は自分の立場が分かっているのかと、腹立だしくも思えた。

今まで心配してしまうような話をしていたから尚更だ。

一歩を踏み出す。辿ろうとする気配は移動していた。

それを追いかけるように……菫も人気の無い通路を歩き始めた。



■  ■  ■


287: 2014/08/28(木) 22:05:05.59 ID:FtyvC5bj0
純「意外だな」


その短い言葉が何に対して言ったのか咲は分からなかった。

だから何の事ですかと反応しようとしたが、その前に伸びてきた純の腕に自らの手を掴まれる。

そのまま軽く持ち上げられ、手のひらを無遠慮にまじまと眺められている。

咲「純さん?」

じっと手のひらを見下ろしていた純がもう一度「やっぱ、意外だ」と同じ言葉を繰り返す。

咲「何がですか?」

純「いや、苦労してきた手だなって思ったんだよ」

純「咲は官吏だろう?官吏なんて、苦労も知らず部屋の中で勉強ばっかやってきた奴らだと思ってたから……」

そう言いながら、何気に手の平上を純の指が擦った。

古傷だろうか。ピリ、とした懐かしい痛みを咲も思い出す。

咲「ああ、」

得心して頷いた。

純の指摘通りだ。咲の手は少し前まで商家の下働きとして酷使されていたものだ。

体に不釣り合いな重いものを持ったり、冷たい水で作業したり。

288: 2014/08/28(木) 22:08:11.55 ID:FtyvC5bj0
あの頃に手に無理をさせてできた古傷や凍傷の痕のせいで、本来の手の形よりも若干歪に見えた。

ふと咲は考え込む。

純に指摘されるまで気付かなかったけれど。

数刻前にこの手を彼女と同じように取ってくれた、この身の半身である彼女も気付いていたのだろうか。

彼女の真っ直ぐな姿勢、それと真面目な態度とが咲の脳裏に浮かぶ。

堅い声質はいつもと変わりなかったように思うけれど。

あの時は、自分も陶器を割ってしまって焦っていたので菫の反応を気に掛ける事はできなかった。

けれど今の純と同じく気付いていたのかもしれない。

彼女の白磁のような綺麗な手とは違う。

こんな歪な手を取って、何か思ったのかもしれない。

咲「………」

また、いらぬ事を考え込んでしまいそうだな、と咲は思った。

純「咲?」

上から降ってきた声で現実に帰る。

289: 2014/08/28(木) 22:11:01.69 ID:FtyvC5bj0
咲「すみません。ちょっと自分の行動を振り返っちゃってました」

純「自分の行動を振り返る?…咲、お前ほんとここの妖怪みたいな官吏共とは違ってんな」

純「あ~…大丈夫か?真面目過ぎると周りからいらん面倒事押し付けられてそうだ」

歯に着せぬ純の言い様に咲は苦笑いを浮かべる。

すぐに首を左右に振ると、咲は大丈夫ですと伝える。

咲「面倒事ぐらいは別に。これでも打たれ強さには自信があるんです」

咲「でも、反対に私を助けようとしてくれる人達には……どうしていいか分からなくなる時があります」

純「なんだ、それ?」

純の怪訝な声を聞いて、咲は苦笑を浮かべたままに答える。

咲「恥ずかしい話ですけど、私は今までそんな経験が本当に無くて。助けてくれるのなら報いたいとは思います」

咲「せめて力になりたいのですが…どうにも空回りしちゃって。…謝ってばかりです」

純「………」

先ほどまでの気安い純の雰囲気はいつの間にか消えている。

じっと咲の話を聞いていてくれた彼女は、まだ手に取ったままの咲の荒れた指先を見下ろしながら言った。

純「まぁ細かくは聞かねぇけど。やっぱり苦労してきたんだな、お前は」

290: 2014/08/28(木) 22:14:06.32 ID:FtyvC5bj0
純「俺もここに来るまでは色んな辛い事があったけど。きっとお前がここに来るまでも色んな事があったんだろうな」

純「この手を見るだけでも分かるしな。金とコネだけで入ってくる奴らとは違うんだって」

咲「いえ、私は…」

だが咲は続く言葉は言えない。

自分の立場を、何も知らぬ純に上手く伝える自信もなかった。

純「……ま、お前みたいな奴がいるだけでここもまだ捨てたもんじゃないなって思えるからな」

咲は目を見開く。

咲「純さん、それは違うと思います」

身に余る評価に、困惑で声が硬くなった。

咲「私は何もしていないんです」

むしろ何も出来なくて悩んでいる。助けてもらってばかりだ。

だが、咲の言葉を聞いた純は余裕を滲ませながら「馬鹿だな」と笑う。

純「これから何かをするために、ここにいて、お前は頑張ってんだろう?」

咲「………」

純「その姿勢が大事だと思うぜ。こんなご時世だからな」

291: 2014/08/28(木) 22:17:35.65 ID:FtyvC5bj0
純「ここで、一人でもそんな姿勢の奴がいる事が分かっただけでも、この国はやり直せるんじゃねぇかって」

純「きっとようやく起って下さった主上にも届く。変わっていけるって。そう思うぜ」
 
その言葉通りなのか、伝わってくる純の言葉に咲の心が震える。

彼女はきっと何気なく言っている。

だからこそ本心であると思うし、咲も気付かされる。

無意識に呟いていた。

咲「貴方も……私を、助けようとしてくれる?」

純は咲が王である事を知らない。

けれど純の言葉は、王の立場にいる自分に向かって言われているような気がした。

途端、咲の胸が窮屈に締め付けられる。

ここにやって来るまでは知らなかった、誰かに必要とされる空気。

純の姿が一瞬、自らの半身に見えた。

例え必要以上に堅い態度で接していても、

その実いつもこの身を支えようとしてくれているのを知っている。

292: 2014/08/28(木) 22:21:14.04 ID:FtyvC5bj0
咲「でも…すみません。私は」

何も、返せない。

果たしてその言葉が、隣に座る純に言ったのか、今まで自分を支えてくれた人たちに向かって言ったのか。

……それとも、この身をいつでも支えようとしてくれる半身に向かって言いたかったのか。

多分、全て同じ想いではあった。


ふと、そのまま続くはずだった咲の言葉は途中で途切れる。 

なぜなら不意にまだ掴まれたままだった指に力が籠ったからだ。

不思議に思った咲が掴まれた先を自然に見上げれば、

純は少しだけ困ったような顔をしていた。

んー、と。言葉を探しているような彼女の気配は数秒。

純「咲はさ、真面目過ぎだな。そんな難しく考えなくてもいい、もちろん俺に謝る必要も無い」

純「俺は軍にいて酷い奴らを随分と見てきた。だから成り行きで辿り着いたここも、同じような奴らばかりなんだろうなって思ってた」

純「そのせいで、この国は駄目なんだってな。救いようがねぇって。でも違った」

咲「……」

293: 2014/08/28(木) 22:24:47.89 ID:FtyvC5bj0
純「ここに俺を呼び寄せた…上司になるのか。あの人は」

純「偉いんだけど、俺なんかより何倍も悩んでて、必氏にここを変えようとしてる」

純「このままじゃ駄目なんだって…咲も同じで、悩んでんだろう?なら捨てたもんじゃねぇ」

純「この国のために悩んでいるお前らだからこそ、俺にできることがあるなら助けてやりたい」

咲「純さん…」

呼ぶと、彼女は照れ臭そうに笑う。

純「俺の勝手だよ、気にすんな。一度はさ、どうでもいいと思っていた時もあった」

純「軍からも切られて、腐れ縁と一緒に根無し草になっても別にいいか、とかな」

純「……でも、あの人や咲のお陰でもう一度、俺ができる事があるのなら、ま、やってみようかって」

けど俺のできる事といったら剣を振り回す事ぐらいだがな、と。

後腐れを匂わせない、気持ちの良い純の言い様だった。

咲はふっと肩の力が抜ける心地がした。

純が言っていた事。

自分ができる事があるのならやってみようと彼女は言っていた。

もしかして、自分もそれでいいのではないか。
 
ふと脳裏に菫の端正な顔が浮かぶ。

身が引き締まる心地は変わらない。

294: 2014/08/28(木) 22:27:51.66 ID:FtyvC5bj0
そうか、と咲は思う。

自分は何も知らぬ癖に。能力もない癖に。

あの高潔な人の姿勢に無理に合わせようとし過ぎていたのではないか。

緊張して、それで失敗して後悔して…

何もできない自分を恥じて、王としての重圧に潰されそうになっていた。

身動きがとれないと思い込み、勝手に苦しんで、盲目になっていた。

でも今、そんな自分に気付く事ができた。

違うのではないかと純が教えてくれた。

ならば何もできない自分を受け入れて、その姿勢のままに半身に向き合えばいいのではないか?

もしかしたら、彼女は今以上に呆れてしまうかもしれないけれど。

それでも咲は菫と正面から向き合いたい。

今までは自信が無いと伏せていた頭を上げて、彼女の瞳をしっかり見上げて。

この気持ちの変化を伝えてみたい。

咲は初めてそう思う事ができた。

295: 2014/08/28(木) 22:30:03.20 ID:FtyvC5bj0
何もできないかもしれないけれど。

それでも今自分にできる事を探してみたいと咲は思った。

ジンと胸の内が熱くなった。

何か霧掛かっていた目の前がやっとで開けたような心地。

純「咲?」

突然物思いに耽ってしまった咲を、純が不思議そうに見下ろしている。

彼女に視線を返しながら、咲は改めて純の事を不思議な人だな、と思った。

純はこの宮中においては稀有な気質の人間だ。

矜持が高い官吏達のように凝り固まったものを感じない。

気安く話し合える空気は、よく咲を助けてくれる智美に近い気がした。

彼女に励まされたな、と思う。

きっと自分よりも遥かに世間を知っていて、思考の溝に嵌っていた咲を掬い上げてくれたから。

296: 2014/08/28(木) 22:33:46.06 ID:FtyvC5bj0
咲「すみません、心配してくれて」

素直に伝えると、純は今まで掴んでいた咲の手のひらを開放する。

と、自由になったその腕を伸ばして不意打ちにコツン、と咲の頭部を軽く叩いた。

揺れる視界。全然痛くはなかったけれど意味が分からず、

小突かれた箇所を手の平で覆いながら咲は首をかしげた。

見返す先の純は目を細くすると「言っただろう」と突っ込んでくる。

咲「???」

彼女に教えてもらった事がたくさんありすぎて、今の指摘が何を指示しているのか咲には思いつけなかった。

すると苦笑しながらも彼女は素直に教えてくれる。

純「俺に謝るなって言っただろう?」

お前のそれは、むしろ癖のような気がする、と。

純から鋭い指摘を受けて、咲はまたもや純に気付かされてしまった。

確かに今まで自分は反射的に謝罪を口にしていた気がする。

純「心配はした、少しな。お前、会う度に落ち込んでいるように見えたから」

純「でも、話しができて少しでも気は晴れただろう?」

咲「………純さんは、すごいですね」

純「はん、伊達に性悪達に揉まれてきてねぇからな」

彼女は簡単な事のように言い切る。

すっきりした物言いは本当に気持ちがいい。

297: 2014/08/28(木) 22:36:50.78 ID:FtyvC5bj0
そうか…時には純のようにはっきりと意見を伝える事も必要なのだ。

下働きをしていた頃は横暴な主人より叱られないため下ばかり見て、誰とも向き合おうとせずに生きてきた。

変わらなければ。

相手の機嫌を窺うためにすぐに謝罪を口にするのではなくて。

素直な気持ちを声にして吐き出してもいいのだ。

咲は改めて純を見上げる。

たった数回彼女と会話を交わしただけでも沢山の事に気付かせてくれた。

咲「ありがとうございます。純さん」

自分でも驚くぐらい、はっきりとした口調で咲は言った。

相手の顔色を窺うでも無く、自然に心の内に沸いた気持ちを相手の目を見て伝える事ができたと思う。

言われた純は面食らった表情をした。

が、余韻をたっぷりと享受した後、彼女らしく軽い仕草で「ああ」と笑った。

そして咲は立ち上がる。

まだ隣で座っていた純へと、心に決めた事を伝えた。

彼女は感慨深く押し黙っていたけれど。

そうか、とやはり彼女らしく受けいれてくれた。

303: 2014/09/04(木) 20:17:33.58 ID:VShx3KRb0
純「残念だが、決めたんだろう?」

咲「はい。純さんのお陰です。自分にできる事を探して、少しでもやってみようと思います」

純「………」

咲「今まで下を向いてきた分、今度は上を向いて」

咲「必氏になってやってみようと思います。だから……暫くはお会いできません」

純「なら俺がどうこう言えるはずもない。それにな、今生の別れって訳でもないよな」

純「出世しろよ、咲。ここで互いに生きていくのならいつかまた会える日がくるだろうから」

咲「…ええ、必ず。すぐには無理だと思いますが、それでも……」

咲「絶対に、またお会いしましょう」

咲が言い終えると、純も立ち上がる。

見下ろした視線が自然上を向く。

咲は見下ろしてくる彼女の視線を逸らさない。

304: 2014/09/04(木) 20:20:32.33 ID:VShx3KRb0
純はどこか楽しそうに笑うと、徐に片腕を差し出してきた。

こんな事をされたのは初めてだったけれど、

彼女が何をしたいのかは分かった。

差し出された腕に向かい自然に咲も腕を差し出す。

純「頑張れよ」

言われ、手の平をぎゅっと握られる。

咲「純さんも」

声に迷いは無い。

握られた手の平を、咲もしっかりと握り返してから。

深く頷いて見せた。


■  ■  ■



305: 2014/09/04(木) 20:23:56.43 ID:VShx3KRb0
神獣である麒麟の特権だ、唯一の王である存在の気配を辿れるのは。

駆け付けた先に立つ主の姿を見つけた瞬間、驚いて自然に足が止まった。

咲は一人ではなかった。

隣に立つ長身の女性の姿が見えた。

菫の記憶の中には無い。

自慢ではないけれど、菫は一度見た人間の顔を忘れる事は無い。

その記憶の中にあの女性がいないという事に不信感が募った。

なぜ咲と一緒にいるのか分からない。

菫は素直に混乱を覚えた。

だから変に途中で立ち止まってしまったのがいけなかったのだと思う。

本来なら主に所在が分からぬ怪しい人物が近づいているのだから、

僕としてすぐに助け出さなければいけなかった。

使令に命じなければいけなかったのに、あの方を守れ、と。

だけど菫が使令に命じようとした瞬間見えた光景に、そんな思考は綺麗に止まってしまった。

306: 2014/09/04(木) 20:27:56.14 ID:VShx3KRb0
見つめる先の主は、隣に立つ女性を見上げながら笑っていたから。

それも会話を交わし、長身の姿をしっかりと見上げていて。

菫の気のせいでなければあの人は本当に楽しそうに笑っているように見えた。

だから気付かされる。

ここへと無理に連れてきて、咲が菫の前であんなに砕けて笑ってくれた瞬間があっただろうかと。

多分笑いかけてくれた事はある……けれど。

それはいつだって俯き加減で、どこかこちらを窺うような張り付いた笑顔だった。

今、菫が見つめる先のように。

心の底から楽しそうに笑う咲の姿など、菫は見たことがないのだと気付いてしまった。

途端言い知れぬ痛みを胸に感じる。

思わず両腕を胸の前で交差させて、そのまま体を抱きしめる。

沸々と湧き上る衝動を抑え込もうとする。

慈悲の獣には大凡似つかわしくない感情。

矜持の高い官吏達に罵られても抱いたことがない痛み。

無意識に薄ら開いたままだった唇を噛みしめていた。

307: 2014/09/04(木) 20:32:49.88 ID:VShx3KRb0
目の前では相変わらず笑いながら一言、二言、言葉を交わしている姿がある。

それが一段落したのか、咲の隣に立つ女性が咲に向かって何気なく腕を差し出した。

王に向かって礼儀も何も感じられない。

不敬罪で処断されても文句は言えないだろう。

なのに差し出された側の主は、気を悪くした風もなくそれを快く受けて女性の手のひらをしっかりと握り返した。

そこに何か自分が羨むものが見えたような気がして、菫は眩暈を覚える。

彼女らが近い距離だと感じたのはきっと嘘じゃない。

あの人は、天が定めた半身であるこの身を見上げてもくれなかった癖に。

どこの馬の骨とも分からぬ女性をしっかりと見上げて、

心からの笑顔を浮かべているのだと菫は分かってしまった。

悲しいのか、悔しいのか。

もはや菫にも良くわからない。

湧き上がる衝動を抑え込むのに精一杯だった。

こんな激情が胸中に巣食っていたのだと今、気付く。

308: 2014/09/04(木) 20:38:41.17 ID:VShx3KRb0
命じた訳でもないのに、背後に伸びる影より這い出てくる気配を感じた。

それは完全に姿を現すと、固まって動けない菫の傍らへと寄ってくる。

『台輔、お心を鎮めて下さい。そのままでは御身を損ないかねません』

どうか、と心配する女怪の声に一瞬、正気が戻る。

噛みしめていた唇を解くと、見つめる先の姿達が動くのに気付いた。

彼女らは手堅い握手を交わすと、また短い会話を交わす。

そして、何かを得たように頷き合うと、互いに背を向けて歩き始めた。

見知らぬ女性は外宮のどこかに戻っていくのだろう、更に奥へと消えていく背を見送る。

対して咲は踵を返し、内宮へと続く道を歩き始めた。

つまり立ち止まっていた自分がいる方向に、だ。

思わず片足が後ろに下がった。

菫はここであの人に鉢合わせするのは嫌だと思った。

だって無様にも盗み見していたようではないか。

そんなの菫の矜持が許さないし、この動揺が酷い顔を見られたくもなかった。

309: 2014/09/04(木) 20:42:49.08 ID:VShx3KRb0
少しの時間でいい、あの人と向き合う気持ちを落ち着かせたい。

だから菫も同じように踵を返すと、先に内宮に向かい駆け出そうとした。

その際、寄り添う女怪へと小声で命じる。

菫「あの女を追え、素性を突き止めるんだ。主上への礼を欠いた態度、見過ごす事はできん」

『仰せのままに。ですが、台輔はどうなさいます?』

菫「………」

一拍、置いた間は不自然だったかもしれない。

だけど女怪は他にいらぬ事も言わず、菫から返ってくる言葉をじっと待っている。

観念して菫は早口に言葉を返した。

菫「……主上と話をする。言って訊かせねばならぬだろう、ご自分の立場を分かっていらっしゃるのかと」

それは菫というよりは、臣下として、僕として。

半身としての責務だ。

間違ってはいない。正当な役目だ。

310: 2014/09/04(木) 20:47:56.83 ID:VShx3KRb0
女怪は頷いた、けれど控えめではあるが言ってくる。

『どうか余り強くお言いにならぬよう。主上も、台輔も辛いことになりましょう』

菫「お前……」

菫の言葉が濁る。

なにか、この内の衝動を見透かされたような心地がした。

バツが悪くなって顔を顰めるが、それでも心配してくれる女怪に向かって頷いて見せた。

菫「分かった……落ち着いて話すから」

頼む、と短く言うと、女怪は頭を深く垂れると地の底へ消えて行く。

それを見届けてから菫は早足で駆け出す。

巡る通路の光景の中、落ち着けと波打つ胸中を叱咤する。

女怪とも約束した。…冷静になって向き合おう。

内宮であの人を迎えるための心構えが必要だ。そして言わねばならぬ。

絶対に、分かってもらわねばならぬのだと思った。


■  ■  ■



320: 2014/09/11(木) 19:49:46.23 ID:DA/NbZu80
純と別れた咲は内殿を過ぎ内宮へと急ぐ。

そのまま王の居宮である路寝へと辿り着いた。

今日の咲の執務は終わっているから、みんなは咲がずっと正寝にいたと思っているだろう。

いなかった事が分かれば、また智美なんかは酷く心配してくれるに違いない。

それはとても心苦しいので早く居室へと戻らねばと思った。 

ここには菫や智美が信頼する者達だけを置いているから人は少ない。

事実、路寝に入ってからここまで咲は誰一人会う事は無かった。

戻ろうとしている自分にしてみれば好都合ではあったが。

だけど進む先の壁際にある扉が一つ、まるで咲が通るのを待っていたかのように開く。

その前を通り過ぎようとしていた咲が思わず立ち止まったのは、開いた扉から不意に現れた姿に驚いたから。

路寝に彼女がいるのは可笑しい事ではない。

路寝には王の居宮である正寝とは別に、台輔である菫の居宮である仁重殿もあるのだから。

ただ咲にしてみれば内緒で戻ろうとしていた時だったから、

不意打ちに出会ってしまってあからさまに動揺してしまった。

咲「……っ」

自然に挨拶でもすればよかったのかもしれない。

けれど扉から出てきた菫が、なぜか射るように見つめてきたものだから開いた口は委縮して閉じてしまう。

321: 2014/09/11(木) 19:54:54.15 ID:DA/NbZu80
変だ。何か菫はいつもとは違う感じがした。

姿勢を正して佇む姿、真面目な雰囲気は見慣れたものだ。

が、それに輪をかけて、今咲の目の前にいる彼女からはピリピリした緊張が伝わってくる。

思わず顔が下を向きそうになるのを必氏に耐えた。

先ほど変わろうと決意した心を忘れてはいない。

このまま人気のない通路の途中で、無言で向き合っている訳にもいかないと思った。

菫だってたまたま用事があって仁重殿から出てきた所に、

咲と鉢合わせしてしまっただけなのかもしれない。

なら下手に真実を彼女に告げていらぬ心配をさせたくないと思った。

行動は決まった。咲から挨拶を交わして、今は彼女をこの空気から解放すればいい。

咲は半身の名前を呼ぼうと口を開いた。が、
 
菫「どこに行っていた」

咲が喋ろうとした気配は伝わっていたと思う。

けれどそれを断ち切るみたいに鋭く言われたから。

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

咲「………」

薄ら唇を開いたまま、本来伝えようとしていた言葉は綺麗に脳裏から消えてしまう。

そんな動揺を見せた咲を眼前に立つ菫はどう思ったのか。

更に畳み掛けるように彼女は言ってくる。

菫「今までどこに行っていたのかと、聞いているのだが?」

ぞわり、と心臓が竦んだ気がした。無意識に口角が引き攣る。

この瞬間に的確に指摘してきた菫の、その意図をどう推し量ればいいのか。

322: 2014/09/11(木) 19:59:23.33 ID:DA/NbZu80
まさか、咲が誰にも言わず内宮を抜け出していたことを彼女は知っている?

その可能性に行き当り、素直に肝が冷えた。ぶわりと額に冷たい汗が浮く。

咄嗟に言い繕わねばと思った。

なによりこれ以上、菫に嫌われるのを恐れた。

咲「私は…」

菫「主上。その前に一つ、聞き知って頂かねばならぬ事がある」

また被せるように言葉を遮られたから咲は口を噤むしかない。

淡々とした菫の声は続く。

菫「改めて伝えた事はなかったが。王と麒麟とは天が定めた特別な繋がりなんだ」

菫「麒麟はな、唯一主人である王の居場所を、その王気でもって辿ることができる」

咲「え?」

思わず間抜けな声が出た。対して菫はそんな咲の動揺など見越していたかのように冷静だ。

菫「覚えはないか?貴方がどこにいようとも私は会いに行っていた」

菫「その際、私は第三者に主上の居場所を尋ねたことは一度もない」

何故ならそんな事をせずとも麒麟である菫には主の居場所を自力で探し出す能力があるからだ、と。

今度こそ本当の意味で咲の心臓は竦んだ。

そういえば、そうだったかもしれない、と…間抜けな話だが、今頃咲も思い出している。

初めてここへと連れて来られた時に、自分は不思議に思ったではないか。

誰にも見つからず逃げ出したはずのこの身を、菫はすぐに追いかけてきた。

323: 2014/09/11(木) 20:03:55.55 ID:DA/NbZu80
目の前の半身のいつも以上に堅い態度。

むしろその瞳には苛立ちと怒りとが混ざっているような気がした。

確定的だ、だから今この瞬間菫が絶妙なタイミングで咲の前に姿を現したのも麒麟としては当たり前なのだ。

彼女は事実、ここで咲を待っていた。

咲「…じゃあ……」

震える咲の声を受け菫は浅く頷いた。そうだ、と首を縦に振る。 

菫「もう分かっている。貴方が軽薄にも供の者も連れずに、勝手に内宮より抜け出していた事はな」

咲「………」

咲は返す言葉が無い。菫の指摘は間違っていなかった。

主に滲む動揺は、菫の意見に対する肯定と考えてもいいだろう。

だから改めて、菫は咲に向かって言う。 

菫「主上。私はもとより智美からも幾重に渡って言われていたはずだ」

菫「貴方はこの才州国の王だ。長く不在だった玉座をようやく埋めてくれた」

菫「その事がどんなに重要な事なのか、本当に分かっているのか?」

その両肩には、もはやこの国の民の命運が掛かっているのだ、と。

咲「わ、私は……」

叱責されて、その声に動揺が滲むのは彼女が責める菫に対して後ろめたさを感じているからだろう。

でも菫は畳み掛ける言葉を緩めない。

菫「宮中といえど、王朝の始まりは即位したばかりの王にしてみればまだ安全とは言えん」

菫「だからこそ私達も貴方を守るために慎重に事を運んできたつもりだ。ついこの前も襲われかけた事件があったはずだ」

324: 2014/09/11(木) 20:07:46.36 ID:DA/NbZu80
菫「なのに何故こんな時に、不用心にも誰にも告げずに外宮へと出て行った?」

朱色の瞳には動揺が滲んでいる。それが菫を見上げながら苦しげに細められる。

と、咲は何かを耐えるように下を向いてしまった。

つまり今、咲は菫を見ていない。…そんな現状にじわりと胸中に抑え込んでいた衝動が蠢いた。
 
咲「……じっと、してはいられなかったんです」

細い声で、ぽつりと咲が呟く。

咲「みんな、私を助けてくれます。もちろん菫さんも」

咲「でも、私は?王だと言われても……私は他の誰よりも、世界の条理も人の情理も知らない」

咲「……どうしても、自信が持てなかったんです」

菫「……………」

咲「焦りは日々募っていきました。でも貴重な時間を削ってまで私を助けようとしてくれる貴方達に、これ以上無理を言えるはずがない」

咲「何よりの急務は、この国を立て直すことなのだと。それぐらいは私にも分っていましたから」

咲「だから……自分で動くしかない、と思ったんです」

苦悶に満ちた主の言葉。でも、だからこそ菫の内なる衝動も大きくなる。

一瞬、脳裏に心配して言ってくれた女怪の言葉が掠めたけれど。

抑え切れない。菫の返す言葉に怒気が混じった。

菫「それで貴方は秘密にしていたのか?周りにも、智美や……私にさえも」

咲「……すみませんでした」

菫は頭を振る。違う、謝って欲しいんじゃない。

菫「私が許せないと思うのは、その癖どこの誰かも知らぬ奴に対して貴方が……心を許していたから」

あの時。菫が遠くから見ていても、笑い合う彼女らの雰囲気が伝わってきて。

その距離の近さを痛感させられた。

325: 2014/09/11(木) 20:13:41.09 ID:DA/NbZu80
思わず縋るように腕が伸びた。主の両腕へと掴み掛かる。

腕を掴まれた衝撃で吃驚したのだろう、俯いていた咲の顔が再び上がる。

朱色の瞳を再び見下ろしながら、菫は胸中に渦巻く衝動を吐き出す。

菫「そこまで悩んでいたというのなら、なぜ貴方は私ではなく、あんな知らぬ奴を」

咲「す、菫さん、何を」

動揺は消え、濃い困惑がその瞳に宿った。だが菫の言葉は止まらない。

菫「あいつは誰だ?」

咲「……っ!」

ようやく咲も菫が誰の事を尋ねているのか気付いたようだった。

菫「見慣れない顔だ、つい最近やってきたのだろう。そんな素性も分からぬ奴をなぜ貴方は警戒しない!?」

咲「違います、菫さん。あの人は、そんな人じゃないんです」

焦って言い返してくる咲の姿に菫は更に苛ついた。腕を掴む力が無意識に強くなる。

菫「なぜ断言できる?もしかしたら王である貴方の正体を知っていて、本心を隠し取り込もうと近付いてきたのかもしれない!」

咲「あり得ません!あの人は私が王だなんて知らない…私を新米の官吏だと思っていて、心配してくれて…」

それだけなんです、と咲は必氏に言い募るがそれを素直に受け入れられるはずもない。
 
菫は王であるこの人を守らなければならない。

それはこの人が起つまで長く苦しんできた民のためであり、この国の麒麟としての菫の責務だ。

326: 2014/09/11(木) 20:21:05.01 ID:DA/NbZu80
王が玉座にいるだけでも、妖魔の出現を抑え、氏んだ大地は生き返る。

もはや王が不在だった混沌とした時代に舞い戻る訳にはいかない。

故に、今まで細心の注意を払ってきた。

前王から続く奸臣はまだこの宮中には多い。

思い通りにならないと分かれば王がいない時代に戻ってもいいのだと言い切る下種もいるはずだ。

だから菫も智美も、せめて内宮の路寝だけでも人事を綺麗にしようとした。

信に足る者だけを招き入れたのは、この人を危険から遠ざけるためだ。

なのに、その守ろうとしていた本人が安全な場所から一人抜け出していたとう事実に憤りを覚える。

…………いや、それは建前だ。

もちろんそれも大事だけれど。

菫の中に生まれてくる衝動は、その憤りだけで済まされるものではない。

分かっている、菫は麒麟としての建前より何より悔しくて悔しくて堪らないのだ。

こうして詰め寄って、主の口から直に聞いてしまった。

責め立てても、この人は見知らぬ女を悪くないのだと必氏に庇っている。

そこにはあの時遠くから垣間見た、彼女らの信頼の成せるものなのだろう。

互いに笑い合っていた姿。

悔しいが菫が咲と出会ってから今まで、あの時のようにこの人が心から楽しそうに笑っている顔を一度も見た事がない。

あの女なら良くて、自分では駄目な理由はなんだ?

327: 2014/09/11(木) 20:27:03.47 ID:DA/NbZu80
王と麒麟は一心同体だ、けれど……今の菫はそんな自信が無い。

麒麟なのに、この人の一番近くにいないのでないかと疑ってしまった。

その事実に気付いてから胸の内の痛みが酷くて、菫は衝動に突き動かされそうになる。

主の細い腕を掴む二の腕が小刻みに震える。

その動揺は、振動となって繋ぐ腕より咲にも伝わっている。

咲「!!……震えて……菫さん、大丈夫ですか!?」

心配そうに見上げてくる顔を、目を細めて菫は見下ろす。

眉間には皺が寄っていて、きっと今の自分は酷く苦い表情を浮かべているだろう。

その癖こうして自分に少しでも心を砕いてくれる咲の姿に歓喜を覚える。

様々に生まれてくる感情が胸中で渦巻いていて……慣れない菫はもはや対応しきれない。

菫は咲を掴んでいた腕を解き放つ。

それから瞼を閉じ、呻くように、本心を吐き出した。


菫「もう、いやだ」


咲「―――…」

328: 2014/09/11(木) 20:42:54.68 ID:DA/NbZu80
ただこの痛みより解放される術を知りたい。

唯一この人だけだ。こんなにも自分の感情を良くも悪くも揺さ振ってくれるのは。

咲と出会う前の自分からは想像もできない程の激情を胸の内に抱えている。

それが時として、酷い痛みを伴って菫を苦しめてくれるから。


瞼を閉じた暗い世界はただ静かだった。

それからどれくらいの時間が過ぎたのか、多分数秒のものだろうけれど。

菫にしてみれば何時間にも何十時間にも感じた。
 
ふと、目の前の気配が動いた。

流れる空気の変化を肌が感じ取っている。

そして菫は、感情を欠いた、瞼の裏側の暗闇と同じぐらい静かな声を聞いた。


咲「 ごめんなさい 」


重い瞼を上げる。

菫の目の前は開かれていた。

今まで確かにいたはずなのに。

咲の姿は、そこから綺麗に消えてしまっていた。


■  ■  ■


338: 2014/09/18(木) 19:58:25.15 ID:xLbMrHmM0
葉が水面に落ちて、そこに波紋が静かに走った。

幾重にも続くそれは次第に小さくなっていき…

時間が経つと、水面の上には落ちた葉だけが水流に浮いている。

微かにゆらゆら揺れるそれを、咲は何を思うでもなくぼうっと眺めていた。

取りあえず、人のいない所に行きたかった。

それで走り続けて辿り着いたのは宮中から続くどこかの中庭だ。

更に人が来ない場所を探して中庭の生い茂る木々を突き抜けていく。

すると、開けた場所に出た。

今まで駆けていた足が緩み、ついには立ち止まる。

そこは誰の気配もない静かな所だった。

多分、昔には使われていたのだろう小さく古びた東屋のような建物があり

その近くには水を湛えた池があった。

きっと使われなくなっても庭師が手入れだけはしていたのだと思う。

東屋も池の周囲も荒れているようには思わない。

339: 2014/09/18(木) 20:01:52.77 ID:xLbMrHmM0
走った事で乱れていた息を整えながら、東屋を過ぎ小さな池の縁へと辿り着く。

そこを囲むように置かれている手頃な岩の一つを見繕い、腰を降ろした。

芝生の上の爪先を暫く眺め、次に、背後に広がる池を眺めた。

近くに生える背の高い木から時に落ちてくる葉が池の水面を揺らす。

それを、どれくらい眺めていたのだろうか。

ただここから動く気にはなれなかった。

しかし思っていたよりも心は落ち着いている。

いや、色々な想いを突き抜けてしまっているといった方が正しいのかもしれない。

ただこれ以上、何かを考える気にもなれなかった。

だって、今更何をしても結果は変わらないだろう。

咲「………」

波紋が走る水面を眺めながらも……それだけは理解していた。

恐れていた瞬間だったが、迎えてみればあっけないものだ。

340: 2014/09/18(木) 20:06:06.14 ID:xLbMrHmM0
菫は咲に向かってしっかりと拒絶の言葉を吐き出した。

いやだ、と。

忘れたいが、あの言葉もそれを言った姿も咲の胸の内に焼き付いてしまっている。

顔を上げて向き合おうと…そう決心した矢先の事だったが。

もう全てがどうでもよくなってきた。

だって、自分は遅すぎたのだ。

悩むのも、気付くのも、決めるのも、全て。

それでどれ程あの半身を苦しめてきたか、思い知らされたような気がする。

あんな苦しげに言葉を吐き出す程に、自分は菫を追い詰めてしまっていた。

咲は小さく息を吐き出す。

これからどうするべきだろうか?

今更、今までのように上辺だけでも付き合う事はできない。

だって咲はそんなに強くはないのだ。

いやだと存在を拒絶されてまでここに居座る図太さも無い。

むしろ、解き放ってあげたい。

341: 2014/09/18(木) 20:11:04.55 ID:xLbMrHmM0
ふと数日前に書房にて眺めた書物の内容を思い出す。

国の成り立ち、構成、国が運営されていく過程が書かれていたその書物には、

王と麒麟の関係も記されていた。

麒麟が王を選び、治世が正しい限りはいつまでも栄える。

反面、悪政を敷けば半身である麒麟は失道し、王が改心せねば麒麟は氏に王も氏んでしまう。

そして、こうなのだという。

王は、王を神にした麒麟を失えば必ず氏ぬ。だが、麒麟はそうではない。

麒麟は王が氏んでも氏にはしない。

王が悪政を敷いて改心せねば、失道で氏んでしまうだろうが。

その前に、王が位を天に返上して氏ぬか、または弑されれば麒麟は生き残る。

そして麒麟はまた次の王を探せる。

健全ではない考えが頭を過ぎる。

むしろそれが一番いいのではないかと思えてきた。

咲「私が…王をおりれば…」

ぽつりと呟いた瞬間。

342: 2014/09/18(木) 20:21:58.70 ID:xLbMrHmM0

『早まった考えはお止め下さい。台輔が悲しみます』

水面に走る波紋を眺めていた視界を見開く。

感情を含まない、淡々とした声だった。

が、咲にしてみれば聞き覚えのない声だ。

思わず水面より視線を上げ、そのままぐるりと周囲を見渡してみた。

咲「……?」

そこは、相変わらず咲しかいない。

こじんまりとした静かな空間に、他者の気配は感じられない。

けれど確かに声は聞こえた。

しかも、すぐ側から聞こえたような気がした。

でも視界の先には誰もいないのだ。

一体、どこから?

不安な心地になった頃に、もう一度近くから鮮明に声が聞こえた。

『どうか、主上』

思わず肩がビクリと揺れる。

再び周囲を見渡して誰もいない事を確認する。

こくりと唾を飲み込んでから、咲は唇を開いた。

343: 2014/09/18(木) 20:28:13.31 ID:xLbMrHmM0
咲「誰…ですか?」

反応を待つが、その問いに対しての応えは無い。咲は続けて言う。

咲「近くにいるのなら、姿を見せてくれませんか。どこかにいるんですよね?」

すると、相変わらず淡々とした声が返ってくる。

『御前に参じるのはお許しください。醜い姿故、以前に主上を酷く驚かせてしまった事がございます』

その声が、自分が爪先を地に付ける先より聞こえてくる事に咲は気付く。

そんなの人間には無理だ。だから閃くように思い出した。

過去に一度だけ見た出来事。

菫が何も知らぬ自分を迎えに来た時に、地面を水面のように変えて這い出てきた異形の姿達。

つまり、この声は……妖魔。

咲「!…もしかして、菫さんの」

無意識に呟けば「御意」と短い声が肯定する。

咲の半身は麒麟として、人が恐れる妖魔をも使役するはずだから。

その姿達を過去に垣間見たのを咲も覚えていた。

初めて菫と会った時に、確か虎のような大きな妖魔が地面から這い出てきて、自分は驚いてしまった。

そのまま意識を失ってしまったはず。

きっと、妖魔はその事を言っている。

だが今にしてみれば咲とて理解している。

一般に人を襲う妖魔とは違い、麒麟に使役される妖魔は、主人に忠実で人を襲わない。

ならば、こうして声が聞こえてくる妖魔はひょっとして。

咲「ずっと、私の側にいたんですか?」

『台輔に命じられて』

間髪入れずに返ってきた声に咲が閉口してしまう。

様々な思惑が脳裏を駆け巡った。

咲を心配してか、それとも見張るためなのか。

しかし今更、全て同じ事のようにも思えた。

344: 2014/09/18(木) 20:33:52.29 ID:xLbMrHmM0
『本来ならばご負担を感じぬよう、影ながら御身をお守りするよう命じられていました。…ですがあえて主命に背きました』

咲「え?」

淡々とした声は変わらないが、それが最後の一文だけ更に声が潜められた気がする。

よくよく脳裏でその言葉を復唱して考えてみれば…

もしや妖魔は主人である菫の命を背いて、守っていた自分に声を掛けてきたという事なのだろうか。

咲「…どうして?」

『私は主上について廻り全てを見ていましたから』

『台輔が誤解からああ言ってしまった事も、その誤解から生まれたものを、貴方が素直に受け取ってしまった事も』

咲は目を見開く。

爪先を見つめる視界が僅かに振れた。…体が小刻みに震えているからだ。

同じように震える唇をどうにか動かして返す言葉を吐き出す。

咲「誤解だと言ってくれるんですか、あれは……菫さんの本心ではないんですか?」

『違います。誤解なさいますな』

咲の問いかけに対して、妖魔は迷いもせずに否定してくれた。

現金にもからっぽだった胸中に少しの希望が灯る。

咲はいつの間にか張っていた肩の力をゆっくりと抜いた。

そして、爪先の向こうに広がる地面を一瞥し、咲はそこに向かって声をかけた。

咲「姿を見せてくれませんか?」

『…もはや主命には背いておりますが。また私のせいで主上がお倒れになられたら、今度こそ台輔に対して申し開きができません』

咲「そんなこと…あの時は私も、その、妖魔というのを話に聞くだけで初めて見てしまったから驚いてしまったんです」

咲「でも今は大丈夫です。こうして驚かせないようにあなたは気遣ってくれている」

345: 2014/09/18(木) 20:38:29.05 ID:xLbMrHmM0
咲「それに菫さんに仕えているのだから、あなた達が怖いはずなんてありませんよね」

咲から姿は見えないが、安心させるように小さく笑う。

咲「今度は絶対に驚いたりしません。姿を見せてくれませんか?」

もう一度、地面に向かって問いかける。

すると一拍の後、「御意」という声と共に地面が不自然に波打った。

堅いはずの地質も、生い茂る芝生も一緒になって地面の上に水面の如く波紋が走る。

と、その中心から獣が豊かな毛並みを揺らしてゆっくりと這い上がってきた。

咲は妖魔も見た事はなかったけれど、猛獣と呼ばれる獣ももちろん見た事が無い。

だが、これは虎と恐れられる猛獣に近い姿なのだと聞き知った話から想像できた。

ただその虎と違う所……目の前に姿を現した妖魔は、異様ともいえる六つの目を持っていた。

それが一斉に瞬きする様は何か壮観だ。

咲は妖魔に伝えた通り、以前のようには驚かない。

ただ、やはりあの時の妖魔だったかと納得した。

虎の姿をした妖魔は完全に這い上がってくると 、腰を堅い地面に落とし咲に向かって頭を深く下げる。

『再び、御前を失礼致します』

咲は妖魔に向かって首を左右に振る。

咲「私こそ、以前必要以上に驚いてしまってすみませんでした」

『人には馴染み難い姿です。そう言って下さるだけで、以前の無作法だった我が身が僅かでも救われます』

そう言った妖魔の大きな尻尾が、向こうの方で大きくうねった。それを眺める咲は薄く笑う。

346: 2014/09/18(木) 20:43:43.76 ID:xLbMrHmM0
咲「菫さんも礼儀正しいですが、あなたも同じなんですね」

『私は兎も角、台輔は清廉な方です。自分にも厳しく周りに対してもそうです』

『そうしてこなければいけないのだと…随分前から気付いて、あの方はそれを実践してこられましたから』

咲「…すごいですね、やっぱり私とは違う」

声の質を落として、呟くように咲が言う。

と、何かに気付いた妖魔が深く垂れていた頭を上げた。

『主上、誤解されませんよう』

咲「え?」

見上げる六つ目と視線とが合う。咲が頭を傾げると、妖魔は言った。

『主上と台輔では、今までの過程が違います』

『あの方は生まれた瞬間よりご自身が担う国の責任を自覚し、憂い続けてこなければいけなかった』

『台輔は人一倍責任感も強い方です。私が使令としてお仕えするようになってから、その姿勢は更に堅固なものになっていきました』

咲「………」

『あの方と一緒に、荒廃が進む国土を幾度となく見て廻りました。その都度、何もできないご自分の無力さを酷く嘆いておられた』

『そんな日々を過ごす中で、あの方の表情は更に硬く態度も堅固なものになっていきました。どうしてか分かりますか?』

妖魔に問われ、咲は素直に首を左右に振る。

『麒麟は善なる神獣です。台輔は麒麟の性として人を信じたかった、けれど、それがままならないのが今のこの国です』

『人に裏切られる度に、あの方は感情を表に出すのを厭うようになりました』

『でもそれは人のせいと言うよりは、そんな人らに対して無力であるご自分を許せないようでした』

347: 2014/09/18(木) 20:50:31.27 ID:xLbMrHmM0
淡々とした声で続く話は咲に衝撃を与える。

妖魔に対して挟む言葉も思い浮かばなかった。

ただ、自分を迎えにきてくれた菫の姿だけが鮮明に脳裏に浮かぶ。

あの姿の裏にどれ程の葛藤があったのかを、彼女の妖魔から咲は教えられている。

『そんな台輔が、徐々にですが変わって来られた。嘆く以外の感情をお見せになるようになりました』

『怒ったり、女怪はまだぎこちないと言いますが、笑いもします。……主上が来られてからだ』

咲「………」

『私は貴方の葛藤も見て来たつもりです。立場と環境が全く違うここでは戸惑う事も数多いのも分かります』

『でも、どうかご自身を必要以上に卑下して考えるのはおやめ下さい』

『何もできないと幾ら仰っても、御身がここにいらしてから、確実にこの国は蘇っています』

咲「………」

『荒れた大地は生き返り、蹂躙を繰り返してきた同胞達はいずこかに消えました』

『民達も貴方という希望を糧に少しずつ生きていく気力を取り戻しています』

『…そして、それは台輔が無力に嘆きながらも長く待ち望んでいた、この国本来の姿だ』

無言で話を聞いていた咲の視界がぼやけた。

見下ろす形にある六つ目が一斉に細められる。

妖魔であるはずだが、咲にしてみれば人よりも人らしく労わってくれているように感じた。

更に、目頭が熱くなる。

350: 2014/09/18(木) 21:37:44.32 ID:xLbMrHmM0
『貴方は、ここにいるだけでこの国だけではなく、この国の麒麟という良心も救っている』

『主上、どうかあの方だけは信じて下さい』

その言葉が心に沁みた。

目尻の堤防を越えて涙がそこから溢れ出した。

ぽろぽろと頬を伝うそれを拭う事も忘れて、ぼやけた視界の向こうにいる妖魔に咲は言葉を吐き出す。

咲「私は……」

いやだ、と言われてしまった。それは確かに咲を拒絶する言葉だったから。

一度は向き合おうとしたけれど、結局最後の最後にまた逃げだしてしまった自分が

今一度半身に正面から立ち向かっていけるだろうか。

どうして嘆かれます?、そう案じられ咲は浅く首を左右に振る。

咲「嘆いてるんじゃないんです…ただ私は今あなたから聞いた話を、きっと菫さん本人から聞かなければいけなかった」

咲「そして私自身の事も、彼女に知ってもらわなければいけなかったんです。彼女に嫌われるのを恐れないで」

『主上』

咲「あなたも、智美さんも純さんも…皆こうして教えてくれていたのに。…本当に、私は愚かです…」

そこで不自然に言葉が途切れる。感情の高ぶりに逆らい切れずに喉の奥が震える。

それでも唇を一文字に引き衝動を堪えると、掠れた声で言った。

351: 2014/09/18(木) 21:43:20.25 ID:xLbMrHmM0
咲「まだ、間に合うでしょうか?」 

『間に合います』

妖魔の声は淡々としているけれど、まるで背中を押されるように迷いがない。

『むしろ、貴方だけがあの方を救えるのですから。どうか』

咲「……本当に、こんな遠回りばかりして、私は……」

『それが私達妖魔と人とが違う所です。感情に振り回されるのは効率的ではないですが……どこか、羨ましいとも感じます』

咲「後手後手で、しかも菫さんを失望させているのに?」

『予想できないのがいいのでは?私には分からない感覚です』

『台輔は獣ですが、同時に人でもあります。だから迷いますし、勘違いもしてしまいます』

咲「………私も、同じです」

菫は真っ直ぐな姿勢を崩さず弱みを見せない、完璧な人だと思っていた。

その姿に無理に合わせようとして、できなくて自信を無くして。本当に咲も迷ってばかりだった。

『羨ましい限りです』

淡々とした声に、僅かにだが初めて笑む気配がした。

思わず釣られるように咲も笑う。

そして色々と堪え切れなくなると、腕を上げて顔を覆った。

352: 2014/09/18(木) 21:47:17.63 ID:xLbMrHmM0
感情の昂ぶりのせいか止まらない涙を、指先で何度も何度も拭う。

その途中で、途切れ途切れではあるけれど妖魔に向かって咲は伝える。

咲「もう一度、菫さんに話をしに行こうと思います」

『それを聞いて安堵しました』

咲「これが収まったら、必ず。でももう少し…止まらないから…こんな顔じゃ、更に可笑しく思われてしまう」

『ならば私が台輔に取り次いで参りましょう』

『主上は私が戻るまでここにいて下さい。絶対にここより動いてはいけません』

咲「……この顔じゃ、動きたくても動けないですけどね」

咲が涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま苦笑いを浮かべると、妖魔も納得したようだった。

心を決めて「お願いします」と咲が伝えれば、妖魔は六つ目を細めて頭を深く垂れた。

そのままゆっくりと地面の下に消えて行く。

毛並みの先すら地の底へ吸い込まれていったのを見届けると。

咲は今までの全てを洗い流すかのように、思い切り泣いた。


■  ■  ■



353: 2014/09/18(木) 21:51:08.68 ID:xLbMrHmM0
入室を促す声が聞こえ、純は扉を開き中へと足を踏み入れた。

純からすればもはや見慣れた室内には、部屋主である塞と同僚である誠子、

それに見知らぬ官吏の女性が一人立っていた。

入ってきた純に気付いたのだろう、官吏は振り返り視線が合うとニコリと柔和そうに微笑む。

純は反応に逡巡した。

取りあえず、初見でもあるし部屋主である塞の顔に泥を塗る訳にはいかない。

姿勢を正すと会釈をする。すると向こうも微笑んだままに頭を垂れた。

塞「そこまででいいよ」

顔を上げると塞が苦笑いを浮かべながら純に向かって手招きする。

素直に彼女らの元に近付いて行った。

塞「彼女が残りの一人。貴方も手を貸したのだから気にはなっていたでしょう?」

純を指しながら塞が官吏に問う。

すると、官吏は緩慢な動作で頷いた。

憧「私は書類上で、だけど。でも嘆願書が上がってきた時点でかなりの異例だったから気にはしていたわ」

憧「冤罪なのは明白でしょ?まぁ、塞の目に叶うようならよかった」

ね、と気安く話を振られて純は思わず面喰らった。

354: 2014/09/18(木) 21:59:03.28 ID:xLbMrHmM0
彼女らの会話の内容が分からない。

思わず助けを求めるように、隣に並ぶ形になった誠子へと視線を向ける。

しかし彼女は絶対に純よりも現状を把握している癖に、肩を竦めるだけで何も言ってくれない。

純は思わず舌打ちしそうになった。

が、その前にすべてを察したように塞が口を挟んでくる。

塞「なら直に会った事はないんだね。彼女は憧。前に話の中で言ったでしょう」

塞「貴方たちを見つけて、私に引き合わせてくれたのが秋官だった憧なの」

純「あ、」

誠子はやっぱり分かっていたようで頷くだけだが。

純は驚いたせいか間抜けな声が出てしまう。

塞に指摘された事はもちろん覚えている。

権力を傘に牢にぶち込まれていた自分達を、塞が懇意にしている秋官が気にしていたのだと。

それが、この聡明そうな官吏なのだと言う。

お礼を言っときなさい、という塞の言葉に対して憧は必要ないと言う。

憧「さっきも言ったけど。元々あれは貴方たちの元部下達が嘆願書を出した事で明るみにでた事例だから」

憧「つまり私のお陰というより、かつての部下達に好かれていた貴方たちの人徳のお陰でしょ?」

憧「なら、私に礼を言う必要はないわ。貴方たちが今まで積み重ねてきた行いを誇るべきよ」

純「…………」

355: 2014/09/18(木) 22:03:20.19 ID:xLbMrHmM0
誠子「………あ~っと、でも助かったのは本当ですし。ありがとう、ございます」

自分達を誇るべきだ、と言われても、すぐにはいそうだったんですかと頷けるはずもない。

純は思わず閉口した。そんな自分の心境をくみ取った誠子がぎこちなくではあるが礼を述べた。

塞はそんな彼女らを眺めて笑っている。

塞「憧はね、いつでもこんな感じで物事の上辺を探る事をしないの」

塞「直球だから、秋官の中でも特に異質だよ。褒められても貶されてもまるで動じないし、何をしても無駄だと先に周囲が悟る」

塞「しかも事実尻尾を出すようなヘマも絶対にしないし」

憧「尻尾とは随分な言いようね」

そう言いながら憧は先ほどから笑みを少しも崩さない。

その秋官がわざわざこうして塞の執務室を訪れている事を不思議に思う。

憧を探るように一瞥してから、塞に向き直る。そして確信を持って尋ねた。

誠子「何か、あったんですか?」

塞「それは憧から聞いた方が理解しやすいでしょう」

塞が視線を促すと、純達も同じように彼女へ注視する。

憧は相変わらず腹の内が読めない微笑を湛えながら話し始めた。

356: 2014/09/18(木) 22:08:16.53 ID:xLbMrHmM0
憧「一週間程前に、ある官吏から内密に話したい事があると言われたのよ」

憧「秋官に打診するのだから、つまりは……密告ね」

誠子「密告、」

硬い言葉で誠子が呟けば、憧は頷く。

憧「言葉から変に勘繰ってしまうけど、今回に限っては悪い意味じゃないわ」

憧「その官吏の密告は、良心の呵責によるものだったから」

憧「最近は多いのよ。やっぱり主上が存在するのとしないのでは、国に対する姿勢の温度が違う」

憧「忘れかけていた本来の責任を思い出して心を入れ替えた、なんて話もよく聞くし。大層都合のいい話ではあるけどね」

憧の最後の言葉には多少の呆れが含まれている。

その気持ちは純もだが、誠子も塞も身に染みているだろう。

純は憧に釣られるよう苦笑を浮かべた。

憧「それで、ま、内密にね。話を聞いたのよ。小心な男で、絶えず周囲の目を気にしてた」

憧「だからこそ罪悪感も捨て切れなかったんだと思う」

憧「ずっと上官に言われるがままに不正に手を貸していたらしいけど、これ以上は我慢できなくなったそうよ」

誠子「今まで手を貸していたのに、心変わりすると決めた……?余程の切っ掛けがあったんじゃないですか?」

誠子が気付いたように突っ込むと、純もなるほどとその疑問に同調する。

357: 2014/09/18(木) 22:13:04.49 ID:xLbMrHmM0
確かに罪悪感をずっと抱いていたとしても、所詮小心者だ。

長いものに巻かれていた人間が、その庇護を投げ捨ててまで正道に帰ろうとするのはかなりの決意が必要だろう。

憧「その答えは先ほど一度答えているようなものよ」

憧「つまりは主上に害を及ぼすかどうかという選択に、抱えてきた罪悪感の針が振り切れてしまったらしいわ」

憧の答えを聞き、純は瞬時に血の気が引くような心地になった。

純「まさか、」

憧「あくまでも予定通り事が進まなかった場合だそうだけど」

憧「……内密に、冬官府より冬器を集める手伝いもさせられたそうよ」

純「………」

返す言葉が何も浮かばない。驚く程に衝撃を受けている。

なんて畏れ多い事を。

この感覚が多分、一番言葉として正しい。

憧「冬器を運ばされながら体の震えが止まらなかったそうよ」

憧「それがどう使われるかを想像して、やっとで自分が今までどんな非道に手を貸していたのか痛感したと」

憧「その上、王まで手にかける側に加担すれば今世は元より来世永劫、天から見放されてしまうと酷く怯えていたわ」

純「………下衆が」

唸るように吐き捨てていた。

塞達の前だとしても、体裁を繕う事すらできなかった。

358: 2014/09/18(木) 22:17:34.38 ID:xLbMrHmM0
本当に、救いようのない馬鹿というのは軍にもどこにもいるのだ。

なぜそこまで思い切れる?

この国が長く待ち望んでいた末に起った王だ。

まだ愚王かどうかも判断できないというのに……

こんな初期の段階で王を弑し奉る算段を企てる事ができるのか?

苦しむ周囲を省みず、そこまで自分達の利だけを追える畜生がここにはいるのか?

塞の声が遠くから聞こえる。

塞「…下衆ではあったけど、その人は最後の“王を害する”という一線だけは越えられなかったんでしょう」

憧「だね。で、まあ彼の良心の呵責が軽くなるように、知っている限りの首謀者達の名と立場は吐かせてやったわ」

憧「でも私とてそれをすぐに鵜呑みにする訳にもいかない」

憧「一週間、事実かどうか裏取りに費やして、官吏には何事もない振りをして過ごせと命じて持ち場に帰したんだけど…」

憧は、突然歯切れが悪くなる。

憧「数日前から、その彼と連絡不通になってね…」

誠子「…やっぱり裏切りきれなかった、とかですか?」

憧「それはないわ。あそこまで天と王に叛く事を畏れていたのなら、今更元鞘に収まろうとはしないでしょ」

憧「ただ、小心者だから耐えきれなくなって暴走はするかもしれない、とは思ったけど」

純「?」

誠子「暴走?」

359: 2014/09/18(木) 22:23:33.07 ID:xLbMrHmM0
純は怪訝な表情になり、誠子は鸚鵡返しに呟く。

すると一緒に聞いていた塞が補足するように言った。

塞「その官吏の所属先は夏官だよ。それともう一つ、実は数日前に内殿で一騒ぎあったの」

塞「許可なく主上に嘆願しようとして、錯乱した夏官が御前で取り押さえられたというものよ」

純「!!」

誠子「それって……」

まさか、その小心者の官吏の事なのか?

半分確信をもって尋ねれば憧は頷いた。

憧「私もまさかそこまで追い詰められているとは気付かなかったわ。直に主上に告発しようとするとは…」

誠子「…その官吏は、結局どうなったんですか?」

誠子が尋ねれば、今度は塞が答えた。

塞「最悪な展開だけど、同じ夏官達に取り押さえられて連れていかれたそうなの」

塞「後日、事件に気付いた憧が秋官の立場をもってその官吏の身柄を引き取ろうとしたけど…」

塞「どうにも向こうが無理に理由をつけて引き渡すのを渋っているらしいの」

誠子「……まぁ、そうでしょうね。裏切ろうとした奴を司法に引き渡すはずがない」

誠子「でも渋っているのなら、そいつはまだ生きている?」

塞「どうかな。…酷だけど、もはや口封じされてしまっているから理由をつけて引き渡すのを渋っている振りをしている」

塞「そう考える方が無難でしょう。だからこそ、向こうも追い詰められてはいるだろうけど……」

誠子「…………」

360: 2014/09/18(木) 22:41:26.87 ID:xLbMrHmM0
塞「だから憧は助言しに来たんだよ」

塞「追い詰められた馬鹿な奴らが、馬鹿な行動にでるかもしれないから」

塞「主上がおられる内宮も十二分に警戒しろと、ね」

純「馬鹿な行動…」

純は呆然と呟いた。

それは先ほど言った畏れ多い事をだろうか……本当に?

信じられない心地の中で、憧の声が聞こえる。

憧「ま、私なりに一週間の間で首謀者が事実、そんな大それた事を企んでいるのかどうかの裏は取ったわ」

憧「出る事に出れば、幾ら金を積んでも言い逃れできないぐらいには証拠も集めてね」

憧「だから、その首謀者達に捕えられた官吏の身柄を引渡せと言いながら揺さ振りは掛けさせてもらった。もはや全て筒抜けだとね」

塞「私も数刻前に台輔に謁見して帰ってきたら、憧が待っていて…今の話を聞いた所だったの」

塞「お陰で腑に落ちなかった幾つかの点が繋がったわ。誠子には少し前に……」

塞が言葉を続けようとした途中だった。

不意に、ゴポリと水が跳ねた音が聞こえた。

361: 2014/09/18(木) 22:46:05.40 ID:xLbMrHmM0
しかもその音はすぐ背後から聞こえたような気がする。

でも、そんなの可笑しな話だ。

ここは宮中の奥にある一室で、その室内に水溜りがある訳がない。

気も昂ぶっているし空耳だろうか、と思った瞬間。

今度は突如、何かに足首を掴まれた。

純は反射的に掴まれた片足を上げて、掴まれた感触を振り切ろうとする。

が、足はピクリとも動かず、更に掴まれた箇所がギリギリと締め付けられてしまった。

その痛みに顔を顰めながら原因を探ろうとする。

下だ。視線が床を泳ぐ。

それが自分の足元まで辿り着くと……有り得ない光景を目の当たりにして驚いた。

自分の足首は、水面のように揺れた床の中から突き出している手に掴まれていたのだから。

思わず、声を上げる。

純「っうあ!」

だが狼狽したのはそこまでだ。

純は腰に差していた剣の柄を握り瞬時に引き出すと、

素早い動作でそれを足首を掴む手首に突き刺そうとする。

362: 2014/09/18(木) 22:51:01.37 ID:xLbMrHmM0
ガツと鈍い音と腕に必要以上に響く手応え。

剣は目当てのものでなく、上司の部屋の床を突き刺していた。

寸前で手首は掴む足首から離れていくのも見えていた。

それは床に出来た水面へと一度、音を立てて戻っていく。

純は慌てて突き刺した剣を抜き取ると、その場所から2、3歩程後退する。

周囲からは、なんだ?とか、どうしたの、と訝しむ声が聞こえてきたが

純とて答えられる訳がない。

しかし、視線だけは鋭く波打つ床を睨みつける。

そこは再び大きく波打つと、中より何かが這い出てきた。

白い腕に羽毛を生やした、半分鳥のような女の姿。

人間ではないのは明らかで、それが何かを純は理解した。

種族は違うだろうが、以前、軍にて要請を受け討伐した事はあった。

純「……妖魔」

背に走る悪寒を受け、もう一度剣を構える。

近くにいた誠子も状況を理解したようだった。

同じく鞘から刀身を抜く音が響く。

なぜこんな所に妖魔が?

完全に這い出てきた妖魔が羽を揺らし、硬い床の上に立ち上がった。

387: 2014/09/25(木) 00:43:59.82 ID:A3iTKDwJ0
妖魔は十二国の王の権威が及ばない黄海か、王が不在の混沌とした国に出没する。

少し前までの、王が不在だったこの国で目にする事はあったが今は違うのだ。

しかも最も王の権威が及ぶ宮中に出没するとは考え難い。

困惑したのは確かだ、でも純はすぐにそれを取り払った。

いつの時も得物を手にして迷うのは危険だ。

今は隣の誠子と協力して背後の官吏達を守らねばなるまい。

柄を握り締め、刀身を支える。

と、緊張を滾らせた自分らの前に、意外な姿が躍り出てきた。

つい今し方、守らねばと心に決めた塞がなぜか背後から駆けつけてきて

剣を構える純と、対峙する妖魔の間とに立ち塞がる。

焦った純は思わず口調も素になる。

純「おい!ふざけんなっ!塞、そこをどけ!」

尖った刀身を苛つきながら降ろし、純は利き手を繰り出して眼前に立ち塞がる塞を横にどかそうとする。

だけど焦る純とは対照的に、なぜか塞の声は冷静そのものだ。

その肩を掴んでも彼女は岩のようにそこから動かない。

むしろ怒る純を宥めるように「待って」と言う。

388: 2014/09/25(木) 00:48:13.50 ID:A3iTKDwJ0
純「なんでだ!?」

塞「敵ではないからだよ」

純「あれは妖魔だろうが!」

塞「妖魔だよ。でもここにいる時点で貴方が想像しているような、人を無意味に襲う妖魔じゃない」

純「…なに、言って」

再び純は困惑した。

すると背後より憧の淡々とした声が聞こえる。

憧「この宮中に妖魔は出ないわよ。出るとすれば……それは神獣に仕える妖魔だけ」

純は目を見開いた。

やっとで彼女らが何を言っているのかを理解する。

神獣と言えば、その存在は一つしかないだろう。

思わず塞の向こうに佇む妖魔を凝視する。

確かにあの妖魔は、初めこそ不意打ちに純の足を掴んできたが。

完全に姿を現してからは、こちらを襲う素振りを見せない。

むしろ佇むその表情はこちらを注意深く探っているように見えた。


■  ■  ■


389: 2014/09/25(木) 00:51:27.84 ID:A3iTKDwJ0
事実、女怪は迷っていた。

菫に命じられて、彼女の望みの通り件の女性を追いかけてきたわけだが。

ここで追い付いたのはいい。対峙したのも予想の範囲内だ。

が、突如として自分とその女性との間に立ち塞がった官吏の姿を見て、どうすればいいのか迷いが生じた。

なぜならその官吏の顔を女怪は知っていた。

先刻前まで主と顔を合わせていた官吏の一人だ。

いつの時も大事な麒麟の側に影ながら寄り添っている自分が見間違うはずもない。

ならば菫とも近しい立場なはずだと思うが……その官吏がなぜ件の女性と一緒にいるのか分からない。

するとそんな迷いを悟られたのか、目の前の官吏が冷静な口調で問う。

塞「台輔の使令ですか?」

的確な指摘。事実だ、ここにいる限りそれを隠す理由も無い。

『はい』

淡々と言葉を返す。

すると目の前の官吏は、安堵したかのように表情を緩める。

その背後にいる件の女性は、自分と同じく状況がつかめないようで怪訝な表情を浮かべていた。

390: 2014/09/25(木) 00:55:00.91 ID:A3iTKDwJ0
塞「先ほどまでお会いしておりました。…もしや、何か私に伝えに来られたのでしょうか?」

官吏に言われ、一拍置いてから首を左右に振る。

『いいえ。私が用があるのは、貴方の背後に立つ……彼女に、です』

指し示すと官吏の背後の女性が驚いて目を丸くする。

誤魔化すというよりは、本当に驚いている風に見えた。

それは眼前の官吏も同じだったようで、僅かに背後を一瞥すると再びこちらに向き直って尋ねる。

塞「この者は私の部下です、が……もしや知らぬ間に何か失礼な事を仕出かしたのでしょうか?」

『……部下』

思わず言い返す。

その声が官吏にも聞こえたのか、彼女はもう一度「そうです」と言い切る。

ならば、これは………と。

女怪は眼前の官吏の背後へと直接顔を向けると、そこに立つ女性に問いかけた。

『貴方は、なぜあの方と親しいのですか?』

純「………あの方?」

問い掛けた先の女性が訝しげに聞き返してくる。女怪は頷いた。

『貴方が先ほどまで会っていた方です。それを、台輔は気にしていらっしゃいます』

純「先ほどまで……って」

391: 2014/09/25(木) 00:58:46.45 ID:A3iTKDwJ0
困惑する声。

どうやら突如現れた妖魔が問い掛ける内容と、すぐに結びつくものがないのだろう。

すると挟まれた形で聞いていた官吏が女性に向かって問い掛ける。

塞「純。先ほどまで誰かと会っていたの?」

純「あ、…いえ、まぁ。会っていたと言えば、あいつぐらいですけど」

純「でも麒麟の台輔の使いがわざわざ訪ねてきて確認するほどの事でもない、と」

塞「…………」

純「俺と同じで、最近やってきた奴で気が合ったんですよ」

純「新人の官吏だと言ってた、あいつ。まだ自分の仕事に対して自信がないみたいで…」

聞いていた官吏の顔付きが険しくなる。

同じように聞いていた女怪も一つの結論にようやく達した。

ある意味で、菫の心配は杞憂に過ぎない。

女性はあの方の本来の立場を知らないで付き合っていた。

塞「…まずいね」

ふと聞こえて来た声は険しい顔付きに変わっていた官吏のものだ。

彼女は何かに思い至ったようで、背後の女性に向き直ると言う。

392: 2014/09/25(木) 01:02:27.48 ID:A3iTKDwJ0
塞「純は本当に、当たりを引く人というか…」

純「??意味がわかんねぇよ」

塞「詳細は聞かないよ、時間も無いし。ねえ、純」

塞「先ほどその方と会っていたと言ってたけど、別れた時の事は覚えている?」

純「あ、ああ。普通にさっきの事だからな。なんか暫くは仕事に打ち込みたいらしいから会えないって言われて」

純「じゃあ、俺も頑張れって言って。それで……そのまま別れ、ましたけど」

純「俺は真っ直ぐにここに来ましたし、あいつは自分の持ち場に帰っていった、と思います」

塞「お一人で?」

純「……別れた時は一人でしたけど。そういえば俺、あいつの同僚とかは見た事ないので」

女性からそこまで聞くと官吏は再びこちらを仰ぎ見る。迷わずに女怪に言った。

塞「単独で動いているのですか?」

官吏が何を尋ねたいのか、女怪は悟った。

彼女は、まだ気付かない長身の女性とは対照的に、先ほどの話の内容からあの方の正体に気付いている。

だから官吏の問い掛けに対して女怪は首を左右に振った。

400: 2014/09/25(木) 22:13:05.68 ID:A3iTKDwJ0
『台輔は預かり知らぬことでした。だから、とても心配していらっしゃいます』

塞「……なるほど。お一人で戻られたと純は言っていますが、それを見届けましたか?」

女怪は考えるまでもなく、首を左右に振る。

『私は台輔に命じられて彼女を追いかけてきましたから』

『…でも、あの方には台輔が向かわれたと思います』

塞「確認はしていませんよね?」

『ここにいる以上、できません』

官吏の指摘に対して、女怪は素直に頷いた。



純は塞が何を言いたのか、さっぱりだった。

むしろ突然現れた妖魔の言い分とて不明瞭で苛立つ。

それに、なぜあいつの……咲の話題がここで上がるのだろう?

あいつはただの新米の官吏なだけのはずだ。

そんな純の困惑を背に、塞はまた踵を返すと今度は少し離れた所に立ち、

こちらの話を興味深く聞いていた憧へと向き直る。

402: 2014/09/25(木) 22:18:08.51 ID:A3iTKDwJ0
塞「憧、先ほどの話。貴方が裏を取ったという首謀者達の人数はいかほどなの?」

突然話を振られた形になったが、物事に動じないと有名な秋官は余裕をもって答える。

憧「多いわよ。内宮に配備された夏官の三割と思っていい」

憧「ほんと塞の今までの苦労が手に取るように分かるわ、抑えようとしてもこれだから」

塞「……なら、20人弱程か」

確かに多いな、と塞は呟く。

そして彼女は次に踵を返して再び純に向き直る。

と、その隣に立つ誠子へと尋ねた。

塞「ここに来る前に、貴方に頼んでいた事は調べた?」

きっと誠子も純と同じ心地だろう。

突然塞に話を振られ、誠子は確かに困惑していた。

が、それも一瞬で、思い出した誠子はたどたどしい口調で答える。

誠子「あの事ですか?確認してきましたけど、確かに変でした」

誠子「今日、内宮の警備はいつも通りの配置のはずなんですが」

誠子「何ヶ所か見て廻ってきたけど、持ち場を勝手に離れている奴が多かった。軍じゃ絶対に考えられないですよ」

塞「………内宮でも絶対に考えられないよ。だからこそ、許せない」

今までで一番剣呑な塞の声。

吃驚して、思わず純は目を丸くしてしまった。

403: 2014/09/25(木) 22:22:35.08 ID:A3iTKDwJ0
広くなった視界の向こうで、塞はまた女の妖魔に向き直る。

塞「使令殿。手を貸して頂きたい、事は一刻を争います」

『………それがあの方と、台輔のためになるのでしたら』

塞「必ずなりましょう。いえ、ならなければいけない」

塞「そのために私共は動いていますから。……純、誠子」

純「な、何だ」

突如呼ばれて純は慌てて返事をする。

塞は順番に視線を滑らせると、堅い口調で命じてくる。

塞「すぐに働いてもらうよ、けど相手は多い。ここにいる使令殿のお力も貸して頂くから、失礼のないようにね」

塞「私の権限で応援も掛け合ってみるけど、すぐには無理かもしれない。だから貴方たちが頼みだよ」

力強く言われた。まだ困惑から抜け出せない純の言葉が掠れる。

純「……一体、俺達に何をしろって?」

尋ねながらも自分たちにできることなど、この剣の腕ぐらいしかない事は分かっていた。

塞「本来、貴方たちに頼もうとしていた仕事をやってもらうだけだよ」

純「………」

塞「純」

改まって塞より名を呼ばれた。

まだ混乱している思考だったが、それでも彼女に意識を向ける。

404: 2014/09/25(木) 22:29:16.96 ID:A3iTKDwJ0
彼女の鮮明な声が聞こえてくる。

塞「聞いたことはない?貴方たちは確かに直に拝見した事はないだろうけど」

塞「それでも、噂であれこの国の新たな王がどのような人か…少しは聞いた事があるんじゃない?」

純「………」

指摘された純は記憶を掘り起こしている。

そして、閃いた。

あれはいつだったか。……確かまだここに来る前に、そう。

理不尽に誠子と共に牢に繋がれたいた時に。

そこの牢番と交わした何気ない会話の中で聞いたような気がした。

ようやく立った王の話を。

あの時牢番はなんと言っていた?

確か―――年頃の少女であるらしい、と。


純「………!!」


純の脳裏に、茶色の髪の小柄な少女の姿が浮かびあがる。

符号が繋がっていく。

それに、咲は純に言っていた。自分もつい最近ここに来たのだと……

それはもしや、即位したから新たにここへとやってきたのだと、そう考えられないか?

405: 2014/09/25(木) 22:34:19.81 ID:A3iTKDwJ0
まさか、と。

すぐには信じられず、純は塞を見返す。

塞「それを確かめるためにも純と誠子は行って」

塞「その方が真実そうだとしても、違うとしても…馬鹿な考えの奴らが内宮をうろついているのならば」

塞「私は内宰として、そいつらを処断しないといけない」

純「………っ」

返事をする前に、勝手に体が動いた。

純は握り締めていた剣を鞘に収め、踵を返そうとしている。

なぜなら軍にいた頃のピリピリとした空気を、肌が思い出しているからだ。

上官に命じられたのならば、純はそれを遂行せねばならない。

後ろに誠子が続く気配を捉え、前方には先導する妖魔が待ち構えている。

純は突き進みながら、短く答えた。

純「分かった」

406: 2014/09/25(木) 22:41:03.29 ID:A3iTKDwJ0
思考が急激に冷えて、五感が研ぎ澄まされていく。

先程の話。

もはや相手も塞や憧に追い詰められて後がないのであれば捨て身だろう。

そしてその件にもしや……いや、もう確信に違いが。

純の知り合いである咲が関わっているというのなら。


塞「決して失う訳にはいかない」

塞「この疲弊した国がまたあの混沌とした時代に戻る事だけは…」

塞「なんとしても、阻止しなくては」


背中越しに聞こえた塞の声。

分かっている、そんなの………

純も絶対に御免だと思った。


■  ■  ■


407: 2014/09/25(木) 22:45:35.60 ID:A3iTKDwJ0
一通り泣き切るとすっきりした。

頬に出来た跡を拭い、咲は軽くそこを手の平で叩く。

衝動も収まり、泣いて昂ぶっていた気持ちも落ち着いた。

これならきっと大丈夫だろう。

気遣ってくれた使令がここに戻ってきたら、立ち上がって菫の元に行く。

遅すぎるのは分かっている、今更だけど。

それでも腹を決めて話をしに行こうと思っていた。

それが、ここまで自分を…咲を支えてくれた半身に対するせめてもの礼儀だ。

罵られても、何を言われても受け止める覚悟はできている。

散々泣いて色々と吹っ切れた。


そんな時、ガサリと音がした。

不自然な葉同士が揺れる音だから、もしや使令が戻ってきたのだろうかと思った。

頬を覆っていた手のひらを離し、音がした方に顔を向ける。
 
そこに想像した使令の姿は無く、人が佇んでいた。

408: 2014/09/25(木) 22:49:19.70 ID:A3iTKDwJ0
官吏「こんな所にいらっしゃいましたか。随分とお探ししました」

咲「………?」

ニコニコと人がよさそうに笑う、恰幅のいい官吏の姿だった。

咲があれ、と思ったのはその姿に見覚えがあったからだ。

咲「貴方は…」

確か、この前宮中で人に襲われそうになった自分を助けてくれた官吏ではなかったか?

声が届いたのだろう、反応を返すように官吏は目を細めると、恭しく一礼をした。

官吏「先日は、ご無事でようございました」

ニコニコ笑う顔が、本当に人の良さそうな雰囲気を醸し出している。

咲は「いえ、こちらこそ」と言葉を返したが……

何かが引っ掛かった。

まず不思議に思う。

なぜ彼は今、そこに立っているのだろうか?

咲ですらここが中庭のどこかも分からず辿り着いた場所なのに。

もしや、わざわざ自分を探していたのだろうか?


官吏「…お嘆きでいらっしゃたか。ご苦労されているのではありませんか?」

咲「あ、いえ…」

指摘されて、咲は慌ててもう一度目元の辺りを擦った。

409: 2014/09/25(木) 22:56:06.03 ID:A3iTKDwJ0
大分涙の跡は引いたと思ったが、それでも見る人によっては気付いてしまうようだ。

僅かに頬を赤くして、何でもないと伝えようとした。

が、その前に官吏は続けて言ってきた。

官吏「しかし、これからはご安心下さい。私共めがお側でお力添えさせて頂きますので」

官吏「涙を流させるような事は金輪際ございません」

咲「え?」

思わず咲はぽかんとしてしまった。

何か、変な物言いではなかったか?


咲がそう思った瞬間。

突如、官吏の背後より複数人の足音が聞こえた。

それはすぐに木々を掻き分け、芝生を踏み締めながら姿を現す。

新たにやってきたのは10人程だろうか。

その誰もが体格が良く、着ている物も文官系の眼前の官吏とは違い厳つい印象を受けた。

尚且つ、彼らはなぜか全員、帯剣している。

官吏というよりは、宮中を守る守備兵なのではないかと思った。

やっぱり変だ。

そう咲が結論付けた瞬間、官吏の自信に満ちた声がした。

410: 2014/09/25(木) 22:59:36.89 ID:A3iTKDwJ0
今回はここまでです。
見てくださってありがとうございます。レスももの凄く励みになります。
完結まであと2ヶ月弱ですが、よろしければ最後までお付き合い頂けると嬉しいです。

411: 2014/09/25(木) 23:02:08.98 ID:N8UrDBdE0
おつ
菫さん早く来てくれぇ!

あと2ヶ月で終わっちゃうのか…寂しいな

412: 2014/09/25(木) 23:09:08.45 ID:Sv/EyAHUo
続きが気になるぅぅぅ!!

413: 2014/09/25(木) 23:09:20.98 ID:NeA+1R5eO
乙乙
待ち遠しくて何度も更新してしまったよ


【咲-Saki-】菫「見つけた。貴方が私の王だ」咲「えっ」【後編】

引用: 菫「見つけた。貴方が私の王だ」咲「えっ」