323: 2015/12/16(水) 23:28:41.15 ID:BrIDRgmlo
最初:屋上に昇って【その1】
前回:屋上に昇って【その3】
◇[Boanerges]
金曜の夜に連絡をよこして、翌日の土曜の昼過ぎに、秋津よだかは新幹線駅にやってきた。
明らかに日帰りする気のない大荷物を抱えて新幹線を降りると、彼女は俺の姿を見つけてパタパタと駆け寄ってきた。
「ひさしぶり」と彼女は笑う。
髪の長さも、風貌も、歳相応と思えば歳相応に見えるのに、動作や態度が妙に落ち着いているせいで、十歳くらい年上にも見えてしまう。
動きは遅いわけじゃないけど、どこか鈍い印象がある。
声のか細さ、線の細さ、表情の希薄さ。姿勢も声音も表情も主張が薄い、空気に溶けるような少女。
それなのに、ぶれない軸があるみたいに、よだかは周囲の景色や流れに溶け込まない。
動き続ける景色のなかで、彼女だけが強い磁力か何かで地面に縫い付けられているような、強さ。
最後に姿を見たのはもう一年以上も前のことなのに、彼女から受ける印象はおどろくほど変わっていなかった。
「ずいぶん急だったな」
「会いたかったから」
「そう」
素朴に笑うよだかに、俺は安心と怯えがないまぜになったような不思議な気分になる。
六月半ばともなれば、春先の透き通るような肌寒さも褪せたような色調の曖昧さもすっかりなくなっていた。
空をすっぽり覆う灰色雲から降りしきる静かな雨は、昨日の夜から降り続けていて、今も止む気配を見せない。
気温はそこまで高くないが、湿気があるせいで、空気は妙に肌を刺激してうっとうしい。
324: 2015/12/16(水) 23:29:22.87 ID:BrIDRgmlo
荷物を受け取ってホームを歩き始めたとき、よだかは俺の顔を見上げるように覗き込んできて、
「たくみ、なんか変わった?」
と言った。
「一年経てば、少しはね」
「もうそんなに経つんだね」
よだかは溜め息をつくようにそう呟いた。
「今日中に帰るつもりなの?」
駅を出てすぐ、俺は気になっていることをよだかに訊ねた。
「だったらそんなに荷物持ってきてないよ」
「ホテルとってるの?」
「ううん」
「……どうするつもりなの」
「たくみのとこ、いこうと思ってたけど」
「……無理だよ」
325: 2015/12/16(水) 23:29:58.12 ID:BrIDRgmlo
「どうして?」
「言ってないっけ。いま、親戚の部屋にいるから」
「知ってる」
「……あのな。知ってるなら、あらかじめ連絡してくれ。いきなり来られて許可とれるわけないだろ」
こういう奴だとは知っていたけど、呆れる。
何も変わってない。
「じゃあ、今晩ラブホいこ」
「……なにいってんの、おまえ」
「たくみの部屋がだめなら、そうするしかないでしょ」
「なんで二択なんだよ。……なにしに来たんだよ、おまえ」
「たくみに会いにきたんだよ」
よだかはぶれない。怯まないし、恐れない。
表面的にはそう見えるし、そうである以上、本当に怯んでいないのか、恐れていないのかなんて、見ているこっちには分からない。
何を考えているのか分からない女。
326: 2015/12/16(水) 23:30:27.49 ID:BrIDRgmlo
「……とりあえず、静奈姉に頼んでみるよ」
「親戚って、女の人なの?」
「言ってないっけ」
「それは聞いてない」
「じゃあ、今言った」
「そうなんだ。へー」
よだかはどうでもよさそうだった。
「これからどうするつもりなの?」
「とりあえずどっかに、荷物置きたいかな」
「……だから、置く場所がないだろ」
「じゃあ、とりあえずタクミの部屋で預かってよ。泊まるかどうかは、今はいいからさ」
「コインロッカーとか」
「……」
よだかは黙りこんで、俺の目をじっとみつめてくる。
いつもこうだ。こいつはいざというとき、ただ黙って俺のことを見上げてくる。
327: 2015/12/16(水) 23:31:08.90 ID:BrIDRgmlo
甘えてくる。
そういうことをする女の子は、俺の周りにはほかにいない。
みんな、どこかで不器用で、他人にすがりついたり、頼ったり、甘えたりってことが素直にできない。
よだかは逆だ。
他人にすがり、頼り、甘えることしかできない。
見抜かれているような気さえする。
「たくみの住んでるとこ、見てみたい」
俺は、仕方なく頷いた。
荷物を置くだけだ、と自分に言い聞かせる。
たぶん、静奈姉に頼めば、彼女はよだかを泊めることを嫌だとは言わない。
言わないけど、それはマナー違反だ。
だからあくまで最後の手段。荷物は、ひとまず預かるだけだ。
328: 2015/12/16(水) 23:31:45.98 ID:BrIDRgmlo
静奈姉は朝から出掛けていた。
最近は大学で何かあるのか、けっこう慌ただしくしている。
バイトに勉強に交友関係にと忙しそうで、家事も俺がこなすことが多かった。
ゆっくりと話をする時間なんて、最近はとれてないかもしれない。
だから女を連れ込んだなんて言われるのは、ちょっと嫌だ。
一応、静奈姉には、「友達がうちに泊まりたいって言ってるんだけど」と連絡しておく。
そういう言い方が、一番無難だという気がした。
「……とはいえ、女であることを隠しておくのもアンフェアという気もするよな」
部屋について荷物を置いてから、メッセージの文面を考えているとき、ひとりごとのつもりで呟いた。
「いまさら公正さなんて気にしてどうなるの?」
と、よだかはどうでもよさそうに言った。
自分のことを話しているのに、他人事みたいな言い方をする奴だ。
「たくみがフェアであることをいつも気にしてるのって、嫌われたくないから?
“嘘をつかない”“遅刻しない”“他人の秘密を漏らさない”“だから俺を受け入れて”っていう、自信のなさの裏返し?」
俺はとりあえずその言葉を無視した。
329: 2015/12/16(水) 23:33:29.82 ID:BrIDRgmlo
つまらなそうな顔をして、よだかは俺のベッドに勝手に倒れ込んだ。
スカートから伸びた細い足がぱたぱたと何度も上下する。
なんとなく、足首の動きに目を奪われる。
骨のように細く、陶器のように白い。
生きている感じがしない。無機物めいた、作り物めいた、石膏めいた、それが動いている。
「荷物置くだけって言っただろ。何寝てんだよ」
「たくみの匂いがする」
といって、よだかは顔を枕に押し付けていた。
「やめろ」
「わたしの匂いかぐ?」
「……あのな」
「でも、今日はちょっと汗くさいかも」
俺が溜め息をつくと、よだかはくすくす笑った。
「冗談だよ、冗談」
そう言って、彼女はベッドに寝そべったまま、彼女は部屋を見回しはじめた。
330: 2015/12/16(水) 23:34:06.61 ID:BrIDRgmlo
「ここがたくみの部屋かあ。何にもないね」
「……人の家だしな」
テレビも観ないし音楽も聴かない。ゲームも、ゴローの家にでも行かないかぎりやらなくなった。
漫画なんかも、昔読んでた奴が完結してから、新しいのに手を伸ばさなくなった。
勉強するか、文章でも書くか、図書室で本でも借りて読んでいるか、そうでもなければバイトでもしているのが俺の時間の潰し方だ。
「つまんないね」
「じゃあ帰れよ」
「やだよ。新幹線代高かったもん。元とってから帰る」
「元ってなに」
「とりあえず、匂い?」
「……だからさ」
……よそう。たぶん、延々と繰り返すだけだ。
俺の反応を面白がってるだけだ。そのうち飽きるだろう。
「このあと、どうする気?」
話の流れを断つつもりでそう訊ねると、それまでとは違う心細そうな声で、小さな、頼りない声で、よだかは、
「わかんない」
と言った。
331: 2015/12/16(水) 23:35:20.66 ID:BrIDRgmlo
「ねえたくみ」
「……なに」
「こっちきて」
寝そべったまま、彼女はこっちにふざけた感じで両腕を伸ばしてくる。
少し警戒したけど、また例の目でしばらく見つめられて、結局俺は折れた。
言われるがままに距離を詰めると、彼女は俺の腕を引っ張ってひきずり倒そうとしてきた。
バランスを崩して膝を床につくと、体を起こして俺の首に飛びつくみたいに腕を回してきた。
「……急になに」
本当に、嫌気がさす。 強く拒絶できない自分。それを知って、イタズラをしかけてくるよだか。
俺たちは、たぶん共犯で、お互いが被害者で、お互いが加害者だ。
よだかは、俺の肩に額を押し付けて、顔を隠したまま、何秒か黙りこんだ。
そして、不意に、
「たくみ、結婚しよ」
なんて言い出す。
「……あのな」
「いや?」
俺がその言葉に反応しかけたときに、彼女は顔をあげて、至近距離で俺の目をじっとみつめてきた。
その瞳が、すがりつくように真剣で、振り払えない気持ちと、踏み込めない恐れとが同時に襲ってきて、俺を一気に混乱させる。
332: 2015/12/16(水) 23:36:02.56 ID:BrIDRgmlo
「……うそだよ、ばーか」
そう言って彼女は俺の拘束をほどいて、またベッドに寝転がると、そのままこっちに背を向けた。
「たくみのばーか。だまされてやんの」
ふてくされたような、でも、感情を隠すみたいに強張った感じの声。
反応に困ったまま、俺はよだかの黒い髪が、枕のうえで広がるのを眺めた。
「ねえ、街を案内してよ」
こっちを見ないまま、彼女はそう言う。
「たくみが住んでる街。通ってる学校。通る道とか、バイトしてる店とか。見てみたいな」
俺は、仕方なく頷いた。それがたぶん、俺にできる限界だ。
「……分かったよ」
溜め息まじりの俺の言葉に、よだかは、「ごめんね」と小さく呟いた。
340: 2015/12/19(土) 21:48:01.01 ID:XkCBA1VCo
◇
雨と呼ぶにはあまりに弱々しい霧雨だった。
煙るように白んだ街並みを、俺とよだかは傘もなく歩いた。
薄く広がった灰色の雲が太陽の光を濾して鈍く散らばらせ、街は水中のように景色を曖昧に、けれど静謐に見せている。
風はぬるい。
「夢の中を歩いてるみたいじゃない?」とよだかは言った。
俺は適当にそれに頷く。
「さて、どこに行こうか?」
よだかの問いに、俺はとっさに言葉に詰まる。
どこ? どこに行こうにも、よだかがどこに行きたいのかわからないのだ。
俺が暮らしている街、とよだかは言った。
でも本当のところ、俺はこの街で暮らしているという実感が、未だに築けていない。
他人のための空間に、忍び込んでいるような据わりの悪さ。
誰かに「受け入れてもらっている」かのような居心地の悪さ。
そしてそれは本当にそうなのだ。
この街に自分が"住んでいる"のだという実感は、俺には未だに沸かない。
それはちょうど、家のことと重なって思える。
341: 2015/12/19(土) 21:48:36.56 ID:XkCBA1VCo
「たくみ、バイトしてるんでしょ?」
「ああ」
「どこ?」
そういう流れで、俺たちは静かに濡れながら街を歩いた。
六月の雨降りの土曜は人気が少ない。
よだかが俺の生活している場所を見たがることについて、俺は何も訊かなかったし、文句も言わなかった。
そういうことだってあるだろうと思う。
よだかは濡れることを厭わなかった。
これが土砂降りだったら俺だって止めた。
俺ひとりなら、土砂降りの中だって平気だ。
今は人の部屋を間借りして暮らしている身だから、服や部屋のことを考えると濡れないようにしてしまうけど。
でも、ふたりで居て、片方は女の子で、それなのに雨に濡れながら歩くというのはあからさまに馬鹿げていた。
霧雨はけれど、服の表面に粉のように貼り付くだけで、水分というよりは塵のように思える。
「雨だね」とよだかは言った。彼女にしては静かな言い方だった。
「雨だ」と俺も繰り返した。互いの顔も見なかった。話すことだって何もなかった。
342: 2015/12/19(土) 21:49:23.15 ID:XkCBA1VCo
バイトをしているコンビニに辿り着くと、よだかは駐車場の入口からその景色を携帯で撮影した。
「なにをしてるの」と訊くと、記録、と言う。
「今日の景色」と彼女は笑う。それに何の意味があるのかはよくわからなかったけど、たぶん彼女は意味の有無なんて気にしていない。
店の中に入ると、専門学生の女の人と高校生の男の子が俺に気付いて声を掛けてきた。
「浅月さん、バイトサボってデートですか?」
そう声を掛けてきたのは高校生の方だった。
「隅に置けませんなあ」と専門学生の方が言った。
そんなんじゃないですよ、と答えて、俺は傘を買った。
「嫌な雨だね」とレジを打ってくれた専門学生は言った。
「そうですか?」と俺は本心から尋ね返す。
「雨好き?」
「まあ」
「変わってるね」
彼女が本当に変なものを見る目で俺を見たから、俺は自分が本当に変な人間なんだという気さえした。
343: 2015/12/19(土) 21:49:51.24 ID:XkCBA1VCo
それから俺とよだかは一本の傘に入って街を歩いた。
粉のように軽い霧雨は、傘の下から潜り込むように俺たちに近付いてきた。
傘は傘である意義を失っているような気さえする。
それでもないよりはマシだという気がした。
景色は薄明のような透明感をたたえている。
よだかは感想を何も言わなかった。
俺たちは黙ったまま地下鉄駅に向かった。
切符を買って改札を抜け、ホームで電車を待つまでの間、俺たちは何も話さなかった。
地下鉄は、それでも空いてはいなかった。
人々はどこか憂鬱そうで、話し声さえどこかひそやかだ。
そういうことになんとなく安心する。雨が好きなのはそういう理由だ。
学校に辿り着くと、よだかは当然のように中に入りたがった。
校内には誰もいないような気がしたけど、たぶんそれはただの錯覚で、今日だってどこかしらの部活が活動しているはずだろう。
「駄目だよ」と俺は言った。
「どうして?」
「ここはおまえの居場所じゃないから」
よだかは少し傷ついたような顔になった。
昼近くになって、俺たちは近くのファミレスに寄って昼食を済ませた。
344: 2015/12/19(土) 21:50:17.43 ID:XkCBA1VCo
何か話すことがあるような気がして、長居をしようとドリンクバーを頼んだけど、やっぱり話すことはなかった。
「どうして今日、こっちに来たの」と、俺は仕方なくそう訊ねた。
でも、本当はどうでもよかった。
「理由はないよ」とよだかは俺と目を合わせないで笑った。
そうだろうと思った。ただなんとなく、そうしたかっただけなのだろう。
それから俺たちは何もすることを思いつけずに、ぼんやりと窓の外の雨を眺めながら時間を過ごした。
それはべつに悪い時間じゃない。でもきっと、他の人に言っても信じてもらえないんだろう。
本当にこういう時間なのだ。
長い時間が過ぎて懐かしく思うのは、きっとこういう時間なのだと思う。
少なくとも今まではそうだった。
遊園地に行ったことを思い出すとき、俺が思い出すのはアトラクションの最中のことじゃない。
食事やアトラクションの列に並んでいる時間、トイレを探して迷っている時間、そういう時間だ。
345: 2015/12/19(土) 21:50:49.04 ID:XkCBA1VCo
午後三時を過ぎた頃、静奈姉から連絡が返ってきた。
俺はとりあえず電話をかけて、今例の友達と一緒にいる、と言った。
連れて行ってもいいか、と訊ねると、どうぞ、と静奈姉は言っていた。
俺はよだかが女であることを言い出せないまま、とりあえず部屋に戻ることにした。
そして実際戻ると、静奈姉は明らかに戸惑った顔をした。
「えっと、彼女?」
あきらかに強張った表情で、彼女はよだかの顔を見た。
「初めまして、秋津よだかです」とよだかは名乗る。
「彼女じゃないよ」と俺は言った。よだかはなぜかつまらなそうな顔をした。
「友達?」
静奈姉はいっそう戸惑ったみたいだった。
「あっちの友達。遊びに来たんだけど、どうやら宿がないみたいなんだ」
「……」
いろいろと、静奈姉は想像をたくましくしているらしかった。
そりゃ、俺が逆の立場でもそうなる。
346: 2015/12/19(土) 21:51:17.75 ID:XkCBA1VCo
「泊めてあげたいんだけど……」
「えっと。待ってね」
静奈姉はいろいろと考えるような顔をした。
「まずいような気もするけど、宿がないなら泊めざるを得ない。でも、そもそもそれならこういうタイミングでその話になるのはおかしい」みたいな。
実際それはそのとおりだろう。
俺はよだかに、とりあえず俺の部屋に言って、濡れた服を着替えてくるように言った。
ふたりきりになった途端、静奈姉は珍しく大人ぶった顔をした。
「彼女じゃないんだよね?」
「もちろん」
というか、彼女ならこんな状況にはしない。
「どういう関係?」
俺は答えに窮する。
「友達」と、仕方なく俺はさっきと同じ嘘をついた。本当のところ、赤の他人だ。
「ただの?」
「……とは、言えないかもしれない。でも、あんまり、説明したくない」
「あのね、タクミくん。ここはわたしの家だし、タクミくんをここで預かってるのはわたしなんだ。
だから、ここで何かあったら、わたしとしては責任を感じるし、困るんだ。
もしタクミくんが自分の家に住んでるなら、何をしてもいいと思うけど……」
「迷惑だって分かるよ。でも、急だったし、俺だってこういうつもりじゃなかったんだ。困ったことにはならないって誓う」
静奈姉は、でも、既に困った顔をしていた。
347: 2015/12/19(土) 21:51:54.63 ID:XkCBA1VCo
でも、俺だって本当にこんなつもりじゃなかった。
静奈姉を困らせるようなことなんて、本当はしたくない。
……でも、実際困らせるようなことをしているのだ。
よだかの言うとおりだ。
そもそも、俺がここにいることだって、周囲に迷惑をかけることにしかなっていない。
いまさら迷惑をかけたくないなんて、世迷い言だ。
「……静奈姉。ごめん」
「ごめんじゃなくて。できたら話してくれると嬉しいんだ。家出か何かなら、おうちに連絡しなきゃでしょ?」
「……」
俺はちょっときょとんとしたけど、まあたしかに、そういうふうにも見える。
というか、普通に考えたら、そう見えるのか。
「ほんとにそういうんじゃないんだよ。普通に友達として、遊びに来たんだ。急だったけど、俺も知らなかったんだ」
静奈姉は、まだ考えるような素振りを見せていた。
348: 2015/12/19(土) 21:52:21.13 ID:XkCBA1VCo
そこで、ドアが開く音がした。
「姉です」と、よだかは言った。
俺と静奈姉は、よだかの方を見る。
薄手のパーカーとジーンズに着替えたよだかは、まだ少し湿ったままの髪を指で梳かしながら、こっちを見ている。
「姉って……誰の?」
「わたしは、たくみの姉です」
「よだか」と俺は咎める。彼女は俺を睨むようにしてから、それでも話を途中でやめてくれた。
静奈姉に話すことじゃない。
他の誰にも話すことじゃない。
いや、でも……。
よだかが話したいなら、俺には止める資格なんてないのかもしれない。
彼女には、その権利があるのかもしれない。ひょっとしたら。
もし彼女がそう主張するなら、俺はそれを受け入れることもできる。
349: 2015/12/19(土) 21:53:09.78 ID:XkCBA1VCo
「……タクミくんにお姉ちゃんなんていないでしょ? わたし、親戚だよ?」
静奈姉は、あきらかに咎めるような目でよだかを見た。
静奈姉のなかでよだかは、もう、嘘つきになってしまった。
けれどよだかは、そんな目には慣れてる、というふうに、気にした素振りも見せなかった。
でも、本当のところ、よだかがそういうふうに見られることに慣れていないことだって、俺は知っている。
静奈姉が、そんな目をしたくなる理由はわかるつもりだ。
でも俺は、よだかがそういう目で見られることが耐えられない。
なんなんだろう、これは?
大好きな人達なのに、優しい人たちなのに。
その優しさはきっと、よだかだって受けられるはずだったものなのに。
「よだかは、俺の姉だよ」
俺はそう言った。でも、そう答えるのは間違っているような気もした。
本当にそうなんだろうか……? よだかは、俺の姉なんだろうか、本当に?
でも、そんなのはもう関係ないことだ。
俺はよだかを、姉だと認めた。本当のことは分からない。でも、もう認めた。だから俺はこの街に来た。逃げてきた。
「……それなら、おじさんたちに確かめてもいい?」
静奈姉の言葉に、よだかは、
「やめておいた方がいいと思いますよ」と、きっと本心からの忠告をした。
それを静奈姉は、嘘がばれないための方便だと解釈したのだろう。電話をする、と言った。
350: 2015/12/19(土) 21:53:42.50 ID:XkCBA1VCo
仕方なく、俺は言葉を重ねた。
「してもいいけど、できたら、母さんじゃなくて父さんに話して」
その言葉には、さすがに彼女も戸惑ったみたいだった。いいかげん、嫌気がさしてくる。
人に囲まれて生きることはむずかしい。
人に助けられずに生きるのはむずかしい。
それにもかかわらず、自分のことを自分だけで考えたいと思うのは、もっとむずかしい。
「……静奈姉、そういえば、俺も訊きたいことがあったんだ」
「なに?」
「遊馬兄とは、もう会わないの?」
静奈姉は、ちょっと傷ついたみたいな顔をした。
その表情に、俺は少しの後悔と、少しの嗜虐心が芽生えるのを感じた。
「あんなに仲が良かったのに、今はもう会ってないの?」
静奈姉はしばらく黙りこんでから、よだかの方をちらりと見て、諦めたようにため息をついて、
「振られたんだよ」
と苦笑した。
「いつまでもつきまとってもいられないでしょう?」
ああ、そうだったんだ、と思った。
そういうふうにバラバラになっていくんだ。
355: 2015/12/21(月) 22:56:37.29 ID:w1snt7Rbo
◇
結局、静奈姉は俺の家に連絡をしなかったみたいだった。
どうしてかは分からない。
結局、よだかのことは見逃してくれたらしい。
一晩だけという俺の言葉を信用してくれたのかもしれないし、面倒事を避けたのかもしれない。
とにかくそうなってしまったらすぐに割りきれてしまえるのが彼女の美点なのかもしれない。
突然の来客であるよだかと一緒に夕食をとることにも、彼女が風呂場を使うことにも何の抵抗もないようだった。
夕食を食べ終える頃には、ふたりはすっかり馴染んで、会ったときのギスギスとした雰囲気はなりを潜めていた。
とはいえ、よだかが俺の部屋に泊まることには反対されてしまったので、結局俺がリビングで眠ることになった。
静奈姉はしばらくよだかと話をしたあと、なにかやらなければならないことがあるとかで自分の部屋にこもってしまった。
俺が自分の部屋に戻ると、よだかも当然のようについてくる。ほかに居場所もない。それはそうなるだろう。
356: 2015/12/21(月) 22:57:03.48 ID:w1snt7Rbo
俺は机の上にノートを広げて勉強を始めた。何かすることがあると、気が紛れる。
「静奈さん、いいひとだね」とよだかは言った。
彼女は当たり前みたいに俺のベッドの上に横になっていた。
そう。静奈姉はいいひとだ。
「ねえ、たくみ、訊いてもいい?」
「なに」
どうせ、駄目って言ったって訊くくせに、と俺は思った。
「たくみがこの街に来たのって、わたしのせい?」
「そうだよ」
俺は間髪おかずに答えた。
「やっぱり?」
「うん」
「わたしと会わないほうが、たくみは幸せだったね」
本当に真剣な声で、よだかはそう言った。
自分が誰にとっても余計ものだと信じているみたいに。
俺はそれを否定できない。
「たしかにね」と俺は答えた。
357: 2015/12/21(月) 22:57:50.62 ID:w1snt7Rbo
中学二年のあの春の日に、ひとりの女の子が母親の遺書を握りしめて俺の家に来ていなかったら、俺は今でも幸せでいられた、かもしれない。
ひとりの男がいた。
男には恋人がいた。長年連れ添った相手だった。女が妊娠すると、ふたりは籍を入れた。
ちょうどいいタイミングではあった、と後に語っていた。
そしてふたりは幸せな家庭を築きましたとさ、めでたしめでたし。
――反転。
けれど女の妊娠が発覚する少し前まで、たった数ヶ月の間だけ、男は浮気をしていました。
浮気相手は職場の後輩、男より五、六年下の、社会人になったばかりの女の子。
男は恋人がいることを彼女に隠して、数ヶ月の間騙し通したのです。
さて、男が浮気をやめた途端、見計らったように恋人の妊娠がわかり、彼はびっくりしました。
まるで運命のようなタイミングだと彼は感じ、自分が浮気相手を捨てたことを間違っていなかったと感じました。
彼にはそれが、自分が誠実さを取り戻したことに対する福音のように感じたのです。
生まれた子供は、仲の良い両親に見守られ、すくすくと育ちました。
――ここで終われば、まだ幸せな物語だった。
358: 2015/12/21(月) 22:58:41.12 ID:w1snt7Rbo
そして中学二年の春の日、同じ中学に通うひとりの少女が、彼らのもとを訪れました。
聞けば彼女は、父が結婚するまえに恋人関係にあった女の子供だと言います。
彼女は妊娠していたのです。
それも、母が彼を身ごもるより先に。
少女は彼の腹違いの姉だったのです。
父の認知がない以上、戸籍上は赤の他人だったとしても。
同じ中学に通う同級生の女の子が、学校で何度か顔を見たこともある少女が、自分の腹違いの姉であった事実。
その根本となった父の不誠実。
この場合、どっちが『不貞の子』ってことになるんだ?
彼はそう思いましたとさ。
なんでも彼女の母親は、もともと体が弱かったうえ、女手一つで子を育てるのに相当無理をしたらしく。
体を壊して、しまったらしく。
あっさり氏んで、しまったらしく。
娘は母の遺書に書いてあったとおりに、「実の父親」を頼りにしてみましたが、
「俺の子かどうかなんてわからない」と、あっさりつっぱねられましたとさ。
めでたくなしめでたくなし。
359: 2015/12/21(月) 22:59:23.93 ID:w1snt7Rbo
中学二年生までに得たすべてのもの。
両親の愛情(らしきもの)。友人たちとの時間。気のいい親戚たちとのふれあい。
楽しかったこと、嬉しかったもの、それを幸せと呼んだ。
その裏側には、常に『よだか』がいる。光に炙りだされる影のように、俺の幸福の裏側にはよだかが張り付いていた。
俺が両親に抱かれていたとき、よだかは母親とふたりきりだった。
俺が友達と遊んでいるとき、よだかは家事の手伝いをしていた。
俺がるーと遊んでいたとき、よだかは学校の友達にいじめられていた。
光と影は反転しうる。
俺はよだかだったかもしれない。
俺は、たまたま拓海だった。『こっち』だった。
胸をなでおろして、はあやれやれ、どうやら俺の人生は、「父に選ばれた方」だった、一安心だ、なんてことにはならない。
知らなければ幸福でいられた? ……たしかに。
でも、知ってしまったことを知らなかったことにはできない。
知らないこと。目を瞑ること、耳を塞ぐこと、口を噤むこと。それを幸福と呼べるだろうか?
それを幸福と呼ぶのなら俺は誰に対してだって断言してやれる。
幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。
幸福と真実を秤にかけたとき、ためらわずに幸福を受け取れる奴になんてなりたくない。
だったら俺は、幸福になんてならなくていい。
360: 2015/12/21(月) 23:00:07.24 ID:w1snt7Rbo
よだかはいつか言っていた。
――人生はプラスマイナスゼロって言うじゃない?
悪いことがあったら、そのうち良いこともある、とか。
でも、ねえ、本当にそうなの? 本当にプラスマイナスの収支がつくって信じて、そんなことを言ってるのかな。
そうだとしたら、彼らの頭のなかでは、アンネ・フランクの短い人生にはその理不尽な不幸に見合うだけの幸福があったことになるのかな。
そうだとしたら、そこで収支がプラスマイナスになっているんだとしたら、彼女の氏はありふれたものでしかないのかな。
そうだとしたら、わたしたちは、その氏からなにひとつ学ぶことはないってことにならない?
どこにでもある、誰もと同じ、プラスマイナスゼロの生でしかないってことにならない?
アンネ・フランクの生と氏は、悲しむにも嘆くにも悼むにもたらない、ただ当たり前のものでしかないのかな。
誰かがそれを、屁理屈だと言った。
俺はそうは思わなかった。
生きることは理不尽だし、良いことと悪いことの収支なんてつくはずがない。
数字のようには割り切れやしない。
都合のいい気休めなんて、聞き流すのに体力を使う分むしろ有害だ。
欺瞞を欺瞞と呼べば、ひねくれていると後ろ指をさされる。
話の通じない相手に耳を貸すのは、疲れる。
361: 2015/12/21(月) 23:00:46.96 ID:w1snt7Rbo
「ごめんね」とよだかは言った。
「なにが」
「なにか、考えてる?」
「なにも。変な感じがすると思って」
姉であり、元同級生であり、同い年の女の子である少女。
よだかと俺は、けれどいつのまにか、仲良くなっていた。
友達でもなく、姉弟でもなく、なんでもないはずなのに、近くにいた。
結婚しようよ、とよだかはよく言う。
それが俺には、彼女を認知しなかった父へのあてつけのためのように思えてしまう。
もしくはそれは単に俺が穿った見方をしているだけで、彼女は誰かとの繋がりを求めているのかもしれないけど。
「ごめんね」とよだかはまた言った。
「わたし、居なければよかったね」
それはきっと、今、この場に限定された、なんでもない言葉。選び方が少し不穏なだけの言葉。
それは、けれど、中学のとき、彼女の口から発せられた言葉を思い出させた。
――ごめんね。
――わたしがいなければ、きみは幸せな子供でいられたね。
――わたしがいなければ、お母さんも、ほかのひとと幸せになれたかもしれないよね。
――わたしがいなければ、きみも、お父さんのこと、素直に尊敬できてたよね。
――わたし、生まれなければよかったね。
そんなことを泣きながら言った女の子。
彼女のことを、俺がどうして無碍にできるだろう。
362: 2015/12/21(月) 23:01:29.37 ID:w1snt7Rbo
「どした?」とよだかは俺を見て笑った。
「なんでもない」と俺は目をそらす。
すると彼女は、ベッドを下りて、俺の真後ろまでとたとた歩み寄ってきて、
「どーん」とうしろから抱きついてきた。
俺たちは姉弟で、でも、中学のときに初めて顔を合わせた、無関係の男女でもある。
そのいびつさが、俺たちの振る舞いに、不思議なほどの違和感を与えてくれる。
「なんだよ」
「お姉ちゃんが恋しいのかと思って」
「誰がお姉ちゃんだ」
「たまには素直に甘えてごらん、弟よ」
「調子乗んな」
ああ、でも、とふと思い出した。
363: 2015/12/21(月) 23:02:10.38 ID:w1snt7Rbo
「そういえばさ、よだか」
「なに?」
「俺、子供の頃、お姉ちゃんがほしかったんだよな」
「そうなの?」
「うん」
「わたし、弟がほしかった」
「そう?」
「うん」
俺は少し笑った。
「ばかみたいだな」
「ほんとにね」
よだかも笑った。
ばかみたいに。
369: 2015/12/23(水) 20:01:11.77 ID:UwKLbSxUo
◇
翌日の朝、リビングのソファのうえで目を覚ました。
朝の五時半をまわったばかりだったが、普段と違う場所で眠ったせいか、寝直す気にはなれない。
六月の日曜の朝、五時。窓の外は少しずつ明るくなっているようだったけど、雲はやはり空を覆っている。
ぼんやりする頭で少し考えごとをしてから、キッチンに立ってお湯を沸かしてコーヒーを入れる。
それからまたソファに座り込んで、コーヒーから立ち上る湯気を見つめながら掛け時計の針の音を聴き続けていた。
いくつかのことを思い出したり、忘れようとしたりした。
俺の部屋の俺のベッドにはよだかが眠っているはずだ。
静奈姉は遊馬兄に振られたという。るーはそのことを知っていたんだろうか。
結局、第二文芸部……現、第一文芸部の部誌が焼却炉で燃やされていたのは、いったいなんだったのか。
嵯峨野先輩から借りたDVDを、そういえばまだ返していない。
近頃の高森は、表面上は元気を取り戻したみたいに見えるけど、それだってどうなのか分からない。
俺たちの部誌は、結局、不完全燃焼のまま、完成ということにしてしまった。
この憂鬱はなんだろう。何もかもが行き詰まっているような、そんな感覚。
370: 2015/12/23(水) 20:01:38.76 ID:UwKLbSxUo
落ち着けよ、と俺は自分に言い聞かせる。
部誌は完成させた。思い通りではなかったかもしれないけど、完成したんだ。
静奈姉のことだって、静奈姉のことだ。よだかのことだって、いまさらの話だ。
べつに俺は、何かをする必要なんてない。
すべきことなんてひとつもない。
今日は夕方からバイトだ。よだかは昼過ぎに新幹線で帰るらしい。課題はもう終わらせてしまっている。
それだけだ。
俺がすべきことなんて、ない。だから、この妙な焦燥も、憂鬱も、出処が分からない。
何かに追われているような気さえする。
わけがわからない。
コーヒーを飲んで、頬を軽く両手で叩く。目がさめた気がしない。
服を寝巻きから動きやすいものに着替えて、外に出た。
玄関を出るとき、扉を開ける音がやけに大きく響いた気がした。
外に出ると、空気はなんとなくそっけない気がした。梅雨時とはいえ、薄着だと少し肌寒く感じる。
雨が降っていたことに気付いて、一度玄関に戻り、傘を持ちだした。昨日買ったものだ。
傘をさして、街を歩く。当然だけど、日曜の早朝だ。人気はない。
沈黙を埋め合わせるみたいに、雨粒がそこらじゅうを撫でるように打つ音が聞こえる。
何かを考えたくて歩きはじめたのに、何を考えたらいいのか分からなくなってしまった。
371: 2015/12/23(水) 20:02:12.90 ID:UwKLbSxUo
俺は、何がしたくて、この街に来たんだろう。
逃げてきた。それだけは分かってる。
向かい合うことができなかった。何と?
父のこと? よだかのこと? 俺自身のこと?
ゴローとの賭けを思い出す。あやふやになってしまった、「きらきら」のこと。
俺は、それを求めていた、ような気がする。こがれていたような気がする。
たとえば、るーと再会して、話ができたり。
誰かと一緒に過ごしたり、なにかを分かちあったり、成し遂げたりするようなことを。
散歩の道順は適当だった。別に目的地はなかった。
駅近くにある、自然公園まで足を伸ばす。
杉や檜や松が生い茂る丘に沿うように、人の手で整えられた散歩路がいくつも伸びている。
大きな池には魚だっている。水面は光を浴びればきらきらと光る。
広さがちょうどいいのだろう。朝早くからジョギングや犬の散歩をしている人の姿が見えた。
入り口近くにある広場ではときどきなにかのイベントが行われたりするが、普段は親子連れがキャッチボールをしていたりする。
昼過ぎにでもなれば、今日もそういう景色が見えるのだろう。
けれど早朝のこの場所は、そんな景色が嘘くさく思えるくらい、静かであたたかみに欠ける。
372: 2015/12/23(水) 20:02:44.74 ID:UwKLbSxUo
見方を変えれば、どんなに明るい場所も、こんなふうに寂しげになる。
それが嫌だってわけじゃない。あたたかい時間だって、嘘になるわけじゃない。
けれど……。
「暇なのかい?」
顔をあげると、散歩路の脇のベンチに、鷹島スクイが座っていた。
紙パックのオレンジジュースをストローですすりながら、彼はこっちを見ている。
たぶん、見ているのだと思う。相変わらず、前髪で隠れていて表情は覗けない。
「……お互い様だろ、その台詞は」
「俺はただの散歩さ。日課なんだ」
「嘘だろ?」
「嘘だよ」
悪びれるふうでもなく、鷹島スクイは笑う。どうでもよさそうな、雑な反応だった。
「何しにこんなところに来た?」
373: 2015/12/23(水) 20:03:13.61 ID:UwKLbSxUo
「気紛れだよ。深い意味はない」
「……姉貴は元気だったかい?」
俺は答えない。
「おまえは何がしたいんだ?」
唐突な問いかけに、戸惑う。スクイは、やっぱりどうでもよさそうに笑っている。
「氏んだ猫の話を書くために、楽しむことを放棄した奴」
俺には、言葉の意味がうまくつかめない。
「うまく楽しむために、氏んだ猫の話を書くのをやめた奴」
つかめない。
「おまえはどっちだ?」
わからない。
スクイが何を言わんとしているのか、俺には理解できない。
「どっちもか?」
答えられない俺を、スクイは笑った。
374: 2015/12/23(水) 20:03:55.42 ID:UwKLbSxUo
「姉貴に、おまえは何かをしてやれるつもりでいるのか?」
「……」
「なにかできると思ってるのか?」
「……」
「おまえは、あいつの人生までは引き受けられないだろ」
「……」
「――なあ、藤宮ちはるのことはいいのかい?」
雨音が、少し、強まった。
天秤を思い浮かべる。
375: 2015/12/23(水) 20:04:56.21 ID:UwKLbSxUo
◇
それからどうやって帰ったのか、覚えていない。
部屋に戻る頃には六時を回っていたが、日曜の朝だ。まだふたりとも眠っているらしい。
まだ、頭がぼんやりする。
顔でも洗おうと洗面所に向かい、ドアを半ばあけたところで、衣擦れの音が聞こえた。
途中まで脳の命令に従っていた俺の腕は、その引っ掛かりを保留してそのまま指示を達成する。
「なあ!」
と膨らむような声がして、視界に見慣れない肌色がうつって、俺はあわててドアを閉めた。
「びっ、くりしたあ!」
とドアの向こうから声が聞こえる。よだかだ。図らずも、目が冴えてしまった。
「あー、ごめん」
「っとにもう! ノックくらいしてよ!」
「まだ寝てるもんだと思ってた。鍵、かかってなかったし」
「あ、それは、まあ……そっか」
血縁上の姉弟とはいえ、一緒に暮らしたことすらない、事実上は他人。
そんな女の子の着替えを覗いてしまって、反応に困る。
正直、血縁関係についてはともかく家族という意識はない。
よだかを異性として見れない、なんてことは、少なくとも俺にはない。
とはいえ、こういう状況っていうのは、誰が相手でも気まずいだけなんだけど。
376: 2015/12/23(水) 20:05:38.69 ID:UwKLbSxUo
カチャ、と鍵の閉まる音がして、しばらくしてから、よだかはゆっくりと扉を開けた。
「たくみのへんたい」
じとっとした目で見てくる。
俺はさすがに仕返ししたくなった。
「誰かさん、昨日はラブホ行こうとか言ってたくせにな」
よだかは「う」と悔しそうに口をもごもごさせた。
「宿泊施設として利用しようとしただけだもん」
「そうですか」
苦しい言い訳を流してやると、よだかはむっとした顔のまま俺の顔を睨んできた。
「……今日帰るんだろ?」
話を変えるついでに質問をすると、よだかはすぐに頭を切り替えて、返事をしてくれた。
377: 2015/12/23(水) 20:06:05.39 ID:UwKLbSxUo
「うん。昼前には、駅にいかなきゃかな」
「じゃあ、ちょっとゆっくりしてから向かうか」
「おばあちゃんにおみやげ買ってかないと」
「……なんて言ってこっちに来たんだ?」
「『ともだちに会ってくる』って」
……まあ、そうとしか言えないか。
よだかの祖母から見れば、俺は『娘を弄んだ男の子供』だ。
憎むとまではいかなくとも、心穏やかではないだろう。
「今日も雨だね」
そう言って、彼女は窓の外を見た。
俺も釣られて、外の景色を見る。
「……そうだな。雨だ」
378: 2015/12/23(水) 20:06:31.63 ID:UwKLbSxUo
静奈姉が目を覚ますまで、俺とよだかは俺の部屋で休むことにした。
「一晩過ごした感想だけど、たくみの部屋、生活感ないね」
「……ほっとけよ」
「褒めてるんだよ。たくみらしい。それに、たくみの匂いはする」
「昨日も言ってたけど……」
「なに?」
「そっちの方が変態みたいだ」
よだかはまた、むっとした顔になった。
そのまま会話が途切れる。
少し強くなった雨音が、部屋のなかに静かに響く。
ベッドに腰掛けたまま、よだかはトントンとつま先を揺らした。
それから不意にこっちを見上げる。
「たくみ、あれして」
当たり前みたいな顔で、そう言った。
俺は、どう反応したものか、迷う。
379: 2015/12/23(水) 20:07:02.25 ID:UwKLbSxUo
「だめ?」
例の目で、彼女は俺を見た。
俺がベッドの上に腰掛けると、彼女は手足で這って傍によってきて、体を反対に向けて、俺の膝の上に座った。
それから俺の腕を勝手に掴んで、自分の膝を抱えさせる。
この行為に何の意味があるのか、俺には分からない。
わからないというか、わかるような気もするけど、でもこれは、俺とよだかの関係性には明らかにふさわしくない。
「匂い」
とよだかは言って、くすくす笑う。同じ方向を向いているせいで、彼女の表情は俺にはわからない。
俺は可能なかぎり背中を逸らして、よだかとの接点を減らそうとする。
それをいやがるみたいに、よだかは俺の両手を掴んで離さない。
よくわからない。
380: 2015/12/23(水) 20:07:42.06 ID:UwKLbSxUo
よだかは、こういう、抱きついたり、くっついたり、手を繋いだり、そういう身体的な接触を好む。
弟だからなのか、それとも、単に親しい男子だからなのか、そのどちらでもないのか。
いずれにせよ、欠けた何かを埋め合わせるみたいに、よだかは擦り寄ってくる。
温度か、匂いか、感触か、触れ合っているという実感か。
そうしないと自分の形がわからなくなってしまうみたいに。
彼女は、こういうふうにそばにいると、すごく安心したような吐息を漏らす。
姉というより、妹みたいだ、とときどき思う。
対する俺は、同い年の女の子と接触することで気分が落ち着かないわけだけど。
それを役得と思う気持ちも必ずしもないとは言えないし、その一方で、罪悪感もある。
複雑だ。
よだかを、無碍にはできない。けれど、よだかを引き受けることもできない。
だとしたら、俺は、結局父と同じことをしているのかもしれない。
そんなことをぼんやり思う。
そうだとしたら、この子にやさしくしたいと思う気持ちも、やっぱり欺瞞にすぎないのだろうか。
383: 2015/12/26(土) 16:10:22.42 ID:q3hFP/O0o
◇
よだかは最後に、俺が通う学校をもう一度見たいと言い始めた。
別に逆らう理由も思いつかなかったから向かったが、だからといって何かがあるというわけでもない。
雨は止んだけれど、分厚い雲が空を覆い隠している。
暗い並木道を歩きながらよだかは、
「どうしてなんだろう」
とポツリと呟いた。
太陽の光は薄ぼんやりと、けれどたしかに地上まで届いている。
学校までの道を歩く途中でよだかは不意に俺の手の甲に触れてきた。
そっと指先で撫でるように触れてきて、そのまま指だけで俺の手を掴んだ。
俺はその手を拒めずにいた。
384: 2015/12/26(土) 16:11:46.30 ID:q3hFP/O0o
見通しのいい並木道には、かすかな人の気配しかない。
鳥の鳴き声が聞こえる。
風がかすかに空気を運んでいる。
木々は雨粒に濡れてしっとりと艶めいている。
何かを覆い隠すような曇り空もどこか遠くで、薄いカーテンのように心地が良い。
今は六月で、雨はあがって、埃を洗い落とした空気を吸い込むと体が内側から透き通っていくような気さえする。
よだかは不意に鼻歌を歌い始めた。
古いアニメのオープニング。その響きはなんとなくこの場には似つかわしくない感じがして、おかしかった。
「すいみん不足」だ。
よだかのささやくみたいな歌声は、雨上がりの並木道の静けさに溶けるみたいに広がっていった。
それは悪くない感じだった。
385: 2015/12/26(土) 16:12:27.58 ID:q3hFP/O0o
正面から、誰かがふたり、並んで歩いてくる。
よだかの鼻歌はまだ続いている。
俺は目を凝らして、近付いてくる誰かの姿を見る。
俺は、
よだかの手を振り払った。
俺は、よだかの方を見る。彼女は一瞬、かすかな驚きを表情に浮かべた。
歌は止んでいた。
そうなってからはじめて、俺は自分が手を振り払ってしまったことを意識する。
「浅月?」
そう呼びかけられても、俺はとっさに反応できなかった。
自分の手がそういうふうに動いたことを、なぜか認めたくなかった。
「やっぱり浅月だった。デート?」
正面から歩いてきたのは、佐伯とるーのふたりだった。
日曜なのに、なぜか制服を着ている。
「違う」と俺は答えた。
ふたりはちらりとよだかの方を見た。俺も釣られてよだかを見た。
よだかは一瞬、俺を見上げたあと、さっと視線を逸らしてから、何も言わずに頭を下げた。
386: 2015/12/26(土) 16:13:02.79 ID:q3hFP/O0o
「……姉」
と、俺は答えた。よだかのことについては、上手い答えが見つからない。
「タクミくん、お姉さんいたんですか」
るーは、何の疑問も覚えずに、俺の言葉を信じたみたいだった。
「ああ」
頷きながら、俺はよだかの方を見ないようにした。
「昨日からこっちに来てたんだよ。今日、帰るけど」
「そうでしたか」とるーはにっこり笑って、よだかに向き直る。
「はじめまして」と挨拶してから、るーはよだかに自己紹介をした。
よだかは戸惑いつつ、「はじめまして」と返事をして、思い出したように自分の名前を付け加える。
「秋津よだか」と名乗ったことに引っかかりを覚えなかったわけもない。
それでもるーは、そんなことはなんでもないことだというように笑う。
「……ふたりは、学校に行ってきたの?」
なんとなく据わりが悪くて、話を変えると、頷いたのは佐伯だった。
387: 2015/12/26(土) 16:13:37.90 ID:q3hFP/O0o
「そう。ちょっといろいろ、確認したいことがあったから」
「確認したいこと、ですか」
「例の、焼却炉の話。なんとなく、気になって」
佐伯は、いつもみたいにちょっと遠くを見るような目をした。
気になる。それは、分かる。俺だって気になる。
「……犯人探し?」
「みたいなもの、かな。部長とか林田は興味ないみたいだし、マキはちょっと怖がってるし。
とりあえずちはるちゃんに協力してもらって、いろいろ話を聞きに行こうと思ったんだ。
第二……今は第一か。顧問の先生と及川さん、今日は学校にいるみたいだったから」
「第一の顧問か。……ヒデは何か言ってた?」
「タチの悪い悪戯だけど、何かの損害があったわけでもないから、犯人を見つけても穏便に済ませたいって、それだけ。
先生たちとしては、特に犯人探しをしてる感じじゃないかな。暴力事件とか、窃盗事件ってわけでもないしね。あっちの顧問も同じ感じ」
「……及川さんは?」
「あっちの部員たちの一部は、やっぱりわたしたちの仕業だって疑ってるみたい」
わたしたち、というより。
「疑われるなら、俺だよな」
「まあ、そうなるかな。わたしたちが口裏合わせてると思われてる可能性もあるけど」
388: 2015/12/26(土) 16:14:04.73 ID:q3hFP/O0o
俺が佐伯と話している間、るーはよだかと話していた。
この場に居づらそうにしているよだかに気を使ったのか、それとも意識せずに、そういうことをしたのか。
よくわからない。
るーは、よだかが住んでいる街のこととか、俺のこととか、そういう話をしているみたいだった。
どうしてそういうふうに、今日会ったばかりの他人と親しげにできるのか、不思議になる。
でも、どうなんだろう。親しげ、ではないのかもしれない。それがなんなのか、よくわからないけど。
「調べてみて、何か分かった?」
横目でふたりのやり取りを眺めながら訊ねると、佐伯は曖昧に首を傾げた。
「しいて言うなら……燃やされてた部誌は、『部誌』だと分かるように燃やされてたってことかな」
「まあ、そうじゃないと、何が燃やされてたかなんてわからないもんな。全部燃やさないなら尚の事だ」
「つまり、犯人……とりあえず今はそう呼ぶけど……は、燃やしたと分からせるためにそうしたってことだろうね」
「ああ」
それについては、単純に思いつく可能性がひとつ。
「……愉快犯って可能性が高いよな」
佐伯は、俺の目を見て頷いた。
389: 2015/12/26(土) 16:14:48.97 ID:q3hFP/O0o
「誰かを陥れたり、邪魔をしたりする目的なら、燃やせるものは全部燃やしてるはずだ。
部誌は同じところにしまってあったのに、ひとつだけが燃やされてた。
しかも、わざわざ焼却炉を使う理由はない。処分するだけなら、原稿なんて全部持ち帰って捨ててしまえば、証拠も残らないし騒ぎにもならない。
なのにわざわざ、騒ぎになってほしいみたいに、焼却炉まで使って、しかもわざと、燃え残りで部誌だと分かるようにしてあった」
でも、そうだとしたら打ち止めだ。
はっきりした目的があったなら、特定はできるかもしれない。
でも、腹いせや嫌がらせ、八つ当たりが目的だったとしたら、特定なんてできやしない。
第二……第一文芸部の部員に恨みを持つ誰か、部員内のいざこざ、まったく関係のない誰かの、意味のない嫌がらせ。
範囲は広がっていく。
「……そうかも、しれないけどね」
佐伯のつぶやきは、「そうともかぎらない」と言いたげだった。
「燃やされてた原稿は、第一稿だったんだって」
「……第一稿。部誌の、ってこと?」
「そう。それで、顧問の先生が調べたら、第一が使ってるパソコンから、一稿目のデータが消されてたんだって」
「……」
「どう思う?」
390: 2015/12/26(土) 16:15:16.35 ID:q3hFP/O0o
……第一稿が燃やされてた。第一稿に何かまずいことが書かれていて、それを誰かが人目につかないようにした?
それが動機だとしたら、容疑者はぐっと絞られる。第一文芸部の部員以外に、部誌の中身を知っていた奴はいないはずだから。
「……いや、でも、それはそれでおかしいだろ。だったら燃やす意味がない。隠れて処分すればいいだけだろ」
「うん。わたしもそう思う」
「それに、パソコンに原稿データが残ってるんだとしたら、第一稿目だけを処分する理由がない。
データがあるってわかってるなら、全部処分した方が話が早いだろ? だってそうしないと……」
そうしないと、第一稿目を処分するのが目的だと、特定されてしまう。
「……なんだ、それ」
混乱する。
矛盾してる。
第一稿を処分したのは、そこに見られたくない何かがあったから。
にもかかわらず第一稿だけを処分したのも、わざわざ焼却炉で燃やして騒ぎにしたのも、第一稿が目的だったと誰かに気付かせるため?
「わけわかんないでしょ?」
佐伯は困ったみたいに溜め息をつく。
「でも少なくとも、パソコンからもデータが消されてたってことは、単なる腹いせとか嫌がらせではなさそうだって思う。
もちろん、手の込んだ悪戯って可能性も否定はしきれないけど……」
俺は最初から、これがただの嫌がらせだと思い込んでいたし、だから特定なんて不可能だと思っていた。
それなのに佐伯は、実際にそれを確認して、そうじゃないかもしれないという可能性を引っ張り出してきた。
なんとなく俺は、それを怖いと思った。
391: 2015/12/26(土) 16:15:55.92 ID:q3hFP/O0o
「とにかく、第一稿と第二稿以降に差があるなら、その差が、第一稿が処分された理由だよね。
だとすれば、手直しをした部員に話をしらみつぶしにきいていけば、特定できるかもしれない」
でも、と彼女は言う。
「もしこれが悪戯だったら犯人探しはためらわないけど、何かの理由があってそうしたんだったら、
わたしが首を突っ込むことじゃないのかも。そんな感じもするよね」
「……たしかに、わけがわからないけどな」
「そもそも、手直しした生徒って、ほぼ全員なんだけどね。誤字脱字の修正とか、ページの見切れとか」
「……気合入ってたんだな、あいつらも」
「だからこそ、あんなに怒ったんだろうしね」
聞けば聞くほど、面倒な話だと思う。
すっきりしない話になりそうな気がしてきた。
392: 2015/12/26(土) 16:16:41.36 ID:q3hFP/O0o
◇
話を終えたあとふたりと別れて、よだかを見送りに駅まで向かった。
よだかは歩きながら、何か不思議そうな顔をしていた。
ずっとるーと話していた。てっきり、そういうのは苦手だと思っていたんだけど、べつに疲れてもいないようだ。
「たくみ、あの子のこと、好き?」
不意に彼女は、そう問いかけてきた。
俺は迷って、
「どっちのこと?」
と問い返す。
「わたしと話してた方」
……どうして分かってしまうのか、俺にはよくわからない。
それでも結局、嘘をつくことに意味はないから、
「好きだよ」
と答えてしまった。答えたことに、少しほっとした自分もいた。
「そっか」
よだかはそれから、ほとんど喋らなかった。
393: 2015/12/26(土) 16:17:08.95 ID:q3hFP/O0o
「……夏祭り」
「え?」
「夏休みになったら夏祭りがあるから、また遊びにきてくださいって、言ってた」
「……」
「ともだち、みたい」
俺はいつものように答えに迷う。
よだかにどんな声をかければいいのか、俺はいつも分からない。
本当はわかりたくないのかもしれない。彼女への態度を、俺はずっと保留しておきたいのかもしれない。
「帰るね」とよだかは最後にそう言った。
「静奈さんと、あのふたりによろしく」
俺は彼女のために何かを言ってあげたかったけど、さっき手を振り払ったことをなぜか思い出して、何も言えなかった。
よだかはもう、甘えた素振りさえ見せない。何かを隠すみたいな無表情だ。
よだかを見送って駅を出ると、雲の切れ目から太陽の光がそそぎこんできた。
天使の梯子だ、と誰かが言っていた。
灰色雲の隙間から差し込む光は、わずかな青空を裂け目から連れてきた。
少し眩しかった。
るーのことが好きか、と俺は自分に問いかける。
好きだ、と俺は答える。
でも、それをどうしたらいい?
その気持ちで、いったい何をすればいいんだろう。
俺にはきっと、何かを素直に楽しもうという意思が欠けているのだ。
399: 2015/12/28(月) 23:04:48.19 ID:xLhcaIFOo
◇
「浅月、聞いてる?」
そんな声で、意識がふっと浮上した。
声の方を向くと、隣に佐伯が座っていた。どうやら、東校舎の屋上。空を見るに、まだ昼休みだろう。
「……今、どっかトンでたよね、完全に」
呆れた顔でこちらを見上げてくる佐伯に、俺は戸惑う。
それから冷静に、思考をまとめる。
いまは月曜の昼休み。俺は佐伯に呼び出されて、話をきくついでに、一緒に昼食をとっていた。
うん、大丈夫だ。ちゃんと分かってる。
「……えっと、ごめん。何の話だっけ?」
佐伯は、変なものを見る顔をした。さっきの、呆れた感じの顔とは違う。
なんだか本当に、変なものを見る目。
「……浅月、大丈夫?」
彼女はそう訊ねてきてから、視線を落として弁当箱の中の卵焼きを自分の口に運んだ。
自分で作っていると、前に聞いた。それどころか、家事のほとんどは自分でこなしているとか。
そういう話を聞くと、自分がどれだけ甘ったれているのかを意識させられて、嫌になる。
400: 2015/12/28(月) 23:05:15.30 ID:xLhcaIFOo
「大丈夫って、なにが?」
「ついさっきまで話してたでしょ。なんで急にわかんなくなるの?」
「いや、それは俺に訊かれてもな……」
「上の空って感じじゃなかったし……まあ、いいんだけど」
「……さっきまで、何話してたっけ?」
こんなふうに急に、状況がわからなくなるようなこと、今まであったっけ?
なんとなく、不安になる。
佐伯はまだ、俺が冗談を言っている可能性でも疑っているのか、訝しげな視線を向けてきた。
俺の顔を見てそれも邪推と気付いたか、彼女はすぐに話してくれた。
「部のこと。けっきょく、投票は大敗だったでしょ。みんな気にしてるだろうな、って」
「……投票」
ああ、そうだ。そういえば、今日、嵯峨野先輩に借りたDVDを返すつもりで持ってきたんだっけ。
そういえば俺は……彼のクラスを知らない。部長に確認でもすれば、どうにかなるだろうけど。
「浅月?」
「あ、うん。聞いてる。投票のことな」
401: 2015/12/28(月) 23:06:28.88 ID:xLhcaIFOo
投票。第一の座を賭けた、文芸部部誌対決。妙な騒動のせいで、すっかり興がさめて、みんな乗り気じゃなかった。
結局、俺たちは負けた。
言い訳は並べられる。
あっちのほうがこっちよりたくさん部員がいて、層が厚いから、とか。
あっちは交友関係が広い奴が多いから、友人票がたくさん入ったのかもしれない、とか。
でも、自分に都合よく考え始めたらきりがない。
いくら友達が部誌を出して、それで投票があるからって、わざわざ手間をかけて票を入れる奴なんて、そうそういやしない。
だからこの負けはなんでもない当たり前の結論を出す。
あっちより、こっちの部誌がつまらなかった、ってことだ。
気にする、か。
まあ、気にするよな。
とはいえそもそも、負ける以前から、こっちの部員は部誌づくりに集中できていなかった気がするけど。
普段通りならもっとマシなものを書けたはずだ、と負け惜しみのようなことを言うつもりはない。
でも、みんな変だった。
……いろんなことがいっきに起こりすぎて、よく分からなくなってきた。
――読むかもしれない『誰か』を意識すると、文章は弱くなる。
そう言っていたのは、誰だっけ。
402: 2015/12/28(月) 23:07:04.53 ID:xLhcaIFOo
「気分転換とか、したいよね。動物園いったりさ」
「行けばいいんじゃない?」
「そうじゃなくて。みんなで」
「みんなで、ねえ……」
「そう。何かない?」
佐伯がこんなことを言い出すのは、珍しい。
というか、佐伯は本来、そういうキャラじゃない。
いつも周囲と距離を置いて、壁を張って、他人に踏み込もうとしない。誰にも踏み込ませない。
他人の気分の上がり下がりなんて、自分とは無関係の対岸の火事みたいに考えているんだと思っていた。
「そういえば……」
「ん?」
「水族館、あたらしくできるらしいよな」
「……あ、うん。そういえば。七月に、オープンするらしいね」
「オープンしたら、みんなで行く? 来月になったらテストもあるし、タイミング見計らわなきゃならないけど」
「混みそうだけど、それもいいかもね」
「ま、テストが終わったら夏休みだけどな」
「……浅月」
「なに?」
「……なにかあった?」
“なにか”?
403: 2015/12/28(月) 23:07:39.39 ID:xLhcaIFOo
佐伯は首を横に振ってから、思い直すみたいに溜め息をついて、食べ終えた弁当箱を包み直した。
それから傍に置いてあったビニール袋からシャボン玉を取り出して吹き始める。
「好きだね、それ」
「べつに好きじゃないよ」
真剣な顔で、シャボン玉を吹いている。こんな顔でシャボン玉を吹く女の子というのは、そこらにはちょっといない。
シャボン玉というのは、もっと楽しみながら吹くべきものなのだ。そういうことを想定してつくられた遊びなのだ。
梅雨の雲は、今日は少し薄い。それでも天気が良いとはお世辞にも言えなかった。
曇天の下で真面目な顔でシャボン玉を吹く佐伯は、真相を探り当てようと思案する探偵みたいにシリアスだった。
「そういや、例の焼却炉の話。進展はあった?」
「特にないよ。調べるべきかどうかも迷ってる」
「……ふうん?」
「藪をつついて蛇が出てきたとき、責任をとれるとは限らないからね」
「……どういう意味?」
404: 2015/12/28(月) 23:08:07.58 ID:xLhcaIFOo
ふー、と、シャボン玉が吹き出て、風に乗って周囲に舞う。
「誰かに愛されたくて、苦しんでる人が、目の前にいるとするでしょう?」
突然の話題の転換に、俺は戸惑いつつ頷く。
佐伯の目は、シャボン玉を追いかけている。その目は俺を見てはいない。
「その人に対して、他人が絶対にやっちゃいけないことって、何だと思う?」
「……見て見ぬ振り?」
佐伯は首を横に振った。
「その人のことを、受け入れようとすること、だよ」
俺は、戸惑う。
「たとえばね、深い悲しみや苦しみのなかでもがいている人がいるとする。
その人は、自分にやさしくしてくれる誰かを求めているとする。
でも、その人に対して、やさしくしちゃ、いけないんだよ」
「……どうして?」
「際限がないから。愛情飢餓を抱えた人に愛情を与えようとしたら駄目なんだよ。
愛情を手に入れても、その人はちょっとしたことで不安になる。ちょっとしたことで、愛情を疑う。
でも、やさしい人はその疑いを晴らそうとする。不安をなくしてあげようとする。一生懸命にね。
でも、最後には……疲れて、離れていっちゃうんだ」
「……」
405: 2015/12/28(月) 23:09:24.34 ID:xLhcaIFOo
「そうなるとね、かわいそうなのは、その人なんだよ。
信じられる相手を見つけても、愛してくれる相手を見つけても、その人も結局、自分に嫌気がさして去ってしまう。
去られた後は、去られる前よりずっと孤独なの。そして次にやさしくしてくれる誰かに、もっと大きな愛情を求めてしまう」
――最後まで責任を取れないなら、やさしさなんてないほうがマシなんだよ。
佐伯はそう言った。俺には、断罪しているみたいに聞こえた。
「自分をからっぽにして、すべてを犠牲にできるなら、応えてあげてもいいかもね。
学校や仕事でも、大事な用事でも、家族が急に倒れても、その人が“会いたい”って言ったときに会う覚悟があるなら。
そういうことを一度でもないがしろにしてしまうと、深く傷ついてしまう人っているんだよ」
「現実的じゃない」
「そうだよ。まともじゃない。そんなの不可能だよ。もちろん、投げ出した人が悪いんじゃない。そんなの無理だもん。でも、そういう人っているんだよ」
「……そういう人たちには、やさしくしちゃいけない?」
「うん」
「じゃあ、どうするのが正解なんだ?」
俺は本心からそう訊ねていた。どうしてか、責められているような気がした。
「強くなってもらう、か、線を引いてあげる、か、すべてを捧げる、か」
「……」
「いずれにしてもね、中途半端なやさしさなんてない方がマシなんだよ。
半端な覚悟で何かを覗きこむことなんて、しない方がいい。知ってしまったら、知らなかったことにはできないんだから」
それが何かの答えになっているのか、俺にはよくわからなかった。
406: 2015/12/28(月) 23:10:12.12 ID:xLhcaIFOo
「……やっぱり、わたしもちょっと変になってるのかな。部誌のこととか、マキのこととか」
佐伯は、ちょっと後悔したような顔で、そう呟いた。
「やっぱり気分転換が必要だね。なにか、考えないと」
そうなんだろうか、と俺は少し考えた。
真上を一羽の鳥が飛んでいった。
佐伯はまたシャボン玉を吹く。
俺は、必要なのは気分転換ではないと思う。
高森はともかく、部長やゴローまで調子を崩してしまっているのは、例の勝負で負けたから、ではない。
俺もそうだから、なんとなく分かるような気がする。
俺たちが悔しいのは、勝負に負けたことじゃない。
勝負を意識して、自分たちの書きたいものを思い切り書けなかったことが悔しいのだ。
負けたけど、俺は俺の書きたいものを思い切り書いた、と、そういう実感さえあれば、敗北をいくら重ねたって強くいられる。
その実感がないことが、俺たちの敗北感の理由だ。
自分の書いたものを、“他人に受け入れてもらいたい”と思う弱さ。そこに宿った、媚び、阿り。
それが、俺たちの敗北感の理由だ。
あっちに負けた。それも事実だ。でも、それは問題じゃない。
必要なのは気分転換じゃない。ふたたび書き上げることだ。
書くことから発した敗北や悔しさは、書くことでしか帳消しにできない。
……そう思ったけど、どうだろう。べつにそんなこともないのかもしれない。
よくわからない。
そんなふうにして、昼休みはただぼんやりと過ぎていった。
407: 2015/12/28(月) 23:11:17.44 ID:xLhcaIFOo
つづく:屋上に昇って【その5】
年末年始は更新が滞りがちになるかもしれません
年末年始は更新が滞りがちになるかもしれません
408: 2015/12/28(月) 23:56:01.53 ID:30fBz5vTo
乙です
引用: 屋上に昇って
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