411: 2016/01/01(金) 21:57:05.88 ID:5IXIe6Goo
最初:屋上に昇って【その1】
前回:屋上に昇って【その4】
◇[Birds]
第一から第二にナンバリングが変わったからって、部室を移動したりするわけじゃない。
これまで上手く回っていたものを変にいじくりまわすのは誰にとっても厄介なことだ。
だから俺たち、現第二文芸部は、相変わらず、東校舎三階の文芸部室に集まっている。
勝負の後、一度だけ及川さんがここにやってきて、「お疲れ様」とか「ありがとう」とか「また何か企画しよう」とか言っていった。
でも、たぶん実現はされないだろうと思う。
例の騒動のせいか、彼自身、どこか疲れた感じの顔をしていた。
嵯峨野先輩とのことでどことなく様子がおかしかった高村は、その騒動に更に気分を引っ張られてすっかりふさぎ込んでいた。
佐伯やるーも彼女をどうにか元通りにしようとがんばっているようだし、高村自身がんばってはいるようだけど、やはり以前までとは違う。
だからこそ佐伯も、例の騒動のことを調べようと思ったのかもしれないけど。
俺は俺で、いろいろと考えたいこと(というより、考えたくないこと)があったせいで、平常通りの態度とはとても言えなかった。
対照的に、つい最近まで様子がおかしかった部長とゴローは、どちらも調子を持ち直していた。
よだかが帰っていった日の翌週の水曜、ゴローは不意に顔をあげて、
「そりゃそうだ」
と呟いた。
412: 2016/01/01(金) 21:57:32.65 ID:5IXIe6Goo
「……なにが?」
と思わず尋ね返すと、よくぞ訊いてくれた、というふうに彼は大きく頷く。
「ミートソースとボロネーゼの違いについて何かを書いたところで、誰も読みやしない」
「……そのこと?」
ゴローがそういうふうに開き直ったことを言うのは今に始まったことじゃない。
彼はどこかで自分のことを客観視している部分があって、自分の行動が起こす結果をはっきりと意識したがる。
今回のも、たぶんそれだ。
「そうだろ? 何を落ち込んでたんだ、俺は」
言いながら、彼は立ち上がった。彼の膝の裏に押されたパイプ椅子が、床に擦れてギイと音を立てる。
「そんなもんで票が稼げるわけがない。分かってたんだ。当たり前だろ? 票を稼ぐつもりで書いたわけじゃないんだ」
ゴローは胸の前に握りこぶしをつくって、演説するみたいに言葉を吐いた。
「そうだ。票を稼ぐつもりで書いたわけじゃない。負けたって当たり前だ。負けたくないなら、もっとそういうことを意識しなきゃいけなかった」
「……べつに、ミートソースとボロネーゼの違いを書くにしても、票を稼ぐことを意識しようと思えばできるもんね」
答えたのは部長だった。ふたりを除く部員たちは、彼らのテンションに呆気にとられたまま沈黙する。
413: 2016/01/01(金) 21:58:15.56 ID:5IXIe6Goo
「題材が一般受けしないなら、文体とか、そういうところに面白みをつくれればいいんだろうし」
部長の言葉に、ゴローは少し考えたような素振りをみせた。
「たしかに。……でも、それは擦り寄るってことじゃないですか?」
「歩み寄る、って言い方もできるよ」
「……」
「上から目線で言えば、譲歩、でもいいけど」
「……なるほど。譲歩ですか」
ゴローはうんうん頷いた。
「譲歩。いい言葉だなあ。それで行きましょう。要するに俺は、自分で思ってたより勝ち負けにこだわってたみたいだ」
ゴローはにやけた顔でまた頷くと、ゆっくりとパイプ椅子に座ろうとして、大きな音を立てて床に尻もちをついた。
「いってえ!」
パイプ椅子は彼が立ち上がった拍子に、彼が思っていたよりもうしろに押し出されてしまっていたみたいだった。
「……なにやってんだ、おまえ」
さすがにみんな、ちょっと笑った。
「うっせえ」と、照れたのか、ふてくされた顔で彼は俯いた。
414: 2016/01/01(金) 21:59:29.37 ID:5IXIe6Goo
改めて座り直して、ゴローは真面目な顔になった。
「さて、"それはそれ"だ」
彼はそう呟いて、俺たちの顔をゆっくりと見回した。
「なんでこんなに気分が落ちてるのか、俺も自分でちょっと考えてみた。そしたらなんとなく分かった。
たぶん、いくつかの要因が重なってるんだ。一個一個、それを分割して考えてみなきゃいけない。一個目はそれ。負けたことだ」
それについてはいい、次勝てりゃいい、と彼は手をひらひら揺すった。
「もうひとつの原因は、水を差されたことだ」
みんな、ゴローに注目していた。こいつがこんなふうに、部員全員に何かを言うことなんて、珍しい。
いつもはひとりで、隅の方で個人作業に打ち込んでいるような奴だから。
「焼却炉で部誌の原稿を燃やす。おかしな話だよな。なんでそんなことしなきゃならない?
そのせいであの勝負は、勝っても負けてもすっきりしなかった。負けたから余計にすっきりしない」
佐伯の顔をちらりと見る。彼女はいつもみたいな、感情の読めない静かな顔で、ゴローの方を見ていた。
「あっちの部員の何人かは、俺らの仕業って疑ってるくらいだ。正直、ムカつく」
だろ? とゴローが同意を求めてきたので、俺は曖昧に頷く。
たしかに、いい気分はしない。
415: 2016/01/01(金) 21:59:55.22 ID:5IXIe6Goo
「……あれ、誰がやったんだ?」
ゴローの言葉に、みんなが沈黙した。
そんなの、知るわけない。
おかまいなしに、ゴローは言葉を続けた。
「部長、やりました?」
「やってないよ」
部長は戸惑う素振りも見せずに否定した。
「佐伯か?」
佐伯はしずかに首を振った。
「高森」
「まさか」
高森は、心外だ、というふうに大袈裟な身振りをした。
「藤宮?」
「……いえ」
るーもまた、首を振る。
「そんじゃ、アリバイのないタクミ」
注目が俺に集まる。ゴローの視線は射抜くみたいに冷たく思えた。
もちろん、気のせいなんだろうけど。
「……俺じゃない」
と答えると、少しの沈黙のあと、みんなの緊張がわずかに緩んだのが分かった。
416: 2016/01/01(金) 22:01:02.14 ID:5IXIe6Goo
「俺たちじゃない」とゴローは断言した。
「でも、誰かがやったんだ」
"誰か"。
「……誰なんだ?」
さっきと同じ問い。また、同じようにみんなが沈黙する。
「なんのつもりか知らないけど、ムカつく。腹が立つ。わけがわからないし、混乱する。その分余計に腹が立つ」
「……話の流れが、よく見えないんだけど」
高森は、不安そうにゴローを見た。佐伯の方をうかがうと、彼女もまた、ちらちらと俺やるーの方をうかがっている。
話すべきか話さないべきかを、決めあぐねているようだ。
「つまりゴロちゃんは、何が言いたいの?」
「もしあれが、誰かの悪意なら、それをやった奴は、俺たちを混乱させて、第一の奴らを戸惑わせて、喜んでるかもしれないだろ?」
それはムカつく、とゴローは言う。
「そういうのを想像すると、すごく腹が立つ。そいつに、一言言ってやらなきゃ気が済まない。
……どうにかして、"そいつ"が誰なのか、調べることはできないかな」
ゴローの言葉は、基本的に一人称単数で、話の根拠は基本的に自分の感情だ。
「であるべき」とか、「なければならない」みたいな言葉は使わない。
俺はむかつく。だから俺は調べたい。それを単純と呼ぶか誠実と呼ぶか、俺には判断がつかない。
417: 2016/01/01(金) 22:01:43.12 ID:5IXIe6Goo
「ひとつ質問」
静かに手を挙げた佐伯に、ゴローの視線が向く。みんなが彼女の方を見た。
「それが悪意なら、っていうのは分かったけど、じゃあ、それが悪意じゃなかったら?」
ゴローは、眉間を寄せた。何が言いたいのかよくわからない、という顔だ。
「それが悪意じゃなくて、何かの理由がある行為だったとしたら?」
「どんな?」
「それはわからないけど、わたしたちにはわからない、止むに止まれぬ事情があったとしたら?
林田は、そのときどうするの?」
「事情次第だけど、文句は言わないかもしれない」
「でも、その人が、調べられたくない問題なのかもしれないよ。知られたくないことかもしれないよ」
「……そんなの、調べてみなきゃわからないだろう」
ゴローは妙にはっきりとした口ぶりでそう言った。
「とにかく俺たちは、程度はどうあれ、そいつの行動に迷惑してるんだ。
知られたくないなら無理に知ろうとしたくはないけど、でも、悪意だったらそいつは野放しだ」
たしかに、そうなのだ。
関わられるのが嫌なら、他人に飛び火しないように、やらなきゃいけない。
飛び火した以上は、「知られたくない」じゃ済まない、のかもしれない。
418: 2016/01/01(金) 22:02:35.28 ID:5IXIe6Goo
それでも佐伯は、考えこむように俯いていた。
その"誰か"に感情移入してしまっているみたいに見える。
まるで彼女自身、知られたくないことを持っているみたいに。
もちろんそんなのは、それこそ程度はどうあれ、誰にでもあるようなことなんだろうけど。
やがて佐伯は、諦めたみたいに溜め息をついて、俺とるーの顔を順番に見た後、口を開いた。
「だったら、一応話しておく」
そう言って彼女は、土日を使って彼女が調べあげたことと、そこから生まれた仮説についてみんなに話した。
部長とゴローは、「佐伯がそういうことをした」ことに驚いていたが、すぐに話を聞くのに集中し始めた。
「なるほどな」
話を聞き終えると、佐伯の質問の意図が分かったからか、ゴローは得心したようにしきりに頷く。
そこからまた静かな沈黙があった。
高森とるーは口を挟まない。俺も、何も言わずにおく。
「たしかに何か事情がありそうな感じがするな」
「……と、そう思うのは、わたしたちが文芸部だからかもしれないよね」
部長のその言葉に、みんなが一瞬虚を突かれた。
419: 2016/01/01(金) 22:03:11.40 ID:5IXIe6Goo
「どういう意味ですか?」
「本当は、意味なんてない、ただの嫌がらせなのかもしれないよ。
それを意味ありげに感じるのは、わたしたちが、物語をつくるって形で、点と点を結ぶことに慣れてるからかも。
空白はただの空白で、点はただの点なのかもしれないじゃない?」
「……でも、俺は気になります。だから調べます。いいですよね? 部長」
「うん。駄目とは言ってない。わたしも、たしかに気にならないことはないし。がんばってね」
部長は、協力する気なんてさらさらなさそうだった。俺はなんとなく意外な気がした。
俺は、一連の流れに、戸惑うばかりだった。
「……どうした、タクミ?」
察したみたいにかけられた声に、とっさに上手く返事ができない。
「……いや。本当にそれ、俺たちが関わってもいいことなのかな」
ゴローは不思議そうに眉をひそめた。
「関わるべきじゃないのかもしれない、と思う」
ゴローは、戸惑ったように周囲を見回した。みんな、戸惑ったような顔で、俺の方を見ている、ような気がする。
「――なあ、タクミ、おまえ、何言ってるんだ?」
俺は、言葉に詰まる。自分が言ったことが、そんなにおかしいことだとは思わない。
でも、みんな、やっぱり、不思議そうな顔で俺のことを見ている。
俺は、言葉をなくして、俯く。からだが、こわばる。居心地の悪さに、身が竦む。
……俺は、何か変なことを言ったのだろうか。
423: 2016/01/04(月) 23:43:23.06 ID:YPzN12kuo
◇
屋上から見上げる空には鳥が飛んでいる。
六月下旬の空は高い。
俺は東校舎の屋上に立っている。ほとんど習性のようなものだ。特定の気分に陥ると、俺は高い場所に行きたくなる。
でも、高いところ、じゃないのかもしれない。屋上という場所の、もっと別の要素を求めて、俺はここにくるのかもしれない。
それがなんなのかは、うまく思いつかない。
今日受けた授業のこと、何気ないクラスメイトとの会話、最近読んだ本、バイト先での先輩やお客さんとのやりとり。
そういうことは俺にだって起こる。俺にだって生活というものがあるのだ。
特定の商品の組み合わせで自動的に出力されるキャンペーンレシートの説明が面倒だという話をバイト先でした。
授業で差されたとき、自分ではうまく答えられたつもりだが、教師の質問の意図とは違う答えだったせいで間違ったような雰囲気になった。
図書室で本を借りるとき、委員側の手違いで貸出の処理がされておらず、返却のときに待たされた。
コンビニで傘を盗まれた。ぼーっとして歩いていたら地下鉄の改札で引っ掛かって恥ずかしかった。何もないところで転びそうになった。
部活帰りにるーと一緒に歩いていたら、翌日クラスメイトに彼女じゃないのかと囃し立てられた。帰り道の途中の公園でいつも見る猫がようやく抱かせてくれた。
そういうことを、俺は、どうして素朴に楽しめなくなってしまったのか。
なんてことを考えてしまって、意識が頭の中に引きこもるから、きっといろんなものが遠くなったんだろう。
いつのまにか。
424: 2016/01/04(月) 23:44:06.29 ID:YPzN12kuo
こんなときに、遊馬兄のことを思う。
たぶん、彼は逆だったんじゃないか、と。
彼には、世界が逆だったんじゃないか。
思考にとらわれ、行動を疎かにする俺とは反対に、彼の意識はまず行動し、思考は追いかけるように存在していたんじゃないか。
そんな気がする。
俺は遊馬兄じゃないから、遊馬兄の考えることは分からない。本当のことなんて、分からない。
子供だから、というのもあったけど、俺は遊馬兄と静奈姉が好き合っているものだと思っていた。
少なくとも静奈姉は……でも、今は、違う。
当時から、そうだったんだろうか。
よくわからない。俺が考えることでもないような気がする。
「ここにいたんですか」
と、うしろから声がした。
るーだった。
425: 2016/01/04(月) 23:44:47.47 ID:YPzN12kuo
そうだな。
試しにやめてみよう。
「やあ」と声をかけてみた。
放課後の屋上に来客があるのは珍しいことじゃない。というか、むしろ俺だって、来客側なのだ。
佐伯や、他の部の部員たち。内緒の相談ごとや気分転換にやってくる奴は少なくない。
そういえば以前、第一の部員たちがここで何かを話していたっけ。
そのときのことを思い出せば、例の件についての何かのヒントにならないだろうか。
人間関係や、トラブルの種になりそうなできごとがわかれば、
ストップ。
「どうした? こんなとこに」
「タクミくんを探してたんですよ」
るーはにっこり笑う。
「何か用事?」
「そういうんじゃないですけど、様子が変だったので、気になって」
「変だったかな」
「はあ。まあ、ちょっと。怖い顔してました」
「怖い顔か」
怖い顔。顔っていうのも不思議なものだ。心はすぐに体に出る。顔に出る。
分かりやすい奴と分かりにくい奴はいる。でも、訓練でもしないかぎり、絶対に出る。
出ないとしたらそいつは何かの病気だ。鈍くなっている奴だ。
ペンギンの翼で飛ぶことができないように、意味のない表情はなくなっていく。
他人とコミュニケーションをとらなければ、表情はきっと、
ストップ。
426: 2016/01/04(月) 23:45:19.58 ID:YPzN12kuo
さて、と俺はとりあえずの成果を意識する。ストップ、と思考を止めればどうにか思考は止まってくれる。
この調子だ、と"考えつつある"自分を意識の中の言語化される前の混沌の中に追いやる。
と、考えている自分は既に考えているのではないか、と……ストップ。
まあ、慌てるな。
「タクミくんは、変わらないですね」
「……そうかな。自分ではけっこう、変わっちゃったなあって思うんだけど」
「わたしが言うんだから、そうなんですよ」
そうだろうか? 彼女と俺は、たしかに子供の頃に一緒に遊んだ。でも、ちょっとの期間だけだ。
ずっと知っていたわけではない。彼女が知っている俺なんてごくごくわずかなものだし、それは俺の方からしたってそうだろう。
記憶だって印象にぼやかされて曖昧だ。彼女の漠然とした印象と現在の俺が合致したからって、それは変わってないってことには、
ストップ。
溜め息が出そうになる。
気を抜くと、自分のことばかり考えてしまう。
反射、スキーマ、自動思考。癖になっている。
427: 2016/01/04(月) 23:45:52.38 ID:YPzN12kuo
そんなことより俺はもっと、目の前のことを大事にするべきなんだ。
そう思って、るーの方を見る。
彼女の髪が柔らかになびいている様子のこととか、
その穏やかな表情が、俺の方を見るとちょっと困ったふうになることとか、
不意に落ちた影を追って鳥を見上げるときの顔に、あの頃の面影があることとか。
そういうことばかりを考えていればいいのに。
「るーも変わらない」
「……なにがですか?」
ちょっとうさんくさそうに、彼女は笑った。
俺の好きな笑い方だ。
「表情が。懐かしい」
「……なんかそれ、恥ずかしいですね。ホントですか?」
「俺が言うんだから、間違いない」
彼女はまた笑う。
……本当か? それはただ、"言われてみれば"とか、そういう思い込みの類では、
ストップ。
そう思ったのは本当だ。
428: 2016/01/04(月) 23:46:18.83 ID:YPzN12kuo
「ね、タクミくん」
「なに?」
「なんか無理してません?」
……あっさり見透かされてしまった。
「……なこと、ないけど」
「そう、ですか?」
否定すると、ちょっと自信なさげになる。
「そういうふうに見えた?」
「見えました。けど、気のせい、みたいですね」
否定するなら、そういうことにしておこう、というふうに。
429: 2016/01/04(月) 23:46:44.47 ID:YPzN12kuo
「ねえ、るー。ゴローの言ってたこと、どう思う?」
そう訊いてみたかったのに、俺は結局口には出さなかった。
訊いたところで、どうなるというわけでもない。
乗り気なゴローと、傍観の部長。第二文芸部の態度はまっぷたつに別れた。
というより、どっちもべつに、部全体を巻き込もうと言う気はないらしかったけど。
ゴローよりの態度を示したのが、意外にも高森だった。
あの出来事に理由があったならわたしは知りたい、と彼女は言った。
反対に、ついこの間まで積極的に調べていた佐伯は、参加を決めあぐねていた。
俺とるーは、態度を保留した。どちらかといえば傍観になるが、だからといってまったく気にならないわけでもない。
あのときのゴローの表情が、ずっと頭にちらつく。
――なあ、タクミ、おまえ、何言ってるんだ?
430: 2016/01/04(月) 23:47:35.30 ID:YPzN12kuo
「ストップ」
と今度は口に出して言ってみた。
沈黙を破った俺の声に驚いて、るーはこっちを振り向く。
「な、なんですか?」
「あ、や……なんでもない」
「……ちょっとトンでました?」
「まあ、そんなとこ」
ああ、くそ。
心配されてる。のか。いや、そう見えるだけで、それは思い上がりなのか。
俺なんかを、気にかけてくれるなんて、思い上がりじゃないのか。ただ付き合いがいいだけで、面倒がっているんじゃないのか。
それともそう思う卑屈さは、相手に対して失礼なのか。
わけがわからないんだ。どうしてこうなったのか。
いろんなものが頭の中に押し寄せてきて、いろんなことが楽しくなくなって、楽しめない自分が、周囲から浮いているような気がしてきた。
そういう混乱を、俺は未だに持て余している。
考えてみれば当たり前だ。
“どう反応するのが正しいのか”なんてことを誰かと話すときにいちいち考えてしまう奴なんて、コミュニケーション能力に欠陥があるに違いない。
普段はここまでじゃない。ないはずなのに。
今日は、近頃は、やけに……神経症的だ。
431: 2016/01/04(月) 23:48:31.09 ID:YPzN12kuo
「ね、タクミくん。よだかさん、元気ですか?」
「え?」
突然割り込んできた声と、そこで出た名前に、ちょっと驚く。
「もっとお話してみたかったです」
どうして急に、と思ったけど、そういえばるーは、以前もそうだった。
知らない人と話したり仲良くなったりするのが得意だった、わけではない。
共通項があるのかないのかは知らないが、ある特定の人たちに対して、るーは懐くのが早い。
静奈姉とはあまり話していなかったけど、遊馬兄とはよく話していた。
そんなふうに。
「……わからない。帰ってから連絡、きてないから」
「そう、なんですか?」
何を言えばいいかもわからないし、それに、よだかの連絡に反応するばかりで、俺から連絡をしたことはほとんどなかった。
432: 2016/01/04(月) 23:49:03.42 ID:YPzN12kuo
「タクミくんからは、送らないんですか?」
「……」
考えていたことを言い当てられて、俺は少し戸惑った。
「……べつに、氏んではないだろうし」
「それはそうでしょうけどね」
でもそれは間違いだ。ひょっとしたら氏んでいるかもしれない。ないとは言い切れない。
「また遊びにきたりしないんですか?」
「……そのうち、連絡が来るとは思うよ」
「そうですか。また会ってみたいなあ」
けれど結局、七月になってもよだかからの連絡はなかった。
438: 2016/01/09(土) 22:39:08.94 ID:9DfGX5kWo
◇
「きみはいつもつまらなそうだね?」
嵯峨野連理はそう言った。放課後の図書室、窓際の席で、彼はひとりで本を読んでいた。
七月のある日のことだ。
俺は部長に嵯峨野先輩の居場所を訊いて、ここにやってきた。
いつもではないけれど、彼は図書室で本を読んでいることがある、と彼女は言っていた。
借りたものを返さなければ人の道に悖る。
というわけで、借りっぱなしだったDVDを彼に返すために、俺はここにやってきていた。
西日差す本校舎二階。先輩は本当にそこにいた。
その彼が、ページに目を落としたまま、少しからかうような調子で言った言葉が、俺の気分を妙に沈ませる。
「そうですか?」
尋ね返すと、彼は困ったふうに笑う。こんなふうに笑う人だっただろうか、と俺は少しだけ考えた。
けれどよく考えれば、嵯峨野先輩とふたりきりで話す機会なんて、今まではほとんどなかった。
思い返してみれば、俺は彼について何かを知っていると言えるだろうか。
439: 2016/01/09(土) 22:39:47.01 ID:9DfGX5kWo
答えがもらえなかったから、俺はひとまずDVDを手渡した。
「どうだった?」
「おもしろかったです」
それ以上の感想を言う気にはなれなかった。映画の感想のようなものを、俺はあまり他人と共有する気になれない。
「そう。ならよかった」
彼はこっちに目すら向けてくれない。俺のことなんてどうでもよさそうな態度だ。
印象とはだいぶ違う。
人当たりがよく、誠実な人間。そんなイメージを勝手に抱いていた。
それは錯覚だったのかもしれない。それとも、本に集中したいだけなのか。
「……何を読んでるんですか?」
どっちなのか確かめたくて、俺はそう訊ねてみた。
彼は本を持ち上げて背表紙をこちらに向けてくれた。
宮沢賢治全集。
なんとなく、そのタイトルが嵯峨野先輩のイメージとつながらなくて、俺は戸惑った。
「好きなんですか?」
「どうかな。試しに読んでみただけなんだけど」
彼はそう言って、本を閉じた。
440: 2016/01/09(土) 22:40:30.95 ID:9DfGX5kWo
「よだかの星。読んだことある?」
「……」
彼はただ、今読んでいた話のタイトルを挙げただけなのかもしれない。
それはただの偶然なのだろう。そうとしか思えない。
その奇妙な偶然が、俺の胸の内側をざわつかせた。
「ええ、まあ」
俺は、そう答えた。
「"一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。"」
嵯峨野先輩は、ささやくようにその一文を諳んじた。
「バカな鳥だと思わないか?」
今度は、俺の目を見て、彼はそう言う。
「名前なんて捨ててしまえばよかったんだ。そうすれば、生きることはできた」
「それで幸せになれたでしょうか?」
とっさにそう聞き返すと、彼は怪訝そうに俺の顔を見た。
441: 2016/01/09(土) 22:40:59.87 ID:9DfGX5kWo
鳥。
そういえば、嵯峨野先輩の下の名前は連理だ。
おそらく、由来は連理の枝だろう。
男女の深い絆を、隣り合った木々の枝が絡みあい結びつくさまにたとえた言葉。
白楽天は、それに比翼の鳥という言葉を並べた。
片翼ずつの羽を持ち、雌雄一対となって空を飛ぶ、空想上の鳥。
一羽では飛ぶことのできない生き物。
比翼の鳥、連理の翼。
並べて、比翼連理と呼ばれる。
在天願作比翼鳥
在地願爲連理枝
切れない絆、不断の愛情、一個として完成するふたつの魂。
ひとりでは飛ぶことのできない鳥。ひとつでは孤独のままの樹木。
その名を背負うというのは、どんな気分なのだろう。
442: 2016/01/09(土) 22:41:27.16 ID:9DfGX5kWo
バカな鳥、と嵯峨野先輩は言う。
俺はそうは思わない。思えない。
一疋の甲虫が喉を過ぎたときの、「せなかがぞっと」する思い。
その「胸のつかえ」。「大声で泣き出し」たくなる気持ち。
それを俺は、どうしても他人事とは思えない。
自分のことのようにさえ感じる。
「宮沢賢治は、あんまり好きじゃないな」
嵯峨野先輩はそう言って、本を机の上に置いた。
俺は、今なら、彼に気になっていたことを訊けそうな気がした。
これまで、どこか繊細そうな印象があったからためらっていた。
でも、それは錯覚か、彼自身の無自覚の演技だったのかもしれない。
少なくとも今目の前に居る彼は、俺の言葉などするりとかわしそうに見えた。
「気になっていたんですけど、嵯峨野先輩は、高森のことが好きだったんですか?」
自分でも驚くほど、踏み込んだ質問だった。
こんなふうに誰かに踏み入ることを、なぜだろう、俺はいつも避けていたような気がする。
嵯峨野先輩は軽く笑ってから、目を合わせずに答えてくれた。
443: 2016/01/09(土) 22:41:54.84 ID:9DfGX5kWo
「気になっていた、が正しいかな。仲良くなりたくてふたりで出かけたいっていったんだけど、断られた」
俺は少し意外に思う。
てっきり、告白でもしたのかと思っていた。
「きっぱりとね。そういうのはできない、って」
できない。高森の言いそうな台詞だ。
女であることにどこか戸惑っているような彼女らしい。
それは俺の、勝手なイメージなのかもしれないけど。
「じゃあ、高森のことはもういいんですか?」
彼は少し笑った。
「本当に、仲良くなってみたいだけだったんだ。好意というか、惹かれてるところはもちろんあったけど。
でも、そこで終わってしまえばそれだけのものだろ? べつに彼女だけが女の子ってわけでもない」
俺は反応に困った。
「俺はよく思うんだけど、好きな相手なんて変わるものだろ? そのときどきの気持ちを抱えるのもいいとは思うけど……。
ずっと同じ相手にこだわってばかりでも仕方ない。終わったことは終わったことで、始まるものは始まるものだ。
一個一個を大切にしすぎると、結局ひとつひとつをないがしろにする結果になってしまうと思うんだ」
その言葉の割り切りのよさ、切り替えの速さが、好きじゃない、と俺はなんとなく思った。
444: 2016/01/09(土) 22:42:56.36 ID:9DfGX5kWo
混乱。
静奈姉のこと。父さんのこと。俺自身のこと。
所詮人間は動物で、恋愛は社会的な枠に取り込まれた、欲望の別の言い方に過ぎない。
そこにそれ以上のものを求める人間は、どこかで破綻を迎えるしかないのかもしれない。
……自分で言うのもなんだけど、やっぱり俺はロマンチストだ。
「……本当にそう思いますか?」
彼は、その問いに困った顔をした。やさしい表情だった。
「恋愛っていうのはさ、はっきりいって幻想の投じ合いだと思うんだ。
自分のなかで本当に満ち足りた、完成された愛情というのが生まれるのは、相手が傍にいるときじゃない。
相手と過ごすときじゃない。それがうつくしいのは、相手が傍に居ないときに、真実でない相手の幻影を見るときだ。
自分のなかの相手のイメージを愛しく思うときだ」
「……」
「そこに、相手の真実の姿や生活を持ち込むと、愛情に現実的な手触りが追随してくる。
そうすると、うつくしいだけではいられない。相手が得られないとき、恋はもっとも綺麗なんだと思う。
それがすべてとは思わない。でも、そういう形があってもいいとは思う」
ずいぶん、詩的な、そして独善的な言葉だと思った。
相手の気持ちを、存在を、まるごと無視するような。
俺はそれを、なぜか理解できると思ってしまう。
知ってしまわなければうつくしいままなら。知ってしまって失われるものがあるなら。
それを幸福と呼ぶなら。
445: 2016/01/09(土) 22:43:28.86 ID:9DfGX5kWo
「蒔絵ちゃん、元気?」
「……ええ、まあ」
落ち込んでいる、なんて、俺は言いたくなかった。それに、本当にあのまま落ち込んでいるわけでもない。
「そっか。よろしく伝えておいてよ」
そう言って彼は立ち上がった。
俺は呼び止めなかった。
机の上には宮沢賢治の全集が置かれたままだった。
手に取り、ぱらぱらとめくってみる。
銀河鉄道の夜、よだかの星、めくらぶどうと虹。
宮沢賢治という空想家、理想主義者。
詩人、作家、哲学者。
俺は彼のことを嫌いになれない。
446: 2016/01/09(土) 22:44:30.64 ID:9DfGX5kWo
少しすると、入り口の方から足音が聞こえてきて、俺の傍へと近付いてきた。
「タクミくん」、と声は言った。
るーが居た。西日に照らされた表情は、薄暗さにまぎれて、こめられた感情がうまく読み取れない。
「探しました。ね、一緒に買い物に付き合ってくれませんか?」
「……買い物?」
現実から遊離した、茫漠とした意識に、その言葉は、奇妙な響きを持って聞こえた。
「はい。このあと、用事ありますか?」
「いや」
「だったら付き合ってください」
俺はうなずいて、本を棚に戻す。それから図書室をふたりで後にした。
言葉にすらならない考えごとが、頭のなかでしばらく渦巻いていた。
現実感を取り戻すまで、しばらく時間がかりそうだと思った。
449: 2016/01/11(月) 22:34:45.09 ID:E2jpHfOdo
◇
「もうすぐ蒔絵先輩の誕生日なんですよ」
並んだまま校門を抜けてすぐに、るーはそう言った。
冷静に考えれば、るーが入部したのは五月のこと。それからもう二ヶ月近い時間が流れている。
時間の流れというのが、今の俺にはなぜか他人事のように思える。
密度や重みや実感というものが、感じられない。全部が遠いのだ。
「プレゼント、買うの?」
「はい。とりあえず、小物とか、文房具とかにしようと思うんですけど」
並んで歩くとき、
それにしても、誕生日プレゼントか。
「絶対あいつ、ウェブマネーの方喜びそうだな」
「否定できませんねー」
450: 2016/01/11(月) 22:35:11.01 ID:E2jpHfOdo
「で、どこに行くの?」
「とりあえず、商店街の方に見たいお店があるので」
るーに流されてついてきたものの、そういえば近頃は、ろくに部室に顔を見せていない。
荷物を置いたりはしているから、一応出席している形にはなっているが、
大半の時間を他の場所で潰したりしている。
みんながどうしているのか、いまいち分からない。
まあいいか。……第一、なんだって部活のことばかり考えていなきゃいけないんだ。
べつに、なきゃ困るってもんでもない。
……こういう、極端な考え方をしてしまうところが、よくないのかもしれない。
なんてことを考えているうちに、大通りの雑貨屋にやってきていた。
店に入ってすぐ、キーホルダーの並べられた棚で立ち止まると、るーは「くらのすけー」とか言いながら目をきらきらさせはじめた。
やっぱり何度見ても変なキャラクターだ。
451: 2016/01/11(月) 22:35:37.33 ID:E2jpHfOdo
とはいえ、今日の目的はくらのすけではない。
「高森、どんなものなら喜ぶんだろうな」
るーは「うーん」と唸りながらキーホルダーを置いた。
さすがにくらのすけのキーホルダーで高森が喜ぶと思うほど盲目ではないらしい。
それから彼女は、ちらりと俺が背負っていた鞄を見た。
「タクミくんは、つけてくれてますよね」
なんとなく、含みのある感じで、るーの視線は鞄につけられたキーホルダーへと向かう。
「そりゃ、まあ……」
さすがに、もらったまま部屋に放置というのは、なんとなく申し訳ないし。
それに、嬉しくないというわけでもなかった。物自体に関してはともかく。
452: 2016/01/11(月) 22:36:08.99 ID:E2jpHfOdo
「ふむ」
とうなずいて、るーは満足気に笑った。
「……なに」
据わりの悪さに思わず拗ねた感じの声が出たが、彼女は気にしたふうでもなく、
「いえ。贈り物を身につけてもらえてると、やっぱり嬉しいものですね」
素直に喜んでみせた。
それから彼女は背負った自分の鞄を俺の方に向けて、
「おそろいですよ」
と、やっぱり変な顔の熊のぬいぐるみを向けてくる。
かなわない。
「かわいいですよね」
……かわいいってなんだっけ。
453: 2016/01/11(月) 22:36:48.11 ID:E2jpHfOdo
店の奥へと足を踏み入れて、るーは手近な商品を品定めしはじめた。
「タクミくんならどんなものをもらったら嬉しいですか?」
「どんなものでも、祝われれば嬉しいと思うよ」
「そうですか。あんまり参考にはなりませんねー」
……まあ、一月も経てば、昔の調子を取り戻しもするか。
こういう子だった。
「蒔絵先輩のほしいものがわかれば簡単なんですけど……」
「ウェブマネーだろ?」
「……まあ、ほしいものは自分で買いたいってタイプの人もいますもんね」
二度目以降はスルーらしい。
「……タクミくんなら、どんなものをもらったら嬉しいですか?」
「……俺?」
「欲しいものとか、ないんですか?」
ほしいもの……。
454: 2016/01/11(月) 22:37:23.44 ID:E2jpHfOdo
「……特にないけど、もらうなら使いやすいものだと嬉しいよな」
「……ペンとか、手帳とか?」
「そこらへんは、自分で買って気に入ってるって場合もあるしな」
「実用品に関しては、そうかもですね。最悪、使ってもらえなくても仕方ないですけど」
「……」
高森が喜びそうなもの。本当にウェブマネーしか思いつかない。
……ネットゲームのサントラとか? あるのか?
るーはしばらく店内をうろうろして、いろんな商品を手にとったりしていたが、めぼしいものは見つからなかったらしい。
難しいものだ。
しかし、高森に誕生日プレゼントか。
455: 2016/01/11(月) 22:37:53.32 ID:E2jpHfOdo
「タクミくんは、何かプレゼントするんですか?」
不意にそんなことを訊かれて、俺は戸惑った。
「……え? 高森に?」
「はい。去年は?」
「何もしなかったよ。そもそも誕生日知らないし」
「……そんなものですか」
ふーん、とるーは頷く。
「でも、せっかくですし今年は何か渡してみては?」
ほらこれとか、とるーはジョークグッズっぽい猫耳風カチューシャを自分の頭につけた。
なんでそんなもん売ってるんだ。
「やめとくよ。そういうの、今更だし。戸惑わせるだけだろうし」
「……ふむ?」
るーはちょっと怪訝そうな顔をしながら、カチューシャを外した。
456: 2016/01/11(月) 22:38:33.80 ID:E2jpHfOdo
結局、るーが何を選んだのか、俺は知らない。
ファンシーショップは客層以前に色彩からして居づらくて、彼女の会計を待たずに、俺は店の軒先へと出た。
七月ともなると夕方でも空はそこそこ明るいが、図書室を出た時点で空は赤みがかっていた。
もう、とうに日は暮れ始めている。
「おまたせしました」と店から袋を提げて出てきたるーと、地下鉄駅へと向かった。
「もう一月もしないうちに一学期が終わるんですね」
歩きながらのるーの言葉に、意外なほどの驚きを覚える。
そうか、と思う。
もうすぐ夏休みなのだ。
「……その前にテストがあるな」
「ですね。勉強しないとなあ」
「るーは、勉強できるんだっけ?」
「うーん……教科によりますけど、得意とは、言いがたいかもですね」
457: 2016/01/11(月) 22:39:22.88 ID:E2jpHfOdo
ま、それはともかく、とるーはごまかすみたいに話を変える。
「夏休み、ですよ。せっかくですし、夏らしいこと、したいですよね」
「夏らしいこと……」
「タクミくんは、何かしたいこととかないんですか?」
したいこと。
……こういう質問に途方に暮れてしまうのって、俺だけなんだろうか。
やりたいこととかないの、とか、ほしいものとかないの、とか、休みの日は何をしているの、とか。
答えに詰まるたびに、自分に何かが欠けているような気分になる。
誕生日を祝われることだって、いつのまにか、そんなに嬉しいことではなくなってしまった。
いつのまにか、なんとなく。
きらきら。
「……特には」
「そうですか。昔は、バーベキューとかしましたよね」
「ああ、うん」
458: 2016/01/11(月) 22:40:10.74 ID:E2jpHfOdo
「タクミくんは……」
何かを言いかけて、るーはそのまま押し黙った。
うかがうような沈黙。俺は反応に困る。急に話が途切れてしまった理由が、俺にはわからなかった。
「あの、タクミくん」
さっきまでとは違う声。怖がっているみたいな。
何か言いたげで、でもそれがうまく言葉にできないというように、口を開けたり、閉じたりを繰り返す。
俺は一度立ち止まって、彼女の方を振り向く。
るーは、俺の方を見て、何かを言おうとした。
でも、すぐに目を逸らしてしまう。
前にもこんなことがあった。
いつだっけ。
ああ、そうだ。
屋上だ。
五月。るーが入部したばかりの頃。
まだ、るーをるーと呼べなかった頃。
あのときも、彼女はこんな顔で、何かを求めるように俺を見た。
そのときも俺は、彼女に言わせたのだ。自分は口を噤んだまま、言いたいことを言わないまま、彼女にそれを言わせた。
でも、今、彼女が何を言おうとしているのか、俺には分からない。
459: 2016/01/11(月) 22:41:25.61 ID:E2jpHfOdo
目を閉じて深呼吸をしてから、覚悟を決めるみたいにまっすぐ俺を見て、るーは口を開く。
橋の上だ。街の影とは対照的に、川の水面が夕陽を反射して眩しい。
すぐ傍の相手の顔さえ、暗がりで見るようによく分からない。
駅への距離は、あとすこし。歩道沿いの並木は緑。そんなことさえ、立ち止まるまで意識していなかった。
逆光のようだ。
「タクミくん、あの……わたし、つきまとったら、迷惑ですか」
俺は、言葉に詰まった。
図星をつかれたからではなく、意表をつかれたからだ。
どうしてそんな言葉が出てきたのか、俺にはよくわからなかった。
「なぜ?」
本当に素朴な疑問として、その問いが浮かんだ。
なぜ、そんなことを思うのか、よくわからない。
るーは苦しそうな顔で俯いて、顔を隠したまま首を横に振った。
こんなことを言うはずではなかった、というふうに。
460: 2016/01/11(月) 22:42:20.89 ID:E2jpHfOdo
「……わかんないです。タクミくんが、何考えてるのか」
「どうして、そういう話になるの?」
「わかんないです!」
るーが言わんとしていることが、俺にはわからなかった。
でも、たぶん今、彼女は自分自身の気持ちに戸惑っている。
整理がつかなくて、混乱している。
たぶんそれは、俺のせいだ。
それは分かっているのに、その繋がりが分からなくて、戸惑う。
あのとき屋上で感じたのと同じような、やましさ。
逃げ出した自分に対する負い目。
「……ごめん」
「どうして、謝るんですか……?」
そう訊かれると、俺は何も答えられない。
461: 2016/01/11(月) 22:42:55.32 ID:E2jpHfOdo
「……タクミくん、五月に言ってました。わたしだって気付いてて、声を掛けなかったって」
「……ああ」
「わたしも、そうでした。タクミくんかな、って思っても、最初は自信持てなかったです。でも、名前とか、顔の面影とかで、気付けました」
「……」
「でも、名乗ったあと、反応なかったから。ひょっとしたら違う人なのかもって……」
「……」
「声を掛けてくれなかったのは、わたしが“覚えてないかも”って思ったからなんですよね?」
「……うん」
「さっきタクミくん、蒔絵先輩にプレゼントをあげたら、蒔絵先輩が戸惑うだろうって言ってました」
「うん」
「焼却炉の件、調べようって話になったときも、タクミくんは、“関わるべき問題なのか”って言いました」
「……」
「気付いてないかもしれないですけど、タクミくんは、五月に会ってから、ずっとそうです。
“自分が覚えている”なら、わたしが覚えていなかったとしても、声を掛けてもいいはずなのに。
“掛けたくないから”じゃなくて、“わたしがどう思うか”で、声を掛けるかどうか、決めてました」
「……」
「自分があげたいかあげたくないかじゃなくて、“蒔絵先輩がどう思うか”で、プレゼントをあげるかどうか決めました」
「……」
他人の顔色をうかがう癖がついたのはいつからだろう?
ずっと昔からの習性なのかもしれない。
462: 2016/01/11(月) 22:43:22.18 ID:E2jpHfOdo
自分のしたいように自然に振る舞う。
肩の力を抜く。
それってどうやればいいんだろう。
「タクミくんが、どうしたいのか、分かりません」
「……」
「相手がどう思うかなんて、相手が決めることなのに。自分がどう振る舞うかは、それとは関係ないはずなのに。
タクミくんはそうやって、相手のせいにして、自分で判断することから逃げてます」
その突然の告発に、俺は戸惑った。
「今日、買い物に付き合ってくれたのは、そうしたかったからですか。そうしてもかまわないと思ったからですか。
それとも、断ったらどう思われるだろうとか、わたしが望んだからとか、そういうことを気にしたせいですか」
「……」
「合わせてもらってばっかりじゃ、タクミくんがどうしたいのか、わたし、分からないで……ずっと、不安なままです」
俺は、うまく返事ができない。
どうしたいか。どう思うか。どう振る舞いたいか。
何が欲しいか、何がしたいか。
そんなのは、俺自身にさえ、とっくのとうに分からなくなっていた。
463: 2016/01/11(月) 22:44:14.92 ID:E2jpHfOdo
◇
「良い子だからだよ」、と、いつだったか、鷹島スクイは俺に言ったことがある。
おまえは親の期待に応え、教師の期待に応え、そこそこ優等生に振る舞った。
勉強やスポーツのことじゃない。日常的な振る舞いのことだ。
おまえは廊下を走らない。信号無視をしない。遅刻をしない。サボらない。
クラスメイトが集まって煙草を吸うときも、おまえは吸わない。
門限を守った。小遣いをあまり無駄遣いしなかった。
宿題はちゃんとやったし、掃除や片付けもちゃんとやった。
家出もしない。万引きもしない。夜更かしもしない。
おまえは言いつけを破らない子供だった。
だから苦しいのさ。
親を軽蔑して逃げ出した今でも、染み付いた生き方を変えられずにいる。
他人の顔色をうかがって、他人の望むように振る舞う癖がつくと、自分の顔色が分からなくなるものなんだ。
だからおまえは、たったひとりになると途方に暮れるんだ。
やりたいこともほしいものもひとつもない自分自身に気付かされるんだ。
レールを敷いてくれる人間なんていない。
おまえは自分の意思でどこかに行かなきゃいけない。
それがおまえには恐怖なんだ。自分の内部に道標がないから、誰かの敷いたレールがないと不安なんだ。
未だにそのときどきの、目の前にいる人間の顔色をうかがって、その場しのぎに物事を判断している。
そしていつのまにか、自分が何を望んでいるのか、わからなくなってしまった。
おまえは自分の声を聞き流しすぎたのさ。
464: 2016/01/11(月) 22:45:23.42 ID:E2jpHfOdo
◇
「るー」
「……なんですか」
拗ねたような顔のまま、るーは俯いている。
後悔しているのかもしれない。腹を立てているのかもしれない。
俺は、どう反応すればいいんだろう、と、またその場しのぎの思考。
話したら軽蔑されないだろうか。
面倒な奴だと、避けられはしないだろうか。
そんなふうにまた、相手の考えばかりを気にしてしまう。
そもそも俺は、話してしまいたいのだろうか。
よくわからない。
「るー」
「だから、なんですか」
もう、ごまかせそうにないな、と俺は溜め息をついた。
「迷惑じゃない。まったく合わせてないってわけでもないけど、嫌々で一緒にいるわけでもない」
どうして、こんなことを言うだけで、緊張するんだろう。
「それって、べつに普通だろ?」
「……はい。たぶん」
465: 2016/01/11(月) 22:46:05.82 ID:E2jpHfOdo
「こんなことを言ったら、変だって思うかもしれないけど、俺はしたいことのない人間なんだ。
欲しいものもないし、行きたい場所もないし、目標もなければ趣味もない。つまらない人間なんだよ」
るーは黙って俺の言葉を聞いている。
俺は、言いながら既に後悔しそうになっている。
言いたくない言葉が噴き出しそうになる。
だから俺は黙りこむ。誰かの期待に添うことはできないから、最初から期待されないように。
みんなを楽しい気持ちにはできないから、みんなとなるべく関わらないように。
そのくせ、誰かが自分をどこかに連れ出してくれることを期待している。
子供のように。
あの夏も、連れ出してもらうまで、ずっとそうしていたように。
でも、もう俺は高校生で、そういう自分がどうしようもなく嫌で。
それなのにやっぱり、したいことも、楽しいことも、簡単には思いつかない。
……なるほど、ゴローとの賭けに勝ってしまうわけだ。
それでも。
「るーと会えたのは嬉しいし、一緒にいるのは楽しいよ」
唐突に話が変わったからか、るーは、ちょっと驚いた顔で俺を見た。
「でも、不安なんだよ。俺はつまらない人間だから、退屈させやしないか、がっかりさせてないかって」
こんなこと、年下の女の子に話すようなことじゃない。
子供のように甘ったれた内面。自分でも対処しかねるような自意識の問題。
話さないまま関わりあうことだって、できるはずなのに。
466: 2016/01/11(月) 22:46:32.09 ID:E2jpHfOdo
それなのに。
大部分を聞き流して、るーは笑った。
「一緒にいると、楽しい、ですか?」
「……うん」
「だったら、いいんです」
そう言って、るーは笑った。
「話してて気付きました。わたしも、人のこと言えないです。
タクミくんが、わたしと居て楽しいのかなって、そればっかり、気にしてました」
――なあ、日々はそんなに退屈で、世界はそんなに平板か? 本当に?
――きみはいつもつまらなそうだね?
俺だってとっくに気付いていた。
世界が平板なんじゃない。周囲が退屈なんじゃない。
俺が、そういうふうに世界を眺めてるんだ。
467: 2016/01/11(月) 22:48:08.38 ID:E2jpHfOdo
「……るー。あのさ」
はい、と、るーは頷いた。
「夏休み、さ、楽しいこと、しようか」
はい? と今度は首を傾げる。
「文芸部のみんなでとかさ。いろんなところに行ったりいろんなことして遊んだり、しようか。みんな誘って」
ぼんやりとした目で、るーは俺を見上げる。
「そうしたい、って思う。それは、楽しそうだ。……駄目かな」
駄目かもしれない。みんなが、俺と同じように思ってくれるとはかぎらない。
みんなにだって予定はある。やりたいことも、行きたい場所も、一緒じゃない。
でも、それを口に出すくらいなら、かまわないはずなのだ。
口に出して断られても、それはそれでかまわないはずなのだ。
そんな当たり前のことを、どうして今まで、気付けずにいたんだろう。
こんなささやかなことで、心臓が跳ねる自分が嫌だった。
みんなみたいに、当たり前みたいな顔をしていたかった。
そういう気持ちを、きっとるーはほとんど見抜かないままで、
「……はい!」
と、笑って頷いてくれた。
その表情を見て、俺はすこしほっとした。
笑顔が嬉しかった。だから俺は、一瞬よぎった誰かの表情を、俺は意識の外に追いやった。
472: 2016/01/16(土) 00:19:36.43 ID:p19G4SHTo
◇
第二文芸部の部員は全員揃っている。部長、ゴロー、高森、佐伯、俺、るー。
ゴローが、例の騒動について調べると言い出してから、まだほんのすこししか経っていない。
彼は第一文芸部の連中に聞き込みをして、第一稿段階から原稿の内容を変更した部員たちを特定した。
候補者は数人。彼らに変更した内容やその理由を訊ねることで、ゴローは例の出来事の原因を特定しようとした。
それが始まってすぐのこと、思わぬ展開になった。
「それでね、話があるから集まってほしいってことなんだ」
そう言ったのは顧問のヒデだった。
隣には、今となっては第一文芸部の部長となった及川先輩と、同様に第一文芸部の顧問になった教師。
「……話?」
みんながみんな、訝しんだ。
心当たりとしては、ゴローの調査を快く思わないものが、顧問を通じてそれをやめさせようとしているのか、くらい。
とはいえ、まだみんな本腰を入れて調査に乗り出したというわけでもない。
この段階で水を差されるようなことになるのは、俺たち全員からして、あんまりに意外な出来事だった。
473: 2016/01/16(土) 00:20:06.37 ID:p19G4SHTo
「うん。実は先生もまだ、何の話なのかは聞いてないんだけど……」
戸惑った感じで、ヒデは苦笑しながら頬を掻いた。
「詳しい説明は、第一の方からしてもらえるらしいから」
そうなんですよね? というふうに、ヒデは第一の顧問の顔色をうかがう。
顧問は頷く。
及川さんは、どこか浮かない顔のまま、口を開いた。
「……大事な話になるから。きみたちにも迷惑がかかったし、話すのが筋だろうという話になった」
ということは、第一文芸部で既に話し合って、その場で俺たちにも話を通すことになった、というわけか。
「よくわからないんですが、何のお話なんですか?」
口を挟んだのはゴローだった。
この場で第一の例の騒動にいちばんこだわっていたのは彼だから、当然といえば当然かもしれない。
「それについては、みんながいるところで話すよ。まだ、うちの部員でも聞いていない奴がいるから。
とにかく、視聴覚室を借りられることになったから、そこに集まってほしい」
部員みんなが、顔を見合わせた。
なんだかよくわからないけど、従うほかになさそうだ、というのがみんなの表情から読み取れる流れ。
474: 2016/01/16(土) 00:21:42.03 ID:p19G4SHTo
「……とりあえず、お話があるんですよね?」
部長が、話を進めた。及川さんは頷いた。
「じゃあ、とりあえず聞こう。今からですよね?」
「うん。もう、第一の部員は視聴覚室に集まってるんだって」
ヒデの言葉を聞いて、部長は立ち上がった。
「じゃあ、行きましょう。ここにいたって仕方ないし」
みんなが顔を見合わせて頷いた。
及川さんは、まだ、浮かない顔をしている。
いったい、何が飛び出すやら。
475: 2016/01/16(土) 00:22:08.46 ID:p19G4SHTo
視聴覚室の席の半分は第一文芸部の部員たちで埋まっていた。
ドアを開けて部屋に入った瞬間、きしりと空気が固まったような気がした。
奇妙な緊張感だ。どいつもこいつも、表情がこわばっている。
聞いていない奴がいる、と及川さんは言った。
それがなんなのかは知らないけど、この空気からすると、楽しい話にはなりそうにない。
俺たちがそれぞれに席につくと、教室前方の壇上に、及川さんとふたりの顧問が立った。
「みんなそろってるかな?」
ヒデの質問に、及川さんは周囲を見渡して、頷く。
それからヒデは、俺たちの後ろの席に腰掛けた。
内容はヒデも知らない、と言っていた。なら、これから何の話があるのか、ヒデ自身も知らないんだろう。
一度、及川さんと第一の顧問が視聴覚室を出た。
何かの確認でもしているんだろうか。
再び彼らが戻ってきたあと、及川さんは壇上に立った。
「急に集まってもらうことになってごめん。突然のことだったから、みんな戸惑ったと思う」
誰からも返事はなかったが、さっきまでかすかにあった囁きの交わし合いは、その言葉で途切れた。
第一の顧問は及川さんの斜め後ろに立ち、室内の様子を見守っている。
476: 2016/01/16(土) 00:23:01.99 ID:p19G4SHTo
「実は話があるのは俺じゃないんだ。詳しい内容については、本人が説明してくれると思う。
みんな訊きたいことがあるだろうけど、まずはそいつの話を聞いてみてほしい」
及川さんの声には、はっきりとした言葉とは反対に、どこか躊躇しているような澱みが宿っていた。
まるで自分の言葉のひとつひとつが、本当にこの場にふさわしいのかを確認しようとしているみたいに。
それから彼は、ひとりの生徒の名を呼んだ。
「……嘉山」
室内の注目が、ひとりの男子生徒に移る。
俺たちの視線は、第一の部員たちの視線の先を辿って、その男子生徒のもとへと向かった。
カヤマ。
聞いたことのない名前だ。
「……原稿を変えた奴だ」
小さく呟いたのはゴローだった。たぶん、隣にいた俺にしか聞こえなかっただろう。
ゴローは、俺に聞こえていると知ってか知らずか、訂正するような言葉を続けた。
「……第一稿で部誌に載せたはずの原稿を取り下げて、そのまま原稿を再提出しなかった」
477: 2016/01/16(土) 00:23:33.07 ID:p19G4SHTo
そいつは、物静かそうな顔をしていた。
背丈は決して高くないし、顔つきは悪いわけじゃないが特別良いとも言えない。
髪は黒く、整髪料のたぐいはつけているようにも見えない。ボサボサの前髪で、目元が隠れている。
地味、というのが第一印象だ。
みんなが話している横で、合わせるような愛想笑いを浮かべたまま、自分は決して会話に混ざろうとしないような、そんな印象。
それが俺の一方的な偏見なのかどうかは分からない。
それでも、第一文芸部の面々もまた、彼の名がここで呼ばれたことに戸惑っているみたいに見える。
意外そうな、戸惑ったような。誰も、彼に声を掛けようとはしなかった。
嘉山は、そんな視線を受けたまま、立ち上がって、及川さんのそばへと歩み寄った。
その足取りはどこかふわふわとしていた。
べつにふらふらしているわけじゃない。歩き方が覚束ないというのでもない。
でも、どこか、いまこの場所から遠く離れているような足取り。
この場にいるはずなのに、どこかに行ってしまっているような不思議な錯覚。
及川さんが脇に避ける。
嘉山は何も言わずに壇上にあがり、俺たちを見下ろした。
「皆さん、突然のことで驚かれたと思います」
その声は、なんだか不思議な感じがした。思わず俺は、周りにいた連中の表情をうかがってしまったくらいだ。
でも、みんな当然のような顔で、彼の声に耳を傾けているようだった。
だからその違和感は、俺だけの錯覚だったのかもしれない。
嘉山の声は、耳からするりと抜けるように、俺の意識に何の印象も残さなかった。
決められた台詞を読むような感情のなさ。
にもかかわらず、そこには何かを演じるような緊張やこわばりがない。
からっぽな機械が決められたメッセージを読み上げているような。
478: 2016/01/16(土) 00:24:04.50 ID:p19G4SHTo
「二年の嘉山孝之です。及川部長や顧問の先生方に頼んで、みなさんにお話する機会をつくっていただきました。
まずはみなさん、俺の話のために時間をとらせてしまったことをお詫びします。申し訳ありません」
そう言って彼は一度頭をさげたが、その仕草はやはり無感動で機械的に見えた。
「前置きを長くしても戸惑われるだけだと思いますので、単刀直入に申し上げます。
先月、部誌の配布の直前に起こった焼却炉での騒動を、みなさんも覚えているかと思います」
彼はそこで一拍置いて、前方に座る部員たちの顔を見回した。
一瞬だけ、俺も彼と目が合う。
俺は、その視線が本当に俺を見たのかどうかわからなかった。
「あれをやったのは俺です」
嘉山はそう言った。
誰もが沈黙したままだった。いったいこいつは何を言っているのだろうと、そんな空気が、あたりを包む。
俺は思わず、及川さんの方を見た。
彼は、ただ嘉山の続きを待っていた。
「第一文芸部……当時の第二文芸部の部誌を燃やしたのは俺です。
家から持ち込んだライターを使って、焼却炉で部誌を燃やしました」
誰も話さない。
みんなが説明を待っている。
「……申し訳ありませんでした」
そこで嘉山はもう一度頭を下げた。
479: 2016/01/16(土) 00:25:23.92 ID:p19G4SHTo
いくらかの沈黙のあと、第一文芸部の部員の誰かが、
「本当に?」
と訊ねた。誰も他に何も言わなかった。
「本当です」と嘉山は間髪置かずに答える。
「申し訳ありませんでした」
「どうして?」
と同じ奴が訊ねた。
「皆さんには大変ご迷惑をおかけしました」
「そうじゃなくて、どうしてそんなことをしたの?」
誰かの追及。みんな、そいつの質問を正しいと思ったのだろう。声は、ほかにはあがらない。
どうして? それが一番の謎だったから。
質問した奴の方を、嘉山は数秒間、まっすぐに見つめた。
表情は浮かばない。
ごまかし笑いでも、つよがりでもない。ただ無表情のまま、
「ストレス解消のためです」
と答えた。
480: 2016/01/16(土) 00:26:11.84 ID:p19G4SHTo
◇
そこから急に騒がしくなった。
罵声とも怒号ともとれない雑多な音が、第一の連中の口から暴れだした。
ヒデはその流れをおろおろと見守っている。
俺たち第二側の連中は、ただ事態のなりゆきを見守るしかない。
嘉山はもうそれ以降、本当に申し訳なかった、としか言わなくなった。
他の連中の戸惑いと怒りを、及川さんと第一の顧問が諌めはじめる。
俺はなんとなく不思議な感じがした。
第一の顧問は一旦全員を黙らせると、嘉山を壇上からおろし、自分で全員に向けて声をあげた。
それから彼は、嘉山に対しては自分から厳重に注意をし、事情をきくことを宣言した。
もちろん焼却炉を無断で使用した件については、他の教員からも指導があるという。
嘉山の詳しい事情についてはみんなには話せないかもしれないが、彼にも事情があるようなので、皆から責めることはあまりしないように、と話を収めた。
嘉山は自分からみんなにこのことを告白して、みんなに直接謝罪したいと言った。
その気持ちをどうか汲んでやってほしいと。
そこでみんな押し黙った。誰も何も言わなかった。
話はそこで収まった。
気持ちが収まったかどうかは知らない。
484: 2016/01/18(月) 22:36:40.85 ID:S9lCHtGSo
◇
態度を決めかねていた。
みんなそうだ。俺やゴローだけじゃない。佐伯や高森だってそうだったろうし、及川さんやヒデだってそうだろうと思う。
あの場で、嘉山に対して、誰も何も言うことができなかった。
第一の顧問が最後に嘉山をかばわなければ、誰かが文句のひとつでも言えたかもしれない。
でもそれは「もしも」の話で、結果として誰もが沈黙せざるを得なかった。
嘉山は詳しい事情について黙して語らなかったし、そもそも細々とした話を聞かされたところで誰も納得なんてできなかっただろう。
だから、結果として、みんながみんな、納得できないままで黙りこむほかに、術を持たなかった。
特に、俺たちは、基本的に部外者だ。
第一の連中が俺たちを疑ったこともあるにはあった。
けれど俺たちは犯人ではなかったし、燃やされたのは俺たちの部誌ではない。
結果として巻き込まれただけの、俺たちは部外者だ。
485: 2016/01/18(月) 22:37:15.55 ID:S9lCHtGSo
部室に戻ってから、俺たちは誰一人言葉を発しようとしなかった。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
それを破ったのは高森だった。
「やめよ」
彼女は、ぽつりと、それだけこぼした。
「何を?」と俺は訊ねた。
「終わったんだよ。焼却炉の話。だったらもう、やめようよ、考えるの」
「そだね」と頷いたのは部長だった。
「わたしたちの人生で、この一年は一回だけなんだよ」
部長の声を無視するみたいに、高森は続ける。
「高二の夏も、高二の秋も、高二の冬も、一回きりなんだよ。一度通りすぎたら、もう二度と取り戻せない。
だから、他人のことにかかずらうのはやめよう。わたしたちは、わたしたちの今を楽しもうよ」
そう言って、彼女は内側でくすぶる何かを吐き出そうとするみたいに長く息を吐いて、それから笑った。
強がりみたいに見えた。
486: 2016/01/18(月) 22:37:43.71 ID:S9lCHtGSo
「……だな」
と、俺はとりあえず頷いた。
そういうことなのだ、結局。
俺たちに関わりのないところで起こって、俺たちに関わりのないところで終わった。
そういうことだ。だったら、これ以上こだわって時間を無駄にする必要もない。
ゴローは、黙りこんだままだった。何かを考えているみたいだ。
それが何なのか分からない。……分かるような気もするけど、きっとそれは錯覚だ。
「ね、打ち上げしようよ」
高森は手を打ち鳴らして、そう提案した。
「打ち上げ? ……何の?」
「部誌完成の。まだやってなかったでしょ?」
「……ああ」
というより、そんなの今までしたことなかった。
「わたし、ボウリングしたい。ボウリング」
俺は、周囲を見回した。
部長は、何も言わない。ゴローも何も言わない。
るーも、佐伯も、何も言わない。
何も言わない奴らばかりだ。ここは。
俺もか。
487: 2016/01/18(月) 22:38:18.11 ID:S9lCHtGSo
ああ、もう。
めんどくせえ。
「よし。部長、ボウリング行きましょう。みんなで」
急に話を振られたからか、部長はきょとんとした顔をした。
「タクミくん……?」
「嫌いですか?」
「ううん。べつに、そうじゃないけど……」
「ゴローと佐伯は? このあと予定あるの?」
「ないよ。行ける」
と即答したのが佐伯。黙ったままだったのがゴロー。
「ゴロー」
「ああ、行くよ」
「るー」
「みなさんが行くなら」とるーは、どこか戸惑ったように笑う。
「じゃ、決定。ボウリング行こう」
「決定! たっくんのおごりね!」
「嫌だ!」
振り払う。振り払おうとする。
たぶん、痛々しく見えただろう。
488: 2016/01/18(月) 22:38:58.80 ID:S9lCHtGSo
◇
そんなわけで俺たち第二文芸部の部員たちは、何もかもを忘れてボウリング場へと向かった。
部活を放り出してきた。ヒデには何も言ってこなかった。そうしたら何かが違ってくるような気がした。
部長、高森、ゴロー、佐伯、るー、俺。六人。
ぎりぎり一レーンでプレイできないこともなかったけど、時間がかかるから二レーンに三人ずつ分かれることにした。
組み分けはグーパーで決めた。
たとえばシューズを借りるときに、部長の靴のサイズが思っていたより小さかったことに気付いたりした。
そういうささやかなことの連続を俺は見逃していた。
わけのわからない、自分とは関わりのないことにこだわって、見逃していた。
そういうことの反省だ。
「さて、せっかく組み分けしたし、勝負でもする?」
提案したのは高森だった。
「そっちとこっちでチームに分かれて、合計点数を競うの」
「……いいだろう」と俺は答えた。
「負けた方は、罰ゲームね。みんなもいい?」
みんな頷く。
「罰は何がいいかな……。最初に決めとかないと、ぐだぐだになりそうだもんね」
高森は9ポンドのボールを構えながらそう呟いた。
489: 2016/01/18(月) 22:39:41.53 ID:S9lCHtGSo
「……待て、その勝負、俺たちもやるの決定か?」
不満気に、ゴローは呻く。
「当然だろ。部全体のイベントなんだから」
「……部長?」
ゴローに助けを求められた部長は、楽しげに肩をすくめた。
「こうなったら、開き直るしかないよ」
「……くそ。なんでそんなことまで」
「あっれー? ゴロちゃん、もう負けたときの心配?」
いくらなんでも分かりやすすぎる高森の挑発を、ゴローは鼻で笑い飛ばした。
「……バカ言うなよ。勝ちの決まってる勝負なんてやる気がしないって言ってるんだ」
にやりと笑う。
こいつも大概ノリがいい。
組み分けは、俺、高森、佐伯と、部長、ゴロー、るーになった。
490: 2016/01/18(月) 22:40:15.08 ID:S9lCHtGSo
「まあ、妥当かな」
男女比も学年も、均等といえば均等だ。
「さて、罰ゲームだったな」
あっさり乗り気になったゴローが、不穏な笑みを浮かべながら顎を撫でた。
「俺たちの勝ちは決まってるからな。おまえらには、何をさせたら面白いだろう」
やけに強気だ。本当に自信があるのかもしれない。
「だったら、こういうのはどうでしょう」
言い出したのはるーだった。
彼女は自分の鞄をがさごそとあさりはじめる。
みんながその動向に注目した。
「じゃん」
と言って取り出したのは、このあいだ店先で見た猫耳風カチューシャだった。
「負けたチームは、明日から三日間、部活のときこれをずっと装備。で、どうでしょう?」
「……なんでそんなもの持ってるんだ」
「こんなこともあろうかと、買っておきました。一個だけですけど」
どんなことを想定してたんだよ。
491: 2016/01/18(月) 22:40:52.40 ID:S9lCHtGSo
「……待て、それは女子はともかく、男子のリスクが高すぎないか」
「あれ? タクミくん、もう負けたときの心配ですか?」
いたずらっぽく、るーは笑う。
合わせてゴローも、にやにや俺を見る。
逃げ場がない。
「……ああ、いいぞ。やってやるよ」
「じゃ、決定ですね。負けた方は明日からこのカチューシャをつけて、語尾に『にゃん』をつける義務を負います」
なんか追加されてる。
「……待って。わたしも普通にいや、それ」
佐伯が本気で嫌そうな顔をする。俺はちょっとだけ躊躇したが、結局強がって笑うことにした。
「佐伯、心配するな」
「……え?」
「勝てばいいんだよ、勝てば」
「……ギャンブルにハマってる人って、みんなそう言うよね」
彼女は呆れ顔だった。
492: 2016/01/18(月) 22:41:40.73 ID:S9lCHtGSo
そんなわけで始まったボウリング勝負の第一投は、それぞれ俺とゴローに決まった。
「ところで、つかぬことをお聞きするけど、たっくんはボウリングって得意なの?」
俺は11ポンドのボールを構えながら、高森のその質問に笑みを返す。
「心配すんなよ、高森。こう見えて俺は……」
そう。俺は。
「生まれてこのかた、一度もボウリングなんてしたことない」
「だめじゃん!」
「眠ってた才能が火を噴く時がきたな」
「たっくん! なんで勝負受けたの!」
高森が本気で嫌そうに騒いだ。おまえが言い出したからだ。
「やめてよ? 負けたら猫耳だよ? それはまだしも語尾もつくんだよ?」
だからおまえが言い出したんだ。
493: 2016/01/18(月) 22:42:18.53 ID:S9lCHtGSo
軽く助走をつけてボールを放るとき、高森の悲鳴に近い懇願が聞こえた気がした。
「ほんとにたのむよ、たっくん!」
俺の放ったボールは静かに回転しながら、吸い込まれるようにレーン外へと進んでいった。
ガコン、と音を立てて、ボールはあっさりと溝を転がっていく。
ピンまでの距離は15メートルと言ったところか。
「……ふむ。まあそこそこだな」
「どこがよ!」
高森が騒ぎ、佐伯は頭を抱えた。
「やったことないんだから仕方ないだろ!」
「いくら初めてだってもうちょっと行けるでしょ!」
「あーうるさい。このくらいはハンデだハンデ」
494: 2016/01/18(月) 22:43:12.82 ID:S9lCHtGSo
「これは本当に、俺たちが勝負をもらったな」
俺たちのやりとりを横目にみてくすくす笑いながら、ゴローはボールを構えた。
「悪いがタクミ。俺は生まれてから一度も、そう一度も……ボウリングでガターを出したことがない」
ごくり、と俺は固唾を呑んだ。
ゴローは自信満々の表情でボールを構える。
その仕草は、たしかに俺よりも様になっているように見えた。
「覚悟しろよ、佐伯、高森。おまえらの明日は猫耳だ」
「いやだあ! わたしそっちチームがいい!」
高森がわめく。諦めの悪い奴だ。
「ははは。楽しみだなあ諸君」
言ってから、ゴローは投球フォームにうつる。なめらかな体重移動。
指先から離れたボールは、ファウルラインから二メートルほど過ぎたところで右側の溝に落ちた。
みんな黙りこんだ。
495: 2016/01/18(月) 22:43:59.23 ID:S9lCHtGSo
「……ゴロー?」
「俺はこれまでボウリングでガターを出したことが一度もない」
ふっ、と意味ありげにゴローは笑う。
「なにせ一度もボウリングをしたことがないからな」
こいつらマジか、という目を、みんなが俺とゴローに向けた。
「……さっきの自信ありげな雰囲気はなんだったの、ゴローくん」
部長の溜め息も、いつもよりちょっと情感こもって聞こえた。
「なんかいけそうな気がしてたんですよ。案外駄目ですね」
「うちの男どもはあてにならない……」
佐伯が深刻な調子で呟く。そう言われても仕方ない状況とはいえ、ちょっとひどい。
三人の女子の目が静かに燃えた。
みんなが揃って、「わたしがなんとかせねば」という目をしていた。
ひとり取り残されたるーは、ごまかすみたいに、
「えっと。勝負は分からなくなってきましたね……?」
自信なさげに、そう呟いた。
500: 2016/01/20(水) 22:40:40.91 ID:A+BXz5Qyo
◇
第一投者である俺とゴローが双方無得点というまさかの形で勝負の幕は上がった。
二番手は、こちらは高森、あちらはるーだった。
「たっくんがアテにならないとなると、わたしたちでなんとかするしかないね、ちーちゃん」
佐伯は深々と頷く。
「まあ、向こうもひとりアテにならないみたいだから、実質二対二ってだけだろうけどね」
「……」
「頼むよ、マキ」
「おうともさ」
……同じチームのはずなのに、俺が完全に蚊帳の外である。
「……さっきは言わなかったけどね、たっくん、ちーちゃん」
そう言って高森は、静かに球を構えた。
「わたしも、ボウリングでガターを出したことがないんだよ」
「……マキ、やめようそれ。パターンだから」
諌める佐伯に向けて、だいじょうぶだいじょうぶ、と高森は気楽げに笑った。
501: 2016/01/20(水) 22:41:21.96 ID:A+BXz5Qyo
「ホントホント。小学生の頃子供会で一番だったんだからね。まあ、わたし以外もみんなガターなんて出さなかったけどさ。
それ以来一度もやったことないけど、たっくんとかゴロちゃんに比べたら、わたしのがまだ才能あるよ」
「……高森、それさ」
「なに?」
「ノンガターレーンだったんじゃねえの?」
「……え?」
高森はボールを抱えたまま硬直した。
「……マキ?」
佐伯の声はいつもより暗い響きをともなって聞こえた。
「……だ、大丈夫大丈夫。球を転がしてピンを倒すだけなんだし」
どうしてかわからないが、自分が投げる時より今の方が緊張してしまっている。
そして高森の転がしたボールは、ゆっくりとレーンを転がっていき、端の方のピンを二本倒した。
「……ほ、ほら。大丈夫大丈夫」
「うん。まだ二投目があるしね」
そして高森は二投目で逆端のピンを四本倒した。
「……口程にもないな」
「まったくだ」
ゴローのつぶやきに追随すると、佐伯と高森がぎらりと俺たちの方を睨んだ。
おまえらが言うな、と視線が語っている気がする。
502: 2016/01/20(水) 22:42:05.11 ID:A+BXz5Qyo
隣のレーンのスコアを見ると、俺たちが騒いでいるうちにるーが投げ終わっていたらしい。
一投目が七本、二投目がゼロ。
一本差であちらの優位だ。
高森と佐伯の表情は暗い。猫耳カチューシャをつけた自分の姿でも想像しているのかもしれない。
「……あ、俺、飲み物買ってくる」
居心地の悪さに立ち上がると、みんなが声をあげた。
「たっくん、わたしコーラ。ちーちゃんは?」
「お茶」
「俺アクエリな」
「わたしもお茶がいいな」
「持てねえよ。持てないですよ」
「あ、わたし手伝います」
るーがそう言って立ち上がったので、断るにも断れない感じになってしまった。
いやまあ、別にいいんだけど。
503: 2016/01/20(水) 22:43:19.80 ID:A+BXz5Qyo
俺たちはレンタルシューズコーナーの脇にある自動販売機で指示通りのものを買い揃えた。
計六本。どっちにしたって手は塞がる。
「ね、タクミくん」
「ん?」
自販機が吐き出したコーラを嫌がらせに軽く振ったところで、るーがそう呟いた。
「……あの、それ蒔絵先輩のじゃ」
「いや。振ってない。振ってないよ」
「そうですか」
俺はコーラをるーに手渡した。
「るーは何飲む?」
「わたしはポカリで。あ、お金……」
「いいよ。みんなの分俺出すから。バイト代出たばっかだし」
「いますよね、給料日直後はすごく羽振りのいい人」
「うん。それ俺」
悪い癖だとは思うが、他人に奢るのは意外と気分がよくてついついやってしまう。
504: 2016/01/20(水) 22:44:58.59 ID:A+BXz5Qyo
こうやって集団から少し距離を置くと、冷めてしまいそうな自分に気付く。
だから半分、るーがついてきてくれたのを、助かった、と思う。
もう半分は、冷めてしまいたがっていたのかもしれない。
奇妙なものだ。こころというのは、どうも、元の状態に戻りたがる性質があるらしい。
自己嫌悪が常態になれば、人は折にふれて自己嫌悪したがるようになる。そういう癖がつく。
変化しないことに安心する。だから、容易には人は変われない。
嫌でたまらない自分の性質。それを嫌がっている自分。そこに安心してしまう。
「俺もコーラ、と」
「ね、タクミくん。気付いてました?」
「なにを?」
「今日、蒔絵先輩の誕生日なんですよ」
「え?」
「七月七日。七夕です」
驚きつつも、なんとなく納得する。
だから、あんなふうに、暗いまま流れる時間を嫌ったのかもしれない。
運の悪い奴だ。誕生日にあんな話になるなんて。
結果的には、よかった、のかもしれない。
あとで知ったら、俺まで落ち込んでいただろう。
505: 2016/01/20(水) 22:45:40.11 ID:A+BXz5Qyo
「七夕か。……今日は晴れてたよな」
「はい。催涙雨にはならないみたいですね」
「……催涙雨?」
「七夕の日に降る雨を、そう呼ぶんですよ。雨が降ると天の川の水かさが増して、織姫と彦星は会うことができないそうなんです。
そのふたりの涙が、雨になって降るとかなんとか」
「……それ、おかしくない? 雨が降ると会えないんだろ? 会えないから泣いて、それが雨になるんだろ? どっちが先なんだ?」
「えっと、どうなんでしょうね……?」
「そもそも、なんで地球に降った雨で天の川が増水するんだ?」
「あの。知りません。そんなの」
るーは呆れた感じで笑ってくれた。俺も笑った。
「再会できたよろこびに涙を流しているとか、やっと会えたのにまた離れなければならないから泣いているって話もあるみたいですけど」
「どっちにしても、今は泣いていないわけか」
そういえば、天の川に橋をかけるのはかささぎだったか。
506: 2016/01/20(水) 22:46:06.53 ID:A+BXz5Qyo
「よし。戻るか」
「はい」
俺たちは飲み物を抱えて友人たちの待つ場所へと戻った。
戻ってみると、部長がストライク、佐伯がスペアを出していた。
「……おお、盛り上がりどころを見逃した」
「今のところ、わたしたちが優勢ですね。タクミくん、がんばってくださいね」
「ああ」
頷いて、チームごとのジュースを渡しあって、俺たちも席に戻った。
そして、ふと気付く。
どっちが振ったコーラか分からない。
るーの方を振り返ると、彼女はいたずらっぽく笑った。
教えてくれる気はないらしい。
してやられた。いや、俺がやったんだけど。
507: 2016/01/20(水) 22:46:49.08 ID:A+BXz5Qyo
そして続く二フレーム目、俺とゴローはまさかというか期待通りというべきか、無得点のままだった。
続く高森は六本、るーは五本。
佐伯は九本。部長はまたストライクだった。
「もはや大勢は決したな」
ゴローがなぜかドヤ顔だった。
佐伯と高森の顔は緊張の冷や汗に滲んでいる。
「よろしくないね、この流れは」
「というか、部長が意外と……」
佐伯と高森の言葉に、部長はにっこり笑った。
「わたし、こういうの得意」
俺たちは思わず黙りこんだ。
佐伯もがんばっているが、このままの流れで行くと負けは確実だ。
508: 2016/01/20(水) 22:48:00.25 ID:A+BXz5Qyo
「……ひとつ提案があります」
そこで佐伯が、重々しく口を開いた。
「どうぞ」と部長。
「この勝負の罰ゲームとは別に、最下位とブービーの二名に別途罰ゲームを設けるのはどうでしょう」
「げ」
「賛成!」
「異議なし」
口を挟む間もなく、高森と部長が賛同した。
あからさまに俺とゴローが狙い撃ちにされている。
「賛成多数で可決です」
「待て待て。まだ票とってないだろ。俺とゴローは反対だぞ」
「弱者の票は数えません」
「一票の格差だ!」
氷の瞳で佐伯が俺を見た。俺は怯みつつ、政治参加の平等を訴えた。
「藤宮さんは? 賛成三票、反対二票だけど」
「じゃあ賛成で」
佐伯の質問に、躊躇もなく、るーは頷いた。
「可決」
マジか。
509: 2016/01/20(水) 22:48:26.66 ID:A+BXz5Qyo
「……ちなみに、罰ゲームの内容は?」
「最下位とブービーが三十秒ハグ」
王様ゲームかよ。
高森と部長はあっさり同意した。
「おい、何かに目覚めたらどう責任とってくれるんだ、それは」
ゴローの文句を、佐伯は取り合わなかった。独裁政治だ。
「目覚めたときは、浅月に責任とってもらって」
「……仕方ねえな」
「仕方なくねえよ。とらねえよ。まず目覚めねえよ」
「タクミくん。勝てばいいんですよ」
にっこり笑うるーに、高森が「そうだそうだ」とやけっぱちに頷く。
……こいつら、自分たちがブービーに転落する可能性とか考慮してないんだろうか。
佐伯め。追い込まれると我が出るタイプだったとは。
510: 2016/01/20(水) 22:49:08.75 ID:A+BXz5Qyo
現状だと、一位が部長、二位が佐伯、三位と四位が同数で高森とるー。
ブービーと最下位も同数で俺とゴローだ。
罰ゲームを回避するには、ゴローだけでなく高森とるーを越えなきゃいけないわけか。
……。
でも、よく考えるとこれ、俺が四位以上になってしまうと、ゴローが女子とハグする結果になる。
佐伯、ちょっと早まったんじゃないか?
などと思っているうちに、ゴローが三フレーム目の球を転がした。
ストライク。
「……え?」
みんながポカンとした。
「……能ある鷹は爪隠す」
「まぐれだろうけど、ナイス、ゴローくん」
部長はうれしそうに拍手した。
高森とるーが、俺の方を見たのが分かる。
……まずい。
ゴローが空気を読まずに高得点を連発してしまうと、最下位とブービーの罰ゲームは男女混合の気まずいものになってしまう。
これを回避するには、俺がゴローを追いかける点数を出して、高森とるーを下位に追いやるしかないわけだが……。
こうなってしまうとるーと高森も、罰ゲームを避けるために高得点を狙うはずで、つまり……。
くしくも、みんながみんな本気で勝ちを獲りに行かなければならない状況になってしまった。
「……マジか」
つーかそれ以前に、部長とゴローにストライクなんて出され続けたら、俺たちの明日は猫耳カチューシャ。
このままだと俺のひとり負けだ。
511: 2016/01/20(水) 22:50:46.30 ID:A+BXz5Qyo
「……たっくん?」
「お、おう。心配するな。俺だってやるときはやる」
とは言うものの、ボウリングにはまったく自信なんてない。
佐伯が罰ゲームなんて言い出したせいで、考えなきゃいけないことが増えてしまった。
……いや。
やめよう。罰ゲームとか、立ち位置とか、気にするのは一旦やめだ。
とりあえず、勝ちにいけばいい。
罰ゲームのことはあとで考えよう。
俺は深呼吸してからアプローチに立ち、ボールを構えた。
振り子。俺は振り子だ。
軽く助走をつけて、球を転がすだけ。
そして体を動かすと、足がもつれて、腕の角度が曲がり、球はまた溝へと落ちた。
「……たっくん」
振り向くと、高森が本気で頭を抱えていた。
512: 2016/01/20(水) 22:51:33.27 ID:A+BXz5Qyo
俺はとりあえず気を取り直し、球が戻ってくるのを待った。
「よし。俺はやれる、俺はやれる……」
「……浅月、背中に哀愁が宿ってるよ」
「うるさい。黙って見とけ」
もう一度深呼吸をしてボールを転がす。
球はゆるやかなカーブを描きながら、ピンへと向かう。
狙ったわけではないが、ボールは中央付近へと斜めに向かっていき、ピンを全てなぎ倒した。
「よし!」
と思わず握りこぶしをつくる。とりあえずスペアだ。
振り返ると、みんながみんな黙りこんで、互いの様子をうかがいあっている。
流れは本格的に混沌へと向かいはじめているようだった。
……ひとりくらい歓声をあげてくれてもよくないか?
心地よい緊張感に喉が渇いてコーラを開けようとすると、泡が勢いよく噴き出しそうになって慌てて締め直した。
るーはくすくす笑っていた。
516: 2016/01/24(日) 02:48:08.71 ID:Tf7a7LY3o
◇
部員たちのプライドが懸かった勝負は、そこから混乱の様相を呈し始めた。
調子をあげはじめたゴローとは反対に部長と佐伯のスコアは下降の一途をたどりはじめる。
高森とるーはというと相変わらず、多くもなければ少なくもない本数で、じわじわとスコアを稼いでいた。
俺はというとさすがに高森と佐伯の不興を買うのがおそろしくなり、無難にボールを転がしてスコアを稼いでいた。
どうにかコツを掴んで、何度かスペアが出せるようになった頃には、ゲームは終盤に差し掛かっていた。
合計点数の詳細は分からないが、現段階ではるーと高森がほぼ横ばいでブービー争い。
調子のあがらないままのふたりと、俺は、点数があまり変わらないところまで来ていた。
一位争いは佐伯と部長のふたりで白熱していたが、圧倒的な追い上げで、ゴローもふたりを射程圏内に収めていた。
ただし終盤になるとストライクとスペアの連続で、詳細な点数は計算しないことにはわからなくなっていた。
とはいえ、チーム戦としては、上位にゴローと部長のふたりを抱えた向こうが優位なのは明らかだ。
それでも部長と佐伯の失調や、序盤のゴローの低スコアを鑑みれば、勝負が決まったとは言い切れない。
517: 2016/01/24(日) 02:48:34.74 ID:Tf7a7LY3o
そして訪れた最終フレーム。
俺とゴローはそれぞれにボールを構えた。
「なあタクミ、ひとつ賭けをしないか」
「……なんだ?」
「このフレームで点数の多かった方が勝ちだ」
また賭けか。賭け事の好きな奴だ。
猫耳、ハグ、十分すぎるほどの緊張感だ。これ以上何を賭けるっていうんだ。
「何を賭けるんだ?」
「気になってたことがあるんだ」
「……なんだよ」
「教えてほしいことがある。俺が勝ったら、それについて話してほしいんだ」
「俺についてのこと?」
「……そうだな。そういうことになる」
「そんな言い方じゃ、いいとも駄目ともいいにくいな」
「ああ。だから、教えてくれるかどうか、考えてくれるだけでいい」
「……俺が勝ったら?」
「そうだな……」
518: 2016/01/24(日) 02:49:04.97 ID:Tf7a7LY3o
ゴローはそこで少しだけ押し黙った。
「おまえが決めてもいいんだが」
「いや、俺は特に、してもらいたいこともないしな」
「それじゃあ、アンフェアだな。……だったら、前金だ」
「……?」
「俺が負けたら、俺は佐伯に告白する」
「は」
「……不満か?」
「いや、不満っつーか」
そうだったのか、とか、告白って俺が思ってる告白で合ってるのか、とか。
そもそもそんなもん賭けるもんじゃねえ、とかいろいろ思ったけど。
「……そこまで言われて賭けませんって言えないだろ。退路を奪いやがって」
「いいだろ。どうせおまえは、負けても何も答えないって選択ができるんだ」
べつに、賭けに乗らないことだってできた。
俺との賭けで、ゴローの告白がどうこうって話になるのは、なんとなく責任を感じるわけで。
でも、そんなことを言い出したってことは、ゴローは賭けなんかなくても、いずれはそうするつもりだったのかもしれない。
そう考えれば、この賭けはフェアと言えばフェアだ。
俺は負けてもペナルティを負わないことができる。
ゴローはペナルティを負うが、その罰の内容を自分で決められる。
519: 2016/01/24(日) 02:49:32.09 ID:Tf7a7LY3o
なるほど。逃げ場はない。
とはいえ。
……勝ったところで俺に旨味がないのは気のせいか?
なんとなく、うしろを振り返って佐伯の方を見てしまった。
目が合うと、彼女は不思議そうに首をかしげた。
それから思い出したみたいに、
「浅月、頼んだよ」
と、彼女にしては大きな声で応援してくれる。
まいった。
なんか気まずい。
「……訊きたいことって?」
「それは、勝ったときに話す」
「……勝手に完結しやがって。いいけどさ」
520: 2016/01/24(日) 02:50:04.97 ID:Tf7a7LY3o
ただでさえ最終フレームは考えることが多い。
部長の失調があるとはいえ、チーム別の点数はあちらが有利なままだ。
ゴローが上位に踊り出た以上、さすがに下位ふたりに対する罰ゲームを俺が受けるのは気まずい。
(というかそれに関しては、ごねれば回避できそうな気はするけど)
そのうえゴローとの賭け。
……まあ、俺にはデメリットがないから、べつにいいっちゃいいんだけど。
それでもゴローは、気安い笑みを浮かべながらも、どこか真剣な瞳で並ぶピンの方を睨んでいる。
まあ、どっちにしても、やることは変わらない。
とりあえず、できるかぎり点を稼ぐこと。それが俺にできることだ。
そんなことを考えているうちに、ゴローが一球目を投げた。
ストライクでも出されたらどうしようかと思ったが、球は大きな弧をえがいて、端の方のピンを四本ほど掠めただけで終わった。
ここに来て突然調子を崩したゴローに、高森と佐伯が期待の声をあげ、反対に部長は頭を抱えたが、自分も不調だからかさすがに何も言わなかった。
「……まったく。賭けなんてするから調子崩すんだよ」
「見てろ。ここからだ」
さて。とりあえずは、俺も投げるしかない。
チームを劣勢から持ち上げるために、少しでもスコアを稼いでおきたいところだし、それを考えるとスペア以上は狙いたい。
521: 2016/01/24(日) 02:50:40.93 ID:Tf7a7LY3o
……いや。とりあえず、余計なことは忘れてしまおう。
いざとなったら賭けなんて無視してやる。
と、そんなことを思って投げた球は、中央付近へとまっすぐに向かっていき、七本ほどピンを倒した。
そして俺たちは、それぞれにどうにかスペアを出した。
最終フレームの三球目。
なんとなく、じっと固まっていたらいつまでも投げられないような気がして、俺はすぐにボールを転がした。
それは今日いちばんじゃないかと思うくらいのゆっくりとしたスピードで、ゆるやかな弧を描きながらピンへと向かった。
倒した本数は九本。惜しくもストライクとはならなかった。
俺はゴローの方をちらりと見た。
彼は目を閉じて深呼吸をしている。
522: 2016/01/24(日) 02:52:39.49 ID:Tf7a7LY3o
俺はいろいろ考えそうになったけど、それを全部やめにして、ただ成り行きを見守ることにした。
ゴローの球は、結果から言ってしまえば、ストライクだった。
俺は、それに少しだけほっとした。
「それで、訊きたいことって?」
ゴローはワンゲームを投げ切った心地よさからか、いつもより爽やかに笑って、
「それは明日な」と言った。
次の投者たちは、なかなか球を投げようとはしなかった。
高森はしばらく、手首を動かしたり指を伸ばしたりして、「ちがうなあ」とか「こうでもない」とかぼやいていた。
るーは、そんな高森の様子をなぜかうかがっていたが、しばらくすると諦めたように球を投げた。
意外にも、一投目で倒したピンは二本だった。
最後の最後で調子を崩してしまったのか、と思ったが、ゴローの例もあるから、まだ分からない。
るーの球が戻ってきても、まだ高森は腕を組んだり首をかしげたりしている。
「マキ、なにをしてるの?」
呆れて佐伯が声をかけると、高森は首だけで振り向いて、
「わたしのルーティンさがしてんの」
と真顔で言った。
そういうもんじゃねえだろ、と思ったけど、俺たちは口を出さないことにした(もうだいぶ疲れてたし)。
523: 2016/01/24(日) 02:53:17.02 ID:Tf7a7LY3o
うーん、とまた考えこむような素振りを見せたあとに、るーは困ったみたいに高森の方を見て笑った。
それから投げた二球目もまた、さっきとは逆側の角をわずかに掠めただけで終わる。
計四本。疲れが出たのかもしれないし、集中が切れたのかもしれない。
それが終わってから、高森は両手のひらで頬を軽く叩くようにしてから、ボールを構えた。
ストライク。
「……お」
「あは」
と、るーはなぜか、なにかに失敗したみたいに苦笑した。
続く二球目も、頬を叩いてからボールをかまえ、ストライク。
「え」
と部長の声がした。
「見つけた! わたしのルーティン!」
だからそういうもんじゃねえって、というツッコミを入れようか迷っているうちに、頬を叩いた三球目。
ストライク。
「……うそだろ」
「ターキー……」
俺と佐伯は言葉を失った。
振り向いた高森は満面の笑みで、
「大番狂わせ! ジャイアント・キリング!」
と叫んだ。目がきらきらしていた。
524: 2016/01/24(日) 02:53:43.94 ID:Tf7a7LY3o
「今度こそ勝負がわからなくなってきたね!」と高森はひとりで盛り上がった。
他のメンバーはしばらくただ唖然としていたが、やがて部長と佐伯は立ち上がった。
さて、どういう戦いになるのやら、と思ったら、あっというまに佐伯は球を投げた。
八本。
気負いや緊張とは無縁そうに見えた。消化するみたいに、ただ球を投げた。
二球目はスペア。三投目は八本。
部長の方は、一投目でストライクを出して、調子を取り戻したのかと思いきや、二球目と三球目では数本ずつしか倒さなかった。
それでも佐伯とほぼ同数だ。
「ハイライトはわたしのターキーだね!」
そして出たスコアのチーム合計は、やはり優勢だった部長たちの勝利だった。
525: 2016/01/24(日) 02:54:09.66 ID:Tf7a7LY3o
「あれ? ターキーってすごい加算されるんじゃないの?」
「普通はね」
不服げに口を尖らせた高森に、部長が説明をした。
「第10フレームだと、倒したピンの数だけが点数になるんだよ」
「……せっかくターキーなのに?」
「うん」
そういうわけで、結局番狂わせは起こらなかった。
個人ごとのスコアの順位は、一位が部長、二位が佐伯、三位がゴロー、四位が高森、五位が俺で、六位がるーだった。
結局は中盤の趨勢通りの結末になった。
526: 2016/01/24(日) 02:54:56.34 ID:Tf7a7LY3o
意外だったのが、結局は最下位とブービーの入れ替わりだけという結末。
第10フレームの得点差で、俺とるーの順位は僅差で入れ替わったのだ。
反対に高森はターキーで大量点を稼いだが、第10フレームでは他の部員たちもスペア以上を出していたため、追い上げとはならなかった。
「……あは」
るーは頬をかいて、困った顔をした。
俺たちはとりあえずボウリング場を出た。
終わってからは疲れと達成感が先に来て、賭けのことは誰も言い出さなかった。
外に出ると、あたりは暗くなっていた。いつのまにか地面は濡れている。どうやら、雨が降って、もうあがったらしかった。
「……催涙雨だっけ? いつのまにか降って止んだみたいだな」
「――え?」
うしろを歩くるーに声をかけると、彼女は何か物思いにふけっていたかのように、ぼんやりとした反応だった。
「……どうかした? もしかして、体調悪い?」
だから急に調子を崩したのか、と考えかけたとき、
「あ、ちがいます、ちがいます!」とるーはぶんぶん手を振って否定した。
527: 2016/01/24(日) 02:55:43.73 ID:Tf7a7LY3o
「……なにか考えごと?」
「あ、いえ……えっと。なんでもないです」
それからるーは、何かを待つみたいに他の部員たちを見回したけど、みんなボウリングの内容の反省以外には何も言わない。
気になることでもあったんだろうか。
なんでもない、と言われたから、俺はそれ以上何も聞かなかった。
俺はなんとなく、心地よい虚脱感のなかで、ぼんやりと首を動かして、空を見た。
「ほら、空」
「……はい?」
「星」
「……あ」
「天の川は、見えないな」
「……運が良ければ、見れるらしいですけど。時間帯とかもありますし」
「へえ?」
るーは、またひとりで笑った。
「どうしたの、さっきから変だけど」
「……なんでもないです。わたし、ばかだなあって」
照れたみたいに、ごまかすみたいに笑う。
「どうした、急に」
「だから、なんでもないです。タクミくんには、教えたげません」
「……なんだそりゃ」
528: 2016/01/24(日) 02:56:15.89 ID:Tf7a7LY3o
それからるーは、ぼんやり空を見た。
駅までの道のり、俺とるーの少し前を、四人がまとまって歩いている。
べつに意識して離れたわけじゃないけど、るーと話すのに歩調を合わせていたら、いつのまにか距離ができていた。
少しの沈黙。
俺は、ゴローのこととか、佐伯のこととか、それから猫耳風カチューシャのこととか、いくつかのことを考えながら歩いた。
不意にるーが、うたうみたいに、呟いた。
「“ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、
乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。”……」
「……」
るーはこっちを見上げて、いたずらっぽく笑う。
どきりとする。
嵯峨野先輩のこと。よだかのこと。それから、嘉山のこと。
思い出しそうになって……考えるのをやめた。
529: 2016/01/24(日) 02:58:10.32 ID:Tf7a7LY3o
駅についても、みんな、どこかまだ楽しさの余韻に包まれていた。
別れ際、高森にみんなで、「誕生日おめでとう」と言った。
「お祝い金は三千円ずつでいいよ」と高森はうれしそうに笑った。微妙にリアルな額だ。
そうして、みんなと、笑って別れた。
なんとなく、すぐに動く気になれなくて、ホームで立ち止まっていると、るーもまた、おんなじように立ち止まったままだった。
「帰らないの?」
たずねると、るーはまた、困ったみたいに笑う。さっきから、ずっとこんな感じだ。
「……かえります、よ?」
「うん。……ばいばい」
俺は、名残惜しさを振り払うみたいに、わざとそっけない態度で、そう言った。
ひとりになると、きっと寂しくなる。
るーは顔を隠すみたいに俯いて、ちょっとこわばった笑顔で、俺と目を合わせないまま、
「それじゃ、ばいばいです、タクミ、くん」
と、とぎれとぎれの声で、なんとなく何かを言いたげにしたまま、俺に背中を向けた。
530: 2016/01/24(日) 02:59:49.93 ID:Tf7a7LY3o
俺は切符売り場の前の柱に背中をあずけて、目を閉じて溜め息をついた。
人間は、ひとりでいる方が寂しくない。
一年中予定のない人が、ゴールデンウィークに誰とも会えないからといって突然寂しくなったりはしない。
誰かと比べて虚しくなることはあるかもしれないけど、休日を丸一日ひとりで過ごしたって、彼は別に平気だろうと思う。
けれど、頻繁にいろんな人と顔を合わせている人に、誰とも会えない時期が続けば、それは寂しいことのはずだ。
寂しさが強烈な痛みを伴うのは、祭りの後、パーティーの後、馬鹿騒ぎの後、耳鳴りのしそうな沈黙と静寂が訪れたときだ。
賑やかな花火の後だからこそ線香花火は切ないのだし、きらきらと光るものが通り過ぎていくから夏の終わりは物寂しい。
だったら……最初から祭りに参加しなければ、パーティーにいかなければ、馬鹿騒ぎをしなければ、人は寂しくならないはずだ。
その寂しさは、たかが知れたもので済むはずだ。
だから、避けてたのに。
そうやって、必氏で守ってきたのに。
気まぐれにバカをやって、騒いで、それがやっぱり楽しくて。
だからほら、また寂しくなってしまう。
自分がどうしてこうなったかなんて、思い当たる節も、納得のいく説明も、いくつもありすぎて、結局よくわからない。
やっぱり、ばかみたいだ。楽しかったのに、楽しかったから、こんなことを考えてしまう。
531: 2016/01/24(日) 03:00:38.32 ID:Tf7a7LY3o
そしてこんなふうに、満たされた夜にひとりきりになると、俺はよだかのことを思い出す。
彼女にもこんな夜はあるのだろうか、と。
そんなことばかりを思う。
俺がよだかに、何かをしたわけじゃない。俺がよだかに、何かをできるわけでもない。
それでも、楽しい時間を過ごしたあとに、よだかのことを思い出したとき、俺の心を覆うのは……後ろめたさだ。
楽しむことへの、後ろめたさだ。
――“世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない”
――“幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。”
「……」
――“ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない。”
――“ほんとうのさいわいは一体何だろう。”
不意に、
服の裾を引っ張られて、俺は目を開けた。
すぐそばに、るーが立っていた。俯いた彼女の髪が見えた。本当に、それくらい、近くだった。
「……るー?」
「……」
「……どうしたの?」
532: 2016/01/24(日) 03:01:05.82 ID:Tf7a7LY3o
「……あの。べつに、深い意味はないんですけど」
彼女はそう言って、静かに顔をあげた。
「なに?」
「……えっと」
彼女は、俺の服の裾をつかんだまま、あたりをうかがうみたいに、ちらちらと左右に目を泳がせた。
「どうしたんだよ、いったい」
「だから、その、罰ゲーム、じゃないですか」
「……え?」
「わたしが最下位で……タクミくんがブービーで、そういう賭けだったから」
「……」
「罰ゲームだから。みんなで決めたこと、だから。……しかたない、ですよね?」
そう言って彼女は、許しを得ようとするみたいに俺を見上げて、
俺はどうして、彼女の方がそんな顔をするのか分からなくて、
反対じゃないかって思った。
俺は、こんな、なのに、まるで、
――そんな目で。まるで…・…。
533: 2016/01/24(日) 03:01:45.40 ID:Tf7a7LY3o
無理にやらなくても、とか。
そういうことを言おうかとも思った。
みんな冗談で言ってただけだろうし、って。
むりやりそんなことをさせるような奴らじゃないし、みんな許してくれる、って。
……期待してたわけじゃないけど、考えなかったわけじゃない。
望んでいたわけでもないけど、それは嫌だからってわけじゃない。
大袈裟だと自分でも思うけど、なんとなく……恐れ多いような気すらするのだ。
「……」
「……えっと」
「……」
「その……」
「……はやくしてください。女の子に恥をかかせるつもりですか」
と、るーはまた顔を隠した。おどけたような声は、でも、少しだけ震えてる気がした。
からだの感覚が、妙に鋭敏になっているのを感じる。
534: 2016/01/24(日) 03:02:11.69 ID:Tf7a7LY3o
この膠着状態を、どう打ち破ればいいのか、俺にはわからなかった。
嫌だってわけじゃないけど申し訳なくて、
だからといって、嫌がってるとか、そんなふうに思われるのも嫌で、
こんなふうに、あやふやなままにしてしまっていいのか悩んで、
そんなことを考える自分がおかしいのかもしれないと不安になる。
でも、結局は、ほしいものをさしだされれば、受け取ってしまうから、
俺の腕は、吸い寄せられるみたいに、ぎこちなく動いて、
彼女のからだを抱き寄せていた。
からだのからだに、ぎゅっと力が入ったのが分かる。
互いのぎこちなさに、たぶん互いが気付いていた。
なにかが変わってしまうのが、急に怖くなって、
手を離してしまおうかとも思ったけど、それはなんとなくもったいなくて。
だからごまかすみたいに、
「……罰ゲーム、だし」
そう、呟いてみた。
彼女のからだは、俺の声に一瞬だけ竦んで、
それからくすくす笑う声が聞こえた。
「――そう、ですよ。罰ゲームです」
535: 2016/01/24(日) 03:02:37.83 ID:Tf7a7LY3o
開き直ったみたいな声でそうつぶやくと、彼女は静かに体の力を抜いて、こっちに体重を預けてきた。
背中に腕を回されて、頭を首の根本あたりにこすりつけられる。小さな子供みたいに、眠たげな猫みたいに。
「……罰ゲームなら、しかたないよな」
「……うん」
口には出せないけど。
意識したらまずい。
が、意識しないなんてできるわけもなく。
髪の感触とか、匂いとか、そういうものが……。
くすぐったくて、気持ちいい。
俺は、るーに気づかれないように、少しだけ隙間を開けようとしたけど、
背中には柱があったから、るーが体重を預けてきた分、余計に近付くことになってしまった。
「いま、何秒ですか?」
「え、あ……数えてない」
「だめじゃないですか」
「るーは、数えてなかったの?」
「……数えてなかったです」
照れたみたいに笑う声が甘ったるくて、他のことを考えられなくなる。
ああ、もう。動物だ。
536: 2016/01/24(日) 03:03:08.14 ID:Tf7a7LY3o
なにやってんだ、俺たちは。
「……じゃあ、数えますね」
お互いに顔をそむけて、視線をどこにやったらいいか困っている。
るーは照れくささをごまかすみたいに、おどけた感じで数を数え始めた。
「いーち、にーい、さーん、しーい」
……なんだよ、これ。
あたりにだって、人がいないわけじゃないのに。
なんだって、こんな公衆の場所で。
そういえば今日は高森の誕生日で。
七夕で。昼には、きっとこんなこと想像できないくらいに憂鬱で。
ああ、でも、そういうことが、なんだか……。
……まあ、いいか。
「……じゅういち、じゅーに」
俺がそんなふうに、理性とよくわからない何かとの戦いに混乱していると、不意に、ひとりの女の子が俺たちの様子をじっと見ていることに気付いた。
うちの制服を着てる。
537: 2016/01/24(日) 03:03:41.83 ID:Tf7a7LY3o
顔見知りかと思ったけど、違う。
彼女は真剣な表情で、俺とるーの姿を見ている。
そして、制服のポケットから携帯を取り出して、構えた。
「……」
かしゃ、と、少し遠くから音が聞こえた。
数を数えていたるーは、その音に気付かなかったらしい。
「にーじゅう、にーじゅいち、にーじゅに」
「……」
女の子は、画面を真剣な瞳で見たあと、俺と目を合わせてにっこり笑ってから、手のひらをこっちに向けて、「どうぞどうぞ」というポーズをした。
そのまま背中を向けて、人混みの中に去っていった。
「……」
……なんだあれ。と、そう思ったけど、なんだか頭がぼーっとして、うまくものを考えられない。
「……にーじゅーきゅーう、さーんーじゅーうー……う!」
「……」
538: 2016/01/24(日) 03:04:08.32 ID:Tf7a7LY3o
「……タクミくん?」
「……え?」
「あの、数え終わりましたよ?」
「あ、うん」
「……」
「……」
「……その。えっと」
「どうした?」
「……離さないんですか?」
「あ、うん……」
と、頷いてからも、俺はなぜか、腕を動かせなかった。
いや、もちろん動かせなかったわけじゃなくて、動かしたくなかったわけなんだけど。
「……いや、なんか、動くのめんどくさくて」
「そう、なんですか?」
「……うん」
「えっと。……それなら、しかたない、です、か?」
「……うん」
539: 2016/01/24(日) 03:06:06.77 ID:Tf7a7LY3o
それから、ちょっとのあいだ、黙ったまま身動きもとらずにいた。
どっちも、文句もつけなかったし、からかったりもしなかった。
よくわからないような。
わかっているような。
「……あの、タクミくん」
不意に、るーは、ちょっとこわばった声をあげた。
「なに?」
「あの、つかぬことをおききしますけど……」
「うん」
「……ひょっとして、わたし、いま、汗くさくないです?」
「……え、どうだろ。べつにくさくはないけど」
ぼーっとした頭のまま、鼻先を耳のあたりに近付けて匂いを嗅ごうとしたら、
「……ぅあう!」
とるーは変な鳴き声をあげて、俺の胸を両腕で押し、強引に距離をとった。
突然の大きな声に、俺の意識もパッと切り替わる。
540: 2016/01/24(日) 03:07:19.33 ID:Tf7a7LY3o
るーは俺から距離をとって背中を向けると、何回か深呼吸をした。
俺は俺で、柱にもたれたまま、瞼を閉じて額を抑えた。
……やっべえ。
なにやってんだ。
「あ、えっと、ごめん」
さすがに悪い気がして謝ったけれど、
「えっ? なにがですか?」
るーは何に対して謝っているかわからないように戸惑った声をあげた。
「いや、さすがに匂いとか、その……」
「た、タクミくん!」
「は、はい」
「えっと……今日のところは、帰りませんか?」
「あ、うん。だな……」
「……罰ゲーム! も、終わりましたし」
「……うん」
「えっと。また、あした」
「うん。……また明日」
るーは、とたとたと逃げるみたいに去っていった。
残された俺は、とりあえずいろんな事情で身動きをとりたくなかったから、また額を押さえた。
こまったことに、頬が火照っている。
……まいった。ほんとに、かなわない。
546: 2016/01/26(火) 00:59:20.01 ID:vG02Bl5Ho
◇
「タクミくん、朝だよー、起きてるー?」
と、静奈姉がドアの向こうから声をかけてきたときも、俺はぼんやりしたままだった。
昨日の夜は帰ってきてからずっとぼーっとしていた。
何にも手がつかなくて、仕方なくシャワーを浴びて早めに寝たけど、夜中の二時過ぎに一度目を覚ましてから、なかなか寝付けなかった。
そんな調子で起きたり寝たりを繰り返して、結局朝の四時には眠りにつくのを諦めて、ベッドの中でもぞもぞと寝返りを打ち続けていた。
気付けば窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえる時間になっていた。
理由は明白だ。
少しとはいえ、眠った分だけ頭が冷静になって、昨日の出来事を思い出すたびに「あー」とか「うー」とか唸っていた。
学校が終わった後にボウリングなんてやって、たぶんテンションがおかしかったのもある。
というか、そうとしか考えられない。
だけどおかしかったのはたぶんあっちもだ。
普段もいろんな考えごとで眠れなくなることはあるけれど、こんなふうにひとつのことばかり考えていたのは初めてだ。
夢にまで出てきた。
「タクミくーん?」
「あ、うん。もう起きてるよ」
547: 2016/01/26(火) 01:00:00.92 ID:vG02Bl5Ho
眠たかったけど、ベッドを出た。
起き抜けの頭についた寝癖を手のひらでぽんぽん触りながら、自分の手のひらを見る。
それから、手のひらを鼻先に近付けてみる。
このくらいの距離に、るーの首筋があったんだよな、とか、
そんなことを思い出してる自分が気持ち悪くてすぐにやめた。
「……正気か、俺は」
……るーのことばかり考えていても仕方ない。
とりあえず学校にいかなきゃいけない。
昨日はいろんなことがあった。
嘉山のことに……ボウリング。
ゴローの訊きたいことって、そういえばなんなんだろう。
猫耳の罰ゲームって、ホントにやるんだろうか。
それから……と、結局るーのことを考えそうになったので、頭を働かせるのはそこでやめた。
548: 2016/01/26(火) 01:00:27.01 ID:vG02Bl5Ho
「タクミくん、今日はバイトだっけ?」
「……ああ、夕方から」
「じゃあ、晩ごはんは食べてくるんだよね?」
「だね」
「……タクミくん、何かあった?」
「え……なにかってなに」
「なんかいつもより機嫌良さそうに見えたから」
「……や、そんなことないと思うよ、うん」
「そう、かなあ?」
静奈姉は不思議そうな顔で首を傾げた。
女の人ってなんでこう、妙に鋭いんだろう。俺が分かりやすいだけかもしれないけど。
まあ、なんかって言ったって……べつにあんなこと……。
「……きりがないな」
"あんなこと"でここまで取り乱すんだから、俺も案外単純だ。
549: 2016/01/26(火) 01:01:17.61 ID:vG02Bl5Ho
「……そういえばさ、タクミくん」
思い出したみたいな口ぶりだったけど、ずっと前から訊くことを決めていたようなはっきりとした調子で、静奈姉はまた口を開く。
「夏休みは、あっちに帰るの?」
「……え?」
「わたしも一応家に帰ろうかと思ってるし、どうするつもりなのか確認しとこうかなって」
「……あ、うん。どうしようかな」
去年は、帰る、と嘘をついてゴローの家に数日泊めてもらった(あとでバレたけど)。
「早めに考えとくよ」
「うん。おばさん、心配してるみたいだよ」
「……心配?」
それは、まあ、そうか。
うっとうしいと思うわけではない。母に対しては、特に思うところもないのだし。
申し訳なく思う気持ちはある。
でも、だから帰るのかと問われると、それとこれとは別だ、と言いたくなる。
結局、俺の身勝手なんだろうけど。
550: 2016/01/26(火) 01:01:43.43 ID:vG02Bl5Ho
◇
午前中は、勉強にも何にも身が入らなくて、ずっとぼーっとしていた。
クラスメイトたちともほとんど話さなかった。
昼休み頃になるとさすがにこのままではまずいと思い、目をさますために外の風を浴びることにした。
本校舎の屋上は、いくつものグループで賑わっていた。
天気が良いせいだろう。梅雨明けも、近いのかもしれない。
なんとなくぼーっとしながら、買ってきたサンドイッチをひとり、フェンスの傍で食べていると、
ぱしゃ、
と音がした。
驚いて音の方を向くと、携帯を構えた女の子がそこに立っていた。
当然だけど、うちの制服。小柄で華奢な体格。髪型は活発そうなポニーテール。
にっこり笑った表情は、子供みたいに素直そうだ。
そして彼女は、至近距離で俺の食事風景を撮影したかと思うと、後ろ向きに足を動かして、そのまま去っていこうとした。
「待て待て待て」
さすがに慌てて肩を掴んだ。
「は、はい?」
すっごく意外そうな目で見られる。
「なんですか? こさちはちょっと用事があるのですが」
こさち。
一人称? 名前か?
551: 2016/01/26(火) 01:02:31.35 ID:vG02Bl5Ho
「きみ、だれ」
「これは申し遅れまして」
と彼女は体をこっちに向き直し、
「こさちは小鳥遊こさちです。小鳥が遊ぶと書いてタカナシです」
「へえ。こさちはどう書くの?」
「幸を呼ぶ、で、呼幸であります」
「じゃあ、とりあえずおまえのこと座敷わらしって呼ぶわ」
「呼ばれた幸、でも可」
「どっちでもいいよ」
「あのー、先輩先輩、お気づきでないのかもしれませんが、あだ名の方が長くなってますよ?」
「ツッコミ遅いな、おい」
……なんか、独特のテンポの子だ。
552: 2016/01/26(火) 01:03:03.03 ID:vG02Bl5Ho
「で、なに」
「なに、とは?」
「えっと、小鳥遊、さん?」
「どうぞ、こさちのことは遠慮なさらず、こさちちゃんとお呼びください」
「なんで俺のこと撮ったわけ?」
「こさっちゃんでもさっちゃんでも構いませんが、こっちゃんだけはなんとなく嫌です」
「聞けよ」
なんだこいつ。
「こさちが先輩のことを撮る理由なんて、決まってるじゃないですか」
「……決まって、るの?」
いや、決まってないと思うけど。すくなくとも俺には分からないし。
「そう。決まってます。こさちが先輩のことを好きだからです」
「……はあ」
沈黙。
「はあ?」
「……あのあの。嘘ですよ? ひょっとして信じました? すみません、冗談だったんです。よもや信じるとは夢にも思わず」
「……きみね」
553: 2016/01/26(火) 01:03:41.69 ID:vG02Bl5Ho
というか、こいつ。
「……きみ、昨日駅で」
「駅。はて?」
「駅でも、撮ってたよね、俺のこと」
「先輩先輩、それは自意識過剰というものですよ。こさちは先輩ではなく、切符売り場の柱を撮っていたんです」
「いや、その言い訳は苦しいんじゃないか?」
「まさかまさか。わたしが先輩と藤宮さんの抱擁シーンを撮影したという証拠でもあるのですか」
抱擁って。抱擁ってなんだよ。抱擁じゃないだろ。
……抱擁じゃないならなんなんだ、と聞かれたら、答えに困るけど。
「……るーのことは知ってるわけだ」
「あや。先輩、カマをかけましたね!」
「かけてねえよ」
言葉と同時のオーバーリアクションのたびに、ポニーテールがくるくる跳ねる。
暴走特急めいたしゃべりかたに立ち振舞い。うっとうしいようで、不思議と目が離せない。
554: 2016/01/26(火) 01:04:58.81 ID:vG02Bl5Ho
「……きみ、俺のこと知ってるの?」
「しりませんしりません」と小鳥遊は首を振った。
「……先輩って呼ぶってことは、俺が三年だってことは知ってたんだろ?」
「先輩先輩、その歳でボケたらあかんですよ。まだ二年生ですよね?」
「……なんで知ってんだよ」
「あ、あ。謀られました」
……本当に、なんなんだ、こいつ。
「あ、間違えました。学年章です。学年章でわかりました」
「学年章……どこについてるんだよ」
「何をおっしゃいます先輩。この学校の男子生徒は誰もが襟元に学年章をつけているじゃないですか。ほら先輩の襟元にも……」
「……」
「……ついてないですね」
「けっこう前に失くしてな」
「……あや」
……こういうゲームあったな。証言を揺さぶって矛盾をつきつける奴。
555: 2016/01/26(火) 01:05:34.63 ID:vG02Bl5Ho
「……こさちは、先輩のことなんて知りません」
「……」
「ごめんなさい、嘘です」
「で、なんで撮ってたの、俺のこと」
「……甘いですね、先輩」
「は?」
「こさちが先輩のことを知っていたからといって、こさちが先輩のことを撮っていたことにはならないのですよ」
「……」
「こさちは、屋上から見える鳥たちを撮っていたのです。あ、あれはうぐいすかな?」
「あのさ……」
「はい?」
「そういうのマジでいいから。ホントに」
「あ、先輩、ちょっと顔怖いです。ごめんなさい。冗談です。かわいい後輩のおちゃめなジョークです」
ジョークで済むか。
556: 2016/01/26(火) 01:08:31.64 ID:vG02Bl5Ho
「……さすがに隠しきれませんね。たしかにこさちは、先輩のことを知っている、のです」
「はあ」
隠すつもりがあったようには見えなかったが。
「浅月拓海。文芸部所属。二年生」
「うん」
「A型、九月八日生まれの乙女座……」
「……」
「通学手段は地下鉄、親戚のお姉さんの部屋に下宿中、コンビニでバイトをしています。家族構成は、父、母、それからお姉さんがひとり」
「いや、怖いわ。なんだおまえ」
列挙された情報のインパクトに驚いて、気付くのが一瞬遅れた。
「……"お姉さん"?」
「こさち、先輩のことなら、なんでも知っているのです」
本当に、なんだ、こいつ。
……気味が悪い。
「藤宮さんと仲良くしたいなら、スクイとばかり話していてはだめですよ。あれはあれで、いいやつですが、付き合ってたら擦り切れる一方です」
「……」
「こさちとの約束です。それでは、これにて」
ぱしゃり、とまた一枚写真をとって、小鳥遊こさちはとたとた走り去っていった。
557: 2016/01/26(火) 01:09:24.21 ID:vG02Bl5Ho
つづく:屋上に昇って【その6】
558: 2016/01/26(火) 08:34:26.27 ID:MwYNV5jXO
乙
謎な子だな…
謎な子だな…
引用: 屋上に昇って
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