647: 2016/02/09(火) 00:26:43.56 ID:J098vsJCo
最初:屋上に昇って【その1】
前回:屋上に昇って【その6】
◇[Amethyst Remembrance]
秋津よだかは、駅前の喫茶店で本を読んでいる。「対訳ディキンソン詩集」だ。
大荷物を机の下に寄せて、俺の真向いに座って。
顔を合わせた時、よだかは、
「ひさしぶり、弟くん」
と皮肉っぽく笑った。
「誰が弟だ。……どうしたんだよ、急に」
「来いって言ったから」
「……いや。五分も経ってなかっただろ、送ってから」
「愛のなせる技だよね」
「つーか、あれは"夏休みに"って意味だ」
「そういう意味だったんだ。気付かなかったな」
とぼけて見せたよだかを連れて、俺はひとまず喫茶店に入った。
そしたらこいつは、本なんか読み始めた。なんとも話が進まない。
648: 2016/02/09(火) 00:27:19.25 ID:J098vsJCo
「ディキンソン?」
「うん。暇だったから」
「……あのさ、よだか」
「なに?」
俺は一拍置いて、溜め息をついてから、彼女の頭を手のひらでぐりぐり押した。
「いたいいたい!」
「ちゃんと連絡しろって、俺は前にも、言ったよな?」
「痛いってば! ごめん!」
実際にはそんなに痛くもなさそうに、よだかはちょっとだけ息を整えて、平然と俺を見返してきた。
「……どうしたんだよ、急に。まだ学校終わってないだろ」
「べつに。なんでもない」
す、っと、よだかの雰囲気が変わる。硬質な響き、問いかけに答えない鉱石のような沈黙。
それが分かる。打っても響かない態度。
……。
「なんでもないで、済むか」
よだかは不審そうに顔をあげた。
649: 2016/02/09(火) 00:28:14.08 ID:J098vsJCo
「なんでもないで済むか! バカ!」
と俺は怒鳴った。
静かな平日の昼下がり、喫茶店に響いた声は明らかに浮いていた。
店員がさりげなく近付いてきて、俺に着席を促し、注文を取っていった。
実にいい手際だ。俺は自分が恥ずかしくなった。
怒鳴られたよだかは、俯いて、反応をよこさない。
しまったな、と少し考える。
コーヒーがやってきた。口をつけてしばらくしてからも、沈黙は続いている。
理屈で納得できたからって、うまい振る舞いが実際的にできるかって言われたらそうじゃない。
結局これまでとおんなじだ。
よだかに対する態度を、俺は決めかねたままだ。
よだかはこっちを見ようともせずに、
「……たくみ、なんか変わった」
と、拗ねたみたいに呟く。俺は、なんでだろう、ちょっとだけ傷ついた。
「帰る」
よだかは荷物を掴んで立ち上がる。
650: 2016/02/09(火) 00:28:40.25 ID:J098vsJCo
いや待てよ。
と止めたかったけど、止めて何を言えばいいのかわからなかった。
甘ったれんな!
そう怒鳴ってしまいたかったけど、そう怒鳴ってしまったら、俺は自分を許せないだろう。
対処に困っているのだ。
よだかはスタスタと歩いていって、二人分の会計を勝手に済ませて、入り口のベルを揺らしながら外へと出た。
暗い影のような涼しげな喫茶店を出ると、夏の日差しは嘘のように眩しくて熱い。
俺はよだかの腕を掴んだ。
「待てって!」
「離して!」
「いいからとりあえず話を聴け!」
「したい話なんてない! たくみなんて大っ嫌い!」
「……な、んでそこまで言われなきゃいけないんだ! このバカ!」
「またバカって言った……! 最低!」
「いいから待てって! とりあえず話を……」
「だから話したいことなんてないってば!」
「だったらなんで来たんだよ!」
「たくみが!」
「……俺が、なに」
「……たくみが、来いって言ったから」
651: 2016/02/09(火) 00:29:32.48 ID:J098vsJCo
言葉に詰まる。
何を言えばいいのか、わからなくなった。
こいつの天秤がよくわからない。
何を大事なものとして、何を望んでいて、何を目指しているのか。
それがつかめなくなってしまった。
前までは、もっと彼女のことを、彼女の考えていることを、理解できたような気がする。
それがいい傾向なのか、悪い傾向なのか、わからない。
この場面に限って言えば、いい傾向ではなさそうだ。
どうしたものか考えながら、救いをもとめてあたりを見回すと、
物陰からこちらを覗く、見覚えのある影を見つけた。
建物の影。
「……高森?」
「あっ」
ドタドタと慌てるような音が続いた。
俺は角に向かって駆け出す。
「……おまえら」
佐伯、高森、ゴロー、るー、部長。
全員だ。
俺と目が合うと、るーはごまかすみたいに笑った。
「わたしは止めた」
と佐伯は言った。
「わたしも」
と部長。
652: 2016/02/09(火) 00:30:00.36 ID:J098vsJCo
◇
よだかから連絡を受けたあと、慌てて駅へと向かった俺を怪しんで、高森とゴローはその場から俺をつけていたらしい。
るーたちは一旦目的地について荷物を置いたあと、「たっくん見知らぬ女と合流なう」という高森からの連絡を受けてこの場に急行したとのこと。
「様子がへんだったから、心配したんだよ!」
高森はあからさまな嘘をついた。その点ゴローは正直だった。
「俺は心配してなかった。なんか面白そうだと思ってつけてきた」
なんてやつだ。
みんなの影に隠れていたるーが、ふっと前に出てきて、よだかの顔をじっと見た。
「おひさしぶりです、よだかさん」
そうしてにっこり笑う。
よだかは眩しさから目をそむけるみたいに視線を泳がせた。
「うん。ひさしぶり」
佐伯もまた、似たような言葉をよだかにかけた。
なんだか不思議な感じがした。
653: 2016/02/09(火) 00:31:00.36 ID:J098vsJCo
「で、たっくん、そちらは……?」
その子誰、という言い方を本人の前でするのは気が咎めたのか、高森は妙に丁寧に質問した。
「姉」
と俺は答えた。
「……お姉さん?」
よだかは何かを諦めるみたいなふうに、よそゆきの笑顔を張り付けた。
「はじめまして。秋津よだかです。みなさんはたくみの学校のお友達ですか?」
姉っぽい調子で。
こういうふうな口調だと、たしかに年上っぽく見えるかもしれない。
ゴローも部長も、一瞬ちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。
まあ、大方の想像通り、
「え、たっくん一人っ子だよね?」
と言ったのは高森だった。
654: 2016/02/09(火) 00:31:44.32 ID:J098vsJCo
「うん」
「いま姉って」
「それな」
「いや、それな、じゃなくて」
別に説明したってよかった。
でも、きっと説明したら面倒な雰囲気になる。
気を遣わせるのも嫌だから、俺は黙る。
「姉なんです」
とよだかは言った。
それで高森は納得した。「そうなんだ」、と、まだ何か言いたげだったけど。
そこで話が終わってしまうと、話は振り出しに戻った。
帰る、と言ったよだか。俺は彼女に対してどうしてやればいいんだろう。
静奈姉のことは、説得するつもりではいた。
そのつもりでよだかをこっちに来いと誘ったのだ。
でも、今日急に言ったらどうだろう。
前も似たような状況だったのだ。ちゃんと説明したならともかく、今度こそ彼女も許してくれないかもしれない。
よだかを責める気にはなれない。でも……。
655: 2016/02/09(火) 00:32:11.08 ID:J098vsJCo
「よだかさん、タクミくんちに泊まるんですか?」
「……あ」
るーの言葉に、顔をあげる。
どう答えるか、迷う。
「今日は遊びに来ただけなんだ」
そう、よだかは言う。
嘘だ。聞いたわけじゃないけど、そう思った。
こいつは帰る気なんてなかった。
どうにかして、この街で過ごす気だった。
逃げてきたんだ。
なんとなく、そう思う。
「タクミくん、どうします?」
「……あ、えっと」
ふむ、とるーは少し考えるような素振りを見せた。
それから笑った。
「よだかさんも、一緒にうちに来ませんか?」
656: 2016/02/09(火) 00:32:46.72 ID:J098vsJCo
みんな、きょとんとした。
いちばん驚いたのは、俺とよだかだと思う。
「……いや、るー」
「何か予定でもありました?」
「そういうわけじゃないけど」
るーの顔を見て、俺の頭をよぎった考えがあった。
この子は気付いているんじゃないか。
よだかと俺が普通の意味の姉弟ではないことも、
今日、よだかがここにいることが、俺にとって想定外のことだったということも。
そのうえでこの子は、助け舟を出してくれてるんじゃないか、と。
「これからみんなで勉強会しようって話だったんです。どうでしょう?」
だからって。
知らない人を誘うか? 他のメンバーだっているんだぞ。るーはよくても、他の奴は気をつかうかもしれない……。
「いいんじゃないか」
とゴローが言った。
「うん。ここまできたら何人いようと同じだし」
そう言ったのは佐伯だった。
「賛成! 人数は多い方が楽しいし!」
高森が声を上げた。
……こいつら、なんなんだ?
他人事みたいに、そう思う。
「でも……」
「もちろん、都合が悪いなら、いいんですけど……」
そんなふうに、るーはよだかを見つめた。
657: 2016/02/09(火) 00:33:13.13 ID:J098vsJCo
◇
どうしてなのかはわからない。
俺とよだかはふさわしい反論も見つけられずに(見つけたかったわけではなかったはずだけど)、結局るーの家まで来ていた。
大きな門があった時点でまさかとは思ったけど、入ってすぐ、庭の広さに驚いた。
背の高い松、苔生した岩、敷き詰められたつるりと丸みを帯びた砂利、綺麗な飛び石、小さな池……。
「鯉でもいそうだな」
ゴローがつぶやくと、「昔はいましたよ」とるーはちょっと困り顔で答えた。
家の外観は二階建ての和風建築だった。といっても古そうな感じはしない。
むしろ最近建てたばかりと言われても信じられそうな綺麗な見た目。
「とりあえず入ってください」
玄関の引き戸や、内玄関の敷石すら綺麗だった。
658: 2016/02/09(火) 00:33:58.94 ID:J098vsJCo
俺たちは生活レベルの違いを沈黙のなかに感じながら、フローリングの床の上をするする滑りながら障子の並ぶ廊下を歩いた。
最初は広さを頭の中で測っていたけど、途中でばからしくなってやめてしまった。
るーが俺たちを連れてきたのは、広々とした和室だった。どうやら広間のような使われ方をしているらしい。
「いま麦茶もってきますね」
そう言って、るーはすたすたと部屋を出ていった。心なしか、さっきまでより歩き方が上品に見えた。
「やばいよちいちゃん、わたしたち、ひょっとしたらとんでもないところにきちゃったのかもだよ」
「わたしと部長は、もう驚く段階終わらせたから」
そういえばさっき、最初から俺を追ってきていたのはゴローと高森だけだったのか。
「すごいよね。スナック菓子とか買ってきちゃったけど、畳汚しそうでお菓子たべたくないもんね」
部長もちょっと萎縮した感じで、部屋のあちこちを見回した。
「……ま、とりあえず休んでようぜ」
ばからしいと笑うみたいに、ゴローはさっさと荷物を置いて腰を下ろした。
さっきまではアスファルトの熱気にあてられていたけれど、この家に入った途端ひんやりと涼しい感じがした。
「……すごい家」
思わずこぼしたように、よだかは言った。俺は頷いた。
「……あの襖、いくらくらいするんだろう」
「相場がわからんからなんとも言えないな……」
高級なのだと何十万ってするらしいよね、と部長がぼそっと言った。
「たくみ、穴あけてみて」
「絶対洒落になんねえ」
659: 2016/02/09(火) 00:34:40.15 ID:J098vsJCo
「や。たぶんここのは、そんな高いのじゃないと思う……っていったら失礼だけど、そんなところにお金かけるのは、よっぽどお金持ちで物好きな人だけだよ」
「まあ、たしかに。家は広いし、綺麗だけど……ごてごてした感じはしないっすね」
ゴローが部長の言葉に同意する。俺も部屋を見回して、頷いた。
高級なものを使っているというよりは、そこそこのものを丁寧に使っている印象だ。
そんな話をしているときに、るーがトレイにいくつかのコップを載せてやってきた。
「……手が足りませんでした」
とるーは困った顔で言った。
「あ、わたし手伝うよ」
立ち上がった部長を連れて、るーは再び部屋を出ていく。
やばい。なんか、るーに対する態度が変わりそうでいやだ。
「ていうか、たっくんはるーちゃんちに来たことあったんじゃないの?」
「……いや。近くまで来たことはあったような気もするけど、入ったことはないかな」
「そうなんだ……」
「裏庭に竹林とかあるみたいだよ」
佐伯のつぶやきに、みんなで溜め息をついた。竹林。響きだけで心が洗われそうだ。
「おまたせしましたー」とふたりが戻ってきたときも、俺はなんとなくこの場にそぐわないような感じで落ち着かなかった。
666: 2016/02/11(木) 22:26:01.15 ID:epIQBm5do
◇
妙な流れにはなったし、家の大きさにも戸惑ったけど、やることは変わらない。
勉強会の名目で集まったわけだし、よだかが来ようが来なかろうが試験の日取りは変わらない。
現実は非情なのだ。
そういうわけで始まった勉強会だが、基本的に恩恵を受けるのは高森とゴローくらいのものだ。
るーの成績については知らなかったが、特別悪いわけでもないらしく、テスト範囲くらいの勉強なら問題なさそうだ。
高校に上がったばかりの一学期。基本ができていて復習を欠かさなければ、大きな苦戦はしないだろう。
まあ、それができなくて苦戦する奴がやまほどいるのが現実なのだが。
高森の教育担当は佐伯になった。なにせそういう話だった。
ゴローの方はというと、なぜか俺が教えるはめになっていた。
「すまんなタクミ」
ゴローは知的っぽく眼鏡の位置を直した。
なんでこいつこの見た目で勉強できないんだ。
「俺に教えられるって相当だぞ」
「言うほどおまえもバカじゃないだろ」
まあそりゃあ、何にもしてないわけじゃないから、そういうのはある程度成績に出ているだろうけど。
だからって優秀ってわけでもない。
667: 2016/02/11(木) 22:26:30.73 ID:epIQBm5do
るーはというと、暇そうにしていた部長にわからないところを聞いたりしていた。
よく考えると、バランスは取れているのかもしれない。
高森の苦手科目は俺もあんまり得意じゃないし、その点全教科を満遍なくこなせる佐伯は高森のフォロー役には適していた。
ゴローの方は、口で言うほど理数系の成績は悪くない。
むしろ暗記教科の重要項目が頭から抜けている場合が多い。
「似たような名前が出てくるとわけわかんなくなるんだよな」
「まあ、分かるけど」
とはいえそこらへんはどうにか「覚えていないところ」を埋めていくしかない。
「自分なりに年表作ってみると良いっていうよな。ひとつの出来事じゃなくて、出来事と出来事の繋がりで覚えるって感じの」
「そういやクレオパトラってエジプト人じゃないんだってな……」
「どうした急に」
「現実逃避だ」
「真面目にやれ」
「やるともさ」
といって、ゴローは本当に教科書、資料集とにらめっこをはじめた。
普段やる気がないだけで、一度スイッチが入ってしまえばそこそこ熱中するというのがこいつのすごいところだ。
普通は、普段から継続的にスイッチを入れるようにしておかないと、なかなか始まらない。
年を取ればとるほどエンジンがかかりづらくなっていって、何かをはじめるのが億劫になる。
……なんてことを言う年齢では、まだないんだろうけど。
668: 2016/02/11(木) 22:28:03.07 ID:epIQBm5do
るーはわからないところを部長に聞いたりしているらしいが、疑問だったこと、うまく理解しきれていない部分を質問するだけで、あとは自分の力で勉強していた。
部長の方もるーに教えながら、自分の勉強をこなしているらしい。
あのふたりだけで並んでるとすごく優秀に見える。
よだかはというと、手持ち無沙汰そうにしながら俺の斜め後ろあたりで本を読んでいた。
時折思い出したように俺にちょっかいをかけてきたけど、ゴローに勉強を教えている手前、あんまり絡んではこなかった。
気を遣ってか、本当なのかわからないが、るーが何かとよだかに声をかけたり雑談を振ったりしていたのが意外だった。
小一時間も経った頃にはみんな一段落して、小休止をいれようという話になる。
そういうわけで麦茶とお菓子をひろげて、みんなで雑談する流れになったわけだ。
「よだかさんは今何年なんですか?」
高森の質問に、よだかが、
「高二だよ」
とあっさり答えて、それでまた高森は何かを聞きたそうにした。
どうしようかなあと思う。
「同い年だし、さん付けじゃなくていいよ」
よだかは、そういうのを全部ひっくるめて受け流す。
そういうのには慣れっこなのだ。
669: 2016/02/11(木) 22:28:29.71 ID:epIQBm5do
「……まあ、よだかのことはいいとして」
「たくみ、ひどい」
といって、よだかはがしがし俺の肩を叩いた。
「……ちょっと話あるから、来い」
といって、俺はよだかを連れて廊下に出た。
「ひとまず、静奈姉には連絡するから、今日はうちに泊まれ」
「……いいよ。わたし、帰るから」
「いいよ。とにかくいろよこっちに」
「でも、明日も学校だし」
「……今日も行かなかったんだろ?」
「開校記念日だもん」
と彼女は嘘をついた。俺にはそれがなんとなく分かった。
「それに、たくみは……わたしのこと、関係ないんでしょ」
関係ない。
まあ、そりゃそうだ。
「でもなんとなく、今はおまえをほっといたら、ダメな気がする」
「……なにそれ」
「学校いかなきゃだめだろとか、いまさらそんなこと言わないよ。そんなの、おまえだって考えてるだろうし」
「……」
「なにかあったら会いに来たっていいんだ、別に。なにもなくたって、べつにいい。俺だってそうする」
「……どうしたの、たくみ」
670: 2016/02/11(木) 22:29:03.82 ID:epIQBm5do
庭の方からさしこむ昼下がりの日差し。
木々の葉が日差しに照らされてきらきらと光る。
静かな広い庭。夏の日差し。
「ずっと考えてた。俺はおまえにとってどういう存在になるべきなんだろうって」
「……」
「俺は俺で、いろいろあって。おまえはおまえでいろいろあって。おまえのあれこれを、全部引き受けてやれるわけじゃない」
「……うん」
「姉弟でもなければ、友達でもない。家族でもなければ、ただのクラスメイトでもない。
俺はおまえに対して、どういう態度をとればいいんだろうって」
よだかは、黙って俺の言葉を聞いている。
聞いているんだと俺は信じる。
「でも、そんなのべつにはっきりさせなくたっていいんだよな、たぶん。
なんとなく危なっかしくて、おまえのこと、放っておけない。
でも、だからって手助けとか、そういうのをおまえが必要としてるとも、あんまり思わないんだ」
「……たくみ」
「だから、しんどかったら、頼れるところは頼ってくれていいし。
なんもなくても、愚痴くらいはきくし、相談くらいは乗るし」
よだかは、何かを言いたげにした。
――それは、罪滅しのつもりなのだろうか?
同情なのか? 憐れみなのか?
少しは、それもあるかもしれない。
うまく言葉にならない。
671: 2016/02/11(木) 22:29:46.50 ID:epIQBm5do
「……たくみ、そんなこと考えてたんだ」
「……うん。どうだろ」
「あのね、たくみ」
「なに」
「わたし、明日帰る。……ねえ、夏にさ、また、遊びにきてもいい?」
「うん」
「今晩は、ごめんだけど、静奈さんのとこ、泊めてもらってもいいかな」
「うん」
「ちょっと、ちょっとだけ、いやなことがあったんだよ」
「うん」
「疲れて……もう、だめかもって、思ってたんだ」
「……うん」
「……たくみに、甘えてるって、分かってたよ」
「……」
672: 2016/02/11(木) 22:30:19.65 ID:epIQBm5do
「たくみ、好きな子、いるんでしょ」
「……うん」
「でも、わたし、甘えてもいい?」
「……限度はあるけど」
「……うん」
よだかは静かに俺の手をとった。
「ね、わたし、たくみのお姉ちゃんってことでも、いいかな」
「……どうしたの?」
「……家族ってことに、してくれないかな」
「……」
「いいんだ、べつに。一緒に暮らしたいとか、本当の姉弟みたいになりたいとか、思うわけじゃない」
「……」
「拠り所が、ほしいんだ」
「……」
「ね、たくみ。わたし……生まれてきてよかったのかな?」
どう答えようか、一瞬迷って、
「よだかは、どう思う?」
そう、問い返した。
「俺は、生まれてきてもよかったのかな。どう思う?」
よだかは一瞬、とまどったような顔をして、
それから笑った。
「そんなの、たくみ次第だよ」
「そうなんだよな、きっと」
673: 2016/02/11(木) 22:30:50.87 ID:epIQBm5do
◇
俺たちが部屋に戻ると、佐伯と高森がこっちをじっと見上げてきた。
「……え、なに」
「秘密のお話?」
高森が何の抵抗もなさそうに問いかけてくる。
「……ていうか、今日の夜のこと。泊まる場所とか」
といって、よだかを親指でさした。
「こいつ、何の連絡もしないで来やがったから」
「たくみが来いって言った」
「……だから」
と、この流れは一回やった。
俺たちのやりとりを見て、高森と佐伯は顔を見合わせてうーんと唸ってから、るーの方をちらりと見た。
「……え、と?」
るーは、戸惑った顔をしている。
部長もゴローも何も言わない。
なんだこの空気、と思ったところで、玄関の方から物音がきこえた。
674: 2016/02/11(木) 22:31:17.67 ID:epIQBm5do
「るー、いるー?」
と、そんな、聞き覚えのある声。
「あ、お姉ちゃん帰ってきました」
平常通りの顔つきで、るーが立ち上がった。
「るー、ちょっと手伝ってー」
また、玄関の方からるーを呼ぶ声。
「家でも“るー”って呼ばれてるんだ」
高森が感心したみたいに言った。
「はい。小さい頃からなんです」
にっこり笑う。
「ねえ、るー。この声、ひょっとして」
「……どっちか、分かります?」
いたずらっぽく、るーは俺に向けて笑った。
「……すず姉?」
「正解です」
675: 2016/02/11(木) 22:31:53.05 ID:epIQBm5do
◇
どうしようか迷って、俺はるーに付き添って玄関へと向かった。
玄関には荷物が並んでいた。どうやら食材の買い出しにいっていたらしい。
スーパーかどこかの袋には、野菜やら果物やらカレーのルーやらお菓子の袋やらが入っていた。
「卵とアイスあるから、しまっといて」
「はーい」
とるーがいつもよりどこか子供っぽい返事をしたとき、すず姉は俺に気付いて、
「お」
と声を上げた。
「るーの彼氏?」
「あはは、ちがうよ」
とるーは笑いながら否定して、袋を持った。
「タクミくんだよ」
「へー、タクミくんって言うんだ。……」
すず姉は一瞬真顔になってから、俺を二度見した。
「タクミ……?」
「……お久しぶりです。あの、覚えてますか」
「……え、タクミって、あのタクミ?」
「ですよー」
と、軽く返事をしながら、るーは俺とすず姉を置いて荷物を片付けにいった。
「え、なんで? こっちにいるの?」
「……るーから、聞いてません?」
「なんにも、聞いてない」
676: 2016/02/11(木) 22:32:24.58 ID:epIQBm5do
唖然とした顔で俺を見て、
少ししてから、すず姉は笑う。
変わってない。
短めの髪も、ちょっと勝ち気そうに見える目元も、優しげな笑い方も。
服装も、着飾りはせず、主張は少ないのに、上手くハマってお洒落に見える感じで。
さすがにさりげなくメイクはしていて、ちょっと大人っぽく見える。
「タクミかあ、すごい。おっきくなったね」
そんなことを、
本当に嬉しそうに笑いながら言うんだ。
すず姉は靴を脱いで、俺の前に立った。
子供の頃、俺が遊びに来ていたとき、彼女は中学三年生だった。
クールそうなのに優しくて、物静かに見えて子供っぽくて、壁があるように見えて気遣い屋で。
年齢は追い越してしまったけど、当時のすず姉ほど、俺は大人になれた気がまったくしていない。
それなのに。
「うわ。背、越されちゃってる。もうそんなになるんだね」
すず姉の身長を、俺はいつのまにか追い越してしまっていたらしい。
677: 2016/02/11(木) 22:33:01.23 ID:epIQBm5do
「いま、一緒の高校に通ってるんだよ」
戻ってきたるーが、どうだと言わんばかりに楽しげな顔でそう呟く。
まるで驚かせたかったみたいに。
「なんで教えてくれなかったの、るー?」
「なんとなく、言い出しにくかったというか……」
困り顔で、るーは頬をかいた。
「そうなんだ。へえ。こっちに来てたんだね」
「はい」
「それでふたりは……付き合ってるの?」
「ませんよー」
とるーはあっさり否定する。
俺はなんとなく、もうちょっと戸惑ってくれてもいいんじゃないかな、と思って、そう考えてる自分に気付いて混乱した。
「うちに遊びに来たの?」
「部の人たちと、勉強会してるんだよ」
なんとなく、敬語じゃないるーというのは新鮮な感じがした。
どうだったっけ。あの頃も、姉たちには敬語じゃなかったんだっけ?
……たぶん、敬語が混じったり、とれたりしていた、気がする。
678: 2016/02/11(木) 22:33:29.65 ID:epIQBm5do
「そうなんだ。仲良いんだね」
「仲良いんです」
るーは得意気に胸を張った。
「そっか。また会えたんだね。よかったね、るー」
感慨深げに、すず姉は言う。
るーが、ちょっと慌てたみたいに目をそらして、
「うん」
と静かに頷く。
それを見てすず姉はうんうん頷いて……。
「いや、よかったよかった」
と何度も繰り返して、最終的には涙ぐみはじめた。
「え……なんで泣くんです?」
「最近、すぐ涙腺緩んじゃうんだよね。歳のせいかなあ、やっぱ」
……いや、まだそんな年齢じゃないはずだろう。
それにしても。
昔より、ちょっと、話すときのテンションが高いように思える。
「まあ、ゆっくりしていきな」
すず姉は、俺の頭をわしわし撫でた。
679: 2016/02/11(木) 22:34:01.06 ID:epIQBm5do
めでたしめでたしの、その後。
誰も俺のことなんて覚えてなくて。みんなきっと忘れてて。
俺にとって大事なことなんて、みんなにとって大事なことじゃなくて。
みんな俺のことなんて、べつに気にかけていないんじゃないかって、そう思っていた、五月のことを思い出した。
知るのを怖がって、一年、誰にも会おうとしなかった。
こんなふうにあっさり、書き換えられてしまうものなんだなと、そう思った。
恐くて知ろうとすらできなかったこと。
それが今、考えていたよりずっと、やさしい形であらわれている。
心配性を笑うみたいに。
なんとなく泣きそうになったけど、誰にも気付かれないように笑って見せた。
変わってない。
楽しいくらいに懐かしい。
胸が締め付けられるくらいに嬉しい。
「タクミくん?」
と、不思議そうにるーが首をかしげる。
俺はるーのほっぺたを引っ張った。
るーは何も言わないで困った顔で笑う。
俺も笑って、それから指を離した。
685: 2016/02/14(日) 19:52:55.09 ID:96KcGAnmo
◇
意味があったんだかなかったんだか分からない勉強会が終わって、一応の達成感に包まれながら、みんなはるーの家を出た。
「また来てくださいね」とるーはにこにこしていたが、背景の家屋全景は俺にはどことなく厳つく見えた。
夕方になったとはいえ、この頃は随分明るくて、日もまだ出ている。
よだかは俺の隣を歩いている。前方に、高森、佐伯、ゴローの影。少し離れて、部長が黙りこんだまま歩いていた。
俺自身、よだかの来訪やすず姉との再会でなかなか気付かなかったけど、勉強会の途中ころから、彼女が妙に沈んでいるように見えた。
訊ねようか訊ねまいか迷って、結局口に出す。
「どうかしたんですか?」
「……え? なにが?」
自分に言われたものだと思わなかったのか、部長が反応するまで、少し間があった。
「なんだか、浮かない様子ですね」
まさか勉強が思うように進まなかったから、というわけでもないだろうが……。
「あ、うん……まあちょっと。いろいろ考えてたらさ」
「テストのことですか?」
「ううん。部誌のこと」
「……次に作るの、夏休み明けですよね? もう考えてたんですか?」
部長はごまかすみたいに笑った。なんとなく俺はよだかの方を見たけど、彼女は薄紫に染まりつつある東の雲を見ていた。
686: 2016/02/14(日) 19:53:23.14 ID:96KcGAnmo
何かを、訊くべきだという気がした。
もちろんそんなのは俺の錯覚で、本当は訊くべきことなんてひとつもないけど。
今ここで、彼女に何か、訊くべきことがある気がした。
なんだったろう。
「……部長、そういえば気になってたんですけど」
「なに?」
部長はもう、いつもどおりを装った笑みをたたえていた。俺を振り向いたとき、髪がかすかに夕陽で光った。
「及川さんって、一年のとき、こっちの文芸部に所属してたんですか?」
部長の表情が、一瞬途切れた。
凍りついた笑みはすぐに元通りになった。彼女は「そうだよ」と当たり前みたいに言った。
「でも、どこで知ったの? そんなこと」
「一昨年の部誌に、及川さんの名前が載ってたんで」
「あ。そっか。そうだよね。そう考えたら、いまさらだね。何度も読んだことあるでしょ?」
「あんまり、気に留めてなかったんです。知らない先輩の名前は全部、卒業した人たちだと思ってたから」
「……そっか。だよね」
そこから部長は、息を微かにためて、今度はあきらめたみたいに笑った。
よだかは高森に呼ばれて、前方の影に混ざった。どんな話をしているのか、こっちには分からない。
687: 2016/02/14(日) 19:53:52.30 ID:96KcGAnmo
「どうしていま、そのことを聞いたの?」
「……どうしてですかね。なんとなく、このあいだ、知ったので」
「そうなんだ」
「……こんなこと聞いていいかわからないですけど、部長と及川さんって、何かあったんですか?」
「なにかって……それはたとえば、付き合ってたりしたかってこと?」
「そういうのだけじゃなくて、なんだか……」
「べつに隠すようなことじゃないから、質問されれば答えるよ、タクミくん」
部長の笑顔は自然だったから、俺は少しだけほっとした。
懐かしい道を歩きながら、前の方から聞こえる部員たちの話し声を聞きながら、どこか神妙な気持ちになる。
前にも、こんな景色を見たことがあるような気がする。
「及川くんとはさ、喧嘩しちゃったんだよ、一年のときに」
「喧嘩? 部長と及川さんが?」
「想像できない?」
「正直言って」
「正直でよろしい」と部長は笑った。
688: 2016/02/14(日) 19:54:23.57 ID:96KcGAnmo
「今思うと、喧嘩ってほどのことじゃなかったのかもしれない」
「……」
「あれ、でも部長、及川さんが前に部室に来たとき……」
――どちらさま?
「いろいろあったんだよ」
部長はそっけなくそう言った。
「喧嘩って、でも、何が原因で……」
「小説」
「……小説?」
「わたしの小説、なのかな。及川くんは、怒ってた。でも、わたしはわたしの勝手だって思う。今でもそうだと思う」
でも、及川くんが正しかったのかもしれない。
部長はそう呟いた。
彼女は道の先を見つめていた。あるいは、前を歩く三人を見ていたのかもしれない。
「……書けなくなっちゃったの」
「……え?」
689: 2016/02/14(日) 19:54:59.00 ID:96KcGAnmo
「最初にわたしが書いたのはね、すごく楽しい話だった、と思う。
そうしようと思ったんだよ。そう思って、書けて、みんなにほめてもらえた。
でもね、何か足りないような感じがしたんだ」
「……自分の書いたものに、ですか?」
「うん。それでね、自分なりにいろいろ考えたんだよ。何が足りないのか。
要素を分解して、効果を言語化して、演出を意識して……自分の書いたものを解体したの」
「……解体?」
「うん。解体。人物とテーマの連関、素材の取り扱い方、出来事と出来事の繋がり方。
いろんなものを分解して、いったいなにが足りないのかを、確認しようとしたの」
「……」
言いたいことが、よくわからなかった。
「次に試したのはね、再現だった。素材と組み合わせ方がわかれば、また似たようなものを作れるはずだから。
ちょっとだけ素材を入れ替えて、人物の立ち位置を変えたりしてみたり、演出の仕方をいじってみたりもしたけど……。
でもね……書けなかったの」
「どういう意味ですか?」
「最初に書いたようなものは、二度と書けなかったの」
「……」
「一作目のテーマはね、"とにかく楽しい"だった。それを実現するために、わたし、どうしたと思う?」
「……どうした、って」
「"覆い隠した"んだよ。わたしもともと、暗い話しか書けないんだ。だからね、登場人物にはみんな、裏側があったの。
悲しみとか、やるせなさとか、そういうものがあったの。でも、思弁的なところや、苦悩の描写や、重い設定なんかは全部隠した。
"信頼できない語り手"。現在進行形、一人称だったけど、主人公の認識はかなりいじってたんだ」
ただ楽しいだけの話を書くために、そうまでするものなのか?
690: 2016/02/14(日) 19:55:27.90 ID:96KcGAnmo
「同じようにしようとしても、無理だったの。隠せない。どこかから、噴き出してくる。
何かが部屋の隅から、自分の背中を見つめてるみたいに。
そうなってしまってからは、その"隠したもの"を掘り下げる作業をはじめた」
噴き出した登場人物たちの暗闇を掘り下げ、そこに含まれているものを"浄化"しようとした。
「つまりね、隠蔽することによって手に入れた幸福は、他の人からどう見えたとしても、本人にはどこか嘘くさいってわかってるんだよ」
「……」
「だから、それを一旦、明るい場所にさらけ出して、弔ってあげないといけなかった。
わたしのせいで抑圧された、わたしのせいで押し殺されていた、"楽しいだけの話"の暗がりに潜んでいた魔物みたいなものを」
「……そうやって、どうなりました?」
部長は首を横に振った。
「いつのまにか、捕まっちゃってた。
抜け出せないの。わたしは、暗闇に手を突っ込んでかき回すことで、自分がもっといいものを書けるようになるはずだって信じてた。
及川くんはそれを、露悪趣味だって責めた。でも、わたしはそうすることが、物語に対する誠実さだと思ったのね。
自分のせいで隠されたものを、わたしが弔わなければ、誰も弔ってくれない」
でも、
「間違いだったのかもしれない。いまでも、書けないまま。どんどん深みにはまっていくんだ」
「……」
「わたしは、自分は自分なりの物語を書けばいいんだと思ってた。それがキャッチーである必要も、ポピュラーである必要もない。
ただぶつかっていけば、前みたいな偽物じゃない、本当に楽しいだけの話が書けるようになると思ってたんだよ」
甘かったかな、と部長は呟く。
691: 2016/02/14(日) 19:55:56.23 ID:96KcGAnmo
「……方向性が変わってから、及川くんはわたしのことを心配した。たしかに、傷口を自分でいじくりまわすみたいな話ばかりだったから。
でも、わたしはそれが書きたいんだって言った。だから放っておいてって、及川くんに言ったんだ。
でもね、本当は違うの」
「……」
「強がってたの。わたしは、楽しい話を書かなくなったんじゃない。
他の話が書きたくなったんじゃない。……楽しい話が書けなくなったんだよ」
俺は部長の顔を覗き見る。何を言えばいいのかはわからないし、どう反応するのが正解なのかも分からない。
「まあ、それで……及川くんは一年のうちにこっちをやめちゃって、あっちに移ったんだよ。
わたしのことだけが原因とは思わない。ほかにもいろいろあったし……でもわたしは、本当は……」
何の為に、文章なんてものを書くんだろう?
俺はときどき、その理由がまったくわからなくなる。
文章を書くことの効用は何か?
そんなことを言い出してしまう奴は、きっと文章を書くことに向いていない。
692: 2016/02/14(日) 19:56:28.74 ID:96KcGAnmo
誰かに認められるため、褒めてもらうため……。
でもそれは、たぶん、それだけなら、他の何かでもいいのだ。
なぜ文章なのか? なぜ、文章でなければ駄目なのか?
絵とは違うのか? 音楽とはどうなのか? 陶芸や彫刻ではどうか?
映画はどうか? 家具作りやガラス工芸のようなものとは何が違うのか?
文章は文章でも、なぜ物語なのか?
詩やエッセイではいけないのか? 日記や評論では?
"物語"の意義とは何か?
なぜ、手にとった武器が文章だったのか。
部長は、それを求めた。文章を書くことの意義ではなく、文章で書くことの意義を求めた。
"文章である必要がある文章"。写真とも、絵とも、映画とも、伝わり方が違う文章。
絵が文章と異なる訴求力を持つように、写真が絵とは違う伝達力を持つように、映画が写真とは違う見せ方をするように。
――だから書くんだろ。誰にも耳を傾けてもらえないだろうことを、文章にして、残しておきたいんだろ?
いつか、誰かが俺に言った言葉。それを思い出す。
部長の態度に比べれば……俺の目的の、なんて邪なことか。
693: 2016/02/14(日) 19:56:56.48 ID:96KcGAnmo
日常生活を営むうえで、多くの人間は小説のような文章を必要としない。
新聞でニュースを知り、テレビのテロップで速報を知り、業務連絡を印刷物で知り、書類として情報を残す。
役に立つ文章、便利な文章、必要な文章。
「……物語なんて、本当は書かなくてもいいんだよ」
部長は静かに、そう言った。
「必要もなければ、何かの役に立つわけでもない。嫌だったら、やりたくなくなったら、いつやめたって、本当は誰も困らない」
なのに……。
「不思議だよね? 思う通りのものが書けないだけで、どうしてこんなに苦しいんだろう……」
喉の奥に詰まるみたいな、
ささくれの痕が痛むような、
もどかしさ。
その、奇妙な熱。
――もう、書けないかもしれない。
部長はそう言った。
俺は何も言わなかった。
書けなくなった文章、失われた書くことの楽しさ。
使われなかったエピグラフ、増えいてく偽物の装飾。
たくさんの歌枕と引用で上げ底した、裸になれば退屈なだけの物語。
手段と目的が入れ替わり、虚仮威しの技法や表現にばかり意識がいく。
「何が書きたかったのか?」
それが思い出せれば苦労しない。
694: 2016/02/14(日) 19:57:52.15 ID:96KcGAnmo
部長は笑った。
「そういえば、及川くんの妹さんも、あっちの文芸部にいるらしいんだよね。タクミくんと同じ学年だと思うけど、見たことある?」
「……及川さんの、妹さんですか?」
急な話題の変化に、俺は置いてけぼりにされた。
どうしていま、そんな話になったんだろう。……話を変えてしまいたかったのか。
「そう。たしか及川くん、嵯峨野くんと仲が良かったらしくて、なんでも嵯峨野くんと及川くんの妹同士が――」
そこで、部長の言葉は途切れた。
何かに驚いたみたいな顔で、道の先を見ている。
「……あの、部長?」
「……嵯峨野くんと……」
部長はそれ以降、何も言わずに黙り込んでいた。
俺は不審に思ったけれど、なんとなくそれ以上何かを訊く気になれず、ひとりで言葉の意味を探り当てようとする。
及川さんは、嵯峨野先輩と仲が良い?
嵯峨野先輩と及川さんの妹?
それがどうしたんだろう。
嵯峨野……。
――悪いのは嵯峨野先輩でしょ? なんで黙って受け入れるの?
嘉山が“受け入れている”こと。
……単純に想像すれば、例の焼却炉の騒動を起こしたのは……嵯峨野先輩、ということになるのか?
695: 2016/02/14(日) 19:59:31.71 ID:96KcGAnmo
今頃そんなことを考えてどうなる?
俺は首を横に振った。
別に気にしたって仕方ない。話は終わった。もう誰も気にしてない。
そんなことより今考えなきゃいけないのは、テストのこと。よだかのこと。そのふたつだ。
それから部長と俺は、別れるまで何の話もしなかった。
駅でみんなと別れたあと、よだかとふたりで静奈姉の部屋までの道を歩く。
何か話したいような気もしたけど、黙っていた。
額の奥をさすような頭痛が疼いた。
それは一瞬のことだったけど、そのかすかな痛みのせいで、少しずつ意識が現実の出来事から浮かび上がっていくのが分かる。
696: 2016/02/14(日) 20:00:15.13 ID:96KcGAnmo
◇
「どうしてこう、急なのかな」
静奈姉は慌てた様子で夕飯の用意をしている。エプロンをつけて、髪をうしろでまとめていた。
「ごめんなさい」とよだかは謝った。
「今回限りにします。本当にすみません」
前とはちょっとだけ、静奈姉に対する接し方も違う。
静奈姉もちょっと毒気を抜かれたみたいだ。
「まあいっか」と困ったみたいに笑っていた。
本当はもっと、気になることとか、心配なことがあるんだろう。
それでも静奈姉は何も言わない。
「よだかちゃん、ちょっと夕飯の準備手伝ってくれる?」
「わかりました」
ふたりはキッチンに並んで料理をはじめた。静奈姉と並ぶと、よだかの表情にも歳相応の女の子らしい子供っぽさが宿ってみえる。
「あ、タクミくん、ドレッシングない」
「……買ってきます」
「お願い」
そんなわけで、おつかいだ。
697: 2016/02/14(日) 20:02:01.06 ID:96KcGAnmo
扉をしめてすぐ、なんとなく溜め息が出た。一日でたくさんのことがあって、疲れたのかもしれない。
空を見上げるともうすっかり夕暮れだ。
「……日が暮れると、ちょっとは涼しいかな」
今日は風もある。七月上旬とはいえ、だいぶ過ごしやすい。
財布だけを持って道を歩く。ずいぶんと、このあたりの土地にも慣れてきた、ような気がする。
……でも。
どうするのだろう、俺は。
静奈姉は、大学を出たらどうするのだろう?
俺は、どうするのだろう?
いつまでも静奈姉と暮らせるわけじゃない。
高校を出たら、俺は……。
あの家に帰るのか、それとも、こっちで暮らせる方法を探すか。
いずれにせよ、避けては通れない。
両親と、ちゃんと話をしなければいけない。
俺はそれが憂鬱だ。
父さんと、面と向かって話ができる気がしない。
「……どうすればいいんだろう」
698: 2016/02/14(日) 20:13:01.00 ID:96KcGAnmo
瓶入りのドレッシングを買ってコンビニを出ると、軒先の灰皿の傍で、私服姿の鷹島スクイが堂々と煙草を吸っていた。
「……おまえ、平気なの?」
「なにが?」
「こんなとこで、堂々とさ」
「さあ、どうかな」
どうかなって。
まあ、大通りに面した店ではないし、車や人の通りもそう多くはない。
怪しむ奴はいても、通報したりする奴はそうそういないかもしれない。
俺も疑われそうだから一緒にいたくはないが。
スクイは煙を吐き切ってから、灰を落とした。
「最近の調子はどうだい?」
スクイはそう訊ねてきた。
俺は、どう答えようか迷う。
「……特段、悪くはないな」
そういえば、と俺は思う。
「おまえ……小鳥遊こさちって女子、知ってるか?」
「……小鳥遊?」
意外な反応だった。小鳥遊の口ぶりは、スクイのことを知っているようだったから。
「小鳥遊、こさち」
「知らない?」
699: 2016/02/14(日) 20:13:30.10 ID:96KcGAnmo
「知らない。知らないが……どういう奴かは、たぶん分かる」
「どういう意味?」
「あんまり気にするな。深い意味なんてねえよ」
「……仲良いのかと思った」
「名前については、確実に、とはいえないが、俺のせいだろうな」
とスクイは言う。俺はその言葉の意味がつかめずに問い返す。
「誰の名前?」
「小鳥遊こさちのさ」
「……」
また、よくわからないことを言っている。俺はその言葉を無視する。
700: 2016/02/14(日) 20:14:04.60 ID:96KcGAnmo
「よだかのことは、どうだい?」
「……たぶん、大丈夫だと思う」
「そうかい」
スクイはどうでもよさそうに笑ってから、煙草に口をつけて、
「――疚しさは消えたかい?」
そう訊ねてきた。
俺は答えに詰まる。
「……どうしろっていうんだよ」
「俺が知るかよ」とスクイは言う。
それはそうだ。俺は聞く相手を間違えた。
「もう夏だな」
何かを思い出したみたいにスクイは顔をあげる。
つられて俺も空を見る。
701: 2016/02/14(日) 20:14:54.97 ID:96KcGAnmo
夏だ。
それは分かってる。
「夏は終わるぜ」
とスクイは言った。
「夏は終われば秋が来る」
「……だからなんだよ」
「深い意味なんてねえよ。秋は好きか?」
「べつに、好きでも嫌いでもない」
「疚しさは消えたかい?」
スクイは同じ質問をもういちど繰り返した。
俺は答えない。
夏が終われば秋が来る。
夏が本番を迎える前に、そんなことばかり考えてしまうから、俺はいつだってこうなんだ。
702: 2016/02/14(日) 20:16:16.98 ID:96KcGAnmo
スクイはイヤホンを取り出して、俺に差し出した。
俺は差し出されるままに受け取って、それを耳につける。
音楽が流れ始めた。
知っている曲だ。昔聞いていたバンドだ。
中学の時に好きだったバンド。そういうバンドっていうのは、音楽の好みが変わっても嫌いになれない。
今聞いてもきっと好きじゃなかっただろう、そんな印象さえ覚える。
でも好きなのだ。まるでその音楽を通して、あの時期を生きていたような気さえする。
あの頃聴いていた音楽たちが、今の俺を形作っているような気さえする。
“Friends are alright
There's nothing so sad
And the foods are good today
It looks like things are going right
But I feel I'm all alone”
俺は、こさちの言っていたことを思い出す。
スクイと話してばかりいても、擦り切れるだけだ、と彼女は言う。
そうなのかもしれない、と俺は思った。
イヤホンをはずしてスクイに返す。俺はそのまま、彼に背中を向けた。
「またな」とスクイは言う。
俺は応えなかった。
それなのに、さっき聴いた曲のメロディーが頭から離れない。
目を閉じて振り払おうとする。額を抑えてイメージを追いだそうとする。
効果はない。それだって分かってる。
“You said today is not the same as yesterday
One thing I miss at the center of my heart”
当たり前みたいな顔でドレッシングを買って帰って、当然みたいに三人で夕飯を食べたあと、よだかと少しだけ話をした。
悪いことなんて起こってない。俺は俺の中の澱みを、少しずつ振り払いつつあったのに。
よだかが来た。すず姉と会った。みんなで勉強して、ばかみたいな話をしたりした。るーの家は大きくて綺麗だった。
不自由はない。退屈でもない。
それなのにどうしてこんなに胸が騒ぐんだ?
703: 2016/02/14(日) 20:16:55.24 ID:96KcGAnmo
◇
夕飯を終えて部屋でテスト勉強をしていたら、文芸部のグループトークが通知を鳴らした。
「せっかく第二文芸部になったことだし、文化祭のステージでバンドでもやらねえ?」
と、ゴローからのメッセージ。
「どこが“せっかく”なのかわかんないよ」と高森。
「俺ギターやるから」
「弾けるの?」
「先月買った」
「おー、見して見して」
高森の食いつきの数分後、ゴローが画像を送ってくる。赤いストラトキャスター。
「高森ボーカルな」
「なんでわたし!」
「歌上手いから」
「しょうがないなー。曲は何やる?」
と高森はさりげなくノリノリだった。
704: 2016/02/14(日) 20:17:23.90 ID:96KcGAnmo
「いぬのおまわりさん」とゴロー。
「いいね!」と高森。
正気かよこいつら。
「正気?」と沈黙を守っていた佐伯がさすがにツッコミを入れた。
「佐伯はいいよ。タンバリンで」
「やらないし」
「タクミはベースな」
「持ってないし」
「買えよ」
「いやだよ」
「うちのお姉ちゃん、ベースやってますよ。言えば貸してくれるかもですし、教えてくれるかも」
るーがトークに参加してくる。
「じゃあタクミは決定だな」
「いや……高森が弾きながら歌えば?」
「そんな器用なことできないよ、わたし」
「ギターボーカルの方映えるだろ」
「……え、みんな本気なの?」
佐伯の問いかけには誰も応えなかった。俺もどこまで本気なのか知りたい。
705: 2016/02/14(日) 20:17:52.41 ID:96KcGAnmo
「ドラムがいないな。タクミ、知り合いでドラムやってる奴いねえの?」
「……待て。正気かおまえら」
「正気なんかとうに捨てた」
「みんな勉強はいいの?」
部長のそのメッセージを境に、トークが途切れる。
俺も携帯を放り出して、勉強に戻ろうとしたけど、なんとなく集中できなくてベッドに倒れ込む。
よだかは静奈姉と一緒に何かを話しているらしい。何を話しているかは、俺の知ったところではない。
たぶんもう、心配もいらないだろう。何か話したとしても、それはよだかのことだ。
俺はスクイに聞かされた曲のことを思い出す。あの曲の入ったCDはどこに置いたっけ?
好きだったマンガは? 友達と一緒にやったゲームは? 家族で旅行にいったときのおみやげの置物は?
みんなどこにいったんだ?
711: 2016/02/16(火) 23:43:03.94 ID:o4C3muj1o
◇
そんな気分だって翌朝になれば消えてしまっていて、窓から七月の朝日が俺の部屋を照らしていた。
眠気と戦いながら昨日のことやテストのことを思い出して、顔を洗って制服を着替えて朝食をとった。
日々はあくまで過ごしやすい。
いい気分も、悪い気分も、一晩眠れば全部リセットだ。
そう思って、居直りかけて、やっぱりやめた。
リビングにいくと既によだかが起きていて、静奈姉とふたりで朝食をとっていた。
「おはよう、たくみ」
「おはよ」
返事をしてからあくびをすると、よだかはちょっとうれしそうに笑った。
「……なに」
「べつに、なんでもないよ」
そう言ってまた笑う。
なんだっていうんだ。
「タクミくん、今日はバイト?」
「……いや、今日は、ないはず」
「そっか」
静奈姉はそれだけ訊くと、よだかとの話を再開してしまった。
712: 2016/02/16(火) 23:43:29.80 ID:o4C3muj1o
「今日の夕方に、帰ることにしたから」
よだかはそう言って、また笑う。
なんだか変だ。こんなに笑う奴じゃなかったのに。
俺はなんとなく狐につままれたような気持ちのまま、朝の支度を済ませた。
「見送りは、いけないかもしれないよ」
「いいよ、べつに」
また、よだかは当たり前みたいな顔で頷く。
ご機嫌は悪くはないみたいだ。
「じゃあ、いってきます」という段になっても、よだかはにこにこ顔で、「いってらっしゃい」を言うだけだった。
713: 2016/02/16(火) 23:44:08.03 ID:o4C3muj1o
◇
及川ひよりが俺のクラスを訪ねてきたのはその日の朝のことだった。
俺はその出来事に至るまでの連綿たる経緯について考えると、気が遠くなるような思いになる。
まず、高森蒔絵が俺のクラスに来ていなければ、及川ひよりは俺と会っていなかった。
「聞いてよたっくん、昨日の話、ゴロちゃん本気で言ってたみたいなんだよ!」
と高森が俺のクラスに駆け込んできたのがその日の朝のはじまりだった。
「このままじゃ全校生徒の前でにゃんにゃんにゃにゃんとか歌うハメになる」と嘆く高森は、前日のゴローとのやりとりが原因でこの教室へ来ていたわけだ。
そしてゴローがバンドなんて言い出したのは、どうも「第二文芸部になったから」らしい。
第二文芸部になってしまったのは例の部誌対決が決行されたからだ。
その部誌対決の決行は及川さんが言い出したことだ。
及川さんが部誌対決なんてものを持ちかけてきたのは、おそらくは部長とのことが原因だ。それがどんなことなのかは分からない。
付け加えれば及川ひよりは、この間屋上で高森と顔を合わせていなかったら、高森のことなんて考えもしなかったに違いない。
あの日高森は、偶然俺を屋上まで迎えにきた。そして及川ひよりと嘉山孝之は、嵯峨野先輩について話をしていた。
もしも及川ひよりが変な気を起こさずにまっとうな原稿を例の部誌対決に提出していたら、
あるいは嵯峨野連理が及川ひよりの原稿を見逃していたら、
焼却炉の騒動なんてものは起きなかっただろうし、その場合は彼らは屋上で何かの話をすることもなく、
そうなっていたら及川ひよりは高森蒔絵にまったく会わずにいたかもしれない。
そして及川ひよりが変な気を起こすことになった間接的な原因は、高森蒔絵でもある。
高森蒔絵が嵯峨野連理に出会っていなかったら、焼却炉騒動なんてものは起きなかったかもしれない。
嵯峨野連理が高森蒔絵に会ったのは、悪ふざけで作った部員募集のポスターの回収のとき。
考えてみれば不思議なものだ。あのポスター作りがなければ、俺だってるーに会っていなかったかもしれない。
高森は嵯峨野先輩と出会わず、その結果及川ひよりは妙な文章を書かずに済み、例の焼却炉騒動も起きなかったかもしれない。
でも、そのときの俺は何も知らなかったから、及川ひよりがやってきたとき、ただ怪訝に思っただけだった。
714: 2016/02/16(火) 23:45:00.83 ID:o4C3muj1o
◆
るーは、妙によだかに興味を持っているように見えた。
ひとなつっこい奴だけど、そういう態度は子供の頃以来見たことがなかったから、意外に思ってなんとなく訊ねてみたことがある。
「どうして、よだかをそんなに気にかけるの?」
俺の質問に、るーはちょっとだけ困った顔をして考えこんだ。さて、どうしてだろう、と自問しているみたいに見えた。
それから思いついたように、何度か頷いて、呟いた。
「たぶん、似てるんです」
「似てる?」
「はい。よだかさんは」
「誰に?」
「……あの頃の、ちい姉です」
「……そうかな」
「タクミくんは、知らないから、わからないかもしれない」
「似てるから、気になるの?」
「……はい。変でしょうか」
「……べつに変とは思わないけど、やっぱりよくわからないな」
「きっと、そうなんでしょうね」
でも、似ているから気になるんです。とてもよく似ている気がして、気になるんです。
るーはそう言っていた。
715: 2016/02/16(火) 23:45:36.08 ID:o4C3muj1o
◇
及川ひよりがその日、高森蒔絵に会おうとしたのだって、別に深い意味があったわけじゃないだろう。
ただなんとなく、その顔をもういちど確かめておきたかっただけに違いない。
それでも及川ひよりは「わんわんわわん」と騒いでいた高森蒔絵の背中に声をかけた。
たぶん、どれが高森かなんて確認する必要もなかったんだろう。
「ちょっといいかな」
と、そう声をかけた及川ひよりの声にはかすかな緊張が含まれていた。
「ん?」と振り返った高森の顔はこっちからは見えなかったけど、その顔を見て及川ひよりが息を呑んだのは分かった。
「……」
しばらくの沈黙。
「えっと……誰?」
高森は忘れていたけど、俺は覚えていた。もっとも、彼女の方は俺が分からなかったろう。
このあいだ、嘉山とふたりで話をしていた女子。「悪いのは嵯峨野先輩」と言っていた女。
何かを知っているかもしれない生徒。
俺は口を挟まなかった。
「……高森蒔絵、さん?」
「……はい?」
名前を呼ばれて、高森は怪訝な顔をする。向かい合う女子生徒はただ、彼女の顔を見つめている。
「突然だけど、親戚に嵯峨野って苗字の人がいたりする?」
「……いません」
「……だよね」
彼女はそう言って、自嘲気味に笑った。
716: 2016/02/16(火) 23:46:03.12 ID:o4C3muj1o
「ごめんなさい、わたし、二年の及川ひよりって言います。第一文芸部の。ちょっと気になったことがあって。ただの気にしすぎだったみたいだけど」
「……及川?」
俺の疑問符に、及川ひよりは反応した。
「あなたの第二文芸部?」
「ああ、まあ」
「第一の部長の及川は、わたしの兄です」
何となく、丁寧で几帳面な口調だったが、話し方自体は柔らかい、。
警戒するような距離を感じるのは、どうしてだろう。
「……嵯峨野、って苗字、珍しいよな」
俺はそう声をかけてみた。及川ひよりは、「そうかも」と頷く。
まあ、そんなことを言ったら、浅月だの秋津だの藤宮だのって苗字も、十分珍しいかもしれないけど。
「知り合いにいるんです」
「その知り合いにさ、妹っていたりする?」
昨日の部長の言葉を、俺はそのとき思い出していた。
嵯峨野先輩と及川先輩の妹同士が……、と、彼女は言っていた。
悪趣味な言い方だったかもしれない。それでも及川ひよりは、あからさまな反応を示した。
「……あなた、誰?」
敵意とすら呼べそうな鋭い視線を俺に向けてくる。
「ただの質問だよ」と俺はごまかした。
「なんとなく、そんな気がしたんだ」
とは言っても、俺はその質問の答えを得て、自分がどうするつもりなのか、よくわからなかった。
717: 2016/02/16(火) 23:47:29.69 ID:o4C3muj1o
「……あなた、なにか知ってる?」
「……なにかって」
そうだ。
たとえば前日のうちに、部長がひとりごとのように二人の妹の存在を漏らしさえしなければ、
俺だって、及川ひよりをただ通り過ぎるだけの存在として扱えていたかもしれない。
「きみこそ、何を知ってるの?」
俺はそう訊ねた。
どうしようか、迷ったけど。
でも、けっきょくこうなる運命だったのかもしれないと考えることにした。
何度忘れようとしても、何度遠ざけようとしても、迂回して近付いてくる何か。
嘉山たちのことは、俺にとってそれだったのかもしれない。
知らない方が幸せってこともある。この場合がどちらだったのかは分からない。
いずれにしても、知ってしまったことを知らなかったことにはできない。
「……来て」
と及川ひよりは言った。
俺と高森は顔を見合わせてから、彼女のあとを追った。一番戸惑っていたのは、高森だったかもしれない。
725: 2016/02/18(木) 22:25:47.75 ID:KEibpffgo
◇
及川ひよりは、当たり前みたいに屋上に繋がる扉を開けた。
彼女の背を追いながら、俺と高森は黙り込んでいる。
屋上に昇って、俺たちは辺りを見る。
本校舎の屋上に、人影はない。
見下ろす街、鳥の影、夏の雲、穏やかな夏の日の朝。
ゆるやかな風に髪をなびかせながら、及川ひよりは振り返った。
「あなた、どこまで知ってるの?」
「どこまでって、何について?」
「……嵯峨野先輩に、妹がいるかって」
「いや、そんな気がしただけだって」
俺のごまかしを、及川ひよりは厳しげな視線で暴こうとする。そこに高森が口を挟む。
「……えっと、さっきから話に出てる嵯峨野先輩って、嵯峨野連理先輩?」
「……そう」
「それであなたは、及川さんの妹さん、なんだよね?」
「……そう。及川ひよりって言います」
及川ひよりは真剣な顔で高森を見つめた。射すくめるような視線に、高森は居心地悪そうに背中を丸めた。
726: 2016/02/18(木) 22:26:22.58 ID:KEibpffgo
「嵯峨野先輩が……どうかしたの?」
高森は、少し慎重な口ぶりで、及川ひよりに訊ねる。
「……あなたたち、本当に何か知っているわけではないの?」
「なんにも」
と高森が答えた。
「何かって、嘉山のこととか?」
俺はまた、カマをかけてみた。
このあいだ、屋上で盗み聞きした、嘉山とこの子との会話。
そこで嵯峨野先輩の名前が出ていたんだから、何かしらの繋がりがあるのかもしれないと踏んだ。
案の定、及川ひよりは警戒心を強めたようだった。
スクイやこさちはこんな気持ちだったのかもしれない。
「ねえ、あなた……名前は?」
「浅月拓海」
「浅月くんは、孝之……嘉山と嵯峨野先輩の関係を知ってるの?」
さて、困った。
「知らない」
「……本当に?」
「本当に」
「だったらどうして、そこで孝之の名前が出てきたの?」
727: 2016/02/18(木) 22:26:51.34 ID:KEibpffgo
「……逆に質問したいんだけど、いいか?」
「……なに?」
「おまえたちは、どうして高森を気にするんだ?」
高森と及川が、そろって言葉をなくした。
高森は、自分が急に話に出てきたからだろう。だとしたら、及川の方は、図星をつかれたからか。
「嘉山もそうだった。高森を見て、驚いてた」
「……浅月くん、孝之の知り合いってわけじゃ、ないんだよね?」
「ああ」
「嵯峨野先輩と嘉山のこと、どこまで知ってるの?」
「ふたりが知り合いだとすら思ってなかった」
「……そうなんだ」
及川ひよりは、戸惑ったような顔で、高森の方をちらりと見た。
高森は高森で、居心地悪そうに足をゆらゆらさせている。
728: 2016/02/18(木) 22:27:18.34 ID:KEibpffgo
「俺や高森が嘉山のことを知ったのは、例の焼却炉騒動の件で、第一と第二の部員が全員集まったとき。あの視聴覚室の集会のときだ」
「……それ以前のことは?」
「俺たちは、それ以前も以降も、嘉山と話したことはない。……高森もそうだよな?」
「うん……。あ、このあいだ屋上で、ちょっと顔は合わせたと思うけど」
「……嵯峨野先輩のことは?」
俺たちは答えなかった。
「……そっか。ありがとう。ごめんね。知らないならいいんだ」
そう言って、及川ひよりは俺たちに背を向けようとした。
「待って」
と声をかけたのは高森だった。
「……どうして、わたしに声をかけたの?」
及川は、立ち去ろうとした姿勢のまま、何も答えなかった。
「嵯峨野先輩がわたしに声を掛けてきたのは、ひょっとして、何か、理由があるの?」
729: 2016/02/18(木) 22:28:32.16 ID:KEibpffgo
その問いかけはたぶん、すごく切実なものだった。
切実で、純粋だ。おそるおそる、という響きだった。
その切実さが届いたわけではないだろう。
ただの気紛れか、他の意図があったのか、及川ひよりは容易く答えた。
「似てるからだよ」と及川ひよりは言う。
「高森蒔絵さん。あなたは、そっくりなの。瓜二つ。葉羽に、そっくり」
「……はばね?」
「嵯峨野先輩の妹で、わたしと孝之の幼馴染だった」
「……」
「あなたの顔が、嵯峨野葉羽にそっくりなの。理由はきっと、それだけ」
高森の表情が色を失ったように見えた。
たぶん、傷ついたのだと思う。深く、深く。
無理もない。俺だって、あんまりだと思った。
だって高森は傷ついていたのだ。
悩んで、必氏に考えて、落ち込んでいたのだ。
一生懸命に、嵯峨野先輩に対して、彼女なりの誠実さをもって接しようとしていた。
その全部が、彼にとってはどうでもいいものだったのかもしれない。
彼が興味を持っていたのは、ただ、高森の顔だけ、だったのかもしれない、なんて。
730: 2016/02/18(木) 22:29:07.89 ID:KEibpffgo
「……いや、待て。意味わかんねえよ」
言葉を失った高森の代わりに、俺が会話を引き継ぐ。
このまま話を終わらせては駄目だ、と思った。
「妹に似てるからって、なんで……」
――嵯峨野先輩の妹で、わたしと孝之の幼馴染だった。
……“だった”?
「氏んじゃったの」
「……」
「二年前の夏。川で溺れて。連理さんと葉羽は、ほんとうに仲の良い兄妹で……。
だから、連理さんは、葉羽にそっくりな高森さんを無視できなかったんだと思う」
何を考えてるんだ、こいつ。
自分が何を言っているのか、わかってるのか?
氏んだ妹そっくり? だから無視できなかった?
そんな話を、今生きている高森が聞かされて、勝手に重ねられて、どう感じると思ってるんだ?
満面の笑みで光栄ですとでも言うと思ってるのか? それはぜんぶ、おまえらの事情じゃないか。
俺は一呼吸置いて、冷静さを取り戻すよう努めた。
訊いたのは高森と俺だ。こいつは質問に答えただけだ。
腹が立つのは俺の都合だ。
731: 2016/02/18(木) 22:29:36.13 ID:KEibpffgo
「……だからって、それが高森に何の関係があるんだよ」
苦し紛れのような、俺のそんな言葉に、及川ひよりは、少し気の毒そうな……どうでもよさそうな声で、
「ないよ」
と言った。
「ごめんね」
とさらに、あっさり謝る。
あなたはある人の氏んだ妹そっくりなのです。
だからあの人はあなたに近付いたのです。
でもその話はあなたには関係ありませんでした。ごめんなさい。
「……おまえさ」
「そうだったんだ!」
言いかけた俺の言葉を遮るみたいに、高森がことさら明るい調子で声をあげる。
「だから嵯峨野先輩、わたしにやたら絡んできたんだ。なるほどー、そういうことだったのか」
それからうんうん頷いて、
「そりゃ仕方ないよね、亡くなった妹さんそっくりだったら、たしかに気になっちゃうもんね」
なんてことを言う。
俺は何も言わないことにした。
何で腹が立つんだ。高森は笑ってるのに。
732: 2016/02/18(木) 22:30:49.04 ID:KEibpffgo
「それじゃ、わたし行くね。なんか、ごめんなさい」
そう言って去ろうとした及川ひよりを、今度は俺が呼び止める。
「部誌を燃やしたの。……嵯峨野先輩なのか?」
「……わたしは、そうだと思ってた」
「……思ってたって?」
「孝之は、自分が燃やしたんだって言ってた。意味もなく。でも、絶対に嘘。連理さんが、孝之に何かしてるんだ」
「わかんねえな。なんで嵯峨野先輩がそんなことをするって話になるんだ?」
「……分からない。たしかなのは、どちらかが部誌を燃やしたってことだけ。
連理さんが燃やしたのか、孝之が燃やしたのかは分からない。でも、どちらかがたしかに燃やした」
「なんで、そんなことが分かるんだよ」
「燃やす理由が、わたしの原稿だったから」
どういう意味、と問いかけるより先に、及川ひよりは言葉を続けた。
「連理さんは孝之に暴力を振るってる。日常的に。毎日みたいに。
わたしは、それを告発しようとした。わたしは告発文を書いた」
先生に言ったって、呼びだされて話をきかれて、場合によっては注意されて終わり。
誰かに相談したって簡単には信じてもらえない。
だから、大勢の人に、疑ってもらおうと思った。そうすれば簡単には、手出しできなくなるから。
疑いの目を向けてもらうために、大勢の人に、告発文を読んでもらおうとした。
「……部誌になんか載せたって、誰も読まないだろ」
「普段だったら、そうだよね」
733: 2016/02/18(木) 22:31:46.06 ID:KEibpffgo
……例の部誌勝負。
投票、勝負という形にしたせいで、普段は文芸部に興味もない奴らが、手にとって目を通していた。
反響は、俺たちが思った以上だった。意外なほど、生徒たちは対決に興味を持った。
言い出したのは誰だ?
及川さんだ。
「最初からそのつもりだったわけじゃないよ。兄さんが部誌勝負なんて言い出したときは、馬鹿みたいって思った。
でも、五月の終わり頃から、連理さんは孝之に暴力を振るうようになった。
あの人、外面は優等生だから、誰に言っても信じてもらえない。部誌は告発するには絶好の機会だった」
「……五月の、終わり頃?」
繰り返したのは、高森だ。
「……そう。何か知ってる?」
俺には分かった。
高森と嵯峨野先輩との間に何かがあって、彼が部室に来なくなった。ちょうどその頃だ。
誘いを断られただけだ、と嵯峨野先輩は言っていた。
本当にどうだったのか、俺には分からない。
「……嵯峨野先輩は、それ以前に、嘉山くんに暴力を振るってたり、した?」
問いを重ねたのは、高森だ。
俺は止めたかったけど、止めなかった。
及川ひよりは、少し怪訝そうにしながらも、答えてくれる。
734: 2016/02/18(木) 22:32:16.31 ID:KEibpffgo
「つらくあたることはあったけど、直接的に暴力を振るうようになったのは、わたしが知る限りは、それ以降だと思う。
そうじゃなかったら、わたしはずっと前に、連理さんを止めようとした」
「……そう、なんだ」
高森が何を考えているのか、俺には簡単に分かった。
「高森」
名前を呼ぶと、彼女ははっとしたように俺の方を振り向いて笑った。
「なに?」
「そろそろ教室、戻んなきゃだよ」
「あ、だね……」
それじゃ、と及川ひよりは、最後にもう一度謝った。「ごめんなさい」と。
ふざけんなと俺は思ったけど、そんな気持ちだって、俺の都合といえば俺の都合でしかなかった。
「高森」
「なに、たっくん」
「バンド、どうする?」
「あ、どうしよう、ね」
困ったように、高森は笑った。
俺はそれ以上何も言わないことにした。
735: 2016/02/18(木) 22:32:53.47 ID:KEibpffgo
つづく:屋上に昇って【その8】
736: 2016/02/18(木) 23:24:08.98 ID:GJKJSP8QO
乙です
引用: 屋上に昇って
コメントは節度を持った内容でお願いします、 荒らし行為や過度な暴言、NG避けを行った場合はBAN 悪質な場合はIPホストの開示、さらにプロバイダに通報する事もあります