853: 2016/03/15(火) 00:57:58.46 ID:D5zp7PClo
最初:屋上に昇って【その1】
前回:屋上に昇って【その8】
◇[sting]
「タクミくん、よだかさんの見送りいかなくてよかったの?」
俺がすず姉の車に送られて部屋に戻ると、静奈姉はまっさきにそのことを訊ねた。
痛いところをつかれたと思って俺が黙ったとき、すず姉がうしろから「どうも」と入っていった。
「お久しぶりです、静奈先輩」
「ひさしぶり」
静奈姉は当たり前みたいな顔ですず姉を受け入れた(電話してたんだから当たり前だけど)。
「タクミがこっちに来てるって、どうして教えてくれなかったんですか?」
「だってすずちゃん、連絡しても見ないし」
「そりゃ……鳴らない携帯なんて持ち歩きませんし」
「ね」
いや、鳴っても見ないなら鳴らさないだろう、誰も。
854: 2016/03/15(火) 00:58:33.15 ID:D5zp7PClo
「お酒買ってきました」
「……すずちゃん、今日何で来たんだっけ?」
「車です。泊まってっていいですか?」
静奈姉はくすくす笑った。
「変わらないね、その、なし崩し的に泊まろうとする癖」
「性分なんです」
「ていうか……まだ十九じゃないっけ?」
「そうでしたっけ?」
すず姉は平気な顔で靴を脱いであがりこむと、ダイニングテーブルの上にコンビニ袋を置いて腰を下ろした。
「ちょっと疲れました」
とすず姉は笑った。
静奈姉は「いつぶりだっけ?」なんて言ってる。
855: 2016/03/15(火) 00:58:59.38 ID:D5zp7PClo
「いつでしたっけ? 静奈先輩がこっちに来てから、一回は来てるはずですけど」
「あ、だよね。調子はどう?」
「普通ですかね。先輩は?」
「普通かな」
まったりしながら、すず姉はチューハイを取り出した。
「グラス用意するね。タクミくんは?」
「俺、明日も学校なんだけど」
「ちょっとなら平気でしょ?」
「いや、でも……」
……『駄目だ』と誰かが言う。
「はい、グラス」
「……そもそも俺、ハラ減ったんだけど」
「仕方ないなあ」
といって、静奈姉は立ち上がった。
「ご飯作るから、そのあと付き合ってよ」
「……」
しぶしぶ、俺は頷いた。
856: 2016/03/15(火) 00:59:34.98 ID:D5zp7PClo
◇
「静奈先輩、遊馬先輩とは会ってるんですか?」
グラスに口をつけながら、すず姉がそう訊ねると、静奈姉は「ぜんぜん」と言った。
「連絡も来ないよ。前から、そういうところあったけど」
「そうなんですか?」
「もともと、メールのやりとりとか電話とかするような仲じゃなかったし。ほら、なにせ……」
「……学校いけば、会えましたもんねえ、そりゃ」
「あ、でも、お母さんとはたまに会ってるみたい」
「静奈先輩のお母さんと? 先輩が? ですか?」
「うん。お母さんはおかまいなしだから」
「あはは」
「ちひろちゃんは元気?」
あ、そうだった、と、話を聞いていた俺は思う。
ちい姉の下の名前、ちひろだった。
すず姉は一瞬ためらうみたいに間を置いてから、視線を泳がせて、
「元気ですよ」
という。
857: 2016/03/15(火) 01:00:01.45 ID:D5zp7PClo
「……そのさあ」
と静奈姉はけだるげに首をかしげた。
「いいかげん、振られた女に対する妙な気遣いやめてよー」
と言って、静奈姉がすず姉の頭をわしゃわしゃ撫でた。すず姉は「あはは」とまた笑う。
「何年経ったと思ってるの?」
「えっと……何年ですかね? 五年?」
「そう。そんくらい?」
「たぶん。どうかな」
「……なんていうか、すごいよね」
「なにが?」
「なんで別れないんだろう」
「……すごいですよねえ、あのふたり」
「なーんか、付き合い始めの頃、すぐに別れちゃうことを期待してた自分の性格の悪さだけが、こう……」
「わかります、わかります」
「悲しくなるくらい、あのふたり、まっとうなんだよねえ」
静奈姉は一杯目のチューハイですでにぽやぽやした顔をしていた。
「だからわたし、だめだったんだろうなあ」
そう呟いた静奈姉は、小さな子供みたいに見えた。
858: 2016/03/15(火) 01:00:28.30 ID:D5zp7PClo
こうして話をしていると不思議なのだが。
……遊馬兄って、なんでモテたんだ?
「ま、そうでしょうね」とすず姉はあっさり頷いた。
静奈姉がむっとした顔をする。
「ちょっと否定してくれたっていいじゃないの!」
また頭をわしわし撫で始める。すず姉は「あはは」とまた笑う。
「妙な気遣いやめてと言いながら、がっつり引きずってるじゃないですか、先輩」
「引きずってないもん」
「本当ですか?」
「引きずってないもん!」
……子供か。
「高校のときのことだよ? 何年前? この歳になって引きずってたらただのイタい人だよ。引きずってませんもん」
「……そーですか?」
「……引きずってません」
「……わたし、イタい人だなあ」
小さなつぶやきは、たぶん静奈姉の耳にも届いた。
……やばい。なんかこの会話、聞いてるのすごいしんどい。
859: 2016/03/15(火) 01:01:01.03 ID:D5zp7PClo
「すずちゃんと遊馬くんの関係もわたし、よく知らなかったんだよね」
「……わたしと先輩ですか?」
「うん。なんであんなに仲良くなったの?」
「……仲良くなったっていうか。中学のとき、わたし、放課後とか屋上でひとりでいたんですよ」
「……うん」
「そしたら、先輩がよく遊びに来て、いろいろ話したりして」
「……うん」
「……まあ、それだけですかね」
「屋上に昇るのは血筋なの?」
「ど、どうでしょうね……? でも、何回か屋上で人に会ったけど、話しかけてきたのは先輩だけでした」
「……たぶん、ちひろちゃんもそうだったんだろうなあ」
860: 2016/03/15(火) 01:01:30.95 ID:D5zp7PClo
「……ねえ、あのさ」
俺はようやく、口を挟んだ。ふたりは、どこかとろんとした目つきでこっちを見た。
「ペース早くない? 酒」
「チューハイなんて、ジュースだよ!」
と、静奈姉はからっぽの缶をテーブルに叩きつけた。
「でもさ、遊馬くんもひどいよ。『ドラクエファイブでビアンカを選ばない奴は人間じゃない』って豪語してたのに」
「あはは」
「そりゃ、ちひろちゃん、美人だけど。美人だし、お金持ちだけど……」
「リメイク版だと『子供の頃に会ったことがある』って設定らしいですよ」
「なにが?」
「ドラクエファイブのフローラ」
「それずるいよね。ビアンカのアドバンテージがりがり削ってるよね」
「あはは」
すず姉はさっきから何言われても笑ってるな。
861: 2016/03/15(火) 01:02:04.85 ID:D5zp7PClo
「そもそもビアンカだって、フローラが登場する前にさっさと告白しちゃえばよかったんですよ」
と、すず姉は三本目の缶を開けた。
カルピスサワー美味しい。
「それは、それは……でも、ビアンカにだっていろいろ……」
「なんですか?」
「ビアンカだって……パパスさんのこととか気にして、そんなこと言ってる場合じゃないよなって……」
感情移入しすぎだろ。
「……で、タイミングを逃したと」
「……」
「美咲ちゃんも、いましたもんね」
「……あの兄妹には、割って入れないから」
「……ちい姉も、そう言ってたな」
「ちひろちゃんも?」
「先輩は絶対自分より美咲ちゃんのことが大事なんだって、言ってました」
「……シスコンだもんなあ」
「シスコンですもんねえ……」
散々だな、遊馬兄。
862: 2016/03/15(火) 01:02:43.60 ID:D5zp7PClo
「静奈先輩、ちい姉と最後に会ったの、いつですか?」
「……高三のときかなあ」
「まだ喧嘩してるんですか?」
「喧嘩なんてしてないよ。わたしが一方的にちひろちゃんを妬んで恨んでるだけだよ」
……潔いんだか潔くないんだかよくわからない言い草だ。
「もう、呼んじゃいます?」
「ちひろちゃん? ここに?」
「はい」
「え……」
「気まずいです?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
俺はちょっとためらったけど、結局口を挟むことにした。
「……ちい姉、明日デートなんでしょ?」
「うぐ」と静奈姉が変な声をあげた。
「すず姉、傷口に塩を塗りこむ気?」
「……わたしがするより先に、タクミが塗りこんでると思うなあ」と苦笑される。
カルピスサワー美味しい。
863: 2016/03/15(火) 01:03:11.07 ID:D5zp7PClo
「……呼ぼう! 呼んで! ちひろちゃん!」
「いいんですか?」
「いいんだよ! 引きずってないもん! ひきずってないから、平気だもん!」
「そんじゃ、ついでに着替え持ってきてもらお」
「あー、生まれ変わったら猫になりたいなあ」
静奈姉はテーブルの上に腕を組んで頭をのせた。
「ちひろちゃん、ひさしぶりだなあ。やだなあ」
「人んちの姉を、やだなあって先輩」
「フローラがうらやましい」
「大丈夫ですよ。周回プレイしてくれる人だっていますって」
「二周目があるといいよね」
「ないんですけどね」
あはは、と二人は笑ってから、長い溜め息をついた。
バカなのか、このひとたち。
869: 2016/03/18(金) 00:22:32.32 ID:nkDeAzhHo
◇
そしてちい姉は本当にやってきた。
前みたいにちょっと居心地悪そうに、「どうも」なんて頭を下げて。
「遅いよちい姉!」
と真っ赤になったすず姉が言う。
静奈姉は血筋なのか顔には出ないが、やっぱりちょっとほわほわし始めていた。
「いや、急に来てって言われても……」
「ひさしぶりー」
と静奈姉が手をあげる。
「お邪魔します」とちい姉は居心地悪そうなまま部屋に入ってきた。
そこにもうひとり、後ろから「おじゃまします」と声。
「あれ、るーも来たの?」
るーがいた。
「わたしだけ仲間はずれはいやです」
「るーちゃんおっきくなったねー!」
と静奈姉が立ち上がってるーに抱きついた。もうテンションが平常通りじゃない。
870: 2016/03/18(金) 00:23:15.67 ID:nkDeAzhHo
「るー、テスト勉強しなくていいの?」
「お酒飲んでる人に言われたくないです」
るーはすねたみたいにそっぽを向いた。
「るーも飲む? カルピスサワー美味しいよ」
「タクミくん、酔ってます?」
「酔ってないよ。少し気持よくなってるだけだよ」
「それならよかったです」
「こっちおいで」
壁際に座ったまま、俺は隣の床をぽんぽん叩いた。
「……はあ」
るーは静かに、足の裏で滑るみたいに俺の隣にやってくると、ちょっと居心地悪そうな顔で座ってくれた。
「よしよし」と俺はるーの頭を撫でた。
「……あの、タクミくん?」
「良い子だるー、おすわり」
「……犬ですか、わたしは」
871: 2016/03/18(金) 00:23:41.92 ID:nkDeAzhHo
わしわしと頭を撫でると、彼女は拗ねたみたいな顔のまま目をそらしてされるがままになった。
「よしよし、お飲み」
俺はグラスを手にとって、新しい缶をあけてカルピスサワーを彼女に手渡した。
「……お酒、あんまり飲んだことないです」
「そう? やめとく?」
「いいです。飲みますよ、もう」
そういえばさ、とすず姉が口を開く。
「タクミとるーは付き合ってないんだっけ?」
「ないですよー」とるーがいつもみたいに否定する。
「そうだよねえ、子供の頃仲よかったっていっても、所詮それだけだよね」
静奈姉はテーブルに顔を突っ伏して拗ねたみたいに呟いた。
「しいちゃん、だいぶ飲んだ?」
しいちゃん、とちい姉は静奈姉をそう呼んだ。
「うん。チューハイなんてジュースだからね。ちひろちゃん久しぶり」
872: 2016/03/18(金) 00:24:37.74 ID:nkDeAzhHo
「それだけってわけじゃ」
と、るーは何かを言いかける。
みんなが黙って続きを待つ。
「……なんでもないです」
「タクミくんはどうなの?」と静奈姉。
「るーちゃんのこと、どう思ってるの?」
みんながまた押し黙る。
俺はぼんやりした頭で考える。
どう思ってる?
「……るーは、かわいいよね」
「はい?」
と、隣に座ったるーがちょっと怒ったみたいな顔で俺を見た。
へらへら笑って、彼女の頭をまた撫でた。
「よしよし」
「……」
困った感じのるーの表情がやけに近くて、それが妙に心地よかった。
873: 2016/03/18(金) 00:25:09.29 ID:nkDeAzhHo
「……タクミ、酔ってるね」
すず姉。
「酔うとこうなるんだね。……たち悪いね」
ちい姉。
「遊馬くんもこうだったよね」
静奈姉。
「……あ、うん」
何かの心当たりがあるみたいなちい姉の声。
「あのときはたしかちひろちゃんに……」
「あの。しいちゃん?」
「……やってらんないですよ」
「しいちゃん、あの。最近どう? 学校とか……」
「普通かな。ちひろちゃんはどう? 遊馬くんと」
「……あ、えっと」
「……」
「普通、かな……」
「酔うとたち悪いのは静奈先輩も同じですね」
「なんだとう!」
「血筋ですかね」、と、るーがぽつりと呟いた。
874: 2016/03/18(金) 00:25:35.31 ID:nkDeAzhHo
「それでさ、ちい姉」
と、俺が声を掛けると、ちい姉はちょっと戸惑ったみたいな顔をした。
そういえばこんなふうに直接ちい姉に話しかけたことなんて、今まであったっけか。
「なに?」
「どうして遊馬兄と付き合うことになったの?」
「え……」
「いいぞいいぞ、もっときけ」と静奈姉。
「そうだそうだ」とすず姉。
るーが呆れたような溜め息をついたのが分かった。。
「俺知らなかったよ。ちい姉と遊馬兄がそんなことになってるなんて。いつから? なんで? どこが好きなの?」
「いや、あのね、タクミ」
「意外って言ったら失礼かもしれないけど、遊馬兄とちい姉けっこうテンション違うように見えたけど、なんでまた?」
「そこらへんはほら、個人的なことだし」
「俺たちだって個人的な付き合いじゃん。話してくれてもいいじゃん。ちい姉は俺のこと嫌いになったの?」
「……あはは、たちわるーい」
そう言ったのはるーだった。
「なに」と視線を向けると、「なんでもないですよ?」とにっこり笑う。
875: 2016/03/18(金) 00:26:10.49 ID:nkDeAzhHo
なんかむかついたのでまた頭をわしゃわしゃ撫でてやると、「やめてくださいよ、もう!」なんて困った声をあげる。
「まいったか」
「まいりません」
もう一度わしゃわしゃ撫でる。
「まいりました、まいりました」
「ふははは」
「……もう。どうしちゃったんですか、タクミくん」
「それはあれだよ」とすず姉。
「普段抑圧的に生きてる奴ほど、気が緩むと暴走するっていう」
「ああ……」
「でも遊馬くんも飲むと性格変わったよね」
「最近はそうでもないよ」
「昔はあれで、抑圧的だったんじゃないですか?」
すず姉の言葉に、静奈姉が「えー、そう?」と首をかしげ、ちい姉が「なるほどね」と小さく納得した。
静奈姉はなんとなくつらそうな顔をした。
876: 2016/03/18(金) 00:26:48.31 ID:nkDeAzhHo
「そんなのどうでもいいよ。俺はちい姉に質問してるんだよ」
「だから、個人的なことだし」
「そうじゃなくてちい姉は俺のこと嫌いになったの? それとも俺のこと嫌いだったの?
そうなんだ、そうなのかもしれないよね、なんで俺勝手に好かれてるって思ってたんだろう。ごめん気にしないで。なんでもない」
「めんどくさい人ですね……」
るーがまた隣でため息をつく。
「そうだよ、俺はめんどくさいんだ。幻滅した?」
「したって言ったら安心しちゃうでしょ?」
「俺のことをなかなかわかってきたじゃないか」
俺はグラスのカルピスサワーを飲み干した。
「おかわり」
「やめときなよタクミくん、明日に響くよ?」
静奈姉の諫言に耳を貸すつもりはない。
俺はなんだか急に気分がいいのだ。
ふう、と俺も溜め息をつく。
「それでちい姉は遊馬兄のどこが好きなの?」
「……しいちゃん、すず」
「そこでわたしの助けを求められてもね」とすず姉は苦笑した。
うう、と、ちい姉はちいさくうめいた。
877: 2016/03/18(金) 00:27:17.61 ID:nkDeAzhHo
「分かったよ。じゃあ遊馬兄呼んで。遊馬兄」
「だ、だめだよ!」と静奈姉が言った。
「なんで。俺遊馬兄に会いたいよ。遊馬兄。遊馬兄とまだ会ってないんだ。美咲姉とも。ふたりとも元気?」
「えっと、元気だよ」
ちい姉は気圧されたみたいに頷いた。
「元気ならいいなあ。元気ならよかったよ。うん。それだけが気がかりだったんだ」
「……って、なんで泣いてるんですか、タクミくん」
るーが戸惑ったみたいに声をあげた。俺は自分の瞼をこすった。
「元気ならよかった。本当によかった。それだけが本当に気がかりだったんだよ」
ぽろぽろと涙がこぼれるのを自分では止められなかった。みんなが俺の様子を見て戸惑った顔をしているのが分かる。
泣きやまなきゃいけない、といつもの俺はそう思う。そんなことしたって困らせるだけだから。
でもぜんぜん収まってくれなかった。どうしてだろう。わけがわからない昂ぶり。
「アルコールって、すごいね」
静奈姉がそう言った。
「テスト勉強とベースの特訓の疲れもありそうです」
「ベース? タクミくんバンドでもやるの?」と静奈姉。
「特訓したんですよ、今日」とすず姉。
878: 2016/03/18(金) 00:27:48.76 ID:nkDeAzhHo
とまらない涙に俯いて、壁にもたれた。なんだか身体がひどく重かった。
「よしよし」と何かが頭に触れる。
「いいこいいこ」とるーの声がして、頭の腕をやさしい感触が撫でていく。
俺はその感触に頭を揺らされて心地よさの中で瞼を閉じる。
ゆらゆらとからだがゆれる。
ゆらゆらと揺れて、瞼が重くなっていく。
俺の身体は傾いでいく。
なんで俺は……。
とても眠くなって、うまくものが考えられない。
大丈夫ですよ、と誰かが言った。
だったらいいいか、と、俺は安心して意識を手放した。
883: 2016/03/18(金) 23:59:05.82 ID:nkDeAzhHo
◇
瞼が重くて開かなかった。意識は混濁と明鏡止水に綺麗に分かれていた。
表の方は濁ってわけがわからなかったけど、奥の方の意識はすっと静まり返っていた。水とは反対だ。
だから俺は、その声がはっきり聞こえた。
「るーちゃんはさ、タクミくんのことどう思ってるの?」
静奈姉の声だ。
「どうって……」
答えた声は、すぐそばから聞こえた。それも、なんとなく、上の方から。
意識が沈んでいるからかもしれない。
「好きですよ」
とるーは言った。
あー、夢か。
なるほどな。
「ほお」
すず姉。
「へえ」
ちい姉。
「おー」
静奈姉。
884: 2016/03/18(金) 23:59:49.14 ID:nkDeAzhHo
開き直ったみたいに、るーは続ける。
「好きですよ……好きですけど」
「けど……?」
静奈姉が促す。るーは黙ったまま続けない。
「タクミくんはわたしのこと、なんとも思ってないみたいだから」
「……え、そう?」
とすず姉。
「そうなんです。きっと」
「……そうなのかな」とすず姉は首をかしげた(と思う。視界がまっくらだからわからないけど)。
どうだろう? と俺は自問した。
「訊いてもいい?」と静奈姉の声。
「なんですか?」
「タクミくんの、どこが好きなの?」
「……どこって」
「顔?」
「いや、顔って」
「まあ、我が親戚ながら顔はまあまあのものだと思うし」
失礼な夢だ(逆だろうか? 夢ならむしろ自己愛的か?)。
885: 2016/03/19(土) 00:00:15.57 ID:7uTUbjIMo
「それは、まあ、顔も……」
どういう答えだ。
「でも、服装適当なんだよね、いつも……」
「手抜きが多いですよね。改善を要します」
……なんて夢だ。
「で、顔以外は?」
「……よくわかんないです」
「わかんないって?」
「わかんないんです」
と、るーは言う。
そうだな、と俺は思う。
そりゃそうだ。
好きになれる部分なんて、ないんだから。
886: 2016/03/19(土) 00:01:39.16 ID:7uTUbjIMo
「ちい姉は」、とるーは言う。
「ちい姉は、お兄さんのどこを好きになったんですか」
今度は、静奈姉もすず姉も、茶化さなかった。
それが真剣な声だったからだろうか。
あるいは、それぞれにまた、その理由に思いを巡らせていたのだろうか。
「……今日は、そんなことばっかり訊かれるなあ」
「どうなんですか」と、るーは問いを重ねる。
「……えっと、さ」
ちい姉は、少し、迷うみたいに言葉をつまらせたみたいだ。
かすかな吐息が聞こえる。
「ちょっと、長い話になると思うんだ」
「……うん」
誰もが話すのをやめて言葉を待った。
俺の世界には音だけだ。
「遊馬は、きっと、寂しがり屋だったんだよ」
887: 2016/03/19(土) 00:02:15.12 ID:7uTUbjIMo
みんなが黙って、続きを待った。
「いつも、置いていかれるのを怖がってた。ひとりになるのを嫌がってた。いろんなことが変わってくのが、怖かったんだと思う」
静奈姉は。
どんな思いでこんな話を聞いているんだろう。
よくわからない。
ちい姉の語る遊馬兄は、俺の思っていた彼の姿と一致しない。
でも、
たしかにどこか、寂しそうだったような気もする。
「ちょっと、話してくれたことがあるんだよ。子供の頃から、美咲ちゃんの面倒見てたんだって」
「……うん」
静奈姉が頷いた。
「学校からすぐ帰って、おじさんとおばさんの代わりに家事をやって、美咲ちゃんの面倒ばかり見てた」
そこでちい姉は、少しだけ言葉を止めた。何かを迷うみたいに。
「子供の頃って、放課後毎日友達と遊んだりしたでしょ? 誰かの家にいったり、学校に残ったりして。
遊馬には、そういうのがなかったから……友達がいなかったわけじゃないけど、“仲の良い友達”はいなかったんだって」
爪弾きにされるわけじゃない。腫れ物みたいに扱われるわけじゃない。
距離を置かれるわけでも、避けられるわけでもない。
それでも、居場所のないような、疎外感。
誰かと誰かが、仲良くなって、ともだちになって、近付いていって、
それを眺めている誰かの、置いてけぼりの気持ち。
888: 2016/03/19(土) 00:02:47.70 ID:7uTUbjIMo
「小学生の男の子がさ、みんなが放課後に缶蹴りとかして、誰かの家に集まってゲームとかして、
そういうときに、家に帰って洗濯物を取り込んで、夕飯の買い物をして、準備をして、妹の勉強を見て……」
それって、どんな気持ちなんだろう、って、ときどき思うんだ。
「でも、遊馬は美咲ちゃんのことが大好きだから、きっとあの子の前では楽しそうに話をするんだよ。
学校でこんなことがあったとか、クラスの誰々がどうこうだとか、そういう話を。きっと、そういう癖がついてたんだよね」
両親は仕事で帰ってこなくて、甘えたり弱音を吐いたりしたいときがあったって、誰にも甘えられない。
それでも平気でいないと、妹が不安になるから。
「先輩の、両親って」
「遊馬は、そんなことないってずっと否定してたけど。忙しいだけって、ずっと言ってたけど。
たぶん、それは半分なんだと思う。いくら仕事が忙しいからって、子供をずっとほったらかしなんて、ありえないもん」
「……おじさんとおばさん、美咲ちゃんが高校に上がる年に、離婚しちゃったんだよね」
「うん。たぶん遊馬は繋ぎとめようとしたんだよ。それだってきっと、自分のためだけじゃないと思う」
「……美咲ちゃんのため?」
「美咲ちゃんの誕生日は、毎年必ず家族が全員揃うんだって、遊馬は言ってた。忙しくても、子供のことをちゃんと考えてくれてるって。
でも、遊馬の誕生日は揃わないんだ。それって、きっと、遊馬が頼んだんだよね」
せめて、と。
「本当のことは、わからないけど。でもきっと、遊馬は寂しがり屋で、甘え下手で、つよがりだったんだと思う。
……たぶん、だからだと思うんだ」
「だから、って?」
すず姉の問いかけに、ちい姉は言葉を探るような沈黙を置いたあと、返事をする。
「寂しそうだったから、好きになったんだと思う」
そんな、堂々とした言葉に、みんな口ごもる。
「……なんか照れるね」と、静奈姉が笑う。
889: 2016/03/19(土) 00:04:39.71 ID:7uTUbjIMo
「でも」、とすず姉が言う。
「それって、同情ってこと?」
「違うよ」と、ちい姉が言う。
「たぶんわたしは、自分と同じような寂しさを抱えてる人のことを、好きになったんだよ」
同じような寂しさ。
同じくらいの寂しさ。
よく似た寂しさ。
「……遊馬は、最初、わたしのことが苦手だったんだって」
ちい姉はそう続けた。
「どうして?」と静奈姉が問う。
「強そうだったから、って言ってた」
「“強そう”?」
「ひとりでも、平気そうだったから。責められてるみたいな気分になったんだって」
ひとりぼっちが寂しくて、悲しくて、もがいている自分。
ひとりぼっちでも強くて、平気そうな誰か。
「今にして思えば、遊馬は、ひとりでいる人にばっかり声を掛けてた。
男友達だってちょっと浮いてるような人が多かったし、あの頃の文芸部の部長さんとかも、あんまり人と交流しない感じだったし」
「……わたしも、そうだったのかな」
すず姉が、そう言う。「たぶん、わたしも」、とちい姉が言う。
890: 2016/03/19(土) 00:05:06.92 ID:7uTUbjIMo
「誰かの輪の中にいると、自分が余計ものみたいに思えるから、ひとりでいる人にばかり声を掛けてたんだ、って」
声を掛けたのは、きっと、ちい姉が言うとおり寂しかったからで。
そういう自分の弱さを、たぶんどこかで遊馬兄は責めていた。
だから、ちい姉が苦手だった。
「しいちゃんには感謝してるって、遊馬、言ってた」
「……遊馬くんが?」
「うん。しいちゃんがいなかったら、自分はとっくにダメになってたかもって」
「……」
「いつも助けられてたんだって、言ってた。
それと同じくらいの焦りがあったんだと思う。周りは楽しそうに笑って遊んでて、自分は自分のことに必氏で、誰ともつながってなくて。
だから、追いつかなきゃって、思ってたんだと思う。自分だって誰かと繋がって、誰かにとっての何かにならなきゃって」
それは、どこかで聞いたような話。
「そういうものを必氏に築き上げて、ようやく親友って呼べる誰かができて、そんなときに……」
「そんなときに?」と静奈姉。
891: 2016/03/19(土) 00:05:46.53 ID:7uTUbjIMo
「……言ってもいい?」
「……どうぞ」と静奈姉は少し緊張したような声。
「そんなときに、ずっと一緒にいてくれると思っていた幼馴染が、離れていく素振りを見せたんだそうな」
「……」
うわ、と俺は思う。夢とはいえ、容赦無い。
「だから遊馬は、誰かともっと繋がりたくなったんだと思う。変わっていくのは仕方ないことだから、って。
それが寂しいから、それでも誰かに傍にいてほしいって。……しいちゃんにはこの話、いつか、しようと思ってたんだ」
静奈姉は、ちょっと他人事みたいに、
「……わたし、完全に墓穴掘ってたんだね」
と言った。
892: 2016/03/19(土) 00:07:29.91 ID:7uTUbjIMo
「でも、でもね、わたしにとって遊馬くんは、普通の男の子だったんだよ。
家族思いで、大人みたいに家のことに責任感を持ってて、面倒見がよくて、勉強ができて、
周囲から一目置かれてて、気取ってなくて、ちょっとばかみたいにはしゃいだりして、
そんな、かっこいい、あこがれの人だったんだよ」
――でも、それってやっぱり、わたしが遊馬くんのこと、ちっともわかってなかったってことなのかなあ。
静奈姉がそう言ったあと、少しの沈黙が、何かを埋め合わせるみたいに流れた。
「ごめんね」とちい姉が言う。
きっとその言葉を静奈姉に向けることを、ちい姉はずっと避けてきたんだと思う。
なんだか、傲慢に聞こえそうだから。
「ううん」、と静奈姉は言う。声は少し震えていた。
「ありがとう」と彼女は言う。
泣いているみたいな声で。
きっと、泣いているのだと思う。
わからないけど、たぶん。
893: 2016/03/19(土) 00:15:25.05 ID:7uTUbjIMo
同じくらいの寂しさを抱えた人を、
似たような痛みを知っている人を、
人は好きになる。
「……寂しさ」、と、すぐ近くでるーが呟いたのが分かった。
小さい声だったから、俺以外の誰も気付かなかったかもしれない。
静かに、俺の手の甲に、何かが触れる。
きっと、指先だったのだと思う。
「……寂しそうだから、好きになる」
小さな声で、るーは言う。
「……ひょっとしたら、これも血筋なのかな」
自問のような声には、敬語はついていなかった。
血筋、とるーは言う。
半分だけの繋がりを、それでも彼女は血と呼んだ。
その言葉の自然さに、俺はなんだか泣き出したくなった。
あまりにあたりまえみたいに言うから。
彼女はきっと、本当にそれをあたりまえに思っているから。
そのことが嬉しい。
どうしてなのかも、わからないけど。
彼女が、そのようにあることを、俺は途方もなく嬉しいと思う。
そういう子でよかった、と思う。
「ほっとけないって、そう思います。でも……同情なんかじゃ、ないみたいですよ」
また、そう小さく呟いて、
るーは、
俺の手を覆うように握った。
894: 2016/03/19(土) 00:16:02.61 ID:7uTUbjIMo
包み込むように、寄る辺を求めるように。
これは夢だ、と、俺は思う。
夢だから。
俺は彼女の手を、握り返してしまった。
寄る辺を求めるように、包み込むように。
「――え?」
と、るーの手がこわばる。
「あ、れ……タクミくん?」
るーの緊張した声に、俺の意識は急に浮かび上がる。
現実感。
「どしたの、るー?」と、すず姉の声。
「タクミくん、あの、ひょっとして……起きてませんか?」
気だるい瞼を、俺は開いてみる。
真上から、るーがこちらを覗き込んでいる。
俺の頭は、どうやらるーの膝の上にあるみたいだ。
俺は手を伸ばして、るーの頬に触れた。
さかさに見える彼女の表情は、あっというまに赤く染まった。
「あ……う」
と、変な声をあげる。
俺はからだを起こそうとして、
鋭い頭痛に力を奪われた。
「……あ、はは」
思わずごまかし笑いが出る。
「……あたま、ズキズキする……」
「……の、飲み過ぎですよ!」と、るーは慌てた声でそう言った。
898: 2016/03/23(水) 00:02:05.31 ID:GUkSZoj/o
◇
それからも、女たちの話は途切れなかった。
あちらにいったりこちらにいったりさまざまな変化をたどりながら、そのうち何の前触れもなくみんな話さなくなった。
最初に眠ってしまったのはすず姉で、次に静奈姉が意識を失った。
ちい姉とるーはふたりで片付けを始めた。
「いいよ、あとで俺やっとくから」
と声を掛けると、
「おじゃましてるのはこっちだから」
とちい姉はそっけない顔で言った。
声をかけたくせに、俺は立ち上がる気にはなれなかった。からだがひどく重くて、頭がひどく痛かった。
899: 2016/03/23(水) 00:02:37.12 ID:GUkSZoj/o
「タクミくん、大丈夫?」
そう訊いてきたのもちい姉だった。
「うん……。大丈夫だと思う」
「普段、お酒飲むの?」
「あんまり。たまに、こういうときだけ」
「そっか。休んでた方がいいよ。明日も学校でしょ?」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
今日のことを思い返す。
嘉山と話をした。るーの家で、すず姉とベースの練習をした。よだかと電話した。彼女は帰ってしまった。
そして今、ここでこうしている。
たった一日でさまざまなことが起きるものだ。
あの頃も、こんなふうだったかもしれない。
900: 2016/03/23(水) 00:03:25.25 ID:GUkSZoj/o
「ちい姉」
と、俺は声を出して彼女を呼んだ。
ちい姉は不思議そうな顔でこちらを振り向いて、「なに?」というふうに首をかしげた。
「ちい姉はさ」
何かを訊こうとしたのに、何が訊きたいのか、わからなくなってしまった。
「ちい姉は……」
そうだ。
よだかに似てたって、るーが言ってたんだ。
「ちい姉は……自分が不幸だって思ったこと、ある?」
「……」
俺の唐突な質問に、ちい姉は黙りこんだ。
彼女のとなりで洗い物をしていたるーもまた、こっちを見て怪訝そうな顔をする。
考えこむように、ちい姉は黙った。
「……ごめん」
と俺は謝った。
怒ったふうでもなく、ちい姉は呆れた感じに溜め息をついた。
901: 2016/03/23(水) 00:03:52.59 ID:GUkSZoj/o
「どうしてそんなことを訊くの?」
「……わからない」
「……そっか」
ああ、今日は楽しかったな、と、そう思った。
そう思ったら、急に寂しくなった。
またこれなんだ。
寂しさが強烈な痛みを伴うのは、祭りの後、パーティーの後、馬鹿騒ぎの後、耳鳴りのしそうな沈黙と静寂が訪れたときだ。
だから、楽しいことは苦手なんだ。
「幸せって、なんだろう」
問いのかたちを、そう変えてみた。
902: 2016/03/23(水) 00:04:22.27 ID:GUkSZoj/o
「解釈だよ」
と、ちい姉は言った。
思わず、俺は聞き返した。
「え……?」
「幸福と不幸は、解釈だよ」
「……えっと、どういう意味?」
「出来事それ自体に、『幸福値』みたいなのが設定されてるわけじゃない。
だから、ほら、人生はプラスマイナスゼロだって、言うでしょ。あんなの、うそだよ」
「……」
よだかが、いつか、そんなことを言っていた。
「ある出来事はある人にとって不幸で、ある出来事はある人にとって幸福で、でもそれが本当かどうかなんて、わからない」
俺は黙って続きを待ったけど、ちい姉は言葉を探すように黙りこんだあと、詳しい説明もせずに、別の言葉を続けた。
「……あるよ」と、静かに彼女は言う。
「……なにが?」
「不幸だって、思ったこと」
903: 2016/03/23(水) 00:04:59.14 ID:GUkSZoj/o
るーが、何かをうかがうように、俯いた。
「でもさ、それが本当に、ただの不幸かなんて、わからないんだよ」
「どういう、意味?」
「……帳消しになることが、あるんだよ。不幸も、幸福も」
「……」
「どうしてこんな目に合うんだろうって、つらくなったこともある。
拗ねたことも、嫌になったこともある。寂しくて、悲しくて、やめにしたいって思ったことも、ホントはあるよ」
「……」
「なかったことにしたいことも、やり直したいことも、たくさんあった。
言わなくていい言葉とか、したくなかった失敗も、たくさん」
でも、さ。
言葉を探すみたいに、とぎれとぎれに、ちい姉は言う。
「一度、何かに出会ってしまったら、それを嬉しく思ってしまったら、もう、不幸せは、不幸せのままじゃないんだよ」
「……」
「出来事と出来事は、つながってるんだ。
だから、わたしの失敗も、わたしの不器用さも、わたしの臆病さも、ぜんぶ、経路になっちゃったんだよ」
「……経路?」
904: 2016/03/23(水) 00:05:28.42 ID:GUkSZoj/o
「わたしが、もしも、もう少し強かったら、もう少し器用だったら、もう少し周囲に溶け込めてたら……。
そう思うときもあるけど、もしそうだったらわたし、きっと……遊馬に会えてなかったんだよ」
「……」
「遊馬に会えたから、わたしにとって、わたしの失敗も、不器用さも、臆病さも、嫌いな思い出も、意味が反転したんだ」
経路。反転。
「ひとつでも欠けたら遊馬に会えてなかったなら、わたしはこんなふうでよかったって思えた」
「……」
「禍福は糾える縄の如し、人生万事塞翁が馬、終わり良ければすべてよし」
「……」
「もちろんだからって、つらいことのあとに必ず良いことがあるとか、そんなふうに思うわけじゃない。
でも、何かが起こって、全部のことの意味が変わってしまうことが、ときどき、あるんだよ。
その幸運に恵まれて、それを嬉しく思えたら、それを幸福と呼ぶんだと、わたしは思う」
「……」
「大嫌いな自分が、思い出したくない過去が、『だからこそ』に繋がったら、もうそれは受け入れがたいものじゃなくなるんだ」
「……」
「だからきっと、わたしは不幸じゃなかったんだよ」
905: 2016/03/23(水) 00:06:18.88 ID:GUkSZoj/o
◇
ちょっと散歩してくる、とそう言って部屋を出た。
何かを考えようとした。
何かを考えようとしたのにうまくいかない。
――世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
「……」
――"かわいそうな子"の役は、いやだよ。
何かが分かりそうだと思った。
何かが繋がりそうになっている。ずっととぎれとぎれで、うまくつかめなかったもの。
何を考えていたんだっけ?
よく思い出せない。
何が引っかかっていたのか。何が気になっていたのか。
906: 2016/03/23(水) 00:06:49.95 ID:GUkSZoj/o
携帯を取り出して、ラインの画面を呼び出した。
少しだけ迷って、意外とまだ早い時間だということに気付いて、コールした。
よだかはすぐに出た。
「もしもし?」
「もしもし。よだか、もう着いた?」
「うん。けっこう前に」
「そっか。ならよかった」
「何かあったの?」
「……何かなくちゃ、連絡しちゃダメなのか?」
「ううん。うれしいよ」
ちょっと、不自然なのかもな。
あらかじめ態度を言明しようとするところとか。
るーたち姉妹と比べると。
907: 2016/03/23(水) 00:07:54.09 ID:GUkSZoj/o
「なあ、よだか、俺は、何か間違ったのかな」
「どしたの、たくみ?」
「変なことを言ってもいい?」
「たくみはいつも変なことしか言わないよ」
「俺は、おまえのために何かしたかったんだよ」
よだかは返事をしなかった。
そう思っていた。そういうつもりだった。
腹を立てていた。
そんな馬鹿な話があるかと、そんな身勝手が許されるか、と。
そうやってきっと、俺はいつのまにか、彼女を閉じ込めていた。
「かわいそうな子」として。
それもまた、軽蔑されてもしかたないくらいの、身勝手だったのかもしれない。
908: 2016/03/23(水) 00:08:23.24 ID:GUkSZoj/o
「もっとできなきゃだめだ、とか、どうしてこんなにできないんだって思うのはさ、たくみ。
それは、もっとできるはずだっていう自信とか、傲慢さとセットなんだと思うよ」
「……」
「たくみ、たくみが思うほどではないかもしれない。それでもたくみは、わたしにとってひとつの救いだったよ」
「……」
「話してくれるだけで、よかったんだ」
夏の夜の空気は少し湿っていた。雨が降りそうな気がした。
「たくみは、誰かのために何かをするってことを、少し難しく考えすぎだよ」
「……」
「言ったって、たぶんわかんないだろうけど。でも、そういうの、わかってる人もいるはずだよ」
「……」
「たくみは、いろんなものに苛立ってて、腹を立てて、斜に構えてる。
わたしは思うんだけど、それはたぶん、たくみのやさしさの裏返しなんだよね」
「……やさしさ?」
「誰かの不幸せ、誰かの無神経さ、誰かの迂闊さ、どこにでもある不条理。
そういうものに苛立つのは、きっと、たくみがやさしいからだよ」
「……」
909: 2016/03/23(水) 00:08:56.10 ID:GUkSZoj/o
「世界はもっと公平で、うつくしくて、やさしくあるべきだって、そう思うから、
たくみはそういうものに苛立つんだと思う」
やわらかい夜風が火照った頬を撫でていく。
「ふつうはさ、納得しちゃうんだよ。そういうもんだって。
仕方ないじゃない。仕方ないことは、、どうしようもない。
とにかくそういうものなんだ、そういうふうにできてるんだって、受け入れちゃうんだよ」
「……」
「でもね、それはそれでいいんだよ、たくみ」
「どういう意味?」
「誰かと繋がっているってわかれば、それだけで、少しだけ、がんばれるんだ」
だからさ、とよだかは、
「だからさ、たくみはそれでいいんだよ」
本当にそれでいいんだろうか、と少しだけ思って。
でも俺もきっと、よだかがいることに、救われていたのだろうから。
「……うん」
頷いた。
遊馬兄が、静奈姉が、ちい姉が、すず姉が、美咲姉が、るーが、
一緒にいてくれただけで楽しかったあの夏。
世界はきっと、その頃からずっと変わらない仕組みでできている。
910: 2016/03/23(水) 00:09:32.56 ID:GUkSZoj/o
「どうかな」とよだかは言った。
「なにが?」
「お姉ちゃんっぽいこと言えた? わたし」
「どうかな」と俺は笑った。
本当の姉弟なら、そんなこと気にしないし、口に出さない。
るーやちい姉とは、やっぱり俺たちは違う。
それでも、それもひとつの形だといえる。
俺たちなりの形。
「助かったよ」と俺は言った。
「うん。甘えていいよ。わたしも甘えるから」
「ありがとう」
「こちらこそありがとう」
911: 2016/03/23(水) 00:09:59.52 ID:GUkSZoj/o
◇
酔っぱらった頭のなかで、いろんなことがぐるぐると巡っていた。
いい加減認めるべきかもしれない。
夜風に吹かれながら見慣れてしまった道を歩いている途中で、彼は待ち構えるみたいに立っていた。
「やあ」
ずいぶん久しぶりだという気がする。
立っていたのは鷹島スクイだった。
「ずいぶん酔ったみたいだな」
「どうも、そうみたいだ」
俺はもう、彼がそこにいることを不思議とは思わなくなっていた。
どこにでもあらわれる。
俺がいるところなら、いつでも、どこでも。
「なあ、スクイ。おまえは結局、誰なんだ?」
そう、訊ねてみた。答えらしい答えを期待したわけじゃない。
「鷹島スクイ」と、彼は案の定、答えになっていない答えを返してきた。
でも、それが正解なのかもしれない。
912: 2016/03/23(水) 00:10:52.24 ID:GUkSZoj/o
「おまえは、それでいいのかもしれないな」
スクイは不意に、そんなことを言う。
俺は頷いた。
「たぶん、そうなんだと思う」
なんとなく、今の俺には分かる。
スクイはきっと、俺自身が受け入れることのできなかった、俺の一部分だ。
苛立ち、怒り、憤り。
力を持たない正しさを、公正であることの報われなさを、
許すことのできなかった俺の姿だ。
俺はそれを、認めたくなかった。引きはがした。
それがたぶん、鷹島スクイの正体だ。
913: 2016/03/23(水) 00:11:18.45 ID:GUkSZoj/o
「藤宮ちはるといると、楽しいかい?」
いつかした、そんな問いかけを、スクイは俺に向ける。
「楽しいよ」と俺は頷く。
「るーだけじゃない。高森も、佐伯も、ゴローも、部長も、すず姉もちい姉も静奈姉も。
俺は、みんなのことが好きなんだよ」
「知ってるよ。楽しいかい?」
「楽しいよ」
たとえ、その裏側で、誰かが苦しんでいても、悲しんでいても。
その人のために何もしてやれなくても。
俺はやっぱり、楽しんでしまう。
何もできないこと、何もしていないこと。
危害を加えているわけじゃない。
それでもいつも、影のように張り付いたままのうしろめたさ。
何もしないことの、有責性。
914: 2016/03/23(水) 00:12:09.71 ID:GUkSZoj/o
「最初からわかってたことだよな」
そう、スクイは言う。
「腹を空かせた熊を頃して、魚の卵を食べて、家畜を飼い頃して、生きてるんだ」
「……」
「誰かの悲しみを食べながら、俺たちは生きてる」
その神経質さ、潔癖さを、本当にやさしさと呼んでいいのか、俺には分からない。
「生きることは、食べることだ」
不運を、非業を、不満を、不幸せを、食べることだ。
「おまえは食べたくなかったんだろ」
スクイの問いかけに、どうだろう、と首をかしげる。
915: 2016/03/23(水) 00:12:40.97 ID:GUkSZoj/o
たぶん。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
そう言った。
「本当にそうだと思ったんだ。誰かがその裏で悲しんでいるなら、
楽しいと思うことにはいつもうしろめたさが付きまとう」
だから、誰かが不幸でいるうちは、幸福なんて感じられない。
幸福なんてものは、ありえない、とスクイはいつか言っていた。
「でもさ、そうやって俺がつまらない顔をすることで、誰かが嫌な気分になるなら、
結局俺は、誰かの幸せの邪魔をしてるだけだ」
「たしかに」とスクイは言う。
916: 2016/03/23(水) 00:13:12.28 ID:GUkSZoj/o
「要するに俺は、目標の達成を急ぎすぎたんだな」
「急ぎすぎた」
「誰もが急にやさしくなって、みんなが急に幸せになるような、そんな展開。
そういうのを探してたんだよ」
「へえ」
「でも、そんなの無理だ。だから、不平を漏らすくらいのことしかできなかった」
「おまえらしいといえば、おまえらしい」
そうかもしれない。
「でも、よだかは、もう大丈夫だ」
「……」
「ちい姉だってるーだってすず姉だって静奈姉だって、遊馬兄だってきっと、いろんなものを消化して生きてるんだよな」
「……」
917: 2016/03/23(水) 00:13:38.94 ID:GUkSZoj/o
「かわいそうな子の役は嫌だってよだかに言われたとき、俺はぎくりとしたんだ」
「……」
「よだかは救われなきゃいけないって思ってた。何か、きれいな形で。
でも、あいつはもう、食べたんだ。何の救いもなくたってさ」
「……」
「そういうことなんだよな、たぶん。誰かの手で救われるわけじゃない。
みんな、理不尽を、不条理を、食べて、強くなっていくんだ」
そういうものなんだって、受け入れて。
「つまりさ、余計なお世話なんだよ。俺があれこれ頭を悩ませることなんて」
「……」
「俺にできることなんて、知れてるんだ。
困ってる人の手伝いをして、そばにいたい相手のそばにいて、
その人たちの幸せを願うしかない。だったらもう、考えることなんて無駄だ」
「そうみたいだな」とスクイは言った。
918: 2016/03/23(水) 00:14:05.22 ID:GUkSZoj/o
「じゃあ、仲直りだ」
そういって、スクイは俺に手を差し出した。
俺はその手を握った。
誰かが悲しんでいる。誰かが苦しんでいる。誰かが泣いている。
だから俺は、自分だけ幸せになるなんて許されないと思った。
その気持ちは、今でもなくなったわけじゃない。
「捨てられた猫、氏んでしまった猫は、どうする?」
俺は、やっぱり答えに窮したけど、
「それでも俺は、幸せなんだ」
そう答えた。
スクイは最後にポケットから煙草の箱とライターを取り出して、俺に差し出した。
「捨てといてくれ。もういらないから」
俺が頷くと、スクイの姿は消えた。
そうして彼は、二度と俺の前に姿を現さなかった。
919: 2016/03/23(水) 00:14:32.46 ID:GUkSZoj/o
俺はその場で蹲って呼吸を整えた。
何かが溢れ出しそうだった。
それがなんなのかもわからないまま、意識がたくさんの言葉の渦に呑まれる。
俺の身体に何かが入り込んでいきたような気分にさえなる。
俺はそれを、どうにか身体の中で受け止めようとする。
しばらくしてから、俺はどうにか立ち上がった。
シャッター音が聞こえた。
小鳥遊こさちが立っていた。
920: 2016/03/23(水) 00:15:03.20 ID:GUkSZoj/o
「和解ですか?」
「……」
「あら、しんどそうですね」
「……きみも、どこにでも現れるね」
「こさちは神出鬼没ですから。神でも鬼でもありませんが」
「じゃあ、なに」
「そんなに警戒しないでください。こさちはせんぱいとお話をしにきたんです」
「話……?」
「そろそろこさちもお役御免、といった具合のようなので」
「どういう意味……」
「ところでせんぱい、猫のことを覚えていますか?」
「……なに、それ」
「せんぱいが捨てた子猫のことですよ」とこさちは笑った。
どうしてそれを知っているのか、と、そう問うことも無駄だという気がした。
たしかに俺は子猫を捨てた。それは間違いない。
「こさち、せんぱいのことがだいすきですよ。今度は、嘘じゃないです」
「……」
「だから、もうこさちのことは忘れてください。お別れです」
――シャッター音。
924: 2016/03/27(日) 20:08:58.09 ID:5txwhAa2o
◇
橋の上に立っていた。
何を考えているのか、よくわからなくなってしまった。
今日、いったい誰と何を話したのか。
どれだけの相手が、俺に向けて言葉を放ったのか。
そのどれもを、もう俺は覚えていない。
何かがわかりそうだった。
あと少しだという気がした。
橋の下から水の音が聞こえる。
明日はバイトだな、と思った。
テストの勉強もしなきゃいけない。
本気でバンドをやるなら練習する時間はいくらあっても足りない。
夏休み明けには新しい部誌を出すと言っていたし、何を書くかも決めておかないと。
それで……それで。
俺が考えなきゃいけないのはそのくらいか?
925: 2016/03/27(日) 20:09:29.50 ID:5txwhAa2o
違うという気がした。
本当に考えなきゃいけないことから、俺は逃げている。
目の前のあれこれに気を巡らせることで、本当にかんがえなければいけないことから逃げている。
そんな気がした。
少し前までなら、「考えなきゃいけないこと」ははっきりしていた。
よだかのこと。
スクイのこと。
でもそれすらも、ひょっとしたら、ただ逃げていただけだったのかもしれない。
俺が本当に考えなきゃいけないのは……。
こさちのことでも、よだかのことでも、スクイのことでも、
嘉山のことでも、嵯峨野先輩のことでもなくて。
あるいは遊馬兄や静奈姉のことでもなくて。
きっと、自分のことだ。
926: 2016/03/27(日) 20:09:58.47 ID:5txwhAa2o
卒業してからのこと。父親のこと。将来のこと。
「ずいぶん遠くまできたんですね」
振り返ると、今まさに思い浮かべていた顔が立っていた
橋の上で、向かい合う。
こんなことが前にもあったような気がする。
あのときは彼女の顔がよく見えなかったけど、今は見える。
欄干のそばから延びた街灯に照らされて彼女の姿がくっきりとわかる。
「よくここにいるってわかったね」
思わずそうつぶやくと、るーは笑った。
「たまたまです」
たぶん、そうなんだろう。
927: 2016/03/27(日) 20:10:54.12 ID:5txwhAa2o
「何か考え事ですか?」
俺は頷いた。
「ずっと何かを考えてたんだけど」
「はあ」
「何を考えてたんだか、よくわからなくなったんだよ」
「それは……たいへんですね」
るーは困ったみたいに笑う。
「うん。大変なんだ」
頭の中がぐるぐるして、何を考えていたんだかもよく思い出せなくて。
そうやって眠って、気付いたときには忘れている。
そんなことの繰り返した。
928: 2016/03/27(日) 20:11:40.69 ID:5txwhAa2o
「まだ何か、考えたいことがあったんですか?」
「そんな気がするね」
「じゃあ、思い出せるまで一緒にお話しましょうか」
るーはそういって、欄干にもたれて体を預けた。
川辺の夜風は少し冷たい。
火照った体には、けれど、心地よい。
「寒くない?」
「涼しいですよ」
「眠くない?」
「平気ですよ」
「退屈だろ」
「ぜんぜん?」
きょとんとした顔で、るーは俺の顔を見返す。
その距離が意外なほど近かった。
俺も、橋の欄干に体をもたれた。
彼女のすぐそばに。
肩が触れるか、触れないかの距離で。
929: 2016/03/27(日) 20:12:11.07 ID:5txwhAa2o
「パーソナルスペース」
とるーは言う。
「密接距離ですね」
「不快?」
「いいえ?」
「ならいいや」
勘違いか、からかってるのか、それとも。
思わせぶりな態度が多いのは、お互いさまか。
「るー、今何考えてる?」
「テスト勉強してないなあって」
「俺も」
「タクミくんは、何考えてたんですか?」
930: 2016/03/27(日) 20:12:38.08 ID:5txwhAa2o
「るーのこと」
「うそつき」
「うん。ばれた?」
「ほんとに考えてたら、そんなこと言えないです」
「だよな」
「テストのこと考えてるとか、そういうこと言いますよ」
「かもな」
……。
「……今の、笑うところ?」
「それでもいいですよ?」
本当にそれでもいいよってふうに、彼女は笑う。
それじゃなくてもいいよっていうみたいに。
931: 2016/03/27(日) 20:13:23.09 ID:5txwhAa2o
頭がしびれるみたいな感じがする。
うまくものが考えられない。
「それで、何を考えてたのか、思い出せました?」
「なんだったかな」
「やっぱり、思い出せないです?」
「……思い出せないなら、きっと、たいしたことじゃないんだよな」
「ホントに?」
俺は答えなかった。
「あのさあ、るー」
「なに?」
と、本当に突然、るーは敬語をとった。
ちょっと戸惑ったけど、彼女が当たり前みたいな顔をしていたから、何も言わなかった。
932: 2016/03/27(日) 20:13:56.27 ID:5txwhAa2o
「子供の頃に魔法少女にあこがれたこととかってある?」
「好きでしたよ?」
「俺も」
「え、魔法少女ですか?」
「ううん。戦隊ヒーロー」
「ですよね。ちょっとほっとしました」
「誰かを助けたり守ったり、そういうのがかっこいいなって思ったんだ。
悪役を倒して、いろんなものに立ち向かってさ」
「そんなふうになりたかったんですか?」
「わからない。単に戦ったり武器を振り回したりするアクションが好きだったのかもな」
「まあ、女の子向けアニメの見どころも、変身シーンですもんね」
「誰かを助けられるような人間になりたいっていうのはさ」
「……はい?」
「素直な気持ちだと思う?」
「どういう意味ですか?」
933: 2016/03/27(日) 20:14:32.29 ID:5txwhAa2o
「誰かを助けることで、尊敬されたい、見返りがほしい、認められたい。
そういう気持ちが、どっかにあるような気がするんだよな。人にもよるだろうけど、俺の場合は」
「……」
「ヒーローになるためには、困ってる人が必要なんだよ。
だから、ヒーローになりたいって言うやつは、困っている誰かの存在を望んでるんだ」
「……はあ」
「それって、なんていうか……やな感じだよな」
「そのことを、考えてたんですか?」
「うん。……ううん、どうかな」
「誰かが困っているときに手助けができることは、悪いことじゃないと思いますよ」
「そうなのかな」
「だって、現に、困っている人はいるわけじゃないですか。望むと望まざるとにかかわらず」
「困っている人を助けたいって思うのは、自然なことだと思いますよ」
「おこがましくない?」
「そうかも。でも、じゃあ、放っておくのがいいんですかね? さしでがましいとか、おこがましいとかいって」
「……」
「正解なんて誰にもわかりませんよ。自分の心のメカニズムだって、ぜんぜん理解不能です」
934: 2016/03/27(日) 20:15:13.11 ID:5txwhAa2o
「代償行為なのかも」
「何が?」
「誰かを助けたいとか、悲しそうな誰かを見るのがつらいのは」
「代償行為?」
「猫を捨てたことがあるんだ」
「……猫、ですか?」
「代償行為だ」
誰かのことを考えることで、何もできなかった過去の失敗を帳消しにしたいがための。
顧みられない誰かのこと考えることで、顧みなかった誰かに言い訳するための。
「それって、きっと、何も考えないよりもずっと疚しいことなんだよな」
「そうかもしれないですね」
街灯の明かりに隠れて、夏の夜の星が水面に浮かんでいる。
なんだか急に、耐えきれないくらいに悲しくなった。
「るーといると、俺は弱音ばっかだな」
「ですね」とるーはなんでもなさそうに笑った。
935: 2016/03/27(日) 20:15:39.30 ID:5txwhAa2o
「わたしに嫌われたくて、そんな話をしたんですか?」
「かも」
「そのほうが楽だから?」
「だろうな」
「誰だって、自分のことがいちばんわからないものだって、誰かが言ってましたよ」
「そうなのかも」
「自分の気持ちの由来なんて考えたら、誰だってどこかに疚しさを抱えているのかもしれないです」
「……」
「わたしだって、きれいな気持ちだけで、ちい姉やすず姉と一緒にいられるわけじゃないです」
「……」
「そう言ったら、嫌いになりますか?」
「……いや」
「そうですよね。他人って意外と、他人の汚さには寛容なんです。自分ほど厳しくは、してくれないんです」
936: 2016/03/27(日) 20:16:22.54 ID:5txwhAa2o
そうなのかな。
どうなのかな。
「自分がいちばん、自分に厳しいから。潔癖すぎると誰にも甘えられないです」
「……」
「タクミくん、手、貸してください」
「どうして?」
「えと、じゃあ、手相を見るので」
「……はあ」
俺は手を差し出した。
るーはさっと俺の手のひらをつかんだ。
「どんなもんですか」
「よい手相です」
「……適当に言ってない?」
937: 2016/03/27(日) 20:16:56.84 ID:5txwhAa2o
「そんなことないですよ。お、これは二重感情線ですね」
「なにそれ」
「知りません」
「やっぱり適当だろ」
「違いますよ。感情線が二本です」
そう言って彼女は、人差し指で俺の手のひらをそっと撫でた。
すこしくすぐったい。
「意味は忘れましたけど」
「意味ないな」
「ですね」
「るーの手相は?」
「金星帯がありますよ。ほら」
そう言って、彼女は俺に手のひらを差し出した。
「ここです」とさしていたところを、俺も指先でなぞってみる。
938: 2016/03/27(日) 20:17:29.06 ID:5txwhAa2o
手相の意味なんてわからなかったけど、るーの手の小ささに、戸惑いを覚えた。
細い指、透き通る爪、折れそうな手首。
触れるのが心地よかった。
どうしてなんだろう。
さっきまで考えていたことが、もうわからなくなってしまう。
「金星帯ってなに?」
「えっと……自分で言うの、いやです」
「はあ」
「……聞きたいです?」
「話してくれるなら」
「……やっぱ嫌です。自分で調べてください」
ふうん、と言いながら、例の金星帯とかいうのを撫でてみる。
「あの、そろそろ……くすぐったいです」
「……」
「……タクミくん?」
「……もうちょっと」
「……あう」
939: 2016/03/27(日) 20:18:20.22 ID:5txwhAa2o
「……」
「タクミくん、たまにそういうことしますよね」
「るーもね」
「……おたがいさま、ですか?」
「うん」
「……あんまりされると、困ります」
「るーを困らせるの、楽しいよ」
「……」
「いつも、余裕そうだから」
「……へんたい」
……なんでだ。
940: 2016/03/27(日) 20:18:56.20 ID:5txwhAa2o
俺がつかんでいる手と反対側の手で、彼女は俺のもう片方の手をつかんだ。
俺がしているのと同じように、彼女は俺の手のひらをくすぐりはじめる。
「……」
「……」
目が合う。
「……な、なんですか?」
「なにが?」
「今、何考えてます?」
「……楽しいこと」
「……えっと、奇遇ですね?」
と言うが早いが、るーは俺の手のひらをくすぐり始めた。
急な刺激にびっくりして、俺は身をよじりながら、もう片方の手でるーの手のひらをくすぐる。
「あはは」とるーは笑った。
たぶん、本当はそんなにくすぐったくないはずなんだけど、くすぐられるって思うと不思議にくすぐったくなる。
941: 2016/03/27(日) 20:19:50.26 ID:5txwhAa2o
るーはわーわー騒ぎながら、「ええい!」って声をあげて、俺の脇腹に手を伸ばしてきた。
思わず体をくの字に曲げると、いつのまにか向き合っていたるーの肩に頭がぶつかる。
「やめろって」って、笑いながら言う。
「ふふふ」ってわざとらしく笑いながら、るーは手を動かすのをやめない。
「くすぐったいよ、るー」
「まいったか」
「まいったまいった」
るーは笑って、俺から離れた。
照れくさそうに笑う。
「……何してんだ、俺たち」
「ね、何してるんでしょうね?」
楽しそうに笑う。
942: 2016/03/27(日) 20:20:16.33 ID:5txwhAa2o
夜風が吹き抜ける。
くすぐったい沈黙。
静かに目が合った。
黙ったまま、俺たちは体を向かい合わせる。
静かな七月の夜。
「ねえタクミくん、今、何考えてます?」
「何考えてると思う?」
「わからないから、聞いたんですよ」
「俺も、わかんないや」
「……」
「自分のことは、自分がいちばんわかんないんだろ?」
「……うん」
「るーは、何考えてる?」
「……テスト勉強のこと」
「そっか」
「ね、タクミくん」
「なに」
「足、疲れちゃいました」
943: 2016/03/27(日) 20:20:49.60 ID:5txwhAa2o
「ん。うん」
それがどうした、という意味で頷くと、彼女はゆっくりと体を倒してこちらにもたれかかってきた。
「……欄干があるだろ」
「ありますね、欄干」
それがどうした、という声で、彼女は言った。
「るー、あのさ」
「……なんですか?」
「テストの勉強、しなきゃ」
「……」
「明日も、学校だし」
「……」
「帰らなきゃ、だよ、な?」
「……」
「……るー」
「……やだ」
と、るーは俺の胸に額を押し付けた。
944: 2016/03/27(日) 20:21:26.71 ID:5txwhAa2o
「……酔ってる?」
「そういうことにしても、いいです」
「どうしたの」
「もうちょっと、お話ししよう?」
「……」
「だめ、ですか?」
「……いいけど、さ。どうしたの、るー」
なんでもない、とるーは首を横に振った。
俯いた顔は、こっちからじゃよく見えない。
近すぎて、よく見えない。
945: 2016/03/27(日) 20:22:16.98 ID:5txwhAa2o
「……どうして、なのかな」
るーは、何かをさぐるみたいに、そうつぶやいた。
「何が?」
るーは、俺の顔を見上げて、
「べつに、とびぬけてかっこいいってわけじゃないですよね?」
「……」
なんて言った。
いや、知ってたけど。
知ってたけど、こう。
好きな子に言われると、複雑だ。
「なのに、なあ」
ふう、とるーはため息をつく。
「おい、真顔で言われると俺も傷つくぞ」
946: 2016/03/27(日) 20:22:56.51 ID:5txwhAa2o
「かっこ悪いとはいってないです」
「そういう問題じゃなくてね」
「何が問題なんですか?」
「……いや、俺はるーのこと、とびぬけてかわいいと思ってるから」
「は」
「ちょっと悔しいだけ」
「……あ、あのう、何をおっしゃってるんです?」
「……」
「もっかい、言って?」
「やだ」
「もう一回。……ダメ?」
「ダメ」
「けち」
947: 2016/03/27(日) 20:23:40.08 ID:5txwhAa2o
ふと、思い出したことがあった。
一緒に雨に濡れた猫のこと。
いつのことだったっけ?
どんな猫だったっけ?
あの猫は、どこにいったんだ?
どうして、あの猫と一緒にいたんだろう。
思い出せないことばかりだ。
「そろそろ戻ろう、るー」
「……うん」
頷いても、るーは戻る気配を見せなかった。
「……もうちょっとだけ」
そう言って、彼女はもたれかかってきた。
俺は、半分あきらめたみたいな気持ちで、彼女の肩に腕をまわしてみた。
るーはくすくす笑った。
「なに?」
「なんでもない」
満足そうなため息を漏らして、るーは頬を肩に寄せてくる。
「何をやってるんだろうな」
「何をやってるんだろうね」
結局、動き出すまで、けっこうな時間がかかってしまった。
954: 2016/04/01(金) 00:09:44.96 ID:MXZ6V7p7o
◇
その日、部屋に帰ったら部屋には誰の姿もなくて、
静奈姉の部屋を確認したらベッドにひとり、床に敷かれた布団にふたり、女の人のからだがあって、
「あれ?」と思って俺の部屋を覗いたら俺のベッドの脇に布団が敷かれていたりした。
「誰だ」と俺が言ったら、
「まあすず姉と静奈さんでしょう」と妙に冷静な声でるーは言った。
「ひとつのベッドで寝ろと言わないだけ良識が働いてるほうですね」とも。
いやいやそうもいかんだろう、というわけで俺がリビングのソファで寝ることにしたら、
「じゃあお風呂お借りしますね」とるーが脱衣所に入っていってしまった。
俺はるーの荷物の置かれた自分の部屋に入るのもなんとなく気が進まなくて、
仕方なくリビングのソファでぼんやりしていたわけだけど、
そうしていると壁に面した脱衣所のドアの向こうの物音が聞く気がなくても妙に耳に入ってきたりした。
「いや、マジか」
と俺は思わずつぶやいた。
955: 2016/04/01(金) 00:10:20.83 ID:MXZ6V7p7o
というか俺の周囲の女性陣は俺自身の思春期男子性を軽んじすぎている気がする。
高森には「性欲なさそう」とか言われるし、
静奈姉だって、そりゃあ信頼されてるんだろうしそういう対象として見られるとも思ってないんだろうけど、
いくらなんでも無防備すぎるって状況が結構多い。
そりゃ、自制心くらいあるし、分別くらいはつく。
見境ないわけでもない。
「……」
ない、が……。
「……今からでも、ゴローんち行こうかなあ」
考え事をしている間に、時間はどんどん過ぎていって、
「どうしたんです?」とるーがまだ乾ききっていない髪をタオルで撫でつけながらリビングに入ってくるときまで、
俺は結論どころか設問さえもろくに出せていなかった。
ぐるぐるまわる頭を強引に落ち着かせてるーの姿を見ると、
「げ」
となった。
956: 2016/04/01(金) 00:10:47.44 ID:MXZ6V7p7o
「げ、ってなんですか、げ、って」
「……なんでパジャマなんだよ……」
「な、なんでって。寝るときいつもこれですよ、わたし」
「いや、うん。べつに変じゃない……違う、俺の問題だこれは……」
「……えと、どうかしたんですか?」
「ほっといてくれ、いろんなものと戦ってるんだ」
「……そうなんですか」
「うん」
「えっと、がんばってください?」
「うん」
957: 2016/04/01(金) 00:11:16.08 ID:MXZ6V7p7o
「……となり、いいですか?」
「……え」
「となり」
と、るーはソファをさした。
まあ、二人掛けなんだけど。
二人掛けなんだけどさ。
「な、なんで」
「見たいテレビ、あるんです。タクミくんの部屋、テレビないじゃないですか」
「……そう、だねえ、そういえば」
そういえば、ない。
「失礼します」
俺の答えを待たずにるーは隣に腰を下ろした。
958: 2016/04/01(金) 00:12:38.44 ID:MXZ6V7p7o
というか、
もう、
いいかげん無理だ。
俺だっていろいろがんばってるのだ。
誰も気付いていないだろうし、誰も褒めてはくれないだろうけど。
袖から覗く腕の細さが、細い首筋が、
見慣れない足の甲と小さな指が、きれいに並んだ爪が、
濡れた髪とシャンプーの匂いが、わずかに紅潮した頬と潤んだ瞳が、
頭をしびれさせる。
が、
ここは親戚の家で。
ひとつ屋根の下には彼女の姉二名。
959: 2016/04/01(金) 00:13:04.51 ID:MXZ6V7p7o
というわけで。
「……どうぞ」
俺は顔をそらしてやりすごす以外に手段を持たない。
「……ときどき真面目であることをやめたくなるな」
「そういう日もありますね、喫煙者さん」
「あれはやめたよ」
「それはよかったです」
何の説明も求めないるーの性格に、俺はいつも助けられてる。
助けられてるけど。
960: 2016/04/01(金) 00:15:00.56 ID:MXZ6V7p7o
いろんな考え事があるからとか、そういうのとはあんまり関係なく、
とりあえず彼女を『そういう目』で見たくなくて、
だからなんとなく、今はそばにはいたくなかった。
「俺も風呂入ってくる。るーも、テレビ見たら、あと寝な」
「あ、はい」
なんだかそれは裏切りのような気がする。
それともそれは、子供っぽい願望の投影?
どちらなのかはよくわからないけど。
いずれにしても。
今はどうにもなれない。
酔っぱらった眠い頭で、勢いに任せたままで何かを決めたくない。
それも勝手なのかもしれない。
そんなことをぐだぐだ考えながらシャワーだけを浴びて、
どうしようか迷いながらしばらく髪を乾かして歯磨きをして、顔を洗って静奈姉の化粧水やら乳液やらを勝手に使って、
時間を無駄につぶしてテレビの音が消えてから、俺はリビングへと戻った。
961: 2016/04/01(金) 00:16:35.48 ID:MXZ6V7p7o
するとテレビも電気も消えていた。
勝った、と俺は思う。何にかはわからない。
そうしてジャージとTシャツ姿になった俺は暗いままの部屋を歩いてソファへと向かった。
一応るーがいないことを確認してから、寝そべる。
少しだけ猫とベースとよだかとスクイのことを考える。ついでにテストとバイトのこと。
今日何度も考えたようなこと。
瞼を閉じて「今日は疲れたなあ」なんて思う。酔いなんて、本当はとっくにさめているとわかっていた。
だからたとえば扉の音がして、光が俺の部屋から延びてきて、
「タクミくん」なんてるーに声をかけられたときも、決して寝ぼけてなんていなかった。
「なに」と出した眠たげな声も、半分くらいはつくりもので、るーだってそれに気付いたと思う。
「一緒に、寝ませんか?」
そんな言葉にだって、反対できる理性くらいあったけど、従いたくなかった。
「……うん」
べつにそれは下心じゃない。
どうせ誰も信じてくれないだろうけど。
962: 2016/04/01(金) 00:17:32.16 ID:MXZ6V7p7o
◇
なんでなのかは、やっぱりよくわからない。
俺は床の布団に寝そべっていて、るーは俺のいつも使ってるベッドに横になっていた。
床のほうが固いから、なんて当然のように思ったけど、
今になって自分の匂いがしみついていないか気になったりもした。
そういえばよだかが、匂い、するって言ってた気がするし。
なんてことを、まさか訊ねるわけにもいかずに、俺は黙ってた。
ただ俺は、普段、自分の使っているベッドに、パジャマ姿で横になっている好きな子の息遣いを聞きながら、
息遣いを聞いてる自分が気持ち悪くって、なんとか意識しないように気を付けていた。
「前も……」
と、不意にるーは言う。
「前も、お泊りしたこと、ありましたよね」
「バーベキューのとき?」
「うん。それに、台風のときも」
「……あったなあ」
子供だからといって、るーと一緒くたに扱われて一緒に寝させられたっけ。
俺だって小学高学年だったわけで、いろいろ気まずかったことを覚えている。
美咲姉なんて、考えてみれば二つか三つくらいしか違わなかったわけで(当時はすごく大人に見えたけど)。
963: 2016/04/01(金) 00:18:20.60 ID:MXZ6V7p7o
「ね、タクミくん」
「なに」
「お姉さんが、おとぎ話をひとつ、してあげましょう」
「……誰がお姉さんか」
「『かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向うの山は暗くなりました。』」
「……それ、知ってるよ、俺」
「ですよね」とるーは笑った。
「なにせ、タクミくんに教えてもらった話ですからね」
当時の俺もよく知っていたものだ。
といっても、あの当時は、作家の名前なんて知らなかったけど。
964: 2016/04/01(金) 00:20:12.14 ID:MXZ6V7p7o
どんなときに話したんだっけ。
たしか、あのとき、るーが、泣いていたんだっけ?
悲しそうで、だから……。
「どうして、そんな話をするの?」
「好きですよ、めくらぶどうさん」
「……」
「……」
「……今なんて?」
「おやすみなさい、って言いました」
「……」
「タクミくん、お返事は?」
園児か俺は、と、場違いなツッコミを入れたい自分が半分、
それどころじゃない聞き返せ、とうるさい自分が半分。
操縦者は間をとって、
「おやすみ」
と言った。
「よろしい」
るーはこっちに背中を向けた。それ以降は何も喋らなかった。
965: 2016/04/01(金) 00:21:13.24 ID:MXZ6V7p7o
つづく:屋上に昇って【その10】
966: 2016/04/01(金) 00:31:09.58 ID:CN5s+/1Vo
乙です
引用: 屋上に昇って
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