968: 2016/04/02(土) 00:46:33.74 ID:PCQym4Teo

最初:屋上に昇って【その1】
前回:屋上に昇って【その9】
◇[Alabaster Chambers]


 あくる日、目をさましたとき、俺のとなりにはるーが眠っていた。
 からだをこちらに寄せて、ひとつの布団の中に。

 俺はいくらかの混乱を覚えてから、しばらくまどろみに浸った。

 不思議と、スクイのことを思い出した。
 
 ――藤宮ちはるといると、楽しいかい?

 楽しいよ、と今の俺は答える。
 それが少し悲しい。以前と変わらない。

 その悲しみを、それでも俺は、いくらか受け入れることができる。
 今となっては。

ふらいんぐうぃっち(12) (週刊少年マガジンコミックス)
969: 2016/04/02(土) 00:46:53.83 ID:PCQym4Teo

 体を起こして、どうしてこいつは俺のとなりで眠っているんだろうと考えた。
 俺のことを、どうして嫌がらないんだろう、と、いまさらすぎる疑問を覚えた。

 少し、ぐるぐると考えてから、どうでもいいやと思った。
 
 俺はしばらく、るーの寝顔を眺めることにした。

 目が覚めたら嫌がるかもしれない。でも、いやがらないかもしれない。
 それを確かめてみたい気がした。

 長い睫毛にみとれる。

 今日は、どうするんだろう、とぼんやり思う。

 制服を持ってきているようには見えなかったから、一度家に帰るのかもしれない。

 リビングに誰かが起きだしている気配がして、どうしようか迷ったけど、 
 なんとなく、俺はるーが目をさましたあと、一番最初に見る人間になりたい気がして、結局動かなかった。


970: 2016/04/02(土) 00:47:21.61 ID:PCQym4Teo

 窓の外から小鳥の鳴き声がきこえる。

 しばらくしてから、るーは目をさまして、平然と目をこすりながら、

「おはようございます」

 と言った。

「何してたんですか?」

 寝ぼけた、甘ったるい声。

「寝顔見てた」

「へんたい」

「なんで」

「知ってたけど」

 もはや事実として定着したらしい。


971: 2016/04/02(土) 00:48:04.59 ID:PCQym4Teo


「あんまり見ないでください。寝顔なんてだいたいの人がぶさいくなんです」

「いや、気にしてなかった」

「否定はしないんですね」

「否定しても信じないだろ」

「まあ……はい」と、るーは中途半端な反応をよこした。

「今朝は一回家に帰るの?」

「はい。ちい姉かすず姉が、送っていってくれると思うんで」

「ふうん」

「タクミくんも一緒に行きますか?」

「どうしようかな……」

 しばらくのあいだ、そんなぐだぐだした会話を続けていた。
 俺もるーも、一枚の布団にくるまって眠っていたことについては何も言わなかった。


972: 2016/04/02(土) 00:48:37.39 ID:PCQym4Teo

 けだるさを打ち切って起きだすと、リビングではちい姉と静奈姉が朝食の準備をしていた。
 ハムエッグとソーセージ、サラダとコンソメスープ。

「おはよう」とふたりは言って、俺のうしろから出てきたるーの姿を見てちょっと目を丸くした。

「一緒の部屋で寝たの? どこにもいないと思ったら」

 静奈姉がちょっと怪訝げな顔をした。

「まあ、そうなるね」

「あのね、タクミくん、そういうことをするなとは言わないけど」

「そういうことってなに」

「状況を選んであげないと、るーちゃんがかわいそうでしょ」

「そこかよ」

「大事なことだよ?」

「何もしてないよ。な?」

 振り返ってるーを見ると、彼女はぼんやりした目であたりを見回してから、

「……あ、はい」

 と、半秒遅れで頷いた。


973: 2016/04/02(土) 00:49:28.77 ID:PCQym4Teo

「すず姉は?」

 話を取り合っても仕方ないと思って話題を変えると、ちい姉が当たり前みたいな顔で答えてくれた。

「家に帰った。今日、朝早いんだって」

「朝早いのに昨日の騒ぎだったのか」

「若者の特権だよね」と静奈姉。

「ちい姉、わたしのこと送ってくれる?」

「うん」

「じゃ、お願い」

「ついでだし、タクミくんも乗ってく?」

「あ、うん」

「とりあえず、ごはん食べちゃいないよ」と静奈姉。

「ちひろちゃんの家に寄ってくなら、早めに出ないとでしょ?」

「……だね」

 俺はなんだか、ひさしぶりに、不安になるくらい、楽な気分だった。
 なんだかいつも、誰にも守られていないような気分だったのに。

 文句も言わず助けてくれる人が、いまの俺にはたくさんいるような気がした。


974: 2016/04/02(土) 00:49:45.71 ID:PCQym4Teo



 それからちい姉の車で送られて、るーの家まで向かった。
 車の中ではちい姉とるーがふたりでごく当たり前の家族の会話をしていた。

 ちい姉は、るーと俺が同じ部屋で眠っていたことについても、ほかのことについても、何も触れなかった。

 聞いてほしかったわけでもないけど、少し不思議な気がする。

 るーとちい姉が家で身支度をするのを待つ間、俺はひとり車に残されて休んでいた。
 
 そのあいだはほとんど何も考えずに、ただ庭に生い茂る木々を眺めていた。

 鳥の姿が見える。
 
 少しして、制服姿のるーと、新しい服に着替えたちい姉が玄関から出てきた。
 そういえば、ちい姉は今日、デートだって言ってたっけ。

 遊馬兄のことを少し考えて、でもすぐにやめてしまった。


975: 2016/04/02(土) 00:50:18.26 ID:PCQym4Teo

 校門前についたのはまだ早い時間だった。

 車を降りるとき、ちい姉は当然みたいな顔で、

「またね」

 と言った。俺はそれがとても不思議だと受け取った。

「いってきます」とるーが言ったので、俺も思わず「いってきます」と言う。

「いってらっしゃい」と、ちい姉は見たことないくらいやさしい顔で笑った。

「さて」と、去っていく車を見送ってから、るーは俺の方を見る。

「今日という日は戦いですよ」

「……何の話?」

「日々は闘争です」
 
 意味がわかんないや、と思った。


976: 2016/04/02(土) 00:50:58.79 ID:PCQym4Teo



 鷹島スクイのしたこと、見たこと、聞いたことを、不思議と俺はいくつか思い出すことができるようになっていた。

 焼却炉、まだ第一と第二が入れ替わる前の、『あっち』の文芸部の部室でのこと。
 嵯峨野連理と、嘉山孝之のこと。

 教室でぼんやりしているとゴローがやってきて、

「昨日の特訓のおかげでなんだかいけそうな気がしてきた」

 と呟いた。まあ、俺もいくらかやる気にはなっていた。形になればいいな、と思う。

 それからゴローは見覚えのない本を取り出して俺に見せてきた。

「いちばんわかりやすいDTMの教科書」と本の表紙に書いてあった。

「それ、どうしたの?」

「佐伯の兄貴が持ってたんだって。借りてみた」

「DTM?」

「作曲しようと思って」

「本気だったの?」

「いける」

 ゴローは根拠のない自信に満ちていた。


977: 2016/04/02(土) 00:51:32.62 ID:PCQym4Teo

 ひとり本を読み始めたゴローと、会話もなく朝の時間を共有していると、

「浅月、お客さん」

 とクラスメイトに声をかけられた。
 教室の入り口からの声に呼ばれて立ち上がると、立っていたのは嵯峨野連理だった。

「やあ」と嵯峨野先輩は言う。

「おはようございます」

「久しぶりな感じがするね」

「たしかに」

 なにせあちらが神出鬼没だ。
 
「少しいいかな」

 いいですよ、と俺は頷いた。


978: 2016/04/02(土) 00:52:02.81 ID:PCQym4Teo




 屋上へと、向かった。
 東校舎の屋上だ。
 
 一年と少しの間、何度昇ったかもわからない階段。
 
 用事があるわけでもないのに、何度も昇った階段。

 どうしてなんだろう。

 俯瞰、鳥瞰。
 高い場所。

 べつに、何を期待したわけでもないのに、毎日のように通っていた。

 嵯峨野先輩の背中を追いながら、俺は少しだけ考える。

 よだかは今、どうしてるんだろう、なんてことを。
 
 学校に行ってるんだろうか。
 ひとりでいるんだろうか、誰かといるんだろうか。
 笑っているだろうか。

 つじつま合わせみたいに、帳尻合わせみたいに、そう考える。

 そしていつものように、俺は、屋上に昇って、
 いつものように、ため息をついた。


979: 2016/04/02(土) 00:52:48.70 ID:PCQym4Teo



 屋上についてすぐ、嵯峨野先輩はフェンスに近付いた。 

 制服姿の彼の後ろ姿は、見下ろす街をその向こうにとらえている。
 フェンス越しの街並みは、ここからだと模型のように小さい。それくらいに遠い。

「孝之と、何か話した?」

「……孝之?」

「嘉山孝之」

 ……話した、と俺は思う。
 でもあれは、俺じゃなくてスクイだ。
  
 そのスクイと嘉山の会話を、俺は覚えている。

「ああ、はい。……気になるなら、先輩に訊けって」

「急に敬語なんだね」

 嵯峨野先輩は、振り返ってそう笑った。
 スクイは、敬語を使わなかったのかもしれない。
 はたから見たら、たしかに不思議なんだろう。


980: 2016/04/02(土) 00:53:08.69 ID:PCQym4Teo

「昨日、孝之に問い詰められたよ」

「……」

「あいつ、やっぱり、俺を庇ってるつもりだったんだな」

 そう言って彼は、ポケットから小さな腕時計を取り出した。
 形見だ、と彼が言っていた。そんな記憶がある。

 鷹島スクイはその話を、『あっち』の文芸部室で会ったとき、嵯峨野連理から聞かされていた。

 嵯峨野葉羽の、形見。

 それを探して氏んだ、と、誰かが言っていた。

 でも、それを、嵯峨野連理は持っていた。

「きみも、俺のせいで葉羽が氏んだと思う?」

「知らない」と俺は言った。

「俺はその場にいなかったから」

「違う」と嵯峨野は言う。


981: 2016/04/02(土) 00:53:54.33 ID:PCQym4Teo

「あの日、川のそばに近付いたのは、孝之だ。葉風はそれを止めにいった。
 俺はそれを知っていた。孝之だって、自分で分かってるはずだと思った」

「……」

「でも、違う。あいつは本気で、葉羽が時計をなくしたんだと思ってる」

「……」

 記憶は作り物だ。揺らぎやすくて、すぐに変化する。
 
 過去の記憶はいつだって、現在に都合のいいように書き換えられている。
 誰だってそうだ。出来事の記憶の比重は人によって異なる。その細部だって、遠ざかればまったく違う形になる。
 
 俺が第一――当時の第二文芸部の部室に、『鷹島スクイ』の原稿を置きに行ったとき、部室には嵯峨野連理しかいなかった。

 嵯峨野は例の部誌を見て、呆然としていた。

 俺は仕方なく声を掛けた。嵯峨野は、処分してくれ、と言った。
 お願いだから、こいつをどこかに捨ててくれ、と。そのときに俺は、彼からいくらか話を聞かされた。

 及川ひよりの書いた原稿は、嵯峨野葉羽の氏の遠因が、腕時計にあるとしていた。
 でも、嵯峨野連理は、そうではないことを知っていた。その腕時計は、その日、嵯峨野葉羽の部屋にあったからだ。


982: 2016/04/02(土) 00:54:26.23 ID:PCQym4Teo

 同じ出来事について語っているはずなのに、それぞれに言い分が食い違う。

 そんな話を読んだことがある。

 そうだ……"藪の中"だ。

 そこにいたわけでもなければ、彼らを知っているわけでもない俺に、どうして本当のことが分かるだろう。
 本当のことなんて、分からない。探していたのは腕時計ではなかったのかもしれない。
 嵯峨野連理が、別の腕時計を“それ”だと思い込んでいるのかもしれない。

 本当のことなんて、俺には分からない。

 嵯峨野連理はただ、どうすればいいか分からないというように、女物の腕時計を眺めていた。

 その苦しげな表情に、どうしてか俺は悲しくなる。
 何を悲しく思っているのかも分からないくらい、悲しくなる。

 そこで、扉が開く音がして、

 振り返ると、嘉山孝之が立っていた。


2: 2016/04/06(水) 00:22:31.57 ID:IXgA3K/jo



 フェンスのそばには嵯峨野連理が、 
 屋上の入り口には嘉山孝之が、
 その中間、少し斜めに、俺が立っていた。

 三角形を作る頂点のように、俺たちはそれぞればらばらに立っている。

 嘉山孝之は、俺と嵯峨野の顔を交互に見てから、怪訝そうな顔をして、

「朝から何を話していたんだ?」

 そう、訊ねてきた。

「たいしたことじゃないよ」と嵯峨野は言った。
 
 言いながら、彼は、手のひらに持っていた腕時計をポケットの中に忍ばせる。

 どうしてそんなことをするのか、俺にはよくわからなかった。 
 でも、無駄だったらしい。

「連理兄、今、ポケットの中に、何を入れた?」

 けっして、近い距離ではないけれど、嘉山はすぐに、それに気付いた。


3: 2016/04/06(水) 00:23:03.40 ID:IXgA3K/jo

「時計だよ」と嵯峨野は言う。

「時間を見ていた」

 嘉山は黙る。

 俺は、嵯峨野連理が、嘉山に腕時計について話していないらしいことに気付き、不思議に思う。
 どうして嵯峨野は、それを隠したのか。

 そして、気付く。
 
 嵯峨野連理は、妹の氏の原因が嘉山孝之にあると思っている。
 嘉山はそれに気付いていない、あるいは、そのことを忘れている。
 それを隠し続けるために、嵯峨野は時計を隠したのだ。

 その奇妙さに、俺はめまいがしそうになった。


4: 2016/04/06(水) 00:23:29.05 ID:IXgA3K/jo

 嵯峨野は、嘉山が原因だと思っている。そのことを、嘉山に隠そうとしている。
 嘉山は、嵯峨野が原因だと思っている。そのことを、嵯峨野に隠そうとしている。

 互いが互いを庇うために、真実を隠そうとしている。

 そうだよな、と俺は思う。

 本当のことなんて、知ってどうする?
 知ってしまったらろくでもないことばかりなのかもしれない。

 知ってしまったことは、なかったことにはできない。

 ページをめくらなければ、続きを知らなくて済む。

 耐えがたい真実と選びやすい虚偽ならば、後者を受け取るべきだ。
 真実は所詮、ひとつの側面でしかない。

 俺は黙ったまま、フェンスの方へと向かう。
 ふたりの話はもう、俺にはどうでもよかった。


5: 2016/04/06(水) 00:23:56.41 ID:IXgA3K/jo

 部誌を燃やしたのは、俺だ。嵯峨野から、話も聞かされた。
 彼が原稿を読んだどころに、居合わせもした。嘉山に告発を受けもした。

 でも、彼らのこのやりとりは、既にそういう問題ではなくなってしまっている。

 俺が口出しをすることでもない。
 彼らがどんな関係になろうと、俺にはどうでもいい。

 本当のことも、本当の気持ちも、全部覆い隠して。
 それらしいだけの嘘で塗りたくって。

 そうだな、と俺は思う。

 それは、そうだ。

 俺だって、よだかのことを、父のしていたことを、母に伝えられはしない。

 本当のことなんかより大切なものがあるから、じゃない。

 伝えたとき、なくなってしまうものが怖いだけだ。
 人のことなんて言えない。


6: 2016/04/06(水) 00:25:06.86 ID:IXgA3K/jo

 きっと、誰だってそうだ。
 嘘をついて、やりすごして、ごまかして、
 日々が壊れるのを、必氏になって避けようとしている。

 カントは、道徳律は定言命法で語られるべきだと言った。
「もし……ならば……してはならない」ではなく、ただ「……してはならない」と。

「嘘をついてはならない」、と彼は言う。

 どんな状況でも絶対に、嘘をついてはならない、と。
 
 でも、人は嘘をつく。
 暴漢に追われている友人をかくまうとき、暴漢に友人の行方を聞かれたなら、人は暴漢に虚偽を教える。

「あっちにいきましたよ」、と。
「ここにはいませんよ」、と。

 本当のことに、どれだけの価値があるだろう。

 そこに、何のうしろめたささえ覚えずに、人は嘘をつく。
 真実の重みなんてそんなものなのだろう、きっと。

 ……きっと、そうだ。


7: 2016/04/06(水) 00:25:33.89 ID:IXgA3K/jo

 でも、それじゃあ、

 嵯峨野葉羽の氏は、どこかに置き去りだ。
 その子の氏は、嵯峨野にも嘉山にも、ただ厄介なだけの代物だ。

 ただ取り扱いが難しいだけの。
 運び込むのが難しい荷物のような。

 ただそれだけの代物に、今この場では、嵯峨野葉羽は成り下がっている。

 俺が口を出すことではない。
 
 何が本当のことかも、俺にはわかるはずはない。

 でも、俺はそれを、嫌だと思った。
 誰かの氏と、今生きている人間の痛みとを秤にかけて、
 生きている人間の痛みを優先するのは、嫌だと思った。

 効率的だ。
 氏んだ人間は何も感じないから。
 犠牲にするなら、氏んだ人間の方がいい。

 氏んだ人間に何かを押し付けて、生き残った誰かが幸福になるなら、そのほうがいい。
 スマートだ。

 だったらどうして、こんな気持ちになるんだろう。


8: 2016/04/06(水) 00:26:10.26 ID:IXgA3K/jo

「なあ、連理兄」

 だから俺は、嘉山が何かの覚悟をきめたように、そう声をあげたとき、少しだけほっとした。

「……なんだ?」

「その時計、見せてくれよ」

 嘉山はまっすぐに、嵯峨野の方を見据えている。
 
 嵯峨野はしばらくのあいだ黙っていた。
 逃げ道をさがすみたいに、しばらく視線をそらして、やがて、あきらめたようにため息をついた。

 ポケットから、女物の腕時計が取り出される。

 嘉山が、嵯峨野先輩へと、近付いていく。
 
 差し出された時計を、嘉山は受け取って、ゆっくりと眺めた。

「どうして、これがあるんだ?」

「……どうしてだろうな」


9: 2016/04/06(水) 00:27:09.21 ID:IXgA3K/jo

 本当のことは、もう、誰にも分からないだろう。

 嵯峨野葉羽が何を思い、川に近付いたのか。

 嘉山の言うように、嵯峨野からのプレゼントを探していたのか。

 もはや時計さえ、何の証拠にもならない。

 似た時計、おなじ形の時計を、嵯峨野がそれと思い込んでいるだけかもしれない。
 自分が贈った時計が原因と知った嵯峨野が、そうではないと思い込むために、時計を手に入れる。
 絶対にありえないって話じゃない。

 それとも嵯峨野の言うように、嘉山を追って川に近付いたのか。
 けれど、もう、当人でさえ、本当にどうして川に近付いたのかなんて、わかりはしないだろう。

 それでも嘉山は、時計を見て混乱していた。 
 それが、その時計だと、彼は気付いたように見えた。

 だとすると、嵯峨野の言葉の方が、少なくとも真実らしくはあるのだろう。

「いつから、持ってたんだ?」

 嘉山はそう訊ねた。「あの日から」、と嵯峨野は答えた。


10: 2016/04/06(水) 00:27:35.91 ID:IXgA3K/jo

「知らなかったな」

 それから、ふたりとも黙り込んでしまった。
 俺はぼんやり空を見た。

 この人たちが何を考えているのか、俺にはわからない。
 
 いい天気だった。
 
「時計を探してたんじゃなかったんだとしたら、葉羽はどうして川に近付いたんだろう」

 嵯峨野は黙っていた。
 嘉山を追いかけたんだ、と、嵯峨野は言っていた。
 嘉山はそう思っていない。

「……時計は、あるのに、でも、じゃあ」

 嵯峨野葉羽は、どうして氏んだのか?
 
 そんなこと、俺が考えたって仕方ない。

 記憶は感情と事実の化合物だ。
 

11: 2016/04/06(水) 00:28:02.10 ID:IXgA3K/jo

 嘉山の表情に、混乱が兆した。

 目に見えて何かが変わったというわけじゃない。
 それでも、一瞬で、雰囲気ががらりと揺れ動いたのがわかる。

 俺は全身が緊張するのを感じた。

「葉羽は時計を、でも時計は、いや、あのとき、葉羽はたしかに時計を」
 
 最後までつながらない言葉が、嘉山の口からあふれ出してくる。
 無表情のまま、彼は言葉を吐き出し続ける。

「時計? 時計だ。時計だと言っていた。そのはずだ」

 でも時計はここにある。でも葉羽は、葉羽はあのとき、
 俺はたしかに、いや、けれど、

 何かが噴き出そうとするのを抑えるみたいに、嘉山は額を抑えた。

「孝之、落ち着け」

 嵯峨野連理が嘉山の肩を抑えた。嘉山はそれを振り払った。


12: 2016/04/06(水) 00:28:38.15 ID:IXgA3K/jo

 めまいに襲われたように、嘉山のからだは揺らめきはじめる。
 俺は声も出せずにその姿を見つめていた。

「あの日、葉羽は……」

「孝之?」

 声をかけ、近付こうとした嵯峨野の肩を、嘉山はつかんだ。

「どうしてそれが、そこにある? ずっと持ってた? そんなはずない!
 葉羽は時計を落としたんだ! あの日それを探してた!」

「違う、孝之」

 慎重そうな声で、落ち着かせようとするみたいに、嵯峨野はこわばった声をあげる。

「時計はずっと、葉羽の部屋にあった」

 嘉山はいっそう混乱したように、嵯峨野の肩を揺さぶった。

「じゃあ、あの日葉羽はなんで川に近付いた? あいつが意味もなくそんなことをするわけがない」

「それは、俺にもわからない」

「わからないわけあるかよ!」


13: 2016/04/06(水) 00:29:08.24 ID:IXgA3K/jo

 嵯峨野は、何かをあきらめるような顔をした。

「どうしてかは知らない」

 それから静かに、言葉を続ける。

「あの日、川に近付いたのはおまえだ、孝之。葉羽はそれを止めにいった」

「え……?」

 嘉山の表情から感情が欠落する。
 何かを探ろうとするみたいに、視線が宙を泳ぐ。

「そんなわけ、葉羽は、時計を……」

 そうだ、葉羽は、時計を探してたんだ。

 嘉山は、そう言った。

 嘉山が、腕に力を込めたのがわかった。
 嵯峨野の体が、フェンスに押し付けられる。
 古びた金網が軋む声をあげた。

「時計を探してたんだ、それは間違いない……間違いない!」
 

14: 2016/04/06(水) 00:29:38.12 ID:IXgA3K/jo

 暴れるように、嵯峨野の体を、嘉山は押し続ける。興奮した様子で、頭をぐらぐらとさせながら。

 嵯峨野は静かに、

「……誰の時計だ?」

 そう、問いかけた。

「誰の、って……」

 ぎりぎりと、金網が軋む。
 俺は間に入り、二人を止めようとした。

 嘉山の腕をつかみ、嵯峨野の肩から引きはがそうとする。
 力は思いのほか強い。体が、引きずられる。

「葉羽は、誰の時計を……」

 そのとき、フェンスが嫌な音を立てた。

 ふっと、嘉山の力が抜けたのがわかる。
 
 同時に、嵯峨野の体が後ろへと倒れこんでいく。


15: 2016/04/06(水) 00:30:13.18 ID:IXgA3K/jo

 俺は思わず声をあげて、嵯峨野の体を持ち上げようとした。

 引きずられるように、体が持っていかれる。

 全力で嵯峨野の体を屋上に引き戻すと、俺の体は反動でふわりと浮いた。
 
 駆け抜けるように空気を落ちていく錯覚。
 体が宙に浮かぶ。長い浮遊感。
 
 鈍い衝撃に体が揺れる。

 嘘だろ、と思った。

「浅月!」

 と、嵯峨野が俺を呼ぶ声が聞こえた。
 逆さになった俺の視界の端で、嘉山は茫然と立ち尽くしている。

「そうだ、あのとき探してたのは……」

 そんな声が聞こえた気がした。
 
 強い衝撃が後頭部に走る。
 意識があっというまに暗くなった。


16: 2016/04/06(水) 00:30:56.57 ID:IXgA3K/jo

◆[Remit as yet no Grace]


 何もかもが遠く聞こえる。
 耳を何かが塞いでいるみたいに、音が聞こえない。

 誰かの声が、何かの皮膜越しに、ゆっくりと歪んで聞こえる。

 うまく呼吸ができない。
 息が、苦しい。

 誰かが俺の名前を呼んでいる。

 何かがうごめくような音。
 耳に何かが入り込んでくる。

 うまく、音がつかめない。
 目を開いても、光さえあやふやで、判然としない。

 からだが静かに浮かび上がっていく。
 押し出されるみたいに、からだが、光の方へと、
 吸い込まれるように、浮かび上がっていく。


17: 2016/04/06(水) 00:31:26.40 ID:IXgA3K/jo

 ――急に視界が開けた。

 白っぽい光に目が灼ける。
 物と物との境界線があいまいになった視界が、徐々に輪郭を取り戻す。

 体が揺れるのを感じる。

 水の中にいた。

 誰かのはしゃぐ声が聞こえる。
 
「タクミくん、なにしてるんですか?」

 聞き覚えのある幼い声が聞こえる。

 水着姿のるーがいた。
 あの頃の姿で。

 プールサイドに、彼女は座っている。
 きょとんとした顔で、こちらを見ている。

 俺は思わず自分の手を見た。
 水面にうつる自分の顔を見る。

「……え?」

 あの頃の、姿をしていた。


18: 2016/04/06(水) 00:31:54.85 ID:IXgA3K/jo

「どうしたんですか、タクミくん?」

 子供の姿で首をかしげて、彼女は俺を見ている。
 くりくりとしたいたいけな瞳が、俺の顔をすぐそばから見つめている。

 俺は、思わず、視線をそらしてしまった。

「いや……」

 何を言えばいいのかわからなくて、俺は首を横に振った。

 るーは不思議そうな顔のまま、俺をしばらく見つめていた。
 
 覚えのある場所。
 そうだ、一度だけ訪れた。
 
 あの夏休みに、みんなで遊びに来た市民プールだ。

 遊馬兄、美咲姉、ちい姉、すず姉、静奈姉、るー。

 みんながいた場所だ。


19: 2016/04/06(水) 00:32:21.56 ID:IXgA3K/jo

 俺は、水の中から体を出した。
 水着一枚の自分のからだは小さな子供そのもので、妙な心細さを覚える。

「休憩ですか?」

「……ああ、うん」

 口から出る声も、今よりずっと細い。
 変わってしまったことを、実感してしまう。

 俺はきっと、夢を見ている。
 そうとしか考えられない。

 るーと並んで、プールの水に足だけを浸した。
 彼女の肌の上を撫でるように流れる水滴に見とれた。

 水面は、揺らいでいる。
 きらきらと、乱反射する。


20: 2016/04/06(水) 00:32:48.06 ID:IXgA3K/jo

 どこか遠い、誰かのはしゃぎ声。
 楽しそうな笑い声。
 
 ウォータースライダーから、水に飛び込む音。
 
 こんな景色だったっけ。 
 こんな景色だったのかもしれない。

「……きらきらしてる」

 思わず、そうこぼした。
 きらきらしていた。

 余計なものがなかった世界。
 考えることが少なかった世界。
 新鮮で、物珍しいものばかりだった世界。

 今はもうどこにもない。

「きらきらしてますね」

 と、るーは楽しげに笑う。



21: 2016/04/06(水) 00:33:15.00 ID:IXgA3K/jo

「きらきらしてた」

 俺の言葉に、るーは首を傾げた。

「きらきらしてた。……きらきらしてたんだよな」

 プールの水面も、夏の太陽も、ショッピングモールの帰りに見た車のテールランプの群れも、
 花火の光も、誰かの笑う顔も、みんな、みんな、きらきらしていて。
 
 俺の視界はくすんでしまって、
 奇妙な膜が視界に張って、
 よくわからなくなってしまった。

「何を、考えてますか?」

 るーは、そう訊ねてきた。

 気持ちのいい水の冷たさに足を浸しながら、俺は少しだけためらって、答えた。
 これは夢なんだ。

「よだかのこと」

 るーは、きょとんとした。


22: 2016/04/06(水) 00:33:49.39 ID:IXgA3K/jo

「俺が生まれなければさ」

 と、そんな仮定を、ときどき持ち出したくなる。

「俺が生まれなければ、父さんはひょっとしたら、母さんの方を捨てたんじゃないのかな」

 るーは何も言わない。

「俺が生まれなければ、よだかは当たり前に父さんの娘として生きて、そしたら、よだかの母親だって氏ななくて。
 母さんだって、いくらか痛手は負うかもしれないけど、次の相手を探せたかもしれない」

 ――わたし、生まれなければよかったね。

 よだかがそう言ったとき、俺は本当は、反対のことを考えていた。

 俺が生まれなければ……誰も、不幸にはならなかったかもしれない。
 そう、思っていた。
 意味のない仮定だ。現実的じゃない。空想だ。

 でも、靴の底に張り付いたガムみたいに頭から剥がれない。

「知らなければよかったって、思いますか?」

 何も知らないはずのるーは、けれど、俺にそう問いかける。
 これは夢だから……不思議なことは何もない。

 俺は、首を横に振った。
 知ってしまった俺には、知らないままで生きていってしまうことのほうが、おそろしいことに思える。


23: 2016/04/06(水) 00:34:18.98 ID:IXgA3K/jo

「……でも、ずっと剥がれないんだ」

 知ってしまったことを、後悔するわけじゃない。
 それなのに、知ってしまってから、俺の視界にはいつも、とれない曇りのように何かが張り付いたままだ。

 なくなってくれない。

「でも、よだかさんは、もう前を向いてますよ」

「でも、よだかの母親は氏んだ」

「……」

「……たとえば俺が生まれなければ、父さんだって結婚を急ぐことはなくて。
 そしたら、よだかの母親は、父さんに妊娠を伝えられたかもしれない。
 そうしたら父さんだって、よだかの母親の方を選んだかもしれない」

「……そうかもしれないですね」

 でも、とるーは続ける。

「そのほうがよかったって、思うんですか?」

 わからない、と俺は頭を振る。

 目の前の水面は、ただ揺らめいている。


24: 2016/04/06(水) 00:34:46.60 ID:IXgA3K/jo

「きらきらしてた。きらきらしてたんだよ、知る前までは」

「……」

「何もかもがもっと、祝福されていたような気がするんだ」

「……」

「でも今は――」

「――本当に?」

 さえぎるように、強い調子の声が響く。

 るーは、まっすぐにこちらを見ている。
 その視線の強さに、俺は思わず目をそらす。

「本当に、そうでしょうか?」

「……なにが」

「子供の頃は本当に、ただ祝福だけの、きらきらだけの世界でしたか?
 明るく眩しく楽しいだけの、そんな世界でしたか?」

 俺は、沈黙する。
 

25: 2016/04/06(水) 00:35:14.32 ID:IXgA3K/jo

「ねえ、タクミくん、あの夏休みに、タクミくんがこの街に来たのは、どうしてですか?」

「……え?」

「その理由が、わたし、知りたいです」

「理由……」

 母親が、
 静奈姉の母を、頼りにしていた。仲が良い親戚同士で、いろんなことを相談していた。
 そのときも、何か、相談したいことがあると言って、母さんは、
 相談したいこと。

「――どろぼう」

 とるーは言った。
 その一言で、一挙に記憶が押し寄せてくる。
 
 その濁流に呑まれそうになる。
 意識が、急に、ここじゃないどこかにさらわれそうになる。
 
 それを俺は、ぎりぎりのところで押しとどめた。
 漠然としたイメージが、ただ、印象だけになって、俺のもとに残される。


26: 2016/04/06(水) 00:35:47.82 ID:IXgA3K/jo

「本当に、きらきらだけでしたか?」

「……」

「曇りもくすみもない、景色でしたか?」

 ……そうだ、俺は、

 夏休みの前に、仲の良かった友達と、一緒に遊んだ。
 そのときに、友達がゲームをなくしたんだ。

 俺が盗んだって、そう言われて。
 でも、俺は盗ってない。

 友達は口をきいてくれなくなって。 
 でも、俺は盗ってなかったから。

 そうしたら、やがてその友達は、なくしたゲームを見つけて。

 でも、仲直りはしなくて。
 お互い、どう声をかけていいのか、わからなくて。

 そんな俺たちのやりとりを、ほかの友達も知っていたんだ。

 だから、謝らなかった彼は、みんなに口をきいてもらえなくなって。
 学校に来なくなった。


27: 2016/04/06(水) 00:36:32.08 ID:IXgA3K/jo

 そうしたら、その子の親が学校に来たんだ。
 
 担任の先生に、子供が無視されてる、いじめられてるって、言った。

 俺が悪い噂を広めて、そいつをいじめてるって。
 ゲームも、盗んだんだって。きっと、そいつは、親に本当のことを話せなかったのかもしれない。

 母親も、学校に呼ばれて、お互いの親と、それぞれが、先生と一緒に話し合いをすることになって。
 
 そいつは泣きながら、みんなに無視されるって、言った。
 先生も、そいつが避けられていることには気づいていたらしくて、だから。

 俺は、何もしてなかったけど。
 俺がいじめの主犯ってことになって。

 そいつを嫌って、いやがらせをしたんだって、言われて。

 でも先生は、気付いてたんだ。俺が嘘をついてないって。
 それでも、先生は、謝らせた。
 
 無視してごめんなさいって、言えって。
 
 そうするのが、たぶん、いちばん簡単だったからだ。
 いちばん、簡単に、話が収まるからだ。それが、大人だからだ。

 本当のことよりも。
 選びやすい嘘を選んだ。


28: 2016/04/06(水) 00:37:04.73 ID:IXgA3K/jo

 俺はそれからも、そいつとは話さなかった。
 誰かが俺を嫌うようになったわけじゃない。

 それでも俺は、なんとなく、学校に行くのが怖くなって。

 そうだ、あの夏休みの前。

 俺は学校に行きたくなくて、行かなくて。

 学校も、先生も、みんなも、大人も、怖くて。

 だから母さんは困ってしまって。

 相談を受けた静奈姉のお母さんが言ったんだ。

 息抜きがてら、遊びにおいでって。
 ちょうど、夏休みだからって。

 きらきらしていた。
 きらきらしていた?

 本当に?

 記憶はつくりものだ。

 あのときの自分が、どんな気持ちだったかさえ、もう、俺は遠くから眺めることしかできない。


29: 2016/04/06(水) 00:37:51.05 ID:IXgA3K/jo

 そうだ。
 俺はあのとき、
 どこにも行きたくなかったし、誰にも会いたくなかったんだ。
 本当は。

「きらきら、してました?」

 俺は、答えられない。
 答えが見つからない。

 きらきらしていた、ような気がした。
 でも、それが本当なのかどうか、自信が持てない。

「嘘、なのかな。きらきらなんて、してなかったのかな」

 思わず、子供のように、そう呟いてしまった。

「子供の頃はすべてがきらきらしていたなんて、おとぎ話なのかな。
 時間に削られて、記憶が嘘をついてるだけなのかな」

「……どうでしょうね?」

 るーは、大人みたいな子供みたいな顔で笑う。


30: 2016/04/06(水) 00:38:27.80 ID:IXgA3K/jo

「でも、タクミくん、わたしには、きらきらしてましたよ」

「……」

 それは、現実のるーの声ではなくて、
 ただの都合のいいだけの言葉なのかもしれない。

「だけど、きらきらだけじゃ、なかったです。どろどろだったり、そういうのも、やっぱりありました。
 子供の頃も、今も、ずっとそうですよ」

 子供の姿、子供の声のまま、るーは言う。

「生きることは、きらきらとどろどろの混じり合った、混沌ですよ」

 混沌。
 混沌。

 ……そうかもしれない、と俺は思った。

 不正が、汚濁が、悲鳴が、呪詛が、
 道義が、清廉が、歓喜が、祝福が、
 悲しみが、喜びが、

 偏在しては溶け合って、混じり合っては浮かび上がって、
 どちらか片方ではいられない、混沌なのかもしれない。


31: 2016/04/06(水) 00:38:55.16 ID:IXgA3K/jo

「きらきらだけでは、ないかもしれない。消せない曇りも、あるかもしれない。
 でもそれは、きらきらしたものが、ないってことを意味するわけじゃないと思う」

 だから、だからね。

「好きなものと、嫌いなもの。楽しいことと、悲しいこと。幸せと、不幸せ。
 うれしいことと、いやなこと。その両方が、ただあって、起きて。
 きっと、プラスマイナスの帳尻は合わなくて、どちらかに偏ったりもするけど、それでも」

 それでもたしかに、うれしいことがあるから、って。

「だからどうとか、そういうわけじゃないんですよ、きっと」

 るーは言う。

「そういうふうに、できてるんです、きっと。あとは、解釈と認識の問題だけ」

 ねえ、タクミくん、と、彼女は俺の名前を呼ぶ。

「あなたが今いる場所は、ただ、不幸と悲嘆だけの世界ですか?」

「……」

「あなたが探していたきらきらは、どこにもありませんでしたか?」

 俺は、
 目を閉じて、少しだけ、いつものように考えて、
 笑った。


32: 2016/04/06(水) 00:39:25.47 ID:IXgA3K/jo

 
「タクミくんが、生まれてきたこと、わたしは、うれしいって思います」

「……」

「タクミくんにとっては、ただ苦しいだけだったとしても、よだかさんのことや、小学生のときのことや……、
 猫のことも。わたしは、ぜんぶ、ぜんぶ、悲しいのが半分で、でも、半分はうれしいんです」

「……」

「そういうことの積み重なりで、悲しいことの積み重なりで、タクミくんが今のタクミくんになってくれたのなら、
 わたしは、よかったって、安心しちゃいます」

「……」

「そうでなかったら、きっと、わたしはタクミくんのこと、こんなに好きにならなかったと思う」

「……」

「だから、ね、タクミくん。もう少し、もう少しだけ、自分のこと、好きになってあげてください」

「……」

「あなたがそうあることで、救われる人がいるから」

 それは、
 本当に夢だったのか。

 だとしたらこれは、願望なのか、それともそういうふうに考えていた自分が、俺の内側に隠れていたのか。
 よくわからない。


33: 2016/04/06(水) 00:39:54.42 ID:IXgA3K/jo

 どうして、こんな夢を、今、見たのかさえよくわからない。

 頭がずきずきと痛みはじめる。
 
 誰かが、泣いているような気がする。

 誰かが、溺れているような、気がする。

 泳げなくてもいいって、いつかの俺は、るーに言った。
 だから今でもカナヅチだって、るーは言った。

 責任をとれって。

 プールの水面はゆらゆらと揺れている。

 そうだな。責任をとってやらなきゃいけない。

 るーに、泳ぎ方を教えてやらないと。
 彼女がいつかどこかで、溺れてしまわないように。

 だから、さっさと、
 ――目をさまさなきゃ。


34: 2016/04/06(水) 00:40:22.03 ID:IXgA3K/jo
つづく

41: 2016/04/08(金) 00:00:47.12 ID:Y3Q28Z2mo



 目をさますと、白い天井があった。
 消毒液の匂い。懐かしいシーツの感触。

 保健室だ、と思った。

 後頭部がずきずきと痛んだ。 

「目、覚めました?」
 
 声が、すぐそばから聞こえた。

 その声のせいで、なんとなく、俺はまだ夢の続きを見ているような気分になる。

「まだ、横になってたほうがいいですよ」

 るーが、そばに座っていた。

「頭を、強く打ったみたいですから」

「……なんで、るーがいるの」

「たまたま通りがかったんです。ちゃんと起きました?」

「ちゃんと、って?」


42: 2016/04/08(金) 00:01:22.55 ID:Y3Q28Z2mo

「寝言、言ってましたよ。起きてるのかと思いました」

「どんな……?」

「内緒です」

 と、るーは笑った。

「……誰が、ここまで運んだの?」

「嵯峨野先輩が。話してるときに、フェンスが倒れたって。
 それで嵯峨野先輩を引っ張り上げようとしたら頭を打ったんだって言ってましたよ」

「……」

 ああ、大筋としては、記憶と一致する。よかった、意識はまっとうだ。

「さすがですね」

 るーはよくわからないことを言って、うれしそうに笑う。

「嵯峨野先輩たちは、先生と一緒に屋上で実地検分です」

 それから少し寂しそうに、

「屋上、立ち入り禁止になるかも、って言ってました。
 前から、そうするべきだって先生はいたらしいですけど、今回の件でそう決まるかもって」

「……まあ、もともと、開放されてるほうが珍しいもんな」


43: 2016/04/08(金) 00:02:37.21 ID:Y3Q28Z2mo

「寂しいですか?」

「少しね」

「タクミくんも、ちえ先輩も、屋上、好きですよね。どうしてですか?」

「……佐伯のことは、俺はわからないけど」

「はい」

「……なんでかな。よくわからない」

「理由は、ない、ですか?」

「いや、たぶん……」

 屋上が好きな理由。
 どうしてだろう。考えたこともなかった。

「……なんでだろうな」


44: 2016/04/08(金) 00:03:06.74 ID:Y3Q28Z2mo

 どうしてかは忘れてしまった。

「なんとなく、遠く見えるからかな」

「遠く?」

「うん。目に見える景色も、小さく見えるし、誰かの笑い声も、遠く聞こえるし」

「……」

「だから、ときどき、屋上に昇って、たしかめたくなるんだよな」

「たしかめる、って?」

「教室とか、家だと、自分の半径二、三メートルくらいの世界しか、意識できないんだよ、俺。
 その外側にもちゃんと、いろんなものがあるって、確かめてたんだと思う」

「……たしかめる、ですか」

 興味深げに、るーは頷く。
 何かを言いきれたような気はしない。
 それでも彼女は気にした風でもなく笑った。


45: 2016/04/08(金) 00:03:52.61 ID:Y3Q28Z2mo

 屋上に昇って、いろんなものを遠くから眺めて、
 自分と世界の距離を、つかみなおすような。
 日常の視座から離れて、いろんなものを見渡そうとして。

 たぶん、性格なんだろう。

「立ち入り禁止になったら、どうします?」

「ああ、大丈夫」

「大丈夫?」

「頭のなかに屋上があるから」

「……ごめんなさい、意味がわからないです」

「習慣って、そういうもんだよな」

「言ってること、支離滅裂ですよ。タクミくん、まだ休んでたほうがいいです」

「もう、目、覚めたよ」

 そう言って、俺は体を起こした。


46: 2016/04/08(金) 00:04:25.63 ID:Y3Q28Z2mo

「るー、あのさ」

「はい?」

「俺、もうちょっとしたらおまえに告白するから、返事準備しといて」

「……」

 るーは、目を丸くして、 
 ひどく困惑したように眉を寄せた。

「……えっと、はあ」

 困ったみたいに、ため息をついた。

「それは、告白ではないんですか?」

「うん」

「そうですか」

 仕方ないなあ、というふうに、るーは笑った。



47: 2016/04/08(金) 00:04:58.96 ID:Y3Q28Z2mo

「どういう気持ちの変化ですか?」

「いろいろ、思い出したから」

「……と、言いますと」

「るーが好きだなあって」

「……ええと」

 るーはしばらくあちこちに視線をさまよわせたあと、
 ぺち、
 と小さな音を立てて俺の額をたたいた。

「減点」

「ダメだった?」

「反則技ですから、いまの」

「なら仕方ないな」

「来るなら正面からきてください」


48: 2016/04/08(金) 00:05:25.17 ID:Y3Q28Z2mo

 そういうわけでるーに減点を食らったあと、保健の先生がやってきて、俺の様子を見始めた。
 俺自身の感覚としてはぴんぴんしていたけど、ぶつけたのが頭だから体調が悪くなったらすぐに申し出るように、とのこと。
 
 動いても支障がないようだからとりあえず、ということで解放してもらえた。
 
 すぐにほかの先生と嵯峨野と嘉山のふたりがあらわれて、詳しい説明を求められた。
 とはいえ特につけくわえるべきことはなくて、あまり屋上に近付かないように、と念押しをされた。

 るーの言っていた通り、ひとりの女教諭が屋上への立ち入りを禁止すべきだと話していた。
 特に誰も異論をはさまなかった。

 もっと長い時間が経っていたような気がしたけど、教室に戻ったらまだ授業が始まる前だった。

「なにしてたの?」とクラスメイトにきかれて、俺は、「自分探し」と答えた。

「ここにいるじゃん」と陳腐そうに笑ったクラスメイトに、俺は少し笑った。

「気付かなかった」

 俺の言葉にそいつはまた笑った。

「ま、そういう気分のときもあるわな」とそいつは達観したように言う。

「俺も彼女に振られたし」

 へえ、と特に興味もないのに感心してしまった。

「どんまい」

「おう、さんきゅう」

 気安げなやりとりが妙に気持ちよかった。


49: 2016/04/08(金) 00:05:52.26 ID:Y3Q28Z2mo



 テスト期間で早く学校が終わるのをいいことに、俺はゴローに声をかけて街へと繰り出した。

「おまえから誘うってのも珍しいよな」
 
 ゴローは心底そう思うというふうに不思議そうな顔をしていた。

「果たさなきゃいけない約束がある」

 大仰な俺の言い回しに、ゴローは眼鏡をくいっと直す。

「ほう、ついにか」

 ノリのいいやつだ。

「とにかく、何も言わずに今から俺についてきてくれ」

「分かった」

 そしてゴローは何も言わずに本当についてきた。

「ここだ」

 と俺が立ち止まったのは、牛丼屋の看板の下だった。

 ゴローはあっけにとられたような顔をした。

「……」

 ピンと来ないような顔で、ゴローは黙り込む。


50: 2016/04/08(金) 00:06:19.51 ID:Y3Q28Z2mo

「まあ、入ろうじゃないか」

「おまえがそういうなら」

 そして俺たちは牛丼屋に入って、それぞれに牛丼を食べた。

「それで、どんな用事だ?」

「……これが用事だけど」

 ゴローはやっぱりピンと来ないような顔をしていた。
 俺はふたりぶんの支払いをした。ゴローは「おごられる理由がない」と几帳面に言っていたけど、俺は無視した。

「どういう風の吹き回しだ?」

 疑念まで持たれる始末。仕方なく俺は、

「俺なりの敗北宣言だよ」
 
 と言った。やっぱりゴローは何の話だか分からなかったみたいだった。


51: 2016/04/08(金) 00:07:05.56 ID:Y3Q28Z2mo
つづく

55: 2016/04/13(水) 00:50:16.94 ID:i6zLcA0Oo



「浅月、ご機嫌みたいだけど、良いことあった?」

 その日のバイトで先輩にそんな声を掛けられた。

「……いや。何もないですけど」

「ほう。ふうん? 何もないねえ」

「……」

「……嘘だな」

「なぜ」

「そういう匂いがした」

 似たようなことを誰かが言ってたな、と俺は思った。
 

56: 2016/04/13(水) 00:50:44.16 ID:i6zLcA0Oo

「……そんなに分かりやすいんですかね、俺は」

「ってことは、やっぱりあったの? 良いこと」

「とも、言えないですけど」

「悪くはないわけだ」

「ですかね」

「ふうん?」

「……なんですか?」

「つまんない奴になったね」

 満面の笑みでそんなことを言われたものだから、俺はさすがに戸惑った。


57: 2016/04/13(水) 00:51:31.19 ID:i6zLcA0Oo



 翌日の昼休み、渡り廊下の端にある自販機にもたれて、高森が鼻歌を歌っているのを見つけた。

「わたし、たちは、いつかしぬのよ、よるを、こえても」

 と、彼女はそう歌っていた。

 大丈夫かこいつ。

 高森は俺に気付くと、退屈そうな顔で見上げてきた。

「あ、不良ー」

 と高森は言った。

「たっくんのせいで屋上立ち入り禁止だって。ちいちゃん怒ってた」

 今朝のホームルームで全生徒に通達されたのだと思う。
 憩いの場としての意味合いが大きい本校舎の屋上に関してはともかく、東校舎の屋上は正式に立入禁止になった。
 本校舎の方は改めて安全性を確認する、ということで保留。

 差別だ、と他人事のように思う。


58: 2016/04/13(水) 00:51:57.82 ID:i6zLcA0Oo

「頭ぶつけたんだって? 大丈夫?」

「最初からおかしいから、大丈夫」

「知ってるよそんなの。頭ぶつけた拍子に治っちゃったんじゃないかって心配してるの」

 真顔でそんなことを言われたものだから、俺は我が身を憐れんだ。

「とにかくちいちゃんにも謝っときなよ。ちいちゃん、怒ると怖いよ」

「いや、そもそも俺が悪いんじゃなくて、フェンスが老朽化して……」

「どっちにしたって、たっくんが屋上で煙草なんて吸ったりして近付いてたのもそもそも問題でしょ?」

「……」

「……え、なに」

「……知ってたの?」

 本人、気付いてなかったのに。

「そりゃ……匂いで気付くし」

「……」

 そりゃそうだ。


59: 2016/04/13(水) 00:52:29.16 ID:i6zLcA0Oo

「けっこう多いよね、煙草吸ってるやつ。ばかみたい」

「多い、の?」

「みたい。意外でもないでしょ。クラスの男子とか、多いよ」

「……はあ」

「やっぱりあれかな、口唇欲求かな」

「……はあ」

「ねえたっくん、あのさ」
 
 何かを言いかけて、高森は口を噤んだ。

「……なに?」

「ううん、やっぱなんでもない。我ながらくだらないこと考えた、いま」
 
 その表情がどことなく寂しそうに見えて、俺はうまく反応できなかった。


60: 2016/04/13(水) 00:53:07.11 ID:i6zLcA0Oo

 奇妙な沈黙のあとに、高森は話を変える。

「そういえば、ゴロちゃんがドラム勧誘するって」

「あ、うん」

 話が頭に入ってこなくて、俺は適当に相槌を打った。

「結局、どうするんだろうね、曲」

「……いぬのおまわりさんでいいんじゃない?」

「そうだね、あれも意外と悪くないよね」

 やるからにはがんばるぞー、と高森はどことなく無理しているような感じで騒いだ。

「ま、ちいちゃんに謝っときなよ」

 そう言ってから、高森は立ち上がって、「そんじゃね」と笑ってその場を去っていった。


61: 2016/04/13(水) 00:53:54.40 ID:i6zLcA0Oo



 放課後になるとゴローが会いに来て、「ちょっと付き合ってくれ」と俺を呼んだ。

 仕方なくついていくと、バンドメンバーの勧誘に行くのだという。

「ひとりでいけよ」

「メンバーが居た方が話が分かりやすいだろ」

 なるほど、と俺は納得した。

 で、連れて行かれた先に立っていたのは嘉山孝之だった。

 さすがに俺は唖然とした。

 嘉山も唖然としていた。
 
 昨日の屋上での出来事のあと、教師陣に事情聴取をされたときには、嘉山の様子は落ち着いていた。
 少なくとも、取り乱してはいなかった、という意味だ。


62: 2016/04/13(水) 00:54:26.36 ID:i6zLcA0Oo

 今も、あのときのように取り乱した様子はない。
 彼は鞄を背負って、既に帰ろうとしているところだった。

 ゴローは物怖じせずに、

「ちょっといいか?」と声を掛けた。
 
 本気かこいつ、と思った。

 ゴローは一応、嘉山が部誌を燃やした犯人だと思っているはずだ。
 例の騒動を起こした張本人、だと。

 でも、そんなの関係ないみたいに、ゴローは嘉山に面と向かって話しかける。

「なに」
 
 俺の顔を見て、少し警戒したみたいに、嘉山は表情をこわばらせた。
 無理もない、かもしれない。

「嘉山くんさ、ドラムやってるってホント?」

「……ん」

 嘉山は小さく頷いた。
 ホントなのかよ、と俺は思った。

「バンド組んで文化祭でライブやんない?」

 嘉山は少し黙って、俺とゴローの顔を交互に見たあと、

「嫌だよ」

 と言って、廊下をスタスタ歩いて行った。


63: 2016/04/13(水) 00:54:54.66 ID:i6zLcA0Oo

「まあそう言うな」

 と言ってゴローは嘉山の肩を掴んだ。

「いいからやろうぜ。な?」

 嘉山はしばらく、ゴローの目を睨んだ。ゴローは飄々とした顔でにんまり笑う。
 こういうところだ。

 ゴローは気味が悪いくらいに物怖じしない。

 理由は簡単だ。こいつは他人の意思を斟酌しない。
 他人の意思を斟酌するのは、その他人、本人のすべきことであり、自分がすべきことは自分の求めることを表明することだ、といつか言っていた。

 俺は求める。それを断るか受けるかは、"そいつ"の問題だ。

 誰かが、似たようなことを言っていた。


64: 2016/04/13(水) 00:55:21.32 ID:i6zLcA0Oo


 とはいえ嘉山は断るだろう、と、俺はそう思った。
 思ったのに、

「……メンバーは?」

 と、ゴローをまっすぐに見返しながら、嘉山は言った。

「こいつと俺と、もうひとり」

「パート」

「ギター、ギターボーカル、ベース」

「いいだろう」と嘉山は言った。

「は?」と思わず声をあげてしまった。

「そう言ってくれると思っていた」とゴローはうんうん頷いた。

 そんなこんなでバンドメンバーが揃ってしまった。


65: 2016/04/13(水) 00:55:47.91 ID:i6zLcA0Oo



 そこからは慌ただしかった。
  
 テスト勉強をしつつベースの練習をして、バイトにも出て、時間がいくらあっても足りなかった。
 
 テスト期間中は部活がないから、るーとは顔を合わせなかった。
 会おうと思えば会えたし、連絡を取ろうと思えば取れたけど、会わなかったし取らなかった。 

 夜になるとすず姉がうちにやってきて、俺のベースの練習を見るという名目で静奈姉と話をしていた。

 俺はるーに告げるべき言葉を、どのようにいつ伝えるべきなのか、そんなことを眠る前に考えた。
 そうこうしているうちに他の誰かにちょっかいでもかけられたらたまらない、というので、気持ちは急き立てられてもいた。

 テストがはじまってしまうと顔を合わせる機会はほぼ完全になくなった。

 もちろんるー側から連絡は取りにくいだろうし(なんせこちらが宣言してしまったわけだから)、俺から何かするしかないと分かってはいたけど。
 まあとにかく、保留というわけではないけれどタイミングを伺いつつ、俺はるーのことばかり考えていた。

 テスト期間中、ふと思い立って東校舎の屋上に昇ろうとした。

 締め切られた扉のノブを、半分笑うような気持ちで捻る。

 ぎい、と、鉄扉は軋む。
 心臓がどくんと揺れた。

 扉は当たり前みたいに開いた。


66: 2016/04/13(水) 00:56:32.43 ID:i6zLcA0Oo

 屋上に出ると、見覚えのある後ろ姿が立っていた。
 
 シャボン玉が飛んでいる。

 彼女は、扉の音をきいて、驚いたように振り返った。

「……なんだ、浅月か」

「……佐伯」

「うん。佐伯ですよ」

「なんで、屋上、開いてるの?」

「立入禁止になったってことは、誰も近付かないってことで、それって要するに、これまで以上に好都合ってことだよね」

「そうじゃなくて……なんで開いてるの」

 佐伯は小さく笑って、俺に向けて何かをかざした。

 鍵だ。

「合鍵」

「……いや、合鍵、って、なんで」

「ずっと前から、持ってた。旅をしてるんですよ、この鍵は」

「……旅?」

「誰かから誰かに巡っていくの。誰かがつくって、誰かが誰かに渡して、誰かが捨てて、誰かが拾って。巡り巡って、ここにあるの」

 そしていまは、ここにある。佐伯はそう言った。やっぱり意味は分からなかった。


67: 2016/04/13(水) 00:57:02.18 ID:i6zLcA0Oo

 飛んでいくちいさなシャボン玉を眺めながら、佐伯が歌をうたうのがかすかに聞こえた。

 ――だれかがしにかけているとき、きみはいきるよろこびにある。

 たぶんそんな歌だった。

「ねえ浅月、ここはいいところだよね」

 佐伯はそう言った。

「そう思うよ」と俺は答えた。

「わたしもそう思う」

 そのとき佐伯は、いままで見たことないくらいに、子供みたいな、自然な笑顔を見せた。

「ねえ浅月、浅月はやっぱり、誰かに似てるなって思うよ」

「誰かって、誰」

「でも、似てるっていうのは、同じって意味じゃないんだよね」

 ひとりごとみたいに、佐伯は言った。

「……大丈夫?」

 俺は思わず、そう訊ねていた。


68: 2016/04/13(水) 00:57:37.71 ID:i6zLcA0Oo

 佐伯は、静かにシャボン玉を吹いてから、ボトルとストローを置いて、振りかぶった。
 手の中には鍵がある。

「えい」

 と小さな声をあげながら、佐伯の手から銀色の塊が飛んでいく。
 俺はその様子をただ眺めていた。

「じゃあなー、元気でやれよー」

 気の抜けた声で、佐伯はフェンスの向こうにそう呟いた。
 
「……よかったの?」

「旅する鍵だから」と佐伯は言った。

「わたしはもう卒業。たぶん、必要としてる人の手に渡る。そういうふうにできてるから」

 猫みたいにぐーっと伸びをしてから、佐伯はどこか爽快そうに笑った。

「さーて、なんか、楽しいことしたいなあ」

「……な、佐伯」

「なに?」

「鍵、開けっぱなしになっちゃわない? 先生たち、気付くんじゃ……」

「……あ」

 俺たちはとりあえず逃げた。 

 それが最後だ。東校舎の屋上に昇ったことは、それ以降は一度もない。


69: 2016/04/13(水) 00:58:18.74 ID:i6zLcA0Oo



 ゴローの家で飼っていた猫が氏んだのは、期末テストが終わった日の午後のことだった。

 その日、たまたまゴローの家に行くことになっていた。
 ゴローの家の裏の茂みで、三毛猫は冷たくなっていた。身体には傷一つなかった。どうして氏んだのかすらわからなかった。
 でもとにかく氏んでいた。眠るような顔で。

 ゴローは家の中から猫のお気に入りだったという古びたブランケットとキャリーケージをもってきて、亡骸をそこにいれた。

 ゴローの家の祖母がめそめそと猫を見て泣いていた。ゴローは何も言わずにケージと荷物を持って自転車にまたがった。

 俺は仕方なくゴローの家の自転車を借りて、彼を追いかけた。
 
 国道にそって、ゴローは延々とペダルを漕いだ。空は不思議なほど綺麗な青空だ。
 通りがかった公園では子供たちが何かに祝福されたみたいに楽しそうに遊んでいる。
 
 テスト明けの学生たちが明るい顔で街に繰り出していくのが見えた。

 ゴローの自転車のスピードが上がる。俺は引き離されないようにペダルを漕ぐ。

 後ろを一度も振り返らずに、ゴローはそれから四十分くらい止まらずに走った。

 やがて脇道に逸れていく。田畑の並んだ農道を延々と走っていく。
 そこから木々の立ち並ぶ林の方へと近づくと、そばの坂道を彼は立ち漕ぎで昇っていく。


70: 2016/04/13(水) 00:59:03.06 ID:i6zLcA0Oo

 俺はさすがにどうしていいか分からなくなったけど、ここまで来たらなかば意地でついていく。

 斜面にやられて転びそうになりながらも、俺はゴローについていく。
 やがて、彼の自転車は止まった。

 小高い丘の上だった。小さな公園のようになっている。柵があって街を見下ろせるが、近くに家があまりないため、利用者はあまりいないようだ。

 ゴローはそのはずれの方に、いつのまにか鞄に入れてきたらしい移植ベラで穴を掘り始めた。
 深く深く穴を掘る。その様子を俺はただ黙って眺めていた。

 ブランケットに包まれた三毛猫を、ゴローはそこに埋めた。

「不法投棄だ」とゴローは小さく呟いた。

「燃えるゴミだ」と。

 俺は何も言わなかったし、ゴローもそれから何も言わなかった。
 空っぽのケージを自転車の籠に突っ込むと、ゴローはそのまま何十分も黙っていた。俺も口をきかなかった。
 
 泣きも笑いもしなかった。そのうち空が茜色に染まり始めた頃、ゴローは「帰ろう」と言った。
 たぶん、本当はもっといたかったんだろうと思う。俺に気を使ったのだ。それでも俺はそこにゴローひとりを残しておく気にはなれなかった。

 頷くと、彼は寂しげに笑った。

 帰りは行きよりもずっとゆっくり走ったせいで、かなりの時間がかかってしまった。
 途中で夕立に降られて、ふたりで制服のままびしょ濡れになった。
 
 アスファルトを叩く雨音は強くて、いろんなものをかき消してしまう。
 前方を走るゴローが雨の中で叫んでいるような気がした。気のせいかもしれない。そういうふうに感じた。

 遠くで雷の音が聞こえた。ペダルを漕ぐ足が滑った。

 空はやがて他人事みたいに晴れた。手を繋いだ姉弟が通りすがりに俺たちを見て、「びしょ濡れだ」と言った。
 それから俺とゴローはろくに話もしないで別れた。家に帰ると静奈姉がいて、ずぶ濡れの制服を見て呆れた顔をした。



76: 2016/04/16(土) 00:54:32.88 ID:5Sr7dpy7o



「やっぱりさ、いぬのおまわりさん、良い曲だとおもうんだよね」

 テスト明け、夏休み直前の放課後、文芸部室で持ち込んだギターを爪弾きながら、高森はそう言った。
 たっくんはどう思う? なんて、彼女は言う。

「あんまりそういうふうに考えたことはなかったかな」

 正直に答えると、そっかあ、と高森はどうでもよさそうな声をあげた。

「ちなみに、どんなところが?」

「いぬのおまわりさんはさ、最後までまいごのこねこを家まで連れていけないんだよ」

「……」

「からすにきいてもすずめにきいても、こねこの家はわからないんだよ」

「……うん。それが?」

「帰る家なんて、ひょっとしたらはじめからないのかもしれないよね」

「どうかな。それで?」


77: 2016/04/16(土) 00:55:04.14 ID:5Sr7dpy7o

「うん、つまりさ。いぬのおまわりさんはさ、まいごのこねこと一緒に、困ってるんだよ」

「……うん?」

「一緒に困って、わんわん鳴いてあげるんだよ」

「……」

 言いたいことがさっぱり分からなくて、俺は考えこんでしまった。

「よく、考えるんだよね、最近。誰かを慰めたり、癒したり、励ましたり、元気づけたりするのもすごいけどさ。
 でも、そういうのが効かないときってあるじゃない? がんばれとか、大丈夫とか、そういう言葉が、なんか白々しく思えたりさ」

「……うん」

「そういうときに、一緒に困ってくれる人がいてくれたらいいと思うんだ」

「……」


78: 2016/04/16(土) 00:55:45.64 ID:5Sr7dpy7o


「たとえば、『氏にたい』って言ったときに、『そんなこと言わないで』とか『何かあったの?』とか『そんなことを言えるうちは大丈夫』とか、
 そんな言葉をいくつも並べられるよりさ……『氏にたいの? そっか、それは困ったね』って、ただそんなふうに聞いてもらえた方がさ、 
 ずっとずっと、気持ちが楽になると思うんだ。人によるのかもしれないけど、わたしはそう思うんだ」

「……偏ってるなあ」

「かも。でも、一緒に困ってほしいんだよ、きっと」

「……」

「だから、良い曲だよ。いぬのおまわりさん。何も解決しないけど、何も解決しないところが、とってもいいよね」

 まいごのこねこは、自分の名前も知らない。

「いぬのおまわりさんが、いてくれたら、よかったかなあ。何にも、解決なんて、しなくていいからさ」


79: 2016/04/16(土) 00:56:12.54 ID:5Sr7dpy7o



「名前を呼ぶこと、だと思う」

 部長は、いつか、そう言った。
 去年の秋だったと思う。部室には俺とゴローと、高森と佐伯と、部長がいた。
 部長はまだ、部長になったばかりだった。

「たぶん、名前を呼ぶこと」

「……名前、ですか?」

「うん。比喩だけど、名前」

「……どういうこと、ですか?」

「えっと、つまりね、たとえば今ここでわたしたちが、何か大きな災害に巻き込まれて、全員、氏んでしまったとするじゃない?」

 そのたとえに、俺達は沈黙した。

「何百という人が氏ぬとして、わたしたちは、その数字の中の、何百分の一になるとするじゃない?」

 その氏を、誰かがあとになって思い浮かべるときに、
 たとえばの、話だけど。

「『かわいそう』とか、『未来ある若者が』とか『これから人生楽しいことがあるはずだったのに』とかさ、 
 そんなふうに言われるとしたら、わたし、気持ち悪いなって思うの」

 とても個人的な感覚なんだけどね。彼女はそう付け加える。

「気持ち悪い……うん。気持ち悪いって、思う」


80: 2016/04/16(土) 00:56:40.55 ID:5Sr7dpy7o

 たとえばの話、なんだけど……。

「何十年か後の人たちが、今のこの時代を振り返ったときに、今生きているわたしたちのことを、表面だけなぞって分かった気になるとしたら、
 それはすごく……気持ち悪くない?」

 その年のヒットソングを聴いて、流行りの本を、映画を見て、話題になった商品とか、ニュースになった事件とか、そういうものに影響を受けたと思われて。 
 そういうものと勝手に関連付けられて、わたしたちの精神を勝手に判断されるとしたら、すごく、嫌な気持ちにならない?

「だからわたしは、名前を呼んでほしいなって、思うんだ」

 わたしの好きな音楽。わたしの好きな映画。わたしの好きな本。わたしの好きなもの。わたしの嫌いなもの。
 わたしに影響を与えたこと。わたしに影響を与えなかったこと。

「遠くで大勢の人が氏んだとき、生きている自分の立場からだと、曖昧に想像することしかできないよね。
 だから、ただみんな、かわいそうって、氏にたくなかっただろうなって、勝手なことを言っちゃうけど」

 でも、違うと思うんだ。

「大きな地震があった日に、嬉しいことがあった人、幸せなことがあった人、悲しいことがあった人、苦しい思いをしていた人。
 いろんな人がいたんだと思う。でも、もっと言えばさ、それだけじゃないと思うんだよ」

 たいした理由もなく、人を傷つけていた人。溜め込んだ苛立ちを、誰かに当たり散らしていた人。
 暗い澱みのなかで、氏んでしまいたいと思っていた人。大きな地震が起こればいいと、心のどこかで願っていた人。
 人を頃したいと思っていた人。氏にたいと思っていた人。少女を買おうと思っていた人。誰かをいじめていた人。
 氏んでしまえ、と誰かを呪っていた人。
 
「だってそうでしょう? 天災はどこで起こるかわからないなら、それは『ここ』でもおかしくなくて。
 だったら、『ここにいる人』は、『氏んだかもしれない人』でしょう? 『氏んだ人』は、『ここにいてもおかしくない人』でしょう?」


81: 2016/04/16(土) 00:57:12.07 ID:5Sr7dpy7o

 それが、遠いから、という理由で、顔を削いで、名前を奪ってしまうなら、氏んだ人は、ただの数字になってしまうよね。

「現に氏んでしまったから、という理由だけで、すべての氏を平坦に扱って、弔い祈る対象にするなら、
 わたしたちがどんな生き方をしたところで、氏んだあとはただの数字でしかなくなってしまうことになる」

 でも、そんなの、わたしは嫌だから。

「わたしは氏んだあと、わたしのことをよくしらない人に、『かわいそう』とか勝手に言われたくない。
 わたしが将来をどう思っていたかとか、家族とどんなふうだったかとか、そんなの、勝手に想像されたくない。
 弔いも悼みも、『わたし』固有のものについてであってほしい。大勢のなかのひとりとか、大きな悲劇のひとつのファクターとしてじゃなくて」

 だから、されたくないことは、しない。部長はそう言った。

「わたしは、氏んでしまった、よく知りもしない人に対して、他人事のような感傷を押し付けたくない。
 押し付けられたくないから、押し付けない。漠然としたイメージで、憐れまれたくない。大きな物語の部品みたいに、消費されたくない」

 顔を削がれ、名前を奪われ、数字として消費される氏。

「だから、もしその人のために何かができるとしたら、それは、その人について知ったあとだと思う。
 その人がどんな人で、何を考えて、何が好きで、何を思って、生きていたのか、それを知ること……」

「それが、名前を呼ぶこと、ですか?」

「うん。氏んでしまったら、どう扱われようと、同じことかもしれない。どうなっても分からないのかもしれない。
 でも、いま生きているわたしは、名前を奪われたくない。氏んだあと、名前を呼んでほしい。
 だから、名前を呼ぶこと、だと思う」

 たぶん、それだけが、氏んでしまった猫のために、わたしたちができること。
 それはたぶん、わたしたちのためだけれど。
 

82: 2016/04/16(土) 00:58:03.84 ID:5Sr7dpy7o



 バイト中に常連の客に話しかけられたことがあった。
 早口すぎて何を言っているかわからなかったけど、どうやら趣味の釣りについて話をしていたらしい(どうしてそんな話をしていたんだろう)。

「釣り、好きなんですか」

 話しかけられたのを無視するのもなんとなく落ち着かないから返事をすると、ああ、と彼は頷いた。

「最近はあんまりいかないけどなあ」

「川ですか、海ですか」

「行くとしたら川だなあ。海には行く気になれん」

「どうして?」

「何千と流れたからな」とその男は目を細めた。

「釣れる魚が何を食ったかと思うと、とてもそういう気分にはなれない」


83: 2016/04/16(土) 00:58:32.08 ID:5Sr7dpy7o



「例の地震のとき、ここらへんはどうだったの」

 そんな質問をぶつけたのは、ただの気紛れだった。訊ねた相手は佐伯だった。特別気にしたふうもなく、彼女は答えてくれた。

「わたしの家は、停電だけだったかな。ちょっと離れたところだと、ガスも止まったって言ってた」

「ふうん」

「うち、オール電化にしたばっかりだったから、大変だったよ。石油ストーブと土鍋でご飯炊いた。貴重な経験だったかな」

「……」

「夜はロウソクつけて早めに寝てたっけ。テレビつかないから状況わかんなくてさ、最初の夜にラジオ聴いて、びっくりしたなあ」

「……」

「ガソリンスタンドに車がすごい並んでたし、営業前のスーパーにもすごく人が並んでた。
 コンビニもひとり何点までって決まってて、店内も電気がついてなくて、自動ドアも動かなくて。
 ……そうだ。レトルトのカレーばっかり食べてたかなあ、たしか。町中で荷物抱えて歩いてたら、知らない人が車で家まで送ってくれて……」


84: 2016/04/16(土) 00:59:02.47 ID:5Sr7dpy7o

 マンホールから水が溢れてて、古い道路が陥没してて、近所の家のガレージが斜めに傾いて、隣の家のお墓が折れてて……。
 段々、余震の震度が感覚だけで分かるようになって、ちょっと強い余震が来ると、こんどこそ家が崩れるんじゃないかって思った。

「家の近くのガソリンスタンドに発電機があってね、そこにみんな携帯を充電しに行ってたんだよ。
 子供の頃一緒に遊んでた近所の友達とかと、ひさしぶりに顔を合わせたりしてさ。
 ちょっとだけ……うん。ちょっとだけ、うれしかったな」

 近所の家の人の親戚が、海沿いに住んでて、家が流されたって言ってた。

「それもなんか、一階部分だけが流されて、柱が残って二階部分は残ってたみたいでね。
『すごいよな。昇ってみたいよな』って笑ってた。みんな生きてるから笑えるんだけどな、って言ってたけど」

 ようやく電気が通ったとき、テレビをつけて、またびっくりした。

「ラジオで聴いたのと、映像見るのじゃ、全然違ってさ。……うん、びっくりしたな。
 ここらへんは、うん。たぶん、ぜんぜん平気だったんだと思う。ガードレールがねじれたり、マンホールが突き出たりはしたけど。
 電気がつかなくて、いつになったら普段通りの生活になるんだって、不安になったりしたけど」

 でも、誰も氏ななかったもん。わたしの身の回りでは、誰も。
 彼女はそう言った。


85: 2016/04/16(土) 00:59:33.86 ID:5Sr7dpy7o



 バンドを組むという話になって、とりあえずバンドメンバーの顔合わせということで、
 終業式を目前に控えた平日の放課後、俺とゴローと高森と嘉山は親睦を深めるために近場のファミレスに集まっていた。
 
 俺は少しだけ気にしていたことを、嘉山に訊ねた。

「なあ、嘉山、俺、名乗り出るべきかな、やっぱ」

 嘉山は、何の話か分からない、というふうに怪訝げな顔をした。

「何を?」

「焼却炉の話。おまえが犯人ってことになってるだろ」

 ああ、と彼は納得したように頷いた。

「いいよ今更。もう誰も気にしてないだろ」

「でも、一部の奴ら、まだ態度キツいんだろ」

「まあな」

「……え、なに? 燃やしたの、たっくんだったの?」

 高森が意外そうな顔で話を聞いていた。俺は頷いた。ゴローはちょっと真面目な顔で、黙って俺達のやりとりを聞いていた。


86: 2016/04/16(土) 01:00:07.30 ID:5Sr7dpy7o

「だいたい、犯人だって名乗り出たのは俺だ。いまさら真犯人ですって奴が出てきたら、なんで俺が名乗り出たって話になる」

「……まあ、うん」

「そうなったら、いろんなことの説明、聞きたがるだろ、みんな。俺のことも、おまえのことも」

「……うん」

「あんまり、人に話したいことじゃない」

「でも、なんていうか……」

「あのさ、浅月」

 と、嘉山は俺の名前を呼ぶ。

「おまえが燃やさなくたって、どうせ俺が燃やしてたんだよ、あれ。あんまり気にするなよ」

 その妙にやさしい態度があんまりにも意外で、俺はかえって落ち着かなくなってしまった。


87: 2016/04/16(土) 01:00:33.12 ID:5Sr7dpy7o

 例の屋上での騒動以降、俺は嘉山に、嵯峨野葉羽のことについて何も訊いていない。
 結局、俺には関わりのないことだし、聞いたところでどうできるというわけでもない。

 それでもあれ以降、嘉山孝之も嵯峨野連理も、何かの毒が抜けたみたいに、ちょっと気の抜けた感じの顔をしている。
 どこか切羽詰まったような、それまでの雰囲気は、どこかに消えてしまった。

 嵯峨野葉羽は、結局どうして氏んだのか。
 そんなことを問う資格が、俺にあるわけはない。

 勝手な想像も、する気にはなれない。

 ただなんとなく思うのは、嘉山が何かを思い出したのだろう、ということ。
 嘘によって保たれていた嵯峨野と嘉山の関係性が一度崩れ、それが修復しはじめているということ。

 それくらいだ。


91: 2016/04/18(月) 00:21:57.50 ID:GhTBO6Rmo



「わたし、いぬのおまわりさんになる」

 高森がそう宣言したのは終業式の日の朝のことだった。
 彼女はゴローを連れて俺の教室にやってきて、しばらく退屈そうに窓の外を眺めたあと、そんなことを言い始めたのだ。

「は?」

 思わず聞き返した。

「いぬのおまわりさんになります」

「……犬のおまわりさん」

「うん」

「犬の漫才師とかじゃ駄目なの?」

「悪くないけど、いぬのおまわりさんがいい」

「いぬのおまわりさんになりたいの?」

「うん」と高森は頷いた。


92: 2016/04/18(月) 00:22:50.92 ID:GhTBO6Rmo

「普通のおまわりさんじゃ駄目なの?」

「普通のおまわりさんには、誰かがなるだろうから」

「……」

「悪い子にやさしい、いぬのおまわりさんになるんだよ。
 強い人を褒める人も、やさしい人を褒める人も、きっといるだろうから。
 弱い人や、やさしくなれない人に、そっと寄り添ってわんわん鳴くだけの、いぬのおまわりさんになるんだよ」

「……そっか」

「どう思う?」

「かっこいいんじゃない?」

「うん」

 わたしがそうしてほしいから、わたしはそうすることに決めたの。
 高森はそう言った。


93: 2016/04/18(月) 00:23:17.14 ID:GhTBO6Rmo



「いぬのおまわりさん、っていうのが、マキらしいよね」

 終業式が終わったあと、文芸部員はミーティングのために部室に集まることになっていた。
 最初にいたのは佐伯で、次が俺だった。話は自然と高森の発言について流れていった。

「らしい、かな」

 佐伯の言葉に、俺は首を傾げた。

「浅月には、わからないかも。マキも、あれで分かりづらい子だから。
 でも、そういう子だから一緒にいられたんだなって思う。ちょっと納得しちゃった」

「なにが?」

「ん……。つまり、はりねずみは、抱きしめてもらえないから」

「は?」

 俺は朝と同じように聞き返してしまった。

「はりねずみは、抱きしめてほしい腕に、抱きしめてもらえないから。それを望んだら、傷つけちゃうから」

「……うん」

「だから、はりねずみには、いぬのおまわりさんみたいな子がいてくれることは、とってもうれしいことなんだよ。
 ……えっと、これで、伝わる?」

「……よくわかんないけど、高森はもう、いぬのおまわりさんだったってこと?」

「……うん。そういうことです」

 佐伯はやわらかく笑った。



94: 2016/04/18(月) 00:23:51.72 ID:GhTBO6Rmo



「さて、明日から夏休みってことで、みんなもう気分が浮き立ってるみたいだね」

 部室に揃った文芸部員の顔を見渡したあと、ヒデはにっこり笑ってそう言った。

「休み中の部活の日程表に関しては、前に配った通り。みんな、テストはどうでしたか?」

 高森とゴローが「うっ」という顔をして目をそらすのを俺は見た。

「いまいちだった人もそうでない人も、休み中、ときどき勉強するようにね。遊ぶのも大事だけど」

 ヒデは少し、言葉を選ぶような間を置いた。

「えっとね、こんなこと、学生のうちに言われてもピンとこないだろうけど、一応経験談から言っておくね。
 学校でする勉強っていうのは、なんでか不思議とつまらないんだけど、学んでみると、結構楽しくなってくるんだ」

 月並みな言葉かもしれないけど、明日から休みだし、ちょっと大目に見て、聞いてやってください。ヒデはそう言った。


95: 2016/04/18(月) 00:24:26.01 ID:GhTBO6Rmo

「最初のうちはピンとこないことでもね、ふと、「ああ、あれのことか」とか、「こうなっていたのか」とか、「こんな言い方ができるのか」って、
 分かるようになってくるんだ。そうなると、勉強していたいろんなことが、別々のことじゃなくて、ちゃんとした繋がりを持っていたんだって分かる。
 いろんなアプローチがあるけど、不思議とどれも連綿と繋がっているんだ」

 僕はずいぶんあとになってから気付いた。だから結局、あんまり参考にはならないかもしれないね。

「勉強っていうのは、テストや受験や将来の仕事や、そういうもののためだけじゃなくて、世界のひとつの楽しみ方でもあるんだよ。
 ……えっと、どうかな。言いたいこと、伝わるかな。説教臭いかな、やっぱり」

 とりあえず、誰も文句も言わなかったし、不満そうな顔もしなかった。ただちょっと、やっぱりみんな、ピンと来ない顔をしていた。
 部長だけが、ヒデを見てちょっと微笑んだ。

「うん。まあ、とにかく、それで、みんなにひとつ宿題を出します。これは、文芸部顧問としての課題」

 ええー、と高森とゴローが声をあげた。

「夏休みの間、三冊。三冊で良いです。ジャンルはなんでもいいし、長さもどうでもいい。なんでもいいから、本を三冊読んでください。
 ……言われなくても読むって人も、いそうだけどね」

 そう言って、ヒデはちらりと俺の方を見た。……偏見を持たれている気がする。


96: 2016/04/18(月) 00:25:38.78 ID:GhTBO6Rmo

「そして、そのなかで一番気に入った本の……気に入らなかった本でも、べつにいいけど、そうだな。 
 一番気になった本、がいいかな。とにかく、それの読書感想文を書いてきてください」

「……読書感想文?」

「うん。読書感想文。短くても長くてもいい。どんな書き方でもいい。衒っても嘘をついてもいいし、適当に書いてもいいしわけがわからなくってもいい。
 とにかく、書いてきてください。僕は必ず目を通します。どんな感想でもいいです。正直な感想でも、それらしい感想でも、感想の体をなしていなくても、なんでもいいです」

 みんな、黙りこんだ。どういう意図なのか、探ろうとしてるみたいに。ヒデはおかまいなしに笑った。

「とにかく、みんな、一学期お疲れ様でした。ゆっくり休んで、遊んで、楽しんでください。楽しまないのも、それはそれでいいけど。
 人生にこの夏は一度きりって言ったって、君たちの人生は君たちのものだから、何もせずに棒に振ったってそれはそれでべつにいいんだ。
 教師として、こんなこと言ったらまずいのかもしれないけどね。まあとにかく、君たちにとって良い夏になることを、僕は願っています」

 戸惑い顔の俺たちを見回したあと、ヒデは満足そうに笑って、パン、と手のひらを打ち鳴らした。
 
「それじゃ、解散」

 その合図で、夏休みがはじまった。

102: 2016/04/21(木) 00:28:45.10 ID:bdsiqCIlo



「それで、夏休み初日から風邪を引いた、と」

 そう。そんな静奈姉の呆れたため息から、俺の夏休みははじまった。

「面目ない」

「べつにいいけど、どうしたの、いったい。今まで風邪なんて引いたことなかったじゃない」

「……なん、だろうねえ」

 まったく心あたりがないというのも困ったことだ。
 本当に、終業式が終わったあとも、体調は平気だった。

 家に帰ってから急に身体が重くなって、咳が出始めた。

「バカなんだろうなあ」

 しいていうなら、夜更かしをしていた。


103: 2016/04/21(木) 00:29:11.93 ID:bdsiqCIlo

 例の宣言から、俺はるーとろくに話をしていない。

 一晩、そのことを考えていた。
 どんなふうに伝えるのがいいのか、よくわからなくて。

 言ってしまったあとのことも、少し恐くて。

 何が怖いのかも、よくわからなかったけど。

 そんなことをぐだぐだぐだぐだ考えていたら、気付いたら夜明けが近くて。
 少し寝て起きたら、これだ。

「食欲ある?」

 ベッドで寝込んだままの俺に、静奈姉はそう声をかけてきた。

「ない」
 
 と俺は力強く答えた。

「ひどい声だよ」

「……」

 ひどい声らしい。


104: 2016/04/21(木) 00:29:43.44 ID:bdsiqCIlo

「とりあえず、わたしは出かけなきゃだから、何かあったら連絡してね」

「うい」

「……ホントに大丈夫?」

「まー。うん、どうせほら、休みだからね」

 と言ったところで咳が出た。

「大丈夫だろうと大丈夫じゃなかろうと、喋る元気があるうちは寝てるよ。果報を待つよ」

「意味わかんないよ」

「うん。俺も意味わかんないもん」

「……」

「……」

「……ホントに大丈夫?」

「うん」

「……じゃあ、行くね」

「うん」

「何か買ってきて欲しいものとかあったら……」

「うん。大丈夫大丈夫」


105: 2016/04/21(木) 00:30:16.14 ID:bdsiqCIlo

 そして静奈姉が行ってしまうと、一気に身体が重たくなった。

 頭がぼんやりしてきたし、妙な寒気がする。
 いくらなんでも、いきなりこんなに弱るもんだろうか。

「……気分の問題かな」

 熱をはかると、急に体調が悪くなる、あの感じ。
 自覚すると途端に症状が出てくるっていう、あれ。
 気分の問題、なんだろうなあ。

 窓の外は良い天気だった。季節はいつのまにかすっかり夏めいて、日差しは暖かを通り越して熱い。

「空はこんなに良い天気なのに」

 よだかがいつか、歌っていた歌を思い出した。

 空はこんなに青いのに、風はこんなにあたたかいのに、太陽はとっても明るいのに、

「……どうして、からだが重いの」

 調子外れのかすれた声で歌ってから瞼を閉じた。
 風邪をひいたからに決まっている。

106: 2016/04/21(木) 00:33:40.86 ID:bdsiqCIlo

 蝉の声が聞こえる。
 
「……夏、なんだよなあ」

 なんでかわからないけど、ひとりごとが増える。

「夏かあ」

 夏。

 そんな感じ、しなかったけど、いつのまにか夏だ。

 なんだろう、この感じ。

 閉じたままの瞼に、あたたかい日差しがあたる。

 理由もなくなつかしい感覚。

 風邪を引いて、学校を休んだときのような。
 ……まあ、風邪は引いてるし、学校は休みだけど、そうじゃなくて。

 子供の頃のような、気分だ。
 

107: 2016/04/21(木) 00:34:50.15 ID:bdsiqCIlo



 ひさしぶりに夢を見た。

 俺は雨に濡れている。雨に濡れている自分を眺めている。
 膝を抱えて、公園のベンチの傍の茂みのそばに座り込んでいる。傘を置いて、濡れた地面に身体を落としている。
 
 膝には何かを抱えている。

 それは子猫だった。
 瞼も開いていないような、子猫だった。
 
 赤いブランケットで体を包み込んでいたが、その動きも鳴き声も弱々しい。
 雨の音に消されそうなほどだ。
 
 そんな猫がいた。

 大昔のことだ。

 猫を飼っていた。その猫はいなくなってしまった。
 多分、氏んだんだ、と誰かが言った。猫は氏ぬとき、自分の姿を隠すというから。

 どこかで氏んでいるのだ。野ざらしになって、雨曝しになって、どこかで氏んでいるのだ。

 その猫を、俺はついに見つけられていない。
 どこかで、氏に続けている。


108: 2016/04/21(木) 00:35:33.27 ID:bdsiqCIlo

 雨に濡れた猫は、その猫の、子供だった。
 まだ、生きていた頃、猫が産んだ子供だった。

 黒い猫だった。
 真っ黒な猫。

 うちで飼っていたのは白猫だったから、きっと、相手が黒猫だったのだろう。

 黒猫。

 子猫は、まだ開いていない瞼で、おぼつかない足の動きで、何かを求めるように体を動かした。
 自分を守ってくれる誰かを探すみたいに。

 でも、そんな存在はどこにもいなかった。

 瞼が開いたなら、そのことはすぐに分かるはずだった。

 それでも、彼女の瞼はまだ開いていなくて、だから、彼女は、ただ手がとどかないだけかもしれないというふうに、前足を伸ばし続けた。
 よろよろとした、頼りない足取りで。

 その猫に、俺が何を出来たのか。

 何も出来やしなかった。

 疎まれた猫。祝福されなかった猫。愛されることを奪われた猫。捨てられた猫。

 捨てたのは俺だ。
 俺が捨てた。

 ちゃんと覚えている。
 

109: 2016/04/21(木) 00:36:41.31 ID:bdsiqCIlo

 きっと、俺が言おうとすることなんて、全部代償行為だ。
 全部が全部つじつま合わせだ。

 何もできなかった過去を帳消しにしたいがための、
 自分自身に、言い訳するための、 
 つじつま合わせだ。

 優しさじゃない。

 してしまったことに対する言い訳として、俺は打ち捨てられた存在を憐れんでいる。
 俺自身が、そうすることで許されたいがために。

 その汚さを、疚しさを、るーは当たり前のように許した。

 でも、俺はきっと、許してほしくなかった。

 それを望むのはやっぱり俺のエゴだ。

 ぐだぐだと、つまらないことばかりが、頭の中をゆらめく。

 あの猫の、冷たい体、濡れた毛並み。

 肌に張り付いたずぶ濡れのシャツ、座り込んだ冷たい土、地面の上でかすかに煙る雨の飛沫。
 かすかな鳴き声を、俺は、自分だけが聞いていたのだ、とたしかに思った。
 俺だけが、この子の声を聞いているんだ、と。


110: 2016/04/21(木) 00:37:40.33 ID:bdsiqCIlo



 意識が、かすかな頭痛と一緒に浮上して、夢の中身は、すぐに思い出せなくなった。
 気だるさはいくらか取れていた。

 俺は体を起こして、時計を見る。眠ってから、一時間が過ぎたくらい。まだ、午前中だ。

 少しだけ体を動かしてみてから、体を起こす。どうやら、平気みたいだ。
 と、思ったところで、咳が出る。

「……大丈夫ですか?」

 と、すぐ傍から声が聞こえた。
 
 幻覚でも見ているのかと思った。
 るーが傍にいた。

「なんで……」

「静奈さんが、連絡くれたんです。体調が悪いみたいだから、よかったら様子を見に来てやってくれって」

「……なんで、そこでるーに連絡するかな」

「そうですか? 静奈さんが誰かを呼ぶとしたら、わたし以外いないような気もしますけど」

「……まあ、たしかに」

「寝てて、大丈夫ですよ。ずいぶんうなされてました」

「……つい最近も、こんなことあったな」


111: 2016/04/21(木) 00:38:21.26 ID:bdsiqCIlo

「……というと?」

「目をさましたら、そばにるーがいたこと」

「ああ、はい」

「……」

 そうだ。
 そのとき、告白するって言ったんだ、俺。

「……るー、暑い?」

「どうしてですか?」

「顔、なんか赤いよ」

「……それは、気のせいだと思いますよ」

 るーは何かをごまかすみたいに笑ってから、きまりが悪いように視線を泳がせた。

「……どうかしたの?」

 俺は、重ねてそう問いかけた。

「どうか、って?」


112: 2016/04/21(木) 00:38:59.72 ID:bdsiqCIlo

「なんか、いつもと違う」

「……私服だから、じゃないですか?」

「そうじゃなくて……」

「は、はあ」

「なんか……顔つきが……」

 どことなく、潤んだように、澄んだように、ほのかにきらめいて見える。
 どこかいつもより、大人びたような、

「何かあった?」

「……えっと、タクミくん、声、かすれてます。まだ、寝てた方いいですよ」

「るー」

 と、俺は彼女の目を見た。
 るーは二秒で逸らした。

「……何かあったの?」

「えと、あったというか……」

「うん」

「……内緒です」

 と、彼女は叱られそうな子供みたいな不安そうな顔で、そっぽを向く。
 俺はそれ以上何も聞かないことにした。


113: 2016/04/21(木) 00:39:30.09 ID:bdsiqCIlo

「……ごめんな。休みの初日から、こんなことで来ることなかったのにな」

「べつに、それはかまわないんです」

 るーは、ちょっと慌てた感じですぐに否定した。

「用事とか、なかった?」

「課題、進めるつもりだったんです。いちおう持ってきたんで、大丈夫です」

「俺、平気だから、帰ってもいいよ」

「……はあ」

「たぶん、寝てれば治るから」

「……そうですか」

「うん。ごめん」

「……」

 るーはしばらく黙りこんでから、小さく頷いた。
 それから荷物を入れてきたらしい鞄を手にとって、「それじゃ」とちょっと落ち着かないふうに呟いて、ドアの外に出て行く。


114: 2016/04/21(木) 00:40:09.48 ID:bdsiqCIlo


 部屋に耳鳴りのような静寂が戻る。

 俺は少し後悔した。

 と思ったら、ドアがガンっと再び開いた。

「……そういうこと言います? 普通」

 眉を逆立てたるーが、俺を真正面から睨んだ。

「……え、なに?」

「わたし、邪魔ですか?」

「や、邪魔とかじゃ……」

「だったら、わたし、いらないですか?」

「いや、いらないとかって、わけじゃなくて、ひとりでも平気だから」

「わたしがいると、いやですか」

「……嫌じゃないです」

 俺は気圧された。


115: 2016/04/21(木) 00:40:54.08 ID:bdsiqCIlo

「だったら、ごめんとか、平気とかじゃなくて、ありがとうって、うれしいって言ってください」

「……」

「じゃないとわたし、わからなくなっちゃうじゃないですか」

「……えっと、ごめん」

「じゃなくて!」

「……ありがとう。助かります」

「……言わされたって、思います?」

「いや、ごめん。俺が間違ってた」

「タクミくんは自分を軽く扱いすぎです」

「……なこと、ないと思うんだけど」


116: 2016/04/21(木) 00:41:20.23 ID:bdsiqCIlo

「あります。どうせ、遠慮とか、そういうのなんでしょうけど。
 迷惑がかかるとか、そんなこと考えてるんでしょうけど。
 迷惑くらい、かけてください。遠慮もしすぎると、他人を軽く扱ってるのと同じです」

 珍しいくらい、厳しい言葉だった。
 俺は、また、自分が恥ずかしくなる。

「……うん」

 ようやく素直に頷くと、るーはほっとしたみたいに肩の力を抜いた。

「ごめん。……ありがとう。助かった」

「……ホントに、わたし、ここにいていいですか?」

「うん。ひとりだと、なんだか、余計なことばかり考えそうだったから」

 だから、助かった。
 でも、俺は彼女に甘えすぎている。自分でもそれが分かっている。

 だから、いいかげん、言わないと。


117: 2016/04/21(木) 00:41:46.91 ID:bdsiqCIlo

「るー、あのさ」

 怖さは、やっぱりあった。
 拒まれること、ではない。たぶん、彼女は受け止めてくれる。
 
 でも、本当に彼女は、俺のことを知っているのだろうか。
 何か、勘違いしているんじゃないか。

 そんなふうに思う。

 今は、その錯覚が、都合よくて、るーは俺のことを受け入れてくれるかもしれない。
 でも、それが錯覚だったと気付いてしまったら、そのとき、失望されやしないか。

 勘違いだったと、落胆されはしないか。

 そうなったとき傷つくのは自分だから、だから俺は、自分が傷つくのが恐くて、逃げていたんだろう。
 でも、それでもかまわない、と今、思った。

「るー」

「はい?」

 彼女は何か、頼まれるのかと思ったのかもしれない。 
 水を汲んできてくれとか、そういうことでも頼まれるのかと。
 だから、自然な顔で続きを待っていた。

 俺はちょっとだけ逃げそうになって、結局言うことにした。

「るー、好きだよ」

 口に出すとき、目を閉じてしまった。
 どんな顔をするのか、見るのが恐くて。やっぱり俺は逃げてばかりだ。


118: 2016/04/21(木) 00:42:26.01 ID:bdsiqCIlo

「……はい?」

 るーは、ちょっとあっけにとられたみたいな声をあげた。

「……今なんて?」

「……好きだよ、って」

「……はあ」

 また、恥ずかしくなる。
 なんだか、見当違いのことをしてしまったような気がする。

 でも、もう取り消せない。だから、続きを言う。
 正面からきてくださいって、彼女は言った。
 
 だから俺は体を起こして、るーと正面から向き合って、言い直すことにする。

 重い体をひきずりあげて、るーを見る。
 やっぱり彼女の顔つきは、どこか、このあいだまでとは違って見える。
 それを綺麗だと思った。

 窓からさしこむ日差しに透けるように輝く髪の先。
 本当はもっと、上手い言い方を、思いつきたかったんだけど。

 もう、選んでいる時間もない。
 
「好きだ。……俺の彼女に、なってください」


119: 2016/04/21(木) 00:42:52.73 ID:bdsiqCIlo

 るーは、しばらく黙りこんだ。
 どこか、呆けたみたいに。

「……えっと」

 視線を、るーは泳がせる。困ったみたいに。
 やっぱり、しくじったのかもしれない。全部、勘違いだったのかも。
 
 でも、俺の発した言葉は嘘じゃないから、もう待つ以外のことはできない。

 しばらく続いた沈黙。
 そのあいだ俺は、懸命に、るーを見ていた。
 逸らさないように、ずっと。
 
 その沈黙の最後に、るーは小さく笑った。

「……はい」

 遅れて、心臓が跳ねる。

「……こんなわたしで、よかったら」

 困ったみたいに、るーは笑う。
 その表情が、ずっと好きだった。

 俺たちは顔を見合わせて笑った。
 ばかみたいだ、と思った。
 
 こんな言葉なんかで、胸がどきどきして、顔が熱くなって、何かがこみあげるみたいに満たされていく。
 彼女の方もそうだったらいいと思った。

 何を言えばいいか分からなくて、ごまかすみたいに笑い合う。
 るーは、心地よい気まずさから逃げるみたいに、「飲み物、もってきますね」と、顔をそむけて部屋を出て行った。
 ドアが静かに閉められたあと、緊張がほどけるのを感じて、ベッドに崩れ落ちるように横になる。

「……はは」

 わけもなく笑った。
 ようやく言えた。長い間胸のどこかでつっかえていた言葉。

 達成感でも、満足感でもない。期待感だ、と思う。
 何かが変わろうとしている、と、俺は思った。


125: 2016/04/23(土) 23:10:57.43 ID:XpbS07Gqo



 冷蔵庫の中に入っていた麦茶とふたりぶんのグラスを持ってくると、るーは何も言わずに俺の使っている椅子に腰掛けた。

 しばらく沈黙があった。蝉の鳴き声だけが部屋のなかに散らばっている。

「と、とりあえず落ち着きましょう」、と、るーはちょっと震えた声で言った。

「……落ち着いてるけど、なに?」

「いや、はい。……落ち着きましょう」

「うん」

「……はい」

 ともう一度頷いてから、るーはそわそわした様子で言葉を止めた。

「……どうしたの?」

「……ぎゃ、逆に。どうしてそんなに平然としておられるのですか」

「べつに、平然としてるっていうか……」

 ……まあ、平然としてるか?


126: 2016/04/23(土) 23:11:23.79 ID:XpbS07Gqo

「タクミくん、そういうところありますよね」

「と、言うと?」

「変なところで冷静」

「変」

 変か?

「変ですよ、そんな……」

 俺がるーの顔を見ていることに気づくと、彼女はさっと視線を逸らした。

「……見ないでください」

「……なんで」

「なんでもです」

「……やだ」

「……」

 るーは困ったような顔をした。


127: 2016/04/23(土) 23:13:04.85 ID:XpbS07Gqo

「風邪、治ったらさ」

「……はい?」

「風邪、治ったら、どっか、行こう」

「……どっか、ですか?」

「……うん」

「タクミくん、行きたいんですか?」

「どうして?」

「出かけるの、好きじゃなさそうだから」

「……」

「あの。無理、しなくていいですよ、べつに」

「……」

「『そういうものだから』って、『そう』しなくてもいいです」

「……そう?」

「はい」

「……でも、俺、るーとどっか、行きたいかな」

「……そ、そうですか」


128: 2016/04/23(土) 23:13:30.77 ID:XpbS07Gqo

 あ、と、彼女は何かを思い出したように声をあげた。

「そういえば、タクミくんに言うの忘れてました。一緒に海に行きませんか?」

「……ふたりで?」

「……ふたりで、が、いいですか?」

「うん」

「……タクミくん、からかってませんか?」

「ちょっとだけ」

 もう、とるーはむっとした顔でため息をついた。

「海って?」

「べつに泳ぎにいくとかじゃないですけど、ちい姉が行くそうなんです。よかったらタクミくんも来ないかって」

「……ちい姉が? すず姉じゃなくて?」

「はい。すず姉は行かないみたいです」

「……ちい姉と、俺と、るー?」

「はい」

「……それは、なんか……」

 変な感じがする組み合わせだ。


129: 2016/04/23(土) 23:19:03.88 ID:XpbS07Gqo

「まあ、風邪が治ったらの話ですけど」

「……うん。行く」

「……えと、いいんですか? バイトとか」

「休み中だからって、そんなにシフト増やすわけじゃないし、基本夕方だから」

「そうですか。だったら、ちい姉に言っておきますね」

「……ねえ、るー」

「はい?」

「……敬語のままなの?」

「あ、えっと……」

「……うん」

「……その。そのうち、はい」

「……そっか」


130: 2016/04/23(土) 23:19:29.73 ID:XpbS07Gqo

「……タクミくん、ひょっとして、眠いです?」

「少しだけ」

「じゃあ、寝ちゃってください。風邪引いてるんですから」

「でも、るーいるし」

「気にしないでください。わたし、課題やってますから。家にいたら集中できなかったから、ちょうどよかったです」

「そっか、じゃあ、寝ようかな、少しだけ。なんだか、でも……」

「……はい?」

「……少し怖いかな、寝るの」

「子守唄でも、うたってあげましょうか?」

「頼んでいい?」

「……冗談ですよ?」

「うん。知ってる」

「また、すぐそうやって……」

「……るー」

「はい?」

「ありがとう。来てくれて」

「どういたしまして」と、るーは笑った。

「それじゃ、おやすみ」

「はい。おやすみなさい」


131: 2016/04/23(土) 23:19:56.13 ID:XpbS07Gqo

 本当に眠るのが怖かった。どうしてなのかも分からない。夢がさめてしまいそうな気がしたからかもしれない。
 意識は熱でただでさえぼんやりしていて、そのせいで俺は夢見心地だ。
 どこか現実感のない視界。

 まるっきりの嘘みたいだと思った。

 これがつくりものの夢の世界なら、いっそさめなければいいのにと思った。
 ずっとただこれだけの景色が続くだけの夢だったとしてもかまわなかった。

 けれどふたたび目をさましてしまったとき、俺の関節はまだかすかに痛んでいて、
 少しマシになった頭痛に額を抑えてから体を起こすと、るーは傍に座っていた。

「……おはよ」

 声をあげると、彼女はこちらに気付いた。

「おはようございます。気分はどうですか?」

「……うん、だいぶ、マシかな。どのくらい寝てたっけ?」

「二時間、経つか経たないかってところですね。食欲、ありますか?」

「うん。少しだけ」

「じゃあ、ちょっと何かつくります」

 そう言って彼女は、読んでいた本を閉じた。
 表紙が、視界に入る。


132: 2016/04/23(土) 23:20:26.48 ID:XpbS07Gqo

 宮沢賢治の全集。「よだかの星」だ。
 
「……本、読んでたの?」

 るーは、照れくさそうに笑った。

「他の課題の息抜きも兼ねて、文芸部に出された課題の方を」

「それにするの?」

「まだ、途中なのでわからないです。タクミくんはこの話、読んだことありますか?」

「うん」

 話をしながら、るーはどこか落ち着かないような、不安そうな目でちらちらと俺を見た。

「あの、タクミくん」

「……なに?」

「あ、えっと……さっきより、意識、はっきりしてますか?」

「うん」

「そうですか。えっと」

「……」

「……」

「ちゃんと覚えてるよ?」

「……そ、ですか。だったら大丈夫です。よかった」

 るーはほっとため息をもらした。


133: 2016/04/23(土) 23:20:58.41 ID:XpbS07Gqo



 その日、小鳥遊こさちが夢に出てきた。

「おめでとうございます」と彼女は言った。

「ありがとうございます」と俺は答える。

 俺たちは学校の屋上にいた。

「また屋上です」

 とこさちは言う。

「どうして屋上なんだろう」

「天国に近いからじゃないですか?」

「天国は空の上にあるの?」

「わかんないです。適当に言いました。もしくは、先輩が屋上を好きなだけなのかも」

「否定はできない」


134: 2016/04/23(土) 23:21:49.80 ID:XpbS07Gqo

 こさちは屋上のフェンスの向こう、縁に座り込んで素足をぶらぶら揺らしていた。
 俺はフェンスの内側にいた。

「藤宮さんはいい子ですよ」

「知ってる」

「でも、変わってます」

「うん」

「先輩、こさちはときどき思うんです」

 こさちはゆらゆらと、足を揺らしている。

「ひょっとしたらこの世界は、悪趣味な喜劇なんじゃないかって」

「……喜劇?」


135: 2016/04/23(土) 23:22:16.10 ID:XpbS07Gqo

「はい。なんとなくですけど、そんな感じがします」

「はあ」

 ぱしゃり、と音がした。こさちの手の中には例のスマートフォンがあった。

「……なに?」

「先輩、こさちが誰だか、わかりますか?」

「それ、どういう意味?」

「こさちがどういう存在なのか、わかりました?」

「……さっぱり」

「でしょうね。こさちは、ちょっとややこしいですから」


136: 2016/04/23(土) 23:22:52.79 ID:XpbS07Gqo

「……最後に会ったとき、忘れてくれって、言ってたよな」

「はい」

「でも、俺、おまえのこと、知らないんだ。最初から覚えてないんだよ」

「……たぶん、姿のせいだと思います。これ、借り物なんです」

「……借り物?」

「忘れてください、って言いました。でも、先輩。……『先輩』って呼び方も、白々しいかも。
 でも、もし、先輩が忘れなくても平気なら、こさちに会いにきてください」

「……会いに、って」

「もし来てくれたら、こさち、迎えにいきます」

 そう言って彼女はきれいに笑った。肩越しに振り向いた表情はいたずらっぽい猫みたいだ。

「この子の名前、知ってますか」

 そう言って、こさちは自分のからだを指さす。

「小鳥遊こさち」

「はずれです。この子の名前は、柚原志乃、です」

「……」

「借り物なんです、体。イメージも」


137: 2016/04/23(土) 23:23:32.70 ID:XpbS07Gqo

「……ごめん、さっぱり意味が分からない」

「でしょうね。でもこさちは、ずっと先輩に会いたかったんです」

「スクイが……」

「はい?」

「スクイが、こさちの名前は、自分のせいだって言ってた」

「そういう見方もできるかもしれないけど……」とこさちは言った。

「基本的には偶然です」


138: 2016/04/23(土) 23:24:00.29 ID:XpbS07Gqo

 小鳥遊こさち。
 小鳥遊こさち。

 いくら記憶を浚ってみても、思い当たるものは何もない。

「名前がピンと来ないのは、仕方ないです。先輩はこさちの名前、たぶん、そんなに聞いてないから。
 でも、先輩が望むなら、先輩が名前をつけてくれてもよかったんですよ?」

「……」

「いまさらの話ですけど。それに、こさちはこの名前、けっこう気に入ってます。
 似合わない名前ですけど、だからこそ、なんでしょうね。
 そう思うと、とっても嬉しいんです」

 こさちは、きれいに笑う。黒髪を揺らして、ゆらゆらと足を振る。

「こさち、屋上が好きです。高いところ。街を見渡せるところ」

「……そう?」

「先輩は、きらいですか?」

「好きだよ、たぶん」

「雨は?」

「嫌いじゃない」

「こさちは苦手でした。冷たくて、寒くて、でも、今は好きです」

「どうして?」


139: 2016/04/23(土) 23:24:29.92 ID:XpbS07Gqo

「それはたぶん、先輩にもわかると思う」

「……」

「いまのこさちは、いろんなものの集合体なんです。
 柚原志乃の体に宿ったいろんなもの、借りてるんです。それから、ちょっとだけ、先輩のいろいろ、借りてます。
 きっと、この意味も、分かると思う。先輩が会いに来てくれたら」

「会いに行くって、どこに」

「わたしはずっと、同じところにいますよ」

「……」

「先輩が会いに来てくれるの、ずっと待ってます。これまでも、これからも」

「……」

「面倒だったら、忘れてください」

「……」

「でも、忘れてくださいって言いましたけど、こさちのこと思い出したら、先輩もきっと、うれしいと思う」

「……」


140: 2016/04/23(土) 23:25:19.72 ID:XpbS07Gqo

「うれしい、っていうのとは、違うかな。
 でも、こさちに会いにきてくれたら、先輩の抱え込んだ荷物が、少しだけ軽くなるかもしれない」

 だから、こさちは言うんです。

「やっぱり、忘れないでください。半端に覚えられてるよりは、完全に忘れるか、思い出してもらったほうが、助かります。
 記憶はつくりものだから。すぐに削れて、わからなくなっちゃうから。
 だから、ちゃんと思い出してください。先輩がこさちにしてくれたこと、ぜんぶ」

「どこにいるんだよ」と俺は言った。

「分かったよ。会いにいくよ。わけがわからないけど、俺を呼んでるなら会いにいく。
 言ってることはわからないけど、俺に会いたいなら会いにいくよ。おまえにはずいぶん助けられたから。
 だから、教えてくれよ。どこにいるんだよ、こさちは」

「もう一回」

「……なに?」

「もう一回、こさち、って呼んでください」

「……こさち?」

「もしもう一度会えたら、そのときはきっと、こさち、言葉にできないだろうから、今のうちに、言っておきます」

 それからこさちは、屋上の縁の上に立って、フェンス越しにこちらを見た。


141: 2016/04/23(土) 23:26:13.23 ID:XpbS07Gqo

「ありがとうございました、先輩。ずっと言いたかったんです。
 こさち、先輩がいてくれたから、ここまで生きてきました」

 俺には、その言葉の意味がまったくわからなくて。
 こさちが泣いている意味だって、よくわからなかった。

「柚原志乃の読んでいた本に、本当の恋ができるのは、女だけ、って書いてありました。
 こさち、それでもかまわないです」
 
 涙をぬぐいもせずに、隠そうともせずに、こさちは笑って、言葉を続ける。

「大好きです、先輩。こさち、柚原志乃や、藤宮ちはるとして生まれたかったって思うくらいに。
 でも、こさちはこさちだから。守ってもらったから。こさちはこさちとして、生きていくんです」

 だから、先輩が苦しいときは、思い出してくださいね。

「先輩がいたから生きてきた存在がいたってこと、ちゃんと、思い出してくださいね」


142: 2016/04/23(土) 23:26:44.10 ID:XpbS07Gqo
つづく

145: 2016/04/24(日) 23:14:15.78 ID:+7NlXydio



 目をさましたとき、傍にるーはいなかった。帰ってしまったのだ。そういう記憶はあった。
 
 窓の外は暗くなっていた。開けたままのカーテン。窓の外に街灯と月のあかりが見えた。

 部屋の外から物音が聞こえた。静奈姉が帰ってきているのだろう。

 熱はすっかり抜けているようだった。どうして急に体調を崩したのか、本当によく分からない。
 頭はまだぼんやりしている。さっきまで見ていた夢の記憶が、朧気ながらも残っている。

 物思いに耽る。

 小鳥遊こさちの言葉が、頭の中に残っている。

 なぜかはわからないけど、俺にはそれがとても大事なことだと思えた。
 ただの夢だと、どうしてか思えなかった。

 ただの夢のはず。
 でも、小鳥遊こさちという少女のことを考えるとき、俺は彼女を普通の人間のように扱ってはいないような気がする。


146: 2016/04/24(日) 23:14:53.61 ID:+7NlXydio

 鷹島スクイが、まだ俺のからだを使って影のように歩き回っていたとき、彼女は平然とスクイのことを呼んだ。
 前からずっと知っていたみたいに。

 でも、スクイと会ったことのある人間なんて、いるわけがない。
 そもそもスクイの記憶にさえ、小鳥遊こさちは存在しない。

 スクイは、握りしめた拳の中の暗闇に宿った影のようなものだ。
 その手をほどいてしまえば、掻き消えてしまうような、そういう存在だった。

 箱の中の猫のような不確定。観測されるまで、存在と不在の区別さえつかない概念。
 だから彼は、俺がひとりでいるときにしか、姿を現せなかった。
 俺が誰かといるときは、存在できなかった。俺の体はひとつしかないから、スクイと俺が同時に存在することはできない。

 スクイの出現の条件は二種類あった。
「俺がからだを手放す」か、「周りに誰もいない」か。

 今となっては、鷹島スクイの記憶は、既に俺のなかに馴染んでいる。

 スクイはずっと前から俺の中にいた。
 彼は、俺が目の前の出来事から逃げ出したとき、この体の操縦桿を握って、俺のように振る舞っていた。
 
 俺が眠っているときに、『煙草を買い』、『テストを受け』、『部誌を燃やし』、『嵯峨野連理と話をした』りもしていた。
 まるで、俺が抑圧されていた何か、俺が押し込めていた何かを、一手に引き受けていたみたいに。

 そして俺がスクイと顔を合わせていると思っていたとき、俺たちは差し向かいに立っていたわけではない。

 あれは、頭の中で起こっていた出来事だ。


147: 2016/04/24(日) 23:15:53.62 ID:+7NlXydio

 でも、一度だけ例外がある。

 スクイと俺が同時に存在し、しかも第三者がそれを認識していた場面。

 嘉山孝之が、俺を鷹島スクイと呼んだとき。
 
 あのとき、俺は体の操縦桿を手放して、鷹島スクイが成り代わった。

 スクイが、嘉山との対面を、俺の代わりに果たした。

 そのとき俺は、屋上の更に上、給水塔のスペースで目をさました。

 体がひとつしかないなら、俺とスクイは同時に存在できない。
 嘉山はたしかに、スクイと話をしていた。だったら、『からだ』を使っていたのはスクイだ。

 スクイが俺の前に存在できるのは、『頭のなか』か、『第三者が不在の場所』だけ。
 
 俺があの日目を覚ました時、傍にいたのはこさちだった。

『からだ』を使っていたのがスクイなら、俺が第三者と話せるわけがない。

 だったら、こさちは何なのか?

 小鳥遊こさちは存在する人間なのか?
 こんな考えは、奇妙な夢に惑わされているだけの妄想か?


148: 2016/04/24(日) 23:16:47.22 ID:+7NlXydio



「……柚原さん、ですか?」

 翌日、俺はファミレスにるーを呼び出して、彼女に話を聞いてみた。

 朧気な記憶のなかでも、かすかに覚えていた、名前のこと。
 こさちの言葉の意味はわからなかったけど、もし夢の中で出てきた名前の人物が存在するなら、彼女のことが少しわかるかもしれない。

 そう思って、柚原志乃の名前を出した。

「……柚原さんのこと、知ってるんですか? タクミくん」

 るーはメロンソーダの入ったグラスを指先でこつこつ弾きながら、当たり前みたいにそう言った。

「……いるの、柚原志乃」

「いるっていうか、クラスメイトですよ、わたしの」

「……いるんだ」

 とりあえず、その事実を確認してしまうと、余計に混乱が深まった。
 
「……」

 ……とりあえず、確認したところで何も解決しないことは分かった。
 こみ上げてくる頭痛に額を抑えていると、るーは不満気にストローをくわえた。


149: 2016/04/24(日) 23:17:49.36 ID:+7NlXydio

「……どした?」

「いえ、べつになんでもないですよ?」

 とてもなんでもないようには見えない顔でるーは笑った。

 ……いや、まあ、言いたいことは分かるんだけども。
 
 べつに俺だって、夢のことが気になったからっていう理由でるーを呼んだわけじゃない。
 気になったのは本当だけど、それは目的の半分よりずっと少なくて。

 ただ、なんとなく、会いたかったからなんだけど。

「……昨日は、ありがとな」

「え?」

「看病しにきてくれて」

「あ……いえ、べつに、それはぜんぜん」

 何を話したらいいかわからなくて、つい用件ばかりを口に出してしまっただけで。
 だからって、まさか会いたかったから呼びましたなんて、照れくさくて言えないし。


150: 2016/04/24(日) 23:18:19.28 ID:+7NlXydio

 せいぜいの口実が、「訊きたいことがある」と、「昨日のお礼」くらいのもので。
 そういう自分の狡猾さが、妙に嫌になったりする。

「な、るー、あのさ」

 と、声を掛けた途端、るーの携帯が鳴り出した。

「……あ、えっと。なんですか?」

 着信音に一瞬気を取られてから、話の続きを促したるーに、俺は少しだけ笑ってしまった。

「いいよ、とりあえず出て」

「……あ、うん」

 るーは立ち上がって、店の入り口の方へと立っていった。

 意識せず、長いため息が出た。

 そりゃ、俺だってわかってる。
 昨日の告白のことを忘れたわけじゃない。

 今日だって、突然の呼び出しに、るーは素直に応じてくれた。
 それに対して俺だって、いろいろやれることがあるはずなのだ。


151: 2016/04/24(日) 23:19:48.45 ID:+7NlXydio

 私服姿を褒めるとか。
 なんかもっとこう、うまいことを言えたらよかったんだけど。

 俺の口はいつも重たくて、言いたいことを言いそびれてしまう。

 変に思われるんじゃないかとか、見当違いのことを言ってしまったらとか。
 そんなことばかり心配してしまう。

 もっと素直に口に出せたらよかった。

 考えながら、俺はるーの背中に視線をやる。

 私服姿もそうだけど。
 るーのことをかわいいと感じてるのは、まったく嘘ではないわけで。
 ……だからって、そんなの口に出せないわけなんだけど。

 その結果、開口一番に他の女子の話題が出たとなれば、そりゃるーだっていい気分はしないだろう。
 ……のか?

 こうやって、「こうすべき」とか、そういうふうにあれこれ考えてしまうあたりが俺の問題なんだろう。
 もっと肩の力を抜かないと、るーだって疲れてしまうかもしれない。

 とはいえ。

 そもそも、付き合って、と言って、頷いてくれはしたものの。
 そんなささやかなことで嫉妬をしてもらえるほど、俺はるーに好かれてるんだろうか。

 ……我ながら、面倒な奴だ。


152: 2016/04/24(日) 23:21:20.61 ID:+7NlXydio


 
 電話を終えて戻ってきたるーは、ちょっと気まずそうな顔で口を開いた。

「あの、電話、ちい姉からでした」

「ちい姉? なんて?」

「海の話。タクミくんが空いてるなら、今日行かないかって」

「……今日? 俺、支度してないけど」

「泳ぎにいくわけじゃないです。ただ観光に行くだけみたいで……」

「それにしても、ずいぶん急だね」

「……それは、思い立ったが吉日らしく」

「……えっと」

 ずいぶん、俺の思っているちい姉とは違うイメージの言葉だ。

「タクミくん、このあと予定とか、ありますか?」

「いや、特に……」

 ない。バイトも、夏休みに入って数日は、休みを入れてもらっていた。
 バンドの練習は今のところ各自個人でひたすら基礎練習。部誌に関しても、まだ何も考えていない。

 しいていうなら、るーにどこかに行かないかと声をかけるつもりだったけど。
 まあ、ちょうどいいと言えばちょうどよかった。

「じゃあ、今日でも平気ですか?」

「……うん」

 るーは携帯を操作して、ちい姉に連絡をしたみたいだった。俺はなんとなく、妙な気分になった。


153: 2016/04/24(日) 23:21:59.85 ID:+7NlXydio



 それを予感していたわけじゃないけど、俺は不思議と驚かなかった。

 迎えにいく、と連絡があってすぐに、ファミレスの駐車場についたという連絡がるーの携帯に入る。

 会計を済ませて店を出ると、店先にはふたりが立っていた。

「おー」と、その人は声をあげた。

「なんだ、それ」

 と、彼は言う。

「タクミ、おまえ、背、伸びすぎだろ」

 そう言った彼の方も、あの頃よりずっと大きくなっていて、着ている服だって、大人びていた。
 それでも、俺の顔を見てうれしそうに笑いながら、ちょっと驚いてみせたその表情は、見覚えがあった。

「……えっと」

「うん?」

 ちい姉とるーは、妙な含み笑いをしながら、俺たちの顔を交互に眺めた。

「……遊馬兄?」

 名前を呼ぶと、彼は楽しそうに笑った。

「よかった。忘れられてたらどうしようかと思ってたんだよ」
 
 それから彼は笑顔のままで、

「ひさしぶりだな」

 と言った。

154: 2016/04/24(日) 23:22:43.45 ID:+7NlXydio

155: 2016/04/24(日) 23:37:30.12 ID:YutYJhIBo
乙です

引用: 屋上に昇って