160: 2016/04/26(火) 23:29:14.49 ID:gheRICtno
最初:屋上に昇って【その1】
前回:屋上に昇って【その10】
◇[Circumference]
「遊馬、シートベルト」
「おー、うん」
俺とるーとちい姉を乗せて、遊馬兄の車は走りだした。
「いや、それにしても久しぶりだな。何年ぶり? 五年とか?」
「忘れた」
と、俺は自然と、敬語をつけずに答えられた。そんな自分にちょっとびっくりした。
「相変わらずクールな奴だな。もうちょっとこう、感動の再会的な流れは? ないの?」
「……そんなふうに言われたら、それは」
「ま、そりゃそうか」
遊馬兄は当たり前みたいに車を運転していて、その事実が俺をちょっとだけ戸惑わせる。
161: 2016/04/26(火) 23:29:41.76 ID:gheRICtno
「タクミはいつからこっちに来てたの?」
「去年の春から」
「去年!」
と遊馬兄は声をあげる。
「ぜんぜん知らなかった」
「……まあ、会う機会がなかったから」
「一言俺に知らせてくれてもよさそうなものだ」
「知らせる手段も……」
ない、わけではなかったけど。
静奈姉がいたわけだから。
でも、あえて連絡をとらなくてもいいと思った。
会うのが怖かったから。
今となっては、何を怖がっていたのかも分からない。
162: 2016/04/26(火) 23:30:28.50 ID:gheRICtno
「それで、るーとタクミは付き合ってるの?」
当たり前みたいな口調の遊馬兄の質問に、俺とるーが一瞬後部座席で目を合わせると同時、
「付き合ってないみたい」
とちい姉が先に答えてしまった。
俺とるーが互いの様子をうかがっている間に、遊馬兄は何かに納得したみたいに、
「まあ、歳とればいろいろあるもんなあ」
とうんうん勝手に頷いていた。
「同い年だっけ?」
「わたしが一個下ですよ」
「るーの方が下だったんだっけ。そんな感じしなかったけど」
「わたしもそう思ってました」
……そんなに子供っぽかっただろうか、当時の俺は。
163: 2016/04/26(火) 23:30:56.45 ID:gheRICtno
「あのさ、ところで、どこに向かってるの?」
遊馬兄もちい姉も何も言わないものだから、なんとなく気になって訊ねてみる。
「海が見たいんだよ」
と遊馬兄は言った。
「……海?」
「うん」
「泳ぐの?」
「いや。浜辺とかじゃないよ。どっちかっていうと港」
「……なぜ?」
「夏だから?」
何を当たり前のことを、みたいな調子で、遊馬兄は言った。
「まあ、一応観光地ではあるな。タクミはこっちに来てから、どっか行ったりしたの?」
「いや、まったく」
「ふうん。ならまあ、観光しにいこう」
「……ついでみたいに言うなあ」
「ついでだよ。俺が行きたいだけだから」
……こんな人だったかなあ。そういう気もするけど。
164: 2016/04/26(火) 23:31:22.38 ID:gheRICtno
そういうわけで連れてこられたのは、たしかに有名な観光地だった。
「景色が綺麗ってので有名ではあるけど……」と、駐車場に車を止めて、海岸通りに足を進めながら、遊馬兄は言う。
「……ぶっちゃけ、まあ、そんなでもないよな。朝とか夕方なら、また違うかもしれないけど」
遊馬兄はそう言ったけど、なぜだか俺は、不思議と見とれてしまった。
昼下がりの海面はきらきらと光を弾いて揺れ動いている。
ぼんやりと視線を投げると、水際にいくつもの漁船が並んでいる。突き出たような船乗り場の先には大型のフェリーが一艘。
その先には、例の多島海が景色として広がっていた。
水平線が、島々の隙間から見える。
季節と天気のせいか、夏休みに入ったからか、人は少なくないが、かといって多すぎるというほどでもない。
「子供向けの施設なんかが少ないからだろうな」、と遊馬兄は言った。
「寺とか、そういうのはあるから、よく言えば大人向けって感じだな。昔は水族館もあって、小学校の遠足なんかで連れてこられたもんだけど」
「……今はないの? 水族館」
「地震のときにやられて一回休館したんだよな。一時期はまた営業してたんだけど、結局潰れた。好きだったんだけどな、俺。
古いけど味があるっていうか……あと、アシカショーが超テンションあがる」
「……ふうん」
「で、そのアシカ、新しく別の場所にできた水族館に引き取られたらしいよ。いつオープンだったっけ?」
「今月頭じゃない?」
「だっけか」
ちい姉と遊馬兄の会話のやりとりがあんまりナチュラルなものだから、俺は違和感さえ覚えた。
あの頃はもっと、お互い距離をはかりあうような不自然さがあったものだけど。
まあ、付き合ってたっていうんだから、そういうものなんだろう。
165: 2016/04/26(火) 23:31:57.61 ID:gheRICtno
俺のことや遊馬兄のことを話しながら、海を眺めつつ海岸通りを歩いた。
「ここに来たらとりあえずこれを食べる」と遊馬兄は何かの義務みたいに言って、パン屋で牡蠣入りのカレーパンを買った。
みんなの分。
「ありがとう」
「良いってことよ」
遊馬兄のノリはやっぱりよくわからない。
「でも、るーに会うのも久しぶりだな」
遊馬兄は急にそっちに話題を変えた。
「っていっても、何ヶ月か、だと思いますよ」
「何ヶ月って言ったら、けっこう長いよ」
「そうですか?」
「うん」
「……そうですか?」
「……そうでもないかも」
るーの再度の問いかけに、遊馬兄はあっさり折れた。
166: 2016/04/26(火) 23:32:30.58 ID:gheRICtno
それから俺達は他の人の群れに混ざって普通に観光をした。
小島の上に建つ仏堂へ繋がる橋の橋桁から海が見えるのに驚いて、少し尻込みした俺を、るーが笑った。
ついでにおみくじを引いたらみんな大吉で、「大吉しか入ってないんじゃない?」とちい姉が真剣そうな調子で言った。
「少し散歩でもするか」と言った遊馬兄についていった先には、例の水族館の跡地と広い公園があって、家族連れが和やかに遊んでいた。
「せっかくだから」と言って遊馬兄が近くの寺院まで連れて行ってくれた。参道の杉木立は圧倒されるくらいに高かった。
「秋になると夜にライトアップされるんだよな、ここ。来たことないけど、ちょっと気になる」
遊馬兄がそう呟いたのを、ちい姉が「ふうん」という感じで聞いていた。何か考えていたのかもしれない。
「せっかくだから」と遊馬兄はまた言って境内に入って、しばらく庭園や建築物を眺めた。
ひとしきり中を覗いてから外に出て、今度は参道の裏手の道を通って、昔から残っているという洞窟やら遺跡やらを眺めて歩いた。
あたりは不思議と静かで、人気もほとんどなかった。
「……と、ぼんやり歩いているだけでけっこう暇つぶしになる不思議なスポットだ」
海岸通りに戻って遊馬兄がそう呟いたとき、たしかにかなりの時間が経過していた。秋だったらもう暗くなりかかっている時刻だ。
「……」
「何か言いたげだな、タクミ」
「……いや、楽しかったけどさ。十代や二十代の若者が来るとこかな、ここ」
「俺はけっこう楽しいよ」
「わたしもけっこう楽しい」とちい姉が言う。
「わたしも好きですよ」とるー。
「……いや、俺も好きだけどさ、こういうの見るの」
167: 2016/04/26(火) 23:33:06.22 ID:gheRICtno
「だったらあんまり気にするなよ。人には人の好みってものがあるんだ。少なくともこの子は海水浴場とかスキーとかに連れてくより喜ぶよ?」
遊馬兄が言いながらぽんとちい姉の肩を叩くと、彼女はちょっとむっとした顔で彼を睨んだ。
「え、なに」
「……べつに」
と、ふてくされたみたいにちい姉はそっぽを向く。遊馬兄は困ったみたいに頬をかく。
その両方の仕草がなんだかすごく子供っぽくて、思わず俺は笑ってしまった。
「こないだ滝にも行った」
「滝?」
「うん」
「滝って……滝だけ?」
「神社もあったよ」
なんで神社仏閣ばっかりなんだ。
168: 2016/04/26(火) 23:33:33.54 ID:gheRICtno
「植物園もあったよ」
「時間なくて入らなかったけどな」
「一回入ってみたい」
「また今度だな」
「うん」
……。
ふたりが普通の会話をしてるだけなのに妙に意識してしまうのは、俺の見方が偏ってるからなのか?
ていうか。
植物園に神社に滝に寺って。
この人たちこれでいいのか。
……いいんだろうな、たぶん。
俺はちょっと、むずかしく考えすぎていたのかもしれない。
169: 2016/04/26(火) 23:35:31.60 ID:gheRICtno
◇
帰りの道路で渋滞に巻き込まれてゆっくりと走っているうちに、るーとちい姉は車内で眠ってしまった。
自然と、遊馬兄と俺だけで話をすることになる。
「こっちには慣れた?」と、遊馬兄は訊ねてくる。
「まあ、いいかげん、一年以上になるしね」
「それはそうか」
「……遊馬兄、ちい姉と付き合ってたんだんだね」
「あー、うん。そっか。おまえが帰ったあとだったもんな」
「こういうこと、聞いていいかわかんないけど……」
「なに?」
「……静奈姉は?」
「……」
遊馬兄のからだが、ちょっと揺れた。
「……タクミ、いま、あいつの部屋に住んでるんだっけ?」
「うん」
170: 2016/04/26(火) 23:36:34.84 ID:gheRICtno
「……うーん。言いづらいこと訊いてくるよな、おまえも」
「話しづらいの?」
「……いや、うん。なかなかに」
「ちい姉、寝てるから言うけど……てっきり俺は、ふたりが付き合うものだと思ってた」
「……えっとな」
「うん」
「そういうのはさ、俺もうまく説明できないよ。どうしてそうなったかとか、ならなかったかとか。あんまり考えないから」
「……」
「でも俺は、ちひろのことが好きだし、だから付き合ってる」
「……」
「……それで答えになる?」
「うん」
「……いつ頃からか忘れたけど、静奈、連絡返してくれなくなったんだよな」
「……ねえ、訊いてもいい?」
「なに?」
171: 2016/04/26(火) 23:37:09.28 ID:gheRICtno
「遊馬兄は、ちい姉のどこを好きになったの?」
「どういう意味?」
「純粋な質問」
「……答えなきゃ駄目?」
遊馬兄は、助手席で縮こまって眠るちい姉の寝顔をちらりと横目で見た。そんな気がした。
「べつに駄目ってことないけど」
「そうか駄目か、なら仕方ない」
「いや、駄目ってことは……」
「まずかわいいだろ?」
聞けよ。
惚気けたいだけか、このひと。
172: 2016/04/26(火) 23:37:52.29 ID:gheRICtno
「こんなそっけない感じなのに意外と優しいんだよ。でもその優しさが回りくどくてわかりづらくてそこがまた……」
と、遊馬兄は長口上を始めた。
普段は髪を下ろすようになったけど、頼むとデートのときに昔の髪型をしてくれるとか、
妹にばかりかまっているとたまに拗ねて子供みたいに膨れるんだとか、
ふたりっきりのときに見せる緊張の緩んだ表情が子供みたいにかわいいだとか、
ときどき猫みたいに甘えてくるのがどうのとか、
そのくせ人前だとちょっと外面気にしてそっけなくなるあたりがどうとか、
長々と。
話を聞いているうちに、静奈姉が遊馬兄の連絡に返事をしない理由が分かった気がした。
このベタ惚れ感はうざい。
ヒットポイントを削られる。
幸せそうな顔なのがまたつらい。
えげつない。
「でもまあ、なんで好きになったかって言ったら、たぶん……」
急に静かな声でそう言ってから、ちょっと間を置いて、遊馬兄は笑った。
「……たぶん、俺が寂しかったときに、声を掛けてくれたからかなあ」
「……」
俺はなんとなく、何も言えなくなって黙りこんだ。
と、助手席のあたりからもぞもぞと音がした。
173: 2016/04/26(火) 23:38:25.28 ID:gheRICtno
遊馬兄がちょっと驚いた顔でそっちを見る。
俺の方からだと、助手席の様子は分からない。
「……起きてた?」と遊馬兄がごまかし笑いを浮かべながら訊ねる。
気配で、ちい姉が頷いたのが分かった。
「……」
「えっと」
遊馬兄が言い訳を考えるように黙りこむ。数秒後、ちい姉の腕が遊馬兄の肩をぱしっと叩いた。
「うるさくて寝れるか、ばか」
拗ねたみたいな声。そのときに見せた表情がどんなものだったかは、たぶん、遊馬兄にしかわからなかったと思う。
180: 2016/04/27(水) 23:39:49.97 ID:JrT/SnH5o
◇
それからちい姉は、「わたし、寝る」と言って動かなくなった。
照れていたのかもしれないし、眠かったのかもしれない。両方かもしれない。
ふたたび静かになった車内には、もう話したいこともそんなに残っていない。
遊馬兄がコンビニに寄って、コーヒーを買うと言った。
俺もついでに降りて、今日のお礼、と言って、コーヒー代を出した。
夏だというのに、ふたりともホットコーヒーだ。
「相変わらずツボを抑えてるやつだな」
遊馬兄は感心したように言いながら、そのまま店の軒先でコーヒーに口をつけた。
「遊馬兄は、煙草とか吸わないの?」
「なんで?」
「なんとなく」
「吸わない。一回試したことあるけど、合わなかったな。似合わないって言われたし」
「誰に?」
「いろんなひと?」
なぜか疑問形だった。
181: 2016/04/27(水) 23:40:17.12 ID:JrT/SnH5o
「タクミは似合いそうだよなあ」
「それ、褒め言葉?」
「どっちも」
なんとなく、だけど。
聞いてみたくなった。
「遊馬兄はさ……」
「うん?」
辺りはもう暗くなりはじめていて、道路を行き交う車もヘッドライトの明かりをともしていた。
交差する光がまぶしい。
訊きたいことはあるのに、うまく言葉にならない。
どう、説明すればいいのか、わからない。
「遊馬兄は……なんていうか、自分のなかに、もうひとり自分がいるような感覚に、なったこと、ある?」
「……なに、それ?」
怪訝そうに、遊馬兄は首をかしげた。
182: 2016/04/27(水) 23:40:44.16 ID:JrT/SnH5o
「えっと、なんていうか、架空の人格っていうか、想像上の友達っていうか……」
「想像上の友達……」
少し考えるような素振りで、またコーヒーを一口飲んでから、遊馬兄は何かに気付いたような顔をした。
「ああ、あるある」
「え、あるの?」
「うん。ある。俺目覚まし時計と話してたもん」
「……目覚まし時計?」
「うん。話してた。それが?」
いや、それが、って。
それがまるで当たり前のことみたいに言うから、なんとなく、言葉を続けられなくなった。
183: 2016/04/27(水) 23:41:39.33 ID:JrT/SnH5o
「俺が弱音吐いたり折れそうになったりすると、そういう自分を諌めてくれるやつがいたんだよ」
「……はあ」
「今にして思えば、自分の気持ちの擬人化だったのかな、あれは。いつのまにか、会えなくなったけど」
「……目覚まし時計?」
「うん。タクミもある?」
「俺は……目覚まし時計ではないけど」
「そっか。ああいうの、なんていうんだっけ」
「なんて、って?」
「たしか、イマジナリーフレンドとか言うんだよな」
「……イマジナリーフレンド」
イマジナリーフレンド。
「子供の頃だと、けっこうそういうの、覚えてなくてもやってる人が多いんだって、昔何かで読んだな。
……まあ、俺は高一くらいだったけど」
精神的に幼かったからなあ、と遊馬兄は恥ずかしそうに苦笑する。
俺なんて高二だ。幼いなんてレベルじゃない。それに、たぶん、遊馬兄のものほどかわいい存在でもない。
「……でも、そっか、遊馬兄もあったんだ」
「うん。それが?」
まるでなんでもないことみたいな顔で遊馬兄が首をかしげるから、俺はそれ以上何も言わなかった。
なんとなく、肩の荷が下りた気がした。
184: 2016/04/27(水) 23:42:06.41 ID:JrT/SnH5o
◇
車に戻ると、るーもちい姉も目をさましていた。
ふたりとも眠そうな顔をしていて、その表情が当たり前みたいに似ていて、俺と遊馬兄は顔を見合わせて笑った。
ふたたび車を走らせたとき、ふと思い出して、俺は口を開いた。
「そういえばさ」
「なに?」と遊馬兄。るーも、なんだろう、という顔でこっちを見た。俺は前の座席に座るふたりに向けて言った。
「俺とるー、付き合うことになったから」
「お」
「え」
「あ」
と、遊馬兄、ちい姉、るーの順で、ひとりずつ一文字の発話。
続く沈黙。
を、破ったのはるーだった。
「な、なんでいま言うんですか!」
「……いや、いま言わなかったら、タイミングなくなりそうだし」
こういうのは、最初に言わないと徐々に言いづらくなるもので。
185: 2016/04/27(水) 23:42:32.85 ID:JrT/SnH5o
「そうなんだ……」とちい姉がため息のような声を漏らす。
それから当たり前みたいに、「おめでとう、るー」と一言。
「あ、ありがとう……?」
るーは複雑そうな顔でお礼を言っていた。
「え、いつから?」
遊馬兄の質問に、俺は素直に答える。
「昨日」
「昨日! どっちから?」
「俺」
「さすがタクミだ。俺はおまえを信じてた」
……今日再会したばかりの人に言われるのも妙な気分だ。
186: 2016/04/27(水) 23:43:01.36 ID:JrT/SnH5o
「あの、タクミくん」
「ん?」
「なにもそんな、いろいろ話さなくても……」
「嫌だった?」
「では、ないですけど」
「じゃ、問題ないな」
「ないですか?」
「遊馬兄は嫌?」
「まったく嫌じゃない。ちひろは?」
「べつに、嫌じゃないけど」
「俺も嫌じゃない。ほら、嫌がる人がいない奇跡の空間だぞ。日常生活じゃなかなかお目にかかれない」
「……タクミくん、調子に乗ってます」
「調子に乗れる機会もめったにないからな。乗れるときに乗っとくのが賢い生き方というものだ」
「お兄さん、タクミくんに何か吹き込みました? お兄さんみたいになってます」
「え、そこで俺を疑うの? まあ、俺くらいの人間になると呼吸するだけで周囲に影響を与えちまうからな、困ったもんだ」
「……遊馬、調子に乗らない」
「うい」
操縦上手いなあ、ちい姉。
187: 2016/04/27(水) 23:43:30.91 ID:JrT/SnH5o
遊馬兄は運転しながら、「時間の流れって早いなあ」って大人みたいにぼやいた。
ちい姉が、かすかに頷く。
「るーもタクミも、あんなちっこかったのにな。気付けばもう高校生か」
ぼんやりと、思い返すように、懐かしむように、感慨深げに遊馬兄がため息をつく。
それを言ったら、ふたりが二十歳を過ぎてることだって、俺にはずいぶん衝撃的なんだけど。
などと思っていると、不意に、
「そうですか?」とるーが不満気に声をあげた。
「あっというまですか?」
「るーは、違うの?」と、ちい姉。
はい、とるーは頷く。
「わたしには、とっても、長かったですよ。今年の春まで、昨日まで、ずっと一日千秋の思いでしたよ」
「……だってさ、タクミ。待たせすぎだって怒ってるぞ」
るーに目を向けると、彼女は遊馬兄の言葉に「そうだそうだ」というふうにこくこく頷いていた。
「……えっと」
「はい」
「……お待たせしました?」
「はい」
ちょっと怒ったような顔で、るーは真剣に頷いた。
188: 2016/04/27(水) 23:44:06.77 ID:JrT/SnH5o
「……でも、待ってたって、何を?」
「タクミくんの心の準備ができるまで、ですよ」
「準備」
「それまではわたしだって、気を利かせて待ってたんです」
「……はあ」
まあ、たしかに、それどころじゃなかったのは、本当だけど。
今が全部片付いたかっていうと、そうでもなくて。
返答に困る。
「だからこれからは、たくさんわがまま言いますからね」
「……覚悟しとく」
助手席から、くすくすというひそかな笑い声。
「ちい姉、何笑ってるんですか」
照れたみたいに、るーが声をあげた。
「なんでもない」とちい姉は楽しそうに笑った。
「ホントに覚悟してたほういいかもよ、タクミ。るーのわがままは、きっとすごいから」
「ちい姉!」
「自分で言ったんでしょ?」
「そうだけど……」
戸惑ったようなるーの態度が妙に新鮮で、俺もなんとなく楽しくなって笑ってしまった。
189: 2016/04/27(水) 23:44:40.21 ID:JrT/SnH5o
「善処します」
「なんだか頼りない返事ですね」と、るーは不満気にじとっとした目を向けてくる。
「無責任なことは言えないから。できることなら、できるかぎりはする」
「そういうタクミくんもいいですけど、たまには、大言壮語を吐いてくれてもいいんですよ?」
「たとえば?」
「それ、わたしに聞きます?」
大言壮語って、急に言われてもな。
とりあえず……。
うん、と俺は頷いた。
「とりあえず、カナヅチにした責任は、取らないとな」
るーが、きょとんとした。
「……どういう意味ですか?」
「大丈夫。人間の体は水に浮くようにできてるから」
「……あの、タクミくん?」
「夏中には、二十五メートルな」
「あ、あのー……」
190: 2016/04/27(水) 23:45:28.06 ID:JrT/SnH5o
「いいんじゃない? るー」
と、ちい姉が言った。
「教えてもらいなよ。せっかく夏だし」
「……あ、あのねちい姉。人間って、呼吸しないと氏んじゃうんだよ?」
「息継ぎすれば?」
「できる人は簡単そうにいうけどね、ちい姉、世の中には素質ってものがあって……」
「どんな人でも、全力で努力すれば、『まあ』できるようになるよ。たぶん」
「その『全力で努力する』ができなくて大変な人だっているんだよ。もし溺れちゃったらどうするの?」
ちい姉は少し考えるような間を置いて、
「人工呼吸でもしてもらえば?」
と言った。
「……ひ、他人事だと思って!」
「嫌なら、まあ、無理にとは言わないけど」
うう、とるーは口をもごもごさせた。
191: 2016/04/27(水) 23:46:19.20 ID:JrT/SnH5o
会話の流れが止まったのを見計らったみたいに、遊馬兄が楽しげに笑う。
「まあ、夏休みも始まったばっかりだろ? いろいろやってみるといいよ。なんなら、一緒にどっか行くか?」
「たとえば?」
「渓流とか?」
本気か。
「舟下り、行ってみたいよね」とちい姉。
「な」と遊馬兄。
老夫婦か。
「舟下りなんて……落ちたら、溺れちゃうじゃないですか」
「じゃ、るーがタクミに泳ぎを教わってからだな」
遊馬兄がまた笑う。
るーは居心地悪そうにもぞもぞしながら、俺の方を睨んだ。
「……え、なに?」
「……なんでもないですよ、もう」
好きにしてください、と言いたげに、るーはそっぽを向いた。
192: 2016/04/27(水) 23:46:49.07 ID:JrT/SnH5o
「うん。るーも、いろいろ出掛けてみたらいい」
ちい姉が、そんなことを言ったのが意外だった。
「……なんでですか」
「どうせいつも、家でぐだーってしてるだけでしょ?」
「ちい姉!」
……なんか意外すぎる言葉が出てきた。
「……家だと、そんな感じなの? るー」
「あ、いや……」
「うん」
否定のまもなく、ちい姉が言った。
「漫画読んだり、映画みたり、ぼーっとしたり。あんまり出掛けないよね?」
「ちい姉!」
193: 2016/04/27(水) 23:47:17.76 ID:JrT/SnH5o
「……えっと、言ったらまずかった?」
「あのねちい姉、わたしにもイメージってものがあるの。あるんだよ?」
「いいでしょべつに。付き合ってたらいつかバレるもん」
「そういう問題ではなくて……」
「タクミだって気にしないでしょ?」
急にちい姉から話を振られて、少し面食らう。
「え? うん。ちょっとほっとした」
「ほっとしたって……」
困ったように眉根を寄せて、るーは肩を落とした。
「うん。ほっとした」
こらえきれない、っていうふうに、遊馬兄が笑った。
「おまえら、お似合いだよ」
俺とるーは、目を合わせて、互いに困った顔をする。
194: 2016/04/27(水) 23:47:50.38 ID:JrT/SnH5o
◇
それから送られていって、少し寂しい気分に巻かれながら、彼らと別れた。
部屋に戻ると、静奈姉が夕食の準備をしていた。
ひとりで。
それは、そうなのだ。
俺と静奈姉は、この部屋にふたりで暮らしていて、俺がいなかったら、静奈姉はひとりで。
それは当たり前のことだ。
だけど、なんとなく、いつもなら気にならないその事実が、すごく、俺の気分を暗い方へと引っ張っていきそうになる。
「……ただいま」
声を掛けると、静奈姉はいつもみたいな笑い方で、「おかえり」と言った。
「けっこう遅かったね?」
「うん。……ねえ、静奈姉」
言おうかどうか、少し迷った。言うのも、言わないのも、どちらにしてもつらいような気がする。
195: 2016/04/27(水) 23:48:18.85 ID:JrT/SnH5o
「なに?」
「遊馬兄と、会ってきたよ」
静奈姉は、一瞬表情をこわばらせた。
「……そっか、元気だった?」
酒が入ったときみたいな、開き直ったテンションじゃない。
何かをごまかそうとするみたいな、つくり笑い。
「うん。元気だった。静奈姉は、遊馬兄と会ってないの?」
「そうだね。もうだいぶ、顔合わせてないかな」
「……」
それからどう言葉を続けていいか、分からなかった。
「……会いたくは、ないの?」
静奈姉は、困ったみたいに笑う。
「どんな顔して会えばいいのか、わからなくて」
ああ、俺は嫌なやつだ。
なんとなく、そう思った。
196: 2016/04/27(水) 23:48:51.77 ID:JrT/SnH5o
静奈姉と遊馬兄が、昔みたいに、当たり前に会えるようになればいいのに、と俺はそう思った。
なぜ?
俺が、遊馬兄と会うときに、静奈姉に負い目を感じたくないからだ。
俺のためだ。
嫌になる。
いつまでもつきまとっていられない、と、いつか、静奈姉は言った。
その言葉が正しいのか、間違っているのか、俺にはよくわからない。
俺だっていつかは、その言葉に納得した。
「……今でも、割り切れない?」
踏み込むように、言葉を口にする。静奈姉は、戸惑ったみたいな顔をした。
「今でも、好き?」
「それは、好きだけど。でも、もう今は、そういうんじゃなくて……」
言葉を選ぶような間を置いて、彼女はごまかすみたいに笑った。
「いろんなことが変わったのが、少し寂しいだけ、かな」
197: 2016/04/27(水) 23:49:18.51 ID:JrT/SnH5o
「……変わった」
「うん。子供の頃のままでは、いられないから」
「……」
俺はきっと、静奈姉に何も言うことができない。
「ね、タクミくんも、わたしのこと、未練がましいって思う?」
「うん」
「……即答?」
「でも、俺も未練がましい方だから」
「……ま、そうだよね」
「血筋かな」
「どうかな。うちの母親なんかは、未練がましいっていうか、執念深いって感じだけど」
「……そうなの?」
「けっこう情熱的だったみたい」
「……」
話題が逸れた。
198: 2016/04/27(水) 23:49:55.17 ID:JrT/SnH5o
「でも、でもね、もうけっこう、割り切ってるつもりなんだけど。もう、そういうのなしで、会えると思うんだけど」
「うん」
「だけど、もう、いまさらかなあって、思うんだ。遊馬くんたちは、きっとわたしが近付けないくらいの場所にいったんだと思う。
そこに割って入ってまで、会ったりしないでも、いいかなあ、って」
「……そう、なのかな」
「……」
「きっと、遊馬兄も、ちい姉も、気にしないと思うよ」
「……そう、かな」
「……遊馬兄、連絡しても返事くれなくなったって、言ってた」
「……」
「寂しいんじゃないのかな、って思った。でも、遊馬兄の性格上、静奈姉から連絡がこなくて寂しいなんて、言えないだろうから」
「……うん。想像できるなあ、それ」
目に浮かぶなあ、って、静奈姉は言った。
「俺が言うことじゃ、ないかもしれないけど」
「……そんなことないよ」と静奈姉は笑った。
「きっと、タクミくん以外、誰も言ってくれなかっただろうから。……ありがとう」
「……うん」
それからふたりで、ほとんど会話もしないで、夕食をとった。
風呂に入って、自分の部屋に戻ったあと、俺は今日のことを思い返して、るーのことを考えて、遊馬兄とちい姉のことを考えて、静奈姉のことを考えて、
それから、小鳥遊こさちのことを考えた。
205: 2016/05/03(火) 23:41:38.04 ID:g8K72d6xo
◆
きっと、それは、俺にはどうにもできないことなのだ。
遠くの方から聞こえるすすり泣き。
目の前にいない誰かのさけび。
勝手な同情なのかもしれない。
――……バカにしないでよ。決めつけないでよ。"かわいそう"なんて、"不幸"だなんて、決めつけないでよ。
佐伯ちえは、そう言った。
――たくみ、わたし、"かわいそうな子"の役は、いやだよ。
秋津よだかは、そう言った。
――わたしのことをよくしらない人に、『かわいそう』とか勝手に言われたくない。
由良めぐみは、そう言った。
206: 2016/05/03(火) 23:42:33.30 ID:g8K72d6xo
◆
物語がある。
幸福な人物と、不幸な人物が登場する。
その不幸な結末を、指先ではらいのけるように取り除いたとしても、『語られなかった不幸』は存在する。
どこかに必ず。
部屋の掃除をして出たゴミは、どこかに運ばれたとしても、どこにも消えてなくなりはしない。
整然とした綺麗な部屋は、区切られた空間のなかで、"少なくともここは"という但し書きの上でしか存在できない。
"世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない"
であるなら、
"幸福なんてものは、ありえない"
もし存在するならば、それは、
"感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ"
誰かが誰かとおしゃべりしている。
同じ時間、誰かがさびしさに泣いている。
そんな考えは神経過敏か?
遠い痛みにあえぐのは、テレビの見過ぎか? 胡乱な自己陶酔か?
思い上がってるつもりはない。何かができるとか、変えられるとか、高望みしてるわけでもない。
部長や佐伯が言ったように、勝手な決めつけ、押し付けか。
でもその事実は、俺を苛立たせていた。
207: 2016/05/03(火) 23:43:00.73 ID:g8K72d6xo
俺はそれを、受け入れたつもりだった。
みんな、自分の身に起きたいろんなことを、受け入れて、生きていく。
俺にできることなんてない。
ない。
……ないんだよ。
ないんだって。
他人事なんだ。
遠いどこかで誰かが氏んで、俺が楽しいときに誰かが泣いてて。
そんなの気にしてたってどうしようもない。
一秒ごとに悲しんで、一秒ごとに涙を流して、一秒ごとに祈り悼んで。
そんなのは嘘だ。疲れるし、現実的じゃない、欺瞞的だ。
みんな、目の前のことで、手一杯なんだ。
他人の不幸なんてどうでもいいんだ。
誰も彼もの幸せを願うことなんてできない。
勝手に傷つく奴、知らぬ間に傷つけるやつ、そいつを傷つける奴、そいつの傷を癒す奴。
敵と味方のはっきりとした区分けなんてどこにもない。
幸せな物語はいつも、不幸を置き去りにする。
覆い隠して、見ないふりをして、それでいいんだって言う。
俺はるーに好きだと告げて、
るーはそれを受け入れてくれて、
ほら、ハッピーエンドだ。
誰かが泣いていたとしても。
俺たちが誰かを傷つけたとしても。
それを飲み込んで、生きるしかないから。
208: 2016/05/03(火) 23:43:42.08 ID:g8K72d6xo
◇
「どうして小説なんて書くんだろうね」
高森は、シャープペンを指先でくるくる回しながら、パイプ椅子にもたれたまま呟いた。
夏休みに入って最初の部活。静けさと開放感に満ちた校舎のはずれで、俺たちは蝉の声を聴きながら暑さに溶けていた。
「どうしてって?」
問いかけたのはゴローだった。俺はぼんやりと、何をするでもなく、天井に視線を投げながら、その会話を聞いていた。
「なんで、小説なんて、書いてるんだろうなあって、ときどき思うんだよね」
「楽しいから、じゃないの?」
どーなんだろー、と高森はいつもみたいなわざとらしいくらいのおかしな仕草で、うーんと伸びをする。
「なんていうかさ、物語を考えるだけなら、あらすじだけでもいいわけじゃない?」
「というと?」
「設定を考えるだけとか、頭の中で浮かべるだけとかさ、そういうのも、楽しいじゃない?」
それをどうして、かたちにしようって思うんだろう。誰かに見えるように、置いてしまいたくなるんだろう。
みんな、分からない、と言って首を振った。ゴローなんかは、考えたこともなかった、というふうに。
209: 2016/05/03(火) 23:44:20.57 ID:g8K72d6xo
ひとりだけ、ちょっとの沈黙のあとに、声をあげた人がいた。
「……拾い上げようとしてるのかも」
そう呟いたのは、部長だった。
高森はすぐに首をかしげる。
「……と、言いますと?」
部長は、ちょっと困ったように笑いながら、みんなの様子をうかがってから、話を続ける。
「自分で書いた文章と文章の間に、"なにか、それとは違うもの"が含まれてるときがない?
こんなことを書くはずじゃなかった、ってこと。それを、拾い上げようとしてるのかも」
高森は、ピンと来ないみたいにうーんと唸った。
「"何かがある"。でも、"それが何か分からない"。何か言いたいはずなのに、何かが引っ掛かってるのに。
それをどうにかして捕まえようとする。筆圧の跡を鉛筆であぶり出すみたいに、遠回しに。回りこんで近付いてく」
「……"何か"?」
ゴローが、首を傾げた。
210: 2016/05/03(火) 23:44:48.03 ID:g8K72d6xo
「言いたいことがあるなら、それを言葉にするのは簡単。
でも、"人生は素晴らしい"と言っただけでは、人生の何がどう素晴らしいかなんて、受け手にはまったく伝わらない」
だから、物語を書く。言葉を尽くす。
「でも、何かを言いたいのに、何を言いたいのか、自分でも分からないときも、あるでしょ?」
少なくとも、わたしはそうだったよ、と、部長はそう言った。
そういうときは、とにかく書いて、"それ"の尻尾を見つけてつかもうとした。
「"自分が書くつもりのなかったことの中に、自分にとって重要な何かが含まれている"って、わたしは、そう思った」
それを掬い上げるために、わたしは小説を書いているんだと思う。
みんな、納得したような、納得できないような、よくわからない頷きを返した。
部長はちょっとさびしそうに笑う。
何が言いたいのか、自分でも分からない。でも、何かを言いたい。
「ね、たっくんはどうなの? どうして、小説なんて書くの?」
高森のそんな質問に、俺は少しだけ考える。
そして答えた。
「俺は納得してないって、割り切れないって、言ってやりたいから」
みんな、きょとんとした。
「誰に?」
「世界に」
真顔で言えた。そんな自分に驚いた。
「なにそれ」
「文章は、世界に対する"異議申し立て"だから」
高森は、おもしろい冗談でも聞いたみたいに笑った。
211: 2016/05/03(火) 23:45:28.67 ID:g8K72d6xo
◇
「どういう意味だったんですか?」
部活からの帰り道に、隣を歩いていたるーが、そんなことを訊いてきた。
太陽の熱が無遠慮にアスファルトを焼いて、俺達を茹だらせる。
夏服に身を包んだるーと、コンビニに寄ってアイスを買って、歩きながら食べて、どっかにいこうか、なんて話をしていたときだった。
「どういう意味って?」
「世界に対する異議申し立て」
「そんなに深く、考えるようなことじゃないと思うけど」
「ちょっと気になっただけですけど」
「そうだなあ」
俺は少し考えて、何も言えない自分に愕然とした。
「そんなのは、とりあえずいいからさ」
「はい?」
「手を繋ごうか」
空いている片手を差し出すと、彼女は訝るみたいな視線を向けてきた。
212: 2016/05/03(火) 23:45:54.44 ID:g8K72d6xo
「……なに」
「いえ、なにか悪いものでも食べたのかな、って」
「るーのなかで、俺、どういう人間なの」
「気分屋です」
妥当な見解だ。
「だったら、悪いもの食べなくても、こういうこと言うでしょう」
それもそうですね、と笑って、るーは俺の手をとった。
それから何かをごまかすみたいに、つかんだままぶんぶん振り回しはじめる。
「なに」
ときいたら、ごまかすみたいに「ははー」と笑う。
「なんでもないです、なんでもないです」と、『しかたないなあ』って顔で。
213: 2016/05/03(火) 23:46:48.15 ID:g8K72d6xo
「プール、いついこっか」
「本気なんですか?」
「水族館も、オープンしたらしいし」
「イルカとアシカのショー、やってるみたいです」
「遊馬兄、こないだ、バーベキューしたいって言ってたっけ?」
「一緒に出かけようとも言ってましたけど」
「うん。大忙しだな。……静奈姉も、一緒に遊べたらいいのにな」
「……本当に、大忙しですね。部活もバンドも、課題もバイトもありますしね?」
「バンドは……大丈夫かな、俺」
「たっぷり練習しないと」
「しかたないよな、るーも水泳がんばるんだし、俺もベースがんばらないと」
「いえ、わたしはまだやるとは……」
「そういえば、よだかから連絡があってさ、また遊びに来るって」
「約束、しましたもんね」
「夏らしいこと、したいよな。花火に、肝試しに……」
「八月には、お祭りもありますよ」
「あとは、るーの家の縁側で、風鈴の音を聞きつつ、麦茶飲みつつぐだーっとしながら課題したり」
「課題するのかぐだーっとするのか、どっちなんですか」
「あとは、あとは……」
あとは……。
214: 2016/05/03(火) 23:47:15.51 ID:g8K72d6xo
なんとなく、手を繋いだまま、俺は立ち止まってしまった。
引っ張られるみたいに、るーが振り返る。
なんだか、何も言えなくなった。
急に辺りの音が遠くなった気がする。
近くを小学生くらいの男の子たちが通りすぎていった。
楽しげに声をあげながら。
そういうのがぜんぶ、遠い。
「……タクミくん?」
少し、不安そうな、るーの声。
俺は、少しだけ、握っている手に力を込めた。
「あのさ、るー」
「はい」
「ひとつだけ、お願いがあるんだ」
るーは、こくりと頷いた。
「今すぐに、の、ことじゃないんだけど」
また、彼女は頷く。
「たぶん、逃げてばかりもいられないから」
頷く。
笑いも呆れもせずに、真剣な顔で話せば、真剣な顔で。
「あのさ――」
220: 2016/05/06(金) 20:34:37.03 ID:sikNvEjMo
◇[As imperceptibly as Grief]
「タクミくんのだめなところは……」と、隣に座ったるーが言う。
「最初に結論を出さないと前に進めなくなっちゃうところですね」
そうかもしれない、と俺は頷きながら、窓の外の景色が後ろに流れていくのを眺めた。
るーの指先が、俺の頬をつねった。
「聞いてますか?」
「……きいてるよ、うん」
あきれたみたいにるーはため息をついたけど、俺は本当にちゃんと聞いていた。
「分かってるよ、そのとおりだ」
るーの言う通りだ。本当にそう思った。
結論なんて、理解なんて、納得なんて、本当は全部、先延ばしにするのが正解だ。
結論を急いで、それがなくては話が進まない、と言って何もしなくなってしまえば、俺達は何もできないままになる。
結論も理解も納得も、事後的に発生するものだから。
そう分かっていても、俺はやっぱり、それを先延ばしにすることができない。
先延ばしにしてしまえば、認めたくないことを認めてしまうことになりそうで。
それがなんなのかも、よくわからないままだけど。
221: 2016/05/06(金) 20:35:03.50 ID:sikNvEjMo
「でも、仕方ないから、付き合います」
そう言ってるーは、駅で買っていたチョコレートを一粒口に含んだ。
「不思議だよな」
「なにがですか?」
「いや、るーみたいな子が、俺と一緒にいてくれることが。けっこう、不思議かな」
「その手の自虐、似合わないので、やめたほうがいいですよ」
「……そういうつもりでも、ないんだけど」
「そうですか?」
「どうだろう」
222: 2016/05/06(金) 20:35:29.77 ID:sikNvEjMo
「……ね、タクミくん」
「なに?」
「わたし、タクミくんのお願い、きいてあげます」
「……うん。助かる」
「知ってますか? わたしはけっこう、恩着せがましい方ですよ」
「そうなの?」
「はい。だから、約束してください。……この旅が終わったら、たくさん、わたしのわがままをきくって」
「……」
「だって、この旅は……夏を、思い切り楽しむために、必要なことなんですよね?」
「……うん」
夏を思い切り楽しむために、最初にどうしてもしなきゃいけないこと。
本当は、逆であるべきだ。
行けば分かる・やれば分かる・続けているうちに見えてくる。
それが本当は、すごくシンプルで的確な解。
性格の問題なんだろう。
「……少し、緊張するな」
「わたしがついてますから、大丈夫ですよ、と言いたいところですけど……」
るーは、ちょっと照れたみたいに笑って、
「たぶん、わたしの方がずっと緊張してますよ」
と言った。
俺は少し笑って、窓の外を見る。
223: 2016/05/06(金) 20:35:58.23 ID:sikNvEjMo
新幹線。
荷物を持って、駅から発って、もう一時間は経った。
チケット代は、バイトでちまちま貯めていた金から、るーの分も俺が出した。
本当は、いろいろ考えていた。
もっと、あとでもいいんじゃないか、とか。
るーを連れて行かないで、ひとりで行くべきじゃないか、とか。
るーを困らせてしまうんじゃないか、とか。
行ったところで何も得るものはないかもしれない。
なにひとつ、納得なんてできなくて、結論なんて出せないかもしれない。
それでも、どうしても必要だと思った。
そういう性分なのだろう。
るーが、俺のほっぺたを、またつねった。
「……なに?」
「むずかしいこと、考えてる顔してます」
「……うん」
「……ただの、里帰り、ですよね?」
るーの言葉に、俺は少し間を置いてから、小さく頷いた。
224: 2016/05/06(金) 20:36:24.44 ID:sikNvEjMo
◇
急な話だったけど、休み中というのもあって、るーと予定を合わせるのは簡単だった。
「どうせ普段から、家でぐだーっとしてるだけですから」と、彼女は拗ねたみたいに言った。
この前のちい姉の発言、けっこう根に持ってるのかもしれない。
荷物をまとめて、朝早くに合流して、駅で時間通りに新幹線に乗った。
「ふたりっきりのデートもろくにしてないのに、最初から旅行っていうのも……」
と、るーは何か言いたげに呟いた。
「いやだった?」と尋ねると、
「べつに?」と本当に気にしてなさそうな顔で言う。
「ルールがあるわけでもないでしょうから」
たしかに、と俺は納得した。
225: 2016/05/06(金) 20:36:57.34 ID:sikNvEjMo
るーに対するお願いは、シンプルなものだった。
この夏の里帰りに、付き合って欲しい、と。
去年は、しなかったこと。
できなかったこと。
本当のことを言うと、まだ、迷いがある。
どんな顔をして、帰ればいいのか。
るーを連れて来てしまって、よかったのか。
あらかじめ、母さんには連絡しておいたけど……どうにも、思考がうまく回らない。
それでも、逃げまわってばかりもいられない。
みんなとの生活を、逃げ道にはしたくないから、だから、ちゃんと向き合わなきゃいけない。
整理のつかないことは、いくつもあるけれど。
226: 2016/05/06(金) 20:37:24.86 ID:sikNvEjMo
◇
新幹線を降りてから電車に乗り換えて移動。朝早く出てきたとは言え、結構な時間がかかってしまった。
「……けっこう、景色が違うものですね」
人の多いところに一度行ってから、少ない方へと向かってきたものだから、るーにしてみれば意外な気もするだろう。
「ここと比べたら、あっちの方が都会に思えるだろ」
駅に降りてあちこちを見回したるーに、そう声を掛けた。
「そこまででも、ないですけど」
郊外の駅なんてどこも似たようなものだ。
駅ビルの中身だって、立ち並ぶ本屋電気屋飲み屋にホテルにファストフード店だって、判で押したように似た景色が広がっている。
「こっから、バス使うよ」
「了解、です」
「るー、疲れた?」
「……というより、なんといいますか」
「うん」
「ちょっと、心臓が暴れてます」
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
「もうすぐつくから、それまでがんばって」
「あの、だからこそ心臓が暴れてるんですけど」
「あきらめて」
「……うう」
227: 2016/05/06(金) 20:37:53.35 ID:sikNvEjMo
◇
バス停から徒歩数分、全国チェーンの寿司屋を通りすぎて、ファミレスとラーメン屋に挟まれた道路を進んでいく。
入ってすぐに左に折れてしまうと、ゆるやかな勾配の坂道が続いていく。右手に見える木々の向こうはゴルフ場。
ちょっと登ると、道路の右側が一戸建ての家々が立ち並ぶ住宅地になっている。
右側に折れて少し急な坂道を昇った先、そこに立ち並ぶ家の一軒が、俺の家だ。
「……ここ、ですか?」
「そう」
「……」
「コメントは?」
「いえ、特には……」
「ま、そりゃね」
るーの家にくらべたら、小さい。庭だってないも同然。車を止める場所だってぎりぎりだ。
そりゃ、公共の交通機関があるから、そこまで不便は感じないけど。
228: 2016/05/06(金) 20:38:58.25 ID:sikNvEjMo
「……久々の我が家、だな」
「……感慨深いですか?」
「吐きそう」
「なぜ」
「わかんない。るーは?」
「……緊張してます、すごく」
「おそろいだなあ」
「おそろいですねえ」
「ははは」と笑って顔を見合わせ、俺達は数秒間の現実逃避を打ち切る。
「……誰か、いるんですか?」
「……母さんは、いると思う」
「……お、おお。大昔、会った記憶が、あるような、ないような」
「たぶん、会ってはいるだろうけど……」
るーが覚えてることは期待できないし、るーのことを覚えていることも、あんまり期待できない。
知らない同士って方が、話がずっとわかりやすいから、まあ、べつにいいんだけど。
229: 2016/05/06(金) 20:39:24.39 ID:sikNvEjMo
「……さて」と、俺は深呼吸をしてから、玄関へと向かう。
るーが、斜め後ろをついてくる。
「……いきますか」
と言って、俺は扉に手を掛ける。
「……はい」
るーは、落ち着いた声で頷いた。
扉を引く。
ドアが開く。
「――ただいま」
と、俺は言った。
230: 2016/05/06(金) 20:40:02.52 ID:sikNvEjMo
◇
「本当に急なんだから」と、コップを三つダイニングテーブルの上に置きながら、不満気に口をとがらせた。
「麦茶で平気?」と彼女はるーに訊ねる。
「はい、あの……お気遣いなく」
「遠慮しないの。久々に帰ってきたと思ったら女の子連れてくるなんて、びっくりしちゃった」
母さんが楽しそうに笑ったのを見て、るーは困ったように笑った。
「父さんは仕事?」
「そう。こっちに何日いる予定なの?」
「二、三日は……」
「短い!」
「……」
「どこか行く気? 夢の国とか」
「……いや、考えてなかった」
「そう……」
231: 2016/05/06(金) 20:40:39.66 ID:sikNvEjMo
母さんは、俺の顔をじっと見て、何かを言いたげにする。
「……なに?」
「顔色、悪いんじゃない? ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「そう。ホントに?」
「一応。……やらなきゃいけないこと、たくさんあるから」
「そう……」
言葉が止んだ。
やっぱり、るーを連れてくるべきじゃなかった。そう思った。
彼女にこんな気まずい思いをさせることはなかった。
どうしてだろう。
すごく、胸がむかむかする。
232: 2016/05/06(金) 20:41:09.65 ID:sikNvEjMo
「……あっちでは、どう? ちゃんとやれてる?」
「うん、まあ……」
「バイトとか、大変じゃない?」
「時間も短いし、言うほどじゃ」
「勉強は?」
「なんとか」
「彼女さんとはいつから?」
「今月……」
「あら最近。もうキスした?」
「まだ……」
「あ、そう」
……流れのままに答えてしまった。
とほぼ同時、
「え?」
と、るーがきょとんとした顔になる。
233: 2016/05/06(金) 20:41:35.28 ID:sikNvEjMo
「ん?」
思わずそっちを見ると、彼女ははっとしたみたいに顔の前で手を振って、
「なんでもないです、なんでもないです」
とごまかした。
「……ほう?」と母さんは変な声をあげた。
「……えっと」
「なんでもないです、はい」
「ふーん?」と母。
俺は何も言わないことにした。
234: 2016/05/06(金) 20:42:16.99 ID:sikNvEjMo
「ま、とにかく、向こうではうまくやってるみたいだね」
「うん……」
「夜になったらお父さんも帰ってくるから、それまでどこかに出掛けてきたら?」
「……」
「それにしても、どうしてお盆じゃなくて今時期に……」
「……」
なんでだろう。
頭がくらくらする。
「……拓海?」
「……ごめん、なんか、疲れてるみたいで」
「……そう」
「ちょっと、部屋で休んでるね」
「分かった。朝、早かったんだろうしね」
母さんはそう言って笑ってくれた。
腹の底のあたりに、鈍くて重い熱が溜まっているような感覚。
手足が過敏に、外の刺激を感じ取る。
「るー、行こう」
「あ、はい」
235: 2016/05/06(金) 20:42:51.10 ID:sikNvEjMo
とにかく、部屋に荷物を置こうと思った。
そういえば、るーをどの部屋に泊めるのか、考えていない。
別に自分の部屋でも構わないんだけど、両親が何と言うか……。
るーが、俺の部屋を見回して、不安そうにぽつりと、「なにもないですね」、と言った。
俺は額を押さえる。
「……タクミくん、顔、真っ青ですよ」
……くそ。
立ちくらみがする。
どうしてだ? さっきまでなんともなかったのに。
――考え無しだな。ただ反抗したいだけで、やりたいことも行きたい場所もないんだろう?
耳鳴り。
……身に覚えのある感情だ。
俺は恐れてる。
何を?
……判決だ。
236: 2016/05/06(金) 20:43:28.75 ID:sikNvEjMo
いつだってそうだった。
喜びの基準も、悔しさの基準も、決めるのは俺じゃなかった。
誰かの反応をうかがって、自分が正しいのか、間違っているのかを決めていた。
いつも。
満足させなきゃ、って。
満足させて、納得させて、そうやって手に入れるものだ。
理解も愛情も、そうやって……獲得するものだ。
無条件で与えられるものなんてない。
愛情は条件付きだ。俺は条件を破った。だから、愛されなくても仕方ない。
そう決めたのに。
「……タクミくん?」
染み付いた生き方は変えられない。
……それでも、ちゃんと、たしかめなくては。
237: 2016/05/06(金) 20:44:00.57 ID:sikNvEjMo
「……タクミくん、なんだか、つらそうですよ」
「……あ」
声をかけられて、はっとする。
「ひょっとして、疲れちゃいましたか……?」
「……いや」、と否定しかけて、
「……うん」と結局頷いた。
他にどんな言い訳を立てればいいのか、わからなかった。
「ちょっと、疲れたかな」
「そうですか。わたしも、ちょっと」
「……」
「お昼寝、しますか?」
「……たまに思うんだけど、るーってけっこう大物だよね」
「え?」
「いや、助かる」
「そうですか。では」
238: 2016/05/06(金) 20:44:26.62 ID:sikNvEjMo
と言って、彼女は俺のベッドに腰掛けて、ぽんぽん、と膝を叩いた。
「……なに?」
「ひざまくらしてあげます」
「……なぜ?」
「こういうの、うれしいものじゃないんですか?」
「いや、どうだろうな」
「はあ。でも、わたしがしたいんです」
「……そうですか」
「そういうわけですので、さあ、ずずいと」
ずずいと、って。
くらくらする頭をぶらさげたまま、俺は彼女の傍に近寄って、足を止めようとして、
そのまま彼女の体を押し倒してしまった。
239: 2016/05/06(金) 20:45:18.23 ID:sikNvEjMo
「……あれ?」
と、驚いたるーの声。
俺も自分で驚いた。
「……あの、タクミくん?」
「いや、違う……ちょっと、くらーっと」
「……ほんとに、大丈夫ですか?」
俺は体を起こそうとして、ベッドの腕に突いた腕に力を込めようとしたところで、
ゆっくりと腕の力を抜いた。
「……あ、あのー!」
「力入んねえや」
「嘘だ!」
「……なんでわかったの」
「だって、すごくゆっくり、力抜いてましたもん。力込めるよりそっちの方が、難しいですもん」
「……うん」
「どうしたんです、いったい」
「なんか、離れたくないなあって」
うぐ、と困った声をあげて、るーは体をベッドに押し付けられたまま、顔をそむけた。
240: 2016/05/06(金) 20:46:08.77 ID:sikNvEjMo
「重いです、重いです」
「よいではないか、よいではないか」
「誰ですか!」
「ふはは」
と俺は適当に笑って、くらくらする視界に目をつぶった。
「なんか、いい匂いがする」
「……はっ?」
肘をついて、覆いかぶさるようにして、彼女の髪に鼻を近づける。
「シャンプーの匂い……?」
「……しゃ、シャンプー?」
「……なんか、いい匂いがする」
「……いやじゃないですか?」
「なんで?」
「……それ、たぶん、香水です」
「……香水?」
241: 2016/05/06(金) 20:47:02.30 ID:sikNvEjMo
「すず姉が、つけていったら、って……」
「すず姉が?」
「……『男は女からいい匂いがすると自動的にシャンプーの匂いだと誤解してどきどきする不思議な生き物だから』って」
「……」
なんかいますげえ恥ずかしい。
「そうなんだ。……髪につけるものなの? 香水って」
「そうじゃなくて、うなじとか……」
「……うなじ」
「……あの。なんで見るんですか」
「いや、ちょっといい?」
「だめです、だめです!」
「まだ何をするとか言ってないけど」
「いま匂い嗅ごうと……」
「いい匂いだし」
「だ、だめですよ! 奇跡的に今は軽症で済んでますけど、夏場の香水なんて半分凶器ですよ! あっちよりこっち、暑いですし……」
……なんでつけてきたんだ。
242: 2016/05/06(金) 20:47:30.23 ID:sikNvEjMo
「い、いいから早く離してください!」
と、るーが俺の胸を両方の手のひらで押し上げようとする。
その手を、俺は掴んで、
「……あ」
ベッドに押さえつけた。
「……うう」
「顔、真っ赤だよ」
「……だれのせいですか!」
答えずに鼻先を近づけようとすると、彼女の肩がきゅっと縮こまったのが分かった。
つかんだ手のひらの、意外なほどの小ささ。
逃げるようにぎゅっと閉じられた瞼。
「……くらくらする」
「……ほんとに、大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないかも」
「……」
彼女は、押さえつけられていた手のひらを、するりと解いて、腕を回した。
「……よしよし」、と、後頭部を撫でられる。
あーあ。
何をやってるんだろう。こんなところまで来て。
本当に情けない。
243: 2016/05/06(金) 20:48:11.84 ID:sikNvEjMo
「るー」
「……はい?」
「るーのこと、好きだよ」
「……あ、あの。なぜ、いまそれを」
「……るーは――」
言いかけて、言葉に詰まる。
何を、訊こうとしたんだろう?
試すみたいに、保証を求めるみたいに。
俺は……。
「……タクミくん?」
「拓海ー、入っていい?」
「うあっ!」
ノックと同時に、びくっと震えながら、るーはかすかに声をあげた。
「た、たくみくん離してください」
言われた通り、俺は体を慌てて起こす、と、立ちくらみのように、頭がぐらぐら揺れた。
「っと、あ……」
体から力が抜ける。
「あっ……」
耳元にかすかに聞こえた、変な声。
そんな声出すなよ、と思った。
甘くきこえる。甘い。匂いも声も仕草も。
俺の心が汚れているのか。……そうかもしれない。
いずれにしても問題なのは、返事がないまま開け放たれた扉と、
「麦茶もってきたから飲ん……」
「……」
「……」
その後の沈黙の処置のことだろう。
247: 2016/05/09(月) 22:41:43.99 ID:wISiNU0Jo
◇
ごゆっくり、と言って、母は部屋を出て行った。
俺はとりあえずめまいが収まるのを待って、ベッドから体を離す。
るーは黙ったまま上半身を起こすと、物言いたげな目で俺をじとっと睨んだあと、乱れた服の首元を直した。
「……タクミくん、ときどき暴走しますよね」
「面目ない」
俺は素直に謝った。
「どうしてですか?」
「……どうして?」
「タクミくんが暴走するの、数パターンあります」
「うん」
「まず……身体的接触、と」
「……身体的て、なんかやらしいね」
「ひとがせっかく、客観的な言い方を……」
「いや、そこが逆に……」
「ともかく、と! 体調が悪いときと」
「……うん」
「あとは落ち込んでるとき、怒ってるとき。そういうとき、暴走しますね」
248: 2016/05/09(月) 22:42:10.75 ID:wISiNU0Jo
「……それさ」
「はい?」
「普通だよね」
「そうですけど、でも、『暴走』は、普通の人はそんなにしないです」
「……まあでも、最近はたしかに」
たぶん、スクイと会えなくなってから、増えた。
……気をつけないと。
いや、それともほんとうは、ひょっとしたら、逆なのかもしれない。
……妙に、頭が痛い。
「なあ、るー」
「はい?」
「家にいても落ち着かないし、ちょっと出かけようか」
「それは、かまいませんけど」
「うん。そうしよう」
249: 2016/05/09(月) 22:42:36.33 ID:wISiNU0Jo
といって、近くに何かがあるわけでもなくて、適当に散歩しようってことになった。
時刻は昼前頃だった。母さんには昼をどうするかと聞かれたけど、外で食べることにした。
なんとなく家に居たくなかったし、結構急な帰省だったから、気を使わせるのも面倒だった。
もうちょっとしてからどこかで昼を食べようということになって、それまでは適当に時間を潰すことにした。
「……なんだか、変な感じがします」
「なにが?」
「知らない街なのに、知ってる街みたい」
「どこにでもあるから」
「……なにが、ですか?」
「世界はフラクタル構造なんだよ」
「どういう意味ですか?」
「ごめん、俺もよくわかってない」
「……ばーか」
「誰がばかだ」
なんて話をしながら、俺達は坂を昇っていく。
250: 2016/05/09(月) 22:43:30.38 ID:wISiNU0Jo
途中の自販機で缶ジュースを一本ずつ買って、それぞれに飲みながら、なんとなく手を繋いだ。
並木を眺めながらファンタに口をつけて、離さないように手を握り直したとき、
軽く握り返すように力が込められた。俺は何かを試すみたいに、もう一度軽く力を込めてみる。
何かの合図みたいに、握り返される。
照れたみたいに、楽しげに、るーが笑った。
右手に見えた公園で、子供たちが遊んでいるのが見えた。
「ね、タクミくん、ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「必要なことって、なんなんですか?」
「……」
「どうして今、こっちに来ようと思ったんですか?」
「……あー、うん」
るーの質問に、思わず頭をかく。
説明がむずかしい。
どうにか言葉にしようとする。
すぐに諦めそうになったけど、ついてきてもらったから。
その気持ちにどうにか応えたいと思った。
その義務があると思った。
「……ちょっとした、確認かなあ」
251: 2016/05/09(月) 22:43:56.87 ID:wISiNU0Jo
「確認? ですか?」
「うん」
「何を?」
「まあ、いくつか。よだかのことと、母さんのことと、それから、俺のこと、スクイのこと、猫のこと」
きょとんとした顔で、彼女はこちらを見る。
俺は、うまく説明もできないまま、そっと視線を公園の方に向ける。
不意によぎる記憶がある。
「……」
ここだ。
雨に濡れた場所。
黒猫。
変な形の滑り台の下に、ぽっかり開いた穴に隠れて、俺は何かをやり過ごそうとしていた。
いつだったっけ?
あの猫は、どうなったんだっけ?
猫を捨てた記憶。猫と雨に濡れた記憶。
そのふたつの記憶だけが絡まって、わけがわからない。
252: 2016/05/09(月) 22:44:22.73 ID:wISiNU0Jo
「……ちゃんとした話になるか、不安だけどね」
「どういう意味ですか?」
「うん。まあ、いろんな意味で」
あっちがまともに話してくれるか。
俺がまともに話せるか。
どっちも不安なところだ。
一応、覚悟してきたつもりだけど。
「……わたし、必要でした?」
「いや」
るーは目を丸くした。
「でも、居てくれたら助かるかなって、思った」
「……」
「ひとりだと、場合によっては沈み込んじゃいそうだから。
だから、面倒だろうとは思うけど、まずそうなときは、助けてくれる?」
253: 2016/05/09(月) 22:44:48.43 ID:wISiNU0Jo
るーはちょっと迷った感じに目を泳がせたあと、うん、と納得したように頷いて、
「わかりました。まかせてください」
と笑った。
それからファミレスで昼を済ませて、案内してほしい、というるーの言葉に従って、時間をつぶして歩いた。
夏の太陽は無遠慮で、照り返しが俺たちの体力をじわじわと奪っていく。
「暑いですね」とるーが言う。
「本当に」
「これは参りますね」
「明日は気温が下がるらしい」
「そうなんですか?」
「そうらしいんだ」
何かを命じるみたいに、頭痛が続く。頭がうまく、はたらかない。
思ったよりも、まずいかもしれない。
254: 2016/05/09(月) 22:45:14.29 ID:wISiNU0Jo
◇
「ずいぶん急だったから、びっくりしたよ」
「……うん」
「そっちの子は彼女か?」
「そう」
「はじめまして。息子がお世話になってます」
「は、はじめまして。あ、はじめましてでは……」
「え?」
「わたし、藤宮ちはると言います。子供の頃に一度……」
「藤宮……」
「ご家族で、一ノ瀬さんのお宅にいらしたことが……」
「一ノ瀬……由里子さんのとこか」
「あ、藤宮さんって、バーベキューのときの……」
「はい。その節はお世話になりました」
「へえ、こんなに大きくなったんだね。ま、それを言ったらうちだってそうか。時間の流れは早いなあ」
255: 2016/05/09(月) 22:45:41.71 ID:wISiNU0Jo
「それじゃ、ふたりは向こうで再会して付き合うことになったってこと?」
「うん」
「拓海が急に彼女連れてくるなんていうから、びっくりしたよ」
「そうだね、ごめん」
「まあ、いいや。何日こっちにいるんだっけ?」
「二、三日……」
「そうなんだ。……えっと、ちはるちゃんだったっけ?」
「はい?」
「悪いんだけど、少し息子と話したいことがあるから、ちょっと外してくれるかな」
「あ、はい……」
「それじゃ、先にお風呂にでも入っててもらう?」
「それがいいかもしれない。そういえば、寝る場所はどうする?」
「俺の部屋でいいよ」
「拓海、変なことするなよ」
「しないよ」
256: 2016/05/09(月) 22:46:16.06 ID:wISiNU0Jo
「どうかな。さっきだって」
「母さん、さっきのは誤解で……」
「なにかしたのか、拓海」
「何も……」
「……」
「何もしてない」
「……タクミくん?」
「るー、じゃあ、母さんに……」
「あ、えっと……」
「じゃあちはるちゃん、こっちに」
「……はい」
257: 2016/05/09(月) 22:46:52.37 ID:wISiNU0Jo
◇
「それで……久しぶりに帰ってきたと思ったら、女連れとはな」
「……」
「向こうじゃ随分好き勝手やってるみたいだな。一ノ瀬さんとこに迷惑は掛けてないか?」
「うん」
「……相変わらずみたいだな」
「……」
「去年はどうして帰ってこなかった?」
「……」
「あの子のことか?」
「……」
「……だんまりか。都合が悪くなると返事をしなくなる。変わらないな」
「……」
頭が、ぼんやり、くらくらして、景色がずっと、揺れていた。
260: 2016/05/12(木) 00:26:22.15 ID:A/7oEX6oo
◇
「……なんだ、その目は?」
いつものように、目を細めて、彼は俺をまっすぐに見据える。
落ち着け、と俺は自分に向けて呟く。
落ち着け。
「……べつに、普通にしてるつもりだよ」
「そうか」
気にした風でもなく、彼はため息をついて目をそらす。
「それで? もう一度聞くけど、去年はどうして帰ってこなかった?」
「……」
「連絡さえよこさなかったのは、どうしてだ?」
「……」
「誰が仕送りしてやってると思ってるんだ。学費だって誰が出してる?」
「それについては、感謝してるよ」
「とてもそうは思えない」
そうかもしれない。
261: 2016/05/12(木) 00:26:47.35 ID:A/7oEX6oo
俺は、深呼吸をした。
「よだかに会ったよ」
「……」
「誰のことか、分かるよな」
「……」
「ねえ、父さん。本当に、心当たりはなかったの?」
父は何も答えなかった。
憎らしいほどの、血の繋がりを感じる。
ごまかし、嘘、つよがり、割り切り、開き直り、抑圧。
「あったとしても、父さんの気持ち、分からないでもないんだよ」
「……」
「俺だって同じ立場だったら、同じことを言ったかもしれない」
よだかは自分の子供かもしれません、なんて、そんなことを認めてどうなる?
母は? 俺は? 家族は?
今まで保たれていたいろいろなものが、全部壊れてしまうかもしれない。
耐えがたい真実と選びやすい虚偽ならば、後者を受け取るべきだ。
真実は所詮、ひとつの側面でしかない。
そうすることで、彼は何かを守ろうとしたのかもしれないし……。
あるいはただ、自己保身のためだったのかもしれない。
どちらにしても結果は同じことだ。
262: 2016/05/12(木) 00:27:56.91 ID:A/7oEX6oo
「でも、ときどきよだかのことを考えるんだ。物心ついたときには、そばに父親がいなくて、母親しかいなくて。
母親も氏んでしまって、そして、自分の父親に会えるかもしれないって話を聞いた」
どんな気持ちで、家の玄関に立ったんだろう。
それまでいないと思っていた父親に、会えるかもしれないと思ったとき。
彼女はきっと、余計な期待なんてしていなかったのだと思う。
ただ、知りたかったのだと思う。
その結果、自分が受け入れられないことだって、きっと、考えていただろう。
そうじゃなかったら、彼女はとっくに父親と暮らせていたはずだから。
それでも想像する。
「……どんな気持ちだったんだろう?」
父は、無表情に沈黙した後、
「――他にどうしようがあった?」
そう言った。
苦しげでもなく、悔むでもなく、ただ、開き直るように。
その態度は正しい。
263: 2016/05/12(木) 00:29:05.18 ID:A/7oEX6oo
いつでも過ちを犯さずにいられる人間なんてどこにもいない。
失敗を軽蔑できる人間は無知だ。
ある実験がある。
実験の参加者はまず、「自分が性的興奮状態にあるとき、どのように思考するか」を普段通りの状態で想定して、次のような質問に答える。
「女性の靴に性欲をかきたてられると思いますか」「五〇歳の女性に性的に惹かれる自分を想像できますか」
「女性がに応じてくれる可能性を高めるためなら、愛してると言いますか」
「新しいの相手がどんな歴をもっているかわからなければ、かならずコンドームを使いますか」
「コンドームを取りにいっているあいだに相手の気持ちが変わるかもしれないと思っても、コンドームを使いますか」
そして数日後、同じ実験対象者が、状況を変えて同じアンケートの質問に答える。
性的興奮状態――射精に至らない程度の、高度な性的興奮。つまり、自慰をしながら、アンケートに答える、というものだ。
多数の実験結果から分かったのは妥当な結論だった。
多くの男は、性的興奮状態にあるとき、理性ある状態の自分が想像するよりも、安易で粗野で直情的になる。
多くの人間の多くの答えは――同一人物による回答であるにもかかわらず――大きく変化した。
理性も理念も所詮は机上の空論だ。
どんな聖人も怒りに呑まれれば人を殴り、どんな好青年も性的な刺激を受ければ性欲にとらわれる。
誰もが、自分の理性を過大評価する。
だから、責めても仕方ないというわけではない。それでもやっぱり、人を馬鹿にするな、と言いたい気持ちはある。
264: 2016/05/12(木) 00:29:32.80 ID:A/7oEX6oo
もっとも賢い人間は、もっとも賢い生き方は、まずは生存を、生活を守ろうとする。
深くものごとを考えず、気分が落ち込まないように多くを気にせず、あまり遠くのことに思いを馳せず、
手の届く範囲で生活を完結させ、それ以上のことを想像しない。
だから幸福でいられる。
世界がぜんたい幸福でなくとも、彼らは幸福でいられる。
仕方ないから、そういうものだから――どうしようもないから。
どうしようもないことを気にして幸せを取り逃すのは、バカのすることだ。
賢い奴は、そんなことを気にしない。
生きる意味も、いつか氏んでしまうことも、不平等も、理不尽も、
それはただ、そういうものだと納得してしまえば、それで済んでしまう問題だ。
問題は日々をやり過ごすことであり、ともすれば憂鬱を運びこみかねない退屈や寂寞をしのぐことだ。
被災地のために募金をして、何かをした気になってしまえば、
職場で嫌いな人間に舌打ちをして、そいつが辞めたらせいせいしたと笑う。
後になってそいつが自頃していても、それはそいつのせいではない。
何かの災害よりも年間の自殺者数の方が多いと聞いても「勝手に氏んだ」と一顧だにせず、
「人に優しくありたい」とのたまった口で酒を飲んでハンドルを握る。
幸福な生き方だ。
幸福な生き方をする人間と幸福な生き方をする人間が連れ添って、子を成し、社会を形成している。
それが大多数でありうる。
世界はとても幸せだ。
「生きてるだけで丸儲け」「人生楽しんだもん勝ち」「氏ぬこと以外はかすり傷」
一生そう唱えて、氏ぬまで生きていけば、そいつはもう、本当に勝っている。
265: 2016/05/12(木) 00:30:05.25 ID:A/7oEX6oo
自分の過去の行為が、現在にどんなふうに作用しているかなんて、誰にも分からない。
それなのに、すべてを自分のせいだと感じても、仕方ない。
それはただそういう巡り合わせだったのだと、運が悪かったのだと、納得してしまっても、強引すぎるとまでは言えないだろう。
賢い生き方。
幸福な考え方。
その、賢しらな割り切りを、服従のような諦念を、俺は咀嚼できない。
了承できない。
「……そっか」
と、俺は頷いた。
「どうしようもないと開き直るのが大人なら、俺は子供のままでいい」
「それがまともに生きるということなら、俺は生きられなくてもかまわない」
そんな言葉を、この人に言ったところで、仕方ない。
「どうして猫を捨てたの?」「他にどうしようがあった?」
「どうしてよだかを拒んだの?」「他にどうしようがあった?」
――本当にどうしようもなかったの?
何かを否定できても、対案をあげられるわけでもない。
具体的な方策なんてわからない。
でも、納得がいかない。そんな気持ちだけがわだかまる。
266: 2016/05/12(木) 00:31:13.71 ID:A/7oEX6oo
猫なんて、氏んだって、捨てたって、べつにかまわない。
俺の人生に、何の関わりもない。
よだかのことなんて知らんぷりしたって、別に俺は幸福でいられる。
そんなの気にしたってどうする?
俺のせいじゃないんだ。
俺のせいじゃない悲しみなんて、そこらじゅうに転がってる。
そんなものをひとつひとつ拾い上げて、いちいち嘆いて誰かを責めて、それで誰が幸せになる?
だって猫は氏んでる。そいつだけじゃない。そこらじゅうで。
猫だけじゃない。豚を食って牛を食って、喰うために育てて、飼い頃して。
愛玩動物も家畜も所詮は人間に都合よく消費される命でしかない。
いちいち気にしてどうなる?
猫を捨てる奴を批判する奴は、肉を食わないのか?
肉を食わない奴は、虫を殺さないのか?
虫を殺さない奴は、肉を喰う奴を責めないか?
動物を捨てる人間なんて氏んだ方がマシだと罵倒しないか?
いったい何様のつもりで、生き物を区別してるんだ?
世界の裏側で子供が飢えて氏んだところで、そいつが俺に何の関係がある?
だったら、目の前で子供が飢えて氏んだところで、俺に何の影響がある?
前者を気にかけないのなら、後者も気にかけずに済むはずだ。
『見て見ぬふりをした自分』が居心地悪いから、憐れんだつもりになっただけじゃないのか?
関係ない。
その割り切りが、幸福の条件だ。
俺だって、きっと、そうしてる。
きっと、納得がいかないのだって、ただの代償行為だ。
267: 2016/05/12(木) 00:31:41.20 ID:A/7oEX6oo
◇
「どうしたんですか?」
「……え?」
訊ねられて、言葉に詰まる。
目の前に、るーが居た。かすかに濡れた髪、パジャマ姿。
ずいぶん時間が経ったのに、まだ頭がぼんやりする。
自分が嫌になる。
こんなことばかり考えてる自分。
きっと、この子もすぐに、こんな俺に気付いて、こんな俺のことが嫌になる。
俺はもっと、幸せそうな顔をしなくちゃいけない。
割りきらなきゃいけない。
「……タクミくん?」
「うん。大丈夫」
こんなところに、こなければよかった。そう思った。
思った通りの結果になった。誰のことも責められない。
何を期待してたんだろう?
父の口から、よだかに対する謝罪でも期待していたんだろうか?
そんなものがあったところで、どうせ俺には信じられない。わかってるはずなのに。
自分が何を求めてるのかすら、よくわからない。
いっそ何も、考えたくない。
268: 2016/05/12(木) 00:33:09.59 ID:A/7oEX6oo
ベッドに寝転んだ俺のそばに、るーは身を寄せてきた。
「大丈夫だよ」と俺は笑った。
嘘だ。
大丈夫なときなんてなかった。
好きな人と一緒にいたって、誰かと一緒に笑ったって、捨てた猫のことを思い出す。
それをどうでもいいと割り切れないなら、俺はありとあらゆる猫を割り切れない。
それをどうできる? どうしようもない。
こんなの、面倒だ。
解決策さえない。
食べきれない。
「……タクミくん、疲れてます」
「かも」
「寝ちゃいましょう」
「……うん」
そうして俺は眠った。
べつに遠い世界のことなんて考えなかった。
その事実に罪悪感を覚えた。
こいつはもう、神経症的だ。
273: 2016/05/14(土) 00:42:36.40 ID:kC14h97wo
◇
「ね、どこかに出かけようか?」
翌日、リビングで何をするでもなくるーとふたりでぼーっとしていると、母が急に話しかけてきた。
「どこか?」
と俺は訊ねた。
「どこか」
と彼女は繰り返した。
「……どこか」
どこかってどこだよ。
そう思った。
「だって、せっかくこっちに来たのに、家で何もせずに過ごすなんて、ちはるちゃんも退屈でしょう?」
「あ、いえ、わたしは……」
274: 2016/05/14(土) 00:43:09.75 ID:kC14h97wo
「……ところでちはるちゃんって、春生まれなの?」
「え? ……いえ、どうしてですか?」
「ほら、名前が」
「あ、ちがいます。字は……知る、に、晴れる、って書きます。秋生まれなんですよ」
「そういうことかー。晴れを知る、かー」
「……タクミくんは、海を拓く、ですね」
「ああ。うん。ゴローが前に、俺のことをモーゼって呼んだことがあったな」
「出エジプト記……?」
「そう」
「手をかざすと……」
「海が割れる」
「……モーゼが名前の由来なんですか?」
「ううん。音を先に考えてあとで字を考えました」
母が俺も知らなかった事実を口にした。
「そうなの?」
「うん。あとで画数で調べてみたらちょっと良くなくて、やっちゃったって思った」
知りたくなかった。
275: 2016/05/14(土) 00:43:35.81 ID:kC14h97wo
「……ま、そんなことはともかく」
と、母は話を打ち切った。
「お出かけしましょう。退屈でしょう?」
「……」
「拓海?」
「うん。分かったよ」
「そう? じゃあ、わたし支度するから」
「……」
長いんだよなあ、これが。
「……待ってる間、ちょっと散歩してくる」
「そんなにかからないよ?」
なぜか、やってる本人は時間の感覚がずれるらしい。
「すぐ戻るよ」と俺は言った。
「あ、わたしも……」
「うん」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
……なんだか、ぐだぐだなやりとりだ。
276: 2016/05/14(土) 00:44:20.14 ID:kC14h97wo
◇
「タクミくん、どうして散歩なんて……」
「母さん、支度長いから」
街路樹の緑をぼんやり眺めながら、昨日も通った同じ坂を昇る。
景色は何も変わらない。この街に住んでいた頃から、何も。
ずっとまえから、なにひとつかわらない。
そういうふうにできていた。そういうふうになっている。
昨日通った公園で、今日もまた、子供たちが遊んでいた。
俺たちはわけもなく、敷地内に入って、ベンチに腰を落とした。
しばらく、言葉もなく、ただぼんやりと、夏の日差しに差されていた。
熱中症にでもなりそうだ。
「……タクミくん、大丈夫ですか?」
「なにが?」
「昨日から少し、様子が変だから」
「うん。変なのはいつもだ」
「……そうかも」
277: 2016/05/14(土) 00:45:17.11 ID:kC14h97wo
るーは、何か考えこむように、少しだけ口を閉ざした。
「……ね、タクミくん。今、何を考えてますか?」
「……良い天気だなあ、かな。少し暑いかなあ、とか」
「そうですね。同じこと、考えてました」
「うん。こんな良い天気なのにさ」
「はい」
「あ、いや」
「……え?」
「なんでもない」
278: 2016/05/14(土) 00:45:43.42 ID:kC14h97wo
「……ね、タクミくん。出エジプト記って、どんな話でしたっけ?」
「どうして?」
「なんとなく。そういえば、よくは知らないような気がするから」
「えっと、エジプトの奴隷の話だよ」
「奴隷?」
「うん。おおまかに言うと。ヘブライ人たちは、エジプトで奴隷として苦役を強いられていて……。
モーゼは神のお告げで、その奴隷をエジプトから連れ出すように言われるんだ」
「……はあ」
「モーゼに従った大勢のヘブライ人たちは、奴隷の苦役から解放されるのと同時に、水も食べ物もない終わりの見えない旅に放り出された。
エジプトの王は奴隷を連れださせてしまったことを悔やんで、追手を差し向けて……」
「……」
「海と荒野に挟まれて、軍勢に追いつかれたとき、恐れをなした奴隷たちが言うんだ。
荒野で氏なせる為に、私達を連れ出したのか、こんなことならば、エジプトで氏んだ方がよほどマシだった、って」
「……それで、どうなるんですか?」
「モーゼが奴隷たちを諭して、海に向けて手をかざすと……」
「割れるんですか」
「割れるんです」
「ぱっかーん」
「ぱっかーん。で、奴隷たちが逃げ出したあと、モーゼが海の上に手をかざすと、海の流れが元通りになって、軍勢は波濤に呑まれる」
279: 2016/05/14(土) 00:46:39.10 ID:kC14h97wo
「ひどい話ですね」
「ひどい話なんだ。それからも艱難辛苦は続く。苦い水しか得られないとき、奴隷たちは『何を飲めばいいんだ』とモーゼを責めた。
モーゼは主の奇跡によって水を甘くして奴隷に与えてやった。次に食べ物がなくなると、彼らはまた恨み言を言った。
『エジプトに居たときは飽きるほど肉やパンを食べることができた。これなら元いた地で氏んだ方がよかった。ここで我々を飢え氏にさせるつもりか』と」
「……」
「主の奇跡は彼らに食べ物を与えた。さらに、次に水に困ったとき、奴隷たちはモーゼを殺さんばかりの勢いだった。
彼はそれでも主に祈り、奇跡によって水を用意した」
「……それは、なんというか」
「まあ、奴隷には奴隷の幸せがあったのかもしれないよな。
少なくとも、奴隷はご主人様に従って働いてれば、あたたかい食事とスープにありつけて、寝床にも困らなかった。
自由と解放を求めたばかりに、飢え、渇き、疲れ果て、追われる身の上になった……」
「わたしには、喉元過ぎて熱さを忘れてるだけに思えますけど」
「でもさ、モーゼのしたことは、余計なお世話だったのかもしれないよ」
「……どういう意味ですか?」
280: 2016/05/14(土) 00:47:54.73 ID:kC14h97wo
「理不尽に苦しみ続けるよりも、がんばってそこから抜けだそうとあがくことの方が、よっぽどしんどいこともあるだろ。
奴隷の苦しみは、奴隷が消化するべきもので、モーゼが何か手を加えることではなかったのかもしれない。
そうすることで、余計に話がややこしくなったのかもしれない」
「……そう、ですかね?」
「うん」
「……そのあとは、どうなるんですか?」
「モーゼと奴隷?」
「はい」
「どうなるんだったかな。よく覚えてない」
「……」
そこで、話が途切れてしまった。
俺は黙りこんで、少しのあいだ、いくつかのことを考えた。
281: 2016/05/14(土) 00:48:26.06 ID:kC14h97wo
それを遮るみたいに、手のひらに触れる感触があった。
るーが、手のひらを重ねてきた。
「……どうしたの」
「だめですか?」
「暑くないの?」
「わたしは平気です。タクミくんはうっとうしいですか?」
「いや」
「だったら問題無いです」
「……かもね」
俺は少しだけ笑う。
たぶん、訊きたいことも、言いたいことも、いろいろあるんだろう。
それでも、俺の態度のあちこちから、いろんなものを察して、黙っていてくれている。
そのまま、離れずにいてくれる。
こんなひとがいてくれる時点で、思い悩んでも胡散臭い。
俺は恵まれてる。
282: 2016/05/14(土) 00:48:52.30 ID:kC14h97wo
「良い天気ですね」と、るーが言う。
本当に良い天気なんだ。
子供たちのはしゃぎ声。水飲み場から散る飛沫。ジャングルジムの不思議な影。
家々は静かで、そのなかに笑い声だけが響いている。俺とるーは、そのなかで浮かび上がりながら、景色の一部になっている。
空は青くて雲は白い。頭上には飛行機雲が走っている。蝉の鳴き声が頭の中を撹拌する。
本当に良い天気なのに、
隣にいる子はとても良い子で、
俺はなにひとつなくしてないのに、
どうしてこんなに気分が塞ぐんだ?
目の前には何も、悲しいことなんてひとつだってないのに。
るーは鼻歌をうたう。
スキータ・デイヴィスの「この世の果てまで」だ。
俺はぼんやりと彼女の声を聴きながら、景色をただ眺めていた。
しばらく、時間がただ流れた。そろそろ、帰らなければ。そう思った。
そのときだ。
るーの歌声が、不意に途切れた。
怪訝に思ってるーを見ると、彼女は自分の足元をじっと見つめていた。
視線の先を追いかけて、それを視界におさめたとき、そいつは待っていたみたいに鳴いた。
「みゃあ」、と黒猫が鳴いた。
283: 2016/05/14(土) 00:49:35.11 ID:kC14h97wo
つづく:屋上に昇って【完結】
284: 2016/05/14(土) 01:01:32.47 ID:+JJ6QU9+o
乙です
引用: 屋上に昇って.
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