287:◆1t9LRTPWKRYF 2016/05/15(日) 22:35:06.96 ID:GNfKg3P3o

最初:屋上に昇って【その1】
前回:
屋上に昇って【その11】
◇[If you were coming in the Fall]


「猫だ」

「猫ですね」

 猫だ。じっと、足元から、こちらを見上げてくる。

「タクミくんのこと、見てますよ」

「みたいだね」

 足元でもういちど、そいつは「みゃあ」と鳴いてから、俺の膝の上に飛び乗ってきた。

「あ、ずるい」

「いや、ずるいっていうか……」

「人懐っこいですね。首輪してるし、飼猫かなあ」

 猫は、俺の目を鋭くみつめてから、すぐに視線をそらして、膝の上で丸くなった。

ふらいんぐうぃっち(12) (週刊少年マガジンコミックス)
288: 2016/05/15(日) 22:35:32.88 ID:GNfKg3P3o


 唐突に、落ち着かない気分になる。
 奇妙な戸惑い。

 黒猫だからだろうか?
 そうかもしれない。
 
 猫は、何かをうかがうみたいに、俺とるーの顔を交互に見てから、もう一度「みゃあ」と鳴く。
 それから膝の上を飛び降りると、そっぽを向いて歩き始めた。

「タクミくん」

「……なに?」

「あの猫……」

 見ると、猫は公園の敷地の外から、何かを待つみたいにこちらを見つめていた。

「待ってるみたいです」とるーは言った。


289: 2016/05/15(日) 22:36:10.93 ID:GNfKg3P3o

 俺にも、そういうふうに見えた。
 でも、どこかで冷静な自分が、そんな自分を諌めているのも分かる。
 
 猫だ。
 黒猫なんて、どこにでもいる。

 猫が、待っている? そんなわけない。バカバカしい。
 勝手な思い込みを動物に投影して、そこに意味を見出そうとするなんて、身勝手だ。

 そう思うのに、猫は一歩も動こうとせず、身じろぎもせずに、こっちを見ている。

「……どうしますか?」

「……どうするって?」

「えと、どっちにしても、そろそろ戻らないと」

「……」

 そうだな。
 ここにきてから、結構な時間が経った。そろそろ戻らないと。

 でも、猫が待っている。


290: 2016/05/15(日) 22:36:44.75 ID:GNfKg3P3o

「……ねえ、るー」

「はい?」

「追いかけてみてもいいかな」

「猫ですか?」

「うん」

「おもしろそうですし、かまいませんよ」

「ごめんな」

「お母さんに、連絡しておいたほう、いいかもしれません」

「うん」

 言われた通り、俺はポケットから携帯を取り出して、簡単に「遅れる」とだけメッセージを送った。

 待ってるわけじゃないかもしれない。意味なんてないかもしれない。
 でも、たしかめてみたって、べつに損するわけじゃない。

 何もないかもしれない。でも、何もないとたしかめることができるなら、それでいい。


291: 2016/05/15(日) 22:38:05.94 ID:GNfKg3P3o

 猫は俺たちが追いかけはじめるのを見ると、すぐに歩き出した。まるで導くみたいな足取りで、ゆっくりと。
 道路も横切らずに横断歩道を使った。赤信号すら律儀に守っていた。

 るーも俺も、その不思議さに何も言わなかった。

 猫はただ、夏の日差しのなかを、静かに歩いていく。
 俺たちは坂道を昇っていく。

「なんだか、不思議ですね」

「なにが?」

「わたし、知らない街にいるのに、歩いたことのない道なのに、なんだか、なつかしい感じがします」

「なつかしい……?」

 蝉の声、夏の日差し、涼やかな風、通りかかった家の縁側から聞こえた風鈴の音、透き通るような景色。

 何かもが、白い光に縁取られて見える。
 
 先を歩く黒猫が、静かに振り返り、俺達の姿を見つけると、また歩き始める。

「るー、暑くない?」

「暑いです」

「だよな。……やっぱり、帰ろうか?」

「え? どうしてですか?」

「いや、体調でも崩したら」

「わたしが気になるから、追いかけてるんです」

 本当に不思議そうな顔で、るーはそう言って、前方の猫に目を向ける。
 

292: 2016/05/15(日) 22:38:48.00 ID:GNfKg3P3o

「……不思議になるんだよな」

「何がですか?」

「なんで、るーは、俺と一緒にいてくれるんだろうって」

「……と、いうと?」

「なんで、面倒にならないんだろうって」

「……はあ」

 るーは、少し考えるような素振りを見せてから、眉を寄せて、

「いえ、面倒ですよ」

 と言った。

「あ、そうなの?」

「はい。逆に聞きますけどタクミくんは、わたしのこと面倒にならないですか?」

「……どうだろう、今のところは、べつに」

「じゃあ、これからきっとそうなります」

 るーは俺の目も見ずに、当たり前のことのようにそう言った。


293: 2016/05/15(日) 22:40:09.61 ID:GNfKg3P3o

 日差しに歪む視界のなか、夏の気配にまぎれて、俺達は猫の影をどこまでも追う。

「……だいきらいって、言ったことがあるんです」

 何かをうかがうように、るーは口を開いた。

「……なに?」

「物心ついた頃には、ちい姉と一緒に暮らしてなかったから。
 ときどき、顔を合わせると、お父さんはいつも、ちい姉の相手ばかりしていて……」

「……」

「わたし、お父さんを、知らない女の子にとられた気がして。
 その子がお姉ちゃんなんだって言われても、そういうふうに思えなくて、だから……」

 だいきらいって、お姉ちゃんじゃないって。
 そう言ったんです。

「……でも、ちい姉は悪くなくて、ちい姉だって、ずっと傷ついてて、だからわたし、ひどいことを言ったんだ、って」

 坂の上で、猫は待っていた。追いついてしまった。俺たちは、その場に立ち止まる。

 るーは悪くないよ、と、そう言ってしまうのは簡単だ。
 でも、そんな言葉は、きっと彼女には何の意味ももたない。
 
「そっか」

 返せたのは他人事のような頷きだけで、俺は自分が嫌になる。


294: 2016/05/15(日) 22:40:43.50 ID:GNfKg3P3o

 るーの手を握った。

 彼女は、こちらを見上げてくる。

「うっとうしい?」

「……ううん」

「そっか」

 猫は、また歩き始めた。

「……ちい姉と一緒に暮らすようになったのは、いつだったっけ?」

 なんとなく、俺はそう訊ねた。

「あの年です」

 るーは間も置かずに答えてくれた。

「わたしたちが会った、あの年の春ですよ」

「……」


295: 2016/05/15(日) 22:41:40.42 ID:GNfKg3P3o


「だから、わたしにとって、あの夏は特別なんです。
 あんなふうに過ごせなければ、今みたいには、なれなかったかもしれないから」

 ……あの夏。
 俺はどんな気持ちで、この街に帰ってきたんだっけ。

 ――なんだか、どうすればいいのか、分からなくて。

 そうだ。
 俺はあの夏に、るーから聞いていた。

 ちい姉との、距離をはかりそこねていること。

 俺は、どう答えたっけ?
 たしか、うまく答えられなかったんだ。

 俺も、どうすればいいか分からないことを、抱えていたから。

 ――うん。難しいよね。

 そう言ったんだ。

 ただの相槌だった。
 そんなただの相槌を繰り返して、俺達はあの夏、あの夏休みの間、立ち向かう準備をしていた。

 俺たちはそれぞれに、どうしたらいいか分からないものを抱えていて。
 あの短い期間のなかで、それでも、立ち向かう覚悟を決めようとしていた。

 きっとるーは、あの日々の中で、ちゃんと立ち向かって、向かい合おうとしていた。
 それを見て、俺だって逃げてばかりもいられないんだって、そう思ったんだ。
 学校のこと、猫のこと。

 別れ際、俺はるーに言った。

 俺もがんばるから、るーもがんばれ、って。るーががんばってると思って、俺もがんばるから、って。
 いつかまた、この街に来るから、って。

 そのときるーは、嬉しそうに笑ったんだ。


296: 2016/05/15(日) 22:42:06.42 ID:GNfKg3P3o

 その約束を、どうして俺は、今まで忘れていたんだろう。

 父のことが、よだかのことがあったから?
 時間の流れが記憶を薄めて、実感を遠ざけたから?

「タクミくんがいたから、わたしは今日まで、がんばってきたんですよ」

「……」

「連絡かえってこなくなったときは、さすがに泣きそうになりましたけど」

「……あ、うん」

 猫は歩く。
 俺たちは影を追う。

「……ごめん、るー」

「……なんですか、突然」

「俺、るーとの約束、守れてなかったかもしれない」

「……そうですか?」
 
 るーが、手のひらに力をこめたのが、伝わってくる。
 彼女はやさしく笑った。


297: 2016/05/15(日) 22:42:34.83 ID:GNfKg3P3o

「そんなことないですよ、きっと。タクミくんは、がんばってきたんだと思う。
 わたしには、ちい姉や、すず姉がいたから。だから、不安にならなかっただけです」

「……」

「タクミくんは、帰ってしまえばひとりで立ち向かわなきゃいけなかったから。不安になって、少し迷ったって、仕方ないです」

 ……きっと、自信がなかったんだろうな。
 誰も覚えてないかもしれない、と俺は思っていた。

 みんなにとって俺なんて、ただ偶然通りすがっただけの、なんでもない存在なんだって、勝手に思っていた。
 
 不安だった。みんなに会えなくて、話せなくて、顔も見れなくて。
 るーとメールしているときも、漠然と、不安だった。

 でも……。

 それはただの、思い込みにすぎなかったのかもしれない。

 でも、蓋を開けてみれば、みんな、俺のことを覚えていた。
 俺との約束を、るーは大切にしていてくれた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 そして、猫は立ち止まった。


298: 2016/05/15(日) 22:44:16.85 ID:GNfKg3P3o

 俺たちが足を止めると、猫は静かに、目の前の家の敷地に入っていった。

 べつに、変わったところのない家だ。
 しいていうなら、周囲に並ぶ家よりも、いくらか古そうな感じがするくらい。

「やっぱり、ただの飼猫だったんですかね?」

「……」

 るーの呟きに反応せずに、俺はその家を眺める。

「まさか知らない人の家に勝手に入るわけにも……」

 俺は知っている。
 この家を見たことがある。

「……タクミくん?」

 門柱に填められた表札。

"小鳥遊"、とあった。

「……うちに何か御用ですか?」

 掛けられた声に驚いて振り返ると、立っていたのはひとりの女の人だった。

 彼女は俺の顔を見て、何かに気付いたような顔をした。

「あれ、あなた、もしかして――」

 女の人が何かを言いかけたとき、彼女の足元で、「みゃあ」とまた鳴き声がした。
 いつのまに、そこにいたんだろう。
 
 猫は静かに、俺の足元へと近付いてきて、頭をすり寄せてきた。


299: 2016/05/15(日) 22:44:46.73 ID:GNfKg3P3o



「どうぞ」

 なんだか分からないうちに俺とるーは彼女の家に招かれて、縁側で麦茶を出されていた。

 風鈴の音。
 猫が俺の膝の上であくびをした。

「やっぱり、きみなのね」

 女の人は、俺の顔を見てそう言った。

「……えっと」

「この子、人見知りするから、初対面の人の膝の上に乗ったりはしないんです」

「……いや、でも」

 何かを言い返そうとしたけれど、何も言い返せなかった。
 何の話なのか、よくわからない。

「あのときの子でしょう?」

「……あのとき、って」

「……小さかったから、覚えていないのも無理はないのかも」

 そう言って、彼女は少し寂しそうに笑う。


300: 2016/05/15(日) 22:45:35.93 ID:GNfKg3P3o

「その子に見覚えは?」

 俺の膝の上の猫を示して、女の人は静かにそう訊ねてきた。

「……」

 ある、と言えばあるし、ない、と言えばない。

「……何年か前の雨の夜に、坂の下の公園の遊具の下に、雨に濡れている男の子を見かけたことがあったんです」

「……」

「赤いブランケットに包まれた、子猫を抱いていました。話を聞いてみたら、うちで飼えないから、捨てたんだって」

 ……"捨てた"。
 そうだ。
 
 父の車に乗って、遠くの公園まで。ダンボール、赤いブランケット。

「猫を、小さな滑り台の下に隠して、自分は、茂みの傍に傘を置いて、濡れた土の上に座り込んで……。
 ずぶ濡れになりながら、猫の傍から離れようとしない、男の子を見つけたんです」

 猫を捨てた日の帰り道、俺は車の外をじっと睨んでいた。父が何も言ってこないのが好都合だった。
 
 俺は、道順を覚えようとしていた。
 家についたあと、出かけてくる、と言って、自転車を走らせた。
 決して短い距離じゃなかったはずだ。

 降りだした雨の中を、俺は走っていた。

 そんな記憶が、いま、思い出される。


301: 2016/05/15(日) 22:46:01.63 ID:GNfKg3P3o

「……」

 みゃあ、と猫が鳴いた。首を傾げてから、俺の手の甲をぺろりと舐めた。

「とにかく、雨に濡れていたから。男の子も子猫も、弱っていたから、うちに連れてきたの。
 それから、猫はうちで引き取ることにして……」

「……この猫が、そのときの?」

 るーが、そう訊ねる。女の人が頷くのと同時に、黒猫はまた、みゃあと鳴く。

「じゃあ、その男の子って……」

「どうなの?」

 女の人は、ちょっと笑いながら、俺にそう訊ねた。

「……人違いじゃないかな」

「……そうなの?」

「そんな気もするけど……よく覚えてない」

「そうかなあ。まあ、どうなのかな。わからないよね」

 女の人は、どちらでもいい、というふうに笑った。

「覚えていないんだったら、確認しようがないもの」

「……」


302: 2016/05/15(日) 22:47:19.05 ID:GNfKg3P3o

 みゃあ、とまた、猫が鳴く。

「……なついてますね」

 るーが不思議そうな顔をする。

「タクミくん、動物に好かれやすい方ですか?」

「いや……」

「だったら、本当に昔……」

「猫がそんなこと、覚えてるものかな」

「……うーん、それを言われると」

「俺だって、思い出せない。そうだったら劇的だとは思うけど、そんな理由で思い込む気にはなれないよ」

「……そう、ですか?」

 るーはなんだか納得がいかないような顔をした。
 記憶はつくりものだ。何が本当で何が嘘なのか、俺には判断できない。

「でも、きっときみだと思う。そっくりだもの」

「……」

 たしかに、それでも、
 そんな記憶が、あるような気がした。

 雨に打たれて、子猫を抱いていた夜。
 自分には何もできないと、泣いていた夜。


303: 2016/05/15(日) 22:48:29.31 ID:GNfKg3P3o

 でも、もし、猫の引き取り手が見つかったなら、俺はもう少しマシな記憶として、猫のことを覚えていそうなものだ。
 ……あるいは。

 自分の手で助けられなかったということだけを、覚えていただけなのか。

「……」

 よくわからない。

 それでも猫は、なにか言いたげに、俺を見ている、ような気がする。
 それさえも、動物に対する身勝手な投影なのかもしれない。

 俺は前足の下を持って、猫を抱き上げる。

 と、急に暴れ始めて、俺の手の甲を猫が引っ掻いた。

「あれ、大丈夫?」

「やっぱ、なついてないみたいですね」

「……恥ずかしかったのかな。女の子だし」

「いや、猫が恥ずかしいとか……」

 ぐるる、と抗議するみたいに、黒猫は距離をとって俺に向けて唸った。

「……この子、なんて名前なんですか?」

 ただのなんでもない質問のように、るーは訊ねる。
 女の人も、当たり前みたいに答える。

「うん。……ほら、黒猫は不吉だって言うじゃない? だからね、中和というか、打ち消し線というか……」

 とにかく、そういう押し付けがいやだったから。 

「だから、この子の名前は――」


304: 2016/05/15(日) 22:48:57.80 ID:GNfKg3P3o



 また来てね、と女の人は言った。猫は別れ際、門柱の脇に座って、「みゃあ」とまた鳴いた。

 登ってきた坂を、今度は降りていく。

 手を繋いで歩きながら、るーはなんだかご機嫌だった。

「どうしたの?」

「いえ。やっぱりタクミくんは、昔からタクミくんだなあ、って」

「……どこをとって、そう思ったの」

「猫。守ってあげたんですよね?」

「……仮にそうだとしても、捨てたのだって俺だよ」

 るーはきょとんとした顔をした。

「マッチポンプで良い奴ぶる気にはなれない」

「……わたしは、すごいと思います。だって、子供の頃のことじゃないですか」

「……」

「仕方ないことがたくさんあって、それでもタクミくんは、諦めなかったんだって思います。諦めたくなかったんだって」

 どうなんだろう。
 よくわからない。


305: 2016/05/15(日) 22:49:26.84 ID:GNfKg3P3o

 俺の表情を見て、るーは不満気に口をとがらせる。

「あのね、タクミくん」

 と彼女は繋いでいない方の手の人差し指を立てた。

「あなたはもう少し、自分のことを認めてあげてください」

「……」

「もう少しだけ、自分のことを、好きになってあげてください。
 あなたがいたことで、救われた存在がいるんだから」

 どこかで、前にも、そんな言葉を聞いた。
 
 ……夢の中だ、きっと。

 ――もう少し、もう少しだけ、自分のこと、好きになってあげてください。
 ――あなたがそうあることで、救われる人がいるから。

 夢。

 ――だから、先輩が苦しいときは、思い出してくださいね。
 ――先輩がいたから生きてきた存在がいたってこと、ちゃんと、思い出してくださいね。


306: 2016/05/15(日) 22:49:59.09 ID:GNfKg3P3o

 ……困ったな。

 俺が生まれなければ、よだかは幸せになれたかもしれない。
 俺がいなければ、もっと、世界は上手くまわっていたかもしれない。

 どこかで、ずっとそう考えていたのに、打ち消し線を引かれてしまった。
 中和されてしまった。

「……タクミくん?」

「……ごめん」

「……いいです。内緒にしておきますから」

「うん。るー、あのさ……」

「はい」

「……ありがとう」

「どういたしまして」
 
 るーは、にっこり笑った。


307: 2016/05/15(日) 22:50:32.49 ID:GNfKg3P3o



 少し落ち着きを取り戻してから、俺たちふたりが家に戻ると、母は「遅い!」と声をあげた。

「ごめん」

 と俺は素直に謝った。

「よろしい」

 と母は頷いた。

「それじゃ、お昼も兼ねてお出かけしましょう」

 そう言って母が俺たちを連れて向かった先は、どこにでもあるような商業複合施設だった。

 全国津々浦々、どこでも似たようなテナントが入っている似たような建物。

 昼食をとってから、なぜかふたりは俺の服を見繕おうと言い出した。

「あんたは服装に気を遣わなさすぎ」

 と母が言い、

「わたしもそう思っていました」

 とるーがちょっと真面目な顔で言った。

 それから男物の服を置いているところをあちこち連れ回されて、あげくの果てに服を買わされた。
 
 安いのでいいのに、とつぶやくと、

「ダメです」

 とふたりに揃って怒られた。
 金を少しでも貯めたかったけど、友達と遊ぶ金も確保したかったから、衣食を削るようにしてたんだけど。

 まあ、彼女さんに言われたら仕方ない。


308: 2016/05/15(日) 22:51:01.38 ID:GNfKg3P3o




 自分の買い物はほとんどしてないくせに、なんだかふたりは充実した顔をしていた。
  
 けっこう広い建物を、一箇所一箇所見て回ったものだから、家につく頃には夕方になっていた。

 るーは、車の中で眠ってしまった。

「緊張してたのかな」と母は言う。そうかもしれない、と俺も思った。

「ね、拓海。良い子ね」

「……うん?」

「……るーちゃん」

「うん」

「大事にしなさい」

「……うん」

「卒業したら、どうするつもり?」

「……」

 考えていない、わけではない。
 何かするには、俺は無力で、コンビニバイトの金なんか、何の足しにもならない。

 そう分かっている。頼るしかないと、分かってる。 
 でも、腹の内側のごたごたを、全部飲み込んだまま、頭を下げられるほど、器用じゃない。
 
「……」

 それでも、そうするしかないなら、俺はそうするかもしれない。
 大事なことがあるから。


309: 2016/05/15(日) 22:51:41.97 ID:GNfKg3P3o

「……まだ、考え中」

 とにかく、俺はそう答えた。

「そっか」と母は少し寂しそうに笑った。

「ね、拓海」
 
 いろんなことを、飲み込んで、言葉を素直に聞く気になる。

「また、帰ってきてくれる?」

「……うん」

「そっか。たまには、連絡してね」

「うん」

「……ごめんね」

「……なにが?」

「……ううん」

 少しだけ、ため息をつく。


310: 2016/05/15(日) 22:52:08.44 ID:GNfKg3P3o

 何もかもを綺麗に覆せる魔法なんて、この世のどこにもない。

 未整理のもの、散乱したもの、消化できないものをそのままにして、それでも歩くのをやめられない。

 許せないことも、受け入れられないことも、それぞれに抱え込んだままに。

 俺にも、るーにも、母にも、誰にでも、きっと、父にも。

 何もかもが綺麗に片付くなんて期待は、最初から持ち合わせていない。

「……明日、帰るよ」

「……うん」

 俺は、窓の外を眺める。
 懐かしい景色。
 何度も見た景色。

 不思議な気分だった。


311: 2016/05/15(日) 22:53:00.13 ID:GNfKg3P3o



 
 その夜、少しだけ、父と話をした。




312: 2016/05/15(日) 22:53:29.17 ID:GNfKg3P3o



 翌日、母に車で駅まで送られて、土産を選んでいる間、携帯に電話が入った。

 見れば、高森から。

「もしもし?」

「たっくん、今なにしてる?」

「帰省ー」

「へー、キセイかー。……え、帰省?」

 だいぶ戸惑った声で、高森はうめいた。どうやら意表をつかれたらしい。

「どうしたの?」

「ううん、暇だったらみんなで遊びたいなーって、ちーちゃんと話してたんだけど」

「あー。今から帰るけど、たぶん着くのは三時頃かなあ」

「そっかあ。じゃあ、たっくんは不参加ね」

「不参加って、何する気なんだ」
 
「え? ……部室で人生ゲームしようって」

 ……なんでわざわざ部室なんだ。

「そっか。まあ、たっくんは不参加ね。しかたない。んじゃ、他のひとに電話かけるから、またねー」

 通話が切れる。


313: 2016/05/15(日) 22:54:04.63 ID:GNfKg3P3o

「……蒔絵先輩ですか?」

 隣でおみやげを選んでいたるーが、首を傾げた。

「なんで分かったの?」

「声が……」

「……ま、そりゃそうか」

 と、そんな会話をしてすぐに、今度はるーの携帯が震えた。

「……もしもし?」

 なんとなく想像はつくけど……なんだか、説明がめんどくさくなりそうな気がする。

「えっと、今、わたし県外に……」「あ、旅行ってわけでは」「その、えっとですね……」

 めんどくさいので、るーの手から携帯を奪った。

「もしもし」

「はい? どちらさ……え、たっくん?」

「はい。たっくんです」


314: 2016/05/15(日) 22:54:37.06 ID:GNfKg3P3o

「え、一緒にいるの? キセイチュウじゃないの?」

 寄生虫みたいなイントネーションだった。

「帰省中です」と俺は言った。

「え、るーちゃんと一緒に?」

「まあ、そうなるな」

「……そこのところ、詳しく」

「帰ったらな」

 俺は勝手に通話を終わらせた。

「……あはは」

 少し気恥ずかしそうに、るーは笑った。

「あいつ、妙なところでタイミングいいよなあ」

「ですね」


315: 2016/05/15(日) 22:55:03.50 ID:GNfKg3P3o

 お土産を買ったあとの待ち時間。母は用事があると言って、すぐに帰ってしまった。

「気をつけてね」と言われたけど、何を気をつければいいのやら。

 最後にるーと手を振り合って、彼女は行ってしまった。

「……そうだ。わたし、タクミくんに内緒にしてたことがあるんです」

「え? なにそれ」

「いま、近付いてます」

 なんだそれ。

 と思うと同時に、後ろから何かが俺の視界を覆い隠した。

 慌てて払いのけ、振り返る。

 よだかが、そこに立っていた。

「や」

 と彼女は言った。


316: 2016/05/15(日) 22:55:30.77 ID:GNfKg3P3o

「……え、なんでよだかが」

「夏休みに、遊びにいくって言ったでしょ?」

「いや、そうではなくて」

「るーちゃんが連絡くれたから、一緒に行こうと思って」

「なにもそんな急に」

「急にじゃないよ。ね?」

「ねー?」

 ふたりでそろって頷き合っている。
 いつのまにこんな具合になっていたのか。

「わたし、るーちゃんちに遊びにいくんだもん。たくみにはあんまり関係ないよ」

「……そ、そうかなあ」

 戸惑う俺を、るーがからかうみたいに笑う。

「旅は道連れ、ですよ」

「そうそう」と、よだかは楽しげに頷いた。

 俺はちょっとだけあっけにとられてから、笑った。


317: 2016/05/15(日) 22:56:41.52 ID:GNfKg3P3o



 車窓の外、流れていく景色を眺めながら、俺はいくつかのことを考えた。

 るーのこと、よだかのこと、あの黒猫のこと。
 もう、そんなに思いつめた気分にはならなかった。

 何かが変わったわけじゃない。

 今もどこかで何かが起きている。その事実は変わらない。

 それを忘れたわけでも、忘れたいわけでもない。

 けれど今は、そう思っていても、嘆き散らす気にはなれない。
 
 打ち消し線、中和、と、あの女性はそう言っていた。

 呪詛と祝福。
 悲嘆と歓喜。

 それぞれが交じり合う混沌。それは決して正負の足し算ではない。
 帳尻は合わない。

 それでも、どちらか一方にしか目がいかないのでは、それこそ片手落ちというものなのだろう。

 隣で、るーが眠っている。

 その寝顔をぼんやりと、ただぼんやりと眺めながら、少し考えて、
 この気持ちを幸せと呼んでみてもいいのかもしれない、と、そう、勝手に思った。


326: 2016/05/17(火) 23:26:21.93 ID:Fxr7uh8Eo

◇[(feet of) A narrow Fellow]


「で、どういうことなの?」

 と、高森が目を爛々と輝かせて訊ねてきた。時刻は午後三時四十分。

 「駅前のマックで待ってるから!」と一方的にメッセージをよこした彼女は、本当にそこで待っていた。

 高森の隣には佐伯とゴロー、くわえて部長の姿もあった。

「……なんで勢揃いなの、みんな」

「人生ゲーム、してたから!」

 高森はものすごく楽しそうにそう言った。

「ちなみに一位はわたしです」と、誰も聞いてないのに佐伯は呟く。

「そうですか」


327: 2016/05/17(火) 23:26:52.12 ID:Fxr7uh8Eo

「一位だから、なんかちょうだい」

「……」

 佐伯が差し出してきた手のひらの上に、俺は飴玉をひとつのせた。

「わーい」と佐伯はたいして嬉しそうでもない反応を見せる。

「いいなあ、人生ゲーム」と、よだかがぽつりと呟いた。

「お、参戦希望かい?」と高森は挑発的に笑う。

「混ぜてくれるの?」

「いいのか、俺達は強いぜ?」

 キザっぽく呟いたゴローに、

「よくいうよね、借金王」と佐伯が水を差した。

 よだかも楽しそうに笑う。


328: 2016/05/17(火) 23:27:29.13 ID:Fxr7uh8Eo


「……それで、たっくん、どうして」

「よだかはるーについてきたんだよ」

「よだっちの話じゃなくて」

 誰だよよだっち。
 ウルトラマンの掛け声みたいになってる。

「たっくん里帰りしてたんでしょ?」

「そうだよ」

「実家にいたんでしょ」

「うん」

「なんでるーちゃんも一緒に?」

「……なんで、っていっても」

 なんでなんだろうなあ。


329: 2016/05/17(火) 23:27:55.19 ID:Fxr7uh8Eo

「まあ、一緒にきてくれって頼んで、ついてきてもらった」

「なんでまた」

「まあ、いろいろ」

「ふーん?」

 普段ならもう少し食いついてきたかもしれないけど、今日の高森は機嫌がよくて、「ま、いいや」と話題を変えてくれた。

「それでさ、今日なんだけど――」

 と高森が何かを言いかけた瞬間、ああ、今言っとかないとあとで文句を言われるな、と思って、

「あ、俺とるー、付き合うことになったから」

「――えっ」

 言った。

「おお」と佐伯。

「ふむ」と部長。

「ほう」とゴロー。

「えええ?」と、高森だけがひときわ大きな反応を見せた。


330: 2016/05/17(火) 23:28:30.02 ID:Fxr7uh8Eo

「そうなの?」とよだかがるーに訊ねる。

「はい」とるーは頷く。

「おめでとう」と佐伯は拍手する。

「めでたい」とゴローが続いて、部長は何も言わずに拍手に混ざった。

 高森は呆気にとられた顔のまま、反射みたいに手をぱちぱち叩いていた。

「……はあ。ありがとうございます」

 ちょっと照れくさそうに、るーは静かにお礼を言った。

「あ、そう。それで今日花火しない?」

 拍手が終わると高森はそんなことを言い出して、あっさりと話題を終わらせてしまった。

「おい貴様ら、もっと反応しろ」

 さすがにちょっと物申すと、高森は呆れたみたいにため息をついた。

「たっくん、めんどくさーい」

「そこがいいところなんですよ?」とるーが真顔で言ったものだから、みんな反応に困っていた。

 それで実際、一度解散してからどこかに集まって花火をしようということになった。
 距離と広さの問題で、場所は佐伯の家に決まった。


331: 2016/05/17(火) 23:28:57.23 ID:Fxr7uh8Eo

「どうせ今日、誰もいないし」と佐伯。

「ちいちゃんのお兄さん、いないの?」

「いません」

「ざんねん」

「なぜ」

「見てみたい」

「だめです」

「どうしてなの?」

「どうしても」

 佐伯はやけに頑なだった。

 コンビニで手持ち花火を買って、ついでにスナック菓子とジュースを買い込んで、佐伯の家にみんなで集まった。
 高森はボードゲームを持ってきていた。


332: 2016/05/17(火) 23:29:26.27 ID:Fxr7uh8Eo

 まだすこし明るさの残る宵の口に、俺達は夕闇にまぎれて光を撒き散らした。

 中身のある会話なんてほとんどなにもせずに、煙と火の粉のなかで踊るみたいにはしゃいだ。
 どこかの部族の祝祭みたいに。

 線香花火をやって少ししんみりしたあと、家の中に入ってボードゲームがはじまった。
 今度はパーティみたいだった、

 ゲームが終わった頃には夜八時半を過ぎていて、女たちはそのまま泊まりにしようと言い始めた。
 さすがに混ざるのは気まずかったので、俺とゴローは先に帰ることにした。

 帰り道の途中、ゴローがぼんやり夜空を見上げながら、

「あけぬれば くるるものとは しりながら なおうらめしき あさぼらけかな」

 小さな声で、そううたったのが印象的だった。


333: 2016/05/17(火) 23:29:59.05 ID:Fxr7uh8Eo


 
 翌週のある日、俺は静奈姉と一緒に、彼女の実家へと向かっていた。

 里帰りの際、お土産くらい買っていきなさい、と母に金を渡されて、一応用意していたもの。
 それを渡しに行きたいと言ったら、その日なら都合がいいから静奈と一緒にきなさい、と命令口調で言われた。

 で、実際に行ってみたら、ちょっと予想していなかった景色が広がっていた。

「よう。遅かったな」

 と、遊馬兄は庭先でガーデンテーブルを組み立てながら堂々と言った。

「……なんで遊馬くんが」

 ちょっと顔をこわばらせた静奈姉に、遊馬兄は平然と「ひさしぶり」と笑う。

「聞いてない?」

 遊馬兄は、ちょっと困った顔をする。

「……なにを?」

 静奈姉は戸惑った顔をする。
 ひさびさにふたりが揃ったところを見たのに、なんとも言えないぐだぐだっぷりだ。

「バーベキューするって」

「……聞いてない」

「……ユリコさん、自分で伝えるって言ってたのにな」


334: 2016/05/17(火) 23:30:25.46 ID:Fxr7uh8Eo

 そんな話をしたところで、家の中から話し声が聞こえてきた。

「あ、しいちゃん」

 ちい姉。と、ユリコさん――静奈姉の母親が、そろって庭へと姿を現した。

「遅かったわね」とユリコさんは悪役っぽい口調で言った。

「お母さん、どういうこと?」

「どういうことって。バーベキューしたいと思って」

「なんで急に」

「思い立ったが吉日、でしょ?」

「……いつもそれなんだから」

「って言っても、前々からみんなで計画してたけど?」

「わたし、聞いてない」

「内緒にしてたもの」

 相変わらず理屈が通用しない人だ、とぼんやり思う。


335: 2016/05/17(火) 23:31:23.89 ID:Fxr7uh8Eo

 話を遮るみたいに、ちい姉が口を挟んだ。

「……あの、忘れ物しちゃったみたいだから、ちょっと取ってきますね」

「あ、了解」

「すぐ戻ります」

「あれ? すずちゃんは?」

「それが……寝ちゃってます。すみません」

「……あいかわらず面白い子だなあ」

 ユリコさんは感心したみたいにうんうん頷いた。
 それからちい姉は、俺と静奈姉に簡単に声を掛けて、本当に一度帰ってしまった。


336: 2016/05/17(火) 23:32:02.72 ID:Fxr7uh8Eo

 取り残される、俺と静奈姉、と、遊馬兄とユリコさん。

 ……妙な事態に巻き込まれてしまった。

 奇妙な沈黙。

「……えっと、あの、これ。おみやげです」

 黙っていても仕方ないので、俺は紙袋をさっさとユリコさんに差し出した。

「あらごめんね、気を遣わなくてよかったのに」

「あはは」

 ごまかし笑いしか出ない。

 しばし、また沈黙。

「……どうしたの、あんたら」

 呆れたみたいに、ユリコさんが静奈姉と遊馬兄の顔を交互に見た。


337: 2016/05/17(火) 23:32:34.87 ID:Fxr7uh8Eo

「静奈、あんたまさか……まだ引きずってるとか?」

「……」

 ……親とはいえ、えげつない質問だ。
 俺、この場に居ないほうがよかったのではないか。

 遊馬兄と目が合う。

 お互いに、どうしたらいいか分からない顔になる。

「……引きずってないもん」

 と静奈姉が子供みたいに言った。

「いや、べつに引きずっててもいいのよ。本気で好きなら寝取りなさい」

 ……略奪愛を推奨する親、初めて見た。

「でも、その覚悟がないならとっとと割りきりなさい」

 静奈姉が、痛いところをつかれた、というふうに俯く。

 そんで、

「――そんなんだからその年でまだ処Oなのよ」

 と、ユリコさんは言った。

「包丁の使い方が下手だからリンゴの皮むきくらいで怪我するのよ」みたいな軽い口調で。

 突然の話題転換にユリコさん以外の三人は硬直した。


338: 2016/05/17(火) 23:33:15.85 ID:Fxr7uh8Eo

 というか本当に。
 さっさと逃げてりゃよかった、と思った。

 どう考えても巻き込まれていた。

「あ……え?」

 羞恥と驚きからか、静奈姉は言葉をなくして口をぱくぱくさせた。
 俺はとりあえず現実逃避のつもりで、聞こえないふりをしながら空なんかを見ていた。

 つばめが飛んでいる。

 いや、ていうかでも。
 いくら親とはいえ、ちょっとひどいのでは、ユリコさん。

 なんてことを考えている間も、誰も一言も言葉を発さず、ただ時間だけが流れていく。


339: 2016/05/17(火) 23:33:50.80 ID:Fxr7uh8Eo

「あ、えっと」

 沈黙を破ったのは遊馬兄だった。
 俺は彼が、どうにかしてこの空気を変えてくれるように祈った。

 静奈姉は、もうどうしたらいいかわからない、というふうに顔をまっかにして、俯いている。
 遊馬兄は困ったみたいに後ろ髪をかいて、視線をあちこちさまよわせたあと、

「……処O、なの?」

 と言った。

「うわ」と思わず声を出してしまった。

 静奈姉は体をびくっとこわばらせて、しばらく身じろぎもせずに俯いたままだった。
 か思うと、急に走り出して家の中へと逃げ込んでいく。

 取り残された俺たちは途方に暮れる。

「……待ってくれ、違う。いま頭が真っ白になって……」

 遊馬兄はあれこれ言い訳を始めたが、かえって白々しい空気が流れ始めた。
 

340: 2016/05/17(火) 23:34:31.73 ID:Fxr7uh8Eo

「いくらなんでも今のは……」

「さいてー」

 俺の言葉を引き継ぐみたいに、聞き覚えのある声が縁側の方から聞こえた。
 
 だれだ、と思って声の方を見ると、なんだか綺麗な女の子が座って麦茶を飲んでいた。
 いつからいたんだろう。ぜんぜん気付かなかった。

「……俺のせいか? 俺のせいなのか?」

 遊馬兄は本格的に頭を抱え始めた。

「いいから、謝ってきなよ」

「今行っても逆効果な気が」

「時間置いたら気まずさが増すだけなんだから、ぐだぐだ言ってないでさっさと動く」

「……はい」

 女の子の声に従って、遊馬兄はふらふらと家の中へと向かっていった。
 その姿を見送ってから、彼女はちいさく溜め息をついた。


341: 2016/05/17(火) 23:34:59.89 ID:Fxr7uh8Eo

「……ユリコさん、さすがにさっきのは、ちょっとひどいんじゃない?」

 諌めるみたいに、彼女はユリコさんに話しかける。

「あれくらいしないと、あの子開き直れないから」

「それにしても、もうちょっとやりかたが」

「……うーん、今後の反省点にしとく」

「……手遅れだと思う。たしかにああでもしないとあのふたり、ずっとあのままだったかもしれないけど」

「でしょう? 言いたくなる気持ちもわかるでしょう?」

「どうかな」

 呆れた感じに溜め息をついてから、女の子は麦茶に口をつけた。

「……あの、どちらさまですか?」

 ユリコさんに訊ねると、女の子はちょっとむっとした顔をする。

「わからない?」とユリコさんがからかうみたいに笑う。

「……え?」

 女の子は、黙ったままこっちを見ている。

「……美咲姉?」

「うん。そう。気付くの遅いよ、タクミくん」

 彼女はようやく、満足気に笑った。


342: 2016/05/17(火) 23:35:27.48 ID:Fxr7uh8Eo

 ……あたっていた。美咲姉、遊馬兄の妹、あの夏、一緒に過ごした人。
 覚えてる。顔立ちだって声だって、覚えがある。
 でも……。

「……美咲姉、そんなにちっちゃかったっけ?」

「……」

 言ってから、しまった、と思った。

「……」

「……」

「あ、いや…・・」

「伸びたよ」

「え?」

「ちゃんと伸びたの。タクミくんが、育ちすぎてるの!」

 拗ねたみたいな顔でそっぽを向いて、美咲姉は麦茶をちびちび飲み始める。
「どうせ155ないもん」とかぶつぶつ言いながら。

「……タクミくんさあ」、とユリコさんが言う。

「なんでか、遊馬と似てるよね」

「……なんででしょうね」

 困ったものだ。


343: 2016/05/17(火) 23:36:23.69 ID:Fxr7uh8Eo



 しばらくしてから静奈姉はふてくされた顔のまま庭に戻ってきた。
 どういう会話があったのかはわからないが、彼女はやけになったように缶チューハイをあけはじめる。

「どうせわたしは……」とか拗ねた声でうなりながら、ひとりで飲み始めてしまった。

 やれやれ、と思いながら美咲姉に目を向けると、彼女は彼女で「まだ伸びるはず……」とかぶつぶつ言っていた。

 庭の一角が負のオーラで満ち満ちている。

 買い出しに行っていた静奈姉のお父さんが帰ってくるのとほとんど同時に、
 ちい姉がるーとよだかのふたりを連れて戻ってきた。

「あ、タクミくん」「たくみだ、たくみ」

 俺は珍獣か。
 ふたりはそろってくすくす笑っていた。

 どういう流れで、このメンバーになったんだろう。
 まず、ユリコさんが遊馬兄を誘って、遊馬兄がちい姉を誘って、
 どうせなら人数は多い方がいい、とかユリコさんに言われて、るーとすずを誘って、
 そしたら、今はるーの家に泊まりに来ているよだかもついてくることになって……。

 なんだか、想像するのが簡単すぎて他に思いつかない。


344: 2016/05/17(火) 23:36:49.88 ID:Fxr7uh8Eo

 とにかくメンバーが揃ったところで、バーベキューがはじまった。
 わいわい騒ぐみんなの姿をぼんやり眺めながら、ここに今いる自分がとても不思議だと感じた。

「にぎやかですねえ」と、俺の隣に座ったるーがアップルジュースを飲みながら言う。

「うん」と頷くと、彼女はくすくすと笑う。

「どしたの?」

「なんか、なつかしいなって」

「……うん」

「なつかしいの?」と、逆隣に腰掛けたよだかが首をかしげる。

「うん」

「なんかずるいなあ」とよだかが言ったので、

「そのうち今だってそうなるよ」

 と、俺はそう言っておいた。


345: 2016/05/17(火) 23:37:16.67 ID:Fxr7uh8Eo

 そこそこの時間が流れたあと、

「もういいもん!」と急に静奈姉が立ち上がった。
 その声にびっくりして、みんな彼女に注目した。

「遊馬くんのことなんて知らないもん! 勝手に幸せになっちゃえばいいんだ!」

「……あ、うん。そうする」

 遊馬兄があっさり頷くと、静奈姉はしばらく黙り込んだあとめそめそ泣き始めた。 
 おいおいどうするんだこれ、と思いながら放っておいたら、いつのまにか眠り始めてしまう。

 本人の親たちは平然としていたけど、残された子供たちはなんとも言えない空気にさらされた。

 立ち上る沈黙を破ったのは美咲姉だった。

「お姉ちゃんは、変わらないね」

 誰に話しかけるでもなく、そんなふうに、静奈姉の寝顔を眺めた。
 

346: 2016/05/17(火) 23:37:44.36 ID:Fxr7uh8Eo

「同情はまったくしないけど、ちょっとうらやましくはあるかなあ」

 何の話だろう、と、思わず首を傾げた。

「なんのこと?」とすず姉が訊ねた。

「……ほしいものはほしいって駄々をこねることができる、素直さ?」

 褒めてるのか貶してるのかわからない美咲姉の言葉が、なんとなく胸に刺さった。
 駄々をこねるのも血筋なのか?

 バーべキューもそこそこに終わらせて、片付けが済んだあと、当然のように今度も花火が始まった。
 途中で眠ってしまっていた静奈姉も目をさまして参加する。

 そんなタイミングでふと思い出したように、遊馬兄が、

「そういや、タクミとるーは休みに入ってからデートとかしたの?」

 なんて聞いてくる。

 俺とるーは顔を見合わせて首を横に振った。
 旅行(みたいなもの)はしたけど。

 すると、話を横で聞いていた静奈姉が、

「……デート?」と耳慣れない言葉を聞き返すみたいな変な顔で言った。


347: 2016/05/17(火) 23:38:25.60 ID:Fxr7uh8Eo

「あ、ふたり付き合ってるんだって。聞いてない?」

 遊馬兄が止める間もなくあっさり言うと、静奈姉は茫然とした顔になる。

「聞いてない」

「あ、いや、言う機会が……」

「そっかあ。そうだよねえ、ふたりも高校生だもんね……」

 静奈姉は線香花火を見つめながらちょっと瞳を潤ませて黙り込んだ。
 こんなにめんどくさい人だったっけか。

 と、美咲姉が静奈姉のそばにやってきて、とんとんと背中を叩く。

「お姉ちゃん、大丈夫だよ」

「美咲ちゃん……」

「お姉ちゃんはそういうめんどくさいとこ直せば彼氏なんてすぐできるから」

「……いまめんどくさいって言ったあ!」

 子供かよ。

「……だってめんどくさいもん」

 美咲姉はあくまで辛辣だった。


348: 2016/05/17(火) 23:39:18.66 ID:Fxr7uh8Eo

 そんな流れもあったけど、いつのまにか、遊馬兄と静奈姉は、
 すず姉や美咲姉、ちい姉も交えて、普通に話をするようになっていた。
 
 そうなってしまうと、場はなかなかに混乱して、俺やるーが話題に入り込む隙間もない。

 よだかはよだかで、ユリコさんと何かを話しているみたいだった。

「ね、タクミくん」

「ん?」

「アイスたべたいな。ちょっと買いにいきませんか?」

「ああ、うん」

 俺はちらりとあたりを見た。俺たちの様子を見ていたのはユリコさんだけだった。

 彼女は俺と目が合うと、何も言っていないのに、小さく頷いた。
 それから俺たちは、夏の夜道を手をつないで歩いてコンビニまで向かった。

 火照った体に夜風が気持ちよかった。

 おそろいのアイスを買って(ついでにみんなの分も箱で買って)コンビニを出てから、また同じ道を戻る。
 たいした会話もなかったけど、どうしてか退屈だとは感じなかった。


349: 2016/05/17(火) 23:40:08.29 ID:Fxr7uh8Eo

 戻ってみると、庭は既に静かになってしまっていた。
 
 遊馬兄たちは花火の後片付けをしていて、美咲姉とすず姉はふたりそろって縁側に寝転んでうたた寝していた。

 よだかはどうしているのだろう、と思って姿を探すと、彼女はまだユリコさんとふたりで何か話をしていた。

「いつでもきなさい」とユリコさんが言ったのが聞こえた。

「なんにもできないかもしれないけど、いつでもきなさい」

 そう言って彼女はぽんとよだかの肩を叩いた。
 
 俺はなんとなく空を見上げた。

 星が綺麗な夜だった。

 後片付けを済ませてから、起きている人間だけでアイスを食べた。
 みんなほとんど喋らなかったけど、どこか心地よい雰囲気が流れて、ここからどこまでも広がっていきそうな気がした。

「さて、そろそろ帰ろうか」

 遊馬兄はユリコさんたちにお礼を言ってから、眠ったままの美咲姉を背負った。
 その姿は、いつか見たものと何も変わらない気がした。

 ちい姉はすず姉を揺すり起こして、るーとよだかを連れて、遊馬兄と同じタイミングで出て行った。

 残された俺は、ぼんやりと静奈姉の方を見た。
 
 彼女は静かに溜め息をついてから、困ったみたいに笑った。

「……なにしてたんだろ、わたし」

 俺はどう答えるのが正解かわからなかったから、

「寄り道しがちな血筋なんじゃない?」

 と適当に言っておいた。

350: 2016/05/17(火) 23:40:37.39 ID:Fxr7uh8Eo



 バーベキューの翌日には部活があった。
 
 部室に最初にいたのは部長だけで、他のメンバーがそろうまでかなりの時間がかかった。

「みんな、休み明けに部誌出すって覚えてるのかなあ」

 部長はなんとも不満げだった。

「覚えてますよ、たぶん」

「そっかなあ」

「部長は、書いてるんですか?」

「うん。なかなか好調だよ」

 ちょっと前まで、なんだか落ち込んでいるように見えたのに、今の部長は楽しそうに見えた。

「いろいろ考えることもあるけど、わたしはやっぱり、自分が今書いているものが好きだからね」

 彼女はそういって笑う。

「たとえ誰かが望んでるものと違っても、わたしはわたしが書いてるものが好きだから」

 それから彼女は俺の目を見て、

「タクミくんは?」と訊いてきた。

 俺は少し考えてから、答えた。

「書きますよ」

「どんなの?」

「猫の話かな」

「いつもどおりだね」

 いつもどおりだ。


351: 2016/05/17(火) 23:41:09.00 ID:Fxr7uh8Eo



 で、その部活が終わってから、ゴローの号令で俺と高森は集合させられた。

 なんでも練習曲用にバンドスコアを選びに行こう、という話。
 嘉山には連絡を入れていたらしくて、彼は集合場所にやってきたけど、同時に及川ひよりがついてきていた。

「なんか部外者いるけど」

 とゴローが言うと、「気にしないで」と及川ひよりはきれいに笑った。 

 ツッコミを入れるのも面倒なので、無視することにして、俺たちは楽器屋に向かった。

 バンドスコアを眺めながらああでもない、こうでもないと話しているうちにベースの練習がしたくなったけど、
 その日は夕方からバイトが入っていた。

 とにかく日々は忙しない。


352: 2016/05/17(火) 23:41:35.64 ID:Fxr7uh8Eo



 課題をして、バンドの練習があって、みんなと遊んだりして、バイトをして、
 なんだか急に慌ただしくなった生活の合間に、俺は部誌の原稿を書いていた。

 書きたかったのは猫のこと。

 猫と自分のこと。

 たった少しの気持ちにかたちを与えるために、俺はいくつもの言葉を並べ立てる。
 
 その結果誰にも伝わらなかったとしても。
 それを覚悟のうえで。

 佐伯が、いつだったろう、言っていたことがある。

「そういうの、呪われてるっていうらしいよ」

「呪われてる?」

「うん」

 彼女は少し寂しそうに笑った。

「何かを好きって気持ちは、呪いみたいなものなんだって」

 そうなのかもしれない、と俺は思った。
 そしてきっと、呪いと祝福の関係は、毒と薬の関係に似ている。

 それは祝福と呼びうるのかもしれない。
 そう考えることにした。


353: 2016/05/17(火) 23:42:22.61 ID:Fxr7uh8Eo



 部活のメンバーで新しくできた水族館に行こう、と言い出したのは佐伯だった。

 みんな意外な顔をしていたけど、そういえば俺は、佐伯がそんなことを言っていたのを思い出した。
 みんなでどこかに行きたいね、って。

 そして俺達は、夏休みも中盤に差し掛かった頃、電車とバスを使って本当にみんなで水族館に行った。
 
 途中のコンビニで飲み物を買った時、ゴローが財布に入っていた五百円玉を全部、海外のどこかで起きた地震の義援金に募金するのを見た。
 
 それを見ても、誰も何も言わなかった。せっかくだから俺も財布に入っていた五百円玉を箱の中に入れてみた。
 特に何の感慨も湧かなかった。

 水族館にはなぜかリスがいて、スマートフォンでそのリスを接写することに成功したるーは、
 それからしばらくの間、ラインのアイコンをリスの写真にしていた。

 帰り道の途中で嵯峨野連理を見つけた。彼は付近の海浜公園で、何かの本を読んでいるようだった。
 俺は声を掛けずに通りすぎた。彼はこちらに気付かなかった。

 別の日、俺とるーはふたりで市民プールに行って、子供たちに混じって水泳の練習をした。

 彼女は十メートルくらいは泳げるようになった。


354: 2016/05/17(火) 23:42:53.34 ID:Fxr7uh8Eo



 ある日、部活の前にふと思い立って、東校舎の屋上へと向かった。
 
 そっけないリノリウムの階段を昇った先の鉄扉は、やはり閉ざされたままだ。
 それはそうだ、と思って階段を降りていると、踊り場の窓から、校舎裏にひとりの女子生徒の姿を見つけた。

 その姿が何かとダブって見えて、俺は慌ててそこに向かった。

 階段を駆け下りて、一階の渡り廊下から土足で校舎裏に回る。

 彼女はまだそこに居た。

 なんだか夢でも見ているような気持ちで、俺はその後ろ姿を見つめた。
 いくらか迷ってから、試しに彼女を呼んでみる。

「……こさち?」

 まさか近くに人がいると思わなかったのだろう。
 彼女は驚いたようにこちらを振り向いた。

 そして、俺の姿を見て、息を飲む。

「……浅月、先輩?」

「……」

 顔は、こさちに似ている。
 でも、仕草も表情も、彼女とは違う。


355: 2016/05/17(火) 23:43:19.89 ID:Fxr7uh8Eo

「きみ、もしかして、柚原志乃さん?」

 彼女は怪訝そうに眉を寄せた。

「……どうして、わたしの名前を知ってるんですか?」

「……それについては、お互い様だと思うんだけど」

 なんとなく、視線をそらせずに、しばし向かい合う。

「わたしは、先輩のこと知ってます。文芸部の部誌、読んでましたから」

「……ああ、そうなんだ」

「鷹島スクイのものも。……あれ書いたの、先輩ですよね?」

「……どうしてそう思うの?」

「だって、似てるから。あれ、対置するつもりで別名義にしてたんじゃないんですか?」

「……そういうつもりはないけど」

 そうですか、と柚原志乃は視線を逸らした。


356: 2016/05/17(火) 23:44:16.96 ID:Fxr7uh8Eo

「ここで、何をしてたの?」

 そう訊ねると、彼女は困ったような顔をして、手のひらをさしだしてきた。

「これ。……拾ったんです」

 彼女の右手にのせられていたのは、ちいさな鍵だった。

 俺は思わず笑った。

「……どうして笑うんですか?」

「いや。おもしろいなと思って。きみが拾ったのか」

「この鍵が何の鍵なのか、知ってるんですか?」

「うん。それ、旅する鍵らしいよ」

「……旅?」

「必要としてる人のところに辿り着くんだってさ」

 彼女は、わけがわからない、という顔をした。

「いい景色が見れると思うよ」

 それ以外に、こさちではない彼女にかけるべき言葉が思いつかなかったので、俺は立ち去ろうとした。
 ところを、彼女に呼び止められた。


357: 2016/05/17(火) 23:44:44.43 ID:Fxr7uh8Eo

「……先輩」

 振り返ると、柚原志乃は、たしかに俺をじっと見据えていた。

「なに?」

「わたし、先輩の文章、好きですよ」

「……それはどうも」

「でも、なんだか、文章より、幸せそうですね」

「……まあ、最近は」

「変わったんですか?」

「だろうね」

「……自分を好きに、なっちゃいました?」

 何かにすがるみたいに、彼女はそう言った。

「……そういうわけでも、ないけど」


358: 2016/05/17(火) 23:45:42.91 ID:Fxr7uh8Eo

「じゃあ、なんなんですか?」

 真剣な顔で、彼女はそう訊ねてきた。
 どう答えるべきか、少し考える。

「……俺なんて、いない方がよかったんだって思ってた」

「はい。そういうところ、好きでした」

「うん。そういう奴に好かれるんだ、俺」

「先輩じゃなくて、先輩の文章です」

「……まあ、そりゃそうだ」

「……それで?」

 どんなふうに言葉にすればいいのか、どう言えばうまく伝わるのか。
 そんなことを四六時中考えてるのに、やっぱりうまくは伝えられない。

 巧くないままに、伝えるしかない。


359: 2016/05/17(火) 23:46:38.04 ID:Fxr7uh8Eo

「……俺のおかげで、がんばってこれたんだ、って、そう言われたんだ」

 柚原志乃は、何も言わずに続きを待つ。だから俺も、言葉を続ける。

「だったら、俺なんていないほうがよかったなんて、もう言えないだろ。
 そんなことを言ったら、そいつのがんばりまで、なかったほうがよかったって言ってることになるから」

「……」

「だから俺は、俺を肯定するしかないんだよ、もう」

「……そうですか」

 興味を失ったみたいに、柚原は視線をそらした。

「幸運でしたね」と彼女は言った。

「本当に」と俺は頷く。

「わたし、モーパッサンが好きです。いちばん好きなのは、田園秘話っていう短編。読んだことありますか?」

「ないかな」

「読んでみてください」

「分かった。そのかわりと言ってはなんだけど、きみもその鍵、大事にしてやってくれ」

「……はあ」

「文化祭で、また部誌を出すと思う。読んでくれる?」

「……読みはします。気に入るかどうかは、別の話ですけど」

 正直な子だ。

「うん。そこは、きみの勝手だ」

 それじゃあ、と告げて、今度こそ俺は柚原志乃のもとを離れた。
 今度は彼女も呼び止めなかった。


360: 2016/05/17(火) 23:47:08.89 ID:Fxr7uh8Eo



 嘉山を経由して嵯峨野連理から連絡があったのは、夏休みも半ばを過ぎた頃だった。
 
「おすすめの映画のDVDがあるらしい」と嘉山は言った。
 俺は彼から嵯峨野の連絡先を聞いて、街中のマックで待ち合わせをして、物品の受け渡しを行った。

「わざわざありがとうございます」と言ったら、彼は照れくさそうに笑った。

「映画の趣味が合う奴、意外となかなかいないんだ」

「俺もです」

「それに、きみには助けられたから」

「……何の話ですか?」

「まあ、俺が思ってるだけなんだけどね。きみのせい、ってところもあるけど、きみのおかげってところもある」

 なんだか微妙な評価だった。

「とにかく、まあ、観てみてよ。もしお勧めがあるんだったら、俺にも教えてくれない?」

 そういうわけで俺たちはそれから、男ふたりでレンタルショップに行って、既に観た映画の感想を言い合ったりした。
 そんな日が来るなんて思ってもなかった。


361: 2016/05/17(火) 23:48:24.13 ID:Fxr7uh8Eo



「たっくん! 緊急事態です!」

 と、ある日高森からラインが来て、招集をかけられた。

 学校の近くのファミレスに行くと、ゴローと高森、それから嘉山が深刻そうな顔で待っていた。

「……どうしたの、みんな」

「遅いよたっくん! 聞いて、ゴロちゃんが――」

「待て、俺が話す」

 興奮した様子の高森を遮って、ゴローが真剣な顔で口を開いた。

「実は、文化祭の、有志のステージ発表なんだけど」

「……うん。なに?」

「七月の半ばまでに、申請を出しておかなきゃならなかったらしくてな」

「……はあ」

「……」

「……なに?」

「出し忘れた」

「……ええ」

 さすがに変な声が出た。


362: 2016/05/17(火) 23:48:50.63 ID:Fxr7uh8Eo

 嘉山がわざとらしく溜め息をつく。

「……おまえら、準備悪すぎだろ」

「ゴロちゃんがやってると思ったんだもん!」

「俺もてっきりゴローが……」

「俺はタクミがそこらへんやってくれてるもんだと……」

「なんでだよ」

「いや、タクミだし」

「意味わからん」

 と、しばらくぎゃーぎゃー騒ぎながら、誰が悪い、あれがどうだとぐだぐだの責任の押し付け合いがあったあと、
 
「……で、どうするんだ」

 と嘉山が言った。

「どうするって、どうにかできるの?」

 訊ねると、ゴローが静かに首を振った。

「ヒデに聞いてみたけど、さすがにアウトだって」

「うわ」

「もう枠埋まっちゃったらしいんだよな」

 八方ふさがりか。


363: 2016/05/17(火) 23:49:46.93 ID:Fxr7uh8Eo

 少しの沈黙のあと、俺はなぜだか笑ってしまった。

「……いや、バカだろ。なんだそれ」

「ね、ね! バカだよね、ゴロちゃん」

「人任せにしてたおまえらも同罪だろ」

「だったら嘉山が確認してくれてもよかっただろ!」

「なんで途中参加の俺がそんなこと気にするんだよ!」

 またぎゃーぎゃーとなすりつけ合いが始まった。

「分かった! 分かった!」

 と、収集がつかなくなりそうなタイミングで、ゴローが声を張り上げた。



364: 2016/05/17(火) 23:50:41.62 ID:Fxr7uh8Eo

「来年だ! 来年の文化祭にしよう。そうだよ、それがいい」

 その言葉に、みんなが顔を見合わせた。

「どっちにしても一月や二月じゃろくな演奏できそうになかったんだ。たっぷり一年練習して、来年にしよう」

 肩透かしをくらって腹を立ててはいたものの、その言葉に異論を挟む奴はいなかった。

「……来年」

「来年!」

 ゴローは力いっぱい断言した。
 そういうわけで、俺達のバンド演奏は来年に持ち越しになった。

 そんな顛末を部活の日にみんなに話したら、案の定大笑いされた。
 ひとり部長だけが、「来年、わたしいないんだよね」と、どこか寂しそうに呟いていた。

 みんながそれを聞いて黙ってしまうと、彼女はちょっと嬉しそうに笑って、

「でも、見に来るよ。楽しみにしてる」

 そう言った。俺たちは頷いた。

 ゴローが佐伯に告白したのは、そんな話があってからすぐのことで、彼はあっさり振られてしまったらしい。

「しばらく旅に出るからさがさないでくれ」と言い残してからさらに一週間後、彼は北海道のおみやげを持って俺の家へとやってきた。

「だだっ広い平野を見てきた」

 きらきらと目を輝かせてそう語る彼は、いつもどおり元気そうに見えた。


365: 2016/05/17(火) 23:51:10.43 ID:Fxr7uh8Eo



「リベンジマッチ」を部長が提案したのは、八月のある日のことだった。

「負けっぱなしじゃいられないでしょう?」と、彼女は不敵に笑って、俺達に計画を話した。
 
 例の焼却炉騒動のせいで――つまり俺のせいで――後味の悪い結末になった前回の勝負。

 それをやり直す意味で、第一文芸部に喧嘩を売ろう、と彼女は言った。

「たぶん、勝てませんよ?」と佐伯は言った。

「勝てなくていいんだよ」と部長は言った。

「勝てなくても戦うんだって態度で示さないとね」

「誰に?」

「……及川くんとか、読む人とか」

 なんだか、そういえば部長はいつも、及川さんのことを気にしてばかりだという気がする。
 そういう相手なのかもしれない。

 とにかく、俺達としては異議がなかったから、その話を全会一致で可決とした。

「みんながやる気を出してくれてうれしいなあ」とヒデがやたらとハイテンションだった。


366: 2016/05/17(火) 23:51:41.08 ID:Fxr7uh8Eo



 近くの商店街で夏祭りがあるから、と言って、俺とるーはふたりで遊びにいく約束をした。

 浴衣姿の女の子たちが町中に姿を見せ始める夕方頃に、俺とるーは待ち合わせをしていた。

 彼女は少し照れくさそうにしながら、見慣れない浴衣姿で俺の前に現れた。

「……」

「……おう」

「……なんか言ってください」

「……似合う似合う」

「な、なんかてきとう……」

「いや、なんかびっくりして」

「なにがですか」

「……や、かわいいから」

「……」

 るーは俺の肩をばしばし叩いた。

「なんだよ」

「タクミくんのくせに、タクミくんのくせに」

「なんだそれ」


367: 2016/05/17(火) 23:52:07.31 ID:Fxr7uh8Eo

 喧騒と人混みにまぎれて、俺達は手を繋いで歩いた。
 お互いの声すら聴き取りづらい流れの中で、俺達は話す内容すらろくに思いつけずに、ただ出店を見て回る。

「なんか……」

「……なに?」

「不思議な気分なんです」

「どういう意味?」

「さいきん、ずっと、ふわふわして、夢のなかにいるみたいなんです」

「……夢?」

「夢じゃ、ないんですよね?」

 るーの方を見ると、彼女は視線を地面に落としながら、不安そうな顔をしていた。

 俺は彼女のほっぺたをつねった。

「……なに」

 と彼女は戸惑った声をあげながら俺と視線を合わせる。


368: 2016/05/17(火) 23:52:39.60 ID:Fxr7uh8Eo

「痛い?」

「はい」

「ならよし」

 彼女はむっとした顔でこちらを睨みながら、自分の頬をさすった。
 と、繋いでいない方の手で、今度は俺の頬をつねる。

「……なに」

「痛いですか?」

「痛い」

「おかえしです」

「そんなのよかったのに」

「男の人はホワイトデーのお返しが三倍返しらしいので、わたしも今のうちに三倍返ししておきます」

 と言って彼女は本当に三回つねった。


369: 2016/05/17(火) 23:53:08.65 ID:Fxr7uh8Eo

「あ、バレンタインくれるの?」

「ほしいですか?」

「ほしいよ?」

「なら、がんばります。それまで一緒にいてくれますよね?」

「そうだなあ。チョコがもらえるなら、一緒にいるしかないな」

「わたしとはチョコ目当てだったんですか」

「チョコも目当て、って感じだな」

「ものは言いようですね」

「でもその前に、るーの誕生日か」

「……え?」

「秋生まれなんだろ」

「……あ、はい」

 したいことも、行きたい場所も、いつのまにかたくさん増えてしまった。
 それも、きっと、ひとつずつ消化していって、そのたびに新しい何かが増えていくんだろう。 
 そんな予感があった。


370: 2016/05/17(火) 23:53:47.29 ID:Fxr7uh8Eo



 どんなふうに過ごしていても時間は流れる。
 楽しくても苦しくても、何もかもが過ぎていく。

 なにかのきっかけで大きく変化してしまうこともあるし、
 ちょっとした変化だったはずなのに、積み重なって大きく変わってしまっていたことに気付くこともある。

 ごく当たり前のことだ。
 
 仲の良かった人といつのまにか話しづらくなったり、
 以前は想像もしていなかったような相手と、気付いたら深く結びついていたり。

 それでも時間は、すべて地続きになっている。

 懐かしくなったり、寂しくなったり、変わってしまったことに不意に気付き、悲しくなったり。

 大事だったもの、楽しかった繋がりが、いつのまにか失われていることに気付いて、耐えられなくなることもある。

 過去を現在から切り離すことは困難だし、未来は現在の地続きにある。

 変化は不可避だ。

 だから俺達は、失いたくないものを、しっかりと手のひらで握りしめていく。
 後悔のないように。

 それは俺が、いつか教わったことだ。


371: 2016/05/17(火) 23:54:19.67 ID:Fxr7uh8Eo



 夏祭りからの帰り道、るーを家へと送りながら、俺はこれまでのことを思い出していた。
 
「そういえば、ヒデから出された課題、終わってないや」

 ふと、そんなことを思い出した。
 読書感想文。本さえも、近頃じゃ読んでいなかった。

「わたしは、終わりましたよ」

 るーは得意気に笑った。

「何の感想文?」

「笑いませんか?」

「笑われるような本?」

「ううん。……銀河鉄道の夜、です」

「そっか」

 なんとなく、空を見て、不安になる。
 あの話の結末。ジョバンニが旅の終わりに辿り着いたとき、カムパネルラは彼の傍にはいなかった。

 握ったままの手に、少し力をこめる。


372: 2016/05/17(火) 23:54:46.61 ID:Fxr7uh8Eo

「ねえ、るー」

「なに?」

「頬をつねってもらえる?」

 彼女は変な顔をして、それでも俺の頬をつねってくれた。

「痛いですか?」

「うん」

「……それで、タクミくんは、何を読むんですか?」

 うーん、と少し考える。

 思いついたのは、ふたつ。

「よだかの星」「田園秘話」

「……たしか、あれ、本なら何でもいいって言ってたっけ?」

「はい」

「……ふむ」

 じゃあ、ディキンソン対訳詩集、ってのもなしではないんだな、と、ぼんやり思った。


373: 2016/05/17(火) 23:55:16.10 ID:Fxr7uh8Eo

 そんなことを考えているうちに、るーの家に着いてしまった。

 彼女はそこで立ち止まって、こっちを振り返る。

 なんとなく、言葉をなくす。

 何かを言うべきなのだろうけど、何も言うことができずに、お互いに向かい合う。

 しばらくの沈黙のあと、じれたみたいに、「えい」と声をあげて、るーがこっちに飛び込んできた。

 飛び込んできた軽い衝撃を、戸惑いながら受け入れて、離れようとしない彼女の背中に腕をまわした。

「……なに?」

「なにがですか?」

 いたずらっぽく、彼女は言って、楽しげに笑う。
 
 また、言葉をなくす。

「……なにやってるんだろう」

「なにやってるんでしょうね?」

 くすくす笑う。
 かなわない。
 本当に、この子には。


374: 2016/05/17(火) 23:56:10.49 ID:Fxr7uh8Eo

 至近距離からこちらを見上げる、るーの顔。
 
 それをまだ、不思議だと感じてしまう。
 奇跡みたいに思えてしまう。

 春には想像さえしていなかった。

 一緒に歩いて、手を繋いで、どこかに出掛けて、そんなふうに過ごせるなんて。

 だからだろうか。
 とてもうれしいのだ。

 本当は、ときどき、泣き出したくなるくらいに。

 沸き立つみたいな衝動に押されて、静かに俺は、彼女に近付いていく。

 視界が染められるまえに、目を閉じた。

 たった数秒の出来事を、はてしなく長く感じる錯覚。

 顔を離してふたたび視線をかわしたとき、るーはなにかをごまかすみたいに俯いた。
 暗がりのなかで、彼女の頬が赤く染まっているのがわかる。

 俺の心臓も、遅れて激しく動き始めた。


375: 2016/05/17(火) 23:56:36.99 ID:Fxr7uh8Eo

「……あの、タクミくん」

「……なに」

「その、なんか……慣れてません?」

「……それ、今言うこと?」

「いや、でもなんか、いま、すごく自然だったというか」

「……そんなこと、ないと思うけど」

「本当に?」

「……初めてだよ、こんなことしたの」

 ふてくされたみたいな気持ちでそう答えると、るーはきょとんとした。
 それから、何かに気付いたみたいに笑う。

「そう、ですよね」

「……どうしたの?」

「ううん。わたし、すごいこと知ってますよ」

「……なにそれ」

 照れ隠しみたいに、るーは笑った。

「……ぜったい、内緒です」

 そう言って彼女は、本当にうれしそうに笑った。


376: 2016/05/17(火) 23:57:03.58 ID:Fxr7uh8Eo



 新学期になって、俺とるーは一緒に登下校をするようになった。
 別にどっちが言い出したわけでもなければ、約束をしたわけでもない。

 ただなんとなく、そういうふうになった。

 夏が過ぎたあとも、俺たちはかわらず文芸部員で、学生で、付き合っていた。
 まるでこれまでもずっとそうだったみたいに、当たり前みたいな感じがした。

 そうじゃない日ももちろんあった。一緒に帰れない日も、他の用事がある日もあった。
 特に理由はないけど、一緒に帰らない日もあった。
 
 そんな俺たちの振る舞いを、みんながからかったり祝福したりしながら、生活の一部みたいに受け入れてくれた。


377: 2016/05/17(火) 23:57:38.12 ID:Fxr7uh8Eo

 先の見通しがつかないことも、まだまだある。
 それだってどうにか考えて、行動して、やっていくつもりに、いつのまにかなっていた。

 笑ったり怒ったり、落ち込んだり相談したり、先のことを計画したりしながら、
 とにかく、俺とるーは、一緒に学校へ向かって、一緒に帰った。

 手をつないで、鞄におそろいの奇妙なくまのキーホルダーをつけて。
 急に不安になったときには、繋がれた手のひらに、そっと力をこめてみる。
 彼女はいつでも、返事をするみたいに握り返してくれる。
 
 だから俺も、彼女が力をこめたときには、いつも握り返す。

 それだけのこと。


378: 2016/05/17(火) 23:58:18.88 ID:Fxr7uh8Eo

 それがどんなにうれしいか、彼女はわかっているんだろうか。
 たぶん、わかっていないんだろう。

 そんなことを思いながら横顔を見ていたら、彼女は不思議そうに首をかしげる。

「なんでもない」と言いながら、俺は笑う。

「そうですか?」と気にしたふうでもなく、彼女も笑う。

 ある日、帰り道の途中で通り雨に降られて、俺たちは近くのバス停に逃げ込んで雨宿りをした。

「空が明るいから、きっとすぐに晴れるな」

「ですね」

 俺たちは、濡れてしまった髪や制服をタオルで拭いながら、雨があがるのを待った。
 本当に、あっというまに、空は晴れた。


379: 2016/05/17(火) 23:58:45.47 ID:Fxr7uh8Eo

 打ち付けるような雨粒の音が消えると、世界は嘘みたいな静けさに包まれていた。
 濡れたアスファルト、街路樹の葉に留まる滴、影を払うような夏の終わりの太陽。

「きらきらしてる」

 ひとりごとみたいに、るーは言う。

「……うん。きらきらしてる」

 ばかみたいにオウム返ししたら、るーは俺の顔をじっと見つめてきた。

 目を合わせて、数秒、黙りあったあと、
 俺たちは顔を見合わせて、笑う。

 そうして、鮮やかできらきらした雨上がりの街を、俺たちはまた、手を繋いで歩き始めた。


380: 2016/05/17(火) 23:59:20.07 ID:Fxr7uh8Eo
おしまい

381: 2016/05/18(水) 00:05:11.69 ID:jP7z1lmFo

382: 2016/05/18(水) 00:22:34.45 ID:ymBaqP8oo
お疲れ様です。

383: 2016/05/18(水) 00:29:50.05 ID:M5fX+kKPo
乙です
所々童Oなのとセリフを対にしてたね

384: 2016/05/18(水) 00:36:02.43 ID:OoE0Qdolo
乙です

引用: 屋上に昇って.