1: 2009/06/29(月) 21:10:26.20 ID:0+OB0P9oO
それは、学園祭が終わったあとのことでした。

澪「ちょっ、どういうこと……?」

テーブルを囲みながら、いつも通りみんなでお茶をしていたとき。さわちゃん先生の口から衝撃の事実が伝えられました。
梓「そんな……え、だって」
律「おいムギ、ちゃんと説明しろよ!」

紬「……」

唯「ムギちゃん……転校しちゃうの?」

ムギちゃんはティーポットを傾けたまま、俯いていました。
映画「けいおん!」【TBSオンデマンド】
4: 2009/06/29(月) 21:11:35.43 ID:0+OB0P9oO
紬「ごめんね、みんな……黙ってるつもりはなかったんだけど」
ムギちゃんがテーブルの一角にちらりと目をやります。カップに口をつけるさわちゃん先生にみんなの視線が集まります。
さ「今言った通りよ。ムギちゃんは今日から二週間後に、海外へ転校することになったの」
律「だって、突然すぎるだろ!」
澪「そんないきなり言われても、信じられないって!」
紬「待って! 先生は悪くないの」
激昂する二人に、ムギちゃんが顔を上げました。
紬「学園祭が終わるまで言わないでって、私が口止めしてたから……。本当はね、もうずっと前から決まっていたことなの。でもみんなには演奏に集中してほしくて、それで」
その台詞に、音楽室はしんと静まり返ってしまいます。みんな次に続ける言葉が見つからず、下を向いてしまいました。

6: 2009/06/29(月) 21:12:29.25 ID:0+OB0P9oO
梓「あの、向こうに行っている期間は……?」
あずにゃんの問いかけに、ムギちゃんは悲しげな声で返しました。
紬「たぶん、長くなると思う。家の関係だから具体的な期間は私にもわからないけど」
律「高校にいるあいだは戻ってこれないってことか?」
紬「……」
沈黙がはっきりとした答えになって、私たちの胸にのしかかります。それ以上の質問をできる人は、もう誰もいませんでした。

7: 2009/06/29(月) 21:13:18.90 ID:0+OB0P9oO
せっかくバンド名も決まって、色々あったけど学園祭も無事に終わって、さあこれからというときなのに。
ギターももっとうまくなって、あずにゃんの話す専門用語もわかるように勉強して。
たくさんたくさん演奏して、みんなと笑い合うつもりだったのに。
唯「やだ……」
気づけば、無意識に私はそう呟いていました。
唯「やだ、やだよ」
律「唯……」
唯「ムギちゃんがいなくなるなんて絶対にいやだ!」
自分でも驚くくらい大声で叫ぶと、テーブルの上に涙が一滴落ちました。それが私の涙だとわかるまで少しだけ時間がかかりました。

8: 2009/06/29(月) 21:17:45.38 ID:0+OB0P9oO
さわちゃん先生が慌てて遮ります。
さ「唯ちゃん、気持ちはわかるけど、でも」
私はムギちゃんのほうを向いて話を続けました。
唯「ねえムギちゃん、どうにかならないの? ほら、お父さんに言ってムギちゃんだけでも日本に残してもらうとかっ」
紬「それはね、お願いしたの。でも無理だったわ。理由は色々あるんだけど……」
唯「そんな……」
私は、再び涙がこみ上げてくるのを感じました。どうにも……どうにもならないの?

9: 2009/06/29(月) 21:18:42.59 ID:0+OB0P9oO
紬「みんな、ごめんね……」
沈黙を破るようにムギちゃんが声を発します。
紬「私のせいで、こんな暗い空気にさせちゃって……本当にごめんなさい」
澪「そんな、ムギが謝ることじゃないって」
梓「そうです。仕方のないことですし……」
律「少なくとも、ムギが悪いだなんて誰も思ってないよ」
澪ちゃんもりっちゃんもあずにゃんも、表情は辛そうだけど、落ち込むムギちゃんを励ましていました。泣いてしまったのは……どうやら私だけみたい。
みんな薄情とか、そういうことは思わなくて、私が子どもだったんだなっていう気持ちのほうが強くて。きっとムギちゃんが今一番辛いはずなんだ。だからせめて、私たちくらいは明るくならなくちゃ。そんなふうに思って。
唯「っ……」
涙を拭うと、私は無理やり笑ってみせました。
唯「えと、えと。ごめんね、私のほうこそ泣いたりしちゃって。えへ、えへへ」
律「ホントだよなー。泣き虫は澪の専売特許なのにさ!」
澪「ちょっ、……りーつー!」

10: 2009/06/29(月) 21:19:25.09 ID:0+OB0P9oO
一度みんなが笑顔になると部屋の空気も元通り。ムギちゃんも最初は目を見開いて驚いていたけど、すぐに笑ってくれました。
紬「ありがとう……みんな」
こそばゆいお礼の言葉が、でも今は素直に受け止められなくて、私たちは変な顔で笑いながら頷くのが精一杯でした。さわちゃん先生が肩に手を載せて微笑んでくれます。
そして、湿った雰囲気を吹き飛ばすために練習をはじめたわけなんだけど。
梓「なんか……演奏が合いませんね」
唯「うん……」
みんなの心に落ちた影はそう簡単に消えるはずもなく、結局その日は練習にならないまま帰りました。

11: 2009/06/29(月) 21:25:54.91 ID:0+OB0P9oO
憂「ええ!? 紬さんが?」
梓「うん。本当に突然で……唯先輩なんか泣き出しちゃってさ」
梓ちゃんから聞かされた話はとても衝撃的でした。あの紬さんがあと二週間で転校してしまうみたいなんです。
憂「だからお姉ちゃん、昨日は元気なかったんだ……」
昨日のお姉ちゃんはいつものほっこりした感じじゃなくて、どこか心ここにあらずというか、見ていて不安になるような印象を受けました。お姉ちゃんはすぐに眠ってしまって何も訊けなかったけど、そっか。そんなことが……。

12: 2009/06/29(月) 21:26:56.90 ID:0+OB0P9oO
憂「梓ちゃんは大丈夫なの?」
梓「わたし?」
梓ちゃんは考えるような間を置いてから、苦笑して言いました。
梓「唯先輩や澪先輩がすごく落ち込んでるから。わたしがしっかりしないと」
憂「梓ちゃん……」
無理しなくていいよ。そう告げようとしたとき、授業開始のチャイムがちょうど鳴り響きました。梓ちゃんが手を振って一足先に席へと戻っていきます。
梓「いたっ」
その途中、梓ちゃんは机の脚に膝をぶつけ、しゃがんだ拍子に今度は角におでこをぶつけ、大変なことになりながら席につくはめになりました。軽音部に突如訪れた悲しみは予想以上に大きいものみたいです。――あの梓ちゃんがここまで動揺するくらいに。

14: 2009/06/29(月) 21:36:10.55 ID:0+OB0P9oO
澪「あれ、ムギは?」
放課後、遅れて来た澪ちゃんがきょとんとした顔で音楽室を見回しました。
律「転校のことで先生たちと話があるんだって。ちゃんと来るから安心しなよ」
澪「そっか。ならいいんだけど」
呟いて、澪ちゃんはテーブルのほうに歩み寄ってきます。今日はまだお茶もお菓子もありません。でもそんなことは誰も気に留めていませんでした。
たぶんみんな、もちろん私も、澪ちゃんと同じ気持ちなんだと思います。ある日突然ムギちゃんが来なくなったらどうしよう……。ムギちゃんに限ってそんなことはないと思うけど、日に日に大きくなる不安はどうしても消えてはくれません。まだちゃんとお別れも言ってないのに。
ああ、でもそうかあ。お別れ、しなきゃだめなんだよね……。

15: 2009/06/29(月) 21:39:24.22 ID:0+OB0P9oO
澪「ムギがいなくなったらさ。私たち、どうしたらいいんだろうね」
律「そりゃあ」
りっちゃんが天井に視線を向けつつ、色のない声で言います。
律「代わりを探すしかないだろ。キーボードの」
梓「代わり、ですか?」
唯「りっちゃんの、」
テーブルを叩いて私は思わず声を荒らげました。
唯「りっちゃんの代わりはいないって、ムギちゃん言ってたのにっ!?」
律「え、なに。何の話……?」
澪「この前」

16: 2009/06/29(月) 21:40:08.93 ID:0+OB0P9oO
状況を掴めないりっちゃんに澪ちゃんが説明します。
澪「律が風邪で休んでたとき、今みたいな話になったんだ。律がもう来なかったらドラムどうしようかって」
梓「さわ子先生が代わりを探したらって言ったら、ムギ先輩が急に立ち上がって。『りっちゃんの代わりはいません!』って、そう言ったんです」
律「……そっか、ムギが」

18: 2009/06/29(月) 21:42:03.84 ID:0+OB0P9oO
りっちゃんの頬が赤く染まっているのが見えました。照れ隠しなのか天井から視線を外して、顔を背けてしまいます。「そっか、そっかあ」と何度も繰り返して頬をもじもじと掻いて。
律「ムギは……わりとそういうこと、何の気兼ねもなく言うからなあ。恥ずかしいったらありゃしないよ」
澪「だな。たまに私たちを見て変に浮かれてるときもあるし」
梓「でも、そういうところも素敵だと思いますよ、わたしは」
唯「私も! 私も、そう思う!」

19: 2009/06/29(月) 21:43:21.33 ID:0+OB0P9oO
四人がお互いの顔をそれぞれ見合わせます。そうしていると、不思議と心も通じ合っていく感じがして嬉しくなりました。
いつどんなときも、私たちが知らないところでムギちゃんは私たちのことを気遣ってくれていました。クリスマス会でボードゲームを選んだときみたいに、ムギちゃんはいつもみんなでいることを最優先していました。友達という存在をとても大事にする子なんです。

20: 2009/06/29(月) 21:44:14.74 ID:0+OB0P9oO
だからさ、と澪ちゃんが言いました。
澪「キーボードの代わりなんていらないよね」
みんな各々、笑顔で頷きます。
唯「私たちにはムギちゃんしかいないんだもん」
梓「ムギ先輩のキーボードが好きです」
律「これからも放課後ティータイムのキーボードは、ムギの専用スペースだ。誰にも渡すつもりなんてない。――それでいいんだよな、みんな?」
もちろん!
一斉にそう叫んで、私たちは入り口のほうを振り向きました。かすかに開いた扉の奥から、すすり泣く声が聞こえていました。

25: 2009/06/29(月) 21:50:40.64 ID:0+OB0P9oO
さ「ムギちゃん……」
両手で顔を覆いながら感極まって泣いていると、さわ子先生が後ろから肩を抱いてくれました。
さ「いい友達を持ったわね」
紬「……はいっ、……」
みんながこんなふうに思ってくれているなんて、正直考えもしませんでした。みんなずるいわ。普段は素直に気持ちを表せない人たちばかりなのに、こんなときに限って。お別れするまで泣かないって決めたのに、これじゃ全部台無しじゃない……。

26: 2009/06/29(月) 21:52:44.13 ID:0+OB0P9oO
さ「大丈夫? 中に入れそう?」
紬「……」
どう答えようか迷っていたそのとき。
バンッ――
向こう側から、扉が勢いよく開け放たれました。
澪ちゃん、りっちゃん、唯ちゃん、梓ちゃん。私の大切な友達たちがそっと手を差し伸べてくれます。
律「ムギー。何やってんだ、そんなところで」
澪「盗み聞きなんてよくないぞー」
紬「あの、えっと」
唯「あれー? もしかしてムギちゃん、泣いちゃってる? かーわいい。うふふふふ」
梓「そこ、唯先輩が笑うところじゃないです」

27: 2009/06/29(月) 21:53:56.64 ID:0+OB0P9oO
なんかすっかりいつもの空気に戻っていて、私は軽く拍子抜けしてしまいました。でも私を気遣ってくれているのは痛いほどよくわかりました。
先生に背中を押されて、私は音楽室に足を踏み入れます。少し恥ずかしくて強がりを言ってしまいます。
紬「い、言っておきますけど。私、泣いてなんかいませんからっ」
律「おーおー、無理しちゃって」
唯「ねームギちゃん、今日のお菓子はなにー?」
澪「この状況でお菓子の心配かよ!」
突っ込まれてぽわんとしている唯ちゃんに、私は手許の包みを掲げました。
紬「ふふ。今日はね、マドレーヌとクッキーよ」
唯「あ、それって、私がはじめて軽音部に来たときのお菓子だよね! うわーい!」
澪「食べ物のことはしっかり覚えてるのな」
梓「さすが唯先輩……尊敬はしませんけどすごいとは思います」
周囲の呆れた視線に、唯ちゃんは「えへへー」と照れた表情を浮かべていました。たぶん褒めてないと思うんだけど……。

30: 2009/06/29(月) 21:58:05.73 ID:0+OB0P9oO
律「というわけで、だ!」
みんながお菓子を食べていると、りっちゃんがホワイトボードを引きずってきました。
律「これからライブのための練習をはじめるぞ!」
梓「ライブ、ですか?」
りっちゃんの張り切りぶりとは裏腹に、みんなは首を傾げてしまいます。
澪「でも学園祭は終わっちゃったし、新歓は来年だし、演奏できる機会なんてもうないと思うんだけど」
律「ないなら作ればいいじゃない!」

33: 2009/06/29(月) 22:04:24.40 ID:0+OB0P9oO
機会を作る。それはきっと大学生とかならできるんだろうけど、私たちは高校生です。高校の軽音部は行事以外ではほとんど他人に聞かせる演奏ができません。やろうと思えばできるのだろうけど、二週間という短い時間でそれを成し遂げるのは難しいんじゃ……。
さ「あながち不可能でもないわね」
ところがさわ子先生が何気ない口調でそう返したので、みんなの目に光が宿りました。
さ「この前のあなたたちの演奏が、先生方にも結構な評判でね。ぜひまたライブをやってくれってせがんでくる先生もいるくらいなの」
澪「本当ですか?」
さ「ええ。そこでちょっと考えてみたんだけど」

34: 2009/06/29(月) 22:06:11.40 ID:0+OB0P9oO
さわ子先生の提案は、まるでこのときのために用意されていたんじゃないかと思えるくらい素晴らしいもので、私たちは手を取って喜び合いました。それでいこう! というりっちゃんの声にみんなも賛同します。
先生の提案はこんな内容でした。
さ「平日開催は、みんな活動している部活があることだし、客足は望めないと思うの。だから狙い目は休日しかないわ。いいみんな、思い出してみて。来週の日曜日に何があるのかを」
唯「にちようび……?」

35: 2009/06/29(月) 22:08:30.58 ID:0+OB0P9oO
梓「あ……オープンキャンパス!」
そうそれ、とさわ子先生。私立桜が丘高校はこの時期になると定期的にオープンキャンパスを行います。私たち生徒にはあまり関係ないので忘れていましたが。
律「もしかして、そこで演奏できたりとか!?」
さ「先生方と話し合わなきゃいけないけど、うまくいけば、あるいはね。さっきも言った通り、あなたたちの演奏のファンになった先生がもう何人もいるの。決して一蹴されることはないと思うわ」
唯「うわあー! ムギちゃん、やったね!」
唯ちゃんの言葉にも、私はまだ事態を飲み込めていなくて、曖昧に笑うことしかできなくて。でももう一度この仲間たちと演奏ができるのだと思うと、途端に幸せな気持ちが芽生えてきました。よかった、と胸の中で呟きます。

36: 2009/06/29(月) 22:10:33.94 ID:0+OB0P9oO
澪「まだ私たち、終わってないんだね」
律「むしろこれからって感じ?」
唯「じゃあ早速練習しようよ! えーと、今日が金曜日だから、来週の日曜日まで……ん? えっと」
梓「今日を入れてあと十日です、唯先輩」
唯「十日! もう十日しかないの!? 新曲作るにしてもぎりぎりだよ!」
紬「え?」
律「新」
澪「曲?」

39: 2009/06/29(月) 22:15:14.46 ID:0+OB0P9oO
場の空気が凍りつきます。
律「なあ唯。まさか十日で新曲作るだなんて言わないよな?」
唯「え、しないの?」
紬「いくらなんでも十日じゃちょっと……」
澪「他の曲だってある程度練習したいし」
尻込みする私たちに唯ちゃんが必氏に説得を試みます。
唯「で、でもっ、ほら、ムギちゃんいなくなっちゃうんだし、最後に一曲くらい作ってもいいと思う!」
澪「とは言ったって……」
梓「あ、あの、わたしも賛成です」

40: 2009/06/29(月) 22:17:45.93 ID:0+OB0P9oO
梓ちゃんもおそるおそる手を挙げました。澪ちゃんがびっくりした目で梓ちゃんのほうを向きます。
梓「わたしも、何か思い出に残るようなことをしたほうがいいと思うんです。大変だろうけど、みんなで乗り越えていけばきっと……」
律「――よく言った!」
澪「ちょっと、律」

42: 2009/06/29(月) 22:19:57.46 ID:0+OB0P9oO
律「澪、この前言ってたよね? 歌詞のストックができてきたーって」
澪「い、言ったけど。完成にはまだほど遠いよ」
律「ムギは? 転校のことで色々忙しいだろうけど、作曲に費やせる時間はある? ううん、そうじゃない。私たちのために一曲仕上げるだけの気持ちは、ある?」
紬「!」
それは、りっちゃんの真剣な問いかけでした。時間や労力は気分次第でどうにでもなります。必要なのは、ほかでもない熱意そのもの。ライブをよりよきものにしたいという気持ちが大切なんです。
私は力強く頷きました。
紬「あります」

44: 2009/06/29(月) 22:21:51.82 ID:0+OB0P9oO
律「澪は? 私たちのために歌詞、書いてくれる?」
澪「……。もー、わかったわよ。その代わり、ちゃんと手伝ってよね」
唯ちゃんがほっとした顔になるのが見えました。梓ちゃんに抱きついて頬をすりすりしています。
ああ、女の子同士って……やっぱり素敵だわ!
そういうわけで新曲の方向性を簡単に話し合い、そのあとは残った時間を全てバンド練習につぎ込んで、澪ちゃんは歌詞を、私は曲の構想をそれぞれ宿題として持ち帰りました。転校すると告げて二日、まだ二日なのに、多くのことが変わっていっているのがわかります。

46: 2009/06/29(月) 22:26:28.43 ID:0+OB0P9oO
後日、さわ子先生のガッツポーズに音楽室が改めて沸きました。
さ「午後一時から二十分、講堂の使用許可もばっちり取れたわ!」
律「さすがさわちゃん、グッジョブ!」
さ「ええ、私グッジョブ!」
りっちゃんと先生が抱き合う光景をしっかり堪能していると、澪ちゃんが私に紙を差し出してきました。
澪「歌詞、書けたよ」
澪ちゃんの目には薄くクマができていました。きっと寝不足になるまで頑張って歌詞を書いてくれたんだと思います。ありがとう、と告げると澪ちゃんは赤くなってあさっての方角を向いてしまいました。
さあ、次は私の番。みんなと最高のライブをするために、澪ちゃんの歌詞を、みんなの思いを、余すことなくメロディラインに乗せてみせるわ。

49: 2009/06/29(月) 22:32:21.01 ID:0+OB0P9oO
ここ最近のお姉ちゃんは、家に帰ってきてからもずっとギターの練習をしています。
憂「お姉ちゃん、ご飯だよ」
唯「うん」
いつもならすぐ飛びついてくるのに、こんな調子。このところは寝る時間も遅いみたいで心配です。思わず私はお姉ちゃんの背中に問いかけていました。
憂「どうしてそんなに練習してるの?」
唯「ん? えっとね、これ」
お姉ちゃんが楽譜を見せてくれます。学園祭のときにギターを触ったので譜面はある程度読めました。でもこれははじめて目にする楽譜でした。

52: 2009/06/29(月) 22:34:38.59 ID:0+OB0P9oO
唯「ムギちゃんがいなくなる前に、オープンキャンパスでライブさせてもらえることになったんだ。これはそのときに演奏する新曲なの」
憂「そうだったんだ……」
だからお姉ちゃん、真剣に練習してたんだね。えへへと笑うお姉ちゃんの横顔が、私にはとても勇ましく見えました。
軽音部に入る前のお姉ちゃんも好きだったけど、何かのために、誰かのために一生懸命努力している今のお姉ちゃんも私は大好きです。だから心配ではあるけれど、お姉ちゃんの頑張りを止めたりはしません。
憂「頑張ってね、お姉ちゃん」
唯「もっちろん! ギー太と一緒に一生忘れられないライブにするよー!」
憂「でもご飯はちゃんと食べようね」
唯「え? もうご飯できてるの?」
聞いてなかったんだ……。私は無意識に苦笑いをしてしまいました。お姉ちゃんはやっぱり、どんなときでもお姉ちゃんみたいです。

53: 2009/06/29(月) 22:41:21.24 ID:0+OB0P9oO
そして日曜日。
過密スケジュールの中で練習を続け、ついに本番のときがやって来ました。
澪ちゃんは相変わらず震えていて、それをりっちゃんがからかうといういつもの風景。二人はこうやって緊張をほぐしているんだと最近わかってきました。唯ちゃんと梓ちゃんと私は、自分たちの楽器に触れて感触を確かめています。

54: 2009/06/29(月) 22:42:18.59 ID:0+OB0P9oO
二年近く一緒にバンドを組んできたのに、まだ知らなかったことが山ほどあって、それに気づくたびに心が温かくなります。時間を積み重ねることで得られる信頼を全身で感じることができます。
でも、今日でそれもおしまい。このライブが終わったら、私はこのバンドから消えることになります。ティーセットからはカップが一つだけ失われ、音楽室からはキーボードの音色がしなくなって……。
唯「ムギちゃん……だいじょうぶ?」
紬「え?」
唯ちゃんが心配げな顔で覗き込んできました。他のみんなも喋るのをやめてこちらを見やっています。
紬「い、いやね。大丈夫よ。気にしないで」
唯「だって、辛そうな顔してたから……」
紬「そんなこと言ったら澪ちゃんだって」
澪「わ、私!?」
律「澪はいっつもこうだから気にするな」

55: 2009/06/29(月) 22:44:13.18 ID:0+OB0P9oO
次は軽音楽部によるバンド演奏です――
アナウンスの声がして、私たちは態度を改めました。幕が開き、暗がりの中から観客の視線が集まってきます。
ついに、はじまったのね……。
私は鍵盤の上に指を置きながら、りっちゃんのほうを振り返りました。二十分なので実質演奏できる曲は三曲だけです。最初に演奏する曲は、唯ちゃんの発案と、私たち一人一人の努力で生み出された新曲。
律「ワン、ツー、スリー、フォー」
演奏が、開始されました。

56: 2009/06/29(月) 22:49:18.51 ID:0+OB0P9oO
澪ちゃんの歌詞にはいつもどこか可愛らしいところがあって、
それが唯ちゃんの歌声に乗るともっと可愛くなって、
走り気味だけど力のあるりっちゃんのドラムに、
地に足のついた梓ちゃんのギター。
そんな色々な「私たち」が組み合わさってできたこのメロディに、私が参加できているというのがどれだけ幸せなことか、今までは考えたこともありませんでした。
あの日合唱部に入っていたら間違いなく体験できなかった、輝かしき日常の数々。みんなで合宿に行って、クリスマス会をして、たまに喧嘩もしたりして、でも決して途切れることなく続いていく私たちのティータイム。
紬(それが、もう……味わえない)
このライブが終わったら……もう。
私たちのティータイムは……。

58: 2009/06/29(月) 22:52:30.44 ID:0+OB0P9oO
唯(あれ……っ?)
唄いながら、私は不自然に思いました。何かが聞こえない。未熟な私たちの演奏を優しく包み込んでくれる、お母さんみたいなあの音色が……。
唯(ムギちゃんの手が止まってる!)
横目でムギちゃんのほうを見て愕然としました。ムギちゃんは顔を伏せて、泣いていました。
肩が小刻みに震えていて、時折雫がぽたりと落ちているのが見えます。あずにゃんも澪ちゃんも異変に気づいたのか、強張った顔になっています。心なしかりっちゃんのドラムも乱れ気味になってきています。
私は心の底から神さまに祈りを捧げました。
お願いムギちゃん、頑張って――!
  
律(ムギ!)
梓(ムギ先輩!)
澪(頑張れ、ムギ!)

60: 2009/06/29(月) 22:59:30.87 ID:0+OB0P9oO
みんなの演奏が乱れてる……でも、そうとわかっていても指が動かせない。
だってこのライブを終わらせたくない! 私はまだまだみんなと軽音部を続けていきたいの!
苦悩する私の頭に、数日前のみんなの台詞が蘇ってきました。
キーボードの代わりなんていらないよね――
私たちにはムギちゃんしかいないんだもん――
ムギ先輩のキーボードが好きです――
これからも放課後ティータイムのキーボードは、ムギの専用スペースだ。誰にも渡すつもりなんてない――
紬(ああっ……みんな、みんな!)
私は今一度指に力を込めました。みんな、私のキーボードを信頼してくれている。ここで演奏を駄目にしてはいけない。放課後ティータイムのキーボードは……76個の鍵盤が生み出すメロディは、私、琴吹紬だけのものなんだから!

61: 2009/06/29(月) 23:01:07.24 ID:0+OB0P9oO
指が再び動き出します。もう迷ったりはしないと決意しました。
ごめんなさいみんな。でももう平気。この指が今日という日を最高の日とするために、二度と止まったりはしないと、最高のメロディを紡ぎ出すと誓ったのだから!
私のキーボードが再開されるとみんなの乱れも次第に解消されていきました。隣のりっちゃんがウィンクをしてきたので、私も涙目のまま、同じくウィンクで返しました。

63: 2009/06/29(月) 23:04:24.73 ID:0+OB0P9oO
私のせいでアクシデントがあったけど、なんとか無事に新曲をやり終えることができました。
みんなに向かって手を合わせ、ごめんねと謝ります。
続く二曲目は『私の恋はホッチキス』。梓ちゃんはこの曲を聴いて私たちの演奏に興味を持ってくれたんだっけ。新歓の頃が今はもう懐かしく思えます。
指のほうはもう心配する必要もなくなりました。そこには純粋に演奏を楽しんでいる私がいました。

65: 2009/06/29(月) 23:06:08.41 ID:0+OB0P9oO
二曲目が終わったところで、MCを務める唯ちゃんが朗らかな声で話しはじめます。
唯「えっと、次が最後の曲になります。今から歌うのは、私たちがバンドを組んで最初に演奏した曲です」
今さらながら私は、今回の曲構成の意図を知りました。

67: 2009/06/29(月) 23:09:33.96 ID:0+OB0P9oO
新曲を最初に披露して、梓ちゃんが軽音部に入るきっかけとなった『私の恋はホッチキス』を二曲目に持ってきて。
そして私たちにとっては馴染み深い、一年の学園祭ではじめて演奏したあの曲を最後に持ってくる。
現在から過去へ、それはまるで走馬燈のように私たちの思い出を回想していくみたいに。
たった三曲の中にも確かに時間の流れは存在していて、それを感じながら演奏するというのは、幸せ以外の何物でもありませんでした。

68: 2009/06/29(月) 23:12:08.36 ID:0+OB0P9oO
唯ちゃんが大きく息を吸い込み、曲の名前を口にします。
唯「皆さん、ぜひとも楽しんで聴いてください。――それじゃあみんな、行くよ。『ふわふわ時間』」
二本のギターが別れのときを告げるBGMとなって、それぞれの旋律を辿っていきます。
やがてその旋律は他のパートと混ざり合って、講堂に興奮を巻き起こします。
ありがとう。そんな気持ちで、私は一心不乱にキーボードを弾き続けました。曲が終わる、その瞬間まで。

69: 2009/06/29(月) 23:17:47.99 ID:0+OB0P9oO
えーと、唯です。そのあとのことをちょっとだけお話したいと思います。
オープンキャンパスでのライブは大成功を収めました。はじめはぎこちなかった観客の人たちも、最後は手拍子をくれたりしました。
あとで耳にした話では、妹の憂もこっそり見に来ていたらしいです。
新曲の評判もおおむねいい感じで、急いで作ったわりには素敵だとさわちゃん先生が褒めてくれました。その言葉に一番救われたのはたぶん澪ちゃんだったと思います。

70: 2009/06/29(月) 23:18:56.00 ID:0+OB0P9oO
ムギちゃんはライブが終わった数日後に、無事海外へと飛び立っていきました。愛用のキーボードと使い慣れたティーセットを置いて。
お茶を入れるのはあずにゃんの役目になって、先生がいるときなんかはもっぱらメイド服を着せられて給仕しています。
りっちゃんや澪ちゃんは、パソコンでムギちゃんと連絡を取り合っているみたい。私もパソコン欲しいなーって言ったら「じゃあ私アルバイトはじめるよ!」と憂が意気込んでいました。それをあずにゃんに話すと「過労氏させる気ですか!」と怒られました。ごめんなさい……。

71: 2009/06/29(月) 23:20:21.66 ID:0+OB0P9oO
それから放課後ティータイムがどうなったかは皆さんの想像にお任せします。ただ言えるのは、私たちが卒業した今も桜が丘軽音部は残っているということ。そして私の家には、今も奇麗にメンテナンスされたギー太が立てかけられているということです。
  
おしまい。

73: 2009/06/29(月) 23:21:58.99 ID:vbqQ75+EO
いいはなしだなー

78: 2009/06/29(月) 23:25:37.50 ID:af1FKwOJO
>>1おつ~。良かったよ。

81: 2009/06/29(月) 23:27:45.89 ID:0+OB0P9oO
どもです。
どのss読んでもムギが酷い目に遭っているので、ムギにスポットを当てた、わりと本編のノリに忠実なのを書いてみました。
つまらなかった人はごめんねー。

引用: 唯「ムギちゃんが……転校?」