304: 2012/06/07(木) 16:12:58.58 ID:9kZF2/kRo
前回:妹「なぜ触ったし」【前編】
案の定、翌日の朝も幼馴染がやってきた。
俺はベッドで惰眠を貪る。幼馴染は俺の勉強机を使い、コーヒーを飲みながら読書していた。
なんだか、鼻水がとまらない。風邪をひいたのだろうか。
寝苦しくて、ベッドの中でぼんやりと過ごす。窓の外では雨が降っていた。
幼馴染は傘をさして歩いてきたらしいのだが、そこまでしてどうして家に来たのだろう
何かすることがあるわけでもないだろうに。
「お前もさ、極端だよね」
俺の言葉に、彼女は「何が?」という顔をした。
「ちょっと前まで全然話しかけてこなかったくせに、最近はこれだもんよ」
「……まぁ、きっかけがありませんし」
「きっかけなんてなくても話してたのに?」
「というか、きみの方の態度がひどかったんじゃないですか」
305: 2012/06/07(木) 16:13:25.80 ID:9kZF2/kRo
「俺?」
「きみ。触るもの皆傷つける感じでした」
「いつの話?」
「……中三頃?」
「そうだったっけ?」
「そりゃもうひどかったですよ。舌打ち、暴言のオンパレードで」
「そんなアホな。中三の頃と言えば、俺は真面目で目立たない生活を送っていたはず」
「たしかに目立ってはいませんでしたけど」
あ、目立ってはなかったんだ。俺は溜め息をついた。
306: 2012/06/07(木) 16:13:58.07 ID:9kZF2/kRo
会話はそこで途切れた。その頃の俺は、彼女が言うような不安定な状態だったのだろうか。
それを思えば、今の精神状態は比較的まともと言えるのか。
本人の実感としては、そんなに変わらないのだけれど。
俺はベッドから起き上がる。窓の外の雨は小降りになっていた。
彼女は結局、どうしてまた俺と行動を共にするようになったのだっけ?
別に俺と一緒になんていなくてもいいじゃないか。
と思って、不意に思い出す。
自意識、自尊心、プライド。それが危うい。取り戻そう、というのだったっけ。
その手助けをしろ、と彼女は言ったのだ。わたしもあなたに協力するから、あなたもわたしに協力しなさい。
で、手助けって具体的になんなんだろう。自尊心ってどうやったら回復できるのだ?
307: 2012/06/07(木) 16:14:24.21 ID:9kZF2/kRo
俺の自尊心が傷ついたのは、やはり中学二年の、あのことが原因なのだろうか。
走れなくなったこと。そして生まれたフラストレーション、舌打ち、暴言、自暴自棄。
まぁどうだっていいや、と俺は思う。どうせ今日は雨が降ってて走れないし。降ってなくても走らないけど。
「暇ですね」
と幼馴染がぼやく。そう、暇。暇なのだ。ずっと。
なんでだろう。やることがなんにもない。せっかくの休日なのに。
平日は学校に拘束され、雑事に追われてろくに自由なこともできない。
あーあ、さっさと休みが来ないかなぁと考えながら過ごしている。
けれど実際に休みが来ると、途端にやることがなくなってしまう。
仕方なく暇を潰す。漫画を読んだりゲームをしたりテレビを見たり。
すると時間が潰れている。潰しすぎて、時間が足りなくなる。俺の休みはどこにいったんだ? こんなもんでいいのか?
中三の一学期の終業式の日、担任はこんなことを言っていた。
「若いうちに有意義な時間の使い方を覚えられなかった人間は、休日の少なさを嘆くしか能のない大人になる」
有意義な時間の使い方って、なんなんだろう?
なんてばかばかしい考えごとを、気付くとしてしまっている。ベッドの中にはそういう魔力がある。枕は俺の親友だ。
308: 2012/06/07(木) 16:15:16.64 ID:9kZF2/kRo
俺は幼馴染の横顔を眺めた。じっと本を読んでいる。
見慣れた顔だ。こいつが自分の部屋にいると思うと、不思議な印象を受ける。
何を考えているのか、さっぱりわからない。なぜこんなところで本を読んでいるんだろう。
俺の視線に気付いてか、幼馴染がちらりと横目でこちらを見遣った。
俺がそのまま見ていると、読書に集中できないらしく、居心地悪そうにもぞもぞとみじろぎを始める。
「あと少しで冬休みですね」
と、思い出したように彼女は口を開いた。俺は返事をせずに頷く。
それでも視線を動かさないでいると、彼女は気まずそうに俯いた。
まだ見る。
そういえば彼女の言う通り、もうすぐ冬休みなのだなぁと思う。
冬休み。休み。なんにもすることないのに時間だけあってもなぁ。
309: 2012/06/07(木) 16:15:44.16 ID:9kZF2/kRo
翌日の月曜日、学校につくとモスとタカヤが教室で話をしていた。
俺が混ざろうとすると、彼らはどこか安堵したような表情になる。口げんかでもしていたのかしら。
「なあ」
とタカヤが俺の肩を叩いた。
「お前、やっぱりあの子と付き合ってるの?」
「あの子って、あの子ですか」
「あの子」
幼馴染のことだろう。
「なんで?」
と首をかしげたところで、自分の教室に荷物を置いてきた幼馴染がやってくる。
俺はうしろを振り向いて幼馴染を見てから、どう説明したものかと考え込んだ。
310: 2012/06/07(木) 16:16:24.67 ID:9kZF2/kRo
なんとも説明しがたい。
俺は彼女を憎からず思っている。彼女にしてもそうだろう。
けれどそれは、恋愛感情ではない(というより、俺には恋愛感情と言うものがいまいちよく分からないのだが)。
なんとなく、他の人よりは仲が良いよね、という関係であるに過ぎない。
他に友達がいないからなおさら。少なくとも俺にとっては。
じゃあ異性として見ていないかと言われれば――別に見ていないわけではないのだけれど。
いいかげん、誰かと誰かの関係についてぐだぐだ考えるのは飽き飽きだった。
「ああ、付き合っているともさ!」
と俺は叫んだ。幼馴染は目を丸くする。俺は彼女の肩を抱いた。
タカヤは驚いているのか呆れているのか、嘘か本当かを見極めようとしているのか、名状しがたい表情になった。
周囲が静まり返る。
俺は後悔に襲われた。
311: 2012/06/07(木) 16:16:58.69 ID:9kZF2/kRo
「……あ、そうなんだ」「へえ」「まじかよ」「知ってた?」「いや、でもまぁそうかなって」「だよね、そんな雰囲気だもんね」
「まじかよ……」「どうした、何落ち込んでんだ」「いや、別に……」「好きだったん?」「ち、ちげえよ!」
「……」
なんで俺がアホなことを言ったときにかぎって教室は静かなんだろうね。
もう分かってるよ。パターンだよな。これでまた面倒事が起きるんだろ。それで七転八倒誤解を解こうとするわけだ。
んで、なんにも解決できないまま、そのまま事態が風化する。なんとなく成立する。おかしな話だ。
ちくしょう、俺はあほだった。
それも分かっていることだった。
「どうするんですか、これ」
幼馴染は俺の腕におさまったままで訊ねた。げんなりしたような表情だった。
「どうしようか」
俺も彼女の肩を抱いたまま繰り返した。好奇の目が寄せられる。どんな誤解にも不都合なんてないのだけれど。
312: 2012/06/07(木) 16:17:26.46 ID:9kZF2/kRo
「いいかげん、思いつきで発言するのやめません?」
彼女はじとっとこちらを睨む。
「俺のせいじゃない。タイミングが悪いんだ。タイミングの野郎、いっつも俺のときだけ空気を読みやがらねえ」
「アホ発言を減らせばよいのでは」
「付き合ってる発言はお前だってしてたし、パパ発言は俺がしたものよりよっぽど悪質だったと思うのだが」
「わたしは周囲を見て発言してますから」
さらりと言う。いいさ別に。ちくしょう。俺は拗ねる。
「誤解されて困るような世間体なんて持ってないんだけどさ」
「まぁ、別に問題のある噂じゃありませんしね」
313: 2012/06/07(木) 16:18:06.00 ID:9kZF2/kRo
不意に教室の扉が開く。教室のざわめきが、なぜだかしんと収まった。
扉を開く音が大きかったというのもあるし、開けた人間の髪の色が茶色だったということもある。
先輩の弟さん。……そういえば、先輩の弟ということは、彼は俺たちと同学年だったのか。
彼は俺に目を止める。不機嫌そうな顔をしていた。
「……なんだ、この教室」
自分に集まった注目を払いのけるように、彼は呟く。
俺と幼馴染の方を見て、いっそう眉間の皺を深めた。
「姉貴から伝言」
「はい」
「今日はばっくれんなよ、ってさ」
……そんだけすか。釘を刺されてしまった。
314: 2012/06/07(木) 16:18:34.00 ID:9kZF2/kRo
「あ、弟さんも、お昼をご一緒にいかが?」
俺は遜っていた。うしろめたいことがあると人間は遜る。
卑しい人間性。権威主義者は墓を漁る。俺は弱者だ。
彼は皮肉っぽく唇の端を釣り上げ、
「悪いけど、俺はお前みたいな人間が嫌いなんだ」
と言った。
「考えなしで行動して他人に迷惑を掛ける。反省したふりばかりが上手くて、実際には反省なんて微塵もしてない。
一生懸命やってるようで、実際には自暴自棄なだけ。それでなんとなくやっていって、なんとなく周りに許されてる。そういう人間が」
彼はそこで一拍おいた。憤りを堪えるような溜め息だった。
なんで見ず知らずの人にそんなことをいわれにゃならんのだ、と思うが、実際に彼には暴言を吐いてしまったわけで……。
しかも、たちが悪いことに、彼の発言の大半は的を射ていた。どこから俺を覗き見ていたのだ。
315: 2012/06/07(木) 16:19:19.39 ID:9kZF2/kRo
図星を指されて気まずい俺は、「なんでお前にそんなこと言われなきゃならんのだ!」と怒鳴ろうとした。逆ギレ。
でもその前に、彼の発言が続く。
「あと、同い年の女子に「パパ」と呼ばせて喜んでるような変態もな」
おい、と俺は思う。彼の表情は悪戯っぽく動く。教室にざわめきが戻った。
モスが「何の話?」と言っている。タカヤが「さぁ?」と肩をすくめた。俺と幼馴染の居心地は悪くなる。
「でも、マックが仲良い同い年の女子って……」
モスの呟き。幼馴染しかいないのだ。情報は伝播する。俺と幼馴染を見る周囲の目が好奇に染まる。
俺は泣きたい。誤解されて困るような世間体は持っていないが、自尊心だけは脆弱でありつつも肥大しているのに。
どちらかと言えば今の発言は、俺と言うより幼馴染に不名誉を与えた気がする。
でも、これに関してばかりは、俺の責任ではない。
「……誰が、周囲を見て発言してるって?」
「……ごめんなさい」
幼馴染は顔を赤くして俯いたが、それがより一層、弟さんの発言に信憑性を与える結果になってしまった。
316: 2012/06/07(木) 16:19:58.15 ID:9kZF2/kRo
さようなら、安らかな学生生活。こんにちは、周囲の好奇にさらされ続ける日本的閉鎖社会。
俺たちは変態カップルの名をほしいままにできる。
すっげえ。馬鹿。
教室のざわめきはしばらく落ち着かなかった。俺たちは呆然と立ち尽くす。
不意に幼馴染が顔をあげる。居心地悪そうな表情だ。そりゃそうなのだけれど。
「すみません、そろそろ教室に戻るので」
「うん」
と頷いても、彼女はなかなか動き出さない。
「……いいかげん、肩、離してくれません?」
「……」
誤解の原因は常に自分の行動にあるような気がした。いや、まぁ実際そうなのだけれど。
331: 2012/06/08(金) 16:20:07.58 ID:et/8nEeTo
「復讐だ」
昼休みの新聞部室で、俺は言う。
部室には俺と幼馴染を含んだ五人が集まっていた。
モス、タカヤ、先輩。話をしたこともない部員たちの姿は見えているが、「みー」は当然、いない。
彼女がいないことに気付いた先輩が、
「あの子は? 連れてこなかったの?」
と不機嫌な顔を見せたが、「今すぐ連れてこい」とはさすがに言われなかった。
タカヤやモスの手前、さすがに自重したらしい。
五人で集まり弁当を食う。
幼馴染はまた弁当を作ってきた。よくよく考えれば、こんなことをしていて誤解されない方がおかしい。
「復讐って?」
と、俺の言葉をモスが訊き返す。
332: 2012/06/08(金) 16:20:44.27 ID:et/8nEeTo
「復讐だよ。復讐。俺に恥をかかせたあの男に復讐せねばなるまい」
「あの男?」
今度はタカヤが訊き返した。こいつらいつの間にか仲良くなってないか。
「決まっているだろう、そこの茶髪男だ!」
窓際でスマホをいじりながらパンをかじっている男を指差す。
彼は鬱陶しそうにこちらを睨んでから、すぐにディスプレイに目を戻した。ちくしょう、余裕ありげだ。
「すごいね、君。本人と本人の姉の前でそんなこと言えるなんて」
先輩が呆れた声を出した。俺の怒りは一向に収まらない。
「どうしてくれよう! あいつのおかげで俺の生活はめちゃくちゃだ!」
「いったい何があったの?」
先輩の質問には答えず、俺は幼馴染を見る。彼女は何も言わずに黙々と食事をしていた。
近頃墓穴を掘ってばかりだから、何もしないつもりでいるのかもしれない。
335: 2012/06/08(金) 16:23:17.34 ID:et/8nEeTo
茶髪は窓際から嘲るように言った。
「あるわけねえだろ。あんなことでお前の生活に影響なんて出るかよ。自意識過剰だよ。誰もお前のことなんて気にしてねえよ」
「イラッ」
「いま声に出して言いましたね。「イラッ」って」
「言ったな」
俺以外の人間は妙に冷静である。幼馴染も幼馴染で、どうしてくだらないことには反応するんだ。
茶髪はこちらをちらりとも見ない。スマホをいじりながらにやにや顔である。工口サイトでも見てるのか。
対する俺はあくまでも余裕ありげに、紳士的に対応するのです。
「コホン。……えー、そこの染髪プリン氏。何か言いたいことがあるならはっきりと言ってくれないだろうか?」
「言ったじゃん。俺はお前が嫌いだって」
そういえばそうかもしれなかった。
333: 2012/06/08(金) 16:21:10.42 ID:et/8nEeTo
「ていうか、実際に影響があったんだよ! クラスメイト男子の大半に「パパ」って呼ばれた俺の痛みを知れ!」
「直接からかわれるだけマシですよ。わたしなんてクラスに戻ったらみんなから白い目で見られましたよ。トラウマものですよ、あの目」
幼馴染は不満げに言いながら食事を続ける。思うところは山ほどあるだろう。
他のクラスにまで知れ渡っているあたり、どう考えても俺の自意識過剰ではない。
ふと先輩が顔をあげた。
「なんか喉乾いたなぁ。ジュース買ってこようかなぁ」
彼女は空気を読まない。
「俺買ってきましょうか」
タカヤが口を開く。だめだよタカヤ。それは駄目な提案だよ。「俺も一緒に」が正解だよ。どっちにしろ断られると思うけど。
「いや、いいよ。ひとりでささっと買ってくるから」
先輩は早々に立ち上がる。自由な奴らが多すぎた。
334: 2012/06/08(金) 16:21:37.17 ID:et/8nEeTo
「とにかく復讐だ!」
「具体的に何するんですか?」
「考えてない」
「無計画ですね」
幼馴染が溜め息をつくが、彼女だって具体的なことを考えずに俺に協力を迫ったはずだ。
自分を棚にあげるなんてなんて奴だ、と俺は自分を棚にあげる。
「フクシュウかぁ」
タカヤがぼんやりと声に出す。温和な印象のタカヤが言葉にすると、「復習」の方に聞こえた。
「上履きに画鋲とか?」
「それイジメ」
混同しちゃいけない。イジメを正当な復讐だと錯覚するのはよくできた自己欺瞞だ。
まぁどっちも良いことではないんだけど。
336: 2012/06/08(金) 16:24:30.39 ID:et/8nEeTo
「なんかこう、致命的な不名誉を与える復讐がいいよね」
「たとえば?」
「うーん……」
「コンビニで煙草を万引きしてたとか?」
「それはちょっとシリアスすぎるね」
あくまでもギリギリの線は守りましょう。
「つまり、復讐っていうより嫌がらせか。とんだチキン野郎だな」
茶髪が笑った。
「イラッ」
「また声に出して言った」
「言いましたね」
337: 2012/06/08(金) 16:25:28.15 ID:et/8nEeTo
「おいおい、せめてもの優しさじゃないか。その気になれば君のことなんて三秒で追いつめられるんだぜ」
ていうか何が「とんだチキン野郎だな」だよ。ドラマか何かか。ちょっと笑いそうになった。
「三秒で追いつめられるんだぜ」も大概だが。
「やってみろよビビりくん。いや、パパか」
「イラッ」
「くどいです」
「くどいな。ていうかこの二人、実は相性いいんじゃないの。お互い芝居がかってるし」
モスが言う。俺は溜め息をついて苦笑した。
「何を言い出しますやら。モスさんも人が悪い。冗談はおやめください」
茶髪もまた、モスの言葉に眉をひそめて俺を睨んだ。
「今の言葉が嫌がらせの第一弾か? たしかに致命的な不名誉だ。友人を使うなんて悪趣味だな」
俺のせいかよ。今の会話の流れでどうしてそうなるのだ。
338: 2012/06/08(金) 16:27:12.20 ID:et/8nEeTo
「つーか、君はなんでそんなに俺が嫌いなわけ? 俺たち面識ある? どっかで恨み買った? コンビニ以外で」
「ねーよ」
ないのかよ。ないらしい。ないのに嫌いなのか。なんだこいつ。
「でも、わたしと会ったことはありますよね?」
「あ?」
幼馴染の言葉に、茶髪はあからさまに動揺した。がなるような声。
「ね、ねえよ馬鹿。誰だお前」
「……いえ。このタイミングで「誰」とか言われても困るんですけど」
どもっているので、心当たりがあるらしいことは明白だ。
339: 2012/06/08(金) 16:28:10.77 ID:et/8nEeTo
「何? 知り合いなの?」
「ちょっと話したことがあるだけです。春にちょっとした機会があって」
「機会?」
「秘密です」
おいおい、と俺は思った。
「……まさか、そのちょっとした「機会」を理由に幼馴染に惚れていて、俺に嫉妬しているとか、そういう恋愛脳的な事情では」
「あァ? テメ今なんつった?」
「それはないですよ。あの程度の会話で人に好かれたり好きになったりしてたら、少子化なんて起こりませんもん」
幼馴染の否定の言葉に、茶髪は少しだけ気まずそうに舌打ちした。
俺は気付かないふりをして窓の外を眺めた。今日は空が高いなぁ。現実逃避。
世の中は複雑なようで単純で、単純なようで複雑なのです。
340: 2012/06/08(金) 16:28:35.14 ID:et/8nEeTo
茶髪は苛立たしげに立ち上がる。
「とにかくテメエは気に食わねえ」
ここまではっきりとした態度で人に嫌われることは初めてだった。微妙に傷つく。
「テメエの存在が気に食わねえ」
そこまで言うことないじゃないか、と俺は思う。たしかに嫌われても仕方ないような人間性ではあるのだが。
それを言ったら誰だって、少なからず嫌われるような要素は持っているのだ。
俺は甘ったれで自暴自棄だけど、彼だって十分、粗野で八つ当たり的だ。
……「反省したふりが上手い」というのは、こういうふうになんだかんだで言い訳をつけてしまう性格のことだろうか。
俺は答える。
「俺は君のこと、そんなに嫌いじゃないんだぜ」
「その余裕ぶった態度も気に入らねえ」
是非もなし。俺と彼の間には火花が散っていた。
341: 2012/06/08(金) 16:29:15.77 ID:et/8nEeTo
「そういえばさ、聞いた? 三組の担任の高田っているじゃん。あいつの子供って、俺らと一緒の中学通ってたんだって」
「え、高田って、ひょっとしてわたしたちが三年のときに一年だった子ですか?」
「そうそう。剣道部の女子の」
「へえ。あ、言われてみれば顔似てますもんね。わたしあの子とよく話したんですよ」
モスと幼馴染がどうでもいい話をしている。
こいつらもうちょっと空気読まないかな。とくに幼馴染。
部室の扉が開いて、先輩が戻ってくる。
「欲しいジュース売切れてた」
言いながらパイプ椅子に腰かけ、荒れた息を落ち着かせる。走ってきたのだろう。
俺と茶髪は毒気を抜かれる。なんだか世界は平和だなあ。
昼休みはそんなふうに消化された。
348: 2012/06/09(土) 11:52:40.36 ID:sAYgZV8xo
その日の夜、俺は熱を出して寝込んだ。
ベッドの中でうんうんと唸りながら、俺は一心に茶髪を呪う。
あの野郎散々好き勝手言いやがって、今に見てろよ。
熱でぼんやりした頭が思考を拒絶する。俺の身体は俺の思う通りに動いてくれない。いつも。
咳も鼻水も出ないのに、体だけが怠くて熱い。
「風邪、じゃないよね。誰かと喧嘩でもした?」
妹が、俺の体温が表示されているはずの体温計を見ながら呆れ顔で言った。
「……してない」
「したんだ。じゃあそれだ」
どういう理屈だ。Aと答えたらBと答えたことになって、あげくそれが正解なのか。
349: 2012/06/09(土) 11:53:07.22 ID:sAYgZV8xo
「昔から誰かと喧嘩するたびに熱出すもんね、兄さん。なんで?」
「知らん。いいからあっちいけ」
「なに怒ってるの?」
「普段ろくに口きいてくれないくせに、具合が悪いときだけやたら構ってくるのは優しさとは呼びません」
「拗ねてるのか」
「拗ねてません。いいさべつに。どうせ俺は嫌われものだよ」
「拗ねてるし」
妹は呆れ顔で溜め息をつく。俺は寝返りを打って壁と向き合った。
350: 2012/06/09(土) 11:53:54.94 ID:sAYgZV8xo
頭がぼんやりして、耳鳴りがする。俺はなんだか苦しい。
茶髪、あの野郎、いったい何のつもりなのだ。俺が何をしたっていうのだ。
なんだって見ず知らずの人間に真正面から嫌いだと言われたりしなきゃならないんだろう。
「ていうか、わたしが兄さんと話さなくなったのは、まちがいなく兄さんが原因でしょう」
「……身に覚えがない」
「そーですか」
「ごめんなさい」
素直に受け入れられると正直に答えたくなる。
「どっち?」
「俺が悪かった」
「ですよね」
彼女は溜め息をつく。
351: 2012/06/09(土) 11:54:50.63 ID:sAYgZV8xo
「何か飲み物でも買ってくるから」
「いいよ別に」
「いいよ別に。どうせ何かお菓子でも買ってこようかと思ってたところだし」
「太るぞ」
「それは言うな。ポカリでいい?」
「レモンウォーター」
「……まぁいいけど」
彼女は部屋を出て、俺はひとりきりになった。枕は俺の友だちだけど、今日はなんだか白々しい。
茶髪の野郎、茶髪の……俺は茶髪のことばかりを考える。
これが恋か。
怖気がした。
352: 2012/06/09(土) 11:55:22.80 ID:sAYgZV8xo
知ったことか、と俺は拗ねる。どうせもうすぐ冬休みだ。みんな俺のことなんて忘れる。
最初から気にもされていないのだ。うん。
……ちくしょう、誰がパパだ。くそう、あの茶髪野郎、そのうち泣かす。
いや待て。
言ってしまえばよいのではないか? 俺は幼馴染と付き合ってなんかいないぞと。
はっきりと分かっているわけではないが、彼が幼馴染に対して何か思うところがあるだろうことは明白だ。
そこで、「俺は彼女と何の関係もありませんよ」と明言してしまえば……。
……なんの解決にもなりそうにはない。
ていうかそんなことをあいつに向かって言うのもなんだか癪だ。
付き合ってることになったり付き合っていないことになったり、話が面倒だ。
どうしてこうなった。
俺のせいか。俺のせいだ。どうせぜんぶ俺のせいだ。
353: 2012/06/09(土) 11:56:28.89 ID:sAYgZV8xo
妹が帰ってきて、俺の部屋のドアを叩いた。
飲み物を置いたらそのままいなくなるかと思ったのだが、椅子に座って本を読み始める。
俺は眠りたかったが、なんとなく眠れなかった。
妹の顔を見ると、彼女もまたこっちを見ていた。
何を言えばいいのやら。
俺はとりあえず、
「ごめん」
と謝った。「とりあえず」というところがなんとも自分らしい。
「なにが?」
「……だから、あの。触ったこと、とか?」
ああ、と頷いて、彼女は少し気まずそうな顔をした。
「いいよ別に。そんなに怒ってないから」
妹は視線を本に戻す。
354: 2012/06/09(土) 11:56:55.34 ID:sAYgZV8xo
「嘘だ。怒ってなかったら俺を避けたりしない」
「避けてないよ、別に」
「嘘だ!」
「ああもう、うざい!」
割と傷つく。
「気にしてないって言ってるんだから、素直に受け取っておけばいいでしょ」
「でもお前、あれから態度が明らかに変だろうが」
「……自分の落ち度を認めておきながら、ずいぶんと突っ込んでくるね」
いや、まぁ、それを言われると立場はこちらが下なのだが。
355: 2012/06/09(土) 11:57:27.89 ID:sAYgZV8xo
「分かったよ。もう訊かない」
俺が言うと、妹は少しだけほっとしたような表情になる。
こっちが悪いことでもしたような気分になる。いや、したのだけれど。
「だいたいさ、真意を聞きたいのはこっちの方だよ」
彼女は横目でこちらを睨んだ。
「なんだったの、結局あれは」
出来心、とか、魔が差した、とか言ってしまいたい。
だが、それだと、普段からそういう願望を持っているように聞こえてしまいそうだ。
だから、
「さあ?」
としか答えられない。
悲しい。頭がぼんやりする。
356: 2012/06/09(土) 11:57:54.18 ID:sAYgZV8xo
「わけがわかりません」
妹は呆れたようだった。俺は何も言えない。
「なんかもう、どうでもいいや」
不意に妹は、明るくも暗くも聞こえるような、不思議な声音で言った。
俺は気怠い気分に身をゆだねた。もうどうにでもなれ。
「どうでもいいって、何が?」
「変に意地張るの」
「なにそれ」
俺は苦笑した。
357: 2012/06/09(土) 11:59:05.80 ID:sAYgZV8xo
「わたしにもわかんない。感情はいつでもアンビバレンスで、行動はいつでもダブルバインドなの」
「難しいこと言うなぁ」
「非論理的なので上手に説明できないのです。わたしもよく分からないで喋ってるんだけど」
妙なところで似てしまったのだろうか。不思議な話だ。
「兄さんさ」
と、妹は本に目を落としたまま言う。
「付き合ってるの? あの人と」
「あの人?」
「……この前から、やたらうちに来る人」
幼馴染のことだろうか。
昔は仲が良かったのに、今は「あの人」とは、世知辛い。
358: 2012/06/09(土) 11:59:31.91 ID:sAYgZV8xo
「この前も答えたと思うんだけど」
「うん」
「付き合ってない」
「付き合っちゃいなよ」
目も合わせないまま、妹は言った。
「とっとと彼女つくってください」
「なんで?」
妹は答えない。俺は溜め息をついて瞼を閉じた。
十二月もそろそろ中ごろだ。雪はいつ降るんだろう。
つけっぱなしのストーブのせいで、部屋はもやもやと暑いくらいだ。
妹が立ち上がって電源を落とすと、マヌケな音を立てて風が止まる。
359: 2012/06/09(土) 12:00:02.55 ID:sAYgZV8xo
「具合悪い?」
「全然平気」
俺は心から答える。
「うそつき」
と彼女は言った。
「顔真っ赤。汗すごいよ」
「寝れば治るよ」
「そりゃ、そうだろうけど。薬飲んだ?」
「いや」
「持ってくる」
「別にいいよ」
「いいわけないから」
360: 2012/06/09(土) 12:02:41.31 ID:sAYgZV8xo
なんなんだ、こいつの態度は。熱も相まってひどく混乱している。
何を考えればいいのかもわからない。
本当に俺はひとりだって平気なんだから、放っておいてくれてかまわないのに。
むしろその方がよほど助かる。こんなふうに過ごすと、胸の内側がざわざわと落ち着かない。
たまらない不安に駆られる。
妹が薬を持って戻ってくる。俺はひったくるようにそれを受け取って、レモンウォーターで流し込むように飲んだ。
全身がだるい。何も考えたくない。
「もう寝る」
俺は布団をかぶった。妹はすぐには出ていかなかった。俺はじっと身動きをとらない。
彼女は呆れたような溜め息をついてから、
「わかった」
と言って立ち上がった。
361: 2012/06/09(土) 12:03:08.47 ID:sAYgZV8xo
「おやすみ、兄さん」
灯りを消し扉を閉めるとき、彼女は最後にそう言った。
おやすみ。俺は頭の中で答える。そして何度も彼女の声を反芻した。
おやすみ。「おやすみ、兄さん」
俺の中の異常な部分。病的な執着。でも今はそんなことはどうでもいい。
いや、どうでもよくはないのだが、そんなことを考えたって仕方ない。
俺は寝る。沈む。スイッチをオフにする。さようなら現実。すべては夢の中にあるのです。
ひどく、寝苦しい。
370: 2012/06/10(日) 15:36:24.81 ID:+kD5xfkMo
翌日の朝、熱はすっかり下がっていて、俺は普通に登校することができた。
いつものことだ。ときどき原因不明に発熱する。面倒な体だ。
俺と妹は久しぶりにぎこちなさもなく朝の時間を過ごすことができた。
会話はなかったけれど、それは「できなかった」のではなく「しなかった」だった。
いつも通りに迎えに来た幼馴染は、既に起床していた俺に面食らって疑問をなげかけてきた。
「なぜ起きてるんです?」
「なぜ起きてたらだめなんだ」
「起こせないじゃないですか」
意味が分からない。
371: 2012/06/10(日) 15:37:37.16 ID:+kD5xfkMo
俺はコーヒーを一服してニュースを眺める。窓の外の空は雨でも降りだしそうな気配がしている。
俺たち三人は冬の朝の静かな街を並んで歩いた。風すらない。人の気配がない。
師走というわりには、なんとも穏やかな朝だ。
「そういえば、知ってます? あそこの公園」
と、不意に幼馴染が近所の公園を指差した。
「知ってるよ、そりゃ」
「そうじゃなくて。あそこにね、犬が来るんですって」
372: 2012/06/10(日) 15:38:03.46 ID:+kD5xfkMo
「犬? 野良?」
「飼い犬。夕方になると飼い主と一緒に散歩に来て、しばらくあそこで休んでいくらしいんですけど」
珍しい話でもない。
「予知するんですって」
「ん?」
「未来予知」
はあ、と俺は声を出した。妹は興味なさそうにぼんやりと前方を向いている。
373: 2012/06/10(日) 15:38:30.96 ID:+kD5xfkMo
「犬が、未来予知するの?」
「って噂です。詳しい話は知らないですけど」
「眉唾だなぁ」
「ですよね」
彼女はどうでもよさそうに頷く。今の会話はなんだったのだ。沈黙が落ちる。
俺たちは学校に向けて歩いている。俺は無性に走りたいような気分だったが、実際には走りださなかった。
途中で妹と別れ、俺と幼馴染は学校を目指す。
少しずつ人の気配が増えてきて、校門に近付く頃には海流のような人の流れがかすかに見えた。
下駄箱で靴を履き替えて教室を目指す。後者は肌寒い。
階段をのぼって、廊下で幼馴染と別れ、教室に入る。
374: 2012/06/10(日) 15:38:57.41 ID:+kD5xfkMo
「決めた!」
という叫び声が、教室に入った途端に聞こえた。
タカヤの声だった。俺はまた何か厄介な事態が起こるのかと頭痛を感じる。
「俺は今日告白するぞ!」
早く出てきたので、教室にはタカヤとモス以外にはまだ誰もいなかった。愛すべき一年三組。担任は高田。
「……タカヤ、声がでかいよ」
俺が声を掛けると、彼らはようやく俺の存在に気付いたようだった。
モスとタカヤの距離は、俺とタカヤのそれよりもずっと近付いている気がする。
俺自身、あまり彼との関係に積極的ではなかったから、当然かもしれないが。
「こないだも同じこと言って、告白しなかったしなぁ」
モスは呆れた声を出した。「みー」はどう思うのだろう、と考えて、彼女のことを俺が考えても仕方ないと首を振る。
375: 2012/06/10(日) 15:39:43.14 ID:+kD5xfkMo
何かを言うとろくなことにならない気がしたので、俺は口を挟まなかった。
タカヤの決意は固い。こいつはそんなに先輩が好きなのだろうか。
たぶん違うような気がする。
なんだか、タカヤの考えていることは分からない。
「なあ、お前って先輩のどこが好きなの?」
と、俺はふと口にした。してから後悔する。こんな質問に答えられる奴なんているもんか。
「どこって……」
案の定、タカヤは口籠る。どうしたもんかな、と俺は思った。
「なんかあるんじゃないの、優しいとか話してて楽しいとか、かわいいとかおっOいでけーとか」
「いや、先輩おっOいおっきくないし」
よりにもよってそこについて言及するのですか。
タカヤが言うと「おっOい」という言葉すら爽やかに聞こえる。
「そうだっけ?」
俺は先輩の体型を思い出そうとしてみたが、なかなか頭に映像が浮かんでこない。
376: 2012/06/10(日) 15:40:14.45 ID:+kD5xfkMo
「朝からなんて話をしてるんですか、きみたち」
後ろから声がして、振り向くと幼馴染がいた。
こういう意味不明な登場の仕方をする奴が多いから、物事が厄介になっていくのだ。
「いや、タカヤが先輩に……」
と、そこまで俺が口にしかけたところで、タカヤが俺の手のひらで覆った。
「いや、なんでもない。おっOいの話」
爽やかな笑顔で彼は取り繕う。幼馴染は怪訝な顔をしていたが、そこまで興味が湧く話ではなかったらしい。
最近のことで懲りて、なんでもかんでも問答無用で首を突っ込むのをやめたのかもしれない。
それにしても、幼馴染相手に話をごまかせるようになるなんて、彼も成長したものだ。なぜ隠そうとしたのかは知らないが。
俺は呼吸できない現状をどう打開すべきかと考えながら感心した。
377: 2012/06/10(日) 15:40:49.90 ID:+kD5xfkMo
俺はいまいちタカヤの恋心を信用しきれない。
話せるようになった数少ない女子に、優しく接してもらったから、それを恋愛感情と誤解しているのではないか、という気がする。
もちろんだからどうというのではない。そういう形から発展していく関係もあるのかもしれない。
最大の問題は、先輩が猫をかぶっていることだ。
いろんな意味で時間が足りないと思う。
タカヤは焦りすぎだ。もっとじっくりと話を進展させるべきなのだ。
何が彼をそこまで駆り立てるのか。
でかい魚を逃がすことを恐れているのかもしれない。
いずれにしても、上手く行く光景が想像できない。二重の意味で。
めんどくせー奴らが多すぎる。自分を棚に上げていうのもなんだか、世の中はもっとシンプルでいい。
378: 2012/06/10(日) 15:41:34.14 ID:+kD5xfkMo
「あーだりー」
タカヤに解放されてから、俺は大きく息を吐く。
「どうしたんだよ」
モスの質問に、俺はぼんやりと答えた。
「昨日の今日で、クラスメイトの視線がなんだか攻撃的だよ」
彼は、まぁしゃあないわなあ、とでも言いたげに溜め息をついた。なんだよそれは。
ちくしょう。あの茶髪野郎め。奴とはいずれしっかりとケリをつけなければなるまい。
俺の自尊心。俺の自意識。俺の方位磁針。打倒茶髪。取り戻すべき指向性。正常な学園生活。
どうでもいい。
そういえば、幼馴染の自尊心はどうなったのだろう?
現状進展はなし……いやむしろ悪化の一路?
379: 2012/06/10(日) 15:42:01.27 ID:+kD5xfkMo
この場でする話ではないように思えて、俺は彼女に話しかけるのをやめた。
不意にポケットの中の携帯電話が震えた。
メールだ、と思うが、心当たりがない。
タカヤや先輩にはアドレスを教えていない。……教えるべきなのだろうが。幼馴染、モスはこの場にいる。
ディスプレイを除くと、案の定その誰からでもなかった。
『今日の放課後の予定は?』
妹からのメールだった。俺は動揺を隠して周囲をうかがった。幼馴染が何かに気付いたようにこちらを見た。
『特にない』とメールを返す。
『そう』と返信が来る。それだけかよ。なんだったんだよ。俺は思ったことをそのまま打った。
返信はなかなか来ない。俺は携帯をポケットにしまった。
380: 2012/06/10(日) 15:42:46.25 ID:+kD5xfkMo
「パパ?」
と幼馴染が俺を見て小首をかしげる。訝るような目で。こいつはいったいどういうつもりなんだ。
「おお」
初めて実物を目にしたモスとタカヤが声をあげた。感心してる場合か。
幸い周囲は気付いた様子もない。俺の頭はがらんどうだ。
「パパ、浮気ですか」
「誰が浮気だ。正妻は誰だよ」
「わたし」
こいつの頭の中を一度でいいから覗いてみたい。
「娘で妻か。すげえな」モスが感心した。お前の頭もどうなってんだ。
381: 2012/06/10(日) 15:43:13.64 ID:+kD5xfkMo
「なにはともあれ、仲が良いのはいいことだ」
モスは頷く。こいつはやっぱりどこかずれている。
「どんなふうに立ち振る舞えばそんなふうになれるんだ?」
タカヤは尊敬だか畏怖だかよくわからない目をこちらに向けた。お前らあとで覚えてろよ。
今思えば俺はもう少し、幼馴染の異変に気を払うべきだったのかもしれない。
何を言っても後の祭りだろう。モラトリアムは終わるものだ。
当たり前のことだが、俺には他人が何を考えて生きているかなんて、ちっとも分かりはしないのである。
382: 2012/06/10(日) 15:43:40.26 ID:+kD5xfkMo
昼休みに新聞部の部室に行く。タカヤは妙に緊張していた。
幼馴染は「みー」を連れてきた。なぜかはしらない。たぶん先輩が呼ばせたのだろう。
俺と幼馴染は、どうなっても「みー」には気を遣わざるを得ない。
俺は窓際でパンをかじる茶髪を一心に睨んだ。彼は素知らぬ顔でスマホをいじっている。
どうなんだよそれは。俺は思う。こいつ、俺をいったいなんだと思っているのだ。
ちくしょう、決闘だ。尊厳と尊厳を賭けた戦いだ。俺は奴を殴りたかった。
どうしてこんなに怒っているんだろう。
383: 2012/06/10(日) 15:44:11.45 ID:+kD5xfkMo
俺はしらんぷりして先輩と話す。
「先輩は、趣味とかあるんですか」
「特には……ジョギングとか?」
「健康的ですね」
お見合いかよ、とモスが言った。
「すぐに飽きちゃうんだけどね」
「分かります。俺も何度挫折したことか……」
「三日目あたりから飽きちゃうもんね」
「いえ、一日目の段階でやっぱりやめようってなりますよ」
「まずは走りなよ」
走れないんだから仕方ない。
384: 2012/06/10(日) 15:44:41.11 ID:+kD5xfkMo
「先輩の恋愛観をお聞きしたいです」
インタビューかよ、とまたモスが言った。タカヤが少しだけ身を乗り出しかけた。
「んー。特別なことは何も。そんなに経験ないし」
「そうなんですか」
とタカヤが身を乗り出した。
「……うん」
先輩は目を丸くする。「みー」は気まずげに視線をあちこちと揺らす。俺と幼馴染まで気まずい。
385: 2012/06/10(日) 15:45:07.10 ID:+kD5xfkMo
先輩に話を振ったのは失敗だった、思い、俺は「みー」に向き直った。
「君は?」
「わたし?」
と彼女は驚いたような顔でのけぞる。のけぞるなよ。
「……あの、気恥ずかしいから、「君」ってやめてもらえる?」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
「『みー』でいいよ」
そっちの方が気恥ずかしいという男性心理を感じ取ってほしい。
386: 2012/06/10(日) 15:45:46.53 ID:+kD5xfkMo
「それで、えっと……」
俺は質問を繰り返す。
「……『みー』は? 趣味とかあるの?」
俺は無性に照れくさい。幼馴染が呆れたような顔をしている。
そういえば俺は惚れっぽい性格だった気がした。あと女性耐性もない。
「特には」
先輩と同じ答えである。
「最近は編み物とか」
へえ、とタカヤが感心したような顔をする。
やめろ。お前の行動のひとつひとつが俺の心臓に悪い影響をもたらしてるから。
387: 2012/06/10(日) 15:46:16.54 ID:+kD5xfkMo
「マフラーとか?」
うん、と彼女は頷く。
「弟の分編んだりしてる」
「手編みかー」
珍しくないようで珍しいような気がする。高校にもなると買う奴の方が多い。
「手編みのマフラーか……」
とモスが憧憬に酔った声をあげる。言葉の響きに何かを感じ取ったらしい。気持ちは分からないでもない。
分からないでもないが……本質的に『手作り弁当』と同じジャンルの言葉だろう。中身は冷食。いやうまいんだけれども。
さて次の質問だ、と俺は思ったが、先輩に向けた質問をそのまま彼女に向けるのはさすがにマズイ。
あせって俺が考えていると、モスが不思議そうな顔でこっちを見た。
なんだこいつ、喉でも詰まらせてるのか、仕方ねえな、俺が代わりに訊いてやろう。そんな顔。
馬鹿野郎、やめろ、氏にたいのか。そっちは地雷原だ。自信という名のスーツじゃ防げないタイプの地雷だ。
388: 2012/06/10(日) 15:46:53.95 ID:+kD5xfkMo
俺の祈りが通じたのか、モスはこちらを見て不服そうに目を下ろした。俺は安堵する。
その様子を見逃したのか、今度はタカヤが口を開く。
やめろ、お前は存在自体が危ないから。現状不発弾だけど、ちょっとした衝撃でやばいから。
俺は祈ったが、無情にもタカヤの口が開いていく。畜生。
「じゃあさ」
とタカヤが口を開いたところで、机の下で大きな音がした。
机の裏を何かが叩く。少しおいて、タカヤの膝だと気付いた。
「いってえ! 誰か足踏んだ?」
みんな知らん顔をしている。よくやった幼馴染。お前は最高だ。
俺の心臓はまだ高ぶっているが、やはり安堵の方が大きかった。世界は喜びに満ち満ちている。
タカヤは怪訝そうに首をかしげてから、椅子に座りなおした。
389: 2012/06/10(日) 15:47:23.88 ID:+kD5xfkMo
それまでの時間で新しい質問を考えられたらよかったのだが、そんな余裕はなかった。
それでも「みー」に対してふたつめの質問をする流れというのは、なぜだか出来上がってしまっていた。
俺は自分を呪う。だがどうにでも持ち直せる。この流れなら。
「みーちゃんは、好きな男子とかいるの?」
先輩が言った。空気が凍りついた。少なくとも俺と幼馴染はそう感じた。けれどモスとタカヤはそう感じていない。
なんだ、この状況は何だ。俺は何処で間違った。
「みー」は視線をゆらゆらと動かす。先輩の方を見て、幼馴染の方を見て、タカヤの方を見て、俺の方を見た。
最後にまた、先輩に戻って、机の上の弁当箱に戻る。よりにもよってなんで先輩なんだ。モスならばまだマシだった。
「先輩、じゃんけんしよう」
と俺は言った。
「……え、なんで?」
390: 2012/06/10(日) 15:48:17.52 ID:+kD5xfkMo
「負けた方が勝った方の言うことをひとつきく。オーケイ?」
「いや、今の話の流れ、絶対そんな感じじゃなかったけど」
「なんか唐突にそういう気分だった。うん。別にたいした意味はないけど。はいじゃんけんぽん」
俺はグーを出した。先輩は遅だしでチョキを出した。
咄嗟で判断がつかなかったのだろう。
「先輩、ジュースを買ってきて。タカヤも連れてって」
「ちょっとまって、今のなし」
「待ったで戻せる戦争なんてない」
「じゃんけんは戦争じゃないよ」
「うるさい! 敗者は従え! 恨むなら弟を恨むんだな!」
茶髪が、俺関係ねえじゃん、と窓際でぼやく。知ったことか。俺はイライラしている。
391: 2012/06/10(日) 15:48:43.80 ID:+kD5xfkMo
先輩が立ち上がる。タカヤも後に続いた。いいよ、と先輩は言ったけれど、タカヤはそれでもついていった。
それでいい。とっとと告白でもなんでもしちまってくれ。そうして現状をどうにか動かしてくれ。
こういう状況はうんざりだ。選択を保留して、猶予期間を堪能するのは。
俺も似たようなことをしているにしても。
全然うまくいかない。世の中はもっとシンプルでいい。
「みー」が立ち上がって、
「わたし、教室に戻るね」と言った。
幼馴染は引きとめようとしたのか、引きとめようとしてやめたのか分からないが、奇妙な表情で彼女を見上げた。
後ろ姿はそっけなかった。
残されたモスが、ぽつんと、状況を測りそこなっているように呆然とした表情をしている。
今のやりかたはまずかった、と俺は思う。だからといって、他にどうやって回避できたのか。
なんかもう疲れる。熱が出そう。窓際に目を向けると、茶髪が観察するような白い目でこちらを眺めていた。
399: 2012/06/11(月) 19:37:05.86 ID:PtNcRsDDo
放課後、俺はひとりで教室に残った。
モスとタカヤは早々に帰ってしまった。
またタカヤが先輩にどうこうと騒いでいたけれど、今となってはそんなに興味が湧かない。
幼馴染は「今日は一緒に帰れない」とだけ連絡をよこした。
ひどく気分が落ち込んでいる。
めんどくせえ。
なんだか体を動かす気になれずに、自分の席に座ったままでいる。
それでもいつまでもそうしたままではいられないので、立ち上がって、鞄を掴んだ。
だるい。
400: 2012/06/11(月) 19:38:11.00 ID:PtNcRsDDo
廊下から階段を下りて玄関に向かう途中で、茶髪に遭遇する。
俺は顔をしかめた。
茶髪は見下すような目でこちらを眺めて笑う。
こんな表情を、俺は以前にも見たことがあるような気がしていた。
腹の内側がぎりぎりと痛む。
「さっきのは、面白い見世物だったぜ」
彼の笑顔には、奇妙な毒が含まれていた。
憐れむような顔だった。
俺の居心地は悪くなる。
「何が面白いって?」
俺は彼に殴りかかりたい衝動を抑えながら訊ねた。
401: 2012/06/11(月) 19:38:46.43 ID:PtNcRsDDo
「自覚ねえのか?」
彼は笑う。けらけらけら。いやな感じの笑い。なんだか眩暈がしそうだ。
「お前さ、他人を見下してるのな」
「はあ?」
「自分以外の人間は頭悪いって思ってるだろ」
「……なんだ、それは」
「自分がなんとかしなきゃ、身の回りの物事はなにひとつ片付かないって思ってるだろ」
「だから、なんなの、それは」
「気付けよ」
彼は溜め息をついた。
402: 2012/06/11(月) 19:39:18.41 ID:PtNcRsDDo
「あからさまにオトモダチの話を遮ったのは、『こいつは何かまずいことを言いだすだろう』と思ったからじゃねえの」
茶髪は嘲るように言う。
「上手いこと自分が裏から誘導してやらなきゃ、まずいことになるって思ったんじゃねえの」
俺は頭が痛い。
「ずっとそんな具合だもんな、お前。馬鹿な他人を上から操って楽しんでるんだろ?」
何様だよ、と彼は笑う。
廊下の窓から西日が差している。俺はめんどくせえ。だるい。眠い。
「だとしたら、なんなの」
俺は言う。
403: 2012/06/11(月) 19:40:14.65 ID:PtNcRsDDo
「だったら、なんなの。いろいろ言いたいことはあるけど、まぁそれでいいよ。俺は他人を見下してるってことで」
「へえ」
と茶髪は感心したように言う。俺はこいつの余裕ぶった態度が気に入らない。
「で、だったらお前はなんなの? 他人の欠点を指摘して悦に入ってる小者か何か?」
面食らったように、彼は目を丸くした。
「俺がどんな人間の屑だったとしたって、お前のやってることが八つ当たり以外の何かになるわけじゃねえよ」
俺は言い切った。他人にこういう言葉をぶつけたのは久しぶりだと言う気がした。
ひどく嫌な気分になる。嫌なのは、俺がこの言葉をぶつけることを、楽しんでいるからだ。
茶髪は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐににやにや顔に戻った。
「俺の言葉が八つ当たりだとしたって、言ってる中身が間違いだって話にはならねえよ」
俺は額を押さえた。
404: 2012/06/11(月) 19:40:40.90 ID:PtNcRsDDo
「俺はお前が嫌いだ」
と俺は言った。本当に嫌いだ。こういう無神経な奴は。
「前と言ってることが違うな」
「男心と秋の空って奴だ」
「女心だろ?」
「しらねえよ。ばっかじゃねえの」
「理不尽だな」
茶髪は楽しそうに笑った。俺の頭痛はひどくなる。どうして俺たちはこんな話をしてるんだ?
「帰る。さようなら。できれば二度と会いたくない」
そうして俺は茶髪に背を向けた。奴は最後まで余裕そうな笑みを浮かべたままだった。
405: 2012/06/11(月) 19:41:07.26 ID:PtNcRsDDo
だるい。頭が痛い。
氏んでしまいそう。
なんだってあんな奴にあんなことを言われなければならないのだ。
取り合う理由はない。あんな赤の他人に何を言われたって。
でも、どうなんだろう。
俺は本当に、彼の言うようなことをしていなかったか?
どうなんだ?
地面がふわふわとしていて、歩いている実感がない。
どうなんだ。
校門を通り過ぎるとき、後ろから衝撃があった。
地面に倒れ込む。
「えっ」
という声がした。俺は起き上がるのさえ億劫で、地面を転がすように体勢を仰向けにする。
妹が立っていた。
406: 2012/06/11(月) 19:41:48.75 ID:PtNcRsDDo
「ごめん」
と彼女は謝る。俺は頭がうまく回らなくて、どうして彼女がそこにいるのかもよく分からなかった。
俺が答えずにいると、妹は不審そうな顔をした。
「どうしたの? なんかあった?」
「べつに」
と俺は答える。立ち上がって制服の埃を払った。溜め息。だるい。
妹がこちらに向けて手を伸べた。俺はその手を掴んで立ちあがる。勢いのままで妹の方に倒れ込みそうになった。
「ちょっと、大丈夫?」
俺はそのまま妹を抱きしめてしまいたいような気がしたが、たぶん気の迷いだ。
407: 2012/06/11(月) 19:42:14.79 ID:PtNcRsDDo
自分の両足で立ち上がる。
「どうした?」
と俺は訊ねた。
妹は何か納得がいかないような表情でこちらを見る。
「いや、べつに。迎えに来ただけ。特に理由はないけど」
冬の夕方は少し肌寒い。
「気付かずに通り過ぎてくから、無視されたかと思った」
妹は白い息を吐く。どうして雪が降らないんだろう。
408: 2012/06/11(月) 19:42:40.69 ID:PtNcRsDDo
「なにかあったの?」
と妹は言った。俺は答えずに歩き出す。彼女もそれに従った。
「別に。いつものことだよ」
「なにが」
「どうせ俺は嫌われものだよ」
「また拗ねてるし」
妹は呆れたように溜め息をついた。俺は少しだけ安堵した。
世界中から俺と妹以外の人間が消えてくれればいいのにと思った。
けれど彼女はそんなことを望んではいないだろうし、俺のことなんて妙な態度の兄という程度にしか思っていないだろう。
感情はいつでもアンビバレンスだ。
ずっとこのままでいたい。ずっとこのままなんて嫌だ。
黙れよ、と俺は頭の中の誰かに言う。そのことを考えるのはやめたはずだ。
409: 2012/06/11(月) 19:43:43.56 ID:PtNcRsDDo
「どこかに寄ってく?」
俺は訊ねる。妹は答えなかった。
「ねえ、何があったの?」
「何かって?」
うるせえよ、と俺は頭の中で毒づく。
いいかげんガタがきている。限界なのだ。道化の真似事なんて。
所詮猿真似だった。なんにも上手くいかなかった。誰のせいだ? 俺のせいだ。
俺は自分なりに一生懸命やった。でも「自分なりに」なんて言葉は何の意味もなかった。
そんなもんじゃどうにもならなかった。自意識過剰の上から目線。
何をどう逃れようとしたって、結局俺は、俺はゴミみたいに生きてゴミみたいに氏ぬしかないのだ。
考え事はやめたはずだった。
不意に、妹が俺の額をぺちりと叩いた。
410: 2012/06/11(月) 19:44:09.70 ID:PtNcRsDDo
「なに?」
と俺は面食らって訊ねる。
「べつに」
彼女は拗ねたように目を逸らした。なんなのだ。
「根暗なのはしょうがないけどさ、いいかげんわたしの前で暗い顔を見せるの、やめてよ」
妹の横顔は、怒っているようにも困っているようにも見える。
俺は拍子抜けしたような気分だった。肩の力が抜ける。
「さっさと彼女でも作って、その人の前でやって」
嫌なことを言う奴だ。
411: 2012/06/11(月) 19:44:38.95 ID:PtNcRsDDo
「なんで?」
「わたしだと、つい甘やかしちゃうから。いいかげん、お互い兄離れ、妹離れしましょう」
「なにそれ」
俺は笑えなかったが、そうしないとまずい気がしたので笑った。
仮に彼女なんて作ったとしても、俺はその人に暗い顔を見せたりはしないだろう。
まぁそんな話はどうでもいい。俺は少しだけ気分を持ち直した。
「なにか食べていこうか」
「肉まん食べたい」
妹がそう言ったので、俺たちはコンビニで肉まんと、ついでに飲み物を買った。
妹がレモンウォーターを買ったので、俺はスプライトを買った。それから明日飲む用にと、ポカリスエットを買った。
412: 2012/06/11(月) 19:45:08.15 ID:PtNcRsDDo
公園を通りかかったとき、犬の散歩をしていたらしい女性に出会う。柴犬だ。
変な犬だった。こちらをじっと見ている。飼い主らしき女性は、中年の女性で、少し上品な雰囲気があった。
彼女は公園に入って、ベンチに腰掛ける。犬もそれに従っているが、目だけはこっちを見ていた。
俺が犬に気を取られていると、飼い主らしい女性に声を掛けられる。
「こんにちは」
と彼女は頭を下げる。こんにちは。俺も頭を下げ返す。くだらねえ。
「ひょっとして、この犬って、未来予知の」
妹が言う。女性がくすくすと笑った。
「そういうふうに言われることもありますね」
胡散臭い女だ。俺はとっととこの場を去ろうとしたが、妹は妙に興味をひかれたらしい。
こんなことばかりだ。
413: 2012/06/11(月) 19:45:36.60 ID:PtNcRsDDo
「占ってみます?」
「ぜひ」
冗談だろう。
「金とかとりませんよね?」
俺は一応たずねたが、女は笑うだけだった。答えろよ。
「誰を占います?」
と女は訊ねたが。犬はじっとこちらを睨んでいる。嫌な犬だ。俺は犬が好きじゃない。吠えるから。
「じゃあ、君にしましょう。何か占ってほしいこととかある?」
ない。
「じゃあ、俺がこのあと飲むジュースをあててください」
と言って、俺は袋の中のレモンウォーターとポカリスエットを地面に置いた。
414: 2012/06/11(月) 19:46:14.36 ID:PtNcRsDDo
犬はしばらく迷っていた。それは長い時間だった。十分くらいはずっと、レモンウォーターとポカリスエットの間で迷っていた。
いいかげんうんざりしていた頃、犬はそろりそろりとポカリスエットの方に近付いた。
まぁこんなもんか、と俺は思う。
「あなたってずいぶん優柔不断なんですねえ」
と女は言った。うるせえよ。
犬はとうとうポカリを選ぶかと思ったら、いきなりレモンウォーターに向かって顔を動かした。
そしてペ口リとレモンウォーターのボトルを舐めると、あたりに向かって吠えだした。わんわんわん。飼い主ともどもうるせえ。
「こら、どうしてしちゃいけないって言ったことをするの!」
女は犬に向かって怒鳴る。俺はきまずい。
「ふうん」
という顔で、妹が頷く。どこに感心する部分があったんだ。俺は白けたような気分だった。
俺たちは女に礼を言って、帰路についた。
415: 2012/06/11(月) 19:46:40.81 ID:PtNcRsDDo
「なんだったんだろうね、あの人」
「さあ?」
俺は首をかしげた。嫌な女だった。
「綺麗なひとだったね」
妹は犬に関しては何も言わなかった。俺は溜め息をついた。
嫌な女だった。できれば二度と会いたくない。
家についてから、妹と一緒に肉まんを食べてテレビを見る。
頭痛はいつのまにかとれていたが、暗い気持ちはどうしても振り払いがたかった。
427: 2012/06/12(火) 14:02:13.92 ID:7Trnb00oo
翌朝、俺は六時半に目をさました。さましたが、なんとなく気分が晴れなかったので二度寝した。
次に起きたのは二十分ほどあとで、そろそろ七時になる頃だった。
俺は枕元に置きっぱなしにしていたスプライトを飲み干してから再び寝転がり、天井を眺める。
ぼんやりしていると、身体が倦怠感に包まれていく。
今日は学校なんて行きたくねえなあと俺は思った。思ったのだが、行かなくてはならない。
でも、よくよく考えたらこの世界は俺に何ひとつ強制していないような気がした。
そういえば学校に行かなきゃならないというのも、ある種の思い込みにすぎないのかもしれない。きっとそうだ。
ただの強迫観念。うん。本来世界は自由だった。俺は眠い。よって眠る。シンプルだ。
428: 2012/06/12(火) 14:02:41.12 ID:7Trnb00oo
「起きた?」
とドアがノックされる。俺はベッドにもぐったまま答えなかった。扉が開く音。
俺は罰に怯える子供のように息をひそめる。
「兄さん、起きて」
と妹は俺の身体を揺すった。俺は気怠い。
それでもずっと揺すられていると、眠ってはいられない。のだけれど、なぜだろう。
体を揺らされたりすると、よけい眠っていたくなるのは。
俺は布団を跳ね飛ばすように上半身を起こす。
そして叫んだ。
「嫌だ!」
かぶり直す。眠る。俺は学校が嫌いだ。
429: 2012/06/12(火) 14:03:11.01 ID:7Trnb00oo
妹は呆れたように溜め息をつくと、部屋から出て行った。
俺は部屋の中にひとりぼっちになる。やりました。俺は自分の尊厳を取り戻しました。
戦いはいつも空しい。枕も今日はそっけない。
少しして、またドアがノックされる。
「起きてます?」
俺は聞こえないふりをした。
ドアが勝手に開かれる。やめろ、こっちに来るな。
「おーい」
という声と一緒に、俺の背中がぱしぱしと叩かれる。
「グーでいきますか」
という声に、俺は体を起こした。
430: 2012/06/12(火) 14:03:36.77 ID:7Trnb00oo
制服姿の幼馴染は当然のように俺の部屋に立っていた。
俺は溜め息をつく。いいかげんにしろと言いたい。どうして俺の部屋をノックしたりするんだ。
「おはようございます」
彼女は何の裏もなさそうな笑みをこちらに向けてから、俺の頭にぽんぽんと触れた。ねぐせ。
「顔、青いですよ。大丈夫?」
「なぜ部屋に来た」
「毎朝来てるじゃないですか」
「うんざりだ」
「わたしのこと、きらいですか?」
「……そういう話ではなく」
彼女はどうしたらいいのか分からないというように首をかしげた。そこには媚びたり気取ったりという雰囲気が一切ない。
こういう質問を不意に向けてきたりするから、こいつは厄介なのだ。
「きらいじゃないなら、いいじゃないですか。困ったことが起こるわけでもないですし」
431: 2012/06/12(火) 14:04:11.04 ID:7Trnb00oo
そうか? 嫌いじゃなければ、いいのだろうか?
毎朝起こしにきてもらったり、弁当を作ってもらったりして? 一緒に登下校したりして?
あまつさえ付き合っているふりをしたり? 「嫌いじゃないなら」そこまでしてもいいんだろうか?
と、どうでもいいことを考えてもみたが、俺はもう何かに対して積極的に働きかける活力を失っていた。
あの茶髪の言葉なんてどうでもいい。どうでもいいけど、もうやめとこう。いろいろ。
「いいじゃないですか、べつに。ぐだぐだ過ごすのに道連れがいたって」
「……なんつうかね、お前と一緒にいるとね、最近とっても、安らぐよ」
いきなり告白ですか、と幼馴染が頬を染める。違う。
「でもさ、なんつうかさ、時間切れ狙ってる感じで、いまいち乗り気になれないよね」
彼女は痛いところをつかれたように眉をひそめた。俺は知らないふりをした。
実際、彼女が何を考えているかは分からないけれど、何かを考えていることは分かる。
432: 2012/06/12(火) 14:04:36.88 ID:7Trnb00oo
「いいじゃないですか、べつに」
彼女の表情には、怒りにも似た焦りの影が映っていた。
「なにが?」
と俺は訊き返す。彼女は押し黙った。
別にいじめる気はなかったのだけれど、お互い思うところが多すぎて、話がややこしくなっているのかもしれない。
「まぁ、いいか。別に」
俺の言葉に、幼馴染はほっとしたようにも、がっかりしたようにも見える顔をした。
「準備するから、下で待ってて」
言って、俺は制服を掴む。窓の外はおそろしく白い。
冬休みはもうすぐだ。そろそろ雪が降るのだろう。
嫌な予感がした。
433: 2012/06/12(火) 14:05:18.66 ID:7Trnb00oo
「なんだか、近頃は空が鬱陶しい感じですね」
幼馴染の言葉に、どんな感じだよ、と思って見上げてみると、確かに鬱陶しい薄曇りだ。
降るのか、降らないのか、はっきりしろと言いたくなる空だ。
「わたしは好きなんですけどね、こういうの」
彼女は言う。「鬱陶しい」のが「好き」なのか。まぁそんなもんかもしれない。
後ろを歩いていた妹も、ぼんやりと空を見上げている。
じっとその姿を見ていると、身動きが取れなくなるような気がして、俺は目を逸らした。
「休みに入ったら、何しますか?」
幼馴染の質問に、俺は考え込んだ。
何をしよう? 何も思いつかない。休みの間にしたいことなんて何もない。
「ぐったりしたい」
とだけ答えると、彼女は呆れたように溜め息をついた。
434: 2012/06/12(火) 14:05:49.65 ID:7Trnb00oo
タカヤが先輩に告白したという話は、その日の昼休みに幼馴染を通して聞いた。
昨日のやり取りで先輩と二人きりになったとき、タカヤは先輩に話があると告げた。
そして今朝、先輩を呼び出して話をしたのだという。
突然の(と先輩には思えた)タカヤの告白に、彼女は動揺した。
彼女はタカヤをそういう対象として見ておらず、どう反応すれば分からなかったらしい。
幸いタカヤの方が、返事は後でいいと言ったため、その言葉に甘えて時間をもらい、幼馴染に相談しにきたのだという。
一連の流れを思って俺は頭痛がしそうな思いがした。
当たり前のことだが、俺にはどうすることもできない。
どんな話に転んだとしたって、ここで俺が介入することはできない。
俺がここで介入しようとするとしたら、まさしく「上手いこと自分が裏から誘導してやらなきゃ、まずいことになる」と思うからだろう。
茶髪の言葉を気にしているわけではなく、俺が入り込む余地なんて最初からないのだ。
435: 2012/06/12(火) 14:06:23.27 ID:7Trnb00oo
午後の授業を受けている間も、俺の頭からはあの二人のことが頭から離れなかった。
タカヤの態度は、それを思えばひどく自然で、落ち着いたものに思えた。どうして彼はあんなに平然としているんだろう。
俺はタカヤと先輩と、それから「みー」のことについて考えた。
そして自分と幼馴染が、どれくらい彼らの交流に関与したかについて考えた。
そのうち考えるのが嫌になって、ぼんやりと窓の外を眺めることにした。
俺は昨日の茶髪の一言一句を思い出そうとしたが、上手くいかなかった。
タカヤのことを考えるのが億劫だったので、俺は自分がなぜあんなに茶髪に嫌われているのかを考えることにした。
単なる嫉妬や八つ当たりというには、彼の態度はあまりにひどい。
俺が人に言えることではないが。……だとすれば、彼は俺とあったことがあるんだろうか?
それとも、たとえば、俺が手ひどい目に遭わせてきた相手――いくらか心当たりはある――の、友人だとか。
それはありそうな話だと思えた。
436: 2012/06/12(火) 14:06:49.40 ID:7Trnb00oo
考え事をやめようとしても、ふと気付けばやっぱり考え事をしている。
そういう人間性なのかもしれない。
どうせ集中できないことだしと思い、俺は眠ることにした。教師の声には催眠効果がある。
けれどなかなか眠れなかった。どうにも気分が落ち着かない。どうしようもない。
俺は一から百までの数字を数えることにした。そのことだけに集中して、他のことはすべて忘れる。
何も考えたくないときは、そういう単純なことをするのが一番いい。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
数字を数えているうちに、俺はなんだか子供の頃のことを思い出した。
今となっては古びてしまった思い出なのだけれど、その記憶は俺の中でも重要なものとして残っている。
幼馴染が一緒にいる。妹が一緒にいる。それで、俺はいつも二人に引っ張りまわされていた。
今とたいして変わらない。十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十。
あの頃の俺と今の俺を別つものってなんなんだろう。
チャイムが鳴って放課後が来ても、俺は身動きをとれずにいた。
446: 2012/06/14(木) 01:33:00.04 ID:mIB6jAMCo
先輩は放課後になってすぐにタカヤを呼びにきた。俺は知らんぷりした。
この妙な、罪悪感というかなんというか、は、なんなんだろう。
俺はいいかげん疲れた。
タカヤの後ろ姿を眺めながら、モスが俺に声を掛けてきた。
「あいつ、すげえ奴だな」
「たしかに。なかなかできることじゃない」
タカヤは教室を出る直前、一度だけこちらを振り向いて笑った。
「うーむ」
「イケメンだな」
モスが笑う。なぜだか俺たちが緊張していた。
447: 2012/06/14(木) 01:33:25.81 ID:mIB6jAMCo
「どう思う?」
俺が訊ねる。
「まぁ、まず間違いなく」
「うん」
「振られるよな」
「やっぱり?」
「いや、でもまぁ、どうなるか分からん。あの先輩気まぐれだし」
さすがにあの人も、気まぐれで判断を変えたりはしないだろうが。
まぁ、考えようによってはこれでよかったのか。
冬休みに入る前に、ある程度の区切りがつくと思えば。……よかった、というとさすがになんだが。
448: 2012/06/14(木) 01:33:59.95 ID:mIB6jAMCo
俺たちは教室に残ってタカヤの帰りを待った。
彼が戻ってくるのは想像したよりもずっと早かった。十五分もかからなかったんじゃないかと思う。
教室に戻ってくると、タカヤは俺たちの方を見て寂しそうに笑った。彼はどんな顔をさせても似合う。
俺はその表情が痛々しい上に生々しくて見ていられなかった。
そして、今この瞬間に、先輩も似たような顔をしているんじゃないだろうかと不意に考えた。
「ダメだった」
とタカヤは言った。だよなぁ、という溜め息をモスはついた。俺はタカヤをみていた。
「そっか」
と俺は言った。だからどうというわけではないのだけれど。
――ところで。
どうして俺は、無性に安堵しているんだろう。
449: 2012/06/14(木) 01:34:29.80 ID:mIB6jAMCo
帰り道で一緒になった幼馴染は、タカヤのことについて一言も触れなかった。
彼女が先輩に対してどのようなことを言ったのかはしらない。特に聞きたくもない。
今となっては終わった話だった。
いや、終わっていないかもしれない。タカヤがこの後どうするつもりなのかを俺は聞いていない。
いまいちあいつの性格というものをつかみきれないけれど、俺は自分があいつの恋心を疑っていたことを軽蔑した。
本当に俺はあいつを見下していたのだと思った。茶髪の言う通り。
「もう、冬休みですね」
と、幼馴染は思い出したように言う。彼女とこの話をするのも何度目だろう。
することがない休み。何もしない休み。うんざり。
帰りの途中でコンビニに寄って、俺たちは肉まんと、ついでに飲み物を買った。
俺はスプライトを買った。彼女はポカリを買った。軒先で肉まんを食べて、じゃあ、と言って別れた。
450: 2012/06/14(木) 01:35:59.36 ID:mIB6jAMCo
家に帰る。俺は無性に落ち着かない気分だった。
なんというか無性に。この気分はあのときに似ている。あの、あれ。あの夜。妹の胸を触ったときの感覚に。
そんなんだったので、なんといっても抑えが利かなかった。自分が何かに操られているような感覚。
頭はぼんやりするし、妙に胸が痛い。
俺はリビングのドアを開く。するとすぐ傍にドアを開けようとしていたらしい妹がいた。
抱きつく。
「うあっ」
という声を彼女は挙げた。しまった、まずった、みたいな声だった。
どうして彼女がそんな声を出すのか、分からなかったが、とりあえず俺は彼女の肩に顔を埋めた。
彼女の身体はすっぽりと俺の身体に収まる。
451: 2012/06/14(木) 01:36:29.67 ID:mIB6jAMCo
背中に回した腕を動かして、彼女の後ろ髪に触れた。俺はなんだか泣きたい。
俺はたぶん何かを求めて、その為に行動していたのだけれど、その何かってなんなんだろう。
それがわからないからずっと混乱している。でも、俺がほしいものはずっと明確なのだ。
ただ、それが手に入らない――少なくとも困難そうに見える――から、代替物を探しているに過ぎない。
そんな精神状態で何かを捉まえたところで、結局満足なんてできないんじゃないだろうか?
鼻から息を吸い込むとなんだか安らいだ。俺は瞼を閉じて腕に力を籠め、妹の身体をぐいと引き寄せる。
密着した身体の体温が、お互いの制服越しに伝わってくる。こんなことをしてよかったのか? もちろんいいわけがない。
「はな」
と、妹は震えた声で言った。
「して」
そこで彼女は、俺の顔を両手で押しのける。顎を押し上げられた格好になり、俺は苦しい。
452: 2012/06/14(木) 01:36:58.15 ID:mIB6jAMCo
俺との距離を取り直すと、彼女は両手で俺の身体をリビングから追いやった。
そうして扉を閉める。すると、何か悲鳴だか歓声だかわからないような声が、いくつか部屋の中から聞こえた。
俺は玄関を見る。見覚えのない靴が二組並んでいた。
扉の向こうから、何かの説明を求めているらしい女の子の声が聞こえる。俺は聞こえないふりをした。
ちょっと待ってて、という妹の声がする。女の子たちは納得がいかないように妹に説明を求めている。
扉が開く。
妹が額を押さえた。
「なんなの」
「魔が差した」
俺は数秒の間に用意しておいた言い訳を言葉に変えた。
妹がじとりとこちらを睨む。俺はせいせいしたような気分だった。頭を掻く。
453: 2012/06/14(木) 01:37:38.32 ID:mIB6jAMCo
「友達が来てる」
「お前、友達いたんだな」
「見られた」
「不幸な事故ってあるものだ」
「事故。あれが、事故?」
彼女は笑っているんだか怒っているんだかわからない顔になった。
その表情にはもっと別の感情も混じっているように見えたが、たぶん俺の気のせいだ。
「よりにもよってなんで友達が来てる日に」
「来てない日ならよかった?」
「な」
と、妹は口をあんぐりと開けて硬直してから、思い直すように肩をすくめて首を振った。
「にをいきなりおっしゃられるやら」
どうやら混乱しているらしい。
454: 2012/06/14(木) 01:38:28.96 ID:mIB6jAMCo
「まぁちょっと待ってろ。俺が小粋なジョークで場をなごませてくるから」
「お願いだからやめて」
彼女の表情は悲壮ですらあった。俺は自分の中の嗜虐的な性格がくすぶるのを感じたが、思いとどまった。
「部屋に行って。下には降りてこないで」
ひどいことを言う奴だ。が、まぁ、自分のやったことを思えば、あんまり強くも出られない。
俺は悪いなぁと思って一応謝った。
「ごめんな」
「別にいいけど、なんかあったの?」
彼女は目を細めて言った。俺は考え込む。なにもなかったはずなのだが。
階段を昇って部屋に戻り、制服のままベッドに寝転がった。
なんだか性欲を持て余しているような気がしたので、鍵でもしめて処理してしまおうかと思った。
思って、そんなことを考える自分に愕然とした。おいおい、妹の友だちが来ているんだぜ。
455: 2012/06/14(木) 01:39:39.36 ID:mIB6jAMCo
俺は自分の性欲について考えた。性欲。俺はひょっとしたら人より強いのかもしれない。
うーん。けれど、なんといおうか、近頃の自分の行動をかんがみるに、やっぱり性的欲求が発散できていないのかもしれない。
暴走しがちだし。やたら怒るし。
そう考えるとむしろしておくべきでは? ……いやいや。
性欲がたまりすぎて頭がまともに働いていないのか? だとしたらやっぱりしておくべきなのか?
……いやいや。でも今まで、そんなことしなくても平気だったわけで。
しばらく考えていると徐々に気分が落ち着いてきた。アホか、やめよう、というふうに。
俺は本を読んで暇を潰し、少し眠って、日が暮れた頃に部屋を出た。
さすがに妹の友だちも帰ったようだった。
妹が家に友人を呼ぶのは初めてのことかもしれない。
まぁ、彼女の学校ももうすぐ冬休みだろうし、なんだかんだとあるのかもしれない。
456: 2012/06/14(木) 01:40:23.03 ID:mIB6jAMCo
リビングに降りると妹がコタツで眠っていた。俺はテレビの電源を入れて、平然とその隣に腰を下ろす。
テレビの中の声を聞きながら、ぼんやり妹の寝顔を眺めた。なんだかなぁ、という気分になる。
俺は今まで見当違いのことをやっていた気がする。
ていうかやっていた。間違いなく。うーむ。
じっと見ていると変になりそうだったので、俺は妹の寝顔から目を逸らす。
それからテレビの電源を消す。家の中が静まり返った。
ぬくぬくとしたコタツに足を突っ込んで、蜜柑を食べる。
そのままずっとぼんやりとしていた。ぼんやり。
その間、俺は何も考えなかった。何も考えずにじっとしていた。そういうことは久し振りだった。
六時を回った頃、俺はコタツから抜け出して夕食の準備を始める。
冷蔵庫の中にはさまざまなものが入っていたので、たいした手間はかからなかった。
俺は準備が終わる頃に妹を起こして、一緒にテーブルについた。
気分がいつになく落ち着いている。どうしてだろう。
夕食のあとに風呂に入って、いつもより早めに眠った。いつもこうありたいものだ。
463: 2012/06/14(木) 15:08:48.59 ID:mIB6jAMCo
「まぁ、分かっちゃいたんだが」
と、タカヤは言った。朝の教室で、俺とモスは彼の声に耳を傾けている。
「なんというか、言わずにはいられなかったんだ」
まぁたしかに彼とて、たかだか一週間ちょっとの付き合いしかない女の人に好意を抱かれるなどと自惚れてはいなかっただろう。
相手の答えなど百も承知で、それでも言わずにはいられなかったとタカヤは言う。
それをどういう風に呼べばいいのか、俺には分からない。若さゆえの衝動とでもいえばいいのか。
タカヤは、なんというか、一生懸命だった。自分自身の感情をもてあましながらも、一直線だった。
そういう姿を見ると、なんとなく、自分が歪であることを自覚してしまう。そういう要素がある。
464: 2012/06/14(木) 15:09:20.45 ID:mIB6jAMCo
先輩はおそらく、昼休みに俺たちを迎えに来ないだろう。今日からは彼女を除いて昼食を取ることになるだろう。
そういう意味では、タカヤの行動がもたらした結果は大きい。
モスはなんとも言い難いような表情で、口を一文字に結んでいる。俺はぼんやりと窓の外を眺めた。
「なんで黙ってるんだよ」
とタカヤは笑う。なんでこいつは笑えるんだろう。
好いた好かれたの話は、聞いてるだけでも疲れる。
「俺が言うのもなんだけど、お前って馬鹿だな」
不意に、モスが言う。タカヤはからりと笑った。
「そんで、いい馬鹿だ」
モスの言葉を聞いて、タカヤはまた笑う。俺とモスも、付き合うように笑った。
空は妙に透き通っている。拍子抜けしたような雲。
465: 2012/06/14(木) 15:09:46.25 ID:mIB6jAMCo
幼馴染は昼休みになると俺を呼びに来た。
天気がよかったので、中庭で昼食を取ることにした。
多少は寒かったが、十二月ということを考えれば暖かすぎるくらいだった。
「タカヤくん、どんな様子でした?」
「妙な具合だった」
「妙?」
「一皮むけた感じ?」
俺は適当なことを言った。
幼馴染はふーっと長い溜め息をつく。
「なんだか、本当に、今月はこんなことばっかりです」
「だな」
頷く。彼女は考え込むように俯いた。
466: 2012/06/14(木) 15:10:39.64 ID:mIB6jAMCo
「来週から冬休みですね」
「だね」
俺は先輩の様子を幼馴染に訊こうとして、やめた。
そのあたりのことに、積極的にかかわりたくない。
面倒だというのではなく、また引っ掻き回してしまうだけという気がした。
「でも、なんていいますか、わたしたちって」
「なに?」
「あほですね」
まさしく。俺は弁当をつつく。彼女がまた溜め息をついた。
「何がしたいんだろうね」
俺は言った。自分が何をしたかったのか、思い出せない。
何かを埋め合わせようとしたことは分かるのだが。
467: 2012/06/14(木) 15:11:06.48 ID:mIB6jAMCo
「いいかげん、自分のことに決着をつける時期が来てるのかもしれませんね」
「自分のこと?」
「です」
決着。不思議な言葉だ。まず日常では使わない。
どれだけの人間が「決着」をつけなければならないものを持っているだろう。
俺がつけるべき決着。自暴自棄。現実逃避。なんだかうんざりとしそうな話だ。
めんどくさい。そういう絵的に地味な話って、好みじゃない。
「でも、そうだなぁ。冬休みだしね。曖昧にごまかしてきたものに向き合ってもいい頃か」
幼馴染はぼんやり頷く。
468: 2012/06/14(木) 15:11:34.01 ID:mIB6jAMCo
弁当を食べ終えたとき、不意にうしろから声を掛けられた。
振り向くと、タカヤの姉がいる。
「やー」
と彼女は気安く言った。俺は小さく頭を下げる。
「うちの弟、どうしたん、あれ?」
「なにがです?」
と俺は知らないふりをした。タカヤが言っていないなら、俺から言う必要もない。
「何か様子が変なんだよねえ」
「どんなふうに?」
「妙ーに落ち着いてる。んで、なんだか物静かになった。頭よさそうに見えるよ、あれだと」
普段は見えないとでも言いたげだ。いや、見えないけど。
469: 2012/06/14(木) 15:12:00.40 ID:mIB6jAMCo
俺は、別に放っておけばいいじゃないですか、と言おうとして、結局やめた。
俺が実際に口にした言葉は、
「本人に訊いてみたらいいんじゃないですか」
だった。彼女は拍子抜けしたような表情で、
「いや、まぁ、そりゃそうなんだけどね」
と言った。俺は溜め息をつく。安堵した。
「なんだかなぁ。冬だからかなぁ。さいきん、みんな素っ気ないなぁ」
タカヤ姉はしばらくぼやいてから、校舎の中に戻っていった。
その後ろ姿を眺めていると、隣に座る幼馴染がひとつくしゃみをした。
比較的暖かいとはいえ、冬は冬だ。
「戻ろうか」と俺は言った。「はい」と彼女は頷く。
俺はぼんやりと「みー」について考える。彼女は本当にタカヤを諦めているのだろうか?
いずれにせよ、それはやはり本人の問題でしかなくなっているのだが。
470: 2012/06/14(木) 15:12:33.66 ID:mIB6jAMCo
幼馴染と別れて教室に戻ろうとした途中で、茶髪と遭遇する。
彼は特に何の感慨もなさそうに、こちらを見た。
なんだ、またこいつか、とでも言いたげな表情で。こちらにちょっかいを出そうとするふうでもなく。
すれ違って、彼はそのまま去っていこうとした。俺は不意に、自分がつけなければいけない決着について考えた。
「なあ」
と声を掛ける。茶髪はすぐに立ち止まった。
「お前はどうして俺が嫌いなんだ?」
彼は肩越しに振り向くと、さして面白くもなさそうに言った。
「逆恨み」
彼はつまらなそうな表情で言った。
471: 2012/06/14(木) 15:13:05.95 ID:mIB6jAMCo
「お前はさ」
と茶髪は言って、
「自分がアキにしたことを、もう少し考えるべきだ」
それを口にした。俺は、なぜ彼の口から彼女の名前が出たのかまったくわからなかった。
「本当はこんなこと、俺が言うことじゃないし、あいつ自身だってもう気にしてない。少なくともそういう風に振る舞ってる」
茶髪は続ける。俺は眩暈がしそうだった。
「でも、俺はそのことがどうしても気に食わない。それはお前を嫌いになるのに十分すぎる理由だと思う」
俺は混乱した。彼の口から出た言葉は、俺を強く動揺させた。
こんなふうに、彼女とのことが自分の現在に姿をあらわすとは思っていなかった。
最後に見たアキの泣き顔を思い出す。その表情を眺めながら、妙にしらけていた自分のことを思い出す。
472: 2012/06/14(木) 15:13:32.60 ID:mIB6jAMCo
「どうして」
と俺は言った。
「お前にそんなことを言われなきゃならないんだ。あいつのことは、俺とあいつの問題だろ。お前はぜんぜん関係ない」
「だから、言っただろ。俺が言うべきことじゃない。でも、気に入らない。ごく個人的に。だから逆恨みだ」
「……わけがわからない」
「なあ。お前はアキを傷つけた」
心臓が針で突き刺されたような気持ちだった。どうしてこいつがこんなことを知っているんだ。
「お前みたいに神様気取りで人の気持ちを弄ぶ奴が、俺は嫌いだ」
ひどい頭痛がした。俺はつとめて何も考えないようにした。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
「仮にどんな事情があったとしてもな」
茶髪はそういうと、こちらをじっと睨んでから、顔を背けて去っていく。俺はその後ろ姿を見送る。
何も言えない。俺は立ち尽くす。物事は通り過ぎたりしない。結局、俺の身の回りを付きまとって離れない。
自分がしたこと。言い逃れのしようもなく、自分の意思で傷つけた相手。
たしかに、「仮にどんな事情があったとしても」、許されるようなことではない。
俺はアキのことに関しては、誰に対しても決して言い訳できない。
俺は苦笑する。たしかに、見ず知らずの他人に嫌われても仕方ないような人間性ではあるようだ。
485: 2012/06/15(金) 17:18:27.62 ID:5bdoEDiwo
アキとのことを具体的に思い出すのはひどく難しい。
彼女と最後に話したときから、まだ一年も経っていないというのに、奇妙な話だ。
それだけ彼女の存在が俺にとってどうでもいいものだったのか、それとも、重要だったからこそ忘れようとしたのかは分からない。
いずれにせよ、俺は彼女とのやりとりの大半を具体的には覚えていない。
確実に思い出せることと言えば、彼女は俺にとって、中学三年のときに話すことのできた数少ない相手のひとりだったということだけだ。
初めて話したときのことはろくに覚えていないし、どうせ大した話もしなかったはずだ。
俺は彼女についてほとんど何も知らなかったし、知ろうともしなかった。
ただその時期、アキはどうしてか休み時間にひとりでいることが多かったのを覚えている。
三年の秋頃に、俺はきまぐれに彼女に話しかけた。そうだったと思う。大した理由もなく。
486: 2012/06/15(金) 17:18:58.56 ID:5bdoEDiwo
彼女は俺のことを「不幸な」子供だと思っていたようだった。
複雑な家庭に育ち、ため込んだフラストレーションを部活動で発散していた男子。
それすらも怪我で不可能になってしまい、行き場のない思いを抱えている、と。
そういう誤解はかなり都合がよかった。悲劇の主人公を気取りたい気分でもあったのだ。すぐに飽きたけれど。
彼女はそう言った「不幸な」境遇の人間と知り合うことが、自分の価値を釣り上げるものだと考えている節があった。
というのは邪推かもしれない。けれど、そういうふうに感じた。
そして俺も、彼女の期待通りに「不幸」であるように振る舞った。それは楽しいことだった。
だから根本的に、俺は彼女に対して「正直」だったことはない。常に「演技」をしていた。
そういう意味では、たしかに俺はアキの気持ちを弄んだとも言えるのだ。
それでも俺は彼女のことが嫌いではなかった。むしろ、かなり好きだった。
だから彼女に付き合おうと言われたときも断ることは考えなかった。
ひょっとしたら彼女ならば、俺の『気の迷い』を振り払ってくれるかもしれないと期待もした。
実際、それはかなりのところまで上手くいったのだ。
487: 2012/06/15(金) 17:19:26.31 ID:5bdoEDiwo
モスはそんな俺の様子を見て眉をひそめていた。
アキの友人(決していないわけではなかったらしい)も、俺との付き合いを決してよいものとは思っていなかったようだ。
その時期、俺は、幼馴染とも、妹とも、まったく話さなかった。
アキは帰り道で手を繋ぐのが好きだった。俺は毎日、かなり遠回りして彼女を家まで送った。
雪の降る冬の日もずっとそうした。それは安らぐ時間だったが、結局破綻した。
「わたしのこと、好き?」
と、アキは何度も聞いた。そう確認しないと落ち着かないとでもいうように。
実際、彼女は些細なことで不安になった。俺が誰かと話したり、目を合わせたりしたことに気付くだけで、何度も何度も追及した。
おそらくは彼女にも、そうなるだけの理由はあったのだと思う。不安になってしまうだけの。
けれど俺は、その質問を向けられるたびに忘れていた棘が痛むような気持ちになった。
488: 2012/06/15(金) 17:19:52.66 ID:5bdoEDiwo
「好きだよ」
と、そう答えるたびに、俺はだんだんと自分の中の熱が冷めていくのを感じた。
その言葉を放つ自分が、見知らぬ他人のように思えた。何度も繰り返されるたびに。
俺は彼女が好きだったけれど、それは特別な「好き」ではなかったからだ。
アキは俺の答えを聞くと愛らしく笑った。自惚れでなく、幸せそうな顔をしていたと思う。
俺もそれに応えるように笑った。作り笑いだ。でも彼女は、俺の笑顔を見て更に幸せが深まったような顔になる。
そういうことに気付いたときには、俺はもうアキを好きだとは思えなくなっていった。
ただ彼女の一挙一動にいら立つようになっていった。
俺は自分自身の「気の迷い」の大きさを見誤っていたのだ。
だから破綻は必然だった。俺はアキと話すのが嫌になって、口をきかなくなった。
最後は無惨だった。放課後の教室に俺を呼びだして、アキは必氏になって言った。
何か悪いところがあったならなおすから言ってほしい。何がまずかったのか教えてほしい。
俺はかなりひどいことを言った。言ったと思う。よく覚えていないし思い出したくもない。
俺はアキを可哀想だと思った。他人事のように。そして、アキに背を向けて教室を去る時、ひとつの感慨が胸に湧くのを感じた。
やっぱり駄目だったか。
それだけだった。
489: 2012/06/15(金) 17:20:30.40 ID:5bdoEDiwo
茶髪がどうしてアキのことを知っているのかは分からないが、他校の人間と交流でもあるのだろう。
そういう経緯で彼らが仲良くなったところで、意外ではあるが不思議ではない。
そしてアキから、あるいは彼女の友人から、俺のことを訊いていたのなら、彼の言動も理解はできる。
まさか最初に会ったあのコンビニのときは、気付いてもいなかっただろうが。
けれど、やっぱり茶髪には関係のない話だし、彼に指摘されたと思うとバカらしい気持ちになる。
なんであいつにあんなことを言われなきゃいけないんだ。
そう思っても、腹の奥に重い何かがわだかまっているような気分はおさまらない。
アキは、俺が生きてきた中でもっとも強く傷つけた相手だ。まちがいなく。
それも俺自身が、自分の感情と折り合えなかったからというだけの理由で。
何もあんなふうにひどい別れ方をしなくてもよかった。他にやりようはいくらでもあった。
そういうふうに考えだすと際限がない。俺はアキのことは考えたくなかった。
490: 2012/06/15(金) 17:20:58.55 ID:5bdoEDiwo
それでも茶髪は「アキにしたことをもっと考えるべきだ」と言う。どうして?
俺がアキにしたことは、あくまでも俺がアキにしたことだ。それをどうして今になって掘り返さなきゃいけないんだ。
ぐるぐるとまわり続ける方位磁針。
俺は放課後の教室にひとりで残った。モスとタカヤは先に帰ってしまった。
そういえばもう、今週末には終業式なのだ。俺は不意に思う。
重苦しい気分で溜め息をつく。
俺は立ち上がって、教室を出た。新聞部の部室に向かう。
茶髪も先輩もそこにいた。最初に俺に気付いたのは先輩の方で、彼女は気まずそうにこちらを見た。
俺は頭を下げて、茶髪のいる方へと向かった。
「話があるんだけど、いい?」
彼は怪訝そうに目を細めた。
491: 2012/06/15(金) 17:21:24.14 ID:5bdoEDiwo
俺と茶髪は適当な空き教室に入った。茶髪は教室の後ろに積まれていた椅子のひとつをとって腰かける。
俺は単刀直入に話をすることにした。
「どうしてお前がアキのことを知ってるんだ?」
俺が訊ねると、彼はそんなことかと溜め息をついた。
「友達だから」
「そう。それで、俺が嫌いなのか」
「ああ」
「じゃあ、なんで俺に構うんだ」
俺は苛立っていた。彼の言葉は身勝手にしか聞こえなかったのだ。
「嫌いなら構わなきゃいいだろうが。どうして俺に何かを言ったりする?」
彼は呆れきったように溜め息をついた。
492: 2012/06/15(金) 17:21:58.52 ID:5bdoEDiwo
「わかんねえのかよ」
と彼は言う。俺は目を細める。
「なにが」
「お前が今やってること。アキのときとおんなじじゃねえか」
「……何の話?」
「別に好きでもない相手と付き合って、友達になんていらないくせに友達を作って」
俺はぎくりとした。
「俺は誰とも付き合ってなんかない」
「だろうな。知ってる。でも、大差ねえよ」
茶髪は嫌味っぽく笑った。
493: 2012/06/15(金) 17:22:39.81 ID:5bdoEDiwo
「お前が本当のところ、何を欲しがってるのかはしらない」
彼の話が続く。俺は頭を抱えたい気分だった。
「でも、お前はそれが手に入らないから、いらないもんをとっかえひっかえしてるわけだ」
別に欲しくもないくせに手を伸ばして、本当に欲しいものは手に入らないからと掴もうともしない。
けれど完全には諦めきれなくて、やっぱり代わりのものじゃ満足できなくて、結局手に入ったものも捨ててしまう。
『ああ、やっぱりこれでも駄目か』と。
どうしてこいつは、こんなに俺のことを見抜いているんだろう。
「お前がどんなふうに生きようとお前の勝手だけど」
と、彼は言う。
「お前は間違いなく、またアキのような人間を生むぞ。お前は今のままじゃずっと誰かを傷つけ続ける」
俺は俯く。茶髪は疲れ切ったように溜め息をついた。
494: 2012/06/15(金) 17:23:05.70 ID:5bdoEDiwo
「それに、何の関係があるんだよ」
俺は言った。自分でも驚くことに、声が震えていた。
「お前にはやっぱり関係ないじゃないか。お前は全然無関係の人間じゃないか。なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ」
鈍い衝撃が走った。俺の身体は壁に押し付けられる。茶髪が俺の胸ぐらをつかんでいた。
「わかんねえのか」
茶髪は言う。
「いいかげん悲劇の主人公を気取るのはやめろって言ってるんだよ。お前の陶酔に他人を巻き込むな」
「三流のドラマみたいな台詞だな」
俺は負け惜しみのように笑う。茶髪の顔がさっと赤くなった。
頬に衝撃が走る。殴られた。痛みに目が潤む。じんじんという痛みが宿った。
怯まずに、言い返す。
「お前こそ、何様のつもりだよ。俺の汚さを指摘してヒーロー気取りか? 陶酔してんのはお互い様だろうが」
茶髪は二度目の拳を振り上げた。俺の身体が勢いのまま弾き飛ばされる。
495: 2012/06/15(金) 17:23:39.10 ID:5bdoEDiwo
「気に入らない」
茶髪は吐き捨てるように言った。うるせえよ、と俺は思う。
「なんなの」
俺は言った。
「お前、なんなの。アキのことでも好きなの?」
茶髪は俺の身体を蹴り上げた。
視界が回転しているような気がした。ぐるぐる回る方位磁針。
「お前みたいに他人の気持ちを弄ぶ奴が大嫌いだ」
と茶髪は言う。俺だって好きじゃない。
でも、うるせえよ、と俺は思う。立ち上がった。物音に気付いてか、いつのまにかギャラリーができている。
巣から蟻の列が出るように、新聞部の部室からやってきた部員たち。
496: 2012/06/15(金) 17:24:07.86 ID:5bdoEDiwo
遠巻きに俺たち二人を眺め、止めようともしない人間たち。茶髪はそういえば、学校でも浮いているらしい。
それは俺だっておんなじだ。だから誰も止めない。先輩が、こっちを見ている。
俺は茶髪に殴り掛かった。喧嘩なんて一度もしたことがなかったけれど仕方なかった。
ギャラリーがあっと声をあげる。一度茶髪の顔を殴る。彼はそれを受けた直後に、俺を殴り返した。
俺の脚はとっくにふらふらだった。足に力が入らない。身体が投げ出される。
鋭い音がして、俺の背中で窓が割れた。
ギャラリーが声をあげる。先生呼んで来い、先生。誰かが言う。白々しい、と俺は思う。
こういうところが大嫌いなのだ。
俺はそのまま座り込む。というより、立ったままでいられず尻もちをついた。
茶髪がこちらを見下ろしている。瞳に強い光が宿っている。
俺はゴミのように生きてゴミのように氏ぬしかない。
509: 2012/06/16(土) 08:43:21.61 ID:lYp+dXcSo
「何があった」
と担任の高田は言った。奇妙な顔だった。怒っているようにも困っているようにも見える。
生徒指導室のそっけない机に向かって、俺と茶髪は並んで座っている。
その向こうには三人の教師。俺の担任、茶髪の担任、学年主任。
俺は答えなかった。
「なんとか言わないか」
言ってどうなると言うのだ。窓ガラスが直るのか。もちろん、彼だってそんなことを期待してはいないだろう。
でも、言ってどうなる問題ではないのだ。こんなものは。
「黙ってたら分からない」
当たり前だ。分からせようとしてない。伝えようとしていないんだから、伝わらないのは当たり前だ。
口を動かそうとすると頬が痛む。横目で茶髪を見ると、視線だけを机に落としていた。
510: 2012/06/16(土) 08:44:05.00 ID:lYp+dXcSo
「どうしてあんな騒ぎを起こしたりした?」
別に騒ぎを起こしたかったわけじゃない。周りが勝手に騒いだだけだ。
「答えろ!」
俺が答えずにいると、高田は声を荒げた。うるせえよ、と俺は思う。どいつもこいつも。
学年主任が、俺に飛びかかりそうな高田を「まぁまぁ」と制する。
俺はどうでもいい。頭が痛いのは窓ガラス代くらいか。
夏にバイトしていた分の残りがあるから、払えないことはないだろう。
けれど、この流れだと親にも連絡がいってしまうかもしれない。
それを考えると、憂鬱だ。憂鬱だが、仕方ない。
俺は押し黙ったまま答えない。
思う。たかだか窓ガラス一枚割れただけじゃないか。大騒ぎする方がどうかしてる。
511: 2012/06/16(土) 08:44:32.18 ID:lYp+dXcSo
高田は溜め息をついた。学年主任は額を掻く。茶髪の担任が口を開いた。
「お前が何かちょっかい出したんだろう」
彼は茶髪に向かっていった。茶髪は答えない。俺は胃が痛みそうだった。
高田は戸惑ったように言葉を返す。
「でも、呼び出したのはこいつの方だって話じゃないですか。こいつから殴り掛かるのを見たって奴も大勢いる」
高田はそこで俺を示した。話をまとめてから来いよ。
「挑発されでもしたんでしょう。この生徒が関わることはすべて、この生徒を原因にしているとみていい」
ずいぶんな教師だ。俺はちらりと茶髪を見る。彼は俺の視線に気付いてこっちを見返した。
おい、これどう思う? そんな目で、彼は俺を見た。今までになく親しげな目だった。
俺は苦笑した。
「何を笑ってる」
と高田がまた声を荒げる。ああ、うるさい。
512: 2012/06/16(土) 08:46:01.15 ID:lYp+dXcSo
俺たちが口を割らないものだから、教師たちも困り果ててしまったようだった。
結局話の進展はないまま、今日はとりあえず帰れ、という向きになる。後日連絡する。まぁそんなものか。
窓ガラスに関しても弁償はしてもらう。折半。と高田は言った。
お前らが払えばいいのに。別にどうだっていいのだが。
教室に戻ると三人の生徒が残っていた。モス、タカヤ、それから幼馴染。
彼らは俺の顔を見ると心配そうな顔をした。
「大丈夫か?」
と、はれ上がった頬を見て、タカヤがまず口を開く。タカヤはいい奴だ。
大丈夫、と頷いて、俺は鞄に向かう。
「何があったんです?」
「別に、なんにも」
幼馴染の問いを適当にごまかそうとする。いや、ごまかそうとするつもりすらなかった。
答えることがただただ面倒だったし、疲れてもいた。何かを訊かれることにはうんざりしていた。
513: 2012/06/16(土) 08:46:34.89 ID:lYp+dXcSo
モスだけが、ただ黙っている。
俺は不意に思い出した。
「なあ、モスさ」
彼は意外そうに怪訝な表情になった。
「いつだったか言ったよな。『根はいい奴なのに損してる』って」
モスは頷く。
「今だってそう思ってる」
彼はいい奴だ。どんな人間にも、必ず一個くらいはいいところがあると思っている。
「あれさ、完璧な誤解だな」
俺は言う。馬鹿げた気分だ。ぐるぐる回る方位磁針。
514: 2012/06/16(土) 08:47:07.20 ID:lYp+dXcSo
「そりゃ、くだらないことで他人に軽蔑されることはない。でも、俺は軽蔑されて当たり前なんだよ」
「……何があったの?」
幼馴染が不審そうな顔で言う。俺は答えない。
「嫌われて当然の人間性なんだよ。俺みたいな人間はそれが当然なんだ」
彼らは唖然としたような表情でこちらを見ている。
「何言ってるんだ、お前」
モスは不服そうに言う。俺は頭を振る。
俺は焦っている。
「いや、俺にもよくわからない。別に何か言いたいことがあるわけじゃないんだ」
ひどく混乱している。俺の頭は上手く回っていない。
「ごめん」
と俺は謝る。悲しい気分だった。誰も何も言わなかった。
なんていえばいいんだろう。この感覚は。
別に、伝わらなくたっていいんだけど。
疲れたのだ。
515: 2012/06/16(土) 08:47:42.24 ID:lYp+dXcSo
まあいい。
全部俺のせいってことでいい。実際、そんなようなもんだろう。
俺は三人を教室に残して家路についた。モスは俺を引きとめたけど、追いかけてこなかった。
東の空が青い。俺は歩く。どこにも行き場がなかったし、居場所がなかった。
どこにいっても馴染めなかった。所詮、誰にとっても厄介者でしかなかった。
俺は家に帰る気がどうしてもしなかった。
もちろん、理性の面では、帰るしかないことは分かっている。
ここで帰らなかったら、また更なる迷惑を掛けるだけにしかならない。
それでも、自分に、あの家に入る資格はないような気がした。
資格と言えば、今までだってないようなものだったのだが。
俺は街をぼんやりと歩く。人ごみの中をただ歩いた。
日が沈んで空は真っ暗だった。
516: 2012/06/16(土) 08:48:09.51 ID:lYp+dXcSo
俺はいまも、アキにしたようなことを繰り返しているのだろうか。
モス、タカヤ、幼馴染。俺は彼らのことも、やっぱりどうでもいいと思っているのだろうか。
どうなんだろう。分からない。まったく分からない。
俺は自分という人間が信頼できない。
うろうろと彷徨っているうちに、具合が悪くなってくる。不意の吐き気。
茶髪ならきっとこう言う。
「自己陶酔の次は、自己憐憫か」
たぶん、それは間違っていない。
それで。
どうすればいいんだ、俺は。なんだ。どうなるんだ。
俺はいったい何が不満でこんなところを歩いているんだろう。
517: 2012/06/16(土) 08:48:40.85 ID:lYp+dXcSo
考えてみれば、考えたって仕方ないのだ。
俺がアキにしてしまったことは、既に終わったことだ。
いまさら掘り返して謝ったって、俺の気分が少しマシになる程度が関の山で、アキには身勝手にしか映らないだろう。
だから俺は、アキにしたことをそのまま受け入れるしかない。自分がしたこと。
それを思えば、誰かに嫌われたって仕方ない。
相応じゃないか。見ず知らずの人間に嫌われるくらいが。そういう人間だ。その程度の。
で、それで。そこからが問題なのだ。
俺は本当に同じことを繰り返しているだけなのか。
……違う、と思う。
茶髪はああ言ったけれど、違う。俺はモスやタカヤを、何かの代わりになんてしていない。
自分自身の考えは疑わしいけれど、でも本当にそう思う。
俺はモスを信頼しているし、タカヤに好意を抱いている。
それは分かっているのだ。
518: 2012/06/16(土) 08:49:18.93 ID:lYp+dXcSo
茶髪は俺の大部分を的確に理解しているけれど、ひとつだけ大きな誤解をしている。
俺にはたしかに欲しいものがあって、それが手に入らないから嘆いている。
八つ当たりしたり自己憐憫したり馬鹿なことをやったりもした。
でも、それは別に、俺はたとえば、友達がいらないなんて思っているわけじゃないのだ。
比重で言えば軽いかもしれないが、それは俺にとって不可欠なものなのだ。
「どっちも」欲しいからこそ、困り果てているのだ。
俺は今の家族が好きだし、モスやタカヤや幼馴染が好きだ。
だからこそ、俺は今の生活を壊さないためにも、手を伸ばしてはならない。
そして手を伸ばしたところで、軽蔑されるのがいいところなのだから。
同情心で拾った犬が子供に噛み付いたとしたら、両親はどんな気持ちになるか。
だから俺は諦めなきゃいけない。
本当なら、もう諦めていなければならない。
今の生活を壊さないためにも。
でも、そんなことが可能なんだろうか。
俺は、どうしてこの執着を捨てられないんだろう。
どうしてこんなにひとつのものに執着してしまうんだろう。
519: 2012/06/16(土) 08:49:48.82 ID:lYp+dXcSo
家に帰ると、いつものようにコタツで妹が眠っていた。
ずっとそこにいるとどうにかなってしまいそうだったので、部屋に戻る。
でもだめだった。鼻の奥がつんとして涙が出そうになる。馬鹿らしい自己憐憫。
ベッドに倒れ込む。枕は俺の友だちだが、彼にもし意思があったら、俺のことが嫌いだったに違いない。
いっそ何もかも投げ出して遠くに逃げ出してしまおうか。それもいい。凍え氏ぬのもそう悪くない。
起き上がり、制服から着替えた。家を抜け出す。
外に出ると、息が白く立ち上った。溜め息。
俺はどうするんだ? いい加減ガタがきているのだ。
もう余裕がない。素知らぬふり、平気なふりなんてできない。
モラトリアムの終わり。選択の時。かっこいい。馬鹿みたい。
どこに行くんだ。
どうすんだ。
一歩でも間違ったら氏ぬしかなくなりそうなのに、踏み出すなんてできるもんなんだろうか。
臆病者にも卑怯者にも、相応の生き方がある気がする。
悪人にだってなったっていい。
家の前で立ち止まっていると、後ろで玄関の扉が開いた。
俺は振りむかなかった。
520: 2012/06/16(土) 08:50:37.56 ID:lYp+dXcSo
「寒くないの?」と妹は言った。
「そんなには」と俺は答える。
俺は彼女が本当の妹だったらよかったのにと思った。
それだったら諦めもついたかもしれない。
結局俺は兄にはなりきれなかった。
でも、本当に“そう”なんだろうか。
単に異常な性欲が、身近な異性である彼女に向かっているだけだとか。
ロマンス的な境遇に酔っているだけだとか。
本当のところ、ただの気の迷いなんじゃないのか。
いずれにせよ俺の気持ちは誰も幸せにしない。
あっ、と妹が声をあげて、空を指差す。
「見て、あれ」
俺は彼女の指が示した方を見上げる。
ああ、と声が出た。
雪が降っている。
529: 2012/06/17(日) 14:45:19.53 ID:pEUc62klo
学校から連絡を受けた両親に、説教とも呼べないような静かな説教を受けて、部屋に戻る。
ガラス代は自分で払うと言い張ったが、彼らは認めてくれなかった。
ストーブのスイッチを入れて毛布にくるまる。
しばらくぼんやりとしていると、部屋の扉がノックされた。
妹が顔を出す。
彼女は俺の顔を見て目を丸くした。
「すごい顔してるよ」
「どんな顔?」
「ひどい顔」
だからあんまり、親たちからも怒られなかったのだろうか。俺って、そんなに考えていることが顔に出るんだろうか。
530: 2012/06/17(日) 14:45:47.71 ID:pEUc62klo
「わたしのせい?」
と妹は言った。どうしてそう思うんだろう。
「なんで?」
俺は思うままに訊き返す。
「なんとなく」
案の定抽象的で、理由になっていない。
なんだか肩が疲れている。
妹はベッドの上に座った。俺は毛布にくるまったままベッドに横になる。
「なにがあったの?」
531: 2012/06/17(日) 14:46:13.55 ID:pEUc62klo
「さあ?」
「ごまかさないで」
「実のところ、自分でもよく分かっていない」
「喧嘩したの?」
「あれを喧嘩と呼ぶのかどうか」
「じゃあなに?」
「糾弾と弁解?」
「なにそれ」
彼女はあきれたように溜め息をついた。俺はなんだか笑えてくる。
532: 2012/06/17(日) 14:46:42.28 ID:pEUc62klo
「部屋でぼーっとして、何してたの?」
「考えごとしてた」
「どんな?」
「将来のこととか」
「なんか、いきなり大人チックだね」
「なんともね」
「なんか、悩んでるの?」
妹は、困ったような顔で言った。
「この質問に答えてくれなかったらどうしよう」、と言うような顔。
こいつは、初めて会った時も、こんな顔をしていたんじゃなかったっけ。
533: 2012/06/17(日) 14:47:11.93 ID:pEUc62klo
「いろいろね。そういう時期なんだよ、たぶん。知らないけど」
「なにそれ」
「どーしたもんか、とね」
「今日の喧嘩と関係あるの?」
「あんまりない」
「ないの?」
「ないと思う」
「何を考えてるんだか」
彼女はまた溜め息をついた。
534: 2012/06/17(日) 14:47:43.71 ID:pEUc62klo
「どうしてここに来たの」
と俺は訊ねた。こいつの行動だって、じゅうぶん訳が分からない。
発端があったにせよ、突然俺を避け始めて、それをあっさりやめたかと思えば、「気にしてない」と言い放つ。
そして、今、こんなふうに近くにいる。
嬉しくないわけがない。
けれど、でも、こんなことばかりだから、なんだかどうしても、逃れようがなくなってしまう。
彼女はいくらか迷ったような表情を見せた。「どこまで言っていいもんかなぁ」という顔だった。
「ほっとけないから」
「何を」
「兄さんを」
「どうして?」
俺はいくらか卑怯な聞き方をした。
535: 2012/06/17(日) 14:48:31.31 ID:pEUc62klo
「わかんないけど。つらそうだし、心細そうだから」
「心細そう?」
「迷子の子供みたいな」
思春期少年の自尊心をもうちょっと慮ってほしい。迷子って。
「そんな顔されると、ほっとけない」
なんて奴だろう。こいつは俺の自制心とか、そういうのを根こそぎ奪い取るつもりなんじゃないだろうか。
不意に彼女を抱きしめてしまいたい衝動に駆られ、体を起こす。
俺は手を伸ばし、押さえ、彼女の頭にぽんと手を置いた。
「……なに?」
「良い子だ」
俺は偉そうなことを言う。
536: 2012/06/17(日) 14:49:03.03 ID:pEUc62klo
俺はさっきまで考えていたことを思い出す。
法的に禁じられていなかったとしても、社会的には異端であって、異常であること。
両親のこと。友達のこと。あといろいろなしがらみ。
そして馬鹿らしい気持ちになる。ひとりで何をぐだぐだ考えているんだろう。妄想みたいなもんだ。
俺がこんなことを考えていると知ったら、彼女はきっと俺のことを軽蔑する。
妹は、頭の上におかれたままの俺の手のひらに、居心地悪そうにみじろぎした。
「兄さんはさ」
と、拗ねたような声音で声をあげる。
「なんか、勘違いしてるよ」
「何を?」
「いつも、本当に考えてることを教えてくれない」
言えるわけがないだろう、と俺は思う。言って取り返しのつく問題じゃない。
537: 2012/06/17(日) 14:49:50.34 ID:pEUc62klo
「うわべではさんざん甘ったれたり拗ねたりしてもさ、結局本音は誰にも見せてないんだよね」
「そんなことはない」
こともない。俺は寝転がる。
「それとも、あの人には見せるの?」
「あの人?」
「兄さんの彼女」
「彼女じゃないって」
また幼馴染のことか。どうしてか、こいつの口から幼馴染の話が出ると、気持ちが揺さぶられる。
なぜだろう。
538: 2012/06/17(日) 14:50:16.92 ID:pEUc62klo
妹は気まずそうに顔をしかめた。
「自分のことを話さないのはお前もだろう。俺だって、お前が何を考えているのかさっぱり分からない」
「わたしが考えてることは、いつも単純だよ」
「どう単純なんだよ」
「わかんないけど」
ほら、やっぱり分からない。俺は苦笑する。
どうなんだろう。
いっそ何も考えずに、思うままに本音をぶつけてみればいいのだろうか?
その結果彼女に嫌われたとしても、家を出てしまえばそれで済むかもしれない、というのは楽観的か。
それでも、今のままの生活を続けるよりは、きっとずっとましだろう。
それとも何もかもを忘れたふりをして、普通を気取って生きればいいのか。
いつかきっと、こんな気持ちは消えて、まともになれるもんだと思っていたのに。
俺は、自分がまったくアキのことを思い出していないことに気付いて愕然とした。
539: 2012/06/17(日) 14:50:53.67 ID:pEUc62klo
不意に、インターホンのチャイムが鳴るのが聞こえた。俺は怪訝に思って時計を見る。
もう夜だ。今時間に、いったい誰が来たんだろう。
寝転がったままでいると、いくつかの足音が聞こえた。俺の部屋の前で止まる。
ノックの音。
嫌な予感がする。
「誰?」
と俺は訊ねる。
ドアが開く。妹が不安そうな顔になった。
俺は動揺する。扉を開けたのは幼馴染で、彼女の後ろにはモスとタカヤがいた。
幼馴染が、不満げな表情で口を開く。
「喧嘩しにきました」
俺は唖然とした。
540: 2012/06/17(日) 14:51:31.70 ID:pEUc62klo
「待て待て」
と俺は言う。
「いきなり何のつもりだ。どうした。何があった」
「それを説明してもらうためにきたんです」
話が別の位相で行われている気がする。
「対話は大事です。思うに、きみは自分の頭の中だけで考えすぎてるんです」
幼馴染は不遜に言い切った。俺は戸惑う。
「何の話?」
「きみの話をしてるんです。きみ以外の話なんて一度だってしてません」
いや、意味が分からない。
541: 2012/06/17(日) 14:52:20.06 ID:pEUc62klo
モスとタカヤをうかがう。モスは目を逸らして苦笑している。タカヤは興味深げに俺の部屋を見回した。観察するな。
「今日は具体的な話をしましょう」
幼馴染は大真面目な顔で言った。
「聞きます。思ってることを話してください。全部。隠してもごまかしてもいいから」
「意味が分からない」
俺は額を押さえる。
「相変わらず、お前の思考回路はわけが分からない」
「常にショート寸前ですから。いえ、まぁわたしの話はどうでもいいんです」
本当にわけがわからない。
542: 2012/06/17(日) 14:53:09.93 ID:pEUc62klo
「いいかげん、怒ってもいい頃だと思うんです。いっつも勝手に考え込んで勝手に落ち込んで。もうちょっとこっちに分かるように話してください」
「お前、がんがん踏み込んでくるね」
「今日はそういう日なんです。ときどきはそういう日がないとダメなんです」
俺は黙り込む。
「こっちに分かるように伝える気がないなら、最初から何もないみたいに振る舞ってください。心配かけさせないでください」
どういう理屈だ。
「心配したのか」
「はあっ?」
と、彼女は激昂する。こんなふうに苛立たしげな幼馴染をみたのは初めてかもしれない。俺はかなり驚いた。
「しますよ、そりゃ。あんなこと言われたら。どうしてしないと思うんですか? 逆に訊きたいんですけど」
本当にこいつは何を言ってるんだ、という顔を彼女はする。
俺は困る。
543: 2012/06/17(日) 14:53:35.86 ID:pEUc62klo
とにかく、と半ば怒鳴るような声を張り上げて、幼馴染はこちらを睨んだ。
「今日は腹割って話してもらいます。自分ひとりで勝手に完結されても困るんです。置いてけぼりなんです」
敬語のくせに「腹割って」なんていうもんだから、奇妙な迫力がある。
俺は妹に目を向けた。居心地の悪そうな顔をしている。
俺の視線の先を追いかけて、幼馴染はようやく妹が部屋にいることに気付いたらしい。
俺は無言で促して、妹を立ち上がらせた。彼女は後ろ髪をひかれるようにしていたが、やがて部屋の扉をくぐって出て行った。
ドアが閉じられる瞬間、目が合って、俺はなんだか奇妙な感慨に陥った。
これはなんなんだろう。
まあいいか。
俺は三人の様子を眺める。てんでばらばらの表情をしている。
タカヤは気まずそうに、モスは苦笑い、幼馴染は憤慨している。
なんだかなぁ、と思った。
どこからどう説明すればいいんだろう。いつになく、素直な気分だった。
554: 2012/06/18(月) 22:11:58.19 ID:dbwfJx5Ro
「さて、まずはどこから説明してもらいましょうか」
幼馴染は平然と口を開く。両親も帰ってきているわけで、あんまり長話もできそうにないが、彼女が自重するとは思えない。
ときどき周囲が見えなくなる奴だ。
「そうだ! まず喧嘩! 喧嘩したんですよね?」
言ってから、彼女は俺の頬が腫れていることに気付いた。
「うわあ、痛そう」
興味深そうにしげしげと頬を見つめている。心配はどこへいった。
「なんで喧嘩なんてしたんですか」
「俺は悪くねえよ。あの茶髪野郎がいきなり……」
「そういうごまかしはいいです」
人のせいにして説明を省こうとしたら、あっさり見破られた。
さっきごまかしてもいいって言ってたのに。
555: 2012/06/18(月) 22:12:30.08 ID:dbwfJx5Ro
「説明すんのいやだなぁ」
「どうして?」
「だって、恥ずかしいし」
「思春期の乙女ですかきみは」
「似たようなもんだと思うんだ」
だいぶ違う、と幼馴染は溜め息をつく。
「なんで喧嘩なんてしたんですか」
彼女はもう一度同じ疑問を呟いた。
「まぁ、ちょっと」
「ちょっと」
「むしゃくしゃして」
「……ちょっと、むしゃくしゃして?」
幼馴染は心底呆れきったような表情でこちらを見た。
俺はなんだか居心地が悪い。
556: 2012/06/18(月) 22:12:58.01 ID:dbwfJx5Ro
「え、ちょっと待ってください。じゃあ、なんですか、最近様子が変だったのも」
「様子、変だった?」
「変じゃないと思ってたんですか」
俺は口籠る。正気かこいつは、という目で彼女は俺を見た。
「ここ二、三日はずっと仏頂面でしたよ。それも全部、まさかとは思うんですけど」
「むしゃくしゃしてたから、かな」
「あほですか」
自覚はないでもない。
「じゃあ、むしゃくしゃしてたのはどうしてなんですか」
「……ええと」
俺は答えない。
557: 2012/06/18(月) 22:13:26.67 ID:dbwfJx5Ro
「今は平気なんですか?」
幼馴染は訊ねる。俺は考え込んだ。どうだろう。大丈夫だろうか?
「まぁ、さっきまでよりは」
「そうですか」
そこで彼女は溜め息をついた。
「じゃあ、いいです。今日は帰ります」
えっ、と声が出る。なんなんだ、こいつは。
「とりあえずは、です。明日からも様子が変なら、また問いただしますからね」
「なんていうか」
「なんです?」
「お前と話していると、自分がとんでもないバカだったような気分になる」
「似たようなもんじゃないですか」
そうかもしれない。
558: 2012/06/18(月) 22:13:53.25 ID:dbwfJx5Ro
「それじゃ、帰ります」
幼馴染はこちらに背を向けた。迷わずに扉を開けてから、モスとタカヤが動き出さないことに気付く。
「どうしたんです?」
モスは妙な顔つきで首を振って、
「先に帰ってくれ。話したいことがあるから。タカヤも外に」
幼馴染は一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべたが、結局頷いて、部屋を出て行った。
タカヤは特に思うところもなさそうに部屋を出た。俺はなんだか緊張した。
二人きりになると、途端に部屋に沈黙が下りた。俺は何を言えばいいのか分からない。
559: 2012/06/18(月) 22:14:21.22 ID:dbwfJx5Ro
モスはしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。表情は少しこわばっている。
「お前はさ、やっぱり、好きなのか」
「へあ?」
と妙な声が出た。何を言い出すのかと思っていたら、いきなり変な話になった。
「好きって、何を」
「妹さん」
モスは気まずそうな顔をしていた。おいおい、と俺は思う。なんてことを訊きやがるんだ。
560: 2012/06/18(月) 22:14:49.92 ID:dbwfJx5Ro
「なんですかその質問は。ていうか『やっぱり』ってなんですか」
俺はなぜか敬語だった。モスの表情は読みづらい。
「中学のときからずっとこの家に遊びに来てたけどさ。やっぱり、分かるんだよね」
「分かるって、何が」
「この兄妹、普通と違うよな、っていうのが」
「……なにそれ」
「暗がりにふたりっきりでほっといたら何をしでかすか分からない雰囲気っていうの?」
「あなたちょっと何言ってるんですか」
「まぁそんな感じの雰囲気がね。昔からね」
「いつから」
「ほとんど最初から」
彼を初めてこの家に招いた頃、うちの妹は小学生だったわけなのだが。
……なのだが、あんまり否定もしきれない気がした。自分でもどうかと思う。
561: 2012/06/18(月) 22:15:23.38 ID:dbwfJx5Ro
「血、繋がってないんだよな?」
「……お前も今日はぐいぐい来るね」
「そういう日がときどきは必要なんだって。さっきも言われてただろ」
もうちょっと分散させてほしいものだ。
「繋がってないよ」
俺は一応答える。モスはなんとも言い難いという表情になった。
腕を組んで真剣に考え込んでいる。なんだかコミカルに見えるのはなぜだろう。
「なんかの本で読んだんだけどさ、義理の兄妹って結婚できるらしいぜ」
こいつは話をどこに持っていきたいんだろう。
「知ってる」
「へえ」
できないって話もあるけど、少なくともうちの場合は可能だ。だからどうしたという話なのだが。
562: 2012/06/18(月) 22:15:56.95 ID:dbwfJx5Ro
「でもさ、ないだろ。そんなん。一緒に暮らしてるんだぜ? そういう対象として見ないよ」
俺は一般論を言った。モスは「まあたしかに」と頷く。
「でも、そういう対象として見れない奴が多いってだけで、見れる奴がいないってわけじゃないだろ」
そりゃそうなのだけれど。……そうなのだけれど。
「一緒に暮らしてるだけで相手を好きになれなくなるなら、結婚ってシステムはやっぱり非効率的だよなぁ」
なんでもかんでも巨視的な話に持っていきたがる奴だ。それとこれとは話が違う。
「つまりさ、大勢の人間がきょうだいをそういう対象として見られないとしても、お前がそうかって話と、そのことは別の話なんだよ」
「……いや、まぁ。そのあたりはいいんだけどさ、別に」
モスの話は、なんだかさっきからおかしい。
563: 2012/06/18(月) 22:16:38.72 ID:dbwfJx5Ro
「つまり、何が言いたいの?」
「いや、なんていうかさ」
モスは頭を掻いた。
「それでもいいんじゃねえの。と、俺は思うよ」
「……ん?」
「うん」
「……え、なにが?」
「だから、別にいいんじゃねえの。そういうのも」
「……ん?」
こいつは何を言っているんだ?
564: 2012/06/18(月) 22:17:05.33 ID:dbwfJx5Ro
「無責任なこと言うようだけどさ、そんなにつらいんだったら、自分の気持ちに素直になっちゃえよ」
「いやいやいや。その発言本当に無責任だよ」
自分の気持ちなんかよりよっぽど優先すべきものがあると思うのです。
「こないだおみくじ引いたんだよ、神社で」
「いきなり何の話ですか」
「そしたら、小吉だった。恋愛のとこにね、「用心深さと臆病さは似て非なるもの」って書いてあったよ」
モスは髪を掻きあげる。
「今思えば、アレお前のことが書いてあったんじゃないかな」
どういう発想だ。なんでお前が引いたおみくじに俺のことが書いてあるんだ。
565: 2012/06/18(月) 22:17:52.10 ID:dbwfJx5Ro
「いや、いろいろと問題とか、障害があるだろうっていうのは分かるけどさ」
モスはあっさりと言う。
「でもお前、好きなんだろ?」
俺には返す言葉がない。溜め息すら出てこない。
自分が呆れているのか、感心しているのかすら判然としなかった。
「だったらいいじゃないか」
モスは言葉を重ねる。本当に、こいつは無責任なことを言っている。
俺はやっとの思いで口を開き、絞り出すように言葉を返した。
「あのさぁ、普通、引くだろ。義理だろうとなんだろうと。なんでお前、そんな平然としてんの?」
「お前こそ、何をいまさらなことを言い出してるんだよ」
「普通の人はそうかもしれないけど、俺はそうじゃないってだけだ」
俺はようやく溜め息をついた。
俺は今までいったい何をやっていたんだろうか。
575: 2012/06/19(火) 14:03:05.03 ID:UPeH3H9no
モスと一緒にリビングに降りると、幼馴染とタカヤがコーヒーを飲んで妹と話をしていた。
妹の態度がおかしかったので、てっきり幼馴染とは折り合いが悪いのかと思っていたのだが、ごく普通に会話している。
タカヤは特に気まずそうでもなく、黙って窓の外を眺めていた。
もう雪はやんだようだった。
両親は部屋に戻っているらしい。なんとも。
「終わりましたか」
「まぁね」
モスが答える。俺はなんだか気分が落ち着かない。
妹に視線を向けると、目が合う。逸らす。なんなのだ。
客人たちは動き出す気配がない。というのも、いつも先頭に立つ幼馴染が動き出さないからだろうが。
幼馴染はふと声をあげた。
「ゲームしません?」
「……いきなりなんですか」
溜め息。
576: 2012/06/19(火) 14:03:31.07 ID:UPeH3H9no
「スマブラしましょう、スマブラ」
「いや、帰ろうよ。明日も学校だよ」
「やろうよ」
と言ったのはタカヤだった。
「なんかさ、お前ら忘れてるみたいだけど」
彼は不服げに言う。子犬系の顔が相まってちょっとかわいい。かわいいけど、そう思ってはいけない気がする。
「俺、昨日先輩に振られたばっかりだぞ! もっと慰めろよ!」
「あー」
すっかり忘れていた。
577: 2012/06/19(火) 14:04:00.10 ID:UPeH3H9no
「いや、そうだな。スマブラしようか、タカヤ。俺はお前にもっと優しくするべきだったかもしれない」
「そうだな。今日はお前がやりたいだけ付き合おう。コンビニ行って飲み物買ってくるか。タカヤ、おごってやるよ」
「……あからさまに同情するなよ、悲しくなるから」
俺とモスの言葉に、タカヤはうなだれる。難しい奴だ。
「じゃあじゃんけんで負けた奴がジュース買いに行くか」
「みんなで行けばいいじゃないですか」
「絶対寒いよ」
「いいじゃないですか、別に」
まぁ、いいと言われてしまえばいいんだけど。
578: 2012/06/19(火) 14:04:25.86 ID:UPeH3H9no
「お前も行くか?」
と妹に訊ねると、彼女は首を横に振った。
「もう部屋に戻ってるから」
俺が返事をするより先に、幼馴染が声をあげた。
「なんでですか。一緒にスマブラしましょう、スマブラ」
幼馴染は心底そうしてほしいような表情で言った。こいつには誰もかなわないのではないか。
「一緒にいきましょう、コンビニ。肉まんおごりますから」
「何かを買ってあげるからついておいで、って人にはついていかないようにって、兄に言われてるんです」
「おそるべきお兄ちゃんですね。いったいどんな人ですか」
いつの話をしているのだ、妹は。小学生の頃のことじゃないか。
579: 2012/06/19(火) 14:05:59.25 ID:UPeH3H9no
「そういうのは、知らない人のときだけ気をつければいいんです。お兄ちゃんも一緒なんだからいいじゃないですか」
妹はしばらく「めんどくさい」と「ちょっと行きたい」の表情を行ったり来たりさせていたが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、行きましょうか。お兄ちゃん」
「その呼び方やめてくんない」
幼馴染の辞書に反省という文字はない。……こともないはずなのだが。
夜道を歩いて、コンビニに向かう。持っているのは財布と携帯だけ。
みんなほとんど手ぶらだ。なんだかすっきりしている。
空を見上げると星が綺麗だったけれど、それを口に出すのは面映ゆいのでやめておいた。
妙な気分だ。高揚しているようにも、静まり返っているようにも思える。
ひそめた声で世間話を続けながら、俺たちはコンビニを目指した。
580: 2012/06/19(火) 14:06:26.06 ID:UPeH3H9no
店内ではクリスマスケーキの予約受付の看板が飾られていた。コンビニでケーキを買う人なんているのだろうか。
いるから売ってるんだろうけど。
ジュースとお菓子類を適当に選んで、レジに向かう。
タカヤの分は俺がおごった。
レジで会計を済ませていると、入口から見覚えのある女の子が入ってきた。
目が合う。
少しして、彼女の方が目を逸らした。様子をうかがうと、どうやら同い年くらいの男と一緒らしい。
平気そうに知らんぷりをされる。うーん、と俺は思う。なんとも言い難い。
釣銭を受け取って、店を出た。微妙な気分だ。これでいいわけではないし、これでだめなわけでもない。
「どうかしたの?」
と、幼馴染に買ってもらった肉まんを頬張りながら、妹が言った。
「特には」
答えると、息が白く染まった。
581: 2012/06/19(火) 14:06:56.25 ID:UPeH3H9no
「さて、戻ってゲームするとしますか」
幼馴染が声をあげて先頭に立つ。
タカヤとモスが、それを追いかけた。俺と妹は最後列につく。
家に帰ってゲームするって、なんとも色気のない話である。
あったって困るけど。
結局その日、三人は結構な時間居座って、ゲームをして帰って行った。
玄関で彼らを見送るときには遅い時間で、リビングは結構な具合に散らかっていた。
片付けることを思うと頭が痛いが、まぁ仕方のないことだ。
三人を玄関で見送って、部屋の片づけを始める。
俺と妹しかいなくなると、家の中は突然静かになったように感じた。
片づけを終えてから、両親の部屋を覗いた。
どちらも、もう眠っているらしい。結構騒いでしまったのだが、大丈夫だったのだろうか。
しかし、説教を受けたその日のうちにバカ騒ぎって、いくらなんでもアホかという話ではある。
幸いあんまり騒がしい性格の奴はいないし、盛り上がるにしても静かだったので良かったが。
582: 2012/06/19(火) 14:07:24.91 ID:UPeH3H9no
もうすぐ冬休みなんだ、とふと思った。
そしてクリスマスがきて大晦日がきて、正月がきて、あとそれからいろいろある。
さて、と俺は考え込む。
明日のことを考えると、少し気が重い。
問題はなにひとつ転じていない。明日も説教はあるだろう。
窓ガラス代のこともあるし。
とはいえ、なんだか昨日までよりも、気分が優れている。
これは何のどんな効用なのか。
いずれにしても、もうすぐ休みだ。
心配事はそんなに多くない。
588: 2012/06/20(水) 14:29:01.04 ID:ug7JTQkno
ベッドで眠っていると、なんだか揺れている。
これは地震か。そう思いながらも、まぁ家がつぶれるならそれもよかろうと眠ったままでいる。
すると、声がした。
「起きて」
と言われて、起きる。妹がいた。
「……なぜ起こした?」
と俺は問う。
「ねぼけてるの?」
妹は呆れ顔だった。
「そうではなくて。近頃は起こしてくれなかったような気がするのだが」
「こないだも起こしたでしょう」
そうだったっけ。
589: 2012/06/20(水) 14:29:57.56 ID:ug7JTQkno
「わたしではご不満でしょうけれども」
「何のお話ですか」
「べつに」
なんだか嫌な感じの態度である。
「まだ寝てたっていいよ。今日も起こしにくると思うから」
「あ、そう?」
何の話か分からないが、俺は一分一秒でも長く惰眠を貪っていたい。
俺の答えを聞いて、妹はすねたような顔でそっぽを向いた。
こいつも何を考えているのやら、と少し考えたが、眠かった。
「おやすみ」
と俺は言った。目をつぶる。眠気はすぐにやってくる。二度寝は至福だ。冬の朝は寒い。
なんだか頭がぼんやりする。
590: 2012/06/20(水) 14:30:29.44 ID:ug7JTQkno
少しすると、また揺れる。またか、と俺は思う。もう時間なのか。
いいから寝かせておいてくれ。どうせ休みになるんだし。
でもだめ。今度はさっきより激しい。どうやら時間らしい。
体を起こすと、幼馴染がいた。
「おはようございます」
「……おはよう」
彼女は俺の寝癖をぽんぽんと叩いた。
「今日も一日がんばりましょう」
からりとした笑顔で言う。こいつが言うとなんとも空々しい。
さて、と俺は思う。
それでもやっぱり学校なのだ。今日も今日とて。
591: 2012/06/20(水) 14:31:02.05 ID:ug7JTQkno
教室につくと、窓際の俺の席で、タカヤが何か思い悩んでいるようだった。
「どうした?」と声を掛ける。
「いや」
彼は首を横に振る。何が「いや」なのか。
「なんだか、すっきりしないなと思って」
「何が?」
「なんだか、よく分からないんだけど……」
何の話をしているんだろう。
「このままでいいのかな。何か忘れてる気がする」
そうは言われても、俺にはなんとも答えられない。
592: 2012/06/20(水) 14:31:40.33 ID:ug7JTQkno
タカヤの表情をよそにモスはひとりで練けしを作っていた。
こいつはこいつで何をやっているのやら。
俺たちが教室で世間話をしているうちに、教師が俺を呼びに来た。
嫌な話だ。俺は職員室に連行される。曳かれ者の小唄。
なんだか月並みな話を聞かされる。
ついでに反省文という言葉の上でしか知らなかった存在にまで直面し、俺のテンションは下降した。
でも仕方ない。それが俺のしたことなのだ。
教室に戻って、平然と話の輪に戻る。
なんだか気分が冴えなかった。
593: 2012/06/20(水) 14:32:07.43 ID:ug7JTQkno
昼休み、幼馴染に呼び出される。
「お弁当は?」
「今日はありませんよ」
「なぜ」
当てにしていた自分を棚に上げ、幼馴染の行動の意図を問いただす。
「いつまでもわたしをあてにしないでください」
スパルタめ。
「ところで、俺たちはどこに向かっているのでしょうか」
俺たちは廊下を歩いている。何度も通った廊下。なんだかこのままだと、知っている場所にたどり着いてしまいそう。
「新聞部の部室です」
なぜ。
594: 2012/06/20(水) 14:33:11.37 ID:ug7JTQkno
部室では先輩が待っていた。彼女は俺の姿を見て、なんだか微妙な顔をする。そりゃ、そうもなるだろう。
彼女自身のことも彼女の弟のことも、どちらも俺と関わっている。
「あのさ、ほっぺた、平気?」
彼女はまず、気まずげにそう言った。
「平気ですよ。弟さんの方は平気そうですか?」
「うん。いや、ごめんね」
どうして謝るんだろう。口には出さなかったが、なんとなく納得がいかなかった。
「なんというか、ね」
彼女は気まずげに溜め息をついた。なんとも言えない。
「まぁ、いろいろ。思うところとか、そういうあれがあって」
「すみません、何が言いたいのかまったくわかりません」
失礼だとは思ったが言わずにはいられない。
先輩は歯噛みした。
595: 2012/06/20(水) 14:34:10.90 ID:ug7JTQkno
「わたしも、混乱してるみたい」
先輩は溜め息をつく。そうは言われましても。
ところで。
先ほどから先輩の弟君が、窓際からこちらを睨んでいる。幼馴染も先輩も、もうちょっと考慮してくれてもよいのではないか。
「こら!」
と先輩がうしろを振り向いた。
「何睨んでんの!」
……お姉ちゃんがいる。すげえ。お姉ちゃんだ。実物初めて見た。
「うっせえばーか」
そしてあっちはあっちで弟だ。なんだこの姉弟。
「あんたちゃんと謝ったの!?」
「知らねえよ。謝るかよ。黙ってろ」
俺は気まずい。
596: 2012/06/20(水) 14:34:53.36 ID:ug7JTQkno
「謝んなさい、今すぐ!」
「やだね」
やだね、って。なんだそれは。言ってはなんだが見ていて面白い。
「ったく。ごめんね、ホントに」
「あ、いえ。こちらこそいろいろ申し訳ないことを」
したような、しなかったような。
まぁいいか。人間なんて誰だって悪でも善でもないのです。まる。
どうでもいい。
ふう、と溜め息をついて、先輩は苦笑した。
「何話すか忘れちゃった」
おもしろい人だ。
597: 2012/06/20(水) 14:35:27.77 ID:ug7JTQkno
もうすぐ冬休みなのだと思うと、不意になんだか走りたくなった。なんでか分からない。
グラウンドは運動部が使っていた。うーん、と思う。気持ちが落ち着かない。
そこに、茶髪が来た。
「何やってんの」
と彼は平然と俺に声を掛ける。なかば呆れながらも、特に思うところもなく返事をする。
「別に。走りたいなぁと思って」
「走れば?」
「なんともね」
「走れよ」
なんだこいつ。俺は怪訝に思う。いったい何が言いたいんだ。考えてることが分からない奴ばかりだ。
当たり前のことだけど。
598: 2012/06/20(水) 14:35:55.30 ID:ug7JTQkno
「なあ、じゃあ走るか」
茶髪は言った。
「お前も走るの?」
「それでもいい」
唐突な奴だ。
校舎には夕陽が差している。冬なのだ。空気は冷たい。
「俺はさ」
と茶髪は言う。
「お前には謝んねえ。謝んねえけど」
「けど?」
「悪かった」
謝ってんじゃん。
599: 2012/06/20(水) 14:36:22.12 ID:ug7JTQkno
「じゃあ、俺もだ」
「何が?」
「俺もお前には謝んねえけど、悪かった」
「なんだそりゃ」
お前が言ったんだよ。
でも、まぁ、そうなのだ。
謝れる部分と謝れない部分がある。悪い部分と悪くない部分がある。どんな人にも。
そういう違いだ。
600: 2012/06/20(水) 14:36:49.13 ID:ug7JTQkno
「外周走ろう。どっちが早いか、競争な」
茶髪が言った。俺は頷く。
「先に五周した方が勝ち。勝った方が負けた方に一個だけ命令できる」
「五周?」
「三周がいいか」
「十周の間違いだろ」
茶髪は笑った。俺は肩をすくめる。
601: 2012/06/20(水) 14:37:15.62 ID:ug7JTQkno
立っていた場所をスタートラインにして走り始めた。コースは裏門から出て外を大回り。
校門の方に回ってそのまま学校の敷地を走る。それを十周。最後にスタートに戻る。
当然だけれど全力疾走を続けて走り抜ける距離じゃない。かといってペースを乱さずに走るなんてできる気分でもなかった。
俺もそうだったし茶髪もそうだったと思う。
なんだか知らないけど、俺は茶髪という人間を嫌いになれない。いや、嫌いなのだけれど。
どうも、彼に対して妙な親近感といおうか、そういうものを感じてしまう。なぜかは分からない。
一周二周なんて楽勝だろうと思っていたら、半周ほど走る頃には息が乱れていた。運動不足。怖い話だ。
制服のままだから動きにくいし、冬だから体を動かしていても指先が冷たい。
呼吸が乱れる。俺は長距離ランナーじゃなかった。
でもどうでもよかった。膝もまったく痛まなかった。二周目あたりで、茶髪が俺を引き離した。
俺はそれでも普通に走る。
なんで走ってるんだっけ。正直、疲れている。体力も体調も芳しくない。
第一寒い。よくもまぁ走る気になれたものだ。走りたかったのだけれど。
602: 2012/06/20(水) 14:37:41.52 ID:ug7JTQkno
俺はいろんな問題から宙ぶらりんにされている気がする。なんだか浮かび上がっているような気がした。
別に負けたくないなんて思わなかった。ただ思い切り走りたくなった。なんとなく。休みになるし。
でも上手に走れなかった。手足が思うように動かない。
嫌になる。なんで俺の身体はいつだって俺の言うことをきかないのか。
でも仕方ない。俺は俺の身体で上手いこと走っていくしかない。
脇腹が痛んで、額に汗が滲んだ。まだ大した量を走ったわけでもない。
運動不足。
冗談のような話だ。
茶髪は俺のずっと先を走っていたが、視界からは決して外れなかった。
なんだって俺は走っているんだろうか。
603: 2012/06/20(水) 14:38:07.20 ID:ug7JTQkno
俺は気付けば夕陽に向かって走っていた。今日の太陽はでかい。そう見えるだけかもしれない。
五周を越えたあたりでばてそうになる。もう歩いたっていいじゃないかという気分。
なんで五周にしておかなかったかな、俺の馬鹿。自分の能力をもっと把握しておけ。
でも、走ると決めた以上はやっぱり仕方ない。
……そうか? 別にやめたっていいじゃないか。逃げたって。
それはそれでありだろ。なんだってこんなに疲れるのに走り続けなきゃならないんだ。
走り終えたところでどうなるんだ? 仮に茶髪に勝ったって、奴にひとつ命令できるだけだ。
たかだかそんなもんのために走ってどうなるっていうんだ。
走り続ける理由と走るのをやめる理由だったら、どう考えても後者の方が多い。
下校を始めたうちの学校の生徒たちに遭遇する。俺のことを奇異なものを見るような目で見ていた。
実際、奇異なものなのだが。
それ以外の人にもたくさん出会った。
主婦っぽい人に犬の散歩をしている老人、それから付近の中学生。
604: 2012/06/20(水) 14:38:33.59 ID:ug7JTQkno
俺はかなり無様に走った。できるものなら軽快に走りたかったが、できないのだから仕方ない。
こんなに走ったってどうなるんだ。別に走るのをやめたってかまわないのに。
でも、なんか知らないけど走っている。ペースが落ちてきた。でもまあ、走っている。
茶髪の背中が徐々に近づいてきたような気がする。街は黄昏。時間の流れが異様に遅く感じる。
途中で妹とすれ違った。俺は一瞬だけ目を丸くして、「よう」と言った。
「何やってんの?」
「不毛な戦い」
「なにそれ」
彼女は笑った。
605: 2012/06/20(水) 14:39:02.40 ID:ug7JTQkno
十周を終えてスタート地点に戻ると、妹がいた。敷地内なのに。それから幼馴染。タカヤ、モス。
先輩と、「みー」。タカヤ姉。
こいつら暇なんだろうか。
「何やってるんです?」
と幼馴染は言った。
「特には」
言って、荒い息を整える。立ち止まると、途端に膝が痛みだした。
「そっちこそ、何をやっているのか。勢揃いで」
「別に、何も」
と、皆が顔を見合わせる。俺は疲れたので、地べたに座り込みたかった。
606: 2012/06/20(水) 14:39:28.52 ID:ug7JTQkno
足がうまく動かない。折り曲げることすら難しい。
「五周にしとけばよかった」
「いらない見栄を張るからだ」
茶髪もまた、ぜえぜえと息をしながら乱れた髪を直している。
「なんだかなぁ」
と言いつつ、俺は「みー」に視線を向けた。この子はここにいて大丈夫なのだろうか。
なぜここにいるのだろう。何かあったのだろうか。そう思ったけれど、上手に問いかけることはできない。
いて悪いわけでもない。俺は疲れていた。達成感も爽快感もなかった。
607: 2012/06/20(水) 14:39:54.21 ID:ug7JTQkno
「はい」
と、妹が飲み物を差し出す。レモンウォーター。俺は受け取る。
「どうも」
俺は何をやっているのやら。
不意に、モスがこらえきれないというように笑った。
「なんで急に走ったんだよ」
「知らねえ。なんかこいつが」
と俺は指差す。
「いや、お前だろ?」
「……そうだっけ?」
よく思い出せない。幼馴染は笑った。
「あほですか、きみらは」
たぶんその通りだ。としか答えようがない。
616: 2012/06/21(木) 14:44:33.12 ID:/ODgI8HQo
俺と茶髪の不毛な争いが、勝者なしという不毛な結果に終わった翌日の土曜日。
幼馴染は平然と俺の家にやってきた。
前日の消耗が残って全身を疲弊させていた俺に対して、彼女はごく普通の態度で接した。
あたかも何も起こらなかったように。まぁ何も起こっていないようなもんなんだけど。
「なんていうか」
「なんていうか?」
「昨日、みーがいたじゃないですか」
「ああ、うん」
「わたし、知らなかったんですけど、タカヤくんに声を掛けてみたらしいんです」
「……掛けてみたって、なぜ」
彼女は首をかしげた。
「さあ? 機会があったのかもしれませんし。詳しいことは分かりませんけど」
617: 2012/06/21(木) 14:44:59.15 ID:/ODgI8HQo
俺は何を言おうか迷った。
「つまり、昨日の「みー」は、お前と一緒にいたんじゃなくて、タカヤと一緒にいたの?」
「そうなりますね」
なんだそれは。
「まぁ、あのふたりがどういう話をしたのかは知りませんけど、なんというか」
なんというか。と幼馴染は首をかしげる。うーん。
「いいんじゃない?」
「なにがです?」
「いや、よく分からんけど」
俺たちが変に首を突っ込むよりは。
618: 2012/06/21(木) 14:45:26.54 ID:/ODgI8HQo
幼馴染は用事があるといって早々に帰って行った。来週からは起こしにきませんよと言葉を添えて。
どうせ来週をやり過ごせば冬休みだ。好きなだけ眠りたい。
ベッドを這い出てリビングに向かう。もうすぐ休みになるのだ。
妹はコタツにもぐって本を読んでいた。
「なあ」
と声を掛ける。
「なに?」
「出かけない?」
「……どこに?」
「どこでもいいんだけど」
なんとなく気分が落ち着かないのだ。妹は少し迷ったような顔をしていたが、やがて頷いた。
「……うん」
619: 2012/06/21(木) 14:46:26.23 ID:/ODgI8HQo
外は寒い。息は白い。このあいだ初雪も降って、街はいよいよ冬めいている。
「どこに行こうか」
「決めてから出掛ければいいのに」
「なんだか、据わりが悪いんだ」
「なにそれ」
「落ち着かない」
「そんなの知らない」
妹は拗ねたようにそっぽを向く。俺はふと疑問を口にした。
「……なんか、近頃、態度が変じゃない?」
「どこが?」
「昨日から、冷たい」
妹は呆れたように溜め息をつく。まぁ、冷たくされても仕方ないのだが。
「べつに」
620: 2012/06/21(木) 14:48:12.45 ID:/ODgI8HQo
とりあえず街に出る。何の目的もなくぶらつく。そういう日がある。
何もこんな寒い日に、とも思うのだが、夏は暑いし冬は寒い。春は花粉、秋だって十分寒い。
出かけない理由なんて、いつだって山ほどある。
筋肉痛だって体調不良だって。まぁ、さすがにそこをおしてまで出かけようとは思わないのだが。
「なんで、急に出かけようなんて言うの?」
「なんで、って?」
「今まで、こんなことなかったのに」
「そうだったっけ?」
「そうだよ、兄さん、中学入ってから、ずっとわたしと距離置いてた」
「そんなことは」
あったかもしれないが、無意識だ。実際、コタツでの距離とか異様だし、あんまり理屈で考えてはいなかった気がする。
「兄さん、最近おかしいよ」
「そんなことはない」
おかしいといえば、まぁ、最初からおかしかったのだろうと思う。
621: 2012/06/21(木) 14:48:40.46 ID:/ODgI8HQo
「なんていうか、悪かったな」
「なにが?」
「いろいろ、迷惑かけたような気がする」
「……何の話?」
「情緒不安定なもんで」
「いいよ、それは別に。いつものことだし」
彼女は本当に気にしていないように言う。
しばらく出かけたりしなかったので気付かなかったが、街中はクリスマスに染まっている。
「でも、なんていうか、嫌われても仕方ないっていうか」
こういうことを口に出してしまうあたり、なおさら鬱陶しい部分なのだが。
「……アホだからさ」
いつもぐだぐだ言い訳をならべて、話をぐしゃぐしゃにして、誰かを傷つけたりして。
当たり前といえば当たり前のことなのだけれど。
当たり前と割り切るのは身勝手すぎる。
622: 2012/06/21(木) 14:49:25.39 ID:/ODgI8HQo
「別にいいよ。アホでも」
妹はマフラーに口元を埋める。
「兄さんにはいいところなんて一個もないかもしれないけど、それでもわたしの兄さんだから」
「さらっと傷つくことを言うなぁ」
「でも、仕方ないんだよ。なんか、そういうふうにできてるんだよ」
いつのまにか、彼女の声音は真剣なものになっていた。
俺は不意に黙り込む。何を言えるだろう。
「たとえばさ、兄さんより頭が良くて、性格ももっとしっかりしてて、運動ができて、誰も傷つけずにいられる人がいるとしてさ」
嫌な想像だ。自分より出来のいい人間のことを想像と気分が暗くなる。小者だから。
「その人がわたしの兄貴になってくれるっていっても、別にいらないんだよ、そんな人」
照れくさそうでもなく、ごまかすふうでもなく、ごく当たり前の口調で、妹は言った。
623: 2012/06/21(木) 14:49:56.96 ID:/ODgI8HQo
「だってその人は兄さんじゃないから。当たり前だけど」
どうして、こんな話をしているんだろうと、不意に思った。
「そこまで言ってもらえると、何ともむずがゆいんだが」
でも、
「俺はそこまで良い兄だったか? 代わりがいらないくらいの」
「……良い兄では、なかったかもしれないけど」
だったら、疎んじたり、嫌ったりしたってよさそうなものなのに。
どうして彼女は、こんなふうな言葉を向けてくれるんだろう。
後ろめたさが募る。
「でも、わたしが寂しかった時に傍に居てくれたのは兄さんだから」
「……それって、いつの話?」
「分かんないなら、別にいいよ」
と、ほんとうに、そのことは重要ではないというふうに、彼女は言った。
624: 2012/06/21(木) 14:51:01.26 ID:/ODgI8HQo
「でも、だから、兄さんが寂しいときは、傍にいてあげたいって思うよ」
不意に、強い感情が胸を衝いた。
俺は何を言えばいいんだろう。なんだか涙が出そうな感覚。
「兄さんは、別にわたしがいなくても平気みたいだけど」
――と、沸きかけたところに、水を差される。
「……その心は?」
「彼女にご執心のようだから」
「……しつこいね、お前も。彼女じゃないって」
「でも、わたしが傍にいたって落ち込んだままだったのに、あの人がきたら元気になったじゃん」
「……え、それは」
「一昨日の話」
「そんなことはなかった」
と、思うのだけれど。
625: 2012/06/21(木) 14:51:29.29 ID:/ODgI8HQo
「いいけどね、別に」
妹は言う。
「付き合っちゃいなよ。その方がわたしも、気が楽だから」
拗ねたような声で言う。こいつがこんなにもはっきりと感情をあらわすのは、初めてかもしれない。
「気が楽って、どういうこと」
「べつに」
俺は深く考えないようにした。
「どこかに入るか」
誤魔化すように提案する。妹は頷いた。
626: 2012/06/21(木) 14:51:55.37 ID:/ODgI8HQo
どこにも入る気が起きなかったので、適当に町はずれの喫茶店のドアをくぐった。
前々から気になっていたのだけれど、入る機会がなくて、ずっと素通りしていた。
喫茶店に入るなんて、なんだかきざったらしいような気がしたのだ。
席についてコーヒーを頼む。よくわからなかったので適当に。
「あいつとは」
と俺は言う。
「本当に、なんでもないよ。いや、なんでもないって言ったらおかしいけど」
「けど?」
「あいつだって、俺のことをそんなふうに考えていない気がする。母親っつーか姉っつーか、そういう立ち位置なんじゃないか」
「兄さんがそう思ってるだけかもしれないよ」
「仮にそうだとしても、おんなじだよ」
「なにが?」
「いや……」
きっと、アキのことの反復になるだけだ。
このままじゃずっとそうだ。
627: 2012/06/21(木) 14:52:22.09 ID:/ODgI8HQo
「ふうん」
妹は、さして思うところもなさそうに頷く。
納得したようではないが、なんだか、気まずそうな顔をしている。
叱られる前の子供のような。
「俺は」
と言い掛けて口籠る。さすがに、これを言ったら、まずいような気がした。
「……なに?」
妹は不可解そうに目を細める。
視線を逸らさない。何があっても追及する目をしている。俺は溜め息をつく。
「俺は、お前がいないと困るよ」
彼女は、面食らった顔をした。目をあちこちに泳がせて、やがて拗ねたように窓の外へ顔を向ける。
「なにそれ」
口癖のように妹は言う。俺は妙に気分が高揚している。言わなくていいことを言ったのはそのせいだ。
たしかに、こんなふうに過ごすのは久し振りだったかもしれない。
628: 2012/06/21(木) 14:52:53.47 ID:/ODgI8HQo
つづく:妹「なぜ触ったし」【後編】
629: 2012/06/21(木) 15:00:11.10 ID:MG9ocRzYo
乙
俺も妹がいないと困るよ
俺も妹がいないと困るよ
630: 2012/06/21(木) 15:05:20.57 ID:dEGnDUnro
にゃああああああ、妹かわええ
632: 2012/06/21(木) 22:17:24.12 ID:m6wD44DWo
乙
俺は>>1がいないと困るよ
俺は>>1がいないと困るよ
引用: 妹「なぜ触ったし」
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