144: 2012/09/21(金) 15:41:12.61 ID:gNdtp0tJo

前回:姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?」序



◆破

 
 僕はひどく疲れていた。何かが僕を強く苛んでいる。きわめて悪意的な何かが。
 その悪意は外側から現れたものだと思っていたが、どうも違うらしい。
 
 これは内側からやってきている、と僕は今になって確信している。
 つまるところこれは現実に起こった出来事と、それに対する周囲の反応を飲み込んだ僕が生み出したのものなのだ。
 きわめて悪意的な何か。僕を苛み混乱させる何か。それは肥大していく。
 
 エスカレートしていく。それは僕では止められない。でも、たしかに僕が行っている行為なのだ。
 それは自責と呼ばれるのか。それとも自傷と呼ばれるのか。あるいは自慰と呼ばれるのかもしれない。
 いずれにせよ僕は混乱していた。混乱して冷静さを見失っていた。
 こんなときこそ、大切なのは落ち着きだ。僕は考える。

 何よりも大切なのは状況の整理だ。何が僕をこんな状態にしているのか?
 それは取り返しのつく状況なのか?(おそらく、取り返しはつかない)
 それは避けられる事態だったのか? であるなら僕はどこかで間違えたのか? 
 その問いは長い時間僕に宿り続けた。途方もなく長い時間だ。問いは僕をなじった。
  
 なじり、苛み、苦しめ、そしてその苦しみすらをせせら笑った。
 落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。僕は今ひとりぼっちでいる。
「いつも通りじゃないか」と、僕は自分に向かって呟いた。何がおかしいんだ?

 情報を整理しよう。順番が少し狂っているのだ。だからこそ、整理をしなくてはならない。
 何よりも大切なのは、順序だ。それを、整えなければならない。

ふらいんぐうぃっち(12) (週刊少年マガジンコミックス)
145: 2012/09/21(金) 15:41:39.26 ID:gNdtp0tJo




 不意に聞こえたノックの音に、僕はうたた寝から目を覚ました。



146: 2012/09/21(金) 15:42:25.03 ID:gNdtp0tJo

◆一

 
 目を覚ますと、寝る前に入れていたコーヒーはすっかり冷めていた。
 僕はなんとなくそれに口をつけて顔をしかめる。おそろしくまずかった。
 どうやら机で眠っていたらしい。顔を起こすと読みかけの本は栞も挟まれずに閉じられていた。
 これではどこまで読んだのか分からない。ひとつ嘆息してから諦め、僕はベッドに倒れ込んだ。
 
 倒れ込んでから、枕元の置時計に目を向ける。一時半。寝なければ明日に響く。
 と考えてから、僕は響いて困る明日なんてないことを思い出した。今は夏休みじゃないか。
 
 それから瞼を閉じて、このまま好きなだけ眠っていられたならと考えた。
 カーテンは閉じられていた。明かりはつけっぱなしだった。ドアは閉ざされていた。
 今ここは、たしかに僕だけの空間だった。

 瞼の裏に蛍光灯の灯りが浮かぶ。光が静かに僕の意識を侵食していった。
 侵食していってから、僕は不意に――本当に不意に、ノックの音が聞こえたことを思い出した。

 面倒だったが、仕方なく立ち上がり、ドアの前に立つ。心当たりはなかったが、誰だろうとかまわない。 
 どうでもいい気分だった。なんなら幽霊でもかまわないし、怪物でもかまわない。そういう気分だったのだ。

 ドアを開ける。もしも変わらない日々を望んでいたのなら、僕はきっとドアを開けるべきじゃなかった。。
 でも僕は結局開けてしまったのだし、開けてしまったのだから仕方ない。
 ひょっとすると、どこかの並行世界には、"ドアを開けなかった僕"もいるのかもしれない。

 でも僕は"ドアを開けた僕"なのだ。結局のところそういう話だ。


147: 2012/09/21(金) 15:43:00.98 ID:gNdtp0tJo




「こんばんは」と彼女は笑った。どこか皮肉めいた笑顔だった。その表情がなんだかおかしくて、僕も笑いながら返した。
「こんばんは」

 僕はベッドにふたたび寝転がる。ひどく疲れていたのだ。

「入ってもいい?」

 と彼女は言った。僕は彼女の顔を見ずに手招きする。どうでもいい。入りたければ入ってもいいし、出たければ出て行ってもいい。
 不思議なことに興味はわかなかった。一切わかなかった。誰が僕を訊ねてもいいし、誰がここから去ってもいい。
 だって、ここには最初から何もないのだ。

「変な部屋」

 彼女は部屋を見回して、言った。僕もそう思う。ここは変な部屋だ。
 本来ならば他の場所に当然あるべきもの、当然属すべきものを、無理矢理他の場所に移し替えたような空間。
 その印象はある意味では正しかった。僕は溜め息をつく。


148: 2012/09/21(金) 15:44:55.70 ID:gNdtp0tJo

「嫌な感じかな?」

「少しね」

 僕が笑うと、彼女も笑った。

「ねえ、ところで、お願いがあるんだ。いいかな?」

 彼女は言った。僕は問い返す。

「なんだろう?」

「わたしはこれからある場所に向かおうと思う。あなたについてきてほしいんだ」


149: 2012/09/21(金) 15:45:47.81 ID:gNdtp0tJo

「どうして?」

「都合がよさそうだったから」

 ひどい理由だと僕は思った。そんな理由で誰が彼女についていったりするんだろう?
 少しうんざりしたが、でも、頼みを受け入れる理由がなかったように、断る理由も僕にはなかった。
 要するにそういうことなのだ。僕には今、なんらすべきことがなかった。
 ただ目の前に振りかかった現実を、とにかく認識する以外には。

「ひどいものを、見ることになるかもしれないけど」

「かまわないよ」

 むしろそういうものを目撃したい気分だった。少しでも珍しいもの、変なものを見てみたかった。
 今この場所にある現実以外のもの。それを一度目撃してみたかった。

「ところで、君は誰?」

「秘密」

 僕と彼女はそのように出会った。
 おそらく僕のことだけを考えるならば、彼女と僕は出会うべきではなかったのだ。
 それは僕に対して何ももたらさない邂逅だった。
 でも、仕方ない。そのときの僕には、どうでもよかったのだ。


156: 2012/09/22(土) 13:41:47.45 ID:o2xJKFVJo

◆二

 僕と彼女は家を出た。先導されるがままに歩いていくと、近所の川沿いの堤防へと彼女は進んでいく。
 霧雨に覆われた夜の空気はひんやりとしていて、それは少し僕を安心させた。肌寒いくらいだったけど、気にならなかった。
 空には星と月がぼんやりと浮かんでいる。目に映るすべての輪郭が霧に煙って判然としない。
 不意に、女が声をあげた。

「こんな感じの道をさ。子供の頃、よく歩いたんだよ」

 夜の底で聞く彼女の声には、どこかしら人を飲み込むような響きがあった。

「二人で、一緒にね。散歩に行ってきなさい、ってよく言われたんだ」

 何かを思い出そうとするような声だった。もしくは、何かを悼むような、惜しむような声だった。
 
「似てる。その道に。ね、そんな場所をそんなふうに歩いた記憶、ある?」

「ない」

 僕ははっきりと答えた。

「そっか」

 彼女は当然だとでも言いたげに頷く。僕はなんだか居心地が悪くなった。 
 なぜだろう? 彼女といると、僕はひどく後ろめたい気持ちになる。


157: 2012/09/22(土) 13:42:13.53 ID:o2xJKFVJo

「それでね、堤防を抜けた先に、何かの事務所みたいなのがあるの」

 僕には分からない話を、彼女は続けている。けれど不思議と、その話に登場する土地について、僕は知っている気がした。
 なぜだろう? 彼女の話す場所は「ここ」とは違うのだ。「こんな感じの場所」。ここではない。

「敷地の入口に自販機があって、そこでコーヒーとリンゴジュースを買うの。それを飲みながら、道を戻っていくのが散歩のコース」

 言葉にすることで何かを確認しようとするように、彼女は話を続けた。

「一年中、ずっと。春は風が強かったりして大変だった。
 河川敷の草むらは、夏になると背が高くなって、迷い込むと出られなくなったりするんだよ。一度そうなって、怖かった。 
 秋になると夕方でも真っ暗だった。虫の声がうるさかったな。早めの時間に歩くとね、夕焼けとススキが綺麗だった。
 冬の寒いときなんかは、もうちょっとだけ歩いてコンビニまでいって、肉まんを食べながら帰ったの。寒い寒いって言いながら」

「……誰と?」

「……」

 彼女はそこで立ち止まった。僕たちは土手のちょうど真ん中あたりで立ち尽くす。
 霧雨は細かかったけれど、僕たちはたしかにその粒に濡れていた。
 服がしっかりと雨粒を吸い込み、気付けばびしょ濡れになっている。
 女はこちらに背を向けたままだった。僕はいやな気持ちになる。


158: 2012/09/22(土) 13:42:43.58 ID:o2xJKFVJo

 不意に、彼女は河川敷の方に体を向けた。背の高い夏草が人の行く手を阻んでいる。 
 彼女はためらわずに足を踏み入れる。

「こっち」

 なんでもないことのように、彼女は言う。
 背が高いとはいえ、頭まで覆われてしまうほどではない。僕は彼女を追った。
 視界が奪われるほどではないが、何かを落としたりしたら見つけられないだろう。
 蛙や虫がいそうなことも嫌だったが、それよりも霧雨の雨粒に濡れた草の感触が気持ち悪かった。

 するすると進んでいく彼女の姿を追いかけ、僕は必氏に草を掻き分ける。
 月がこちらを見下ろしている。夏の夜なのだと僕は思った。

 やがて草むらを抜ける。当然だけれど、川があった。
 このあたりは水深が浅く、水底の砂利がよく見えた。水が澄んでいて綺麗。小魚が泳いでいるのが見えるくらいだ。

 躊躇なく、彼女は川に足を進めた。

「こっち」

 前を向いたまま、女は言う。


159: 2012/09/22(土) 13:43:19.98 ID:o2xJKFVJo

「こっちだよ」

 真剣な表情を見て、僕もそれに従った。気圧されたという方が近いかもしれない。 
 彼女の表情は、常に真剣だった。それに対して僕の態度はいつだって曖昧で不誠実に思える。
 それは仕方ないことだ。僕はそういうふうになってしまったんだから。

 水に足を踏み入れる。それは思ったより気分の良い行為だった。 
 靴も履いたままだし服も来たままだった。裾をまくりげる気にもならない。
 どうせびしょ濡れだったのだ。いまさらどうなったところでおんなじだ。

「ごめんね」

 と彼女は言った。

「あなたがどう感じるか、わたしには分からない。ひょっとしたらすごく傷つくかもしれないし、怒るかもしれない」

 ――水面が、波紋を広げるように、かすかに動いた。

「でもそれは、どうしても必要なの。そうしないと、我慢ならないの。わたしはだめだったから、せめて」

 せめて、と彼女は言う。波紋は大きな波になっていく。僕はちょっとした焦燥に駆られた。


160: 2012/09/22(土) 13:43:46.11 ID:o2xJKFVJo

「これ、何が起こってるの?」

 異様だった。水面の動きは川の流れとも僕らの動きとも無関係に激しくなっていく。
 水が意思を持って蠢いているようにすら見える。それは決して飛躍した発想ではないだろう。

 彼女は僕の問いに答えず、にっこりと笑った。

「身勝手だって分かってる。でも、納得できない。だから、最初に謝っておく。ごめんね」

 彼女は笑う。
 水流は僕の足をさらう。何かが足を掴んだ気がした。引きずられて倒れそうになり、咄嗟にうずくまる。

 僕は何かを叫んだ。女はこちらを見て笑っている。
 水の流れが僕をどこかに連れ去ろうとしている。引きずり込もうとしている。

「ごめんね」

 と彼女は笑う。
 それは悲しそうにも見えたし、嬉しそうにも見えたし、そのどちらでもないようにも見えた。
 いずれにせよその表情は、僕にとってはどうでもいいものだ。赤の他人なのだから。 
 だからきっと、彼女にとっても僕の態度はどうでもいいものだったのだろう。

 でも、そのときの僕が最後に見たのは彼女の表情だった
 月の光にぼんやりと照らされて、青白い景色に包まれて、夏の夜の中に居た。
 彼女のその表情を、僕はたしかに綺麗だと思ったのだ。そんな、場違いなことを考えたのだ。


161: 2012/09/22(土) 13:44:50.34 ID:o2xJKFVJo

◆三


 水滴の落ちる音で、意識をとりもどした。
 湿ったコンクリートの上に、僕はずぶ濡れのまま倒れていた。
 ずきりという頭痛が走る。身体の節々が痛くて、頭が回らなかった。

 僕はなんとか体を起こして、周囲の様子を確認した。
 薄暗くて分かりづらい。何かの機械の音がする。ごおおおおお、という排気の音も聞こえた。
 音はそれだけだった。まずはなんとか視界を確保しようと、僕はポケットから携帯を取り出そうとする。

 水に濡れていたせいか、携帯は壊れていて、ディスプレイは真っ暗だった。僕は舌打ちをする。

 ふと、光が後ろから現れた。
 
「行こう」

 女は懐中電灯を握っていた。僕は意識を失う前のことを思い出す。
 これはあの続きなのだ。
 冗談じゃないと言ってやりたかったが、ここがどこなのか分からない以上、彼女に逆らうのは賢い選択ではないように思えた。


162: 2012/09/22(土) 13:47:48.51 ID:o2xJKFVJo

 言葉を返さずに頷き、彼女が進むのに任せた。
 それにしても、ここはどこなのだろう。機械と、何かのメーターのようなものがある。
 天井から床まで、大量のパイプが、どこからか入ってきて、どこからか出ていく。
 パイプには操作するためのハンドルがついている。床は濡れていて滑りやすく、壁はコンクリートの打ちっぱなしだ。
 
 漠然と、ここで何かを操作し管理しているのだということは分かったが、具体的に何を管理しているのかは分からない。
 通路のところどころにはパイプが伸びていて、ときどき屈んで通らなくてはならなかった。
 ときどき、魚の骨格標本や何かの水槽のようなものも見つけた。たいして興味は引かれない。

 やがて通路は二手に分かれる。彼女は入り組んだ方へと進む。小さな木製の階段があった。
 黙って進んでいく。その先には扉があった。
 
 迷わずに、彼女はドアノブを回した。

「先に行って」

 と彼女は言う。僕は怪訝に思いながら、足を踏み出した。
 僕らは扉をくぐる。

 扉を、くぐった。


167: 2012/09/22(土) 13:51:44.08 ID:o2xJKFVJo

 無数の扉に囲まれた気味の悪い場所を、彼女は迷わずに進んでいく。
 関係者以外立ち入り禁止のプレートを無視して、階段を昇った。

「説明、しないとね」

 階段を昇ってすぐ、細い通路に出る。左手はただの壁で、右手には三つ扉が並んでいた。
 彼女は一番奥の扉を開いた。

 その中は物置になっているようだった。いくつもの段ボール、何に使うかも分からないオブジェ。
 棚の中では大量の書類が埃まみれになっている。
 彼女はひとつ咳をした。それから窓辺に歩み寄り、手招きする。

 嫌な予感がした。
 それでも僕の足は窓辺に進む。なぜかは分からない。

 僕は窓の前に立つ。彼女を見る。ひとつの方向を見ていた。
 中庭のような場所。結構な人がいて、いくつかのテントが立っている。 
 そして、正面には何かのステージのようなものがあった。何かのショーをやっている。

「もうちょっとだと思うんだけど」

 と彼女が言ってから、しばらくのあいだ何も起こらなかった。
 僕は不安と焦燥が綯い交ぜになったような気持ちを抱えて、じっと窓辺に立っていた。 
 そして誰かに見咎められるのではないかと不安に思う。なぜ不安に思うのか分からなかった。
 そもそもここはどこなのだろう? 僕たちはここに居てもいい人間なんだろうか。


163: 2012/09/22(土) 13:48:42.97 ID:o2xJKFVJo

 やがてショーが終わり、着ぐるみが子供に風船を配っている。
 ひとりの子供が受け取ろうとしたとき、手が滑ったのか、風船は空へと舞いあがった。 
 けれど、僕の視線はそれをとらえなかった。

 どうしてかは分からないが、あえて探そうとせずとも“彼”がそこにいることにすぐ気付いた。
 まるで引き寄せられるようにすぐ気付いた。
 
 彼は風船を視線で追う。やがて風船はこの窓の近くを通って空へと飛んで行った。
 その人物と、目が合った。

 僕は身動きが取れなくなった。彼の表情、姿は“僕”と似ている。
 似ているというより、同じだった。本当に同じだった。服装も髪型も仕草も表情も。 
 思わず顔が勝手にひきつった笑みを浮かべた。真昼の太陽に照らされて、その姿は僕にはっきりと見える。

 これはどういう冗談なんだ?


164: 2012/09/22(土) 13:50:18.60 ID:o2xJKFVJo

「見えた?」

 と女が言う。
 僕は答えない。彼はこちらをじっと見ている。居心地が悪くなって苦笑し、僕は窓辺から身を引きはがした。

 彼女は試すような目でこちらを見る。僕の背中がじっとりと嫌な汗を掻いた。

「これはどういうこと?」

 気味悪さに、背筋が粟立つ。
 いったい僕の身に何が起こっているのだろう。

 彼女は僕の問いに、にっこりと笑った。
 その笑顔が、僕には恐ろしくすら思えた。


166: 2012/09/22(土) 13:51:15.37 ID:o2xJKFVJo



 
 音もなく扉が閉まった。僕が振り向くと、彼女が扉に鍵をかけている。
 その扉は、くぐってきた扉とは大きさが異なるように思えた。錯覚かもしれない。
 緑色をしたそのドアは、緑色だという以外には特に言うべき特徴を持っていない。

 でも、その扉はどこかしら変だった。分からないけれど。

「ついた」

 と彼女は言った。僕は辺りを見回す。
 ドアがあった。無数のドア。僕は眩暈がしそうになる。突然現れた無数のドアが、窓からの日差しに照らされている。
 時間も空間も、おかしかった。

 窓からの日差しは暖かい。夏の真昼の太陽だ。僕は周囲を見回す。どこまでも白い壁に、無数の扉があった。
 幻想的というよりは悪夢的な光景ですらあった。

「別に、分かってしまえばそんなにたいしたものじゃないから、驚かなくても大丈夫だよ」

 そこが単なるドアのショールームだと僕が知るまで、結局数十分の時間が必要になった。


171: 2012/09/23(日) 15:28:57.50 ID:mhAwP2D1o

◆三


「簡単に言うと、あれはあなた」

 と女はあっさりと言った。

「どういう冗談?」
 
 僕は笑い飛ばそうとしたけれど、上手くいかなかった。
 否定しようとしても、僕はその姿を見てしまったのだ。

「はっきり言ってね、説明する義理なんて、わたしにはない気がするの。そうじゃない?」

 彼女の表情は冷淡で、それが僕を一層不安にさせた。
 僕は彼女についてくるべきではなかったのかもしれない。 
 でも、それとは逆に、半ば本能のような感覚が頭の中で疼いていた。

「あなたにはわたしに義理立てする理由がない。わたしにはあなたに義理立てする理由がない。わたしとあなたって、お互い他人事でしょ?」

 彼女の言葉には、少なからず皮肉めいた響きがこもっている気がした。俯いて、考え込む。
 いったい彼女は何を言おうとしているのだろう?

「でも、かわいそうだから、仕方なく教えてあげる。二度目だけど、あれはあなた」


172: 2012/09/23(日) 15:29:48.14 ID:mhAwP2D1o

「僕?」

「そう。あなた」

「……それはおかしい。僕はここにいる」

「そう。あなたはここにいる。あそこにもいる」

「同じ人物が、二人いる、なんてことは、有り得ない」

「でも実際、起こっている」

 彼女は断言した。

「ねえ、はっきり言うけど、いま現に起こっている異常に対して、「ありえない」なんて言葉はなんの意味もないよ」

 その通りだ。僕は現にあの姿を目撃している。
 ありえないなんて言葉に、何の意味もない。あれを幻覚だとか言いだすなら、話は別だが。

「悪い夢でも見てるのか?」

「残念ながら」

 と彼女はくすくす笑いながら言う。

「ここに転がっているのは、現実だよ。どこまでも無様で悪趣味な、現実だよ」


173: 2012/09/23(日) 15:30:29.35 ID:mhAwP2D1o




「とりあえず、服を着替えた方がいいと思う」

 彼女にそう言われて、僕は自分の服がびしょ濡れのままだったことに気付く。

「って言ったって、替えの服なんて持ってないよね」

「身一つで来たからね」

「仕方ないから、買ってあげましょう」

 彼女はそう言って、ふたたび窓辺から中庭を見下ろした。僕は窓に近付くのがなんだか恐ろしかったので、身動きを取らずにいる。 
 やがて彼女は、どこかに視線を固めた。穏やかな目で、何かを見下ろしている。その視線の先に何があるのかは、僕には分からない。

 それはとても悲しいことなのだろうと思った。だって彼女は泣き出しそうな顔をしていたのだ。

 やがて、彼女はあっさりと窓辺から体を引きはがし、僕の方に向き直った。

「行こう。まずは、服屋にいかないとね」


174: 2012/09/23(日) 15:31:17.86 ID:mhAwP2D1o

 一応財布自体は持っていないわけではなかったが、さっきまでの出来事のせいで中身もずぶ濡れだった。
 仕方なく彼女に金を借りて(店に入れないのでついでに買ってきてもらい)、服を手に入れる。
 
 付近にあった公園の物陰で着替えた。タオルで体を軽く拭い、シャツとジーンズを取り換える。
 安物だったが、他人の金で買ってもらったものだし、濡れ鼠でいるよりはましなので文句は言えない。

 僕は濡れた髪をタオルで拭きながら彼女に訊ねた。

「何度も聞くようだけど、これはいったいどうなっているんだ?」

「どうなっているのか、というのは教えづらいし、なぜ、と訊かれても答えられない」

 ベンチに座ったまま、彼女は自販機で買ったアップルジュースに口をつけた。

「何が起こっているか、というところだけ教えてあげる。ここはあなたにとってのパラレルワールドなの」

「パラレルワールド?」

「そう、パラレルワールド。さっき見たのが誰だったか、分かった?」


175: 2012/09/23(日) 15:31:46.44 ID:mhAwP2D1o

「……ちょっと待ってくれ」

「なにかご不明な点でも?」

 彼女はおどけて言う。僕は呆れながら考え込んだ。パラレルワールド。

「常軌を逸してる」

「それも、起こってしまったことには無効な言葉だと思う」

 彼女は、どこまでも正しい。

「納得がいかないなら、悪い夢でも見てるってことにすればいい。でも、そのうち気付くはずよ。夢でも現実でも変わりはないって」

「どういう意味?」

「いずれにせよ、あなたは見せられてしまう、という話。だよ」


176: 2012/09/23(日) 15:32:13.29 ID:mhAwP2D1o

 彼女の言う通り、夢か現実かという判断はひとまず脇においておくべきなのだろう。
 それよりも、いくつかおかしな点がある。

 彼女は僕の顔を見てくすりと笑った。

「さっきまで、氏んでるみたいな顔してるのに」

「……」

「外に出てみると、やっぱり変わっちゃうものでしょ?」

 僕はその言葉を無視した。

「それより、この街のことだけど……」

「何か、不思議?」

「パラレルワールド、って、そういうこと?」

「……ひとつでは、あるよ」


177: 2012/09/23(日) 15:33:24.02 ID:mhAwP2D1o

 彼女は否定しない。僕はなんとなく理解し始めた。
 この街は、僕が以前、一年前まで家族と一緒に暮らしていた町だ。
 ある事情から、僕はこの街――父母と離れ、親戚の家で暮らすことになった。
 つまり現在の僕は、この街では暮らしていない。

「今日は何月何日?」

「八月、三日」

「……」
 
 年号を聞こうと思って、やめた。それはバカらしいことに思えた。気になるなら後で調べてみればいい。 
 コンビニにでも入って、新聞を確認すればいいだけだ。
 僕は溜め息をついて、それから少しだけ考えた。

「パラレルワールドって言ったよね。いったい、これはどういう変化なんだ?」

「どちらかといえば――」

 と彼女は笑顔をかき消した。

「あなたの世界の方が、いちばん、驚きに満ちてるけどね、わたしに言わせれば」


178: 2012/09/23(日) 15:33:51.06 ID:mhAwP2D1o

 なんとなく、怖気がした。
 そうだ。たしかに、パラレルワールドというならば、“あれ”は起こったのだろうか? この世界でも。
 
「さっき、見なかった?」

「……なにを?」

「見なかったなら、いいよ」

 僕は嫌な予感がした。この世界に紛れ込んでしまったことは、僕にとって致命的なことではないのだろうか。
 僕自身が抱いていた不安や、疑問。それを完全に肯定する結果になりはしないか?
 そうだとしたら、もしも本当にそうだとしたら、僕はいったい、どうすればいいのだろう。

“――ねえ”

 並行世界なんてものがあるとすれば、もしかしたらこの世界で“あれ”は起こらずに。
 つまり“あれ”は回避できる出来事で。

“――わたしが悪いの?”

 要するに僕は、どこかで間違った選択をしてしまったのだろうか。
 彼女は――でも――。


179: 2012/09/23(日) 15:34:18.37 ID:mhAwP2D1o

「さて、と」

 考え事に耽っていると、彼女はアップルジュースの空きボトルをくずかごに捨てて立ち上がった。

「わたし、これから会わなきゃいけない人がいるから、行くね」

「……ちょっと待って。それは困る」

「残念だけど、ね。わたし、あなたと話してると、すごく、胃のあたりがむかむかするの」

「……」

「もう、行くね」

 彼女はそう言い残して、本当に去ってしまった。最後に僕に男物の財布を手渡して。
 取り残された僕はしばらく呆然と立ち尽くしていた。行くあてはなかったし頼る人もいなかった。
 
 この世界で僕は、当たり前でまともな話なのだけれど、どうしようもなくひとりぼっちだったのだ。


185: 2012/09/25(火) 15:52:03.23 ID:lv342E7No

◆四


 僕は公園のベンチに座って何かを考えようとしてみた。
 何か考えなければならないはずなのだが、何を考えればいいのか分からない。
 それは僕にとって大事なこと、致命的なことだったはずなのだ。

 でもなにひとつ思い出せなかった。とっかかりひとつ思い出せなかった。
 僕の頭にはただ、あの自分自身の表情だけが残っている。どんな感情をたたえているかもさだかではないあの表情が。
 どうしてこんなことになったのだっけ? と考えかけて、ふと思い出す。 
 僕は――こういったことが起こるのを望んでいたはずなのだ。なぜ?

 それは自分でもわからないけれど、きっと僕は、なにかの変化を切望していたのだろう。

 どういう形であれ、それは叶えられたと言っていいのだろう。
 でも、これからどうすればいいのだろう? 訳の分からない空間に放り出されて、僕はいったい何をどうすればいいのだ。

"あなたの世界の方が、いちばん、驚きに満ちてるけどね、わたしに言わせれば"

 ……。


186: 2012/09/25(火) 15:52:34.68 ID:lv342E7No

 とにかく、座っていても仕方ない。きっとあの女も、すぐには戻ってこないだろう。 
 待ち合わせをしているわけでもないが、頼りにできるのは彼女しかいないのだ。
 少し時間をやり過ごして、またここに戻ってくればいい。そうすればまた会えるかもしれない。
 会えなかったら……。

 僕は手渡された財布の中身を確認する。財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
 一万円札は三枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。硬貨は細かいものがあまりなく、五百円玉が三枚と百円玉が八枚。 
 
 それよりも僕を怖がらせたのは、無造作に放り込まれたカード類だった。
 どこかのコンビニのポイントカードに保険証、病院の診察券。どれもすべて財布に突っ込まれている。
 彼女が準備したものというよりは、実在する男の持ち物を引っ張ってきたみたいに見えた。

 カード類には名前の記述があった。そこには僕の名前が書かれていた。

「……」
 
 彼女は何者なのだろう。
 ようやく頭が疑問を走らせ始めた。


187: 2012/09/25(火) 15:53:06.73 ID:lv342E7No

 あの女。唐突に僕の部屋に現れ、この場所へと僕を誘った女。
 たった一度気を失った間に、遠い街に僕を連れだした女。

 パラレルワールド。自分にうり二つの人間がいるか、白昼夢でも見たかということにしないかぎり、俺は彼女の言葉を信じざるを得ない。
 でも、疑えなかった。

 それでも僕は便宜的に、彼女の言葉を疑ってみることにした。
 僕は公園を出て、コンビニを探した。さいわいそれはすぐに見つかる。

 まず、新聞の日付を確認する。間違いなく、本来の日付と同じものだ。 
 正確に言えば、彼女が僕の部屋に来てから半日以上の時間が経っていることになる。
 彼女が来たのは夜中の一時半。今はもう昼過ぎなのだから。

 次に、新聞の記事を確認する。僕は自分が知らない大きなニュースがないかを知ろうとしたが、大差はなかった。
 もともとニュースなんて確認しないタチなので、もしあったとしてもたいした情報にはならなかっただろう。
 ついでに毎週立ち読みしていた漫画雑誌を読んでみる。内容は僕が知っているものの続きだった。
 僕がこの街にいるかいないかは、世界にたいしてあまり大きな影響を与えないらしい。当たり前の話だが。

 僕はジュースとパンを買って小銭を崩し、軒先の公衆電話で自宅の番号にかけた。
 電話には知らない女が出た。知らない苗字を名乗った。僕は間違い電話だと謝って電話を切る。
 
 さて、と僕は思う。
 確信できる根拠もないが、否定できる材料もなかった。


188: 2012/09/25(火) 15:53:58.51 ID:lv342E7No




 
 僕はとりあえず自分が昔住んでいた家を目指すことにした。
 ひょっとすれば僕が見たあの人物は、僕にうり二つな誰かという可能性がないわけではない。
 とにかく情報が少しでも多く欲しかった。

 しばらく通っていない道を通ると、奇妙な感慨が僕の胸に去来した。
 これは郷愁のようなものだろうか? でも、僕は別にこの街が好きだったわけじゃない。 
 むしろ、嫌いだった。
 何もなくて、ろくな奴がいなくて、自分はずっとここにいるしかないのだと考えるたびに絶望的な気持ちになった。
 
 でもそれは僕だって同じなのだ。僕だって誰かの「何か」になれたわけではないし、ろくな奴でもなかった。
 そういう話なのだ。

 家は相変わらずそこに立っていた。数年前に建てられた一軒家。
 僕はうんざりしたような気持ちでそれを眺める。たいした感慨はなかった。
 あるのはただ呆れたような心地だけだった。結局なにひとつ変わってなんかいないんだ。

 僕はインターホンを押そうと思ったけれど、やめた。仮に「僕」と鉢合わせしたらまずい。
 そう考えかけて、何がまずいのか具体的に言えない自分を発見したが、結局やめておく。

 表札には僕のものと同じ苗字が示されていた。それだけでは何の証明にもならない。
 でも、僕の世界なら、表札は外されているはずなのだ。
 溜め息をついたタイミングで、肩を叩かれた。


189: 2012/09/25(火) 15:54:32.49 ID:lv342E7No

◆五


 慌てて振り返ると、見知った顔があった。

「よう。何してんだ?」

 と、僕の反応に面食らった表情を見せながら言ったのは、昔からの友人だった。
 近所に住んでいて、子供のときから付き合いがあった。僕は一瞬安堵しかかったが、まずい、と思い直す。

「いや……」

 と僕は言う。どうにかして、この世界が僕の世界と違うものなのかどうかを確認する方法はないだろうか。
 彼に何かを訊ねて。そう考えかけて、強い納得のような感情が胸の内側でくすぶった。

「でも、ちょうどよかった。ほら」
 
 彼は当たり前のように、手にもったビニール袋を僕に手渡す。 

「これ、お袋から。おばさんに渡しといてくれよ」

 じゃあな、と彼は背を向ける。
 袋の中身は何かの食べ物のようだった。
 ごく当たり前のように、彼は僕がここにいることに何の疑問も抱かなかった。
 彼は、僕がここにいることに何の驚きも抱かない。
 僕はこの家にいて当たり前の人間なのだ。
 
“僕”はこの家に住んでいる。


192: 2012/09/27(木) 16:01:18.69 ID:pqSsrL/mo

◆五


 僕は彼女と別れた公園に戻った。
 とにかく今は彼女と会わなければならない。そしてこの不可解な状況の法則を確認しなければならないのだ。
 今僕に振りかかっているのはいったいどのような出来事なのか。それをたしかめなければ話が進まない。
 でなければ、僕はこんな場所に理由もなく放り出されていることになる。
 彼女の目的はなんなのか。彼女は何のつもりで僕をここに連れてきたのか。

 僕には圧倒的に情報が不足していた。僕をここに連れてきた以上、彼女には何かの目的があるはずなのだ。
 
「お願いがある」と彼女は言った。僕にさせたいことがあるのだ。

 公園のベンチに座って、僕はみじろぎもせずに彼女が来るのを待った。
 手持無沙汰で、何度もポケットの中の携帯を開こうとしたが、画面は真っ暗なままだった。

 僕の身に何かが起こっていて、彼女は僕に何かをさせたくて僕はおそらく何か奇妙なものを目撃することになる。
 そこまでは分かるのだ。でも、僕がここにいることで達成される目的とはなんなのだろう?
 僕という人間、僕という駒がなり得る布石とはなんなのだろう。


193: 2012/09/27(木) 16:01:51.57 ID:pqSsrL/mo

 まったく心当たりはなかった。僕は頭を掻いて考え込む。
 最大の問題は、僕自身のことだ。

 僕は望んで彼女についてきた。そしてここで彼女に放り出され、それをただ待っている。
 でも、僕は何を望んでいるのだろう? 一方的に連れ出されたわけではないし、自分からついてきたわけでもない。
 ただ誘われて、それに乗った。それだけだ。僕の目的はいったいなんなのだろう。

 そこが、まず分からなかった。僕には目的意識というものが欠けている。

 ごく常識的に考えるなら、僕は帰りたいはずだ。いくらなんでもこんな世界に運び込まれるのは想像していなかった、と。
 でも、帰りたいというほどではない。というよりは、帰りたくなんてなかった。
 じゃあこの世界にいたいのか、というとそうではない。ここは居心地の悪い空間だ。
 
 僕の目的はなんなのか? 最大の問題は、たぶんそこだ。
 いずれにせよ、今は彼女にもう一度会って、そして話を聞きたい。文句のひとつでも言ってやるのもいいだろう。
 
 でも、心の底からそうしたいと望んでいるわけではない。本当のところ彼女のことなんてどうでもよかった。
 僕が今考えていることと言えば、今晩の寝床がないのは困るな、とか、せいぜいそんなところだ。
 彼女のたくらみも、他のことも、ほとんどどうでもよかった。

 なぜだろう?


194: 2012/09/27(木) 16:02:20.57 ID:pqSsrL/mo



 
 僕が公園でじっとしている間にも太陽は動いていたし、時計の針は回っていた。
 気付けば時刻は夕方を過ぎていて、僕は自分が何もしていないことに愕然とした。
 それどころか、何か少しのことだって考えた記憶がない。僕は何もしていなかった。ただぼんやり座っていた。
 
 何もせず、ただぼんやりと――。

 ――頭の中で、ずきりと何かが軋んだ気がした。
 その痛みはごく単純に僕の内側を捩じっていった。何故だか涙が出そうになる。
 
 自然と荒くなりかけた呼吸を、僕は努めて静まらせる。 
 何の問題もない。僕には何の責任もない。
 僕は自分のことだけを考えて生活していた。そこには何の非もない。
 ただ、自分のためだけに生きていければそれでよかったのだ。その結果が今であろうと、そこには何の失策もない。
 いまだって、そうなのだ。


195: 2012/09/27(木) 16:02:47.11 ID:pqSsrL/mo

「疲れてる?」

 夕焼けがかすみ始めた頃、彼女の声が聞こえた。

「……少しね」

 本当のことを言うと、少しどころではなかったけれど、まぁ同じことだ。
 僕は疲れていて、混乱している。

 俯けていた顔をあげると、やはり彼女がいた。別れたのはついさっきだったという気さえする。
 彼女の後ろに、見慣れない少年の姿があった。

「……誰、この人?」

 と少年は言った。同い年くらいに見える。知っている顔ではない。相手もどうやら、僕を知らないらしい。

「秘密」

 と彼女は答えた。単純な仲間というわけではないらしい。けれど僕に会わせるということは、彼女の目的に関係のある人物なのだろう。


196: 2012/09/27(木) 16:03:14.26 ID:pqSsrL/mo

「いろいろ、言いたいこともあるだろうから、とにかく、順を追って説明しようと思って」

 無論、言いたいことは山ほどあったけれど、そんなことよりゆっくり眠りたい気分だったので、僕はそのことを彼女に伝えることにした。
 疲れたからゆっくりできる場所に行きたい。僕が言うと、彼女は静かに頷いた。

 分かった、と彼女は言った。

「とにかく移動しましょうか。屋根のあるところじゃないと、たしかに落ち着かないしね」

「……どこに?」

 訊ねたのは少年だった。僕は少しだけ彼の存在を怪訝に思う。
 今まで限りなく調和のとれていた空間に、ぽつんと入り込んだ異分子。
 そういった要素を、彼から感じた。

 僕たちは国道沿いを移動して、近場のファミレスに入ることにした。
 とりあえずの腹ごなしと相談事を兼ねていたので妥当と言えば妥当だったが、僕には今晩の寝床の方が気になって仕方なかった。

 彼女にそのあたりのことを訊ねても、

「まぁ、なんとかなるよ」

 と楽観的なことを言うだけだった。どうも寝床に関しては、彼女にも心当たりはないらしい。
 少し不安に思ったが、とりあえずは気にしないことにした。
 

197: 2012/09/27(木) 16:03:58.01 ID:pqSsrL/mo

 彼女は腹を空かせていたらしく、店に入ってすぐに食事を注文した。僕も腹は空いていたが、食べる気にはなれなかった。
 それは少年の方も同様らしい。彼には不可解な雰囲気があった。
 
「まずは、いくつかの説明、ね。その前に――」

 と、彼女は少年の方を見た。

「ねえ、ケイくん」

 それはおそらく、彼の名前だったのだろう。不愉快そうに眉を寄せると、少年は「なに?」と訊きかえした。

「少し頼まれごとをしてくれない?」

「頼まれごと?」

「ちょっとした買い物。待ってて、今メモするから」

 彼女はそういうと、本当にポケットからメモ帳を取り出して、ボールペンでメモを始めた。
 ぶつぶつと独り言をつぶやいている。懐中電灯、飲料と食料、タオル、消臭スプレー。言葉に出しながら書き足していく。


198: 2012/09/27(木) 16:04:27.63 ID:pqSsrL/mo

「はい。お願い」

「……これ、なに?」

「近くにドラッグストアがあるから。だいたいのものはそこで揃うよ。そこになければ、もうちょっと歩いた先にデパートがあって」

「そういうことを訊いてるんじゃなくてさ」

「お願い」

 と彼女は笑った。ケイは面食らったような顔をしたが、しぶしぶと言う顔で頷いた。

「あとでちゃんと説明してもらうからな」

「うん。分かってる」

 二人のあいだには、何かの信頼関係のようなものが見えた。僕にはそれが奇妙なものに思えた。
 なんというのだろうか。決してごく単純な友人同士には見えない。
 何か、お互いに距離を作っているように見える。にも関わらず、強く信頼し合っているように見えた。
 きっとそれは気のせいなのだろう。漠然と思う。そうでなければ――こんな事態は成立しない気がした。漠然と。


199: 2012/09/27(木) 16:04:56.96 ID:pqSsrL/mo

 ケイが席を立ってすぐに、外ではぽつぽつと雨が降り始めた。

「薬局、すぐそこだから、そこに傘売ってると思うんだけど……」

 それでも少し心配そうな顔をしていたが、やがて頭を切り替えたように表情を一変させ、彼女は溜め息をついた。

「どこから説明すればいいかな」

「……」

「どこから訊きたい?」

 僕はその問いに相応しい答えを持ち合わせていない。何が分からないのかすら、僕自身分かっていないのだ。
 ただ、ひとつだけ、気になることがあった。


200: 2012/09/27(木) 16:05:26.14 ID:pqSsrL/mo

「……この世界の"僕"は、この街に住んでるよね」

「うん。そうだよ」

「それは、どうして?」

「分かってることを確認しなきゃ気が済まない性格、おんなじだね」

 誰と、とは訊きかえさなかった。

「簡単でしょ? 理由がないからだよ」

 僕がこの街を出ることになった理由。
 ――それがない。

「つまり、この世界では……」

「そう。そういうこと」

 彼女は氏んでいない、ということだ。


204: 2012/09/29(土) 14:34:56.78 ID:7nWqN2Zvo

◆六


「ところで、ひとつ聞いてもいい?」

 彼女はそれまでの空気を吹き飛ばそうとするみたいに笑った。

「ずっと気になってたんだけど、その荷物、なに?」

 言われて、僕は家の前で受け取った荷物をそのまま持ってきてしまったことに気付いた。

「タクトからもらった奴だ」

「タクト?」

「昔、知り合いだった」

「ふうん。ひょっとして、大柄の人? よく吠える大きな黒い犬を飼ってる?」

「そう。いや、ここでも飼ってるのかどうかは分からないけど」

 と頷いてから、僕は眉をひそめた。


205: 2012/09/29(土) 14:35:30.56 ID:7nWqN2Zvo

「知ってるの?」

「あんまり。犬もその人も、怖かったし」

「そうなんだ」

 ……いや、そうなんだ、ではないだろう。
 僕はいいかげん、そこを気にするべきなのかもしれない。

「君はいったい誰なんだ?」

「だから、秘密」

 答えは予想通りだったけれど、今度ばかりは質問をひるがえす気にはなれなかった。
 
「じゃあ、どうして僕のことを呼んだんだ?」

「言わなかったっけ?」

「漠然とした話は聞いた。今訊きたいのは具体的なことだ」

「うーん」

 彼女は愛想笑いで首をかしげた。


206: 2012/09/29(土) 14:36:05.05 ID:7nWqN2Zvo

「ごく簡単に言うとね、わたしはある一人の女の子の未来を守りに来たわけ」

「……女の子?」

「そう」

 その女の子というのが誰のことなのかも気になったが、それよりも気にかかったのは、

"守りに来た"

 という部分だった。 
 来た、ということは、ここではないどこかから来たのだろう。
 つまり彼女はあくまでもここではない外側からやってきた人物であって、「内側」ではない。

 ひょっとすれば、僕と同じような具合なのかもしれないが。

「未来を守る、ってどういう意味?」

「そのままの意味」

「まるで、君がどうにかしないとその子の未来が失われてしまうような言い方だ」

「その認識であってるよ」

「……いったいどんな理屈で、君はその子の未来を知っているんだ?」

「――――」


207: 2012/09/29(土) 14:36:32.62 ID:7nWqN2Zvo

 彼女の表情が凍るのが分かった。
 僕はなんとなく空恐ろしい気持ちになる。これは触れていい話題だったのか?
 地雷ならいいが、逆鱗なら目も当てられない。
 僕が今の状況に何らかの展開を望む場合、彼女の存在は不可欠なのだ。

 彼女は取り繕うような笑みを浮かべて、肩先まで伸びた自分の髪を軽く撫でてから目を逸らした。

「秘密」

 と一言いうと、そこで口を閉ざす。そのことについてこれ以上話す気はない、ということだろう。

「ねえ、それより、気にならないの?」

「なにが?」

「生きているあの子のこと」

「……別に」

 たしかに驚きではあったけれど、意外ではなかった。
 なんとなくだがそうではないかという気はしていたし、第一、そうでなければ理屈が合わない。

 ひどいものを見ることになるかもしれない、と目の前の女は言った。
 僕にとってのひどいもの――要するに、僕の現実よりマシな世界、のことだろう。
 
 僕の現実。さまざまな意味で混乱し破綻した場所。
"手遅れ"の世界。


208: 2012/09/29(土) 14:37:05.74 ID:7nWqN2Zvo

「もうひとつ、訊きたいことがあるんだけど」

「なに?」

「君は僕をパラレルワールドに連れてきたわけだけど、どうしてこんなことができるんだ?」

 その質問に彼女は、そんなことは考えたこともなかったというように目を丸くした。
  
「……現にできてるんだし、あんまり関係ないよね? わたしもよく知らない。気付いたらできただけ」

 僕は納得できなかったけれど、その話題があまり有益ではなさそうだと気付いて口を閉ざした。
 重要なのは「あの子」が生きていることじゃない。ここが別の世界だということでもない。
 僕の世界に比べてこの世界がどうだという話でもない。

 問題なのは、僕がここに迷い込んでしまったということ。そして僕がどうしたいのか、という問題だ。
 それを考えようとすると頭が痛くなるのを感じる。元の世界に戻りたいのか、というとそうではない。
 だって僕にとっては、どうだっていいような世界なのだ。何もかも手遅れだし、破綻している。
 そうでなくたってどうでもいいような場所だった。両親や部屋を貸してくれている親戚夫婦には悪いけど、たいして愛着もない。
 
 じゃあここに残りたいのか? というと、別にそうしたいわけではないが、それはそれでかまわないという気もする。
 現実問題、生きていくのが困難そうなので嫌だという気もするが、いざとなれば氏んでしまえば済むことだ。


209: 2012/09/29(土) 14:37:36.83 ID:7nWqN2Zvo

 彼女は不意に口を開いた。

「……わたしがあなたをここに連れてきた理由だけどね」

 唐突に始まった話に面食らう。知りたくないわけではなかったけれど、意外さもあった。 
 どうしてこのタイミングで、話したりするんだろう。

「必要だったからだよ、あなたみたいな要素が。つまりね、あなたみたいに怠惰なあなたが」

「……どういう意味?」

「端的に言うとね、わたしが守りたい女の子っていうのは、あなたの世界じゃ氏んじゃったあの子のことなの」

 僕は水の入ったグラスに口をつけた。あまり聞きたくないことが言われようとしている。

「つまり、あなたの姪のことね」


210: 2012/09/29(土) 14:38:03.27 ID:7nWqN2Zvo

 グラスをテーブルに置く。窓の外の夕焼けは静かに薄紫へと変わり始めていた。

「怠惰なあなたを、この世界のあなたに見せるの。自分のことしか考えずに、ただぼんやりと過ごしたあなたをね」

 僕は黙って彼女の話に耳を傾けていた。心臓がわずかに音をあげた。深く息を吐く。
 何もかも澱みきっている。うんざりした気分だった。

「そうして怠惰だったあなたが招いた結果をこの世界に彼に見せる。そして、彼自身が決して無力ではないことを教えてあげたいの」

「……つまり、僕のせいで彼女は氏んだ、と言いたいのかな?」

「別に。ただ、この世界のあなたに、"あなたが彼女のことを考えたから、彼女はこっちでは氏んでない"と言いたいだけ」

「おんなじことじゃない? 僕が彼女のことを考えずにいたから、彼女は氏んだって意味だろう?」

「違う。たしかに似ているように聞こえるかもしれないけど、少なくともあなたのせいで氏んだわけじゃない」

 ただ、と彼女は続ける。

「ただ、あなたが彼女のことをもう少し考えていれば、回避できるかもしれない未来だった、と言っただけ」


211: 2012/09/29(土) 14:38:31.75 ID:7nWqN2Zvo

 だから、それはおんなじことじゃないのか。
 僕は自然に唇が歪むのを感じた。自分でも嫌な笑い方をしているだろうと分かる。
 でも止まらなかった。指先が小さく震えている。怒りだろうか。悲しみだろうか。

「現にこの世界のあなたは、彼女の氏を既に回避しているしね。本当に些細なことだったけど、あなたがしなかったこと」

「……」

「あなたが悪いんじゃなくて、こっちのあなたが偶然できただけよ。そんなに気にしなくていい」

「――ちょっと黙ってくれないか?」

 彼女は僕の言葉通り、本当に黙った。そんなところも気に入らなかった。
 僕はまたグラスに口をつける。何かがおかしかった。仮に僕のせいだったとしてなんなのだ?
 別に僕が彼女を直接頃したわけではないのだ。彼女の言う通り、僕のせいという話にはならない。


212: 2012/09/29(土) 14:38:57.36 ID:7nWqN2Zvo

 第一僕にだって考えなければならないことがたくさんあったのだし、他人のことまで構っていられない。
 ――そう思いかけて、「それが可能だった自分」が存在していることに気付いた。
 つくづく悪夢的だ。実例を前に出されては、言い訳すらもできない。言い訳のしようもなく、僕は怠惰だった。

「……また、彼女の未来が失われようとしている?」

「そう。でも、今度はもっと馬鹿らしい理由。彼女自身の問題。結構先のことなんだけどね。数年後ってところ」

 女は溜め息をついて、窓の外を眺めた。

「でも、たぶん、このあたりが問題なんだと思うから。具体的にいうと、八月六日の花火大会」

「……」

「あの日が、きっと問題なのよ。……でも、誰かが悪いわけじゃない」

 彼女はまだ何かを言っていたけれど、僕の耳は上手く情報を掴み取ってくれなかった。
 なんだか何もかもが澱んでいる。ファミレスは薄暗いし、外は翳っている。
 僕は溜め息をついて席にもたれかかり、瞼を閉じた。
 そして、強く意識して、三回深呼吸をした。目を開けても視界は澱んだままだった。

 少しして、ケイが冗談みたいな大荷物を抱えて戻ってきた。僕たちは会計を済ませて店を出る。
 
「さて、行きましょうか」

 彼女は笑った。僕はどうしたって笑う気にはなれなかった。
 外に出ると、雨脚が強まっていた。


213: 2012/09/29(土) 14:39:45.62 ID:7nWqN2Zvo




 寝床は、町はずれの小さな無人駅の駅舎だった。
 ひどく狭かったし、夏場なので虫が多かった。寝床と言いつつも、「眠る」というよりは「雨風をしのぐ」と言う方が近いだろう。

 雨が強くなってきたので、屋根があるのはありがたかったが、人目は気になった。
 僕の不安はむしろ強まったけれど、仮にこの世界で人を頃したところで僕自身の問題にはならない。
 この世界に存在しない人間。
 つまりはそういう話だ。

 床の隅には蛾の氏骸が落ちていた。ベンチの上はひどく汚れていて、床の上と大差ない。
 女はケイに買ってこさせたタオルでベンチの上を軽く拭い、その上に長いタオルを敷いた。

「今晩の寝床」

 と女が言うと、ケイが顔をしかめた。

 彼が買ってきたもののなかに、あれば助かるようなものは大概が揃っていた。
 たしかにこれだけの物資がそろっていれば、屋根さえあればどこでも眠れはするだろう。


214: 2012/09/29(土) 14:40:21.24 ID:7nWqN2Zvo

 だが、仮に寝床がここではなく、そこそこまともなホテルのまともな部屋だったとしても、僕はまともに眠れなかっただろう。

「明日は、早起きしようか」

 女が言った。まるで旅行にでも来ているみたいな言い方だ。
 僕はうんざりした。ベンチに腰を下ろして背をもたれたまま、眠る気がしない。
 二人組は疲れていたのか、場所の悪さも気にせずに早々に眠ってしまった。
 神経が図太いのかもしれない。僕にはよく分からなくなった。

 彼女のことをぼんやりと考える。たいして仲が良かったわけではない。話すこともそう多くはなかった。
 疎ましく感じたこともあるけれど、決して嫌いではなかった。
 相手の機嫌をうかがうような態度にいら立ったこともあったけど、氏ねばいいと思ったことはない。
 でも氏んだ。そしてきっと、それは僕の行動によっては回避できる結果だったのだ。

 今なら少しだけ泣けそうな気がしたけれど、別に泣きたいとは思わなかった。
 よく分からなかった。涙を流すとしたら、僕は誰のために流すべきなのだろう。
 何もかもが暗く澱んでいた。雨の音だけがはっきりとしていた。


220: 2012/10/01(月) 17:10:42.80 ID:XDukWaqTo




◇十


 目を覚ますと泣いていた。眠る前に入れていたコーヒーはすっかり冷めている。
 読んでいた本は栞も挟まれずに畳まれていた。僕は自分の部屋にいた。たしかに自分の部屋だった。
 眠る前と同じだ。
 
 僕は椅子に座りなおして、自分が誰のために涙を流しているのかについて考えた。
 そして、誰かのために涙を流すということについて考えようとした。それはとても身勝手なことに思えた。
 
 溜め息をついて、それからうんざりした気持ちで瞼を閉じた。
 夢の輪郭は既に曖昧になっていた。僕はもう一度溜め息をついた。五秒ごとにでも溜め息をしそうな勢いだ。
 何かが胸のつかえになっていた。そうだ。姪がいなくなったのだ。僕にとって重要なのはそこだった。

 目が覚めてからずっと頭が痛かった。
 僕は額を押さえながら、僕が僕であると言うことについて考えた。そのことはとても奇跡的なことに思えたし、呪いめいても思えた。
 いずれにせよ僕は目が覚める前と同じように僕でしかなかったし、そうである以上は僕であり続けるしかない。
 
 そこまで考えてから、自分がどうしてこんなことを考えているのかが分からなくなってしまった。



221: 2012/10/01(月) 17:11:19.67 ID:XDukWaqTo

 時間は深夜三時だった。僕は部屋を出て、真っ暗な廊下を歩く。
 部屋の扉は当たり前のように家の廊下に続いている。正常なつながりが保たれている。
 
 僕の時間は僕の時間にたしかに繋がっている。
 でも、なぜだ? そこには何かが欠けている気がする。
 僕は僕でしかない。でも僕が僕であるという当然の認識の隙間に、何かが挟み込まれている。

 分かることはひとつだけ。姪がこの家からいなくなってしまったことだけは、間違いようのない現実だ。
 
 頭がぼんやりとしていたので、すぐに部屋に戻ることにした。
 体が重くて、怠い。気分が悪かった。
 
 瞼を閉じると睡魔が襲ってくる。
 電話で聞いた魔女の声を、ふと思い出した。
 彼女は僕に向かって何かを言った。でも、何を言ったんだろう。思い出せない。

 僕はあまりにも無傷だった。


222: 2012/10/01(月) 17:11:58.18 ID:XDukWaqTo



◆七



 目を覚ますと雨は止んでいた。彼女とケイの二人は既に起きていて、窓の外の暗い空をじっと眺めている。
 時計の針は四時半を差していた。僕たちは荷物をまとめて駅舎を出た。

 彼女はうんざりした顔で澄んだ空を見ていた。八月四日の空には雲一つなかったが、暗幕のように澱んでいた。
   
 太陽だけが強い光を放っている。それ以外のものは、ただ澱んだ空気の下にいた。
 眠る前にどんなことを考えていたのか、僕は忘れてしまった。 
 
 僕はあくびをひとつしてから、街の光景をじっと見つめた。
 静まり返った朝の街は、昼間とは違い人の気配がまったくしなかった。
 街がまだ眠っている。そういう中でしか僕は上手に世界に溶け込めない。

 僕はどこまでも異分子だからだ。


223: 2012/10/01(月) 17:12:50.43 ID:XDukWaqTo

「まだ寝ててよかったのに」

 と彼女は言う。僕はうんざりした。あんな場所にこれ以上寝ていられるものだろうか。

「どうせどこにも行けないんだから」

「…………」

 四時半。僕がそうであるように、彼女とケイもこの世界に溶け込める人間ではないらしい。
 居場所がない。入れるのは何かの店くらいだが、こんな時間では休める場所などありはしない。
 雨が降れば雨宿りの場所に困るし、夜になれば寝る場所に困る。
 
 ひどく絶望的な感情に囚われた。

「どこにも居場所なんてないんだ」
 
 僕はそう呟いた。呟いたところで何かが変わるわけではなかったけれど、ただなんとなく呟いた。
 なんだかいろんなことが面倒に感じ始めた。いつからこんなことになっていたんだろう。


224: 2012/10/01(月) 17:13:41.84 ID:XDukWaqTo

「ねえ」

 と彼女は僕の顔を見た。

「わたしはあなたのことを利用しているけど、でもね、あなたの不幸を願ってるわけじゃないんだよ」

「何の話?」

「わたしにだって説明できないけど、できないけど、巻き込んで悪いなって気持ちも、少しはあるの」

 彼女の表情は僕にはよくわからない。僕にはよくわからないことばかりだ。
 なんだかヤケになったような気持ちで空を見上げる。

 雨が降ればいいのだ。

「あなたを見ることで、こっちの世界のあなたは、何かを得ることができるかもしれない」

 でもね、と彼女は続ける。

「反対にあなただって、何かを得ることができるかもしれないと思う。そうであってほしいと思う」

「……得る?」

 何かを得る、ということについて、僕は考えてみることにした。
 得て、どうなるのだ? どうせ彼女は氏んでいるのだ。
 今更何がどうなるというんだろう。


225: 2012/10/01(月) 17:14:12.33 ID:XDukWaqTo

「手遅れだよ。僕はもう終わってしまっている人間だし、僕の世界はもう終わってるんだ。ここにきてそれがはっきりした」

「本当に?」

 彼女は真剣な声で言った。

「本当に、手遅れなの?」

「どういう意味?」

「あなたは本当に終わってしまっているの?」

 僕は何も答えなかった。


226: 2012/10/01(月) 17:14:38.20 ID:XDukWaqTo




 僕たちは駅から移動を始めた。どこに向かっているのかは僕には分からなかった。
 大きな旅行バッグをかかえたケイが、彼女の少し後ろを歩いている。
 その更に後ろを、僕が追いかけていた。

 どうして僕はこんなところにいるんだろう。誰も僕のことなんて必要としていないのに。
 僕なんかいなくても、彼女の目的はきっと達成できるはずなのだ。

 しばらく歩くと、蒸気のような雨が降り出した。
 さらさらとした細かな砂のような雨粒が、僕たちの肌を濡らした。
 
「あ」

 と彼女が声をあげた。

「なに?」

「お風呂入りたい」

「……」

 ケイは溜め息をついた。


227: 2012/10/01(月) 17:15:42.37 ID:XDukWaqTo

 駅から三十分ほど歩いた。歩くというのは体力を消耗する。
 朝の街は昼間に比べれば涼しかったが、湿気が多くあまり気分はよくない。

 たどり着いた先はパチンコ屋の裏にある銭湯だった。
 入口の券売機で入場券を買ってカウンターに出す。ごく単純なシステム。
 店に入るとすぐにチープなUFOキャッチャーがいくつか並んでいる。 
 
 早い時間だが、割と混み合っている。銭湯なんてそんなものだろう。
 
「じゃあ、後で」

 そう言って、彼女は簡単に女湯ののれんをくぐった。
 
「用意周到だな」

 ケイがぼそりと呟いたので何かと思って訊ねると、どうもこうした場所で使うだろうものも買わせていたらしい。
 当たり前と言えば当たり前の話かもしれない。トラベルセットなんて、このご時世ならコンビニでも扱っているのだから。
 ケイの旅行鞄はなんとかロッカーに収まった。
 それだけでロッカーをひとつ占領してしまったために、彼はロッカーを二つ使わねばならなかった。
 本来なら避けるべきなのかもしれないが、やむを得ない場合もある。


228: 2012/10/01(月) 17:16:10.16 ID:XDukWaqTo

 湯気に包まれた浴場に足を踏み入れてから、そういえば銭湯なんて何年も来ていないな、と考えた。
 朝方の銭湯には独特の空気があって、一日の始まりの前の前を感じさせる。
 実際にはいろんな人がこの場所には来ていて、ひょっとしたら一日の終わりにここにきている人もいるのかもしれない。
 でも、僕は少なくともそんな印象を抱くのだ。

「さっき、あいつが言っていたことだけど」

 とケイは僕に向かって言った。僕らは仕切りの壁をひとつ挟んで体を洗っていた。

「気にしない方がいい」

「さっきのって」

「あの、抽象的な話だよ。彼女はああいう意味ありげな言い方をすることが多いんだ」

 ケイは吐き捨てるように言った。

「あいつのことは嫌いじゃないけど、あいつの話はバカらしいと思う。現実に即してないんだ」

「……そう?」

「僕はね。そう思う」

 僕は、と彼は言う。そういえば、彼と二人で話すのは初めてだという気がした。

229: 2012/10/01(月) 17:16:44.84 ID:XDukWaqTo

「君は彼女の何なんだ?」

「さあ」

 と彼は僕の問いに首をかしげる。

「分からない。友達、だと思う。それ以上じゃない。でも、僕にとっては唯一の友だちでもある」

「へえ」
 
 友達。

「君はなぜ彼女と一緒にいるの?」

「脅されてるんだ」

 予想外の答えに、少し驚く。

「友達なのに?」

「友達なのに、ね」

 彼は疲れたように溜め息をついた。


230: 2012/10/01(月) 17:17:21.08 ID:XDukWaqTo

「本当なら僕はこんなところにいるべきじゃないんだと思う。だって僕は無関係な人間なんだ。あなた以上に」

「じゃあ、どうしてこんなところに?」

「知らない。何のつもりなのか分からない。今のところ、荷物持ちとしてって以上ではなさそうだけど」

「それは……」

 なんとも言い難い話だ。

「たぶんあいつなりに、僕を呼んだ意味って言うのもあるんだろう。人手って意味以上でね。でも僕には関係のない話だ」

 冷淡にそう言い切ると、ケイは立ち上がって湯船に向かった。
 僕は彼女の言葉について考える。

 何かを得る。
 何か?
 
 考え事をしながら銭湯につかっていると、いろんなことが馬鹿らしく思えてきた。
 十分に体を温めてから浴場を出て服を着る。入口の広間に行くが、二人ともまだあがっていないようだった。
 銭湯の内部に入っていた食堂はまだ営業を始めていないようだった。同様にゲームの大半も灯りがついてない。
 僕は自販機でスポーツドリンクを買って飲んだ。時間の流れがひどく遅く感じた。


231: 2012/10/01(月) 17:18:13.76 ID:XDukWaqTo

 でもそれは仕方ないことなのだ。時間は誰の身にもおおよそ平等に流れる。
 それを変えるのは困難だし、現実的に考えて奇跡めいている。

 現実の人間は、どこかのディストピア小説のようにはいかない。
 レバーを押したり引いたりするだけで、物見遊山気分で人類の末裔を見に行ったりできないのだ。
 あの小説の作者は社会主義に傾倒していたのだという。
 
 人類の進歩と発展は既に上昇ではないのかもしれない。そんなどうでもいいことをぼんやり考えた。
 いずれにせよ僕らが生きるのは人類が行きつく果ての未来ではなく途上の現在でしかない。
 考えなければならない現実は目の前にあるのだ。いつだって。

 僕たちは時間の流れに従って生きている。というよりは、僕たちの正常な変化の一連の流れを時間として規則立てている。
 そこには正当な手続きが必要になる。六時の次は七時だし、七時一分の次は七時二分だ。
 七時二分の次を六時五十分にするわけにはいかない。

 ちゃんと順番に従わなくてはならないのだ。今は六時。まともに活動するには、まだ早すぎる。
 時間が流れるのを待たなくてはならない。少なくとも今のところは。


234: 2012/10/03(水) 13:44:49.68 ID:51GYTAGko

◆八



 時間をやり過ごして、十時を回った。
 魔女の提案で、僕たちは服屋に向かうことになった。

「……正直、汗くさいよ?」

 誰のせいだと思っているんだろう。

 僕としては特に異論もなかった。彼女の財布を頼らなければならない事実だけが癪だったが、まぁ仕方ないと言えば仕方ない。
 できることとできないことがある。今までだって散々誰かを頼って生きてきたのだ。今更どうという話でもない。
 自分の身の回りのことを自分の力だけで済まそうとするなんて馬鹿げてる。使えるものは使えばいいのだ。

 適当に見繕おうとすると、彼女が何度もダメだししてきた。どうでもよかったので言うに任せる。
 ケイが奇妙なものを見るような目で僕と彼女をじっと見ていた。

 僕はその場で服を着替え、ついでに伊達眼鏡を買った。
 たいした意味があったわけじゃなかったが、顔をさらして街を歩くのに抵抗があったのだ。


235: 2012/10/03(水) 13:45:15.88 ID:51GYTAGko

 服を選び終わって、朝食兼昼食を取ることになった。
 昨日と同じファミレスならば楽だったのだが、彼女が嫌がったので少し遠い場所にあるラーメン屋にいくことになった。
 僕らは時間が流れるのと同じように歩いて移動し続けた。

 歩いている最中はずっと無言だった。 
 僕は歩きながら考え事をするはめになった。ずっと自分が終わっているのかどうかについて考え続けた。
 そして、終わっているというのはどういう状態なのかについて思考を巡らせた。

 それは間違いなく氏のことだろう。

 店に入って注文を済ませる。僕たちは順調に時間を消化しつつある。
 消化しつつあるけれど、僕はここで少し不安になった。
 消化してどうするのだ? 僕には何か目的があるわけではないのだ。
 ようするに、目指すべき時間がない。やりたいことがあるわけでも行きたい場所があるわけでもない。
 時間をやり過ごしてどうしろと言うんだろう。


236: 2012/10/03(水) 13:45:56.24 ID:51GYTAGko

「ね、そういえばさ」

 と、ラーメンを食べ終えて、満足そうな溜め息をついてから、魔女が笑った。

「荷物、届けないといけないんじゃない? 昨日受け取ってたやつ」

「……ああ」

 タクトから受け取ったものだろう。

「……届けようにも、僕が家に入るわけにはいかないよ」

「そこは、ほら、忍び込むとか」
 
 ……僕はこの世界で、家族がどんなふうに過ごしているのかしらない。
 けれど、姪が生きているとしたら夏休みの最中のはずだし、順当に考えれば母だって働いてはいないのだろう。
 であるなら、忍び込んだりするのは困難めいて思えた。
 
「……どっちにしろ、あなたは一度あの子に会っておくべきだと思う」

「どうして?」

「なんでかは知らない。でも、なんかそういうの、ない?」

「……」

 

237: 2012/10/03(水) 13:46:24.67 ID:51GYTAGko




「……?」

 店を出て少し歩くと、魔女とケイの姿は消えていた。
 冗談みたいに綺麗に消えていた。僕は強く動揺した。人はこんなに簡単に消えたりするものだろうか。
 それがあまりに一瞬のことだったので、僕はしばらく彼らがいなくなったということに気付くことができなかった。

 僕の心は突然不安定になった。まったく未知の空間、時間に放り出されたのだ。
 僕はいったい何をどうすればいいんだろう? そのことが一瞬で分からなくなってしまった。
 ほとんどの荷物はすべてケイが持っていたし、ここではすべて魔女の言う通りに行動していた。
 すべきこともしたいことも何ひとつ思い浮かばなかった。いつも通り。
 僕が持っているのはタクトから受け取った例の荷物と、彼女から渡された財布だけ。

 僕には何もなかった。からっぽだった。器の中身はとっくになくなっていた。
 最初からなかったのかもしれない。当たり前のことだ。いつだってその場しのぎでやってきたのだ。
 なにもないのだ。気付かなかっただけで。気付かないふりをしていただけで。
 この荷物を届けよう、と僕は思った。それだけが今僕がすべきことなのだ。
 それ以外のことは何もない。あとは本当にからっぽになるだけだ。


238: 2012/10/03(水) 13:46:50.83 ID:51GYTAGko

 僕はとにかく歩くことにした。そしてあの家に向かおうと思った。
 そうする以外に何も思いつくことはなかったのだ。

 途中に見つけた本屋に立ち寄って、例の小説を読みなおしてみた。
 僕はゆっくりと時間を掛けて本を読む。それを何度か繰りかえす。

 三度目以降から、読んでいる最中に僕の頭の中に不思議な感慨がつきまとうようになった。
 
 なんだ、僕には関係ないじゃないか。
 外に出ると景色はすっかり変わっていて、太陽が西の方に移動していた。
 時間を掛けて街を歩く。僕は歩いてばかりだった。
 
 うんざりしてきた。僕はどうして歩いているんだっけ。いったい誰がこんなところに僕を連れてきたのだろう。
 僕は何もしたくないのに。家に引きこもっていたい。本でも読んでいられればそれでいいのに。
 嫌気がさしていても歩くのをやめたりはしなかった。なぜだろう? 僕はこの世界で、なんの責任も負っていないのに。
 
 ポケットに手を突っ込むと携帯があった。僕は取り出してみる。相変わらず画面が真っ暗だ。
 心底嫌気が差す。誰ともつながっていない。


239: 2012/10/03(水) 13:47:17.35 ID:51GYTAGko

(終わってるのかって?)

 僕は魔女の声を思い出した。

(終わってるじゃないか。言い訳のしようもなく。僕はただ歩いているだけで……立ち止まっていないだけで)

 涙は不思議とでなかった。

(目的がないんだ。誰かの「おつかい」程度しか。自分がいないんだ。からっぽなんだ)

 それとも、違うのか?
 まだ何かがあるのだろうか?

 魔女はきっと何も言わないだろう。
 愛想をつかされているのだ。
 誰も、僕を必要としていない。
 僕は、機械になりたい。


240: 2012/10/03(水) 13:47:53.59 ID:51GYTAGko

 家に着く頃には三時を回っていたらしい。らしいというのは、時計を持っていなかったのであとから時間を確認したのだ。
 僕は玄関を当たり前のように開けた。

「おかえり」

 と声がした。母の声だった。懐かしい響きだったけれど、僕の憂鬱は決して晴れなかった。
 いっそ僕が違う世界から来たのだと言うことを伝えようかと思ったけれど、やめておいた。
 彼女は僕の母ではなく、この世界の僕の母親だった。この世界の姪がそうであるように。
 この世界のタクトがそうであるように。

 魔女はそのことに気付いているのだろうか?
 この世界で彼女を守れたとしても――守れなかった彼女を守れたことにはならないのだ。
 並行世界と呼ぶ以上、そのふたつは別物なのだ。


241: 2012/10/03(水) 13:48:26.32 ID:51GYTAGko

「ただいま」

 と僕は自棄になったような気持ちで言った。
 母は玄関に出ないまま僕に答えた。

「風邪でも引いたの? 声が変」

 僕は笑いだしたい気持ちになった。

「なんでもない」

 言ってから、僕は荷物を玄関先に置いた。それから少し迷ったけれど、家に足を踏み入れた。
 見つかったところで適当に言い訳すれば逃げられるだろう。僕は僕と似た顔をしている。
 それはパッと見ただけでは同じに見えるかもしれないけれど、"違う"のだ。明確に違う。

 僕は彼とは違う。違う経過を生きた人間なのだから当たり前だ。
 僕は彼とは違う。

 僕は彼になれないし、彼は僕にならない。
 どうして――姪が生きていたりするんだろう?


242: 2012/10/03(水) 13:49:04.73 ID:51GYTAGko

 そのことが気になってたまらなかった。どんな魔法を使えば彼女を助けられるのだろう。
 僕には最初から助ける気なんてなかったけれど。

"――ねえ"

 頭が痛む。視界が澱んでいく。

"――わたしが悪いの?"

 階段を昇って部屋に入る。部屋は僕のものと似ていた。似ていたけれど確かな違いがあった。
 机の上には写真立てがあった。家族が映っている。その中で僕と姪は中央に並んで立っていた。
 僕の手のひらは姪の頭の上に乗せられている。姪は満面の笑みでこちらを見ていた。
 僕は少し照れくさそうに笑っている。でもそれは僕じゃなかった。

 その写真の中に、姉が映っている。
 これは"いつ"撮ったものだろう。
 
 分岐はどこにあったのだろう?

 ――。
 
 何かがおかしい。

 この写真に写っていないものがある。なんだろう?
 何かが欠けている。僕はいる。姪もいる。姉もいる。母も父もいる。
 ……何が欠けているのだろう?
 背景は自宅の玄関。おそらくこの世界の僕の高校入学時に撮影したのだろう。まだ制服に着られているように見える。


243: 2012/10/03(水) 13:49:53.36 ID:51GYTAGko

 写真には、姉の夫の姿がない。

「――――」

 僕は愕然とした。
 そこなのだ。そこが違うのだ。この世界で姉は離婚している。
 僕は恐ろしくなって写真立てから目を逸らした。
 それはいつのことだ? 分岐があるとするなら、もう何年も前ということになるだろう。
 そうだ。六、七年前、姉と義兄のあいだには、一度離婚話が持ち上がった。
 
「……待て。それはおかしい」

 こらえきれずにあげた声は、少し震えていた。

 あのとき、母はとても悩んでいた。僕を夜中に車で連れ出して、車内で姉と姪について相談してきた。
 僕は姪のこともどうでもよかった。ただ、姪の夜泣きや姉夫婦の喧嘩の声が、うるさかったな、と……その程度だった。

 僕はぎすぎすした家の雰囲気にイライラしていたし、傍若無人な義兄の振る舞いにイライラしていた。
 生んだ子の世話もできない姉にも、泣いてばかりの姪にも。

 だから、

“どうすればいいと思う?”という母の問いに、

“――どうでもいいよ”と。
 そう答えたのだ。


244: 2012/10/03(水) 13:50:28.17 ID:51GYTAGko

 母は離婚家庭に育った。母親が片親であることでどれだけ苦労をしたかを知っていた。
 娘に離婚なんてさせたくなかった。姪を、父親のいない子供にさせたくなかった。
 
 だから、誰もなにも言わなければ、どれだけ上手くいきそうになくても、母が姉に離婚しろなどと言うわけがない。
 誰もなにも言わなければ、どれだけ喧嘩続きでも、姉は踏ん切りがつかないだろう。
 当然結婚生活は続き、いずれは家を出ることになる。少なくとも、僕の知る過去ではそうなった。

 数年後、僕が高校に入学する前の年、つまり、去年、姪と姉は氏んだ。
 もしあのとき僕が何か違う言葉を母に言えば何かが変わっただろうか?
 変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない。

 いずれにせよ姪は氏んだ。でもこの世界では生きている。
 ――この世界の僕も、僕と同じことを経験しているのだろうか。 
 だとするなら、彼はいったい母になんと言ったのだろう。

 でも、仮にそのときの僕の言葉が何かを変えられたとして、そうしなかったことに責任があるんだろう。
 ただそれだけのことをしなかった僕を、誰が責めるのだろう。

 ――だって僕は、そのとき十歳だったのだ。


245: 2012/10/03(水) 13:50:58.41 ID:51GYTAGko




 不意の物音に振りかえると、扉の傍に姪が立っていた。
 僕は言葉をなくして立ちすくんだ。
 
 彼女がただそこにいるという事実に身震いするほどの恐怖を感じた。
 彼女は本当に生きているのだ。

 ただそこに立って、呼吸をしていた。僕は不安になる。
 
 冷静なって考えれば、ここで姿を見せるのはまずかった。
 僕は僕を知っている人間を可能な限り避けないといけない。
 
 そうでなくても、勝手にこの家に入った人間がいると分かれば、無意味にこちらを混乱させかねない。
 ――そうなったところで、僕は別に困らないのだけれど。

「……お兄、ちゃん――」

 そんなふうに、彼女は僕を呼ばなかった。

「――じゃ、ないよね?」


246: 2012/10/03(水) 13:51:32.55 ID:51GYTAGko

 問いかけるような言葉には、確信がこもっていた。
 服装が違うからではない。声が違うからでもない。態度が変だからでもない。
 彼女には分かってしまうのだ。
 この世界では、僕と姪はそれだけの関係なのだ。

 そのことに気付くと僕はひどく悲しい気持ちになった。
 僕には誰もいない。

「……お願いがあるんだ」

 と僕は言った。彼女は面食らったように目を丸くして、気圧されたように頷く。
 生きている。

「僕と会ったこと、誰にも言わないでくれないか?」

「……あなた、誰?」

「言っても分からない。騒がないでくれると助かる。無茶を言っているって、分かるけど」

 胸の奥から何かがせり上がってくるような錯覚。
 泣き出しそうなのだ。


247: 2012/10/03(水) 13:52:00.85 ID:51GYTAGko

「今はとても混乱してるんだ。上手に物事を考えられない。それにすごく疲れてる」

「……大丈夫?」

 彼女の声は僕をいっそう不安にさせた。
 手遅れなのだ。この声も、この姿も、すべて僕から失われてしまったものなのだ。 
 それが僕の責任ではないとしても、僕だけは、自分が彼女のことなんてちらりとも考えていなかったことを覚えている。
 悔恨ではないし、後悔とも違う。

 僕は彼女のことなんてちらりとも考えなかった。ただ、自分のことだけを考えていたのだ。
 隣の家で買っている家が、やたらうるさく吠えるなと、その程度にしか彼女のことを考えていなかった。
 僕は姪のことを、生きたひとりの人間としてとらえていなかったのだ。

 僕は立っていられなくなって、ベッドに腰掛けた。俯いて考え込んだ。
 何がおかしいんだろう。僕は別に何かをしたいわけじゃなかった。 
 ただどうでもよくて、ただ不快だった。それだけだった。

 僕が無関心であったことが、彼女を頃したのではない。
 でも、僕は無関心でなかったら、彼女は氏なずに済んだかもしれない。
 それは自惚れなのだろうか。


248: 2012/10/03(水) 13:52:27.17 ID:51GYTAGko

 僕は目を瞑って深呼吸をした。それから何かを考えようとした。何かが何なのかは分からない。

 不意に、何かが僕の頭に触れた。

 驚いて顔をあげると、すぐ傍に姪が立っていた。
 目が合うと、彼女は気まずそうに表情をくもらせる。
 彼女が僕の頭に手のひらを乗せたのだ。まるで子供にでもやるように。

「ごめんなさい」

 彼女は謝ったけれど、謝られたところでどうしようもなかった。
 すべて過ぎてしまったことだった。取り返しはつかない。僕は僕のことだけを考えて生き続けるしかない。 
 誰かのためには生きられない。

「なぜ悲しいの?」

「……」


249: 2012/10/03(水) 13:52:58.46 ID:51GYTAGko

 なぜ? と。

 それは答えようのない疑問だった。
 僕は少し考えてみたけれど、なかなか答えは浮かばなかった。
 なぜ、悲しいのだろう。彼女が氏んだからではない。氏んだことが悲しいのではない。
 
「きっと――」

 と、僕は声をあげた。少し鼻声になっていた。

「――自分が無効な人間になったからだ。誰にも何も訴えかけられないし、誰のことも触れられない。誰にも見えない。そういう人間に」

 僕にできることはひとつもないし、僕を必要としている人間はひとりもいない。
 僕が助けられた人間はひとりもいないし、僕を助けたい人間もひとりもいない。
 僕を好きでいてくれる人間はいないし、僕を嫌いになる人間もいない。
 ただそこにいるだけの存在。でもそれは僕が望んでそうなったのだ。

「いつのまにか終わっていたんだ。何も手のひらに残らなかった。どうしようもないんだ。
 いつのまにかこうなっていたんだ。それは自分のせいかもしれないけど。
 僕はどこにも行けなくなっていたし、誰にも会えなくなってた」

 僕は誰にも必要とされようとしなかったし、誰も助けようとしなかったし、誰にも助けてほしくなんてなかった。
 誰にも好かれたくなんてなかったし、誰にも嫌われたくなかった。
 どこにも行きたくなかったから、いつのまにかどこにも行けなくなった。
 誰にも会いたくなかったから、誰にも会えなくなった。

 僕はただ――寝転がってテレビを見ていただけ。誰ともつながろうとしなかった。最初から。
 どうしてそうなったのかは知らないし、こっちの僕がどうしてそうならなかったのかも分からない。
 でもそれは、決定的な違いだ。致命的なことだ。


250: 2012/10/03(水) 13:53:29.49 ID:51GYTAGko

「……見えるよ」

 と彼女は言った。僕は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 彼女は僕の手を掴んだ。

「触れるよ」

 当たり前のことを当たり前に言うような、「何を言ってるんだ」とでも言いたげな、間抜けな表情で、彼女は言った。

「――」
 
 すとん、と、胸に落ちるような納得がよぎる。
 こういう子だったのだ。
 一緒に居る時間が短かったから分からなかった。
 
 こういう子だと知っていたから、この世界の僕は彼女のことを考えたのだ。
 僕は知らなかった。知ろうとしなかったし、知る機会がなかった。
 であるなら――この世界と、あの世界の致命的な違いを生んだのは、きっと……。


251: 2012/10/03(水) 13:53:58.42 ID:51GYTAGko

「ありがとう」

 と僕は言った。立ち上がると、彼女は掴んでいた手を離す。

「もう行く。悪いけど、僕のことは誰にも言わないでほしい」

「……うん」

 彼女は状況がうまく飲み込めていない顔をした。

「誰にも、だよ」

「……うん」

 何か思うところがあるような顔で、彼女は俯く。

「どうかした?」


252: 2012/10/03(水) 13:54:24.75 ID:51GYTAGko

「ううん。えっと、お兄ちゃんの、知り合い、なの?」

「……いや」

「お兄ちゃんのこと、知らない?」

「知っては、いるけど」

「最近、変なの」
 
 姪は表情を曇らせる。僕は訊ね返した。

「……何が?」

「すごく疲れてるみたいなの。なんだか、ずっと大変そうで。なんでだろう?」

「――――」


253: 2012/10/03(水) 13:54:50.94 ID:51GYTAGko

 この世界もまた、決して順風満帆ではない。

"ごく簡単に言うとね、わたしはある一人の女の子の未来を守りに来たわけ"

 放っておけば失われてしまうのだ。彼女はまた氏んでしまう。
 なぜ、そんなことになるんだろう。僕は無性に気になった。
 この世界で何が起こるんだろう。
 それはすぐ起こることではない、と魔女が言っていた気がする。

 僕は――目の前にいる彼女のために、行動を起こしてもいいかもしれない。
 そうしたくなった。たったこれだけの会話で、僕は彼女のことを好きになっていた。
 見過ごすことができなくなってしまった。

「分からない」

 と僕は正直に答えた。
 

254: 2012/10/03(水) 13:55:34.45 ID:51GYTAGko

「大丈夫だよ。きっと、不安に思うことはない」

 僕の言葉が彼女の耳に届いたかどうかはさだかではない。
 彼女はきっとこの世界の僕のことだけを考えていて、僕のことは目に入っていなかっただろう。
 それでいいのだ。

 僕は素知らぬふりをして玄関を出る。そこまで姪が見送ってくれた。誰にも言わない、と彼女は約束する。
 その時にはすでに、彼女は当たり前のように笑顔になっていた。まったく陰りのない表情。
 きっと彼女は、この世界の僕の前でも、この表情になるのだろう。そして僕のことを騙すのだ。
 何の不安もないような顔で、何か思いつめている。

 家を出たのは三時半を過ぎた頃だった。
 不意に後ろから物音が聞こえて振り返ったけれど、誰もいない。
 怪訝に思ったがいつまでも同じ場所に居続けるわけにはいかず、僕は歩き出す。

 ――魔女を探す。そして、彼女の未来について問いただす。
 

257: 2012/10/05(金) 14:34:54.54 ID:YWQt4mxFo

◆九

 
 けれど魔女はその日、僕の前に姿を現さなかった。
 僕は夕暮れの街を歩きながら彼女の姿を探したけれど、どれだけ探したところで無駄だという気もした。
 彼女の意思の上でしか、僕は彼女に会うことができない。
 
 それでも惰性でさがしていたけれど、半分以上諦めていた。街を歩いているのは別の理由からだ。
 自分が住んでいるときは分からなかったけれど、街には結構人が歩いている。
 以前とは違って見える。僕の目にはさまざまなことが色づいて見えた。

 なぜこれだけのものを見過ごしていられたのだろう、と僕は愕然とした。
 五時を過ぎる頃に街には雨が降り始めた。

 静かで綺麗な雨だった。僕は近くのコンビニに立ち寄って傘を買った。
 傘を買うとき、レジを打った店員が奇妙なものを見るような顔をしていた。
 僕は気にせずに店を出た。傘を広げて街を歩く。
 人の姿は消えていた。部活帰りなのだろう、ジャージ姿の学生が自転車を慌てて漕いでいった。

 僕はとりあえず雨宿りできる場所を探したが、新しい場所に向かいたくはなかった。
 とりあえず思いついたのは、昨夜の無人駅だけだった。 
 連日忍び込むのは危ないかもしれないが、他に心当たりもない。
 

258: 2012/10/05(金) 14:35:30.23 ID:YWQt4mxFo

 傘を畳んで無人駅に入ると、先客がいた。彼女は僕の顔を見て一瞬不思議そうな顔をする。

 僕は目を逸らして知らないふりをした。
 
「ねえ」

 とすれ違いざま、女は僕の顔を見て声をあげた。そうまでされると顔を合わせないわけにはいかない。
 僕は溜め息をついて女に目を向けた。

 僕の態度に、彼女は怖気づいたように後ずさる。

 そして数拍おいてから、

「……ごめんなさい。人違いでした」

 謝る。たぶん人違いではないだろう。
 どうも、こっちの僕は知り合いが多いらしい。


259: 2012/10/05(金) 14:36:14.25 ID:YWQt4mxFo

 彼女はすぐに駅を出て行った。僕はベンチに腰を下ろして溜め息をつく。
 物事にはきっと、相応しい時間というものがある。

 魔女もまた、何かを考え込んでいるような顔をすることがときどきあった。
 彼女にも何かがあるのだろう。僕には分からないこと、僕が知らないこと。

 瞼を閉じると眠気が襲ってきた。疲れているのだろう。たかだか二日間の出来事なのに、ものすごい密度に感じる。  
 何かをしたわけではない。なぜこんなに疲れているのだろう。

 歩き回ったからだろうか。眠気はすぐに襲ってきた。僕の意識はすぐにさらわれる。
 魔女を探さなくては。……彼女の言葉の真意を問いたださなくては。
 そうしなければ……。


260: 2012/10/05(金) 14:36:43.76 ID:YWQt4mxFo



◇十一



 目を覚ますと外は白み始めていた。僕は体を起こして頭痛に顔をしかめる。
 朝が来たのだ。全身に鈍い痛みが走っている。
 ただ眠っていただけなのに、なぜだろう。

『たぶん、魔女は繋ぐんだ』

 彼は言った。

『僕や、君や、おそらく他の人間。あの子についても、みんなそうだ。そういう人間のある種の性質を利用して、繋ぐんだよ』
  
 性質。……性質? 僕や彼やあの子に共通する性質。
 ある種の空虚さ。

 僕という人間の生活について考える。 
 僕はごく平凡な高校生だ。両親は健在。歳の離れた姉と、その娘と同居している。
 姉は一度離婚を経験していて、二十八になる今でも実家暮らしを続けている。
 

261: 2012/10/05(金) 14:37:09.98 ID:YWQt4mxFo

 近くのコンビニでバイトをしている。
 趣味は特にないが、ときどき古本屋に言って五十円で買える中古の小説を何冊か買って暇を潰している。
 炭酸飲料と甘い食べ物が苦手。
 客観的に言って、少し姪に執着しすぎているかもしれない。
 
 客観的に、と僕は思う。それが大事なのだ。僕と言う人間を客観的にとらえ直すことが。
 
 客観的に言って、僕は焦っている。八月三日の日に自分と同じ姿をした人間を見てから、ずっと気分が落ち着かない。
 では、それ以前は普通の精神状態だったのか? ――どうだろう。それ以前のことはよく思い出せない。
 夏休みに入る前、僕はどんな学生生活を送っていたのだろう。
 友達はいたのだろうか? クラスメイトとの距離感は? 学校での成績、勉強の調子。
 部活動には所属していたか? 人に言えないような秘密はあったか?

 こうして考えてみると、そのほとんどの問いに僕は答えることができない。
 本当に思い出せないのだ。僕は唖然を通り越して笑いだしそうな気持ちになった。
 
 僕の身に何が起こっているのか。


262: 2012/10/05(金) 14:37:40.41 ID:YWQt4mxFo

 が、まずはそのことを保留にする。現状を把握し直そう。

 あの日、ヒーローショーの日のショールームの二階、あそこで僕とそっくりの男を見かけた翌日。
 家に帰るとギターの弦が切れていて、白紙のメモが残されていた。
 
 あれは誰の仕業だったのか。

「何の話?」と彼は言った。
 彼が関与していないとなると、候補はひとりしかいない。
"魔女"と彼が呼んだ女。電話の女。

 その三日後の八月六日、僕は彼と初めて言葉を交わすことになる。
 彼の話はまったく要領を得ず、僕を混乱させるだけだった。
 彼は僕と姪の関係についていくつかの質問を投げかけたあと去って行った。
 
 そのことも今考えれば納得できなくはない。彼にとってこの世界は未知の並行世界だったのだから。
 この世界の僕と姪の関係を知ろうとするということは、つまり彼の世界での関係性はこちらとは異なるという意味だ。
 
 だが、それは"彼"の話であって"僕"の話ではない。


263: 2012/10/05(金) 14:38:06.66 ID:YWQt4mxFo

 姪はその翌朝、僕の前から姿を消した。八月七日。空は曇り空だった。
  
 なぜ消えたのか。
 僕には、姪が自発的にいなくなってしまったように感じた。
 それを思えば前日の様子はおかしかった。いつもならしないような話をしたりもした。

 彼女は何かを思いつめているように見えた。何を思いつめることがあるのだろう?
 一応、僕は姉と父母の不仲を危惧してはいたが、それでも安定はしていたのだ。
 
 彼女が不安に思うこと。それってなんなんだろう? 姉の愛情? 父母のストレス?
 それともそれ以外?

 よく分からない。なぜ彼女がいなくなったりするんだろう。でも漠然とそう感じるのだ。自発的にいなくなったのだと。
 姪がいなくなった日、僕は彼女の姿を探して街を走り回ったが、結局見つからなかった。
 

264: 2012/10/05(金) 14:38:45.38 ID:YWQt4mxFo

 母からの電話の後、帰ろうとする途中でもう一度彼に会った。
 彼の様子はどうだったろう? 初めて会った時と比べて。
 ……ひどく落ち着いているように見えた。
 最初は、彼自身もひどく混乱しているように見えた。けれど二度目の彼は、少し落ち着いていたのだ。 
 
 彼の言葉の通り僕は家に帰り、休むことにした。そしてその翌日にはバイトがあって――。
 その頃からずっと、頭がぼんやりしている。

 夜、ショールームに忍び込んだ。今思えば……なぜ入れたのか。 
 ――――。

"なぜ?"

 緑色のドア。
 魔女の居場所はどこだろう。


265: 2012/10/05(金) 14:39:42.06 ID:YWQt4mxFo

 僕はショールームで彼女からの電話を受けた。そこで初めて、彼女の存在を知る。
 フクシュウ。分岐と結果。

 彼女との電話が切れたあと、僕は彼とふたたび会うことになる。
 思ってみれば……彼はなぜあのショールームを訪れたのだろう?
 
 ――。

「…………え?」

 彼はあの日、僕を見つけて、バカみたいな挨拶のあとにこう言った。

『彼女に会ったの?』

 僕はこう問い返す。

『どっちの?』

『魔女についてのつもりだったが、両方』

 彼自身は、別の並行世界から来たただの人間に過ぎない。
 だとするなら、彼は僕の行動を把握できるわけがない。


266: 2012/10/05(金) 14:40:21.59 ID:YWQt4mxFo

『彼女に会ったの?』

「会えたの?」ではなく「会ったの?」と言った。
 彼の目から見て、僕は彼女に『会える』状態にあったのか?
 ……バカバカしい。ただの言葉のニュアンスの問題なのかもしれない。

 だが、ひょっとしたら、彼はあの夜、魔女に会いに行くつもりだったのかもしれない。
 魔女に会いにいったら、偶然僕がそこにいた。
 だからこう訊ねることになる。

『彼女に会ったの?』と。

 僕はそんなことを知らないから、電話が来た、とだけ答える。
 彼は何も言わなかった。

『あの子は、魔女と一緒にいるらしい』

『……まあ、そうだろうね』

 姪が魔女と一緒にいると聞いたとき、彼は驚かなかった。
 彼はこの世界の事情に詳しくないはずだ。姪がいなくなる他の要因があるかもしれないと、想像してもおかしくないのに。
 つまり彼は、知っていたんじゃないか。予想できていたのではないか。
 あの日、姪がどこに居たのか。


267: 2012/10/05(金) 14:40:52.00 ID:YWQt4mxFo

 あの日、僕はひどく混乱していた。彼の言葉になんの違和感を抱かないほどに。
 
 あの日? ……いや、違う。まだ混乱している。時間の感覚すらおかしくなっている。
 これは――昨夜の出来事だ。

 魔女は、あの子は、昨夜、あのショールームのどこかにいたんじゃないのか?

 ひどい頭痛だった。僕は携帯を手に取って予定表の画面を開いた。バイトのシフトは入っていない。
 もう一度、あそこに行ってみなければならない。

 でも、あの日、あそこに緑色のドアはなかった。
 僕には、それが何か致命的なことに思えた。
 あのドア。
 
 とにかく、落ち着け、と僕は思った。
 頭痛がだんだんとひどくなる。立っていられなくなる。

 落ち着けよ、と彼の声が聞こえる。
 それから自分が何をすべきか考えるんだ。それはたぶん、僕にとっても大事なことなんだよ。 
 
 頭が痛くてうまくものごとを考えられない。僕は瞼を閉じてベッドに倒れ込んだ。
 でも、眠りたくなかった。変な、奇妙な、憂鬱な夢が、ぼんやりと印象だけを僕に残していく。
 眠りたくなかった。


270: 2012/10/07(日) 16:21:05.24 ID:wY39qn+Wo




◆十

 
 翌朝目を覚ましてすぐ、僕は全身の痛みと気だるさに意識を引っ張られた。
 堅いベンチで眠っていたから体が石のように凝り固まっているのだ。どこかでゆっくりと休みたい気分だった。
 
 僕はポケットに突っ込んだ財布を取り出してみる。不思議なことに気付いた。
 金が減っていないのだ。 
 
 そういえばこの財布の中身をどれくらい使っただろう? 最初はいくら入っていたのだっけ? よく覚えていなかった。
 むしろ使っていない分の金が余って増えているようにも見えた。当初入っていた金の三倍はある。

 なんだ、と僕は思った。この金があればこんなところで寝泊まりなんてしなくてもよかった。
 食うものにも服にも困らない。そう思って僕はまた、例の銭湯へと向かった。
 途中で歩くのが面倒になり、タクシーを呼んで運んでもらった。大抵のことは金があればなんとかなる。今の世の中は特に。


271: 2012/10/07(日) 16:21:32.62 ID:wY39qn+Wo

 僕には何か考えなければならないことがあったはずなのだが、よく思い出せなかった。
 とにかく僕の頭に流れていたのは、つい昨日あったばかりの姪の姿だった。
 
 彼女がどこか遠くで泣いている気がした。でも、僕は彼女の居場所を知っている。
 なぜだろう? 強く混乱しているのだ。

 風呂に入って汗を流した後、僕は銭湯の大広間にあったマッサージチェアに腰かけた。
 いつの間にか眠っていて、目が覚めたら十一時を過ぎていた。腹が空いていたので店を出て、タクシーでファミレスまで移動する。
 朝食をとったあと、僕はどうしようかと考えた。
 とにかく街の方に行くと映画館のポスターが目についた。僕は吸い寄せられるように入場してチケットを買った。
 店の中は空いていた。休みだと言うことを考えれば学生がいてもよさそうなものだが、本当に数えるほどしか客がいなかった。
 寂れているわけでもなさそうなのに、なぜだろう。だが、それもどうでもいいことだった。
 
 今の僕にとって重要なのはそんなことではない。では何が重要なのか? それがさっぱり思い出せない。
 シアターに入場して席に着く。まだ明るい。
 

272: 2012/10/07(日) 16:21:58.67 ID:wY39qn+Wo

 僕という人間について整理する。
 
 僕は高校生だ。
 親は生きているが、別居している。生まれた街――つまり今僕がいる街――を離れて暮らしている。
 部活動には所属していない。勉強にも熱心じゃない。バイトをするわけでもない。
 どこにでもある程度はいる無気力な学生。友人も少なく活力がなく趣味もない。それが僕だ。

 歳の離れた姉がいる。彼女は姪を生んだ。そして頃した。そののち、自分の手で自分を頃した。
 彼女たちの氏はちょっとしたニュースとして全国を騒がせたが、それは二件目だった。
 同様の出来事が、その年にあと三回あった。あわせて四回の、子頃しのニュース。
 
 ちょっとした社会問題にもなったが、たとえば姪の人格や姉の精神性などを問題にする人間は少なかった。
 問題は最近の母親、最近の子供、最近の家庭の事情にすり替えられた。誰も彼女たちの固有性に目を止めようとはしなかった。
 
 姉の夫はその後蒸発した。どこに行ったのかは知らない。
 いずれにせよ、僕の生活はそこからおかしくなった。
 僕はひどく混乱したし、わけが分からなくなった。なぜかは分からない。

 僕はそもそも他人のことを慮らず、自分のことのみを考えることを信条として生きてきた人間なのだ。
 誰もが自分のことのみを考えていれば十分だと信じていた。
 だから僕は他の人間のことに関与しないかわりに、他の人間の責任を取ろうとしなかった。

 僕の混乱は姪の存在に起因している。僕はあの出来事から一年以上ずっと、姪の氏について考えていた。彼女は八歳だった。
 なぜ、八歳の子供が氏ななければならなかったのだろう?
 姪の遺体はひどく痩せていて、生前ろくに食事を与えられていなかったらしいとニュースキャスターが言っていた。
 

273: 2012/10/07(日) 16:22:25.86 ID:wY39qn+Wo

 もちろん子供が氏ぬなんて珍しいことじゃない。そんな例はごまんとある。今だってきっと氏んでいる。
 でも、なぜ母親に殺されなければならなかったのか? もちろん姉にも事情はあっただろう。
 本人なりの苦悩もあっただろう。ならばなぜ周囲がそれに気付いてやれなかったのか?

 責任と言うのは連帯させようと思えばどこまでも連結してしまうものだ。
 だから僕は根源的に責任の連帯というものを嫌う。きりがないからだ。

 だが、そのことがあってから僕はずっと考えてしまう。
 僕は姪の氏に関して本当に一切責任がないと言えるのか?

 十歳のときに母に何かを言えなくてもいい。それ以来何か他にできたことはなかったのか?
 僕はなぜ姉の異変に気付けなかったのか? 僕は姪に対して何かをしてやったのか?
 姉は母が姪をかわいがるのを嫌った。そうすると姪につらくあたった。だから母は姪の様子をうかがいにいくにも機会を見る必要があった。
 
 誰の責任なのだろう? 姉は悪い。だがその姉を追いつめたのは誰か? 義兄か? 母か? それとも姪か?
 

274: 2012/10/07(日) 16:22:59.44 ID:wY39qn+Wo

 僕は――自分以外の人間のためにも、少しくらいは心を使ってもよかったような気がしている。
 でも何もかもが手遅れだ。

 ライトが消えて映像が流れ始める。

 僕は頭を抱える。いったい何を考えているのだろう? 思考から一貫性がなくなっている。
 僕には何かができたのか? それともそれは傲慢か陶酔か?
 その答えは分からない。
 けれど、僕は彼女の為に何かがしたかったのか? という問いに僕はシンプルに答えることができる。
 
 僕は彼女のことなんてちらりとも考えていなかった。
 ただ自分のことだけを考えていた。
  
 だが、それなら、どうしてこんなに、僕は彼女のことに思考を奪われてしまうんだろう。

 氏者は蘇らない。


275: 2012/10/07(日) 16:23:26.21 ID:wY39qn+Wo




 時間の感覚が曖昧になる。おそらくは次の日の夕方だろうが、不確かだ。
 街の賑わいに誘われて、僕は人ごみにまぎれ歩いた。花火大会があるのだと言う。
 そういえば、魔女が花火大会について何かを言っていたような気がする。なんと言っていたのだっけ。
 
 僕は、この世界にたしかに生きる姪のために、自分が何をできるのかを考えた。
 何も思い浮かばない。僕はなぜか強く混乱している。

 こんなふうに僕が混乱しているのは、きっとこんな不条理な世界にひとりぼっちでほったらかしにされているからだろう。

『こんな不条理な世界にひとりぼっちでほったらかしに』された人間はひどく混乱してしまう。
 そういう人間の抱えるある種の空虚さ。思考の空洞。そこには普遍性があるように思われた。
 が、どうでもいいと言えばどうでもいい話だ。
 
 何がおかしい?

 チューニングがあっていない。

 落ち着け、と僕は内心で唱えた。何を不安がっているんだ?
 僕が今更不安がることなんてあるのか? ……手遅れじゃないのは、この世界のことだけ。
 僕はこの世界の姪のことだけを考えればいい。

 ――この世界の姪を苛むものはなんなのか?

 それをたしかめるのにもっとも手っ取り早い手段がある。

 この世界の僕に会えばいいのだ。


276: 2012/10/07(日) 16:23:54.32 ID:wY39qn+Wo




 その日、僕はこの世界の僕に出会った。彼はひどく憂鬱そうな顔をしていた。
 僕に対して怯えている様子だったが、そのことは対して気にかからなかった。

 僕は僕と同じ顔をしている人間の存在に向かって、意外なほど冷静だった。
 あまり自分のことを正直に話す気になれず、いくつか嘘をついた。
 彼が僕について何かを知ることで、魔女の計画が崩れるかもしれないという危惧もあった。
 彼と話していると、情報の整理のために混乱することはあったが、そのことはさして苦痛ではなかった。

 むしろ苛立ちを感じたのは、彼自身がひどく疲弊しているように見えたことについてだ。
 
 どうして彼はここまで疲れているんだろう。僕はそのことを不思議に思った。
 話しているうちにどうしても苛立ちを堪えられなくなって、僕はだんだんと話す気が失せてきた。
 ところどころで目新しい情報もあったが、かといって確信的に言い切れることはなにひとつなかった。

 上の空で、集中が途切れていて、何かを諦めている。そんな表情をしている。
 追いつめられているのだ。僕は、魔女が危惧することの正体がなんとなくわかった。

 そしてこうも思った。

 僕にとって、彼の存在は、「正解」だ。この世界は僕にとって「正解」の世界なのだ。
 つまりそれは、僕自身を「間違い」とする世界のことだ。
 
 にも関わらず……なぜこの世界はこんなにも危ういのだろう?
 

277: 2012/10/07(日) 16:24:20.27 ID:wY39qn+Wo

 その答えを、既に僕は持っている。
 つまり僕がこの世界に来たのは、決して"僕"のためではない。むしろ『彼』のためなのだ。
 この危うさを、魔女はどうにかしようとしているのだろう。

 だが、僕が存在することで改善できる危うさとはなんだろう?
 僕は彼に対してどのような影響を与えられるのか?

 むしろこの世界に来て、危うさが増したのは僕の方だと言う気がした。

 ……思考が、断線して、混乱している。繋がるべきじゃないところに、繋がっている。
 おそらくは、ひとりでいるからだ。

 だから、落ち着こう。落ち着くことが、大事なのだ。

 僕が今考えるべきなのは、正解とか、不正解とか、そんなことじゃない。 
 この世界の姪を苛むものがなんなのか。
 それだけだ。それ以外のことは、すべて手遅れだ。
 それに、ひょっとしたら――そのことを考えることが、僕の思考の答えになるのかもしれないのだから。


278: 2012/10/07(日) 16:24:49.17 ID:wY39qn+Wo




 不意に目が覚めた。時間の感覚はとうに失われている。僕はまた無人駅で眠っていた。
 今はいつだろう? 既に分からない。
  
 何か嫌なことが起こりつつあるような気がした。
 僕は体を起こす。不思議と全身の痛みは消えていた。それから落ち着かない気分で街を歩いた。
 外は真っ暗だった。夜なのだ。それも深夜に近いのだろう。人の気配が街から消えている。
 漠然とした予感のようなものがあった。

 起こりつつある。早まっている。

 変化の原因はいくつも思いつく。

 魔女が危惧する未来。
 おそらく、この世界の僕はいずれ、破綻する。
 今でさえかなり疲弊している。それが分かっていた。
 この世界の姪にとって、『彼』がよりどころになっているのは間違いない。
 
 であるなら、姪に氏が訪れるとして、そのことに『彼』が無関係と言うことはありえるだろうか。

 不意にそのことに気が付くと、急激な不安に襲われる。
 姪ならどう考えるだろう? あの疲れ切った表情に、彼女が気付かないわけがない。

 ――誰のせいで、と考えるのだ?


279: 2012/10/07(日) 16:25:23.57 ID:wY39qn+Wo

 それでなくても彼女は負い目を感じ続けている。母に対しても祖父母に対しても。
  
 僕の世界の姪には、頼れる相手がひとりもいなかった。
 だから、姉が姪を殺さずとも、姪はいずれ氏んでいただろう。

 ではこの世界の姪には? 少なくとも姉は母として健在であり、衣食住は父母が整えているらしい。
 そのうえ、一応は『彼』が面倒を見ている。

『姉が……』
  
 と、あのとき『彼』は言った。
 姪が『彼』の家に住んでいるということは、おそらく姉もそこにいる。

 姉と父母の関係はどうだろう。姪と姉は。姉と『彼』はどうだろう。
 そこに何らかの不和があったとき、姪は自分に責任を感じずにいられるだろうか。

 僕は急に不安になった。この世界の彼女には頼る相手がいる。
 でも、たとえば、自分が迷惑を掛けている、と彼女自身が感じたらどうだろう?
 たとえば姉と父母の不和があったとして、その理由が自分だと感じたら?
 叔父の疲弊の理由が自分にあると感じたら?
 姪はそれ以上迷惑を掛けまいと他人を頼れなくなってしまうのではないか。

 僕はそこまで考え、バカバカしい推測にすぎないと振り払おうとしたが、無理だった。

 なぜだろう。
 確信めいている。

 そうなったとき、彼女はどうするのだろう。
 僕には、そういくつも考えが浮かばなかった。


282: 2012/10/09(火) 14:03:47.87 ID:hMoQYFR5o





 僕は、なぜこんなにも混乱しているのだろう。
 たぶんそれは、軸がぶれているからだ。
 そもそも僕は、何のためにここにいるのだろう。

 魔女は言った。僕のような僕を彼に見せることで、この世界の結末を少しましにしたいのだと。
 でも、それは本当だろうか? あまりにも嘘くさく思える。
 彼はむしろ混乱を強めていたし、どのような形であれ、こんな異常が正常な世界へと働きかける手段になるわけがない。

 魔女はなぜこんなにも回りくどい手段を取るのだろう?
 魔女がすべてを知っているのなら、彼に向かって「このままでは悪いことが起こる」と教えてしまえばよいのではないか。
 そうするのがいちばん手っ取り早いのだし、確実だ。信じてもらえるかどうかはやり方にもよるだろう。
 彼女の行動と言動は噛みあっていない。
 
 それ以上に意味が分からないのが、彼女が"この世界の彼女"を救おうと思った理由についてだ。
 なぜ"この世界"なのか? 並行世界という不可解なファクターを持ち込んだことで、彼女の行動は一層おかしなことになっている。
"並行世界"。


283: 2012/10/09(火) 14:04:23.42 ID:hMoQYFR5o

 僕はこの言葉についてあまりに無関心すぎたかもしれない。突拍子がないのだから当然と言えば当然だが。 
 並行世界。枝分かれする世界。"いくつかの分岐と結果"。

 ……僕はそのことについて考えるのをやめた。彼女がなぜそんなことをしているのか、それはどうでもいい。
 問題は僕のことだった。

 僕はなぜここにいるのだろう。僕はなんのつもりでこんな場所に居続けているんだろう?
 僕はもう終わってしまった人間だ。無効になった人間だ。
 見えるし触れるけれど、でもそこに存在しているわけではない幻。
 僕はなぜここにこうしているのか?

 僕は少しずつ、自分の心が萎みつつあることに気付いていた。
 それはこちらの世界の彼女にあってから、ずっと起こりつつあった変化だ。
 彼女の言葉は明白に僕の心を救った。その代り、今僕をひどく傷つけつつある。

《何を言われようと、僕は所詮この世界では生きられない。》

 そういった絶望が僕の胸に巣食い始めていた。

 要するにこの世界は僕にとって致命的な存在ではあったが、僕はこの世界にとって致命的な存在にはなれなかった。
 魔女は思い違いをしていたのだ。

 なんだかひどく退屈な堂々巡りに陥ってしまった気がする。
 僕はすべてが終わった後どうするつもりなんだろう。この世界にはいられない。
 でも、あちらの世界に僕は戻れるのだろうか? 
 僕はこの世界を既に見てしまっている。そのうえで帰って、尚生きることができるのか。
 おそらくできない。

 僕は終わってしまっている。魔女は僕を頃したのだ。

 ただ、この世界の姪のことだけが、どうしても心配だった。 
 なぜだろう?


284: 2012/10/09(火) 14:05:06.82 ID:hMoQYFR5o








 僕は目を覚ました。目を覚ましてすぐに服を着替えて顔を洗い、歯を磨いて、ついでに髪を軽く洗った。
 財布と携帯電話をポケットに突っ込んで家を出る。時刻は朝七時を過ぎた頃だった。

 僕はショールームへと向かった。何が起こっているのか、僕にはまったく分からない。
 でもすべては此処から始まっていた。

 魔女とは何者なのか、という問いの答えを、僕は既に持っている気がした。

 展示場につく。入口の扉は開いていた。たぶん、そこに理屈は通用しない。

 中には、人影があった。
 ちょっとした眩暈。僕はいくつかの事実を思い出そうとしたが上手くいかない。
 僕が探している人間はたったひとりだ。

 僕は思う。
 混乱することはひとつもない。姪がいなくなった。僕は冷静さを失い、取り戻した。
 そして心当たりを当たっている。そこにはどんな動揺も含まれていない。

 落ち着いている。

 目の前に立つ人影は、僕の知らない人間のものだった。



285: 2012/10/09(火) 14:05:35.16 ID:hMoQYFR5o

「おはよう」と少年は言った。ギターケースを背負っている、背の高い、線の細い少年だ。
 
「……君は誰?」

「たぶん、言っても分からないと思う」

 彼はそっけない表情で言い返した。僕は苛立つ。

「まぁ、それはどうでもいい。どうでもいいから――」

 自分でも声が震えていることに気付いた。

「その子を返してもらえる? 僕の姪なんだけど」

 彼の後ろで、小さい影がひそかに動いた。

「落ち着けよ、おじさん」

 少年は皮肉げに口元を歪めた。僕と同い年くらいの少年。

「物事にはさ、順序ってものがあるんだよ。必要な手続きってものが」

「それが終われば、彼女を返してもらえる?」


286: 2012/10/09(火) 14:06:24.26 ID:hMoQYFR5o

「上手くいけばね」

「……」

「すべて本人の気持ち次第ってこと。ついでにいうと、僕は少し怒ってるんだ」

「……怒っている?」

「なんせ、あんたは僕の友だちを頃したから」

「――?」

「それより先に見てほしいものがある」

 と少年は体を翻した。彼の真後ろにはドアがあった。
 緑色のドア。

「いいかな、これから見るものを、これからする話のすべての前提として共有しておいてもらいたい」

 彼は緑色のドアを、二回、小さくノックした。
 ぐるり、という眩暈が、僕の頭を襲う。


287: 2012/10/09(火) 14:07:05.37 ID:hMoQYFR5o

 一瞬、周囲が静寂に包まれた。何もかも飲み込んでしまいそうな静寂だった。
 光も音も波もすべて、すべてが無効になったような静寂だ。
 僕はそのような姿の静寂に会ったことがない。そこには何もなかった。途方もない虚無だけが存在していた。
 
 すると、ショールームのドアがひとりでに開いた。右端の茶色いドアだ。次にその隣のものが音もなく開く。
 ドアはどんどんと開かれていく。僕の眩暈は激しくなってきて、背筋に強い怖気が走った。
 僕はそのドアの向こうの景色を見た。

「可能性という言葉はひどく難しい。ありとあらゆる可能性があると言われれば、余計なものまで想像してしまうものだ」

 でも違う、と彼は言った。

「ここにあるのがあなたの可能性のすべてだ。いくら可能性と言っても、今家にいた次の瞬間に、ニューヨークの市街地で車に轢かれたりはしない。
 わかるかな、物事には限度があって、順番がある。あなたは視界に映るすべてを理解しようとしなくていい。
 でも、たったひとつだけあなたが理解しておくべきことがある。
 この世界は、あなたが持つ可能性の中で唯一、彼女を守ってやれる可能性のある世界だったということだ。
 だから僕はこの世界にいるのだし、彼女も彼もこの世界にやってきたんだ」

 彼の声はショールームにおぼろげに反響していた。僕にはその声が、脳の中に直接響いているように感じられた。


288: 2012/10/09(火) 14:07:31.86 ID:hMoQYFR5o

「だからこそ、僕はとても怒っている。もちろんあなたからすれば理不尽な話だ。なんせあなたは普通に唯一として生きただけなんだから。
 でもね、僕は彼女のことが好きだったんだよ。だからこそ二重に悲しい。僕にはどうにもできなかったんだ。
 あなたにしかどうにもできないことがあったんだ。だからといって責任があなたにあるとは思わない。彼女の問題だ。
 だから知っておいてほしいし、どうにかしてほしいんだ。分かるかな」

「……きみは」

 僕は、彼の言葉を追いかけているうちに、魔女の正体に辿りつけた気がした。

「きみたちは、未来から来たのか?」

「摩訶不思議にもね」

 彼は特別不思議でもないと言う顔で言った。

「重要なのは」

 と彼は言う。

「あなたと、この子のことだ。僕とか、彼女のことは、いまさらどうだっていいような話なんだ。
 最初から、それ以外のものは存在していないのと同じなんだ。枝葉末節なんだよ。分かるかな」

「待ってくれ」

 と僕は言った。彼の言いたいことがよく分からなかった。

「きみの言っていることを通して考えると、つまりきみがいる未来では、きみの言う「彼女」は氏んでいるんだな?」

「そうだよ」

 なんともないような顔で言う。

「だから僕はここにいる。あんたに、ガキっぽい感傷をやめてもらって、しっかりと彼女のことを考えてもらうために。
 自己陶酔に浸った妙なやり方じゃなくて、地に足についたやり方で、彼女を守ってもらう為に」


291: 2012/10/10(水) 15:03:20.39 ID:9w2XXqC5o






 僕は、今、何月何日にいるのだろう。よく思い出せない。
 なにひとつ、思い出せない。







「その扉の向こうを、覗いてみなよ」

 僕は彼の言葉のまま、扉の向こうを覗きこむ。そこには、僕と同じ顔をした誰かが映っている。

「自分以外のことをかえりみなかった人間の、それは、なれの果てだよ」


292: 2012/10/10(水) 15:03:47.65 ID:9w2XXqC5o





 僕はなにひとつ失ってなんかいない。そもそも僕は何も欲しがってはいないからだ。
 僕はただ自分が快適に生活するためだけに生きていた。
 にもかかわらず、僕はなぜこんなに不快な状態に押し込められているのだろう?
 
 僕を苦しめ苛むものはなんだろう?
 僕は彼女を、どうしたかったんだろう。
 





「僕の言いたいことが分かるかな。彼もまた、今は彼女のことを考えている。
 でも――すべては手遅れなんだ」

「……どういう意味?」

「たぶん、彼女はこういったことを想定していなかった。そのあたりが彼女の甘さなんだ。自分がつなげることの重大さに気づいていなかった」

 彼はいったい何を言っているんだろう。


293: 2012/10/10(水) 15:04:44.83 ID:9w2XXqC5o






 誰か、誰でもいい。僕について上手に説明をつけてくれる人間はいないだろうか?
 僕はどこで間違ったんだろう? 何を間違えたんだろう? 
 それとも間違えてなんかいなかったんだろうか。でも、それはおかしい。
 そうじゃなければ、僕はなぜこんな場所にいるんだ?
 
 薄暗くて、狭くて、息苦しくて、耐え難い。

 まるで山椒魚みたいだ。





 
「彼の致命的な失敗は、自分以外の人間のことを一切考えずに生きてしまったことだ。あんたとはその時点で異なっている」

 僕は黙って目の前の少年の言葉を聞いていた。

「僕は彼のような人間が嫌いじゃないけど、でも、それも、彼女を見頃しにしなければ、の話だ。
 あいつを見頃しにするような人間を、僕は許せない」

 だから、と彼は言った。

「そういう奴には、相応しい場所がいる。そいつには、そこが妥当なのさ。ずっと閉じこもってたって、ちょうどいいくらいだ」

 その笑みは酷薄で、悲しげだった。

「あいつはそれを思い違いしていた。どんなに取り繕ったつもりでいたって、そいつは彼女を頃したんだ」


294: 2012/10/10(水) 15:05:11.86 ID:9w2XXqC5o





 暗い。……狭くて、昏い。息苦しい。
 僕はここでいったい何をしているんだ? 少なくとも呼吸はしている。
 だが、それ以外の身動きが一切とれない。腕を動かすのも、足を動かすのも、不可能だ。
 いや、できないんじゃない。 
 したくないんだ。しようとすると、心がそれに逆らう。

 いまさら体を動かしたところでどうなるんだ? と。





「分かるかな。それが違いだよ。致命的な差異だ。あんたと彼を別つものは偶然なんかじゃない」

 宣告するように少年は言う。

「誰のために生きたか、だ。だからあいつは氏んでる。いや、生きてるけど、氏んだも同然だ」

 僕や彼女がしたこととは無関係に。
 彼女が彼を迎えに行くよりも先に、彼は既に氏んでいた。

「終わっていたんだよ。彼女はそこを思い違いしていた。手遅れな奴は、とっくに手遅れなのさ」

 分かるかな、と彼は繰り返す。 
 僕には、よく分からない。

「あんたは無傷だから、気付けないかもしれないけど……今、ずいぶん危険なんだ。このままだとね」

 でも、と彼は言う。

「本当のところ、僕にはよくわからないんだ」


295: 2012/10/10(水) 15:06:04.71 ID:9w2XXqC5o





 
 腐っていく。
 ここは、どこだろう?

 僕は今、どこにいて、何月何日なんだろう。
 腐臭が、鼻をつく。この臭いは、どこからやってきているんだろう。
 僕はかすかな呼吸を繰り返し、気付く。

 ああ、ここは、そうだ。

 現実だ。

 腐臭は、きっと――僕の身体から、出ているものだ。


296: 2012/10/10(水) 15:06:41.86 ID:9w2XXqC5o






「彼女がなぜ氏んだのか。もちろん、彼の世界の彼女が氏んだ理由はとてもはっきりしている。
 彼が無関心だったのもそうだし、他の誰もが無関心だったせいでもある。
 さまざまな事情が、別世界のあなたの姉を殺意に駆り立てた。
 だから厳密に言えば、僕は彼だけを責めるべきじゃないんだろう。でもね、腹立たしいのはそこじゃないんだ」

 震えた声で彼は言った。僕にはそれが子供のわがままのように聞こえた。

「無関心とか、無神経さとか、そういうものが、そういうものが、嫌なんだ。うんざりするんだ。反吐が出る。氏んじまえばいいと思う。
 無神経な人間には、生きてる価値がない。そういう人間は、氏んでしまうべきなんだ。一匹残らず消えてしまうべきなんだ」

 その言葉には、どうしてだろう、どこかしら自傷的な響きが込められている気がした。

「だからね、僕は僕の世界の彼女がなぜ氏んだのかを知りたいんだ。
 とても都合のいいことに、僕は彼みたいに世界を移動しなくても、時間を巻き戻るだけで原因を確かめられたってわけだ」
 
 そこで彼は目を細めた。射るような視線だった。

「もっとも、あんたが関係しているのははじめから明白だったけど」

「――」

「もちろん、今のあんたに言ったって仕方ないことだ。彼女を頃したのは未来のあんたであって、今のあんたじゃない」

 どういう意味か分かる? と彼は訊ねた。

「つまりこのままいけば、あんたも彼女を頃すってことだ」

 僕には、彼の言葉の意味が、半分も理解できない。

 ――ああ、そうだ。


297: 2012/10/10(水) 15:07:09.64 ID:9w2XXqC5o






 僕の身体は動かない。僕の中に意思が存在していないからだ。
 僕はただベッドに寝転がって毛布をかぶっている。カーテンは閉め切られている。
 太陽の光を拒んだこの部屋に二度と朝が来ることはない。
 
 僕はこの中に永遠に住み続けるしかない。 
 そういう宿命だったのだ。

 それはおそらく回避しようのあるものだったろう。でも僕はここに来てしまった。
 この僕は今ここにいる。そうである以上、分岐がどこにあろうと関係はない。
 僕は結果としてここにいるのだ。

 体からは腐臭がする。魂が腐っているのだ。
 誰からも見えないし、誰にも触れられない。僕はここに閉じこもっている。
 いつからだろう? どうしてこんなことになったのだ?
 切断されたのだ。僕が繋がるはずだった、繋がっているはずだった場所から。
 それはなぜ? 僕が不要になったからだ。

 だって僕は、ここで腐っている以外に何にもなりようがない存在なのだから。
 手足はとうに、朽ちている。
 頭はとっくに枯れている。

 そんな人間は、誰にとっても無効でいい。


298: 2012/10/10(水) 15:07:47.52 ID:9w2XXqC5o






「ひとつ言ってもいいかな」

 と僕は彼に向けて言った。

「なんだろう?」

 と彼は首をかしげる。僕は笑い飛ばしたい気持ちになった。

「何の話をしているのか、さっぱり分からないんだけど」

 少年は面食らったような顔になる。ばかばかしさに僕は舌打ちした。

「きみはさっきから何か思い違いをしているんじゃないか。僕はそんなことには一切興味がないんだ。
 別世界とか、そういうのはね、正直どうでもいいんだ。わけが分からないことが起こるのはとても困るけど。
 でもね、僕が、きみや、魔女、それから、別世界の僕? うん。きみたちが現れてからずっと考えていることはひとつだけなんだ。
 きみたちは僕と、それから姪に対して何か害をなす存在なのか? それだけなんだ。 
 それ以外のことはたしかに、きみの言葉を借りれば枝葉末節なんだよ。僕にはどうでもいいことなんだ」

 僕が言うと、彼は唖然とした顔で僕を見た。


299: 2012/10/10(水) 15:08:13.38 ID:9w2XXqC5o

「僕の話を聞いていなかった?」

 少年は苛立った顔で言う。

「あんたはこのままだと、彼女を見頃しにすることになる。分かる?」

「忠告ありがとう。そうならないように気をつけようと思う」

「話を聞けって」

「きみこそ話を聞いてる? 僕はきみに興味がないって言ったんだ。早く彼女を返してほしい」

 彼は肩を竦めて嘆息した。

「なるほどね。これは――ひどい話だ」

「……何?」

「気にしなくてもいい。枝葉末節の話だから。ま、あんたの望みの話をするなら、そこはね、本人の意思を尊重している」

「彼女が僕のところに帰ってきたくないと思ってるって意味?」

「そうだよ」

 僕は黙り込んだ。
 

300: 2012/10/10(水) 15:08:39.56 ID:9w2XXqC5o

「第一、彼女をとりもどしてどうするんだ?」

「どうする? どうするってどういう意味? 元通りの生活を送るけど?」

「そのまま生きて、彼女を殺さないって保証は?」

「そんなものはないよ。先のことはなにひとつ分からない」

「じゃあ――」

「そうだね。とりあえず、携帯電話でも持たせようと思う」

「――は?」

「またいなくなったときに困るから」

「……」

 彼は表情を強張らせて、それから溜め息をついた。

「なるほど。よく分かった」

「……なにが?」


301: 2012/10/10(水) 15:09:09.65 ID:9w2XXqC5o

「いや、そりゃ、あいつも氏にたくなる」

「……なんていうか、そういう思わせぶりな言葉とか、態度とか、正直いってうんざりなんだ」

 僕は言った。

「なんていうかね、誰も彼もみんな、たいした理由もなく自分の胸の内を明かそうとしない奴らばっかりでうんざりしてるんだ。
 どうして全部を喋っちゃダメなんだ? たとえば何かが原因で僕が姪を見頃しにしてしまうとしよう。
 で、未来からきたなら、きみはその原因を知っているわけだよね。そうじゃなかったら僕のところには来ない。
 でも、じゃあどうしてその原因を直接伝えないんだ? こうして話してるってことは、別にタイムパラドクスがどうとか言う話でもなさそうだ。
 付け加えれば、べつに不干渉を貫かなきゃならないってわけでもない様子だし。
 僕に言わせればきみのやり方の方が陶酔じみてるし馬鹿げている。はっきり言って意味が分からない。理屈が通ってないんだ」

 彼は無言になった。
 彼は僕を侮りすぎている。彼だけではない。皆、僕を侮りすぎている。
 そのことが僕にはよく分かる。父も母も、姪自身だってそうだ。
 姪がいなくなったことで、僕は不安になったし弱気にもなった。
 でも根本的に、僕は、彼が言うような抽象的な話はどうだっていい人間なのだ。



302: 2012/10/10(水) 15:09:52.59 ID:9w2XXqC5o






『見えるよ』

 不意に、部屋の中に声が響いた気がした。それはきっと気のせいだ。
 僕は急に泣き出したい気持ちになる。その声は僕の心をたやすく引き裂いた。
 そう言った種類の声だった。鋭い痛みが走る。強い悲しみが僕の思考を襲った。 
 でも、なぜだろう、その痛みは決して不愉快なものではなかった。むしろ爽快ですらある。

『触れるよ』

 僕は目を覚ました。起こされた、と言い換えてもいい。
 とにかく僕には、まだやるべきことがあるように思えた。
 
 魔女は何者か?
 彼女はなんらかの手段で僕をあの世界に導いた。
 そして、その回線が突然途切れた。だから僕は今元の世界、元の場所に居る。
 日付を見る。八月七日。カーテンを開けた。まだ昼間だろうか?
 
 僕は起き上がった。身体がじんわりと痛んだけれど、それはたいして苦痛ではなかった。
 服を着替えて財布を手に取った。彼女が僕の前にあらわれたあの日と、すべてが同じように思えた。
 
 なぜかは分からない。僕はもう一度あの世界に行かなくてはならない。
 魔女には会えなくてもいい。でも、もう一度僕に会っておきたい。
 伝えなければならないことはないし、たしかめなければならないこともない。
 でも――彼女が彼の前からいなくなってしまったのだ。それだけは、僕にははっきりと分かるのだ。


303: 2012/10/10(水) 15:10:23.90 ID:9w2XXqC5o

 僕は家を出た。
 家を出るとき、後ろから声が掛けられる。僕は曖昧にぼかして行先を告げた。
 彼女と歩いた堤防を走る。
 土手の真ん中あたりで夏草を掻き分けて河川敷に踏み入る。川の浅い部分が見えた。
 僕はその中に歩いて行った。何も起こらない。何か条件が必要なのだろう。 
 彼女が必要ならお手上げだ。でも、とにかく何かを試してみるしかない。
 
 僕は何かの条件を探そうとした。
 ふと、ポケットの中に携帯電話が入っていることに気付く。ディスプレイが光っていた。
 ――。

 彼女にもらった財布は、ジーンズのポケットの中だった。僕はそれを開けて中身を確認してみる。
 小銭入れの中に小さなお守りが入っていた。僕はそのことに初めて気付く。
 
 交通安全? ……交通安全のお守りだ。僕は何か意外な気持ちでそれを握る。
 それから携帯電話のディスプレイを見た。電波は来ている。繋がっている。

 条件は分からない。 
 けれど、水が、かすかに蠢いた。

「――」

 僕は、飲み込まれる。


304: 2012/10/10(水) 15:10:50.12 ID:9w2XXqC5o





 
「まずはね、きみに基本的なことから訊ねたいんだ。とても基本的なことだ。それが分からなくちゃ何がなんだか分からない」

「……なに?」

「きみの名前は何で、うちの姪とどういう関係になるのかってことだ。答え次第じゃただじゃおかない」

「……なんていうかさ、呆れるよ。ほとんど病気だ、あんたのそれは」

 彼は少し、緊張を緩めたように見えた。


305: 2012/10/10(水) 15:11:16.17 ID:9w2XXqC5o





 
 僕は、不意に目を覚ました。喫茶店のテーブル席だろうか。周囲を見回す。テーブルの上にコーヒーが乗せられていた。
 とりあえず飲む。美味かった。自分でいれるインスタントのものとはわけが違う。
 さて、と僕は思った。これからどうすればいいのだ?

 とりあえず勘定を済ませて店を出た。

 ポケットの中の携帯は壊れていた。財布の中には相変わらずお守りが入っている。
 街に出て、僕はそこが自分の住んでいる街ではないことを確認した。戻ってきたのだ。

 時計を見る。二時半。僕の中には漠然とした予感のようなものがあった。

 街にぼんやりと立つ。この街で僕ができることは、いつだって何かを待つことだけだった。

 足音。急いでいる。近付いている。僕は顔をあげる。
 目が合った。


306: 2012/10/10(水) 15:12:04.52 ID:9w2XXqC5o

「……お前か?」

 と彼は言った。

「……何の話?」

 と僕は問い返す。

「あの子がいなくなった」

 ――予感はあった。
 彼がここまで焦るのだから、それ以外には思いつかない。

「お前だろ?」

 僕は返事をしない。彼女はどこに行ったのか? ……目の前に立つ僕は、ひどく疲れた顔をしている。
 
「お前が連れ去ったんじゃないのか。それ以外に心当たりがない。お前があの子をさらったんだろう?」

「――待てよ」

 と僕はどうにか言った。彼を刺激しないように気を遣う。なんとも面倒な奴だった。僕だけど。


307: 2012/10/10(水) 15:12:48.70 ID:9w2XXqC5o

「落ち着けよ、取り乱すな。何があったんだ?」

 こちらに来たばかりなのに、よくこんなにも冷静でいられるものだと自分に感心した。
 いつのまにか疲れも混乱も消え失せている。頭痛だってない。頭が冴えている。 
 彼はこちらの言葉になんとか冷静さを取り戻そうとしていた。やがて深い溜め息をついて、僕を見る。
 不思議なほど僕と同じ顔をしている。僕は彼のことを急に親密に感じ始めた。

「悪かった」

 と彼は謝る。その謝罪については、どうでもいい。

「いなくなったって、何があったんだ?」

 僕は単刀直入に訊ねる。返ってきた答えはなんともはっきりしないものだった。

「分からない」

 僕は彼女のことを考えた。

『すごく疲れてるみたいなの。なんだか、ずっと大変そうで。なんでだろう?』

 理由には心当たりがある。考えるまでもない。


308: 2012/10/10(水) 15:13:18.95 ID:9w2XXqC5o

「……とにかく、一旦帰った方がいい」

 僕は真剣に言った。彼に必要なのは休息だ。ゆっくりと休むこと。あせらないこと。

「家に帰って、落ち着くべきだ。ひとりで探して見つかるほど街は狭くない」

「それはそうだけど」

 彼はすぐに反駁しようとしたが、僕はそれを封じる。

「そうだからこそ、だ。僕もできることは協力する」

「お前が?」

「僕が」

 他に誰がいるというのだ。



309: 2012/10/10(水) 15:13:47.67 ID:9w2XXqC5o

 ◆

 ◇


「でも、意外だな。あんたはもっと、鬱屈としてるもんだと思ってた。
 どうしようもないクズみたいな陶酔野郎だと思ってた。僕が言うと失礼だけど」

 好き勝手言う少年に、僕は溜め息で答えた。

「別に、否定するつもりもないけど……でも、冷静にならなきゃいけないだろ?」

 僕は冷静でいなきゃいけない。自分が持っているもの、自分がなくしそうなものを把握しておかなきゃいけない。
 手のひらからこぼれおちないように。  

 そう思えるのは、僕の性格が理由じゃない。
 彼の言葉が理由なのだ。

 あのときの僕にとって、彼の言葉はこれ以上ないほどシンプルで、かつ有効だったのだ。


312: 2012/10/12(金) 10:23:53.52 ID:+CjrUlw0o

◇十二


 これは例え話だ、と男が言った。ずっと前の話だ。そのことを、ついさっき思い出した。

 男は公園のベンチに座っていた。くたびれたスーツを着た、二十代前半と言った雰囲気。
 僕は彼のことをよく知らなかった。たった一日、出会って、話しただけなのだ。

 彼は突然現れた。ずっと前から僕のことを知っていたような顔で、僕に話しかけたのだ。

「拗ねたような顔をしているな。気に食わないことでもあったのか?」

 おもしろくもなさそうに、男は言った。
 僕が答えないでいると、彼は退屈そうに溜め息をついた。

「黙っていたんじゃ、分からない」

 男との出会いがあまりに印象的だったせいか、その言葉を、僕はよく覚えていた。
 男と会ったことを忘れてしまったにもかかわらず、その言葉だけは、何度も頭の中で繰り返していた。
 
 黙っていたんじゃ分からない。
 分からせたいなら、話すしかない。
 分からせたくないなら、黙っていればいい。
 その考えは、思えばいつも僕の根本にあったような気がする。


313: 2012/10/12(金) 10:24:22.89 ID:+CjrUlw0o

「僕が……」

 と、気付けば、男の声に僕は答えを返していた。

「僕が、悪いんだと思う?」

「……何が?」

「母さんと父さん、いつも姉さんのことばかり話すんだ」

 男は、唐突ですらある僕の話に、たいした反応を見せなかった。
 僕が黙ってしまうと、彼は仕方なさそうに溜め息をついた。

「さあな」

「どんどん、自分の中で嫌な気持ちがたまっていくんだ。最初の頃は、寝て起きると消えていたけど」

 僕は『嫌な気持ち』を吐き出したくて長い溜め息をついた。

「……もう、だめみたいだ」


314: 2012/10/12(金) 10:24:50.06 ID:+CjrUlw0o

 男は何も言わなかった。彼もまた溜め息を重ねるだけだった。

「僕が悪いのかな。僕がもっと上手くできたら、母さんたちも少しは僕の方を見てくれると思う?」

「……」

「僕が、もっと。でも……」

 深呼吸をする。ひんやりとした空気を肺に吸い込むと、少しだけ肉体に変調があった。
 それは一瞬だけの錯覚で、すぐに普段通りの自分に戻ってしまう。
 何もかも一時的で、効果が長続きしない。窓ガラスに結露した水滴。弾かれて垂れ落ちていく。
 霧に包まれたように覚束ない視界。その頃の僕はどうしようもない袋小路に迷い込んでいたような気がする。
 あるいは、今もその場所でずっと立ち尽くしているのかもしれなかった。

「姪が――」

 今思えば、なぜ彼は彼女のことを知っていたのか。

「姪が、いるんだろう?」


315: 2012/10/12(金) 10:25:40.71 ID:+CjrUlw0o

「……うん」

「好きか?」

「嫌いだよ」

 僕は心底からの気持ちでそう答えた。今思えば、それは子供っぽい妬みでしかなかったけれど。
 でも、心底からの気持ちだった。僕は彼女が嫌いだった。

「すぐ泣く。話が通じない。うるさいんだ。すごく」

「子供なんて、そんなもんだよ」

「僕だって子供だよ」

 その言葉に、男は少しだけ悲しそうな顔になった。

「……そうだな」

 僕はその相槌に、どうしようもなくいたたまれない気持ちになった。いっそ、他の人と同じように否定してくれた方が楽なくらいだった。
『お兄ちゃんに、なるんだぞ』。
 どこかのドラマで聞いたセリフを、そのまま使える喜びに、まるで酔ってるみたいに響いた。

 彼女は僕の妹ではなかったし、父はそれを、ちょっとした冗談のつもりでいったんだろうけど。


316: 2012/10/12(金) 10:26:10.87 ID:+CjrUlw0o

『お前はしっかりしてるから――』

 しっかりしてるから――僕にかまってくれないんだろうか。
 手が掛からないから。
 面倒を掛けないから。
 大丈夫だから。

 だとしたら――僕はしっかりしていなかった方がよかったんだろうか。

「形は違うが、今のお前と似たような状況を抱えてる女の子がいた」

 僕は、唐突に話を変えられたことにも、その内容が僕以外の人間についてということにも、苛立った。
 僕は子供のときから、ずっとそうした理屈が嫌いだった。

 似たような苦しみを知っている人間は他にもいる、と物事を相対化しようとする態度。
 そうすることで、この僕がいま切実に抱えている苦痛を無効にしようとする態度。
「お前だけじゃないんだから、弱音を吐くな」と。
 そういう態度が、すごく、すごく嫌いだった。
「この僕」の苦しみは、それでもたしかに切実なものとしてそこにあったのだから。
それは易々と無効になってくれないんだから。


317: 2012/10/12(金) 10:26:36.75 ID:+CjrUlw0o

「悲しいと思うか? そういう奴がたくさんいて、どいつもこいつも報われない」

 でも、彼の話し口は少し他とは違っていた。
 
「子供なのに存分に大人に甘えられない奴もいる。
 甘えられない子供のまま、気付いたら大人になって、ろくに甘えたこともないのに甘えられる側になる奴もいる。
 どうして自分が、って思うだろ、普通。だってそいつは、ろくに甘えたことがないんだ。
 甘えたことがないのに、気付いたら甘えられていて。それができないっていうと、大人なのにと責められる」

 理不尽だとは思わないか? 男は胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえた。

「月並みに言えば、これはつまり、愛の問題だよ。両親の、周囲の大人の愛を受けて育ったか?
 言い換えれば、『自分は愛されている』と感じて育つことができたか? 
 そうだったか、そうじゃないか。それがその後を分けるんだな。
 事実として、ではなく、本人がそう感じて育つことができたかどうか。
 もちろんそれですべてが決まるわけじゃない。
 両親の愛なんてむしろ邪魔だって場合もある。でもな、そういう話じゃなくて、要するに問題は、
 自分がここにいてもいいと、そう自分自身を確信できるかどうかなんだ」

「『自分がここにいてもいい』?」


318: 2012/10/12(金) 10:27:43.35 ID:+CjrUlw0o

「……そう。自分がここに、いてもいいのかどうか。ここに居るだけの理由があるのか」

「理由……」

「そう。理由だ」

「そんなもの……」

 僕には、ないように思えた。

「あなたは?」

「……何が?」

「理由、って奴。あるの?」

「さあ。あってほしいと思って、いろいろ試してはみたんだが……」

 男は煙草に火をつけた。一拍おいて、灰色の煙を口から吐き出す。
 その煙が、僕の胸の内側にたまっていた『嫌な気持ち』のかわりだったみたいに。
 吐き出した煙が空にのぼる有様は、僕の心を少しだけすっとさせた。

「――どうも、分からないな」


319: 2012/10/12(金) 10:28:37.34 ID:+CjrUlw0o

 こいつは例え話だよ。男はそう言って、ベンチの端で灰を落とした。

「バカな男がひとり居てな、自分のためだけに生きてたんだ。
 なんせそいつの周りには、そいつのことを考えてくれる奴なんてひとりもいなかったから。
 少なくともそいつ自身は、そう感じてたから。だから、誰かのために何かをするなんて、まっぴらごめんだったわけだ。
 で、だ。そいつはある日、自分と似たような境遇にあった女の子を見つける。
 でも、女の子のために何かをする気にはなれない。だからほっといた。
 するとな、女の子が氏んじゃったんだ」

 男は自嘲するように笑ってから咳き込んだ。ごほごほ、という音。何かがしたたかに、彼の胸の内側で暴れているみたいに見えた。

「氏んじゃったんだよ」

 男はまた、煙草に口をつけた。彼の目は、ひどく澱んで見える。

「たぶん、そいつは彼女のために何かをするべきだったんだよ」

「どうして?」

「順番に囚われすぎていたんだな。きっと。でも、関係ないんだ。順番は大事じゃないんだ。
 その子のために何かをすることができたら、誰かがもしかしたら、いつか、そいつのために祈ってくれるかもしれない。
 それまで誰もそいつのことなんて考えなかったとしても、彼女のために生きれたら、誰かがいつか、愛してくれたかもしれない」


320: 2012/10/12(金) 10:29:22.58 ID:+CjrUlw0o

 まあ、でも、と男は言葉を繋いだ。

「……全部、手遅れなんだけどな」

 彼は嘲るように言った。

「自分のために生きるのは、やっぱり限界があるんだよ。どこかに無理があるんだ。どうやっても。
 もちろんこれは、誰にとってもそうだと一概に言えることじゃないかもしれない。
 自分のためだけに生きた方がいい人間だっているし、そうするに足る理由を持ち合わせている人間もいる。
 誰かのために生きるのだって、まわりまわって自分のために生きてるだけだと言いかえることだって出来る。
 でも、少なくともそいつはそうだったんだよ。そいつは誰かのために生きるべきだったんだ。
 そうすれば、どうにかやっていけたかもしれないんだ」

 男はそこまで言い切ると、数秒押し黙って、煙草の吸殻を地面に捨てた。靴の裏で踏みにじり、それから拾いなおしてポケットに突っ込む。
 かすかに残った真黒な灰は、砂と一緒に静かな風にさらわれた。

「なあ、お前。姪のために生きろよ」

「……どうして?」

「言ったろ。そうすることで、誰かがお前のために祈ってくれるかもしれないんだ」


321: 2012/10/12(金) 10:30:11.69 ID:+CjrUlw0o

「……僕は」

「姪のことが、嫌いなんだろ」

 彼の言葉は諭すようでもあったし、それこそ祈るようにも聞こえた。

「でも、好きなふりをするんだよ。愛しくてしょうがないふりをするんだ。
 面倒をみたりかわいがったりしていれば、お前の両親が、お前を見てくれるかもしれない。
 お前のことをかまってくれるかもしれない。動機なんて不純でもいいんだ」

「もし、それでもかまってもらえなかったら?」

「諦めろ」

 と男は言った。それは難しい話だった。

「代えのきかないものなんてない、と思うしかない。そう思えなければ、世の中にはあまりに不条理が多すぎる。
 解決不能の問題が多すぎるんだ。
 お前にとっての両親の代わりが存在しうるなら、お前こそが、姪にとっての母親の代わりになれるかもしれない。
 だってお前とお前の姪は、とてもよく似ているんだ。お前が姪のことを考えることは、そのまま、お前がお前を守ることでもあるんだ」

 その理屈は、ひどく歪んでいるように思えたけれど、でも、少しだけ、どこかに救いのようなものが含まれている気がした。


322: 2012/10/12(金) 10:30:38.48 ID:+CjrUlw0o

「そのうち本当に、姪のことを愛せるようになるかもしれない。始まりは不純でいいんだ。
 そうすれば、姪もまた、お前のことを愛してくれるかもしれない。お前が求めていた『たったひとり』になってくれるかもしれない」

 そう思わないと、俺だってやっていけない。男の声には憤りのようなものが含まれている気がした。

 男はそれまでよりもずっと長い溜め息を吐いて、さて、と立ち上がった。

「そろそろ行くよ。悪いな、長い話をしちまって」

「それはかまわないけど、あなたはいったい」

「俺のことはいいんだよ。知らなくていいことだし、知ったところでどうにもならない。俺はそろそろ帰ろうと思う」

「どこに?」

 と気付けば僕は問いかけていた。

「俺の現実」


323: 2012/10/12(金) 10:31:21.44 ID:+CjrUlw0o

 彼は笑って、それからポケットから財布を取り出して、僕に向けて放り投げた。

「なに、これ」

「やるよ。必要なもんは入ってないから」

「……なんで、こんなの」

「武器だよ」

「――?」

「この世界で唯一の武器だ。生き延びるための武器だよ」

 男は満足そうに頷いて、最後にこう付け加えた。

「生き延びろよ。どうにかして、生き延びろ。俺も、どうにかして生き残る」

 その言葉の意図は、僕には半分も伝わってこなかった。
 それでも男は去ってしまって、僕はそれを受け取るしかなかった。

 本当をいうなら、その場に捨ててしまう方が安全だし、妥当だった。 
 けれど僕には、彼が自分に敵意を抱いているとはどうしても思えなかったのだ。

 財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
 一万円札は三枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。硬貨は細かいものがあまりなく、五百円玉が三枚と百円玉が八枚。 
 
 免許証や保険証の類は入っていなかったが、代わりに小銭入れの中にお守りが入っていた。
 交通安全のお守り。僕はそれを取り出して手のひらの中に握ってみた。 
 その財布は、今も僕の机の中にそのまま残してある。


327: 2012/10/13(土) 15:02:44.39 ID:SfZHSJK3o



 見知らぬ少年が僕に見せた扉の向こうの景色には、ひとりの男がいた。
 いつかあの公園で出会い、僕に武器を与えた男と、その男の顔はよく似ている。
 彼はただ起きて、ただ食べ、ただ働き、ただ眠っている。
"なれの果て"。つまりはそういうことなのだろう。
 でも――それは敗者の姿ではない。


328: 2012/10/13(土) 15:03:17.84 ID:SfZHSJK3o



 
「僕がきみの世界の"彼女"を頃すっていったね」

「言ったよ」

 ギターケースを担ぎ直して、彼は溜め息をついた。

「その原因をたしかめに来た、とも言った。時間が遡れたから、原因をたしかめるのは容易だった、というようなことも言った」

「言ったかもしれないね」

「きみの世界の彼女を頃した原因って、なんだったんだ?」

「……これは、はっきりと言うとひどく下世話な話になるけど」

 彼は心底嫌そうな顔で言った。

「恋だよ」

 僕は笑えなかった。

「彼女はあなたが好きだった。だから氏んだ。シンプルだって思わない?」

「――」
 
 悪い冗談みたいな話だったけれど、僕にはその話を真に受けるより先に思い浮かぶことがあった。


329: 2012/10/13(土) 15:03:44.20 ID:SfZHSJK3o

『お願いだから、置いていかないでね』

 じゃあ、あの言葉は、なんだったんだろう。
『今度こそ』とでも付け加えそうだったあの言葉は。

「……どうかした?」

「いや。……ところで、それが本当だとして、僕が悪いんだって思う?」

 彼は少し考えるような仕草をしたが、やがて肩をすくめた。

「さあ。別に悪くはないだろう」

「……僕に責任があるような言い方をしていなかった?」

「ある意味では、あるだろう。子供をたぶらかしたんだから」

 ……なんとも言いにくい。そもそも『この僕』の話ではないのだが。
 このままいくと、と彼は言った。このままいくと、また彼女は僕を好きになり、そのせいで氏ぬ?
 それって、ずいぶん馬鹿げた話じゃないか?



330: 2012/10/13(土) 15:04:41.34 ID:SfZHSJK3o

「ところで、きみの名前を訊ねたはずなんだけど」

 僕が言うと、彼は少し困ったような顔をした。

「名乗ったところでしょうがないけど、まぁ、その方が話が分かりやすいかもね。
 僕は、まあ、なんでもいいんだけど、彼女には『ケイ』と呼ばれてた」

「ケイ、ね」

「本当は、アルファベットのKらしいよ」

「本名じゃないのか?」

「彼女がつけたあだ名なんだ。由来は知らないけど」

 測量士。
 ……は、突飛か。

「そろそろ、その子を引き渡してくれないかな?」

「……まあ、いいかげんかまわないかもしれない」
 
 ケイはまだ何かを言いたげな表情だったが、ゆっくりと背に隠した少女を促した。
 そこで、何かの違和感を抱く。なんだろう?

「……ところで、魔女は?」
 
 と僕は訊ねた。彼は何も答えなかった。


331: 2012/10/13(土) 15:05:34.37 ID:SfZHSJK3o




「本当にいいの?」

 と僕は訊ねた。

「何が」とケイは訊きかえす。

「僕が彼女を連れ帰ってしまったら、きみは僕を思い通りに動かせなくなるよ。
 僕に何かを言うこともできなくなるかもしれない。本当にそれでいいの?」
 
「かまわないよ」

 とケイが言った。

「僕だって、自分がどうするのが最善なのか、今はつかみ切れていない。あなたにこれ以上何ができるのか、まるで分からない。
 知らなかった事実を聞かされて、動揺したのかもしれない。彼女が氏んでいると知ってから、まだ時間が経っていないんだ。
 だから、八つ当たりみたいな部分もあったんだろう。僕にも、何が起こっているのか、分からない」

 僕が黙っていると、ケイは「それに」と言葉を重ねた。

「どうせすぐに気付くよ」


332: 2012/10/13(土) 15:06:06.16 ID:SfZHSJK3o



 
 怯えたように歩み寄ってきた少女の手のひらを、僕は握ってみた。
 その手は驚くほど冷たかった。これまで誰も彼女の手を握ったことがないかのように冷え切っていた。
 視線は諦めに凍えていたし、表情は恐怖か何かで濁っていた。何が彼女をこんなふうにしたのだろう。

 僕はその手を握って、笑いかけようとしたけれど、きっとまともな笑みの形にはならなかっただろう。
 彼女は寂しげですらなかった。
 ただ諦めがあるだけだった。


333: 2012/10/13(土) 15:06:32.39 ID:SfZHSJK3o




◆十一

 
 その日、僕は無人駅で夜を明かした。何の準備もなかったので寝心地は悪かったが、だからといってどうということもない。
 なぜかひどく疲れていて、夜を明かして朝が来ても身動きを取る気にはなれなかった。
 僕はその一日を、例の小説の内容を反復して過ごした。それ以外はほとんど動かなかった。
 食事もとらなかった。一歩も歩かなかった。
 
 一輪の花、一輪の花。僕はずっとそれについて考えていた。
 
 やがて再び日が暮れて、夜になった。時間の流れは例の小説の終盤近くみたいにあっという間だった。
 日が昇って沈んだ。夜が来た。僕はそこでようやく立ち上がった。

 魔女が、あの子を連れ去ったのだと言う。
 であるならば、僕は魔女に会わなければならない。
 そして、この世界の彼女に伝えるのだ。

 お前のせいなんかじゃない、と。
 お前のせいで苦しんでいる奴なんかいない、と。
 お前はこの世界にいてもいい人間なのだ、と。
 いるべき人間なのだ、と。
 僕とは違って、そうできる人間なのだ、と。
 それは、彼女には伝わらないかもしれない。

 だから、僕はショールームを目指した。そこにいるのだろうと、僕には分かっていた。
 魔女にもまた、この世界に居場所なんてないのだから。
 あの場所は『エントランス』だ。世界と世界を繋ぐ中間地点。

 だから、あそこの鍵はいつでも開け放たれている。あそこは現実ではないから。
 もちろんそれは単なる妄想のような話で、僕には確固たる自信があってそう考えているわけではなかった。
 でも……あそこのドアは開け放たれている。そう、漠然と感じた。
 だから向かった。

 一輪の花。


334: 2012/10/13(土) 15:06:59.46 ID:SfZHSJK3o






 家に彼女を連れ帰ると、時刻は朝九時を回っていた。
 
「お腹は空いている?」

 と訊ねると、彼女は黙ったまま、無表情のまま慎重に頷いた。
 何か警戒しているようだった。僕は冷蔵庫と炊飯器の中身を確認した。 
 ご飯は炊けていたし、卵があった。それだけでどうにでもできる。
 一応ベーコンとソーセージが入っていたうえ、市販の冷凍ハンバーグも入っていた。
 インスタントの味噌汁もあったので、お湯さえわかせばどうにでもなりそうだ。
 
 料理をする間、僕は父母が起きてこないかとひやひやした。彼らとは、まだ会わせるわけにはいかない。
 僕の胸の内側には強い不快感のようなものがあった。

 僕はコップに牛乳をそそぎ、彼女の前に置いた。
 彼女は最初、じっとこちらの様子をうかがっていたが、やがておずおずと手を伸ばし、コップに口をつけた。

 その仕草も、顔も、姪のものだった。態度だけが違っていた。たしかに、姪のものだと言えた。

 料理を終えて食器を並べ、ふたりで食卓につく。ベーコンエッグと味噌汁とハンバーグ。
 僕は手抜きであることを簡単に謝ったけれど、彼女は目の前の料理に気を取られ、こちらの声が聞こえていないようすだった。

 しばらくすると、はっと気づいたように少女はこちらを見上げる。「いいのだろうか」という顔。僕は強い憤りを感じた。
 

335: 2012/10/13(土) 15:07:35.12 ID:SfZHSJK3o

「どうぞ」

 と僕は言う。箸を差し出したが、上手く使えないらしい。ハンバーグを細かく切ろうとして、彼女は床に箸を落とした。
 たん、という音が静かな室内に大きく響いた。少女は目に見えて焦っていたし、怯えていた。
 なるほど、と僕は思った。これで気付かないわけはない。そして、なんとも悪趣味なことだ。
 どうしていまさらこんなことが起こるのだろう。誰の意図で?

「大丈夫」

 と僕は言った。

「箸が苦手なら、フォークを使えばいい。なんなら、手を使ってもいい。腹が膨らめば、手段なんてなんでもいい」

 僕は立ちあがって台所に向かい、フォークを持ち出した。彼女の前に置く。
 最初、戸惑ったような顔をしていたが、彼女はそれを握る。さっきよりはいくらかマシな動きで、ハンバーグを切っていく。
 彼女は緊張した様子で口を開き、ハンバーグを口に運んだ。
 
 咀嚼し、嚥下する。彼女の目がかすかに光った気がした。僕は少し悲しい気持ちになる。

 彼女はそれからものすごい勢いで手を動かした。僕はその様子をじっと眺めながら自分の分の牛乳をすすった。
 やがて彼女の目の端がかすかに光った。泣いているのだ、と僕は思った。
 嬉しいのではなく、きっと悲しいのだ。僕が知っている、いつかの姪と同じ顔。痩せこけた幼い姿。

 彼女のことを、僕は知らない。


336: 2012/10/13(土) 15:08:17.45 ID:SfZHSJK3o




『エントランス』でこの世界の僕と出会い、別れた。
 少しだけ感傷的な気分になる。僕らを別つものは、やはり偶然だったのだろうか。
 
 でも……と僕は思う。
 そうではないのかもしれないし、そうなのかもしれない。

 けれど。
 結局、僕ができるかぎりをしなかったことに変わりはない。代わりはなかった。
 
 僕は、ショールームのドアを素通りして階段を昇る。関係者以外立ち入り禁止の立札。

 階段を昇ってすぐ、細い通路に出る。左手はただの壁で、右手には三つ扉が並んでいた。
 僕は一番奥の扉を開いた。

 中はやっぱり物置で、でも、その中には魔女がいた。
 
「こんばんは」

 と彼女は言った。

「……こんばんは」

 と僕も答えた。
 魔女の様子は少し変だった。傍らにはケイが居た。彼は、愕然とした様子で立ち尽くしている。


337: 2012/10/13(土) 15:08:43.33 ID:SfZHSJK3o

「どうしたの?」
 
 彼女はくすくすと笑う。僕はなんだかひどく身勝手な怒りに囚われる。

「結局、きみは何がしたかったんだ?」

 僕の問いに、彼女は一瞬だけ無表情にくちごもった。
 でも、それは本当に一瞬だけで。
 薄っぺらな笑みは、すぐに戻ってきた。

「復讐と、八つ当たりと、人助け。でも、もうよく分からなくなっちゃった」

「……“彼女”は?」

 僕の問いに、魔女は今度こそ無表情になった。

「見えない?」

 と魔女は言った。
 部屋の中は暗かったから、僕は最初、ちっとも気付けなかった。
 窓辺で月の光を浴びる魔女のかたわらには、もうひとり人間がいる。

 その背格好は、あの子に似ている。
 
 似ていたから、僕は最初、おかしいなと思った。
 雰囲気が、違う。



338: 2012/10/13(土) 15:11:10.12 ID:SfZHSJK3o

「……分からなく、なってきたでしょ?」

 彼女はあてつけのような攻撃的な声で言った。
 そして、吼えるように、心の底から傷ついた人間がそうするように、
 魔女が、激昂した。

「終わらせてなんかやらない! もうあんたたちのことなんて知らない! あんたたちは、わたしにどうやったって影響を与えられないんだ!」

 ざまあみろ、と彼女は哄笑する。月明かりを浴びて青白く照らされた肌、見開かれた目、吊り上げられた口角。 
 ――魔女、と僕は思う。

「わたしのことを考えてくれないなら――わたしがどれだけ助けたって、あんたたちにとっては無効なんだ!」

 そう叫んで、魔女は窓の外に身を投げた。呆気にとられた僕が動くより、ケイが正気をとりもどす方が早かった。

「おい!」

 と彼は叫んだ。
 
 ×××、と、僕にはケイが叫んだ声が、ノイズのようになって聞き取れなかった。
 窓に駆け寄ったケイを追って、僕もまた外を眺めた。

 何もない。暗闇だけがある。
 

339: 2012/10/13(土) 15:11:59.32 ID:SfZHSJK3o

 僕はしばらく唖然としていたが、やがて身動きをとれるようになった。
 動かずに硬直しているケイを無視して、僕はもうひとりの方に歩み寄る。
 彼女があとずさる。僕はかまわず近付いた。
 状況は一向につかめない。でも、今はとりあえず、彼女のことを優先しよう。
 
 ぜんぶ、そのあとでいい。物事には順序がある。

 顔をよく見たかった。僕は屈み、彼女と視線を合わせる。暗闇の中だったが、月明かりで青白く照らされて、僕にはその表情が見えた。
 彼女にも、僕が見えたように。
 
 見えたから、だから彼女は、僕を認識して、

「……叔父、さん?」

 と呼んだ。

「――――」

 僕はなぜだか、事態は収束に向かっているのだと思っていた。
 違う。

 終わってなんかいない。
 なにひとつ、終わってなんかいないのだ。


345: 2012/10/18(木) 16:28:50.45 ID:kSWs7BFdo







 食事を終えると、少女は警戒するような目でこちらを見た。
 阿るでもなく、ためらうでもなく、ごく当たり前に信頼できないという瞳。
 この少女はいったい誰なのか。考えるまでもない。並行世界における僕の姪なのだろう。
 
 それ以外に答えがない。問題は、それをどうするか、なのだ。
 彼女は僕のもとにやってきた。おそらく誰かの意図で。それは魔女の意図かもしれない。
 少なくともケイの意図ではないのだろう。彼にはもはや、僕をどうにかしようという気なんてないはずだ。

 彼自身、何をしたいのか分かっていないように見えた。

 僕は考えを巡らせるのをやめて、目の前の少女の姿を見た。
 
 彼女はどのような流れの上でこの場所に立っているのか?
 僕は前に進んでいるのだろうか? それとも堂々巡りに巻き込まれているのだろうか?

 魔女はどこにいる? 彼女はまだ魔女と一緒にいるんだろうか? ケイはいったいなぜあそこに一人でいたのだ?
 彼女をとりもどす。そのための手続きがどうしてこれほど入り組んでいるのだろう?

 何かの意図ならば、いったいどのような意味があるのか。
 それは僕に対するものなのか? それとも他の誰かに向けられたものなのか。

『代えのきかないものなんてない、と思うしかない。そう思えなければ、世の中にはあまりに不条理が多すぎる』

 目の前の少女が、まさか姪の「代わり」なんて話にはならないだろうが。


346: 2012/10/18(木) 16:29:16.74 ID:kSWs7BFdo






 そのこどもは、一瞬、ひどく怯えた。
 彼女はこんなふうに僕を怖がっていた。僕だけではない。姉のことも怖がっていたけれど。
 
 でも怖がっていたのは僕の方だった。なぜ彼女が今になってこの場に現れるんだろう。
 僕は後ずさった。彼女はそれを見てひどく傷ついたような顔になる。でも僕が悪いのだろうか?

 だってどうして彼女がここにいるんだ?

 僕の世界の姪は実の母親に殺害されている。つまり既に氏んでいるのだ。

 魔女がいなくなり、ケイは立ち尽くしたまま動かない。この部屋で身動きをとり、現実的な反応を見せているのはふたりだけ。
 僕と彼女だけだった。
 
 彼女は何も言わなかったし、僕も何も言えなかった。何を言えるというんだろう。

 たとえば高い秋の空を見て不意に手を伸ばしたくなるときがある。
 別にどこかに届くと思うわけじゃないし、ましてや何かをつかみたいと思ったわけでもない。
 結局その手はなにひとつ掴むことがなくて、何をやってるんだと自分に呆れたりするんだけど。


347: 2012/10/18(木) 16:29:43.61 ID:kSWs7BFdo

 そんな無意識な行動のように、彼女は僕に手を伸ばした。
 哀れさすら浮かぶ無表情で。

 でも、僕はその手を掴めなかった。掴むことがおそろしく感じた。
 なぜだろう? ただ手を掴むだけなのに。それはけっして難しいことではないはずなのに。

 ここなのだ、と僕は思った。ここが、僕と『彼』との違いなのだ。この世界の自分にできて、僕にできないこと。
 僕は彼女を引き受けることができなかった。これからもできないだろう。
 僕には誰かのために何もかもを捨て去る覚悟がなかった。ただ自分というものを後生大事に抱え込んでいるだけだ。
 どうせからっぽの自分という器を。

 そんな人間がいまさら、何をしようとしていたのだ?

 僕が黙っていると、彼女は「それはそうだ」とでも言いたげな乾ききった表情で手首をぶらぶらと揺すった。
 誰も彼女の手を掴もうとなんてしなかったのだ。

 僕はいたたまれなくて、恥ずかしくて、無性に逃げ出したくなった。ケイはまだ黙っている。窓の外には闇が横たえていた。
 空には月と星があったが、それは僕にも彼女にも他人事のように感じられた。
 なんなのだろう。

 何がいったいどういう理屈で、僕の前に彼女が現れたりするんだ。

 氏者は、蘇らない。
 
 僕は急な吐き気を覚えて、部屋を出た。暗い部屋に彼女を置き去りにした。
 階段を駆け下りて『エントランス』を出る。ひどい気分だった。何かがせりあがってくるような感覚。
 そのまま国道沿いの道をひた走り、僕はどこかを目指す。歩いたり走ったりばかりしている。
 なんなんだろう。どこに向かっているんだろう。どこに辿りつけるんだろう?


348: 2012/10/18(木) 16:30:10.65 ID:kSWs7BFdo




 このおかしな世界に迷い込んで、あの公園で財布を渡されてから、僕はずっと思っていた。
 あの小説になぞらえるなら、この世界における時間航空者は誰であり、彼(あるいは彼女)にとっての一輪の花はなんなのか?

 もちろん、小説になぞらえる必要なんてない。でも理屈として、これだけのことが起こったなら、それは収束しなくてはならない。
 どこかに収斂しなくてはならない。乱雑に散らばってみえても、そうでなければ意味がない。

「タイム・マシン」として機能しているのは「エントランス」。つまり魔女の持つ超常的な力と例のショールームだろう。
 ある種の精神的な欠損。その共通性、類似性を利用した接続。超常的。

 僕たちはただ異常に巻き込まれこの場所にいる。その結果、別に見たくもない、知りたくもない話を聞かされている。
 その話は眼前にあって切実であり、それと同時にあまりに他人事じみている。

 僕は彼女に手渡された財布の中身をもう一度確認する。

 財布の中には何枚かの紙幣と結構な数の硬貨が入っていた。
 それに無造作に放り込まれたカード類。
 どこかのコンビニのポイントカードに保険証、病院の診察券。どれもすべて財布に突っ込まれている。
 彼女が準備したものというよりは、実在する男の持ち物を引っ張ってきたみたいに見えた。


349: 2012/10/18(木) 16:30:44.49 ID:kSWs7BFdo

 カード類には名前の記述があった。そこには僕の名前が書かれていた。
 
 僕がこの財布を恐れたのは、だからじゃない。この財布の中に僕の名前があったからではない。

 僕はもうひとつの財布を取り出した。僕がもともと持っていたものだ。
 こちらの世界に最初にきたとき、濡れてしまってろくに使えなくなった財布。

 僕はふたつの財布を取り出して並べてみた。
 そのふたつの財布はまったく同じ形、色をしていた。中身もまた同様のものだ。
 ただ、カード類に関する情報が少し違った。
 
 たとえばどこかの店のスタンプカードのようなものが、魔女に渡された財布には入っている。
 日付を見ると、それは僕が知っているよりも未来のものになっているのだ。
 数年先の日付になっているのだ。

 何かの悪戯という可能性があるが、そうすることのメリットが見えない。
 つまりこの財布は未来の僕の持ち物なのだろう。


350: 2012/10/18(木) 16:31:18.21 ID:kSWs7BFdo

 数年後、と僕は思う。数年後の僕と、姪は会ったことがあるのだろうか?
 それは"この"僕ではないかもしれないし、"この世界の"彼でもないかもしれない。
 
 とにかく僕と同じ名前、僕と同じ顔を持つ誰かと、彼女はあったことがある。
 そして財布を受け取っている。

 僕はこうも考える。
 氏者は決して蘇らない。そのはずだ。
 身動きをとるもの、言葉を発するもの、何かの影響を何かに与え、何かに影響を受けるもの、それは生者だ。
 では、僕を「叔父」と呼んだ彼女は氏者か、生者か? むろん生者だ。
 
 僕が知っている姪は既に氏んでいる。
 矛盾を解決する答えはひどくシンプルだ。


351: 2012/10/18(木) 16:31:44.72 ID:kSWs7BFdo

『エントランス』を通じて、さまざまな世界にいる人間がこの世界に集まっている。
 魔女が、ケイが、僕が、僕の目の前にいる『姪』が、そうであるように。
 もちろん――彼女が僕の世界で氏んだ『姪』と同一人物だという保証があるわけではない。
 別の世界の、僕の世界とよく似た並行世界の『姪』であるかもしれない。

 でもその話について考えるのはあとにしよう。

 仮にさっき目の前に現れた彼女が僕の世界の姪であるなら、答えはひとつしかない。
 彼女は僕にとっての過去からやってきたのだ。

 つまり、僕が通り過ぎてしまった時間から、彼女はこの世界にやってきた。そういうことがありえる。『魔女』と『エントランス』。

『魔女』は何者か?

 彼女とケイがどのような存在で、どのような経緯でそのような力を得、どのような意図で僕をここに連れてきたのか。
 それらを置いておいても、あの財布を踏まえて考えれば、『何者か?』という問いにはシンプルな答えが用意できる。

 あの財布が(いずれかの)未来の僕から受け取ったものだとするならば、彼女は未来から来たということになりはしないか。


352: 2012/10/18(木) 16:32:20.16 ID:kSWs7BFdo

 未来。
 数年後先の未来。そしてあの程度の年齢の少女。僕はその心当たりがひとつだけある。
 もちろん、他の誰かと言う可能性だってあり得る。
 でも、「この世界における僕の姪」という少女の未来、生氏に干渉しようとする心当たりはひとつしかない。

 つまり魔女とは、『この世界の姪』の、未来の姿なのではないか。
 少なくとも彼女は『僕の世界』の姪ではない。僕の世界で、姪は氏んでしまっているからだ。

『魔女』について考えるにあたって、よく考えなければならないことがひとつだけある。

『エントランス』によってつなげられたいくつもの世界。
 その中で、『この世界』に繋がっている世界はいくつあるのか?
 僕たちはいったいいくつの世界を想定すればいいのか? という話。

 それが分からなくては、いったい誰と誰の世界が同じであり、異なっているのかが分からなくなってしまう。


353: 2012/10/18(木) 16:32:58.87 ID:kSWs7BFdo

 世界は少なくとも二つある。
 
 僕の世界と、この世界。

「姪が氏んだ世界」と「氏んでいない世界」。

 僕が元いた「氏んだ世界」。今いる「氏んでいない世界」のふたつ。これは確実に現状に関わりのある並行世界だ。
 他に想定される世界は、今の段階では考え付かない。
「ケイ」と「魔女」がいた未来では「彼女」は氏んでいる。
 それはこの世界――「姪が氏んでいない世界」の未来と考えるのが妥当だろう。

 そうでなくては、彼女たちがなぜここに来たのかが分からなくなってしまう。
 そして次に、僕の前にあらわれた二人目の姪。
 彼女は「氏んだ世界」の過去からきたものだと考えるのが自然だろう。
 なぜなら、「氏んでいない世界」の姪は、この世界の僕を「お兄ちゃん」と呼んでいるからだ。
 彼女は僕を「叔父さん」と呼んだ。つまり、最低でもこの世界の存在ではない。
 

354: 2012/10/18(木) 16:33:26.72 ID:kSWs7BFdo

 僕の世界から来たとするなら、彼女は氏んでいるのだから、過去からきたと考えるほかない。

 整理すると話はごく単純だった。世界がふたつあり、それらが交錯している。

 そして、ここで三つ目の分岐が現れる。
「魔女が来なかった世界」、「魔女が来た世界」のふたつだ。
「魔女が来なかった世界」から、ケイと魔女はやってきた。
 その時点でこの世界は「来た世界」になり、「来なかった世界」とは別の世界となってしまう。
 この世界もまた、ひとつの並行世界として相対化されなければならない。

 この世界を呼称するなら、「氏んでおらず、魔女が来た世界」となる。
 僕の世界を呼称するなら、「氏んだ世界」となる。氏んだ世界に魔女はやってこない。
 魔女とケイの世界を呼称するなら、「氏んでいないが魔女が来ず、結局彼女が氏んだ世界」となる。

 枝分かれ。分岐と結果。この世界における結果は、どういうものとなるのか。
 誰のもたらす結果なのか? それが分からない。

 僕の考えは、そこそこ理屈に合っている。少なくとも、そういうふうに思う。
 だが、ひとつだけ分からない部分がある。
 

355: 2012/10/18(木) 16:33:53.73 ID:kSWs7BFdo

『未来を守る、ってどういう意味?』

『そのままの意味』

『まるで、君がどうにかしないとその子の未来が失われてしまうような言い方だ』

『その認識であってるよ』

 魔女はたしかにそう言った。
 僕は魔女の世界での『姪』は氏んでいるものだと思っていた。魔女も、そんなことを言っていたように考えていた。
 でも、彼女の世界の『姪』とは『魔女』ではないのか?
 だとしたら、魔女は既に氏んでいるはずだ。
 
 僕は少し分からなくなった。魔女に限って言えば、氏ぬよりも先にこの世界にやってきたということがありえない。
 なぜなら彼女は、自分が氏んだことを知っているからだ。氏ぬことを知っているということは、氏を経験したということだ。
 氏ぬ前の「彼女」は、こちらに来たとしても「自分が氏ぬこと」を知ることができない。

 そうなると、彼女の目的は失われる。

 なにしろ、守るまでもなく(彼女の認識では)氏んでいないのだから。。
 あるいは「ケイ」と「魔女」では時間が少しずれていて、ケイが魔女の氏を彼女自身に教えた?

 ――違うだろう。ケイの様子は、そんなふうではなかった。
 僕はそこまで考えてばかばかしくなった。魔女なのだ。彼女にだけは、理屈を当てはめようとしても無理がある。

 僕はここまで考えてから、自分が公園のベンチに座っていることに気付いた。
 逃げて逃げて逃げ回って、僕はここまできて、やっぱりひとりぼっちで、どこにも行き場なんてなかった。


359: 2012/10/23(火) 14:40:39.15 ID:DnR1l0oYo




 
 さいわいに、というべきではないだろうが、母が出かけていたので、家には誰もいなかった。
 父と姉は仕事だった。

 母は長く続いた父との喧嘩に嫌気が差したのか、それとも姪がいなくなった現実が嫌になったのか、どこかに逃げたらしい。
 母の母、つまり僕の母方の祖母は病氏していたので、おそらくは母がよくなついていた父の姉、伯母のところにでも行ったのだろう。

 少女は僕の方をじっと見つめている。
 さっきまではぼんやりとした目をしていたが、今は少しだけはっきりとしている。
 何を言っても伝わらないような表情から、少し動揺しているような気配が伝わる。
 ようするにさっきまでの彼女は朦朧としていて意識が判然としていなかったのだろう。

 だとするなら、ようやくまともに話が出来る頃だろうか。

「きみの名前を聞いてもいい?」

 僕は念のために確認した。答えは聞かなくても予想がついた。なんせそっくりだったから。
 彼女は少しためらったけれど、ためらう意味がないと判断したのか、結局答えた。
 その声は僕には、

「×××」
 
 とノイズがかって聞こえた。


360: 2012/10/23(火) 14:41:10.25 ID:DnR1l0oYo

「もう一度」

 僕が促すと、彼女は怪訝そうな顔をしながらももう一度名前を唱えた。
 けれどやはりそれは「×××」というノイズになるだけだった。
 
「……うん」

 僕は一応、分かったという態度を見せた。ようやく伝わったと思ったのか、彼女が安堵のものらしき溜め息をついた。
 
「×××」

 名前。
 名前?

 僕の頭にある考えが浮かんだ。ひょっとしたら、名前というものが意味を失っているのかもしれない。
 僕の名前。僕はそれを思い出そうとして見る。でも無理だった。
 家族構成、通っている学校の名前、それらは思いだせた。容易だった。住所、年齢、生年月日。簡単だ。
 でも名前は思い出せない。


361: 2012/10/23(火) 14:41:39.41 ID:DnR1l0oYo

 ようするに、今僕の周りで起こっているのはそういうことなのだ。

 名前と言うのは個人を区別する記号だ。ごく単純なシステムの識別手段。
 でも、この世界において、名前を用いた区別は既に不可能になっている。少なくとも僕と、そして姪に関しては。

 僕ともうひとりの僕は、名前によっては区別できない。 
 できるとしたら過去の記憶、情報、行動などにおいてのみ。名前はとうに無効化されている。
 たとえば僕と誰かが、もうひとりの僕について話をするとする。

 そのとき僕らは彼を名前で呼ぶことができない。

「彼」とか「あいつ」「あの人」。そういった代名詞で表現するしかない。
 僕たちは代名詞化されている。たぶんそういうことなのだろう。何がどうしてノイズになるかは分からないが。
 
 少なくとも「名前は無効化されている。有効なのは代名詞だけだ」。


362: 2012/10/23(火) 14:42:13.50 ID:DnR1l0oYo

 僕は馬鹿げた考えを放り投げて、目の前に座る少女を見る。
「少女」。まぁこれも代名詞だ。少なくとも固有名詞じゃないことだけは明白だ。面倒な話。
「僕」「彼」「彼女」「あの子」「少女」「魔女」「女の子」。僕らは代名詞化されている。
 
 だからどうしたと言われると分からない。それはある種の示唆なのだ。
 
「――どうか、したの?」

 声の響きをたしかめるかのように慎重な言い方で、少女は自分から言葉を発した。
 僕は少し動揺した。彼女がまさか、自分から声を出すとは思っていなかったのだ。

「いや」

 と僕はなんでもない風を装う。とにかく必要なのは、目の前の少女が何者なのかを知ることだ。
 思えば僕は、今起きていることについて何も知らない。
 
 ただ「もうひとりの僕」が現れ、「魔女」から電話がかかり、「ケイ」に怒鳴られただけ。
 そこにはなんの説明も付与していなかった。
 ヒントは、分岐と結果。それから、未来。彼女の氏。それだけ。


363: 2012/10/23(火) 14:42:48.10 ID:DnR1l0oYo

 目の前の少女は、誰なのか?
 その姿は姪に似ている。でも、別人だ。姪よりも幼い。
 だが、僕には心当たりがある。

 この世界に生きている僕。この世界とは違う世界に生きていた僕。
 この世界にも姪がいて、ここではない世界にもきっと姪がいる。

 ……もうひとりの僕。彼の世界の姪。
 
 でも、それならどうして、彼女はこんな姿をしているのだろう。

『ずっと気になっていたんだけど、どうしてそこまであの子に執着するんだ?』

 彼は、僕ほど姪に執着していなかった。
 その違いだろうか。

 その世界では、いったい何が起こったのだろう?


364: 2012/10/23(火) 14:43:18.82 ID:DnR1l0oYo

 僕はそのことを問いかけようかと思った。けれどやめた。
 同時に、彼女は何か、いなくなってしまった僕の世界の姪について知っているのではないかとも思った。
 でも、やめておいた。

 彼女にそうするのは、とてもまずいことだと思ったからだ。
 目の前の彼女は、不意に首をかしげた。その仕草はどこか小動物めいている。
 姪にそっくりな仕草。けれど彼女は姪ではない。

 そう意識的に思い出しておかないと、緊張感を失ってしまいそうだった。

「出かけようか」

 と僕は言った。僕はなんだかおかしな気分に陥った。そういえば、バイトにしばらく出ていない。
 シフトを確認する。……休みが続いている。こんなこと、しばらくなかったのに、なぜだろう。
 いや、夏休みの中盤からは、休みを増やしてほしいと頼んでおいたんだっけ? 予定が入るかもしれないからと。
 でも、明日はシフトが、入っている、ような気がする。
 ……どうも、思い出せない。僕は僕のことを思い出せない。たぶん、混線しているのだ。


365: 2012/10/23(火) 14:43:46.52 ID:DnR1l0oYo

「……"でかける"?」

 少女は不思議な響きを重ねるみたいに呟いた。言葉の意味が思い出せないみたいだった。
 しばらく待つと、彼女はようやく意味と音が重なったというふうな顔になって溜め息をついた。

「おでかけ、するの?」

 小さな声。僕はわけもなく眩暈に襲われる。

「ああ」

 頷く。家にいると、何かと不都合があるかもしれない。
 けれどそれ以上に、彼女をこの家にいさせておくのはまずいという気がした。
『分からなくなる』。
 
 なにせ、今この世界で、名前は意味を失っているのだ。
 彼女を姪と区別するものは何もない。『彼女』と一言言ってみても、どちらの『彼女』をさしているのか分からない。
 混乱しているのだ。ここに居させておくのは、まずい。


366: 2012/10/23(火) 14:44:30.92 ID:DnR1l0oYo

「……うん」

 彼女は不意に頷いた。僕は一瞬、それが僕の提案に対する返事なのだと気付けなかった。
 僕たちは出かけることにした。日常の雑多なあれこれはすべて置き去りにしていたし、非日常は一応の節目を見せていた。
 僕らにはすべきことがなかった。時間が空白になっていたのだ。

 僕は一度自室に戻り、簡単に身支度を整えた。服をかえてから洗面所に向かい顔を洗う。
 鏡を見るとひどい顔をしていた。

 彼女は僕が移動するたびに兎が跳ねるみたいな歩きかたで追いかけてきた。

 自室の机の上に、僕は以前見たものと同じメモ用紙を見つけた。

 以前は白紙だったそれに、今度は以下のような文が記されていた。


367: 2012/10/23(火) 14:45:09.08 ID:DnR1l0oYo

"人々を区別する記号は世界である。
 わたしはあなたの敵ではない。
 彼女は何も悪いことをしていない。
 あなたにはあなたにしかできないことがある。
 彼女はあなたに会うことを痛切に望んでいる。
 あなたは暗闇に手を差し伸べることができる。"

 また裏面には以下のような記述があった。

"世界を支配する魔法は不条理であり、不条理である以上、正体を探ろうとする試みは不毛である。
 わたしはあなたたちとは無関係の存在だ。
 世界は不公平に満ちている。
 不可能を可能にすることはできない。
 彼女はあなたを手に入れることができない。
 あなたは決して彼女を救えない。"

 僕はそのメモ用紙をポケットにつっこんで、後ろから不思議そうに覗き込んでくる少女の目に入らないようにした。
 僕の頭をたったひとつの疑問が支配した。

『彼女』とは誰か?


368: 2012/10/23(火) 14:45:35.28 ID:DnR1l0oYo

◇十三


 彼女が襤褸布めいた汚れたワンピースを着ていたので、僕らはひとまず服屋に向かった。
 途中でコンビニに立ち寄り、ATMでバイトで貯めた金を下ろす。
 そうすると、すっと肩の荷が下りた気がした。自分が背負っていた荷物が急に軽くなった気がした。

 少女が自分の意思で服を選ぼうとしなかったので、サイズからデザインまですべて僕が見繕うことになった。
 僕にはファッションセンスなんて皆無だったけれど、姪の服を選んだことはないでもなかった。
 大抵の場合、彼女には文句を言われるか、やんわりと否定されるばかりだったけれど。

 僕が選んだ服を、彼女は何の抵抗もなく受け止めた。あんまりにも何も言わないので、僕の方が不安になる。
 本当にこれでいいのか? と真剣に首をかしげることになった。
 さまざまなものを試したけれど、試せば試すほどわからなくなって、結局無難な方向に落ち着くことになる。
 
 とりあえず今日着る分の服を買い与え、着替えさせる。彼女は一切抵抗しなかった。
 新しい服に袖を通すと、今度はその肌が少し黒ずんでいることに気付く。

 このまま家に帰るのもなんだか馬鹿らしかったので、昔一度家族で行ったきり一度も使っていない銭湯に向かうことにした。


369: 2012/10/23(火) 14:46:05.70 ID:DnR1l0oYo

 たどり着いてから、僕は彼女がひとりで風呂に入れるのかどうかを疑問に思った。

「ひとりで大丈夫?」

 と訊ねてみると、

「……」

 という沈黙がかえってくるばかり。
 僕は溜め息をついた。どうすればいいのだろう。

 まぁ、彼女は八歳前後に見えたし、兄妹に見えれば男湯に入れても問題はないだろう。
 問題があるとすれば、僕と彼女が赤の他人というところにあった。
  
 彼女はもうひとりの僕の姪、かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。
 赤の他人。これって誘拐にならないのか。
 それを言ったらそもそもケイの奴が僕に引き渡したのが間違いなのだけれど。さらに言えば自称魔女が。

 でも、謎の男女に引き渡されたので女の子を銭湯に連れて行きました、なんて言い訳して誰が信じてくれる?
 ……信じてくれたところで普通に問題がありそうな話だ。


370: 2012/10/23(火) 14:46:36.66 ID:DnR1l0oYo

 男湯に二人で入る。平日の朝だったから、人はほとんどいなかった。朝にしても特に少なかった。
 彼女が自分の意思で服を脱いだりしようとしなかったので、僕はいちいち指示する羽目になった。
 小さな女の子に服を脱げなんて言っている自分を意識すると、情けなくて恥ずかしくていたたまれなくて周囲の目が気になった。
 さいわいあたりには誰もいなかった。それだけが救いと言えば救いだった。
 
 僕があたふたとしている間、彼女は平然と次の指示を待ち続ける。
 体力をやたらに消耗する相手だった。

 少女を促して浴場に向かい、体を洗わせる。そこまで行くと後はひとりでやった。
 まさか自分に洗わせはしないだろうなとひやひやしていたので、僕は安堵した。

 体を洗うとき、ふと彼女の方を見ると、腕に痣があるのが分かった。  
 よくよく目を凝らせばその痣はいくつもあった。

 自分が見られていることに気付いて、少女は表情も変えずに僕から距離を取ろうとする。
 羞恥というよりも、気まずさからに見えた。
 その腕をつかむ。

 少女の身体がびくりと揺れた。

 顔を歪めている。
 痛がっているのだ。


371: 2012/10/23(火) 14:47:08.13 ID:DnR1l0oYo

 僕は手を離した。手を離して、目の前で起こったことを冷静に受け止めようとした。
 これはいったいなんなのだろう?

 僕は自分の判断を少し後悔しはじめた。これは僕の手に負えることだろうか?
 僕がいますべきなのは、彼女と話すことではなく、彼女の世話をみることでもなく、ケイに会うことなのではないか。
 ケイに会って、目の前の少女が誰なのかを訊ねることなのではないか。

 けれど僕は、ケイには二度と会えないような気がしていた。
 それはとても不自然な感覚だったけれど、でもだからこそ信憑性がないでもなかった。
 
 でも、僕はやはりあそこに向かうべきなのだろうか? あのショールームへ、もう一度?
 けれどそうすればきっと、この少女とは別れることになるだろう。
 それは――避けたかった。なぜだろう?
 僕はずっと彼女の為にできることを考えている。
 それはきっと独善的で馬鹿らしい感情なのだろうけど、だけど、彼女は僕に似ている気がした。
 
 だからこれは、きっと一種の自慰行為なのだろう。

「他に痛いところは?」

 僕が訊ねると、彼女は恥じ入るような真剣な表情で首を振った。
 自分の深いところに何かが侵入してくるのを拒もうとしているみたいに見えた。それはたぶん習性だ。

「そう」

 僕はそれだけ言って、あとは何も訊かなかった。何を訊けばいいのかも分からなかった。


376: 2012/10/24(水) 15:44:20.81 ID:RluAtI6Yo



◆十二


 夜は深まっていた。僕はいまだベンチに座ったままでいる。
 結局僕は動けないのだ。僕は身動きを取れない。取りようがない。
 すべては手遅れなのだ。この混乱の上に何かを根ざすことはできない。僕はここで終わってしまうのだ。

 僕はこの世界に何をしにきたのだろう? 魔女は僕の存在に意義を見出しているような口ぶりだった。
 でも、僕はこの世界においてかぎりなく無価値だ。

 僕はこの場にいる必要のない人間だ。発展性もなく必然性もない。
 物事の解決に一切寄与しない。何ももたらさない。どこにもいかない。何の役にも立たない。
 そんな人間はこの混乱に一層の深みを招くだけではないのだろうか?
 魔女のたくらみはきっと失敗したのだ。僕は何をしているんだろう?

 飛び降りる瞬間の魔女の顔。僕は思い出す。彼女の悲痛な表情。
 僕はそれに限りなく無関係だった。彼女の痛みに対してまるで無関心だった。

  それらは僕という人間を象徴していた。僕はそもそもどこかにいる必要もない。最初から発展性も必然性もなかった。
 物事の解決に寄与したことなど一度もない。何かをもたらしたこともなく、どこかに行ったこともなく、誰の役にも立たなかった。
 そんな人間はそもそも存在する理由がない。
 それは人間ですらない。


377: 2012/10/24(水) 15:45:12.85 ID:RluAtI6Yo

 僕は頭が痛いとずっと思っている。でも痛みはおさまらない。当たり前だ。僕は薬を持っていないからだ。
 僕は痛みを止めるための薬を持っていない。だから痛みは治まらない。ないものを飲むことはできないのだから。
 でもどうしてだろう? 耳鳴りがだんだんと近くなって僕を揺さぶっている。僕は入口を行ったり来たりしている。
 
 入ることも出ることもできずにただ行ったり来たりしている。悟ったフリをしたり迷ったフリをしたりしている。
 でも本当は心底どうでもいいのだ。

 僕はこの世界に余計な人間だ。
 それで。
 僕は元の世界でもいる必要のない人間だ。
 だから。
 僕はどこにも行けない。僕は戻りたいと思っていない。とどまりたいとも思っていない。
 堂々巡り。僕は袋小路に迷い込んだ。だって僕は混乱して右も左も分かっていないのだから。 

 空には月が浮かんでいる。
 僕を見下ろして笑っている。


378: 2012/10/24(水) 15:46:03.39 ID:RluAtI6Yo

 僕が存在しなければ話はだいぶスムーズに進んだ。魔女の発想は逆転しているように思う。  
 この世界の僕――といってしまえばだいぶ失礼にすら感じるが――は、まったく問題のない人間に思える。
 疲れたり混乱したりはしているが、それは僕や魔女の責任だ。
 
 この世界の僕の姪もまた、僕の世界に比べればだいぶまともに育っているように思える。
 もちろん魔女はその未来の悲惨な事態を知っている。僕の仮定が間違っていようと、彼女自身がそう言ったのだ。

 でも、それならばもう役割は済んでいるのではないか?

 魔女は忠告して、立ち去ればいい。それでいい。それだけでいい。
 それなのに魔女はなぜややこしい手段を取り、なぜ僕はここに居るのか。誰のどんな意図で?
 僕は何かを聞き逃しているのか? それともまだ知らない何かがどこかに置かれているのだろうか?
 
 いずれにしても僕にとっての問題はひとつだけだ。
 僕はどこに行けばいいんだろう。
 
 どうせ何もかもが手遅れなのに。

 月が陰った。

「本当に?」と声がした。
 

379: 2012/10/24(水) 15:47:07.81 ID:RluAtI6Yo



 
 魔女の声だった。
 彼女は僕の目の前に立っていた。声を聞いた瞬間に泣きそうになる。
 
「わたし、思うの」

 僕は顔をあげることができなかった。彼女の顔を見ることが怖かった。

「過剰な加害者意識というのは、ある種の自己陶酔か、もしくは自己防衛の一種だって」

 言葉の意味よりもその声の音色に心が揺さぶられる。
 すぐそばに魔女がいた。あんなふうに吼えて消えてしまった魔女。
 声音は、けれど、落ち着いている。

「何がそんなに怖いの? あなたは無傷でそこにいて、五体満足で、わたし以外に何も持っていなかったわけでもない」

 彼女の声は責めるようでもあって、諭すようでもあって、そのどちらでもないようでもあった。
 あんまり綺麗な声だから、祈るようにすら聞こえた。


380: 2012/10/24(水) 15:47:41.16 ID:RluAtI6Yo

「叔父さん」

 と彼女は言った。
 あの子なのだと僕は思った。そんなはずはないのに、でも確信を抱いてしまった。

 僕は手のひらで顔を覆う。何も見たくなかったのか、それとも誰にも見せたくなかったのか。

「分からない。世界が真黒に見えるんだ。何もかもが澱んでいる気がする。
 どうしたって剥がれ落ちないんだ。何かが僕の日常に忍び寄って、それまで当たり前だった景色を塗りつぶすんだ。
 そうなると僕は、どうしようもなくなる。当たり前で大好きだった世界が、急に薄汚れて見え始めたんだよ。
 どんなものごとの裏側にも真黒な何かが張り付いている気がする。実際にそう見えるんだ。
 真黒なんだよ、この感覚が伝わるかな。大好きだったものが、ありふれた、陳腐でくだらないものに見えるんだ。
 何もかもが、悪意と敵意に満ちている気がして、それ以外のものが嘘にしか見えなくなるんだ」

 僕の声は震えていた。僕にとって彼女が氏ぬということはそういうことだった。
 世界は正常な色彩を失った。はじめから真黒であることこそが正常であったかのように。


381: 2012/10/24(水) 15:48:11.16 ID:RluAtI6Yo

 だから僕は何も見たくなかった。何も分からなくなってしまった。
 ひとりの人間の氏が僕に暗闇をもたらし、そこから出られなくなってしまった。世界は黒で覆われている。

 でも魔女は、
 そんなのはまるで大したことではない、と言いたげに笑う。

「世界が黒く見えるのは、叔父さんの目に汚れがはりついてしまったからだよ。
 世界はべつに、綺麗でも汚くもないよ。ただ世界は、世界ってだけ。
 世界が澱んで見えるのは、叔父さんの目が澱んでしまったからだよ。
 その汚れを剥がすは大変かもしれない。でも、不可能じゃないよ」

 彼女は言葉を選ぶような間をあけてから、ためらいがちに続けた。

「わたしの世界は、暗いばかりじゃなかったよ。叔父さんにとって、それは救いにはならないかもしれないけど。
 もう一度、真黒じゃない綺麗な色を、叔父さんも見ることができるよ。
 手遅れなんかじゃないよ。本当に、そうなんだよ。わたしにも、真黒じゃない、綺麗な色が見れたんだから」

 僕は泣いたけれど、それは彼女の言葉に泣いたのではなかった。
 彼女にそんなことを言わせてしまった自分が情けなくて泣いたのだ。
 僕はいつまで言い訳を続けるつもりなのだろう。


382: 2012/10/24(水) 15:49:43.83 ID:RluAtI6Yo

 彼女はそれを見透かして、見透かした上で鼓舞してくれているのだ。
 僕はようやく顔をあげて彼女を見上げた。
 その表情は、やはり魔女のものだ。
 
 でも、彼女は魔女ではない。
 いや、どうなのだろう。どんなことが起こって、彼女がこんな姿でいるのかは分からない。
 この世界では、世界、時間、空間の移動という点での不条理がありふれている。
 
 でも、ありえない姿をしている人物はいない。
 ここにいるのは魔女。――この世界の姪の未来の姿のはずだ。
 なぜなら彼女は、"僕と同い年くらいの姿をしている"からだ。 

 僕は彼女を、僕の世界の姪だと強く感じる。今も感じている。でも、そんなことはありえない。

 "彼女が僕と同い年くらいの姿になることはありえない。"
 "なぜならそれより先に彼女は氏んでしまうからだ。"
 "氏者は蘇らない。"

 いったい何が起こっているのだろう?

 それはちっとも分からない。
 でも、なにかが僕の中で溶けた気がした。

「許してほしいなら、許してあげる」

 彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。


383: 2012/10/24(水) 15:50:22.67 ID:RluAtI6Yo




 僕の意識は浮上する。ということは、今まで沈んでいたということだ。
 何だか頭がぼんやりしていて、自分がどこにいるのかが分からない。
 ただ、なんだか喉がいがいがとした。小鳥のさえずりが聞こえる。

 目を開く。

 僕は今まで眠っていたのだ。そして今目をさました。僕は公園のベンチの上に寝そべっている。
 太陽はまだ東の空で街が起き始めるのを待っているようだった。

 日の光が公園の木を照らしている。僕は頭を掻いて体を起こし、それから少し怯えた。

 懸念はすぐに晴れた。自販機が缶を吐き出す音。振り返ると彼女はそこにいた。

「おはよう」

 と彼女は笑い、僕に向けて缶を放る。缶コーヒー。

「ありがとう」

 僕は言い切ってから、僕は付け加えた。

「おはよう」

 朝の匂いがした。僕は静かに起き上がってゆっくりと伸びをする。
 それから長い息を吐いた。

「そばにいたんだな」と僕は言った。
「ずっといたよ」と彼女は言った。


384: 2012/10/24(水) 15:51:10.23 ID:RluAtI6Yo

 適当な時間に公園を出て、朝食をとれる店へと向かった。
 芸もなく同じファミレスに向かう。僕はこの世界に場違いな存在だったけれど、そうした感覚は薄れてきた。
 でも、それは薄れるべきものではない。

 僕はこれから僕の世界へと帰らなければならない。
 僕の現実へと戻らなければならない。
 そうした目的意識が僕の中に出来上がった。

 朝食を食べながら僕たちはたくさん話をした。
 彼女は自分の好きな音楽について語った。いくつかの邦楽バンドの名前が出た。
 art-school、Syrup 16g、people in the box。

 知っているのばかりだな、と僕は言う。
 
「ちょっと前のバンドだから」

 と彼女はくすくす笑う。僕はそれがなんだかおかしなことに思えた。 
 魔女の姿は僕たちと同じくらい。つまり、魔女は数年後まで生き延びる。
 だから、僕の知っているバンドを「少し前の」と呼んでも変じゃない。
 でもやっぱり、そこには何かしらおかしな部分がある気がした。


385: 2012/10/24(水) 15:52:07.37 ID:RluAtI6Yo

「なんだか聴いていたら憂鬱になりそうなラインナップだ」

「ちゃんと他のも聴くけどね」

「聴く」と彼女は言った。「聴いていた」ではなく。まるで生きている女の子みたいに。

 彼女は話を続ける。特にpeople in the boxのghost appleというアルバムには思い入れがあるらしい。
 初めて自分で買ったCDだから、と。でも彼女がCDを買う姿なんて僕にはちょっと想像できなかった。

 理屈があっていない。
 けれど僕は、あまり深く考えないことにした。それが重要なこととは思えなかった。

「なんだか、もっと前に、きみとこうやって話をするべきだったという気がする」

 僕が言うと、彼女は寂しげに笑った。

「そうなんだろうね」


386: 2012/10/24(水) 15:53:06.77 ID:RluAtI6Yo

 その声には、本当にそうだったなら、という願いにも似た響きがこもっていた気がした。
 あるいは錯覚だったのかもしれない。彼女の表情はすぐに元通りになった。
 
 昼過ぎまで、僕らはそうやって時間を潰していた。
 僕らは何年分の土産話を持て余していたみたいに喋り続けた。中身はほとんどなかった。

 ある時間を過ぎると彼女は立ち上がった。別に時刻に意味はないのだろうと思う。
 ただ、もうそろそろいいだろう、という気持ちになったのかもしれない。

「そろそろ、行こうか」
 
 と彼女は言った。


387: 2012/10/24(水) 15:54:12.69 ID:RluAtI6Yo

 僕は不意に思い出した。

「この財布、返すよ」

 最初に僕が魔女から受け取った財布。彼女はそれを不思議そうに眺めていたが、やがて手に取った。
 
「分かった」

 と言った。でもそれは受け取ったというより、誰かに届けることを承った、みたいなニュアンスに聞えた。
 僕にはその響きが、他の会話から奇妙に浮き上がって聞こえた。

「行こう」

 ともう一度彼女は言う。

 どこへ、とは聞かなかった。 
 あの暗い部屋に、もう一度戻るときが来たのだ。

 僕は、そこからしか始まらない。

388: 2012/10/24(水) 15:55:27.55 ID:RluAtI6Yo






 銭湯を出る。街をぶらついて本屋をのぞいた。
 僕にはこうした時間が必要だった。落ち着き、混乱を振り払う時間が必要だった。
 そうするために本屋はうってつけだったのだ。

 彼女は何も言わずについてきた。気が付くとはぐれそうになるので、手を繋いでやる必要があった。
 誰かと一緒に出掛けることには慣れていないらしく、すぐにふらふらとどこかへ行ってしまう。

 昼近くなると付近のファーストフード店でハンバーガーを買って食べる。
 僕らは時間を順調に消化しつつあった。

 僕はいなくなってしまった姪のことを考える。
 彼女にそっくりな、目の前の少女のことを考える。
 電話の向こうの魔女のことを考える。


389: 2012/10/24(水) 15:55:53.25 ID:RluAtI6Yo

 ケイは言った。彼女は氏んでしまったのだ、と。
 おそらくそれは本当だった。

 ケイの言う彼女とは僕の姪のことだろう。
 つまり彼女は未来では氏んでいる。
 それを考えると心が痛んだ。悲しかったし理不尽だとも思った。
 でも、それを僕が知ったということは、僕はその未来を避けることができるということだ。
 
 姪が氏ぬ世界を世界aとする。そこは僕の過去から地続きの未来だ。 
 でも、魔女やケイが未来からやってきたことで、世界は世界a'に分岐する。
 
 彼女の氏は不可避のものではない。それだけ分かれば十分だった。

 ……だが、現状はどうなのだろう。魔女――こう呼ぶのも馬鹿らしい話だが――の思惑から大きく外れているのではないか?
 僕の傍にいる少女。

 彼女は魔女にとってもイレギュラーだったのではないだろうか。
 魔女は言った。「そこから何かを掴み取ってね」


390: 2012/10/24(水) 15:56:53.26 ID:RluAtI6Yo

 何かって何だ?
 僕が掴むべき何か。僕が掴んでいない何か。

 魔女の行動と言動はおかしい。
 何か、一致していない、不自然なものを感じる。
 
 なぜだろう? 魔女の目的はいったいなんなんだろう。
 彼女自身、それを掴めているんだろうか。

"塀についた扉"のあらすじを、僕はなんとなく思い浮かべた。

 僕らは不毛な消耗を続けている。そんな気がした。
 終わらせるべきなのだ。


391: 2012/10/24(水) 15:57:43.38 ID:RluAtI6Yo





 本屋を出ると、僕の目の前にひとりの少女があらわれた。
 同い年くらいの少女。僕には彼女が誰なのかすぐに理解できた。





393: 2012/10/24(水) 16:00:33.62 ID:RluAtI6Yo

395: 2012/10/24(水) 18:10:58.89 ID:PUiz07wIO

引用: 姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?