773: 2012/12/28(金) 13:50:38.26 ID:4woSyJNbo


前回:姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?」急


「……待って」
 
 わたしの声に、お兄ちゃんは「どうぞ」と言いたげに頷く。

「でも、それはおかしいでしょ?」

「何が?」

 彼は平然と首をかしげる。わたしの認識がおかしいのだろうか。

「だって、この世界に関わり合っているのは、三つの世界だけ、だったはず」

 そうだ。
 まずは、前提となるこの世界。
 次に、姪……わたしが子供のうちに氏んでしまった世界。
 最後に、わたしがいた、この世界の未来。

 まずこの世界に、"未来"の姪は存在できない。
 そして、"姪"が氏んでしまった世界。ここにも"未来"の姪は存在しえない。
 そうなる前に、彼女は氏んでしまうはずなのだから。
 最後に、この世界の未来……そこにおける"未来"の姪は、すなわちわたしのことだ。

ふらいんぐうぃっち(12) (週刊少年マガジンコミックス)
774: 2012/12/28(金) 13:51:12.20 ID:4woSyJNbo

「魔女が"未来の姪"だったとしたら、その人はいったいどの未来から来たの?」

「……疑問はもっともだけど、ややこしいながらも答えることはできる」

 お兄ちゃんの態度はあくまでも穏やかだった。
 わたしは彼の声に耳を澄ませる。

 けれどわたしが期待したような説明は、彼の口からはなされなかった。

「でも、これに関しては、魔法使いと話しながら説明した方が早い。僕だって、詳しい理屈が分かってるわけじゃないから」

 少しためらうような表情を見せて、お兄ちゃんは笑った。

「だから、今は一刻も早く魔法使いに会わないと」

「会って、どうするの?」

「あの子にもう一度会わないと」

 それ以外には何もないというように、お兄ちゃんは言う。

「それにしても、僕の視点だけでは足りない情報が多すぎる」

「……」

 わたしはお兄ちゃんよりもたくさんのものを見たはずなのに、お兄ちゃんほど盤上を見渡せていない。
 彼はどこまで分かっているのだろう?


775: 2012/12/28(金) 13:51:50.81 ID:4woSyJNbo



 ショールームにたどり着く。
 わたしたち三人は並んでその建物を見上げた。いまさらのようにその全容を眺めてみても、やはり何の変哲もない建物としか思えない。
 お兄ちゃんが扉を開けた。足を最初に踏み込んだのもお兄ちゃんだった。手を繋いだまま、少女があとを追う。
 わたしは最後に入って扉を閉めた。

 ぎいと軋むような音を立ててドアが閉まると、屋内は異様な静寂に支配されていた。
 正面に向かってお兄ちゃんは歩く。靴のかかとがかつかつという音を立てた。
 その音はいやに響く。わたしは神経質になっているんだろうか。妙に不安にさせられた。

 正面には例の緑色の扉があった。
 まるですべての扉が、その扉の為に並べられた脇役みたいだった。
 扉はどれも墓碑に似ていた。

 音は氏んでいた。たぶん色彩も氏んでいるのだろう。生きている人間の気配がしない。
 いや、氏んでいるのは時間だろうか? 
 
 ……わたしは何を考えているのだろう? 雰囲気にのまれているらしい。

 けれどそれでも、彼女は、その扉の前に立っていた。
 物言わず。
 けれど視線はこちらに向けて。

「待ってた」
 
 と、彼女はささやくように言った。

 わたしは声を失う。
 その姿はやはり、わたしにそっくりだったのだ。


776: 2012/12/28(金) 13:52:23.27 ID:4woSyJNbo




「この場にこうして存在している以上、彼女はきみの幻覚なんかじゃ決してない。それは分かるよね?」

 お兄ちゃんは"魔女"の挨拶に返事すらせず言った。
 少し物静かな雰囲気の"魔女"は、その態度に少しだけ傷ついたように見えた。
 本当のところは分からない。でもわたしはたしかにそう感じた。

 そしてお兄ちゃんは言う。

「"初めまして"」

 その言葉に、"魔女"の顔がゆがんだ。

「……性格、悪いなあ」

 お兄ちゃんは"魔女"の態度をうかがうようにじっと見つめている。
 魔女もそのことに気付いて、けれどことさら、自分を隠そうというふうでもなさそうだった。

 今の会話から、お兄ちゃんは何かを炙りだそうとしたのだろうか?
 したとしたら、それはいったいなんなんだ?

"初めまして"じゃないのなら。


777: 2012/12/28(金) 13:53:44.46 ID:4woSyJNbo

「魔法使いはいる?」

「……うん。でも、話はあとでもいいでしょう?」

"魔女"の様子は少しおかしかった。 
 澄んでいるようであり、澱んでいるようであり、明るいようであって、暗い。
 いうならば、明るい暗さ、のようなもの、に彩られている。
 
「まずは――その子を、こちらに」

 彼女は平然と言う。その子、とは誰のことだ? わたしは少し考え、その対象がひとりしかありえないことに気付く。
 お兄ちゃんは繋いでいた手に力を込めたようだった。

「大丈夫。その子をこちらに引き渡してくれれば、全部説明する。あの子にだって会えるよ。だから」

 だから、と呪いでも掛けるみたいに。

「その子をこっちに。それはその子に必要なことなの」

 少女は"魔女"の態度に、ひどく怯えているようだった。

「悪いけど、それじゃ順番が違う」

 お兄ちゃんは平然と、"魔女"の要求をつっぱねた。
"魔女"が歯噛みする。


778: 2012/12/28(金) 13:54:13.38 ID:4woSyJNbo

 ……何が起こっているんだろう?

 折れたのは魔女だった。さしてこだわることもなさそうに、溜め息をつく。

「まあ、いいや。どうせ結果は変わらないし」

 白々しい口調で、魔女は言う。

「どうだろうね」

 とお兄ちゃんが笑うと、彼女は怪訝そうな顔を見せた。

「……どういう意味?」

「さあ。言ってみただけかもしれない。それより、魔法使いを呼んでもらえる?」

 お兄ちゃんの言葉に、魔女は静かに傍らの扉を叩いた。返事があって、扉が開く。
 参った、というふうに、魔法使いが出てきた。

「……彼女がそうなのかな」

 と、お兄ちゃんはわたしに訊ねる。


779: 2012/12/28(金) 13:54:40.51 ID:4woSyJNbo

「うん」
 
 わたしが頷くと、お兄ちゃんは変な顔をした。

「もっと怪しい感じのを想像してたんだけど……なんだかカジュアルだね」

 その感想がこの場に似つかわしくないように思えて、わたしは苦笑した。

「や。ひさびさ」

 魔法使いはわたしに手を振った。
 わたしは応じない。
 
「……ま、そうね」

 ちょっとさびしそうに、彼女は笑った。


780: 2012/12/28(金) 13:55:07.11 ID:4woSyJNbo

「さて」

 と言ったのは"魔女"だった。
 この場にいる人間は五人。

 お兄ちゃんとわたし。それから、魔法使いと魔女。
 そして、"もうひとりの姪"。
 ケイくんと、"もうひとりのお兄ちゃん"はいない。
"この世界の姪"も。

「場も整ったみたいだし――」
 
 宣戦布告するみたいに、どこか諦めの漂う声で、"魔女"は高らかに言う。

「――つじつま合わせを始めようか」


781: 2012/12/28(金) 13:55:35.12 ID:4woSyJNbo




「……つじつま合わせ、ね」

 お兄ちゃんが言う。
 なんなんだろう。お兄ちゃんと、"魔女"だけが、別の場所で話をしているような気がする。
 それとも、分かっていないのは、わたしだけなのか。
 魔法使いもちゃんと、この場で起こっていることを把握しているのだろうか。

 魔女は、扉の前で身をかがめ、何かを拾う。そしてそれをお兄ちゃんの足元に投げた。
 いや、正確には、それは少女の目の前に落ちた。

「あげる」

 と魔女はいう。

「それは必要なものだから」
 
 彼女はじっと、お兄ちゃんと手を繋いだ少女の目を見つめているようだった。
 妙に穏やかな、いつくしむような声音だった。その声にあてられたのか、少女は身をかがめようとする。


782: 2012/12/28(金) 13:56:01.06 ID:4woSyJNbo

「――待て」

 と言ったのはお兄ちゃんだった。

 その言葉はどちらに向けられていたんだろう。
 魔女は怪訝な表情を深める。

「……なぜ止めたの?」

「……」

「――違う。ねえ、あなた、どこまで見えてるの?」

 お兄ちゃんは答えなかった。

「まさかとは思うけど……」

「……」

「叔父さんの記憶、ぜんぶ見たの?」


783: 2012/12/28(金) 13:56:42.68 ID:4woSyJNbo

「え?」
 
 と声をあげたのはわたしだけだった。
 お兄ちゃんは、そんなのはぜんぜん不思議なことじゃない、といってるみたいに平然としている。
 でも、彼女は言った。

 ……"叔父さん"?

「きみが呼ぶ"叔父さん"っていうのは、つまり」

 魔女は隠そうとするでもなく答える。

「そう。花火大会の日にあなたが会った、もうひとりのあなた」

「彼は、"姪が氏んだ世界"の住人だった」

「そう」

「だから、本当なら"きみ"はありえない」

「……」

 そうだ。
"姪が氏んだ世界"には、"もうひとりのお兄ちゃん"を叔父さんと呼ぶ、成長した"姪"は存在しえない。
“もうひとりの姪”はその前に氏ぬんだから。
 

784: 2012/12/28(金) 13:57:09.48 ID:4woSyJNbo

 でも、いる。……いや、わたしだって、氏んだうえで、この場にいるんだけど、それとは関係がない。
 だって彼女は、それ以前に"存在するはずがない"のだ。

 でも、お兄ちゃんは言う。

「二周目なんだろ?」

 それ以外ないというみたいに簡単に。
 魔女の表情がかすかにこわばった気がした。

「どういうこと?」

 わたしは言葉の意味がわからずに、お兄ちゃんに問いかける。
 お兄ちゃんはこちらをわずかに振り向いて答えた。

「この世界は分岐してるんだよ」

「……うん。わたしが氏ぬ世界と、氏なない世界に、分岐してるんだよね?」


785: 2012/12/28(金) 13:57:45.26 ID:4woSyJNbo

「そう。それともうひとつ、分岐がある」

「……?」

「きみは子供の頃、このショールームに足を踏み込んだことがある?」

「え? ……ある、けど」

「うん。それじゃあ、このショールームで魔法使いやケイに軟禁された記憶は?」

「……」

 ……それは、ない。

「……忘れているだけかもしれないけど、ない、と思う」

「いや、体験していないはずだよ」

 お兄ちゃんは確信を持っているようだった。


786: 2012/12/28(金) 13:59:42.39 ID:4woSyJNbo

「そうじゃないとつじつまが合わない。だってきみは、分岐をつくるためにこの時間にやってきたんだから」

「……あ」

 そうだ。
 わたしは分岐をつくるためにこの時間にやってきた。
 この時間にわたしがやってくることが、あらかじめ起こっていたことだったとすれば、“分岐"は発生しない。

 もしわたしが過去に魔法使いの魔法に巻き込まれていたなら、この世界の結果は変わりえない。
 つまり魔法使いを信じるなら、この世界は“二度目”でなくてはおかしいのだ。

「世界は三つだけじゃない」

 お兄ちゃんは言う。

"この世界"-今ここにある世界。
"姪が氏んだ世界"-"もうひとりのお兄ちゃん"がいた世界。
"この世界の未来"-"きみ"と"ケイ"がいた世界。
 
 これがわたしたちが前提にしていた世界の数。
 でもまず最初に、“本来のこの世界”を配置しなければならないのだ。
 つまり、“未来の姪=わたし”が川に身を投げる世界を。

 そこに"魔法使い"の力を借りた"わたし"がやってくる。 
 巻き込まれた"魔女"や"もうひとりのお兄ちゃん"、"少女"がやってきた影響で。
 この世界は"もう一度分岐している"。


787: 2012/12/28(金) 14:00:23.49 ID:4woSyJNbo

「僕たちがいる、いまここ、"この世界"は、二周目なんだ。一周目では、きみが現れず、きみは氏んでしまう」

 そして氏んでしまった"わたし"は魔法使いの力を借りて、分岐をつくりに来る。
 別の結果を生み出すために。そうして加わった変化。"二周目"。別の可能性。

 ……でも、そこまでは、"分岐"をしっかりと考えていれば、見逃していただけの、ごく当たり前の言い換えにすぎない。

「もともとふたつに分かれていた世界は、"きみが来た世界"と"きみが来なかった世界"に分岐する。
 ここまでは、魔女の魔法に従った、ごく当たり前の結論だ。
 問題はここからだ。
 この"二周目"の世界には、"姪が氏んだ世界"の人間がふたり巻き込まれているんだよ。
 誰のことかは分かるよね?」

 ……"もうひとりのお兄ちゃん"と、この場にいる"もうひとりの姪"。

「"もうひとりの僕"に関しては、あまり考えなくてもいい。今考えるべきなのは――」

 そこでお兄ちゃんは、手のひらの先を見遣った。

「――この子のことだ」

 魔女が歯噛みする。
 ……この子が、なんだというんだろう。


788: 2012/12/28(金) 14:00:49.59 ID:4woSyJNbo

 ――いや、待て。

「魔法使いの魔法でこの世界に来た人間は、もしくは、巻き込まれた人間は、“戻らなきゃいけない”」

 わたしはそう呟いて、魔法使いの顔をうかがう。彼女はいつもの調子で苦笑していた。

「……そ。それが自然だからね」

「……つまり、すべてが終わった後、この子は元の世界に戻るんだ」

 本来ならば氏ぬはずの世界へ。
 
「ところで、この子は本来なら、母親に殺されて氏ぬ運命だったはずだ」

 目の前で交わされる会話を、どんな思いで聞いてるのだろうか。
 少女の顔はこちらからではよく見えない。

「“本来なら”。つまり、こんな騒動に巻き込まれず、順当に生きていれば」

 ぞわり、と背筋が粟立った。


789: 2012/12/28(金) 14:01:24.49 ID:4woSyJNbo

「……ねえ、まさか、結果が変わるの?」

 魔女が歪んだ表情を正し、長い溜め息を吐く。彼女はこう言っているように見えた。
“戸惑うことは何もない”。
“なにひとつ変わらない”。
 
「わたしがこの世界に来て、この子が巻き込まれて、その結果――」

「うん」

 とお兄ちゃんは頷いた。

「推測だけど――この子は生き延びる。おそらくきみと同じくらいの歳まで」

 彼の声は言葉の割に、確信がこもっているように聞こえる。

「そして、魔女としてこの場に現れるんだ」


792: 2013/01/01(火) 15:25:12.82 ID:7p1BbX+Yo







「ドアを開けて」

 とその人は言った。だからわたしはドアを開けた。
 
「行くんだ」

 わたしは振りかえってその人の顔を仰ぐ。表情はそれまでと同じような微笑みだった。 
 周りにはよく知らない人たちが居て、わたしは男物の財布を握らされていた。今となっては曖昧な記憶。
 
「大丈夫」と彼は言った。

「僕の言う通りにすれば、怖いことはもう起こらない。お祖母ちゃんのところに行くんだ。いいね?」

 わたしは話をよく理解していなかったけれど、それでも頷いた。内心は不安でいっぱいだったし、心細かった。
 当たり前のように、その人もわたしについてきてくれるものだと思っていた。

 だから、ドアをくぐった先が、自分の家の自分の部屋だと気付くと、泣き出したいほど怖くなった。
 傍には誰もいなかった。家の中はまったくの無人。わたし以外の人はいない。
 
 母も父も不在だった。


793: 2013/01/01(火) 15:25:46.34 ID:7p1BbX+Yo

 わたしは真っ暗な部屋の中を歩いた。夢でもみていたのかと思った。
 でも、手を繋いでいた感触がたしかにあった。手のひらにぬくもりが残っている気がした。
 
 それは、いまはない。

「……叔父さん?」

 と、わたしは彼のことを呼んだ。彼のことを呼んだのはそれが初めてだった。
 彼の顔は知っていた。母の弟。わたしにとっての叔父。その頃のわたしには、怖い人だと言う印象以外はなかったけれど。
 その何日かの出来事のせいで、わたしはすっかり彼を頼っていた。
 
 わたしは手を握ることの意味すらよく思い出せなかった。だから最初はひどく怖かった。強く腕を引かれて痛い思いをする気がした。
 でもちがった。彼はわたしのことを引っ張らなかった。わたしのことをぶたなかった。
 
 怖くなかった。

 でも。
 その人はいない。

 だからわたしは彼に言われたからではなく。
 彼に会いたいと思って祖母の家に向かおうと思った。


794: 2013/01/01(火) 15:26:44.57 ID:7p1BbX+Yo



 
 着の身着のまま家を飛び出して、おぼろげな記憶を頼りに道を歩いた。
 夜中に子供ひとりで歩いていたせいか、何度か大人に声を掛けられたけれど、そのたびに返事もせずに逃げ出した。
 不審に思っただろうが、保護しようとか企む善人がいなかったことに、わたしは少しほっとした。
 
 時間も、日付も、記憶も、曖昧だった。もともとわたしはそうなのだ。
 母と父と三人での暮らしが始まってから、わたしの認識は空疎で希薄だった。

 どんな連続性も失われていた。

 だから祖母の家に辿りつけたのは奇跡のようなものだったのかもしれない。
 あるいは――“彼”と一緒に道を歩いた記憶があったからだろうか。
 
 わたしがインターホンを鳴らすと玄関に出てきたのは祖母だった。
 彼女はわたしを見て嬉しそうに顔をほころばせた後、母がいないことに気付いて不審そうな顔をした。

「お母さんは?」と訊ねられてわたしは俯く。それから少し考えて、首を横に振った。
 祖母は不審がったが、とりあえずわたしを家に招いた。
 
 祖母の家は暗かった。蛍光灯の光すらが暗く冷たかった。
 そこではさまざまなものが深い場所に沈み込み、静かに停滞しているように見えた。
 

795: 2013/01/01(火) 15:27:18.44 ID:7p1BbX+Yo

 わたしにはその景色が寒々しく見えたし、祖母の顔は青白く褪せて見えた。

 祖母はわたしにホットミルクを作ってから、「お母さんに電話を掛けるから」と言った。
 わたしは少しどきりとした。
 電話台に向かおうとする祖母の服の裾を引っ張り、首をぶんぶんと振った。祖母は怪訝そうな顔をする。

 何か説明をしなくては分かってもらえないと思いつつも、けれどわたしは何も言えなかった。
 
 だからしかたなくわたしは、

「……叔父さんは?」

 と問いかけたのだった。祖母はその言葉に少なからず驚いていたように見えた。

「二階の部屋にいるけど、どうして?」

 叔父さんがいるのだ、とわたしは思った。
 わたしは廊下に出て階段を探す。それはすぐに見つかった。後ろから祖母の止める声が聞こえた。
 何か切羽詰まったような声だったけれど、わたしにはそんなことは気にならなかった。
 重要なのは彼の手を探すことだった。もう一度彼に手を握ってもらい、頭を撫でてもらうことだった。

 そうすることでわたしはこの状況をやり過ごすことができるのだと思った。
 階段を昇る。扉は廊下に三つあった。ひとつ目は祖父母の部屋らしかった。二つ目はトイレだった。

 三つ目、いちばん奥の角を曲がった先。わたしは扉を開けた。

 たぶん開けるべきじゃなかった。


796: 2013/01/01(火) 15:27:48.33 ID:7p1BbX+Yo



 叔父さんは眠っているようだった。部屋の中は暗いし、なんだか鈍く澱んで見える。
 ひどい息苦しさを感じた。

 わたしはなんだか怖くなった。ここに来れば大丈夫なのだ。大丈夫だと、叔父さんが言ったのだ。
 だからわたしは此処に来た。

 わたしは少し怖かったけれど、部屋に足を踏み入れた。

 床板が軋む。叔父さんが起きてしまう、とわたしは思ったけれど、それの何がいけないのかは分からなかった。
 叔父さんは当たり前のように微笑んで、きっとまたわたしの手を握ってくれる。 
 わたしは彼にそうしてもらえないとどこか遠いところに弾き飛ばされてしまいそうな気がしている。

「叔父さん?」

 とわたしは声を出した。まるで怯えているみたいな声だと自分で思った。
 危機感が、あった。

 でもかまわずベッドに近づく。叔父さんはたしかに眠っていた。わたしは彼に手を伸ばしかけて、けれどやめる。
 触れていいのかどうか分からない。
 
 わたしはここに来てよかったのだろうか?


797: 2013/01/01(火) 15:28:14.79 ID:7p1BbX+Yo

 迷っている間に、後ろから足音がした。

「ダメ!」

 と祖母が言った。その声で叔父さんは目をさました。

「……」

 彼は上半身をゆらりと揺らして起き上がった。それから暗い部屋のなかで他人の気配がすることに気付いたようだった。

「……誰?」

 と彼は言った。どこか暗い場所から滲み出てくるような声だった。どこかの地下室から聞こえるうめき声のような。

「出てけよ」

 声は苛立ちを孕んでいた。

「さっさと出て行け!」

 わたしはその声にすくみ上る。祖母が謝る声が聞こえて、わたしは誰かに手を引っ張られて部屋から飛び出した。
 
「叔父さんの部屋に勝手に入ったらダメ!」

 と祖母が廊下でわたしを叱った。わたしは訳が分からなかった。
 祖母はわたしに何かを言おうとしたが、それが何かの間違いだったというみたいに首を軽く振って、

「お風呂にでも入りましょう。ご飯は食べて行っていいから。あとで、お母さんにちゃんと連絡するのよ」

 わたしはわけもわからず泣き出しそうだった。でも、もうこの場には“彼”はいないのだと漠然と感じ取った。 
 もうわたしの手を握ってくれたあの人はいないのだ。わたしはまたまったく孤独な場所に放り出されてしまったのだ。


798: 2013/01/01(火) 15:28:46.28 ID:7p1BbX+Yo




 祖母はわたしを風呂に入れようとしたが、わたしが動こうとしないので「一緒に入る?」と言った。
 わたしは少し抵抗があったけれど、頷いた。祖母がわたしを持て余しているのがよくわかった。

 わたしは例の財布を握ったままだったので、それをひそかに洗面所の影になる部分に隠した。
 それは見られてはいけないのだとなんとなく思っていた。

 そして祖母は、わたしを風呂に入れているとき、わたしの身体にいくつかの痣があることに気付いた。
 服がひどく汚れていることにも気付いた。

 体がひどくやせ細っていることにも気付いた。

 祖母はそれがどういう状況なのかをすぐに悟ったようだった。

 祖母はすぐに母に連絡をしたが、結局母が電話を掛け直してきたのは翌朝六時半のことだった。
 母は祖母が入れた留守電のメッセージを聞くまで、娘が帰っていないことにすら気付かなかったみたいだった。

 祖母は祖父と相談し、しばらくわたしを預かると母に伝えたようだった。母は猛反発したが祖母は聞き入れなかった。

「それって横暴でしょう? ねえ、家族だからって調子に乗らないで。出るところに出てもいいのよ?」
 
 母はそう言ったという。祖母は泣きながら答えた。

「出るところに出て困るのはいったいどっちなのよ? いいからとにかく落ち着きなさい」

 そしてわたしは祖父母の家で暮らすことになったけれど、そこには致命的な問題があった。
 わたしは母から逃げ出したかったわけでも、祖父母と暮らしたかったわけでもない。

 ただ、もう一度“叔父さん”に会いたいだけだった。そしてそれだけが叶わなかったのだ。


802: 2013/01/04(金) 10:02:01.23 ID:AaYHklSco

 




 お兄ちゃんは息をつく。それを見て魔女が小さく笑った。
 その顔を見て、今度はお兄ちゃんが訊ねる。

「何か間違っていた?」

「ううん、別に」

「そう。じゃあ話を続けようか」

「――ちょっと待って」

 魔女はお兄ちゃんの話を遮った。わたしはその一連の流れに戸惑う。
 なぜお兄ちゃんは平然と話を続けようとできるのだろう? 魔女はそして、どうしてそれを遮ることができるのか?

「あなたはいったい、何が目的なの?」

 今度はお兄ちゃんが表情を凍らせる番だった。
 たしかに、彼の行動は明白におかしい。

"自分は姪をとりもどしたいだけだ"と言いながら、なぜわたしや彼女のことに関与するのだろう。
 もし何かしら関わり合うにしても、それは姪をとりもどしてからでも遅くはないはずなのに。

 でも、目的が分からないのは魔女だって同じだった。

 もしこの場にいる少女の未来の姿が魔女だったとするなら、彼女は何のためにここに来たんだろう?
 ……いや、もしかしたら、そのふたつは関わり合っているんだろうか。


803: 2013/01/04(金) 10:02:33.43 ID:AaYHklSco

「僕は姪を取り戻したいだけだよ。僕には彼女が必要なんだ」

「……そうだったらなぜ、こんな話を続けているの?」

「つじつま合わせを始めようかと言ったのはきみの方だよ」

「それに付き合う義理があるの?」

 お兄ちゃんは視線を逸らした。

「いい? わたしが求めることはひとつだけ。それを――」

 と、魔女はさっき少女の足元に放り投げたものを指差す。それは男物の財布のように見えた。

「――その子に渡して。それは切符みたいなものだから」

 お兄ちゃんは黙っている。
 わたしには、何も分からない。


804: 2013/01/04(金) 10:03:03.62 ID:AaYHklSco

「わたしは別に話し合おうと言ったわけじゃない。ただ辻褄を合わせたいだけ」

 お兄ちゃんは魔女の言葉を無視するように少女の足元に屈み、財布を拾って開いた。
 魔女は黙ってその行為を見つめている。

 やがてお兄ちゃんの指先がカードのようなものを掴んで取り出す。運転免許証に見える。

「僕の名前が書かれている」

「そう。それで?」

「きみはこの財布をいったいどこで手に入れた?」

「……言う必要はない」

「そう」
 
 さしてこだわることもなさそうに、お兄ちゃんは免許証をしまいなおした。

「これをこの子が拾うとつじつまが合うんだろう? つまり、きみは過去、ここでこの財布を拾ったんだな?」

「……本当に、答えの分かりきった質問を、する人だね」

 お兄ちゃんは溜め息をついて、魔女から視線を外し、魔法使いを見遣った。



805: 2013/01/04(金) 10:05:02.85 ID:AaYHklSco

「きみの目的こそ、いったいなんなんだ?」

 とお兄ちゃんは訊ねた。
 わたしはお兄ちゃんが何をしようとしているのかさっぱり分からなかった。
 どうして話を続けようとするのだろう? 

 これ以上何を話そうとしているんだろう?
 
 魔女はお兄ちゃんの質問に答えようとしなかった。 
 
「きみはいったい何をしようとしているんだ?」

 とお兄ちゃんは訊ねた。わたしにはその質問が奇妙なものに感じられた。
 
 彼女は何も言わない。

 なんだろう? この閉塞感は。どこにも行き場のないような感じ。すべてのどん詰まり。
 わたしたちは今この場所にいる。そしてなぜだかどこにも行けないような気がしてきた。
 いったい何がどうなってこんなふうになってしまったんだろう?

 そもそも――この場所で何が起こっていたんだろう?


806: 2013/01/04(金) 10:05:33.83 ID:AaYHklSco

「僕の目的は本当にひとつだけなんだ」

 お兄ちゃんははっきりとした口調で言うと、魔法使いの顔を見た。

「ねえ、きみの魔法はどんなふうに成立してるの?」

 魔法使いは唐突に話を振られてきょとんとしたが、すぐに頭の中で整理を始めたようだった。

「んっとね、まずイケニエが居て、それを使ってドアを開くのよ」

「……イケニエ?」
 
 ……わたしが聞いたときと、だいぶ話が違うような気がするけど。

「大抵の場合、ドアが開くのはイケニエの願いなのよ」

「この場合だとイケニエっていうのは」

「その子だね」

 と魔法使いはわたしを指差した。


807: 2013/01/04(金) 10:06:24.45 ID:AaYHklSco

「この魔法に巻き込まれた人間っていうのは、魔法から脱出するとき、分岐した"その先"にいけるんだけど、イケニエだけはそれができない」

「なぜ?」

「"なぜ?"」

 と魔法使いは意外そうな顔になった。

「うーん。そういうルールだから? ま、詳しいところはわたしにも分かってないんだけど」

 で、と魔法使いは話を続ける。

「そのイケニエの行動如何によって未来が変わるわけ。分岐ね」

「今回だと、この子が」

 と今度はお兄ちゃんがわたしを示した。

「"もうひとりの僕"を連れてきたりしたから、分岐ができた?」

「そう。うん。たぶんね」

 魔法使いはぽりぽりと頭を掻く。

「そのイケニエは、最初から最後まで、絶対に同一人物?」

「……」

 その言葉に誰よりも先に反応したのは魔女だった。一瞬で彼女の顔が青ざめる。
 魔法使いは苦笑していた。


808: 2013/01/04(金) 10:06:57.43 ID:AaYHklSco

「いや。でも、もともとこの世界にいた人間はイケニエになることはできない」

「つまり、イケニエになれるのは、この場にいる僕を除いた三人と」

 それから、ケイ、もうひとりの僕。その五人だけか。お兄ちゃんは呟く。

「……でも、この魔法に巻き込まれたら、その世界に戻らなきゃいけないんだよね?」

「うん」

「だとしたら、結局"イケニエ"以外の人間も、別世界から来たら、元通りの未来に戻るんじゃないの?」

「うん。そうなんだけど……」

 魔法使いはそこで気まずそうな顔になった。

「イケニエ以外は、ちょっとズレる。時間が」

 わたしはなんだか落ち着かない気分になってくる。お兄ちゃんが言わんとしていることが分からない。

 わたしは、なんとなくお兄ちゃんの顔を見るのが怖かった。
 お兄ちゃんは男物の財布を拾い上げ、それを少女にわたした。魔女の表情が歪んだ気がする。
 わたしはその様子をじっと眺めていた。
 

809: 2013/01/04(金) 10:07:23.40 ID:AaYHklSco




 そのあと起こったことを、わたしはよく覚えていない。






810: 2013/01/04(金) 10:08:00.83 ID:AaYHklSco

 わたしはふと目を覚ますとわたしの部屋にいた。"わたし"の部屋。
 祖父母の家の中に存在する"わたし"の世界の"わたし"の時間の"わたし"の部屋。

 時計の秒針が動く音が聞こえた。カチカチという音。窓から差すカーテン越しの朝の陽ざし。それは以前より柔らかに感じられる。
 わたしの耳はたしかに音を捉えていたし、わたしの目はたしかに光を捉えてていた。

 記憶が判然としない。何が起こったのか分からない。
 でもたしかなのは、目覚める前、意識を失うまでわたしの中にあった何かが欠けてしまっていたことだった。
 だからといって喪失感や欠乏感はなかった。むしろ今まで付きまとっていた余計なものが綺麗さっぱり消えたような気分だった。

 わたしは目を覚ました。
 
 記憶が連結しない。さまざまな認識が途切れている。わたしは目を覚ましてしまった。
 何が起こってしまったのだろう? 彼らはどうなったのだろう? いったい何が起こったのだろう? 
 でも漠然とした感覚だけが胸の内側を支配していた。もう終わってしまったのだ。
 
 分かる? 終わってしまったんだよ、全部。誰かがそう言った気がした。
 でもこの部屋には他に誰もいないし、いまのわたしには誰の声も聞こえないはずなので、たぶんそれは自分の発した言葉だったんだろう。


811: 2013/01/04(金) 10:08:42.46 ID:AaYHklSco

 わたしはベッドを這い出た。日めくりカレンダーは八月の上旬の日付を表している。
 祖母が起きたわたしを見て「体調はよくなった?」と言った。わたしはぼんやりとした頭のまま頷いた。

 何が起こったんだろう?

 でもすべては終わってしまったこと、過ぎてしまったことだった。
 わたしは生きていた。
 
 不思議と。いや、不思議なことなんてないかもしれない。きっとすべてを理屈で説明することだってできる。
 
 でもわたしはそれをしたくなかった。逃げかもしれない。でも怖かった。
 
 祖母がスイカを切ってくれたので、わたしは縁側に寝転がって風鈴の音を聞きながらそれを食べた。
 庭には一輪の向日葵が咲いていた。誰かに会いたくなったけれど、誰に会えばいいのか分からなくなった。

 さまざまな混乱が見通せる場所に立つと、事態はあまりに混乱していることに気付いてしまう。
 その混乱の中に一度だって巻き込まれてしまえば――巻き込まれているのだと気付けば――人は正常ではいられない。
 わたしは何も願うべきではなかったのかもしれない。祈るべきではなかったのかもしれない。


812: 2013/01/04(金) 10:09:18.35 ID:AaYHklSco


 わたしはとにかく生きている。そしてさっきまでの出来事は、きっと全部ただの夢でしかなかったのだろう。
 そう思うことがおそらく幸福であるということなのだ。

 説明が欠けているのだ。とわたしは思った。説明? でもどんな説明なら納得できるんだろう?
 どんな真実なら納得できるんだろう? そもそも"本当"ってなんなんだろう?

 わたしは瞼を閉じる。夏の日差しが瞼に覆われた視界を肌色に染めた。これは血の色なのだ。
 血液は"わたし"に含まれているとわたしはごく当たり前のことを考えた。

 わたしは記憶を反芻する。何もかもがわけの分からないまま滞っている。ケイくんはどこにいったんだろう? 
 もうひとりのお兄ちゃんは? お兄ちゃんは、魔女は、あの時間のわたしは、どうなったんだろう。
 わたしはどうして肝心な記憶を失ってしまったんだろう?

 でもそんなことはもうどうでもいいじゃないか、とわたしは思う。ぜんぶ終わってしまったんだ。
 やり直すことなんてできないし、仮にやり直せたところでどうなるっていうんだろう?
 もう全部放り投げて終わらせてしまえばいいのだ。誰かが勝手に、わたしに都合の良いように終わらせてくれたんだ。魔法みたいに。
 
 わたしは生きている。生き返った。そう。生き返っている。氏んだはずなのに。


813: 2013/01/04(金) 10:10:00.80 ID:AaYHklSco

 氏んだはずなのに、生きている。

 そういうこともあるんだなぁとわたしは思った。氏んだのはきっと夢だったのだ。
 そのあとに起こったこともすべて夢だった。そう思わないと、理屈が成り立たない。

 ――。

「眠いの?」

 と祖母が言った。そう。眠いんだ。眠っていたい。そして今は眠れる。

「寝ていてもいいよ」

 祖母が柔らかく微笑んだ気がした。わたしはなんだか泣きたくなる。

 ここでずっと寝転がっていればいいんだ。そうすれば全部上手くいく。きっと。



814: 2013/01/04(金) 10:10:43.26 ID:AaYHklSco

◇ 





 さて、と僕は思う。
 魔法使いはこちらを興味深そうに眺めている。魔女の顔面は蒼白だった。
"彼女"は状況を把握できていないようだ。もうひとりの姪は、最初から何も分かっていないような顔をしている。
 
 多くのことが説明され尽くしていない。僕はこの世界が二周目だと言ったが、より正確に言えばここは三周目以降のはずだ。
 だがどうでもいい。

 ここにいる三人の少女のうち、ひとりが「イケニエ」になれば他二人は未来を取り戻せるかもしれない。
 もちろん新しい分岐として。

 魔女の表情が苦しげになった。
 僕は何かを言うべきなのかと思ったけれど何も浮かばなかった。
 だからただ魔女の顔を見た。僕は彼女のために祈るべきなのだ。本来なら。

「ケイは?」

 と僕は魔法使いに問いかけた。

「……さあ?」

 彼女にも分からないことがあるのだろう。僕にはどうしようもなかった。



815: 2013/01/04(金) 10:11:12.36 ID:AaYHklSco

「僕は姪がそばにいれば、他のことはどうだっていい」

 と僕は言った。これは魔女に向けた言葉だった。

「……あの子は、上にいるから」

 魔女は階段を指差す。失望したか、軽蔑したか。彼女の眼はひどく褪めている。
 
 僕は階段を昇る。魔法使いが背中に声を掛けていた。うるさいなぁと僕は思った。僕は急いでいる。

 階段を昇ると扉が三つ並んでいた。僕にはその三つの扉が何かの象徴のように思える。
 でもそんなのはただ感傷的なだけの錯覚だ。一番奥の扉は物置になってる。もうひとりの僕が見た記憶を僕はまだ持っている。

 僕は扉を開く。その向こうに何かがあった。

 何か。寝そべっている。そこに僕が探している人がいた。
 いたけれど。

 氏んでいるように見えた。


816: 2013/01/04(金) 10:12:32.76 ID:AaYHklSco

 彼女が声を発した。

「どうして?」

 と彼女は言った。か細い、頼りない声だった。
 僕が求めていた声だった。たぶんずっと。でも、その声が言おうとしていることも僕にはよく分かった。
 
 僕は説明しようとしたけれど、何をどう言っても無駄だと思えた。結局同じことなのだ。
 
「わたし、お兄ちゃんのこと、好きだよ?」

 声が言う。それは咎めているように聞こえた。でもそれはたぶん、僕の罪悪感がそう思わせているだけの錯覚。
 
「そう」

 僕はことさらそっけなく返した。

「お兄ちゃん、でも、ねえ。わたしは……」

 彼女の声は泣いているように聞こえた。たぶん僕が泣かせたのだ。

「そんなの、嫌だよ」

 彼女は何もかもを理解しているようだった。何が起こっているのかを。
 僕がもうひとりの僕の身に起こったことを把握できているように。
 彼女にも大方の事情は呑み込めているんだろう。



817: 2013/01/04(金) 10:13:13.62 ID:AaYHklSco

 僕は床に寝転がる彼女の傍に屈みこみ、その手を取った。
 いやいやと首を振り、僕の顔を見ようとしない彼女に、僕はどうすることができるのだろうと考えた。

 僕は、未来の僕が姪に素っ気なくなった理由が理解できる気がした。
 でもそんなのは僕が言ったところでどうしようもないような話だ。

 区別。

"イケニエ"を捧げれば未来の姪もふたたび生きることができる。
 イケニエになれる人間は三人。 
 
 そのうちの一人を生き長らえさせるために"イケニエ"がほしいのだから、候補はふたり。
 少女か魔女か。
 
 けれど少女が一度帰らなければ、魔女としてこの世界にやってこない。
(おそらくそれは周回的意味合いでの"来ない"であって、おそらくこの世界に影響はないがそれもどうでもいい話だった)
 
 消去法。
 未来の姪を助けるためには別の姪を生贄にするしかない。

 シンプルな結論。


818: 2013/01/04(金) 10:13:42.41 ID:AaYHklSco

「でも、そんなの嬉しくないよ」

 姪は絞り出すように言った。掠れた声。

「誰も喜ばないよ」

「いいよ」

 と僕は言った。

「でもあの人は、きっとお兄ちゃんに会いたくてここに来たんだよ?」

「そうだとしても僕のやることは変わらない」

「そんなお兄ちゃんは、いや」

「いいよ」

 と僕は言った。

「かまわない。いやになってかまわない」

「お兄ちゃん」

 と彼女は少し強い口調で言った。


819: 2013/01/04(金) 10:14:08.46 ID:AaYHklSco

「わたしは、こんな結果認めないよ。だから、このままだと、何度でも繰り返しちゃうよ。こんなのダメだよ」

「じゃあ、他にどうできるって言うんだ?」

 姪は押し黙った。結局僕らは無力なのだ。具体的に世界に対して働き掛ける能力を失っている。
 いつだってそうなのだ。僕らはただ起こったことを起こったままに受け入れる以外に手段を持たない。
 起こったことを受け入れられずに結果を変えようとするとおかしなことになってしまう。

「でも、こんなのはダメだよ」
 
 ダメなんだよ、と姪は言う。

「こんなのは、絶対に……」

 そのまま泣きじゃくる姪を、僕は立ち上がらせた。背中を向けると、しっかりと体を寄せてくる。その身体を背負う。
 雑多なガラクタの積まれた物置は未整理の頭の中みたいだった。扉を出る。迷わずに階段を下りた。
 何も考えなかった。

 階下に降りるとすべては終わっていた。誰もいなかった。だから僕には何が起こったのかは分からなかった。

 ただ、すべてが終わったのだとぼんやり思った。分からないことをいくつか残して。
 これでよかったわけじゃない。

 でも他にどうしようもなかった。少なくとも僕には。


820: 2013/01/04(金) 10:14:40.26 ID:AaYHklSco



 本当なら他にも手段はあったかもしれない。

 たとえば僕はこの段階で一度"魔女"をイケニエにする。
 そしてのちにもう一度魔女の魔法を頼り、"僕"がこの世界にやってくる。そしてそのやってきた僕がイケニエになる。
 すると魔女は自分の世界に帰ることができる。

 でも分岐が増えるだけで結果が変わるわけじゃなかった。魔女の魔法はそもそも欠陥品なのだ。何も変わらない。
 何度繰り返したって、ひとつの世界で起こったことはそのまま変わらない。揺るがない。

 これ以上僕にできることなんて何もなかったし、そもそも僕は姪を取り戻したかっただけなのだ。
 それ以外のことなんて、どうでもいいのだ。本来なら。

 とにかくこのようにして一連の出来事は終わってしまった。
 何もかも判然としない形で。





824: 2013/01/05(土) 15:01:29.39 ID:Y3rLkBTKo





  
 わたしは、だから、彼が望んだとおり、"イケニエ"になって。
 わたし以外の人間に未来を残した。

 手を繋いでくれる人のいない世界は、おそろしいだけの世界は、生き延びたところで結局不要だった。
 だからわたしは川に身を投げた。

 あのとき拾った財布を持って。

 すると不思議なことが起こった。
 目をさましたとき、わたしは魔法使いの控室にいた。

 そこで起こっていることを知り、もう一度あの人に会えることを期待した。

 でもそれはできなかった。さまざまな事情から。
 これはあとになって、まったくの見当違いをしていたと気付くことになるのだけれど。
 
 でもまぁ、その話についてはいいだろう。
 とにかくわたしはあの人に会いにいくことができなかった。

 できなかったから、せめて、辻褄を合わせようとした。

 過去の記憶を擦り合わせて、なんとか辻褄を合わせようと。
 それは混乱していたし、入り組んでいたが、結果から逆算すれば不可能なことではなかった。


825: 2013/01/05(土) 15:02:30.61 ID:Y3rLkBTKo

 そしてわたしは自分を"イケニエ"にすることを思いついた。

 わたしがイケニエであることを引き受ければ、わたし以外の人間には未来が残る。
 対してわたしには、未来が残ったところで、あの人と一緒にいられるわけではない。
 わたしの世界にあの人はいないからだ。

 これ以上ない綺麗な終わり方だと思った。
 だからわたしは、巻き込まれたもうひとりの"あの人"を許すべきだと思った。

 問題はひとつだけ。
 自己犠牲によって完結するはずだったわたしの自己満足は。

"あの人"の最期の態度によってただ悲惨なだけのものになってしまった。
 あの人が、わたしをイケニエにすることを選んだのなら。
 それは自己犠牲ではなく、既にただの生贄だった。

 わたしの氏体は川の中で発見される。
 緑色のドアの向こうで楽園を見たわたしは。
 そのドアとよく似たドアのくぐって氏ぬ。

 氏んだはずの他の人間たちに命を分けて。


826: 2013/01/05(土) 15:03:03.50 ID:Y3rLkBTKo






 未来の姪はそのまま姪の未来と言い換えられる。
 僕は姪の未来を氏なせるわけにはいかなかった。

 だから姪であって姪ではない人間。少なくとも僕にとっての姪でない人間に氏を背負わせた。
 そうすることで未来の姪の氏を覆そうとした。少なくともそれが可能だと思ったし、そうするべきだと判断した。

 僕はひとつのことのためだけに生きればよいのであって、それ以外のものはどれだけ酷似しようと不要だった。
 
 ただ僕にとって厄介だったのは、現在の姪がすべてを知ってしまっていることだった。
 
 それは今後何かの問題になって僕の前に立ちふさがるかもしれない。
 でもそれはこれからの話であって、これまでの話ではない。

 この夏の話はここで終わりだ。

 整理つくされていない。説明されつくしていない。列挙されきっていない。

 だが不足も特にない。いや、あるが、それは些末なことだった。
 どれもこれも不要と言えば不要だった。

 これでこの話は終わる。
 魔女だけが氏んだ。未来からやってきた僕の姪は自頃しなかったことになり生き延びる。
 その先でどうなるのか僕には分からない。
 彼女がやってきたことで、僕の世界は彼女のいる未来とは別の未来へ向かうことになったからだ。

 僕はそのために魔女をイケニエにした。 
 未来の姪はふたたび生きる権利を得た。
 だが――これで本当に良かったんだろうか?
 

827: 2013/01/05(土) 15:03:43.73 ID:Y3rLkBTKo




 
 いくつか説明しなければならないことがある。
 まず最初に、この手記が構造的にアンフェアであるということ。
 
 それは手記が手記であるがゆえの卑怯さ、不公平さ。
 つまり情報を信用するかどうかを、すべて読み手にゆだねた文章だという意味だ。
 
 どこまでが本当でどこからが嘘か? それを判断するのも決定するのも僕ではない。
 いずれにしても、この手記において重要なのは事実や出来事の信憑性ではなく、むしろ象徴性、意味性の方なのだ。
 
 この手記は、あの奇妙の出来事について、"ケイ"と呼ばれた僕が、魔法使いの協力を得て記したものだ。
 魔法使いは僕が思っていたよりも多くのことについて語ってくれた。

 だから僕ではない人間の、僕が知りえなかった状況について、僕は比較的容易に記述することができた。
 魔法使いは協力的だったし、また嘘をついているようでもなかった。
 彼女自身の目的もごく早い段階で成功したものだから、どうでもよくなったのかもしれない。それだけに幕切れは悲惨だった。

 この手記は整理されていない。また説明もされていない。けれど必要な情報は列挙されている。
 だが、勘違いしてほしくない。
 僕は別にこれを読んだ人物に、情報を整理し、自分なりの説明を付け加えてほしいと願っているわけではない。
 
 これはあくまでも僕が僕の頭の中を整理するために書かれたものだ。その必要があった。
 

828: 2013/01/05(土) 15:04:13.26 ID:Y3rLkBTKo

 その整理はなんのために必要だったのか?
“お兄ちゃん”と彼女が呼んだ人のために必要なのか?
“彼女”のために必要だったのか?
 あるいは“もうひとりのお兄ちゃん”と呼ばれた人物?
 それとも“魔女”?
“魔法使い”? あるいは、魔法使いと話していた“男”?

 いずれも不要だ。
 
 思うに、この手記の登場人物たちは常に“逃げている”。逃げ続けている。
 遠回りをし、結論を避け、曖昧を好み、真実を覆い隠そうとしている。そして自分勝手な結論をつけて、自分勝手に悲しんでいる。
 それが悪いわけではない。そういったことが必要な場合もある。

 僕はむしろ明晰さを好むが、だからと言って僕はすべてを説明し尽くすことができない。
 なぜなら僕は彼らではないし、そうである以上状況から動機を類推することはできてもそうだと断定することができないからだ。

 この整理は僕の為に行われている。

 設問はシンプルだ。

“僕はなぜ自ら魔法の生贄になり、魔女と彼女を本来の結末から追いやり、違う分岐に流し込もうと思ったのか?”
 
 僕はその答えを探しているのだ。


829: 2013/01/05(土) 15:04:39.56 ID:Y3rLkBTKo




 魔法の生贄になるということについて注釈が必要だろう。
 理不尽で不条理な魔法によって世界に分岐と結果を作り出した魔法使い。
 けれど彼女が魔法を行使するためには“願い”をもった人間が必要だった。

 その彼、あるいは彼女が“過去を変えたい”ないし別の分岐を作りたいと願うとき、魔法使いは魔法を発動させる。
 そして分岐を作りだし、彼あるいは彼女は生贄としてもとの世界に戻る。
 
 この構造は至ってシンプルだ。
 AとBという少年がじゃんけんをする。
 このとき一度Aは負けてしまうが、なんとか負けたという結果をなかったことにしたい。

 そこに魔法使いが現れ、Aをじゃんけんをする前の世界に移動させる。
 Aは負ける前の自分になんらかの形で変化を与え、じゃんけんで勝利させることが可能になる(かもしれない)。
 もし結果を変えられたにせよ変えられなかったにせよ、Aは自分が“負けた”世界に戻らなくてはならない。

 そして今回はその“A”こそが僕の友人である彼女だった。

 厄介なことに魔法使いは“氏ぬ直前の彼女”に魔法を使った。
(つまり厳密には彼女は氏ぬ前だったのだが、彼女はそのことを知らなかった。また、どうせ虫の息ではあった)

 つまりなんとか「じゃんけんに勝った未来」を彼女が作り出せたとしても、彼女は結局「氏ぬ直前の世界」に戻らなければならなかった。
 
 ここに抜け道があった。


830: 2013/01/05(土) 15:05:16.25 ID:Y3rLkBTKo

 魔法使いの魔法には、「イケニエ」のルールがあった。
 生贄は本来、願いを言って魔法を発動させた張本人の役目だ。だが、この魔法に“巻き込まれた人間”がいる場合はその限りではない。
“巻き込まれた人間”に、イケニエの役割を押し付けることができる。

 そこに目をつけたのが“彼”だった。
 彼の姪、の、未来の姿、である、僕の友人。そのまま放置すれば、彼女が未来で氏んでしまうことに気付いた彼は、イケニエをささげることにした。
 そこに都合よく存在したのが魔女だ。

 魔女がなぜその場にいたのかという疑問に答えるのは容易だけれど、同時に困難なことでもある。
 彼女は常に不安定で流動的な心理状態にあった。
 どっちつかずなまま、自分で判断をくだせずにいた。

 でもそもそも――魔法使いの言によれば――彼女は途中から、自分をイケニエにすることを思いついていたのだと言う。
 自分が氏ねば、自分にとって大事な“あの人”の“大事な人”の“未来の姿”が守れるかもしれない。
 魔女はそう考えた。

 彼女がそうまでして彼にこだわる理由が僕には分からなかったけれど、そこには僕の知らない何かが作用しているのかもしれない。
 あるいはそんなことは一切なく、ただ自棄になったような気持ちだけがあったのかもしれない。

 どちらでもいい話だ。憐れな魔女は“彼”に生贄になるように消極的に促された。彼女はそれを受け入れようとした。

 そこに僕が現れた。


831: 2013/01/05(土) 15:05:43.25 ID:Y3rLkBTKo

 魔法使いによると、魔女もまた、氏ぬ直前だったところを“巻き込まれた”らしい。
 つまり彼女が生贄になれば、未来の彼女は氏なないが、魔女は氏んだ。
 
“彼”もそのことには気付いているようだった。
 だから彼は徹底しきっていなかった。
 
 本当に“姪”を大事にするなら、少なくとも“姪”である魔女を蔑ろにするべきではなかった。
 
 彼女のありとあらゆる未来、ありとあらゆる可能性、ありとあらゆる姿を肯定し、受け入れ、そして守らなければならなかった。
 その時点で彼は敗北したのだ。

 だがそれは仕方ないことでもある。
 彼はもともとあの世界の住人だった。だから自らをイケニエにすることができない。消去法で魔女を選ばざるを得ない。
 でも、“僕”を忘れていたのが、彼の敗因だ。

 僕。ケイ。彼女のおまけ。未来からやってきた彼女の、友達。無関係の人間。
 あの段階で、“もうひとりの彼”は既に元の世界に帰ってきた。イケニエ以外として。
 
 だからあの時点でイケニエの候補は四人。
 彼女。魔女。少女。そして僕。
 

832: 2013/01/05(土) 15:06:11.69 ID:Y3rLkBTKo

 消去法。

 僕以外はすべて“姪”なのだから。
 彼は“僕”をイケニエにするべきだった。

 彼がそれをしなかった理由は僕には分からない。単に忘れていたのか?
 それとももっといい方法を考えていたのか? どちらにしても同じことだった。

 彼は中途半端だった。
 もし魔女をイケニエに捧げるなら、彼女を“姪ではない”ことにしなくてはならない。
 それならば“少女”もまた姪ではない。“姪ではないのなら、優しくする理由はない”。
 けれど彼は“少女”を“姪”か、それに近しいものとして扱った。

 だから魔女は現れ、魔女が悲しむ結果になった。
 姪はそれを見透かしただろう。

 その結果どうなるのか、僕にはだいたい想像がつく。
(だから僕はこれを書いている)


833: 2013/01/05(土) 15:08:35.47 ID:Y3rLkBTKo




「僕がイケニエになった場合――」

 と僕は魔法使いに訊ねた。

「僕は氏ぬ直前だったわけでもないから、氏んだりはしない」

「うん」

 魔法使いは頷く。でもね、と続けた。

「でもね、あの子は氏んでしまう」

 やっぱりな、と僕は思った。
 彼女は氏んでしまうのだ。

「本来なら氏んでしまうあの子は、別の分岐に飛ばされて生き延びられる。
 でもあなたは、あの子が氏んでしまう本来の分岐に戻ってしまう。
 つまりね、あの子がこれから行く世界で、あなたは生きているけれど、それは「あなた」ではない。
 そして、「あなた」がこれから行く世界で、あの子は氏んでいる」

 そういう理屈なのだ。
 

834: 2013/01/05(土) 15:09:02.34 ID:Y3rLkBTKo

「あなたはあの子が好きだったんでしょう?」

「別に、そうでもない」

 嘘だった。
 でも、本当のことを言うよりは気が利いているように思える。

「ケイくん」

 と魔法使いは僕を呼んだ。
 呼んだ後、どう続ければいいのか分からないと言うみたいに視線をさまよわせた。
 既に魔女も、彼女も、“イケニエ以外”として世界に戻った。少女もまた、財布を持って。

「ねえ、あの財布のことで、質問があるんだけど」

 僕が言うと、魔法使いは少し姿勢を改めた気がした。

「あの財布……おかしいよね?」

「……」


835: 2013/01/05(土) 15:09:41.50 ID:Y3rLkBTKo

 たとえば。
 魔女=少女は、最初に財布を拾う。
 つまり、少女としてあの世界にやってきたとき、帰る直前に財布を拾う。
 そしてそれを魔女としてやってくるときまで、大事に持っていた。

 それをあっさりと“もうひとりの彼”に渡す。

「魔女と少女の理屈について、どうしても納得のいかない部分がある。あの財布、彼女はどうやって手に入れたんだ?」

 つまり。
 あのとき、あの場所で行われたこと――僕はそれを見たわけではなかったけれど――を信用するなら。
 少女は魔女から財布を受け取っている。それが少女が財布を手に入れた最初だ。

 でも、そうだとすると、少女に財布をわたした魔女は、どうやって財布を手に入れたのだ?
 魔女は少女なのだから、魔女から渡されたに決まっている。
 じゃあ、最初の魔女は、どうやって財布を手に入れた?

「……」

「……難しい話、するなぁ」

 魔法使いは顔をしかめた。


836: 2013/01/05(土) 15:10:07.70 ID:Y3rLkBTKo

「それ、大事な話?」

 僕は頷くかどうかを迷って首をかしげた。

「……うーん、と、さ。art-school、Syrup 16g、people in the box」

 それは魔女が“もうひとりの彼”と話す時に挙げた邦楽のバンド。

「これってさ、“もうひとりの彼”は知らないはずのバンドなんだよ」

「……」

「ついでにもうひとつ。“異世界同時間体”ってのとは別に、“異世界異時間体”ってのがいるとして。
 ――そいつとも、魔力的パイプは繋がり得る、って言ったらどうする?」

「財布の中には、免許証なんかもあったっていったっけ」

 つまり、財布の出所は“異世界異時間体”でありうる、というわけだ。
 だが、仮に“もうひとりの彼”と繋がり得る“異世界異時間体”などというものが存在するとするなら。
 生贄の候補は、もうひとりいたということにはならないのか?


837: 2013/01/05(土) 15:10:34.66 ID:Y3rLkBTKo

 それはおそらく、最後まで不鮮明だった魔女の思惑ともかかわりがあるのだろうが……。
 僕はなんとなく考えるのが怖くなった。

「もう行くよ」

 と僕は言った。それ以上話を聞くと、決意が鈍りそうだった。

「ごめんね」と魔法使いは謝った。

 僕の恐怖はより一層増した。
 でも僕は緑色の扉をくぐって元の世界に帰ることにした。
 生贄になるのは簡単だった。単にそう意識すればいい。
 
 それで終幕だった。

 僕がこれから帰る世界で、彼女は既に氏んでいる。

 彼女の氏はたしかな事実として逃れようもなく存在している。
 それは揺るぎようがない。僕が引き受けた。でもそれは本来なら全員が全員なりに引き受けなければならないものだった。
 結果は揺るがないことだ。それを妙な魔法に頼って忽せにするから――おかしなことになる。

 僕は元の世界に戻るが、それは自己犠牲なんかじゃない。
 それはごく当たり前のことなのだ。


841: 2013/01/09(水) 13:09:46.02 ID:mi0scknjo



 
 起こったとされること、起こったであろうことを並べあげるのは困難だ。
 僕はすべてを見たわけではないし、またすべてを把握しているわけでもない。 
 だから断定はできない。けれど推測することはできる。ある程度。

 それが本当なのかどうかは分からないし、第一にそんなことは僕にとって重要ではない。
 
 けれど、それがどんなに疑わしくても、順序立てて出来事を整理するためには、それを暫定的に信用する必要がある。
 
 本当は、僕が思っているのとまったく違うことが起こっていたのかも知れない。
 誰かが僕に嘘をついたかもしれないし、僕が何かを勘違いしているかもしれない。
 ひょっとしたら僕のすべての記憶が改竄されたものでないとも言い切れない。
 もちろん馬鹿らしいと鼻で笑うことは簡単だ。

 可能性という言葉を無限定に使うことは混乱しかもたらさない。これも自明だ。

 だが、僕は疑わしく思ったままに起こったことを整理する。
 まずは、魔法使いから聞いた説明をそのまま記述しよう。


842: 2013/01/09(水) 13:10:12.42 ID:mi0scknjo



 
 魔法使いという女がいた。
 いたということにしておこう。ひょっとしたらいなかったかもしれない。
 だが、魔法使いという女がいたということにしておかなければ話が進まない。

 だから仮に、魔法使いという女がいたということにする。あるいは男だったかもしれない。本当はどっちだっていい。

 魔法使いは特定の人間の願いを叶えうる力を持っていた。その名の通り。
 あるいは、特定の人間の願いを叶えうる力を便宜的に魔法使いと呼び、それに人物としての型を与えたとも言える。
 解釈はどうだっていい。

 とある男が、この魔法使いという女と出会った。
 魔法使いはある理由から、この男の願いを叶えてやることにした。
 
 それは超常的な力を持つもの特有の傲慢な憐憫からだったかもしれない。
 あるいは男に一目ぼれでもしたがゆえに、叶えてやろうと思い立ったのかもしれない。  
 それともひょっとしたら、男の方が魔法使いに気に入られるような何かをした可能性もある。

 状況はどうでもいい。
 とにかく、魔法使いという女がとある男に出会った。
 その男はとある願いを抱いていて、それを叶える力を魔法使いは持っていた。

 そして魔法使いは、男の願いを叶えてやることにしたのだ。

 それがまず最初に起こったこと。


843: 2013/01/09(水) 13:10:55.08 ID:mi0scknjo

 男はごく平凡な人間だったという。
 二十代の前半くらいの歳で、くたびれたスーツを着て、ありがちな煙草をくわえていた。
 けれど、何か奇妙なところのある男だと、魔法使いは感じたらしい。

 男は家族を失っていた。父母は健在だったが、姉とその夫である義兄、そして姉の娘、姪を亡くしていた。
 だからどうというのではない。その氏が、彼の生活に影を落としたというわけではない。
 
 氏の形が一風変わったものではあったので、当時は多少の不利益も被ったが、だが、それもそれだけの話だ。

 男の願いはその氏にまつわるものだった。
 元より不仲だった姉と義兄について、男は語るべき言葉を持たないようだったと魔法使いは言った。
 男が気に掛けたのは姉夫婦よりもむしろ、その娘の氏についてだった。

 交流があったわけでもなく、愛情を抱いていたわけでもない。面識だって多くはない。
 そんな姪の氏に、なぜ特別な感情を抱くことになったのか、男は自分自身で分かっていなかったという。
 

844: 2013/01/09(水) 13:11:35.21 ID:mi0scknjo

 魔法使いはそのときになると、男の生い立ちをある程度(超常的な手段で)理解していたので、こう推測したらしい。
"両親の愛情を受けて爛漫に育った姉に対して、自分は父母に蔑ろにされていると感じながら育ったのだろう。
 そして、父母の愛情を得られずに氏んでしまった姪に自分を重ねているのだ" 
(姪は姉夫婦にさまざまな形の虐待を受けた末、姉に殺された。姉夫婦は不仲であったという)

 このいかにも三文ドラマの筋書きと言いたくなる魔法使いの推測が、果たして正しかったのか、それは分からない。
 けれど男は姪の氏に痛切に見えるほどの執着を持っていた。それは確かだと魔法使いは言った。

 そのことに、どうしても納得できないと、男は言ったらしい。

 ならば、と提案したのが魔法使いだった。
 彼女の力は過去に干渉し、未来を捻じ曲げることを可能とした。
(そのルールについての魔法使いの説明は省略する。注釈は不要だろう)


845: 2013/01/09(水) 13:12:22.45 ID:mi0scknjo

 男は魔法使いに力を借り、過去に戻った。
 そして"納得のいかない結果"を変えようとした。

 エラー、リトライ。

"姪の氏"に納得がいかなかった彼は、けれど姪の氏をすぐさまどうにかする術を思いつかなかった。
 いっそ氏の原因になる姉夫婦を頃してしまうことも考えた。

 そうすれば自分の父母が姪を引き取るだろうし、その後の生活に特に問題は起こらないはずだ。
 が、その際は過去の自分が姪に対して良くない感情を抱く懸念があった。
 
 そうだとすると、ただ姉夫婦から逃がすだけでは足りない。
 そこで男は、いっそ過去の自分の方を変えることにした。


846: 2013/01/09(水) 13:12:48.49 ID:mi0scknjo

 男は過去の、それも子供の頃の自分に会いに行き、話をした。それから自分の財布を渡した。
 
 なぜそんなことをしたのか?
 それは分からない。

 でも、彼が、過去の自分に財布を渡したこと。これはたしかだった。
 この財布については、少し話が面倒になるので、後回しにしよう。

 男の言葉がどういう影響を与えたのか、過去は変わり、別の未来が生まれた。
 男は本来の自分の未来、つまり姪と姉夫婦が氏んだ世界に戻った。

 そのあとのことは魔法使いでさえ知らないと言う。


847: 2013/01/09(水) 13:13:29.24 ID:mi0scknjo

 男が生んだ新しい未来の先で、姉夫婦は離婚することになり、姪は姉が引き取ることになった。
 姉はそのまま姪とともに父母の家に居着いた。そして、過去の男は姪とともに成長していく。

 本来は、姪に対して無関心だった男は、姪を溺愛することになる。
 どのような変化の結果かは分からない。
 
 そうすることで何かを取り戻そうとしたのか、あるいは取り戻せることを期待したのか。
 もちろん、仮に何かを取り戻そうとしていたのだとしたら、それは代償行為でしかなく。
 そうである以上、何かを覆せるわけもなかったのだけれど。

 エラー、リトライ。
 
 本来の男の思惑通り、男は姪を大事にして、ふたりはゆっくりと成長していった。 
 けれど、不思議なことに、男はある一定の時期から、姪と距離を置くようになる。


848: 2013/01/09(水) 13:14:06.81 ID:mi0scknjo

 推測を並べるのは簡単だ。
 さまざまな理由が考えられる。

 たとえば、近親であるにも関わらず、姪に対して異性としての愛情を抱くようになった場合。
 あるいは、姪と自分の間に血の繋がりがないことを知ってしまい、そのことに動揺してしまった場合。
 もっと単純に、姪の世話を焼くのが面倒になったという場合。

 どれもやはり、三文ドラマの脚本じみている。
 他にも要因があるかもしれない。
 
 彼は姪の前にある女を恋人として連れてきたという話もあるし、学生時代のバイト先でトラブルが起こったという情報もある。
 いずれにせよ、確実な判断をくだすことはできない。

 でも、どれにしたって救えない。


849: 2013/01/09(水) 13:14:36.50 ID:mi0scknjo

 彼が何かの理由で距離を取った結果、姪は自頃することになる。
 これは彼自身が、自分自身を侮りすぎた結果だろう。

 母は言わずもがな、祖父母でさえ、姪に対して満足に愛情を与えられたとは言い難かった。
 もちろん彼らは彼らなりの愛情を姪に与えたつもりでいただろう。ひょっとすれば、母親でさえ。
 
 でも彼女が重視したのは、自分の世話を焼く叔父の存在だった。それ以外は優先度の低いものとなっていたのだ。
 それは既に依存に近い。叔父自身、そのような形になるのは不本意だっただろう。
 あるいはそのような状態を危惧したからこそ、彼は姪と距離を置こうと考えたのかもしれなかった。

 そうだとすると、皮肉な結果だったと言えるか。
 
 エラー、リトライ。


850: 2013/01/09(水) 13:15:14.45 ID:mi0scknjo

 氏んでしまった姪のもとになぜ魔法使いが現れたのか。
 彼女はけっして氏神や悪魔ではない。ごく一般的な、超常的な力を有する、一個の人間に過ぎない。
 魔性を人と呼べるならば。

 その人間に過ぎない魔法使いが、なぜ成長した姪の氏後、彼女のもとに現れたのか。
(このとき、姪は厳密には氏んでいなかったらしいけれど)

 それは、彼女が出会った、いちばん最初の男……。
 魔法を利用して世界を分岐させた男に頼まれたからだと魔法使いは言った。

 もしも、自分のやりかたでうまくいかなかったなら。
 お前が俺に協力しろ、と。

 魔法使いは乗り気ではなかったが、約束をした以上はと、彼らふたりを見守っていたらしい。
 

851: 2013/01/09(水) 13:15:41.39 ID:mi0scknjo

 だが魔法使いは、もともと新しい分岐を成立させる気などなかったのだという。
 要するに彼女は、客観的な立場であったからこそ、新しい分岐を作り出すことの不毛さに気付いていた。
(のちに自らも、まんまと不毛さに飲み込まれてしまうわけだが)

 だからこそ姪に対してもろくな説明をせず、ただ過去に放り投げた。
 放り投げた時間だって適当だった。氏んだ彼女の歳と、叔父の歳が、だいたい重なるくらいの時間。
 適当に。

 でも、魔法使いにとって、その後に起こることはほとんど予想外の連続だった。

 まず、僕を含む三人の人間が、魔法使いの魔法に巻き込まれる。
 ふたりは姪の意思によって。もうひとりは偶然にも。
 
 僕を除くふたりのうち、ひとりは、"本来の叔父"の過去。
 これが魔法使いに混乱をもたらしたもっとも大きな理由だったという。
 魔法使いはこの"本来の叔父"に並々ならぬ執着を持っていた。
  

852: 2013/01/09(水) 13:16:10.34 ID:mi0scknjo

 理由は分からない。
  
 彼を巻き込むことに、当初は忌避感を抱いていた魔法使いだったが、やがてとある可能性に気付く。
"この彼に、この世界で何かを与えることができれば、彼の未来にも何かの希望ができるかもしれない"
 たぶんそんなところだったはずだ。

"本来の叔父"の境遇を僕は知らないが、それを魔法使いは変えられるかもしれないと思ったのだ。
 それまでにその行為の不毛さを客観視していた自分を棚に上げて。

 そしてもうひとりは、"本来の叔父"が居た世界の、幼い姪。

"本来の世界の叔父"が作り上げた"二つ目の世界"。
"二つ目の世界の未来の姪"が生み出した"三つ目の世界"の分岐。

 そこではありとあらゆる抽象的な願望や抑圧が形となって現れた。
 人々の感覚はある種のパイプによって無作為に共有された。
 
 彼は彼の前にあらわれ、少女は姿を消し、少女が姿を現し、彼女は現れて消えた。
 事態は結局一旦の収束を見せる。

 おそらくはそうだったはずだ。


853: 2013/01/09(水) 13:17:45.92 ID:mi0scknjo

 その後、その"三つ目の世界"がどのような展開を迎えたのかは分からない。
 あるいはその世界では、男は姪を氏なせることなく、平穏に、幸せに暮らすことができたのかもしれない。

 この"三つ目の世界"において、"本来の世界"からやってきた姪は、財布を拾う。
 この財布は"三つ目の世界の叔父"が落としたものだったのだろう。
 (舞台が同じなので分かりにくいが、"三つ目の世界の叔父"は"二つ目の世界の叔父の過去"とほとんど同一だ)

 そしてこの財布は同時に、"本来の叔父"が持っていたものと同一であると考えられる。
(のちに明らかになるが、このあたりには奇妙な齟齬が存在している)

"本来の世界の叔父"が"二つ目の世界の叔父"に渡した財布。
 これは"二つ目の世界"では何ら意味を持たなかった。
 だが、"二つ目の世界の姪"が、過去に戻ることで成立させた"三つ目の世界"において、初めて意味を持つ。

"本来の世界の叔父"が"二つ目の世界の叔父"に渡した財布は、
"二つ目の世界"の過去から分岐した"三つ目の世界の叔父"を経由して、"本来の姪"の手に渡る。 

854: 2013/01/09(水) 13:19:00.96 ID:mi0scknjo

 ところで、この"二つ目の世界"において、"二つ目の世界の姪"は一度姿を消す。
 それを引き起こしたのは"二つ目の世界の姪"だった。あくまでも最初は。

 財布と記憶を持ち帰った"本来の姪"は、"本来の世界"の"本来の未来"から逸脱してしまった。
 つまり、虐待氏を回避したのだ。

 だとするなら彼女こそが時間航空者であり、一輪の花のかわりに男物の財布を持ち帰ったと言えるかもしれない。
 けれど彼女にとっては、"三つ目の世界"は"塀についた扉"の向こうの世界でもあった。

"三つ目の世界"で、"三つ目の世界の叔父"が彼女にどのようなことをしたのかはさだかではない。
 けれどおそらく、彼女にとってそこは楽園だったのだろう。

 彼女は怖いものだらけの"本来の世界"に帰りたくなんてなかった。
 彼女はたしかに、"本来の世界"における自分の氏を回避した。
 つまり、"四つ目の世界"にたどり着いた。

 けれど、彼女にとっては、それは一度目の、一度きりの自分の人生でしかない。

"三つ目の世界の叔父"の言い付けに従い祖父母の家に保護された彼女。
 でも、その彼女が出会った"四つ目の世界"の叔父は、本質的に"本来の叔父"と同一だ。
"姪に対して無関心なひとりの男"にすぎない。

855: 2013/01/09(水) 13:19:28.40 ID:mi0scknjo

 自分に優しくしてくれた(であろう)唯一の人物とよく似た顔の彼を、彼女はどう思っただろう?

 とりあえずは生き延びたものの、彼女にとって"四つ目の世界"は決して喜ばしいものではなかっただろう。
 
 そして彼女は氏のうと考えた。
 世界に価値あるものはなかった。
 彼女にとって喜ばしいものは、すべて、塀についた扉の向こう側にしかなかった。
 そのドアは閉ざされていた。

 だから氏んだ。

 最期に川に身を投げるとき、例の男物の財布を持っていたのは、ある意味では象徴的だと言える。

 この財布は、"本来の世界"の男が所持し、"二つ目の世界"の叔父に手渡され、
 その焼き直しである"三つ目の世界"で少女が拾い、"四つ目の世界"に持ち帰った。
 
 ある意味で、この財布は他のどんな人物よりもよく、世界のすべてを見渡していた。

 長らく魔法の影響にさらされたその財布に、魔力が残留したんだろうと魔法使いは言った。

「つまり、それがある種のマジックアイテム……というか、鍵、みたいなものになって、
 彼女は自分が望む世界にふたたびやってくることができた、というわけ」

 エラー、リトライ。


856: 2013/01/09(水) 13:20:08.91 ID:mi0scknjo

 話は至って単純だ。

"A"という世界がある。それは"A"という世界なりの結末を一度辿る。
 その結果に納得のいかなかった人物が、"A"の過去に変化を加えた。
 結果、"A"は本来の結末とは別に、"B"という展開を手に入れる。
"B"も"B"なりの結末にたどり着く。その結末に納得のいかない人物は"B"の過去に手をくわえた。
"C"という世界ができる。その"C"という世界に"A"の人間があらわれる。
"C"を目の当たりにしたその人物が"A"に帰ると同時に、"A"は"A"とは別の"D"になる。

"D"は"D"なりの結末を見せるが、"C"を目の当たりにして"D"に行きついた人物は、再び"C"に行きたいと願う。
 そしてそれが叶う。だが、その人物が現れた途端、"C"は"C"とも少し違う"E"になった。

 僕らがいたのは"E"だ。

 エラー、リトライ。

 そのあと、それぞれの世界で何が起こるのか、僕には分からない。
 とにかく、これで十分に整理はできたはずだ。
 推測があっているのかどうかはともかくとして、だが。


857: 2013/01/09(水) 13:20:50.73 ID:mi0scknjo
つづく

861: 2013/01/14(月) 13:53:18.02 ID:b6vBdGKEo




"E"において起こったこと。僕はこれを把握しきれていない。
 いくつかの矛盾、いくつかの混乱が、全体の把握を困難にしている。
 
 けれど僕が考えるべきなのはそんな部分ではない。

 たとえば、魔女は、なぜ過去の自分に財布を渡そうとしたのか? その行為を"つじつま合わせ"と呼んだのか?
 彼女の叔父は、なぜ姪を取り戻すだけでは気が済まず、ふたりの未来における姪に明白な優先順位をつけたのか?
 
 そして僕は、なぜ彼女たちの代わりに自らを生贄にしたのか。
 そうした理由に関してはひとまず脇に置き、まずは生贄となった僕が見た"その先"について説明する。
 その説明はひどく入り組んでいるかもしれない。でもそれは僕のせいじゃない。


862: 2013/01/14(月) 13:53:44.06 ID:b6vBdGKEo



 僕が今いる世界は"D"。つまり、彼女が氏んだの世界。
"D"の彼女は"E"に向かい、生贄となった僕の代わりに"巻き込まれた"人間になった。
 その結果、新しい分岐を手に入れただろうと思う。それがどのような形のものかは分からない。
 
 つまり"D"にいた彼女は"E"を生み出した結果、"D"ではなく"F"という世界を手に入れたのだ。

 おそらく"F"においては彼女は生き延びており、同時に、"この僕"とは違う、僕、"F"におけるケイも存在している。
 そのケイはもちろん、僕のように別世界にいった記憶なんて持ち合わせていない。ごく普通の夏休みを過ごしたはずだ。

 その世界で彼女が氏なないということは、おそらく叔父の後追い自殺も発生しない。
 叔父の自殺に関しては他の要因もありうるという話もあるが、これは彼女も知っていることだ。

 おそらく彼女は、叔父に会いにいくことができるだろう。そうでなければならない。


863: 2013/01/14(月) 13:54:10.51 ID:b6vBdGKEo



 ところで、分岐はこれで終わるのだろうか? もちろん終わらない。
 まず、"巻き込まれた方の叔父"、言い換えれば"本来の叔父"。
 いつのまにか"E"からいなくなってしまった彼は、本来なら"A"とまったく同じ未来を辿るはずだった。
 
 そのはずが、この世界にやってきてしまった。巻き込まれた時点で彼は本来の叔父とは別の生き方をすることになる。

 つまり、彼が帰った世界は本来の"A"ではなく、これもまた新たな世界である"G"となる。
 その先で彼がどのように生きるのかは分からない。
 
 いったいどのような形があり得るのかも分からない。彼が戻ったところで、時間は揺るがない。 
 彼の姪も姉も氏んでしまっているのだ。おそらくはだが。

 だが、彼に関してはどうでもいいとも言える。少なくとも僕はあまり興味を感じない。


864: 2013/01/14(月) 13:54:36.67 ID:b6vBdGKEo



 まだいくつか新しい分岐がある。今度の魔法は、巻き込んだ数が多すぎたのだ。

 次は、少女。もうひとりの姪。
 叔父はあの子を"魔女としてこの場所にやってくる"といったけれど、それは正確じゃない。
 彼女はあの段階では、魔女としてあの場に現れるとは限らなかった。
 
 既に現れていた魔女とあの少女は、既に別の分岐の住人であり、世界は別に繰り返されているわけではなかったからだ。
 だからあの少女が本来の世界に帰り、生き延びたとしても、その結果どうなるかは誰にも分からない。

"A"から"C"に現れた彼女は"D"に帰り、そこから魔女として"E"を作ったが、
 今度現れた彼女は"A"から"E"に巻き込まれた。"C"と"E"には魔女の在不在に違いがある。
 
 つまりもっと些細な部分で、世界は食い違っているはずなのだ。そうである以上、あの少女は必ずしも魔女になるとは限らない。
 ましてや、今回のあの少女は、はたしてちゃんと叔父になついていただろうか? 叔父はあの子に優しくしていただろうか?
 
 そして魔女になるとは限らないということは、彼女が母親に殺されずに済むとも限らないということだ。
 
 そのあたりは気がかりではある。




865: 2013/01/14(月) 13:55:04.96 ID:b6vBdGKEo


 次は"魔女"。本来なら生贄になるはずだった彼女。
 少女の未来の姿。"A"において氏に、"C"において巻き込まれ、"D"に帰り、"E"を生み出した少女。
 
 彼女は生贄として、"D"における自らの氏(推測だが)を背負うことになったはずだった。
 そこに僕が割り込んだ。だから彼女は"D"には帰らず、新しい"H"にたどり着く。
 
 僕はこうなって初めて思うが、僕がしたことは正しかったんだろうか。
 僕が生贄になることで魔女は新しい世界へと向かった。

 でも、その世界は彼女にとって救いになりえるのだろうか?
 そもそも彼女の行動には謎が多い。

"本来の叔父"、の過去。つまり"もうひとりの叔父"という人物を励まし、彼を帰したのは魔女だったと魔法使いは言った。
 魔女はなぜ、彼を励ましたりしたんだろう? 

 彼女はおそらく、世界の成り立ちを完全には把握していなかったのではないだろうか。
 つまり、"C"と"E"が同一の世界であり、自分はそれを別の立場から覗いているにすぎないと誤解したのではないか。


866: 2013/01/14(月) 13:55:33.18 ID:b6vBdGKEo

 あの少女に財布を渡さなければ、"D"から生き延びた自分が"E"を作ることができず、矛盾が発生すると思った。
 そうした矛盾を彼女なりに解消しようとした結果だったのかもしれない。

 だとするなら、彼はなぜもうひとりの叔父を励ましたのか。
 それは分からないけれど、彼女にとってそれは何かの儀式のようなものだったのかもしれない。
 
 彼女はひょっとしたら消えたがっていたんじゃないか。
 本当は自ら生贄になって、自分の選択を受け入れるつもりだったのではないか。
 そのつもりで、自らに対して無関心だった叔父を許し、励ましたのではないか。そんなことを思う。
 
 僕には、どうとも言えない。 

 僕は最後、自分が生贄になる前に、彼女と少し言葉を交わした。どんなことを言ったのかは思い出せない。 
 打ちひしがれたような彼女の後姿。僕はその背中にたしかに声を掛けたのだ。

 祈るような気持ちで。
 それはきっと彼女にとってなんの救いにもならないのだろうけど。

 叔父はなぜ、彼女を生贄にしようとしたのだろう。
 それに関しては分からないけれど、きっと生き延びてもどうしようもないと思ったからかもしれない。
 彼女が欲しがった物はすべて、手が届かない場所にあった。だからといって、それを判断するのは彼ではないと、僕は思うのだけれど。
 でも、今思えば、たしかに分からなくはないのだ。

 あんな悲しそうな顔をされたら。
 誰がそんな相手に、もう一度苦しめと言えるんだろう?
(僕はそう言ったのかもしれない)


867: 2013/01/14(月) 13:56:08.12 ID:b6vBdGKEo



 最後に、僕が今いる世界、"D"は、つまり彼女が氏んだ世界で、同時に叔父も氏ぬ世界だ。
 原因はぼやけている。何が起こったのかは分からない。そして僕には何が起こったのかも分からない。

 過去が揺るがないことは確定的だ。つまり僕は僕として、この結果、現在を受け止めるしかない。

 僕はごく当たり前に生きている。

 戻ってきて見ると、世界は様々な意味で変わっていた。

 いつも散歩していた公園に居着いていた猫がいなくなった。
 僕のたったひとりの友だちは氏んでしまった。
 たしかに持っていたギターは、彼女と一緒に世界のどこかに忘れてきてしまった。

 これが本当に僕が暮らしていた世界なんだろうかと疑問に思う。僕は本当は、別の世界に来てしまったんじゃないか、と。
 でもどちらにしても同じだった。彼女はいないし、猫もいないし、ギターもない。

 でも、あのギター。たしかに、背負っていたはずなのに、どこに行ってしまったんだろう。
 まあ、それに関してはどうでもよかった。
 
 僕はとにかく彼女のいない世界に居続けなければならない。それはたしかだった。
 結果は結果として受け止めなければならない。


868: 2013/01/14(月) 13:56:34.21 ID:b6vBdGKEo

 そのはずなのに、僕はいまだに一連の出来事が夢だったのではないかと考えている。考えたがっている。
 
 もしくは、疑っているのかもしれない。
 たとえば僕は、彼女の氏を知ったあと、世界が複数にわたって分岐しているという妄想を抱き、
 それを実際にあったことのように錯覚しているのかもしれない。

 あるいは自覚的に、そうした嘘をついているのかもしれない。

 あるいは今見ている現実すらも何かの夢なのかもしれない。

 可能性という言葉は難しい。
 僕はしばらくの間、彼女が氏んだなんて嘘だろうと思っていた。何かの悪い夢だと。
 でもいなくなってしまったのだ。本当にいなくなってしまった。
 
 彼女の氏体は見つかった。ニュースにもなった。
 一年が経って、僕はこれを書いている。
 彼女が氏んで、いったい何かが変わったんだろうか?
 きっと何も変わらない。

 僕たちはそういう場所に生きているのだ。


869: 2013/01/14(月) 13:57:02.22 ID:b6vBdGKEo



 一連の出来事についての手記はこれで終わる。
 書き損ねていることは特にないと思う。本来的に理解は不要だ。
 そもそもの話として――こんな話を信頼する人間がいるものだろうか?
 
 それに関してはどうでもいいのかもしれない。必要だったのは整理だった。僕にとっての。
 でも、これで十分だろうか。僕は何かを説明し損ねてはいないだろうか?
 
 不十分かもしれない。説明しきれていない部分はある。でもそれはどうしようもない。
 僕から見える範囲では、ここまでが精一杯の理解なのだ。


870: 2013/01/14(月) 13:57:54.76 ID:b6vBdGKEo


 
 ここですべて終わらせてしまおうと思ったが、推測をひとつ加える。
 まず、財布に関してのことだ。

 "財布"。
 いくつか存在する、男物の財布のことだ。
 まず、"叔父"が"本来の叔父"の未来の姿から受け取った、男物の財布。
 この中には免許証やカードなどの類は入っていなかった。

 次に"もうひとりの叔父"が"魔女"から受け取った財布。つまり、"少女"が拾った財布。
 少なくとも"魔女"が"もうひとりの叔父"に渡した財布には、免許証などのカード類が入っていた。 

 そして、"もうひとりの叔父"が持つ男物の財布は、その財布と同じものだった。

 財布はこの段階で三つある。

 僕は、"叔父"が"本来の叔父"から受け取った財布を"少女"が拾ったのだと思っていた。
 少なくともそれがマジックアイテムとして活用されたはずだと。

 だが、だとするとカード類、免許証の類はいったい何処から出てきたのだろう?

 要するに財布はもうひとつあり、どこかのタイミングで入れ替わりが発生したのではないか?

 このカード類は、多くのものに数年後の日付が記されていたのだという。つまり僕たちがいる時間の年号が。
 けれど、"未来の叔父"は、僕の想定にはひとりしか存在していない。

 そしてその叔父がよこした財布には、"免許証や保険証の類は入っていなかった"。

 ひょっとしたら、と僕は考える。世界は僕が思っている以上に入り組んでいたのかもしれない。
 少なくとも、もうひとり、どの世界の未来からかは知らないが、あのどこかの世界に、もう一度、"未来の叔父"が紛れ込んでいたのだ。
 そして財布を少女に残した。それがどういう意味を持つのか、僕には分からない。
 分からないが、その事実ははなんだかひどく、僕を怖がらせる。なぜだろう?


871: 2013/01/14(月) 13:58:20.54 ID:b6vBdGKEo




 これは携帯電話についての話ということになる。
 僕も、叔父も、魔法使いも、誰も、彼女のことは救えなかった。

"僕の世界の彼女は現に氏んでしまっている"。
 僕は既にそのことを知っていた。あの日、彼女が窓から飛び降りた夜、そのことを聞かされたのだ。
 
 僕たちは結局まったく見当違いの場所に行って見当違いの喜劇を繰り返し、結果的に余計な悲劇を増やしてきただけだ。

 この手記の目的は起こったことを整理し、僕が魔女と彼女の代わりに生贄になった理由を探すためだった。
 
 僕はその理由をいまになって思い知っている。
 つまり僕は、この世界の彼女を救えないから、"代わりに"彼女たちを救いたかっただけなのだ。
 僕がしていることもまた代償行為に過ぎなかった。誰にも文句を言えないほどの。
 
 僕はそれが分かったからこそ悲しい。だとすれば僕は彼女のためにいったい何ができたんだろう?
 僕もまた、あのもうひとりの叔父のように、彼女に対して無関心であった男のひとりでしかなかったのではないか?
 

872: 2013/01/14(月) 13:58:49.29 ID:b6vBdGKEo

 彼女の氏をどうすれば回避できたのか。彼女の為に何ができたのか。
 要するにその示唆こそが彼女の携帯電話にはあった。

 彼女は誰かと繋がるべきだった。誰でもいいから誰かと繋がるべきだった。 
 そうすることで誰かが彼女の為に祈ってくれるかもしれなかった。

 僕が、彼女のために祈るべきだったのかもしれない。それはお節介かもしれないし余計なお世話かも知れなかった。
 まったく無意味で見当違いなことかもしれなかった。彼女はそんなことを望んでいなかったかもしれない。
 
 もしかしたら、とそれでも僕は考えてしまう。

 でも、それを願うわけにはいかなかった。魔法使いはきっと、僕のもとにも訪れるだろうという気がする。

 何度繰り返したところで、それは代償行為でしかない。この世界の彼女は蘇らない。
 何もかも無意味なのだ。

 僕はこれを終わらせなければならない。繰り返してはいけないのだ。
 これ以上、悲しむ"僕"や"彼女"を増やさないためにも。


873: 2013/01/14(月) 13:59:56.06 ID:b6vBdGKEo



 それぞれの世界のその後を僕は知らない。
 僕はただ、今になって、彼らや彼女たちのことを考えて祈り始めている。
 何もかも分かったときには何もかも手遅れになっている。なってみないと実感できない言葉だ。

 あの男と、あの姪は、今も一緒に暮らしているだろうか。どちらかが寂しい思いをしていないだろうか。
 もうひとりの男は、ちゃんとやれているだろうか。何度も繰り返そうとはしていないだろうか。
 少女は、ちゃんと成長できるだろうか? 魔女は、何か新しいものを見つけられるだろうか?

 彼女は、叔父に会えたのだろうか。
 会って話し合えただろうか。寂しがってはいないだろうか。
 必要以上に悩んではいないだろうか。ちゃんと思ったことを伝えられているだろうか。
 
 塞ぎこんではいないだろうか。自分に嘘をついてはいないだろうか。無理をしていないだろうか。

 その世界の僕はうまくやっているだろうか。
 その世界の僕は、彼女のために何かをしているのだろうか。

 それを考えるととても不安になる。


874: 2013/01/14(月) 14:00:31.17 ID:b6vBdGKEo



 この手記を書き終えたいま、僕はものすごい徒労感に苛まれている。想定通りだ。
 思ったよりも話は入り組んでいた。何もかもよくわからなかった。
 結局みんながどうなったのか、僕は知らない。  

 知っているのは彼女が氏んだということだけ。きっと僕にとって事実と呼べるのもそのことだけだった。
 
 本当はこれを書き終えたら氏んでしまおうと思っていた。
 でも、それもなんだか馬鹿らしい。結局僕はここにいるしかない。

 僕はさまざまなものを失って、特に得るものはなかった。
 新しい友達もまだしばらくできそうにない。

 僕は彼女に氏なないでほしかった。
 生きていてほしかった。それをあのときの彼女に伝えることができたら、と、今も「もし」がよぎる。
 
 それはたぶん、氏ぬまで消え去ってくれないような気がする。

 彼と彼女についての話はこれで終わりにする。
 僕の目的は既に達成された。



875: 2013/01/14(月) 14:00:57.83 ID:b6vBdGKEo

 でも、ひょっとしたら、世界はまだ、どこかで繰り返されているのかもしれない。
 たとえば、本来生贄になったはずの、あの魔女。彼女は自分の世界に納得するだろうか?
 分からない。そのとき、魔法使いはどうするだろう?

 僕にはどうしようもないことだ。僕はやはり、この世界に生きていくしかない。巻き込まれるわけにもいかない。
 それでもなんだが、僕がかかわった人々が、何かの代償としてですらなく、幸せであってほしい。
 
 そう思うのは自己陶酔みたいなものなのかもしれない。
 この手記を書くべきではなかったと、僕はいまさらのように思っている。
 でも、それだって手遅れなことだ。

 僕たちは手遅れなことを手遅れなことだと受け入れていくしかない。
 手遅れなことを、手遅れじゃないことのために活かしていくしかない。
 誰も彼女のかわりにはならない。

 なんだかひどく疲れた。もうしばらく、文章を書いたりしたくない。
 
 今は午前三時。虫の鳴き声が聞こえる。
 これからコーヒーでも飲んで、本でも読んで、それから風呂につかって、眠ってしまおうと思う。
 それから二度とこの手記を開くことはないだろう。

 いまはただ、ゆっくりと眠りたい。


876: 2013/01/14(月) 14:01:32.53 ID:b6vBdGKEo
おしまい

877: 2013/01/14(月) 14:16:32.61 ID:OuigSDE6o


読みごたえはあったけど、色々よく分からない点が多いな

整理してもしきれないわ
それを意図してなのか、意図せずなのか分からんが

878: 2013/01/14(月) 16:43:48.96 ID:GEZukFGwo

姪と叔父が幸せなら良いんだが

879: 2013/01/14(月) 21:57:56.87 ID:kG9R9714o
おお乙
自分でメモ帳でまとめてみたら流れが分かって凝ってるなぁと思った

ケイくん…

417: 2012/10/27(土) 14:03:15.72 ID:vuo8MD+8o
テキストエディタですべての行頭にタブを2つ入れる
行頭が数字ならタブを全て消す
タブ◇のタブを消す
タブ◆のタブを消す
テキストを保存
Excelで開くと…

僕はこのSSで正規表現が少しわかるようになりました。

427: 2012/10/28(日) 13:33:27.21 ID:DOJagQqEo
>>417
章分けっぽく配置してる記号の意味はともかく、数字に関しては何の意味もなかったりします。
数字に限って言えばむしろ邪魔かもしれません。
あとから気付いてやばいなぁと思ったのですが、気にしないでくれると助かります。

引用: 姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?