307: 2013/06/06(木) 06:31:09.11 ID:4Z+Lx22no

前回:少女「雨が止んだなら」【前編】


 わたしとシラユキは言葉もかわさずに屋敷に戻った。
 ツキは森の奥に逃げ込んだという。まだ、つかまってはいないらしい。
 
 ひとり部屋に戻り、ベッドに寝転がる。それからさっき話した内容を吟味した。
 この世界のこと、わたしのこと、シラユキのこと、ツキのこと。
 
 そして自分の記憶にある「現実」のことを考えた。
 思い出してみると、それはさほど悪くないように思えた。

 ツキがいた。彼の両親は良い人たちだった。わたしにも優しくしてくれた。
 それにシラユキが言っていたように、現実には面白い本もあったし、音楽だってあった。
 映画だってドラマだって娯楽には事欠かなかった。その中にはいくつか好きなものだってあった。

 きっとわたしが知らないだけで、現実にはたくさん、素敵なものや場所があるのだろうと思う。
 そして生きてさえいれば、そうしたものを求め、出会い続けることができるのだ。
 
 でも、それだけと言ってしまえば、それだけのことだった。

 本も音楽も映画も、実際の境遇からわたしを救ってくれるわけではなかった。
 耐える手助けにはなるかもしれない。でもそれだって結局、それだけのものだ。
 耐えたあとに何かを残してくれるわけでもなかった。

ふらいんぐうぃっち(12) (週刊少年マガジンコミックス)
308: 2013/06/06(木) 06:31:50.98 ID:4Z+Lx22no

 世界は世界として独立している。シラユキはそう言った。
 氏後の世界というわけでもなく、現実でもない。

 一種の異世界のような場所。わたしの精神を土台に作られた場所。

 そして、ツキはそこにやってきた。 
 彼の存在は、この世界では許されないものだ。だから彼は、人々に見つかれば殺されてしまう。

 それでなくても、この世界に来るために、どのような手段を取ったのだろう?
 
 この世界が世界として独立しているなら尚のこと、普通の手段でここに来ることはできない。

 ……入口があるなら、出口もあるのだろうか。

 ツキ。ツキが氏ぬかもしれない。
 この世界で氏んだら、現実でも氏んだことになるのだろうか?
 たぶん、そうなのだろう。ここで氏んだ人間は、現実でもやはり氏んでしまうんだろう。


309: 2013/06/06(木) 06:32:18.41 ID:4Z+Lx22no

 別にかまわないじゃないか。そう思った。ツキが氏のうと生きようと関係ない。 
 そう思ったから、わたしはここにいるんじゃないのか?

 ツキが悲しんでも、苦しんでも、関係ない。そう思ったから、わたしは今ここにいるのだ。
 
 身の回りの人間のことだって知ったことじゃない。そう思ったから……。

 わたしは瞼を閉じて、ツキのことを思い出そうとした。 
 現実に生きていたときの記憶。ツキはわたしに、どんなふうに接していたのか。
  
 思い出す必要なんてない、と思う自分もいた。
 でも、わたしは思い出そうとした。なぜだろう? それは分からない。

 思い出そうとしてもろくな記憶がなかった。
 かろうじていくつかの表情が思い出せるだけだ。笑った。怒った。泣いた。強がった。 
 そんな断片的な記憶だけ。でも、それはツキだった。


310: 2013/06/06(木) 06:32:44.84 ID:4Z+Lx22no

 わたしは無性に叫びだしたいような気持ちになった。
 どうしようもなく、気分が収まらなかった。そう考える自分を抑え込もうとした。

 ベッドを降りて、窓の外を睨んだ。そして思う。
 見ろ、と。雨はまだ降っている。雨が降っている。それだけだ。それ以上に何がほしいんだ?

 窓の外には森が見えた。ツキは今、どこにいるんだろう?
 きっと逃げている最中だ。

 どうなんだ? わたしはわたしに訊ねる。
 ツキにどうなってほしい? 本当に、ツキのことはどうでもいいのか?

 答えは、すぐに出た。

 どうでもよくなんかない。
 彼は、石ころなんかじゃない。


311: 2013/06/06(木) 06:33:27.16 ID:4Z+Lx22no

 そう思うことに、どことなく抵抗もあった。理屈が合わなくなってしまう不安。
 でも、それどころじゃない。彼はこんなところにいてはいけないのだ。

 ツキの両親は、彼が氏んだらきっと悲しむ。
 わたしのために、彼らにそんな顔をさせるわけにはいかない。

 理屈なんてどうでもいい。わたしは、彼が現実に帰る手助けをしなければならないのだ。

 わたしは部屋をあとにして、屋敷の中でシラユキの姿を探した。
 二階にはいなかった。階段を下りて一階を目指す。

 シラユキは厨房にいた。そうだ。わたしたちは朝食だってとっていない。
 ここは現実ではないけれど、ひとつの世界だ。
 お腹だって空くし眠くだってなる。現実感に乏しいなんて嘘っぱちだ。

 ツキだってきっとお腹を空かしている。
 雨に打たれて寒い思いをしているかもしれない。
 そんな思いをしていい人じゃない。

 彼はわたしとは違うのだ。


312: 2013/06/06(木) 06:34:16.58 ID:4Z+Lx22no

「シラユキ」

 呼びかけると、彼女は意外そうに顔をあげた。

 彼女はわたしの声に、どこか戸惑ったような表情を見せた。
 当然と言えば当然か。
 この屋敷に来てから、ここまではっきりとした意思を持ったことはなかった気がした。

「この世界に、出口はあるの?」

 彼女は怪訝そうにしながらも、答えをよこした。

「あります。そうでなくては、あなたが現実に帰ることができませんから。それでは、保険が機能しません」

「そこから、ツキも現実に帰れるの?」

「……おそらくは」

「分かった」


313: 2013/06/06(木) 06:35:20.63 ID:4Z+Lx22no

「分かったって、どうしたんです?」

「ツキを現実に送り返す。彼に氏なれるのは困るから」

「……なぜです?」

 心底不思議そうな顔を、シラユキはした。
 なぜ、氏のうとしている人間が、生きている人間のことを考えるのか。
 そういう表情だ。

「彼を巻き込んだら、わたしが気持ちよく氏ねないの」

 シラユキは、答えに迷ったようだった。
 というよりは、まだ、どうにかしてわたしを説得しようとしているような態度だった。

「わたしのことについては、何も言わないで。それはわたしも、あとで考える。
 ツキのことは、急がないといけない。そうでしょう? 彼を一刻も早く、現実に戻さないといけない」

「アヤメ」

 と彼女はわたしを呼んだ。わたしは彼女が何か言うより先に答えを返す。

「協力して。ツキをどうやって助ければいいの?」


314: 2013/06/06(木) 06:35:55.25 ID:4Z+Lx22no



 わたしは部屋に戻り、動きやすい服に着替えた。
 それから何か武器になるようなものを探した。
 
 書斎にある拳銃が手っ取り早そうだったが、あれはあまりに物騒だ。
 
 部屋の中を探しても、それらしいものは見つからない。
 仕方ないか、とわたしは思った。もし武器が必要な場面になったら、わたしにはどうしようもないだろう。

 できるかぎり、そのような状況に出会わないようにしなければならない。

「どうして、下界の人たちは殺そうとするの?」

 わたしがそう訊ねたとき、シラユキは考え込むような顔をした。

「だって、別に殺さなくても、追い出せばいいだけのことでしょう?」

「……たぶん、彼らは出口があるということを知らないんだと思います」

 純粋な意味でのこの世界の住人は、この世界以外の世界を知らない。

 だから、頃す以外に数を維持する方法を持たないのだと。


315: 2013/06/06(木) 06:36:39.14 ID:4Z+Lx22no

 彼らはツキを見つければ、すぐに捕縛し、殺害しようとする。
 里にやってきた熊を撃ち頃すみたいに。

 そして、仮にわたしがこの世界から逃げようとすれば、わたしを捕らえようとする。
 逃げるとまではいかなくとも、何かの変化をわたしが望めば、彼らは動く。

 おそらく、ツキを逃がそうとすることも、それに抵触するだろうという気がした。
 出口の存在を知らないのに、わたしが逃げることを嫌がるというのは、変な話だ。
 
 でも、細かいことはどうでもいい。

 彼らに見つからずにツキを探し出し、出口まで連れて行き、逃がしてしまえばいいのだ。

 たったそれだけだ。


316: 2013/06/06(木) 06:37:34.43 ID:4Z+Lx22no

 なんとか気持ちを落ち着かせなくては、とわたしは思った。

 それから軽く食事をとった。
 シラユキはなんとも言えないような表情でわたしを見た。

 わたしは何も言わなかった。

 彼女はきっと、まだわたしに期待しているのだろう。 
 わたしは、その期待に応えるつもりはない。

 ただ、ツキを見過ごせないだけだ。

 食事をとったあと、玄関ホールに向かう。 
 シラユキはわたしに薄い水色のレインコートを渡した。

 わたしがそれを羽織ったとき、外から物々しい足音が聞こえる。

 シラユキと顔を見合わせてから、わたしは通路の影に隠れた。
 

317: 2013/06/06(木) 06:38:01.30 ID:4Z+Lx22no


 ドアを叩く音。シラユキが扉を開けた。

 客人が何かを言うよりも先に、彼女が声を掛けた。

「どうされました?」

「例の、人影です。これから森の中を探そうと思っています」

 無機的な声。聞き覚えのある、男の声だ。

「……はい」

「それで、あの男については、どうでしょう。このところ人影などを見かけたことはありましたか?」

「いえ、そんなことはまったく……」

「そうですか。この屋敷の周りを、ひょっとしたらうろついているのかもしれません。
 この屋敷の近くを重点的に探してみたい、と思っています。よろしいですか」

「……はい」


318: 2013/06/06(木) 06:39:52.42 ID:4Z+Lx22no

 シラユキは頷く。特殊ではあるが、,彼女もこの世界の住人だ。
 この世界のしがらみには、従わざるを得ないのだろう。

「それでは、少しのあいだ騒がしくなると思いますが、よろしくお願いします。
 こちらも仕事ですから、ご容赦ください。ご存知でしょう。仕事なのです。申し訳ありませんがね」

 男はそういって、玄関を出て行った。しばらくの間、屋敷の外をうろつくのだろう。
 それに、彼ひとりではないようだった。何人もの住人を連れてきたらしい。

 シラユキは無言のまま、わたしを屋敷の奥へと促した。
 窓の外から見えないような位置を通る。

「そのうち、屋敷の中を調べさせてくれ、と言い出すでしょうね」

 とシラユキは言う。わたしもそうだろうと思った。


319: 2013/06/06(木) 06:40:24.52 ID:4Z+Lx22no

「森の中で人ひとりを探すというのは、大勢の人間がいるにしても、簡単なことではありません。
 とはいえ、外は雨が降っていますから、ツキの体力の方も心配しなくてはいけません」

「……うん。でも、これじゃ、外に出られない」

「時間が経てば、屋敷の周りの人は減るでしょうけど、そうすると森の中に数が増えますね。
 かといって、いま真っ向から外に出ようとしても、難しいと思います」

 完全に出鼻をくじかれた形になった。
 わたしは焦る気持ちを抑え込んで、なんとか方法を考える。

 玄関はダメ。窓からだって、きっと同じだろう。安全さに欠ける。
 それ以外の出入口はない。出入り口は……。

 ……入口があるなら、出口もある。

「ツキは、どうやってこの屋敷に入ったんだっけ?」

 わたしが訊ねると、シラユキはちょっと驚いた顔をした。


320: 2013/06/06(木) 06:41:10.67 ID:4Z+Lx22no

「普通に玄関から入ったら、シラユキは気付いていたはずだよね?」

「……それは、まあ」

 玄関の扉には鈴が取り付けられていて、開閉する際はそれが大きな音を鳴らすようになっている。
 でも、この街では雨が降り続いているから、わたしもシラユキもめったなことでは窓を開けない。

 毎晩、シラユキが厳重に戸締りを確認しているから、どこかの鍵が空いていたとは考えにくい。

 思い浮かんだのは、ツキの姿を最初に見た、例の隠し扉の向こう、あの地下通路だ。
 あの通路を進んだ先に、ひょっとしたらどこか外へ繋がる道があるのではないか。

 あくまでも可能性だ。どこにも繋がっていない場合もある。
 それに、万一、外に繋がっていたとしても、それが屋敷からすぐ傍の場所では意味がない。

 それでは街の人々に見つかってしまうかもしれないからだ。

 理想は、地下通路を辿って、森の中に出られること。
 そんなふうに繋がっている確率は、かなり低そうだ。

「でも、他に手段もありませんね」

 シラユキはそう言った。わたしもそう思う。


321: 2013/06/06(木) 06:42:29.65 ID:4Z+Lx22no

「地下通路を通って、森に出られそうなら、そのままツキを探すのがいいと思います。
 もし危険そうなら、戻ってきてください。別の方法を考えましょう」

 安全な方法なんてあるものか、とわたしは思った。多少のことは仕方ない。
 手をこまねいている間に、ツキが見つかってしまうかもしれないのだ。
 
 わたしたちは書斎に向かった。わたしは書斎机の二段目に入っていた懐中電灯を持ち出す。
 それから暖炉の中に入り込み、例の蓋を開けようとした。

 どうやって開けるのか、分からなかった。
 ようやくそれらしい隙間を見つけて動かそうとすると、重くてなかなか持ち上がらない。

 シラユキに協力してもらおうと思ったが、ふたりが入って持ち上げようとするには、暖炉の中の幅が足りない。

 わたしはやっとの思いで蓋を開けた。


322: 2013/06/06(木) 06:43:13.45 ID:4Z+Lx22no

「お気をつけて」とシラユキは言った。

 わたしは頷きだけを返して階段を降りた。
 懐中電灯をつける。黴の匂い。こもった冷気。この先に出口があればいいのだが。

 蓋を閉める直前、シラユキと目が合った。不安そうな表情。
 わたしも似たような顔をしているのかもしれない。
 怖くなりそうだったので、気が変わる前に蓋を閉めた。

 それはあっさりとした音を立てて閉まった。上からの光はなくなって、懐中電灯の灯りだけが頼りになる。
 さて、とわたしは思う。

 進まなくては。


325: 2013/06/07(金) 05:58:38.83 ID:UQU3TNtlo



 引き伸ばされた棺の中を延々と歩いているような、そんな気分だった。
 
 黴の匂いが湿った空気に混じり、わたしを不安にさせる。
 石造りの通路は、そっけないような冷たさで満ちていた。

 ありとあらゆる温かみが存在しない、何もかもから隔絶されているかのような空気。
 
 それも当然のことだろう。
 
 天井の隅では大きな蜘蛛の巣が埃をかぶっていた。
 この場所にも蜘蛛がいるのだと思い、わたしは少し怖くなる。

 以前来た時に、そんなものを見ただろうか?
 考えたけれど、よく思い出せない。あのときはツキを警戒するので精一杯だった。
 今はそのツキをどうにかするために歩いているのだから、考えてみれば不思議な話だ。


326: 2013/06/07(金) 05:59:54.43 ID:UQU3TNtlo

 以前ツキが言っていたように、しばらく進むと道がいくつかに分かれていた。
 
 懐中電灯で照らせる限りを照らしてみたけれど、その先に何があるのかは分からない。
 どのくらい続いているのかも分からない。本当に暗い。自分がどのくらい進んだのかも分からなかった。
 今この懐中電灯が壊れてしまえば、わたしはどうなってしまうんだろう。

 とにかく進んでみないとならない。
 道はまっすぐ進むものと、左に向かうものがあった。
 
 わたしは左に折れてみることにした。変わり映えのしない景色が続く。
 
 不意に何かが蠢くような気配がして、背筋がぞっとした。
 慌てて床を照らすが、そこには何もいない。けれどたしかに、何かがいたのを感じた。

 辺りを照らしてみると、壁の下に開いた小さな隙間に、何かが入り込もうとしていた。
 細い尻尾と黒ずんだ毛並み。かすかな鳴き声が聞こえた。
 鼠。わたしの手のひらよりも大きそうな鼠だった。鼠は尻尾を振りながら穴の中へと逃げ込んでいった。

 わたしは慌てて辺りを照らした。そこらじゅうを照らしても、他の鼠の気配はしない。
 けれど、たしかにいるのだ。わたしはその一匹を目の当たりにした。
 そう思うと怖気がするような不安に駆られた。


327: 2013/06/07(金) 06:01:12.04 ID:UQU3TNtlo

 パニックになってそこらじゅうを振り向いたせいで、自分が進んでいた方向が分からなくなる。
 自分の間抜けさに泣きたくなってきた。

 皮肉なことに、再び正確な方向を把握できたのは、鼠が入っていった隙間の位置のおかげだった。

 わたしは緊張しながら先に進む。
 
 通路の突き当りは、行き止まりになっていた。
 わたしは溜め息をつく。
 それから周囲を見回して、不審なところがないかを確認した。

 少なくとも鼠が出入りできそうな隙間は三か所ほどあった。行き止まりの天井の隅には蜘蛛の巣があった。
 風もない澱んだ空気。饐えたような臭気。
 
 なんだかもう帰りたい気持ちだ。なんでツキのためにこんな思いをしなければならないのだ。
 そう思うと涙が出てきそうになった。暗いし、怖いし。でも、それはわたしのせいなのだ。
 そしてツキだって、今頃同じようなことを考えているに違いない。
 
 森の中で雨に打たれて、どうして自分がこんな思いをしなければならないのかと。
 それを思えばあまり弱気なことも言って居られない。

 それでもわたしは、怖くてその場で少しだけ泣いた。
 氏にたがりが鼠に怯えて泣くのもおかしいものだとも思ったけれど、それとこれとは話が別だ。


328: 2013/06/07(金) 06:02:02.92 ID:UQU3TNtlo

 気を取り直して、行き止まりの壁の一部を照らしてみると、鉄製の取っ手のようなものがあった。
 わたしは少し躊躇したけれど、結局それを掴んだ。
 ざらついた埃の感触が嫌で、わたしはまた泣きたくなった。

 世界には、嫌なものが多すぎる。

 押してみてもだめだったので、とりあえず引いてみた。それはドアのように簡単に開いた。 
 石でできているように見えたのは、見せかけだけだったらしく、いやに軽い。
 ためしに壁を叩いてみると、こんこんと軽い音が鳴った。素材が分からないのも、それはそれで不気味だった。

 扉の先には石造りの綺麗な階段があった。
 天井が低いので、身を屈めて昇るしかない。
 
 ここを進むべきだろうか。

 少し迷ったけれど、結局昇ってみる以外に術はなかった。
 階段はたいした高さではなかった。少し昇ると平坦な狭い道に出る。
 さらに奥に行くと、今度は深い下り階段があった。階段の一番下は行き止まりになっている。


329: 2013/06/07(金) 06:03:21.01 ID:UQU3TNtlo

 念のため進んで確認してみると、一番奥まったところの天井に取っ手があった。
 ためしに叩いてみる。音が軽かったりはしなかった。

 取っ手を引いてみたが、ダメだった。今度は押すのだろう。
 天井が低かったので、押し上げるのはさして難しくはない。 

 押し上げると、ぎしぎしという音がした。何かが引っかかっているような感覚。
 構わずに押していくと、やがて抵抗がすっとなくなり、何かが倒れるような音がした。
 
 わたしは少し不安になってその場で息をひそめた。
 数秒待っても何かが動くような気配はなかった。扉の向こうに顔を出す。

 本棚が並んでいるのが見えた。確認してみると、扉に引っかかっていたのは、椅子だったらしい。

 書庫だ。書庫に繋がっていると、そういえばツキも言っていた。
 屋敷から出るどころか、屋敷から離れてさえいないことに気付かされて、わたしはショックを受けた。 
 でも、そうなのだろう。実際、その程度しかまだ歩いていないのだ。

 もうやめてしまいたかったけれど、そういうわけにもいかない。

 一度屋敷に戻って何か使えそうなものを持ってくるべきだろうか?
 でも、そうこうしているうちに動きがあるかもしれない。わたしは急いでいるのだ。


330: 2013/06/07(金) 06:04:15.16 ID:UQU3TNtlo

 扉を閉めて、地下に戻る。椅子のことはシラユキがなんとかしてくれるだろう。

 急いで通路を戻る。わたしが走ると、足元でまた鼠が動くのが見えた。 
 転びかけて、転んだ先に鼠がいることを想像し、ぞわりとした。

 なんとかバランスを取り戻しながら、一瞬考えごとをしかけた。
 その方向に思考が転がっていくのを、どうにか抑え込む。

 とにかくツキを現実に返さなくてはならない。
 返す意味と、返したい理由については、あとで考えることにしよう。それは今は重要じゃない。

 溜め息が出る。泣き出したいような気持だった。でも、泣き出すのもわがままだという気がした。
 わがままで何が悪いのだとも思った。思考が混乱している。ここにはツキもシラユキもいない。

 とにかくこの地下通路を進まなくてはならない。


331: 2013/06/07(金) 06:05:30.32 ID:UQU3TNtlo

 さっきの分かれ道まで戻る。左側の壁に沿うように進んでいく。

 出口は、ないかもしれない。
 ツキはひょっとしたら、まったく別の手段で屋敷に忍び込んだのかも。

 そう考えると、わたしはどこにも繋がらない通路を延々と進んでいることになる。
 むしろ可能性だけいえば、そう都合のいい道があるとも思えないのだ。

 わたしは急に不安になる。暗闇を懐中電灯の灯りで照らしながら、足だけを動かす。
 
 しばらく進むと、道が右に曲がった。わたしは注意深く進む。
 こんなふうに時間をかけて歩いていて大丈夫なのだろうか。
 ひょっとしたらツキはもうとっくに、街の人々に捕まってしまっているかもしれない。

 それにこの通路は迷路のようなものかもしれない。
 今ならまだ帰ることもできるけれど、この先どんどんと進んで、ちゃんと屋敷に戻れる保証なんてあるのだろうか。
 
 そこまで考えて、また思考が引きずられる。
 飢えて氏んだところで、鼠に齧られたところで、わたしはどうでもいいはずだ。 
 

332: 2013/06/07(金) 06:06:44.94 ID:UQU3TNtlo

「どうして、彼を助けたいの?」

 不意に、声が聞こえた。わたしはそれを何かの錯覚だと思った。 
 でも違う。以前にも聞いたことのある声。それはわたしの頭の中に直接語り掛けてきているのだ。

「だってそうでしょう? どっちにしたって、同じじゃない? 
 彼が生きようと氏のうと関係ない。自分がどうなったって関係ない。 
 だって、あなたは氏んでしまうつもりなんでしょう?」

 うるさいなあとわたしは思った。そのことは考えないようにしていたのに。
 通路はずっと伸びている。引き伸ばされた棺みたいに。
 暗闇にわたしの足音が響く。ここからは雨の音は聞こえない。

 雨の音がしない場所。そういえば、そんな場所は、この世界には他になかった。
 意識してみると、雨の音が聞こえないのは、少し不思議な感じだった。

「放っておいて」

 とわたしは言った。でも答えはなかった。当たり前だ。ここには誰もいないんだから。


333: 2013/06/07(金) 06:08:35.69 ID:UQU3TNtlo

 通路が再び別れた。まっすぐと、右。わたしは少し迷ったけれど、右に進むことにした。
 今度はすぐに行き止まりに出会う。取っ手もすぐに見つかった。
 
 扉の先に階段はなかった。

 何か、奇妙な部屋があるだけだった。

 大きなソファと、テーブル。テーブルの上にはティーカップが四つ置かれていた。ティーポッドと砂糖瓶もあった。
 カップの中には冷えきった紅茶が入っている。ひとつを除いて、手もつけられていないようだった。
 壁際には鏡台が置かれていたが、鏡は割れて散乱している。
 
 どこもかしこも埃をかぶっていて、壁の四隅には蜘蛛の巣が張っていた。

 石の壁には大きな絵画が掛けられている。
 少女の絵だった。正確にいうと、少女の絵なのだろう、という方が近い。 
 水色のワンピースを着た女の子が、森の中の湖を背景に、傘をさし、こちらに背を向けて立っている。


334: 2013/06/07(金) 06:09:43.18 ID:UQU3TNtlo

 悲しそうな絵だった。空は灰色に歪んでいて、湖面は暗かった。空虚な静寂がこちらにも伝わってくるほどだ。
 でも、目を引くのはそうした部分ではない。

 肩越しに振り向いているように見える少女の顔の部分は、ズタズタに破かれていた。
 何本かのフォークが突き立っている。壁の下にはそれでも足りないというようにフォークやナイフが落ちている。
 わたしは怖くなった。

 居ても立ってもいられない気持ちになって、部屋を出ようとする。

 扉に手を掛けたとき、不意に気配を感じた。
 何の気配なのかは分からない。でも、背中越しに誰かがこちらを見ている気がする。

 この部屋には、誰もいなかったはずだ。 
 それなのに、気配はたしかにあった。

 くすくすと含み笑いすら聞こえてきそうだった。錯覚だ、とわたしは思う。
 でも、振り向けなかった。振り向くのが怖かった。

 ここに来てはいけなかったのだ、と思った。

 視線を感じながら部屋を出た。扉を閉めると、静寂が辺り一帯を支配した。
 でも、さっきの部屋の中だって、何の物音もしない、静かな場所だったはずなのに。
 
 それ以上は考えないようにした。誰もいなかった。そのはずだ。


335: 2013/06/07(金) 06:12:24.03 ID:UQU3TNtlo

 通路を戻り、右の壁に沿って進む。わたしはさっきの部屋のことを忘れることにした。

 ここまでの通路に、迷うような部分はなかった。
 ただ鼠と蜘蛛の気配があるだけだ。
 
 それからしばらく、道は別れず、まっすぐと進んでいく。
 わたしは長い時間、何も考えずに黙々と歩き続けた。
 本当に長い間だった。途中で時間の流れが分からなくなった。

 ここを彷徨っている間に、世界が終わったと言われても信じられるほど長い時間に、わたしには思えた。

 やがて通路の雰囲気が変わってきた。
 
 無愛想だった石の壁の両側に、額縁が飾られている。
 最初に見えた額縁の中は真っ黒だった。
 次は白。その次はまた黒。それが延々と続いていく。通路の続く限り。
 
 ふと振り返ると、見えるかぎりの壁に額縁が飾られている。わたしは言葉を失った。
 何も言わずに進む。ずっと進む。何も考えなかった。ツキのことすら考えなかった。

 わたしはここに来るべきではなかったのだ、とふと思った。


336: 2013/06/07(金) 06:12:59.20 ID:UQU3TNtlo

 やがて、懐中電灯のものではない光が、奥から見えた。
 わたしは叫びだしたいほどほっとした気持ちになり、そのすぐ後、また不安になった。
 
 どうして、光が見えたりするんだ?

 でも進むしかなかった。
 ここを出なければならない。

 通路をずっと進む。光は思ったよりも遠かった。
 永遠にたどり着けないのではないかと不安に思うほどだった。
 やがて、懐中電灯の灯りが意味をなさないほど、辺りが明るくなる。

 雨の音が聞こえた。額縁が途切れた。

 行き止まりは広い空間だった。
 光は、頭上から差している。見上げてみても、まぶしくて何がどうなっているのか分からない。


337: 2013/06/07(金) 06:15:09.73 ID:UQU3TNtlo

 光に気を取られながら進むと、靴が不意に突き抜けるような感触に触れた。
 不意の冷たさ。足元が土になっていて、そこには結構な大きさの水たまりがあった。

 雨が、ここまで降り注いでいた。よく見れば壁の端に穴があけられていて、水を掃くようになっている。 
 頭上を振り仰ぐ。光と雨。外に繋がっているのだ。でも、とても遠い。
 けれど、通路はここで終わっている。どうやって昇ればいいだろう?

 レインコートのフードを被り、雨の感触を感じながら壁に向けて歩く。
 正面の壁に、ここに来るまでの間に何度か見かけたような取っ手があった。
 それは上に向かって無数に並んでいる。梯子になっているのだ。

 わたしは念のため何度か引っ張って、安全かどうかを確認する。それから一番下の段に足を掛けた。

 どんどんと昇っていくが、光は遠い。
 結構な高さがあるようで、進んでいくうちに怖くなった。雨のせいで滑り落ちそうになる。
 下を見ると、高さに震えそうになった。

 わたしは手にしっかりと力を込めた。さっきまでの通路に比べれば、こっちの方がぜんぜんマシだ。


338: 2013/06/07(金) 06:16:34.24 ID:UQU3TNtlo

 やがて、外の様子が見えた。木? 木だ。
 わたしは少し不安になった。屋敷の中庭に続いているんじゃないかと思ったのだ。
 
 でもちがった。梯子を昇りきると、そこは森の中だった。外に出られたのだ。
 わたしは体を地面に投げ出した。腕と足が緊張で震えた。

 それから、自分が出てきた場所を振り向いてみる。
 それは井戸だった。見覚えのある、古い枯れ井戸。森の中で、ずっと前に見たことがある。
 
 わたしは頭上を仰いだ。
 木々が枝を広げている。雨が降っている。空は灰色だ。ちゃんとした世界だ。
 息を深く吸い込む。土と森の匂いがした。

 外に繋がっていた、とわたしは思った。しばらく何も考えられなかった。
 
 少ししてからようやく頭が機能し始めて、ツキを探さなくては、と思った。

 さっきまでの移動でよほど精神が疲弊したのかもしれない。わたしは自分が混乱しているのを感じた。

 森はいつもより、ずっとよそよそしく、不気味な気配をまとっているように思える。
 この中で、わたしはツキを探さなくてはならないのだ。


343: 2013/06/08(土) 06:16:18.64 ID:Onzl2ZvFo



 森の空気はいつにもまして重苦しかった。
 今朝がた歩いた場所と、地続きにあるのだとは、ちょっと信じられないくらいだ。

 とりあえず森の中に来られたのは良いけれど、問題はここからだった。

 時間がどれだけ経ったのかは分からないが、下界の人々はとっくに動き出しているはずだ。
 彼らは十数人がかりでツキを探している。

 その隙間を縫って、わたしはツキを見つけて、しかも逃げなくてはならない。
 それはほとんど現実的ではないように思えた。

 自分が途方もなく見当違いなことをしているのではないかという不安に陥る。
 ツキはどこにいるんだろう。


344: 2013/06/08(土) 06:17:22.18 ID:Onzl2ZvFo

 わたしはとにかく歩き出すことにした。
 ツキを探さなければいけない。
 
 見つけられなかったときや、既にツキが下界の人々に捕まっているときのことは考えないことにした。
 いずれにしたってわたしは、この森の中を歩いてみなければならない。

 森の中には、はっきりとした道があるわけではなかった。
 屋敷から入ってすぐの場所には、多少歩きやすい道があるけれど、そこだってしばらく進めば木々に阻まれる。

 仮に道があったとしても、ツキがそうした分かりやすい道を歩くとはえない。
 だとするとわたしは、この森の中を、何の心当たりもなく、進んでいかなければならないのだ。

 周りに人の気配はなかった。
 それが幸いなのかどうかは、わたしには分からない。
 もうツキが見つかってしまったのかもしれないし、ここまで捜索の手が伸びていないだけかもしれない。

 木々の枝葉が奇妙に輝いて見えた。空は灰色だけれど、雫が照らされて光っている。
 雨の音。濡れた土の匂い。

345: 2013/06/08(土) 06:18:10.30 ID:Onzl2ZvFo

 雨の音が、不意に弱まるのを感じた。
 空を見上げても、雨が止む気配はない。単に音が弱まっただけだ。

 それなのに、この感覚はなんなのだろう。

 今にも鳥の声でも聞こえてきそうな気がした。
 もちろん実際にはそんなことはなく、生き物の気配は感じない。
 
 ただ雨の音と自分の足音が聞こえるだけだ。

 何かが変だった。
 何が変なんだろう? わたしの感じ方の問題なんだろうか?
 
 わたしは木々の隙間を進んでいく。井戸は森の奥の方にあるはずだった。
 ここからさらに奥に進むべきなのか、戻るべきなのかは分からなかった。

 それともこの井戸を中心に、周囲の様子を探ってみるべきなのか。

 いずれにせよ、歩いてみないことには仕方ない。
 自分の無計画さに溜め息が出てきそうだった。
 でも、他に手段はないのだ。


346: 2013/06/08(土) 06:19:11.77 ID:Onzl2ZvFo

 どうにかしてツキと連絡が取れたらいいのだけれど、手段はない。
 少し躊躇ったけれど、彼の名前を呼んでみることにした。

「ツキ」

 声は森の中に静かに溶けていった。
 雨の音が落ち着いていたこともあって、声は奇妙な響きで辺りに広がっていく。

 何かがおかしい、ともう一度思った。これまでと様子がまったく違う。
 でも、考えたって仕方のないことだ。何はともあれ世界はこういうふうに出来ているんだから。

 歩を進めていくうちに雨粒が細やかになっていくことに気付いた。
 もちろん雨は止んだりはしない。その確信はあった。

「ツキ!」

 もう一度呼びかけてみても、返事も何もなかった。
 人の息遣いすら感じられない。


347: 2013/06/08(土) 06:19:46.76 ID:Onzl2ZvFo

 わたしは一度立ち止まって、後ろを振り返った。
 今のところまっすぐ進んできたつもりだけれど、迷わない保証はない。 
 
 人を探しに来て自分が遭難していたんじゃ、冗談にもならない。
 まあ、それならそれで、わたしはかまわないのだけれど……。
 とはいえ、その前にツキのことはどうにかしなくてはならなかった。

 ああ、もう。どうして頭がうまく働かないんだろう。
 頭の中に靄がかかっているようだ。靄というか霧というか。
 そんなことを考えていたら、雨がいつのまにか、ほとんど霧のようになっていた。

 わたしはこの世界で初めて、こんな雨を見た気がした。

 あまり考えすぎたって仕方ない。それなのにいつまでも堂々巡りを続けている。

 思わずため息が出る。
 とにかく、ツキを見つけるしかない。
 見つけるのは困難だろう。でもやるしかないのだ。


348: 2013/06/08(土) 06:21:02.78 ID:Onzl2ZvFo

 しばらく歩き回ってみても、ほとんど何も見つからなかった。
 ただ木々や草花が生い茂っているだけだ。足場は悪く、草の上の露が何度も足を濡らした。

 樹木が枝を伸ばしているせいで、ここからは太陽がろくに見えなかった。
 霧雨が、森の暗さと相まって視界を悪くさせた。わたしは不安になる。
 
 迷い込んではいけない場所に来てしまったような、居心地の悪さ。
 わたしはそれでも歩く。催眠術にかかったみたいに。
 
 自分が分裂しているような頼りなさ。
 何かがわたしをどこかへ引きずり込もうとしているような錯覚。
 それはもちろん錯覚でしかないのだけれど。

「助けなきゃ」

 わたしはその言葉を口に出してみた。誰に対してというわけではない。
 ただ口に出すと、その言葉はすとんと胸に落ちた。頭が軋むように痛んだ。

 ツキを助けなければ、と思う。でも、何かがそれに反発している。
 何か? 何かって、なんだろう。
 

349: 2013/06/08(土) 06:21:48.42 ID:Onzl2ZvFo

 ふと、何かが草を掻き分けるような音が聞こえた。 
 咄嗟のことに身が竦む。音は近付いてきていた。

 心臓がどくりと跳ねる。

 草の間から顔を出したそれは、大儀そうに首を振って、わたしと目を合わせた。

 わたしは最初、それをウサギかと思った。でも違う。どうしてウサギと見間違えたりしたんだろう。
 それは猫だった。白っぽい毛並みの猫。雨に濡れて小さく見える。

 どうして、ここに猫がいたりするんだろう。 
 わたしは疑問を抱きつつも、物音の正体がこの小動物だったことに安堵した。
 
 それから溜め息をついて、わたしにもまだ心臓はあったのだなと思った。
 どくどくと脈を打っている。

 体には血が流れている。わたしはちゃんと呼吸だってしている。一応生きてはいるのだ。
 わたしはまだ氏んでいない。じゃあ、わたしの身体はどうなっているんだろう?
 現実における、わたしの身体は。まだ生きているんだろうか? そうでなくては、戻れはしないだろうけれど。



350: 2013/06/08(土) 06:22:50.81 ID:Onzl2ZvFo

 猫の姿は見るからにシラユキに似ていた。
 雨と土に汚れ黒ずんではいたけれど、毛並みは薄くクリーム色がかっていた。
 瞳の色は左右どちらも鳶色だった。

 抱き上げようとすると、猫は抵抗もなくわたしの腕にもぐりこんできた。
 ちょっと気になって確認してみると、ちゃんとメスだった。

 かといって、彼女がシラユキだという話にはならない。
 この世界に猫のシラユキは居ない。彼女は氏んでしまったのだ。

 ただ似ているだけの猫(髪や目の色や体つきや性別が一致しているからといって、同一人物だということにはならない)。

 でも、この森の中に生き物がいるのはちょっと妙だった。
 もちろん、本来なら森の中に生き物がいたって変じゃない。けれど、この森で生き物を見かけたことはないのだ。
 屋敷で暮らしていたときも、鳥の声ひとつ聞いたことはなかった。

 それも、どうして猫なのだろう?


351: 2013/06/08(土) 06:24:18.43 ID:Onzl2ZvFo

 彼女はひらりと体を翻して、わたしの腕の中から地面へと着地した。
 手のひらが泥で汚れてしまったことに気付き、レインコートで軽く拭ってみた。
 汚れは広がっただけだった。
 
 わたしは泥を取ることを諦めて、猫の姿を追いかけた。

 猫はわたしから少し距離を取ると、ついてこいと言わんばかりに振りかえる。
 わたしと目が合うと、ゆっくりと歩きはじめた。

 まるで道案内を買って出てくれたみたいだった。

 さすがのわたしも、これはおかしい、と思った。
 でも、考えてみても結論は出なかった。いずれにしたって心当たりがあるわけではなかったのだ。
 結局、何も考えずに歩き回るだけなら、この猫についていくのも選択肢のひとつではある。

 猫は姿が遠くなり、霧の中にかすみはじめる。わたしはまだ逡巡していた。
 それを見透かしたように、もう一度彼女は振りかえった。

 そして促すように、何度かその場で走り回った。
 仕方ない、とわたしは思う。
 
 ついていこう。こうなったら賭けだ。いずれにしたって猶予はそんなにない。


352: 2013/06/08(土) 06:25:01.66 ID:Onzl2ZvFo

 猫は常にわたしの少し前を歩いた。
 わたしが立ち止まると、当然のようにその場で待っていた。

 それは考えるまでもなくおかしな話だ。
 嫌な予感とはいかないまでも、何か変なことに巻き込まれている自覚はあった。
 
 いくらここが奇妙な世界だからって、こんなことが尋常な事柄であるはずがない。

 まるで人の意を解しているかのようにふるまう猫。

 ……でも、どうなのだろう。
 わたしには世界のことがよく分からない。

 もうどうでもいい、という気もした。
 とにかくわたしは、無心になって猫を追いかけた。

 追いかけているうちにわけが分からなくなってきた。
 ツキを探しにきたはずなのに、猫を追いかけている自分。
 
 森の中はまるで、時間の流れから切り離されているように静かだった。
 この先に何かあるんだろうか? それとも、単なる動物の気まぐれにすぎないのか。


353: 2013/06/08(土) 06:25:33.50 ID:Onzl2ZvFo

 やがて、猫は立ち止まった。
 わたしは少し不安に思ったけれど、それを追いかける。木々の隙間から水の音が聞こえた。

 猫の傍らまで歩み寄ると、そこが開けた空間になっているのが見えた。

 そこにあったのは大きな泉だった。

 ちょっとした池ほどの大きさの水たまり。
 こんなことがあるものなんだろうか、とわたしは思った。

 水面を弱々しい雨が揺らしているが、木々の葉に守られ、このあたりは雨粒がほとんど届かない。

 ふと辺りを見回すと、あの猫の姿はもうここにはなかった。

 いったい、なんだと言うんだろう。この泉に何かあるんだろうか。
 近付いてみると、泉の水は透き通るように綺麗だった。
 水底の土の色がはっきりと見える。


354: 2013/06/08(土) 06:27:24.67 ID:Onzl2ZvFo

そうやって泉を覗き込んでいるとき、不意に、水面に自分の顔が映っていることに気付いてぞっとする。
 水面に映る自分と、目が合った気がした。

 凍てつくような目。誰とも知れない他人のようだった。
 思わず顔を逸らし、今見たものを忘れようとする。心臓が嫌にうるさかった。

 自分の顔を見たのは久しぶりだという気がした。
 心底、嫌な気持ちになる。薄暗い場所で、何かも分からない奇妙なものを踏みつけてしまったときのような気分。

 深呼吸をする。景色は綺麗だったけれど、わたしの気分は落ち着かない。
 
 ツキを探さなくては、とわたしは思う。でも、すぐには動けなかった。
 今、水面にうつった自分の顔が忘れられなかった。どうしてだろう。
 
 さっきまでよりずっと不安な気持ちになる。泣き出したい気持ち。
 どうしてわたしはこんなふうなのだろう。蹲って顔を伏せてみると、本当に泣き出してしまいそうだった。
 わたしはこんな場所で何をやっているんだろう。

 そのとき、不意に、

「アヤメ?」

 と声が聞こえた。最初、何かの間違いかと思った。

 顔をあげて声の方を振り返ると、ツキはそこに立っていた。


360: 2013/06/09(日) 07:02:59.45 ID:Z1eyICRMo

 長い時間、ツキの顔を見ていなかったような気がした。
 でも、それは真実ではない。朝、ツキと別れてから、まだ三時間と経っていないはずなのだ。
 
 わたしは自分の心がいくつかに分かれるのを感じた。というより、"分かれている"のを感じた。

 ツキを、知り合ったばかりのおかしな人物だと思う自分。
 ツキを、昔からの仲の良い友達だと感じる、自分。

 そして、ツキになんとか現実に戻り、生きて欲しいと感じる自分。
 ツキのことなんてどうでもいいと思う、自分。

 おかげでわたしは、ツキに対してどんな態度をとればいいのか、すぐには決められなかった。 
 自分の中の感情が、なぜかよそよそしいものに感じられてしまう。

 どうしてだろう?
 まるで心の一部を切り取られ、盗み出されたみたいだ。
 自分自身の感情に、実感が湧かない。

361: 2013/06/09(日) 07:05:47.78 ID:Z1eyICRMo

 雨音がふたたび強まった。泉の水面が波立つ。
 
 咄嗟には、何も言えなかった。
 わたしも何も言わなかったし、彼も何も言わなかった。

 疲れ切ったような表情。ツキの顔つきは、今朝見たそれとは、まるで違って見えた。

「どうして、ここに?」

 とツキは苦しげに言った。わたしは答えに窮する。
 森の中は雨の音に包まれている。空気は少し冷たかった。

 ツキの服は、雨に濡れ、土に汚れている。
 雨の降る森の中を、彼はこの場所まで逃げてきたのだ。
 でも、逃げて、どうするつもりだったんだろう。

 彼には逃げ場所なんて存在しないのに。
 いつかは追いつかれてしまうのに。

362: 2013/06/09(日) 07:07:03.39 ID:Z1eyICRMo

「……あなたを探しに」

 わたしがそう答えると、彼は怪訝そうな顔になった。
 それから少し間を置いて、ばからしいと言いたげに笑う。

「どうして?」

「逃げているんでしょう?」

「ああ、そうだよ。逃げてる」
 
 彼はまた笑った。それはなんだか、嫌な感じの笑いだった。

「捕まったら、氏んでしまうって、シラユキが言ってた」

「そう。殺されるんだってさ。俺もそう聞かされた。ただそこにいるだけで殺されるなんて、バカみたいな話だ」

 でも実際に、下界の人々は森の中でツキを探し回っている。
 

363: 2013/06/09(日) 07:08:43.16 ID:Z1eyICRMo

「それで、俺が逃げてるとしたら、お前は何しに来たんだ?」

 ツキは皮肉っぽく唇を歪める。
 わたしは段々不安になってきた。

「シラユキに、教えてもらった。この世界のこと」

 少し驚いたような顔をしたあと、「それで?」と彼は続きを促す。
 シラユキとの、裁判みたいなやりとりを思い出す。もうずいぶん前のことに思えた。

「あなたのことも、少しだけど思い出した」

「へえ。たとえばどんなことを?」

「飼っていた猫のこととか、学校の帰り道のこととか……そういうことを」

「そうか。それは嬉しいな」と、彼はたいして嬉しくもなさそうに言った。

「ツキ?」

 思わず名を呼びかけると、彼は忘れていた傷口が痛んだというふうに顔を歪める。


364: 2013/06/09(日) 07:10:25.06 ID:Z1eyICRMo

「それで?」

「それで、って?」

「続きは?」

 わたしはなんだか怖くなった。
 彼の態度は今までになく冷たいものに感じられる。
 わたしのことなどどうでもいいと言わんばかりだ。
 
「あなたには、氏んでほしくない」

 彼はこらえきれないというように笑った。ひどく苦しそうな笑い方だった。

「それはまた……不思議な話だ」

 忘れていた痛みが、頭の中で暴れ出しそうになる。
 彼の言う通り、それは不思議な話だ。そのことは、今は考えない。

 なんだろう? 今までとは何かが違う気がした。
 ツキの態度も、森の空気も、よそよそしく、冷たいものに感じられてしまう。
 この場所のせいだろうか。

365: 2013/06/09(日) 07:11:34.21 ID:Z1eyICRMo

「わたしは出口を教えるために来たの。シラユキから、聞いてきた」

「そうか」

 彼はそう繰り返すだけで、わたしに助けを乞おうとはしなかった。
 出口を教えてくれとも言わなかった。ただ黙っていた。
  
 立っているのも億劫というふうに、ツキは泉の傍らの樹に背中を預けて溜め息をつく。

「ありがたい話だけど、来てくれなくてもよかった」

 彼はそう言った。わたしは一瞬、その言葉の意味がよくつかめなかった。
 
「出口の場所も、教えてくれなくていい。もういいんだ」

「なぜ?」

 彼の態度は、あまりに今朝までと違いすぎる。わたしは彼の答えを聞きたくなかった。

「疲れたんだよ。もう放っておいてくれ」

 何もかも面倒だというふうに、彼は瞼を閉じた。

366: 2013/06/09(日) 07:13:26.56 ID:Z1eyICRMo

「もういいんだよ。お前をどうこうしようとも、思わない」

「何があったの?」

「何もないよ。ただ森の中を歩きながら考えてたんだ。どうして俺は逃げてるんだろうって。
 逃げることに何の意味もないように思えたんだ。段々分からなくなってきたんだ」

「でも、ツキ……」
 
 彼の言葉を聞いて湧いてきたのは、戸惑いというよりは拒否感のようなものだった。

 自分が何を言おうとしているのか、よく分からない。
 でも、どうしても納得できない気持ちだけが溢れてくる。
 
 だって彼は言っていたのだ。 

 わたしがどちらを選んだって、自分は生きていくんだって。
 だから好きにしろって。
 
 でも、わたしはそのことを口に出せなかった。

367: 2013/06/09(日) 07:14:30.06 ID:Z1eyICRMo

「お前のこととは、関係ないよ。関係ないんだ。
 ただ、なんていうのかな。もう疲れたんだ。別に帰れなくたって、捕まったってかまわない。
 だから、助けはいらなかったんだよ、アヤメ。お前は屋敷に戻れ。俺はここに残るから」

「そんなの……」

 そんなの、わたしには関係ない。そう思った。
 ツキの意思なんて関係ない。わたしはわたしの身勝手として、ツキが生きることを望んでいるだけだ。
 だから、言ってしまった。

「そんなの、わたしには関係ない。ツキはちゃんと生きて」

 口に出してから後悔した。わたしに、どうしてそんなことが言えるだろう。
 彼はこちらを鋭く睨んで、何も言おうとはしなかった。
 胸が苦しくなる。わけもわからず悲しくてしかたなかった。

「……ツキ」

 懇願するような声音だった。自分でも驚くほど、頼りない声。
 でも、彼は態度を変えなかった。

368: 2013/06/09(日) 07:18:53.19 ID:Z1eyICRMo

「屋敷に戻れ、アヤメ」

 わたしはとても悲しい気持ちになる。
 自分がここで悲しむのはおかしいのだとも思った。

 
 とにかく彼は、態度を変えようとはしない。

 わたしが彼に言えることは、ぜんぶなくなってしまった。
 彼がそれを望むというなら、わたしには何もできない。

 どうしようもなかった。
  
 それでもわたしは、その場を動く気にも、ツキに背を向ける気にもなれなかった。 

 頭ではちゃんと分かっていた。わたしはここを離れなくてはならないのだ。
 理屈ではそう分かっている。

 でもわたしは動けなかった。足の裏が根を張ったみたいに動いてくれなかった。

 自分がここを立ち去るべきだということは、ちゃんと分かっていた。
 このままここに居続けることは、自分から破綻へ向かっていくようなものだ。

 分かっているのに、わたしの足は動かない。


369: 2013/06/09(日) 07:19:46.62 ID:Z1eyICRMo

 見かねたように、ツキは言う。
 
「行けってば」

 彼は悲しそうに笑った。わたしは何がなんだか分からなくなってしまう。
 自分が何を望んでいるのかすら、分からなくなった。

 少なくとも、ツキがいなくなることを望んだんじゃない。 
 だったらなぜ無理矢理にでもツキを連れていけないんだろう。
 もっと必氏になって説得できないんだろう。

 その答えだってちゃんと分かっていた。 
 
 だからわたしは、その場をあとにするしかなかった。

「じゃあな」

 ツキは最後に、また笑う。わたしは悲しくなった。
 わたしは、どうしてこんなに自分のことしか考えられないんだろう。
 
 でも、こんなときにさえ、わたしの心のなかには、褪めたような思いがあった。
 それだってもう、あと少しで終わるのだ、と。

370: 2013/06/09(日) 07:20:57.64 ID:Z1eyICRMo



 木々の中を歩いていく。自分がどこを目指しているのか、分からなかった。
 何もかもが覚束なく、頼りなかった。

 歩けば転びそうになったし、立ち止まればふらつきそうになった。
 声を出せば雨の音にかき消されたし、目を開ければ視界は歪んで見えた。

 何をしようとしても上手くいかなかった。どれだけ上手くやろうとしても無駄だった。

 わたしはできるかぎり完璧にやろうとした。
 転ばないように歩こうとしたし、ふらつかないように立っていようと思っていた。
 何かを言うならば大きな声で言おうと思ったし、しっかりと目を見開いて物事を見ようと心掛けていた。

 でも全部が全部上手くいかなかった。まったくの無意味だ。
 わたしの手も足も、目も喉も、欠陥だらけのガラクタだった。
  
 いつだって自分のことしか考えられない。だからわたしはわたしが嫌いだ。
 それも、もうすぐ終わる。わたしは自分を世界ごと捨てることで、嫌いな自分を見ずに済むようになる。
 
 それなのに、どうして今になって、繰りかえし、自分の嫌な部分ばかり見せられるんだろう。


371: 2013/06/09(日) 07:24:12.16 ID:Z1eyICRMo

 気付けば、わたしの前を、猫が走っていた。
 わたしはそれを、いつのまにか追いかけている。

 何度こんなことを繰り返すのだろう。
 どこか新しい場所に連れて行かれるのかと思ったけれど、彼女を追ってたどり着いたのは、さっきの井戸の前だった。

 わたしはしばらくその場に立ち尽くした。
 雨が強くなる。レインコート越しに叩くような雨粒がわたしを打った。

 どうしようもなく悲しかった。
 でも、それすらも身勝手なのだ。だから、そのことについては何も考えないことにした。

 猫はわたしを置き去りにして姿を消す。
 結果として残されたのは、自分自身だけだった。
 そしてそれは、たぶん自分が望んだことでもあったのだ。

 どうすればいいんだろう?
 どうすればよかったんだろう?
 
 頭の中で、そんな問いがずっとこだまし続けていた。

376: 2013/06/10(月) 05:53:50.53 ID:eaBLS+OVo



 ずっとその場で立ち尽くしていたって、しかたがない。
 わたしは重い体をどうにか動かして、井戸に近付いた。

 頭がぼんやりとしている。雨に降られているせいだろうか。
 自分の手足を、ひどく頼りなく感じる。空気の冷たさが、刺さりそうに尖っている。

 わたしは自分に問いかけた。
 本当に、ツキを連れて行かなくてかまわないのか、と。

 今ならまだ間に合うかもしれない。駆け出して彼を説得することだってできる。
 その努力を継続することだって、できる。

 でも、説得なんてできるわけがない。
 彼は彼なりに納得して、あの場所に残ることを選んだのだ。
 強引に連れていこうとしたって、同じことだ。

 どうしようもない。
 彼をどうにかしてあの場から動かそうとするなら、彼の気持ちを、まず動かさなくてはならない。
 
 第一もう、彼のいる場所にどうやって戻ればいいのか、わたしには分からなかった。

377: 2013/06/10(月) 05:54:16.79 ID:eaBLS+OVo

 頭が痛かった。どうしてこんなに痛むんだろう。
 何もかもが刺々しい気配を纏っていた。
 木々も雨粒も土も、すべてがすべて、視線のように無神経にまとわりつく。

 仕方ないな、とわたしは思った。それから小さく溜め息をついた。
 額に触れると、うっすらと汗が滲んでいるようだった。

 こんなに、肌寒いのに。

 わたしは井戸の中を覗き込んだ。
 深く暗い。底が見えない。暗闇が、雨を静かに飲み込んでいた。

 寒々しいほどの暗闇。わたしはその先に何があるのかを知っている。
 それなのに、得体の知れない雰囲気が、肌にまとわりつく。


378: 2013/06/10(月) 05:54:58.02 ID:eaBLS+OVo

 この井戸を、降りてしまっていいのだろうか。

 この先に何があるのか、わたしは知っている。
 何がないのかも、わたしは知っている。

 本当に降りてしまっていいのだろうか? 
 
 しばらく逡巡していたけれど、やがて諦めた。

 わたしはここを降りるしかないのだ。
 とにかくもう一度戻ってみるしかない。
 そのあとのことは、そのときになってしか考えられない。

 梯子に足を掛けるとき、危うく滑り落ちそうになった。 
 この高さから落ちたら、さすがに氏んでしまうだろう。

 梯子を降りていくと、空が段々と小さくなっていく。

 分かることは、そのくらいだった。


379: 2013/06/10(月) 05:55:28.23 ID:eaBLS+OVo

 あと少しで井戸の底に辿り着けるというときに、手のひらが滑ってバランスを崩し、足が滑った。
 
 まずいと思ったときには遅かった。わたしは重力に従って、水溜りの中に落下した。

 幸運にも、というべきなのか、体を打ち付けただけで、頭を打ったりはしなかった。
 咄嗟のことに、体に上手く力が入らなかった。
 レインコートの下に着ていた服が濡れてしまう。
 
 体に泥がついて、たぶんひどい姿になっていることだろう。

 念の為に手足がちゃんと動くかを確認する。
 強く打ちつけられた左手の手首がずきりと痛んだ。でも、それだけだった。

 外から来てみると、この中の暗さがよく分かる。 
 レインコートのポケットの中に手を突っ込んで、懐中電灯を探す。

 けれど、見つからない。
 さっき落ちた拍子に落としてしまったのだろうか。
 
 慌てて足元を探そうとしても、暗くてろくに見えなかった。
 加えて、水溜りの中だ。手さぐりで探そうとしても、難しい。


380: 2013/06/10(月) 05:56:47.62 ID:eaBLS+OVo

 濡れるのも厭わず膝をついて探したけれど、見つけるまで結構な時間が掛かった。
 泥に手が汚れる。頭が痛くて、何も考えられない。 

 でも、たまらなく不安になった。
 灯りがなければ、わたしは帰ることができない。
 
 灯りがなければ……。

 必氏になって這い蹲っているうちに、たまらなく悲しい気持ちになる。
 灯りがなければ、わたしは帰ることができない。

 ようやく硬い何かに触れた。水の中から拾い上げると、たしかに探していたものだった。
 爪に泥が入って気持ち悪い。それでも、わたしはほっとした。

 曇り空に太陽が遮られているから、光は井戸の外には届かない。

 わたしはスイッチを入れる。カチリという音がする。
 でも、灯りはつかない。

 何度か試してみたが、結果は同じだった。水に濡れて、壊れてしまったのだろうか。
 たかだがちょっと濡れただけで? それか、落としたときの衝撃か何かかもしれない。


381: 2013/06/10(月) 05:57:22.45 ID:eaBLS+OVo

 どちらにしても同じことだ。わたしは灯りを失ったのだ。
 そう思うと絶望的な気持ちが襲ってきた。わたしにはもうどうすることもできない。

 もう一度梯子を昇って、森の中を通って屋敷に帰れるだろうか。
 わたしは左手の手首をゆっくりと動かしてみる。

 這い蹲って懐中電灯を探している間に、手首の痛みは増していた。
 ズキズキと痛み、手のひらに上手く力が入らない。
 それ以外のところだって、完全に無傷というわけではなかった。

 濡れた梯子を昇るには、ちょっと心もとない。
 空が、さっきまでよりずっと遠く、光が、さっきまでよりずっと弱々しく思える。

 わたしはたまらなく怖くなった。
 足元から恐怖が這い上がってくるのを感じる。
 
「ツキ!」

 思わず、地上に向けてそう叫ぶ。


382: 2013/06/10(月) 05:58:01.35 ID:eaBLS+OVo


 答えはない。当たり前だ。ツキはここにはいない。
 ここからじゃ、わたしの声はツキに届かない。

 一度は届く場所まで行ったはずなのに、わたしは彼をここに連れてこなかった。
 梯子から落ちた自分の間抜けさが心底嫌になる。
 
 地上に出ることもできない。灯りもない。ツキだっていない。
 自嘲からか、恐怖からか、思わず笑みがこぼれた。
 とても虚ろな笑い方だと、自分で気付いた。

 これが結果だ、とわたしは思った。
 これが、ツキを説得しなかった結果だ。
 自分が選んできたことの結果だ。灯りもなく、助けもない。

 わたしは溜め息をついた。そして自分に言い聞かせる。落ち着け、と。
 

383: 2013/06/10(月) 06:00:02.85 ID:eaBLS+OVo

 ふたつ、手段が考えられる。
 
 まずは、手の痛みをこらえて、どうにか梯子を昇り、外に出る方法。
 掛かる時間は少ないが、あまり採りたい手段ではない。
 下手をすれば、今度は手首では済まないかもしれない。

 それに、井戸を出ることができても、今のわたしは体力を使い果たしている。
 森を抜けて、雨の中を歩きまわり、屋敷に戻ることができるだろうか。
 
 下手をすれば森の中で迷ってしまうことだって考えられる。
 さっきみたいに、猫が案内してくれるとも限らないのだ。

 次に、暗闇の中を歩いて戻る方法。
 
 こちらの方が、たぶん危険はない。
 地下通路の構造は、わたしが思っていたよりも単純だった。
 結構な距離を歩いてきたけれど、壁沿いに歩けば迷うこともないだろう。

 歩いていけば、書庫につくはずなのだ。

 とはいえ、本当に長い時間、暗闇の中を歩くことになる。
 鼠だっている。一度方向が分からなくなれば、こちらに戻ってしまうこともあるだろう。
 それに、何も起こらないとも限らない。

384: 2013/06/10(月) 06:01:11.62 ID:eaBLS+OVo

 わたしは、暗闇を歩くことにした。
 時間の感覚が曖昧で思い出せないけど、来るときは相当な距離を歩いてきた気がする。
 足の筋肉だって、だいぶ疲れていた。

 でも、少なくとも命の危険はない、はずだ。
 それに、結構な距離はあったけれど、戻る途中に、例の奇妙な部屋があった。
 あそこだって地下にあるのだし、何らかの灯りが置かれていても不思議じゃない。

 蝋燭はテーブルの上に置かれていた気がするし、探せばマッチくらいはあるだろう。
 
 わたしは壁に手を触れて、歩き始める。
 最初の方はなんとか視界がきいたけれど、少し歩くとすぐに真っ暗になった。

 歩き続けてれば、例の額縁に、すぐに触れるはずだ。 
 あの額縁が途切れた頃に、光が見えたはずなのだから。

 でも、真っ暗になっても、額縁の感触は訪れなかった。
 暗闇に怯えて、歩幅が狭くなっているのだろうか?
 いっそ走り出したかったけれど、何かあったとき混乱してしまうかもしれない。


385: 2013/06/10(月) 06:02:37.92 ID:eaBLS+OVo

 案の定、額縁の感触が現れたのはだいぶ経ってからだった。
 わたしはそこでようやく溜め息をつく。
 ここからさらに歩かなければならないのだ。

 さっきからずっと、頭がズキズキと痛んでいる。

 意識を手放してしまいそうなほどだ。
 指先で触れる壁の感触だけが、わたしを繋ぎとめている。

 真っ暗な中を、わたしは歩き続けていく。
 
 自分の意識に入り込もうとしているような気分だった。
 足元も見えない。伸ばした手の先も見えない。

 それでも、歩き続けなくてはならない。
 わたしは、一度振り返ってみた。でも、光は見えない。

 まだ、そんなに歩いていないものだと思っていた。
 ずっとまっすぐ歩いてきたのに、既に光は見えない。

 後悔しても遅い。
 とにかく、進んでみるしかなかった。



389: 2013/06/11(火) 07:55:20.53 ID:CqJ5WJUIo



 何かがおかしいな、と思い始めたのは、額縁の感触がなくなって、しばらく経ってからだった。
 
 だいぶ歩いてきて、そろそろ分かれ道に辿り着くはずだ、と思い始めた頃。
 空気が奇妙な気配を纏い始めた。

 ざらついた埃の感触が風に乗って肌を撫でるような、そういう気配だ。

 しばらく歩くと、壁が不意になくなった。
 真っ暗だから分からないけれど、多分、分かれ道に来たのだろう。
 手探りで壁の角を探し、それに沿って方向を変える。
 
 記憶に間違いがなければ、すぐに扉と出会うはずだ。
 
 わたしは扉に体をぶつけないように、慎重に歩く。
 少しすると、確かに行き止まりのような場所に辿り着いた。
 
 取っ手の位置を探って扉を開けると、灯りが見えた。


390: 2013/06/11(火) 07:56:40.17 ID:CqJ5WJUIo

 わたしはほっとした。
 扉を開けた先には、ついさっき見たのと同じままの景色があった。

 机の上に並べられたティーカップ。壁に掛けられた絵画。
 それから粉々に散らかった割れた鏡。

 光源は机の上の燭台だった。蝋燭に火がついている。

 何か変だなとわたしは思った。物の配置はまったく同じだ。
 それなのに、さっき見たときとは、雰囲気が違う。

 さっき来たときと同じように、嫌な予感ばかりが募る。
 そういう部屋なのだ。あまり長居はしない方がいいだろう。

 わたしは机に歩み寄り、燭台に手を伸ばしかけて、動きを止めた。

 ……雰囲気が違うんじゃない。光の加減が違うのだ。
 さっきは、真っ暗だったから、懐中電灯の光で部屋の様子を見た。
 今は炎の灯りで、部屋の様子はかすかに赤みがかっている。

 誰がいつ、この蝋燭に火をつけたんだろう?


391: 2013/06/11(火) 07:57:23.19 ID:CqJ5WJUIo

 振り返ると、炎に照らされたわたしの影が、壁に大きく映し出される。

 掛けられた絵画の様子は変わらない。少女の顔がズタズタに裂かれている。
 誰が裂いたんだろう。

 鏡台の鏡は、なぜ割れているのだろう。

 いや、そもそも……。

 この部屋は、なんなのだろう?

 シラユキはこの部屋のことを知っていたのだろうか。
 ……いや、彼女は隠し通路のことを知らなかったはずだ。

 そういうものが存在している、という程度は感じていたかもしれないけれど。
 そうでなければ、彼女の振る舞いはあまりに不自然だ。


392: 2013/06/11(火) 07:58:18.40 ID:CqJ5WJUIo

 この部屋がただここにあるだけなら、わたしは何も考えずに済んだ。

 わたしが暮らしている屋敷についてだって、詳しいことは分からないのだ。
 ただ、そういうふうに出来上がってしまったものなのだろうと、シラユキの話を聞いてからは考えていた。

 でも……蝋燭に火がついているということは、ここに誰かがいたということなのだ。

 わたしが井戸を出て、ツキと話している間に、その人はここにやってきて、蝋燭に火をつけたのだ。

 この部屋には誰かがいたのだ。
 わたしでもなく、シラユキでもない。そしてきっとツキでもない。

 ティーカップは四人分。
 そのうちひとつだけ、紅茶が飲みかけになっていたはずだ。

 部屋中に埃が積もっていて、ひどく薄暗く、寒々しい。


393: 2013/06/11(火) 08:00:25.70 ID:CqJ5WJUIo

 火をつけた人物は、いったいどこにいるんだろう。
 いや、そもそも、その人は何者なんだろう。 

 少なくとも、下界の人間ではないだろう。
 彼らがわざわざ、こんな場所に部屋を作るわけがない。

 ましてや、この通路の存在を知っていたなら、以前、「空き巣」を探した際に、隠し扉の存在に気付いていたはず。

 あるいは下界の人間にも、群れからはぐれたような人物がいるのかもしれない。
 シラユキのような存在が、まだいるのかもしれない。

 だとすれば。
 ここに、執拗なまでに絵の中の少女の顔を突き刺し、何かに怯えたように鏡を割った人物が。
 飲まれるあてもない紅茶を入れるような人物が、この部屋で暮らしていたということになる。

394: 2013/06/11(火) 08:01:41.69 ID:CqJ5WJUIo

 わたしたちは、何の苦労もせずに屋敷に忍び込める隠し通路があることにも気付かなかった。
 その通路に、こんな部屋があることにも気付かなかった。

 つまり、ここに以前から"誰か"が居たのだとするなら、その人物は今までずっと、容易に屋敷に忍び込むことができたのだ。
 わたしやシラユキが眠っている隙に、その寝顔を観察することだって、その人物には簡単なことだったのだ。

 ……いや、そんなことよりも今考えるべきなのは。
 
 その人物が、"今"、どこにいるかだ。

 そもそも、わたしが最初に来たとき、ここには誰の姿もなかった。
 通路はほとんど一本道だ。途中で分かれ道はあったけど、書庫に入る道があるだけ。

 つまり、書斎から井戸まで向かう一本の道から、書庫に向かう通路、この部屋に向かう通路と枝分かれしている。
 
 その人は、わたしがこの部屋に来たとき、いったいどこにいたんだろう?
 
 わたしは壁や床を見遣り、さらに隠し扉があったりしないか確認してみた。
 鏡台の後ろにも絵画の裏にも、何もない。

 この部屋に隠れられる空間はない。


395: 2013/06/11(火) 08:02:26.13 ID:CqJ5WJUIo

 ということは、この部屋の主は、わたしがここにいたとき、他の空間にいたことになる。
 他の空間。

 わたしは書斎からこの部屋まで歩いてきた。

 その人物は、書庫や書斎を通じて、屋敷に忍び込むこともできた。
 井戸を通じて森に出ることもできた。

 ……まったく、予想もつかない。
 目的も、理由も分からない。

 いずれにせよ、わたしがツキに会いに行くためにこの通路を歩いている間、その人はここじゃない場所にいた。
 森なのか、屋敷なのかは分からない。

 そして、わたしが戻ってくるまでの間、その人もこの部屋に一度やってきた。
 机の上の蝋燭に火をつけて、そしてまたいなくなった。

 ……なぜ? 何のために?


396: 2013/06/11(火) 08:03:50.78 ID:CqJ5WJUIo

 その人がわたしの目を盗み、この部屋にやってきて、再びいなくなるのは簡単だったろう。

 森は四方に開けているから、隠れるのは困難ではない。
 書庫は本棚がたくさんあるから、身を隠すのは簡単だ。

 疑問はいくつかある。

 なぜ隠れたのか。
 なぜ、隠れたにも関わらず、自分の存在を誇示するように火をつけたのか。
 自分の存在を誇示するように火をつけたにも関わらず、なぜ、姿を見せないのか。

 ひょっとしたらその人は、隠れたつもりもなかったのかもしれない。

 わたしが再びここに来るとき、灯りを持っていなかったから、通路は真っ暗だった。
 その人は、わたしと平然とすれ違い、井戸の方へと抜けて行ったのかもしれない。

 まるで悪戯でもするように、簡単そうに。


397: 2013/06/11(火) 08:04:43.85 ID:CqJ5WJUIo

 怖気に、体が震えた。
 わたしは静かに息を吐き出して、ゆっくりと吸い込んだ。
  
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。
 そのときだった。わたしの心が落ち着くのを邪魔するみたいに、声が聞こえた。

「何がおかしいって、現実的じゃないことに、現実的に迫ろうとしていることだよね」

 女の子の声。どこかで聞き覚えのある声だった。

 背中越しに聞こえたその声に、わたしは扉の方を振り向こうとした。
 振り向こうとしたのに、怖くて振り向けない。

"怖い"? 違う。これは単純な怖さじゃない。もっと衝動的で絶対的な抵抗感。
 わたしは彼女の姿を見てはいけない。
 
 なぜかは知らないけど、そう思った。心臓も、思考も、落ち着きを失っている。

「いいかげんにしたら?」

 と彼女は言う。わたしは目を瞑った。

398: 2013/06/11(火) 08:05:49.87 ID:CqJ5WJUIo

「あなた、誰?」

「見れば分かるよ」

 わたしは見たくなかった。今の言葉で、話をしたくもなくなった。
 だからわたしは目を瞑ったまま、振り返って扉の方に向かう。

 そして扉から、部屋を出ようとした。
   
 視界はきかなかったけれど、幸い彼女とはぶつからずに済んだ。
 もしこのままこの部屋を出れば、わたしは再び暗闇に舞い戻ることになる。

 でも、暗闇の方がいくらかマシだ。
 真っ暗闇の中では彼女の姿も見ることもできない。
 
 それは彼女の姿を見てしまうことよりも、いくらかマシなことに思える。
 灯りよりも、暗闇に親しみを感じる。


399: 2013/06/11(火) 08:06:24.87 ID:CqJ5WJUIo

「逃げるんだ?」

 と声は言った。聞き覚えのある声。

"どうしてそんなに、醜いのか"

 そうだ。夢に出てきた声に似ている。
 以前、屋敷の中で聞いた、頭の中に直接響くような幻聴。
 あの声に似ているのだ。……でも、違う。本当は分かっている。

 わたしはこの声を、もっと他の場所で聞いたことがある。

 でもわたしはそれを"思い出したくない"。
 思い出したくないということは……本当は思い出さなくても知っているのだ。

 自分の思考が混乱していて、何がどうなっているのか、よく分からない。

400: 2013/06/11(火) 08:09:08.66 ID:CqJ5WJUIo

「落ち着いて、話をしてみない?」

 返事をしたらいけない。そう思った。
 でも、腕を掴まれてしまった。目を瞑りながら、振り払って逃げ切るのも現実的じゃない。
  
 第一、屋敷だろうと、森だろうと、彼女がわたしを追い切れないとは思えなかった。

「ふたりきりになっちゃったけど……お茶でも飲んでいかない?」

 その言葉に、諦めのような気持ちが、自分の中で湧き始めるのを感じた。
 諦めろ。わたしはここでこの人と話すしかないのだ。

 そして、上手に話すことができれば、わたしはわたしのままで居続けられる。

「目を開けたら?」

「……ごめんなさい」
 
「……分かった。手を引くから、転ばないように椅子に座ってくれる? 床にはいろいろ落ちてるから、危ないの。分かるでしょう?」

 わたしは彼女に誘導され、椅子に腰かけた。

401: 2013/06/11(火) 08:10:05.11 ID:CqJ5WJUIo

「お願いがあるんだけど」

「なに?」

「火を、消してもらえる?」

 わたしがそう言うと、彼女は苦笑したようだった。
  
「そんなに、わたしを見たくない?」

 わたしは答えなかった。
 彼女は溜め息をついた。それから、息を吹きかけるような音が聞こえる。
 瞼越しの視界から、肌色の光が消えた。

 目を開けると、暗闇の中にいた。
 わたしはほっとして溜め息をつく。
 
「これじゃ、紅茶も飲めないね」

 と彼女は冗談っぽく言った。事実、皮肉のつもりもない冗談なのだろう。

402: 2013/06/11(火) 08:12:19.49 ID:CqJ5WJUIo

「さて、それじゃ、話をしようか」

「話すことなんてない」

「……そうもいかないって。わたしたちにとって最悪の事態は、このまま時間切れになってしまうことなんだよ」

 分かってるでしょう、と彼女は言う。でも分からなかったし、分かりたくもなかった。
 そんな自分の感情の高ぶりが、彼女の言葉を肯定しているのと同じことなのだろう。

「あなたも、わたしも、選ばないといけない。はっきりとした答えを。ううん。選ぶべきだと思う、かな。
 ……そうじゃないかもしれない。選んでほしい、かもしれない」

 彼女は寂しそうな声でそう言った。わたしは暗闇の中、じっとうつむいて椅子に座っている。
 誰も彼もがそんな声でわたしに話しかける。憐れむように、懇願するように。

「ツキは、下界の人たちに捕まったよ」

 と彼女は言った。わたしはぎくりとする。
 何かを試そうとするように、彼女は続けた。

「どうしようか。それを、決めないとね」

 わたしはまた、何も言えなくなった。

406: 2013/06/12(水) 07:12:05.25 ID:7hCNFplso



「わたしが誰だか、あなたには分からない。そうだよね。
 だってそういうふうに出来てるんだから。

 真っ暗闇はつらくない? このままだと、何も見えないけど。
 ……うん。分かってる。見たくないんだよね。全部分かってる。

 でも、ここではっきりさせなくちゃいけないんだ。

 わたしが誰なのか、あなたには分からない、と、あなたは感じている。 
 でも、本当は気付いているんでしょう?

 わたしが誰なのか。絵画にフォークを突き刺したのが、本当は誰なのか。
 鏡を割ったのが誰なのか。

 鏡に映ったのが誰で、絵に描かれたのが誰なのか。
 ぜんぶ、ぜんぶ、予想がついてるんでしょう?


407: 2013/06/12(水) 07:15:33.70 ID:7hCNFplso

 この世界は、シラユキが言っていたみたいに、たしかに世界として独立している。
 だから、あなたがこの世界からいなくなったとしても、世界は成立し続ける。
 
 でも、輪郭は曖昧だし、ちょっとしたことですぐに揺らいでしまう。すごく不安定なの。
 そして、世界が出来上がった瞬間のあなたの願望をはっきりと反映している。

 ここに来るまでの間、気付いたと思うけど、あなたの記憶や感情は制御されているんだよ。

 たとえば、ある一定の事柄について、あなたは忘れている。
 そして、あなたがそれを思い出そうとすると、感情の方が支配される。
 つまり、"思い出したくない""思い出さなくてもいい"という感情が立ちのぼってくるってこと。

 記憶に制限が掛かっているわけ。
 どうしてそうなったかというと、それは世界がそういうふうに作られたから。

 この世界に、あなたは支配されている。
 そしてこの世界をそういうふうに作ったのは、あなた自身、というわけ。


408: 2013/06/12(水) 07:18:08.28 ID:7hCNFplso

 ここまではさして驚きもないでしょう? 成り立ちからしておかしな世界だしね。

 どうして世界がこんな形になったのか。世界をこんな形にしたのか。
 それは、わたしにもちょっとはっきりしない。いろいろと、筋が通らないところも多いし。

 それはたぶん、あなた自身の望みが、単純な形で表せるものじゃなかったてことだと思う。
 その結果、この世界は、ふたつの可能性に対応できるような形になったわけ。

 この世界に留まり続けることで現実においての氏を選ぶか。
 この世界から脱して現実に戻ることを選ぶか。 

 もしあなたが氏にたいなら、氏ねるように。
 もしあなたが生きたいなら、生きられるように。 
 
 どちらも選ばなかったとしたら、やっぱり氏んでしまうんだけどね。


409: 2013/06/12(水) 07:18:49.94 ID:7hCNFplso

 もしあなたが氏にたいだけだったら、こんなまどろっこしい世界は必要なかった。
 そして、もしあなたが生きたいとだけ願っていたなら、やっぱりこんな世界は必要なかった。

 それって、ごく自然なことだと思わない?
 生きたいという言葉が、単純な生存だけを意味するわけじゃない。
 生きたいように生きることは、もっと多くのものを必要とする、とても大変なことだから。

 この世界が出来上がった段階で、あなたの心はかなり氏の方へ傾いていた。
 そのせいで、世界全体は氏に偏っている。
 
 分かるでしょう?
 放っておけば氏んでしまうようにできているし、あなたの思考は氏に傾くように制御されている。
 何もしなければ、何も分からないままでいれば、氏んでしまう。

 でもそれじゃあ選択の余地がないのと変わらない。
 それに対抗するために、シラユキが存在していたし、ツキが入り込めるような隙間も作ってあった。
 
 純然な意味で、この世界は「あなたを反映した世界」ってこと。


410: 2013/06/12(水) 07:20:11.52 ID:7hCNFplso

 そういう意味で、あなたの願望のひとつはとても、とてもシンプルな形でこの世界を象徴している。

 雨。

 雨が止まないこと。
 シラユキが自分の傍からいなくならないこと。

 陳腐な言い回しをすれば、あなたが望んだのは永遠。
 永遠の幸せ、とか、永遠の愛、じゃない。不変、みたいなもの。

 たくさん苦しくて、嫌になっちゃったんだと思う。
 で、嫌になってみるとね、こう、分からなくなっちゃうんだよね。
 
 自分がその場に居続ける意味とか、理由とか。
 苦しいならやめちゃおうって、そう思う。どうせ何もかも、いつかは終わるんだし、って。

 いつかなくなるものなら、今なくなってしまってもかまわない。そう思ったのかもしれない。
 そして世界には、いつかなくなるものばかりが溢れていた。

 いつかなくなる世界に価値を見出せないなら、そこにしか生きられない自分自身の価値もまた、なくなってしまう。
 価値のないものをどのように扱っても、別に困りはしない。

 結構単純な理屈だよね。


411: 2013/06/12(水) 07:22:26.75 ID:7hCNFplso

 でも、そんな考え方じゃ、何もできなくなってしまう。
 あなたはあなたなりに、価値のあるものを見つけようとした。
 そうすることで、"何もなくなってしまう"ことを避けようとした。

 そして考えたのが、『終わらなかったら?』ってこと。

 永遠に楽しいことが続いたら、やめなくても済む。
 逆に、苦しいことがずっと続くなら、それはそれで救いめいてるよね。

 喜びのない世界では、苦しみは単調だから、それは既に苦しみとして機能しない。

 あなたは、ありとあらゆる変化を拒絶することに、かろうじて価値を見出した。
 変化のない永遠に価値を見出した。現実の外側に、価値を見出した。

 そして、この世界はやがて"それ"に辿り着く。 
 
 この世界は、もうすぐ時間を止める。……違うか。失う、というのかな。静止した一瞬だけの世界になる。
 時間という概念が消えてしまう。

"前"も"後"もない。一瞬が切り取られて、そこに存在し続ける。
 それをもってひとつの永遠として完成させようとしているの。この世界がね。

412: 2013/06/12(水) 07:24:45.27 ID:7hCNFplso

 あなたという存在は、今はまだ現実にも存在しているし、存在しうる。
 肉体的には……危険な状態かも知れないけど。

 でも、意識は今、こちら側に存在している。
 ふたつの世界に、ひとつずつあなたの肉体が置かれていて、片方にだけ心がある、と言えば分かるかな。
 肉体は所詮物質だから。……なんて言ったら、怒られそうだけど。
 
 だからあなたがこちらを選べば、現実のあなたは氏んでしまう。
 現実を選んだとき、こちらのあなたがどうなるのかは、わたしにも分からないけど。

 本題はここから。

 もしあなたが本当に永遠"だけ"を望んでいるなら、シラユキはもっと別の形で存在していた。ツキだってここには来られない。
 彼と彼女がここにいるということは、迷いがあったんだと思う。

 保険に保険以上の意味なんてない、ってあなたは言うかもしれないけど。
 本当に、生きる必要がないと思っていて、それが揺るがないのだとしたら、保険なんてやっぱりいらないと思う。

 単純に心変わりを恐れただけ、とも言えるかもしれないけど。

 でも、あなたの場合は、心のどこかで期待していたんだと思う。
 何か根本的な転換みたいなものが起こるんじゃないかって。
 抜本的な解決のようなものが、不意に訪れるんじゃないかって。

 つまり、もっと別の形で、世界に価値を見出せるんじゃないか、って。

 そんなふうにして、この世界は、こんなおかしな形になった。

413: 2013/06/12(水) 07:26:04.98 ID:7hCNFplso

 そろそろ不思議になってこない?
 どうしてわたしが、こんなことを言うのか。

 それには、わたしが何者かという部分が関わってくるんだけど……。
 これまでわたしがあなたに語り掛けたとき、明るいことはまず言わなかったよね。

 ここに居続けてもいいとか、どうせ他の居場所はないとか、だいたいそんなようなことを言っていたと思う。
 毎晩夢に出て、醜い、醜いって言い続けたりもした。そのあたりは、わたしのせいってわけでもないけど。

 そうしたわたしの言葉もまた、あなたの心を反映したものだった。
 
 そんなわたしが、どうしてわざわざ、こんなことをあなたに説明しているのか。
 わたしは時間切れを待つこともできたし、あなたに何も知らせないこともできた。
 わたしが本当にそれを望むならね。

 でも、それをする気になれないのは、単純な理由。
 わたしが嫌になったから。

 あなたが世界を知ろうとすれば、わたしはあなたに"知りたくない"と感じさせる。
 あなたが世界を知りたくないと感じているうちは、そう思い続けるように誘導する。

 そういうふうに作られた、わたしもこの世界の一部だったってこと。
 あなたの影のようなもの、と言えるかもしれない。

414: 2013/06/12(水) 07:30:23.78 ID:7hCNFplso

 だから、あなたの感情は、本当は大部分が欠落している。記憶と同じようにね。
 欠けた部分はわたしが持っている。

 でも、なんていうのかな。そのあたりも面倒な話なんだけど。
 
 あなたが生に傾いた思考をするたびに、わたしはその思考を氏に傾け直すような仕事をしていたわけ。 
 そして、ツキが来てから、あなたの心は思いのほか、生の方に傾いてしまった。
 結果、わたしは何度も、あなたの心を氏に傾け直した。

 どうやったかというと、そうした前向きな――という言い方は好きじゃないけど――感情を、わたしが抱え込んだの。
 つまり、生に傾いた心を、わたしが吸い込んで、ため込んでいた。

 その結果、わたしの心まで、生に傾いてしまったんだと思う。

 あなたは氏にたがっていた。だから自然、氏に傾くように、世界にわたしが配置された。

 シラユキがあなたを現実に繋ぎとめる役割だとしたら、そもそものわたしはあなたをこちらに繋ぎとめる役割だった。
 その構図が、ちょっと崩れてしまったの。

 でも、それだってきっと、保険のようなシステムの一部なんだと思うけど。
  


415: 2013/06/12(水) 07:32:40.27 ID:7hCNFplso

 絵画に描かれていたのも、鏡に映ったのも、あなた自身。
 そして、絵画を破ったのも、鏡を割ったのも、わたし。

 どうしてそんなことをしたかっていうと……。
 結局、わたしも、わたしの中のあなたの感情を飼いならせなかった、ということになるんだと思うけど。
 あなたの心が生に傾いていたとき、わたしはそれに強く抵抗しなくちゃならなかったから。
  
 あなたが生に傾いたとき、わたしは氏に傾いていた。
 そして、その傾きをもって、あなたに語り掛けていた。そうすることで、生に傾きかけたあなたの心を元に戻していた。

 心当たりがないわけじゃないと思うけど、それがわたしの仕事だったってこと。
 知ろうとすれば、知りたくなくなるように。興味を持てば、興味を失うように。

 これで、世界についてはわかったでしょう。
 
 じゃあ、今、どうしてこんなことをわたしが話しているのかっていうと、これは単純。
 
 あなたに選択を迫るため。

 これらの事情のすべてを知ることで、あなたは自分の感情を自由にするかどうかを選ぶことができる。
 感情の制御を、わたしから解き放つことができる。

 でも、そうすると、もう後戻りはできない。だから、抵抗する部分もある。

416: 2013/06/12(水) 07:33:27.56 ID:7hCNFplso

 あなたは、ツキを助けたい。"助けたい"と思いたがっている。
 そのためには、自分を制御している理屈の一部が邪魔。
 だからといって、理屈を無視して動いてしまえば、ひどい混乱が起こってしまう。

 助けてほしいと思っていない人を助けることは、氏にたがっているのに生かされてしまうこととパラレルだから。

 だから、あなたは選ばなくちゃいけない。

 設問はとてもシンプル。
 あなたにとって、ツキは、価値のある人物かどうか。

 価値のないものなら、氏のうが生きようが、どうでもいいはず。
 価値のあるものなら、本人が望んでいなくても、引き留める努力をするくらいは、許されるはず。

 当然だけど、ツキを価値あるものだと認めてしまうと、あなたにはちょっとした変化が訪れる。
 言い訳がひとつ、消えてしまう程度の小さな変化。
 でも、言い訳が消えてしまったら、あなたは向き合わなくちゃいけない。 

"あなた"が望めば、"あなた"の中のルールが変わる。そうすれば、ツキを助けることだってきっとできる。

 さて、どうする?」
 

421: 2013/06/13(木) 06:55:13.17 ID:gz5u5IpNo



「ツキは石ころじゃない」

 とわたしは言った。そう言った瞬間、前後の記憶がひどく曖昧なことに気付く。
 なぜわたしは、不意にそんなことを口にしたんだろう。

 それから、世界に光があることを、ふと意識する。
 それまでと変わらず、赤みがかった頼りない灯りだ。

 その光は大きな影をも作り出していた。
 それがあることで、よりいっそう影を際立たせてしまうような光。

 でも、何はともあれ、それが光であるのは確かだ。
 光がある以上は、まったくの暗闇というわけではない。
 影は闇ではなく、光のひとつの性質であり一面だ。

 机の上の燭台。そこに刺さった蝋燭。その先の炎。
 あの部屋の中に、わたしはいる。
 そうやって、視界の中の情報を連結させていく。

422: 2013/06/13(木) 06:57:31.34 ID:gz5u5IpNo

 石の壁。鏡台。絵画。机とティーカップ。自分が座っている椅子。

 わたしの目の前には誰の姿もなかった。

 さっきまで誰かと話をしていたような気もするけれど、よく思い出せない。
 誰かの姿を見た記憶がない。
 
 ただ、炎が煌々と燃えていた。

 わたしは立ち上がり、深呼吸をする。
 それから部屋の様子を確認した。

 机の上のティーカップは三つ。冷めた紅茶が入っている。
 鏡は割れていない。振り返ると、壁に掛けられた絵画は、裂かれてなんていなかった。

 おかしなことじゃない、とわたしは思う。
 ただ、世界はそういうものだったのだ。少なくともこの世界は。
 わたしはわたしのことをちゃんと思い出せたし、感情が切り離されたりもしていない。

 壁に大きく映るわたしの影は、ちゃんとわたしと繋がっていた。

423: 2013/06/13(木) 06:58:07.64 ID:gz5u5IpNo

 わたしは燭台を掴みあげ、扉に向き直る。
 行かなければ、と思う。
 
 そう思うことができる。
 後のことなんて今は考えない。
 わたしがわたしをどうするかなんてものは、保留でいい。

 ツキに会わなきゃ、とわたしは思った。
 わたしはまだツキに何も言えていない。

 結果がどちらになるかなんて、わたしには分からない。
 
 でもわたしは、そうしたい。

 それは、難しいことかもしれない。
 わたしの言葉はもう、彼には届かないかもしれない。

 顔を合わせることだって、できなくなるかもしれないのだ。
 もしかしたら、既にそうなっているのかもしれない。


424: 2013/06/13(木) 06:59:07.50 ID:gz5u5IpNo

 どれだけの決意で臨もうと、世界はそれを無視してあっというまに通り過ぎてしまう。
 この世界も、現実も、変わりはない。
 ルールが既に決まっていて、わたしはその内側に従うことしかできない。

 望むだけで、現に起こっている何かを覆せたりはしない。
 唯一、わたしの意思によって変えられるものがあるとしたら、それはわたし自身だけだ。

 あとのことは、意思だけでは、変えることはできない。せいぜい、変化を促すくらいが限界だ。
 ツキのことだってそうだし、わたしのことだってそうだった。
 
 どうだろう、とわたしは自分に問いかけた。
 わたしに何かを変えることなんてできるだろうか。変化を促すことなんてできるだろうか。
 
 分からない、とわたしは答えた。
 でも、変化を望むなら試みるしかない。それは降って湧くようなものではない。

 扉をくぐるとき、一度だけ部屋を振り返った。わたしの影がかすかに揺らめいた気がした。

425: 2013/06/13(木) 06:59:51.32 ID:gz5u5IpNo

 蝋燭の灯りを頼りに、わたしは急いで屋敷への通路を辿る。
 運動はあまり得意じゃない。走るのは苦手だった。
 
 ずっと昔、現実の学校で、体育の授業のとき、走り方が変だってバカにされたことがあった。
 今でも覚えている。先生も一緒になって笑っていたっけ。
 でも、自分じゃ何がおかしいのか、分からなかった。指摘してくれる人もいなかった。
 
 だからわたしは、次の授業から走らなくなった。笑われるのは嫌だった。
 そしてわたしが走らないでいると、先生はわたしを叱った。
 言い聞かせるみたいな優しい声を作って訊ねた。どうして走らないの、と。
 
「笑われるから」とわたしは答えた。先生は困ったような顔をして、笑わないから走りなさい、と言った。
 
 でもわたしは走らなかった。叱られても宥められても、わたしは走らなかった。


426: 2013/06/13(木) 07:00:19.04 ID:gz5u5IpNo

 そのことはちょっとした学級問題にもなった。

 たとえ自分が変に思ったことでも、一生懸命にやっている人を笑うのはやめましょう、と先生はみんなに言った。
 もちろん、その理屈の方がよっぽど変だった。

 先生は次の体育の授業のとき、走らないわたしを責めた。
 わたしはあなたのために働きかけたのに、あなたがわたしの努力を台無しにしている、とでも言いたげな態度だった。
 
 みんなが笑わなくなったって、みんながわたしの走り方を変だと思うことは変わらない。
 だからわたしは走りたくない。「走りたくない」というそれを認めてほしかっただけだ。
 
 別に自分の走り方に誇りをもっていたわけでもないのに、それを認められたところで何も言えない。

 正しい走り方が知りたかったのだ。笑われない走り方が。
 わたしだってちゃんと走りたいとは思っていた。


427: 2013/06/13(木) 07:01:30.94 ID:gz5u5IpNo

 いつも。ずっと。昔から。いつだって、わたしはわたしなりにまともになろうと思っていた。
 そのための努力だって必氏にしてきたつもりだった。

 母がわたしを不快に思うのは、わたしが不快なことをしているからだと思った。
 他の子どもができることを、わたしがこなせていないから、他の子どものように愛してもらえないのだと。

 だからいい子になろうとした。好かれることができなかったとしても、嫌われ続けることは嫌だった。
 思いつくことは何だってやった。勉強だってがんばったし、それは成績にだって出た。
 でも、母は態度を変えなかった。何をやっても。どうすることもできないのだろうか、とわたしは思った。

 家庭訪問のときに、先生は体育の授業でわたしが走らないということを母に伝えた。

 母はわたしを叱った。どうして走らないの、と母は訊いた。
 走り方が分からないから、と言うと、母は強烈な皮肉でも言われたときのように激昂した。

 ごめんなさい、とわたしは謝った。そして体育の授業で走るようになった。
 どうすることもできないかもしれない。
 それでも、母が望む通りで居続ければ、ひょっとしたら何かが変わるかもしれない。そう思った。


428: 2013/06/13(木) 07:01:57.48 ID:gz5u5IpNo

 わたしが走ると、先生は満足そうに笑った。それを聞いて母はほっとした。
 クラスメイトたちはわたしを笑っていた。

 何も変わらなかった。

 正しい走り方なんて、誰も教えてくれなかった。

 訊いてみたら教えてくれたかもしれない。
 どういうのが正しい走り方なんですか、と。

 そうすればきっと誰かが快く説明してくれたかもしれない。
 コーチだって買って出てくれたかもしれない。でも、わたしはそんなことを言えなかった。

 それを訊くのはとてもみじめなことに思えたのだ。

 どうして今、こんなことを思い出しているんだろう。


429: 2013/06/13(木) 07:02:42.37 ID:gz5u5IpNo

 書庫に這い出るとき、埃のせいで咳が出た。
 泥だらけのレインコートをその場で脱ぎ捨てる。

 走ることが嫌になるよりも、ずっと前、あなたはどうしてそんなに醜いの? と母はわたしに訊ねた。
 初めてそう言われるまで、わたしはそんな自覚を持ったことはなかった。
 自分の容貌について深く考えたこともなかった。

 でも、母が言うならそうなのだろう。そうか、わたしは醜かったんだ。そう思った。
 
 鏡を見つめる日々が始まった。醜いと言われてから鏡を見てみると、実際に醜く見える。
 どうしてわたしはこんなに醜いんだろう? そう思った。そう問いかけ続けた。
 
 自分の顔を見ることが、段々と怖くなってきた。人前に姿を出すことも、怖くなった。
 本当は外にだって出たくなかった。でも、家の中に居る方がずっと怖いのだ。

 母の視線には、憎しみや嫌悪ですらない、憐れみに近いものが宿っていた。
 本当にどうして、この子はこんなに醜いんだろう、と、そう言いたげな瞳。

 その目で見られると、わたしはすぐにでも消えたくなった。


430: 2013/06/13(木) 07:03:14.58 ID:gz5u5IpNo

 髪型が悪いのかもしれない。骨格が理由なのかもしれない。
 体型かもしれないし、顔つきかもしれない。

 何がそう見せるかは知らない。でも、醜いから、母はわたしを嫌う。
 何をしたって取り返せないのだ。

 どうしてわたしは、こんなに醜いんだろう。
 そう思いながらわたしは鏡と向かい合い続けた。

 何ひとつ、変わらなかった。 
 
 世界はわたしとは無関係のルールで動いているようだった。
 誰かひとりを特別扱いしたりしないし、誰かひとりを助けたりしない。
 今までも、これからも、世界はずっとそんなふうに動いていた。

 だから世界とは関係がない。 
 これはわたし自身の問題だ。


431: 2013/06/13(木) 07:04:35.01 ID:gz5u5IpNo

 書庫から階段を駆け上がり屋敷の一階に出た。
 地下から出ると、途端に外の明るさが目に突き刺さった。
 廊下の窓から、シラユキが傘をさして中庭に立っているのが見えた。

 わたしは蝋燭の炎を吹き消した。
 
 それから燭台をその場に放り投げた。思ったよりも大きな音がする。
 シラユキにも聞こえたのか、彼女はわたしに気付いたようだった。

 わたしが廊下の窓を開けると、彼女は中庭の中央からこちらの方に慌てて駆け寄ってきた。

「どうでしたか?」

 と彼女は訊いた。

「ツキが、捕まっちゃったみたい」

 とわたしは答えた。呼吸が苦しい。息がひどく乱れているのだ。
 そしてわたしは、自分の放った言葉を頭の中で反芻してみた。

 ツキが捕まった、と、わたしはどうして知っているんだっけ。
 でも、確信があった。ツキはもう捕まってしまった。わたしはそう知っている。

 とにかくそうなっている、という事実だけは分かっている。

432: 2013/06/13(木) 07:05:08.03 ID:gz5u5IpNo

 シラユキは悲しそうな顔をした。もう泣き出してしまいそうな顔。
 今まで彼女は、何度こんな顔をしただろう。何度彼女にこんな顔をさせてきたんだろう。

「どうしたら……」

「助けに行く」
 
 間髪おかないわたしの返事に、彼女は息を呑んだようだった。

「準備をしたら、街に行く。ツキを現実に帰らせる」

「待ってください、そんなの……」

 無理です、とか、ダメです、とか、そういうことを言おうとしたのかも知れない。
 わたしがツキを逃がそうとすれば、そのことに下界の住人達が気付けば、彼らはわたしを捕らえようとする。

 それはシラユキにとって望ましいことではない。
 そうなってしまうと、わたしは自分の意思で選択することができなくなってしまうから。

433: 2013/06/13(木) 07:05:47.04 ID:gz5u5IpNo

「もう決めたの」

 とわたしは言った。シラユキは混乱した表情でこちらを見る。
 話している時間が惜しくなって、わたしは駆け出した。
 階段を昇って、自分の部屋に向かった。

 泥に汚れ、雨に濡れた服を着替える。
 ふと爪先に触れてみると、思っていたよりずっと冷たかった。
 
 着替えを終えてから、わたしは部屋の中央に立った。
 それから、壁際でそっぽを向いている姿見を見遣る。

 壁に向かっていた姿見の鏡面を、わたしは自分の方に向けた。

 鏡に映った自分の顔は、思ったよりも間抜けだった。
 転んだときについた泥が、顔に貼りついたまま乾いてしまっている。
 レインコートを着ていたとはいえ、髪だって結構濡れてる。

 みっともない姿なのに、服だけが汚れのない綺麗なものだから、それが尚更おかしさを掻き立てた。


434: 2013/06/13(木) 07:06:54.65 ID:gz5u5IpNo

 わたしは少し笑う。そして、これがわたしだ、と思った。しっかりと見ろ、これがわたしだ。

 手足は細い。運動をほとんどしなかったせいだろう。この世界でもそうだし、現実でもそうだった。
 外に出て遊ぶことが少なかったから、肌だって真っ白だ。
 
 わたしは指先で鏡に触れた。

 もう見て見ぬふりなんてできない。どんな結論を出すにしたって、そうなんだ。
 顔を洗って髪を乾かしたら、わたしにはやらなければいけないことがあるのだ。

 もう目を逸らし続けることはできない。
 これが、わたしなのだ。

 誰がなんて言ったって、とにいかくそれだけは揺るがない。
 わたしはこのわたし自身を認めて、受け入れて、そのうえで選ばなくてはならないのだ。

 選ぶ結果がなんであれ、そうすることでしか始まらないのだ。

439: 2013/06/14(金) 06:36:36.09 ID:DzmBzCz9o



「助けるって、いったいどうするつもりなんですか?」

 わたしは新しいレインコートと靴を用意した。
 顔を洗い、髪を乾かし、後ろでひとつに結んだ。

 そうした準備をしながら屋敷を歩き回るわたしに、シラユキは必氏に言い募る。

「何か手段を考えているんですか?」

「何も。状況が分からないもの。ツキがどこにいるのかさえ」

「それじゃあ、どうするんですか?」

「状況を掴むところから始めないとね」

 とわたしは言った。何が必要になるだろう?
 何があっても役に立ちそうだとも思うし、何があったとしても役には立たないという気もした。


440: 2013/06/14(金) 06:37:11.02 ID:DzmBzCz9o

「でも、見つかったら……」

「見つからないようにするし、見つかったとしても逃げ切ればいいんだよ」

「……そんなの」

 もちろん、逃げ切れるわけがない。わたしは走ることが苦手だ。体力だってない。
 状況にもよるが、見つからないというのも、ほとんど不可能だろう。
 
「自分から捕まりにいくようなものじゃないですか……」

 シラユキは情けない声を出した。わたしは溜め息をつく。

「新しい懐中電灯ってある? 持っていったのは壊しちゃったから」

「……はい。本当に行くんですか?」

「シラユキ」

 とわたしは呼びかけた。

「あなたも手伝って」

 彼女は意外そうな顔をした。


441: 2013/06/14(金) 06:37:39.32 ID:DzmBzCz9o

「わたしは街に行ったことがないから、ツキが捕まった後、どうなるかを知らない。
 すぐに殺されてしまうのか、少しでも猶予があるのか、それも分からない。
 もし猶予があるとするなら、どのような手段が講じられるのか、考えなきゃいけない。
 情報が必要なの。そのためには、シラユキ。あなたが必要なの」

「……わたしが、ですか?」
 
 彼女は戸惑っているようだった。
 なぜ、こんな顔をするんだろう。わたしにはよく分からない。

 彼女が何をどのように考えて、何を望んでいるのか、わたしにはよく分からない。

 話しながら、わたしは書斎に向かって歩く。
 シラユキは言葉の意味をなんとか咀嚼しようとしているみたいだった。

 書斎机から拳銃を取り出す。

 よく思い出せないけれど、この世界はわたしの心境を反映している、らしい。
 そういう話を、あの部屋で聞いた。誰から聞いたのかは、思い出せない。でも、そう言っていた。たぶん。


442: 2013/06/14(金) 06:38:37.55 ID:DzmBzCz9o

 だとすれば、この拳銃はどのような意味を持つのだろう。
 
 わたしは一度、ツキにこれを向けかけた。そして今、もう一度引き出しから持ち出した。
 シラユキは息を呑む。それからひどく戸惑ったような顔をした。

「威嚇くらいには、なるといいんだけど」

 なるはずだ、と思う。
 下界の街では、今いる人間は氏なず、今いない人間は生まれない。シラユキがそう言った。
 でも、それはまだ確定していない。つまり、氏にうるし、生まれうる、ということだ。
 
 変化を恐れるというのなら、街の人々は自分たちの氏を何よりも恐れるはず。
 だとすれば、有効ではないとは思えない。

「使うんですか?」

「使えるものは、なんでも使わないとね」

 とわたしは答えた。それからシラユキの目を見る。

「ツキを氏なせるわけにはいかない」


443: 2013/06/14(金) 06:39:31.42 ID:DzmBzCz9o

 どうして、と。
 シラユキの唇が、そういう形に動いた気がした。

「なに?」

 わたしが訊ねると、シラユキはつらそうな顔をした。

「どうして、ツキを助けたいんですか?」

 どうして、だろう。
 わたしはなぜ、ツキに対してだけ、こんな暴走とも言えるほどの感情の高ぶりを覚えるのだろう。
 
「シラユキは、ツキが氏んでもかまわないって思う?」

 彼女の瞳が、一瞬、強く揺れた。

「――そんなわけないじゃないですか!」

 シラユキの怒鳴り声を、わたしは初めて聞いた気がした。
 彼女は大声を出したことを後悔したように視線をあちこちに彷徨わせた。
 悔しそうな表情でうつむくと、瞳からぽろぽろと涙がこぼれだす。
 
 そうだろうな、とわたしは思った。シラユキはそう言うだろう。


444: 2013/06/14(金) 06:40:14.34 ID:DzmBzCz9o

「ごめんなさい」

 放っておくと、シラユキが先に謝ってしまうような気がした。だからわたしが、最初に謝る。

 わたしはもう一度自問してみた。
 どうして、わたしはこんなにも、ツキに執着してしまうんだろう。

 答えを出すのはむずかしかった。とても、むずかしい。
 でも、わたしは現実の自分について、既にほとんどのことを思い出していた。

 わたしの周りにはたくさんの人がいて、その大半の人間はわたしのことなどどうでもいいようだった。
 わたしだって、大半の人間のことはどうでもよかった。

 わたしの世界はとても狭かったのだ。


445: 2013/06/14(金) 06:40:40.91 ID:DzmBzCz9o



 母――義母にとってわたしは、夫の前妻の娘だった。 
 
 それはもう、曖昧になってしまった記憶だ。

 自分の血を引いていない娘。しかも、愛した人が愛した、自分ではない女の子供。
 それでも母は、きっと、わたしを好きになろうとしたのだと思う。

 ちゃんとそういう決意を持って、父と結ばれたのだと思う。
 母なりにしっかりと、わたしのことを背負う覚悟を持って、父と結ばれたのだと。

 そう思いたいわけじゃない。そういう記憶がたしかにあるのだ。

 わたしは愛想のない子供だったと思う。
 実母が亡くなったのは物心つく前のことだった。


446: 2013/06/14(金) 06:41:13.84 ID:DzmBzCz9o

 父が再婚したのは、わたしが小学校に入ったくらいの頃。
 
 再婚に際して、ふたりは慎重だった。なるべくわたしに負担がかからないよう配慮していた。
 わたしは、子供ながらに、気遣われていることを、ちゃんと理解していた。

 まず父は、わたしと義母を引き合わせた。義母はわたしのことを理解しようとし、仲良くなろうとした。
 父もまた、わたしが義母を好きになるように、たくさんの努力をしたのだと思う。

 わたしは、そうした両親の側の事情を、なんとなく、理解していたのだ。

 だからわたしは、母のことを好きになろうとした。
 父も、母も、それを望んでいたと思った。彼らはそのとき、まだ二十代だった。
 
 わたしは知らない人とうまく話せなかったし、自分のことを話すのも苦手だった。
 人から気に掛けられることも、あまり好きじゃなかった。


447: 2013/06/14(金) 06:41:58.82 ID:DzmBzCz9o

 三人で顔を合わせることがあると、二人はいつもわたしに気を遣ったような表情になる。 
 わたしはそれがすごく嫌だった。でも、父も母もそれを望んでいた。

 母と会った日の夜、父はわたしに必ず、「どうだった?」と訊ねた。

 楽しかったよ、とわたしは言う。
「あの人をどう思う?」と父は訊ねる。「楽しい人だと思う」とわたしは答える。

 父と母はそのことに安堵しながら、なおも慎重に話を進めた。

 ようやく話がまとまって、一緒に生活が始まってみると、母は違和感を抱いたことだろう。
 だってわたしは、母に「良い母親」であることを、まったく求めていなかったのだから。

 父に新しいパートナーにできることは、奇妙な感じはしたし、抵抗もあったけれど、納得はできた。
 でも、わたしに新しい母ができるということは、どうもうまく理解できなかったのだ。

 要するにその頃のわたしは、母を家族として認めていなかったのではないか。
 そうした気持ちこそが、母を深く傷つけたのではないか。

 今になってそんなことを思う。 


448: 2013/06/14(金) 06:42:43.86 ID:DzmBzCz9o

 父もきっと、母とわたしの間に、何か奇妙な雰囲気があることには気付いていただろう。
 
 でも、信じたくなかったのだろう。
 上手くやっていけていると、思って居たかったのだろう。

 わたしが嘘をついたことがいけなかったのだろうか。
 好きになったふりをしたことが?
 
 それとも、母が悪かったのだろうか。
 それとも、父が悪かったのだろうか。

 わたしには分からない。でも、そういうことではないような気もした。

 少なくとも、誰かの責任にしたところで、問題が解決するわけでもなかった。
 誰のせいでもなく、きっとわたしのせいでもなく、誰が望んだわけでもない。

 誰が悪いというわけでもなく、誰が悪くないというわけでもない。

 それでも、起こったことは、起こったことなのだ。


449: 2013/06/14(金) 06:44:40.09 ID:DzmBzCz9o



 ツキと初めて会った時のことを、わたしは思い出した。
 わたしが走ることを拒否して、でも結局何も変えられず、ふたたび走り出した頃。

 ある雨の日の夕方、わたしは家の近くの児童公園に、ひとり傘をさして、じっと立っていた。
 公園にわたし以外の子供の姿はなかった。

 そこに偶然通りかかったらしい男の子が、わたしに声を掛けたのだ。

 わたしは彼のことを知っていた。
 近所の家に住む、ひとつ年上の男の子。ちょっとぶっきらぼうで、少し怖かったのを覚えている。

「なにやってんだ?」

 彼はそんなふうにわたしに話しかけた。わたしは答えに困った。

「なにも」

 やっとのことで答えると、彼はどうでもよさそうに何度か頷いた。

「お前、名前は?」

 わたしは自分の名を名乗り、それから彼の名を訊ねた。
 ツキ、と彼は名乗った。


450: 2013/06/14(金) 06:45:09.30 ID:DzmBzCz9o

 彼はそれからしばらく、何かどうでもいい話をした。
 学校で起こったこと、家族と喧嘩したこと。そういうことを延々としゃべり続けた。
 ひょっとしたら日が暮れても続けるつもりなんじゃないかと思うほどだった。

 やがて彼は、一通りの話題を消化して、自分から言うことがなくなったのか、

「お前、まだ帰らないのか?」

 と、そう訊ねた。
 帰りたくない、と答えてから、わたしは少し後悔した。
 なんで、と訊かれると思ったのだ。

 でも、彼はわたしに何も訊かなかった。

 その代わりに雨空を見上げてひどく憂鬱そうな顔をした。

「雨が降ると嫌だよな。外で遊べないもん」

 そう、ツキは言った。
 わたしはその言葉に、思わず泣きそうになった。


451: 2013/06/14(金) 06:45:44.51 ID:DzmBzCz9o

 ずっと雨が止まなければいい、と思った。

 そうすればわたしは走らずに済むかもしれない。
 グラウンドが使えないくらいに雨が降ってくれれば、わたしはもう走らずに済む。

 もちろん、もし雨が降り続いたとしても、そうなれば今度は屋内で走らされることだろう。
 でも、そのときのわたしは、雨が降り続きさえすれば、二度と走らずに済むような気がしたのだ。

 黙り込んだわたしの様子を怪訝に思ったのか、ツキはわたしの顔を覗き込んだ。
 わたしは泣いていた。彼はひどくうろたえた。

「どうした、どこか、痛いのか? 痛いのか?」

 わたしが答えずに泣き続けると、「いたいのか」と彼は何度も聞いた。
 わたしはどこも痛くなかったし、どこにも居たくなかった。

「どうしたんだよ」

 と、困ったような声でもう一度ツキが訊ねたとき、わたしはようやく言葉を絞り出した。


452: 2013/06/14(金) 06:46:19.34 ID:DzmBzCz9o

「走りたくない」

 とわたしは言った。彼は困ったような顔をした。
 本当に戸惑っていたようだった。どうしてそんなことを言うのか分からない、というふうに。

 そして、

「なんで走りたくないのか知らないけど、走りたくないなら、走らなくてもいいんだぞ?」

 と言った。
 わたしをなだめる風でもなく、本当に、簡単な理屈を口に出しただけだというふうに。

「走りたい奴だけ、走ればいいんだよ」

 そんなふうに言われたのは、初めてだった。
 母は走らないわたしを叱った。先生も、わたしに走れと言った。


453: 2013/06/14(金) 06:47:55.06 ID:DzmBzCz9o

 クラスメイトたちは、わたしが走ることを期待している。
 そしてわたしが走り出せば、みんながひそひそと笑うのだ。

 先生に気付かれないように、でも、視線と言葉をひそかに交わして。

 今思えば彼は、授業のときの話だとは思っていなかったのだろう。
 それに、実際にその理屈が授業で通るなんて、わたしも思ってはいなかった。
  
 でも、わたしはツキの言葉に助けられたのだ。
 わたしに走ることを求めない人がいるのだと思った。

 その言葉を聞くまで、わたしはそんな人がいるなんてことを想像もできなかったのだ。

454: 2013/06/14(金) 06:48:46.23 ID:DzmBzCz9o



 わたしは書斎机の上に拳銃を置いて、それを見つめた。

 もし、この拳銃がわたしの心境を反映したものだとするなら、どのような意味を持つのだろう。
 少し考えてみたけれど、よく分からなかった。

 でも、このタイミングになって、これがあってよかったと思う。
 これがあったおかげで、わたしはツキを取り戻しにいくことができる。
 
 そうだとするなら、これもシラユキ同様、いざというときの保険のようなものとして置かれたのだろうか。
 これは反撃の為の手段として、ここに置かれていたのかもしれない。
 
 わたしは、夢の中で聞いた「駄目だ」という声を思い出す。
 引き留めるような、痛切な声。 
 あの言葉の意味が、今なら分かる。
 
 彼がわたしにそう言い続けたように、今度はわたしが彼に言わなくてはならないのだ。
 
 自分のことは、一旦棚上げにしてでも、わたしは彼に言わなくてはならない。

457: 2013/06/15(土) 06:58:21.61 ID:x3h76RAXo



 丘の下の街並みは、実際に歩いてみると、見下ろしていたときよりも、ずっと大きく、広く思えた。
 石畳の通りを歩きながら、雨の降り続く街を歩く。
 
 人の気配は、不思議としなかった。ささやき声もなかった。
 隣を歩くシラユキは、特に不思議そうな顔もしない。
 この街はずっとこうなのかもしれない。

「こんなふうに堂々と歩いていて、平気?」

 わたしが訊ねると、シラユキは一拍おいて、静かに頷いた。

「まだ平気です」

 と彼女は言った。それがどういう意味なのか、わたしにはよく分からなかった。
『まだ』ってどういうことだろう?


458: 2013/06/15(土) 06:58:48.51 ID:x3h76RAXo

 シラユキは黙り込んでいる。
 
 わたしが街に向かうと言ってから、彼女の態度は明らかに変だった。
 何か言いたいことがあるのに、それを言うことができないというような表情。

 彼女はいつも買い物に行くときに使っていた手提げ鞄を肩に掛けていた。 
 その中には書斎から持ち出した拳銃が入っている。
 
 ホルスターが見つからなかったので、そうやって持ち歩くほかなかった。

 最初はわたしが持ち歩こうとしたのだけれど、彼女はそれを強く拒絶した。

 わたしだって好んで持ち歩きたくはなかったから、別に彼女に持たせたっていいとは思ったのだけれど。
 それでも、何か、彼女の様子は変だった。

 雨に打たれて、石畳には染み込むような水溜りが出来ている。

 当たり前のように雨が降り続いている。
 
 何かを、見逃しているような気がした。


459: 2013/06/15(土) 06:59:17.17 ID:x3h76RAXo

 背の高い石造りの建物が通りの両側を囲んでいた。
 わたしはなんだか奇妙な気分になってくる。
 
 わたしも、シラユキも傘をさして歩いていた。
 レインコートは目立つから、と彼女は言ったけれど、この人気のない街中で、目立つも何もあるだろうか。
 そもそも、彼女が懸念していた見つかるかもしれないという可能性だって、今のところ気配すらない。

「人の姿がないのは、きっと皆、広場に集まっているからでしょう」

 わたしの疑念を見透かしたように、シラユキは落ち着いた声で言った。

「はっきり言っておきますけど、今のままでは、あなたがツキを助けるのは、不可能です」

 彼女はそんなふうに続ける。わたしには、彼女の発言の意味がうまくつかめなかった。

「……なぜ?」

 彼女は答えなかった。


460: 2013/06/15(土) 06:59:46.83 ID:x3h76RAXo

「……ねえ、シラユキ。わたしはずっと思っていたんだけど」

 わたしは彼女の横顔をひそかに眺めながら、訊ねた。
 シラユキの表情は透明で、雨の街の中で、静かに消えてしまいそうにすら見えた。

「あなたのことが、よく分からない。あなたはどこまで知っているの?」

 シラユキは、ときどきわたしの考えを見透かしたようなことを言う。
 それにくわえて、彼女がいないとき、わたしがどのような体験をしたかも、知っている節がある。
 にも関わらず、どんなことにも純粋に驚いたりしている。

「……わたしは、何も知りません」

「でも――」

「情報としては、何も知らないんです。ただ、分かるんです。
 そうでなければ、どこまで働きかけていいか、分かりませんから。
 このままでいいのか。このままではだめなのか。そういうことだけ、はっきりと分かるんです」


461: 2013/06/15(土) 07:01:27.29 ID:x3h76RAXo

 それは、つまり、どういうことなのだろう。
 よく分からない。でも、このままでは不可能、という言葉は、なんだかわたしを不安にさせた。

 彼女の言葉が本当なら、わたしは一度出直すべきなのか。
 それとも、何か策を講じるべきなのか。……いや。そのような猶予はなさそうだった。
 
 通りの向こう側には広場があった。
 遠目にも、人だかりがあることが分かる。
 大中小の大勢の人々。彼らは一様に存在感というものが希薄で、影絵のように薄っぺらに見えた。

 わたしは一度立ち止まり、その様子を見た。
 こちらに気付く人は、いないようだ。皆が、何かに注目しているようだった。
 こんなにも大勢の人が、この街には住んでいたのか、とわたしは思った。

 誰もが傘をさしている。
 
「……大丈夫です」

 とシラユキは言った。

「なにが?」とわたしは訊ね返す。

「今はまだ、人に見つかっても平気です」


462: 2013/06/15(土) 07:02:04.38 ID:x3h76RAXo

 わたしはその言葉に、さらに不安を掻き立てられた。
 シラユキはわたしを促すと、広場への道を先導した。

「シラユキ?」

 不安からそう呼びかける。彼女は返事をしなかった。

 遅れてついていくと、彼女は人だかりの最後尾に並んだ。
 たくさんの傘で隠れて、人の輪の内側の様子は覗けない。

 シラユキは人々に声を掛け、輪の中心へと近付いていく。
 人の裂け目。わたしはそこに入り込むかどうか、しばらく悩んでいた。
 
 けれど、考える隙はそんなになかった。人の輪はシラユキが歩くのに合わせて裂けていく。

 中央の様子が、わたしの位置からも見えた。 
 

463: 2013/06/15(土) 07:04:01.71 ID:x3h76RAXo

 輪の中心の地面は大きな円形に高く盛り上がっている。
 ちょうど人々の胸のあたりの高さで、奥から昇るための階段があるらしい。

 その中央には、背の高い男性二人に捕らえられた、ツキの姿が見えた。
 
 ツキの表情はここからでは見えない。
 衝動なのか、予感なのか、よく分からない何かに、体が支配される。

 彼はちゃんと立っているのに、わたしは既に彼が氏んでいるような錯覚に陥った。
 わたしは思わず、呟いていた。

「ツキ」

 わたしが声を出したその瞬間、それまで壇上に注目していた人々が、一人残らずわたしを見た。
 氏体のような表情。影のような存在感のなさ。その顔のひとつひとつが、目を見開いてわたしを見る。

 一瞬の出来事。薄ら寒さに、身が震えた。自分が何か、してはいけないことをしてしまったような気がした。


464: 2013/06/15(土) 07:04:45.47 ID:x3h76RAXo

 静寂が広場を包む。
 ほかの人々に遅れて、ツキが顔をあげ、わたしを睨んだ。
 
 思わず、息を呑む。
 ここには誰も、わたしの味方がいない気がした。

 人々はわたしを見つめたまま、ひそひそと声を交わし始める。
 最初は蚊の鳴くような小さな声だったのに、徐々に伝播し、広がって大きくなっていく。

 最後には口を開いていないものの姿が見えなかった。ざわめきの中心にわたしがいた。
 耳元で蝿が騒いでいるような大きな音になっていく。

 怖くなってシラユキを見たけれど、彼女はわたしの方なんてちらりとも見ていなかった。
 ただ壇上を見つめているだけだ。

 その視線を追いかけて、ふたたびツキを見る。
 彼は何も言わなかった。

465: 2013/06/15(土) 07:05:32.28 ID:x3h76RAXo

「御嬢さん」

 と声がした。聞き覚えのある声。わたしはその声に、強い抵抗を覚えた。

「珍しいですね。あなたがこちらに降りてくるとは。ひょっとして初めてではないですか?」

 声の主は壇上からわたしに話しかけていた。
 ツキを捕らえる二人の男の傍らに、その男は立っている。

 何度か、聞いた声。そうだ。シラユキが村長と呼んでいた。

「そういえば直接お目に掛かるのも、初めてだという気がしますね。まあ、どうでもいいことですが」

 男の声には抑揚がなく、表情には色がなかった。ただ喉が音を起こしているだけという感じだった。
 喋るというよりも吐き出すような声だ。

「それで、いかがなさいました? あなたも見物ですか?」

 わたしは思わず、シラユキの服の裾を掴んだ。


466: 2013/06/15(土) 07:06:04.56 ID:x3h76RAXo

 男は首をかしげた。心底不思議そうな顔。

「ツキ」

 とわたしはもう一度言った。 
 ツキはわたしから目を逸らした。シラユキも何も言ってくれなかった。

 ざわめきは収まらない。段々と人の話し声が大きくなっていく。
 それなのに、誰も彼もがわたしの言葉を聞くために耳をすませている気がする。

「……この男が、どうかなさいましたか」

 冷たい声で、彼はわたしに言った。
 わたしの心臓は嫌なふうに昂ぶった。
 わたしが態度をひとつ間違えるだけで、どうなるか分からない。そう思った。
 
 覚悟を決めて、言葉にしようとした。ツキを助けに来た、と。
 でも、言ってしまっていいのだろうか。このタイミングで? それは最悪だ。
 そうなれば、わたしもツキも、どうなってしまうか分からない。


467: 2013/06/15(土) 07:07:49.58 ID:x3h76RAXo

 わたしは縋るような気持ちでシラユキを見た。でも、彼女は何も言わない。
 段々と焦ってきて、わたしは彼女の服を何度か引っ張った。

 それでようやく、彼女はわたしの方を見てくれた。
 でも、何も言ってくれなかった。どうすればいいんだろう。

「ふむ」

 と村長は言った。彼はしばらくわたしの方を見つめた後、後ろを振り向いて誰かに合図をしたようだった。

「珍客がおられるようですが、まあ予定通り執り行いましょう。仕事ですからね」

 村長が言うのと同時に、檀上に何者かが現れた。
 巨躯の大男だ。仮面で顔を覆い、黒い衣服に身を包んでいる。
 
 手には巨大な剣のような、斧のような何かを抱えている。
 刃は鈍色に輝いていた。
 
 人々の視線はわたしから逸れて壇上へ向かう。
 わたしは息を呑んだ。
 
 彼らはツキを殺そうとしているのだ、と今更のように思う。



468: 2013/06/15(土) 07:09:38.97 ID:x3h76RAXo

 ツキはわたしをじっと見つめた。

「待って」

 たまらなくなって、後先も考えず、わたしは言った。

 ふたたび、視線がわたしに集まる。 
 ざわめきが一度収まる。痛いほどの静寂。

 雨が降り続いている。壇上の男たちは傘もささずに濡れていた。
 
「……待って」

 もう一度言うと、誰もが怪訝そうな顔をした。
 まるで話の通じない人を相手にしているような顔。
 
 何を言うつもりなんだろう、わたしは。

469: 2013/06/15(土) 07:10:09.64 ID:x3h76RAXo

「どうされました?」

 と村長は言った。わたしは一度シラユキを見た。彼女はわたしを見ているだけだった。
 ツキもまた、何も言わない。何も言わず、こちらを見ている。

「その人を、頃すの?」

 と、わたしは訊ねた。
 村長は一瞬、何を言い出すのかと言いたげな表情で、

「それが決まりですから」

 と当たり前のように答えた。

「……ちょっと、待ってくれない?」

 ざわめきが起こる。
 わたしは自分が何を言っているのか、よく分からなかった。

「なりません」

 と村長は言った。

「決まりです。決まりは守らねばなりません。お分かりでしょう」


470: 2013/06/15(土) 07:10:35.90 ID:x3h76RAXo

「……何も、頃すことはないんじゃないの?」

「決まりです」

 取りつく島もなかった。尚もわたしは言い募る。

「でも……」

「御嬢さん。この男が、どうかしたのですか」

 わたしは何を言おうか迷った。どこまで言っていいのか、わからなかった。
 それを教えてくれるはずのシラユキも、今は何も言ってくれない。

「ふむ」ともう一度村長は言う。

「わかりませんね。変化を認めるわけにはいきません。
 この男はここで殺さねばならないのです。可哀想なことですがね。
 けれどそれは、わたしたち皆の為です。いわば平穏のための礎なのです。
 ここで彼を生かしてしまえば、我々の守ってきたバランスが崩れてしまいます」 


471: 2013/06/15(土) 07:11:43.72 ID:x3h76RAXo

「でもわたしは、彼を助けたいの」

「"助けたい"?」

 と村長は繰り返す。ざわめきが波紋のように大きくなる。
 人々の声が波立つ。雨の音がかき消そうなほどだ。 
 わたしは不安と緊張に、気が遠くなりそうだった。

「助けたいとは、どういうことです?」

 わたしは何も言えなかった。

「それはひょっとして、この男を生かしたいということですか?
 バランスを崩しても、かまわないと? あなたはそう言うのですか?」

 呼吸がうまくできなかった。なんだかひどい重圧を感じる。
 視線が圧力になって、わたしを押しつぶしているような気がした。

 わたしはこんな気持ちを経験したことがある。 
 わたしが走る姿をみんなは笑おうとしているのだ。


472: 2013/06/15(土) 07:12:37.07 ID:x3h76RAXo

 ざわめきの中で、わたしは段々と自分が何をしているのかも分からなくなっていく。
 いったいここで何をしていたのだっけ?
 ただ人々の視線がわたしに突き刺さるようで……耐え難く、苦痛だった。

「そこの御嬢さんは――」

 不意に、声が聞こえた。

「どうやら俺の望みを理解してくれているらしい」

 ざわめきはふたたび、静寂へと変わる。わたしの呼吸は尚も乱れていた。
 
 檀上に立つ村長は、視線を巡らせ、やがてツキに視線を向けた。

「今喋ったのは、貴方ですか?」

 ツキは村長の顔を見つめ、唇を釣り上げた。
 質問には答えずに、彼は言う。

「俺は氏にたがりですから、首を斬られるのに抵抗はないんですがね。
 斬るのがこの野暮ったい男じゃ――」
 
 と、彼は顎で仮面の男を示す。

「――なんとも救われない話です。どうせ殺されるなら、他の方法か、他の相手がいいですね」

「残念ながら、これは決まりです。役割は決まっているのです。貴方に選ぶ権利はない。」


473: 2013/06/15(土) 07:13:08.46 ID:x3h76RAXo

「そういう事情は分かっているつもりですよ。ですけど、どうせ殺されるなら女の子に殺されたい」

 村長は奇妙そうに首をかしげた。

「わかりませんね。結局氏ぬのではないですか」

「どうせ氏ぬからですよ」

 ツキはそう言って、村長の方をじっと見つめた。わたしは目の前で何が起こっているのか、よく分からなかった。
 
 今、ツキは何をしたんだろう。
 わたしを、庇ったのか?

「そこの御嬢さんは、俺の望みを理解してくれたのではないですかね。
 ですから、助けたいと仰られたんでしょう。俺も彼女に殺されるなら後悔はない。もしそうなれば、非常に助かる」

 村長はしばらく疑わしそうな顔つきでツキを見て、それからわたしに視線を寄越した。

「そういう意味だったのですか?」

 わたしは上手く答えられなかった。
 それでも、黙り込んだのを肯定と受け取ったのか、村長は思案深げに溜め息をつく。


474: 2013/06/15(土) 07:13:34.46 ID:x3h76RAXo

「……まあ、そうですね。その程度の変更なら、問題はないでしょう。
 決まりに反するというほどでもありません。もともと誰もやりたがらない仕事ですし、御嬢さんが是非にと仰られるなら」

 わたしは一連の流れに唖然としていた。 
 自分の身に何が起こったのか、よく分からなかった。

 村長はわたしを壇上に手招きする。人々の視線が、またわたしに集まる。
 
 彼らは何を言っているんだろう。
 ツキは何を言ったんだろう。
 
 わたしに、この場で、ツキを殺せと。
 彼らはそう言っているのだろうか?

「どうぞ、こちらへ」

 と彼は言った。
 ざわめきの中、わたしはシラユキの横顔を見る。

 彼女は何も言わなかった。


479: 2013/06/16(日) 07:33:13.24 ID:2Yrmim71o

 檀上は思ったよりも広く、また寒々しかった。
 見下ろす視界は人と傘で覆い尽くされている。
 
 階段を昇るとき、村長が傘を畳むように言った。

「ここでは邪魔になるだけです」

 わたしはシラユキからレインコートを受け取り、それを羽織る。
 
「シラユキ」

 とわたしは彼女の名を一度呼んでみた。

 彼女は一瞬、怯えたように瞳を揺らした。
 それからわたしの方を見て、またそっけない表情に戻った。


480: 2013/06/16(日) 07:33:44.33 ID:2Yrmim71o

 その一瞬のゆらぎが、わたしを余計に混乱させる。
 
「さすがにあなたの腕では、首を落とすのは難しいでしょうね」
 
 と村長は言った。その物々しい響きに、わたしは怖くなった。
 現実感がないのだ。
 
 今、これは本当に起きていることなのだろうか。
 シラユキは鞄の中に手を入れて、拳銃を取り出し、わたしに差し出した。

「……ああ、それはちょうどいい」
 
 村長は言った。わたしはまたシラユキの顔を見た。
 彼女が何を考えているのか、分からない。

 受け取れずにいると、彼女は不意にわたしの耳元に唇を寄せた。

「これが最後になると思います」

「――え?」


481: 2013/06/16(日) 07:34:25.29 ID:2Yrmim71o

「これから先のことは、すべてあなたが選んでください」

「ちょっと待って、選ぶも何も、この状況じゃ――」

 選択の余地なんてない。
 わたしはそう言おうとした。

「もしあなたがここからツキを連れて逃げたいというなら、簡単な方法があります」

 問題はそれ以外のことなんです、とシラユキは言う。

「どういうこと?」

「とにかく、あなたはここで選ばなければいけません。もう猶予はありませんから」

 わたしの問いにも答えずに言い切ると、シラユキはまた無表情を作った。


482: 2013/06/16(日) 07:35:41.41 ID:2Yrmim71o

 シラユキはわたしの手のひらに銃を握らせる。それからわたしに弾丸を込めるように言った。

 わたしは混乱しながらも、人々の目を気にして、弾倉に弾を込める。
 何が起こっているんだろう。どうしてこうなったんだろう。

 腕が震えていた。

 なぜわたしがツキを殺さなくちゃいけないのだろう。
 どうしてわたしはこんなところに立っているのだろう。

 村長に背を押され、わたしは壇上で捕らえられたツキの元に歩み寄る。

 雨の音。ツキはずぶ濡れだ。疲れ切ったような表情で、わたしを見る。
 わたしと入れ違うように、黒衣の男が壇上から降りた。 

「ツキ、わたしは……」

 わたしは、と。
 そこまで言って、自分が何を言いたいのか、分からなくなってしまう。
 視界がぐらぐらと揺れている気がした。



483: 2013/06/16(日) 07:36:44.97 ID:2Yrmim71o

 わたしが黙り込んでいると、ツキを抑え込んでいた二人の男が、彼を濡れた地面にうつ伏せに組み伏せた。
 それを遮り、ふたりをツキから離れさせる。

 彼は特に縛られていたわけでもなかった。もう全身は自由だ。
 それなのに、逃げ出す気配は見せない。

 ツキはわたしを見上げて、

「頃してくれるんだろう?」

 つまらなそうに言った。
 わたしは絵の中の世界に迷い込んでしまったような気がした。

「ツキは、それでいいの?」

 周囲の人々のことも忘れ、わたしがそう訊ねると、彼は嘲るように笑う。

「俺がそれを望んだんだ。構わないよ、全部」

「あなたがいなくなったら、わたしは……」

「……俺がいなくなったら、なんだ?」

 その続きは、わたしには言えなかった。続きが、分からなかった。
 ツキがいなくなったら、わたしはどうなるのだろう。
 

484: 2013/06/16(日) 07:37:15.80 ID:2Yrmim71o

「どうしてわたしが、ツキを殺さなきゃいけないの?」

 まずいと思ったけれど、そう言わずにはいられなかった。
 檀上に集う視線。わたしを見張る何人かの人々。手に握った拳銃。
 傘をさしたままのシラユキ。何もかもが、わたしを無視して動いている。

 人々はわたしに何も言わなかった。
 何かが致命的に狂ってしまっている気がした。

「ツキ、あなたはここを去って、生きるべきだと思う」

 わたしがそう言うと、彼は皮肉っぽく唇を歪めた。
 傍に立っていて、わたしの言葉が聞こえたはずなのに、村長も、誰も、何も言わなかった。
 まるで、わたしの言葉は口先だけだと言っているみたいだ。

「お前はどうするんだ?」

「……わたしのことは、そのあとで考える」

「駄目だね」
 
 とツキは言った。


485: 2013/06/16(日) 07:39:20.53 ID:2Yrmim71o

「それじゃあ順番が逆だ。お前は選ばなくちゃいけないんだよ。俺を頃すか、俺を殺さないか」

「どうして?」

「順番だよ。順番が決まってるんだ」

「順番?」

「そう。お前が氏ねば、俺も氏ぬ。お前が生き延びれば、俺も生き延びる。
 より正確に言えば、お前が氏んだからこそ俺が氏に、お前が生き延びるからこそ俺も生き延びる。逆はない」

「どうして、そんなことに?」

「自分の胸に聞けよ」

 彼は無感情に言った。

 一瞬、雨に打たれるツキの姿が、視界の中でぼやけた気がした。
 ぼやけたツキの輪郭は、雨の飛沫に紛れながら、ひそかに線を揺らがせる。 
 錯覚だろう。ツキの姿が、わたし自身のように見えた。

486: 2013/06/16(日) 07:40:29.50 ID:2Yrmim71o

「生き長らえるつもりがないなら、俺が生きるか氏ぬかだって些細なことだ。
 いまさら俺が生き残るかどうかなんて気にしない。そうだろ。
 だってお前は、俺のことなんてどうでもいいと思ったからこそ、氏のうとしたんだから。
 後のことなんてどうなったってかまわないって思ったから、ここに来たんだろう。
 だったら、お前は俺を頃したってかまわないはずだよ。俺が氏ぬのは今じゃない。お前が氏んだあとのことだ」

「……言っている意味が、分からないんだけど」

「分からなくていいよ」

 わたしは少しの間押し黙ってから、「どうでもよくなんかない」と言った。

「嘘だね」

「嘘じゃない」

「じゃあなぜ氏のうとした?」

「それは……」

 口籠るわたしを、ツキは一瞥する。

「それとこれとは、関係ないでしょう?」

「冗談だろう?」

 雨音が続いている。地面の感触がふわふわとしている気がする。



487: 2013/06/16(日) 07:41:24.32 ID:2Yrmim71o

 わたしは少し考えてから、彼の疑問に答えた。

「あなたの価値とか、世界そのものの価値とか、関係ないんだよ、ツキ。
 わたしはただ、わたしとして生きるのが嫌になったから、氏んでしまいたいの。
 自分が上手くいかないから、氏んでしまいたいの。もう、価値とは関係ないんだよ」

「そんなこと、俺が知るか」

 わたしの答えに対して即座にそう言い切ると、彼は促すように頭を揺すった。

「いずれにしたって順番は決まっている。お前が氏ねば、俺は氏ぬんだ」

 順番。
 わたしが氏ねば、彼は氏ぬ。
 その順番は決まっているのに、なぜ、わたしが彼を頃すことになるんだろう?
 
「なぜ、そんなことになるの?」

「嫌になったからだよ」

 わたしはそれ以上、何を言うべきなのか分からなかった。

488: 2013/06/16(日) 07:42:18.18 ID:2Yrmim71o

 街の人々は、なにも言わない。
 わたしたちのやりとりなんてまるで聞いていないようだった。

「殺せよ」

 と彼は言った。

 わたしはしばらくの間、何も言わなかった。
 何度考えても、彼の言う理屈はおかしい。

 それなのになぜか、わたしは彼に真っ向から反論することができない。
 
「あなたに氏んでほしくない」

「俺もお前に氏んでほしくなかったな」

「わたしは……」


489: 2013/06/16(日) 07:43:51.29 ID:2Yrmim71o

 わたしは溜め息をついた。
 そして、どうしてこんな馬鹿らしい会話を続けているんだろう、と不意に考えた。

 もういいじゃないか、とわたしは思う。こんな押し問答を続けて何になるのだ?
 もう理屈なんて知ったことか、とわたしは思った。

「ツキ、もういい」

「……何が?」

「あなたの意思は、もう関係ない。わたしはとにかく、あなたを現実に帰らせる」

「無理だよ」

「無理じゃない。順番だかなんだか知らないけど、わたしがそんなものに付き合う理由がない」

 不意に、辺りがざわめき始めるのを感じた。いまさらだ、とわたしは思った。

「つまり、俺に選択の余地はないのか?」

「わたしはあなたを殺さない」

490: 2013/06/16(日) 07:46:40.18 ID:2Yrmim71o

「そうか。なるほどな」

 彼は考え込むような顔になった。静寂が辺りを包み込む。誰もなにも言わない。
 ただ雨が降り続いている。

 やがて彼は、笑い始めた。最初は震えのような小さな声。
 その声が段々と大きくなっていく。広場中に響くくらいに。

 そして彼は、はっきりとこう告げた。

「お前が俺の都合を知らないというなら、俺もお前の都合を気遣ってやる義理はない」

 戸惑うわたしに、ツキは、これまでにない晴れやかな表情で笑う。

「順番は変わらないんだよ。アヤメ。俺に選択の余地がないっていうなら、お前にも選択の余地はない」

 そう言って彼は、わたしの手首を掴んだ。

「俺を生かしたいなら、お前も生きるしかないんだよ。お前が氏ねば、俺も氏ぬからな」

 彼はわたしの腕を思い切り引っ張ってから捻り、背を向けさせると、腕の中にわたしを抱え込んだ。
 握っていた拳銃が強引に奪い取られる。彼はそれをわたしの耳の後ろに当てた。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。ツキが何をしようとしているのかも。 
 銃口の硬い感触が、冗談みたいに冷たかった。

491: 2013/06/16(日) 07:48:24.23 ID:2Yrmim71o

 真っ先に声をあげたのは、少し離れた位置にいた村長だった。

「捕えろ!」

 という彼の叫びに、

「動けばこの女を撃つ」

 ツキは大きな声で答えた。その声は笑っているように聞こえた。
 わたしは背筋が凍るのを感じた。彼は村長の顔を見て続ける。

「嘘だと思っているな? でも俺は撃つ。お前らに捕まりそうになったら撃つ。
 お前らに捕まったら、俺は氏んだも同然だからな。だとすれば、この女を撃ったって同じことだ」

 その声を聞いて、村人たちは動くのをやめた。誰もなにもできなかった。
 わたしは冷たい汗が流れるのを感じる。状況の変化に、ついていけない。

「そう心配するなよ。あんたらのたくらみを邪魔しようと思っているわけじゃない。 
 ただ、俺らは抜けさせてもらうだけだ。かまわないだろう?」

 広場を沈黙が支配した。誰もなにも言わなかった。
 雨の音が降り続いている。

 何か決定的なことが起こったのだと、わたしは遅れて気付いた。

495: 2013/06/17(月) 06:59:59.41 ID:IMrWsM59o



 広場には武装した人々はほとんどいなかった。
 処刑人と思われる男の持っていた剣さえ、実際の武器としては扱えない、処刑専用のものだろう。
 
 大勢の人がいたけれど、その人々は単純な見物人でしかなかった。
 拳銃を持って人質をとったツキにとれる対策は、そう多くない。

 ましてや急な状況の変化に、ほとんどの人間は唖然としていた。
 
 人々が騒ぎ始めたのはわたしたちが丘に向かう道へ出たのと同じタイミングだった。
 広場で起こっただろうそのざわめきは、街を出るわたしたちのもとにも聞こえた。

 わたしは途中から必氏になってツキの腕を振り払おうとした。
 彼はもう、わたしに銃口を向けてはいない。

 単純で物理的な力だけで、わたしを捕らえていた。

「どういうつもり?」

 とわたしは訊ねた。
 ツキは一度立ち止まり、それから窺うように広場の方を振り返る。



496: 2013/06/17(月) 07:00:27.54 ID:IMrWsM59o

「出口はどこだ?」

 と彼は言った。

「手を離して」

「こんな世界、さっさと出るぞ」

「……離してってば!」

 まるで予想外の力に押しのけられたみたいに、ツキはわたしの手を離した。
 彼は古傷が痛んだような顔をする。実際に痛んだわけではないはずだ。
 わたしは彼に何もしていないんだから。

「……追手がすぐに来る。ここを離れよう」

 なおも、ツキは言う。わたしは彼に、はっきりとした敵意を抱いた。
 
「あなただけが行けばいい」

 とわたしは言った。声が震えている。怒りからだろうか。悲しみからだろうか。


497: 2013/06/17(月) 07:00:58.58 ID:IMrWsM59o

「わたしはここでシラユキを待つ」

「……なあ、よく聞けよ、アヤメ」

 ツキは感情を抑え込もうとするような、静かな声で言った。
 彼はずぶ濡れだった。顔色はひどいものだ。
 
 このままここに突っ立っていたら、すぐに動けなくなってしまうだろう。
 
「俺はお前の都合なんてかえりみないって決めたんだよ」

「だったら、好きにすればいい」

「……そうかよ」

 彼はわたしの腕を掴んだ。強い力だった。骨が軋んだような気さえする。
 それからわたしの身体を引き寄せると、わたしの首筋に銃口を当てた。

「俺に従ってくれ。さもないと……」

「……さもないと、撃つの?」

 わたしは笑いそうになる。撃つわけがない。


498: 2013/06/17(月) 07:01:44.97 ID:IMrWsM59o

「わたしを頃して困るのは、あなたの方でしょ?
 あなたはわたしに生きていてほしい。わたしが氏ねば、あなたも氏ぬ。
 わたしを頃してしまったら、あなたの目的は達成されない。だから、あなたは撃てない。
 わたしはわたしが氏んだって、別に困らない。困るのはあなただけ」

 彼はわたしの瞳をじっと覗き込んだ。悲しそうな目をしていた。
 でも、それはそう見えるだけのことだ。彼はわたしのことなんてもうどうでもいいのだ。

「どうしてこんな世界に残ろうとするんだよ」

 ツキの言葉は、雨音の中に溶けていく。
 もう何も変わりようがない。わたしの心は決まってしまった。

 ツキのせい? きっと違う。
 ツキも、シラユキも、この世界も、現実も、すべて、わたしとは関係がない。
 わたしとは無関係に考え、思い、感じ、行動している。

 その積み重ねの果ての果てが、ここだっただけだ。

「少なくともここにはシラユキがいる。わたしはここで、彼女と一緒に暮らす」


499: 2013/06/17(月) 07:03:09.54 ID:IMrWsM59o

「なんだよ、それ……」

 悲しげな声だった。でも、それだってそう聞こえるだけのことだ。

 彼はわたしの腕を引き、強引に歩き始めた。
 抵抗しようとしても、彼は離してくれない。
 わたしは振り払おうとするのをやめた。どうせ彼には、どこにも行きようがないのだ。
 
 彼は出口を知らない。わたしは出口に向かうつもりがない。

「シラユキは氏んだんだよ、アヤメ。生き返ったりしない」

「この世界には、シラユキがいる」

「現実にはいない。土の下だ」

「だったら、現実なんていらない」
 
 とわたしは言った。

「わたしはここに残る」


500: 2013/06/17(月) 07:03:45.82 ID:IMrWsM59o

 彼は表情を歪めたけれど、わたしにはもう、その表情が何を意味するのかも分からなかった。
 どんな感情なのかも、分からない。

 雨の雫が彼を打ち続ける。
 わたしにはどうしようもない。

 彼はそれでも、出口も分からないまま、歩き続ける。 

 丘の上へと、彼は足を動かす。でも、その先に何があるというんだろう。

「ツキ、離して」

 彼は返事をしなかった。

「わたしはシラユキのところに行く」

 それでも彼は離さない。
 わたしは泣きたくなってきた。

 なぜわたしたちがこんな話をしなければならないんだろう。
 ……それはきっと、わたしのせいなのだ。


501: 2013/06/17(月) 07:04:14.42 ID:IMrWsM59o

「シラユキが氏んだのは、俺だって悲しいよ」

 ツキはわたしの方を振り向かず、前を見て、歩き続ける。
 わたしの腕を引いたまま。

 わたしは引きずられるままに、足を動かし続けている。
 歩いているのではない。ただ引きずられているだけだ。

「でも、仕方ないじゃないか。俺だって悲しいけど、そういうもんだって受け入れるしかないだろ」

「だったら、わたしが氏ぬのも受け入れて」

「アヤメ」

「あなただけ、生きればいい。わたしだって、それを望んでる」

 わたしはようやく、自分がどう考えているかを理解できた気がした。


502: 2013/06/17(月) 07:04:52.67 ID:IMrWsM59o

 ツキを助けたい、と思った。
 でもわたしは、生きていたくなんてなかった。
 
 ツキには生きていてほしい。
 そう思って、自分のことはあとで考える、と棚上げにしていたつもりだった。
 
 でも、答えは決まっていたのだ。
 わたしはツキに生きていてほしいだけで、自分まで生き延びるつもりはなかった。

「なんでお前が氏ななきゃいけないんだ」

 ツキはそう言った。そんなことはわたしにだって分からない。
 どうしてだろう?

 別に氏にたいわけではないのだ。怖い気持ちだってある。
 でもそれ以上に、生きていたくない。もう全部やめにしたいのだ。


503: 2013/06/17(月) 07:05:21.41 ID:IMrWsM59o

「お前の考えなんて知らない」
 
 自分に言い聞かせるみたいに、ツキは言った。

「俺がお前に生きていて欲しいんだよ。俺の勝手だ」

「本当に、勝手だよ」
 
 わたしは呆れたような気持ちだった。
 それと一緒に、わたしの中の決意のようなものが、かすかに揺らいだのも感じる。

 本当にそうできたらよかった。
 でも、わたしは逃げるのだ。

 苦しいのはもういやだ。
 つらいのももういやだ。

 情けないし、ふがいない。申し訳ないし、自分に酔っているのかもしれない。 
 でも、そんなことはもう関係ない。


504: 2013/06/17(月) 07:05:55.16 ID:IMrWsM59o

「ツキ、あのね、仮に、あなたと一緒に現実に帰ったとしても……。
 たとえばわたしが今、ちょっとだけ前向きになって、もうちょっとだけがんばってみようって、そう思ったとしてもね。
 きっといつか、嫌になってしまうと思う。また同じことの繰り返しになると思うの」

「そんなの、分からない」

「わたしはここにいたい。だってここには苦しいことがないから。
 それにここには、シラユキだっているから、寂しくない。
 だから、わたしのことは、もう放っておいてほしいの」

「だったら、お前を苦しめるものなんて、俺が全部取り除いてやる。
 だから、現実に戻ろう。お前がいないと、俺は嫌だ」

「それなら、あなたもここに残ればいい」

「……アヤメ」

「それに、わたしを苦しめるものを取り除くって、いったいどうするの?
 わたしを苦しめる人を頃して、わたしを苦しめるものをなくして、それで本当にわたしの苦しみが消えると思う?」

 彼は背を向けたまま小さく頭を振った。坂の上に、わたしの身体が引きずられていく。


505: 2013/06/17(月) 07:06:23.17 ID:IMrWsM59o

「この世界でずっと生きられるなら、たしかに幸せかもしれないな。
 でも、実際にはそうじゃない。この世界で作り上げられる永遠は偽物だろ。
 実際にずっと暮らせるわけじゃない。単に時間の流れが止まるだけだ。それを永遠と呼ぶだけだ」

「そうかもね」

 とわたしは言った。

「ただ生きてるのが嫌になっただけだったら、なんでこんな場所を作ったんだ?」

 わたしはその問いに答えようとして、ふと疑問に思う。

 ――なんでだろう?
 なぜ、わたしはこんな場所にやってきたのだろう。
 
 ……シラユキがいなくなったのが悲しかった。
 なくなってしまうなら、どんなに大事に思っても、意味なんてないと思った。
 だから……。


506: 2013/06/17(月) 07:07:12.62 ID:IMrWsM59o

 思考が急に混乱しはじめる。
 
 おかしい、と思った。

 この街はわたしの望みを反映しているのだと誰かが言った。
 永遠を望んだから、雨が降り続くのだと。

 でも、わたしはなぜ、こんな永遠を望んだのだ?

 シラユキが、単にわたしに選択を迫るための"保険"でしかないとすれば……。
 この世界には、わたしにとって価値あるものは何もない。

 そんな形で永遠を手に入れて、いったい何になると言うんだろう。
 石ころがいくら壊れたところで、わたしは悲しくない。
 それと同じように、石ころがいつまで形を保っていようと、わたしには何の関係もない。

 この世界には、わたしにとって価値ある永遠がなくてはならない。
 そうでなければ成立しないはずなのだ。


507: 2013/06/17(月) 07:07:52.41 ID:IMrWsM59o

 わたしが何も言わなくなったのを不審がってか、ツキが立ち止まり、振り返った。

 彼はなおもわたしの腕を引いていこうとしたけれど、わたしは動かない。

 どういうことだろう。

 この世界の"永遠"が価値を持つためには、この世界には、わたしにとって価値あるものがなくてはならない。
 それが在り続けなければならない。

 もし、それがあるとするならば、なんだろう?

 考えるまでもない。シラユキだ。
 わたしはシラユキとあの屋敷で暮らし続けることを望んでいる。

 何か、不安のようなものが頭をよぎった。
 シラユキ。

 そうだ。
 この世界においての価値をシラユキが担っているなら、どうしてシラユキが保険の役目を背負うのだろう。

508: 2013/06/17(月) 07:08:19.60 ID:IMrWsM59o

 わたしは、現実において氏を望んだ。そして、実際に氏のうとした。
 その際、自分の願いを反映させたこの世界を作り上げた。
 
 氏のうとした理由は、現実が苦しいことばかりだったから。
 楽しいことがあっても、いつか終わってしまうから。

 でも……。
 選択の余地を残したのは、どうしてだっけ。
"何かの拍子で、生きたいと思うかも知れないから"?

 ……でも、それはおかしい。順番がおかしい。

 この世界を最初から確定した形で作ってしまえば、「何かの拍子」なんて起こらないのだ。
 そして、本当に素朴な意味でわたしの願いを反映するなら、最初から確定された世界ができあがるはずだ。

 だとすれば――。

509: 2013/06/17(月) 07:09:01.94 ID:IMrWsM59o

「ねえ、ツキ」

 自分でもよくわからない不安に支配されて、わたしは彼に問いかけた。

「どうして、シラユキはわたしたちを追ってこないんだろう」

 彼は怪訝な顔をした。

「お前を撃たれたら困るから、じゃないのか」

「……シラユキは、あなたが撃つはずがないことを知っているはずでしょう?」

 彼は少し考え込む。わたしは自分の心がこんなにも揺れ動く理由が分からなかった。

「俺が暴走して、お前を頃しかねないと思ったのかもしれない」

 そうかもしれない。でも、本当にそうなのだろうか?

「何が言いたいんだ?」

 自分でも、何がこんなに引っかかっているのかは分からない。
 シラユキは、何を考えているんだろう。


514: 2013/06/19(水) 07:52:07.20 ID:mRUgB+/xo



 黙り込んでいると、ツキは街の方を振り向いて、焦ったような顔になった。
 振り返ると、街の人々が何人か連れ立ってこちらに向かってきているようだ。

 まだ遠いけれど、ここまで追ってくるのにそう時間はかからないだろう。

 彼らが手に持っているのは鎌や熊手のような農具ばかりだった。
 街に武器はないのだとわたしは思った。
 
 本来この街に外敵はいないのだろう。

「急ぐぞ」

 ツキはそう言って、またわたしの腕を引いた。わたしは抵抗しなかった。
 その抵抗のなさを不審に思ったのだろうか。

 彼はわたしの方を振り向いた。
 
「どうした?」

 どうしたんだろう。自分でもよく分からない。


515: 2013/06/19(水) 07:52:33.23 ID:mRUgB+/xo

 どうしてこんなことになったんだろう?
 
 わたしはここに来ることで救われるはずなのに、何もかもが致命的に狂ってしまっている。
 これでは現実に生きるのと変わらない。

 ツキはわたしの腕を引いて歩き始める。出口も知らないはずなのに、彼はどこを目指して歩いているんだろう。
 わたしたちは森の中へと向かっていく。森の奥の奥の方へ。

 隠れるには都合のいい場所だけれど、そこで何かが生まれるわけでもなかった。

 きっと何かの拍子で、どこかの歯車が狂ってしまったのだ。
 その小さな狂いがいろんなものを動かしてしまった。その結果がここなのだろう。

 わたしはシラユキとここで暮らせればそれでよかった。
 そして彼女の方は、きっとそれを望んでいない。

 わたしに選ばせるようなことを言っておきながら、彼女は自分の満足のいく答えが出るまで、問いを繰り返し続けている。


516: 2013/06/19(水) 07:53:26.87 ID:mRUgB+/xo

 シラユキと話がしたかった。
 どういうことなのか説明してほしかった。

 ツキはわたしを現実に帰らせようとしている。わたしは帰りたくない。
 だからわたしは、彼に出口を教えるわけにはいかない。

 出口が分からなければ、彼はこの森の中をさまよい続けるしかない。
 そうなれば下界の人々に見つかるのも時間の問題だ。今度こそ、本当に殺されてしまうだろう。
 
 シラユキと会って、説明をつけくわえてもらったとしても、結果は変わらない気がした。

 なんだか、何もかもが疑わしい。
 いろんなものが馬鹿らしかった。
 

517: 2013/06/19(水) 07:54:25.46 ID:mRUgB+/xo

 もういいか、とわたしは思った。
 無理して考えたりしなくたっていい。もう事態はわたしの手には負えない。

 唯一、ツキのことだけはどうにかできるかもしれないと思ったけど、それだってこのありさまだ。
 
 わたしの考えとは無関係のところで、いろんなことは廻っていくのだ。
 この世界でも、現実でも、何も変わらない。わたしがどうしたところで変わらないのだ。

 全部やめにしてしまってもいいじゃないか。誰も困らない。
 いや、誰かが困ったとしても関係ないのだ。

 シラユキだって、何を考えているのか分からない。

 ……本当に?
 
 ふと、わたしの腕を引くツキのことを考えた。

 彼はどうしてここに来たんだろう。
 それを、どうしてか不思議に思った。


518: 2013/06/19(水) 07:55:03.21 ID:mRUgB+/xo

 考え始めると、彼がこの場所にいるのはとても不思議なことのように思えた。
 どうやってここに来たのか。どうしてここに来たのか。
 
 なんだか、とても不思議なことに思えた。
 
「ツキ」
 
 とわたしは呼びかけてみた。呼びかけてみると、なんだか不思議な気持ちになった。
 よくわからない感情が心を波立たせた。
 木々が雨に打たれる音が、響いている。

「なに?」

 彼はすぐに振り向いた。

「あなたは、どうしてここに来たの?」


519: 2013/06/19(水) 07:55:40.15 ID:mRUgB+/xo

 ツキは怪訝そうな顔になる。わたしは少し不安になった。
 わたしはまた変なことを言ってしまったのだろうか。
 そんなふうに不安に思うことを、ずっと続けてきたような気がする。
 
 それももう、終わらせてしまえるのだけれど。

「言わなかったっけ?」

「……どうだったかな」

 そもそも、彼から聞いた話を、わたしはほとんど思い出せなかった。
 彼は困ったような顔をした。
 
 やがて何かを諦めたような顔をして、前を向く。
 それから話を始めた。

「何度も言ったよ。俺はお前に生きていてほしいんだ」


520: 2013/06/19(水) 07:56:08.31 ID:mRUgB+/xo

「聞いてもいい?」

「なに?」

「どうして?」

「……どうしてって、それは、どうして生きていてほしいかってこと?」

「……うん」

 彼は溜め息をついた。

「そんなの知るかよ」

 わたしは何も言えなかった。


521: 2013/06/19(水) 07:56:42.06 ID:mRUgB+/xo

 しばらく、わたしたちは黙り込んだまま歩いた。
 彼はわたしの腕を引いたままで、雨は降ったままで、なにも変わっていなかった。

 世界がこの場所だけで完結しているような気がした。
 外側なんてどこにもなくて、この森の他には世界なんてないような、そんな気がした。
 
 そんなのはわたしの錯覚でしかなく、世界はわたしの意思とは無関係に動いている。

 でも、今、わたしはたしかにそんなふうに感じたのだ。

 木々が雨に打たれる音。土の感触。雨の匂い。
 他には何もないような気がした。
 
「……違うよな」

 不意に、彼は前を向いたまま、自分に言い聞かせるような調子で言った。

「違うんだよな。分かってるんだよ。なんでお前に生きていてほしいのか。
 ちゃんと言葉にだってできる。本当はもっと早く言うべきだったんだろうな」


522: 2013/06/19(水) 07:57:24.06 ID:mRUgB+/xo

 ふと立ち止まったかと思うと、彼はわたしを振り向いた。
 右手で拳銃を握り、左手でわたしの腕を握っている。
 
 傘もささず、雨に濡れたまま。

「俺はお前のことが好きなんだよ。だからお前がいなくなったら悲しい。
 勝手な話かもしれないけど、お前に生きていてほしい。
 だから俺はこんなところまで来たんだと思う」

 なぜだろう。
 彼の表情が、シラユキのそれと重なった。

「本当は分かってるんだよ。このままじゃ、帰ったって意味なんてないって。
 強引に連れ帰ったって、結局同じことの繰り返しなんだって。お前が納得しないといけないんだって。 
 だからって、なにもせずにはいられないんだよ。このままじゃ、俺まで世界を嫌いになりそうなんだ」

 ずぶ濡れで立っている彼の姿は、雨の日の捨て猫みたいに見えた。

523: 2013/06/19(水) 07:58:04.57 ID:mRUgB+/xo

「ツキは帰らなきゃだめだよ」

 とわたしは言った。

「おじさんも、おばさんも、いい人だもん。悲しませちゃだめだよ」

 ツキは苦しそうな顔をした。

 わたしは自分の感情がうまく整理できなかった。
 さっき、ツキのことなんてどうでもいいって思ったのに、彼に氏なれるのは、やっぱり少し悲しい。 

 わたしの気持ちはどこにあるんだろう。

 別に何かがわたしの思考を邪魔しているわけでもない。
 記憶だって、もうほとんど取り戻している。


524: 2013/06/19(水) 07:58:34.95 ID:mRUgB+/xo

 でも、そういうことではないのだ。
 そういうこととは無関係に、わたしの思考は、まだ正直じゃない。

 だからこんなに混乱しているんだろう。

「うちの両親は、お前が氏んだって悲しむよ。そう思うなら、氏なないでくれよ。俺だって、悲しいよ」

「……うん」

 不意に腕に痛みが走った。ツキがわたしの腕を握っていた手に力を込めた。
 ものすごく強い力というわけではない。
 ものすごく痛いというわけではない。
 力を込めたといっても、ささやかなものだ。
 
「ごめんね」

 でも、そうされるのは痛かった。
 痛みを訴えようかとも思った。「痛いよ」と言おうかとも思った。
 どうしてかはわからないけれど、たったそれだけの言葉が、すごく身勝手なものに感じた。


525: 2013/06/19(水) 07:59:01.39 ID:mRUgB+/xo

 わたしの頭が混乱しているのと同じくらい、ツキの行動だって混乱している。
 
 いろんなことが、よく分からない。
 どうするのが最善なんだろう。
 
 わたしはこの状況をどうにかしたいと思っているんだろうか。
 
 自分の気持ちがうまく掴めなかった。
 ツキがつらそうな目でわたしを見ていた。

 わたしはそれに何も言えない。

 ――不意に、物音が聞こえた。がさりという生き物の気配。

 わたしとツキは、慌てて物音のした方へと目を向ける。

 草むらから、猫が顔を出していた。


529: 2013/06/20(木) 03:04:27.27 ID:WU9ARoQ2o



 猫は飛び跳ねるようにしてわたしとツキの目の前にやってきた。
 それから素っ気ない態度で前を向いたかと思うと、前方の木々の隙間を進んでいく。

 ツキはしばらくの間、あっけにとられたようにしてその後ろ姿を見つめていた。

 猫は少し歩いたかと思うと、追いかけて来いと言うように首だけでこちらを振り返る。

 どうしようか、わたしは迷った。
 もういいじゃないか、と、そう思った。でも、ツキは歩き始めてしまった。
 腕を引かれれば、わたしも歩くしかない。抵抗するのも面倒だった。

 猫はわたしたちがついてくることが分かると、すぐに歩くのを再開した。

530: 2013/06/20(木) 03:05:45.67 ID:WU9ARoQ2o

 何か悪い冗談みたいだった。
 実は夢でも見ているのかもしれない。
 
 目を覚ましたら、わたしはごく当たり前にシラユキと屋敷で生活しているのかもしれない。
 
 ツキの存在も、この世界のルールも、ぜんぶがぜんぶ夢なんじゃないか。
 その方がよっぽど理屈が合う気がした。

 雨は降り続いている。
 ツキはずぶ濡れのままわたしの腕を掴んでいた。

 景色にはまったく変化がない。どこまでいっても、ずっと同じような風景。
 焼き増しされたように同じだ。

 ツキに訊きたいことがあったような気がした。
 
 下界の住人に見つかる前までは、わたしが氏んでも生きていくと言っていた。
 森の中で会ったときは、もうどうでもいいと言っていた。
 街の中で会ったときは、わたしが氏んだら自分も氏ぬ、と言った。お前が俺の都合を考えないなら、俺もお前の都合は考えない、と。

 でも、さっきは、本当は無意味だと分かっている、と言った。

 よくわからない。
 ツキ自身にもよく分かっていないのかもしれない。


531: 2013/06/20(木) 03:06:17.41 ID:WU9ARoQ2o

「……ツキ?」

 呼びかけてみたけれど、彼は返事をしなかった。
 わたしは何か、彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか。
 心当たりは山ほどあった。

 そもそも、わたしに早々に愛想を尽かして、ほったらかしにしていかないこの状況自体、奇跡のようなことなのだ。
 
 わたしは途端に怖くなった。怖くなってから、どうして怖いと思うんだろうと考える。
 彼にどう思われても、もう、構わないはずじゃなかったのか。

 けれど、そんなことを考えている状況ではなくなってしまった。

 わたしの腕をとらえていたツキの手のひらから、不意に力が抜けた。ふらりと、彼の体が傾いた。
 咄嗟に体を受け止めると、彼は真っ青な顔で荒い呼吸をしていた。
 ほとんど足に力が入らないらしく、彼はわたしの体にもたれかかった。

 朝からずっと、雨の降り続く森の中を身ひとつで逃げ回っていたのだ。傘もささず。
 そしてずぶ濡れのまま捕らえられて、ようやくそこから逃げ出してきた。
 
 猫を追いかけはじめてから、しばらく経つ。
 木々のせいで地面は荒れているし、雨でぬかるんでいる。体力は余計に消耗する。

 今までだって、決して平気そうにしていたわけじゃなかった。


532: 2013/06/20(木) 03:06:44.33 ID:WU9ARoQ2o

「大丈夫?」 

 訊ねてから、心底自分が嫌になった。
 大丈夫なわけがないのだ。

 ツキをこんな場所に追いやったのも、ツキがこんなことになったのも、全部わたしのせいなのだ。

 そしてそれは、わたしが認めたことでもある。

 自分が苦しみから逃れるためなら、ツキがどんな思いをしたって構わないと、そう思ったから、わたしはここにいるのだ。

「……大丈夫。ちょっとふらついただけだよ」

 言葉は強がっていたけれど、声はひどく弱々しい。
 
「心配するな」

 彼はそう言い切って、自分の足で立とうとする。
 心配する資格だって、わたしにはないような気がした。
 
「……ごめんなさい」

 わたしが謝ると、彼はきょとんとした顔になった。
 それから困ったように笑い、空いた左手でわたしの頭を撫でた。
 レインコートのフード越しで、その感触はほとんど伝わってこなかった。

 急に胸が詰まって、わたしは泣いてしまいそうになる。
 でもそれだって、わたしの身勝手だ。


533: 2013/06/20(木) 03:08:11.99 ID:WU9ARoQ2o

 わたしは、ツキがこんな場所までやってくるとは思っていなかった。
 シラユキが氏んだときだって、彼は確かに悲しんでいたけれど、ちゃんと起こったことを受け入れていた。

 だからわたしが氏んだところで、最初は少し悲しかったとしても、少し怒ったとしても、すぐに慣れてしまうだろうと思った。
 わたしのいない世界に、すぐに溶け込んでいくのだろうと、勝手に思っていた。

「……どうして、こんなところまで来たの?」

 ふたたび猫を追いかけ始めた彼の背中に、わたしは気付けばそう投げかけていた。
 彼は呆れたように溜め息をついて、仕方なさそうに笑う。
 
「その質問の答えは、もう言った」

 それから彼はもう一度わたしの腕を掴んだ。
 わたしはなんだかすごく混乱していた。
 
 さっきまでしていた会話の内容の実感が、遅れてやってくる。
 怖さとか、疑念とか、後ろめたさとか、そういうものと一緒に、気恥ずかしさみたいなものまで。
 

534: 2013/06/20(木) 03:08:42.17 ID:WU9ARoQ2o

「嘘だよ、そんなの」

 混乱した頭のまま、わたしは言った。

「何が?」

「だってわたしは、ツキに何もしてない。嫌われる心当たりはあっても、好かれる覚えなんてない」

「……ああ、いや。そのことか」

 彼はまた困った顔をした。それから少し、呆れたみたいだった。

「好かれる覚えはないって、すごい言い草だな」
 
 彼は自分で言った言葉に少しだけ笑った。

「ツキが苦しい思いをしてるのだって、わたしのせいでしょ?
 嫌にならないの? わたしのせいだってなじらないの? なんでそんなふうに、笑っていられるの?」

 大真面目に訊ねたつもりだった。

「……惚れた弱みかなあ」

「からかわないで」

「からかってるつもりはない」


535: 2013/06/20(木) 03:10:36.33 ID:WU9ARoQ2o

 わたしはまた泣き出したい気持ちになる。

「……どうしてそんなに、平然としてるの?」

「平然としてないから、ここにいるんだ」

「そうじゃなくて……もっとわたしを、責めたり、したいんじゃないの?」
 
「それは、まあ、そうかもな。どんな理由があったって、置いていかれる方からしたら冗談じゃないって思うよ」
 
 言葉を選ぶように慎重な様子で、彼は言った。

「でも、そんなのはこっちの都合であって、結局お前に何もできなかったのは俺も一緒だから。
 だからそんなに簡単に責めたりはできない。お前のことを何にも知らない赤の他人だったら、責めてたかもしれないけど。 
 それに、ここでお前のことを責めたりしたら、それこそ氏んじまいそうだ」

 結局、わたしは抵抗できていなかったのだな、と思う。
 
 ツキを苦しめることに対して後ろめたさが沸くということは、責めてほしいと思うということは、結局そういうことだ。
 ツキが責めてくれれば、わたしは迷わずに、後ろめたさもなく、いなくなれるから。
 
 後ろめたさが沸くということは、結局、ツキのことをどうでもいいと思えなかったということだ。
 ツキがわたしのせいで悲しむのはつらい。


536: 2013/06/20(木) 03:11:28.72 ID:WU9ARoQ2o

 覚束ない足取りで、ツキは猫を追い続ける。
 わたしは腕を引かれたまま、どうすることもできない。

 ひょっとしたら、このツキも、わたしに都合のいい妄想のようなものなのかもしれない。
 現実のツキは氏に瀕するわたしの隣で、どうでもよさそうにあくびをしているかもしれない。

 ……彼はそんな人ではない、と、心の中で誰かが言った。それだって、わたしの中のイメージがそうというだけだ。

 このツキが、「わたしにとって都合のいい」妄想のようだと言えるなら。
 結局わたしは、こんなふうに言われることを望んでいるということになるのだろうか。
 
 そうだとしたら、すごく、滑稽な話だ。

 それでも。
 そんなふうに言ってもらえたとしても、やっぱりわたしは、あの日々に戻ることが怖い。
 みんなの視線も、母親の表情も、何より自分が浮かべる愛想笑いも、これからずっと続くのかと思うと、怖い。

 ツキはもう何も言わなかったし、わたしも訊ねるべき疑問を持っていなかった。
 ツキの荒い呼吸が、ふらついた足取りが、わたしを不安にさせた。


537: 2013/06/20(木) 03:13:26.59 ID:WU9ARoQ2o

 やがて、猫は立ち止まった。

 代わり映えのしない森の中。さっきまで歩いてきた景色と、何も変わらない。そんな場所だ。
 
 わたしたちが追いつくと、猫はあっというまに木々の隙間を走っていった。
 追いかけることもできないような速さだった。

 ツキはしばらく猫の走っていったほうを見つめていたが、やがて疲れ切ったように近くの木にもたれかかった。

 わたしがあわてて駆け寄ると、彼は変なものでも見たような顔をする。

 自分が何かを持っていないか、確認しようとしたけれど、何も持っていなかった。
 荷物は全部、シラユキが持っていたのだ。

 今度こそ本当に泣いてしまうかと思った。どうしてわたしはこんなに役に立たないんだろう。
 呼吸すらも苦しそうで、表情は疲れ切っていて、体を起こしているのもつらそうだった。

 わたしのせいでそんな思いをしている人に、わたしは何もできずにいるのだ。

 そのとき、

「……大丈夫ですか?」
 
 と、声が聞こえた。

 すぐそばに、シラユキが立っていた。

541: 2013/06/21(金) 02:36:26.17 ID:gFrmtBDeo



 木の根本に腰を下ろしたツキに近づいて、シラユキは自らの傘を差し出した。
 そして鞄の中から大きめの乾いた布を取り出し、ツキに渡す。

 布を受け取った彼は、自分の体を念入りに拭き始める。
 ツキが上半身にまとっていたシャツを脱ぎ、布で体を拭いている間に、シラユキはわたしの方を見た。

 その一連の流れを、わたしは何も言えずに見守っていた。

 シラユキは傘をツキの肩に掛けるように置いた。
 二本目の傘は持っていないようだった。

「いくつか、謝らなければならないことがあります」

 とシラユキは言った。

「謝らなければならないこと?」

「わたしがあなたにした、この世界についての説明には、少し嘘がありました」

「……嘘?」

 シラユキが、わたしに、嘘をついた?


542: 2013/06/21(金) 02:38:00.40 ID:gFrmtBDeo

 わたしは少し戸惑った。
 隠し事をしているとか言い忘れていたことがあるとか、そういうことなら、別に驚かない。
 でも、シラユキがわたしに嘘をつくなんてことを、わたしは想像すらもしていなかった。

 想像していたとしても、どこか実感のわかない空想のようなものとして扱っていた。

「驚くのも、無理はないと思います。シラユキは、本当は嘘をつきませんから」

「……どういう意味?」

 違和感。
“わたしは”ではなく、“シラユキは”、と彼女は言った。

 どこから説明すればいいかわからない、というふうに、彼女は眉を寄せた。
 木々は奇妙な静けさをまとっているのに、雨の音がいやにうるさかった。

「まず最初に、ツキが処刑されかけたときのことです。
 侵入者がとらえられたあと、処刑されるタイミングというのは、下界の規則で決まっているんです。
 わたしは、わざとツキの処刑が行われる少し前に広場に着くように、準備に掛かる時間を調整していました」

「……わざと時間を掛けていたってこと?」

「はい。もちろん、ぎりぎりにならないようにしましたが」

 それじゃあ、何かのアクシデントが起こってわたしたちの到着が遅れたり、処刑の時間が早まっていたら……。


543: 2013/06/21(金) 02:39:33.42 ID:gFrmtBDeo

「何のために、そんなことをしたの?」

「いくつか理由があります。まず、捕らえられた状態からツキを直接救出しようとしたら、結構な労力が掛かるからです。
 ツキを助けようと思うなら、一番都合のいい状態は、ツキが処刑される直前だったんです。
 多少不安点もありましたが、むしろ街の人たちの用心のなさに救われた形ですね。結果的には、予想以上に容易でした」

 それは、わたしも感じた。
 いくら抵抗がなかったとはいえ、ツキを縛ったりもせず、また周囲に武器を持った人間を控えさせたりもしていなかった。
 
「今回のような事態は初めてだったはずですし、普段は荒事などない街ですから、仕方のないことだとも言えます。
 この街では罪を犯す人間がいませんし、争いごとも起こりませんから、そうした想像が回らなかったんでしょうね。
 彼らの頭の中にあったのは、余計な人間は頃すという、ただそれだけだったのだと思います。それを規則通りにこなすだけです」

「……質問の答えになってないと思う」

 シラユキは笑った。

「そうですね。本当なら、今言ったことはあらかじめ説明しておいてもよかったんです。
 でも、どこまで教えていいのか、判断がつかなかったものですから。
 それで、どうしてわたしが、わざとあのタイミングで広場に着くようにしたかというと、ですね」

 彼女はそこで、少し言いにくそうにした。それからツキの方をちらりと見やる。
 彼女の体が雨に濡れていく。

「あなたに、ツキの処刑を見せたかったからです」


544: 2013/06/21(金) 02:40:10.10 ID:gFrmtBDeo

 わたしは息を呑んだ。
 急に、目の前の少女が、得体の知れない怪物のように見えた。

「それは、ツキが殺される瞬間を、ということ?」

「……え?」

 わたしの疑問に、彼女はきょとんとした顔をする。

「あ、ちがいます、ちがいます。そうではなくて……。今の言い方だと、たしかにそう聞こえたかもしれませんが」

 彼女は苦笑する。わたしは少しほっとした。
 
「ツキの処刑に対して、あなたがどんな反応を見せるか、確認したかったんです」

「……同じに、聞こえるんだけど?」

「えっと、つまり、あなたがツキを助けたいと思うかどうか、確認したかったんです」

「わたしはずっと、ツキを助けたいって言ってたよね?」

「はい。口先では」

 毒のない笑みを浮かべるシラユキに、わたしは内心ぎくりとした。


545: 2013/06/21(金) 02:41:03.70 ID:gFrmtBDeo

「ツキを助けたい、とは思っていたかもしれません。
 でも、ツキを助けるために自分も生き延びる、とまでは考えていなかったように思います。
 あのときも言ったと思いますが、それではツキを助けることはできません」

「……なぜ?」

「順番が決まっていますから」

 ツキも同じことを言っていた。……だとすると、ツキはシラユキからこの話を聞いていたのだろうか。
 いや、そうではないような気がする。

 なぜかは分からないけれど、ツキとシラユキは、完全に互いの思惑を把握しきってはいない、と感じる。
 もし把握できていたなら、もっと他に手段があったはずなのだ。

「あなたが氏ねば、ツキも氏にます。これはこの世界においての話ではありません。
 現実においての話です。あなたが氏んだ結果、ツキも氏にます。
 別に、あなたの氏を苦にしてツキが自頃するというわけじゃありません。
 もしかしたらそういう結果もあるかもしれませんが、あなたの氏がツキの未来に強い影響を与えるわけです」

 シラユキはそこで言葉を一度詰まらせて、ツキの様子を見た。
 彼は何も言わず、ただ呼吸を整えている。


546: 2013/06/21(金) 02:42:33.83 ID:gFrmtBDeo

「あなたが氏に傾けば傾くほど、ツキもわたしも、そうした結果を想像することができました。
 擬似的に未来を感じ取ることができたわけです。あなたが氏んだ結果として、ツキは氏に蝕まれる。
 そうである以上、“あなたの氏の影響”からツキを助けるには、あなたが氏なない以外に方法はないんです」

 ……よく、分からなかった。
 分からなかったけれど、なんとなく、彼女がひとつの結論を示唆していることは伝わってくる。

「あなたがその決断を下すのかどうか、確認したかったんです。
 だからあえてあのタイミングで広場に向かった。結局あなたは、自分の氏を覆す気にはならなかったようですけど」

 そうだ。
 あのときわたしは、自分の氏はそのままに、ツキの生を確定させようとした。

「その後のツキの行動は、ちょっと予想外でしたね。あんなことをする体力が残っているとは思っていませんでした。
 それにさっきも言いましたけど……住人たちの警戒の薄さが、あんなことを可能にさせたんだと思います。
 まして、あなたが直接ツキを処刑する立場になるとは、正直思っていませんでした」

 内心どきどきしていましたよ、と、シラユキは平然とした様子で言う。

「ひょっとしたら、あなたがツキを頃しちゃうんじゃないかって思いました」

 冗談には、聞こえない。


547: 2013/06/21(金) 02:43:40.37 ID:gFrmtBDeo

「結果そうはならなかったのは、救いでしたね。
 でもあの段階で、どうすればいいのか、さらに分からなくなりました。
 ツキの氏を見過ごすのか、見過ごさず自分も生きるのか、二択を迫ったつもりだったんです。
 あなたはどちらも選ばなかったから。わたしが上手く説明できなかったのも、悪かったんでしょうけど」

 それに、と彼女はツキを睨んだ。

「あんな逃げ方をされたものですから、荷物なんかもわたしが持ちっぱなしでしたし……」

「最初から、わたしに持たせていればよかったんじゃ……」

「多少なら、あなたに持たせてもよかったんですけど、すべてを預けるわけにはいきませんでした」

「なぜ?」

 訊ねると、彼女は肩にさげた鞄を慎重にのぞき込み、底の方から何かを取り出した。
 布に包まれた、棒状のもの。彼女は布をゆっくりとほどいていく。

 出てきたのは、包丁だった。

「いざというときは、これを使おうと思っていたんです」

「……ずいぶん、物騒だね」

「拳銃よりは穏やかだと思います。どのような状況になっても、これさえあればどうにでもなると思っていました」

 何か、怖いことを言っている。
 

548: 2013/06/21(金) 02:44:34.37 ID:gFrmtBDeo

「誤解のないように言っておきますが、包丁を振り回して暴れるつもりはありませんでしたよ。
 ただ、仮にあなたが生きようと思っても、そう思わなくても、ツキを助ける必要があったんです。
 わたしにとってはあなただけでなく、ツキも氏なせるわけにはいかない存在ですから」

「……じゃあ、何に使うの? それは」

 彼女は平然と、自らの首筋に刃を当てた。

「わたしも一応、この世界の住人ですから。わたしがこうするだけで、人々は手を出せません。
 あの場から逃げるとき、本当はこの手段を用いるつもりでした。
 だからある程度、他の住人たちとは距離をとってもいたんです」

 結果的には、ツキにその役目を奪われてしまいましたが。シラユキはそう苦笑した。
 それから彼女は、少しのあいだ考え込んだ。

 何を説明するべきか、分からなくなってしまったのかもしれない。
 わたしはツキの様子を見る。さっきまでより、顔色が悪くなっているような気がした。
 もしくは、よくなっているのかもしれない。よく分からない。判断がつかない。


549: 2013/06/21(金) 02:45:19.94 ID:gFrmtBDeo

 やがてシラユキは、真剣な顔で小さく頷いた。自分を納得させようとしているみたいに見えた。

「ここまで話したのは、もう本当に、どうしようもない状況になってしまったからです」

「……どうしようもない状況、って、どういうこと?」

「ツキは、あなたの意思とは無関係に、あなたを現実に帰らせようとしています。
 わたしは、ツキにも生き延びてほしい。ですから、ツキに出口を教えるしかありません。
 ……でも、もしあなたがこの世界に残るというのなら、ツキには一人で帰ってもらおうと思います」

 ……つまり、何かの決着をつけないとならない状況まで来てしまった、という意味だろうか。
 たしかにツキが取った行動を考えれば、何かの形で結論は出さなければならない。
 もう、何事もなかったように平然と三人での生活を続けることは不可能だ。

 シラユキは、何かを言いたげな表情をした。
 
「……どうしたの?」

 彼女は戸惑っているようだった。何かを言いたいのだけれど、うまく言葉にできないというように。
 でも結局、諦めたように口を開く。

550: 2013/06/21(金) 02:46:26.03 ID:gFrmtBDeo

「まだ、隠してることがあるんです。
 本当はまだ言いたくないんですけど、言わないとフェアじゃないような気がして……。
 でも、これを言ったら、あなたは騙されたと思うかもしれない」

 シラユキが隠していること。うまく想像できない。
 でも、それはたぶん本当なのだろう。

「わたしは、厳密には、この世界に生まれたシラユキではありません」

「……どういう意味?」

「わたしは、すべての判断をあなたに任せるような言い方をしてきました。
 あなたが決めたことに従うと、そういう言い回しを何度もしてきたと思います。
“シラユキ”は本来、そうした中立的な立場だったはずなんです。
 でも、“わたし”は違います。“わたし”は明確に、あなたが生き延びることを望んでいます」

 言葉の意味がうまくつかみ取れなかった。

「本来、シラユキという人格は、わたしとは別の形で生まれるはずでした。
 より単純化されたひとつの機能として。でも、その“シラユキ”の体に、“わたし”の人格が割り込んだんです。
 ですからわたしは、厳密に言えばメイドの“シラユキ”ではありません」


551: 2013/06/21(金) 02:47:26.03 ID:gFrmtBDeo

「……わたしが知っているシラユキは、あなただけど。でも、それなら、あなたは誰なの?」

「それについても、シラユキ、と言うほかありません」

「待って。何が言いたいのか、よく分からないんだけど」

「わたしはあなたがこの世界に逃げ込もうとしていることに気付き、その邪魔立てをするためにここに来たんです。
 その際、あなたが“シラユキ”という名前の住人を作り出そうとしていることに気付いた。
 ですから、その人物の人格として、わたしは紛れ込んだんです。そして、この世界に隙間を作った。
 その隙間が出口であり、ツキがこの世界にやってくるときに通った入り口でもある」

 彼女の言葉に、実感を伴った感想を抱くことができなかった。
 ただなんとなく、言葉として聞き流すことしかできない。

「本来ならこの世界は、作り上げられた段階で完成していたんです。
“保険”なんて、最初はありませんでした。わたしはそこに紛れ込むことで、結論を一度保留させたんです。
 そして、あなたが選択するための猶予期間を強引に作り出した。
 つまり……猶予なんて最初はなかったんです。ツキがこの世界にやってくるだけの隙間も。 
 わたしは、あなたが結論を変えてくれるようにと、ずっと働きかけていたんです。その猶予期間を、ずっと引き延ばしていたんです」


554: 2013/06/22(土) 03:54:00.09 ID:CnjYFZl7o



 シラユキの話をそこまで聞いたとき、頭に鈍い痛みを覚えはじめた。
 ツキはまだ座り込んでいる。シラユキは雨に打たれている。
 
 話の続きはないらしい。
 
 どうしよう、とわたしは思った。 
 わたしが何かを言わなければならないのだろうか。
 何かをしないといけないのだろうか。

 よくわからなかった。どうすればいいのか。
 ツキも、シラユキも、わたしに何かを求めているみたいだった。
 何か、というより、結論を。

 でも、どうすればいいんだろう。その判断がいまだにつかない。


555: 2013/06/22(土) 03:55:09.55 ID:CnjYFZl7o

 ……なんとなく、分かった。
 今の今まで、ずっと、わたしは茶番を演じているような気分のままだった。
 行動の一つ一つにも、出来事の一つ一つにも、現実感のようなものがまるで伴っていない。
 
 その理由が、ようやく分かった。
 
「ねえ、シラユキ」

 シラユキは意外そうな顔をして首を傾げる。続きを促しているようだった。

「本当はね、世界の成り立ちとか、シラユキがどういう存在かとか、わたし、どうでもいいの」

 彼女はきょとんとした顔をする。

「本当に気になっているのは……わたしがどうするべきなのかってこと。
 ここが現実じゃないって分かったときから、ずっと、考えてた。
 じゃあ、わたしは、どうすればいいのかって。それ以外のことは、本当はどうでもいいんだ」

 わたしの言葉に、シラユキは何を言っていいのか分からないという顔をした。

 思えば彼女も、随分混乱していたのだろう。
 何処まで話して良いかも分からず、どうすればわたしを望み通りにできるのかも分からず。
 でも、そんなことはもうどうだっていいのだ。


556: 2013/06/22(土) 03:56:12.56 ID:CnjYFZl7o

 とにかく、問題は……わたしがどうするか、という一点に尽きる。
 
「ねえ、シラユキ。わたしはどうすればいいんだろう?」

 そう訊ねてみた。彼女は悲しげに首を振るばかりだった。
 それはそうなのだろう。心細いような気持ちが、雨の中でふくらんでいく。

 傍に誰もいないような気さえした。

 わたしの表情が曇ったことに気付いてか、シラユキは再び口を開いた。

「……とても一方的な話になりますけど」

 雨に濡れて、彼女の髪は静かにきらめいて見えた。

「この世界に猶予を生んだのがわたしだということは、あなたを戸惑わせているのも、わたしということです。
 わたしは、あなたがした決断を保留にさせ、あなたを迷わせるために行動してきたんです。
 ですから、どうすればいいかと聞かれれば、わたしの答えはひとつしかありません」

 そうなんだろうな、とわたしは思った。 
 何かを考えるべきなんだろう。でも、何を考えればいいのか、分からない。


557: 2013/06/22(土) 03:57:01.87 ID:CnjYFZl7o

「ここを出て、もう一度、生きてみる気にはなれませんか」

 とシラユキは言った。
 彼女はそう言うだろうな。そんなのは分かっていたことだった。

「やめてしまいたい気持ちも、分かるんです、なんて言ったら、安っぽいかもしれませんけど。
 でも、ツキを悲しませてしまうことを、少しでも心苦しく思うなら……。
 少しでも、気がかりなことがあるなら、もう少しだけ、続けてみませんか」

 たしかに、ツキがどうなってしまうのかは、わたしにとっては気がかりな問題だった。
 そういう説得の仕方は、たしかに正しい。

「単なる気まぐれでも、構わないんです。もう少しだけ続けてみませんか。
 結果はまったく変わらないかもしれない。でもひょっとしたら、何かが起こって、根本的な転換のようなものが起こるかもしれない。
 抜本的な解決のようなものが、あらわれるかもしれない。それを期待してみるのも、悪くはないと思うんです」

 そう、確かに彼女の言う通り。悪くない。そう。悪くない。
 そう思える。でも……なぜだろう?
 ちっともその気になれないのは。

558: 2013/06/22(土) 03:57:54.38 ID:CnjYFZl7o

「とにかく生きてみて、それでも結果、なにひとつ変わらなかったら、何の解決も訪れなかったら……。
 そのときは、わたしのことを恨んでくれてもかまいません。とにかく、もう一度生きてみませんか。
 わたしが言いたかったのは、ずっとそれだけなんです。あなたに、もう少しだけ続けてみようと、思って欲しかったんです」

 だとすれば、彼女はそれに失敗したのかもしれない。
 どうなのだろう? よくわからなかった。
 
 今、シラユキはすべてを明かしたのだろう。
 たぶん本当のことを言っている。
 いままで隠してきたのは、わたしを上手に誘導できている自信がなかったからだろうか。
 
 自分でも不可解なほど、わたしの気持ちは透き通っている。
 凍り付いていると言い換えてもいい。何も反射していない。
 奇妙なほど、わたしの気持ちは透明だった。

 シラユキの言うことも悪くないかな、と思った。
 そう。試すような気軽さで、もう一度生きてみるのも。
 彼女の言うように、ひょっとしたら何もかもが簡単に解決するような結果が生まれるかもしれない。

 もしそうならなかったとしたら、そのときは彼女を恨めばいいだけだ。
 とても簡単なことだ。今までどうして気付かなかったんだと、疑問に思うくらいに。


559: 2013/06/22(土) 03:58:36.88 ID:CnjYFZl7o

 なんだかおなかが空いていた。最後に何かを食べたのはいつだったっけ。
 朝からずっと、時間の流れが遅くて早い。

 どうしてだろう。

 自分が今までやってきたこと、自分が過ごしてきた時間。 
 そういうものがまるまる全部、消えてなくなってしまったような喪失感があった。

 なぜだろう?

 たぶん、わたしは、シラユキに裏切られたような気がしているのだ。
 
 それはまったく身勝手な話で、わたしが彼女にそういうイメージを押しつけていただけのことなのだろうけど。
 どのような決断をしようと、シラユキだけは、わたしのことを受け入れてくれるような気がしていた。

 それは結局、ただの錯覚だったのだけれど。

 ツキも、シラユキも、もうわたしに自分の意思を伝えてしまった。
 知る前に戻ることはできない。取り返しがつかないのだ。


560: 2013/06/22(土) 03:59:55.18 ID:CnjYFZl7o

 シラユキはツキに向かい、声を掛けた。彼に手を貸して立ち上がらせる。

「出口に向かいましょう。どちらにしても、この世界の住人達は、わたしたちを探しに来るはずです。
 逃れる手段はありますが、リスクを背負う必要もありません。とにかく、ツキだけでも現実に帰さなくちゃいけない。
 あなたがどういう決断を下そうと、です」

「……うん」

 気力が沸かなかった。
 森を歩き始めたシラユキの後を追う。シラユキはツキに肩を貸し、傘を自分で持った。
 わたしは並び歩くふたりの姿を、後ろからぼんやりと眺めた。

 もう彼らはわたしに何も働きかけるつもりはないのだと思った。
 本当に、わたしに決断を任せてしまった。そして、その決断がどのようなものであれ、それに従うつもりでいるのだ。 
 
 そういうことがわたしには分かった。手触りすら伝わってきそうなほどだった。

 シラユキ。
 森の中を歩いていた猫。あれは、なんだったのだろう。聞いてみようかとも思ったけれど、やめた。
 あの猫は、わたしを導き、誘導するためにいた。それは、それだけで、ほとんど答えのようなものだ。


561: 2013/06/22(土) 04:01:04.21 ID:CnjYFZl7o

 仕方ないか、とわたしは思った。
 
 わたしはどうしてこんな場所を作ったのだろう。
 氏にたいのなら、もうやめにしたいのなら、氏ぬだけでいいじゃないか。
 どうしてこんな場所に逃げ込んだのだろう?

 それはたぶん、寂しかったからかもしれない。怖かったからかもしれない。
 ひとりぼっちになることも、氏ぬことも、怖かったから、わたしはこの世界を作ったんだろう。  
 その中で、ずっと傍にいてくれる人を求めたんだろう。わたしを傷つけない人を。

 でも、結果はこれだ。

 この世界はわたしに何ももたらさなかった。安息も何も。
 結局ここも、現実と同じになってしまった。

 どうでもいいや、とわたしは思う。シラユキは歩きながら何度かわたしの方を振り返った。
 何か心配そうな顔をしている。それはそうだろう。そうなのだ。そんなことは、分かってるのだ。
 
 彼女の言う通りだ。たぶん、彼女が正しい。わたしは彼女に従うことができる。

 どれだけ歩いても、景色はやはり変わらない。変わるのは雨の強さくらいのものだった。
 沈黙はずっと破られることがない。もう語るべきことはぜんぶ語ってしまったのだろう。
 もう誰も、わたしに何も語りかけはしない。

 わたしにすべてが委ねられている。


562: 2013/06/22(土) 04:02:20.45 ID:CnjYFZl7o

 わたしたちは歩いていく。 
 代わり映えのしない景色の中を、ずっと。

 ひょっとしたら細部は違うのかもしれない。でも、だいたいは同じようなものだ。

 それは当たり前と言えば当たり前のことだ。

 この森が急に終わって、巨大な砂漠が現れたりするはずがない。
 森はずっと森のまま。突然何か大きな変化が訪れたりすることは、ないのだ。奇跡でも起こらないかぎり。

 そういう意味では、わたしたちは奇跡を望んでもいた。

 森が突然砂漠になったり、砂漠が突然海になったり、ということを。
 でもそんなことは起こるはずがない。
 少なくともわたしには信じられそうになかった。
 
 でも、奇跡が起こらなかったからといって、落胆する必要はない。
 奇跡なんて起こらないのが普通なんだから。起こらなくなって、まあそうだろう、という程度にしか思わない。
 
 その程度のものなのだ。


563: 2013/06/22(土) 04:03:37.39 ID:CnjYFZl7o

 やがて、わたしたちの前に泉が現れた。
 ツキは苦しそうにしていたが、意識ははっきりとしているようだ。
 
 彼は長い間、一言も言葉を発していない。
 
 わたしは何を望んでいるんだろう。
 何かを期待しているんだろうか?
 ひょっとしたら、誰かがわたしに何かを言ってくれるんじゃないか、というようなことを?

 でも、それは起こりそうもなかった。泉の中に、シラユキは足を踏み入れる。
 雨の波紋に歪みながら、水面はわたしの顔を映した。

 わたしはその姿を掻き分けるように、シラユキのあとを追う。
 水面に映る自分の姿に、特別恐れを抱くことはなかったし、何か記憶がつつかれるようなこともなかった。
 わたしはちゃんと自分のことを思い出している。自分のことをちゃんとつかめている。

 今、わたしは何の邪魔立てもなく、わたし自身を理解できている。

 何とも言いようがない空虚さが、わたしをとらえている。


564: 2013/06/22(土) 04:04:36.60 ID:CnjYFZl7o

 泉を抜けると、森の様相は少しずつ変わりはじめた。
 でも、結局森は森だった。砂漠になったりはしない。

 なんだか息苦しかった。なぜだろう。何が原因なんだろう。
 
 シラユキは、何度もわたしを気に掛けながら、それでもかまわずに進んでいく。
 
 足を進めるたびに、なんだか体が重くなっていく気がした。歩いているという実感がうまく沸かない。
 ツキもまた、苦しそうにしていたけれど、それでも自分の足でしっかりと歩いていた。

 わたしの足下の感触はふわふわとしている。
 わたしは自分の意思で歩いているのだろうか。とてもそうは思えない。

 何者かがわたしを糸で吊して操っているように感じた。だとすると、それは誰だろう?
 シラユキか? ツキか? それともわたし自身なのか?
  
 もちろんそんなのは妄想のようなもので、いくら考えたって無駄なのだけれど。

565: 2013/06/22(土) 04:05:52.52 ID:CnjYFZl7o

 やがて前方に岩壁が姿を現した。それはまだ遠くにある。見えてきたというだけだ。

 どうしてこんなに心が凍てついているんだろう。

 たぶん、わたしはどうだっていいのだろう。
 結局、この世界で起こったさまざまなことだって、わたしの意思とは関係がなかったのだ。
 ただ、シラユキが引っかき回したというわけ。

 いずれにしたっておんなじなのだ。

 立ち止まりそうになっている人間に、もう少しだけがんばってみろと言う人間がいたなら。
 それは、もう少しがんばることもできるだろう。

 でも、既に立ち止まってしまった人間にどれだけ声を掛けたところで、それはたぶん、徒労に終わる。
 歩くのをやめてしまってから、もう一度歩き出すためには、歩き続けるのとは違う何かが必要になる。

 どんなに長く続けていたことでも、一度やめてしまえば、どうして今までそれを続けていたのか、分からなくなってしまう。
 たしかにツキを悲しませたくはない。苦しませたくもない。
 でも、氏んでしまえば……そんなことはもう、関係ない。

 岩壁の足下には穴が空いていた。大きな洞穴。足場は悪いが、シラユキは注意深く、けれど躊躇わず、進んでいく。
 わたしは両手の塞がった彼女のかわりに、彼女の鞄から懐中電灯を取り出した。
 真っ暗闇の中で、それは気休め程度の効用しかもたない。

「行きましょう」とシラユキは言った。

 洞穴の中の空気は冷たい。
 誰もわたしを求めていないという気がした。

570: 2013/06/23(日) 03:21:46.15 ID:seth9kfao



 一歩足を踏み入れてみると、そこから先は、もうさっきまでの森とは空気がまったく異なっていた。
 それは今まで居た世界とは別の場所だという気がした。

 たかだか一歩足を踏み入れただけ。
 それだけなのに、とてつもなく大きな断絶が背後に生まれたような気がした。

 異質な感触。
 でも、異質なのは今いる洞窟の方ではない。

 断絶の向こうに置き去りにした森の方が、今となっては異質に感じられた。

 仮に、とわたしは思う。

 仮にツキをここで現実に帰して、そのあと、どうするのだろう。
 シラユキの言うように、わたしも現実に帰るのだろうか。

 そうだとすれば、あの森にもう一度帰ることはないのだろうか。

 ……どちらにしても、もう見ることはないだろうという気がした。

 もうあの場所ですべきことは全部済ませてしまったのだ。


571: 2013/06/23(日) 03:22:47.46 ID:seth9kfao

 わたしを外から守り続けたあの屋敷。雨の降り続ける森。
 もう、わたしとは関係のない場所だ。

 現実に帰るにしても、帰らないにしても、わたしはもう二度とそこにはいかないだろう。
 いずれにせよ、わたしはもうこの世界を去るのだ。

 わたしは、それでもしばらくの間、入り口から少し過ぎたあたりで立ち止まっていた。 

 ただ、なんとなく、そうしたかっただけのことだ。

 もう一度前を向いたとき、シラユキが心配そうにこちらを見ていた。
 彼女は彼女なりによくやったのだと言える。
 
 目論見はすべて、うまく行った。この世界の存在意義を破壊したし、わたしに選択も迫った。
 そしてツキの氏に抵抗しようとするわたしを発見し、今はわたしを出口に向かわせてすらいる。

 でも、彼女は上手くいったなんて思っていないだろう。 

572: 2013/06/23(日) 03:23:28.24 ID:seth9kfao

 洞窟の中を歩き始める。冷たい岩の感触。雨の音が反響しながら後ろから追いかけてきていた。
 それも、しばらく進んだら止んだ。でも、音が聞こえなくなっただけだ。
 雨が止んだわけではない。

 わたしは頭の中でその言葉を繰り返した。
 雨が止んだわけではない。だから、大丈夫だ。

 足音と呼吸音だけが響いていた。もう誰も何も言わない。
 仕方がないので、わたしも黙っていた。もちろん、話したいことなんてなかったのだけれど。

 暗い道を進んでいく。すごく長い時間、静寂と暗闇の中を歩いた。
 わたしは前方をずっと照らし続ける。予定調和のような景色があるだけだ。

 何もかもが想像の範疇で、変化は起こらない。
 

573: 2013/06/23(日) 03:24:02.23 ID:seth9kfao

 不意にツキがうめき声をあげて、自分の足に体重をのせたようだった。
 シラユキは咄嗟に支えようとしたが、彼はそれを断った。

「自分で立つ」

 まだふらついているようだったけれど、さっきまでよりはずっとマシになっていたようだった。
 少しの間、その場で動かなかった。ツキはやがて長い溜め息をつき、「行こう」と言った。

 それから何度か、うわごとのように、

「お前が氏んでも、俺は生きる」

 と呟いた。わたしの顔なんて一度も見なかった。自分に言い聞かせているみたいに見えた。

 また、さっきまでと言ってることが違う。

 たぶんそういう磁場があるのだろう。
 わたしたちは自分で思うよりもずっと、場の力というものに影響を受けやすいのだ。

574: 2013/06/23(日) 03:25:37.07 ID:seth9kfao

 雨に打たれ続け、森を歩き続け、今はこんな薄暗い場所にいる。
 そんな無茶をしているにもかかわらず、わたしの体はまったく問題なく動いた。
 もう実感がないのかもしれない。

 本当に長い間、わたしたちは歩き続けた。ずっと、何も起こらなかった。
 何の変化もなかった。ただ暗闇が続いていただけだ。

 そして、不意に、雨の音が聞こえた。

 その場所は、ひどく肌寒かった。
 広ささえ分からないほど暗い。でも、真っ暗闇というわけではなかった。
 
 そこは行き止まりだったけれど、壁には穴が空いていた。
 そしてその穴は、水面越しに見るように、向こう側の輪郭を滲ませてしまっている。

 わたしはその景色をどこかで見たことがあるような気がした。

 ぶよぶよとした皮膜のような、そんな断絶。

 シラユキは「ここが出口です」と言った。でもそんなことは言われなくたって分かった。


575: 2013/06/23(日) 03:27:06.39 ID:seth9kfao

 強い風が吹きすさぶような、そんな音が向こう側から聞こえた気がした。
 激しい雨の音も。この向こう側は、きっと嵐なのだ。
 そして、暗い。夜なのだろうか。それは荒々しく、寒々しく、硬質な気配だった。

 皮膜越しに、たしかにそうした感触が伝わってくる。

 ツキは一度立ち止まると、洞窟の壁にもたれて長い溜め息をついた。
 それから自分が拳銃を持ったままだったことに気付いたようだ。シラユキもよく取り上げずに肩を貸したものだ。

「ここを通ると、どうなる?」

 質問はわたしではなく、シラユキに向けられていた。当たり前と言えば当たり前のことだ。わたしに聞いたところで仕方ない。

「想像した通りになると思います」

「なるほどね」

 シラユキの答えにツキはそう頷いたけれど、わたしにはいまいち向こう側が想像できなかった。
 ただ、暗く、激しい雨が降っているようだ、ということしか。

 それからしばらくの間、また沈黙が降りた。

576: 2013/06/23(日) 03:27:58.08 ID:seth9kfao

 わたしは少しの間、その輪郭のぼやけた景色をじっと見つめた。
 その先に何があるのかは、よくわからない。

 それで、わたしはここを通るべきなのだろうか?
 
 それが問題だった。それ以外のことは、わたしの判断を必要としていない。

 この先に、何があるのだろう。
 そのことを考えたとき、頭に鈍い痛みが走った。耳元で囁き声が聞こえた気がした。

「どうしてそんなに、醜いの?」

 もちろん、そんなものは錯覚だった。誰もそんなことを言ってはいない。
 でも、そう聞こえた。


577: 2013/06/23(日) 03:29:42.17 ID:seth9kfao

 わたしは現実に向かうべきなのかもしれない、と、そう考えてみることにした。
 それから自分が嫌だと思ったこと、自分が逃げ出したもののことを思い出してみる。
 
 すると、どれもこれもたいしたことではないような気がしてきた。
 わたしはどうしてその程度のことで現実から逃げたのだろう、と思えそうな気がした。

 なんだ、その程度のことじゃないか、と努めて考えるようにしてみようとした。

 でも、だめだった。すぐに心は折れてしまった。

 ツキは不意に拳銃を持ち上げた。それから、銃口をシラユキに向ける。

 シラユキは怪訝そうな顔をした。ツキは「ばあん」と言って、銃を下ろす。それだけだった。
 彼は弾倉から弾を外してその場に投げ捨てて、それから拳銃を放り投げた。
 
 激しい雨の音が聞こえる。

 雨の音を聞くと、わたしは安心する。 
 雨が降っている間は、ツキはわたしの傍にいてくれた。
 

578: 2013/06/23(日) 03:30:40.90 ID:seth9kfao

「アヤメ」

 不意に、ツキはわたしを呼んだ。
 それから困ったように笑う。

「お前が氏んでも、俺は生きる」

 わたしは反応に困った。だって、何も感じなかったのだ。

「でも、お前がいないと、とても悲しい」

 彼は今まで、何度かそう言った。
 わたしはそれを何度か聞いた。
 
 それなのに、今度ばかりは何かが違うような気がした。

「ツキがいなくなると、わたしも悲しいよ」

 泣き出しそうな気持ちで、わたしはそう言った。
 ツキがいなくなれば、わたしも悲しい。
 置き去りにされるのは、寂しい。


579: 2013/06/23(日) 03:31:16.66 ID:seth9kfao

「雨が降っている間、ツキはわたしと一緒にいてくれた。
 わたしはツキの家で過ごすことができた。シラユキの背中を撫でていることができた。
 その時間が好きだった。一緒にいてくれて、嬉しかった」

 ツキは泣きそうな顔をした。わたしは今、どんな顔をしているのだろう。よくわからなかった。

「でも、雨が止んだら、ツキはわたしの傍からいなくなってしまう。いつも。
 ツキはどこかに遊びに行って、わたしはどこにも行けないまま。
 だから……雨が止んだなら、わたしはたったひとり、現実に向き合わなきゃいけなかった」

 わたしはずっと傍にいてほしかった。どんなときだって。
 でも、永遠に雨が降り続くことはない。雨が止んでしまうことを、わたしは受け入れなければいけなかった。

 雨はいつか止んでしまう。
 いつでも、いつまでも、ツキが一緒にいてくれるわけではない。

 そんなのは、当たり前のことなのだ。
 わたしはそれを望んでいたのだ。現実的に不可能だったって、理屈として間違っていたって、わたしはそうしてほしかった。
 
 ツキに非があるわけではない。
 どこにも行けなかったわたしが悪かったのだ。
 彼を追いかけることのできなかったわたしが。


580: 2013/06/23(日) 03:31:58.48 ID:seth9kfao

「アヤメ」

 彼はもういちど、わたしの名前を呼んだ。それきり、しばらく黙り込んでしまった。
 何度も苦しそうな顔をした。後悔しているようにも見えたし、何かを言いあぐねているようにも見えた。
 どれが本当なのか、わたしにはよく分からない。

「ずっと一緒にいることはできない」

 そう、彼は言った。そうだよ、とわたしは思った。ずっと一緒にいることはできない。

「でも、雨が止んだからって、傍にいられないわけじゃない。
 一緒にいたいなら、一緒にいたいって言ってくれてもよかった。
 俺はそれを嫌がったりしない。ずっと一緒にいられないとしても、ずっと離れたままってわけでもない」

「……うん。そうだね」

「お前がいなくなるなんて嫌だ」

 彼はもう一度そう言った。

「ずっと一緒にいることはできない。俺はお前の痛みを分けてもらうことも、肩代わりすることもできない。
 でも、だからって、ずっとひとりぼっちで戦わなきゃいけないわけじゃない。俺はそう思うよ。
 雨が降っている間しか、人に甘えられないなんて理屈はない。お前はもっと泣きわめいて、誰かを頼ったって良かったんだ」

「でも、それが上手にできなかったんだよ」

 だってそれは、明らかにわたしの問題なのだ。
 誰かが関わって、うまく解決できる種類の問題ではないのだ。

581: 2013/06/23(日) 03:33:26.07 ID:seth9kfao

「たぶん俺も、もっとお前にいろんなことを言うべきだったし、いろんな態度を示すべきだったんだろうと思う。
 でもそれは手遅れじゃないって思うんだよ。お前がもう一度、俺のところに来てくれさえすれば……」

 それから彼は思い直すように頭を振った。わたしは悲しい気持ちになった。

「そうだね」
 
 とわたしは言った。わたしはそうすることもできるのだ。
 
 でも、あの輪郭のぼやけた向こう側の世界に足を踏み出すのは、怖い。
 強い風の声と、激しい雨の音。
 凍えるような寒さと、深い暗闇。

「もしも、もう一度機会があるなら、今度は、雨が止んでも一緒にいたい」

 ツキは最後にそう言って、自嘲するように笑った。
 今にも泣き出しそうな、迷子みたいな表情だった。 

 そうだなあ、とわたしはぼんやり思った。
 そうなれたら、わたしもきっと嬉しいのだと思う。

 もしも、そんな機会があるならば。

582: 2013/06/23(日) 03:35:11.63 ID:seth9kfao



 そのようにして、ツキは向こう側へと去っていった。
 後にはシラユキとわたしが残された。

 雨と風の音。冷たい空気。

 わたしはこれから、どうするつもりなんだろう。どうすればいいんだろう。


585: 2013/06/24(月) 03:52:02.76 ID:k0zfLIWso



 シラユキは何も言わなかった。

 だからわたしは困ってしまった。雨と風の音だけが周囲を支配している。
 何を言えばいいんだろう? でも、言うべきことなんて、もうないのだ。

 ツキは行ってしまった。わたしはどうしよう?
 
 そのあたりのことは自分で決めなければならないのだろう。
 でも、考えるのが面倒だった。
 
 もう少しだけがんばってみてもいいかな、という気持ちに、わたしはたしかになっていた。
 この世界に来たとき、きっとわたしはすごく追いつめられていたんだろう。
 状況はよく思い出せないけれど、とにかくすごく混乱して、周囲が見えなくなっていたんだろう。
 
 それは分かる。


586: 2013/06/24(月) 03:53:48.28 ID:k0zfLIWso

 でも、混乱していたからってそのときに下した判断が間違いだったということにはならない。
 冷静な視点で考え直してみても、やっぱり耐え難い状況だったのかもしれない。

 何より確かめるのが面倒だった。

 この世界はすごく空虚だ。
 でも、少なくとも痛みはない。苦しみもない。
 そしてもうすぐ終わりを手に入れる。
 
 黙って待っていれば、わたしはもうすぐ苦しみのない場所に行ける。

 現実にまったく未練がないわけじゃない。
 ツキのことだって、悲しませたくない。

 だからって、もう一度現実に戻れるか?

 ずっとひとりで考えてばかりいるから悪いのかもしれないな、とわたしは思った。
 わたしはもっと誰かに話しかけたり相談したりするべきなのだ。

 でも、面倒だ。
 

587: 2013/06/24(月) 03:54:56.84 ID:k0zfLIWso

 面倒だ面倒だって言っていたって仕方ないじゃないか、とわたしの中のわたしが言う。
 
 とにかく冷静になってみよう、とわたしの中のわたしはわたしを説得した。
 わたしに、ここを出るだけの理由があるのだろうか?
 理由。必然性。事態の要請。なんでもいい。とにかく、そうしたものがあるのか。

 ないような気がした。

 もう少し考えてみよう。本当にないのだろうか?

 頭の中をめいっぱい探してみても、やっぱり見つからなかった。

 そうしているうちに、もういいじゃないかという気持ちになってきた。
 理由なんてないのだ。

 いや、もうちょっとだけ考えてみようと思い直す。
 理由。理由が必要なのだろうか。
 
 じゃあこういうのはどうだろう。宇宙は巨大な果実のひとつだと考えるのは。
 それは葡萄のように房になっていて、宇宙と宇宙は並んでいる。
 果実の中で生命が発展するほど、果実は甘くなる。だから果実を甘くするために、生命の発展に寄与しなくてはいけない、とか。
 
 それなら生きる理由にだってなる気がした。でもだめだ。果実を甘くする義理なんてない。
 そこまで巨視的な意味や理由は問題にならない。問題なのは、もっと個人的な理由。

 それこそ、そこらじゅう探しても出てこないような気がした。


588: 2013/06/24(月) 03:55:55.11 ID:k0zfLIWso

 ツキのため?
 でも、どうだろう。ツキだってずっとわたしのことを覚えているわけではないはずだ。
 いつかは忘れてしまう。それに、忘れなかったとしても、ツキだっていつか氏んでしまうのだ。

 わたしだって、今氏ななくたっていつかは氏ぬのだ。今氏んだってかまわないはずだ。

 考えれば考えるほど理由はなくなっていく気がした。
 何より、いまさら現実に帰ってもう一度苦しむというのは、ちょっと面倒だった。

 たとえば、台風の影響でひょっとしたら学校が休みになるかもしれない、と期待していたときのよう。
 雨が段々弱まってきて、連絡網が回ってきて、通常通りに登校するようにと言われたときの、あのけだるさ。

 正直、いまさら面倒だ。

 だってわたしは、一度やめてしまったのだ。
 一度やめたことをもう一度始めるのは、面倒だ。


589: 2013/06/24(月) 03:56:50.32 ID:k0zfLIWso

 こんなことばかり考えているから、お母さんはわたしのことが嫌いだったのかもしれないな。
 四六時中こんなことばかり考えているような子供を誰が好きになるだろう。

 わたしだってできればみんなに好かれたいと思ったけれど、あんまり上手くはいかなかった。
 あの努力をもう一度続けろというんだろうか。

 それよりは、もう何もかも諦めてしまって、敗北宣言をして、やめてしまった方がずっと楽だ。
 もう期待も持ち合わせてはいない。
 
 どうしようもないのだ。

 本当に空っぽなのだなあとわたしは思った。
 わたしは穴の向こうの歪んだ景色を見つめた。
 じっと見ていると、そのうち目がおかしくなったような気がしてくる。あるいはとうにおかしかったのかも。

 誰がわたしのような人間を好きになると言うのだ。
 別に、好きになられたって、今更なんだけど。


590: 2013/06/24(月) 03:58:05.78 ID:k0zfLIWso

 そう、全部が今更だ。
 
 もう、ぜんぶぜんぶ終わってしまったことなのだ。
 わたしはとっくに決断を済ませていた。

 シラユキがその邪魔をしただけで、わたしはとっくに決断していた。
 すべては終わっていることなのだ。

 なにかがおかしい。そう思った。
 そして気付く。わたしはここからツキが居なくなったことが、悲しいのだ。

 この世界では、わたしは悲しい気持ちにならずに済むはずだったのに。

 それもシラユキが壊してしまったんだっけ。
 それなら、こっちもあっちも同じじゃないか。同じだったら、尚更出ていく意味が分からなくなってしまった。

 悲しくはなかった。ただ少し寂しいだけだ。みんなわたしのことを忘れていくのだ。
 そして思い出しはしない。置き去りにしたのか、置き去りにされたのか、よくわからない。

 わたしを置いてみんなは進んでいくのだ。


591: 2013/06/24(月) 03:58:48.39 ID:k0zfLIWso

 でも、それだってそんなに悪いことばかりではない。
 少なくとも、一度終わらせてしまえば、それ以上はない。わたしはわたしであることを終わりにできる。
 そうすれば、もうこんなふうに考え込む必要もない。

 考えれば考えるほどわけが分からなくなってくる。
 
 わたしはシラユキの方を見た。 
 シラユキは何も言わなかった。
 
 何か言ってくれないかな。そう思った。でも何も言わない。もう言うことがないのだ。
 
 どうすればいいんだろう。

 向こうに行くのは、怖い。

 怖い、と言ってしまいたかった。でも、怖いと言ってしまうことも怖かった。
 だって、それでも行ってほしいと、シラユキはきっと、わたしにそう言うのだ。

 怖いならいい、とは、言ってくれないのだ、きっと。

 何かが胸の奥でわだかまっているような気持ち。


592: 2013/06/24(月) 03:59:19.02 ID:k0zfLIWso

「シラユキ」

 とわたしは彼女の名前を呼んでみた。
 答えはないかもしれない。でも、とにかく呼びかけてみた。

「なんですか?」
 
 と、シラユキはそう返事をしてくれた。わたしはまだ自分がここにいるのだな、と思うことができた。

「どうしよう?」

 わたしは咄嗟にそう訊ねていた。彼女は困った顔をした。
 怖かった。
 
 本当は分かっている。わたしはもう一度向こう側に行くべきなのだ。
 そこには、何か根本的な転換のようなものが待っているのかもしれないのだ。

 もしそれがなくても、それを期待して生き続けることだって、できるのだ。
 ツキも、シラユキも、きっとそれを望んでいるのだ。

 シラユキは何かを言おうとしたようだった。
 それから諦めたように口を閉ざす。そして、もう一度何かを言おうとした。そういうことの繰り返しだ。

「あなたのことが、好きですよ」

 シラユキは、長い逡巡のあとにそう言った。それはきっと、嘘じゃないのだ。


593: 2013/06/24(月) 03:59:59.59 ID:k0zfLIWso

 雨の音と風の声が絶えず響いている。

 わたしは少しの間、何も考えずにその音に耳をすませていた。本当に何も考えなかった。

「うん」

 わたしはシラユキに、そう答えた。
 
 彼女は、向こう側にはきっといない。
 だから、彼女がわたしを好きだったとしても、もうそれは何の役にも立たないし、理由にもならない。
 
 それは妄想のようなものだ。
 この世界がすべて、わたしに都合の良いだけの妄想なのかもしれない。

 シラユキも、ツキも、ぜんぶがぜんぶ嘘なのかもしれない。
 わたしのことなんて、誰も好きじゃないかもしれない。

 現実感が薄いのだ。
 きっとわたしの五感はもう正常じゃない。そして、正常さを求めてもいない。


594: 2013/06/24(月) 04:00:42.02 ID:k0zfLIWso

 ふと、泣き声が聞こえた気がした。
 
 それは向こう側から聞こえていた。誰の声だろう。知っている人の声だ。
 わたしはその人がそんなふうに泣くのを初めて聞いた。とても激しい泣き方だった。
 
 それから、ツキの声だ、と追われるように気付いた。

 ツキが泣いているのだ。

 なんのために泣いているんだろう。

 それで……ツキが泣いているから、なんだっていうんだ?

 もうだめだな、とわたしは思った。もう全部だめなのだ。根拠はないけれどそう思った。

 恐怖だけが実感を伴っていた。それ以外のものには現実感がない。
 心臓がいやなふうに鼓動した。眩暈がしそうだった。

 どうする? とわたしは訊いた。どうしよう? とわたしは訊ね返した。

595: 2013/06/24(月) 04:01:21.30 ID:k0zfLIWso

 もういいじゃないか、とわたしは思う。
 ぜんぶ終わりにしよう。やめてしまおう。もう怖い思いをするのは嫌だ。

 わたしは体を動かした。シラユキに何かを言おうと思ったけれど、口がうまく動かなかった。
 だから仕方なく、何も言わないことにした。「向こう側」へと繋がる穴に、背を向けようとした。

 そのとき、雨と風の隙間から、鋭い声が耳に届いた。

「駄目だ」

 と、その声は言っていた。引き留めるような響きだった。
 ツキの声だ。もう、泣いてはいなかった。

「駄目だ」

 と彼はもう一度繰り返した。

 わたしはうまく呼吸ができなくなってしまった。


596: 2013/06/24(月) 04:01:48.89 ID:k0zfLIWso

 もう一度、向こう側へ繋がる穴を、わたしは振り返った。
 何も映っていない。ただ、音だけが聞こえる。景色は滲んでいる。
 
 わたしは急に泣きたい気持ちになった。心細いような、寂しいような、そんな気持ちに。

 彼は向こう側から、わたしの名前を呼んだ。
 何度も繰り返した。また泣き出してしまいそうな声で、哀願するように。
  
 駄目だ、と。

 その声がたしかに聞こえた。

 わたしはもう一度シラユキの方を見た。
 彼女は泣いているような、笑っているような、奇妙な顔をしていた。
 わたしは彼女のその顔を見て、少しだけ笑った。

「……駄目なんだって」

 と、わたしは笑いながら言った。シラユキは、困ったような顔をした。


597: 2013/06/24(月) 04:02:25.19 ID:k0zfLIWso

 そっか、駄目なのか、とわたしは思った。
 そうだろうな、駄目なんだろう、きっと。駄目なら仕方ない。

 ツキがこんな声で、必氏になってわたしに語りかけているのだ。
 理屈も何もない、感情や、衝動のようなものだけで。 
 
 だったらもう、いくら考えても無駄なのだろう。

 シラユキはしばらく唖然とした顔をしていたが、やがてわたしの方を見て、くすくすと笑った。

「どうするんです?」

「だって、駄目なんだって」

「それじゃあ……」

「うん。そうだね」

 あんなふうに言われたのでは、仕方ない。
 それに、もしまた機会があるなら、彼は雨が止んでも、一緒にいてくれるそうだから。
 嘘かもしれない。でも、信じてみたくなった。

 痛かったり、苦しかったりするかもしれない。でも仕方ない。ツキが、駄目だと言うんだから。
 なんだか、いろいろと考えていたことのほとんどすべてを、今の一瞬で、まるごとすべて忘れてしまった。

 怖さだけは、まだ残っていたけれど。

598: 2013/06/24(月) 04:03:10.48 ID:k0zfLIWso

「わたし、帰るね」

 とわたしは言った。シラユキは、また、困ったように笑った。
 それから小さく頷く。彼女の仕草はいつだって変わらない。

 皮膜越しに、ツキはわたしの名前を呼び続けている。
 そういえばわたしも、いつだったか、こんなふうに誰かの名前を呼び続けたことがあった。

 シラユキが氏んだときだ。
 
 だとしたら、ツキをもう一度あんな目に遭わせるわけにもいかない。
 少なくともわたしは、まだ選ぶことができるんだから。

 その先がどんなものであったとしても。

 シラユキは、何かを言いたそうにしていた。その表情は笑っていたけれど、どこか寂しそうだった。

「ありがとう」

 とわたしは言った。
 彼女ははっとしたような顔をして、すぐにまた、取り繕うように笑った。
 大事なことを声に出して伝えるのはすごく難しい。

「ごめんね」


599: 2013/06/24(月) 04:04:00.05 ID:k0zfLIWso

 シラユキはまだ何かを言いたそうにしている。

 わたしはその言葉を待っていたけれど、その声はいつまで待っても訪れなかった。
 やがて、彼女はふわりと笑う。わたしはなんだかくすぐったいような気持ちになった。
 
 そうして、彼女は最後に、

「ごめんなさい」

 と苦しげに言い、 

「ありがとう」

 と笑って付け加えた。

 わたしは前に足を踏み出した。
 すると、足の裏からごつごつとした岩の感触が伝わってくる。冷えた空気が肌を撫でた。
 一歩進むたびに、雨の音が激しさを増していく。

 わたしは指先を伸ばし、その皮膜に触れる。
 するりと、何の抵抗もなく、飲み込まれていく。

 わたしは最後に振り向こうかと思って、やめた。
 それから、不意に思い出して、「さよなら」と、そう呟いた。

 それで最後だった。


606: 2013/06/25(火) 07:15:01.41 ID:tPA7g4lio



 曖昧な意識のまま、わたしはふと気付けば、暗闇の中にいた。

 なにひとつ聞こえず、なにひとつ見えない。そんな暗闇の中だ。
 闇の中では、感覚すらなかった。
 
 自分自身の身体がこの空間にあるということが疑わしいくらいだった。
 何かが視界を覆っている。
 
 そのせいで、わたしの瞳は光をとらえられない。
 なんだろう。何が邪魔しているんだろう。

 不意に、激しい音が聞こえる。

 雷鳴?
 そう、雷鳴だ。

 その音が合図だったかのように、わたしの身体の感覚が蘇っていく。
 蘇るというよりも、むしろ、押し寄せるように、意識に感覚が流れ込んできた。

 しばらくの間、わたしの意識はその奔流に支配されていた。


607: 2013/06/25(火) 07:16:16.23 ID:tPA7g4lio

 雨の匂い。肌に触れる濡れた質感。痛みであることを忘れそうになるほどの強い痛み。
 全身の感覚が鋭敏になっている気がした。 
 でも、むしろ逆だったのだろう。鈍麻していたのだ。鋭いのは痛覚だけだった。

 他のものは、ほとんどすべて機能していなかった。

 一挙に流れ込んできた痛みに、意識は鋭く呼び起こされた。
 視界は相変わらず暗い。ひどく肌寒い。全身がズキズキと痛む。

 音。雨の音、雷の音、風の音。
 わたしの身体は暗闇の中、どこかに横たわっている。
 どこだろう。痛みを堪え指先を動かし、手の感触で確かめた。

 ざらついた、濡れた感触。背中にごつごつとした、尖った痛みがある。 
  
 身体が重く、呼吸が上手くできない。鼻にも口にも耳にも何かが詰まっているような異物感。
 
 全身の関節という関節が軋み、痛む。
 身体のすべてが強く脈動しているような、そんな気がした。


608: 2013/06/25(火) 07:17:29.97 ID:tPA7g4lio

 まだ景色は暗闇だ。
 なぜだろう。視界を覆っているものは、いったいなんなのだろう。

 暗闇の中で、誰かの声が聞こえた気がした。

 それはずっと遠くから聞こえているようにも、すぐ近くから聞こえているようにも感じられた。
 音はなんだかぶよぶよと歪んでいる。だから、その声が現実のものなのかどうか、確信が持てない。

 真っ暗闇だから、誰かが傍にいるのかどうかも、分からない。

 どうして、こんなに暗いんだ?

 何かがわたしの身体を叩いている。身体のそこら中を。
 雨だ、とわたしは思った。

 それも激しい雨。
 でも、雨が当たっているのはほんの一部分だけで、ほとんどの場所は雨を受けていない。
 それでも身体は濡れているようだった。

 不意に、瞼に雫が当たるのを感じた。
 そのときにようやく気付いた。視界を覆っているものの正体は、自分自身の瞼だった。

 瞼を開けていないのだから、光を捉えられないのは、当たり前だ。

609: 2013/06/25(火) 07:19:00.16 ID:tPA7g4lio

 開けろ、とわたしは思った。
 開けるんだ。そうすることでしか始まらない。

 それは少し、怖いことでもあった。
 でも、仕方ない。声が聞こえたような気がしたのだ。
 たしかめてみないといけない。

 わたしは瞼を開けた。

 最初に目に入ったのは、薄い膜のような光だった。
 月明かりだ、と、わたしは思った。

 月の灯りが、嵐の夜をかすかに照らしていた。空は厚い雲に覆われていて、星すらもほとんど見えない。
 それでも月の光は、暗闇を暗闇ではないものに変えていた。

 風が強く、雨はそのときどきによって落ちる方向を変えた。

 しばらく静かに降り続いていたかと思うと、突然横殴りの雨になったり、飛沫が跳ねるように吹き上がったりもした。

 でも、雨は雨だった。わたしは全身の痛みと重さに呻く。
 それからすぐに、わたしの頭上を覆っていたものの正体に気付いた。


610: 2013/06/25(火) 07:21:28.29 ID:tPA7g4lio

 遠くの空は月の明かりで微かに光をまとっているのに、近くに居たその人は、ほとんど真っ黒に見えた。
 でも、それが誰なのか、わたしにはすぐに分かった。

 だって彼は、わたしの名前を、今にも泣き出しそうな声で呼んでいたのだ。

 何かを言おうと思った。
 でも、何を言えばいいのか、よく分からなかった。
 
 わたしは、あの巨大な蛇のような濁流に、身を任せたはずだった。
 その中から、彼が引きずりあげてくれたんだろうか。

 痛む身体を動かして、自分のいる場所を確認する。

 あの黒い水流は、すぐ傍で荒々しく唸り続けていた。
 わたしたちはその流れから、かろうじて、外れているだけだった。

 ツキは荒い呼吸をどうにか整えようとしていた。髪も身体もずぶ濡れで、顔は真っ青で、体中が汚れていた。

「ごめんなさい」

 とわたしは言った。だってそれは、どう考えたってわたしのせいなのだ。
 でも、わたしの耳にすらその声は白々しく、嘘っぽく響いた。
 わたしはどうしようもなく悲しい気持ちになった。

611: 2013/06/25(火) 07:22:37.51 ID:tPA7g4lio

 言葉も出せない様子で頷くと、彼はそのまま身体を動かし、わたしの腕を引きずって、水流から引き離そうとした。
 わたしはそれに従って、自分の身体をどうにか持ち上げる。水に濡れた衣服が重く、雨は痛いほど強い。

 身体を動かすたびに手足に痛みが走った。打ったのか切ったのか擦ったのか、分からない。
 でも、どれにしたって同じことだった。
  
 それはわたしが自分でつけた傷なのだ。
 ツキの身体についた傷も、わたしがつけた傷なのだ。

 身体を這うように動かす。怒号のような水流のうねりはわずかに遠ざかった。
 堤防の上まで辿り着くと、ツキは不格好に立ち上がった。

 それからわたしに手をさしのべた。

 わたしは少しの間迷っていた。
 その手を握る資格が、自分にはないような気がした。

 でも、ツキはずっと手を差し出したままだ。

 彼が雨に打たれたままなのは、とても、いやだった。
 だからわたしはその手を握って、痛みを堪えて、立ち上がった。

 彼は苦しげに笑った。

612: 2013/06/25(火) 07:23:30.74 ID:tPA7g4lio



 生き延びることができたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。

 言い換えれば、偶然の巡り合わせだ。同じことをやったとしても、二度目はないだろう。

 立っているだけでも風に吹き飛ばされそうな激しい嵐の日に、氾濫してもおかしくない河川に近づいた。
 水流に身を投げ、その中でしばらく意識を失っていた。

 普通なら氏んでいた。いや、まあ、氏ぬだろうと思って身を投げたのだから、当たり前なのだけれど。

 川に身を投げる前と後の記憶は混濁していて、前後の事情をわたしは上手く把握できなかった。

 あの出来事から数日が経った今でも、思い出せていない。
 だからわたしは、後の状況から推測や想像を交えて、自分の記憶を補完した。

613: 2013/06/25(火) 07:25:13.08 ID:tPA7g4lio

 あの嵐の夜、わたしは両親と激しい言い争いをした……らしい。
 
 どんな言い争いだったのかは覚えていない。
 とにかく、その出来事で打ちのめされたわたしは、家を飛び出した。

 両親がそのことに気付いたのは、わたしがいなくなってからしばらく経った後だった。
 天候が天候だったし、時間が時間だった。

 家を出てわたしが行くところといったら、彼らにはツキの家しか思い浮かばなかったようだ。

 あわてて電話を掛けてみたものの、わたしはツキの家にはいない。
 電話を内容を聞いたツキは、両親の制止もきかずに家を飛び出したという。
 
 そうしてツキは、水流の中にわたしを見つけた。

614: 2013/06/25(火) 07:26:27.84 ID:tPA7g4lio

 ツキに助けられたあと、わたしは再び意識を失った。

 彼はわたしを背負って近隣の民家に向かい、電話を借りて救急車を呼んだ。
 時刻は夜の九時を過ぎていたらしいので、民家の住人からすれば迷惑な話だっただろう。

 わたしとツキは救急車で病院に搬送された。

 ツキもまた、救急車が来るまでに意識を失った。
 けれど彼はその直前、自分の家の連絡先を人に伝えていたため、病院は彼の両親に連絡することができた。

 そして彼の家から、わたしの家にも連絡がいったのだという。
 
 細部は違うかもしれないが、わたしはそういうふうに聞かされた。

 わたしがふたたび目を覚ましたのは二日後の午前八時で、そのときには身体は快復に向かっていた。
 なんでも、一時は結構危険な状態だったらしい。

 一度は目を覚ましたわたしは、五分と経たないうちに再び意識を失った。
 そしてその日の正午過ぎ、今度ははっきりと、わたしは目を覚ました。

615: 2013/06/25(火) 07:28:18.15 ID:tPA7g4lio



 当たり前のことだけど、わたしはいろんな人に叱られた。
 ツキもいろんな人に叱られていた。ちょっと悪いことをしたかな、と思う。
 たぶん、ちょっとどころの話ではないんだろうけど。

 何はともあれ、わたしは生きていた。

 ツキから聞いた話によると、彼はあの水流の中からわたしを救い出したわけではないらしい。
 わたしの身体がたまたま流れから外れた場所に引っかかっていたのを見つけて引き上げただけだという。

 まあ、考えてみれば、彼が泳いでわたしを引き上げたというのなら、それはそれで驚きだ。
 あの流れの強さでは、泳ぐどころが方向を保つことさえ困難だったろう。

 その「引っかかった」際にわたしは擦り傷や打撲を負うことになった。
 これが意外なほどの軽傷で、なんということのないものばかりだった。
 しばらくは、痛むかもしれないけれど。

 でも、それ以外には外傷も何もないらしい。
 たぶんわたしがあの濁流の中にいたのはとても短い時間だったのだろう。
 と、思うのだけれど……根拠はない。

 とはいえ、それならそれで、長い時間意識を失っていて、危険な状態にあったというのは、不思議な話という気がする。
 そのあたりのことは、どうもよく分からない。


616: 2013/06/25(火) 07:29:05.16 ID:tPA7g4lio

 わたしを叱ったのは主にツキの両親で、叱らなかったのはわたしの両親だけだった。

 ツキの両親は、わたしとツキの行為に対して大声を上げて怒った。
 
 反対にわたしの両親は、何を言えばいいのか分からない、という顔でわたしを見た。
 わたしも何を言えばいいのか分からなかった。ひょっとしたら血筋なのかもしれない。
 
 どうしてこんなことをしたんだ、と父は言った。
 それは心からの質問と言うよりは、自分が言うべきことを計りかねているような響きを持っていた。  

 だいたい彼の方でも、察しはついていたのだろうと思う。

 少しずるいかな、と思いながらも、ごめんなさい、とわたしは最初に謝った。
 すると、彼らは揃って苦しそうな顔をした。

 ちょっとした意趣返しのつもりだったのだけれど、彼らの表情は思いの外わたしを暗い気持ちにさせた。 
 

617: 2013/06/25(火) 07:30:33.34 ID:tPA7g4lio

 彼らはそれから、わたしに頭を下げた。
 でも、わたしは別に謝ってほしいわけじゃなかった。
 だから、すごく困った。
 
 彼らは別に、心から謝ったわけではないのだと思う。

 単に、病院という空間には、人を神妙にさせる磁場のようなものがあるのだ。

 わたしが退院すれば、これまでと同じような生活が待っているに違いない。
 人がそんなに簡単に変われるわけがないし、わたしはそれを信じてあげられるほどお人好しでもなかった。

 が、まあ、わたしは偉そうなことを言える立場というわけでもない。
 それに、こんなふうに迷惑を掛けたことだけは、悪いことをしたな、などと思った。

618: 2013/06/25(火) 07:31:21.49 ID:tPA7g4lio



 目が覚めてから数日間、様子を見るためにと入院させられていた。
 ことがことだったので、担当の医師はわたしに「よければカウンセラーを紹介しますが」と言ってきた。
 わたしはそれを断った。

 嵐は去っていったが、入院中はずっと雨が降っていた。そういう時期なのだ。
 
 窓の外で降り続ける雨をじっと眺めていると、奇妙な気分になった。
 
 わたしは別に「あちら」でのことを忘れたわけではない。
 でも、それを徐々に忘れていってしまうのだろうと、なんとなく感じた。
 
 気になったのは、わたしたちが去った後、彼女がどうなったのかということ。
 でも、それは今となっては確認のしようがないことだった。

 不思議と寂しくはなかった。
 なぜだろう? 彼女がすぐ傍にいるような気がするのだ。
 それは、ただの錯覚なのかもしれないけど。


619: 2013/06/25(火) 07:32:32.33 ID:tPA7g4lio



 数日後、さしたる感慨もなく退院し、わたしは家に帰った。
 家に帰るのは久しぶりだという気がした。

 でも、久しぶりだと感じたところで、結局自宅は自宅だ。何かが変わるわけじゃない。
 だからといって、思ったほど嫌な感じがしたわけでもなかった。ベッドの寝心地は、少なくとも病院よりはマシだ。

 ツキが電話を掛けてきたのは退院したその日の夕方で、窓の外ではまだ雨が降っていた。

「明日、暇か?」

 まあ、暇だった。退院の日はちょうど土曜日で、明日は学校が休みだったからだ。
 月曜のことを考えると、今から気が重い。

「出掛けないか」

 とツキは言った。彼の態度は堂々としていた。
 なんだかいろんなものが吹っ切れたような、そんな態度。

「でも、明日は雨かもしれないって、天気予報で」

「晴れるよ」

「……根拠は?」

「晴れる」

 根拠はないらしい。


620: 2013/06/25(火) 07:33:29.20 ID:tPA7g4lio

 翌朝、案の定、雨が降っていたけれど、わたしはツキの家まで傘を差して歩いていった。
 彼がわたしを当然のような顔で出迎えたので、わたしはちょっとおもしろくない気分になった。

 しばらくのあいだ、何をするわけでもなく、二人で話をした。
 話の内容はよく思い出せない。
 
 何か大事なことだったような気もするし、どうでもいいことだったような気もする。
 抽象的な話だった気もするし、具体的な話だった気もする。

 いずれにしても忘れてしまった。
 話すことがなくなると、「雨が止んだら」と彼は思い出したように言った。

「雨が止んだら、出掛けよう」

 そうだね、とわたしは答えた。窓の外では静かな雨が降り続いていた。

「雨が止んだなら」

 何の気もなく返事をしてから、こそばゆいような、くすぐったいよな気持ちになった。
 彼が、昨日突然電話してきた理由も、今朝からずっと難しい顔をしている理由も、今の言葉で分かった気がした。

 雨が止んでも傍にいるのだと、彼は示そうとしているのだ。


621: 2013/06/25(火) 07:34:00.02 ID:tPA7g4lio



 気象予報士の言い分に反して、雨は十時過ぎに上がった。
 
 灰色の雲は空から消えて、青空が顔を出した。
 太陽の光は少し頼りなかったけれど、それでもしっかりと街を照らしていた。

 外に出てから、そういえば、目的地を聞くのを忘れていたな、と思い出した。
 でもまあいいか、と思う。そういうことを気にしすぎていても始まらない。

 虹を見つけて声をあげると、彼はおかしそうに笑った。
 わたしは不服に思って抗議した。

「どうして笑うの?」

「虹を見てはしゃぐような奴だったっけ?」
 
 彼は心底おかしそうに笑った。
 失礼な話だ。わたしにだって虹を見上げて喜ぶくらいの感性はある。


622: 2013/06/25(火) 07:35:37.88 ID:tPA7g4lio

「さて、それじゃあ行きますか」

 ツキはそう言って歩き始めた。
 わたしは何も言わずに、彼を追いかけて隣に並ぶ。

 ふと後ろを振り返る。そこに誰かがいたような気がした。
 でも、誰もいない。ただ歩いてきた道があるだけだった。

 誰もいないはずなのに、わたしはそこに彼女が立っているような気がした。

 薄いクリーム色の毛並み、綺麗な鳶色の瞳。
 それは錯覚なのかもしれない。

 その錯覚を、わたしはなんだか心強く感じた。
 もう一度前を見たときには、さっきまでより気分が晴れ晴れとしている。

 それは身勝手な投影なのかもしれない。
 わたしはもう一度、「ありがとう」と口の中だけで呟いた。それで最後にしようと思った。

「それにしても」とツキは空を見上げた。

「いい天気だなあ」

 雨に濡れたアスファルトが太陽の光を反射して、まぶしい。
 晴れた空の下を歩くのは、ひさしぶりだという気がした。


623: 2013/06/25(火) 07:36:30.71 ID:tPA7g4lio
おしまい

624: 2013/06/25(火) 08:01:49.41 ID:lOVoNg1bo
おつおつ
よかった

625: 2013/06/25(火) 08:19:59.34 ID:WlGyGa8DO
お疲れ様でした。

今まで長い間ありがとうございました。

626: 2013/06/25(火) 08:24:13.96 ID:xB8AwfjoO

やっと晴れたんだな

前に何か書いてたりする?

629: 2013/06/25(火) 23:55:38.53 ID:tPA7g4lio
誤字脱字・表記揺れなどが多く見づらい点もあったと思いますが
読んでいただきありがとうございました

>>626
あんまりお勧めしませんがURLだけ置いておきます
幼馴染「……童O、なの?」 男「」
男「だったら俺が悪いのかよ!」
後輩「それじゃ、本当にこれでお別れです」
妹「なぜ触ったし」
姪「お兄ちゃんのこと、好きだよ?」男「……そう?」




引用: 少女「雨が止んだなら」