214: 2015/03/04(水) 00:56:28.66 ID:9xSr4mgfo
前回:幼馴染「いっしょにいようよ」【前編】
◇
ユイとのぞみは、その日のうちに俺の家にやってきた。
部屋は余っている。四人暮らしていた家に今は一人しか居ないのだから、当たり前といえば当たり前だ。
彼女たちはほとんど身一つだった。持っていたのは財布くらいで、携帯すら持っていなかった。
「持ってたとしても使えないんだよ」とのぞみは言った。
「画面が真っ暗になっちゃうんだ」
理屈はわからないけど、そう言われたらそういうものだと納得するしかない。
「ごめんね、迷惑はかけないから」
とものぞみは言ったが、ここに来ることそれ自体が迷惑なことなのだと考えが及ばないはずもない。
誰もが無価値だという言葉を信仰する彼女にとっては、俺もまた無価値なのだろう。
だとするなら、どうして彼女はユイのために行動しようと思えたのだろう。
俺にはそこがさっぱり分からなかった。
無価値なら、どうなってもかまわないはずなのに。
それとも、それは話が別なのだろうか。
215: 2015/03/04(水) 00:57:06.33 ID:9xSr4mgfo
一応、ふたりに家の中を案内した。
キッチンや冷蔵庫の中身は勝手に使ってもかまわない、風呂場も好きに使ってくれていい。
面倒ならカップ麺を箱買いしてあるから、それを食べてもかまわない。
何をしてもかまわない。金が必要なら少しなら工面できるし、暇なら本やDVDを貸してもいい。
けれど、できるかぎり二階の部屋には近寄らないでほしい。俺が言ったのはせいぜいそのくらいのことだけだ。
返事や相槌をよこしたのはのぞみだけで、ユイは気に入らないように黙り込んだままだった。
べつにここを追い出されたってかまわないというような顔。
「不満気だな」
俺が訊ねると、ユイは「当たり前でしょ」と言いたげにこちらを睨んだ。
「べつに俺は、きみがどこに行ってどうなってもかまわない。頼まれたから場所を貸すだけだ。
きみが俺にとって不愉快なら、出て行ってもらうこともできる。
でも、そうなったとき、迷惑を被るのは俺じゃなくて、きみの友だちじゃないか?」
ユイは、軽蔑したようにこちらを睨む。傷つく理由はない。
「仲良くしようぜ」
俺は笑った。ユイは不愉快そうに溜め息をついたあと、
「ありがとう」
と儀礼的に言った。俺はそれで満足した。
216: 2015/03/04(水) 00:57:38.01 ID:9xSr4mgfo
◇
一人で部屋に戻る。物音はしないのに、家に人がいるというだけで落ち着かなかった。
べつにそれが年頃の女の子ふたりだからというわけではない、と思う。
考えても仕方ないことだと割りきって、俺は机に向かった。
ルーズリーフを一枚広げ、シャープペンを取り出す。
何かを書こうと思ったはずなのに、いざとなると書くべきことを思い出せない。
横にしたルーズリーフに、俺は文字を並べる。
神崎美園
千家龍
筒井あまね
野々宮サキ
のぞみ
ユイ
別に意味はない。ここのところ関わることの多かった名前を並べて、それらに説明を付け加える。
神崎美園 ― 女。図書委員。
千家龍 ― 男。同じクラス。
筒井あまね ― 女。同学年。生徒会役員。屋上。
野々宮サキ ― 同好会の会長。先輩。
のぞみ ― 別の世界の神崎美園。
ユイ ― 別人。
217: 2015/03/04(水) 00:58:57.40 ID:9xSr4mgfo
それから起こったことと、分かったこと。
・屋上の幽霊。正体は千家龍、あるいはのぞみ。
・千家龍と神崎美園は、超能力者。
・筒井あまねは神崎美園に屋上の調査を依頼した。吸い殻。
・野々宮サキの従姉はコンビニ店員だった。千家が頃した。
・ユイは何かのトラブルに巻き込まれ、こちらの世界に逃げこんできた。
・神崎美園は両親と同居しているため、ユイとのぞみを匿うことができない。
不思議な話だ。
不思議なほどに、俺には関わりのない話ばかりだ。
千家のことも、ユイのことも、神崎のことも、俺には関係のない話ばかりだ。
俺に関係のある話なんて、ひとつもない。
でも……。
・屋上の調査をしたのは、俺と神崎美園。
・ユイとのぞみは、俺の家を宿にすることになった。
・野々宮サキに千家龍の超能力について教えたのは、俺。
もし、俺が神崎に誘われなければ、俺は屋上に行くこともなかったし、その結果のぞみたちと顔を合わせることもなかった。
もしそうならなければ、この家にのぞみたちがやってくることもなかったはずだ。
同時に、俺がサキ先輩に千家のことを教えなければ、千家のしたことを俺が知ることもなかった。
サキ先輩は俺の言葉があったから、自分の従姉の氏について、それまでとは違う解釈を想像できた。
俺にはなにひとつ関係がないことなのに、いつのまにか、巻き込まれている。
ひどく回りくどく、けれどはっきりと、俺は関わりを持ってしまっている。
218: 2015/03/04(水) 00:59:28.12 ID:9xSr4mgfo
何かが、俺の身に起きようとしている。
そんな考えが頭をよぎる。もちろん、誇大妄想だ。
ふと思いつき、俺は項目を加える。
・のぞみが旧校舎で唱えた言葉は、
途中で、ペンを放り投げた。あまりにもバカバカしいことだったから。
そこで、携帯が鳴った。電話の着信音。
画面を見ると、志鶴からだった。俺はワンコール置いてから電話に出た。
「もしもし、おにいちゃん?」
「どうしたの?」
「べつに、用事があったわけじゃないんだけど……」
「……珍しいな。用事もなく電話をよこすなんて」
「なんだか、最近、変だから」
「……さっきも言ってたな。俺、そんなに変か?」
「おにいちゃんだけじゃなくて、サキ先輩も。それに、学校全体も」
「……学校?」
「うん。なんか、変な感じがする。根拠はないんだけど」
「変って、どう変なんだ?」
「わかんないけど。わかんないんだけど……」
219: 2015/03/04(水) 01:00:04.70 ID:9xSr4mgfo
志鶴はそこで、一度言葉を切った。
「おにいちゃん、わたしね……」
「……なに?」
続きを促しても、志鶴は何も言ってはくれなかった。
おにいちゃん、と、いつものように、志鶴は俺をそう呼ぶ。
でも、俺は彼女の兄ではないし、彼女は俺の妹ではない。
いつからだっけ。どうしてだっけ。志鶴が俺を、おにいちゃん、と呼ぶようになったのは。
息を呑むような音が、電話口から聞こえる。
「わたし、おにいちゃんのことが好き」
「……どうしたんだよ、急に」
「おにいちゃんは、わたしのこと、どう思ってるの?」
「……どうって、言われてもな。おまえ、本気なのか」
「本気だよ」
志鶴の真剣な声は、初めて聞くみたいに新鮮だった。
俺の知っている彼女とは、べつの人みたいに思えた。
220: 2015/03/04(水) 01:00:37.12 ID:9xSr4mgfo
「……ごめん、嘘だよ」
やがて、ごまかすみたいな笑いをにじませて、志鶴はそう言った。
「びっくりしたでしょ?」
「……まあ」
「さくせん、せいこー」
彼女はくすくす笑う。
「……ねえ、おにいちゃん」
「なんだよ」
「おにいちゃんは、わたしとずっと一緒にいてくれる?」
「……なに、それ」
「……聞いてみただけ。ねえ、わたしが、わたしがさ。
すごく卑怯で、汚くて、悪い子だったとしても、おにいちゃんの傍に、いてもいい?」
俺は、少しだけ迷って、「好きにしろよ」と、そう言った。
彼女はほっとしたように、あるいは緊張をほぐすみたいに、震えた声で「そっか」という。
221: 2015/03/04(水) 01:03:49.80 ID:9xSr4mgfo
「おまえの方が、変なんじゃないか」
「……そうかもしれない」
「なあ、志鶴」
「なに?」
「俺はすごく卑怯で、汚くて、悪い人間みたいだ」
「……」
「最近、気付いたんだ。俺はとても、矛盾した人間かもしれない。そうだったとしても、それでもおまえは、俺の傍にいてくれるのか?」
志鶴は少しだけ黙ったあと、
「だったらお互い様だね」と笑った。
「お互い様、か」
「お似合いだよ、わたしたち」
だから、と彼女は言葉を区切る。
「いっしょにいようよ」
俺は、志鶴に甘えている。多分。
でも、志鶴は……志鶴には……でも……。
泥のような理屈にまみれて、足をとられて、身動きがとれない。沈み込んでいく。沼の底まで。
体の感覚が失われていく。徐々に、記憶さえ絡め取られていく。わからなくなっていく。
結のこと。志鶴のこと。俺は、もうよく思い出せない。あのときのこと。赤い景色。
わかるのは、俺がこうなったのは、まぎれもなく俺自身が望んだ結果だということだけで、
それは間違いではなかった。間違いだと、思ってはいけない。
志鶴の言葉は、うれしい。うれしいのだと思う。でも、うれしいと感じてはいけない。
……それは、どうしてだっただろう。
223: 2015/03/06(金) 19:56:46.58 ID:+6tA0Qjoo
◇
「志鶴ちゃんって、けっこうモテるみたいだね」
「は?」
火曜の放課後、同好会の部室で、サキ先輩は唐突にそんなことを言い始めた。
「昨日の昼休み、男子に呼び出されてたみたい。初めて見ちゃった、人の告白シーン」
「……はあ」
「にしても、校舎裏ってのもベタだよね」
「……なんで昼休みにそんなとこ行くんですか」
サキ先輩は立ち上がって窓辺に近づくと、ちょいちょいと俺を手招きした。
近づくと、今度は窓の外のすぐ下を指さす。
「校舎裏」
「……まさかここでお昼食べてるんですか?」
「知らなかった?」
知るわけない。
224: 2015/03/06(金) 19:57:25.27 ID:+6tA0Qjoo
「けっこうかっこいい男子だったけど、振っちゃったみたい。からかおうと思ったのに、今日は来ないね」
「……」
「内海はさ、志鶴ちゃんのこと好きなの?」
「好きですよ」
「あら」
おどけた調子で、サキ先輩はわざとらしく驚いてみせた。
「ちなみにそれはどういう意味で?」
「好きにどんな種類があるのか、俺は知りません」
「つまり、べつに変な意味ではなくてってことかな」
「どうでしょうね」
「じゃあ、わたしのことはどう思う?」
「べつに、普通です」
「ふうん」
彼女はどうでもよさそうに溜め息を吐いて、椅子に腰掛けた。
225: 2015/03/06(金) 19:57:58.40 ID:+6tA0Qjoo
「ま、いいや。……そういえば、千家くんとは話したの?」
「どうして?」
「……だって、内海はこないだ、すごく怒ってたみたいに見えたから。
すぐに彼にたしかめに行くんだろうなって」
……アタリだ。
「まあ、話はしました」
「なんて言ってた?」
どう答えようか、少しだけ迷う。
「……べつになにも。心当たりはないって言ってました」
本当のことなんて言って何になる?
誰も千家を咎められやしない。
「そっか」
何かを隠されたことには、きっと気付いているのだろう。
何かを隠されたことに気付きさえすれば、その内容もきっと、彼女なら想像できるだろう。
本当は隠す意味なんてなかった。でも彼女は、俺が隠そうとする理由まで想像してしまう。
だから、そこを尊重してくれる、と思う。これは身勝手な押し付けか、それとも都合の良い期待かもしれない。
226: 2015/03/06(金) 19:58:33.02 ID:+6tA0Qjoo
「今日は、一年生の教室でなにかあったみたいだね」
「……なんですか、それ?」
「聞いてない? わたしも友達から聞いたんだけどね、盗難騒ぎがあったみたい」
「……盗難?」
「一年の子が話してるのを、友達が聞いたらしいんだけどね。
なんでも、体育前の着替えの時間に、鞄から財布を盗まれた子がいたみたい」
「はあ、それはまた……」
「どう思う?」
「事実なら、バカな話ですね」
「ちなみに」
とサキ先輩は話を区切る。
「犯人はミヤマシヅル、らしいよ」
「……ミヤマシヅル?」
……深山志鶴?
「まさか」
「うん。わたしもそう思うよ」
227: 2015/03/06(金) 19:59:08.46 ID:+6tA0Qjoo
「……噂、なんですよね?」
「そう。噂。実際に盗難騒ぎがあったのはホントみたい。
それ以上のことはわからない。でも、一年生の間では、志鶴ちゃんが犯人って話になってるとかなんとか。
聞いた話だから、どこまでホントかわかんないけどね」
「……志鶴が、人のものを盗むわけがない」
「どうかな?」
「サキ先輩は疑うんですか?」
「そういう段階じゃないよ。噂だし。どういう話なのか、わかんないし。
でも、志鶴ちゃんだから無条件で信じるっていうのも、なしかな。
そういうのって、それはそれでしんどいことだと思うんだよね、わたしは」
「……疑うのだって、しんどいことだと思いますよ」
「うん。だからきみは信じる役。わたしは疑う役」
「……」
――ねえ、わたしが、わたしがさ。
――すごく卑怯で、汚くて、悪い子だったとしても……。
俺は、立ち上がった。立ち上がってから、座っていたことを思い出した。
「どこか行くの?」
「……少し、外の空気を吸ってきます」
「ふうん。ま、いいけどね」
サキ先輩はどうでもよさそうだった。
どうでもよさそうに見えた。
228: 2015/03/06(金) 19:59:38.26 ID:+6tA0Qjoo
◇
俺はそのまま志鶴の教室に向かったが、生徒はひとりも残っていなかった。
べつに変な話じゃない。一年の教室はほとんど空っぽだった。
廊下から教室を覗いたまま、俺は溜め息をついた。
妙な焦りに支配されて早足でここにやってきたものの、俺に何ができるというんだろう。
志鶴は帰ってしまったんだろうか。
……何をしにきたんだろう、俺は。
サキ先輩の言っていたことはただの噂だ。
本当のこととも限らない。誤解や勘違いかもしれない。
むしろ俺は、そうであることを願った。
「おにいちゃん?」
後ろから声が聞こえる。そのタイミングの良さに、俺は戸惑った。
振り返ると、志鶴が当たり前のような顔で立っていた。
いつもみたいな表情。
「どうしたの?」
「……いや。志鶴、なにしてるかと思って」
「へんなの」
と言って、彼女は教室の中に入り、鞄を持って再び廊下に出てきた。
「何かあったのか?」
「……なにかって?」
彼女は平然と首をかしげる。
229: 2015/03/06(金) 20:00:11.21 ID:+6tA0Qjoo
「……いや。妙な噂、聞いたから」
「噂って?」
「なんでもないなら、いいんだけど」
「べつに、なにもないよ。どうしたの?」
本当になんでもなさそうだった。
安堵の溜め息をつく。
「わたし、今日は先に帰るね」
「……同好会、出てかないのか?」
「うん。ちょっと用事あるから。本屋さんに行きたいし」
どうするか、迷った。
「おにいちゃんは、同好会でしょ?」
「なんで?」
「鞄、持ってないし」
「……本当に何もなかったのか?」
「どうして?」
「いままで、何してた?」
「保健室で休んでた」
「……そっか」
それ以上、何も聞かなかった。
230: 2015/03/06(金) 20:01:05.64 ID:+6tA0Qjoo
◇
家に帰るとユイとのぞみが揃ってリビングで映画を観ていた。
「ただいま」
というと、のぞみが「おかえり」と言ってくれた。
つとめて意識しないようにしていたんだけど、のぞみは神崎とほとんど同じ顔をしていた。
生活も性格も違えば多少顔立ちも違ってくるものなのか、まったく瓜二つというわけではない。
それでも双子の姉妹と言われれば納得する程度には似通っていた。
同じ学校の女子とまったく同じ顔立ちの子が家に泊まっているというのは、ひどく奇妙な感じがした。
次あったときに神崎とはうまく話せないかもしれないな、とぼんやり思っていると玄関のチャイムが鳴った。
なにかと思ったらただの宅配便だった。
ちょっと前に本屋に行って買おうと思っていた漫画の新刊を、面倒になってネットで頼んだんだった。
俺はサインをして荷物を受け取ってから、中身に不釣合いに大きい外箱を破るように開封した。
「うわあ、雑」
とのぞみが口を挟む。
「関係ないだろ」
「物の扱いが雑な人って、たぶん女の扱いも雑だよね。だからモテないんだよ」
「……なんで俺がモテないって知ってるんだよ」
「見てれば分かるよ」
当たり前みたいな顔で言われて、俺は少し落ち込んだ。
印象論って、ときどき的を射てるから困る。
「ね、ね、じゃあさ、ちょっといい?」
「なに?」
のぞみは俺が放り投げたダンボールを拾い上げて、テーブルの上からペンを引き寄せた。
231: 2015/03/06(金) 20:01:40.90 ID:+6tA0Qjoo
「ここにさ、思いつくかぎりでいいから、女偏のつく漢字を書いてみてよ」
「……なに、それ」
「ちょっとした心理テスト、みたいな」
「……」
言われたとおり、俺は思いつく限りの漢字を書いてみることにした。
始、如、妃、嫁、姉、姑、姪、好、嫌、妙、奴、姫、娘、嫉、妬、妊、娠、
途中で、のぞみは「うわあ」と声をあげた。
「きみ、そうとうゆがんでるね……」
「……どういう理屈だよ、それ」
「嫉妬とか妊娠とか、ふつう思いつかないよ……」
「女偏って言っただろ」
「しかも、字へただね……」
やかましい。
「これ、何の意味があるわけ?」
「女偏の書き方が雑な男は、女の扱いも雑っていう、わたしなりの経験則がね……」
すげえどうでもよかった。
232: 2015/03/06(金) 20:02:07.22 ID:+6tA0Qjoo
それからのぞみは、なにかを思い出したみたいに言葉を吐き出した。
「地上にとどくまえに……」
「……」
「予感の、折り返し点があって……」
「……なに、それ?」
「忘れた。どっかで見た詩」
「何の意味があるの?」
「意味なんてないよ」
あまりに平然と言われたものだから、さすがに俺は戸惑った。
「それに、あれは音読するべき詩じゃなかったね」
「……ふうん?」
「声に出して読めない日本語ってのも、あるもんなんだよ」
知らねえよ、と思ったところでもう一度玄関のチャイムが鳴る。
233: 2015/03/06(金) 20:03:40.83 ID:+6tA0Qjoo
「はい」と言いながら玄関の扉を開けると、神崎美園が立っていた。
「……あれ」
俺は"のぞみ"がふたりに増えたような錯覚を受けたけど、その認識は当然間違いだった。
目の前に立っているのはもちろん神崎美園の方だ。
「どうも」
神崎は、いつもみたいなぼんやりした様子とは違う、少し緊張した、手持ち無沙汰そうな態度で玄関先に立っていた。
「……どうも」
俺も頭を下げる。
「えっと……のんちゃん、いる?」
「あ、うん」
「今日、学校で話そうと思ったんだけど、捕まえられなかったから。
のんちゃん、昨日飛び出していっちゃったから」
「……ああ、まあ。うん、入れば、とりあえず」
神崎はどことなく落ち着きのない素振りだった。
玄関で靴を脱いでから、リビングに戻った俺についてくる。
「みいちゃん!」
とのぞみが飛び上がり、ドタドタと走り寄って神崎に抱きつく。
「……勝手にいなくなることないでしょ?」
神崎は、少しほっとしたみたいな顔で、それでもうんざりしたポーズのまま、のぞみの頭をぺしぺし叩いた。
こうしてると、姉妹がじゃれあっているようにしか見えない。
こんな仲の良い姉妹、そこらにはいないような気がするが。
234: 2015/03/06(金) 20:04:25.16 ID:+6tA0Qjoo
神崎とのぞみはふたりで何かの話をしていた。
いつまでこっちにいるのかとか、問題は解決しそうなのかとか、そんな話。
その話に終着点があるようには思えなくて、俺は適当に聞き流していた。
ユイもまた、自分に関係のある話だろうに、話を耳に入れる気はないようだった。
「その漫画」
「え?」
「それ。読んでいい?」
まだビニールに包まれたままの漫画を指さして、ユイはそう言った。
「いいけど」
「ありがとう」
べつに今すぐ読みたいってわけでもないし、と思って答えると、ユイは素直にありがとうと言う。
かけっぱなしの映画を観ている奴は誰もいなかった。
「漫画、読むんだ」
「まあ」
「これ、少女漫画だよね」
「まあ世の中、女児向けアニメのターゲットが成人男性だったり、少年向け漫画が女性に大人気だったりするし」
「……あ、そう」
どうでもよさそうだった。
235: 2015/03/06(金) 20:04:52.86 ID:+6tA0Qjoo
「なんでこの漫画なの?」
「なんでって?」
「この漫画、好きなの?」
「どうだろう。惰性もあると思うけど。新しい漫画買おうとは思わないし」
昔からずっと続いている漫画。嫌いというわけじゃないし、読めば面白いんだけど。
「ふうん」
彼女はそのまま黙って漫画を読み始めた。
気付けば神崎とのぞみの話は終わっていたらしい。
「内海くん」
神崎の方にそう呼ばれて、俺は振り返る。
「ごめんね。迷惑だったら、連れて帰るから」
「……べつに迷惑ってことはないけど」
「でも、内海くんには関係のない話だし」
「そりゃ、そうだけどね」
べつに神崎がふたりを連れて行きたいというなら止める理由はない。
ここに住まわせるのが不安だというならなおさらだ。
でも、関係ないと言ってしまえば……。
"のぞみ"の都合も、神崎には関係がないような気がする。
ふたりは互いに互いを知っているから、関係があるように感じるだけで。
ユイがどうなろうと、のぞみはどうあれ、神崎には関係がない。そう考えるのは、まあ、感情の面では間違いかもしれない。
236: 2015/03/06(金) 20:05:57.84 ID:+6tA0Qjoo
「かまわないよ。どうせ誰も住んでない家だし」
「それなら……うん。助かるんだけど」
殊勝な態度で、神崎はうつむきがちに礼を言う。
そんな彼女は珍しくて新鮮だったけど、どうでもいいことで感謝をされるというのは据わりが悪かった。
「でも、少し聞いてもいい?」
「なに?」
「神崎は……」
と俺が呼ぶと、ふたりが揃ってこちらに首を向けた。
「……なんて呼べばいいんだよ」
「わたしは、のぞみでいいよ」とのぞみは言う。
やけにあっさり名前を譲る奴だ。
「じゃあ、わたしは美園」
「……」
べつに、のぞみがのぞみなら、神崎は神崎でかまわないじゃないかと思う。
美園と呼んだら、両方美園なわけで。
でもまあ、考えるのが面倒だったから、俺は仕方なくそう呼ぶことにした。
とはいえ、すぐに呼ぶのはなんとなくむずかしく感じたから、機会があればそうしよう、という程度だけど。
「きみらは、手を打つつもりなの?」
美園が、首をかしげる。
237: 2015/03/06(金) 20:06:24.00 ID:+6tA0Qjoo
「手を打つって?」
「いつまでもこっちに逃げてるつもりはないんだろ?」
「うん。そりゃね。せいぜい二週間くらいが限界かなって思うよ。
長く休んでたら学校から家に連絡行くかもしれないし」
「……二週間隠れて、どうにかなる話なの?」
「待って」とユイが口を挟んだ。
「あんた、わたしの事情を知ってるの?」
「のぞみから聞いた」
「……美園?」
とユイが呼んだ"美園"はのぞみの方で、ユイとしてはそれが自然なのだろうが俺の頭は混乱する。
「ごめん。ここに匿ってもらう条件だったから」
「足元見たんだ。最悪」
ユイは軽蔑したようにこちらを睨んだ。べつにどう思われようがかまわない。
「で、どうするつもりなんだ、のぞみは?」
「うん。それなんだよね。どうしようかなあって思って」
238: 2015/03/06(金) 20:07:00.90 ID:+6tA0Qjoo
のぞみはテーブルの上のボールペンのキャップを外したりはめ直したりしながら、視線を天井にやった。
「一応明日、あっちに様子を見に戻ろうと思うんだ。
案外、もう諦めちゃってるかもしれないしね」
「……」
そうかな。どうかな。
「もし諦めてなかったら?」
「悪い方に考えたって、人生始まんないよ? 良い方に考えないと」
「かもしれない運転って、聞いたことない?」
「あ、知ってる」
……皮肉も通じやしない。
「どっちにしても、いつまでもこっちにいるわけにはいかないんだろ?
だったらどうするかだけでも決めてた方がいいんじゃないか」
「あんたには関係ない」
とユイは言った。
「たしかに。でも、このまま時間切れになったら、状況が変わらないままあっちに戻るハメになるんだろ」
「そのときはまたこっちに逃げてくればいいよ」
のぞみは気楽そうにひらひらと手を振る。
239: 2015/03/06(金) 20:08:28.51 ID:+6tA0Qjoo
「こっちに連れてくるためには、ユイがのぞみと一緒にいないといけないんだろ。
いつでも一緒に行動できるなら、それでもいいだろうけど」
そんなの現実的に不可能だ。
「うーん、まあ、たしかに」とのぞみは考えてるんだか考えてないんだかよくわからない顔で溜め息をつく。
「だったら、どうしろっていうわけ?」
苛立たしげに呟いたユイに対して、俺は言葉を失う。
「それを考えるのは俺じゃないだろ」
「あきれた。無責任」
「……そもそも俺に責任なんていないだろ」
「だったら口出ししないでよ、部外者さん」
「……どうもきみは、この家が俺の家だってことを忘れがちだな」
ユイはふてくされたように漫画にページを落とす。
たしかに卑怯で、無責任な言い方かもしれない。
実際、俺には何もできない。
結局三人とも、俺の言葉に対して何も言ってくれなかった。
当然といえば、当然なのかもしれない。
240: 2015/03/06(金) 20:09:03.89 ID:+6tA0Qjoo
◇
飲み物がほしくなってコンビニに行こうとすると、神崎――美園とのぞみがついてきた。
「ふたり一緒に歩いていいのか?」
「堂々としてれば、姉妹にしか見えないよ」とのぞみは言った。神崎も否定はしない。
「ユイは?」
「漫画読んでるって」
べつに、好きにしてかまわないんだけど。
「……不思議なんだよな」
「なにが?」
のぞみは、俺の言葉に首を傾げた。
「なんできみは」
「のぞみ」
「のぞみは……ユイをこっちの世界に匿うんだ?」
「だって、友達だもん」
「でも、きみにとって、その力……。この世界のこととか。それって、すごい秘密だろ?」
「すごいっていうか、うん。最大の、って言っていいかも」
俺たちの会話に、美園は黙って耳を傾けているようだった。
「それをあっさり話してまで、ユイを匿う。それってすごい無茶じゃないか?
だって、あれはユイの問題なんだろ?」
「うーん、そりゃ、そうなんだけどね」
のぞみは、どう言葉にすればいいかわからない、というふうに頭を振る。
241: 2015/03/06(金) 20:10:07.60 ID:+6tA0Qjoo
「……"世界は、驚くほど無価値"」
「え?」
俺の言葉に、ふたりは反応する。
「踏みにじってもかまわないはずの世界の中で、きみがユイを守ろうとするのは、どうして?」
「……えっとね、わたしはべつに、ニヒリストってわけじゃないよ」
言葉を選ぶようにゆっくりと、のぞみは話し始める。
「わたしにとってあの言葉は、救いの言葉なんだよ」
「救い?」
いや。俺はその言葉を救いと受け取る方法を知っている。
不思議なことはなにもない。ただ、確認したかっただけなのだ。
「週に三回の習い事と塾。してたんじゃない。させられてた。わたしの子供時代ってそういうものだったんだよ。
今になって思えば、そう悪い状況でも、なかったんだろうけどね。
全部上手にやらないと、誰も褒めてくれないの。上手にできないわたしに、価値はなかったの。
良い子に振る舞えないわたしは、生きてる意味がなかったの。そう感じてたってだけなんだろうけど」
「……」
「学校でも良い子に振る舞って、でも、みんな気に入ってくれなくて、それからいろいろあって。
疲れちゃったんだよね。そういうふうに振る舞うことに。でも、他にやり方も知らなかった。
落ち込んでるうちにね、いろんなことができなくなっていったの。みんな叱るだけで、誰も褒めてくれなくなった」
「……」
「自分が本当に無価値な存在に思えた。こんな自分、生きてる意味が無いって思った」
242: 2015/03/06(金) 20:11:28.40 ID:+6tA0Qjoo
道を歩きながら、俺は空を見た。今に降り出しそうな雨雲がのしかかっている。
「でもね、その言葉を聞いたときに、思ったんだ。べつに誰かに肯定してもらう必要はなかったんだって。
わたしは嫌なことを嫌と言っていいし、嫌いなものを嫌いと言っていい。
嫌なことを拒む権利があるし、好きなことをする権利がある」
だって、意味があることなんてひとつもないんだから。
「わたしには、ダメな子供でいる権利がある。嘘つきでいる権利がある。卑怯者でいる権利がある。
大人にとって愉快じゃない子供でいる権利がある。だって、大人にとって都合の良い子供でいることにも、意味なんてないんだもん。
何かをしたり、何かを達成したりすることでもらえる意味なんて、そんなの苦しくなるだけだよ。
神様か誰かから押し付けられる意味や価値なんて、わたしには束縛にしか思えない」
「……」
「だからわたしは、好きなことをするの。守りたい人だけ守るし、嫌いな人には怒る。
そうやって生きていくって決めた。もう一度いうけど、わたしはニヒリストじゃないの。
世界の意味なんてどうでもいいの。誰も気にかけない猫の氏を、わたしだけは悼むの。
それが誰かにとってどうかなんて、わたしにはどうでもいいの。わたしの世界では、わたしだけがルールなの」
本当に。
ここまで言われてしまうと何も言い返せない。
世界にとって私は無意味だ、と、私にとって私は無意味だ、はつながらない。
それは当たり前のことで、俺がこの数年間、しようとしてきたことの完成形で。
だから俺は憧れに似た感情を抱く。決してそうはなれないと気付いているのに。
243: 2015/03/06(金) 20:11:56.28 ID:+6tA0Qjoo
コンビニに着いて飲み物を買って外に出ると、美園が立っていた。ユイはまだ、店の中で何かを選んでいる。
「あいつ、金持ってるのか?」
「一応、多少は持ってきてたみたい。あっちじゃバイトしてるみたいだし」
「へえ」
「……のんちゃんの話、どう思った?」
「どうって?」
「ふつうに、感想」
「……べつに。いいんじゃないの、あれはあれで」
「内海くんは?」
「なにが?」
「内海くんは、どう思うの?」
「……」
244: 2015/03/06(金) 20:13:01.44 ID:+6tA0Qjoo
「世界は無価値で、すべての人に意味はなくて、だからどうでもいいことなの?
それなのに、ユイちゃんが戻った後のこと、気にかけてるの?」
「……また、小児的潔癖さって言って笑う?」
「内海くんは、本当は、世界の意味とか、価値とか、どうでもいい人でしょ」
「……」
「内海くんは、無理してるように見えるよ。まるで、世界が無意味じゃないと困るみたいに。
世界が無価値じゃないと、何かの歯車が狂っちゃうみたいに」
今にして思えば、俺は神崎に、自分の話をしすぎたかもしれない。
「内海くん、わたしも、のんちゃんと基本はおんなじなんだよ。彼女みたいに開き直れはしないけど。
だからね、何か困ったことがあったら、わたしにも教えてね。教えてくれなくてもいいから、思い出してね」
「……なんで?」
「だってわたしたち、友達でしょう?」
そうかな。どうかな。
湧き上がるような暖かい感情が芽生えるのに、俺は気付かないふりをした。
245: 2015/03/06(金) 20:13:27.80 ID:+6tA0Qjoo
つづく
246: 2015/03/09(月) 00:57:18.18 ID:cDd23wA8o
◇
志鶴は俺に何も言わなかったが、サキ先輩は彼女についていくつかのことを教えてくれた。
まず噂の盗難騒ぎが、実際に起こったということ。これについては教職員に確認したらしい。
次に、その騒ぎの犯人が深山志鶴という名前だということ。
これに関しては教師からは確認できなかったが、志鶴と同じクラスの生徒に教えてもらったらしい。
盗難が起こったのは火曜の昼。次の授業の体育に備えて生徒たちが教室を開けたときのことだ。
もっとも、これはそう考えれば辻褄が合うというだけで、実際にいつ盗難が起こったのかは分からない。
どちらにしても、その日の放課後に、ある生徒が財布をなくしたと言った。
もっともそれだけなら、どこかに置き忘れたとか、そういう可能性を考慮しなくてはならない。
問題はその生徒が、昼休みに財布を使った直後だったこと。
だから、家に忘れたとか、学校の外のどこかに置き忘れたということではない。
これは本人の他に、一緒に行動していたクラスメイトたちの証言もあるという。
教室中、更衣室、購買に食堂まで探しても見つからない。これが帰りのホームルームのときの話だ。
焦れた誰かが、盗まれたんじゃないか、と言った。馬鹿げた話だとみんな笑った。
そしてその日の体育の授業を、志鶴だけは体調不良を理由に保健室で休んでおり、欠席していた。
人を疑うなんてよくない、と誰かが言った。それでも疑惑は晴れず、担任は志鶴の鞄の中を調べるしかなかった。
どうもその後の話では、クラス中の生徒が持ち物検査をされたという。
校則違反のものを持ち込んだ生徒たちは、とんだとばっちりだったというわけだ。
そして、志鶴と盗まれた本人は呼び出され、他の生徒は返された。
その後に、盗まれた財布は本人のもとに帰ったという。
247: 2015/03/09(月) 00:57:44.16 ID:cDd23wA8o
その後のことはサキ先輩に聞かなくても想像できた。
財布が本人のもとに帰ったということは、財布は見つかったということ。
前後の状況を踏まえて考えれば、志鶴の荷物の中に財布が入っていたと考えるのが妥当だろう。
担任は処置に困っただろう。志鶴を注意するのは簡単だが、ことを公にすれば角が立つ。
志鶴を注意するにしても、他の生徒たちの耳に入れるのは避けたかったはずだ。
志鶴にとりあえず謝らせ、当人同士の話で決着させる。
志鶴が本当に盗んだのか、志鶴が認めたのか、それはどちらでもかまわない。
現に財布は志鶴の鞄の中にあった。それは動かぬ物証で、覆す理屈はない。
けれど、教師が公にするのを拒めば、盗まれた当人の気持ちはおさまらない。
仲の良い友人がいれば、翌日には当然、あのあとどうなったのか、と訊かれるだろう。
そのとき、盗まれた生徒は志鶴をかばうために嘘をつくだろうか?
「どこかに忘れたのを見つけた」とか、そんなことを?
もちろん言わない。友達ならばなおのこと、本当のことを話す。
それを丸くおさめようとした教師の口止めは、むしろ反感と怒りを激しくする。
これは想像だ。でも、木曜の朝に志鶴の教室に行くと、黒板にはそれを思わせる落書きがされていた。
「ミヤマシヅルはドロボウだ!」
赤いチョークで記された大きくて雑な文字は、書いた主を隠すみたいに角ばって歪んでいた。
財布を盗られた奴がやったのか。それとも、校則違反物を没収された生徒の腹いせか。
さすがに黙っているわけにはいかなくなって、志鶴に直接真相を確かめると、
「わたしなら、中身だけ盗むよ」
と、疲れたように笑った。
248: 2015/03/09(月) 00:58:41.08 ID:cDd23wA8o
◇
「それを信じちゃうの?」
サキ先輩はそう言った。もちろん、と俺は頷く。
「ほんとに盗んだかもしれないよ」
「だとしたら、盗んだって言いますよ、あいつは」
「……それって、信頼? あてになるの?」
「さあ。なるかと訊かれたら、ならないかもしれませんけどね」
「ふうん……。ま、いいや。それで、どうする?」
「どうする、というと?」
「放っておくの?」
「……なんとかしたいのは、やまやまなんですけどね」
どうできるっていうんだろう?
噂は広がるかもしれない。そうなったとき、志鶴はどうなるか。
少なくとも、あの黒板のことを考えれば、孤立しているどころか、既に犯人だと決めつけられ、嫌がらせまでされているくらいだろう。
そこにどうやって口を挟む? 事態が起こったということは、財布を志鶴が取ったという何かの証拠があったということだ。
鞄に財布が入っていた、誰かが盗む場面を見た。なんでもいい。簡単な話だ。
249: 2015/03/09(月) 00:59:08.14 ID:cDd23wA8o
「志鶴が財布を盗っていない証明なんて、いまさら誰にもできない。言ったって誰も信じないでしょうね」
「つまり?」
「俺たちに何ができるっていうんです?」
集団は攻撃が得意だ。人間は常に誰かを殴る機会を待っている。
異質を排除する。悪を目の敵にする。
ある集団の中の特定の誰かを攻撃することが簡単なのは、責任が分散されるからだ。
人は、誰かの悪を糾弾することで、自分が正しい場所に立っているのだと錯覚できる。
殺人者に憤っている間は、人は殺人者ではない。
盗人を懲らしめるとき、人は懲らしめられる側には立っていない。
ある正しさを振りかざすことは、その正しさを共有する集団の中に自分の居場所があると、再確認する簡単な手段だ。
疑いようもなく悪い人間に対して怒りを他人と共有すると、自己評価は容易に高まってくれる。
まるで自分が集団のかけがえない一部であり、自分の存在はその集団にとって価値があると錯覚できる。
自分が集団に含まれていると、強く感じ、そこに安堵と一体感を見出す。
明白な悪を糾弾し、罰を与えることは気持ちがいい。
何をしようと相手の自業自得だと言ってしまえば、言い訳も立つ。
だから彼らは、自分が財布を盗まれた被害者でもないのに、迷わずに被害者に感情移入する。
強盗と銀行なら銀行に、万引き犯と店なら店に、殺人者と被害者なら被害者に。
この世に生まれてから一度も人を傷つけたことがないかのように、彼らは傷つけた側の人間を罰することに躊躇しない。
その態度が正しいとか間違っているとか、そういう話ではない。
立場が変われば態度も変わる。サキ先輩がいつか言っていた通り、人は不合理な生き物だ。
ことが起こってしまった以上、外側から何かを変えることなんできやしない。
250: 2015/03/09(月) 00:59:40.49 ID:cDd23wA8o
「志鶴は、大丈夫だって言ってました。信じてくれる友達だっているし、話がおかしいって言ってくれる人もいるって。
財布を盗んだわけじゃないし、きっとみんな分かってくれるって。どこまで本気かわかりませんけどね」
「……じゃあ、放っておく?」
「というわけには、いきませんよね」
「どうするの?」
「……エスカレートが早すぎませんか?」
「え?」
「今日は木曜。騒動があったのは一昨日の火曜で、今朝には黒板に落書きがされるくらいの騒ぎです。
……あんなに目立つ嫌がらせをするには、間が短すぎると思いますよ。最初は無視くらいのもんでしょう」
「なんとなく、根拠が薄い気がするけど」
「まあ、想像からこじつけてるだけですからね。
そもそも、財布が見つからないってだけで盗難だって騒ぐのもおかしいし、それで志鶴が疑われるのもおかしいでしょう。
でも、それを教師が信じて、荷物を確認することまでしたんだったら、そういう要請をした"空気"があったんだと思います」
「"空気"?」
「財布がなくなったのは誰かが盗んだからで、盗んだのは志鶴だとする、空気。
どこかに置き忘れたとか、なくしたとか、そういう可能性を無視して、持ち物検査を行わなければいけなかったくらいの、空気」
「……」
251: 2015/03/09(月) 01:00:10.86 ID:cDd23wA8o
「でも、それがどう関係してくるの?
志鶴ちゃんが呼び出されたってことは、きっと、志鶴ちゃんの荷物から財布が見つかったってことでしょ?」
「そうなりますね」
「だったら、どうして疑われたかとか、エスカレートが早すぎるとか、関係ないんじゃない?
疑われるような状況で、疑いが実際に噴出した。証拠が見つかって、事態が加速した。それだけでしょ?」
「サキ先輩」
「なに?」
「想像力」
とちょっと得意気に言ってみせると、サキ先輩はむっとした顔をした。いつもやられてることの仕返しだ。
「誰かが、志鶴に疑いを向けたんじゃなく、疑いが志鶴に向くように仕向けたんだとしたら、
その"誰か"は、志鶴が盗んだこと……というより、志鶴の鞄に財布が入っていたことを、知ってたってことになりませんか?」
「……」
252: 2015/03/09(月) 01:00:36.99 ID:cDd23wA8o
「つまり、こういうことになります。誰かが志鶴の鞄に、人の財布を入れた。
発覚したとき、それが盗難じゃないかという可能性をクラスの人間に意識させた。
犯人が志鶴ではないかと、担任とクラスメイトの思考を誘導した」
「……」
「そして、クラスで志鶴が孤立するように、噂を広め、率先して嫌がらせをおこなった」
「……それって、つまり、最初から志鶴ちゃんに対する嫌がらせが目的で、盗難騒ぎを起こしたってこと?」
「根拠はないですけどね」と俺は言った。
「でも、突然志鶴ちゃんを疑う人がいれば、みんな不自然だって思うでしょ?」
「財布は実際、志鶴の鞄の中に入ってたんですから、実際に見つかってしまえば関係ないでしょう。
もちろん、演技過剰になればかえって疑われるでしょうけど、でも最悪、持ち物検査にならなくてもよかったはずです。
志鶴は自分で自分の鞄に財布が入っていることに気付くでしょうし、そうなったとき、その後はどうしても疑われることになる。
なぜか鞄に他人の財布が入っていた、なんて言い草、盗難じゃないかって話のあとには、そうそう信じられないでしょう」
「……」
「志鶴は誰かにハメられたんじゃないでしょうか」
「でも、なんで志鶴ちゃんが……?」
253: 2015/03/09(月) 01:01:16.38 ID:cDd23wA8o
「それは、これからですね」
「……え?」
「仮に、俺の想像が事実に少しでも掠っているとしたら、どこの誰が、志鶴にそんなことをしようとしたのか。何のためにそんなことをするのか。
調べてみないといけません。調べたって、志鶴の状況は簡単には変わらないでしょうけどね」
「……内海?」
「これは完全に、負けですよ。志鶴の状況はどうやったってひっくり返りません。
ここまで流れをつくられたら、誰もそれを疑わない。仮に他の誰かがやったことだと分かっても、それを証明するのも難しい。
どうにもできませんよ。どうにもできませんけど……」
誰かが志鶴を陥れ、ほくそ笑んでいるなら。孤立した志鶴を眺め、嘲笑っているなら。
そいつの顔を、知っておきたい。
どんなつもりなのか。どうするつもりなのか。どこまでの痛みを想定していたのか。
たしかめておきたい。
「もし、誰かが志鶴を陥れたのだとしたら、俺はそいつの正体を調べないといけません」
「……調べて、どうするの?」
「さあ? そこはまだ、考えていませんけど」
254: 2015/03/09(月) 01:01:49.81 ID:cDd23wA8o
しばらく黙ってから、サキ先輩は呟く。
「内海は、志鶴ちゃんのこと、どこかでないがしろにしてるって思ってた。でも、違ったんだね」
そうかな。どうかな。
「……腹が立ちませんか?」
「……え?」
「誰かを傷つけて、へらへら笑ってる奴。平気な顔で、他人を傷つける奴。
何も考えずに、他人に流される奴。人の言葉を鵜呑みにして、事態を検証しようともしない奴。
もちろん、俺だって立場が変わればそうだったんだろうと思いますよ。でも……腹が立ちます。
そういう奴が溢れてるって思うたび、自分もそういう奴らの一人なんだって思うたび、
俺はこの世界なんて、今夜滅んでもかまわないくらい、くだんなくて無価値だって、そう感じるんですよ」
調べてどうするか、とサキ先輩は言った。
俺は本当に何も考えていない。
実際にどうなのか、まだ何も分かっていない、机上の空論。
でも、仮に誰かが志鶴を陥れようとしていたなら、俺は腹が立つ。
舌なめずりの音が聞こえそうなくらい、明白な悪意。うまくしてやったと、思っているのかもしれない。
いっそ、俺の誇大妄想だと言われた方がまだ救いがある。
そういうバカの存在を想像すると、縊り頃してやりたいほど憎くてたまらなくなる。
255: 2015/03/09(月) 01:02:17.64 ID:cDd23wA8o
「でも実際、どうやって調べるつもりなの?」
「……」
「……内海?」
「どうしましょう?」
一年の知り合いはいないし、そいつらに聞いて回れば変な噂が加速するかもしれない。
困ったことだ。
「……なにも考えてなかったわけだ」
「……ええ、まあ」
起こったことについて考えることはできる。でもそれは完全に後手に回った手段。
何かを探したり見つけたり、状況を変えたり誘導したりするのは、不得手だ。
「仕方ないなあ」
サキ先輩は溜め息をつく。
「手伝ってあげるよ。わたしも、気になることがあるしね」
「……ありがとうございます」
"気になること"。なんだろうと思ったけど、あんまり考えないことにした。
256: 2015/03/09(月) 01:03:01.03 ID:cDd23wA8o
◇
サキ先輩は、さっそく出かけてくるといって、部室を後にした。
残された俺はひとりで何かを考えようとした。
教室の後ろのロッカーに埃の張り付いた黒板。窓の桟の埃、薄汚れた机と椅子。
俺はいつのまにこんな場所まで来てしまったんだろう。
なんとなく居づらくなって、俺は立ち上がる。
志鶴が誰かに陥れられたとして、その誰かは志鶴に対して明白な悪意を抱いている。
その理由はなんだろう。
逆算、できないだろうか。
志鶴が陥れられたとき、それを喜ぶのは誰か。
もちろん俺は彼女の人間関係を知らない。だから、それは難しいことだ。
階段を登り、屋上へと向かう。
考えに詰まったときは外の空気を吸いたくなる。
鉄扉の向こうに、千家がいた。
「よう」と千家は言った。俺は応えなかった。
「冷たいね、どうも」
彼はひとりで笑っている。
257: 2015/03/09(月) 01:03:29.75 ID:cDd23wA8o
「こんなところに来るなんて、暇なのか?」
「まあ、そうだな」
ようやく、俺は返事をする。千家に対する態度を、俺は決めかねている。
「おまえは?」
「俺は、まあ、ちょっとした息抜きだな」
「息抜き?」
「ずっと悩んでると息が詰まるってことさ」
「悩みがあるのか?」
「そりゃもう、海よりも深く山よりも高い悩みがたくさんね。俺の心はさながら大自然って様相だ」
「……」
笑うところなのか?
「そっちは……何かあったみたいだな?」
千家は俺の顔を見て、にやにやと笑った。
気味の悪い笑み。
「噂の盗難騒動か?」
「……なんで知ってる?」
「俺にだって噂をきかせてくれる友達くらいいるさ」
嘘っぽい。でも、知ってるということは、そうなのかもしれない。
258: 2015/03/09(月) 01:03:56.19 ID:cDd23wA8o
「犯人は、深山とか言ったな。あれ、おまえの知り合いだろ」
「……」
「人間なんて、わかんねえもんだな」
「……おまえ」
「なんだよ?」
「何か、したのか?」
「……は?」
千家はあっけにとられたような意外そうな顔で、こちらを見返してくる。
「何かって?」
「……いや」
たしかに、千家が何かをする理由も意味もない。根拠もない。
ただ、噂について知っていたというだけで疑わしく思うのは、たぶん……。
千家が誰かを傷つけたことがあると、俺が知ってしまったからで。
でも、それとこれとは、別の話なのだ。
259: 2015/03/09(月) 01:04:22.10 ID:cDd23wA8o
「ま、案の定、か」
「……なに?」
「いや。こっちの話」
千家は器用に笑う。
「おまえこそ、何かするつもりなのか?」
「なにを」
「深山なんとかって奴のこと。てっきり、そのまま放り出すかと思ってたんだけどね」
「……」
「世界に意味がないなら、何が起ころうと変わりはしないし、価値あるものがひとつもないなら、何が奪われてもかまわない」
これはおまえが言ったことだぜ、と、千家は笑う。
俺は、溜め息をついて答える。
「それは、嘘だったよ」
「……なに?」
260: 2015/03/09(月) 01:04:48.41 ID:cDd23wA8o
「氏んでしまったものに意味を与えるには、どうすればいいと思う、千家?」
怪訝そうに、彼は眉をひそめる。
「意味なんて、なくてかまわないだろ」
「でも、それじゃあ、そいつが生きて氏んだことには、何の意味もなかったことになるだろ」
「だから、ないんだろ」
「それじゃあ納得できなかった」
千家は押し黙る。
「世界は、そいつが生きていたことに何の意味もなかったみたいに回り続ける。
何の意味もなかったみたいに、あっさり頃す。でも、だから意味がないなんて、あんまりだと思ったんだ」
「……」
261: 2015/03/09(月) 01:06:09.14 ID:cDd23wA8o
「俺はそいつといると幸せで、満たされてて、世界が完成されたものみたいに思えた。他には何もいらないって思ったんだ。
でも、氏んでしまった。意味なんてなかったみたいに。だから考えたんだな。
そいつの生に意味を与えるために、どうしたらいいか。分かるか?」
彼は首を振った。
「そいつが唯一無二で、交換不能のものであればいいんだよ。とりかえのきかない、かけがえのないもの。
たったひとつだけのもの。それが世界にとってでなくてもかまわない。俺にとって、ひとつだけであればいい。
俺が感じた幸せや充足感は、"そいつ"だから起きたことで、"そいつ"以外からは起こらない。
俺は"そいつ"以外とでは幸せを感じない、満たされない。そうすれば、あいつが居たことは、俺にとって意味がある」
「……何を言ってるのか、さっぱりわからないな」
「もし幸せや充足感がそいつ以外からも得られるなら、そいつは本当に、俺にとってすら無意味な存在だったことになる。
交換可能なパーツでしかない。いくつもある幸福感をつくるスイッチのひとつにすぎない。
そうではなくて、俺はあいつ以外の存在から、満たされた気分を受け取ることができない……。
そう考えれば、あいつの存在は無価値でも無意味でもなくなる。あいつが生きていた意味が、俺にとってはあることになる」
そして、幸せや充足感を彼女以外から受け取らない、と決めてしまえば、
俺はもう二度と幸せになれないし、充足感を味わうこともない。
だから結を失った世界は俺にとって幸福を失った世界で。
そうすることで、俺の中で結の生は唯一無二の、価値あるものとなる。
結は交換可能、代替可能なものではなかった。氏んでも替えがいるような、そんな存在じゃなかった。
少なくとも俺にとっては。
だから俺は、結のいない世界を無価値なものとして見ることにした。
結は俺を幸せな気分にさせてくれた。結は氏んでしまった。結の代わりはいない。
代わりがいたとしたら、結は俺にとってさえ、取替のきく無価値なものでしかなくなってしまう。
だから、俺は結以外から幸せを受け取れない。だからこそ、結が生きていたことに意味はあった。
理屈はとっくに破綻していて、矛盾していて、それでもいつのまにか根付いてしまった。
「おまえ、変だぜ」
千家はそう言った。俺もそう思った。
262: 2015/03/09(月) 01:12:20.35 ID:cDd23wA8o
「だったらなんで、腹を立ててるんだ?」
「そいつが氏んだからだよ、千家」
「……ああ?」
「どこにでも転がってるような理不尽で、氏んだからだ」
「……意味がわかんねえ」
千家が髪をかきながら、呆れたように目を眇めた。
「ムカつくんだよ」
「なにが」
「人を傷つけて、平気でいられる奴。他人の生をないがしろにする奴。
他人を軽んじる奴。自分の目に見える世界がすべてだと思ってる奴。
他人に対する想像力が、足りてない奴だ」
「……」
「そういう奴を見ると、俺はたまらなくなるんだ」
千家は笑い、煙草を取り出して、火をつけた。
「……それじゃ、俺も頃したいか?」
「……どうだろうな」
俺はごまかした。
傷つけて平気でいられる奴。他人の生をないがしろにする奴。
他人を軽んじる奴。自分の目に見える世界がすべてだと思ってる奴。
他人に対する想像力が、足りてない奴。
――ぜんぶ、俺のことだ。
264: 2015/03/10(火) 22:15:52.37 ID:xfrHwOe6o
◇
部室に戻ったとき、サキ先輩は窓際に椅子を置いて一人で座っていた。
「遅いよ、内海。人が猛スピードで情報収集してきたっていうのに」
「……まさか、もう調べてきたんですか?」
「ま、わたしにかかれば、余裕っすよ」
「どうやったんですか?」
「情けは人のためならず、っていうじゃない? いわゆるあれ。返報性の原理ってやつ。
普段から他人の世話を焼いたり、他人に優しくしたりしてれば、いざってときにこっちも頼れるんだよ」
「……打算的」
「べつに計算でやってるわけじゃないよ。説明しようとすればそうなるってだけ」
「まあ、それはどうでもいいんですけどね」
「ねえ内海。ところで、聞いときたいんだけどさ」
「……はい?」
「もしこの件に"犯人"……がいるとして、それが見つかったとき、内海はどうするつもりなの?」
「"どうする"って?」
「証拠を手に入れて、突き出すの? それとも、罰でも与えるの?」
「……今は何も考えてません」
「……」
サキ先輩は黙った。俺は何を言えば彼女が納得するのか、わからない。
265: 2015/03/10(火) 22:16:55.32 ID:xfrHwOe6o
「わたしもいくつか、可能性を考えてさ。
たとえば、こないだ志鶴ちゃんに告白してた男子がいたって言ったでしょ。
あの子が振られた腹いせに嫌がらせしたんじゃないかなあ、とか」
「……まさか」
「うん。まさかだよね。だって半分犯罪みたいなもんだし。
ま、でも一応、あたってみたわけ。そしたら、半分あたり」
「半分?」
「彼、志鶴ちゃんと同じクラスみたいだったの。そんで、盗んだのが志鶴ちゃんじゃないかって言い出したのも彼だったんだって」
「振られた腹いせに? ……そんなみっともないやつ、いないでしょう」
「うん。みっともなかったなあ」
「……半分ってのは、どういう意味ですか?」
「志鶴ちゃん、中学のとき、クラスメイトの持ち物を盗んだことがあるんだって?」
「……なんですか? それ」
「内海は知らないのか」
「そんな話聞いたことないです。学年が違いましたし、耳に入らなかっただけかもしれませんけど……」
「……ふうん。彼、二年の誰かにそう聞いたんだって」
266: 2015/03/10(火) 22:17:40.54 ID:xfrHwOe6o
「……それって、いつの話なんです?」
「そこまでは聞けなかった。本人も話したがらなかったし」
「でも、そいつ、志鶴に告白してたんですよね? たしか、月曜の昼でしたっけ?」
「うん。で、盗難騒ぎが火曜日のこと」
「そういう噂があるって知った上で告白したなら、騒ぎが起こってからも、腹いせに悪評を広めたりはしませんよね」
「人の考えることは、わたしには想像するしかできないけど、まあ、自然に考えればそうかも」
「だとすると、その"二年生"は、月曜の昼休みから火曜の放課後までの間に、志鶴に前科があるって話をしたことになる」
「……タイミング、良すぎるでしょ。不自然なくらい。噂を知った上で告白したけど、振られたから気が変わったってことかとも思った」
「どうでしょう。個人的には、そんなふうには思えませんけど……。
いずれにしても、その"先輩"が志鶴の中学時代のことを知ってるってことは、同じ中学の出身者なんでしょうか?」
そうなると、数は絞れる。志鶴と同じ中学ってことは、俺とも一緒だったってことだ。
そんなに人数はいない。
「……と、思うじゃない?」
「違うんですか?」
「だから、タイミングが良すぎるんだよ。盗難騒ぎが起こる直前に、志鶴ちゃんが盗みを働いたことがあるって話が出るなんてさ」
267: 2015/03/10(火) 22:18:31.58 ID:xfrHwOe6o
サキ先輩は椅子に座ったまま、窓枠に頬杖をついて外を眺めていた。
開け放たれた窓から入り込むなまぬるい風はオレンジ。
「実際にそんなことが起こったのか、それとも噂だけ流れたのか、一応、確認しようと思ってね。
志鶴ちゃんと中学が同じだった子が、一年の別のクラスにいたっていうから、聞きに行ったの。
そういう騒動が起こったことがあるかって」
「……」
「盗難騒ぎなんて一度も起こったことがないし、志鶴ちゃんはそういうことをする子じゃないって怒られたよ」
「じゃあ、その"先輩"とやらは、嘘をついたってことですか」
「それも、すぐバレる嘘をね。でも、すぐにバレてもかまわなかったのかもしれない」
「……つまりそいつは、盗難騒動が起きるのが分かっていたってことですよね?」
「それどころか、志鶴ちゃんの荷物の中に盗まれたものが入っているってことすら分かっていただろうね」
「志鶴が盗みの犯人として捕まってしまえば、あとは中学時代の前科が嘘か本当かなんて関係ない。
現に盗みを働いた奴なんだから、"やりかねない"と思われるだけ。そこまで見越していたんですかね?」
「少なくとも、内海の言う通り、志鶴ちゃんに疑いが向かうように煽った奴はいたってことだろうね」
「……でも、そうだとしたら何のメリットがあるんですかね?」
268: 2015/03/10(火) 22:19:09.01 ID:xfrHwOe6o
「さあ。"二年生"ってことは、少なくともクラスメイト同士の確執ってわけでもないだろうし。
部活動の先輩後輩って言ったって、志鶴ちゃんはここの部活だし。
恨みを買うくらい、先輩とのつながりがあるとも思えない」
「……サキ先輩、その二年の名前、そいつは言ってなかったんですか?」
「残念。二年の先輩ってしか、言ってくれなかったな。そんなに仲が良くない先輩みたいだけど」
「そもそも、志鶴のことを嫌っていたり、疎ましく思っていた生徒って、いたんですかね?」
「聞いたかぎりでは、目立ったトラブルとかはなかったみたい」
「じゃあどうして、志鶴だったんでしょう?」
「誰でもよかった、とか」
「……こんな手間をかけて、ですか?」
「じゃあ、他に何があるかな」
思いつかない。何も。わからない。
どうして、志鶴でなければならなかったのか。
269: 2015/03/10(火) 22:19:40.09 ID:xfrHwOe6o
◇
翌朝も一年の教室を見に行くと、黒板には前日と似たような落書きがされていた。
志鶴は当たり前みたいな顔で教室に入って、黒板の落書きを自分で消す。
誰かが志鶴に声をかけ、誰かが志鶴を睨んでいる。
殺気立った教室だ。
志鶴は入り口から様子を眺める俺にひらひら手を振ると、自分の席に座った。
俺は廊下を歩き、自分の教室に向かう。
階段を昇りながら、考える。
志鶴を陥れて喜ぶ誰か。
それって誰なんだろう。
270: 2015/03/10(火) 22:20:09.81 ID:xfrHwOe6o
◇
神崎美園が俺を訪ねてきたのはその日の昼休みのことだった。
昼の休憩時間には教室も廊下も騒がしい。
俺たちはとりあえず、いつかみたいに人気のしない方に歩いた。
あまり使われない階段の踊り場。窓からは中庭が見える。
「急にどうしたの?」
「ちょっと、相談したいことがあって」
「相談? ……のぞみたちのこと?」
神崎は首を振った。
「そっちに関しては、まだどうしようもないみたい。
のんちゃんも、何回かあっちに戻ってるみたいだけど、様子は変わらないって」
「戻ってたのか。俺、全然知らなかった」
「バイトしてるって言ってたでしょ。学校はまあ、どうにか言い訳できるけど。
バイトに関しては、そうそう長期の休みをとれるわけじゃないし」
なんだかなあ、と俺は思った。
「相談っていうのは、筒井さんのこと」
「……筒井? まだ、屋上の話、気にしてるの?」
271: 2015/03/10(火) 22:20:38.92 ID:xfrHwOe6o
「ううん。何かを言われたわけじゃないんだよ。だから困ってるんだけど。
近頃様子がおかしいんだよ。クラスのみんなも心配してるくらいに」
「……」
「なにかあったんじゃないかって思ってるんだけど。
タイミングが、屋上のことを報告したあたりからで……」
「……なにか」
なにかって、なんだよ。
話さないってことは言わないってことだ。
どうしてそれに、関わらなきゃいけないんだ。
ユイとのぞみのこと。志鶴に起こっていること。
サキ先輩の従姉の話に、千家がしたこと。
そのうえ筒井か?
俺には関係のない話じゃないか。
272: 2015/03/10(火) 22:21:06.16 ID:xfrHwOe6o
ちょっと関わっただけの相手全員に責任を感じるのか?
落ち込んだ顔した奴全員の話を聞いて回るのか?
他人が他人に口出ししたって良いことなんてなにひとつない。
適切な距離感ってものがある。誰かが踏み込んだら崩れる床だってある。
「筒井は、なんて?」
「……なんでもないって、教えてくれない。でも、なんでもないわけないんだよ」
「根拠は?」
「……だって筒井さん、泣いてたんだもん」
「……」
「放課後の教室で、ひとりで、泣いてたんだよ」
泣いてるから、放っておけない?
――意外だな。おまえが、そんなに怒るなんてさ。
泣いてる奴なんて、そこらじゅうに掃いて捨てるほどいるのに。
そう、思っている。頭は、理性は、論理は、そう言ってる。
――おまえにしたら、赤の他人だろ。腹を立ててどうなる?
俺は筒井とは何の関係もない人間だから。
だから関わるなんて、得策じゃない。
273: 2015/03/10(火) 22:21:39.59 ID:xfrHwOe6o
――おまえ、赤の他人が氏ぬたびに腹を立てるのか?
ちょっと顔を合わせただけの相手だ。
――子供が餓氏するたびに悲しむのか? 事件が起こるたびに犯人に憤るのか?
べつに何かがあったって決まったわけじゃない。
――そんなんじゃ、一生使いきったって、悲しみ尽くすことなんてできないと思うけど。
でも、じゃあ、だから放っておいていいのか?
俺を支配しているのは単純な理屈。言葉遊びだ。
でも、論理で感情は納得しない。感情は理屈に先立つ。直感は理性に耳を貸さない。
矛盾。不合理。
頭は説得できても、腹は納得しない。
274: 2015/03/10(火) 22:22:06.16 ID:xfrHwOe6o
「余計なお世話、だと思うけどな」
「……ごめん。勝手、だよね。わたし。のんちゃんのことで、迷惑かけてるのに」
神崎は、そう言ってごまかすみたいに笑う。
「手伝うよ」と、俺はそう答えた。
「え?」
「どうせ、調べたいこともあったんだ」
筒井に何があったのかはわからない。個人的なことなのかもしれない。
でも、もしそうではないとしたら。この学校で、起こっていることだとしたら。
誰かが言っていた。近頃、この学校は変だ。みんな浮足立ってる。バランスが崩れはじめてる。
筒井の様子がおかしい理由。案外それが、志鶴のこととも関わりがあるかもしれない。
近頃は、何か変だ。
「でも、筒井は話してくれないんだろ。どうするつもりなんだ?」
「……それが個人的なことなら、いいの。でも最近の筒井さん、前までと違う気がする」
「具体的には?」
「放課後、どこかに行ってるみたいなの。生徒会の仕事も休んで」
「様子がおかしい理由が個人的な事情だったら、俺たちは他人を嗅ぎまわる無神経なストーカーってことになるな」
「でも、放っておけないよ」
「どうして」
「友達だもん」
友達。以前筒井について口にした神崎のその言葉を、俺は、「クラスメイトは友達」くらいのニュアンスだと思っていたけど。
どうも違うらしい。
275: 2015/03/10(火) 22:22:34.63 ID:xfrHwOe6o
「……訊きたいんだけど。その話、どうして俺に相談したの?」
神崎は、一瞬だけ言葉を止めた。
「のんちゃんに聞いたの。筒井さんが物音を聞いた日、屋上を使ったかって。
意味のない確認のつもりだった。でも、のんちゃんは、屋上には近付いてないって」
「……それって」
「つまり、筒井さんが屋上で聞いた物音の出処は、他にあるってことだよ。
筒井さんに屋上で調べたことを報告した時、彼女は様子が変だった。
他に気がかりなことでもできたんだろうって思ったけど、今にして思うと、なんだか怯えてるみたいにも見えたんだ」
「……」
「怯えてた?」
「うん。それも、"煙草の吸い殻"って言葉に、驚いてるみたいに思えた。
筒井さんには、何かの心当たりがあったんじゃないのかな?」
「だとしたら……」
「うん。わたしたちはもう一度、あの屋上を調べなきゃいけないんだと思う。
とにかくあそこで何かがあったんだって、わたしは思うんだよ」
276: 2015/03/10(火) 22:23:08.89 ID:xfrHwOe6o
◇
「なにもないね」
その場のノリで、昼食もとらずに東校舎の屋上に向かい、一歩踏み出したタイミングで神崎が発した言葉はそれだった。
「当たり前だよ」
「それは、そうなんだけどね」
空は曇天。陽の光は雲に濾されて薄く散らばっている。
「どうして、のぞみたちはここを使ったんだ?」
「屋上に近づきたがる人なんて、そうそういないからね」
「……そうかな」
「うん。実際、わたしたちは他の誰とも会ってない」
俺は少し迷ったが、煙草の吸い殻が彼のものである以上、むしろ隠し立てする理由の方がないような気がした。
「千家がいる」
「千家?」
「俺のクラスメイトで……ここでよく、煙草を吸ってる」
「それ、初耳」
「言ってなかったから」
「内海くん、非協力的」
妙に間延びした声で、神崎は俺を咎めた。
277: 2015/03/10(火) 22:23:51.07 ID:xfrHwOe6o
「……あのな。千家がここで煙草を吸ってるって俺が知ったのは、屋上の調査が終わった後だったんだよ」
「そうなの?」
あれ、どうだったっけ。よくよく考えたら違うような気もしてきた。
「……たしか、そうだよ。神崎が調査を打ち切ろうって言った直後だったはず」
「あ、そっか。そのときはのんちゃんのこと秘密にしなきゃと思って……」
それはさておき、と彼女は俺を向き直った。
「また神崎って言ってる」
「……あのさ。冷静に考えてくれよ。いきなり同学年の女子を下の名前で呼び捨てって、ハードル高いんだよ」
「いいでしょ、名前くらい。呼び方変えたら関係が変わるわけでもないし」
「や、でもほら、呼び方が違うと気分も違うだろ。気分が違うと距離感も変わるだろ?」
「内海くん、こまかーい」
神崎はどうでもよさそうに手をひらひらと振った。
「べつにいいでしょ。内海くん、ちょっと他人行儀すぎるんだよ」
「えー……」
「他人に対して壁つくりすぎ。あのね、べつに難しいこと言ってるわけじゃないよ?
名前を呼ぶだけだよ? 下の名前で呼び捨てにされたって、わたしは不愉快になったりしないよ」
「……って言われてもなあ」
そうそう、下の名前で呼び捨てにするような関係性なんて、あるもんじゃないと思うんだが。
まあ、そのあたり、神崎も人間関係が偏ってそうだし、こだわりはないのかもしれないけど。
……逆か? こだわりがあるのか?
278: 2015/03/10(火) 22:24:22.86 ID:xfrHwOe6o
「もういいです。所詮内海くんとわたしはそこまでの関係ということで」
「……いや、もういいもなにも、そこまでの関係だろ」
図書委員で一緒ってだけの間柄だ。
「そういう問題じゃないよ。内海くんにはのんちゃんものんちゃんの友達もお世話になってるわけで。
いわば、わたしにとっては恩人みたいなもんだよ。さあ。コールミー」
「……恩人に強要すんなよ」
わけがわからない奴だ。相変わらず。
「それは今はいいだろ。それより、千家の話」
「……あ、そうだった。その人、煙草吸ってるの?」
「よくここで一服してるらしいよ」
「あの吸い殻は?」
「問い詰めたら、認めたよ」
「……じゃあ、筒井さんが動揺したのは、なぜ?」
俺が知るか。
279: 2015/03/10(火) 22:24:54.69 ID:xfrHwOe6o
「筒井さんと千家くんの間に、何かあるってことかな?」
「いや。吸い殻って聞いて、筒井がすぐに千家を思い浮かべたとは限らないだろ」
「……えっと、つまり?」
そもそも、筒井が「煙草の吸い殻」という言葉に反応したという話も、神崎の言い分以外に根拠はないわけだが。
「煙草の吸い殻が屋上にあった、って、それで動揺したのかもしれない」
「なんで?」
「さあ。……いや、まあ、動揺はするんじゃないかな。まじめに学校生活送ってれば、校内に喫煙者がいるとは思わないだろ」
「うーん……」と神崎は考え込んだ。
「筒井さん、いったいどうしたんだろう」
「……まあ、当面の問題はそこだよな」
怯えていたみたいだった、と、筒井について、神崎はそう言っていた。
俺も、筒井に一度だけ会ったとき、そう感じた。彼女は何かを恐れているみたいに見えた。
怯えてるとしたら、何に怯えてるんだろう。
280: 2015/03/10(火) 22:25:25.64 ID:xfrHwOe6o
「あたりまえだけど、未成年者で高校生の千家が煙草を吸ってたなんて、バレちゃまずいことだよな」
「そりゃあね」
「だったら、筒井が千家の喫煙シーンを見たってのはどう?
それで、千家が口封じに自分に接近してくるんじゃないかと思ったとか」
「……でも、それだったら、わたしに相談してくるかな?」
たしかに。
「そう、だよな。筒井は神崎に調査を依頼してきた。ということは、屋上を調べたかった。
もしくは、神崎に屋上に近付いてほしい理由があったってことだ」
「それってなに?」
「本人に聞けよ」
「本人が話してくれないから、内海くんに聞いてるの」
「俺はただの学生だよ。他人の考えてることなんてわかるわけないだろ」
「……そりゃ、そうだよね」
彼女はちょっと落ち込んでしまった。それを見ているとなんだか俺まで気落ちしてくる。
灰色雲が憂鬱を加速させる。俺たちは黙り込んだまましばらく落ち込んだ。
「……なにやってるんだろ、わたし」
本当に、何をやっているんだろう。
281: 2015/03/10(火) 22:25:51.57 ID:xfrHwOe6o
つづく
282: 2015/03/13(金) 19:46:23.04 ID:3if0G89Do
「思うんだけど、筒井に直接話を訊いてみるっていうのはどう?」
「でも、話してくれないよ」
「だけど、何も聞かなかったら何も分からないし、どうすればいいのかもわからないだろ」
六月の終わりの熱気が静かに屋上を覆い始めていた。
高いフェンス越しの空は褪せたような灰色。
神崎はためらうように視線を空へとやっていたが、やがて首を振った。
「先走ってるのは、認めるよ。でも、筒井さん、なんでもないって、そう言ってた」
「探られたくない事情があるのかもしれない」
「……そうかもしれない」
屋上に吹く風はぬるく、よどむように緩やかだった。
「……でも」
「べつに、いいんだけどね、俺は」
「……関係、ないから?」
「……」
「内海くんは、氏にたがりなの?」
「――」
「それとも、寂しがりなの?」
283: 2015/03/13(金) 19:46:49.29 ID:3if0G89Do
◇
神崎と連絡先を交換した。互いに何かあったとき、すぐに連絡できるように。
のぞみは俺の家にいる。彼女の身に何かあったとき、俺が頼れるのは神崎しかいない。
神崎はべつに不満気でもなかった。連絡先の交換についてだけじゃない。俺の態度にも。
神崎が優しいからってわけでもないだろう。
呆れているわけでもない。あきらめているわけでもない。たぶんどうでもいいのだ。
志鶴のこと。筒井のこと。千家のこと。ユイのこと。
それぞれのことを思い出しながら、俺は自分に何ができるのか、何をすべきかを考えた。
思考の出口は全部同じだった。
俺にできることなんてひとつもないし、俺がすべきこともひとつもなかった。
――いいか、おまえは不必要な人間なんだ。
――何の役にも立たず、誰の為にもならない。
――誰にも愛されず、誰にも求められず、誰にも必要とされない。
284: 2015/03/13(金) 19:48:10.36 ID:3if0G89Do
◇
家に帰るとのぞみはおらず、ユイがひとりで眠るようにソファに座っていた。
「おかえり」と彼女は言う。
「ただいま」と俺は言う。
途方もなく空虚なやりとりだ。何にも結びつかず、どこにも行き着かない。
「のぞみは?」
「一旦、戻ってる」
「そう。夕飯、食べる?」
「いらない。放っておいて」
「なにか食べたの?」
「少し、いただきました」と彼女は嫌味っぽく言った。そう感じるのは俺の心境のせいだったのかもしれない。
階段をのぼり部屋に戻る。閉めっぱなしのカーテンのせいで部屋は暗かった。
285: 2015/03/13(金) 19:48:42.88 ID:3if0G89Do
床に積み上げられた本とCDの塔。テーブルの上に散らばった、退屈しのぎの映画とゲーム。
部屋の隅には洋服入れのタンスが口を開けて涎でも垂らすようにくしゃくしゃの服を吐き出している。
心が不安定になったら掃除をしろって、誰かが言ってた。
本当に効果があるんだって。
怒りを覚えたら深呼吸をしろとか。
太陽の光を数分浴びるだけで気分が良くなるとか。
笑顔のかたちの表情をつくると気分が楽しくなってくるとか。
"からだ"と"こころ"はつながっている。
"こころ"は"からだ"の影みたいだ。
体を動かすと気分が晴れる。
偽薬を薬と信じ込めば病が治ることもある。
涙を流せばストレスが軽くなる。
脳梁を切断された患者の左目に「立ち上がれ」と紙に書いた文字で命じ、「なぜ立ち上がったのか」と訊ねる。
左目の情報は右脳で処理される。
「理由」を訊ねる質問を処理するのは左脳で、脳梁を切断された患者の左脳には、右視野の情報が届かない。
だから患者は、「指示があったから」とは答えられない。そして左脳は適当な理由をでっち上げる。
座っているのが疲れたから。どこかに向かいたかったから。
作話。患者は、それが本当に自分の望んだこと、自分の意思での行動だったと信じこむ。
286: 2015/03/13(金) 19:49:15.25 ID:3if0G89Do
"こころ"は"からだ"のつじつま合わせだ。
意識は無意識に加工される。思考は合うはずのない帳尻合わせだ。
記憶が時とともに改竄されていくように、人間の意識は都合よく書き換えられる。
自分が本当に何を考えているかなんて誰も知らない。
感情。性格。思想。
"こころ"が"からだ"の奴隷なら、意識は変幻自在の流動体だ。
"こころ"がそんなものでしかないなら、結局人間は機械みたいなものだ。
ホルモンバランスが乱れれば怒りっぽくなって。
自律神経がやられれば気だるくなって気分が落ち込む。
落ち込んだ人間は、偏った情報を集め始める。
一緒にいる相手が時計に目をやっただけで、相手を退屈させていると思いこむ。
話している相手が自分の知らないことを話しているだけで、自分が疎まれているのだと信じる。
遠くから聞こえる笑い声が、自分を笑っているように思えてくる。
友人に声を掛けても返事がもらえなければ、気付かれなかった可能性よりも先に無視された可能性を思いつく。
立ち寄った店の店員の愛想が悪ければ、店員の虫の居所のせいではなく自分の態度や容貌のせいだと考える。
認知は思考に先立つ。逆を言えば、思考は認知というレールに乗って走りだす。
思考は認知を歪められない。誤った認識を覆すのに必要なのは言葉ではなく経験だ。
生活習慣が乱れれば"からだ"の乱れが"こころ"に伝わり、認知が偏れば思考も歪む。
人間は機械のように単純だ。
考えること。感じること。思うこと。なにひとつ確信が持てない。
俺には俺のことがわからない。
287: 2015/03/13(金) 19:50:09.79 ID:3if0G89Do
本の塔を蹴飛ばすと、それは大きな音を立てて崩れた。壁を思い切り殴ろうとしたのに、一歩手前で何かの力がセーブをかけた。
おかげで壁に穴は開かなかったけど、それでも拳は痛かった。
物にあたっている。たぶん、腹を立てている。何にかは、分からない。分かりたくもない。
叫びたいような気がしたけど、叫ぶのはやめた。代わりに壁に背中をつけて、瞼を閉じて手のひらで顔を覆う。
志鶴。ユイ。筒井。神崎。千家。
"こころ"が"からだ"の奴隷なら、愛情なんて電気信号だ。
そう言い切って、開き直ってしまえたらよかった。
――それじゃ、俺も頃したいか?
何を憎んで、何に腹を立てて、何を求めているんだろう。
頭でこしらえた理屈じゃ、"からだ"は納得しない。"からだ"が納得しなければ、"こころ"に落ちてくることもない。
288: 2015/03/13(金) 19:50:38.09 ID:3if0G89Do
「ねえ、どうかしたの?」
階下から聞こえた声に、俺は返事をした。
「……椅子から転げ落ちた」
「……ばかなの?」
「うるせえよ」
扉に頭をこすりつける。俺は混乱している。思考がエラーを起こしている。論理の矛盾がウィルスみたいに暴れ始める。
――だってわたしたち、友達でしょう?
なにを恐れているんだろう。
――お似合いだよ、わたしたち。
――いっしょにいようよ。
「……誰とも、一緒になんていられない」
そうだ。
俺は嘘つきだ。
289: 2015/03/13(金) 19:51:13.02 ID:3if0G89Do
足音が近付いてくる。
ノックの音がした。
俺は扉から一度離れ、深呼吸をしてから開けた。
立っていたのは、あたりまえだけどユイだった。
「なに?」
「……汚い部屋」
たしかに、と俺は頷いた。
「どうしたの?」
「椅子から転げ落ちたんだよ。さっき言っただろ」
「そう」
彼女は溜め息をついてから、俺の部屋に足を踏み入れた。
「なんだよ」
問いかけても、彼女は答えてくれなかった。
当たり前みたいな顔で足を動かして、彼女はベッドに腰を下ろした。
そしてちょっと、珍しいほど遠慮がちな顔で俺に目を向けた。
「ねえ、訊いてもいい?」
「訊いてもいいかどうか確認しなきゃいけないようなことは、最初から訊くな」
「あんたにとって、内海結って、なんだったの?」
290: 2015/03/13(金) 19:51:39.17 ID:3if0G89Do
「なにって、どういう意味?」
「このあいだ話したときから、気になってたんだよ。あんたにとって、結はただの妹じゃなかったの?」
「……きみに話す義理はないと思う」
「わたしはユイだよ」
「きみは結じゃない」
「わたしのことでしょ?」
「きみとは違う」
「……結のこと、好きだったの?」
「――」
たぶん、ユイの顔は、結に似ている。面影があるなんてもんじゃない。
でも、それは俺には見覚えのないもので、だからよりいっそう悲しい。
「子供の頃のことでしょ」とユイは不安げに視線を揺らした。
291: 2015/03/13(金) 19:53:58.81 ID:3if0G89Do
「そんなの、ちょっとした勘違いだよ。子供だったから、世界の広さが分からなかったから……だから互いを支えにしてただけで。
そんなの変だったって、歳を取れば自然に分かったでしょ?」
床に落ちた俺の影がひそやかにうごめいて手足を縛ろうとする。そういう気がした。影は俺の体を絡めとってしまおうとする。
影が広がって世界が歪んでいく。
「いつまで、そんなものに縋ってるつもりなの?」
咎めるような声は拒絶のように硬質だが、怯えたように震えていた。
「……気持ち悪い」
それは、どこか予感していた言葉でもあった。
氏んだ人間は声を発さない。だから届かなかっただけで、俺はそんな気がしていた。そんなことを言われるような気が、していた。
でも、いまさらそんなことを言われて、俺は何をどう言えばよかったんだろう。
きっと、結が生きていたら、今のユイのような言葉を、俺に吐いたのだろうと思う。
どこかで、いつか。でも、それは俺の身には起こらなくて、だから俺は他の生き方がわからない。
「黙れよ」
俺は氏人に義理立てしているのではない。喋らない氏人に都合のいい幻想を投影しているのだ。
そんなことはとっくに分かっている。
「出てってくれ。二階には近寄らないでくれって、お願いしたはずだ」
292: 2015/03/13(金) 19:54:24.87 ID:3if0G89Do
◇
翌朝になっても、のぞみは帰ってこなかった。
心配のしすぎかとも思ったが、ユイが不安そうにしていたので、一応朝のうちに神崎に連絡を入れた。
連絡先を交換してすぐに、役に立つ機会があるとは思わなかった。
「のぞみが帰ってこない」というと、神崎は「とりあえず話は学校で」と言って電話を切った。眠たげな声だった。
登校してすぐに、俺は神崎のクラスへと向かった。
入り口から中を覗きこむと、神崎は既に教室にいるようだった。
「ごめん、通してくれる?」とうしろから声を掛けられて、俺は一度体を横にずらした。
通り過ぎた人間の顔を見て、一瞬俺はぞっとした。
けれどよく見ると、それは筒井だった。
髪を切ったんだろう。別人みたいに見えた。どこかで会ったことのある誰かのような顔。
声も掛けられずに背中を見送る。神崎が俺に気付いてこちらに近付いてきた。
「ちょっと話そうか」と彼女は言った。
293: 2015/03/13(金) 19:54:59.14 ID:3if0G89Do
◇
朝から東校舎まで行く気にはなれなかったから、俺たちはまた階段の踊り場へと向かった。
「のんちゃんが帰ってきてないって?」
「ああ。ユイにも、何も言ってなかったみたいだ」
「そっか。たぶん、戻ってるんだと思うけど……」
「特に、心配する必要はないよな?」
「様子を見に行くって言ってたでしょ? たぶん、あっちに言ってるだけだろうし。
危ないことがのんちゃんに起こるはずも……ないと思うし」
「……」
「でも、一応約束したんだよ。ユイちゃんのこともあるから、遅くなっても日付をまたぐ頃にはこっちに来るようにって」
「……じゃあ、あっちで何かあったのかな」
何かって、なんだよ。
言いながら、そんなことを考える。
「……何かの都合で帰れなくなっただけなのかもしれない。すぐに戻ってくるかもしれないし、様子を見よう」
神崎は困ったみたいに笑いながらそう言った。
「まあ、神崎がそれでいいなら、任せるけど」
俺は少し迷ってから、話を変えた。
「筒井って、髪切った?」
「え? うん」
「それって、いつ頃?」
「……今週の月曜には、もう切ってたと思うけど」
……まさか、だよな。
295: 2015/03/15(日) 20:23:00.90 ID:LdkX2v0do
◇
志鶴の身に起きていることについては、サキ先輩がひとりで調べてくれると言ってくれた。
志鶴自身が望んでいるかどうかは分からないが、誰かの悪意で起こったことなら、続きがないとも限らない。
かといって複数人で動いてしまえば、かえって問題になるかもしれない。
「とりあえずはわたしに任せてよ」とサキ先輩は言った。
「アテはあるからさ」
そういうことなら、と俺はサキ先輩に話を任せることにした。
実際問題、犯人――と呼んでいいのかわからないが――を特定するには、込み入った手段が必要になるに違いない。
少なくとも、例の男子に妙なことを吹き込んだ二年生だけでも、特定できればいいのだが。
筒井の方はというと、こちらも神崎が直接話を訊いてみると、不審な態度だったという。
「何もないって、はっきりとは言ってくれなかった。気にしないでとは言われたけど」
それがどういう意味なのかは、筒井と親しくない俺には分からない。
「直接は言えないけど、何かはある。もしくは、何かはあるけど、直接は言えない。……そういう意味だと思う」
だとしたら、彼女は助けを求めているのかも知れない、と彼女は言った。
「……思い込みじゃない?」
「分からない。でも、ちょっと調べてみようと思う」
「どうやって?」
「最近、彼女、放課後にどこかに行ってるみたい。それを追いかけてみようと思うの」
「本格的にストーカーだな」
「仕方ないよ」
神崎は開き直ったような顔をしていた。まあ、べつに彼女がやる分にはかまわないだろう。
296: 2015/03/15(日) 20:23:27.80 ID:LdkX2v0do
◇
問題は、翌日になってものぞみが帰ってこなかったことだ。
神崎が筒井のことを気にしているとはいえ、こちらの方が優先して解決すべき問題だと思えた。
なにかしら理由があれば、俺やユイに伝言を残していてもおかしくないわけで、それがないということは非常事態なのかもしれない。
「土曜日、あっちの様子を見てこようと思う」
神崎の意見はそんな具合だった。
自分もついていく、とユイは言ったけれど、それでは問題が逆戻りだ。
結局、のぞみのことは神崎に任せるしかない。
もともと俺は無関係の人間だ。彼女たちのために何かをしようという気にもなれないし、首を突っ込む資格もない。
「まかせてよ」と神崎は笑った。
筒井のことものぞみのことも、彼女はひとりで引き受ける。
けれど、だから、しかし、それなのに、だけど、にもかかわらず。
続く言葉はどこにもない。
297: 2015/03/15(日) 20:23:53.72 ID:LdkX2v0do
◇
そして土曜、神崎は俺の家を訪れた。
「これからあっちに行ってこようと思うの」
「……疑問なんだけど」
「なに?」
「その、世界の移動? って、どこでもできるのか?」
「うん。まあね」
「だったら、なんでわざわざ屋上だったんだ?」
「他に適当な場所がなかったから」
「目立たない場所ならどこでもいいんだろ?」
「でも、ほら、わたしとのんちゃんは家も違うし、どこかのトイレとかだと誰かが使ってたりするかもしれないじゃない」
それに心情的に嫌だし、と神崎は続けた。
「何の用途もない場所。誰も近づけない場所。そういう場所じゃないと、なんだかね」
「でも、これから学校へ行くわけでもないんだろ」
「うん。のんちゃんの隠れ家を使おうと思って」
「……小学校の旧校舎?」
「そうそう。あそこなら人目もないし」
ユイは俺たちの会話を黙って聞いていた。のぞみについて何かを言うということもしない。
けれどどこか、不安そうではある。
298: 2015/03/15(日) 20:24:36.22 ID:LdkX2v0do
「なあ、神崎、ひとつ提案があるんだけど」
「なに?」
「俺も一緒にいっちゃだめかな?」
「それって、あっちにってこと? それとも、校舎にってこと?」
「あっちに」
「なんで?」
興味本位……と答えようか迷って、一瞬口を閉ざしたが、結局それ以上の答えは浮かばなかった。
「興味本位」
「内海くん、さいてー」
「自覚はある」
「ならいいや。べつについてきてもいいよ」
「……あんたら、なんか緊迫感ないよね」
呆れたように、ユイが口を挟んだ。それも、自覚がある。
「あの子が帰ってこないのは、"帰ってこられない"からかもしれない。
ひょっとしたら、何かあったからかもしれない。あの子が約束を破ったことなんて、今まで一度もないもん」
「それをたしかめに行くんだよ」と神崎は笑う。ユイの表情は一層暗くなった。
もちろんそんなことは、神崎だって俺だって分かっている。
少なくとも、「何か」はあったはずだ。問題は、その程度。
299: 2015/03/15(日) 20:25:15.32 ID:LdkX2v0do
「とりあえず、ユイはここで待ってろよ。食糧はあるし、金も多少は置いておくし。
今日中には帰ってこれるはず……だよな、神崎?」
「何もなければね」と彼女は笑った。
「……なんであんたまで行くの。あんたには、関係ないでしょ?」
「興味本位って言っただろ」
「……」
ユイは何か言いたげに俯いた。俺は肩をすくめて時計を見た。時刻は十時半。
「のんちゃんの部屋にいってみて、バイト先にも顔を出してみて、それで会えれば、すぐに帰ってこれるよ」
神崎の言葉に、ユイはか細い声で「ごめん」と言った。
「なんで謝るの?」
「だって、わたしのせいかもしれない」
「なんで?」
本当に不思議そうに神崎は首を傾げた。ユイは毒気を抜かれたみたいに、心細そうに微笑む。
「ちょっと様子を見に行くだけだから」
簡単そうに「いってきます」と言って、神崎はユイに手を振った。俺は彼女を追いかけて玄関を出る。
「あんたも……」とユイが俺の背中に声を掛けてきたけれど、振り向いたときには彼女の視線は床に落ちていた。
「……なんでもない」
俺は頷いて、「いってきます」と空虚な挨拶をした。ユイは何も言わなかった。
300: 2015/03/15(日) 20:25:41.27 ID:LdkX2v0do
◇
神崎はどうやらバスに乗ってここまで来たらしかった。
一緒に行動するとなると、俺たちは旧校舎まで徒歩で歩かざるを得ない。
「たぶんのんちゃんもそうしたと思う」
それに自転車で行くと、旧校舎の傍に置きっぱなしにすることになる。
誰かに不審感を抱かせるようなことは極力避けたい、と彼女は言った。
仕方ないか、と思い、俺は神崎とふたり並んで短くはない道のりを徒歩で歩いて行くことにした。
小学一年生の気分で。
話したいことがいくつかあるような気がしたけど、俺は何も言わなかった。
口を開いたのは神崎の方だった。
「なにか、あったと思う?」
「なにもなかったら、帰ってきてるだろ」
そうだよね、と彼女は頷いた。
「でも、何があったんだろう」
「さあ。交通事故に巻き込まれたとかかな」
「……」
少し、彼女は不安そうな顔をした。しくじったと思ったけれど、訂正する気にはなれない。
帰って来られない理由なんて、そういくつも思い浮かばなかった。
「とにかく、行ってみないと何も分からないんだよね」
ひとりで納得してしまうと、神崎は押し黙ったまま歩き続けた。
俺もそれに倣う。
301: 2015/03/15(日) 20:26:20.26 ID:LdkX2v0do
◇
旧校舎の敷地に足を踏み入れたとき、神崎が溜め息のような微妙な声を漏らした。
「なに?」
「いま、誰かが居た気がする」
「……校舎?」
「うん、昇降口」
「……へえ?」
「制服、着てた」
「制服? 今日、土曜だぞ」
「でも、制服だったよ」
「……どこの?」
少し言いにくそうに、神崎は口元を歪めた。
「……うちの学校」
このあいだ見た人影のことを思い出す。
俺は少しだけ、考え込んだ。
「……誰かいるにしても、行くしかないだろ」
「でも、いったい誰がこんなところに来るっていうの?」
「そんなのわかるわけないよ。人には人の都合ってものがあるんだし」
「……なんだか、変な感じ」
302: 2015/03/15(日) 20:27:21.32 ID:LdkX2v0do
「行こう」と俺は言った。神崎は頷いた。
なぜ、どうして、どんな理由で、と問いかけたいことが多すぎる。
だから俺は考えないことにした。「なぜ」を突き詰めることに意味はない。
以前と同じように、昇降口から校舎に足を踏み入れた。
独特の臭気は薄い皮膜めいた隔絶を感じさせる。
「どこに向かうの?」
「こっち」と神崎は入り口から左の廊下に折れた。
俺はそれで少し安心した。
職員室、何かの準備室、それに理科室。そんな教室がいくつも並んでいるようだった。
神崎は廊下の突き当りの傍、保健室の扉を開けた。
窓からは午前十時の日差しが差し込んできて、積もった埃がきらきらと白く光った。
暗がりから覗く外の光はそれだけで別世界のようだった。
浅くなった暗闇がほのかに退廃の気配をさらす。流れた時間が俺を巻き込んで削り取っていくような気がする。
303: 2015/03/15(日) 20:28:28.96 ID:LdkX2v0do
「さて、じゃあ、行くよ」
彼女は俺と向い合って、手のひらをこちらに差し出してきた。
「なに?」
「つかんで」
「……」
「じゃないと、一緒にいけないから」
俺は仕方なく彼女の手を取った。
と同時に、神崎は俺の体を強く引きながら、後ろに一歩下がった。
引っ張られた俺の体はぐいと傾いて、思わずその場でたたらを踏む。
踏み出した片足で体重を支えきろうとしたけれど、勢いに負けて俺の体は倒れこむ。
神崎は驚いたみたいに目を丸くしていた。
景色は緩慢に動き始める。スローモーションに歪んでいく視界。俺のからだは宙に浮かんで落下をはじめる。
不意に、
めまぐるしいほどの、
光が、
あふれる。
304: 2015/03/15(日) 20:28:58.62 ID:LdkX2v0do
◆
「はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、さっとんざうぉーる、
はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、はーだぐれいとふぉーる、
おーるざきんぐすほーすぃーず、あんどーるざきんぐすめーん、
くーどゅん、ぷっとはんぷてぃー、とぅーげーざあげいん」
305: 2015/03/15(日) 20:29:30.85 ID:LdkX2v0do
◆
ロウソクの火を吹き消すと部屋の中は真っ暗になった。
蝋の臭いが部屋に横たわる。おめでとう、と誰かが言った。
おめでとう、おめでとう、誕生日おめでとう。俺たちは椅子に座って祝福を口にする。
立ちのぼる声の楽しげな響きに影が照れるのが見えた気がした。けれど部屋の中は真っ暗だ。だからそれは錯覚だったのだろう。
おめでとう、おめでとう、祝福は鳴り止まない。俺たちは生まれ、そしてここまで生きた。
暗闇は俺の首筋を這いずるようにうごめいている。伸びた影が生き物の手足のように俺の首を柔らかに絞める。
俺は何かを言おうとした。けれど影は俺の首を締め、言葉をさえぎる。
それは言ってはならないんだ、と影は言う。それだけは言ってはならないんだ。
そう。俺も知っていた。それは言ってはならない。すべきなのは祝福だ。祝福以外は、呪詛でしかない。
俺は口を塞がれる。躊躇いがちに拍手する。膝にのせていた笑顔の仮面を誰もが嵌める。
歓声が鳴り止んだあと、パチンと音がして光があふれる。
おめでとう、おめでとう。中心に座る誰かが照れたように笑う。その姿は本当に幸せそうなのだ。
だから俺は影に感謝する。口を封じてくれてありがとう。俺はこの笑顔を台無しにせずに済んだ。
ありがとう、ありがとう。光が満ちていく。
306: 2015/03/15(日) 20:29:56.87 ID:LdkX2v0do
◆
長い長い橋の上を俺たちは歩いている。橋はあまりに長いために、前を見ても後ろを振り向いても果ては見えない。どこまでも橋が架かっている。
橋の下は雲のような霧が覆っていて覗きこんでも何があるのかはわからない。
様々な者が霧を指さして勝手なことを言った。霧の向こうに楽園があると語るものもいたし、霧の向こうには針の山があると言う者もいた。
霧の向こうには何もありはしないと、それが近頃では定説だという。
この橋がどこに続いているのか知るものは誰もいない。知っていると語るものも居たが誰も信じなかった。
俺たちはただ延々とこの橋を渡っている。その先には何もない、ただ橋が続いているだけだ、というのも近頃では定説らしい。
けれど俺たちは歩いていた。見上げれば太陽は明るく、空は嘘のように綺麗だった。誰もがそれを信じ込んだ。
俺の隣を青ざめた顔の女が歩いている。女は今にも倒れそうに見えた。彼女は俺に気付くと苦しげに微笑んでくれた。
俺もまた微笑み返したが、それは微笑みというよりねじれて奇妙になった出来損ないの表情の幼虫のように見えたかもしれない。
彼女は俺の顔を見て笑った。俺はそれが少しだけ嬉しかった。だから俺たちは並んで歩くことにした。
307: 2015/03/15(日) 20:30:22.57 ID:LdkX2v0do
◆
真っ暗な部屋に彼女といる。何があるのか、何がないのかもさだかではない。
俺たちはただここに立って向かい合っている。俺は暗闇の中で笑顔の仮面をつける。そして手を差し出す。彼女は俺の手のひらをそっと受け取ってくれる。
俺たちは踊りだす。誰に習ったわけでもない。ただ踊りたくなった。暗闇の向こうから音楽が聞こえる。
音楽は闇にまぎれてかすかな光を呼ぶ。俺たちはその中に溺れている。酸素の代わりに暗闇を啜る。俺たちは互いの呼吸で肺を満たし合う。
暗闇のなかで俺たちは融け、交じり合う。どこに行き着くかもどうでもいいような気がしていた。
俺と彼女は手と手を結び合わせ、ふたつでひとつの物質になった。暗闇の中で肉体は物質ではなく魂のように思えた。
信じられるものは体温と感触と呼吸だけ。そこにはもう俺たちを蝕むものは何もなかった。
どこかからスポットライトがあらわれ、俺たちを照らす。
現れた俺たちの影はつながってひとつになっていたけれど、ひどく奇妙でいびつだった。
光は俺たちがふたつでひとつの物質などでなく、分かたれたふたりの人間だと露わにした。
客席から、俺たちを責める声が鳴り響く。俺は光の中で、彼女の手が俺の手ではないことに戸惑い、心細くなる。
誰かが俺たちを嗤っている。
彼女はスポットライトから逃げるように、俺の手を拒むと舞台袖へと走り去っていく。
俺は舞台の上にひとりで残される。スポットライトは俺を照らし続けている。
あらわになった俺のそばに残されたのは、果ても見えない深い暗闇と、どこかから鳴り響き続ける怒号だけだった。
308: 2015/03/15(日) 20:31:05.74 ID:LdkX2v0do
◆
赤ん坊が泣いている声が聞こえる。
白いシーツの上に赤ん坊は横たわっている。
俺はその姿を眺めている。最初はか細かった泣き声は徐々に強く、鋭くなっていく。俺は責められているような気がした。
俺はその赤ん坊にさよならを言う。細い木の幹のような首筋に手を伸ばす。
静かに力を込める。
309: 2015/03/15(日) 20:31:31.63 ID:LdkX2v0do
◆
こんな物語がある。
壁画の中の女に恋をした男がいた。
彼は壁画を愛していた。愛するあまりに悲しんだ。壁画は彼の愛に応えない。
声を持たず目を持たず、触れ合うための術もない。壁画は男とは違う世界に住んでいる。
壁画に意思はない。だからその慕情は倒錯でしかない。男はそれに気付いている。
壁画に仮に意思があったとして、彼の想いに応えるともかぎらない。男はそれにも気付いている。
彼は壁画を愛していた。愛するがあまり、壁画を愛することについて考え続けた。
壁画は応えない。
ある日彼は、偶然立ち寄った街で、壁画の女によく似た女性を見つける。
彼と彼女は出会い、そして恋に落ち、幸せになった。
これが愛ならば滑稽だ。
310: 2015/03/15(日) 20:31:59.40 ID:LdkX2v0do
◆
朝の街に俺は仮面をつけて出掛ける。首筋に糸を巻く。喉が過ちを犯しそうになると、指先が糸を引いて喉を目覚めさせる。
過ぎた光は暗闇に近付いていく。光は視界を焼きつくし何も見えなくする。
何もかもがあらわな場所は何もかもが覆われた場所とよく似ている。
強い光の中、砂糖菓子の匂いが鼻から入り込んでくる。
その甘みは俺の体を柔らかに痺れさせ、思考を押しとどめ、声をあげさせる。
視界は光に満ちる。けれどそれは長く続かない。
立ち並ぶビルは裏山の小枝。太陽は画用紙に刺された画鋲の痕。人々は指人形のように呼吸を感じさせない。
そう感じるのは俺の責任なんだと俺は知っている。ビルはビル、太陽は太陽、人は人だと、そう感じられないのは俺のせいだ。
頭上を雲が暗く覆う。
俺は人混みのなかで立ち止まる。十字路の中心で途方に暮れる。誰もがどこかに向かっていくのに、俺は立ちすくんでいる。
誰も俺に声を掛けたりしないし、俺の手を引いてどこかに連れて行ってくれたりはしない。俺にどこかに行けと強要するものさえいない。
砂糖菓子の匂いは消える。
311: 2015/03/15(日) 20:32:26.83 ID:LdkX2v0do
◆
ダイニングテーブルの上には果物カゴ。
リンゴ、ブドウ、ミカン、レモン、バナナ、メロン、様々な果実が小さなカゴの中に収まっている。
色鮮やかに熟れた果実は誰かの口に運ばれる時を待っている。
俺はそれを眺めている。
誰かが手を伸ばし、ブドウの一粒をむしる。俺はそれを眺めている。
ブドウは誰かの口の中で幸せそうな音を立てて弾ける。
甘い香りが部屋に広がる。
人々が立ち代わり現れ、カゴから果実をむしっていく。果実はなくならない。
甘い匂いが部屋中に広がる。誰かが俺に果実を勧める。
俺はそれを眺めている。
312: 2015/03/15(日) 20:33:59.97 ID:LdkX2v0do
◆
瓶の底で、それは光っている。机の引き出しにしまわれた小瓶をときどき取り出して、彼女はそれを眺めてみる。
きらきらとした輝きを自ずから放つ不思議な粒に、彼女は魅了されていた。
それは彼女だけの秘密の小瓶。誰にも見せることのない輝き。
引き出しの奥に秘めた輝きを彼女は大事そうに守っている。
誰かが小瓶を見つける。きらきらと輝いていたそれは、亜鉛の粉末のように鈍く光を反射するだけだ。
誰かは瓶を指先でつかみあげると、フローリングの床に向けて投げつける。
誰かは部屋をあとにする。
彼女は床の上で粉々になった瓶を見つける。きらきらと輝く粒は今となっては灰褐色の砂でしかない。
開け放たれた窓から風が吹き込む。
砂埃のように粉は舞い、部屋をすり抜けていく。
残ったのは小瓶のガラス片だけだ。
彼女はそこにかがみこみ、さめざめと泣いている。
313: 2015/03/15(日) 20:35:45.47 ID:LdkX2v0do
◆
静まり返った静寂は大理石の冷たさのように威圧的に俺を押しつぶそうとする。
行かないで、と俺は言う。そばにいて。どこにもいかないで。でもみんないってしまう。
俺はひとりになる。テーブルの上のケーキに火が灯されている。
吹き消すんだよ、と誰かが言う。暗闇を誘い込んで、その隙に笑顔の仮面をつける。
仮面は言う。きみはひとりではないよ、と。暗闇は視界をやさしく染め上げる。
俺は息を吹き込む。
暗闇の中で人々は舌を出す。
不意にあふれた光。人々は笑顔の仮面をつける。
おめでとう、おめでとう。俺たちはここに生まれ、そしてここまで生きてしまった。
最初からずっと変わらないような、笑顔の群れが、俺に祝福の言葉を投げかける。
俺は少しだけ嬉しくなる。
それを物語と呼んだ。
314: 2015/03/15(日) 20:36:15.59 ID:LdkX2v0do
◆
誰かが俺の頭を撫でている。俺はそれを感じている。午睡のような安らぎが、体を静かに包み込む。
泣き出したいような気持ちになるのはどうしてだろう。
何もかもが剥製のように呼吸をなくしたはずの場所。そこに安らぎを見出したのはどうしてだろう。
不意に、瞼を開けてしまいたくなる。瞼を開けよう、と思える自分に気がつく。
脈絡のないイメージは俺の内側の柔らかな部分を静かに刺激していった。
「……あ、起きた?」
目を開くと、すぐ傍に神崎の顔が見えた。
状況を把握しようとする。俺の体は床に寝そべっている。頭はなにかあたたかいものに触れている。
理解してすぐ、体を起こして距離を取った。
「……な、んだよ、いまの状況」
「なんだと言われても……膝枕?」
「なんでそうなった」
「急に、気を失ったみたいだったから。よかったよ、目、覚ましてくれて。こっちじゃ救急車も呼べないし」
「……」
こんな状況になっていまさら、普段目にしていない私服姿だとか、長い髪のこととかが気になりはじめて、俺は自分を殴りたくなった。
「悪い。俺、どのくらい寝てた?」
「五分も経ってないと思う。でも、こんなの初めて。意識を失うなんて。のんちゃんがユイちゃんを連れてきたときは、平気だったって言ってたし。
でも、やっぱりいろいろあるのかな。ちょっと反省」
神崎はどうでもよさそうな顔をしている。俺はバツの悪さに顔をしかめる。
315: 2015/03/15(日) 20:36:46.16 ID:LdkX2v0do
「とにかく、着いたよ」
神崎の言葉に、俺はあたりを見回す。様子は、さっきまでと変わらない。差し込む日差しの角度さえ変わったようには見えない。
「服、埃ついてる」
そんなことを言いながら、神崎は立ち上がった俺の背中をぱんぱん叩いた。
「やめろよ」
と言って、俺は距離をとって自分で埃を叩く。
「子供みたい」
彼女はくすくす笑った。
今は何を言っても優位に立てそうにない。……いや、立ちたいわけではないのだが。
「……ほんとに着いたのか?」
「うん。そんな感じしない?」
「しない。全然」
「だよね。わたしも」
……なんなんだ。こいつは。
「それじゃ、いこっか。急がないとね」
「……最初はどこに向かうんだ?」
「近いのは、のんちゃんのバイト先かな」
「……何回か、来たことあるの?」
「ま、何度かね。遊びに来ただけだけど」
まあいいや、と俺は思った。頭を振って余計な情報を振り払う。
とにかく今は、のぞみ探しだ。
「さて、捜索開始」
おどけたみたいな神崎の声が、なぜか心強く感じた。
317: 2015/03/18(水) 19:14:33.32 ID:2qev+Jdko
◆
神崎の案内にしたがって、のぞみのバイト先を目指す途中、俺はいくつもの違和感を覚えるハメになった。
ひとつひとつの違いは些細なのだけれど、大部分が似通っているため、小さな変化が異様なほど激しく主張しているように見えるのだ。
電柱に貼られたのチラシ、信号の位置、縁石の欠けた部分。
それらはおそらく以前からあったものなのだろうが、俺には突然その場に立ち現れたように見える。
「双子なんだよ」と神崎は言った。
「似てるけど、まったく同じってわけじゃない」
なるほどと俺は頷いた。
のぞみは、こちらのとあるコンビニで働いているらしかった。
神崎はシフトもある程度把握しているらしい。ある程度、というのは、シフトの微細な変化まではわからないという意味だろう。
とにかく俺たちはそのコンビニに向かって歩いた。旧校舎からの道はひどく短く感じた。
「さっきの人影、誰だったんだろう」
歩く途中でそんなことを言う神崎に、
「幽霊じゃない?」
と俺は半分本気で言ったんだけど、彼女は取り合ってくれなかった。
318: 2015/03/18(水) 19:15:07.05 ID:2qev+Jdko
のぞみのバイト先のコンビニは客足が少なかった。土曜のコンビニにどのくらいの客が訪れるのかは知らないが、あまり繁盛しているとは思えない。
俺たちが店に入ると、学生のバイトだろう、女の子ふたりがレジの中で雑談をしていた。「いらっしゃいませ」も聞こえなかった。
べつにどうでもいいやと思った。
雑誌棚を見てみると違和感はますます強まった。週刊漫画雑誌の表紙は、数年前に打ち切りになった漫画のキャラクターに占領されていた。
かといって全部が全部違っているというわけではないらしい。なんだか気持ちが悪い。
「夢の中にでもいるような気分だな」
「本当にそうだったらよかったけどね」
神崎はどうでもよさそうにそう言った。
「のぞみのシフトはいつなの?」
「土日は午後って言ってた気がする」
「平日は?」
「夕方からだったかな。曜日は忘れちゃった」
「だとすると、どっちにしてもまだここには来ないか。先にのぞみの家に行ったほうが良かったんじゃない?」
「うん、と、まあ、それはそうなんだけどね」
神崎はそれからちらりとレジの方を見た。
雑談は止んでいたが、店員は何をするでもなくぼんやりとカウンターの中に立っている。
神崎はパックジュースを一本手に取ると、レジへと向かって歩いた。
「おねがいします」と声を掛けて神崎がレジに向かうと、女の子たちはてきぱきとレジに入ってきた。
「おあずかりします」と言ってパックジュースのバーコードを読み込むと、神崎が小銭を出すより先に「あれ?」と声をあげる。
319: 2015/03/18(水) 19:16:01.71 ID:2qev+Jdko
「美園ちゃん?」
「……はい?」
神崎はすっとぼけた。
「美園ちゃん、今日午後からだよね? あれ、髪染めた?」
親しげな態度で、店員は神崎に話しかける。考えてみれば、顔はほとんど同じというくらい似通っているのだ。こうなってもおかしくない。
「そういえば店長が怒ってたよ。おととい無断欠勤だったって。電話いかなかったの?」
神崎は少し考えこんでから、困ったように笑った、ような顔をつくった。
「すみません、人違いだと思います」
「え? あ、すみません!」
店員は慌てたようにトレーから小銭をつまみあげ、レジ操作を終えてパックジュースにシールを貼った。
俺と神崎はそのまま外に出た。今度は、「ありがとうございました」が聞こえた。
320: 2015/03/18(水) 19:16:28.26 ID:2qev+Jdko
「……なるほど」と、とりあえず俺は感心した。
「まあ、顔が似てるとこうなるんだよ」
神崎はストローをパックに差し込むと、ジュースを飲み始めた。何かを考えているらしい。
他人の空似とは思えないくらい似ているから、相手は違和感を覚えるだろうが、まあ、そのうち納得するだろう。
「……おととい、無断欠勤、か」
「やっぱり、何かあったんだろうな」
「それも、かなり早い段階で、だね。のんちゃん、バイトの時間に合わせてこっちに来てたはずだし」
「事故とかだったら……バイト先にも連絡いくよな?」
「どうかな。少なくとも、のんちゃんが自分で連絡できない状況だとして……一人暮らしだし。学校に連絡いけば、保護者にも電話が行くだろうけど……。
のんちゃんがあの人たちにバイトしてたって言ってるとは思えないし、学校の手続きもしてないだろうし」
「……となると、どうしようもないか」
……"あの人たち"。
妙に引っかかる言い回しだが、まあどうでもいいだろう。他に適切な言い方がなかっただけかもしれない。
321: 2015/03/18(水) 19:17:11.86 ID:2qev+Jdko
「じゃ、とりあえずのんちゃんの部屋に行こうか。そこにいなかったら、うん。手詰まりだね」
俺と神崎は停留所まで歩いてバスに乗った。市営バスの乗客はそこそこだった。初夏の気温はからだに心地良い。
状況が状況でなければ、そこそこ楽しい外出になりそうなものだ。太陽の光は暖かで、曇ってばかりだった近頃の天気がそろそろ終わることを告げている。
「そういや、来月の半ばから夏休みか」
「そのまえに期末テストもあるね」
「神崎は、勉強できる方?」
「どっちに見える?」
「できそう」
「ぜんぜんできないよ」
神崎は笑った。
「補習と追試はさすがに免れるだろうけどね」
「ふうん」
「内海くんは?」
322: 2015/03/18(水) 19:17:40.28 ID:2qev+Jdko
「べつに、普通だと思うけど」
「そうなんだ。……普通ってなに?」
問われて迷った。普通ってなんだろう。平均というのとは違う気がする。
バカまじめに考えそうになって、やめた。
「……さっきから思ってたんだけど、内海くん、のんちゃんのこと以外に心配事でもあるの?」
「……あの、べつに俺、のぞみのこと心配してるわけじゃないから」
「それはとりあえずどうでもいいんだけど、何かあるの?」
「……神崎さあ」
「なに?」
「おせっかいって、よく言われない?」
「わりとね」
神崎はそっけなく呟いて、窓の外を見た。
323: 2015/03/18(水) 19:18:07.20 ID:2qev+Jdko
「……一年に、俺の知り合いがいるんだけどさ」
「内海くん、知り合いいるの?」
神崎は妙なところで目を丸くした。
「なんでそこで驚くんだ」
「だって内海くん、人間苦手じゃない?」
「……否定はしないけど。まあ、そういう奴の相手をしてくれる奇特な人間もいるってことで」
「まあ、そっか」と神崎は俺の方を見ながら頷いた。
「それで?」
「そいつが、クラスメイトの財布を盗んだって、犯人扱いされてる」
「あ、例の盗難騒ぎ?」
どうやら神崎の耳にも入っているらしい。
「でも、証拠があったって聞いたけど」
「うん。でも本人は盗んでないって」
「……内海くんはそれを信じたの?」
「一応ね」
相槌を打ちながら、神崎にもその質問をぶつけられて、少し不安になった。
志鶴は本当に、財布を盗んだのかもしれない。無条件に信じられるほど、俺はあいつのことを知っているだろうか。
324: 2015/03/18(水) 19:18:33.94 ID:2qev+Jdko
「それでちょっと、調べて見てるんだけど、どうもうまくいかなくて」
「調べるってことは、つまり、盗んだのがその子じゃないってことを?」
「うん。誰かがあいつの鞄に、財布を入れたんじゃないかって思ってるんだ」
「それはまた、ぶっとんだ推理だね」
「ぶっとんだっていうか」
消去法だ。財布に足がついていないかぎり、誰かが入れた以外に考えられない。
「……話だけ聞いてても、よくわからないけど」
「まあ、それで、ちょっと困ってるっていうか。放っておけないから」
「……なんか意外」
「なにが?」
「"放っておけない"なんて言葉、内海くんの口から出るの」
「……」
325: 2015/03/18(水) 19:19:20.82 ID:2qev+Jdko
べつに、たいした理由じゃない。
志鶴とは付き合いが長いし、不当な扱いを受けているところを見れば寝覚めが悪い。
それに、もし放っておいて、より悲惨な状況になってしまうとしたら。
だからといって、俺にできることなんてたかが知れているのだろうけど。
「……でもまあ、それをほったらかしにして、こっちに来てるわけだから」
「ひょっとして、迷惑だった?」
「なにが?」
「連れてきたの」
「俺が提案したんだろ」
そういえばそっか、と言って、神崎はまた窓の外に視線をやって、それからしばらく黙り込んでいた。
……ひょっとしたら、俺は逃げてきたのかもしれない。
放っておけないと言いながら、踏み込みすぎることに抵抗を感じる。
結局俺は怯えたままだ。
そこまで分かっているはずなのに、最善の手段が分からない。いつも。
326: 2015/03/18(水) 19:20:00.08 ID:2qev+Jdko
知らない停留所で降りて、俺と神崎は昼前の日差しを浴びながらアスファルトの歩道を歩く。
「なんだか、こうしてると嘘みたいでしょ?」
「なにが?」
「世界が双子だとか、ユイちゃんのこととか、それから、さっき内海くんが言ってた、一年生の子のこととか」
「……ああ、うん」
「そういうの全部忘れて、こういう日差しの下でぼんやり過ごせたら、いいよね」
「……うん。分かるよ」
なくしたものとか、手遅れのこととか、傷ついていくこととか、
ぜんぶ忘れて、思い切り泣いたり笑ったりできたら、きっと。
「でも、ぜんぶ起こってることなんだよね」
「……」
「ぜんぶぜんぶ、本当のことなんだよね」
何事もなかったみたいに、太陽が日差しをアスファルトに叩きつけている。
ゆるい風は道端の草を揺らしながら道路を吹き抜けていく。
柔らかな風のなかを、まどろむような心地で、誰かと並んで歩けたら。
そんな風にすごせたら、きっと世界は、とても輝いて見えたんだろう。
327: 2015/03/18(水) 19:20:35.98 ID:2qev+Jdko
◆
小奇麗な白いマンションがなにかのメッセージを隠し持ったモニュメントみたいに突き立っている。
俺は頭上を仰いで階数を数えようとしたけど、途中で面倒になってやめた。
「ここがのぞみの家?」
「うん。あ、ここの一室であって、べつに全部がのんちゃんちってわけじゃないよ」
「見りゃ分かるよ」
俺をどれだけ常識知らずだと思ってるんだろう。
見た目は威圧的だが、電子ロックの類はないらしい。俺たちはエレベーターに乗って上階へ向かった。
慣れない場所が独特の緊張感を思い出させる。
不似合いさには慣れるしかない。空間がこちらに歩み寄ることはない。親密さを生み出すのは時間の経過だ。
エレベーターを降りる。たぶん五階だ。よく見ていなかったせいで分からなかった。
初夏の暖かな空気が、通路を歩く俺の肌にじっとりとまとわりついてきた。
陰になって、太陽の日差しは直接は届かない。熱気は迂遠な不快感になって俺の気分をざわつかせた。
神崎の後ろをついて歩きながら、俺はここに来たことを後悔しはじめていた。
328: 2015/03/18(水) 19:21:07.76 ID:2qev+Jdko
神崎はひとつの扉の前でとまると、インターホンを押した。反応はない。
「……いないか?」
「待って」
神崎は、ドアの向こうの様子を窺うように声をひそめた。俺は扉から離れ、神崎の動きを眺める。
彼女はじっと、扉の前に立ったままでいた。裁判の被告人みたいにも見える。
やがて、物音が聞こえ、扉が開いた。
出てきたのはのぞみだった。
彼女は俺たちふたりの姿を見つけると、静かに笑った。
「みいちゃん、よーくん、こんにちは」
まるで町中でばったり友達と顔を合わせたときのような、自然な様子だった。
俺は文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが、神崎に任せることにした。
「こんにちは、じゃないよ。なにしてたの?」
「あ、うん。ごめん……。ちょっといろいろあって。バイトもいかなきゃいけなかったし」
……。
「入ってもいい?」
神崎が訊ねると、のぞみは少し躊躇するような素振りを見せたけれど、結局「どうぞ」と笑った。
自然な笑顔は、この状況では自然すぎて不自然だった。
329: 2015/03/18(水) 19:21:35.02 ID:2qev+Jdko
のぞみの部屋は綺麗に片付いていたが、かといって質素だとか生活感がないとか、そういう印象はない。
規則正しく整頓された物たちの中に、ファンシー雑貨やジュースのおまけについてくるようなコレクションフィギュアの類が顔を覗かせている。
「飲み物、コーヒーでいい?」
のぞみは俺たちにクッションを用意すると、キッチンに向かい、答えも聞かずにコーヒーの準備を始めてしまった。
流しで水の流れる音がきこえてくる。
俺たちは腰を下ろし、のぞみが戻ってきて話をしてくれることを待った。
他人の家や部屋に来ると、独特の匂いが鼻に入り込んでくる。悪いと思いながらも呼吸を止めるわけにもいかず、慣れるのを待った。
それにしてもなんとなく……不自然な感じがした。
「もしかしたら、みいちゃんがこっちに来ちゃうかもとは思ったけど……。
よーくんも来たんだね、ちょっと意外」
のぞみはテーブルの上にティーカップを三つ並べた。客用とはいえ十代の女の子が使うようには見えないくらい上品なカップだった。
「いったい、なにしてたの?」
「うん。だから、バイトのために戻ってきてたの。で、戻ろうとしたんだけど……。
ほら、結局、そっちに戻るとなるとちょっと歩かなきゃいけないし、面倒になっちゃって、ちょっと休むつもりが、そのまま寝ちゃったの。
そしたら、ちょっと忙しくなっちゃってさ」
神崎が何も言わなかったので、俺も何も言わなかった。
時間が気になって、壁掛け時計に目をやると、時刻は十一時ちょっと前だった。
そのまま視線をのぞみの方に戻そうとした途中で、大きな黒い旅行鞄が、壁際にいくつか並んでいるのが目に入る。
330: 2015/03/18(水) 19:22:01.15 ID:2qev+Jdko
視線に気付いたのだろう、のぞみは俺が何かを言うより先に疑問に答えてくれた。
「着替えだよ。今度あっちに戻るときに、持って行こうかと思って。このままだと足りなくなりそうだったから」
「ああ、うん」
「ユイは……?」
「あっちに残ってる。連れてきたら、困っただろ」
のぞみは少しの間、俯いてから頷いた。
「……うん、そうだね」
「……戻る気はあるんだよな?」
「もちろん。ユイをほったらかしにするわけにはいかないし。そのために服だって用意したんだから」
「みいちゃん」、と、不意に真剣な声で、神崎がのぞみを呼んだ。
「なに?」
のぞみはわずかに緊張しているように見えた。俺には状況がうまくつかめなかった。
331: 2015/03/18(水) 19:22:35.17 ID:2qev+Jdko
「なにをしていたの?」
「……なにって?」
「言いたくないならいいよ。でも、言いたくないなら、言いたくないって、言ってね」
「……」
「そう言ってもらえないと、わたし、わからないから」
のぞみは神崎の方をみつめたまま、視線を微かに揺らして、俯いた。
「……言いたくない」
「なら、いいよ。今日は、あっちに行けるの?」
「……うん。いままで帰れなくて、ごめん」
「なにもなかったなら、それでいいんだよ。勝手に心配してただけだから」
俺は口を挟まないことにした。この場において、俺は興味本位の第三者、部外者だ。
とにかく、のぞみの身に何も起こっていなかった、かどうかは分からないが、今現在のぞみが無事であることは確かだ。
それが収獲ということでいいだろう。
332: 2015/03/18(水) 19:23:00.90 ID:2qev+Jdko
つづく
333: 2015/03/21(土) 18:31:41.63 ID:1LMVJcCko
◇
神崎と元の世界に戻ってきたときには、時刻は午後三時を回ろうとしていたところだった。
黒い鞄のうちの二つを運んでくれないかと、のぞみは俺たちに頼んできた。
だから俺と神崎は、両手にその鞄を抱えたままここに歩いてきたわけで、しかもこれからそのまま帰らなきゃいけない。
ただでさえ結構歩いた上に、妙なことばかりで疲れを感じていた。面倒だったが、かといって放っておくわけにもいかない。
「じゃあ、戻ろうか」
神崎は何かを考えこんでいる様子で、俺の言葉には反応してくれなかった。
保健室……保健室"だった"場所。
俺は黙っていた。のぞみの様子がおかしかった理由について、神崎は心当たりがあるのだろう。
誇大妄想めいた予測なら俺にもできていたけど、だからといって口を挟む理由はない。
「いこっか」
鞄を肩に提げなおして、神崎は俺の方を向き直る。
校舎を出たとき、神崎が声をあげた。
「……なに?」
訊ねても返答はない。俺は彼女の視線の先を追う。
敷地と公道との境に、人影が見えた。
「あれ、筒井さんだよ」
「……」
「なんでこんなとこに……?」
俺は何も言わなかった。なんとなく、気付いていたから。
世界がふたつあったりするなら、もっと不思議なことだって有り得るかもしれない。
もし、そんなことがあり得るとするなら……。
334: 2015/03/21(土) 18:32:09.78 ID:1LMVJcCko
◇
帰り道の途中、神崎が歩きながら鼻歌をうたいはじめた。
何気なく聞き流していたが、途中から妙に気にかかりはじめる。
「はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、さっとんざうぉーる、
はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、はーだぐれいとふぉーる、
おーるざきんぐすほーすぃーず、あんどーるざきんぐすめーん、
くーどゅん、ぷっとはんぷてぃー、とぅーげーざあげいん」
「……その曲、何の歌か知ってる?」
「知らない。のんちゃんがよく歌ってた」
「……のぞみか」
「内海くん、知ってる?」
「ハンプティダンプティだろ。聴いたことないけど、たしかマザーグースだよ」
「……まざーぐーす。って、どっかの童謡のことだったよね?」
「ああ」
「ふうん。童謡なんだ。どういう意味なんだろう?」
「……童謡なんだから、簡単に訳せると思うんだけど」
「音で覚えたんだもん。よくわかんないよ。内海くん、知ってるの?」
「……」
335: 2015/03/21(土) 18:32:53.99 ID:1LMVJcCko
◇
ハンプティ・ダンプティ へいにすわった
ハンプティ・ダンプティ ころがりおちた
おうさまのおうまをみんな あつめても
おうさまのけらいをみんな あつめても
ハンプティを もとにはもどせない
336: 2015/03/21(土) 18:34:00.76 ID:1LMVJcCko
◇
家につくと、神崎はのぞみの荷物だけを置いて、そのまま帰ってしまった。
荷物を運び入れる途中で、ユイが俺のところにやってきて、どうだった、という顔をする。
「会えたよ」
「そっか」
淡白なやりとりのあと、ユイは鞄を受け取って、彼女たちが使っている部屋へと運ぶのを手伝ってくれた。
荷物を置いて、ユイは部屋を出て行く。その背中に、俺は声を掛けた。
「……何も訊かないの?」
ユイは、緩慢な動きで俺の方を振り返った。
「何か、訊いてほしいことでもあるの?」
「そういうわけじゃないけど。のぞみがどうしてたのかとか、気にならない?」
「美園は、無事だったんでしょう?」
「うん」
「……だったら、いい」
「……」
「あんたにも……」
「……え?」
「迷惑、かけちゃったね」
ユイはそう言って、寂しそうに笑った。
337: 2015/03/21(土) 18:35:03.38 ID:1LMVJcCko
寂しそうに、なにかなくしたみたいに、諦めたみたいに笑う。
だから俺は、腹が立って、何か言おうとした、けれど、腹の底から湧き出るような感情は、なぜか喉を詰まらせた。
関わらない。関与しない。無関係だから。
抑えこむ。蓋をする。どうでもいい存在、だから。
頭はそう言う。
違う、と"からだ"は言う。
俺はそれを無視しようとする。
気付くと拳を握りしめていた。
もう、ガタがきている。とっくに、混乱している。自分でだって気付いていた。俺は矛盾している。
足音が遠ざかっていく。
そうやってやり過ごしていく。こんな感情をこの先ずっと。
でも、その先に何があるんだろう。
きっと、何もない。そこまで分かっていても、他の道を選べない。
それを変えることは今までの自分を否定することで、今までの自分を否定することは、もっと大事なものを否定することだ。
それがなにかは、自分でもわからない。わからないけど、身動きがとれない。
距離を置いて、すべてを他人事のように受け流す。
俺には関係のない出来事。俺にとって、どうでもいい出来事。
でもそれは、言い訳なのかもしれない。
338: 2015/03/21(土) 18:35:40.95 ID:1LMVJcCko
◇
夕方過ぎ、自室のベッドで横になってぼんやりしていると、志鶴から電話が掛かってきた。
すぐに受け取ると、不機嫌そうな声がスピーカーから漏れた。
「やっと出た。なにしてたの?」
「……ああ、うん」
「何回も掛けたんだよ?」
「うん。ごめん」
携帯には不在着信の履歴も残っていなかった。
俺はぼんやりしながら、志鶴はいつもどおりみたいな声だなと、そんなことを思っていた。
「何の用事?」
「サキ先輩から伝言。ふたり、連絡先交換してなかったの?」
「ああ、なんか、面倒で」
「ばかみたい。取り次ぐわたしの方が、もっと面倒なんだけど」
「うん。ごめん」
「……おにいちゃん、なにかあったの?」
「志鶴、おまえさ」
「……なに?」
「つらくない?」
「……そのこと、考えてたの?」
339: 2015/03/21(土) 18:36:32.21 ID:1LMVJcCko
「いや。いま思い出しただけ」
「つらいよ」
「……」
「みんな、わたしを疑ってる。わたしを信じてくれる人に、腹を立ててる。それが、つらいよ」
「……」
「わたし、何も盗んでなんかいないんだよ」
「知ってるよ」
志鶴は黙り込んだ。
「サキ先輩からの伝言って?」
「あ、そうだ。わたしが先輩の連絡先をおにいちゃんの携帯に送るから、そこに連絡してほしいって」
「……連絡?」
「うん。いつになってもいいからできるかぎり早くって言ってた」
「……了解」
志鶴はそのまま、しばらく黙った。「それじゃ」とも言わなかったから、俺は電話を切るべきかどうか迷った。
しばらくの沈黙の後、心細そうな声が聞こえてきた。
340: 2015/03/21(土) 18:36:58.59 ID:1LMVJcCko
「ねえ、おにいちゃん。ひょっとして、ひょっとしてだけど、サキ先輩の用事って、わたしのこと、調べてくれてるとか?」
どことなく、緊張した調子。それでもおどけたように、志鶴は踏み込んできた。
俺は、答えるのに抵抗すら覚えなかった。
「……そうだよ」
「どうして?」
「なにが」
「どうして、そんなこと調べるの?」
「おまえがやってないんなら」と俺は言った。「他の誰かがやったってことだろ」
志鶴は返事をよこさなかった。
「なんでよ」
声は震えていた。どこか、怒っているようにも聞こえる。
「なんで、そんなことするの?」
「なんでって、なんだよ」
「放っておいてよ」
「……悪かったよ。勝手なことして」
「そんなことが言いたいんじゃない。だって、おにいちゃんがそんなことするわけない」
「……」
「おにいちゃん、疑われたのがわたしじゃなくても、調べようと思った?」
俺は、答えられなかった。
341: 2015/03/21(土) 18:37:47.28 ID:1LMVJcCko
「……どうして、そんなことするの?
放っておいてよ。いつもみたいに、どうでもよさそうな顔でわたしのこと見てよ。
なんで? どうしてそうなるの? 意味わかんない。なんで? そんなの……間違ってる」
「志鶴……?」
「わたしなんてそのへんの石ころみたいに扱ってよ。変なことしないで。
わけわかんない。そんなの、だって、わたしが、まるで……特別みたいじゃない?」
「……」
耳から聞こえた声が胸の内側をざわつかせる。
俺は言葉を手繰り寄せて、頭のなかでパズルを組んで。
いつもみたいな言い訳をした。
「そんな理由じゃない。ただ、暇つぶしにちょうどよかったんだ」
暇つぶし・興味本位・なんとなく・その場の流れ。
積み重ねた言い訳で、頭より先にからだが動いていることを覆い隠す。
俺にとっての価値は不変で。
それが揺らいだから動いたわけではない、と、言い訳する。
「……なら、いい。ごめん、変なこと言って」
やっぱり、情緒不安定になっているんだろう。他人事みたいに、そう思う。
俺たちはよそよそしい挨拶を交わして、電話を切った。
志鶴の言葉の意味は、半分も分からなかった。いつも明るくて、世話好きで、機嫌がよさそうな、眩しいくらいに明るい女の子。
俺は志鶴のことを、そんなふうに思っていた。
でも、やはり、俺は志鶴について何も知らない。
342: 2015/03/21(土) 18:38:17.21 ID:1LMVJcCko
◇
サキ先輩は、話があるから今から会えないかと言った。
ユイをひとりにするのはどうかと思ったが、もちろんユイを気にかける理由なんて本当は何もない。
だから俺は会うことを了承し、近隣のファミレスに向かうことにした。
適当にカップ麺でも食べててよ、というと、ユイは気だるげに頷いていた。
夕方六時半のファミレスはそこそこ混み合っていたけど、知り合いや顔見知りの姿はない。
サキ先輩は、禁煙席の奥の窓際の席に座っていた。
「や。急にごめんね」
「どうも」
「とりあえず、何か食べる? それとも食べてきた?」
「いえ」
「じゃあ注文しようか。適当に」
朝から何も食べていないことを思い出す。不思議とそれでも食欲は沸かなかった。
何も食べないのは明らかに問題だ。だから一応、食べられそうな定食を注文する。
サキ先輩はベーコンピザとポテト、それからドリンクバーを注文した。
343: 2015/03/21(土) 18:39:22.24 ID:1LMVJcCko
サキ先輩はドリンクバーにジュースを取りに行ってから、何も話そうとはしなかった。。
そうこうしているうちに届いたポテトフライの皿を、「食べていいよ」とこちらに向けながらつまみはじめる。
「……話って?」
「うん。志鶴ちゃんの鞄に財布を入れた犯人なんだけどさ」
「なにかわかったんですか?」
「ううん。直接は何も。でも、いくつか分かったことがあるよ」
「……どういうことですか?」
「ほら、志鶴ちゃんが中学のときに盗難騒ぎを起こしたことがあるって吹き込んだ二年生。
あれが誰かは分かった。本人に訊いても教えてもらえなかったから大変だったけど。そこはほら、目撃者がいてさ」
「誰だったんですか?」
サキ先輩は少しのあいだ口ごもっていたが、結局言うしかないと思ったのか、すぐに口を開いてくれた。
「千家龍」
「……」
「だと、思う。千家って名前だったって言ってた。千家なんて名前の二年生、ほかにはいない」
「……千家? どうして」
どうしてそこで、千家の名前が出てくるんだ?
344: 2015/03/21(土) 18:40:14.46 ID:1LMVJcCko
「本当に、千家なんですか?」
「わかんないよ。でも、そう言ってた」
「だって、そんなのおかしいじゃないですか。千家は……」
――世界に意味がないなら、何が起ころうと変わりはしないし、価値あるものがひとつもないなら、何が奪われてもかまわない。
そう、言ってた。
だったら、彼には何もかもが無意味で、誰かを陥れることだって無意味で。
何をしても無意味なら、何をしなくてもかまわないのに。
どうして千家が、そんなことをする?
「……盗難騒ぎと直接の関係があるかは分からない。でも……」
「明らかに怪しい」
「そう。目撃者の証言を信じるならね」
「……千家が?」
まさか、だ。
たしかに、彼は変だ。何をしでかしても不思議じゃない。実際、俺だって一度は疑った。
でも、そんなことをして彼に何のメリットがあるだろう?
345: 2015/03/21(土) 18:40:40.85 ID:1LMVJcCko
「でも、実行犯と関わりがあるのかはわからないよ」
「……」
「それに、誰かが千家くんの方を陥れようとしているって可能性もある」
「……」
「聞いてる?」
「……はい」
「……それで、先週は千家くんのことを調べてたんだけどね、ちょっとおかしなことになってるみたい」
「おかしなことって?」
「千家くんが、東校舎の資料室を占領してるのは知ってる?」
「……なんですか、それ?」
「資料室っていうか、物置なんだけどね。彼、放課後になるとそこに居座ってるみたい」
「……はあ」
「先生たちが気付いてるのかどうかは知らないけど、一部じゃ結構有名な話みたいだよ」
「……」
「そこに、近頃急に出入りするようになった女の子がいたんだって。って言っても、ほんの二、三回ってところだけど」
「……女の子」
「筒井あまねさんって、知ってる?」
「……筒井?」
「知ってるんだね。その子。何度か出入りしてたのはたしかみたい。どういう関係かは知らないけど」
346: 2015/03/21(土) 18:41:15.25 ID:1LMVJcCko
「……意味がわからない」
「わたしも、まるで意味がわからない」
千家。筒井。志鶴。神崎。
繋がってしまった。
不思議な気分だ。
俺だけ、蚊帳の外だ。俺だけ、部外者。俺だけ、第三者。
千家と筒井が、顔を合わせていて、志鶴を陥れたかもしれないのが千家で。
神崎は、様子がおかしくなった筒井のことを調べている。
……俺は?
千家のクラスメイト。神崎と同じ委員会。志鶴とは古い付き合い。
「……意味がわからない」と俺は繰り返した。
「わたしも」とサキ先輩も繰り返した。
350: 2015/03/24(火) 21:32:28.32 ID:wY8zzD7Eo
◇
とにかく、注意深く調査を続行すること。サキ先輩はそれを約束して、先に店を出た。
ひとり残された俺は席に座ったまま何かを考えようとする。
けれどなかなか上手くはいかなかった。なぜ上手くいかないのかを考えようとしても無駄だ。
何をどうすればいいのかもわからない。
神崎のこと。のぞみのこと。ユイのこと。
これに関してはひとまず考えないことにした。
のぞみの無事はとりあえず確認できたし、神崎としてものぞみには何も訊かないつもりらしい。
俺が何かを言うのも、何かをするのも、話が違うだろう。
どうなるにしても、それは彼女たちが決めることだ。
そう割り切ったあと、俺の頭に残されたのは志鶴のこと。
どこからどう考えていいのか分からない。
分かっているのは、志鶴は助けを求めてはいないということ。
そして助けを求めていたとしても、既に俺の力でどうこうできる領域にはないということだ。
志鶴が何かを盗んだ。それが誰かの仕掛けたことだとしても、それを今更証明する手立てはない。
誰かがやったことだとしても、何の証拠もないのだ。
ということは、犯人を見つけたところで、例の噂を鎮めることはできない。
事態は起こってしまった時点で手遅れなのだ。
351: 2015/03/24(火) 21:33:22.25 ID:wY8zzD7Eo
どうにもできない。
そう思うということは、俺はどうにかしたかったのか。
何をどうしたかったのか。
しばらくその問いを自分に向けて繰り返した。からだの内側で何度も繰り返した。
頭に向けて問いかける。何をどうしたかったのか、と。
でも頭は答えない。頭は答えを持っていない。
いつのまにか拳に力が入っていた。気を抜くと泣き出しそうな気がした。
仮に、千家が、なぜかはわからない、志鶴を陥れようとしたとして。
それを俺は、どうするのだろう。
ただの暇つぶしだと、俺は志鶴に言った。
クイズのように答えを見つけたら、あとはもうそれでおしまいなのか。
それとも、それでは納得できないのか。
納得できないとしたら、どうするのか。
何をどうする?
千家に自白させ、志鶴の冤罪を暴く?
暴いて?
志鶴の無実が晴れて証明され、志鶴はこれまでの生活を取り戻す。
もしそうなったなら、それはそれだけで、価値のあることのようにも思える。思えるだけだ。
頭が鈍く痛み出したような気がする。ぼんやりと視野がかすんでいく。
頭の中に意識が引きこもる。
352: 2015/03/24(火) 21:34:07.26 ID:wY8zzD7Eo
結が生きていた頃の俺はシンプルだった。
結と一緒にいるときの俺は幸せだった。
結さえいればいいと思った。
そこで世界が完結しているんだと思っていた。
あたたかいぬくもり、交わし合った笑みがもたらしてくれた幸福感、互い以外が必要ないという充足感。
それだけがこの世を生きる価値だと思った。
けれどそれは、本当にそうだったのだろうか。
今となっては、俺も気付いている。
あの頃、俺たちを取り巻く環境はあまりにいびつで、互い以外に頼りにできるものがなかった。
だからあれは、純粋な愛情でも、無垢な信頼でもなかったのかもしれない。
俺たちはただ、互い以外にアテにできる相手がいなかったから。
だから、互いを必要としている、ということにしたのかもしれない。
俺は結を必要としていて、結は俺を必要としている。
そう錯覚することで、生き延びようとしただけなのかもしれない。
信じたから生き延びられたのではなく、生き延びるために信じたのかもしれない。
俺にとっては、結に必要とされているということが、
結にとっては、俺に必要とされているということが、
それぞれに生きるために必要な物語だった。
やがて成長し、互いに互い以外の居場所を見つけられたら、俺たちはあんな気持ちなんてなかったことにしたかもしれない。
でも結は氏んだ。
俺はひとりだ。
ひとりで、未だに結のことを思い出す。
どうかしている。
353: 2015/03/24(火) 21:35:54.31 ID:wY8zzD7Eo
結が氏んで、俺も氏んでしまいたかった。
この世のどこにも居場所なんかないんだと思った。
綺麗なものは全部壊されて、欠けていく。
寂しかった。苦しかった。悲しかった。
必要としてくれる誰かがいなくなったことがつらかった。
だから、俺を必要としてくれる誰かが、俺には必要になった。
でも、そこで他の誰かを求めてしまうわけにはいかなかった。
"誰か"が俺を必要としてくれて、それを俺が受け入れてしまったら、
俺を必要としてくれる相手が、結でなくてもかまわなかったことになる。
結でなくても、誰でもよかったことになる。
そうなってしまえば、結にとっても、必要としてくれさえすれば、誰でも良かったことになる。
心地よいぬくもりを与えてくれるなら。充足感と幸福感が得られるなら。ひとりじゃない、と感じさせてくれるなら。
その相手が誰だって、かまわなかったことになる。
誰でもかまわなかったなら、俺は代替可能の意味のない生き物で。
あってもなくてもかまわないような、そんな存在だと認めてしまうことになる。
だから俺にとって、結のいない世界は、苦痛と失意に満ち、得られるものも望むものもなにもない、そんな世界でなければならない。
別世界のユイは結ではなく。志鶴は俺にとって必要ではなく。神崎も千家も取替えのきく友人でしかなく。
千家を追及したのはただの気紛れで、神崎の調査に付き合ったのはただの興味本位で、志鶴を陥れた相手を探すのはただの暇つぶし。
で、なければならない。
354: 2015/03/24(火) 21:36:34.00 ID:wY8zzD7Eo
俺が必要としたのは結だけで、結は氏んでしまって、だから他のものはどうでもいい。
はずなのに。
――おまえ、そんな幽霊みたいな顔で、いったいこの世界に何を期待してるんだ?
そうだ。
だったら俺は、何のために今まで、結をなくした世界で生き続けてきたんだろう。
そこまで考えたところで、俺は唐突に気付いてしまった。
自分でも、とっくに認めているのだ。
俺はきっと、結以外の人間からも、幸福感や充足感を受け取れるということ。
感情はからだの反応でしかなくて、だから再現可能だということ。
少なくとも、再現可能だと思っていたからこそ、結以外の幸福を拒絶しようとしていたこと。
結が俺にとって、代替可能な幸福感のスイッチでしかなかったこと。
そう思うのが悲しいから、それを認めないために、世界に価値がないと思い込もうとしなければいけなかった。
気付かないふりをした。
感情を否定することで、結が自分にとってのすべてだと信じることで、俺は結に義理立てしているつもりになっていた。
そうすることで、自分を守ろうとした。
ばかげていて、矛盾している。感情から出発した、破綻した論理の集積物。
それが今の俺だ。変わりたいのかどうかすら、今は分からない。
355: 2015/03/24(火) 21:36:59.81 ID:wY8zzD7Eo
◇
そして、月曜の放課後に、俺と千家は東校舎の屋上にいた。
向かい合うでもなく、並び立つのでもない。ねじれの位置みたいに、互いにそっぽを向いたままだ。
「ああ、バレたか」
千家は、あっさりと認めてくれた。
「そう。そうなんですよ、内海くん。きみの友だちの深山さんが窃盗犯って噂を流したのは、この俺なんです」
おどけた調子で千家は笑う。彼は、俺のことを見ようとすらしなかった。
「よく気付いたよ。褒めてやる」
気の抜けたような表情で肯定する。悪びれる様子も、あざ笑うような様子もない。
ただどうでもよさそうに、千家は嗤っている。
「どうして?」
なんて無意味な問いに、
「意味なんてねえよ」
千家はあっさり答えてくれた。
「知ってただろ。意味なんてない。前にも言ったよな」
そうだ。千家は言っていた。歌うように、彼はいつかの言葉を繰り返す。
「苦しいのにも、痛いのにも、悲しいのにも、息苦しいのにも、理由なんてない。
俺たちはただ、意味もなく生まれて、意味もなく苦しんで、意味もなく悲しくて、
意味もなく生きて、意味もなく氏ぬ。何にもなれない。どこにも行き着かない。
しなければいけないことも、してはいけないこともない」
「……」
356: 2015/03/24(火) 21:37:28.23 ID:wY8zzD7Eo
「たしか、前に言ってたよな、おまえ。意味がないから傷つけても平気なのか、って」
フェンスの向こう側を睨んだまま、千家は言葉を続けた。
「そうだよ。他人が痛みを感じても、俺は痛くない。そいつのことを、俺はどうとも思っていない。
だから、傷つけても平気なんだ。俺にとっては、俺の感じることがすべて。
快不快が行動原理だ。だから誰が傷つこうが、俺が楽しけりゃかまわないんだ」
「……楽しいのか?」
「ああ。楽しいよ。楽しいことにも意味なんてないが、意味がなくても楽しいことは楽しい。
おまえもそうやって生きればよかったんだ。痛いのは不愉快で、楽しいことは快楽だ。
つらいのも苦しいのも嫌だ。楽しいことと嬉しいことは俺を幸福にする」
動物とおんなじだよ。千家はそう言った。
「飢餓が苦痛で食事が快楽だから、動物は狩りをする。
群れからはぐれると不安だから群れる。認められるとうれしいから努力する。
ご褒美をほしがってるんだ。俺は楽しいことが好きだ。誰かを陥れるのは、楽しい」
「……でも、おまえは群れの外だ」
「だから誰かを軽んじるのは楽しいんだ。どうせ俺は群れには混じれない。
群れの中にいるやつを貶めると、俺は気分が清々する」
何をどう言えばいいのか、わからなかった。
「どうして、志鶴だったんだ?」
「なにが?」
「誰でもよかったはずだろ。なんで、志鶴だったんだ?」
357: 2015/03/24(火) 21:37:54.25 ID:wY8zzD7Eo
「誰でもよかったといえば、まあそうだけど、どうせならって思ってな」
「"どうせなら"?」
「おまえが腹を立てるところを見たかったんだよ。仲が良いのは知ってたから。
どんな反応するかと思ったんだ」
「……どういう意味だ?」
「言ってたよな。人を傷つけて平気でいられる奴、他人の生をないがしろにする奴、
他人を軽んじる奴、自分の目に見える世界がすべてだと思ってる奴。他人に対する想像力が足りてない奴。
そういう奴らを見ると、たまらないって」
「……」
「誰かが理不尽な理由で氏んだから、理不尽に腹を立てる。
でも、おまえにとってその誰か以外は無価値で、どうでもいい世界のはずだ。
なあ、だったらおまえ、どうしてまだ生きてるんだ?」
千家は、はじめて俺の顔を見た。
「おまえが腹を立てたって、理不尽は止まない。おまえの大事な誰かとやらも戻ってこない。
だったらなんで、おまえはこの世界に失望して、さっさと氏ななかったんだ?
どうせこの世に価値のあるものなんて残ってなかったんだろ?」
「……」
358: 2015/03/24(火) 21:38:39.38 ID:wY8zzD7Eo
「でも、おまえは生きていて、しかも、今、誰かが陥れられたことに憤ってる。
矛盾だよな。すべてがひとしく無価値なら、腹を立てる理由なんてどこにある?」
「……」
「内海、ひとつ質問がしたいんだ」
彼は、ひさしぶりに俺の名を呼んだ。
「おまえ、陥れられたのが深山って奴じゃなくても、おんなじように俺を問い詰めたか?」
俺は、返事ができない。
「たとえば他の奴が疑われてたとしたら、おまえは盗難騒ぎに興味を持ったか?
……違うよな。おまえはその子だったから興味を持って、いま俺の前に来たんだ。
おまえにとって、深山っていう子は特別だ。おまえの"物語"は、破綻してるんだよ」
とっくに気付いていることのはずだった。
それなのに、胸が締め付けられるみたいに痛む。
結のことを思い出そうとする。でも、欠けてぼろぼろになった記憶のかけらは、俺に何の感情ももたらさない。
味の抜けたガム。燃え尽きた煙草。がらんどうだ。
359: 2015/03/24(火) 21:39:24.67 ID:wY8zzD7Eo
「おまえが言っていた想像力とやらで、俺がおまえを分析してやるよ」
千家は、体ごと俺の方に向けて、こちらを見る。フェンスに背をむけて、立ちふさがるような素振りで。
「大事な人が氏んだから、そいつの生に意味を与えるために、そいつを交換不能のものにした?
そいつ以外から充足感を受け取らないことで、そいつの生を特権的なものにしようとした?
その結果、世界を無意味なものだと感じなければならなかった? ……違うね」
おまえは、また失うのが怖かったのさ。
千家はそう断言した。
「理屈で考えたことも、頭で理解している自分の思考も、全部後付けなんだよ。
本心ってものは、もっと深いところに隠れている。誰も自分の本心なんて自分じゃわからないんだ。
自分の心を自分で説明できるってことは、説明できる部分のそのもうひとつ奥に、何かが隠れてるってことなんだよ」
おまえは、大事なものをつくって、またそれを失うのが怖かったから、なんにも大事じゃないふりをしたんだ。
千家は繰り返す。
「価値がないから必要ないんじゃない。必要ないと思いたくて、価値がないってことにしたんだ。
おまえのそれは思想ですらない。つじつま合わせの理論武装だよ」
でも、おまえも自分で薄々気付いてるだろ。そんなのは無理な話だったんだよ。
「何かを大事にするか大事にしないか、は、意思で決められる。
でも、何を大事に思うか、大事に思わないか、は、意思じゃ決められない。感情が決める。からだが決める。
だから、おまえの頭は、深山のことなんてどうでもいいって言おうとするのに……。
"からだ"は、深山が傷つけられることに腹を立ててる。食い違ってる。事実に適用できない理屈なんて欠陥品だ」
おまえの理屈は欠陥品だ。
360: 2015/03/24(火) 21:39:57.26 ID:wY8zzD7Eo
「……そういうの、想像とは言わないんだよ、千家」
「じゃあ、なんて?」
「妄想だ」
は、と千家は笑う。
「……おまえ、筒井にも何かをしたのか?」
「筒井?」
「会ってたんだろ」
「おまえ、ずいぶん中途半端に話を掴んだんだな。深山の鞄に財布を入れた実行犯は筒井だぜ」
「……どういうことだよ」
「知らねえよ。俺が認めたのは、噂を流したところまでだ。
実際に行動に移したのは、筒井だよ」
「させたんだろ、おまえが」
「おいおい、根拠は?」
「ないよ」と俺は言った。「想像だ」
「そういうのも、妄想っていうんだろ?」
俺は、頷いた。
千家はまた笑う。
361: 2015/03/24(火) 21:41:01.41 ID:wY8zzD7Eo
「……どうして」
「……」
「どうして、こんなことをする?」
問いに対して、千家は少し、冷めた笑みを浮かべた。
「俺のことなんて、俺が知るかよ」
そんな無責任な言葉で投げ出されたまま、「どうして」はどこにも結びつかずに浮遊する。
「おまえの好きな想像力で、想像してろよ。納得のいく理由でも考えてろよ。
どうして俺がこんなことをしたかなんて、俺がおまえに教える理由の方が、ひとつもない」
「……」
「おまえ、腹が立つんだろ? 俺みたいな奴をみると、たまらないんだろ?
だったらどうする? 俺を頃すか? それとも証拠もなく職員室に突き出すか?
なあ、俺が何かをやったとして、おまえにそれをどうできる?」
「……」
「おまえは、なにもできやしない」
そう言い残して、千家は屋上を後にした。
俺はひとり、取り残される。初夏の風はぬるく俺の肌を撫でる。
何事もなかったみたいに、世界は回り続ける。
昔とおんなじように。
364: 2015/03/27(金) 18:39:41.22 ID:OP/DNKAao
◇
「どうするか、迷ったんだけどね」
つぶやきながら、のぞみは夜道を歩いている。俺の斜め前。街灯さえまばらな夜の道。
嘘のように明るい月の下を、俺たちはふたり、同じ方向に向かっている。
「みいちゃんには、話したくない。でも、誰にも話さないのも、フェアじゃない気がするから」
「だからって、どうして俺なんだ」
「関係ないからだよ」とのぞみは言った。なるほど、と俺は口先だけで納得してみせた。
「でも、きっと言わなくても、気付いているんだろうな」
「神崎のこと?」
「みいちゃんと、きっとユイも」
話がある、と呼び出されて、俺は夜更けの道をユイとふたりで歩いている。
どこに向かっているのかは聞かされていないけど、分かっている。
……べつに、構いやしないんだけど。
「ね、よーくん」
不意に歩くのをやめて、のぞみはこちらを振り向いた。
365: 2015/03/27(金) 18:40:17.48 ID:OP/DNKAao
「今日、なにかあった?」
「何もない日なんてないよ」
「そうだね。そうかもしれないね」
「……」
「なんか、有名な小説の一節があったよね。よく思い出せないんだけど」
「どんな?」
「あなたが虚しく過ごした今日という日は」とのぞみは言った。
「きのう氏んでいったものが、あれほど生きたいと願ったあした、ってやつ」
「……ああ。よく聞くね」
「あれさ、わたし、好きじゃないんだよね。言葉自体はべつにいいんだけど、そういうことを言いたがる人がさ」
「へえ」
「たとえばわたしが、一日を虚しく過ごしたとするでしょ?
夢も希望もないし、やりたいこともほしいものもなかったとするでしょ?
ああ、くっだんない一日を過ごしたなって、そう思って一日を終えたとするでしょ?
そのときに、誰かが言うの。『おまえが虚しく過ごした今日は……』って」
でも、それがなんだっていうの?
「たしかにそうかもしれない。でも、それがなんだっていうの?
じゃあ、わたしが一日を虚しく過ごさなかったら、その人は氏ななかったの?
それとも、わたしが楽しい日々を過ごしたら、その人が生きていたことに何かの意味が生まれるの?
昨日氏んでいった赤の他人と、今日生きているわたしとの間に、そのそれぞれの時間に、いったいどんな互換性があるの?
そんなのは、氏んでいった人に対しても失礼な話だって、わたしなら思うんだ」
366: 2015/03/27(金) 18:40:51.58 ID:OP/DNKAao
「知らねえよ」
「たとえばね、生きることが虚しくて、氏んじゃいたいってわたしが思ったとして、
今に氏にそうな人が、氏にたいっていうくらいなら代わってほしいって思うかもしれないじゃない?
でもそんなの、『わたし』じゃないから言えることだよ」
「……」
「じゃあ、代わってあげるって言って代わってあげられたらいいよね。
わたしがその人の立場になったらきっと、氏にたいなんて思わない。きっと生きたいって思う。
でも、その人がわたしの立場になったとき、ああ、生きられてよかったなんて思わないと思うんだ。
もし思うとしたら、それは『代わった』ことにはならないでしょ?」
俺は黙ったまま、のぞみの話に耳を傾けている。
「氏にたいって思う人は、生きたくてしょうがない人の気持ちをないがしろにしてる。かもしれない。
でも、だから、氏にたいっていうななんて、そういうのはさ、氏にたいって思う人の気持ちを想像できてない」
「……」
「"生きたい"って言う方が、"氏にたい"って言うより正しいっぽいから、"生きたい"を守ろうとする。
実際に氏を目前にしたら、どうせ氏にたいなんて言えなくなるって誰かが言う。
でも、じゃあ、生きたいって言ってる今に氏にそうな人が、実際、簡単には氏なない境遇になって、
それでつらい目にあったり、ひどく孤独だったり、打ちひしがれたりしたら、その人はそれでも生きたいって心の底から思えるのかな?」
「不謹慎だよ」と俺はうわっつらだけの返事をした。
「立場はおんなじなんだよ」とのぞみは言う。
「相手の境遇の、自分に都合の良い部分だけを見て羨む。身勝手にね。相手が実際にどんな気持ちかなんて考えないでさ」
小学生みたいだよね。親のいない子供を見て、おまえんちは口うるさい母ちゃんがいなくていいよなって言うみたいな。
そういうレベルの……くだらない、くだらない話だよ。
367: 2015/03/27(金) 18:41:45.76 ID:OP/DNKAao
「誰かが生きたいことと、誰かが氏にたいことの間に、いったいどんな関係があるっていうのかな」
「おまえ、氏にたいのか?」
のぞみは首を振った。
「そうじゃなくて、わたしは……"生きる"ことを素晴らしいことだって思って、
それを根拠に善悪や正否を判断するような考え方が嫌いなんだよ」
「……」
「わたしが虚しく生きた今日は、誰かが生きたかった明日、だったとして。
でも、わたしが心の底から楽しくて笑った今日は、誰かが苦しくて苦しくて氏にたくてたまらなかった今日でもあったはずだし……。
わたしが幸せを感じているときに、誰かがつらくて耐え切れないような気持ちでいるかもしれない。
そのなかから、どうしてひとつだけを取りあげて、自分と比較しなきゃいけないのか、よくわからない……」
「……」
368: 2015/03/27(金) 18:42:36.11 ID:OP/DNKAao
「ううん、そうじゃなくて……わたしが嫌いなのは……」
きっと……と何かを言いかけて、のぞみは歩くのを再開した。
こちらに背を向けたまま、彼女は言葉を続ける。初夏の夜の空気には快も不快も見当たらない。
「きっと、他人事を言う人なんだよ」
「……」
「立場を無視した一般論、とか、境遇や状況を考慮しない善悪の判断、とか。当事者の視点を意識していない、とか。
べつに、全部が全部そうなればいいって思ってるわけじゃない。割り切りは必要だと思う。
でも……第三者が全員、正しい方だけにつくこと、ないじゃない? 立ち止まって、どう見ても悪く見える人の話に、耳を傾けてもいいじゃない?」
「……そうかもね」
「どうでもいい?」
「そうでもない」と俺は答えた。思ったままの言葉を、そのまま吐き出す。
「でも、誰もそんなこと気にしてない。正しいとか、悪いとか、そんなの、もう誰も気にしてない。誰もそんなところで戦ってないんだ」
「……そうかも」とのぞみは頷く。
369: 2015/03/27(金) 18:43:06.09 ID:OP/DNKAao
「神崎が言ってたな」
「みいちゃんが? なんて?」
「小児的潔癖さ、って」
「……」
「誰も気にしないことを気にするのは、神経質だって」
「……みいちゃんは、割り切れる子だから」
「でも、優しいひとだよ」
のぞみは一瞬だけ、驚いたように目を丸くしてから、笑った。
「……うん。知ってる。わたし、みいちゃんみたいになれたらよかったのに」
「意見が合ったな」
「意外にもね」
「……こんな話、聞いたら神崎、怒るかもしれないけどな」
「なんで?」
「あいつはあいつで、おんなじこと思ってるかもしれないよ」
「そうかな。……どうかな」
370: 2015/03/27(金) 18:43:37.85 ID:OP/DNKAao
「……聞いても、どうしようもないことかもしれないけど」
「うん」
「今を逃したら、機会がないかもしれないから、聞いておきたいんだ」
「なに?」
「……どうして、世界はふたつに分かれてるんだろう?」
「ふたつじゃないかもしれないよ」とのぞみは言う。
「わたしたちが確認できたのが、ふたつだっただけで」
「どうして、分かれてるんだろう」
「"どうして"なんて、きっとわからないよ」
「……」
「無理に説明しようとしたら、それは宗教でしょ?」
俺は頷いた。
俺と千家は、それを物語と呼んでいた。
371: 2015/03/27(金) 18:44:58.19 ID:OP/DNKAao
「でも、そうだな。少し質問に答えると、世界がふたつになったのは、そんなに昔のことじゃないと思う」
「どうして?」
「似すぎてるからだよ。もし大昔からふたつに分かれてたなら、この街も人も、もっとばらばらだったと思うんだ。
変化や違いはあるけど、それは些細なものだし、だからきっと、世界が分かれたのは遠い昔のことじゃないんだと思う」
「……最初から分かれてたわけじゃないのかな」
「……わからない。どこかで枝分かれしたって考えた方が、自然だと思う」
どうして、は語れない。代わりに、どのように、を俺たちは語る。
「どうして、きみたちには、そんな力があるんだろうな」
「自然現象みたいなものなんだよ、きっと」
諦めたみたいな調子で、のぞみはそう呟く。
372: 2015/03/27(金) 18:45:39.65 ID:OP/DNKAao
「きっと、わたしたちだけじゃないよ。いろんな人が、こういうものを抱えているんだと思う」
「何の理由もなく?」
「そう。何の理由もなく。ひょっとしたら、よーくんだってね」
あーあ、とやけになったみたいに、のぞみは空を見上げた。
「よーくんみたいな人がいれば」と彼女は言う。
「あっちで会えてたら、よかったな」
「どうして?」
「こんな話を聞いてくれる人、そうそういないからさ」
「ああ。それはそうかもしれない」
「そしたら、ちがう道もあったかもね」
「でも、そうじゃなかった」
「うん」
のぞみは笑う。
「だから、もしも、の話」
373: 2015/03/27(金) 18:46:16.19 ID:OP/DNKAao
◇
夜の旧校舎にやってきた俺たちは、言葉もなく例の保健室まで歩いた。
夜の暗闇から、生き物みたいな息遣いが聞こえてきそうだった。
明かりはない。前を歩くのぞみの足取りに、迷いもない。
保健室には、のぞみの部屋にあった黒いバッグのうち、ふたつが置きっぱなしにされていた。
「気付いてたよね、きっと」
「想像はした」と俺は答えた。
「正解」と彼女は言って、バッグを持ち上げた。
「埋めようと思うの。必要な道具は準備してある」
「完全犯罪だよな」と俺は答えた。
「下手を打たなければね」
「つらくなかった?」
「それはこれから分かるんだと思う」
「後悔は?」
「それも、これからだと思う。他に手段がなかったから」
俺が何かを言うより先に、のぞみは俯いて、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、呟いた。
「そうなのかな。……どう、なのかな」
「訊いていい?」
「どうぞ」
「ここまでしなきゃいけないくらい、ユイはきみにとって大事な存在だったの?」
「大事、っていうのとはちがうけど……。でも、わたしは、快不快で、行動を決める人だから」
他人事のような言い方。そこには少し、迷いが見えた気がした。
374: 2015/03/27(金) 18:46:42.81 ID:OP/DNKAao
「……やめよう。説明したらきっと、うそっぽくなるから」
「……うん」
バッグを校舎から運び出して、俺とのぞみは敷地内で適当な場所を探した。
グラウンドの端の方、木々が群生してる場所。
「このあたりならきっと、誰も近付かないよね」とのぞみは言う。
「深く掘らないといけないよな」
「……訊いてもいい?」と今度はのぞみが言った。
「なに?」
「怒らないの?」
「俺の立場では」と俺は言う。
「きみに味方したくなるような状況だ」
「……」
「無関係な第三者だけど、俺はべつに法の番人でもないし、もともと天国にはいけそうにない」
「……ありがとう、って言うべきなのかな」
「どうかな」
375: 2015/03/27(金) 18:47:17.80 ID:OP/DNKAao
◇
穴を掘りながら、俺は結局、全部を他人事のように感じることはできなかったんだと、ふと思った。
雲もない星の綺麗な夜で、きっと今も誰かが氏んだり、生きる喜びを謳歌したりしているんだろう。
そういう時間を、俺たちは穴を掘って過ごしている。
千家を責めることは、俺にはどうやらできそうにない。
何をどうすればいいのかも、何がしたいのかも、今は分からない。
でも、のぞみを手伝うことは、今の俺ができることのなかで、一番自然な選択だと思えた。
少なくとものぞみを責めることについては他の誰かがやってくれるだろうし、きっと本人がいちばん徹底的にやってくれるだろう。
「顔、見る?」
のぞみはそう訊ねてきた。俺はどうするか迷って、いくつかのばらばらの感情と思考をないまぜにして、頷いた。
「よーくんにはさ、本当は、背負わせちゃいけないよね、こういうの」
「……」
376: 2015/03/27(金) 18:49:00.71 ID:OP/DNKAao
「でも、ここまでしたら、知っておきたいかと思って」
「……そういうのとは違うけど、一応」
そう言って、俺は掘った穴から這い出て、のぞみの傍らにおいてあったバッグに近付く。
顔を見たとき、俺は言葉を失った。
「不思議だよね。実感が沸かないのかな。わたし、何も感じてないみたい」
「……」
「……よーくん?」
ああ、と、かろうじて頷きながら、俺の視線は"顔"に奪われたままだった。
「……知ってる人だった?」
「……ああ」
「そっか……」
ごめんね、とのぞみは謝った。
少しのあいだ身じろぎもできなかったが、しばらく後、俺は何も言わずに作業に戻った。
380: 2015/03/31(火) 01:31:41.94 ID:jMMLobmXo
◇
ある日家に帰ると、のぞみとユイが自分たちの荷物をまとめていた。
「どうしたの?」と訊ねると、「もう大丈夫らしいから」とユイが答えてくれる。
「大丈夫?」
「うん。迷惑かけたけど、そろそろ帰るよ」
ありがとね、と彼女は言った。俺はそんな言葉が聞きたかったわけじゃない。
だからといって、俺に何が言えた? 何ができた?
わからない。俺はただ流されていただけだ。
「あのさ、あんた、ひょっとして、落ち込んでる?」
「どうして俺が?」
「わかんないけど。でも、でもね、思ったんだ。こっちに来てる間、なにもできなかったから、ずっと考えてた。
もしかしたらわたしは、いろんなことから目をそむけていたのかもしれないって。
だから、ちょっと、だけどね。耳を傾けてみようって思ったんだ。身の回りの、いろんなことにさ。
自分ひとりで考えて、自分ひとりで行動して、それでいっぱいいっぱいになっちゃったから、なおさら」
「……」
「お兄ちゃんとも、話してみようと思うんだ」
「……大嫌い、なんだろ」
「大嫌いだったけど。大嫌い、だったけど。でも、もしかしたら、あっちにはあっちで、すごく大変だったのかもしれない。
すごく、行き詰っていたのかもしれない。だから、話してみようと思う」
あんたは気にしないでね、とユイは言った。
「あんたは、何にもしてないんだから」
381: 2015/03/31(火) 01:32:17.55 ID:jMMLobmXo
◇
俺はここにいる。息をしている。家に住んでいる。学校に通っている。
買い物をする。家事をする。誰かと話をする。勉強をする。漫画を読む。テレビを見る。
俺は生きている。呼吸をしている。食事をする。排泄をする。睡眠をとる。一定のリズムで寝起きする。
そして、それ以外のことをほとんど何もしない。
それでかまわないと思っているわけではない。でも、それ以外に何をすればいいのかが分からない。
ただ俺の前には茫漠とした砂漠のような時間が横たわっているように思えた。
俺はそれを前に途方に暮れて立ち尽くしている。
どこを目指せばいいのかも、何を求めればいいのかもわからない。
逆さにされた砂時計のように、膨大に見える砂の粒はゆっくりと地の底へと引きずり込まれていく。
地響きがうなりをあげ、俺は徐々にこの砂漠が狭まってきているのを感じている。
砂漠の果てには高い砂の丘がある。
それを越えた先にまた高い砂丘があるだけだということを俺は知っている。
遠くで行列の足音が聞こえる。人々は砂漠の果てに向かっている。整然とした足踏みの音は打楽器のリズムのように響いている。
誰かが泣いている。誰かが叫び声をあげている。誰かが助けを求めている。
誰かが笑う声がする。誰かが幸せを感じている。誰かが誰かの幸せを祈っている。
それは俺には無関係のものだ。誰も俺を求めてはいないし、誰も俺のために祈らない。
当たり前だ。俺の方だって、誰のことも求めていなかったし、誰のためにも祈ってこなかったんだから。
手のひらが冷たくて痛い。冷えきった砂漠の中心で、俺はぬくもりをもとめている。
吹きすさぶ風が砂を巻き上げる。痛みに慣れることはない。平気なふりに慣れていくだけだ。
視界を覆う白い粒のベールは、舞い落ちていく桜の花びらか、それとも海の底に降り積もるプランクトンの氏骸か。
382: 2015/03/31(火) 01:32:47.19 ID:jMMLobmXo
◇
神崎と俺は、のぞみたちを見送るために旧校舎へと向かった。
金曜の夕方のことだった。旧校舎は何もかもを受け入れてくれそうなおぼろげな暗闇に閉ざされている。
「ありがとね」とのぞみは言う。
「なにもしてないよ」と神崎は言う。
「ごめんね」、とユイは何度も謝った。
俺が何も言わずにいると、ユイは静かに俺の手をとった。
「……なに?」
「ごめんね」と、彼女は俺の目を見て謝った。
「なにが」
「あのね……」
「……なに」
「志鶴のこと、大事にしてあげて」
「……なんで」
志鶴のことを知ってるんだ。そう思った。
「たぶん、それがね、こっちの結が望むことだよ」
「そんなの……都合の良い解釈だろ。氏んだ人間の気持ちを勝手に想像してるだけだ」
「でも、本当は、そうしたかったんでしょ?」
「……そっちにも、志鶴はいたの?」
彼女は静かに頷いた。
383: 2015/03/31(火) 01:33:13.09 ID:jMMLobmXo
「わたし、ちょっと前まで、こんなのひどいって思ってた。
自分の身に起こったことの全部が、納得できなかった。でもね、分かったの。
わたし、あんたにそう伝えるために、こっちに来たんだと思う」
ううん、と彼女は言葉の途中で首を振り、
「違うか。……そう思うことにしたの。そう伝えるために、こっちに来たんだって、そう思うことにしたの」
千家の言葉を、俺は思い出す。
――みんな、苦しみに理由が欲しいんだ。
――自分が苦しむこと、痛い思いをすること、悲しいこと。
――そういうことに、理由がないと耐えられないんだよ。
全部嘘だ、と千家は言った。苦しんだことにも、痛かったことにも、悲しくてしかたないことにも、意味なんてない。
でも、それじゃあまりに悲しいから、人は物語を作る。
けれどそれは、いけないことなのだろうか。求めてはいけないものなのだろうか。
「志鶴のこと、許してあげて」
「許すも許さないも、俺はべつに……」
「ううん。志鶴が、志鶴を許してないんだよ」
だから、許してあげてね。認めてあげてね。ユイは、そう言った。
384: 2015/03/31(火) 01:33:43.56 ID:jMMLobmXo
そのときだけ、本当にそのときだけ、彼女が結と同じ存在であるような気がした。
結が、何か、途方も無い旅を終えて、俺に会いにきたのだと、そんな錯覚を抱いた。
妄想だ。でも、俺はそれにすがりたかった。
「きっとこの先、つらいことだっていくつもあるんだよね。
何もかもに嫌気がさすかもしれない。耐え切れないようなことだって起きるんだと思う。
何かを裏切られるかもしれないし、何かを裏切るかもしれない。そのたびにわたしは悲しくて……。
でも、きっと、悲しいだけじゃ氏ねないんだ、わたし」
だから、心配しないでね、と。
その言葉はきっと、俺ではなく他の誰かに向けられたものなんだろう。
俺は彼女に何もしていないんだから。彼女は俺に、他の誰かを重ねている。
それなのに、どうしてかわからない、染み入るように、胸の内側をズタズタに引き裂いていく。
破れたカーテンは陽の光を遮らない。あたたかさを、もう拒めない。
「志鶴を好きになることは、結に対する裏切りじゃない。
結はきっと、あんたのことが本当に大好きだった。でもそれは、もう終わったことなんだよ。
志鶴はきっと、あんたを必要としている。あんたはそれに応えることができる」
だからね、と彼女は言った。
「あんたもあんたを、許してあげてね。わたしたちはきっと、動物だから。動物でしか、ないんだから」
385: 2015/03/31(火) 01:34:13.44 ID:jMMLobmXo
◇
俺の体は冷えていく。脳は誤った判断を繰り返し、誤った学習を続ける。
それを認め新しい場所を目指すのは勇気のいることだった。
からだが冷えていく。
砂の嵩が少しずつ減っていく。
何が悲しい?
差し伸ばされた手を拒み、助けを求める声を無視し、誰かの笑い声に耳を塞ぐ。
かつて俺の手のひらは誰かの手のひらとつながっていた。そのことはちゃんと覚えている。
静かに、景色が傾いでいく。
からだがあたたかさを覚えている。
俺は手のひらを握りしめ、冷めてしまいそうなぬくもりを閉じ込めようとする。
けれど、からになった手のひらは何も握ってはいない。
新しい熱が生まれることもない。俺は虚空を握りしめているだけだ。
ぬくもりはとうに、そこから失われている。惨めなほど力を込めて握っても、すり抜けていく。冷めていく。
それが悲しかったのだろうか。寂しかったのだろうか。
386: 2015/03/31(火) 01:35:05.99 ID:jMMLobmXo
◇
「また遊びに来るよ」とのぞみは言った。
「何もなくても、きっとね。かまわないでしょう?」
俺は頷いた。
「巻き込んで、ごめんね」
「いいよ。巻き込まれたとも思ってないし」
「そんなら、いいんだけどさ」
それからのぞみは、少しの間口ごもっていた。
「なに?」
「うん。よーくんさ、ちょっと神経質すぎるよ」
「……なに、急に」
「もうちょっと、好き勝手に振る舞ってもいいんじゃない?」
「……べつに、好き勝手に振る舞ってるつもりだけど」
「そういうところだよ」と彼女は言った。
「そういうところ。自覚して、内省して、閉じこもっちゃうところ」
「……」
「相対的にものごとを見たってなにも進まないんだよ、きっと。
よーくんはよーくんの立場で、感じて、考えた通りにすればいい。
相手の立場なんて、無理に考えることないんだよ」
「……それは、自己弁護?」
「かもね」とのぞみは言った。
じゃあまたね、と最後に彼女はそう言ったけど、俺たちが会うことは二度となかった。
387: 2015/03/31(火) 01:35:43.03 ID:jMMLobmXo
◇
「結局、わたしたちってさ」
ふたりになってすぐ、神崎は口を開いた。
「なんだったんだろうね?」
「さあ?」
「なにもできなかった」
「うん」
「でも、なにができたんだろう」
「……」
「よく、わからないよね」
「……でも、腹を立てていたんだよ」
「まるで、たしかめたみたい」
「なにを?」
「なにもできないんだって」
「うん」
「内海くん、筒井さんのこと、何かわかったんじゃない?」
「……どうして?」
「なんとなく」
「俺の周りには、読心術が使える奴しかいないのかよ」
「……どうなの?」
388: 2015/03/31(火) 01:36:10.34 ID:jMMLobmXo
「関係してそうな奴がいるのは、分かった」
「誰?」
俺は少しだけ、言葉を止めて、結局答えた。
「俺の友達」
「……そっか」
俺は窓の外に広がる荒涼としたグラウンドを眺めた。
隅の林に、眠っている。
あるいは、俺ものぞみのように、行動を起こすべきなのか。
でも、それでいったい、なにを取り戻せるのか。
わからないけど、腹が立って。
腹が立つのに、ひどく悲しい。
それなのに今は、なぜか、別のことを考えていた。
389: 2015/03/31(火) 01:37:08.36 ID:jMMLobmXo
◇
神崎が帰ってしまってからも、俺はひとり、旧校舎に残り続けた。
時間の果ての果てのような場所。朽ちて滅んだ、だめになった場所。
ましていく暗闇には、けれど、息遣いがあった。
失われた時間のなかに呼吸がある。
それでいいのかもしれない。そう思った。
手のひらは冷めている。でも、俺のからだは熱を覚えている。
それでいいのかもしれない。
そこに、足音が響く。
それが誰なのか、俺はなんとなく、気付いていた。
保健室だった場所の入口に、筒井あまねが立っていた。
前に会った時のように、おどおどしていない。抱いていた印象のように、凛としているわけでもない。
何かのくびきから解放されて、目に見えるすべてとのつながりを断ち切った幽霊みたいに、彼女はそこに立っている。
「こんなところでどうしたの?」と、見知った誰かに話しかけるみたいに、ほとんど初対面の俺に、筒井は話しかけてきた。
「そっちこそ」と、俺は訊ね返す。ばかばかしくなって笑う。すると彼女も笑った。
390: 2015/03/31(火) 01:37:34.96 ID:jMMLobmXo
「わたしは、子供を探してたの」
「子供?」
「ここでいつも会っていたんだけど、いなくなっちゃって」
「へえ」
筒井の髪は、鋏で乱雑に切り落としたように、ある地点からばらばらに途切れていた。
制服姿のままの彼女は、俺に昔のことを連想させた。
のぞみが言っていた。きっと他の誰かも、何かの力を持っているのかもしれないって。
それは、無自覚なのかもしれない。彼女にも、そんな力があったのかもしれない。
あったとして、どうにもできないような力だったとしても。
考えてみれば、神崎たちの力も、千家の笑い話のような超能力だって、なんの役にも立ちそうにないものばかりだ。
天災みたいなものだ。
筒井は俺の顔を見て、いまさらのように驚いてみせた。
「わたし、あなたに会ったことがある?」
「何度かね」
「そうなんだ」
他人事みたいな言い方だった。千家のことを訊ねようかとも思ったけど、やめた。
391: 2015/03/31(火) 01:38:02.38 ID:jMMLobmXo
「ねえ、子供、見かけなかった?」
「いや、見てないよ」
「そっか。もう来てくれないのかな」
残念、と筒井は呟いて、背負っていた鞄から何かを取り出した。
それが何かはすぐに分かった。煙草の箱とライターだった。
「……神崎に屋上を調べさせたのは、それのせい?」
「……きみ、誰?」
「図書委員」と俺は答えた。
「神崎さんの友達? そっか」
「俺に、見られていいの?」
「こんな場所に来るような人が、誰かに話すとも思えないし」
「……まあ、たしかに」
392: 2015/03/31(火) 01:38:28.87 ID:jMMLobmXo
吸う? と、筒井は俺に煙草の箱を差し出してきた。
俺はそれを口にくわえ、ライターを借りて火をつけた。
しばらく、沈黙が続いた。煙を吐く音だけが、やけに大きく響いている。
「学校では、吸わないようにしてたんだけどね」
やっと口を開いたかと思ったら、筒井はそんなことを言い始めた。
まあたしかにここは学校といえるかもしれないけど、と言おうとして、彼女が言っているのがそういう意味じゃないことに気付く。
「迂闊、だったなあ」
抑えきれない後悔が、こぼれたような声音。
「……訊いてもいい?」
「なに?」
「きみが聞いた物音って、結局なんだったの?」
「シャッター音」と彼女は言った。
「神崎に屋上を調べさせたのは……」
筒井はしばらく押し黙ってから、恥じ入るような自虐的な笑みを浮かべた。
「屋上によく出入りする人を特定できれば、誰が撮ったのかわかるかもしれないって、そう思ったんだよ。
いまにして思えば……軽率っていうか、馬鹿げてたかな。でも、なんとかしなきゃって、そう思って……」
バカだったなあ。弱音と溜め息が、煙と一緒に宙を舞った。
393: 2015/03/31(火) 01:38:55.89 ID:jMMLobmXo
「子供って、どんな子供?」
「男の子なんだけどね。なんだか、とっても弱ってて、ひねくれてた」
「……」
「意味が無いのが、悲しいんだって言ってた」
「意味?」
「うん。ばかみたいだよね。意味なんて、ないのにさ。
でも、本当に悲しそうに泣くんだよ。耐え切れないって言って、ぽろぽろ泣くんだよ」
「……」
「だからね、言ってあげたの。だったらきみが意味をつくればいいんだって。
失われた何かとか、痛みや苦しみに、きみが意味を与えればいいんだって。
創りあげて、ごまかして、騙し騙しで生きればいいんだよって」
「……」
「そうすれば、いつか、そんなことを考える余裕もないくらい、圧倒的なものに出会えるかもしれないって」
そんな言葉を俺は、
いつか聞いて、
信じたわけでもないのに、頼りにしてきたのかもしれない。
意味なんてないと言っていたくせに、何かに期待して。
それがたぶん、俺にとっての物語だった。
「うそ、なんだけどね」
筒井は煙草を床に落とすと、靴の底で踏みにじった。
394: 2015/03/31(火) 01:40:12.39 ID:jMMLobmXo
「本当はわたしの方だったんだ。意味がなくて怖いのも、つらいのも、苦しいのも。
どこにも居場所なんかないし、どれだけうまくやったって、それは偽物なの。
本当のわたしを覆い隠して、それで上手くやったって、好きになってもらえるのは偽物のわたしなの。
誰かがわたしを好きだって言ってくれても、本当のわたしは奥の方で、ずっと震えたままなの」
それから彼女は、ごまかすみたいに笑った。
「どうして、俺にそんな話をするの?」
「たまたま、そこにいたから」
「……そっか」
「でも、それ以上に、いったいなにが必要なんだろうね。わたしには、よくわからない」
たまたまそこにいただけの相手と、
たまたまそこにいたという理由だけで、
ときどき、結びつく。本当のところ、理由なんて、他にはなかったのかもしれない。
「やめてしまうの?」
と、俺は訊ねた。筒井はまた、煙草に火をつける。
395: 2015/03/31(火) 01:41:27.12 ID:jMMLobmXo
「うさぎは寂しいと氏ぬっていうじゃない? あれ、嘘なんだって」
「……」
「でもね、うさぎは、怖い思いをするとショック氏するの。驚いたり、怖かったり、危険を感じたりすると、氏んじゃうの。
うさぎは弱い生き物だから、危険を感じると、生きるのを諦めるんだって。抵抗する力も持ってないから。
でもね、それってさ、愛なんだって思わない?」
「愛?」
「なるべくなら、痛い思いも、怖い思いも、苦しい思いも、短く済みますように、っていう、遺伝子からの愛」
「……」
「とても弱い生き物だから。せめて、あまり苦しむことがありませんように、って」
そう言って笑った筒井は、本当の本当に幽霊みたいだった。
もう、氏んでしまっているように見えた。
屋上から飛び降りて、地面にたたきつけられるまでのあいだ。
その狭間に、彼女はいるような気がした。
放物線のような少女。
「俺がきみに言えることは、きっとなにもないんだろうな」
「……うん」
「無責任だし、身勝手だ」
「うん。そうだね」
「でも、不思議だよな」
「なにが?」
「少し悲しい」
彼女は他人事みたいに笑った。
396: 2015/03/31(火) 01:42:19.85 ID:jMMLobmXo
「うそ、ついちゃったな」
「……子供のこと?」
「そう。ちょっと、罪悪感、かな。わたしだって本当は信じてないからさ」
「……」
「あの子、これから、大丈夫なのかな。きっともう会えないから、少し、心配」
「平気だよ。……きっと、生きていくよ。騙し騙し。何か圧倒的なものに出会えるまで」
「……どうしてそう思うの?」
「さあ?」と俺はごまかした。
「でも、たぶんそうだよ。それで、もしきみの言うようなものに出会えなかったら、きっときみを恨むんだ」
「……わたし?」
「うん。あの嘘つきにまんまと騙されて、氏ぬまで期待して生きちまったってさ」
筒井は、今度はちょっとうれしそうに、笑った。
「……うん。それ、いいね」
ありがとう、と彼女は笑う。
「それ、最高のトドメだよ」
翌週の火曜、高校の中庭の大きなケヤキの枝に、彼女の氏体は吊るされていた。
397: 2015/03/31(火) 01:43:08.00 ID:jMMLobmXo
◇
筒井あまねの首吊氏体が発見される前日の月曜、学校の昇降口を入ってすぐの掲示板に何枚もの写真が貼られていた。
内容に関しては、まあ、だいたい想像した通りのものだった。
素行のよい生徒として知られていた筒井あまねと写真の中の筒井とのギャップに、彼女を知る多くの生徒が戸惑った。
噂は波紋のように広がった。教師さえも戸惑いを浮かべ、混乱した様子だった。
建前みたいな緘口令が敷かれたあとも、生徒たちは口をつぐもうとはしなかった。
写真を貼った人物や、その人物がそのような写真を撮ることができた理由について話をしていたのはごく一部だけだった。
その月曜の放課後が、俺が千家と顔を合わせた最後の日になった。
「脅迫してたんだな」
たしかめるつもりもなく、俺は彼の背中にそう訊ねた。
東校舎の屋上。フェンスはいつものように高い。閉じ込められているみたいだ、と俺は思う。
「おもしろい遊びだったよ」
つまらなそうに、千家は言った。
「喫煙写真なんかで、まさかああも話に乗ってくれるとは思わなかった。
両親にバレるのがよっぽど怖かったらしい。おもしろいくらいに怯えてくれたよ」
でも、もう飽きた。そう呟いた彼は、俺の目を見ようともしなかった。余裕そうな表情さえ浮かべてはくれなかった。
398: 2015/03/31(火) 01:43:58.87 ID:jMMLobmXo
「千家、おまえってさ」
「なんだよ」
「嘘、下手だよな」
「……なんだよ、急に」
「おまえが飽きたんじゃないだろ。筒井が、おまえに従わなくなったんだろ」
「……」
「違うか?」
「……なんだそりゃ」と千家は空虚に笑った。
「そんなのどうでもいいだろ、なあ。内海、おまえ、俺がムカつくんだろ?」
俺は答えない。
「どうしてこんなことをしたって、前みたいに腹を立てないのか?」
答えない。
「俺みたいな奴が許せないんだろ? たまらなく憎くなるんだろ?」
答えない。
「ほら、俺に何か言ってみせろよ。俺を糾弾しろよ。俺を断罪しろよ」
俺は答えず、代わりに笑った。
399: 2015/03/31(火) 01:44:44.34 ID:jMMLobmXo
「……知るかよ、そんなの」
本当に、ばかばかしいような気持ちになる。
千家はこちらを振り向く。
「何笑ってんだよ」
からっぽの目で俺を睨んで、拳を振り上げる。
鈍い痛みが頬に走った。
体が叩きつけられる。
俺は溜め息をつく。響く痛みに頭がくらくらして、鼓動が知らず速度をあげた。
からだを持ち上げて、立ち上がる。手足も、頭も、ぶら下がっているみたいに重い。
こころはからだを離れて、後ろに寄り添う影みたいに、自分を見つめている。
「想像したんだよ、千家」
「……何を」
「おまえがそうなった理由は分からない。
でも、おまえが誰かを傷つけるような行動をとらずにいられなかった理由。
それは、なんとなく分かったような気がする」
千家は黙って俺の言葉を待った。俺はまた笑ってしまった。
「――引っ込みがつかなくなったんだろ」
「……ああ?」
400: 2015/03/31(火) 01:45:30.48 ID:jMMLobmXo
「遊んでたつもりだったんだろ。誰かに嫌がらせをして、悦に入ってただけなんだ、おまえは。
筒井を脅迫しようとしたときも、最初はそこまで大それたことをするつもりはなかったんじゃないのか?」
「……」
「途中で引っ込みがつかなくなったんだ。だから止まれなかった」
「なに言ってんのか、わかんねえな」
「サキ先輩の従姉……」
「……」
「まさか、氏んでるなんて思わなかったんだろ?」
「……ああ。でも、それがどうした?」
「だからだよ。おまえは、だから、酷いことをし続けなきゃいけなかったんだ」
千家は溜め息をついた。
「どうしてそうなる?」
「世界には何の価値もなくて、だから何をしてもしなくてもかまわない、っていうのが、おまえの理屈だ」
「……なんなんだ、いったい」
401: 2015/03/31(火) 01:46:14.24 ID:jMMLobmXo
「でもおまえはべつに、何かをしたいと思っていたわけでもなかった。
だから、意味もなく誰かを傷つけたりすることなんて、めったになかった。
ときどき確認するみたいに誰かに嫌がらせをしてみせるだけの……小物だった」
「俺を怒らせたいのか?」
俺は首を横に振った。
「でも、あるとき、その嫌がらせで、人が氏んでいたことを知って、おまえはショックを受けたんだ」
「……」
「理屈じゃない。おまえの"からだ"が、ショックを受けたんだ」
千家は黙り込んだ。俺は話を続けることにした。その先に何もないと分かっていたけど。
「でも、ショックを受けるなんて変だよな、おまえの理屈じゃ、誰が氏んでもかまわないはずだったんだから。
矛盾と混乱。理屈と感情の食い違い。おまえはそれを否定しなきゃいけなかったんだ」
「……」
「だから、誰かを傷つけても自分が平気だと、そう証明するために、誰かを傷つけようとした。
おまえは、自分の物語を自分の中で保つために、人を傷つけたんだよ、千家」
「……なあ、内海。そういうのも、妄想っていうんだろ?」
「ああ」
千家はなにかを振り払うみたいに、俺に背を向けた。
402: 2015/03/31(火) 01:47:05.52 ID:jMMLobmXo
「……でも、おまえに、サキ先輩の従姉の話をしたのは、俺だ」
「……ああ」
「だから、もしそうだとするなら、原因は俺だったんだ。志鶴のことも、筒井のことも」
「誇大妄想だな。……どうでもいいんだよ、そんなこと」
「……」
「俺が訊きたいのは……おまえが俺を、どうするつもりなのかってことだよ。
俺のことを許せないなら、どうするつもりなのかってことだ」
俺は溜め息をついて、答えた。
「どうもしないよ」
「……どうして?」
「どうできるっていうんだよ。おまえに何をしたって何も変わらない。
逆に訊きたいくらいだよ。……おまえは俺に、いったいどうしてほしいんだ?」
千家は何も言わずに、俺を横切って屋上を出て行った。
それが彼を見た最後になった。
403: 2015/03/31(火) 01:47:49.92 ID:jMMLobmXo
◇
筒井あまねは遺書を残していた。
一年の間で起こった盗難騒動が自分の仕業だということ。
ある人物に脅迫されそのように行動したこと。
他にもいろいろなことが書かれていたらしかったが、詳しくは知らない。
人の口に戸は立てられないというが、そのおかげで志鶴の疑いは、大部分は晴れた。
深読みをしすぎる奴は、筒井に遺書を書かせて自殺させたのが志鶴じゃないかとも言っていた。
でも、そんな話はどこにでもあるくだらない陰謀論めいていた。
不謹慎だと咎められ、そんな噂はすぐに途絶えた。
筒井は氏に、千家は学校に来なくなった。学校以外の場所にいるかどうかも、怪しいものだ。
404: 2015/03/31(火) 01:48:31.03 ID:jMMLobmXo
◇
「千家くんのこと、許したの?」
部室に顔を出すと、サキ先輩は俺にそんなことを訊ねてきた。
「許すも何もないでしょう」
「でも、内海は怒っていたような気がしたから」
「そりゃ、そうですけどね」
「……なんだか、悪い夢でも見てるみたい」
たしかに、と俺は思う。
校内のあちこちからざわめきが聞こえる。そのどれもが出来の悪いドラマみたいだった。
「自分のとった行動が、どんな結果になるかなんて、誰にも想像できないんだって、そう思ったんです」
俺の答えに、サキ先輩は歯がゆそうな顔をした。
「でも、だからこそ、想像しなくちゃいけないって、わたしはそう思う」
「……」
「誰かの痛みとか、悲しみとか、そういうものに、敏感にならなくちゃいけないって、そう思うんだ」
「……そうなんでしょうね、きっと」
千家は、どうだっただろう。のぞみは、ユイは、どうだったんだろう。
俺は想像なんてできなかった。何がどう繋がって、この結果になったのかなんて。
「でも俺は、そういうの、どうでもよくなってしまったみたいです」
「……」
「人のことなんて、俺にはどうにもできない。俺にできるのは、自分のことだけなんです。
ひどいことかもしれないけど、俺は誰にも、手を差し伸べられない。目に見えるものしか、わからないんです」
「……そっか。そうなのかもしれないね」
405: 2015/03/31(火) 01:49:45.38 ID:jMMLobmXo
「……俺、この同好会、辞めようと思うんです」
サキ先輩は目を丸くした。
「どうして?」
「わからないです。でも、もうここにはいられないって、そう思うんです。
いろいろ世話になって、申し訳ないって思うんですけど……。
もう、正しさとか、どうあるべきかとか、そういうのを考えるのは、やめたいんです」
「……そっか」
「無責任だって、思ってくれていいです。でも俺は、また誰かと繋がりたいみたいなんです。
傷つけるかもしれないし、裏切られることになるかもしれないし、失うことになるかもしれない。
嫌なことばかりたくさん想像して、関わらない方がいいんじゃないかと思ったけど、
そうしていても、何も得られなかった」
「……無責任なんて、思わないよ」
「……ありがとうございました」
「ううん。こっちこそ、今までありがとう。わたしの趣味に付き合ってくれて」
サキ先輩はそう言って笑った。ひび割れたような笑顔だった。
「でも……それじゃあ、誰ともつながれない人は、どうなるんだろうね」
最後にサキ先輩は、そんなことを言った。
首でも括るのかもしれない、と、俺はそう思った。
406: 2015/03/31(火) 01:50:27.12 ID:jMMLobmXo
◆
「お兄ちゃん、起きてる?」
……。
「お兄ちゃん?」
……。
「ちょっと、、話があるんだけど」
……。
「あの、お兄ちゃん? ドア、開けるよ?」
……。
「お兄、」
……。
「――え?」
……。
407: 2015/03/31(火) 01:50:52.99 ID:jMMLobmXo
◇
沈んでいく砂漠は、けれどまだ俺の目前に茫漠と横たわっている。
何も芽生えない不毛の地。ただ延々と続いているだけの孤独。
人の姿は影のように朧気で、感覚は蜃気楼のように嘘くさい。
まやかしはときどき、本当のように見える。
あるいは、逆なのか。本当のものを、まやかしだと思っているのか。
どちらなのか、よくわからない。
手を伸ばせばつかめそうな蜃気楼。ゆらゆらと揺れて、今に消えてしまいそうなかげろう。
幻は、けれど、あたたかで、
だから俺は、閉じていた手のひらを開き、
それに手を伸ばす。
ラットの脳のある場所に、電極を植えこむ。
そしてラットの前に、ふたつのレバーを用意する。
片方を踏めば餌が出てくるが、もう片方を踏めばラットの脳にある刺激が起こる。
その刺激は、脳内ホルモンを分泌させ、ラットに快感を味わわせる。ラットは刺激を得られる方のレバーを踏み続ける。
餌が出る方のレバーには見向きもせず、ただひたすらに刺激を求め続ける。
俺はレバーを踏む。
動物だから、動物のように。
悲しくはない。少し寂しいだけだ。
408: 2015/03/31(火) 01:51:23.43 ID:jMMLobmXo
◇
翌週の月曜、俺と神崎は、いつものように図書カウンターに居た。
彼女はひどく憔悴した顔をしていた。
自責なのかなんなのか、追い詰められているようにも見える。
俺は神崎に何かを言うべきだと思った。
何か。それが何なのかは分からない。
でもとにかく、俺は彼女に何かを言うべきだ。そう思うのに、何も思いつかない。
人との交流を恐れていたツケが回ってきたのか。
軽口のひとつだって叩けない。
「……何もできなかった」
誰もいない図書室に、神崎の声が響く。
無力感は、俺の内側に伝染する。何かが起こり、通り過ぎた。
自分に関わりのあることなのに、俺も神崎も、どうすることもできなかった。
「どうして、こんなことになっちゃったのかな」
筒井への仕打ちが千家によるものだと、俺は神崎に説明していた。
けれど彼女は、そんなことはもうどうでもいいみたいだった。
「……変なの」
「……なにが?」
「今までは、その気になれば、いつでもあっちにいけたのに。
……なんでかな。扉が、開かないんだよ」
「……」
「どうしてなのかな」
なぜか、なんて、誰にも分からない。
409: 2015/03/31(火) 01:53:12.76 ID:jMMLobmXo
「……悲しい?」
そう、俺は訊ねた。バカみたいな質問だと、自分で思う。
「悲しい」、と、神崎は答えた。
かなしい。かなしい。かなしい。
かなしいことばかりだ。ここは。
「全部、起こったことだ」
「……うん、そうなんだよね」
「今もどこかで、きっと起こってる」
「……うん」
でも、と彼女は言った。
「でも、筒井さんのことは、わたしにとって、特別なことなんだよ」
神崎は顔を覆い、何度も謝った。誰に対してかもわからない。筒井だろうか。それ以外の誰かだろうか。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。こだましている。
ずっと、鳴り止まない。
410: 2015/03/31(火) 01:54:04.10 ID:jMMLobmXo
◇
校門で、志鶴が待っていた。
「おそい」と彼女は言った。
「委員会だったから」と、俺は答える。
「待たせたんだから、少しは謝ってよ」
「ああ。うん。ごめん」
たしかに、待たせたのは俺だ。俺が、待っていてくれるように頼んだんだから。
俺たちは並んで帰路につく。
通りから、蝉のなきごえが聞こえる。
夕方の街並みはまだ明るくて、なにかもが橙色に染まっていて、夢の中にいるような気分だった。
「話があるんでしょ?」
「うん。……その後、どう?」
「……どうかな。まだ、よくわからない」
「……」
「なにがなんだか、よくわからないんだ。何が起こったのか、いまだに実感がわかなくて……」
筒井の氏に関して、志鶴は無関係だったはずなのに、彼女の遺書によって当事者の一員になってしまった。
なにもかも、まだ、曖昧に混乱したままだ。
411: 2015/03/31(火) 01:54:30.02 ID:jMMLobmXo
「そのことについて、聞きたかったの?」
「……」
「ばかみたい」と志鶴は言った。
俺はしばらく言うべき言葉を探していた。
何を伝えるつもりなのか、自分では分かっている。
でも、そのまえに確かめないといけないことがあった。
それなのに、口が重く開かない。それは言い訳だと、自分でも気付いていた。
たしかめるのが怖いのだ。本当に、俺は怯えている。
そうこうしているうちに、家の近くまで来てしまった。
沈黙は続けば続くほど重く堆積していく。
プランクトンの氏骸みたいに。
志鶴は、ふと立ち止まる。俺もまた、歩くのをやめた。
「……猫」
「……」
猫は、何かを待つみたいに、立ち止まっていた。立ちはだかるみたいに、そこで停まっていた。
「志鶴」
急き立てられるみたいに、俺は声をかけた。
412: 2015/03/31(火) 01:55:17.85 ID:jMMLobmXo
「なに?」
「志鶴は、どうしてずっと、俺の傍にいてくれたんだ?」
「……なにそれ」
「昔から、ずっと疑問だったんだ。どうして、俺なんかの傍にずっと居たのかって」
「……いまさら、へんなの」
「それってさ、罪悪感、だったのか?」
一度とぎれた沈黙が、ふたたび重くのしかかってくる。
隙間を埋めるような蝉の声が、なんだかうっとうしかった。
「結は」と、志鶴は口を開いた。
「結が氏んだのは、わたしのせいだから」
「……」
「わたしのせいで、結が氏んだから。おにいちゃんから結を奪ったのは、わたしだから」
だから、と、志鶴はそこで話すのをやめた。
「……罪滅ぼし?」
「……わからない」
「ずっと、そう思ってたのか?」
「……」
「自分のせいで、結が氏んだんだって」
「……わからない」
彼女は俯いて、拳を握りしめる。こちらからは、背中しか見えなかった。
「……わからないよ。何を考えてたのかなんて、ぜんぜん、わからない」
413: 2015/03/31(火) 01:55:57.31 ID:jMMLobmXo
結が氏んだのは、志鶴のせいじゃない。
そう言って、それで全部が解決するくらいなら、ここまで話は込み入ったりしなかっただろう。
許してあげて、とユイは言った。
でも、俺に志鶴を許すことはできない。志鶴を許すことは、彼女自身にしかできない。
それがきっと、何よりむずかしいのかもしれない。
「志鶴、おまえが罪悪感だけで俺に付き合ってたなら、もういいんだ」
「……」
「結のことは、もう起こってしまったことだから。それにいつまでも囚われてることはないんだよ」
「……ばかみたい。人のこと、言えないくせに」
そう言って、彼女は歩き出そうとした。俺は、その手を掴んだ。
「俺はさ、志鶴――」
言いかけたときに、奇妙な感覚が肌の上でざらついた。
414: 2015/03/31(火) 01:56:23.50 ID:jMMLobmXo
◇◆
見慣れているはずの道が、急に姿を変えたような錯覚。
何もかもが入れ替わったような、違和感。それは、現実だったのかもしれない。
それでも、俺の手は志鶴を掴んだままだった。
急に降ってきた感覚に戸惑っていると、不意に、猫が尻尾を揺らして、歩き始めた。
俺たちを横切って、通りへと向かう。
志鶴はそれを追いかけ、俺の方を振りかえる。
彼女は泣いていた。泣いたまま、俺を横切った。
唐突な出来事に混乱する。俺もまた、彼女を追いかけて後ろを振り向いた。
「待って!」と声をあげて、志鶴は走りだした猫を追いかける。
驚くほどのスピードで、猫は俺の前を駆けていく。志鶴もそれを追いかけている。
どれだけ必氏に走っても、距離は全然縮まらなかった。アキレスと亀みたいに。
415: 2015/03/31(火) 01:57:35.63 ID:jMMLobmXo
やがて、大通りの交差点に辿り着く。
猫の姿は見当たらない。
ランドセルを背負った少女がふたり、点滅する信号に立ち止まっている。
志鶴は首を巡らせて、あちこちに視線をうつしている。
「待てよ、どこにいくつもりだよ!」
追いついて、俺は志鶴の手を掴んだ。
信号が赤に変わる。
「だって、あの猫……」
何かを言いかけた途中で、志鶴は視線を一箇所に止めた。
横断歩道のはじまりに、猫はいた。
信号待ちをしていたランドセルの片方が、猫を追う。
信号が変わる。
「駄目!」
と、そんな声が聞こえて、それから先はよくわからなかった。
416: 2015/03/31(火) 01:58:01.95 ID:jMMLobmXo
◆
分かったのは、志鶴が少女の手を引いて、彼女を歩道にとどめたこと。
それから、飛び出した猫が、車にはねられたこと。
俺も、志鶴も、ふたりの少女も、何も言わなかった。
ただ車は、当たり前みたいに目の前を通り過ぎていく。
雨か風か、そういうものみたいに。
志鶴に手を引かれた少女が、静かに呟く。
「……猫、氏んじゃった?」
志鶴は俯いたまま、答えた。
「……氏んだよ。でも、これでよかったんだよ」
彼女は、そう言った。
「……本当は、猫なんて見頃しにするべきだったんだよ」
俺は志鶴の肩に手を乗せて、振り返らせた。
ぽろぽろと、彼女は涙をこぼしている。
ごめんね、と彼女は言った。
「あなたのせいじゃないんだよ」、と、志鶴は言った。
「わたしのせい。だから、わたしを恨んでね」
それから志鶴は、少女の手を離す。少女は、怯えたように何も言わなかった。
俺は志鶴の手を掴んで、「帰ろう」と言った。志鶴は何も言わずに頷いた。
417: 2015/03/31(火) 01:58:41.52 ID:jMMLobmXo
◇
帰路に戻る途中に、何かを通り過ぎたような感覚があった。
蜘蛛の巣にひっかかったような、据わりの悪い感覚。
その感覚が少しの間、俺のからだに宿ったままだった。
手を繋いだまま、俺たちは黙々と歩き続ける。
長い橋の上を歩いているような錯覚。その橋は、もしかしたらどこにも繋がっていないのかもしれない。
もう、何かを言うタイミングではなくなってしまったかもしれない。
いまさらすぎて、伝えたところでどうにもならないかもしれない。
見て見ぬふりを続けてきた感情。妙な理屈で押し頃してきた言葉。
でも、それはきっと、今言わなければ、ずっと言うことができないのだ。
「志鶴、聞いてほしいことがあるんだ」
彼女は、黙って立ち止まった。
俺は一呼吸置いて、口にした。
「俺、おまえのことが好きなんだ」
沈黙が少し続いて、
その果てで、彼女は俺の手を振り払った。
「なに、それ。ばかみたい」
418: 2015/03/31(火) 01:59:44.10 ID:jMMLobmXo
「うん。勝手だよな。ずっと、何気ない顔して、今までやってきたのにさ」
「……おにいちゃん、自分で言ってること、分かってる?」
「分かってるつもりだよ」
志鶴は何も言わない。
だから俺は言葉を続ける。
「結のことは、もうどうでもいいの?」
「そうじゃないよ」
「でも、そういうことでしょう?」
「結は氏んで、俺はひとりぼっちだった」
「……」
「おまえがいてくれなかったら、俺はずっとひとりぼっちだった。
俺がひとりで平気なふりをしていられたのは、きっと、おまえが傍にいてくれたからだ。
おまえが傍にいてくれたから、俺は平気なふりができたんだ。おまえに甘えてたんだ。
薄々気付いてたけど、ようやくわかったんだ」
419: 2015/03/31(火) 02:00:10.08 ID:jMMLobmXo
「……状況、わかってる?」
蝉のなきごえはやまない。
こんな言葉を告げたところで、現実はなにも変わらない。
俺は答えずに言葉を続けた。
「……勝手な言い分だけど、俺にはおまえが必要なんだ。
面倒なら、嫌がってくれていい。義務感だけで俺と一緒にいたのなら、投げ捨ててくれてかまわない。
でも、おまえがいないと俺は、こんな広い場所でひとりぼっちで取り残されてしまう気がする。
それはきっと、とても寂しいことなんだと思う」
「……わたしを、憎まないの?」
「憎まないよ。最初からずっと、憎んでない」
「……どうでもいい存在みたいに、扱ってよ」
「どうでもいいって、思えないみたいなんだ、俺は」
「どうして……」
どうしてかは、分からない。でも、それはきっと、傍にいてくれたから。
「わたしは汚くて、卑怯な人間だよ。結が氏んだとき、わたし、心のどこかで喜んでたんだよ」
志鶴はまた、泣きだしてしまった。
「嫌ってよ。……誰よりも、わたしが、そんな自分が嫌だったのに」
「でも、傍にいてくれた」
「励ますとか、元気づけるとか、放っておけないからとか、そんな言い訳で、わたし、おにいちゃんと一緒にいたんだよ。
本当は傍にいられたらなんでもよかったくせに、適当な口実をつくって、言い訳して……」
「かまわない」と俺は言った。
420: 2015/03/31(火) 02:01:02.27 ID:jMMLobmXo
「俺がおまえを好きなんだよ。いま話してるのは、そのことだけなんだ」
志鶴は、俺の方を見て、くしゃくしゃに顔を歪めた。
「傍にいてほしい。おまえが必要なんだ」
倒れこむように、彼女は俺に向けてからだを投げ出した。
不格好に、俺は彼女を受け止める。本当に俺は、いろんなことを見過ごしてきたのだと思った。
「いっしょにいようよ」と、俺は、彼女がいつか言ってくれた言葉を、そのまま告げた。
蝉のなきごえがやまない。すぐ傍で、志鶴が泣いている。きっと俺にそれを止めることはできない。
俺には、彼女が泣き止んで、ふたたび歩き出すまで、傍にいることしかできない。
彼女がずっとそうしてくれていたように。
「ごめんね」と彼女はかすれた声で呟いた。
「いっしょにいたい。いっしょにいたいよ。……一緒に居てよ、陽くん」
ああ、そうだった。
彼女はこんなふうに、俺を呼んでいた。結が氏んでしまうまで。
俺は彼女の背中に腕を回す。彼女はそれを拒まなかった。
なにかが満たされるような、あたたかい感覚。
それはきっと、かつて結に教わったもの。今、志鶴から受け取っているもの。
再現可能で、代替可能な電気信号。でも、そんなことはどうでもよくなるくらい、圧倒的に満たされてしまう。
きっとこの瞬間も、誰かが悲しんでいる。誰かが誰かを求めて、満たされずにいる。
首を括るか、何かを信じるか。そのふたつしか選べない人が、きっとどこかで泣いている。
俺には幸運にも志鶴がいてくれた。それで、満たされていく。
嘘みたいに綺麗な夕焼け。
幻かもしれない。それでもかまわないと思った。
世界から、俺たち以外の人間が消えたような気がした。
世界は俺と志鶴だけで完成して、それ以外に何もいらないような気がした。
蝉のなきごえが聞こえる。
俺たちはキスをする。
421: 2015/03/31(火) 02:01:49.93 ID:jMMLobmXo
おしまい
422: 2015/03/31(火) 08:11:54.29 ID:8gj3EIlUo
おつ
423: 2015/03/31(火) 09:31:59.36 ID:TueSilfM0
おつ
前作教えて欲しいな
前作教えて欲しいな
424: 2015/03/31(火) 21:57:08.81 ID:qkYO8DCH0
ああ、貴方だったのか。
まだSS書いていたのだな。
>>423
『屋上さん SS』
で検索すれば何個かでますよ。
一番有名なのは
幼馴染「童Oなの......?」男「」
だと思う。
まだSS書いていたのだな。
>>423
『屋上さん SS』
で検索すれば何個かでますよ。
一番有名なのは
幼馴染「童Oなの......?」男「」
だと思う。
引用: 幼馴染「いっしょにいようよ」
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