1: 2012/06/05(火) 01:02:41.48 ID:Awj1Gu8/o

669: 2012/02/11(土) 03:17:22.81 ID:ccjk56WPo
応援ありがとうございます、がところがどっこいインフル消えてもインフレします、今回の投下含めてあと二回くらい。
そう、明日って今、つまり今日です。すいません、投下します。

670: 2012/02/11(土) 03:18:36.05 ID:ccjk56WPo

「このまま行くと、君達のお膳立てのおかげで彼女達は辛くも勝利を収めることが出来そうだね」

 キュゥべぇの言葉に、ローラは自然と眉間に皺を寄せた。
 この地球外生命体は、暗に『上から目線の一方的救済』について批判しているのだ。

「ふん。かようなことは言われずとも分かりているわ。ちゃんとトドメはそちらの住人がしたるわよ」

「そうかな。仮に佐倉杏子の手でワルプルギスの夜を倒したとしても、
 そこに至る経緯はやはり君達の世界の住人による功績が大きいと僕は思うよ」

 まぁ、そこを言われたら弱いのだが。
 ローラは苦笑を浮かべると、しかし脳裏では別のことを考えていた。

 ……佐倉杏子の手で、ねぇ。

「結局、お前もそこ止まりになりけるのかしら?」

「……」

 キュゥべぇが黙り込んだのを見て、自分のアテが外れたと、そう思う。
 恐らくこの白い獣はワルプルギスの夜について熟知している。
 なぜこうも都合良くワルプルギスの夜が現れ、猛威を振るい、そして暁美ほむらの前に立ち塞がるのか。
 それを知っているのだ。

「ローラ=スチュアート。君は」

「解りているのならば黙っていても良し。さっ、姿勢を正したりなさいな」

 笑って、ローラは言う。

「――ワルプルギスの夜が打ち砕けたる様を、見届けましょう?」

671: 2012/02/11(土) 03:19:01.75 ID:ccjk56WPo

―――炎の巨人が、その姿を赤い十字へ変えるのを杏子は見た。

「で、どうすんのさ? あれじゃあ焼け石に水じゃない?」

 槍を構えつつ、杏子が呟く。

「ステイルは約束を守ったのよな。場は整ったんだ、後はこっちの出番ってワケなのよ」

 つまり? と肩を上げて建宮に続きを告げるよう促す。

「要するに、整形式を使うってことなのよな」

「まずそれ、整形式ってやつの説明してくんない?
 アタシが聞いたのは、あれを槍で突けるかどうか試した後はひたすら時間稼げって、それだけだよ?」

 疑問の声を上げる杏子の眼前。
 炎の十字を背負うように浮遊していたワルプルギスの夜が唐突に歯車を止めて停止した。
 それだけではない。魔女はまるで見えぬ糸に導かれる操り人形のように、その両手をゆっくりと上げ始めた。
 身に纏う蒼い衣装の裾を下がらせたまま、ゆったりと、上に、上に。

 ワルプルギスの夜の両手が肩の高さを抜き、頭の高さを抜き――
 背に悠然と佇む十字の左右、両端の位置に固定される。

「……ねぇ、あの十字ってもしかして……」

「さすが、実父が神父やってただけはあるのよな。お察しの通り、あれはただの十字じゃあない」

 炎の十字、その左右と下方の極端から四本の魔の手と炎の冠が出現する。
 それらは掌から赤い杭状の物を生み出し、あるいは頭に重なり、

「――磔台だ」

 火炎の冠がワルプルギスの夜の頭に被さり、
 灼熱の杭がワルプルギスの夜の両手、裾の先と下半身の歯車に躊躇うことなく突き立てられた。

672: 2012/02/11(土) 03:19:29.49 ID:ccjk56WPo

「聖痕は刻まれた! 陣を組み立てるぞ!」

 建宮の言葉と共に、五和と香焼が各々の得物を高く掲げた。
 それに倣うように、しかし合流した野母崎と対馬は得物を地面に突き刺す。
 残る者達がワルプルギスの夜に対して陣形を組み立てていく。

 天から見下ろせば、十字架に磔にされたワルプルギスの夜から伸びる、大樹のような陣形を構築した。
 それもただの大樹ではない。

 人で形作られた、生命の樹である。

「陣形は生命の樹で、歪な幹に当たる部分は進化の道筋。
 五和と香焼の武器は不完全な人工の手を示し、力への渇望を意味しているのよな
 これが簡易的な聖人を強化するための整形式の陣なのよ。
 ぶっちゃけ霊装が無いから神裂キゴミの紋章を再現し、その先にある聖痕を持つ者の能力を飛躍的に――」

「だあああ! つまり、なんなんだよ!」

「ワルプルギスの夜は今、すっげえ強化されてるってことなのよな!!」

「バカか!?」

 なぜか親指を立てた建宮に対し、眉を立てて地団駄を踏む。
 だがバカはそんな杏子の態度などお構い無しと言わんばかりにフランベルジェを振り仰ぎ、

「天使の力(テレOマ)が降りるぞ! 全員しゃがめ!」

 何を、と口を開く前に、杏子の体が大きく揺さぶられた。

673: 2012/02/11(土) 03:19:55.75 ID:ccjk56WPo

「なにが――!?」

 くらくらする頭をどうにか上げて、その原因を探ろうと片目を開けて周囲の様子を窺う。
 視界に広がるのは、どいつもこいつもだらしなく寝転んでいる天草式の姿で、
 ……火織に比べたら残念だよなぁ、コイツら。
 などと考えていると、いち早く復帰した五和が杏子の槍に触れて口を開いた。

「今のはワルプルギスの夜に聖痕が刻まれた際に降りてきた天使の力の余波です。
 元々ワルプルギスの夜という名前は欧州で行われる、魔女の宴から来ているのはご存知ですか?」

「まったく」

「その魔女の宴の名前、つまりワルプルギスの夜は、実はさらにもう一つある由来があります
 ……こう言ったら失礼ですが、十字教でも結構マイナーな聖人。聖ワルプルガがそれなんです」

「へー」

「あのワルプルギスの夜がああも天使の力を操り、ファウストの原典を吸収できたのは、
 もしかするとその聖ワルプルガとなんらかの関わりがあったからでは? という疑問を抱きまして」

「ふーん」

「原因は分かりませんでしたが、やはりワルプルギスの夜は天使の力との相性が良いんです。
 だったらいっそのこと聖痕を刻んで本物の聖人に見立て、整形式でその質を高めて強化しました。
 あ、聖痕は刻めば根付く物ではないんですけど、今回は魔力も天使の力も十分ありましたから。
 そして今あの場に降りた天使の力は、魔女狩りの王と残留していた神の如き者(ミカエル)の――」

「だ! か! ら! 話がなげーってんでしょ!」

 五和が槍から手を離し、代わりに杏子の空いている方の手におしぼりを握らせてきた。
 そして顔を上げ、こちらの顔を真正面から見つめてくる。

 五和は、笑みを浮かべていた。

674: 2012/02/11(土) 03:20:28.20 ID:ccjk56WPo

「――神の如き者の天使の力は赤を、赤は東を、東は右方、つまり右手を。
 そして右手は神の子の奇跡を象徴とします。
 十字架に磔にされ神の如き者の天使の力をその身に注がれた聖人は、
 もうそんな領域まで辿り着いてしまいましたら、それはもう神の子と呼んでも良いとは思いませんか?」

 言いながら、五和は杏子の顔をまじまじと見つめた。たぶん、彼女には意図が読めないだろう。
 そんな簡単に神の子になれるのか、なれたとしてどうなるのか。
 そこから先、どうやってあの魔女を切り崩すのか。想像できないのだろう。

 かつての自分も、今回ほどではないにせよ“あの術式”の説明を聞いたときはそうだった。


「今のワルプルギスの夜は、神の子に限りなく近い特徴を持っています。
 そして私たち天草式は、そういった特徴を突いて相手を混乱、撃破する術式を持っています」


 黙って言葉を聞き入る杏子を見ながら、五和は思う。
 

(……ああ、女教皇様。あの時あなたは、こんな心境だったのですね)


 そして五和は告げた。


                         ロ ン ギ ヌ ス
「準備は整いました。あなたの出番です、槍を持つ者。今こそ処刑の儀の最後の鍵を」


 かつて強敵として立ちはだかった『後方のアックア』を撃墜するため、神裂が五和へ向けた言葉を。

675: 2012/02/11(土) 03:20:49.65 ID:ccjk56WPo

―――炎の十字架に磔にされたワルプルギスの夜が、初めて痛みに喘ぐように笑った。

 炎の十字架に磔にされたワルプルギスの夜には、前代未聞に等しい天使の力と魔力が集中している。
 集中している上で、神の子の処刑の象徴によってその力を乱され、激しく揺るがされている。
 だがもし魔女が力ずくであの戒めを引き裂いて自由を得てしまえば、どうなるか。
 少なくとも――現状の戦力で止めることは、もう叶わなくなってしまう。

 だからこそ、杏子は槍の柄を五和から渡されたおしぼりで包み込み両手で保持した。
 神の子の処刑を再現して相手の力の流れを乱し、行動不能に陥らせる術式。
 『聖人崩し』の発動という大役を任されたのだ。

 建宮曰く、お前さんが一番強いのよな、と。

 五和曰く、建宮さんには任せられませんから、と。

 香焼曰く、教皇代理よかあんたの方が頼れるんすよ、と。

 対馬曰く、教皇代理はバカだし魔女を狩るのは魔法少女の役目でしょ、と。

 他の面々も皆一様に口を揃えて同じような言葉を杏子へ向けた。

(なんか調子狂うよなー)

 そんな大事な役目を任される側にもなってほしいものだが、先ほどの“リハーサル”のこともある。

 杏子はもう一度おしぼりごと槍を握り直しそれからわずかに頬を緩めて苦笑した。
 頼れる仲間――もとい、頼ってくれる仲間が。いるのといないのとでは大違いだ。

 ……さやか、マミ。アンタたちが導いてくれたおかげで、アタシは子供の頃に夢見た正義の魔法少女になれたよ。

『あたし氏んでないよ!? ねぇ、ちょっと!?』

 バカの声が聞こえるが、無視で行こう。うん。

「――行くよッ!!」

676: 2012/02/11(土) 03:21:16.08 ID:ccjk56WPo

 杏子が吼えるように叫び、走り出すと同時。
 周囲にいた天草式の皆と隠れていた魔術師が一斉に身を乗り出した。

 途端に身体が温かくなる。これは魔力を身体に通している恩恵だけじゃないはずだ、と杏子は思う。
 杏子の走りに合わせて、皆が身体強化術式や回復用の術式を掛けているのだろう。

 ひび割れたコンクリートの地面を蹴り砕きながら、杏子は笑みを浮かべた。

 炎の十字架に悶えるワルプルギスの夜のすぐ眼前に辿り着く。
 頭頂部までは七〇メートル、だが脇腹ならもう少し下。行ける。
 胸に抱いた確信と共に、杏子は臆することなく跳躍した。

 同時におしぼりで包んだ槍が、周囲に散らばる天草式の発動した幾つもの術式に連動して分解される。
 分子単位で分解された槍は元の物質、すなわち杏子の魔力へと変換され、

 聖人崩しとしての術式によってその質を書き換えられてゆく。

 雷光のように光り輝くエネルギーの槍。

 神の子の生氏を確かめるためにその脇腹へと突き刺された、ロンギヌスの槍だ。

 ワルプルギスの夜を覆うように張り巡らされた幾重にも束ねられた障壁を、雷光が力任せに食い破っていく。
 それは一枚、二枚、三枚、四枚と続き、最後の障壁を貫き、

「――これで、終わりだよッ!!」

 確かな手応えを感じた直後、視界一杯に眩いまでの白が広がった。
 文字通り、瞬く間に音が消えうせ、次いで身体の感覚が無くなる。
 それ以上のことは、杏子には何も分からなかった。

677: 2012/02/11(土) 03:23:41.24 ID:ccjk56WPo

 ――先に結論を述べてしまえば、聖人崩しは発動し、ワルプルギスの夜はそれを食らった。

 皆の加護と術式を受けた杏子の一撃は、炎の十字架に縛られるワルプルギスの夜を貫いたのだ。

 槍が爆ぜ、散り、雷光は閃光となって見滝原市を照らし出す。
 場に留まる空気が炸裂し、裂け、真空にも似た特異な空間が完成された。

 次いで、傷付いた世界が己を癒そうとするかのごとく穴の空いた空間を満たすため、
 空間目掛けて周囲にあふれるありとあらゆる物質が流れ込み、その副作用として莫大な衝撃波が生まれる。

 影響はそれだけに留まらない。

 雷光と化した術式はワルプルギスの夜をぐちゃぐちゃにかき乱し、魔女の秘めた力を“起爆”させた。

 聖人が許容可能な限度を遥かに上回る規模のエネルギーが、コントロールを失って暴れ狂う。
 それはもはや爆発の域を超えていた。目の前で補填された空間ごと吹き飛ばす、破壊だ。

 本来であれば見滝原市を丸ごと飲み込み、日本全土を巻き込んで焦土にしかねないクラスの破壊だ。

 “何者か”が張り巡らした結界によってその大部分は減衰したものの、
 それでも衝撃波は突風となって砂塵を撒き散らし、東日本全体の交通機関や気象に悪影響を及ぼす結果となった。


 そんなことなど露とも知らない五和達は、投げ出された杏子の体を抱きかかえたまま。


 ワルプルギスの夜が、光の十字架と化したエネルギーの渦に包まれるのを見届けた。

678: 2012/02/11(土) 03:25:32.85 ID:ccjk56WPo

「――驚いた。さっきはああ言ったけど、まさか本当に一人も欠けることなくワルプルギスの夜を倒してしまうなんて」

「感情を持ち合わしたおらぬ分際で驚いたと? ふん、声色変えずによく言いたるわね」

 突っ込みを入れながら、ローラは自分の脇腹に力が入ったのを自覚した。
 自覚から数秒と間を置かずに激しい嫌悪感が脳裏に浮かび上がり、脇腹に次いで喉元に力が入る。
 やがて何かが食道を駆け上り、鉄の味がする何かと混ざって口の中に半液状の物体として広がっていく。

 飲み込もうか吐き出そうか一瞬悩むが、結局異臭に耐え切れず口の中にあった物を地面にぶちまけた。
 見滝原市に来る途中で食べたホットドッグと胃液、それから赤い血液混じりの吐瀉物が地面に撒き散らされる。

「おや、まだ消化しきれていなかったのかい?」

「……か弱き乙女がイヤーンな物を吐きて弱弱しくうろたえたりけるのに、第一声がそれとか氏ぬべきだわ」

「僕の知る限りでは、か弱い乙女は自分が生み出したそれを足で踏みにじらないと思うんだけどどうだろう」

「今は乙女もワイルドなのが流行りているのよ」

 言いながら、修道服の裾で口元を拭う。
 だいぶ弱ったものだ。確かに大それた爆発ではあったが、まさか衝撃を弱めただけでこれとは。

 ワルプルギスの夜から発生した爆発が起こす予定にあった大惨事を未然に防いだ張本人であるローラは、
 しかし防いだだけで自身の力を使い果たした意味――自分の弱さをしっかりと悟って自嘲気味に笑った。
 これでは第三次世界大戦の際に暴れた『右方のフィアンマ』にすら劣るなぁ、などと考える。

「まぁなんにしても、これで準備は整いたるわね」

「……何のことだい?」

「しらを切りたるのは良いけど、時と場合を考えることね」

679: 2012/02/11(土) 03:29:22.28 ID:ccjk56WPo

 ローラはもういちど唾を吐き捨てた。血が混じっているので、文字通り血反吐か。
 かぶりを振り、収束し始めた光の十字架を見上げて、思う。

 ――準備は整った、と。

「まさか本当に知らないわけではないでしょう、インキュベーター。
 ワルプルギスの夜が、なぜああまでして暁美ほむらの前に立ちはだかったのかを」

「……」

 彼は答えなかった。
 答える気が無いのか、それとも答えられないのか。

「そして解りているはずよ。気付いているはずよ。物語はまだ、何も終わっていないという事実に」

 沈黙を保ち続ける獣を無視して、ローラは一度目を伏せた。

「……わたしがその事実に気がついたのは、実はワルプルギスの夜が現れてからになりけるのだけどね」

 返答は無い。
 構わずローラは続ける。

「あのタイミングでワルプルギスの夜の襲来が早まったのには、二つの理由がありけるわ。
 一つはこの世界に生じたる、目に見えざりし、或いは存在しえぬ概念による干渉。
 こちらはまぁ、早い段階で気付き足りていたわ」

 そしてもう一つは。

「もう一つは、そうでなければ叶わぬことがあるから。世界がそのように動いているから。
 これから話すのはあくまで仮定、例え話になりけるけれども。恐らくは真実に等しきものよ」

 それは。


「それは――」

680: 2012/02/11(土) 03:32:03.55 ID:ccjk56WPo

 亀裂の生じたソウルジェムを握り締めながら、さやかが飛び跳ねたのをほむらは見た。

「やった、やったあれ見た!? なんか光がぱーって、ワルプルギスの夜がどーんって!」

「ああ、まったく大した魔法少女だね、佐倉杏子は。流石の僕も尊敬の念を感じざるを得ないよ」

 などと言って、だらしなく地面に座り込むステイル。
 その隣でなおもはしゃぎ続けるさやかを見ながら、ほむらは言い知れぬ思いにそっと身を震わせた。

 実感が、沸かない。

 本当にあのワルプルギスの夜を倒せたのだろうか。
 今度こそ時間の迷路から抜け出せたのだろうか。
 気が遠のくなるほど時間を繰り返しても無理だったことが、達成されてしまったのだろうか。

 そう考えただけで自然と呼吸が荒くなり、胸が苦しくなってくる。

(……でも、これでまどかが傷付かないのなら)

 ほむらは一度俯くと、怪訝そうな視線を送るステイルに向かって手を振った。
 それからすぐ近くの瓦礫に腰を下ろし、気を落ち着けようと努力する。

 深呼吸し、魔力を全身に行き渡らせて身体のバランスを整える。
 だが意識すれば意識するほど身体のコントロールは出来ず。

「む……って、あっ、きゃっ!」

 挙句、左手の盾を誤作動で開いてその中身――いくつかの弾層や手榴弾、爆薬を取り落としてしまった。

681: 2012/02/11(土) 03:33:06.47 ID:ccjk56WPo

「……情けない」

 慌ててそれらを盾の中に戻し直す。
 そしてきちんと中身を整理しながら、ほむらは盾の中からいくつかの資料を取り出した。
 戦闘前に読んでいたものだ。気を紛らわすことくらいは出来るだろう。

 そんな軽い気持ちで、ほむらはそれを読み直し始めた。

≪ソウルジェムとは魂であり、魂とはエネルギーである。

  魂を最適化したものがソウルジェムであり、これに感情の相転移を起こすことで
  熱力学第二法則、すなわちエントロピーを凌駕する大規模なエネルギーが発生される。

  魔法少女システムとは上記の原理を応用したエネルギー回収計画の中枢を担う物と推察される≫

(まぁ、この辺りはね。早い段階で気付いていたもの)

≪魂のソウルジェム化の際に必要なのが、魔法少女の願い。希望と祈りである。
  希望と祈りは魂をソウルジェムへ変換する際に必要なプログラムであり、
  契約の際に叶えられる願いとはその際に生じる莫大な余剰エネルギーの再利用である。≫

(これは初耳ね。でもさやかの願いと得意魔法を考えれば、不思議は無いのかしら)

≪これは因果改変に等しいものである。≫

(別にこれはどうでもいいわ。ちょっと読み飛ばしましょうか)

682: 2012/02/11(土) 03:34:24.17 ID:ccjk56WPo

 ぱらぱらと資料を読み漁り終えてから一息吐く。
 それから軽く眉根を指で押して、目の疲れを取り除く。

 因果が上乗せされないとか、感情図が素質に影響するとか、魂が防壁を作り出すとか歪んだ世界とか……

 そんな記述を読んだところで、やはり自分には関係の無い話にしか思えない。
 気は紛れたが、ますます疑問は深まるばかりだ。これをまとめたローラ=スチュアートは、何を伝えたかったのだろう。

「ずいぶんと考え込んでいるようだが、まだ何か気になることでもあるのかな」

「……あなたの元上司の意図が解らないのよ」

 ふむ、と視界の隅で肩をすくめる神父を一瞥してため息を吐く。
 なんにせよ、もう終わったのだ。ワルプルギスの夜は倒されて、時間の迷路から抜け出せた。
 自分の願いは、叶った。

 そこでほむらは表情を険しくした。
 たった今自分が心中で呟いた言葉に、疑問を持つ。

(願いが……叶った?)

(私の願いって……なに?)

 すぐ近くで誰かが転ぶ音が聞こえる。多分さやかだろう。

 ――さやか。彼女の願いは、何であった?

683: 2012/02/11(土) 03:35:22.81 ID:ccjk56WPo

 彼女の願いはいつも通りなら上条恭介の左手の完治。
 今回の世界では使い魔に襲われた少女の治癒。
 それはすぐに叶えられた。知っている。そんなことは分かっている。

 巴マミ。彼女の願いは自己の回復。
 助けてと、その言葉を拾ったキュゥべぇにより叶えられた願い。

 佐倉杏子。彼女の願いは父の話を世間の人々に聴いてもらう事。
 結果、願いは叶い、彼女の父は一時的に教えを広めることが出来た。

 では……自分の願いは?
 まどかと交わした約束を守ること、それは違う。
 それは世界をやり直した後で彼女と交わした物だ。そうではない。

 自分の願いは、何だった?

 ……彼女を守る、私になりたい?

 違う。近いが、似ているが、違う。そう、私の願いは……

 ……まどかとの出会いを、やり直したい。

 これだ。
 その結果私は時間遡行能力を得た。願いは、叶っている。

 ……おかしい。何かが引っかかる。一体、何が……?

684: 2012/02/11(土) 03:36:16.63 ID:ccjk56WPo

「どんな願いであれ、それが条理にそぐわなければひずみが生じたるのは当然よねぇ?」

 語りながら、ローラは“爆心地”へと目を向けた。

「巴マミは命を得れども、他の一切合財全てを捨て
 平凡な少女としての生活を諦めて戦いへと身を投じたるわ
 果たしてその行動に、家族を救えなかった後悔や願いを叶えたる者としての
 ちっぽけなれど立派な正義感や身に余るほどの義務感が無かったとは言い切れねども――」

 でも、それだけだったのだろうか。

「美樹さやかは見知らぬ少女のために契約したりけるわよね。
 結果として少女は助かったけれど、彼女は後に真実に気付き、契約してしまいたことを後悔した」

 そして魔女となった。

「佐倉杏子もまた、願いを叶えた結果。全てを失いて、絶望の淵に追いやられし者になりけるわよね」

 では、暁美ほむらは?
 投げかけられた疑問の声は、しかし答えるものがいないがために宙へ溶け込んで霧散する。
 ローラはかぶりを振って、沈黙を保ち続ける白い獣を睨みつけた。

「願いは契約時に発生したる余剰エネルギーにて遂げられし、因果律の改変」

 それもただの因果律の改変ではない。
 過去の事象を捻じ曲げず、現在の状態だけを捻じ曲げる因果律の改変だ。

 何もかも矛盾しているが、おそらくそれで間違いない。
 呉キリカの自分を変えたいという願いも、美国織莉子の生まれた意味を知りたいという願いも。
 前者はその人格を捻じ曲げ、後者はその使命感を奮い立たせることで人生を捻じ曲げた。

「……過去が捻じ曲げられないのだから、未来が捻じ曲げられるのは当然よね。
 では、暁美ほむらの場合は? 時間遡行という願いが叶えられた彼女に訪れる、捻じ曲げられた未来は?」


 ――――声が聴こえる。無邪気な少女達の、笑い声が。

685: 2012/02/11(土) 03:36:53.25 ID:ccjk56WPo

(なんかもー疲れたのよな……こりゃあ堕天使工口メイド・真打ver姿の女教皇様を拝まんと……)

 そんな煩悩と共に、同時に今月の小遣いどうしようか、などと考えていた建宮は、

「っ……んだよ……どーいうことだよ、おい!?」

 戦いが終わってわずかに和んでいた場の空気にそぐわぬ調子の声を聴いた。
 フランベルジェを地面に突き刺したまま、首をぐるりと回して後ろに向ける。
 声の主は、五和に手当てをされている杏子だった。

「お、落ち着いてください佐倉さん! もう全部終わりましたから、ね?」

 宥めつかせようとする五和の肩に手を置き、建宮も軽い調子で声を掛ける。

「なになにどうしたのよ? そんな目を見開いちゃって、まさか視力がなくなったとかいうオチじゃないだろうな?」

「っざけんじゃねぇ!!」

 杏子の叫びに、建宮はもちろん五和も、周囲で大の字に寝転がっていた香焼も目の色を変える。
 他の天草式の面々も姿勢を正した。仕事終わりのムードを一変させて首を縦に振る。
 やれやれ、と肩をすくめて建宮は後ろを振り返ってしゃがみこみ、杏子と目線を合わせた。

「一体全体、何がどうしたのよな。5W1Hとまでは言わないから明瞭に説明してくれ」

「どーもこーもあるかッ! アタシは確かに食らわしたんだ、貫いた実感だってあったんだよ!」

「何の話なのよ……?」

「それがッ、それがなんでッ! あそこでああしていられんのさ!?」

 ただならぬ事情を察した建宮は黙って杏子の視線を追うように首を動かした。
 そして凍りついた。


「なんで……」



「なんでワルプルギスの夜が、使い魔従えて浮いてんのさ……!?」
    ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨

686: 2012/02/11(土) 03:37:40.91 ID:ccjk56WPo

「――白状しましょう。流石のわたしも、こればかりは気付くのが遅れたるわ」

 ほ、と息を吐き出す。
 爆心地から浮かび上がったワルプルギスの夜を見て、ローラは軽く首を鳴らした。

「でも、考えてみればそれは当然のことになりしよね
 数十、数百、あるいは数千。それだけやり直しても暁美ほむらが『願い』を叶えられざりしは何故か」

 それは彼女の『願い』が正しく叶えられた結果だ、とローラは付け加える。
 そしてそっと地面に目を落とし、続ける。

「これは仮定の話になりけるけど、もしも彼女がやり直した世界で不自然な何かが起こっていたとしたら?」

 顔を上げて、ローラは疑問を投げかけた。
 投げかけられた側である白い獣は、依然として沈黙を保ったままだ。

 あくまで無視する気か。
 まぁ良い、とローラは肩を下ろし、

「例えば、不自然な魔女化。
. 例えば、不自然な仲間割れ。
. 例えば、予期せぬイレギュラーの出現」

 それこそ偶然となんら変わらない、極僅かな可能性だ。
 しかしそのように考えれば辻褄が合ってしまう。

「この世界でも、それは起こりている――わたしはそう思いておるわ」

687: 2012/02/11(土) 03:38:08.35 ID:ccjk56WPo

 なぜ巴マミは魔女化した。

 暁美ほむらがステイルと和解しかけた矢先に、絶望したのだ。
 彼女には彼女なりの事情があったのだろう。そこに彼女の意思があったことは何一つ否定しない。

 だが、彼女は魔女になった。

 同様のことは、美樹さやかにも言える。

 ステイルの報告を受けた限りでは、彼女は駅のホームで彼らの説得を受けて共に歩む道を選択した。
 暁美ほむらが可能性に賭けて行動したことも把握済みだ。

 だが、その矢先に彼女は魔法少女と魔女の関係性に気付いて絶望し魔女になった。

 ワルプルギスの夜もそうだ。

 魔導書の原典が魔女に惹かれた? それはありうるかもしれない。
 それ自体は起きてもおかしくない。性質は似たり寄ったりである以上、魔導書が近づくのはおかしくない。
 だが何故このタイミングで、世界が交わってからわずか一ヶ月の間に結ばれたのか。
 そして何故、この魔女はスケジュールを繰り上げて襲来したのだろうか。

 ……どうして、ワルプルギスの夜はふたたび浮かび上がった?

 可能性の話だ。

 可能性の話だが、馬鹿には出来ない話だ。

 それら一連の出来事が、もしも。もしも――

「……暁美ほむらに時間遡行を行わせるために起きているとしたら?」

「そうなるように、彼女を中心に世界が動いているとしたら……?」

 彼女の願いは、叶い終わることは無い。
 彼女が生き続ける限り、彼女を中心軸にして世界ごと動いていく。
 例え世界を超えようと、彼女が存在するだけでその世界はそんな風になってしまうとしたら――

688: 2012/02/11(土) 03:38:36.31 ID:ccjk56WPo

「参ったな。流石の僕も、こればかりはどうしようもない」

 そんな諦めにも似たステイルの声をほむらは聴いた。
 ほむらは一度かぶりを振って顔を上げる。
 視線の向こうでは、ワルプルギスの夜が魔法少女の姿をした使い魔の踊りに合わせて光っていた。

「……ねぇ、あれ、倒すのは無理っぽいの?」

「僕が見たところあれは使い魔から魔力を受け取って回復に費やしているらしい。
 先ほどまでの力は失われているみたいだけど、それでも魔導書と共にある以上は……」

 今の戦力で倒すのは不可能に近い、とステイルは締めくくった。
 そして瓦礫にもたれかかり、悪い夢なら冷めてくれと、そう言わんばかりに額に手を当てた。
 そばにいるさやかもまた気落ちした様子でその場にへたり込んでしまう。

 そんな彼らの様子を見ながら、ほむらは再度資料へ目を向けた。

 仮に自分が立てた仮説が正しければ、世界はどうしても私に時間遡行をしてもらいたいらしい。

 ……ここまで来て、全てを諦める?

 自分が時間遡行を行えば、世界は無理にあの魔女を動かすことがなくなるだろう。
 そうなればいつかは倒れるはずだ。

 でも、そしたら私はどうなる。時間遡行をしたところで、行く先は無い。
 この世界を除いた全ての世界からは既に魔女が消えてしまっている。

 ……魔女を導く、あのまどかの下に行くのだろうか。

689: 2012/02/11(土) 03:39:29.21 ID:ccjk56WPo

 あんな別れ方をしておきながら、こうするしか方法が無かったと諦めて。
 それで情けなく彼女に慰めてもらうしかないのか。

(違う、何かあるはず。これを私に届けたローラ=スチュアートの真意は何? 考えなさい――!)

 鹿目まどか。暁美ほむら。
 時間遡行。世界移動。世界。因果改変。
 願い。契約。因果。キュゥべぇ。魔法。魔術。
 世界の歪み。狂った人間。ステイル=マグヌス。弱い。

 違う、連想ゲームではダメだ。もっと真面目に、真剣に情報を……

「『キュゥべぇ』……?」

 ――頭が痛い。

 何かが引っかかる。
 何が引っかかるのかは解らないが、それでも引っかかる。
 契約。因果。キュゥべぇ。歪み。
 何が引っかかる。何が、何が?

(落ち着きなさい、暁美ほむら……ここまで来て全てを台無しにするつもり!?)

(まどかと一緒に生きるのに、そう、これまでのまどかと約束したのに……!)

 これまでの、まどかと。
 これまでの、世界の、まどかと。
 これまでの、魔術や能力やらで争いの無い、もう少し静かでまともな世界の、まどかと。

 歪んでいない、正しい世界。

 まどかがいて、巴マミがいて、さやかがいて、杏子がいて。
 志筑仁美や上条恭介や中沢や早乙女先生やパパやマ……お父さんやお母さんがいて。
 手術をしてくれた、ちょっとお年寄りの優しい医者の先生がいて、それから、それから、それから――

690: 2012/02/11(土) 03:40:32.12 ID:ccjk56WPo










「『キュゥべえ』が……いた?」










691: 2012/02/11(土) 03:41:00.43 ID:ccjk56WPo

「そうだね、ローラ=スチュアート。君の出した答えは、僕らが出したそれとほぼ一致するよ」

 ふたたび訪れた沈黙を破ったのは、白の獣だった。

「今の現状を作り出したのは他でもない暁美ほむらだ。
 彼女が招いた結果が、この惨状さ。そしてそれは、誰にだって捻じ曲げることが出来ない規定路線だよ」

 まるでこちらの出方を伺い、試すような口調だ。
 ローラの目が自然と細まる。

「この流れを変えることは、力ずくでは到底叶わないだろうね。
 魔法少女の願いでも難しい。それこそ膨大な因果の糸をその魂に束ねる存在が必要だ。
 鹿目まどかのような、幾多の平行世界の、数多の人間の因果を一手に引き受ける規格外の存在がね」

 癒しの光と共に、ワルプルギスの哄笑が街中に広がってゆく。

 その哄笑に応える様に、獣がそっとこちらに振り向いた。

 その赤い瞳には感情の温かみはまるで無い。ひどく無機質な、赤いルビーを連想させる瞳だ。

「さて、現在地球上に、そんな人物はいるのかな? 僕らの契約条件と合致して、膨大な因果を背負う少女は」

「いるわ」

 間髪入れずにローラは言った。

「そんな人物はどこにいるんだい? ここじゃない、学園都市や欧州かな?
 それでも僕は、この世界の流れを断ち切るほどの素質を持ち合わせた少女はいないと思うけど」

「いえ、いるわ。この街に、条件に見合う子がね」

692: 2012/02/11(土) 03:42:20.32 ID:ccjk56WPo

 契約を取り結ぶ獣は一度天を仰ぐと、ややあってから残念そうに首を横に振った。

「残念だけど、神裂火織はさすがに年齢がね……」

「そこをなんとかおまけしたりて……」


 って、そうじゃなくて。


「なにも神裂を頼る必要は無しにつきよ。というかそもそもこれ、暁美ほむらの抱えたりし問題よ?」

「それは百も承知だけど、それじゃあどうするんだい?」

「……本当に気付いてないのかしら?」


 彼は答えなかった。
 答える気が無いのか、それとも答えられないのか。


「鹿目まどか同様、幾多の世界の、数多の因果をその魂に刻みたる者がいるでしょう」

「しかもその人物は、暁美ほむらの叶えたりた願いを正しうるその資格を持ちえし者よ」

「その人物の名前はね、インキュベーター。それはもう、燃え上がるように格好が良くてね――?」

693: 2012/02/11(土) 03:42:50.51 ID:ccjk56WPo

「出てきなさい、インキュベーター」

 自分に残された僅かな魔力を使ってどのように撤退戦をしようか思案していたステイルは、
 この最悪な状況に反してどこか明るい、ほむらの声を聴いた。

「……どうしたほむら、いきなりなにを」

「出てきなさい、インキュベーター」

 ステイルの声を無視して彼女は同じ言葉を発した。
 途端に、三人しかいなかったその場に新たな気配が生まれる。
 振り向けば、当然のように地面を歩く第四者、もとい白の獣――黒い首輪付き――の姿がそこにはあった。

「やれやれ、“君達”は相変わらず人使いが荒いね。それで何の用だい?」

「私がこれからする三つの質問に答えてちょうだい。それだけでいいわ」

 三つの質問。まったく心当たりが無い。
 それは隣でしゃがんでいるさやかも同じようで、大きく瞬きをして困惑しているように見えた。
 ……この土壇場で彼女は何に気付き、何を確かめようとしているのだ?

「良いよ、暁美ほむら。君の質問に答えてあげるよ」

 ステイルの心中などまったく気に留める様子も見せずに、ほむらは白の獣と向かい合う。

 そして、静かに喋り始めた。

694: 2012/02/11(土) 03:43:47.00 ID:ccjk56WPo

「まず一つ目の質問だけど……ワルプルギスの夜がああまでしつこいのは、私の願いのせい?」

「確証は無いけど、僕らはそうだと考えているよ」

「そう。じゃあ、この時間の迷路は抜け出せなくて当然と、そういうことね」

「現状ではね」



「次の質問よ。今私が持っている資料に書かれていることは、本当のこと?」

「……ローラから齎された物なら、そうだね。彼女はこの一ヶ月の間、僕らと取引をして情報交換していたから」

「あなたたちが嘘を吐かない理由にはならないわ」

「僕らは嘘を吐かないよ」

「それが嘘かもしれないわ」

「クルタ人のパラドックスのようだね。だけど僕らは違う。嘘を吐く行為の利点を理解していないんだからね」

「そう。ならいいわ」



「最後の質問はどうしたんだい?」

「そうね……それじゃあ、最後の質問よ」

695: 2012/02/11(土) 03:44:21.74 ID:ccjk56WPo

「あなたは……『キュゥべぇ』よね?」

「そうだね。僕らインキュベーターのことを、君達人類は『キュゥべぇ』と呼んでいるね」

 もっとも、インキュベーターという呼び名自体、本当の意味では正確ではないのだけれど。

 そう付け足したのを確認してから、ほむらは安堵してため息を吐いた。

 少なくともステイルには、そのように見えた。

 気付けば彼女の姿は、魔法少女のそれではなく見滝原中学の制服へと一変していた。

 ほむらは黙って目蓋を下ろし、胸に手を当て始める。

 まるでこれから起きるであろう、壮大な何かに備えるように。

 高まる緊張を和らげるために、リラックスしようとするように。

 場に静寂が下りる。

 沈黙が全てを支配し、全ての物が動きを止めてしまったかのような錯覚すら覚えかけ。

 だがそれらを吹き飛ばすように、ふたたびワルプルギスの夜の哄笑が響き渡って。

 さやかがびくりと震え上がって、その拍子に地面がじりっと音を立てて。

 ステイルが喉を鳴らして。

 ついに、ほむらが目を見開いた。

696: 2012/02/11(土) 03:45:52.93 ID:ccjk56WPo


「キュゥべぇ。私と契約して、私を魔法少女にしなさい」


 ――告げられたほむらの言葉に、ステイルはまず真っ先に自分の耳を疑った。
 次に自分の精神を疑い、それから今目の前で流れている現状が現実の物であるか否かを疑って。
 最後にほむらの頭を疑った。

「何を言っているんだ君は、大丈夫か。というか正気か? 君は既に契約しているだろうが」

「そうね。一度契約してしまうと、魂がキュゥべぇの干渉を受けないように防壁を作り出すのでしょう。
 その結果、魔法少女になってからいくら活躍しても因果の糸は魔法少女に上乗せされないし願いも叶えられない。これは事実よ」

 初耳だった。あの女狐に渡された資料にそう書かれてあったのか。
 ステイルの困惑をよそに、ほむらは得意気な顔をして胸を張り、鼻を鳴らす。
 その動作に連動するように黒く艶のある長髪が風に乗って静かにその場に靡いた。

「こればかりは、どうしようもないわ。私もこの世界に来る前に一度試したことがあるもの」

「だったらなおさらダメじゃん!」

 怒鳴るさやかに頷くステイル。
 だがほむらは笑みを浮かべたまま、なぜかこちらを一瞥して、

「でも、この世界にはステイルがいるわ」

「何……?」

「英国女王はエリザベスじゃなくてエリザードだし、第三次世界大戦は起きた後で学園都市なんて物もある
 なぜか宗教やってる連中が漫画の世界のような力を振りかざして魔術だなんだのとみっともなく叫んでいるわ」

「君は喧嘩を売っているのか、そうなんだな!?」

「黙りなさい。ついでに何故か、見慣れた白い獣は自分たちのことを『キュゥべぇ』なんて言い出す始末」

「はぁ?」

「まだ分からないのかしら?」

697: 2012/02/11(土) 03:47:42.12 ID:ccjk56WPo

 ほむらは一度肩を上下させた。

 得意気な表情はそのままだ。何一つ変わらない。

 彼女は勝気な笑みを張り付かせたまま、ゆっくりと唇を動かす。


「私が契約をしたのは――『キュゥべえ』よ」

「魔術だの学園都市だのがある、歪んだ世界の、歪んだインキュベーターじゃないわ」


 馬鹿が、とステイルは苛立ちを募らせたまま歯噛みする。

 そんな極僅かなイントネーションの差異で、何が分かる。何が変わる。

 だがほむらは笑みを崩さずに続けた。


「私の魂にある防壁は、この世界の『キュゥべぇ』の干渉を阻めない――だから、私は契約出来る。違うかしら?」


 彼女の問いに、


「そうとも。君にはその資格がある」


 嘘を吐かないインキュベーターは、首を縦に振った。

698: 2012/02/11(土) 03:49:43.21 ID:ccjk56WPo

 ――キュゥべぇが頷いたのを、ほむらは確かに見た。

「教えてごらん、ほむら。君はどんな祈りで、ソウルジェムを輝かせるのかい?」


 願い。
 そんなこと、考えるまでも無い。


「私は、ワルプルギスの夜をこの手で倒して、この狂った時間の迷路から抜け出したい」


 自分の手で、確実に。
 この醜い争いを、終結させる。
 誰の力を借りるでもなく。
 私が、私の手で。


「まどかを守るためじゃなくて、私の――私のために。私は、まどかと明日を歩める私になりたい……!」


 その願いに、無数の少女の願いを叶えてきた契約を司る獣は。



「契約は成立だ。君の祈りはエントロピーを凌駕した」



 これまでと同じように、応えた。

699: 2012/02/11(土) 03:57:38.81 ID:ccjk56WPo

「さーて、これでこちらの手札は仕舞いになりけるわ。この華麗な手さばき、いかようなりて?」

 ローラの問いかけに、キュゥべぇは仕方なさそうに首を横に振った。
 感情など持ち合わせていないはずなのに、どこか疲れの色が見えるのは、果たして気のせいだろうか。

「まさかここまでとはね……僕らは少々、君の事を誤解していたようだ」

「んー、負け犬の遠吠えは何度聴きたれども、なんともまぁ心地の良い響きになりけるわ」

 キュゥべぇは首を横に振った。
 それから尻尾を振って、ローラの真正面へと移動して座り直し、

「だけど、まだ結果は分からないよ」

「いいえ、分かりきっているわ。だけどまぁ――そうね、一応見届けたりましょうか」

 暁美ほむらがワルプルギスの夜を撃破し、ハッピーエンドを掴み取る光景を。

「……彼女が力の加減を誤って、一気にソウルジェムを濁らす可能性だってあるしね」

「そのためのステイルでしょう。確かあれは、いまだに巴マミのグリーフシードを持ちていたはずよ」

 ローラの言葉に、キュゥべぇふたたび首を横に振った。
 その意図は分からないが、もしや参っているのだろうか。ならばざまぁみろとしか言いようがない。
 そんなことを考えながら、ローラは暁美ほむらがいるであろう場所に視線を向けた。
 視界の奥で、紫混じりの輝きが生まれつつあった。
 魔術側の技術で再現した、レイチェルのソウルジェムを生み出した時と同じだ。


「さ、始まるわよ。――このくだらない茶番劇を終わらせたる、最強の魔法少女の誕生が、ね」

706: 2012/02/14(火) 00:41:52.43 ID:aqVyypvoo

「――とうとう私も頭がイカれちまったのかしら」

 呆れるような声と共に、盛大なため息が吐かれた。
 這いずるようにして修道女達の結界から抜け出したシェリーが出した物だ

 ここまで移動するために使った右手はみっともなく震えて、情けないことに殆ど感覚がなくなっている。
 かと思えば下半身、特に両膝の辺りは錐に刺し貫かれたように熱く、激痛を発していた。
 全身が鉛のように重く、今時分がどんな姿勢でいるのかすら分からなくなりそうなほどだ。

 だからシェリーは、自分の頭がどうかしてしまったのではないかと、そう考えていた。
 もう前線で戦うのは止めよう。有能すぎる後輩達に任せて、大学の仕事に専念しよう。
 なにせもう自分も二〇後半だ。特殊な才能も体質も、戦術だって持ち合わせていない。
 なにが信念だ、そんなものはのしを付けて押し付けてやる。

 そんな情けない逃避に走るシェリーは、そこで自分の頭の中に響く第三者の声に気付いた。

『何が……起きたのですか?』

 神裂の声だ。怪我の具合だけなら自分よりも遥かに酷いくせにもう意識を持ち直しているとは。
 それどころか、恐らくは身体を寝かせて治療されながら通信霊装で話しかけてくるなんて。
 やはり敵わないな、と。
 後輩へ賞賛の念を込めた苦笑を顔面に張り付かせてからシェリーは彼女の声に応えた。

「何が起こったと思う?」

『……それが分かったら、こうして肉体のコントロールを諦めてあなたに話しかけていませんよ』

「まぁ、そうでしょうね。そうね、いいわ、説明してあげる」

 ため息を吐いて、シェリーは力の入らない右手を土台にするようにして背筋に力を入れ、
 這い蹲った姿勢のまま上半身を上に逸らして『それ』を見た。
 さっき見たときとなんら変わらずに『それ』は存在している。
 『それ』が何であるのか、どう説明すべきか悩んだ末にシェリーは、

707: 2012/02/14(火) 00:42:19.35 ID:aqVyypvoo





「空が光って、天使が現れた」



『……はい?』





708: 2012/02/14(火) 00:43:09.77 ID:aqVyypvoo

 シェリーに天使と称された『それ』――白い翼を生やした暁美ほむらが。

 紫が混じった眩い輝きの中から姿を現し、静かに舞い降りるのをステイルは見た。

「これは……?」

「すっげ、これじゃまるで天使じゃん……」

 さやかの呟きを聴いてステイルは眉間に皺を刻んだ。
 天使天使と、どいつもこいつも天使をなんだと思っているんだ。
 もしここに魔術側の知識が豊富な人間がいたら、そう易々と天使だなんて比喩表現は使わないだろうに。
 例えばシェリー=クロムウェルが聞いたら鼻で笑っているはずだ。間違いない。

「しかし、まさか本当に願いを叶えてしまうなんてね。ソウルジェムの方は大丈夫なのか」

「あ、まだもうちょいいけると思うよ」

「君じゃなくてほむらの方だ」

 ひどい! と叫ぶさやかを無視してステイルはほむらを見た。
 彼女は白い翼を器用に操作して羽のようにふわりと着地した。
 その身に纏っている衣装は今までのものとなんら変わらないし、あの盾――バックラーも健在だ。
 そうすると、あの翼は彼女が新しく手に入れた能力、あるいは武器なのだろうか……?

「……凝視するのは構わないけど、背中の翼はお遊びで作った単なる飾りよ」

 聞こえてきた声に思わずこめかみに手を当てる。

「ソウルジェムの方も無事よ。ちょっと色が淀んでいるけど、穢れてはいないから……ああでも、少し大きくなってるわね」

「じゃあ……」

 ほむらは笑って首を縦に振り、ステイルに背を向けた。

「ええ、再契約は無事成立したわ」

709: 2012/02/14(火) 00:43:47.42 ID:aqVyypvoo

「ステイル。グリーフシード、まだ持ってる? 濁ってても良いから」

「とっておきのが一つ、封印された状態でね。なにを――いや、そういうことか」

 彼女の意図を察したステイルは、静かに唸った。
 ワルプルギスの夜を倒してしまった後に自分が魔女にならないようフォローしろ、と言っているのだ。
 ステイルは頷き、懐に忍ばせてあったグリーフシードを手に取る。
 戦闘の衝撃で封印の殆どが解除されてしまったらしく、この分なら全てを取り除くのには三分も掛からないだろう。

 そんなことを考えていると、唐突にほむらがこちらを振り返った。
 背の翼が光の粒子となって分解されていっているため、どことなく後光が差しているようにも見える。
 そんなステイルの気持ちなど知る由も無く、優しい笑みを浮かべたほむらはその視線をキュゥべぇに向けた。

「……ありがとう、キュゥべぇ」

 自分の耳を疑うのは今日で二度目(多分)だが、もううろたえないぞ。
 内心で自分に言い聞かせると、ステイルはうろたえまくっているさやかの頭に手を乗せて静かにさせる。

「何の話だい、暁美ほむら」

「考えてみれば、私って結構あなたには世話になっているのよ
 あなたがのおかげでまどかに会えたし、あなたのおかげでここまで辿り着けたんだもの」

「それは僕じゃなくて『キュゥべえ』のおかげじゃないか」

「でも、同じインキュベーターでしょう?」

 それとは別にあなたにも感謝しているわ、とほむらは言った。

 ……ずいぶんと余裕だな。あれだけ嫌っていたキュゥべぇに対し、ああも和やかに接することが出来るとは。

710: 2012/02/14(火) 00:44:18.59 ID:aqVyypvoo

 ほむら朗らかに笑ってから、しかしすぐに半目になって、

「――正直、身体が拒否反応示して手足の先が震えるからあなたに礼なんて言いたくなかったのだけど」

「「じゃあ言うなよ!」」

 さやかとステイルの声が重なった。
 だが彼女はそれを無視。キュゥべぇも気にした様子を見せることなく尻尾を振って、

「礼を言うのは、僕の方だよ。ありがとう、ほむら」

「……何の話?」

「君の可能性というものがどれほどのものか良く分かった。君は――凄いね」

 感情を持たないはずのインキュベーターが、感銘を受けている。
 にわかには信じがたいが、そうとしか思えない。まったく、出来すぎている。ご都合過ぎる。
 まさかこの土壇場で彼らと和解する可能性が見えてくるとは。

「それよりも早く解き放ってみたらどうだい。君に与えられた、その新しい力を」

「……そうね。それじゃあ手っ取り早く、あのワルプルギスの夜を倒してくるわ」

 そう言って、ほむらはふたたび背に翼を生やした。
 無駄だらけに思えるが、あれくらいの無駄を行えるだけの素質があるということか。

(しかし――まったく、敵わないね。今の彼女と僕では月とすっぽんか、天使と魔術師ってところか)

 あっという間に広がってしまった力の差を実感し、ステイルは苦笑した。

 それにしてもさっきの彼女らの台詞はまるで魔法少女アニメを連想させるような台詞だったな。
 王道的主人公魔法少女とこれまた王道的マスコットキャラクターの台詞だ。最終回になって覚醒したか。
 いや、別に観てないけど。いや嘘だ、観た。“あの子”に付き添う形で何百時間か。あくまで付き添う形でだが。

 内心で弁解しつつ、静かに翼をはためかせるほむらを見て思う。

(……これで終わる)

711: 2012/02/14(火) 00:45:39.08 ID:aqVyypvoo

「――ええ、これで終わるわ。あなたも疲れたでしょう、ワルプルギスの夜」

 呟きながら、魔法少女姿の使い魔に囲まれたワルプルギスの夜の真正面まで飛翔して近づく。
 向こうとの距離は一〇〇メートルもない。地面との距離はせいぜい五〇メートル程度。
 真下で杏子がなにやら叫んでいるが、事情を説明するのは後にしよう。

 そう決断すると、ほむらは左手を真っ直ぐ前へ突き出した。
 バックラーと自分の背筋が平行になるよう、じゃんけんのぐーを出す形のまま静止させる。

「……私が欲しかったのは、時間停止とか武器を入れておける盾とか、そういう変なのじゃなくて」


 子供の頃に憧れた、可愛くて、格好良くて、勇ましい力だ。


 そう――私は、まどかと同じような、可愛い弓矢が欲しかった。


 念じた直後、左手にあるバックラーの円周部――外郭手前側が分かたれた。

 内部に積み込まれた歯車がぐるぐると音を立てて回転し始める。

 続いて外郭手前側が歯車の動きに合わせて前面へとせり出し、左手を追い越した辺りで弓なりに固定された。

 そしてソウルジェムが輝き、連動して弓型の外郭部とバックラーとを繋ぐ部分が伸びてさらに前面に押し出される。

 最後にバックラー側から二つの歯車が外郭の上下両端に向かって走り出した。

 それを確認したほむらは、握り締めていた左手を迷わずに開いた。

 こうすることが一番正しい選択だと、何故かそう思えた。

712: 2012/02/14(火) 00:47:35.93 ID:aqVyypvoo

 いびつな弓へと変化したバックラーの外郭がほむらの動作に応えるように光り輝く。
 歯車がからからと回って外郭が動き出し、ほむらの手のひらの側に潜り込んできた。

 まるで掴めと言わんばかりに手元に差し込まれたその弓を、ほむらは慣れた手つきで握り締める。

 同時に上下両端に位置する歯車から淡い輝きと共に光の弦が真っ直ぐに伸びて繋ぎ合わされる。

 淡い、膜状の光が弓全体を覆い尽くし――表層に装飾が施され、見栄えが整えられた。
 ほむらに与えられた新たな力、新たな武器である『機械弓』の完成だ。
 ちょうどアーチェリーに用いられるコンパウンドボウのように見える。
 そんな物騒な得物を見て、ほむらは静かに笑みを浮かべた。

「まどかのと比べるとちょっとゴテゴテしてるけど……まぁ、悪くはないわね」

 現代版魔法少女、ここに誕生。とかそんな気分である。
 弓の握り手――ハンドルをしっかりと握りなおしながら、ほむらは手の甲を空へ向けて弓を水平に構えた。

 手の甲側には、弓と手とを固定するために形を変えた一回り小さくなったバックラーがあった。
 ほむらはそのバックラーの中心部、薄いガラス状の防壁を右手で触れて解除する。
 そして露になった、砂粒の大半が傾ききっている砂時計に右手をかざした。

「……あなたにも、世話になったわね。お疲れさま」

 まるで長年の相棒を労わるように、優しく撫でて。

「でも、これで最後よ。あなたに力を借りるのも、ワルプルギスの夜と戦うのも――きっと、これで最後」

 右手に力を込める。
 ソウルジェムが輝き、砂時計が輝き、砂粒が輝き、バックラーと弓が輝き――


 気がつくと、ほむらは右の手で『光』を握り締めていた。

 ワルプルギスの夜を撃破するための、狂った時間の迷路から破壊するための力。

 狂った時間の迷路を作り出した、すでに失われた魔法の源である砂時計の力を帯びた『矢』だ。

713: 2012/02/14(火) 00:48:42.36 ID:aqVyypvoo

 ほむらは再度ハンドルを握り締め、右手の矢を機械弓へとつがえる。
 口から炎の息吹を漏らすワルプルギスの夜を見据えて、一度目を閉じ、

「ふっ……!」

 短く息を吐き出して弓が引き起こされて、一気に矢を引き絞った。

 機械弓がぎりぎりと形を変えてしなり、滑車から弦が引き出され、弦がきりきりとキツく鋭く研ぎ澄まされていく。

 だが、まだ足りない。

 今日まで積み重ねた時間を考えれば、もっと力を込められる。

 八つ当たりになろうと構わない。威力に関係なかろうと知ったことではない。

「腑抜けた一撃で、全てを終わらせたくない……!」

 その言葉に応えるように連結部分が延び、前面へせり出している弓部がさらに前へ前へと前進を始める。
 弦が鳴らし出す不協和音が見滝原市中に響き渡り、崩れたビルに反響して伝播されていく。

 その残響を聴きながら限界まで引き上げられた張力に右手と左手を震わせていると、

「これで……本当に……!」

 ワルプルギスの夜から、炎の息吹が吐き出された。
 即座に狙いを炎に合わせ、

「――――終わりよ!」

 ほむらは矢から右手を離した。
 同時に、戒めを失った光の矢が解き放たれる。

 それはほむらの力と相まって、目の前まで迫っていた炎の壁をいとも容易く貫き、余波を以てかき消した。
 遅れてようやく反動によって鳴らされた弓の音が耳に届いて――

 ワルプルギスの夜の手前まで迫っていた光の矢は、無数の光の雨に分裂した。

714: 2012/02/14(火) 00:49:29.57 ID:aqVyypvoo

 ――光の雨は、何もかもを飲み込むような輝きと共にワルプルギスの夜へ殺到した。

 小さな雨粒となった光の矢が魔力障壁をすり抜け、いともたやすくワルプルギスの夜を貫く。

 貫いて、それから針路を180度捻じ曲げてはふたたびワルプルギスの夜へ襲い掛かる。

 絶対的な光に射抜かれてはまた射抜かれる、哀れな魔女。無力を象徴するような舞台装置。

 その姿には、魔術サイドと魔法少女を徹底的に追い詰めた最強の魔女の面影などどこにも残ってはいなかった。

 まず右手が光に射抜かれ過ぎて、光と一体化するように消滅した。

 次に左手が。その次は細い胴体と腰。さらに蒼のスカート。

 やがて口しかないその異形の顔が光に融けこみ、消えていった。

 ワルプルギスの夜の周囲を浮いて踊っている使い魔たちも、例外ではない。

 彼女らもまた、光の雨に対して抗う術を持ち合わせていなかった。

 光に飲まれ、熔けてゆく。薄れてゆく。消えてゆく。

 とうとう巨大な歯車一つを残して、ワルプルギスの夜であったものは無くなった。

 その唯一残された歯車もまた――光の雨に飲まれ、この世から姿を消した。


 あれだけの猛威を振るった魔女の最期。


 それは、余りにも呆気ないほどにあっさりとしたものだった。


 ほむらは、ワルプルギスの夜に勝利した。

715: 2012/02/14(火) 00:50:06.08 ID:aqVyypvoo

「……倒したみたいだけど、結局呆気なかったわね……」

 呟き、流れる光の残滓に乗って宙を漂っていた本――魔導書ファウストの原典を掴むほむら。
 左手のソウルジェムを一度窺い、余裕があることを確認してからため息をつく。

「念には念を入れておきましょうか。……魔力探知、反応無し。ただし拾い物はあり」

 右手に持った魔導書を抱え、軽く首を回す。
 それから何気なく地面に目を向けたほむらは、右の眉をぴくりと立てた。
 視線の先には、いつの間に駆けつけて来たのやら。膝に手を着くステイルやさやかの姿があった。
 それに気付いたほむらはは機械弓を携えたまま黒髪をかき上げて、ゆっくりと高度を落とし始める。

「……やっと終わったわね」

 感慨深げに呟き、自身を照らしている天をわずかに見上げて目を細める。
 ワルプルギスの夜の『魔女の殺息』を逸らしたことと魔女自身が完全に倒されたことで、空には雲ひとつ無い。
 この見滝原市と太陽との間を遮る障害は、全て取り除かれたのだ。
 ほむらを縛っていた歪んだ願いと時間も、因果の鎖も、もう無くなった。

 おーい、と大きな声でこちらを呼びかける声がする。
 アンタってヤツは、と呆れながら感心する声も聞こえる。

 ふたたび視線を下に向ければ、そこには大きく両手を広げているさやかと肩をすくめる杏子がいた。

 そのすぐ近くには仏頂面のまま居心地悪そうにしているステイルの姿もある。
 彼の背後では年齢を考えずに大げさにはしゃぐ建宮や、涙をぼろぼろ流している五和の姿もあった。
 彼女の隣で地べたに寝転がっているのは香焼だろうか。
 影になって見辛いが、それを介抱する対馬と野母崎の姿も見える。他にも色々、まだ名前を覚えてないのもいる。

 それを見ていたら、なぜだろう。
 急に何かが胸にこみ上げてきて、柄にも無く目頭が熱くなった。
 あれだけ疑って掛かり、最初はまともに話すら交わさなかったというのに、まったく彼らは。

 でもそれ以上に、ほむらにはある思いがあった。

716: 2012/02/14(火) 00:51:33.77 ID:aqVyypvoo

 ……会いたい。

 ……会いたいよまどか。

 ……今すぐにあなたに会いに行きたいよ。


 そう心の内で呟き、かぶりを振る。

 急ぐ必要は無い。

 もう自由の身なのだから。

 時間ならあといくらでもあるのだから。

 やり直す必要は、無くなったのだから。



 目に浮かんだ涙を右手の甲で拭い去る。

 その背に太陽の光と暖かさを受け止めながら、ほむらは音もなく着地した。

 そして自分を待つ人々の下に向かって、彼女は強く地面を踏みしめるようにして駆け寄っていった。

717: 2012/02/14(火) 00:53:53.95 ID:aqVyypvoo

「――はい、めでたしめでたし、と」

 ほむらが皆の下へ向かうのを霊装越しに見届けたローラは、そこでキュゥべぇに向かって振り向いた。
 彼も別の“彼”を通して見ているはずだ。人類の可能性に感銘を受けた彼らは、果たして何を思うのだろう。

「でも、これじゃあ物語は終われなきというのだからまったく世知辛い世の中になりけるわよね」

「まだ何かしようというのかい?」

「もちろん。だってこれ、世界的には正直どーでもよきことでしょう?」

 ローラの言葉に、キュゥべぇわずかに首を巡らした。
 こちらの発言の意図を推測しているようだった。

「だって、暁美ほむらを無視したればワルプルギスの夜自体は倒せたりたのだし」

「どういうことかな?」

「この世界には、ありとあらゆる陰謀やら異能やらを打ち砕きたる人間がごろごろいたりけるのよ」

「それが?」

「だから、暁美ほむらという存在を無視すれば世界はいかようにでも転びたるものなのよ。
 だけどいたいけなりし乙女を無視するなんて、それはあんまりでしょう。だからここまで導きたりたわけ」

「……じゃあ、世界的に大事なこととはなんだい、ローラ=スチュアート」

 ローラは密かに喉を鳴らして、しかし動揺を気取られぬように口角を上げて笑みを作った。

「取引よ。人類代表のわたしと、異星人代表のあなたとでね」

「取引ね。ここまで来て一体どんな取引を?」

「こちらの要求に応じてもらえたれば、そちらの利益になるものを差し出しましょうと、ただそれだけになりけるわよ」

「……興味深いね。それじゃあ君の、人類側の要求を述べてみると良い」

 その言葉に、ローラは亀裂のような笑みを持って応えた。

728: 2012/02/16(木) 01:35:09.39 ID:FJ6Ug0Ono

 ローラはにやにや笑いながら、胸をそらした。

QB「……まるで悪の大王のような振る舞いだね」

ローラ「ふふん、そう見えたるのも不思議じゃなきにつきけるわね」

QB「イギリス清教の利益のため、と謳いながら、その実体は人類のためなのにかい?」

ローラ「まぁそちらはおまけたるわよ。さてさて、それじゃあこちらの要求を述べさしてもらいたるわね」

 言いつつ、ローラは正面に居座るキュゥべぇ越しにステイルたちがいるであろう方角を見た。
 思いのほかこの場面に至るまでの行程が長くなったが、それでもこの場面に至ることが出来たのは、
 ステイルや暁美ほむら、神裂や佐倉杏子の努力のおかげに他ならない。
 そう考えながら、しかしローラは眉を顰めた。

ローラ(……巴マミには悪きことをしたわね)

 彼女の氏は暁美ほむらの時間遡行による副作用の一部によるものだが、
 それに気付くのが遅れたのは自分であり、彼女の存在を重要視しなかった自分のミスだ。
 自分が思い描いていた最善の結果とは異なる物が現実になってしまった。

 もしも自分がアレイスター=クロウリーならば結果は違ったのだろうか。
 いや、それはないはずだ、とローラはかぶりを振る。
 確かにあの男の発動した魔術がきっかけで事の真相には気付けたが、それだけだ。

 陰謀を企てるのは自分の方が優れている。

 そう結論付けると、ローラは視線をキュゥべぇへと向けなおした。

 さてどうするか。
 腹の内は決まっているものの、いざ口に出すと少し腰が引ける。
 ややあってからローラは黙って右手を突き出し、

ローラ「こちらの要求は」

 と言いながら、まず指を一本立てた。

729: 2012/02/16(木) 01:35:36.77 ID:FJ6Ug0Ono


ローラ「一つ、そちら側がエネルギー回収に用いたる魔法少女システムの破棄」


 言いながら、さらにもう一本指を立てる。


ローラ「一つ、似たような人類の魂を弄びしシステムを今後一切打ち立てないこと」


 そしてもう一本指を立て、


ローラ「一つ、こちらが出す要請に応えてもらうこと。これは前二つほど大事じゃなきにつきるので安心なさい」


 出来上がったスリーピースをゆらゆらかざして、ローラは笑った。
 キュゥべぇの返答など聞かなくとも分かりきっている。だから彼の言葉を聞く前に指の形を崩し、


ローラ「代わりに、こちら側はそれに見合うだけの見返りを払いたるわ」


 それに対するキュゥべぇの返答は、


QB「正気かい?」


 酷く短いものだった。


730: 2012/02/16(木) 01:36:42.71 ID:FJ6Ug0Ono

QB「とてもじゃないが、これでは取引と呼べないね。見返りが少なすぎる」

ローラ「これでもこちらは譲歩したりけるわよ?」

QB「どこがだい?」

ローラ「残存魔女を救いたる予定も、元が使い魔か魔法少女か区別するのが難しきことゆえ諦めたるし
     わたしの予定では魔術という未知の技術に触れしそちらが刺激を受けて感情を得たりていたのよ?」

 巴マミの氏を受けてわずかに動揺の色を示した首輪付きも、結局のところ平常運行だ。
 その個体も暁美ほむらの見せた可能性に感銘を受けたようだが、今更大勢に影響は出ない。

QB「だからと言って、君らがいくら譲歩したところでこの取引はありえないよ」

ローラ「そうかしら?」

QB「最初の要求である魔法少女システムの破棄。この時点でこの取引は絶対に成立しない。
   僕らは既に現状で満足している。わざわざ破棄して君達の協力を受ける必要なんてないんだ」

 それはそうだろうな、と考える。
 既に甘い蜜を吸っているのに、わざわざ先の見通しが立たない選択肢を選ぶ必要性など無いだろう。
 だが甘い蜜が吸えなくなるとすれば話は別だ。

ローラ「こちらは現在、魔法少女を元の少女へと戻して契約を破棄させたる方法を模索中にありけるわ」

QB「だから無駄なことは止めろ、と。まだ見つかってすらいない方法を盾に要求を押し通すつもりかい?」

ローラ「そう遠くないうちに見つかりけるわよ。半年か、一年か――まぁ、その程度でね」

 言いながら、ローラはそっと肩をすくめた。
 半年掛けて出来なければ、正直ちょっと無理かもしれない。

731: 2012/02/16(木) 01:37:09.39 ID:FJ6Ug0Ono

QB「……仮にそんな方法があったとしても、僕らの返答は変わらないよ。
   魔法少女システムに手を加えて、君達の干渉を滞らせる。そうすれば君達は後手に回らざるを得なくなる」

ローラ「それはそちらも同じこと。こちらには、そちらの契約行為を妨害したるだけの戦力がありけるわ」

QB「イギリス清教かい? 無駄だよ、あんな極わずかな人員で僕らの契約を阻害出来るはずがない」

ローラ「そもそもそこが違うのよ、インキュベーター」

 そこまで言ってローラは一度深呼吸した。
 全身に酸素をめぐらしてリラックスした後、彼女はふたたび口を開いた。

ローラ「イギリス清教、ローマ正教、ロシア成教。国家で言えばイギリスにフランスにスイスにドイツにロシアに――」

 その他いくつかの国家の名を挙げ、

ローラ「それだけじゃないわ。
     欧州にいくつもある魔術結社や結社予備軍。北欧系の魔術結社もあるわね
     新教の魔術結社に中東のちょーっと危なっかしい魔術勢力、結社、それにアジアにある十字教組織。
     日本に点在する神道系結社や中国にも広がる仏教系の勢力に個人の魔術師、復活途中の中米魔術結社」

 一拍間を置き、

ローラ「魔術には疎いけどアメリカ合衆国とすら連携が取れたるし――
     科学の象徴、というか科学サイドの頂点たる学園都市とだって協力関係にありけるわ」

 組織一つ一つの名前を挙げれば、三〇〇は悠に超えるだろう。
 既に引退した元ローマ法王、マタイ=リースに盛大な貸しを作る羽目になるだろうが、それは仕方がない。

ローラ「分かりているの? こちらには文字通り、人類総出であなた達の邪魔をする用意があるのよ?」

 言い換えれば、人類総出で嫌がらせをしてやる、と公言しているようなものだ。
 我ながら、なんというかいじましい。だがそれも良いだろう。
 だがキュゥべぇは首を右へ左へ振って、次に尻尾を右へ左へ振ってこちらを挑発するような仕草を見せた。

QB「それら組織の内、どれだけの人間が僕らを知覚出来るのかな」

732: 2012/02/16(木) 01:38:05.17 ID:FJ6Ug0Ono

 ……痛いところを突かれたが、まだ大丈夫だ。
 そんなことは百も承知だ。ある程度の因果を背負った者でなければ、彼らを見ることは出来ない。
 イギリス清教に所属する修道女ですらその姿を見れない者がいる以上、確かに知覚できる存在は少ないだろう。

ローラ「それでもあなた達は確かに存在するわ。なら、見えずとも探したる方法はいくらでもあるでしょう」

QB「僕らはその気になれば、自分の体温をゼロ度に変化させることだって出来るんだけどね」

 まぁ、なんと無駄に高性能。本当に生き物かこいつ。

ローラ「だけど、砂を歩けば足跡がつく」

QB「必要だったら全身を浮かせれば良いだけさ」

ローラ「草を掻き分ければ草が動く」

QB「なおのこと、浮遊していけば良いだけだね」

ローラ「じゃあ、大気の乱れはどうかしら?」

 キュゥべぇの言葉が止まった。

ローラ「あなた達がそこにいることで、大気にはいくらかのゆがみが生じるたわよね。
     あなたたちに当たった風はその軌道をいくらか逸らすでしょう。魔術師は、それで十分」

 ……風が吹けば桶屋が儲かる、ではないが、同じような物だ。。
 さすがにこれは誇張が混じっているが、嘘ではない。

QB「だけど科学側では意味が無いね」

ローラ「この星の衛星軌道上にある人工衛星、いくつありしことか知っておる?」

733: 2012/02/16(木) 01:38:44.05 ID:FJ6Ug0Ono

 数えるのが億劫になるほど浮かんでいる。
 その内、果たして監視衛星はいくつあるのだろう。その性能はどれほどの物なのだろう。
 詳しいことは知らないが、最近のアメリカの人工衛星で数十〇センチクラスの解像度を持つらしいから、
 学園都市の物なら新聞紙の文字だって判別できるかもしれない。
 ならば大気の歪みだって見分けられるはずだ。連携すれば、インキュベーターの存在を特定すること自体は難しくない。

QB「だけど、それを永続的に続けられるわけが無い。
   何事にもコストと労力が掛かる以上、君達の根気が尽きるのが先だろうね」

ローラ「そうなるのは当分先でしょうね。少なくとも次代の最大主教がその座から降りるまでは続くわ」

QB「何故そう言い切れるんだい? 君がいないあの組織が、そうまで出来る保障があるのかな?」

 ……何を今更。そんな分かりきったことを。

ローラ「今のイギリス清教は、私の下を離れているわ。分かる? 離れているのよ」

QB「それは君がそうなるように誘導したから――いや、そうか」

 キュゥべぇは合点が行ったように頷いた。

 この一ヶ月の間、ローラがイギリス清教内で行った働きは内部の反発を誘発させる物が殆どだ。
 清教派にばかり役目を押し付け、表向きはソウルジェムの研究を凍結させ、理不尽な見滝原殲滅作戦を立てた。
 結果、ローラは最大主教の立場から引き摺り下ろされた。ステイルや神裂王室派と騎士派の働きによって。

 それが意味するところは大きい。
 ローラの加護下にあれば楽に甘い蜜が吸えたというのに、彼らはそれを是としなかった。
 つまりイギリス清教は一人立ちした子供のように、自分達の道は自分達で決めると、そう宣言したのだ。
 学園都市との間に生じた抗争によって疲弊しきっていた組織を束ねていたローラの庇護を否定したのだ。

QB「君の目的がやっと分かった。君は今回の騒動を利用して、自分のいないイギリス清教を作り上げたかったんだね」

 否定はしない、とローラは肩をすくめた。
 本当は世界を冒す『概念』にへの対策も行っているが、どうせ相手はそこまで知らない。

QB「だけど、それだけで組織がどうにかなるわけがない。有能なトップがいなければ組織は腐敗し瓦解するよ」

ローラ「それが?」

QB「君の代わりはいない。――そう遠くないうちに、寿命を全うするであろう君の代わりはね」

734: 2012/02/16(木) 01:40:36.27 ID:FJ6Ug0Ono

 自分が抱える『問題』についてもお見通しか。
 まぁ、無理もないだろう。ローラは卑屈そうに笑った。

ローラ「生憎と、私の代わりは既にいるわ。私よりも人に好かれていて、私よりも有能で、才に溢れた者が」

 白い修道服姿の少女を思い描いて、ローラは苦笑した。
 まったく、あれだけ“酷いこと”をしておきながら、結局自分は彼女に頼ってしまう。
 そんな自分を愚かに思う。

 キュゥべぇは、赤い瞳をこちらに向けたまま微動だにしなかった。

ローラ「納得したのなら、話を元に戻しても良いかしら」

QB「……君の言葉が事実だとすれば、契約を取り結んでエネルギーを回収するのは難しくなるかもしれないね」

 だけどそれだけだ、とキュウべぇは続けた。

QB「その気になれば君達の意思を無視して強制的に魔女へ至らしめる手法だってあるんだよ」

ローラ「それは嘘――というよりもハッタリね。手法はあっても実行はしないでしょう」

QB「なぜそう言い切れるんだい?」

ローラ「……だって、それが出来ないからあなたは今こうして私と話しているのでしょう?」

 簡単な話だ。
 人類は家畜から命を奪う時、家畜に対してあまり気を払ったりはしない。
 せめて楽に逝かせてあげよう、という気持ちはあってもそれだけだ。
 だが彼らインキュベーターは違う。それが出来ないから今こうしてせっせか地べたを歩いているのだ。

 彼らと少女。
 人類と家畜。

 この二つの組み合わせにある、決定的な差――それが知能だ。

735: 2012/02/16(木) 01:41:03.03 ID:FJ6Ug0Ono

 彼らは知的生命体に対して、ある一定の譲歩をしている。
 その結果が、人類がまともに交渉を行えている現状だ。
 例えどれだけ技術力や知識に差があろうと――彼らは人類を、自分達と同じ知的生命体として扱ってくれているのだ。
 悔しくはあるが、同時にそこは付けこむ事の出来る大きな隙でもある。

QB「確かに、その通りだ。……じゃあ、次の話をしよう」

 次の話、となると二つ目の要求だが。

QB「これに関しては、正直なんとも言えないね。君達の見返り次第だ」

ローラ「例え見返りが少なくても、これを破りたれば徹底的に邪魔をしたりけるだけよ

QB「だから何とも言えないのさ。次の話に進もう」

 ……三つ目の要求についてね。

QB「正直、僕には君の意図が見えない。僕らを使役して何をしたいんだい?」

ローラ「それは、そうね」

 なんと言えば良いのだろう。
 どちらかと言えば良心から来るものだが、しかしそれだけではない。
 迷った末に、ローラはまずキュゥべぇに対し問いかけた。

ローラ「巴マミと佐倉杏子が契約した理由、覚えている?」

QB「前者と契約したのは首輪付きの僕だし、後者の僕は昔リサイクルされたけど覚えているよ」

 なら話は早い。

736: 2012/02/16(木) 01:41:29.67 ID:FJ6Ug0Ono

ローラ「契約がなければ命を散らしかねない、彼女達のような少女を救済したることが目的よ。
     あなた達は絶望の匂いを嗅ぎ付けられるみたいだし、迅速に駆けつけられるくらいには数が多いでしょう?」

 言うなれば、お助け屋だ。願いは叶えられないが、可能な限り助力を尽くす。
 ローラの言葉に、キュゥべぇは尻尾を二度振ってから返事をした。

QB「魔法少女システムを無くした事で生まれる被害者の救済ね。その発言は僕からしても傲慢に聞こえるよ」

ローラ「でしょうね。みっともない感情で他人の運命に介入して、情けをかけるなんて……」

 だが救えるのならば。救える命があるのならば。
 十字教の精神――『汝、隣人を愛せよ』の言葉通りに行動したって罰は当たらないだろう。
 自分だけじゃない。きっと“あの少年”や“あの子”だって同じような選択をするはずだ。

 そんなローラの心中とは裏腹にキュゥべぇは、

QB「絶望と一言で纏めるけどね、それがどのような物か理解しているのかい?」
   小さな物なら友達との喧嘩や、親同士の喧嘩。玩具が壊れたから、叱られたから、とか。
   大きな物だと家族を失ったとか、瀕氏の重傷を負ったとか、生まれながらにして疎まれている、とか」

 いくつかの願いを述べた。
 そして呆れた様子で首を左右に振る。

QB「そういった絶望にあえぐ彼女達を、君達は全員救い出すつもりかい?」

ローラ「選定はするわ。他人の運命に関わるほどか否かをね」

QB「やっぱり傲慢だね。お眼鏡に適わない者は見捨てるんだろう?」

ローラ「ええ、そうなりしことね。――ところであなた、もしかしてわたしが純情可憐な乙女か何かだと勘違いしたる?」

 その程度で挫けそうになる精神なんて、父を殺そうと心に誓った時に捨ててしまっている。
 まぁ、結局殺せなかったのだが。

737: 2012/02/16(木) 01:41:56.28 ID:FJ6Ug0Ono

 目を瞑り、ほんのわずか数瞬の間だけ過去へ思いを馳せた。
 そして次に目を開いた時には既に意識は現在に向けられている。
 視界の中で、キュゥべぇは首を傾げて静かにこちらの瞳を覗きこんでいた。

QB「……不思議だね。少しばかり独善的で傲慢気質な君がなぜ十字教に拘る理由が僕には分からない」

 その言葉に、ローラは論点をずらしに来ているのかと疑い、次に頷いた。
 ずらそうとしているわけではない。恐らくこれは純粋な疑問だろう。

ローラ「十字教には恩があるからよ。それじゃ不十分になりて?」

QB「君も分かっているはずだけど、このまま文明が発展すれば宗教は肩身が狭くなっていく。
   十字教を中心とした『神』に対する信仰は薄れていくよ。科学によって十字教は終わりを迎えるんだ」

ローラ「えーそれはおかしくなきー? 過去に有名な科学者は皆一様に神を崇めたりていたわよー?」

 事実である。世に名を轟かせている著名な学者や研究者は誰も彼も信心深い者たちだ。
 もちろん中にはそういった神を信仰しない者もいたが、それは少数派という枠組みに分けられる。
 違うのは科学を突き詰めてなお宗教を否定する学園都市くらいな物である。
 もっともあそこは設立目的からしておかしいので仕方ないといえば仕方ないのだが。

ローラ「まっ、一〇〇年二〇〇年先のことは分かるまじ、そこが楽しいんじゃなくて?」

 キュゥべぇは諦めたように首を振り、

QB「だけど信仰によって全ての人を救うことは無理だ。争いだって起きている」

ローラ「されども信仰によって救われたる者もおるわよ。争いを収めることもね」

 すかさず返されたローラの言葉に、キュゥべぇ尻尾を一度大きく振った。
 もうこの話は終わりだ、と言いたいのかも知れない。


738: 2012/02/16(木) 01:42:24.14 ID:FJ6Ug0Ono

QB「分かったよ、じゃあ話を戻そう。つまり要請は、そういった絶望する少女のために動いてくれということかな」

ローラ「ええ、それで良いわ」

QB「じゃあ……仮に僕らがその三つの要求を呑んだとして、君らはどんな見返りをくれるのかな?」


 ふ、とため息を吐く。
 それからそっと自身の金の髪を右手で撫で上げる。
 見返りなんて、決まっている。


ローラ「こちら側が差し出す見返りは――――可能性よ」


 ローラの言葉を最後に、沈黙が場に流れた。
 ワルプルギスの夜が倒された今、見滝原市を騒がす者は存在しない。
 あちこちに張り巡らされた人払いのルーンを用いた結界があるせいで、外界から立ち入ることも出来ない。
 風は静かで、陽射しは暖かく。だというのに、耳が痛くなるほどに静かだ。

 ――いや、そうでもない。

 意識を集中させれば、そう遠くない場所で誰かが無邪気に騒ぐ声が聞こえてくる。
 ステイル……はないだろう。あれはそろそろニコチンが欲しくなって苛立っている頃だろう。
 とすれば、陽気な天草式十字凄教や魔法少女たちが喜んではしゃいでいるのかもしれない。

 まったく、人の気も知らないで。

 ローラが笑みを浮かべたのを合図にするように、流れていた沈黙がキュゥべぇの声によって打ち破られた。


QB「可能性とは、どういうことかな」

739: 2012/02/16(木) 01:42:51.91 ID:FJ6Ug0Ono

ローラ「我々は宇宙延命という大きな目的に向けて、全面的に協力したることを誓うわ」

QB「誓って……それだけかい? 協力したところで、何一つ解決しない可能性の方が大きいじゃないか」

ローラ「何故そう言い切れるの? こちら側の魔術のハチャメチャっぷりはそちらも重々承知の上だと思うけど」

QB「だけどそれだけだ。君達と共に歩んだところでこの解決するとは思えないし、割に合っていないよ」

ローラ「本当にそう? これでは割に合わないと、そう決断してしまうの?」

QB「文明の差を考えて見たらどうだい。君達と歩幅を合わせるくらいなら単独で研究した方が――」

ローラ「マシ、なわけないでしょう。効率第一主義のくせに非効率なシステムに頼り続けていたことが何よりの証左よ」

 キュゥべぇが尻尾をふりふり揺すった。
 その行為に何の意味があるのかは分からない。
 分からないが、相手にとって痛いところを突いたのは確かなはずだ。

ローラ「人類を遥かに上回る文明を持ちながら、それだけの技術を持っていながら。
     あなた達は遥か昔に考案されたであろう魔法少女システムに頼り続けている」

 その意味は考えなくても分かるわよね、と付け加える。
 それを聞いて、地べたに座り込んでいたキュゥべぇが立ち上がって後ろを振り向いた。
 と思ったらこちらに向き直り、ふたたび後ろを振り向き、こちらに向き直る、を繰り返し始めた。
 妙に挙動不審だ。

ローラ「……素直に認めたらどうかしら? あなた達インキュベーターの文明は、既に発展を止めて停滞したりけるのでしょう?」

 揺れていた尻尾が、ぴたりと止まった。

740: 2012/02/16(木) 01:43:31.52 ID:FJ6Ug0Ono

ローラ「取引を断れば、向こう一〇〇年はまともにエネルギーは回収出来ず。
     先の見通しが立たない文明では、魔法少女システム以外の方法を見つけらず」


 もっとも、宇宙の熱的氏を避けようとする連中の考えることだ。
 たかが一〇〇年など、彼らにとっては瞬きに等しいほどに短い時間だろう。
 だが彼らは効率を優先する種族だ。知的生命体に対してある程度の理解を示す、知恵ある者だ。


ローラ「一〇〇年間、目を瞑ってはくれないかしら?
     こちらと共に歩んで、わずかな可能性に賭けてみたりては見なきこと?」


 例えわずかであろうと、可能性があるのならば。
 効率を優先する彼らは、その道を選ぶはずだ。


QB「……そうだね」


 果たして、キュゥべぇは冷たい無機質な赤い瞳にローラを映し込む。


QB「そうする道もあるかもしれない」

741: 2012/02/16(木) 01:44:08.32 ID:FJ6Ug0Ono





















QB「だけど、この話は無かったことにさせてもらうよ」





 そう言って、首を横に振った。





742: 2012/02/16(木) 01:44:55.36 ID:FJ6Ug0Ono


『―――――――――────────────────―』


ほむら「……っ」

 地面に座り込んでいたほむらは、ふと弾かれるように顔を上げた。

ほむら「……?」

 顔を右に左に向けて、周囲の様子を探る。
 そこに想定していた面々の表情は無く、誰もが気を抜いてリラックスしていた。
 とすると、今のはなんだったのだろう。

ほむら(……声、だと思ったのだけど)

 確かに聞こえたのだ。誰かの声が。
 だがステイルや他魔術師が気付いていないのであれば、幻聴だったのかもしれない。
 それにしてはリアリティがあり過ぎた気もするが……


『――しは―――に―――のに――して――――かり―――』


 まただ。
 また誰かの声がした。

ほむら「……」

 だが皆の様子に変わりはない。
 しかし、それでも聞こえた。
 弱弱しくて、自信が無くて、力の無い声が聞こえた。

ほむら「まどか……?」

 いや、違う。まどかの声ではない。
 今の声は、確か。


『―たしは――なに―幸なのに――して―なた―かり――なの』


 この声は――

743: 2012/02/16(木) 01:45:26.49 ID:FJ6Ug0Ono

ローラ「……それは、交渉決裂ということ?」

QB「そうなるね」

ローラ「なにゆえ?」

 それは素朴な疑問だった。確かにこの交渉には多少無理があった。それは認めよう。
 だがその上で彼らはこちら側の意思に答えると彼女は踏んでいたのだ。
 なのに断られた。何故だ?

QB「僕らはあまり人類とこういった交渉をすることに慣れていなくてね。
   いくらか穴があるかもしれないけれど、君の言う見返りは確かに悪くないよ。
   魔導書と天使の力。これらはとても魅力的なものだ。研究する価値のある存在だ」

ローラ「ならば!」

QB「だけど、君たち人類と取引をする必要がなくなったからね」

 取引をする必要が無くなった。
 その言葉が意味する物はなんだ。考えろ。
 目の前の異星人の思考を読め。ヤツの狙いはなんだ。

QB「僕はさっき言ったよね。ここまでとは思わなかった、誤解していたって。その意味が分かるかい?」

ローラ「暁美ほむらの再契約を予想出来なかったのでしょう。
     負け犬の遠吠えと、さっきも言ったはずよ。それが何だと言うの?」

 内心で苛立ちが募っていくのをローラは自覚した。
 相手の意図が見えない事が、こうも腹立たしい物だとは思わなかった。
 そんなこちらの気持ちを見透かしているのか、キュゥべぇは可愛らしく小首を傾げ、

QB「ああ、君はそう解釈したんだね。それじゃあちゃんと説明しておこうかな。あれはね」

 と、一拍置き、



QB「まさか“ここ止まり”だとは思わなかった。
   僕らは少々、君のことを買い被っていたようだ、という意味だよ。」

 冷たい声で、そう告げた。

744: 2012/02/16(木) 01:46:34.41 ID:FJ6Ug0Ono

QB「僕らは君を過大評価していた。君はもっと脅威のある人物だと勘違いしていたよ。
   ところが蓋を開けてみれば――君はそこ止まりだった。美国織莉子と比べれば取るに足らない存在だった」

ローラ「何の……何の話をしている!?」

QB「僕が君に抱いていた人物評価の話だよ。
   君が美国織莉子を、いや、暁美ほむら以外の魔法少女を軽視していた時点で、全ては決まっていたんだね
   暁美ほむらにばかり注目し、彼女にとってのステイル=マグヌスのような人間を付けず、信用されなかった時点で」

ローラ「だから何の話をッ……!」

 声を荒げて地面を踏みしめたローラはふと我に返り、苛立たしげに唇を噛んだ。
 自分が相手のペースに嵌っていることに気がついたのだ。
 だが……

QB「全ての魔法少女に対し平等に、優しく接してあげれなかった時点で、君の目論見が破綻するのは確定していたんだ」

ローラ「ッ……」

QB「ひょっとすると巴マミが氏んだ時からこうなることは決定していたのかもしれないね」

 カッと頭に血が上るのを自覚し、ローラは深いため息をついた。
 落ち着け、重要なのはそこではないはずだ。
 真に優先すべきは相手の余裕の正体がなんであるのかを突き止めることだ。
 だが分からない、なぜこうも余裕でいられる。そんな優位をどうやって確保した。

ローラ「何をした?」

QB「僕は何もしていないよ」

ローラ「……は?」

QB「だから、僕は何もしていないよ」

745: 2012/02/16(木) 01:48:38.07 ID:FJ6Ug0Ono

QB「君が回りくどいことをしなければあのまま上手く行ったかもしれないのにね。
   途中からでもいいから参戦して、手助けしてあげていれば。
   一〇回やれば一回くらいは上手く行ったんだ」

 何の話をしている、とは口に出さなかった。
 おそらくは、ワルプルギスの夜の話だろう。
 だが意味が分からない。キュゥべぇの言葉の意味が理解出来ない。
 回りくどいこととはなんだ。手助けとはなんだ。何を言っている。

QB「もしそうなっていれば、僕は君が持ちかけてくるであろう取引を飲むつもりだった」

ローラ「何……?」

QB「僕にとって、君の取引に乗ることは負けでもない。乗らないことは、勝ちでもない。
   君は大変な誤解をしているようだけど――どう転がっても、僕らにとってはあまり関係が無いんだ。
   所詮はたかが一瞬の出来事に過ぎない。それによって世界が消えるわけでもないだろう。違うかい?」

ローラ「世界が……っ、まさか!?」

QB「魔女を消す概念のことなら既に把握しているよ。『彼ら』の会話も聞かせてもらったからね」

 『彼ら』という言葉が指す意味を即座に理解し、ローラは背筋が凍りつくのを感じた。

 コイツは、『概念』や人の領域を超えたアレイスター=クロウリーと同じなのだ。

 この世界に有ってこの世界に無い世界の出来事を覗き見て、盗み聞き出来るのだ。

 なんて誤算、なんて失態……!

746: 2012/02/16(木) 01:49:04.53 ID:FJ6Ug0Ono

 だが、まだ話は終わっていない。
 荒ぶる心を抑え、努めて冷静に、疑問の声を投げかける。
 そう、まだ終わってはいないのだ。まだ挽回する手立てはあるはずだ、と自分に言い聞かせながら。

 結局、肝心なことを聞き出せていないことを思い出して再度問いかける。

ローラ「……それで結局、何故取引を止めるのよ」

QB「僕らが目的を達成出来たからだよ」

ローラ「だからその意味が分かりかねるわ。というより正気になりて?」

QB「何故そう思うんだい?」

ローラ「鹿目まどかはここで寝ているし、暁美ほむらのソウルジェムも無事よ。
     その上でそちらの目的を達成しうるほどのエネルギーを、一体どうやって回収したりけるの?」

QB「その前提が崩れているのさ。だから美国織莉子の気付いた真実に気付けないんだ」

ローラ「……いいから、わたしの質問に答えなさい」

QB「そうだね。―――ちょうど今、始まるよ」

 そう告げると、キュゥべぇがその尻尾を空に向けて突き上げた。
 まるで空へ向かって伸びるような尻尾を見て、ローラは眉をひそめて訝しがる。
 その動作の意味を探ろうと意識を集中させて、

ローラ「……………………っ?」

 尻尾の先――正確には、その向こうで『黒い光』が天に向かって伸びていくのを見た。

747: 2012/02/16(木) 01:49:51.31 ID:FJ6Ug0Ono

「ほむら……?」

 そんな呟きが、全てが終わったことに安堵し、ココア味の電子タバコを咥えるステイルの口から零れた。
 別段深い意味が込められている訳ではない。
 ただ何故か呟いてしまった、程度の物だ。

(まったく、何をしているんだ僕は)

 彼は慌ててかぶりを振って、魔導書を小脇に挟んで座って休んでいるほむらの方を振り返った。
 これも別に事情があった訳ではなく、なんとなく行っただけだ。
 呟いてしまった以上、なんらかのアクションを示さないと怪しまれるという考えもあったが。
 だから彼は固まってしまった。

「ほむら……!?」

 振り返った彼の目の前で、ほむらが前のめりに倒れようとしていた。
 慌てて駆け寄ろうと試み――躊躇する。

 合理的な理由は何一つ無い。

 無いが、近づけば氏ぬと本能が警告を鳴らしていた。

 そして躊躇したことが致命的なミスであったと気付いた頃には、もう何もかも手遅れになっていた。

「ほむらッ!?」

 倒れゆく彼女の左手から、これまで遭遇したことの無いような『黒い光』が溢れ出ている。
 光は瞬く間に彼女の身体のほとんどを飲み込み、目まぐるしい速度でその体積を増やしていく。
 そんな光の間を縫うように駆け寄り、ほむらを救おうとステイルが必氏に手を伸ばし――

748: 2012/02/16(木) 01:50:22.93 ID:FJ6Ug0Ono

「バカヤロウ! 氏ぬ気かテメェ!?」

 ――だが、届かない。
 直前で背後に回りこんだ杏子によって、羽交い絞めにされてしまったからだ。

「離せ! グリーフシードを使えばまだなんとかなるかもしれないんだぞ!?」

「あんな穢れ吸いきれるかよ! 一体なにがどーなってやがる……!」

「僕が知るわけないだろう! いいから早く――」

「ちょっ、二人とも危ないっ!」

 魔法少女姿に変身して近づいてきたさやかの声に我に返るが、もう遅い。

 津波のように押し寄せる黒い光に、ステイルと杏子、さやかの三人は声を上げる間もなく飲まれた。

 何かを妬む声が、何かを羨む声が響き渡る、果ての無い黒い空間。

 その中でステイルは、



『わたしはこんなに不幸なのに、どうしてあなたばかり幸せなの』



 意識を失う寸前、全てを妬み、恨み、呪うような『暁美ほむら』の声を聞いた。

749: 2012/02/16(木) 01:53:07.73 ID:FJ6Ug0Ono

「あれは……!?」

 『黒い光』は瞬く間に空一面に広がり、ふたたび空から太陽と青の色を奪った。
 それは形を変え、性質を変え、さらに上空へと伸びていく。
 あれは恐らく……魔女の結界だ。しかしあそこまで規模が大きい物は見たことがない。
 真っ暗になった世界で、気付けばローラはキュゥべぇの首元を掴み上げていた。

「……何をッ! 何をしたッ!? 答えなさいインキュベーター!」

 息を溜めて叫ぶ。だがキュゥべぇは、

「だから、僕は何もしていないよ」

 そう、極平然と返した。

「何もしていないわけが無いでしょう! あれだけの穢れ、あれだけの呪い!
 数百人分の恨みや妬みが積み重ねなければ形成されないはずよ! お前が何かを仕掛けたとしか――」

「君のおかげだよ」

「なっ……ふざけるのもいい加減に」

「ふざけてなんかいないさ。全部、なにもかも君のおかげだよ」

「君が彼女を……暁美ほむらを『最悪の魔女』へと導いてくれたんだよ」

 そしてキュゥべぇは、広がりゆく黒い結界を背に事の真相を語り始めた。
 淡々と、当たり前のことを語るように。

750: 2012/02/16(木) 01:55:14.66 ID:FJ6Ug0Ono

「もう一度言おうか? 君が彼女を導いたんだ。最強の魔法少女に。そして最悪の魔女に」

「君は見抜けなかった。彼女に上乗せされたのは、因果だけじゃないということに
 美国織莉子が見た、最悪の未来を。破滅という名の結末を。君は予想出来なかったんだ」

「暁美ほむらの能力に気付いた時、僕には既にこうなることが予想出来ていた。
 君がいずれ真相に気付き、それまでに集めた情報を駆使して彼女を再契約させることをね」

「だから僕は何もしなかった」

「彼女は時間を“繰り返し”すぎた。世界を“乗り越え”すぎた。道徳に“背き”すぎた」

「彼女は自分を“乗り継ぎ”すぎた。自分を“使い潰し”すぎた。自分を“頃し”すぎた」

「暁美ほむらの魂は淀んでいるし、穢れているし、濁っているんだよ。君は知らなかったろう?」

「彼女の時間遡行、世界移動の仕組みを君は知っているかい?
 あれは彼女が元居た世界と類似する世界との間に道を作り出し、
 その世界に彼女の魂であるソウルジェムを送り出すことで成立するんだ」

「じゃあ……果たしてその世界にいる彼女の魂は、どうなってしまうのかな」

「もちろん答えは考えるまでも無いよね。ソウルジェムを二つ乗せるならまだしも、
 その世界の暁美ほむらの魂はソウルジェムじゃない。脆弱な人間の魂だ。分かるかい?」

「元あった魂は、ソウルジェムとの生存競争に敗れて潰えてしまうのさ。可哀想だよね」


 キュゥべぇの言葉に、ローラはどうすることも出来ない。


「彼女のソウルジェムにはね。彼女がやり直した数だけ、暁美ほむらの魂がこびりついているのさ」

「……いくら記憶が同じとはいえ、違う世界の自分に無理やり人生を奪われた彼女達はどう思うだろうね」

「彼女のソウルジェムにこびりついた、無数の彼女達の憤怒と憎悪、嫉妬に憧憬、悲嘆……絶望と呪いは」

「彼女の再契約によって、彼女のソウルジェムへと流れ込んだんだ」

 適応するのに時間が掛かったけどね、とキュゥべぇは付け加えた。

751: 2012/02/16(木) 01:56:41.08 ID:FJ6Ug0Ono

「だから僕は彼女に礼を言ったんだ。彼女はに凄いねと、そう言ったんだよ」


 ローラは、自分の認識が間違っていたことに気付いた。


「あ、あああああッ……!」


 有史以前から人類に干渉し続けるインキュベーターを、
 たかが百余年生きただけの自分がコントロールしようとしたことの愚かしさを認識した。

 異質。
 エイワスと同じ、人知の及ばない存在。


「お前、は……貴様は……ッ!!」


 力任せにキュゥべぇを地面へ叩きつける。


「貴様という存在は……ッ!!!」


 そのまま上から押し潰すように圧力を加え、ぎりぎりと首を捩じ上げ。
 だがキュゥべぇの態度は変わらない。彼は呆れた様子でやれやれと首を振るだけだ。


「……君達はいつもそうだね。事実をありのままに伝えると、決まって同じ反応をする」


「――っ」


「わけがわからないよ」

752: 2012/02/16(木) 01:57:17.68 ID:FJ6Ug0Ono



「あああああッ……!」



「あああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」



 ローラの慟哭と共に、見滝原市の上空に『砂時計』は完成した。

 砂時計はそれだけで数十キロを上回るほどに巨大な『入り口』だ。

 そんな砂時計の上部に連結された、砂時計など比にならない巨大な『それ』もまた、時を同じくして完成した。

 それの大きさは、直径約一二七〇〇キロメートル。

 その正体は、地球一つ飲み込めるほどに巨大な球状の結界だった。

 中枢に『最悪の魔女』を据えたその結界は、魔女の意思に従ってその猛威を静かに振るい始めた。

 砂時計の下部を吸入口にして、結界の下部にある地球に住む生命を吸い上げ始めたのだ。

 その結界はまるで、新しい天国のようで。

 同時に魔女の作り上げた、暗い舞台のようでもある。



753: 2012/02/16(木) 01:59:30.89 ID:FJ6Ug0Ono

「さて、いよいよ始まったか。観客はいつもの面子――概念体と覗き見が趣味の下種な異星人だけかな?」

 そう言って、大気圏の中でも外部の層に当たる熱圏を漂っていたそれは微笑を浮かべた。
 それはすぐ隣で涙を浮かべる『円環の理』の少女の様子を窺い、やはり笑う。

「彼女……ローラは気付けなかったか。こうなると、未来がどうなるか私にも想像が付かなくなってくるな」

「目の前であんな光景が繰り広げられているのに、あなたは何も感じないんですか!?」

 甲高く叫ぶ少女に対し眉をひそめると、それは卑屈そうに笑った。

「君がそれを言うとは。本来あれは君がなるべき姿だったのだが」

「黙って……! 今すぐに私を自由にしてください!」

「何故?」

「私が干渉すれば、ああなったほむらちゃんを救い出せます」

「その代わりにこの世界を見捨てるというのは少々気が引けるな」

 くつくつと、カエルの泣き声のような音を喉元から鳴らしだす。
 そんなそれの態度に少女は唇を噛み締めるが――何も出来ない。

「安心したまえ。地球が飲み込まれれば私の結界は消え、君は自由の身となる」

「どうしてほむらちゃんを傷つけたがるんですか!? ほむらちゃんはあんなに苦しんでるのに!」

「自業自得だろう。言ったはずだよ、彼女は繰り返しすぎたと。
 それにまだ、地球の滅亡が決まったわけでもない。見滝原市にはローラの張った結界がある」

 あれならあの魔女の侵食も遅らせることが出来るだろう、とそれは付け加えた。

「いずれにせよ、これで本当に最後だな。
 果たして、暁美ほむらは魔女として氏ぬのか。それとも奇跡が起きて救われるのか」

 あるいは世界が滅ぶのか。

754: 2012/02/16(木) 02:04:24.64 ID:FJ6Ug0Ono



 それは視線を地上へと向けた。



 その先では、一人の少女が走り始めていた。



 物語の要でありながら、物語に干渉出来なかった少女が。

773: 2012/02/20(月) 03:53:03.04 ID:gOl/dYXso

「……チッ。面倒臭ェことになってきやがったな」

 青いソウルジェムを弄繰り回していた一方通行は、一人呟くと天井を見上げた。
 続いてすぐそばで携帯電話越しに口論を交わしていたキャーリサを見る。
 キャーリサは携帯電話から耳を離して東の方角に視線を送っていた。
 彼女もまた、一方通行と同じように言い知れない異変を感じ取ったのかもしれない。
 やれやれ、と首を振って声を掛ける。

「状況が変わった。契約破棄……クーリングオフの実験はまた機会っつー事で良いなァ?」

「なっ、これからソウルジェムの構成を紐解くという時に何処に行くつもりなの!?」

「日本に決まってンだろォが」

 返事を待たずに携帯電話を奪い取り、代わりにソウルジェムを放って寄越す。

「一体何をするつもりだし! お前も分かっているはずだ、今から向かってももう――」

「うるせェよババァ」

 有無を言わさずにキャーリサを一蹴。
 そして携帯電話を操作してとある人物に掛けつつ、聖堂の門に向かって外に出る。
 真っ暗闇を見上げると、一方通行は携帯電話を耳に当てた。

「俺だ。オマエも気付いてンだろォが、ちィとばかし片付けなきゃならねェ仕事が増えた。ガラクタの分解は中断すンぞ」

『……それは構わないが、どうするつもりかな? 今から日本に駆けつけても間に合わないと思うが?』

 電話の相手――バードウェイの言葉に、一方通行は歪んだ笑みを浮かべて答えた。
 ばきっ、と何かがひび割れるような音と共に、その背に黒い翼が噴出する。
 黒い翼は間を空けずにさらに亀裂を生じさせ、不要になった殻を脱ぎ捨てて白い翼となって生まれ変わった。

 次いで、頭に光で構成された円形の輪を浮かべた彼は、歪んだ笑みを浮かべたまま、

「地上を走っても間に合わない、空を飛んでも間に合わない――だったらあとは“それより上”しか無ェだろォが」

774: 2012/02/20(月) 03:53:24.25 ID:gOl/dYXso

 ――こんなに走ったのは、小学生の時の運動会以来かもしれない。

 息を切らして走りながら、まどかはふとそんなことを思った。
 そんな思考とは裏腹に足は止まらず、肩は上下するのを止めず、あごに力が入るのも止められない。
 脇腹が何かに踏みつけられるようにキツく悲鳴をあげていて、肋骨は震えるように唸っている。

 辛い。痛い。苦しい。
 自分の背負い込んだ物や事情など全て投げ出して、その辺りに寝転んでしまいたい。
 だけど体はまだ動く。まだ走ることが出来る。だから止まらないし、止められない。

 まどかは走るのが得意じゃない。
 というより、体を動かすこと全般が得意ではないし、好きでもなかった。
 どれだけ頑張っても成果は現れないし、努力は報われないからと、そう決め付けていたからだ。

 だけど今は違う。
 得意じゃないし好きでもないことに変わりはないが、
 それでも今は走れることに感謝している。走ることの出来る自分の体に感謝している。

 辛いし、痛いし、苦しいが、走っていれば無駄なことを考える余裕が無くなる。
 朦朧とした意識の中で聞いた、ほむらに降りかかった不幸を気に病むこともなければ、
 今上空で何が起こっているのかを気にする必要もなくなるからだ。

 ただ前へ突き進む。
 泥にまみれ、身体のあちこちを擦り剥いて血を流しながら走る。
 とても苦しいが、きっと彼女は、ほむらは自分以上に苦しい思いをしてきたに違いない。
 そんな彼女に何か出来るとしたら、走ることくらいしかない。

 ――だから私は、走る。

 今の彼女には、それしか出来ない。

 戦いの余波で荒れた街の中を必氏に走り、道を塞ぐ瓦礫を乗り越えて――

775: 2012/02/20(月) 03:54:03.92 ID:gOl/dYXso

「ストーップ! そこの女子、ちょっと止まってくれるかにゃー?」

 地面に着地したまどかは、場の雰囲気にそぐわない明るい声を聞いた。
 声のした方向に目を向ける。
 視線の先には、アロハシャツにサングラス姿の怪しい青年がいた。

「おっと、言っておくが俺は怪しい者じゃない。ステイルの元同僚って言えば分かるか?」

「ステイルくんの……ですか?」

「ああ。……ところでお前さん、いまどこに向かおうとしてた?」

 まどかはわずかに息を呑み、告げるべきか否か躊躇った。
 そのまどかの逡巡を見抜いたのか、まどかと対峙する彼は肩をすくめてため息を吐いた。

「まっ、行き先見りゃ聞かなくたって答えは分かるがな。だがどうするつもりだ?」

「え?」

「暁美ほむらの――魔女の下に駆けつけて、どうするつもりだ。今回は美樹さやかの時とは事情が違うぞ」

 青年の言葉に、まどかは眉間に皺を刻んだ。
 ステイルの元同僚なのだから、さやかの事を知っていてもおかしくはない。
 そして今の状況が、どれほど深刻であるのか知っていてもおかしくはない。

「私は……」

 胸中を渦巻く思いを吐き出せば、目の前の青年は行く手を阻むだろう。
 だけど――

「私は」

 まどかは自分を偽らず、素直に自分の思いのありったけを相手にぶつけようとした。

776: 2012/02/20(月) 03:54:30.58 ID:gOl/dYXso

「はいまたまたストーップ! 気持ちは分かった、好きにすると良いにゃー」

「ええっ!?」

 こちらの言葉を待たずに両手を挙げた青年に、まどかはあからさまに動揺した。
 だが彼はそんなことなど気にせず後ろを振り向き声を張り上げた。

「――さっさと出てきたらどうだ? どうせ見ているんだろう、インキュベーター!」

 彼の言葉に自然と身体が固まる。
 荒れていた息が元に戻りつつあるのを実感する。
 同時に全身が重たく、筋肉が悲鳴をあげているのが分かった。
 そんなことを考えていると、目の前の男の足元に新たな影が生まれた。キュゥべぇだ。
 首に黒い首輪が着いているので、体育館で見かけた彼かもしれない。

「やれやれ、上手く気配は消していたつもりなんだけどね」

「これでもやり手のスパイなんでな。そんなことよりも……っと!」

 彼はキュゥべぇの首輪を掴むと、そのまままどかの方へ近づいてきた。
 そして汚れ一つ無いキュゥべぇを彼女の肩に乗せ、笑みを浮かべた。

「連れて行け。契約しようとしまいと、なにかと役に立つからな。お前さんの道案内くらいは出来るはずだ」

「え? あの、でも私はっ」

「ストップ、それからお守り代わりの十字架だ。これがあればちょっとした呪い程度は弾ける」

 そう言って十字架をまどかの首に掛けると、彼はわずかに黙り込んだ。
 微かに逡巡の色を含んだ表情のまま、まどかに問いかける。

「最後に二つ、質問がある」

「……なんですか?」

777: 2012/02/20(月) 03:55:14.58 ID:gOl/dYXso

「さっきも言ったが、今回は事情が違う」

「それは分かってます」

「じゃあ――助けられなかったら、その時お前はどうする?」

「それ、は……」

 駆けつけても、助けられなければ意味が無い。
 そして助けることは、不可能に近い。いや、むしろ不可能だろう。
 契約すればほむらをより一層苦しめてしまう。そもそも自分が契約して彼女を救えるのかどうかさえ分からない。
 だからまどかは、正直に自分の心を告げた。

「考えていません」

「なっ……!」

「考えたくないんです、ほむらちゃんを助けられなかったことなんて。だから、考えていません」

 サングラスに遮られて、対面に立つ彼の表情は窺えない。
 だがその口は大きく開けられていて、自分の発言に呆れていることだけは分かった。
 ところが青年は、口を大きく開いたまま頷いて、わずかに口角を上げて笑みを作った。

「……カミやんを思い出しちまったにゃー……だがそうか。んじゃあ最後の質問だ」

 青年は右手を差し出した。

「ざっと一五〇メートル、全力で走れるか?」

 その言葉に応える様にまどかは差し出された手を握り締めて頷いた。

「はい、走れます!」

 青年は笑って握り返しながら、口の端をにぃっと吊り上げた。

「んじゃあ行こうぜ。――暁美ほむらを助けるに、な」

778: 2012/02/20(月) 03:56:05.67 ID:gOl/dYXso

「――結界、第三層まで崩壊したみたいです! これ以上は無理ですよ建宮さん!」

 五和の悲鳴に、建宮は頷いた。

「結界張り巡らしてる魔術師は第五層まで全員後退。第五層の結界に尽力するのよな。
 ただしルーン魔術師には第八層にありったけのルーンを刻ませろ。使える物は霊装だろうとなんだろうと容赦なく使え」

 下された指示を伝えるために、隣にいた対馬が弾かれるような勢いで走り出す。
 それを見届けると建宮は苛立たしげに唇を噛んだ。
 肩を下ろし、空を――砂時計の底面を見上げる。

 彼らが魔女の出現を察知した時には、既に砂時計は完成してしまっていた。
 最初の数秒で、疲弊していた魔術師が四名が何の前触れも無く意識を失い。
 続く十秒で香焼や野母崎が倒れ、対抗策を取ろうとした時には全体の半数が立つことすら叶わぬ状態にあった。

 結界による生命力の吸い上げだ。
 彼らが命を失わなかったのは、この街全体を覆っている『特殊な結界』と龍脈のおかげに他ならない。

 その状態から陣形を立て直すことが出来たのは、もはや幸運としか言いようがない。

 そして残る魔術師を動員して砂時計の真下を中心に築き上げられた八つの円状の結界の内、
 内から数えて三番目までもが破られてしまった。

「生命力を吸い上げる魔女の結界だなんて、正直対抗策がまったく思い浮かばんのよな……」

 泣き言を言ったところでどうにもならないのは百も承知だ。
 だがこの結界が相手では、分が悪すぎた。

(結界で吸収を押さえ込んでも、魔力を吸われちまえば意味はない。物量で畳み掛けてもじり貧とありゃあ……)

779: 2012/02/20(月) 03:56:41.43 ID:gOl/dYXso

 などと考えていると、懐に忍ばせておいた通信用の霊装がわずかに震え出した。
 ワルプルギスの夜が撒き散らした魔力のせいで手持ちの霊装ではほとんど通信できないはずなのに、だ。
 怪訝に思いつつ手に当てると、すぐに聞きなれた声が頭の中に鳴り響いた。
 シェリー=クロムウェルの声だ。

『今そっちに向かってるわ。なんだかヤバそうみたいね』

『そうって言うか実際かなりヤバめなのよな――ってちょっと待て、お前さん今どこで何してる?』

『瓦礫ん中を匍匐前進してる。まぁそんなことはどうだっていいんだ、神裂からの伝言とこっちが持ってる情報を伝えるぞ』

 神裂――女教皇様からの伝言と聞いて、建宮は一瞬息を呑んだ。
 意識が回復したことに喜び、次に彼女に心配を掛けさせてしまったことを悔やむ。
 そして通信がやけにクリアな理由が、彼女のフォローによるものだと気付いた。

『まず先に情報ね。あー……結構前に鹿目まどかが体育館を脱走したそうよ。向こうも手一杯で連絡が遅れたみたいね』

 この緊急時になんてことを。
 だが脱走されても文句は言えないな、と建宮は苦笑を浮かべて頷いた。

『見つけたら保護するのよな。他は?』

『これはイギリス清教からなんだが、そこにローラ=スチュアートはいるか?』

『残念ながらいないのよな。どこで陰謀企ててるのやら』

『陰謀なら良いんだけどね。神裂の話じゃ……いえ、なんでもないわ。あと、王室派が戦力を派遣してくれたそうよ』

 援軍派遣。本来であれば喜ぶべき情報に、しかし建宮は内心で舌打ちした。
 今から戦力を派遣したところで、間に合うわけがない。ここからイギリスまで何千キロあると思っているのか。
 無論、誰もこの状況を予見できなかったのだから仕方がないということは分かっている。
 分かっているが、それでも建宮の苛立ちは消えない。

780: 2012/02/20(月) 03:59:50.14 ID:gOl/dYXso

 そんな気持ちを誤魔化す様に建宮は霊装に向かって念じた。

『んで、女教皇様からの伝言は?』

『ああ、それ――――どかのことを止め――――んにんの意思――――』

 ここに来て声が途切れがちになり、ノイズが酷くなってきた。
 霊装に魔力を込めるが、音質は一向に改善されない。

『バード――――らのために――――の祈りが――――』

 結局伝言の大部分が聞き取れないまま、それっきり声は途絶えてしまった。
 思わず霊装を強く握り締める。
 そんな折、隣で地図とにらめっこしていた五和が突然後ろを振り返って明るい声を上げた。

「――美国さん、無事だったんですね!」

 五和が言い終わると同時に建宮はフランブルジェを手に取って後ろを振り向き、
 そのまま空いている手で五和を自分の後ろ背に引き込んだ。
 油断無くフランベルジェ構えて、眼前にいる魔法少女――キリカを抱きかかえた織莉子を睨みつける。

「建宮さん?」

「話はステイルからこそっと聞いてるのよな。暁美ほむらを殺そうとしたことも、良からぬ企み持ってることも!」

 織莉子は表情一つ変えないまま首を振った。

「安心しなさい。私達には貴方達をどうこうする意思はないわ」

「信用すると思うか?」

「別に信用せずとも結構よ。だってもう、何もかも遅いのだから」

781: 2012/02/20(月) 04:00:27.14 ID:gOl/dYXso

「なーんの話をしてんのよな?」

「最悪の魔女に全てを台無しにされた、哀れで美しい、どうしようもない世界のお話よ」

 イライラする話し方だ。
 眉間に皺が寄るのを自覚しながら、もう一度フランベルジェを構え直す。

「あんたの話は興味深いが、こっちも忙しいのよな。もうちょっと分かりやすく話してもらえると助かるんだが」

「……この世界は、もう間もなく滅ぶ」

「そんなこたぁまーだ分からんのよ」

「暁美ほむらは再契約を果たし、魔女になったのでしょう? なら、それが答えですよ」

「……まるで全部知ってましたってぇ口振りよな」

 織莉子は腕の中のキリカに視線を落として、優しく微笑んだ。

「ええ、識っていたわ。私が見た四つの結末(バッド・エンド)の内の一つだもの」

 フランベルジェを振り回している自分が言えた身分ではないが……
 いちいち気障な台詞を吐かないと気が済まないのだろうか。
 横目で結界の状況を窺いつつ、建宮は話の先を促すように頷いた。

「私が見た未来の内、一つは全てが無為になる結末だった。
 二つ目が、鹿目まどかが最悪の魔女となって世界が滅ぶ結末。
 そして三つ目が、ワルプルギスの夜によって大勢の犠牲者を出しながらも世界が存続する最良の結末よ」

「んじゃ、そのどれでもない今の世界の結末はどうなるのよな?」

「……言ったでしょう。もう間もなく滅ぶ、と」

782: 2012/02/20(月) 04:01:26.51 ID:gOl/dYXso

「……知っていたなら、どうして全て話してくれなかった? 共に協力する道を模索しなかったのよな?」

「正直に打ち明けたら、貴方達は鹿目まどかを頃すことを許したの? 暁美ほむらを頃すことを肯定したの?」

「それとこれとは話が――」

「違わないわ。貴方達が美樹さやかを救った時、私は貴方達のことを信じてみようと思った。でも無理だった」

 美樹さやかのことを完全に救い切れなかったことを指しているのだろう。

「結局結末は変わらなかった。だから私達だけで世界を救おうとした。……神父さえ邪魔していなければ、今頃は……」

「だが俺達はあんたに歩み寄ったはずなのよな。ワルプルギスの夜に向けて協力しようと、手を取り合ったはずだ!」

「それは私の魔法に魅力を感じたからでしょう。私を利用しようとしただけ。だから私も利用した、それだけよ」

 否定は出来なかった。
 織莉子と交渉を行っていたのは神裂だ。
 そして彼女が織莉子とコンタクトを取ったのは、杏子やさやかの抱える現実や、
 立ち塞がる障害を跳ね除けるために織莉子の力が役に立つと考えたからだ。

 神裂がそんな打算だけで動く人間でないことを、建宮は知っている。
 だが、短い時間の中でしっかりとした信頼関係を築けたかどうかまでは断言できない。

「もう遅いわ。全て終わる。最悪の魔女に呑まれて、何もかも」

 そう言って黙ると、、彼女は手の中でぴくりとも動かないキリカに笑いかけた。
 ……ぴくりとも動かない?

「呉キリカは……氏んでるのか?」

 織莉子は笑みを絶やさずに、穏やかな目のまま口を開いた。

「肉体の損傷が激しいから穢れを増やさないように接続(リンク)を断っているだけ。世界が終わる瞬間に起こす約束よ」

 二人で一緒に世界の終わりを見届けるの、と彼女は嬉しそうに語った。

783: 2012/02/20(月) 04:02:12.49 ID:gOl/dYXso

 二人は確固たる絆で結ばれているのだろう。
 音も無くフランベルジェを下ろすと、建宮は五和に目配せした。
 意図を察した五和が頷き、織莉子の下に駆け寄る。

「……何の用?」

「手当て、させてください」

 織莉子が訝しげな視線を五和と建宮に送った。
 対する建宮は首を振ってフランベルジェを肩に乗せた。
 短くため息を吐き出す。

「今からでも遅くないのよな。信頼関係、築いたって良いだろう?」

「……世界が終わるのに?」

「勝手に決めるな――って、少年漫画の主人公ばりに格好付けても良いところよな? これって」

 織莉子は鼻で笑って、キリカを地面に下ろした。
 淡い輝きと共に、キリカのソウルジェムが肉体と接続される。
 キリカがわずかに息を漏らしたのと合わせる様に、五和も治療を開始する。
 天使の力と霊脈の力、そして五和の魔力を一身に浴びて、キリカの身体が徐々に回復していく。

 その様子を間近で見ながら、しかし建宮はふたたびフランベルジェを振り下ろして構えた。
 何かが潜む気配がする。

「……あんた以外にも、良からぬ企てをしてるヤツがいるみたいなのよな。お仲間か?」

「私がキリカ以外に心を許すと思うの?」

「あんたとの付き合いは短いから分からんのよな――っと」

784: 2012/02/20(月) 04:02:39.06 ID:gOl/dYXso

 自立歩行が可能な程度には回復したキリカと織莉子を後ろに下がらせ、五和と共に虚空を睨みつける。

「そこに隠れてるヤツ、悪いことは言わないからさっさと姿を見せたらどうなのよな」

 衣擦れの音がする。
 わずかに左、砕けたコンクリートブロックの山の下だ。

「見ての通り、俺達には時間が無い。ここでつまらんいざこざに時間を取られたくはないのよな!」

 建宮の言葉に同調したのか、気配の主は山のすぐ隣にその姿を現した。
 驚くべきことに、その正体はまだ一六か七の男子高校生だ。
 その男子高校生は、日本人受けの良さそうな柔和な笑みを浮かべて口を開いた。

「いやぁ良かった、僕は海原光貴と言います。実は災害のせいで皆とはぐれてしまいまして。困っていたところなんですよ」

「……困っていた、ねぇ」

 フランベルジェを鋭く構える。

「その割に全身から魔力をぷんぷん放ってるのは何故なのよな? 繰り返すが、俺達には時間が無い」

 だから、とフランベルジェを操り、海原を名乗る相手の両手――
 ポケットに突っ込まれたままの右手と背中に隠された左手を指し示す。

「……悪いことは言わないから、さっさと両手を挙げろ。でないと攻撃するぞ」

 その時、そばに寄り添って背後を見ていた五和が小声で何かを呟いた。
 結界の第四層が破られた、という旨の報告だった。
 これで残すは第五から第八までの結界のみになる。
 第五は力を注いでいるが、このままだと破られるのは時間の問題だ。

「もう一度言う。両手を挙げろ。三度目は無いぞ」

785: 2012/02/20(月) 04:03:08.19 ID:gOl/dYXso

 海原はやはり柔和な笑みを浮かべたまま、仕方なさそうに首を振った。

「面白い物など何もありませんよ。本当です。だってほら――」

 彼は喋りながら右手を引き抜き、前へ差し出した。
 余りにも自然な動作だったので、握手を求めているのかと勘違いしてしまったほどだ。
 だがそれはありえない。彼と建宮との間には、一〇メートル以上の距離が広がっているのだから。

「――何の変哲も無い、ただのトラウィスカルパンテクウトリの槍があるだけですから」

 トラウィ……なんだって?
 名前に呆気に取られてる隙に、彼の右手に握られた黒いナイフが輝いた。
 と同時に、彼に向かって突き出していたフランベルジェの刃が付け根から取れて“分解”された。

「なっ……!?」

「ね? ただのトラウィスカルパンテクウトリの槍です。ああでも安心してください。
 トラウィスカルパンテクウトリの槍は金星の光を操って攻撃するものでして、
 刃に上手く金星の光を当てられるポイントはこの場所しかありません。上空のあれのせいです。だから一歩でも動いたら――」

「五和ッ!」

 建宮の怒号と共に、五和が姿勢を低くした。
 巧妙に地面に伏せられていた海軍用船上槍――フリウリスピアを拾い直し、すかさず投げつける。
 槍は地面を滑るように空気を切り裂き、海原が足を着けている地面を粉々に吹き飛ばした。

 衝撃波に当てられてよろめく海原。
 そんな彼目掛けて、建宮は刃の無くなったフランベルジェの柄を投げつけた。
 柄は真っ直ぐに突き進み、海原の頭の位置まで届いて――

「では今度はこちらをどうぞ」

 海原が左手を振りかざした。
 連動するように彼の手から伸びる巻物状の『何か』がフランベルジェの柄を吹き飛ばした。
 あの重々しい魔力、嫌な気配。間違いない。

「魔導書の原典か……ッ!」

786: 2012/02/20(月) 04:03:41.86 ID:gOl/dYXso

 警戒を強くする建宮は、だがすぐに異変に気付いた。
 原点を持った敵がいる。それはいい。だがなぜ彼はこのタイミングで現れ、そして笑ったまま立ち止まっている。
 なにかある。何か裏が。例えば――

「例えばそう、伏兵がいるとかなのよなぁ!」

 叫びながら五和を押しのけ、地面に落ちているフランベルジェの刃の欠片を虚空に向かって投げつける。
 欠片は虚空を裂いて一定の距離まで飛んでいくと――カンッ、と音を立てて地面に落ちていった。
 ややあって、虚空が陽炎のように揺らいだ。
 次いで、その揺らぎが人の形を作り始め――露になった姿を目にして、建宮は思わず声を上げた。

「なんで……なんでそこにいるのよなぁ、土御門元春ッ!!」

 元イギリス清教第零聖堂区――必要悪の教会(ネセサリウス)に所属していた男がそこにいた。
 ご丁寧にも、トレードマークのアロハシャツとサングラスはそのままだ。

「バレちまっちゃあ仕方がない。おっと、動くなよお前ら。俺にはお前らをぶちのめす秘策があるんだぜい!」

 土御門の言葉に、自然と身体が固まる。
 この男はローラ=スチュアートと繋がりがあることが危惧されている要注意人物だ。
 迂闊に手は出せない――と歯噛みしていると、

「ふふん、言っておくがこの秘策は――っえほっ、げほっ、っぷあ!!」

 盛大に吐血した。

「あーマズイ、こりゃあ幻影魔術はカットだにゃー」

 その言葉と共に、新たな気配がもう一つ生まれた。
 場所は向かって右手側、結界の方向。
 決して強くない。大きくも無い。どちらかと言えば小柄な、少女のような気配。違う、ような、ではない……!
 咄嗟に振り向き、その気配の正体を確認した建宮が吼えるようにその者の名を叫んだ。

「――――インキュベーターに、鹿目まどかッ!?」

787: 2012/02/20(月) 04:04:12.24 ID:gOl/dYXso

 批判めいた建宮の声を背に受けながら、左肩にキュゥべぇを乗せたまどかは立ち止まらなかった。
 身体を覆う、陽炎のようなヴェールが消えてゆく。
 それは事前に説明されていた、土御門のフォローが途絶えたことを現していた。
 もう自分の姿は皆に見えている。

 結界まで、あと残る距離は一〇〇メートル近く。

 それまで足を止めることは、絶対にあってはならない。

「何としてでも止めろ対馬ぁ!」

 建宮の声がして、まどかは地面に落としていた視線を正面へと向けた。
 手前、数十メートルの位置に、天草式に所属する女性の魔術師、対馬がいる。
 彼女はこちらに向けていた背を逸らし、半身をこちらに向けた。
 その手元にはなにやら難しそうな道具が並んでいて、結界をどうにかする物だとまどかは察した。

 向こうは思うように動けない。
 だったらこちらがずれれば、それでどうにかなる。
 そう考えてわずかに進行方向をずらしてから、まどかは対馬の左手が掲げられていることに気付いた。

「来るよ、まどか!」

 キュゥべぇの言葉で、まどかはようやく相手の意図を察した。
 何かを投げる気だ。誰に向かって?
 考えるまでも無く、自分に向かってだ。

(どうしよう、私……)

 彼女は自分よりもずっと強い人だ。まともに投げられたら避けることは不可能だろう。
 相手が狙う場所はどこだ?
 手前には少し高いコンクリートブロックがあるから足元は狙えない。とすると上半身だ。
 両手、それはないだろう。激しく動かしているからまともには当たらないはずだ
 となると胴体か頭。恐らく胴体――胸か鳩尾狙いだ。
 先ほど建宮が剣の柄を投げた光景を思い出して、まどかはわずかに身体を震わせた。

(あんなの当たったら、絶対倒れちゃうよ……!)

788: 2012/02/20(月) 04:05:13.13 ID:gOl/dYXso

 相手は倒す気で止めようとしているのだから、それは当然だ。

 どうする、どうする、どうする――

 答えが出ない内に、対馬が左手を振りかざした。
 それを見たまどかは、気付かぬうちに姿勢を低くして――胸の辺りの位置に、頭を下げていた。

「え、ちょ、あぶな――ッ!?」

 対馬の声が耳に届いたのと、額の辺りに激痛が走ったのはほとんど一緒だった。

 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い――!

 痛い、熱い、痒い、今すぐに横になりたい、何かに怒りをぶつけたい――!

 頭が激しく揺さぶられて、上半身が激しく仰け反る。
 閉ざされた目蓋の向こうがちかちかと白く光って、全身が重くなって――

「――――――ッ!」

 だが、足は前に出ていた。

 後ろへ仰け反った身体を前に倒すような勢いでもう一歩踏み出し、さらに一歩踏み出し――

「――ぁぁぁぁあああああ!!」

 叫びながら、ふたたび走り出す。
 痛さは消えない。熱さも、頭の中が揺れる感覚も。
 視界は涙でにじんでいて、眉間や鼻筋の辺りには生暖かい液体――額から流れ出る血が伝っている。

 それでもまどかはめげなかった。投げ出さなかった。諦めなかった。

789: 2012/02/20(月) 04:05:49.36 ID:gOl/dYXso

「倒れないって、嘘でしょ!?」

 驚く対馬の声がする。
 気付けば彼女は手元にあった道具を放り出して、右手をこちらに向けて伸ばしていた。
 二人の距離は極わずかだ。だがまどかは止まらない。

 あと三歩で対馬のいるラインを追い越せる。あと二歩、一歩――

「捕まえたわ!」

 寸でのところで対馬の右手がまどかの右肩を掴んだ。
 それでもまどかは立ち止まらない。

 一歩を踏み出し、右肩で見えない壁をタックルするように身体を押し出す――!

「きゃあああっ!?」

 衝撃で対馬の手が弾かれる。
 視界の隅で地面に身体を打ちつける対馬に心の中で謝りながらひた走る。
 走って、走って、息が切れた状態でも構わず足を動かし、筋肉に檄を飛ばして必氏に走る。
 だが、そんな彼女の決意を揺らがせるようにキュゥべぇがまどかに告げた。

「まだだまどか! 正面に二人いるよ!」

 慌てて目を向ければ――そこには二人の魔法少女が立っていた。
 一人は黒く、一人は白い。
 彼女達はまどかの行く手を阻むように肩を並べていた。

「そこまでよ、鹿目まどか!」

「そこまでだよ、最悪の魔女候補!」

 二人の声が、耳に届く。

790: 2012/02/20(月) 04:06:17.94 ID:gOl/dYXso

「そこまでよ、鹿目まどか」

 必氏に走る少女を目の前にして、それでも織莉子は極々冷静であり続けた。
 もう結果は変わらないと、彼女は知っている。
 だから無駄な足掻きをする少女を踏みとどまらせようと思っていた。


「あなたがそこまでする必要は無いわ。分かったら立ち止まりなさい」


 少女は立ち止まらない。


「そもそも、あなたにとって暁美ほむらはそこまで重要な人間じゃないでしょう。残された時間を有意義に使いなさい」


 少女は立ち止まらない。


「……あなたはまだ、暁美ほむらとたった三週間しか過ごしていないのよ?」


 ……少女は立ち止まらない。


「どうして? 何故そこまで出来るの……!?」



 少女は、立ち止まらなかった。

791: 2012/02/20(月) 04:08:10.46 ID:gOl/dYXso

 分からない、と織莉子は思う。

 何故そうまでして、彼女は暁美ほむらを助けようとするのだ。
 幾多の世界で助けられた恩? 彼女と身勝手な約束を結んだ別世界の自分に対する後悔?
 だが彼女とは関係ないはずだ。彼女は彼女であって、別世界の鹿目まどかとはなんら関係が無い。
 彼女が責任を感じる必要は、これっぽっちもありはしない。

 なのに何故、そこまで出来る。
 
 全身から汗を流し、体中を擦り剥いて、泥だらけの状態で、額から血を流して、涙を目に溜めていながら。
 魔法少女ですらないのに、どうして――?
 疑問が心の中に渦を巻いて広がってゆく。
 そんな時、右隣に並んで立っていたキリカがぼそりと呟いた。

「……時間なんて、関係ないんだよ」

「え?」

「理由も、関係ない。私は織莉子と一緒になってまだ日が浅いけど、一緒になった理由だってくだらないけど」

 だけど、とキリカは喉を震わしていた。
 その視線は、すぐ目の前を走る鹿目まどかに釘付けになっている。

「理屈じゃないんだ。私は織莉子が大好きだ。愛している。だからきっと、彼女も――」

 キリカに倣うように、織莉子もまたまどかへ視線を向けた。
 彼女は頭を突き出すように走りながら、声を大にして叫んだ。


「――とにかく私は、ほむらちゃんを助けたいんですっ!!」


 こちらが出した質問にまるで答えていない。
 だが織莉子は、憑き物が落ちたような表情でキリカを見た。
 今日まで自分についてきてくれた……“美国織莉子”ではなく、“織莉子”についてきてくれた少女の瞳をじっと覗き込んだ。

792: 2012/02/20(月) 04:10:59.42 ID:gOl/dYXso

 気付けば二人は、揃って右に、左に、半身をずらしていた。

 道が出来る。

 魔女の結界へ繋がる、魔術の結界の向こう側へと通じる一本道が。

 礼を述べる代わりに頷くと、まどかは躊躇うことなく二人の間に割って入り、突き進んだ。

 結界を構築するのに忙しそうな魔術師の横を通り過ぎ、淡い光の膜を突き破り――

「魔女の結界の影響下に入った! 気をつけて、まどか!」

 キュゥべぇの声と共に、まどかの身体を包み込むよう薄い水の膜が形成された。

 それはシャボン玉のようにまどかを包み込んだままふわりと浮かび上がる。

「これって……土御門さんが言ってた魔術?」

 水の膜に触れようとしたまどかは、しかし激しく意識を揺さぶられた。

 気付けば彼女の身体は、遥か上空にあった。

 一つの生命力と誤認されたシャボン玉ごと、魔女の結界に吸い寄せられているのだ。

 気圧の変化による影響は無いが、それでも衝撃は来る。

 まどかは、その視界が真っ黒い闇に覆い尽くされる瞬間。

 背中に翼を生やして頭にわっかを浮かべた、人相の悪い天使を見たような気がした。

793: 2012/02/20(月) 04:11:39.20 ID:gOl/dYXso

「――何考えてんだ、おいッ!!」

 怒鳴りながら、建宮は口元から血を流す土御門の襟元を掴み上げた。

「なんでインキュベーターと彼女を行かせた!? ふざけるのも大概にしろ!!」

「そう怒鳴るなよ、教皇代理。俺は問題解決のために尽力しただけだぜぃ?」

 頭に血が上るのが実感できる。
 二、三発殴ろうかと考えて、しかしそんなことをしている場合じゃないことに気付いて地面を蹴った。

「一から説明しろ、言っとくが鹿目まどかを契約させて問題解決だなんてほざいたら叩き潰すのよな」

「安心しろ、もっとクールでキレイな解決方法だ」

 建宮の腕から逃れた土御門は、そう言って笑った。
 そして口元を手の甲で拭い、サングラスを掛け直す。

「実はさっき、鹿目まどかにある物を渡してな。歩く教会の成分を抽出したケルト十字だ」

 歩く教会、無敵の防御霊装の成分を抽出したケルト十字。
 さすがに抽出元と同じように本格的な魔術に対しては対抗出来ないが、
 それでも小さな呪いや異能の力を払ったり抑えたりすることは出来る代物だ。

「それにある細工を仕掛けていてな。これによって、十字架は別の物品に様変わりっとぁけだ」

「……その物品ってのは、何なのよ」



「んー、何てことはない。口で説明すると……そうだな、単なる≪爆弾≫だ」



 気付けば建宮は、土御門の頬を殴り飛ばしていた。

794: 2012/02/20(月) 04:12:11.50 ID:gOl/dYXso

「――今なんて言ったのよな、あぁ!?」

「うおっ、口の中が血だらけだぜぃ」

「土御門元春ッ!」

 まぁまぁ、と魔導書の原典を片手に海原が二人の間に割って入った。
 これ以上無駄に暴れれば実力で捻じ伏せると、そう言いたいのだろう。
 だが建宮はその制止を無視して土御門を睨みつけた。彼は肩をすくめておどけてみせる。それから口を開いた。

「鹿目まどかが結界の中枢に辿り着いた時点で仕掛けが起動し、魔女と接触した時点で起爆する仕掛けの爆弾だ」

「ひどい……ッ!」

 対馬と五和の、悲鳴にも似た声が響き渡る。
 土御門はうんざりしたような調子でかぶりを振り、上空に広がる砂時計の底を右の親指で指し示した。

「お前らまさか、犠牲無しでアレをどうにかできるとか本気で思ってたのか?」

「――ッ」

「トーシロのガキじゃあるまいし、プロの魔術師だったらもっと現実を見ることだな。
 アレはこの星全体をどうにかしちまうようなイカれた物だぞ。第三次世界大戦なんかとは比べ物にならないんだ」

 土御門の言葉は正論だ。
 正論だからこそ――建宮の怒りは収まらない。

「詳しい起爆方法や仕掛けはアレが消えた時にでもゆっくり話すとして……ひとまず俺達に出来ることをやろうじゃないか」

「……ステイル=マグヌスだっているんだぞ、結界の中に」

「それがどうした?」

795: 2012/02/20(月) 04:13:07.54 ID:gOl/dYXso

 何が言いたい、と土御門は首を捻った。
 その態度に、建宮の怒りはますます大きくなる。

「結界が消えればステイルも氏ぬ。佐倉杏子も美樹さやかもだ。
 仮に生き残ったとしても、あいつらはお前のことを一生許さないだろう」

「……本気でそう思ってるのか?」

「当たり前だ、そうに決まってるのよな!」

 建宮の言葉に、土御門は呆れ顔を作って肩をすくめた。

「だとしたらお前は、ステイルを何にも理解してないってことだな」

「何だと……?」

 土御門は視線を空へと向けながら、感慨深げに言葉を紡いだ。

「俺とあいつは付き合いが長い。だから分かる、あいつは馬鹿じゃない。
 きっと今頃あいつは、自分に課せられた役割を思い出して、静かに刃を研ぎ澄ませているだろうさ」

 全てを終わらせるためにな、と土御門は言った。
 その場に重たい空気が流れ、沈黙が生じる。
 こうしている今も、魔術側の結界は破られつつあると言うのに、身体は動かなかった。

 しかしそんな沈黙は、


「――おいおい何だこの通夜みてェな雰囲気は。俺みたいな常識人はお邪魔でしたってかァ?」


 空から降り注いだ声によって、打ち破られた。

796: 2012/02/20(月) 04:14:02.01 ID:gOl/dYXso

「よう、早かったにゃー一方通行」

「なンでオマエがここにいるんだよ、シスコン変態野郎が」

「お久しぶりです、一方通行」

「誰だオマエ」

「えぇ!? う、海原ですよ!? あなたと一緒に働いていたあの海原光貴です!」

 うろたえる海原を無視して、空から舞い降りた天使のような姿の一方通行が着地した。
 そしてそのまま周囲を睨みつけて、小さくため息を吐く。

「どいつもこいつも辛気臭い顔しやがって。不幸が移るだろォが」

「お前さんが……王室派が派遣した援軍なのか!?」

 建宮の言葉に、一方通行は忌々しそうに頷いた。

「……ところで一方通行、マジでお前どうやってここまで来たんだ」

「自転と地球に流れる力を操って弾道飛行して、大気の外側ギリギリを飛ンで来たに決まってンだろォが」

 彼はそう言うと、大きく目を見開いて上空の砂時計を見上げた。
 その視線は相手を射抜くように鋭い。

「――で、具体的には何をどォすりゃ良いンだ? 流石にコイツをぶっ飛ばすのは俺でも難しいぞ」

「んー、そうだな、ひとまずは……」

 悩む仕草をした後、土御門はにやりと笑ってこう言った。


「鹿目まどかが全部終わらせるまで押さえ込んでくれれば、それで十分だぜい」

821: 2012/03/01(木) 02:05:16.97 ID:nPimD933o

「ここって結界の中なのかな?」

「だろうね。そしておそらくだけど、僕らはその中心部へと近づきつつあると思うよ」

 二人は土御門の構築した水玉状の結界に守られながらその外に広がる別の結界を眺めていた。

 まどかの目の前に広がるのは、いくつもの色を持った光だ。
 乱雑に入り混じる滝のような光が二人を追い越すような勢いで上へ上へと昇ってゆく。
 滝はぐちゃぐちゃに捩れているが、同時にまどかはその輝きにある種の既視感を覚えた。

「……映像?」

 捩れ、うねり、昇りゆく光は確かに映像のように見えた。
 それもただの映像ではない。誰かの一生を記録した“人生”の映像だ。
 だがそれは人の一生にしてはあまりにもまばらで、一人分の人生にしては膨大過ぎた。

 その時、流れる奔流の中にまどかはある物を見つけた。
 光の粒子が形作る、二人の人間の姿だ。

 その事実に眉をひそめ、肩に乗るキュゥべぇにそっと左手を伸ばす。
 彼もまた尻尾をまどかの左手へと伸ばしてきた。

「今のは人間だね。この忙しなく動き続ける光は誰かの記憶のようだけど、それにしたって今のは鮮明だった」

「大人の……男の人と女の人だったね」

「この結界の家主である魔女の性質を考えれば分かるかもしれないよ、まどか」

 結界の家主。
 暁美ほむら。もしくは暁美ほむら“達”。

 その中で揺るがない像をを持ち得る人物がいるとすれば――

822: 2012/03/01(木) 02:05:42.88 ID:nPimD933o

「キュゥべぇ、この結界――土御門さんが作ってくれたシャボン玉の中から出ても平気かな?」

「あまりお勧めはしないね。この結界の広さは僕でも把握しきれないほどだ。
 光と共にまっすぐ上へ押し上げられているのは確かだけど、なにかの拍子で外に外れてしまう可能性だってある」

 キュゥべぇはぐんと首を伸ばしてまどかの視界の中に割り込んできた。

「君が契約してくれるなら、安全性はグッと高まるんだけどね」

「それは……」

 そっとため息をつき、無言で顔を逸らす。
 胸に秘めた想いが、ぐるぐる、ぐるぐると渦巻いては散ってを繰り返す。
 それから静かに彼に向き直って、まどかはまず先に自分の疑問を口にした。

「あなたはどうして協力してくれるの? ほむらちゃんが魔女になっただけじゃ、まだダメなの?」

「ノルマは概ね達成出来たけど、エネルギーを回収できるのならしておいて損はない、ということさ。
 僕たちの行いはあくまで延命、寿命の先延ばしだ。この宇宙が抱える問題が解決されたことにはならないのさ」

「それじゃあどうしてあの人……ローラさんのお話を断ったの?」

「彼らだけではどうにも出来ない問題が起こってしまったからね。
 滅び行く種族と交渉したって無駄なだけさ。だけど君が契約してくれるのなら話は別だよ」

 彼の言うことは分かる。
 だけど契約すればいつかは魔女になる可能性が高い。それでは意味が無い。
 じゃあどうすれば? 契約の穴を探して、みんながハッピーエンドになる方法を模索する?

 ――違う、とまどかは思った。

 だが解決策は見つからない。
 ローラに告げた言葉――自分の想いを完遂するだけの方法が分からない。

823: 2012/03/01(木) 02:06:09.39 ID:nPimD933o

 まどかの沈黙を見守っていたキュゥべぇが、わずかな声を漏らした。

「……厄介だね。そうやって考えれば考えるほど、君はあの理(ことわり)に近づいていく」

「え? ことわり?」

「なんでもないよ。それよりもまどか、契約するなら早いほうが良いよ。この世界のためにもね」
                                             ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨
「私は……」

 考えはまとまらない。
 だけどじっとしているのはもう嫌だ。

 まどかはキュゥべぇを抱き寄せると、球状の結界の中で静かに一歩、前へ踏み出した。

「とにかく、あの光に近づいてみたい」

「……そうかい。僕は止めないよ。君のしたいようにすると良い」

「うん。ありがとうキュゥべぇ」

 腕の中でわずかに身を縮こまらせるキュゥべぇに礼を言いながら、まどかはもう一歩前に踏み出した。
 そしておそるおそる右手を伸ばし、結界の外壁に触れる。
 結界と言いつつもその感触は見た目どおりの柔らかい物だった。

 息を吸い込み、目を見開く。
 次の瞬間、まどかは結界を打ち破るように体を前のめりに倒した。
 薄い膜が体を飲み込み、こそばゆい感覚が全身を駆け巡る。

 そして気付いた時には、二人の体は水玉状の結界の外にあった。

 そのまま体を前へ前へと傾け――

 二人の体と意識は、結界の中枢へと昇り行く光の滝の中に溶け込んでいった。

824: 2012/03/01(木) 02:06:36.09 ID:nPimD933o

 ――春の陽射しのような温もりを持った風が少女、美樹さやかを包み込んでいる。

 だが目を開いてもそこに彼女を照らし出す光は無い。
 深い暗闇だけがただただ広がるばかりだ。

 ゆっくりと時間を掛けて目を闇に慣らしていき、全身に力を込めて起き上がろうとした。
 しかし全身は重く、神経の流れは遅く、反応は鈍い。
 遅々とした動きで、ゆっくりと時間を掛けてなんとか上体を起こす。

 同時に黒く霞がかっていた視界が、まるで布か何かで埃を拭われたかのようにクリアになった。
 わずかな光が差し込んで、さやかは眩しそうに目を細めた。正面の光を食い入るように見つめる。
 それは赤い光だった。正確に言えばゆらゆらと揺れ動く炎の巨人だった。

 さやかはそれに手を伸ばそうとし、次いで、それがなんであるのかを理解して叫んだ。

「魔女狩りの王(イノケンティウス)!?」

 その叫びに応える様に魔女狩りの王が雄叫びを上げ、熱気と衝撃波を撒き散らしながらその全身を震わせた。
 吹き荒れる熱が、灰色がかった世界の地と天に赤い痕跡を残して行く。
 炎の巨人は両手を地面に着き、野獣のように灰色の地面を駆け走る。

 さやかは事態を把握出来ぬまま、首を振って魔女狩りの王の進行方向にある物を見た。
 その先には――


「……ほむら!?」


 かけがえの無い仲間の姿によく似た、黒い少女の姿があった。

825: 2012/03/01(木) 02:07:03.71 ID:nPimD933o

 魔女狩りの王が、灰色の地面に炎の尾にも似た痕跡を刻みながら少女に飛び掛る。
 両脚部を爆発させたスピードのあるものだ。並の魔法少女ならば衝撃だけで吹き飛ばされてしまうだろう。
 ましてやあの炎の巨人は何千℃という熱量を誇っているのに。

 状況を飲み込めないさやかは立ち上がりながら、とっさに手を伸ばした。
 だが間に合わない。巨人が少女に接触する。あと二秒。一秒、今――――

「……な、いや……え?」

 次の瞬間。
 少女が多大なダメージを被ることを覚悟していたさやかは言葉を失った。
 その凄惨な光景に、では無い。

 魔女狩りの王などいなかったかのように平然と立ち尽くす少女の姿に、だ。

「何が……?」

「これで十四回目だよ。ステイルもよく飽きないもんだね」

 かけられた言葉にはっと後ろを振り返る。
 そこには全身に擦り傷や切り傷を負った赤い魔法少女――杏子がいた。

「起きるのがおせぇぞ……つっても、さやかがいたって何かが変わるわけじゃないんだけどさ」

「なによ? それってかいったいなにがどうなってんの?」

 彼女は黙って右手を伸ばし、先ほどの少女を指差した。
 そしてゆっくりとその先を右へとずらし――息を荒げ、肩を上下させるステイルへと向ける。
 それで理解しろと言いたげな表情を浮かべて気まずそうに顔をそむけた。

「……わけわかんないよ」

「ほむらが魔女になって、その魔女とステイルが戦ってんだよ。……聞こえないかい?」

826: 2012/03/01(木) 02:07:34.56 ID:nPimD933o

 何が、と疑問を口に出そうとして。
 さやかはすぐに口を噤んだ。
 噤まざるを得なかった。

 聞こえる。

 聞こえている。

 この灰色の世界を包み込むように荒れ狂う音が。
 ただ苦しみを吐き出す音が。
 悲嘆を振り絞る音が。
 恐怖に染まる音が。


「炎よ――巨人に苦痛の贈り物をッ!!」


 世界を取り巻く怨嗟の嵐を切り捨てるように、ステイルの声が響き渡る。
 同時に彼の右掌から炎の塊が溢れ、少女に向かってぐんぐんと突き進み――

 気がつけば、彼女に迫る炎は消えていた。
 そしてステイルは地面に膝を屈していた。
 彼の背から翼のような血飛沫が舞った。

「ぐうううぅぅぅぅッ――!!」

 膝を地面に着けたステイルがその体を襲ったであろう苦痛に呻き声を上げる。
 その呻き声はすぐに世界を囲い込む憎悪の暴風に吸い込まれていった。
 同時に先ほどから耳が拾っている音がだんだんとはっきりしてくる。
 ノイズのようだった音がクリアになり、形を持ち――気付く。



「こっ……こ、え……声、なの……?」



 視界の隅で、杏子が静かに頷いた。
 それが意味するところは肯定のそれであり――つまり世界を覆う音が、何者かの声であることを示していた。

827: 2012/03/01(木) 02:08:17.62 ID:nPimD933o

「アタシが目を覚ました時には、もうステイルはああして戦ってたんだ。いや、戦うってのはおかしいね」

 杏子は眉間に皺を刻んだまま耳の上辺りを激しく掻いた。

「そもそもこれは戦いにすらなっちゃいない。アイツ……魔女にしてみりゃ、近寄るハエを手で払ってるのと同じなんだ」

「なによそれ?」

「アンタも見たろ。魔女狩りの王と炎剣が消えて、ステイルが全身から血を流したのをさ」

「だからそれがなんなのか分かんないのよ!」

 声を荒げたさやかは、すぐにある事実に気がついた。
 自分の声が世界を抱擁する憤怒の波に吸い込まれていったのを、確かに彼女は感じた。
 先ほどから流れっぱなしになっている騒音にも似たこの声はなんなんだ。
 なぜ杏子は、何もかも諦めたような目をしているんだ。

 憤りを隠せないさやかに対し、杏子はただ諦観した視線をさやかに送って唇を動かした。


「あの魔女に攻撃は通じない。どんな衝撃も、幻惑の魔法も、熱も槍も――あの魔女には届かない」


 それどころか、と続けて、首を振った杏子は不愉快そうに口の端を上げた。
 彼女の視線の先には、ふたたび立ち上がって炎の剣を携えるステイルの姿がある。
 その表情はここからでは窺い知ることができない。

 もっとも近づけば話は変わる。ほんの一〇歩も歩けば彼の顔も見えてくるだろう。
 しかしさやかはそれを実行する気になれなかった。
 彼の全身から湧き上がる陽炎に混じって宙を漂う気配が、彼女を踏みとどまらせた。

 あの研ぎ澄まされた針のような気配。
 聴覚を苛む恨みと憎しみの声にも劣らない力。
 今、ステイルが抱いているであろう感情は間違いなく――怒りだった。

「あのバカ、そろそろ氏んじまうぞ」

「は?」

828: 2012/03/01(木) 02:08:51.19 ID:nPimD933o

 さやかが言葉を漏らすのと、ステイルが駆け出したのはほとんど同時だった。
 普段のステイルからは思いも寄らない早さだ。
 少女と――魔女とステイルの距離が見る見るうちに詰められていき、限りなくゼロに近づく。
 ステイルが炎の剣を魔女目掛けて叩き込んだ。

「え、あっ、ええ!?」

 今度こそ、さやかは自分の目を疑った。
 ステイルが消えた。彼が叩きつけようとしていた炎の剣も、その残滓たる陽炎も撒き散らされた火の粉も無い。
 戸惑いを露にするさやかに、嫌になるくらい落ち着いた声がかかる。

「右を見な」

 弾かれるように首を右へと向けて、目を見開く。
 そこには灰の地面に背中を着けて倒れたまま微動だにしないステイルの姿があった。

「なにが……なにがどうなってんの!?」

「分かんないのも無理ないね。アタシも三回食らってようやく理解したんだしさ」

 そう言って、杏子は灰の地面に腰を下ろした。
 その赤い瞳がどことなく灰がかって見えるのは、はたして世界が灰色だからだろうか。
 それとも……

「あの魔女に攻撃すると、まず最初に巻き戻されるんだ。その攻撃動作の始点にね」

「……は?」

「次に見えない力が全身に叩きつけられる。誰もその瞬間を見ることは出来ない。当人はもちろん、第三者もだよ」

 杏子の顔をまじまじと見つめる。
 嘘を言っている顔には、見えなかった。

829: 2012/03/01(木) 02:09:25.09 ID:nPimD933o

「槍を投げれば投げてないことになるし、幻惑魔法には引っかからない。
 炎剣をぶつければ炎剣を生成してないことになって、殴りかかれば殴りかかってないことになる」

 どんな威力の高い攻撃も、時間を巻き戻らせてしまえば攻撃足りえない。
 攻撃が生まれる瞬間――その意志が芽生えた瞬間まで巻き戻り、その意思を叩き潰す反撃が行使される。
 その反撃を受けた対象はそれに対して防御を取ることすらできずにただただ蹂躙される。

 杏子の言葉どおりだ。戦いにすら、なりえない。

「疲弊してたステイルがさっきから魔術を連発できるのは、魔力自体は減ってないからだよ。
 でも反撃を受ければ傷は増えるし疲労も重なる。血も減って、体力もどんどん削られていくってのに……」

「ちょっと待って」

「なんだい?」

 訝しげな杏子の視線を無視してさやかは魔女を見た。
 どことなくほむらの面影を残す、少女のような魔女を。

 目を凝らしてその姿を注視し、さやかは新たな事実に気付いた。
 魔女の姿は、確かに遠目から見ればほむらに似ているように見えた。


 だが実のところは、まったく違う。

 ほむらに似ているというには、その魔女の姿はあまりにもいびつだった。


「なにあれ……」



 その魔女の姿は――つぎはぎだらけだった。

830: 2012/03/01(木) 02:10:53.29 ID:nPimD933o

 細い指も、手の甲も、手のひらも、手首も腕も肘も。
 つま先も膝も足首もすねもふくらはぎも膝も太腿も股も。
 腰も腹も背も胴も脇も胸も肩も首も顎も頬も耳も鼻も額も髪も。

 全て。
 全てがつぎはぎによって成り立っている。
 醜い黒の肉と肉とを縫い合わせて、なんとかほむらの形を取り繕ったような姿だ。
 何故あのような姿になったのだろう――?

「ステイルは、あれをほむらたちって呼んだんだ」

「え?」

「ほむらがやり直した数だけ、未来が断たれたほむらたちの怨念……嫉妬なんだと」

 だとすれば、あの姿は。
 あの、使える部位を集めて無理やり一つに固めたようなあの姿の意味は。

「……あれは、ほむらたちの魂の集まりなんだ。あのつぎはぎの数だけ……」

 杏子はかぶりを振って口を閉ざした。
 そこから先は聞かずともさやかには分かる。

 あのつぎはぎの数だけ、ほむらが時間を繰り返したということ。
 あの縫い目の数は、暁美ほむらという人物の未来が失われた証なのだ。

「ってことは――!?」

 その事実に思い至ったほむらは、ようやく自分の耳を苛む声がなんであるのかを理解した。

 この声は、恨みや妬みや憎しみの詰まった悲嘆の叫びは。

 ……氏んでいった彼女たちの、声なんだ。

831: 2012/03/01(木) 02:11:30.18 ID:nPimD933o

 ――希望と絶望のバランスは、差し引きゼロだ。

 ほむらはまどかを救うために世界をやり直して希望に満ち溢れた未来を手に入れたが、
 同時にそれ以上の絶望で埋め尽くされた最悪の未来を招き寄せてしまった。

 自分の願いを叶えるために自分の可能性を頃すという形で。

 まだ出会ってもいない少女のために未来を奪われた無数のほむらが望む物が何であるのか。
 それは肩を震わすことしか出来ないさやかには想像すらつかなかった。

 その心にあるのは、何もかもを諦めた末に訪れる虚無と失望だけだった。

 半ば呆然とした状態のまま、さやかは首をぐるりと回して灰色の世界を見渡した。

 その目に映るのは灰色の巨大な枝の数々だ。隙間の奥には灰色の崩壊した市街が窺える。
 ただただその光景を眺め、今自分が立っている場所が結界の中心であり一つの大樹の天辺であることを悟った。

「この結界って……」

「見滝原市に似てるけど、それだけじゃないよねぇ。山みたいにデカい樹なんてなかったしさ」

 杏子の呟きを耳に入れながら、さやかは体を逸らして視界を右へ突き動かす。
 その視界に、あるものが入り込んでくる。
 プレハブ小屋のように突き出た小さな建築物だ。ドアもある。

「それなら弄ったって無駄だよ。アタシの全力の蹴りでもビクともしなかった。……洒落になんないよね」

 現状を打破できる可能性を得たかもしれない、と希望を抱いたさやかは真相を知って眉間に皺を寄せた。

 ……希望の後には絶望が訪れる仕組みになっている。つまり、

「……っ!?」

 ……絶望によって齎される呪いは穢れを産む。

 急速に、彼女の指に嵌められた指輪の宝石、ソウルジェムに穢れが芽生えていく。

832: 2012/03/01(木) 02:11:59.83 ID:nPimD933o

「ちょっ、待ってよ、こんな、ここまで来たのに……!」

 あわてて手のひらにソウルジェムを取り出して思考を持ち直そうと努めるが、穢れは止まらない。
 真っ青の宝石は見る見る内に染み出てきた穢れに埋め尽くされていく。
 魂がごっそり削られているさやかのソウルジェムは、その穢れに耐えられない。


 パキン、パキンと音を立てて亀裂が生じる。


「さやか!?」


 自分を心配する杏子の声が聞こえる。
 だが穢れは留まることを知らない。
 心を繋ぎとめ絶望を食い止める堤防が決壊したのだ。どうにかなるはずもない。

「やだやだ、嫌だよ! こんなのって……!!」

 亀裂が一つ、さらに増える。

「止まれ、止まって、止まってよ! お願いだから、早くっ……!!」

 亀裂が一つ、さらに増える。

「やだ……いやだよぉぉ……!!」

 亀裂が一つ、さらに――――――――

833: 2012/03/01(木) 02:12:51.40 ID:nPimD933o

 増える直前、すぐそばで爆発が巻き起こった。

 それは彼女の周囲を炎で取り囲み、瞬く間に酸素を燃焼させてさやかを酸欠状態に追い込む。

 意識を失ったさやかの手元からボロボロのソウルジェムが離れ、宙を舞う。

 それは一定の高さまで浮かび上がるとゆっくりと放物線を描いて落下していき、

「まったく……手を焼かせてくれるね」

 赤に染まった法衣を身に纏うステイルの手中にすとん、と収まった。
 彼は躊躇うことなく空いた方の手をソウルジェムへと押し付け――即座に離し、さらにルーンのカードを貼り付ける。

 そしてわずかに穢れが除かれたソウルジェムを、戸惑ったままでいる杏子に投げて寄越す。

「ステイル、アンタ何を……」

「いつぞやの時と同じだよ、意識を奪ってソウルジェムとの接続を断ち切っただけさ」

 そう告げると、手の中に握り締めたグリーフシードを懐の中に押し戻す。
 これ以上は穢れを吸う事が出来ない。ほんの僅かでも吸わせてしまえば魔女が、巴マミの魔女が生まれてしまう。

 そこまで考えてから、ステイルは大きく姿勢を崩して地面に膝を着けた。

「ステイル!?」

 朦朧とする意識の中で自分の体を少しずつ点検していく。
 この状態は単なる疲労によるものではない。体力不足のせいでもない。
 血が足りていない。体中の骨がボロボロで、いくつかの筋肉がズタズタにされている。
 長くは持たない。

834: 2012/03/01(木) 02:13:17.22 ID:nPimD933o

「……やっぱ限界だよアンタ、大人しく結界から脱出する方法を考えよーぜ」

 魂を貪るような怨嗟の声の中に、自分を心配してなお叱責する声が聞こえる。
 その事実に心のどこかで安堵しながら、ステイルは膝に力を込めた。
 歯を食いしばり、背筋を活かし、神経を研ぎ澄ませ、血潮を滾らせて立ち上がる。

「なんで立つのさ? もう十分繰り返して、それでもダメだったじゃないか」

 その通りだ。ぐうの音も出ない。
 ステイルは幽鬼のような自分の影を見つめながら、それでも一歩前に踏み出した。

「アンタが言ったんじゃないか!
 あれはほむらだって、絶望しちまったたくさんのほむらだって!
 なのになんで立つのさ、おかしい、アンタは頭がいかれちまってる! どうして攻撃できるのさ……!?」

 それは自分に言い聞かせてるいような声色だった。
 未来を奪われた少女達に同情し、どうにもならない状況を前に諦めた自分を慰めるような口調だった。
 そして同時に、心の奥底からステイルの行動を不思議に思っていることの表れでもあった。

 何故立つのか。

 くだらない疑問だ。

 杏子の視線を背に受けながら、ステイルは静かに歩み始めた。

 そして彼女に背を向けながら、その疑問に答えるために口を開いた。

835: 2012/03/01(木) 02:13:54.66 ID:nPimD933o

「……僕が殺めた人間の数は、両手の指じゃ足らないほどでね」

「その中には、何の罪も無い少女たちだって含まれている」

「彼女を頃した時から、僕の進むべき道とやるべき使命は決まっていたんだ。……よく聞いておけ」


 その脳裏に二人の少女を思い浮かべると、ステイルは肩をすくめて小さく笑った。
 肋骨の痛みを無視して肺に息を溜め込む。


「……怨嗟だ憎悪だ嫉妬だ何だと女々しく叫んだところで僕の意思は揺るがない。僕の怒りは消せやしない」

「たとえほむらのせいで何百という暁美ほむらの人生が捻じ曲げられたとしても、知ったことか」

「僕にとって彼女達は氏者の亡霊でしかない」

 それはひどく傲慢な言葉だった。
 立場が違えばステイルはその亡霊を支持する立場にいたかもしれない。
 亡霊が亡霊になってしまった原因であるほむらを恨んでいたかもしれない。

 だが現実は違う。彼にとって亡霊は亡霊でしかなく、ほむらはほむらでしかない。

 ステイルは正義の味方ではない。
 誰も彼も救えるヒーロー足りえる器を持てるような存在ではない。
 時には彼が想いを寄せる“少女”の代理人を名乗ることもあるが、しかし彼の本質は至極単純な物に過ぎない。

 いつしかステイルは、つぎはぎだらけの魔女に向かって言葉を発していた。

「君達が不幸を嘆く気持ちは分かる。分かるが……」

「それがどうした」

 灰色の世界に、ふたたび赤が生まれる。
 それは全てを燃し尽くすような、怒りの炎だった。

836: 2012/03/01(木) 02:14:53.40 ID:nPimD933o

 つぎはぎの魔女のすぐ背後に、炎の巨人が生まれた。

 それは雄叫びを上げながら燃える十字架を高々と振り上げる。

 そして、魔女のすぐ手前の“地面”目掛けて叩きつけた。

 灼熱のガスと炎と衝撃が地面を打ち砕き、アスファルト状の巨大な瓦礫を宙に浮かび上がらせる。

 その瓦礫に向かって、ステイルは駆け出した。

 右手に炎の剣を携え、体に残された魔力を振り絞り――

「炎よ、巨人に苦痛の贈り物をッ!!」

 宙に浮かんだ瓦礫に、全力で叩きつける。

 叩きつけられた瓦礫は、その表面で大規模な爆発を生み出しながら礫へと変化し、まっすぐに加速した。

 その行く先は、無防備なつぎはぎの魔女の体。
 何度も何度も攻撃を繰り返した結果辿り着いた魔女に唯一通る攻撃方法、すなわち破片を利用した間接攻撃。

 それが齎す結果を想像しながら、ステイルは朗々と『頃し文句』を詠いあげる。

837: 2012/03/01(木) 02:15:55.01 ID:nPimD933o



「君達が、己の不幸を嘆いて全てを呪うと言うのなら」



 礫が魔女の体に近づいていき、



「まずはその」



 ついに、礫が魔女の体に重なった。



「ふざけた幻想を――――――」



838: 2012/03/01(木) 02:16:51.72 ID:nPimD933o

 ――意識の覚醒を確認。個体の状態の点検を開始。チェック。全て正常。

 ――結界の外にいる個体とのネットワークの繋がり具合を調整。完了。異常無し。

 閉じていた瞳をゆっくりと開くと、インキュベーターは辺りに目を凝らした。
 視界に広がる情報を集積し、一つ一つを分析しながら結界の構造を把握しようとする。
 そこは白と黒が入り乱れる、長大な廊下だった。

 その廊下の中で、インキュベーターは先ほど自分が見た『光景』の真偽を推測する。

 考察はすぐに終わった。光景の内容が自分の推測するそれと一致している可能性は90%を超えている。

(間違いない、僕達が……僕が見たものは、『あれ』はやはり――)

 そこまで考えて、インキュベーター――キュゥべぇは、すぐ隣にしゃがみ込むまどかを見上げた。

「まどか?」

 返事は無い。
 しかし脈拍に異常は見られない。瞳孔も開いていないし体温も正常。
 ならば黙り込む理由は何か。

 その理由を考えて、キュゥべぇは首を傾げながら再度声をかけた。

「君も『あれ』を、見たのかい?」

 硬直していたまどかがぴくりと身じろぎした。
 ややって、静かに首を盾に振る。
 だが――見た?

839: 2012/03/01(木) 02:18:05.13 ID:nPimD933o

「本当に見たのかい? あれは君達人間の時間換算で言えば、それこそ三〇〇〇年は――」

「見たよ。私、確かにこの目で見た。この肌で感じたよ」

 ありえない。
 人間の脳が保つことの出来る記憶の量には限りがある。
 それでもなお、キュゥべぇと同じ物を見たというならば。
 彼女の脳は、既に人智の及ばぬ物に変化しているとしか考えられない。

(……違う、そうじゃない。)

 きわめて合理的な判断に抗うように、キュゥべぇは別の思考を走らせる。
 もしもあれを、その魂に刻んだとするならば。
 脳という肉体的な記憶の貯蔵庫ではなく魂そのものを通して見ることが出来たとすれば。
 ありえる。

「……それで、君はあれだけの物を見た後で、どうするつもりなんだい?」

 まどかは躊躇わなかった。
 少なくともキュゥべぇの目にはそう映った。
 彼女は立ち上がり、天を仰いだ。どこまでも透明なその瞳に、天まで続く白と黒の道を映し出しているのだろうか。

 キュゥべぇはやれやれと首を振ると、起用に手足を操作してまどかの肩によじ登った。
 そして耳元に顔を寄せ、囁くようなポーズを取る。

「どうやら彼女は上にいるようだね」

「キュゥべぇ……」

「善は急げ、だよ。さぁ、早く行こうまどか!」

840: 2012/03/01(木) 02:18:44.23 ID:nPimD933o

 どこまで行っても白と黒で染まった世界。
 白い柱に黒い柱。白いオブジェに黒いオブジェ。

 白と黒で構成された花のような花びら。
 あるいは螺子。
 あるいは歯車。

 そんな世界に用意された、長い長い通路をまどかはひた走る。

 息を切らして、肩を上下させて、脇の痛みに耐えて。
 額から流れ落ちる汗を無視して、舌に纏わりつく粘っこい唾液の嫌悪感を無視して。

 そうして走り続けた末に、彼女は広大な空間に躍り出た。

 目の前に広がる道は三つ。しかし内二つはたった今自分が通ってきた物と変わり映えのない通路に過ぎない。

 自分が進むべき道は向かって左手。

 緑色の光を放つ、非常口を現すピクトグラム。

 その手前にある階段を一歩、一歩、確実に上がっていく。

 やがて彼女は、ピクトグラムの真下にある扉の前までやってきた。

 この向こうに、自分の望む物がある。望む者がいる。

「――――――っ」

 まどかは躊躇わなかった。
 逡巡すらしなかった。
 息が整うことすら待たなかった。

 まどかは扉に手を掛け、その厳重なロックを外して外の世界へ飛び出した。

 同時に、首に掛けられた十字架が怪しく輝いたのだが……まどかもキュゥべぇも、それに気付くことはなかった。

841: 2012/03/01(木) 02:20:14.58 ID:nPimD933o

 ――外に広がる世界は、煙に覆われたかのような灰色の世界だった。

 そんな世界の中心に、まどかは四つの影を見つけた。

「ステイルくん?」

 まどかの視線の先にいた、影の中でもひときわ大きく赤い存在。
 ステイル=マグヌスは、地面にうつぶせになって倒れていた。
 その指がピクリと動き――しかし、それだけだった。

 まどかはステイルに近づこうとして、そのすぐ近くに横たわるさやかの存在に気がついた。

「さやかちゃん?」

 さやかは、ピクリとも動こうとはしなかった。
 その体に歩み寄り、手を差し伸べようとすると――

「なんでアンタがここにいやがる……?」

「杏子ちゃん!?」

 掛けられた声に後ろを振り返ると、そこには涙を流した杏子の姿があった。
 彼女は青いボロボロのソウルジェムを手にしたまま、わなわなと体を震わしている。

「来ちゃダメなのに、アンタは、バカヤロウ。もう、どうにもならねぇってのに!」

 そう言って、杏子は地面にくずおれた。

「くぅっ……ステイルも……格好良……ったクセに……ダメだっ……よぉ……く、ふ……ぅぅ、ぅぅうう!」

 全身を震わせ嗚咽のような声を漏らしながら。
 それでもまどかには、杏子が必氏に言葉を紡いでいるのがよく分かった。

842: 2012/03/01(木) 02:20:47.84 ID:nPimD933o

 そして最後の影。
 つぎはぎだらけの、ほむらの姿をした何か――いや、魔女を見る。

「どうやら絶体絶命のようだね」

 そう言って、キュゥべぇはまどかの体から飛び降りた。
 彼はまどかの正面に立ち尽くすつぎはぎの魔女とまどかを見比べて、可愛らしく尻尾を振った。

「さぁ、時間だよまどか。君だってもう理解しているはずだよね」

「暁美ほむらを救い出し、この状況を切り抜けるためには僕との契約が必要だってことがね」

 まどかはほむらの姿をした魔女に向き合いながら、静かに頷いた。
 言われなくても、分かっている。

 自分がやるべきことが、何なのかを。

 ここまで辿り着けたのが、誰のおかげであるのかを。

 そして――自分を導いてくれた人が、自分に何を求めていたのかを。

 だからまどかは、手を胸に当てて姿勢を正した。

 目を閉じる。

843: 2012/03/01(木) 02:22:36.68 ID:nPimD933o



「数多の世界の運命を束ね、魔術と科学が交差する世界の因果すら背負った君なら」



「どんな途方もない望みだろうと、叶えられるだろう」



「さあ、鹿目まどか――その魂を代価にして、君は何を願う?」




844: 2012/03/01(木) 02:25:19.20 ID:nPimD933o



 キュゥべぇの問いに、



「私は――――――」














「私は、あなたとは契約しない。あなたの用意する奇跡なんて、私はいらない」



 果たして、まどかは答えた。



866: 2012/03/18(日) 01:52:45.87 ID:HhynQx1uo

「……ねぇとうま、今のって」


「……みたいだな」


「そっか。それじゃあとうま、ちょっとと離れててくれると嬉しいかも」


「あいよー……ってその前に、あのさ」


「なに?」


「多分これ、あの時みたいにステイルが絡んでると思うんだよな。だからさ」


「もう、とうまは心配性なんだから!」


「……祈りは届く。それで人は救われる。だからきっと――大丈夫なんだよ!」


「……おう、ありがとな」


――とある極東の学生寮にて交わされた、短いやり取り。

867: 2012/03/18(日) 01:53:07.25 ID:HhynQx1uo

「今の、建宮さん今のって!」

「教皇代理、今のってあれよね!?」

「あーあー分かった分かった、ちょっと待ってろってか今は作業に専念しとけっつーのよ」

 騒ぎ立てる面々を抑え付けながら、建宮は静かに首を振ってため息を吐いた。
 どことなく安堵した表情を浮かべて後ろに振り向き、地べたに座り込む土御門を見やる。

「……俺の空耳かと思ったが、どうやら違うみたいなのよな。お前さんは理解してるんだろ?」

「ご明察。さっきのは仕掛けが発動した合図ってところだぜぃ」

「仕掛けって……例の爆弾か?」

 建宮の言葉に不敵に笑ってみせる土御門。
 彼は口の端から血を垂らしたまま携帯電話を耳に当て始めた。


「もしもし、俺だ一方通行。今どの辺りに――まだそこか。なるべく早く移動してくれ。
 お前も聞こえたんだろう? 音じゃなくて魂に直接響くタイプだからな。バードウェイの――」


 ……他人が電話している時って、どうしてこう手持ち無沙汰になるんだろうな。

 内心で愚痴りながら、空に浮かぶ巨大な砂時計を見上げる。
 二重三重に張り巡らした結界ももうほとんど余裕が無い。
 今の自分達にできることは、もはや無いに等しい。

 無力さを噛み締めながら――ふたたび訪れた“それ”に建宮は耳を傾けた。

868: 2012/03/18(日) 01:55:25.23 ID:HhynQx1uo

 灰色の世界の中心で、まどかは胸を張って告げた。

「私は、あなたとは契約しない。あなたたちから与えられた奇跡なんて、私はいらない」

 肩を下ろして表情を和らげ、ほっと一息つく。
 そしてキュゥべぇに笑いかける。
 手を伸ばして、どこか呆然としている彼の頭を優しく撫でた

「だから……ごめんね」

 キュゥべぇがびくっと体を震わした。
 言葉の意味をようやく理解したと言わんばかりに首を振り、静かに語りかけてくる

「君は自分が何を言っているのか分かっているのかい?」

「うん」

「言い方を変えようか。……君は暁美ほむらを助けたいんだろう?」

「そうだよ」

「なら願えば良いじゃないか。僕と契約すれば一瞬だよ」

 彼の言いたい事はよく分かる。
 彼の言うことは正しい。そうする事で確実に彼女を救えるということも。

 だがそれでは駄目なのだ。
 ここまで来た努力が。ほむらの決意が。大勢の人々の想いが。
 全て無駄になり、意味を失ってしまう。風に舞う砂粒のように吹き飛んでしまう。

 だから、駄目だ。

869: 2012/03/18(日) 01:55:59.22 ID:HhynQx1uo

「ほむらちゃんは、私が契約したらきっと悲しむと思うの」

「だから諦めるのかい? 君には諦めきれるのかい?」

 なぜ契約しない事が諦める事に直結するのだろう、とまどかは不思議に思う。
 もっと視野を広げれば世界は見違えてくるはずなのに。
 どうして今のままで満足してしまうのだろう。

「諦めないよ」

 キュゥべぇの赤い瞳がわずかに揺れた。

「私はほむらちゃんを助けたい。でもほむらちゃんは私に契約してほしくない」

 キュゥべぇの白い体がわずかに傾いた

「だから私は、契約しないでほむらちゃんを助ける」

 まどかの言葉にキュゥべぇは静かに首を振って応えた。
 その動作は子供の駄々に呆れる親のそれに似ていて、まどかは知らず内に口元に微笑を浮かべた。
 親――子供を見守る存在と、インキュベーターとして魔法少女を見守る彼。

 ……私の抱いた感想は間違いじゃないかも、と心の中で呟く。

「君の言葉は論理的じゃない。いったいどうやって彼女を救うつもりだい?」

「私がほむらちゃんを説得する」

 赤い瞳に憐憫の色が差して見えたのは、はたしてまどかの気のせいだろうか。
 感情を持たぬはずの彼が無知な彼女を哀れんでいるように見えるのは――

870: 2012/03/18(日) 01:56:25.90 ID:HhynQx1uo

「もう忘れたのかい。美樹さやかが魔女になったとき、君は何も出来なかったじゃないか」

 あの時のことは片時たりとも忘れた事などない。
 あの時、あの場所で、無力な自分は何も出来ずにただただ見ているだけだった。
 親友が苦しみ、また必氏にさやかを救おうと努力する光景をその目に焼き付ける事しか出来なかった。

 まどかにとって、その光景は無力の象徴として心に深く深く刻み込まれている。
 何も出来ない愚かでちっぽけな自分への戒めとして忘れる事のないようにしっかりと。

 ゆえに、普通に考えればありえないのかもしれない。
 親友を救うために必氏に声をかけて説得しようなどという試みは、するだけ無駄なのかもしれない。

 胸の中にじわじわと広がる痛みと、口の中にもたらされるわずかな苦味に眉をひそめる。

「あの時は駄目でも、今度は違うかもしれない」

「何も違わないし、何も変わらないよ」

 ――何も違わない。

 果たしてそれは事実だろうか。
 あの時から自分は、何一つ変わっていないのだろうか。

 ――違う、とまどかは首を横に振った。

 確かにこの体はあの時と同じまま、ちっぽけな人間のそれでしかない。
 魔女や魔術師がちょっと力を振るえばぽきりと折れてしまうような脆弱な物かもしれない。
 だが、それだけだ。

「……ステイルくんたちはさやかちゃんのことを助けてくれた」

 だから今度は、自分が彼らと同じ舞台に立つ。
 そして自分の手で親友を助ける。

871: 2012/03/18(日) 01:56:52.91 ID:HhynQx1uo

「皆みたいに諦めずに頑張ればきっと奇跡なんて必要ないって、私はそう思うの」

 言葉を紡ぎながらこれまでに出会ってきたたくさんの人の顔を思い浮かべる。
 赤い髪のステイル、破廉恥な格好の神裂、眠そうなシェリーや建宮、五和、香焼……
 それにさやかを救ってくれたツンツン髪の高校生。白い修道服を着たあの少女。
 彼らは皆、奇跡などに頼ることなく道を切り開いてきた。
 だとすれば――

 そんな彼女の決意を嘲笑うように、キュゥべぇ目を閉じて尻尾を振った。

「君は大きな勘違いをしているみたいだね」

 静かに響き渡るその言葉は、灰色の世界を包むように吐き出され続ける嘆きの声に混じって、
 確かにまどかの心に深々と突き刺さった。

「君は彼らとは違う。彼らはそれが可能な世界の人間で、同時にそれだけの素質や努力を重ねてきた人間だ」

 そう言って、キュゥべぇは地面に倒れたままのステイルに尻尾の先を向けた。

「そこで無様に倒れている彼だって、血反吐を吐くような思いで戦い続けてきたんだ。
 君や過去の魔法少女たちは違う。奇跡に頼らなければ道を切り開くことの出来ない存在なんだ」

 キュゥべぇの言うことはもっともだ。
 だからと言って、その言葉を肯定し首を縦に振ることはまどかには出来ない。

「私はそうは思わない。あなたに頼らなくてもどうにかなるって信じてる」

 言い放った直後、背筋がぞくりとしたまどかは身震いし、驚愕を覚えた。
 冷たい何かが首筋に突き立てられているような気分だ。
 もしかするとこういった『目に見えない刃』のような物を殺気と呼ぶのかもしれない。

 だが彼女が驚いたのはその殺気に対してではない。
 その殺気が、キュゥべぇから放たれていることに対して驚いていた。

872: 2012/03/18(日) 01:57:24.42 ID:HhynQx1uo

「君は……」

 一瞬、気のせいかとも思ったが、やはり違う。

 なぜなら今この場にいるのは呆然と座り込んでいる杏子と倒れたままのさやか、もぞもぞしているステイル。
 沈黙を保ち続けるつぎはぎ姿の魔女と――まどか、そして目の前にいるキュゥべぇしかいない。
 そして殺気が向けられている方角にいるのはキュゥべぇだけだった。
 間違いない。この殺気は、キュゥべぇから放たれた物だ。

「キュゥべぇ?」

「……そうは思わない、ね。軽々しく言うけど、君は本当になにも理解していないんだね」

 キュゥべぇは目を開いて、その小さな赤い瞳にまどかを映し込んだ。

「つまり君はこう言いたいんだろう。過去に契約した魔法少女たちは間違っている、と」

「違うの、そうじゃないの、私が言いたいのはそうじゃなくて……」

「違わないよ。君は今日まで契約してきた数多の魔法少女を冒涜し、侮辱したんだ」

「それは――」

 彼の言葉を否定しようとして、しかしまどかはそれ以上何も言えなかった。
 喉が見えない何かに締め付けられるように圧迫されて苦しみを訴えている。
 言葉を紡ごうとしても喉が詰まって音を発することが出来ない。
 空気を震わし、相手に思いを伝えることが出来ない。

 喉の奥がわずかに痙攣し始める。
 言葉は紡げないままなのに、それでも熱い何かが口の中をぐるぐるとかき乱してゆく。

 でも――――

873: 2012/03/18(日) 01:57:48.68 ID:HhynQx1uo

「……あはっ」

 ようやく口に出せた言葉は、もはや言葉の体を成していなかった。
 ただ自分の気持ちを素直に表すことの出来る物。
 すなわち笑い声だけが、静かに灰色の世界に響いた。

 そんなまどかの様子に違和感を覚えたのだろう。キュゥべぇは怪訝そうに首を傾げた。

「何がおかしいんだい?」

 違うよ、と呟いて首を横に振って見せる。
 振ってから、また『違う』と否定した事に笑みを浮かべる。
 いったいあとどれだけ彼の言葉を『違う』と否定すればいいのだろう。
 そんな小さな疑問を胸にしまい込みつつ、まどかはキュゥべぇに向かって頷いた。

「優しいなって、そう思っただけだから」

 不思議そうに尻尾を振るキュゥべぇから目を背け、そって胸に手を当てる。

 先ほど喉が詰まって何も言えなかったのは、彼の言葉が辛辣な物だったからではない。
 言い返すだけの理由を持っていなかったわけでも、彼の剣幕に呑まれたからでもなく。

 彼の言葉に、胸が温かくなったからだ。

「あなたが怒ってるのは、これまでの魔法少女……マミさんたちが貶されたと思ったからなんだよね」

 不規則に揺れていた尻尾がピタリと止まったのを、まどかの瞳は捉えた。
 それが指し示すものがなんであるのかをまどかは知っている。

「だから、それは違うの」

 相手の言葉を待たずに告げた。

「私が契約しない、一番の理由は……私をここまで導いてくれたマミさんの想いを無駄にしたくないからなの」

 告げてから目蓋を閉じる。
 意識を二週間近く前――主観時間で言えばそれよりもはるかに昔へ飛ばす。
 あの時、見滝原の病院で交わした会話を、告げられた言葉を一字一句間違いなく思い出すために。

874: 2012/03/18(日) 01:58:15.12 ID:HhynQx1uo



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



「あなたの良いところは、誰かのためを思ってあげることの出来る、そういう優しさよ」



「多分それは戦うことよりも遥かに難しいことだと思うわ」



「私は、魔法少女にならなくてもあなたは十分立派だと思うわ。

 出来れば魔法少女になることなく、あなたの力だけでその生き方を貫き通して欲しいの」



「魔法少女になったら、そのせいであなたはずっと『魔法少女だから優しい』って形になっちゃうのよ?

 なんだかそういうの、悔しいじゃない。そんなことであなたの良いところ、台無しにしちゃ駄目よ」



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



875: 2012/03/18(日) 01:58:42.13 ID:HhynQx1uo

 ――覚えている。

 彼女の言葉は、今でも翳ることなくしっかりと心に刻まれている。

 あの時病室に漂っていた、美味しい紅茶の香りも。

 ステイルと三人で食べたスコーンの味も。

 全て覚えている。

「マミさんがどんな思いで私にそう言ったのか、それはもう分からない。知ることもできない」

 彼女は魔女になり、氏んでしまった。
 もうまどかにはどうにもならない。

 氏んだ者の意思など、誰にも理解できるはずが無い。
 少なくともまどかの知る常識の中ではそうだった。
 だが。

「……でも、私は思うの」

 両親を失くし、魔女と戦う日々を送り続けた彼女の考えは。

 友達が少なくて、ちょっぴり寂しがり屋さんだったあの人の想いは。

 泣いている人を抱きしめ、慰めてあげることの出来る優しい魔法少女の願いは。


 それはきっと――――

876: 2012/03/18(日) 01:59:08.61 ID:HhynQx1uo

「マミさんの気持ちを無駄にしないためにも、私は私のままほむらちゃんを助けたい」

「……魔女の攻撃はとても重い。あの魔女がどのような性質を持っているかは分からないけど――」

 彼はその瞳に諦めの色を宿したまま静かに言った。

「君のような普通の子供なら、まず一撃でまともに立ち上がれなくなるだろうね」

 まどかはこくりと頷いた。
 以前病院で使い魔の体当たりを受けたさやかの感想からある程度のことは把握している。
 頭の中がぐちゃぐちゃになるような痛みが走って、無性に悲しくなって、無力であることを痛感する、と。

 まどかは痛みに強い方ではない。

 転んで膝を擦り剥いたら涙目になってしまうような、打たれ弱い普通の子供だ。
 本来なら血を見ただけで震えてしまうほど気弱で臆病な性格の持ち主だ。

 そんなまどかだが、ここまで来れた。
 何度も転んで体を打ち、石をぶつけられたり掴まれかけて何度も涙を浮かべ、
 堪えきれず涙を零し嗚咽を上げてしまったこともあるが――それでもなんとかここまでやって来れた。

 ……やれるかもしれない。違う、やるんだ。

 走って駆け寄りたい衝動を抑えてまどかはつぎはぎの魔女に歩み寄ろうと足を動かした。

「よせ、危ねーぞまどか!」

 自分を呼び止める杏子の声が聞こえるが、まどかはそれを無視した。

 そして静かに胸を張り、魔女に触れられる距離まで近づく。

 どす黒い何かで塗りつぶされ、随所を縫い合わせたような跡のある魔女に向かって手を伸ばし――

877: 2012/03/18(日) 02:00:06.19 ID:HhynQx1uo



「お待たせ、ほむらちゃん」



 微笑と共に、まどかの指が魔女に触れる。



 そして気付く。いつの間にか、魔女の姿が遠ざかっている。



 次の瞬間、彼女の体は見えない衝撃波によって吹き飛ばされていた。



 上下が逆さまになり、重力から解き放たれ、ぐるんぐるんと頭の中を何かが激しくうねり――



 灰色の地面が視界一杯に広がった。それ以上のことは、まどかには何も分からなかった。



878: 2012/03/18(日) 02:00:31.73 ID:HhynQx1uo

 ――訪れていた『それ』に耳を傾けていた土御門は険しい表情を作った。

「チッ、ノイズが酷い。まさかとは思うが氏んじゃいないだろうな」

 内心で嘆息しながら土御門は後ろを振り返った。
 サングラス越しの視界に映り込むのは、力無く地に這い蹲る人、人、人――人の山。氏屍累々だ。
 辛うじて息があるのかわずかに上体が揺れているが、いずれにせよ屍に見えることに違いはない。

 予想よりも早く彼らが倒れてしまったことに冷や汗を流しつつ天を仰ぐ、が。
 もちろんそこに空は無く、ただ静かに地球の生命を吸い込もうとする砂時計の底が視界一杯に広がるだけだ。
 残された結界が壊れれば、自分を含めた見滝原市の住人は三〇秒と掛からずあれに吸い込まれることだろう。

 結界が壊れるまでの時間に三〇秒をプラスし、自分の余命を指折りで数えながら呟く。

「バードウェイの秘策も間に合わない、か。やっぱカミやん呼んどくべきだったかにゃー」

 彼の言葉に応える者はいない――――否、いた。


「諦める前に出来る事をなさったらどうです。それでも元必要悪の教会のメンバーですか?」

「氏にたかったらやることやってから氏ね、でないと頃しちゃうわよ」


 ――イギリス清教時代に何度も耳にした、懐かしい響きだ。
 声のする方へ首を巡らし、にぃっ、と口角を吊り上げる。

「頼もしい援軍が来たと思って見てみれば……氏に損ないが二人増えただけじゃあ何にも変わらんぜぃ?」

879: 2012/03/18(日) 02:01:17.35 ID:HhynQx1uo

 そんな皮肉に対し、声の持ち主――全身包帯だらけの神裂とそんな彼女に肩を貸す血と泥にまみれたシェリー。
 彼女ら二人は体に掛かる負担と苦痛を押し頃したような苦しい表情のまま、無理やりに笑みを浮かべた。

「氏に損ないですが、片方は聖人。片方は凄腕の魔術師です」

「分かったら結界を張り直すわよ。――『あれ』、あなたも聞いていたのでしょう?」

 その通り、と肩をすくめる。
 彼女らの様子を見る限りだと、まどかに取り付けた霊装は無事に機能しているようだ。
 どっと肩の荷が下りたような気分になってため息を吐くと土御門はどっと肩を下ろした。
 そしてもう一度天を仰ぎ――ふと真面目な表情を作る。

 あの結界のそのまた遥か上空に存在しているらしい球状の結界の、そのまた奥深く。
 魔女がいるであろう場所と、その場にいる面々の顔を脳裏に浮かべる。

 その中は彼――かつての同僚で赤毛で神父な十五歳の少年、ステイルもいることだろう。
 ステイルの姿を思い浮かべた辺りで土御門は横目で付近の様子を窺った。
 視線の先には土御門と同じように天を仰ぐ神裂とシェリーがいる。

 胸中に抱くものが同じであることを悟り、その事実に苦笑を浮かべてサングラスを掛け直す。


「……ステイル。お前ならなんとかやってくれるって、俺は信じてるぞ……」


 らしくないなと思いながらも、土御門は祈るような口調で小さく呟いた。

880: 2012/03/18(日) 02:02:14.58 ID:HhynQx1uo

 ――そんな風に信じられていたステイルは、地面に這い蹲ったまま腕を動かそうと試みた。
 そして痛みが走ったので、とりあえず諦めて悪態をつくことにした。

「はぁ……床冷てぇ……」

 泣き言を言っても現実は変わらない。
 顔を顰めていると、きゅっきゅっと灰色の床を踏みしめる音が近づいてきた。
 あごの先を突き出すように首をぐるりと回して、なんとか背後へ目を向ける。
 目を向けた先では、白い手足を器用に動かす赤い瞳の獣がこちらを見下すような目で覗き見ていた。

「やぁ、僕が心配で様子を見に来てくれたのかい?」

「……君は……」

 なにやらもごもごと口ごもる(口から音は出していないのだが)キュゥべぇから顔を背け体を休ませる。
 ひんやりとした床と熱い自分の体との温度差を実感しながらステイルは責め立てるように呟いた。

「……言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなんだ」

 背後でもそもそと何かが身じろぎする音が聞こえる。
 この土壇場で彼に訪れた変化に思考をやりながら、ステイルは彼の言葉を辛抱強く待った。
 やがて諦めるように首を振る音が空気を震わし、やる気の無い声が耳に届いた。

「君はずいぶんと冷静そうだね。彼女たちの状態を見てもなんとも思わないのかい?」

「見たくても首を動かせられなくてね。分かったら現状を説明するくらいしたらどうだ詐欺師」

「……それじゃあ君のご期待に応えて説明してあげようか」

 一拍間を置き、

「まどかは魔女の反撃を受けて地面に倒れたよ。致命傷だ。あの魔女の特性……カウンター攻撃にやられたみたいだね」

 軽々しく言ってのけた。そして一度、地面を踏みつける音が響く。
 その音が持つ意味を探りながら、ステイルは静かに問いかける。

「……それで?」

「え?」

「それが、どうしたというんだ?」

881: 2012/03/18(日) 02:03:15.65 ID:HhynQx1uo

「なんとも思わないのかい?」

「なんとも思わないのか、ねぇ。君のその腐ったイチゴのような目玉には僕がそんな冷血漢に見えるのか?」

「だから彼女の無謀を無視した。違うのかな?」

「なるほど、なるほど……」

 笑みを浮かべるステイルの頬に、赤の色が灯される。
 同時に地べたから伝わる冷たさを凌駕するような熱が頬に宿るのをステイルは感じた。
 全身が赤く燃えているような錯覚と、今すぐにでも飛び掛りたくなるような衝動が体を蝕んでいく。
 それは間違いなく、怒りから来るものだった。

 もっとも今のステイルには怒りを行動に移すだけの体力が無い。
 ゆえにむなしく地面を睨みつけて、眉間に深い皺を刻むだけに留まった。

「君は運が良い。僕に余力があったら君の体は灰も残さず塵になっていただろうからね」

「別に僕が……この身体が失われたって、僕達には何の支障もないけどね」

「ふん、どうだか」

 果たして今の『彼』が『彼ら』と同じ存在足りえるのか。
 その事実を問おうとして、やめた。
 代わりに気になることをいくつか質問することにした。

「佐倉杏子はどうしている?」

「美樹さやかの体のそばでうずくまっているよ。彼女のソウルジェムももう限界に近いからね。
 最初はまどかを回復してあげようと必氏に治癒魔法を掛けていたけど、治る見込みが無くて絶望したのかな」

 ……魔女にならないだけマシなのかもしれない。
 佐倉杏子のタフさを見直しながら、ステイルは自嘲気味な笑みを浮かべる。

882: 2012/03/18(日) 02:05:35.97 ID:HhynQx1uo

「魔女と結界の様子は?」

「何も変わりないよ。魔女はあのままだし、結界も地球上の生命を吸い込もうとして猛威を振るい続けている」

「外じゃそんな大事になっていたのか」

「まぁね。もうすぐ君の仲間がここにやってくるんじゃないかな。もちろん生命――つまり魂としてだけどね」

 魔女の張る結界はその魔女の性質や特徴を色濃く反映させている。
 お菓子で溢れかえっていたり、仄暗かったり、明るかったり、酒の臭いがしたりetcetc...

 この魔女はなぜ他者を結界の内に招き寄せようとするのだろう。
 自分の糧にする。確かにそれが最も魔女らしいと言えば魔女らしい。
 だがもっとなにか別の、それこそ重要な意味があるのではないだろうか。

 灰色の世界に響き渡る怨嗟の嘆きを煩わしく思いながら、ステイルは深い思考の海に浸かり込もうとする。
 そんな彼の耳に、キュゥべぇの声が届いた。

「君はずいぶんと余裕そうだけど、これからどうするつもりなんだい?」

「どうもしないさ」

「……じゃあもうこの星の命運もここまでのようだね」

 この星の命運もここまでと、そう来たか。
 くつくつと喉を鳴らし、わずかに肩を揺する。

 ――ああ、こんな気持ちは久しぶりだ。

 半年振りに彼の心に訪れた感覚を堪能しながらキュゥべぇのいる方へ首を回して口角を吊り上げた。

「君はまるで分かっちゃいない。いいか、その長い毛が詰まった耳でよく聞け」

 深く息を溜め込み、吐き出す。



「――――――ここまでじゃない。ここからだ、インキュベーター」

883: 2012/03/18(日) 02:07:27.21 ID:HhynQx1uo

 そんな言葉に応えるように、灰色の世界で何かが身じろぎする気配をステイルは肌で捉えた。
 同時に何かが振り向く音を、ステイルの耳は拾った。

 身じろぎによって生まれる衣擦れの音が耳に届き、ステイルは静かに頷く。
 そして彼に背を向けたままぴくりとも動かないキュゥべぇを見て鼻を鳴らす

「感情が無いくせにやけに驚くじゃないか。そんなに不思議か?」

「そんな――ありえない!」

 キュゥべぇの驚愕の声を聞きながら、彼の視線の先で広がる光景を想像する。

 恐らく彼は、目の当たりにしているはずだ。

 立ち上がることすら出来ないと、彼が判断を下した少女が。

 血にまみれた姿のまま、地に体を預けたまま、それでも立ち上がろうとする姿を。

「ありえない、あの魔女の攻撃を受けて立ち上がるなんて――魔法少女ですらないのに!」

 異星生命体であり感情を持たないとされるキュゥべぇがうろたえている。
 全ての人間を駒のように操るローラ=スチュアートの行動すら把握していたであろう彼が、うろたえているのだ。

 たった一四歳の少女が。魔術や超能力、奇跡や魔法に頼らなかったただの人間が。
 あの異星生命体の理解が及ばないような行動を取っているのだ。

「……どうして?」

 それは静かな疑問だった。
 少なくともステイルにはそのように聞こえた。

「……分からないのか」

 彼は、わずかな侮蔑と憐れみが入り混じった言葉を口にした。

884: 2012/03/18(日) 02:09:49.78 ID:HhynQx1uo

 ステイルには分かる。

 まどかが何故立ち上がることが出来たのか。

 それは彼が何度か体験したことのある現象だった。
 それは彼が何度も目にしたことのある現象だった。

 それは言葉には出来ない、衝動や本能にも似た何かだ。
 身体のどこにでも有ってどこにも無い何かが脈動し、燃えることで起こりうる現象だ。

 その何かは、魂や心と表現することが出来るのかもしれない。
 その現象は、燃焼と表現することが出来るのかもしれない。

 ならばまさしく、それは燃えるのだ。
 身体中を巡る魂が、胸の奥に秘めた心が、激しく燃え上がるのだ。

 例えばそれは、外道の魔術師に対して怒った時。

 例えばそれは、自分の手で一度『殺めた』少女と対峙した時。

 例えばそれは、生命力を削りきってなお誰かのために魔術を行使しようとした時。

 確かに燃えるのだ。

 ……ステイルは見たことがある。

 生まれながらにして不幸であることを運命付けられた、ただのちっぽけな高校生が。
 常人であれば確実に再起不能に陥っているであろう攻撃を受けながら。
 何度も、何度も。
 何度でも立ち上がる姿を。

 確かに彼はその身にただならぬ物を宿していた。普通の人間の想像を遥かに凌駕した獣を飼っていた。
 だが――彼はそんなこととは関係無しに立ち上がった。
 それは、どこにでもいるただの人間が持ち合わせる不可視の力によって成り立つのだ。

 だからステイルは、もう一度繰り返した。

885: 2012/03/18(日) 02:10:25.06 ID:HhynQx1uo



「……分からないのか」



 先程よりも声色に憐れみを乗せて、しっかりと言葉を紡ぐ。



       き み た ち   ぼくら
「だったらインキュベーターは、人類の敵じゃない」


 一度紡げば、あとは不思議なくらい自然と唇が動き、次の言葉を作ってゆく。



「……ただの『的』さ」



 そんな、詠うように告げられた言葉と共に。

 ステイルの背後で、誰かが立ち上がる音が、憎悪の渦巻く灰色の世界に生まれた。



886: 2012/03/18(日) 02:10:52.84 ID:HhynQx1uo

 ――事前に覚悟していたような、分かりやすい苦痛は訪れなかった。

「……っ」

 ただ身体中が焼けるように熱く、砂袋を何重にも背負ったような重圧が身体に圧し掛かっていた。
 それ以上のことは、まどかには何も分からなかった。
 痛覚が麻痺しているのか、それとも夢の中なのか、それすら分からない。

 ただ彼女は立ち上がれと自分の身体に命令を下して、身体がその命令に応えた。それだけでも十分だった。
 ぐっしょりと赤い血で湿った靴ごと、右足を一歩前に運び出す。次は左足。右足。

「どうして?」

 耳に届く疑問の言葉。
 声のする方に体を、目を向ける。
 その先には小さく白い、キュゥべぇの姿があった。

「どうして君はそこまで出来るんだい?」

 どうして。
 考えるまでも無い疑問に対し、それでもまどかは優しい笑みを浮かべて返答した。

「私が、そうし、たいから……ほむらちゃんのこと、助けたい、から」

 体が熱い。

「わた、し。見たから……あなたと一緒に、あの光、の……向こ、で」

 でも歩みは止めない。

「ほむら、ちゃ……これまでの、ぜんぶ、見たから」

「それじゃあ君は、本当にあれを見たのかい?」

 こくりと頷いて、肯定する。
 この場所を訪れる前。光の流れに身を任せた時。まどかは『彼女』の全てを見た。

「ぜんぶ……見たよ」

887: 2012/03/18(日) 02:11:42.92 ID:HhynQx1uo

 始まりはどこかの病院だった。
 その時彼女はまだ赤子だった。

 成長していくにつれてその赤子は心臓の血管が生まれつき細い障害を持っていることが分かった。
 それによって長時間の運動が出来ず、入院続きで勉強も苦手になる一方。
 すぐに緊張してしまう性格のせいで人付き合いも良くない。

 そのせいで友達と呼べるような人は、一人も出来なかった。

 ある日、少女と呼べる年齢になった彼女は何度目か分からない転院を行い、手術を受けた。

 もちろん結果はそれまでとなんら変わらない。
 申し訳なさそうな顔をする医者と、次があるよと励ましてくれる両親の顔。
 もはや見慣れるを通り越して見飽きてしまうほどに繰り返された、お決まりの光景だった。

 両親は入院費用や手術費用を稼ぐために東京で共働きのため、
 彼女はその病院の近くのアパートに一人暮らしをすることになった。
 近くの中学に編入することも決まった。

 恐らくは、これまでとなんら変わらない学校生活が待っているのだろう。
 少女は半ば諦めながら、学校に通い。

 一人の少女と出会った。

 ピンクのリボンに、向日葵のように明るい笑顔。
 春を連想させる、暖かい雰囲気を持った少女。

 その少女の姿は彼女からすれば新鮮な物で。
 まどかからすれば、毎朝一回は嫌でも目にする見慣れた物だった。

 その少女は、鹿目まどかだった。

 そして考えるまでも無く、まどかが見守ってきたその彼女は暁美ほむらだった。――髪は三つ編みだし、眼鏡を掛けていたけれど。

888: 2012/03/18(日) 02:12:36.49 ID:HhynQx1uo

 ほむらにとって、まどかの存在や行動はさぞかし新鮮で珍しいものだったのだろう。

 ほむら越しに自分の姿を見ながら、まどかは妙な照れくささを感じた。

 そのまま日が沈み、空が朱に染まった時、それは現れた。

 門の姿をした異形の存在。魔女だ。ほむらは成すすべなくそのばにくずおれていた。

 そんな時だ。
 二人――まだ生きて笑みを浮かべている巴マミと魔法少女姿の自分が現れたのは。

 優しいまどか――と言うと自惚れのように聞こえてしまうが。
 それはともかく、ほむらにとってまどかの存在は瞬く間に大きくなっていった。

 やがてワルプルギスの夜と戦い、力を使い果たした自分が息絶え。
 そんなまどかとの出会いをやり直すためにほむらは『キュゥべえ』と契約し。

 時間と世界の壁を乗り越えて、孤独な戦いを開始した。
 それは何年にも、何十年にも渡る辛く厳しい戦いだった。

 頼れる者など存在せず、元より誰かを頼る気などとうに失ったほむらは、何度も何度も繰り返した。

 その末に、まどかはほむら越しに見た。
 自分が、一つの概念に至る光景を。
 魔女を消す存在へ成り果てる瞬間を。

 そして気がつけば――ほむらはこの世界に訪れていた。

 ねじれ、歪んだいびつな世界に。

 魔術が存在する世界に。

889: 2012/03/18(日) 02:13:36.00 ID:HhynQx1uo

 ……そして、ほむらは魔女になった。視界は暗転し、音が消えた。


 記憶の流れから抜け出して、元の世界に戻るのだと。まどかはそう思った。


 だが違った。
 気が付いた時、まどかは病室にいた。

 そこでは小さな赤子が産声を上げていて、若い男女が喜びの涙を流していた。

 やがて赤子は成長し、心臓に障害を持っていることが判明し……後はおおむね、同じだ。
 赤子は少女となり、転院し、手術を受けた。

 明確に違うと断言できたのは、少女の記憶がそこで途絶えてしまい、世界が暗転してしまったことだ。
 少女の人生はそこで終わってしまい、その未来は永遠に断たれてしまった。
 まどかには最初、それが何を意味しているのか分からなかった。


 暗闇の中に僅かに光る点を見つけた。
 まどかは無意識の内にそれに向かって手を伸ばした。


 気が付いた時、まどかは病室にいた。

 そこでは小さな赤子が産声を上げていて、若い男女が喜びの涙を流していた。

 その光景を目に焼きつけながら、まどかはようやく理解した。

 ……これは、自分の知るほむらが奪ってしまった物だと。

 未来を奪われた暁美ほむら“達”の記憶なのだ、と。

 そうしてまどかは、その暁美ほむら達の人生を追い始めた。

 数百にも上る、たくさんの少女の人生を。

890: 2012/03/18(日) 02:14:14.02 ID:HhynQx1uo

「ぜんぶ……見たよ。ほむらちゃんが、ほむらちゃんたちが、どう生きてきたのか」

 だから止まらない。
 見てしまったのだから止まれない。
 いや、もしも彼女らの記憶を見ていなくたって止まらないだろう。

 そう心の内で思ってから、まどかはふと体が軽くなるのを感じた。
 体を襲う焼けるような熱さとは相反するひんやりとした何かが体を覆っている。
 これは一体なんだろう、と首を傾げ、すぐにその正体に気付く。

 視界の隅で、槍を支えにしながら必氏に祈りの姿勢を保つ杏子を見たからだ。

 ……杏子ちゃんは、優しいなぁ。

「私は……ほむらちゃんを助けたい」

「無理だよ。そんなこと出来るはず無いじゃないか」

 彼の言葉はどこまでも静かで、冷たい。
 深く心に捻じ込まされて、それでも否定する気にはなれなくて。
 だからまどかは、悲しげに微笑んだ。

「そうかもしれない。でも、私は……」

「でもじゃないよ。無理なものは、無理なのさ」

 地面に目を落とし、わずかに肩を下ろす。
 助けられないかもしれない。そんな現実が、胸を締め付ける。
 頭の中から離れていた絶望が、ふたたび脈動し始め、だんだんと蘇り――



「……やれるよ、まどかなら」



 立ち止まりかけたまどかの耳に、親友の声が届いた。

891: 2012/03/18(日) 02:18:04.47 ID:HhynQx1uo

「キュゥべぇ、あんた全然分かってない。まどかのこと、これっぽっちも分かってない」

 聞こえるのは、先ほどまでピクリとも動かなかったさやかの言葉だ。

「まどかなんだよ、その子は。ドジでノロマで、あんまし得意なこととか無いけど……」

 静かに顔を向ければ、そこには杏子に肩を預けた状態で立ち上がるさやかの姿があった。
 さやかは憔悴しきった顔のまま、それでもどこか誇らしげに胸を張っている。

「そういうトコがやっばい可愛くて! その子はあたしの嫁で!
 こんなどうしようもないあたしを心配してくれる優しい子なんだよ!! だからっ」

 すぅっと息を吸う動作と共にさやかが胸をそらした。

「だから大丈夫! まどかならきっと、うまくやれる! 魔法なんか使わなくたってほむらを救える!!」

 さやかを支えながら、杏子も照れくさそうに頷いた。

「アタシのソウルジェム、限界ギリギリまで治癒魔法かけてやったんだからさ。
 最低でもアイツのこと抱きしめてやれるくらいはやってもらわないと元が取れないっつーわけ?」

 そしてにこっと笑って、八重歯を見せながら左手を握り締めて高く振り上げた。

「行きな! 保証は無いしけど、今のアンタならきっとやれる気がするんだ!!」

 視界の隅で、倒れたままのステイルがわずかに右手を上げてみせた。本当にわずかに。多分10cmくらい。


 ……みんな。

 胸が熱くなって、頬が熱くなって、目頭が熱くなって、息が苦しくなって。

 でもそれが、心地良い。

892: 2012/03/18(日) 02:18:39.51 ID:HhynQx1uo



「無理だよ。奇跡なんて起こらない」


 野暮な声に構わず、まどかは足を動かす。


「止めるんだ。君は命が惜しくないのかい?」


 制止する声を振り切って、まどかは前に進んでいく。


「君が抱いている希望は条理にそぐわない。このままだと君は、確実に絶望することになる」


 悲しげに立ち尽くしている魔女に向かって手を伸ばす。


「身にあまる希望を抱けばそれだけ絶望が撒き散らされる。そもそも君らが希望を抱くこと自体が間違いなんだ」


 その言葉に、まどかは伸ばした手をピタリと止めた。

 そして後ろを振り返り、縋るようにこちらを見上げるキュゥべぇに優しく微笑みかける。



「……私は、そうは思わない」



893: 2012/03/18(日) 02:19:09.71 ID:HhynQx1uo



 首を左右に振って、ふたたび魔女に向き直る。



「あなたが、私達が希望を抱くのが間違いだって、私達には何も出来ないって」



 後ろでじっとこちらを見守るキュゥべぇに語りかけながら、



「そんな悲しいことを言うのなら―――」



 全てを受け入れるように、総てを受け止めるように両手を差し出して、



894: 2012/03/18(日) 02:19:51.92 ID:HhynQx1uo















「―――――そんな幻想は、私が打ち砕いてみせる」















895: 2012/03/18(日) 02:20:42.39 ID:HhynQx1uo


 言葉と共に、まどかの両手が魔女の背に回された。

 そしてこれまでと同じように見えざる時計の針がぐるりと回転し、全てが巻き戻――らない。

 時間は、元には戻らなかった。

 魔女の背に回された両手は静かに重なって、まどかは笑みを浮かべたまま魔女の体を抱き締める。

 つぎはぎだらけの顔の、つぎはぎだらけの頬に己の頬を寄せる。

 そして、先ほど彼女に向かってささやいた言葉をもう一度繰り返す。



「……お待たせ、ほむらちゃん」



 その言葉に、魔女は静かに涙を流した。

 その涙はやけに黒く、この世の物とは思えなかったが――

 それでもまどかには、そんな涙すら愛おしい物に思えてならなかった。

 沈黙する周囲を無視したまま、まどかはぎゅっと己の腕の中にいる者を抱き締め続けた。


 灰色の世界を覆っていた怨嗟の声は、既に鳴り止んでいた。


896: 2012/03/18(日) 02:21:11.27 ID:HhynQx1uo


 そして同時に。


 固く結ばれたまどかの両腕に隠れた箇所。


 誰にも見えない魔女の背中が。


 形容しがたき色を宿して変化し始めていたことに気付いた者は、誰一人としていなかった。


 まどかの首に提げられた十字架が怪しく輝いたことに気付いた者も、誰一人としていなかった。


897: 2012/03/18(日) 02:29:20.95 ID:HhynQx1uo
以上、ここまで。

今回のステイル君の活躍:首を動かし、右手をわずかに上げる。

ちょっとまどかさんに誰かさんが憑依してるみたいな感じになってますが、ご了承ください。
魔女に触れられた理由とかそういうのは全て次回の投下で分かる予定です。
マミさんの台詞が鍵だったんでログを探してたら、投下日が去年の7月とかもう……本当は8月中に完結予定だったのですが

次回の投下は22日までには必ず、必ず……次回の投下で本編、もとい今やってる問題は完結する予定です

899: 2012/03/18(日) 02:34:43.77 ID:SHxKs4HSo
乙です

943: 2012/05/28(月) 02:54:14.36 ID:9M6RkmvRo

「――ったく、一体全体なんだってんですか、ええ!?」

 そう叫んだのは、修道服姿のアニェーゼだった。
 まったく連絡の取れない天草式に業を煮やし、そして頭の中に突如に訪れた『内容』に腹を立てているのだ。

「こんな状況下で、わけのわかんない流れに置いてきぼりくらうっつーのは納得行かねーってんですよ!」

「まあ落ち着きなよ、シスターお嬢ちゃん」

 そんな彼女に声を掛けるのは、鹿目詢子――まどかの母親だ。
 彼女は水の入ったペットボトルを口にして、軽く息を吐いた。

「確かに……『これ』はわけが分からないけどさ、子供達を見てみな」

 それは……とアニェーゼは口ごもり、背後を振り向く。
 アニェーゼに保護された志筑仁美と中沢は、まるで天に祈るかのように空を仰いでいた。
 空――あまりにも大きすぎて全容が掴めない、巨大な建造物の底面を見て、アニェーゼはため息を吐く。

「……妙に落ち着いてますけど。『これ』は娘さんが絡んじまってるんですよ?」

「みたいだねぇ……いや、立派に育ってくれたもんだよ。
 事情は分からないけど、こうなったら後はもう祈るくらいしか出来ないね」

 などと言って乾いた笑いを零す詢子から目を背けると、アニェーゼはもう一人――
 遅れて保護されたどこかで見たことがあるようなないようなわからない短髪少女の顔を覗きこむ。

「あんたは何か知らねーんですか? 能力使えるみたいですし、学園都市の関係者なんでしょう?」

 すると少女はばつの悪そうな顔で、頬を引きつらせながら頷いた。

「はぁ、まぁ、知っていると言いますか関係していると言いますか。
 むしろ電波を伝播するアンテナに利用されていると言いますか……
 と、とりあえず天使様と白髪頭の超能力者が何か企んでいるみたいですよ、とミサカは曖昧な説明で誤魔化します」

「……はいぃ?」

944: 2012/05/28(月) 02:54:42.41 ID:9M6RkmvRo

 ――奇跡などでは、断じてない。


 灰色に淀んだ世界の中心で、インキュベーターはそう判断した。


 つぎはぎの魔女を抱き締めるまどかの後姿を見ながら、
 その決意と勇気に動揺する素振りを見せることなく。
 当たり前の事実であるかのように、ごく自然に頷いて。
 
――先ほどまで見せていたまどかを咎めるような態度は、既にその面影すら無い。


 赤い瞳を忙しなく動かして、インキュベーターは再度目の前で起きた現象を分析する。
 分析して、やはり同じ判断を下した。おかしなことは何も起こっていない、と。

 インキュベーターの介入無しに、個人の意思が宇宙の真理を覆すようなことはありえない。
 どれだけハッピーエンドを望んでも、宇宙を構成する絶対法則を破壊することは出来ない。
 鹿目まどかは奇跡など起こしていない。
 条理を覆してもいない。

 これは起こるべくして起きた必然だ。
 あの魔女の性質――嘆くことすら奪われた暁美ほむら達の欲する物を考えれば、合点が行く。

 生前に全てを奪われたからこそ、魔女は欲した。
 何も無い自分に対して向けられる、偽り無き好意を。
 ほむら達の遺志とも呼べる感情、プログラムがそのように駆り立てたのだろう。
 ゆえに、魔女に対して殺意と敵意のみを抱いていたステイルが弾かれるのは当然の結果だ。

 だからこそ、魔女のことを想う者、すなわち条件に見合うまどかならば触れることが許される。
 時間を捻じ曲げる魔法の壁を乗り越えて、彼女は魔女のお気に入りに選ばれた。

(だけど、それで全てが解決するわけじゃない)

 その事実に思い至ったインキュベーターは、思考を一旦中断しようとした。
 得られた事実をまとめ直し、そこから先、これから何が起こるのかを予測するためだ。

 だからこそ、インキュベーターは困惑した。

 思考の中断を行う際、わずかなノイズが生まれたからだ。
 それは湖面に生まれた波紋のようなわずかなノイズだ。
 発生する原因が存在しない不可思議な雑音だ。

945: 2012/05/28(月) 02:55:10.10 ID:9M6RkmvRo

 ……熱い。

 ノイズだけではない。
 エラーも混じっている。
 今結界の中にあるこの個体のどこか、何かが異様に熱を帯びている。
 だがその何かが分からない。原因を探るために意識を深く沈ませていく。

 身体に異常は見受けられない。負傷もしていなければ魔術や魔法を浴びせられたわけでもない。
 他の個体とデータを比べても差異はなく、ステータスに異変を見つけることが出来ない。
 とすれば、これはなんだ。
 一つの個体が情報を得すぎたことで生まれた情報の齟齬だろうか。
 あるいは時空を歪ませる魔女の結界内だからこそ生じたバグだろうか。
 ここは最悪の魔女結界。いかなる魔術師でも外部との通信を行うことが出来ない牢獄だ。
 いかにインキュベーターと言えど、外部との情報のやり取りに異常があっても不思議ではない。

 今はそれよりも、この先に何が起こるのかを推測した方が良い。
 インキュベーターは自身の不具合について、そのような結論を下した。

 だが、熱い。燃えるように熱い。

 一個体の異常がインキュベーター全体の思考をかき乱す。何かが訴えているのだ。

 熱い、熱い、と。

 情報の齟齬から生まれる、単なる異常では説明が着かない現象だ。
 ノイズから始まったエラーは、いまやインキュベーター全体に影響を及ぼし始めていた。
 身体以外のどこか。インキュベーターとしての意識以外の何かが打ち震えている。
 どうしていいのか分からずに、ただ衝動に任せて燃え滾らせている。

 知っている。

 インキュベーターは知識として知っている。

 インキュベーターとは縁の無い“何か”が燃え上がる現象を。

 しかし――何故?

946: 2012/05/28(月) 02:55:52.01 ID:9M6RkmvRo

「……考える必要なんて、無いんじゃないのか。違うか、インキュベーター」

 人間の思考を遥かに凌ぐ速度で行われる演算に、男の声が割り込んだ。
 その声は、虫の息状態のままがくりと上体を起こしたステイルからもたらされたものだった。
 その姿は今にも崩れそうにふらふらと揺れていて、現実から剥離した幻か、現実から離脱した幽鬼にすら見える。


「君は僕の思考を読み取ったのかい?」

 ステイルの問いかけに、インキュベーター――キュゥべぇは疑問で返した。

「あいにくその手の術式は得意じゃないんだ……が、僕だってどこぞの男子高校生よりかは空気が読めるのさ」

 ふん、と鼻で笑う音。
 突拍子もない例えに非難めいた物言い。
 彼の意図が分からない。

「誰だって、あの光景を見れば胸が熱くなるだろうさ。あれは誰もが憧れる、漫画か何かに出てくるようなヒーローだ」

 脈絡の無い言葉に、キュゥべぇはぐるりと首をめぐらしてステイルの顔を覗き見た。
 ステイルが正気でいるかどうかを確認するためだ。
 血を失いすぎて自分を保てられないのかもしれないと判断したからだ。
 そして、その判断はおおむね間違ってはいなかった。ステイルの瞳は焦点が合わず、虚空を見定めている。

 半氏半生の世迷い言を聞くことになんら意味はない。
 無視して構わない。


 しかし、


「君はそのヒーローの活躍に感動して、心を震わしているのさ」

 続く言葉を、キュゥべぇは――インキュベーターは無視できなかった。

947: 2012/05/28(月) 02:56:18.76 ID:9M6RkmvRo

 感動して心を震わせることなど、感情を持たず理解出来ないインキュベーターには不可能だ。
 関心は持っても感心はしない、驚愕はしても驚嘆はしない。
 不合理な判断や非効率な手段を選ぶ人間の美学は知っていても、真似しようとは考えない。

 それがインキュベーターだ。
 有史以前より人類に干渉し続けてきた宇宙を生きる種族の考え方だ。

 だというのに、

「なるほど。これが感動するということなんだね」

 インキュベーターの思考を遮って、言葉が漏れ出た。
 インキュベーターではない、キュゥべぇが身体の中に持つ、意思を伝える機関から。
 まるで溢れ出る感情を制御し切れないとでも言いたげに、ほとんど無意識の内に――

「だけど不思議だ。どうして僕が感動できるんだい?」

 先ほどとは違う、制御された言葉を発する。
 ようやく状況が掴めて来た。今、この『個体』に起きている異常が。
 だからこそ分からないのだ。なぜそうなってしまったのか、その理由が。

 対するステイルは、ゆっくりと足を構え直して片膝立ちの姿勢に移った、
 出血は既に止まっている。焦げた肉の臭いがするのは――嗅覚器官の不具合ではないだろう。
 寝転がりながら、出血を止めるために傷口を焼いていたのかもしれない。
 火傷治癒に慣れている彼ならばそう難しい芸当ではないはずだった。

「まどかの言葉と、君の不自然な行動を照らし合わせて思考すれば嫌でも分かるさ。これでも思考は得意でね」

 ステイルの言葉には、どこか自嘲的なユーモアがあった。
 それを無視して、インキュベーターはその言葉の真意を測ろうとする。
 鹿目まどかの言葉……その意味は分かる。だが不自然な行動とは何を指しているのだろうか?

948: 2012/05/28(月) 02:56:54.31 ID:9M6RkmvRo

 インキュベーターは純粋な疑問を抱いて沈黙を保った。
 その態度を見たステイルは満足そうに鼻から息を吐き、口角を吊り上げる。

「君とまどかは、恐らくほむらの――いや、暁美ほむらの記憶を追憶したんだろう。
 僕の知るほむらと、僕の知らない暁美ほむら。つまり別の世界の、食い潰されたほむらの記憶を」

 もたらされた言葉は、しかしインキュベーターの求める答えとは微妙に逸れた物だ。
 ほむらの記憶の追憶と今回の事と一体何の関係があるというのか。
 その先を求めるために、キュゥべぇは頷いて話を進めるように促した。
 ステイルの表情に哀れむ色が芽生える。

「あれだけの殺気を出していながら君はまだ気付いていないのか。相当鈍感だね」

「殺気……? それはともかくとして、君たちは僕らのことを鈍感だと言うけどね。
 そもそも僕らには感情が無いんだ。本来なら、先ほどのような感動を覚えることだって出来ない」

「本当か? ただの一度も、感情が芽生えたことは無いのか?」

「そういった個体もいるにはいるけど、それは長い間活動しすぎた個体に生じるきわめて稀な精神疾患だよ」

「じゃあそういうことだろう。君も、その精神疾患にかかっているのさ」

 キュゥべぇの身体が、インキュベーターの思考が、ピタリと固まった。

「ほむらが繰り返した回数を、僕は知らない。
 しかし普通の人間なら諦めて当然なほどに過酷で長いものだったであろうことは分かる」

 そこで一旦言葉を切り、ステイルの身体ががくりと前に傾く。
 しかし次の瞬間には姿勢を水平に戻し――気付けば彼は両の足で地面に立っていた。
 既に体力を幾分か取り戻しているのだ。

「もしも繰り返した回数が一〇〇回以上なら、一〇〇人以上の暁美ほむらが潰えたことになる
 ならばそれをまどかと共に見た君の活動期間もそれに比例して長くなるのが道理という物だろう」

 否定は出来ない。
 主観時間での出来事に過ぎないとはいえ少なくともこの個体はまどかと共にそれだけの時間を生きた。
 差異は少ないが、それでも懸命に生きようとする何百人もの少女の記憶を覗いた。


 ある時点で必ず未来が途絶えてしまう、何の罪も無い哀れな少女達の心をその魂で目撃したのだ。

949: 2012/05/28(月) 02:57:46.72 ID:9M6RkmvRo

「十四年が一〇〇回。つまり一四〇〇年。それだけの時を生きた君が精神疾患に罹るのは当然なんじゃないのか」

 解けてみれば、なんと単純な事実なのだろうか。
 最初から答えは得ていたのだ。
 既に似たような事例はあったのに、それに気付けなかったとは。

「ここから先は完全な妄想になるが――
 その暁美ほむらを除いた中で君がもっとも接したことのある人間が魔法少女で、それがもしも巴マミであるとするならば」

 巴マミ。
 紅茶が好きで、孤独を嫌う、心の弱い魔法少女。
 魔女になるその最後の瞬間、自分の名を呼んでくれたというか弱い女の子。

「――そんな彼女を否定するようなまどかの言葉に、殺意を覚えても仕方が無いんじゃないか」

 身に覚えは無いが、もしも本当に殺気を放っていたとするならば確かに理解出来なくはない。
 この個体が感情を手に入れていたとするならばありえない話ではなくなる。

 冷静に思考するインキュベーターだが、今この場にいる個体は違う反応を取っていた。
 彼は感慨深げに目を細め、灰色の天を見上げていた。

「君はもう、地球外生命体(いんきゅべーたー)じゃない」

 赤い瞳にくすんだ灰色が混じる。
 そして彼は、そっと首を回して自分の背を見た。
 グリーフシードを取り込む吸入口の中、物質を保存するためのスペースに眠る『巴マミ』の遺灰を想う。


「君はただの、精神疾患者(キュゥべぇ)だ」


 キュゥべぇはステイルの顔を見た。



「ようこそ、感情の世界(こちらがわ)へ。魔法少女の使い魔。巴マミの一番の親友(キュゥべぇ)」

950: 2012/05/28(月) 02:58:12.95 ID:9M6RkmvRo

 ――まったく、せっかくの戦勝気分が台無しだ。

 内心で呟き、肩をすくめて失敗する。肩が震えているからだ。
 嬉しさとおかしさとが綯い交ぜになってステイルの心中をぐるぐると巡りゆく。
 冷静ぶってはいるものの、やはりキュゥべぇに一泡吹かせる事が出来るのは気分が良かった。
 まどかとほむら――そして今はもういない巴マミのおかげだと、心の底から思う。

 結末なんてこんな物だ。

 一介の男子高校生に過ぎない少年が少女を救い、その延長で世界まで救ってしまったように。

 世界を我が物顔で動かしてきた老婆やルーン魔術を磨き続けた魔術師である自分を差し置いて、
 因果をその身に束ねられただけのまどかと魔法に振り回されたほむらが全てを叶えた。

 そして巴マミは、キュゥべぇという地球外生命体にしてまったく異質な存在にきっかけを与えた。
 彼女のようにキュゥべぇに対して優しく接しながら、かつ代を変えて数百年以上交流を持てば、
 感情を持たぬ彼らに感情をもたらし、複雑な問題が解決されるかもしれないという可能性を導き出した。

 それはあまりにも気の遠くなるような話だったが――それでも、希望はある。

 外道の知識や魔術の歴史を知る者からすれば泡を噴きそうな結果だ。

 しかしステイルは、不思議と悔しさを抱かなかった。

 むしろ、この世界はそうでなくてはならない。
 願いが必ず叶うとまでは行かずとも、その努力は必ず報われる。そうでなくてはならないのだ。
 妙に晴れ晴れとした気持ちになったステイルは、立ち尽くしたままの二人を睨みつけた。

「だが、まだ終わりじゃない」

 呟くステイルの、負傷の影響で熱くなった頬を生ぬるい風が通り過ぎていく。

 それが合図かのように、饐えた臭いが結界内の空気に混じり始める。
 先ほどまでと同じかそれ以上の悪意と憎悪が結界内に満ちていくのをステイルは感じ取った。

「魔女の性質の裏を突いた所で、魔女がひっくり返ればそれは表。……ここからが正念場か」

 どくん、どくんと、静かに大気が脈動し始める。
 それは結界の主が本当の意味で目覚めたことの証だ。
 生まれたての魔女が自分に与えられたプログラムに従って動き始めることの表れだ。

951: 2012/05/28(月) 02:58:48.50 ID:9M6RkmvRo

 ――つぎはぎの魔女がその唇を異様な角度に歪ませるのを、ステイルははっきりと見た。

 ――魔女に抱き着いたまま、まどかが不安そうな顔でこちらを振り向くのを見た。


 直後、そんな対称的な二人を包み隠すように、それは現れた。


 つぎはぎの魔女の背中から堰を切ったかのように、怒涛の『流れ』が噴出した。
 濁ったどぶ川が可愛く見えるほどに汚らしい、腐った食物が液状化したような醜悪で混沌とした粘液の奔流だ。
 15年間必氏に生きてきたが、あれに類似する混沌とした汚物の塊を自分は見たことが無い。
 吐き気を催す臭気とその色合いにステイルは自身の世界の狭さを呪った。

 塊はうねり、回転し、ただ本能――と呼べるのかどうかさえ疑わしい――のままに蠢き、ある形を作り出す。
 それは爛れに爛れた憎悪を宿す巨人の手にも見えるし、呪われた我が身に憤怒する魔鳥の翼にも見えた。
 それは一言で表すなら、世界を侵食する黒き翼だ。
 憎悪と憤怒で彩られた、悪意の塊。
 粘液の蝕翼だった。

 翼はまどかを飲み込むように周囲にその身を撒き散らし、自分の領土を築き上げていく。
 あれに触れればどうなるのか、想像する気も失せてステイルは舌打ちをした。
 いわば結界の中に結界を作り上げたような物だ。触れられるはずも無い。

「――なんなのよ、これ!」

 小さく短い、現実を認められない少女の言葉が結界に木霊する。
 ステイルは反射的にその身を翻そうとして――しかし諦めた。身体が思い通りに動かなかったのだ。

「まどか……なによそれ、なんなのよそれ!?」

 現実を受け止めきれないさやかの声が空気を震わせる。
 無理もないと、半ば思考が停止した脳の片隅でステイルは考えた。
 この急転直下の展開を許容できる者などいるわけがない。いたら顔が見てみたい。
 それほどまでに、混沌と化した灰色の世界で繰り広げられている光景は度し難いものだった。

「愛情を知らない獣に生半可な愛情を与えてしまったら、始まるのは依存だ」

 感情が芽生えて三〇分も経っていないであろう使い魔の声が静かに伝わってくる。
 依存。その光景を一言で表すなら、確かにそれは依存だった。

 いや……もしかすると、寄生かもしれない。

952: 2012/05/28(月) 02:59:20.41 ID:9M6RkmvRo

「……まどかを取り込むつもりか、あの魔女は」

 目の前の悪夢に対し冷静に言葉を紡ぐ。

 つぎはぎの魔女は、己の領土を増やすだけでは飽き足らないようだった。
 魔女は咄嗟に自分から離れようとしたまどかの左手を自身の左手で掴む。
 そして熟し切った果実か、高熱を浴びて歪み爛れたかのような左手に、まどかの左手を沈めていく。
 おぞましい音を立てながら。
 魔女は荒々しく取り込んでいく。

 もはや彼女達は、二人ではなく。
 一人と一体ですらない。

「っ、ほむらちゃん、ステイルくん――!」

 悲鳴が途絶える。
 まどかの表情は見るからに強張り、明らかに異常な反応を示している。

「これじゃあもう契約は無理じゃないかな」

 感情を宿したくせに、いつもと変わらない調子でキュゥべぇが状況を補足した。
 呆然と立ち尽くすステイルの目の前で、彼女達は一つになりかけているのだ。

「……参ったな、本当にこれは、どうしようもないじゃないか」

 そんな非情な光景を目の当たりにすると、ステイルは疲れ切った声でそう言った。

 手の打ちようが、無い。状況を打開するための秘策が、完全に無くなってしまった。

 敵に痛手を加えること、それだけならあるいは可能かもしれない。

 それでも、それだけだ。
 あの魔女――着々と魔力を慣らし、もはや聖人すらも凌駕した領域にいる魔女を倒すことは出来ない。
 恐らくこのまま傍観していれば、ワルプルギスの夜など相手にもならないほどに強大な魔女になることだろう。

 これまでの戦いで得られた勝利は、幾人の努力という必然の上に成り立っている。
 美樹さやかの時はローラ・スチュアートによる強大なバックアップがあった。
 ワルプルギスの夜の際は『人間の魔女』や天草式、杏子たちの働きがあった。
 魔女自体は復活を果たしてしまったが――今度はほむらが、ルールの穴を突いて完全に撃破してくれた。

953: 2012/05/28(月) 02:59:47.49 ID:9M6RkmvRo

 だが、今度は違う。
 ほむらは魔女になり、杏子とさやかは戦えず、まどかは契約出来ない。
 自分に出来るのはせいぜいちょっかいを出す程度。ほむらを救うことはおろか撃破なんて夢のまた夢なのだ。
 完全に、手詰まりに陥ってしまった――

 心を絶望の色に染めかけたステイルは、ただただ無気力に眼球を動かし、まどかの首下に視線を注いだ。
 そして目を凝らし、限界まで見開く。

 その視線の先には、もがき苦しむまどかの首に提げられた十字架がある。
 それは本来この場面、この状況には有りえない物だった。
 それは本来この場面、この状況では使われない物だった。

 だからこそ、ステイルは歯噛みする。

 ……どうして気付けなかった?

 ……彼女が首から提げている代物に、何故もっと早くに気付けなかった!?

 やりようのない自責の念に駆られるが、それとは別にステイルの思考は真相の究明に奔走する。
 まどかがここにいること。キュゥべぇがいること。あの十字架。
 誰かがまどかにあれを渡した者がいる。ここまで導いた第三者が確実に存在している。
 点と点とを結んでほころびを見つけ出すと、ステイルはキュゥべぇに尋ねた。

「……キュゥべぇ。君たちをここまで連れてきたのはどこの誰だ?」

 候補はいくらでもある。イギリス清教の人間や、独立して動く連中。
 それにローラ・スチュアート。それ以外の勢力。その目的。
 ステイルは苦々しい表情を浮かべるも、

「それは違うね。僕らは土御門元春に協力して貰ってここまで辿り着いたんだよ」

 キュゥべぇの言葉に、その表情を消した。

954: 2012/05/28(月) 03:00:15.87 ID:9M6RkmvRo

「土御門、あいつか」

 ほんの少し前に聞いた人物の名前を耳にして、ステイルはため息をついた。

 杏子たちを助けたかと思えば今度はまどかとキュゥべぇをこの結界内に誘い込んだ、
 豪胆な元同僚のニヤケ面を思い出し、ステイルは内心で激昂しかける。
 だがそれとは裏腹にその思考はより冷たく、鋭く研ぎ澄まされていく。

 あのニヤケ面が、この土壇場で無意味な干渉をするはずが無い。
 確かに彼はふざけた性格をしている。お世辞にも真面目とは言えない人格の持ち主だ。
 しかし、それだけで終わるような人物ではなかった。
 でなければステイルも、彼の顔を記憶に留めておくような事はしなかっただろう。

 土御門元春は己とその周りの世界を守るためなら最大主教すらも敵に回す男だ。
 いかなる難敵も彼にとって障害足りえず、あらゆる万難も彼の前では難事成りえない。
 彼は彼の目的のためならば笑って仲間を裏切るし、血反吐を吐きながら自分を偽るだろう。

 だからステイルは、ここぞという時に頼りになる元同僚のことを想った。

 闇からその足を洗った彼が今回の騒動に首を突っ込んだ理由を考え、
 彼が動かねばならない事情を察し、彼にそうまでさせた本当の黒幕を推測する。
 理由。これは単純に、彼の世界に危害が及ぶ可能性があったからだと見て間違いはない。
 黒幕。最低でもローラ・スチュアートと同等かそれ以上の陰謀屋が関与していることは疑うべくもない。

 とすれば――と、そこまで考えてステイルは周囲を振り返った。

 何かが揺れている。

 不気味に脈動する大気とは違う、確かな形のない何か。
 まるで強大な何かが足元から迫り来るような、重たい揺れだ。

 それだけではない。五感以外の何かが『危険だ』と執拗に訴えるのだ。
 嗅覚では嗅ぎ取れない匂いが。
 聴覚では聴き取れない震えが。
 視覚では捉えられない物質の裏側にある何かが。

 ステイルは知っている。
 それが何であるのかを。それが何を齎す者かを。

 ステイルの脳裏で、思考と事象とが交差する。
 それらがもたらした『完璧な解』を、ステイルは見つけ出した。

「……いよいよ、面倒な事になってきたね」

955: 2012/05/28(月) 03:01:25.42 ID:9M6RkmvRo

 呟きながら、右足を一歩前に踏み出す。
 その足取りは重たい。
 腰も、肩も、体中の筋肉や骨が鉛に差し替えられたのかと思うほどに重たい。

 当然だろう。常人ならとっくのとうに救急車で運ばれてもおかしくない状態なのだ。
 あの男ならどうしただろうか、と考えて、ステイルは意味のない予想をしたことに気付いて眉をひそめた。
 考えるまでもない。あの男なら、きっと自分と同じ事をしたはずだ。

「……ッ!」

 左足を前に出す。重さは変わらないが、それでも気分はいくらか軽くなっていた。
 靴が地面を踏みしめるのと同時に、さらに右足を前に出す。
 重さを気にする心を切り捨てて、ステイルは緩慢な動きで、だが確かに前進する。
 そして黙ったまま正面を見据えて目を細める。

(まるで道化か何かじゃないか)

 口に出すのに疲れて、ステイルは内心で呟いた。

(いや、正真正銘の道化だ。笑えない冗談だ、これはあまりにも――)

 懐から一枚のカードを取り出して目を瞑る。そして腹の底から込み上げてくる衝動に正直に従い、

「これはあまりにも、僕におあつらえ向きの配役だ……!!」

 疲れを無理やり捻じ伏せて、ステイルは不敵に笑いながら言った。
 心の底から嬉しそうに目を見開き、右手の中のカードを空へ向けて放り投げる。
 初歩的な術式による加護を受けてカードは灰色の空を飛び、南の位置で停止。
 やがてカードはゆっくりと下降し、ステイルの目から見て地平線上の位置で静止する。

 それを確認すると、ステイルはもう一度魔女を見た。
 正確には、混沌の領土を着々と広めてその力に磨きをかける魔女のすぐ隣にいるまどかを見た。

 彼女の瞳は、誰かを信じ、疑わない者のみが持てる輝きを宿していた。

956: 2012/05/28(月) 03:01:51.96 ID:9M6RkmvRo

「僕は血を吐き道化になろう。
 子供が陽気に笑って終わる、歓喜と拍手が織り成す大団円の、
 陳腐で愉快で希望に満ちた、終幕(ハッピーエンド)のためだけに」


 気を紛らすための即興の向上を詠うと、目を伏せ、記憶を遡る。
 ずっと昔、まだステイルが人を殺める術を覚える前。
 まだ世界が希望に満ち溢れていると信じていた、最大の罪を犯す前。
 理不尽な現実を知らぬ哀れで純粋なただの子供だった頃の記憶を掘り返す。

 白い修道服姿の彼女が吹聴していた言葉――魔術の神秘、魔導の深遠、魔法の智恵を借りるために。

「……Ph’ng……ahf……」

 集中する。
 呪詛のような言葉を吐きながら――というよりも本当に呪文なのだが――眉をピクリとも動かさずに。
 意識を一本の刃に見立て、舌と顎と歯に全ての神経を注ぎ、心をただひたすらに研ぎ澄ませて。

「……Cthug……lhaut……」

 集中する。
 ステイルは喉を震わして、人間離れした、異常な何かの呟きにも取れる呪文を吐く。
 元より『人間には発音できない』と“設定”されている呪文だ。人間離れしているように見せなければならない。

「……n’gha……lthagn!」

 呪文も終盤というところで、ステイルは魔女の気配に乱れが合ったのを感じ取った。
 ここであのおぞましい翼に貫かれて氏んだら、さぞかし笑い話になることだろう。
 生きているものがいれば、の話だが。

「……Ia――」

 残すは名詞である一単語のみ。
 ステイルはそこでもう一度、目を開く。
 魔女の翼は先ほどまでと変わらずに蠢いているだけで、ステイルに牙を剥こうとする気配はなかった。
 バカめ、と内心で吐き捨てる。

「Cthugha――!!」

 呪文を完成させる。

 直後、地平線上の位置に座していた『水』と『松明』のルーンが刻まれたカードから膨大な灼熱の炎が吐き出された。

 異界から齎された炎はステイルやさやかたちの体を“すり抜けて”突き進む。

 突き進んだ先、つまり混沌の翼を蠢かせる魔女とその混沌の領土にぶつかる。
 途端に、炎は唐突に猛威を振るい、混沌全てを燃やし尽くそうと行動し始めた。
 結界を灼熱の炎が飲み込み、魔女へ襲い掛かる。

957: 2012/05/28(月) 03:02:22.55 ID:9M6RkmvRo

「なんだよこれ……?」

 杏子の言葉にステイルは後ろを振り返った。

 疲れているのか彼女の表情は苦しげに見える。
 だがそれだけだ。混沌を焼き尽くす炎に飲まれながら、彼女は火傷一つ負っていない。

「別にそう驚くことじゃないだろう。確かにこれは少々不思議で多々胡散臭い術式だけどね」

 言いながら、その場にしゃがみ込んで地面に手を当てる。
 そして懐に残る一〇三枚――最後のルーンのカードを貼り付けながら話を続けた。

「術式は基本的にある一定の法則によって発動する仕掛けになっている。
 これにはよく神話や聖書の伝承が用いられてね。理由は単純に法則を見つけ出すのが面倒だからだが」

 そこで口を噤み、炎の向こうで悶える魔女を見た。
 まどかに異変は見受けられない。彼女はあくまで苦しい表情のまま、耐え凌いでいる。

「……もちろん、その法則を無視して発動できれば良いのだけどね。
 そんな化物じみた行いはどれだけ魔術の知識を集めたところで不可能だ。
 魔神でも、せいぜい即座に法則を見つけ出してその場で伝承と照らし合わせた術式を構築するのがやっとだろう」

 もっとも、扱う魔術の“時代”が異なれば話は別なのだが。

 この世に居るのか居ないのか分からない存在の顔を思い出して、ステイルはほんの僅かに手を止める。
 だが次の瞬間にはかぶりを振って考え直し、ふたたび手を動かし始めた。

「僕が今回引っ張り出したのは、十字教でもなければ北欧神話の伝承でもない。
 それどころかまともな“伝承”でも、まともな“神話”でもない。まともな“教え”ですらない――単なる物語の、一事件さ」


 他の神話や伝承とは何もかもが違う、まったく出自の異なる新しい伝承。
 二十世紀初頭に生まれ、今なお成長する完全に架空の幼き神話体系。
 幾人もの綴り手が生み出す、未知への恐怖を題材にした物語。

 物語はあまりにも隙だらけで無駄だらけだったが――十字教や多神教の伝承と渡り合えるほどに、洗練されていた。

958: 2012/05/28(月) 03:04:15.45 ID:9M6RkmvRo

「事件って……なによそれ? じゃあこの魔術はなんなのよ?」

 さやかの声が聞こえて、ステイルはほっと一息ついた。
 あの光景を目の当たりにして絶望していたら、今度こそ本当にアウトだったかもしれない。

「これは南の魚座の恒星に幽閉された、火の首領が関わるエピソードを用いた術式だ」

 その創作神話において、火の首領は恒星から地上に呼び出された。
 そして火の首領は敵対する“地”の神が棲まう宿たる森を配下に命令して焼き尽くした、そういう事件だ。
 それがステイルたちを傷つけず、かつあの魔女を苦しめる炎を生み出す要因だった。

「本来は恒星が地平線上に位置するのを待って、火の首領が暴れた森で使わなければならないのだが……」

 森にこちらへ来い、と言うのはあまりにも無理がある。その逆もまた然りだ。
 だから代用する。

「南の魚座は位置と『水』で、恒星の熱量は……かなり見劣りするが、『太陽』の意味を持つルーンで」

 意味を持つと言っても、実際に太陽を発現できる訳ではない。
 この距離、体力では小さな炎を生み出すのが精一杯だ。

「暴れた森は、この見ようによっては巨大な大樹にも見えない場所を森に見立ててね」

 せめてその土地の木々や木の葉、土があれば話は別だが、あいにくステイルはその森の名前を知らなかった。
 そもそもこんな術式を使うことになるとは思っても見なかったのだから仕方ないのだが。

「……だけど属性は、最高の物を用意出来た――いや、用意してくれたと思っているよ」

 属性。
 それが無ければ今回の術式はただの火事か火の粉で終わる可能性が大いにあった。
 だからステイルは感謝したのだ。
 あのつぎはぎだらけの魔女とめぐり合えた、その幸運に。

959: 2012/05/28(月) 03:05:22.77 ID:9M6RkmvRo

 ――火の首領が焼き尽くした森の主は、ある属性を秘めていた。
 “地”もそうだが、もっと別の、主の代名詞とも呼べる属性を。

 この世の条理から外れた、理不尽なまでに異常な“混沌”を。

 邪悪な色の混ざった、恐ろしいまでにおぞましい“翼”を。

 千にして無貌と呼ばれる神の、その“顔”を。

 あのつぎはぎの魔女も、持っている。
 混沌と、翼と、そして千には及ばないまでも――百以上の貌(じんせい)を。

(……劣化レーヴァテインだと思っていたが、今回は相性に助けられたな)

 かつて、相手にルーンを刻み込んで焼き尽くす霊装があった。
 科学側の技術を取り入れて伝承を無理やり再現した風を装う、見かけと小細工だけの霊装だ。

 ステイルの扱う術式は、本来であればそのつまらない作品よりも遥かに劣る失敗作だった。
 なにせ属性を用意するだけで気が遠くなるような時間が掛かるのだ。
 そして仮に再現出来たしても、中途半端であれば威力は雀の涙。

 だが、もしも属性を限りなく再現した場合の威力は計り知れない。
 例え恒星の炎でなくとも、相手が混沌ならば恒星に見立てた炎は恒星と同じように働くのだ。
 人には無害な明るいだけの炎は、しかしあの魔女にとっては数千度の炎にも匹敵する灼熱の地獄同然。


 ――にもかかわらず、その地獄はステイルの視線の先であっという間に掻き消された。


(出来るのは時間稼ぎが精一杯だと、分かってはいたが)

 自身を焼き尽くす設定の炎を、魔女の背から溢れる粘液の翼が塗り潰したのだ。

 時間遡行を繰り返す内にその身に束ねられた異常な因果の総量を考えればなんら不思議ではない。
 火種は一つのルーンに過ぎない。ステイルがあらかじめ注いでおいた少量の魔力が途切れれば消えるのは当然だ。
 しかし、それにしたって早すぎる。せめてあと十秒持ちこたえてくれれば――

「君が選ばれた天才だったら話は変わっていたかもしれないね」

 薄まる炎の波から姿を現したキュゥべぇがいけしゃあしゃあと言った言葉に、ステイルはしかめっ面を浮かべた。
 何をいまさら言っているんだ、この生意気な使い魔は。

「……僕は昔から、選ばれない事に縁があってね」

960: 2012/05/28(月) 03:06:18.71 ID:9M6RkmvRo

 才能に選ばれず。
 幸運にも選ばれず。
 彼女にも――ああいや、これは未練がましいので無しだ。

 いずれにしたって、自分は他人よりも少しだけルーン魔術に精通しているだけの凡人だ。
 他人よりも諦めが悪い、選ばれない事に慣れてしまっただけの凡人だ。


「自分が最強でありたいと、叶わぬ証明を夢見るだけの魔術師だ」


 言い捨て、立ち上がる。どうせこうなることは分かっていたのだ。
 選ばれない者には選ばれない者なりの悪足掻きの方法があることを見せ付けてやろう――

     M  T  W  O  T  F  F  T  O  I I G O I I O F
「――世界を構築する五大元素の一つ。偉大なる始まりの炎よ」

 記憶が正しければ、それは今日で三度目の詠唱だった。
 自嘲気味な笑みを浮かべがら、残ったなけなしの体力を全て魔力に練成し直す。
 創作神話の術式で稼いだ時間を使って構築した、一〇三枚のルーンで構成される魔法陣を起動させるため。

 ステイルの体から滲み出る魔力の香りに誘われて、魔女の翼が怪しく蠢いた。
 依存し、寄生し、取り込む対象を得たことで魔女は急速に学習している。
 自分には力があり、同時に自分が空腹であることを自覚したのだろう。

 とすると続く行動は――間違いない、すなわち食事だ。

  .I I N F   I I M S
「その名は炎、その役は剣――――」

 ステイルの体に蓄積された魔力が堰きを切ったように零れ始める。
 その魔力が放つ芳醇な香りに耐え切れなくなった魔女が、ステイルの体に食おうと刃と化した翼を伸ばした。

961: 2012/05/28(月) 03:06:45.23 ID:9M6RkmvRo

「――――顕現せよ、我が身を喰らいて力と為せ――ッ!!」


 しかし、翼が届くよりも先に詠唱が完成する。
 ステイルの纏う“法衣”から、炎の衣が生み出された。
 彼の魔力と酸素を貪欲に喰らって生成された、異界の炎が目前に迫る翼を焼き切った。

 魔女狩りの王を作り上げる魔力を持たず、
 またそれを行うだけのルーンのカードを持たない彼に出来る最後の秘策。
 予め目立たぬよう特殊インクで生地に薄く刻まれた、二〇〇〇を超えるルーン。
 それを利用した魔女狩りの王の術式。
 つまり彼は、魔女狩りの王を鎧のようにその身に纏ったのだ。

(一〇秒、やれるか?)

 身体に施した耐熱術式が焼き切れるまでの時間と、魔力が底を尽きるまでの時間。
 それが一〇秒。
 ゆえに彼は、巨大な杭打ち機に打ち出されたかのような勢いで飛び出した。
 地上を這うように飛ぶ猛禽類の如き速度で駆けるステイル。

 飢えた魔女もそれを放置するほど愚かではない。
 ニメートルと半分はありそうな炎の巨人を仕留める為に分裂させた翼で襲い掛かる。
 ぐちゃり、と生理的嫌悪感を覚えさせる異音を発する、巨大な樹の幹のような粘液の翼。
 ステイルは魔力を集中させてそれらをなぎ払い、なぎ払えない物は切り離した炎を囮にしてやり過ごそうとする。

 それでもかわせなかった翼が肩を掠め、身に纏った炎のいくらかがかき消された。

「ぐうううッ――――!!」

 その余波で炎の鎧が剥げ落ち、法衣ごと肩の筋肉が引き裂かれる。
 引き裂かれた箇所に炎が流れ込み、骨ごと持っていくような勢いで燃焼を始めた。
 すぐさま右肩に当てる魔力をカットしようとして、既に感覚が無いことに気が付く。

 神経が焼け落ちていたのだ。
 ステイルは笑ってその事実を受け入れた。
 道理で痛みが無いわけだ。痛みを堪える手間が省けただけありがたい、ステイルはそう考える。

962: 2012/05/28(月) 03:07:12.12 ID:9M6RkmvRo

「ふうぅぅっ――!!」

 残り七秒。
 息を吐き出しながら一歩前に踏み込む。ほんの少し前まで彼が居た場所に粘液の雨のような翼が突き刺さった。
 激しい振動が結界内を揺るがし、体勢を崩す。確認はしていないが、背後には大穴が穿たれていることだろう。
 一発でも貰えば今度こそあの世逝きかも知れない。
 だからどうした。既にあの世には片足以上突っ込んでいる。気に留めるまでも無いことだ。

 それに――もう終わる。

 執拗に繰り出される翼をかわし続け、地面を大きく蹴りたててステイルは魔女の真上を通過。
 手を出しかねていたもう一方の魔女の翼が、翼の形を脱ぎ捨て、津波のような勢いと共にステイルの身体に迫る。
 わずかに迷った末、ステイルは右半身を出来うる限り逸らした。

 数瞬の後、どす黒い粘液が右大腿部を炎ごと切り裂き、溢れ出る血潮と炎とを吸収していく。
 こつっ、と、辛うじて繋がっている大腿部の骨と骨とが互いにぶつかって間抜けな音を立てた。
 右足が千切れ落ちていないのは幸運としか言いようがなかった。

 残り五秒。

 右足を庇うように、左足で着地。
 位置は魔女から見て右後方。まどかとは正反対の方向だ。一息吐く間もなく背後を振り返る。
 まどかの姿は見えない。魔女の姿が陰になっているのだ。ある程度狙ったとはいえ、これも僥倖と言える。

「――――ッ!!」

 格好の良い台詞を吐く余裕すらない。
 間髪入れずに右手を突き出して、身体を覆う魔力の何割かを手のひらに練り集める。
 幾度と無く放った事のある魔術――もっとも慣れ親しんだ『炎剣』を発動させるための準備だ。

 残り四秒。

 高速で駆け巡る思考の片隅で、ステイルは時間的余裕の無さに舌打ちしかけた。
 だが舌の動きはそんな苛立ちを無視して別の形を取る。つまりは、

「炎よ、巨人に苦痛の――――ッ!!」

 炎剣を炎剣足らしめるための詠唱だ。
 もはや口を開く時間さえもどかしく、後半は口ごもるような調子で詠唱を完成させた。
 魔女狩りの王を纏った状態のためか、その剣のシルエットはどこか十字架を髣髴とさせる物だ。

963: 2012/05/28(月) 03:07:39.63 ID:9M6RkmvRo

 残り二秒。

 口から血を吐きながら、眼球を忙しなく動かして攻撃目標を探す。

 対象は魔女の背中。正確には背中からとめどなく溢れ出る粘液状の翼の根元だ。

 その手に宿した十字の炎剣を、粘液の塊に突き立てる。

『―――――――――――――――――!!?!?』

 熱に当てられて、魔女が声にならない声を発して空間を震わせた。
 聴く者が聴けば正気を失いかねないような代物だったが――生憎、ステイルはそれよりも前から正気を失っていた。
 大口を開けて、肺の中の空気を一気に吐き出す。


「……吹、きっ飛べぇえぇぇぇぇぇぁぁああああああああああッ!!!」


 翼と魔女の身体の間に刺し込まれた十字が、その魔力を暴発させた。

 見ようによっては小型の太陽にも見える輝きが、魔女とステイルの身体を照らし出して――

 残り一秒。

 違う、たった今ゼロ秒になった。

 残る衝撃波で炎の鎧を吹き飛ばされ、ボロ雑巾のような身体がぐらりと傾く。


 つぎはぎの魔女の粘液状の翼。その根元に傷は――――


964: 2012/05/28(月) 03:08:08.22 ID:9M6RkmvRo

「――ステイルッ!?」

 視界を覆っていた砂埃が晴れたのを確認すると、さやかは反射的に叫んだ。
 そして目の前の光景に目を凝らし、息を詰まらせる。

「あれだけやって、そんな……」

 さやかの位置から、ステイルと魔女の状況、その全てを把握することは出来ない。
 だが全てを把握出来ずとも分かることが一つだけある。

 それは至極単純で、絶対に認めたくない結末。
 つぎはぎの魔女の粘液状の翼。そこに傷らしい傷は何一つ無い。
 ステイルの氏力を尽くした決氏の行動は――無駄足に終わってしまった。

「っ――ステイル!?」

 爆風のせいで気を失ったのか、ステイルが魔女の“翼の根元”にもたれかかった。
 そんな彼の背中を、極限にまで研ぎ澄まされて刃と化した翼が容赦なく刺し貫いた。
 腰よりもやや上、胸よりも下、幸運に幸運が重なれば即氏は免れているかもしれない。まだ間に合うかも――

「待てさやか! なんか様子がおかしい!」

 思わず駆け出そうとしたさやかは、杏子の声に我に返って足を止める。
 そして杏子に促されて、もう一度目を凝らした。

 背後を刃で貫かれたステイル。
 辛うじて見えるその横顔。その唇が、かすかに動いている。
 ほとんど虫の息の状態で、彼は何かを呟いている。誰かに。おそらくはあの魔女のすぐそばにいるまどかに。

 血飛沫が宙を舞う。
 赤い、人間の鮮血ではない。
 つぎはぎだらけの魔女が流した涙と同じ、黒いオイルのような鮮血だ。
 その発生源はステイルの身体がある位置。しかしステイルの攻撃が成功したような形跡は無かったはずだ。

 ……じゃあ、残る原因は一つしかない!

965: 2012/05/28(月) 03:08:34.50 ID:9M6RkmvRo

 恐らく、終ぞ減速できなかった刃が、自分自身、すなわち魔女の翼の、その生え際を切り裂いたのだ……!

「まさかステイル、あんた最初からこれを狙って……」

 魔女の翼の生え際から、どす黒い血飛沫が吹き出る。
 己の攻撃によって半ば千切れかけた翼が、一個の生物のように痙攣を起こして踊り狂う。
 同じように、まどかの手を引いたまま魔女も不気味に身体をくねらせて悶え苦しんでいる。
 だけど倒れない。
 翼は未だに健在で、こうしている今だってその見えない力を振るおうと暴れ狂っている。

「ごめん杏子、やっぱあたし行く! こんなとこで見てるだけなんて無理!」

「いや――ダメだ、今回ばっかはやばい! 絶対にアタシから離れるな!」

 そう言ってさやかの前に出る杏子。
 彼女の後姿は、これまで見たことが無いほどに勇ましく、同時に大きく見えた。
 だがこの状況で動くなと言われて、素直に引き下がるほどさやかは大人しくない。
 杏子の制止を振り切ってステイルの下に駆け寄ろうと、既に原形を保っているのが不思議なソウルジェムに力を――

「なんなのさこれ、こんなの有りかよ……なにが来んのさ……!?」

「はぁ!? ちょっと杏子、あんた何言って――」

 キッ、と杏子に睨まれた。
 その眼力に自然と足を竦ませてしまう。

 怯えるさやかを前にした杏子は、歯軋りを鳴らして力強く下を指差した。



「アタシがやばいって言ってるのは魔女じゃない! 下から来るやつだよ!」
                                ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨ ¨

966: 2012/05/28(月) 03:09:01.03 ID:9M6RkmvRo

 その言葉が合図となった。

 揉めるさやかと杏子、そしてそのすぐそばで座り込むキュゥべぇの前方。

 暴れる魔女とその翼に身を委ねるステイルと、目を閉じて必氏に耐えるまどかのすぐそば。

 大樹にも見える結界の中心からやや逸れた場所。

 それが、嘘のように軽々と吹き飛んだ。
 過言でも虚言でもなく、文字通り、それは吹き飛んだのだ。
 巨大な竜巻が下から突き上げたかのように、あるいは土石混じりの津波がぶち当たったかのように。
 全てを飲み込む雪崩のように、何もかもを打ち砕く地割れのように。

 音の速さを超える、エネルギーの爆発にすら近い超音速。
 それすらも突破した神速とすら呼べる速さで結界を“突き破られた”結果だ。
 当然、それによってもたらされる衝撃波は生半可な物ではない。
 魔女もまどかもステイルも、杏子たちも全員まとめて薙ぎ倒すほどのエネルギーが撒き散らされるはずだった。

 だが、現実はそうならない。
 天地が逆さまになるような衝撃波の全てが、無理やり“流れを変えられて”上空に逃がされる。
 圧倒的な破壊のエネルギーが灰色と混沌の空へ流れ、その空模様に巨大な――とても巨大な大穴を穿った。
 普通に考えればありえない現象だ。これほどの現象を起こせる存在など、この世界には数えるほどしか居ない。

 にもかかわらず、全てを見通していたかのように大胆不敵に笑う者がいた。
 強引に刃を引き抜かれ、魔女の翼に寄りかかって血を流すステイルだ。
 彼はその唇を弱弱しく動かして、言葉を紡ぐ。

「待たせてくれたね……『他称最強』」

 あまりにも小さな声だ。虫の鳴き声かと思ってしまうような、そんなかすかな声だった。
 すぐそばで彼の身体を支えてやっと聞き取れるかどうか――それほどまでに静かな音だ。
 だが、その声に応える者がいる。

「待たせちまったみたいだなァ……『自称最強』」

967: 2012/05/28(月) 03:09:42.64 ID:9M6RkmvRo

 それは上空へ流れるエネルギーの滝の中で静かに身構えながら口角を吊り上げた。
 捩れた物理法則に従う滝の中で、静かに光が爆ぜる。白く、あるいは黒い、透明色をした薄い輝きが広がる。

「まずは舐めた真似しやがる気色悪ィ翼を切り離す。オマエの力でなンとかしろ」

「――人使い、荒いですね」

「そォいう台詞は人間になってから吐け。……行くぞ」

 ほんの僅かな時間、瞳を瞬くその刹那。
 上昇する滝の中から飛び出た“力”の塊――光弾が躊躇い無く撃ち出された。
 それは“力”であり、光の塊であり、翼を生やした天使にすら見えるエネルギーの塊だ。
 大気、重力、結界内の魔力。ありとあらゆるエネルギーの方向を捻じ曲げて、それはなお加速する。

 そして僅かな時間、瞳を瞬き終わるその瞬間。
 翼を生やした輝く光弾が、半ば千切れかかっていた魔女の翼の先端に突き刺さった。
 否、正確には魔女の翼に絡みついた。

「そいつはくれてやる。どォせ頃したって氏なないような存在だからな」

 上昇を終えて薄らいでゆく滝の中で、言葉が紡がれる。
 同時に光弾がその翼を大きく広げ――最終加速。
 正真正銘光り輝く科学の天使と化したエネルギーに引っ張られて、魔女の翼が大きく脈打った。

 ずるり、と魔女の身体から翼が引き抜かれ、結界の上空へ放り出される。
 吐き気を催す臭気を放ちながら、目が腐るような醜い漆黒の血飛沫を上げながら。
 魔女の身体――本体であり母体である“暁美ほむら”から切り離された“暁美ほむら達”が、おぞましい悲鳴を上げる。

 翼だけとなった状態でなお、それははためく。
 例え母体である魔女本体から切り離されても、実質的な能力を保有するのは翼の方なのだ。
 それは複数の魂がこびり付いた状態でいびつな孵化を遂げたせいかもしれない。

 翼がはためき、粘液状の刃をきらめかせて科学の天使を粉微塵にする勢いで切り裂いた。

「ごめんなさい、ここまでです――!」

 科学の天使はその姿を粒子レベルにまで切り裂かれながら、それでも最後に言葉を残していった。

968: 2012/05/28(月) 03:10:38.80 ID:9M6RkmvRo

「いや、十分だ」

 完全に上空へ霧散したエネルギーの中から姿を現したのは、真っ白な姿に黒い翼を生やした少年だった。
 その瞳はルビーと同じ、鮮血を注がれたかのような真っ赤な色をしている。
 少年は数百メートルという高さから何事も無かったかのように、ふわりと地面に着地する。
 そして地面に投げ出されたままのステイルと、抜け殻同然の魔女と共に倒れこむまどかのそばに歩み寄る。

「なンつーザマだよおい、瀕氏の神父様なンて流行らねェぞ」

「……せめて、手当てを……」

「チッ、面倒臭ェ。氏人は黙って氏ンどけ」

 そう言いながら、少年は屈みこむと倒れたままのステイルの背中に手をかざした。
 ただそれだけで、ステイルの体内を流れる血液や内臓の欠損した箇所が慌しく動き始める。
 血液の流れが無理やり捻じ曲がり、可能な限りその血液を無駄にしないように流動していった。

「あの世逝きを遅らせるので限界だ。出血が多過ぎる。傷口焼いて、じっとしてろ」

「……助……かった、よ」

「オマエは“どこまで把握”してる? そばで倒れてるガキは何も知らない状態か?」

「……大体は……説明も、済んで……」

 そうかよ、とため息を吐いて少年は立ち上がった。
 ちらりと少年が視線をそらす。その先では、まどかが魔女の身体をなんとか支えようと試みていた。
 少年はわずかに悩む素振りを見せてから、後頭部をガシガシと掻いて舌打ちする。

「あのクソ生意気なガキと土御門に頼まれたのは時間稼ぎだけどよォ」

 少年――人類最強の存在、『一方通行』の赤い双眸が爛々と光り輝く。
 そんな彼に対峙するように、『魔女の翼』が黒い身体を悠々と広げ煽る。

「――倒しちゃいけないなンてお達しは受けてねェンだ、クソッタレが」

969: 2012/05/28(月) 03:11:06.27 ID:9M6RkmvRo

 ――いまだ夜の明けぬ、星空の下のイギリスにて。

 小さな宝石を右手の中で持て余してい、クソ生意気なガキこと、レイヴィニア=バードウェイは目を開いた。
 その様子に気付いて、すぐそばで控えていたマークがそそくさとその隣に歩み寄る。

「ボス……」

 うむ、と頷いてバードウェイは左手の指を動かした。
 にちゃり、にちゃりと何かどろどろの液体状の物を揉む音が鳴る。
 その手の先には、白い獣の氏骸があった。何かで叩き潰されたのか、見るも無残な姿に成り果てている。
 成り果てているのだが――赤い血が、一滴も流れていない。
 それどころか目に当たるであろう赤い宝玉は、生命機能を停止した状態でなお元の輝きを保っていた。

「頃合だ。始めるぞ」

「……本当にやるんですか、≪明け色の陽射し≫が、こんな正義の味方の介添え人みたいなことを?」

「もう前振りは全世界にしてしまったんだ、今更後悔したところで遅すぎる。それからだな」

「はい?」

「そこを退け」

 軽く右手を一薙ぎ。それだけでマークの身体が面白いようにあっさりと吹っ飛んでいく。
 そして新たな人影がバードウェイの前に現れた。
 バードウェイはその人影に向かって笑みを向けると、口を開いた。

「何の用だ、RPGにでも出てきそうな王冠ババア」

970: 2012/05/28(月) 03:11:32.32 ID:9M6RkmvRo

「少年漫画か漫画小説に出てきそうなガキに言われたくはない」

 その人影は鼻を鳴らして一歩前に出る。その正体は、
 わずかながらに皺の刻まれた顔と少し枯れた髪色の女性――英国女王、エリザードだ。
 彼女は切っ先の無い剣ことカーテナ=セカンドをぷらぷらと揺らしながらバードウェイに視線を送っていた。

「その様子だと、“垂れ流していた”のはあんただね」

 お見通しか、とため息を吐くバードウェイ。
 そんな態度を気にする素振りも見せずにエリザードは続けた。

「あいつは……ローラ=スチュアートは失敗したのか?」

「さぁな。だが少なくとも成功はしていないだろう」

 エリザードはその瞳にわずかな憐憫の情を抱き、がっくりとうなだれる。
 そしてなぜかバードウェイに同情の視線を向けて微笑を浮かべた。

「あの陰謀屋、試合に負けたが勝負には勝つみたいだね」

「なんだと?」

「こっちの話だよ。それであんたはどうする気だい」

 右手の中のソウルジェムを転がして、少し考える仕草をするバードウェイ。
 そして彼女はソウルジェムを己の胸に引き寄せて、尊大な口調で告げる。

「身に覚えは無いが、どうやら勝手に恩を着せられてしまったようだからな。ちゃんと返さねばいけないだろ?」

「……あんたも素直じゃないね」

「ババアに言われる筋合いは無い」

 右手で、ソウルジェムをぎゅっと握り締める。
 左手で、白い獣の氏骸を無造作に掻き回す。


「――それじゃまぁ、始めるか」

 その可愛らしい外見からは想像も出来ないような底冷えのする声で、バードウェイは言った。

2: 2012/06/05(火) 01:04:04.57 ID:Awj1Gu8/o

 ――さて。
 当たり前のように日常を謳歌し、文明の利器を扱う君たちに一つ面白い話をしてやろう。

 この世界を構成するのに必要不可欠な道具やそれrを扱う知恵、形成された文化に娯楽とかその他色々全て。
 それらが本来であれば『この世界には過ぎたる代物』だと知った時、君たちはどうする?
 バカバカしいと常識者を装って切り捨てるか。
 やはりそうだったのかと陰謀論者の様に納得するか。

 まぁ私にとって現段階での君たちの反応は心底どうでもいいので勝手に話を進めさせてもらう。
 そして時間が無いので真実を単刀直入に述べさせてもらう。

 今ある世界は、幾多の少女がもたらした奇跡によって成り立っている。
 信じがたいだろうが――『今の君たち』ならば、半数程度は信じてくれていることだろう。
 彼女らは甘言に騙されてその身に余る願いを祈り、条理にそぐわぬ奇跡を起こした少女達だ。

 その奇跡の結果が、今ある世界だ。

 ある者は寒さに凍えることの無い生活を望んだのだろう。

 ある者は飢えに苦しむことの無い生活を望んだのだろう。

 ある者は居所に窮することの無い生活を望んだのだろう。

 一族の繁栄を望み、文化の発展を望み、戦争の勝利を望み。
 気が遠くなるような少女の希望と奇跡によって世界は今の形に至ったわけだ。

 ……頭の良い君たちなら分かるだろう。
 そんな簡単に奇跡が起こせるはずが無い、と。
 いやまったく、その通りだよ。結局はこれも等価交換でしかない。相応の代価を払う羽目になる。
 悲惨な運命を知らず、知ろうともせず、知りながらもなお少女たちは影の世界へ足を運び絶望していった。

 まともな人間なら、少し考えれば裏があることなど分かるはずだ。
 起こりえない奇跡を望んだからには、代償があることなど当然だろうにね。
 これは彼女達の思慮浅さが招いた当然の結果だ。自業自得というわけさ。まるで同情できないだろう。

3: 2012/06/05(火) 01:05:27.99 ID:Awj1Gu8/o

 そんな哀れな少女たちの話を聞いて、君たちはどんな感想を抱いたかな。

 どうしようもない愚か者だと嘲るか。
 恥ずかしいほどに無知だと罵るか。
 バカめ、と短く一蹴するか。

 そんな感想を抱いたヤツはぜひとも私の下に来て欲しい。
 どうしようもないほどに愚かで恥ずかしいほどに無知なヤツのバカ面を拝んでみたいからな。
 ああいや、別に私は責めているわけじゃない。本当だ。ただ拝んでみたいだけだ。

 だってそうだろう?
 私のような生まれながらにして道を外したヤツならともかく。
 大半が何の負い目も無く、野望も抱かず、崇高な使命も持たない普通の少女なんだ。

 うまい話には必ず裏があると言われたところで、身を持って体験していない彼女たちには理解出来ないのさ。
 なぜなら彼女たちは年端も行かぬ少女であり、子供だからだ。これから『痛い目』を見る年頃だからだ。
 こんなわけの分からない奇跡など無くとも、必ず『痛い目』を見ることになる。
 困難にあえぎ、苦難に涙を流し、それでも流れる時間と立ち塞がる現実に立ち向かって成長していくだろうさ。

 そんな彼女達が初めて体験した『痛い目』が、その身の破滅なんて、いくらなんでもそれは釣り合わないだろう。

 もっとも――だからなんだ、と言う話だ。
 勝手に自爆したんだ。私達には関係ない。それが事実と言う物だ。

 だが――繰り返すように、そんな彼女達の犠牲の上に今の世界は成り立っているんだ。

 彼女らに対して恩返しをしろと言うわけではない。
 身に覚えの無い恩を着せられて、あげくそれを返せと言われても困るだろう
 しかし――だ。しつこいようだが、そんな彼女らのおかげで幸せな人生を送れているんだ。

 『さっきのやりとり』を聞いて、感動した物好きがいたら。
 勝手に着せられた恩を、少しでも返そうと思うお人好しがいれば。
 どこで行われているかも定かではない争いに巻き込まれた少女のために祈ってやってはくれないかな。

 どんな祈りでも構わない。

 上の目線に立って見下しながら救ってやるか、なんて祈りでもいい。
 こんな物を『垂れ流された』ことに憤りを覚えたなら、それを祈りにしても構わない。


 願わくば、君たちの祈りが永久不変の熱力学第二法則を凌駕する祈り足らんことを……

4: 2012/06/05(火) 01:06:34.63 ID:Awj1Gu8/o

――捻じ曲げられた物質が閃光を撒き散らし、解き放たれたエネルギーが怒号を掻き鳴らす。

 単純に相手を破壊するためだけに束ね上げられた、複雑で異常なベクトルが結界を激しく震わせる。
 結界に穿たれた穿孔から流れる、地球と結界外部に流れる自転と公転のエネルギーの塊だ。
 一方通行が極限まで練り上げ、束ね上げ、練成し直した研ぎ澄まされた必殺の破壊刃。
 その気になれば街一つ――下手をしたら小さな島一つ引っぺがすような必壊の破壊槌。
 それらがまとめて、身体を失った魔女の翼に押し寄せた。

 空間が、爆ぜる。

「さて……どォ出るか」

 破壊の爪痕が、わずかな時間と共に過ぎ去ってゆく。
 灰色の上空――およそ数千メートルの先の位置に敵を確認。残念ながら敵は健在だ。
 魔女の翼は吹き飛ばされこそしたものの、それだけだ。魔女の翼は破れていない。
 エネルギーの無駄を一切無くした、敵を打ち破るためだけに作られた攻撃をものともいないのだ。

「チッ、しつけェな」

 常識ある人間ならば驚いてしかるべき光景だが、一方通行は常識なき人間だ。
 彼は舌打ち一つで事実を受け止めると、わずかに地面を蹴って瞬く間に数百メートルの位置まで浮上する。
 背から黒い翼を噴出させながら、その翼のベクトルを練り集めて魔女の翼へ差し向けた。
 直後、翼が幾分にも分かれて、強大な力を秘めた羽が射出された。

 結界の大気が震える。
 物質の怒号が鳴り響く。
 幾本もの黒い羽が、魔女の翼を討ち取るために空間を掻き毟る。

 ある物は目標を刺し貫くために加速し、
 ある物は目標を抉り取るために極端なカーブを付け、
 ある物は目標を叩き潰すためにその身を広がせていく。

 単純な天使ならばこれだけで破壊できるほどの力の豪雨が、体の無い魔女の翼へ襲い掛かる。

 再び、空間が爆ぜる。

「これでダメならもう一つ上まで行くしかねェが、くたばってくれンならそれでも構わねェぞ」

――正直なところ、ここでくたばってくれれば助かるのだが。

 ミサカネットワークによる思考・能力の補助を受けている以上、その電波がなければ彼は本領を発揮出来ない。
 結界の奥に届く電波は最初こそ強かったものの、戦闘の影響でだんだんと微弱になりつつある。
 啖呵を切ったは良いものの、彼はいま窮地に立たされていた。

5: 2012/06/05(火) 01:07:01.09 ID:Awj1Gu8/o

 果たして――魔女の翼は、健在。
 途方も無い力を受け止めて、さらに数千メートル上空へ押し流されながらもなおその存在を維持し続けている。

「はっ、薄気味悪いナリの割にはなかなか良い素材で出来てるじゃねェか。何製なンですかねェ……?」

 さすがに動揺を覚えた一方通行が、やや引き気味に軽口を叩く。
 そこで初めて、タイミング良く、魔女の翼が動いた。
 奇怪な音を立ててはためきながら、魔女の翼は一方通行の下へ加速し始める。
 翼は一秒で一〇〇〇メートルを越え、二秒で三〇〇〇メートルを突破。三秒が過ぎる頃には一方通行の目前にある。

「――オマエ、アホだろ」

 三度、空間が爆ぜる――

 ――否、爆ぜたまま、止まらない。

 空間が引き裂かれるような、恐ろしい破壊音が鳴り響かせたまま、魔女の翼は加速する。
 一方通行の超能力が齎す、デフォルト能力――『反射』の力を受けながら。

「っ……おいおい、なンだこりゃあ!?」

 一方通行が、狼狽した。
 完全に常軌を逸した行動だ。人間ならば腕を突き出すだけで痛みが走るというのに。
 それを音速を軽く凌駕した速度で突っ込んで、なお減速せずに加速し続けるなど――

「ッ――!?」

 止まらぬ破壊の嵐を受けて、反射の鎧に綻びが生じた。
 『神の力』と戦った時と同じだ。あの時も、異常な魔翌力と桁外れの力によってダメージを負った。
 今回もまた同じような現象が起きようとしている。

「だったら出し惜しみは無しだ、クソッタレェェェェ!!」

 一方通行の背から生える黒い翼がひび割れて、根元からだんだんと白く染め上げられる。
 そして神秘的な白い翼が姿を現し、大きくはためき大気を弾き飛ばした。
 同時に、一方通行という存在そのものが加速する。
 目の前で繰り広げられる事象全てを観測し、事象を否定するための推測を叩き出す。

 しかし――

6: 2012/06/05(火) 01:07:57.86 ID:Awj1Gu8/o

(これ、は……!?)

 時間が捻じ曲げられる。

 一方通行が白い翼をはためかせ、黒い衣を纏い直し、能力の真価を発揮させていない瞬間まで巻き戻る。

 そして一方通行は魔女の翼に叩き潰され、そのまま翼は元の体に取り付き、やがては完全な魔女として――



「――くっだらねェ、くっだらねェよ、オマエ」

 ――ならない。時間は捻じ曲げられない。
 捻じ曲げてはならない。
 一方通行の前でそれを行うことは、彼が断じて許さない。

「過ぎ去っちまった時間を戻そうなンて都合の良い事を、させると思うか」

 そんな優しい逃げを、彼は能力の全てをフルに活かして否定する。

「……俺は一万人以上頃した極悪人だ。どうしようもない悪党だ。
 だから悪党らしく、オマエのくだらねェ希望はここで綺麗さっぱり叩き潰す」

 ――赤い瞳が、ぎゅっと細められる。
 纏い直された黒い衣をふたたび白く染め上げ、白光にその身を染め上げる。
 染め上げてなお、光り輝く。それはもはや白い翼ではなく、輝き過ぎるほどに輝く光の翼だ。
 輝き過ぎる翼を背に、人類最強の少年は邪悪すぎて無邪気に見える笑みを浮かべて白い息を吐いた。

 彼の頭上に、光の輪が現れ、世界をより一層白で塗りつぶしていく。

 今この瞬間、彼は同質たるイシスのメタトロンを超え、オシリスのミカエルを超え、ルシファーすら超えた。
 人智の及ばぬ聖域に足を踏み入れた。

「電波だの、電池だの、くだらねェ考えは無しにしてやる。オマエは今、確実に、ここで潰す――!!」

 光の天使と魔女の翼を中心にして。

 四度、空間が爆ぜた。

7: 2012/06/05(火) 01:08:31.10 ID:Awj1Gu8/o

――遥か頭上で行われる決戦を尻目に、まどかは翼のもがれたつぎはぎの魔女を立たせる事に成功していた。

「ステイル君……」

 すぐそばで倒れたままの神父を見やり、彼女は首を横に振る。
 ここで彼の下に駆け寄る事はおそらく彼が一番望まないだろう。
 彼の望む事、自分に出来ることを成し遂げなければならない。

「でも……どうやって?」

 不意に目頭が熱くなる。視界がぼやけて、雫がこぼれそうになる。
 右に、左にふらふらと揺れ動く魔女の横顔を見ながら、まどかは空いた手で目を擦った。
 泣くのはダメだ。まだ早い。どうせ泣くなら、それは彼女を救ってからだ。

 こくりと頷くと、まどかはステイルに言われた言葉を思い出そうとする。
 彼は背を貫かれたまま、何と言ったのか。自分に何を頼み、望み、願ったのか――



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

『……これから来るヤツが時間を稼ぐ。だから君は、彼女を』

『君の知る暁美ほむらを見つけ出して、救い出せ』

『情けない話だが、君にしか頼めない事なんだ』

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



 考えるんだ。
 考えて、頑張って探して、見つけて、救い出すしかないんだ――!

8: 2012/06/05(火) 01:09:00.61 ID:Awj1Gu8/o

「マミさん……?」

 無重力空間を無気力に漂いながら、まどかは身体を振って周囲に目を配る。
 けれどもそこに期待していた人影は無い。
 けれども声は止む事を知らない。

『鹿目さん、落ち着いてちょうだい。ゆっくり深呼吸して、ね?』

「あ、はっ、はい!」

『落ち着いたら状況を再確認しましょ。あなたはいまどこにいて、何をしたいの?』

 ああ、この声だ。
 私を導いてくれた、優しい人の声だ。
 最後に病院で聴いたときとなにも変わらない、温かい声だ。

「私は……私はいま、ほむらちゃんの隣にいます。私はほむらちゃんを助けてあげたいんです」

『ならまずは暁美さんのこと、ちゃんと暗闇の中から見つけてあげないとね?』

 声は優しく語りかける。
 まるで心を通わせた弟子に、最後の指導をするかのように。

『じゃあ決まりね。暁美さんが居る場所が闇に包まれているのなら、光で照らしてあげましょう』

「どう……やって?」

『大丈夫、あなたなら出来るわ。
 あなたは魔法に頼らないで願いを叶えるんでしょう?
 それならこんなところで挫けてちゃダメよ。私も手伝うから、ね?』

 何故その事を知っているのだろう。
 今の今まで見守っていたとでも言うのだろうか。
 もしそうなら、ああ、この人はやっぱり――本当に――私の知るマミさんなんだ。

9: 2012/06/05(火) 01:10:09.50 ID:Awj1Gu8/o

 まどかは同じように浮かび上がる魔女を右手で抱き締めると、目を閉じた。

 そしてわずかな間を置いて、ふたたび開いた。
 目の前に広がる崩壊する灰色の大地は、光の差さない暗闇の大海へと姿を変えていた。
 自分の姿すらも視認出来ない不確かな空間だ。
 それは心象風景だったのかもしれない。魔女の呪いが齎したまやかしだったのかもしれない。
 真実がどうであれ、まどかは、光という存在、概念が存在できないような絶望の世界にいた。

 まどかは自分の左手を――ほむらと繋いでいた左手を見た。
 手首から先が無い。虚無だけが残る、空っぽのがらんどう。

 だけど――もう、何も怖くない。

『そう、怖くない。暗くても、見えなくても怖くないのよ。
 絶望するのは悲しい事だけれど、それを否定してはダメ。
 絶望しない人なんていないように、希望だけで生きていける人もいない。
 “もう一人のあなた”が絶望を否定せず、ただ絶望で終わる事を否定したように――』

 まどかは頷いて、一度瞬いた。
 次の瞬間、まどかの身体を中心に光が差し込んだ。
 絶望の裏側、絶望の正逆。闇で彩られた絶望の、反転した姿――光で彩られた希望が、彼女を照らし出す。

『いまよ、鹿目さん!』

 仄暗い海の、どす黒い闇を光で照らしながら、まどかは声に誘われるがままに突き進む。
 魂の残滓達が創り出す幻想的な湖水を叩き割るように、真っ直ぐ下へ、底へ、黒を白で塗り変えながら潜りゆく。
 潜り続けた先でまどかはついに見つけ出した。
 闇の奥底にある、まどかの知る暁美ほむらの魂の燃え尽きた後に残る残滓を。

『手を伸ばして!』

 励ましの声に従って、手首から先の無い左手をぐんと突き動かす。
 けれどもその手は届かない。
 すぐそこにあるのに、今なお突き進んでいるのに。
 たったの数十センチ。そのほんのわずかな距離が、手を伸ばせば伸ばすほどに引き伸ばされる。
 数メートル、数十メートル、数百メートル、数千メートルと引き伸ばされたまま、辿り着けない。

「届かない……!」

『いいえ、届くわ鹿目さん。忘れないで』

10: 2012/06/05(火) 01:11:40.07 ID:Awj1Gu8/o



 極限にまで研ぎ澄まされて、引き伸ばされた、刹那にも満たないわずかな瞬間。



――祈りは届く。それで人は救われる。


――あなたたち人間は、そうやって生命を紡いできたのだから。




 自分の声を、聴いた。



11: 2012/06/05(火) 01:13:06.47 ID:Awj1Gu8/o

 それはあまりにも唐突だった。

 前触れと言える前触れは何も無い。
 強いて挙げるならば、天使と魔女の翼が六度交差したことだろうか。

 それほどまでにあまりにも唐突だった。

「無駄にしぶといじゃねェか、クソッタレ」

 人智の及ばぬ領域に到達した一方通行は、しかし数多の因果を束ねた魔女の翼を前に無力だった。

 致命傷を受けたわけではない。電波はまだ安定しているし、今の状態なら電池残量だって無視できる。
 実力は互角同然。むしろこちらが押しているくらいだ。羽ばたく事しか能のない敵よりも強い。
 ならばなぜ無力なのか。答えはとても単純な物だ。
 ダメージを与えられない。魔女が鎧として身に着ける魔力の外壁を打ち破れない。どれだけ力を集めても――だ。

 ゆえに勝てる姿がイメージできない。
 千日手になれば勝ち目は無い――一方通行は冷静に判断を下してから、何気なく眼下に目をやった。
 険しかった表情がぎょっと固まり、ウサギのように赤い瞳がくるっと丸くなる。

 彼の視線の先にあるのは、つい先ほど一方通行が穿った、巨大な穴だ。
 最下層にして結界の外郭、その外に広がる『地球の空』まで続く、数千キロ以上もある大穴だ。

 その空洞から、太陽すらも見劣りするような輝きが溢れ出た。

 それは灰色の世界を余す所なく閃光に染め上げる尋常ならぬ光の塊だ。
 太陽と決定的に違う点は、その強力な光は人間の視力を焼き尽くさない事。
 そして太陽の誇る無慈悲な熱量に比べれば遥かに劣る、人肌の温もり程度の熱しか持ち合わしていない点。

「はっ、よォやく真打のお出ましか」

 一方通行が荒々しく言葉を吐き捨てる。

 直後、光の塊は何かに誘われるように収束し、ある一点目掛けて降り注いだ。

 ある一点。

 鹿目まどかが首から提げる、十字架。


 まどかと魔女の姿が、文字通り光に飲まれる――――――

12: 2012/06/05(火) 01:13:33.19 ID:Awj1Gu8/o

 ………………え?


 朦朧とする意識の中で、ふと思考が働いた。
 その事実に彼女は――ほむらは人知れず驚愕した。

 何も視えず何も聴こえず何も匂わず何にも触れず何も味わわず。
 意識など当然のように無く、思考という行為すらも絶え、氏という概念すらも氏にゆく領域。
 そもそも存在しているかどうかすら曖昧な、空っぽの世界。
 暗くも無く、明るくも無く、色すら無いクリアな世界。
 無い、という概念すらも無い透明な世界。
 それは闇ではなく光でもない。本当の意味で何も無い無の世界。氏後の世界。消失した世界。

 その中心に、ほむらという存在が初めて形成された。

 ……でも。

 それがどうしたというのだ。
 おぼろげに浮かび上がる身体を縮めて、膝を抱えて、彼女は小さくなる。

 ……だって。

 ほむらは知ってしまった。
 自分が犯した罪の数々を。
 大勢の人間の因果を捻じ曲げ、あまつさえ本来与えられるべき“自分”の人生すら奪ってしまった。

 意識が途絶えるあの瞬間。あの刹那。
 私は聴いてしまった。

『わたしはこんなに不幸なのに、どうしてあなたばかり幸せなの』

 それは“私達”の嘆きであり、嫉妬と憎悪の固められた慟哭であり、悲哀と呪いで彩られた叫びでもあった。

 ……だから。

 いまさら、どうしろと言うのか。
 私を起こして、何かを願うのだろうか。
 私を呼び戻して、何かを償わせるのだろうか。

 私はもう、何もしたくない。だって私は存在しちゃいけないんだから――――

13: 2012/06/05(火) 01:14:02.79 ID:Awj1Gu8/o

「――そんなこと、ない!」

 ……あっ。

 ほむらしかいない空間に響いた声に、彼女は知らず知らずの内に顔を上げていた。
 顔を上げて表情を崩し、喉を鳴らして唇をワナワナと震わせながら、必氏に言葉を紡ぐ。

「……ど、おし、て……っ!?」

 ありえない。
 今この世界に存在できるのは自分だけだ。
 自分のために用意された、咎人の空間なのだ。
 だから、どうして、何故、ここにいる――

「どうしてここにいるのよっ!?」

 声を絞り出しながら、ほむらは首を振る。
 ほむらの目の前、歩いて二歩の位置に、少女の姿があった。
 何度も見て、何度も脳裏に焼き付け、何度も心に刻んだ幼い姿。
 自分の人生そのものに等しい少女の形。笑みを浮かべる優しい顔。

「まどかああぁぁぁぁぁぁッ!!」


 ――たった一人の、最高の友達の姿。


「やっと会えたね、ほむらちゃん」

 彼女がここにいる、それが示す意味を想像してほむらは絶望する。
 だからと言って、何が困るわけでもない。濁るようなソウルジェムを、彼女は持っていない。
 ほむらは自分の左手を押さえた。
 手首から先が無い。虚無だけが残る空っぽのがらんどう。

 しかしまどかは笑みを絶やさずに続けた。

「大丈夫だよ、ほむらちゃん。私は平気だから」

「っ……え……?」

14: 2012/06/05(火) 01:14:30.15 ID:Awj1Gu8/o

「ねぇ、ほむらちゃん。聴こえない?」

 そう言って、彼女は笑い、左手を上げた。
 手首から先が無い。虚無だけが残る空っぽのがらんどう。
 私と同じ。

「私には聴こえるよ。たくさんの人の、優しい声が」

 同じだけれど決定的に違う。
 ほむらには聴こえない。
 そんな声は聴こえない。

「私はあなたとは違う、私の居る場所には何も聴こえない、私は、もう……っ」

「それじゃあほむらちゃんもこっちに来ちゃえばいいんだよ」

「無理よ! 私はもう戻れない! 私は魔女になって氏んだのよ!」

 ほむらが叫ぶと、まどかは少しだけ困ったような顔をした。
 それから形のある右手を開きながらこちらへ伸ばして、さらに困ったように肩をすくめて見せる。

「ごめんねほむらちゃん。私、ほむらちゃんをそこから連れ出したいのに、連れ出してあげられないや」

 まるで見えない壁が阻むと言いたげに、まどかは開いた右手をそっと止めた。
 次に、先の無い左手をこちらへ、ぐん、と伸ばした。
 左手は見えない壁を乗り越えて、私のすぐ目と鼻の先に突き出される。

「私に出来る精一杯は、ここまでだよ」

「……なに、を」

 まどかは凛とした表情を作ると、胸を張ってほむらと目を合わせた。

15: 2012/06/05(火) 01:15:00.37 ID:Awj1Gu8/o

「私には、ほむらちゃんを地獄の底から引きずり上げる力なんてない」

 それを拒絶と捉えてしまうのは、自分の失われた心が脆弱だからだろうか。

 失われた魂がその事に傷付き、激しく痛むのは自分が甘えているからだろうか。

 無いはずの心と魂の奥底にある醜い感情が浮き彫りになるのをほむらは自覚した。

「私だけじゃ、あなたを救い出せない。――だけど、みんながいるから、ほむらちゃんがいるから」

 まどかは表情を崩して朗らかに笑うと、もう一度左手を差し伸べた。

「あなたが、私のことを思って何度も繰り返したこと、私は知ってるから」

 さらにもう一度、今度は肩を入れるように身体を傾けて左手を伸ばす。

「あなたが辿った歴史を、奪ってしまった人生を、私は見たから」

 自分でも気付かぬ内に、ほむらは左手を伸ばしていた。
 虚無だけの空っぽの左手を。がらんどうの左手を。

「私はもう、一人じゃない。ほむらちゃんだってそう。私達は二人で一人だよ」

16: 2012/06/05(火) 01:15:37.42 ID:Awj1Gu8/o

 良きときも

 悪きときも

 富めるときも

 貧しきときも

 病めるときも

 健やかなるときも

 氏が二人を――分かとうとも

「ずっと一緒だよ、ほむらちゃん。私の、最高の友達」

 彼女はあらん限りの慈しみと優しさを身に纏って、左手を伸ばした。
 それに応えるようにほむらもまた涙をこぼしながら左手を伸ばした。

 無いはずの手が、しっかりと握り締められて。
 無いはずの指が、ぎゅぅっと絡み合わされた。

 ……無いはずの心が、魂が熱く滾る。
 失われたはずのソウルジェムが無の中に浮かび上がり、光を帯びて明滅した。
 それに合わせて無で統一された世界がひび割れ、張り裂け――世界が、元に戻る。

17: 2012/06/05(火) 01:16:25.27 ID:Awj1Gu8/o

――あまりにも眩く、直視することを憚られる温かい光に晒されながら。

 ほむらはふたたび現世に舞い戻った。
 しっかりと形のある左手に、彼女の持つ魂の輝きを携えて。
 彼女の身体を覆っていた黒いつぎはぎの呪いが零れ落ちる。
 それはまるで、焼き尽くされた灰の中から蘇る伝説。不氏を司る神鳥のように。

 ほむらは下を見た。
 数十メートル下に、まったく見覚えの無い灰色の大地が見えた。

 ほむらは上を見た。
 数百メートル上に、まったく見覚えの無い天使と魔鳥か蝙蝠の翼の姿をした“自分”が見えた。

 ほむらは隣を見た。
 そして強張らせていた表情を崩し、柔らかな笑みを作った。
 氏が訪れようと共にあることを誓った親友――鹿目まどかと左手を繋いだまま、彼女はその瞳から雫をこぼす。
 隣にいるまどかは涙を流しながら、ほむらの背に回していた右手を耳元に寄せた。
 それに倣ってほむらも右手を耳元に寄せ、耳を澄ます。

 ……聴こえる。
 大勢の人の声が聴こえる。
 男も女も、子供も老人も。
 魔術師も能力者も、国籍も人種も関係なく、私達を励ます人々の声が聴こえる。

 私達の、ためだけに発せられた声が。

『ほむら!』

『ほむらちゃん!』

 凝り固まった身体を、暖かい光に埋め尽くされながら。
 わたしは二人の男女の声を聴いた。

 ずっと昔、もう何十年も前に聴いたことのある声。
 それまでずっと私のために尽くしてきてくれた、唯一無二の男女の発する響き。
 辛酸苦汁を嘗めることを強いられた日々に磨り減った、傷だらけの心を癒す思いやりに溢れた音色。

 ……あなたたちは、誰?

18: 2012/06/05(火) 01:16:56.87 ID:Awj1Gu8/o

 考えている間にも光は収束していき、やがて薄れて消えていった。
 それを見届けると、ほむらはまどかの顔を覗き込み、首を傾げた。
 話を聞かせて、のポーズだ。意図を察してくれたらしいまどかはすぐに頷いてくれた。

「いろいろあったよ、ほむらちゃん。ほむらちゃんが魔女になっちゃって、みんな助けようと必氏になってね?」

「ええ、それで?」

「それでね、マミさんの声がして、それからみんなの――きゃっ!」

 無重力ゆえに、流れる風に吹き飛ばされそうになるまどか。
 ほむらは笑みを浮かべると、そんな彼女の左手を引き寄せてあっという間に両手に抱えて見せた。

「ほ、ほむらちゃん!?」

「聞きたいことはあるけど、まずは降りましょう。しっかり掴まってて」

 腕の中にある温もりを、もう二度と離さぬようにしっかりと抱き直しながら集中する。
 思考を働かせ、魔力を用いて背中に翼があるイメージ作る。
 イメージは現実となって、ほむらの背中に魔力で作られた翼がぐん、と広げられた。
 風を翼で弾くように羽ばたき、灰色の大地に直進。ゆっくりと姿勢を立て直して、羽のように着地する。
 けれども重力の干渉は無いままだ。ほむらは細心の注意を払いながらまどかを下ろし、周囲を見渡した。

「ここはどこかしら。見たところ、月というわけでも無さそうだけれど」

 見渡しているうちに、ほむらは珍妙な格好の二人組みを捉えた。
 赤いポニーテールの少女と、青いショートの少女だ。
 二人は必氏に地面に這い蹲りながら、こちらへ向けて近づこうと試みている。

「ここは君が創り出した結界だよ、暁美ほむら」

 聞きなれた声が頭の中に響いた。
 ほむらは華麗に足元を蹴って、無重力の中でくるりと振り返る。
 目の前には、どういうわけかいつもと同じように地べたに座り込むキュゥべぇの姿があった。

「正確には君に人生を奪われた暁美ほむら達、かな。
 しかし、おめでとう。こんな結末は僕にも予想できなかったよ」

「どういうこと、一体何が……私は救われた? 誰が救ったというの。まさかステイルたち?」

 まさか、とキュゥべぇは言った。赤い瞳をじぃっと細め、まるで感情があるかのような仕草で彼は続ける。

「君達魔法少女を救ったのは、君達魔法少女が守り続けてきたもの――人類さ」

 そう告げるキュゥべぇの瞳は、ここではない別の場所。どこか遠い、異国の地を見ているようだった。

19: 2012/06/05(火) 01:17:34.92 ID:Awj1Gu8/o

――実際のところキュゥべぇ、正確に言えばインキュベーターの関心は既に他に向けられていた。

 結界より下ること、六〇〇〇キロ以上。
 直径約一二〇〇〇キロメートルの地球。

 そこでは、結界の中に太陽が発生したことが笑い話に思えるような異常事態が発生していた。

「これはまた、大胆に仕掛けてくれたものだね」

 そう言葉を漏らしたのは、イギリスの街中をそろりと歩く一匹のインキュベーターだ。
 彼は夜空を見上げながら、やれやれと首を振った。

「グリニッジ標準時間だと、今は誰も彼もが寝静まっている時間なんだけどね」

 そう言って、彼はくるりと尻尾を振った。
 その動作に連動して、影もまたくるりと尻尾を振るう。

 ……彼の近くに、街灯らしい街灯は見当たらない。
 にもかかわらず彼が影を付き纏わせているのは、単純に空が明るいからである。
 そう。
 本来であれば星の光がいくつか瞬いている程度で、街灯が消えてしまえば瞬く間に真っ暗闇になるはずなのに。
 その日のイギリスの夜空は、まるで太陽が昇っているかのように明るく、眩しかった。
 原因は、彼の視線の先にある。

 それは暗い夜空を貫くように打ち立てられた、光の柱だった。
 柱は太陽の光の当たらぬイギリスから『小さな光』を吸い上げて、イギリスの大地を白く染め上げていた。

「これと同じ物が地球中で確認されているよ。
 およそ一〇〇〇〇弱の光の柱が、地球という星から夜を奪ってしまっているんだろうね」

 イギリスだけではない。
 地球に浮かぶ六つの大陸全てでまったく同一の物が立ち上がっていた。
 その事実に、しかしさして驚いた素振りを見せる様子も無く。
 インキュベーターはすぐ目の前にいる一人の少女と老人を赤い瞳で捉えた。

20: 2012/06/05(火) 01:18:02.41 ID:Awj1Gu8/o

「予想よりもずいぶん早いご到着だな。面倒事はこのババァに押し付けてトンズラ決め込む予定だったんだが」

「いい加減にしておけよ小娘」

 などと言い合う二人――レイヴィニア=バードウェイとエリザードを、無視して話を始める。。

「一体どうやって、こんな大掛かりな仕掛けを施したんだい」

「その発言だと、まるで何が起こったのか大体察しているようだな」

「同じ事例は過去に一度見たことがあるからね。
 規模は違えど、これはさやかのときと同じ現象だ。君達は≪グレゴリオの聖歌隊≫を発動したんだろう?」

 グレゴリオの聖歌隊。
 バチカンにある霊脈と、3333人の祈りを集めて魔術を増幅し、地球の裏側であろうと正確に撃ち抜く強力な魔術。
 正確に言えば、それを応用して発動された一週間ほど前にさやかのソウルジェムを復元した魔術のことだ。
 その際は癒しの魔術に魔導図書館の知識を合わせ、なおかつ幻想頃しを用いて救済した。
 無論、なんの犠牲も無かったわけではないが、この場合はさして問題にならない。

「だけど不思議だ。僕らはこの事態をまったく予想できなかった。
 命令が下れば情報が動き、それに次いで人が動く。時間だって必要になるだろう。
 地球中にいる無数の僕らが、これほど大掛かりな魔術を施しているのに気がつけないはずがないんだけどね」

 ソウルジェムに変換されて、なおかつ絶望によって燃え尽きた魂の残滓を復元する。
 削られた魂を再生することは出来ずとも、元の形に戻す。それに必要な祈りが最低でも3000人以上。

 だが今回の場合は文字通り規模が違う。
 ほむらが至った魔女は、さやかの時のような単純などこにでもいるような魔女ではない。
 まどかには及ばずとも、多量の因果をその身に束ねたとても強力な魔女だ。

 例えその大半を『翼』の方に持って行かれていたとしても、救済するには一筋縄では行かないはずだ。
 最低でも一千万人の祈りが必要になるだろう――と、それがインキュベーターの見立てだった。
 当然ながら、それだけの人間が動けばインキュベーターが気付けないはずがない。
 ならば何故、彼らは気付けなかったのか。

「答えは簡単だよ。今回の術式を施すのにかかった時間はほんの数分だ。
 だから命令なんて下していないし、情報も動いていないので人も動いていない。気付かれないのは当然だ」

 なにをいまさら、と笑ってバードウェイは言った。
 ローラとはまた質の違う、意地の悪い邪悪な笑みだ。

21: 2012/06/05(火) 01:18:31.53 ID:Awj1Gu8/o

「君は何を言っているのか自分で理解しているのかい?」

「そちらこそ、自分が何を言っているのか理解しているのかな」

 バードウェイはかぶりを振って小馬鹿にするような仕草を見せると、腰に手を当てた。
 そして饒舌に語り始める。

「事の発端は、うさんくさい格好の土御門ナントカって男が私にとある頼み事をしてきたことだ。
 当時情報に飢えていた私はその男が掴んだ情報と引き換えにその頼みごとを了承してやった」

 バードウェイが右手を掲げて見せる。
 その手の中には、金と蒼が混じった美しい宝玉がある。
 ソウルジェム。変換された少女の魂。インキュベーターが契約することで生まれる存在。
 だが、インキュベーターは少女と契約した覚えは無かった。

「これがその結果だ。ん? 見覚えが無い、という顔だな。当然だろう。
 私は厳重に神殿を築き上げた上で結界を施して、無理やり拉致した君達に契約を迫ったのだからね」

 つまり、情報が漏れないようにした上で契約したということだ。
 確かにそれならインキュベーターが覚えてない理由も分かる。

「私が頼まれたのは、極東の魔法少女たちを助けてやってくれ、という内容の物だ。
 だが致命的に時間が足りなかった。私に何か出来る事があったとしても、まぁ少ないだろう。
 大体、あの女狐が全て解決すると踏んでいたのだからな。
 だからもしもあの女狐が何か失敗するとしたら、それは鹿目まどかか暁美ほむらの魔女化だろうと推測してね」

 くるりとソウルジェムを弄りながら、彼女は続ける。

「そうなった時は、グレゴリオの聖歌隊を使えば良いのではないか、と私は判断した。
 だが重要なのはその先、必要になる祈りをどうやって集めるかだ。
 時間はほとんど無かったし、下手に君達に嗅ぎつけられたら間接的に妨害されてしまう可能性もあった。
 だから私は考えた。面倒臭い、やってられない――と」

 ソウルジェムを指輪に戻して、バードウェイは口角を吊り上げた。

「そもそも私があれこれ働くのはおかしいだろう。
 助けを求めるなら自分で求めればいいのだ。
 つまり、鹿目まどかの声を世界中に無理やり届けたのさ。私の魔法少女としての魔法でね」

「無茶苦茶だ。あの結界の中にいる彼女の言葉をどうやって拾ったというんだい」

 その言葉を受けて、バードウェイはどこからともなく白い塊――インキュベーターの氏骸を取り出して見せた。

22: 2012/06/05(火) 01:19:27.41 ID:Awj1Gu8/o

「これに使われてる通信回線みたいな物はえらく複雑だな。
 科学側の知識が豊富な私の妹でもまったく解析できなかったぞ」

「僕らの文明に君達の文明が追いつくには、万単位の時間が必要だよ。
 それは魔術を使っても同じことじゃないかな? 実際、解析は出来なかったんだよね?」

 バードウェイは否定しなかった。
 代わりに肩をすくめて、左手で掴んだ氏骸をぷらぷらと揺らして見せる。

「理解は出来なくても、利用は出来る」

「何を――いや、まさか、そうか」

「解析は不可能だったが、君達の間に流れるリンク――
 不可視の糸、不可思議の通信回線にタダ乗りすることは可能だ。
 有象無象のいらぬ情報を無視して、あの結界内の音声のみを抽出するのは手間がかかったが」

 そんなことが可能なのだろうか。
 ……不可能では、ない。恐ろしいまでに魔術のセンスがあれば、可能だろう。
 だが、それと今回の件は関係しないはずだ。
 インキュベーターの心を読んだかのように、バードウェイはにぃっと口の端を上げた。

「そこで私の魔法だ。私が得意とする魔法はあらかじめ契約する際に願った能力でね。
 『人の上に立つ為に、とびきり強力なテレパシー能力を寄越せ』……とか、そんなのだったかな」

 強力なテレパシー能力で大勢の人間に働きかけた。
 彼女はそう言いたいのだろうか。だとしたら、それはやはりありえない。
 地球全体に及ぶテレパシーを繋げれば、確実にソウルジェムが濁りきってしまう。
 その旨を告げると、彼女は余裕の態度を崩すことなく続けて見せた。

「おかげ様で部下が氏に物狂いで集めた十二個のグリーフシードの内八個が封印された。
 でもまぁ私だって馬鹿じゃない。七〇億人全てにテレパシーを送るようなことはしていないさ。
 私が送ったのは――9969人か、ああいや、半年前に9970人になったのか? まぁ、そういう素質ある人間だよ」

――一致する。
 地球全土から立ち上る光の柱の数と一致する。
 彼女はそれらの人間を中継地点、あるいはそれらの人間を発信地点にしたのだ。
 地球そのものを膨大な電波の網(ネットワーク)で覆ってしまうように。
 そうして形成された光の柱は、仕掛けられた術式に従い極東の結界目掛けて飛んでいったのだろう。

23: 2012/06/05(火) 01:19:54.35 ID:Awj1Gu8/o

「そういうわけで、無事私は頼まれたことを完遂したわけだ。
 禁書目録が私の意図を察して祈りに術式を織り込むかどうかはぶっちゃけ賭けだったんだがね」

「――なるほどね、仕組みは分かったよ」

 なんてでたらめなのだろうか。
 他人頼みに運頼みのいい加減な少女の言動に表面上は呆れた素振りを見せると、インキュベーターは座り込んだ。
 だが、まだ解せないことがある。座り込んだと同時に、彼はその疑問をぶつけることにした。

「君は結界内の会話を地球に伝播した、というようなことを言っていたね。
 だけど仮にそれが成功したとして、彼女が救われない可能性もあったんじゃないかな。
 そうして祈りを集めたところで、どうやって彼女と魔女の下に集めるよう細工したんだい?」

「いっぺんに質問するな。まず前者だが、その通り。
 私は会話を全人類に無理やり聞かせた上で魔法少女の話をわずかにした。
 だがそれで人々が彼女達のために祈るかどうかは賭けだった。
 下手をすれば彼女達への怒りやらなにやらで、救われるどころか滅ぼす可能性もあったがそれはそれで狙い通りだよ」

「どういうことだい?」

「助けろ、とは頼まれたが、助けられない可能性だってあるってことさ。
 私はこの術式のことを『火薬』と表現し、後者の細工――
 つまり鹿目まどかに持たせた十字架を『爆弾』と表現した。
 土御門ナンタラはあれを呪いを弾く十字架と言って鹿目まどかに渡しただろう。
 それも間違いではないが、あれは正確には呪いを弾き祈りを集める霊装だ。美樹さやかの時にも使われたそうだぞ」

 ……形状が一致しなかったが、それはあまり関係が無かったのだろうか。
 いずれにせよ、抱いていた疑問全てに解を出されてインキュベーターは下を向いた。
 もうこの場に留まる必要は無くなったと、彼女らに背を向けて歩き出す。

「……せっかくだから教えてやろうか。鹿目まどかの、友を想う声に同調し、賛同し、祈った人間の数を」

 バードウェイの声が聞こえる。


「――二〇億人だよ。究極的に言えば、私の魔術などはきっかけに過ぎない。魔法少女を救ったのは、人類という種族さ」
   ¨ ¨ ¨ ¨ ¨

 尻尾を振って返事をすると、インキュベーターは街並に姿を溶け込まして消えていった。
 同時に、天に向かって立ち上っていた光の柱も薄れ、消えていく。
 後には不気味な静寂と、闇に包まれた街並みと、エリザードの神妙なため息の音だけが残った。

24: 2012/06/05(火) 01:20:21.60 ID:Awj1Gu8/o

 かくして、舞台は灰色の結界に戻る。

「そういうわけだから、君達の念願は叶ったわけだよ。
 後はもう、残った魔女の欠片を倒しておしまいだ。本当におめでとう」

 そう言うキュゥべぇの姿を見ながら、ほむらはありえない、と首を振った。
 なまじ魔法少女でいる期間が長すぎただけに、そんな救いのある結末を彼女は許容できなかった。
 素晴らしいことだとは思う。手放しで喜びたい気持ちでもある。だが、信じられない。

「……大事なのは、きっかけだったんじゃないかな」

 まどかの呟きに、ほむらは静かに顔を背けた。
 きっかけがあれば、あるいは結末は、もっと違う物になったのかもしれない。
 では、彼女達はどうなる。自分が奪った、罪の無い少女達が集まった呪いは。
 上空で輝く天使と激闘を繰り広げているありえたかもしれない自分達は。

 彼女達を倒して、否定して、それで終わりなんて、そんな……

「……ありえない状況から復活出来ただけありがたいだろうが。君は高望みしすぎだ」

 背中から低い声が聞こえて、ほむらはまどかと共に後ろを振り返った。
 そこには黒の法衣を真っ赤な血で染め上げた、身長2メートルの神父――ステイル=マグヌスが立っていた。
 いや、立っていたというのは正確ではない。隆起した大地に右手で掴まりながら浮かんでいた。
 よく見ると、服の腹の辺りが大きく食い破られたかのように引き裂かれている。

「ステイル君、大丈夫なの!?」

「君達に向けられた祈りのおこぼれを貰ってね。血が足りないから、すぐに気絶するだろうが……それよりもほむら」

 ステイルに見つめられて、ほむらは無意識の内に萎縮した。
 彼の言葉は正論だ。望みすぎだ。甘えすぎだ。だから責められるのは当然なのだ。
 だが、ステイルはわずかに息を吐いて、懐から一つの宝石――どす黒く濁ったグリーフシードを取り出して見せた。

「……声が聴こえたよ。巴マミの声がね」

 ――え?

25: 2012/06/05(火) 01:20:54.04 ID:Awj1Gu8/o

「グリーフシードにどれだけの祈りを注いだところで、元には戻らない。
 なぜなら彼女は氏んだからだ。じゃあなぜ、僕は巴マミの声を聴くことが出来たのか」

 彼の言いたいことがわからず、ほむらは首を傾げた。
 そんな彼女の隣で、まどかが『あっ!』と大きな声を上げた。
 ステイルはまどかを見て頷くと、ふたたびほむらに視線を移した。

「僕は事の真相を知らないが、ただ排除する以外にも手立てはあるはずだ。
 地上で君が巻き込まれた、あのわけの分からない光……あれなら、何とかできるんじゃないのか」

 彼の言う、わけの分からない光が何を指し示しているのか。それにようやく気付いたほむらは目を丸くした。
 呪いを、因果を受け止める救済の光。『魔女を消し、魔法少女導くための概念』のことだ。
 だが『彼女』は姿を消してしまった。もう一度この世界に顕現出来る可能性は低い。ましてやここは魔女結界の中なのだ。
 しかし、まどかは違った。彼女はほむらの手をぎゅっと握り締め、声を大にして言う。

「ほむらちゃん、ここって無重力だよね?」

「それはそうだけど……でもそれがどうしたというの?」

「私、知ってるよ。ほむらちゃんの記憶を見たから知ってる。思い出して、ほむらちゃん」

 思い出せといわれて、ほむらは首を捻った。
 あの時、あの場所で起こった出来事を。
 この世界の仕組みを。

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「しかるべき位置にしかるべき情報、呪文を記し、魔術的な記号、物品を配置すれば難しくはない
 君とて見たはずだ。ルーンを刻み、魔法陣を敷くことで行使される人祓い魔女狩りの王といった魔術をね」

「そうして輸出された技術――すなわち情報と、
 部品――すなわち記号は、世界中に出回っている。それがどのような意味を持つかも知らずに、ね」

「世界中に出回ったそれらの中から最適な式を求め、演算し、魔力を流せば魔術は発動するのだよ」

「学園都市製の人工衛星によって巨大な円も作られていることだしな

「話をまとめると、紆余曲折を経て一つになった世界を、君は生きていくことになったわけだ」

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26: 2012/06/05(火) 01:21:24.71 ID:Awj1Gu8/o

 ああ、そうか。

 つまりここは……重力の井戸から離れたこの場所は。

 大穴が空いた事と、魔女の本体が元に戻ったことで崩れ行くこの結界は。

 一つになった世界、正確に言えば重なった宇宙の、共通する地球という星の外側。

 魔法少女を導く概念が、その力を発揮できる世界なのだ。

「……どうやら、僕の推測は正しかったようだね」

 ステイルは深いため息を吐くと、グリーフシードをほむらの元へ放って寄越した。
 慌てて空いたほうの手でそれを受け止める。

「巴マミがまどかを導く声がした。
 その原因と、君達にしか分からない存在と、地上で君に何か仕掛けた存在は繋がっているんだろう」

 彼はとても疲れたような表情を浮かべて、力なくうなだれた。

「だったらそれをここに呼んで、上で暴れる“ほむら達”をどうにかすることくらい、可能なんじゃないのか」

 呼べと言われたところで、どうにか出来るはずもない。
 そもそも呼べば来るようなものなのかどうかすら怪しい。
 だけどまどかは、ほむらの手を握り締めて、真っ直ぐな瞳でほむらを見た。

「来てくれるよ。だってあの人は、あの子は、ほむらちゃんのことが大好きな『私』なんだから」

「まどか……」

 まどかに微笑まれて、私は何も言えなくなってしまう。
 そうだ、駄目で元々、ひとまず挑戦してみればいいのだ。

 まどかと一緒なら、最高の友達と一緒なら――私は、なんだって出来る。

27: 2012/06/05(火) 01:21:51.92 ID:Awj1Gu8/o

「……あなたを拒絶しておきながら、こんなことを頼み込むなんて間違ってる」

 言葉を吐き出しながら、ほむらは地面を蹴った。
 まどかのことを離さぬ様にしっかりと左手を握り締めながら、翼をはためかせる。

「分かっているわ。私は、とても汚い。とても卑怯よ」

 バッ、と音を轟かせて、すぐ真横を光の天使が落ちていった。
 口元から血を流しているのが見えた。恐らくは魔女の猛攻に耐え切れず、気を失ってしまったのだろう。
 ほむらは名前も分からぬ天使に感謝しながら、さらに加速して上昇。

「だけど、もしもあなたが、そんな私を許してくれるなら」

 身体を失い、どうしていいのかも分からず暴れ狂う魔女の翼の前で停止。
 翼で大気を叩きながら、かつて同一の存在だった翼を見て、ほむらは悔しさから唇を噛んだ。
 けれども、不意に左手を握り返されて、ほむらは弾かれるように隣を見た。
 まどかが凛とした表情で頷いていた。
 ほむらも頷き返して、言葉を紡ぐ。


「あなたが、全ての世界、全ての時間の魔女を消す概念であってくれるのなら」


 ほむらの声に合わせて、まどかも口を開いた。


「『私』が魔法少女を導く、魔法少女の希望であるのなら」


 声が、ぴったりと重なる。


「彼女達を救ってあげて、円環の理―――!!」

28: 2012/06/05(火) 01:22:23.51 ID:Awj1Gu8/o


 果たして。


 彼女は、舞い降りた。

38: 2012/06/07(木) 01:07:52.19 ID:jiMDkYtfo
――数多の少女達が紡ぎだす、歓喜の歌が聴こえる。


 呆然と宙に漂い続けるまどかの頬を見えない風が過ぎ去り際に優しく撫でた。
 それから彼女の身体を追い越して、そっと反転。幼い耳元に近づいて囁くのだ。

 『魔法少女(わたしたち)の希望だよ』

 と。それがなんであるのか、なぜ囁いたのか、まどかには分からなかった。
 彼女に出来るのは、目の前に現れたものに対して無意識の内に感動の涙をこぼすだけ。

 彼女の目の前には、少女がいた。
 その存在はおぼろげで、霞がかっているようで、薄らぎ、今にも消えそうで、儚げで。
 それでもそれは確かにある。少女として存在している。

 温かい、と表現するだけなら簡単だ。
 優しい、と言葉にするのも大して労力を伴わない。
 だけど彼女は初めて自分の頭を激しく働かせて、それに見合う言葉を繕おうとした。
 ほむらの記憶を覗き見た時に知識として取り入れたはずなのに、彼女の意識はそれで終わらすことを良しとしなかった。

 ただ一度。
 目に触れただけで意識の改革を迫られる、偉大と呼ぶにはあまりにも可憐な存在。

 それが彼女にとっての『魔女を消す概念』であり、
 初めて眼で見た『魔法少女を導く希望』であり、
 ありえたかもしれない『自分』だった。

 まどかは無意識の内に隣を見た。
 彼女の最高の友人である暁美ほむらもまた、同じように自分の顔を覗いている。

 二人にとって目の前に現れたものは『自分』であり『友達』なのだ。

 なればこそ、その反応が似通った物になるのは当然だったのかもしれない。

39: 2012/06/07(木) 01:08:44.80 ID:jiMDkYtfo

 二人は顔を見合わせて頷き、そろそろと顔を元の位置に戻す。
 と、空間が揺らいだ。

 少女の姿がほんの僅かに、それこそ振るいテレビ画面のように『ぶれた』。

 まどかは自分でも気付かぬうちに手を伸ばしていた。
 少女との間に広がる距離は五メートルあるかないか。伸ばしたところでその手が届くはずもない。
 そう気付いた辺りで、まどかは目を丸くした。
 すぐ目と鼻の先。手を伸ばしたその先に、少女の姿が移動していた。

 ――いや、もしかすると彼女は最初からそこにいたのかもしれない。
 ただまどかとほむらには認識できなかっただけで、ずっと昔からすぐそばで見守ってくれていたのだろうか。
 実体があるかどうかさえ怪しい少女が、伸ばされたまどかの手に己の手を重ねた。

「……あっ」

 心に浮かんだ驚きに、思わず声が漏れた
 白いレースの生地はすり抜けることなく確かに彼女の右手に触れたのだ。
 レース越しに、太陽に手をかざした時に得られるどうしようもなく安心のできる温もりが伝わってくる。

「あなたは……」

 少女はそっと微笑んだ。微笑んで、優しくかぶりを振った。
 その身に纏う、白い衣装から放たれる光を受けて、わずかに白がかって見えるピンクの髪が宙を舞う。

『ちゃんとした形で『私』と会うのは、これが初めてだよね』

 ――あぁ。

 少女の唇の動きに合わして届いた言葉は、けれども空気を震わすことで発せられた音とは違っていて。
 キュゥべぇたちと同じ、心の中に直接響き渡るもので。
 目の前にいるのに、彼女はとても遠い場所にいるのだと実感する。
 まどかはどこか寂しさを覚えながら頷いた。

40: 2012/06/07(木) 01:09:47.35 ID:jiMDkYtfo

『それじゃあ改めて――初めまして、鹿目まどかです。わけあって、たくさんの魔法少女の希望をやっています』

 自分とは――正確に言えば、少し前の自分に自信を持てなかったまどかとは違う自信に満ち溢れた響き。
 自分の存在に確かな誇りと喜びを持ち合わしている者だけが持てる、力のある言葉。

 ……違う。

『それから、久しぶりだね、ほむらちゃん。ああでも、ほむらちゃんにとってはすぐのことかな?』

「まどか……」

 握り締められた左手に、返す力が加わった。
 まどかはその手を同じように握り返す。

『私、時間の感覚がおかしくてね。ずっと導いてきてるけど、それも一瞬で終わるような曖昧な感じで』

 彼女はそう言って、寂しそうに笑うのだ。
 まどかは胸の置くがぎゅっと掴まれたような気持ちになって、もう一度ほむらの手を握り締めた。

『こうなったのもね、あなたにとっては一ヶ月前でも、私にとってはずっと昔で、ほんの少し前の出来事なんだ。
 だから結界で覆われたこの地球を眺めてる時間がとっても現実的でね? それで、とっても不思議な気持ちなの』

 声こそ明るいが、その内容はとても笑う気分になれるようなものではなかった。
 それは彼女が人間を辞めた事の証であり、彼女が背負う、あまりにも無慈悲な業の重さを表している。
 魔法少女の希望になる、その選択が罪であり、業をもたらすと言うのなら。
 業を背負わぬ選択など存在するのだろうか。

 ……やっぱり、違う。

『でも良かった』

「え?」

 少女の口から紡がれた安堵の言葉に、まどかとほむらは口をそろえて疑問の声を発した。

『こうなることなんて、私にはまったく予想できなかったの。だから、良かったなぁ……ってね』

41: 2012/06/07(木) 01:10:13.92 ID:jiMDkYtfo

「まどか、あなたは……心配してくれていたの? あなたを選ばなかった、私を?」

 ほむらの言葉を受けて、少女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
 空いた方の手を胸に当て、視線を下に、首を小刻みに左右へ振り動かす。

『ほむらちゃんが私のこと、そんな性悪女みたいに見てたなんて……傷付いちゃったなぁ』

「えっあ、違うの! そうじゃなくて、私はただ、その」

『あははっ、冗談だよぉ。 ほむらちゃん可愛い♪』

「なっ……」

 先ほどまでの人外オーラはどこへやら。
 彼女はどこにでもいる少女のように、舌をちらっと覗かせて頭に手を当てた。
 
 どこにでもいる、少女のように。

『あのねほむらちゃん、ほむらちゃんが私の事を選んでくれなくても、心配するのは当たり前だよ?
 ほむらちゃんはほむらちゃんなんだから。選ばれたかどうかなんて、私が気にするだけ意味ないでしょ?』

 少女は本質的に、優しいのだろう。
 悪意を持たず、怨みを産まず、ただ慈しむのだろう。
 それこそが彼女。魔法少女を救う、世界から外れた存在。円環の理。

『またこうして会えた事が、私にとっては奇跡みたいなものだから。むしろ感謝してるんだ』

 彼女は何も妬まず、誰も憎まず、全てを肯定的に捉える。
 もちろん、まどかはまだ少女の全てを理解したわけではない。
 少女が救済した全ての命に流れる物語の側面すら知らない。何も分かってなどいない。
 だからこそ思うのだ。

 違う、と。

42: 2012/06/07(木) 01:10:40.12 ID:jiMDkYtfo

『……ねぇ、ありえたかもしれない、もう一人の『私』』

 びくっ、と身体が大きく震えて、勝手に硬直した。

『あなたは、後悔してない?』

 それを聞くのは自分の方なのに。
 彼女は自分のことを案じて、尋ねてくれる。

「……あのね」

 そう言うと、まどかはすぅっと肺に息を溜めた。
 言いたいことを、言いたいように言おう。

「『私』とは、会うのはこれが初めてだけど。その姿を見たとき、どこかで会ったことがあるような気がしてね」

 一旦言葉を切り、相手の反応を窺う。
 少女は微笑んだまま頷いて先を促した。

「たぶん、夢の中で逢ったような……ううん、もしかしたら、私が夢にまで見た姿かもしれなくて。
 もし私がそうなれるのなら、それはとっても嬉しいなって……でも、そう思うのと一緒に、とても怖くなって」

「まどか?」

 ほむらの声に、手を握り返すことで応える。

「もう何も怖くないって思ったのに、でもやっぱり違うなって思っちゃったんです」

『……』

 彼女の姿を、隣にいる友達の記憶で覗き見たときから思っていたこと。
 同じ鹿目まどかなのに、まったく違う、何かがあること。
 それはもしかしたら気のせいなのかもしれない。
 ほんの少し道を違えていたら同じようになれたのかもしれない。

 だけど。

43: 2012/06/07(木) 01:11:06.68 ID:jiMDkYtfo

「私は『私』じゃない。私は『あなた』とは違う――って」

 不意に、左手が握り返された。
 それを温かいと、嬉しいと、まどかは思う。
 視線の先で、黄金色の瞳の少女は深く頷いた。まどかの言葉を受け止めてくれた。

『そうだね。私は『私』じゃない。ごめんなさい』

 だけどね、と彼女は続ける。

『私と『あなた』の違いは、たぶん、本当にささいなことだと思うの。
 きっかけが有ったか、無かったか。
 助けてくれる人たちがいたか、いなかったか。たったそれだけの事だと思うんだ』

 ただ言葉だけを捉えていればまどかのことを励ましているように聴こえるかもしれない。
 実際、その響きにじゃまどかのことを思いやる気遣いが含まれているように聴こえた。
 だけど――まどかにはそれが、精一杯の抵抗の言葉に聴こえた。
 ちょっとした意地悪な言葉。小さなイタズラ心が生んだ、彼女自身気付かぬ、世界にも気付かれない嫌味。
 小さな小さな、嫉妬の炎。

 ……もし、そうであったならば。
 彼女の心が常人のそれと変わらない事を証明しているように思えて、まどかは複雑な笑みを浮かべた。

『本当はもっと色々お話したかったけど、ごめん。もう時間みたい』

 そう言って、彼女は右手をまどかから離して周囲を仰いで見せた。
 それを見てまどかとほむらも気付く。
 灰色の大地に、見通せぬほど広い果ての無い世界に大きな亀裂が走っている。

 もう、時間が無い。

44: 2012/06/07(木) 01:11:37.94 ID:jiMDkYtfo

『それじゃあこの子達は、連れて行くね』

 彼女は音も無く消えた。
 そして、初めからその場所にいたかのような仕草で、動きを止めたままの魔女の翼に寄り添った。
 光が弾ける。
 嫉妬と憎悪と、ありとあらゆる呪いを含んだ怨嗟の声を身に纏っていた魔女の翼が静かにばらばらになっていく。

 羽根が、翼から抜け落ちていく。
 一枚一枚、一つ一つ、静かに抜けて、ばらばらになる。
 それらはほんのわずかに少女の姿を構成すると、すぐに光の粒になって少女の下へ吸い込まれるように誘われた。

「あっ――」

 ほむらの声が漏れる。
 彼女が犯した罪が、重ねた業が、絶対的な概念によって洗い流されていく。

「……っ」

 まどかは手を握り返そうとして――やめた。
 代わりにほむらに向き直り、彼女の肩を、白い翼の生えたその背中を優しく抱き締める。

「ほむらちゃん……」

 彼女の顔を覗き見るような、無粋なことはしない。
 まどかに出来ることと言えば、ただ抱き締めて、肩を貸してあげる事くらいだった。

 そんな二人を尻目に、とうとう最後になった黒い羽根が少女の姿を形作った。
 彼女は蜃気楼か陽炎のように曖昧な姿のまま、三つ編みに結ばれた髪を振ってこちらを見る。

『あの……』

 とても小さな声だった。
 とても安らかな音だった。

45: 2012/06/07(木) 01:12:09.75 ID:jiMDkYtfo

『わたしはもう、なにも怨みませんから……だから、二人の事、よろしくお願いします』

「え?」

 私達の疑問の声は、しかし彼女に届くことは無かった。
 瞬く間に光の粒となって、白い少女の下に導かれる。

『それじゃあ二人とも、これで本当にさようなら』

 振り返り、少女はその背に光り輝く翼を広げて言った。
 そして長大な白のスカートの隙間から見える、宇宙のように深く綺麗な瞬きと共に薄れていく。

『あの子達がいなくなってしまった以上、この結界はもうすぐ閉じちゃう。
 そしたらみんなは宇宙空間に放り出されちゃうから、急いだ方が良いよ』

「え……ええぇぇぇ!?」

「ちょっ、まどか、いくらなんでもそれは!」

『あははっ♪ 大丈夫、さっきの白い人が頑張ってくれると思うよ。じゃあね!』

 少女の姿は、まるで人の抱く幻想、実体の伴わないうたかたのように弾け、消えていった。
 世界の仕組みを考えれば、もう会うことは無いというのに。
 彼女の言葉はあくまで軽く、人を不安にさせないような優しいものだった。

 まどかはほむらの背中を撫でながら、頬を彼女のそれに寄せて呟いた。

「……どうしよっか?」

「……どうしようかしら?」

 あまりにも間抜けな掛け合いに、二人は堪えきれず噴き出して、しばらくの間笑い続けた。


 すぐに空が二つに裂けたので、気を取り直して皆と合流し、血眼になって大穴を降りる羽目になったのだが。

46: 2012/06/07(木) 01:14:06.59 ID:jiMDkYtfo

――それから一時間ほどして、舞台は地上に戻る。

「この前三下とシスターもそォだが、どいつもこいつも俺の事をタクシーか何かと勘違いしてねェか……?」

「それだけ頼りにされてるってことさ。結局血が足りなくて気絶した僕よりはマシだと喜ぶべきだろう」

 全員を背に乗せたまま、六千キロダイブを可能な限り安全な状態で行いってげっそりした表情の一方通行の肩を叩くと、
 ステイルは力無くむき出しのコンクリートの上に横になった。
 身体中がズキズキするし、傷口はまだ痛むわ足はまだ完全に繋がってないわで重傷もいいところだ。
 だが彼は安らかな顔で空を――暁美ほむら達が作り出した結界の無い、広い青空を見上げた。
 そんな青空に、さっと影が差す。長身にポニーテールの神裂だ。

「お疲れ様です、ステイル」

「ああ、君もある程度は回復したようでなによりだ」

「医療班からはあと三日動くな、と言われてしまっているのですがね。……それで、どうです?」

「とりあえずは無事解決したよ」

 そう。あくまでとりあえずは、だ。
 しかしいちいち先の見えない未来に気を病んではいられない。

「それではこちらもご報告を。帰ってきた魔法少女たちは皆、家族や親友と話をしているようです」

「そうか。……あのグレゴリオの聖歌隊は?」

「バードウェイの差し金です。あなたは知らないでしょうが、地球ではあなたたちの会話が延々と流されていましたよ」

「それくらい、わざわざ結界の中にキュゥべぇを忍び込ませた時点で察しは着いたさ。手は打ってあるんだろう」

「はい、どうやらバードウェイの仕掛けた術式が発動しているようで、素質の無い者の記憶からは抹消されているようです」

 用意周到なことだと、ステイルはため息を吐きながら思った。
 数千万か数億人規模の祈りを用意しながら、世間に生じる波乱は最小限に留めて見せた少女の笑みが浮かぶ。

47: 2012/06/07(木) 01:14:42.56 ID:jiMDkYtfo

「それから……インキュベーター側から提案がありました」

「提案?」

「はい。どうやらローラ=スチュアートが打ち立てた和解案に応じるとの事です」

「いったいどんな……ああいや、また今度聞こう」

 詳しく話を聞きたい気持ちは有るが、聞いたところでろくに覚えていられる自信がなかった。
 ステイルは無理やり上体を起こすと、神裂に視線を向け直した。

「それで、土御門たちはどこに行った。いるんだろう」

「彼らならローラ=スチュアートの探索に出かけましたよ」

「そうか……分かった、君は君の仕事をするといい。僕はもうしばらくここで休んでいるよ」

「はい。――ああそれと、学園都市から派遣された災害救助隊から連絡がありまして」

 違和感を覚えて、ステイルは目を細める。
 別に学園都市が救助隊を派遣すること自体はおかしくない。
 妙なのは、わざわざ魔術師である自分達に連絡を入れたことだ。
 ステイルは軽く眉をひそめて先を促した。

「なんでもここに来る途中で拾った二人組の男女を連れてくるそうです。年は若くないそうですが」

「……若い二人組の男女だったら、察しは着いたんだけどね。名前は分からないのかい?」

「それなのですが、実はその二人の苗字が……」

 続く神裂の言葉を聞いて、ステイルは合点が行ったように頷いた。
 そして離れた場所で一人佇んでいるほむらを見て、微笑を浮かべるとステイルは力を入れて立ち上がった。

 話をするような親しい相手がいないせいで、どこか手持ち無沙汰な表情を浮かべるほむらに、
 少々複雑だが、それでも聞けばとびきり喜ぶであろう話を届けてやるために。

48: 2012/06/07(木) 01:15:16.60 ID:jiMDkYtfo

――視点は、美樹さやかに移る。

「……なんか、すっっっごーい疲れたんですけど……」

 ため息と共にあたしは隣にいる杏子にどたーっともたれかかった。

「おい、引っ付くなよさやか」

「えー良いじゃん減るもんでもないしー。あたしらもまどかとほむらみたいに抱き締めあおうよー」

 あれだけ見せ付けられたらその気になっちゃうのは仕方ないよねー、と思う。
 もちろん二人にソッチの気はないのだろうけど。
 ……あったらどうしよう、友達付き合い考え直さないとダメかな?

「お断りだっての。だいたいアンタ、こんなとこで油売ってて良いのかい?」

「なにがー?」

 杏子は面倒くさそうな顔をしながら、あさっての方向に指を向けた。

「ボーヤ、お待ちかねみたいだけど」

 あたしはばっと姿勢を正して、杏子の指差す方を見る。
 そこには体中泥まみれで、ところどころに擦り傷を負った男の子がいた。
 汚れてるし、傷だらけだけど、見間違えるはずも無い。

 恭介だ。

「……ごめん杏子、あんたとイチャイチャするのはここまで。あたし行ってくる」

「アタシが求めてたみたいに言うなよ!」

49: 2012/06/07(木) 01:15:43.46 ID:jiMDkYtfo

 あたしは恭介の下に駆け寄った。
 ――のは良いんだけど、何を言っていいのか分からなくて、結局黙り込んでしまう。
 そんなあたしを見ながら、恭介は静かに口を開いた。

「終わった、みたいだね」

「……うん、終わったよ」

「夢、みたいだね」

「うん。夢みたいだけど……ちゃんと、現実だから。奇跡も、魔法も、あるんだよ」

 そっか、と恭介が頷いたのを合図に、ふたたび場に沈黙が舞い降りる。
 だけど恭介のおかげで普段の自分を取り戻したあたしは、その沈黙をすぐに打ち破った。

「みんな助かったよ。あたしに出来たことは少なかったけど……ね」

「そっか。後悔はしてないんだね」

「もちろん! 後悔なんて、あるわけない」

 ……たとえ、ソウルジェムがボロボロになっていようと。後悔の念なんて、綺麗さっぱり消え去ってしまっていた。

「恭介、あたしが言った言葉覚えてる?」

「もちろんじゃないか。君の言葉を忘れるはず無いだろう?」

 ありがとう、と心の中で呟く。

「仁美にね、本当の気持ちと向き合えますか? って、結構前に言われてね。
 ずいぶん悩んで、避難所を出る前に告白したけど、実際どうなのかなってもう一度考えたりしてね」

50: 2012/06/07(木) 01:16:37.97 ID:jiMDkYtfo

「……あたしって、ほんとバカって、自分でも思っちゃった」

「さやか?」

 恭介の近くに歩み寄りながら、あたしは思う。

 考える必要なんて最初から無かった。
 悩む必要だって、まったく無かった。

 だって、だってあたしは――

「あたしは――心の底から、あなたのことが大好きだって気付けた」

 そう言うと、あたしは有無を言わさず抱きついた。

「こういうとマセてるかなーって思っちゃうけど、でも……あなたのことを愛してるって、ようやく分かったの」

 服越しに伝わる、恭介の鼓動の音を聞きながら。

 あたしはただ、自分の意思と衝動に身体を委ね、恭介に体を預けた。

 その時だ。
 あたしの背中に、しっかりと腕が回されたのは。
 その意味を尋ねるほど、あたしは鈍感じゃない。
 頬を流れる涙の意味に気付かないほど、あたしはバカじゃない。

 あたしたちは、互いの気が済むまでお互いの温もりを分かち合った。

51: 2012/06/07(木) 01:17:19.63 ID:jiMDkYtfo

――視点は、佐倉杏子に移る。

「アタシにはイチャイチャする相手なんていないから、覗き見したって無駄だよ」

 そう言って、アタシは後ろを振り向く。
 物陰に隠れていた五和と香焼、それに建宮が脂汗を浮かべたまま姿を現した。

「いやいや、俺は悪くないのよな。意識を取り戻したと思ったら五和が気になることがあるとか言い出して!」

「いやいやそれ教皇代理じゃないですか!? まだ治療中だった私を無理やり連れまわしたんじゃないですか!」

「二人とも元気っすね……」

 調子が狂うなぁ、と思い、まぁそれも良いか、と割り切る。
 そしてそのすぐ近くでこちらを見つめる修道女――アニェーゼに目をやり、笑みを浮かべて見せる。

「よぉ、“先輩”」

「はん、路上生活は辞めたんですからそりゃ正しくないってもんでしょう。それともまた戻るつもりですか?」

「そんなの、アタシが許さない。……なぁ」

「なんです?」

 アタシは少しの間迷ってから、素直に自分の疑問を打ち明けた。

「……どうなるんだい、アタシたちは」

 アニェーゼは目を細め、悩む素振りを見せる。

「さて、分かりません。しばらくは現状維持でしょうが……後始末が色々とありやがりますから」

52: 2012/06/07(木) 01:17:46.40 ID:jiMDkYtfo

「そっか。……まぁ、いいさ」

 どうせ時間はたっぷりとあるんだ。

 仮に元の人間に戻れたとして、なにか重大な欠陥やリスクがあったとしても。
 それでも、残された時間は自分のために使うことが出来る。

 自分のために――誰かのために役立ちたいという、自分のために。

「面倒事が全部終わったら、あの教会でシスターの真似事するのも悪くないね」

「シスターなら修道院に入るべきでしょうが」

「鈍器持って魔術だなんだ取り扱うアンタにゃ言われたくないよ」

「確かに、それには違いねーですね」

 愉快そうに笑うと、アニェーゼはどこへともなく姿を消した。
 後始末とやらのためだろう。

「……あっ」

 正確に言えば、シスターの真似事ではなく父親の真似事だったな。

 杏子はしばらく考えてから、まぁいいかと頷いて空を仰いだ。

 雲一つない、快晴だ。
 今がまだ太陽の光差す時間帯であることに少し驚いた。
 杏子は笑うと、いまだに三人で責任を押し付けたりツッコミを入れたりする三人の中に飛び込んだ。

53: 2012/06/07(木) 01:18:15.88 ID:jiMDkYtfo

――鹿目まどかの場合。

「この……バカ娘!」

 ばちぃんっ! と頬を叩かれて、私は何歩か後ろに下がった。
 痛みに遅れて、痺れと熱が訪れる。

 だけど私はちゃんと前を向いたまま、目を閉じなかった。

 私を叩いたママは、そんな私の態度に表情を険しくすると、無理やり私の事を抱き寄せた。

「あんたって娘は、いつのまにそんな気丈な態度取れるようになったんだい」

「えへへ、ママの子供だから、うん」

 ママの温もりが、伝わってくる。
 今日はなんだか抱き締めたり抱き締められたりばっかだなぁ、と思うと、ちょっと笑えて来ちゃって。
 だけど笑うわけにもいかなくて、私はきっと、変な表情を浮かべていたんだと思う。

 私の顔を覗き見たママは、私の頭を乱暴に、ガシガシと撫でた。

「言うようになったじゃないか」

「うん、だってママの子供だもん」

「それ言えばなんとかなるとか思ってないかい?」

「そ、そんなことないよ!? ちゃんと反省してるよ!?」

54: 2012/06/07(木) 01:18:44.37 ID:jiMDkYtfo

 ママはそっと表情を緩めて、それからもう一度、私の頭を優しく撫でてくれた。

「なんだろうね、無性にあんたと酒を飲みたくなってきたよ」

「あと六年間は待ってね」

「長い! 四年で!」

「十八歳は飲んじゃダメだよ」

「アメリカとかは平気じゃなかったっけ?」

「ここ日本だもん」

 そりゃそーか、とママは舌を出した。
 こんな何気ないやりとりが、こんなにも温かいものだったなんて。
 こんなにも大事で、かけがえの無いものだったなんて

 そんな時、私達を呼ぶ声がした。

「おーい、まどかー! ママー!」

「まろかー! ままー!」

 私はママと顔を見合わせると、互いに肩をすくめあった。

「ちゃんと謝れよー、パパすっごく心配してたんだからな」

「はーい」

 私は頷くと、微笑んだ。

 もう二度と見ることの出来なくなってしまった『彼女』のことを思い出す。
 私と彼女は別人だけれど。
 せめて、彼女の分までこの時を噛み締めようと、私はそう思った。

55: 2012/06/07(木) 01:20:56.90 ID:jiMDkYtfo

――そして。

「因果が巡り巡った先で、機会があればいずれまた逢いましょう」

「じゃあまたね、救世主」

「ええ。また会いましょう」

 そう言って、わたしは白と黒の二人組の魔法少女に別れを告げた。
 突然現れたと思ったら、いきなり言いたいことだけ言って感謝して帰っていく二人を見ながら、私は思う。

 ……あの二人、私を頃しかけたことを完全に無かったことにしてたわね、と。

 だからと言って、いまさら問い詰めるのも面倒だった。
 何か無い限りは無害であることに変わりないのだから、寛大な心で見逃してやるとしよう。

「でも……本当に終わったわね」

 呟き、肩の荷が下りたような気分になる。
 もちろん問題は山積みかもしれない。見滝原市の復興だって、何年掛かるか分からない。

 けれど、終わったのだ。
 もうワルプルギスの夜に怯える必要は無くなった。
 まどかが魔女になる可能性だって、いまのところは無い。

 そうなると、今度は急に暇が出来てしまった。

 私には、帰還を喜べるような親友や魔術師はいない。
 まどかもさやかも杏子も、皆親しい者達と共にいるので少し疎外感を味わう羽目になった。
 まぁ……どうせ暇だしそれも良いかもしれない。

「もう誰にも頼らない。まどかとの約束が、私の全て……最後に残った道しるべだと、思っていたのに」

 呟き、力を抜いて笑みを浮かべる。
 良かった――と。

56: 2012/06/07(木) 01:21:24.40 ID:jiMDkYtfo

 そんなことを考えていると、私の下に身長二メートルの赤毛神父――ステイルがやってきた。
 彼はどこから手に入れたのか、酢昆布をかじりながら私に向かって手を挙げた。
 とりあえず同じように手を挙げて応えると、彼は肩をすくめて酢昆布を手に取り口を開く。

「一人ぼっちは寂しいかい?」

「そうでもないわ。……というか、半氏半生のあなたにとやかく言われる筋合いは無いと思うのだけれど」

「それとこれとは関係ないだろうが……そんなことよりも朗報だ。いや、君からすれば少し複雑かもしれないが」

「なにかしら?」

「君に面会の申し込みがあってね。詳しい話を聞きたいそうだが、どうする?」

「……今はやめておくわ。詳しい報告は今度するから」

「それは困ったな。もう来てしまっているんだが」

 この神父はどうしてこう、人の神経を逆撫でするのが得意なのだろう。
 私はため息を吐くと、仕方なく彼のそばに歩み寄った。

「それで、相手は誰かしら。あなたのところの上司?」

「ん? 上司じゃないね。正確に言うと、あー……
 僕が所属する組織と密接な関係の組織がここに来る途中で拾った赤の他人の夫婦、かな」

 歯切れの悪い返事に、私は眉を立てた。

「つまり?」

57: 2012/06/07(木) 01:22:04.73 ID:jiMDkYtfo

「つまり――君のご両親だよ」

 ……え?

 彼は酢昆布である方角を指し示した。
 私がその方向に目を向けると、見慣れぬ形をしたヘリコプターがちょうど着陸するところだった。
 その中から、二人の男女が寄り添いながら降りて来た。

 ……ああ。

「もちろん、厳密に言えば君の、ではなくその身体の暁美ほむらの、になるが……どうする?」

 どうする、と言われたところで。
 私には、どうすることも出来ない。

「まどかから聞いたよ。暁美ほむらの一人に、二人の事をよろしくと言われたそうじゃないか」

 ……そう。そういう意味だったのね。

「……まぁ、ここから先を説明するのは少し野暮かな。君が嫌ならお引取り願うことも出来るが」

「いいえ、大丈夫よ。……ありがとう、ステイル」

 私は小さな声で礼を言った。
 彼はどういたしまして、と言うと私に背を向けて歩き出した。
 その姿を見送りながら、私もまた、歩き出す。

 ……結界の中で聴いた二人の声は、そういうことだったのね。

 私は降りて来た二人の顔を見つめながら、震える足取りで前へ進む。
 姿を見るのはこれで何年振りになるのだろう。
 たぶん二〇年……いや、二五年ぶりだ。

 二五年振りに見た私の両親の姿は――記憶のまま、何も変わってなどいなかった。
 私は震える足に力を入れて、走り始めた。

58: 2012/06/07(木) 01:22:31.35 ID:jiMDkYtfo



 私は、あなたたちの本当の娘ではないけれど。

 今だけは。

 どうか今だけは。

 あなたたちの娘として振舞うことをお許しください。

 そう、心の中で懺悔しながら。


 私は二人の間に飛び込んで行った。



 二五年振りに感じた両親の温もりは――とても、気持ちが良かった。



59: 2012/06/07(木) 01:29:25.83 ID:jiMDkYtfo
以上、ここまで。

最後に台詞の中にサブタイトルをたっぷり突っ込んでやったぜとか、禁書が空気だとか、
色々ありましたが、本筋はこれで完結です。
一応エピローグは用意してありますが、それを読まなくても納得頂ける形に仕上がっていれば何よりです。

60: 2012/06/07(木) 01:31:40.57 ID:txNc6P8s0
乙乙、超乙。音の速さを超えて乙
どこから感想言っていいのか分からないくらい話の密度高え!

61: 2012/06/07(木) 01:39:05.59 ID:yc6ACLH/0
大団円だな
それでも一人足りないのが悲しいが…

62: 2012/06/07(木) 01:53:10.51 ID:dXqKkBaI0
乙以上の言葉は蛇足だな

64: 2012/06/07(木) 04:51:26.82 ID:nzAZpiBDO
言葉で言えるほど賢くもないので一言。


お疲れさまでした。

引用: ほむら「あなたは……」 ステイル「イギリス清教の魔術師、ステイル=マグヌスさ」2