1:◆JtU6Ps3/ps 2008/09/20(土) 20:14:11.43 ID:sCjAEuwY0

「え?」


 翠星石は、背後からの声に振り向いた。

「目が赤いよ」
 背後の扉を閉め、蒼星石が近付いてくる。
「蒼星石…」
 その手には、鋏が握られていた。

5: 2008/09/20(土) 20:16:26.97 ID:sCjAEuwY0

 nのフィールド。鬱蒼と生い茂る森の一角に、色とりどりの花が
咲き乱れる庭園がある。

「どうしてここに…」
「また飛び出してきたのかい」
 翠星石の隣に立ち、柵に手を掛けると、蒼星石はそのまま天を仰いだ。

 蒼く澄んだ空の西側、雲にうっすらとオレンジ色がかかり始めている。
現実世界でいう、午後4時過ぎ頃の、終わりを感じさせる色。

「……」
 翠星石は黙っている。そのまま目の前の柵にもたれ掛かり、
ずるずると腰を落としていく。
「…ジュンが悪いんですぅ、ジュンが」
「ん?」
 蒼星石が見下ろす隣、翠星石が口を尖らせている。


10: 2008/09/20(土) 20:21:17.53 ID:sCjAEuwY0


「どうしたの」
「もう翠星石はしばらく戻りたくないです」
「……」
 翠星石は深いため息をつき、柵のすぐ向こうにある、チューリップの花びらを
つつき始めた。
「あっ、ダメだよ翠星石」
 しゃがみ込み、両肩に手を回して、こちらを向かせる。
「せっかく育てた花なのに」
「だって…」
 ぶう、と頬を一層膨らませる姉。
「よしよし」
 翠星石を抱き寄せ、頭を撫で始める。
「ん……」
 翠星石は気持ち良さそうに目を閉じ、蒼星石の背中に手を回した。


11: 2008/09/20(土) 20:24:26.96 ID:sCjAEuwY0

「落ち着いた?」
「……」
 抱きついたまま、翠星石は目を閉じている。
「落ち着いたら、一緒に花のお手入れしようね、翠星石」
「……ですぅ」
 翠星石はゆっくりと目を開け、蒼星石から身体を離した。


15: 2008/09/20(土) 20:32:46.21 ID:sCjAEuwY0

「へえ、スコーンを?」
 チョキン、と音を立てて薔薇の棘を切り落とす。
「そうですぅ。せっかく翠星石が作ってやったですのに」
 花びらや茎に水がかかり過ぎないよう、少ししゃがんで、根に
水をやる翠星石。
「そうか…」
「どーせ翠星石の事なんてどうでもいいんですよ、ジュンは」
「ふふ、
 頬を膨らませる翠星石を見て、困ったように笑う蒼星石。
「な、何笑ってるです」
「翠星石は、やっぱりジュン君の事が好きなんだね」
「はっ!?」
 如雨露を思わず落とし、ばしゃっ、と水がこぼれる。

16: 2008/09/20(土) 20:36:52.28 ID:sCjAEuwY0

「ななななな何で翠星石が!!!
 んなわけないです!ジュンは掛けてやった慈悲を無碍にするアホ野郎だと
 言ってるだけですぅ!!
 顔を真っ赤にして怒る翠星石。
「やれやれ」
 苦笑する蒼星石を見て、翠星石は大きく肩を震わせる。
「まあ、あのさ、大丈夫だよ翠星石」

「大丈夫って…」
「嫌われてるわけじゃないんでしょ?」
 問い返す蒼星石。少し翠星石は黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「ならいいじゃない」
「でも…」
 うつむく翠星石。


20: 2008/09/20(土) 20:43:16.22 ID:sCjAEuwY0

「どうしたの」
「引っ叩いて出てきちゃったです…」
 冷たい風が吹きつけ、翠星石のリボンがたなびく。
「…大丈夫だよ。僕も一緒に戻ってあげるから」
「え」
 顔を上げた翠星石に、優しく微笑む蒼星石。
「それでもさ、もしまた悩むような事があれば、ここにいつでも来ればいいさ」
「蒼星石…」
「僕もそうしてるんだよ、今日も」
 剪定する手を止め、花壇を見やる。


21: 2008/09/20(土) 20:45:59.34 ID:sCjAEuwY0

「ここなら誰も傷つけない。やかましい音も、淋しい現実もここには届かない、
 nのフィールドの、僕たちだけの思い出の庭」
 柵にもたれ掛かった蒼星石が、目の前の薔薇に鼻を近付ける。
 翠星石は庭園を見回した。
 
 10メートル四方ほどの柵に囲まれた中に整然と咲き誇る花たち。
 こんなもの植えただろうか、と、一瞬考えてしまうものまである。
 見回しただけでも、白薔薇、紅薔薇、チューリップ、ひまわり、蓮華、モモ。

 いつ頃からか、二人で作り上げた箱庭だった。




24: 2008/09/20(土) 20:49:45.40 ID:sCjAEuwY0

「ホントはね、僕も今ヘコんでるんだよ」
「え?」
 少し視線を落とし、鋏の柄に顎を乗せる。
「今日お皿を割って、お婆さんをケガさせちゃってさ」
「…珍しいですねぇ、お前にしては」
 座り込み、膝を抱えて顔を沈ませる蒼星石。
「君がいなくなってからはよく失敗するようになった」
 
「…私が?」


25: 2008/09/20(土) 20:50:14.87 ID:sCjAEuwY0

「うん…ダメなんだよなぁ、僕って…」
 蒼星石は目を閉じた。
「ねえ、翠星石」
「はいですぅ?」
「ちょっと、貸してもらえないかな、膝」



26: 2008/09/20(土) 20:52:20.80 ID:sCjAEuwY0

「ん…」

 蒼星石が安心したように声を漏らす。
「……」
 身体を横たえ、こうして這うように髪を撫でてやると、妹が
喜ぶのを翠星石はよく知っていた。
 後ろからお腹に手を回し、右肩に顎を乗せて頬をすり寄せればくすぐったがるし、
そのまま胸を弄れば小さく喘ぐ。
 数分で寝かせる術から、らしくなく大笑いさせるツボまで、蒼星石の事なら
何でも分かる。そう思っていた。

「落ち着いたですか?」
「……」
 蒼星石がゆっくりと目を開け、身体をよじって翠星石を見上げた。
こういう時、少し首を傾けて、小さく笑ってやると、蒼星石も小さく笑い返してくれる。
その瞬間が、翠星石はたまらなく好きだった。


28: 2008/09/20(土) 20:56:06.29 ID:sCjAEuwY0

 過去のマスターが仕事上がりにワインを飲み、満足したように大きく息を吐くのを
何度か見た事があるが、自分たちにとってはこの瞬間の安らぎこそが、
マスターたちの「それ」なのだろう、と、
翠星石は勝手に思っていた。

「ありがとう、翠星石…気持ち良かった…」
「ふふ」
 見つめ合い、互いに微笑む。
 この瞬間を守るためなら翠星石は何でも出来ると思えたし、
そのために契約を強引に解除した事も実際にある。

「翠星石に出来る事なら、何だってしてあげるですよ」
 それが、姉としての純粋な感情だった。


31: 2008/09/20(土) 21:01:54.13 ID:sCjAEuwY0

「蒼星石…」
 目をぱちくりとさせる翠星石に、蒼星石が歩み寄る。
「さ、行こう。ジュン君たちも心配してるよ」

 蒼星石に手を引かれながら、翠星石は庭園の花を眺めていた。
 はるか昔に苗を植えたリンゴの木。
 どこからか種子が飛んできたのだろうか、見慣れないアネモネや白薔薇まで、
その咲き乱れる光景を見ていると、ほんの少し心が軽くなったような気がした。



33: 2008/09/20(土) 21:06:13.98 ID:sCjAEuwY0




「早く氏にたいわ」
 ベッドから半身を起こし、正面の壁を見つめながら、めぐが呟いた。
「……」
 またか、と水銀燈は内心思ったが、少し前からこういう言葉が出た時は、
黙ってやり過ごす事にしていた。
「あなた最近返事してくれないのね」
 水銀燈は思わずめぐを見やった。めぐは何となく笑ったような顔でこちらを
見つめている。
「ごめんなさいね。分かるのよ、聞いてて嫌になるんでしょう、私のお話。
 悪いと思ってるわ」
「……」
 うつむくめぐ。水銀燈は困ったように頭をかいた。


35: 2008/09/20(土) 21:14:43.28 ID:sCjAEuwY0

「……」
 病室に沈黙が流れる。めぐをちらりと見やると、うつむき加減に正面の壁を
見つめたまま、ぼんやりとしている。
 目の焦点が合っていない。こういう時、めぐは大抵自分の世界に入り込んでいる。
きっと、一日の内でそういう時間がないと、駄目な性格なのだろう。
 水銀燈は別に気を遣って話しかけたりはせず、どちらかといえば
めぐを観察したり、自身も空想に浸ったりと、勝手に過ごしていた。
 ただ、窓から出て行ってしまおうと思った事は一度もない。何となく、そういう気分に
なれないのだ。


37: 2008/09/20(土) 21:17:43.38 ID:sCjAEuwY0

「……」
 ふと気づくと、めぐは視線を両手に落とし、手を組み直したり、ささくれを弄ったり、
何かリズムを取って身体を小刻みに動かしていた。
 病室で覚えたひとり遊びなのだろう、と水銀燈は思った。

 めぐはよく面白い話をしてくれた。夜寝る前、22時半頃に手洗いの前の鏡を見ると
人の顔が見えた事があって怖かっただとか、13歳の頃、窓から中庭を見下ろすと、車椅子の彼女を
押しながら仲良さそうに話している男性がいて、男性の顔が有名な芸人そっくりで笑えたとか。

 話し慣れていないせいか、よく話が飛び飛びになるのが玉にキズだったが、一風変わった
その喋りに、水銀燈が退屈した事はない。


38: 2008/09/20(土) 21:23:31.62 ID:sCjAEuwY0


「この病室を出て左に行くとね」
「……」
「階段があるの。その階段の手前の病室に、どっかの野球部の子が
 こないだ入院してきたのよ。急性盲腸炎ですって。でね、その子の彼女が毎日お見舞いに来てるんだけど、
 見てると面白いのよ。その子。いつも将来結婚した時の話ばかりしてるの。『子どもの名前は、
 女の子なら明日香、男の子なら晃汰がいいね』とか言ってるのよ。漢字まで書いて男の子に渡してたわ。
 いつも男の子はね、頭を撫でながらハイハイ、って返してるんだけど、聞き流してる感じよ。

 明日香はまだ分かるわよ。何だか前向きじゃない。問題は男の子。「汰」なんて字、おかしいわよ。
 『淘汰』とか、『正気の沙汰じゃない』とか、何かネガティブな意味でしか見た事ないし、
 どちらかと言えばマイナーな字よ。
 
『さんずい』がついてるから、希少さとか、そういうのでも子どもに求めてるのかしらね。
 そう思って辞書で調べたのよ私。腹抱えて笑ったわ。『にごる』とか『驕る』とか、汚らしい意味なのよ、この字。
 ああいう子が結婚して、ママになって、家計を支えるのよ。子どもはきっと、
 私みたいにおかしな人生を送るんだと思うわ。可哀想に、ねえ」

 覗き見なんて趣味が悪いな、とも思ったが、自分も真紅たちの様子を覗き見している身だ。
偉そうな事を言えたクチではない。

「でもね、私はまだいいわ。貴女と出会えたんですもの。ね、水銀燈」
 それに、いつもこう結んでくれるめぐに対し、そんなに悪い気もしなかった。

40: 2008/09/20(土) 21:27:52.02 ID:sCjAEuwY0

「ごほっ、ごほっ」
 水銀燈が顔を上げた。めぐが前にのめり、何度もせき込んでいる。
「ちょ、ちょっと」
 窓辺に座っていた水銀燈が駆け寄り、下から覗き込む。
「んぐっ」
 一瞬目を見開いためぐは、次の瞬間思い切り嘔吐した。
「きゃ!?」
 びちゃびちゃと何かが飛び散る音と共に、水銀燈の顔とドレスに飛沫が降りかかった。
生暖かい感覚。目の前の白いシーツが黄色く染み込む。


42: 2008/09/20(土) 21:32:28.13 ID:sCjAEuwY0

 少しして、ぷうんと嫌な臭いが鼻をついた。
「…!」
 考えるより先に手が動き、水銀燈はナースコールを押した。
「めぐっ!」
 左手を両手で包みこみ、水銀燈が力を送ると、めぐは幾分落ち着いた表情になってきた。
「はぁ、はぁ」
 だが、まだまともに喋る事は出来ない。
 唇から垂れている吐瀉物を拭う事もせず、水銀燈はしばらく手を握り続けていた。

「めぐちゃん大丈夫!?しっかりして!」
 どたどたという音が聞こえ、看護士が部屋に入ってくる。
 既に窓の外に避難していた水銀燈は、めぐの口元が拭われるのを確認して、
有栖川大学病院を飛び立った。


43: 2008/09/20(土) 21:38:34.94 ID:sCjAEuwY0

「はぁ…」
 教会に戻り、顔とドレスを洗った後、水銀燈は祭壇の前でへたり込んだ。

 だんだんと、めぐが咳込む間隔が短くなってきている気がする。
「めぐ…」
 終わりが近付いている。もうすぐ、めぐの病室に行く事もなくなるのだろうか。
「……」
 水銀燈は膝を抱え、そこに顎を乗せる。
 めぐの命に尽きてほしくはない。その想いだけは、揺らがない。
「……ローザミスティカ…」
 時間はあまり残されていない。


44: 2008/09/20(土) 21:42:42.63 ID:sCjAEuwY0


 水銀燈は、窓際に干してあるドレスに目を向けた。
周りに建物がないせいか、西側のその窓からは、常に風が吹き込んでくる。
「……」
 時間はない。ローザミスティカを手に入れなければならない。
水銀燈は立ち上がり、ステンドグラスの下にある、nのフィールドの入り口を覗き込んだ。
 風でゆらゆらと揺れていた水面が次第に光り始め、やがて一体のドールを映し出した。



46: 2008/09/20(土) 21:49:43.26 ID:sCjAEuwY0

「わーい、ジューン登りなのー」
「お、重い、やめろ」

 桜田家。肩からよじ登ってくる雛苺。椅子に座っていたジュンが、思わずのけぞった。
「あっ、あっ」
 ぐらりと視界が回り、次の瞬間、ジュンは仰向けに転倒した。
「うるさいわね、何してるのジュン、雛苺」
 テレビを観ていた真紅が振り返る。
「だ、大丈夫…?」
 頭を押さえているジュンを、雛苺が申し訳なさそうに覗き込んでいる。
「いたたたた…」
 ジュンは頭を押さえ、苦悶している。

48: 2008/09/20(土) 21:57:57.44 ID:sCjAEuwY0

「危ないだろ、雛苺…」
「ご、ごめんなさいなの…」
 起き上がったジュンが睨みつけると、雛苺はくしゅんと項垂れた。
「全く…」
「ごめんね、もうしないなの」
「ああ、もうしないでくれ」
 頭を押さえたまま、ジュンは真紅の隣に座る。
「…」
 真紅がちらりとジュンを見やる。その後、後ろでうつむいている雛苺に視線を移す。

 雛苺はジュンの後ろ姿を心配そうに見つめていたが、
ふと顔を上げると、何か思いついたように台所へと消えていった。


49: 2008/09/20(土) 22:02:04.01 ID:sCjAEuwY0

「貴方も災難ね、ジュン。昨日から」
「いいよ、もう慣れた」
 ジュンがため息をついた。
「翠星石には謝ったの?」
「え…?」
 真紅を見るジュン。真紅が隣でこちらを見上げている。
「昨日のは、貴方が悪いんでしょう。違うのかしら」
「……ああ」
「まだ翠星石は戻ってきてないけれど、戻ってきたらキチンと頭を下げなさい。
 あの子だって、そんな無神経な子じゃないのよ」
「…ん」
 相槌を打ち、前を向くジュン。
「ジュン」
 ふと、右腕に何かが触れた。
「ん?」
「これあげるの」
 雛苺が苺大福を持って、ジュンを見上げている。

51: 2008/09/20(土) 22:09:17.11 ID:sCjAEuwY0
「これは…?」
「ごめんなさいなの」
 ジュンの右手に苺大福を置き、ソファをよじ登る雛苺。
「ん」
 ジュンに寄り掛かり、雛苺が頭を撫で始めた。
ジュンは雛苺が落ちないように身体を抱きよせ、しばらくして彼女を
膝の上に乗せる。
「ほえ?ジュン?」
「いいよ雛苺。気にしてないから」
 きょとんと見上げる雛苺の頭を撫でてやると、雛苺は気持ち良さそうに目を閉じる。
「ふえへへ、ありがとなの」
 それを横目で見ていた真紅は、安心したように小さく笑った。
「こんにちはー」
「ん」
 ガチャリとドアが開き、蒼星石が入ってきた。


55: 2008/09/20(土) 22:16:18.32 ID:sCjAEuwY0

「あー、蒼星石なのー」
「やあ」
 ととと、と駆けよる雛苺に対し、蒼星石が軽く会釈をする。
「ねえ、翠星石は?」
 心配そうに尋ねる雛苺。
「ああ、いるよ、翠星石」
「…はいですぅ」
 おずおずとドアから顔を覗かせた翠星石は、少し不安そうな、困った表情をしていた。


58: 2008/09/20(土) 22:21:08.76 ID:sCjAEuwY0

「うっせーですぅ、氏ねです消えろですこのくそ馬鹿!!!」

 昨日、翠星石が作ったスコーンをジュンは食べきれずに残し、
こっそりと庭の野良猫にあげてしまった。

 丁度その光景は翠星石に見つかり、翠星石は泣きながら家を飛び出し、
そのまま帰ってこなかったのだ。
 蒼星石や金糸雀に聞いたところ、蒼星石が「心当たりがあるから」と連絡して
くれた事で、ジュンは自己嫌悪に陥らずに済んだ。
 
 それ以来の顔合わせに、ジュンはいささか緊張していた。


61: 2008/09/20(土) 22:32:42.62 ID:sCjAEuwY0

「ごめんなさいですぅ、ジュン」
「えっ!?」
 頭を下げた目の前では、きっとジュンが驚いているのだろう。
ただ、何となくそうしておきたかったのだ。
「……」
 頭を上げると、ジュンが気まずそうに頭をかいている。
「ジュン、翠星石にごめんなさいするの」
 自分の背後で、雛苺の声がする。
「あ、ああ。ごめんな、翠星石…昨日は」
 ジュンが少し視線を外し、下に落とし気味に首を垂れる。
「…」
 翠星石は胸の辺りがじんわり熱くなってゆくのを実感した。

 ジュンは心から反省している時、相手の目を見ず、こうして
胸の辺りに視線を落とす。謝る直前は恥ずかしいのか、
先ほどのように頭をかくのも、翠星石はちゃんと知っていた。


64: 2008/09/20(土) 22:39:44.40 ID:sCjAEuwY0

「…いいですよジュン、翠星石は別に」
 驚くほど自然にその言葉が出た。ジュンが顔を上げ、隣の真紅と
ともに目を見開いている。
 自分自身、少し笑っているのが分かる。
「翠星石こそ、昨日はごめんなさいですぅ、ぶったりして」
「あ、いや…」
「良かったね、二人とも。これで一件落着じゃないか」
 自分の左隣で、蒼星石がぽんぽんと翠星石の肩を叩いた。

 ああ、と翠星石は思った。理由が分かったのだ。
自分の隣に今、蒼星石がいる。
「蒼星石…」
「ん?」
 いつもの優しい笑顔がこちらを見ている。
「何でもないです」
 そう言って、翠星石は微笑んだ。


66: 2008/09/20(土) 22:43:36.77 ID:sCjAEuwY0

「まぁまぁ翠星石ちゃん、戻ってきてくれてたのね~」
 玄関先で、制服姿ののりが抱きついてきた。
「いえ、翠星石こそ、ごめんなさいですぅ、勝手に飛び出したりなんかして」
「いいのよいいのよぅ、あ~んお姉ちゃん感激!!」
「はは」
 のりの肩に手を回し、翠星石は嬉しそうに目を閉じた。
「また翠星石とお遊び出来るのー!ヒナ嬉しいなの!」
「はは」
 雛苺と蒼星石がそれぞれ笑った。


67: 2008/09/20(土) 22:46:46.89 ID:sCjAEuwY0

「じゃあ、お姉ちゃん、今日は頑張って、ぷりぷりハートのオムライス作るわね!」
 リビングの向こうにのりが消え、雛苺と蒼星石も後に続く。
「ジュン、ちょっと」
「ん?」
 翠星石がリビングのドアに手を掛けた後ろで、真紅がジュンを促した。
翠星石が振り返ると、ジュンが真紅を抱っこして、階段を上がっていくのが見える。

「……」
 二人が2階に消えたのを確認し、翠星石はこっそりと後を追った。


69: 2008/09/20(土) 22:53:58.24 ID:sCjAEuwY0


「良かったじゃない」
 部屋に入った所で、真紅が口を開く。
「ん?」
「翠星石、別に怒ってなかったみたいだし」
「ああ」
 真紅をベッドに降ろすジュン。真紅が肩をぎゅうっと掴んでくる。
「よっ…と。もう大丈夫だぞ」
「ええ」
 隣に座ると、真紅がこちらを見上げてきた。


70: 2008/09/20(土) 22:56:16.84 ID:sCjAEuwY0

「でも、正直驚いたな」
 仰向けにベッドに倒れ込むジュン。
「翠星石があんなに素直に謝ってくるなんて」
「そうね、でもどうしてだか分かる?」
「え」
 ジュンが声を上げると、真紅が左手をジュンの太ももに置き、こちらを
見つめてきた。
「蒼星石がいたからよ、きっと」
「蒼星石が?」
「ええ」
 半身を起こしたジュンを真紅が見上げる。
「ジュン」
「ん……うわっ!?」
 ジュンは驚いて声を上げた。真紅が膝の上に乗ってきたのだ。

72: 2008/09/20(土) 23:01:08.90 ID:sCjAEuwY0

「何?」
「い、いや…」
「あの子たちは、双子だもの。二人で一緒にいると、きっと気分的に楽なのかしら。
 安心してるように見えるのよ、私」
 ジュンの胸に身体を預け、深く息を吐く真紅。
「……」
「雛苺もそうよ」
「ん?」
「あの子もよく笑うようになったし、キチンと人に謝るようになったわ」
「…まあ、確かにそうだな」
 真紅を撫でながら、ふう、とジュンは息を吐く。
「本当はね、皆とても弱いのよ」
「…え?」
 思わず真紅の顔を覗きこむジュン。
「人は、誰かを背負って生きていけるほど、頑丈に清廉には作られていないの」
 視線に気づいた真紅はちらりとこちらを見て、また少し視線を落とした。
「でも、人は独りでは生きていけない。
 だから支え合い、助け合う。傷を舐め合う。私たちもそう」
「……」


73: 2008/09/20(土) 23:09:50.64 ID:sCjAEuwY0

「たとえば水銀燈だって、幾らあの子が強がったって、あの子だって
独りで生きていけるほど強くはないのよ。それでも強がっていると、
そのうち人は大事なものを見失ってしまうわ」
「…」
 真紅を撫でる手が止まる。
「本当はね、独りでも生きていけるくらいの、強靭な精神があった方がいいのかもしれないわ。
でもね、そうなれば、本当に独りになってしまう」
「…」

「私はね、ジュン」 
 真紅がジュンの手を取り、指を絡ませてゆく。
「誰かが情けないって蔑んだっていい、私は弱くていいから、
 雛苺や翠星石たちと一緒に過ごしていたい」
「真紅…」

78: 2008/09/20(土) 23:19:48.69 ID:sCjAEuwY0

「人はね、独りになってしまうと、鬱屈した負のオーラが溢れだして、
 周囲を無意識に、かつ意図的に傷つけたり、遠ざけてしまうのよ。
 そういうものなの」
「…僕の事か?」
「貴方も当てはまるのかもしれないわね」
「……」
「そういう風に、人は作られているのよ。のりも、巴も。
 私たち人形も。そうして誰かを傷つけて、初めて精神の安定を得られる、
 とても醜い生き物なのよ」


79: 2008/09/20(土) 23:23:27.36 ID:sCjAEuwY0

「そうしてますます独りになっていって、いつかもう取り返しがつかない所に来た時、
 人は初めて、自分のどうしようもない過ちに気づくの。その後どうなるか分かるかしら」
「…どうなるんだよ」
 ぎゅっとジュンの手のひらを握り締める真紅。
「そうね、まともな精神構造をしている人間は、まず世界から消える事を選ぼうとする。
 でもね、そう簡単に命を絶つ事は出来ない」
「…」
「出来る人もいる。けれど大半は氏ねないのよ。結構丈夫に出来てるのよ。
 私たちも、貴方たちも」
「…」
 ジュンは壁に背中を預け、真紅の手を思わず握り返す。
「雛苺に勝った時、私は彼女からローザミスティカを奪う事をしなかった。
 だからまだあの子は笑っているし、泣いたりもする。でも、いつかは私たちも、ただの
 お人形に還らなければならない」


80: 2008/09/20(土) 23:26:38.46 ID:sCjAEuwY0

「真紅」
「あっ…ちょっと」
 思わず真紅を抱き上げ、撫で始めるジュン。
「あんまりそんな事言うなよ」
「…ごめんなさい。でもね…ひょっとしたら、私はあの子を生かす事で、絶望に目を瞑り、
 耳を塞いで逃げているだけかもしれない」
「……」
「ね、ジュン」
 ふと、こちらを見上げる視線に気づくジュン。
「ん?」
「そういう考えが頭に浮かんだ時、私、どうしてると思う?」

83: 2008/09/20(土) 23:32:54.37 ID:sCjAEuwY0

「……さあ」
「こうしてね」
「えっ…あ」
 ジュンの首筋に頬をすり寄せ、幸せそうに目を閉じる真紅。
「貴方に抱っこしてもらってるのよ」
「…」
「貴方の腕に抱かれて、こうして首筋に頬をすり寄せて目を閉じるとね、とても気持ちいいのよ。
 そのまま貴方に全てをあげてしまいたい気分になるわ。
 ジュンに私をあげるわ。私の事全部、好きにしていいからって」
「か、からかうのは止せよ」
「ふふ」
 ジュンの顔が赤くなっている。
「おかしな事を言うな、とか思ったでしょう。でも、そういう気分になるのよ。
 私は両手を伸ばして、貴方の目を見つめるの。そうしたら、抱っこして
 もらえるから」
「し、真紅…」
「抱っこしてもらったら、私はまたしばらく、『これでいいのよ、私のやり方は
 間違っちゃいないわ』って思えるの」


86: 2008/09/20(土) 23:41:05.04 ID:sCjAEuwY0




 ジュンが頬を染め、真紅が何事か囁いて悪戯っぽく笑っているのが見える。

「……」
 ドアの隙間から覗いていた翠星石の左手が、小さく震えている。
翠星石は思わず胸を押さえた。もやもやしたものが、喉元から胸にかけて
急に現れ、膨らみ始めている。
 じんわりとした温かさとは違い、焼けぼっくいを突っ込まれたような
気持ちの悪い熱さを感じ、翠星石は小さく、浅い呼吸を繰り返した。

 同時に、このドアの隙間から見える二人が、何かとても高くて遠い所に
位置しているように見え、翠星石はずるずるとその場にへたり込んだ。


126: 2008/09/21(日) 10:30:58.53 ID:Zu9LE9+M0


「そろそろ下に行きましょう」
 真紅がそう呟いた時には、外はオレンジと黒の夕闇が混ざり、徐々にセルリアンブルーが
西の空に広がってきていた。
「ああ。…ん?」
「どうしたの?」
 部屋のドアがキィ、キィと揺れている。
「おかしいな。何でドアが開いてるんだ」
「……」
 真紅は窓の外をちらっと見やった。
 秋に差し掛かってきたからだろうか。外の闇が、じわりと部屋に染み込んできているような
気がする。


127: 2008/09/21(日) 10:42:12.08 ID:Zu9LE9+M0






「…え…もう、こんな…時間…」
 ソファから起き上がり、時計を見て翠星石は目を丸くした。
時計の針は23時30分。
 オレンジの豆電球だけが、テレビや戸棚のシルエットを淋しく浮き上がらせ、
誰もいないリビングは、しんと静まり返っている。
「……私…ひとり…?皆、寝ちゃったですか…?」
 換気扇が回る音すらしない。
 無音。

 翠星石は思わず肘を抱え、ぶるっと身体を震わせる。
 つい先程まで、白色の蛍光灯が明々とついていた。真紅がくんくんを真剣に
観ていて、のりと雛苺の喋る声が響いていたはずだ。
 そして自分の隣には、ジュンが座っていてくれた。


128: 2008/09/21(日) 10:50:14.48 ID:Zu9LE9+M0

「や…」
 言い知れぬ寒気が身体を硬直させ、翠星石はソファの上から動けないでいた。
自分はこれから、真っ暗な廊下に出て、階段を上り、部屋の鞄に入って眠らなければならない。
 
 ふと、何かが聞こえた。
「…?な、何です今の…」
 きょろきょろと部屋の中を見回す翠星石。
「……す…せ…」
 今度ははっきり聞こえた。
「だ、誰…?」


「 す い せ い せ き 」

 

131: 2008/09/21(日) 10:59:27.18 ID:Zu9LE9+M0
 息を呑んだまま、ぞくりと背筋に悪寒が走った。

 誰かいる。
「ひ…」
 次の瞬間、しゅるっとスカートに何かが巻きついた。
「あっ、きゃあっ!?」
 白いいばらがぞわぞわと床から這い出し、絡みついてくる。
「やっ、やぁですぅっ、スィドリームッ、助けて、助けてっ!」
 翠星石はぎゅっと目を瞑り、無我夢中で叫んだ。

132: 2008/09/21(日) 11:07:07.53 ID:Zu9LE9+M0


「はっ!!!」
 バタンと鞄を開けると、そこはいつものジュンの部屋だった。
「あ…?」
 息を整えて周りを見回す。自分の他に、鞄が二つ。その向こう、ベッドが膨れ上がっている。
「ゆ…夢…ですか…」
 目の前で、スィドリームがチカチカ光っている。
「お前が、助けてくれたのですね…」
 翠星石はほっと胸を撫で下ろし、壁際に座り込む。
「…」
 外が白んできていたとはいえ、まだ夜明けというには早過ぎたが、
何となく眠る気になれなかった。


133: 2008/09/21(日) 11:11:53.43 ID:Zu9LE9+M0






「こんにちはー」
 蒼星石はこの日、特別何かがあって、桜田家を訪れたわけではなかった。
何となく、あの感受性の強い姉が心配だったのだ。

「あら、蒼星石ちゃん!」
「こんにちは、翠星石起きてますか?」
 出迎えののりに軽く会釈をする。
「それがねぇ」
「?」
「ご飯いらないって、部屋から出てこないのよぅ。どうしたのかしら」
「え」
 のりが心配そうに2階を見やった。


135: 2008/09/21(日) 11:17:42.87 ID:Zu9LE9+M0

「翠星石」
 ガチャリとドアを開けると、ベッドの上、壁際に寄り掛かるようにして、
翠星石が膝を抱えていた。
「どうしたの…」
 翠星石がやつれた眼差しでこちらを見る。
「……」
 まるで昨日、ひとりで庭園にいた時のように、目に光が感じられない。


136: 2008/09/21(日) 11:22:39.44 ID:Zu9LE9+M0

「眠れなかったの?」
 ベッドによじ登り、隣に座って、翠星石の頭を撫で続ける。
「……」
 翠星石は答えない。
「何かイヤな事でもあったの?」
「…」
 翠星石が蒼星石の裾をつかんだ。
「ん」
 それを見て蒼星石は撫でるのをやめ、翠星石に寄り添うようにして
座り込む。
「大丈夫だよ、僕はここにいるからさ」
「…怖い夢を見たですぅ」
 翠星石が、消え入りそうな声で口を開いた。


137: 2008/09/21(日) 11:27:43.09 ID:Zu9LE9+M0

「白いいばら?」
「…ですぅ」
「…そう、怖かったね翠星石…」
 言いながら頭を撫でる。
「大丈夫だよ、翠星石。僕がいるじゃないか。万一僕がいなくても、真紅や
 ジュン君もいるし、気軽に相談したらいいよ」
 翠星石の目が吊り上がる。
「…だから、何かあったら言って。抱え込む事ないよ、翠星石」
「……」
 蒼星石はそこで手を止める。
 翠星石はそれから、一言も発さなかった。


138: 2008/09/21(日) 11:30:33.88 ID:Zu9LE9+M0

「……」
 夜、時計屋の2階で、蒼星石はじっと腕組みをしていた。

 翠星石が不安定になっている。
「昨日何かあったのかな…」

 ジュンに謝った時、確かに翠星石は安らいだ表情をしていた。
だが、今日になってあの状態である。

 見た夢というのも気になっていた。
 自分たちローゼンメイデンにとって、眠りは大切なものである。


139: 2008/09/21(日) 11:35:42.51 ID:Zu9LE9+M0

 過去のマスターたちとの記憶を辿り、繰り返し、傷を癒すための行為。
だが、何かに侵蝕されるような夢は見た事がない。

「……」

 白いいばら。
 何か、引っ掛かるものがあった。

「こんばんはぁ、蒼星石ぃ」

 だが、思考はそこで中断した。



 振り返った蒼星石の数メートル先。 鏡の中から、水銀燈が
現れた。
「何の用だい?」
 言いながら鋏を構える。
「ちょっとねぇ、取引しにきたのよぉ」
 水銀燈は切れ長の眼を更に細め、下卑た笑い声を発した。


143: 2008/09/21(日) 11:47:25.73 ID:Zu9LE9+M0


「ジュン、スコーンが焼き上がったですよぅ」
「ん、おお」
 匂いにつられ、ジュンが台所に近づいてくる。
「へえ、うまく焼けたじゃないか」
「とーぜんですぅ。今日はちゃんと食べるですよ」
「分かってるよ」

 そうして、ジュンが踵を返した直後だった。
「あっ」
 翠星石の手が滑り、オーブンから出したばかりの鉄板が
ジュンの足元に落ちた。


145: 2008/09/21(日) 11:51:37.57 ID:Zu9LE9+M0

「きゃあっ!?」
「うわああっ!?」
 ガランガランという音と共にスコーンが飛び散り、その向こうで
ジュンが足を押さえ、悶えている。
「どうしたの!!」
「ジュ、ジュン…!しっかりするです!ごめんなさいです!」
 おろおろする翠星石を押しのけ、のりと真紅が連携して
氷を持ち出し、足に押し当てた。
「ジュン君、大丈夫?」
「早くお風呂場にいくのよ!」
 火傷したのだ、と、混乱する頭で翠星石は理解した。


147: 2008/09/21(日) 12:05:19.42 ID:Zu9LE9+M0

「真紅ちゃん、氷、袋に入れて持ってきて!」
 浴室からのりが叫んでいる。
「分かったわ。ちょっと、そこどいて頂戴、翠星石!!」
 立ち尽くす翠星石を押しのける真紅。
弾みで、翠星石は壁に頭を打った。

「い、痛いです、何するですか!」
 真紅はそれを無視して、ばたばたと浴室に走っていった。
「……」
 すれ違う瞬間身体が当たり、翠星石はよろよろと廊下に倒れ込んだ。
「わ、私は…」
 閉められた洗面所のドアを、翠星石はしばらく
呆けたように見つめた。


148: 2008/09/21(日) 12:10:41.49 ID:Zu9LE9+M0

「ジュン!!」
 目の前を、雛苺がぱたぱたと駆けていく。
「ひ、ひな…」
 雛苺が、ドアを引く一瞬だけ、こちらを見た。
 それは怒りでも悲しみでもなく、何か、違う生き物を見るような、
そんな眼差しのように、翠星石には思えた。

154: 2008/09/21(日) 12:59:56.00 ID:Zu9LE9+M0
「うっ…」

 翠星石は思わず頭を抱え、小さく呻いた。

 だめだ、と思った。
「う……あ……」
 いやいやをするように首を振る。
「うあああああ」
 翠星石は不意に立ち上がり、そのまま玄関を飛び出した。





「あら?あれは?」
 夕闇のかすかなオレンジが消える頃、日課の散歩をしていた金糸雀が、
どこかへ飛んでいく、その翠星石の姿を見つけた。



158: 2008/09/21(日) 13:07:04.86 ID:Zu9LE9+M0

「翠星石ー」
 聞こえているのかいないのか、翠星石はぎゅっと目を瞑り、どこかへ
一直線に飛んでいっているようだった。
「泣いてる…?」
 まさか、と思った。
 そうこうしている内に、翠星石の姿がどんどん小さくなっていく。
「……ピチカート、ちょっとお願いがあるかしら」
 金糸雀は人工精霊に何事か伝え、翠星石が消えた方角に飛び立った。


160: 2008/09/21(日) 13:13:53.08 ID:Zu9LE9+M0




「いつからそんなややこしい真似するようになったの、君は?」
 鋏を構えたまま、じりじりと距離を取る蒼星石。
 水銀燈はじっとそれを見つめているが、臨戦態勢は取ろうとしなかった。
「…」
 蒼星石はそれを少し不思議に感じる。
 このタイミングで、何を仕掛けてこようというのか。
何を考えているのか。
 その視線の流れ、表情から、何とか情報を読み取ろうとする。

「さっさと話しなよ。取引って何さ、水銀燈」
「…そろそろアリスゲームを始めても、いいんじゃないかしらと思ってねぇ」
 蒼星石の動きが止まる。
「…勝手に始めればいいじゃないか。違うかい?」
「ええ、そのつもりよぉ。でもね」
「……」
「私一人じゃあ、真紅たちなんて一度に相手出来ないからぁ」
 ふふ、と口元だけが歪む。
「私と手を組まない?っていう話よぉ、蒼星石」


163: 2008/09/21(日) 13:20:47.10 ID:Zu9LE9+M0

「嫌だよ」
 蒼星石は即答した。
「でしょうねぇ。どうせ反射的にそういうと思ってたわぁ」
「じゃあ帰れば?」
「ふふ」
 水銀燈はイラつく様子もなく、不気味に微笑んでいる。
「ね、蒼星石」
「何」
「一つ訊いておきたいのだけれど、貴女アリスゲームなんて
 どうでもいい、お父様なんて会えなくてもいい、って思ってるわけじゃ
 ないわよねぇ?」
 水銀燈が一歩だけ足を踏み出した。
 蒼星石の目が見開かれる。

165: 2008/09/21(日) 13:28:05.03 ID:Zu9LE9+M0

「そんな事はないよ」
「あらそう。じゃあ、ちょっとだけでも私のお話、聞いてってもらえないかしら」
「断る」
 蒼星石は水銀燈を睨んだまま、窓に手を掛ける。
それを見て、やれやれと言った風に、大袈裟に両手を上げる水銀燈。
「別にあんたに不利益な事しようってんじゃないわよ。
 あんたにも得な話なのよ。もしお父様に会う気が少しでもあるのなら、
 聞いてって頂戴よ。ね」
「………」
 沈黙。
「ああ、もう、分かった、分かったわよぉ、これならいいでしょう」
 水銀燈は遂に大きなため息をつき、その場に座り込んだ。
「な……」
 眼を丸くする蒼星石。
「少しでも不快に感じたなら、私のローザミスティカ奪っていいわよぉ。
 こうして座ってればいいでしょ?ね、あんたの方が有利じゃない」

「……」
 蒼星石は構えていた鋏を下ろし、窓際に座り込んだ。

167: 2008/09/21(日) 13:39:18.02 ID:Zu9LE9+M0


「真紅たちが?」
「ええ」
 蒼星石は一瞬驚くが、頭をかいてすぐに睨み返す。
「ずうっと真紅たちの様子を見てたらねぇ、びっくりしたわぁ、
 真紅がマスターと抱き合ってて、翠星石はそれを偶然だけど、
 覗き見ちゃったのよぉ。かっわいそう、あはは」
「……」
「あら、面白くなかったかしら?」
「いや、君も充分悪趣味だと思ってね」
「何よその言い草。せっかく人が、あんたの大事な大事な
 双子の姉の、悩みの原因を教えてあげたってのに」
「……」
「まあいいわ、続けるわよぉ。結局あの子、あの家に居場所が
 なかったって事よねぇ」
「……」
 大袈裟に身振り手振りで説明する水銀燈。だが、視線は、蒼星石の
わずかな変化も見逃さない。

170: 2008/09/21(日) 13:48:32.75 ID:Zu9LE9+M0

「だから何?」
 蒼星石の右手が、とんとんと音を立て始めた。
「あんた、翠星石に幸せになってほしい?」
「……」
 蒼星石は視線を外さない。
「答えないって事は、なって欲しくないのねぇ」
「……」
「あーあ、翠星石が信じてきた双子の愛情は、結局上辺だけの
 シロモノでした。あはは、可愛そうにねぇ」
「……」
 蒼星石が一瞬目を泳がせる。
 水銀燈の目つきが鋭くなる。
「嘘よ。本当は幸せになってもらいたいんでしょう。
 あんた優しいもの」
 あやすような猫なで声。
「…そりゃ、そうだよ。でもね」
「じゃあどうすればあの子が幸せになれるか、考えましょうよ。
 いや」
 水銀燈がずいっと蒼星石に近寄った。
「どうすればいいか、答えは簡単よね、聡明な貴女なら、ねぇ?」

175: 2008/09/21(日) 13:56:22.93 ID:Zu9LE9+M0

「……」
 蒼星石は唇を噛む。
 丁度目と鼻の先で、第1ドールが下から覗き込むようにして
こちらを見つめている。
 いや、違う。
「真紅たちを…倒せって言うのかい?」
「…っふふ、賢いじゃない。えらいわよぉ」
 まずいと思った。
「翠星石はあのマスターの事が好きなんでしょうね、きっと。
 なら、あの子は結局どこにも逃げられない。あのマスターの
 元でしか、幸せになれない。分かってるんでしょ、あんたも」
「……」
 窓に掛けた手が動かない。これだけ近寄られたら、後ろを見せるわけには
いかない。だが、それだけではない。


「どっちを選ぶのかしら、真紅か、翠星石か」
 意地の悪い質問をするものだ、と、観念した表情で蒼星石は思った。

179: 2008/09/21(日) 14:03:10.76 ID:Zu9LE9+M0


「分かったよ…」
 息苦しそうに眉間に皺をよせ、蒼星石は絞り出すように答えた。
「あら、そうぉ、うふふ」
 満足したように水銀燈は笑い、ゆらりと蒼星石の鋏に手を掛ける。
「いい鋏持ってるじゃないの、頑張ってもらわないとねぇ」
「ああ、だけど水銀燈」
「何かしらぁ」
「今、その翠星石は不安定なんだ。精神的に。昨日も変な夢を見て、
 眠れてない」
「……変な夢、ですって?」
「ああ」

184: 2008/09/21(日) 14:14:01.47 ID:Zu9LE9+M0
「それなのに、今、真紅たちと闘ったりしたら、翠星石の心が持たないんだ。だから」
「はぁーあ、馬鹿じゃないのあんた」
「何だよ…」
「バッカねぇ、言うまいと思ってたけど、あんた翠星石と一緒にいるなら、お父様には
 会えないのよ?絶対に」
「……」
「だったら、心なんて壊れてくれた方がいいじゃない。どうせ最後は私もあんたも
 奪い合うのよ。同じよ、あんたと翠星石も、いつかは奪い合うのよ」
「…何が言いたいんだよ」
 鋏から、蒼星石が震えているのが伝わってきた。

186: 2008/09/21(日) 14:19:37.07 ID:Zu9LE9+M0


「『蒼星石、大好きですぅ、ずっと一緒ですぅ』って言ってる背中を、コレで突き刺す
 覚悟があるのなら何も言わないけどぉ、どうなのかしら」
「……」
「どっちがいいかの話だけよ、私がしてるのは。翠星石が精神崩壊してる時に、
 ローザミスティカなんて奪っちゃった方がいいじゃないのって話をしてるのよ!」
 語気を強める水銀燈。
「う……う……」
 蒼星石が頭を押さえる。
 そしてその隙に、水銀燈は窓の外に視線を送る。

 そこには、泣き顔の翠星石が窓を開けようとしたまま、硬直していた。




187: 2008/09/21(日) 14:21:44.73 ID:Zu9LE9+M0

 翠星石が顔をくしゃくしゃにして飛び去るまで、ものの数秒の出来事だった。

 それを確認した後で、水銀燈は蒼星石の肩に手を掛ける。
「…酷い事言って悪かったわ。あの子は貴女にとって、大切な姉ですものね」
「………」
「でも、私たちはそういう運命なのよ。選ぶしか方法はないの。
 何を切り捨てるか。何を守るか」
 ふと、水銀燈の脳裏に浮かぶものがあった。
「私にだって、守りたいものがあるのよ。蒼星石。貴女と同じでね」
「………君と一緒にするな」
 蒼星石の声が震えている。
「時間をあげるわ」
 水銀燈は蒼星石から離れ、鏡の傍で振り返る。
「どうするか、キチンと選びなさい。私は選んだわ」
「……」
 水銀燈は、自分でも驚くほどの優しい声に戸惑いながらも、
内心はほくそ笑みながら、鏡の向こうに消えた。



「………」
 蒼星石はそのまま、しばらく動けなかった。

190: 2008/09/21(日) 14:38:19.14 ID:Zu9LE9+M0

「あああああああっ、ああああっ、あ゛あ゛ あ゛っ」

 ざしゅっ、ざしゅっ、と、草が飛び散る。

 翠星石が如雨露を思い切り振り抜くと、その度に、
赤、黄色のチューリップが宙に舞い、足元に落ちた。
「あ゛あ゛っ、うっうがあああああっ」
 彼女の絶叫が、nのフィールドに響き渡る。
涙で霞む視界の隅で、護ってきた草花が幾度も潰れ、舞う。

「痛ッあ゛」
 不意に激痛が走り、翠星石は右手を押さえる。
柵に肘が当たったのだ。ドレスが破れ、右腕にヒビが入っている。


192: 2008/09/21(日) 14:42:45.42 ID:Zu9LE9+M0


「う……う………ぅ……」

 翠星石はぐらりとその場に倒れ込み、何度も涙を拭う。
視界の隅に、先端の折れた如雨露が転がっている。

 ふと、蒼星石の顔が浮かぶ。
「あ、あ、あ、ああああああああ」
 再び彼女の甲高い声が響いた。
 翠星石は何かを拒絶するかのように、狂ったように泣き叫んだ。
喉が焼けるように熱くなったが、構わなかった。



193: 2008/09/21(日) 14:45:58.39 ID:Zu9LE9+M0

 どれくらい泣き続けただろうか。

「……」
 翠星石はリンゴの木に寄り添うようにして、荒れきった庭園を眺めた。
視界の隅で、スィドリームが悲しそうに何度も瞬く。
「…」
 頭が何だかぼうっとしていたが、そのままいっそ、消えてしまいたいとさえ
思った。
「……は」
 潰れかけた喉から声が漏れる。

「はは、はは、あははははははははひひひひ」
 肩を震わせながら、翠星石は自嘲気味に笑った。


195: 2008/09/21(日) 14:54:48.64 ID:Zu9LE9+M0

「もうどっこも帰る場所なんてないですぅ、翠星石」
 言いながら、涙がじわりと滲む。
「もういいです、もういいです、どうせ翠星石はローザミスティカ奪われて氏ぬんです」
 脳裏に、再び蒼星石の顔が浮かぶ。
「あーーーーうざいですうざいです、もういいですこんな」
 頭をガン、ガン、と木に打ちつける。




 ふと、何かが視界の隅で蠢くのが見えた。

「あ……?」
 よろよろと立ち上がり、それに近づいていく翠星石。

「あっ」
 庭園に咲いていた白薔薇だと気づいた時、それは突然翠星石を覆うようにして
膨れ上がった。


197: 2008/09/21(日) 14:59:44.24 ID:Zu9LE9+M0

「あ、な、何、何ですこれ…?」
 上手く回らない頭で、懸命に状況を理解しようとする。
「こんにちは、翠薔薇のお姉様」
 薔薇の花の中から声が聞こえた。


 花が光り始め、中から白い人形が出現した。
「え…だ、誰…です…?」
「氏にたいのですか、お姉様」
「え」
「私はローゼンメイデン第7ドール、雪華綺晶」
 翠星石は目を丸くする。
「お姉様の淋しさ、私、分かりますわ」
「え……」
 雪華綺晶は呆気にとられている翠星石の頬を優しく包み、
そしてキスをした。



200: 2008/09/21(日) 15:05:18.50 ID:Zu9LE9+M0

 翠星石は最初、自分が何をされたのか、分からなかった。
ぼこん、と音を立てた右腕から、白いイバラが生えているのを視認して、
ようやく状況を理解し始めた。

「な、何するです…これ…あ、あ」
 喉を突き破るようにして、身体の内部からイバラが次々と生えてきていた。
「可哀想に、マスターにも、大事な双子の妹にも裏切られて…」
「や、やめてです、あ」
 ぼこっ、ぼこっ、と身体が振動する度に、何か感覚がマヒしていく。
「これからは、私がずうっと、一緒にいてあげますから」
「や、翠星石は、うっ」
 膝ががくんと崩れ落ちた。


201: 2008/09/21(日) 15:08:22.23 ID:Zu9LE9+M0


「う、あ、あ」
 ぼこんと音がして、右の眼球が飛び出るのが見えた。
「……」
「や、やぁ、です…あっ」
 必氏に身体を起こそうとする。
 雪華綺晶と名乗ったドールが、微笑みながら、自分を見ている。
もうすぐ終わってしまう、自分を。
 転がっている右目を拾おうとしているのか、翠星石の右手がかすかに動いた。
「……」
 残った左眼から涙が滲んでいる。 
「助けて…」 
 苦しそうに一瞬目を見開き、かしゃんと音を立てて、翠星石が前のめりに倒れる。
「そ…」
 かすれた声が漏れた後、翠星石はすぐに動かなくなった。








204: 2008/09/21(日) 15:26:28.40 ID:Zu9LE9+M0

「……」
 蒼星石は眠る事もせず、ぼうっと鏡を見つめていた。

 水銀燈は敵だ。真紅や金糸雀も、状況が変われば敵になるかもしれない。
だが、翠星石の顔を思い浮かべると、どうしても心がその思考回路を遮断する。

「翠星石………」
 今、翠星石はどうしているのだろう。淋しさに負けて、独りで泣いているのかもしれない。
感受性の強い翠星石は、ふと何かに傷つけられた時に、その傷を無視して
生活する事が出来ない。
 翠星石に限って言えば、ついた傷はなかなか塞がらない。
 それは自分自身もそうだった。姉妹の中で双子という事もあり、
特別依存し合って生きてきた関係。
 水銀燈や真紅は、いざという時切り捨てるべきものをキチンと把握している。
だから強いのだろう。
 ふう、と息を吐いた。
「弱いな、僕たちは…」

207: 2008/09/21(日) 15:32:30.46 ID:Zu9LE9+M0

 蒼星石は、これは逃げかもしれないと思った。
水銀燈の言う通りで、選ぶしか方法はない。
 大団円なんてあり得ないし、そもそも互いを切り捨てるために、
自分たちは存在しているのだ。

「……」
 どう考えればいいのか分からなかった。
ふとした瞬間に、翠星石すらももう放っておいた方がいいかも、とも
思ったが、その度蒼星石は腕を鋏で打ちつけた。

 お父様に会うか、翠星石と一緒に過ごすか。

――――――

 
 コンコン、と音がして、蒼星石の思考は中断した。
「こんばんはーかしらー」
 金糸雀だった。

247: 2008/09/21(日) 19:32:59.66 ID:VadSVMjy0

「どうしたの」
 窓を開けると、金糸雀がひらりと部屋に降りた。
「翠星石が来なかったかしら?」
「え」
 蒼星石は一瞬わけが分からない。
「どういう事だい?」
 

250: 2008/09/21(日) 19:35:42.54 ID:VadSVMjy0
ごめんちょ

252: 2008/09/21(日) 19:39:10.66 ID:VadSVMjy0
何でか知らんけど変わってるんだ

253: 2008/09/21(日) 19:41:56.68 ID:VadSVMjy0






「翠星石が!?」
 同じ頃、真紅と雛苺は、ピチカートからその情報を聞いていた。
「どうして…」
「何だ何だ?」
 患部に氷袋を当てたジュンが声を掛ける。
「翠星石が、泣きながらどこかに飛んでいったらしいの」
「え」
「何でなの?」
 表情を曇らせる真紅とは対照的に、雛苺とジュンは、どこか
事態が呑み込めない、といった様子である。

256: 2008/09/21(日) 19:53:11.26 ID:VadSVMjy0


「……」
「ジュン」
 真紅が口を開く。
「ど、どうした…?」
「私、探してくるから、ここで待ってて頂戴。戻ってくるかもしれない」
「…何でだよ、どうせ蒼星石の所じゃないのか」
「だったら蒼星石から何か連絡があるはずでしょう」
 睨む真紅。
「…真紅」
「ごめんなさい、でも、何か嫌な予感がするの」
 そう言うや否や、真紅は鏡の部屋へと向かった。



257: 2008/09/21(日) 19:56:53.42 ID:VadSVMjy0



「この扉でいいのよねぇ、メイメイ」
 
 水銀燈は、nのフィールドのある扉を開けようとしていた。
姉妹の気配を探り、人工精霊に探索させる事で、翠星石らしき
ドールの居場所は簡単に分かった。

「…ここは」
 空が灰色に濁っている。
「庭園…?」
 水銀燈は慎重に歩を進める。もうすぐローザミスティカを手に入れられる。
翠星石など、精神的に弱らせる事で簡単に始末出来る。
 そう考え、水銀燈はターゲットをまず絞ったつもりだった。


260: 2008/09/21(日) 20:00:50.94 ID:VadSVMjy0

「もうすぐ、もうすぐよ、めぐ…」
 地面に散らばった草花を踏み潰しながら、気配を探る。
「それにしても…」
 何か違和感を覚える。白い霧に覆われ、花壇は荒れ放題荒れている。
こんな場所に、本当に翠星石がいるのだろうか。
「―――こんばんは」
 びくっと身体を引きつらせる。

「だ、誰?」
 翠星石の声ではない。水銀燈はきょろきょろと周囲を見回す。
「ここですわ」
 そこからはほんの数秒の出来事だった。
 白いイバラが地面から這い出し、水銀燈の動きを止める。
振り払う間に、後ろから何かが水銀燈の肩にまとわりついてくる。
「このっ…!」
 反射的に、水銀燈は思い切り羽ばたいた。
まとわりついていたイバラが細切れになり、その直後、白い人形が
目の前、数メートル先に降り立った。


262: 2008/09/21(日) 20:07:21.31 ID:VadSVMjy0


「あんた…」
「ふふ」

 怪しく微笑む目の前の人形。水銀燈は瞬時に
状況を理解した。
「初めましてお姉様」
「…7番目ね?」
「ええ」
 笑みを浮かべたままの即答。
「ふん…」
 水銀燈は彼女を睨みつける。

 が。

 心の中で、しまった、という思いが渦巻いていた。




264: 2008/09/21(日) 20:15:15.29 ID:VadSVMjy0
 
「待って!蒼星石、どこに行くの!」
 鏡を抜けて、nのフィールドを飛び続ける蒼星石を、
金糸雀は懸命に追いかける。
「…!」
 答えようともせず、蒼星石は一直線にある方向を目指していた。
「翠星石……!」

 蒼星石の心の中、もやもやがどんどん大きくなっていく。
「蒼星石!!」
 その時、別の方向から、自分を呼ぶ声がした。
「!?」
 声のした方角から、紅い人形が近付いてくる。
「あれは…!!」
 鋏を持つ手に、ぎゅっと力が込められた。
 


267: 2008/09/21(日) 20:22:40.34 ID:VadSVMjy0

「蒼星石!」
「真紅…」

「良かったわ…」
 目の前でほっとした表情を見せる真紅。蒼星石は、何か
心に引っ掛かりを覚える。
「ね、翠星石知らない?探してるのよ」
「ああ、僕も探してるんだよ」
 視界の隅、自分を見た金糸雀の表情が、一瞬強張るのが
分かる。
「真紅」
「…何?」
 自分でも、何か驚くほど静かな声だった。
「金糸雀がさ」
「…?」
「翠星石が泣きながらどこかに飛んでったって」
「…ええ」
「言ってたんだけどさ」
「……」
 鋏を持つ手がかすかに動く。
 真紅が一瞬それを見やる。
「何かあったのかな?」
 胸の奥のチリチリとした感覚が、次第に熱を帯びてきているのが分かった。


270: 2008/09/21(日) 20:28:04.56 ID:VadSVMjy0



 スコーンのくだりを話している真紅は、何か非常に言い訳がましく思えた。

 その眼は鋏を見たり、蒼星石の右肩の辺りに動いたり、落ち着きがなく、
見る者を多少なりとも不快にさせる、何かがあった。
「…でもね、私」
「もういいよ真紅」
 低く、感情のこもらない声。
 真紅はその声で、ようやく理解したらしかった。

「…ごめんなさい」
 胸を押さえ、視線を落とし気味に呟く真紅。

 多分、真紅は、翠星石が見た夢の事など知らないのだろう。
そこで翠星石が相談しているようなら、こんな事態にはなっていない。


272: 2008/09/21(日) 20:31:18.73 ID:VadSVMjy0


 真紅を責めるつもりはない。
「……」
 ただ、双子の姉は淋しい思いをした。

 何か、何か許せなかった。
「真紅」
 鋏を握りしめ、蒼星石は口を開く。
「僕さ、心当たりがあるんだ、翠星石の行きそうな場所」
「…え?」
 
「きっと、翠星石はそこにいる」
「そ、そう、良かったわ!」
 安心したように笑う真紅。
「でもね真紅」
「…何?」
 蒼星石は唇を噛みしめる。
「………」
「…どうしたの?」

「…いや、何でもないよ、急ごう」
 

279: 2008/09/21(日) 20:58:59.81 ID:VadSVMjy0

「くっ……!!っっっあ゛ぁっ!!」

 絡めとられた左手も構わず、水銀燈は思い切り身体を捻り、
羽根を飛ばす。

 反動で大きく身体が捻じれ、ブチブチという音と共に、左腕に
激痛が走る。

「ちっ」
 バランスを崩した雪華綺晶に黒い雨が襲いかかる。
やむを得ず両腕でガードするも、右肩から腕、足にかけて
黒い羽根が無数に突き刺さった。
「痛っ…」
 水銀燈がくるくると回転しながら、リンゴの木へと激突するのが
見えた。


283: 2008/09/21(日) 21:06:29.39 ID:VadSVMjy0

 振動で木の葉が舞い、倒れ込んだ水銀燈に降り注ぐ。

 雪華綺晶はこの隙を逃さない。
 損傷のない左手からイバラを出現させ、水銀燈目掛けて
発射する。

 水銀燈は顔を上げ、絶叫する。

「メイメイッ」
 
 雪華綺晶の目の前に発光体が現れたかと思うと、
次の瞬間眩くきらめいた。

「きゃああぁぁあ」
 目が眩み、思わず両手で顔を押さえる。

 水銀燈は立ち上がろうとしたが、激痛が全身に走り、べしゃっと
その場に再び倒れ込む。
「ぐっ…!」
 雪華綺晶はまだ目を押さえている。この機を逃すわけにはいかない。
「……」
 睨む水銀燈の右手に、剣が出現した。


287: 2008/09/21(日) 21:14:56.44 ID:VadSVMjy0


「おあぁぁあっ」
 雪華綺晶目掛けて、その剣を思い切り放った。
 
 それは雪華綺晶の右腕を正確に捕え、潰れるような音と共に
腕が宙を舞った。


「ふ」
 再び立ち上がろうとするも、足に力が入らない。
「な、何…!ぐ…!」
 水銀燈は足に目をやる。
 左足、そして翼が折れていた。



289: 2008/09/21(日) 21:20:52.99 ID:VadSVMjy0


 右腕のない雪華綺晶が立ち上がり、こちらへゆっくりと歩いてくるのを、
水銀燈はただ見ている事しか出来なかった。

 にやりと笑ったまま、全身からぞわぞわとイバラが這い出してくる
その様子はおぞましく、思わず寒気が走った。

 
 どつっという音がして、水銀燈は両眼を見開いた。
「終わりです、黒薔薇のお姉様」
 自分の胸を貫いているイバラを見ようと、水銀燈の眼が動き、
そのまま事切れた。



298: 2008/09/21(日) 21:33:22.20 ID:VadSVMjy0

 水銀燈の身体が光り始め、ピンク色の宝石が出現する。
「ふふ、これで3つ目…」
 ローザミスティカが雪華綺晶の中に吸い込まれ、安堵のため息をつく。

「…」
 雪華綺晶は扉に目をやった。

「誰か…来る……」
 ふと、水銀燈の周囲を飛ぶメイメイに気づく。
「……そうだわ」
 

302: 2008/09/21(日) 21:47:18.67 ID:VadSVMjy0


「なあ、雛苺」
「うゆ…?」

 桜田家。
 時計の針が22時を指す頃、ジュンはぼんやりと
口を開いた。
「…どうしたの?」
 抱っこされた状態で目をこすりながら、雛苺が見上げてくる。
「眠いなら寝ろよ。疲れてるだろうし」
「いいの、ヒナ眠くないの」
 少しうつむき、ジュンの両手に、自らの手を重ねる雛苺。
「…そうか」
 そう言ってふああ、と欠伸をする。
 雛苺はその音を聴き、顔を上げる。
「ジュン」
「…ん?」
「ちょっと待っててなの」
 

304: 2008/09/21(日) 21:54:31.53 ID:VadSVMjy0

 ととと、と駆けだしていく雛苺を見て、ジュンは何事かと思ったが、
台所から持ってきたものを見てなるほど、と納得した。
「ヒナの分、ジュンにあげるの」
 差し出されたのは、今日翠星石がぶち撒けたスコーンだった。

「どう、美味しい?」
「ん」
 一つ平らげたジュンを見て、雛苺はえへへ、と笑った。
「良かったの」
「ああ」
「翠星石ね、今日いっしょけんめいに作ってたのよ。ヒナ見てたもん」


306: 2008/09/21(日) 21:55:20.30 ID:VadSVMjy0
>>303書きためあるけど、ちょこちょこ直しながら投下してるなの

308: 2008/09/21(日) 22:01:16.94 ID:VadSVMjy0

「……」
 ジュンはふと、謝った時の笑顔を思い出す。
「ジュン、あのね」
「ん?」
 テーブルの上のスコーンを見つめ、雛苺は少し
うつむいた。
「ヒナね、すごく今自分の事イヤになってるの」
「…え」
「今日翠星石ね、廊下に座り込んでたの。ジュンがやけど
しちゃった時」
「……」
「ヒナもよくジュンを怒らせてたから分かるのよ。自分のせいで
真紅やジュンがすごくイヤな気分になってるの。
そういう時、ヒナ、お外に出たくなくなるのよ」


312: 2008/09/21(日) 22:07:10.63 ID:VadSVMjy0

「……」
「でも、そういう時、ジュンはよく『いいよ、気にしないで』って、
ヒナをなでてくれてたわ」
「……」
「そしたらね、すごくほっとするのよ。元気でるの」
「雛苺…」
「きっと、今日、翠星石もイヤな気分になっちゃってたの、でも」
「……」
「ヒナは翠星石に何も言わなかったわ」
 雛苺の声が震えている。
「ヒナすごくイヤな子なの。翠星石のおそばにいてあげなかったの」
「……」
「ヒナ…」
 もう一度目をこする。
「雛苺…」
「謝りたいの…翠星石に…」
 鼻をすすり、雛苺は何度も目をこすった後、顔を覆う。
しばらくの後、小さな嗚咽が漏れ始めた。

313: 2008/09/21(日) 22:15:33.97 ID:VadSVMjy0

「う…うぇ…えっ…」
「雛苺」
 ジュンは雛苺を抱き上げ、何度も頭を撫でてやった。
 
「……」
 ジュンは今更になって、翠星石の笑顔を思い出していた。
 悪態をつきながらも、ビニール袋に包んだスコーンを
持ってきてくれた事がある。
 自分が塞ぎ込んだ時、手作りのクッキーを一番最初に
持ってきてくれたのは翠星石だ。

 そうだ。

 どうして忘れていたんだろう、と思った。

 違う。自分を見守る小さな瞳に気づいていなかった。
与えられる事に慣れ、自分は何も与えてやれないでいたのだ。


316: 2008/09/21(日) 22:19:55.28 ID:VadSVMjy0


 翠星石は、真紅や雛苺とは違う。
 ずっと蒼星石と二人で生きてきた。

 その翠星石が初めて蒼星石と離れて暮らしているのだ。

 自分がもし今、姉やこの家から強制的に引き離され、
「どこか適当な場所で一人で暮らしてくれ」と言われたら
どうするだろう。
 孤独に耐えられるだろうか。
 まして、知らない土地で、他人の家に住まう事になったら
どうだろう。


 自分が学校に対し、感じているものと同じではないのか。

疎外感。


318: 2008/09/21(日) 22:22:26.43 ID:VadSVMjy0


 翠星石は気を遣っていた。お菓子作りを覚え、
溶け込もうとした。

 ここが自分の正しい居場所である、と、信じ込もうとした。

 結局、自分がそれに気付いてやれなかった事で、翠星石は
どこかへ行ってしまった。

「翠星石…」
 雛苺を抱く手に、力をこめる。


 


321: 2008/09/21(日) 22:30:35.19 ID:VadSVMjy0

「あっ」
 先を行く蒼星石が声を上げる。
「どうしたのかしら、蒼星石?」
 横から尋ねる金糸雀。
「スィドリーム!」
「えっ」
 正面に見える扉の前で緑色の光がチカチカと
点滅している。

「どうしたんだいスィドリーム」
 蒼星石が事情を聞いている。


323: 2008/09/21(日) 22:34:40.77 ID:VadSVMjy0

「……」
 金糸雀はふと、隣の真紅に目をやった。
表情が暗い。
 いや、暗いだけではない。何か戸惑っているような、
引きずっているような淀んだ目の色。
「真紅」
 真紅が顔を上げる。
「…あっ」
「大丈夫よ、貴女がそんなカオしてちゃダメかしら」
 ぽんぽん、と頭を叩いてやると、真紅は不思議そうに
金糸雀を見つめてきた。
「二人とも」
 蒼星石が振り向いた。
「翠星石はこの中にいるって。でも、水銀燈と闘って、
 怪我してるって」
 蒼星石がうつむき、二人は思わず息を呑んだ。



325: 2008/09/21(日) 22:42:39.45 ID:VadSVMjy0

「翠星石!!!」
 扉を開けた先、蒼星石はまず目を見開いた。

 二人が愛した庭園は草花が飛び散り、柵が何本か折れていた。

 視界の隅、リンゴの木の下で、翼の折れた水銀燈が倒れている。
「……」
 その左。
「す、翠星石…」
 右腕のない翠星石が、ゆっくりとこちらを向いた。



328: 2008/09/21(日) 22:47:05.03 ID:VadSVMjy0

「蒼星石…?」
 透きとおるような高い声。
「翠星石」
「来てくれたのですね…」
 そう呟いて、翠星石は微笑んだ。
「え…」
「翠星石!!」
 一瞬立ち止まった蒼星石を尻目に、真紅が駆け寄る。
「真紅…」
「ごめんなさい翠星石、私」
 頭を下げる真紅。
「…いいですよ真紅、もう」
 しゃがみ込み、下から覗き込むようにして真紅を見やる。



334: 2008/09/21(日) 23:04:16.45 ID:VadSVMjy0

「でも、私は、私たちは翠星石、貴女に酷い事をしたのよ」
 真紅は、その笑顔をまともに見られない。
「分かってるです。真紅」
「え…」
 翠星石はそう言って、真紅の肩に手を置く。


「良かったかしら…」
 目をこする金糸雀。
「……」
 その隣。蒼星石は、翠星石と真紅ではなく、天を睨んで停止している、
水銀燈を見つめていた。
「……翠星石」
「?」
 ふと金糸雀が、その蒼星石の視線の先に気づく。
「水銀燈…可哀想かしら…」
「金糸雀、ちょっと話がある」


336: 2008/09/21(日) 23:11:43.94 ID:VadSVMjy0

「真紅…」
「何?」
 きょとんとした表情で、真紅は翠星石の目を見つめる。
「翠星石は、つらかったですよ。ずっと」
「え?」
「最初真紅たちの所へ来て、翠星石は全然馴染めなかったです」
「…」
 真紅は思わず目を逸らす。
「ご、ごめんなさい…」
「お菓子作っても、何しても、蒼星石みたいに喜んでくれるわけでもないですし」
「そ、そんな事…」
「覚えてるですか?真紅。昨日の事」
「昨日?」
「ジュンと真紅が、嬉しそうにベッドの上でお話してたの、見てたですよ」
「あ…」
「本当は、翠星石は凄く淋しかったです。ジュンをやけどさせた時も、
 真紅に突き飛ばされて、雛苺に無視されて」
「……」
「蒼星石」
 不意に名前を呼ばれ、蒼星石は顔を上げる。


340: 2008/09/21(日) 23:25:13.03 ID:VadSVMjy0



「今日、水銀燈と何話してたです?」
「え」
 蒼星石が目を見開く。
「翠星石は聞いてたです。今日、淋しくて淋しくて、
 お前の所に行ったです」
「……」
 金糸雀が、一瞬わけが分からないという風にきょろきょろする。
「き、聞いてたって」
「いいですよ、もう、何も言わなくていいです」
「……」
「ど、どうしたの…」
 真紅が振り返った。
「…」
 蒼星石がうつむき、金糸雀が思わず蒼星石の顔を覗き込む。

 そしてその一瞬を、雪華綺晶は逃さなかった。

343: 2008/09/21(日) 23:39:49.51 ID:VadSVMjy0

「あ゛っ」
 くぐもった声が聞こえ、蒼星石が顔を上げる。
 真紅の首の辺りから何かが生えていた。そう思った瞬間、突如
世界が空転し、蒼星石は前のめりに倒れ込んだ。
「わああっ!?」
 何が起きたのか分からず、顔を上げた蒼星石の目に、
漆黒の巨大な翼が映る。
無表情の翠星石の前で、真紅が不自然な崩れ方をした。
「翠星…」
 次の瞬間、羽根が無数に放たれた。
「っ!!」
 

 顔はかろうじてガード出来たものの、激痛が走り、右手がだらんと
垂れ下がる。
「す、翠星石…」
「や、やめるかしら…うっ…」
 自分の少し後ろで、金糸雀の声が聞こえた。生きている。

346: 2008/09/21(日) 23:48:16.90 ID:VadSVMjy0

「翠星石…」
 動く左手で身体を起こし、蒼星石は姉を見上げた。
「翠星石は結局独りだったですよ、蒼星石」
「…」
 見開かれる蒼星石の目。
「お前が、私の事を『それなりに』大事に思ってくれてるのは分かってたです。
 それは嬉しかったです。でも」
「…」
「お前は結局、迷ってしまったです。真面目で純粋なフリして、
 でも最後は水銀燈の誘いに乗ってしまおうとした」
「ち、違うよ、聞いて…」
「翠星石が怖い夢を見ても」
「……」
「『何かあったら言って』って何です?何なんですぅ?
 何か言わなけりゃ僕は関係ないよってなツラですかぁ?」
 あはは、と笑う翠星石。
「…ち、違うんだ、違う、違う」



349: 2008/09/21(日) 23:53:16.66 ID:VadSVMjy0

「それじゃ、翠星石は誰にも気づいてもらえないですか?
 自分で『翠星石はとても怖い夢を見たですぅ、だから一晩だけ
 一緒にいてなでなでして欲しいですぅ』とか言わなけりゃ
 お前は知らぬ存ぜぬで通してたわけですか」
「……」
 蒼星石は何も言えなかった。
「お前は所詮、そこに転がってる真紅とおんなじですぅ。
 損得でしか動かない、偽善者です」
 ガン、と真紅の脇腹を蹴る翠星石。
「う…」
 真紅が小さく呻いた。
「翠星石はお前のそういう、真面目なフリして、その実単に視野が狭くて、
 周りが傷ついても気づかないフリしてるのが、凄く嫌いです」
「…あ…あ」
「真紅たちと一緒にいても、いつも身体のどこかが寒くて、
 でもお前がそういう性格だから相談も出来ず」


355: 2008/09/21(日) 23:59:32.93 ID:VadSVMjy0

 ずるりと白いイバラが、翠星石の身体から這い出している。
「ほら、お前のせいで、真紅や金糸雀まで傷ついてるです。
 そんな妹とは、もう一緒にいたくないです」

 蒼星石は恐怖を覚えた。目の前にいる翠星石。

 優しかった翠星石。
 自分が塞ぎ込んでいると、必ず、落ち着くまで傍にいてくれた、第3ドール。
 双子の姉。
 何が起こっているのか、よく理解出来なかったが、蒼星石はひとつだけ
分かっている事があった。

 それは、優しい姉を失くしてしまったのは、自分のせいだという事。



「やめろっ!!!翠星石!!!」


379: 2008/09/22(月) 00:33:55.86 ID:eiiH7Zk50
「!?」
 その声に振り向く蒼星石。
「翠星石!やめてなの!」
 雛苺の声。
 
 一瞬の隙をついて、翠星石の身体に苺わだちが巻きついていく。
「あっ」
「ジュン、今なのよ!」
「ああ、真紅!」
「う……」
 ジュンと真紅の指輪が光り始め、真紅の身体がまばゆく光る。

480: 2008/09/22(月) 22:09:49.36 ID:d3c2WKMj0

「……」
 蒼星石は、立ち上がった真紅が一方的に、自分の姉を追い詰めて
いくのを見つめていた。

 水銀燈のローザミスティカを手に入れているとはいえ、右腕のない
翠星石よりは、オプション付きの真紅の方が、上らしかった。
「翠星石…」

「今よっ!!」
「うあっ」
 ホーリエの目くらましに翠星石が一瞬怯み、その隙に雛苺が
翠星石の足元を縛り、転倒させる。

 間髪入れず左腕を蹴り上げ、支えを失くした翠星石が
二、三回転し、柵に激突した。

「う……」
「ごめんなさい翠星石。でも少し大人しくしてもらうわ」
 苦悶する翠星石を、真紅は冷たい眼差しで見下ろした。


484: 2008/09/22(月) 22:16:30.74 ID:d3c2WKMj0

「大丈夫か蒼星石、金糸雀」
「僕は大丈夫…」
 まだ頭がぼうっとする。

「どうして?」
 真紅が振り返り、わけが分からないといった風にジュンを見つめる。
「ピチカートに頼んだのよ」
 雛苺に助け起こされた金糸雀が答える。
「ピチカートに?でも、どうして…」
「…それは、蒼星石が…」
 言いながら蒼星石を見やる金糸雀。
「……」
 蒼星石はうつむいたまま、黙っている。


485: 2008/09/22(月) 22:21:01.68 ID:d3c2WKMj0

「ちょっと、気になった事があったんだ。ジュン君」
「ん」
 うつむいたまま、蒼星石が何事かジュンに耳打ちしている。
「え…」
 ジュンは目を丸くしたが、蒼星石に促され、頭をかきながら
真紅と翠星石に近づいてくる。
「?どうしたの?」
 きょとんとする真紅。
「……」
 翠星石は無表情のまま、近づいてくるジュンを見つめている。


487: 2008/09/22(月) 22:27:16.93 ID:d3c2WKMj0

「真紅、左手を出してくれ」
「?ええ」
 言われた通りにする真紅。
「……」
 ジュンが左手を絡ませると、重ねた指輪が赤く光る。
「ジュン君が真紅に力を送ってるかしら」
「……」
 蒼星石はぎゅっと両肘を抱える。
「?どうしたの、蒼星石…」
 雛苺が心配そうに顔を覗き込む。
「じゃあ、次だ、翠星石」
「……」
 翠星石は微動だにしない。


489: 2008/09/22(月) 22:35:26.84 ID:d3c2WKMj0

「翠星石、左手を出してくれ」
「……」
「??」
 状況が呑み込めない真紅。左手を出そうとしない翠星石。

「何なのかしら?一体」
「……」
 蒼星石はその場に立ち尽くしたまま、ぼんやりと翠星石を見つめている。

 ふと、翠星石と目が合った。
「…」
 が、ほんの少しかち合っただけで、翠星石はすぐに視線を逸らす。
それが引き金になった。


490: 2008/09/22(月) 22:39:05.71 ID:d3c2WKMj0

「翠星石」
 蒼星石が立ち上がり、3人に近づいていく。
 胸の奥が熱い。何かに呑まれそうな熱さに、蒼星石は思わず
喉を鳴らした。
「君は違う」
「……」
 真紅とジュンが蒼星石の方に視線を送る。
「僕、分かるんだ、翠星石」
「…」
「僕の双子の姉は、隣で水銀燈が倒れているのに笑ったりしない」
 声が震えている。

495: 2008/09/22(月) 22:55:05.84 ID:d3c2WKMj0

「それ以上動かないで」
 蒼星石の足が止まる。
「え」
 真紅とジュンが翠星石に目をやる。
「すっ…翠星…石…」
 その声に振り向く二人。
 唯一、蒼星石だけは翠星石から視線を逸らさない。
「…か、金糸雀、雛苺…!」
 地面からおぞましい量のイバラが伸び、金糸雀と雛苺が
囚われていた。
「あら、蒼星石。貴女は振り向かないの」
 翠星石の声とは違う、艶っぽく、それでいて幼さの残る声。

496: 2008/09/22(月) 23:01:41.11 ID:d3c2WKMj0

「……」
「そう、残念」
 蒼星石が目を見開く。
 翠星石の姿が、白いもやになって消えてゆく。
「……!!」
 その下から現れたのは、薄くピンクがかった髪、真っ白な
ドレス、そして金色に光る隻眼。
「これじゃ不意打ち出来ないですぅ」
「君は…」
「そう、お察しの通りですわ、蒼薔薇のお姉様。

 私はローゼンメイデン第7ドール、雪華綺晶」

 ニィ、と口元が歪んだ。


502: 2008/09/22(月) 23:13:58.16 ID:d3c2WKMj0

「金糸雀たちを放しなさい!」
 真紅が叫ぶ。
「あああぁぁぁああぁあっっ!!」
 それと同時に絶叫がこだまする。
「…何!?」
「痛い、痛いなの、うあ、あぁ、痛い、ジュン、真紅」
 雛苺の声だった。両足がない。
「な…!」
「次は首ですわ」
 雪華綺晶の澄んだ声が響く。
「や、やめなさい」
「動かなければ」
「……」
「…雪華綺晶」
 ふと、蒼星石が口を開いた。


505: 2008/09/22(月) 23:22:39.38 ID:d3c2WKMj0

「何でしょう」
「…さっきスィドリームがいた。ここに翠星石がいると言った」
「そうですわ。私上手でしょう?人工精霊の扱い」
「……翠星石のローザミスティカを奪ったのかい?」
 尋ねながら、この余裕は何だろうか、と考えた。
 何故か、そんな自分に嫌悪が沸き上がる。
 
「答える必要はありませんわ」
「……そうかい」
「ふざけないで!!」
 立ち尽くしたまま、真紅が怒鳴る。
「翠星石を返しなさい!」
 

509: 2008/09/22(月) 23:36:40.79 ID:d3c2WKMj0

 真紅が何事か叫び続けている。

「……」
 蒼星石は、何だかここにいる自分は、本当の自分ではないんじゃないか、
と思えてきた。
 姉は奪われた。なのに、心は雪華綺晶の隙を探そうとばかりしている。

 何してるんだよ、どうして怒らないの。
 それとも、彼女の言った通り、本当に大事でも何でもなかったから、
失っても何とも思わないのかい、蒼星石。

 何か、とても嫌で嫌でたまらなかった。


512: 2008/09/22(月) 23:42:00.62 ID:d3c2WKMj0

『あんたと翠星石も、いつかは奪い合うのよ』
 水銀燈に言われた事が、また顔をひょっこりと出してきた。

『翠星石が精神崩壊してる時に、ローザミスティカなんて
 奪っちゃった方がいいじゃない』
 
 多分、そうなんだろうな、と蒼星石は思った。
自分はきっと、こうなる事を望んでいたのかもしれない。

 違う気もする。
 だが、水銀燈の言葉を否定出来るか、と言われて、
反射的に首を振る事すら出来ない自分がいる。


「ん……」
 ふと、視界の隅でチカチカと何かが光っているのが見えた。
「あれ、レンピカ…」
 青い光が、緑色の光と共に、こちらへ近づいてくる。
「…」
 スィドリームが、蒼星石の胸に触れた。


523: 2008/09/22(月) 23:54:11.84 ID:d3c2WKMj0


「あっ…」
 瞬間、蒼星石の頭に何かが流れ込んできた。

 翠星石が泣いている。

 家の中、自分の背中と、こちらを見る水銀燈が映る。

「え…」
 場面が切り替わり、薔薇の花が宙に舞うのが見える。
絶叫と共に、何度も草花が千切れ飛んだ。

 翠星石だ。

 翠星石が泣いているのだ。

 あの高い声がより一層甲高く響き、それはすぐにしゃがれた音へと
変わる。


527: 2008/09/23(火) 00:00:11.23 ID:DX7I04zV0

「あっ」
 柵に右腕が当たり、如雨露が折れて、先端がくるくると舞った。

 倒れ込んだ翠星石の右腕にヒビが入り、やがて翠星石は自嘲気味に、
否、狂ったように笑い始めた。

「あ…」
 涙を流しながら、翠星石は低く、どこまでも笑い続ける。
「や、やめて、翠星石、翠星石」
 スィドリームが見た記憶だ、というのは分かっていた。

 
 白い薔薇が現れた。

 それは顔を上げた翠星石を覆い隠すようにして膨れ上がり、
その中から白い人形、雪華綺晶が現れた。


533: 2008/09/23(火) 00:08:46.98 ID:DX7I04zV0
 

「どうしたのです?もう言いたい事は終わりですか?」

「……!」
 真紅はそこから動けない。雛苺や金糸雀を犠牲にして、
雪華綺晶を叩く、それは出来なかった。

「翠星石…」
 蒼星石が呟く。
「?」
「そこにいるの…?」
 蒼星石はスィドリームを手のひらに乗せ、雪華綺晶を見やった。
「……」
 小さく鼻をすすり、肩を震わせる。
 
 全てが理解出来たのだ。

547: 2008/09/23(火) 00:28:07.94 ID:DX7I04zV0



「ごめんね翠星石」
 不意に蒼星石は鋏を放り捨てる。
「え」
 雪華綺晶と真紅が、同時に目を丸くする。
「僕のせいで」
「…動きましたね、お姉さ」
「いいよ別に、僕には関係ない」
「え、あ」
 驚く雪華綺晶の前にしゃがみ込み、蒼星石は
雪華綺晶の左手を、自分の頬に触れさせた。


549: 2008/09/23(火) 00:31:57.30 ID:DX7I04zV0

「これ、翠星石の手なんでしょ」
「あ」
「僕は本当は翠星石、君の事を大切に思ってなかったのかもしれない。
よく分からないんだ。
 あのね、君の言う通りなんだと思うよ」
「…」
「僕はきっと、とても心が狭いんだ。だから君は最後に、こんな悲しい
記憶を残して、行ってしまった」
「うっ、あ…」
 後ろで、金糸雀の苦悶の声が聞こえる。
「でもね、ひとつだけ分かってほしい」
「…そ、蒼星石」
「僕は君がいなくなって淋しかった。君が真紅たちの所に行ってしまって」
「…下らない」
「それは本当なんだ。ひとりでじっと膝を抱えて、うずくまっている時、
君にあやしてもらいたかった」
「……」
「こうして、このこめかみの辺りから、こうして撫でて…」
 既に機能を失っている雪華綺晶の手を握り、頬に這わせる。

「あ、あ、あ、あああ」
「…?」
 蒼星石が異変に気づく。
 雪華綺晶が突然眉間に皺を寄せ、苦しみ始めたのだ。


551: 2008/09/23(火) 00:38:02.43 ID:DX7I04zV0

「な、何…」
 金糸雀の首を絞めていたイバラがほどけ、バサバサと音を立てて
地面に落ちる。

「これは…」
 真紅は戸惑いを隠せない。

「う、うあ、うああぁあ」
 雪華綺晶が痙攣し始めた。
「…?」
「何だか分からないけど今よっ!蒼星石!金糸雀!」
 言葉が終わらない内に、真紅が薔薇の花びらを飛ばし始める。
「まさか…」
 蒼星石は目の前の雪華綺晶を見つめ、その左手を握りしめている。


553: 2008/09/23(火) 00:47:07.50 ID:DX7I04zV0
 
「蒼星石!」
 背後から声がして、カランカランと鋏が目の前に投げられた。
「早くするかしら!今がチャンスよ!」
 バイオリンを構えた金糸雀が叫ぶ。

「…く…」
 雪華綺晶の呼吸が落ち着いてきた。
「翠星石…」
「………」
「そうか、翠星石、分かったよ…」
 鋏を持ち、振りかぶる。


「ごめんね」

 蒼星石は目を瞑る事もなく、その両手を思い切り振り抜いた。




558: 2008/09/23(火) 00:59:26.17 ID:DX7I04zV0

 水銀燈が目を覚ました時、真紅と金糸雀、そして蒼星石が周りを囲んでいた。

「…え?…何?」
 雪華綺晶と闘い、足と翼が折れた所までは憶えている。

「どうやら大丈夫ね」
 真紅がため息をついた。
「……」
 ふと、視界の隅に、何かが転がっているのが見える。

 手、足、胴体、眼球と髪の毛のない頭部。
「蒼星石に感謝なさい、水銀燈」
 バラバラの、素体だった。


563: 2008/09/23(火) 01:07:28.16 ID:DX7I04zV0

 病室に戻ると、めぐはいつものように、静かに眠っていた。
「……」
 水銀燈は、自分の胸に手を当てる。

 今、水銀燈の身体の中には、ローザミスティカが二つある、と真紅が
言っていた。

 ひとつは自分のもの、そしてもうひとつは、自分が闘った、雪華綺晶のもの。

『貴女のマスターに使ってあげなさい』
 真紅は少しうつむき加減のまま、あまり喋ろうとはしなかった。

 だが、自分は負けたのだ、という事は理解していた。
雪華綺晶に負け、それをあの3人が倒したのだろう、とも思った。


565: 2008/09/23(火) 01:09:36.01 ID:DX7I04zV0

「めぐ…」
 めぐの左手と自分の手を重ね合わせ、指輪が紫色に光る。
「ん……」
 めぐがかすかに喘いだ。
 それを見て、水銀燈は安堵のため息をつく。
「めぐ」
 目を閉じる水銀燈。
「もう少しだけ、一緒にいましょう。ね」
 そう言って、水銀燈は窓の外を見やる。

 青い空に、白い雲がまばらに漂っている。
「……」

 真紅との会話を、少しずつ思い出す。


567: 2008/09/23(火) 01:17:08.16 ID:DX7I04zV0

「ローザミスティカが欲しいんでしょう」

 半身を起こした水銀燈に、真紅はすぐに話しかけてきた。
「…そりゃ欲しいわよ、何」
「ここに雪華綺晶のローザミスティカがあるの、ホーリエ」
 赤い人工精霊がチカチカと飛びまわり、
その中心にローザミスティカが浮かんでいる。
「あげるわ」
「はぁ!?」
「いいのよ、貴女のマスターに使ってあげなさい。でも、その代わり条件があるの」


569: 2008/09/23(火) 01:21:34.64 ID:DX7I04zV0


 真紅は続ける。
「もう、私たちの日常を乱さないで」
「…どういう意味」
「これはお願いよ。私は、いえ、私たちは」
 睨む水銀燈を無視して、真紅はちらりと蒼星石を見やる。
「もう、姉妹が泣いてる顔なんて、見たくないの。
 それで貴女にとっての誰かが幸せになるんなら、それでいいわ。
 私はもう姉妹を失いたくないの」
「…アリスゲームを放棄する気?」
「……」
 真紅はうつむき、そこからは一言も喋らなかった。




570: 2008/09/23(火) 01:26:34.41 ID:DX7I04zV0

「水銀燈…」
 ふと、水銀燈は顔を上げた。
「めぐ…」
「なぁに、この光」
「え」
 ずっと手を握っていたために、指輪が光り続けていたのだ。
「これは…」
「あたたかいわ。何かしらこれ」
「……めぐ」
 めぐはその光を、愛おしそうに見つめている。

「めぐ、ねえ…」
「ん?」
 水銀燈はめぐの手をぎゅうっと握る。
「貴女、この光、好き?」
「…?」
 めぐは一瞬きょとんとするが、すぐに微笑んだ。
「ええ、好きよ」
「そう」
 水銀燈はそれ以上何も言わず、静かに微笑み返した。








573: 2008/09/23(火) 01:36:51.16 ID:DX7I04zV0

「本当にいいの?蒼星石…」
 ジュンの部屋。新聞紙の上に並べられた素体を前に、真紅と金糸雀が
蒼星石を見つめている。
「うん、お願いしたいんだ」
 蒼星石はそう言って微笑む。

「よし、これで直ったぞ」
「ジュン、ありがとうなの…」
 雛苺が、新しくつけてもらった両足をばたつかせ、ジュンに抱きついた。
「わっぷ」
「えへへ」
 蒼星石はそれを見て、「ふふ」と小さく笑った。



574: 2008/09/23(火) 01:42:35.75 ID:DX7I04zV0

 それを見て、真紅はほっとしたように頷いた。

「わかったわ、翠星石を呼び戻す事が出来たら、また貴女に連絡するわ」
「いや、それはいい」
 蒼星石が首を横に振る。
「え?」
「もう、ここには来ないよ、真紅」
「……え?」
 真紅と金糸雀が驚く。
「僕にはとても無理だ。また翠星石と顔を合わせるなんて」
「…何を言ってるの」
「真紅、僕は疲れた。もうそっとしておいて欲しいんだ。せめて」



576: 2008/09/23(火) 01:48:55.68 ID:DX7I04zV0


「な、何言ってるのよ、翠星石は貴女を…」
 金糸雀が口を挟むが、蒼星石はぶんぶんと
首を振る。
「正直ね、翠星石の事で、内心真紅、君や雛苺を責めてたよ、僕は」
「……っ」
 真紅が項垂れ、雛苺がうつむく。
「今は違うよ、全然そんな事思ってないからね。それに」
「…」
「繋いでいた手を離したのは僕なんだよ、真紅、雛苺」
「え…」
 蒼星石は壁にもたれかかり、うつむいたまま、自嘲気味に笑った。
「翠星石は淋しがり屋だから、誰かに手を取ってほしくて」
「……」
「きっと今も、どこかで泣いてると思うんだ」

「蒼星石…」
「だけど、僕は彼女を裏切ってしまった。だから」
「……」
「きっと、翠星石は僕となんて、一緒にいたくないと思うんだ」
「それは違うわ」
「違わないよ、真紅」



578: 2008/09/23(火) 01:56:34.35 ID:DX7I04zV0

「……」
「僕は偽善者だよ。こうやって、傷つけた人から逃げる事しか出来ないのさ」
「何を言うの、やめて」
「君に否定される筋合いはない。君も偽善者だよ真紅」
「蒼星石…」
 うつむいたままでも、目の前の真紅が悲しそうな顔をしているのは
分かっていた。
「正直きついんだ。僕が、翠星石に淋しい思いをさせてしまったっていうのが。
それに、僕は翠星石に鋏を突き立ててしまった」
「やめて、やめて蒼星石…」
 顔を上げる。雛苺が泣きながらこちらを向いていた。
真紅はうつむき、ジュンと金糸雀は、何か言いたげな顔で何度も瞬きしている。
「…だからね」
 蒼星石はそれを見て、何か安堵を覚える。


579: 2008/09/23(火) 02:01:02.72 ID:DX7I04zV0


「どれだけ時間が掛かってもいいから、翠星石を呼び戻してあげてね。
それで、また一緒に過ごしてあげてほしい」
「……」
「…ああ、分かったよ」
 真紅が顔を上げ、ジュンの方を向く。
「ジュン…」
 傍目にも、ジュンが怒っているのが伝わってくる。
「ふふ」
 蒼星石はそんなジュンをからかうように笑う。
「じゃあ、僕はこれで失礼するよ」
「ああ」

 ドアに手を掛け、一度だけ蒼星石が振り向いた。

「今度は、翠星石に淋しい思いをさせないであげてね」






581: 2008/09/23(火) 02:07:32.82 ID:DX7I04zV0

 荒れ果てた庭園。

 散らばった草花が乾き、緑が失われようとしている。


「………」
 リンゴの木の下で、蒼星石はじっと膝を抱えていた。
時おり、右のこめかみから首筋にかけてを
自分で撫でる。

 無意識のうちに、そういう仕草をしてしまっている自分に
少し驚いたが、同時に何か虚しさを覚えていた。

「翠星石…」

 最早笑う事はない。

「僕たちは、最初からアリスになんて、なれなかったのかもしれないね…」

 そう呟いて、蒼星石は目を閉じた。
 言葉を発したり、翠星石の顔が甦るたび、何か胸の奥で、
寄せては返すものがあったが、
その波も次第に小さくなってきていた。


585: 2008/09/23(火) 02:19:37.16 ID:DX7I04zV0

「………」
 

「……」

 蒼星石は、ただ、じっと庭園を見つめていた。

 ここに翠星石がいた。

 同じ髪、同じ瞳、同じ身体。

「翠星石…」

 世界でたった一人の双子の姉だ。昔も、そして今も、
それは変わらない。

「翠星石」

 思い出の中で、翠星石の笑顔が輝いている。
「翠星石」
 熱い。
「翠星石」
 
 蒼星石は思わず膝に顔を沈ませる。
「……淋しいよ…」
 
「翠星石…」

586: 2008/09/23(火) 02:26:34.74 ID:DX7I04zV0


「…蒼星石」
 新聞の上の素体を、真紅とジュンがぼんやりと眺めている。
「…あんなヤツだったのか」
「…」
 真紅がちらっと見上げる。
「…真面目なヤツかと思ってたのにな、何か嫌な気分だな」
「あの子たちは傷つき過ぎた」
 ジュンは思わず真紅を見る。
「それは私たちのせい」
「…」
「ジュン、お話していいかしら」
「…ああ」
「本当は、もっと殊勝に『うん、僕も頑張るよ!』とか、言えば
良かったのかもしれないわ」
「…」
「でもね、そう思うのは、私たちの自己満足でしかない。あの子は
どこかの会社の営業マンじゃないの。そんな下らない表面上だけの言葉なんていらない」


588: 2008/09/23(火) 02:32:59.52 ID:DX7I04zV0

「安っぽいドラマで、『恋人が氏にました。悲しかったけど私は
 大切な事を学びました』ってやってるじゃない」
「…うん」
「私たちなら何かしら。アリスゲームで姉妹を失った悲しみに、
 向き合って打ち勝つとか、そういう綺麗事が求められているの?」
「い、いや」
「綺麗事は、確かに方便として必要よ、ジュン。特に、これから生きていく
 貴方にとってはね」
「…」
「それにね、そんな安っぽいドラマも間違ってるわけじゃないし」
「え?」
「でも、大切な誰かを失えば、人は膝を抱えてうずくまり、壁に寄り掛かって、
 涙が枯れるまで泣くものでしょう。どうしてそれがいけないの?
 そうして他人に醜い八つ当たりをして、傷つけ合いながら、人は成長
 していくのよ」


590: 2008/09/23(火) 02:37:51.00 ID:DX7I04zV0

「本当は蒼星石だって、あんな事言いたくはなかったと思うわ。
 分かるのよ。
 だって私は偽善者ですもの。当たってるわ。あの子と同じ。だからね」
「真紅…」
「でもねジュン」
 立ち上がり、ジュンに向き直る真紅。
「偽善って、人の為の善って書くのよ。こないだテレビでやってたわ。
 誰かのためを思う気持ちよ」
「……」
「私はそこを変えるつもりはないわ。あの子にも」
「…」
 ジュンがうつむく。
「そこだけは変わってほしくない」


 スィドリームが護る翠星石のローザミスティカが、
ほのかに光ったように見えた。


592: 2008/09/23(火) 02:42:04.38 ID:DX7I04zV0


 夕方。

「…ああ、はい、分かりました」
「どうしたの?」
 受話器を置いたジュンに、真紅が話しかける。
「いや、知り合いのドールショップの人に聞いたら、素体があっても、
最低でも何日か掛かるって」
「あら、いいじゃない。貴方が作るより何十倍も早いわよ」
「うるさいな」

 不意に、どたどたと階段を下りてくる音が聞こえた。
「ん?」
 バタンとドアが開く。
「たっ、大変よ!」
 金糸雀だった。



594: 2008/09/23(火) 02:45:54.63 ID:DX7I04zV0


 部屋に駆け込んだ3人の目に、まず雛苺が映る。
「たっ、大変なの…」
 泣きそうになりながらおろおろする雛苺。
「どうしたんだ」
 ジュンが尋ねる。
「す、翠星石のローザミスティカが…」
 恐る恐る指さした方向を見る。
「あっ」
 スィドリーム、ベリーベル、ピチカートの3体が護るそれは、
だんだんと纏う光輪が減り、輝きを失い始めていた。



596: 2008/09/23(火) 02:50:18.99 ID:DX7I04zV0

「これじゃ間に合わない…」
「…翠星石」
 チカ、チカ、と、消え入りそうな翠星石のローザミスティカが、ふわりと
真紅の元へ舞い降りる。
「………」

 






「……そう」
 真紅が一言だけ呟くと、翠星石のローザミスティカがまたふわりと浮き、
家の中を移動し始めた。



599: 2008/09/23(火) 02:57:43.04 ID:DX7I04zV0

 後を追っていくと、どうやら鏡の部屋に向かっているらしかった。

「翠星石…」
 鏡の部屋にたどり着いた真紅たちの前で、ローザミスティカが鏡に吸い込まれ、
すぐに消えた。


「……」


「…お、おい真紅」
「…」
「大丈夫なのか」
「……」

「あなたは…」
 真紅が胸を押さえ、かすれた声で口を開いた。


600: 2008/09/23(火) 03:02:15.46 ID:DX7I04zV0

「私と同じよ」

「?」

「私はね、いつまでも、あの平穏が続くと思った時もあった」
「…」
「でもね、そんなの長くは続かない。いつかは失う時が来る」

「そういう風に、私たちは自分の中の何かを失わないと、
結局何も変われない、とても小さな生き物よ。
私も、あなたも、それは同じ」

「真紅…?」


「けれど、それでいいと思うわ。つらい時は我慢しなくていいの」
 声が震えている。


602: 2008/09/23(火) 03:06:51.84 ID:DX7I04zV0

「八つ当たりしたいならすればいい。鼻水垂らして泣いたって、いいじゃない」

「…」
 雛苺が金糸雀の胸に頬を寄せる。
金糸雀は、雛苺を静かに抱きよせ、何度も撫でる。

「心に残るものがあるなら、引きずったって構わない。
 それが、受け止めるという事でしょう、心から。泣きたい本能に背を
向けるなら、きっと何にもならないと思うの」

「人は泣くわ。泣いて、他人を傷つけて、後悔して。でも、
それがあるからこそ、変われるのよ」

 鼻をすする音が聞こえた。

「あの子も、私も」


603: 2008/09/23(火) 03:13:02.98 ID:DX7I04zV0

「うっ、…うえぇ…」
 雛苺から嗚咽が漏れる。

「ねぇ、もう翠星石、淋しくないよね…」
 金糸雀は何も言わず、雛苺を撫で続ける。

「翠星石…」
 ジュンはしゃがみこみ、真紅の隣で鏡を見つめる。
「貴女は蒼星石にとって、世界にたった一人しかいない、双子の姉なのよ。だから…」
「…」
「だからせめて、蒼星石の前でだけは、お姉さんでいてあげなさい。それだけでいい」
「……」
「貴女はお姉さんなのだから…」



「お行きなさい翠星石。貴女の妹が、待ってるわ」


 真紅の目から、一筋の涙が流れた。





607: 2008/09/23(火) 03:19:20.79 ID:DX7I04zV0



 チョキン、と、蒼星石は鋏を閉じた。

 荒れたとはいえ、まだ庭園には傷つかずに残っていた花もあり、
蒼星石はとりあえずその花を守る事にした。

「こうしてると、何だか翠星石が隣にいるみたいだな…」

 突然、庭園の空がまばゆく光り始めた。

「ん、な、何だ?」
 蒼星石が空を見上げる。

 数秒後、3体の人工精霊に護られたローザミスティカが、
蒼星石の頭上に舞い降りてきた。






610: 2008/09/23(火) 03:25:06.62 ID:DX7I04zV0


「あ、あ、あ…」

 鋏がカランと落ちる。
「ど……して……?」
 自分の胸に、双子の姉のローザミスティカが吸い込まれる。

「何で…これじゃ…もう…」

 身体に、ローザミスティカを得たあたたかさが溢れる。

 蒼星石は膝をつき、声にならない声を上げる。

「す…いせ…せき……すい…せ……」

「……ダメ……だよ…こんな…」

 涙が溢れ出てくる。


612: 2008/09/23(火) 03:35:44.32 ID:DX7I04zV0

「翠星石」
 顔を伏せ、蒼星石は嗚咽を漏らし始める。
「う、う」
 もう、抱き合う事は出来ない。

 頭を撫でてもらう事もない。

「翠星石…」


 ローザミスティカに残された言葉。


『ずぅーっと、ずっと、一緒ですよ…蒼星石…』



 世界でたった一人の双子の姉。

 
 胸を押さえたまま、残された蒼星石は、ずっと泣き続けた。





【完】


616: 2008/09/23(火) 03:53:40.78 ID:KkGDPpoVO
乙!!

引用: 蒼星石「またここに来てたのかい、翠星石…」