171: 2009/09/26(土) 17:57:44.35 ID:Cq93apyd0

第1話 平沢憂


    第2話 中野梓




 憂の戦闘が終わった直後、私達は大きな病院に飛ばされた。
 すぐさま、近くにいた看護師に、怪我人がいると伝えると、
唯先輩の手術が始まった。

 しかし、いつまで待っても、憂は来なかった。

律「コエムシ」

 周囲に私達以外誰もいないことを確認して、

コエムシ「はいはい何ですか。美少女の味方のジェントルマン、
 コエムシですよ」

 ふざけたシルクハットと蝶ネクタイ、口髭の、コエムシが
瞬間移動して現れた。

梓「どうして憂は来ないの?」

コエムシ「ああ……憂さんは、来れるような状況じゃないんですよ」

梓「ふざけないで。唯先輩が手術中だっていうのに……。
 意地悪しないで、早く呼んであげてよ」

コエムシ「そこまで言うなら、仕方ないですねえ。じゃあ、
 憂さんをここに呼びますけど、大騒ぎしないでくださいね」
けいおん!Shuffle 3巻 (まんがタイムKRコミックス)

172: 2009/09/26(土) 18:05:22.24 ID:Cq93apyd0
 次の瞬間、憂が――正確には、憂だったものが現れた。

 憂は、幸福そうな表情で床に寝転がっていた。

 目を開けたままだった。
 瞬きもしていないし、息もしているようには見えない。

 私は、恐る恐る、憂の身体に触れてみた。
 まだ温かい。しかし、鼻の下に指を持っていっても、
息吹を感じなかった。
 憂の腕を掴む。手首から先がだらりと垂れ下がる。

 私は憂の脈を取った。

梓「……氏んでます」

 静かだった。
 女の子ばかりなのだから、誰かが悲鳴を上げてもいい
シーンだったが、誰もが沈黙を守っていた。
 まるで、静かにしていれば憂が生き返るとでもいうように。

梓「……生き返る? そうだ、まだ蘇生できるかもしれない。
 ここは病院だし」

コエムシ「無駄ですよ。絶対に生き返りません」

梓「どうしてそんなことが言えるの?」

コエムシ「これが、ゲームのルールだからですよ。
 あのロボットは、人の生命力で動くのです」

175: 2009/09/26(土) 18:11:39.24 ID:Cq93apyd0
律「生命力で動くってことは――」

コエムシ「一戦闘するかわりに、操縦者の命を奪うのです」

律「マジで?」

コエムシ「残念ですがマジです。そろそろ、憂さんの次の
 パイロットが選ばれてもいい頃なんですけど」




 誰かに 名前を 呼ばれた ような 気が した




梓「もしかして……私?」

コエムシ「おやおや、あなたですか。頑張ってくださいね」

梓「私、氏んじゃうの?」

 氏ぬ。現実感がない。自分とは関係ないことに思える。

コエムシ「最終的にはそうなりますが、その過程で世界を
 救うことができるのです。個人の氏には、たいした意味は
 ありませんよ」

律「いい加減にしろよ! 今すぐ、私達の契約を解け!」

176: 2009/09/26(土) 18:21:06.73 ID:Cq93apyd0
看護師「あなた達、何騒いでるの?」

 律先輩が大声を出すから、看護師が駆けつけてきた。
 そして、床に倒れている憂に気付き、脈を取る。

看護師「先生! 先生!」

 看護師は駆けていった。

澪「コエムシ! 今すぐに憂を元の場所に戻してくれ!」

コエムシ「はいはい」

和「それから、私達も、いったん、どこか安全な場所へ」

コエムシ「では、一時的にロボットのコックピットに戻りますね」

 目の前が暗くなった。

 再び明るくなると、さっきと同じ場所に戻っていた。
 ただし、憂はいなかった。

梓「憂はどうなったの?」

コエムシ「とりあえず、憂さんの自宅に転送しておきました」

梓「駄目だよ。憂の両親は海外だし、唯先輩はあんなことに
 なってるし、憂の家には誰もいないよ……」

コエムシ「このロボットの隙間に隠すこともできますが」

177: 2009/09/26(土) 18:30:42.26 ID:Cq93apyd0
澪「とりあえず、憂のことは唯に任せるしかないだろうな」

律「澪は契約してないんだから、関係ないだろ」

澪「それは……」

コエムシ「喧嘩はいけませんよ、お嬢さん方」

梓「それはさておき、他にも問題はありますよね。
 やっぱり、ムギ先輩に知らせないわけには……」

律「そうだな……。でも、ムギ、耐えられるかな」

澪「それはムギ本人が受け止めることだよ」

梓「それと、もうすぐ朝になっちゃいますけど、
 私達がいないことに家族が気付くかも……」

和「ねえコエムシ。次の戦闘まで、どれくらい
 猶予期間があるの?」

コエムシ「さあ。数日後かもしれませんし、数ヵ月後かも
 しれません」

 随分といい加減なゲームだ。

澪「そんなことより、契約を解くことはできないのか?」

コエムシ「できると思いますか? そんな都合のいい話は
 ありませんよ」

178: 2009/09/26(土) 18:53:20.08 ID:Cq93apyd0
 結局、その日の話し合いは、ろくに何も決まらずに終わった。

 私達は家に帰った。
 もともとは合宿中の予定だったから、今日は昼過ぎまで
寝ることができるだろう。

 憂が氏んだことはショックだったが、昨夜は一睡もして
いなかったので、もう限界だった。

 今日の分の薬を飲むと、私は目を閉じた。


 次の日。
 コエムシに転送してもらって、私は唯先輩のお見舞いに
行った。
 いきなり病室に現れるのは失礼だと思い、病院の近くの
人気のない場所に転送してもらい、そこから歩いて行った。

 受付で聞いた部屋に行くと、平沢唯というネームプレートの
かかった部屋があった。

 ドアは開いていたので、ノックの必要はなかった。

唯「あずにゃん……」

 私の顔を見ると、唯先輩は泣きそうな顔になった。

梓「これ、お見舞いの花です」

 私は買ってきた花束を花瓶に移した。

179: 2009/09/26(土) 18:59:27.05 ID:Cq93apyd0
唯「あずにゃん、来てくれてありがとう」

 唯先輩の目は赤かった。

梓「いえ、遅くなってすみませんでした」

唯「そんなことないよ。来てくれて嬉しい」

 しばらく、私達は無言だった。
 何を話せばいいのか分からなかった。

唯「学園祭は、あずにゃんに任せたからね」

梓「え?」

唯「私、もう歩けないかもしれないから」

 予想していたことではあったが、本人に言われると、
やはりショックだった。

梓「車椅子でも、ギターは弾けますよ」

唯「そうかもしれないけど……病院じゃ練習できないし」

梓「そうですよね……。あの、憂は――」

唯「憂は、別の病院に入院してるんだよね?」

梓「え……?」

181: 2009/09/26(土) 19:16:57.34 ID:Cq93apyd0
唯「午前中に澪ちゃんとりっちゃんが来て、教えて
 くれたんだよ」

梓「そうだったんですか」

 入院しただなんて――どうしてそんな嘘をつく
のだろう。いつかは本当のことを知るのだ。
 早く真実を知った方が、回復も早いのに。

 そう思いながらも、私にも、憂は氏んだと言うことは
できなかった。

梓「でも、唯先輩、身の回りのこととか、大丈夫ですか?」

唯「それはコエムシがやってくれるから」

梓「そうですか……。じゃあ、お元気で」

 私は家に戻った。
 これでは、何をしに行ったのか分からない。
 台所に行くと、テーブルの上にメモが置いてあった。

『出かけてきます。夕方には戻ります。父より』

 メールではなく、わざわざ書置きを残すということは――。

 嫌な予感がして、私は自分の部屋に戻った。
 お金を隠しておいた教科書を開く。
 やっぱり、思ったとおりだった。
 お金は盗まれていた。

182: 2009/09/26(土) 19:23:16.48 ID:Cq93apyd0
 私は家を飛び出し、自転車に乗り、駅前の
パチOコ屋へ急いだ。
 一応、制服ではなく私服なので、追い出される
ことはないだろう。
 平日の昼間だというのに、いい年をしたおじさん
おばさんがパチOコを打っている。
 煙草の臭いに、鼻が曲がりそうになる。

 その中に、私は父を見つけた。

梓「お父さん……」

父「おお、梓か。見ろ! 今日はこんなに
 買ったんだぞ!」

梓「そういう問題じゃないでしょ。もうパチOコは
 やめるって、お母さんや私と約束したじゃない」

父「しかし、今日は勝てる予感がしたんだ。
 実際、こんなに儲かったし」

梓「たまに勝ったからって、長い目で見れば損を
 しているのは、分かってるんでしょ?」

父「しかし――」

梓「私のお金、盗んだでしょ。あれは、合宿の
 交通費として預金から降ろしておいたお金
 だったのに」

183: 2009/09/26(土) 19:29:58.34 ID:Cq93apyd0
父「利子をつけて返すさ」

梓「じゃあ、今すぐ帰ろうよ」

 私は父の手を引っ張った。

父「馬鹿! やめろ! せっかく確変がきそう
 だったのに!」

 父は私の手を強く叩いた。

梓「お父さんは、病気なんだよ。パチOコ依存症
 っていう、病気。またお医者さんに診てもらおうよ」

父「うるさいなあ。子供は帰れ!」

 やはり、私が言ったくらいでは駄目なのだろうか。
 仕方なく、私は一旦パチOコ屋を出ると、母に
メールを送った。
 しばらく待ったが、返信は返ってこなかった。

 私は溜め息をついた。
 きっと、母も、もう諦めているのだろう。

 せっかく進学した高校だったけど、授業料を滞納
し続けているので、やめないといけないかもしれない。

 唯先輩は私に学園祭を託したけど、その前に、
私は夜逃げしているかもしれない。
 どうしてうちは、こんなんなのだろう。

186: 2009/09/26(土) 19:49:50.61 ID:Cq93apyd0
 パチOコにハマっている人間には、何を言っても
無駄なのだ。

どれだけ説明しても、無駄なのだ。

梓「はぁ。何か、疲れちゃった」

 私は家に戻ると、大切なギターを手にした。

 私は小学四年生のときから、ジャズバンドをやっていた
両親の影響で、ギターを学んでいた。

 本当は、プロになりたかった。
 プロのミュージシャンになって、世界に羽ばたきたかった。
 実際、その夢が叶いそうになったときもあった。
 その夢を潰したのは、父だった。

 父がパチOコで作った多額の借金と、その返済のために、
ヤクザと関係を持ってしまったこと。
 プロデビューの直前の素行調査で、そのことを知られ、
私は審査対象から外されてしまった。



187: 2009/09/26(土) 19:57:00.59 ID:Cq93apyd0
 守りたいものなんか、何もない。

 パチOコばかりやっていて、もうジャズバンドも
仕事もやめてしまった父。
 借金取りが会社に押しかけてきたことをきっかけに
退職せざるを得なくなり、それ以来水商売をやっている母。

 この世は、醜い。

 滅んでしまっても、構わないと思う。

 私の身体が借金のカタに売られる日も近いかもしれない。
 そう思っていたが、どうやら、その前に私は氏ぬらしい。

 いっそ、この世界と心中しようか。

 そんな思いも、胸に渦巻いている。

 気が付くと、頬を涙が伝っていた。
 数年前から、よくあることだった。

 大声を上げて泣くことができなくなり、代わりに、
自分でも気付かないうちに涙を流しているようになったのだ。

 もうすぐ競売にかけられることが決まっている家の天井を、
ぼんやりと見上げる。

 もう、疲れた。

189: 2009/09/26(土) 20:04:19.05 ID:Cq93apyd0
 どこか遠くへ行きたい。

 誰も私を知らない、遠い場所へ行って、最初からやり直したい。

 ギター一本を片手に、世界中を旅して回りたい。
 自分の音楽の才能と努力だけで認められる世界に生きたい。
 できないと分かっているからこそ、そんな妄想は輝いて見えた。

 いや――今なら、できる。今だからこそ。

梓「コエムシ?」

コエムシ「何ですか?」

 呼ぶとすぐに現れた。
 このシルクハットのぬいぐるみが可愛く思えてきたことを、
意外に感じる。

梓「コエムシは、私をどこへでも移動させることが
 できるんだよね?」

コエムシ「そうですが?」

梓「私以外の人も、移動させられるの?」

コエムシ「できますが……」

梓「だったら、コエムシに、お願いがあるの」

コエムシ「何ですか? はっきりと言ってください」

190: 2009/09/26(土) 20:13:56.64 ID:Cq93apyd0
梓「コエムシは知っているかもしれないけど、
 私の家、借金地獄なんだ。高校を卒業したら、
 私が地道に少しずつ返していくしかないと
 思っていたんだけど、もうすぐ氏ぬみたいだし、
 そんなわけにもいかなくなっちゃったんだよね。
 だから、手っ取り早くお金が欲しいの」

コエムシ「ああ……何となく分かってきました。
 要するに、私の転送能力を利用して、
 泥棒したいというわけですね?」

梓「まあ、そうなんだけど、そんなにたくさんは
 いらないの。お金持ちになったって、どうせ、
 私にはお金を使っている時間なんてないんだし。
 でも、せめて、借金だけでも帳消しにしたいと
 思って……。お父さんがパチOコで作った
 借金と、サラ金で借りて膨らんだ利子。
 この二つを取り戻すだけでも、うちは救われるの。
 だからお願い。協力して?」

コエムシ「どうして私が、犯罪の片棒を担がないと
 いけないんですか?」

梓「犯罪っていうけどさ、ギャンブル依存症の人から
 お金を毟り取ったり、絶対に返せるはずのない高利の
 お金を貸すのも、ある意味では、罪だよね」

コエムシ「道徳の授業をしたいわけではありません。
 あなたの家庭を救って、私に何のメリットがあるのかと
 尋ねているのです」

193: 2009/09/26(土) 20:34:39.05 ID:Cq93apyd0
梓「お父さんやお母さんが救われるんだったら、
 私、一生懸命戦うよ。コエムシは、私に、
 勝って欲しくない?」

コエムシ「どうしてそう思うのですか?」

梓「だって、コエムシはゲームのガイドなんでしょ?
 私達が勝ち続けたら、コエムシにだって何か
 メリットがあるんじゃないの? 例えば、
 特別ボーナスがもらえたりとか」

コエムシ「まあ、勝って欲しいか負けて欲しいかと
 言われれば、そりゃあ勝って欲しいですが……」

梓「それに、コエムシはジェントルマンなんでしょ?
 紳士っていうのは、困っている女の子を助ける
 ものだと思うけど?」

 コエムシの表情そのものは変化がないが、
飛び方の微妙な差異から、コエムシの心が
動いているのを感じ取った。

梓「コエムシ、私の身体に興味ない?」

コエムシ「そりゃあ、私も紳士ですから」

梓「協力してくれたら、好きなだけ裸を見せてあげる」

コエムシ「それでしたら、協力しないわけには
 いきませんね。既に何度も拝見していますからフヒヒ」

194: 2009/09/26(土) 20:45:39.53 ID:Cq93apyd0
 本当は、私自身をパチOコ店やサラ金の会社に
転送してもらって盗むつもりだったのだが、
コエムシは私が提示した現金だけを私の家に
転送してくれた。

 最初は嫌な奴だと思っていたけど、コエムシって、
意外にいいところがあるな、と思った。

梓「じゃあ、約束どおり、好きなだけ裸を見せるね」

コエムシ「それでしたら、普段どおりに過ごしていて
 くれればいいですよ。勝手に覗きますから。
 私の趣味は、あくまでも覗きです。堂々と
 鑑賞したいとは思わないんですよね」

梓「やっぱり、コエムシって、いい奴だね」

コエムシ「私を恨んでないんですか?」

梓「どうしてコエムシを恨むの?」

コエムシ「あなたをプレーヤーに選んだのは、
 私のせいで氏ぬようなものでしょう?」

梓「違うよ。コエムシは、私達家族を、救ってくれた、
 救世主なんだよ? もっと自信を持ちなさい!
 ……それに、私、心のどこかでずっと、
 氏にたいって思ってたしね」

コエムシ「梓さん……?」

195: 2009/09/26(土) 20:54:45.90 ID:Cq93apyd0
 次の日の朝、私は生命保険の外交員を呼んだ。
 ただし、日本の場合、自分から外交員を呼ぶ場合は
非常に警戒されるので、知り合いに勧められて嫌々
加入することにした、という筋書きを立てておいた。

梓「お父さん、起きて」

 私は、パチOコに負けて酔いつぶれて帰宅した父の
身体を揺さぶった。

父「うるさいなあ……。せっかく、夢の中で大当たりしたのに……」

梓「私、生命保険に加入したいんだけど、保護者の
 許可が必要だし、受取人をお父さんにしたことを
 知っておいて欲しいし」

父「生命保険だと? どうしてお前がそんなものに加入するんだ。
 だいたい、うちには、保険料を納めるお金なんてないし……」

梓「保険料は、私の貯金で何とかするから。お父さんは、
 契約書を読んで、判子を押してくれるだけでいいの」

 私は父を玄関に引っ張っていき、生命保険に加入した。

父「梓。お前……どうかしたのか?」

 外交員が帰った後、父は珍しく真剣な表情で言った。
 私は無理に笑顔を作った。

梓「え? 別に? 私は元気だよ」

197: 2009/09/26(土) 21:01:08.32 ID:Cq93apyd0
コエムシ「確かに、これで、あなたが氏んだ後の
 両親の生活は安泰でしょうが、納得いきませんねえ。
 どうしてあなたが、あんなクズみたいな父親を
 助けたいと思うのか」

 父が再びパチOコに出かけていくと、コエムシは
不愉快そうに飛び回った。

梓「本当は、別に、助けたいなんて思ってなかった
 んだけどね。でも、後のことを解決してからじゃ
 ないと、心置きなく夢を叶えることができないでしょ?」

コエムシ「あなたの夢とは、何ですか?」

梓「プロのミュージシャンになること。それが、
 子供の頃からの夢だったんだ。馬鹿みたい?」

コエムシ「そんなことはありませんよ」

梓「もう日本でプロデビューするのは無理だけど、
 外国でなら、チャンスがあるかもしれない」

 私は、昔、大切なギターを手にした。

 私が氏んだら、お父さんは、このギターを
買ってくれたときのような、昔のお父さんに戻って
くれるだろうか。それとも、ずっと、パチOコ依存症の
ままで、お金を毟り取られて
いくのだろうか。
 それは、分からない。

199: 2009/09/26(土) 21:11:22.43 ID:Cq93apyd0
 分からないけど、目を覚ましてくれると信じたい。

 生命保険に加入した直後に私が氏んだら、いくら鈍い
お父さんだって、何かを察するだろう。
 そう信じたい。

梓「じゃあ、コエムシ。行こうか」

 私は、ギターとパスポートと、そして少ない荷物を
持って、そう言った。

コエムシ「ちゃんとした入国手続きを取らないと、
 捕まりますよ?」

梓「そのときは、コエムシが何とかしてよ」

コエムシ「やれやれ。では、どこに行きますか?」

梓「まずは、アメリカとかヨーロッパ。その次は、
 アジアの国を順番に回りたい。最初はストリートで
 ギターを弾いて、少しずつ実力をつけていきたいの」

コエムシ「そんな悠長なことをしていたら、
 プロデビューの前に戦闘が始まるかもしれませんよ?」

梓「そのときは、そのときだよ。一度は諦めた人生だし、
 最後の贅沢みたいなもん、かな」

200: 2009/09/26(土) 21:16:16.72 ID:Cq93apyd0
 私は、もう二度と戻ることがないであろう
自分の部屋を、もう一度見回した。

梓「お父さん、お母さん。行ってきます。
 親不孝な娘を、どうか許してください」










一ヵ月後。

澪「梓! 今までどこに行ってたんだ!」

律「心配したんだぞ! コエムシに行方を聞いても
 教えてもらえなかったし」

梓「お願い。コエムシを悪く言わないで。コエムシは、
 私の我儘をきいてくれただけなんだから」

和「それにしたって……」

唯「あずにゃん、お帰り」

 車椅子に乗った唯先輩だけが、笑顔で迎えてくれた。

202: 2009/09/26(土) 21:30:14.92 ID:Cq93apyd0
梓「ただいま。学祭に参加できなくて、すみません」

律「いや、学祭に参加できないのは、梓が悪い
 わけじゃないよ。実際、こうやって、学祭の前に
 戦闘が始まっちゃったんだし……」

唯「あずにゃん、日焼けしたね~。どこに行ってたの?」

 唯先輩は、随分と呑気だ。
 果たして、この人は、自分の妹がどうなったのかを
知っているのだろうか。それとも、まだ知らないのだろうか。

梓「それは話している時間ないので、後でコエムシに
 聞いてください。――コエムシ。あれが、私の敵なの?」

 私の操縦する人型パイロットの前にいたのは、
蝶々の形をしたロボットだった。

 随分と軽そうな機体だ。強い風が吹いたら飛んで
いってしまうのではないだろうか。あんなもので勝負に
なるのかと、他人事ながら心配になる。

 しかし、ココペリ戦のハサミや、憂戦のヘビのことを
考えると、見た目で判断するのは危険だ。

 きっと、この蝶々も、何か特別な力を持っているに違いない。

 実際、空を飛ぶことができるだけでも、アドバンテージだ。
 どんな攻撃をしてくるか分からないので、私は距離を取った。
 

203: 2009/09/26(土) 21:32:15.82 ID:Cq93apyd0
>>202
×私の操縦する人型パイロットの前にいたのは、
○私の操縦する人型ロボットの前にいたのは、

ああもう眠くて氏にそう。

209: 2009/09/26(土) 21:57:43.40 ID:Cq93apyd0
 しかし、チョウは人型ロボットの上空をしつこく
付きまとってくる。

 私は腕を振り回すように念じたが、かなり高い
位置を飛んでいるため、届かなかった。

梓「手が届かないなら、レーザーしかないよね」

 空に向かって撃つなら、人や家屋に当たる
危険も少ないはずだ。

 私は躊躇せずにレーザーを発射した。

 チョウの装甲が、鏡のようにレーザーを跳ね返す。
 私の放ったレーザーは、近くの町を破壊した。

梓「くっ……」

 その町にいた住人の命の光が消えてしまった
のを感じた。

律「梓。少しくらいは仕方ない。気にするな」

澪「そうだ。ここは、私達の住んでる町じゃないし――」

梓「でも、私の演奏を聞いて拍手してくれた
 人たちがいたんです。名前も知らないし、
 言葉も通じなかったけど、それでも、あの町の
 人たちは、私の演奏を聞いてくれたんです!」

212: 2009/09/26(土) 22:06:06.06 ID:Cq93apyd0
唯「あずにゃん。今は考えてもしょうがないよ。
 それよりも、反撃する方法を考えないと。
 のどかちゃん、何かいいアイデアはない?」

和「私もさっきから考えてるんだけど、
 届かない位置にいる敵を攻撃するには……
 何かを投げるか、長い棒のようなものを持って
 叩いたりつついたりするくらいしか、
 思いつかないわ」

律「でもさあ、このままだと、敵の方だって
 私達を攻撃することはできないだろ?」

和「コエムシ。もしも何十時間経っても勝負が
 つかなかったらどうなるの?」

コエムシ「四十八時間以上経過してもお互いに
 急所を潰すことができなかった場合は、
 負けになります」

和「引き分けじゃなくて?」

コエムシ「はい。あなたがたの世界は滅びます」

澪「敵が動いたぞ!」

 チョウは激しく羽を動かしている。
 すると、急に視界が悪くなった。

和「どうやら、燐粉を飛ばしているみたいね」

215: 2009/09/26(土) 22:36:59.16 ID:Cq93apyd0
澪「まさか、ヘビのときみたいな溶解液か!?」

梓「それはまだ分かりませんが……あ」

澪「どうした?」

梓「何だか、身体が重いです。いえ、重いというか、
 動きにくくて――これは粘着液みたいですね」

和「このまま燐粉を浴び続けると、危険だわ。
 相手は、こちらが動けなくなってからゆっくりと
 攻撃するつもりなのよ」

梓「でも、空高くにいる敵を、どうやって攻撃すれば?」

唯「あっ。あの戦闘機、何?」

 唯先輩の指さした方を見ると、無数の戦闘機が
こちらへ向かってくるところだった。

梓「あれはきっと、この国の戦闘機ですね」

唯「助かったあ。あの戦闘機に攻撃してもらえば――」

 戦闘機がミサイルを発射した。
 私達の乗っている人型パイロットに向かって。
 相変わらず、コックピットの中には衝撃は来なかったが、
さらに視界が悪くなった。

唯「どうして私達を攻撃するの……?」

218: 2009/09/26(土) 22:44:49.07 ID:Cq93apyd0
澪「そりゃあ、遥か上空にいるチョウと、足元にいる
 人型ロボットなら、人型の方を攻撃するさ。
 軍隊には、敵味方の区別なんてついてないんだから」

律「思いついたんだけど、私達のロボットって、
 身体の一部を切り離すことはできないのか?」

コエムシ「念じればその通りに分解できますよ」

律「そうやって切り離した破片を投げて、あのチョウに
 当てればいいんじゃないのか?」

和「二つ問題があるわね。このロボットはあまりにも
 巨大すぎて、投げようとモーションをとった時点で、
 相手は何をしようとしているのか気付くわ。
 気付くのが早ければ早いほど、避けやすくなる。
 もう一つの問題は、破片が当たったにしろ
 当たらなかったにしろ、それはいずれ落下してくる。
 その下には、人が住んでいるわ。当たった場合は、
 敵のロボットも落下してくる」

律「じゃあどうすればいいんだよ!?」

唯「ねえのどかちゃん。蝶々の天敵って、何?」

和「それはやっぱり、虫を食べる動物でしょうね。
 例えば、鳥とか、蝙蝠とか、猫とか――」

唯「猫!? あずにゃん、それだよ!」

220: 2009/09/26(土) 23:04:23.00 ID:Cq93apyd0
梓「猫がどうかしたんですか?」

唯「あずにゃん、っていうニックネームの由来になった、
 猫の気持ちになって考えればいいんだよ!」

梓「意味が分からないんですけど……」

唯「鳥や蝙蝠と違って、猫は空を飛べないよね。
 でも、猫は、蝶々とか蝉とか雀とか、
 空を飛ぶ生き物を捕まえることができる。
 それはどうしてだと思う?」

梓「それは――あ、そういうことですか」

 私は人型ロボットの向きを変え、歩き出した。
 人家を踏まないようにするのに、かなり気を遣う。

律「おい、梓。どこへ行くんだ?」

梓「海です」

律「海に何かあるのか?」

梓「いえ、海そのものには何もありませんが、
 隠れることができます」

律「隠れる……?」

梓「そうです。いったん、身を隠すんです。
 そして、敵が疲れて休むのを待つんですよ」

222: 2009/09/26(土) 23:08:54.49 ID:Cq93apyd0
律「ああ、なるほど。猫っていうのは、そういう意味か。
 猫が空を飛ぶ動物を捕まえることができるのは、
 空を飛んでいないときを狙うから、か。まるで、
 子供の謎々だな」

和「でも、そんなに上手くいく……?」

梓「自信はありませんが、やるしかないです。
 それに、私、このロボットを操縦してみて気付いた
 んですけど、ロボットを動かせるくらい強く念じる
 のって、凄く疲れるんです。地面に立っている
 私ですらこんなに疲れるんだから、ずっと
 飛び続けなければならない相手は、とてつもない
 精神エネルギーを浪費し続けているはずです。
 少なくとも、四十八時間ずっと飛び続けるなんて、
 不可能ですよ」

 そんなことを話しているうちに、海に辿り着いた。

 ココペリのときみたいに、多少の津波は起きて
しまうだろうが、仕方がない。

 私は海に潜った。

 都合のいいことに、チョウが飛ばした粘着液も、
海で洗い流されていくようだ。
 環境汚染かもしれないが、地球の存亡がかかって
いるのだから、許して欲しい。

224: 2009/09/26(土) 23:34:09.72 ID:Cq93apyd0
 海の中は、静かで、柔らかい光に満ちていた。

 綺麗だ。
 海って、こんなに綺麗だったんだ。
 その世界があまりにも美しく、私は目に涙が浮かぶのを感じた。

 ――この世は、醜い。滅んでしまっても、構わない。
 そう考えていた、一ヶ月前の自分を思い出す。

 ただ、知らなかっただけなのだ。

 身の回りの小さな醜いものに嫌気がさし、世界中のものの
美しさを否定していただけの、井の中の蛙だったのだ。

 この一ヶ月の間に、数え切れない人たちと出会い、
そして別れた。
 それは生産的ではないかもしれないけど、とても有意義で、
幸福な時間だった。

 もう、満足だ。
 私は夢を叶えることができたのだから。
 フランスの小さなレコード会社で、少しだけCDを作った。
 自分のお金で作ったから、本当に少ししか作れなかったけど、
私のCDを買ってくれる人がたくさんいた。
 嬉しい。本当に嬉しい。
 あのCDを聞いてくれたり、インターネットでダウンロードしたり
した人たちの心の中に、私は永遠に生き続けるのだ。
 そして、その著作権料は、お父さんやお母さんを助けてくれるだろう。

 この美しい世界を守ることができるのなら、私は――。

225: 2009/09/26(土) 23:37:38.04 ID:Cq93apyd0





唯「あずにゃん、凄く幸せそうな顔をしてるね」

澪「お前の妹の憂だって、とても満足そうな顔を
 したいたんだぞ。最後に、お前と通じ合うことが
 できたからな」

和「できることなら、私も、こんな顔で世界を
 守りたいわ」

律「梓。今まで、お疲れ様。よく頑張ったな……」






――――――第2話 中野梓 終わり

引用: 【ぼくらの!】 唯「何で憂が死ななきゃいけなかったの!?」