1: 2008/12/30(火) 01:32:04.62 ID:GV1uYPd9O
「かわいいお人形」

今回の目覚めで初めに聞いた言葉がそれだった。
ずいぶん長い間眠っていた。何年、何十年、何百年?
徐々に上下に広がっていく光、最初に見えたのは一人の少年。
見た様子では5、6才くらいだろうか。なんともかわいらしい男の子。
―――ああ、また巻かれたのね。
もう目覚めたくなどなかった。
これ以上辛い思いをするのならば、アリスなんてもうどうでもいい。だから、静かに眠らせておいて。
「すごい、動いてる。喋れるの?」
とは言え、巻かれてしまったからには歯車はまた動き始める。
この少年が真紅のミーディアムになり、再びアリスを目指して姉妹達と戦わねばならない。
ローゼンメイデン 愛蔵版 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

2: 2008/12/30(火) 01:34:24.49 ID:GV1uYPd9O
「あなたが私を巻いたのね」
少年は嬉しそうに大きく頷く。動く人形に恐怖を感じないこの子の瞳は、真紅の心に残った懐かしい想いを掠めた。痛い。
「うんっ!ねぇ、お名前は?なんで動けるの!?」
「私の名は真紅。誇り高きローゼンメイデンの第5ドール」
「ローゼンメイデン…?」
ローゼンメイデンに課せられた宿命、果たすべき使命を簡単に説明した。子供にもわかるように、簡単に。

4: 2008/12/30(火) 01:35:32.29 ID:GV1uYPd9O
頭の良い子で、時々疑問に思った事を質問で返してきては驚嘆し、納得と理解をさせるのにさほど時間はかからなかった。
これが、真紅と新しいミーディアムとの出会い。
今になって思う。この子との出会いには意味があったのだと。



少年は真紅を気に入り、真紅も心を許すのにそう時間はかからなかった。
紅茶を淹れてと頼めば嫌な顔ひとつせず、おぼつかないながらも真紅のために一生懸命用意してくれたし、膝に乗せて話をすることもしばしばあった。
少年は自分の事をよく話した。学校の事、家族の事、友達の事、将来の夢の事。
「僕、いつか真紅みたいなお人形を作りたいな」
「ふふ、あなたに出来るかしら」
「出来るよ!だって僕の家は人形屋さんなんだから!」
疲れる事を知らない無邪気な話し手は、真紅を退屈させることはなかった。
幸せだ、とふと思う。
長い眠りにつく前、よく感じた感情。
何気ない事でも話す事自体が楽しくて、賑やかな仲間に囲まれて。
そういえばあのテレビ番組はまだやっているんだろうか?翠星石や雛苺と一緒に、彼に抱かれて見た番組。つい最近の事のように思える。
遠い幸せ。本当に、幸せだった。

5: 2008/12/30(火) 01:36:25.19 ID:GV1uYPd9O

「真紅、どうしたの?」
大きな瞳が私を覗き込む。いけない、ぼーっとしていた。
「なんでもないのだわ。そろそろ部屋に戻りましょう。抱っこしてちょうだい」
心配そうに眉を下げたまま、少年が手を伸ばしてくる。
両脇へ手を入れて、出来るだけ慎重に持ち上げる……彼も、初めて抱き上げた時はこうだったか。
「抱き方が違うわ」
仮にも女の子を抱き上げるのに両脇はない。
この子にもきちんと紳士らしい振る舞いを教えなければ。彼にしたのと同じように抱き方を教える。
まさか、小学生の顔を叩いたりはしないけれど。
「こう?」
「そうよ。次からはこう抱きなさい」

6: 2008/12/30(火) 01:37:12.76 ID:GV1uYPd9O




巻かれてから数週間、なぜか少年が真紅と距離を置くようになった。
何があったのかを問うつもりはないが、嫌われたという訳ではなさそうだ。
ただ、以前のように構いに来る事も少なくなり、話していても目を見てくれない。
少し淋しいような気もしたが、自分から修復を試みようとはしなかった。
そんなふうに微妙な距離を感じる日々を過ごしていたある日の夜、少年は真紅に話がしたいと持ち掛けた。
幼い瞳には小さな決意が見てとれ、真紅はその決意を蔑ろには出来ない。
ベッドの上で対峙して座り、少年は唇を噛んで俯く。しばらく沈黙が続いた。
時間にすれば2、3分。真紅は少年が自ら語り出すまで待とうと決めていた。

7: 2008/12/30(火) 01:38:10.80 ID:GV1uYPd9O
この年端もゆかぬ少年が何を悩んでいるのかはわからないが、こちらから誘導する事は少年のためにならない。
シーツの皺を見つめていた少年の視線がふいに真紅の瞳を捉える。
欺瞞や汚れを一切感じさせない子供の瞳からは、ただ不安だけが感じ取れた。
言葉を飲み込んでしまいそうなのを振り切るように、少年は唇を開く。
「僕、真紅が好きなんだ」

9: 2008/12/30(火) 01:40:40.56 ID:GV1uYPd9O
それが友人や玩具としての意味ではない事はすぐにわかった。
恐らくは生まれて初めてだろう異性への告白に涙ぐむ少年は、たがが外れたように言葉を続ける。
「変だよね?」
初恋の相手がお人形。
ここ最近少年が自分を避けていたのは、この葛藤のせいだったのだ。
真紅は拒絶する訳でもなく受け入れる訳でもなく、諭すように微笑む。
「そんな事はないわ」
「…だけど、真紅はお人形なんだよ?」
誰に対してでもない憤りに少年はついに涙を零した。
一度溢れてしまえば、涙は次々に湧き出てくる。
泣き顔を見られまいと右手で顔を隠す仕種が、少年の幼さをさらに浮き彫りにしてしまう。
真紅は少年の膝に手をのせ、泣き止むまで摩ってやった。

11: 2008/12/30(火) 01:44:09.71 ID:GV1uYPd9O
「落ち着いたかしら」
「うん…。ごめんなさい、いきなりこんな話して。変な子でごめんね」
「変な子なんかじゃない。好きと言われて嫌がる女の子なんていないわよ。
 私を女の子として扱ってくれて嬉しいわ」
「…真紅」
「少し昔話をしましょうか」
真紅は静かに語り始める。かみ締めるように、懐かしむように。
その表情は少年の目にはひどく悲しいものに映った。

12: 2008/12/30(火) 01:48:10.96 ID:GV1uYPd9O


―――――――遠い昔。
もう何十年、何百年前の話になるのだろう。
一人の少年が真紅の螺子を巻いた。学校を拒絶し、世間を拒絶し、人間関係を拒絶していたその少年が、真紅との出会いによって成長を遂げ、やがて高校を卒業して立派な大人になっていったこと。そして、真紅自身もその少年のおかげで成長できたこと。
少し素直でないところもあるけれど、真紅たち人形を人間と同じように扱い、また愛してくれた人。
その少年は、自らの足で再び歩み始めた。
一度は踏み外しかけた道を自分で見つけ出し、自分の力で道に戻った。

14: 2008/12/30(火) 01:51:33.73 ID:GV1uYPd9O

「好きだ」
「え?」
突然の言葉に真紅は息を忘れた。
この少年は今、自分になんと言ったのだろうか。
もし耳が正常ならば、確かにいま、好きと。
「僕、真紅が好きなんだ」
考えるよりも先に頷く。
素直さに気持ちを表現するのが苦手なこの少年の、最初で最後の愛のささやき。
願わくば、この少年と共にありたい。いつからか芽生えていた感情。
それが今、あまりに突然に実現することになった。
願いは叶った。
お互いが秘めた想いを打ち明けて、お互いがそれを受け入れあえた。

15: 2008/12/30(火) 01:55:35.16 ID:GV1uYPd9O
大切に思っていた人に想いが届いたことが嬉しくて嬉しくて、真紅の小さな胸は張り裂けそうに痛んだ。
そして、同時に、その幸せと同居する不安が生まれる。
少年は人間、自分は人形。どうしようもない、そして決定的な違い。
そんな相反する感情を抱えたまま、それでも真紅は幸せだった。
愛する人に求められ、求めれば応えてくれる。
自分の隣に少年が居て、少年の隣に自分が居る。
食事や睡眠よりも必要で、息をするように当たり前。
そんな静かな幸せがきっといつまでも続いていくのだと。


そんな風に思っていた。

16: 2008/12/30(火) 01:59:40.16 ID:GV1uYPd9O


「いつか、お前に似合う綺麗なドレスを作ってやるよ」
少年は子供のような瞳で夢を語る。
「そしたら、それを着て結婚式をしようか」
「本当?楽しみだわ」
戯言。
そんな事はわかっていた。なんと空虚で、空虚と感じさせない遊びなのだろう。まるで本当に二人にはその先があるように。
悲しいことに、ありもしない未来が見えるほどには二人は幼くはなかった。
遊びは続く。
いつまでも続くといいな、と少年は言う。
そうね、と真紅は応える。
叶わないだろうな、と少年は続ける。
そうね、と真紅は応える。
二人の思考はきっと同じ軌跡を辿り、同じ結論にたどり着いていた。
いつか来る別れを知りながらも、せめてそれまでは幸せになろうと。

18: 2008/12/30(火) 02:06:15.40 ID:GV1uYPd9O
「指輪さ」
「指輪?」
「そう、指輪。これ、結婚指輪だな」
左手を掲げて笑う少年。
「本当ね。なくしたりしたら承知しないわよ」
「なくそうとしたって外れないじゃないか」
「あら。外したいの?」
「はずしたくない」
「だったらそんな心配、しなくてもいいんじゃない」
「それもそうだな」
二人きりで笑いあう冬の日。
少年の部屋では幸せな時間が、ゆっくり、ゆっくりと。
ベッドの脇に置かれた鞄が一つ、部屋の隅で居場所無げに並んだ鞄が二つ。
緋色の瞳には少しばかりの嫉妬を、翠色の瞳には悲しみを宿して、その光景をただ眺める人形。

20: 2008/12/30(火) 02:14:51.46 ID:GV1uYPd9O

「もうここには居られないです」
想い人の幸せを素直に喜べるほど、翠星石は大人ではなかった。
少年の視線、愛情、心、唇、なにもかもを独占されてしまうのが辛かった。
誰を憎んでいるわけでもない。すべては自分が招いた結果。
素直に好きなのだと言えたのなら、あるいはその腕に抱かれていたのは自分だったのかもしれない。
「なんて想ってみたところで」
翠星石はため息を吐く。
「時間は戻ったりしねぇですもんね」
ほぅ、と息を吐きかけると窓は白く曇った。
自分の視界も心も、こんな風に曇ってくれればいいのに。

21: 2008/12/30(火) 02:21:09.66 ID:GV1uYPd9O
愛する人の幸せを祝福できない自分の醜さを自嘲して、翠聖石は再び息を吹きかける。
もっと曇れ。見えなくなれ。
ほら、もうぼんやりと輪郭が見えるだけ。視界が曇っているのはガラスのせい。
涙のせいなんかじゃない。

きゅ、きゅ

小さな手のひらでガラスが拭かれる。しかし、翠星石の視界は晴れなかった。
その手のひらと同じ幅で曇りが消えたガラスには、翠星石と雛苺が映し出される。
「泣いてるの?」
ガラス越しに心配そうな視線をよこす雛苺。翠星石はその視線を受け、弱々しくわらった。
「泣いてるです」
いつもの強がりはない。

23: 2008/12/30(火) 02:27:56.18 ID:GV1uYPd9O
「寂しいから」
いまさら素直になったところで何が変わるわけでもない。
それでももう自分の気持ちを隠していたくなかった。
「翠星石……」
「おかしいですか?翠星石は真紅が羨ましくってしょうがないんです」
いけない。汚い自分がぽろぽろ溢れてくる。
「翠星石もだっこして欲しいです。翠星石もちゅーして欲しいんです」
言葉と一緒に、涙も添えて。
「……翠星石だって……大好きなんです」
嗚咽で最後まで言い切ることができなかった。両手で顔を隠す。
止めることは出来なかった。

25: 2008/12/30(火) 02:36:05.69 ID:GV1uYPd9O
「真紅をうらんでるの?」
「恨んでないです」
もういやだ、こんなのは。
真紅と少年の幸せを祝福したいとも思えない。
二人が幸せそうに笑いあっているのを見るだけで叫びたくなるほどの嫉妬に襲われる。
愛すれば愛するほどに自分の醜さが浮き彫りになってしまうのが嫌で嫌で仕方なかった。
雛苺もこれ以上言葉をかけようとはしない。
愛されないことの痛みをわかっているからこその気遣いなのだろう。

28: 2008/12/30(火) 02:43:03.51 ID:GV1uYPd9O

みっともなく涙をこぼしながら翠星石は思う。
なんて自分は子供なんだろう。
いつもからかっていた雛苺はすべてを受け入れ、二人を優しく見守っていると言うのに。
「チビ苺」
「なぁに?」
「翠星石はアリスゲームから降りるです」
引き止めることもなく、雛苺は翠星石の瞳を見つめる。
決意を抱いたその瞳には、もはや嫉妬も恨みもなく、ただ悲しみだけが弱々しく映っていた。

31: 2008/12/30(火) 02:49:40.45 ID:GV1uYPd9O
誰が責めることができるだろう。愛する人から愛されないのならば、いっそ目の前から消えてしまう。
それ自体はおかしいことではない。
それ自体は。
「怒らないですか?」
「……怒ってほしいの?」
本音を言うなら怒って欲しい。
まるで子供のようにわがままをいう自分を、殴りつけてでも叱って欲しい。
でも、今の翠星石にはそれを口に出す勇気はない。
「いいえ」
「……そう」

33: 2008/12/30(火) 02:57:20.19 ID:GV1uYPd9O
雛苺は両手を翠星石の頬を当てて振り向かせ、初めて直接目を合わせる。
「翠星石は本当はわかってるの」
自分よりも幼い妹の瞳は、翠星石の心の奥深くまでをじっと見つめる。
「それでも降りると言うなら、ヒナは……」
ふ、と雛苺は微笑む。
「おやすみなさい、としか言ってあげられないの」
「……ありがとう」
翠星石は再び窓の外に視線を移す。
続いて雛苺も。二つの視線は同じ方向へと向いた。
「……雪なの」
「……雪ですね」

窓の外は雪。
別れの日は、雪だった。

35: 2008/12/30(火) 03:00:59.31 ID:GV1uYPd9O
「今日の帰りは遅いのね」
一人、愛しい人の帰りを待ちながら真紅は紅茶を啜る。
いつもならばすでに帰ってきて、二人で笑いあいながらゆっくりと過ごしているはずの時間。
ふと、窓の外に視線を移す。
「まぁ。雪だわ」
一粒一粒が雲からちぎられたような大粒で柔らかい雪が舞い降りていた。
帰りに滑ったりして転ばなければ良いのだけれど。
そんな事を思いながら、真紅は残りの紅茶を飲み干した。
紅茶を入れてから随分時間が経ってしまった。
冷え切った体で帰る少年に暖かい紅茶を淹れて待つ。
そんな些細なことにでも、至上の幸福を覚えていた。

36: 2008/12/30(火) 03:06:50.68 ID:GV1uYPd9O
常日頃から思っている、こんな静かな幸せが続けば良い。
帰ってきたときの少年の表情を思い浮かべながら紅茶を淹れなおす。
自分の隣に少年が居て、少年の隣に自分が居る。
食事や睡眠よりも必要で、息をするように当たり前。
そんな静かな幸せがきっといつまでも続いていくんだと。
しかし、そんな真紅のささやかな幸せは、あまりにも突然に、あまりにも理不尽に、終わりを告げることになる。

38: 2008/12/30(火) 03:14:44.87 ID:GV1uYPd9O


トテトテ

小さな体を懸命に繰りながら階段を下りてくる雛苺。
その表情はいつもの無邪気な子供のものではなく、どこか物悲しいものだった。
慌てているわけでもないのに、早く自分に会わなければいけないような。
この時真紅が雛苺に覚えた印象がこれだった。

トテトテ

どうしたのだろう。雛苺の姿はなぜか真紅に焦燥感を与える。
少年と心が通じ合ったときにも覚えたような、言いようのない不安。
トテトテ

いや。来ないで。
根拠もなくそんなことを思ってしまう。

トテトテ

もう目の前。雛苺が口を開く。

41: 2008/12/30(火) 03:19:31.94 ID:GV1uYPd9O
「翠星石が眠りについたの」
「え?」
いったいこの子は何を言っているんだろう?
翠星石が眠った?
寝たではなく、眠りについた?
「この時代でのアリスゲームの決着はなくなったの……」
ぞくっ。
理解はした。アリスゲームの決着がつかなくなること。
それはつまり、この時代にはもう留まれないと言うこと。
冷静な自分が憎い。

45: 2008/12/30(火) 03:22:23.80 ID:GV1uYPd9O
「何故なの?」
「……もう、耐えられなかったのよ」
自覚はあった。
「そんな……」
もう時間は残されていない。翠星石……。
「翠星石を責めないであげて」
泣き出しそうな顔が自分を見上げる。
「大丈夫よ。責めたりしないしないのだわ」
真紅は駆け出した。雛苺を振り返りもせずに。


見送る雛苺の背後には、タキシード姿の男が立っていた。

48: 2008/12/30(火) 03:28:58.04 ID:GV1uYPd9O
「すっかり遅くなっちゃったな」

牡丹雪が舞うなか、少年は家路をいそぐ。
今日も自分の帰りを待ってくれているだろう皆の顔を思い浮かべると、自然と足早になる。
今頃皆でくんくんでも見ている頃だろうか?
今日は土産を買ってかえろう。
雛苺や翠星石も喜んでくれるだろうか?
苺大福……はつい最近買ったから、今日は苺のショートケーキにでもしようかな。

49: 2008/12/30(火) 03:33:32.30 ID:GV1uYPd9O
思えば最近あの二人にはあまり接する機会がなかったような気がする。
真紅との幸せな時間ももちろん大切だが、翠星石も雛苺もいまや大事な家族の一員だ。
もう出会ってからどれくらいになるのだろう。
あの二人も、今の自分を支えてくれた。
何かしらの形で、いつかこの恩を返せればいいな。
素直にありがとうを言うには時間がかかるかも知れないけれど。
それが今日でないなら、明日でも、あさってでも。
さぁ……あの角を曲がれば、もう家だ。

50: 2008/12/30(火) 03:37:42.40 ID:GV1uYPd9O

うっすらと積もった雪は真紅の足を絡め取る。
深さはほとんど無いとはいえ、人形の小さな足の足取りを重くするには雪の量は十分だった。
ついさっきまでは綺麗だと思っていた雪が、今はこんなにも憎い。お願い、邪魔をしないで。
一秒でも早く愛する人のもとへ。
一緒に居ることはもう叶わない、それならばせめて、最後にお別れを。
今までありがとう、愛してくれてありがとうと。
一言だけ言わせて欲しい。
もう家に向かってきているはず。
きっと、その角を曲がれば見えてくる。
そんな気がした。

53: 2008/12/30(火) 03:42:27.19 ID:GV1uYPd9O

「ただいま」

ドアを開けると、暖房で暖められた空気が冷えた体を撫でた。
いつもの家、一番心が安らぐ場所。
いつもの出迎えがなくても、やはりこの雰囲気は落ち着く。
きっとテレビに夢中なんだろう。
しかしなんだ、この違和感は。
つま先が湿った靴を脱ぎ捨て、上着に積もった雪を払い落とす。
「うわ、靴下までびしょびしょだ……」

54: 2008/12/30(火) 03:47:13.49 ID:GV1uYPd9O
靴下も脱いで、リビングに向かう。テレビはついていなかった。
どこかに出かけているのだろうか。
姉もまだ帰っていないようだ。
テーブルの上には飲みかけの紅茶が入ったカップと、空のカップがひとつずつ。
きっと真紅が淹れてくれたのだろう。
「翠星石ー!雛苺!ケーキを買ってきたぞ!降りてこいよ」
返事はない。
「どうしたってんだよ……鍵も開けっ放しで」
紅茶を淹れる。
「?」
決定的な違和感の正体。
「なんでだよ」
「おい」
「急すぎるだろ」
「こんなの……なんで」
「ちょっと待って」
「待ってくれ!!」

指輪が、なかった。


…外は雪。
別れの日は、雪だった。

56: 2008/12/30(火) 03:51:27.34 ID:GV1uYPd9O
―――――――
「これで昔話はおしまい」
少年は初めからおわりまで集中力を欠くことなく真紅の話に耳を傾けていた。
一切視線も外すことなく。
その瞳に溜まった涙は瞬きを忘れていたからではないかと思うほどに。
「さよならは」
少年は口を開いた。
「さよならは、言えたの?」
「……」
真紅はただ微笑む。
あのときに別れを告げられたからと言って、なにが変わったわけでもない。
「そんな!そんなの……悲しいよ」
「ええ、そうね」
「真紅はどうして平気なの?その人の事が好きだったんでしょ?」
「愛していたわ」

57: 2008/12/30(火) 03:55:17.39 ID:GV1uYPd9O
「もう会えないの?」
「会えないでしょうね。同じ世界、同じ時代に生まれたこと自体が奇跡みたいなもの。
 それがもう一度巡り合うなんてことは……あり得ないの」
悲しくないわけではない。もちろん愛が消えたわけでもない。
あきらめ……が、一番近いだろうか。
そしてなによりも、自分が愛した少年は、自分が居なくなっても幸せになってくれただろうという自信があった。
あの少年は、別れの時にはもう弱く孤独な男の子ではなかった。
きっと素敵な女性を見つけ、幸せな家庭を築いてくれただろう。

60: 2008/12/30(火) 03:59:46.11 ID:GV1uYPd9O

「その人は、幸せになったのかなぁ」
「ええ、きっと……。今の話を聞いてもあなたはへんな子だと思う?」
少年は唇をかみ締めて首を振る。
「だけど」
緊張していた少年の表情が緩む。
「そんな人が居たんなら、僕じゃかなわないね」
「ふふ……」
それについては、真紅はそれ以上答えなかった。

82: 2008/12/30(火) 12:51:11.54 ID:GV1uYPd9O


真紅が昔話を聞かせてからというもの、少年は以前のように真紅と親しく接するようになった。
そこにまだ恋愛感情は残されているのかはわからないけれど、少なくとも距離があるときよりも幸せだ、と真紅は思う。
ああ、なぜ自分がこの少年にこんなに心を開けたのか、今わかった。
「あなたはジュンに似ているのね」
少年の真紅に接するときの瞳が似ているような気がした。

84: 2008/12/30(火) 12:58:39.91 ID:GV1uYPd9O
「ジュン?」
「ええ。前に話したでしょう。私の昔のマスターよ」
「その人、ジュンっていうんだね」
「そうよ、名前は言ってなかったかしら」
「うん。よかったら、もう少しその人の話を聞かせて」


真紅は語った。
ジュンのどこが好きだったか、どんな姿形で、どんな話し方をするのか。
自分が何をしてもらったか、何をしてあげたか。
少年はうんうん、と逐一頷きながら聞いてくれる。
久しぶりに心が軽くなっているのを真紅は感じていた。

85: 2008/12/30(火) 13:07:44.06 ID:GV1uYPd9O

語りながら、あんなことがあった、こんなこともあったと、記憶は次から次へと掘り下げられていく。
どれくらいの間話し続けていただろう?
ふと我に返って真紅は頬を赤くする。
「ごめんなさい。子供みたいに話してしまったわね」
少年はなにかつっかえた表情で真紅を見つめていた。
「どうかした?」
なにが引っかかるのだろうか?
もしかして自分がつまらない話ばかりするから飽きられてしまったのだろうか?

86: 2008/12/30(火) 13:19:56.72 ID:GV1uYPd9O
「真紅……」
心配する真紅をよそに、少年は興奮を押し頃すような声で続ける。
「ジュンがもし生きてたら今何歳?」
「今が何年かわからないもの」
「今は……2084年だよ」
「そう。もし同じ世界の時系列なら、90歳くらいになるわね」
もうそんなになるのか。もしかしたら生きているかも知れない。
無限にある平行世界のうち、同じ世界に生まれる確立なんてないに等しいけれど。
「名前はなんだっけ!?」
「ちょっと落ち着きなさい。ジュンよ。桜田ジュン」

87: 2008/12/30(火) 13:26:20.93 ID:GV1uYPd9O
少年の顔がなんとも言えない表情になる。
まさか。そんな。
ありえない。




「それ……おじいちゃんの名前だ」

88: 2008/12/30(火) 13:35:04.45 ID:GV1uYPd9O



少年に連れられて訪れた、町外れの小さな人形屋。

DOLLSHOP 【crimson】

「ここだよ」
Crimson……真紅。ここにジュンが居る。
アンティーク調のドアにはCLOSEDの文字。
少年は店の前で立ち止まる。
もう少し喜んでくれても良さそうなものなのに、どこか浮かない顔で腕の中の真紅に視線を落とす。

90: 2008/12/30(火) 13:44:37.09 ID:GV1uYPd9O

「どうして、もう少し早くめぐり合えなかったのかな」
少年の言っていることがわからない。
数十年来の再会だけでも奇跡に近いと言うのに。
これ以上一体なにを望むことがあるだろうか。
この時代に目覚めて、本当によかったと思っていたところなのに。
ところが、少年の口から次に出て来た言葉は、真紅の心を揺らがした。
「おじいちゃんはもう、真紅を見てもわからないと思う」

93: 2008/12/30(火) 13:55:13.71 ID:GV1uYPd9O
老人性認知症。
記憶障害、徘徊、幻覚。
これが今の状態なのだそうだ。

カランカラン

ドアのベルの音色さえ物悲しく聞こえる。
もしジュンが自分のことをわかってくれなかったらどうする。

「おばあちゃん!」

96: 2008/12/30(火) 14:06:22.88 ID:GV1uYPd9O
店の奥から腰の曲がった老婆が顔を覗かせた。
印象的な瞳の下のほくろ。
「あ……」
やっぱり、間違いない。
期待と不安が膨らむ。
「真紅ちゃん?」
ああ、なんて懐かしい。
遠い昔、自分が生きた時代の名残がいまここに。
どちらからともなく手を伸ばし、巴の腕に真紅は抱かれる。
遠く失われたはずだったあの日々が帰ってくる。

94: 2008/12/30(火) 14:00:47.21 ID:GV1uYPd9O
しばらくの間言葉もなく、巴は真紅を抱きしめてくれた。
腕から離れると、真紅は決心をもって口を開いた。
「ジュン……ジュンに会わせてちょうだい」
顎が震える。
「ええ。あの人は奥に居るわ」
巴は優しく微笑みかけ、店の奥を指差す。
「会ってあげてちょうだい」
この時の巴の言葉で、真紅は迷いを振り払った。
たとえジュンが自分のことがわからなくなっていたとしても、二度と叶わないと思った再会が果たされるのだから。
あの時言えなかった言葉を、伝えよう。
「僕はここでおばあちゃんと待ってるよ」
少年なりの気遣いだったのだろう。
真紅は奥の部屋へと歩を進めた。

98: 2008/12/30(火) 14:11:25.53 ID:GV1uYPd9O
「見つからない……見つからない……」

再会。
やせ細った身体、光をなくした瞳。
口元から垂れる涎。
変わり果てても、愛しき人。
「会いたかった……」
揺れる膜がかかって視界がぼやける。
あんなにも会いたかった人が、今目の前に。
「う……う……」
ぽろ、ぽろ
零れる。
「うわぁぁ!ジュン!!じゅんんん……!!」
ぎゅ。
「うえぇぇん……!!」
「あぁ、こんにちは」

100: 2008/12/30(火) 14:18:30.58 ID:GV1uYPd9O
まるで子供のような屈託のない微笑みをくれる。
そして真紅から興味をなくし、再び部屋中を探し始めた。
「う、うぅ……ふ……ぐ……」
良い。覚悟はしていた。
「見つからない……見つからない……どこにいったんだ」
ジュンは懸命になにかを探していた。
一体何を?
「ジュン、一体なにをさがしているの」
「見つからないんです……」
「何が?あなたは何を探しているのジュン」
「ずっとさがしているのに……見つからない」

102: 2008/12/30(火) 14:22:32.32 ID:GV1uYPd9O
「見つからない……急に」
急に?
「急になくなった……僕の……」
ジュンはしきりに左手を気にしている。
ああ、そんな。真紅はようやく気付いた。
指輪を探しているのだ。
「ジュン。指輪なのね?指輪を探しているのね?」
「見つからないんだ……」

103: 2008/12/30(火) 14:25:47.40 ID:GV1uYPd9O
―――――――「そう、指輪。これ、結婚指輪だな」
どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。
約束したのに。あんなに幸せだったのに。
時間は、無情にも真紅の中から生きたジュンの記憶を奪っていた。
「ごめんなさい、早く気付いてあげなくて」
「見つからない……見つからない」
何を言ってももうジュンの耳には真紅の声は届いていないのかも知れない。

104: 2008/12/30(火) 14:28:31.26 ID:GV1uYPd9O
届いていたとしても、ジュンが正常に反応してくれることはないだろう。
それでも良い。
探し物を見つけさせてあげよう。
「ジュン、左手を出してちょうだい」
「おや?こんにちは」
笑いかけてくれるジュンの左手を掴む。
すっかり変わってしまった。
けれど、あの頃自分を抱いてくれた感触は変わっていない。
皺だらけの手に頬を寄せる。
愛しいその手のひらで顔を覆う。
寄せ合わせた手と頬の間にはもう埋めようのない距離があった。
かつてここには、二人で笑いあった結婚指輪。
「私の大好きなジュン」

107: 2008/12/30(火) 14:31:56.37 ID:GV1uYPd9O
ジュンが屈みこんで真紅を抱き上げた。
……あの頃の抱き方のままで。
最近少年に教えた、あの抱き方で。
こう抱きなさい、と教えたあの抱き方で。
「え?」
視線は確かに真紅をとらえ、あの頃のままの輝きを感じさせる。
「そんな……あなた、記憶が戻ったの……?」
ジュンは応えない。
ただなにかを思い出そうとするように、ひたすら真紅を見つめる。
真紅もジュンを見つめ返す。
「私が……わかるのね……?」
「……見つからない……」

109: 2008/12/30(火) 14:33:33.85 ID:GV1uYPd9O
愛した人の唇に、左手を近づける。
「さぁジュン。探し物を見つけましょう」
かさかさに乾いてしまった唇で、微笑みあう二人の指に光を繋ぐ。
遠い昔に抱き合って交わした口付けには程遠いけれど、それでも甘く愛しいキス。
どこか寂しい静寂の中、再契約の儀式は進められる。
ジュンの左手は弱々しく輝き、指にはあの日の結婚指輪が。
「あなたが探していたのは、これでしょう?」
真紅の濡れた頬に手を添えて名前を呼んでくれる。
あの頃の二人の静かな幸せを懐かしむように。
ふたたび契約で結ばれた二人は思考を共有し、同じ光景を思い浮かべた。
遠い日の幸せを。

111: 2008/12/30(火) 14:35:39.76 ID:GV1uYPd9O
語らず、それでも愛はそこにあった。
やがて、共有していた二つの思考のうち一つが衰え始める。
思い出の光景が静かにぐにゃりと歪む。
不思議と、真紅の心に焦りはなかった。
ただ穏やかに、あの日言えなかった言葉を。
ああ、いつの間にか窓の外は牡丹雪が降っている。
流れ出る涙を止めることは出来ない。

115: 2008/12/30(火) 14:40:03.99 ID:GV1uYPd9O
小さな頬を鴇色に染めて、真紅は涙を拭う。まるで子供のように。
静かに零れていた涙はやがて嗚咽を伴い、真紅は言葉を紡げなくなる。
そんな真紅の心を知ってか知らずか、ジュンは諭すように真紅の頭を撫でた。
優しい手。優しい人。
「……いい子ね、ジュン」
最後に、あの時言えなかった言葉を。

「ジュン。今まで愛してくれて、ありがとう」







暮色の町並み。
降り続く牡丹雪と、昇っていく白い吐息。
……別れの日は、雪だった。

117: 2008/12/30(火) 14:42:23.22 ID:GV1uYPd9O


――――――
「真紅、これはどうだろう」
青年は作り終えた人形用のドレスを真紅に見せる。
その瞳はかつて真紅に告白した在りし日のまま、穢れはなく、夢を見る子供の瞳だった。
「まぁ、また腕があがったわね。すばらしいわ」
えへへ、と笑う青年。
彼は祖父の背中を追いかけ今も夢の実現のために日々努力を重ねている。
「まだまだおじいちゃんには適わないけどね」
「ふふ」

118: 2008/12/30(火) 14:43:44.78 ID:GV1uYPd9O

いつだっただろう。
遠い日にジュンが語っていた夢。
――――――いつか、お前に似合う綺麗なドレスを作ってやるよ
――――――そしたら、それを着て結婚式をしようか
夢の半分は達成された。
もう会えないとわかっていても、ジュンはその愛と夢を形にしていてくれた。
残り半分は……。
そんな事を思いながら、真紅は青年の背を見つめる。
「いつか、おじいちゃんが作った真紅のドレスを超えてみせるよ」
「あなたに出来るかしら?」
「出来るよ!だって僕は、マエストロの孫なんだから」
「そうね。頑張って」

ジュンの遺愛を身に纏い、真紅は紅茶をすする。
いつかは終わる幸せを、精一杯にかみ締めながら。

119: 2008/12/30(火) 14:45:33.69 ID:GV1uYPd9O
Fin

120: 2008/12/30(火) 14:46:02.70 ID:C0iDThQE0

123: 2008/12/30(火) 14:48:57.30 ID:GV1uYPd9O
久々に地の文書いたらgdgdになってしまいました。
投下の順番間違えたりとか。申し訳ありません。
読んでくれてありがとうございました。

129: 2008/12/30(火) 14:54:22.78 ID:GV1uYPd9O
>>125
ぷん太のにゅーすにはいくつか載せて貰ってます。主に変態。
ローゼンだと水銀燈がMだったり翠星石のお留守番の話だったり。
あんまり言うと宣伝になっちゃうので

引用: 真紅の昔話