1: 2009/04/19(日) 21:36:21.59 ID:kh7Gs5zO0
暗闇の中で目が覚めた。
真紅は、自分の上に覆いかぶさっている蓋を押して、鞄を開く。
辺りを見回すと、まだ閉じたままの鞄が2つ。
薄暗い室内で壁にかかった時計に目をやると、まだ6時前だった。
「変ね、いつもより早く起きてしまったわ…」
首をかしげながらも、真紅は台を使ってドアを開け、リビングへと下りていく。
リビングからはすでに美味しそうな匂いが漂ってきていた。
のりがもう朝食の準備をしているのだろう。
ドアを開けると、のりがそれに気づいて声をかけてきた。
「あらぁ、真紅ちゃん今日は早いのねぇ」
「えぇ、たまたま目が覚めてしまったのだわ」
今日も平和な1日が始まる。
ローゼンメイデン 愛蔵版 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
2: 2009/04/19(日) 21:42:17.99 ID:kh7Gs5zO0
ステンドグラスから差し込む光で目が覚めた。
水銀燈はゆっくり起き上がると、軽く伸びをする。
鞄で眠れないようになって以来身体がだるくてしょうがない。
メイメイとレンピカが寝てる間も翼の治療に専念してくれているようだが、
一向に回復の兆しは見えて来なかった。

礼拝堂の入り口から外の様子を伺う。
中庭には人影がまばらに見えるが、時計の針はまだ8を少し過ぎたばかりだった。
水銀燈は人に気づかれないように礼拝堂の裏手に回ると、
そこから1つの病室を目指して飛び立った。

4: 2009/04/19(日) 21:46:57.37 ID:kh7Gs5zO0
>>3 人来てくれてよかった

水銀燈はいつものように窓から病室の中を覗く。
看護師はいないようだ。
「めぐ、今日も来てあげたわよ」
窓枠に降り立ち声をかけるも、
ベッドに横たわる彼女からいつものような明るい声は返って来ない。
「めぐ……?」
そのかわりに身体いっぱいに冷や汗をかき、苦しむ彼女の姿が目に入る。
「……うっ…うぅぅ…」
「めっ、めぐ!?」
息は荒く、ぎゅっと身を堅くして胸を押さえている。

――発作だ。

昨日まで全然そんな兆しは見えなかったのに、
病魔は確実にめぐの身体を蝕んでいた。
苦しそうに呼吸をし、薄く開いた目から涙が滲んでいる。
「水銀と…お願い……連れてっ…て…」
水銀燈は顔を背けると急いでナースコールを押し、
ベッドの下に隠れて様子を見守った。

6: 2009/04/19(日) 21:49:13.80 ID:kh7Gs5zO0
めぐはあっという間に集中治療室へと運ばれていった。
医師や看護師が慌しく走り回り、
めぐの身体には多くのチューブが繋がれていく。



どれくらい経っただろうか。
相変わらず慌ただしく動き回る医師達の許へ1人の男がやってきた。
「先生、娘は…」
医師は男に気づくと、
一瞬躊躇った後に首を左右に振った。
「大変危険な状態です。
 今すぐどうこうという事はなくとも、3日保つかどうか…。
 私共も全力を尽くしていますが、覚悟だけはしておいてください」
「そうですか……とうとう…」
「先生!お願いします!!」
「今行く」
看護師の呼ぶ声に答えると、男に向かって軽く会釈をし、
医師はまた慌しく動き始める。
その場にへたりと膝を着き、顔を覆って泣き出した男を、
紫色の発光体だけが見つめていた。

7: 2009/04/19(日) 21:53:09.27 ID:kh7Gs5zO0
めぐが氏ぬ。
心臓に病を抱える彼女の命がそう長くない事は、
とっくの昔に理解していた。
理解はしていたが、
毎日めぐと会っていた水銀燈には全くリアリティのない話だった。
昨日だって、いつものように歌を聞かせてくれて、
楽しそうに笑っていたのだ。
それがめぐが、めぐの命が、
こんな急に、消えてしまいそうになるなんて。

ごしごしと右手で目を擦ると、
水銀燈は肥大化し、折れ曲がった翼を不器用に畳み、
nのフィールドへ向かった。

8: 2009/04/19(日) 21:56:45.55 ID:kh7Gs5zO0
「ジュン、早くお茶を淹れてきて頂戴」
「はいはいはい」
「はいは1回よ」
「はーい」
ジュンは馴れた手つきで紅茶を淹れる。

薔薇園で蒼星石がローザミスティカを奪われてから数週間が経っていた。
あれ以来、起きた事と言えば桜田家にタムロする人形が1体増えたくらいで、
今日のようにただお茶を飲み、
くんくんを見るだけの平穏な日々が続いている。

12: 2009/04/19(日) 21:59:29.26 ID:kh7Gs5zO0
「ほら、できたぞ」
ジュンはソファに座って番組が始まるのを待っている真紅の許に紅茶を運んだ。
そして自分も真紅の横に腰を下ろす。
「真紅、スコーンもあるですよ」
「あら、ありがとう翠星石」
キッチンでのりに教わったお菓子作りをしていた翠星石も、
ソファにやってきてジュンの隣に座った。
「チビ人間もっとつめろですぅ!光の反射で画面がよく見えんですぅ!」
「へいへい」

憎まれ口ばかり叩き気丈に振舞ってはいるが、
それが空元気である事をジュンは知っていた。
今までずっと一緒だった双子の妹蒼星石。
彼女を失ってしまった傷が簡単に癒えるわけもなく、
今でもたまに、深夜に鞄の中で声を押し頃して泣いているのが聞こえる。
ジュンはそっと翠星石を抱っこすると、自分の膝の上に置いた。
「なっ…えっ……!」
「ほら、これで見えるだろ」
ジュンはわたわたと暴れる翠星石を無視してテレビの画面を見つめる。
視界の端に、こちらを睨む真紅を一瞬捕らえたような気もするが、
今は気にしない事にした。

13: 2009/04/19(日) 22:03:31.19 ID:kh7Gs5zO0



「来週も、よろし~くんくん!」
「くんくん!
 さぁ翠星石、もう番組は終わったのだからジュンの膝から早く降りなさい」
くんくんが終わると、
そう言って真紅は自分もソファーから降り、辺りを見回した。
「あら、そういえば雛苺はどうしたの?」
「チビチビならさっきジュンの部屋にクレヨンを取りに行ったですよ」
名残惜しそうにジュンの膝から降りながら翠星石が答える。
「そう。くんくんよりもお絵かきだなんて、まだまだ子供ね」
ため息を吐きつつ、真紅が懐中時計を見ると、
針はそろそろ3時を指そうとしていた。
もう2時間もすればのりが帰ってくるが、
それまではそれぞれが思い思いに過ごす。
「あっ、キッチンの片付けをしないと!」
「じゃぁ僕も晩ご飯まで通販してくるか」
翠星石はまたキッチンへと駆けて行き、
ジュンは自室へと戻って行った。
特にする事がなくなってしまった真紅もとりあえず読書をする事にして、
ふうとため息をもう1つ吐くと、本を取りに鏡のある部屋を目指す。

「ジュン…あの子には1度下僕としての立場をわからせてあげなきゃ…」
真紅がぶつぶつと独り言を呟きながらリビングを出ようとしたその時、
「いやぁっ、ジュン!真紅!」
雛苺の悲鳴が聞こえた。

15: 2009/04/19(日) 22:07:08.81 ID:kh7Gs5zO0
「お久しぶりねぇ、真紅」
「水銀燈……」
悲鳴が聞こえた鏡の部屋に3人が急いで駆けつけると、
そこには水銀燈と震える雛苺がいた。
辺りには黒い羽根が散らばっており、
苺わだちが雛苺の前に壁を作りそれを防いでいた。
「何の用ですか水銀燈!」
「あらぁ、翠星石じゃないのぉ……蒼星石が独りで寂しいって言うから、
 あなたのローザミスティカもいただこうかと思ってぇ」
クスクスと笑う水銀燈を、翠星石がキッと睨む。
「スィドリーム!」
翠星石は如雨露を出すと水銀燈に飛び掛って行った。
しかし水銀燈は後ろに跳び軽々と翠星石をかわし、鏡の中へと入っていく。
「ふふ、いらっしゃぁい。ジャンクにしてあげる」
そう残して、水銀燈は鏡の中へ消えた。
「真紅!」
「えぇ、行きましょう翠星石、雛苺。ジュン、一緒に来てくれるかしら?」
ジュンが首肯すると、3人も水銀燈を追って鏡の中へ消えた。

16: 2009/04/19(日) 22:11:08.93 ID:kh7Gs5zO0
「ホーリエ!」
「くっ……!」
形勢は明らかにこちらが有利だった。
前回の傷が癒えていない手負いの水銀燈相手にこちらは3人がかり。
さらにミーディアムであるジュンがいる。
それでも水銀燈は必氏に真紅達の攻撃を避け、
執拗なまでに雛苺を狙ってきた。
「いやっ、真紅ぅ!」
「弱い者いじめだなんて、嫌な趣味してるわね水銀燈」
「ふん、あなたの犬のお人形趣味に比べればましよ……レンピカ!」
レンピカが飛んで来るのを避けて真紅が薔薇の花弁を放ち、
翠星石がさらに追い討ちをかける。
「蒼星石のレンピカを勝手に使うなです!」
如雨露の水がまかれた場所から伸びたツタが水銀燈を追う。
水銀燈は2人の攻撃に挟み撃ちにされ、
翼で身体を庇うもそのまま壁に叩きつけられた。
「うっ……流石にキツイわね…それならぁ…」
「まだですよ!」
翠星石のツタがなおも水銀燈に向かって伸びる。
「ちっ、そんな木ぃ!」
水銀燈は不器用に翼を羽ばたかせ燃える羽根を飛ばす。
「燃やしてあげるわ!」
水銀燈の放った羽根は伸びてきたツタの勢いを止め、
木の根元付近にいる翠星石にも迫った。
「きゃぁ!」
急いで飛び退いたものの、何本かがドレスを掠り、
翠星石は燃え移った火をパタパタと叩いて消した。

17: 2009/04/19(日) 22:14:07.01 ID:kh7Gs5zO0
「ふふ、やぁっぱりお馬鹿な妹に似てあなたもお馬鹿さんねぇ」
「なっ…!」
水銀燈はからかうようにクスクスと笑う。
「手加減なんかして、私に敵うと思ってるのぉ?」
「すっ、翠星石は本気ですよ!」
「あら、ごめんなさぁい。じゃぁやっぱり妹がいなきゃ大した事ないのねぇあなた」
「くぅ……」
「あなたみたいな出来の悪い姉を持って、
 蒼星石もさぞかし大変だったでしょうねぇ?
 ま、その蒼星石もお馬鹿なんだから世話ぁないけど」
「そっ、蒼星石はお馬鹿なんかじゃないです!」
「お馬鹿じゃなかったら大馬鹿かしらぁ?自滅して勝手に氏んじゃうなんてねぇ…あははは!」
水銀燈が馬鹿にしたように笑うと、
翠星石は肩を震わし、唇を噛み締める。
「どうしたのぉ?大馬鹿蒼星石のお姉ちゃん」
とうとう我慢の限界が来たのか、
翠星石がその目にはっきりと憎しみを湛えて水銀燈を睨む。
「水銀燈……!許さんですよ!」
そしてそのまま、如雨露を構え、1人で水銀燈へと突っ込んで来た。

21: 2009/04/19(日) 22:18:36.90 ID:kh7Gs5zO0
「翠星石!水銀燈の挑発に乗ってはダメよ!」
そう叫ぶ真紅の声も翠星石の耳には届いてないようだ。
「スィドリーム!」
翠星石が叫ぶと辺りはあっという間に霧に包まれた。
「翠星石ダメなのよ!」
雛苺が翠星石がいた方向へと駆け出したものの、
すぐに霧に隠れて見えなくなる。
水銀燈は霧から抜け出そうと後方へと飛び退くが、
次の瞬間四方八方からツタが襲い掛かって来る。
「ちぃ、妹がいなきゃ何もできないくせして…!」
媒介の力と怒りとで威力を増した攻撃に一瞬怯んだものの、
それでも水銀燈は逃げ道を見つけ、襲い来るツタを次々に避けた。



しばらく経つと、消耗の為か、霧がだんだん薄くなっていく。
しかし、一向に姿の見えない翠星石を警戒して気を張り巡らす。
その時背後に気配を感じ、水銀燈は反射的に翼で身体を守った。
そして、鈍い衝撃を感じると同時に羽根を散らし、
相手を絡めとる。
「ふん、惜しかったわねぇ」
視線の先には肩で息をしている翠星石がいた。

23: 2009/04/19(日) 22:21:28.96 ID:kh7Gs5zO0


一気に霧が晴れて行く。
雛苺が顔を上げると、少し離れたところに羽根で磔にされた翠星石が見えた。
「最初の勢いはどうしたのぉ?」
そしてその向かい側には水銀燈が微笑みながら浮いていた。
「翠星石ぃ!」
「チビチビ……」
叫びながら駆け寄るも、翠星石は首を動かす事すらできず、
目だけを雛苺に向けた。

「あらぁ、ついてるわぁ」
「チビチビ、逃げ…る……ですぅ…」
「嫌よ!翠星石は雛苺が守るんだからぁ!」
雛苺が手を前に出すと、苺わだちが水銀燈に向かって伸びる。
しかし、ちゃんとした契約主のいない雛苺のそれは簡単に避けられてしまう。
「ジャンクはそこで指を咥えてジャンク仲間が増えるのを見てなさぁい」
水銀燈はクスクスと笑うと翼を広げる。
「させないわっ…!」
雛苺は叫ぶよりも早く苺わだちで翠星石の前に壁を作る。

そして、水銀燈の翼から羽根が放たれた。

26: 2009/04/19(日) 22:24:28.54 ID:kh7Gs5zO0
「…ぅえ?」
全身に鋭い痛み。
無傷の苺わだちがへなへなと萎れていく。
視線を下に向けると、
自分の全身に黒い羽根が刺さっているのが見えた。
「チビ、チビ…!」
「あらぁ、ごめんなさぁい」
水銀燈がわざとらしく驚いたような顔をする。
「私ってば、ノーコンだからぁ」
そして、ニヤリと笑った。
「あっ…や……ッ」
「ごめんなさいねぇ、今楽にしてあげるから…」
水銀燈が歩み寄って来る。
「水ぎ…と……、やめてぇ…」
「やぁよう翠星石……もう時間がないもの…」
「あぁッ…お願……い」

翠星石の懇願する声にも耳を貸さず、水銀燈は翼を構えた。

27: 2009/04/19(日) 22:27:51.03 ID:kh7Gs5zO0
「チビチビ!チビチビぃ!」
「翠星…石……ヒナはいいから、早く…真紅と……逃げ――」
言い終わらない内に、黒い羽根がシュッと風を切って雛苺の左胸に刺さる。
一瞬大きく見開かれ、そして静かに閉じられる緑色の瞳。
「おやすみなさぁい、雛苺」
「あっ…あっ……」
動かなくなった雛苺の身体を離れ、
ふわふわと宙に浮くローザミスティカ。
その光景が、薔薇園での蒼星石とかぶる。
「嫌……もう嫌ぁ……チビチビぃ……」
水銀燈はローザミスティカを飲み込むと、
ゆっくりと振り返って告げる。

「順番が逆になっちゃったけど……次はあなたの番よ、翠星石」
大粒の涙を流して泣く翠星石とは対照的に、水銀燈は、笑っていた。

29: 2009/04/19(日) 22:32:16.28 ID:kh7Gs5zO0
「ローズテイル!」

突然紅い薔薇の花びらが尾のように水銀燈に襲い掛かる。
瞬時に翼で身体覆うも、激しい衝撃に目を瞑る。
衝撃が止んでから目を開けると、翠星石が羽根から解放されていた。
ジュンが動かない雛苺を抱き上げる。
「くっ、真紅ぅ!」
「翠星石、逃げるわよ!」
人工精霊が紅い閃光を放ち、
水銀燈がもう一度閉じた目を開ける頃には、3人はいなくなっていた。


――――…


ゴンッ、と物置に鈍い音が響く。
「いてっ!」
「ホーリエ!」
上手く受身を取れず頭を床にぶつけたジュンの横で、
真紅が物置部屋の鏡を割る。
「ジュン!早くパソコンの液晶も!」
真紅のとんでもない言葉に一瞬躊躇ったが、
ジュンは自分の部屋へ駆け上がるとパソコンのディスプレイを床に叩き付けた。

31: 2009/04/19(日) 22:34:33.20 ID:kh7Gs5zO0


「とりあえず落ち着きましょう。ジュン紅茶を」
真紅に言われてジュンが立ち上がり、紅茶を炒れ始める。
6人掛けのテーブルには空席が4つ。
動かなくなった雛苺はテーブルの上、開いたままの鞄の中に寝かされている。
ヤカンを火にかけたその瞬間、ガシャン、とガラス窓の割れる音。
驚いてリビングを振り返ると、
そこには第2ドールの金糸雀がいた。
「真紅!雛苺は!」
翠星石がビクッと身を堅くする。
一瞬の沈黙の後、金糸雀の目がテーブルの上の雛苺を捕らえた。
「そんな…ッ…」
金糸雀はそれきり黙り込んでしまい、
リビングは重苦しい静寂に包まれた。



目を疑いたくなるような光景だった。
動けない翠星石の目の前で、
水銀燈に吸い込まれていく雛苺のローザミスティカ。
いつかの薔薇園の時と同じ光景。
翠星石はどんな気持ちでそれを見ていたのだろうか。

自分と真紅がもっと早く駆けつけていれば助けられたのではないか。
ジュンは自責の念でいっぱいになる。

33: 2009/04/19(日) 22:36:53.43 ID:kh7Gs5zO0
ピーッとヤカンが音を鳴らす。
ジュンがはっとして急いで火を消すと、
翠星石がそっと話し出した。
「……翠星石のせいです」
そう言った瞬間目にうるうると涙が滲み始める。
「翠星石が水銀燈の挑発に乗ってしまったから、
 チビチビは…雛苺は……う、うぅ…」
「翠星石…あまり自分を責めないで」
真紅が優しい言葉をかけるが、翠星石はいやいやと顔を振って続ける。
「だって、雛苺は翠星石を庇おうとして……
 翠星石が1人で突っ込まなければ…翠星石が負けなければ……
 また妹が翠星石のせいで……氏んでしまった…う…うっ……」
そして、わぁっと泣き出してしまった。
「翠星石…」
真紅がギュッと抱き寄せる。
それでも翠星石の泣き声は止まない。

34: 2009/04/19(日) 22:39:25.28 ID:kh7Gs5zO0
ジュンがチラッと金糸雀を見やると、
彼女は拳を握ったまま下を向いていた。
小さな肩がカタカタと震えている。
「金糸雀」
「ふぇ!?」
声をかけると金糸雀はビクッと顔を上げ、裏返った声で返事をした。
目が赤い。
「そういうわけだから、今は皆でまとまってた方が安全だ。
 今日は泊まっていけよ」
「わ、わかったかしら……ちょっと電話をお借りするかしら…」
金糸雀を電話まで案内して椅子に乗せてやるとジュンは窓の外を見た。
西の空から黒い雲がもくもくと空を覆い始めていた。
「姉ちゃん、早く帰って来ないかなぁ…」
無意識に、そう呟いた。

35: 2009/04/19(日) 22:42:14.57 ID:kh7Gs5zO0
「……?みっちゃん電話に出ないかしら…さっきまで家にいたのに…」
受話器を片手に首を傾げる金糸雀。
「みっちゃん?」
「カナのマスターかしら」
「ふーん…まぁ出かけたのかもしれないし、また後でかけてみよう」
「そうするかしら」

リビングに戻ると、翠星石がまだ泣いていた。
泣いている彼女にどんな言葉をかければいいのか、
ジュンには想像もつかない。
ただその場で立ち尽くしていると、ガチャリと玄関の開く音がした。

37: 2009/04/19(日) 22:45:22.32 ID:kh7Gs5zO0
のりが帰って来れば翠星石も少しは落ち着くだろうと考えていたジュンだったが、
その期待は見事に裏切られ、泣き声がさらに一つ増す。
ジュンはため息を吐く。
「そんな……ヒナちゃんがぁ…うぅ…」
「姉ちゃん、1番辛いのは真紅達なんだから、
 僕達がしっかりしなきゃダメだろ」
「だって、だってぇ…」
「ったく…晩ご飯は僕が何とかするから、
 姉ちゃんは真紅達と一緒にいてあげて」
「うぅ…」
そう言って3人をのりの部屋へと向かわせる。
「真紅」
リビングから出て行き際に声をかけると、
真紅がドアに手をかけたまま振り向いた。
「お前も我慢してないでちょっとくらい甘えていいんだからな」
「……ありがとう、ジュン」
そう言い残して、真紅はパタンとドアを閉めた。

39: 2009/04/19(日) 22:48:14.33 ID:kh7Gs5zO0
キッチンに漂う玉子焼きの甘い匂い。
ジュンと金糸雀が晩ご飯を作っていた。
ジュンが出前を取ろうと電話帳をめくっていたら金糸雀が近づいてきて、
自分が作ると申し出たからだった。

「いや、一応お客さんだし、悪いよ」
「でも……何かしてないと泣きたくなっちゃうし…」
俯いて泣き出しそうになる金糸雀を見て、ジュンは焦って会話を続ける。
「いやっ、ほら、でも金糸雀に料理なんてできるのかなーなんて」
「なっ、失礼しちゃうわ!みっちゃんを手伝ってるから少しくらいはできるかしら!」
目は少し赤かったが、頬を膨らませて怒る金糸雀を見て少し安心した。
「悪かった悪かった。じゃぁお願いしちゃっていいか」
「任せとくかしら!…あ、でも火を使う時はジュンにお願いしたいかしら…」
「結局僕も手伝うのか…」
「……カナだって」
「え?」
急にトーンの変わった金糸雀の声に、
手を洗おうと蛇口に手をかけた体勢のまま振り返る。
「カナだって皆の助けになりたいもの」
自分を真っ直ぐ見つめる緑色の瞳。
「……よし、じゃぁとびきり美味しい晩ご飯作ってあいつらびっくりさせてやるか」
「かしら!」
ジュンがそう言うと金糸雀が笑顔で答え、
つられてジュンも笑顔になる。

子供っぽくても、やっぱり金糸雀は皆のお姉ちゃんだった。

41: 2009/04/19(日) 22:51:08.18 ID:kh7Gs5zO0


桜田家への入り口を閉ざされてしまった水銀燈は、
雛苺のローザミスティカの力だけでもと、1度病院へ戻っていた。

そっと集中治療室を覗くと、
ピッ、ピッ、と規則正しい機械の音が聞こえるだけで、
看護師達の姿は見えなかった。
水銀燈は部屋の中に入ると、そっとめぐに近づき、
左手に自分の左手を合わせる。
その途端、桃色の光がめぐを包む。

ゆっくりとめぐの目が開く。
「すいぎん…と…?」
「めぐ、ごめんね、もうちょっとだけ待ってて…」
「ま、待って、行かないでっ」
「もう、すぐだから…」
そう言って水銀燈はゆっくりとめぐから離れ、
部屋の外へ消えていった。

42: 2009/04/19(日) 22:52:06.42 ID:kh7Gs5zO0
「あれ?あいつらは?」
リビングに入って来たのりを見てジュンが声をかける。
のりはそれにもじもじと申し訳なさそうに答えた。
「せっかくジュン君達が作ってくれたんだから食べましょうって声かけんだけどぅ…
 翠星石ちゃんは泣き疲れちゃったみたいで寝ちゃってて…
 真紅ちゃんも翠星石ちゃんが起きた時1人だったら寂しいだろうからって……」
「そっか、なら仕方ないな。あいつらと僕の分は冷蔵庫に入れといて」
「えっ?」
ジュンはのりが問い返すよりも早く、リビングから出ていった。

44: 2009/04/19(日) 22:55:04.09 ID:kh7Gs5zO0


「真紅、入るぞ」
声をかけてからドアを開くと、
大きな鞄の横に体育座りをしている真紅がこちらを見上げた。
「あら、お夕飯はもう食べたの?」
「……真紅、泣いてたのか?」
質問には答えずにジュンがそう聞くと、
真紅はハッとしてすぐに目元を拭った。
「質問を質問で返さないで頂戴!」
「あ、あぁごめん」
謝りつつ、ジュンも真紅の横に腰を下ろす。
2人の見つめる先には、翠星石の鞄。
「お前さ、何でもかんでも我慢しようとするだろう」
「え?」
急に話し出したジュンに少し驚く真紅。
「右腕がなくなった時も、
 蒼星石のローザミスティカを奪われた時も、それに今回も」
「ジュン…」
「皆の前では気丈に振舞って、自分も辛いくせに他のやつらを気遣ってさ。
 でも今は、その……僕しかいないんだからさ」
恥ずかしくないようにと思って真紅の顔を見ないでいたが、
予想以上の恥ずかしさに思わず顔が熱くなる。
それでもジュンは続けて話す。
「泣いたって……僕に甘えたって…いいんだぞ」

しばらくの沈黙。
返事がない。恥ずかしい。
ジュンは沈黙に耐えられなくなり、恐る恐る真紅の方に顔を向ける。
真紅は、ジュンを見つめながら微笑んでいた。

46: 2009/04/19(日) 22:57:10.65 ID:kh7Gs5zO0
「な、なんだよ…」
「あら、ごめんなさい。
 でも、やっぱりホーリエは間違ってなかったなって」
「どういう意味だよ?」
「ジュンも、我慢してるでしょう?」
そう言って真紅はジュンの手にそっと触れる。
「あなただって辛いはずよ。
 いつも一緒にいた存在が急に消えて、悲しくない人なんていないわ」
「……」
「でもあなたは私を、皆を気遣ってくれてる。
 自分が辛いのを我慢してね。
 それで、私達はやっぱり似てるんだなって思ったら、何だかちょっと嬉しくって」
「何がさ」
「ジュンは優しいもの。
 そんなジュンと私が似てるなら、私も皆にちゃんと優しくできてるのかなって、
 私の独りよがりじゃなくて、皆の助けになれてるのかなって、そう思えたのよ」
そう言ってニコッと真紅は笑った。
「それに私は諦めてないわ。きっと雛苺も蒼星石も呼び戻してみせる。
 だから……ありがとう、ジュン」
言い終わると、細くなった真紅の目からポロポロと涙がこぼれ出した。
「真紅……」
ジュンが真紅を抱き寄せると、真紅もジュンにぎゅっとしがみつく。
さっきまでの恥ずかしさなんて忘れて、真紅の背中を撫でてやる。
どんなに大人びて見えても、やっぱり真紅も、そしてジュンも子供だった。
ジュンは腕を真紅の頭に回して自分の胸に抱え込み、
顔を見られないようにして、声を押し頃して、泣いた。

47: 2009/04/19(日) 22:59:08.76 ID:kh7Gs5zO0


嫌な気分で目が覚めた。
辺りを見回すと、そこは西洋風の部屋。
一葉の屋敷の一室だった。
「あ、れ…何で翠星石はここに……おじじ?」
部屋には誰もいない。
急に心細くなって、扉に駆け寄って開く。
しかし扉の先は真っ暗闇で、翠星石は踏みとどまる。
すると、暗闇の向こうから近づいてくる足音が聞こえた。
「翠星石ぃ…」
「チビチビ!?」
それは紛れもなく雛苺の声だった。
だんだんと近づいてくる足音。
すぐ傍まで歩いてきてるように感じたが、
浮かび上がってきたのは雛苺の足だけで、足から上はすっぽりと闇に包まれたままだった。
「チビチビ…?」
「ヒナはね、翠星石のせいで氏んじゃったのよ。だからもう一緒にはいられないのよ」
「えっ?あっ……キャアアアッ!」
翠星石は足を滑らせて暗闇の中へと落ちていく。

50: 2009/04/19(日) 23:02:42.49 ID:kh7Gs5zO0

――やっぱり雛苺は自分を恨んでいた?

――雛苺を頃したのは私?

今まで忘れかけていた罪悪感がまた湧き出してくる。
それに呼応するように、暗闇の中に次々と水晶が現れ、そこにドールズや人間達の姿が映る。
「さようなら翠星石」
「翠星石ちゃんバイバイ」
「じゃぁねかしら」
「さようならだ」
「……や…いや……」
真紅、のり、金糸雀、一葉、と皆が次々と自分に別れを告げる。
そして最後の水晶に、鞄の隙間から覗くジュンの姿が見えた。
「ジュン…ジュン!」
「じゃあな、翠星石」
「いやっ…!」
翠星石の叫びも虚しく、パタンと鞄が閉じられた。

52: 2009/04/19(日) 23:04:56.40 ID:kh7Gs5zO0
また暗闇に戻った世界で、それでも彼らの声が響く。
「あいつのせいで雛苺が…」
「もう鞄から出さない方がいいわね」
「蒼星石だってあの子がぐずぐずしてたせいで」
「翠星石なんていらない」
次々と頭の中に入ってくる声。

――こんなのは嘘だ。

そう思いながらも、そのどれもが自分を傷つけ、苦しめる。
翠星石はただただ泣き続け、頬を大粒の涙が伝う。
「…かわいそうに……」
その時、聞きなれた、とても懐かしい声がした。
「僕が傍にいてあげる」
「そんな…!どうしてここに……」
暗闇に浮かび上がったその人形は、自分と逆色のオッドアイをしていた。

53: 2009/04/19(日) 23:06:43.37 ID:kh7Gs5zO0


雨の降る音で目が覚めた。
一瞬状況が飲み込めない。
そこはのりの部屋だった。
「……あぁ、昨日そのまま寝ちゃったのか」
昨日、あの後、真紅は晩ご飯を食べにリビングへ向かった。
真紅曰く、「翠星石が嫉妬するから」だそうだ……よくわからないが。

「翠星石も優しいあなたが大好きなのよ。
 それにせっかく金糸雀まで頑張ってくれたのだもの。
 金糸雀と一緒に食べたいわ」
そう残して真紅はドアの向こうへ消えていった。

ベッドを見ると、もうのりは起きてリビングへ行ったようだった。
ジュンのすぐ傍には閉じたままの鞄が2つ。
時計に目をやると、まだ5時を少し過ぎたところだった。
「さすがにこいつらはまだ起きる時間じゃないか」
ジュンはのそのそと起き上がると、早めの朝食をとりに自分もリビングへ向かった。

55: 2009/04/19(日) 23:08:20.68 ID:kh7Gs5zO0
「あら、ジュン君早いのねぇ」
「んー、おはよう」
リビングではのりがもう朝食の用意をしていた。
キッチンから漂う玉子の甘い匂い。
ジュンは食卓の椅子に腰掛ける。
「昨日部屋で寝ちゃって悪かったな」
「いいのよぅ、気にしないで。
 ところで、真紅ちゃんか翠星石ちゃんかカナちゃん、どこにいるかわからない?」
「ん?3人ともまだ寝てるんじゃないか?……あ…」
「そうよ、鞄が2つしかなかったじゃない。
 昨日は真紅ちゃんとカナちゃんを2人でジュン君の部屋に寝かせるのもなんだったし、
 皆私の部屋で寝たのよぅ」
「え?じゃぁ僕の部屋にいるとか…?」
「ジュン君様子見てきてくれないかな?」
「ん、わかった」
ジュンはそう返事をし、椅子から立ち上がる。
そして、ふと気づいて考える。
「……何でわざわざ鞄ごと…?」
その時、リビングのドアが勢いよく開いて、真紅と金糸雀が駆け込んできた。
「おう、起きたのか?」
「翠星石がいないわ!」
真紅は、髪が乱れてるのもおかまいなしに叫ぶ。
朝からキンキンと響く彼女の声に一瞬顔をしかめながらもジュンが答える。
「うん、だから今から僕の部屋でも探してこようかと思ってたんだけど……」
「違うのよ!のりの部屋にとかじゃなくて、」
嫌な予感が胸を過ぎる。
「この家に彼女の気配が感じられないのよ!」
静まり返るリビング。
雨の音だけが、やけに大きく聞こえた。

56: 2009/04/19(日) 23:10:30.80 ID:kh7Gs5zO0


「そ、蒼星石……?」
「そう、僕だよ、翠星石」
いつの間にか辺りはクリームのように真っ白な霧で覆われていた。
蒼星石が動いているというあまりにもおかしい事態に、翠星石はハッと我に返る。
この世界は最初からどこかおかしい。
翠星石にもここが自分の夢の中なのか、nのフィールドなのかの区別はつかなかったが、
明らかに自分のものとは別の意志が働いて作られている世界である事は間違いなかった。
翠星石は身構える。
こいつは蒼星石じゃない。こいつに心を許してはいけない。脳が警鐘を鳴らす。
しかし――
「どうしたの?僕は君を傷つけたりしない。
 だからほら、いつもみたいに……ぎゅうってして…?」
そう言ってニコリと微笑む蒼星石。
それを見た瞬間、頭よりも先に身体が動いてしまった。
「蒼星石、蒼星石ィ!」
脳の警鐘を無視して蒼星石の許へと駆け出す。
蒼星石に抱きとめられ、身体中に幸福感が満ちる。
もうこの蒼星石が偽者だろうと本物だろうとどうでもよくなってしまった。
「辛かったんだね、翠星石……」
胸に顔を埋める翠星石の頭を、蒼星石がよしよしと撫でる。
「でももう大丈夫。僕がずっと一緒にいてあげるから…ほら、顔を上げて?」
「蒼星石……んっ…!?」
蒼星石の優しい声に顔を上げた瞬間にそっと口付けをされ、思わず蒼星石の腕から逃れる。
「蒼星石!いくら仲がいいからってきっ、ききききすだなんて!」
「ふふ、だって僕は君が大好きだから…『お姉さま』」
ニヤリと蒼星石が笑った。

58: 2009/04/19(日) 23:11:38.13 ID:kh7Gs5zO0
ジュンが勢いよく自室のドアを開ける。
しかし部屋にある鞄は動かなくなった雛苺のものだけで、
翠星石の姿は見当たらない。
物置も、リビングものりの部屋も、家の隅々まで探すも、
どこにも翠星石はいなかった。
不安がだんだんと色を濃くしていく。
「……まさかあいつ責任感じて…」
「ありえる話ね……」
いつの間にか自分のすぐ後ろに立っていた真紅が言う。
「ジュン、nのフィールドを探してみましょう。
 水銀燈のところに向かってる可能性があるわ」
「わかった、じゃぁ金糸雀にも知らせて……」
「…そうね、その方がお互い安全かもしれない」

金糸雀が了承すると、
真紅はベリーベルをのりに預けて、
もし外で翠星石が見つかったら教えてくれるよう頼んだ。
そして、物置の割れた鏡を直すと、
3人はその中へと飛び込んでいった。

59: 2009/04/19(日) 23:13:41.74 ID:kh7Gs5zO0


「何だ…ここ……」
いざnのフィールドへと来てみると、
そこはキラキラと光る水晶が連なる透明な世界だった。
「こんなの初めてね……とにかく翠星石を探しましょう」
今までとは明らかに異質な世界に一瞬怯んだが、
一同は翠星石を探し始める。
しかしどれだけ進んでも、辺りの景色は一向に変わる気配がなく、
翠星石の気配も感じられないままだった。
「目がチカチカしてきたかしら」
「本当にこんなところにいるのかな……」
「でもうちにはいなかったし、
 nのフィールドに来てたとしたら一刻を争うわ。
 外はのりに任せましょう」
「一葉さんは電話に出ないし……性悪人形め、心配かけやがって…」
「……そういえば結局みっちゃんにも電話繋がらないままだったかしら」
「あれ、じゃぁ金糸雀のマスターに悪い事しちゃったな……ん?」
キラキラと反射する光の中に、一瞬人影のような物を見た気がして、
ジュンは目を凝らす。
すると、上の方にある水晶の中に確かに黒髪の女性がいた。
「人がいる!」
ジュンがその水晶を指差すと、金糸雀が驚きの声をあげた。
「み、みっちゃん!」
「何!?」
見えない何かに頬ずりをしているその女性は、
金糸雀のマスター草笛みつだった。

61: 2009/04/19(日) 23:15:46.16 ID:kh7Gs5zO0
「どうしてnのフィールドに人間が!?」
「……まずいことになったわ、ジュン…あれを見て」
「えっ……一葉さんまで!?」
真紅の指差す方向には、
2人がけのテーブルに1人で座ってお茶を飲む一葉の姿があった。
「金糸雀のマスターに、蒼星石のマスター。
 力の源であるドールのマスターが狙われている……。
 ジュン、貴方も逃げないと……!!」
返事をする前に真紅に突き飛ばされる。
地面に打ち付けた腰をさすりながら身体を起こすと、
ついさっきまで自分がいた場所に黒い羽根が数本刺さっていた。
「あらぁ、気づかれちゃったぁ……」
「人間を狙うのなんて、やっぱりあなたくらいよね、水銀燈!」
真紅の視線の先には、いつの間に近づいてきていたのか、水銀燈がいた。
「ふん、吠えられるうちに吠えてなさい。
 あなたはこれから、ジャンクになっちゃうんだか――」
「沈黙の鎮魂歌!」
ヴァイオリンの音色が聴こえたかと思った瞬間、
凄まじい突風が水銀燈を襲った。

62: 2009/04/19(日) 23:17:06.27 ID:kh7Gs5zO0
「くっ!金糸雀ァ!」
「クレッシェンド!」
「あっ!」
何とか耐えていた水銀燈だったが、
さらに強さを増した風に吹き飛ばされ、背面にあった水晶に全身を打ち付ける。
「水銀燈!カナのマスターを、みっちゃんを返すかしら!」
「誰よそれぇ…」
「返さないって言うなら力ずくででも……」
「意味わかんない事……言ってんじゃないわよぉ!」
水銀燈が翼を広げて金糸雀に飛び掛る。
奏でる間もなくヴァイオリンを弾き飛ばされ、
金糸雀は水銀燈に組み伏せられた。

66: 2009/04/19(日) 23:19:38.83 ID:kh7Gs5zO0
「ぐぅ……」
「マスターがどうなろうと知ったこっちゃないのよ。
 私にはマスターなんていないしねぇ」
「ローズテイル!」
真紅が放った薔薇を、水銀燈は金糸雀を盾にして防ぐ。
「危なぁい」
「金糸雀!」
「しん……く…」
真紅が叫ぶのを聞いて水銀燈は笑う。
「ふふ、真紅残念だったわねぇ……結局ジャンクが2人そろったところで、
 あんた達の3倍は強い私には敵わないのよぉ」
その時、突然自分の背後から声がした。
「なら3人そろったらどうです?」

67: 2009/04/19(日) 23:22:10.40 ID:kh7Gs5zO0
「なっ――」
わき腹に衝撃を受けて身体をくの字に曲げ、
水銀燈はまたも水晶に叩きつけられる。
水銀燈から解放された金糸雀に翠星石が駆け寄った。
「大丈夫ですか?金糸雀」
「翠星石!」
真紅とジュンも翠星石に駆け寄る。
「そういえばあなたもいたのねぇ…」
よろよろと水銀燈が立ち上がると、
翠星石が前に出た。
「翠星石……?」
「真紅、けじめは自分でつけるですよ」
「そんな!無茶よ!」
真紅の制止を無視して翠星石は如雨露を掲げ、
辺りを深い霧で包み込む。
「翠星石!止めなさい!翠星石!?」
深い霧の向こうへ声をかけるが返事はなく、
真紅の声だけが虚しく響き続ける。
その横でジュンは、指輪の異変に気づいていた。
「指輪が…熱くない……」

69: 2009/04/19(日) 23:24:11.04 ID:kh7Gs5zO0


四方八方から襲い来るツタを軽々と避け、
水銀燈は翠星石の気配を探っていた。
「1回失敗した戦法でこの水銀燈が倒せるとでも思ってるのぉ?」
ローザミスティカを3つに増やした水銀燈に、
ツタは掠りもせずに空を切る。
そして前回と同じように霧が薄れ始め、
自分の背後に気配を感じ、振り向いてそれの首を捕まえる。
「う゛っ……」
「つーかまーえたぁ」
そしてそのまま翠星石の背面の水晶へ叩きつける。
「貴女の霧のおかげで、今回も真紅はいないわよ?」
「ふふ……それで…いいのです……」
「あら、この期に及んで強がり?見苦しいわね」
「この期に…及んで…強がり?」
翠星石がニィッと笑う。
水銀燈の頬がピクリと跳ねる。
「……馬鹿にしてるの?」
「馬鹿に……してるの…?」
翠星石は笑うのをやめない。
「このッ!」
「このッ…?……ふふ」
水銀燈が怒りに任せて首を絞める腕に力を込めるも、
少しも苦しそうな顔をせずに翠星石は笑い続ける。
「舐めんじゃないわよ!」
怒りの限界を越えた水銀燈は手荒に翼から羽根を数本引き抜くと、
まとめて翠星石の咽に突き刺した。
その瞬間翠星石の身体から力が抜け、手足がだらしなく垂れ下がる。
それを確認して、水銀燈は安堵の息を吐いた。

71: 2009/04/19(日) 23:26:16.62 ID:kh7Gs5zO0
「はぁ、はぁ……何だって言うのよ…」
水銀燈は肩の力を抜き、呼吸を整える。
これで、ローザミスティカが4つ。
「あとは真紅と金糸雀とで6つ……6つ?
 じゃぁ7つ目は――」
「じゃぁ…7つ目は……?」
しかし水銀燈の思考は誰かの声に遮られる。
「えっ――!」
驚いて顔を上げると、
確かに頃したはずの翠星石が笑っていた。
「なっ……なんで…」
「ふふ……どうしたのですか?お姉さま」
思わず首から手を放し、後ずさる。
「いやっ…いやっ…」
「いやっ…いやっ……ふふふ」
目を覆いたくなるような光景だった。
羽根の刺さった咽の傷跡からゾワゾワと白い茨が生え出し、
じわりじわりと水銀燈へ忍び寄ってくる。
背筋がゾクリと凍りつく。

72: 2009/04/19(日) 23:29:04.64 ID:kh7Gs5zO0
「あっ、ああああああ!」
水銀燈は半狂乱で羽根を放ったが、
それも身体を一瞬後ろになびかせるだけに留まり、
翠星石はすぐにまた歩き出し、水銀燈に迫ってくる。
右の紅い瞳にはヒビが入り、左腕はだらりと垂れ下がっている。
それでも口だけに笑みをたたえ、翠星石は近づいてくる。
「いやっ……貴女…まさか第7……?」
「ふふ、いただきまぁす…お姉さま」
シュッと風を切る音がして、白い茨が水銀燈の咽を貫く。
激しい痛みにも声を出せず、うめき声のような奇声をあげる。
「あ゛っ、ぐぼ…う゛……」
茨はシュルシュルと自分の中に入り込んでくる。
視線の先には相変わらず笑ったままの翠星石。
「め゛、ぐっ……ご…べん…」
それを最後に水銀燈の視界は暗転した。

74: 2009/04/19(日) 23:31:30.79 ID:kh7Gs5zO0


視界が晴れていく。
ジュンと金糸雀の姿が見える。
「霧が……消えてく…まさかあいつ…」
「えぇ、翠星石のローザミスティカは器を放れたわ」
「……くそっ!」
「真紅……これはどういうことかしら…」
「あなたも感じたのね、金糸雀」
「……どうしたんだよ真紅」
ジュンが困惑した表情で真紅を見る。
そして真紅自身も困惑したまま、ジュンに話す。
「水銀燈のローザミスティカも器を放れたわ」
「なっ、でも翠星石は負けて……どういう事だよ!」
「私にもわからないわ……でも、考えられるとしたら…」
「相討ち……かしら」
「相討ち……?」
「行きましょうジュン、金糸雀。2人を探さなきゃ」
「えぇ…」
そうして真紅と金糸雀が歩き出したその時、
後ろでドサリとジュンの倒れる音がした。

75: 2009/04/19(日) 23:33:16.18 ID:kh7Gs5zO0
「ジュン…?」
ジュンは倒れたまま起き上がろうとしない。
「ジュン?…ジュン!?どうしたの!?」
「真紅!真紅あれを見るかしら!」
「…あれは……」
金糸雀が指差したのは1本の水晶だった。
そこには、制服姿で意気揚々と歩く、ジュンの姿があった。
「みっちゃんやあのおじいさんと同じ……」
「水銀燈はもういない……
 いや落ち着いて考えれば水銀燈にこんな能力があるわけもない……」
「……真紅?」
「まさか!第7――」
「ご名答…」
真紅が言い終わる前に、誰かの声がそれを肯定する。
「誰かしら!?」
真紅と金糸雀が声のした方を振り向くと、
そこには白いドレスを着たドールが立っていた。

77: 2009/04/19(日) 23:35:18.18 ID:kh7Gs5zO0
「私はローゼンメイデン第7ドール、雪華綺晶。
 紅薔薇のお姉さま、黄薔薇のお姉さま、初めまして…」
「雪華綺晶……」
「既に5つのローザミスティカが私のものに……
 桃薔薇のお姉さまのリタイアにより多少予定が早まりましたが、
 アリスゲームを終わらせましょうお姉さま方」
「そんな……」
「終わりのない追走曲!」
「うっ……」
ハッとして横を見ると、金糸雀がヴァイオリンを奏でていた。
「金糸雀!」
「真紅!もう迷ってる暇はないかしら!
 本気でやらなきゃ私達までやられて、雪華綺晶がアリスになってしまうわ!」
「でも……でも…」
「あんなやつにアリスになられていいの!?」
「黄薔薇のお姉さま……厄介……」
雪華綺晶は圧されていた。
5つもローザミスティカを持っているはずの彼女が、
ローザミスティカを1つしか持たないはずの金糸雀に。
「どういう事……何かがおかしい…」
雪華綺晶は嘘を吐いてはいない。
彼女の中には確かに5つのローザミスティカを感じる。
考え込んでいた真紅がふと気づくと、辺りをまた濃い深い霧が覆っていた。
だんだんと雪華綺晶の姿が霞んでいく。
その時金糸雀の肩越しに、影が忍び寄るのが見えた。

79: 2009/04/19(日) 23:37:23.31 ID:kh7Gs5zO0
「金糸雀!横よ!」
「えっ――」
ドス、という何かの刺さる音。
力なく崩れ落ちる金糸雀。
「くっ、ローズテイル!」
「どういう……事…なんで……そうせ…い――」
もう1度響く、ドス、という音。
直後、真紅の放った薔薇の花弁が金糸雀の横の何かを吹き飛ばす。
カランカランと、何かの落ちる音。
金糸雀の身体から浮き出たローザミスティカを、白い茨が絡めとる。
「やめて!雪華綺晶、お願い!」
「ふふ、あと1つ……」
真紅の叫びも虚しく、光は霧の向こうへと消えた。

80: 2009/04/19(日) 23:38:39.72 ID:kh7Gs5zO0
「か、金糸雀……」
「紅薔薇のお姉さま、可愛想なお姉さま」
雪華綺晶が歌うように呟く。
「雪華綺晶!私はもう姉妹同士で争いたくはないの!
 皆を元に戻す方法もきっと見つかる!
 だからもうやめて!お願い!」
「ふふ……ふふふふ……」
「雪華綺晶…!」
「可哀想なお姉さま、醜いお姉さま。
 命乞いは正々堂々としたらどうです?
 綺麗事を並べても、結局はあなたが助かりたいだけ……」
「ち、違うわ……お願い話を聞いて……」
「あなたはいつも自分は安全な場所にいて、
 姉妹が倒れていくのをただ見てた。
 姉妹達を見頃しにしていた……」
「やめて……やめて……」
「生きているのに闘わない……
 あなたはそこに転がっている人間と一緒、
 ただ現実に目を背けて逃げていただけ……」
「違うわ!ジュンは……ジュンは……」
「……もう終わりにしましょうお姉さま。
 あなたには付き合ってられない……」
プス、と胸に鋭い痛み。
横を向くと、そこには水銀燈が立っていた。

81: 2009/04/19(日) 23:40:19.97 ID:kh7Gs5zO0
「水…銀燈……?」
「ばいばぁい」
「あぁ……ジュン…ジュン……ジュ…ン…」
ぐにゃりとその場に倒れこむ真紅。
カタカタとしばらく震えた後、浮き出てきたローザミスティカを茨が絡めとる。
雪華綺晶は辺りを覆っていた霧を消し、手のひらの中のローザミスティカを眺める。
「最後の1人は呆気なかった……
 これなら本体を遠ざける必要もなかったかも…あは、あははは」
雪華綺晶はけらけらと楽しそうに笑い、
最後のローザミスティカを掲げる。
「お父様、とうとうアリスが生まれます。
 お父様、私がそのアリスです。
 どうか、どうか、私を褒めて……愛して……」
そして、最後のローザミスティカを飲み込もうとしたその時、
ドス、という音と共に胸への激しい衝撃が雪華綺晶を襲い、
ローザミスティカが手から零れ落ちた。

84: 2009/04/19(日) 23:45:50.60 ID:WLJmto7wO

「誰……ローゼンメイデンはもう私だけのはず…」
雪華綺晶が振り向くと、
そこには蒼星石の鋏を手にしたジュンがいた。
「なぜ…あなたは夢に捕われていたはず……」
はぁはぁと息を切らしながら、ジュンが雪華綺晶を睨む。
「真紅が…真紅の呼ぶ声がした……」
「人間と人形の絆……」
「ふん…お前をアリスになんかさせないぞ……!」
「お前をアリスになんか…させない……ふふっ」
「なっ……」
致命傷のはずの傷を負っても余裕の表情を見せる雪華綺晶に、
ジュンは驚きを隠せない。
「何で…お前は……」
「私は物質世界に縛られない、エーテルから解放されたアストラル、
 イデアのイリアステル、意識の源泉が壊されない限り氏ぬ事はない……」
「そんな……」
雪華綺晶に力を吸い取られ続けていたジュンの体力はもう限界だった。
鋏にかけていた指から力が抜け、
ジュンはだらりと横たわり、息をするので精一杯だった。

87: 2009/04/19(日) 23:50:26.50 ID:WLJmto7wO
もはや雪華綺晶を邪魔するものは何もなかった。
零れ落ちた真紅のローザミスティカを拾おうと腕を伸ばす。
「人間、惜しかったで……すね…?」
しかし、急に身体がカタカタと震えだし、脚に力が入らなくなる。
雪華綺晶はガクリと膝をつき、腕をだらしなくぶら下げる。
「何……どういう事……まさか薔薇が…私の薔薇が……」
つま先からだんだんと感覚がなくなっていく。
1つ、また1つとローザミスティカが身体から抜け出ていくのを感じる。
「人間め……アリスの気高さも、お父様への愛も理解できないようなやつらに…私は……
 お父様…お父様…お父様……お父様……お父様……お父……様……」
薄れゆく意識の中、雪華綺晶は空に向けて腕を伸ばす。
しかし、それは虚しく空を掴んだだけで、白い霧となって消えた。

89: 2009/04/19(日) 23:52:48.77 ID:WLJmto7wO
工事の轟音で目を覚ます。
病院の敷地内だと言うのに、こんな朝から工事をしなくてもいいのに。
そう思ってめぐが時計を見ると、もう針は正午を指そうとしていた。
「お昼に起きるなんて……」
昨日の夜ちゃんと寝たかどうかが思い出せない。
というより、何だかだいぶ長い間寝ていた気がする。
その時、ドアの開く音がして、佐原さんが駆け寄ってきた。
「めぐちゃん!目が覚めたのね!」
「佐原さん……?」
「もう心配したんだから……良かった…本当に……」
ぐすっ、と鼻をすする音。
「佐原さん……勤務中に泣いてちゃダメなんじゃない?」
「そんな事言ったってぇ……」
「一体私がどうしたって言うの?」
そう聞くと、佐原は驚いたような顔をする。
「めぐちゃん……覚えてないの?」
「あなた昨日発作で集中治療室に運ばれて……」
それを聞いた瞬間、一気に記憶が甦る。
いつにも増して激しい胸の痛み。
明るい温かい光と水銀燈……。
「水銀燈!」
「え?」
めぐは急いで窓を開けて外を探す。
しかしどこにも黒い天使の姿はなく、
ショベルカーが礼拝堂脇に咲く白い薔薇を次々と踏み潰していくのが見えただけだった。

91: 2009/04/19(日) 23:54:31.53 ID:WLJmto7wO
いつの間にか傍に近寄って来ていた佐原が不満気に口を尖らせて言う。
「ひどいわよねぇ、せっかく綺麗に咲いてた薔薇をあんなにして……」
急に嫌悪感を覚える。
「出てって……」
「え…?」
「出てって!出てけ!」
「ちょっと、めぐちゃんそんな暴れたら!」
「うるさい出てけ!消えろ!」
花瓶を投げつけようとしたところで、
やっと佐原は諦めて部屋から出て行った。
そうして佐原を部屋から追い出してから、めぐはシーツに顔を押し付けて泣いた。
何故だか水銀燈はもう現れない気がした。
結局命を奪う事なく、逆に中途半端な命を与えて、
水銀燈はいなくなってしまったのだと、そんな気がした。
「……くそう!くそう!」
まくらを壁に何度も叩きつける。
布が破け、辺りを羽毛が舞い始めてもめぐはそれをやめない。
「結局私は独り!独りで氏ぬ事も叶わないままここで!
 ただつまらなくて苦しいだけの人生を過ごすんだ!くそう!くそうくそう!」
涙が止まらなかった。
大粒の涙は頬を伝い、ポタポタとシーツに染みを広げていく。
しかしその時、めぐの耳に聞きなれた声が聞こえる。
「まったく、そんな暴れてまた発作でも起きたらどうするのよぉ」
「ふぇ…?」
思わずまくらを叩きつける手を止めて、
辺りをキョロキョロと見回す。
「人がせっかく助けてあげた命を無駄にする気ぃ?」
そう言ってベッドの下からもぞもぞと這い出てきたのは――。

92: 2009/04/19(日) 23:56:12.66 ID:kh7Gs5zO0


頭が痛い。
何かが弾けるような音が頭に響く。
それは確かな悪意を持って、
何度も何度も繰り返される。
音の原因を探ろうとジュンが目を開けると、
視線の先には、燕尾服を着たウサギが1匹、自分に向けて拍手をしていた。
「ブラボォ!!」
「ラプラスの魔…!」
「いやはや、まさか人間にドールが壊されてしまうとは。
 ククッ、しかし舞台はこうでなくては!観客達が退屈してしまう」
「退屈……だと…?」
「しかし……この人形劇、一体これはどういう幕切れでしょうか。
 か弱き薔薇乙女たちが全滅とは、これではアリスを決められない」
「そんな事はどうだっていい!ローゼンに真紅達を…!」
「ククッ、坊ちゃん、ご心配なく。
 アリスが生まれるまでアリスゲームは続く。
 運命は糸車に紡がれ世界の扉によって繋がれる。
 この先の筋書きを語るのは彼女たち…」
「何を言って――」
「仕切りなおしです、坊ちゃん」
ラプラスの魔は右手の人差し指をチッチと左右に振る。
「この時代にリタイアした彼女たちの全てが器に戻り、
 夜明けの一声をナイチンゲールが告げる……ご理解いただけましたでしょうか坊ちゃん」
「まさか!じゃぁ真紅達は……!」
「ククク、さぁ坊ちゃん、お帰りはウサギの穴から……」

94: 2009/04/19(日) 23:57:21.11 ID:kh7Gs5zO0


「待てっ!」
ガバッとベッドから起き上がる。
日は既に昇り、窓から差し込む日差しに目を細める。
いつの間にか現実の世界へと戻って来たようだった。
「あのウサギめ……そうだ!仕切りなおしって!真紅!?」
ジュンは急いで部屋中を見回す。
しかし、そこに彼女達の鞄はなかった。

96: 2009/04/19(日) 23:59:35.78 ID:kh7Gs5zO0
胸に湧き上がっていた希望が、一瞬にして不安に変わる。
必氏にラプラスの魔の言葉を思い返す。
どこかに聞き落としはないか、仕切りなおしの意味は……。
「おい、何だよ……皆元に戻ったんじゃないのかよ!
 おい真紅!……雛苺!翠星石!おい!!」
「うゅ……うるさいのよジュン…」
「……雛苺!?」
自分の足元の方から雛苺の声がした。
見ると、ベッドの氏角に置かれた雛苺の鞄が開き、
起き上がった雛苺が眠そうに目をこすっている。
「朝からそんな大声出したら皆びっくりしちゃうのよ…ふぁあ……」
「雛苺!」
「うゅ?」
ジュンがベッドから下りて雛苺を抱きしめると、
雛苺が不思議そうな声を出す。
「良かった……良かった…」
「ジュン、どうしたの?何で泣いてるの?もう皆大丈夫なのよ?」
「まったく、めそめそ泣いちゃってだらしない下僕なのだわ」
「ホントですぅ。だからいつまでもチビなんですよ」
「真紅!翠星石!」
2人の声に振り返ると、
丁度2人が鞄を引きずってジュンの部屋に入ってくるところだった。

97: 2009/04/20(月) 00:01:14.86 ID:L3jfuh6K0
「鞄がないから…てっきり……」
「馬鹿ね、ジュン。私達の鞄はのりの部屋で寝た時のまま置きっぱなしだったでしょう」
「あ……」
「ホントにお馬鹿ですぅ。翠星石が悲しんでたというのにチビカナと料理なんかしてぇ……ぐすっ」
「えっ!ちょっ、翠星石……?」
急に涙ぐむ翠星石を見てジュンが焦って近寄る。
しかし次の瞬間、
「こんのお馬鹿!馬鹿馬鹿馬鹿バカバカバカバカバカバカぁ!」
「うわっ!おい、やめろ!」
翠星石は手当たり次第にジュンの部屋の物を投げつけ、
投げる物がなくなると鞄に飛び乗って窓ガラスを割って出て行こうとする。
「おい!どこ行くんだよ!」
「うるさいです!お前の顔なんか見たくないんですぅ!……夕飯までには帰ってくるから安心しろです」
そう言うと、翠星石は鞄ごとどこかへと飛んでいった。

99: 2009/04/20(月) 00:02:45.77 ID:L3jfuh6K0
「何だってんだあいつ……」
「蒼星石のところね」
「…そうか!蒼星石も……」
「えぇ、皆お父さまが直してくださったわ」
真紅がうっとりとそう言うと、
雛苺も横から叫ぶ。
「うゅ!お父さま暖かかったのよ!」
「お前らローゼンに会ったのか!?」
「そうよ。でもまた薄っすらとしか記憶に残ってないわ」
「じゃぁやっぱりまだアリスゲームは……」

そう、アリスゲームは終わらない。

100: 2009/04/20(月) 00:04:20.98 ID:L3jfuh6K0
結局ローゼンがちゃんと会ってくれるのはアリスだけ。
全てが元に戻ったところで、アリスゲームは終わらない。
いつまた水銀燈や雪華綺晶が襲って来るかもわからない。
そして一度出会ってしまえば姉妹同士での頃し合いが始まる。
「ジュン、でも嘆く事はないわ。
 私達は生きているから。闘っているから。それが、ローゼンメイデンの誇り。
 私は皆を守れるようもっと強くなるわ……今回みたいな思いはしたくないもの。
 そして、私は私なりのやり方でアリスゲームを制してみせるわ」
「うゅ!ヒナも頑張ってお手伝いするのよ!」
「ふふ、頼もしいわ」
雛苺が嬉しそうにうなずく。

真紅達は閉ざされていた扉を開いた。
過去の過ちから学び、新たな道を模索し始めた。
変わらないはずのドールが、成長し、変わっていく……。

「皆ー、ご飯よぅー!」
「のり!」
のりが3人を呼ぶ声がすると、
雛苺は飛び上がってリビングへと下りて行った。
それを見て真紅が嬉しそうに笑う。
「元気な子ね。さぁジュン、私達も行きましょう」
「そうだな」
そうジュンが返事をすると、真紅はジュンに歩みより両手を差し出す。

「リビングまで、抱っこして頂戴」

終わり。

104: 2009/04/20(月) 00:08:19.19 ID:0M30mvwFO
面白かった乙

105: 2009/04/20(月) 00:09:00.79 ID:L3jfuh6K0
こんな拙い文章に長々とお付き合いありがとうございました
日をまたがずに終わらせるつもりだったんだけど……
スレ立てるの初めてでさるさんとか色々ごめんなさい

何か補足説明必要なとことかあったら答えますので
あと批評とかしてくださったらありがたいです

引用: 真紅「抱っこして頂戴」