1:◆8Mj6VMVRzQ 2010/09/28(火) 20:56:49.20 ID:kaJg6NUo
公式からの供給が途絶えた今私たちにできること!
それは自給自足!
―――――――――――――――――――――――――――
引越しの前日、私は部室に来ていた。

ティーセットを入れていた棚は取り外され、床だけがその名残で少しへこんでいる。
りっちゃんのドラムセットも、私のキーボードも無い部室はすごく広くなった。
ホワイトボードは真っ白で、なんだか始めて見たもののような気さえする。

そっとテーブルの自分の席に指先で触れてみる。
もっと、懐かしいとか、愛おしいとか、そういう気分になるんだと思っていた。
でも、一人で来る部室はあまりにも綺麗で、私は部室がこういっているように思えた。

『もうお前は桜ヶ丘高校の生徒でもなければ軽音部の部員でもないのだ』










『お前は―――――――''異物''だ――――――』







2: 2010/09/28(火) 20:57:36.23 ID:kaJg6NUo
(――――――っ)

心が締め付けられる。
みんなと一緒の大学。何も不安なことなんて無い。ここに来るまではそう思えていたのに。
動悸が治まらない。自分で自分に言い聞かせる。
「大丈夫――――――大丈夫だからっ」
それでも自分の体は思い通りにならない。
まるで底なし沼のよう。
もがけばもがくほど深く沈んでいく。
大丈夫と言い聞かせるたびに、自分じゃない自分が耳元でささやく。
『''何が''大丈夫なのかと』
そして私は想像したくない''何か''を想像してしまう。

暗くて、怖くて、寂しくて、
私は涙を流してしまいそうになる。
何とか涙をこらえようとする。

もしここで泣いてしまったら、悪い予感があたってしまう

そんな気がして、私は泣き喚く胸を強く握り締めた。

3: 2010/09/28(火) 20:59:25.24 ID:kaJg6NUo
「ムギ先輩―――」

自分以外の物音に、心の錘が軽くなるのを感じた。

「梓ちゃん……」

同時に私ははっとする。
まさか、見られてはいないだろうかと別の不安が鎌首をもたげる。
私はそんな不安を取り払うよう、精一杯の笑顔で彼女に振り返った。

「えへ、来ちゃいましたー♪」

4: 2010/09/28(火) 21:04:21.62 ID:kaJg6NUo
梓ちゃんは、いつもどうり振舞ってくれた。
見ていなかったのか、それともあえて触れてこないのか。
どちらにしても、私はほっとしていた。

「明日、引越しなんですよね」
「ええ、そうよ」
「引っ越したら―――――」

梓ちゃんは言葉をとめた。

引っ越してしまえば、簡単には会えなくなる。

言わずとも、伝わってくる。
梓ちゃんは失言だと思ったのか、なんでもないですとうつむいてしまった。

ほかのみんなならどうしただろう。
さみしくなる、いつでも会えると言ってあげられただろう。
りっちゃんなら、明るく冗談を言って梓ちゃんを笑わせてあげられただろう。
澪ちゃんなら、優しく梓ちゃんを励ましてあげられただろう。
唯ちゃんなら、暖かく梓ちゃんを抱きしめてあげられただろう。

でも私には、何も出来なかった。

さっきの不安がまた私を引きずりこんでいく。

梓ちゃんの姿が、私の不安と重なる。

私には、何も出来ない。

何も、ない。

5: 2010/09/28(火) 22:14:40.34 ID:kaJg6NUo
「――――先輩!」

私の冷え切った手に、暖かさが伝わる。
梓ちゃんが、私の手を包んでいた。

「梓ちゃん……」

どうやら、私は沼に溺れていたようだった。

「大丈夫ですか?」

――――大丈夫
そう言おうとして自分の唇が震えていることに気づく。
喉まで出かかっていた言葉を飲み込んでしまう。
大丈夫だと、何でもないと、言わなければいけないのだけれど、その言葉にはきっと私の不安が乗ってしまう。
結局、私は感情を押しとどめることができなかったのだ。

梓ちゃんもそれを悟ったのだろう。震える私の手を黙って握っていてくれた。
その暖かさで、私はすこし冷静さを取り戻す。

「ありがとう。もう大丈夫だから」

今度は、きっと最初より自然に笑えているはずだった。
でも

「ウソです」

梓ちゃんはきっぱりとそう言った。

6: 2010/09/28(火) 22:15:08.76 ID:kaJg6NUo
ああ、ダメだな私は。
感情を素直に表すには大人になりすぎて、隠し通すには子供すぎる。
どっちつかずだから、上手く出来ない。
梓ちゃんの手が、ただ暖かい。

「ムギ先輩、お願いだから、無理しないでください」

ああ、このまま自分の中の纏まらない感情を吐きだしてしまおうか―――
それは、とても甘い囁きで、でもそれはひどく難しいことだった。
だからひねくれものの私は、素直に言うことができなかった。

「ねえ、梓ちゃん」

「はい」

「私ね、すごく幸せだったの。
 軽音部に入って、みんなとお茶したり、おしゃべりしたり、演奏したり。
 初めてのこともいっぱいあったわ。
 友達とお出かけしたこと、曲を作ったこと――――

 それに、こんな気持ちも」

梓ちゃんはただ静かに聞いてくれている。
ここで止めておけと、冷静な自分が言っている。

「本当に、幸せで――――」

けれど、私の冷静じゃない部分が言葉を紡がせる。
そして言の葉は、私の冷たい気持ちへと触れる。

「本当に――――魔法のような日々だった」

7: 2010/09/28(火) 22:17:34.97 ID:kaJg6NUo
その先を、口にすることができなかった。
これ以上話してしまえば私は泣いてしまうだろう。
私の声は震えていて、きちんと言葉になっていたのかも怪しかった。
だが、口にしてはっきりと分かってしまった。
私は、魔法が解けてしまうのが怖いのだと。
そして、魔法が解けてしまうと考えていること。

寒い―――
何故だかひどく寒くて、そして何故か狭くて苦しくて、

そして、梓ちゃんにふれている手だけが、妙に脈打っていた。

13: 2010/09/28(火) 23:09:28.84 ID:kaJg6NUo


「12時の鐘が―――――」

シンデレラの話だろうか。
ふと考える。自分はシンデレラなのだろうか。
違和感を感じる。
何故だろう……

魔法を使いに魔法をかけてもらって、お城のパーティーに参加する。
そこでシンデレラは、王子様とダンスを踊るのだ。
煌びやかで、幸せで、楽しい夢のような時間。
けれど、12時になると魔法が解けてしまい、元の生活に元通り。

このお話には救いがある。
落としたガラスの靴を手がかりに王子様が自分を探し出してくれる。
そして王子様と結婚して幸せになってハッピーエンド。




私は、シンデレラではない。
どちらかというと、王子様のほうだろう。
魔法で化かされて、終わってしまえば残るのは楽しかった記憶だけ。

でも、ひとつだけ違いがある。

王子様は、シンデレラの落としていった靴があった。
私には、何が残っているのだろう。
ふと部室を見回す。
ティーセットも、キーボードも、お気に入りだったカップも、もうない。

私は何を手がかりにすればいいのだろう。
部室は私に、諦めろと囁いているようだった。

8: 2010/09/28(火) 22:41:34.86 ID:kaJg6NUo
「12時の鐘が、怖いんですか?」

少し前まで自分でもそう思っていたくせに、なんだか陳腐な問いに聞こえてしまった。
そうじゃない。
なんだかそんな気がする。
私の雰囲気辛さとってくれたのだろうか、梓ちゃんは否定と受け取ったようだった。

「じゃあ――――――ガラスの靴を、探してるんですか?」

私の心が痛む。
梓ちゃんの優しい言葉が私の脆い心を鷲掴みにする。
それ以上何もいわないでほしかった。
私をせき止めている堰にひびが入る。

ヤメテ

たったその一言さえ、私の口は発してくれない。

「ムギ先輩」

やめて、言わないで、お願いだから


――――――こんな私を見ないで―――――――


――――――弱くて、脆い私を――――――――


――――――触れないで―――――――――――


――――――汚い私の心に――――――――――

9: 2010/09/28(火) 22:42:34.57 ID:kaJg6NUo






お願いだから









見捨てないで――――――








10: 2010/09/28(火) 23:01:34.80 ID:kaJg6NUo
梓ちゃんは何も言わなかった。
そのかわり、握っていた手を、私の手を梓ちゃんの胸へと導いた。
まるで抱きしめるかのように、私の手を包みこむ。

「私は、暖かいですか?」

私は何も言えずに頷く。
私の体の中で、梓ちゃんが触れている手だけが唯一私のものだった。

「私を、感じられますか?」

私の鼓動が、梓ちゃんの鼓動と重なる。
トクン、トクンと、まるで一つの生き物のように感じる。

「これが、先輩たちが残してくれたものです」

梓ちゃんは優しく微笑んだ。



いつのまにか、私の動機は治まっていた。

11: 2010/09/28(火) 23:03:32.21 ID:kaJg6NUo
「ガラスの靴より確かなものは、ここにありますよ」

「ここにいる私が、います」

「この暖かさも
 この心も
 
 みんな、先輩達がくれたものです」

 私は、たぶんこの部室に入ってきて初めて梓ちゃんの顔をちゃんと見た。

 天使のようだと、そう思った。

 暖かい
 私の暗く冷たい心に、暖かな光がさしているのを感じた。
 
「ムギ先輩の中に、私はいますか?」

 何も言えず、私は何度もうなづいた。
 気がつけば、あれほど我慢していた涙がこぼれていた。

「なら、大丈夫です。
 ムギ先輩がダメになりそうなときは、私が迎えに行きます。
 逃げても隠れても、絶対に見つけ出します。

 ……だから、お願いです。
 一人で悩んで、抱え込むのはやめてください。
 ムギ先輩が悲しいと、私も悲しいです」

梓ちゃんの手が、私の頭にふれる。
 もう抑えきれなかった。
 涙があふれた。
 でも、不思議と大丈夫だと、そう思えた。
 私は泣いた。
 まるで子供のように。

 梓ちゃんの手が、とても暖かかった。

12: 2010/09/28(火) 23:05:36.50 ID:kaJg6NUo
「梓ちゃん、ありがとう」

私が泣きやむまで梓ちゃんは何も言わず、私の手を握り頭をなでてくれていた。
私のしてほしいこと、全てをしてくれた。

「梓ちゃんは天使ね」

そんなことないです、と梓ちゃんは言った。
たとえ何て言っても梓ちゃんは否定するだろうから、私はそれ以上は言わなかった。
(でもね、やっぱり梓ちゃんは天使よ)

泣いたせいだろうか、それとも吐き出してしまったせいだろうか、すごく心が軽かった。

「ねえ、梓ちゃん」

「何でしょう」

「大好きよ」

「私も、ムギ先輩が大好きです」

……また少しだけ、自分が嫌になった。
梓ちゃんなら、こう言ってくれる。そんな確信と打算。
でも、今だけなら許されるんじゃないかと、そう思った。

「少し、お話を聞いてくれるかしら?」

14: 2010/09/28(火) 23:11:50.99 ID:kaJg6NUo
私は、抱いていた不安について打ち明けた。
それは、ずっと持っていたもので、でも見ないようにしていたもの。
ずっと知っていたことだけれど、今気づいたもの。

皆は、なぜ自分と一緒にいてくれるのだろうか。
私はりっちゃんみたいに明るくないし
澪ちゃんのように可愛くないし
唯ちゃんのようにムードメーカーでもない
梓ちゃんのように、みんなを和ませることもできない

私にとってはみんな宝石みたいに輝いていて
だから、考えてしまう
私だけがまるで観客で、取り残されているんじゃないかって

いつか――――私は見向きもされなくなるんじゃないかって

15: 2010/09/28(火) 23:12:56.96 ID:kaJg6NUo
不安を私は吐きだした。
考えてみればずっとそうだったのだ。
みんなに頼られるように。
みんなが私を必要としてくれるように。
私が―――みんなに見捨てられないように
そんな思いを、気付かないように心の奥に鍵をかけてしまっておいた

でも、卒業という大きな岐路を前に、大きくなりすぎたそれは箱を壊して私の心を支配してしまった。

そして。

籠の中の鳥だった私には、それをどうしていいのかわからなかったのだ。

「……ごめんね、こんなこと言われても困らせるだけよね
 でも、ダメなの。もうどうしていいのかわからないの」

「みんな、そうですよ」

「みんな同じなの?」

私にはそうは思えなかった。
みんなとっても魅力的で、望めば周りに人が来るように思える。

そして、こうも思う。
その人たちに、私がいなくても大丈夫なのだと。

16: 2010/09/28(火) 23:15:35.50 ID:kaJg6NUo
「少なくとも、私もそう思ってます。
 大学に行った先輩たちが、他のことに夢中になっちゃうんじゃないかって。
 いつか、私がいないのが当たり前になっちゃうんじゃないかって」

そうだろうか?
梓ちゃんが居なかったらなんて想像もできない。
それはやっぱり梓ちゃんが必要ってことなんじゃないのだろうか?

「私も。ムギ先輩がいないなんて想像もできません。
 でも、先輩たちが一足先に行ってしまって、私がいないのが当たり前になっちゃうんじゃないかって……
 考えてもしょうがないのは分かってるんですけど、考えたら止まらなくなって」

梓ちゃんも不安なんだ……
そう思うと少し安心して、少しだけ心が痛んだ。

「ねえ、梓ちゃん
 こういう時ってどうしたらいいのかな?」

「どうすることもできませんね…… 残念ですけど」

「じゃあ、この気持ちはどうしようもないのかな」

「一人では、どうしようもないでかもしれません
 でも……」

梓ちゃんはギュッと私を抱きしめた。
梓ちゃんの体温も鼓動も、今までよりずっと感じられる。

「私は、ムギ先輩のこと、大好きです
 ずっとずっと、大好きだっていう自信があります
 だから、離れてたって私がいます」

梓ちゃんの言葉がすぅっと浸透していく。
暖かな動悸が私を満たす。

「そっか」

「はい、そうです」

17: 2010/09/28(火) 23:16:50.90 ID:kaJg6NUo
私は梓ちゃんに救われた。
だから、今度は私の番。

私はギュッと梓ちゃんを抱き返す。
「ね、梓ちゃん。さっき言ってくれたよね。
 私がどんな所にいても、どんなに逃げて隠れても見つけてくれるって」

「はい」

梓ちゃんの腕に力が入る。
ちょっと痛いけど、全然嫌じゃない。

「私も、梓ちゃんが辛い時はどこにいたって、どこに隠れたって見つける
 嫌だって言っても引きずり出してこうやってギュッてしちゃうんだから」

「……はい」

「私たち、一緒だね」

「嫌ですか?」

「ううん、全然
 むしろ、良かったって思えるわ」

「私もです」


言葉にはしないけれど、わかった。
私も梓ちゃんも、弱くてもろい。
だけど、おかげでお互いの弱いところがわかるのだ。
私を好きだと言ってくれたこの子を、私のために苦しんでくれるこの子を、私は一生大切にすると誓った。

18: 2010/09/28(火) 23:19:25.46 ID:kaJg6NUo
第一部完!
読みづらいとは思うけど読んで感想言ってくれるとありがたいです
あと私には文才ないのでいろんな人がいろんなけいおん妄想、ifを書いてくれて共有することができるのを願っています

20: 2010/09/30(木) 19:24:47.24 ID:yjgbXboo
つづき
――――――――――――――――――――――――

私はその日、ムギ先輩の家に泊まることになった。
ムギ先輩の家に行くのは初めてで少し緊張している。
引越しの前日で忙しいのではないかと始めは断ったけれど、もう荷物は全て運び終わり明日はもう出るだけということだった。
それに、ムギ先輩がどうしてもと言うので結局私はご招待を受けることにした。


……なんて、建前。


なんだかこのままムギ先輩を帰してしまうのが嫌で。
握った手を放してしまうのが怖くて。
ムギ先輩が誘ってくれた時、嬉しかった。


「もうすぐ迎えが来るから」


ムギ先輩と握った手は、まだ離れていない。
玄関で靴を履き換える時も、二人とも手を離せなくて、なんだか気恥かしくて私たちは笑いあった。

夕日を浴びて赤く染まり、少し影を落としたムギ先輩は、すごく大人っぽくて、でもなんだか儚くて―――
私はムギ先輩の手を強く握った。

21: 2010/09/30(木) 19:36:02.17 ID:yjgbXboo
「……来たみたい」

その言葉に反応して、私はそっと手の力を抜いた。
ムギ先輩は少しさみしそうな顔をしたけれど、そっと手の力を抜いた。
でも、2人とも手を放そうとはしなくて、宙ぶらりんの手は引っ掛かったままだった。

車が止まる。

……走ってきてた時からなんとなく気づいてはいたんだけど……

迎えの車は、黒くて、テレビで見るようなアレほどではないけれど、それでも普通より長い車だった。
そう、これはリムジン、というやつなのではないだろうか。

運転席からスーツの男の人が出てきて、後部座席の扉を開けた。

開けてくれたんだけど、なんだか委縮してしまって私は固まってしまった。

そんな私をみて、ムギ先輩はまた少しさみしそうな顔をした。

心がチクリと痛んだ。

22: 2010/09/30(木) 19:54:09.22 ID:yjgbXboo
車にも驚いたけれど、ムギ先輩の家についてまた驚いた。
門をくぐってからも車で移動するほど庭がが広かった。
お家は豪邸というより私にはもうお城なのではないかと思った。
そして何より、玄関にはいるとメイドさんがお迎えしてくれたのだった。

そのあと、私たちは食事をとった。
家族水入らずの食事は最後なのだからと、私は遠慮したのだけれど、ムギ先輩だけでなくご両親も一緒に食べたいと言っているといわれ、私は逃げられなくなってしまった。

ムギ先輩の親は、優しい人だった。
お父さんは常にニコニコしていて、柔和な雰囲気がムギ先輩そっくりだった。
お母さんは逆にしっかりしているようで、きれいでかっこいいという形容が似合うような人だった。

お金持ちの食事はすごく長いテーブルで離れて静かに食べるものだとおびえていたのだけれど、少し大きめのテーブルで和気あいあいとした食事だった。
2人は学校でのムギ先輩についてたくさん質問をしてきた。
ムギ先輩は恥ずかしがって止めてと言って来たけれど、2人が喜んでくれるのでたくさんのことを話した。

食事が終っても2人はまだ聞き足りないようで、お茶を飲みながら私はまだ質問攻めにあっていた。

「お嬢様、明日のことで少しよろしいですか?」

執事の人がやってきた。
引越しのことであるらしく、ムギ先輩は少し席を外すと言った。

「えっ? ちょ、ちょっと……」

ムギ先輩はごめんね、と言って執事の人と出て行ってしまった。

なぜか私はムギ先輩の両親と3人きりになってしまった。

23: 2010/09/30(木) 20:01:40.07 ID:yjgbXboo
「梓ちゃん、どうもありがとう。紬と仲良くしてくれて」

私は、なにもしていない。
むしろ、私がムギ先輩にもらったもののほうがずっと多かった。

「そうかもしれない。でもきっと紬もそう思っていると思う。
 高校に入ってから、紬はとても楽しそうだったよ。」

私も楽しかった。
軽音部に入って、ムギ先輩と会えて、いろんなことをして、笑って、泣いて。

2人はとてもうれしそうに聞いてくれた。
そしてまたありがとうと言った。
私はお礼をされるようなことはしていないのに。

「紬は変わったよ。
 君は知らないだろうけど、自分からこうしたい、ああしたいって私たちに言うようになったのは高校に入ってからなんだ。
 場合によってはわがままともとれる行動だけどね。」

楽しそうに語っていたお父さんの顔が、急に落ち込む。

「紬はね、中学校までそんなことはしなかったんだよ。
 ただの、一度もね……」

そんなお父さんの姿が今日のムギ先輩と重なって、私の胸がまた痛んだ。

24: 2010/09/30(木) 20:05:45.19 ID:yjgbXboo
「紬はいい子だったよ。
 私たちが心配するようなことは自分からは決してしなかったし、私たちが望んでいることを自分から進んでしてくれた。
 ……きっと私たちは親としては失格だったんだろうね。
 紬がいい子だから私たちはいい気になっていたんだろう」

そんなこともない。そう言おうと思ったけれど、それはうまく言葉にならずに私の中で停滞してしまう。

「紬から聞いていると思うけれど……私はひとつの財閥を受け持つトップなんだ。
 家内も私のために身を粉にして働いてくれている。
 ……紬をもっとよく見てやればよかったんだろうね。
 陳腐な言い方だけれど、気付かないうちに紬の前にレールを敷いて、紬が文句も言わず歩いてくれるからそれが紬の幸せなんだと思っていた」

あなた、とお母さんが止める。
けれど、お父さんは是非聞いてほしいと言った。

「だけど、違ったんだ。
 もともと私たちはよく喋ってよく笑う子だと思っていたんだけれど、それは勘違いだと気付かされた。

 高校に入ってから、紬は本当に楽しそうで、幸せそうだった。
 私たちは、紬があんなにいい顔で笑うということをすっかり忘れてしまっていたんだ。」

「それに気づかせてくれたのは君たちなんだろう。
 ありがとう。
 本当に、感謝してもしきれないよ」

そう言ってお父さんは笑った。
その顔は、いつも見ているムギ先輩の笑顔にそっくりで、私はまた何も言えなくなってしまって、私は紅茶を啜った。

さっき入れてもらったばかりの紅茶はもう冷めていたけれど、なんとなく暖かかった。

26: 2010/10/01(金) 19:33:48.16 ID:o1cUSCco

ムギ先輩の部屋はとても広かった。
そしてものがあまり多くなかった。
高そうでなんだかちょっと凝った彫りのある机と棚が2つ。そしてベット。
家具以外の者は、ほんの少しだけ。
でも、ところどころに少しだけぬいぐるみがおいてあってなんだか可愛いなと思った。

そこで私たちはまたお茶を飲んだ。
今度はムギ先輩がミルクティーを入れてくれた。
さっきのお茶もおいしかったけど、ムギ先輩のお茶はなんだかとても心が落ち着いて、私はこっちのほうが好きだと思った。

お茶を飲みながら、ムギ先輩はいろんなことを話してくれた。
ムギ先輩から話してくれることはあまり無かったから、私はそれに聞き入った。
ころころと表情を変えながらムギ先輩は歌うように話した。

嬉しかったこと、楽しかったこと。
私も知っていること。
そして、悲しかったこと、悩んだこと。
私の知らなかったこと。

そもそもムギ先輩がN女子大に入ろうと思ったのは、レベルが高く、女子大だったからだそうだ。
少し前までなら、ちょっと変な想像をしてしまっただろうけれど、今の私は分かってしまった。

きっと、そのほうがムギ先輩の親が心配しなくてすむと、喜ぶと思ってのことだろう。

ムギ先輩がそれを意識して選んだのか、私には分からないけれど、きっとそうだ。

なんとなく私にはムギ先輩の考えている事がわかる気がした。

27: 2010/10/01(金) 19:35:14.83 ID:o1cUSCco
自分に自信が無くて、嫌われないように、みんなが喜ぶように。

みんなが喜んでくれればくれるほど。
みんなを好きになるほど、その思いは強くなる。

嫌われたくないと。
見捨てられたくないと。

そして、考えてしまうのだ。


捨てられたらどうしよう―――――――


でもそれは当り前のことだと思う。
人と付き合っていく以上、絶対に付きまとう嫌な感情。


……それでも私も考えてしまう。
それだけ、私たちの中で放課後ティータイムの存在は大きかった。

28: 2010/10/01(金) 19:39:44.20 ID:o1cUSCco
まるで呼吸のようなもの。

当たり前すぎて普段は気付かない。

だが、もしふと意識してしまえば。
疑問を持ってしまえば。

それは当り前でなくなってしまう。

吸って。吐いて。
吸って。吐いて。

自分で行ってしまえば、いつもどうして無意識におこなえていたのかわからなくなる。

吸って。吐いて。
吸って。吐いて。

もちろんそれは別のことに意識が向いてしまえばまた元に戻る。


ただ。
人の心はそこまで単純ではない。

好き。 嫌い。
好き。 嫌い。

相手が自分をどう思っているかだけじゃない。自分がどう思っているかすらはっきりしないのだ。
不安は深く、そして他に意識を向けていても、思考の隅で常に燻ぶる。

はっきり言ってしまえば、どうしようもない。
どうすることもできない。

けれど、私は何とかしたいと思った。
それでこの少女のような先輩の不安が取り除けるならば。
どうしていいか分からないけれど、きっとどうにかする。
どうにかしてみせる。

29: 2010/10/01(金) 19:41:13.39 ID:o1cUSCco
そのあと私たちはムギ先輩のベットへ入った。
とても大きくて、私たち二人が寝ても十分な広さがあった。

そこでまた私たちはいっぱいおしゃべりをした。
今度は私も話した。
ムギ先輩をどう思っていたか。そして今どう思っているか。
もちろん、ムギ先輩のご両親が言っていたことは避けて。
でも、ムギ先輩を好きな気持ちを、一緒にいたい気持ちを話した。
ムギ先輩も一緒にいたいと言ってくれた。
大学へ行っても、遊びに行くと約束をした。
離れても、さよならではないと。
いつまでも一緒だと。
ムギ先輩は何度もありがとうと言った。
私も、何度もありがとうと言った。

そして一時を回ったころ、話疲れてムギ先輩は寝てしまった。

私の右手は、ムギ先輩の左手と繋がっていた。
どちらから繋いだのかは忘れてしまったけれど、きっとどちらからでも同じこと。
私はムギ先輩に、ムギ先輩は私に求めた。

ムギ先輩は穏やかな表情で眠っている。

安心してくれているといいな。

私がいることで、ムギ先輩の不安が取り除けるなら、とても嬉しいことだと思う。
そして私自身の不安も、ムギ先輩の暖かさに融けて行った。

「ありがとうございます


 ……大好きだよ――――――ムギ」

私はハッとした。
気がつくと、私はムギ先輩の頬にキスをしていた。

自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
全身が心臓になったみたいにドクドクとうるさい。
なのに、唇の感覚だけは強く感じられた。

恥ずかしくなって私は毛布にもぐりこんだ。
どうやら、すぐには寝られそうになかった。

30: 2010/10/01(金) 20:29:23.36 ID:o1cUSCco
朝起きると、視覚よりも先にムギ先輩の手の暖かさが感じられて、自然と顔がほころんだ。
目を開けると、そこにはムギ先輩の顔があった。

起きてたんですか、と私は声をかけた。
「梓ちゃんの寝顔があまりにも可愛いから……見とれちゃった」
私は恥ずかしくて顔をそむけたくなったけれど、繋いだ手を離すのが嫌で横になったままうつむいた。
するとムギ先輩は私に抱きついてきた。

「お願い。ちょっとの間だけ」

きっと私と同じで不安なんだ。
私は返事をする代わりにムギ先輩を抱き返した。
ムギ先輩は柔らかくて、暖かくて、すごくいい匂いがした。

私たちは何も言わず、メイドの人が起こしに来るまでベットの上で抱き合っていた。

31: 2010/10/01(金) 20:33:05.98 ID:o1cUSCco
着替えて朝食をとると、もう出発の時間だった。
お父さんもお母さんもすごく心配していて、何かあったら帰って来いとしきりに言っていた。
そのたびムギ先輩は今生の別れでもないし、そんなに離れていないんだから大丈夫よと言った。

―――――きっと、嘘なんだろう。

本当は不安で泣きたいけれど、心配する両親を不安にさせまいとしているのだろう。
どうにかすると決めたのに、私は何もできすただそこにいるだけだった。

車がやってくる。
それが私とムギ先輩を引き裂いてしまう気がして、私は来ないでほしいと願った。
それでも、車は着いてしまった。

ムギ先輩は私を見る。

きっと遊びに行きます。だから―――

「ええ、待ってるわ。
 待ってるだけじゃなくて私も梓ちゃんを迎えに行くから」

私はムギ先輩に抱きついた。
私は馬鹿だから。
ムギ先輩にしてあげられることはこれくらいしか思いつかなかった。
私が居るということを、ムギ先輩に伝えたかった。
ムギ先輩は私の頭をなでてくれた。
嬉しくて悲しくて、心がぐしゃぐしゃで涙が出そうになる。
でもそれを堪えて笑顔でムギ先輩を送り出す。

32: 2010/10/01(金) 20:38:00.97 ID:o1cUSCco
先輩が車に乗ってしまう。

「また、ね」

執事の人がドアを閉める。
昨日とおなじ、確か斎藤と言う人。
今度は私が乗っていない。
私はまた泣きそうになる。

車が行ってしまう。
私は大きく手を振り見送った。

車が見えなくなってしまう。

「梓ちゃん」

先輩の両親に名前を呼ばれる。
私は出てしまっていた涙をぬぐい、二人のほうを向く。

「本当にありがとう。
 君たちは、ムギにかけがえのないものを与えてくれた」

私もです。
私もたくさんのものをもらいました。
ムギ先輩が大好きで、それに、それに―――――

私はもう抑えきれなかった。
涙が出てくる。拭っても拭っても消えてくれない。
もっと伝えなきゃいけないのに。もっともっと、ムギ先輩は私にくれたのに。私に幸せをくれたのに。
伝えたい気持ちはあるのに頭はそれを言葉にしてくれなくて、出したい言葉も口は声にしてくれなくて。
私はそれが悔しくて、私はまた泣いた。

先輩のお母さんが、ムギ先輩と同じように私の頭をなでる。

「梓ちゃん。これからも紬のことをよろしくね」

私は泣きじゃくりながら、何度も何度もうなずいた。

34: 2010/10/02(土) 23:21:16.09 ID:uZ/9xjgo

住み慣れた家が小さくなっていく。
大好きな両親も、梓ちゃんも小さくなっていく。

見えなくなる。


私が大好きな大切な人。
私を大好きだと言ってくれた大切な人。


みんな、見えなくなる。



なんだかさみしくて寂しくて私は自分の手を見る。
梓ちゃんのぬくもりが残っている気がして、とてもいとおしいものに思えた。


「……お嬢様」


斎藤が声をかけてくる。



「お嬢様はいい友人をお持ちになられました」



せっかく我慢していた涙がこぼれる。
私の中にいっぱいに溜まっていたそれは、一度出てしまうともう止まらなかった。
「―――――うん……うんっ……!」
視界がにじんで何も見えなくなる。
私は自分の手を抱きしめる。
梓ちゃんがそこにいるような気がして、私はギュッと抱きしめた。

35: 2010/10/02(土) 23:23:15.16 ID:uZ/9xjgo
ずっと不安だった。
皆が私から離れていってしまうのが。
今だって、すごく怖い。
でも、今は確かなものがある。
私が梓ちゃんを大好きだということ。
ずっとずっと変わらない。
たとえ、私が梓ちゃんに嫌われても絶対に変わることがない思い。


ずっと


ずっと



大好き!

36: 2010/10/02(土) 23:25:25.27 ID:uZ/9xjgo
これにて第二部の終了です。
読みにくいし文才ないし、文中で言うなら伝えたい気持ちはあるけど脳は文章にしてくれないって感じです。
書き手さんたちはどうやって文章を考えてるんだろうね……

このまま第三部いくか時系列考えてほかのペアいくか迷ってたり。

39: 2010/10/04(月) 00:08:34.03 ID:3BHRwJko
日付が変わる前に投下したかった第三章の開始。

――――――――――――――――――――――――――――――――
引っ越してから一週間以上たった。
新しい環境にもなれ、後は入学式を待つのみだった。

もっとも、私が落ち着いていられるのは三つの理由があるからだった。

ひとつは、唯ちゃん、りっちゃん、澪ちゃんの存在。
みんなこっちへ越してきて、一緒に小物などを買いにった。
私はあまり買うものはなかったのだけれど、みんなでお茶わんやカップを選んだりととても楽しかった。
皆が私が選んだものを買ってくれた時、私はすごく嬉しかった。

買い物が済むと、私たちは決まってあるところへ行った。
りっちゃんと澪ちゃんの部屋。
2人は一つの部屋(といっても、二人に一つずつの部屋とダイニングキッチンの3部屋がある)をかりて一緒に住んでいた。
私にはわからないけれど、このほうが家賃が少なくいい部屋に住めるのだそうだ。
りっちゃんは澪の一人暮らしなんて危ないからなーと言っていた。

でも、それだけじゃないんだろうな。

私は2人が羨ましかった。
お互いを必要とする関係。
ふと、梓ちゃんの顔が浮かぶ。
梓ちゃんも、私を必要としてくれるのかな……

皆といると、私は笑顔になる。
皆も、笑顔でいる。
それだけで嬉しかった。

40: 2010/10/04(月) 00:13:56.46 ID:3BHRwJko
もう一つは、梓ちゃんの存在だった。

私が引っ越した日から、夜に梓ちゃんと電話をするのが日課になっていた。
始めに電話をかけたのはどちらからだったか忘れてしまったけれど、今はかけるのは私から。

色んな事を話した。
軽音部に憂ちゃんと純ちゃんが入ってくれたこと。
純ちゃんが唯ちゃんみたいで世話がかかると梓ちゃん入っていた。
でも、言葉の端から梓ちゃんの幸せが伝わってきて、私の心がぽかぽかした。
私が皆とお出かけしたことを話すと、梓ちゃんは寂しそうにした。
梓ちゃんが心配で、羨ましい?のと聞くと
「そ、そんなことないです!」
と言った。
少しさみしくなって、梓ちゃんは私がいなくても大丈夫なの?と聞いてしまった。
聞いてしまって、きかなければよかったと思った。
梓ちゃんを困らせてしまうし、何より。

拒絶されてしまったらどうしよう……

出してしまった言葉は戻すことはできない。
数秒の沈黙。
そんなに長くなんてなかったけれど、私にはまるで処刑を待つ罪人のように感じた。

「大丈夫なわけ……ないじゃないですか。
 寂しくないわけないじゃないですか……」

ごめんなさいと私はあやまった。
申し訳ないという気持ちの奥に汚い喜びを感じて、私はまた申し訳なく思った。

41: 2010/10/04(月) 00:20:00.96 ID:3BHRwJko
その日いつもの時間。
電話をかけようと携帯を手にした時、ふと一つの考えが浮かんだ。

いつも電話をかけているのは私。
もし、私が電話をしなかったら、梓ちゃんは電話してきてくれるだろうか……

携帯を握りしめベットへ飛び込む。
携帯電話とにらめっこしていても、着信は来ない。
私からかけてしまおうか……
そんな気持ちがわいてくる。
それでも我慢して、私はまた携帯電話をじっと見る。


何度繰り返してしまっただろうか。
もう我慢できない、そう思ってかけてしまおうと思ったときにはもう大分時間がたってしまっていて。
今かけてしまうと迷惑になる。

―――――もう寝てしまおう。

そう思ったはずなのに全然眠くれなくて。
私は自分の寂しい気持ちに気づいてしまった。

かけてしまおうか。
いや、だめ。
そんな考えが私の中でループして、私はどちらへも行けなくなった。


梓ちゃんは私がいなくても大丈夫なんだ……
そう思ってしまうと私は悲しくなる。
駄目だと思うほど、また私のダムに水がたまっていくのを感じる。
ぐっと涙をこらえる。
着信は、な―――――――――――



プル……

42: 2010/10/04(月) 00:27:11.68 ID:3BHRwJko
「うわっはや!
 っていうか何で泣いてるんですか?!」

私は梓ちゃんに説明した。

「……すみません。そんな風に思ってるなんて気が付きませんでした」

梓ちゃんが悲しそうにしているのがわかる。
梓ちゃんが悪いわけじゃないの。
私が悪いの。

「ムギ先輩は何も悪くありません!
 実は、私もなんです。
 何度か私からかけようと思ったんですけど、なんとなく迷惑なんじゃないかって。
 ほら、そっちにはみなさんがいるじゃないですか。
 だから、ムギ先輩はもう大丈夫なんじゃないかって……
 寂しいのは私だけなんじゃないかって思っちゃって……」

梓ちゃんも、さみしいの?
憂ちゃんや純ちゃんと楽しそうにしてると思っていたのに。

「たしかに、二人といても楽しいですよ。


 でも……
 こっちにはムギ先輩がいないじゃないですか」

43: 2010/10/04(月) 00:31:55.97 ID:3BHRwJko
私?

意外だった。

梓ちゃんは他のみんなとのほうが仲がいいと思っていた。

「皆さんは確かに特別です。

 でも、ムギ先輩は中でも特別っていうか……」

私はどうなんだろうと考えるまでもなかった。
ちょっと前まではみんな特別だった。
でも、こんな風に何でも話して、弱いところも汚いところも見せたのは梓ちゃんが初めてだった。
私の中で、梓ちゃんは特別。
ううん、きっとそれ以上のものだった。

「なんだか恥ずかしいですね……
 でも、私がムギ先輩の中で特別になってるなら嬉しいです」

私も、すごくうれしかった。

だから、打ち明けようと思った。
打ち明けるのはすごく怖い。
でも、知っておいてほしいと思った。
琴吹紬という人間を。
私と言う存在の意味を。


「ねえ、梓ちゃん。
 遊びに……来てくれる?」

45: 2010/10/06(水) 22:19:59.30 ID:NCBk/eQo
梓ちゃんが私の部屋へやってきた。
隠そうとしていても、困惑している様子が伝わってくる。
やっぱり、驚いたよね。やっぱり、普通じゃないよね。


こんな私でも、受け入れてくれますか?


「いらっしゃい。 驚いたわよね」

46: 2010/10/06(水) 22:21:51.33 ID:NCBk/eQo
ムギ先輩の部屋は、所謂マンションの最上階というやつだった。
それも、賃貸の安い部屋でなく、それなりの値段がしそうな分譲マンションの、だった。

私がオートロックのマンションの一階でインターフォンを鳴らした時、出たのは男の人だった。
私が間違えてしまったのかとオロオロしていると、
「中野様でございますか?」
良く聞くと、少し聞き覚えのある声。
ムギ先輩の執事の人の声だった。
「お嬢様からお聞きしております。
 どうぞお入り下さい」
そうして玄関を抜けエレベーターで指定された階に向かうと、一応廊下はあったのだけれど、部屋へ入るドアはひとつしかなかった。

すごいのはここまでではなかった。

たったひとつのドアの向こうにあったのはムギ先輩の部屋ではなく、応接間のようなところだった。
そこで一人のメイドさんと、さっきの執事さんが私を出迎えた。

「いらっしゃいませ。 良く来て下さいました。
 上の階で紬お嬢様がお待ちです。」

上?!
これ以上上があるのか……

47: 2010/10/06(水) 22:22:37.14 ID:NCBk/eQo
ムギ先輩のいるという上の階へは階段で繋がっていた。
マンションの上に一軒家があるという感じだった。
2階にあがると、ガラス張りの壁から庭があるのが確認できた。

私があっけに取られてキョロキョロしていると、
「梓ちゃん、こっちよ」
とムギ先輩がよんでいて、ムギ先輩に着いて行って、ようやく私はムギ先輩の部屋に到着したのだった。

48: 2010/10/06(水) 22:24:39.34 ID:NCBk/eQo

「いらっしゃい。 驚いたわよね……」

私はちくりと胸がいたんだ。
電話で私に来てほしいといった時と同じ声。
悲しそうな声。

そんなことない。
そんな言葉が出てしまいそうになるけれど、私はそれを飲み込んだ。そんなこと望んでいないだろうから。
すぐに嘘だと見破られてしまうだろうから。

だから私は出来るかぎりの強がりで、何でもないように言う。
驚きましたよ、と。

「普通じゃないよね……」

私は言葉に詰まってしまう。
何と言えばいいのかいろんな言葉が頭の中を渦巻くけれどどれも陳腐でとても言えない。
そして、その沈黙が肯定を表しているようで私は悔しくて俯く。

ムギ先輩も悲しそうな表情をする。
その顔を笑顔にする方法が思い付かなくて、私はさらに俯く。

49: 2010/10/06(水) 22:28:31.23 ID:NCBk/eQo
「ごめんね……
 こんな事されても梓ちゃんを困らせるだけだよね」

そんなことないです。
ただ、ムギ先輩がそんな顔してるのに、何も出来ないのが悔しくて……

そこまで言うと、ムギ先輩がギュッと抱きしめてくれた。
唯先輩とは違う、優しくて心までと抱きしめられているかのような、そんな抱擁。

「梓ちゃんは優しいわね」

そんなことはない。優しい人なら、きっとムギ先輩にこんな表情をさせないのに。

「私はね、なにかしてほしくて呼んだわけじゃないの。
 ただ、知っておいてほしかった。
 これがね、琴吹紬なの。
 みんなといたただの女子高生だったのも私だけれど、今ここにいる琴吹の娘も私。」





ああ……私はばかだった。
今日見たもので、ムギ先輩が遠くに行ってしまった気がしていた。
自分が感じる恐怖でいっぱいになっていた。

先輩の暖かさが感じられてようやく、私は気がつくことができた。




少し考えればわかったのに。
少し優しければわかったことなのに。



暖かな体が、こんなに震えていることを。
私と同じ、ううん。それ以上の恐怖を感じていることを。

50: 2010/10/06(水) 22:47:01.12 ID:NCBk/eQo
「ねえ、梓ちゃん。
 やっぱり、普通じゃないよね」

私は、やっぱりなんて言っていいのか分からなかった。
でも、勇気を振り絞って打ち明けてくれた先輩に対して、私も本当の気持ちを伝えたいと思った。

私の知っている普通ではない、と。

私を抱く体がこわばる。
だから、離れないように。
今度は私がその体を強く抱いた。

今日でムギ先輩の事、いろいろと知りました。
はっきり言ってしまえば、もしかしてムギ先輩がすごい遠い人なんじゃないかって思いました。
でも、やっぱりムギ先輩は私の大好きな、ムギ先輩です。

「こんな私でも、好きって言ってくれるの?」

はい。
私にとって、当たり前のことだった。

「こんな私でも、梓ちゃんのこと大好きでもいい?」

そ、それはムギ先輩が決めることなんじゃないでしょうか……?
でも、ムギ先輩が好きだと言ってくれるのは素直にうれしかった。

「こんな私を、受け入れてくれますか?」

もちろん。
こんな私でよければ。

「ありがとう、梓ちゃん。
 大好き! 大好き! 大大だーい好き!」

ちょ、ちょっと!

ムギ先輩が体重をかけてきて私は後ろに倒れてしまった。

51: 2010/10/06(水) 22:57:45.04 ID:NCBk/eQo
ムギ先輩が頬ずりしてくる。
何度も、何度も。
私は恥ずかしくて、やめてくださいと言ったが聞き入れてはもらえなかった。
私が下になる形で抱きつかれているので、より暖かさと……そして甘い良い香りが強く伝わってくる。

口では嫌がって見せるけれど、引き離す気にもなれなくて結局私はなされるがままだった。

「ね、梓ちゃん。
 大好き」

この体勢で言われると何というか……
ムギ先輩の色気がすごいというか……
とにかく、とても恥ずかしかった。

52: 2010/10/06(水) 23:13:07.51 ID:NCBk/eQo
急に頬ずりがやむ。
暖かさが離れていってしまうのを感じて少し名残惜しく思ってしまった。

「梓ちゃん」
そう言うとムギ先輩は目を閉じた。



……

…………

………………

……………………

…………………………これって、もしかしてアレ?だよね


意識してしまうと急に気恥かしくなってしまう。
っていうか何なんだろう。
これはあれなんだろうか、ムギ先輩の中では仲のいい女の子同士でじゃれあってする感覚なんだろうか。
いやそうに違いない。
そう思いたい。
鼻が敏感になってムギ先輩の匂いを強く感じる。
陶器のような肌、ふわふわの髪、整った鼻、全てが近い。

うわっ、すごくまつ毛が長い。

そして――――――唇はぷくっとしていて、まるでそこだけ別のもののようだ。

心臓が痛いほど脈打つ。
意識がムギ先輩の唇に集中する。
目が、離せなくなる。

とても甘くておいしくて、いとおしいものに思えてくる。

触れたい―――
感じたい――――――

誘惑は悪魔のささやきで。
私の正気はすでに色香に飲まれていて。
つまり、それは。







―――――――――――――――――――――

55: 2010/10/07(木) 14:24:47.42 ID:7GePCsDO

頭がぽーっとする。

ぼんやりと、考える。
ああ、これが私のハジメテなんだ……

初めてはレモン味なんて、信じてたわけじゃないけれどやっぱり嘘っぱちだった。
味なんてしなかった。




私の初めては、柔らかな感触と、




むせ返るような、ムギ先輩のにおいだった。

56: 2010/10/07(木) 14:27:52.87 ID:7GePCsDO
ムギ先輩が離れる。
同時に、少しだけ、理性が帰ってくる。
軽く触れただけ。
なのに、脳の芯まで溶かされて、まるでどろどろに溶けてしまったかのような不思議な感覚。

ああ、しちゃったんだーーーーーー


人差し指で唇をなぞる。
さっきとは、全然違う感触。
だから、感じる。
ここに、ムギ先輩の唇が……


私、ムギ先輩と、キス、したんだーーーーーーーー


味はやっぱりしなかった。
でも、とても甘くて、暖かくて、ほんの少しだけ酸っぱくて。
レモンっていうのは、味の事じゃないんだなぁと、そんなことを考えた。

59: 2010/10/08(金) 12:27:44.82 ID:Ry61toDO
「梓ちゃん、嫌じゃなかった?」

もう、何でそんなことを聞くんだろう。
嫌だったら断ってる。
好きだから、してもいいと思ったから私は、私から……
そう、私から…………
こんな事を言えと言うのだろうか?
考えるだけでも顔から火が出そうなのに。
いや、ひょっとしたらもう出てるかも知れなかった。

でもずっと黙っていてもそれはそれで恥ずかしい。
ムギ先輩の顔が近いから。
さっきあそこに触れたのだと、考えてしまうから。
だから私は、嫌じゃないですと、声を搾り出した。

「ありがとう」

ムギ先輩が微笑むと唇の形が変わって……って、私は一体どこを見ているんだろう。
なにかいわなきゃと思う。
『こちらこそ』
『ごちそうさまでした』
『おいしかったです』
ああもう私は何が言いたいんだろう。
どうやらまだ脳が蕩けていて、体はふわふわとまるで宙をさ迷っているようだった。

ああ、えっと、その、あの

言葉にならない声だけが、私の口から出てしまう。




ああもう、一体私は何をしてるんだろうーーーーーーーーーーーーーーー!

60: 2010/10/08(金) 12:31:28.18 ID:Ry61toDO
「私の初めて、梓ちゃんにあげちゃった」

ああ、この人はずるい。
本当にずるい。
可愛すぎてずるい!
そんなこと言われたら、また嬉しくなっちゃう。

「ねえ、梓ちゃんは初めてだった?」

ああもう、私だって初めてです!
私の顔からはきっともう火が出ているに違いなかった。

「えへへ、梓ちゃんの初めて、貰っちゃった」
ムギ先輩は、本当にずるい。
そんな顔で笑われたら、もうだめ。
落ちてしまう。

「嬉しい」

私だってこんなに嬉しいですよ!
私は素直じゃないからそんなこと言えなくて。
ムギ先輩の天使のような笑顔を見ながら、
何となく、初めてがムギ先輩でよかったなんて思い始めていた。

61: 2010/10/08(金) 12:37:05.57 ID:Ry61toDO
ムギ先輩、こういうことはそんな簡単にしちゃダメです。

私はそういった。
それは照れ隠しでもあったし、無邪気で純真なムギ先輩を思っての言葉だった。

でもムギ先輩はわかっていないような顔で言う。
「どうして?」

どうしてって、それは。
キスは、大事なものだから。
本当に好きな人とだけ、するものだから。
いくら女同士とは言えこんな簡単にするものじゃない、と思う。

「私は、梓ちゃんの事大好きよ?」

今大好きっていうのは、ずるい。
でも、私は言う。
言うというよりも、口から思ってもいないことが出てしまう。
私もムギ先輩の事は大好きだけど、キスをするような好きは、恋人とかそういう人に向ける好きなんだって。

「ふふ」

何でそこで笑うんですか!
私は真面目にですね……

「梓ちゃん。
 私は相手が男の人でも、女の人でも、梓ちゃん以外にキスなんてしないわ」


うっ……
ずるい。
ずるいずるいずるい!
そんなこと言われてしまったら、何も言えなくなってしまう。
そんなこと言われたら……


嬉しくて仕方なくなってしまうじゃない。


「安心した?」

私は何も言えなくて俯いてしまう。

62: 2010/10/08(金) 12:39:27.88 ID:Ry61toDO
もう、ただの友人とは思えなかった。
でも、恋とも違うかもしれない。


だけれど、私は。

ムギ先輩にーーー琴吹紬の魅力に。
すっかりと落とされてしまったのだった。

64: 2010/10/10(日) 20:26:48.19 ID:1vCg20co

梓ちゃんの顔が離れていく。

思っていたよりずっと、私は冷静でいられた。
まるで夢のようだ、そう思えるけれどそうでない実感がある。
目の前の少女。
誰よりも、愛し人。
天使だと、そう思っていた女の子。
でも、彼女が本当に天使でなくてよかった。
こうして触れ合って、自分の想いを伝えることができる。

私は臆病で、どうしようもない人間だった。
直前になって、やはり勇気を振り絞ることができなかった。
拒絶されるのではないかと。
そう思うとそれ以上進めなくなってしまった。

だから、彼女からしてくれて、本当に嬉しかった。
それは、私の不安も、私の想いも。
全てを受け入れてくれたような気がした。


言葉だけでは伝わらない想い。
私の気持ち。
伝わったかな。
伝わるといいな。

65: 2010/10/10(日) 20:34:40.35 ID:1vCg20co
その日、私はムギ先輩のお家に泊まることになった。
本当は帰ろうと思ったのだけれど、ムギ先輩が夕ご飯を作るから食べてほしいと言った。

意気込んだムギ先輩を止めるなんてことは私には出来なかった。
それに、ムギ先輩が私のために作ってくれる、なんて言われたら。
嬉しくて、断ることなんてできなかった。

夕ご飯はとても美味しくて。
私がおいしいというとムギ先輩が喜んでくれて。
私は自分が満たされていくのを感じていた。

66: 2010/10/10(日) 20:50:25.69 ID:1vCg20co
「ねえ、梓ちゃん。
 梓ちゃんにとって私は何?」

すごく難しい質問だった。
それは私のこの迷いをチクチクとつついてきた。

「もう、私は先輩じゃないよ?」

私の心臓がドクンと跳ねる。
私とムギ先輩のつながりとは何なのだろうか。
先輩でも後輩でもない。
だとしたら、ムギ先輩にとって私は何?
赤の他人?
声を出そうとして、気づく。
まるでのどがカラカラになっているようだった。
私はまるで駄々っ子のように声を振り絞っていう。
ムギ先輩にとって私は――――――

「私にとっての梓ちゃんはね、とても大切な人よ。
 先輩後輩なんかじゃとっても言い表せない。
 親友って言うのも、なんだか変な感じ。
 そんなものよりずっと。
 大切な、大切な人よ」

言葉だけではなかった。
声に乗せて伝わって来たもの、それはムギ先輩の想いだった。
痛いほど、切ないほど伝わった。

私は、すごく恥ずかしくなる。
こんなに思っていてくれているのに。
こんなにも愛されているのに。
信じることができなかった。

「私もね、同じよ。
 梓ちゃんは優しいから。
 私はどこかで本当は求められてなんかいないんじゃないかって思ってしまうの。

 だから、できれば聞かせてほしいな。
 梓ちゃんの本当の気持ち。」

67: 2010/10/10(日) 20:53:58.25 ID:1vCg20co
もう何度も言った気がする。
でも、先輩が信じられないというなら。
この想いが伝わるまで何度でも言おう。
ムギ先輩が求めるのなら、声が涸れても伝えよう。



ムギ先輩、大好きです。

68: 2010/10/10(日) 21:34:17.12 ID:1vCg20co
「ただの先輩以上に思ってくれるなら、呼び捨てで呼んで」

ああ、そう言うことだったのか。
前に、初めてあだ名で呼ばれて嬉しかったって言ってたっけ。

「それもそうだけど。
 やっぱり梓ちゃんには呼び捨てで呼んで欲しいの。」

ムギ先輩のストレートな思いが伝わってきて恥ずかしくなる。

ムギ―――――


すごく喜んでいる。
なんだか私も距離が近づいた気がして嬉しかった。

「……あずさ」

うっ……
駄目だ……
嬉しさと恥ずかしさで顔が赤くなるのを止められない。

「あずさ」

ムギ

「あずさ」

ムギ

2人で笑いあう。
確かに、ムギせ――― さっき言っていたこと、わかる気がした。
呼び名一つだけだけど。
たかがそれだけだけど。

たしかに、心の距離は近づいていた。





「敬語も、少しずつ、ね」

……善処します

71: 2010/10/20(水) 22:15:07.89 ID:X4S8Clso
そして新しい生活が始まった。

以前のように毎日電話することはなくなった。
それは、私が大学が始まり忙しくなったことや、梓が受験生になったこと、いろんな原因があったと思う。

でも、それは私たちの距離が離れてしまったというわけじゃない。
離れていても、相手のことを思っている。
繋がっている。
そう言う確信が私にはあった。

だからと言って、ずっと一緒にいるのが当たり前だとも思わない。
私と梓のつながりは脆いもので、いつ切れてしまうかわからない。
私と梓は、別の人間だから。
完全に理解するなんてことはできないから。

だから私は、大切にする。
何よりもいとおしく思う。
このつながりを。
この心の暖かさを。

72: 2010/10/20(水) 22:21:41.44 ID:X4S8Clso
その日私たちは電話をしていた。
かけたのは……どちらでも同じことかな。

「ムギは、どうやって曲を書いてる?」

そっか、澪ちゃんもわたしももういないから、梓ちゃんが曲を作るんだ。
……聞きたいな、梓ちゃんの曲。

「うっ――――
 なんかそう言われると照れくさいね。
 でも、澪先輩もムギもいなくなっちゃて曲のことまかせっきりだったなぁって。
 私の番が来てやっとその難しさに気づいたよ」

だから、曲の書き方を教えてほしいということらしかった。
でも、曲を書く、といわれてもピンとこない。
書こうと思って書いたことがないとは言わない。
でも、私にとって曲は書くものではない。
私の心が、感情が旋律になってあふれていくもの、それが私にとって曲だった。

「想いが、あふれ出るもの……
 なるほど」

難しく考える必要はない。
子供のころから音楽に接してた梓なら想いを旋律にできるはず。
口でなく、手足でもなく、楽器を使って表現するだけ。

「出来るかな……私にも」

できるわよ、絶対。

「私にもムギみたいに、心に響く曲が作れるかな」

梓なら、私よりもっと素敵な曲が作れるわ。

「伝えられるといいな。
 私の気持ち」

73: 2010/10/20(水) 22:25:12.27 ID:X4S8Clso
ねぇ、梓。
今の気持ちを、私に"聴かせて"もらえる?

74: 2010/10/20(水) 22:26:33.04 ID:X4S8Clso
『梓の気持ちを聞かせて』

難しい。
結局、それは来週までの宿題になった。

『自分の気持ちを、素直に見つめて』
『あふれ出る気持を旋律にするの』

私は素直じゃないから。
自分の気持ちを素直に見つめるのはすごく難しい。

でも、少し私は変わったんだと思う。
先輩たちの卒業で、わかったことがある。

変わらない物なんてないことを。
大切なものも、大切な人も全部。
当たり前にあるものなんて、ないんだ。

キュンと胸が苦しくなる。
当たり前すぎて気付けない?
違う。
考えたくないから考えないだけ。

今あるものすべて、私の大切なもの。

放課後ティータイムも、今の軽音部も。
私の、大切なものだから。
私が大事にしなくてはいけないものなんだ。

76: 2010/10/20(水) 22:40:24.64 ID:X4S8Clso
土曜日。
ムギ先輩との約束の日。
私は、なんとか曲を作った。

部室のソファに座る。
安物だから、少し硬い。
でも、私の心は深く沈んで行く。

疲れてるのかもしれないし、怖いのかもしれない。

そういえば、憂たち遅いな……

―――――ダメだな。
ずっと曲と、自分の感情と向き合っていたせいだろうか。
まるで親の迎えを待つ子供みたいに、悪い想像ばかりが膨らんでいく。

「ごめーん、梓ちゃんおまたせー」
「おまたー」

ああ―――――
私の暗闇に手が差し伸べられる。

どうしたの? 憂が遅刻するなんて珍しいね。

「あれ? 今日はお小言なし?
 てかなんで笑ってんの?
 あ、もしかして私たちが来ないかもって思って寂しかったの?」

変なところで鋭いなぁ。
でも…

77: 2010/10/20(水) 22:41:16.22 ID:X4S8Clso
「そうかも、って……梓どうしたの?
 熱でもあるの?」
 
「純ちゃん、それひどい」

ううん、いいよ。

「ねぇ梓、本当に大丈夫? 体調とか悪くない?」

こうして見つめてみると、よくわかる。
自分がどれだけこの友人に甘えていたか。
どれほど助けられていたか。

律先輩とおなじ。
自分勝手なようで、実は一番人に優しいのだ。

そして、一番助けられていた人は、私。

純は、すごく優しいね。

「や、やめてよ
 なんか梓に言われると恥ずかしいって言うか……」

「でも、純ちゃんはすごく優しいよ」

「やめて! あんまり私を褒めないでー!」

「でも、本当に梓ちゃんどうしたの?
 なんだかいつもの梓ちゃんじゃないみたいだけど」

それはたぶん。
自分の深いところにふれたから。
でも、たぶんこれは伝わらないだろうな。
だから私は言う。

ちょっとだけ素直に生きることにしたんだ、って。

78: 2010/10/20(水) 22:53:41.07 ID:X4S8Clso
――――――ジャーン

「今のいい感じだったんじゃない?」

……サビのところ、純だけ走ってたよね。
憂が合わせたから私も走っちゃったけど。

「あれ? そうだった?」
「あはは…… ごめんね梓ちゃん」

ねぇ、純、憂?
サビのところはもっと走ったほうがいいと思う?

「え……?
 怒ってんじゃないの?」

「……私はつられちゃっただけで、ちょっとどっちがいいかって言われても。
 ごめんね」

「私は走ったほうが好きかなあ。
 やっぱ曲が盛り上がったらこう、心も走っちゃうって言うか」

それは、わかるかな。

「梓ちゃんもしかして曲調変えるつもりなの?」

「え? マジで」

それはないよ。
確かに曲に気持ちを乗せるのは大事だけど、演奏してるほうの自己満足じゃ仕方ないし。
それにこの曲は、私たちが作ったものじゃないしね。

「……ごめんね」

いや、別に攻めてるわけじゃないよ。
やるならやっぱりアレンジとか

「アレンジかぁ」

「アレンジ! いいじゃんやろうよ」

それよりも、私実は――――――

79: 2010/10/20(水) 23:02:23.24 ID:X4S8Clso
――――
――――――――
――――――――――――――

「あ!」

「どうしたの?」

「ごめん、憂、梓!
 今日家にいとこ来てて出かけるから早く帰ってきてって言われてたんだ!」

「梓ちゃん、実は私も今日はお姉ちゃんが帰ってきてて、できたら早く帰りたいなぁって」

そう言うことじゃ、仕方ないよね。
じゃあ今日はここまでにしよっか。

「変わりと言っちゃなんだけどさ、明日も練習しない?
 午前中だけとかさ」

「私は賛成かな。新歓ライブ成功させたいし」

うん、私も2人ともっと練習したいな。

「じゃあ、そう言うことで!
 憂、帰ろう」

「うん、純ちゃん帰ろう」

あ、待って、私も……

「ああ! 梓はもうちょっと練習していきなよ!」

「そうそう、せっかくギター引けるんだしアレの続きとかしたらいいよ!」

「「じゃあ!」」

え? ちょっと二人とも

「明日、楽しみにしてるから!」
「梓ちゃんの曲、聞かせてね!」

80: 2010/10/20(水) 23:05:27.84 ID:X4S8Clso
そういって2人は去っていく。
私を置いてけぼりにして。
最近、少しこういうことが増えた気がする。
なんだか、二人の間に入っていけないって言うか。

ちょっと、疎外感。

首を振ってその考えを振り棄てる。

2人は、私のことを気遣ってくれたんだろう。
じゃないと、あんなに不自然なウソをついたりしないだろうし。

――――あぁ、また私は優しさに甘えてしまってるんだな。
やっぱり、二人は私の宝物だ。

この気持ちを、弦に乗せる。
聞いた人に、この気持ちが伝わるように。
幸せを、そしてありがとうを。





そして――――――
私が気付かぬうちに――――――

81: 2010/10/20(水) 23:09:30.19 ID:X4S8Clso
―――――――
――――――――――――
―――――――――――――――――
「ねえ、純ちゃん」

「んー? 何?」

「梓ちゃんの曲、どんな曲なんだろうね」

「そうだねー。
 そりゃちょっとくらいは想像つくけど」

「……私には、わかんないや」

「あーもう、そこでいじけないのー」

「そういうわけじゃないんだけど。
 やっぱりね、私は他人の気持ちなんてわからないよ。
 私は、やっぱり違うんだよ」

「……うん、違うよ。
 梓と憂は違う。
 私と憂も、違う」

「……やっぱり」

「でも、私と梓も違うよ。
 いいじゃん、それで。
 私にも憂や梓が何考えてるのかなんてわかんない」

「それでもっ――――!」

「それでも!
それだから、憂は私のこと理解しようとする、そうだよね?
 じゃ、それでいいんだよ」

「――やっぱり純ちゃんは優しいね」

「そんなことはないと思うけどね。
 ま、憂からの言葉ならありがたく受け取っておくよ」


―――――――――――
――――――――
―――――

82: 2010/10/20(水) 23:16:37.31 ID:X4S8Clso
そして――――――
私が気付かぬうちに――――――

その人は、私の目の前に。

「びっくりした?」

当たり前だよ……
何でここにいるの?

「今日は、約束の日だから」

それだけのためにわざわざ?

「それだけ、って言うのは酷いわ。
 でも、確かにそれだけじゃないけど」

何のために、は伏せられた。
でも、私も追及しなかった。

できれば、同じ気持ちであってほしいと思うから。
たぶん、同じ気持ちだと思うから。
会いたいと、そう願っていたから。

お久しぶりです。
ムギ先輩

83: 2010/10/20(水) 23:17:06.18 ID:X4S8Clso
「ええ、お久しぶり。梓ちゃん」

私の意図をくみ取ってくれたのか、そう返してくれる。

もしかしたらムギも懐かしんでいるのかもしれない。

ムギと梓でなく、ムギ先輩と梓ちゃんとして。
あの頃と同じように。
私たちがこの場所で笑っていたあの頃と。

「そのまま続けてくれる?」

もうどこまで弾いたか忘れちゃいましたよ。

「そっか。
 じゃあ、改めて。」

そう、ムギ先輩は区切った。

「梓ちゃんの曲、聞かせてくれる?」

はい。そして私は答える。
弦をはじく。
ビーンと鳴る。
ギターは、いつも素直だ。
だから私も。
素直に心を響かせる。

84: 2010/10/20(水) 23:18:45.28 ID:X4S8Clso
――――――――――――

その曲は、とても軟らかく暖かな曲だった。
アップテンポというには少し穏やか過ぎるくらいに。
心地よい、心躍るリズム。

伝わる、梓の気持ち。
だって、私も同じだったから。
同じ時間を過ごしていたから。

そしてたぶん、今梓の周りにいる人たち。
憂ちゃん、純ちゃん。

きっと、みんなへの想いでこの曲は出来ている。

皆を思う、梓の気持ちで出来ている。

優しくて、奇麗。
だけど、それだけではなく、激しく強い思い。
それが込められている。

まるで梓の人となり、そのもののようだった。

私がなぜ梓に惹かれるのか。
それが少しわかった気がした。

85: 2010/10/20(水) 23:20:09.90 ID:X4S8Clso
「どうでした?」

そうね、優しくて暖かい、いい曲だったわ。
梓の気持ちが素直に伝わってきたよ。

「そうですか?
 正直、本当にただ詰め込んだだけになってしまったような気がするんですが」

そうね。
でも、私も最初はそうだった。
梓は小さいころから音楽に囲まれているから、私が初めて作ったものよりずいぶん形になっていると私は感じた。

確かに、梓には作曲に対する知識も経験もない。
でも、それは後から付けられる付けられる。
大事なのは、想いをこめること。
想いを伝えられること。

少なくとも、私はそう思っている。

そして、私はまたこうも思った。
羨ましいと。
その強さが。
激しい想いが。
だけれども、これはナイショにしておく。
なんだか、これを言ってしまうのは、まるで告白のようで恥ずかしかったから。

「私の想いは、届けられると思いますか?」

今の段階ではまだ難しいかもしれない。
でも、きっと届くものにできる。
そう思った。

86: 2010/10/20(水) 23:21:17.30 ID:X4S8Clso
―――――――――――
「どうしよっか?
 曲についてもっとこうしたらいい、って言うのは言えるけど、たぶんそれは憂ちゃんと純ちゃんと相談してもいいし……
 そうだ、歌詞はちょっとくらい考えてる?」

私は迷う。
実は、まだあるのだ。
私の曲が。
さっきの曲を作っているときに、あふれてきたもう一つの感情。
だけれども―――
その曲は―――――――

今を逃すともう、きっとこの曲を弾くことはないだろう。
そのほうがいい、そう私の強がりな心が、弱い心が言う。

だけど、決めたから。
もう少し素直になると。
だから、

聞いてください。
知ってください。
私を。
弱くてもろい、さみしがりな私を。

87: 2010/10/20(水) 23:22:16.64 ID:X4S8Clso
想いは、確かにあふれた。
しかし、あふれた想いをコントロールすることはすごく難しかった。
曲に飲まれ、感情が暴走する。
考えなくてもいいことばかり頭に浮かんでくる。

今が幸せであればある程、暗く、深く、冷たく。
堕ちていく。
手が凍えて止まってしまいそうになる。
それでも、私は手を止めない。
止められない。

知ってください。
私の想いを。
受け止めてください。
私のことを。

そしてできることなら。





愛してください

88: 2010/10/20(水) 23:27:20.30 ID:X4S8Clso
―――――――――――
それは、叫びだった。
始めは、バラードのように弱く、悲しく。
そして、ある時、抑えきれなくなったそれは爆発する。
強く訴える。
心からの叫び。

私は鳥肌が立った。
梓の、むき出しの感情。
ぶつけられる。
私の、矮小な本質が、裸にされる。
梓が、震わせて叫ぶ。
私の心が揺さぶられる。




そして


共振する。




気がつけば
私の目からは涙があふれていた。

89: 2010/10/20(水) 23:27:48.86 ID:X4S8Clso
「これで、終わりです」

梓の顔を見る。
泣きそうな顔をしている。

伝わった、梓の気持ち。

私の気持ちとおんなじ。

常に考えてしまう。
それは、『失う恐怖』。
一人ぼっちになる寂しさ。
それを考えてしまう、心の弱さ。

決して口には出来ないけれど、心の奥ではずっと叫んでいる。


『私を愛して』、と。


私は梓を抱きしめる。

そして言う。
伝わったと。
愛していると。

引用: 紬「けいおん自給自足」