23: 2014/07/08(火) 17:26:13 ID:jCVODrYo


風呂の湯が、一日の疲れと上司の愚痴、それから外回り先での心ない一言を洗い流した。

小川哲也(おがわてつや)は風呂上がりに鏡に映る己の美しい体に酔いしれる。
俺だけに限ったことではないが、男は風呂上りが一番凛々しい。
けれど、それを他人に見せる機会がないのは至極残念に思っていた。
そろそろ、彼女が欲しい頃だった。

哲也のスマートフォンには、竹田祐子(たけだゆうこ)さんのメールアドレスが入っている。
祐子さんは我がT生命保険の誇る受付嬢で、その中でも特に容姿にたけた女性だった。
彼女は毎日朝の会議が終わり、外回りに出かけて行く時、こちらに最上級の微笑みを投げかけてくれる。

先日、哲也は祐子のメールアドレスを、当たり障りのない会話の中でさりげなく聞いてくることに成功した。
なんでも相談したいことあったらいつでもかけていいよ、と言って聞き出したのだ。
これも巧みな話術のなせるものだ、と哲也は自負していた。
江戸前エルフ(1) (少年マガジンエッジコミックス)
24: 2014/07/08(火) 17:29:44 ID:jCVODrYo

風呂上がりにスマートフォンをチェックすると早速、彼女からのメールが届いていた。

『明日、良ければ相談に乗ってくれませんか?』

祐子さんらしいシンプルな文面だ。
僕はその文面を確認すると間髪入れずにメールを返信した。

『僕でよろしければ、よろこんで』

25: 2014/07/08(火) 17:34:33 ID:jCVODrYo
翌日は休日だった。
哲也は服装に頓着する方では無かった。
大学生の頃からのシャツの裾をまくり、ジーパンをはいて約束の昼食に出かけた。

祐子は待ち合わせ先のイタリアンレストランに、哲也より早く着いていた。
少しぐらい待たせておいた方が、期待させる効果があるだろう、と哲也は開き直って、

「待ちましたか」

と尋ねた。

祐子の髪型はボーイッシュなショートカットで、濃紺のデニムジャケットを羽織り、インナーからこぼれおちそうなほど胸があって目のやり場に困る。
そこで視線を下にずらすと、ピッチリしたパンツが脚線美を際立たせていた。

「いえ、大丈夫です。行きましょうか」

祐子はレストランの中へ入っていった。
哲也も後に続く。

26: 2014/07/08(火) 17:37:02 ID:jCVODrYo
哲也にとってイタリアンレストランはあまり馴染みがなかった。
祐子は店員を呼び、異国の料理をすらすらとオーダーしていった。
哲也はとりあえず、パスタとサラダを頼んだ。
こういう無難な武骨さは逆に好印象かもしれない。

「相談があると聞きましたけど、何でしょうか」

料理が運ばれるのを待っている間に、話を始めることにした。

「小川さん、西口さんとは仲が良かったですよね」

西口勇人(にしぐちはやと)は僕の同僚で、大学時代法学部だった経験を生かし現在法務部に所属している。
宴会では一緒になってバカみたいに騒げる仲だった。

「はい。休日には二人で電機街に遊びにいったりしてますね」

27: 2014/07/08(火) 17:39:26 ID:jCVODrYo
「私の気のせいかもしれませんけど、ちょっと最近西口さん、私のこと、その、変な目で見てないかなって思って」

西口は大学以来、女性に目がないようだ。
目につけた女は、そう簡単に手放さない。

少し間が空いたので、哲也は考えた。
そういう相談って、同性にした方がよくないか……?

しかし、祐子さんは僕を頼っているのだ。
僕と西口が気の置けない友人で、なんでも気兼ねなく話せる仲だと言うことを差し引いても、祐子さんが僕に相談を持ちかけてくれたのは素直に嬉しかった。

「分かりました。あいつ、ずっと女ったらしなんですよ。僕からきつく注意しておきますね」
「ありがとうございます。助かります」

28: 2014/07/08(火) 17:41:50 ID:jCVODrYo
そこで、注文したボンゴレスパゲティと、シーザーサラダが運ばれてきた。
哲也は祐子の頼んだ料理を見る。
スープやら、ソテーやらを4品目注文していた。

その後他愛もない雑談――上司の癖やら、同僚の変なミスやら――で盛り上がった。
祐子が終始口角を上げているのを見て哲也は何とも言えない気持ちになった。

こんなに楽しいおしゃべりをしたのは久しぶりだ。
祐子さんも大層よろこんでくれている。

もしかすると、僕に気があるのかもしれない、なんてな。

食事を終えて、会計の高さに哲也は少し驚いたが、それは瑣末なことだった。

「また一緒にご飯食べに行きましょうね」

帰り際、祐子さんはそう言ってくれた。
それだけで、頑張れる。

29: 2014/07/08(火) 17:44:50 ID:jCVODrYo
哲也は朝の会議に顔を出していたが、半分聞き流していた。
今月は残り一週間。
哲也は契約ノルマ数をとっくにこなしていたのだ。

会議室を出た。
朝と夕方の会議にさえ出れば、もう後は自由なのが外回りの気楽なところだ。
そして大体の外回り営業マンは、人目に触れず時間をつぶせる場所を持っている。
哲也はそこで一日を過ごすことに決めた。

オフィスを出ようとしたが、ふと思い出した。
祐子さんに言われたことを忘れていた。
危ないところだったと内心冷や汗をかきながら、哲也はまだ始業していない法務部へと足を向けた。

30: 2014/07/08(火) 17:46:22 ID:jCVODrYo
「西口、お前最近竹田さんのこと狙ってんだろ」
「おう。お前もか?」
「俺のことは関係ないだろ。とにかく竹田さん、気味悪がってたから、あんまりアプローチしすぎんなよ」
「あいあい、分かった分かった。もう始業寸前だからお前も行ってこいや。浮いてるぞ」
 
分かっていない様子だった。
けれど部外者である哲也を不審な目で見る人間が増えてきたので、今のところは消えるしかない。
今度なにかで制裁を加えてやる必要があるな。

オフィスから出ようとしたところで、哲也はふと振り返る。

祐子さんの笑顔に手を上げ、出て行く。

31: 2014/07/08(火) 17:50:35 ID:jCVODrYo
哲也はビルを出ると、最寄駅で電車に乗り、ひと駅行ったところで降りた。
大通りを歩き、細い路地へ入っていくと、古びたアパート群が見えてきた。
哲也はその中の一軒の、三階の一室のインターホンを押す。

「いらっしゃい」

伊丹浩太(いたみこうた)はしわがれた声で哲也を迎え入れる。
1DKの六畳間のほとんどは、パソコンとその周辺機器で占められている。
哲也はその残りのスペースに寝転がった。
煙草のヤニで、天井は黄色く染まっている。
 
伊丹と哲也は同じ大学に通っていた。
伊丹は情報系の学科、哲也は文学部だったが、サークルで知り合ったのだった。
ゲーム・アニメ同好会で。

伊丹は学生時代からプログラミングのプロとして報酬を得ており、大学卒業後数年はIT会社に勤めていたが、やがてフリーとなり、現在こうして家で一人キーボードを叩き続けている。

32: 2014/07/08(火) 17:52:07 ID:jCVODrYo
哲也はパソコンの向かい側にあるテレビをつけ、録画してあるアニメを見始める。

「お前が今期オススメしてたこのアニメ、惰性で見てるがつまらないんだけど」
「お前には良さが分からなかったか、そうかそうか」

伊丹は煙草に火をつけ、あごの無精ひげをさすりながら言った。

「そもそも、もうアニメを見るような歳じゃないだろ?」
「確かに、最近はちょっと若い感性がつかめなくなってきてるわ」

アラサーの男二人は頷き合った。
やがて伊丹はパソコンと向き合い、ぽつぽつとキーボードを叩き始める。

「でもさ、やっぱり深夜アニメっていうのは挑戦心に溢れてて、勇気をもらえるんだよな」
「同感だ」

33: 2014/07/08(火) 17:54:43 ID:jCVODrYo
哲也がゲーム・アニメ同好会に入ったのは、ほとんど偶然だった。
新歓の季節、たまたま見かけた同好会の貸し教室で、格闘ゲームをやっているのを、哲也は廊下から覗き見た。

そのゲームは哲也が高校時代、ゲームセンターに通いつめてやっていたものと同じシリーズだった。
お試しプレイという張り紙にも興味を惹かれ、ふらりと教室に入って行った。

そこでゲームの腕を披露したところ、おだてられて、気付いたころには成り行きで入会が決まっていた。
そのときまだアニメについては詳しくなかったが、伊丹にオススメされているうちに、そちらにも興味を持つようになったのだ。

「平日の真昼間から部屋でごろごろして録画したアニメを見られるとは、いい御身分だな」
「企業勤めはそんなに楽じゃないぜ? 上司の顔色うかがいとか、後輩の面倒見だとか」
「でも、美人に会える可能性があるじゃないか」
「なるほど」

34: 2014/07/08(火) 17:58:25 ID:jCVODrYo
「俺なんか引きこもり同然だよ。出会いがない。それでアニメ上の美少女にすがるしかない。お前、自覚ないかもしれないけど、相当幸せ者だぜ。仕事もこなせるし」
「うん。分かってるよ」

哲也は伊丹に言われなくても、自分が幸せであると分かっていた。
普通に働いて、ある程度の収入があるし、綺麗な女の人にも会えているし。

「それに比べ、俺はまあもう、ダメだな」
「なんでだよ。お前プログラミング大好きだろ? 俺も営業の仕事は向いてると思うけど、好きではない。好きなことやって金がもらえるなんて幸せじゃないか」
「……自覚できないものだな、幸せってのは」

35: 2014/07/08(火) 18:01:29 ID:jCVODrYo
伊丹はなにか含みのある口調でそう言った。
哲也は返答をしなかったので、六畳間に沈黙がおりた。

「紅茶、あるか?」
「いつものトワイニングのアールグレイならある」
 
哲也はアニメを一時停止して立ち上がった。
客人だから淹れてもらおう、と通い始めのうちは思っていたが、こいつは紅茶もコーヒーも、素晴らしい薄味に仕立て上げてくれる。

哲也は4杯目の紅茶を飲んだところで、暇を告げた。
玄関に張ってある特大の美少女ポスターに見送られた。

溜まっていたアニメはほとんど消化することができた。
それだけで、満足感を得られた。

会社へ戻る電車の中で、哲也は伊丹の言葉を思い返していた。

――自覚できないものだな、幸せってのは。

36: 2014/07/08(火) 18:02:28 ID:jCVODrYo
哲也はそう思わなかった。
思わないし、自覚できないなら幸せは意味を持たない。
すると伊丹は幸せではないのかもしれない。
だが、伊丹はもっと不幸な人生を送っている人々に失礼だ。

羨み。

羨みが、人の幸不幸を決めるのではないだろうか。

自分と比べて周りの人間が幸せに見え、羨ましいと感じるとともに、不幸だという感覚がやってくるのではないか。
だとすると、幸せとは相対的なもので、社会的な関係以外では成り立たなくなる。

――哲也の頭は混乱してきた。

まあいい。
そう哲也は決断を下した。
そういう考えの人間もいるだろうということにしておこう。
但し、僕はそうは思わない。

幸せは絶対的で、自分の中にしか存在しえないものだ。

そんなことを考えていると、いつの間にかオフィスに着いていた。

37: 2014/07/08(火) 18:06:07 ID:jCVODrYo
受付の祐子さんが、こちらに微笑みを送ってくる。

「お疲れさまでした」
「あ、ありがとうございます」

哲也も笑顔で返した。

少し、わざとらしかったかもしれない。
歯を見せすぎているかも。

「お煙草、吸われるんですか?」
「どうしたんですか? いいえ、吸いませんが」
「いえ、すみません。小川さんから煙草の匂いがするもので……訪問先が煙草臭かったんですね」
「まあ、そんなところです」
「お疲れさまでした」

祐子さんは再びねぎらいの言葉をかけてくれた。
することがないので時間をつぶしてました、とは言えなかった。

38: 2014/07/08(火) 18:09:28 ID:jCVODrYo
哲也はよく、牧歌的な人だと言われる。

どことなくのんびりしていて、それでも仕事は実直にこなしていけるから。
哲也はその評価がなかなか気にいっていた。
やることはやる人間。
仕事と趣味をうまく両立している人間。

哲也と祐子との2度目のデートは全くの偶然から行われた。
土曜日の夕方、哲也は電機街をうろうろした後の帰りの電車に乗り込んだところ、祐子と鉢合わせた。

「あ、ど、どうも」

いきなりの出会いに哲也は少しどもった。

「こんにちは、いや、そろそろこんばんはかな?」

祐子は少し驚いた程度で、動揺してはいない。
流石は受付嬢を6年もやっているだけあるな、と哲也は感心した。
営業の仕事も、突然のアポイント変更等不測の事態が起こりやすいが、その対応は哲也は苦手だった。

39: 2014/07/08(火) 18:13:44 ID:jCVODrYo
「折角ですから」先に声をかけたのは祐子の方だった。

「どこかで一緒に食事でもしましょうか。私もお出かけの帰りだったんです」

祐子はこの前よりもネックの深いTシャツを着ていて、哲也はついつい胸元を見てしまう。

哲也は少し前に軽食を取っていたので、ちょっとしたファミレスに寄ることになった。
注文を取りに来たのは50代ぐらいのおばちゃんだった。
こちらの雰囲気の方が、哲也には安心感があった。

「西口、今日どうでしたか」
「あ、西口さん? ああ、そう言えばお願いしていましたね。釘をさしてもらうようにって。だいぶ、考え直してくれたみたいですよ。小川さん、ありがとうございます」

意外と、上の空な感じだったのに驚いた。
が、その場はそれ以上会話が続かなかった。
注文した安いグリルチキンと、祐子さんのパスタが届いた。

40: 2014/07/08(火) 18:16:01 ID:jCVODrYo
「今日もなにか相談でもあるんですか?」

図星だったようで、祐子さんは顔を少し赤らめた。
そういうしぐさも可愛いと哲也は思った。

「私、同僚に嫌われてるんじゃないかなって、そう思うんですよ。退社する時も女の子の誰も声をかけてくれないし、受付同士で昼休憩をするとき、私が話をした途端に会話が途切れるんです……私、ハブられてますよね」
「それは、単なる竹田さんの思い込みかもしれない」
 
僕は優しく言った。

「自分が思っている以上に、周りの人は貴方のことを気にしてはいませんよ。いい意味でも、悪い意味でも」
「そ、それはそうかも……」
「だからさ、自分が幸せになるように考えてみたらどうでしょうか?」
「そうですね……なんていうか、小川さんってとてものんびりした考え方ですよね。牧歌的な人、というか」
 
祐子さんにも言われてしまった。
今夜は嬉しくて眠れそうにない。

41: 2014/07/08(火) 18:18:20 ID:jCVODrYo
「あ、あの」

哲也は意を決して立ち上がった。何事か、と流石の祐子さんも目を白黒させる。

「竹田さんのこと、祐子さんと呼んでもいいですか?」

祐子はほっと胸をなでおろす。

「いいですよ。ぜひ呼んでください。その代わり私も、小川さんのこと哲也さんて呼びますからね」
「は、はい、それはもちろん、歓迎っていうか、その」
「てっきり告白でもされるのかと思っちゃいましたよ。そんな、いきなり席を立つだなんて」
 
哲也は苦笑いする他なかった。
その選択肢も、候補にあったからだった。

42: 2014/07/08(火) 18:21:10 ID:jCVODrYo
それから月が変わり、7月になった。
その日哲也はいつものように、ルート営業の仕事を幾つかこなした後、伊丹の家で時間をつぶすことにした。

伊丹はひげを月に2回しかそらない。
前よりも伸びたひげをいじくっている伊丹はまるで仙人かなにかのようだった。

哲也はまた、煙草臭い部屋の中へ招き入れられた。

「なるほど、お前はあの竹田っていう子が好きなのか」
「そ、そんなんじゃない。そもそもなんで竹田さんのこと知ってるんだよ」
「直接会ったからな」
「どうやって」
「それはまあ、お前の後をつけて? 古典的方法だな」

哲也は会社への帰り道ずっと考えごとをしていたせいで、確かに注意力が散漫になっていたかもしれない。
しかし、まさか自分が追跡されていたなどとは思わなかった。

43: 2014/07/08(火) 18:27:11 ID:jCVODrYo
「結構進んでるんだぞ」
「へえ、もうはしたのか」
「二回、食事に行った」
「それはプラトニックでいいですこと」

伊丹はため息をついた。

「そのうち告白もしないとな……どうしたらいいものか」
「その前に画面ごしの恋をやめなきゃならんだろ」
「関係ないさ」

それは本心だった。
趣味と、本気の恋愛は違う。
二次元の嫁を持ちながら、同時に祐子を楽しませることができるという自負が哲也にはあった。

そのとき、電話が鳴った。朝、営業に行った訪問先からだった。
商談を急きょ今日のこれからにしてほしいという電話だった。

時刻は5時ちょうどだった。
これでは夕方の会議には参加できそうもなかった。

「消臭スプレーはないか」
 
哲也は伊丹に聞いた。

「この部屋は煙草臭いんだよ」
「へえ、そういうこと、気遣うようになったのか」
「ビジネス上の付き合いだからな。身だしなみは整えないと」

44: 2014/07/08(火) 18:30:33 ID:jCVODrYo
哲也は消臭剤をスーツにスプレーし、商談に出て行った。
珍しく精彩を欠いてしまい、思いのほか話が長引いてしまったが、なんとか契約を取りまとめることができた。

商談を終え、オフィスの最寄り駅まで戻ったのは8時ごろだった。
今日は疲れたな、と哲也はひとりごち、夜の通りをゆっくりと歩いていった。

その途中。
哲也はある二人組に出くわした。
はじめはどうせ彼氏彼女の関係だろうと高をくくっていたが、よく見るとそれは西口と祐子さんなのだった。

向こうはこちらに気づかず通り過ぎて行った。
二人で一緒に駅まで歩いていくつもりなのだろう。
仲直りができたようで良かった。

45: 2014/07/08(火) 18:34:06 ID:jCVODrYo
「すみません、明日も一緒にお食事に出かけませんか」

日曜日の夜、哲也と祐子は再び食事をした。
そこでそう言われたとき、哲也は確信した。
これはいける。
七夕の夜に、願い事が、叶う。

考え通りの展開がやってきた。
二人は仕事終わりに、フレンチレストランで待ち合わせていた。
祐子は哲也より先にレストランに着いていて、哲也がやって来たときはうつむいていた。

「私、やっぱりどうしても同僚の子と上手くやっていけそうにないんです」

傷心の様子の祐子さんにも、胸がときめく。
もう疑いようもなく、自分は祐子さんのことが好きだ。
哲也はことさらそれを意識させられた。

「どうしても、だめかい、祐子さん」

二人は話しながら店内へと足を運んでいった。
ウェイターに案内された席からは夜景が綺麗に見渡せて、ロマンチックだった。

46: 2014/07/08(火) 18:35:46 ID:jCVODrYo
「哲也さん、私この会社、やめようかと思ってるんです」
「それはもったいないな」

少し慌てて哲也は返事をした。
もうなにも祐子は言わなかった。

「今日は七夕ですね」

哲也は言った。

「なんでも一つだけ、願いをかなえてあげますよ」
「じゃあ私を幸せにしてください。それだけでいいんです。どうか、お願いします」

すがるような口調で祐子は言った。

「す、すみません、わがままを言っちゃった」
「いいんです。――もしかすると、僕にそれができるかもしれませんし」
「本当ですか。私の願い事をかなえてもらったんなら、私も哲也さんの願い事を一つ聞いてあげなきゃ」
 
今しかない、と哲也は感じた。
心臓が早鐘を打っている。
てのひらにじっとりと汗がにじむ。

言え。
言うしかないだろ男だろう。

47: 2014/07/08(火) 18:36:58 ID:jCVODrYo
「好きです。僕と付き合ってください。そうしたらきっと、僕はあなたを幸せにできる」

沈黙が下りた。

祐子はなにも驚くことはなかった。
傍目から見れば、もうとっくにそういう関係だったからだ。

「うーん、それは二つですよ、願い事が」
「え……」
「どっちにします? 私に好きだという感情を伝えるのか、それとも付き合うことにするのか」

哲也は息をのんだ。

――素晴らしい。

この返答が、はたしてどれだけの女性にできることだろう。

そこで、哲也は伊丹の言葉を思い出した。

――自覚できないものだな、幸せってのは。

48: 2014/07/08(火) 18:41:50 ID:jCVODrYo
違う。
そうじゃない。

確かに他人から見れば、僕が祐子さんと付き合うことになれば幸せな二人組だという風に写るだろう。
だが、それでは駄目だ。
男女交際はすべからく自分が幸せだと感じられるべきだ。

僕は二者択一を迫られている。
祐子さんに好きだと言う思いを伝えるか、それとも外面だけの付き合いをするのか。

そう考えた時点で、もう答えは出ていた。

「好きだ、という思いを伝えさせてください」
「分かりました。哲也さんは私のことが好きなんですね。嬉しいです」

祐子は一切表情を変えずに口だけ動かした。

その後料理を平らげると、祐子さんは僕に微笑みを投げて去って行った。

哲也は想いを伝えられた安堵感と満足感に浸っていた。


ああ、僕は幸せだ。

49: 2014/07/08(火) 18:44:31 ID:jCVODrYo
次の日、哲也がいつもより早く出勤してくるのを、祐子はぼんやりと眺めていた。
適当にいつもの愛想笑いを浮かべておく。
 
色々嘘をついたことを、小川さんに謝らなくてはいけないのかもしれない。

まず西口さんが嫌だということ。
私は西口さんにぞっこんだ。
自覚がある。
それを小川さんに偽った。

小川さんと会話しようという少しの期待からそうしたのだ。
試してみよう、ということだ。
その期待は、まず第一印象から裏切られた。
なんだ、あのイケてない大学生みたいな私服は。
どうせ全身ユニクロで揃えたとか、そういうクチなのだろう。
まったくもってあり得ない。

それでも私は偽りの笑顔を振りまいた。
それも嘘をついた、といえばそうだろう。
しかしあの、小川さんの舐めまわすような視線には耐えられなかった。
あの人、私の胸元と脚にしか興味ないのかしら。
そう思いながら、ともかくイタリアンの席についたが、シーザーサラダを頼むのはイタリアンに慣れていない証拠だ。
特にあんな高級な専門店で。
大人になりきれていない大学生。
そうだ、やはり小川さんは大学生みたいだ。

50: 2014/07/08(火) 18:46:39 ID:jCVODrYo
二回目会ったときは完全に偶然だったが、彼は相変わらず私の胸ばかり見ていた。
そのときは新品の、ランバンのブーツを履いていた。
そっちを見ろっつーの。

私は彼が仕事ができることぐらい知っている。
月末になると暇を持て余して、どこかで時間を潰していることも。
彼はあの薄汚い男の家で過ごしているのだろう。

小川さんの後についてやってきた男の家。
同じ煙草のにおいがしたので間違いない。
あのときの小川さんの黄ばんだ歯は見るに堪えなかった。
どうせ紅茶でも飲みまくっていたのだろう。
歯くらい磨いてこい。
いい大人なんだから身だしなみを整えろ。

彼がキモオタであることも、確信していた。
一度彼の後を付けて、煙草臭い無精ひげを生やした男のアパートまで行ったのだ。
三階の一室に入る小川さんの姿と、その扉の向こうにある萌え系のキャラクターのポスターが目に入った。
証拠はまだある。
彼は初めて食事に行ったとき電機街によく遊びに行くと言った。
どうせ秋葉原をぶらぶらしているのだろう。

51: 2014/07/08(火) 18:47:43 ID:jCVODrYo
自分に素直なのはいいが、周りの目も気にしろ。
そういった意味で牧歌的だと、これは揶揄したつもりだったが、小川さんはむしろ喜んでいた。
私が彼を喜ばせていること、その気にさせていることは、最大の偽りだ。
申し訳ないと思う。
でもやっぱりいいや。
キモオタだし。

いや、キモオタ自体が悪いのではない。
キモオタであり、二次元に興味を持ちすぎて現実での身なりを気にしないのが悪いのだ。
西口さんも小川さんと一緒に秋葉原へ行っているらしいが、彼は綺麗な印象なので構わない。

ひとつ偽りではないことがある。
私が同僚にハブられていることだ。
それは間違いなく、私が西口さんと仲良くしているからだ。
でも、西口さんといられる間はそんなこと忘れられるからどうでもいい。

52: 2014/07/08(火) 18:48:25 ID:jCVODrYo
私にとって小川さんは同じ会社で働いている人以上の存在ではない。
今頃小川さんは思いあがっているのだろう。
私に好きと伝える。
絶対にその選択肢をとると確信していたから、昨日はああいうとんち染みたことを言ってみたが、もちろん付き合うと言われても断っていた。

やんわりとね。

しかし、どれだけ女性慣れしてないんだよ。
普通3回もデートしたらホテルに連れ込むだろうが。
まああの風貌だし、女の子と遊ぶ機会はなかったかもね。
 
会議が終わったようだ。

のん気なものね。
そう思いながら、祐子はオフィスから出て行く哲也の姿を、鬼の形相で睨みつけた。


おわり

引用: 人の間の、へんな生き物【個人ssスレ】