163: 2014/10/23(木) 00:40:58 ID:w4RbHDfM
「いつでも」

黒い人の列が、塗装のほとんど禿げかかった橋を渡る。
欄干に手をかけると手にどす黒いの錆がついて、ズボンのポケットから手布を取り出して拭くが、取れない。
折からの曇天が、我々に薄く暗い影を投げかけていた。
梅雨時の雲は重く濁っていた。
もう少しすればひと雨来るかも知れない。

河原の土手に小さな娘が座っている。
友達と待ち合わせているのか、その小さな両手でバレーボールを抱えていた。
この天気だと直に雨が降って遊びは打ち切りになってしまうだろう。
それを心配してか、少女の表情は悲しげだった。
悲痛さのまだ実感が湧いていない人の列の中で、その少女に気付いたのは私だけのようだった。
どこか心が宙づりになっているかのような葬列。
江戸前エルフ(1) (少年マガジンエッジコミックス)
164: 2014/10/23(木) 00:42:22 ID:w4RbHDfM
息子の火葬は恙なく終わった。
焼却炉の点火スイッチを押す時の感触を、私は冥土まで持っていくことになるだろう。
精進落としの料理を食べに、葬儀会館へと引き返している所だった。
久方ぶりの親族の集結になるが、甥がぶかぶかの学生服を着る歳になったことを、心から喜べない。
胸の中に、吹雪のように降り積もる悲しみに浸ることしか、今の私にはできない。

健太の氏を知らせてくれたのは、健太の知人だった。
彼によると、ぼろアパートの一室のソファで、横になった姿勢で冷たくなっていたそうだ。
私の住む町に遺体を運んで来て、はじめてその安らかな表情を見た時、ただ眠っているだけだと私は思った。
すぐに悲しみは押し寄せてきた。
遺体を家族は解剖して氏因を判定する選択もあったが、遺体に傷を付けたくないと私は反対した。
彼の部屋からは、空になった劇薬の小瓶が発見された。
院生時代に、研究室からくすねてきたのであろう。

健太の顔は醜悪に歪んではいなかった。

165: 2014/10/23(木) 00:43:56 ID:w4RbHDfM
その息子の知人も、葬儀に参列してくれていた。
身長の高い彼の背中がとぼとぼと左右に揺れるのを、私は後ろから見ていた。

息子は全く勉強のできない私や家内の血を良い意味で引き継がず、真面目に勉強をして地方随一の国立大学に入学した。
修士課程二年を去年度に修了し、安定した大企業に就職して今年から働き出していた。
順風満帆な人生を歩んでくれるはずの存在は、両親より先に黄泉の国を見ることになった。

私は孤影悄然と歩いていた。
娘の恵理の気配が近づいてきた。
娘は今年短大に入学しで、しがない自営業の家から毎日学校に通っている。
兄が大学へ行くまでは不満を内に蔵匿していたのであろう、彼が家を出て行ってからは、健太に対する悪口雑言を家族に聞かせ続けていた。
取るに足りないことを針小棒大に騒ぎ立てた。
親である私にも、娘は特にずけずけとものを言う性格であった。
私は恵理のすすり泣く声が堪らなく嫌だった。

166: 2014/10/23(木) 00:45:10 ID:w4RbHDfM
「これから、辛くなるな」

その泣き声には、外面を気にしているだけという感がある。
葬儀の場で、肉親は悲しんでいなければならない。
だから無理をして涙を流しているのだろうが、まだ実感が湧かないのが当たり前だろう。
私が言葉を発したのは、そう言った娘の態度への皮肉であった。

「お父さんも、そうだね。私よりも辛いよね」

娘はまるで自分の方が悲しみを味わっているとでも言わんばかりにそう言い、私の隣から離れていった。

一つ不思議なことがある。
息子の不幸を耳にしてから現在に至るまで、涙がただの一筋も流れてくれないことだった。
こみあげてくる気配すら感じなかった。

167: 2014/10/23(木) 00:45:51 ID:w4RbHDfM
どう足掻いても払拭できない苦しみが、先程から私の胃をきりきりと締め付けていた。
痛みに浸りたい気分だった。
葬儀会館に着き、挨拶をして精進料理に箸をつけることを促し、自席に着くと、料理には目もくれず日本酒だけを飲み続けた。
透明の熱い汁が胃を焼いて回った。
普段からせっかち爺さんと言われる私で、酒を飲むペースなど調節できないが、今日はどれだけ早く飲んでも酔えなかった。
痛みだけが老体に染み渡っていった。
家内は部屋の隅の位置で虚空を見つめており、恵理は沈鬱そうにうつむき、息子の知人は心ここにあらずという表情で黙々とただ口元に箸を運んでいた。

168: 2014/10/23(木) 00:46:41 ID:w4RbHDfM
健太の苦しみを肩代わりしてやりたかった。
そのことを、私は通夜の時からずっと、心の中で思い続けていた。
健太は悩んだり苦しんだりする素振りを家族に見せることが、滅多になかった。
実際、彼は悩み苦しんでいたのだ。
そして劇薬を口に運んだ。
そう考え始めると、健太の人格形成に関わる問題かと思い、自責の念にすら駆られた。
私の育て方が悪かったのではないか。
もっとストレスを発散する方法を、幼少のころから教え込んでやって然るべきだったのではないか。

169: 2014/10/23(木) 00:48:10 ID:w4RbHDfM
私が結婚したのは四十になった年で、その三年後に健太が生まれた。
人生に対し擦れた感覚を私自身も持っており、もう一生結婚などできはしないと感じ始めていたところで、家内にめぐり合った。
家内は私よりも十歳年下だった。
私には勿体ないくらいの美人で、未婚だと聞いて驚いたのを覚えている。
結婚式で幸福な家庭を気付くと自らの中で誓いを立て、子供が生まれた時にその決意を新たにした。
そのつもりで、一生懸命働いたし、家族と接する機会もしっかりと取ったと思う。
けれど、私が馬車馬の如く活動していること自体が、健太にとっては負担になっていたという可能性もなくはない。

私の考えすぎかもしれないが、思考は巡りめぐる。
私のように活動しなければ、と思い、無理をして大学へ進学し、大企業へ就職した。
けれど、それは彼のキャパシティの限界を超えた行動だったかもしれない。
思えば私は彼に期待の言葉を述べ続けていた。
それも、さぞ負担に感じていただろう。

それだけではない。
彼ばかりに期待して、娘の恵理に対してはあまり気をかけていなかった。
恵理が兄に対する悪口を言うようになったのは、婉曲に私を非難したいからであるような気さえした。

170: 2014/10/23(木) 00:50:18 ID:w4RbHDfM
私の愛情が重すぎたのだ。
愛情を注ぐ対象が一つなくなって、そのことが痛烈に思い知らされた。
私はなおも酒をあおり続けた。
胃は溶けてなくなってしまうかのように燃え上がっていた。
が、痛みで鬱々とした気が紛れることなど有り得なかった。
この悩みは付いて回る。
老い先短いことだけが救いだ。
そう思ったが、すぐにその考えを取り払った。
私が氏んだら? 私が氏んだら、家内はどれだけ悲しむだろう? 恵理は、親族は、甥っ子は? 
私はすぐにでも、家内に声をかけたい気分になっていたが、さすがに葬儀の場でそういった話をするのは縁起が悪いと思いなおした。

171: 2014/10/23(木) 00:51:47 ID:w4RbHDfM
家内は家内で、勿論健太に対する思いを抱えているだろう。
虚空の先に、もういない健太の姿を見ているのであろう。
恵理だって、もちろんそうだ。
きちんと考えている。
これは私だけの問題ではない。
家族全体、いや、親族全体で、今は悲しみに浸るべき時なのだ。

一時間経過した時、火葬終了の知らせが入った。
精進料理を半分残し、私は席を立った。
火葬が終わるまでの間に雨が降り始めていた。
再び黒い列を組み、今度は黒い傘をさして私たちは火葬場へと歩き始めた。

172: 2014/10/23(木) 00:53:03 ID:w4RbHDfM
あたりに明るい笑い声が響き渡った。

「あ、これ、よつばのクローバーだよ。アハハハハハハハハハハ」
「ほんとだ。アハハハハハハハハ、凄いねエミちゃん。アハハハハハハ」

私は怪訝に思って河原の土手へと目をやる。
少女が二人になっていて、雨の中、シロツメクサの群生しているあたりをごそごそとやっていた。
ボールをそこらへほっぽり出して、夢中になって四つ葉のクローバーを探していた。
そして、ひとつ見つけるたびに、大きな声で笑った。

「アハハハハハハハハハ、ハハハハハ」
「アハ、ハハハハハ、ハハハハハハハハハ」

私は、彼女らの様子を見て笑った。涙が出た。

「ほら、見ろ」

無視を決め込んでいる遺族たち、息子の知人にも、土手の方向を見させた。
みな、くすり、と笑った。

177: 2014/10/23(木) 01:06:55 ID:w4RbHDfM
「あれが、人間の最も尊い姿だ。私たちも笑わなければならない。ほらみんな、一緒に笑おう」

くすくす、という声が聞こえる。
それが私を嘲笑しているものだとしても構わない。
とにかく笑うことだ。
こういう時こそ笑わなければならない。

「ねえ、お父さん。どういうこと?」

家内が私に尋ねた。

「人間の最も尊い感情を、味わっているんだ。葬式は終わっていないがここは葬儀場ではない。だから、お前も人間の最も尊い感情を味わうんだ」

家内は、微笑んだ。

まるで天使のような二人の女の子。
彼女らのことは、一生忘れることはないだろう。
いつでも、笑っていられたら幸せだ。
いつでも笑えるのだ。
私は心底明るい気持ちで、骨上げへと臨んだ。

175: 2014/10/23(木) 01:02:29 ID:w4RbHDfM
以上になります。

引用: 人の間の、へんな生き物【個人ssスレ】