1: 2024/08/31(土) 20:47:38 ID:???Sd
虹ヶ咲学園一年生の桜坂しずくです。

えぇ、聞いてますよ。新聞同好会の夏号で怪談特集をやるんですよね。
最初に話を聞きに来てくれて嬉しいです。いえ、本当に嬉しいんですよ。

一番最初というのは嬉しいものなんですよ? 二番や三番だとなーんだ、って思っちゃいますから。
私のことを他の人よりも優先してくれてるんだなぁ、って。すぐにでも私に会いたかったのかな、なんて。

くすっ、冗談ですよ冗談。
今度の演劇で、主役を誑かす悪い女の役をいただいたもので。練習中なんです。くすくすっ💙
取材に応えるんですから、このくらいは許してくれますよね?

あ、はい。怪談ですよね?
安心してください、とっても怖い話がちゃんとありますから。

3: 2024/08/31(土) 20:57:24 ID:???Sd
先程も話した通り、私はスクールアイドル同好会と掛け持ちで演劇部に入っているんです。
掛け持ちといっても、どちらも半端にすることはありませんよ? スクールアイドルとしての練習も、役者としての練習も常に全力を持って取り組んでいます。

本番が近い時はどちらかに集中的に、ということはありますけど……。

今は演劇部の定期公演日が近いので、演劇部の方によく顔を出していますね。それでもスクールアイドル同好会の方だって、ミーティングと早朝練習には参加しているんですよ?

早朝練習はランニングと発声なので、一挙両得なんですよね。役者としてもアイドルとしても、客席の後方にまで声が届かなければ意味がありませんから。

声が小さく通らない役者なんて、どれだけ演技が上手くても、舞台にいる意味がありません。
あなたもそう思いませんか?

思う? くすくすっ、そうですよね。
声が聞こえなければ話の内容も、どんな場面なのかも分かりませんからね。無言劇であれば話は別ですけど。

4: 2024/08/31(土) 21:09:43 ID:???Sd
だから私達のように舞台に上がるものは、肺活量を上げて、発声をして、どんな時でも、どんな状態でもホール中に通る声を出さなければいけないんです。
意外と大変なんですよ? 油断してちょっとでもランニングをサボると質が悪くなっちゃいますからね。

太った女の役をやる時なんて最悪ですよ。走った上で、無くなったカ口リーよりも大量に食事を摂らなきゃいけないんですから。
一度十キロ近く増やさなきゃいけないことがあったんですけど……思い出したくもありません。効率よく太る為に何杯白米を食べ続けたことか……。

と、こんな風に役者は努力をしているんですよ。尊敬しました?
ありがとうございます。あなたにそう言ってもらえて、とっても嬉しい……。あれ? 顔が真っ赤ですよ?
え? 手を握られると恥ずかしい? ……くすくすっ。
いいじゃないですか。これも悪女の練習ですよ。
取材中、手を握らせてもらいますね。

……けれど、どれだけ努力しても声が出ない人というのはいるものです。
本人の気質の問題か、それとも体質の問題か。どれだけ走っても、発声練習をしても、声がくぐもってしまってホールの奥まで届かない人。
中学の時に、先輩に一人そんな人がいました。

5: 2024/08/31(土) 21:23:26 ID:???Sd
その先輩と出会ったのは中学の演劇部でした。
相川さんという私の二つ上の方です。長い髪をポニーテールで纏めた、すらっと切れ長の目をした美人の先輩でしてね。
ただでさえ美人なのに体型だってモデル並み。その上誰よりも熱心に練習に参加していて、後輩への指導も丁寧で優しい。
入部してすぐに、この部の中心はこの人なんだって気付きましたね。

部長や副部長という役職についていたわけではありませんが、誰からも頼られて、一年生達も困りごとがあったら演劇の事でもプライベートでも関係なく聞きにいって。
簡単に言えば面倒見が良かったんですね。私も随分と懐いて、色々と教えてもらいましたよ。

ただ……相川先輩が致命的に演劇に向いていない人だということにも、すぐに気付きました。
先輩の声は、演技を始めて声を張ると……掠れるんです。掠れて、近くにいる人以外はまともに聞こえなくなるんです。

普通に話している時はそんなことはないんですよ?
優しげで、活発さを感じる素敵な声なんです。ただ、演技の為に声を張った途端に声が掠れてしまう。
上級生達はそんな相川先輩に慣れているようでしたけど、始めて聞いた時にはショックで泣いちゃいそうでしたよ。

理想が壊れたから、じゃないですよ?
あんなに努力している人が報われないからです。

6: 2024/08/31(土) 21:34:16 ID:???Sd
だって、相川先輩は誰よりも熱心に練習に励んでいるんですよ? 肌のお手入れだって、美しいスタイルのキープだって厳格に行っているんですよ?

そんな人の声が、あんなに掠れてしまうなんて。

だからなのか、先輩は今まで部活の公演でまともな役についたことがありませんでした。ありつけても台詞のない役か、一言二言、物語の本筋に関わらない賑やかし程度の役。
人形の役なんかもやったみたいです。ガラスの仮面のように、まばたきしないってのは無理だったみたいですけど。あれは漫画だから出来ることですよ。

ボロボロと泣いてる私に、
昔からそうなんだよね、生まれつきのものだから仕方ないよ。私も諦めてるんだ。
なんて先輩は笑いかけてくれました。

だけど、私は納得できませんでした。諦めてる人があんなに熱心に練習をするわけがありませんから。もし私だったら、あんな風に声が出なければすぐに諦めてしまったと思います。

あなたはどう思いますか?
先輩は本当に諦めていたと思います? それとも、諦めていなかったと思います?

7: 2024/08/31(土) 21:45:59 ID:???Sd
そう、先輩は諦めてなんかいませんでした。むしろ、どうにかしてこの掠れた声を治したいと、様々な方法を試していたんです。

喉のマッサージ、喉の通りを良くする飴やサプリメント、少しでも声が通るような発声方法の研究。先輩は少しでも可能性がありそうなものには次から次へと手を出していました。
何々で売っている食べ物がいいと聞けば、どんなに遠方でも買いに行き、どこどこのカウンセリングで声が出るようになったと聞けば、予約をして診てもらう。
流石に宗教や霊感商法には縋らなかったみたいですけど。その辺は現実的で冷静な人だったんですよね。

上級生達も、私達下級生も見てみぬふりをしていましたよ。
だって、なんて言葉を掛ければいいのか分かりませんよね。相川先輩は本当に良い人なんです。そんな人が、諦めたと言っているんですから。
私達も協力しますなんて言えませんよ。口が裂けたって言えません。傷付けるだけですもん。

そんな先輩の努力は、中学三年生に至るまで一つも実ってはいませんでした。
私が入部してからも、改善した様子はありませんでした。先輩の声はいつまでも掠れたまま。

春が終わり、夏が過ぎて、秋も深くなった頃。
相川先輩は少しずつ壊れていきました。

8: 2024/08/31(土) 22:00:23 ID:???Sd
まず、下級生に対して指導をしてくれなくなりました。
今までならば、プライベートのどんなくだらないことでも優しく答えてくれた人なんです。
それが露骨に苛立ったように、今忙しいからとか、そんなことくらい自分で考えてとか、邪険に扱うようになったんです。

次に見た目に気を使わなくなりました。肌が荒れ気味になり、髪質が悪くなって、目の下には隈が出来て。切れ長だった目が吊り上がって、正直近寄りがたいキツい雰囲気でした。

でも、それも仕方ないことなのかもしれません。
相川先輩だって人間ですから。中学の三年間を演劇に費やして、何も実らないまま終わる……そんな状態に陥れば誰だってああなっちゃいますよ。
諦めて離れられなかった人は……皆、そうなります。

そのせいで皆も先輩とは距離を取るようになりました。
薄情なものですよね。今まで良くしてもらっていたのに、怖いからってあっさり敬遠するんですから。
私ですか? 私は今まで通り先輩に接していましたよ。たとえどうなっても先輩は先輩ですから。今まで通り練習には誰よりも熱心に参加していましたし。
好きなんですよね、そういう人。私も演劇が好きだから、分かるんですよ。

秋の終わり頃には、相川先輩に話しかけるのは私くらいになっていました。

9: 2024/08/31(土) 22:11:03 ID:???Sd
ま、誰も話しかけなかろうと、先輩はあまり気にしていなかったみたいですけどね。

……え? なんの話をしてるんだって?
怖い話ですよ。いえ、ヒトコワではありませんよ? 先輩が壊れていく怖い話? なんのことですか?
演劇の神に愛してもらえず狂う人なんて、怖い話にも入りませんよ。さっきも言ったじゃないですか。あなたは知らないかもしれませんけど、そんなの大勢いますよ?
演劇だけじゃありません。芸術の才能が無いのに、それに縋って離れられなかった人は……皆最後は壊れちゃうんですから。

怖い話はここからが本番なんです。ちゃんと最後まで聞いてくださいね。くすくすっ💙

その日はいつも通り練習を終え、汗だくになった練習着を脱いで家に帰る準備をしていました。
そんな時、先輩が話しかけてきたんですよ。
桜坂、この後時間ある? って。

正直驚いちゃいました。だって、おかしくなってからというもの、話しかけるのは全部私からだったんです。
それが急に話しかけてきたんですよ。それも、苛立った様子もなく普通の声色で。

10: 2024/08/31(土) 22:23:47 ID:???Sd
別に私も用事があるわけではなかったので、どうしたんですかって聞いたんです。
そしたら先輩、着いてきてほしいところがあるって言うんです。
どこに、って聞いたら。
街外れの廃屋だって。

ファミレスで食事をして帰ろう、くらいの気軽さでそんなことを言うんですよ?
廃屋ですよ、廃屋。信じられますか?
同性の後輩をそんなところに連れ込んで何をするつもりなのか……あなただったら私と廃屋で何がしたいですか?
そもそも廃屋に行かない? それが正解かもしれませんね。私も行くべきじゃなかったんですから。

辞めておこうと言っておけば、あんなことにはならずに済んだんですから。

私は当然矢継ぎ早に質問を浴びせかけました。
廃屋に入るのは不法侵入じゃないか、そもそもなんで廃屋に行くのか、目的はなんなのか、ソッチの気でもあるのか。
まさか中学にもなって肝試しってわけでもありませんし。

目を白黒させる私を、相川先輩は笑って受け流しました。
歩きながら話すよ、なんて言って。
その時は納得しちゃいましたけど、冷静に考えたらずるいですよね。
廃屋に行くことが決定しちゃってるんですもん。

けれどその時の私はそこまで思いが至らず、先輩に促されるまま街外れの廃屋に向かってしまったんです。

11: 2024/08/31(土) 22:37:42 ID:???Sd
歩きながら、私は再度先輩に問いかけました。
廃屋になんて入っていいのかと。なんで廃屋に行くのかと。

先輩は楽しげに笑っていましたよ。
あんなに楽しげな先輩を見るのは久しぶりでした。

心配しなくていいよ。廃屋といっても、誰でも入っていいことになってるんだ。

誰でも入れる廃屋? 変な話ですよね。持ち主が一般に開放しているということでしょうか。訝しがる私に、先輩は更にこう言ったんです。

そこではさ、フリーマーケットが開かれてるんだ。ただのフリーマーケットじゃないよ? 一般には知られていない秘密のフリーマーケットなんだ。

ああ、フリーマーケットがあるから開放されているんだ。一瞬納得しかけましたが、秘密のフリーマーケットという謎の単語で私の頭はますます混乱してしまいました。
だって、一般には知られていない秘密のフリーマーケットですよ? 先輩にこんなことを言われたら、からかわれているとしか思えませんよね。

私は嫌になって帰りたくなりましたが、帰ることはできませんでした。だって、こんなに楽しげな先輩を見たのは本当に久しぶりだったから……。
待っているのがなんであれ、ここで先輩を突き放すような真似はしたくなかったんです。

12: 2024/08/31(土) 22:47:03 ID:???Sd
先輩と共に歩いていると、どんどんと街並みが寂しくなっていきました。
両脇に家は並んでいるんですが、なんだかひっそりとしているんです。生活感がないというか。
家々の間にある何らかの店舗は全てシャッターが降りて潰れていました。

少し前までは活気のある街だったのに。
先輩と共に歩くその道には車すら通らない。
正直、学校から少し離れただけで、こんなに……なんというか、氏んだような場所があるんだなって思いましたね。
変な表現ですかね?
でも、本当にそう思ったんです。この場所は氏んでるなって。道にも家にも生気が無くて違和感があるんですよね。本来は建てちゃいけない場所に家が建っているような感覚……とでも言えばいいのでしょうか。

なんだか不安になる私と対象的に、先輩は嬉しそうに話を続けていました。

フリーマーケットでさ、欲しいものがあるんだ。ね、なんだと思う?

首を傾げる私に、先輩は言いました。

ドリンクだよ。ネットのさ、この地域の掲示板で見たんだ。喉にいいドリンクが売ってるって。それを飲むとたちまち喉が通り、透き通るような美しい声がどこまでも響くようになるんだって。

ああ、と今度は納得しました。話した通り、相川先輩は掠れ声を治す努力をしていましたからね。怪しい情報でも飛びついてみたくなったんでしょう。
だけど、そんな廃屋に一人で行くのは不気味だから私を誘った……ということなんでしょうね。

13: 2024/08/31(土) 22:55:01 ID:???Sd
ただ、ネットの情報なんていうものは眉唾でしかありません。はるばる訪ねてみたらデマだった、なんてこともありえますからね。

楽しげな先輩には悪いと思いましたが、怪しい廃屋で行われている秘密のフリーマーケットなんてどう考えてもデマです。
悪戯で書き込まれただけならいいですが、もし不良が待っていて、えOちな悪戯なんてされたらたまりません。

顔が赤いですよ? くすくすっ。私がえOちなことをされてる妄想をしちゃいました? 手が汗ばんでますよ。
変なこと考えないでくださいね。今は取材中なんですから。

まあ、怪しければ無理やり引っ張ってでも帰ろう……と思っていたんですけどね。

先輩が案内してくれた廃屋に着いてみると、入り口の門のところに白い張り紙がしてあるんですよ。

『フリーマーケット開催中』

ボロボロの門とは対象的に、新品の綺麗な紙に赤いマジックでそう書かれているんです。

耳を澄ませてみれば、家の中からは何人もの人が歩き回る音が聞こえてきます。悪戯という線はこれで消えました。
先輩はいよいよ口角も吊り上がって、今にもドアノブに飛びつかんばかりでした。

それでも一応、怪しいからと先輩を説き伏せて、私達は庭の方に回ってみることにしました。窓から何か見えないかと思ったんです。

14: 2024/08/31(土) 23:03:24 ID:???Sd
足音を立てないように庭に回り、私はそっと窓ごしに家の中を覗いてみました。

最初に見えたのは、長机でした。その机の向こうで、男の人が俯いて座っています。
その周りを数人の男女が歩き、机に並べられたものを手にとっては戻していました。

長机は覗いた範囲でもいくつかあるように見えました。

なんだ、普通にフリマじゃん。桜坂も心配しすぎだって。

先輩は笑っていましたが、私はその状況が異様なことに気付いていました。

声がしないんですよ。だって、フリーマーケットの会場を何人もの人が歩き回ってるんですよ?
ざわめき、会話、呼び声なんかが聞こえてこなきゃおかしいじゃないですか。
無言で商品を見ては戻すフリマや即売会なんてあると思います?

私がそれを指摘しようとした時には、先輩はもう、ドアノブをガチャリと回して家に入ろうとしている真っ最中でした。
どうしたの、早くおいでよ。なんて言われたら、もう断ることも出来ません。
もう先輩の身体は半ば家の中に入っていますし、きっと私が逃げても一人で家の中に入っていってしまいます。

覚悟を決めて、私は相川先輩の後に続きました。

15: 2024/08/31(土) 23:13:57 ID:???Sd
家の中は、廊下から既に長机が置かれていました。
玄関を入ってすぐの机には本が並べられていました。そして、やはり売り手らしい男性は青白い顔で俯いているんです。

立ち読みをしている女性の後ろをすり抜ける際に、私はちらりと彼女の持っている本の中身を見ました。
整頓されていない、ぐちゃぐちゃな配列で見た事もない文字が書かれているのがチラリと見えました。
よくよく見てみれば、並べられている本のタイトルの中に日本語らしきものは一つもありません……というか、文字なのかすら分からないんです。記号のようなものでしたから。

なんだか活気のないフリーマーケットだねえ。

内心穏やかではない私の様子を知ってか知らずか、相川先輩はとぼけたように言いました。
さっさとお目当てを買って帰りましょうと言う私に、先輩もこの場の異様さに何処か気圧されているのか、特に反対するでもなく頷いてくれました。

はっきり言ってそこで売られているものは全て異常なものばかりでした。

本物か偽物か、目玉が大量に詰まった瓶。どろどろに溶けた錨。飾られている絵の中から猫が首を出し、前足の絵の具を舐めている。
服らしきものは人間にはない何かを出す穴が開き、文字化けしたラベルの貼られたフロッピーが一つ百万円で売られている。

売り手は皆青白い顔で俯き、周りを歩いている人達は目は虚ろで声を発することはありません。
ここが現実なのか夢の世界なのか分からない。私はもう怖くて目に涙を浮かべながら、先輩の服を掴んでフリーマーケット会場を歩いていました。

17: 2024/08/31(土) 23:20:06 ID:???Sd
突然、先輩の足が止まりました。
ぶつかりかけて、驚きながら前を見ると、長机の上にどろりとした黄色い液体の入ったペットボトルが置かれていました。
2リットルの市販のペットボトルに、何かの液体を移し替えた……そんな見た目でした。衛生的に綺麗なものとは到底思えませんでしたよ。

何よりその液体が……どろどろしてて臭いんです💙

何ヶ月もお風呂に入ってない人間の体臭を凝縮したような、夏場の生ゴミ置き場を煮詰めたような、そんな臭いがするんですよ。
明らかに身体に良い飲み物じゃない。そもそも飲み物かどうかすら分からない。

なのに先輩は愛おしそうにそのペットボトルを手に取り、売り手の女性にこれをくださいと声をかけていました。
あんなものが欲しいなんて正気を疑いましたよ。いくら喉にいいとはいえ、あんなに臭い、どろどろとした液体を欲しがるなんて……。

売り手の女性は俯いたまま答えました。
10円、と。私も先輩も、思わずエッと声をあげましたよ。

10円ですよ、10円。いくらまずそうな飲み物とはいえ、安すぎませんか?

18: 2024/08/31(土) 23:27:25 ID:???Sd
先輩も本当に10円でいいのか何度も確認していましたが、女性は値段を改めるつもりもなさそうでした。
先輩は訝しがりながらも財布から10円を取り出し、机の上に置きました。

売り手の女性はお金を見て、ニヤァっと口を開けたんです。
その口の中には、歯が1本もありませんでした。そして、電車の中で寝ている人がよくやるように、ガクンッと首を落としました。

ギョッとしましたが、すぐにそれが会釈だと気付きました。
なんとも気味が悪いですよね。唖然としている先輩の手を引っ張り、私は無理やり彼女を外に連れ出しました。

家の外に出て、扉を思い切り閉めて。
私は先輩が手に持っているそれを見ました。どろどろとした、臭い黄色い液体。喫煙者の口から吐き出されたタンのような色をした不気味な液体……。

先輩、それ本当に飲むんですか?

うん……まぁね、これが欲しくて来たんだから。

言いながら、先輩はペットボトルの蓋を外したんです。瞬間、むわぁっとこの世のものとは思えない臭いが辺りに広がりました。
本当に、本当に……今まで生きてきた中で一番最悪の匂い。もし私が将来バラエティに出て、ドリアンを目の前に出されても平気だと思います。あれを超えるインパクトは無いでしょうから。

19: 2024/08/31(土) 23:36:34 ID:???Sd
流石の先輩もこの鼻が腐り落ちそうな悪臭に躊躇ったようでした。でも、立派だと思いますよ。手に持ったそれを投げ捨てなかったんですから。

先輩は意を決したように鼻を摘むと、その液体を口に含みました。ひいっ、て見てるこっちも声を上げちゃいましたよ。
液体は粘ついてどろどろしていて、中々喉の奥に流れ込んでいかないみたいで。先輩は何度も何度も嘔吐きながらそれを無理やり流し込んでいるみたいでした。

味? 聞いてませんよ。
聞けると思います? 半泣きで嘔吐きながら、無理やり流し込んだ人に。そもそも臭いが酷すぎて、味なんて感じる余裕無かったんじゃないかなあ。

なんとかペットボトルを空にして、先輩は鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔で天を仰ぎました。
ハンカチを差し出したかったんですが、その……液体を飲んだから先輩も臭くなっちゃってて、近付けなくて……。

大丈夫ですか?

そう聞くのが精一杯でした。先輩は吐きそうになりながらも、ぐちゃぐちゃな顔で無理やり笑顔を作って親指を立ててくれました。
多分、一言でも答えたら出ちゃいそうだったんでしょうね。
執念だなあって感じですよ。あんなもの、飲むなんて。

20: 2024/08/31(土) 23:47:08 ID:???Sd
その日は、なんとか吐き気が収まり動けるようになった先輩とは駅前で別れて普通に家に帰りました。
電車の中でジロジロ見られているような気がしたんですが、家に帰って、制服にあの臭いがついちゃったんだと知りました。

鼻が麻痺してたんですかね、私。密閉空間の中で悪臭を振りまいてしまうなんて……恥ずかしい。

つけ置き洗いをして制服はなんとかなったんですが、そうなると気になるのは先輩です。
だって近くにいた私でこれなんですよ? 飲んだ先輩なんて、きっと卒業まで臭いが取れませんよ。
どれだけ美人でも、もし声が通るようになっても、あんな臭いをしている人は舞台に立てませんよ!

ホールで見てる人が泡を吹いて気絶しちゃいますからね。

悶々と過ごしているうちに朝になり、眠たい目で授業を受けて、私は恐る恐る部室に向かいました。
あんなに苦しい思いをしてまで液体を飲んだのに、あの臭いでトラブルになっていたりしたら、先輩が可哀想ですから。

……部室の中に、先輩はいました。
臭いは全くしませんでした。それどころか、相川先輩からは薄っすら良い匂いがするんです。押し付けがましくなく、人を魅了するような匂い。

そして何より、その声!
昨日までの掠れるような声とは違って、その透き通るようなどこまでも伸びる声といったら! プロの舞台役者も玄人はだしの技術ですよ!

部員の皆も、ここ最近は遠巻きにしていたとはいえ、相川先輩の苦労を知っていますからね。驚くとともに歓声を上げていましたよ。
それからは先輩も元の優しい先輩に戻り、見た目も今まで通り気を使うようになり、部の冬公演でも主役を張るまでになったんです。

21: 2024/08/31(土) 23:53:00 ID:???Sd
……と、ここで終わればハッピーエンドだったんですけどね。

異変に最初に気付いたのは部長でした。
なにか変な音がするって言うんですよ。

虫の羽音のような、何かがブンブンと飛び回っているような音が部室の何処からか響いているって。

その時は気のせいだって流されたんですけどね。私達には何も聞こえませんでしたし。相川先輩も笑ってましたよ、公演が近いからピリピリしてるんだろうって。

翌日、次に気付いたのは副部長。
やっぱり、何処かから羽音が聞こえる。
虫がブンブンブンブン飛んでる。
でも、やっぱり私達には聞こえないんですよ。

けど部長に続いて副部長もですからね。
何かがいるのは間違いないわけなんです。副部長は虫がとにかく嫌いな方でしたから、絶対駆除してやるって殺虫剤片手に探し回ってました。

私達下級生も捜索に駆り出されましたよ。いい迷惑ですよね、そんなの聞こえないっていうのに。

22: 2024/09/01(日) 00:02:15 ID:???Sd
いくら探しても虫は見つからない。
相川先輩も呆れて、もういいじゃんと言うんですが副部長は諦めない。
なんだか嫌な雰囲気になっていたところに、部長がやってきました。
確か……部長会議かなにかに出てたんでしたっけ。よく覚えていないんですが、大騒ぎしてしばらく経った後に部長が来たんですよ。

殺虫剤片手に暴れまわってる副部長を見て、部長も呆れたようでした。何してるの、って困ったような声で聞いてましたから。

部長、昨日の羽音、やっぱり間違いじゃなかったんですよ!
私、今も聞こえてますもん!

副部長がそう言うと、部長はチラリと相川先輩の方へと目をやりました。
その瞬間、なんだかとても嫌な感じがしたんです。

いえ、副部長からじゃなくて。
部長と相川先輩から、です。邪悪というか、ゾクゾクするような目つきというか。くすくすっ。

そうして、部長が副部長をどこかに連れて行ったんです。
外の空気を吸わせて落ち着かせてくる、とかなんとか言ってましたよ。
公演が近いから錯乱してたんだろうね、なんて先輩は嘯いてましたね。実際、私達には虫の羽音なんて聞こえませんでしたから、まぁそういうこともあるんだろうと私達は練習に戻りました。

……不思議だったのは、しばらくして戻ってきた副部長が。
『ごめんごめん、あれは気のせいだった』
って言ったことですね。あんなに大騒ぎしていたのに、あっけらかんとしていて……正直、奇妙でしたよ。

23: 2024/09/01(日) 00:08:51 ID:???Sd
その日から、演劇部はおかしなことになりました。

羽音が聞こえるという生徒が続出したんです。
最初は部長、その次は副部長でしたよね? その翌日は三人の部員が羽音が聞こえると言い始め、更に翌日には五人。
どんどん羽音が聞こえると言う部員が増えていくんですよ。

しかし皆、しばらくすると『気のせいだった』『もう聞こえない』と落ち着きを取り戻すんです。

一日一日と羽音が聞こえる部員が増えていく中、私はおかしなことに気付きました。

上手いんですよ。
羽音が聞こえると言っていた部員達の声が伸びやかになり、透き通っているんです。液体を飲んだ後の相川先輩のように。

中には裏方専門だった人や、引っ込み思案で声がまともに出せない人もいたのに、そんな人達まで伸びやかで素晴らしい声を得ている。
それに性格も変わっているんです。皆、明るく前向きで、健康的な優しい性格になっているんですよ。

当然、嫌な性格の人も部活にはいますよね? そんな人達が笑顔で後輩達に指導し、世界平和を望むようにすらなっている。いくらなんでもおかしいと気付きますよ。

24: 2024/09/01(日) 00:16:31 ID:???Sd
しかし、おかしいと思っても上手く言語化できないんです。
羽音が聞こえたら声質が良くなり性格も丸くなりました! ……いやいや、誰も信じませんよね?

部室に幽霊が現れる、とでも言われた方がまだ信憑性はありますよ。だって意味が分からないじゃないですか、羽音で声と性格が良くなるなんて。
それに、羽音もすぐ消えるみたいですからデメリットもありませんし。良いことずくめなんですよ。

最初は気味悪がっていた部員も、羽音が聞こえて声質が良くなる人達を見ているうちに、いつしか羽音を望むようになりました。
羽音様なんて名前までつけて、羽音様羽音様どうかお聞かせくださいなんてね。

私ですか?
いいえ、私は望みませんでした。

確かに声質が良くなるのは良いことです。性格が良くなるというのも悪くない。
しかし、それはもう……別人じゃないですか。私には私の声がありますし、私の性格があります。そんな私にしか出来ない演技があると思ったんですよ。
私が言ってること、間違ってますか? ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいです。

とにかく、私は羽音が聞こえることを望みませんでした。
……だからなんでしょうかね? 最後には……羽音が聞こえていない部員は私だけになってしまいました。

25: 2024/09/01(日) 00:24:19 ID:???Sd
優しくなった皆は羽音が聞こえない私のことを、その伸びやかな声で慰めてくれました。
私だけ仲間外れになったようで、気にしていなかったといえば嘘になりますが……それでも私は羽音を望みませんでした。

すると今度は、部員以外に羽音が聞こえだしたんです。
学校の中で羽音が聞こえるという生徒が続出し、先生までそう言い出したんです。医者が呼ばれて、救急車まで来て、集団ヒステリーじゃないかとまで疑われたみたいですよ。

まぁ、そのお医者さんも羽音が聞こえちゃったみたいですけど。

私を残して学校内に広がり始めた羽音に、流石の私も不安を覚えました。
ここまで来ると変ですもん。別に聞えてほしいわけじゃないですけど、なんで私には聞こえないんだろうって。

一人で悩んでいたんですが、当然解決するわけありませんよね。三月になる頃には羽音が聞こえた生徒は……多分、私以外の全生徒になっていたんじゃないですかね?

詳しく聞いたわけじゃありませんから、私以外にもいたかもしれませんけど。誰も触りたくないような人とか。くすくすっ。

相川先輩の卒業を控えたある日、私は誰にも相談できず悶々と悩んでいた羽音のことを、先輩に相談することにしたんです。

先輩はもう卒業ですから、相談出来るのは今しかないと思って……。

26: 2024/09/01(日) 00:32:42 ID:???Sd
突然の申し出にも関わらず、相川先輩は快く相談を受けてくれました。
演劇学校への進学が既に決まっていて余裕があったから、というのもあるかもしれませんけど。

どうしたの、桜坂。改まっちゃって。もしかして羽音?

誰もいない図書室で、先輩は優しく笑いながらそう問いかけてきました。
何でもお見通しなんですよね、先輩は。
私が、聞こえなくていいと言いながらも、私にだけ聞こえないことに悩んでいることも知ってたんです。

羽音、なんで私には聞こえないんですかね?

桜坂が聞こえなくていいって言ったからじゃないの?

そうなんですけど。周りがみんな聞こえてるのに。
最近では両親も羽音が聞こえたんらしいんです。

ふぅん。で、どうするの?

はい?

聞きたいなら聞かせるけど。

一瞬、何を言われたか分かりませんでした。
聞きたいなら聞かせる? 羽音を?
もしかして羽音を聞いた人は他人に聞かせることが出来るようになるのか、とも思いましたが、そんな話聞いたこともありません。

27: 2024/09/01(日) 00:43:24 ID:???Sd
何を言っているんですか?

冗談だと思った私は、半ば笑いながら先輩にそう答えました。
先輩は真顔でした。切れ長の細い目がジッと見据えるように此方を見ていました。

桜坂はさぁ、私が荒れた時も側にいてくれたよね?
こう見えても感謝してるんだよ? だから、桜坂が望まないなら桜坂だけは辞めようと思ったんだ。

先輩、なんの話ですか?

他の連中はさぁ、望む望まないに関わらず引き入れるよ。けど、桜坂は友達だからさ、無理やり引き入れるのも駄目だしね。

先輩?

けど、そっか。もうそんなに広がってるんだ。桜坂のパパやママまでか。一度引き入れたら、あいつら勝手に増やすんだよね。桜坂を引き入れるなって命令は守るんだけどね。

先輩……?

もしそうなら、いつか桜坂一人になっちゃうんだよね。それは可哀想だよね。うん、凄く可哀想。だからね、桜坂、よかったらこっちに来なよ。

そう言って、差し出された先輩の手のひらには何かが載せられていた。
……いや、違う。手のひらの中から、それは這い出てきたんですよ。肉を押しのけるように、皮膚をくぐり抜けるように、傷一つ付けず。
真っ黒い細長い、足が沢山ある虫。それが身体を震わせて濡れた羽を広げて、ブンブンと耳障りな音を出している。

思わず、ひいっと声をあげました。

28: 2024/09/01(日) 00:55:36 ID:???Sd
桜坂が此方側になりたいなら、私の手を握って。
この虫をね、身体の中に入れてあげるんだよ。

む、虫を……?

私が買った液体。あれにさ、この子達の卵が入ってたんだよ。
私の身体の中で孵化したこの子達は、今じゃ他の人の身体に入っては卵を産んで、生息域を広げてるんだ。
この子が身体に入るとブンブン羽音が聞こえるんだけど、すぐに気にならなくなるよ。

そんな!

私は悲鳴をあげました。学校の皆も、両親も、この気味の悪い虫に寄生されている? 両親の身体いっぱいに虫が詰まり、卵から小さな幼虫が這い出しているところを想像し、口の中に酸っぱいものが溢れました。

別に悪いものじゃないよ。喉の通りは良くなるし、性格だって宿主が誰かに傷つけられないように良くしてくれる。
……桜坂が嫌なら別にいいよ? けどさ、こいつらは仲間を増やしたがるんだよ。それも凄い勢いで増えていく。
いつの日か、全人類がこいつに寄生されるかもしれない。そうなったら、桜坂は独りぼっちだよ。寄生されてない独りぼっち。
友達が出来ても、恋人が出来ても、その相手は寄生されてるんだ。子供を産んだってそうだよ、生まれた瞬間看護師が寄生させるだろうね。

……私は、目の前の虫をジッと見ました。
世界中で私だけが、この虫に寄生されない。周りは皆寄生されて、それがスタンダードになるのに、私だけが置いていかれて独りぼっちになる。

ね、桜坂。どっちでもいいよ。
私はその選択を尊重するから。

いつも通りの優しい笑顔で、相川先輩はそう言いました。

だから、私は。ゆっくりと、先輩の、手を。

29: 2024/09/01(日) 01:03:44 ID:???Sd
……私の話はこれでおしまいです。

どうでした? 新聞記事になりそうですか?

……え? 荒唐無稽? 途中までは良かったけどオチが怪しい? 手厳しいですね、くすくすっ💙

そうですよね、全世界の人間が虫に寄生されるなんてそんなことあるわけないですよね。
気持ち悪いですもん、卵で一杯の人間なんて。

ところで、私の声ってよく通ると思いませんか? 演劇部の公演を見たことは? レベルが上がったと思いません?

それに、あなたの周りで急に優しくなった人はいません?

くすくすっ、くすくすっ。

あなたの手のひらの中に、何かがするりと入っていくのが見えませんでしたか? 虫は仲間を増やしたがるんですよ。

羽音が聞こえませんか? ブンブンと、耳障りな音が。くすくすっ!

……なーんて、冗談ですよ。冗談。そんなに青ざめないでくださいよ。でも、話自体は本当にあったことですから。
先輩はその辺で拾った虫を手に載せていただけかもしれませんし、あのドリンクはただただ喉に効くだけの臭い液体だったのかもしれません。

安心しました? それはよかったです。

え? 羽音が聞こえる? 気のせいじゃないですか?

くすくすっ、くすくすくすっ!

30: 2024/09/01(日) 01:05:17 ID:???Sd
 

じゃあ、私はこれで。
新聞記事楽しみにしてますね。くすくすっ💙


31: 2024/09/01(日) 01:11:52 ID:???Sd
夏の終わりに間に合わなかったのは初めてです
ランジュ、腹を切りなさい

引用: しずく「どろどろしてて臭いんです💙」