616: 2014/09/12(金) 04:19:11.27 ID:Hvwxe/USO


前回:範馬勇次郎「時速5000キロメートルッッッ!!!」【中編】


貴樹「………」


病院の玄関を抜け、受付の看護婦さんに面会の許可を貰って、明里の病室に向かう

自宅を出た時の、焦燥感なのか高揚感なのか分からなかった高ぶりは冷めて、今の僕は落ち着いている

暴走族に取り囲まれて、意識に冷や水を掛けられたからだろうか
背中に当てられた感触に、妙な力強さを感じたからなのだろうか



「ねえ、窓の外見てよ、なんか凄い事になってるわよ」ガラガラ

「珍走団ってやつでしょ?別に珍しくもなんともないわよ」ガラガラ

「でも凄い数じゃない?イヤねー…集会かしらね…」ガラガラ



毛布を乗せた台車を押す、二人の看護婦さんとすれ違う

二人は病院前でタムロしている暴走族を一瞥すると、少しだけ嫌そうな顔をして、僕の隣を通り過ぎて行った





貴樹「…………」





僕は明里のいる病室の前に立つと


貴樹「!」



ノックをしようと上げた手を、静かに下ろした



秒速5センチメートル


618: 2014/09/13(土) 02:57:18.89 ID:68Rd34OSO




正明「夢?」



明里「うん……それも、とても変な夢…」


正明「変な夢って、具体的には、どういう?」

明里「川を見たの…あと、川の側に木が並んでた…」

明里「木は……確か、全部桜の木だったような気がする」

正明「………」


明里「緑の芝生に大きな川があって、その川沿いに桜の木が並んでて……私、芝生に立って、川を眺めていたの、」

明里「綺麗だった…とても」


正明「それ…よく言う三途の川ってやつなんじゃないの?」

明里「うん、多分」

正明「マジか…」


明里「……でも、変だったのはそこだけじゃないのよね」

正明「え?」


明里「ふふっ」

正明「?」

明里「あ、ごめんなさい。思い出したら、おかしくて…」

正明「そりゃあ、そんな夢見るなんておかしいけど、でも笑う事か?」

明里「だからそうじゃないの。本当におかしいんだから」

正明「…うん?」



明里「正明さん、夢の中で私が宮本武蔵に会ったって言ったら、笑うでしょ?」



正明「………」


正明「は?」

明里「ふふっ、ね?やっぱりおかしいでしょ?」

正明「あ、いやいや、ちょっと待って、宮本武蔵?」

明里「うん。宮本武蔵。 有名な人なんでしょ?」

正明「まぁ…有名だね…五輪のなんとかで有名な人…」


正明「でも何で宮本武蔵?」

明里「分からない。でも、その人に掴まっていれば戻れるって、あの人が…」

明里「ええっと、誰だったっけ…」


明里「あ、ユーイチローって人に言われて、それで…」

622: 2014/09/13(土) 14:58:32.01 ID:68Rd34OSO
正明「ユーイチロー?」

明里「うん。正明さんが調べてた人の、お父さん」

正明「…?」


正明「!? お父さんって、範馬勇次郎の!?」


明里「そうみたい」

正明「…………」


正明「…確かに変な夢だけど…ちょっと、変過ぎないか?」


明里「だから言ったじゃない。とても変なって」

正明「いや、でも……んーー…」

正明「明里、もしかして俺の集めた資料とか見た?」

明里「!……」ピクッ


明里「ごめんなさい…ちょっとだけ…」

正明「あー…」

明里「でも、ユーイチローさんについては何も書かれてなかったから……それに私も、別に特別な興味があって読んだ訳じゃないし」

正明「そうだよなー…じゃあますます分かんないな…」

正明「専門家じゃ無いけどさ。見たことも聞いたことも無くて興味も無い物を、夢で見るなんておかしくないか? 宮本武蔵にしたって、明里って時代劇とか侍とかには興味無いだろ?」

明里「うん」

正明「だよな。 それなのに、現に夢に見たって事は……」

正明「…いや、やっぱり分かんねえな…なんなんだ?」

明里「………」


明里「…本当は、夢じゃなかったりしてね」


正明「……おい怖いこと言うなよ」

明里「ユーイチローさんが言ってたの。 ここは氏後の世界ではあるけれど、天国ではないって」

正明「マジ?」

明里「うん、確か」



明里「あと、もっと変な事があって…」

正明「いや良いって良いって、聞かないよもう…オカルトじみてきた…」

明里「あっ…うん、そうね」


正明「肩の方、大丈夫?」

明里「痛みは無いから大丈夫だと思うけど、なんか……」

正明「なんか?」

明里「……少しだけ、違和感みたいな…怪我してるから当たり前だとは思うけれど」

623: 2014/09/13(土) 20:03:55.90 ID:68Rd34OSO

貴樹「………」




ドアの窓越しに、正明さんと明里が話しているのが見える

他の入院患者とお見舞いに来た人への配慮として、ドアには防音性があるらしく、会話の中身はよく聞き取れない


明里<………>

正明<………>


時折、明里が微笑む
正明さんはそんな彼女と話しながら、少し驚いたり、困ったような表情を浮かべたりしている

二人の雰囲気は和やかで、明里が怪我した事なんて無いようにさえ見えた



貴樹「………」





貴樹「…ふふっ」





自然と笑みがこぼれて、僕は元来た廊下を引き返す事にした

明里の微笑みは、子供の頃に見た僕にとっての『いつもの明里』の微笑み
昔見たままの、懐かしいあの微笑み


ガチャッ



遠くの背後から、ドアの開く音が聞こえる



でも、僕は振り向かず、そのまま歩いた







624: 2014/09/14(日) 02:42:30.09 ID:TWVGDb5SO
正明「…………」



明里「どうかしたの?」



正明「……いや、何でも無いよ」


バタン



正明「先生が来たのかと思ったけど、誰もいなかっただけ」

明里「? そう」





正明「そういえば、明里って空港での事とかどこまで覚えてる?」

明里「えっ?…んー…」

正明「………」


明里「そんなには、覚えてない……傷が痛くて、それどころじゃなかったから…」

正明「それなら、よかっ…」

明里「でも一つだけ覚えてる事があるの」

正明「!」


明里「肩がこうなる前の事なんだけど……空港で貴樹君と偶然会って、そのまま色々話してたら、周りが騒がしくなって…」

明里「そしたら突然、空港中が静かになったの」

明里「私も、貴樹君も、他の人達も皆止まって……あれはまるで、動くなって誰かに言われてるみたいな、そんな感じだった。 凄く怖くて……」



明里「でも、貴樹君は私を置いて、走ったの」


正明「………」


明里「突然走って行ったから、びっくりして…一人になるのが怖くて………だから私、貴樹君を追いかけたの」

明里「それで貴樹君には追いついたけど……貴樹君の前に、男の人が立ってた…」


明里「その人は、普通じゃなかった……何処が普通じゃないのか、言葉に出来ないくらいに」



625: 2014/09/20(土) 21:56:53.99 ID:UFHId3oSO



明里「あの人が、範馬勇次郎って人なのよね」


正明「…………」


明里「空から降ってきて、電車を壊して、私と貴方に貴樹君を引き合わせた人」

明里「突飛な空想の中から、飛び出して来たような人」


明里「貴方から初めて彼の話を聞いた時、私はピンと来なかったけれど…」

明里「…今なら、分かる気がする……貴方が、貴樹君が、何故彼に惹かれたのかが」




明里「……だけど、私が……私達が、関わって良い人じゃないと思う」


正明「………」


明里「彼はそういう人なのよ、きっと」



正明「……そう、だよな」


正明「ごめん、本当………もう、関わらないよ」


明里「………」











626: 2014/09/21(日) 09:45:20.60 ID:g7DQmdZSO
構成員A「あっ、総長ッ」

千春「ン?」



貴樹「………」



千春「よォ、どうだった?」


貴樹「…会わない事にしました」


千春「………」

構成員A「エッ?なんでッ…」

千春「やめときな」

構成員A「!」

千春「無粋だぜ」

構成員A「…スンマセン…」



千春「この兄ちゃんが何を決断しようと、俺らのヤッた事ァ所詮単なる自己満足」

千春「想いに踏み込む程の権利は持ち合わせねェ」

千春「何を想って会わない事にしたのかは知らねェが」

千春「そいつは尊重されて然べきってモンだ」



千春「撤収すっぞ」


構成員A「ウ、ウスッ!!」

構成員A「巌駄無ッッ!! 行…」

千春「イヤ、気合いはいらねェ。フツーに行け」

構成員A「お…押忍…」

628: 2014/09/21(日) 14:21:57.96 ID:g7DQmdZSO
ブオォン! ドッドッドッドッ…


構成員A「ウス総長ッ!いつでも出れますッ!」

千春「オウ」



貴樹「ありがとうございました」

千春「!」ピクッ

貴樹「送ってくれた事」

千春「………」



千春「本当に後悔してねェんだな?」

構成員A「ッッ?」


貴樹「ええ、してません」


貴樹「ずっと前から気付いていた事に、踏ん切りがつけられたんです」


貴樹「それだけですよ」





千春「………フフッ」


千春「良い笑顔してるぜ」


構成員A「あの、聞くのは無粋ってさっき…」

千春「オッシャア巌駄無ッッ!!気合い入れてくぞォッッ!!」

構成員達「押忍ッッッ!!!!」

構成員A「フ、フツーに行くってさっき……ッ!」

千春「巌駄無ッッッ!!!」ブァオン!!

構成員達「応ッッッ!!!」ババババババ!!!

構成員A「ちょっ…待っ…!」ブォン!


ババババババババババババババババババババババババ…





631: 2014/09/21(日) 17:44:34.92 ID:g7DQmdZSO

暴走族は、タクシーを囲んだ時のように騒音を上げて、走り去って行った

バイクが舞い上げた砂埃も風に吹かれて掻き消えて、病院の玄関前にはもう僕以外に誰もいない




止めていた足をまた歩ませて、僕は家路に就く

呼び止めたタクシーの運転手は、大声を上げる事も電話を掛ける事も無かった



自宅のアパート前の道路には、うっすらと茶色い染みがこびりついている

そこで起きた事件の物騒さは覚えている

でも僕の中では、それはもう他人事になっていた

632: 2014/09/21(日) 18:59:54.60 ID:g7DQmdZSO
自宅に戻って、シャワーを浴び、食事を済ませた僕は手持ち無沙汰になって、部屋の整理を始めた


整理と言っても、愛着がある小物がある訳じゃない

使わなくなったペンやメモ帳をゴミ袋に詰めて、着る服といらなくなった服を分別して、パソコンで家具の引取業者を調べ上げても、整理の時間は30分も掛からなかった


ゴミ箱を覗き込んでも、中には何も無い

取っておきたい食器も無い




僕は日が暮れるまで、テレビを眺め続ける



634: 2014/09/21(日) 20:46:36.92 ID:g7DQmdZSO
番組の内容は一つも頭に入らない
暇潰しとして、テレビからの音を聞いているだけ

ただ、それも日が暮れるまでだった



夜になるとテレビを消して外に出て、自動販売機でコーヒーを買った

そのコーヒーをベランダで飲みながら、僕は東京の夜景を眺める


一ヶ月前も、昨日も、今日も、変わらなかった景色
そしてこれからも、長い間変わらないであろう景色

その変わらない景色の中に、明里はいる
変わらない景色の中から、僕のいるこの部屋だけが、次の日から静かに姿を変える


変わらない夜の中から、僕は抜け出す

明里のいる夜から、僕は去る




本当は、別れの言葉を伝えた方が良いんだろうと思う

さよならを言って、お互いに区切りを付けた気になった方が、良いんだろうと思う

でも、そのさよならが出来なかったから、今の僕はここにいる



だから、今度は明里にさよならは言わない







貴樹「元気でね、明里」











僕は明日、東京を出る

















638: 2014/09/23(火) 11:49:43.92 ID:Dj6JxB2SO

翌日









紅葉「どうですか?体調の方は」


明里「肩の方は痛みはありません」


紅葉「? 痛みが無い?」

明里「はい、違和感みたいな物はあるんですけれど……」

紅葉「フム……」


紅葉「そこのナースコールボタン、取って頂きませんか」

明里「?」スッ

紅葉「ありがとうございます」


カチッ


紅葉「………」

明里「………」


明里「…?」



ガチャッ




看護婦「篠原さん、どうしまっ…あっ」

紅葉「やあ」

看護婦「また先生ですかぁ? どうせ呼ぶんなら一人で回診しないで下さいよぅ」

紅葉「ハハハ、スマンね、ワンマンで」


紅葉「ところでキミ、篠原さんにはもう打ったの?」

看護婦「いいえ、痛みが無いとの事なので注射はしませんでした。軽い触診もしたんですけれど、何の異常も確認出来ませんでした」

紅葉「そうだよなァ…カルテにもそう書いてあるし」

看護婦「…先生私の事疑ってるんですかぁ?」

紅葉「ただの事実確認さ。本当に疑ってるんなら私はもっと面倒だ」

紅葉「話を続けるが、検査の必要性は感じなかったのかい?」

看護婦「それは、感じましたけどぉ……」

看護婦「例の…再入院した患者さんの対応をしてまして…」ボソボソ

紅葉「ああ、スペックの事か……じゃあしょうがないな」



紅葉「篠原さん、検査しましょう」

明里「えっ……あ、はい」

639: 2014/09/23(火) 13:58:59.06 ID:Dj6JxB2SO
看護婦「準備出来ました」

紅葉「んー」


明里「………」


紅葉「さぁ、篠原さん」

明里「先生、これってレントゲンの……なんでしたっけ」

紅葉「MRIですね。最近は結構メディアへの露出も高いんですが、生で見るのは初めてですか?」

明里「はい…あの、意外と大きいというか」

紅葉「物々しいのは見た目だけですよ。 やる事もレントゲンと同じです」

看護婦「さ、横になって下さい」


明里「………」スッ


紅葉「そのまま動かないで下さいね。すぐ済みますので」ピッ ピッ



明里「………」




ウィイイイイイ……ン


641: 2014/09/24(水) 00:35:34.58 ID:1LPVln8SO
イイイイイイィィィ……



紅葉「………」


紅葉(普通だ)


紅葉(なんて事の無い、いつも目にしている映像)

紅葉(スキャナーは頭頂部から始まり、目を映し、鼻を映し、口を映し、それらの構造を見る者に把握させる)

紅葉(映像はこのまま下顎を通り抜け、順に肩、胸、腹、腰、太股から爪先まで映し、終了)

紅葉(いつも通りだ。問題は無い)

紅葉(問題無く患部を映して終了)



イイイイイイィィィ……



紅葉(首、鎖骨…肩も問題無し)

紅葉(何処にも異常は無い)



紅葉(…………)



紅葉(イヤ、ちょっと待て…どこだよ患部……)

紅葉(見間違いか…?)

紅葉(肩が……)


看護婦「ハイ、お疲れ様でした。 もう良いですよー」

648: 2014/09/24(水) 20:31:56.55 ID:1LPVln8SO
紅葉「川ね……他には?」

明里「他には、川で人と話したり……その、なんというか…その…」



紅葉(川で人と話す…)

紅葉(三途の川の夢か…ごく在り来りな夢だな)

紅葉(やはり考え過ぎか。特別な事でも無い)



明里「ごめんなさい。自分でもなんだか変で…話し辛くて……」

紅葉「良いですよ。全て話してみて下さい」

明里「じゃあ、あの…それなら話しますけど…」

明里「宮本武蔵を…見ました…」

紅葉「ぷふッ」

明里「! そっ、そうですよねっ、変ですよね……」

紅葉「あ、イヤ……コホン、失礼、今のは無かった事に」


紅葉「他には何か?」

明里「他には…川での事なんですが、ユーイチローって人と話しました」

紅葉「ユーイチロー?」

明里「はい、範馬ユーイチローさん」



紅葉「!!!!ッッッ」ぞ わ っ




明里「あっ、でも苗字の方は憶測です。範馬勇次郎って人のお父さんらしいので、苗字も同じかな、と」

紅葉「!!!!!………ッッッ」

明里「その人に、投げ飛ばされた後、宮本武蔵に投げ飛ばされて……気付いたら、病院のベッドの上でした」


紅葉「……………」



明里「あの…やっぱり変ですよね…」



紅葉「!? あ、ああ、ウンッ」





紅葉「すッげ~変………」







看護婦「あの~…せ、先生…」

紅葉「…なんだ…」

看護婦「コレ、変なんです……この画像…」

紅葉「ああ変だよ。ワカってる」

649: 2014/09/25(木) 13:12:44.20 ID:I8hPjOCSO
紅葉(フフ……まったくイイ気なモンだぜ…)

紅葉(範馬……)

紅葉(この苗字が出るとろくな事が起こらない……いや、悪くは無いんだろうが…)



紅葉(治癒ってんじゃん…肩…)




紅葉「明里さん、怪我してる肩の方の手を動かしてみて下さい」

明里「っ? えっ」

紅葉「おかしいと思っているのは私も同じです」

紅葉「ギプスの上からでも多少は動かせるでしょう? さぁ」

明里「………」


明里「………」グッ グッ



明里「あ…あれ…?」グッ グッ



明里「痛くない…?」グッ グッ



紅葉「ハハッ…やっぱり」

明里「先生、こ、これ…なんで?」グッ グッ

紅葉「治っちゃいましたね」

明里「えっ」


650: 2014/09/25(木) 13:35:19.26 ID:I8hPjOCSO
ピリリリリッ ピリリリリッ



正明「おっ」


会社の同僚「ん?どした?」

正明「ちょっと外す。病院からだ」ガタッ

同僚「あ、おう」





ピッ

正明「はい、篠原です」

正明「はい……明里に何かあったんですかっ?」

正明「あっ、そうですか……はい…」


正明「治ったッ!!?」


正明「え……は?…なんで?」

正明「退院……あのちょっと待って下さい、なんで?」

正明「いや、あの…」

正明「いや治療費は払いますよ!当たり前じゃないですか!」


紅葉<私が治したんじゃありません>



正明「は?」


紅葉<勝手に治った……いわゆる自然治癒です>


正明「………」




正明「はい?」

651: 2014/09/25(木) 14:12:47.74 ID:I8hPjOCSO









引取業者「こんにちはー、引取に伺いました」


貴樹「ご苦労様です。どうぞ」

業者「ハイ、失礼します」





繋ぎ姿の男性はそう言うと、後から来た二人の作業員と一緒に、作業を始めた

一人が僕に確認を取る中、体格の良い二人の作業員は、安物の家具を次々に部屋から運び出していく
最初にタンスが消えて、次に机と椅子が消えた

業者「冷蔵庫とテレビもですか?」

貴樹「はい、お願いします」

業者「分かりました」


更に家電製品も部屋から消える
思っていた以上に、あっさりと作業は終わった

僕は玄関で引取業者に料金を支払った後、部屋に戻った



貴樹「………」



生活の跡が持ち去られ、寂しいを通り過ぎて殺伐とさえ見える部屋

何もかもが無くなり、会社で知り合った女性の、目に見えない痕跡のような物さえ消えた、アパートの一室



この部屋から僕もいなくなる



そしてまたいつか、別の誰かが住む






655: 2014/09/25(木) 21:23:32.92 ID:I8hPjOCSO
大家さんに敷引き金を渡して、部屋を解約し、アパートを出る

ご近所付き合いは無いから、特別な何かが起こってしまう事も無い



貴樹「………」



アパートの外、僕の持ってる荷物はブリーフケース一つだけ
東京に移ってそれなりに長く時を過ごしたのに、僕に残った物はたったのこれだけ

でも、上京した時より減った手荷物と、押せば凹むブリーフケースを見ても、僕は虚しさは感じず、むしろ清々しさを覚えるくらいだった



貴樹「………」スタスタ…




これからどうにかして東京を出た後、大阪の国際空港から目的地に行く

たったそれだけの、後先を考えない旅路

ただ人混みは避けたいから、交通機関は使わない
適当に歩いて、タクシーを見たらそれに乗って東京を出る

計画も、そんな漠然とした物だった




「遠野様」

貴樹「?」



そして、その漠然とした計画も、後ろから掛けられた声であっさりと瓦解する




黒服「徳川光成様からの使いで参りました」

貴樹「徳川…さん…?」



振り返った僕の前には、黒塗りのリムジンが停車している



黒服「是非とも、遠野様にお話したい事があると」




時刻は午後1時を少し過ぎた辺り

僕の旅路は大幅に修正された

658: 2014/09/26(金) 12:23:43.27 ID:wVU4zfGSO
車を降りた運転手が、客室のドアを開ける
黒服の初老の男性と共に、僕はリムジンに乗り、運転手はリムジンを発車させた



断る事は出来ない

選択肢は与えられているんだろうけど、リムジンを見た瞬間に、何かを悟ったかのようにそう感じた

僕自身に、範馬勇次郎に対して好奇心が芽生えていたのもある
だけど実際に行動に踏み切る契機になったのは、徳川さんとの会話だ


アパートを出て数分と経たずに声を掛けられ、車まで用意されていたのだから、意図的に仕組まれた事なのだろうけれど、僕はこの状況に運命のような物を感じている


黒服の男性は何も話さず、僕も声を出さない
リムジンは一度も止まる事無く走り続け、やがて停車した

黒服「到着致しました」ガチャッ


黒服の男性がドアを開け、僕はリムジンを降り、外を見た



黒服「ようこそ、徳川邸へ」





絵に描いたような和風の豪邸に、僕はつい薄ら笑いを浮かべてしまった


659: 2014/09/26(金) 12:54:27.99 ID:wVU4zfGSO
黒服「どうぞこちらへ」

貴樹「………」



促されるまま僕は門を潜り、豪邸の敷地を歩く
日本庭園には小川が敷かれ、本物の鹿威しが快音を上げている

庭園を通って屋敷に入り、小間使いに礼をされ、更に奥へと進むにつれて、都会の喧騒は聞こえなくなっていった

そして、風にそよぐ草木の音と、鹿威しの快音だけが聞こえる一室の中に…



徳川「おお、よう来てくれたのォ」



僕を呼んだ老人が、ちゃぶ台を前に座っていた



黒服「それでは、ごゆるりと」



黒服の男性は一礼すると、静かに襖を閉めた

660: 2014/09/26(金) 22:28:13.14 ID:wVU4zfGSO
徳川「すまんのう、いきなり呼び出して」

徳川「ささ、座って座って」


貴樹「…失礼します」スッ


徳川「ん」






徳川「いやァ~~…ッッ イイもん見させて貰ったわ、うん」

貴樹「良いもの?」

徳川「空港のアレじゃよ。特に最後の雷……可能なら間近で見たかったんじゃが、まぁ欲張りと言うものか」ホッホッ

貴樹「良いものなんですか、あれが」

徳川「ウン」

貴樹「人が氏んだんですよ?」


徳川「んな事ァワカっとるわい」


貴樹「そんな……」


徳川「彼奴らには逃げる選択肢など幾らでもあったハズじゃ」

徳川「軍力に属さない、任務を遂行しない……例え責任を問われ、職を失い、刑に伏する事になろうとも、命を繋げる事は出来る」

徳川「そもそも、命を惜しむ者が戦いの場に赴くのが間違い。戦場とは氏にたがりの居場所じゃ」

徳川「氏にたくないから勝つのではない。氏にたくないからこそ、戦を回避するのが凡人の取るべき道なのじゃ」

徳川「たとえ尊厳を失い、後ろ指さされる事になろうともな」



徳川「彼奴らは氏という存在に実感を持たず、信頼と職を失う事を現実的な恐怖として認識し、戦の道を選び取った」

徳川「ならば文句は無いハズ。氏が軽いなら文句など言えぬハズ」

徳川「反論あるかい?」



貴樹「…………」



徳川「そういうコトじゃ」

貴樹「………」




貴樹「……徳川さん」

徳川「ン?」

貴樹「何故、僕を呼んだんですか?」

664: 2014/09/29(月) 16:34:21.75 ID:/FnDYm5Ko
藤原玄信事態が、吉川英治(1892~1962年)の35年掲載の小説:宮本武蔵
それが出てくるまで超ドマイナーな人物だった事、これが無ければ今でもマイナーな人
または芸術家としてしか知られてなかったかもしれない

二天一流も源流となると、安土桃山に作られた荒木流を基とした父親が開発した当理流
それを発展させて円明流として、それを晩年になって完成と同時に改名したのが二天一流
五輪の書も地が生涯のあらまし、水が剣術の基本、火が戦いの心構え、空が兵法の本質

問題の風がごく当たり前な事を指摘した他流派の批判である、その批判も
それらと比べ自分の二天一流がどれだけ有能かを売り込む為の文章

665: 2014/09/29(月) 20:13:42.54 ID:Hq92W/ASO
徳川「何故か……おおよその察しは付くが、それはワシの思うべき所じゃない」

徳川「要するに、ワシは単なる仲介役っちゅうこっちゃ」

貴樹「徳川さんが呼んだわけじゃないんですか?」

徳川「うむ」


徳川「当事者にない部外者のワシには、ワカらん物ばかりだが、ただ一つワカる事がある」

徳川「おぬしは特別だというコト」


貴樹「?」



「徳川様」


徳川「入れ」


ガラッ




小間使い「徳川様、用意が出来てございます」


貴樹(用意…?)


徳川「というコトじゃ。座ったばかりで悪いが、ついて来なさい」スッ

貴樹「っ、はい」サッ




666: 2014/09/29(月) 20:14:54.30 ID:Hq92W/ASO
ちゃぶ台の上に用意されていたお茶には一度も手を付ける事無く、徳川さんと僕は部屋を出て、表廊下を歩いて行く

右手には障子と壁。左手には日本庭園
和風旅館のような周りの様子は、変わらずに落ち着いた雰囲気

でも、僕は何故か胸にざわつきを感じていた
それは予感とか気配とかじゃない異質な違和感であり、その違和感には覚えがあった

数日前の、羽田空港で……




徳川「ここじゃ」

貴樹「!」

徳川「この襖を開けた先に、おぬしを呼んだ者がおる。くれぐれも節操の無いようにな」ガッ

徳川「といっても………まァ、言わずとも良いか」


シュラッ


貴樹「!!!!」



徳川「ま、頑張りなされや」



タンッ






貴樹「……………」





左手側から日光は射しているけれど、何畳あるかも分からない大広間は薄暗い
その大広間の真ん中に、二度と会わないだろうと予感していた人がいた

二度と関わるまいと思っていた人がいた







勇次郎「…………」









胡座を掛く彼の前にはちゃぶ台が置いてあり、そのちゃぶ台を見た瞬間から、僕の奥歯が閉じた口の中でカチカチと音を立てはじめる



勇次郎「楽にしな」




そんな事言われても、出来るわけがなかった

671: 2014/09/30(火) 16:44:37.55 ID:CF/ln/nSO
ちゃぶ台の上に用意されていたお茶には一度も手を付ける事無く、徳川さんと僕は部屋を出て、表廊下を歩いて行く

右手には障子と壁。左手には日本庭園
和風旅館のような周りの様子は、変わらずに落ち着いた雰囲気

でも、僕は何故か胸にざわつきを感じていた
それは予感とか気配とかじゃない異質な違和感であり、その違和感には覚えがあった

数日前の、羽田空港で……




徳川「ここじゃ」

貴樹「!」

徳川「この襖を開けた先に、おぬしを呼んだ者がおる。くれぐれも粗相の無いようにな」ガッ

徳川「といっても………まァ、言わずとも良いか」


シュラッ


貴樹「!!!!」



徳川「ま、頑張りなされや」



タンッ






貴樹「……………」





左手側から日光は射しているけれど、何畳あるかも分からない大広間は薄暗い
その大広間の真ん中に、二度と会わないだろうと予感していた人がいた

二度と関わるまいと思っていた人がいた







勇次郎「…………」









胡座を掛く彼の前にはちゃぶ台が置いてあり、そのちゃぶ台を見た瞬間から、僕の奥歯が閉じた口の中でカチカチと音を立てはじめる



勇次郎「楽にしな」




そんな事言われても、出来るわけがなかった

672: 2014/09/30(火) 17:11:07.63 ID:CF/ln/nSO
貴樹「………ッ」



勇次郎「何時までそうしてる」

貴樹「!!ッッ」

勇次郎「貴様が挑み、俺が構えるならばまだしも」

勇次郎「双方に闘志無きこの場で、俺が貴様を殺るとでも?」


貴樹「…………えッ…いや…」


勇次郎「もっとも、このまま俺の要望を『跳ね退ける』というのなら、多少の波風も立つ」

勇次郎「立たせたいか……波風…」

貴樹「……?…」


勇次郎「なんなら、俺からでも……」


貴樹「!!!」ダッ

タタタタタ… サッ








勇次郎「そう、それでいい」


貴樹「………ッッッ」ハァハァ


勇次郎「話し合うなら、まずは顔を合わせねェとな」

勇次郎「卓があるというのなら、席にも就く」



貴樹「…………」



勇次郎「飯でも突きながらな」ズッ…

貴樹「!?…ッ」



ゴトッ



貴樹(……じゅっ、重箱?……)



勇次郎「作って来たぜ」



貴樹「!!!?」


676: 2014/09/30(火) 17:26:20.07 ID:CF/ln/nSO
ガパッ


勇次郎「………」ゴト…ッ


貴樹「…………」




貴樹「鮭弁当…ですか……」



勇次郎「おう」


貴樹「……………」


勇次郎「質素が良い」

勇次郎「豪奢なだけが取り柄の食事など、たまにで十分」



貴樹「…………」



貴樹「…あの、これって…僕の、ですか?」


勇次郎「嫌かい」


貴樹「!!ッ あッ、嫌じゃないです……ぃ、頂きます」



勇次郎「………」ペコリ



貴樹「!!!??」



692: 2014/10/01(水) 04:06:07.37 ID:Sa8l7RnSO
勇次郎「…………」モニュ…モニュ…

貴樹「………」モグ…

勇次郎「………」モニュ…



思いもしない再会の後、矢継ぎ早に訪れた驚きに、僕は大いに困惑し、狼狽した

地上最強の生物

あらゆるしがらみから解放され、何者も寄せ付けない強さを持つ男

そんな彼が、誰の為に食事を作ったのだろう
誰にも咎められないのに、何故彼は礼儀作法を習得しているのだろう

そもそも、僕なんかに何の用があるんだ?

頭の中がこんがらがって、今何が起きているのか、何でこうなったのかが分からない


分かっている事は、彼の作った鮭弁当とその付け合わせが、普通に美味しい事だけ





勇次郎「遠野貴樹」



貴樹「!!」ビクッ



勇次郎「何故俺を想い、俺を追った」

勇次郎「結果として何を得た」


勇次郎「答えろ」



貴樹「…………ッッッ」





答えに窮した
この状況と、彼自身の存在に臆しているのもある
でも一番の理由は、僕の想いの曖昧さにある

『今までの生き方に疑問があったから』
『僕とは全く違う彼に興味が沸いたから』
『今の僕から脱する為に』

ただただそう想い、それらが意味する答えは『全く違う僕に生まれ変わりたかったから、貴方を追いました』と言う物に外ならない

そんな漠然とした答えに、あの範馬勇次郎が納得する訳が無い



それに、彼と会って僕の本質的な何かが急に変わる訳でも無かったし、現に今、彼との出会いを経験した僕の生活には、依然光明が無い

答えるも何も、僕はその答えの影すらも捉えていない

成果なんてどこにも無い



しかし範馬勇次郎を前にして、変わらずに無言のままでいるなんて、何が起きるか全く分からない

その底の見えない恐怖が、僕の口を開かせた

694: 2014/10/01(水) 18:44:33.14 ID:Sa8l7RnSO
貴樹「……変わりたかったんです…何か、別の僕に」

貴樹「今より良い僕になりたくて…その…」

貴樹「…僕には無い物を、全て持ってる貴方を知る事が出来れば…僕も、変われるのかも、と……」


勇次郎「変われたかい」



貴樹「…………」

勇次郎「………」モニュ…



貴樹「…いえ、何も……」




勇次郎「フン」


貴樹「………」


勇次郎「で、何故俺を選んだ」

貴樹「えっ」


勇次郎「貴様と異なる者など、そこらに転がっているハズ」

勇次郎「形はどうあれ、俺に近付くという愚行に走る必要が何処にある」


貴樹「それは……」


勇次郎「第一に、俺にあって貴様に無い物とは何だ」


貴樹「…………」



貴樹「強さと…自由さが、貴方には…」

勇次郎「ならば、やはり俺で無くとも良い」


勇次郎「徳川のジジイに聞きゃあ、幾らでも世話になれたハズだ」

698: 2014/10/02(木) 03:17:46.06 ID:JKa76JqSO

カチャッ…





勇次郎「………」ペコリ

貴樹「!!ッ」


貴樹「………」ペコリ






勇次郎「…さて、飯は喰った」

勇次郎「次は茶でも呑もうじゃねェか」スッ

貴樹「!?」

トポポポ…



貴樹「……なんで僕なんかに…」


勇次郎「………」スッ トポポポ…


貴樹「ここまでしてくれるんですか……?」


勇次郎「褒美だ」ズズズ…


貴樹「……?」



勇次郎「腕力も、それに代わる力も無い」

勇次郎「心焦がす殺意に身を焼いた経験も無く、闘争に対しては、ケツの青い餓鬼以下の認識しか発揮出来ぬ『腑抜け』が」

貴樹「っ………」

勇次郎「無謀にもこの俺を追うと決心し、そして美事再会する事に成功した」


勇次郎「無法の輩…富裕者…知識人…権力者…」

勇次郎「それらの何れにも属さない、数多の凡夫……そして、その凡夫共の中でも、特に虚無的に生きるオマエ」

勇次郎「知識も力も金も無く、闘争に恐れを感じ取れなかった貴様だからこそ、何も持たずしてこの俺に到達した」


勇次郎「こんな奇跡、そうそうお目に掛かれる物じゃねェ」ズズズ…




705: 2014/10/04(土) 04:37:00.18 ID:YMRY04uSO
貴樹「………」

貴樹「…どうして僕の事を…そんなに知ってるんですか?」


勇次郎「知りゃあしねェ」

勇次郎「見れば分かる物を、ただ話しただけの事」


貴樹「…そうですか…」



勇次郎「…………」




貴樹「…………」




貴樹「僕には分かりません…」


貴樹「僕は…僕のような人間には、見ただけで他人を理解する事なんて出来ません」

貴樹「電車を壊す事も、軍隊を相手に互角以上に闘う事も、出来っこありません」

貴樹「普通は皆そうです」





貴樹「でも、貴方は違う………僕達なんかとは、根本から違っている」

貴樹「こんなの不公平だとは思いませんか……僕らにだって、自由に生きる権利があるはずなのに」

貴樹「現実に自由を持っている人が、貴方だけなんて…」

貴樹「自分の人生さえ、思う様に生きれない世の中なのに……そこから貴方一人だけが逸脱しているなんて…」


勇次郎「…………」



貴樹「勇次郎さん……何故貴方だけが、そこまで強いんですか?」



勇次郎「…………」






勇次郎「フフ…随分と切実な悩みなんだろうが」


勇次郎「悪いが、手前ェが思う程、俺は自由を謳歌してるワケでもない」

勇次郎「限りってのは、何処にでも在る」


貴樹「えっ…?」


706: 2014/10/04(土) 05:45:20.63 ID:YMRY04uSO
勇次郎「例えばこの拳」ズッ…

貴樹「……ッッッ」

勇次郎「岩を割り、鉄をえぐり、骨を切り落とす破壊を握っているとしても」

勇次郎「地上最良の緩衝物質……我が息子『刃牙』を間に挟め、物を叩けば」

勇次郎「せいぜい乗用車が半回転。せいぜい車体が凹む程度」

勇次郎「大地に直径10メートル以上の大穴を開ける力も、ヤツを介した途端に力を失い、叩いた乗用車が原形を留めるという体たらく」


勇次郎「そしてコレ」スッ


コトッ…


貴樹「……それは何ですか?」

勇次郎「かつて俺を沈めた鉄粒…」




勇次郎「麻酔弾」




貴樹「麻酔弾?」

勇次郎「ジジイが後生大事に保管している物だ」

勇次郎「コイツを某所にて数発……常人ならばまず氏は免れぬ程の濃度を喰らい、不覚を取った」

貴樹「不覚って…それじゃあ…」

勇次郎「当時の俺は認めぬだろう。 しかし、思えばあの時に終了っても良かった」

勇次郎「敗北の前に屈し、眠る事を良しとする、と」



貴樹「…………」



勇次郎「致氏量を裕に越える量だった」

勇次郎「ジジイは否定するだろうが、明らかに意図する所は俺の再起不能……つまりは殺害だ」

勇次郎「強い衝撃に耐える肉体も、所詮は人体の持つ常識の延長にある物。 物質そのものを揺るがす科学変化には抵抗も至難と言えよう」

勇次郎「今はどうか知らぬがな」フフ…



貴樹「とどめ、とかは…大丈夫だったんですか?」


勇次郎「殺気でも感知して直ぐさま復活すると踏み、手を下さずに放置に留めたらしい」

勇次郎「しかし、たかが銃如きに不覚を取るアホウの事。 そっ首取られるか、それとも蘇るかは、恐らく五分五分と言ったところだな」

712: 2014/10/04(土) 12:48:59.98 ID:YMRY04uSO
貴樹「…………」

勇次郎「意外とでも言いたげな顔だな」


貴樹「はい……あの、正直に言えば、少し……」


貴樹「…………」




貴樹「やっぱり…そういうのは貴方でも気になるんですか?」

勇次郎「いや、ならねェな」


勇次郎「強い強いと言われちゃいるが、そんなモン、俺にとっては毒にも薬にも成らぬ無意味な甘言」

勇次郎「地上最強である事など、最早どうでも良い」

貴樹「っ!?」



勇次郎「いっそ『適当』な野郎にあげたかったくらいだぜ」

貴樹「…適当な野郎って…」

勇次郎「誤解するな」


勇次郎「俺より強い漢……どのような手段であれ、俺に対して適した攻撃手段を取り、俺の我が儘を退ける者」

勇次郎「地上最強という空虚はそいつに渡して、いい加減楽になろうと思ってよ」

勇次郎「ついに妥協しちまった」


勇次郎「『俺はピンピンしてるが、もう刃牙でいいや』ってよ」クスクス…




貴樹「…………」








勇次郎「そんなにショックかい」フフ…


貴樹「は…はい…」





貴樹「僕には…気持ちの整理がつきません…」

貴樹「悩みなんかとは無縁の人だとばかり……」


勇次郎「強者と言えど、一皮剥けば只の人」

勇次郎「オマエ、俺をなんだと思ったんだ?」

貴樹「!ッ」


715: 2014/10/04(土) 14:15:23.46 ID:YMRY04uSO

貴樹「……正直…」



貴樹「正直に言えば…そういうしがらみからは、解放されている人だと」


勇次郎「しがらみ無き者などいない」

勇次郎「どれだけ高く跳ぼうとも、推力が続かぬならば誰しも地に落ちる」

勇次郎「どれだけ富を肥太らせようとも、その富の拠り所が盤石になる事は無い」

勇次郎「重力、富、飲食、時間」

勇次郎「心の変動に、寿命」

勇次郎「しがらみで構成される世界の中、唯一しがらみ無き物があるとするならば、それは氏以外に無い」

勇次郎「遠野貴樹よ」

貴樹「!!」




勇次郎「自由である事が、そんなに尊いかい」






貴樹「…………」





貴樹「そういうのを自由と言うのなら…確かに自由を求めるのは…無意味かもしれません」

貴樹「ですが夢を見る自由は、誰にでも元からあるはずでは無いんですか?」

貴樹「それを叶える事だって…」


勇次郎「夢ってのは叶わねェ物だ」

勇次郎「万が一にも叶えちまう野郎がいれば、そいつは不幸も良いとこ」


勇次郎「叶った夢など、叶えた者からしてみれば既に当たり前という物………人の本質が『泳がねば氏ぬサメやマグロ』である以上、その当たり前から脱し、次を目指さねばならない」

勇次郎「しかし、夢叶えし者には次は無い」

勇次郎「次を全て体験しちまったんだからな」



勇次郎「だからこそ、夢叶えし者は乱れ、足掻く」

勇次郎「まだ在る、まだ有ると藻掻き、己の力の及ぶ範囲の中をのたうち回る者も居れば、諦観の内に沈み込み、築いた物を食いつぶす者もいる」

勇次郎「気付いた時には、俺は既に両方を体験していたが」

勇次郎「良いものでは無い」



勇次郎「まァ…それでも夢を見、叶える事を望むならば、好きにするといい」

勇次郎「止めやしねェよ」

719: 2014/10/07(火) 22:39:54.31 ID:z+qc8JySO
貴樹「………」



貴樹「…それなら、僕はどうすれば良かったんですか……?」



勇次郎「二度も言わせるな」


勇次郎「目指しゃあ良い。追うだけ追えば良い」


貴樹「目指せば良いって……良くないじゃないですか、全然」

勇次郎「ならば、何を成す為に生きる」

貴樹「それは……」

勇次郎「只生き、只氏ぬならば、文明無き生活でも事足りる」

勇次郎「例え路上生活者に成ろうともな」


貴樹「…………」



勇次郎「誰しもが『より良き』を目指し、夢を追う」

勇次郎「そしてその大半は、到達する事無く挫折の道を行き、達した者にも新たな苦が降り懸かる」


勇次郎「しかし、挫折した先の道……草葉の影と夢の分岐路に、違う物が見えてくる」


貴樹「…?」



勇次郎「それは目指した物では無い。 しかし、それは得も言われぬ魅力を放ち、尚且つ常に足りぬ物」

勇次郎「飽き果てるまで喰わせつつも、尚も足るには至らぬ物」



貴樹「………それは、なんなんですか?」




勇次郎「そいつが直ぐにワカれば…」ズズズ…



コトッ…



勇次郎「苦労は無かったかもな」フー…

721: 2014/10/09(木) 03:30:17.60 ID:8tpXaqQSO

貴樹「勇次郎さんは、それに出会えたんですか…?」


勇次郎「俺が何に出会えたのか……それを詮索する気持ちはワカらねェ訳でも無いが、そいつは無駄と言うもの」


貴樹「………」


勇次郎「『あれ』は万人共通の物でも、必ず訪れる物でも無い」

勇次郎「口伝なども不可能。 その身を持って味わわなければ、理解など出来ぬ代物」

勇次郎「そして、それに巡り会う為には、歩を進める以外に術は無い」


勇次郎「夢を追わずして、それに出会う事は無い」


貴樹「…………」





貴樹「…それなら、やっぱり僕には何もありません…」

貴樹「僕には、追う夢なんて元から無かったんです」


貴樹「遠の昔に消えてしまいました……何年も前の、僕がまだ子供だった時に」



勇次郎「…………」



貴樹「…叶えたいと思って……叶うはずなんだって思っていた夢も、心の奥底では諦めていて…」

貴樹「ただ、その夢を追う振りをするのが、心地よかっただけなんです」

貴樹「自分自身を騙して、僕を好きになってくれた人を傷付けて…それでもまだしがみついて…どこまでも自分勝手で…」

貴樹「最後は、明里さえ傷付けた」

貴樹「僕は…」



貴樹「…………僕は…最低です…」








勇次郎「成る程……良くワカった」






勇次郎「ならば、やはり今しかない」


貴樹「っ?」


勇次郎「分岐点だ。今、この時が」


勇次郎「チャンスだぜ、坊や」

722: 2014/10/09(木) 04:47:58.63 ID:8tpXaqQSO
貴樹「チャンス…?」


勇次郎「夢を追い、結果その道が断たれた今、貴様には選択肢が与えられた」

勇次郎「しかも幸運なコトに、今は夢がねェと来てやがる」


勇次郎「要は、どうにでも成れるという事だ」



貴樹「…そんな…簡単そうに言わないで下さいよ…」

貴樹「今更僕が何になれるって…」

貴樹「…………」






貴樹「…………」











突然



本当に突然、僕の言葉が止まった



喉元に溜まった声は、目の前の勇次郎さんによって止められた訳じゃない


僕が不意に思い出した物が、僕の言葉を止めていた




勇次郎「バカが」



勇次郎さんが悪態を吐く



勇次郎「ここまで来ると笑えるぜ」クスッ

勇次郎「こうまで鈍くねェと俺に近付けねェのかッ」クスクスクス




僕の中の気付きは、僕の中の苦悩や苛立ちといった負の要素を溶かし


別の何かに変えて、僕の中を駆け巡らせた



729: 2014/10/10(金) 01:19:35.08 ID:VNm9FuOSO
アパートから出て、少ない手荷物を持っているだけの僕

スカスカなブリーフケースには、ノートパソコンと、少ない着替えが入っていて、身分証明書や預金通帳などの大事な小物は、上着の内ポケットに入っている財布の中


ただのそれだけしか、僕は持つことが出来なかった


何を成し遂げる事も無く、何か残した物も無い

ただ叶わない夢の明かりに、引き寄せられ続けていただけの僕





今日のあの時に、アパートの玄関前で、僕は僕から脱却した





その解放を、僕はあの時感じていたんだ




この先に、叶えたい夢がある訳じゃない

何かの目的に追われる訳でも無い


けれど、明日に向かって、歩かずにはいられないような…





そんな、今まで味わった事の無い想いが



あの時、染み入っていたんだ




僕の心の中に












731: 2014/10/17(金) 23:51:35.59 ID:an6K5KZSO
勇次郎「クスッ」



勇次郎「何にも成らずとも良い……追う物など無くとも良い」


勇次郎「それも悪かねェだろ」



貴樹「…………」






勇次郎「分不相応に難しい事など考えるな」



勇次郎「好きに生き、好きに行け」



勇次郎「そして好きに追うがいい」



勇次郎「つい最近、俺が得た物を、貴様もまた得る事が出来た」


勇次郎「そいつを大事にしろ。注意深くな」












733: 2014/10/18(土) 04:34:48.25 ID:xqWNciBSO
僕と勇次郎さん以外に誰もいない大広間には、少しだけ暑くなった日差しだけが射し、鹿威しの音は遠くに聞こえ、その音の背後には街の騒がしい音が微かに混じって聞こえる

大広間の中央にあるちゃぶ台を囲む、何者でも無い僕と、地上最強の生物

何かが間違ってしまい、本来同じ空気にいる事さえ有り得なかった僕と彼は、彼の言葉を最後に、お互い黙ってしまった

僕は眠気から覚めたかのように

彼は自宅でくつろいでいるかのように






僕の抱いていた幻想の数々は消えて、代わりに新しい景色が開けた


何者でも無くなったからこそ、何処にでも行けるようになった僕

神話世界の住人などでは無く、一人の人間として生きていた彼

そこには個性の違い以外に、大した違いは無い
彼の言葉にそう教えられて、僕の目の前に座る彼は、人に姿を変えた



そして、彼には、縁…


親しみや、絆のような物さえ今は感じている






でも、話の種は尽きたままで、僕は黙ったままだった









ただ、静かに過ぎていく時間だけが、会話の終わりを告げていた





734: 2014/10/18(土) 05:20:49.12 ID:xqWNciBSO
勇次郎「………」ガポッ


貴樹「!」


重箱を閉じる音が目立って大きく響き、僕は一瞬眼をしばたかせた




勇次郎「これで終いだ」


貴樹「………」


勇次郎「帰るぜ」スッ…


貴樹「っ…勇次郎さん、この重箱は?」

勇次郎「………」

貴樹「あっ、あと、お茶も…」

勇次郎「それは此処の物だ。ジジイが使えとわざわざ願い出たのならば、俺の気にする物じゃねェ」ズチャッ



ガラッ



小間使い「!!ッッ」

勇次郎「光成を呼べ」

小間使い「はッ、はい只今ッ!」

ピシャッ



貴樹「……勇次郎さん。最後にもう一つだけ、良いですか?」

勇次郎「ン?」

貴樹「僕なんかにこんなに話してしまって、良かったんですか?」

勇次郎「何も変わりゃあしねェ」



勇次郎「テメェなんかに話しちまってもな」



貴樹「…………」



貴樹「……ふふっ、そうですね」






ガラッ



徳川「おう勇次郎。用事とやらは済んだんかい?」


735: 2014/10/18(土) 21:04:16.77 ID:xqWNciBSO
勇次郎「済まぬ内に呼ぶ訳も無かろう」

徳川「………」

徳川「…うむ、それもそうじゃな」

徳川「何を話したのかは、聞かん方がいいか」ホッホッ

勇次郎「見送りは良い」ズチャッ

徳川「うむ、分かっとる」



ズチャッ…ズチャッ…







貴樹「………」


徳川「遠野君や」

貴樹「! はい」

徳川「変わった男じゃろ、アイツ」

貴樹「まぁ…はい、そうですね…」

貴樹「変わってます…凄く……」


徳川「何を話したのかは聞かん。何にせよ、オヌシの心の内に仕舞っておけば良い」


貴樹「…………」


徳川「…で~~…どうじゃった?」


貴樹「えっ?」


徳川「良かったかい?会えて」


貴樹「………」


貴樹「はい、良かったです。彼と会えて」


徳川「ん」ニッ



741: 2014/10/24(金) 12:07:52.82 ID:2WzHY2NSO
黒服「遠野貴樹様」

貴樹「? はい」

徳川「ア、そうそう、君を送らんといかんな」


徳川「何処に行くかを言ってくれれば、ワシの従者がそこに君を連れていく」

徳川「勝手に連れ出した罪滅ぼしじゃ」


貴樹「それは、何処にでも連れて行ってくれるという事ですか?」


徳川「ウン、そんな所」


貴樹「………」






貴樹「じゃあ、大阪国際空港までお願いします」

徳川「承知した」


徳川「…って、なんで?」

貴樹「何がです?」

徳川「ワシは何処にでも連れて行くと言ったハズじゃ。空港は只の移動手段であって、目的地な訳無かろう」

貴樹「ええ」

徳川「じゃあ、なんで?」

貴樹「なんでって……そうですね…」

貴樹「あまり上手くは言えないんですが…」


貴樹「なんだか、空港からは一人で行かなきゃいけないような気がするんです」


徳川「………」




徳川「成る程……今の言葉でよ~~くワカった」

徳川「イチから始めるんなら、そりゃあ一人で始めんとな」フフ…

貴樹「すみません、せっかくのお心遣いを」

徳川「良いってコトよ。老人の気まぐれと思って、忘れなされや」


744: 2014/10/24(金) 19:46:14.98 ID:2WzHY2NSO







徳川「んじゃ、しっかり頼むぞ」

黒服「はい。 貴樹様、どうぞ車の中へ」

貴樹「……」スッ

黒服「………」バタム



黒服「それでは、行ってまいります」

徳川「ン」


黒服「………」スッ


バタム



ブルルロロロロ…









徳川(ん~~~……思った以上に、ってヤツよのォ)フーッ

徳川(ワシの酔狂からとは言え、まさかこうも変わるとは)


徳川(もう会うことも無いじゃろうが、気になるのう…どうなるかが…)





徳川(…にしても、分からん)

徳川(オーガが食事を振る舞うなど、珍事どころでは無い)

徳川(あの青年にそれ程の物があるとも思えんが……明らかに、自身の息子より厚待遇で迎えている)

徳川(気まぐれか…もしくはあ奴にしか分からぬ物か…)


徳川「…………」






徳川「ま、いっか」


徳川「腹も空いたし、メシじゃメシ」

746: 2014/10/25(土) 01:30:51.52 ID:QTmLdIVSO
勇次郎「…………」ズチャッ…ズチャッ…


OL「!!?」

サラリーマン「~~~~~~ッッッ!!!?」

不良「おッ、押忍ッッ!!」


勇次郎「…………」ズチャッ…ズチャッ…




勇次郎(久しぶりに、長く話した)


勇次郎(何時ぶりだ…ああいう人畜無害と語らったのは)

勇次郎(10年ぶり?…20年ぶり?………イヤ、恐らくは、初)

勇次郎(拳、銃、刃、更には権力すらも無い非力極まる者………それでいて、俺の前に立った奇特な…)

少女「あのッッ!」

勇次郎「………」ぴたっ


少女「さッ……さ……」プルプル


勇次郎「………」



少女「サイン……」プルプル



サラリーマン「バっ…ッッ!」

OL「ヒィッ」

不良「………ッッッ」

不良(よせッッ! 殺される……ッッッ!)

勇次郎「………」スッ

少女「…ぇ…」

不良(?……ゆ…指ッ?)


シ ュ ギ ャ ッ !


少女「わっ…」

不良「!!!!!」



勇次郎「生憎、ペンが無ェ」

勇次郎「焼き跡で汚れちゃいるが、我慢しろ」


少女「!!」パァッ

不良「………」



不良「………」パチパチパチ

サラリーマン「………」パチパチパチ

OL「………」パチパチパチ

748: 2014/10/25(土) 03:21:30.66 ID:QTmLdIVSO
勇次郎「………」ズチャッ…



ズチャッ… ズチャッ…






勇次郎(フンッ……分かり切ったコトだ)



勇次郎(喰らい続け、解放ち続け、その全てに飽和し、辟易するならば)

勇次郎(最強という物をそもそも欲さなければ、やがてはこうなるのも又必然)


勇次郎(ガラにも無い)




勇次郎(温くなったな)





751: 2014/10/31(金) 08:27:47.09 ID:6PekUMPSO
キャビンアテンダント「お客様」

貴樹「?」


キャビン「お飲みものはいかがでしょうか?」


貴樹「あ、じゃあコーヒーをお願いします」

キャビン「かしこまりました」


コポポポポ コトッ


キャビン「それでは、ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」


貴樹「どうも」







コーヒーを飲みながら、僕は窓の外を眺める


そこに見えるのは雲海と、澄んだ青空だけで、東京はどこにも見えない


反対側を見ると、寝ている人や音楽を聞いている人、雑誌を読んでいる人が、シートを全て埋めていた


目的地が種子島という事もあって、本来なら混む事も無いはずのこの便も、今日は違う

羽田空港が閉鎖された事で、本来羽田発の飛行機を利用するはずだった客が、大阪国際空港に流れて来たのは分かるけれど、この便まで満員になるとは思わなかった


貴樹「………」



誰にも話し掛けず、誰にも話し掛けられないこの場所で、僕は考えに耽る

思い返しているのは、羽田空港での事件についてでも、明里の事でも無い



彼……


範馬勇次郎が、話の終わりに言った言葉




好きに生き、好きに行け





子供の頃から何度、この言葉を求めた事だろう

好きな所に行ってみたい。好きなように生きてみたい
両親の仕事の都合や、学力や、お金に縛られないような日々が欲しい

何度もそう願い、その度に心を折った



でもそれも、もう終わった

自分の事は自分で出来るし、行きたい所にも行ける
何にも縛られる事も無い

手持ち無沙汰になって、隙を持て余すくらいに

754: 2014/11/03(月) 03:38:33.06 ID:vpcgry1SO

数え切れない日々に、窓越しから景色を見てきた

ある時は電車の中から明里を捜して、またある時は、部屋の中から彼を捜していた

でも、そんな理由で見てきた物はどこか狭苦しく、緊張を感じた



こうして安らかな気持ちで景色を眺める事も、コーヒーを味わう事も無かった




貴樹(まだ先も長いし、寝ようかな)



貴樹「あ、すみません」

キャビン「なんでしょうか?」

貴樹「このコップ、下げてもらっても良いですか?」

キャビン「はい大丈夫です。お預かり致します」




空になった紙コップが手元から無くなったので、僕は折りたたみテーブルを仕舞い、イヤホンを耳にはめる


貴樹「………」



聞こえてくるピアノ演奏の『月の光』は、開放感に浸っている僕の心を落ち着かせて、少しずつ、夢の世界へと誘って行った

755: 2014/11/04(火) 04:59:06.60 ID:9R9vz+BSO



緑の丘の上


夜のように暗い青空に、昼間のような明るさで輝く太陽がある

その太陽の向こうには、大きな月


貴樹「………」



全く知らない場所なのに、今ここに僕がいる事が、当たり前のように思える

その思いが、僕に此処が夢の中である事を教えた




「………」




隣に人がいる

立ったまま朝日を眺めている僕と同じように、その人もまた、輝く太陽を見つめている

彼女が誰かは分かっていたけれど、僕は彼女の方を見なかったし、彼女も僕を見ていない

何故だか、そうだと思えた



僕も彼女も、お互いを見つめ合う事は無いけれど、反発する事も、寄り添う事も無い

ただそこに居て、安らかな心のままに、幻想的な地平線を眺めていた






756: 2014/11/04(火) 05:17:06.74 ID:9R9vz+BSO



  ザアアアアア…





草がなびく音と一緒に、僕の背中に風が当たる

景気付けに後押しするような

元気づけて励ますような、撫でるような風




僕はその風に後押しされて、彼女を残して歩き出す


地平線の向こうが気になって、太陽がどれくらい大きいのか見てみたくなったから

月の裏側に何があるのか、知りたくなったから


どこまでも続く夢の世界を、どこまでも歩いてみたくなったから





僕は歩き出した


彼女のいる方へは、振り返らずに








声は聞こえないし、もう顔も見えないけれど



彼女が、僕の背中に、手を振ってくれているような気がした






















757: 2014/11/04(火) 05:32:25.11 ID:9R9vz+BSO

「お客様?」


貴樹「!」






貴樹「?…えっ?」


キャビン「お客様、どこかお具合でも…」

貴樹「あ……いえ、大丈夫です。すみません」


貴樹「あの、飛行機はもう着いたんですか?」

キャビン「はい。本便は無事に種子島空港に着陸致しました」


貴樹「………」





貴樹(結局、最後まで寝ちゃったなぁ)


758: 2014/11/04(火) 07:01:44.46 ID:9R9vz+BSO

眠い目を擦りながら飛行機から降りて、僕は荷物の受け取りを済ませる

ベルトコンベアで運ばれて来た荷物に異常は無い

マンションを出た時と同じように中身はスカスカだ



貴樹(それにしても、全然変わらないなぁ、ここも)



荷物を受け取って一息ついた僕は、空港の中を眺める

壁に貼ってあるポスターが違うだけで、他の内装は何も変わってない
たった数年でガラッと変わるのもヘンだと思うけど、こうも変わっていない種子島空港を見て、僕は安心した

生まれた場所でもないのに、古巣に帰って来たような気持ちになれた




貴樹(帰ってきた……)フフッ




胸が少し高鳴って、歩調も少し早くなって

僕は早歩きで空港の玄関を抜けて、外に出た


迎えてくれたのは綺麗な夕陽と、夢で出会った懐かしい風だけ

出迎える人は当然いない
仲の良い知人は、もう本州に移っている

でも、僕にはこれで十分だった



貴樹(さてと、まずはどうするかな)

貴樹(予約を入れたアパートに行った後は、電気とガスと水道を調えて、ネットとテレビの回線を引いて…)

貴樹(次は住民票を…)



貴樹(………)



貴樹(今日中には無理だ…)

貴樹(とりあえず、生活が調うまでは向こうの大家さんに色々迷惑掛けちゃうな)




頭の中であれこれと考えて、まずはとにかく歩いて、途中でバスにでも乗って、アパートに行く事に決めた

無くなった土地勘に頼る訳にもいかない

寄り道出来る程の時間の余裕も無い



貴樹(あ、地図買ってから行こう)タッ



種子島に着いて初めてやった事は、空港に戻って地図を買う事だった

762: 2014/11/07(金) 19:00:51.65 ID:dy9EpWJSO








海の家










テレビ<次の記事に参ります>

テレビ<範馬勇次郎氏襲撃事件から一ヶ月が経った先日、責任追求に関しての論争に、またもあのトラブルメーカーが姿を現しました>

テレビ<チャララン!>


テレビ<起こっちまった以上仕方ないじゃろ。右でも左でも構わんから、責任を負って話ィ終わらせる剛の者はおらんのかッ>


テレビ<こう語るのは日本政財界きっての大物、徳川財閥現頭首、徳川光成氏だ>

テレビ<最近では、2億5000万年前の岩塩層から発見され、その後蘇生した原始人ピクルと、格闘家や保護動物であるシベリアトラを闘わせた問題が、記憶に新しい>

テレビ<そんな彼が、何故この事件の責任問題に首を突っ込んだのだろうかと、各党の政治家や官僚からは疑問の声が上がっている>



テレビ<またあの爺さんの悪ふざけだろう。格闘好きが拗れてるとしか思えない>

テレビ<金を握っているとは言え、彼は政治に関しては素人です。勝手に我々の領分に入らないでもらいたいですね>

テレビ<私はむしろ、彼が一枚噛むのは必然だったと思います。なんだかんだ言っても、彼のお陰で今の我々があるのですから>

テレビ<徳川氏に介入させてしまう程事態を悪化させた我々にも、責任の一端はあるだろう。それを認めなければ、この先に進展は無い>



テレビ<そもそもこの事件の発端はどこにあるのだろうか?

テレビ<事件の経緯を説明するとこうだ。アメリカのオズマ大統領の腹心と…>





おばちゃん「あーあ、やだやだ」

バイトの子「何がですかぁ?」


763: 2014/11/08(土) 09:21:30.45 ID:gQMRbhPSO
おばちゃん「今やってるニュースよ。物騒な上に聞いてて呆れるわ」

バイトの子「あー、誰が一番悪いのって話ですか?」

おばちゃん「そうそれよ。私が子供だった頃から、やってる事がちっとも変わりゃしない」

バイトの子「色々あるんじゃないんですかぁ?政治家になった事ありませんから、分かんないですけど」

おばちゃん「犯人探しするヒマあったら、今起きてる事をなんとかしろってのよ。犯人探しはその後でも良いのにさ」

バイトの子「そーなんですかねー」


ガラガラガラッ


バイトの子「あ、いらっしゃいませー」




貴樹「………」




バイトの子「?」


バイト(…あれ…この人、テレビで見たような…)


貴樹「まだ開店してないんですか?」

バイトの子「えッ? あっ、いえ、大丈夫ですよ。お好きな席へどうぞ」

貴樹「………」スタスタ…




バイトの子「店長…あの人って、ホラ…」ヒソヒソ…

おばちゃん「見りゃ分かるわよ。お客さんの噂話なんてしないのっ」ヒソヒソ…

バイトの子「店長もしてたくせに…」ブツブツ




貴樹「………」

765: 2014/11/09(日) 06:03:22.89 ID:52bgKv3SO

諸々の手続きも全て済み、息抜きも兼ねて、僕は島のあちこちを回っている

通っていた学校も、よく寄ったコンビニもさほど変わらず、住んでいた自宅からの通学路も変わっていない

両親も昔と同じように、あの家に住んでいると思う


でも、まだ会いに行く気は無い
この島にいる事も、仕事を辞めた事も教えていないし、連絡も取ってない

事件の日に掛かって来た留守録にも、放心状態で一言二言話しただけだ



きっと心配しているだろうし、今僕がこの島にいると知ったら、多分怒るだろう


だけどしばらくは、今の身軽さを楽しみたい





貴樹「………」






でも、まだ心の中に引っ掛かってる物がある

誰にも言わないつもりでいたけど、やっぱり、溜め込んではいられない

誰かに話して、誰かに分かってもらいたい

そんなわがままな思いが、まだ僕を身軽にしていない



貴樹「………」カチカチ…



僕は携帯電話を操作して、正明さんの携帯に電話を掛けた


766: 2014/11/09(日) 06:28:21.71 ID:52bgKv3SO
明里「………」カシャカシャ



正明「明里~」

明里「? なに?」カシャカシャ

正明「その食器、俺洗うよ」

明里「えっ?いいの?」カシャカシャ

正明「んー、休みの日ぐらいは俺がやろうかなって思ってさ。肩の方も気にな…」



ピリリリリッ ピリリリリッ



正明「………」

明里「…携帯鳴ってるよ?」

正明「タイミング悪いなーもー」スタスタ…

明里「ふふっ」カシャカシャ



正明「………」ピッ



正明「はいもしもし」

貴樹<どうも、久しぶりです>


正明「………」





正明「明里~、俺ちょっと部屋戻って仕事片付ける。急にごめんね」

明里「あ、うん、頑張ってね」カシャカシャ


正明「………」スタスタ…





 バタン


767: 2014/11/09(日) 07:02:37.23 ID:52bgKv3SO
正明「おい貴樹。お前何考えてんだ」

貴樹<すみません>

正明「すみませんじゃないだろ。 明里が退院する日に顔出さなかったのは分かるけど、だからって電話番号もメアドも変えるなんておかしいだろ?」

正明「明里も俺も、何かの間違いかと思って、何回もお前に電話掛けたんだぞ」

正明「しかも引っ越しまでしてよ……夜逃げかっつーの」

貴樹<………>



正明「………」



正明「…会いづらいのは分かるけどよ…一言くらい何か言ってから居なくなるだろ、普通」

貴樹<すみません、本当に>

正明「………」





正明「で、なんの用だ」


貴樹<明里は今、何してますか?>

正明「ちょっと待ってろ」


正明「………」ガチャッ  キイイィ…


明里「♪~」カシャカシャ




正明「………」カチャッ…

正明「台所で皿洗ってるよ。俺は自室だ」

正明「明里が仕事をしてるかって意味で聞いたんなら、今はしてない。 体調良くなったからいつかはしたいとは言ってるけどな」

貴樹<そうですか…じゃあ、この話は聞かれないんですね>

正明「ん」

貴樹<ありがとうございます>

正明「良いって」

768: 2014/11/10(月) 07:19:41.46 ID:IJDwszQSO
正明「それで何の用なんだ?」

貴樹<…そんなにはっきりした用はありません>

正明「?」

貴樹<ただ、何も言わずに居なくなる事に、負い目を感じたので>


正明「………ふーん」


貴樹<明里の怪我はどうなりましたか?…やっぱり、後遺症とかは…>

正明「後遺症は無いよ。リハビリも痛み止めもいらないらしい」

貴樹<そうですか……良かった…>

正明「それどころか…なんつーか、今でも信じられないんだが、手術の跡も無いんだ」

貴樹<手術の跡が無い?>

正明「ああ、綺麗なもんだったよ。 先生が言うには自然治癒らしい」

貴樹<……どういう事なんですか?>

正明「さあね。さっぱりだ。治療費もいらないって先生に断り入れられたし、正直俺も何が起きたのか分からないよ」

正明「まぁ…明里が元気なら、別に良いけど」


貴樹<………>



正明「あ、そうそう、明里が入院中に見た夢がすっげえ変でさー」

貴樹<夢、ですか?>

正明「うん。 なんでも夢の中で範馬勇次郎の父親と会ったらしいんだよ」

貴樹<!? なん…>

正明「あと宮本武蔵にも会ったって言ってたな>

貴樹<!??>



貴樹<………>





貴樹<…なんですかそれ?>


正明「コレについては本当に訳が分からん。俺もくらくらって来たよ」

正明「あくまで明里の話だから、本当に明里が見たのかは俺には分からないけど……本当に見たってんなら、肩の事もあるし、結構不気味だと思うんだ」

貴樹<そう、ですね……>


769: 2014/11/10(月) 11:50:06.23 ID:IJDwszQSO
正明「まぁ…うん…つくづく思うよ。 範馬勇次郎に関わるのは、もう懲り懲りだって」

正明「戦争に巻き込まれるわ、明里は怪我して重体になるわ……しかもその怪我を治したのがオカルトと来たもんだ」

正明「もうおかしい事だらけだ。 こんなのは二度とごめんだね」

貴樹<………>


正明「………」






正明「ところで、お前引っ越したらしいけど、そこ何処なんだ?」

貴樹<種子島ですね>

正明「種子島?すげえトコに行ったなぁ」フフッ

貴樹<良いところですよ。東京と違って静かですし、海も綺麗ですから>


貴樹<それに、初めての場所って訳でもありませんし>


正明「? じゃあ実家に帰ったって事か?」

貴樹<いえ、確かに両親は種子島に住んでますけど、あの二人を頼って行った訳じゃないんです>

正明「じゃあ何しに行ったんだ?つーか仲悪いのか?」

貴樹<そういう訳でもありませんよ>

正明「? いまひとつ話が読めないんだけど」

貴樹<すみません。 こういう事への説明は、あまり上手くないので……>



貴樹<何と言うか…そうですね…>



貴樹<…まぁ、心機一転……って所だと思います>



正明「………」





正明「心機一転ね……まぁ、いいんじゃないか?」

正明「俺は応援するよ」


貴樹<ありがとうございます>

770: 2014/11/12(水) 06:13:18.09 ID:ARSmwnUSO
正明「まぁ確かに、色々大変過ぎたからなぁ」

正明「俺もそのうち余裕が出来たら、明里連れて旅行にでも行くよ。 引っ越しはしないけど」

正明「はははっ」

貴樹<………>フフッ








正明「………」







正明「貴樹……お前、もう明里とは会わないつもりなんだよな?」


貴樹<…………>


正明「で、必然的に俺とも会うことは無くなる。だから電話してきた。そうだろ?」


貴樹<そうです>


正明「………」



貴樹<…明里にはこの話の事、秘密にしておいて下さい>

貴樹<僕の話題が出る時もあると思いますけれど、その時は適当に濁してあげて下さい>


正明「そんなんで良いわけないだろ」


貴樹<ええ、良いわけありません。何も言わずにいなくなるんですから>

貴樹<多分、僕の事は一生心残りになると思います。 僕もこれから先、ずっと彼女の事は忘れません>

貴樹<でも、きっと彼女は大丈夫だと思うんです>


貴樹<僕よりは、前向きな人ですから>


正明「………」



771: 2014/11/12(水) 10:43:37.85 ID:ARSmwnUSO

貴樹「………」



携帯<…確認するけど、本当にこれでいいのか?>

貴樹「ええ」

携帯<明里の気持ちも考えた上なんだよな?>

貴樹「ええ、そうです」


携帯<………だったら、良いか>


携帯<どうせもう話す機会も無いんだろうし、この電話終わったら、俺の番号消しとけよ。明里の番号もな>

貴樹「分かってます」

携帯<ははっ、分かってるか、そうだな>



携帯<良かったよ、お前と会えた事>


貴樹「ありがとうございます」


貴樹「こちらこそ、楽しかったです」


携帯<ん、それじゃあな>


貴樹「はい、ありがとうございました」



プツッ












貴樹「………」



貴樹「………」




貴樹「すみません、注文良いですか?」

バイトの子「あっ、はい只今」タタタ…



バイトの子「お待たせしました」

貴樹「オムライス一つお願いします」

バイトの子「?ッ、オムライスですかッ?」

貴樹「え?ええ、はい」

バイト「あー…はい、分かりましたオムライスですね。かしこまりました。少々お待ちください」

775: 2014/11/13(木) 00:58:46.84 ID:nyd7tPLSO
バイトの子「オムライスひとつー」

おばちゃん「はいよっ」シャリッ トントントン…




貴樹「………」





テレビ<続いてはスポーツです。どうやらこちらも異常事態が起きているようですが、現在フランスのパリに中継が繋がっております>


テレビ<関根さん?>


テレビ<おはようございますッッッ!パリのモンパルナスの丘から中継をお送りしますッッッ!!>

テレビ<あの、関…>

テレビ<見てくださいこの人ッッ!!誰もが覚えているハズですッッ!!覚えてないヤツは人間じゃないッッッ!!!>

テレビ<マウント斗羽ですッッッ!! あのマウント斗羽ですッッッ!!! マウント斗羽ですよッッッ!!! マウント斗羽ッッ!! ワカりますかッ!? マウント斗羽ッッッ!!! あのマウント斗羽が生きていたんですよッッッッ!!!>

テレビ<アハハ…>

テレビ<何がアハハだッッッ!! フザけやがってこの野郎!!! 葬式まで挙げやがってッッ!! チキショウッッ! 俺は許さんぞッッ!!!>

テレビ<せ、関根さん!?>






貴樹「………?」







ガラガラッ



花苗「おはようございまーす」


バイトの子「あ、おっはよー」

花苗「店長もおはようございます」

おばちゃん「はいおはよー。悪いけどテレビの音量下げてくれない?やかましくて耳キンキンするわ」

花苗「はい……あれ?リモコン…」

おばちゃん「あーゴメン!電池切れてたから仕舞っちゃった!あちゃー」

花苗「あちゃー…」

おばちゃん「悪いけど手でやってもらえるかい?」

花苗「分かりましたー」

バイトの子「踏み台出す?」

花苗「ううん、多分大丈夫」

776: 2014/11/13(木) 01:37:05.07 ID:nyd7tPLSO
貴樹(この人、昔父さんと一緒にテレビで見たな)

貴樹(あんまり興味無かったけど…)


テレビ<でもとにかく良かったッッ!!俺は今モーレツに感動しているッッ!!>


貴樹(画家になってたんだなぁ)


店員「あっ、すみません、前いいですか?」


貴樹「あっ、どう…」クルッ







花苗「あっ」






貴樹「!」







花苗(……えっ…なんで……?)


花苗(…なんで?…)





貴樹「……篠原…さん?」

花苗「!!!」ピクッ


貴樹「えっ」


花苗「ぃ……今、篠原って……」


貴樹「え、ええ、はい…まぁ…」


花苗「じゃあ……えっと、やっぱり……」




花苗「貴樹君…?」




貴樹「………」







貴樹「ぅ、うん……僕、だけど」


778: 2014/11/13(木) 02:35:04.04 ID:nyd7tPLSO
貴樹(この人、昔父さんと一緒にテレビで見たな)

貴樹(あんまり興味無かったけど…)


テレビ<でもとにかく良かったッッ!!俺は今モーレツに感動しているッッ!!>


貴樹(画家になってたんだなぁ)


店員「あっ、すみません、前いいですか?」


貴樹「あっ、どう…」クルッ







花苗「あっ」






貴樹「!」







花苗(……えっ…なんで……?)


花苗(…なんで?…)





貴樹「……澄田…さん?」

花苗「!!!」


貴樹「えっ」


花苗「ぃ……今、澄田って……」


貴樹「え、ええ、はい…まぁ…」


花苗「じゃあ……えっと、やっぱり……」




花苗「貴樹君…?」




貴樹「………」







貴樹「ぅ、うん……僕、だけど」


783: 2014/11/17(月) 05:49:19.73 ID:wemzE2fSO


花苗「………なん、で?」


貴樹「へっ?」


花苗「なんで、貴樹君……だって東京で…」


貴樹「あ、ああ、やる事も終わったし…帰ろうと思って…」


花苗「やる事…?」


貴樹「うん…まあ、それが終わったから、帰ろうかなって…」


花苗「あっ…うん…」





貴樹「………」



花苗「………」






貴樹「…とりあえず、座らない?」


花苗「えっ…いや、いいよ…ここ私の職場だし、休憩時間じゃないから…」

貴樹「? あっ…ごめん……っていうか、客が言うセリフでもなかったよね。ははは…」




おばちゃん「花苗ちゃーん」ツカツカ…

花苗「! あっ、はい!」クルッ

おばちゃん「お休みをくださいって言え」ズイッ

花苗「えっ?」

おばちゃん「言いなさいって、ホラ」

花苗「う……ぉ、お休みを下さい……?」

おばちゃん「はいOK」

花苗「店長、あの…」

おばちゃん「ホラ早くエプロン取りなさいよ。休みを返上してまで働くバイトなんて不健康だ」

花苗「…あの…」


おばちゃん「………」プチッ

花苗「あっ」

おばちゃん「ハイっ。エプロン取ったし、今日のあんたは客だよ」ヒラヒラ…

バイトの子「いーなー」


786: 2014/11/20(木) 11:21:23.49 ID:09mTWY4SO
おばちゃん「で、何頼むの?」

花苗「えっ、いや…」

おばちゃん「じゃあカレーライスだね。海の家だし」

花苗「店ち…」

おばちゃん「カレーライス一丁~」スタスタ…

バイトの子「はーい」




花苗「……?…」


貴樹「…なんか、気を使わせちゃってる、かな?」

花苗「うん…だと思う」




貴樹「………」



花苗「………」










787: 2014/11/22(土) 19:15:57.86 ID:9/yr58kSO










バイトの子「お待たせいたしましたー」

花苗「!」ピクッ

貴樹「!」ピクッ

バイトの子「オムライスのお客様は?」

貴樹「は…はい」

バイトの子「はいどうぞ」コトッ

バイトの子「カレーライスのお客様は?」

花苗「はい…」

バイトの子「はい」コトッ

バイトの子「それでは、ごゆっくりお召し上がり下さいませ」ペコリ

スタスタ…





貴樹「………じゃあ、食べよっか」

花苗「あっ…うん」

貴樹「………」パクッ

花苗「………」モグ…



モグ モグ



貴樹「…………なんか」

花苗「っ? なに?」

貴樹「ちょっと気まずくない、かな?」

花苗「あ…うん、ちょっとね…」

貴樹「………」




花苗「そ…そう言えばさっ」

貴樹「?」

花苗「変わったよね……その、お互いに…」

貴樹「あー…まあ、結構時間経ったし…」

花苗「………」






花苗(ああ…ダメ…)

花苗(言いたい事とか聞きたい事とかいっぱいあったのに、なんにも出てこないよ…)

788: 2014/11/23(日) 07:46:14.84 ID:fsyBal6SO
花苗(いつかまた会えた時の為にって、ずっと頭の中で繰り返してたのに…)

花苗(それが空港の事で、全部ダメになっちゃったって思ったから…もう気にしないようにしてたのに…)


花苗(なんでこんな時に限って、貴樹君が私の目の前にいるの?)


花苗(言いたい事が多過ぎて…私…何も言えないのに……)





貴樹「大丈夫?」


花苗「ッ? ぇ…」

貴樹「顔、赤いけど」

花苗「!? えっ?いや、そんな事…ないよ…」

貴樹「………」

花苗「………」



貴樹「……澄田さん、元気だった?」

花苗「! う、うんっ」

貴樹「そっか。良かった」


貴樹「…サーフィン、今もやってるの?」

花苗「たまに、かな……そんなには、やってない…」

貴樹「そっか…今もやってるんだ…」

花苗「ダメだった?」

貴樹「! いや、そんな訳ないよ」

貴樹「良い事じゃないかな…そういう事を続けられるのって…」

花苗「………」



花苗「……貴樹君は、元気…」



花苗「…じゃ、ない…よね…」

花苗「ごめん、私、何言ってるんだろ……」

貴樹「そんな別に…気にするような事じゃないよ。元気だから種子島に帰って来れたんだし」

貴樹「怪我とかも、全然してないから」

花苗「………」


貴樹「仕事は、上手くいってる?」

花苗「うん…多分、大丈夫だと思う」

花苗「結構…楽しい…」


貴樹「………」

789: 2014/11/23(日) 16:43:51.65 ID:fsyBal6SO




毎日繰り返してる事が、今日も繰り返されるだけだと思ってた


家を出て、海の家でお勘定を取ったり、注文を取ったりして
定時に帰って、母さんとお姉ちゃんと色々話したりする毎日を、今日も過ごすはずだった

そこにはオリバさんの言葉とか、私の決意とかはもう関係無くなってて、熱意みたいな物も、何処かに忘れてしまってて

ただ昔みたいに、過ぎた事を思い出して寂しくなったり、虚しくなったりするだけの私が、ずっとこの先も居続けるだけだったはずなのに…



貴樹「すみません、お勘定お願いします」

花苗「!」

バイトの子「あっ、はーい」



その毎日が、あっという間に変わった
それも、私が一番望んでいたはずの形に

でも…



バイトの子「花苗は社員だから無料ね。会社じゃないけど」

花苗「えっ、それ、ちょっと…」

バイトの子「気にしないの。 オムライス一品ですので、480円になります」

貴樹「………」チャリッ

バイトの子「500円お預かり致します」



口に出す言葉が見付からない

貴樹君にどこまで聞いていいのか分からない

何か言ってはいけないような事を、口走ってしまうかもしれない


バイトの子「20円のお釣りです」

貴樹「ご馳走様でした」

バイトの子「はい。お気を付けてお帰りくださいませー」


ガラガラッ ピシャッ



花苗「………」

バイトの子「花苗?」

花苗「…行った方が良いかな……」

バイトの子「そんなの私に聞かないでよ」

花苗「………」


794: 2014/11/25(火) 16:39:18.53 ID:BTqWzEjSO
それでも、このまま別れてしまったら、ここで貴樹君を追わなかったら、もう二度と彼と会うことも無いかもしれない

貴樹君を傷付ける事よりも、私が傷付く事よりも、それがなにより取り返しがつかなくて、怖い

 ガラッ

だから私は、友達の言葉に返事もしないで、玄関の扉を開けた


花苗「あっ」




貴樹君は玄関前で、私を待っててくれていた





貴樹「来ないの?」

花苗「! ごめんっ」タタッ

貴樹「何も謝らなくても良いじゃないか。僕が勝手に待ってただけだし」


貴樹「ごちそうさまでしたー」

バイトの子「あっ、はーい、また来て下さいねー」

おばちゃん「ぐっどらっく」

 ピシャッ





貴樹「じゃ、行こっか」

花苗「ぅ…うん…」





海の家を出て、私と貴樹君は砂浜に向かって歩き出した

私にそこへ行く理由なんて無いし、きっと貴樹君も、砂浜に用があってここに来た訳じゃないと思う

なんとなく海の家に寄ってみて
そこで私と偶然出会ったから、今度はなんとなく砂浜を歩いているだけなんだと思う

でも私には、貴樹君とここにいる事が、特別な事であるとしか思えない



お店で出会った時とは違って、今はこんなにも落ち着いている貴樹君の横顔が、私にそう思わせてる





795: 2014/11/25(火) 17:15:28.11 ID:BTqWzEjSO

靴が砂を掻く音と、波の音と、風の音だけが流れる砂浜を、私と貴樹君は歩いた

そんなに大した距離じゃない
振り返れば海の家は見えるし、足跡だって全然長くない
だけど、私の心はざわついていて、それどころじゃなかった

永遠と歩いているようにも思えたし、まだ5メートルも進んでいないようにも思えた



貴樹「ここなら、もう気まずくないよ」



貴樹君のその言葉で、私はより一層、気まずいとか気まずくないとかを意識してしまった



花苗「……気まずくないって、言われても…」


貴樹「…だよね。 昔から、役割の中で何かを説明する時でもない限り、話を振るのが下手なんだ、僕」

貴樹「こんな感じなんだ。小学生の頃から、ずーっとさ」

花苗「………」



花苗「……それ…私もおんなじ、かも」

貴樹「そうなの?」

花苗「うん。 私が勝手にそう思ってるだけかもしれないけど」

貴樹「うーん」



花苗「………」




花苗「………貴樹君って…この前テレビに出てたよね」

貴樹「この前って、空港の事?」

花苗「うん」

貴樹「あの事なら、本当に大丈夫だよ。 病院に行って先生に診てもらったけど、怪我は無いですって診断結果も出てるから」

花苗「怪我の話じゃなくて、その……」

貴樹「………」



貴樹「……言いたい事は分かるよ。 あんな状況、普通じゃ無かった」

貴樹「考え直してみると、僕がこうして生きてこの島にいるのも、奇跡みたいな物だから」

花苗「…ごめん、こんな話…」

貴樹「いや良いんだ。 もう過ぎた事だし、僕の中ではもう整理はついてるんだ」


797: 2014/11/25(火) 18:52:31.26 ID:BTqWzEjSO
貴樹「だから、遠慮なんてしなくても大丈夫だよ」


花苗「………」





遠慮しなくても良い

貴樹君はそう言うけれど、貴樹君には私の考えてる事なんて分からない
あの日、テレビに映っていた大事件を見て、私が何に動揺したのかなんて、分かる訳ない

あの雷には驚いたけど、それよりもっと心に刺さった事があって、それはオリバさんについてでも、あの範馬勇次郎についてでもない



花苗「………」ザスッ

貴樹「? どうしたの?」



脚を止めた私の方へ、貴樹君は振り返った

私はそんな彼の瞳に、目を合わせる事が出来ず、俯いていた



目を合わせて、あの事を口に出してしまうと、私の汚れた部分を貴樹君に見られてしまう
貴樹君に軽蔑されてしまう
そんな卑屈な思いで、自分自身が恥ずかしくて堪らない

だから私は何も言えず、俯いたままだった


あの日の私と同じように





貴樹「……澄田さん?」






貴樹君がまた私に話し掛ける


私は彼に顔を見られないように、彼に背中を向けた

799: 2014/11/25(火) 22:18:56.04 ID:BTqWzEjSO
空に向かって飛んで行くロケットを、二人で見上げたあの日
私は貴樹君の想いが怖くて、私の想いの行く末に怯えた

私と彼の間に大きな溝がある事に震えて、脚をすくませた



あの日の私と今の私に、違いはなんにも無い
私は何処にも、只の一歩だって進んではいなかった


花苗「!」




だけど、その悔しさと惨めさが、私にある人との会話を思い出させた

私に想いの力を示し、私にチャンスをくれたあの人との会話を



貴樹「………」



彼の言う通り、あと一歩で手が届く所に、貴樹君はいる

あと必要なのは、ほんの少しの勇気だけ

でもその勇気は、今の私にとっては無謀だった

その無謀を、勇気と思って信じても、良いことなんて起こる訳が無いと分かっていたから




花苗「………それじゃあ…」




それでも私は聞くことに決めた

勇気なんかじゃない無謀だったとしても、聞かない訳にはいかなかった



花苗「それじゃあ…聞くけど…」




無謀な事さえ出来ずに

もう蛮勇にさえ走れずに、終わりたくなかったから






花苗「貴樹君が抱き上げてた女の人って、貴樹君の……大切な人なんだよね…」





一番聞いちゃいけない事を、私はに貴樹君に聞いた


800: 2014/11/25(火) 22:26:28.39 ID:BTqWzEjSO
空に向かって飛んで行くロケットを、二人で見上げたあの日
私は貴樹君の想いが怖くて、私の想いの行く末に怯えた

私と彼の間に大きな溝がある事に震えて、脚をすくませた



あの日の私と今の私に、違いはなんにも無い
私は何処にも、只の一歩だって進んではいなかった


花苗「!」




だけど、その悔しさと惨めさが、私にある人との会話を思い出させた

私に想いの力を示し、私にチャンスをくれたあの人との会話を



貴樹「………」



彼の言う通り、あと一歩で手が届く所に、貴樹君はいる

あと必要なのは、ほんの少しの勇気だけ

でもその勇気は、今の私にとっては無謀だった

その無謀を、勇気と思って信じても、良いことなんて起こる訳が無いと分かっていたから




花苗「………それじゃあ…」




それでも私は聞くことに決めた

勇気なんかじゃない無謀だったとしても、聞かない訳にはいかなかった



花苗「それじゃあ…聞くけど…」




無謀な事さえ出来ずに

もう蛮勇にさえ走れずに、終わりたくなかったから






花苗「貴樹君が抱き上げてた女の人って、貴樹君の……大切な人なんだよね…」





一番聞いちゃいけない事を、私は貴樹君に聞いた




808: 2014/11/26(水) 07:53:24.77 ID:Y3FmS3kSO
貴樹「………」



花苗「………」






貴樹「大切な友達だよ、篠原さんは」


花苗「………」





答えが聞きたくなかった私は、貴樹君が喋り始めても俯いていたけれど、実際に答えを聞いた私は、顔を上げていた

彼の言う友達と、私が思う友達が、同じ意味合いを持っているとは限らない

私の想いに貴樹君が配慮してるだけで、本当は…



花苗「本当に…友達…?」


貴樹「………」




貴樹「今はね」


花苗「………」


貴樹「…就職とかの都合もあったけど、確かに、僕はあの人を追って東京に行った」


花苗「っ……」




私が何でこんな事を聞いてるのか、貴樹君は分かってる

やっぱり分かった上で、私に配慮してる

だから私は、貴樹君の「今はね」という言葉さえ、疑った

そんな事を考えてる自分が、ますます嫌になった



花苗「…じゃあ、空港で…一緒にいたのは、なんで…?」



私の声も、私が見てる景色も震えていて、眼の辺りも熱くなっていった

疑問だった事を言えば言うほど、自分が惨めになった


勝手に聞いて、勝手に後悔してる私に、貴樹君を付き合わせてる

それが申し訳無くて、もう何処かに消えてしまいたかった

そんな考えも、やっぱり自分勝手だった


809: 2014/11/26(水) 11:46:26.36 ID:Y3FmS3kSO
貴樹「…澄田さん…」



もうやめよう

こんな事してても、私が惨めに思えるだけ
貴樹君に、変な人って思われるだけ

こんな私が、貴樹君の側に居ていいわけ無い



花苗「ごめん…やっぱり変、だよね…」

花苗「私…やっぱり…」

貴樹「偶然だよ」


貴樹「篠原さんと空港で会ったのは、本当に予想外だった。 空港であんな事が起きた事もね」


花苗「………」


貴樹「それに、考え直してみて分かったけど、僕は彼女が好きな訳じゃなかったんだ」

花苗「っ?」

貴樹「昔友達だった人が、今は何処で何をしてるんだろうって、気になってただけなんだ」


花苗「………」





花苗「…なんで、そんな嘘つくの?」


貴樹「本当だよ」


花苗「そんな話、嘘に決まってるじゃない…!」


貴樹「………」



花苗「貴樹君…優しいから……私の事、気遣ってくれてるんでしょ…?」

花苗「私…貴樹君のそういう所、大好きだよ……」

花苗「でも、私にだって分かるんだよ?そういう嘘くらい…」

貴樹「嘘じゃない」

花苗「嘘だよ…」


 グイッ


花苗「あっ…!」



貴樹君に手を引っ張られて、私は彼の正面に向き直った

溜まっていた涙が、勢いで不意に眼からこぼれて、私の頬を伝う


貴樹「本当だよ」



引っ張った私の手を、貴樹君は両手で優しく覆った

815: 2014/11/28(金) 01:11:19.94 ID:gG5GhebSO
真剣で、真っ直ぐな彼の瞳が、私を見つめる

私はその視線に応える事が出来ず、彼の顔が見られない
伏せた眼はまだ熱く、頬はもっと熱くなった



貴樹「…………」



貴樹君は何も言わない
耳に入って来るのは、風と、波の音だけ



花苗(…私を見ないで…)

花苗(貴樹君、お願いだから…私なんか見ないで…)

花苗(私、貴方と一緒にいられるような……そんな人じゃないから…)


そう願っても、貴樹君は私の手を放してくれない
私から眼をそらしてくれない



貴樹「澄田さん」

花苗「!!っ」



名前で呼ばれた瞬間、私は眼をギュッとつぶった
肩も固く強張らせた

何もかもが終わってしまう

ただ、それだけを思った




貴樹「僕は、あんまり話が上手い方じゃ無い」


貴樹「物事を自分の中で整理するのにも時間が掛かるし、早合点する事もある」

貴樹「だから、自分が本当に伝えたい事に限って、いつも相手に上手く伝えられなかった」

貴樹「そのせいで、とても長い回り道もしてきた」



貴樹「でもその回り道のお陰で、僕はやっと、自分の心に正直になれるようになったんだ」


貴樹「だから、僕は誓って言えるよ」


花苗「………」




貴樹「嘘なんかじゃない」








818: 2014/12/06(土) 16:12:14.67 ID:oDKkTCrSO
花苗「………」


花苗「…ホントに、本当?」


貴樹「うん」


聞き返しても、貴樹君の返事に揺らぎは無い
彼の視線も、私から外れない



花苗「………私…そういう事、言われたら…簡単に信じちゃうよ…?」


言葉の終わりが、波の音に消え入りそうなくらいに小さくなる



貴樹「信じていいよ」



貴樹君は、そんな私のか細い声にも、優しく答えた



花苗「っ……!」


その答えを聞いた途端に、また涙が溢れてきた
涙の熱さで眼も開けられなくなって、鼻の奥が詰まった

彼の言葉のたった一つで…



貴樹「……なんか、泣き癖ついちゃったね」

花苗「う…うん……そう、みたい…」グシ…



擦った目元に潮風が当たって、まぶたがヒリヒリする

貴樹君の少し跳ねた口調を聞いて、彼が微笑んでいる事が分かった

819: 2014/12/06(土) 17:41:56.19 ID:oDKkTCrSO
貴樹「………ふふっ」


貴樹「嬉しかったな。澄田さんが、まだ僕を好きでいてくれたなんて」

花苗「えっ…?」



花苗「あっ! えっと、あ、あの…!!」



色々考え過ぎててすっかり忘れていたけど、気付かない内に、私は想いの全てを貴樹君に喋ってしまっていた
でもそれ以前に、貴樹君は私の想いが分かってたから、私が話そうが話すまいが、結果は同じだったんだろうけど…


花苗「ちっ、違う!違うの!あの…」

貴樹「えっ、違った?」

花苗「ちがっ……」


貴樹「………」


花苗「………」





花苗「…ち…がく、ない…」





それにしたって、もっと違う形で伝えたかった…






貴樹「ありがとう」


花苗「っ!」

貴樹「僕なんかの事、好きでいてくれて」

花苗「ぅ……」

貴樹「忘れてくれても良かったのに…澄田さんは…」


花苗「わ、忘れられる訳ないじゃない!」


花苗「だってずっと……すっ……」


花苗「……好きだったんだから」


貴樹「………」



貴樹「そうだったね」

822: 2014/12/06(土) 20:19:25.40 ID:oDKkTCrSO
貴樹「さ、どうしよっか、これから」

花苗「…どうしよっかって、何を?」

貴樹「何だろう、僕にも分からないかな」

花苗「…そうなんだ…」



貴樹「………」



花苗「………」




貴樹「とりあえず、歩かない?」


花苗「また歩くの?」

貴樹「駄目かな?」

花苗「うーん……」

貴樹「………」


花苗「……駄目じゃない、かな」


貴樹「ふふっ」







花苗「手、いい?」



貴樹「うん、いいよ」












823: 2014/12/06(土) 21:32:13.46 ID:oDKkTCrSO


彼女と手を繋いで、僕は海辺を歩いた

隣りにいる彼女と歩調を合わせて、遅くもなく、早くもない速度で



  ザザアアア…



波の音と、風の音
彼女の手の暖かさ

それだけを感じながら、どこも目指す事なく、ただ歩いた
なのに、僕は澄田とこんな時間を過ごす事が初めてだった

彼女と手を繋いで歩く
たったそれだけの事を、昔の僕はしてやれなかった

一緒に食事をする事も、本音を聞いてあげる事も、僕はしなかった


それなのに

いや、それだからこそ、僕の手を握る澄田の手が、一層暖かく感じたのかもしれない

彼女の横顔が、今まで見たこと無いくらい、晴れやかに見えたのかもしれない





貴樹「あ」


花苗「……端っこまで来ちゃったね」

貴樹「このまま行っちゃう?」

花苗「行っちゃったら、草むらに入っちゃうけど」

貴樹「じゃあ戻る?」

花苗「それもちょっと変じゃない?」フフッ

貴樹「はは…だよね」





花苗「今日は、本当にありがとう」


貴樹「うん」

花苗「色々話せて、何て言うか、スッキリ出来たから」

貴樹「………」



花苗「また、会えるよね」



貴樹「うん、また会える。 僕の方から会いに行くよ」





831: 2014/12/28(日) 22:37:17.91 ID:enhZrZySO



それから何度か、僕は澄田と会った


海の家にお客さんとして通い、その度に出迎えてくれた彼女の印象は、学生時代の彼女と変わらなかった


でも、当たり前だけど、澄田も僕も海の家の中ではあまり話さない
僕以外にもお客さんはいるし、今の僕とは違って、彼女には仕事がある
迷惑は掛けられないし、僕自身、あまり目立ちたくない

だから僕は、しばらくは澄田の仕事場には、顔を出さない事にした


その代わり、注文を取りに来た彼女が持っていた伝票に、小さいメモ用紙を挟んだ

澄田はそれに気付いたし、僕にもその紙切れを隠す気は無かった
周りのお客さんにさえバレなければ、それで十分だったのだから


キュウリの浅漬けの注文を受けた彼女は、それを厨房に伝えた後に、店の奥に引っ込む

こっちからじゃ、澄田が何をしているのかは見えなかったけれど…





花苗「お待たせしました…」





浅漬けを持ってきた彼女の桜色の頬と、少し震えた語尾が、メモ用紙を読んだ時の彼女の様子を、僕に想像させた

僕は酒無しのツマミだけを食べながら、テレビを眺めて

澄田がエプロンを外して、店から出て行くのを認めると、食事を終わらせ、海の家を出た






833: 2015/01/04(日) 03:42:38.20 ID:S8ebJVKSO



連絡先を交換してからは、僕らは海の家以外の場所で、頻繁に会うようになった







種子島は、東京みたいにそこら辺に娯楽があるような島じゃない

それに娯楽があっても、僕らはそういう積極的な遊びを好む方じゃない

澄田のサーフィンも、僕の読書も
僕らの間ではただの一人遊びで、互いに楽しみを共有出来るものじゃないからだ


だから実際に会ってもやる事は少なく、通学路だった道を一緒にサイクリングするか、喫茶店で軽食を取るか、草原で涼むかのどれか一つをするぐらいで、遊んでいるという意識は無く、遊びと言えるような事もしていなかった




でも、その目的の無い、ただ一緒にいるだけの時間が、僕らには大切だった




澄田も僕も、その事は口にはしないけれど、日に日に増えていく話題と彼女の笑顔が、何よりの証だった






835: 2015/01/05(月) 04:37:26.98 ID:RR3CEaTSO

穏やかに過ぎて行く日々



何にも追われず、何を追う事も無い、永い永い毎日が、僕の目の前に漠然と横たわっていて

その未来も、僕を駆り立てる事はせずに、ゆっくりと僕を通り抜けて、次の日には過去になる



東京にいるあの人は、今はどうしているんだろう



そんな想いも、穏やかに薄れていく




彼女を想う気持ちは、どんなに薄れても消えはしない

多分、歳を幾つ重ねても、いつまでも残り続ける




ただ、その強さも、痛みも、果てしなく薄れていって




いつかは、日常の中にある些細な習慣のように、何の感傷も抱かない物になってしまう




コップに水を注ぐように


食器を洗って、棚に戻すように


誰も気に留めず、僕も気にする事のない物になる








でも、僕にはそれが、正しい事のように思えた







それこそが多分、永遠とか、心とか、魂とかいうものが何処にあるのかへの、答えだと思うから








837: 2015/01/05(月) 11:56:17.20 ID:RR3CEaTSO
街を見下ろせる丘



花苗「ねえ、貴樹君」


貴樹「なに?」


花苗「私達、付き合ってるのかな?」


貴樹「………」


花苗「…だって、他の人から見たら、カップルに見えるし……それにホラっ、そうじゃなかったら、こんなに明るい内から二人でここにいるのも、ちょっと変かなっって…」


貴樹「まあ、確かにそうかも。デートになるのかな」


花苗「………」


貴樹「ごめん。デートって初めてだから、どこからどこまでがデートなのか分からなくて」

花苗「っ、あの、責めてるわけじゃなくて……」


貴樹「?」


花苗「……さっきのは、忘れて」


貴樹「…うん」


花苗「………」








貴樹「澄田は、僕の事好き?」


花苗「っ!?」


貴樹「どう?」


花苗「すっ…好きだよ?…とっても好き………だけど、どうしていきなり…?」


貴樹「じゃあ、今まではデートだったんじゃないかな」


貴樹「僕も、澄田さんの事が好きだから」


花苗「!!!」


貴樹「………」




花苗「……ずるいよ…いきなり……そんな事言うなんて…」


貴樹「澄田さん?」


花苗「ごめん…ごめんなさい…涙出ちゃって……ちょっと、待って…」

839: 2015/01/05(月) 15:07:15.70 ID:RR3CEaTSO
街を見下ろせる丘



花苗「ねえ、貴樹君」


貴樹「なに?」


花苗「私達、付き合ってるのかな?」


貴樹「………」


花苗「…だって、他の人から見たら、カップルに見えるし……それにホラっ、そうじゃなかったら、こんなに明るい内から二人でここにいるのも、ちょっと変かなって…」


貴樹「まあ、確かにそうかも。デートになるのかな」


花苗「………」


貴樹「ごめん。デートって初めてだから、どこからどこまでがデートなのか分からなくて」

花苗「っ、別に責めてるわけじゃなくて……」


貴樹「?」


花苗「……さっきのは、忘れて」


貴樹「…うん」


花苗「………」








貴樹「澄田は、僕の事好き?」


花苗「っ!?」


貴樹「どう?」


花苗「すっ…好きだよ?…とっても好き………だけど、どうしていきなり…?」


貴樹「じゃあ、今まではデートだったんじゃないかな」


貴樹「僕も、澄田さんの事が好きだから」


花苗「!!!」


貴樹「………」




花苗「……ずるいよ…いきなり……そんな事言うなんて…」


貴樹「澄田さん?」


花苗「ごめん…ごめんなさい…涙出ちゃって……ちょっと、待って…」

842: 2015/01/07(水) 00:04:29.30 ID:2RGrCwQSO

貴樹「大丈夫?」


花苗「うん…もう平気、大丈夫」


花苗「急に言うんだもん、びっくりしちゃった」


貴樹「………」








この数十日、僕と彼女は会話を重ね、同じ時間を歩いた

その間に、僕らの心はお互いを引き寄せて

気付けば、僕も彼女も、お互いを必要とするようになった

一人でいる時間に、寂しさを覚えるようになった



でも、彼女には無い疑問もまた、僕の中に生まれ、僕らに影を落とす

澄田と一緒の時も、一人でいる時も

家で仕事をしてる時でも、ほんの一瞬、頭にちらつく疑問がある








貴樹「…澄田さん」


花苗「なに?」


貴樹「これから海に行くのって、どう?」


花苗「……別に良いけど、どうして?」


貴樹「何となくじゃ駄目かな?」


花苗「…まぁ……嫌じゃないけど、なんか今日の貴樹君、変なの」フフッ


貴樹「そうかもね」







844: 2015/01/07(水) 01:42:55.90 ID:2RGrCwQSO


明里と出会い、寄り添い、そして離れて、僕と彼女の歩む道は別れた

思えば、それはまるで大きな何かに筋書きを書かれたかのような、あまりに出来過ぎな、辛い過去だ



その過去に自分は酔っていないなんて、今も言えるのだろうか



澄田と一緒に歩く時、彼女の靴の音に、明里の後ろ姿を重ねていない

そんな事は無いなんて、僕は澄田に胸を張って言えるのだろうか






僕がどういう答えを見つけるかは分からない


でも、答えを出さなきゃいけないと思った

845: 2015/01/07(水) 03:02:32.37 ID:2RGrCwQSO
浜辺




貴樹「はあ…結構疲れるね、ここまで歩くの」

花苗「えっ?そんなに距離無いと思うけど」

貴樹「ずっとまともな運動してこなかったからかな。 種子島に帰ってきた時も、足が棒になったよ」

花苗「…なんか、おじさんみたい」クスッ

貴樹「おじさんかぁ……体力的には、そうかも」

花苗「それ駄目だよ。ちゃんと運動しなくちゃ、体壊しちゃうよ」

貴樹「うん…」





休憩用のベンチに座って、澄田と会話をしながらも、考えた

僕の本心は何なのか
それを澄田にどう伝えるのか

そもそも伝えて良いものなのか

そう考えると同時に、ただの気の迷いであって欲しいと、願った


澄田への想いが、僕の本心である事を







貴樹「!」

花苗「………」




花苗「? 貴樹君?」






ふと、何気無く目をやった波打際に、光る粒のような物を見つけ、目を凝らしてみた

最初は波に洗われた砂が、一瞬光っただけのように見えたけれど、よく見ると違う


寄せては引く波の中、灰色の砂の中で、それはただ一つ、白い輝きを保っていた

848: 2015/01/07(水) 04:00:58.20 ID:2RGrCwQSO

 ザラッ…



光に近寄って、湿った砂ごと粒を掬い取り、僕は光る粒の正体を知った


花苗「貴樹君ー、どうかしたのー?」


砂を掻いて走る澄田の足音と、彼女の声が、僕の背中に当たる

僕は振り向いて、拾った物を彼女に見せた







花苗「それ……貝殻?」




貴樹「巻き貝だね。種類は分からないけど」


花苗「綺麗……真珠みたい」


貴樹「見たこと無いの?」


花苗「うん。 貝殻が沢山埋まってる浜辺は避けてたから、あんまり見たことない」

花苗「踏んだら怪我するし、たまに波の中から跳んできたりして、危ないから」


貴樹「…そうなんだ」





851: 2015/01/07(水) 05:00:18.17 ID:2RGrCwQSO

掌にある細長い巻き貝は白く、日の光を浴びて、滑らかに艶めいている

小さな穴の中には既に何も無く、元々こういう石があったのかのように、生き物の気配が消えている


貴樹「………」







その白く淡い輝きと、掌の中に収まる小ささが、今の僕の悩みと重なった







子供の頃、あの人も僕も、よく風邪を引いた

運動も得意では無く、内向的で、二人で本ばかり読んでいた



子供の頃の病弱さは、成長するにつれ、いつかは消える

そんな都合の良いことなんて、平等には起こらない



僕はサッカーが出来るようになり、柄にも無く弓なんて物も修得したけれど、あの人は昔と同じく儚げで、色白なのも変わらなくて

僕にとっては、変わらない守るべき人だった



決定的なあの事件で、再会した時

ボランティアで昔みたいに語らった時

僕が入院した時

あの人が入院した時も、あの人が正明さんと話している時も変わらず、僕の中に残りつづけた、彼女の存在

それら全てが思い出された時








あっけなく、本当にあっけなく


あの人の存在が、輝きをそのままに小さくなって、僕の想い出に収まってしまった気がした










852: 2015/01/07(水) 05:41:20.04 ID:2RGrCwQSO




花苗「それ、どうするの?」


貴樹「………」





貴樹「海に流すよ」







一言呟いて、僕は波打際に貝を置いた


白い貝殻は、寄せる波に何度か揺られた後、少し強めの波に飲まれて


貝殻を置いた跡の砂の凹みと共に、消えた









貴樹「ここから海の家って遠いの?」


花苗「そんなに遠くないけど」


貴樹「それなら、あそこでちょっと休もうよ。もうそろそろ昼ご飯の時間だし」


花苗「うん」






855: 2015/01/07(水) 18:55:13.15 ID:2RGrCwQSO
永遠に忘れず、いつまでも想いつづけると信じていた


でも、月日は変わらずに流れ続け

その流れに身を擦り減らされ、次第に弾力を無くしていく心に、僕が気付いてしまった時

それは有り得ない事になった



あの人への想いも、そこから来る痛みさえ

今はもう、遠くの彼方へと流れた





思い出も、後悔も、無力さも

懐かしさと、安らぎも

全てが急速に色あせていく


それでも心は痛まず、冷徹にもさせずに、僕がその変化を受け入れると


あの人との日々は、過去になって


跡には、記憶だけが残った
















856: 2015/01/07(水) 19:36:27.11 ID:2RGrCwQSO










東京


















紅葉「あァ~~~~……」



明里「……どうでしたか?…」

紅葉「な~んもワカんねッ。何回撮ってもダメだな、こりゃ」

明里「ダメ、って…」

紅葉「だってオカシくね? 肩の骨を接骨させてた固定具がホラ、どっこにも写ってないじゃん」

紅葉「これどういうコトかワカるゥ?」


明里「あ…いえ、全然」


紅葉「消えてるんですよ。つーか手術なんてしてないも同然だぜ、こんなの」

明里「…なんでこんな事になったのでしょうか…」

紅葉「分かりませんッッ」

明里「わか……」



紅葉「ま、不気味な事この上ないでしょうが、医学的には全く問題のない状態ですので、篠原さんが気にする必要はありません」

紅葉「いや、むしろここに来る前より健康になってる位です。 血圧も体温も平均値ですし、血中成分にも問題はありません」

紅葉「完治です。おめでとうございます」


明里「は、はい……」



861: 2015/01/08(木) 02:08:26.95 ID:cySSK0RSO



明里「ありがとうございました」

看護婦「はい、お大事に」








貴樹君がいなくなった日から、二ヶ月が経った




気付いてなかった時の私は、貴樹君の事情を思って、しばらくは連絡は取らないでおこうと思ってた

あんな事が起きた後で、どういう顔で会いにいけばいいかも分からなかったし、私も落ち着ける時間が欲しかった


でも、些細なきっかけが出来た日の夜に、思い切って私は電話を掛けて


見舞に来てくれてた彼に、お礼を言おうとした





でも、電話は繋がらなかった




867: 2015/01/11(日) 03:12:08.21 ID:+2PBlJRSO
彼の携帯電話の番号は、使われてなかった

メールも届かなかった


警察に相談してみる事も考えたけれど、友人と連絡が取れないからというだけの理由で、警察の方に迷惑を掛けると思うと気が引けてしまって、通報出来なかった


でも、連絡が取れなくなって二日が経った頃に、私は正明さんに相談した

私一人で解決出来る事じゃないけど、警察に捜査をお願いする程の大事件ってわけじゃない

そんな微妙な事に、私一人が判断を下しちゃいけない気がしたから…





正明「ダメだ」






そして、残酷な程に、正明さんの答えは正論だった


870: 2015/01/11(日) 05:25:50.59 ID:+2PBlJRSO
明里「………」


正明「いくら仲が良くっても、俺達は彼とは他人だろ」

正明「他人のプライベートを勝手に覗くなんて、しちゃいけないよ」



明里「そんなつもりで相談したんじゃない……もし、事件とか、事故とか…」


正明「捜して欲しいんなら、最初からそう言えば良いだろ」

明里「それじゃ…!」

正明「でも駄目だ」

明里「!」



正明「彼も俺達と同じ大人だ。連絡が取れないって事は、向こうにそれなりの理由があって、わざと連絡先を変えたんだ」

正明「そうじゃなきゃ、事故か事件かのどちらかで、連絡を取りたくても出来ないって事になる」

正明「事故の場合は……まあ、二日も経ってる時点で、俺達が心配しても何の意味も無いだろうけど…」

明里「………」

正明「事件って訳じゃ……絶対無いな」

明里「えっ?」


正明「考えてもみろ。あの戦争が起きて十日間くらいは、どこのテレビも、新聞も、ラジオも、ネットも、ずっと戦争について報じてきた。一日中ずっとだ」

正明「そして今も、テレビをつければどっかの局が特集を組んでるし、話のネタが尽きれば、必ずあの戦争の話になる」

正明「つまり、日本中が羽田空港のVTRを見てるし、そこで何が起きたのかも知ってるって事だ」

正明「そしたら当然、犯罪を犯すような奴らにも、羽田空港での事件についての知識が入る訳だ」



正明「そうなると………貴樹が次に事件に巻き込まれた時、その貴樹を事件に巻き込ませた奴は、地上最強の生物に喧嘩を売る事になる」

明里「えっ…」

正明「明里は事件当時は意識が朦朧としてたし、テレビやネットで騒がれてる事は、俺があえて見させなかったから、戦争の全容なんてほとんど知らないだろうけど…」

正明「今世間に流れてる、カメラに撮られた映像を見る限りでは、あの範馬勇次郎が身を盾にして俺達と貴樹を守り、敵に対して反撃をして、敵を壊滅に追い込んでいるように見えた」

正明「そんな社会的にも『範馬勇次郎に守られている』って思われてる人間に、犯罪者が手を出すはずが無いだろ?」

明里「…それは、そうかもしれないけど……」



正明「…それに連絡先が分からなくなった知り合いなんて、他にも沢山いるだろ」

正明「幼稚園や小学校の友達なんてもう十数年も会ってないし、顔や名前を思い出せない奴だっているはずだ」

正明「幼なじみだったから、今もお互い仲良くしてるなんて、そっちの方がむしろ珍しかったんだよ」



876: 2015/01/12(月) 03:19:37.95 ID:/AcnfotSO

彼の答えは理屈っぽくて、ちゃんと筋が通っていた

でも、その理屈はどこかチグハグで、一つの答えを成立させる為に、理屈を無理矢理寄せ集めたかのような印象を、私に感じさせた



明里「……正明さんが言いたい事は分かったわ。 多分、正明さんの考えの方が正しいんだと思う」

明里「でも、一つだけ、分からないの」

正明「何が?」


明里「…どうして、正明さんは貴樹君から離れたいの?」


正明「………」





正明「なんでそうなるのさ」

明里「だって…だってそうでしょ?でないとおかしいじゃない。 正明さんとは全然関係の無い範馬勇次郎は捜して、顔も、声も、携帯の番号も知ってる貴樹君を捜さないなんて…」

正明「…物事には優先順位って物があるんだよ。 それに、オーガについては気になったから…」

明里「貴樹君は気にならないって言うのっ?」

正明「そんな事言ってないだろ!」

明里「じゃ、じゃあ何て言いたいの!?」

正明「もう面倒は嫌だって言ってるんだ!」

明里「めっ…」



正明「………」



明里「…面倒…?」




正明「いいか明里…」

明里「面倒ってどういう事なの!?貴樹君は…」

正明「いいから聞けって!!」

明里「っ!!」



正明「いいか明里……俺はさっき、貴樹は事件には巻き込まれないって言ったよな?」

正明「確かに犯罪者は貴樹を避けるだろう。 貴樹を脅迫したり拉致したりした所で、得られる金なんて高が知れてる。 平凡なサラリーマンに身代金を要求するのと同じだ」

正明「しかもバックには地上最強の生物が控えてるんだ。 リターンに比べてリスクが馬鹿デカ過ぎる」



正明「でもな…マスコミに限っては、そうはならないんだよ」


877: 2015/01/12(月) 04:08:53.66 ID:/AcnfotSO
正明「マスコミには知る権利があるし、他人に知らせる権利ってのもある。 それは確かに良い事だし、社会には必要な事だよ」

正明「でも、その権利を乱用して他人の私生活に上がり込んでは、人の不幸を面白おかしく脚色して、社会に撒き散らすようなヤツらも大勢いるんだ」



正明「それに、俺の顔も、君の顔も、貴樹の顔もテレビに映っただろ。 普通に考えれば俺達の素性なんかとっくにマスコミにバレててもおかしくない」

正明「俺の仕事場にも、俺達のアパートにも記者が来ないのが、むしろ不気味なくらいだ」

正明「そんな状況にいる俺達がだ。 役所に行ってアイツの住所を調べたり、警察に問い合わせて捜索願いなんて出したらどうなる? マスコミの前にわざわざ出て来て『報道してみろ』って言ってるような物だろ」



明里「………」



正明「……明里……俺は君の事を大切に思ってるし、子供が出来たらその子だって守ってみせる。 嫌な仕事でも絶対やるし、頭なんていくらでも下げてやれる」


正明「でも、社会が俺達の生活を潰しに来るんだったら、俺の努力なんてゴミみたいなもんだ」


正明「最悪、イメージダウンだの会社の迷惑だのと言われ、難癖をつけられて、俺は仕事を辞めさせられる。 明里だって二度と復帰出来なくなる」


正明「最後は生活を無茶苦茶にされたまま、週刊誌のゴシップコーナーみたいな扱いを受けて、捨てられるんだよ」


明里「…………」




正明「一年……それくらい経てば、俺達の扱いも『少し運が悪かった人』程度になる…」


正明「でも…今だけはやめてくれ」


明里「………」







明里「…ごめんなさい……私、間違ってた」


正明「いや、分かってくれれば、俺もそれでいいよ……」

正明「怒鳴ってごめん」


明里「うん…」

888: 2015/01/22(木) 06:09:49.28 ID:4Wj6aIZSO

正明さんに止められてからは、私も彼も、貴樹君の行方については話さなくなった

日々の会話の中で話題に上がりそうになったら、無理に話を変えずに、お互いに黙るようになって

気が付くと、会話を交わす事それ自体の回数が、少しずつ減っていった



そしてそうなった時点で、私達二は人とも気付いていた



今の社会から感じている不自然さや不気味さを通して、貴樹君の将来と自分達の将来に、拭いきれない不安を抱いている事に



返ってこない応答を待って、お互いがお互いから隠れて、貴樹君の携帯に電話を掛け続けている事に












889: 2015/01/22(木) 06:14:08.75 ID:4Wj6aIZSO

正明さんに止められてからは、私も彼も、貴樹君の行方については話さなくなった

日々の会話の中で話題に上がりそうになったら、無理に話を変えずに、お互いに黙るようになって

気が付くと、会話を交わす事それ自体の回数が、少しずつ減っていった



そしてそうなった時点で、私達は二人とも気付いていた



私も彼も、社会から感じている不自然さや不気味さを通して、貴樹君の将来と自分達の将来に、拭いきれない不安を抱いている事に



返ってこない応答を待って、お互いがお互いから隠れて、貴樹君の携帯に電話を掛け続けていた事に












893: 2015/01/25(日) 03:13:36.79 ID:yaO9mAESO
東京

某所にて















徳川「ッホォ~~~~~……こりゃまた珍しい…」




男「………」




徳川「つまりは、退屈だ……などと申しに来ただけでは無い、と」

男「そういうコトんなります」

徳川「して、望みはなんじゃ? どういう『コト』を欲しておる?」

男「御老公にではありませんよ」

徳川「?」




男「直接会って、話を聞く……望みはそんだけです」




徳川「……ふむふむ…その一言でよォ分かったわ」

徳川「見逃したんじゃろ? 例のアレを」

男「………」フフ…

徳川「図星かい。まァ、気になるわな」

男「嫌とは言わせませんよ」

徳川「イヤなど言わんわい。 マスコミへの圧力に、オヌシの手の者も使わせてもらっとる身分のワシが、イヤなどとはのう」

男「………」



男「…にしても、ワカりやせんね」

徳川「何が?」

男「御老公ともあろう者が、オーガにならばまだしも、あの素人三人に興味を持ち、あまつさえ『囲う』などと」

徳川「………んーー…オモチャって訳では無いんじゃが…」

男「どういうおつもりで?」

徳川「………」



徳川「『ド』カタギの者には、プラスにはならねど、マイナスにもなってもらいたくない」

徳川「まァ……そんなところかなァ…」


895: 2015/01/25(日) 03:57:06.92 ID:yaO9mAESO
ガチャッ

明里「行ってきます」

部屋の奥<あ、待って、メモ帳も買って来てくんない?切らしちゃってるから

明里「うん、分かった」






生まれて落ちて、20年
己を律してるつもりは無ェ

律していると思われがちだが、そうじゃねェ

やりたいようにヤッた結果、たまたま律して見えただけ

だから、楽しむモンは楽しむ。キレりゃあ殴る。見たいモンも見る

だが、今は見るもヤルも全部味わい尽くしちまった

それこそ欠伸が出るくらいに…



ジャリッ…

明里「えっ?」









花山「…………」ズンッ









明里「…あ………」







花山「買い物ですかい」


明里「!!?……はっ、はい……買い物……ッ」

花山「ビビるこたァありません」

花山「私ら極道は、カタギにゃ手ェ出しませんので」

明里「!?…ご、く…極道……ッ?」




正明「明里ー? なんか寒いけど、ドア…」スタスタ…


正明「ッッッ!!?」


花山「………」


900: 2015/01/29(木) 04:42:54.63 ID:5f5o7GSSO
正明「……な…なん…」

花山「面倒はコッチも避けたい」

花山「だからこそ言いますが、俺は極道です」


正明「……極道……」


花山「お二方が見てきたモンには劣りますが」

花山「そちらから見れば、いわゆる『同類』………速え話が、危険人物」

花山「そいつを承知で、頼みを聞いてもらいに足を運んだ次第です」

正明「……ぃ…ぃ嫌ですよ! ほッ、ほっといて下さいッ!! 来い明里!」グイッ

明里「!っ」

花山「知ってるぜ」

正明「!」


花山「会いたいハズだ。あのタカキ坊やに」



明里「!!」



正明「………ッッッ」



正明「……まさかあんたらが、貴樹を…?」

花山「サラっちゃいねェ」

正明「………」

花山「意味がねェしな」


正明「…そんなの信用出来るわけ…」

花山「信用は関係ねェ」

花山「俺が引き返そうが、あんたらが呑もうが、俺が騙そうが騙すまいが、あんたらの知りてェ事は『遠野貴樹の行方』」

花山「大事なのソレだ」

正明「………」


花山「ソレじゃねェなら」

 ザウッ

花山「帰るぜ」





明里「……待って下さい!」

正明「ッ!? おい!」

明里「分かりました! なんでも!……しっ…………」

花山「何でもしろとは言いません」

明里「………」

花山「代わりに、聞きたい事が一つ」



906: 2015/01/30(金) 04:44:34.30 ID:JO5rkg6SO
無くなった食器洗い洗剤を、近くのコンビニに買いに行くだけのはずだった

あと、そのついでにメモ帳も




花山「…………」




顔に刻まれた大きな切創に、『彼ら』と共通するような、恐ろしい何かを秘めた瞳

そんな玄関先にいた『彼らと同じ種類の人』に、選択の余地を私と正明さんは奪われて、今、リビングを見渡すテーブルを…


花山「…そういや、身ィ明かしていませんね」 ズ ッ


この人と一緒に囲んでいる

白いスーツから覗く彼の手は、まるで割れたアスファルトのようにゴツゴツしていて、彼が自分のスーツの懐に手を伸ばせば、その動きの振動が床を伝って、私達の椅子を微かに揺らす

でも、私の隣にいる正明さんから伝わる震えは、彼の揺れより大きかった


花山「こういうモンです」スッ…



そんな正明さんの震えも、私が感じた二の腕への寒気も、彼が二枚の名刺を取り出した瞬間に止まって、代わりに正明さんの鼻から小さく息が漏れた

だけど渡された名刺を見て、さっき感じた不安より更に鋭い物を、私と正明さんは同時に感じた




明里「………」




明里「…花山組…の……」

花山「ハイ」

明里「『花山』組の……花っ…」



明里「………」










明里「……組長さん、なんですね…」

花山「ハイ」



花山さんがそう答えると、正明さんはうなだれるようにして、右手で自分の顔を隠した

907: 2015/01/30(金) 05:40:13.13 ID:JO5rkg6SO
花山「怖いのは分かりますが、コイツは誤解って物です」

花山「お二人が想像するようなオオゴトじゃありません」

正明「……保障はあるんですか…」

花山「ありません」



正明「………」



正明「……分かりました……」



花山「では……」ぬうっ…

明里「!?」

正明「! ちょっ…」

ゴトッ


花山「このままってのも、口が回らんでしょう」

花山「やって下さい」




テーブルの上に置かれた布袋の中には、いつも正明さんが飲むような市販の缶ビールの他に、びっくりするぐらい値段の高そうな焼酎一升と、二つのおちょこが入っていて…

正明「あ…ああぁ……」

花山さんは缶ビールを取って、開けた

正明「あっ……!」

そしてそのビールを一口飲むと、おちょこに焼酎を注いで、私達に配った



花山「事件当時に、何があったか知りてェ」


花山「詳しく聞かせてくれ」





花山さんの言葉にはもちろん困惑したけれど、それ以上に、私と正明さんは焼酎とおちょこの扱いに困り、固まってしまった

断れば、何か恐ろしい事をされそうな気がするし
飲めば、何か恐ろしい所に連れていかれそうな気がする

私はどっちも選んじゃいけないと思った
そして、多分正明さんも、同じ事を考えたんだと思う

正明「そう、ですね………私からの視点でよろしければ…」




正明さんは、花山さんに事件について知りうる全ての事と、体験した全ての現象を話した




909: 2015/02/06(金) 05:45:19.62 ID:afEltrkSO
正明さんが話し終わるまでの15分くらいの間、花山さんも、私も、口を挟む事も質問する事も無かった

でも、私の場合は質問をしなかった訳じゃなくて、出来なかった

彼の話は簡潔で、明瞭で、回りくどい例えや比喩も無く、大事な部分が省略されてもいない
ただその話の中身があまりに荒唐無稽で、どこから疑問を投げ掛ければいいのかすら分からなかった

それに、彼の話した事以上に正体が分からない体験を、私自身が経験していたから、口を挟む立場に私はいないとも思っていた



フワッ



話の終わりから数秒か経って、開いた窓から風が入った

肌や髪には感じるけれど、カーテンはなびかせない位の、小さな空気の揺れみたいな風

それが日光が射す窓から吹いて来た



明里「!?」

正明「!?」



でも、窓は開いてなかった

特に暑くも寒くもないから、エアコンだってついてない

それなのに私達の髪は揺れ、日光に照らされた僅かな塵やホコリが、こちらに集まって来る

しかも、集まって来た風は何処かに抜けていく事も無く、私達の周りに溜まり、漂いはじめた

そこまで確認した所で、私達は気付いた




花山「ハハ……」




空気の揺れが、花山さんを中心にして集まっている事に








花山「欠伸が止まった」


正明「…あ…あくび?」

花山「ええ」

明里「…?…」

花山「まァ、流石ってコトです」

正明「流石って……あの、何が? オーガの事ですかッ?」


カ キ ュ ッ !



正明さんが花山さんの言葉を聞き返すと、花山さんが握っていた缶ビールは消えて、私達は固まった


花山「フフフ……」コロコロ…


そんな私達の目の前で、銀色の刺々しいパチOコ玉を指で転がしながら、花山さんは機嫌よさ気に微笑んでいた

913: 2015/02/07(土) 01:26:34.96 ID:9k92/k+SO

花山「イイ話、聞かせてもらいました」


正明「…私にはあまり良い話とは…」

花山「………」



花山「そりゃそうだ」スッ



正明「!ッッ」


パサッ









花山「この紙に、お二方が捜している坊やの所在が書いてあります」


明里「!」


花山「ささやかな御礼とでも思って下さい」


花山「じゃあ、私はここで」ガタッ

正明「えっ……もう帰るんですか?」

花山「居て欲しいなら、いくらでも」

正明「あっ…いや、すみません…」

花山「フッ」



914: 2015/02/07(土) 02:48:04.49 ID:9k92/k+SO


 ガチャッ


花山「御三方には手ェ出させねェって事で、同業にはハナシ通しておきましたんで」


正明「………」


花山「それじゃ」ザッ



用を済ませた花山さんは、開けたドアの外で二言そう話すと、マンションの廊下を歩いていった

重そうな靴の音も、白くて大きな背中も遠ざかっていく

ただ、ほんの十数分で体験した驚きが多過ぎて、私達はそれを飲み込めずにいたから、もどかしさと不安を抱えながら彼を見つめていた

正明「話を通したって!」

そして、正明さんはその思いを抱えきれず、堪らない様子で花山さんを呼び止めた



花山「………」ピタッ


正明「話を通したって……何処の誰にですかッ?」

正明「それでも私達に害が及んだら、どうするんですかッ?」



花山「空港で人氏にが出てる以上、アンタらはオーガの囲われ者と裏では認知されてる」

花山「偶然そう見えてるだけのハナシですが」

花山「………」


花山「まあ、いずれにしろアンタらはカタギ」

花山「私らヤクザ者の領分には居ねェ」

花山「領分違いをするバカは何処にでも居るだろうが」

花山「ソイツは頃す」



頃す、という言葉が聞こえた時、正明さんの肩が揺れた
私も、花山さんから目が離せなくなった

人を頃すという、今なら何処からでも見つけられるかもしれない中身の無い言葉に、本来の恐ろしさが戻った瞬間

私は夢の中で見た綺麗な川に、身の毛を逆立てて震えた


花山「まだ怖いんですか」


私達の今の様子なんて、本来は感じ取りようも無いはずの彼は、振り返る事もせず私達に語りかけた後


花山「これでも俺、アンタらより年下ですぜ」


二の句に最も衝撃的な一言を私達に送って、廊下の端にある階段を降りていった


916: 2015/02/19(木) 15:01:39.49 ID:U64waAUSO


花山さんがいなくなり、私達の周りは、見掛けだけいつもの日常に戻った

おちょこに注いだお酒を飲み干した彼は、酒瓶も、握り潰した空き缶のカケラも残さなかった



明里「………どうしよう、これ」


正明「………」




正明「…とりあえず仕舞っとくよ」





ただ一つ、彼が残した物

貴樹君の行方が書き記されたA4サイズの紙をどうするかの前に、私達は、私達が置かれた状況や、私達の心の動揺を整理しなければいけなかった



明里「………」



テーブルの上にある紙が、私達を危険な世界に引き込まない

簡単にそう思えた昔の私からは、もう随分、遠ざかってしまったような気がする







917: 2015/02/20(金) 03:36:33.10 ID:JexEmElSO


あの紙をしまい込んでから、また何日か経った頃

その日は休日だった


正明「明里~、その食器俺が洗うよ」


使い終わった食器を洗い始めたあたりで、正明さんが私に声を掛けた

治ったばかりの私の肩を気遣う、彼の親切が嬉しかった

でも、正明さんの携帯が鳴って彼がコールに応えると、彼の和やかな雰囲気が、なんだか張り詰めたような気がした

それでも、彼の声は平静を装っていたけれど




正明「部屋戻って仕事片付ける。急にごめんね」

明里「あ、うん。がんばってね」



私が返事をすると、ドアを閉める音がした

私は、本当はしてはいけない事だって分かっていたのに、蛇口を捻って水音を小さくした



正明さんの部屋のドアから、彼の話し声が微かに聞こえる



途切れ途切れに漏れる話の内容で、彼の話し相手が誰なのかは、想像出来た

でも私は、その想像を正明さんに悟られたくなくて、昔聞いた覚えのある曲を、鼻歌で努めて明るく歌った

毎日の中での少しの変化が、何処か危険な場所への入口になるかもしれない

その事への怖じけと、正明さんと貴樹君への罪悪感のような気持ちが混じって、歌のメロディーはあやふやになった


明里「♪~……」





結局、その日は誰と話していたのか、正明さんには聞けなかった

918: 2015/02/20(金) 13:32:59.49 ID:JexEmElSO
お互いに気にしないふりをしても

日常の中で忘れていく物と思っていても

ふっと消えてしまった人への想いは、いつも私のすぐ側にあった

朝のシャワーを浴びていても

お昼ご飯を作っていても

必ず私の側にあって、私を責める事も、私を慰める事もしなかった


ただ時間が過ぎていく中で、確実にそれは小さく弱くなっていった



でもそれが小さくなる度に、大切な物が失われていくような、説明出来ない焦燥感が積もっていく

小さく弱くなっているのに、そう感じる度に、胸の奥が痛む



誰にも打ち明けられない日々が長く続いて、はけ口も無く、例え様も無い想いの辛さに、日々の気持ちが沈み始めた頃

正明さんが出社している間、偶然出来た暇な時間に、私はテレビのリモコンを取った

そして電源が付いたテレビから流れる番組を、ほんの数分間だけ眺めた





明里「………」







テレビ画面に映った討論番組は、羽田空港での事件を論点にしていた

話の中身に当時の熱のような物は無く、聞こえる口調は荒っぽく、白熱しているように聞こえたけれど、冷たささえ感じる程に事務的に、誰が一番悪かったのかだけを追求していた

そこでは、誰が被害に遭って

どういう人達が命を落として…なんて

一言も触れられず、ただ悪者捜しだけをしていた



きっとそういう番組で、そういうコーナーだから、当然なのかもしれないけれど

討論の中身が、私の体験した事件と同じ事件について話しているのに、全く別の事について議論をしているようにしか見えなかった

919: 2015/02/20(金) 22:09:32.12 ID:JexEmElSO
話の中には、貴樹君も、正明さんも、私もいない

事件の中心にいた『彼ら』の名前も、範馬勇次郎を除いて出てこない

誰々が悪い。誰それが悪い
ただそれだけを延々話し続けている


私達の顔写真とか、事件の映像とかが出ないのは、多分花山さんのような人達が、私達が見てはいけない場所で、恐ろしい事をしているからで

テレビ番組での事件と、私が知ってる事件とで、事件の印象が全く違って見えるのは、私達だけが事の真相の一部を知ってしまっているからだって、分かっていた

だから、事件の全ての真相が公にされる事もないし、私と正明さんはこの先も平穏に暮らしていける

世界の何処かで起き続けてる、途方も無い物事から目を背けながら




明里「………」カチッ

 プツッ



テレビの電源を切って、次に何をしようかと考えていると



 カタン



近くで何かが落ちた音が聞こえて、私は玄関を見に行った

玄関扉の投函口の下には、巻かれた新聞がいつものように落ちている

その新聞の一面には、やっぱり空港での事件についての記事が、大きく載せられていた


『勇次郎氏襲撃事件、意外な展開』
『米副大統領の秘書を書類送検』



新聞を手に取り、リビングに戻った後、私は記事をめくっていった

一面以外はいつも通り別の記事が書かれていたけれど、コラム欄や読者コーナーには、思った通り、空港での事件をネタにした文が投稿されていた


ただ、それを読む気にはなれず、私は新聞を畳んでテーブルに置いた

920: 2015/02/21(土) 12:36:08.44 ID:oFspzseSO
あの事件がなんで起きて、誰が起こして、誰が犠牲になったのか

そんな事はどうでも良くて、本当は誰もが、あの事件を利用してるだけなのかもしれない

お金になるから、知識をひけらかしたいから

自分の立場を良くしたいから

誰かを責めていたいから



本当は、私達の事なんてどうでもいいのかもしれない

誰が巻き込まれて犠牲になって、誰が悪人扱いされてだとか、そういう真実を確かめる必要はなくて

事件の真相さえも、本当は大切なんかじゃないんだとしたら


私達から周りの騒ぎに口を出さない限り、みんなは事件が風化するまで、ただ回り続けて

私達をおいてきぼりにしたまま、勝手に忘れていくのなら



私達が周りを気にする必要なんて、始めから無かったような気がする










922: 2015/02/21(土) 21:01:37.85 ID:oFspzseSO




正明「ただいま~」

明里「おかえりなさい」



その日の夜、食事が出来た丁度に、正明さんが仕事から帰ってきた

彼は上着を脱いでネクタイを外して、洗濯機のある奥の部屋に行った



<は~疲れた。今日の御飯なに?

明里「トマトサラダと味噌汁と、あと豆腐と、鮭のムニエル」

<鮭のムニエル? い~ね~、食べよう食べよう



奥の部屋から出てきた、ズボンにYシャツ姿の正明さんはそう言うと、いそいそと席に着いた

洗い終わったまな板を仕舞って、私も椅子に座った




924: 2015/03/07(土) 15:55:35.02 ID:CABApxeSO

正明「………」モグモグ

明里「………」モグ…



正明「何かあった?」

明里「えっ?」

正明「全然食べてないからさ」

明里「…そう見える?」

正明「んー……まぁ何も無いなら別にいいけど」モグモグ

明里「………」




明里「正明さん」

正明「なに?」

明里「相談したい事があるの」

明里「貴樹君について」



正明「………」





正明「そうだな。話さずに済まそうなんて、出来ないよな」

正明「じゃあ改めて言うけど、俺は行かない方がいいと思う」

明里「………」

正明「アイツはもう、俺達が関われる範囲にはいないんだ。 それに俺は今の暮らしを…」

明里「分かってる。 壊したくない、でしょ?」



正明「………ああ、壊したくない」



正明「分かってるなら、もう答えは出てるだろ」



明里「……ええ、そうね」



明里「私、貴樹君に会いに行く」

正明「!? なんでそうなるんだッ? 俺は…」

明里「どうでもいいのよ」

正明「!」


明里「騒ぎたい人は騒がせておけばいい。 私達の事がそんなにおかしいなら、笑わせておけばいいのよ」

明里「どんなに騒いだって、笑ったって、違う何かが起きればあっという間に忘れていく人達なんて、どうでもいい」

明里「下らないのよ」


927: 2015/03/15(日) 03:45:44.13 ID:f6pm+EESO
明里「それに正明さんが言うほど、私達に関心が集まってる訳でも無いと思うの」

明里「今までで一度でも、私達の家にマスコミが来た事がある? 会社には?」


正明「……来てない」


明里「そうでしょ? 私達なんてあの人達にとってはそんな物でしかないのよ」

明里「花山さんが怖いから、範馬勇次郎が怖いから、私達を避けて、自分達が果たすべき仕事まで投げ出してる」

明里「そういう人達を気にしてたら……いつまでも、何も出来ないままよ」



正明「………」



正明「…変わったな、明里」

正明「昔の明里ならそんな事、絶対に言わなかったのに」


正明「…そうまでして何で貴樹に会いたいんだ?」



明里「………」




明里「嫌なの…こんな終わり方…」

明里「さよならも言わずに、二度も彼を置いてきぼりにして……私だけ次に行っちゃうなんて、したくないの」

明里「もう二度と、彼を傷つけたくないの」

明里「だから…」



正明「……それ、本当に貴樹の為なのか?」

正明「明里の為なんじゃないのか?」


明里「………」


正明「………」





正明「俺、もう寝るよ。 今日は疲れた」


928: 2015/03/15(日) 05:30:32.87 ID:f6pm+EESO



それっきり、正明さんと私はお互いがベッドに入っても、口を利かなかった


仰向けで眠る彼に背を向けて、彼の静かな寝息を聞きながら、正明さんとの最後の会話を、繰り返し、繰り返し、私は思い返す


彼の言葉を聞いて、その通りだと思った

言い返す気が起こらなかった


彼の言う通り、私は貴樹君の為だけに、正明さんを説得しようとしたんじゃない

自分の事を考えずに、純粋に人の為だけを思って動ける程、強くもないし、良い人にもなれない

でも、今でも頭から離れない景色には、いつも貴樹君がいる

彼がいなくなってから、頭の中は彼の事ばかりが…








931: 2015/03/15(日) 12:18:38.81 ID:f6pm+EESO













ピピピピッ ピピピピッ ピピピピッ


正明「ん~……」むくっ


 カチッ


正明「はあ~……」




正明「………」




正明「ん?」

正明「あれ?明里?」


正明(トイレか?)

正明(まあいっか。 準備準備…)



932: 2015/03/15(日) 12:24:37.39 ID:f6pm+EESO
正明「………」シャカシャカシャカ…

がらがらがらっ……ぺっ

正明「ふー、スッキリした」

正明「………」



正明「明里ー? 俺のネクタイ知らなーい?」

正明(もう絞めてるけど)




正明「………」




正明「明里ー?」スタスタ…


933: 2015/03/15(日) 12:42:02.50 ID:f6pm+EESO
ガラガラッ

正明(ベランダ無し)



コンコン

正明「明里ー?」

正明「………開けるぞー」ガラガラ

正明「………」

正明(風呂場も無し)



ガチャッ

正明(やべっ、ノックしてねえや)バタン

正明「明里ー?」

正明「開けるぞー」

正明「開けるからなー」ガチャッ



正明「………」




正明(トイレにもいない)

正明(買い物?起きてすぐに?)

正明(かといって、朝から井戸端会議なんてするタイプでもないし…)

正明(まさか寝室…)


スタスタスタ







ガチャッ


正明「………」


正明「なるほどねー」

正明「まあ…仕方ねえよなー」




934: 2015/03/15(日) 13:24:30.46 ID:f6pm+EESO



正明さんへ

勝手にいなくなってごめんなさい
やっぱり彼と会って話さないといけない気がしたので、今日の飛行機の当日券を買って、種子島に行きます

体調も回復し、今週の月曜開けには会社にも復帰できるので、お金は働いて返します








正明「………」フー…


正明「あっ、いつ帰ってくるか書き忘れてる。 あはは」



正明「………」




正明(まぁ……悔いのないようにな)




正明「!」

正明「やばっ、シャワー浴びてないじゃん俺」

正明「あーでもスーツに着替えちゃったし、どーすっかなー」

正明「あー…どうしよ…」



936: 2015/04/03(金) 06:34:33.56 ID:zQZseSdSO












正明さんとの話し合いに結果を出さないまま、私はアパートを出てしまった


そしてその足で、そのまま銀行に向かった


旅行計画なんて立てずに、ほとんど衝動的に決めた予定だから、予約席なんて当然買ってない

だから飛行機の当日券を買うのに足りるだけのお金を、正明さんと一緒に使っている口座から引き出した



明里「………っ」ゴソッ…



何か向こうで問題が起きても、帰ってこれるだけのお金

普段は絶対に持ち歩かない、25万円というお札の束に気後れしつつも、そのお金をバッグに仕舞う頃には、むしろ決意みたいな思いが私の浮ついた気持ちを固めてくれた


断りも無く飛び出して、空港に予約を入れて出発日を待つこともしないで、お金を降ろして、当日券まで買おうとしている

そんな自分自身の行いに、自覚を持たせてくれた



もう後に引いちゃいけない


本当はそんな訳無いのに、そうとしか思えなかった

937: 2015/04/08(水) 05:31:14.95 ID:NOhpfINSO

キャビンアテンダント「本機はまもなく離陸致します。なお、ブザーが鳴るまでは…」



空港の受付で手続きを終えた時、私の後ろに並んでいた誰かから、あの事件の話が聞こえた

貴重品をカゴに入れて、検査をパスする時、係員さんは驚いた顔で私からカゴを受け取った

大広間の椅子に座っている時も

搭乗口前の機械に用紙を通す時も

小さな声で、伏せようとしてもつい大きくしてしまう声で、色んな人達が話していた


飛行機の窓側にあるエコノミー席に座った時、隣の優しそうな年配の女性から話し掛けられた

怪我はもう大丈夫なの?とか、大変な事になった時は気を強く持たなきゃ駄目よ、とか、心配そうに聞いてくるその人を傷付けないように話を収めるのが大変だった



CA「それではごゆっくり空の旅をお楽しみ下さい」




でも、CAさんが連絡事項を言い終えて、飛行機の羽についてる金属板が、パタパタと2~3回動いた頃には、事件の話は誰からも聞かれなくなった


年配の女性は、隣にいる年配の男性と楽しげに話し込んでいる

夫婦での旅行なのだろうか、二人は旅行先の種子島に想いを馳せていたみたいだった






明里(正明さんにはああ言ったけど)


明里(やっぱり私も、だいぶ気にしてる…)










940: 2015/04/10(金) 13:55:47.11 ID:Mr3/6CySO
種子島空港に着いた頃には、空は少しだけオレンジ色に染まっていた





明里(…本当に来ちゃった…)



遥か遠くにある場所へ行くんだと、道中は気を引き締めっぱなしだったのに、ほんの数時間で呆気なく着いてしまった

飛行機の中で時間が過ぎるのを待つ以外に、やる事も出来る事も無いのだから、当たり前の話だけど

ともかく、何の驚きも感じない私自身に、私は正明さんの言った言葉を重ねた



 カサッ




肩から下げた鞄には、入れた時と変わらずにあの紙が入っている


明里(いきなりだから、多分びっくりするんだろうな、貴樹君)


口元が緩むのを感じながら、私はその紙を鞄から取り出して、その紙の印す場所を目指して歩き始めた

941: 2015/04/10(金) 14:41:18.84 ID:Mr3/6CySO
明里「………」



種子島に来たって実感は空港の中にいると沸かなかったけれど、一歩外に出た瞬間に私は「ああ、やっぱり東京とは違うんだ」と実感した


高いビルと電線に押し潰されそうになっていた空が、とても広々としていて明るい

風に変な臭いが乗ってくる事もない



明里「あっ」



歩き出す前に、大事な事に気付いた

地図を持ってない

旅行慣れしていないからだろうけど、目的の場所が何処にあるかを知っているだけで、私はそこに辿り着けるんだって、いつの間にか思い込んでしまっていた

目印も道筋もちゃんと必要なのに



明里「…もぅ…」



取り返しのつかない事が起きる前に気付けた安堵と、こんな些細な事すら頭から飛んでいたのに、冷静な気でいた自分が恥ずかしくて、ため息をつく

なんだかんだ考えても、どうしようもなく、私は浮足立っていた




943: 2015/04/11(土) 10:42:53.29 ID:sMuO+hZSO
タクシー運転手「あっ、こんにちは~」

明里「こんにちは~」



空港で買った地図を便りに、タクシーとバスが停まる停車駅に行くと、そこでタクシーを拾った


停車駅は空港と目と鼻の先にあり、本当のところ地図を見る必要は無かったけど、それでも無駄な買い物なんかじゃない

貴樹君と話した後に自宅までとんぼ返りする訳にはいかないから、泊まれる所が必要だし、移動手段を全てタクシーに頼るのもお金が掛かり過ぎる

お金を使い切る事は無いけど、今持っているお金は私のじゃない

出来るだけ節約しないといけない



運転手「お嬢さん……」

明里「はい?」

運転手「あ、すみません。 いやどっかでお客さん見た気がするな~って思いましてね」

運転手「まあ多分、見間違いだと思うんですけどね」

明里「…見間違いじゃないと思いますよ?」

運転手「えっ?…あっ…いやいや失礼。今のはちょっと…」

明里「構いませんよ。もう過ぎた事ですから」

運転手「いや~…すみません、ハハ…」



明里「運転手さん、この住所までお願いします」


運転手「あっ、ハイ。え~っと…分かりました」

運転手「シートベルトの方は大丈夫ですか?」

明里「大丈夫です」

運転手「あっ、それじゃ発車しますんで」ガチッ

明里「はい」




 ブロロロロ…






944: 2015/04/13(月) 13:38:52.44 ID:kkq/5zxSO

タクシーの中では、車の走る音以外の音は無い

親しげに話し掛けて来たタクシーの運転手さんは、私に気を遣っているらしく、もう何も話さない

それが申し訳無く思えたけれど、目的の場所に近付くにつれてその引け目は消えていき、代わりに別の、整理されてないごちゃごちゃした思いが沸きだしてきた





お金を勝手に持ち出して、後でどうやって埋め合わせをすれば…


万が一、別居も有り得るかも…


…ううん、そんな事考えちゃいけない。そんな風に考えてる事そのものが、正明さんを疑う事になる。

ここまでわがままな事してるのに、そんなのズルい

正明さんと向き合ってない





貴樹君と会ったら…もしも会えたら、何を話せばいいの?

調子はどうとか、そんな…

だからっていきなり…「私達はこれっきり」…なんて…



…言えない…



例え、そういう決心で種子島に来てるとしても…





945: 2015/04/13(月) 14:12:37.84 ID:kkq/5zxSO
運転手「はい、お疲れ様でした」

明里「!!」

運転手「………お客さん?」


明里「あの…もう着いたんですか…?」

運転手「? ええハイ。着きましたよ?」

明里「…えっと…じゃあ、あの、お会計、お願いします」

運転手「1720円です」

明里「…これで…」

運転手「2000円ですね。じゃあお釣りです。280円ですね」チャリッ

明里「はい……あっ、ありがとうございました」ガチャッ


運転手「あっ、はい、お気をつけていってらっしゃいませ」


  バタン   ブロロロロ…








明里「………」








走り去ったタクシーが見えなくなって、車の走る音が聞こえなくなった時、私の周りには誰もいなかった

そこにあるのは、団地と、団地の中に立つ私と、それらを照らす夕日だけだった



明里(来ちゃった……)



タクシーの中で湧いた焦りは、貴樹君が居るはずのアパートに身体を向けた時、更に勢いづいて沸々とし始めた

言う事も、聞かれるかもしれない事も、何も思い付かない

考えを纏める時間の余裕はあるはずなのに、こういう時に何故か
『階段を上って彼の部屋に着く頃には、何か思い付いているかもしれない』
という根拠の無い期待感を覚えてしまっていた

実際には、そんな事ないのに




明里「………」




そしてやっぱり、何も思いつかないまま

私は震える指で


  ピーン…  ポーン


確かめるように、呼び鈴ボタンを押した

946: 2015/04/14(火) 21:59:45.01 ID:B0GZzK9SO
明里「………」



  ピーンポーン



明里「………」



明里(居ないの?)





明里「………」ピーンポーン











「ちょっとちょっと、お姉さん、ちょっと」ヒソヒソ



明里「っ、はいっ!」クルッ


おばさん「そこね、るーす」ヒソヒソ

明里「…留守?」

おばさん「そうそう、留守よ留守」ヒソヒソ

おばさん「最近このアパートに越してきた人なんだけどね、ちょくちょく部屋を開けるのよ。若い子なんだけど、それがなかなかのイケメンでね」ヒソヒソ

おばさん「……あらっ、私ったらごめんなさいね。それじゃ、あの、お元気で」スタスタ…


明里「あっ…い、いえ」














貴樹君は留守だった





拍子抜けと言ったらアレだけど、正直の所、ホッとした








948: 2015/04/24(金) 01:58:36.25 ID:vylKiHoSO
夜の民宿



テレビ<続いてのお題に行きましょうっ、こちらっ!>

テレビ<ペリッ おおおお~>


明里「………」カチッ


テレビ<…の打ったボールが二塁間を的確に狙い撃ち…>


明里「………」カチッ


テレビ<…クイズ!試験に出…>


 プツン





明里(…うん、どこもやってない)

明里(やっぱり考え過ぎだったんだよね)


明里(………)



明里(なんでテレビ点けて、番組まで捜しちゃってるんだろう)

明里(気にする事無いって、私から言ったのに)

明里(飛行機の中でもなんとも無かったのに、なんで……)




種子島に来るまでは形を潜めていたのに、ここに来ていくつもの雑多な想いが沸き上がる

それは時間が経ち、布団を敷いて電気を消した後も、今日見た景色の中に漂っていた



明里(私は何を望んでいるんだろう。 彼に何を伝えたいんだろう…)

明里(ここに来るまで……貴樹君の居るはずだった部屋の前に来るまでは、分かってたはずなのに、忘れてしまって…)

明里(それなのに、貴樹君が居なかった事に、安心して…)

明里(このままじゃ、またあの時みたいに、彼に何も言えないまま、終わってしまいそう…)



明里(そんなの、もう駄目なのに…)




949: 2015/04/27(月) 21:11:49.80 ID:JyqrAFaSO
朝の種子島空港



ズチャッ



「おい、アレ…」 ザワザワ  「あッッッ」

  「警察…」 「馬鹿ッ!関わるな…ッ」
ザワザワ



ズチャッ



「嘘…」 「うあ…ッ」 「なんでこんなトコに…?」




勇次郎「………」

オリバ「………」




ザワザワ… ガヤガヤ…





オリバ「ハハ、熱烈歓迎だ」


勇次郎「そうは見えねェな」

オリバ「そんなにリキむな。あの件に関しての我々の正当性は、既に証明済みだ」

勇次郎「そうじゃねェ」

オリバ「エッ?」


勇次郎「ヤキが回ってるぜ、俺もオマエも」


オリバ「………」


オリバ「……そうかもネ」

勇次郎「つくづくガラじゃねェだろうに…」クスクス…

オリバ「ああ、ガラじゃないな」フフ…



954: 2015/04/28(火) 22:07:41.77 ID:VHMO7++SO
チュン チュン   チチチチ…




明里「………」




窓からの日差しが眩しい

朝になったのに、重たい瞼には力が入らず、布団からは上体を起こしたまま動けない

窓の外で鳴いている小鳥を「かわいい」と思った後から、思考が働かないままだ

そして、この重い身体の由来は何処にあるのか、私は分かっていた


明日の今頃、私は飛行機の中にいるのだから


彼に「伝えたいこと」は、今日にしか伝えられないのだから







955: 2015/04/28(火) 22:43:53.20 ID:VHMO7++SO
花山さんが私達にくれた紙には、彼の住所の他に、彼の連絡先や今の仕事の業種まで書いてある

彼は今フリーのプログラマーをしていて、彼の携帯の電話番号も、私は知ってる

でも、電話なんかでは絶対に終わらせたくない

会って話さない限り、私も、貴樹君も、新しい何かをいつまでも掴めない


だから私達は、この島の何処かで出会わなきゃいけない


それが偶然でも、偶然でなくても




「いやー知りませんねー」

明里「あの、本当に何でもいいんです。彼について何か知ってる事とか…」

「いえ、申し訳無いですが、私はあんまり」

明里「…そうですか、分かりました。 すみません、ご迷惑お掛けして…」





「遠野貴樹さん?」

明里「はい、このアパートに最近越してきた人なんですけれど…あの、彼について何か知らないでしょうか…」

「んー…あんまり顔合わせた事無いですからね…」




「遠野貴樹?………うーん」

明里「………」

「…いや、知らないなぁ…」

明里「そう、ですか…」



「遠野さん? あーあのさっぱりした人?」

明里「! はい、多分…」

「そうねー、私の知り合いで向こうの海辺で見たって言ってた人いるわ。ここらじゃ見ない顔だから観光客かなって言ってた」

明里「!!」

「でも観光で来た人が、ここで部屋を取る訳ないのよね。それにここに来てもう何ヶ月か経ったし」

明里「あのっ、海辺って何処の海辺ですか?」

「何処って、向こうよホラ、分かります? シーズンになったらサーファーが集まるとこ」

956: 2015/04/28(火) 23:13:46.12 ID:VHMO7++SO

彼の住むアパートで聞き込みをして回り、私は偶然、彼への手掛かりを聞いた

しかも、その人は私の持ってる地図にまで指差しをしてくれた



明里「あ、ありがとうございますっ、なんてお礼を言ったらいいか…」

おばさん「え? はぁ…まあ…はい」

明里「あっ、あの、ありがとうございます!」ペコペコ

おばさん「……?」



お礼を言うのもそこそこにして、私は地図にペンで印を付け、その場所に向かった

距離はそこそこあるけれど、徒歩で行けない程の距離ではなく、私はタクシーは使わずに歩く事にした

私の歩みは、逸る心をますます逸らせ、逸る心は私の歩調を乱した

そして、焦りの根幹にあるものへの意識もまた、その場所に近付くにつれて増していった


彼との再会にだけ、胸を高鳴らせてる訳じゃ無い

その高鳴りは、決して心地良いだけの高鳴りじゃ無い

私の迷いも、彼に会う事への怖じけも、どんどん、どんどん、増していく



でも歩みは止めない

引き返すなんてしたくない

交わす言葉が見つからないからといって、彼から逃げてはいられないのだから


そんな自分に見て見ぬ振りをし続けるなんて、許されない事だと思うから



957: 2015/04/29(水) 02:43:25.19 ID:IYgeFCYSO

そして、歩き始めて15分程経った頃、私はその場所に着いた



耳に届くのは、風と、波の満ち引きの音

目に入るのは、白い砂浜と、抜けるような青空と、その空を映すかのように蒼い海



周りを見渡してみても、サーフボードを担いでいる人は一人もいない

ただ誰もいない砂浜の隅に、海の家が一軒あるだけ



貴樹君の姿は何処にも見当たらなかった



明里「……ふふっ」


明里「そりゃそっか」




前に此処に来ていたから、今日も来てる

そんな都合の良い事が、今日に限って起きるはずは無かった




ザザアアアァ…  ザザアアアァ…





波の音は繰り返し、何ら変わる様子も無く、満ちて、引いてを繰り返す

思えば、本当の海を見て、本物の音を聞くのは、これで何度目なのだろう

物心ついてから今まで感じてきた時間の中、その回数は数える程も無い




ただ、彼へと続く道が途切れて、途方に暮れる私の胸を、波の飛沫は静めてくれた



そして静まった心の中で、私はもう一度、私の望む『伝えたいこと』について、想いを巡らせた


958: 2015/04/29(水) 10:52:56.45 ID:IYgeFCYSO

なりふり構わないで、ここまで来たけれど


貴樹君に「何故来たの?」って聞かれたら、私は何も答えられない


本当は、考えるまでもなく、答えはあるのに


私には、貴樹君に一方的にそれを押し付ける事が出来ない


だって、本当は私が、勝手に…





ザザアアアァ…





明里「!」






足に感じた冷たさに、はっとした


波打際に向かって歩きながら考えていたら、靴がずぶ濡れになるのも、考えれば当然の事だった


 サパッ


焦った私は波打際から足を抜いた


明里(…やっちゃった…)




運良く靴底は濡れていない

でも、靴の表面と靴下の足首辺りが湿って、砂を付けている

確か、この砂浜には海の家があって…


明里(乾くまで居させてもらうって、いいのかな?)

明里(ここに人がいないって事は、シーズンっていうのがまだ来てないって事だから、海の家も閉まってる…)

明里「………」


明里(でも、靴を乾かすぐらいなら…)

959: 2015/04/29(水) 11:46:22.71 ID:IYgeFCYSO
靴なんかを乾かしていたら、貴樹君を捜す時間が無くなる

でも、彼を見つけた所で、彼には何も伝えられない

だからこの選択には、半分諦めに似たものも混じっていたんだと思う


明里(あっ)



海の家の中から、人影が見える

海に人がいなくても、ここの海の家は店を開くみたいだった


明里(それなら、大丈夫だよね)


そう思った時






明里(!!!)




  サッ




私は海の家を見られなくなり、堪らず背を向けた





960: 2015/04/29(水) 12:11:07.40 ID:IYgeFCYSO


海の家にいた店員さんは、私と同い年くらいの女性だった


その子はお店のカウンターから料理を受け取ると、窓側に座っているお客さんに、受け取った料理を出した


料理を受け取った男性は、私と同い年くらいの






私がよく知る、あの人だった











961: 2015/04/29(水) 13:56:30.80 ID:IYgeFCYSO
花苗「はい、お待たせしましたー」


コトッ


花苗「それではごゆっくり……」


貴樹「………」


花苗「どうしたの遠野君?」

貴樹「? いや、あそこに居る人、何処かで見たような気がするんだ」

花苗「あそこって……あの人?後ろ向いてる人?」

貴樹「うん」

花苗「……あれ?」

貴樹「ん?」

花苗「えっと、前に見た人と、なんか似てる気がして……後ろ向いてるから、結局分からないけど」

花苗「遠野君って、あの人の知り合い?」

貴樹「何でそんな事聞くのさ」フフッ

花苗「あっ…いや、何となく…」



貴樹「まぁ、あの人は確かに似てるかな。昔の友達に」


花苗「昔の友達?」

貴樹「その人、今は東京にいるから、種子島なんかには来ないよ」

花苗「なんかって…種子島生まれは傷付くんですけどー」

貴樹「あ、ゴメンゴメン」ハハハッ



バイトの子「花苗ー、私休憩入れるから、ちょっとお願ーい」


花苗「はーい」





貴樹「………」








962: 2015/04/29(水) 15:43:14.20 ID:IYgeFCYSO


今振り返れば、きっとあの人はそこにいる


遠くからだし、顔もはっきり見てないし、人違いかもしれないのに


ただそれだけを、強く感じた




でも振り返る事が出来ない

私を見た彼が、席を立って海の家から出て来ても、目線を外して食事を続けても、私にはそんな彼に応える事も、止める事も出来ない

彼に伝えたい言葉が、彼から聞きたい言葉が出てこない



私が言いたい事は…


私が、貴方に伝えたい事は…


…貴樹君、私は…













 ズチャッ


明里「!!?」



勇次郎「あ~あ、着いちまった」


オリバ「着いちまったとは心外だな。キミのお陰で私はあそこのオムライスを丸々食べ損ねたんだ。付き合ってもらわんと困るよ」

オリバ「それに…」


スッ


オリバ「スペック氏から受けたサミングの快復も兼ねているんだ。眼球は取って着けてが可能なのか、よくワカランからね」

勇次郎「ならば何を食す必要がある。視力が戻らんワケでもあるまいに」

オリバ「そりゃ視力は戻っているさ。だが念には念を入れるのが自由の秘訣なのさ」

勇次郎「ケッ、不自由な野郎だぜ」

オリバ「OH~……傷付くね」



オリバ「あ」

勇次郎「!」



明里「?……?…?…?」



オリバ「お久しぶりだね、ミス・アカリ」ニコッ

965: 2015/04/29(水) 19:50:39.36 ID:IYgeFCYSO

悩みを抱えている時…

疑問や問題にぶつかって、答えを見失った時に限っていつも、私達とは何もかも全く違う人が現れる

その人達は一方的に私達に答えを押し付けて、いつも何処かに消えていってしまう

それで、押し付けられた答えの通りに物事が進んで、気づけば問題が無くなってる

いつも、いつも


そして今、この砂浜でも…






明里「な………なんで…?」


オリバ「なんでも何も、海の家でオムライスを食べるのさ。18万キロカ口リー分のね」

明里「…?…」

オリバ「といっても、8万は負傷に充てるつもりだが」

明里「あの……言ってる意味が…よく分から…」

オリバ「ワカる必要は無い。コレは私の純然たるスウィ~~~ットなプライベートなのだから」



オリバ「じゃ、私は先に失礼する。腹が減って氏にそうなのでね」ザッ



ザッ ザッ ザッ…










明里「………」



勇次郎「あの野郎……亜部の財布を握り切った途端にこれだ」クスクス

勇次郎「他人の金で飯を食うぐらいが自由かよッッ」クスクスクス



明里「……あの…」

勇次郎「………」ぴたっ

明里「!!ッッ」



勇次郎「親父か」


明里「えっ」


勇次郎「戦場で受けた負傷の跡が些かも見てとれぬ。治療の跡すら皆無」

勇次郎「どう治癒った?」


明里「あっ……え……いえ、その……それは…」


勇次郎「………」


明里「……説明、できません…」

967: 2015/04/29(水) 22:16:09.32 ID:IYgeFCYSO
勇次郎「それでいい」


明里「えっ…?」


勇次郎「貴様に理解出来ぬ事象など、森羅万象にゴロゴロと溢れている」

勇次郎「ソイツに手を出しさえしなければ、肩を貫かれる事も無い」


明里「……はい」






勇次郎「で、此処に何用だ」


明里「ッ!!」


勇次郎「俺の説教を聴きに先回りしたとでも?」

明里「ちっ…違います…それは…」

勇次郎「………」



勇次郎「邪魔したな」ズチャッ



明里「………」



ズチャッ  ズチャッ…




勇次郎「?」ピタッ




明里「!」ピクッ




勇次郎「………………成る程…ワカった」


勇次郎「そういうコトかよ」フフッ


明里「…何が、ですか?」


勇次郎「巻き込まれたのは俺の方か…」クスッ


勇次郎「絆さえ無い他人の色恋沙汰……ソイツに巻き取られ、とんだ茶番を演じちまったぜッ」クスクス…


明里「!!!!」

970: 2015/04/30(木) 12:24:45.79 ID:v+iTN1zSO


オリバ「グッ…モ~ニ~~~~ン」ガラガラッ



花苗「!?」

貴樹「!!?」

バイトの子「えっ!?」


おばちゃん「またあんたァッ!性懲りも無くッ!」

バイトの子「ちょッ」



オリバ「NOーNOー、問題を起こす気はアリマセン。あの時のコトも不可抗力というものです」

おばちゃん「オムライスを30皿もムダに作らせたのも?」

オリバ「そうです。心から反省しています」

おばちゃん「ふーん」



貴樹「えっと…これってどういう事…?」

花苗「オリバさん、前に此処に来た事あるの……その時にその、色々あったっていうか…」

貴樹「…どんな事?」

花苗「……色々」

貴樹「………」



花苗「遠野君、あの人と知り合い…なんだよね」

貴樹「…知り合いっていうか…どうなんだろう、説明がちょっと難しいな」



貴樹「! もしかして、澄田も?」

花苗「うん、まあ、知り合い?かな」



971: 2015/04/30(木) 17:23:02.44 ID:v+iTN1zSO
明里「どうして…」

勇次郎「眼を開けば眼に留まる」

勇次郎「健康状態…心理状態…経済状態…それらを纏めて人間と称するならば、人を倒すという事は、それ則ち『それらを征する』という事」

勇次郎「対人間に特化するなら、副次的にも眼は育つ」



勇次郎「まァ、んな事ぁどうでもいい」

勇次郎「問題なのはこの『未消化』をどうするかだ」


明里「……未消化…」


勇次郎「下手にテメェらに関わっちまった、俺自身の不文律……」



勇次郎「ぶっちゃけ、結末見ねェとスッキリしねェのよ」

明里「えっ?」


勇次郎「出しちまえよ、結果を」




975: 2015/05/21(木) 05:12:48.62 ID:8rrMbNQo0

結果…


少し違う言い方になるけど、彼の言うとおり、私はそれを見つける為にこの島に来た

貴樹君に会って、話して、お互いに今を受け入れることが出来るようになるため

後悔が残ることが無いように、全ての想いを打ち明けるために



でも全ての想いを言葉には出来ない

言葉にしてしまったら、もう私はココには居られなくなる


だって、本当は全て分かっているから

本当は、全てに気付いてしまっていたから



977: 2015/05/23(土) 20:14:03.37 ID:ow2zAGoR0
私の送ってきた日々は、貴樹君の為にあった訳じゃ無かった

私が貴樹君の事を考え、何かをしたり、あるいは何もしなかったとしても
結局は、それは私の為に私が重ねてきた毎日だった


いくら彼を想っても、その想いは私にしか伝わらず、どれだけ彼の心に想いを馳せても、それは私の想像でしかない

それらを越えて彼を知る事は、私にも、誰にも出来ない



私には夫がいて、二人が共に感じるような、幸せがあって
多分だけど、仕事もこれから待っていて
もしかしたら、これから家族が多くなるかもしれない



でも、その苦労や幸せを、貴樹君と一緒に歩く事は無い

ずっと前から別たれていた道は、元には戻せない

例え戻す機会が過去にあったとしても、それを過去の私達が望んでいるとは限らないのだから








振り返った先に、小さい海の家が見える
エプロン姿の店員さんと、会話を弾ませている彼の姿も



楽しそうに話す貴樹君

彼の横顔は、子供の頃に見た彼の笑顔に、そっくりだった



978: 2015/05/24(日) 02:57:35.59 ID:I3zYNF/40
明里「………」

勇次郎「何を躊躇っている」

明里「 !…」

勇次郎「望むなら望むままを行えばいい。容易なハナシだ」

勇次郎「さっさと行きな」


明里「……………」







明里「いえ、やっぱりいいんです」





勇次郎「あ?」





明里「このままで」





980: 2015/05/26(火) 04:08:16.62 ID:HQL5kQs50
勇次郎「…………」




明里「………」







勇次郎「…ケッ、此処まで足を運んでおきながら、ひり出した答えがそれかい」


明里「はい」

明里「私が、貴樹君と私の間に何を求めていたのか……言葉に言い表せるほどには、整理がまだつかないんですけれど」

勇次郎「………」




勇次郎「フンッ」

勇次郎「得る事無きを見出し、得るべからずを得たと言いたいのだろうが」

勇次郎「矛盾が有り有りとワカる。明らかに納得していない」

勇次郎「悟った気になるな。この未じゅ…」


明里「だから、いいんですよ。 足りないなら、足りないままで」



明里「貴樹君に会いたくて、話したくて、この島に来た事も」

明里「それが叶わない欲張りだったって分かって、その欲張りを作った原因に、彼への勝手な同情とか、未練とかがあったとしても」

明里「そのままでいいんです。 彼に会わないまま、話さないままで」










勇次郎「………」










981: 2015/05/26(火) 05:48:05.09 ID:HQL5kQs50
明里「……………」


明里「………ふふっ」


勇次郎「………」


明里「あっ、ごめんなさい、あの…ふふふっ」


勇次郎「おい」

明里「! 本当にごめんなさいっ! さっきのは…」

勇次郎「さっきは何だ」

明里「さっきのは……すみませんでした…失礼しました…でも、その、言いづらいんですけれど……」

明里「勇次郎さんも、そんな顔する時があるんだなって思って……」

勇次郎「そんな顔?」

明里「その、鳩に突かれたって感じの…」


勇次郎「………鳩、か」


明里「…すみません…」


勇次郎「いや、確かに突かれたのかもな」

勇次郎「ヤることヤって腑抜けちまったらしい」




明里「…………」




勇次郎「? まだ言い足りないかい」


明里「い、いえ、そういう事じゃないんです」

明里「ただ、安心したというか……勇次郎さんも、私達と一緒なんだって思えて」

明里「それがとにかく…よかったっていうか」


勇次郎「くだらねェな」


明里「ううん、くだらなくないです。絶対」




984: 2015/05/27(水) 02:08:17.06 ID:L9BexRwL0
勇次郎「………まァ、んな事ァどうでもいい」


勇次郎「今この場での、貴様の最重要事項はそれではない」


明里「………」


勇次郎「後悔しないと誓えるかい」


明里「誓えます」




明里「………ただ、いつまでも残ると思います」


明里「私の思い出の中に」




明里「………」









明里「でも、これで最後にはしません」

明里「いつか思い出の中の貴樹君と、今の貴樹君を、重ねずに受け止められる私になったら」

明里「その時にまた、貴樹君がいいのなら、正明さんと一緒に会いに行きます」




明里「貴樹君にとっての、一人の友達として」




985: 2015/05/27(水) 02:40:20.19 ID:L9BexRwL0

勇次郎「…………この数瞬で変わったな」

明里「えっ?」

勇次郎「少なくとも、先程の貴様にそのような啖呵なぞ切れなかった」

勇次郎「行きなよ。答えを導き出した今、もう用はねぇハズだぜ」



明里「…………」








勇次郎「…………」ズチャッ










明里「あっ、あの、一つ思い出した事があるんですけれど、いいですか?」

勇次郎「………」ぴたっ



勇次郎「いいぜ。言ってみな」

明里「それじゃあ、ちょっと……じゃなくて、すごく変な事なんですけれど、勇次郎さんのお父様から伝言を頼まれたんです、わたし」


勇次郎「!」


明里「あの…敗北おめでとう、と」



勇次郎「…………」








987: 2015/05/27(水) 05:14:14.52 ID:L9BexRwL0
夢の中で

いや、夢みたいな、信じられない何処かで、勇一郎さんから託されたこの言葉

この言葉が勇次郎さんにとって何を意味するのか、私は彼の父親から教わった



普通に考えて挑発とか、ただの悪口にしか思えないし、私以外の誰かがこの言葉を聞いたとしても、きっと誰もがそう感じると思うけれど




彼には、この言葉を聞いて欲しかった









勇次郎「…………」



勇次郎「…親父が言ったのか…この俺に対して」


明里「はい」






勇次郎「…………フフッ」


勇次郎「あの御節介妬きめ」


勇次郎「愚息との親子喧嘩に際して俺自身が勝利を認めず、かといって刃牙も勝利を認めぬ現状で」

勇次郎「親父という第三者が、俺を敗者と言うのなら」

勇次郎「引き分けや譲り合いといった手緩さなど、無価値もいい所」



勇次郎「完全なる敗者……頂上決戦に備えた鍛錬どころでは無い」



勇次郎「敗北者となった今、また一から練り直しだ。 ピラミッドの最下層からな」








勇次郎「明里とやら」


明里「!」


勇次郎「本来、貴様に言うのは筋違いだが」


勇次郎「礼を言う」



988: 2015/05/29(金) 04:19:47.78 ID:Th05fLl40


感謝の言葉



思えば、この俺が生きた人生の中で、この言葉は何度口から迸り出たか




1度? 2度?

多くてそれぐらいだ。せいぜいその程度だ

食物に対しての感謝は、相手が無生物である以上、義務ではあれど意義は皆無
しかも、その義務への気付きに至っては、ここ10年かそこらのハナシ

暇を持て余し、無意識の内に『科学』『化け学』『政治情勢』から、果ては『テーブルマナー』などの『強さ以外の物』に眼を付け始めた時期と、発生を同じくしている


そんな俺に、またしても到来した


表さずにはいられない感謝の意





明里「…………」





何を惚けていやがる
その貌はもう見たぜ



明里「……いえ、お礼を言うのは私の方です」

明里「ありがとうございました」




笑顔…?








…………








フフッ……

振り向きもせず、歩いて行きやがる





…………






なんと、羨ましい



990: 2015/05/29(金) 17:58:58.13 ID:Th05fLl40







東京































明里「…………」






種子島で見つけた貴樹君とは、結局会わなかった

多分、私がこの島に来た事も、彼は知らない


けど、それで良かったと思う






タクシー運転手「お待たせしました。では、さ、どうぞ」

明里「はい、お世話になります」

運転手「それでは、どちらの…」





今日起きた出来事は、ずっと忘れない






運転手「分かりました。シートベルトの方は?」

明里「はい、付けました」

運転手「あ、分かりました。 じゃ、発車します」






991: 2015/05/29(金) 18:36:15.54 ID:Th05fLl40

東京は薄暗くなってきていて、もうネオンを点け始めているビルもある
街を行く人達は、私が東京を出た日と、何も何も変わらない様子で忙しなく、私の乗ったタクシーの窓に映っては過ぎ去っていく

でも、その人達も、毎日が同じではない
その人達にも、私の毎日と同じように、少しずつ違う明日が待っている

その日に何が起きるのかは、その日に眼を覚ましてみないと分からない




運転手「お客さん」

明里「? はい」

運転手「お客さんのコト、テレビで見ましたよ。 大変でしたねェ」

明里「あ…はい、まぁ」

運転手「すみませんね。 ウチの総ち……じゃなくて、まァ、センパイが心配してたんで」

運転手「肩の方はもう良いんですかい?」

明里「え、ええ。もうすっかり」

運転手「………」

明里「………」



運転手「それにしたって不思議です」

明里「?」

運転手「怪我が治っただけにしては、イヤに上機嫌じゃないですか」

明里「えっ……そうですか? 私、笑ってたり…」

運転手「笑ってたっつーか、ハツラツしてたっつーか」

運転手「何かイイ事ありました?」

明里「………」



明里「ええ、ありました」






992: 2015/05/29(金) 19:04:44.63 ID:Th05fLl40



けれど、その日に何が起こっても、その日は必ず過ぎ去っていく

良かった事も、悪かった事も




明里「ただいま」

正明「あっ、おかえりー」

明里「…?…」

正明「ん?」

明里「…怒らないの?」

正明「え?何で俺が怒るの?」

明里「何でって…」

正明「明里って、今仕事休んでるでしょ?」

明里「う、うん」

正明「休みってのは、疲れを取るためにやりたい事をやるって事だろ?」

正明「やりたい事をやって、法律も守って、しかもそれに掛かった費用も返すって言う明里を、俺がどうやって怒るのさ」


明里「うぅ…」


正明「ま、いつ帰るのかぐらいは書いておいて欲しかったなー」

明里「ごめんなさい」

正明「まあいいじゃん。 晩御飯は俺が作るから、ちょっとくつろいでてね」


明里「あ、うん…」





993: 2015/05/29(金) 19:16:00.34 ID:Th05fLl40
その日がどんな一日でも、必ず終わりが来る

誰の一日にも終わりが来て、必ず朝日と一緒に、明日がやって来る


東京を行く一人一人にも

私が出会った、思いがけない人達にも


正明さんにも


勇次郎さんにも



貴樹君にも



私にも


994: 2015/05/29(金) 19:33:33.19 ID:Th05fLl40
リビングから離れてベランダに出ると、太陽はどこにも見えず、東京は夜になっていた




明里「…………」




この広い夜空の下に、私が出会った全ての人が、明日に向かって歩き続けている




ある日の私は、ここで黄昏ていた

過ぎてしまった、色々な事に気を揉んでいた




でも、もう気を沈める事は無い

過ぎてしまった色々な事は、今も夜空の下にあるのだから











明里「……秒速五センチメートル…か」









子供の頃、貴樹君に自慢気に話した言葉を


私はふっと思い返した




995: 2015/05/29(金) 19:51:20.23 ID:Th05fLl40




秒速五センチメートル


桜の花が落ちるスピード





どれくらいの速さで生きても、いつかはそこに辿り着ける






正明「ごめん明里ー、ちょっと手伝ってー」

明里「!、はーい」











私が今を生きている時













彼もどこかで


今を生きている

































996: 2015/05/29(金) 19:53:13.69 ID:Th05fLl40











































997: 2015/05/29(金) 19:56:52.96 ID:Th05fLl40
終わりです
スレタイの勇次郎を徳川にしておけば良かった
雑談スレを立ててレスの消費を抑えてくれた方と、ROMってくれた方々に感謝したい

アリガトオオオオオオオオオオオオオオッッッ

アリガトオオオオオオオオオオオオオオッッッ

998: 2015/05/29(金) 20:05:55.02 ID:U1tfl2E5o
お疲れ様でした!!
楽しかったです!!

999: 2015/05/29(金) 20:08:17.50 ID:lzBTR1gIo
長い間楽しませてもらった

引用: 範馬勇次郎「時速5000キロメートルッッッ!!!」