16: 2017/04/19(水) 18:29:58.54 ID:nhXCd10e0
17: 2017/04/19(水) 18:31:28.58 ID:nhXCd10e0
アナスタシアは僕に付いて来ると言ってくれたが、それだけですべての問題が片付くわけではない。
アイドルになるということは東京に来るということでもある。少なくともウチの事務所に所属するのであればそうだ。
アナスタシアはまだ一五歳の少女である。聞いた話では、この春から高校に通うところだったという。
つまり僕が声をかけた時にはまだ中学生だったということで……いや、正確には卒業式を済ませてあるから違うのだろうが、同じようなものだろう。
とにかく、せっかく受験して合格した学校に通えないというのは大きな問題で、『さて、どうしようか』ということになった。
アナスタシアは「私は貴方に付いて行くと決めました。大丈夫です」と言ってくれたが……そもそも、この時期に別の学校に入学することなどできるのか、という問題もあった。
さて、どうするか……そう考えながらも、まずは報告をしなければいけないということで事務所に連絡をした。
千川さんが出た。
『そのアナスタシアさんが入学する予定だった学校は? ……はい、そうですか。わかりました。……プロデューサーさんは明日、アナスタシアさんが入学する予定だったという学校に行って下さい。また、あとで資料を送るのでアナスタシアさんとご両親と一緒に転入する学校はそこでもいいのかを相談して下さい。入学する予定だったという学校の姉妹校なので問題ないかとは思いますが……それでは、お願いしますね』
ということで、解決した。
実際、その翌日にアナスタシアとご両親とともにアナスタシアが入学する予定だったという学校に連絡して向かうと、そのための手続きが行われた。
一日でいったい何を……と僕は千川さんがどんな手を使ったのかを考えかけたが、途中でやめた。
結果的にアナスタシアが入学できることになった。それだけで十分過ぎることだろう。
試験は受けなければならないらしいが、アナスタシア曰く問題ないらしい。
こちらの都合で迷惑をかけると言ったら、「お互い様、です」と言われた。
いったい何が『お互い様』なのかはわからなかったが、そんな僕を見てもアナスタシアはくすくすと笑うだけだった。
アナスタシアがどこに住むのか、という問題もあったが女子寮に住むということで解決した。
女子寮に関する資料も千川さんは送ってきてくれており、それを見せて説明した。
ご両親は納得してくれて、アナスタシアも納得してくれたと思う。
それ以外にも様々な問題があったが、なんとかなった。
千川さんの力を借りたものも多かったが……いったい、あの人は何者なのだろう。感謝しかない。
千川さんは「おみやげ、楽しみにしていますからね♪」とだけ言ってくれたが、これは本当に気合を入れなければならないだろう。
そういったことを三日間で済ませて、僕は東京に帰った。
アナスタシアが東京に来るのはもう少ししてからである。
高校の入学式には間に合いたいとのことなのですぐに来るとは思うが……やはり、そう短時間で準備ができることでもないのだろう。
「お前、ずいぶんと変わったな」
二週間ぶりの事務所に入るや否や、先輩はそう言った。
「何と言うか、目が生きてる。輝かせたい星、見付けたか?」
それに対しては「先輩は変わらずロマンチストですね」と応えた。この先輩はしばしばポエムのような物言いをするのだ。ポエム先輩である。
「だけど」先輩はにっと歯を見せて笑った。「間違ってはいないだろ?」
その言葉に僕は何も返さなかった。図星だったからである。
「それじゃあ、ま、気合入れて頑張れや」
そう言って先輩は事務所から出て行った。
「どこに行くんですか」と尋ねると「輝きの向こう側」と答えられた。
いきなり765プロの『あの公演』のことを言われた僕はもちろん戸惑ったが、それはつまり、あのアリーナに行く、ということだったのかもしれない。
回りくどすぎる。そう思いながら僕は事務所に入り、部長の部屋にまで向かった。
アナスタシアのことに関する報告を済ませて部屋を出ると、そこには千川さんがいた。とりあえずおみやげを渡すと、代わりに書類の山を渡された。
「できるだけ早く片付けて下さいね♪」
……とりあえず、アナスタシアが来るまで暇することはなさそうだ。
18: 2017/04/19(水) 18:32:26.12 ID:nhXCd10e0
*
四月、空港。
僕は時計を何度も見返しながら、アナスタシアのことを待っていた。
時間が間違っていなければ、もう着いているはずだが……そう思いながらもう一度アナスタシアの搭乗した飛行機が既に到着しているかどうか確かめようとした時、
「プロデューサー!」
弾むような声が聞こえて、僕は声の方向を見た。
そこにはキャリーバッグを片手に持ち、もう片方の手でこちらに手を降っているアナスタシアの姿があった。
その端正な顔に浮かぶやわらかな笑みを見ていると、僕まで笑顔になってしまう。
「アナスタシア! ……待っていたよ。一人で大丈夫だったか? とにかく、変わらず元気で何よりだ」
アナスタシアに駆け寄り、僕は言った。
アナスタシアは「ダー」と声を弾ませて、すぐに「あ」と自分の言葉を改めようとした。
しかし僕はその前に「『はい』、か?」と尋ねた。
アナスタシアは「ダー♪」と笑みを深めて返してくれた。
アナスタシアの持っていたキャリーバッグを持って、僕はアナスタシアを車まで案内した。
電車でも良かったのだが、アナスタシアも飛行機に乗って疲れているだろう、と思ったのだ。
そう思ってアナスタシアには後部座席を勧めたのだが、助手席に座りたいと言ったので助手席に座ってもらった。
さらには運転している最中、彼女が眠ったりすることはなく、ずっと興味津々といった様子で外を見ていた。
「べつに、見ていても楽しい光景じゃないと思うが」と言うと、「いえ。楽しいです」と答えられた。
まあ、楽しんでくれていることに文句はない。僕は運転に集中した。
とりあえずは、女子寮だ。荷物はもう届いているらしい。女性の荷物だからすべてを手伝うわけにはいかないが、手伝える範囲であれば手伝おうと思っている。
……とにかく、まずは着いてから、だな。
20: 2017/04/19(水) 18:33:45.74 ID:nhXCd10e0
*
「ん? 新人くん……と、誰?」
女子寮に入ろうとすると、ちょうどある二人のアイドルが出てくるところだった。今の言葉は、その内の一人の言葉だ。
「新人くん……って、僕がここに入ってからもう一年経っているんですが、本田さん」
本田未央。あの『ニュージェネレーション』の、本田未央である。
彼女は僕がこの事務所でいちばんの新人であることから僕のことを『新人くん』と呼ぶ。もう慣れたが、それでも一応は言っておかなければならないだろう。
「まま、それはそれとして……そのめちゃくちゃ綺麗な子は誰なのかなー? 君がスカウトしてきたアイドル、とか?」
「……まあ、そうですね」
「やっぱり!」本田さんは輝くような笑顔を浮かべ、アナスタシアの方にぐいぐいと近付いていく。「私、本田未央! あなたは?」
「あ、アーニャ……アナスタシアです」
さすがのアナスタシアもここまでの勢いには少々ながら押されるらしい。本田さんは「アーニャ! かわいいね!」と言って笑い、手を差し出した。「これからよろしく、アーニャ!」
「……ダー。よろしく、お願いします」
アナスタシアは本田さんに差し出された手を握り、しっかりと握手を交わした。
「……クックックッ、新たなる星の輝き、か」
そして、もう一人のアイドルが、こちらに近付いてきた。
アナスタシアの輝くような銀髪とはまた異なる、灰にも近い色の髪。
華美な装飾の施された、ゴシック口リィタとも言うべき服装。
白の肌に、紅き双眸。
難解な言葉を操る、個性的で画然たる『世界』を持つ存在。
この事務所の中でも圧倒的な人気を誇るアイドルの一人。
その名は――
「――我が名は神崎蘭子。アナスタシア、と言ったかしら? 眩き白銀よ……これよりともに偶像として輝こうぞ」
そう言って神崎さんはアナスタシアに近付き、手を差し出した。
そんな神崎さんに対してアナスタシアは、
「……プロデューサー? どういう意味、ですか?」
僕の方を見てそう言った。「……あぅ」と神崎さんの声が聞こえる。……いや、まあ、初めてならその反応になるだろう。
「つーまーりー!」
気まずい空気が流れる中、本田さんが大きく声を上げてその空気を壊した。
「これからよろしく、ってことでしょ? らんらん!」
「……左様」
本田さんの言葉に神崎さんはうなずいて言った。
「そういうことですか! ランコ、これからよろしくお願いしますね」
「うむ」
そうして、アナスタシアは神埼さんと握手を交わした。
――振り返って考えてみると、これが一つの始まりだったのだろう。
この出会いこそがアナスタシアと、後に彼女のライバルとなる存在との出会いだった。
21: 2017/04/19(水) 18:34:20.18 ID:nhXCd10e0
*
あの二人はちょうど女子寮から出るところだったので、すぐに別れた。
「それじゃあね、アーニャ♪」「また会おう、眩き白銀よ」と言って立ち去る彼女たちを見るアナスタシアの目は、どこか輝いているように思えた。
「どうした? アナスタシア」
だから僕は彼女に尋ねた。アナスタシアはハッとして僕の方を向き、
「……彼女たちが、『アイドル』なんですね」
彼女のその言葉には、様々な感情が含まれているように思えた。
本田未央と神崎蘭子。『トップアイドル』にも近い位置にいる彼女たちを見て、感じるところがあったのだろう。
「ああ。そうだ」
しかし――いや、あるいは、だからこそ、僕は言った。
「アナスタシア。君には、今の彼女たちを超えるアイドルになってもらう。僕がそうする。そうしてみせる。君ならそれができると信じている。だから……そうだな、期待していてくれ」
「期待……ですか」アナスタシアは少しの戸惑いとともに言って、ふっと微笑んだ。「わかりました。期待、しておきますね?」
「任せてくれ」
僕は言った。アナスタシアに――そして同時に、自分自身に。
22: 2017/04/19(水) 18:35:15.29 ID:nhXCd10e0
*
アナスタシアの部屋に着くまでに数人のアイドルと出会った。
陰から見ているだけのアイドルもいたが、話しかけてくるアイドルもいた。
アナスタシアは戸惑いながらもあたたかく迎えてくれるアイドルたちに対して感謝している様子だった。
そんなアナスタシアを見るアイドルたちもまた、アナスタシアに対して好印象を持ってくれているようだった。
ある人には「こんな良い子を泣かせちゃダメだよ? 新人くん」なんて言われたくらいだ。もちろん、そんなことをするつもりはないが。
アナスタシアの部屋に着くと、まずはアナスタシアが持ってきた荷物を置いて、休憩した。そこまで重い荷物ではなかったが、それでも長時間持つと多少は疲れる。
そうして壁にもたれかかっている僕をアナスタシアは見ていた。気を遣わせただろうか。そう思った僕はすぐに壁から離れて、「整理、始めるか?」と尋ねた。しかしアナスタシアは首を振った。
「荷物の整理を始めるなら、隣人にうるさくするかもしれないと言っておいた方がいい、ですね?」
アナスタシアは言った。
確かに、言わないよりは言っておいた方がいいだろう。既に事務所からその連絡はされていると思うが、それでも『今から始める』という連絡はしておいた方がいい。
……そんなことをアイドルから指摘されるプロデューサーとはどうなのだ、と僕は自らを責めた。気遣いができていないにも程がある。
しかし、自責したところで何も事態は発展しない。
「そうだな。あいさつ、しておくか」
気を取り直して僕は言った。アナスタシアは「ダー」と応えた。
23: 2017/04/19(水) 18:37:20.87 ID:nhXCd10e0
*
下の部屋、右隣りに住んでいる部屋に人は不在のようだった。
人が住んでいることは確かなのだが、今は出かけているのだろう。
まだ寝ているだけ、という可能性もあるが……そこまで確認する術はない。
正確には管理人に聞けばわかるのだが、そこまで調べることはマナー違反であるとも思える。
その住人とのあいさつは後に回して、最後に左隣りの部屋に人が居るかどうかを確かめることにした。
『今更インターホンを鳴らすなんて誰……ホントに誰? って、新人チャン? ということは……!』
インターホンを鳴らすとまずそんな声がして、たたたた、と外からも微かに聞こえるほどの勢いでこちらに近付いてくる足音。
かと思えば一度止まり、その足音が離れていって、しばしの無音。
それからまたこちらに足音が近付いてきて、ドアが開いた。
「初めまして! 前川みくです! これからよろしくにゃ♪」
猫耳としっぽを装着し、猫を模したポーズをして現れたのは前川みくさん。
『猫キャラ』のアイドルとして知られ、非常に人気のあるアイドルだ。
この事務所の中でも『アイドル』に対する思いは人一倍で、プロ意識も高い。
僕たちが来たことを確認してから急いで猫耳としっぽを付けてきたのだろう。
その額には若干の汗が滲んでいたが、猫を模した姿勢は完璧そのものであり、僕としても『これがプロ意識の為せる技か』と感心するほどであった。
しかし、
「……にゃ?」
アイドルモードで現れた前川さんにアナスタシアは困惑気味。
それはそうだろう。あいさつをしようとしたらいきなり猫耳にしっぽを付けた少女が現れたのだ。まったく戸惑わない方がおかしいと言える。
「……新人チャン」
困惑したアナスタシア、テンション高めであいさつした手前もう引けなくなってしまった前川さん。
そんな彼女たちの間に流れた沈黙に耐え切れなかったのか、前川さんは僕の方に助けを求めた。
「あー……アナスタシア。彼女は前川みく。まあ、見ての通り猫キャラのアイドルだ」
「猫……キャラ?」
キャラとは何なのか。そう言うかのようにアナスタシアは首を傾げた。
確かに、いきなり『猫キャラ』などと言われても何のことかはわからないかもしれない。
こういう文化に慣れてしまって、通じるのが当然と考えてしまったが、むしろ知らない人もいる方が当然なのだ。
しかし、どう説明したものか……僕は考えこんだ。
「……あの、二人とも? みく、さすがにちょっとこのポーズを維持するのに疲れてきたんだけど……」
前川さんは震える声で言った。見ると先程の猫を模したポーズをずっと維持していた。
片脚を上げた前傾姿勢。ほんの少し震えてはいるが、こんな姿勢ここまで維持できているとは……さすがは人気アイドル、と言ったところか。
しっかりとした体幹がなければこんな姿勢を維持することは難しいだろう。
ポーズ一つにしても日々のレッスンが重要であるという良例だ。勉強になる。
「……き、聞いてる? そ、そろそろ、限界なんだけど……」
前川さんはぷるぷると震え始めた。しまった。先輩アイドルに何をさせているんだ。
僕はすぐにアナスタシアを紹介することにした。
24: 2017/04/19(水) 18:38:39.73 ID:nhXCd10e0
「すみません、前川さん。こちらはアナスタシア。今日から隣の部屋でお世話になる、新人アイドルです。どうぞよろしくお願いします」
「ミーニャザヴート、アーニャ。私はアーニャ。アナスタシアです。これからよろしくお願いします。アーニャと呼んで下さいね?」
僕が言うと、アナスタシアもまた自己紹介してくれた。
前川さんはふぅと息を吐いてから猫を模した姿勢をやめて、アナスタシアに向き直った。
「アーニャ……ということは、アーニャンだね。うん、これからよろしくね」
そう言って差し出された手をアナスタシアは握り、「ダー」と笑った。
「でも……アーニャンとは、なんですか?」
「えっ……何って言われても、愛称のつもりなんだけど……し、新人チャン。どう説明すればいいの?」
前川さんは助けを求めるように僕を見た。
「わかりません」
僕は正直に応えた。『愛称』以上の答えを僕は持ち合わせていない。
「……えーとね、アーニャン。これを説明するには、その前に色々と説明しなきゃいけないことがあるんだけど――」
多少の沈黙の後、前川さんは説明を始めた。
やっぱり良い子だな、と思う。わざわざ一から説明してくれるとは……本来なら僕の仕事なので情けない話なのだが、ありがたい。
前川さんが話していたことは『アイドル』としての基本、『キャラ』というものの存在。そういったものを前川さんなりにわかりやすく説明したものだった。
自分がアナスタシアのことを『アーニャン』と呼ぶには『自分のキャラ』を説明することが必要で、それにはまず『キャラ』について説明しなければならず、さらに言えば、その『キャラ』というものが『アイドル』にとってどういう意味があるのか。そんなところから説明しなければならないと判断したからだろう。
アナスタシアは興味深そうに前川さんの話を聞いていた。
そんなアナスタシアの反応を見て気を良くしたのか、前川さんは「アーニャン、これからもわからないことがあったら何でもみくに聞いてね」とまで言ってくれた。
アナスタシアにとってもその申し出は大変嬉しいものだったらしく、「ダー♪ スパシーバ、みく」と笑った。
「スパ……何?」と前川さんが怪訝な調子で尋ねると、アナスタシアはすぐに「ありがとう、です」と返した。
前川さんはそれを聞いて一瞬だけ目を丸くさせて、すぐに恥ずかしさと嬉しさが半々に混じったような笑みを浮かべた。「どういたしまして、にゃ」
――良い隣人に恵まれたな、アナスタシア。
今日初めて出会ったとは思えないほど親しげに笑い合う彼女たちを見て、僕はそんなことを思った。
こんな隣人が――友人ができる。それは、あるいはこれから先の人生においても非常に貴重な財産になるだろう。
――ありがとう、前川さん。
心の中で、僕は彼女に感謝をした。それに何かを感じ取ったのか、前川さんはこちらを見て「どうしたの? 新人チャン」と尋ねた。
何でもありません、と僕は答えた。
25: 2017/04/19(水) 18:40:24.95 ID:nhXCd10e0
*
前川さんは「荷物の整理をするなら手伝うよ?」と言ってくれたが、その申し出は断ることにした。
アナスタシアもさすがに初対面の人間に荷物の整理から手伝ってもらうことには抵抗があったらしい。
「そっか。でも、困ったら何でも言ってよね。あと、新人チャン。アーニャンに変なことしたら、みく、怒っちゃうからね」
前川さんにはそう言われたが、変なことなんてするはずがない。
「プロデューサーも、無理に手伝う必要はありませんよ?」
アナスタシアはそう言ってくれたが、こちらの都合で連れて来たのだからこれくらいは手伝わせて欲しい。
重いものもあるだろうし、男手もないよりはあった方がいいだろう。
さすがに下着類やらそういったものには手を出せないが……触られたくないもの以外は手伝わせて欲しい。
僕がそういったことを言うと、アナスタシアは了承してくれた。
それから数時間。
殺風景だったアナスタシアの部屋も、多少は生活感のある部屋になった。
とは言っても、女子高生が住む部屋にしてはこれでもまだまだ殺風景だと思うが。
「これくらいで大丈夫です」
アナスタシアは言った。まだいくつか開けられていないダンボール箱が残されていたが、あれはあまり触られたくないものなのだろう。僕はそう思ったのだが、そうでもないらしい。
「私はアイドルで、貴方はプロデューサーです。なら、隠すことなんてありません。あれは、まだ、どうするか決まってないだけです。……下着は、その、恥ずかしいから、ですが、必要なら、見せられます。私は、アイドルになると決めましたから」
その白い肌を朱に染めてアナスタシアは言った。
アイドルだからと言ってそこまでする必要はないのだが、それくらいなら覚悟はしている、ということだろうか。
いや、ウチの事務所には女性スタッフも豊富なのでそういった時は女性スタッフに任せることになると思うが。
「しかし、思ったよりも早く終わったな」
僕は言った。一日をすべて費やしてもまだ足りないほどだと思っていたのだが、そんなことはなかった。
アナスタシアも疲れているだろうし、これでもう解散、でもいいのだが……。
「アナスタシア。何か、したいことや行きたいところはあるか?」
せっかく時間に余裕があるのだから、と思い僕は尋ねた。
アナスタシアは「ンー」と少々考えこみ、「事務所の人たちにあいさつ、しておきたいですね」と言った。
しかし、それは既に明日に予定されている。そう言うと彼女は「そう、ですか。それなら……」とまた考えこんだ。
「なんでもいい。何もなければそれでいいが、何かあるなら気軽に言ってくれ。僕も今日は……いや、今日だけじゃない。今の僕の仕事は君のプロデュースだし、仕事でなくとも、出来る限り君の助けになりたいと思っている。君をこちら側に連れて来た責任もあるし……何より、ご両親に『任せて下さい』と言ったからね」
助け舟のつもりで僕は言った。答えを急かしているように感じられては問題だが、そうは受け取られていない……と思う。
「何か欲しいものがあれば買いに行こう。何か見に行きたいなら言ってくれ。僕は君のプロデューサーだ。遠慮することはない。君がアイドルに専念するためなら、僕はそれ以外のすべての雑事を引き受ける。って、これはさすがに鬱陶しいか。でも、僕がそうしたいんだ。だから……そうだな、僕のことを信じてくれ。失礼と思うことでも、遠慮せずに、すべてを言ってくれればいい。もちろん、言いたくないことは言わなくてもいいけどね」
さすがに胡散臭いか、と自分でも思う。色々な意味で『クサい』とは思う。
しかし、これは確かに僕の本心でもあるし、誠意のつもりでもある。すべてを話してくれと言うのならば、すべてを話すべきだろう。嘘偽りない本心を、そのままに。
「……わかりました」
アナスタシアは微笑んだ。楽しそうに、面白そうに。僕に優しく笑いかけた。
「スパシーバ、プロデューサー。……お言葉に、甘えさせてもらいますね?」
「ああ」僕もまた、笑みを浮かべて言った。「なんでも言ってくれ」
「ダー。それなら――」
そう言って、アナスタシアは窓の外を見た。窓の外の、空を見た。
「――星が、見たいです」
26: 2017/04/19(水) 18:41:17.63 ID:nhXCd10e0
*
今の時間から日帰りで星が見ることのできる場所。そんな場所があるのだろうか。
そんなことを考えながら調べると、意外にもすぐに見付かった。今から行けば、ちょうど星が見え始めるくらいの時間になるところだ。
それならば、と僕たちはすぐに出発することにした。帰る時間がそこまで遅くなっては色々と問題だと考えたからだ。
「……東京は人が多い、ですね」
駅の人いきれを抜けるとアナスタシアは言った。車で行くよりも電車で行った方が早いと判断した僕たちは電車を使うことにしていた。
「疲れるか?」と尋ねるとアナスタシアは「少し」と答えた。「でも、今日からはここが、私の住む場所、ですね」
その言葉に含まれていた意味がどういったものか、すべてを推察することはできないが、変に気を遣う必要はないということだけは理解できた。
アナスタシアの言葉にはホームシックめいたものも含まれていたかもしれないが、同時に覚悟のようなものも感じられたのだ。
たとえまだ一五歳の少女だとしても、覚悟をしている人間に何か心配するようなことを言うわけにはいかないだろう。それは失礼と言うものだ。
僕はただ「ああ」と応えた。
電車に乗っている間、僕はアナスタシアと様々なことを話した。
アナスタシアは星が好きだということ。それ以外にも、様々なことを。
ただ、今回は以前と違って僕のことも話すことになった。僕の話なんて何も面白くはないと思ったが、アナスタシアにとってはそうではなかったらしい。
僕がプロデューサーになった経緯、プロデューサーになってからの話、その時に担当していたアイドルとの話……。
そういったことから、本当にどうでもいいことまで、アナスタシアは興味深そうに聞いてくれた。
そんな風に聞かれると僕も気が良くなってしまって、プロデューサーだというのに自分のことをどんどん話していってしまった。
そうしている内に目的地に着いてしまった時、僕は自分のことを話し過ぎてしまったことを謝った。
「いえ、プロデューサーの話、面白かったです」
アナスタシアはくすくすと笑いながらそう言ってくれたが、それが逆に恥ずかしさを強めた。
……次は、きちんとアナスタシアの話を聞こう。僕は思った。
27: 2017/04/19(水) 18:42:07.41 ID:nhXCd10e0
駅からバスに乗り、数十分するとそこに着く。ちょうど日が落ちてきて、星の輝きも微かに見えるようになってきていた。
「えー……っと、うん、こっちだな」
僕はアナスタシアとともに最も星が見えるという場所に向かっていた。そこそこの数の人が僕たちと同じ目的を持っているらしく、その流れに付いて行くだけで良かった。
そして、その場所に着いた頃、ちょうど日が落ちて、星がはっきりと見えるようになった。
「……確かに、ここは、星が見えるな」
空を見上げて、僕は少しながら感動していた。
北海道でならば、見ようと思えばもっと綺麗な星空を見ることができたのかもしれないが、北海道では星空を見ようとすら思っていなかった。
そう考えると、こんな星空を見たのは初めてかもしれない。こんなところに、こんな場所があるなんて……行こうと思えばいつでも行ける距離に居たのに、今まで知らなかった。
いや、正確には知ろうとすらしていなかったのだろう。この、美しい空のことを。
「……綺麗ですね、プロデューサー」
星を見上げて、アナスタシアは言った。僕は星のことを何も知らないが、アナスタシアは何かわかるのだろうか。アナスタシアには、この星空も僕とは違う見え方をしているのだろうか。
だが、星に関する知識なんて何もない僕でも、一つだけ、わかることがある。
それは、
「……ああ。とても、綺麗だ」
星空は、綺麗ということだ。
そして、それを見る、少女の瞳も――
「……? プロデューサー? どうか、しましたか?」
「いや」僕の視線に気付き『自分に何か言いたいことが?』とでも言うように尋ねるアナスタシアの言葉を僕はすぐに否定した。「なんでもないよ。少し、見ていただけだ」
「そう、ですか」
完全に納得しているわけではないようだったが、それ以上の追及はなかった。僕はほっとした。
本当に見ていただけなのだから問題はないと思うのだが、それでも、ほっとしたことは事実だった。……やっぱり、アナスタシアには星が似合う。僕は思った。
28: 2017/04/19(水) 18:43:53.93 ID:nhXCd10e0
「……プロデューサー。プロデューサーは、私を『世界でいちばん輝く星にする』と、言ってくれましたね?」
星空を見上げたまま、彼女は言った。
「ああ。間違いなくそう言ったし、必ずそうしてみせる」
「……スパシーバ」アナスタシアは僕の方を向いて微笑み、また、星空を見上げる。「……プロデューサーは、この夜空でいちばん輝く星を、知っていますか?」
「いちばん輝く、星?」
「ダー」彼女はうなずいた。「太陽や、月ではない、地球から見える恒星の中で、最も明るく、輝く星――」
「最も明るく、輝く星……」
アナスタシアにつられて、僕もまた、星空を見上げた。満天の星空。だが、どの星が最も輝いているのかは、僕にはわからない。
「……すまない。僕には、わからない」
正直に、僕は言った。この中でいちばん輝いている星が何か。いくつかにしぼれないことはないが、どれがいちばんなのかはわからない。
「……イズヴィニーチェ。すみません、プロデューサー。私、意地悪な問題、出しました」
アナスタシアは言って、こちらを見た。意地悪な問題? それはいったい、どういうことだ?
「太陽でも、月でもなく、地球上から見える恒星の中で、最も明るく、輝く星……それは、今の季節、この時間、日本からは見えません」
……確かに、それは意地悪な問題だ。そもそも、この星空の中に答えなんてなかったのだから。
アナスタシアは続ける。
「その星の名前は、シリウス――冬の大三角でも有名、ですね。その名前の由来は、ギリシャ語で『焼き焦がすもの』『光り輝くもの』を意味する『セイリオス』という言葉です」
へぇ……と僕は素直に感嘆した。確かに、シリウスならば知っている。それが最も明るく輝く星だということまでは知らなかったが。
「……プロデューサー。今、シリウスは見えませんね?」
「ん? ああ。いや、僕にはわからないけれど、そうなんだろう?」
「ダー。今は、まだ、見えません」
そう言って、アナスタシアは僕に近付いて、僕の手をとった。
「……アナスタシア?」
いきなりどうしたのか。そう思って僕は訊ねた。しかし、アナスタシアは僕の手をとったまま、離そうとしない。僕の手をとって、顔をうつむかせている。
「……プロデューサー。私は、何の星だと思いますか?」
顔を伏せたまま、彼女は言った。僕の手をしっかりと握りしめて、言ったのだ。
その時になってようやく、僕はアナスタシアの言いたいことを理解した。
そうか、そういうことなのか。これが――これこそが、アナスタシアの決意なのか。これこそが、アナスタシアの覚悟なのか。
「――シリウス」
僕はアナスタシアの手を握り返し、彼女の目の前に立って言った。
「アナスタシア。君は、シリウスだ。今はまだ見えないが――すぐに、見えるようにしてみせる」
アナスタシアは顔を上げた。その顔には、ほんの少しの不安と、歳には不相応とも言えるほどの覚悟があった。
「そのために……これから、ともに歩いていこう。約束だ」
「……ダー。約束、です」
改めて、僕たちはしっかりと互いの顔を見据えて、固い握手を交わした。
満天の星空の下。固い、固い、誓いの握手を。
29: 2017/04/19(水) 18:44:23.37 ID:nhXCd10e0
*
女子寮に着く頃にはもう夜も遅い時間になっていた。
「すまないな、こんなに遅くなってしまって」
時計を確認して僕は言った。こんな時間になってしまっては、もう寝ることくらいしかできないだろう。
「いえ、私が頼んだこと、ですから」
アナスタシアは言ってくれたが、それでも、ここまで遅くなるならば何か別の方法もあったはずだ。何の考えもなしに気軽に了承してしまった僕に落ち度がある。
「それに、プロデューサーと食事もできました。一緒に食事をすることは大事、ですね」
「……それに関しては、もっと良い店に行ければ良かったんだけどね」
帰る時間には女子寮の食堂も閉まっている時間だと思われたので、僕はアナスタシアと食事をした。しかし、さすがに急なことだったので良い店を探す時間もなかった。
知り合いに聞こうにもちょうど用事中だったらしく連絡が付かず……とりあえず、アナスタシアの好物が肉じゃがということだったので、僕が知っている肉じゃがが食べられる店に行ったが、アナスタシアのような少女を連れて行くようなところではなかったな、と今でも思う。
居酒屋にまだ高校生にもなっていない少女を連れて行くなど……我ながら、考えられない話だ。
「? とても良いお店、でしたよ?」
アナスタシアは不思議そうにそう言った。これはこれで本心なのだろう。
北海道やロシアではあのような店に行ったことはなかったらしく、物珍しそうに周囲を見回していたし、何やら興奮してもいた。
味は確かな店だったから料理もおいしそうに食べていたし……だが、それでも、女子高生を連れて行くような店ではないことは確かだ。
「ありがとう。……まあ、気に入ってくれたのなら、嬉しいよ」
かと言って、満足しているアナスタシアにわざわざそんなことを言う必要もない。
またこのような機会があるかどうかはわからないが、その時のためにもアナスタシアのような女性を連れて行ける店を調べておかなければならないな、と思う。
――そう言えば、彼女にも同じようなことを注意されたな。
僕はある少女のことを思い出した。今回と同じような状況で、居酒屋ではない、適当な店に入ったのだが……アナスタシアとは違って、彼女はしっかりと文句を言ってきたな、と思う。
「女性と食事をするのに、こんなところに連れてくる? 本当に、Pさんはダメなんだから♪」なんてからかってきた。
同時に「まあ、私はPさんがそういう人だって知ってるからいいけどね」とも言ってくれたが。
……まだ、たった数ヶ月前のことなのか。僕は思う。
今、彼女はどうしているだろう。元気にしていることは知っている。活躍していることも知っている。
だが、あの時から、もう会っていない。まだ数ヶ月も経っていないはずなのに、どうしてか、ひどく昔のことのように感じる。もうずいぶんと、会っていないような――
30: 2017/04/19(水) 18:44:55.86 ID:nhXCd10e0
「……? 誰か、いますね」
アナスタシアが言った。その言葉に僕はアナスタシアの視線の先――女子寮の、前を見る。
そこには、一人の少女が立っていた。
一人の少女が、僕たちの方を見て、立っていた。
「ずいぶん遅かったね。こんな時間まで、二人で何をしてたの?」
どこか棘のある調子で、彼女は言った。それはこちらの台詞だ。どうして君が、こんな時間に……。
「私はあなたたちを待っていただけだよ。何時になるかはわからなかったけれど……今日の内に、会っておきたかったから」
そう言って彼女は僕から視線を外し、アナスタシアを見た。その刺すような視線を、アナスタシアは真っ向から見つめ返す。
「あなたが、アナスタシアちゃん? ……新しい、Pさんのアイドル、ね」
「……そう言うあなたは誰、ですか?」
アナスタシアは言った。攻撃的とも思える視線に怯むことなく、真っ向から立ち向かっていた。
「あ、確かに自己紹介がまだだったね。――Pさん、せっかくだから、説明してよ。『いつもみたい』に、さ」
彼女は僕に笑いかけた。アナスタシアに対する攻撃的なものとは対照的に、優しく、朗らかに。
「プロデューサー……?」
アナスタシアはここに来て初めて不安そうに僕を見た。僕と彼女の関係はどういうものか。彼女はいったい、どういう存在なのか……それを、尋ねる視線だった。
「……わかった。紹介するよ」
そして、僕は口を開いた。
「彼女の名前は北条加蓮。……アナスタシア。君の前に、僕が担当していたアイドルだ」
第三話「約束」
引用: アナスタシア「Сириус」



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