31: 2017/04/19(水) 18:47:28.94 ID:nhXCd10e0
バンプレスト アイドルマスター シンデレラガールズ ESPRESTO Shining materials スターリーブライドのアナスタシア
32: 2017/04/19(水) 18:49:14.28 ID:nhXCd10e0

 事務所。

「アナスタシア……ねぇ」

 部長も同席している中、一人の男がぼやいた。

「あの北条加蓮を差し置いて、プロデュースする価値があるのかどうか」

 彼は現在の北条加蓮のプロデューサーであった。『名目上は』という枕詞は必要だったが。

「彼が『ティン』ときたんだ。それを信じてやるのが私たちの仕事じゃないかね?」

 くつくつと笑いながら部長は言って、湯のみを手にとった。しかしその中身は既になく、ふぅと落胆の息を吐きながら湯のみを置いた。

「その『ティン』っていうのが俺にはよくわからないんですよ」ぶすっとして男は言った。「そんな直感で重要なことを決めるなんて……」

「確かに、君はそうかもしれないね」部長は言う。「君は直感に頼らない方がいいだろう」

「……どういうことですか」

 男は部長の真意を探るようにして訊ねる。しかし、部長は鷹揚に笑い、

「信じるものが違う、ということだよ。君は今のままでいい。そのやり方を今更曲げるわけでもないだろう?」

「……それは、そうですけど」

 腑に落ちない、といった様子で男は言った。そんな彼に部長は苦笑し、

「まあ、北条くんのプロデュースを辞退したことも、彼なりに考えてのことなんだよ。彼なりに、北条くんのことを考えてのことだ」

「……考えて、ですか」

 男は言う。加蓮のことを思い浮かべて……加蓮とPのことを、思い浮かべて。

「……部長、確かに、部長の『ティン』ときた、というのはすごいものなんだと思いますよ。実際、あいつは『あの時期』の北条加蓮のプロデューサーを務めきった。それはすごいことですよ」

 男は言う。自分では絶対に無理だった。そんな確信すら抱いているのに、彼は彼女のプロデュースをきっちりとこなした。
一年間という短い期間ではあったが――確実に、強固な信頼関係を築いていた。
 だからわかる。Pが加蓮のことを蔑ろにするわけがないと――あの頃の二人の関係を知る者ならば、それがわからないはずがない。

 しかし、それでも――だからこそ、納得いかなかったのだ。
 男は続ける。

「あいつが北条のことを――北条の実力と自分の経験、プロデュース能力が見合っていないことを考えて北条のプロデューサーから降りたことはわかっています。でも、それでも、北条にはあいつが必要だった……そんなことがわからないなら、それは、もう……」 

 男は熱くなっていた。現在、加蓮を担当しているプロデューサーは彼であったが、だからこそ、思うところがあったのだ。
 確かに加蓮はPがプロデュースする前に比べればずいぶんと接しやすくなった。
 Pがプロデューサーから降りた直後はどうなるかと思ったが、そんな心配はいらなかった……少なくとも表面上は、そう思えた。

 しかし、その奥では?
 北条加蓮は現在この事務所の中でも人気の高いアイドルだ。それはPがプロデュースする前からそうだった。
 加蓮がある時期『プロデューサー不信』とも言えるような状態になった原因であるプロデューサーの力もあって、実力だけならばトライアドプリムスの残り二人――渋谷凛と神谷奈緒にも匹敵するほどの実力の持ち主だった。
 そんな彼女が得意とするものの一つに『演技』がある。
 そんな彼女の演技力ならば、表面を取り繕うことなど造作もないことだろう。その奥に秘めた感情を隠すことなど、造作もないことだろう。

 そして男は確信していた。北条加蓮は自らの心を隠している。
 彼もプロデューサーとしての経験はそこそこ長い。自分の担当しているアイドルが『何かを隠している』という程度はわかるのだ。
 今回のことに関しては、原因すらも――

「――本当にそうかな?」

 部長は言った。男はハッとして部長を見た。いったい何を言っているのか。北条加蓮にとってPが必要だったことなんて、当然の……。
 しかし部長は男の目から逃げない。真っ向から男の視線を受け取って、応える。

「北条くんにとって、彼が大切な存在だったことは確かだろう。私もそう思う。だが、『必要』かどうかは別の話だ。『北条加蓮』には必要だったのかもしれないが、『アイドル』としては……」

 そこで部長は一度言葉を止めた。止めて、笑った。

「まあ、本当にどうなのかはわからないがね。しかし、彼もそのあたりは考えたのだと思うよ。……私たちにはわからないことも、きっと、あるよ」

 そんな風に言われては、男に返す言葉はない。
 しかし、ただ一つ、確かなことがあった。

「でも、北条がアナスタシアのことを知ったら絶対に面倒くさいことになりますよ」

 男は言った。部長は苦笑した。

「それは確かに、絶対だね」

 彼らはまだ、その『面倒くさいこと』が起きていることを知らない。

33: 2017/04/19(水) 18:51:45.90 ID:nhXCd10e0

      *

「そうそう、つまり、私はあなたの先輩、ってことになるね」

 くすくすと笑いながら加蓮は言った。……読めない。加蓮が何を目的にしているのか、僕は掴みかねていた。どういう目的で、こんなことをしているのか。

「カレン……先輩、ですか」

「うん、先輩先輩。……なんか先輩って響き、いいね。好きかも。ねぇねぇアナスタシアちゃん、『加蓮先輩』って呼んでみてくれない?」

「カレン、先輩?」

「きゃー!」加蓮は嬉しそうに頬を抑えた。「Pさん、私、先輩って言われちゃった。先輩……先輩だって♪」

 ……読めない。いったいどういうことだ。ついさっきまでは攻撃的な姿勢をしていたのに、今はもう、これだ。加蓮は何を考えているんだ? いったい、何を……。

 それはアナスタシアも同じようだった。加蓮が何を考えているのかわからず、不思議そうにしている。
 僕ですら今の加蓮が何を考えているのかわからないのだ。アナスタシアの戸惑いは僕のものよりもずっと大きいものだろう。

「この呼び方、いいなぁ……あ、アナスタシアちゃん。私は今、あなたのことをこう呼んじゃっているけど、普段はなんて呼ばれているの? 私はなんて呼んだらいい?」

 アナスタシアは戸惑いながらも答える。「普段はアーニャ、と呼ばれています。ですが、呼び方はなんでも構いません」

「なんでもいいの? それじゃあ……」加蓮は少しだけ考えて、言った。「アーニャちゃん! アーニャちゃんって呼ばせてもらうね。それでもいい?」

「ダー」アナスタシアはうなずき、すぐに訂正する。「はい、構いません」

「ダー……」加蓮はアナスタシアの言葉を反芻する。「『ダー』っていうのは、ロシア語?」

「ダ――はい。ロシア語で、『イエス』ですね」

「へぇ……そうなんだ。つまり、バイリンガル?」

「いえ。英語も話せますから、トリリンガルです」

「トリリンガル……」加蓮は驚いた様子を見せた。「すごいね、アーニャちゃん」

「スパシーバ。ありがとうございます」

 最初の態度はどこへやら、加蓮はすっかりアナスタシアに親しげに接しており、アナスタシアもまた、加蓮に心を許していっているようだった。
 そして、だからこそ不気味だった。

 ……加蓮。君はいったい、何を企んでいる?

 僕の訝しむような視線に気付いたのか、加蓮はこちらを見た。そして、微笑んだ。

34: 2017/04/19(水) 18:53:05.71 ID:nhXCd10e0

「Pさん。アーニャちゃん、とっても良い子だね」

「……ああ。僕もそう思う」

 それは確かだ。アナスタシアはとても良い子だ。……良い子過ぎて、心配になるほどに。

「私よりもよっぽどプロデュースしやすいんじゃない? Pさんと初めて会った時の私は……結構、荒れてたしね」

 えへへ、と恥ずかしそうに加蓮は笑った。確かにアナスタシアと比べれば、初めて会った時の加蓮は荒れていた。だが、

「年頃の女子高生なんだ。あんなものじゃないか?」

 加蓮が特別荒れている、ということもないだろう。あの時の僕は新人であったし、そんな特別荒れているようなアイドルを任せられるとは思えない。

「……うん、Pさんは、そういう人だよね」

 加蓮は言った。どういうことだ? 僕は加蓮の言っていることの意味がわからなかった。だが加蓮はその答えを言うことなく、続ける。

「Pさん。アーニャちゃんは、たぶん……ううん、きっと、絶対に、すごいアイドルになると思うよ。今、すごいアイドルである私が保証してあげる」

「すごいアイドルって……自分で言うか?」

「言うよ。だって、すごいアイドルなんだもん。……Pさんが育ててくれた、アイドルだよ」

「それは僕じゃない」僕は加蓮の言葉を否定する。「僕の前任のプロデューサーのおかげだ」

「……それはあんまり認めたくないけど、まあ、歌やダンスはそうかもね」

 少しだけ顔を歪めて加蓮は言う。
 僕が担当した時、加蓮は既に人気アイドルだった。それは間違いなく僕の前に彼女を担当していたプロデューサーによるものだったのだが、ただ一つ、性格の面でそりが合わなかったらしい。
 そのため、加蓮は僕の前任のプロデューサーに対して未だに良い感情を抱いていない。
 ……これでも、昔よりはずいぶんと丸くなっているのだが。

「でも」と加蓮は僕を見る。「アイドルとしていちばん大事なことは……貴方が、教えてくれたんだよ」

「そんなことは」

「あるの。……容姿が良くても、歌が上手くても、ダンスが上手くても――それだけじゃ、アイドルにはなれない。そういう意味では、私はきっと、Pさんに会うまではアイドルじゃなかったんだと思う」

 ……加蓮の言葉の意味がわからないわけではなかった。だが、僕がそれを教えたとはどうしても思えなかった。むしろ、僕が……。

「……ねぇ、Pさん。さっきも言ったけど、アーニャちゃんは、必ず、すごいアイドルになると思うよ」

 何も返さない僕に向かって、加蓮は言った。


「そう――Pさんがプロデュースしなくても、ね」


 そう言って、加蓮は微笑んだ。
 その微笑みは、優しく可憐で――残酷で。

 一瞬――ほんの一瞬だけ、僕はその言葉に退きそうになった。
 その言葉は、きっと、事実で……僕がプロデュースしなくても、アナスタシアがトップアイドルになるだろうことは想像に難くなかった。
 むしろ、僕ではない、もっと実績のあるプロデューサーの方が……そう、思いかけてしまった。

35: 2017/04/19(水) 18:54:59.52 ID:nhXCd10e0

 しかし。

「……加蓮。それは、君の言う通りかもしれない」

 僕は言った。その瞬間、加蓮は「じゃあっ」と口を開き――その前に、僕は続けた。

「だが、それでも――僕は、アナスタシアをプロデュースしたいんだ。他の誰でもない、僕が、トップアイドルにしたい。……そう思った、アイドルなんだ」

 たとえ、僕の他に適任がいたとしても。
 僕よりもずっとプロデュース能力が高い人間がいたとしても。

 それでも――彼女は譲れない。彼女だけは、譲れない。
 彼女は僕がプロデュースすると決めたんだ。僕が輝かせると決めたんだ。
 自分勝手と言われてもいい。そんな感情で一人の少女の人生を変えるのかと言われればそうだと言ってやる。
 他の誰にも任せておけない。他の誰にも背負わせてなんてやるもんか。

 この責任は、僕のものだ。

 それだけは、絶対に譲れない。

「……そっか」

 僕の目を見て、加蓮は言った。……とても、とても、寂しそうに。

「Pさんにとって、アーニャちゃんは、そんなに……」

 顔をうつむかせて、ぽろぽろと、溢れた水がこぼれる時のように、言葉を漏らす。

「……Pさん。私が……私が言おうとしたことは、さ。アーニャちゃんは誰がプロデュースしてもすごいアイドルになれるけど、私は違うってことなんだよ。私はPさんじゃないと……Pさん以外のプロデューサーじゃダメ、って。そう言おうと思ってたんだ」

「それは――」

「違う」僕の言葉を先取りするように加蓮は言った。「でしょ? ……うん。わかってる。実際、今の私はアイドルをやれているからね。Pさんが居なくても、アイドルをやれてる……それは、事実だから」

 そして、加蓮は顔を上げて、僕を見た。見て、笑った。

「だから、作戦変更♪ ……Pさん。アーニャちゃんがそんなに魅力的なら――どうしてもプロデュースしたいアイドルだって言うんなら、私は、その上を行くよ。Pさんが、絶対にプロデュースしたいって……そう思うようなアイドルに、なってみせる」

 そのまま加蓮はアナスタシアの方を向いて、その手を差し出した。

「ということで、アーニャちゃん。これからは私たち、先輩後輩で――ライバルだから。これから、よろしく」

 アナスタシアは差し出されたその手を見て、加蓮の顔を見て。

「ダー。これから、よろしくお願いします」

 嬉しそうに、笑った。


36: 2017/04/19(水) 18:55:59.10 ID:nhXCd10e0

       *

「……なんか、締まらないなー」

「締まらないって、何がだ?」

「いや……ライバル宣言した後って、格好良く去りたいでしょ? それなのに、送ってもらう、って……」

 はー、と加蓮はわざとらしく溜息をついた。……まあ、その気持ちもわからないでもない。
 しかし、さすがに年頃の少女をこんな夜にひとりで帰らせるわけにはいかないだろう。

 あの後、アナスタシアは女子寮に帰ったのだが、加蓮はそういうわけにはいかなかった。
 あの時間でも申請すれば女子寮に泊まることもできたのだが、その場合、僕ではなくアナスタシアと二人で女子寮に行くことになる。
 それはさすがに格好がつかないにもほどがあるので、妥協して僕に送ってもらう、とのことだった。
 ……と言っても、加蓮はなかなか僕が送ることを了承せず「送る」「大丈夫」「送る」「大丈夫」というやり取りを何度もしてアナスタシアに笑われたのでその時点でもう格好も何もないとは思うが。

「……でも、アーニャちゃん、本当にかわいいね。良い子だし。だからこそ、最後のアレはちょっとびっくりしたかも」

 思い出すようにして加蓮は言った。「最後のアレ?」それが何を指すのかわからなかったため、僕は訊ねる。そんな僕に加蓮は指を立てて答える。

「ほら、ライバル宣言の後の。……まさか、笑ってくるなんて。もしかして、アーニャちゃん、結構闘争心強い?」

「さあ?」

「さあ、って……」加蓮は呆れるようにして言う。「しっかりしてよー。アーニャちゃんのプロデューサーなんでしょ?」

「そうだけど、実際に喋ったのは両手で数えられるくらいの日数だからなぁ……まあ、僕からすれば意外ではなかったが」

「へー……」そう言って加蓮は口を尖らせた。「なんか、むかつく」

「は? どうして」

「むーかーつーくーのー」そう言いながら加蓮は僕の腕を持って振り回した。……鬱陶しい。鬱陶しいが……。

 ふっ、と思わず笑みがこぼれた。「む」それを見逃す加蓮ではなく、自分がむかついているって言ってるのに何を笑っているのかと責めるように睨まれる。

「いや、べつに加蓮をバカにしているわけじゃない」

 それは誤解だと言うために僕は言う。しかし加蓮は納得せず、

「そう言うってことはバカにしてるってことでしょ。……もう」

 そう言ってそっぽを向いた。……すっかり機嫌を損ねてしまったらしい。
 あまり言いたくはなかったが、これから加蓮の家に着くまでずっとへそを曲げられては家で何を言われるかわかったものではない。僕は自分が笑ってしまった理由を言うことにした。

「……加蓮。さっき笑ったのは、その……嬉しかったからだよ」

「……嬉しい?」加蓮は唇をへの字に曲げたまま言う。「私がむかついているのが?」

「そうじゃない。……その、つまりだな」

 そこで僕は詰まってしまう。なんだか、恥ずかしい。
 アナスタシアには色々と恥ずかしいことも言えるのだが、加蓮にそういうことを言うとからかわれる可能性が高いのだ。
 だから、あまり言いたくない。

 だが――僕は加蓮の顔を思い出す。さっきまで、アナスタシアと一緒にいた時の加蓮の顔。その時の彼女の笑った顔。何かを隠すように、笑った顔。
 ……あんな顔を、させるくらいなら。

「加蓮。君とこんな風に話せることが、嬉しかったんだよ」

 加蓮の目をまっすぐに見て、僕は言った。「えっ」と加蓮は固まり、ぼっと顔が赤くなる。

「……い、いきなり、そんなこと、言わないでよ」

 そう言って加蓮は僕から顔を隠すようにしてそっぽを向く。……そんな彼女を見ていると、僕もなんだか恥ずかしくなってきた。
 顔が熱い。きっと、今、僕の顔は真っ赤だろう。

「……でも、うん、私も……私も、嬉しい」

 そっぽを向いたまま、小さな声で、恥ずかしそうに、加蓮は言った。……そんなことを言われると、さらに顔が熱くなってしまう。顔から火が出るとはこのことか。

 四月。春とは言っても、まだ夜は少し寒い。その寒さが一刻も早く顔を冷ましてくれることを僕は願った。できれば、加蓮が僕の顔の赤みに気付く前に。
 それから数分以上、僕たちは互いにそっぽを向いて歩いていた。
 お互いに、自分の顔を見られないように。

 自分の心を、悟られないように。


37: 2017/04/19(水) 18:57:01.58 ID:nhXCd10e0

      *

「……じゃあね、Pさん」

 加蓮の家の前。彼女は言った。加蓮のご両親にあいさつしておきたがったが、「いいよ、もう」と断られた。
 それでもどうか、と思ったのだが、「顔を見られたら、ウチに泊まらせられるかもよ?」と言われて折れた。ご両親なら確かにしかねない。そう思ったからだ。

「今日はありがとね。私に、付き合ってくれて」

「いや、大丈夫だ。……原因は、僕にもあるからな」

「うん。それは否定しない」

 加蓮は得意そうに笑った。加蓮らしいな、と僕は思う。

「……ねぇ、Pさん」

「なんだ?」

「必ず、振り向かせてあげるから」

 加蓮は言った。強い、強い覚悟がこもった目。

「……僕も」

 そんなことを言われては、応えないわけにはいかない。

「必ず、証明してみせる。僕こそが、アナスタシアのプロデューサーなんだって」

 僕は加蓮の目を見た。まっすぐに、見つめた。
 まっすぐに、熱く、見つめ合って……そして、加蓮は言った。

「じゃあ、Pさん。またね」

「ああ。また」

 そうして、僕は加蓮から背を向けて歩き始めた。
 十数歩ほど歩いた時、加蓮が僕を呼んだような気がした。

 僕は振り返らなかった。


38: 2017/04/19(水) 18:58:10.94 ID:nhXCd10e0

      *

 女子寮。

 アナスタシアは今日あったことを思い出していた。
 空港でプロデューサーと会い、女子寮に来て……そこで、色んなアイドルと出会った。
 本田未央、神崎蘭子、前川みく……それ以外にも、色んなアイドルと。
 それから、プロデューサーと星を見に行って……そして、女子寮の前で、北条加蓮と出会った。
 彼女はプロデューサーが前に担当していたアイドル、らしい。
 しかし、そんな言葉だけでは彼女たちの関係は表せない。彼女とプロデューサーの間には、いったい、どんなことがあったのだろうか。

 アナスタシアはそんなことを思った。そして、今日、自分とプロデューサーの間にあったことを思い出した。

「……アイドル」

 誰もいない部屋で、ひとり、アナスタシアは呟いた。
 今、夜空に星が見えることはない。
 しかし、それでも……。

「……輝く、星に」

 アナスタシアは胸の前でぎゅっと自らの手を握りしめた。

 今日の誓いを忘れないために。

 自分の中に、刻みこむために。

39: 2017/04/19(水) 19:00:59.52 ID:nhXCd10e0

      *

 翌日、事務所。
 僕とアナスタシアはその時に事務所に居た人たちにあいさつをした。
 部長や他のプロデューサー、たまたまそこにいたアイドル、千川さん……まずはそういった人たちにあいさつをして、それからアー写……アーティスト写真の撮影に行った。

「笑顔の方がいい、ですか?」

 撮影所、アナスタシアが言った。それにカメラマンの方がこちらを見た。
 プロデューサーである自分の判断に任せる、ということなのだろう。確かに普通なら笑顔の方がいいのかもしれないが……僕は言った。

「いや、いつも通り、自然にしていてくれ、アナスタシア」

「ダー」

 そして撮影は終了。ほとんど一発オーケーであった。
 あんまりにもすんなり終わるものだから一度笑顔の写真も撮ってみよう、と提案されたのでアナスタシアに言うと、アナスタシアは笑顔をつくった。
 ……とりあえず、アナスタシアは作り笑顔が苦手らしい、ということがわかった。

 ――あとで調べてみたのだが、ロシアでは『作り笑顔』という文化があまりないらしい。
『本当に幸せだったり嬉しかったり面白かったりした場合』だけしか笑わないようだ。
 そんなアナスタシアが『笑顔の方がいいですか』と訊ねた理由は……おそらく、彼女なりに勉強してきた、ということだろう。もしかすると作り笑顔も練習してきたのかもしれない。
 練習して『アレ』ならばアナスタシアには無理に笑顔を作らないように言っておかなければならないが、そもそも彼女はよく笑う子だから大丈夫だろう。……たぶん。

 次はレッスン室だ。アナスタシアがどれほど動けるのかを確かめる必要があった。最初にどれほどできるのかは人それぞれである。
 歌やダンスといったものはアイドルにとって重要であり、僕の考えているプロデュースにおいては必要不可欠と言っても過言ではない。
 ……まあ、今日の出来によっては考え直す必要があるかもしれないが。

「あ、Pさん……と、あなたがアナスタシアさんですね」

 レッスン室の前。アナスタシアと同年代……もしくは年下と言っても通じそうな外見の女性がこちらを向いて言った。

「ああ。今日はよろしく、ルキちゃん」

 僕は言った。彼女は今日アナスタシアのレッスンを見てくれるトレーナーである。『ルキちゃん』というのは彼女の愛称のようなもので、トレーナーの『ルーキー』であることからそう呼ばれている。

「ルキちゃんって……Pさん? こっちもルキくんって呼んでもいいんですよ?」

「君にならどう呼ばれてもいいよ、ルキちゃん」

「だーかーらー!」

 しかし、彼女自身は『ルキちゃん』と呼ばれることをあまり許したくはないらしい。かと言って、

「じゃあ、トレーナーさん」

 と呼ぼうとすると、

「……それはちょっと、他人行儀過ぎませんか?」

 などと言うのだ。もうどうしようもない。

40: 2017/04/19(水) 19:02:59.64 ID:nhXCd10e0

「……ルキ?」

 アナスタシアが首を傾げて言った。……ルキちゃんの名前を本当に『ルキ』だと思っている恐れがあるな。僕は思う。だが、べつにいいだろう。僕は彼女を紹介することにした。

「アナスタシア。こちらはルキちゃん。ウチの事務所専属で、自慢のトレーナーだ。僕と同じくらいまだまだ新人だが、実力は僕が保証する。そして、ルキちゃん。こちらはアナスタシア。前に話した子だ。これからお世話になると思う。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします、ルキ」

 僕が軽くお辞儀をするのに、アナスタシアも続いてルキちゃんに向かってお辞儀をした。
 するとルキちゃんも慌ててお辞儀をして、「こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」と言った。……アナスタシア、完全にルキちゃんのことを『ルキ』と呼んでいるな。

「それでは、アナスタシアさん。レッスン着に着替えて、レッスン室に来て下さい」

「ダー」アナスタシアは言って、すぐに訂正した。「はい。わかりました」

 そしてアナスタシアは更衣室へ入って行った。それを確認すると、ルキちゃんは口を開いた。

「……すごく、綺麗な子ですね。ロシア人とのハーフ、でしたっけ」

「ああ」僕は言う。「今月、高校に入学する」

「……や、やっぱりハーフの人は大人びてますね」

「君が童顔なだけだと思うよ」

 そう言うと、ルキちゃんは無言で僕の横腹をつついてきた。「痛っ、結構痛いっ」結構痛かった。「女性に失礼なことを言うからですっ」ルキちゃんは唇をつんと尖らせて言った。

 僕とルキちゃんは同じ頃に事務所に所属したこともあって親しい仲にあった。
 加蓮を除けば最も親しいだろうし、あるいは加蓮よりも親しいかもしれない。その程度には深い信頼関係を築けていると思う。
 少なくとも今のように冗談を言ったりからかったりしてもこの関係が変わったりすることはないと確信できる程度には親しい仲だ。

「お待たせしました、プロデューサー、ルキ」

 そう言ってアナスタシアが現れた。ルキちゃんは言った。

「それじゃあ、始めましょうか」

41: 2017/04/19(水) 19:03:31.21 ID:nhXCd10e0

      *

 レッスンが終わり、アナスタシアはまた更衣室へ。
 その間、僕はルキちゃんとアナスタシアについて話していた。その、才能について。

「……これは確かに、すごいですね」

 ルキちゃんは言った。感嘆している、といった様子だった。

「さすがはPさんがスカウトしてきただけある、という感じです。……まだ一日目なのに、教えたことをスポンジのように吸収していく。今日は、ちょっと力を見るだけのつもりだったのに……」

 彼女は僕よりも遥かに多くのアイドルを見ている。その中には新人アイドルも多く含まれることだろう。そんな彼女をしてこう言わせる……それが、どういう意味を持つのか。僕にも、わからないわけではない。

 僕は今まで加蓮以外にプロデュースしたことがない。そして、僕が受け持った頃の加蓮は既に実力だけなら相当のものを持っていた。だから、僕は新人アイドルというものをあまり知らない。

 そんな僕でも、アナスタシアの特異性がわからないわけではなかった。『新人アイドル』という枠ではわからないが、『アイドル』という枠全体でなら……そして、その『アイドル』という枠の中でも、アナスタシアは『異常』と言っていい存在だったように思えた。

 最初から上手く歌えたわけではない。最初から上手く踊れたわけではない。
 何度も失敗していたし、体力もそれほどある方だとは思えなかった。

 だが――ルキちゃんが言った通り、彼女は教えたことをスポンジのように吸収していった。
 間違いを指摘されれば素直に応じ、修正する。それが上手くいかなければまた修正。
 それも、それを楽しそうにするのだ。

 最初から上手くできること――それは、そこまで重要なことではない。
 重要なのは、成長できること。
 成長したその先の姿が、どんなものか。
 そして、アナスタシアのそれは……。

「……ルキちゃん」

 僕は口を開いた。これならば……僕は頭に描いていたプランを修正する。
 どういう風にどういう時期にどういう展開をするか。そのプランを修正する。
『もしもあまり良くないようであれば』という可能性は考えていた。だが、逆は考えていなかった。
 そう、考えてはいなかったのだ……そのはずなのに、僕はすぐにどのように修正するのかを決めることができた。

 たぶん、それは元々のプランが『妥協』だったから。
 理想と現実は違う。僕でもそれはわかっている。だから、僕は最初から『これくらいなら』という程度でプランを構築していた。
 アナスタシアがそこそこ歌を歌えて、そこそこダンスが踊れる……その程度のレベルで、考えていた。
『さすがにこれは無理だろう』と考えて、最初から『妥協』でプランを構築していたのだ。

 故に、その妥協を消すだけで――アナスタシアにふさわしいプランが構築される。

「なんですか? Pさん」

 僕の呼びかけにルキちゃんは首を傾げた。僕は言った。

「アナスタシアのレッスン、基礎の基礎からみっちり叩き込んでくれ。アナスタシアの限界ギリギリまで……いや、限界すら無視して、壊れない程度に、みっちりと」

「……え?」

 ルキちゃんは呆けるようにして声を漏らした。いったい何を言っているのか。そんなことを思っていそうな顔だった。
 しかし、僕は答えなかった。……いや、答えなかったわけではない。どんな言葉よりも明確な答えを返したつもりだった。
 そんな僕を見て、ルキちゃんもまた、何も言わなかった。ぎゅっと自分の服を掴んで、僕の方を見ているだけだった。

42: 2017/04/19(水) 19:04:00.15 ID:nhXCd10e0

 そして、着替えの終わったアナスタシアが来た。

「……プロデューサー、ルキ、どうかしましたか?」

 僕たちの様子に何かを感じ取ったのだろう。心配するようにして彼女は言った。

「心配することはない。君のことについて話していただけだ。そうだろう? ルキちゃん」

「……Pさん」

 ルキちゃんは僕の名前を呼んで、僕を見た。僕もまた、ルキちゃんを見た。目が合った。……それだけで、互いの思いは伝わった。

「……アナスタシアさん」

 ルキちゃんはアナスタシアに向かって言った。「なんですか?」アナスタシアは首を傾げた。

「明日からのレッスン……とっても厳しいものになると思う。それでも……」

 そこまで言って、ルキちゃんは言葉を止めた。僕は代わりにその言葉の続きを言おうとした。だが、

「ダー。その覚悟なら、できています」

 アナスタシアは言った。

「プロデューサーは言いましたね? アイドルは辛く苦しいもの。それがわかっていて、私はここに居ます。だから、もう覚悟はできています」

 まっすぐに、ルキちゃんの目を見て、彼女は言った。
 そして、彼女のその目を見て……ルキちゃんはいきなり、パン! と両手で思い切り自分の頬を叩いた。

 突然のその行動に僕とアナスタシアはぎょっとした。しかし、ルキちゃんは目の端に涙を溜めながらも「……いちばん覚悟が足りなかったのはわたしみたいですね」と笑い、ビシッとアナスタシアを指差して、言った。

「アナスタシアさん、覚悟しておいて下さいね? 今からわたしは、姉さんたちよりも厳しくいきます!」

 頬は赤く、涙目で……しかし、まっすぐなその言葉に、アナスタシアは力強く答えた。

「ダー! 望むところ、です」

 それを受けるルキちゃんは笑顔であり、アナスタシアもまた笑顔だった。

 しかし数秒後、ルキちゃんは「……痛い」と自分の頬を両手で包み、アナスタシアはそんな彼女を「大丈夫ですか? ルキ」と心配していた。
 最後の最後で締まらないな。僕はそんなことを思いながら、これからのことを考えていた。

 ……さて、これからは僕が頑張る番だ。


第四話「スタートライン」


引用: アナスタシア「Сириус」