96: 2017/04/19(水) 20:29:13.96 ID:nhXCd10e0
バンプレスト アイドルマスター シンデレラガールズ ESPRESTO Shining materials スターリーブライドのアナスタシア
97: 2017/04/19(水) 20:29:51.80 ID:nhXCd10e0

 北条加蓮は病弱な少女だった。
 小さい頃から入退院を繰り返し、学校は休みがち。同世代の友人なんていなかった。
 その頃の彼女にとって、世界とは灰色の病室とテレビの中のきらきらした世界だけだった。

 だから、彼女はテレビの中の世界に憧れた。

 自分のいる場所とは違う、きらきらした世界。笑顔がたくさんで、希望に満ち溢れた世界。
 その中でもいちばんにきらめく存在――アイドル。
 歌って、踊って、見ている者たちを――彼女のことを、元気にしてくれた存在。
 彼女にとっての希望の象徴。
 だから、北条加蓮はアイドルに憧れた。

「お母さん、私、アイドルになりたい」

 そんな彼女が自らの親にそんな希望を口にしたことはおかしいことではないだろう。
 テレビの中のアイドルに対して目をきらめかせてそう言った彼女に、加蓮の母は一瞬だけ目を見開かせて、

「……そうね。加蓮ならきっと、アイドルになれるわ」

 すぐにそう言って加蓮のことを抱きしめた。

「お母さん?」

 どうして、いきなり抱きついてきたんだろう。

 加蓮は思った。その理由に関してはわからなかったが、母がなんだか悲しんでいるらしいということはわかった。
 だから、加蓮は安心してと言うように、母のことを抱きしめ返した。
 加蓮の母は娘のその行動に何も言わず、何も言えず、ただ抱きしめる力を強めた。

 そんなことがあって、しかし、翌日からも加蓮の世界には何の変化もなかった。
 きらめく世界に憧れていた彼女の世界は、何も変わることがなかった。

 最初はアイドルになるためにはどうすればいいんだろう、と色々考えた。
 歌を練習しようとした。ダンスを練習しようとした。

 でも、身体がそれを許さなかった。
 元気になれば……そう思った。元気になれば、元気にさえ、なることができれば……。
 彼女はなおも希望を捨てなかった。アイドルになることをあきらめなかった。
 ……最初は、そうすることができた。

 一年経った。
 彼女の世界は変わらなかった。

 さらに一年経った。
 彼女の世界は変わらなかった。

 一年、また一年……また、一年。
 病室の中、ただ漫然と流れていく日々。

 彼女は、何もできなかった。
 努力することも、挫折することも、成功することも。
 努力する機会すら、彼女には与えられなかった。
 ずっとずっと、変化のない日々。小さな箱に映ったきらめく世界の中だけが目まぐるしく変化していく。でも、彼女の世界は変わらない。

 何もなかった。
 何もなかったから、あきらめた。

 手を伸ばすことすらせずに――手を伸ばすことすらできずに。
 最初の一歩すら許されずに。
 北条加蓮はアイドルになることをあきらめた。

 彼女は、夢をあきらめた。



98: 2017/04/19(水) 20:30:22.58 ID:nhXCd10e0

      *

 高校生になった頃、加蓮はもう入退院を繰り返すような少女ではなくなっていた。
 他の人に比べて体力はなかったが、それくらい。病弱というほどではなかった。

 小さい頃にはできなかったことをいっぱいした。髪を染めたり、ネイルをしたり。普通の女子高生らしいことをいっぱいした。
 最初は『普通の女子高生らしいこと』をしようと形から入っていただけだったが、いつの間にか、加蓮は本心からそういったことを好むようになっていった。
 メイクやオシャレといった趣味を楽しんでいると、同じくそういったものが好きな同世代の友人もできた。
 昔の加蓮が思い描いていたような関係ではなく、なんとなく、一緒にいて楽しいから一緒にいるというような関係だったが、それでいいと思った。
 表面上だけの関係だったとしても、表面上が楽しかったならそれでいい。

 加蓮はそうやってすべてを割り切って考えられるようになっていた。彼女はそれを成長したと考えていた。
 大人になったとまでは思わなかったが、夢や希望を信じる無垢な少女ではなくなった。そんな、愚かな存在ではなくなった。そう思っていた。
 何にも期待せず、夢を抱かず、ただ、今を楽しめればいい……。
 そんな風に、加蓮は日々を過ごしていた。
 そして、いつも通りファストフード店で友人たちと喋っていたある日。

「――アイドル事務所のオーディション、だって。みんなで応募してみない?」

 なんでもないように、友人の一人が言った。その言葉に加蓮だけが固まり、他の友人たちは「面白そう」と反応を示した。
 それはいつも通りの、ちょっとした提案だった。ちょっと興味が出たから、ちょっとやってみないか。特別な思いも何もない、ただの提案。
 みんな乗り気だった。加蓮以外の、みんなが。そんな中、加蓮だけが応募しないなんてことはできなかった。加蓮は『付き合い』というものを覚えてしまっていた。
 結果として、加蓮は友人と一緒にアイドル事務所のオーディションに応募することになった。

「加蓮とか、めちゃくちゃかわいいし、本当にアイドルになったりしてね。その時はサイン、よろしくね♪」

 加蓮の思いなんて知るはずもない友人たちはそんなことを言った。そこに悪意なんてほんの少しもなかったが、その期待は、加蓮の心に影を落とした。

「……なれるわけ、ないよ」

 加蓮は答えた。そうだ、なれるわけがない。私が、アイドルなんて、絶対に……。

 だが、加蓮は書類選考を通過した。

「加蓮、すごいじゃん! このまま、本当にアイドルになったりして……私たち、応援してるからね!」

「……うん」

 友人の激励に、加蓮は力なく笑った。

「ありがとう」

 しかし、加蓮はアイドルになるつもりなんてまったくなかった。
 書類選考だけでアイドルになれるわけではなく、面接があった。

「どうしてこのオーディションに?」

 面接官が言った。加蓮は答えた。

「友達と一緒に、ノリで」

「アイドルになって何がやりたい?」

「そもそもノリで応募しただけだから、特に何も?」

「君のアピールポイントは?」

「小さい頃から病院にひきこもっていたから体力はないし、努力とかもできるタイプじゃないかな。何もないし、する気がない。以上。これでいい?」

「最後にもう一つ。――君は、アイドルになりたいか?」

「なりたくてもなれない、かな」

「これで面接は終わりだ。ありがとう」

「どういたしまして」

 はい、終わり。嘘を言ったつもりもないけど、わざわざ受かるつもりもない。今更アイドルに、なんて……そんなこと、ありえない。

 加蓮はそう思っていた。しかし、数日後、加蓮の家に合格通知が届いた。……なんで、今更。もしその合格通知が誰にも見つかっていなかったのなら、加蓮はそれをすぐに破いたことだろう。そうならなかったのは、合格通知を見つけたのが加蓮ではなく、加蓮の母親だったからだった。

 加蓮の母は驚いていた。加蓮は母にも言わずにあのオーディションを受けていたのだ。そもそも受かるなんて思ってなかったし、友達付き合いでやっていただけだし。
 しかし、母親にバレた、というのが悪かった。加蓮の母は目に涙すら浮かべてよろこんでいた。加蓮のことを力いっぱい抱きしめて、良かったね、良かったね、なんて嬉し泣きするのだ。そんなことをされて、今更『アイドルにはならない』なんて言えるわけがない。

 結果として、加蓮は事務所に行くことになった。アイドルになるつもり……は、なかった。母のこともあるから事務所には行く。でも、それだけ。どうせ、すぐに見限られる。そう思っていたから。

 ……そう、その時点では、そう思っていたのだ。

 あの二人に、出会うまでは。

99: 2017/04/19(水) 20:30:49.30 ID:nhXCd10e0

      *

「……もう。いったい、なんなの?」

 事務所。加蓮は苛立ちを隠すことなく、休憩スペースでジュースを飲みながらぼやいた。
 苛立ちの原因。それは数十分前にさかのぼる

「俺が君のプロデューサーをすることになった」

 事務所に来てまず通された部屋で、そこにいた男は開口一番にそう言った。
 いきなりのことで、加蓮は理解が追いつかなかった。プロデューサー? 私の? 何の説明もなしに、いきなり……。
 混乱する加蓮に、男は言った。

「……君は、自己紹介もできないのか?」

 その言葉で、加蓮の中で何かが切れた。

「北条加蓮。やる気もないし、あんたにそこまで言われる筋合いもない。……これでいい?」

 攻撃的な加蓮の言葉。しかし、男は顔色一つ変えず、

「そうか。だが、俺も仕事だ。君が何を言おうと勝手だが、今日はこの紙に書いてあるように動いてくれ」

 淡々と告げて、加蓮に紙を渡そうとする。彼の物言いが、さらに加蓮の心を混ぜ返した。

「それって命令、ってこと?」

「べつに命令じゃない。が、今日は相手もいる。君の同期と先輩、それからトレーナーさんが来る。彼女たちとレッスンをすれば、あとは勝手にすればいい。君が彼女たちに迷惑をかけたいと言うのなら別だがな」

 ……そんなの。

 加蓮は理解する。自分には、選択肢なんてない。もう行くしかないのだ。こんなの、命令と同じだ。いや、命令よりもなお悪い。そんな言い方、しなくたって……。
 加蓮は男からひったくるように紙を奪い、部屋を出ようとした。そんな彼女の後ろ姿に彼は「しっかりやってくれ」と言葉をかけた。

 苛立ちをそのまま足音に変えて、加蓮は廊下を早足で歩いた。頭はまったく冷えてこない。
 どうしてあんな言われ方をしなくちゃいけないのか。我慢しなくちゃいけないのか。

 そもそも、どうして合格なんてさせたのか。

 ……やっぱり、来なければよかった。加蓮は思う。気付くと、目の前には休憩スペースがあった。
 加蓮は何も言わず、カバンから小銭入れを出す。
 がこん。
 微炭酸のジュースを一口。言葉が漏れる。

「……もう。いったい、なんなの?」


100: 2017/04/19(水) 20:31:16.49 ID:nhXCd10e0

      *

 ジュースを飲んで少し頭を冷やしてから、加蓮はレッスン室に向かった。あの男の言うことはあまり聞きたくないが、他人に迷惑をかけたくもない。

「あ」

 レッスン室の前に、一人の少女が立っていた。歳は……たぶん、同年代。結構なくせっ毛で、目つきはちょっとキツ目。でもかわいい。そんな感じの女の子。
 加蓮の声に気付いたのか、その少女はこちらを向いた。「あ」彼女も同じように声を出した。加蓮と同じく、自分の担当プロデューサーから『同期がいる』とでも聞いていたのだろう。いや、もしかしたら、彼女は『先輩』なのかもしれないけれど。

「えっと……北条、加蓮です。今日、ここに入所……は、違うかな。所属? しました。あなたは?」

 さっきあの男に言われたからではないが、とりあえず加蓮は自己紹介をしておくことにした。

「あ、あたしは、奈緒。神谷奈緒だ。……えっと、その、あたしも、今日からここに所属する……その、あ、アイ……アイドルだ。よろしく」

 ……かわいい。『神谷奈緒』と名乗る少女に対して加蓮が最初に抱いたのはそんな感想だった。

「こちらこそよろしく。……ねぇ。私のことは加蓮でいいから、あなたのことは奈緒って呼んでもいい?」

「あ、ああ。いいぞ」

「そう? ありがと♪ それじゃ、よろしく、奈緒」

「……よろしく、加蓮」

 ……この子、すごくからかいたくなるなぁ。加蓮は思う。というか、かわいがりたくなる? 神谷奈緒……神谷奈緒、か。なんだか、この子とは仲良くなれそうかも。
 そんなことを思ってから、しかし、加蓮は奈緒もこの事務所に所属する『アイドル』になっているということを思い出した。

 ……短い期間かも、しれないけど。


101: 2017/04/19(水) 20:31:45.77 ID:nhXCd10e0

      *

 それから二人でレッスン室に入ったが、まだ『先輩』と『トレーナー』は来ていないようだった。よってその二人が来るまでの間、加蓮と奈緒は適当に話しておくことにした。
 加蓮は自分がこの事務所に所属することになった経緯を適当に話した。加蓮が話すと、奈緒も同じくこれまでのことを話してくれた。
 加蓮と違い、奈緒はスカウトされてアイドルになったようだった。一人のプロデューサーにスカウトされて……それでそのままこの事務所に、ということらしい。

「あたしがアイドルなんて、そんなのありえないー、って思ったんだけどさ。……あいつ、しつこくてさ」

 そう言って苦笑する奈緒の顔には、色んな感情が混ざって見えた。嬉しさや、不安……そういった、色々なものが。……奈緒も奈緒で、色々あるのかな。そう思いながらも加蓮はそのことを口には出さず、別のことを口にした。

「へぇ……でも、そのプロデューサーは有能だね」

「は? なんでだよ」加蓮の言葉に奈緒は不思議そうに言った。「あたしに声をかけたんだぞ? むしろ、見る目がないと思うぞ?」

「だからだよ」加蓮は笑う。「奈緒に声をかけたから、有能なんだよ。だって、奈緒、こんなにかわいいんだもん」

「……はぁ!?」

 一拍遅れて、奈緒は顔を真っ赤にして声を上げた。

「あ、あたしが、かわいいって……そ、そんなこと言っても、何も出さないぞ!? ま、まさか、加蓮、お前、プロデューサーが仕掛けたドッキリの仕掛け人か何かじゃ――」

「ちょっとちょっと、どうしてそこまで考えるの? 私の言葉、そこまで信用できないかなー。あー、私、傷付いちゃったなー」

「それ絶対に傷付いてない奴の台詞だろ!」

 奈緒の言葉に、加蓮は笑う。「あはっ。奈緒、面白いね」

「お前のせいだよ!」

 その突っ込みに、加蓮は「ごめんごめん」と笑い混じりに謝る。

「でも、私が初対面からこんなに親しげって貴重だよ? 奈緒にはこの貴重な体験をもっと噛みしめてほしいなぁ」

「貴重かどうかは知らないし、貴重だとしてもこんな体験はいらないっての……」

 そうやって奈緒が溜息を吐いた、その時だった。

 ガチャリ、とレッスン室のドアが開いて、二人の女性が姿を現した。
 一人は大人の女性。トレーナーにしては美人だけど……どちらか一人がトレーナーだと言うのなら、たぶん、こっちがトレーナーさん。
 だって、もう一人は、明らかに――

「こんにちは。私は渋谷凛。今日はよろしく」

 ――『アイドル』だったから。


102: 2017/04/19(水) 20:33:00.67 ID:nhXCd10e0

      *

 最初に目に入るのは美しい黒髪。
 すらりとしたスタイルに、凛とした佇まい。
 そして何より、彼女自身の持つ意志の強さを感じさせる、まっすぐな瞳。

 それが渋谷凛。加蓮と奈緒の目の前に現れた『アイドル』の名前だった。

「それで、トレーナーさん。これからどうするの?」

 軽いストレッチをしながら凛は言った。それを見て慌てて奈緒もストレッチを始め、それならと加蓮もしぶしぶストレッチを始めた。

「今日は……とりあえず、簡単なステップから、かな」

 トレーナーは言って、凛を見た。

「凛ちゃん。見本、見せてくれる?」

「わかった」

 そう言って凛は加蓮と奈緒の前に立った――直後。

「……こんなの」

 無理だよ。その言葉は出なかった。

 しかし、加蓮の目から見て、その動きが自分にもできるとは到底思えなかった。
 ステップ自体はそれほど難しいものではなかった。ある程度運動神経が良い者なら、少し練習すればできるようなもの。そのはずだった。

 それなのに、加蓮は渋谷凛のステップに魅せられた。

 そして、それこそが『アイドル』なのだと思い知らされた。

「――っと、これくらいでいいかな?」

「はい。ありがとう、凛ちゃん」

 凛の言葉にトレーナーは言い、そのまま奈緒と加蓮を見た。

「それじゃあ、今の凛ちゃんのステップを、できる範囲でやってもらってもいいかな」

 ……そんなことを、言われても。

 加蓮は既にやる気がなくなっていた。今のを見て『覚える』くらいならできた。だが、それだけだ。自分の身体がそれに付いて行くイメージができない。自分があのステップを踊れるイメージがどうしても像を結ばない。凛のように踊れるとは思えない。

「……わ、わかった」

 隣からそんな声が聞こえた。奈緒? 加蓮は驚いて隣に立つ恥ずかしがり屋の少女を見る。自分に自信のない、かわいい女の子……そう思っていたのに。
 瞬間、加蓮は自己嫌悪に陥った。……『そう思っていたのに』? だから私は奈緒と仲良くできると思ったの? 自分と同じだからって……勝手に、仲間だとでも思っていたの? 私と同じ、なんて……そんなの、そんなの……!

「……加蓮は?」

 凛が言った。彼女はそのまっすぐな目で加蓮を見ている。……そんな目で、見ないでよ。そんなまっすぐな目で、見ないでよ――

「私も、わかった」

 いつの間にか、加蓮の口が動いていた。その目を見返すために……ではない。これは、ただ、逃げただけ……。

「じゃあ、リズムはとるから、それに合わせて……いきますよ?」

 トレーナーの合図に合わせて、奈緒と加蓮は踊り始めた。奈緒のステップは明らかに雑で、どちらかと言えば、加蓮のステップの方が完成度は高かった。
 そして二人が一通り踊った後、凛が口を開いた。


103: 2017/04/19(水) 20:33:29.16 ID:nhXCd10e0

「ねぇ、加蓮」

 その言葉に、加蓮は凛の方に顔を向けた。

 凛のまっすぐな視線が加蓮を射抜いた。

「――ふざけてるの?」

 その言葉は怒気を孕んでいた。隠そうともしていない、まっすぐな感情。加蓮はそれを真正面から受けてしまった。

「……どういう意味?」

 しかし、加蓮は折れなかった。折れたくなかった。だから、加蓮もまた、凛をまっすぐに見返した。睨み返した、と言ってもいいかもしれない。

「そのままの意味だよ」

 加蓮の視線を受けて、凛は平然と言った。

「やる気も意志も、何もない。本気なんてほんの少しも出していない。……それが『ふざけてる』以外の何だって言うの?」

 凛の言葉はすべて事実だった。正しかった。加蓮もそのくらいわかっていた。彼女は……凛は、プロなんだ。彼女は既に『アイドル』なんだ。そんな彼女からしてみれば、今の加蓮は自分の仕事を『バカにしている』ような存在に見えるだろう。それはわかっていた。

 だが。

「……だとしたら、何なの?」

 加蓮は言った。

「凛の言う通り、私はやる気がないよ。本気なんて出していない。でも、だから何? こんなことに本気を出して、何になるって言うの? そもそも、私はアイドルなんてやりたくない。私がここにいるのは私の意志じゃない。だから――」

 そこまで言って、加蓮は言葉を止めた。凛の視線に――凛と奈緒の視線に、気付いたから。

「……そう」

 凛は言った。その目にはもう先程までの熱がなかった。

「それなら、もう、どうでもいい」

 その目にはもう『北条加蓮』なんて映っていなかった。

「――加蓮。あなたが本気を出さなくても、やる気がなくても、どうでもいいよ。勝手にすればいい。勝手に、そこにいればいい」

 その目に、映っていたのは――

「私は走り続ける。それだけだから。……だから、邪魔をしないで。私の走る、邪魔をしないで」

 ……やっぱり、そうなんだ。

「……わかった。それじゃあ、私、もう帰るよ」

 加蓮は凛や奈緒から背を向けて言った。

「加蓮……」

 引き止めるような奈緒の声が聞こえた。だけど、聞こえないふりをした。

「今日はごめんね。……さよなら」

 そう言って、加蓮はレッスン室から出て行った。凛は何も言わなかったし、奈緒は何も言えなかった。

「えっと……それじゃあ、レッスン、再開しましょうか」

 この中で一人『大人』であるトレーナーだけが、口を開くことができた。

 ……この中でいちばん困っているのもまた、実は彼女だったのだが。
 

104: 2017/04/19(水) 20:33:58.45 ID:nhXCd10e0

       *

 それから数日が経った。
 加蓮は事務所に行っていなかった。さすがにこのまま何も言わないで辞めるというのはダメだということはわかっていた。だから一度は行かなければならないと思っていたが、なかなか自分で行こうという気にはならなかった。そんな勇気は出なかった。
 その日も同じだった。土曜日の朝、加蓮は母親に起こされた。

「今日は休みなんだから、寝かせてよー……」

 加蓮がそう言うと、母は言った。

「加蓮にお客さんよ」

「……客?」

 誰だろう。加蓮には思い当たる人が……いや、ないことはなかった。加蓮は一応CGプロに所属するアイドルになっている。そのアイドルに数日間連絡がつかない……そう考えれば、誰か来てもおかしくはない。
 面倒くさいなぁ……怒られたりするのかな。もう、ここでアイドルを辞めるって言っちゃおうかな。

 加蓮がそう思っていた時だった。

「そう! えっと……神谷奈緒ちゃん、って言う子!」

「……え?」

 思わず、加蓮の口から気の抜けた声が出た。

 ……さすがに、それは予想外だった。

105: 2017/04/19(水) 20:34:28.66 ID:nhXCd10e0

      *

『加蓮の友人』。
 それを聞いた加蓮の母はよろこんで奈緒を家の中に招いた。加蓮の母の質問攻めとおもてなし攻めに動揺しているようだったので、加蓮は奈緒を自分の部屋に入れて、「お母さんは絶対入ってこないでよね!」と言って鍵を閉めた。加蓮はふぅと溜息を吐いた。

「なんか、すごいお母さんだな」奈緒は苦笑して言った。「でも、うん、良いお母さんって感じ」

「……良いお母さん、ね」

 確かに、それはそうだと思う。もちろん恥ずかしいから口にはしないけど。

「それで、奈緒。今日はどうしたの?」

 ――私を、怒りに来たの? それとも、慰めにでも来たの?

 そういった言葉は口に出さず、加蓮は尋ねた。あんな別れ方をした後だ。あんなことを言った後だ。奈緒は、きっと、私のことを……。

「ああ。ちょっと、チケットをもらってな」

 しかし、奈緒は平然と言って、チケットを二枚取り出した。

「凛のライブだ。そこまで大きい会場じゃないけど……加蓮、一緒に行かないか?」

 ――凛。

 その名前を聞いた瞬間、加蓮は苦い顔をした。……彼女には、正直、引け目がある。あの時の口論は明らかに自分が悪い。自分の言ったことを曲げるつもりはないけれど、いつかは彼女に謝らなければいけないだろう。……でも、やっぱり、あんなことを言った後では会いにくい。
 とは言っても、これが良い機会であることは間違いない。今を逃せば、自分のことだ、もう二度と会うことはないかもしれない。自分のことなら自分がいちばんわかっている。そう考えると……。

「……うん。行こっか」

 加蓮は言った。

「行くよ。私も」

106: 2017/04/19(水) 20:35:02.55 ID:nhXCd10e0

      *

 加蓮の母は「もっとゆっくりすればいいのに……」と言って加蓮と奈緒を引き留めようとしていたが、ライブが始まる時間もあることを伝えると折れてくれた。
 実際のところ、時間にはまだまだ余裕があったが、加蓮の方が耐えられなかったのだ。……自分の親が自分の友人と話している、というのがここまで恥ずかしいことだとは知らなかった。

 そして加蓮たちは今日ライブが行われる会場に到着した。と言っても、時間はまだまだある。どうしよっか、という話になった。
 そんな時だった。

「ん? 君たちは……」

 一人の見知らぬ男性が加蓮たちを見て言った。加蓮は一瞬身構えたが、奈緒は違った。彼女は言った。

「あ……凛の、プロデューサー」

 凛の、プロデューサー? それを聞いた加蓮は彼を見た。……この人が?

「あー……そうだな。せっかくだから、中に入ってくれ。案内するよ」

 中に……って、つまり、いきなり、凛と……?
 いきなり過ぎてまだ覚悟ができていない。もうちょっと覚悟を決める時間がほしかった。いや、でも、これを断る理由も……。

「……わかりました」

 肩を落として、加蓮は言った。
 凛のプロデューサーと奈緒はそんな加蓮の様子に首を傾げた。

107: 2017/04/19(水) 20:35:33.11 ID:nhXCd10e0

      *

「……ここが」

 ライブ会場の裏側。初めて見るそこは思っていたよりも汚かった。華やかな場所の裏側は汚い、ということだろうか。
この会場がたまたま『そう』だっただけなのかもしれないけれど。

 加蓮たちは控室に向かっていた。そこには凛が待っている、らしい。
 凛のプロデューサーはもとから加蓮たちと凛を会わせるつもりだったようだ。先程彼が会場の外にいたのはそれとはまた別の用事だったようだが、どちらにしろ会わせるのだから、ということで今に至る。

「北条さん、神谷さん、今日は来てくれてありがとう。凛もきっとよろこぶよ」

 先導する凛のプロデューサーは言った。そもそも、奈緒に凛のライブのチケットを渡したのは彼らしい。
奈緒に渡せばきっと加蓮を誘うだろう。そう予測してのことだったようだが……実際そうなっているのだから、やはりこのプロデューサーも見た目通りの人というわけではないのだろう。
あるいは、単に奈緒が読みやすいだけか。

「……凛がよろこぶかは、わからないけど」

 加蓮は言った。本心だった。……あんなことを言われた相手とライブ前に会うなんて、むしろ嫌がるんじゃないだろうか。
 加蓮の言葉に凛のプロデューサーは苦笑するだけだった。彼には彼なりの答えがあるようだったが、それは自分が口にすることではないと思っているかのようにそれ以上は何も言わなかった。

 そして控室に到着した。凛のプロデューサーがノックをして、扉を開ける。

「プロデューサー。どこに行って……奈緒、それに、加蓮?」

 扉の先にいたアイドルは、歳相応の少女らしい驚き顔を見せた。

108: 2017/04/19(水) 20:36:20.99 ID:nhXCd10e0

      *

「……ふぅ。ごめんね、二人とも」

 自分の担当プロデューサーを部屋の外に蹴りだした少女は言った。「あ、ああ」奈緒は顔を少々ひきつらせながら応える。……まあ、あれを見れば、ねぇ。

 加蓮たちの存在に驚いた後、凛はまずプロデューサーを問いただした。
これはどういうことなのか。どうして二人がここにいるのか。どうしてそれを私に言わなかったのか。
そういったことを尋ねた。それに対してプロデューサーは簡潔に答えた。『聞かれなかったから』。
その答えにあからさまに腹を立たせた凛はプロデューサーを部屋から蹴り出した。そして今に至る、というわけだ。

 ……凛も、普通の女の子なんだな。

 プロデューサーとのやり取りを見て、加蓮が抱いたのはそんな感想だった。
 アイドルも普通の女の子。それは当然のことのはずで、自分でもわかっているつもりだった。
 だが、加蓮が今まで見た渋谷凛は完全にアイドルで、普通の女の子ではなかった。だから、改めてそう思ったのだ。

「それで――加蓮。早速だけど、あなたに言いたいことがあるの」

 凛が加蓮の方を見た。加蓮はびくっと肩を跳ねさせる。言いたいこと。それは容易に予想がつく。だから、その前に――

「ごめんなさい」

 凛が加蓮に向かって言った。「……え?」加蓮の口から呆けたような声が出た。

「あの時は、その……私、あなたのことを何も知らないのに、自分勝手なことを言った。それを、謝りたくて」

「それはっ」凛の言葉に加蓮は声を上げた。「……私の、方が。私の方が、謝らなくちゃ――」

「でも」

 加蓮の言葉を遮って凛は口を開いた。加蓮は口を止めて凛を見た。凛は続ける。

「あの時の言葉に、嘘はないから」

 その言葉に加蓮は何も返せず視線を落とした。……やっぱり、そうだよね。あんなことを言われたら、きっと――

 しかし、加蓮のその思いは間違いだった。凛の言葉には続きがあった。彼女は言った。

「私は、口下手だから。たぶん、上手く伝えられなかったと思う。だから、今日、伝えるよ」

 加蓮は顔を上げて凛を見た。
 その目に加蓮は映っていない。
 その目に映る、光景は――

「私の、ステージで」

109: 2017/04/19(水) 20:36:54.90 ID:nhXCd10e0

      *

 それから、加蓮と奈緒は会場の外に出た。凛にはまだ準備がある。それを邪魔するわけにはいかなかった。
 とりあえず、昼食をまだとっていなかったのでファストフード店に入った。注文をして、席に座る。

「はー……やっぱり、ここのポテトはおいしいね。ポテトって言うと、やっぱりここのが思いつくんだよねー」

 そう言いながら加蓮はフライドポテトを食べ進めていく。それに対して奈緒は「まあ、それは同感だな」と言って同じくフライドポテトを食べ始める。

「……加蓮は、さ」

 奈緒が言う。加蓮はフライドポテトから奈緒に視線を向ける。

「加蓮は……そんなに、アイドル、やりたくないのか?」

 ……その質問、か。

「……正確には、『やれない』かな」

「やれない……?」奈緒は不思議そうな声を出す。「やれない、って、どういう」

「奈緒と同じ……ってわけじゃないけど」フライドポテトを食べながら、加蓮は言う。「『私なんかにアイドルなんて務まらない』みたいな話だよ」

「そんな」

「ことはない? ありがと。私も奈緒にアイドルが務まらないなんてことはないって思ってるよ」

 奈緒の言葉を遮って加蓮は微笑む。ポテトと一緒に頼んだシェークをちゅーと啜る。

「でも、そんなの、他人に言われたからって納得できる? そんな簡単に信じられる? ……私は、無理だよ。今まで、ずっと、ずっと……」そう言いかけて、加蓮はいったん言葉を切る。「……とにかく、私にはアイドルなんてできないよ。自分でも容姿はそこそこ良いと思うけど……それ以外のすべての要素が欠けている。奈緒にはあって、私にはない……そんなものが、ね」

 そんな加蓮の言葉に奈緒は何も応えなかった。何も言わずに、ただ、悲しそうな目で加蓮を見た。

「……さて。こんな話はいいから、早く食べよう? まだまだ時間には余裕があるけど、もし遅刻したら目も当てられないから、ね」

 加蓮はそう言いながら先程までと同じように食事を進める。

「……あたしは」

 そうしていると、奈緒が口を開いた。加蓮は口を止めて奈緒を見る。

「あたしは、それでも……加蓮と、アイドルがやりたいよ」

「……そっか」

 加蓮は言った。平坦な声で……努めて、平坦にした声で。

「私は、アイドルなんてやりたくないよ」

 そして、彼女はシェークに口を付けた。

 口の中の苦味を、ごまかすために。


110: 2017/04/19(水) 20:37:32.94 ID:nhXCd10e0

      *

 ライブ会場には既に大勢の人が入場していた。今回のライブ会場はそこまで大きい場所ではなかったが、加蓮にとっては驚くべき光景だった。加蓮にとって、ここはテレビの中の世界。実際に来るのは初めての場所だったから。

「……お客さん、いっぱいだね」

 加蓮は少しだけ興奮した様子で言った。今ではあきらめたと言っても、子どもの頃、ずっと憧れていた場所だ。興奮するくらいはおかしいことではないだろう。

 しかし、そんな加蓮の調子に奈緒が気付くことはなかった。なぜなら。

「ああ……これだけの人が、凛を、見に来ているんだな」

 奈緒も興奮した調子で言った。……渋谷凛。先程話したばかりの少女に、これだけの人が、会いに来ている。これだけの人が、彼女の歌を聴きに来ている。そう思うと……。

「凛は、やっぱりアイドルなんだな」

「うん……」

 すごいな、と思った。加蓮も、奈緒も。
 それから、ライブが始まるまでの時間。加蓮と奈緒の間にはあまり会話がなかった。ファーストフード店でのことがあったから……だけではない。
 彼女たちは会場の熱に浮かされていた。今から始まるライブに緊張していた。

 ――そして。

「あ……」

 会場の明かりが消える。流れていた音楽も止まる。ざわめきが沈黙に変わる。
 空気が変わった。それがわかった。

 凛が来る。

 その直感は間違っておらず、ゆっくりと凛がステージに上がってきた。
 瞬間、加蓮と奈緒の周りから大きな拍手が巻き起こった。
 初めて経験するそれに加蓮たちはびくっと身体を震わせる。

「しぶりーん!」「まってたよー!」「ふー!」

 色んな声が凛の登場を祝福している。加蓮と奈緒は何も言えず、ただぱちぱちと控えめに拍手をすることしかできない。

「――みんな、今日は来てくれてありがとう。えっと……いつもは司会の人がいるんだけど、今日はちょっと、私一人で、ということみたい。MCは苦手だし、愛想もないけど……今日は、よろしく」

 そんな凛の言葉に、ファンは「ふー!」などといった声が上げる。「かわいいよー!」なんて声も聞こえる。

「かわいいって……何がかわいいの? でも、うん……ありがとう」

 この言葉にはさらに「ふー!」と興奮した声が上がり、先程までよりも「かわいいー!」という声が大きくなる。その反応に凛は少し驚いた様子を見せていたが……そりゃ、かわいいもん。加蓮ですらもかわいいと思った。今のは反則だ。

「……やっぱり、私、MCは苦手みたい。だから、早速だけど、歌おうと思う。……みんな、準備はいい?」

 ファンは「いいよー!」と応える。「いいよー……」隣から小さくそんな声が聞こえた。奈緒……もっと大きな声を出していいんだよ? って、何も言ってない私が言うのもおかしい話かもしれないけど。

 そんなことを思った、直後。

「それじゃあ、いくよ」

 凛が言った、その瞬間。
 凛の表情が変わった。
 浮かべていた微笑みは消え――目を閉じて。
 それに合わせるようにして、会場の空気も――熱すらも、静まって。

 しん……と沈黙が会場を支配する。
 先程まで笑いや温かい声で満ちていた会場から、すべての熱が消える。
 それは一瞬のことで……一瞬のことだったけど、息を呑むには十分で。
 呼吸が止まって、瞬きすらできなくて。
 まるで糸が張り詰めたように緊張して……ついさっきまでの熱気によりかいた汗が、滴り、落ちて……それが床に当たって、弾ける、その瞬間――

 輝きが満ちていくようなイントロ。それに合わせて蒼のステージライトが点滅し、観ている者の興奮を一瞬でつり上げ――

 渋谷凛は、その目を開く。

111: 2017/04/19(水) 20:38:00.50 ID:nhXCd10e0


 ――【Never say never】


112: 2017/04/19(水) 20:38:29.32 ID:nhXCd10e0

 まっすぐな目、まっすぐな声。
 その両方がまっすぐに胸を貫いて、溺れたように息が詰まる。心臓に氷の槍を刺されたと錯覚するように、ゾクッとした感覚が襲ってくる。

 ああ、これは、間違いなく――間違いなく、『渋谷凛』だ。

 まだ出会ってから数日しか経っていないのに、加蓮はそんなことを思った。そう、まだ彼女のことなんてほとんど知らないはずなのに……それなのに、一瞬ですべてが理解できた。そんな気がした。

 まっすぐに、まっすぐに……そうか。そうだったんだ。凛は……あなたは、そこに……。

 強く、強く、まっすぐに、まっすぐに……そうやって歌う彼女は、そうやって歌われるその歌は……観る者の心にも、強く、まっすぐに届いてくる。

 凛は会場にいるファンのことなんて見ていない。私たちのことなんて見ていない。それがわかる。まっすぐに、まっすぐに、ただ前だけを見つめている。ただ前だけを見て、進んでいく。

 これが、凛なんだ……これが、『アイドル』なんだ……。

 子どもの頃、ずっと憧れていたアイドル……それとはまた別の姿が、今、加蓮の目の前にあった。

 凛として……そう、『凛として』……笑顔なんてなく、ファンの顔すらも見ずに、ただ前を向いて歌っている。前だけを向いて歌っている。

 だが、それはファンのことを思っていないというわけではない。ファンのことを考えていないというわけではない。

 ファンを見るのではなく、前を見る姿を見せることで――ファンに、思いを伝えている。ファンに、想いを伝えている。

 ――そんな彼女を見て。

 そんな彼女の姿を見て、加蓮はある思いを抱いてしまった。

 昔抱いた……ううん、違う。昔抱いたものとは違う……違うけれど、同じ想い。

 ……私も、彼女に――彼女、みたいに。

 そう思いかけて、でも、と思う。今更、私なんかが……私、なんて。

「……加蓮」

 凛の歌声だけが響く会場で、隣から、そんな声が聞こえた。

「まだ、会ったばかりなのに……それなのに、こんなことを言うなんて、おかしいってことはわかってる」

 ぎゅっ、と……いつの間にか、加蓮の手が握られていた。その手の主は、加蓮の方を見ることなく、渋谷凛から目を離すことなく、言葉を紡ぐ。

「でも……それでも、あたしは、加蓮と……加蓮と一緒に、あそこに行きたい」

 まっすぐにそのステージを見つめて、奈緒は言う。

「加蓮と、アイドルになりたい」

 ……加蓮と奈緒が会ったのは、たった数日前のことだ。凛とも同じ。そのはずで……そのはず、なのに。

 どうして、こんなに……私は、どうして、こんなことを思っているんだろう。

 この二人と……凛と、奈緒と。

 彼女たちと、一緒にいたい。

 渋谷凛と、神谷奈緒。

 この二人と、一緒にいたい、って。

「……私は」

 それが『アイドルになりたい』という感情なのかはわからない。
 もしかしたら、私は『アイドルになりたい』わけではないのかもしれない。
 でも、それでも……この想いは、この想いだけは。
 凛と奈緒と同じ場所に立ちたいという、この想いだけは、本物だったから。

 だから。

「……私も、奈緒と……凛と、奈緒と、アイドルになりたい」

 加蓮は言った。

「三人で、いつか……あの場所に」

 ぎゅっ、と加蓮は奈緒の手を握り返した。先程までより、強く、強く。
 そして、曲が終わった。

【Never say never】

 そんな名前の、歌が終わった。


113: 2017/04/19(水) 20:38:58.39 ID:nhXCd10e0

      *

 ――それから。

 加蓮は自分の担当プロデューサーに「レッスンをしてほしい」と頼んだ。プロデューサーは無感情に「どうして?」と尋ねてきた。「凛と奈緒とアイドルをしたいから」と答えた。するとプロデューサーは一瞬だけ目を見開き、すぐに「そうか」と目を伏せた。「なら、レッスンをしよう。渋谷凛と……だったか。実力だけは、そのレベルまで引き上げよう」

 そんなプロデューサーの振る舞いを加蓮は一瞬だけ不思議に思ったが、すぐに考えないことにした。こいつが何を考えているかなんてどうでもいい。私は、凛と奈緒と一緒にいられればいい。そう思っていた。

 プロデューサーによって行われるレッスンは厳しいものだった。凛と奈緒とアイドルをするためなら……と覚悟していたものよりも、ずっと。
 しかし、それでも、加蓮は折れなかった。やはり加蓮は担当プロデューサーのことが好きになれなかったし、むしろどんどん嫌いになっていった。
 機械に命令するみたいに「ああしろ」「こうしろ」と言って、少しミスをすれば「そうじゃない」。
 いつかトップアイドルになって地位を手に入れたら真っ先にこいつをクビにしてやる……そう思うくらいには嫌いだった。
 レッスン以外でも気は合わないし、必要最低限以上の会話は絶対にしなかった。
 彼には他の担当アイドルもいるようで、そういった子たちとは話しているところも見かけたけれど……加蓮とそんな調子で話すことはなかった。ビジネスライク……と言うより、完全に『ビジネス』でしかない関係だった。

 しかし、彼はプロデューサーとしては有能だった。加蓮もそれだけは認めざるを得なかった。
 結果として、加蓮は凛や奈緒とも並び立つことができた。それが可能なだけの実力を付けることができた。

 そして、あるユニットが結成された。『トライアドプリムス』。渋谷凛、神谷奈緒、そして北条加蓮から成るユニット。加蓮と奈緒は『いつか凛と同じステージに』という目標を叶えた。

 トライアドプリムスはすぐに人気ユニットになった。凛と奈緒といっしょにいる時間が増えた。その仲はどんどん深まっていった。親友……そう呼べるほどの仲にはなっていた。

 幸せだった。

 凛と、奈緒と……そんな二人と、いっしょにいられて。
 親友と呼べるような人なんて……そんな人、私にはできないって……ずっと、そう思っていたから。

 間違いなく、加蓮は幸せだった。満足していた。
 今がずっと続けばいいと思っていた。
 今、この時が……この関係が、ずっと続けばそれでいい。それだけでいい、と。

 ――だが、それは許されなかった。

114: 2017/04/19(水) 20:39:58.52 ID:nhXCd10e0

      *

 それはいつも通りだと思っていたある日に起こった。
 いつも通り、加蓮は挨拶も交わさずにレッスン室に入り、挨拶も交わさずにいつも通りのメニューをこなした。そしていつも通りプロデューサーがそれを見に来て……そんな時だった。

「加蓮。お前は、いつまでこんなことを続けるんだ?」

 プロデューサーが言った。その言葉に加蓮はまず驚いた。いつもは感情がないような指摘しか言うことはなかったから、こんな風に感情のあるような言葉を言うのが珍しかったのだ。
 しかし、次に加蓮が抱いた感情は苛立ちだった。『お前』呼ばわりはいつの間にかされていたしもう慣れたからどうでもよかったけど……その言葉は聞き逃せなかった。

「珍しく口を開いたかと思ったら嫌味? アンタ、何が言いたいわけ?」

「そのままの意味だ」

 加蓮の棘のある言葉に彼は平坦な声で返す。

「いつまで『アイドルごっこ』をやっているのか、と言ったんだ」

「……は?」

『アイドルごっこ』? それはいったい、どういう意味だ。

「そのままの意味だ」口にも出していない加蓮の質問に彼は答える。「お前がやっているのは『アイドルごっこ』でしかない。……いや、それにも劣るな。お前がやっているのは『ともだちごっこ』だ。それ以上でも、それ以下でもない」

「そうだとして――」

 加蓮は反論しようとする。いや、反論ですらない。ただ、言い返してやりたいだけ。むかつくこいつの口を閉じてやりたいだけだった。しかし、そんな言葉を無視して彼は続ける。

「お前はどこも見ていない。ファンのことも、誰のことも。……アイドルとしては最低の部類だし、そもそもお前はアイドルですらない」

 そして、彼は言った。

「北条加蓮。お前にアイドルは向いていない」

 その言葉を受けて、加蓮は……世界が、遠くなっていくような感覚を覚えた。
 深い深い水の底にいるかのように、彼の言葉が遠くに聞こえた。まだ何か言っているが、それはもう、あいまいにしか聞こえない。

 ……アイドルに、向いていない?

 ……ファンのことを見ていない?

 加蓮はその言葉がどういう意味なのか考えた。文字通りの意味だった。そして、自分のことを考えた。自分がどういう人間か。本当にそうなのか。それを考えた。

 それを考えて……考えようとして。


115: 2017/04/19(水) 20:40:27.47 ID:nhXCd10e0

「……うるさい」

 そんな思いを無視して、口が動いた。

「私が、ファンのことを見ていない? 誰のことも、見ていない?」

 目が熱い。身体が熱い。眼の奥がちかちかする。視界がぼやける。

「それ、アンタが言える台詞なの?」

 頭が熱で浮かされたよう。ふわふわとして宙に浮かぶ。熱い。頭が沸騰しているみたい。

「アンタが、私に……それを、言うの?」

 ……ああ。

 もう、とめられない。

「アンタだって……アンタだって!」

 それまで抑えてきた加蓮の感情が、不満が、苛立ちが、怒りが、一気に膨らむ。

 一気に膨らんで――爆発する。


「アンタだって、私のことを、見たことなんてないくせにっ……!」


 そんなことは最初からわかっていた。期待すらしていなかった。

 でも、それでも。

「私のことを……凛に勝つための、道具としか、見てなかったくせに」

 最初から、互いを利用するだけの関係だとわかっていた。
 凛と奈緒とアイドルをしたいからと言った時のこの男の反応はまだ覚えている。
 その時から、なんとなく、察していた。

 この男は、私を凛に勝たせたかったんだ。

 渋谷凛というアイドルに勝つための道具としてしか見ていなかったんだ。

 そして、今。
 彼は加蓮のことを見限った。

『アイドル』ではない北条加蓮には、『アイドル』である渋谷凛に勝つことはできない。

 ただ、それだけのことだった。
 そういったことも、すべて、加蓮にはわかっていた。

 だが。

「……アンタ、だって」

 たとえ、そうだとしても。

「私のことを、見てくれなかったくせに……!」

 加蓮は、言わずにはいられなかった。

「……それは」

 そんな加蓮に対して、プロデューサーは言葉を止めた。
 言葉を止めて……そんなプロデューサーを見て、加蓮は。

「……さよなら」

 そう言って、レッスン室から出て行った。

116: 2017/04/19(水) 20:41:25.69 ID:nhXCd10e0

      *

 数日後、事務所。

「……何があったの?」

 凛が言った。加蓮の担当プロデューサーが彼女の担当プロデューサーではなくなったことを知ったからだった。

「何が、って……べつに、何もないよ?」

 加蓮はあははと笑って言う。

「凛だって、私とあの人の仲が悪いってことは知ってたでしょ? それがとうとう決裂した、ってだけ。べつに不思議なことじゃないでしょ?」

 しかし、凛も奈緒もそんな嘘が通じるほど浅い仲ではない。凛はいつも通りまっすぐな目で加蓮を見て、奈緒は心配そうな目で加蓮を見ていた。

 ……弱ったな。

 そんな目をされたら、言うしかないじゃん。

 加蓮は凛と奈緒にプロデューサーと何があったのかを話した。渋谷凛に勝つための道具云々といったところは話さなかったが、それ以外はすべてを話した。凛と奈緒の顔をできるだけ見ないようにしながら、話した。
 ……この話を聞いた二人がどんな顔をするのか、こわかったから。

「――ってわけ。本当、ひどくない? 私、こんなに頑張ってるのに……それなのに、あんなことを言うなんてさ。確かに仲は悪かったけど、そこまで言われるようなことをしたとは思わないんだよねー」

 凛と奈緒の顔を見ないまま、加蓮は笑う。女子高生らしく、口うるさい先生の愚痴を言うみたいに。そうしないと……そうしないと。

「私はそう思うよ」

 凛が、そう言うと思ったから。

「……凛?」

 奈緒が驚いた様子で凛を見る。しかし、凛は奈緒を見ることなく、加蓮だけを見つめている。

「加蓮はそこまで言われるようなことをしている、って……そう思うよ」

 ……うん。わかってた。凛は、そうだよね。『渋谷凛』ならそう言うって、わかってた。

「凛も、私がアイドルに向いていない、って……そう思ってる、ってこと?」

 私は尋ねた。できるだけ軽く、お調子者みたいに。そうしないと、声が震えて、膝が震えて、くずれ落ちてしまいそうだったから。

「ううん、そうは思わない。『アイドルに向いていない』っていうのは、確かに言い過ぎかな」

 その言葉は、少し、予想外だった。凛は甘い言葉なんて言わない。まっすぐに自分の意志を伝えてくれる。だから――

「でも」

 そう思いかけて、しかし、凛の言葉には続きがあった。

「『今の加蓮』は、確かに、アイドルに向いていないかもね」

 ……やっぱり。

 凛も、そう思うんだ。

「加蓮は誰も見ていない。誰も、どこも。……少なくとも、私にはそう見える」

 世界から色が消えていく。あれ? これ、なんだろう。これって、なんなんだろう。

「ねぇ、加蓮」

 ああ、そうか。わかった。私、また、戻るんだ。

「加蓮は、何のためにアイドルをやってるの?」

 ――あの、灰色の病室に。


117: 2017/04/19(水) 20:41:54.01 ID:nhXCd10e0

 凛の言葉に、加蓮は何も答えない。奈緒は口を開こうとするが、それに気付いた凛が奈緒の口の前にさっと手を出して止める。凛は加蓮を見つめたまま、質問の答えを待っている。

「……凛なら」

 そして、やっとのことで、加蓮は口を開いた。

「凛と奈緒なら、って……そう、思っていたのに」

 凛ならそう言うってわかってた。
 わかってたけど……それでも。

「私の味方になってくれるって、思ってたのに」

 これは、ただのわがままだ。
 自分勝手な、ただのわがまま。

 それもわかってる。わかってるけど。

「……やっぱり、私には無理だったんだね」

 加蓮は言った。

「――アイドル、なんて」

 ぽつりと、こぼすようにそう言って。

「そんなこと……そんなこと、言うなよ」

「……ありがと、奈緒。奈緒は、やっぱり優しいね」

 北条加蓮は、凛と奈緒に背を向けて。

「でも、私には、もう無理みたい。……ばいばい、二人とも」

 そう言って、部屋から出て行った。
 そして、部屋に残された二人は。

「……それじゃあ、行こうか」

 凛が言った。奈緒は加蓮を迎えに行くんだと思った。自分もそうしようと思った。だが。

「今日のレッスンは、第三レッスン室だったよね。加蓮がいないから、トレーナーさんに言って、レッスン内容を変えてもらわないとね」

「……は?」

 奈緒は凛が何を言っているのか理解できなかった。レッスン? 今の状況で?

 そんなの……そんなのっ!

「凛! お前は、加蓮が心配じゃ――」

「心配だよ」

 凛はいつもの調子で答えた。奈緒は「は」と息にも近い声を出す。

「心配だけど……でも、これは加蓮が自分で見つけなきゃいけないことだから」

 それに……と凛は加蓮が出て行った方とは別の扉に手をかけた。

「さっきの言葉は、本心だから」

 そう言って、凛もまた部屋から出て行った。

「……な」

 そして、残された一人は。

「なんでこう、あたしの親友は二人とも面倒くさいんだよー!」

 部屋の中で、ひとり、叫んだ。

118: 2017/04/19(水) 20:42:36.69 ID:nhXCd10e0

      *

 それから。

 加蓮はアイドルを辞めなかった。が、以前のように活動することはなくなった。

 新しい担当プロデューサーが……ということもあったが、誰も加蓮のプロデューサーを続けることはできなかった。
 トライアドプリムスとしての活動もいったん休止することになった。『それぞれの活動を大事にするために』という名目であり、実際、凛や奈緒はそれまで以上にソロの仕事に精を出した。

 しかし、加蓮は違った。担当プロデューサーもいないのと同じような状態で、さらに仕事をやる気もほとんどなくなっていた。実力としては申し分ないものが備わっていたが、それだけだった。仕事はどんどん減っていった。

 加蓮は思った。私はどうしてアイドルを続けているんだろう。もう、アイドルをやる意味なんてないのに。そう思っていた。しかし、アイドルを続けていた。どうしてだろう。私は、どうして、アイドルを……。

 そんな時だった。

「えっと……昨日からCGプロに入社したPです。本日付けで、北条さんの担当プロデューサーを任されました」

 加蓮が、Pと出会ったのは。

119: 2017/04/19(水) 20:43:27.70 ID:nhXCd10e0

      *

 加蓮からPへの第一印象は『なんだか頼りなさそうな人』だった。
 実際、彼はプロデューサーになったばかりらしい。いきなり部長さんにスカウトされて、そのまま就職。そしていきなり私の担当プロデューサーを命じられた。

 ……なんで?

 加蓮は思った。我ながら、自分ほどプロデュースしにくいアイドルもいないだろう。今までも何度もプロデューサーがついては離れていった。
 以前の担当プロデューサーとの件で、加蓮は『プロデューサー』というものをまったく信頼しなくなっていたのだ。

 そんな自分に、新人を……?

 最初、加蓮は意味がわからなかった。しかし、すぐに理解した。

 ああ、そうか。とうとう、私、見限られたんだ。

 こんな新人をつかせるってことは、そういうことだろう。

「……アンタも、ご愁傷様」

 加蓮は呟いた。そんな加蓮にPは「え?」と聞き返したが、加蓮は「なんでもない」と答えた。

120: 2017/04/19(水) 20:43:56.20 ID:nhXCd10e0

      *

「えっと……北条さん。いったい、どこに行くんですか?」

「そんなの、私の勝手でしょ」

 振り返りもせずに、加蓮はスタスタと廊下を歩く。Pは遅れてそれに続く。

「ここは……レッスン室?」

 Pが言った通り、そこはレッスン室だった。加蓮がよく使わせてもらっているレッスン室。他のアイドルがあまり来ない、空き部屋のような部屋だった。

「……今から、レッスンですか?」

「そう。悪い?」

「いや、悪くはないですが」

 加蓮はレッスン室に入り、端に荷物を置いた。そして。

「ちょ!」

 Pが声を上げて目を塞ぐ。加蓮は自分の服に手をかけ、いきなり脱ぎ始めたのだ。

「……何慌ててるの? レッスン着、着てるに決まってるじゃん」

 Pを冷めた目で見て、加蓮は呆れた息をつく。

「……レッスン着?」ゆっくりとPが目を開き、加蓮を見る。「なんだ……」そして安堵のため息。そんなPに対して加蓮は、

「もしかして、私が初めて会った男に下着姿を見せるような女だとでも思ってたの? ……最低」

 チッ、と舌打ちをして、加蓮はPのことを睨む。もちろん、加蓮もPがそんなことを思っていたとは考えていない。これだけキツく当たれば、すぐに音を上げるだろう。そう考えての判断だった。

 私なんかに構わない方がいい。早く上司に担当アイドルを変えてくれと言えばいい。

 そうすれば、私、だけで……。

「そ、そんなことはないです。ただ、びっくりしただけで」

「あっそ。それじゃ、レッスン始めるから、邪魔しないでね」

 それだけを言って、加蓮はPに背を向けた。Pはそんな加蓮の背中に何か声をかけようとしたが、結局何も言わずに加蓮の背を見つめた。

 トレーナーもいない場所でできるレッスンは限られている。だが、加蓮は前の担当プロデューサーから鬼のようなレッスンを受けてきていた。体力があまりなかった加蓮に前プロデューサーがいちばんに要求したのは体力だった。過酷なレッスンに耐えられるだけの肉体を求められた。

 基礎トレーニング。
 その重要性を、北条加蓮は知っていた。

「っ……はぁっ……はぁっ……」

 顎を汗が滴り、落ちる。レッスン着は既にびしょびしょに濡れ、肌にはりついている。床には汗がたまっている。

「……あと、もう一セットっ!」

 悲鳴を上げる肉体を振り切って、加蓮はトレーニングを続ける。加蓮が理想とするパフォーマンスをするためには、今の肉体ではまだまだ足りなかった。

 加蓮にはもともとある種の才能があった。幼少期、何もできなかった子どもの頃。加蓮はテレビに映るアイドルだけを希望にしていた。アイドルだけが希望だった。しかし、身体の弱かった幼い加蓮に歌やダンスのレッスンは許されなかった。
 なら、彼女は病室で何をしていたのか。
 それは夢想。
 アイドルになった自分を夢見ること。
 つまり、イメージトレーニングである。

 結果、加蓮は『理想の自分』を思い描く才能を獲得した。
 それが加蓮の才能だった。ならば、あとは自らをその理想の自分に重ねれば、理想のパフォーマンスができる。

 だが、そう簡単にいくわけもない。
 理想のパフォーマンスをするには、足りないものがいくつもあった。
 そのパフォーマンスを可能にするための肉体と技術。
 ただ、それだけ。

 どれだけ具体的に理想の自分を思い描くことができても、それに身体が追いつかなくては意味がない。
 加蓮はあまり運動神経が良い方ではなかった。どうすればいいのかわかっているのに、それができない。それはどうしようもなくもどかしかったが、近道なんてなかった。

 ただ、肉体と技術を高めること。
 それが北条加蓮に求められるものだった。『理想の自分を思い描く』という才能により、他の人よりは一人だけでできるレッスンも多い。
 仕事がなくなるにつれ、加蓮がレッスンできる時間も多くなった。
 昔とは比べ物にならないくらい強い肉体を手に入れた加蓮にとってもオーバーワークになるかどうかといったレッスン量。
 それはまるで、自分の身体を痛めつけるかのようで……。

121: 2017/04/19(水) 20:44:25.59 ID:nhXCd10e0

「北条さんっ!」

 Pの声。いきなり、何を……。そう思って加蓮はPの方を見ようとしたが、なぜか天井が見えた。

 あっ、これ、ヤバ――

 とさっ、と柔らかい感触。予想していた衝撃がこなくて、加蓮は頭に疑問を浮かべる。

「大丈夫ですか、北条さん!」

 天井の代わりに、Pの顔が見える。

 ……そっか。私、倒れたんだ。

 そして、この人に……。

「ありがとう。でも、もういいよ」

 加蓮はPの肩を押して自分の力で立つ。が、まだふらっとしている。

「……大丈夫には、見えません」

 その言葉に、加蓮はPを見る。Pを睨む。

「私の身体のことは、私がいちばんよくわかってる。新人のくせに……何もわかっていないくせに、勝手なこと、言わないで」

 助けてもらったことは感謝している。
 でも、それだけ。裏で何を考えているかなんて、わからない。
 加蓮の脳裏にある男の姿がよぎる。……『プロデューサー』なんて、信じられない。

「……なんで」

 そんな加蓮に、Pは言う。

「なんで、そんなに、頑張るんですか」

 ……『なんで』?

 その言葉に、加蓮は固まってしまった。

 なんで、頑張っているのか?
 それは……ただの、習慣だから。習慣? 本当に? 本当に、それだけ?

 理想のパフォーマンスを目指しているから。それができるようになるために。
 なんで? なんで、理想のパフォーマンスをしたいの? もどかしいから? 本当に?

 パフォーマンスは確実に向上している。どんどん理想のパフォーマンスに近づいている。
 だが、仕事はむしろ減っている。

 そんなの関係ない。本当に? なら、どうしてレッスンをしているの?

 どうして、私は……。

「……私は」

 Pの言葉に、真面目に答える義理なんてなかった。

 アンタに関係ないでしょ。なんでアンタにそんなこと言わなきゃいけないの。

 いくらでもそうやってごまかすことができた。

 それなのに。

「……そんなの、わからないよ」

 加蓮の口から、そんな声が漏れ出た。

「わからないよぉ……」

 いつの間にか、加蓮はPの服の裾を握りしめていた。縋り付くように、悲痛な叫びを、絞り出すように。

 どうして、そんなことを言ってしまったのかわからない。

 初めて会ったばかりの男の人に……どうして。

 加蓮は戸惑っていた。自分の発言に。自分の行動に。

 だが、一つだけ、確かなことがあった。
 少しだけ……そう、少しだけだが。
 加蓮の胸の中から、何かが抜け出たような気がした。

 ほんの少しだけ、胸が軽くなっていた。

122: 2017/04/19(水) 20:45:05.71 ID:nhXCd10e0

      *

 休憩スペース。
 加蓮とPは二人並んで備え付けの椅子に座っていた。加蓮はスポーツドリンクを口に運び、離す。

「――そうして、私はプロデューサーからも親友からもアイドル失格の烙印を押されましたとさ。おしまい」

 加蓮はPに自分のことを話していた。べつにPのことを信頼したわけではない。が、弱みを見せてしまったのだからもういいや、と思ったのだ。
 加蓮の話を聞いて、Pは深刻そうに、何かを考えこんでいた。……いったい、何を考えているんだろう。私が生意気ってこと? それとも、かわいそうだとでも?
 どっちでもよかったし、どっちでも不快だった。どうでもよかった。今更誰にどう思われようと、どうでもいい。加蓮はそう思っていた。
 だが。

「……北条さんは、アイドルだよ」

 Pの言葉は、加蓮が予想しないものだった。

「……何を」

 いったい、アンタが何を知ってるの?
 今日会ったばかりのアンタが、何を……。

「僕にとっては、君は、間違いなくアイドルだったよ」

 だが。
 彼が、あんまりにもまっすぐな目でそう言うものだから。

「加蓮」

 Pの言葉に対して、加蓮は自分の名前を口にした。

「え?」

 端的なその言葉にPが固まる。加蓮はもう一度言う。

「加蓮、って呼んで。……これだけ話したんだから、もう、加蓮、って呼んで」

『北条さん』と呼ばれるのは、なんだか、気持ち悪かった。
 それに。

「そっちの方が、アンタも気をつかわなくて済むでしょ」

 Pは、なんだか無理をしているように感じたのだ。敬語をつかっている彼は、本当の彼ではないような気がした。自分だけ本音をさらけ出していることが不公平に思えた。ただそれだけ。本当に、ただ、それだけだった。

 加蓮の言葉にPも最初はどうするか困っていた様子を見せたが、

「……わかったよ。加蓮。これでいいか?」

 すぐにあきらめたようにそう言った。

「うん。それでいいよ。やっと、気持ち悪くなくなった」

「気持ち悪く……って」

 Pが苦笑する。が、加蓮は気にもかけず、

「それじゃ、私はもう帰るから。またね、『プロデューサー』」

 そう言って、ひょいと何かを投げた。Pは慌ててそれを受け取り、何かを確かめる。

「……これくらい、おごるのに」

 Pの手の中には、加蓮が飲んだスポーツドリンクの代金分の小銭が入っていた。

 加蓮はもういなかった。

123: 2017/04/19(水) 20:45:35.61 ID:nhXCd10e0

      *

 それからも、Pは加蓮のプロデューサーを続けていた。
 最初は刺々しかった加蓮の態度も少しずつ軟化していき、Pも少しずつ仕事に慣れていった。

 相変わらず加蓮にはあまりやる気がなかったが、せっかくPが頑張ってくれたなら、とPがとってきてくれた仕事には少しだけやる気を出して仕事に臨んだ。
 そういった仕事の評判は非常に良く、今までが嘘かと思うようなほどだった。

 パフォーマンス自体はそこまで変わっていなかったはずなのだが、意気込みだけでこうも違うものかと驚いたものだった。加蓮はどうでもいいと思っていたが、Pがよろこぶならまあいいか、と思っていた。
 そう思うくらいには、加蓮はPのことを受け入れるようになってきていた。

 この人は今までのプロデューサーとは違う。あの男とは違う。やっとそう思えるようになってきていた。
 この人は、私のことを、ちゃんと見てくれている。

 私自身のことを、見てくれている。

 そう思えたから、加蓮はPのことを少しずつ信頼していっていた。

 ――そんな日のことだった。

 Pが、ライブの仕事を持ってきたのは。

124: 2017/04/19(水) 20:46:10.26 ID:nhXCd10e0

      *

「……ライブ?」

 ただの聞き間違いだと願って加蓮は聞き返す。しかしPは興奮した様子で、

「ああ! やっぱり、アイドルと言えばライブだろう? ずっとずっと、君にこの仕事を持って来たいと思っていたんだが……ようやく、その願いが叶ったよ」

 アイドルと言えばライブ。それに関しては同感だ。
 でも。

 ――だからこそ、あんまりやりたくないんだよね。

 Pと一緒に過ごしていく日々はそこそこ楽しかった。が、それは『アイドル』としての楽しさではない。
 未だに加蓮は『アイドル』に対する苦手意識を持っていた。前のプロデューサーや凛に言われたことが、心の奥底に澱のように溜まっていた。
 だから、『ライブ』に対してそこまでのやる気は出なかった。

 出なかったが。

「そこまで大きい会場は抑えられなかったけど……でも、ライブはライブだ。一緒に頑張ろう、加蓮」

 Pが、そんな風に笑うから。

「うん。わかった」

 加蓮は微笑み、答える。

「頑張るよ、私も」

 Pのためなら。
 少しは、頑張っていいと思えたから。

 加蓮はうなずいた。力強く。深く、深く。

125: 2017/04/19(水) 20:46:37.59 ID:nhXCd10e0

      *

 ライブ会場。
 Pの言った通り、そこはあまり大きなライブ会場ではなかった。いつか、加蓮が見に行った凛のライブ……それよりも、もう一回り小さな会場。

 加蓮とPは既に会場の中にいた。チケットはすぐに完売。
 正直最近は『落ち目』のアイドルだとは言っても、渋谷凛や神谷奈緒と同じ『トライアドプリムス』。その人気は高く、復活を待ち望む声も多い。

「……会場、いっぱいだね」

 加蓮はつぶやく。今の自分に、そんな価値なんてないのに……。加蓮にとって、それは自嘲気味な言葉だったが、Pにとっては違った。

「ああ。……やっぱり、加蓮はアイドルなんだな」

 落ち着いて、しかし、隠しきれない興奮が溢れ出しているような調子で、Pは言う。

「こんな大勢の人が、加蓮のために集まっているんだな。加蓮の歌を聴きに来てくれているんだな」

 ……改めて言われると、確かに。
 Pの言葉は至極当然のことだったが、改めて言われると確かにそうだった。
 みんな、わざわざ私の歌を聴きに来てくれているんだ。 
 ……そう思うと。

「頑張らないとね」

 加蓮の口から、そんな声が漏れ出た。そのことに、加蓮がいちばんに驚いた。

「ああ。頑張れ、加蓮」

 Pは言って、加蓮の肩を軽く叩く。

「叩かないでよ、もう」

「たっ……そんなに、強く叩いたつもりはないんだが」

「それでも。……ふふっ」

「……からかったのか?」

「さあ? どうでしょう」

 加蓮は笑ってごまかした。Pに触れられた肩が熱い。全身が、熱い。

 これは、なんだろう。

 これは、いったい、なんなんだろう。

「――北条さん。そろそろ、出番です」

 スタッフさんが言う。その言葉には「はーい」と答えて、

「それじゃ、行ってくるね、プロデューサー」

 加蓮は軽く手を挙げる。

「ああ。行ってこい」

 それを見て、Pも軽く手を挙げ、パン、とハイタッチ。

 ……さて。

 胸がドキドキする。
 顔が熱い。
 まだ始まってもいないのに、汗が出てる。
 緊張、してるのかな。
 私、こわいのかな。

 でも。
 ……今日は、今日だけは。
 プロデューサーのために。
 プロデューサーの、ためだけに。
 ただ一人のために、歌おう。

 ……そうすれば。
 私にも、歌える気がするから。

「……行きますか」

 そして。

 ライブ開始の、幕が上がった。

126: 2017/04/19(水) 20:47:13.88 ID:nhXCd10e0

      *

「……ふぅ」

 ライブ終了後。加蓮は拍手を背に浴びながらステージを後にした。久しぶりのライブは予想以上に疲れるものだった。
 ステージライトの光の熱。ファンの視線と歓声。それから、緊張――それらが一気に降り掛かって、ライブ中のことはほとんど覚えていなかった。

「……水。水、欲しい……」

 ぱたぱたと手で顔を扇ぎながら、加蓮はPを探して首を振った。……あ、いた。

「プロデュ――」

 そう、呼びかけようとした時だった。
 Pがこちらを見て、駆け寄ってきて。

 そして――

「――加蓮!」

 加蓮のことを、抱きしめた。

「……え!?」

 一瞬、何が起こったかわからなかった。え? え? 何? どういう状況? どうして、プロデューサーが私のことを?

 加蓮は混乱していた。顔は真っ赤で、ステージの上よりも熱かった。プロデューサーはそんなことを気にもとめず、加蓮のことを力いっぱい抱きしめていた。

「良かった……本当に、良い、ステージだった。やっぱり、君はアイドルなんだな。君は、やっぱり……僕にとって、最高のアイドルだ」

 その声には熱がこもっていた。強い強い感情がこもっていた。
 いきなりそんなことを言われて、加蓮はもともと赤かった顔をさらに赤くさせる。
 な、何が起こっているのかまだわからないけど……とりあえず!

「プロデューサー! その、ちょっと……離れて?」

「離れ……? ……っ! す、すまない、加蓮!」

 加蓮の言葉に、Pは慌てて彼女から離れた。……まったく、もう。加蓮は胸がうるさいくらい大きく鼓動しているのを感じていた。……今のは、びっくりしただけ。うん、びっくりしただけ……だよね。

 ふぅ、と加蓮は一息ついて、Pの方を見た。
 ……『アイドル』、ね。
 加蓮は先程のPの言葉を思い出す。わかってる。期待なんてしちゃいけないって。前からこの人はそうだったじゃないか。私のことを……こんな、私のことをアイドルだなんて言って。
 それと同じだ。今はライブにあてられて、それで、言ってしまっているだけなんだ。
 そうじゃないと、私のことを『最高のアイドル』だなんて、言えるはずがない。
 ……凛も奈緒もいるのに、私が、そんな……。

「……アイドルって、言うけどさ」

 加蓮は言う。つぶやくような、小さい声で……逃げるように、プロデューサーから、目を背けて。

「どうして、そんなことを言えるの? ……私に、アイドルなんて――」

127: 2017/04/19(水) 20:48:06.13 ID:nhXCd10e0

「言えるさ」

 加蓮の言葉を遮って、Pは言った。その言葉に、加蓮は顔を上げて、Pを見る。

「だって――」

 Pは加蓮ではない、どこかを見ていた。彼の視線の先に何があるのか。そう思って、加蓮はPの視線を追って――

「――こんなに大勢の人が、加蓮のことを、好きでいてくれているんだから」

 サイリウムの光。
 アンコールの声。
 そして、大勢のファンの顔。

「……これ、って」

 ――北条加蓮。
 彼女は以前、『誰のことも見ていない』と言われていた。
 アイドルを続けている理由は、凛と奈緒といたいから。ただそれだけで……それ以上のことは、何も思ったことがなかった。

 だが、今日。
 彼女は、Pのために歌った。
 誰かのために、歌ったのだ。

 身体能力に大きな変化はない。技術にも大きな変化はない。
 変わったのは、心だけ。

 だが――だがしかし、それこそが北条加蓮という『アイドル』にとって唯一足りないものだった。

「……私」

 ファン。
 アイドルにとって、ファンの存在は大きい。
 ファンがいるからこそのアイドルであり、ファンがいなければアイドルはアイドルたりえない。

 ――逆を言えば、応援してくれる人が一人でもいれば、その瞬間、人は『アイドル』になれる。
 あとは、それに気付くかどうかだ。それに気付くことが、できたのなら。
 自分のことを応援してくれている人がいると、気付けたなら。
 その人たちを、見ることができたなら。

「私、アイドルなんだ」

 自分のためにサイリウムを振り、自分のためにアンコールの声を出してくれる。
 そんな彼らのことを見て、ファンを見て。
 加蓮は、ぽつりと呟いた。

「私……アイドルに、なれたんだ」

 その瞳から涙がこぼれた。今まで出さないように懸命に押し頃していたものが、一気に溢れ出していった。
 しばしの間、Pはそんな加蓮を見るだけだった。


128: 2017/04/19(水) 20:48:34.73 ID:nhXCd10e0

 しかし。

「……加蓮。アイドルなら、あと少し、やることがあるだろう?」

 Pが言った。やる、こと……そう考えた加蓮の耳に「アンコール!」という声が聞こえた。

「そうだね。……私、行ってくる」

 その表情は、ライブ前のものとは大きく変わっていた。
 プロデューサーのためじゃない。
 プロデューサーのためだけじゃなく――私を応援してくれている、みんなのために。
 ファンのために、歌うんだ。
 それがアイドルだって……私は、やっと、わかったから。

 ――でも。

「ねぇ、プロデューサー。……ううん」

 ステージに上がる直前。

 Pの方を振り向いて、加蓮は言った。

「――Pさん! 私……Pさんのこと、大好きだよ!」

 私がここまで来れたのは、あなたのおかげだよ。
 あなたがいたから、私はアイドルになれたんだ。
 あなたのおかげで……私は、今、ここにいる。

 だから。

「見ててね、Pさん。私が――アイドルに、なったところを」

 加蓮の言葉に、Pは一瞬だけ目を見開いて、すぐに微笑んだ。

「ああ。見てる。だから――行ってこい!」

「うん!」

 そして、加蓮は宣言する。

「『アイドル』北条加蓮――いってきます!」

129: 2017/04/19(水) 20:50:02.04 ID:nhXCd10e0

      *

 アンコールも終わり、ファンも帰った、空っぽの会場。
 まだ熱の残るその場所に、加蓮とPはいた。
 先程までとは正反対に、静寂に満ちたその空間……そのはずなのに、目を閉じれば、今もすぐそこにファンの歓声があるように思えてくる。二人はライブの余韻に浸っていた。

「……Pさん」

 そんな中、先に沈黙を破ったのは加蓮だった。加蓮はPの方を見ておらず、それがわかっていたので、Pもまた、加蓮の方を向かずに聞く。

「今日のライブ、どうだった?」

「最高だった」

 Pは微笑む。

「君は最高のアイドルだったよ。加蓮」

「……なら、さ」

 加蓮は微笑み、Pの方を向く。

「ご褒美……もらっても、いい?」

「ご褒美……? べつにいいけど、僕も新人だから、あまり高いものだと買えないと思う」

「大丈夫。お金で買えるものじゃないから」

「お金で買えるものじゃない? なら――」

 そこでPの言葉が止まる。加蓮の表情を見て――思わず、言葉が止まってしまう。

「Pさん」

 加蓮は言う。

「私、ずっと、あなたといたい。ずっと、ずっと……あなたの、そばにいたい」

 ぎゅっ、と胸の前で手を握って。
 まっすぐに、Pを見て。
 言葉を紡ぐ。
 想いを綴る。

「だから……それを、約束してほしい。その約束が……今の私がいちばん欲しい、ご褒美だよ」

 あなたのせいで。あなたのおかげで。
 私は、アイドルになった。アイドルになってしまった。アイドルに、なることができた。
 他の誰でもない、あなたがいたから……あなたが、気付かせてくれたから。
 こんな私なんかのことを……見捨てないで、ずっと、見ていてくれたから。

 加蓮は思う。そこに含まれていた感情は感謝だけではない。色んな感情が、胸いっぱいに押し寄せて……その中で、確かな言葉にできること。

『ずっと、あなたの側にいたい』

 だから、加蓮は言った。願うように、祈るように。想いを形にすることで叶うものがあると、信じていたから。

130: 2017/04/19(水) 20:50:49.75 ID:nhXCd10e0

「……ああ」

 Pはうなずく。加蓮の目をしっかりと見て、加蓮に向き合って、口を開く。

「約束する。僕も、君のそばにいたい。いつまでも、君のプロデューサーでいたい……君が、そう思わせてくれたから」

「……ほんとに?」

「本当に」

「ほんとに、ほんと?」

「ああ」

「嘘だったら……私、絶対に、あなたのことを、許さないからね?」

「だから、嘘じゃな――」

 そうPが文句を言おうとした瞬間、勢いよく、加蓮がPの腕の中に飛び込んだ。

「なっ」

 加蓮のいきなりの行動にPは驚く。加蓮は思い切りPの身体に抱きついて、離れない。

「ちょ、加蓮! いきなり、何――」

 Pは慌てて、加蓮に文句を言おうとした。

 だが、

「――本当に、約束だからね!」

 ……そんな、嬉しそうに、弾んだ声に。

「……ああ」

 もう一度、そう言って。
 Pもまた、加蓮の肩をそっと抱いた。

131: 2017/04/19(水) 20:51:19.30 ID:nhXCd10e0

      *

 それからはすべてが順調だった。

 加蓮の仕事に対する評価は以前よりもずっと高くなり、どんどん仕事が増えていった。
 これは加蓮の本来の実力を考えれば当然のことだったが、そこにはPの力もあった。
 Pは入社して一年も経っていない新人プロデューサーであり、加蓮から見ても頼りないように映ることもあった。
 しかし、どうしてか『ここぞ』という時にはいつも素晴らしい仕事をするのである。
『他のプロデューサーに比べれば自分なんて』と自己評価は低かったが、実際のところ、彼のおかげで成立した大きな仕事もいくつかあった。
 そんなPの助力もあり、アイドル北条加蓮の人気は『トライアドプリムス』の活動を休止する以前よりもさらに高くなっていた。

 トライアドプリムスと言えば、加蓮は凛と和解していた。どちらから謝ったりしたわけではなく、ただ、仲良くなっていた。
 ある日、凛と加蓮がレッスン室で談笑している光景を見た奈緒が「なんだよ、もう」と嬉しそうに笑って、二人に抱きついて……それで、この三人の仲は完全に修復。以前よりもずっと深く付き合うことができるようになった。
 それにともなってトライアドプリムスの活動は再開。活動休止以前よりも遥かに高いパフォーマンスは数々の人を虜にして、その人気は『ニュージェネレーション』にも匹敵するほどのものとなっていった。

 加蓮とPの仲も、以前とはまったく違うものとなっていた。ライブ前まではまだどこか一線引いたような加蓮とPの関係だったが、あのライブ以降、加蓮の方からどんどん懐くようになっていった。Pのことを、慕うようになっていった。

 Pが加蓮しかプロデュースしていないこともあって、Pと加蓮がともに過ごす時間は長かった。
 加蓮の方も暇さえあればPにくっついていったし、Pも暇さえあれば加蓮のレッスンに付き合って、どうしても行けない仕事以外はすべて同行した。
「アイドルのご機嫌とりも仕事だよ?」なんて言って、加蓮がPをショッピングに連れて行ったりすることもあった。加蓮とPの仲は、仕事だけのものではなくなっていた。

 そして、月日は流れ、一二月のある日。
 Pが運転する車で事務所に帰る途中のこと。

 Pが外を見て「雪だな」と言った。その言葉につられて、加蓮は窓の外を見た。Pの言葉通り、外では雪が降っていた。

「……加蓮。今日は家まで、送ろうか?」

 Pが言った。加蓮は「べつに大丈夫だよ」と言った。Pは「そうか」と返した。

 そして、事務所に到着して、車を出ようとした時。

「加蓮」

 そう言って、Pは加蓮の肩に自分のコートをかけた。

「ちょ、これじゃ、Pさんも寒いでしょ」

「大丈夫だ。もう事務所まではすぐそこだし……今日は、それを着て帰ってくれ。送らないなら、せめて、これくらいは……な」

 微笑み、Pは事務所に向かって歩き始めた。そんなPの後ろ姿を見て、加蓮は肩にかけられたコートをぎゅっと握った。

132: 2017/04/19(水) 20:51:57.28 ID:nhXCd10e0

「……かっこつけちゃって」

 言いながら、加蓮の顔は真っ赤に染まっていた。不自然なほどに、熱く、熱く。

 どうしたんだろう。もしかして……風邪?

 最初はそう思った。でも、違うような気がした。
 なら、私はいったいどうしたんだろう。

 どうして、こんなに顔が熱いんだろう。

 どうして、こんなに胸が温かいんだろう。

 どうして、どうして――

 そして、その時、その瞬間。

 加蓮は、気付いた。

「……そっか」

 私、Pさんのことが好きなんだ。

 私、Pさんに、恋、してるんだ。

「――Pさん!」

 思った瞬間、加蓮はPの背中に向かって駆け出して、そのまま彼の腕に抱きついた。

「んっ……なんだ? 加蓮。いきなり、抱きついたりして」

「んー? ちょっと、加蓮ちゃんの体温で、暖めてあげようと思って」

 Pの腕に抱きついたまま、加蓮は笑う。

 幸せだった。

 Pのことを好きでいられて……大好きな人と、一緒にいられて。

 恋をしていると、気付くことができて。

「Pさん。やっぱり、今日、送ってほしいな」

 加蓮の声は弾んでいた。そんな加蓮に対してPは怪訝に眉をひそめたが、

「わかった。送るよ」

 ……そう、答えてくれるから。

「ありがとう、Pさん♪」

 ぎゅー、と加蓮はPに抱きつく力を強める。

「ちょっ……加蓮。その、当たってるから、離れてくれないか」

「だーめ♪」

 慌てるPに、加蓮は楽しげに答える。それからもPは加蓮に離れるように何度か頼んだが、何度言っても加蓮が離れようとしなかったため、あきらめてそのまま事務所に帰った。

 さすがに事務所の中に入ると知り合いもいて、何度か茶化されることもあった。そのたびにPは恥ずかしそうにしていたが、加蓮は楽しげな表情を崩すことなく、また、Pから離れることもなかった。

 北条加蓮は浮かれていた。浮かれているということに気付いてもいた。
 だが、だからと言って恥ずかしがることはなかった。

 だって、初恋なんだもん。
 浮かれるくらい、仕方ない。

 加蓮は思い、恋する人に抱きつく力をさらに強めて、幸せそうに微笑んだ。

133: 2017/04/19(水) 20:52:26.27 ID:nhXCd10e0

      *

 クリスマス。
 雪の街。

「はぁ……寒いな」

 大勢の人々が幸せそうに歩く中で、加蓮はPを待っていた。
 クリスマス。希望の日。

 ……小さい頃は、この日が好きじゃなかったな、と思う。
 クリスマスは、希望の日……みんなが幸せな食卓を囲んで、プレゼントをもらって……。
 でも、私にとっては、希望がある日じゃなくって……絶望もなくって。ただ、ぼんやりしながら、灰色の冬空を眺めてた。
 だから、好きじゃなかった。私にとって、何の日でもなかったから。

「……でも」

 今は違う。暑くも寒くもなかった病院とは違って、私は今、寒さを感じる。
 それに、何より――

「――加蓮!」

 あの人を待っている時間は……好きな人を待っている時間は、そんなに悪いものではなかったから。

「すまない、待ったか?」

 急いできたのだろう。加蓮の元に到着したPは息を切らしていた。息が白くなる季節だからこそ、それが目に見えてわかる。
 そんなPを見て、加蓮は嬉しくなっていた。この白い息は、私のためのもの……そう思うと、なんだかたまらなく愛おしく思えたのだ。

「はぁ……さむーい。女の子を待たせるなんて、Pさんは罪な人だね」

 そう言うとPはわかりやすく申し訳なさそうな顔をする。……かわいい。Pのそんな顔を見ているのもそれはそれで良いと思ったが、もう一度謝らせようとは思わない。Pがもう一度謝ろうとする前に、言葉を続ける。

「でも、ちゃんと来たから、許してあげる。でもでも、凍えちゃったから、温かいモノをくれるまで、許してあげない♪」

 そうやって加蓮が微笑むのを見て、Pもまた、ふっと表情を和らげた。

「ありがとう、加蓮。それで、温かいモノって……」

「うーん……温かいココアがいいかな。マシュマロがはいった、とびきり甘いやつ!」

「了解。……でも、そういうの、どこで飲めるんだ……?」

 そうやってPはわかりやすく悩んでみせる。そうして悩んでいる姿を見て、やっぱり好きだな、と思う。
 これが好きってことなのかな。これが恋ってことなのかな。
 その人のすべてが、たまらなく愛おしくなって……どんなことでも、その人のことを、もっともっと好きになる。心が、温かくなる。


134: 2017/04/19(水) 20:53:35.55 ID:nhXCd10e0

「ね、Pさん」

 頭を悩ませるPに加蓮は微笑み、手を差し出す。

「とりあえず……手、握ってくれる?」

「……ああ」

 そうしてPは加蓮の手をとり、かと思えば、すぐに驚いた表情を見せた。

「加蓮の手、冷たいな。……本当に、待たせてすまなかった」

「ん、大丈夫大丈夫。こうして、肌で季節を感じると、なんていうか……生きてるなぁ、って感じるから。あ、そんなに重い意味じゃなくてね? 本当に、身体は大丈夫だから。心配しないで」

「……それなら、いいんだが」

 そう言いながらも、Pは加蓮の手を握る力を強くした。加蓮は少しだけ目を見開いて、すぐに嬉しそうに微笑む。

「歩こっか」

「ああ」

 手をつないだまま、加蓮はPと一緒にクリスマスの街を歩いて行く。

 ……クリスマス、か。

 はぁ、と加蓮は息をはく。息が白い。白い息が、クリスマスの夜空にのぼっていく。
 そこにあるのは、病室から見た灰色の冬空じゃなくって……キラキラがたくさん満ち溢れた、希望の夜空。
 そう思うのは、きっと――

「……Pさん」

「なんだ?」

「私、幸せだよ。……あなたといられて、本当に」

「……僕も、同じ気持ちだよ」

「っ……本当に?」

 Pの言葉に弾かれたように、加蓮はPの顔を見た。そんな加蓮の反応に、Pは驚いた様子で、

「あ、ああ。だって、僕は、君のことが――」

 そして。

 Pは一度、言葉を止めた。

 目を見開き、息を止めて……それから、ゆっくりと微笑んだ。

「加蓮」

 今までにないほどに優しい声音で、Pが加蓮のことを呼んだ。

「な、なに?」

 そんなPの表情を見るのが初めてだったから、加蓮は動揺して返した。そんな優しい顔されたら、私……。

「加蓮は……アイドルが、好きか?」

 Pが言った。アイドル……アイドル、か。

「好きだよ。……昔から、憧れていたから。まあ、Pさんと会うまでは忘れちゃっていたけどね」

 加蓮はふふっと微笑む。なんだか気恥ずかしくて、Pの表情を見ることはできない。

「そうか。なら、やっぱり……」

「え?」

 Pのつぶやきを、加蓮は聞き返す。しかし、Pは微笑み、

「いや、なんでもないよ。……行こうか、加蓮」

 加蓮の手をしっかりと握りしめ、前を向いて歩き出した。

 ……いったい、なんだったんだろう。

 Pのつぶやきを加蓮は不思議に思ったが、すぐに考えないことにした。
 Pさんがなんでもないって言ってるんだから、それでいいや。今はただ、この幸せを……。
 ぎゅっ、と加蓮はPの手を握り、その腕に自らの身を寄せた。

 Pのつぶやきは、白い息に紛れて消えた。

135: 2017/04/19(水) 20:54:04.37 ID:nhXCd10e0

      *

 一月。
 事務所。

「Pさん、どこだろ」

 加蓮はPのことを探していた。クリスマス以来会っていなかったので、早く会いたかった。

 恋しくて、恋しくて……プロデューサーや、事務員さんのスペースに行って。
 ちひろさんから、部長の部屋にいると聞いて。
 話が終わるまで、部屋の前でPのことを待っていようと、そう思って。
 でも、部屋の扉が開いていて。
 話が、聞こえて。
 それに気付いた加蓮が、さすがにダメだよね、と踵を返そうとした、その瞬間。

「――僕には、北条加蓮のプロデューサーはできません」

 そんな声が聞こえて、加蓮は思わず、足を、止めて。

 聞き間違いだと、そう思って。
 そう願って。

 ……でも。
 もう一度、加蓮の耳にPの言葉が響いた。

「僕を、加蓮のプロデューサーから降ろして下さい」

 ……その瞬間。

 世界が、灰色に戻ったような気がした。

136: 2017/04/19(水) 20:54:32.10 ID:nhXCd10e0

      *

 どうして? どうして、そんなことを言うの?

 動悸が激しい。息が苦しい。身体の震えが止まらない。

 どうして、どうして? どうして、いきなり、そんなこと……。

 灰色の世界。灰色の病室。
 テレビの中のきらきらとした世界。

 ベッドの上には幼い私。きらきらした目でテレビを見ている。一年後、まだその目には希望が宿っている。さらに一年後。まだ希望が残っている。一年後、一年後、一年後、一年後……。その目から希望が消えている。絶望も希望もなく、ただ、諦めだけがある……。
 そして、一年前の私。どうしてか、まだベッドの中にいる。灰色の病室の中で、ただきらきらとしたテレビの中の世界を見ている。

 どうせ、私には、こんなこと……。

 そう思っていたのに、テレビの中から一人の男性が手を差し出す。

『君は、アイドルだよ』

 その人の手を取ると、私はテレビの中に引きずり込まれる。
 その世界は、煌めいていて……とても、とても幸せで。
 凛と奈緒と一緒にステージに立って……ずっと、Pさんが私のことを見ていてくれて。
 このまま、ずっと、ずっと、こうしていられたらいいのに……。

 そう思っていると、ふと、目が覚める。
 そこは眠る前と何も変わらない、灰色の病室。灰色の世界。

 ……ぜんぶ、夢、だったの?

 それに気付いた瞬間、私の目から、涙が、こぼれて――

137: 2017/04/19(水) 20:55:36.97 ID:nhXCd10e0

      *

「――加蓮!」

 Pの声。加蓮は目を開く。そこにあったのは灰色の病室ではなく、Pの顔。

「……良かった。大丈夫か?」

 Pは心の底から安堵したような様子を見せる。
 ……そっか。今のは、夢、だったんだ。
 そう思うと安心して……でも、その前のことを思い出して。

「Pさん。私のプロデューサーを辞める、って、どういうこと? 辞めるって……本当、なの?」

 すぐさま、加蓮はPに訊ねた。Pの言葉が、どういう意味だったのか。どうしてあんなことを言ったのか。聞きたくなかったが、聞きたかった。
 理由を聞いても納得できるとは思えなかったが、それでも、聞かなくちゃいけないと思ったから。

「……やっぱり、聞いていたのか」

 Pは力なく微笑む。それは、ひどく悲しい微笑みで……聞いた加蓮が言葉を失ってしまうほどだった。
 そんな加蓮に、Pは言う。

「本当だよ、加蓮。僕は、君のプロデューサーを辞める」

「なんでっ」

「それが『アイドル』北条加蓮にとって必要なことだから」

 Pは即答する。……え? と加蓮は力なく声を漏らす。私に、必要? なんで? どうして?
 Pは続ける。

「加蓮。君はもう、僕がいなくてもアイドルをやっていける。だから――」

「でも!」

 Pの言葉を遮って、加蓮は言う。

「約束……約束、したでしょ。ずっと、ずっと……一緒に、いてくれる、って」

「すまない」

 加蓮の言葉に、Pはただそれだけを言って、頭を下げる。

 言い訳も何もなく、ただ、そう言われて……。

「……私が何を言っても、無駄みたいだね」

 加蓮は知った。

 Pはもう、決めている。決意している。
 今、加蓮が何を言おうと、その決意は変わらない。

 それが、わかった。
 わかってしまった。

「……ああ」

 加蓮の言葉に、Pはうなずく。そしてもう一度、深く、深く謝ろうとして――

「でも」

 そんなPを見て、加蓮は言う。
 そう、でも――加蓮はPの顔をまっすぐ見つめて、宣言する。

「私は、諦めないから」

 昔の私なら、諦めていたかもしれない。
 でも、もう、諦めない。
 もう、諦めてなんてあげない。
 みっともなくても、しつこくても。
 絶対に……絶対に、諦めない。

「いつか、必ず……あなたと、また」

 その日。
 Pは北条加蓮のプロデューサーを辞めた。

 そして、同日。
 北条加蓮は決意した。

 Pが自分を抑えきれないほどに、魅力的なアイドルになることを。

『トップアイドル』に、なることを。

138: 2017/04/19(水) 20:56:02.64 ID:nhXCd10e0

      *

 ……。

 ……。

 ……。


139: 2017/04/19(水) 20:56:30.53 ID:nhXCd10e0

      *

 ライブバトル当日。

「……ん」

 加蓮は自室で目を覚ました。……久しぶりにこんな夢を見たな、と思う。

 あの後、Pさんがアーニャちゃんの担当プロデューサーになったと聞いた時は驚いた。

 動かずにはいられなくなって、すぐさまあの二人に会いに行ったくらいには動揺したけど……もしアーニャちゃんがいなかったとしても、Pさんが私のプロデューサーに戻ってくれるなんてことは、なかっただろうし。
 でも、あの時は会いに行って良かったと思う。嫌味みたいなことも言っちゃったけど、それでPさんが本気になってくれるなら都合が良い。

 アーニャちゃんには……正直、嫉妬してる。
 でも、同時に、アーニャちゃんは希望だ。

 それだけのものを見せることができたなら、Pさんを振り向かせることができるかもしれないって、わかったから。
 だから――

「ごめんね、アーニャちゃん」

 今日は、私が勝つよ。

 まったく歯が立たないくらいに圧倒して。

「Pさんを、振り向かせてやるんだから」

140: 2017/04/19(水) 20:56:56.28 ID:nhXCd10e0

      *

 朝。
 事務所。

「――本当に、いいのか?」

「うん。大丈夫。プロデューサーには、大切なアイドルがいるでしょ」

 加蓮は今自分を担当しているプロデューサーと話していた。今日のライブバトルに、付き添いするかどうかの話だ。

「それに、今日は……私と、あの人の問題だから」

 加蓮はこのプロデューサーのことをあまり嫌っていなかった。むしろ感謝していた。他にも大切な時期のアイドルを担当しているのに、私の面倒まで見てくれているこの人には感謝していた。

 だが、それでも、今日のライブバトルは自分とPの問題だ。その間に他人の存在は必要ない。

「……そうか」

 プロデューサーもそれはわかっていた。そのことに少しの寂しさを感じながらも、彼は笑い、軽く手を上げた。

「勝てよ、加蓮」

「当然!」

 パン! と加蓮はプロデューサーの手を思い切り叩いた。

「それじゃ、行ってくるね、プロデューサー。帰ってくる頃には、私の担当じゃなくなってるかもしれないけど」

 ひりひりと痛む手を握りしめ、加蓮は笑った。

「かもしれない?」

 そんな加蓮に、プロデューサーは挑発的に笑ってみせる。そんなプロデューサーを、加蓮は驚いた顔で見つめて……にっ、と笑う。

「……絶対!」

 そして。
 北条加蓮は、事務所を発った。
 向かう先は、ライブ会場。

 アナスタシアと、Pのいる場所。

141: 2017/04/19(水) 20:57:24.22 ID:nhXCd10e0

      *

「……お、来た来た」

 ライブバトルが行われる会場の前。
 加蓮はPとアナスタシアのことを待っていた。
 こちらに歩いてくるPとアナスタシアに対して、加蓮は挑発的に微笑む。

「逃げなかったんだね、Pさん、アーニャちゃん」

 そんな加蓮の挑発を、Pは真っ向から受ける。

「逃げるわけがないだろ、加蓮。……僕たちは、必ず、君を倒す」

「私を倒す? ……ふふっ。それは無理だよ、Pさん。この一ヶ月で、どれだけ実力を伸ばしたのかはわからないけど……それでも、私に勝てるわけがない」

 余裕たっぷりに見えるよう、加蓮は言った。そもそも、勝つためのライブバトルじゃない。勝つなんてことは当然で……加蓮が望むものは、その先にあった。

「……カレン。ここで話していても、何も、わかりません」

 そんな加蓮に、アナスタシアは言った。

「証拠は、ステージで見せます。だから……」

「……そうだね、アーニャちゃん。ここで話していても、平行線、か」

 とりあえず、挑発はできた。
 Pさんが本気だってことはわかったし……私に勝つくらいの勢いで、来てくれてる。
 このライブバトルに本気で来てくれているってことがわかれば十分だ。
 それなら、後は……。
 そんな思いを胸に秘め、加蓮は不敵に笑ってみせた。

「それじゃあ、行こうか。私たちの、戦場に」


142: 2017/04/19(水) 20:57:51.70 ID:nhXCd10e0

      *

 ライブ会場。
 控室。

「……凛、奈緒。来てたんだ」

 その前に立つ二人の先客に加蓮は微笑みかけた。

「でも、ここ、関係者スペースじゃない? なんでいるの?」

「関係者だからね」凛が言う。「違う?」

「……違わない」

 ふふっ、と凛の言葉に加蓮は嬉しそうに微笑む。そんな加蓮を見て、凛と奈緒もまた微笑む。

「それで、今日は何の用? 二人とも人気アイドルなのに……わざわざ、どうして?」

「応援しに来た、じゃ、ダメか?」

 奈緒の言葉に、加蓮は「応援……応援、か」とつぶやいて、

「ん、ありがと、二人とも」

 そして、言う。

「私、勝つよ。絶対に勝って――Pさんを、振り向かせるから」

 加蓮の望みは、Pを自分のプロデューサーに戻すこと。 
 アナスタシアから、担当プロデューサーを奪うことだ。

 もちろん、複数のアイドルを担当しているプロデューサーがいる以上、加蓮もアナスタシアも、どちらも担当すればいいだけの話……かもしれない。
 だが、加蓮はPのことをよく知っている。知っているからこそ、彼が複数のアイドルを担当できるような人間ではないということがわかるのだ。
 少なくとも、加蓮はアナスタシアからPを奪うつもりでいる。アナスタシアを、悲しませるつもりでいる。
 北条加蓮は、そういったすべてのことを理解した上で……それでも、Pと一緒にいたいと思っている。
 他人を犠牲にする覚悟がある。

 今回のライブバトルにそういう意味があるということは凛と奈緒もわかっていた。だが、それがわかった上で、凛と奈緒は加蓮のことを認めていた。
 たとえ正しくなかったとしても……彼女たちは、親友を応援するということを選んでいた。

 だから。

「うん。頑張って、加蓮」

「あたしたちは、加蓮の味方だからな」

 二人は笑顔でそう言った。そんな二人に、加蓮は微笑みで感謝を表す。

「……それじゃ、二人とも。そろそろ準備するから、あとは観客席で、ね」

 加蓮の言葉に、二人はもうそんな時間か、と控室の前から退いて、加蓮を通す。
 そして加蓮がドアノブに手をかけた、その時。

「加蓮」

 凛が言った。

「アーニャは強いよ。だから――全力で」

 その言葉に、加蓮はドアノブを握る力を強める。……凛が、そこまで、か。

 でも。

「もちろん」

 そんなの、言われるまでもない。

「今日の私は、凛にだって負けないよ」

 そして。

 北条加蓮は、扉を開いた。

143: 2017/04/19(水) 20:58:19.17 ID:nhXCd10e0

      *

 観客席。

「お、しぶりんにかみやん。かれんの応援かな?」

 凛と奈緒が自分の席に向かっていると、そんな声が聞こえた。

「……未央。それに、みくと蘭子? 珍しい組み合わせだね」

 あまり見ない組み合わせに凛は言う。この三人組の共通点はなかなか思い当たらない。

「まあ、珍しいかもねー。でも、アーニャの応援に来た、って言えば、わかるんじゃない?」

 そう言えば、この三人はみんなアーニャと仲が良かったはずだ。だから……。

「ふっふっふ……凛チャンと奈緒チャンは、どうせ加蓮チャンが勝つと思ってるんでしょ?」

「いや、まあ、応援しに来てるわけだしな」

 みくに対して奈緒が当然だろと言うように答える。しかしみくはそんな奈緒の反応に勢いを削がれることなく、自信満々に言う。

「みくもよく知らないけど、アーニャンには秘策があるにゃ! いくら加蓮チャンでも、一筋縄ではいかないからね!」

「知らないのかよ……」

 みくに対して奈緒は呆れたように答える。

「秘策……」

 蘭子も知らなかったようで、小さくつぶやく。もちろん未央も知らないようで、

「秘策かー……これは楽しみだね! しぶりん!」

 なんて、凛に向かって言ってみせる。

「かもね。本当にそんなものがあるのなら、だけど」

「……本当にあるの? みくにゃん」

 そんな未央の問いに、みくは「うっ」と呻き、

「……そ」

「そ?」

「それは、わからないけど! でも、アーニャンだってすごいんだからね! 今に見てろにゃ!」

「わからないのかよ……」

 そしてまた奈緒が呆れ顔。未央が「どっちなんだろうねー。らんらん」と蘭子に話しかけ、「……わからぬ」と蘭子が答えて……騒がしいな、と凛は思う。

 そして、そのままステージの方を見て、思う。

 ……楽しみにしてるよ、二人とも。

144: 2017/04/19(水) 20:58:46.74 ID:nhXCd10e0

      *

 観客席は既に満席。
 注目度は最高潮。
 ざわめきが会場を支配して、今から始まる催しを今か今かと待ち望んでいる。

 ライブバトル。
 それは、アイドル同士の戦い。
 勝ち負けをはっきりと決める、残酷な競技。
 片方が確実に『負ける』……そんな、戦い。

 そんなものを楽しんで見るなど、おかしいことだろうか。
 片方が確実に悲しむような光景を見て楽しむなど、おかしいことだろうか。
 そのことから、ライブバトルに対しては『趣味が悪い』などという声も確実にある。
 順位なんてつけなくてもいい。勝ち負けなんてつけなくてもいい。
 大切に思うが故に、そう思う者も多いのだ。

 だが。
 だが、しかし。
 それでも、その世界でしか――『勝ち負け』のある世界だからこそ得られるものも、確かにあるのだ。

 ライブバトルは残酷だ。だが、だからこそ美しい。
 今、この会場にいる者にはそれぞれの思いがある。
 観客も、スタッフも――アイドルも。
 誰もが、それぞれの思いを持って、この戦いに臨もうとしている。

 開戦の時は、近い。


145: 2017/04/19(水) 20:59:17.15 ID:nhXCd10e0

      *

「勝つぞ、アナスタシア」

「ダー」


146: 2017/04/19(水) 20:59:44.75 ID:nhXCd10e0

      *

「さあ! ライブバトル、そろそろ始まりの時間です! 今日のライブバトルは期待の新人、『新星』アナスタシアさん、そしてあのトライアドプリムスの一人、『煌めきの乙女』北条加蓮さんの対決です! 最近話題の新人であるアナスタシアさんですが、まさかこんなに早く北条さんほどのアイドルとライブバトルをすることになるとは思いませんでしたね! 北条さんと言えば、これまた最近パフォーマンスがさらに良くなったと言われています! つまり! どちらも最近話題の要注目アイドル、というわけです! 今回のライブバトルは先手が北条さん、後手がアナスタシアさん! さて! いったいどのような戦いを見せてくれるのでしょうか! 私も楽しみです! ……では! 北条さんのステージまで、もうしばらくお待ち下さい!」


147: 2017/04/19(水) 21:00:13.62 ID:nhXCd10e0

      *

 控室。

 既に準備は終わり、部屋には一人のアイドルしかいない。
 ペパーミントグリーンの衣装に身を包んだ彼女は今までのことを思い出していた。

 昔、純粋にアイドルを憧れていた頃。
 アイドルになることをあきらめた頃。
 すべてをあきらめて投げやりになっていた頃。
 アイドルになって、でも、アイドルになれていなかった頃。
 すべてが信じられなくて、どうしてアイドルを続けているのかわからなかった頃。

 そして。
 Pさんに、出会ってから。

 あの人は、ずっと私のことを見てくれていた。
 あの人に、私はアイドルとは何かを教えてもらった。思い出させてもらった。

 私は、今、アイドルだ。

 Pさんと離れることにはなって、でもアイドルを続けているのは、アイドルが楽しいから。
 ずっと憧れていたアイドルになれたことは幸せで……そんな私がアイドルでいられるのは、ファンのみんながいるからだ。
 私を応援してくれるみんな。私のことを好きだと言ってくれるみんな。
 みんなのことが、私は大好きで……とても、とても、感謝していて。
 Pさんがいなくても、そう思える。
 幸せだって胸を張って言える。言えてしまう。

 なら、今日のライブバトルはしなくてもよかった? 負けてもいい?

 違う。

 それでも、私には今日のライブバトルが必要だった。
 Pさんがいなくても幸せでも。今でも十分幸せでも。

 それでも、私はPさんといたい。

 ……怒られるかな。Pさんも、みんなも。私に、失望しちゃうかな。

 ファンのみんな。凛や奈緒。それから――Pさん。
 あなたは、私を最高のアイドルだって言ってくれたよね。
 私は、今、最高のアイドルになれてるかな。
 今でも、そう思ってくれてるかな。

「……ごめんね」

 私は、アイドルだ。
 アイドルだった。
 今までは、アイドルだった。

 でも。

「今日の、私は――」


148: 2017/04/19(水) 21:01:15.27 ID:nhXCd10e0

      *

 会場。

 加蓮のステージの開始時間まではあと少し。
 観客の中には時計をちらちらと気にする者も出てきている。
 ざわめきは大きく、誰が何を話しているのかはまったくわからない。
 そんな中。

 コッ、と音が響いた。

 この喧騒の中では響くはずもないのに、どうしてか、観客は一斉にステージの方を見た。
 その瞬間だけ、音が消える。

 コッ、コッ、コッ、コッ。

 ステージの上を、一人の少女が歩いている。
 その音はたとえ最前列に座っていたとしても聞こえるはずがない、小さな音。
 それなのに、今、会場にいるすべての人間がその音を聞いていた。
 司会もカメラマンも、息を飲んで動けなかった。

 そんな世界をつくった少女は、周囲のそんな反応に対して何も思っていなかった。
 もっと言えば、それに気付いてもいなかった。
 ステージの中央。予定の立ち位置まで行って、止まる。
 そして、彼女はファンの方を向いた。

 瞬間、世界は動き出す。
 司会が何かを言い、ファンは少女の登場に興奮する。
 だが、少女は。
 北条加蓮は、それに対して何の反応も見せない。

 緊張はなかった。

 不思議と、今まであったどんなライブよりもリラックスしているように思えた。
 今日のライブは、とても大切なライブなのに。私、どうしたんだろう?
 そんなことを思うと同時に、今の自分が絶好調だということもわかっていた。
 今までで最高のコンディション。
 心の底から、そう思えた。

 でも、今日が最高のコンディションって言うのも面白いかも。
 正直、アイドルとしてはどうなんだ、って思う。
 私情たっぷり。好きな人と一緒にいたいから……なんて、そんな目的でするのに、最高のコンディションって。
 女の子としてはいいのかもしれないけど、アイドルとしてはどうなのよ。

 ……でも、うん。
 今日の私は『アイドル』じゃないから。

 ファンのためには歌わない。
 ただ一人のためのステージ。

 怒られるかな。失望されるかな。愛想、尽かされちゃうかな。
 そんなことも思う。もしかしたら、そうなるかもしれない。そう思う。

 でも。

 私にとっては、これこそが。

149: 2017/04/19(水) 21:01:46.03 ID:nhXCd10e0

 すぅ、と加蓮は息を吸う。
 イヤモニから声が聞こえる。
 それに合わせて、ステージライトが消える。
 いつの間にか、会場から声が消えている。
 パキッ、とサイリウムを折る音が聞こえる。

 ペパーミントグリーン。

 その色が、会場を照らしていく。
 それを見て、加蓮は少し微笑んでしまう。

 みんな、大好きだよ。
 でも、ごめんね。
 今日は、今日だけは。
 私は、みんなのためには歌わない。
 ただ、一人のためだけに――

 Pさんのために、歌うね。

 そんな私は、アイドル失格なのかもしれない。
 そう思う人も、いるかもしれない。

 でも。

 だけど。

 私にとっては、これこそが。

 たった一人のために歌うこと。

 恋をした人のために歌うこと。

 その姿を、見せること。

 それこそが。

「……3、2、1――」

 イヤモニからの声。
 マイクを口元に持っていく。

 そして――

150: 2017/04/19(水) 21:02:28.31 ID:nhXCd10e0


 ――【薄荷】


151: 2017/04/19(水) 21:02:58.24 ID:nhXCd10e0

 優しい旋律。
 どこか儚げで、温かい。
 そんなイントロからこの曲は始まる。

 ステージライトが加蓮を包むように照らして、その表情がわかる。
 儚げで、今にも消えてしまいそうで――そんな印象とともに、強く、深い想いを感じる。
 そしてそのまま、歌い始める。

 薄荷。

 昔の自分。弱虫だった自分。そんな自分を助けてくれた人。そんな大切な人と、いつまでも一緒にいたい。
 この会場にいる者で加蓮の過去を知る者は少ない。凛と奈緒、それからPくらいのものだろう。
 加蓮の過去、加蓮の想い……それを知っている者は少ない。

 だが、その歌は――願うように、祈るようにして歌われるその歌は、見る者の、聞く者の胸を打つ。

 ――Pさん、Pさん、Pさん。

 加蓮は思う。今までのこと。Pとのこと。好きな人のこと。大切な人のことを。

 あなたと会えたから、今の私がある。
 あなたがいたから、今の私がいる。
 あなたと一緒にいたい。
 あなたと、一緒に……。

 会場にいるただ一人に向けての歌。

 あなたと一緒にいたい。

 その願いの歌。その祈りの歌。

「……本当、自分勝手だね」

 観客席、凛がつぶやく。

「こんな大きなライブバトルを開催しておいて……一人のためだけに、歌うなんて」

 言って、微笑む。

「でも、だからこそ――」

 聞いているだけでわかる。痛いほどに伝わってくる。
 その願いが、その想いが、強く強く胸を打つ。
 自分勝手な歌だ。これだけの人に見られていながら、一人だけのために歌っている。
 たった一人のためだけに……その一人にさえ届けばいい。その一人にだけは、届いてほしい。
 感情が溢れている。会場いっぱいに、その想いが溢れだす。

 自分に向けられた歌ではない。

 だが、それがどうしたと言うのだろう。

 自分に向けられていなかったとしても、これだけの想いが込められた歌を胸に響かせられて……それで心が動かされないわけがない。
 この想いに。この願いに。儚く、切なく、しかしそれでも決して消えることない、深い想い。

 観客席から、誰かの泣いている声が聞こえる。
 油断すると、自分も泣いてしまいそうになってしまう。
 感情が、溢れてしまいそうになってしまう。

 たった一人の少女の歌。たった一人に向けられた歌。

 一途な歌。一途な想い。

 会場がその想いに満たされていく。

 加蓮の想いに、満たされていく。

152: 2017/04/19(水) 21:03:27.40 ID:nhXCd10e0

 届け。
 届け。
 届け。

 届け、この想い。
 伝われ、この想い。

 あなたがいたから、今の私がいる。
 あなたがいたから、今の私がある。

 あなたと会えたから、あなたのおかげで……。

 他の誰にどう思われてもいい。

 あなただけでいい。
 あなただけがいい。
 あなたの瞳に、映っていたい。
 あなただけの、ヒロインでいたい。
 そう思いたい。そう思わせてほしい。
 らしくなくても、私は、あなたの……。

 煌めきのひとときをあなたと一緒に過ごしたい。
 かけがえのない時間。短いかもしれない。どれだけ残されているのかはわからない。
 あなたと一緒にいたい。
 ずっと、ずっと。
 あなたのそばに。

 あなたと一緒に過ごしたい。
 あなたと一緒に歩いていきたい。

 わがままかもしれない。

 でも。

 でも。

 それでも――

「ずっと、そばに、いたいよ……」


153: 2017/04/19(水) 21:03:55.01 ID:nhXCd10e0

 ――そして。
 曲が終わる。
 一人の少女の、願いの歌。
 それが終わる。
 だが、拍手は響かない。
 呼吸すらできずに、ただただ世界に飲まれていく。

 加蓮の世界に、飲まれている。

 そんな会場を見て、加蓮は。

 加蓮だけが、息をして。
 ステージライトに照らされて。
 汗でしっとりと濡れる髪が煌めいて。
 会場を見て、観客席を見て、そして。

 ふっ、と微笑んだ。

 安心したように、優しく、儚く、柔らかく。

 北条加蓮は、微笑んだ。

 瞬間、観客席から爆発するような拍手と歓声が上がる。

 ファンのためではなく、たった一人のために歌う。
 それは、アイドル失格だろうか?

 確かにそう思う者もいるだろう。
 昔の加蓮なら、そう思ったことだろう。

 だが、今の加蓮はそう思わない。
 渋谷凛――彼女のステージを見て、加蓮は憧れた。
 こうなりたい、こうありたい――そう思わされた。

 それは加蓮がそれまで考えていた『アイドル』とは違っていた。
 だが、それでも、彼女は間違いなく『アイドル』だった。
 ファンに向けて歌わなくとも、その想いはファンに届く。
 加蓮はそれを知っていた。

 まだPが加蓮の担当プロデューサーだった頃、加蓮はPのためだけに歌ったことがあった。
 Pが持ってきてくれた、初めてのライブ。
 まだまだアイドルの仕事にはやる気が起きなくて……緊張して。
 でも、Pのためなら歌える気がして。
 Pのためだけに歌った、あのライブ。
 そのステージを見て、Pは加蓮を『最高のアイドル』だと言ってくれた。

 そして、今回――

 会場の誰もが、加蓮に心を動かされていた。
 拍手が鳴り響き、歓声が上がる。
 涙を流しながらもそれを拭ってもいない者、泣いて顔を伏せている者、それを慰めながらも目には涙を浮かべている者。

 北条加蓮。

 彼女は間違いなくアイドルだった。

 子どもの頃から、ずっと憧れていた姿とは違っても。
 でも、それでも。

 間違いなく、『アイドル』だった。


154: 2017/04/19(水) 21:04:22.16 ID:nhXCd10e0

      *

 加蓮のステージが終われば、次はアナスタシアのステージである。
 しかし、会場の誰もが加蓮のステージの余韻に浸っていた。
 今回のライブバトルの進行を務める者ですら、しばしの間、これがライブバトルだということを忘れていたほどである。

 だが、ライブバトルということを思い出しても、すぐに再開することはできなかった。

 北条加蓮。今回の彼女のステージを一言で表すならば、凄絶。

 今もまだ、会場はステージの余韻から抜け切れておらず、恐ろしいまでの沈黙に包まれている。
 いくら話題とは言っても、新人アイドルがこんな状況でまともに歌えるわけがない。

 いや、まともに歌えたとして――それで、どうなると言うのだろうか。

 新人アイドルが北条加蓮とライブバトルをする――その話題性は確かに大きく、もし負けたとしても『ライブバトルをした』という事実だけで知名度は上がるだろうし、新たな人気を獲得することもできるだろう。そしておそらく、それを期待して今回のライブバトルを行ったのだと思われる。

 だが、今回に限ってはその狙いが達成されるとは思えない。
 並大抵のステージでは、今回のステージと比較することすらできないだろう。
 それほどまでに、今回の北条加蓮のステージは凄まじいものだった。

 せめて、余韻が冷めるまでは……。

 そう思ったが、時間はそれを許さない。
 北条加蓮の余韻が残ったまま、次のステージを始めなければならない。

 ――可哀想だが、これも仕事だ。

 そう思って、進行役の男性は声を上げる。
 不幸なだけの少女を、氏刑台に送るように。

 ゆっくりと、アナスタシアの名前を呼んだ。

155: 2017/04/19(水) 21:04:48.71 ID:nhXCd10e0

      *
 
 アナスタシアがステージに上がった。

 歓声は上がる。しかし、それは加蓮の時――いつもと比べると、非常に小さなものだった。
 アナスタシアのファン以外は、加蓮のステージの余韻に飲まれ、歓声を上げることすらできなかった。

 いや、もしかすると、アナスタシアのファンの中にも歓声を上げられなかった者がいるかもしれない。それほどまでに、先程のステージは凄まじかった。

 歓声を上げたファンですら、先程のステージの衝撃から完全に戻ることができたわけではなかった。未だ加蓮のステージが目と耳に焼き付いて離れない。思い出すと、涙が出そうになってしまう。
 こんな状況で歌うのか。歌えるのか。アナスタシアのファンは胸が締め付けられる気持ちだった。
 自分の応援するアイドルなのだから――そんなことも思えない。
 アナスタシアのことは信じている。でも、それでも、今日だけは……。
 期待よりも不安の方がずっと大きかった。
 こんな空気で、どうやって歌うんだ。

 アナスタシアの持ち曲、『You're stars shine on me』は先程のステージで歌われた曲、『薄荷』と同じバラード調の曲である。
 あんなステージの後に、同じバラード調の曲。

 アナスタシアのことは好きだし、応援している。でも、それでも、今だけは逃げてほしかった。今だけは、歌わないでほしかった。
 今のアナスタシアの実力ではどう見積もっても――いや、アナスタシアだけではない。どんなアイドルだとしても、先程の加蓮のステージには敵わない。そんな確信があった。
 もうライブバトルなんてどうでもいい。だから、だから、だから――

 だが、そんな思いが届くことなく、アナスタシアはステージに立っている。
 輝く銀髪に、白い肌。黒いドレス風の衣装でその白さが強調されている。
 美しく、凛々しく、雪原に咲く花のように立つその姿は、普段なら見るだけで声を失うようなものだ。

 しかし今は、どうしても弱々しく見えてしまう。
 北条加蓮。その余韻が残ったステージの上では、どうしても……。

 アナスタシアのファンは、いつの間にか手をぎゅっと握りしめていた。
 早くこの時間が過ぎるように、早くこの時間が終わるように、そのことを、祈るように。

 ファンですらそうだったのだ。それ以外の者は、誰もアナスタシアに期待していなかった。
 可哀想に。もう終わりでいい。さっきのステージの余韻に浸りたい。こんな空気で歌えるわけがない。ああ、なんて残酷な……。
 アナスタシアを見てすらいない者もいた。もう席から立ち始めている者までいた。

 加蓮のステージ。
 それが残した影響は、あまりにも大きく――

 そして。

156: 2017/04/19(水) 21:05:16.30 ID:nhXCd10e0

「いいなぁ、アーニャ」

 観客席。未央が言った。

「こんな雰囲気、ぶち壊すには最高じゃん」

157: 2017/04/19(水) 21:05:44.03 ID:nhXCd10e0

 瞬間。

 輝きが満ちていくようなイントロ。それに合わせて蒼のステージライトが明滅する。

 会場にいる誰もが目を見張り、ステージに注目する。

「この曲は――」

 観客席、奈緒が凛を見る。
 凛はステージを見て薄く笑い。

 ステージの上。

 アナスタシアは、その目を開く。

158: 2017/04/19(水) 21:06:12.28 ID:nhXCd10e0


 ――【Never say never】


159: 2017/04/19(水) 21:06:45.30 ID:nhXCd10e0

「これは、凛の――」

 舞台袖。加蓮はハッとしてPを見る。Pはステージを見て、うまくいったとばかりに笑みを浮かべている。

 やられた――加蓮の脳裏にまず浮かんだのはそんな言葉だった。

 加蓮はPのことを自分がいちばんわかっているつもりだった。だが、それは逆もそうなのだ。Pもまた、加蓮のことをいちばんわかっている。そんなPが本気で加蓮に勝とうとすれば、どうするのか。それを考えていなかった。

 今のアナスタシアの実力では加蓮に勝つことはまず不可能と言っていい。それは確実だ。同じバラード調の曲を持ち曲とする二人がライブバトルでぶつかれば、確実に加蓮が勝利する。

 なら、どうすればいいのか。その答えが、これだ。

 凛の言葉を思い出す。『アーニャは強いよ』。そういう意味か。そして同時に、その言葉のもう一つの意味を察する。

 Pならば――そう、加蓮だからわかる。こういう時、Pはどうするのか。ただ渋谷凛の曲を使うだけ? それだけで満足する? 

 否――Pならば、凛にアナスタシアのレッスンを手伝うことを頼むだろう。凛は加蓮の味方だ。だが、渋谷凛というアイドルは絶対にそれを断らない。

 つまり、凛はアナスタシアのレッスンを手伝った上で、『アーニャは強いよ』と言ったのだ。

 それが、どういうことなのか。

 それは、今、ステージの上で起こっていることを見ればわかる。

『Never say never』。

 この曲を知らない者はこの会場にはいないだろう。
 今やトップアイドルの一人である渋谷凛の代表曲であるこの曲は、しかし、他のアイドルによって歌われることはほとんどなかった。

 それは、もしこの曲を歌ったなら、必ず渋谷凛と比較されるからだ。
 トップアイドルと比較される。そんなことを進んでするアイドルがどれだけいるだろうか。

 同じトップアイドル級のアイドルである本田未央などがほとんど無理やり持ち曲を交換しようと持ちかけ歌ったことはあった。その時は逆に渋谷凛が『ミツボシ☆☆★』を歌っていた。また、事務所のコラボということで765プロの最上静香が渋谷凛と一緒に歌ったこともある。

 だが、それくらいだ。それ以外でこの曲が渋谷凛以外のアイドルによって歌われたことは、ほとんどない。
 渋谷凛と、比較される――そんなリスクは、普通のアイドルなら冒せない。

 しかし、今――アナスタシアはこの曲を歌っている。
 渋谷凛と比較される曲を歌っている。

 そして、その結果――

160: 2017/04/19(水) 21:07:17.07 ID:nhXCd10e0

「アーニャー!」

 凛が歌えば『しぶりーん』とコールが入るところに、そんなコールが入った。

『Never say never』。アレンジもされていない渋谷凛が歌うのと同じ原曲。

 その歌を、アナスタシアは完全に歌いこなしていた。

 渋谷凛に『アーニャは強いよ』とまで言わせたのだ。いったい、どれだけのレッスンを積んだのか。まさか、凛のレッスンについていくことができたのか。
 凛のレッスンを知る加蓮は驚嘆する。自分もたいがいレッスン魔と呼ばれてもいい側のアイドルだとは思うが、凛に比べればまだまだだ。異常なまでにストイックであり、トップアイドルと言ってもいいほどの実力を持っている今ですら、レッスンを怠ることはない。前だけを見て走り続けている。

 そうだとすれば、アナスタシアのステージにも納得がいく。凛に比べればまだまだだ。だが、アナスタシアは渋谷凛ではない。そう、『渋谷凛ではない』のだ。
 凛が歌う『Never say never』とはまた別の良さがある――加蓮ですら、そう思った。そう思ってしまった。

 渋谷凛の力強い歌声とはまた異なる、綺麗な歌声。どこまでもどこまでも伸びやかに、澄み渡った星空のような――

 声が広がる。透き通って、きらめいて。全身を通り抜ける風のように、どこまでも広がっていく。

 会場中が、アナスタシアに注目していた。

 先程までと、完全に空気が変わっていた。
 席から立とうとしていた者も、早く終われと願っていた者も。
 みんな、アナスタシアのステージを見ていた。
 アナスタシアのステージに、惹きつけられていた。

 ――ああ。

 加蓮は思った。

 これは、アイドルだ。
 私が、昔、憧れた――
 そんな、アイドル。

 そして、曲が終わり。
 観客席から、拍手と歓声が響いた。

「……すごかったよ、アーニャちゃん」

 舞台袖、加蓮は拍手して言った。

「でも――」

 それでも、結果は変わらない。

161: 2017/04/19(水) 21:07:45.21 ID:nhXCd10e0

      *

 ライブバトルの結果が発表された。

 勝者は北条加蓮。
 当然の結果だった。『Never say never』を歌ったことで勝率がゼロではなかったが、ゼロではなかった、というだけだ。実力の差と今回の加蓮のステージを考えればそうならない方がおかしいほどだった。

 勝者ということで、加蓮はステージ上でコメントをする。

「今日は自分でも最高のステージができたと思います。みんなー、今日はありがとー!」

 そんな当たり障りのないコメント。本心ではあった。だが、今の加蓮はそれよりも優先することがあった。

 Pさん、Pさん、Pさん。

 早く会いたい。早く感想を聞きたい。早く、早く、早く――

 今回のステージは間違いなく最高のステージだった。相手が凛だったとしても勝てると確信できるくらいのステージだった。

 Pさんは、どう思っているだろう。
 私の気持ちは届いたかな。
 私の想いは伝わったかな。
 振り向かせることは、できたかな。
 Pさんを振り向かせることは、できたかな。

 Pさん、Pさん、Pさん。
 私はあなたと一緒にいたい。あなたのそばにいたい。
 そう歌ったのは本心だよ。ずっとずっと、あなたのそばにいたいよ。
 私、すごいアイドルになったよ。今なら、トップアイドルになれるよ。

 だから、だから、だから――
 もう一度、私を……。

 加蓮は舞台袖に戻るや否や、早足でPを探した。

 どこ? どこにいるの? Pさん、早く、あなたと……。

 そして。

「――Pさんっ!」

 加蓮はPを見つけた。

 声が弾む。心が弾む。

 やっと、やっとだ。
 やっと、Pさんと一緒にいられる。
 これからは、ずっと、Pさんと――

162: 2017/04/19(水) 21:08:13.47 ID:nhXCd10e0

「……すまない、アナスタシア」

「ニェット。……勝てなかったのは、私ですね? プロデューサーは、謝ら、ないで……」


163: 2017/04/19(水) 21:08:47.21 ID:nhXCd10e0

 加蓮は脚を止めた。脚が止まった。

 アナスタシアに謝る、Pの顔を見て。
 謝らないでと言う、アナスタシアを見て。

 ――ああ、そっか。

 加蓮は止まった脚を、そのまま反対に向けた。

 ――そっか。そういう、ことなんだ。

 加蓮はPのことを自分がいちばんわかっていると思っていた。
 今でもきっと、アナスタシアよりは知っている。

 そして、だからこそ。
 その表情を見ただけで、すべてを理解することができた。
 すべてを理解、してしまった。

 ふらふらとした足取りで、加蓮は控室にたどり着く。

「――加蓮、おめでとう!」

 扉を開くと、凛と奈緒がいた。

「おめでとう、加蓮。すごいステージだったよ」

「ほんとほんと! 最高のステージだった!」

 凛と奈緒は微笑み、加蓮の勝利を祝う。

「このステージなら、きっと――」

 そう、奈緒が言おうとした瞬間、

 ぎゅっ、と加蓮が凛と奈緒に抱きついた。

「……加蓮?」

 凛と奈緒の間に顔を埋めて、その表情は見えない。
 だが、二人は加蓮の顔が当たっているところに、確かな熱を感じていた。
 じんわりと広がり、滲むような熱を。

「……負けちゃった」

 ぽつり、と加蓮はつぶやいた。

「私、負けちゃったよぉ……」

 加蓮の腕から力が抜けて、加蓮はその場に崩れ落ちた。
 加蓮はそれ以上何も言わず、顔を伏せて泣いていた。
 そんな加蓮を見て、凛と奈緒は一度だけ互いの顔を見合わせる。

 そして、何も言わずに加蓮のことを抱きしめた。
 優しく、しかし、しっかりと。

 愛するように、抱きしめた。



第九話「ともだち」


引用: アナスタシア「Сириус」