200: 2013/11/20(水) 21:03:15 ID:KY4RZ2w2
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【1】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【2】
9
痺れて、焼ける。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
抉られる。擦り切れる。削がれる。
吸い込めない。
吐き出せない。
何も感じない。
動けない。進めない。
無限の中に囚われてしまった。
201: 2013/11/20(水) 21:03:51 ID:KY4RZ2w2
*
蜘蛛の巣と呼ばれる洞窟は、じめじめとした場所だった。
外よりも空気が冷たく、湿っぽい。
暑さに関してはマシだったが、あまり長居したい場所ではないのは確かだった。
ぽっかりと開いた穴から入ってすぐの通路の幅は五メートルほどあって、
高さも三メートルほどあった。足元は小さな凹凸がある程度で、ほとんど平らだった。
歩くのには苦労しないが、すこし息苦しさを感じる。
壁が迫ってくるのではないかという、根拠もない幻想が脳を掠めた。
洞窟の入り口から数十メートルまでは外の光が射していたが、
やがて届かなくなる。しかし、洞窟の中はまだ明るい。
誰かが光の魔術を使っているわけでもないようだ。
「なんだ、これ」と戦士は見上げる。
202: 2013/11/20(水) 21:04:31 ID:KY4RZ2w2
勇者と僧侶も視線を上げる。
低い天井は淡く発光する植物らしきものにびっしりと覆われていた。
「苔?」と僧侶は言う。
「茸みたいなのも見えるね」と勇者は言った。「どうして光ってるんだろう」
「そういう植物なんだろ。俺にはよくわからないけど。
まあ、なんだっていいさ。エネルギーを使わないで進めるんなら、それは好都合だ。
蜘蛛が出てきたときのために、体力は置いておいた方がいい。
どうせ馬鹿みたいにでかい蜘蛛だろうからな」
「そうだね……」僧侶は青い顔で言った。
「まだ蜘蛛どころか蜘蛛の巣すら拝んでないのに、顔がすごいぞ」
「そうかな……」
「蜘蛛が出てきても倒れないでくれよ」戦士は笑う。
「大丈夫……たぶん」僧侶は無理やり笑みを作った。
203: 2013/11/20(水) 21:05:25 ID:KY4RZ2w2
しばらく歩くと、光る苔は足元にまで広がってきた。
道もだんだんとぐねぐねと曲がり始め、急勾配の通路も見える。
ほとんど垂直に続く道などもあったが、肝心の蜘蛛の姿はどこにも見当たらなかった。
どこかに隠れているのだろうか。
それとも、獲物が巣にかかるのを息を潜めながらじっと見つめているのか。
しかし、蜘蛛どころか蜘蛛の巣の姿すら見当たらない。
ほんとうにここには蜘蛛がいるのだろうか。
突然、僧侶は絶叫する。
勇者は鼓膜が吹っ飛んでしまうのではないかと不安になった。
僧侶は叫び続ける。勇者の耳元で叫び続ける。
でも抱きついてはくれなかった。もっと頼ってくれてもいいのに。
「蜘蛛か?」戦士はゆっくりと剣を引き抜く。
もし洞窟のどこかに蜘蛛がいたのなら、間違いなくこちらの存在を伝えてしまっただろう。
204: 2013/11/20(水) 21:06:12 ID:KY4RZ2w2
「あれ、あれ……」僧侶は青褪めた顔で小さな脇道を指差した。
小さいといっても、幅も高さも二、三メートルはある。
そこには確かに蜘蛛らしきものの姿があった。
体長は一メートルほどだろう。脚は四本しかなく、全身は蛍光色の毛で覆われている。
頭と思しき場所にはつぶらな瞳が十ほどあって、口元が忙しなく蠢いていた。
蜘蛛の目は勇者たちを確実に捉えていた。
しかし、そのまま穴の奥に吸い込まれるように消えた。
「逃げちまったぞ」戦士は剣を鞘に収める。
「不利だと思ったのかな。向こうは一体だけだったみたいだし」
「かもな。俺たちが蜘蛛の巣に引っ掛かったら、うじゃうじゃ出てきたりして」
「もうやめて……」僧侶の顔は真っ青を通り越して真っ赤になっていた。
目が潤んでいるように見える。「もうやだ……」
205: 2013/11/20(水) 21:06:45 ID:KY4RZ2w2
勇者は無視して言う。「なあ、ところで、ここの出口ってどこなんだろう」
「さあ。でも、そのうち見つかるだろ。一日もあれば抜けられるさ」と戦士は答える。
「早めに見つけようね……」僧侶は勇者の肩に手を置いて、体重をかける。
「一日もこんなところにいたら、わたしおかしくなっちゃうよ……」
僧侶の脚は震えていて、立っているのがやっとのように見えた。
206: 2013/11/20(水) 21:07:21 ID:KY4RZ2w2
*
声が聞こえる。女の声。
でも、彼女の声じゃない。
足音が伝わってくる。三人。
ふたりじゃない。
誰も通さない。
怪物も蟲も蜘蛛も人間も、
誰も通してはならない。
約束したから。
約束したから。
207: 2013/11/20(水) 21:08:14 ID:KY4RZ2w2
*
水の滴る音が、どこからともなく湧いてくる。
道は勇者たちを締め上げるように狭まっていく。息苦しくて、気分が悪い。
苔が肌を撫で、岩肌が皮膚を擦る。
それでも蜘蛛の巣に引っ掛かるよりは
こちらの方がマシと考えれば、大したことではない。
あの大きさの蜘蛛なら、巣も相当な大きさだろう。
頭の中にある普通の蜘蛛の巣とは別物のはずだ。
巣に引っ掛かったら最後、蜘蛛の餌食になってしまうかもしれない。
考えただけでもおぞましい。
しかし、一時間ほど進んでも蜘蛛の巣はまったく見当たらない。
蜘蛛も、先程遭遇した一匹を除き、まだ見ていない。
聞いた話では、ここには蜘蛛が犇いているはずなのに、これはどういうことなんだろう。
208: 2013/11/20(水) 21:09:11 ID:KY4RZ2w2
蜘蛛が出ないとわかると、僧侶も落ち着きを取り戻した。勇者は息を吐く。
ほっとしたような、がっかりしたような、その隙間くらいのため息だった。
しかし、蟲が襲ってこないのなら、それは好都合であった。
洞窟を抜けても、先はまだ長い。
無駄な体力は使うべきではない。先では何が起こるかわからない。
突然、僧侶が悲鳴を上げる。「ひっ」という小さなものだったが、
洞窟の岩肌に反響して勇者たちの耳を揺らした後、暗闇に飲まれた。
この“蜘蛛の巣”は異常と言ってもいいほどに音がよく通る。気がする。
「どうした? 蜘蛛か?」戦士が剣に手を添えて言った。
「違う……あれ」僧侶は前方の暗闇を指差した。
209: 2013/11/20(水) 21:09:55 ID:KY4RZ2w2
目を凝らしてみると、暗闇に白っぽい何かが見える。
ゆっくりと近付いてみると、それは人の頭だった。
肉も毛もない、白骨だった。辺りには他の箇所の骨が散らばっている。
「……蜘蛛の仕業かな」勇者は息を呑んだ。
「かもな。もしかすると、他にも何かがいるのかも。
俺たちもこうならないように、用心深く進まないとな」
「うん……」僧侶は目を瞑った。
勇者は散った骨を眺める。
白骨遺体は初めて見たが、頭蓋骨以外は別段恐ろしいという風には見えない。
生気のない白いそれは、石のようにも感じられる。そこらに転がる、石と同じ。
素人目で見ると、骨はどれも綺麗な状態に見える。
まるで肉だけをしゃぶり尽くして、骨は捨てられてしまったような印象を受けた。
おそらく、こんな場所にいるからそんな考えが浮かんだのだろう。
しかし、骨はそれほど綺麗だった。あまり時間は経っていないようにも見える。
背筋に何か冷たいものが流れる。
もしかするとここは、とんでもなく危険な場所なのではないか?
210: 2013/11/20(水) 21:11:12 ID:KY4RZ2w2
僧侶は目をゆっくりと開く。そして呪文を呟き、小さな光の玉を出現させる。
弱い光が辺りを照らす。骨の周囲の壁は、真っ黒だった。
ちょうど骨の辺りだけが、焦げて黒に染まっている。
そこが暗いのは、苔が焼かれて消え去ってしまったからなのだろう。
「なんだ? ここの蜘蛛は、火でも噴くのか?」戦士は眉を顰める。
「もしくは蜘蛛ではない何かが、とか」
「……蜘蛛以外にも注意した方がいいかもね」
僧侶は呪文を呟く。三人は頑丈な“膜”に覆われた。
211: 2013/11/20(水) 21:12:58 ID:KY4RZ2w2
しばらく細い通路を歩くと、今度はだだっ広い通路に突き当たった。
天井が高い。五、六メートルはあるだろう。幅も十メートルはある。
見上げると、苔やら茸やらがびっしりと生えている。
どれも淡く輝き、洞窟内を黄色や黄緑、青に染める。
綺麗なのだが、非現実的で恐ろしく見えた。
この世の光景ではないように思える。
「すこし休憩しよう。暑い」戦士が言う。額と鼻の頭には粒が浮いている。
「確かに暑い」勇者は湿った岩肌に腰を降ろした。
細い通路は蒸し暑くて仕方なかったが、ここは随分と涼しい。
どこかからは、水の落ちる音が聞こえる。小さな滝でもあるのだろうか。
212: 2013/11/20(水) 21:14:42 ID:KY4RZ2w2
僧侶も腰を下ろし、天井を見上げながら息を吐いた。
「わたし達、ここから出られるよね?」
「たぶんな」と戦士が笑った。
「結構深いところまで潜ったみたいだけど、
この道が正解なのかもわからないんだよね」と、勇者。
「まだ半分も来てなかったりして」自分で言っておいて、ぞっとする。
「ほんとうに行き当たりばったりだよね、わたし達」
僧侶は首を垂れて、長いため息を吐いた。
「もっとこう、綿密な計画を練ってさあ……」
「リーダー、お姉ちゃんが計画を練れってさ」
「そんなこと言われても……」
洞窟の地図もないし、どんな怪物がいるのかも知らない。
どうにもならない。「どうにもならないよ」
213: 2013/11/20(水) 21:15:42 ID:KY4RZ2w2
「だよな。どうにもならんさ。でも氏なずに歩けば、いずれ出られる。
それでいいだろ。“氏ぬな、歩け計画”だ」
戦士は満足げな表情を浮かべる。
「お兄ちゃんは、ほんとうに行き当たりばったりだよね……」
「ぬううぇえええいぃああ」と戦士が奇妙な声を上げた。
「その呼ばれ方、最高に気持ち悪い」
「お兄ちゃんは酷いね。妹はすごく悲しいよ……」
僧侶は悲しい素振りを微塵も見せずに言った。
「うわあ……寒くなってきた。早くここから出ようぜ」
戦士は立ち上がり、せかせかと歩き始めた。
ほとんど休憩は出来ていないが、勇者と僧侶も後に続いた。
214: 2013/11/20(水) 21:19:02 ID:KY4RZ2w2
*
足音が近付いてくる。
三人分の、人間の足音。
身体が軽い。服が重い。
剣が異常に重い。
でも立たなければならない。
約束したから。
約束したから。
215: 2013/11/20(水) 21:19:42 ID:KY4RZ2w2
*
大きな通路を抜けると、開けた場所に出た。
高さは何十メートルもあり、半径五十メートルほどの円形の空間で、
いくつかの通路がここに繋がっているようだ。
ざっと見渡しただけでも、小さな穴が七つは見えた。
一箇所にだけ大きな岩がいくつか重なっている。
崩れて上から降ってきたのだろうか。
見上げると高い天井にはぽっかりと穴が開いていて、そこから陽光が射していた。
この辺りに苔や茸は見当たらない。壁も床も、どこも真っ黒だった。
あちこちに数え切れないほど骨が散らばっていて、
今までの場所とは異質な空気が漂っている。
「なんだ、ここ」戦士は呟く。
「なんか怖いね」僧侶は眉を顰める。
216: 2013/11/20(水) 21:20:22 ID:KY4RZ2w2
前方に、大きな石のようなものに凭れかかっている人影があった。
しかし、目を凝らして見てみると、それはひとではなく、
何重にも布の服を纏った、ただの骸骨だった。
骸骨の後ろにあるのも石ではないようだ。取っ手があって、刃の部分がある。
どうやらあれは大きな剣らしい。錆びてぼろぼろになった大きな剣は、
刃物というよりは鈍器というほうがしっくりくる。
どっちにしろ、ここには相応しくないように見えた。
ものと呼べるようなものは、それらしか見当たらない。
他にあるのは、床に散らばった無数の骨のみだ。
ここは、いったい何なのだろう。
217: 2013/11/20(水) 21:21:11 ID:KY4RZ2w2
「でかい剣だな。こんなの見たことないぞ」
戦士は感心したように口を丸く開けた。
「この骸骨、生きてた頃はすごいやつだったのかもな」
「そのすごいやつが骸骨になっちゃうくらいにすごいやつが、ここにはいるのかも」
勇者は言う。「……ここは拙いんじゃないのかな。すごく嫌な予感がする」
「うん」と僧侶は頷いた。「ここには何かがいる」
「じゃあ、俺たちも骨にならないうちに通り抜けちまおうぜ」
戦士は壁伝いに歩き始める。ふたりも後に続く。
焦げた黒い壁はすべすべとした触り心地で、手を黒く染める。
感触は悪くないのだが、背筋がぞっとする。ここで何があった?
頭の中に、黒い煙のような疑問が充満していく。
足音が骨に響く。何かが低い音で鳴いた。風の音だった。
しかし、勇者の内側は焼かれるような焦りに襲われる。
背中に嫌な空気が刺す。骨が転がる軽い音が聞こえる。
たまらなくなって、振り返った。勇者は思わず自分の目を疑った。
218: 2013/11/20(水) 21:22:05 ID:KY4RZ2w2
「どうしたの?」と言い、僧侶も振り返る。
僧侶の目に映ったのは、布の服を着た骸骨の姿だった。
動かないはずの骸骨はゆっくりと立ち上がり、凭れていた剣を掴み、引き抜く。
剣の長さは骸骨の丈ほどあった。柄を含めて、全長は一・八メートルほどだろう。
幅も勇者や戦士が持っているものの三倍はある。
どこからそんなものを持ち上げる力が湧いてくるのかと疑問に思う暇もなく、
骸骨は地面を蹴ってこちらに突進してきた。
勇者は大声で戦士の名を呼び、剣を引き抜いて構える。
僧侶は三人に素早く“膜”を張り、脇に転がるようにして逃げた。
骸骨は向かってくる。勇者の背筋に冷たいものが流れる。
あの剣を受け止めるのは不可能だ。
あんなもの、まともに受けたら骨が粉々になってしまう。
219: 2013/11/20(水) 21:23:37 ID:KY4RZ2w2
骸骨は勇者の前で振りかぶり、剣を振り下ろした。
まるで木の枝を振り回しているかのような、軽い動作だった。
勇者は脇に転がって、それをなんとか避ける。大きな剣は足元の岩肌に激突する。
高い音が響き、黒い地面に亀裂が走った。
砂埃の混じった風が頬を撫で、岩の崩れる轟音が鼓膜と身体を揺らす。
音が止むと、骸骨の纏った布が風に靡き、ぱたぱたと可愛げな音をたてた。
そして剣をふたたび持ち上げ、真っ黒な空洞でこちらを睨んだ。
そこにあるはずの目は、もちろん無かった。どんな感情も読み取ることは出来ない。
あるいは、あれには感情など存在しないのかもしれない。
「なんなんだ、こいつ」戦士は引き攣った笑みを浮かべて、剣を構えた。
「元人間じゃなくて、怪物だったのか」
骸骨は足を止め、顎を小刻みに揺らしている。
何か言っているのだろうか。何も聞こえない。
「怪物……なんだろうね」勇者は身体が震えるのを感じた。
ただでさえ大きな剣なのに、岩を砕くほどの力で
叩きつけたら、人間など間違いなく即氏だ。
受け止めてはいけない。戦ってはいけない。逃げなければならない。
本能がそう告げている。逃げるべきだ。
しかし、道は七つもある。正解の道はどれだ?
間違って行き止まりに進んでしまった場合、待っているのは確実な氏。
ここは一度引き返すべきだろうか? 今できるのはそれくらいしかない。
220: 2013/11/20(水) 21:25:10 ID:KY4RZ2w2
「どうする?」と戦士は勇者に問いかける。
「一回、戻った方がいいかも」と咄嗟に勇者は答えた。
「追ってくるんじゃないか?」と言い、戦士は剣を強く握る。
「いつまでも逃げてたら、狭い通路で間違いなくやられちまうぞ」
「じゃあ、どうするんだよ」
「倒せばいい」と戦士は言う。
「こっちは三人なんだ。あの剣に当たらなければ何とかなる。
それに、もしやばいと思ったらお前らだけでも逃げればいい」
「馬鹿なこと言わないで」と僧侶が言う。
「みんなでここから出るんだよ。氏ぬな歩けって言ってたじゃないの」
「そうだな」戦士は笑う。「じゃあ、さっさとあいつをぶっ壊して、先へ行こうぜ」
「はあ。……了解」勇者は無理やり微笑んで、強く剣を握った。
「頼りにしてるぜ、リーダー」
「頑張るよ」
「わたしもいるってこと、忘れないでね。お兄ちゃん」
「わかってるって」
戦士は苦笑いを浮かべながら、僧侶に向かって中指を立てた手を突き出した。
僧侶も笑顔で中指を立てた手を突き返した。
221: 2013/11/20(水) 21:25:50 ID:KY4RZ2w2
戦士は両手で剣を握り締め、骸骨へ突進する。
勇者も後に続いた。
骸骨は顎を小刻みに揺らし、かちかちと音を立てる。
それは笑っているようにも泣いているようにも見えた。
楽しんでいるのか、悲しんでいるのか、それとも何かのサインなのか、
意味など存在しないのか、何もわからない。とにかく不気味だった。
戦士は剣を力任せに骸骨に向かって振り下ろす。
骸骨は巨大な剣を軽々と持ち上げ、攻撃を受け止める。
かちかちと二本の剣が擦れ合うような音をたてるが、どちらも動かない。
戦士の力も相当なものだった。
もしかすると、骸骨の身体には強烈な一撃を凌ぐために
踏ん張るだけの機能が、備わっていないのかもしれない。
しかし、あれだけ大きな剣を軽々と振り回せるのに、
腕力は戦士の攻撃を防ぐのが精一杯という事はないだろう。
あれは人間ではない。動く骸骨――怪物だ。人間の身体とは違う。
いったいどうやって剣を持ち上げているのかといえば、
あれが怪物だからだとしか答えられない。
222: 2013/11/20(水) 21:27:11 ID:KY4RZ2w2
勇者は追撃を狙い、突進する。骸骨の空洞はすぐに勇者を捉えた。
真っ黒の目を見つめ返すと、吸い込まれそうになる。
骸骨は攻撃を受け止めたまま、戦士の腹を蹴る。
戦士の身体は数メートル先に吹っ飛んだ。
この怪物の細い身体のどこから、そんな力が湧いてくるというのだろう。
骸骨は自由になる。しかし戦士に追撃はせず、剣を構えなおし、こちらに向き直った。
構わず勇者は突進し、切り上げで骨を砕こうと試みる。
だが、やはり大きな剣で受け止められてしまう。
骸骨が剣を振ると、簡単に弾かれてしまった。
勇者の身体はゆるやかに宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「大丈夫?」と僧侶は叫んだ。
223: 2013/11/20(水) 21:28:23 ID:KY4RZ2w2
「大丈夫じゃねえよ……」戦士が呻きながら立ち上がった。「吐きそうだ……」
「大丈夫ではないかな……」勇者も起き上がる。「痛い……」
僧侶は口の中で、素早く癒しの呪文を唱えた。
ふたりの身体から、大きな痛みは取り除かれる。
しかし、身体の内側がずきずきと痛む。
そんなことを僧侶に訴える間も無く、
骸骨は地面を蹴り、ふたたびこちらに向かってきた。
「来たぞ」と、戦士。「わかってる」と勇者が答えた。
ふたりの背後で僧侶が呪文を呟く。
五つの小さな炎の球が現れ、黒い壁を照らす。手の鳴る音が聞こえた。
炎が骸骨に向かって真っ直ぐ、放たれた矢のように飛んだ。
骸骨は構わずに突っ込んでくる。炎は骸骨にぶつかる直前で爆ぜる。
あれが普通の骨なら、今の爆発で粉微塵になるはずだ。
彼女の魔術は相当な威力を持っている。
しかし、勇者は剣を鞘には納めなかった。それどころか手に力が入り、汗が滲む。
あれは普通の骨ではないし、普通の怪物でもないように見える。
爆風により巻き上げられた砂が、煙となって視界を遮る。
骸骨からのサインは無い。勇者は力を少しずつ抜く。
224: 2013/11/20(水) 21:30:48 ID:KY4RZ2w2
視界が晴れ始める。薄く舞う砂の向こうに、大きな影が見えた。
金属がかち合うような音が響き、かたかたと不気味な音が鳴る。
生きている。骨は砕けていないし、氏んでもいない。
勇者は目を凝らす。骸骨は二本の脚で立ち、煙の向こうにいた。
巨大な剣の表面は焦げている。ほかに変化は見受けられない。
炎は防がれてしまったらしい。ふたたび剣を強く握る。
「うそ、無傷?」僧侶は引き攣った笑みを浮かべた。「信じられない」
骸骨は顎を大きく揺らす。なにかを言っているのだろうか。なにもわからない。
そもそも、その行動に意味など存在するのだろうか。
しかし、直後に骸骨の背後に小さな炎の球が三つ現れる。
「うそ」と僧侶は思わず呟いた。表情から余裕は消えた。「魔術?」
225: 2013/11/20(水) 21:31:36 ID:KY4RZ2w2
聞き馴染みのない高い音が洞窟に響く。
炎は勇者と戦士の間を通り抜け、僧侶に向かって矢のように飛んだ。
勇者は彼女を大声で呼ぶ。戦士は「避けろ!」と叫んだ。
「無茶言わないでよ!」
僧侶は素早く呪文を呟く。
しかし炎は彼女の前で膨らみ、赤みを増し、輝き、破裂した。
熱風が頬を叩き、砂を巻き上げる。咄嗟に手で顔を覆った。
「糞!」と戦士は舌打ちをして、骸骨に向かって走り出した。
どうなってる。どうなってるんだ? 魔術を扱う怪物がいるだなんて、信じられない。
あの怪物はなんなんだ? どうすればあれを倒せる?
いや、そんなことよりも、彼女――僧侶はどうなった?
226: 2013/11/20(水) 21:32:22 ID:KY4RZ2w2
勇者は立ち込める煙を払いながら、僧侶を呼ぶ。「大丈夫!?」
まもなく煙の中から「大丈夫じゃない」と、か細い声が聞こえた。
勇者は胸を撫で下ろした。彼女は氏んでいなかった。
煙を掻き分け、急いで僧侶に駆け寄る。
僧侶の頭からは血が滴っていた。脚にはいくつかの擦り傷が見える。
「大丈夫?」と勇者は青い顔で言った。
「だから、大丈夫じゃないって……」と僧侶は笑う。足元が震えている。
「……“膜”が無かったら氏んでたかも。あの子に感謝しなきゃね」
煙の向こうから、金属のかち合う音が聞こえてくる。戦士が骸骨と戦っている。
音は鳴り止まない。それは戦士が生きている証明のはずなのだが、
勇者の胸は鉛が詰まったように重い。
やがて煙は強い風により晴れた。
その風に飛ばされるように、隣に戦士が転がってきた。
皮の鎧に申しわけ程度に施された金属が焦げて、すこし変形している。
「大丈夫?」と僧侶が訊くと、「大丈夫じゃない」と即答した。
熱の混じった風は骸骨の魔術によって生まれたもののようだ。
炎が破裂したことにより生まれた爆風だろう。
227: 2013/11/20(水) 21:33:17 ID:KY4RZ2w2
骸骨はこちらに向かって来ず、その場でただ顎を揺らしている。
かちかち、かちかちと、嫌な音が洞窟に反響する。
その姿は笑っているように見えた。
追い詰められていく三人を見ているのが楽しいのだろうか。
「剣だけならなんとかなるかもしれないけど、魔術が厄介だ」
戦士の表情は暗い。「やばいかも。あれは普通じゃない」
「すごく拙いと思う」勇者は僧侶のほうをちらりと見る。
癒しの魔術で傷は塞がっているが、脚が震えていた。戦えるような状態ではない。
「すごく拙いね」と僧侶は言う。恐怖からか、口元には笑みが浮かんでいる。
脚の震えは止まらない。「ねえ」と彼女は勇者に囁く。
「……ちょっと肩借りてもいいかな。
拙いと思ったらわたしを突き放して逃げてもいいからさ」
勇者は黙って彼女を支え、手を強く握った。「みんなでここから出るんだよ」
「そう。三人でな」戦士は低い声で言う。「でも、どうすればいい?」
228: 2013/11/20(水) 21:37:24 ID:KY4RZ2w2
「一回逃げよう。引き返すんだ」と勇者はふたたび提案する。
「このままじゃだめだ」
「今はそれしかないみたいだな」今度は戦士もすぐに頷いてくれた。
「……逃げても叩き潰されそうだけどな」
確かに戦士の言うとおり、骸骨が追ってきたら間違いなく全滅してしまう。
しかし、このままでも間違いなく全滅は免れられない。
とにかく今は逃げて、時間を稼ぐしかない。僧侶の心的ダメージが心配だ。
もしかすると、安全な道はもう残されていないのかもしれない。
骸骨に見つかったのが運の尽きだったのかもしれない。
三人でここを出るのは不可能なのかもしれない。……
229: 2013/11/20(水) 21:38:22 ID:KY4RZ2w2
どうすればいい? どうすればここから三人で生きて出られる?
勇者の頭は焦りと恐怖に蝕まれる。
それを煽るように、「あれ」と僧侶は暗い声で呟いた。
「あれ?」勇者は僧侶の視線の先を見る。笑う骸骨が見える。
その背後に、壁を這いずり回る数匹の蜘蛛の姿が見えた。
「最悪だ」戦士は頭を掻き毟った。「さっさと逃げるぞ」
「うん」と勇者は頷く。
しかし、骸骨は何かに弾かれたように、巨大な剣を構えてふたたび向かってきた。
蜘蛛は未だに黒い壁を這いずり回っている。
ゆっくりとこちらと距離を詰めているようにも見える。
「わたしを置いて逃げて」と僧侶は呟く。勇者は踵を返し、僧侶を抱きかかえて走った。
背後からおぞましい殺気が迫ってくる。見えなくても感じ取れた。
誰かが欠けるなら氏んだほうがマシだ、と勇者は思う。
でも、いるかもわからない御伽噺の存在のために命を賭けるべきではない。
それに、なによりも氏にたくない。こんなところで氏んでる場合ではない。
230: 2013/11/20(水) 21:39:15 ID:KY4RZ2w2
必氏で仄暗い道を目指して走った。
背後で高い音が鳴り、空気を振動させる。直後に風と石が背中に叩きつける。
骸骨が剣を振り下ろしたのだ。でも、あたらなかった。
視線を後ろへやると、戦士が剣を構えながら骸骨の前に立っていた。
「受け止められるもんだな……」戦士は呻く。
声からは苦痛が漏れ出していた。
「後ろには気を付けろよ、リーダー」
「ごめん」と勇者は呟いて立ち止まり、
骸骨を睨みながら、「早く逃げよう」と続けた。
「……わかってるって」
骸骨はかたかたと、空っぽの骨がかち合う音を鳴らす。
魔術の詠唱か? あれの魔術を“膜”で受けきれるか?
いや、今のうちに仕留めるというのも手か? ……
そのとき、骸骨の背後で閃光が炸裂した。
青白い光だった。それは雷のように見えた。
骸骨は振り返る。どうやら、骸骨の魔術ではないようだ。
「今度はなんだ」戦士はくたびれた様子で言った。
231: 2013/11/20(水) 21:40:49 ID:KY4RZ2w2
「蜘蛛、蜘蛛」と僧侶は呟く。「いま、蜘蛛が雷を吐いた」
「蜘蛛が雷?」勇者は壁を這う蜘蛛に目を向ける。
どれも蛍光色の毛は逆立っていて、どれも骸骨を凝視している。
怒っているのだろうか。
何匹かの蜘蛛は身体を小さく震わせる。
一メートル程の身体の上に、三〇センチメートル程の青白く発光する球体が現れた。
蜘蛛は蠢く口から空気を吐き出すような声で鳴いた。
球体から骸骨に向けて、雷が落ちる。
しかし、どれも命中しない。ある程度しか制御できないのだろうか。
こちらに雷は落ちてこない。「もしかすると、今がチャンスなのかも」
勇者は僧侶を抱えたまま、ゆっくりと後退し始める。
「みたいだな」戦士もじりじりと後ずさる。「住処を荒らされて怒ってんのかも」
「いい蜘蛛だ」と僧侶は言い、小さく呪文を唱える。
勇者の頭上にふたつの炎の球が現れた。
僧侶は骸骨に向けて、中指を立てた手を突きつけた。
232: 2013/11/20(水) 21:41:26 ID:KY4RZ2w2
炎は骸骨に向かって直進し、ぶつかる寸前で破裂する。
今度は命中した。骸骨の左腕部分の骨が吹き飛んだ。
「ざまあみろ」と、僧侶は中指を立てたまま親指も立てた。
白い欠片が周囲に飛び散る。
それに混じって、錆びた指輪らしきものがこちらに飛んできた。
勇者は後退しながら、それをそっと拾い上げる。「なんだ、これ」
「怪物が一丁前に指輪なんか嵌めてたのか」
「みたいだね」と僧侶は言い、青い顔をしながら
「粉々にしてやりたい」と強がりを吐いた。
「抱えられながらなに言ってんだ。今は逃げるんだよ」
骸骨はこちらを睨む。苛立っているのだろうか。
こちらに向かってくる――と身構えたが、
すぐに骸骨の脇に粘つく糸が放たれる。蜘蛛のものだ。
蜘蛛は雷を纏い、糸を伝いながらゆっくりと骸骨に進んでいく。
それは光に群がる虫や、餌を見つけた怪物のように見えた。
「早く行くぞ。氏ぬな、走れ!」戦士は叫んだ。
勇者たちは暗い通路を遡り始める。
背後で青白い閃光が炸裂した。振り返らずに、必氏で駆けた。
233: 2013/11/20(水) 21:42:00 ID:KY4RZ2w2
*
粘つく蜘蛛の糸。
迸る青白い雷。
痺れて、焼ける。
蜘蛛はふたたび私の邪魔をする。
蜘蛛はふたたび私を殺そうとする。
ああ、三人組を見失ってしまった。
こいつらがいなければ。
こいつらがいなければ。
頃してやる。頃してやる。
約束したから。
約束したから――
234: 2013/11/21(木) 07:26:37 ID:u4C4uguc
*
「どうしたらあそこを通り抜けられる?」
勇者は息を切らしながら、僧侶をそっと地面に降ろした。
喉が焼け付く。腕が悲鳴をあげている。
頭上では苔やら茸やらが不気味に瞬いている。
どこかから、水の滴る音が聞こえてくる。
一度休憩したポイントだ。道幅が広くて、天井も高い。
流れる冷たい空気は勇者たちに少量の落ち着きを取り戻させた。
しばらくすると、「いいアイデアがある」と戦士が言った。
「“いいアイデアがある”とか言う奴に限ってろくでもないアイデアを提案するんだよ」
僧侶は戦士を睨んだ。「どうせ、“俺を置いて先に行け”とか言うんでしょ?」
「よくわかったな」
「馬鹿なこと言わないでくれ」
「ほんとうに、馬鹿なこと言わないでよ」
「じゃあ、どうするんだ」
「それは……どうにかするんだよ」
「……」勇者は口を閉ざす。
良案は浮かんでこない。時間がないかもしれないのに。
235: 2013/11/21(木) 07:27:10 ID:u4C4uguc
戦士は言う。「……だから、俺がちょっとの間あいつを止めるから、
お前らは正解の道を探すんだ。もしくは俺とお前であいつを倒す」
「……倒せるのか?」
「倒せる」と戦士は頷いた。
「その心は?」と、僧侶。
「俺ならあいつの剣を受け止められる。
だから、その隙にリーダーがうまいことやればいい」
「うまいことって。また適当な計画かよ」
「いいや。お前なら大丈夫だ。
それに、あいつは腕が一本吹っ飛んでるんだ。こっちが有利だ」
「でも、あいつには魔術がある」勇者は頭を掻いた。
「それに、蜘蛛もいる。あいつらはみんな怪物で、僕らの味方じゃない。
いつ襲ってくるかわからないんだよ」
「でも、やるしかないんだ。もう時間はない」
僧侶は立ち上がる。「そう……やるしかないよね」
236: 2013/11/21(木) 07:29:29 ID:u4C4uguc
「歩ける?」と勇者は訊く。
僧侶は「もう大丈夫」と答えた。「絶対に三人で出るんだからね」
「ああ。わかってるって」戦士は険しい顔で頷いた。「……わかってる」
どこかから、かちかち、かち、と不規則な音が聞こえてくる。
それはゆっくりと、確実にこちらに近付いてきている。
猶予はほとんど残されていない。
「来るぞ」
大きな通路に木の枝が転がるような、軽い音が響く。
目の前の暗闇から、またべつの気味の悪い音が湧いてくる。
骸骨は、すぐそこまで来ている。この暗闇の向こうにいる。
僧侶は呪文を呟き、全員に膜を纏わせる。
「そろそろエネルギーが拙いけれど、氏んじゃったらごめんね」
「大丈夫。お前は氏なない」戦士は剣を強く握る。「絶対に氏なせるもんか」
237: 2013/11/21(木) 07:30:32 ID:u4C4uguc
闇の底から湧きあがるように、骸骨の姿はゆっくりと視界へ入り込んでくる。
片腕の骨は無い。頭の半分が吹っ飛んでいる。
剣も焦げていたり、欠けていたりしている。蜘蛛にやられたのだろうか。
その姿は、まさに怪物という言葉に相応しい形相だった。
しかし、今の勇者たちからすると、氏神というのがもっともしっくり来た。
氏神は片手で剣を持ち上げながら、ゆっくりと歩く。
「いいか」と戦士は口を開く。「もし蜘蛛が来たら、俺があいつを止めてる間に、
お前らは脇を通り抜けてさっきの黒い壁の場所に向かえ」
「やめてくれ」と勇者は語気を強めて言った。
戦士はそれを無視し、続ける。
「あの黒い壁の場所に、大きな岩が重なってる箇所があっただろ。
あれを魔術で吹っ飛ばせ。あの奥がたぶん出口だ。
岩の隙間から苔の光が見えたし、気持ち悪い風も吹いてきてた。
それでたぶん、こいつはそれを隠そうとしてる」
「ねえ」と僧侶は不安げな声で言った。
「蜘蛛が来たら、な。来ないように祈っててくれ。俺も祈ってる」
238: 2013/11/21(木) 07:32:39 ID:u4C4uguc
蜘蛛が全滅しない限り、間違いなく蜘蛛はここを嗅ぎつけるはずだ。
その場合、こちらの全滅は免れないと考えてもいい。
但し、それは戦士が囮にならなかった場合の話だ。
戦士がここで蜘蛛と骸骨の相手をするのなら、
勇者と僧侶の生存確率は跳ね上がる。
しかし、戦士が生きて戻ってくる確率はゼロになるといってもいい。……
「信じてくれよ、俺は氏なないって」戦士は言う。
「もっと頼ってくれ。俺はお前らに頼られるのが生きがいなんだ」
「なんだよ、それ」
「かっこいいだろ?」
「全然」
「そうか」
239: 2013/11/21(木) 07:33:42 ID:u4C4uguc
骸骨は迫ってくる。戦士の前で巨大な剣を掲げ、振り下ろした。
戦士は両手で剣を掴み、それを受け止めた。高い音が通路に鳴り響く。
身体に骨や剣よりも遥かに重いものが圧し掛かる。
思わず呻き声が漏れた。
勇者は目の前の異常な光景に目を奪われながらも、
剣を構えて骸骨の懐へ向かう。
骸骨は巨大な剣で、戦士の剣を折り、肉を断とうとする。
しかし、お互いに動かない。
やがて骸骨の頭上に光の球が現れる。
それは小さなものだったが、徐々に明るみを増し、膨らみ始める。
「目を閉じて!」と僧侶は叫んだ。
勇者は咄嗟に目を瞑る。視界は暗闇から、薄っすらと白く変化する。
瞼の向こうで、光が爆発したのがわかった。
240: 2013/11/21(木) 07:35:22 ID:u4C4uguc
目を開くのと同時に、身体が吹き飛ぶような衝撃に襲われる。
しばらく宙に浮いたような感覚に陥った後、背中に激痛が走る。
吹き飛ばされた。瞬時に理解できた。戦士が隣を転がっている。
地面を転がる勇者たちと入れ替わるように、
僧侶のもとから炎の球が骸骨へ向かう。
まもなく炎は骸骨の前で破裂した。
しかし、やはり骸骨は無傷だった。
剣から煙が立ち昇っているのを見ている限り、また防御されてしまったらしい。
「だめだ」と戦士は地面に這いつくばりながら言った。
「まだ、わからないだろ……」勇者は立ち上がる。「みんなで出るんだろ」
「でも、もう……」僧侶は恐怖からか、呼吸のペースが狂っていた。
エネルギーの限界も近いようだ。
「だめなんだ」戦士は天井を指差した。
241: 2013/11/21(木) 07:38:18 ID:u4C4uguc
勇者は視線を上げる。見覚えのある不気味な輝きが見える。
あれは、蜘蛛の目。ぎょろぎょろと蠢くその数は、百を超えている。
天井には蜘蛛が二〇匹は見えた。
「蜘蛛が来ちまった」戦士は立ち上がって言う。
「このままだとみんな氏んじまう」
「嘘だろ」
頭上で、青白い光が広がり始める。
雷光は洞窟の凹凸を不気味に照らし出す。
勇者は、ただそれを眺めているしかなかった。
242: 2013/11/21(木) 07:40:47 ID:u4C4uguc
「行け」
考えろ。生き残る方法だ。違う。そうじゃない。全員で生き残る方法だ。
「走れ」
どうすればいい? 蜘蛛を倒す? どうやって? 骸骨を倒す? どうやって?
「早く」
「やめろ……黙っててくれ。今考えてるんだよ……糞」
「行け!」
「……」
「早く!」
「……糞が」
「氏ぬな、走れ!」戦士は骸骨へ突進する。
243: 2013/11/21(木) 07:41:30 ID:u4C4uguc
「……絶対に戻れよ。やばいと思ったら逃げろよ。絶対に氏ぬなよ。
氏んだら許さないからな!」勇者と僧侶も戦士の後に続く。
「俺が氏ぬかよ。氏ぬわけないだろ」
「わかってる! わかってるよ! ああ、糞……! 糞が……」
勇者の声は震えた。これから起ころうとしている事態を理解したくなかった。
「絶対に追いつくんだよ。帰ってこなかったら承知しないからね」
「わかってる。おいリーダー、そいつを頼んだぞ! 約束だ!」
洞窟全体に言葉にならない絶叫が響く。剣がぶつかり合う音が隣で鳴った。
勇者と僧侶は氏に物狂いで足を動かした。
背後で青白い閃光が炸裂し、轟音が響く。
ふたりは振り返らずに、ふたたび暗い道に飛び込んだ。
何かの壊れる音がした。それは外側からも聞こえたし、内側からも聞こえた。
それはいくつも聞こえた。
244: 2013/11/21(木) 07:42:27 ID:u4C4uguc
10
「数が多いな」ユーシャは蜘蛛の脚を切り裂く。
脚が三本になった蜘蛛はその場から逃げようと試みたが、
すぐに大剣使いの巨大な剣で叩き潰されてしまう。
緑っぽい液体が飛び散る。まもなく異臭が立ち込めてくる。
魔法使いは鼻を摘まみながら呪文を呟き、潰れた蜘蛛を火葬してやった。
「それに、くさい」と魔法使いは眉間に皺を寄せた。
「あんた、鼻が利くのによく平気でいられるわね」
「慣れたものですよ、こんなもの」大剣使いは鼻を摘まんで笑った。
245: 2013/11/21(木) 07:44:54 ID:u4C4uguc
第一王国を出立したユーシャたち三人は、数十日かけて“蜘蛛の巣”に辿り着いた。
宿の禿げた男が言っていたとおり、洞窟には蜘蛛がうようよいた。
ただ、それらはユーシャの知る蜘蛛とはすこし異なったものだった。
大きさは尋常ではないほど大きいし、脚は四本しかないし、雷を吐く。
どう考えても、あれは蜘蛛の形をした怪物だった。
洞窟自体も奇妙なものだ。光る苔に、光る茸。
蜘蛛も十分におぞましいが、なによりも青や緑に発光する植物の存在が恐ろしかった。
照らされた壁に、凹凸によって模様が浮き出るのだが、それもまた恐ろしい。
現在、ユーシャたちは洞窟内の広い通路を歩いていた。
幅は四、五メートルあるし、高さも同じくらいある。
苔が道を照らしているおかげで、光の魔術を使う必要もない。
蜘蛛以外に、特に不便であることはなかった。
空気も冷たくて、外よりも涼しい。ただ、湿気がすこし気になる程度だ。
246: 2013/11/21(木) 07:45:40 ID:u4C4uguc
「ねえ。なにか話をしてよ」と魔法使いは唐突に言った。
「また無茶振りですね」大剣使いは巨大な剣を背負い直して薄く笑った。
「黙って歩くのもつまらないじゃないの。ねえ?」
「そうだな」とユーシャは適当な返事をした。
「ほら」
「いや、今のユーシャ様の返事は、“べつにお前の話なんかどうでもいいけど、
話すんならちょっと聞いてやろうかな。どうせ暇だし”みたいな返事でしたよ」
「そんなことないって。ねえ?」
「そうだな」
「ほら」
247: 2013/11/21(木) 07:46:30 ID:u4C4uguc
「相変わらず息ぴったりですね。あなたたちには敵いませんよ」
大剣使いは肩を落として笑った。「なにを話しましょうか」
「なんでもいいわ。話したいことを話して頂戴」魔法使いは言った。
「急に話をしろといわれましても……難しいですねえ」大剣使いは唸る。
「お前の昔話が聞きたいな」とユーシャが言った。
「私の昔話ですか」大剣使いは表情を歪める。
「話したくないんならいいけど」
「……わかりました」大剣使いの表情が、すこし翳ったような気がした。
「でも、あんまり面白い話じゃないですよ」
248: 2013/11/21(木) 07:50:57 ID:u4C4uguc
*
第一王国で、“私が五、六歳のころ、西の大陸の端っこの砂浜で
先生に拾われた”というのは話しましたね。
私には、それ以前の記憶はありません。
親の顔も知らないし、どこから来たのかもわかりません。
だから、私を拾ってくれた先生は、親のようなものなんです。
どうして先生と呼ぶのか、ですか? それは彼が学校の先生だからです。
剣の先生ではなく、学校の先生です。
ちなみに言っておくと、彼は筋骨隆々の男ではなく、よぼよぼのお爺さんですよ。
私が先生と過ごしたのは、西の大陸の北西にある、小さな漁村でした。
海沿いの、ほんとうに小さな村です。
男は皆、早朝から日没まで海に漁へ行くんです。
女は皆、村で男の帰りを待つんです。
子どもは学校へ通い、老人は懐かしむように海を眺めるのです。
先生はそんな村で、小さな学校の教師をしていました。
二、三〇人ほどの子どもたちに、いろいろなことを教えていました。
249: 2013/11/21(木) 07:51:35 ID:u4C4uguc
彼は早朝の海岸を散歩するのが趣味でした。
その日もいつものように散歩していた彼は、砂浜で私を見つけます。
すると、私を抱えてすぐに家へ戻ったそうです。
彼はひとりで小さな家に住んでいました。奥さんは先立たれたのだとか。
寂しかったせいもあるのかもしれませんが、私が何も憶えていないと話すと、
すぐに「ここで生きなさい」と言ってくれました。
先生は優しい人でした。でも、村の人間はそういう風にはいきません。
私は、余所者なのですから。
あなたたちにもわかるでしょう。小さな村の人間というのは、
村の中だけで人間関係を完成させようとします。意味もなく外の人間を嫌うのです。
“昔からそうだった”と、思考を停止させて言い張るんです。
あなたたちの村に余所者が来たとき、
おそらくそれを歓迎するものは少なかったでしょう。
もちろん、私も村に歓迎される存在ではありませんでした。
外を歩けば、刃物のような視線が飛んでくるのです。
でも、当時の私は何も理解していませんでした。馬鹿でしたからね。
どうしてみんなこっちを見るんだ? と、首を傾げていただけです。
250: 2013/11/21(木) 07:52:44 ID:u4C4uguc
やがて私は学校へ通うことになります。
もちろん孤立します。誰からも相手にされません。
皆が皆、虫の氏骸を見るような目で私を見るのです。
子どもというのは残酷ですね。味方は先生だけでした。
私が九歳か一〇歳のころです。その日は、いつものように晴れた日でした。
私もいつものように学校で過ごしていました。いつものように、ね。
しかし、その日はちょっとした事件が起こってしまいました。
誰かが言い放った一言で、私の中の何かが爆発してしまったのです。
ほんとうにくだらない一言です。でも、私はだめでした。
感情を抑えられなかったんです。思えば、私は子どもでした。
251: 2013/11/21(木) 07:53:24 ID:u4C4uguc
しかし、その日はちょっとした事件が起こってしまいました。
誰かが言い放った一言で、私の中の何かが爆発してしまったのです。
ほんとうにくだらない一言です。でも、だめでした。
感情を抑えられなかったんです。思えば、私は子どもでした。
内側に溜まっていた不満や不一致、失望や憤怒が、破壊衝動に姿を変えます。
私はその“誰か”の顔をぐちゃぐちゃになるまで殴り続けました。
ほんとうに、ぐちゃぐちゃにしてやりました。鼻も目も歯も口も潰してやりました。
でも、それだけじゃ足りないんです。
染み付いたものは、そんな小さなことでは消えないんです。
あなたたちにはわからないでしょうが、限界が来ると、
自分が何をしているのかがわからなくなるんです。
その“誰か”から血が噴き出しても関係ありません。
悲鳴をあげても、骨の砕ける音がしても、知ったことではありません。
たぶん、そのときの私はそいつを頃してやるつもりだったんでしょう。
きっと、頃しても、バラバラに切り裂いても足りなかったでしょうけど。
結局、誰だったんでしょうね、あれ。今となってはどうでもいいですが。
252: 2013/11/21(木) 07:54:45 ID:u4C4uguc
私を止めるものは誰もいませんでした。
その“誰か”は、ほかの誰かが自分の身を危険に曝してまで
救う価値のある人間ではなかったのでしょうか。
それとも、みんな私が怖かったのでしょうか。
私は馬乗りになって、その顔を叩き潰そうとします。
しかし、しばらくすると先生が駆けつけてきます。
もちろん私は怒られます。でも、さっきも言ったとおり、私は馬鹿だったんです。
どうして怒られてるのかが理解できませんでした。
もしかすると、自分が悪いと認めたくなかっただけだったのかも。
その日は学校が終わってからすぐ、先生に連れられて
“誰か”の家に謝りに行きました。“誰か”は氏んでいませんでした。
非常に残念なことに、生きていました。
253: 2013/11/21(木) 07:55:32 ID:u4C4uguc
私は“誰か”の母親にこれでもかと罵声を浴びせられ、
父親からは何度も殴られました。
もちろん、どうしてなのかは理解できていませんでした。
とても苛々したのを憶えています。頃してやりたいほどには苛々してました。
でも、先生は必氏に頭を下げました。もう、なにがなんだか。
わけがわかりませんでしたね。
“誰か”の母親はひたすら、常識がどうだの、
“これ”は人間として終わっているだのと怒鳴り散らしました。
常識って、なんなんでしょう。人間らしさって、なんなんでしょう。
私には未だにわかりません。
家に戻ってから、先生は何度も私に謝りました。
もちろん、私には意味がわかりませんでした。
先生はとても後悔していました。
どうしてこいつにもっと大事なことを教えてやらなかったんだ、と。
でも、それは遅すぎました。私は大事なものを失った後でした。
先生の言う大事なものとは“信頼”とか“信用”とかいうものでした。
254: 2013/11/21(木) 07:56:11 ID:u4C4uguc
その日から先生は私を登校させず、夜になってからいろんな事を教えます。
言葉遣いから笑い方まで、赤子を育てるようなものだったのでしょう。
私は先生の言葉を必氏に憶えました。
先生の悲しむ姿を見るのだけは、嫌だったからです。
ちなみにこの話し方は、先生から教わったものです。
どうです、完璧でしょう? 必氏だったんですよ、ほんとうに。
255: 2013/11/21(木) 07:56:58 ID:u4C4uguc
時間は過ぎ、私は一四歳になります。
以前あなたにも言われたとおり、私は昔から「顔は綺麗」だったんです。
先生の真似をして海岸を散歩していると、何も知らない馬鹿な女の子が寄ってきます。
とてもいい匂いがするんですよね、女の子って。
私は優しくて敵意のない匂いが、たまらなく気に入りました。今でも好きです。
でも、女はこの世で信用してはいけないもののひとつです。
その頃くらいからでしょうか。
私は自分の腕力が、普通とは違うという事に気付きます。
異常だったんです。やがて女の子も離れていきます。
村を歩けば、化け物と言われました。女は悲鳴をあげて逃げていきます。
怪物が現れた、と。
私は教わったとおり、破壊衝動を必氏に堪えながら先生の家へ戻ります。
家の外からは、村から出ていけという怒号が毎日のように飛んできます。
でも、先生だけは私の味方でした。先生は私に、たくさんのことを教えてくれました。
生きていくためのことを、すべて教えてくれました。
256: 2013/11/21(木) 07:57:51 ID:u4C4uguc
家の外からは、村から出ていけという怒号が毎日のように飛んできます。
でも、先生だけは私の味方でした。先生は私に、たくさんのことを教えてくれました。
生きていくためのことを、すべて教えてくれました。
しかし、それも私が一六歳になるまでの話です。あれはとても寒い日の早朝でした。
先生はいつまで経っても起きてきません。
私がいくら呼んでも返事をしてもらえないんです。
信じられませんでした。先生は氏んでしまったのです。
嘘のようですが、私は悲しみました。ほんとうですよ。
初めて悲しんだのだと思います。
先生は私の唯一の味方で、友達だったんです。
私はその日のうちに村を出ました。
もう、あの場所に居場所はありませんでしたし、未練もありませんでした。
最後に火でも放ってやればよかったかもしれませんね。
257: 2013/11/21(木) 07:58:21 ID:u4C4uguc
その後もいろいろありました。
鍛冶屋で働きながら剣を作ったり、小さな魔術師から魔術を習ったり、
誰かから頼まれて怪物を退治したり、パン屋で働きながらパンを齧ったりしてました。
特にパン屋で働くのは楽しかったです。まあ、女の子が居たからなんですけどね。
私にも甘酸っぱい思い出のひとつくらいはあります。
でも、どれも私の居場所ではありませんでした。
それで数年前、私は傭兵になりました。
信頼という曖昧なものが、お金として視覚化されるのです。
このシステム、わかりやすくて私は好きです。
やがて、私は港であなたたちを見つけます。
そしてあなたたちとの旅は、とても楽しいものになるのでした。
めでたし、めでたし。
258: 2013/11/21(木) 07:58:56 ID:u4C4uguc
*
大剣使いは笑顔を浮かべる。「どうです。面白かったですか?」
「ぜんぜん」魔法使いは寂しげな目をしながら言った。
「へんなこと訊いて悪かった」
ユーシャは大剣使いのほうを見ずに言う。「ごめん」
「どうしたんです。つまらない話だったなら、
いつもみたいに鼻で笑ってくれていいんですよ。
“つまんねえ、さっさと氏ね”って、笑い飛ばしてくださいよ」
ふたりは何も言わなかった。
「立ち止まらなければ、どうにでもなるんです」
やがて、大剣使いは光る苔を見上げながら言う。
「進むべき道は曲がりくねっているし、そこを照らす明かりも
壊れていたり眩しすぎたりします。でも、生きて歩いていればどうにでもなるんです。
先生が言っていたんです、間違いありません」
262: 2013/11/21(木) 21:04:34 ID:u4C4uguc
しばらく歩き続けると、広い空間に出た。
高さは歩いてきた通路とほとんど変わらない。
天井にはびっしりと苔と茸が生えていて、
どれも足元と壁を不気味に照らし出している。
どこかから、大量の水が岩にぶつかるような音が聞こえてくる。
近くに滝でもあるのだろうか。やけに涼しかった。
「ちょっと休憩しましょうか?」と大剣使いは涼しい顔で言った。
「なに、わたしに言ってるの?」
魔法使いは額に粒のような汗を浮かべながら言った。
「しんどいなら言えよ」と、ユーシャ。「倒れられても困るからな」
「……しんどい」魔法使いは仄かに顔を赤らめた。「休憩したい」
263: 2013/11/21(木) 21:05:22 ID:u4C4uguc
「ふふん」大剣使いは満足げに笑った。そして、その場に腰を下ろした。
「なに」
「いやあ、かわいいなあって」
「そう、ありがとう」魔法使いは大剣使いの隣に座り込んだ。
「あれ、怒らないんですね。いつもなら気持ち悪いって言われてるところですよ」
「疲れてるの」
「そうですか」
264: 2013/11/21(木) 21:06:32 ID:u4C4uguc
ユーシャは黙ってふたりを眺めていた。なんだか話しかけづらかった。
余計なことを尋ねてしまったと、ユーシャはひどく後悔していた。
大剣使いという人間の見え方が変わってしまった。
話を聞いてみると恐ろしいやつにも思えるし、かわいそうなやつにも思える。
なんて声をかければいいのかがわからない。
「どうしたんです。ユーシャ様も座ってくださいよ」大剣使いは笑顔で言う。
ユーシャははっとして顔を上げる。「うん」と、頷いて魔法使いの隣に座った。
「なんだか、元気がないですね」
「あんたの話を聞いて落ち込んでんのよ」魔法使いは言う。
「こいつはちっちゃいことで落ち込むの。
わたしに癒しの魔術を使ってもらうのが申しわけないとか、
そんなつまんない事を気にするやつなのよ」
「なるほど。それで私から癒しの魔術を……」
大剣使いは小さく呟いて、笑いを堪えながら続けた。
「そういえば、第一王国の人を助けてやりたいとか、
そんなことを言ったときも暗い顔してましたね。
意外と他人想いなんですね、ユーシャ様。かわいらしい」
265: 2013/11/21(木) 21:07:46 ID:u4C4uguc
「うるさい」ユーシャは頭を掻きながら言う。「さっきはへんなこと訊いてごめん」
「まだ言ってる」魔法使いは呆れた。
「べつにいいんですよ。わたしが話したかったんですから。
それに、ちょっとくらい私のことも知ってもらいたかったですからね。
普段はこんなこと話さないんですよ。あなた達は特別です」
「うん、ありがとう」ユーシャは嬉しくなった。
すこしは信用してくれているのだろうと思うと、顔が綻ぶ。
彼の居場所になれるのなら、それはいいことだと感じた。
「なにか訊きたいことがあるのなら、答えますよ」と大剣使いは続ける。
「いや、もう大丈夫。悪かったよ」
「そうですか」
三人はしばらく天井で瞬く苔と茸を眺めていた。
涼しい空気は火照った身体を冷やしてくれる。
どこかから水の音が聞こえてくる。蜘蛛の気配はない。
なんだか、心地良い時間だった。
266: 2013/11/21(木) 21:09:53 ID:u4C4uguc
「いい匂いがしますね」と、突然大剣使いが言った。
「そうだな」とユーシャは答える。
「いい匂い?」魔法使いは首を傾げて、鼻をひくつかせる。「どんな匂い?」
「優しくて、敵意のない匂いです」
「それって、もしかして」魔法使いは汚いマントに包まって、ふたりを交互に睨む。
「わたしの匂い?」
「え? どうなんですか? ユーシャ様」
「え? なんで俺に押し付けるんだよ? おかしいだろ?」
「最低」魔法使いはユーシャの顔をじっと睨んだ。
ユーシャは引き攣った笑みを浮かべながらそれを見つめ返した。
頬が赤い。怒りからか恥ずかしさからか、唇が震えている。とても嫌な予感がした。
「し、仕方ないだろ。だって、いい匂いがするんだから……」
ユーシャはしどろもどろに言い訳をする。
最後まで言ってから、これは言い訳になっていないと気付く。
「……汗かいてるのに、ひとの匂いを嗅がないでよ」
魔法使いはマントに顔を埋めた。「恥ずかしい……」
「あれ、怒らないんですね。めずらしい」大剣使いは嬉しそうに笑う。
「今日はいつもの五〇〇倍くらいかわいいですよ。どうしたんです?」
267: 2013/11/21(木) 21:12:28 ID:u4C4uguc
魔法使いは首を振り、マントに顔を擦りつけた。
「……わたしがいつも怒ってると思ったら大間違いよ」
「……あれだよ。たぶん、お前に気を使ってるんだよ」ユーシャは言う。
「あんな話を聞いた後だから、殴るのはやめておこうとか思ってるんだよ」
「そうなんですか?」
魔法使いはマントに顔を埋めたまま、無言で小さく頷いた。
「ほら」
「あなた達は変わってますね。それなのに、似たもの同士です」
大剣使いは小さく笑う。
「ふたりとも優しくて、私は好きですよ。それに、とても羨ましいです」
268: 2013/11/21(木) 21:13:12 ID:u4C4uguc
「羨ましい? なにが?」
「ふたりの間にあるものの大きさです。信頼とか、そういうものです。
つまるところ、あなた達の仲の良さが羨ましいです」
「そうか」
「ほかにも愛とかね、そういうよくわからないものが超羨ましいです。
あなた達の間には、眩しいくらいに愛的な何かが迸ってますよ。
ベッド上のパフォーマンスが終わって、
その愛的な何かが残っていたとしたら、私にもちょっと分けてくださいね」
「黙れ」魔法使いはマントに顔を埋めたまま言う。「やっぱりお前氏ね」
「ありがとうございます」大剣使いは破顔した。
269: 2013/11/21(木) 21:14:16 ID:u4C4uguc
ふたたび心地良い沈黙が訪れる。
それから三人はほとんど話し合わず、その場でたっぷり身体を休めた。
やがて魔法使いは立ち上がり、黙って歩き始める。
男たちも、それを追いかけるように歩き出す。
眼前で大口を開けて待っている道は、真っ暗だった。
ごつごつとしていて、明かりは灯っていない。
冥府の底へ続くような深淵のように見える。
深淵の果てでは、青白い光が輝いている。
それは救いなのか、拒絶なのか、今のユーシャには何もわからなかった。
270: 2013/11/21(木) 21:14:47 ID:u4C4uguc
*
急勾配の坂になった通路を走り抜けると、大きな空間に突き当たった。
半径五十メートルほどの円形の空間で、
通ってきた道以外にもいくつかの通路が見える。
小さな穴が七つは見えた。ぜんぶ道なのだろう。
背後からは蜘蛛が迫ってきている。轟音が鳴り、青白い火花が炸裂する。
魔法使いは呪文を唱え、魔術の障壁でそれを受け止める。
表情には苦痛が滲んでいる。
どうやら、雷を打ち消すのには相当なエネルギーを消費するらしい。
早めに蜘蛛を蹴散らしてしまおうと、ユーシャは駆け出そうとした。
しかし、「待ってください」と大剣使いに止められる。
「全員できるだけ下がってください」
「なんで。このままだと拙いだろ」
「だからこそです」大剣使いは通路の出口辺りの天井を指差して、
魔法使いに向かって続ける。「あの辺りを魔術の炎で崩してください」
「わかった」と魔法使いは頷き、素早く呪文を詠唱する。
彼女の背後に七つの小さな炎の球が現れた。
271: 2013/11/21(木) 21:15:54 ID:u4C4uguc
かん、と間抜けな音が広い空間に響き渡る。杖で地面を突いた音だ。
それを合図に、炎は上昇し、破裂し、頭上の岩盤を破壊する。
空気が揺れ、天井からは大きな岩が大量に降ってくる。
地面に衝突する岩は、大きな音を鳴らし、砂埃を巻き上げる。
蜘蛛の大群は岩の向こうの通路に閉じ込められた。
しかし、一体の蜘蛛がこちらにはみ出していた。
四の脚のうちの一本を岩と地面にすり潰され、
奇声をあげながらのた打ち回っている。
蜘蛛はこちらに十ほどの目を向け、青白い球体を作り始める。
ユーシャはそれに歩み寄り、目を蹴った。
奇声が洞窟に反響する。耳を劈くその声を無視し、剣を振り下ろす。
蜘蛛はふたつに裂かれた身体から粘ついた体液を吐き出しながら、絶命する。
青白い球体も徐々に光を失い、まもなく跡形もなく消滅した。
272: 2013/11/21(木) 21:16:44 ID:u4C4uguc
「これですこしは時間が稼げるでしょう」大剣使いは言う。
「なるほど」とユーシャは異臭に顔をしかめながら言う。
「道を塞げばよかったんだな」
「でも、ここは蜘蛛の庭みたいなものです。
なので、いずれ他の道から回り込まれてしまいます。なので、早く進みましょう」
「そうね」魔法使いは額に汗を浮かべながら言った。
「もう後戻りできなくなっちゃったし」
「でも、どれが正解なんだ?」
ユーシャは辺りを見渡す。ここも不気味に輝く苔や茸が壁を覆っていた。
ただ、先程の炎の爆発で開いた穴から
外光が射しているおかげで、今までの場所よりもずっと明るい。
見上げると、かなり高いところに開いた穴から青い空が見える。
すこし目線をずらし、天井に目を向けると、そこには大きな蜘蛛がいた。
273: 2013/11/21(木) 21:17:56 ID:u4C4uguc
「なんだあれ」と思わず声が間抜けな漏れた。
今までの蜘蛛もかなりの大きさだったが、
頭上のそれは今までと比べ物にならないほどの巨大さだった。
全長は五〇メートルを超えている。先程の蜘蛛の五〇倍以上の大きさということになる。
鋭い鉤爪のようなものが脚の先端にあり、全身は蛍光色の毛で覆われている。
今までのとほとんど同じ形態をしているが、
唯一違うものがあった。腹が異常に膨らんでいる。
剣で突いたら破裂してしまうんじゃないかと思うほどに張っていた。風船のようだ。
「どうしたの」と魔法使いは言い、天井を見上げる。
まもなく隣から、「なにあれ」という間抜けな声が聞こえた。
「蜘蛛ですね」と大剣使いは答えた。
「メスのようです。女王蜘蛛といったところですかね」
「なに余裕ぶっこいてんのよ」
274: 2013/11/21(木) 21:19:53 ID:u4C4uguc
女王蜘蛛は巨大な鉤爪を天井の岩から引き剥がし、重力に身をゆだねる。
宙で体を翻し、まもなく広い空間のど真ん中に、大きな音をたてて着地した。
埃が舞い上がる。
今までのとは違うというのは一目瞭然だった。
目でも肌でも本能でも感じ取れた。
こいつがこの巣のボスなのだろう、とユーシャは即座に理解した。
すべてが巨大化したその身体は、嫌でも細部までを見せ付けてくれる。
口内は粘性の涎のようなもので覆われていて、
円を描くように配置されたいくつもの小さな突起が蠢いている。
全身の蛍光色の毛は細くて短い。毛の下には、土のような茶色の肌が見える。
あとから接合したように不自然な大きさの腹には毛がほとんど生えておらず、
なにか大きな筋がいくつも通っている。
それは時々、大きく脈動する。生理的な嫌悪感を催さずにはいられなかった。
十の真っ黒な眼球は三人を映している。
今までの蜘蛛とは違い、その目に感情を読み取ることが出来た。
それは炎が揺れるように、黒い目に光を灯している。正体は怒りだった。
275: 2013/11/21(木) 21:20:42 ID:u4C4uguc
女王蜘蛛は身体を震わせた。洞窟に入ってから、何度も見た光景だ。
この後、蜘蛛の頭上に青白い球体が現れ、雷が放たれる。
全長一メートルの蜘蛛の生み出す球体のサイズは
直径三〇センチメートルほどのものだった。
魔法使いはほとんど反射的に杖を構える。
女王蜘蛛の数メートル頭上に青白い球体が現れる。
しかし、大きさは今まで見たものとは比べ物にならない。
直径は二〇メートルに達しそうな巨大さだった。
ぱちぱちと、何かが破裂するような小さな音が連続して聞こえてくる。
宙に紫色の筋が見えた。雷だ。
「なにあれ」魔法使いは身体を震わせた。口元が歪んでいる。
「あれを受け止めろっていうの?」
「通路に逃げ込むという手もあります」大剣使いはゆっくりと後ずさる。
「小さい蜘蛛がうじゃうじゃいるかもしれないぞ」ユーシャは剣を構える。
この空間には今、七つの逃げ道がある。
しかし、すべてが出口に繋がっているとは限らない。
行き止まりや巣にぶち当たる可能性もある。
もちろんユーシャの言ったとおり、蜘蛛の大群にぶち当たる可能性だって存在する。
276: 2013/11/21(木) 21:22:29 ID:u4C4uguc
「しかし、このままだと彼女のエネルギーが擦り切れてしまいます。
あんなものを何度も受け止めたら、間違いなく倒れてしまいますよ。
ユーシャ様もそれは嫌でしょう? 小さな蜘蛛なら私たちでなんとかできます。
でも、おそらくあれはそういう風にはいかないと思います」
視界に、困り果てた顔で、なにかに縋るような目をしながら
こちらを見つめる魔法使いが映る。
一メートルサイズの蜘蛛の雷を受け止めるのですら
かなりのエネルギーを消費するのに、
その五〇倍以上の力で攻撃された場合、魔法使いはどうなる?
ユーシャにでもそれくらいのことは理解できる。
大剣使いの言うとおり、選択肢は逃げることしかなかった。
もう時間はほとんどない。逆に言えば、すこしならある。
具体的に言うならば、一撃だけを浴びせられる僅かな時間がある。
しかし、渾身の一撃でも女王蜘蛛を倒せるとは思えない。
倒せなかった場合、全滅は免れられない。
ユーシャは剣を鞘に収め、後退する。背後にあるのは岩で塞がれた通路だ。
壁沿いに十メートルほど走れば、隣の通路に入ることができる。
「逃げろ」とユーシャは隣の通路を指差して叫んだ。
それを合図に、他のふたりは駆け出す。
ユーシャも後を追って、暗い通路に飛び込んだ。背後で青白い閃光が迸った。
277: 2013/11/21(木) 21:23:34 ID:u4C4uguc
「なによあれ!」と隣を歩く魔法使いは息を切らしながら怒鳴った。
誰も返事はしなかった。
三人が飛び込んだ通路は、かなり狭かった。
幅も高さも二メートルほどしかない。息苦しくて、暑い。
苔や茸のおかげで明るいのが唯一の救いだった。
しかし、しばらく進むと行き止まりにぶつかった。
大剣使いは振り返り、「どうします?」と問いかける。
「どうしますって、戻るしかないじゃないの」魔法使いは苛立たしげに言った。
「それはそうですが、そこからどうするのかは考えないといけないでしょう。
やり過ごす、もしくは倒す。どっちにしても何か案が必要になってきます」
「倒せるのか?」ユーシャが言う。
「わかりません」大剣使いは目を瞑った。
「やり過ごす方法を考えたほうがよさそうね」
「できることならそれがいちばんですね」
278: 2013/11/21(木) 21:24:29 ID:u4C4uguc
「じゃあ、さっきみたいに雷が落ちてくる前にべつの道にいけばいいじゃないか。
それなら、そのうち正解の道が見つかるだろ」ユーシャは言う。
「先程は運が良かっただけです。
たまたまべつの道が近くにあったから、無事にここに飛び込めました。
わかっていると思いますが、あの女王蜘蛛がいる場所には、
さっき塞いだものを除いて道が七つあります。
しかし、ここ以外の六つの道は、かなり離れたところにありました」
「……つまり、ここからだと他の道に辿り着く前に、
あのバカでかい蜘蛛の雷で黒焦げってわけね」
魔法使いはため息を吐いた。「どうするのよ」
「あの雷、魔術の障壁で受け止められませんか?」
魔法使いは眉間に皺を寄せて言う。
「一度だけならなんとかなるかもしれないとは思うけど、
やってみないことにはなんとも言えないわ。あの大きさは反則よ」
「そうですか……一度攻撃をやり過ごして、
その隙に通り抜けるというのはだめですね。
そんな危ない賭けに出るわけにはいかないです」
279: 2013/11/21(木) 21:25:16 ID:u4C4uguc
「雷の放出を止めるってのは?」ユーシャが言う。
「あの蜘蛛の腹、突いたら破裂しそうなくらいに張ってたぞ。
脚と比べると、かなり柔らかそうだった。
そこを切って怯ませて、その隙に通り抜けるってのは?」
「……もしかすると、ショックで雷を放出する可能性もありますが、
試してみる価値はあるかもしれませんね」大剣使いは頷く。
「しかし、通用するのは一回きりでしょう。あれも馬鹿ではないはずです。
二度目からは、なにか対策を立ててくるでしょう。
まあ、一回で正解の道を見つけられたらその心配は必要ないんですがね」
「次のが正解の道じゃなかったらどうするの?」と、魔法使い。
「その場合は、次のアイデアを考えなければならないですね」
「光であいつの目を眩ませるってのはどう? もしくは潰す」
「蜘蛛は目よりも音を頼りにしています。なので目が見えなくても
私たちが部屋に入ってきたと分かりますし、そこで雷を放つことも可能なはずです」
280: 2013/11/21(木) 21:27:12 ID:u4C4uguc
「じゃあ耳を潰せば」とユーシャ。
「蜘蛛に耳はないです」
「意味が分からない。だったらなんで聞こえるんだよ」
「蜘蛛には耳の代わりに聴毛というものが脚にあるんです。
身体のちいさなくぼみからは地面の振動を感じることもできます」
「じゃあ何、歩いたら音と地面の揺れでばれるってこと?」と魔法使い。
「どうですかね。そこまでは知りません」
大剣使いがそう言うとほとんど同時に、道の奥に青白い光が見えた。
雷だ。しかし、それはこちらに届く前に消えた。
281: 2013/11/21(木) 21:27:55 ID:u4C4uguc
ユーシャは剣を構え、目を細める。
歩いてきた道のずっと奥に、蛍のように淡く光るものが覗える。
あの色には見覚えがある。蜘蛛だというのはすぐにわかった。
それも一体ではない。他のふたりもすぐに気がついた。
魔法使いは呪文を唱え、杖を構える。
正面に七つの炎の球が現れ、円を描くように回転し始める。
「ちょっと熱いかもしれないけど、我慢してね」
彼女はそう言うと、杖で軽く地面を突いた。
直後に七つの炎の球がぶつかり合い、ひとつの巨大な炎の球に姿を変えた。
それはまるで太陽のように見えた。
もう一度彼女が杖で地面を突くと、
通路を埋めるほどの熱線が炎の球から打ち出された。
焼かれる蜘蛛の断末魔が聞こえてくるが、それはすぐに炎で上塗りされる。
やがて炎は消える。通路に残ったのは焦げた黒い壁と、
焼き切れずに千切れた蜘蛛の脚だけだった。苔や茸はすべて焼けたようだ。
魔術というのは暴力的なものなのだと改めて思い知らされる。
282: 2013/11/21(木) 21:28:34 ID:u4C4uguc
「なあ」ユーシャは剣を収める。
「今の魔術で女王蜘蛛を倒せるんじゃないか?」
「試してみる価値はありそうですね」
「無理。相手は五〇メートルを軽く超えてるのよ。
わたしが撃てる熱線の太さは限界でも三メートルくらいよ」
「十分だと思うんですが」大剣使いは引きつった笑みを浮かべる。
「一回では倒せないでしょ。これだとせいぜい脚一本を撃ち抜くくらいね。
そもそもこれは何回も使えるような魔術じゃない」
魔法使いは息を切らし、赤い顔で言った。「それにもう、ちょっとしんどいの」
「そうですか。それはすみません」
三人はふたたび女王蜘蛛の待ち受ける広い空間へ向かった。
283: 2013/11/21(木) 21:29:45 ID:u4C4uguc
ユーシャたちは広い空間の手前で立ち止まる。
女王蜘蛛は、まだ中心に居座っていた。
真っ暗になった空間で、淡く光を放っている。
どうやら最初の雷の放出で苔や茸はすべて焼け、壁も黒焦げになってしまったらしい。
「どこに道があるかがわかりにくいな」と、ユーシャ。
「蜘蛛の向こう側に一つ、左奥に三つ、右奥に二つですね」大剣使いが言う。
「一番近いのは右側の道です。まあ、それでも
直線距離で五〇メートルほどの距離がありそうです」
「速くても七秒くらいはかかっちまうのか」
「でもこの距離なら、必氏で走ればなんとかなるかもしれませんね。
ただ、蜘蛛の脚で引っかかれてしまう可能性があります。」
「引っかかれる?」ユーシャは眉間に皺を寄せる。
「女王蜘蛛が脚をぶん回したら、わたし達は薙ぎ払われるってことでしょ。
あいつの脚はかなり長いもの」魔法使いは息を切らして言う。
「その場合はどうするんだ?」
「私に任せて下さいよ」
「任せろって、あの巨体をどうやってなんとかするのよ。大丈夫なの?」
284: 2013/11/21(木) 21:30:39 ID:u4C4uguc
「さっき話したじゃないですか。私の腕力は異常なんですよ」
大剣使いは笑う。「信じてください。私は約束だけは絶対に守る男です。
最初に約束したじゃないですか。私は氏んでもあなた達ふたりを守る、って」
「……わかった」
「よし」ユーシャは剣を鞘から抜いた。「じゃあ行くか」
魔法使いは口の中で光の魔術を詠唱した。
すぐに光が灯る。それを合図に、三人は道を飛び出した。
女王蜘蛛は即座に反応し、天井近くに青白い球体を生成する。
それは部屋中を綺麗な青色に照らしだす。
しかし、そんなものに目を奪われている場合ではない。
三人は氏に物狂いで脚を回し続けた。
次の道まであと二〇メートルほどのポイントで、蜘蛛は動いた。
このままでは逃げられると思ったのか、勢いよく脚を地面に叩きつけ、
こちらに向かって引きずるように地面を薙ぐ。巨大な脚は倒れた大樹を連想させる。
それは砂埃を巻き上げながらユーシャたちを潰そうとしている。
大剣使いが前に出る。
必氏に走っているはずのユーシャよりも、二、三倍は速いように見えた。
285: 2013/11/21(木) 21:31:51 ID:u4C4uguc
「そのまま走りつづけてください!」と彼は叫び、
巨大な剣を地面に引きずりながら走る。
脚は速度を緩めることなく向かってくる。
脚との距離が五メートルほどになったとき、
大剣使いは立ち止まり、巨大な剣に力を込めた。
脚は地鳴りのような音を響かせ、近づいてくる。
頭上では雷が瞬き始める。それらは小規模な世界の終わりのような光景だった。
大剣使いは飢えた怪物のような低い唸り声を上げて、大樹のような脚を切り上げた。
岩同士がぶつかり合うような、鈍い音が響く。蜘蛛の脚は千切れなかった。
産毛のような毛に守られていた皮膚は、まるで岩のような硬さだった。
しかし、蜘蛛は高い悲鳴を上げた。
大剣使いの切り上げにより、脚は地面から数メートル浮いた。
それに、硬い皮膚もすこし抉れているのが見える。
傷口からは吹き出す緑色の体液が、雨のように降ってくる。
286: 2013/11/21(木) 21:33:03 ID:u4C4uguc
「うそ」魔法使いは思わず目を丸くして言った。
「あの脚を持ち上げたの? 信じられない」
「早く、行ってください!」大剣使いは走りながら言う。
「なんなの、あんた?」魔法使いも走る。
「ただの、化け物、です、よ!」大剣使いは一足先に次の道に飛び込んだ。
ユーシャと魔法使いも後を追うように飛び込んだ。背後で、青白い閃光が炸裂した。
287: 2013/11/21(木) 21:33:35 ID:u4C4uguc
飛び込んだ先にあったのは、緩やかな勾配の下り坂だった。
足がもつれて、ユーシャは肩を地面にぶつける。そのままの勢いで転がり落ちた。
結局、全身を強く打ってしまった。うめき声が漏れる。でも、生きている。
寝転がったままぼんやりとする頭を働かせ、周囲の状況を把握を試みる。
わかったのは、ユーシャ以外のふたりがちゃんと着地できたことと、
天井にいくつかの苔と茸があることだけだった。
しばらくすると、魔法使いが「ほんとうに、異常ね」と微笑みながら言った。
息をするたびに肩と胸を動かすその姿は、つらそうに見える。
頬は薄く紅潮していて、額は汗まみれだった。栗色の髪が顔にへばりついている。
「……だから、言ったじゃないですか」大剣使いも、めずらしく息が上がっていた。
額にも汗が見える。ただ、顔だけはいつもの涼しいものだった。
「でも、助かった」ユーシャは汗と泥で染まった顔で笑う。「ありがとう」
288: 2013/11/21(木) 21:34:33 ID:u4C4uguc
「ユーシャ様にそう言ってもらえると、とても嬉しいですね」
大剣使いは歯を見せた。「やっぱりあなた達に付いてきてよかった」
「こんな状況でなに言ってんのよ」魔法使いは歯を見せて笑った。
「あなただって笑ってるじゃないですか」
「これは、あれよ。あんたが剣を振るとき、へんな声を出したせいよ。
なによ、あの唸り声。おっさんみたいじゃないの」
「お恥ずかしい」大剣使いは振り返り、ユーシャに手を差し伸べる。
「立てますか?」
ユーシャはそれを握り返して、立ち上がる。「うん、大丈夫だ」
喋ると口の中に砂利が入り込んだので、唾といっしょに吐き出した。
「なに、その顔。泥まみれじゃないの」魔法使いは吹き出した。「きたない」
「ほっとけ」
大剣使いは微笑む。「さあ、行きましょう」
289: 2013/11/21(木) 21:35:32 ID:u4C4uguc
今度の道は、幅が五メートルほどあった。
高さは先ほどと変わらず、二メートルほどだった。
苔や茸は壁一面にびっしりと生い茂っている。目がちかちかしてくる。
道は複雑に曲がりくねっていた。当たり前のように、急勾配の坂道もあった。
蜘蛛の姿はない。
ユーシャたちはここが出口であることを祈って、ひたすら歩を進めた。
しばらく歩いたところで、三人は立ち止まる。
どうやら、この先には広い空間があるらしい。
大剣使いは小声で「止まってください」と言った。
「どうしたの?」と魔法使い。
「外れでした」大剣使いは壁に凭れてため息を吐いた。
「女王蜘蛛の部屋に戻ってきてしまいました。ここはさっき入った道の隣のようです。
どうやら、右側のふたつの道は繋がっていたようですね」
290: 2013/11/21(木) 21:37:45 ID:u4C4uguc
「残る道は四つか」ユーシャは長く息を吐く。「どうする?」
「今度はいちばん近い道でも直線距離で七〇メートルほど離れています。
おそらく、普通に走り抜けるだけでは間に合いません。雷でお陀仏です」
「腹を叩いて即離脱、で間に合うかな?」
「それで雷が収まれば大丈夫ですが、
攻撃のショックで雷が放出されたときが心配です。
しかし、おそらく生成が中断されて放出されるので、
最大出力の放電ではないでしょう。なので……」
大剣使いは魔法使いにちらりと目を向ける。
「もしかすると、わたしの魔術の障壁で耐えられる“かもしれない”ってことね」
「そういうことです。いちおう全員に、
ある程度の強度を持った壁を張っておいてください」
「了解」魔法使いは詠唱する。三人は薄い膜のようなものに覆われた。
「で、誰が叩きに行くの?」
「私が行きますよ」「俺が行く」
ユーシャと大剣使いはお互いの声に被せて言った。
291: 2013/11/21(木) 21:38:36 ID:u4C4uguc
「どっちなの」
「だから、俺が行くって」
「ユーシャ様」大剣使いはユーシャの肩に手を置いた。
「“こいつに申し訳ないから今度は俺がやる”だなんて、
余計なことは考えないでください」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、なんなんです」
「それは」答えられなかった。図星だった。
「危険なことは私に押し付けてくれればいいんです。
申し訳ないと思ってくれているのは嬉しいんですが、
あなたは生き残って、魔王を倒すことだけを考えていればいいんです。
もし女王蜘蛛が脚を振り回しても、私なら大丈夫です。氏にはしませんよ。
……それに、ユーシャ様の剣は小さすぎますからね。期待できません」
大剣使いは微笑んだ。
「……それもそうだな」
ユーシャは弱々しく笑い、頭を掻きながらため息を吐いた。
「勇者って、いったいなんなんだろうな。
世界を救うような力を持ってるんじゃなかったのかよ」
292: 2013/11/21(木) 21:40:17 ID:u4C4uguc
「さあ、なんなんでしょうね。でも、少なくとも
あなたは私の持っていない武器を持ってますよ」
「武器かよ」
「剣のことではないですよ。……たとえば、私には腕力という武器があります。
私にはこれしかないんです。でもあなたは違うんです。
ユーシャ様は、もっとたくさんの武器を持っているんです。
確かに力はあるとは言えませんが、力と強さはイコールではありません。
あなたは強いんです」
「ふうん」ユーシャは眼前の暗闇を見据える。
そこには淡く浮き出た女王蜘蛛のシルエットが見える。「よくわからない」
「いずれわかります」大剣使いは道と女王蜘蛛の部屋の境界に立つ。
「さあ、行きましょうか」
「いつでもどうぞ」魔法使いは杖を構える。
293: 2013/11/21(木) 21:41:22 ID:u4C4uguc
まもなくふたつの光の球を出現させ、三人は道から飛び出した。
大剣使いはわき目もふらずに、女王蜘蛛に直進する。
ユーシャと魔法使いは次の道へ一目散に向かう。
部屋が青白く染まる。充電が始まった。
もう十秒もしないうちに、部屋は雷で埋め尽くされる。
女王蜘蛛は向かってくる大剣使いの姿を捉える。
それを捕らえてやろうと、禍々しささえ感じられる口内から粘つく糸を放った。
しかし、簡単に避けられてしまう。
大剣使いはそのまま蜘蛛の脇に潜り込み、腹を狙う。
そして先ほど脚を裂いたのと同じように切り上げる。
脈動する管は簡単に引き裂かれて、緑の体液を吹き出した。
身体が緑に染まった。
女王蜘蛛は絶叫する。あまりに高い音で鳴くので、ほとんど聞こえてこない。
まもなく身体全体で怒りを表現するかのように脚先で地面を何度も突いた。
放電は起きない。代わりに小さな地震が起こるが、大剣使いは無視して離脱した。
294: 2013/11/21(木) 21:42:36 ID:u4C4uguc
ユーシャと魔法使いは次の道まであとすこしというところで、
思わず脚を止めてしまった。道から、数十にも及ぶ蜘蛛が現れたのだ。
しかし、このまま立ち止まると拙い。
一瞬ほどためらったが、ふたりはすぐに走り始める。
蜘蛛は身体を震わせ、発光する小さな球体をいくつも生成し始める。
「どけ! 糞が!」ユーシャは剣に力を込め、蜘蛛の大群を薙ぎ払った。
肉が引き裂かれ、そこから飛び出した体液が水たまりのように地面を覆っていく。
蜘蛛の断末魔が響く。異臭が立ち込めてくる。どうでもよかった。
このままだと時間が無いかもしれない。まだ蜘蛛は半分以上残っている。
小さな球体の出現から二秒ほどで、蜘蛛は一斉に細い雷を放った。
「止まるな! 進め!」と魔法使いは叫び、
ユーシャの目の前に魔術の障壁を作り出し、雷を受け止める。
受け止めながら、詠唱する。次に現れたのは、二本の炎の槍だった。
赤く光る槍はまもなくその場から射出され、蜘蛛の身体を貫き、内側から焼く。
まだ蜘蛛は残っている。
残っている蜘蛛は、先ほどの細い雷よりも強力なものをぶつけてきた。
ユーシャは構わず走る。魔術の障壁で覆われた剣で、それらを受け流す。
蜘蛛との距離がほとんどゼロになったとき、ユーシャは力の限り剣を振るった。
その一閃は何匹もの蜘蛛の身体をふたつに切り裂いた。
295: 2013/11/21(木) 21:43:12 ID:u4C4uguc
蜘蛛は全滅した。と、思った矢先、魔法使いの目に、何かの影が映った。
それは天井から真っ直ぐ、ユーシャを目指して降ってくる。
蜘蛛だ。魔法使いは言葉になっていない、絶叫のような声をあげる。
ユーシャは絶叫の中に聞こえた僅かな言葉を頼りに、目を頭上に向ける。
蜘蛛はもう目と鼻の先に迫っていた。剣に力を込めるが、間に合わない。
そのとき、脇から大剣使いが視界に飛び込んできた。
跳び上がった彼は最後の蜘蛛を手で引っ張り、地面に叩きつける。
そして追い打ちをかけるように、巨大な剣でそれを叩き潰した。
「ありがとう」とユーシャは息を切らして言った。脚は止めない。
「拙いです」大剣使いは暗い顔で言う。脚は止めない。
「怯ませられませんでしたし、中途半端な雷の放出も引き起こせませんでした」
「あんたはよくやったわよ」魔法使いは言う。脚は止めない。
「あとはわたしにまかせなさい。一回くらいなら受け止められる、たぶん」
「すいません、お願いします。信じてますよ」
296: 2013/11/21(木) 21:44:32 ID:u4C4uguc
視界が青白く染まる。三人は立ち止まる。魔法使いは素早く詠唱をする。
三人はドーム状の頑丈な魔術の障壁に閉じ込められた。
それから瞬く間もなく、障壁に紫や青の雷が激突した。
女の悲鳴のような異常な音を響かせて、障壁は軋みながらも三人を守る。
魔法使いは歯を食いしばりながら、苦しそうに声を漏らす。
全身から汗が滴っている。顔は真っ赤だった。
ユーシャと大剣使いは見守るしかなかった。早く終われと祈ることしかできなかった。
五秒ほどで放電は止んだ。。
小さな蜘蛛の五〇倍の力を受け止めた魔法使いは、その場に倒れこんだ。
「大丈夫か!?」ユーシャは彼女に声をかける。
「いいから、わたしを抱えて早く行きなさいよ……」魔法使いは弱々しく微笑む。
しばらく(といっても二、三秒だ)すると女王蜘蛛は身体を震わせ、
ふたたび大きな青白い球体に電気を貯めこむ。ユーシャは彼女を抱え、走りだす。
そして暗闇にぶつかるように、暗い道に飛び込んだ。
297: 2013/11/21(木) 21:45:39 ID:u4C4uguc
「ここが正解の道でないと、そろそろ拙いですね」
「うん」と、ユーシャは頷く。
抱えられた魔法使いは「ごめんね」と言った。
「どうして謝るんです」
「わたしすぐにバテちゃうから、足引っ張ってるような気がして」と
魔法使いは言い、弱々しく微笑んだ。
「いや、そんなことないよ。お前はすごい。
お前がいなかったら、俺たちはもう氏んでたんだ」ユーシャが言う。
「そうですよ。謝ることはないんです。もっと自信を持ってください。
あなたの魔術は素晴らしいものなんですから。
暴力的でもあり、母性的でもある。私はとても頼りにしていますよ」
「そう……それならよかった」
298: 2013/11/21(木) 21:46:20 ID:u4C4uguc
「お前はすごい魔法使いなんだ。でも、俺は違う」ユーシャは頭を垂れた。
「結局、いちばん足を引っ張ってるのは俺だよ」
「そんなことはありませんよ」「そんなことない」
大剣使いと魔法使いは同時に言う。
「なんだよ」
「たしかにあんたは魔術も使えないし、こいつみたいな腕力もないけど、
わたし達には無いふしぎな力を持ってるのよ」
「安っぽい表現だな。ふしぎな力って、具体的になんなんだよ」
「……それは」魔法使いはユーシャの目を見つめながら、
もどかしそうに口を動かした。「その……」
「答えられないんじゃないか」
「違いますよ、ユーシャ様」大剣使いが割って入る。
「彼女、恥ずかしくて言えないんですよ。
私たちはユーシャ様といると、元気が出るんです。
力が湧いてくるといいますか、なにが相手であろうと負ける気がしなくなるんです」
「それは俺の力じゃない」ユーシャは首を振る。
299: 2013/11/21(木) 21:47:27 ID:u4C4uguc
「いいえ、これはあなたの力です。
そしておそらく、数あるうちの最大の武器です」
大剣使いはそう言い、
「言い方は悪いかもしれませんが、あなたは生きていてくれればいいんです。
勇者とは希望であり、私たちの行く先の暗闇を照らす唯一の光――でしょう?」と
魔法使いに微笑みかけた。
魔法使いは小さく頷いて言う。
「それに、あんたは弱いわけじゃない。十分に強い。ただ、わたし達が強すぎるのよ」
「なんだよ、それ」ユーシャは笑った。
「自信を失ってはいけませんよ、ユーシャ様。
自信の喪失から人間の崩壊は始まるのです」
「うん」ユーシャは頷く。「わかった」
「じゃあ、さっさと魔王を倒しに行きましょう」
300: 2013/11/21(木) 21:48:49 ID:u4C4uguc
大剣使いは歩く。あとに続く形で、ユーシャも魔法使いを抱えながら歩く。
しかし、十分も経たないうちにゴールへ辿り着いてしまう。
「またか」ユーシャの目に映るのは、途切れた道だった。
「ええ。行き止まりです」大剣使いは振り返る。
「これはいよいよ拙いことになってきましたね」
「……どうするの?」と魔法使い。
「残る道は三つですが、その三つは
この道の入口から八〇メートルは離れています」
「普通に走っただけじゃ間に合わない、か……」
しかし、腹を叩いても効果はないし、魔法使いのエネルギーもすでにない。
「はい。そこでわたしに提案があります」
「……なに」
「先ほど、女王蜘蛛が放電したあと、すこし間を開けてから充電を再開しましたよね」
たしかに、二、三秒の余裕があった。「……それがなんなんだ?」
301: 2013/11/21(木) 21:49:35 ID:u4C4uguc
「怒らないでくださいね」大剣使いは言う。
「一度、私だけがあの部屋に入り、雷を受け止めます。
たぶん、女王蜘蛛を叩いてここまで戻ってくるには
時間が足りないでしょうから、受け止めるしかないです。
それで、放電が終わった瞬間にユーシャ様は道から飛び出して走ってください。
もしも二回目の放電までに、次の道に間に合いそうになかったら
私を呼んでください。この怪力で次の道にふたりをぶん投げます」
「ふざけるな」ユーシャは険しい目で大剣使いを睨んだ。
「怒らないでって言ったのに」
「俺はお前に危険な目に遭ってほしくない」
「ほほう。そこまでユーシャ様が私のことを想ってくれていたとは。勃っちゃいそうです」
大剣使いは微笑む。それは悪魔的でもあり、天使的でもあった。
「でも大丈夫ですよ。私は氏にませんし、負けませんよ」
「勝つとか生きるとか、そういうのじゃない。俺たちのために命を賭ける必要はない」
「必要はないですが、私から見ればあなた達は命を賭ける価値のあるひとです。
これは私の意思です。それに、あなた達はこんなところで氏にたくないでしょう?
それとも、他になにかいい案があるんですか?」
「……」ユーシャは唇を噛んだ。
「信じてください」
302: 2013/11/21(木) 21:50:57 ID:u4C4uguc
しばらくの沈黙の後、ユーシャは言う。
「……どうやって雷を受け止めるつもりなんだよ」
「さあ。でも、この剣があればなんとかなるんじゃないですかね」
「ばかだろ、お前」
「そうですね。でも、今なら負ける気がしないんです」
「そうか」
「さあ、行きましょう」
「待って」と魔法使いが小さな声で言う。
「なんです?」
303: 2013/11/21(木) 21:51:32 ID:u4C4uguc
「これ」と、魔法使いは小さな何かを放り投げた。
大剣使いはそれをキャッチする。「これ?」
「お守り。あんたが氏なないようにね」
大剣使いは握りこぶしを開く。そこには眩く光を反射する、金の指輪があった。
「いいんですか? これ、大事なものじゃないんですか?」
「そうね。だから絶対に返しなさい。約束よ」
「ええ、約束しますよ」大剣使いは左手の薬指にそれを嵌めて、笑った。
「信じてくれていいですよ。私は、約束だけは絶対に守る男ですからね」
304: 2013/11/21(木) 21:52:22 ID:u4C4uguc
来た道を遡るのにも十分ほどかかった。
女王蜘蛛は飽きもせずにそこに居座っている。
ユーシャは魔法使いを背負い、息を潜めてその時を待つ。
「じゃあ、いってきます」大剣使いは道から飛び出した。
ふたりは唇を噛んで、それを見送る。
女王蜘蛛はすぐに大剣使いの姿を捉えた。まもなく青白い球体が発生する。
大剣使いはスピードを緩めずに、女王蜘蛛へ突進する。
大樹のような脚が叩きつけられるが、怪物的な腕力で押し返す。
そのまま懐に潜り込んでから跳び上がり、巨大な剣で三つの目を叩き潰した。
それでも目は七つ残っている。緑の液体が噴水のように噴き出す。
女王蜘蛛は超音波のような悲鳴をあげる。構わず巨大な剣は脚の根本を切り裂く。
しかし脚は切断されない。皮膚は岩のように硬い。
305: 2013/11/21(木) 21:53:09 ID:u4C4uguc
まだか。まだなのか。ユーシャは恐怖と不安で潰れてしまいそうだった。
ほんとうに大丈夫なのか? 信じて大丈夫なのか?
あいつが氏んでしまったら――
いいや、大丈夫だ。信じていればいい。約束したじゃないか。
だから、俺たちは生き残ることだけを考えていればいい。
そのとき、目の前の空間が青白い光で埋まった。
轟音が鼓膜を貫くような感覚に、足元がすこしふらつく。
いよいよだ。この光が消えたときが勝負だ。
ユーシャの心臓は跳ねた。背中にも、心音が伝わってくる。
恐怖を象徴するかのように、短い間隔で激しく背中を押す。
「大丈夫だ」とユーシャは言う。吐く息が震えた。
「わかってる」と魔法使いは答えた。身体の震えが伝わってくる。
「そろそろ行く。しっかりつかまってろよ」
「うん」
光が消えた。放電は五秒ほどで終わった。
ユーシャは力強く地面を蹴って、暗い道からさらに暗い空間へと飛び出した。
306: 2013/11/21(木) 21:53:54 ID:u4C4uguc
しかしそこで想定外の事態が起きた。
ユーシャの目に映ったのは、ほか六つの道から這い出てくる大量の蜘蛛だった。
淡く輝く蜘蛛の輪郭は重なり、壁を覆う。その数は百を超えている。
「そのまま進んでください!」大剣使いは叫ぶ。
言われたとおりに、真っ直ぐ進む。
七〇メートルほど先には、二〇匹ほどの蜘蛛が待ち受けている。
でも、大丈夫。信じていればいい。
部屋が青白く照らされる。二度目の充電が始まった。もう六秒ほどで放電が始まる。
しかし、次の道までの距離は、まだ六〇メートルはある。
それに魔法使いを背負っているので、全力で走ってもまず間違いなく間に合わない。
「無理だと思ったら呼んでくださいって、言ったじゃないですか」
大剣使いが背後から声をかけてくる。
307: 2013/11/21(木) 21:54:42 ID:u4C4uguc
「……」ユーシャは黙って脚を回し続けた。
「いいですか。私がここで蜘蛛を止めますから、あなた達は出口を探してください。
出口を見つけたらそのまま彼女を安全な場所まで連れていってあげてください」
「……」魔法使いは何も言わなかった。
「安心してください。蜘蛛でもほかの怪物でも、何が来てもここで食い止めますよ。
あなた達を氏なせたりはしません」大剣使いは笑う。
「私も氏にません。あとで追いつきます。迎えは要りませんよ」
次の道までの距離が二〇メートルほどになった頃、
大剣使いはふたりを抱え上げ、三つ並んだ道の右側に投げ飛ばした。
宙を舞いながらユーシャは大剣使いの顔を睨むように見つめる。
彼の顔の皮は熱により爛れていた。
服もところどころ焼け落ちていたし、腕も真っ黒だ。
剣から煙が立ち上っている。完全に雷を受けきることはできていなかったのだ。
ユーシャは魔法使いを抱きしめ、彼女のクッション代わりになる。
地面に叩きつけられた身体に鈍い痛みが走る。
「さあ、行ってください!」大剣使いは大量の蜘蛛に埋もれた。
ユーシャはなにかから目を逸らすように、必氏に起き上がる。
急いで振り返り、魔法使いを抱えて走りだす。
背後からは、ふたたび雷に伴う閃光が射した。
308: 2013/11/21(木) 21:56:54 ID:u4C4uguc
*
「ひとつ言い忘れていました」
「ユーシャ様」
「この世でもっとも信用してはいけないものって、なんだと思います?」
「この世でもっとも信用してはいけないもの。それは」
「怪物の言葉です」
「私の言葉ですね」
「聞こえてますか?」
「聞こえてないですよね」
「聞こえてたらあなたは怒りますもんね」
「ごめんなさい」
「楽しかったですよ」
「ほんとうに楽しかった」
「だからもう一度、いっしょに旅をしましょう」
309: 2013/11/21(木) 21:57:32 ID:u4C4uguc
「くだらない約束をしましょう」
「聞こえてますか? ユーシャ様」
「私に声を聴かせてください」
「そしたらもう一度、私を救ってください――」
310: 2013/11/21(木) 21:58:44 ID:u4C4uguc
11
身体を失くしてしまった。でも、意識はある。宙を彷徨っているのは、私?
ああ、約束を守れなかった。彼女から受け取った指輪も失くしてしまった。
やっぱり怪物は嘘吐きだ。何ひとつ成し遂げられなかった。
でも、終焉を見つめるだけの時間は終わった。長かった。とても長かった。
あとは骸骨の永遠のような、途方もない時間の牢獄を彷徨うだけだ。
女王蜘蛛を倒したのはよかったが、そこで力を使いすぎてしまった。
小さな蜘蛛どもに肉を食われるのは気が狂うほどの痛みだった。
雷で皮膚を焼かれ、鉤爪で筋肉を引きちぎられるのは、耐え難い苦痛だった。
でも、私は氏ななかった。氏ねなかった。
それは私が怪物であるという、何よりの証明だった。
認めたくなかったが、私は間違いなく怪物だった。
人間のふりをした、ただの化け物だった。
311: 2013/11/21(木) 21:59:29 ID:u4C4uguc
私にも仲間がいた。先生を除いて、最初で最後の友だちだった。
あのふたりは無事なんだろうか? 無事に魔王を討つことが出来たのだろうか?
また私に会いに来てくれるだろうか?
いや、私はもうここにはいない。これは私じゃない。ただの、怪物の氏骸。
私の身体を返してください。
私の身体を返してください。
そしたらまた、あのふたりの隣を歩けるのに――
骸骨は戦士の剣で粉砕された。
312: 2013/11/21(木) 22:00:02 ID:u4C4uguc
*
お前の敗因は三つある。
ひとつ目は、お前に仲間がいなかったこと。
あいつらのおかげで、お前の片腕は使い物にならなくなっちまった。
リーダーとお姉ちゃんに感謝しないとな。
ふたつ目は俺の剣を受け止められる器がなかったこと。
剣を振る力があるけど、ある程度の力をぶつけられると、骨がだめになるみたいだな。
たぶんお前、相当な時間あそこにいたんだろう?
そのでかい剣も相当ぼろぼろだったしな。
三つ目は俺とお前の力が互角だったこと。相打ちになるとは思わなかった。
てっきり、俺はすぐにやられると思ってたよ。
313: 2013/11/21(木) 22:00:51 ID:u4C4uguc
俺の敗因はふたつある。
ひとつ目は蜘蛛を甘く見ていたこと。こんなにいるなんてな。参るぜ。
せっかくお前を潰したのにな。結局こうなっちまった。
ふたつ目は、余計なことを考えちまったこと。
生き残りたいって、あのふたりの隣を歩きたいって、つまんないこと考えちまった。
でも、ちょっとくらい夢見たっていいよな。俺だってまだ一九なんだ。
ああ、氏にたくねえなあ。もうちょっとだけ、歩いていたかったよなあ。
あいつに言いたいことが山ほどあったのに、もう伝える方法も機会もないんだもんな。
信じられねえよ。こんなの、あんまりだ。結局なんにも言えなかった。
約束もぜんぶ駄目になっちまった。あのふたりに戻って来いって言われたのに。
魔術の村のあの娘に、すぐに三人で戻るって言ったのに。
いやだ、氏にたくねえよ。待ってくれよ。あとすこしでいいんだ。
あと、一言でいいんだ。俺は、まだ、生きていたいんだ――
戦士の視界は、滲んだ青白い光で埋め尽くされた。
314: 2013/11/21(木) 22:01:23 ID:u4C4uguc
*
岩石を吹き飛ばすことでエネルギーを使い果たしてしまったらしく、
僧侶はそのまま気を失った。戦士の言ったとおり、先には道があった。
勇者は僧侶を背負い、脚を動かし続けた。
走り続けることで自分を痛めつけて、納得しようとした。
これは仕方のないことなんだ、と。
でも、こんなもの、戦士が受けた苦痛と比べれば糞のようなものだ。
わかっていたが、勇者にはそうすることしか出来なかった。あとは祈るしかなかった。
生きていてくれ。戻ってきてくれ。お願いだから、いなくならないでくれ。
お前が居ないと、僕は駄目なんだ。
誰かが欠けてしまうなんて、あってはならないんだ。
それでも勇者は走り続けた。喉が焼け付く。筋肉が悲鳴をあげている。
戦士を助けに行きたい。しかし、僧侶をここに置いていくわけにはいかない。
それに、背後からは蜘蛛が迫ってきている。
氏にたくない――
315: 2013/11/21(木) 22:02:34 ID:u4C4uguc
いったいどれくらいの時間、走り続けたのだろう。眼前に光が差した。
それは青白い光ではなく、青や緑の光でもなく、赤い光だった。
外の光だ。間違いない、夕陽だ。すでに陽は沈みかけている。
勇者は洞窟から飛び出した。赤い光に目が眩む。
急いで振り返るが、蜘蛛は洞窟の中からこちらを見つめているだけで、追ってはこない。
巣から出ていったので、これ以上追う必要はないと判断したのだろう。
結局、巣を荒らされたのが彼らの怒りを買ってしまったらしい。
勇者はほっと息を吐き、僧侶を背負ったままその場に倒れこんだ。
脚が動かない。足の感覚がない。咳き込む度に吐き気が込み上げてくる。
手の力だけで湿った地面を這いずりながら、近くの木に凭れかかった。
そして必氏に思考を揺さぶった。
316: 2013/11/21(木) 22:03:19 ID:u4C4uguc
戦士、戦士――助けに行かないと。
でも、僧侶をこんな森に置いていくわけにはいかない。
僕はどうすればいい。僕になにが出来る?
信じろ、信じるんだ。あいつは帰ってくる。氏ぬわけがない。
あいつは強いんだ。世界でいちばん強いんだ。
あいつは僕の大事な友だちで、きょうだいで、家族なんだ。
氏ぬわけないだろ。信じて待ってればいいんだ。
きっと、何食わぬ顔で戻ってくるに決まってる。
しばらくしたら「ほら、氏ななかっただろ?」って、あいつは笑顔で言うんだ。
そしたら思いっきり殴ってやる。だから、思いっきり殴り返してくれよ。
だから、戻ってきてくれ。まだ、言いたいことが山ほどあるんだ。……
317: 2013/11/21(木) 22:04:16 ID:u4C4uguc
血のように赤い夕日は地平線へ落ち、氏のように冷たい夜がやってくる。
地獄のような時間は終わった。それでも覚めない悪夢のような時間は続く。
やがて、なぐさめのように明るい朝日が勇者と僧侶を照らす。
眩しすぎて、目が潰れそうになる。
そして、ついに戦士は戻ってこなかった。
勇者は朝焼けの中で静かに頬を濡らした。
なにが勇者だ。人間ひとりも救えないじゃないか。
弱くて、泣き虫な、ただの子どもじゃないか。
なにが勇者だ。大事な人ひとりも救えないなんて。
それどころか救おうともしないなんて、人間以下じゃないか。……
318: 2013/11/21(木) 22:05:12 ID:u4C4uguc
目の前に続く滲んだ道は、ぐねぐねと曲がりくねっている。
それは、間違いなく勇者が進むべき道だった。きっと、この道の向こうには何もない。
魔王がいるだけで、そのほかには何もない。
魔王が消えた後に残るのは、今まで通りの世界だけだ。
「魔王は必ず存在する」と誰かが言った。存在してもらわなくては困る。
内側で燃え盛る感情をぶつける矛先が、どうしても必要だった。
魔王には、存在してもらわなくてはならない。魔王がいないと、あいつの氏は何になる?
勇者は僧侶の手を強く握った。彼女の手は、とても温かかった。
このぬくもりだけは、どうしても失ってはいけない。
約束したんだ。あいつは僕に、「頼んだぞ」って言ってくれたんだ。
319: 2013/11/21(木) 22:05:59 ID:u4C4uguc
*
背後からは蜘蛛が迫ってくる。なにが“何が来ても、ここで食い止めますよ”だ。
ユーシャは苦笑いを歯で噛み潰す。
そのまま歯を食いしばって脚を動かし続けた。
三十分ほど走った。脚の感覚はすでになかった。
喉が乾く。顔が熱い。息が苦しい。胸が痛い。
魔法使いが申し訳なさそうにこちらを見ている。
止まったりはしない。背後には蜘蛛もいるし、ふたりで生き残らなくてはならない。
そしてユーシャは確信した。この道が正解だったのだと。ついに光が射したのだ。
それは今までのような青や緑の植物の光ではなく、太陽の輝きだった。
縋るような想いで脚を回す。
背後では蜘蛛がこちらに雷を放つが、どれも当たらない。
ユーシャは魔法使いを抱えながら、転がるように地上へ飛び出した。
そのまま倒れ込む。泥濘んだ地面から、泥が跳ねる。
急いで脚を動かそうとするが、動かない。限界だった。
頭だけを動かし、背後を見る。
蜘蛛は洞窟の外には出てこず、出口ぎりぎりのラインで留まっている。
雷も飛んでこない。
320: 2013/11/21(木) 22:06:43 ID:u4C4uguc
「大丈夫……?」魔法使いが怯えたような顔で言う。
「うん」ユーシャはぼんやりとする視界を縦に揺らした。「もう大丈夫だ」
「俺たちは、大丈夫だ。でも――」と続けたつもりだったが、声が出ていなかった。
目の前が霞んでいく。周りにあるのは緑ばかりだ。きっとここは森の中なのだろう。
腕から力が抜ける。魔法使いが小さく声をあげて、地面に転がる。
たかだか三〇分、全力で走っただけなのに、どうしてこんなに身体が重いんだろう。
ユーシャの視界は狭まっていく。
今の彼を地面に押し付けているのは、肉体的疲労が三分の一ほどを占めていた。
残りは精神的疲労、そして己の非力を呪う思いだった。
それは自信の喪失の始まりでもある。
もう何も考えることができなかった。言葉だけが頭の上で回っている。
理想との不一致。自身への失望。現状への不満。理解の拒絶。
それらは脳を押しつぶすようにユーシャの頭に降ってくる。
彼はそのことに耐え切れなくなり、そのまま目を閉じる。
誰かの声が聞こえた。しかし、意識は途切れるように暗黒に落ちた。
それでも声は止まなかった。
325: 2013/11/22(金) 20:54:17 ID:HIavM5uE
12
遠くに、曲がりくねった大きな壁がある。それはいやに無機質なものに見える。
自分の物事を見る目が変化してしまったからなのかもしれない。
どうでもいい。
“蜘蛛の巣”をあとにして、数十日が経った。戦士はここにいない。
勇者は僧侶と身体を引きずるように歩きながら、
西を目指して歩いていたが、ようやく次の町に辿り着いた。
あの壁の向こうにあるのは、この大陸で二番目に大きい町、第一王国だ。
大きな壁は、近づくに連れてまた大きくなる。
巨視的に見ると力強い壁なのだが、微視的に見ると頼りないものだった。
ところどころが崩れていて、残った箇所のほとんどはツタのような植物で覆われている。
壁を挟んでいるからなのか、町から声は聞こえてこない。
「行こう」と勇者は言い、崩れた箇所から壁の内側に入った。僧侶もあとに続く。
326: 2013/11/22(金) 20:54:59 ID:HIavM5uE
町は荒れていた。まるで怪物が暴れたあとのような悲惨な状況だった。
整列した建物の壁は抉れていたり、剥がれていたりする。
赤く汚れた石畳を突き破って飛び出した木の根が、
ツタといっしょに仲良く壁を這っている。
見上げると、町の中心に黒ずんだ石の城が見える。
そこから魔王が現れても驚かないのではないかと思うほど、不気味な風貌だった。
しかし、空は澄んでいて、町を明るく照らす。
その光は町が平和であると錯覚させる。
「どうしようか?」と僧侶は顎に手をあてた。
「どこかで休もう」と勇者は歩き続ける。
城の周囲には水の張った堀がある。水は濁っている。
赤にも見えるし、緑にも見えるし、灰色にも見える。
川には油が浮いていて、虹色に光っているのかもしれない。
327: 2013/11/22(金) 20:56:11 ID:HIavM5uE
数十分歩いたところで、大きな建物を見つけた。その間、ひとの姿を見なかった。
こんな大きな城下町なのに、ひとは一人もいない。
大きな建物には、わかりやすく宿屋と書いてくれている。
勇者はゆっくりと戸を開き、宿屋と思しき建物に入る。僧侶もそれに続く。
戸が嫌な音で鳴きながら閉まる。音が建物内に反響する。
正面にはカウンターが見える。ひとはいない。
ここだけではなく、町全体にひとの気配はない。
勇者は第二王国の食堂での会話を思い出す。
『数年前は、いちばん大きな国だったみたいだね。
だけど、滅んだ。国民はみんな氏んじゃったって。
疫病については、この国のひとも詳しくは知らないみたい』
僧侶がそう言っていた。第一王国は滅んだ。
みんな氏んだ。なにも知らない。病で国は滅びるのだ。
しかし、道や建物には怪物の爪痕があった。文字通り、爪で岩を抉った痕だ。
なにも病だけで国が氏んだわけではないように見える。
病で弱った国に怪物が攻め込んできたのではないかと勇者は推測した。
ほんとうのことはなにもわからない。
病の正体も、この町の昔の姿も、真実はなにもわからない。
どうでもいい。
328: 2013/11/22(金) 20:58:49 ID:HIavM5uE
そんなことよりも――食堂での会話の内容よりも、
あの時に流れていた空気を思い出してしまう。
あの空間は温かくて、いい匂いがした。
なによりも、あいつが――戦士が隣に座っていた。
それはとても懐かしい記憶のように感じられる。
たったの数十日前のことなのに、遥か遠くで起きた事のように思える。
今、彼はここにいない。何日待っても彼は帰ってこない。
勇敢なひと。彼は僕の友だちで、兄弟で、家族でもあるひと。
勇者の内側に、黒く粘つくものが湧き上がる。
“それ”は沸騰するほどの熱を持っていたり、皮膚を突き破るほどの鋭さを持っている。
内側に湧く“それ”は勇者の目の前に立つ。
“それ”は、まるで勇者自身を鏡に写したような姿をしていた。
どうして救えなかった。どうして救わなかった。
どうしてきみなんかがここに立っている。
どうしてきみみたいなやつが生きている? と“それ”は言う。
違う。仕方のないことなんだ。ほかにどうしようもなかった。
勇者は自分自身と“それ”に言い聞かせる。
いいや、違うね。
きみが囮になって氏ねばほかのふたりは助かった。違うかい?
違わないけれども、僕だって氏にたくなかった。
329: 2013/11/22(金) 21:00:16 ID:HIavM5uE
ふうん。じゃあ、たとえば僧侶が戦士の代わりに“行け”と言ったとしよう。
きみはどうしてた? きっと逃げなかっただろうな。
まるで御伽噺の勇者のように、彼女をかばって勇ましく氏んだだろうな。
氏ねば逃げられるもんな。勇者だとか魔王だとか、
よくわからないたくさんの鎖からさ。きみは弱虫だもんな。
違う。
ほんとうは僧侶とふたりきりになりたかったんじゃないの?
違う。
だから見捨てたんだな。きみの中では、あいつを助けるメリットがないんだよな。
邪魔者がいなくなってすっきりしたな。
あとはきみの願ったとおり、彼女と交わればいい。
違う。違う。……
330: 2013/11/22(金) 21:03:30 ID:HIavM5uE
彼女、嫌がるだろうな。大泣きだ。きみはそんな子に返り討ちに遭うんだろうな。
きみは弱虫で、あの子のことを想ってるんだもんな。
でも、きっと彼女はあいつのことを想ってたんだろうな。
きみは彼女の気持ちを考えたことがないんだもんな。
彼女はお前の何万倍も悲しんでるのに、きみは慰めもしない。
ただ、気付いていないふりをする。あいつの存在を時間で消そうとしてる。
彼女の思いを知ろうともしない。知りたくないもんな。
めんどくさいからな。それのほうが楽だ。
きみは人形。きみの一生は与えられたものを受け取るだけの作業だ。
きみはそれを噛み締めて人間のふりをするんだ。まともな人間のふりをな。
きみはそれにさっき気付いた。
そして形だけの後悔をした。こうやって自分を責めて、許された気になった。
どこからどう見ても人間だ。おめでとう。きみは大きな壁をひとつ乗り越えたんだ。
立派なにんげんに近づいてる。でもきみは知らない。
その大きな壁はきみを守ってくれてたんだ。唯一の救いだった。不思議な壁さ。
でも乗り越えちまった。もう守ってはくれない。振り返っても見えないんだ。
それくらいきみは前に進んだ。進んでしまった。
331: 2013/11/22(金) 21:04:30 ID:HIavM5uE
あーあ。きみはなんで生き残っちまったんだろうな。ああ、勇者だからか?
だったら早くこの糞みたいな世界を救いにいこうぜ。
そしたらきみもあいつのように勇ましく氏んでやればいい。
きっと彼女は悲しまない。きみの氏を見送る人間はいない。
彼女も氏んでるんだ。悲しむわけがない。
みんな氏んじまうんだ。きみが世界を幸せにしてくれないからな。
もしかすると、きみがみんなを頃すのかもな。こんな世界、いらないもんな。
まるで御伽噺の魔王だ。欲望のままに破壊の限りを尽くすんだ。
それはとても楽しいんだろうな。なにも我慢しなくていいんだ。
壊したいものを壊して、頃したいやつを頃すんだ。
きみを止めるものはいない。きみを止められるものはいない。
きみが魔王なんだ。いや、きみは勇者だったか? なんでもいいか。
結局、勇者ってなんなんだろうな。
きみってなんなんだろうな。なんの為の旅なんだろうな。
でも、わかってることはあるよな。きみは立ち止まってはいけない。
これは手に入れる旅じゃない、失う旅だ。もう失っちまったんだもんな。
きっと、これからもっとたくさんのものを失う。
夢、希望、自信、自我、信頼、感情、意思、信念、
思想、信仰、理想、思考、感覚、慈悲、愛、記憶。
みんな失くなるんだ。もちろん彼女も、どっかに行っちまうんだ。
きみのせいで。きみのせいで。全部きみが悪いんだ。きみのせいで、あいつは氏んだ。
きみが勇者なんかに選ばれなければ、あいつはあんなところで氏なずに済んだのに。
そうだろう?
332: 2013/11/22(金) 21:05:36 ID:HIavM5uE
「ねえ、泣かないで」僧侶は言う。「きみは悪くないんだよ。悪いひとは誰もいない」
勇者の意識は暗い水たまりのような曖昧な場所から戻ってきた。
目の前には僧侶が不安げな顔をしながら立っている。でも、滲んでほとんど見えない。
ぱた、ぱた、と頬から落ちるしずくが汚れた木の床で音をたてる。
それしか音は聞こえない。風の音さえしない。町はそれほど静かだった。
「きみは悪くない」僧侶はもう一度そう言って、踵を返して歩き始める。
それは勇者に言い聞かせるというよりも、僧侶自身に言い聞かせているように響いた。
勇者は目を擦りながらあとを追うように歩き出す。
入り口から向かって右側に備え付けられた扉を開くと、廊下があった。
歩くと床が軋んで悲鳴をあげる。そこにはたくさんの絵が飾られていた。
どれも埃をかぶっていて、絵の具の色が薄くなっている。
それでも綺麗な絵であることに違いはなかった。
青空。夕焼け。城。海。砂漠。森林。火山。怪物――
333: 2013/11/22(金) 21:07:09 ID:HIavM5uE
「これ……」勇者は一枚の絵に目を奪われ、足を止める。
長方形の紙に描かれていたのは、この大陸でいちばん最初に訪れた港町で見た、
あの気味の悪い石像だった。山から飛び出した竜の頭――あの石像そのものだった。
しかし、石像とは違い、絵には色が付いている。
山の部分は殆どが緑だが、ところどころに白や赤、茶色などが覗える。
竜の頭の部分は濃い茶色で、目はやはり真っ黒だった。
影が付いているわけではなく、真っ黒に塗りつぶされていた。
これはいったいなんなのだろう。ほんとうに神様なのだろうか。悪魔にしか見えない。
物事を見る目が変わってしまったからそう見えるだけなのだろうか?
「港町で見た石像だね」僧侶は興味なさげに言う。「カミサマだって」
「カミサマ」勇者は反復する。
僧侶はそれを聞いて、苦笑いを浮かべた。「カミサマ、ね」
334: 2013/11/22(金) 21:12:31 ID:HIavM5uE
ふたりはふたたび足を動かし始める。靴と床のぶつかる音だけが響く。
僧侶の歩くスピードはあまり速くない。なので勇者はゆっくりと歩く。
普通に歩いていると、ぶつかってしまう。
いつもの僧侶なら、よくわからないリズムでステップを踏んだりしていた。
「はやく」と手招きをしたり、暢気な声をあげていた。
でも、今は口を閉ざし、一定のリズムで重々しい足音を鳴らすだけだ。
その音は勇者の胸を殴りつけるように内側に響く。
彼女の胸にも戦士の不在が重くのしかかっている。それは間違いなかった。
思っている以上に、彼女は悲愴を感じているのかもしれない。
廊下の左右に一定の間隔で配置された扉を、片っ端から開けて回った。
どの部屋も荒れていた。本棚は倒れているし、
机も刃物で切り裂かれたみたいにバラバラだった。
ベッドも脚が折れていたり、大きな傷があったりした。
怪物が暴れまわった? 病気で頭のおかしくなった人間が暴れた? なにもわからない。
僧侶は戸を開ける。その部屋で一三個目の部屋だった。
今まで見て回った中では、いちばん大きい部屋だ。
それに、わりと小奇麗な部屋だ。埃はすごいが、爪痕のような傷はほとんどない。
四つあるベッドのうちのひとつは脚が一本折れていたが、それ以外は無事だ。
机も椅子も綺麗なものだ。埃はすごいけど。
335: 2013/11/22(金) 21:13:39 ID:HIavM5uE
僧侶はベッドに腰を下ろした。「疲れたね」と勇者に微笑みかける。
「そうだね」と勇者は答える。もうひとつあるはずの声は聞こえてこない。
勇者も隣のベッドに腰を下ろす。それからしばらくは沈黙が続いた。
重くて、痛くて、苦しくて、暗い沈黙だった。
窓の外からは心細い光が射してくる。空は厚い灰色の雲に覆われていた。
雲の隙間から射す細い光は、さらに細くなって、やがて見えなくなる。
「雨が降りそう」僧侶は窓を眺めながら言った。
「あいつ、戻ってきたらびしょ濡れだ。風邪はひかないだろうけど、心配だよね」
勇者も窓を眺めながら、「そうだね」と素っ気ない返答をした。
喉に何かが押し寄せてくる。
「……どうして戻ってこないんだろう」
僧侶は震える息を吐き出し、両手で顔を覆った。
「戻ってこなかったら承知しないって言ったのに」
「……」勇者は黙ってそれを見ているしかなかった。
僧侶は震える声で言う。
「もう何日も経ったのに、なにしてるんだろう、あのばか」
336: 2013/11/22(金) 21:16:23 ID:HIavM5uE
「……ここでまた何日か待とう。あいつは絶対に帰ってくる」
根拠も糞もない幻想だとわかっていても、言わなければならなかった。
そうすることで、自分を必氏に奮い立たせた。
魔王という不完全な存在を探し出して頃してやるまでは、歩かなければならない。
「うん……」僧侶は頷く。
ぱた、ぱた、と頬からこぼれ落ちるしずくが埃塗れの床で小さな音をたてる。
それに答えるように、窓を雨粒が叩き始める。
弱い雨は徐々に強くなり、優しい音も轟音と呼べるようなものに変わる。
ふたりは窓を眺め続けた。雨は止まない。
窓には数え切れないほどの雨粒がへばりついている。
外の景色はほとんど見えない。そこに映るのは部屋の景色だった。
埃をかぶった暗い窓は、鏡のように自身を映し出す。見たくなかった。
勇者はベッドに身を投げた。
しばらくは雨音だけが空間を満たした。
勇者は寝転びながら天井を見つめ、雨音に耳をすませる。
それは暴力的とも言えるほどに激しい音だった。
僧侶はベッドに座りながら、窓を見つめる。窓はなにも見せてくれない。
進むべき道のように、暗くて曖昧だ。
337: 2013/11/22(金) 21:16:58 ID:HIavM5uE
どれくらいの時間が経ったのだろう。雨は徐々に弱まり、やがて途絶えた。
空は真っ黒だった。星は見えないし、月も見当たらない。
もちろん太陽の光もない。海の底のようだった。
どこか遠くで怪物が吠えた。それは夜の闇に飲まれて消える。
「ねえ」と僧侶は言う。「そっちでいっしょに寝てもいいかな」
「うん」と勇者は答えた。断る理由はなかった。
「ごめんね」と彼女は言い、勇者の隣に寝転がった。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
「なんか、空っぽになったみたいで、へんな感じがするの」
「僕もたぶんそんな感じだと思う」と勇者は僧侶に背を向けて言った。
「寂しい?」
「うん」
「わたしも」
「もう、なにがなんなのか、わけがわからない」
「うん……」
「どうしたらいいんだろう」
「わからない」僧侶は勇者の背中に凭れかかった。「わからないよ」
338: 2013/11/22(金) 21:18:20 ID:HIavM5uE
「ごめん。僕だけじゃないよね」
「ううん、いいんだよ。きみはわたしを頼ればいい」
「僕は大丈夫だよ」
「我慢しなくてもいいんだよ。
泣きたいときは泣けばいいし、甘えたいときは甘えればいい」
僧侶は勇者を後ろから抱きしめた。
「……ただ、これだけは覚えていてね。きみは悪くない。悪いひとは誰もいない」
「うん……」
「だから、わたしも我慢しない」僧侶は勇者に巻きつけた腕を緩める。
「ねえ、こっち向いて」
勇者は黙ったまま、ゆっくりと身体を僧侶に向けた。
目と鼻の先に彼女の顔がある。鼻の頭が触れ合いそうだった。
彼女の目は、勇者の目と同じように潤んでいた。顔が赤くて、息が荒い。
勇者は自身の内側で膨張する彼女への想いと
罪悪感に耐え切れなくなって、彼女から目を逸らした。
339: 2013/11/22(金) 21:19:56 ID:HIavM5uE
「わたしね、今からきみにひどいことをするよ」と彼女は言う。
「でも嫌がらないでほしい。ちゃんと応えてほしい。
今日だけはわたしのわがままを聞いてほしい」
「うん」と勇者は頷く。“ひどいこと”とは、なんなのだろう。
今から殴られたり、罵声を浴びせられたりするのだろうか。
べつにどうでもよかった。殺されたっていいと思えた。
「ごめんね」僧侶は勇者を仰向けになるように倒した。そして上に重なり、キスをした。
それはとても柔らかくて優しいものだったが、驚かずにはいられなかった。
勇者の顔は思い出したように真っ赤に染まり始める。
彼女はそれを無視して、唇を貪る。熱い吐息は燻っていた気持ちを昂らせる。
唇の味を確かめるように舌が這う。やがてそれは口内に滑りこんでくる。
勇者も舌でそれに応えた。彼女の舌は柔らかくて熱い。そしてなによりも美味だった。
それは一分ほど続いた。彼女が苦しげに声を漏らし始めたので、勇者は舌を止めた。
僧侶はゆっくりと離れていく。ふたりの唇の間には銀色の橋が架かっている。
彼女はそれを舌で舐めとるようにして切った。
そのまま勇者のズボンの中に手を滑らせた。
細い指で勇者の硬くなったそれを弄り、締め付ける。
340: 2013/11/22(金) 21:21:44 ID:HIavM5uE
勇者は小さく驚きの声を漏らす。
それを聞いた僧侶は満足そうに妖艶な笑みを浮かべ、勇者のそれを優しく撫でた。
勇者は腰の辺りに押し寄せてくる心地よさに、ふたたび小さく声を漏らす。
「どうかな。気持ちいいかな」
勇者は目を伏せて頷いた。
「よかった」彼女は言い、頭を勇者の腰まで持っていった。
そのままズボンからそれを取り出して咥える。そこに絡みつくように舌を這わせる。
覚えたことのない感覚が押し寄せてくる。思わず腰が彼女の喉を突くように跳ねた。
小さなうめき声が聞こえた。
「ごめん」と勇者は小さな声で謝った。
彼女はすこし顔をしかめたあとに微笑み、頭を前後に動かし始める。
勇者のそれは彼女の口内を出入りする。
時々、粘り気のある艶かしい音が聞こえてきたり、
先が歯や頬の内側に擦れたりするのが、勇者のそれをさらに熱くさせた。
「も、もうだめ」と勇者は息を漏らすように言った。
限界だった。腰に気怠い感覚が押し寄せてくる。僧侶は一心不乱にそれを咥える。
唾液が落ちてシーツに染みを作る。
汗まみれの彼女の顔には黒い髪が張り付いている。
341: 2013/11/22(金) 21:23:23 ID:HIavM5uE
まもなく勇者は精を吐き出す。僧侶はそれを口で受け止める。
勇者の腰は小さく跳ねる。それは僧侶の喉を押すような形になる。
彼女はそれから送られてくる粘つく液体を、喉を通して体内に送った。
「ごめん」勇者は呆然と天井を眺めながら言う。
頭と視界がぼんやりとする。腰の辺りだけが水に浮いてるみたいな感覚だ。
「ううん」と彼女は首を振る。「わたしの方こそ、ごめん」
勇者の視界に僧侶が入り込んでくる。顔は赤くて、汗が浮いている。
すこし目線を落とすと、胸がはだけていた。
「さわって」と彼女は言う。
勇者はゆっくりと、その女性的な膨らみに触れる。
「もっと」と彼女は勇者の手を握る。
勇者は彼女の胸をやさしく撫でた。
柔らかい胸は潰れて、もとの形に戻る。彼女は小さく声を漏らす。
まるで壊れ物に触れるような怯えた手つきだったが、
彼女はそれでも悦んでくれたらしい。
342: 2013/11/22(金) 21:28:09 ID:HIavM5uE
僧侶は勇者の下半身を弄る。「また硬くなってるね」
「ごめん」
「嬉しい」
「うん」
「服、脱いで」と彼女は言う。
勇者は言われるままに、寝転んだまま器用に服を脱いだ。
彼女が腰の辺りにまたがっているので、起き上がれない。
改めて自分の身体を眺めてみると、小さな傷が無数にあるのがわかる。
旅で出来た傷がほとんどだが、小さな頃にできた大きな傷もところどころに見える。
小さな頃――思い出そうとしたが、やめた。思い出したら、崩れてしまう。
自分が自分じゃなくなるような気がした。
彼女の身体は綺麗なものだった。大きな傷はひとつもない。
汗で濡れて光る肌は宝石のようだった。
性的に曲線を描く身体は、勇者をさらに熱くさせる。彼女の匂いが理性を崩していく。
彼女は勇者に向かい、倒れこむ。勇者の胸で彼女の胸は潰れる。
勇者は彼女の身体をきつく締め付ける。
激しい心音が伝わってくる。それはとても熱くて、どこか不安定な響きだ。
「あついね」彼女は大きく息を吐き出して言う。「すごくあつい」
「うん」と勇者は頷いた。
343: 2013/11/22(金) 21:28:51 ID:HIavM5uE
やがて僧侶は勇者の胸に手を置き、力を込めて上半身を起こす。
濡れた身体に長い黒髪がへばりついている。
勇者はそっと手を伸ばし、彼女の性器に布越しで触れる。
それでも湿っているのはわかった。彼女は小さく声を漏らす。
手を離すと、指先と糸を引いた。糸は垂れて、勇者の身体に落ちた。
「はずかしい」と彼女は言う。
「僕も恥ずかしかった」
「ごめんね」
彼女は下着をずらし、性器で勇者の硬くなったそれを咥えようとする。
お互いの腰辺りに、雷が走ったような感覚が込み上げてくる。
彼女はゆっくりと、押し付けるようにしながら勇者のそれを飲み込んでいく。
彼女は小さく声を漏らす。スカートで隠れて、繋がっている部分は見えない。
でもたしかに繋がっている。なにか熱い液体が彼女から流れ出てきている。
344: 2013/11/22(金) 21:31:43 ID:HIavM5uE
勇者のそれは彼女で包まれた。締め付けられ、それはさらに熱く硬くなる。
彼女は時々目を閉じて、小さく身体を震わせる。
目には涙が浮かんでいるように見える。
小さな罪悪感を覚えても、もう止まることはなかった。すでに理性は焼き切れていた。
繋がったまま、しばらくはキスをした。手を絡め、舌を絡めた。
最初の一方的なものとは違い、今度はお互いを貪り、
味わうような情熱的なものだった。
身体を震わせ、攀じる姿は、決して今まで見ることのなかった彼女だった。
窓を叩く音が聞こえる。どうでもいい。雨がふたたび降り始めたのだ。どうでもいい。
雨脚はすぐに強まり、叩きつけるような暴力的なものに勢いを変える。
どうでもいい。
345: 2013/11/22(金) 21:32:19 ID:HIavM5uE
「うごくよ」と彼女は言い、小さく腰を前後に振った。艶かしい音が響く。
甘い声が聞こえる。それは大きな雨音にほとんどかき消される。
彼女は目をつむり、指を噛み、快楽と苦痛の滲んだ表情を浮かべる。
耐え切れなくなって、腰がすこし跳ねた。
彼女は大きく身体を震わせ、驚いて可愛らしい声をあげた。
そのまま腰を前後に振り続ける。
「もうだめかも」と勇者は言う。
彼女はそれでも腰を止めない。
目はじっと勇者の方を向いているが、見ているのはべつのものだった。
彼女が見ているのは勇者ではなかった。ほかの誰かだった。
勇者はそれに気づかない。まともにものを考えることができなかった。
346: 2013/11/22(金) 21:34:05 ID:HIavM5uE
「いいよ」と彼女は腰を振り続けながら言う。
「全部わたしの中に出していいよ」
「だ、だめだって」
「いいの。わたしはきみのがほしい。全部ちょうだい」
「でも」
「わたしのこと、嫌い?」
「そんなことない。好きだ」
「嬉しい」彼女は微笑む。「わたしも好きだよ」
荒い息を吐き、快楽に任せて声をあげる。
それは雨音にかき消されることはなかった。
勇者は耐え切れなくなり、彼女の内側に精を放った。
彼女は内側の肉壁にそれがぶつかるのを感じながら、
女としての悦びに大きく身体を震わせた。
ふたりは気を失うように眠りについた。
347: 2013/11/22(金) 21:34:57 ID:HIavM5uE
*
責任なんだよ、と影は言う。
きみは勇者になったということに責任を負わなければならない。
具体的に言うならば、きみは魔王を討たなければならないんだ。
仲間の氏で足を止めてはいけない。悲しいのはわかる。
でもな、きみは人間でもあるが、勇者でもあるんだ。
でも、ほんとうは勇者も魔王も存在しない。
勇者という人間と、魔王という怪物が存在するだけなんだ。
きみは生まれつきの勇者ではない。
私は王ではあるが、御伽噺のように破壊の限りを尽くす、生まれつきの魔王ではない。
誰かがきみを勇者と呼ぶなら、その誰かの中ではきみは勇者だ。
きみが私を魔王と呼ぶなら、きみの中では私は魔王だ。
ほんとうは勇者なんていない。魔王もいない。平和も幸せもない。
全部にせものなんだ。でも誰かの言葉は、いずれきみにとって真実になる。
きみは誰かの言葉を信じ続けて、本物になる。
そして、ほんとうのことを知る。きみのその目で観測するんだ。
きみは世界を救う人間として、真実を知る義務と責任があるんだからな。
私にはきみにそれを伝える責任と義務がある。ひとつの国の王としてね。
348: 2013/11/22(金) 21:36:15 ID:HIavM5uE
*
おかしな夢を見たような気がするが、なにも思い出せない。
身体が重い。昨晩は腰辺りにあった気怠い感覚が、全身を覆っている。
勇者は身体を起こし、とりあえず服を着た。
彼女はすでに部屋にはいなかった。どこに行ったのだろう。
窓の外は気味が悪いほどの快晴だった。射す光は、部屋に舞う埃を映し出す。
勇者は部屋の外に向かう。
戸は嫌な音を鳴らして開いて、また同じような音を鳴らして閉まった。
廊下には、部屋よりは涼しい空気が漂っていた。
そのまま廊下を渡り、カウンターのある玄関に向かった。彼女はいない。誰もいない。
向かいの扉を開く。そこはどうやら食堂のようで、長いテーブルが四つ並んでいた。
椅子はそれの何倍も置いてある。どれも埃まみれだった。
彼女はその椅子のひとつに腰掛けて、なにかの絵を眺めていた。
勇者は隣に歩み寄り、「おはよう」と声をかけた。僧侶も「おはよう」と返す。
「なにを見てるの?」
「あの絵」と僧侶は呟く。
349: 2013/11/22(金) 21:36:54 ID:HIavM5uE
勇者は僧侶の視線の先に目を向ける。
木の壁には、埃をかぶった書きかけの絵があった。
それに描かれていたのは、見知らぬ三人組の姿だった。
女がひとりと、男がふたり。
女性は黒っぽい服を着ていて、膝までくらいの丈の短いスカートを履いている。
杖を持っているところを見ると、この女性は魔術を扱うひとだったのだろうか。
その隣に立つように描かれた男性は、女性と同じくらいの歳に見える。
一八かそこらだろう。短い髪に、腰に携えた剣。
その姿は、どことなく戦士の影を感じる。
でも、顔は全然違う。雰囲気はすこし似ているが、やはり違う。
そこで勇者は既視感を覚える。
それは雲の切れ間から射す光のように弱いものだったが、やがてその雲は晴れる。
僕はこのふたりに会ったことがある、と勇者は確信した。
でも、どこで会った? どこで見た?
思い出せない。思い出してはいけない。頭が記憶を引き出すのを拒んでいる。
雲が晴れても、太陽を拝むことはできない。
350: 2013/11/22(金) 21:37:34 ID:HIavM5uE
絵の中のそのふたりの背後には、背の高い男が立っている。
爽やかな笑顔を浮かべ、ふたりを後ろから見守るように立っている。
背中に大きな剣を背負っているのが印象的だ。
それは、蜘蛛の巣で見た大きな剣を回想させる。
「あの剣」と勇者は思わずこぼした。
「うん」僧侶は立ち上がる。「もしかすると、あのひとなのかもね。骸骨」
いったい、なにがどうなっているんだろう。勇者にはなにもわからなかった。
351: 2013/11/22(金) 21:38:33 ID:HIavM5uE
宿の外には井戸があった。昨日の雨のおかげなのか、水はたっぷりある。
汲み上げて、布に染み込ませて、適当に身体を洗った。
宿の箪笥に布の衣服が入っていたのでそれに着替え、今まで着ていた服も洗った。
信じられないくらいに汚かった。勇者も僧侶も苦笑いをこぼした。
もちろん落ちない汚れもあった。
緑っぽい染みや、赤っぽい染みはどうしても残ってしまう。
血というのはなかなか落ちないものだ。それは呪いのように、永遠に付きまとう。
僧侶も普段の肌の露出が多めの服ではなく、ゆったりとしたローブを着た。
それから袋に詰めていた木の実を胃に収め、
綺麗なのかよくわからない水で喉を潤した。
352: 2013/11/22(金) 21:39:14 ID:HIavM5uE
服が乾くのを待っていても仕方ないので、
この町の玄関口に向かって、あいつが帰ってくるのを待つことにした。
町をふたりで歩く。それはとても久しぶりのことのように思える。
あいつがいなくなってからふたりで歩いた時間が、すべて偽物だったように感じる。
あれは僕ではなかった、と勇者は思う。それに、あれは僧侶ではなかった。
でも、昨日までとはなにかが変わった。胸のわだかまりがほぐれたような感じだ。
彼女もそうなのだろうか。今日は“普段”と同じように見える。
すこしスキップしたりしている。
昨日の夜の出来事で、彼女の苦痛は和らいだのだろうか。
それとも、あれは諦めから来る空回りなのだろうか。
僕は彼女の力になれるのだろうか。もしくは、なれたのだろうか。
なにもわからない。
353: 2013/11/22(金) 21:39:53 ID:HIavM5uE
宿から町の出入口に付くまでは三〇分ほどを要した。
陽光と石畳からの照り返しのおかげで、服はすぐに汗まみれになった。
それに、喉が乾く。井戸の水を汲んでこればよかったなとすこし後悔した。
壁の外は砂漠のようだった。
ゆらゆらと空気が揺れて、海のように小さな粒が広がっている。
雨が降るのは珍しい場所ではないのかと思う。
この砂の山の向こうには小さな森があり、その奥に蜘蛛の巣への出入口がある。
ここまで来るのに大した日にちはかからないはずだ。なのに、あいつは戻ってこない。
354: 2013/11/22(金) 21:41:04 ID:HIavM5uE
結局、その日は夜になってもあいつは戻ってこなかった。
昼の暑さが嘘みたいに思えるほど、夜は冷え込んだ。ふたりは駆け足で宿に戻った。
そして昨夜と同じように、なにかを忘れ去ろうとするように交わった。
貪欲にお互いの身体を求め合った。
そんな日が七日間続いた。毎朝戦士を待ち、毎晩獣のように交わった。
戦士は戻ってこない。身体を重ねている間は、そんなことは忘れられた。
町に来てから八日目の昼、ふたりは第一王国城下町を出た。あいつは戻ってこない。
「いつまでもくよくよしてちゃだめだ」と彼女は言う。
それは勇者に言うというよりも、自分自身に言い聞かせているように耳に響いた。
356: 2013/11/23(土) 20:58:31 ID:BUT6NrDY
13
魔法使いは目を覚ます。目に映るのは、暗い天井だった。ここはどこなのだろう。
身体になにかが被さっている。どうやら、感触で布団らしいことがわかる。
上体をゆっくりと起こし、周囲を見渡す。小さな部屋だ。
正面の壁には扉があり、向かって右側の壁には小さな窓がある。
正方形の室内には、彼女が寝転んでいたベッド以外に、
本棚と小さな机と椅子がひとつずつあるだけだ。
窓からは月光が仄かに射しているだけで、それ以外に光はない。
わたしはどこでどうなったんだっけ。魔法使いは曖昧な記憶の糸を手繰り寄せる。
ユーシャに抱えられて、蜘蛛の巣から出た。でも、ユーシャはそのまま倒れた。
だからわたしが彼を引きずって歩いた。必氏だったのは覚えてる。
あの場所はカマキリみたいな怪物がいて、あのままでは危なかったと思ったから。
でも、結局わたしも倒れたような気がする。エネルギーは空っぽだったし、
身体が自分のものじゃないみたいに重くて硬かった。それから――
それからどうなった? 思い出せない。
誰かが助けてくれた? ずっと眠ってた? そもそも、ここはどこなんだろう?
357: 2013/11/23(土) 21:01:01 ID:BUT6NrDY
魔法使いは小さな光を出現させ、暗い部屋を照らした。
これといったものは家具以外に見当たらない。
足元に目を向けると、椅子に座りながら頭を伏せるようにして
ベッドで眠りこけているユーシャの姿が見えた。
でも、もうひとりの憎たらしい男はいない。
魔法使いはそっと布団から出て、正面の扉を開いた。
扉の先の部屋は明るかった。思わず目を細める。
「おお。起きたんだね」と、なんだか聞き覚えのあるような口調が耳に響く。
でもすこし違う。それに、あの憎たらしい男の爽やかな声ではない。
低くてくたびれた声だった。光に対抗するように目を開けると、
正面には椅子に座っている白衣を着た男がいた。
男はいかにも眠そうな顔をしていた。声に似合ってくたびれた顔だ。
皺も見える。歳は四〇くらいだろうか。
ぼさぼさの髪の毛や無精髭は不潔な印象を与えるが、
白衣は真っ白で、なんだか不釣り合いだった。
358: 2013/11/23(土) 21:03:08 ID:BUT6NrDY
「あなたがわたし達を助けてくれたの?」と魔法使いは素直な疑問を口にした。
「うん。そういうことになるね。嫌だった?」
白衣の男は笑う。自分が不潔に見られていると、わかっているらしかった。
「ううん、ありがとう」魔法使いは頭を下げた。「ところで、ここはどこなの?」
「ここは南の大陸の第二王国城下町の、僕の研究所だよ」
「第二王国」魔法使いは反復する。
「そう。第二王国」白衣の男は顎の髭を撫でて言う。
「いやあ、森に……散歩しに行ったら、
きみ達が倒れてたもんだからびっくりしたよ。なにがあったんだい?」
「ちょっとね」と魔法使いは誤魔化した。あまり話したくない。
「そうかい」と白衣の男はそれ以上食いつかずに引き下がった。
「まあ、見たところ旅をしてるようだし、そりゃあいろいろあるよねえ」
「うん」と魔法使いは頷く。
「……ねえ。もうひとり、知らない?
でっかい剣を背負った背の高い男なんだけど。
憎たらしいくらいに綺麗な顔をしてる奴」
「いいや、知らない」と白衣の男は言う。
「そう」魔法使いは目を閉じた。あいつは戻ってきていない。
359: 2013/11/23(土) 21:06:42 ID:BUT6NrDY
「……まあとにかく、意識が回復したようでよかった。
お連れさん、三日間ずっと心配してたよ。“俺が悪いんだ”って」
「三日間?」魔法使いは首をかしげる。
「うん。きみ、三日間ずっと眠ったままだったからね」
「そうなんだ」それは驚きだ。
「それであの男の子、きみの隣でずっと座ってるんだな。ご飯も食べずに。
なんだかすこし怖かったよ。依存してるって言うのかな、こういうのって?
きみがいないとだめなんだろうか、彼」
「……そんなことはないと思うけど」複雑な気分になった。
想われているのは嬉しいが、そこまでしなくても、と思う。
それとも、大剣使いの不在がユーシャのなにかを変えてしまったのだろうか。
「……まあ、今日はゆっくり眠って、明日の朝にあの子に元気な顔を見せてやってよ」
白衣の男は大きなあくびをした。「僕も眠いんだ。質問は明日だ」
「ごめんなさい」魔法使いは頭を下げる。「助けてくれてありがとう」
「はいはい、また明日聞くよ。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
360: 2013/11/23(土) 21:07:52 ID:BUT6NrDY
魔法使いは振り返り、戸を開く。
ユーシャはさっきと同じ場所で眠っている。
それは今まで見てきた姿と違って、とても弱いものに見えた。
理由はわからないけれど、とても悲しくなった。
そのままユーシャに歩み寄り、ベッドに腰掛けた。
彼はぴくりとも反応しない。相当深い眠りのようだ。
「ばかじゃないの」魔法使いは小さくつぶやいて、彼の頭を撫でた。
どうしようもなく寂しくて、悲しかった。
いつもなら、もうひとつの声があったのに。もとに戻っただけなのに。
憎たらしいやつが消えたのに。全然嬉しくない。ただ悲しかった。
大剣使いのことを想う。彼は、あんな目に遭う必要はなかった。
もっと安全に出口を見つけられる方法があったはずのに。
今更になって後悔が荒波のように押し寄せ、魔法使いの胸をうつ。
でも、もう遅い。
あのときのわたし達には、まともな判断能力がなかったのかもしれない。
仕方のないことだったのだと自分に言い聞かせるが、どうしてもやりきれない。
もしもあのとき、わたしにまともな判断ができていたら?
361: 2013/11/23(土) 21:09:53 ID:BUT6NrDY
魔法使いは頭を振って、濁った思考を脳から消し去る。
それからユーシャをベッドに寝かせ、開いた椅子に座る。
彼もわたしも変わってしまった、と魔法使いは思う。
良くも悪くも、変わってしまったのだ。
わたしは歪んだ彼の内側をもとに戻さなければならない。
傷を埋めなければならない。自信の喪失を防がなければならない。
そんな心配はいらないと思っていたが、そういうわけにはいかなさそうだ。
近しいひとの氏――不在は、彼が得たことのないダメージを精神に与えた。
それに加え、彼は“自分が足を引っ張っている”と思い込んでいるようだった。
それらが彼にとってどれほどの苦痛なのかはわからない。
でも理解しなければならない。
そのためには、まず眠って身体を回復させなければならない。
わたしが元気になることで、彼は安心できるのなら、やらないわけにはいかない。
魔法使いはユーシャの隣に寝転がった。
近くで見ると、彼の頬には涙の跡があるのがわかる。
そのまま目を閉じた。それから弱くなった勇ましい者を抱きしめた。
彼はとても小さかった。怯えきった小動物のようだった。
362: 2013/11/23(土) 21:10:23 ID:BUT6NrDY
*
さほど眠いわけではなかったので、意識はすぐに覚めた。
ユーシャは、まだ隣で眠っている。
魔法使いは窓の外を見る。空はようやく白んできたというところだ。
ベッドから這い出して、大きく伸びをした。
三日間眠っていたのが嘘のように身体が軽かった。
ベッドの正面の扉を開けて、白衣の男がいた部屋に入る。
白衣の男は椅子に座りながら、机に顔を押し付けるようにして眠っていた。
あのまま眠ったのだろうか。放っておいたほうがいいだろうか。
放っておこう。魔法使いは部屋を見渡す。四方の壁は本棚で覆われていた。
背後と向かって右側に備え付けられたふたつの扉の前だけはなにもないが、
窓にはかぶさるようにして本棚が置かれている。
しまわれているのは分厚い本ばかりだ。故郷の村の図書館を思い出す。
昔はユーシャとよく遊びに行ったものだ。
右側の扉を開けた。先にあるのは廊下だった。
結構大きな建物のようだ。研究所と言っていただろうか。
363: 2013/11/23(土) 21:12:07 ID:BUT6NrDY
外に出ようと玄関扉を探していると、白衣を着た女性とすれ違った。
魔法使いはそれを呼び止める。「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
「は、はい? なんでしょう……」白衣の女性はおどおどとしながら言った。
表情にも怯えがにじみ出ている。若い女性だった。
二〇になるかならないかくらいの歳だろう。幸が薄そうな顔立ちだった。
「いや、そんなに怖がらなくても……」魔法使いは呆れて笑った。
「え、ああ、す、すみません……」
「……まあいいわ。ちょっと外の空気を吸いたいんだけど、
外に出るにはどこにいけばいいの?」
「ええと、廊下の突き当りが小さな部屋みたいになってるんですけど……
その部屋の向かって右側に扉があって、そこから外に出られます……」
「わかった。ありがとう」
「は、ひゃい」白衣の女性は頬を赤らめた。
「なにそれ」
364: 2013/11/23(土) 21:16:38 ID:BUT6NrDY
「ああ、ああ、す、すみません。すみません……」
「……ねえ。わたしってそんなに怖い?」
「い、いえ、違うんです!」白衣の女性は高速で首と手を振った。
「あの、わたし、ひとと話すのがすごく苦手で……」
「大変ね」
「そうなんです」白衣の女性は照れ隠しのような笑みを浮かべた。
「……あの、朝早いんですね」
「三日も寝てたから、目が覚めちゃって」
「三日」白衣の女性は目を丸くした。「すごい」
365: 2013/11/23(土) 21:17:15 ID:BUT6NrDY
魔法使いも照れ隠しのような笑みを浮かべた。「あなたも随分早いのね」
「え、あ、ひゃい。あの、わたし、夜は起きていてもやることがないので、
すぐに寝ちゃうんです。本を読むにも集中力がないというか……」
「ふうん。おもしろいのね、あなた」
「へ? そ、そうですかね……そんなこと初めて言われました。えへへ……」
「もし忙しくないんだったら、いっしょに外に行きましょうよ」
「え、あ、ひゃい。ぜひ、お願いします」
「やっぱりおもしろい」魔法使いは微笑んだ。
366: 2013/11/23(土) 21:17:53 ID:BUT6NrDY
外気は冷たい。空から射す陽は、まだ心細い。足元の芝生は湿っている。
大きく息を吸い込んで、肺に綺麗な空気を送った。
すぐ正面には城がある。見上げると、首が痛くなるほどの大きさだ。
「随分と城が近いのね」魔法使いは言う。
「はい。えっと、王様のお願いで、ここで国のために研究をしているんです」
白衣の女性は答えた。
「へえ。どんな研究?」
「そ、それは言えないんです。す、すみません……」
「まあ、それもそうね。国の機密みたいなものだもんね」
「すみません……」
「謝らないで。謝るなら一回でいい」
「ひゃ、ひゃい。す、すみ……」
「謝らないで」
「ひゃい……」白衣の女性は頭を垂れた。
368: 2013/11/23(土) 21:22:29 ID:BUT6NrDY
魔法使いは気付かれないように、ため息を吐く。
「もっと自信を持って話したらどう?」
「……言い訳がましいですが、わかってても、なかなかできないんです。
生まれつきというか、遺伝子に刻み込まれているというか……」
「自信の喪失は人間の崩壊の始まり」と魔法使いは言う。
「へ?」
「誰かが言ってたのを思い出した」
「崩壊、ですか」
「あなたもあいつも、崩れそうなのかもしれないわね」
「あいつ……?」
「わたしといっしょに運ばれてきたやつ」
「あ、ああ、あの男の方……なにがあったんですか?」
367: 2013/11/23(土) 21:20:10 ID:BUT6NrDY
「まあ、いろいろね……」魔法使いは目を伏せた。
「あ、あの、厚かましいかもしれませんが、
わたしにできることがあったらなにか言ってくださいね。
できるだけ協力します……から」
「うん」魔法使いは頷く。「じゃあ早速」
「へ?」
「あなたが落ち込んだとき、なんて声をかけられたら嬉しい?
もしくは、なにをしてもらったら嬉しい?」
「う、嬉しい、ですか?」
白衣の女性は、いかにも困っているという表情を浮かべる。
「うん。今のあいつは、あなたとすこし似てる気がする」
「……いいえ。たぶん、そのひととわたしは違う……と思います」
「どうしてそう思うの?」
「そのひとは、その、崩れそうなんですよね?
だったらそのひとは、まだ崩れていない、と思います。
でもわたしは、もう崩れたあとで、何年も時間をかけて再生して、
ようやく今に至る……みたいな感じなんです。たぶん……」
369: 2013/11/23(土) 21:24:35 ID:BUT6NrDY
(それでこれが>>367の続き)
「ふうん……」詳しいことは訊かないことにする。
自分に自信を持たない性格のおかげで、随分と苦労してきたようだということは
なんとなくわかった。きっと訊かれたくないし、話したくもないだろう。
「あ、ああ、す、すみません。質問の答えでしたよね。ええと……」
「ゆっくりでいいのよ」魔法使いは言う。「自分のペースで進めばいい」
「はい……。あの、わたしが落ち込んだときは、
そういう風に言ってくれると、嬉しい、です」
「そっか」
「あ、あと、声をかけてくれなくても、誰かが隣にいてくれれば、
わたしはそれでいいんです。とても幸せ……だと思います。
そんな経験はないから、わからないんですけど……すみません」
「ううん、ありがとう」魔法使いは微笑んだ。「わたしも頑張ってみる」
「ひゃ、ひゃい……。そう言ってもらえると、わたしは、とても嬉しい、です」
白衣の女性の顔は真っ赤になった。
370: 2013/11/23(土) 21:26:09 ID:BUT6NrDY
「さあ。そろそろ戻りましょうか」魔法使いは踵を返す。「お腹へった」
「そ、そうですね」白衣の女性もあとに続く。
「あなたは食べたの? 朝食」
「い、いえ、まだ、です。いつも先生と食べるので……」
「先生」と魔法使いは感心したように言い、扉を開いてふたたび研究所内に入る。
「先生って、あのぼさぼさの髪で髭を生やしたひと?」
「は、はい。たぶん、そうです」白衣の女性は魔法使いの後ろを歩く。
「ふうん。みんなで食べるんだ」
「はい。あ、でも、みんなって言っても、
ここにはわたしと先生しかいないんですけどね……」
371: 2013/11/23(土) 21:28:32 ID:BUT6NrDY
「ふたりでずっとここで研究してるの?」
「い、いえ。わたしは一年くらい前からで、先生は四、五年くらい前からです」
「なんの研究をしてるの?」
「そ、それは言えません」
「流れで言ってくれると思ったけど、引っかからなかったわね」
「ひ、引っかかりませんよ!」
「おもしろい」
372: 2013/11/23(土) 21:29:25 ID:BUT6NrDY
白衣の男が眠っている部屋に帰ってきた。
どうやらここは彼の――先生の部屋らしい。
白衣の男は未だに机に顔を伏せたままの体勢で眠っていた。
涎で小さな水溜りが出来上がっている。きたない。
ユーシャもまだ起きていない。
魔法使いがこの部屋を出てから二〇分ほどしか経っていないのだから、
当たり前といえば当たり前なのかもしれない。空から射す陽は頼りない。
「ふたりとも、起こさなくていいの?」と魔法使いは言う。
「はい」と白衣の女性は微笑む。
「先生は時間になったら起きますから。
そ、それに、あの男のひとは疲れているでしょうし」
「そっか」
373: 2013/11/23(土) 21:30:09 ID:BUT6NrDY
「え、ええと、なのでわたしは朝ごはんを作ってきます。
あ、いえ、作るって言っても、
買ってきたパンと卵を焼くだけなんですけどね……」
「へえ。わたしももらっていい?」
「はい。もちろん」
「ありがとう」
白衣の女性は頬を赤らめた。「ひゃ、ひゃい」
「あいつの分もいい?」
「もちろんです」
「多めでお願いね」魔法使いは照れ隠しに笑みを浮かべる。
「あいつもわたしも三日間なにも食べてないの。
空腹を通り越してお腹が痛いわ」
「ふふ」白衣の女性は微笑む。
「じゃあ、すぐに戻ってきますので、ま、待っててくださいね」
そう言ってばたばたと慌ただしく部屋を出ていった。
374: 2013/11/23(土) 21:32:44 ID:BUT6NrDY
魔法使いはユーシャの眠る隣の部屋に入り、ゆっくりと扉を閉じた。
彼は未だに眠っている。氏んだようにベッドに埋もれている。
「ねえ、起きて」魔法使いはユーシャを揺する。
起こす必要はなかったが、自分が目覚めたということを早く知らせてあげたかった。
ユーシャは目を閉じたまま、すこし顔をしかめた。
今度は「起きて」と耳元で囁く。ユーシャは寝返りをうって、頭をあげた。
細く開かれた目は魔法使いを捉える。その瞬間、大きく見開かれた。
幽霊でも見たみたいな反応だった。
「おはよう」と魔法使いは言う。
ユーシャは、まだ信じられないというような表情で魔法使いを見つめている。
魔法使いは「なに、じろじろ見て。はずかしいじゃないの」と笑顔で言った。
「……起きた」ユーシャは力が抜けたようで、そのままベッドに倒れ込んだ。
「よかった。ほんとうによかった……」
375: 2013/11/23(土) 21:34:49 ID:BUT6NrDY
「なに、寂しかった?」
魔法使いはからかうように言い、ユーシャの隣に座った。
「うん……寂しかったし、怖かった」
「そっか」
「このまま起きなかったらどうしようって、
ほんとうに怖かったんだ……あいつも戻ってこないし」
ユーシャは魔法使いの隣に座り直し、頭を抱えた。
「でも、お前が起きてくれてほんとうによかった……」
「泣くな」と魔法使いは言い、ユーシャの頭に手を置いた。
「……ごめんな。俺、なにもできなかった。
ふたりはあんなに頑張ってくれたのに……」
ユーシャは手で顔を覆う。「俺が、俺だけが悪いのに……」
「あんたは悪くない」
「違う……俺が悪いんだ。あいつが帰ってこないのも、
お前がずっと起きなかったのも、ぜんぶ、俺が役立たずだから……」
376: 2013/11/23(土) 21:36:28 ID:BUT6NrDY
「あんたは悪くない」と魔法使いはもう一度言う。
「だから、自信をなくしちゃだめ。あいつも言ってたじゃないの」
ユーシャはすこし間を開けてから、「うん」と頷く。なにかを思い出したようだ。
「ありがとう……。俺、恨まれてるんじゃないかって、怖くて……」
「誰もあんたを恨んでなんかいないわ。あいつだってそうよ」
「うん……でもあいつ、戻ってこないんだ。約束したのに。
あれから毎日あいつが夢に出てきて俺に言うんだ……
助けてくれ、助けてくれ、私を救ってください、って…….。
でも、なにもできないんだ……。
俺は夢の中ですら自分の思い描くように動けないんだ……。
そしたらそこで夢が途切れて……目が覚めたらお前はまだ眠ってて……
俺はひとりで……もう、なにがなんなのか……」
「……」魔法使いはなにも言えなかった。
真っ先に今の彼に対して抱いた感情は同情や憐れみではなく、恐怖だった。
別人だ、と魔法使いは思った。今の彼は彼じゃない。それがとても恐ろしく思えた。
情けなくて弱々しいその姿を見ていると、自分も飲み込まれてしまいそうになる。
「わからないんだ。どうしたらいいのかが、わからないんだ……。
ふたりの力になりたいのに、なにもできないんだ……」
377: 2013/11/23(土) 21:38:40 ID:BUT6NrDY
魔法使いは「ふう」と息を吐き出し、「ご飯」と呟く。
「まずはご飯をお腹いっぱい食べる。それから考える。
今のあんたはお腹が減ってて、ちょっとおかしいだけ。
お腹いっぱい食べたら、わたしといっしょに次のことを考えましょう。
だから、絶対に立ち止まっちゃだめ。わたしが支えるから、いっしょに歩くのよ」
「うん……ありがとう」
「……あんたのことを心配してるひとがいるってことを忘れないで。
わたしもあいつも、あんたを恨んでなんかいない。あんたはひとりじゃないのよ」
ユーシャは顔を覆ったまま、無言で何度も頷いた。
「だから泣くな」と魔法使いは言い、ユーシャの手を顔から引き剥がす。
彼の顔は涙と鼻水でくしゃくしゃだった。
そして片側の頬をつねりながら、「笑え」と続ける。
ユーシャは魔法使いの目を見ながら、ぼろぼろと涙をこぼした。
彼の目には光が灯っていなかった。
深海をそのまま写したような、先の見通せない暗闇だった。
吸い込まれそうになる黒さで、魅力があるほどの闇だ。
378: 2013/11/23(土) 21:39:42 ID:BUT6NrDY
「泣いた顔も悪くないけど」と魔法使いは言い、彼の両側の頬をつねって引っ張った。
「わたしはあんたの笑った顔が好き」
「……なんだよ、それ」
「あんたが悲しんだらわたしも悲しい。でも喜んだら嬉しい。力が出る。
だから、わたしの力になって。わたしを助けて。いま、わたしはすごく悲しい」
ユーシャは頷く。「ごめんな」
そして結局、笑わずにふたたび泣き崩れた。
魔法使いは頬の手を離し、ベッドから立ち上がる。
そして隣の部屋への扉の前で立ち止まり、ユーシャに顔を向けて言う。
「落ち着いたら、こっちに来てね。待ってるから。いっしょにご飯を食べよう」
彼は顔を手で覆い、何度も頷いた。
魔法使いは寂しげな目でそれを見送り、白衣の男が眠る隣の部屋へ引き返した。
379: 2013/11/23(土) 21:40:14 ID:BUT6NrDY
*
そこで真っ先に感じたのは、鼻をくすぐる芳しい香りだった。
先生――白衣の男の部屋に、小さな丸いテーブルが運ばれてきていた。
その周りには、椅子が三つ並べられている。
そこらから適当にかき集めたらしく、椅子には統一性がない。高さもバラバラだ。
テーブルには山盛りのパンと、山盛りの目玉焼きの乗った皿が置かれている。
しかし、白衣の女性の姿は見当たらなかった。
十分な量に見えるが、まだ焼きにいったのだろうか。
どうでもいい。
380: 2013/11/23(土) 21:41:34 ID:BUT6NrDY
今は彼の――ユーシャのことを考える。
わたしになにができる? どうしたら彼の自信を取り戻すことができる?
どうしたら彼自身を取り戻せる? どうしたらもう一度歩くことができる?
大剣使いの不在、わたしに無理をさせたこと、
そして自分はなにもできなかったこと。
それらが彼に罪の意識を背負わせている。
特に、“彼自身が無力であるという思い込み”がそうさせているように見える。
彼は無力ではない、と魔法使いは自身に言い聞かせる。
そう、彼は役立たずなんかじゃない。
でも彼は無力な自身へ失望している。それ自体は悪いことではない。
でも、彼にとってそれは氏に等しい出来事だった。
世界がひっくり返るのと同じことだった。勇ましい者は壊れて、氏んでしまった。
今は抜け殻が感情だけを吐き出しながら呼吸をしている。
魔法使いが好いていた彼は、今はいない。
でも取り戻すことができるはずだ、と魔法使いは自分を奮いたたせる。
しかし、方法がわからない。伝えたいことがいっぱいあるのに、
どうやってそれを正しく伝えられるのかがわからない。
わたしはどうすればいい?
381: 2013/11/23(土) 21:42:24 ID:BUT6NrDY
「あ、あの、大丈夫ですか? ご飯、出来ましたよ」
魔法使いはゆっくりと顔を上げる。
そこでは白衣の女性が、おどおどとした顔でこちらを不安げに見守っている。
手には四本のフォークと、水の入ったコップを持っていた。
「うん」魔法使いは椅子に腰掛ける。軋んだ音が響く。
「ううん……やっぱり、大丈夫じゃないかも」
「あの男の方……どうでした?」
白衣の女性はフォークとコップをテーブルに置いて、魔法使いの隣の椅子に座った。
「なんか、別人みたいで怖かった。想像以上」
「普段は、その、どんなひとなんですか?」
魔法使いは目を瞑る。瞼の裏に、彼の姿が映る。
「他人想いで、優しい。なんだか在り来りに聞こえるけれど、ほんとうなの。
今みたいに弱くもない。ちょっと他人に感情移入し過ぎみたいなところはあるけれどね」
「いいひとなんですね。……でも、それがどうしてあんなふうに?」
382: 2013/11/23(土) 21:43:52 ID:BUT6NrDY
「たぶん、わたしが起きなかったことと、
あとひとりの仲間が戻ってこないことに責任を感じてる……と思う。
それと、自分はなにもできなかったって思い込んでるみたい」
「責任」
「なにも悪くないのに。ばかなのよ、あいつ」
「……わたしにはすこしわかるような気がします、そのひとの気持ち」
「……あなたとあいつは、根っこの部分が似てるのかもね」
「いや、でも、え、えっと、わたしの場合は大したことではないんです。
なにをやってもうまくいかないから、なにもできなくなった、
みたいな感じ……なんだと思います。
なにをやっても無駄だって、どうせ失敗するんだからって……
でも、しばらくしたら自分がすごく情けなく見えて……それで……」
「失礼なことを訊くけれど、あなたはどうやって立ち直った?」
「先生に助けてもらったんです」と白衣の女性は言う。
「そんなことに気づくまで、ばかみたいに時間をかけたんです……
でもそれは無駄な時間でした。何年かはひとりで考えてたんですけど、
どうしたらいいかは結局わからなかった……。
頼れるひとはいないし、考えても無駄だって、どうせだめなんだって思い始めて……
そしたら先生が……わたしをここに連れてきてくれて……」
「そっか」
383: 2013/11/23(土) 21:44:24 ID:BUT6NrDY
「で、でも、あの男の方にはあなたがいるし、それに、
もともと強いひとだから、絶対に大丈夫です」
「うん」魔法使いは微笑んだ。「ありがとう」
「い、いえ、こちらこそ、ありがとうございます……
結局わたしの話ばっかりで……でも黙って聞いてもらって……すみません」
「謝らないで」
「……はい」白衣の女性は顔を伏せる。
「……あの、このお皿、向こうに持って行って、ふたりで食べてください」
「ううん、いいのよ。待ってればあいつは来るわ」
384: 2013/11/23(土) 21:46:16 ID:BUT6NrDY
「でも、わたしがいると話がしにくいんじゃないですか?
ふたりだと気兼ねなく話せるでしょうし……先生もそろそろ起きます。
それに、あのひとの隣にいてあげたほうが……」
「……うん」
「わ、わたしは、誰かが隣にいてくれると、とても嬉しいし、安心します」
「わかった」魔法使いはパンの乗った皿を持ち上げた。「ありがとうね」
「なんでも言ってくださいね。わたしにできることはこれくらいしかないですけど……」
白衣の女性は目玉焼きの乗った皿を持ち上げる。
その上にフォークをふたつ置いて、隣の部屋への戸を開けた。
385: 2013/11/23(土) 21:47:07 ID:BUT6NrDY
ふたりは部屋に入る。
ユーシャは暗い部屋で顔を覆ったまま、壊れたおもちゃみたいに頷いていた。
魔法使いは彼に近寄り、言う。
「ご飯。あの子が作ってくれたから、いっしょに食べよう」
「ありがとう……」ユーシャは大きく頷いた。
「机の上に置いておきますね。食べきれなかったら残してください。
ちょっと張り切って作りすぎちゃったんで……」
白衣の女性は机の上に皿をそっと置いた。「じゃあ、わたしはこれで……」
「ありがとうね」と魔法使いは言い、机に皿を置く。
白衣の女性は照れくさそうに微笑み、部屋をあとにした。
386: 2013/11/23(土) 21:50:10 ID:BUT6NrDY
魔法使いはベッドの前まで机を引っ張り、彼の隣に腰掛ける。
軋んだ音が鳴る。部屋に響く音はそれだけだ。
そしてパンをひとつ掴んで彼に差し出す。「ちょっとは落ち着いた?」
「うん」
「じゃあ食べましょう」
「うん……でも、もうちょっと待ってほしい」
ユーシャは手で顔全体を拭った。
「うん。待ってる。ゆっくりでいいのよ」
「……お前に優しくされると、よくわからないけど涙が止まらなくなるから、
今だけはなにも言わないでほしい……」彼はふたたび顔を覆った。「ごめんな」
「わかった」魔法使いは、まだ温かいパンを皿に置き直した。
「ありがとう……」
387: 2013/11/23(土) 21:51:29 ID:BUT6NrDY
沈黙が訪れる。息苦しい沈黙ではないが、決して心地よいものでもなかった。
先程よりは空気が和らいでいて、耐えられないということはない。
窓からは優しい陽が差し込んでくる。
小さな鳥が窓辺でさえずり、どこかからひとの声が聞こえてくる。
がちゃがちゃと、耳障りな音が遠くから微かに、でもしっかりと空気を揺らす。
この町はひとで溢れている。第一王国のように、病気の被害には遭っていないようだ。
ここでならゆっくりとできる。安心して眠ることができる。
今まで安心して宿で眠ることができていたのは、
とても幸せだったのだということを今更になって思う。
「俺さ」とユーシャは口を開く。
「あの……えっと、お前がいてくれてほんとうによかったと思ってる」
「わたしも、あんたがいてよかったと思ってる」
「俺ひとりだとなにもできないんだ」
「わたしもよ」
「でも、もうこんなことにならないように頑張るから、強くなるからさ、その……
どこにもいかないでほしい。隣にいて、いっしょに歩いてほしい。
俺、お前がいないとほんとうにだめなんだ……」
388: 2013/11/23(土) 21:52:05 ID:BUT6NrDY
「わたしもあんたが隣にいないと嫌。だから、わたしはどこにもいかない。
それに、約束したじゃないの、ずっと昔に」
「……そうだな。そうだったよな……」
「思い出してくれた?」
「うん。あの丘の天辺の木に、ちっちゃいナイフで書いたよな……。思い出した……」
「思い出してくれたのはいいんだけど、なんか……はずかしい」
「恥ずかしげもなくそんな約束してたんだな、俺たち。ちょっと恥ずかしい……」
「あんたはそれを忘れるくらい図太いやつだったのに、今は昔のわたしみたいじゃないの」
「そうかもな……」
「そういうところもそっくり。今のあんたは、あんたの言う弱虫そのものね」
「いいんだ、これで……」ユーシャは自身の大きな手のひらを見つめて言う。
「俺は、ゼロからやり直すんだ……」
「ゼロなんかじゃない」魔法使いはユーシャの手を握る。「わたしがいるじゃないの」
389: 2013/11/23(土) 21:53:29 ID:BUT6NrDY
「……そうだよな」ユーシャは手を強く握り返した。「ありがとう」
「何回でも引きずり出してやる」
「いいや、もうこんな事にはならない。今度は俺がお前を守る番だ」
「それでいい」と魔法使いは微笑む。
「もう弱気になっちゃだめよ。あいつも、戻ってくるって約束したじゃないの。
どうせそのうち、『いい匂いがしますねえ』とか言って戻ってくるわよ」
「なんだそりゃ」ユーシャは微笑んだ。
涙と鼻水まみれのが乾いた顔は、それはひどいものだった。
「それに、指輪も渡したままだし、お金も渡してない」
「そうだな……」
390: 2013/11/23(土) 21:54:02 ID:BUT6NrDY
「でも、あいつは放っていても戻ってくる。信じていればいいのよ。
だから今はわたし達が元気にならなきゃ」
魔法使いはパンを掴んでユーシャに差し出す。「でしょう?」
「うん。でも、ちょっと待ってくれ」
「なに。涙も鼻水も、あとで拭けばいいじゃないの。
今更はずかしがることもないでしょうに」
「いや、そうじゃなくて、水がほしい」ユーシャは歯を見せて笑う。
「喉がさ、からからなんだ。このままパンを食べたら喉に詰まって氏んじまう」
「それもそうね」魔法使いは、すでに冷めたパンを皿に置き直した。
391: 2013/11/23(土) 21:54:59 ID:BUT6NrDY
*
白衣の女性から水を貰い、差し出されたパンと卵をぜんぶ頬張った。
一口食べると、忘れていた空腹感が湯水のように湧き上がってきた。
冷めたパンと卵は非常に美味だった。
皿が綺麗になる頃には、胃を満たしていた空腹感は嘘みたいに消えてなくなった。
損なわれかけていた機能が回復する。思考も聴覚も視覚も、
元通りかそれ以上に研ぎ澄ませれているような気分だ。
目を凝らさなくても、耳を澄まさなくてもわかる。
町は明るく、賑わっている。たくさんの声が聞える。
しかしこの部屋だけは、喧騒から除外されたように穏やかだった。
とても居心地がいい。隣にはふたたび前を見始めた彼がいる。
魔法使いが好いていた、以前の彼に近い今の彼がいる。
392: 2013/11/23(土) 21:55:46 ID:BUT6NrDY
ユーシャは窓から射す光の眩しさに目を細め、手で顔を拭う。
それを遮るように、「行こう」と魔法使いは言う。
「あんた、あのふたりに迷惑かけたんでしょ? どうせ」
「覚えてないけど、たぶん……」
「いっしょに謝って、お礼を言いにいきましょう」
「うん」ユーシャはベッドから腰を上げる。魔法使いも食器を持ってあとに続く。
扉を開き、白衣の男と女の待つ部屋に戻る。
ふたりは椅子に座りながらパンをもそもそと頬張っていた。
「あ、お、おはようございます」白衣の女性はユーシャに向かって小さく一瞥した。
「おはよう」とユーシャは返す。「ご飯、ありがとう。すごく美味しかった」
「そ、そうですか。それはよかった……です」
「それと、ごめん」ユーシャは頭を下げる。「俺、ひどいことをしたと思うんだ」
「い、いえ、そんなことはないですよ……元気になってくれてよかったです」
「あ、ありがとう……」
「は、ひゃい。ど、どうも……。えへへ……」
393: 2013/11/23(土) 21:56:46 ID:BUT6NrDY
「これがあれか。恋の始まりってやつか。
ようやく僕の助手にも春が来たわけだ。なんだか微笑ましいな」
白衣の男は笑い、パンを齧る。「嫉妬しちゃうくらいに羨ましいな、ねえ?」
「なに、わたしに言ってるの?」と魔法使い。
空の皿を机に置き、空いた椅子に腰掛ける。
「きみ以外に誰がいるんだ」
「さあ」
「うかうかしてると僕の助手が彼を虜にしてしまうぞ」
「ほんとうね」
「な、なに言ってるんですか先生!」
白衣の女性は真っ赤な顔で声を張り上げた。「べつにそんなんじゃ……」
「なんだ。きみはずっと彼のことを心配してたじゃないか。
追い払われて悲しんでたじゃないか」
「せ、先生!」
「だってさ」と魔法使いは言う。「ごめんなさい」とユーシャは頭を下げた。
394: 2013/11/23(土) 21:57:31 ID:BUT6NrDY
「その“ごめんなさい”は僕の助手の好意への返答なのかな?」
「え? いや、あの、追い払って悲しませちゃったみたいだし……」
「“みたい”って、覚えてないのかい?」
「……ごめん」ユーシャは白衣の女性に向かって深く頭を下げた。
「ほんとうにごめん。俺、ぼーっとしてて……」
「い、いえ、いいんですよ」
「どうやら彼は、すでに彼女の虜らしいぞ」白衣の男は笑う。
「わ、わかってますよ」
「きみが落ち込んでる間、彼はずっと彼女のことを考えてたんだな。羨ましいな?」
「そうですね……」白衣の女性は言ってから、はっとして口を塞いだ。
「ち、違いますよ? 違いますからね?」
395: 2013/11/23(土) 21:58:08 ID:BUT6NrDY
「俺たち、ばかにされてる?」ユーシャは言う。
「すくなくとも男の方には悪意があるように見えるけど、
彼女にはそういう意思はないと思う。
悪意のない、純粋な感想が嫌味に聞こえちゃうこともある。たぶん」
「なんかへんな感じだ」
「村でからかわれるのはある程度慣れてるけど、こういうのはなかったわね」
魔法使いは微笑む。「やっぱりおもしろい」
396: 2013/11/23(土) 21:59:39 ID:BUT6NrDY
朝食を終え、魔法使いは風呂を借りて身体を洗った。
彼女が上がってから、ユーシャも嫌々ながら風呂に身を沈めた。
汚れといっしょに、常にまとっていた緊張感のようなものが流れ落ちていく。
それはすべてを最初からやり直すための儀式のように思える。
まずは腹を満たして、身を清めることから始める。もう一度ここから始めるのだ。
それから服を借りて、それに着替えた。男物の服からは煙草の匂いがした。
白衣の男のものだというのはすぐにわかった。彼は煙草が好きなのだろうか。
女物の服からはいい匂いがした。肌色のローブのような服だった。
ふたりは白衣の男の部屋へ戻る。
部屋には白衣の男女がぼーっとしながら座っていた。
男が突っ伏していた机を見てみると、そこには灰皿があった。山盛りの煙草も。
397: 2013/11/23(土) 22:00:23 ID:BUT6NrDY
「ああ、戻ったんだね」白衣の男は興味なさげに言う。
「失礼かもしれないけど、研究とやらはしなくていいの?」と魔法使い。
「まあ、二、三日くらいは休んでも罰はあたらないんじゃないかな」
白衣の男は笑う。「まあ、もし良かったらあと二、三日はゆっくりしていっていいよ」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
「あの、服、洗っておきましょうか?」と白衣の女性が控えめに身を乗り出す。
「いいや、大丈夫」ユーシャは言う。「これ以上は迷惑をかけられない」
「そ、そうですか……」
「洗わせてやってくれよ」と白衣の男が笑う。
「この子、きみ達の役に立ちたいんだ」
「じゃあ、わたしはお願いしようかな。あんたは?」
「ええ? じゃあ、俺もお願いします……」
白衣の女性の表情は陰から陽だまりに出たみたいに晴れた。
「じゃ、じゃあ、洗ってきます」そしてそのまま部屋を飛び出していった。
微かに鼻歌が聞こえた。
398: 2013/11/23(土) 22:01:45 ID:BUT6NrDY
「おもしろい子だろう?」
「たしかに」ユーシャと魔法使いは頷き、高さがまちまちの椅子に腰掛ける。
「センシティヴでイノセントなんだ、彼女。普段はスタティックでとてもフィーブルだ。
怯えきった小動物みたいな感じだ。昨日までのきみと同じさ。
でも今の彼女はちょっと違う。今のきみと同じだ。きみのおかげでな」
白衣の男はポケットから煙草を取り出し、小さな魔術の炎で火を付けた。
立ち上る煙が不規則に揺れて、空気に溶け込んでいく。
魔法使いは煙草の香りは嫌いではなかったが、
煙が目に染みるので、煙草の存在自体は好きではなかった。
「さて、じゃあ、ちょっと質問してもいいかな?」と彼は煙草を咥えたまま言う。
先ほどまでとはすこし雰囲気が違った。
ほぐれた糸が張り詰めたみたいに空気が強張っている。
「どうぞ」
「きみ達はどうしてあんなところで倒れていた?」
ユーシャと魔法使いは蜘蛛の巣での出来事を簡単に説明する。
あまり思い出したくなかったが、誰かに聞いてもらいたいのも事実だった。
しかし、それはユーシャにとっては決して簡単なことではなかった。
話しているうちに表情が曇っていくのがわかったが、話を止めはしなかった。
前に進もうとしているというのは感じ取れた。忘れてはいけない出来事なのだから。
399: 2013/11/23(土) 22:03:21 ID:BUT6NrDY
「なるほどねえ」白衣の男は煙草の火をもみ消し、新たな煙草に火を付ける。
「それで、もうひとりが帰ってきてないんだな」
「……」ユーシャは頷く。忘れかけていたなにかが内側に湧いてくる。
「まあいいや。その話は終わりにしよう。じゃあ次だ。きみ達はどうして旅をしている?」
「……」
「言えないような理由で旅をしているのかい?」
「言いたくない、ばかみたいな理由で旅をしてるの」と魔法使いは言う。
そんなことのために大剣使いは命を張ったというのが、可哀想で仕方なく思えてくる。
「ふうん。僕はとても気になるな、その理由とやらが」
すこし間を開けてからユーシャが答える。「魔王を倒すんだ」
400: 2013/11/23(土) 22:05:02 ID:BUT6NrDY
「魔王?」と白衣の男は眉を顰めて言う。
二、三秒、目を瞬かせたあと、ひとりで納得したように頷く。
「そうか、魔王。魔王か……」
「居るのかもわからないようなもののために、ばかみたいに長い旅をしてるんだ」
「ほんとうにね。べつに信じてもらえなくてもいいわ」
しばしの沈黙が訪れる。
嘲るような視線と空気が皮膚を刺す。もう慣れたものだ。
白衣の男は長い息と煙を吐き出して、口を開く。
「いるよ。魔王は、いる。存在するんだよ」
401: 2013/11/23(土) 22:06:04 ID:BUT6NrDY
それは今までにない反応だったので、思わずふたりは目を見開いて、顔を見合わせた。
「今、なんて言った?」とユーシャが言う。
「魔王は存在する。今この時に、実在している」
「あなた、なにか知ってるの?」魔法使いが椅子から立ち上がる。
旅に出てから、唯一の手がかりになりそうだった。
今までなんの手がかりもなくここまで来たというのが阿呆らしくなる。
「……僕は魔王を実際に見たことはないけれど、王様は見たって言ってるよ」
「王様が?」
「うん。ひとみたいな姿だったってさ」
「どこで魔王を見たの?」
「さあ。それは僕にはわからない。
でも王様は、ほか三人の国王といっしょだったというね」
「ほか三人って、第一王国と、西と東の国王?」
「それ以外に誰がいる」
「じゃあ、西の国王も魔王を見たのね?」
「この国の王様の話を信じると仮定した場合はね。
まあ、ここは信じると仮定して話を進めようじゃないか。
それで、どうして西の国王が話に出てくるんだ?」
402: 2013/11/23(土) 22:06:49 ID:BUT6NrDY
「俺たち、西の国王に魔王を討てって言われたんだ」ユーシャは言う。
「西の国王か……なるほど」白衣の男は意味有りげに頷く。
「それだけ? ほかになにか言われなかった?」
「……“あれ”の動かし方を聞き出せって。
でも、“あれ”ってのがなんなのかがわからないんだ」
「“あれ”ねえ……。魔王に訊けというんだから、魔王と関連するものなんだろうな」
「なにか知ってるのなら、教えてほしい」
「ひとつだけ心当たりがあるかな」
「なんだ?」
「魔王は東、西、南の三つの大陸に、ひとつずつの贈り物をしたんだ」
「贈り物」と復唱し、ユーシャは首を傾げる。
「そう。それが何なのか、僕にはさっぱりわからないけどね。
きっとろくなもんじゃない。
たぶん西の国王が言う“あれ”ってのは、贈り物のことじゃないかな」
「ふうん……」
403: 2013/11/23(土) 22:08:53 ID:BUT6NrDY
「それにしても西の国王は酷いひとだな。なにも伝えずにきみ達を送り出すなんて。
ここの王様も大概だけど、これくらいは教えてくれたよ」
「そういえば」と魔法使いは思い出したように言う。
「あなた、ここでなんの研究をしているの? 王様から直接命令されたんでしょう?」
「あんまり言いたくないけれど、それじゃあフェアじゃないからね。言うとするよ」
白衣の男は二本目の煙草を灰皿に置いた。
「僕は、怪物の研究をしているんだ。正確に言うと、怪物を操る研究をね」
「怪物を操る? それ、王様が言ったの?」
「そうなんだ。怪物を操る手段がわかったところで、きっとろくなことにならないよ。
間違いなく王様はろくでもないことを目論んでる」
「たしかに、怪物を操ってできる事といえば、
わたしには他国を襲撃するくらいしか思いつかないわ」
まさかペット代わりに愛でるわけではあるまい。
404: 2013/11/23(土) 22:09:45 ID:BUT6NrDY
「だろうね。もしくは他国からの攻撃の抑止力にするとか。
たぶんそれはないだろうけど。
力に貪欲な人間が力を手に入れても、それは守るための力にはならない。
この国の王も御伽噺の魔王も、僕から見れば同じだ。
まあ何にしろ、僕はこの研究を止めることはできない。
僕は逆らえない。氏にたくないからね。
権力ってのは厄介なものだ。弱いものを思いのままに動かせるんだ。
チェスの駒みたいに、なんでも思い通りだ。さぞかし楽しいんだろうな。羨ましいよ。
そうそう、きみには“森へ散歩しに行ってきみ達を見つけた”とか、
ばかみたいなことを言ったけれど、あれは嘘だ。
僕らはあの森に怪物を捕まえに行ったんだ。
研究の成果を試すには実物を使うのがいちばんだからな」
「ふうん……それで、怪物を操る方法は見つかりそうなの?」
405: 2013/11/23(土) 22:10:48 ID:BUT6NrDY
「全然」白衣の男は笑顔で肩を落とした。
「もう五年くらいになるのにな、さっぱりだよ。
脳に電流を流しても、頭蓋の内側を撹拌しても、
薬品に一週間漬け込んでも、操ることは出来なかった。
このまま見つからないほうがいいのかもしれないな。
でも、見つからなかったら僕は殺されるのかもしれない。
なんと言っても、王様からいろんなことを聞きすぎてしまった」
「わたし達、騙されて利用されてるだけなのかもね」
「だろうね。間違いなく、大事なことを隠されてる。でもやらなきゃだめなんだな。
王様とその他の人間、糞みたいなシステムだ。なにが平等だ。
お偉いさんは綺麗なことばっかり言ってるけど、結局僕らは
使い捨てられる無数の駒のひとつなんだよな。白黒の盤上で踊らされているんだ」
「そうね」
「……」ユーシャは黙っている。
406: 2013/11/23(土) 22:11:49 ID:BUT6NrDY
「……ああ、すまん。つい熱くなってしまった」
白衣の男は三本目の煙草に火を付けた。
「なにか、ほかに聞きたいことはあるかな? なんでもいい」
「魔王の居場所、知らない?」魔法使いは言う。
「知らないな。御伽噺だと北の大陸から来たって言われてるけど、それ以外はなにも」
「そっか」
「ほんとうに魔王を倒しに行くのかい?」
魔法使いはユーシャの方をちらりと見る。
彼は言う。「行くよ。決めたんだ。贈り物とやらのことを聞き出して、平和に暮らすんだ」
「平和、ね」白衣の男は笑う。「期待してるよ、勇者様」
407: 2013/11/23(土) 22:12:28 ID:BUT6NrDY
*
あっという間に三日が経った。
ひとつのベッドで身を寄せあって眠るのも、なかなか悪くはなかった、と魔法使いは思う。
ふたり分の重さを確かめるみたいに軋むベッドはとても小さかった。
耳障りだったけれど、決して嫌なものではなかった。暑かったけれど。
それ以上に熱くてどうしようもなかったけれど。
ユーシャと魔法使いは綺麗になった服に身を包み、息を大きく吸い込んだ。
太陽が姿を隠しているのにも関わらず、早朝の空気は蒸し暑い。
「じゃあ、気を付けて行きなよ」白衣の男はあくびをもらした。
「三日間、ありがとうね」と魔法使い。
「いやいや、お礼は僕の助手に言ってくれ。
この子がいちばんきみ達の心配をしていたんだ」
「せ、先生……」白衣の女性はどぎまぎと言う。
408: 2013/11/23(土) 22:15:02 ID:BUT6NrDY
「ほんとうにありがとう」とユーシャ。
「ひゃ、ひゃい……き、気を付けてください……ね」
「また来てくれってさ。きみには嫉妬しちゃうな」
「せ、先生!」
「相変わらずおもしろいわね」
「おもしろくないですよ……」
魔法使いは微笑む。「じゃあ、行くね。ありがとう」
「あ、あの……ちょっといいですか?」
「なに?」
白衣の女性は魔法使いに近寄り、鼻をひくつかせた。
409: 2013/11/23(土) 22:16:03 ID:BUT6NrDY
「な、なに?」
「す、すみません……いい匂いなんで……つい」
「優しくて、敵意のない匂いだ」とユーシャは笑う。
「そ、そう。それです」白衣の女性も笑った。
「なんでわたしばっかり……」
魔法使いは頬を赤らめて俯いた。「はずかしい……」
「仕方ない。いい匂いなんだから」
「そ、そうです。仕方ないんです」
魔法使いは真っ赤な顔で唇を震わせた。
耐えろ、耐えろと自分に言い聞かせた。
それを見た白衣の男は吹き出した。「おもしろいな。ぜひ、また来てくれ」
410: 2013/11/23(土) 22:16:43 ID:BUT6NrDY
続く
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【3】
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