635: 2013/11/29(金) 20:58:46 ID:ktrzsTJ.

勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【1】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【2】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【3】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【4】

23


東の王国から大陸北端に向かう途中で小さな村に立ち寄ったユーシャ達は、
村の少年少女に別れを告げて(もちろん少女のお母さんとお父さんにも言った)、
さらに北上を続ける。とは言っても、その小さな村はこの東の大陸のかなり北の方に
位置しているので、北の大陸は目と鼻の先と言ってもいいほどだ。

小さな村から数十日歩いたところで、巨大な塔が眼前に姿を見せる。
東の大陸の北端にある塔だ。
円筒状に積まれた灰色の石が、曇り空に向かって屹立している。
石はところどころに亀裂が入っていたり、割れていたりしている。
相当な時間ここに立っているのだろうと思う。
なにしろ御伽噺に登場するほどなのだ。当然といえば当然なのかもしれない。

川の真ん中に置き去りにされ、激流に身を削られた岩のように、その塔は風化している。
時間の流れに置き去りにされ、風雨に曝され身をすり減らし続けたそれは、
吹きすさぶ冷たい風で倒れてしまうのではないかと思うほどの頼りなさだ。
どれだけ見上げても、扉や窓は見当たらない。
葬送のフリーレン(1) (少年サンデーコミックス)
636: 2013/11/29(金) 21:00:06 ID:ktrzsTJ.

「これが塔?」ユーシャは目を細めながら塔を見上げて言った。

「塔というよりは柱みたいね」と魔法使いは言った。
御伽噺というのは理に適ったものなのかもしれない、と危うく信じてしまいそうになる。
遠くで見るのとはずいぶんと違って見えるが、思い返してみると
結局この柱だか塔だかは空までは届いていないのだ。

塔を回り込むと、五〇〇メートルほど先に大きな石橋がある。
この辺りにある人工物はそれらくらいしか見当たらない。
あとは土がむき出しになった道と、
ぽつりぽつりと一定の間隔を開けて生える木しかない。

道はひとの手が加えられているのではないかと思うほどまっすぐだ。
障害と呼べるようなものは何もないが、それがかえって不気味だった。
その光景は、橋の向こうの何かが自分たちを呼んでいるような気分にさせてくれる。

637: 2013/11/29(金) 21:01:19 ID:ktrzsTJ.

「行こう」とユーシャは言って、隣に目を向ける。
しかし、さっきまでそこに居たはずの魔法使いの姿はない。
それどころか、辺りを見回しても彼女の姿は見当たらない。
彼女の名前を呼んでみても、返ってくる声はひとつもない。
もう一度名前を呼ぼうとしたとき、右頬に鈍い衝撃が走った。

痛みに顔を顰めて右に目を向けると、すぐ近くに魔法使いの姿があった。
どうなってるんだ? ユーシャは眉を顰めて魔法使いの顔を凝視する。
彼女の表情も似たようなものだった。それは理解不能なものを見るような表情だ。

「どうしたの、あんた。大丈夫?」と魔法使いは言った。
「ちょっとおかしいんじゃないの?」

「どこに行ってたんだよ」とユーシャは右頬をさすりながら言った。

「ずっとここに居たわよ」

「ほんとうに? 俺が見たときはいなかったぞ?
呼んでも返事してくれなかったし」

「したわよ。こんなに近くに居たのに、
あんたには聞こえてなかったみたいだけど。だから殴った」

638: 2013/11/29(金) 21:01:59 ID:ktrzsTJ.

なるほど。頬の痛みはこいつのパンチのせいか。
ユーシャはひとりで納得するように頷いた。でも納得できないことは、まだいくつかある。
考えても仕方ないということは今までの経験からなんとなく理解できていたので、
「どうなってるんだ?」と思ったことをそのまま口にした。どうなってるんだ?

「わたしが訊きたいわよ」と魔法使いはユーシャの頬に手を添えて言う。
「殴ったことは悪いと思ってる。でもあんた、ほんとうに大丈夫なの?」

「俺がおかしいのかな」とユーシャは頭を掻いて言う。わけがわからない。

「もしくはわたしがおかしいかのどちらかね」

「たぶん俺がおかしいんだろうな」とユーシャは言って、橋の方に目を向ける。
今度は数十メートル先に、小さな女の子の姿が見える。
栗色の長い髪を首の辺りで束ねて、ぶかぶかの黒いローブを着ている女の子だ。

歳は九歳だ、とユーシャは確信する。
それは八年前の魔法使いの姿とまったく同じだったからだ。
あれは九歳の頃の彼女だ。俺が九歳の頃に、
いっしょに図書館で本を読んでいたあいつだ。

「間違いなく俺がおかしい」とユーシャはその女の子を眺めて続ける。
「今度はそこに女の子が見える」

639: 2013/11/29(金) 21:03:17 ID:ktrzsTJ.

「女の子?」と魔法使いは訝しむようにいい、ユーシャの視線の先に目を向ける。
「誰も居ないじゃないの」

「よくわかった。俺がおかしいんだな」とユーシャは言った。
たぶん俺がおかしいんだろう。

「どんな女の子?」

「八年前の、九歳の頃のお前そのもの」

「あんたおかしいわ」と魔法使いは間髪入れずに言う。
「とりあえず今日はここで休みましょう」

「そうした方がいいかも」
ユーシャは頭を押さえてため息を吐く。吐いた息はいつもより熱い気がした。

それから彼は魔法使いに手を引かれて、塔の影になっている部分に向かい、
そこに腰を下ろす。彼女も隣に座る。

塔に凭れかかると、身が凍ってしまうような冷たさが背中を撫でた。
冷たい風が地面を転がる。それにはすこしだけ甘い匂いが混じっている。
頭がくらくらとするような匂いだ。いったい、なんの匂いなんだろう?
それは彼女の匂いとはまた違った甘さだった。
優しくて敵意のないものとは、すこし違う。

640: 2013/11/29(金) 21:03:59 ID:ktrzsTJ.

彼女はユーシャの肩に手を添えて言う。「ちょっとゆっくりすれば治るわよ。
きっと北の大陸が近いから、緊張してへんなものを見てるだけよ。幻覚ってやつ」

「幻覚」とユーシャは呟く。

「そう。幻覚よ」

「でも、お前の声も聞こえなくなってたみたいだし、どうなってるんだろう」

「心配しなくてもいい。見えなくなっても聞こえなくなっても、
わたしはここにいるから。あんたのすぐ隣に、ずっと」

「うん」

「それに、頬を殴れば治るみたいだし、幻覚なんて大したことはないわよ」
魔法使いは微笑みながら、拳をユーシャの頬に押し付けて言った。

「もう殴られたくはないな」とユーシャは苦笑いを浮かべて言った。

くだらない話を何時間も続けて、ふたりはたっぷり身体を休める。
そして夜の帳が辺りに下りる頃、それは現れた。

641: 2013/11/29(金) 21:04:46 ID:ktrzsTJ.




紺碧の空で、細長い月が地上に満遍なく弱い光を落としている。
星々は歌うように弱々しく点滅していて、
濃灰色の雲が風に煽られて、目に見える速さで流れていく。
頭の上にはどこまでも同じ景色が続いている。それはどこか淋しげな光景だった。

ユーシャは眼前の暗闇を睨みつける。
暗闇はユーシャを見つめ返し、いつか飲み込んでやろうと息を潜めている。
ぽつりぽつりと点在する木々の間に広がる巨大な闇は、底のない沼を思わせる。
それは手の届く位置にあって、踏み入れると
もう二度と戻ってくることができないような気にさせてくれる。

そしてそれは突然現れる。闇の中に、点滅する光の球が五つ現れた。
赤から黄色へ、黄色から緑へ、緑から青へ、青から紫へ、紫から赤へ、
それは次々と変色しながら、ゆっくりと、確実にこちらへ迫ってきている。

今度はまとわりつくような粘り気のある規則的な音が聞こえてくる。
ひとが歩いているような感じだ。ただ、足音がおかしい。肉を打ち付け合うような音だ。

642: 2013/11/29(金) 21:06:36 ID:ktrzsTJ.

「またへんなものが見える」とユーシャは座ったまま、
魔法使いに寄りかかって言った。「へんな音も聞こえる」

「わたしにも見えるし聞こえる」と魔法使いは言い、立ち上がった。
ユーシャはバランスを崩して顔を地面に打ち付けそうになる。
なんとか持ちこたえて、立ち上がる。

「なにが見える?」とユーシャは訊ねた。
彼は自分の目に映っているものに、なんだか自信が持てなくなっていた。

「三年前の、一四歳の頃のあんた」と魔法使いは答えた。
「今度はわたしがおかしくなっちゃったみたい」

「俺には点滅するへんな光が見える」その光は確実に距離を詰めてきている。

「きっとそれが本物ね。今度はわたしがおかしくて、あんたがまともなんだと思う。
もしくはわたし達、どちらもおかしくなったとか」魔法使いは頭を押さえる。

ユーシャは夜の闇を通して光の球を見据える。
それは上下左右へ不規則に揺れながら、こちらに近づいてくる。
しばらくすると目が慣れて、彼はその光の球の正体を完全に捉える。

光の球の向こうに、歪な形をした生物が見えた。
しかし、その姿は今まで見聞きした数多くの生物と、ほとんど合致しない。
ほんとうに生きているのかと思うほどに、不気味な風貌だった。

643: 2013/11/29(金) 21:07:43 ID:ktrzsTJ.

それの体長は三メートルほどで、
巨大化したカエルのような身体を持っていた。
爬虫類特有のぬめぬめとした皮膚が、
点滅する光で照らされて不気味に光っている。

身体はカエルだが、頭はワニのように見える。あるいは竜のような。
どちらにしろ、掴んだものを離さないような顎と、
刃物のように鋭い歯を持っているものだ。

しかしその強靭な顎は下顎しかなく、
上顎があるはずの部分は綺麗な赤い肉がむき出しになっている。
そこからはミミズのように細い管が五本伸びている。
管の先端には眼球のような球体が付いていて、何色にも変色しながら発光している。
光の正体はあれか、とユーシャは剣を引き抜きながら思う。

その怪物はさらに近づいてくる。

細部を見せつけるように、ゆっくりと嫌な音を響かせて歩く。
怪物の前足はカエルのものではなく、カマキリの鎌のようだった。
背中には大量のイボがあって、隙間に小さな羽がある。
それはコウモリの羽のように見える。
羽ばたくたびに、肉が打ち付け合うような湿っぽい音が聞こえてくる。

後ろ足はカエルのもののままだ。ただ、かなり筋肉が発達しているようだ。
跳ねるとかなりの距離を滑空することができそうだ。
怪物はこちらと五〇メートルほどの距離を開けて立ち止まり、
五つの目をぐるぐると回転させる。

644: 2013/11/29(金) 21:09:18 ID:ktrzsTJ.

「お前にはなにが見える?」とユーシャは剣を握って訊ねる。

「さっきと同じ」と魔法使いは答えた。
「一四歳の頃のあんた。あんたにはなにが見えてるの?」

「すごく気持ち悪い怪物」

魔法使いは目を細めて、怪物を睨みつける。
彼女にはあれが、一四歳の頃のユーシャに見えているらしい。
「なにがどうなってるの?」と彼女は言った。

「幻覚ってやつ?」

「あんたの言う“すごく気持ち悪い怪物”がそうさせてるのかしら?」

「どうだろう」とユーシャは言い、
すこし間をあけて、「殴ったら治るかな?」と続ける。

「試してみて。思いっきり殴って頂戴。遠慮はいらない」

ユーシャはわりと力を込めて魔法使いの頬を殴った。「どう?」

「すごく痛い」と魔法使いは答えた。
「あとでお返しに鳩尾を蹴ってやるからそのときは覚悟しろこの阿呆が」

645: 2013/11/29(金) 21:10:02 ID:ktrzsTJ.

「遠慮はいらないって言ったじゃないか」

「ふつう女の顔を思いっきり殴る? 肩とかにしてくれればいいのに」

「ごめん」とユーシャは言う。「それで、どうなんだ?」

「見えるわね。“すごく気持ち悪い怪物”が。なんなの、あれ」
魔法使いは顔を顰めて言う。
「いろんな動物の身体のパーツを切り取って、
カエルにくっつけたみたい。合成獣ってやつかしら」

「合成獣」とユーシャは目の前の怪物を見て言った。

「キメラとも言うわね。御伽噺にもいたと思う」と魔法使いは補足する。
「でもそんなことはどうでもいい」

646: 2013/11/29(金) 21:11:17 ID:ktrzsTJ.

合成獣は喉から音の塊を吐き出した。
あらゆる動物の鳴き声を混ぜ合わせて、
その中にこの世に存在するありとあらゆる不快音をぶち込んだような音だ。
それは鳴き声とは呼べないような代物だ。
音が耳に響くというよりは、なにかの塊で頭を殴られるような感覚に陥る。
それは数十秒続く。

ユーシャと魔法使いは、それぞれ剣と杖を構える。
魔法使いは短く呪文を呟き、ふたりに魔術の障壁を纏わせる。
剣にも塗りたくるように壁を張る。

合成獣の音を吐く行為は唐突に終わる。
泣き叫んでいた子どもの首を切り落としたみたいにぴたりと止んだ。
怪物は発達した筋肉が付属した強靭な足で地面を力強く蹴る。
土埃を巻き上げ、放たれた矢のようにこちらにまっすぐ飛んでくる。

647: 2013/11/29(金) 21:12:34 ID:ktrzsTJ.

ユーシャは魔法使いの前に出て、剣を構える。
怪物はかなりの速度で向かってくるが、目で捉えられないということはない。

目を細めて狙いを付け、やがて怪物との距離がほとんどゼロになったとき、
そのぬめぬめとした胴体に向かって、
魔術の障壁が付与された剣で一閃をお見舞いする。
まったく手応えという手応えは感じなかったが、
怪物の身体は真っ二つに切断されて、冷たい地面に転げる。

赤い絵の具を薄めた水みたいな血が、宙に向かって噴水みたいに飛び出した。
それは趣味の悪いおもちゃの、趣味の悪い壊れ方みたいだった。
壊れてからも見るものを不快にさせるようなものだ。
なんだか、ばかにされているみたいに見える。

「なんだこいつ」とユーシャは眉を顰めて言った。

「なんだこいつは、わたしの台詞よ!」と魔法使いは怒鳴り、
「さっさと避けろ、ばか!」と続けてユーシャの横腹を蹴り飛ばした。

648: 2013/11/29(金) 21:13:46 ID:ktrzsTJ.

ユーシャはわけもわからないまま、脇腹に走る
鋭い痛みに従うように身体を折り曲げる。
視界には頭上を通過する巨大な影が映る。
それは紛れも無く、先ほど切り裂いたはずの怪物の姿だった。

ちらりと窺い見た怪物の手に該当する鎌はかなりの切れ味を持っているらしく、
ぎらぎらと不気味な光を放っていた。
カマキリのそれというよりは完全な刃物に近い。

怪物はユーシャと魔法使いの背後、
数十メートル先の地面に激突し、土埃を巻き上げる。

「どうなってるんだ?」
ユーシャはバランスを崩してその場に尻もちをついた。どうなってるんだ?

「幻覚」と魔法使いはつぶやいた。「多分、あいつはそういう力を持っているのよ」

「だったら、俺がさっき真っ二つにしたのは偽物?」

649: 2013/11/29(金) 21:14:43 ID:ktrzsTJ.

「あんたがなにを切ったのかは知らないけど」と魔法使いは言う。
「偽物というか、幻ね。わたしの目には、
あんたが空気を切ったようにしか見えなかった」

「俺は何も切ってないってことか?」

「そういうことね。わたしの頭がおかしくないのなら、そういうことになる」

「なるほど」とユーシャは言った。
あれは幻で、俺は何も切っていない。どうりで手応えがなかったわけだ。

「ほんとうにわかってるの?」

「わかってるよ」ユーシャは振り向いて、怪物を睨みつける。
「つまり俺たちは、今、すごく拙い立場にいるってことだろ」

魔法使いは横目で彼の顔を見てから、ため息を吐いて振り返る。
そして凄んだ目で怪物を睨みながら、
「そういうことでいい」とぶっきらぼうに言った。

650: 2013/11/29(金) 21:15:24 ID:ktrzsTJ.

怪物はふたりから数十メートル離れた場所で、
背中を地面にこすり付けるみたいにもがいていた。
その姿はマタタビを与えられた猫を思わせる。

なんでそんなに嬉しそうなんだ? とユーシャは思う。
もしかすると、また俺は幻覚を見てるのか?
それとも、あの怪物が幻覚を見ているとか?

時々、怪物の上顎があるはずの辺りから音が聞こえる。
それは牙獣の唸り声みたいな音だったり、
黒雲の向こうから聞こえる雷音のような音だったり、
巨大なカエルの、腹のそこにずしりと来る鳴き声のような音だったりした。
とにかく、低く重みを持った音だ。

やがて怪物は二本の足で器用に起き上がり、ユーシャたちに五つの目を向ける。
五つの目は発光する。それを合図にしたように、
怪物の頭上に五つの青い炎の球が現れた。握りこぶしくらいの大きさだ。

「呪術?」と魔法使いは目を丸くして言った。

651: 2013/11/29(金) 21:16:42 ID:ktrzsTJ.

「呪術?」とユーシャも眉を顰めて言った。「あの青い炎は呪術なのか?」

「わからない……。わたし達、ふたりとも幻覚を見ているのかもしれないわ。
でもあれが幻覚じゃないとしたら、呪術ってことになるけれど……」

「どうして?」

「青い炎はもっとも簡単な呪術のひとつなの」
魔法使いは呪術の村で読んだぶ厚い本の内容を思い出しながら、難しい顔をする。
「それでも術の使用者の身体にはかなりの負荷が掛かるわ。
多かれ少なかれ、文字通り命を削る攻撃になる。あれだけ高温の炎の塊を作るのに、
いったいどれだけのエネルギーが必要かというとね……って、
あんたに言ってもわからないか」

「わからん」

「素直でよろしい。とにかく、危ないから避けろってこと。
ぜったいに触っちゃだめよ。わかった?」

「わかった」

652: 2013/11/29(金) 21:17:43 ID:ktrzsTJ.

怪物はカエルの鳴き声のような低い音を辺りに響かせる。
直後に五つの青い火球はその場から矢のように、
こちらに向かって真っ直ぐに放たれた。
怪物はその場に留まっている。今度は犬やら狼やらの遠吠えのような音が聞こえた。

魔法使いは咄嗟に、先ほど張った魔術の障壁に上塗りするように、
さらに強力な魔術の障壁を自分たちに纏わせる。青い炎が、真っ直ぐ迫ってきている。
彼女はそれを避けるために地面を蹴って、左に跳ぶ。ユーシャは右へ跳んだ。
ふたりは怪物を睨めつけ、前へ出る。

五つの青い炎の球は減速し(それでもかなりの速度が出ている)、
やがてふたりが立っていた場所で停止した。
それはひとつになり、景色を歪め、破裂し、空気を揺らす。

ユーシャと魔法使いの背中に、高温の爆風が叩きつける。
障壁はその風によって剥がされる。
魔法使いはその威力に唖然としながらも、即座に、
もう一度ふたりに障壁を張り、怪物に向かって炎の槍を放った。

653: 2013/11/29(金) 21:20:39 ID:ktrzsTJ.

それを見た怪物は低く唸る。
すると、怪物の数メートル手前に泥水が噴き出した。
泥水は巨大な滝を思わせる勢いで吹き出てくる。滝の重力が反転したみたいに見える。
魔法使いの放った炎の槍はその泥水の壁に阻まれて消える。
泥水は噴き出すのを止め、すべて地面にぶちまけられた。残ったのは煙だけだ。

ユーシャは怪物との距離を詰めてから低く跳び、怪物の頭目掛けて剣を振り下ろす。
しかし、なにかに阻まれてしまう。それは見えない壁のようなものだった。
それには見覚えがある。魔術の障壁と同じだ、と彼は思う。

構わず剣に力を込めて障壁を壊そうと試みる。
障壁は雷のような、空間にひびが走るような、
そんな光を辺りにまき散らしながら紫色の光を帯びる。
ユーシャは力の限り、剣を押し付け続ける。

やがて障壁はぐにゃりと窪んだ。
それでも破れることはないし、剣が怪物に届くことはない。
障壁も、硬ければ硬いほど強いというわけではないのだ。
柔軟性も強さになる。そこには金属に通ずるところがある。

654: 2013/11/29(金) 21:21:41 ID:ktrzsTJ.

怪物はいかれたウサギみたいな声で笑い、強靭な脚で地面を蹴った。
ユーシャは怪物の頭突き(というよりは、ほとんど突進みたいなものだ)によって、
数メートル吹き飛ばされる。
怪物は透かさず五つの青い炎の球を出現させ、彼に向けて飛ばした。

ユーシャは地面を数メートル転がった後、即座に体勢を立て直し、怪物を見据える。
しかし、ほとんど目前まで青い炎は迫ってきている。
反射的に、その青い炎に向かって障壁が張られた剣を振るう。
剣と炎がぶつかったところで、そこを中心に
周囲の空気は球形に歪み、ちいさな爆発が起こる。

視界は青く染まる。高温の爆風により、
やはり自身に張られた魔術の障壁は簡単に剥がれてしまった。
腕の皮膚が焼ける。耐え難い熱が身体中を覆う。吸い込んだ息は肺を焼く。
咳き込んで息を吐き出したところで、なにかに腕を掴まれて背後に倒される。
背中に鈍い痛みが走る。地面はひんやりとしている。

「大丈夫?」と声が聞こえた。魔法使いの声だ。
彼女はユーシャの脇に屈みこんでいた。

「お前は?」と彼が訊くと、彼女は「わたしは大丈夫」と答えた。

655: 2013/11/29(金) 21:22:30 ID:ktrzsTJ.

「それならいいんだ」ユーシャはゆっくりと立ち上がる。

正面には頭を振りながら、相変わらず
いかれたウサギみたいな笑い声をまき散らす怪物が見える。

「ぜんぜんよくない」
魔法使いは仏頂面で癒やしの魔術を唱え、焼け爛れた彼の腕の皮や肉を治した。
火傷のあとはほとんど残らなかった。「幻覚じゃなかったのね」と彼女はつぶやく。

「みたいだな」とユーシャは言った。

魔法使いは呪文をつぶやく。ユーシャに張られていた障壁が再生する。
「無いよりはマシだと思う」と彼女は弱々しく微笑んだ。

魔術の障壁のことを言っているのだろう。
たしかに呪術を前にすると、無いよりはマシといった程度の耐久力だった。
彼女はもう一度、口をちいさく動かして呪文を詠唱する。
短い詠唱が終わるのと同時に、今度は彼女の両脇に四本の炎の槍が現れる。

怪物の笑い声は止む。今度はその場で子どもみたいに飛び跳ね始める。
それは楽しんでいるようにも、地団駄を踏みながら怒っているようにも見える。
上下に揺れる五つの球体が、また不気味な色に発光し始める。

656: 2013/11/29(金) 21:24:38 ID:ktrzsTJ.

魔法使いは杖で地面を軽く突いて四本の炎の槍を放つ。
それは怪物とは見当違いの方向へ飛び、底なし沼のような闇に飲み込まれて消える。
その隙に、怪物は地面を蹴ってこちらに向かって跳んでくる。
闇の中でも、鎌が鈍色の光を放っている。

なにをしているんだ? とユーシャは思った。
そしてすぐに彼女が幻覚を見ているということに思い当たる。
すぐに彼女の肩を殴る。

彼女はよろけてユーシャを睨んだ。「なに?」

「幻覚」とだけユーシャは言って、前に飛び出した。

魔法使いはもう一度、炎の槍を放った方向に目を向ける。
そこには夜の闇だけが蠢いている。彼女は頬を掻きながら、「なるほど」と言った。
なるほどね。わたしは幻覚を見ていたと、そういうわけか。なるほど。糞が。

657: 2013/11/29(金) 21:26:06 ID:ktrzsTJ.

前へ飛び出したユーシャ目掛けて、怪物は鎌を大きく振るう。
ユーシャはそれを躱して、ふたたび怪物の頭を狙って剣を振り下ろす。
しかし、それも先ほどと同じように障壁に阻まれてしまう。
急いで横に転がって、その場を離脱する。また頭突きを喰らうのはごめんだ。

魔法使いはそこへ、筒状の熱線を撃つ。太さは五メートルはあるように見える。
表面は波のようにうねっている。火炎放射ではなく、
水鉄砲から溶岩を打ち出したみたいな感じだ。

巨大な蛇を思わせるそれは地面を抉りながら、怪物の姿を飲み込んだ。
ユーシャは背中に熱を感じながら、その場から
走って遠ざかり、魔法使いの隣で立ち止まる。

「あたった?」と魔法使いは訊ねる。

「あたった」とユーシャは答えた。「すくなくとも俺にはあたったように見えた」

「あんたが幻覚を見ていないことを祈るわ」

658: 2013/11/29(金) 21:26:57 ID:ktrzsTJ.

熱線はだんだんと細くなり、消えた。怪物は先ほどと同じ位置に立っている。
今度はすこしダメージを与えられたようだ。
腹の辺りから黒い煙が空に立ち上っている。
表皮からはすこしだけ水分が失われているように見える。

「障壁は剥がれたみたいね」と魔法使いは言った。
「でも多分、あいつも急いで障壁を貼り直したから、大したダメージにはならなかった」

「なるほど」とユーシャは言った。

怪物は奇声を発しながら、後ろ足で地面を何度も踏みつける。
踏みつけられた部分を中心に、放射状に亀裂が走る。相当お怒りのようだ。

まもなく怪物は冷静さを取り戻したらしく、こちらに五つの目を向ける。
それらは多色に点滅する。

「あれね」魔法使いはとんがり帽子の鍔を掴んで目の前まで引っ張った。

「なにが」とユーシャは怪物を見たまま訊ねる。

「たぶん、あれが幻覚を見せてるのよ。あの光が、というか、あの球体が」

「どういうこと?」

659: 2013/11/29(金) 21:28:24 ID:ktrzsTJ.

「ぜんぶ推測だけど」と魔法使いは言う。
「あの球体が点滅した直後に、わたし達のどちらかが幻覚を見ているわ。
多分あの光が引き金なのよ。あの光を見ることで、わたし達は幻覚を見ちゃうのよ。
でも、同時にふたりに幻覚を見せることはできない」

「なるほど」とユーシャは言った。

言われてみると、たしかに幻覚を見たのは光の点滅の直後だった。
それに、ふたりは同時に幻覚を見ていないのもそうだ。
しかし、ひとつだけ気になることがある。

ユーシャは言う。「じゃあ、俺が最初に見た幻覚は、なんだったんだ?
あの、ちっちゃい頃のお前。あのときは怪物の姿は視界に入ってなかったのに……」

「言われてみるとそうね……」魔法使いは考えこむ。

しかし怪物は彼女の言葉を待たずに、こちらに突進してくる。
ユーシャは彼女を庇うように前に出る。
こいつの言うことがほんとうなら、俺は今、幻覚を見ているのかもしれない、と思う。
光の点滅を見てしまったからだ。

彼女は目を帽子の鍔で守ったが、ユーシャはそうではない。
むしろ直視してしまった。直視してから彼女は話し始めたのだ。
どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ!

660: 2013/11/29(金) 21:29:39 ID:ktrzsTJ.

そこでユーシャは咄嗟に思い付いて、自分の腕を軽く切った。
鋭い痛みが腕に走る。傷口から熱い体液が滴る。それは脳に訴えかける。
視界にノイズが走り、幻覚から目は醒める。もう一度前を向く。

怪物はこちらに向かってきていなかった。
その場に身体を左右に震わせて、とどまっていた。
やはり幻覚を見ていたのだ。そしてそこからは痛みによって脱出することができる。

「どうしたの?」と魔法使いは不安げな顔をして言った。
それから呪文をつぶやき、ユーシャの腕の切り傷を治す。

「幻覚を見てた」とユーシャは言った。
「お前の言う通り、あの光が幻覚を見せてるんだと思う」

「そう」と魔法使いは言う。
「それで、あんたが最初に見た幻覚のことだけど、
そのときになにか変わったことはなかった?」

「変わったこと」とユーシャは反復し、回想する。
変わったこと……なにがあっただろうか?
幻覚を見て、こいつに連れられて塔の影に座った。
そしたら冷たい風が吹いて、甘い香りがして……

「そうだ」と彼は言う。
「へんな匂いがしたんだ。甘い匂いが。お前の匂いとはちょっと違う甘い匂い」

661: 2013/11/29(金) 21:30:32 ID:ktrzsTJ.

「……わたしの匂いは知らないけれど」と魔法使いは頬を赤らめて言う。
「それも幻覚を見せる引き金みたいなものなのかもしれないわね」

「かもしれない」

「ガスみたいなものなのかしら。だったら、
わたし達は障壁の中にいるから、それには気づかなかったのかも」

障壁といっても、それは壁――完全に隙間のない壁――というよりは、
フィルター――無数の目視が不可なほどの小さな穴が空いているフィルター――と
いったほうが適切なのかもしれない。つまりは不思議な壁だ、と魔法使いは思う。
魔術とはそういうものだ。

「なるほど」とユーシャは言った。
「じゃあ匂いは気にせず、あの光を見なけりゃいいわけだな」

「そう。それで、障壁を剥がして脚を落とせばいいのよ。
方法はどうであれ、わたしが障壁を剥がすから、
あんたが脚を落とす。もしくは心臓を貫く。
あとは煮るなり焼くなり、自由にすればいいわ。わかった?」

「わかった」とユーシャは頷く。「わかりやすくて助かるよ」

662: 2013/11/29(金) 21:31:22 ID:ktrzsTJ.

怪物の五つの目は点滅する。ユーシャは手で目を覆う。
魔法使いも帽子の鍔で目が隠れるようにする。
何かが破裂するような音が聞こえた。怪物が地面を蹴った音だ。
ユーシャは剣を構え、怪物を見据える。怪物はこちらに向かってくる。

幻覚を見破っても、怪物にはまだ強靭かつ柔軟な障壁がある。
まずはそれを破らないことにはどうにもならない。
それを破るのは彼女の破壊的で母性的な魔術に任せることにする。
だから今は彼女を守りながら、その為の隙を作る。

ユーシャは脇に転がって、突進を躱す。そして怪物を見据える。

しかし怪物は鎌を地面に突き刺して、
そこを中心に半円を描くようにして身体の向きを変え、
ふたたび地面を蹴ってこちらに突進してきた。ユーシャは急いで横に跳んだが、
躱しきれずに怪物の巨体にぶつかって弾き飛ばされた。

肩辺りに鈍く重い痛みが走る。地面を数メートル転がったが、すぐに体勢を立て直す。
いったいどうすれば隙を作ることができるだろう? とユーシャはぼんやりと思う。
答えを見出す間もなく怪物は五つの青い炎の球をこちらに放った。
そのとき、背後から五つの赤い炎の球が飛んできた。
青い炎と赤い炎はぶつかって相殺された。

663: 2013/11/29(金) 21:32:53 ID:ktrzsTJ.

魔法使いが怪物の周囲に氷の槍を発生させる。
それは檻のように怪物の動きを封じる。
しかしそれは仮設のものであり、大した拘束時間は期待できない。

ユーシャはもう一度怪物の方へ駆ける。怪物は氷の檻のなかに留まっている。
背後から、何かが地面にぶつかったような小さな音が聞こえた。
魔法使いが杖で地面を突いた音だ。

すぐさま身を屈めて、脇に数メートル転がった。
その瞬間に彼の背後から熱線が放たれる。

熱線はまっすぐに伸びた蛇のように、怪物の身体を飲み込んだ。
やがて熱線は徐々に炎の輝きを失いながら糸のように細くなり、途切れた。

怪物は何事もなかったかのようにその場に留まっているが、
身体からは黒煙が噴き出している。障壁は破れ、皮膚が焼けたのだ。
ユーシャにもそれを見て取ることができる。
破れた箇所の輪郭だけが、淡い緑の光を放っているのだ。
つまり、そこには攻撃が通る。

664: 2013/11/29(金) 21:34:10 ID:ktrzsTJ.

ユーシャは怪物に突進し、破損した箇所に剣を差し込んで、障壁を裂いた。
何かの動物の皮を切り裂いているような感触が手のひらに伝わってくる。

剣を捨てて両手を伸ばし、五つの目を頭から引き抜いて地面に投げつけた。
これで幻覚を見ることはないし、怪物の視界そのものを奪うことができた。
根っこから吹き出した血は視界を奪おうとしているのか、目に飛んでくる。

構わずユーシャは頭にあるむき出しの肉だか脳だかを殴りつけた。
また血が噴き出す。怪物は音の塊を吐き出す。また血が噴き出す。
これほど近くで絶叫されると、たまったものではない。
視界を奪う赤い血を拭い、ユーシャは剣を拾って逃げ出した。

怪物の障壁がゆっくりと再生していく。それは凍っていく湖を思わせる。
魔法使いは小さな炎の球を作り、そこから小指ほどの太さの熱線を隙間に撃った。
熱線は障壁の隙間から怪物の肉を抉って焼いて貫く。

怪物はまた鳴いて、地面を強く踏みつけた。
その瞬間、怪物の立っている地点を中心に地面へ亀裂が走り、
あちこちから泥水が吹き出した。

どれも壊れた噴水のように無造作に泥をまき散らす。
ユーシャには何もかもが汚れて見えた。
自分も怪物も水も地面も、すべて汚れている。
この世界に平和で綺麗な場所など存在しない、そんなことを思わせる光景だった。

665: 2013/11/29(金) 21:34:49 ID:ktrzsTJ.

「どう?」と魔法使いは彼に駆け寄って訊ねる。

「どうって、何が」とユーシャ。

「このまま押し切れそう?」

「いける」とユーシャは言った。「目を全部ちぎってやった」

「やるじゃないの」

「もうちょっとだ」

666: 2013/11/29(金) 21:35:27 ID:ktrzsTJ.

その場で暴れまわる怪物を見据え、地面を蹴って前に出る。
怪物は視界を奪われたことにより、パニック状態に陥っているようだ。
泥水に注意しながら怪物に接近する。
しかし怪物はそこで、大量の青い炎の球を自身の周囲に間配らせた。

ほとんど間もなく青い炎の球は怪物を中心に、
放射状に拡散するようにその場から射出された。

魔法使いは咄嗟に身を屈めて、転がるようにして
噴き出した泥水の裏に逃げ込み、「泥水の裏!」と叫んだ。
それを聞いたユーシャも噴き出した泥水の裏に転がりこんで、炎をやり過ごす。

怪物に向かって放たれた極太の熱線が見えた。急いで泥水の噴水から飛び出す。
熱線は先ほどと同じように細くなって消える。怪物からは黒煙が上る。
障壁は再生しようとするが、先ほどと同じように剣を隙間に引っ掛けて、振り下ろした。
驚くほど簡単に障壁は裂けた。紙を切っているような感覚だ。

667: 2013/11/29(金) 21:36:37 ID:ktrzsTJ.

裂けた隙間に剣を引っ掛け、さらに障壁を切り裂こうと力を込めた。
障壁は鋏で紙を切っているかのように
ぱっくりと口を広げ、やがて緑の光をばら撒いて砕けた。

すかさず脚に狙いを付け、剣を振った。
怪物の脚は大きな傷口を広げ、鮮血を噴き出した。
異臭が鼻腔を突き、耳元で絶叫が響く。
でも離れるわけにはいかない。これで終わらせる。

もう一度、今度は逆の脚を狙い、力の限り剣を振り下ろした。
皮膚を破る感触、繊維を引き裂く感触、骨を断つ感触、
それらは決して心地よい感覚ではない。
しかしその行為には慈悲も躊躇も恐怖もない。
冷たさと、静かな高揚が胸のなかに湧き上がるだけだ。

怪物の脚は付け根から切断され、重々しく血だまりのなかに落ちた。
傷口からは粘つく血と黄色い何かの筋が飛び出す。

668: 2013/11/29(金) 21:37:49 ID:ktrzsTJ.

怪物の絶叫は続く。背後から、小指ほどの太さの熱線が飛んできて、怪物の喉を貫く。
絶叫は止み、代わりに空気の漏れる、ひゅうひゅう、という音が聞こえてくる。
怪物は血だまりのなかに転げた。
血が跳ねて、そこらじゅうに不気味な赤い模様を作り出す。

ユーシャは怪物の腕の付け根に剣を刺して、そのまま肉を引き裂いた。
腕は落ちて、傷口から足元の血だまりにさらに血が注がれる。
今度は胸の辺りに剣を突き刺した。引き抜いて、もう一度刺す。
怪物はちいさく身を震わせて、足元の血だまりに波紋を生み出す。

やがて波紋は消えた。

669: 2013/11/29(金) 21:39:06 ID:ktrzsTJ.

ユーシャは怪物の亡骸から離れて座り込んだ。
あまり見たくない光景だったが、目を離すことが出来なかった。

冷たい夜風と静寂は平静を取り戻させる。間もなく吐き気が込み上げてくる。
そのまま胃の中身を地面にぶちまけた。吐き気が通り過ぎると手で顔を拭った。
手は真っ赤だった。力が抜けていく。身体が液体になっていってるみたいな感じだった。

顔を上げると、ゆっくりとこちらに歩いてくる魔法使いが見えた。
怯えたような表情を浮かべている。
いったい何を怯えているんだろう。俺があまりにも汚いから怖がってるのか?

魔法使いは隣に屈みこんで、背中をさすりながら「大丈夫?」と言った。
「お前は?」とユーシャは訊ねると、「わたしは大丈夫」と答えた。

「だったらいいんだ」

「よくない」と魔法使いは言った。「血まみれだけど、ほんとうに大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。俺の血じゃない」とユーシャは言った。

その直後に、また吐き気が込み上げてくる。
もう一度地面に胃の中身を吐き出した。魔法使いは背中をさすってくれた。

670: 2013/11/29(金) 21:39:50 ID:ktrzsTJ.

胃の中身が空っぽになると、「も、もう大丈夫……」とユーシャは言った。

「意外と繊細なのね」と魔法使いはすこし呆れて言った。

「あんな血の量は見たことない……」とユーシャは青い顔をして言った。

「わたしだってないわよ」

「よく平気でいられるな……」

「見なけりゃいいのに」魔法使いはユーシャに肩を貸して立ち上がった。
「さっさとここから離れましょう」

「そうしよう」魔法使いの肩に寄りかかって立ち上がる。
そのとき魔法使いの足元がすこしふらついた。

ユーシャは言う。「お前、ほんとうに大丈夫なのか?」

「大丈夫」と魔法使いは言って、弱々しく微笑んだ。「ちょっと疲れちゃったけど」

671: 2013/11/29(金) 21:40:26 ID:ktrzsTJ.

魔法使いの肩を借りて、塔に向かって歩く。冷たく汚れた空気を吸い込む。
それでもいくらか気分はマシになった。

ふたりは塔に凭れ掛かるように座り込んだ。
ひとつのマントにふたりで包まって、身を寄せあって暖をとる。
魔法使いはユーシャの顔を拭い、キスをした。それから指で瞼を下ろした。

「おやすみ」と耳元で囁く声がした。「あんたは昔よりも、ずっと強くなった」

672: 2013/11/29(金) 21:41:15 ID:ktrzsTJ.

24


僧侶をもの言わぬ肉塊に変貌させたひとつ眼の怪物の亡骸を跡形もなく切り裂いて、
呆然と座り込んでいた勇者は、やがて正気を取り戻し、
かつて僧侶だった肉片と骨片を拾い集める。辺りには夜の帳が降ってきていた。

彼女が羽織っていた血まみれのマントに彼女の欠片を包み、手で抱える。
とても軽いが、纏わりつくような湿り気がそこにはある。
彼女の生への執着が手を覆っているみたいな感覚だ。
そこにぬくもりは無い。彼は氏を抱えている。
でも手の中にあるそれは紛れも無く彼女だった。

氷の槍で貫かれたみたいに、胸の真ん中にぽっかりと冷たい穴が開いている。
そこへ激しい喪失感と悲壮感、孤独感が同時に流れこんでくる。
それらは自己嫌悪や行き場のない怒りと混ざり合って、勇者の身体の内側で渦を巻く。

それでも涙が溢れるということはなかった。
憤怒の炎が身体を焼こうと、悲愴の氷が身体を貫こうと、
無感覚の空洞が胸の内側に生まれようと、
混沌の渦が生まれようと、涙だけは出てこなかった。
ただ吐き気だけが込み上げてくる。

673: 2013/11/29(金) 21:42:54 ID:ktrzsTJ.

勇者はうずくまって、胃の中身をすべて吐き出した。
空っぽになっても吐き気が襲いかかってくる。
乾いた咳を吐き出して、それをやり過ごす。

内臓でも何でもぶちまけてやりたい、と勇者は思う。
それで楽になれるなら、胃でも肺でも腸でも心臓でも、
なんでも地面へこぼしたっていい。

やがて勇者はうつろな目で立ち上がり、ゆっくりと歩み始める。
操り人形のようにぎこちない歩みで
目の前に架かっている石橋を踏み、前へ進む。
足元からは情の欠片もない冷たさが込み上げてくる。

ほんの一〇〇メートルほど歩いたところで、
ちらちらと視界に白いものが映り込み始める。
雪だ。それは散っていく花のように儚く艶やかであった。
僕もこんなふうに、誰かの記憶に残るくらい
綺麗に散っていけたらいいのに、と彼は漫然と思う。

674: 2013/11/29(金) 21:43:55 ID:ktrzsTJ.

歩きながら、彼女のことを想う。子供の頃の彼女、いっしょに旅をした彼女、
自分のことを愛してくれていなかった彼女、そして今の彼女――

身体を抉られるような感覚が全身にまとわり付いてくる。
手が痺れる。腕に伸し掛かる重みが増したようだ。
この手の中にある重みは、自分の犯した罪の重みのように感じられる。

救えたはずだった、と勇者は強く思う。
彼女はこんな目に遭わずに済んだはずだった。どうして救えなかったんだろう。
どうして救わなかったんだろう。僕が頃した。彼女もあいつも、僕が頃した。
どうして救えなかったんだろう。どうして救わなかったんだろう。

どうして僕は、未だに歩いているんだろう?

675: 2013/11/29(金) 21:44:56 ID:ktrzsTJ.

「きみが弱いからだよ」と勇者の隣を歩く少女は言った。「きみが弱いからだ」

「そう、きみと僕が弱いからだ」と影が言う。
「きみは立ち止まることができないほど弱い。
僕たちは許されない罪を犯し、それに背中を押されている」

勇者は隣を歩く少女に目を向ける。
首で切り揃えられた髪、肌色のマフラー、赤い手袋。
白い吐息と好対照をなすような赤い鼻と頬。

それは紛れも無く、過去の“彼女”の姿だった。
しかし、これといった感情は湧いてこなかった。
景色のひとつとしてそれを捉えることしかできなかった。

少女はマフラーで顔の下半分を隠して言う。
「きみの根っこにも、わたしと同じものがあるんだよ。
なにかを壊したいと思う、破壊的な衝動みたいなものが。
髪を切ったくらいじゃ失くならない。それは遺伝子に刻み込まれてるんだよ」

「そうだね」と影は言う。
「行き場の無い怒りを溜め込むことや、
誰かに恋焦がれるのと同じように、それは自分の身を焼くんだ。
でも吐き出すことでそれをコントロールすることができる。ある程度はね」

676: 2013/11/29(金) 21:45:58 ID:ktrzsTJ.

「わたしはきみと交わることで、すこしだけそれを和らげることができた」と
少女は、はずかしそうに頬を赤らめて言った。
「でもきみはどうだろう? きみはどうやってそれを吐き出すの?
わたしの中に吐き出すことは出来ないよ?」

「わからない」と勇者は言った。

「わからない」と少女は復唱する。
「きみはいつもそうだ。きみとわたしは、いつもそうだった」

影は言う。
「早いところ吐き出さないと、それは僕たちの身を焼き続けるんだ。
いずれはきみも僕のように真っ黒になってしまう。焼けたきみの身から立ち上る
煙のようなもの――それは行き場の無い破壊的な衝動とも言える――は、
自分に向かうことになるんだよ。それは間違いなく僕らを破滅に追い込む。
これは予言なんかじゃなく、規則なんだ。運命と同じだ。

絶望から自分で首をくくるようなものや、手首を切り裂くというような
自傷行為に興奮性を見出すものと、今のきみは何ら変わりないんだよ。
常識的な言い方をすると、きみは常軌を逸している。もちろん、僕もそうだ」

「でもきみには、常識という曖昧模糊とした言葉や定義のようなものが
何を指し示しているのか、それがわからない」と少女は言った。

勇者は頷く。

677: 2013/11/29(金) 21:46:55 ID:ktrzsTJ.

「僕にはなにもわからない」と影は言う。
「ただ、今の彼にはひとつだけ渇望することがある」

「それはなに?」

「自分自身の破滅」と勇者は答えた。

「氏んで逃げるんだ?」と少女は言った。
「きみはわたしとあいつの氏を無駄にするんだね」

「それは違う」と影は答える。
「これは――破壊的な衝動は、ぶつけるべき対象を見つけたときに巨大な力になる。
ちょうどきみがあのひとつ眼の怪物を惨たらしく葬り去った時のように。
それはとても自然な力だ。竜巻や雷、津波なんかと同じだ。
止められるものはいないし、始まればいずれは終わりが来る」

「それはとても素敵だね」

「そう。それは素晴らしい力にもなり得る。
心置きなく破壊を楽しむことができるんだ。それはまるで御伽噺の――」

678: 2013/11/29(金) 21:47:50 ID:ktrzsTJ.

影の言葉にかぶさるように、「なあ」と勇者は白い吐息を吐き出して言う。
「さわっていいかな」

「わたしを?」と少女は言った。

勇者は頷く。「きみにふれたいんだ」

「いいよ。どこでもさわって。さわれるものならね」

勇者は片方の手で彼女だったものを抱え、もう片方の手を少女へ伸ばす。
でも少女に触れることはできない。霧に手を伸ばしているのと同じだ。
彼女は実体を持たない幻影や幽霊のように、こちらから干渉することはできない。

「きみはいったい何なんだ?」と勇者は訊ねる。

679: 2013/11/29(金) 21:48:38 ID:ktrzsTJ.

「わたしはわたしだよ」と少女は答えた。
「ねえ、きみは今もわたしのことを愛してる?」

「もちろん」

「その手に抱えている“それ”も愛してる?」

「愛してる」

「よかった」と少女は言う。「わたしはきみのことが好きだったよ」

「今は?」

「今は、きみのことを愛してる。きみはわたしを救ってくれたんだよ」

「救ってはいないよ」

「容れ物を救えなくても、きみはわたしの心を救った。
わたしの中の怪物を迷わず受け入れてくれた。それはとても難しいこと」

「わからない」

「それでもいいんだよ」と少女は言う。
「きみがわたしを救ったってことを知ってくれていればいい」

「……わかった」

680: 2013/11/29(金) 21:49:30 ID:ktrzsTJ.

「じゃあね」少女は手を振りながら勇者から遠ざかっていく。「ありがとう」

「愛してる」と勇者は言った。
「行かないで……戻ってきてよ……。もうすこしだけここにいてほしい……。
今度はちゃんと守るから、もう一度だけ僕と歩いてほしいんだ……」

「わたしはずっときみの内側にいるよ。きみが望めば、
わたし達はいつでも出会うことができる」と少女は言った。
そして、「わたしも愛してるよ」と言い残すと、彼女の身体は
パズルのピースがひとつずつ欠けていくように、ゆっくりと分解されて消えていった。

彼女はいなくなった。その事実が勇者の足を止める。
腕には非情な冷たさがのしかかってくる。
自分が不甲斐ないせいで、彼女の炎を消してしまった。
でも、失われた灯火は、内側に微かな熱を残していった。
それは黒い渦の中心に居座ることになる。

681: 2013/11/29(金) 21:50:29 ID:ktrzsTJ.

「氏ぬな、歩け」と影は言う。
「きみの光は失われていない。
ちゃんと目を開けて、自分の周りをよく見てみるんだ。
あの女の子は幻影だ。彼女の紡いだ言葉は、
すべてきみの頭の中で思い描いた幻想でしかない。

いいか? 彼女は氏んで、もう二度と戻ってこない。きみは独りなんだ。
彼女が氏の間際に何を思っていたかなんて、僕たちには永遠にわからない。

長い夜が始まる。
それは海の底のように暗い、覚めることのない悪夢みたいな夜だ。
でも、僕らはそれに耐え切ることができるはずだ。

次に太陽を拝むとき、きっと僕らはまたひとつになれる。
きみは弱い僕のことを嫌っているのかもしれないけど、
もともと僕らはひとつだったわけだ。
僕らはあるべき姿に戻るべきなんだよ。そしたら、ゼロからやり直すんだ。
もう失うものも、僕らを脅かすものも、なにも失くなるんだ。
勇者なんて重荷を捨てて、僕らは文字通りのゼロになるわけだ。

さあ、いこうぜ。きみが灯りをともして、その長い夜を終わらせるんだ。
きみの崩壊が終わってしまう前に」

682: 2013/11/29(金) 21:51:18 ID:ktrzsTJ.
続く

683: 2013/11/30(土) 20:59:38 ID:f/3PFTQk

25


橋の果てには、雪と針葉樹と沈黙に閉ざされた世界があった。
柔らかみを持った雪には足跡ひとつない。
足元の白銀と対を成すように、空は暗雲に覆われている。

橋を渡りきったユーシャと魔法使いは
刻みつけるように雪を踏み、北の大陸に入り込んだ。

「すごい」とユーシャは白い息を吐いて嬉しげに言う。
「これぜんぶ雪なのか?」

「みたいね」と魔法使いは言った。

故郷の村にも雪はちらほら降ることがあったが、
ここまでの積雪を見るのは初めての事だった。
内側に静かな高揚が湧き上がるのを感じる。
空気は無慈悲とも言いたくなるほど冷たく、とても澄んでいた。
それはここに人間がいないからなのかもしれない、と思った。

生物の発する悪意は空気を汚す。でもここに悪意はない。
純粋で穢れのない清らかな空気が漂っている。
空気が美味いと感じるのは初めての事だった。

「さあ、さっさと行きましょう」

「うん」ユーシャはうなずく。「どっちに?」

684: 2013/11/30(土) 21:00:29 ID:f/3PFTQk

周囲には雪と木があるだけで、道と呼べるようなものはない。
ここには白と茶と緑しかない。とてもシンプルで分かりやすいが、
その光景は退屈であるとも言えるかもしれない。

「西よ」と魔法使いは言い、歩き始める。

北の大陸は東西に細長い形をしており、今いるのは東の端のほうだ。
目指すとすれば、それは大陸の中央か、北端だ。魔法使いはそう確信していた。

ユーシャは魔法使いの隣を歩く。
魔法使いの鼻と頬はりんごみたいに赤く、吐く息は雪のように白い。
俺もこんな感じなのだろうか、と思う。

685: 2013/11/30(土) 21:01:26 ID:f/3PFTQk

西へ向かう。雪の上を歩くのは骨の折れる作業だった。
最初の頃は景色や音や感触を楽しめていたが、二、三時間もすれば嫌になってくる。
代わり映えしないというのはやはり退屈だった。進んでいるという実感がない。

ところどころに、動物や怪物の影が見えた。
犬や狼のような、全身を毛で覆われたものだ。
こちらに気付くことはあっても、襲い掛かってくるということはない。
ここに悪意はない。
ただ、純粋な食欲が彼らを突き動かした場合は襲われるかもしれない。

十時間ほど歩いたところで、凍りついたテントのような施設を発見した。
空は相変わらず暗雲に覆われていて、いまが昼なのか夜なのかは不明だが、
とりあえずその日はそこで身体を休めることにした。

テントのなかは決して広いとはいえなかった。
ふたりが横になれば足の踏み場はなくなる。
それでも冷たい風を凌げるのなら十分といえる設備だ。

北の大陸はあまりにも寒すぎるのだ。
ここの環境は人間が生きていくのには適さない。
まるで人間を拒絶するような冷たい空気が大気には漂っている。
しかしそこにも悪意はない。

686: 2013/11/30(土) 21:02:27 ID:f/3PFTQk

魔法使いはテントのなかに座り込む。ユーシャも隣に座る。
テントのなかには小さな鉄の鍋とカンテラ、
火打ち石と腐った木の枝、それと鉄の容器に入った油がある。
それらは希薄ではあるが、生活感を漂わせている。

「ここにもひとがいたんだな」
ユーシャはカンテラを掴んで、しげしげと眺めながら言った。
「こんなに寒いってのに」

「多分、そのひと達はこの大陸を探検してたんじゃないかしら」と魔法使いは言う。
「テントも仮設みたいな感じだし、本格的な器具もない。
ここは探検途中の拠点のひとつなのかも」

「こんなところを探検してどうするつもりだったんだろう」

「こんなところだからこそ探検なんじゃないの。
未開の地なんて、もしかすると大量の鉱物が眠っているかもしれないし、
貴重な木や動物が生息しているかもしれない」

687: 2013/11/30(土) 21:04:38 ID:f/3PFTQk

「なるほど」とユーシャはマントに包まって言う。「ご苦労なこった」

「たしかにね。わたしなら、頼まれてもこんなところには来ない」

「でも来てる」

「あんたが行くって言うから」

「ごめん」

「いいのよ」魔法使いはユーシャに凭れ掛かる。
「たとえあんたが付いてくるなって言っても、わたしは付いていくわ。
ぜったいに離れないからね」

「ありがとう」

ふたりはお互いの身体を締め付け合うようにして眠る。
十七歳の身体はすぐに火照り、熱くなる。

688: 2013/11/30(土) 21:05:42 ID:f/3PFTQk




翌日も同じように足跡を雪に刻みながら歩いた。
指先が凍ってしまいそうだったので、手を繋いで歩くことにする。
それでも寒いことには変わりはなかったが、気分的には楽になった。

しかしいつまで経っても代わり映えしない景色を見ていると不安になってくる。
どこまで歩いても空には黒雲があり、足もとに雪があり、
その間に雲を支えるように木が屹立している。

方向感覚が狂って、同じ所をぐるぐると回っているのではないかという不安に駆られる。
でもそんなことはなかったようで、しばらくすると森のような地帯は終わり、
雪原のように広々とした場所に出た。

689: 2013/11/30(土) 21:06:16 ID:f/3PFTQk

その日も十時間近く歩いたところで、仮設のテントのようなものを発見した。
なかにあるものは小さな鉄鍋とカンテラ、火打ち石に油と、
昨日見つけたテントとほとんど変わらない。
ただ、この地点にはテントが五つほどあった。
どこのテントにも似たようなものしか転がっていなかった。

小さな鉄鍋に雪を詰め込んで、魔術で火を付けて溶かし沸騰させた。
それを胃に流し込む。白湯は身体全体に染み渡るようだった。
かつてこれほどまで白湯に感謝することはなかった、とユーシャは思う。

身体が温まると、湧き水のように空腹感が現れる。
袋の木の実はまだ十分に残っているが、
それではなかなか満たされない。立ち上がり、テントの外へ向かう。

「どこに行くの?」と魔法使いが背中に声をかける。

「外」とユーシャは言う。「何か動物を捕まえてくる」

「わたしも行くわ」魔法使いはあとに続いた。

690: 2013/11/30(土) 21:06:50 ID:f/3PFTQk

外は夜よりも濃い闇に覆われているように思えた。
月も星もここを照らしてはくれない。

魔法使いは魔術の光で辺りを照らした。
あまりの眩しさに、すこし目が眩む。でもすぐに慣れた。
ユーシャはゆっくりと歩き始める。魔法使いも隣に付いて歩く。

歩き始めて十五分ほどが経った。
その辺りで、魔法使いは真っ白なウザギを見つけた。
雪のように白い毛のなかに、赤く輝く目がぽつりと見える。
それは鉱山に眠る宝石を思わせる輝きだった。“欲しい”と思わせる光だ。

魔法使いは呪文をつぶやき、ウサギの足を氷の槍で貫いた。

「何かいたのか?」

「あっちにウサギがいた」と魔法使いは答える。
「あんたが捕ってきて。足止めはしておいたから」

「分かった」とユーシャは言って、魔法使いが指差した方向へ向かった。

蜘蛛やら爬虫類やらには容赦無い魔法使いだが、
ウサギや犬猫といった動物を前にするとそうはいかない。
小動物を愛おしむ心があるのだろうか。
でもそういうのはあいつらしいところだ、とユーシャは思う。
ウサギの皮を剥いで肉だけを焼いて差し出すと嬉しそうにするのもあいつらしいところだ。

691: 2013/11/30(土) 21:07:40 ID:f/3PFTQk

足から血を滴らせていたウサギを捕まえて首の骨を折り、
魔法使いといっしょにテントに戻った。

テントの外でウサギの皮を剥いでいると、
塔の怪物の亡骸を思い出して、猛烈な吐き気に襲われる。
故郷の村でウサギやら熊やらの皮を剥いだことは何度もあったが、
それによって吐き気に苛まれるなんてことは一度もなかった。
いったい何がどうなってるんだ。俺はそんなに変わってしまったのだろうか?
たかが怪物一体の氏体で。

胃の中身を吐き出して、咳き込んだ。
乾いた咳のあとに大きく息を吸い込むと、肺が凍りついてしまいそうだった。

692: 2013/11/30(土) 21:08:19 ID:f/3PFTQk

咳を聞いた魔法使いはテントから出てきた。
こちらに駆け寄って背中をさすりながら、「大丈夫?」と言う。

「もう大丈夫」とユーシャは咳き込んで言う。「ちょっと思い出しただけだよ」

「塔の怪物?」

「そう」ユーシャはウサギだった肉塊を眺めながら言う。
「あいつとこいつ、何が違うんだろうな」

693: 2013/11/30(土) 21:09:15 ID:f/3PFTQk

ウサギの解体が終わると、その肉を焼いて、噛みしめるように食べた。
久しぶりの肉は非常に美味だったが、完全な満腹感や満足感を得ることは出来なかった。
噛みちぎりにくい筋のようなものが、心のどこかに居座っている。
それをなかなか砕いて飲み込めない。

ふたりは再び、お互いの身体を締め付け合うようにして眠る。
ユーシャは魔法使いの寝顔を見つめる。口元には笑みが浮かんでいる。
力が漲ってくるのを、ひしひしと皮膚の下に感じた。そしてひとつの決心をした。

694: 2013/11/30(土) 21:10:10 ID:f/3PFTQk




そのようにして何十日も経った頃、ようやく景色に変化が現れた。

その日は吹雪だった。視界は決して良好とは言えず、足もとの雪も深みを増していた。
しかし、遠くに目を向けると、微かに大きな影のようなものが見える。
それは今までに見た仮設テントのようなシルエットではなく、もっと大きなものだ。
雲の切れ間から射す微かな陽光のような小さな希望が、胸の辺りを熱くする。

さらに近寄ってみると、それははっきりと目で捉えられるようになった。
木造の家屋だ。数はひとつやふたつではなく、十数はある。
家屋が並んでいるという光景は小さな村を思わせる。

ただ、家屋以外には何も見当たらない。
村というよりは、雪と木に囲まれた牢獄のように見える。
それでもそこに向かわないという考えはなかった。

695: 2013/11/30(土) 21:11:07 ID:f/3PFTQk

ユーシャは魔法使いと身体を引きずるように歩き、木造の家屋の前に立つ。
どこにも光は灯っていないし、窓を覗きこんでもひとの気配はない。
迷わずドアを押して転がるようになかに入って、急いでドアを閉めた。
強い雪と風が窓とドアを叩く音が響く。
外からは、べつの世界から吹いてきたような風の唸り声が聞こえる。

「助かった……」とユーシャは誰に言うわけでもなくこぼした。

「寒すぎて氏にそう」魔法使いはマントにへばりついた雪を手で払った。

目の前の廊下を渡る。足元の木がしなり、軋んだ音を吐く。
廊下を渡りきった先には小さな部屋があった。
まず目に飛び込んできたのは、正面にある火のついていない暖炉だった。
前には何かの動物の皮が敷かれている。熊か何かの剥製だろう。
魔法使いは早足でそこへ向かい、隣に転がっていた薪を暖炉に投げ込んで火を付けた。

柔らかな光が部屋を覆う。改めて部屋を見渡すと、荒れているというのがよく分かった。
床は血が染み込んだように黒ずんでいて、家具はほとんど床に倒れている。
隅には白い石のようなものが見えた。その脇には破損したひとの頭骨が転がっていた。
今更そんなことは気にならない。暖炉に向かって歩く。

696: 2013/11/30(土) 21:12:02 ID:f/3PFTQk

魔法使いは暖炉の前に腰を下ろした。ユーシャも隣に座る。
しばらくはぱちぱちと音をたてる薪と炎を見つめた。頭がぼうっとしてくる。
疲れが噴き出したようで、身体が重みを増した。
それは魔法使いも同じようで、彼女は肩に頭を載せてきた。

「あったかい」と魔法使いは炎を見つめたまま言う。

ユーシャは黙って魔法使いに寄りかかった。
何かを言おうと思っても、うまく言葉で伝えることができない。
頭がまわっていない、と思う。疲れと安心感で、脳は眠りにつこうとしている。

「眠いの?」と魔法使いは訊ねる。

ユーシャは黙ってうなずく。そのまま魔法使いに覆いかぶさるようにして微睡んだ。

697: 2013/11/30(土) 21:12:57 ID:f/3PFTQk




翌日は、昨晩の吹雪が嘘だったみたいに止んでいた。
ただ、空には依然として黒々とした雲が漂っている。
ドアを開き外に出て、深い雪を踏む。
ちいさく息を吸い込んで吐き出す。そして辺りを見渡す。

木造の家屋は円を描くように並んでいて、
円の中心にはひとがひとり座れるほどの大きさの岩がぽつりとある。
歩きまわって家のなかを覗きこんでみても、ひとは一人もいない。
見た目は村なのだが、中身は廃村やゴーストタウンと呼ばれるようなものだ。

その中心の石からすこし北に進んだところからは、ほぼ垂直の壁のようになっている。
どうやらこの先は山になっているらしい。ここから北には向かうことはできない。
そしてそのほぼ垂直の壁には、縦横の幅が五メートルほどの洞窟が見える。

洞窟のなかに足を踏み入れる。
気温の変化はほとんどなかったが、何か異質な空気を感じた。
思わず足を止めた。とても嫌な空気だ。

698: 2013/11/30(土) 21:14:02 ID:f/3PFTQk

「どうしたの?」魔法使いは魔術の光をともした。

「なんか、すごく嫌な空気だ」とユーシャは言った。
「胸がむかむかして、気分が悪くなるような空気」

「戻ろうか?」

「いいや」ユーシャは歩く。「ちょっとだけ探検していこう」

洞窟はまっすぐ伸びていた。
両脇には炎の灯っていないカンテラやらランタンやらが、等間隔で吊るされている。
足元には二本のレールが敷かれていて、まっすぐ奥に伸びている。

しばらく歩くと、ひっくり返ったトロッコがあった。
脇には錆びたツルハシやスコップ、バケツなどが転がっていて、
それらに混じって、また人骨が転がっていた。

ここは何かの発掘現場とか、鉱山だったのだろうか。
しかし何らかの異常が起こったことにより、ひとが氏んだ?
ほんとうのことは何もわからない。

699: 2013/11/30(土) 21:14:52 ID:f/3PFTQk

「なんだか、すごいところね」と魔法使いは言う。

「そうかな」

「うん。エネルギーに満ちてるわ、この洞窟。
もしかすると、たくさんの金があるのかも」

「金?」

「そう。前にも言ったじゃないの。金は魔術の威力を増幅させたりするって」

「言ってたっけ?」

「言ってなかったっけ?」

魔法使いは回想する。言った。間違いなく。
ただ、ユーシャには言っていなかったような気がしてきた。
もしかすると、大剣使いに言ったんだったか。自信が失くなってくる。

「もしかすると、言ってなかったかも」と魔法使いは言った。

700: 2013/11/30(土) 21:17:11 ID:f/3PFTQk

途中に細い脇道がいくつもあったが、まっすぐ歩いた。
十数分歩いたところで、行き止まりに突き当たる。

そこには切れ目があった。岩肌にではなく、空間を縦に裂くような切れ目が入っている。
切れ目は地面から一メートルほどの高さにあり、切れ目の大きさも一メートルほどだ。
それを中心に、周囲のさらに一メートルほどの空間が歪んで見える。
まるで見えない炎がそこにあるかのようだった。

魔法使いは訝しげにそれを凝視するが、
ユーシャにはそれが何なのか、すぐにぴんと来た。
鼓動が早くなり、皮膚が焼けるような感覚に襲われる。
吸い込んだ空気は、とても邪悪なもののように思える。

ユーシャは言う。「“門”だ」

701: 2013/11/30(土) 21:18:23 ID:f/3PFTQk

「“門”?」魔法使いはユーシャの顔を見てから、もう一度それを見る。
「これが? どうして分かるの?」

「分からないけど、分かるんだ」

「なにそれ。直感ってこと?」

「勇者の直感だ」

「なにそれ」魔法使いは呆れた。

「間違いない」とユーシャは真剣な眼差しで“門”を見据える。
「あの向こうに魔王がいて、俺はそこに行かなきゃだめなんだ」

魔法使いユーシャの目や雰囲気に思わず気圧される。
今までに見たことがない面だった。
それは魔法使いを不安にさせ、すこし恐怖させる。
「……ほんとうにあれが“門”なのね?」

ユーシャはうなずく。

「どうするの?」と魔法使いはそわそわと訊く。

「一度戻ろう」ユーシャは踵を返す。「準備がいるんだ」

「準備って、どんな?」

702: 2013/11/30(土) 21:19:06 ID:f/3PFTQk

「心の準備とか」とユーシャは言う。「まあ、他はあとで言うよ」

心のなかで、心に決めたことを確認する。
ほんとうに実行するのか? ほんとうに耐え切れるのか?
ほんとうに魔王を倒すことができるのか?

できる、と強く思う。もう決めたことだ。そのことに揺るぎはない。
身体のなかの湖には氷が張っている。
それは硬い決意のようなものだ。さざなみや波紋の揺らぎはない。

全てが終われば、元に戻るんだ。その時はもう一度、ゼロから始めるんだ。
ユーシャは自分に言い聞かせる。
だからそれまで、すこし離ればなれになるだけだ。ただ、それだけのことだ。

703: 2013/11/30(土) 21:20:20 ID:f/3PFTQk




暖炉の家に戻ってきた。
魔法使いは暖炉に火をともし、その前に座り込む。ユーシャも隣に座る。
しばらくはどちらも黙りこんでいた。
沈黙を埋めるようにぱちぱちと薪は弾け、空気を温める。

やがてユーシャは魔法使いと向かい合い、口を開く。「聞いてほしいことがある」

「嫌よ」と魔法使いはユーシャの目を見て言った。「そんなのぜったいに認めない」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「言わなくても分かるのよ。どうせ自分ひとりで“門”をくぐろうとか思ってるんでしょ?」

ユーシャは何度かまばたきをして言う。「ばれてた?」

「あんたのことは何でも分かるわよ」

「すごい」

704: 2013/11/30(土) 21:22:23 ID:f/3PFTQk

「すごい、じゃないわよ。どうしてひとりで行こうとするの? 前に言ったはずよ。
“わたしを頼れ”って。“あんたが隣にいないと嫌”って」

「俺もお前が隣にいないと嫌だけど、でもさ、それ以上に、
お前に危ない目に遭ってほしくないんだ」

「今更何を言ってるのよ。もう散々危ない目には遭ったわよ」

「でも今回だけは今までの比じゃない。向こうには何があるか分からない。
何も分からないんだ。もしかすると、ほんとうに氏んじまうかもしれない」

「だからこそわたしも一緒に行くんじゃないの。
それに、あんたが氏んだらわたしも氏ぬわ」

ユーシャは魔法使いの目を睨みつける。
「お願いだから、簡単に氏ぬだなんて言わないでくれ」

705: 2013/11/30(土) 21:23:32 ID:f/3PFTQk

魔法使いはユーシャを睨み返す。
「“簡単に”? ほんとうにそう思ってるの? あんたには分からないの?
あんたが居なくなるってのが、わたしにとってどういう事なのかが」

「俺はいなくならない」

「結果的には帰ってくるって事でしょう? あんたはどこかに行く。
それは一時的であれ、わたしの前からあんたが消えるってこと。
時間の問題じゃない。長いとか短いとか、そういうのじゃなくて、
あんたがここに、わたしの側にいないと何の意味もないの。
そうでないと、わたしはわたしじゃなくなるの」

「でも、門の向こうで氏んだらそんなことも言ってられない」

「あんたがひとりで門をくぐって、向こうで氏んだらどうするのよ。
じゃあ、たとえばわたしがひとりで門をくぐるって言ったら、あんたはどうするの?」

「そんなことぜったいにさせない」

「それと同じよ。わたしもあんたがひとりで門をくぐるなんて、
そんなことはぜったいにさせない」

706: 2013/11/30(土) 21:24:50 ID:f/3PFTQk

「俺は氏なないよ」

「当たり前よ」

「すぐに戻ってくる」

「だったらわたしもいっしょに行く」

「だめだ」

「どうして?」魔法使いは立ち上がって、声を張り上げた。
「どうしてひとりで行くだなんて言うのよ?
あんたはひとりじゃあ何も出来ないんだから、もっとわたしを頼りなさいよ……。
どうしてわたしを置いていこうとするのよ……」

707: 2013/11/30(土) 21:25:50 ID:f/3PFTQk

「たしかに俺はひとりじゃあ何もできないけど、魔王を倒すことだけはできる」
ユーシャは立ち上がって、魔法使いの目をもう一度覗き込む。
彼女の瞳には水晶のような純粋な輝きがある。その輝きは感情の波で揺れる。

「何を根拠に言ってるのよ」

「勇者の直感」

「そんなの信じない」

「じゃあ、お前は向こうで俺が氏ぬと思ってるのか?」

「そうよ。わたしがいないと、あんたは向こうで氏ぬわ」

「何を根拠に言ってるんだ」

「魔法使いの直感」

ユーシャは笑った。「真面目なのかふざけてるのか、分からないよ」

魔法使いはユーシャの頬を打って、震える声で言う。
「ふざけないで……。わたしは大真面目よ」

708: 2013/11/30(土) 21:26:34 ID:f/3PFTQk

「俺は氏なない」

「分かってる。さっきも聞いた」

「信じてくれ」

「信じてるわよ。だからあんたもわたしを信じなさいよ。
いっしょに行っても氏なないって」

「分かってる。お前は氏なない。でも怪我をするかもしれない」

「怪我くらい、今更なんだっていうのよ。傷が残っても、べつに誰も気にしないわ」

「向こうには何があるか分からないんだぞ。
傷どころか、手や足が失くなったらどうするんだ」

「そっくりそのまま返すわ。それに、わたしはべつに手足が失くなってもいい。
あんたが隣に居れば何でもいい。
あいつも言ってたじゃないの、“生きて歩いていればどうにでもなる”って」

「だから、簡単に手足が失くなってもいいだなんて言わないでくれ。
俺はお前に、そんな目に遭ってほしくないんだ」

709: 2013/11/30(土) 21:29:11 ID:f/3PFTQk

「わたしだってあんたがひとりでそんな目に遭ってほしくないの。
さっきからずっと言ってるわ。
だいたい、癒やしの魔術も使えないのにどうやって戦うつもりなの?
無傷で帰ってこられると思ってるの?」

「無傷で帰ってこられるとは思ってないよ。
もしかすると、手足が失くなることもあるかもしれない。
でも俺は生きて帰ってくる。それは絶対だ。
生きて歩いてさえいればどうにでもなるんだろ?
俺はお前が隣にいて、生きて、歩いていればいいんだ」

「だから、わたしだってそうだってさっき言ったでしょ? どうして分からないの?」

「分かってる」

「分かってない。それとも何、わたしが嫌いなの? どうしても離れたいの?」

「そんなわけないだろ。俺はお前のことが好きで、離れたくもない」

「だったら、どうしてひとりで行くだなんて言うのよ……」
魔法使いの目から大きなしずくが落ちる。

710: 2013/11/30(土) 21:30:19 ID:f/3PFTQk

「……それは、俺だってひとりは嫌だし怖いけど、
お前が嫌な目に遭うのはもっと怖いんだ」

「何よ、それ。結局、自分を守りたいだけなのね……」

ユーシャは何も言えない。魔法使いに言われて気がついた。
結局、彼女を置いていくのは
自分が傷つかないための口実でしかなかったのかもしれない。

「結局、逃げてるだけじゃないの……。
わたしを守りきれる自信がないから、置いて行きたいのね……。
あんたが弱いからわたしが傷を負って、それを見るのが嫌なんでしょ……。
あんたは重たくてつまんない責任感を背負いたくないだけなのよ……。
そうよ、あんたはひとりじゃあ何も出来ないんだから……。
わたしを守りきることもできないのよ……」

何も言うことができない。
喉に粘り気のあるものが込み上げる。胸に熱い何かが詰まる。
たしかに、彼女の言うとおりだ。自分ひとりでは誰も守れやしない。
魔法使いの傷ついた姿を見たくないとは
思っていたが、その理由など考えもしなかった。

ほんとうに彼女の言うような理由で、俺はこいつを置いていこうとしたのだろうか?
自分の深いところにあるのは、結局は
誰かへの想いではなく、自己防衛の考えなのだろうか?

違う、と何かが言った。

711: 2013/11/30(土) 21:31:16 ID:f/3PFTQk

「うそつき」魔法使いはユーシャの身体に手をまわす。
「わたしを守るって言ってくれたのに……。
どこにも行かないでほしいって言ってくれたのに……。
ずっと昔に約束したのに……
ずっといっしょにいるって、あの丘の木にふたりで書いたのに……」

「ごめん」心に張った氷にはさざなみや波紋ほどの揺らぎもない。
決心は揺るがない。「もう決めたんだ」

「うそつき……」

「……それでも構わない」

「あんたなんか嫌いよ……」

「……うん」

「大嫌い……」

「……」

「あんたなんかもう、氏んじゃえばいいのよ……」

「……お前が俺のことを嫌いでも、俺はずっと」

「そんなの聞きたくない……」

712: 2013/11/30(土) 21:33:45 ID:f/3PFTQk

ユーシャは魔法使いを抱き寄せる。「ぜったいに戻ってくる。すぐに戻ってくる」

「嘘。だってあんたはうそつきなんだもの……。もう信じない……」

「ちょっと離れたところに行くだけだよ。戻ってきたら、ずっと一緒だって」

「嫌よ……今からずっと一緒に居たい……」

「ちょっとだけ我慢してくれ」

「嫌……やっとこうしていられるようになったのに……どうして……」

「帰ってきたらさ、もう一回こうやってほしい。“ぎゅっ”てやつ」

「何度だってするから、ひとりで行くだなんて言わないで……」

「帰ってきたら、お前のお願いをひとつ聞くよ」

「そんなのいらないから、ひとりで行かないで……」

713: 2013/11/30(土) 21:34:35 ID:f/3PFTQk

「……明日の朝、ひとりで“門”をくぐる。お前はここで待っててほしい。
べつにここじゃなくても、故郷の村でも、どこだっていい。
俺はぜったいにお前のとこに戻ってくる」

「そんなことできっこないわ……」

「できる。ぜったいにできる」

「何を根拠に言ってるのよ……」

「愛してるから」

「そんなの理由にならないわよ……」

「でも俺の隣にはお前がいて、お前の隣には俺がいるようになってるんだ。
そうしないことには何も始まらないだろ。だから俺は戻ってくる」

「むちゃくちゃよ……。もういい」

714: 2013/11/30(土) 21:35:07 ID:f/3PFTQk

魔法使いはユーシャを押し倒した。床の木は軋んだ音を鳴らす。
背中に鈍い衝撃が走った。が、それは大したことではなかった。

魔法使いはそのままユーシャの口を塞ぐ。口内に舌が入り込み、這いまわる。
魔法使いの頬から、冷たいしずくが落ちてくる。それは頬を濡らす。
しばらくすると魔法使いは唇から離れ、ユーシャに馬乗りになる。
そして大声で泣き叫んだ。それは芯を削り、抉ってくるような絶叫だった。

屋根を伝って生まれた大きなしずくのように、しょっぱい雫が唇の辺りに落ちてくる。
暖炉からの光が長い髪に遮られ、顔に影を作り出しているおかげで、
魔法使いの表情ははっきりとは見えない。

「今だけなんだ。これが終わったら俺たちはずっと一緒なんだ」と
ユーシャは言ったつもりだったが、声は出なかった。
喉に詰まった何かは声を消し、目頭を熱くさせ、頬を濡らす。

715: 2013/11/30(土) 21:36:56 ID:f/3PFTQk

魔法使いはユーシャの胸に手を押し付けて言う。
「なんで、あんたが泣いてるのよ……」

「分からない」滲む視界に映る魔法使いを見る。
どんな表情をしているのかは分からない。
何も分からなくなってくる。「でも、すごく悲しい……」

「わたしだって悲しい……」魔法使いはもう一度ユーシャの口を塞ぐ。

舌が入り込んでくる。熱い舌は口内を力強く這いまわった。
またしばらくして魔法使いはキスを止めて、着ていた服を脱ぎ捨てた。
ユーシャも服を脱いで、魔法使いの身体を抱き寄せた。

「好きにして」と魔法使いは耳元で言った。「もう頃してくれたっていい……
勝手にすればいいわ……あんたなんかもう、どうにでもなっちゃえばいいのよ……」

ユーシャは黙って魔法使いの口を塞いだ。

716: 2013/11/30(土) 21:37:32 ID:f/3PFTQk




魔法使いは目を開く。暖炉には炎が灯っている。周囲には散らばった服がある。
昨日の夜と変わったことはほとんどない。でもユーシャはここにいなかった。

手を伸ばしたところに、彼の残していったぬくもりと残り香がある。
乾いた唇を舐める。しょっぱくて苦かった。彼の唇の味は残っていない。

彼自信の匂いや汗の匂い、吐き出した精の匂いが胸に空洞を作り出す。
散らばった服を掴んで抱き寄せた。すこしだけ彼の匂いがした。とても落ち着く匂いだ。
でも彼はここにいない。
どれだけ身体が身体を、心が心を求めても、彼という存在はここにはいない。
それは、今だけはずっと遠い場所にある。それこそ、手の届かない場所にある。

717: 2013/11/30(土) 21:38:31 ID:f/3PFTQk

服を着て立ち上がる。杖を掴んで、ゆっくりと外に出た。
外ではちらちらと雪が降っていた。
辺りに広がる雪には足跡が見えた。まっすぐと“門”のあった洞窟の方に伸びている。

白い呼気に身を包み、足跡を辿るように洞窟へ向かう。
足跡に歩幅を合わせてみる。彼の歩幅は広かった。
魔法使いは、そんなことさえ知らなかったんだな、と思った。
あいつのことなら何でも知ってると思ってたのになあ。

洞窟は真っ暗だった。日の光は殆ど無いし、カンテラにももちろん炎は灯っていない。
彼はひとりで、この真っ暗な道を通ったのだろう。きっと寂しかっただろうな。

魔術の光で辺りを照らし、歩く。足音が歪な形をした壁にぶつかって反響する。
それは自身がひとりであるということを強く感じさせる。
洞窟の壁が迫ってくるような息苦しさを覚える。
身体は冷え、ぬくもりを求め始める。わたしを助けて、と魔法使いは思う。
あんたこそがわたしを救うのに、どうしてここにいないの?

足もとに敷かれたレールに沿って十数分
歩いたところで、洞窟の突き当りに辿り着いた。

ユーシャの歩幅に合わせたわけではなかったのに、
昨日と同じような時間で辿りつけた。
彼はわたしの歩幅に合わせて歩くペースを落としてくれていた、と魔法使いは気付く。
そんなことに気付いたってどうしようもないのに、
今頃になってそんなことばかりが見えてくる。

718: 2013/11/30(土) 21:39:27 ID:f/3PFTQk

突き当りに目を向ける。
そこに“門”はなかった。“門”は彼を通し、姿を消してしまった。
代わりに、彼の羽織っていたマントと、小さな紙が地面にあった。
マントを拾い上げて抱きしめる。思いきり息を吸い込んだ。
マントはまだすこし温かくて、彼の匂いを強く感じた。

小さな紙を拾い上げる。
そこにはへたくそな文字で、「すぐにもどってくるから、まっててほしい。
ぶじでかえってこれるようにいのっててくれ」と書かれていた。
彼からの言葉はそれだけだった。

ユーシャのマントを羽織り、来た道を引き返して、また暖炉の家に戻ってきた。
扉を全て閉じる。そうすることで部屋に残る香りや空気を、
そのまま閉じ込められるような気がした。

暖炉に火をともし、前に座る。
炎は空気にぬくもりを与える。でも魔法使いには与えてくれない。
炎の熱が皮膚を撫でる。それにより、周囲の空気の冷たさを強く感じる。

719: 2013/11/30(土) 21:40:05 ID:f/3PFTQk

ユーシャのマントに包まりながら、回想する。丘の木に書いた約束。
故郷の村からの出発。丘で見た星々。星形の痣。
素直にならなかった自分。初めて見た船。
大剣使い。南の大陸の大きな森林。ふたりだけで歩いた町。禿げた男。
疫病により滅びかけた国。宿では寝ぼけて甘えたことがあった。
蜘蛛の巣。巨大な蜘蛛。大剣使いの氏。わたしを抱えて走る彼。

回想は止まらない。
何かの栓が抜けたように、頭から様々な光景が溢れだし、目の前に浮かんでくる。
それはゆっくりと色を失っていった。すべて遠い過去のことのように思える。
二度と取り戻すことはできないし、それについて話すものもいない。

わたしはひとりだ、と思う。

720: 2013/11/30(土) 21:40:55 ID:f/3PFTQk

回想は続く。壊れた彼。おどおどとした白衣の女と、汚い白衣の男。
立ち直った彼。怪物を操る研究。研究所。逆立ちした彼。考える彼。
たくさんの傷。わたしが手を差し伸べると、ありがとう、と彼は言ってくれた。
呪術の村。揺るがないわたしの想い。彼の想い。ぶ厚い本。隣で眠る彼。
彼の背中で眠るわたし。

大雨。宿のベッド。素直になった自分。素直になった彼。その日は何度も身体を重ねた。
東の大陸北の村。温かい家族に出会った。一緒にチェスをした。約束。そこでも彼と身体を重ねた。
塔。怪物。血まみれの氏骸。吐瀉物。汚れた彼。橋。雪。テント。ウサギ。抱き合って眠った夜。
廃村。家。暖炉。洞窟。足元のレール。門。暖炉の前。喧嘩。彼の感情。彼の身体。約束。

孤独。炎。暖炉。今。これから――

721: 2013/11/30(土) 21:42:09 ID:f/3PFTQk

すべて通り過ぎていった。
記憶は竜巻のように身体の内側をかき乱し、引き裂いて、姿を消そうとしている。
今の魔法使いには、そんな敵意をむき出しにしたような
記憶や思い出に価値を見出すことができなかった。頭に浮かぶのは彼のことばかりだ。
出会ってから昨日の夜までのすべてのことが再生される。

胸の内から溢れる黒い煙のような思いが身体を包む。
頬があたたかく大きな雫で濡れた。空っぽの魂は叫び声をあげる。
その声は誰にも届かない。どれだけ叫んでも彼は戻ってこない。
ドアが開く音も、足音さえも聞こえない。

魔法使いは自身の内側から、生きる意思と意味がゆっくりと失われていくのを感じた。

722: 2013/11/30(土) 21:42:50 ID:f/3PFTQk

26


橋を渡りきった先には白銀の世界があった。吹雪は視界を遮り、体温を奪う。
勇者は赤黒いマントに包んだ僧侶を抱えながら、北の大陸を踏む。
足元の雪は冷たくまとわりついてくる。そこには悪意を感じることができた。
全てが意思を持って、自分の行く先を遮ろうとしているように見える。

東に向かって数時間歩いたところで、小さなピラミッド型の影が見えた。
近づいてみると、それは簡易型とも呼べるようなテントだった。
勇者はそこへ身を滑り込ませ、僧侶を脇に置いて、倒れこむように身を投げる。

内部は、人間ふたりが寝転べば足の踏み場が失くなってしまうほどの広さだった。
漫然と見回すと、隅のほうにはカンテラや鉄の鍋、
火を起こすための石が無造作に転がっている。
それ以外にはものといえるようなものはない。
ほんとうに眠るためだけの簡易テントなのだろう。

手足を伸ばすと、関節に冷気が流れ込んでくるような感覚に襲われる。
手足を折りたたんで身を丸め、テント内の暗闇に目を向ける。
身体が夜の闇に飲み込まれていくような気がした。

723: 2013/11/30(土) 21:43:36 ID:f/3PFTQk

「寒いな」と影が言った。「こんな雪ははじめてだよ。砂嵐みたいだ」

「そうだな」と勇者は言った。「僕は砂嵐を見たことはないけどな」

「僕だってそうさ。僕はきみで、きみは僕なんだからな」

「分かってる」

「分かってるならいいんだ。
僕を否定するというのは、自分自身を否定するのと同じだからな。
たとえ僕が過去の弱いきみであろうと、それはやっぱりきみ自身なんだ」
影は笑った。
「こう寒くて寂しいと、お腹が減ってくるよな。
お腹が減ると苛々するし、眠れないんだよな」

「そうだな」

たしかに空腹感と孤独感が、瞼を軽くしているように感じられる。
自分自身に苛々もしている。ただ、それ以上に寒くてどうしようもなかった。
関節は折りたたまれたまま、凍りついてしまったかのようだ。

「なあ。外に行かないか?」

724: 2013/11/30(土) 21:55:24 ID:f/3PFTQk

「外」勇者は目を見開き、テントの布越しに外の闇を凝視する。
耳を澄まさなくても、空気を切り裂くような鋭い風の音と、
テントに叩きつける雪の弾けるような音が聞こえる。
見なくても、テントの外では悪意を持った吹雪が跋扈しているのが分かる。
「外に出てどうするのさ。僕に氏ねっていうのか?」

「あのな、言わなくても分かっていると思うけど、きみが氏んだら僕も氏ぬんだ。
きみは氏にたがっているのかもしれないけど、僕はまだ氏にたくはないんだ。
僕はきみに生きていてほしい。だからこそ外へ行くんだ。
もしかすると、小さなウサギなんかがそこらにいるかもしれない」

「一日くらい、何も食べなくたって氏にはしないさ」

「吹雪が一日で止むだなんて誰が言った?
吹雪が何日も続いてみろ。きみはどんどん弱っていく。もちろん僕もだ。
そしたら外に行くどころか、もう歩くこともできなくなるかもしれない。
体力がある今のうちに動いて、腹をふくれさせるんだ」

「腹が減っても氏にはしないし、僕は歩くことができる」

「いいや、できないね。きみは人間なんだから」

「どうだか」勇者は吹き出した。

725: 2013/11/30(土) 21:56:16 ID:f/3PFTQk

「きみは人間だ」と影は言う。
「きみの内側を満たしている黒い煙はきみを前に動かすための原動力にはならない。
今のきみが魔王を討つのに必要なのは、充分な睡眠と食事だ。
彼女も言ってただろう、“いっぱい寝て、お腹いっぱいになってからが始まりだ”ってさ。
“そこがゼロなんだよ”。
もっと冷静になれ。炎を見失ったからといって、うろたえちゃだめだ」

「見失ってなんかいない」勇者は赤黒いマントに目を向ける。「炎はそこにある」

「冷たくて光を放たない炎なんて、炎じゃない。あんなものは氷と同じだ。
きみが炎で、あれは氷だ。でもきみは氷に飲み込まれかけている。
炎が氷に負けるなんて、聞いたことがないのにな」

「僕は炎じゃない」

「そうだな。きみは光だ。ただの光だ。
だからきみの足元に僕みたいな大きな影が生まれるのは当然のことだ。
……それで結局、外には行かないのかい?」

「今は行かない。ものすごく身体が重くて、眠いんだ」

「じゃあ眠るといい。僕はきみが氏なないように祈ってるよ。おやすみ」

726: 2013/11/30(土) 21:56:51 ID:f/3PFTQk


翌日も吹雪だった。翌々日も吹雪だった。その次の日も吹雪だった。
勇者は身を折りたたみ、テントのなかでうずくまっていた。
四日間なにも口にしていないとなると、さすがに腹は空っぽの悲鳴を上げる。

「だから僕は言ったんだ」と影は言う。

たしかに影の言うとおり、身体から自由はゆっくりと奪われていった。
関節はほとんど凍りついたような感覚だ。
視界はかすみ、歪んでいる。目からは何かの栓が抜けたみたいに涙が溢れている。
思考は回り続ける。過去に想いを馳せ、暗い未来を想う。
そして終わりの先のことを夢想する。

727: 2013/11/30(土) 21:58:12 ID:f/3PFTQk

「今なら間に合う。早く外に行け。
とりあえず雪を集めてこい。鉄の鍋にぶち込んで、湯を沸かせ。
身体を暖めろ。いいか、氏ぬんじゃないぞ、歩くんだ。
考えるのを止めるな。お前は勇者なんだろう?
前にも言ったけどな、お前は俺よりも強いんだ。
もっと自信を持て。お前は氏んじゃだめなんだ」

勇者は言うとおりにテントから這い出て、雪をかき集めてまたテント内に戻る。
集めた雪を鍋につめて、魔術の炎で湯を沸かしてそれを飲んだ。
凍りついた身体の芯はほぐれ、吐き出した呼気が白く染まる。空腹を強く感じる。

「お腹が減ったね? 寒くて悲しくて寂しいね?
分かるよ。わたしはきみのお姉さんだからね。
今のわたしじゃあきみを温めることはできないけれど、
ほかの方法できみを救うことができる」

勇者は声に耳を傾ける。でも声はそれっきり止んだ。吹雪の音だけが聞こえる。
赤黒いマントに目を向ける。
腹が鳴った。喉が鳴った。涎が沸いてくる。身体が震える。

728: 2013/11/30(土) 22:03:23 ID:f/3PFTQk

「好きなようにすればいい」と影は言った。
「それを実行することできみの内側には変化が起こる。
良くも悪くも、とても大きな変化だ。
それはきみを救うかもしれないし、破滅させるかもしれない。

でもな、考え方を変えてみてくれ。彼女を自分の内側に閉じ込めるんだと。
きみと彼女はほんとうの意味でひとつになるというふうに。

きみがそれを望むのならそうすればいい。僕に有無を言う権利はない。
僕はきみであることを放棄したんだ。僕はもうきみじゃない。
きみ自身が選ぶんだ。それは全て正解になる」

勇者は力を振り絞って手を伸ばす。

729: 2013/11/30(土) 22:04:26 ID:f/3PFTQk




二本の足で地面を踏み、テントの外に出る。

吹雪は止んでいた。朝である筈なのに、空は夜のように暗い。
冷たい雪の感触は、勇者の身体を震わせる。震える身体を引きずり、歩く。

十時間も進むと、またテントがあった。勇者はそこに身を隠すように入り込む。
なかには鉄の鍋があった。雪をつめ、湯を沸かし、喉を潤す。
腕に伸し掛かる罪の重さを測る。ゆっくりと軽くなってきている。

翌日も翌々日も歩いた。天気は曇りだった。
簡易テントはいくつもあった。どれも大きさは似たり寄ったりだった。
中身も同じだ。テントを見つける度に鍋に雪をつめて、
湯を沸かして飲んで、白く長い息を吐き出した。
湿っぽくて熱い空気が喉を通り抜ける。そこには不思議な心地よさがあった。
そして罪の重さを測る。それはやがてゼロになった。

思考を停止させて、足を動かす。それはさほど難しいことではなかった。
一度始めてしまえば、あとは勝手に足が動いてくれた。そうして勇者は前に進んだ。

730: 2013/11/30(土) 22:07:11 ID:f/3PFTQk


大陸をはじめて踏んだ日から数十日が経った。
景色はほとんど何も変わらない。変わっていくのは自分だけだ。
大きなものを失って手に入れた満腹感は、すぐに消えていった。
また空腹感が湧き上がり、全身を覆う。寒さや孤独を強く感じる。寂しくて、悲しかった。
勇者は自分自身が弱っていくのをただ見ていることしかできない。
どうすればいいのかが分からない。どうすればここから出ることができる?

顔を上げる。滲む視界に空が映る。
黒々とした雲が不気味に立ち込めており、辺りを照らすものは何もない。
足もとに広がっているはずの真っ白な雪でさえも、黒色にしか見えない。
まるで泥沼のなかを歩いているような錯覚に陥る。

それからしばらくすると、大きな影のようなものが見えた。
赤黒いマントに身を包み、早足でその影を目指して歩く。

731: 2013/11/30(土) 22:07:53 ID:f/3PFTQk

影の正体は、木造の家屋だった。
他にも十ほど、同じような家が円を描くように並んでいる。
おそらくここが、ひとつ眼の怪物の言っていた廃村なのだろう。
どこの家屋にもひとの気配や温かみはない。

勇者は家と家の隙間から円のなかに入り込む。
見えない壁を通り抜けたような気がした。
魔術の村の“膜”のようなものが、ここにはあるのかもしれない。

しばらく円の中心に向かって歩くと、また影が見えた。小さな影だ。
歩く速度を上げる。

円の中心と思しき場所には小さな岩があり、その上に誰かが座っていた。
小さな影の正体は人間だった。勇者は目を細めて凝視する。

732: 2013/11/30(土) 22:13:36 ID:f/3PFTQk

そのひとは、夜に溶けこむような真っ黒なローブの上に、二重にマントを羽織っていた。
鍔の長いとんがり帽子からは、流れ落ちるように長くまっすぐな栗色の髪が覗いている。
その姿はおとぎ話に登場する魔女を思わせた。

ローブの袖から覗くほっそりとした手首には張りがあったが、乾いているように見えた。
どうやら女のひとらしいが、杖を抱きしめるようにして
岩の上に座り込み俯いているので、顔が見えない。歳は分からない。

ひとつ眼の怪物が言っていたのは、彼女のことなのだろう。
七年間ずっとひとりで、門が開くのを待っているひとというのは。

733: 2013/11/30(土) 22:15:10 ID:f/3PFTQk

ちらちらと雪が降り始めた。夜の闇は濃さを増したようだ。

勇者は距離を開けて、彼女の前に立つ。
彼女の栗色の髪が冷たい風に揺れた。表情は暗くてよく見えない。
しかし、表情や年齢はどうでも良かった。
そこにひとがいるという事実が、勇者の胸を熱くさせた。

人間など、もう何十日も見ていなかった。
目の前の人間こそが僕を救ってくれるんだろう、と思う。
ゆっくりと前に手を伸ばす。手は汚れていた。黒ずんだ血がこびりついている。

その時、彼女の頭上に巨大な光の球が現れた。その輝きは太陽を思わせた。
大地を平等に照らす、大きな光だ。しかし、そこに温かみはなかった。
冷たい光は勇者の身を照らし、足元に影を落とす。影は遥か背後まで伸びている。

「すごいや」と影は言った。「眩しいよ」

あまりの眩しさに怯みながら、手で目を覆うようにする。震える声を絞り出す。
「……あなたは誰?」

「……わたしは」彼女はゆっくりと顔を上げながら言った。「わたしは、魔女」

734: 2013/11/30(土) 22:16:52 ID:f/3PFTQk

勇者はもう一度、魔女と名乗る女に目を向ける。
顔立ちは、子どもっぽいかわいらしさの残る、二十代の中頃のように見える。
しかし、彼女の目には炎が灯っていなかった。そこに子どもらしさは感じられなかった。
海の底や、今の空をそのまま瞳に埋め込んだみたいな、先の見通せない闇がある。
それはまるで、鏡に映った自分の目を見ているように思えた。

彼女の目は語りかけてくる。「わたしは独りだ」と。

勇者の目は言う。「僕は独りだ」と。

735: 2013/11/30(土) 22:17:25 ID:f/3PFTQk




長い夜は始まる。

737: 2013/12/01(日) 20:57:36 ID:ky5bstu6

27


一晩中叫んでもユーシャは戻ってこない。窓からは頼りない光が射している。
何かが変わっても、朝はいつもと同じようにやってくるのだ。
たとえ誰かが氏んでも、朝は来る。

魔法使いは眠ることができず、暖炉の前に座り込んでいた。
身体中を気怠い感覚に支配されている。
瞼が重い。目が痛い。頬には涙がこびりついている。
口のなかは乾いている。喉が焼けつく。身体は火照っている。吐息も熱い。

暖炉の前でユーシャのマントに包まり、それに顔を埋める。
マントからはもう彼のぬくもりがほとんど失われている。
でも香りを感じることができた。大きく息を吸い込み、下腹部へ手を伸ばす。

マントを噛み、目を瞑る。瞼の裏に彼の身体を想い描き、ぬくもりと感触を思い出す。
瞼の裏の彼は手を伸ばす。幻の手が身体を這う。
唇を舐める。口づけの感触を思い出す。
顔が火照る。下腹部は熱く湿る。細い指は性器をなぞる。腰はちいさく揺れる。
噛む力は強まる。汗が浮く。涙が浮く。大きな感情の濁流が生まれる。
流れはぶつかり合って渦を生む。

738: 2013/12/01(日) 20:59:53 ID:ky5bstu6

抱いてほしい、と想う。今だけはここにいて、この身体を彼に委ねていたい。
次に目が醒めたとき、彼が隣にいてほしい。
手を伸ばせば届く場所に、ぬくもりがほしい。
炎のぬくもりなんていらない。そんなものがなくたって、
わたしの手を握ってくれる大きな手があればそれでいいのに。

幻の大きな手がゆっくりと性器を撫でる。
彼の手のひらは乾いていて、ごつごつとしていた。
乾いた指はなかに入り込む。壊れ物を扱うような手付きで、指は内側を出入りする。
ちいさく声が漏れる。でも誰にもその声は聞こえない。

瞼の裏には、二日前の彼との場面が浮かぶ。
主観ではなく、第三者目線でそれは見える。
魔法使いはユーシャのそれを咥えながら、性器に舌が這う感触を思い出す。
腰はちいさく揺れる。吐き出された精を喉の奥に送り、小さな絶頂を迎える。
一瞬だけ身体から力が抜けたが、それはすぐに戻ってくる。

彼のそれを性器で咥え、腰を振る。たとえどちらが果てようと止めるつもりはなかった。
このままふたりで氏んでしまえばいい、とその時は思っていたのを思い出す。
今は、このままひとりで氏んでしまえばいいという考えが脳を掠めた。

739: 2013/12/01(日) 21:00:41 ID:ky5bstu6

瞼の裏のユーシャはもう一度射精する。
内側に熱い何かが込み上げてくるのを感じた。
魔法使いも絶頂を迎える。身体から力が抜け、ユーシャに向かって倒れこむ。
大きな腕が身体を包み、大きな手が背中にまわされる。
そのまま腰を振り続ける。艶かしい音は彼を固く、熱くする。

数えきれないほどの頂きを味わうと、意識がゆっくりと遠のいていくのを感じた。
ぼやける視界で、必氏に彼の目を探した。見つけ出した彼の目はどこか淋しげだった。
身体から力がなくなった瞼の裏の魔法使いはそのまま眠る――

自分の指で絶頂を迎えた魔法使いは、頭の中が白くなっていくのを感じた。
瞼の裏の幻想は消える。目をゆっくりと開き、その場にへたり込む。
吐き出した息は熱かった。

740: 2013/12/01(日) 21:01:22 ID:ky5bstu6

彼はここにいない。暖炉のなかの薪がぱちぱちと音をたて、雪が窓を優しく叩く。
でも足音はない。今日も彼は帰ってこない。そういう予感がした。
棘の付いた茎で胸を締め付けられるような感覚に落ちる。

目を瞑る。彼の事以外、何もかもを忘れてしまいたかった。
勇者や魔王なんてどうでもいい。世界やその平和なんてどうでもいい。
誰かがどこかで氏んでいるとか、そんなこともどうでもいい。

隣に彼がいないことには何も始まらないのに、と思う。
瞼の裏に見えた世界から色が失われていく。
魔法使いの内側の世界は、ゆっくりと滅んでいった。

意識は自分の深みに落ちる。
真っ暗な、光のない世界に落ちるような気分だった。そこに救いは見えない。

741: 2013/12/01(日) 21:02:50 ID:ky5bstu6


ユーシャが門をくぐってから三日が経った。
彼は戻ってこない。魔法使いはひとりだった。

気怠い感覚が身体から抜けない。
胃は空っぽで軽いのに、身体はどんどん重くなっていった。
ああ、胃が空っぽだからか、と思い当たる。いったいわたしは何をしているんだろう?

とても寒い。暖炉には白黒になった薪が転がっている。炎は灯っていない。
ユーシャのマントからは完全に彼のぬくもりが失われていた。
マントにあるのは魔法使い自身のぬくもりだった。

細い足で立ち上がり、ふらふらと歩く。家中を見回す。食べ物はない。
あるのはカビの生えた硬すぎるパンのようなものだけだった。
それは道端に転がっている石のように見えた。
道端に転がる石のように、いろんなものが家中に転がっていた。

錆びた鉄鍋、壊れたカンテラ、破れたカーテン、
脚の折れた机と椅子、引き裂かれた毛布、髪の毛と人骨。
それらには価値を見出すことができなかった。
ほんとうに道端に転がる石のようだった。
すべて蹴飛ばして、綺麗にしてやろうかと考えたが、どうでもよくなって止めた。

742: 2013/12/01(日) 21:04:10 ID:ky5bstu6

暖炉の家(魔法使いはこの家をそう呼ぶことにした)から出て、
右隣に見える家に向かう。
鍵はかかっていなかったので、そのまま足を踏み入れる。
ここも暖炉の家と同じように荒れていた。
床には古い血がこびりついていた。黒ずんだ床は不気味に見える。

踵を返し、もう一軒隣の家に向かう。今までの二軒より、すこし大きな建物だ。
そこもやはり鍵はかかっていなかった。ドアを開けてなかに入る。

ドアは背後で大きな音を鳴らして閉まった。
目の前には薄暗く長い廊下が続いていて、その左右の壁には
またドアが等間隔で付けられている。右に四つ、左に四つだ。

右側の一番手前のドアを開け、なかに入った。
そこは小さな部屋で、壁を覆うようにして本棚が配置されていた。
本棚には隙間なく本が詰め込まれている。
その光景は故郷の村の図書館を回想させた。
図書館とは呼んでいるが、あそこもここもさして変わらない。

743: 2013/12/01(日) 21:05:09 ID:ky5bstu6

故郷の村の図書館というのは、誰も使っていない建物に本棚を詰めて、
そこに本を詰めただけのものだった。
ふつうの家よりも本がたくさんある家と呼んだほうが分かりやすいかもしれない。

村の図書館の部屋のひとつには長細い机があって、椅子が八つあった。
ユーシャはいつも一番角の椅子に座り、魔法使いはいつもその隣に座った。
図書館の利用者は皆無と言っていいほどだった。
あそこはわたし達だけの空間だった、と思う。

部屋から出て、向かいの戸を開けた。
正面には長細い机と六つの椅子があって、奥に暖炉が見える。

ほかの部屋も見まわってみた。残った六つの部屋は最初の部屋と同じように、
村の図書館を回想させる光景だった。
しかし、知識で食欲が満たされるわけではない。
食べ物らしきものはひとつも見当たらない。

そもそも、何年も放置された廃村に食料があったところで、
それを食べることができるのだろうか?

できる。ただし、身体がどうなるかは分からない。
腹を下したり、嘔吐が止まらなくなるかもしれない。
その場合は結局空腹感は増すだろう。
今の状況と比較すれば、そんなことはべつにどうってことはない。

744: 2013/12/01(日) 21:06:43 ID:ky5bstu6

覚束ない足取りで、また外に出る。
いったいどれだけの時間が経ったのか、魔法使いには想像もつかなかった。
もう何百年もこうしているのではないかという錯覚に陥る。
空腹と暗い空は感覚を狂わせていく。

遠くに、大きな動物が見えた。それは熊のようにも見えたし、人間のようにも見えた。
べつに熊でも人間でも、どうでも良かった。
魔法使いはぼんやりと口のなかで呪文をつぶやき、
その大きな動物の頭上に、氷でできたギロチンを作り上げた。
ギロチンはほとんどまもなく振り下ろされ、その動物の身体を二つに割った。
雪景色のなかの血だまりは、草原にぽつりと咲く
花のように淋しげな存在感を放っていた。

近寄ってみると、それは人間ではなく、熊だったことが分かる。
魔法使いは二つになった熊をさらにばらばらにしてから、暖炉の家に持ち帰った。
何も考えずに軽く焼いた熊の肉にしゃぶりつき、咀嚼し、喉を通し、胃に送った。
粘着く肉は決して美味とは言いがたかったが、
それが喉を通り抜ける感触には不思議な心地よさがあった。

空腹感は消えて、すこしだけ気分は浮上する。
それでも最低の気分であることには違いなかった。
この世でもっとも自分が不幸なのではないかという根拠もない考えが脳をかすめる。
おそらくそんなことはないのだろうが、そう思わずにはいられなかった。
魔法使いにとって、ユーシャが居なくなるというのは
考えうる限りでは最低の出来事だった。
氏ぬことと同意義か、氏以上に悲惨なものだった。

745: 2013/12/01(日) 21:07:28 ID:ky5bstu6

自分が酷くちっぽけな存在に見えてくる。
元からそうだったけど、今更になってそれに気づいただけなのかも。
わたしひとりでは最愛の人間を引き止めることもできない。
そう、わたしはひとりじゃあ何もできない。

湯を沸かし、それを飲んだ。白湯は落ち着きを取り戻させた。
頭が冷め、自分の置かれた状況が鮮明に見える。

魔法使いは図書館(先程の建物をそう呼ぶことにした)に向かった。
左側の一番手前のドアを開き、なかに入る。
暖炉に火を付けて、ほかの部屋から本を何冊か抜き取って戻ってくる。
角の席をひとつ開けて、その隣に座った。

そして本の頁を捲る。書かれた文字をゆっくりと目で追う。
その様にして魔法使いは孤独を忘れ去ろうとした。
明日には彼がきっと戻ってくると言い聞かせて、
暖炉のぬくもりに彼のぬくもりを重ね、黙々と生きた。

746: 2013/12/01(日) 21:08:35 ID:ky5bstu6


ユーシャが門をくぐってから七年が経った。
彼は戻ってこない。魔法使いはひとりだった。

気がつけばもう二四歳だった。身体はすこし大きくなった。
心は凍りついたまま、成長しなくなった。
果たしてそれがいいことなのか悪いことなのかは判別できない。

心が成長することで彼の存在が褪せてしまうのなら、
もう一生このままでもいい、と思う。
変わっていくものはあるが、変わらないものもある。
身体が変化しても、心とこの廃村は何も変わりやしない。

一日たりとも彼のことを考えない日はなかった。
記憶は薄れるどころか、どんどん濃くなっていく。
身体も心も彼を求めていた。
暖炉の炎では完全に身体が温まることはないし、魔法使いの指は酷く細い。
それでも暖炉の前で自分を慰めないわけにはいかなかった。
ぶつける場所のない想いはそうして吐き出すしかなかった。

747: 2013/12/01(日) 21:09:46 ID:ky5bstu6

その日も暖炉の前でマントを噛んで、小さな頂きを迎えた。
長い息を吐き出して壁に凭れ掛かり、自分の身体を眺める。

一七歳の頃と比べると、すこしだけ身体が大きくなった。
髪もかなり伸びた。指がやけに細く見える。
胸はすこし大きくなった。平均よりもすこし小さいくらいだろうか、と思う。
顔立ちはどうだろう。大人びて見えているだろうか。

彼が今のわたしを見たら何と言うだろう?

窓の外には夜の帳が降りていた。彼が戻ってくる気配はない。匂いも足音もない。
今日も図書館に行こうか、とぼんやりと思った。でも止めた。
今日だけは何故か、胸がざわざわとしていた。
暗く大きな草原に冷たい突風が吹いているような、不穏な空気が胸を満たす。

何かが起こるという予感があった。そこには運命的な何かを感じた。
彼が勇者に選ばれたのと同じように、それは最初から決まっていたのかもしれない。

748: 2013/12/01(日) 21:12:56 ID:ky5bstu6

魔法使いは外に出る。
空気は冷たい。足元も冷たい。周りには冷たいものしかなかった。
円型に並ぶ家の中心にある石に座り、それを待つ。寒い。寂しい。
杖を抱く。帽子を深くかぶる。伸びた髪は地面に付きそうだった。
弱い風が吹き、髪を揺らした。

そしてそれは訪れる。
亡霊が闇から湧き上がるように、その少年は現れた。
赤黒いマントに包まりながら、こちらに近づいてくる。

ユーシャではない。そのことは魔法使いを酷く失望させ、
再び地獄に落ちるような感覚に陥らせる。

彼でないならもう用はなかった。
七年ぶりに人間に会ったというのに、これといった感情は湧いてこない。
むしろ期待は失われていった。様々なものが失われて、さらに今また失われた。

749: 2013/12/01(日) 21:13:46 ID:ky5bstu6

魔法使いは魔術の光で辺りを照らした。

目の前の少年は眩しさに目を覆うように手をかざして言う。
「……あなたは誰?」

「……わたしは」
わたしは、わたしは誰? どうすればわたしはわたしでいられる?

目の前の少年は良くも悪くも変化をもたらすだろうと、直感が告げている。
でもこの子にはここにいてほしくなかった。
ここが自分と彼の場所のように思えてきたからだ。
彼は約束をしてくれた。誰もいないところで、ふたりきりで暮らす、と。
ここには誰もいない。この廃村こそが望んでいた場所のように思えた。
ここがわたしの終着駅だ。

魔法使いは顔を上げて言う。「わたしは、魔女」

そうすることで、少年が遠ざかっていくことに期待した。
何かに期待するのは久しぶりだった。
でも薄々感づいていた。期待はことごとく裏切られるのだ。
規則が破られるのと同じように、期待は裏切られる。

750: 2013/12/01(日) 21:15:17 ID:ky5bstu6

目の前の少年は虚ろな目を持っていて、酷くやつれているように見えた。
歳は一七とか一八とかそこらだろう。
短い髪は汚れている。手も汚れている。顔も汚れている。
少年は汚れきっていた。目は濁り、そこに光を見出すことができない。

わたしと同じだ、と魔法使いは思った。わたしもこの少年も、独りだ。

「きみは何しにここへ来たの」と魔法使いは冷たく訊ねた。

少年はすこし間を開けて言う。「魔王を頃しに来た」

「ほんとうに言ってるの?」
内心ですこし驚いた。が、表情に出るほどではなかった。

「ほんとうだよ。そうでなかったら、こんなところには来ない」

「でも、わたしはここにいるわ」

「あなたは“門”が開くのを待ってるんだろう。七年も」

「どうして」魔法使いは石から腰を上げた。「どうして知ってるの」

751: 2013/12/01(日) 21:16:34 ID:ky5bstu6

「知り合いに聞いたんだ。すごく目のいい知り合い。
僕の友人を頃したんだ、そいつ。信じられないよ」
少年は淡々と言った。「ほんとうに、信じられない」

とくべつ浮き出た感情はないように見えた。
落ち着いている、というよりは、諦めている。
物事に冷め切っている。目が凍りついているのだ。

「知り合いって、誰」と魔法使いは訊ねる。

「西の大陸の北端に、大きな塔があるだろう」

「知ってる」おそらく、故郷の村の北に見えた塔のことだろう。

「その塔の上には怪物がいるんだ。正確に言うと、いたんだ。大きな目を持った怪物が」

「……そいつがどうかしたの?」

「そいつが教えてくれたんだ。あなたがここで七年間、“門”が開くのを待ってるって」

「その怪物が喋って教えてくれたっていうの?」

「信じてくれないならいいさ」

752: 2013/12/01(日) 21:17:50 ID:ky5bstu6

「……正確には」と魔法使いは言う。
「あるひとが“門”から帰ってくるのを待ってるの」

「大事なひとなんだね」

「そう。とても大事なひと」

「そっか」少年は弱々しく微笑んだ。

「ねえ」魔法使いは歩き始める。
「もうすこし詳しく話を聞かせてもらえないかしら」

少年はうなずいた。

753: 2013/12/01(日) 21:18:49 ID:ky5bstu6




図書館に足を踏み入れ、廊下左側の一番手前の部屋に入った。
暖炉に火をともして、少年を座らせる。魔法使いも正面に腰掛ける。

少年は顔についた雪を手で拭う。
手も顔も、血で酷く汚れていた。特に口周りが酷かった。
おそらく、ウサギや熊の肉をそのまま食べたのだろう。
そして血を拭うということに気がまわらないほどに参っているのだろう。

白湯を差し出す。「こんなものしかないけど、ゆっくりして」と魔法使いが言うと、
少年はコップを包み込むようにして掴み、「ありがとう」と言った。

じっと少年の顔を見る。「……ねえ。わたし達、どこかで会ったことがあるかしら」

「分からない」少年は顔を上げて、こちらの目を見る。
「でも……どこかで会ったことがあるかもしれない」

「そっか」

754: 2013/12/01(日) 21:19:42 ID:ky5bstu6

沈黙が空間を埋める。空を切る風の音、暖炉のなかで何かが弾ける音、
窓がちいさく揺れる音、部屋にある音はそれらしかなかった。

しばらくして魔法使いは訊ねる。
「それで、きみはどこから、何のためにここへ来たの?」

「東の大陸の小さな村から南の大陸へ、
それから西の大陸を渡ってここへ来た。魔王を倒すために」

「ひとりで?」

少年は黙って首を振った。「僕を含めて三人」

「ほかのふたりは」

「氏んだ」と少年があまりにも淡々と言うので、
恐怖に近い感情が湧き上がってくる。

755: 2013/12/01(日) 21:20:28 ID:ky5bstu6

「氏んだ」と魔法使いは繰り返す。
もしかすると、わたし達の置かれた境遇は似ているのかもしれない、と思う。

「殺されたんだ。ひとりは蜘蛛の巣の骸骨に。
ひとりはさっき言った大きな目の怪物に」

「蜘蛛の巣というと、南の大陸の」

「そう。電気を吐く蜘蛛がいる、あの洞窟」

「……わたしの友人もあそこで氏んだわ」魔法使いは回想する。
「わたしも、わたしを含め三人で旅をしていたの。
きみと同じように、魔王を倒すために」

「どうして魔王を」少年の目がすこし揺れた。

「“門”をくぐった彼が勇者だからよ。わたしは彼に付いていっただけ。
でもね、多分彼は本物ではないの」

「どういうこと?」

756: 2013/12/01(日) 21:22:59 ID:ky5bstu6

「西の大陸に、くだらない御伽噺があるの。
星形の痣を持った勇者が云々、みたいなね。
彼の手の甲にもあるの、星形の痣が。それだけ。

痣があるからって、それだけで勇者なんておかしいわよ。
それに、あの痣はわたしが……」魔法使いは続きを言いかけて止めた。
そんなことを話したって、彼は戻ってこない。

魔法使いは首を振ってから続ける。
「それで、どうしてきみが魔王を倒す必要があるの?
べつに倒すとしても、きみが倒す必要はないんじゃないかしら」

「僕は勇者だから、僕が殺さなきゃだめなんだ」

「勇者?」魔法使いは驚いて言った。「きみが?」

少年――勇者はうなずいた。
「嘘みたいだけど、ほんとうなんだと思う。僕にもよく分からない。
でも“門”が開けば僕は勇者だってことになる」

「どういうこと?」

「“門”は勇者がいないと開かないんだ。大きな目の怪物はそう言ってた」

「じゃあ、彼が門をくぐれたのは?」

「あなたの言う“彼”が勇者だから、ということになると思う」

757: 2013/12/01(日) 21:23:56 ID:ky5bstu6

「“門”が閉じたのは、彼が、勇者が向こうに行ったから、ということ?」

「そういうことなんだろうね。
勇者がふたり居るということについては何も分からないけれど」

魔法使いは椅子に深く凭れて、長い息を吐き出した。すこし混乱していたが、
薄暗い視界に一筋の光明を見出したような気分だった。
もしかすると、“門”をくぐることができるかもしれない。
目の前の少年こそが“門”を開き、今の状況をひっくり返す鍵なのだ。

「“門”はどこにあるの」と勇者は訊ねる。「廃村の金鉱にあるらしいんだけど」

「ここからすこし歩いたところに洞窟があるわ。
たくさんの金が眠った洞窟よ。その一番奥」

「連れて行ってくれないかな」と勇者は言う。
「確かめておきたいんだ、僕がほんとうに勇者なのか」

「分かった」

758: 2013/12/01(日) 21:24:39 ID:ky5bstu6

魔法使いと勇者は立ち上がり、二枚のドアをくぐる。
外では皮膚を貫かんばかりの冷たさの風が吹いていた。
その風は何かを歓迎しているように感じられたし、
行く手を阻もうとしているようにも感じられた。

円型に並んだ家々の中心の岩から北へすこし歩いたところで、
壁をくりぬいたような大きく暗い穴が姿を見せる。
吸い込まれるように洞窟の中へ入る。魔法使いは魔術の光で辺りを照らす。

この洞窟に入るのは三日ぶりだった。
壁のかたちや足元のレールの曲がり具合などは、ほとんど覚えている。
週に一回はここを覗きにいくようにしていたのだ。
しかし結局、彼は七年経っても戻ってはこなかった。

759: 2013/12/01(日) 21:25:29 ID:ky5bstu6

十数分歩いたところで突き当りに辿り着く。

“門”は七年前と同じように、開いていた。
そこから流れ出る異質な空気は、魔法使いを酷く高揚させた。
身体が熱くなり、肌が粟立つ。
心臓が、自分とはべつの生物のように思えるほどに跳ねる。

「あれが、“門”」と勇者は言った。

「そう」と魔法使いは震える声で言った。

十秒ほど“門“を眺めた勇者は踵を返し、歩き始める。

「どこへ行くの?」と魔法使いは勇者の背中に言った。

「さっきの家で、すこし眠りたいんだ。それに、準備がいる」

「心の準備とか」と魔法使いが言うと、「そう」と勇者は言った。

760: 2013/12/01(日) 21:26:18 ID:ky5bstu6




図書館の暖炉がある部屋まで戻ってきた。
魔法使いと勇者は暖炉の前に座り込む。勇者との間には絶妙な距離がある。
お互いの領域に侵入するほど近くもなければ、
手を伸ばしても届かないほど遠くもない。
ちょうどいい隙間があった。それは魔法使いの気分をすこし楽にした。

しばらくお互いに無言で炎を見つめていると、
勇者は小さな袋を取り出して、中身をひっくり返した。
袋から出てきたのはナイフと数枚の金貨、指輪、髪留めだった。
小さなおもちゃ箱をひっくり返したみたいだ。

「それは何?」と魔法使いは訊ねる。

「大きな目の怪物に殺された子の持ち物」と勇者は言った。

「女の子だったの?」

「そう」勇者は髪留めを掴んで、暖炉に投げ入れた。
魔法使いは黙ってそれを見守った。

761: 2013/12/01(日) 21:27:09 ID:ky5bstu6

勇者は続けて、金貨を一枚掴んだ。それも暖炉のなかに投げた。
「彼女は金貨をお守りにしてたんだ。僕にも一枚くれた。
“それがきみを守ってくれる”って言ってさ」

魔法使いは勇者の横顔を眺める。
暖炉の炎に照らされた表情は、すこし翳っているように見えた。
“彼女”の話になった途端、淡々としていた語気にも悲愴感が入り交じった。

「大切なひとだったのね」と魔法使いが言うと、勇者はちいさくうなずいた。

そして今度はナイフを掴んで言う。
「このナイフも、彼女のお守りだったんだ。お守りというか、護身用のナイフ。
でも結局は髪を切ることにしか使わなかった。綺麗な髪だったのに、
いきなり首から下の髪をばっさり切り落としたんだ。びっくりしたよ」

勇者はナイフを脇にそっと置いて、金貨を掴んで投げた。
金貨は暖炉に向かって放物線を描いて落ちた。

勇者は、今度は指輪を掴んだ。
「この指輪は、蜘蛛の巣の骸骨が嵌めてた指輪だ。
彼女が骸骨の腕をふっ飛ばした時に拾った。
僕のもうひとりの友達を頃した、あの骸骨のものだ」

762: 2013/12/01(日) 21:28:20 ID:ky5bstu6

指輪に目を向ける。見覚えのある、金の指輪だった。
蜘蛛の巣の、骸骨が嵌めていた?
妙な興奮が湧き上がってくるのと同時に、ひどい罪悪感がこみ上げてくる。

魔法使いは訊ねる。
「ねえ、その指輪を嵌めてた骸骨の近くに、大きな剣がなかった?」

「あったよ」勇者は魔法使いに目を向ける。
「骸骨が大きな剣で攻撃してきたんだ。魔術も使える」

煙のように曖昧な仮説は、やがてかたちを持った疑いに変わる。
「もしかすると、その指輪はわたしのものかもしれない」

「どういうこと?」

763: 2013/12/01(日) 21:29:30 ID:ky5bstu6

「さっき言った“蜘蛛の巣で氏んだ友人”ってのが、たぶんそいつだと思う。
その、骸骨。わたしはそいつに指輪を預けたの。金の指輪を」

「骸骨はどうして動くことができたの? ただの人間の骨だったのに」

「あいつはもしかすると、人間じゃなかったのかも」

「どうしてそう思うの」

「分からないけど、なんとなく」

「じゃあ、つまり」と勇者は声を低くして言った。
「あなたの仲間に僕の仲間は殺されたということ?」

「……ごめんなさい」魔法使いは勇者の目を見ることができなかった。
自分が罪を犯したような気分に陥る。

「……いや、もういいんだ。あなたは悪くないし、それにもう、終わったことだから」
勇者は指輪を魔法使いに差し出した。「……これ、返すよ」

「ありがとう」魔法使いは指輪を受け取り、左手の薬指に嵌めた。
懐かしい感触だった。今でもぴったりと指に合う。

「ほらね」と誰かが言った。「約束は守りましたよ。ひとつだけですけどね」

764: 2013/12/01(日) 21:30:20 ID:ky5bstu6

「ねえ」と勇者は言う。「触ってもいいかな」

「わたしを?」と魔法使いは訝しげに言う。

「手だけでいい。お願いできないかな」

「分かった」魔法使いは手のひらを上に向けて、手を差し出した。

勇者はそこへ手を重ねるように置いた。「冷たいね」

「ずっとひとりだったもの」

「握ってもいいかな」

「お願いするわ」

ごつごつとした指が魔法使いの手を優しく包む。
それはユーシャの手を回想させた。
目を瞑ると、彼がそこにいるように感じられる。
目の前の少年は、弱くなった時の彼にすこし似ている。

「ありがとう」と勇者は言って、目を閉じた。

「こちらこそ」と魔法使いは言い、手を握り返した。
勇者の手は大きく、とても冷たかった。

765: 2013/12/01(日) 21:32:11 ID:ky5bstu6

28


この魔女と名乗る女の仲間が、戦士を頃した?
勇者の腸は煮えくり返ったが、一瞬で冷めた。

このひとを責めたところで、誰かが救われるわけではない。
悪い人は誰もいないんだよ、と自分に言い聞かせる。
しばらくすると、自分がこの世界でもっとも無力で、
もっとも使えない人間のように見えてくる。

「きみは無力で、使えない人間なんだ」と影は言う。
「きみはこの世界中で、もっとも不要な存在なんだ」

どうだろう。ほんとうにそうなのだろうか?

分からない。頭と身体が疲弊しきっていて、何も考えることができない。
ぼんやりとした薄い膜のようなものに、意識や思考、視界が覆われている。
勇者は魔法使いの手を握りながら、目を閉じる。
頭のなかはゆっくりと綺麗になってゆく。

766: 2013/12/01(日) 21:33:36 ID:ky5bstu6

彼女の手はとても冷たかった。その手は僧侶のことを思い出させてくれる。
白い肌、細い指、長い髪、やわらかい身体、
このまま眠れば、僧侶の夢を見ることができるような気がした。
そう感じると、早く眠ってしまいたかった。
一刻も早く、瞼の裏から目を逸らして彼女に逢いたかった。

しかし、なかなか眠ることができない。
勇者は“門”を見つけたことにすくなからず興奮を覚えていた。
心臓は激しく脈打ち、気分が昂ぶっている。
久しぶりにひとに触れたことで、わだかまりのようなものがすこしほぐれた。
気分がいい。暖炉の熱で身体が火照る。意識は沈まない。

「眠れないかしら」と魔法使いは言った。「ひとりのほうが落ち着く?」

「いいや。このままでいい。手を握ったまま、ここにいてほしい」と勇者は答えた。

767: 2013/12/01(日) 21:34:16 ID:ky5bstu6

「そう」魔法使いはすこし間を開けてから言う。
「ねえ、もしきみがよければなんだけど」

「何」

「後ろから抱きついてもいいかしら」

「どうして?」

「きみを見てると、あいつを思い出すの。門をくぐった、彼。ちょっと似てるかも」

「へえ」

「どう? 嫌なら嫌って言って」

「ありがとう。お願いするよ」

魔法使いは握っていた手を離した。それから勇者の背中に密着して、腕をまわした。
耳元に、熱く長い息が吐き出される。身体は優しく締め付けられる。
首筋に髪が触れてくすぐったい。

「すごく落ち着く」と魔法使いは言った。

768: 2013/12/01(日) 21:34:58 ID:ky5bstu6

勇者は黙っていた。声を出すべきではない、と思う。
魔法使いは自分という存在を媒介に、
門をくぐったという彼のことを回想しているのだろう。

決して自分が必要とされているわけではないというのは理解していた。
百のうちのひとつが似ていればいいのだ。類似点がひとつでも見つかれば、
門をくぐった彼のすべてをそこに重ねることができる。
でも声と見た目はどうしても重ねることはできない。
だから彼女は顔を見ないために、後ろから抱きついた。
彼女のことを思うなら声を出すべきではない、と思った。

「みんなそうだ」と影は言う。
「みんな、きみという空っぽの容れ物に誰かの面影を見るんだ。
彼女だってそうだった。彼女はきみに、戦士の影を入れた。
彼女はきみに“酷いこと”をした。この魔女と名乗る女だってそうだ。

きみはいったい誰なんだろう?
きみは門をくぐった彼ではないし、彼女の好いていたあいつでもない。
でもきみのなかにはそのふたつの影がある。
そしてきみという存在は今、誰からも求められていない。
でもきみはこうして誰かから抱きしめられている。

きみはどう足掻いてもきみ自身になることができない。
他の何者になることもできない。
だったら、いったいきみは何なんだろう? 何が本物のきみなんだ?」

769: 2013/12/01(日) 21:36:02 ID:ky5bstu6

勇者は影の言葉に耳を貸さなかった。
たとえいいように利用されているのだと分かってはいても、
魔法使いの頼みを断る理由はなかった。
勇者もすくなからず、誰かのぬくもりを求めていた。

魔法使いの身体は勇者をさらに熱くし、昂ぶらせた。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、柔らかく小さな胸が背中を押す。
長くさらさらとした髪が首筋を撫で、熱い吐息が耳にかかる。

魔法使いの手が身体を舐め回すように這う。
それはやがて下腹部へ侵入してくる。

「声は出さないで」と耳元で魔法使いはささやく。「好きなようにさせて」

勇者はちいさくうなずいた。その返事を待っていたという素振りも見せずに、
彼女の手は勇者の硬くなったそれに触れる。それは細い指で、優しく包まれる。
冷たかったはずの彼女の手はすこしだけあたたかみを取り戻していた。

770: 2013/12/01(日) 21:37:05 ID:ky5bstu6

耳にかかる息はさらに熱くなった。勇者のそれと同じくらい熱くなった。

包み込むようにそれは優しく撫で回される。細い指で締め付けられる。
快楽の波が腰辺りに押し寄せてくるのを感じた。

「どう?」と魔法使いは耳元でささやく。「気持ちいい?」

勇者はうなずく。その直後に、魔法使いは耳にくちづけをした。
彼女の舌が耳を舐めまわす。反射的に鳥肌が立った。
でもしばらくすると鳥肌は収まり、熱い息と舌が心地よく感じられるようになった。
その間にも硬く熱く屹立するそれは細い指で締め付けられ、優しく撫で回される。
まもなく勇者は精を吐き出す。彼女は手の動きを止め、それを受け止めた。

「勝手なことしてごめんね」と魔法使いが言った。

「いいや、ありがとう」と勇者は礼儀的に言った。
勝手なことをされたのは事実だが、すこし気分が良くなったのも事実だった。

魔法使いは勇者のズボンの中からO液まみれの手を取り出し、床で拭った。
そしてもう一度勇者の身体を後ろから包み込むように手をまわした。

目を閉じると、意識は簡単に暗黒面に落ちた。

771: 2013/12/01(日) 21:37:45 ID:ky5bstu6




僧侶の夢を見ることはできなかった。勇者は目を開き、長く息を吐き出した。
目の前の暖炉には火がある。魔法使いの姿は見当たらない。

もしかすると、すでに門をくぐったのかもしれない、
というふうに考えていると、背後で足音がした。
振り返ると、黒いローブを着た、髪の長い女が立っていた。
彼女は湯気の立ち上る木のコップをふたつ持っていた。
こちらに歩み寄り、隣に座った。カップのひとつをこちらに差し出す。
それを受け取る。「ありがとう」中身は白湯だった。

「よく眠れたみたいね」

「おかげさまでね」

772: 2013/12/01(日) 21:38:26 ID:ky5bstu6

魔法使いは力なく微笑み、「覚悟が決まったら行きましょう」と言う。
「わたしも一緒に行くわ」

「覚悟は決まってるよ。もう後戻りはできない」

「そっか。……でも、もしかすると魔王はもう氏んでるかもね。
彼が魔王を倒したかも。でも戻り方がわからないとか。
あいつ、ものすごく馬鹿だから」

「そうだったらいいんだけどね」勇者は弱々しく微笑んだ。
「これを飲み終わったら、すぐに門をくぐるよ」

「分かった」

773: 2013/12/01(日) 21:39:13 ID:ky5bstu6

時間を掛けて白湯を飲み、空になったコップを脇に置いて立ち上がる。
魔法使いは暖炉の火を消し、歩き始める。まっすぐに洞窟へ向かう。

洞窟をまっすぐに進み、“門”の前に立つ。そして門へ手を伸ばす。
身体が大きく歪むような感覚に陥りながら、意識が遠のいていくのを感じた。
まるで今から何か他の生物に生まれ変わるみたいだ、と勇者はぼんやりと思った。

そして意識は暗転する。表裏が――世界がひっくり返るような感覚があった。

775: 2013/12/02(月) 18:46:11 ID:Wz2VFw6U

29


腕が曲がる。脚が折れる。身体がねじれる。内蔵が圧縮される。
でも痛みはない。実際に腕や脚が曲がっているわけではない。
そういう風に見えるだけだ。そういう風に感じるだけだ。
大丈夫。ユーシャは自分に言い聞かせる。絶対に大丈夫だ。

何もかもが歪んで見える。
門のなかは、すべての色の絵の具を中途半端にかき混ぜて
水のなかにぶちまけたような毒々しい色をしていた。
胎動するように周囲の色は蠢く。そこには地面もなければ空もない。
壁も天井も道もない。身体は浮いている。何か大きな流れに運ばれている。

時間がゆっくりと流れている。どうしてかは分からないけど、そう感じることができた。
ユーシャは魔法使いのことを想う。そしてすこしだけ後悔をした。
もっと言うべきことはあったはずなのに。

776: 2013/12/02(月) 18:47:06 ID:Wz2VFw6U

目を閉じ、昨夜を思い返す。
彼女は今までにないほどに激しく身体を求めてきた。
決してそれが不満だということではないが、
なんだかほつれた糸が胸のうちに引っかかっているような感覚がある。

ほんとうにあれで良かったのだろうか? と思う。
もっと彼女の意見を汲み取ってやるべきではなかっただろうか?
きっと怒っているに違いない。帰ったらなんて言われるだろう?

いいや、これでいいんだ。すぐに戻って謝れば、ぜんぶ解決するんだ。
何も悩む必要はない。俺は、まっすぐやればいい。
魔王を倒して帰る。それだけでいい。シンプルに行こうぜ。

そんな考え事をしていると、突然、身体が何かにぶつかった。
目を開く。周囲の毒々しい色は消え失せていた。門を抜けたのだ。
ここはどこだ? と思うのとほとんど同時に、身体が地面に叩きつけられた。
鈍い痛みが肩に走る。身体が自分のものではないような感覚に陥る。
それほど身体が重く感じられた。

777: 2013/12/02(月) 18:47:39 ID:Wz2VFw6U

冷たく湿った地面にへばりつきながら、頭を動かして周囲を見渡す。
暗い空があって、周りには木がある。
森の中のようだ。空には月があって、星もある。ふつうの夜空だった。

どこかで何かが鳴いた。直後に巨大な鳥が羽ばたく音が聞こえた。
狼の遠吠えのような声が聞こえた。
ひとの気配はない。緑のむせ返るような匂いがする。
空気には何か穏やかでないものが漂っている。
薄暗い森と不気味な音は、ユーシャの不安を煽った。

腕で地面を押し、身体を起こす。どこを見ても木がある。
木の隙間には暗闇がある。薄暗い森だ。
いったいどこに向かえばいいのだろう? と
ユーシャは一瞬だけ考えたが、すぐに立ち上がって歩き始めた。
考えても無駄だ。今までずっとそうだったじゃないか。

778: 2013/12/02(月) 18:49:23 ID:Wz2VFw6U

薄暗い森は、一〇分ほど歩いても薄暗い森だった。
気温の変化もない。暑くも寒くもない、適温だった。

辺りを漫然と眺めながら、
ここは俺達がいた世界とはべつの世界なのだろうか? と思う。

たしかに見たことのない植物はたくさん見える。
でも、ただ見たことがないだけなのかもしれないだけで、
向こうにもあったのかもしれない。
べつに植物に関しての知識に長けているわけではないから分からない。

ここに魔王が居るという根拠は何もないが、
直感は魔王はこの先に居るとささやいている。
ユーシャはそれを信じることにした。それを信じることしかできなかった。
いま信じられるのは自分だけだ。導いてくれる魔法使いはいない。
空っぽの手を冷たい夜風が通り抜けた。

779: 2013/12/02(月) 18:50:03 ID:Wz2VFw6U

しばらく木の間を縫うようにして進んだ。
三十分ほどが経ったところで、ひらけたところに出た。

暗闇に目を凝らす。
目に飛び込んできたのは、廃棄されたと思われる石の建造物だった。
遺跡、という言葉が頭を過る。それは小さな城を思わせる出で立ちだった。
しかし、風雨に晒されてきたせいなのか、
それとも何かの意思による破壊行為のせいなのか、大部分が壊れていた。
天井にはぽっかりと穴が開き、壁にも巨大な穴が開いていた。
残骸のようだった。辺りには煉瓦ほどの大きさの石が無数に転がっている。

恐る恐るなかに入ってみる。当たり前だが、暗かった。
どこにも灯りはないし、自分で灯りを作ることもできない。
ひとりでは辺りを照らして建物を観察することもできやしない。
いったい俺には何ができるっていうんだ?

780: 2013/12/02(月) 18:50:44 ID:Wz2VFw6U

しばらくすると目が慣れて、かろうじて内部の様子を把握することができた。

やはり内部も外部と同じように荒れていた。
奇妙なかたちをした木の家具のようなものはすべて地面に倒れ伏せ、
石の床には何かの本が引き裂かれたのか、
大量の紙が絨毯のように敷き詰められている。
二階に続いていたはずの階段は崩れ、天井からは月の光が射していた。

崩れ去った二階への階段の脇には、もう一つ階段があった。地下に続く階段だ。
でも降りようとは思えなかった。先はあまりにも暗すぎる。そのまま進めば、
闇にすっぽりと飲み込まれてしまうような気がした。
身体が闇に溶けて、もう戻ってこれないような気がした。
その暗さは井戸や沼を思わせた。反射的に身体が震えた。本能的に恐怖を感じた。

781: 2013/12/02(月) 18:51:14 ID:Wz2VFw6U

ユーシャは、月の光が射しこんでくる一番明るい場所で座り込んだ。
周りに散らばった紙に目を向けてみたが、
何が書かれているのかはさっぱり分からなかった。
分からないことばっかりだ、と思う。

どうすればいい。暗い森は心の湖に張った氷を砕き、小さなさざなみを起こす。
湖の底から、不安と懐疑が気泡のように浮かび上がってくる。
でもそれは気泡のように水面へ姿を見せるのと同時に割れて消えた。

目を閉じて、聴覚を研ぎ澄ませる。風の音が聞こえる。
風で葉が揺れて、こすれる音が聞こえる。
羽ばたく音、吠える声、さまざまな音があらゆる方向から湧き上がってくる。
自分がこの世界の中心に居るような錯覚に陥る。

782: 2013/12/02(月) 18:52:01 ID:Wz2VFw6U

その時、かなり近くで何かが吠えた。犬とか狼とか、そういう類のものだろう。
ユーシャは低く身構え、壁の大きな穴からそっと外を覗き見た。

遠くに、小さな影があった。影は三つあって、それぞれかたちが違う。
ひとつは三メートルはありそうな巨大なもので、ひとつは犬ほどの大きさだ。
残りのひとつは大きな犬のようなかたちをしていたが、
それは巨大な影から伸びた腕に潰された。甲高い鳴き声が静かな森に響いた。

どうすればいい。ユーシャは考えた。でも止めた。
とりあえず、その場から飛び出した。
剣を引き抜き、駆け足で影の方へ向かう。この森が弱肉強食の世界であるとか、
人間と他の動物は相容れないだとか、そんなことは気にならなかった。
ユーシャを突き動かしたのは、使命感と“なんとなく”という思いだった。
こうすることで前に進めるような気がした。

近づいてみると、影の正体をはっきりと捉えることができた。
三メートルほどの影は、大きな熊のような姿をしていた。
でもそれは熊ではなかった。それには腕が四本あった。
人間でいう肩甲骨のある辺りから、二本の太く長い毛むくじゃらの腕が飛び出している。
そのうちのひとつは血で真っ赤に染まっていた。

783: 2013/12/02(月) 18:52:46 ID:Wz2VFw6U

隣に目を向けると、前脚と後ろ足の間をつぶされた狼のような怪物が横たわっていた。
先ほど潰された影だろう。もう一つの影も、狼のような姿をした怪物だった。
潰れたものより一回りちいさい。二体は親子だったのだろうか。

ユーシャは二体の怪物の間に割り込んだ。
どちらも逃げ出さなかった。ちらりと狼の方に目をやる。
狼は悲しげな目でこちらを見た。そこに怪物の面影は感じられなかった。
親を失くした子と同じだった。ユーシャは何故かそれを見捨てることができなかった。

剣を引き抜き、構える。熊の怪物は低い声で唸った。
直後に、二本の腕がこちらに振り下ろされた。

軽く身体を捻って躱す。腕は勢いよく地面にぶつかって、土埃を巻き上げた。
その隙に怪物の脇に入り、腕の付け根を切り上げる。
噴水のように血が地面に向かって噴き出し、怪物は絶叫した。
絶叫と共鳴するように森からたくさんのちいさな鳥が飛び立ち、耳障りな音をたてた。

784: 2013/12/02(月) 18:53:35 ID:Wz2VFw6U

熊の怪物は怒りを目に滲ませながらこちらを睨んだ。
それからもう一度腕を振り下ろした。
脇に避けて、もう一度脇の辺りを、今度は深く切った。
腕はじょうろみたいに血を地面に撒きながら、落ちた。

再び絶叫が響いた。ユーシャはそれを無視して、剣を構える。
そこで、子ども狼が熊の怪物の喉に噛み付いた。

当然、熊は暴れた。首に生えた黒い毛に血が滲んでいく。
熊がその場をのたうちまわろうと、子ども狼の怪物は喉にしがみつき続けた。
やがて熊は力を徐々に失い、抵抗の力を弱めた。

785: 2013/12/02(月) 18:54:23 ID:Wz2VFw6U

ユーシャはそこで熊に飛び乗って、腹を裂いた。
辺りは血の海と呼んでも差し支えないような光景だった。
そしてユーシャ自身はその血の海を泳いだみたいに汚れた。

子ども狼が裂いた腹から腸を引きずり出して、噛みちぎった。
血の海はさらに広がる。熊はまもなくちいさく身体を震わせ、絶命した。

どうってことはない。こっちの怪物にも俺の剣は通用する。
ユーシャは手応えを感じながら、熊の怪物の氏骸からすこし離れた場所に座った。
氏骸の脇にはもうひとつの氏骸がある。
子ども狼はそのもう一つの氏骸に歩み寄り、ちいさく鳴いた。

それは同情を誘う光景だった。
あの狼の怪物にも親が、もしくは慕っている仲間がいたのだ。
でも殺された。あいつはそれを悲しんでいる。でもどうすることもできない。
もうあれは親ではなく、ただの肉のかたまりにすぎない。

子ども狼は途方にくれたように、氏骸の脇で佇んでいた。
導いてくれるものを失ったのだ、迷うのは当然だろう。
ユーシャにはそれが他人事には思えなかった。
いったいどうすればあいつの力になれるだろう? と真剣に考え始める始末だった。

786: 2013/12/02(月) 18:55:15 ID:Wz2VFw6U

「なあ」とユーシャはとりあえず語りかけた。
「悲しいのはわかるけど、ここでずっとこうしてたらお前も氏んじゃうぞ」

子ども狼はこちらを見る。今にも涙を流して叫びだしそうな目をしていた。
それからゆっくりとこちらに歩を進めた。
身体が密着するほど近づいてきた子ども狼は
ユーシャの目を見ながら、ちいさく鳴いた。

「なんて言ってるか分からないよ。どうすればいいのかも分からないし、
俺に何ができるのかも分からない」
ユーシャは子ども狼の頭を撫でた。手も子ども狼も、血で汚れていた。

子ども狼は空に向かって遠吠えをした。
耳を劈くような声だった。そして心を揺さぶる叫びだった。
心の底から悲しんでいるように聞こえた。
その叫びは夜空に響き、森の闇に飲み込まれた。

子ども狼はしばらく鳴き続けた。
ユーシャは隣で黙ってそれを聞いていた。そうすることしかできなかった。

787: 2013/12/02(月) 18:55:45 ID:Wz2VFw6U

五分ほどが経ったところで、背後の草むらが揺れた。
振り返ると、ふたつの光点が見えた。
目を凝らして観察すると、それは怪物の目だった。
遠吠えを聞いて、ここへやって来たのだろう。

ユーシャは立ち上がって剣を構える。
怪物はのっそりと、草むらから出てきた。
また熊のような怪物だった。腕も四本ある。

一体なら、と思った矢先、もう八つほどの光点がユーシャの目に飛び込んできた。
熊の怪物が五体も現れた。ユーシャはすこしずつ後ずさり、剣を鞘に収めた。
熊たちは距離をじりじりと詰めてくる。袋小路に追い込まれたような危機感を感じた。
でもここは袋小路ではなく、(おそらく)巨大な森のど真ん中なのだ。
逃げる道は数えきれないほどある。

788: 2013/12/02(月) 18:56:20 ID:Wz2VFw6U

ユーシャは子ども狼を抱きかかえて、振り返って駈け出した。
背後では無数の足が湿った地面を蹴る音が鳴った。
背中にナイフを突き立てられたような気分だ。。
それほど暴力的な感情が背中に向かって放たれている。

殺された熊にも仲間や家族がいたのだ、とユーシャは思う。
俺達もあいつらも何も違うことなんてない。

振り返らずに、足を動かした。
いったい俺は何をしているんだ? と一瞬だけ疑問に思ったが、
それについて深く考慮している暇はなかった。必氏で逃げた。

腕のなかで子ども狼は大きな声で鳴いた。
背後の足音が増えた気がした。気のせいかもしれない。
でもいちいちそんなことを確認している暇はなかった。

789: 2013/12/02(月) 21:11:34 ID:Wz2VFw6U




背後の足音が聞こえなくなった。
ユーシャはその場に転がるように倒れこんだ。
足元には大量の枯れ葉があった。悪くない寝心地だった。
枯れ葉は火照った身体から適度に体温を奪っていった。

子ども狼がちいさな声で鳴いた。
ユーシャは手を離し、子ども狼を自由にしてやった。
完全な自由だ。それは目的地も道標もない砂漠に放り投げられたのと同じだった。
どこにだって行くことはできる。でもどこにも辿り着くことはない。
孤独なまま、いずれやってくる穏やかな氏を歩きながら待つだけだ。
そしてまた自由になる。

「お前、これからどうするんだ」と
ユーシャは子ども狼の目を覗きこんで言った。

当たり前だが、子ども狼は何も言わなかった。ただユーシャの目を見つめ返した。
その目には喪失感のようなものを感じることができた。
そして微かな希望の光を見るような、淡い期待があった。

790: 2013/12/02(月) 21:12:11 ID:Wz2VFw6U

ユーシャはため息を吐いて、近くの木に凭れかかった。目を閉じて、耳を済ませる。
風の音、葉のこすれ合う音、鳥の声、羽ばたき――特に異常はないように思えた。
“変化がない”。それはユーシャを不安にさせる。
永遠にこの森を彷徨うことになるんじゃないかと、そんな予感がした。

「なあ。この森の出口はどこなんだ? どれくらい広いんだ? ここ」

子ども狼は首を傾げた。「わからないよ」と言っているように見えた。

「だよな」ユーシャは微笑んだ。「どうしたもんか」

ここはどこで、今がどれくらいの時間なのか、さっぱり分からない。
導いてくれる光がほしい、と切実に感じた。

791: 2013/12/02(月) 21:14:07 ID:Wz2VFw6U

魔法使い、と思う。彼女の光と炎が、ぬくもりがほしい。
できることなら彼女の身体と心もここにあってほしい、と強く思った。
自分が置いてきたのに、いったい俺は何を思っているんだろう。
今は耐えるんだ、と自分に言い聞かせる。
帰ったら心置きなく甘えればいいじゃないか。

暗い森はユーシャをすくなからず寂しくさせた。
大剣使いが帰ってこなくて、魔法使いが目を覚まさなかった三日間を思い出す。
もっとも孤独だと感じた日だ。
覚めない悪夢のなかから救い出してくれたのは魔法使いだった。
でも彼女は今ここにいない。

周囲の闇に身体を潰されるような気がしてくる。俺は独りだ、と思う。
真っ暗な場所に居る。誰も手を握ってくれない、深い闇のなかに居る。
俺はひとりじゃあ何もできないのに、どうして――

792: 2013/12/02(月) 21:14:42 ID:Wz2VFw6U

頬を生温かい湿った何かが這った。驚いて横を見る。
子ども狼が舌をちろちろと覗かせながら、こちらを心配そうに見ていた。
頬の皮膚にひびが入ったような感覚がする。
どうやら子ども狼が頬を舐めたらしい。

「なに」とユーシャは言った。「俺はおいしくないぞ」

子ども狼は「分かってるよ」とでも言うように短く吠えた。そして歩き始める。
その背中は言う。「ついてきて」と。ユーシャには確かに聞こえた。

「付いて行けばいいの?」

子ども狼は再び短く吠えた。ユーシャはちいさな背中を追うように歩き始める。

793: 2013/12/02(月) 21:15:50 ID:Wz2VFw6U


おそらく二時間ほど歩いただろう。またひらけた場所に出た。
廃墟のような建物はない。ただのひらけた円型の空間だった。
周りには深い緑が生い茂っていて、頭上では夜が地上を見下ろしている。
相変わらず変化と呼べるほどの変化はない。
そこで、すこし先を歩いていた子ども狼は足を止めた。

ユーシャも立ち止まる。「どうした?」

子ども狼は前を向いたままちいさく吠えた。視線の先にあるのは茂みだった。
視線の先でなくても周囲には茂みと木と隙間の暗闇があるだけだ。

子ども狼は吠え続けた。
しばらくすると、がさがさと乾いた音をたてて茂みが揺れた。
目を凝らして見ていると、茂みを割くようにして
大きな狼のような怪物がのっそりと歩み出てきた。
体長は二メートルはあるだろう。目は鋭い光を放っており、全身の毛は白かった。

大人狼は品定めでもするみたいにユーシャを睨みつけた。
ユーシャは黙って見つめ返した。

間に立っていた子ども狼は、大人狼に向かって吠えた。
何かを説明しているみたいに見える。
すると、大人狼の背後からもう一体狼の怪物が現れた。
大人狼は二体になった、と思ったすぐ後に、もう一体狼が出てきた。
ユーシャは内心ですこし驚いていると、茂みからはぞろぞろと、
まるでありの行列みたいな数の狼が現れた。

794: 2013/12/02(月) 21:17:28 ID:Wz2VFw6U

もしかして、拙いんじゃないか? 食われる?
逃げ出したほうがいいのかもしれない、と思ったが、後ろを向いても狼だらけだった。
ユーシャを中心点に円を描くように狼が立っている。どれも真っ白な毛を持っていた。
四方八方から鋭い視線がとんでくる。身体が穴だらけになりそうだ。

子ども狼は吠え続けた。大人狼はこちらを睨み続けた。それは一〇分くらい続いた。
ユーシャは黙ってその場に立ち尽くしていた。ほかにどうしようもなかった。
一匹たりとも襲い掛かってくるものはいなかったし、逃げ出すものもいなかった。
ただ鉄の柵のように冷たく佇みながら、無音の重圧を与えていた。
彼らは“ここから動くな”と目で訴えかけてきているのだ。

やがて子ども狼の鳴き声は止む。
大人狼たちはそれから一〇秒ほど固まっていたが、やがて離散していった。
残ったのはユーシャと子ども狼と、最初に現れた大人狼だけになった。
大人狼は低い声で短く吠えて、草むらのなかに姿を消した。
子ども狼もユーシャに向かって一度吠えて、あとに続いた。
ユーシャは二体に付いていくことにした。「ついて来い」と言われたような気がした。

795: 2013/12/02(月) 21:18:26 ID:Wz2VFw6U


もう何時間も歩いた。五時間とか六時間が経っているはずだ。
しかし空はいつまで経っても暗いままだった。
森の景色も変わらない。周囲には木と闇があるだけだ。

足がすこし痛み始めた。決して足場は安定しているわけではなかったし、
門をくぐる前にもかなりの距離を歩いたのだ。脚に疲労が蓄積していくのを感じた。
筋肉が強張り、筋が裂けるような痛みがある。
二体の狼にはそんなことは関係無いようで、こちらに目を向けることもない。

「ちょ、ちょっと待って」とユーシャは言った。

こむら返りが起きた。痛みに顔を顰めながら、その場に座り込んだ。
枯れ葉が乾いた音をたてた。そこでようやく二体の狼はこちらに振り返った。
ユーシャは大人狼に向かって笑ってみせた。特に意味はなかったが、笑った。

子ども狼がこちらに歩み寄る。そして大人狼に向かって一度吠えた。
大人狼はこちらをじっと睨んでいた。

「もうちょっと待って」とユーシャは言う。
伝わっているのかは分からなかったが、そうするしかなかった。

796: 2013/12/02(月) 21:19:04 ID:Wz2VFw6U

大人狼は鼻で息を吐き、ユーシャの服の襟辺りを噛んだ。
なにをするんだ? とユーシャは思った。そしたら上に放り投げられた。
五メートルくらい飛んだ気がした。それは新鮮な光景だった。
心地よさと恐怖が混在する奇妙な感情が湧いた。それも新鮮なことだった。

上に飛んだから、下に落ちる。門の先でもそんな規則は変わらないらしい。
ユーシャは飛んだ時の倍くらいの速さで落ちた。でも地面にはぶつからなかった。
大人狼が背中で受け止めてくれた。

彼(もしくは彼女。性別はわからない)の背中はあたたかく、ふわふわとしていた。
大きな草原で横たわっているような心地よさがあったが、強い獣の匂いがした。

ユーシャは大人狼に跨るように体制を整える。
「乗せてくれるの?」と訊ねると、大人狼は鼻を鳴らした。
「仕方なく乗せてやる」とでも言っているのだろうか。
怒った時の魔法使いみたいだ、と微笑ましく思った。

「ありがとう」とユーシャは言った。

大人狼はちいさく吠えて走り始めた。子ども狼も続いた。
頬をうつ夜風は心地よく感じられた。
まるで自分が四本足で走る獣になったような気分だった。

797: 2013/12/02(月) 21:21:25 ID:Wz2VFw6U




大人狼は三〇分ほど走ってから立ち止まった。
ほぼ意識が閉じかけていたユーシャは、
あまりに突然の出来事にバランスを崩し、背中から落ちそうになった。
なんとか踏ん張って、何事かと顔を上げる。

森がそこで終わっていた。
先に見えるのは、大きな草原を割くような石畳の道だった。
道の脇には石造りの塔(背は低い)や柱が立っている。
大きなドーム状の石の家のようなものもあった。

“景色が変わった”。ユーシャは嬉しくなった。
狭い視界が一気にひらけたような気分だった。“前に進んだ”。

遠くには光が見えた。大きな光だ。あるいはたくさんの光だ。
遠目で見てもそこに町があるというのが分かった。
ユーシャは大人狼の背中から飛び降りて、彼(もしくは彼女)に向き直る。

「ありがとう」とユーシャは言って、大人狼の顎を撫でた。「助かったよ」

大人狼は気持よさそうに目を細めたあと、べろりとユーシャの顔を舐めた。
よだれまみれのユーシャが引きつった笑みを浮かべると、
子ども狼は嬉しそうに吠えた。

そしてユーシャは光の方へ、狼たちは暗い森へと向かった。
すべては向かうべき場所に向かっていた。

798: 2013/12/02(月) 21:22:13 ID:Wz2VFw6U

30


毒々しい色は生理的な嫌悪感を湧かせた。胃の中が撹拌される。
頭の中もぐちゃぐちゃになっているみたいな感覚がある。

魔法使いは“門”から飛び出して地面に叩きつけられ、数メートル転がった。
鈍い痛みのなかで体制を立て直そうと試みたが、
うずくまってすこし吐くことしかできなかった。

あらかた胃がすっきりしてから、大きく息を吸い込んだ。吐瀉物の苦い味がした。
でも緑の匂いと冷たい空気は落ち着きを与えてくれた。

口を拭って、尻もちをついて辺りを眺める。
暗い森だった。どこを見ても薄暗かった。
唯一の光と呼べるのは頭上で瞬く星と月だけだった。糸のように頼りない光だ。

「大丈夫?」と背後から声を掛けられた。
振り返ると、そこには少年――勇者が立っていた。「立てる?」

「大丈夫」と魔法使いは言って立ち上がり、尻を叩いた。
「こういうことには慣れてるから」

799: 2013/12/02(月) 21:23:30 ID:Wz2VFw6U

魔術の光で辺りを照らし、目が慣れてから周囲を見渡す。
見たことのない植物がそこらに生い茂っていた。
どれも廃村の図書館で読んだ図鑑には載っていなかったはずだ。
村の図書館で読んだものにも載っていなかっただろう。
旅の途中で見たどの植物とも合致しない。

間違いない、と魔法使いは思う。
間違いなくここはわたし達がいた世界とはべつの世界だ。

「それで、どこへ向かえばいいのかしら」魔法使いは腰に手をあてて言った。
どこにも目印になるようなものは見当たらない。

「たぶん」勇者は魔法使いから向かって右側を指さした。「あっちだ」

「どうしてそう思うの?」

「さあ。どうしてだろう。直感かな」勇者は歩き始める。

魔法使いは呆れてため息を吐いた。
その後すぐに昔のことを思い出して、口元が緩んだ。
勇者というのは、どうしてどいつもこいつも直感を頼りにするのだろう?

でも頼れるものはほかになかった。
それに、歩かないことには先に進むことができないのだ。

800: 2013/12/02(月) 21:24:58 ID:Wz2VFw6U

魔法使いは勇者を追うように歩き始めた。足元の草が乾いた音をたてる。
それに呼応するように、どこかで何かが羽ばたく音がした。
間違いなく、この森には数えきれないほどの怪物が跋扈しているはずだ。
念の為に、魔術の障壁を張っておくべきだろう。
魔法使いは呪文をつぶやき、ふたりを魔術の障壁で覆った。

勇者は立ち止まってから振り返り、「これは?」と訊ねた。

「魔術の障壁」と魔法使いは答える。「念の為にね」

「“膜”か」と勇者はつぶやいた。
魔法使いにはその言葉の意味が分からなかった。

801: 2013/12/02(月) 21:25:51 ID:Wz2VFw6U


三〇分ほど歩いたところで、急に視界がひらけた。
そこで森が一度途切れたようになっている。広場のようだ。

そこには石造りの廃墟のような建物があった。
天井も壁も崩れていて、全体的にも酷く劣化している。
人工物なのは間違いなかったが、ほとんど自然と同化していると言ってもいい。
魔術の光で照らしてみると、表面の石は緑の苔でびっしりと覆われていた。

壁に開いた穴から内部に足を踏み入れる。
石の床には絨毯のように、古びた紙が敷き詰められていた。
古紙には文字のようなものが書かれていたが、読むことはできなかった。
見たことのない文字だ。

辺りには家具や食器のようなものが転げていた。
綺麗な曲線を持った椅子や、細かい模様の刻まれたカップなど、
酷く汚れていたがそれらは単純な家具や食器としての機能と
芸術性を併せ持っているように見えた。見るも良し、使うも良しといったところだ。

802: 2013/12/02(月) 21:26:38 ID:Wz2VFw6U

さらに奥に進むと、二階へ続く階段があった。が、それは途中で崩れていた。
天井があったはずの場所からは月光が射している。
月光は脇にあった地下への階段を照らしている。

魔術の光で地下への階段を照らしながら下る。
背後からは勇者が付いてくる。ふたり分の足音が響く。

地下にあったのは牢獄だった。
階段を下った先には長く細い通路があり、左右には鉄格子がある。
しかし鉄格子のほとんどは変形していた。どれも大きく歪んでいたのだ。
まるでなかに閉じ込められていた“何か”が格子をねじ曲げて外に出たみたいに。
檻は全部で八つに区切られていた。そのうちの五つが壊れている。
残りの三つは空っぽの胃みたいに綺麗だった。

803: 2013/12/02(月) 21:28:08 ID:Wz2VFw6U

奥は行き止まりになっていた。大したものはなかった。
もう用はないから出ようと踵を返したところで、
魔法使いは檻の中を凝視しながら立ちすくむ勇者に気がついた。

近くに歩み寄り、「どうしたの?」と訊ねる。

「なんでもないよ」と勇者は答えて、すぐに階段を上がった。

どうしたんだろう、と魔法使いは思い、勇者が見ていた檻の中を見る。

大きく歪んだ格子の向こうには石の床と壁がある。
ふつうの壁と床だ。ただ、左側の壁が大きくへこんでいた。
大きな手形がついたみたいに、壁が変形している。
よく見てみると、その巨大な手形には指が六本分あるようだ。
確かに不思議な光景だった。しかしそれ以外に変わったことはない。
いったいあの子は何を見ていたのだろう?

804: 2013/12/02(月) 21:29:32 ID:Wz2VFw6U

魔法使いは階段を上って、勇者とともに廃墟をあとにした。

空も森も、相変わらず暗い。
ユーシャは――彼はひとりで、灯りも持たずにこの森を歩いたのだろうか。
そう思うと、怒りや心配よりも先に、とても申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。
わたしが彼の進む道を照らすべきなのに、と思う。
何がなんでも付いていかなければならなかったのに、
わたしが眠りこけている間に彼は行ってしまった。

それからまた数時間歩いたところで広場のような場所に出た。
そこには廃墟のようなものはなかったが、湖があった。真っ黒の湖だ。
波や波紋はいっさいなく、魔術の光で照らしても反射することはない。
輪郭は歪なかたちをしていて、それほど大きくはなかった。

湖の中を覗きこんでみると、そこには大量の生物がうごめいていた。
ひとのかたちをしたものもいれば、犬や熊みたいなものもいたし、
虫や魚、竜みたいなものも見えた。
そして強いエネルギーを感じた。引力のようなものだ。

805: 2013/12/02(月) 21:30:16 ID:Wz2VFw6U

ふたりはそこを通り過ぎ、黙々と歩いた。

歩き始めて一〇時間を過ぎた頃になると、森は終わった。
眼前に広い草原と、石畳の道が現れたのだ。
道の脇には石柱や石の塔が並んでいた。
そして遠くには光が見えた。おそらく、そこに町があるのだろう。
勇者の直感とは案外あてになるのかもしれない。

ふたりは光に向かって歩き始める。
光に吸い寄せられる蛾のようだ、と魔法使いは思った。

空を見上げると、まだ夜の暗さが残っている。
一〇時間経っても空は夜の表情を残したままだった。
でもそんなことはどうでも良かった。
長い夜なんて、べつに今に始まったことではないのだから。
何かがおかしくなったって、べつにわたしはまっすぐやればいい、と強く思った。

進むべき道が曲がりくねっていようと真っ暗であろうと、まっすぐに進めばいい。
そうすれば彼に辿り着く。彼以外のことなんて、後になってゆっくりと考えればいい。
彼と一緒に、じっくりと話し合えばいい。

次回
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【5】

引用: 勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」