806: 2013/12/03(火) 21:44:32 ID:21SjLJhI

勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【1】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【2】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【3】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【4】
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【5】


31


ようやく町までの距離が百メートルほどになった。
こちらに来てからはすでに一二時間以上は経過しているはずだ。
でも空は暗いままだ。
もしかすると、このまま永遠に夜が続くのではないか、とユーシャは思った。

町は低い壁で覆われていた。
怪物の侵入を防ぐための壁というよりは、ただの目印みたいだった。
低い壁の向こうは、今まで歩いてきた
暗い草原とはべつの空間みたいに眩かった。

太鼓の音のような低くずしりと来る音が虚空に響いた。その音は雷を思わせた。
しゃらしゃらと、鈴がなるような音が聞こえた。その音は雨を思わせた。
遠くからは綺麗な唄声が聞こえる。その声は穏やかな風を思わせた。

ユーシャは町の前に立って、しばらくそれらの音に耳を傾けていた。
目を閉じると、故郷の村の景色が見えた。
それはとても懐かしく、色づいたものだった。
葬送のフリーレン(1) (少年サンデーコミックス)
807: 2013/12/03(火) 21:45:24 ID:21SjLJhI

「おなちすおど」と誰かが言った。

目を開くと、正面の壁を挟んで髪の長い女性が立っていた。
黒いワンピースを着ていて、ほかは何も着けていなかった。
靴もアクセサリーもない。下着はわからない。着けてなかったらいいのにな。

人間だ、とユーシャは思ったが、違った。
限りなく人間に近い姿をしていたが、耳のかたちがすこし変だった。
耳が“ぴん”と尖っている。大きさも人間と比べると大きい。
しかしそれ以外には何もおかしいところはなかった。

そうだ。目の前に立っているのは、二〇歳ほどのただの女の人だ。
耳のかたちが変わっているだけだ。いや、どうなのだろう。
ユーシャには彼女が怪物なのか人間なのかの区別がつかなかった。

「うおいせでぃうまさうぉこす」と女は続けた。優しい声だった。「えでぃお」

「はい?」とユーシャは言った。「今なんて言ったの?」

808: 2013/12/03(火) 21:47:03 ID:21SjLJhI

「えら」と女は首を傾げて言う。「もしかして、こっちの言葉で喋ってるの?
ねえ。わたしの言っていることの意味が理解できたら頷いて。二回ね」

ユーシャは言われたとおりに二回うなずいた。

すると女は納得したようで、嬉しそうに三回うなずいた。
「うん。やっぱりそうだ。でも今時こんな古い言葉で喋る子はめずらしいよ?」

「そうなんだ」とユーシャは言った。
この女はいったい何のことを言っているのだろう。

「うん。めずらしい。君みたいに若い子は特に」女は微笑んだ。
「まあ、なんだっていいや。そんなこと、今日はどうでもいいよね。
今日はまだお祭りの二日目なんだし、細かいことなんか気にしてられないよね。
もっと楽しまなきゃ」

「そうそう」とユーシャは言った。今日はお祭りの二日目?

「君もこっちに来なよ。そっちは寒いでしょ?」

「うん」ユーシャは低い壁を跨いで、町に踏み入った。
壁の内側に入った瞬間に、身体が温かい空気で包まれた。

809: 2013/12/03(火) 21:48:52 ID:21SjLJhI

町は東の王国とか西の王国の城下町と同じくらい大きく、
同じくらいかそれ以上に賑わっていた。
階段の多い複雑な地形で、足元には川が流れていた。
川の水面は光を反射しながらゆらゆらと揺れている。

遠くには大きな城があった。
城だけは喧騒から除外されたようにひっそりと佇んでいる。
それ以外はどこを見ても光と笑顔があった。
町全体が金色に輝いているように見える。

「君もひとりなの?」と女は言った。

「そうなんだよ」とユーシャは言った。

「寂しくない?」

「たぶん、すごく寂しい」

町は賑わっているが、自分の周りだけが空間とのつながりを
拒絶しているような感覚がある。
自分の纏っている空気が、周囲に溶け込まないのだ。

810: 2013/12/03(火) 21:49:37 ID:21SjLJhI

「よし」と女は笑った。「いっしょに行こう」

「どこへ?」

「どこだっていいよ。とりあえず何か食べよう。お腹減ってるでしょ?
お腹が減ってるときは孤独を強く意識しちゃうんだよ」女は歩き始めた。
それから振り返って言う。「うかやーふ」

「え?」

「“早く”って言ったの。うかやふ。うかやーふ!」

わけがわからないままユーシャは女の隣に並んでから歩き始める。

811: 2013/12/03(火) 21:51:04 ID:21SjLJhI

川の上で緩やかなアーチを描く石橋を渡ると、大きな通りに出た。
大通りには多くのひと――あるいは怪物――がいた。

みんな耳がぴんと尖っていた。男も女もいた。
肌の色はばらばらだった。みんな楽しそうだった。
隣を見ると、女も楽しそうに目を細めていた。
ユーシャも自然と頬がほころんだ。

綿毛のように、そこらに淡く黄色い光を放つ球体が漂っている。
風に煽られて、高く舞い上がったり川に沈んだりした。
それは意思を持った生物のように見える。
まるでお祭りを楽しんでいるように見えるのだ。

街全体が淡く、黄色く発光しているように感じられた。
自分はそのなかにいる。黄金でできた町を歩いているような感覚がした。
でも町には金属的な冷たさはない。どこもあたたかかった。

身体が火照ってくる。おかげで感覚は鈍くなっていったが、
しっかりと何かの音が身体を揺さぶり続けた。
太鼓の音、鈴の音、唄声、人びとの喧騒。
白と黒が混ざって灰色になるように、
ユーシャの纏っていた空気は町の空気で中和された。

812: 2013/12/03(火) 21:52:10 ID:21SjLJhI

「君、もしかして眠かったりする?」と
女は身を屈めて、こちらの目を覗きこむようにして言った。

「ちょっと眠いかも」

「お祭りの前日はよく寝なかったの?」

「うん」とユーシャは適当にうなずいた。
「それに、昨日はずっと歩いてたから疲れてるんだ。一〇時間くらい歩いてた」

「そりゃあたいへんだ」女は目を丸くしてから微笑んだ。
「どうして一〇時間も歩くことになったのかは気になるけど、
そんなことを聞いてる時間がもったいないよね。
だってお祭りは年に三日しかないんだもの。
とにかく、寝ちゃだめだよ。寝たら氏ぬと思って」

「頑張ってみるよ」

「その意気だ。頑張るんだよ。わたしも眠いけど頑張るよ」

「その意気だ」とユーシャは言った。

813: 2013/12/03(火) 21:53:00 ID:21SjLJhI

大通りの左右には、簡素な小屋が綺麗に並んでいた。
甘い香りや香ばしい香りが立ち上り、町を覆う。
小屋のひとつに目を向けてみると、ちいさな鳥を丸焼きにしたようなものがあった。
きつね色の皮が空腹感を思い出させ、腹を鳴らした。
涎が湧いてくる。門をくぐってからは何も食べていないのだ。

「あれが食べたいの?」と女は言った。

ユーシャはうなずいた。「おいしそう」

「おいしいよ。もらってきてあげる」

「ありがとう」

「ありがとう」と女は言ってから、「うおたぎら」と続けた。

「うおたぎら?」

「“ありがとう”って意味。覚えておくといい。たぶん役に立つよ」

「分かった」とユーシャは言って、「うおたぎら」と言った。

「えちさみさちうおづ」と女は言い、
駆け足で鳥の丸焼きのようなものを貰いに行った。

814: 2013/12/03(火) 21:53:55 ID:21SjLJhI

一分もしないうちに女は戻ってきた。

ユーシャは女からそれを受け取って口に入れた。
顎の骨に何かびりびりとしたものが走るような感じがして、涎がさらに湧いてきた。
肉は柔らかく、簡単に咀嚼できた。よく噛んでから飲み込んだ。
肉はつるりと喉を通り抜けて胃に送られる。
胃のなかに何かが入ってきたと感じることができた。

謎の鳥肉を食べ終えると、女は再び歩き始めた。ユーシャも隣に並んだ。
永遠に続くような明るい通りを歩いていると、女が立ち止まってどこかへ行った。
と思ったら一分もしないうちに戻ってきた。
手には木の枝に刺さった綿のようなものを持っていた。

「それは何?」とユーシャは訊ねた。

「えまたう」と女は言った。

「えまたう?」

「わたあめともいう」と女は言った。「知らない?」

815: 2013/12/03(火) 21:54:49 ID:21SjLJhI

「知らない。はじめて見た」

「君、相当かわってるね。
もしかして、今度はこの町の住民じゃないとか言い出すの?」

「ここだけの話をすると、俺はこの世界の住民ですらないんだ」

女は大きな目を瞬かせた。それから笑った。
「君、おもしろいね。なかなかおもしろい冗談だよ。八〇点くらい」

「うおたぎら」とユーシャは言った。「それで、その綿は何なの? 食べ物?」

「そう。食べ物。甘くておいしいんだよ」

「ほんとうに?」

「ほんとうに」と女はユーシャの口に綿を押し付けた。

816: 2013/12/03(火) 21:55:44 ID:21SjLJhI

綿はべとべととしていた。舐めてみると、確かに甘かった。
舌に触れた部分から綿は消えていった。
口のなかに入ってきたと思ったら綿は縮んで、甘い味だけを残して消えた。
なんだこりゃ。

「食べ過ぎ」と女は言って、綿を取り上げた。

「ごめん」

「どう? おいしかった?」女は取り上げた綿を頬張りながら言った。

「甘くておいしかったよ。口のなかに入ったらすぐに消えちゃったけど」

女は笑った。「君はほんとうにおもしろいな」

817: 2013/12/03(火) 21:56:26 ID:21SjLJhI

大通りを二〇分ほど歩くと、広場に突き当たった。
広場は円型で、円の輪郭に沿って人々(あるいは怪物たち)が並んで、
またちいさな円を作り出している。
中心では綺麗な服を着た数人の男女が踊っていた。

自分の服を見てみると、泥と黒ずんだ血で酷く汚れていた。
でも誰もそのことを咎めるものはいなかったし、
刺々しい目線を向けてくることもなかった。

「お金持ちはああやって、みんなに踊りを見せたがるんだよ」と女は言った。

「へえ」とユーシャは言う。
「でも、綺麗な踊りだと思う。それにみんなも見たくてここに来てるんだろう?」

「そう。でもわたしはそれがまた気に入らないというか、なんというか」

「もしかして、きみもあんなふうに踊りたいの?」

「どうなんだろう」と女はぼんやりと踊りを眺めながら言う。
綺麗で淋しげな目だった。「分からないよ」

「そっか」

818: 2013/12/03(火) 21:57:35 ID:21SjLJhI

しばらくはお金持ちの踊りを眺めていた。
たしかに服装はぴかぴかとしていて、踊りからはどことなく気品が感じられた。
べつに踊りに詳しいわけではないから細かいことは分からなかったが、
見ていて落ち着くというか、心の安らぐような踊りを見るのははじめての事だった。
よどみなく流れる川のように、彼らは舞い続けた。
薄い布がふわりと、緩やかなカーブを描いた。

踊っているものも、見ているものも、純粋な楽しみに満ちていた。
ただ、隣の女だけが淋しげな目で踊りを見ていた。
その目は北の大陸での最後の夜の魔法使いを回想させた。

目を瞑る。魔法使い、と思う。あいつがこの景色を見たら、何と言うだろう?

「行こう」と隣の女が言い、踵を返して歩き始めた。

ユーシャは黙ってあとに付いていった。

819: 2013/12/03(火) 21:58:35 ID:21SjLJhI

すこし引き返したところで、橋の脇にある階段を下った。
あまりにもひとの流れが多いので、それだけでも一苦労だった。

階段を下った先は、川だった。眩しいくらいに黄色く光る川だ。
川沿いには木のテーブルと椅子がどこまでも並べられている。

ところどころに、椅子に腰掛けて酒をあおるものがいた。
ほとんどがへべれけに見える。
顔は真っ赤だし、川に飛び込むものもいた。
大声で笑うものもいれば大声で唄うものもいた。

並んだ椅子のひとつに女は腰掛けた。ユーシャも隣に座った。
女はテーブルの上に散らばったボトルを一本掴んで呷った。
口から酒が溢れるくらいに女は酒を喉に流し込んだ。

ユーシャは黙ってそれを見ていた。
やがて女はボトルを口から離して、テーブルの上に置いた。
空っぽの音がした。

820: 2013/12/03(火) 22:00:53 ID:21SjLJhI

「君も飲みなよ」と女は言った。

「俺はいいよ。というか、飲めないんだ」

「お酒はいいもんだよ。
わたしはお酒を飲むと嫌なことを忘れられて、正直になれるの。
でも眠くなるし、次の日は頭が割れるくらい痛くなる。
でも飲まないわけにはいかないときもある」

「何か嫌なことでもあったの?」

「分からない。でも踊りを見てるとすごくもやもやした」
女はユーシャの目を覗きこんで言う。
「わたしは今からものすごく酔っ払うけど、その時わたしは正直になるから、
酔っ払ったわたしのいうことを聞いてね。たぶんわたしは潰れて忘れちゃうけど、
それはわたしがほんとうに望んでいることだから。分かった?」

「分かった」

女は次々とボトルを開けて飲み干していった。
一本を飲み切るのに一分しかかからなかったり、四〇分以上かけたりした。
ユーシャはただそれを眺めて、女の口から紡がれる言葉に耳を傾けた。
勢いでよく分からないことを口走ることもあった
(おにいしますこぐす、と言っていた)が、ユーシャはずっと話を聞いていた。
そうすることしかできなかった。

821: 2013/12/03(火) 22:02:02 ID:21SjLJhI

一時間で四つのボトルが空になった。女は完全にへべれけになっていた。
顔は真っ赤で、なんだか気分がよさそうだった。

女は頬杖をついて言う。
「よおし。じゃあ言いたいことを言うよ。
耳をかっぽじって聞くように。分かった?」

「分かった」

「よろしい」女は満足そうに笑った。
「君が言ったとおりだよ。わたしは踊りたい。すごく踊りたい。
分かる? 分かるよね。でもわたしは分からなかった。
おかしいよね? わたしはおかしいの。
そりゃあずっとひとりでいたもの。寂しくて気が狂っちゃいそうだったよ。

昔から思ってたの。わたしも誰かと踊りたいなあって。
誰かとお祭りに行きたいなあってね。分かる? 分かるよね。
わからないわけがないよ。君もひとりなんだから」

「分かるよ」とユーシャは言った。

822: 2013/12/03(火) 22:04:10 ID:21SjLJhI

「うんうん。君はいい子だ。
わたしは逃げるためによくお酒を飲むけど、
それは何の解決にもならないんだよね。分かってるの。
分かってるけど、どうしても事実と向き合えないことがあるわけだ。
わたしはだめだからね。

でも君はお酒を飲まない。
どうして逃げないの? それともほかに逃げる方法があるの?
それともみんなは逃げなくて、わたしだけがおかしいの?
わたしにはわからないよ。誰も教えてくれなかったもの。
ねえ、わたしはだめだからひとりなのか、ひとりだからだめなのか、
どっちなんだろうね? わからないよね?」

「たぶん」とユーシャは言う。「ひとりだからだめなんじゃないかな」

「そうか、そうかあ。じゃあわたしは誰かといる時は、だめじゃないの?」

「ぜんぜんだめじゃないよ。
俺はきみに声を掛けられて嬉しかったし、今もたのしい」

「たまに優しい言葉をかけてくるひとって、すごくずるいよね。君みたいにさ。
でも普段誰も声を掛けてくれないとさ、それがほんとうにうれしいんだよ。
嘘だって分かっててもうれしいんだよ? だからわたしは今すごくうれしいの。
ほんとうにうれしいんだよ? 分かる? お願いだから分かってよ」

「分かるよ。それに、俺は嘘なんて言ってない」

823: 2013/12/03(火) 22:05:39 ID:21SjLJhI

「そうそう。共感を得られるっていうのもね、すごくうれしいの」
女は口をぱくぱくさせながら涙を流し始めた。
「分かる? すごくうれしいの。すごくうれしいとはいうけれど、
ほんとうは言葉じゃ足りないくらいにうれしいの。
君がこうやってわたしに向かって頷いてくれるのがさ、うれしいわけだ。
うれしいばっかりだ。ばかみたいだよね。語彙が貧弱なんだよ、わたし。
でもうれしい。すごくうれしいしたのしい。

ほんとうは、お祭りは明日までずうっと続くんだけど、もういいや。
今日が今までで一番の日だ。
明日なんてどうでもいいよ。もうみんな氏んじゃえばいいんだ」

「もしかすると、明日が今日以上にたのしい日になるかもよ」

「そうやって楽観的に考えることが出来るのって、素敵だと思うよ。
でもわたしにはそんなことできない。わたしは、できることなら眠りたくない。
分かるかな? 当たり前だけど、寝て、目を開いたら朝なんだよね。
それがものすごく悲しいの。

わたし、毎日、明日なにかいいことが起こりますようにって祈りながら寝るんだよ。
ばかみたいでしょ? それで起きたら、
なんにもないんだよなあ、これが。笑えないよ」

824: 2013/12/03(火) 22:07:23 ID:21SjLJhI

「でもきみはずっと今までやってこれたんだろう。ひとりで」

「惰性でね。ある地点を通過した時から、世界から色は消えるんだよ。
でもある地点にたどり着くと、世界は色を取り戻す。
わたしの言いたいことは分かる?」

「分かる気がする」

「よろしい。きみはほんとうにいい子だ。
それで、わたしの世界に色が戻ってきたんだよ。今ね。たった今。
身体は熱いし、胸がどきどきするんだよ。わたしの言いたいこと、分かる?」

女は泣きじゃくりながら弱々しく微笑んだ。
「はい。これでわたしの言いたいことは終わり。
きみはもうわたしを放ってどこに行ってもいい。
わたしはひとりでいるべきなんだよ、たぶん。分かるんだよ。
もう終わりだよ。全部終わり。何もかもおしまい。
黄金の微睡みから覚めたわたしは、重荷を背負ってから終わるんだよ」

「よし」ユーシャは椅子から立ち上がって、女の手首を掴んだ。
「じゃあ踊りに行こう」

825: 2013/12/03(火) 22:08:14 ID:21SjLJhI

「え?」と女はきょとんとして言った。「どこへ? 誰が?」

「さっきの広場で、俺ときみが踊る」

女は目を細めて笑った。長いまつ毛がきらきらと輝いて見える。
それはとても素敵な笑みだった。
「さっきの広場はだめだよ。あんなところで踊ったらわたし達、痛い目に遭っちゃうよ」

「そっか。じゃあ、どこで踊ろう?」

「ほんとうにわたしなんかと踊ってくれるの?」

「もちろん。どこで踊りたい?」

「じゃあ」女は立ち上がった。「ここで踊る」

826: 2013/12/03(火) 22:09:03 ID:21SjLJhI

「分かった。一度も踊ったことなんてないけど、頑張ってみるよ」

「わたしだって踊ったことなんてないよ」

「でもきみのほうが踊りについては詳しいと思うから、任せるよ」

「任せるって、何を?」

「全部」とユーシャは言った。

「分かった」女はユーシャの手を握って笑った。「川に落っこちても知らないよ」

「そんなことはないって信じてるよ」

「わたしみたいなやつを信じちゃだめだよ」

「俺は信じてるよ」

「ありがと」

827: 2013/12/03(火) 22:09:59 ID:21SjLJhI

女は微笑んでからユーシャの手を強く握って、ゆっくりと踊り始めた。
ユーシャは足がもつれそうになったが、なんとか女に合わせて動いた。
踊りというのは、実際にやるのは簡単なことではないらしかった。
見ていた時とは大違いだった。見ているだけなら簡単そうに見えたのに、
自分が踊ってみると、親の真似をする子のような動きになってしまう。
女の動きを遅れて追いかけるかたちになってしまう。

周りから見ればそれは決して綺麗な踊りではなく、不細工な踊りだっただろう。
でも女は楽しそうだった。周りの目などどうでもいいのだ、とユーシャは思う。
今、この場所が光っていればいい。
今は彼女が主役で、ほかはただの石みたいなものだ。

女は手を離して、その場でくるくると回った。
ワンピースのスカート部分がふわりと浮いた。
しばらく回ったあとに、「ほ」と言いながら手を広げて、彼女は止まった。

828: 2013/12/03(火) 22:11:01 ID:21SjLJhI

「なんだそりゃ」とユーシャは言った。

「分かんない」と女は言って、ユーシャの手を握りなおした。
「君からはすごくいい匂いがするね」

「いい匂い。どんな?」

「おいしそうな匂い。甘いとか辛いとかそういうのじゃなくて、
もっと漠然としてる。でもおいしそう」

「分からないよ」

829: 2013/12/03(火) 22:12:07 ID:21SjLJhI

ふたりはもう一度同じように踊った。
へたくそで不細工な踊りだったが、それは誰かの何かに響いたらしかった。
気がついたら周囲には人だかりができていた。
橋の上では欄干に沿ってひと(あるいは怪物)が並び、こちらを見下ろしている。

どこかから誰かの声が聞こえた。
指笛が聞こえた。太鼓の音や鈴の音も聞こえた。
周りの景色は輝いて見える。
目の前の女は笑っている。観客たちも楽しそうにしている。

しばらくして女はまた回った。
そして先ほどと同じように、「ほ」と言って止まった。

そこでちいさな拍手が湧いた。
女は拍手の方に目を向けると、恥かしそうにはにかんだ。
どうやら橋の上の観客には気づいていなかったらしい。

「うおたぎら」と彼女は叫んだ。

拍手が大きくなった。
誰かが川に飛び込んだ。水しぶきが光の粒のように跳ね上がった。
ユーシャは彼女に向けられた拍手のなかに
佇みながら、魔法使いのことを想っていた。

830: 2013/12/03(火) 22:13:14 ID:21SjLJhI




女は酔いつぶれて、机に突っ伏すようにして眠った。
彼女が眠っただけで、町には活気が漲っていた。
どこを見ても光があるし、喧騒がある。
彼女だけが町から取り残されたみたいだった。

ユーシャもすこし眠ることにした。
身体が休息を求めていた。瞼が重いのだ。
一度目を閉じたら簡単に意識は閉じた。
自分の深みのなかで、魔法使いの夢を見た。
真っ暗な空間で、ただ魔法使いと言葉を交わし、身体を交えるだけの夢だった。

次に目を開いた時もお祭りは続いていた。
空は相変わらず暗いし、女はちいさく寝息をたててテーブルに突っ伏している。
いったいどれほどの時間眠っていたのかは
分からないが、身体は完全に回復していた。
夢で魔法使いに会ったからかな、と適当なことを思った。
身体が温かくて勃起しているのはたぶん夢のせいだ。

全身に力が漲っている。身体も軽く感じる。感覚は針のように研ぎ澄まされてる。
空腹感もないし、寒気みたいなものもない。完全な自分だ、と思う。
今までこんな自分に出会ったことはなかった。

831: 2013/12/03(火) 22:13:46 ID:21SjLJhI

しばらくしてからユーシャは立ち上がって歩き始める。
彼女が目を醒ました時、彼女はひとりだ。
すこし悪いことをしているような気持ちになったが、進まなければならない。

俺には待たせているひとがいるじゃないか、と自身に言い聞かせる。
魔法使い、魔法使い。すぐに頭のなかは魔法使いのことで埋め尽くされた。
彼女の笑った顔が鮮明に見えるような気がした。早く逢って抱きしめたい、と思う。

どこへ向かえばいいのかは、おおよそ検討がついていた。
遠くに見える暗い城を見据える。誰かが呼んでいるような気がした。
ユーシャは光の大通りを目に焼き付けるようにゆっくりと歩いて、暗い城を目指す。

832: 2013/12/03(火) 22:14:58 ID:21SjLJhI

32


町は金を散りばめたみたいにきらびやかで、森のざわめきのように賑やかだった。
中にはひとの姿も見える。と思ったが、
よく見てみると見知った人間という生物とはすこし異なるものだった。
でも大部分は同じだった。違うのは耳だけだ。
彼らの耳はみんな、ナイフの先端のように“ぴん”と尖っていた。

勇者は町を囲う低い壁を跨いで、町のなかに入った。
急に気温が上がったような気がした。

魔法使いがあとに続いて中に入ってくる。
すると彼女は感心したように、「障壁」とつぶやいた。

「障壁?」と勇者は訊ねた。

833: 2013/12/03(火) 22:15:51 ID:21SjLJhI

「魔術の障壁」と魔法使いは言う。「見えない壁みたいなものが町を覆っているのよ。
多分、この町に温かい空気を閉じ込めるためだけの壁ね」

「怪物の侵入を防ぐためとかではないんだ?」

「違うと思う。それだったら、わたし達は障壁をくぐれなかったはずよ」

「そっか」勇者は魔術の村を覆っていたドーム状の“膜”のことを思い出す。
似たようなものだが、すこしばかり異なっているらしい。

そしてどうやら町ではお祭りが催されているらしかった。
黄色い光の球がそこらじゅうに浮き、太鼓や鈴、唄声が辺りに満ちている。
光の球は眩しいくらいに輝いていた。この町だけが昼みたいな明るさだ。

耳の尖った人々は笑い、大きな通路を川のように流れている。
大人もいれば子どももいたし、肌の黒いものもいれば白いものもいた。

834: 2013/12/03(火) 22:16:54 ID:21SjLJhI

しばらくはあてもなく歩いてみた。
腹が減るような香りが漂っている。香ばしい香りや甘い香りがした。
気味の悪いお面を付けてはしゃぎ回っている子どもたちが脇を通り過ぎた。
誰もが楽しそうにしていた。まるで自分たちだけが
置いてけぼりを食らったような気分だった。

胸に大きな穴が空いていて、そこを温かい風が通り抜けた。
吐き気がした。

「いったい、夜はいつまで続くのかしら」と魔法使いが空を見上げてつぶやいた。

勇者も空を見上げた。町が明るすぎて、星は見えない。月だけは見える。
こちらに来てから一二時間以上は経過している筈なのに、未だに夜は続いている。

“表”と“裏”は根本的なところは違うのかもしれないが、
表面上はとても似ているように思える。
森も町も、“裏”にあってもおかしくないようなものだ。
大きく違うことなんて、空以外、今のところはない。

835: 2013/12/03(火) 22:18:28 ID:21SjLJhI

ゆっくりと空から視線を下げていくと、暗い城が見えた。
それは昔からそこにあって、忘れ去られた大きな岩のように佇んでいた。
決して美しい姿とは言いがたかったが、胸を打つ何かを持っていた。

その城は勇者の心を揺さぶった。
内に湧き上がったのは泥水のような汚いものだった。
泥水は吐き気を湧き上がらせ、肌を粟立てた。

次に湧き上がったのは激しい高揚だった。
見えたのは旅の終わりだった。
力が湧いてくる。殺意が湧いてくる。誰かが呼んでいる。

「あそこに魔王がいるんだね」と影は言った。
「なあ。魔王を倒したら、きみはどこへ行くんだい?」

問いには答えなかった。相反するふたつの考えが燻っている。
単純なことだ。どこかへ行くか、どこにも行かないか、それだけの事だ。
惰性で生きるか、自らの意思で氏ぬかのどちらかだ。

もう自分に残された意味は魔王を討つことしかなかった。
居場所もなければ行く先もない。空っぽの手は酷く汚れている。
この手の中に誰かの手があっただなんて信じられなかった。

「あの城だ」と勇者は静かに言った。「あの城に魔王がいる」

魔法使いは何も言わずに城の方を向いた。
表情からはどんな感情を読み取ることもできなかった。
さまざまな感情が彼女の顔には浮き上がっていた。
それはなんとなく、僧侶のことを想わせた。

836: 2013/12/03(火) 22:19:34 ID:21SjLJhI

勇者は黙って歩き始めた。魔法使いが後ろから付いてくるのが分かる。

まもなく大きな川に架かった橋に着いた。川の水面では光の粒が踊っている。
川が呼吸しているみたいに見えた。

橋の脇には細い階段があって、そこから川沿いに行けるらしい。
川沿いの石畳の上には木の椅子とテーブルが並んでいる。
テーブルを囲うようにして酒を飲み交わすものが幾人もいた。

その中で、ひとりテーブルでボトルをあおる女性がいた。
椅子に深く持たれながら、右手で酒を喉に流し込むようにしていた。
口からは酒がこぼれていた。

酷く淋しげな光景だった。
背もたれに頭を乗せて空を見上げているおかげで、長い髪が地面につきそうだった。
賑わう町の中で、その女だけが置いてけぼりを食らったように見えた。
勇者は酷く胸を痛めた。その女は、僧侶にとても似ていたからだ。

837: 2013/12/03(火) 22:20:51 ID:21SjLJhI

ゆっくりと階段を下りて、女の元に向かった。
女は生気の失われつつある目でこちらを見て、
「えらづ」と言った。「あくせづおやきなん」

勇者は黙って女を眺めていた。
ほんとうによく似ていた。でも別人であるというのは確かだった。

「この人は誰?」と背後の魔法使いは言った。「知り合い?」

勇者は首を振った。「違うけど、すごく似てるんだ。僕の友だちに」

「ああ」と女は言った。
「またこっちの言葉で話す人に会っちゃったよ。
わたしが何て言ってるか、分かる?
ちゃんと伝わってる? 伝わってたらうなずいて、二回ね」

勇者と魔法使いは二度うなずいた。

「よおし。まあ座りなさいな。ちょっとゆっくりしていこうぜ」
女は嬉しそうに言った。

「何、この人」魔法使いが訝しげに言った。

838: 2013/12/03(火) 22:21:55 ID:21SjLJhI

勇者は黙って椅子に腰掛けた。魔法使いも隣に座った。
テーブルの上には空のボトルが散乱している。女は完全に酔っ払っていた。

女は言う。
「よおし。今からわたしは言いたいことを言うよ。聞きたくないなら逃げても良いし、
鬱陶しいと思ったら頃してくれたって構わないよ。
とにかくわたしは話したいわけだ。わたしは氏んでも話し続けるよ。
わたしがこうやって話すことができるのはあとすこしだけなの。分かった?」

「分かった」と勇者は言った。

「空白の時間ってあるじゃない。
誰にも知られることのない、意味のない時間みたいなやつ。分かる?
まあべつに分からなくてもいいよ。
無駄な努力を行った時間とか、ひとりでいる時間とか、そういう時間。
でさ、有意義な時間と無意味な時間、きみの時間はどっちのほうが多いと思う?」

勇者はすこし考えてから、「無意味な時間」と答えた。

839: 2013/12/03(火) 22:23:12 ID:21SjLJhI

「君とは気が合いそうだ」と女は言う。
「そうなんだよ。君の時間は無意味な時間のほうが多い。
でもわたしの時間は無意味な時間でしかないわけだ。
そして無意味な時間を、無意味な努力に費やしたんだよ。
こんな誰も話さないような言葉を覚えるために、ひとりでずうっと闘ったわけだ。

それで、覚えちゃったら次は何をすればいいのかが分からいんだよね。
でも考えれば分かるんだよ。
覚えた言葉を活かす方法を探せばいいんだよ。当たり前だ。

この言葉はすごく昔の言葉だから、
たとえば昔の文献を読み漁ってみるとかね、あるじゃない?
それでわたしはそのことに気付くまで何年もかかったわけだ。

空白の時間に何をしていたかなんて、何も思い出せないよ。
ほんとうに真っ白なんだ。ひとりで、真っ暗で、真っ白なんだよ。分かる?」

勇者も魔法使いも黙っていた。

840: 2013/12/03(火) 22:24:09 ID:21SjLJhI

「そんな無意味な七〇年を送ってきたわけだけど
――ああ、今わたしは七〇歳なの。
知ってる? 七〇年間ひとりだったんだよ?
知ってるわけないよね。わたしはひとりだったんだもの。

どうせ七〇のくせに餓鬼みたいな喋り方だとか思ってるんでしょ。
知ってるかな、孤独は心を凍らせるんだよ。
そうしないと壊れちゃうからね。そこから心は前に進めなくなる。

まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。
君たちだってどうでもいいと思ってるはずだ。

それで、ここからが本題ね。
七〇年という無意味な時間が過ぎていったんだけどね、
わたしは昨日、とても有意義な時間を過ごしたの。
それはほんの一時間くらいだったけれど、
わたしはすごく嬉しかったわけだ。分かる?

昨日ね、君たちと同じような言葉を話す男の子に会ったんだよ。
髪の短い、汚れた子。それと、手にへんなかたちの痣があったかな。
まあとにかく、その子と踊ったの。君等と同じように耳が丸かったなあ、そういや。
この世界の住人じゃないとか、おもしろいことを言うんだよ」

魔法使いは大きく目を見開いた。が、黙って女の話に耳を傾けた。昨日?

841: 2013/12/03(火) 22:25:44 ID:21SjLJhI

「無意味な時間だと思ってた時間は、彼のおかげで
全て意味のある時間にかわったんだよ。分かる?
わたしがこの言葉を喋れなかったら、
わたしと彼は会話を交わすことなく終わっていたはずなんだよ。

あの子と踊るために七〇年間こうやって生きてきたと思うんだよね、わたしは。
昨日こそがわたしの生きている中でもっとも輝いている時間だった。
でも昨日は終わった。今日がお祭りの最後の日で、
次にわたしが眠って目を開いたら朝が来てるんだよね。
信じらんないよ。

あの子はわたしのことを信じてくれたし、わたしといっしょに歩いてくれたわけよ。
それがどういうことか、分かる? わからないよね。わからないでほしい。
わたしを世界で一番不幸なやつでいさせてよ。誇れることはそれしかないの。
わたしは世界で一番不幸で、昨日だけ世界で一番幸せだった。そう思いたいの」

深呼吸。

「――それで、町にはいろんな言葉が溢れているわけだけど、
それはどれもわたしの中には響かないの。
だって誰もわたしに声をかけているわけじゃないからね。当たり前だ。
町の言葉は心の炎を消すんだよ」

842: 2013/12/03(火) 22:26:39 ID:21SjLJhI

女は魔法使いの方を見た。「そこの君にも、今に分かると思うよ」

「何が」と魔法使いは言う。「あなたみたいな奴に、何が分かるっていうのよ」

女は声を上げて笑った。
「“あなたみたいな奴”だってさ。君はわたしの何を知ってるっていうの?
まるでわたしと同じ奴が世に溢れてるみたいに言っちゃってさあ。
わたしはわたしだ。唯一無二なの。

分かってるよ。分かっているとも。みんなわたしのことを見下してるんでしょ?
わたしを階段か何かとでも思ってるんでしょ? 踏みつけるためにそこにあって、
誰かを引き立たせるためだけにそこにあるとでも思ってるんでしょ?
オアシスを囲う砂漠みたいにさ。わたしは邪魔者でしかないんでしょ?

でもわたしには分かるよ。
砂にしかわからないこともあるし、階段にしかわからないことだってあるんだよ。
襤褸雑巾にしかわからないこともあるし、
道端に転がる石にしかわからないこともあるんだよ。

“町の言葉は君の心の炎を消す”。
それはほんの些細なことで、君に牙をむく。わたしの予感は当たるよ?」

「でもわたしはあなたとは違う。
わたしはひとりじゃないから、そんなことで潰れたりしない」

843: 2013/12/03(火) 22:27:59 ID:21SjLJhI

「ふうん。この子が君を救ってくれるとでもいうの?」
女は勇者の方を見て、弱々しく微笑んだ。
「うらやましいなあ。すごくうらやましいよ。すごく苛々する。激しく嫉妬しちゃうね。
愛ってやつだね。わたしだって男と寝たことはあるけど、
あいつらとわたしの間にはそんなものはなかったな。

あいつらから見ればわたしはただの道具なんだもの。
性欲を解消するためだけに彼らはわたしと寝たわけだ。
お金を貰ったから偉そうなことは言えないけどさ。

対等な関係であるみたいに言ってるけどね、
わたしは彼らの道具なんだよ。宝石とかそういうんじゃなくて、もっと汚いやつ。

宝石ってのは、綺麗なだけでちやほやされるから楽でいいよね。
なにより丁寧に扱われるしさ。性格とか胸の柔らかさとか感じやすさだとか
締め付け具合だとか、誰も文句を言わないだもの。
存在しているだけで輝くことができるんだよ。
わたしには光る石ころにしか見えないのにね。

844: 2013/12/03(火) 22:29:01 ID:21SjLJhI

自分で言うのもなんだけど、わたしはどちらかというと綺麗な顔をしてると思うんだよね。
君と違って胸もそれなりにあるし。
でもさ、反吐に宝石を散りばめても、それの本質は反吐じゃない?
吐瀉物だとか嘔吐物だとかゲロだとか、結局は同じだよね。
たとえそれが宝石に囲われていたとしても。

多分そういうことなんだよね。物事にはふさわしい場所があるんだよ。
わたしの身体は、ほんとうはもっと愛されるものに与えられるべきだったってわけ。
わたしは光る石ころ以下。性欲を解消するための道具。
そんなのは屑籠と何も変わらないよね。

分かってるよ。わたしにはそれがお似合いだって言いたいんだね。
それとも、血反吐撒き散らして屑籠に謝れって言うのかな?
あいつらみたいに髪を掴んでわたしの頬を殴るんだ?

ねえ、あいつらおかしいんだよ。
あいつら、わたしが苦しそうにしてるのを見て性的興奮を得るんだよ。おかしいよね?
いや、わたしがおかしいのかな? ああもう、分からない。すごく苛々する。

845: 2013/12/03(火) 22:30:35 ID:21SjLJhI

知ってる? 殴られた箇所は痣にならないでちいさく腫れて、
眠るために横になったら痛むんだよ。見えないけど確かに傷があるんだよ。
そこにはあらゆる苦痛が詰まってる。
肉体的にも精神的にも、それは苦しくて痛い。

それで目を閉じてやっと糞みたいな場所から逃げられたと思ったら、
わたしは夢のなかでも殴られるの。
苦痛は夢の中にまで侵入してくるんだよ。で、起きたらわたしはひとりだ。

そこには恐怖しかないよ。恐怖は心を支配するんだ。とても簡単に。
それは出口のない迷路で迷うみたいに簡単なことだ」

女はそこで一息吐いてから、
「まあとにかく話を戻すと、君たちは愛し合っているわけだ。違う?」と言った。

「違う」と魔法使いは言った。
「あんたの話なんてどうでもいいけれど、わたしを救うのはあの馬鹿だけよ。
あなたと踊ったその髪の短くて汚い男が、わたしを救うの。分かる?」

846: 2013/12/03(火) 22:32:00 ID:21SjLJhI

「何を」女は腹をたてたらしい。表情が分かりやすく歪んだ。
「何を根拠にそんなことを言うの?」

「あんたと踊った男ってのは、どうせあいつに決まってるわ。
ちなみに痣は星形。それで、もともとその痣の下にはハートのかたちの痣があった。
あいつは困ってるやつを放っておけないおせっかい野郎なのよ」

「じゃあ、何……」と女は口をちいさく開いて言った。
「あの子はひとりじゃなかったってこと?」

「あいつにはわたしがいるもの。ひとりなんかじゃない」

「でもあの子、ひとりですごく寂しいって言ってた」

「わたしがいないからよ」

女は暗い目で魔法使いの目を覗きこんだ。
魔法使いの目には炎が灯っているように見えた。

「なんだ……」女は空を見上げて言う。
「結局ひとりなのはわたしだけで、わたしはひとりで浮かれてたわけだ?」

847: 2013/12/03(火) 22:33:29 ID:21SjLJhI

「そうね。あなたは昨日、ある意味では世界でいちばん幸せなやつだった」
と魔法使いは言い、「それで、そいつはどこに行ったの?」と訊ねた。

「知らない。あの子と踊ったあとに、わたしは眠っちゃったの。
あんまりはしゃいだもんだから、疲れて。
それで目を覚ましたらあの子はもういなかった。
わたしを置いて、どこかに行っちゃった」

「あいつはいつもそうなの」と魔法使いは言い、立ち上がった。
「あいつはいつも途中で逃げるのよ。
あいつはわたしがいないと、何も出来ないんだから」

「わたしは捨てられたわけだ?」

「拾われてすらいない。あんたは道端に転がってた石と同じ。
ただ蹴られただけよ。それですこし前に進めた。
良かったじゃないの、今まで立ってた場所を振り返ることができるんだから。
もう一度、過去の自分をよく見てみればいいわ。
今もそんなに変わらないでしょうけどね」

女は机に突っ伏して、泣きじゃくり始めた。勇者は黙ってそれを見守っていた。
僧侶の面影を持つその女が求めているのは、もうひとりの勇者だった。
そして彼女が求めていたのは勇敢な戦士だった。

「きみの居場所はどこだ」と影は言った。「きみは誰を救うことができる」

848: 2013/12/03(火) 22:34:44 ID:21SjLJhI

「自分を救えるのは、自分自身だけだ」と勇者は誰かに向かって言った。

女は顔を上げて、勇者を見た。

勇者は言う。「誰も救ってなんかくれない。生きているだけじゃ失い続ける。
生きて歩かないと、何も手に入らない。
神様なんていないし、祈ってるだけじゃだめだ」

「いいや、神様はいるよ」と女はゆっくりと言って、
こめかみの辺りを人差し指で叩いた。

「ここにいる。みんなの頭の中に、神様はいるよ。わたしの頭のなかにもいる。
気まぐれで理不尽で、とびっきり不平等なやつがね。わたし達はみんな、
頭のなかの神様に従って動いてるだけだよ。人形とか、チェスの駒みたいにね」

その声は弱々しく震えていたが、激しい怒りと恨みで満ちていた。
まるで呪詛を吐いているようだった。

勇者は黙って立ち上がって歩く。影が笑う。魔法使いが後ろからついてくる。
行く先には暗い城がある。

852: 2013/12/04(水) 20:58:04 ID:pv0IQ.aM

33


長く暗い橋を渡り切ると、大きな城門にぶちあたった。
これほど大きな城門が必要な理由がユーシャには分からなかった。
いったい誰がまともにこんな門を開けられるというのだろう。

歩いてきた道を振り返ると、遠くに町の光が見えた。
太鼓や鈴の音がちいさく聞こえる。

町と城はつながっている。同じ世界にあるのだ。
それがすこし不思議な事に思えた。

軽く叩いてみると、城門は大きな音をたててゆっくりと開いた。
どうして開いたのかは分からなかったが、とにかく開いたのだ。
しかしあまりにもゆっくりと開くので、
ユーシャは待ちきれずに隙間から内に入り込んだ。

背後ではまだ門が開こうとしている。
いったいあの門にどんな意味があるというのだろう。
巨大な人間が城にはいるのかもしれない。

853: 2013/12/04(水) 20:58:35 ID:pv0IQ.aM

巨大な門をくぐった先には石畳の一本道があって、
奥にちいさな両開きの戸が見えた。ここは庭のようだ。

左右には綺麗な植木が並んでいる。花壇もあったし、淡く輝く花が咲いていた。
ちいさな光の粒があちこちで飛んでいる。よく見てみると、それは虫だった。
虫の残光が、何かの模様を描いているみたいだ。

静かだった。太鼓の音など聞こえなくなった。振り返ると、門は閉じていた。
もう町の光は見えなかった。辺りには夜の暗さと自然の静けさがある。

城を見上げる。暗いので細かいところはあまり見えないが、
それほど風化しているわけでもないようだ。
窓がたくさんあって、ぽつりぽつりと灯りが見える。
何かがいるのは確かなことだった。

直感はささやいている。“魔王がここにいる”と。

854: 2013/12/04(水) 20:59:13 ID:pv0IQ.aM

ちいさな戸を開けて城の中に入った。
城内はほのかに明るい。巨大な人間は見当たらない。

等間隔で燭台があって、炎がそこで揺れながら、
足元に敷かれた茶色い絨毯を照らしていた。
絨毯で靴の底を拭うようにして、前に進んだ。
すぐに階段にぶつかったので、足音を頃して上る。
踊り場には月の光が射していた。見上げると、大きなステンドグラスがあった。

左右にわかれた階段の左側を上ると、長い廊下に辿り着いた。
廊下の左右にはドアがいくつもある。
そのうちのひとつから光が漏れていたので、とりあえずそのドアの前に立った。
耳を済ませるが、音らしき音は何も聞こえない。

そっとドアを開いて中を覗きこんでみると、机に突っ伏して眠っている女がいた。
ドアをゆっくりと開けて、中に入る。ちいさな部屋だ。
暖炉があって本棚があって、書き物をする机がある。
どうやら女は書き物をしている途中に睡魔に襲われてダウンしてしまったらしい。

855: 2013/12/04(水) 21:01:33 ID:pv0IQ.aM

引き返して、長い廊下を渡る。また階段があった。
登らないわけにはいかないので上った。
また左右にわかれた階段とステンドグラスがあった。今度は右側を上る。

先にあったのはダンスホールだった。
大きな柱が円型に並び、上から大きなシャンデリアが吊られていた。
明るくて、何人もの人がいた。綺麗な衣装に身を包み、男女のペアが踊っている。
汚い服を着ているのは自分だけだ。
目立つのは避けたかったので、柱の影に隠れて引き返した。

そしてさっきとは別の方の階段を上った。
そこにあったのもダンスホールだった。が、こちらは真っ暗だった。
壁の代わりに大きな窓が何枚も嵌めこまれていたが、
外の光はほとんど届かない。それに、誰もいない。

ユーシャは真っ暗なダンスホールの真ん中に立って目を瞑り、
綺麗な服を着た魔法使いと踊る自分を頭の中に思い描いた。
多分あいつは恥ずかしがる。綺麗な服は似合わないとか言うんだろうな。
それに、俺達に踊りなんてものは似合わない。
大剣使いが見たら腹を抱えて笑うだろう。間違いない。

856: 2013/12/04(水) 21:02:11 ID:pv0IQ.aM

「あけづぬれてぃしなん、あたなおのこす」と誰かが言った。

ぎょっとして声の方を向くと、訝しげな表情を浮かべた女が立っていた。
「あくせづぬれてぃいく」と彼女は続けた。

「なんて言ってるのか分からないよ」とユーシャは言った。

「あら。これまたずいぶんと古臭い言葉を使うんですね」と
女は驚いたように言った。「めずらしい」

「ちょっと前にもそう言われた。かわってるって」

「確かにかわってます」と女は笑った。
「それで、あなたはこんなところで何をしているんですか」

「ええと。ここの王様に呼ばれたんだ」と
ユーシャは咄嗟に適当なことを言った。

857: 2013/12/04(水) 21:07:26 ID:pv0IQ.aM

もしかすると拙いことを口走ったのではないかと
不安に駆られたが、女は「ああ」と納得したように言った。
「今日は客人が三人来るとおっしゃってましたが、あなたがそのうちのひとりですか?」

「そう」三人の客人? まあ、なんでもいい。

「王様は多分、図書館にいますよ」

「図書館?」

「はい。場所は分かりますか?」

「わからない」

女は懇切丁寧に図書館の場所を説明してくれた。「分かりましたか?」

「分かった」とユーシャは言った。「うおたぎら」

「えちさみさちうおづ」と女は言い残して、階段を下っていった。

858: 2013/12/04(水) 21:18:29 ID:pv0IQ.aM

しばらくしてからユーシャも階段を下った。
一階まで、時間を掛けてゆっくりと下りた。
階段を下るごとに、感覚は研ぎ澄まされていった。
足音がやけに大きく聞こえる。暗い城でも、何もかもが鮮明に見える。
身体が熱い。鼓動は身体を揺さぶる。手にじっとりと汗が滲む。

魔王は目と鼻の先にいる。その心臓を貫くことで、全ては終わる。
そしたら俺たちは自由になれる。
もう一度、何にも縛られることなく、ゼロから始めることができる。

魔法使い、と思う。想わずにはいられなかった。
全てが終わったら、心の許すままに彼女とふたりだけで過ごすのだ。
どれだけ言葉を交わしても、唇を重ねても、
どれだけ身体を重ねても、誰も何も言わない。
ふたりだけの領域が脅かされることはない。

魔法使い、ともう一度思った。どうしても彼女のことが頭に浮かんでくる。
振り払おうと思っても、どうしても頭の中心に彼女のことが居座っている。
自分自身の芯と彼女は同化しつつあった。
信念と彼女こそが今のユーシャの芯であり、自我を支える柱であった。

859: 2013/12/04(水) 21:32:54 ID:pv0IQ.aM

一階の階段の裏側を覗きこむ。そこには光の漏れる大きな戸があった。
先程の女の言うとおりなら、ここが図書館のはずだ。
軽く戸を叩いて、返事を待たずに体重をかけるようにしてゆっくりと戸を開いた。

図書館は明るかった。眩しいというほどではないが、光があった。
高い天井を支えているみたいに、壁には大量の本が押し込まれていた。
左右には大量の本棚があって、まるで迷路のように見える。

奥には二階への階段がある。二階にも本棚があった。
どこを見ても分厚い本があって、とても静かだった。
頭がくらくらとしてくる。魔法使いが見たら喜ぶだろうな、と思う。

窓に掛けられたカーテンが亡霊のようにふわりと靡いた。
温かい夜風が部屋に入り込んでくる。

顔を上げて、正面を見据える。
そこには横長の机があって、椅子が一〇ほど並んでいる。
奥には炎の灯った暖炉がある。そして椅子のひとつにはひとりの男が座っていた。

860: 2013/12/04(水) 21:33:54 ID:pv0IQ.aM

男は頬杖を突きながら、分厚い本をめくっていた。
歳は四〇くらいに見える。口周りにはひげを蓄え、
目の横には薄っすらと皺が刻まれている。
そしてやはり耳は尖っている。体格は良くて、肌の色も良い。

服装も王族らしく、身体に合っている。身分相応といったところだった。
全体的には穏やかな印象を受けたが、彼が魔王であることは間違いなかった。
ここが旅の終わりなのだ。
この図書館こそが、勇者としての役目を終える場所なのだ。

ユーシャの心臓は跳ねた。
じっとその場に立っていると、魔王は本を閉じてこちらを向いた。
そしてすこしだけ微笑み、低く響く声で「ようこそ」と言った。「はじめまして。勇者殿」

861: 2013/12/04(水) 21:36:11 ID:pv0IQ.aM

「どうも」とユーシャは身構えて言った。
いつでも剣を引き抜くことはできる。

「そんなに敵意をむき出しにしなくてもいいだろうに。
まあ、座って話でもしようじゃないか」

「そうだな」ユーシャは魔王の正面の椅子に腰掛けた。
「俺も、あんたに訊きたいことがあるんだ」

「何かな?」

「ここ、なんでずっと夜なんだ?」とユーシャは純粋な疑問を口にした。

「ずっとではないさ。今日で三日間続いたこの夜は終わる。
そして三日間続いた祭りも終わる。
これは祭りのための夜で、夜のための祭りだ。お互いにはお互いが必要なんだ」

「ふうん」

「町でのお祭りは、君にはどういう風に見える?」

「みんな楽しそうで良いと思うよ。すごく」

「ありがとう」魔王は笑った。「何か飲むかい? 腹は減ってないか?」

「何もいらない」

862: 2013/12/04(水) 21:37:01 ID:pv0IQ.aM

「そうか」魔王は頬杖をついて言う。「とりあえず、ご苦労様。長い旅だったな」

「そうだな。すごく長い旅だった」

「どうだった? 旅は楽しかったかい?」

「そこそこ。つらいこともあったけど、大事なものを確認できたと思う」

「大事なものというと、やっぱりあのこの子の事か?
君がプレゼントしたあの帽子はなかなか似合っているな」

「なんで知ってるんだよ」

「ずっと見てたからな」と魔王は言った。
「君たちが裸で抱き合ってたことも知ってるさ。
君と彼女が好む体位とかも知ってるぞ。私には大きな目があるからな。
君たちはお互いの目を見ながら、手を繋いでするのが好きなんだよな。
特に彼女のほうが、すごく。微笑ましいよ」

「ストーカーかよ。気持ちわりい」

863: 2013/12/04(水) 21:40:02 ID:pv0IQ.aM

魔王は歯を見せて笑った。
目尻の皺が深くなったが、子どもの笑みのように見えた。
よく笑うやつだ、と思う。

「あの子、寂しがってるぞ? 君はあの子に酷いことをしてしまったな」

「そうだな。でもあいつをあんたに会わせたくなかったんだよ。仕方ないさ」

「でも彼女はもうじきここに来るよ。そうだな……あと三時間ってところかな」

「やっぱり」とユーシャは言う。「なんとなくそんな気がしてたんだ。
どうせ俺が“門”をくぐってから、あいつはすぐに“門”をくぐったんだろ」

「いいや」魔王は嬉しそうに目を細めた。
「君はまだ一七歳だけど、彼女はもう二四歳だ。
立派――ではないかもしれないけど、もう大人だよ。
君が門をくぐってから七年間、彼女はあの凍てついた土地で君を待ち続けた」

「七年? 何を言ってるんだ? 俺が門をくぐったのは昨日だ。そうだろ?」

「ははあ。さては、“表”と“裏”で流れる時間が同じだと思っていたんだな?」

「表? 裏? 流れる時間?」

864: 2013/12/04(水) 21:41:28 ID:pv0IQ.aM

「君は何も知らない。君は何も知らずに、見知らぬ女とのんきに踊っていた。
彼女が孤独や寒さと七年も闘っているあいだに、
君は温かい町で見知らぬ女と踊った。そういうことさ」

「なあ、どういうことなんだ。お願いだから教えてくれ」

「まあ焦るなよ」魔王は、ふう、と息を吐き出した。
「まずはここが“表”と呼ばれていて、君たちがいた元の世界が
“裏”と呼ばれていることを知っていてほしい。

分かるかな? ここが表。日の当たる場所だ。
そして君たちのいた汚い世界が“裏”だ。ここまではいいな?」

ユーシャはうなずいた。

865: 2013/12/04(水) 21:44:55 ID:pv0IQ.aM

「表と裏では、時間の流れが違う。
それがどういうことを意味するか、分かるかな?」

ユーシャはすこし考えたが、首を横に振った。

「たとえば、“表”で一時間を過ごしたとしよう。
すると“裏”では一年が経っていることがある。
しかし、一秒しか経っていないということもある。
五〇年経ってるかもしれないし、一秒も経っていないかもしれない。

分かるかい? “表”と“裏”では、同じように時間が流れていないんだ。
決まった流れはない。ただ、時間が遡るということはないんだ。
遅かれ早かれ、時間は進む。順行はあっても逆行はない」

「つまり」とユーシャは青い顔で言った。
「俺がここで過ごした短い時間は、向こうでの七年になるってこと?」

866: 2013/12/04(水) 21:59:05 ID:pv0IQ.aM

「そういうことさ。彼女はずっと君を待ってた。
七年間君のことを信じて、想い続けた。
それは簡単なことではない。それに、あの場所の環境は過酷すぎる。

でも彼女はそこで待ち続けた。
ひとりで生き続けた。自分を慰めて、身体を騙し続けた。
心が揺らぐことは一度足りともなかったはずさ。
一秒たりとも君のことを想わない時間はなかった。
そして君は今までそのことを知らなかった」

「嘘だろ。そんな」視界が滲んだ。「七年も」

「七年も待っててくれたんだ。うれしいな?」

何も言えなかった。

「もっと早く来れば良かったのに、とでも思っているのか知らないがな、
門は私の意思で開閉が行われるんだ。
君が門をくぐってすぐに、私は門を閉じた。悪いね。
門を開けっぱなしにしていると、いろいろと拙いことになるんだ。

そして向こうで七年が経った。そこでもうひとりの勇者が門に辿り着いた。
だから私は門を開けてやった。彼女はその勇者と共に門をくぐった」

「もうひとりの、勇者」

「そう。もうひとりの勇者と彼女が、
君がここに来てから数時間後に、ここへ来た」

867: 2013/12/04(水) 21:59:50 ID:pv0IQ.aM

「勇者って、いったい何なんだ。どうして俺は勇者なんだ」

「その痣のせいじゃないかな」と魔王は言った。
「くだらない御伽噺の勇者にもあったんだろう? 星形の痣が。
目的はどうであれ、だから君たちの王は君を勇者としてここへ送り込んだ」

「この痣は何なんだ?」とユーシャは訊ねた。

「彼女に訊いてみるんだな」魔王は嬉しそうに言った。
「その痣は彼女が君に付けたんだから」

「あいつが? どうして? いつ? どこで?」

「それを訊いてみればいい。もしかすると、
自分の持ち物に名前を書くような感覚だったのかもしれないな?」

「どうして」ユーシャは救いを求めるような目で魔王を睨んだ。
「どうしてあいつは黙ってたんだ?」

「それも訊いてみればいい」

「……分かった」

ユーシャは目を瞑って深呼吸をした。落ち着け、落ち着け。
こんなことは全部あとで魔法使いに訊けばいい。
あいつは全部答えてくれるはずだ。

868: 2013/12/04(水) 22:01:49 ID:pv0IQ.aM

「落ち着いたかな? それとも何か飲むかい?」

「いらない」ユーシャは魔王を睨んだ。
「訊きたいことがあるんだ。まずは、南の第一王国のことについて」

「ああ」魔王は笑みをこらえながら言った。
「あの国はもう滅んださ。欲に飲まれて王は氏に、国も氏んだ」

「あの病気は、なんなんだ。お前の仕業なのか?」

「まあ、半分は私に責任があるといってもいいだろうな。
私があの臆病な王に“贈り物”をしたんだから」

「“贈り物”って、なんだ」それは聞き覚えのある言葉だった。
第二王国の白衣の男が言っていたはずだ。

869: 2013/12/04(水) 22:02:33 ID:pv0IQ.aM

「ただの巨大な怪物さ。君たちはそれを神様と呼んだ。
どこかの町にはそれを祀る石像まで作られた。
でも、その神様に南の第一王国は滅ぼされたんだ。

神様――いや、あいつは生物から生気を吸って、自分の糧にするんだ。
病気というのは、生気を吸い取られた人たちが
動けなくなった状態のことを言っているんだろう?

でもな、それは彼が生きるためには仕方ないことなんだ。
彼が生きるためには大量の犠牲がいるんだ。
君たちが家畜を喰らうようにな。そしてあんなものは“表”には必要ない」

「どうして王はそんな大事なことを黙っていたんだ」

「彼は用心深く、酷く臆病だった。病的と言ってもいい。
自分がそんなものを隠し持っていたと知れたら、国民は憤るだろう?
彼はそれを恐れた。それだけさ。彼は王としての素質が皆無だった。
間違いなく王としては君のほうが優秀だろうな」

呆れて言葉を失うしかなかった。王が自分の立場のために国を捨てた?
信じられない。意味がわからない。

870: 2013/12/04(水) 22:04:18 ID:pv0IQ.aM

「ほかに訊きたいことは? 私は全てを知っているぞ。
そして君には全てを知る権利がある」

「“贈り物”の動かし方について」とユーシャはとりあえず訊ねる。
それは最初に聞くべきことだったはずだ。
今となっては、そんなことはほんとうにどうでもよかった。
でもいざとなると他に何から訊ねればいいのかが分からなくなった。

「呪術」と魔王は簡潔に答えた。
「怪物を操る呪術というものがある。君は呪術の村を知っているな?」

ユーシャはうなずく。

「あれも滅んだ。君がいない七年間で、
“裏”では多くの人間が氏んだ。今も氏んでいる」

「どうして滅んだんだ」

「忘れたのかい。怪物を操る術を求めていたものがいただろう」

白衣の二人組を思い出しながら、「第二王国の」とユーシャは言った。

871: 2013/12/04(水) 22:05:34 ID:pv0IQ.aM

「そう。南の第二王国だ。
そこの王は国民想いの良き王という名目で通っているが、それはただの後付だ。
“国民を守りきるためには、大きな力が必要だ。
何にも屈さない強靭で巨大な力が”。彼はそう信じて疑わなかった。
彼はそういうやつだ。堅実で、自分が絶対なんだ。

私は彼に“贈り物”をやらなかった。
あれほどの大きな力は三すくみの関係であるべきだと私は判断した、
というのは建前で、巨大な怪物は元から三体しかいないんだ。
彼は絶望したみたいな顔を見せてくれたな。
レースに勝つ気でいたのに、参加すらできないんだもんな。
そりゃあがっかりするよな。

それから第二王国は、第一王国と表面上では仲良くやっていたみたいだが、
彼はどうしてもいつの日かあの“贈り物”が
自国を飲み込んでしまうのではないかという不安をぬぐいきれなかった。
そこで彼は思い付いたわけだ。あの化け物を奪って手中に収めてしまえ、と。

彼はすぐに怪物を操る方法を探らせた。そして何年もかけて呪術を見つけた。
そして彼にとっては幸いなことに、第一王国は怪物を操る術を知らなかった」

「知らなかった? だったらどうしてその怪物は、ずっとおとなしくしてたんだ」

872: 2013/12/04(水) 22:06:57 ID:pv0IQ.aM

「彼らが動く必要性はどこにある」と魔王は言う。
「たとえば君は意味もなく弱いものに力を振るうのか?
意味もなく花を踏み散らすのか? おそらく違うと思うな。
君はそんなやつじゃないもんな。彼らも同じさ。

でも君たちは勘違いをしているんだ。
“怪物は悪”と思い込んでいる。人を傷めつけるのが怪物ではない。
それに君たちは彼らを怪物と一括りに呼ぶが、彼らにもちゃんと名前はある。

私から言わせてもらえば、君たちだって怪物と何も変わらないじゃないか。
食べて寝る。考えて動く。考えて動かない。私も怪物も君も同じだ」

ユーシャは黙っていた。

873: 2013/12/04(水) 22:13:18 ID:pv0IQ.aM

「話を戻そうか」魔王は続ける。
「まあ、第一王国は怪物を操れなかったがために、
その巨大な力に飲み込まれたわけだ。
怪物は養分を与えてくれる人間が息絶えたから、
今度は隣の森に根を伸ばした。蟲は弱り、森は枯れる。

でもそれは当然のことなんだ。生きるためには仕方ない。
それは自然の摂理に従って起きたことだ。
誰かに自らの操縦権を与えるのはおかしな事だろ」

魔王はそこで言葉を区切り、頭を掻いた。
「彼――第二王国の王は、もぬけの殻になった
第一王国の地中に眠っていた怪物を呪術で操り、
第二王国の付近に持ち帰った。戦うことなく勝利を手にしたわけだ。

彼は賢い。そこは認める。しかし思い込みが激しい。
彼は“自国だけが怪物を操ることができる”と思い込んだ。
でもそれは間違いだった。

東の王国はもっと早くから呪術の存在には気がついていた。
何も知らないのは君たちの王、西の王だけだった。

第二王国の王は、怪物を操る呪術が他に知れるのを恐れて、
呪術の村の呪術師を一掃した。
“裏”から呪術は消えた。残ったのは怪物を操る術だけだ」

874: 2013/12/04(水) 22:14:48 ID:pv0IQ.aM

違う、とユーシャは思った。
呪術は残っている。あいつが全てを知っている。
ひと晩で頭に叩き込んだ膨大な知識がある。

そしておそらくあいつは、その気になれば呪術を使うこともできる。
魔法使いには間違いなく、魔法に関して生まれ持った才能がある。
それは精霊的と言ってもいいほどの才能だ。

「第二王国は著しい発展を遂げた」魔王は言う。
「巨大な怪物を操ることで、
ちいさな怪物どもだけから力を奪わせることができたんだ。
王国周辺の怪物たちはみるみる弱っていった。
結局は人間だけが衰えずに、第二王国は大陸一の国になった。
そして今に至るわけだ」

「いろいろあったんだな」

「そうだな。ほんとうにいろいろあった。
七年という月日は決して短いものではないと私は思うよ」

「要するに、俺がここに贈り物の動かし方を聞きに来た理由は、
西の王が大きな力を手に入れるため、ってことになるのか。
ただそれだけのために俺はここに来た、と。

でも、こんなところに来るまでもなく答えはあった。
俺と西の王はその横を素通りしたわけか」

875: 2013/12/04(水) 22:17:28 ID:pv0IQ.aM

「そういうことだ。君は白黒の盤上で踊っていたんだ。
自分が主人公だと思い込んでいたのかもしれないけど、
君は誰かに操られてただけさ。

君は糞みたいな世界の、糞みたいな国の糞みたいに馬鹿な王のために、
糞みたいな目に遭った。どんな気分だい?」

「糞みたいな気分だ」とユーシャは言った。

魔王は声を上げて笑った。
「でも、いいじゃないか。君にはあの子がいるんだから。
待っててくれるひとがいるというのは素晴らしいことだよ。誇ってもいい事だ。
君と彼女くらいにお互いを求め合っていればな。

でも世界のどこかには孤独に耐えることに
慣れてしまった可哀想なやつがいるんだよな。
きっと彼らは、私たちから言わせてもらえば
糞みたいな気分で毎日を過ごしているんだろうな。
君みたいなやつを逆恨みしながらさ。

彼らは君以上に惨めな思いをしながら、
糞みたいに地面を這いつくばっているのさ。
どうかそのことを忘れないでくれよ」

876: 2013/12/04(水) 22:19:12 ID:pv0IQ.aM

「分かってるよ。孤独が苦しいことも知ってる」

「それならいいんだ。君は物分かりがいいな。私は好きだよ、そういう奴が」

「どうも」

魔王はまた歯を見せて笑った。
「さあ、他に訊きたいことはあるかな? それとも何か飲むかい?」

「なんでも知ってるんだよな?」

「なんでも知ってるさ」

「塔の怪物」とユーシャは言う。
「あの東の大陸の塔にいた怪物。あれは何だ?」

「東の大陸の塔というと、北側の? 南側の?」

「北側」

「あれは」と魔王は宙を見て何かを考えるように言う。
「あれは見た目が不快だったろう?」

「そうだな」

877: 2013/12/04(水) 22:24:07 ID:pv0IQ.aM

「だろう。だから、魔王――君にも分かるように言うならば
御伽噺の魔王――が森の奥に閉じ込めていたんだ。
彼は冷たいものだった。

君は森の廃墟を見ただろう?
ほんとうはあの地下に幽閉しておいたんだが、
彼はちょうどいい置き場所を見つけたんだ」

「裏」とユーシャは言った。

魔王は微笑んだ。
「だから表から追放して、あの塔の天辺に置いた。
尻尾を一箇所で接合した馬鹿でかい毒蛇共も、
何も語らないし何を考えているかもわからない返り血で汚れた処刑人も、
好戦的で不快な声と巨大な眼球を持ったあの人間臭い馬鹿も、
泣いて笑って叫ぶことしかできない能なしジェスターも、みんな追い出した。

邪魔だったからな。必要ないんだよ、ここには。
そして彼らはもう誰も生き残ってはいない。みんな勇者にやられた」

「俺が倒したのはあのカエルだけだけど、
もうひとりの勇者ってのは残りのやつを全部倒したの?」

「勇者はもうひとりいるだろう?」

「誰」

「君たちの大好きな、御伽噺の勇者」

878: 2013/12/04(水) 22:27:13 ID:pv0IQ.aM

「あれは御伽噺だろ?」

「裏で計算すると、七〇〇年前くらいだ。彼は実在したんだよ。
御伽噺の魔王と共に。彼は御伽噺の魔王を頃して氏んだ。
どちらも“喉”に飲まれて氏んだ」

「喉って何だよ」

「君は森で見なかったかな、真っ黒な湖を。
あそこは“喉”と呼ばれているんだが。
黒い水たまりだとか、ブラックホールだとか呼ぶものもいる。

とにかく、そういう場所があるんだよ。
“表”で肉体が消えて、行き場を失った魂がそこへ向かうのさ。
そしてその魂はふたたび肉体を取り戻すことができる」

「生き返ることができるってこと?」

魔王はうなずいた。「喉から這い上がることができればね」

「難しいんだ?」

「難しいなんてものじゃないさ。不可能に近い。
ただ、這い上がるだけの力があればもちろん這い上がれる。
私や御伽噺の魔王のように」

「でも御伽噺の魔王は這い上がれなかったんだろ」

879: 2013/12/04(水) 22:30:26 ID:pv0IQ.aM

「そう。あの勇者が自らの意思で喉に飛び込んで、魔王を湖の底へ沈めた。
いったい、何が彼をそこまでさせたんだろうな。私にはわからないよ」

「あんたにもわからないことがあるんだ?」

「まあね」魔王は笑った。「なあ、氏ぬってのはどういうことだと思う?」

「さあね。氏んだことがないからわからないよ」

魔王は長い息を吐いた。それはため息のようにも聞こえた。
「氏を体験した魂は、どれほど強くなると思う?」

「すごく強くなるんじゃないの? よく分からないけど」

「そのとおり。すごく強くなる。氏ぬことに耐えることすらが可能になる」

「意味が分からない」

「氏んで、喉から這い上がってみれば分かるさ」

「勘弁してくれよ」

880: 2013/12/04(水) 22:33:03 ID:pv0IQ.aM

魔王はまた笑った。「ほかに訊きたいことは?」

「俺があんたを倒すってことは、正しいことなのか?」

「正しいか正しくないか、それを決めるのは君だ。君は勇者で、私は魔王。
君は表に破滅をもたらして、私は裏に破滅をもたらす。
お互いの世界は崩れつつある。君は今、何をするべきか分かるだろう?」

ユーシャはうなずいた。「なんとなくね」

「それが正解だ。君が思ったことは全て正解だ。
君はただ、まっすぐにやればいい」

立ち上がり、ゆっくりと剣を引き抜く。
背後で椅子が倒れた。乾いた音が図書館に響いた。
「このままだとあっちが拙いってことなら、俺はやるよ。個人的な恨みもあるし」

「君にやれるかな?」

「分からないけど、やるしかないんだろ」

「勇者らしくない台詞だな」

881: 2013/12/04(水) 22:33:53 ID:pv0IQ.aM

ユーシャは弱々しく笑った。
「だって俺はひとりじゃ何もできないからな。
身体には今までにないくらい力が漲ってるのに、
胸の真ん中に大事な部分が足りてないんだ。
だから多分、俺はあんたに勝てない気がする」

「そんなことは、やってみなきゃ分からないだろ」

「そうだな」とユーシャは言った。「いいこと言うね」

「ありがとう」魔王は目を瞑って、口元をゆるめて笑った。
「なあ、私たちが魔王と勇者じゃなかったら、どういう関係になれただろう?」

「けっこう仲良くなれたんじゃないかなと思うよ、俺はね」

「私もそう思うよ」と魔王は言った。

882: 2013/12/04(水) 22:35:18 ID:pv0IQ.aM

34


橋を歩いていると、背後の町の光が弱まっていくのが分かった。
灯りが消えて、声も止んでゆく。
唄声も太鼓の音も鈴の音も聞こえなくなった。
祭りは終わり、町は眠りにつこうとしている。

でも城だけは例外だった。
城内では静かに何者かが踊り、飲み、語り合っていた。
勇者の耳には何も届いていないようだ。魔法使いにはそれが分かる。
階段の上からは賑やかな声が聞こえてくる。
わたし達の向かうべき場所はあんな綺麗なところではない、と魔法使いは思う。

誰かが呼んでいるような気がした。助けを求められている気がした。
その先には彼がいる気がした。
いつだって進むべき道の最後には、彼がいるのだ。

それは行き止まりにぶち当たるのと似ているが、
そこにたどり着かないことにはどこに行くこともできない。
行き止まりとは言っても、それは自分を受け止めてくれる壁であるように思えた。
温かく、大きな、不思議な壁だ。

883: 2013/12/04(水) 22:44:59 ID:pv0IQ.aM

この扉の向こうに、その不思議な壁がある。
直感はそう囁いていた。間違いない、と魔法使いは思った。

目を閉じて、深く呼吸する。身体が震えた。
寒くはない。怖くもない。身体は熱い。手に汗が滲む。
もう一度あいつに会うことができる、と想う。
長い旅は終わり、わたし達はゼロからやり直すことができる。

早く言葉をかわして、手を握って、唇を重ねて、身体を交えたかった。
身体の内側が沸騰したみたいだった。
精神は昂ぶっているし、視界はぼんやりとするし、何がなんだか分からなかった。

彼が門をくぐったのが七年前で、昨日あの女と踊ったとか、
そんなことはどうでも良かった。
とにかく彼に会いたかった。頭の中にはそのことしかなかった。
勇者だとか魔王だとか、世界の平和だとか、どうでも良かった。

魔法使いは目を開き、扉に手を添えた。そしてゆっくりと開いた。

884: 2013/12/04(水) 22:45:45 ID:pv0IQ.aM

「ようこそ」と誰かが言った。

「頃してやる」と背後で勇者が言った。

887: 2013/12/06(金) 21:10:46 ID:FRdpQArY

35


テーブルに足を掛けて蹴る。
前へ飛び出し、魔王の顔面目掛けて剣を振る。
当たり前のように剣は魔王の肉を切り裂く直前で止まった。魔王は笑った。

ユーシャは表情を歪めて、「魔術の障壁」とつぶやいた。

「呪術の障壁だ」と魔王はからかうように言った。
「君は魔術も呪術も使えないんだったか?」

「知ってるくせに」

888: 2013/12/06(金) 21:11:16 ID:FRdpQArY

軽くテーブルを蹴って、床に下りる。それからテーブルを蹴飛ばしてひっくり返す。
魔王の座っていた辺りだけが炎に包まれて、長いテーブルは真っ二つになる。
可哀想なテーブル、と思っている暇はなかった。

脇から青い炎の槍が三本飛んできた。
それは矢を思わせる俊敏さと殺傷性を持っているように見えた。

本能が何かを叫び、身体が自然と動いた。地面を這うように転がって、槍を躱す。
炎の槍は壁の棚に押し込まれた本にぶつかる直前で完全に消えた。
はじめからそんなものはなかったみたいに。

魔王は相変わらず安っぽい椅子に座っていた。
腕と脚を組んで、こちらを見下ろすように顔を傾けている。

889: 2013/12/06(金) 21:12:30 ID:FRdpQArY

「余裕だな」とユーシャは言った。

「君とまともに殴り合ったら勝てないかもしれないからな」と魔王は笑顔で言った。
「私も歳なんだよ。分かるだろ? 私は魔法を頼ることにするよ。
君がこの壁を壊せたら、君の勝ちだ」

「分かりやすくていいね」

床を蹴り、魔王に向かって突進する。

魔王は椅子に腰掛けたまま、指先で宙に円を描いた。
その直後、背後に黒い球体が現れた。
黒い球体というよりは、黒い穴のようなものだ。
身体がそこへ引き寄せられるのを感じた。
前へ進めない。その場で踏ん張るのが精一杯だった。

「必氏だな」と魔王は言った。

「うっせえ必氏で何が悪い」

890: 2013/12/06(金) 21:14:27 ID:FRdpQArY

地団駄を踏む子どものように足を大きく動かす。
思いっきり床を踏みつけて前に進む。
その都度、ばん、ばん、と大きな音が鳴る。
ゆっくりと前に進んでいるが、魔王まではすこし遠い。

「おお、すごいな」と魔王はどうでもよさそうに言った。

「もっと褒めてくれてもいいんだぜ」

魔王は無言で微笑む。脇に青い炎の槍が現れる。
ユーシャが引きつった笑みを浮かべるのと同時に、槍はその場から放たれた。
避けようと思い、床から足を剥がした。身体が浮いて、黒い穴に引き寄せられる。

黒い穴から大きな手が伸びてきて、背中を掴まれたような感覚だった。
あるいは嵐の中に放り出された赤ん坊のような気分だった。
とにかく自分が果てしなく無力に思えた。でも実際にそうなのだ。
俺は無力だ。ひとりではどうしようもなく無力だ。

891: 2013/12/06(金) 21:15:09 ID:FRdpQArY

川の流れに逆らうことのできないちいさなごみのように、
身体は黒い穴に吸い寄せられ、その穴の中心にあった黒い粒に手が触れた。
それがスイッチになっていたのか、直後に黒い穴は
今まで吸い込んだ分の空気を吐き出すみたいに破裂した。

身体が地面に叩きつけられる。身体中に鈍い痛みが走る。
特に左腕の痛みは凄まじいものだった。
痛みのあまり絶叫したくなったが、痛みのあまり声をだすことができなかった。
苦痛にあえぐことしかできなかった。釣り上げられた魚みたいだった。

「立てるかい?」と魔王は言った。

892: 2013/12/06(金) 21:15:41 ID:FRdpQArY

ユーシャは黙って立ち上がった。
左腕がおかしな方向に曲がっているように見えたが、もう見ないことにした。
額からは血が滴っていた。呪文をつぶやき、癒やしの魔術で傷を塞いだ。
血は止まったが、跡は残った。

やっぱりこの程度の傷も完全に治せないのか、と
ユーシャは自分の才能の無さをあらためて痛感した。

「魔術が使えたのか?」と魔王は驚いたように言った。
ほんとうに驚いているように見えたが、ほんとうのところは分からない。

「まあね」とユーシャは自慢するわけでも謙遜するわけでもなく言った。
「癒やしの魔術だけだけどな。あいつに教えてもらった」

「あいつというと、彼女か?」

「いいや、違う」

「だったら誰に」

「誰だっていいだろ」

ユーシャはもう一度呪文をつぶやき、腕の痛みを和らげた。
和らげたといっても苦痛のレベルが一〇〇から九八になったというだけの話だ。
痛いことに変わりはない。

893: 2013/12/06(金) 21:16:33 ID:FRdpQArY

「へたくそな術だな」と魔王は笑った。

「これでも必氏なんだよ」ユーシャは苦痛に表情を歪めた。
「糞、痛い。こんなに痛いのは久しぶりだ」

「いつも彼女がすぐに治してくれたもんな」

左腕の骨が悲鳴を上げている。その声が聞えるようにも感じられた。
錆びた金属同士を力いっぱいこすり合わせるような音だと思う。
聞いていて気分の良いものではない。

もう一度前へ出る。痛い。怖い。身体が震えた。身体が熱い。
でも前へ出ないことには何も始まらない。
右手で剣を強く握る。重い。良くも悪くも自分の身体が別のものみたいだった。

「まだやるのか」と魔王は笑った。「もういいだろうに」

894: 2013/12/06(金) 21:17:49 ID:FRdpQArY

黙って床を蹴って、放たれた矢のように魔王へ向かう。障害物は現れない。
魔王の脳天を目掛けて、力任せに剣を振り下ろす。
剣は障壁に阻まれる。剣と障壁の隙間からは空間を砕くような紫色の光が漏れた。
それは雷のように見える。力を込めれば込めるほど光は眩くなった。
しかし壁は壊れない。魔王は光を眺めながら笑っている。それが腹立たしい。

さらに剣へ力を込める。右腕に全体重をかけるようにして障壁を押した。
すると、障壁はすこし歪んだ。
魔王の表情も訝しむようなものに歪んだ。ユーシャの口元は思わず歪んだ。

魔王はまた指先で宙に円を描いた。
ふたたび黒い穴が現れて、身体が浮き、引き寄せられる。

剣をすぐ後ろの床に突き刺して、身体を支える。
そして右手で思いっきり障壁を殴りつけた。
拳に、皮膚が裂けて骨が砕けるような痛みが走った。
でも今できることはこれしか無かった。

魔王はいかにも不愉快であるというような顔つきでこちらを眺めていた。
ユーシャは歯を剥きながら食いしばり、障壁を殴り続ける。

895: 2013/12/06(金) 21:19:30 ID:FRdpQArY

魔王は歯を剥いて何かをつぶやいた。

頭上に光の球が現れた。
訝しむ間もなく、そこから雷が降ってきてユーシャの胸を貫く。
氏んだ、と思った。でも氏ななかった。身体が痺れて動けなくなっただけだ。

足が地面から剥がされ、身体は浮き、黒い穴に引き寄せられる。
黒い穴は吸い込んだ空気を一瞬にして吐き出す。
身体が雨粒のような勢いで地面へぶつかる。
氏んだ、と思った。でも氏んではいなかった。身体が四散することも無かった。
でも身体が痛くて動けなくなった。身体全体に杭を打たれたみたいだった。

痛む頭をなんとか動かして、重い左腕に目を向ける。
左腕は真っ赤になっていた。星形の痣に上書きするみたいに、
綺麗で生ぬるい血がこびりついている。そこに感覚はほとんど残っていない。
それが自分の身体の一部であるようには思えない。
あとから縫い合わせた別のもののように思えた。

896: 2013/12/06(金) 21:20:35 ID:FRdpQArY

ゆっくりと立ち上がる。が、それ以上は何もできなかった。
身体中が痛くてたまらなかった。全身に痣ができたみたいだった。
あながちそれは間違いではないのかもしれない。

痛みと恐怖で身体が震えた。視界は滲む。足元に雫が落ちる。
身体から力が抜けていく。わけの分からない笑みがこみ上げてくる。
魔法使い、と思った。助けてほしい、と願った。氏にたくない。
魔法使い、ともう一度思った。氏にたくない、ともう一度思った。

「なあ」と魔王は憐れむように言う。
「どうして立つんだい。いったい何が君をそこまでさせるんだ?」

「さあね」とユーシャは震える声で言った。痛い、痛い、痛い。……

もう一度前へ足を出す。
魔王は化け物でも見たような面持ちでそれをじっと見ていた。
やがてユーシャは魔王の前に立ち、剣を振るった。
障壁に弾かれ、剣は手からこぼれ落ちた。

左耳の辺りでちいさな爆発が起きた。頭の中が揺さぶられる。
耳が吹っ飛んだような気がしたが、実際はどうなのだろう。
分からない。ただ耳の辺りが熱かった。左方向から音が消えた。

897: 2013/12/06(金) 21:21:27 ID:FRdpQArY

立っているのがめんどくさくなる。そのまま地面に倒れる。
床に敷かれた絨毯はすこし冷たかったが、寝心地が良かった。
耳と目から熱い液体が地面に向かって流れ落ち、汚い模様を絨毯に描いた。

「もう止めにしよう」と魔王は立ち上がって言った。「もう終わりだよ」

「もうちょっとだけ、頑張ってみるよ」とユーシャは誰かに向かって言った。

もう一度だけ立ち上がってみた。わりとすんなりと立ち上がれたような気がした。
今なら何でもできるような気がした。
魔王を倒すことだって、世界を救うことだってできる気がした。

頭の中は綺麗だ。とても。
空っぽで真っ白で、真ん中に魔法使いがいる。
彼女は手を伸ばして誰かの名前を呼んでいる。誰かに呼ばれた気がした。

踏ん張って歩く。地面を踏む度に、腕や耳が痛んだ。
地面が身体を揺さぶっているみたいだった。

剣を拾う。重い。剣の先にこの世界がまるごとくっついてきたような重さを感じた。
でも今なら世界でも何でも背負える気がした。

898: 2013/12/06(金) 21:22:22 ID:FRdpQArY

頭のなかの魔法使いは叫ぶ。
何と叫んでいるのかは分からない。でも表情は悲しげだった。
何を悲しむ必要がある? とユーシャは頭のなかの彼女に語りかけた。

返事はなかった。

その叫び声は遠ざかっていく。
遠ざかるというよりは、頭の中心に向っているような感じだった。
でも声はちいさくなっていく。まるで自分から遠ざかっていくみたいに。
中心と外、自分から遠いのはどちらなのだろう。

分からない。分からないことばかりだ、と思う。

後ろからは真っ黒な水が迫ってきている。そんな気がした。
真っ黒な水はこちらを掴もうと、幾つもの腕を伸ばしてくる。

でも振り返ってみるとそんなものはひとつもない。すこし先に扉があるだけだ。
この部屋に入るためにくぐった扉だ。そこからは逃げ出すことができる。
あの扉をくぐって引き返せば、彼女に助けを求めることができる。

だめだ、と自身に言い聞かせる。それだけはだめだ。

899: 2013/12/06(金) 21:24:39 ID:FRdpQArY

ユーシャは歩く。魔王の首に向かって剣を振る。
剣は見えない壁に阻まれ、弾かれた。
手から剣が落ちる。片方の耳に重々しい音が響き、
もう片方の耳の奥ではごぼごぼと血液が沸騰するような感覚がある。

空っぽの手に力を込めて拳を作る。
そこで魔王は何かをつぶやいた。何と言ったのかは分からなかった。

気づいた時には右腕がなかった。肩はある。
でも肘も腕も手首も手も指も爪もない。
身体から何かが流れ出ていく。視界は滲んで、狭くなっていく。

顔に何かがぶつかった。のではなく、顔が地面にぶつかった。
もう立てないような気がした。もう立てなくてもいいと思った。

無意味な時間だった。
無意味で満たされた時間は終わり、長い空白が始まる。
それは悪くないことのように思える。何にも脅かされることなく、
時間の許すままに彼女のことを考えられるのは、素敵なことに思えた。

身体の痛みは消えた。誰かが持って行ったみたいに、綺麗になくなった。
でも右肩から泥水がこぼれてるみたいに血が流れ出ていた。
汚い液体が、絨毯に汚い水たまりを作る。
それが自分の体内にあったとは思えない。

900: 2013/12/06(金) 21:25:27 ID:FRdpQArY

「もういいだろう」と魔王は言った。「君は氏ぬんだ」

ユーシャは頭だけを動かし、魔王を見る。弱々しい笑みがこみ上げてきた。
「俺は氏ぬけど、負けないよ。それに多分、俺は生き返る」

魔王は呆れたように顔を顰めた。「君はどこまでおもしろいやつなんだ」

ユーシャは魔王の言葉を無視して言う。
「だってあいつが俺を助けてくれるからな。あいつこそが、俺を救ってくれるんだよ」

「君はどこまでも幸せなやつだな。それに、信じられないくらい無責任だ」

「ごめん」

「どうして謝るんだ」

「やっぱり氏にたくない」

「信じられないくらい我儘だ」と魔王は呆れて言った。
「君はもう氏ぬんだ。分かるだろう」

「分かる。すごく」
音が遠くなっていく。視界が狭まっていく。力が抜けていく。息が苦しい。寒い。
声が欲しい。光が欲しい。立ち上がる気力が欲しい。空気が欲しい。ぬくもりが欲しい。

901: 2013/12/06(金) 21:26:15 ID:FRdpQArY

「なあ。最後にひとつ訊いていいかな」とユーシャはつぶやいた。

「なんだい」

「俺は、ほんとうに勇者なの?」

魔王はユーシャの脇に立つ。そして胸を踏みつけながら、「違う」と言った。
「君は勇者なんかじゃない。それに私も、魔王なんかじゃない。
君は人間のなかの君という意識で、私はエルフのなかの私という意識だ。
君は生まれた時から勇者だったのか? 違うだろう?」

「よく分からないよ」

「私と君という意識が存在するだけってことさ。
善悪も敵味方もない。勇者も魔王もない。
君は君で、私は私。勇者は勇者で、魔王は魔王。分かったかい」

「さっぱり分からん」とユーシャは笑った。

902: 2013/12/06(金) 21:28:19 ID:FRdpQArY

魔王は足に体重を掛けた。

胸が圧迫される。
心音が遠くで聞こえる。何かが壊れる音がした。
しばらくすると音が消えた。ひとつも聞こえなくなった。
身体が氷のように冷たくなっていく。
光が消えた。沼に身体が沈むようだった。
身体がゆっくりと消えていく。
一欠片ずつパズルを壊すみたいに、身体が壊れていく。
意識は黒い水たまりに吸い込まれる。

魔法使い、と思った。

903: 2013/12/06(金) 21:28:58 ID:FRdpQArY

36


「ようこそ」と誰かが言った。

勇者は声の主を睨んだ。身体の奥底から溶岩のようなものが噴き出すのを感じた。
それと一緒になって、底知れない開放感を覚えた。もう何も我慢することはない。
そう思うと笑みがこみ上げてきた。鎖はちぎれた。氷は砕けた。炎が灯った。

「あれが魔王だ」と影が言った。

「頃してやる」と勇者は言った。

前へ出る。立ち止まった魔法使いの脇を通る。
いい匂いがした。喜色を感じ取れるような優しい匂いだった。

「第一声が頃してやるだなんて、物騒なやつだな」と魔王は笑った。
「はじめまして。勇者殿と、かわいらしい魔法使いさん」

904: 2013/12/06(金) 21:29:54 ID:FRdpQArY

「あいつは?」と魔法使いが背後で言った。「あの阿呆はどこ?」

「ほんの一時間前くらいに、“喉”に行ったよ」

「喉って、何」

「君は見たはずだ。森に真っ黒な湖があっただろう? あれが喉だ」と
魔王は薄く笑って言った。「ここで氏んだものはそこに向かうんだ」

「しんだ」と魔法使いはつぶやいた。「誰が」

「君の勇者。短い髪で汚い服を着てて、星形の痣が手の甲にあって、
君が好きな君のことが好きな彼だよ」

「うそ」

「ほら、そこにあるじゃないか」と魔王は勇者の正面の床を指さして言った。

そこには誰かの腕が転がっている。血だまりの中に浮いたそれは
強烈な存在感を放っていたが、寂しげに見えた。
皮膚には網目状に紫の筋が浮き出ている。
決して良い光景ではなかったが、なかなか目を離せなかった。
その腕にはひとを惹きつける何かがあった。

脇には剣が転がっていた。
ところどころ刃が欠けている。長い間使われた剣なのだろう。

魔王は言う。「彼は氏んだんだよ。分かるだろ?」

905: 2013/12/06(金) 21:31:06 ID:FRdpQArY

勇者は魔法使いのことを憐れむように見る。
魔法使いは手から杖をこぼした。乾いた音が図書館に響いた。
音は幾つもの本に吸い込まれるように消えた。

表情から色が消えていくのを見て取れた。
目に灯っていた光は雫と一緒に流れ落ちる。

魔法使いは床に転がる腕に歩み寄って、脇で屈む。
それから腕を拾って抱き、頬ずりした。
顔は血で汚れた。でも彼女は腕を愛でつづけた。
頬ずりして、汚れた指を咥えた。服の中に入れて、O房にこすりつけた。
絨毯に染み込んだ血に頬を擦りつけた。血はまだ乾いていない。
彼女の顔は酷く汚れた。口の中も血で汚れた。

その光景は静かに再開を喜んでいるように見えた。
でも別れを悲しんでいるようにも見えた。ほんとうのところは分からない。

906: 2013/12/06(金) 21:32:21 ID:FRdpQArY

しばらくしてから魔法使いは絶叫した。
鼓膜を貫いて心を揺さぶるような絶叫だった。
ひとの泣き声というよりは獣の叫びのようなものだった。
吐き出したいものがそこには詰まっていた。
勇者にはそれを感じ取ることができた。でもどうすることもできなかった。

魔王は言う。「エンディングまで泣くんじゃない。まだ君の物語は続くんだ。
彼は氏んだけど、君は生きてる。それに、彼は生き返ることができるかもしれない」

魔法使いの絶叫は続く。彼女の耳には何も届いていない。

「どういうことだ」と勇者は代わりに訊ねる。「生き返るって」

「君は見たかな、真っ黒な湖を」

「見たような気がする」

森を歩いているときに見たはずだ。真っ黒な湖の水面には波も波紋もなく、
中では無数の怪物や動物が蠢いていた。まるで生きているみたいに。

907: 2013/12/06(金) 21:33:07 ID:FRdpQArY

「そこは喉と呼ばれている。
ブラックホールだとか、黒い水たまりだとか呼ぶものもいる。
とにかく、そういう場所があるんだ。
それで、ここで肉体を失ったものの魂は、まずそこへ向かう。

そしてそこからは這い上がることができる。
這い上がった魂は肉体を取り戻すことができる。
決して簡単なことではないが、無理だということもない。
私ならば這い上がれるだろうが、彼に這い上がることができるかは分からない。
全ては彼次第だ。意思と力があれば可能だが、どちらかが欠けるとだめだ」

魔法使いの絶叫を無視して、勇者は言う。
「“裏”で氏んだひとは、そこに来ない?」

「来ない」と魔王は言い切った。

「そうか」

「ほかに質問があれば何でも訊いてくれよ。何でも教えてやる。
君は全てを知る権利と責任と義務がある」

「いらない」

剣を引き抜く。「頃してやる」と影は言った。
内側で真っ黒な炎が弾けた。身体は震えて熱くなる。

908: 2013/12/06(金) 21:33:58 ID:FRdpQArY

「頃してやる」と勇者は言った。

「君はどうして私を殺そうとする」

「頃したいから。憎くて堪らない」

「世界の平和のためとかではなく?」

「そんなことはどうでもいい。ただ僕がお前を頃したいだけだ」

「君の友人はみんな氏んだが、それは私のせいではないだろう?
八つ当たりじゃないか」

「頃してやる」と勇者は言った。

「まあいいんじゃないかな」と魔王は微笑んで言う。「人間らしくて、いいと思うよ」

909: 2013/12/06(金) 21:35:06 ID:FRdpQArY

勇者は跳んで、魔王の顔面目掛けて剣を振った。
当然であるとでも言いたげに、魔王には“膜”が張られていた。
剣に力を込めて押す。膜は歪まない。腹立たしい。憎くて堪らない。

剣が弾かれた。もう一度顔面へ剣を振る。
その憎たらしい顔をぐちゃぐちゃにしてやりたい。
身体をばらばらにしてやりたい。内蔵を引きずり出して踏み潰してやりたい。
喉の奥に手を突っ込んで、何もかも引きずり出して握りつぶしてやりたい。

刃は魔王に届かない。もうほんの数ミリなのに届かない。
剣と魔王の間には不思議な壁があり、そこからは紫色の光が四散している。
腕が熱を帯びる。血液が沸騰したみたいだった。

喉の奥から怒りがこみ上げてくる。勇者は獣のように吠えた。
言葉で表せない感情を吐いた。
どうしても内側に閉じ込めておくことができなかった。

自分の内側には何がいる? お前は誰だ?

910: 2013/12/06(金) 21:35:38 ID:FRdpQArY

魔王は指先で、宙に円を描く。視界の右上に、黒い穴が現れる。
身体がそこへ引き寄せられる。踏ん張ったが、身体は浮いた。

勇者は魔王を睨みながら叫んだ。「糞。糞が!」

魔王は憐れむようにこちらを見た。が、それ以上は何もしなかった。

やがて手が黒い穴の中心にあった球体に触れる。
すると、今まで吸い込んだ分の空気を一瞬で吐き出すみたいに、それは破裂した。
身体は地面に打ち付けられた。全ての毛穴を針で刺したみたいに全身が痛んだ。
脚がおかしな方向に曲がっているが、どうでもいい。

911: 2013/12/06(金) 21:36:33 ID:FRdpQArY

勇者は剣で身体を支え、立ち上がる。そして魔王を睨む。

誰かのすすり泣く声が聞こえる。
その声に覆いかぶさるように、「君も彼も同じだ」と魔王は言った。
「御伽噺の勇者には、三人の仲間がいたよな。
彼らは七〇〇年前、御伽噺の魔王を討った。
便宜上、御伽噺の勇者と魔王と呼ぶが、彼らは実在したわけだ」

「だから何だ」と勇者は言った。

「彼らは四人でここまで来た。誰も欠けることなく、門をくぐった。
でも君にはそれができなかった。友人をふたりも失った。どうしてか分かるか?」

「僕が弱いからだ」と影は言った。

「そのとおり」と魔王は言う。「君も彼も、弱いんだ」

「黙れ」と魔法使いが言った。

912: 2013/12/06(金) 21:37:53 ID:FRdpQArY

「彼もひとりじゃあ君を守りきることもできないし、
魔王一体を倒すこともできないんだもんな」

「黙れ」と魔法使いは言い、立ち上がった。
ゆっくりと歩き、勇者の脚に触れる。

すると脚は元に戻り、痛みが消えた。
立ち上がり、魔王に向かう魔法使いの背中を見る。

ちいさな背中だった。長い髪が歩く度に揺れる。
それは炎のゆらめきのように見えた。
静かに、でも確かに熱を持って、光を放っている。
暗く曲がりくねった道で誰かを導く大きな光のように、彼女は前に立つ。

「あいつは弱くなんかない」と魔法使いは魔王を見ながら言った。

「彼は弱いよ。君とは違って」

「黙れ!」と魔法使いが叫ぶ。
勢いよく床に杖を突くのと同時に、彼女の背後に青い炎の球が七つ現れた。

魔王はすこし驚いたように、「呪術か?」と言った。

「頃してやる」と魔法使いは震える声で言った。

「頃してやる」と、どこかで誰かが叫んだ。

913: 2013/12/06(金) 21:38:39 ID:FRdpQArY
続く

914: 2013/12/07(土) 21:06:38 ID:26Ye4SVg

37


今日がその日に、今がその時になる――

915: 2013/12/07(土) 21:07:13 ID:26Ye4SVg




どっちが上で、どっちが下だ? 俺は誰で、お前は誰なんだ?
暗くて、寒い。ここはどこだ?

右腕がない。左耳がない。
左腕もない。でも左手はある。星形の痣も残っている。
指はないけど、爪はある。

脚はある。足はない。指はある。爪はない。
息が苦しい。肺はある。でも皮膚はない。
考えることはできる。動くことはできない。
身体がない。でも心がどこかにある。

誰かが泣きながら、誰かの名前を呼んでいる。とても懐かしく、温かい声だ。
その声は内側で響いているようにも聞こえるし、
遥か遠くからまっすぐここに向かってきているようにも聞こえる。
それが自分のための声なのかは分からない。俺の名前って、何だ?

916: 2013/12/07(土) 21:09:03 ID:26Ye4SVg

だんだんと暗闇に目が慣れてくる。
周囲には無数の生物が真っ暗な宙を漂っていた。
全ての生物は何かが欠落している。
それは腕だったり足だったり頭だったり内蔵だったり心だったりした。
飛び出した長い臓器が絡み合って、身動きがとれなくなっているものもいた。

俺もみんなと変わらないんだろうな、と思う。
自分の身体は闇に阻まれてよく見えない。

左手が何かに触れた。
おそらく毛むくじゃらの生物だ。もさもさとしている。
何かと繋がっているということが、根を失いかけた心を安定させる。

柔らかな毛を撫でる。
今度はヘドロに触れたような感覚が手のひらを這いずりまわった。

もう一度ちゃんと触れてみる。
その生物には四本の脚があることが分かる。
でも前脚と後ろ脚の間の胴体が潰れている。
ヘドロだと思っていたのは、むき出しの血肉だった。

目を凝らしてその生物を見据える。それには見覚えがあった。
四本の腕を持った熊に叩き潰された狼のような怪物だった。
彼(あるいは彼女)は悲しげにこちらを見た。
ユーシャはそれをそっと抱き寄せた。

917: 2013/12/07(土) 21:09:55 ID:26Ye4SVg

「あの子は生きている?」と誰かが言った。
落ち着いた女性の声だった。

「生きてるよ」とユーシャは言った。
「仲間のところに合流できた」

「それなら良かった」

「それから道案内をしてもらったんだ、大人の狼と一緒に。
助かったよ。ありがとう」

「わたしに礼を言っても仕方ないでしょうに。
彼と、あの子に、直接言ってあげて。
それに、いま礼を言うのはわたしの方」
彼女はユーシャの頬を舐めた。
「あの子を助けてくれてありがとう」

918: 2013/12/07(土) 21:10:47 ID:26Ye4SVg




目を見開いて、暗闇の底を見据える。そこには無があった。
目を閉じ、暗闇の果てを見据える。そこには自分がある。
内側には誰かの胎内で眠っているような心地よさがある。

規則正しい鼓動が身体を揺らす。
でも、あたたかみはどこにも無い。
ここは酷く寒い。まるで氷にでもなったみたいだった。

もう一度目を瞑る。魔法使い、と思った。
栗色の髪。柔らかく温かい手。細い指。傷のある脚。
白い肌。ちいさなO房。柔らかく熱い身体。優しい心。

もう一度会いたい、と思った。思わないわけにはいかなかった。
格好悪くても惨めでも、もう一度そこへ帰りたいと思った。
約束したのに。伝えたいことが数えきれないほどあるってのに。
でもどうやって? どうやって伝えればいい?
どうやってここから出ればいい?

919: 2013/12/07(土) 21:12:28 ID:26Ye4SVg

どっちが上で、どっちが下なんだ?

導いてくれる光はもう見えない場所にある。
太陽も星も炎も魔法使いも、水面の向こう側にいる。
ただ水から這い上がるだけなのに、俺にはそんなこともできないのか?
どうして? ひとりだから? 弱いから?

助けてほしい、と思う。なんて身勝手なやつなんだろう、と呆れる。
勝手にひとりで突っ走って、氏んで、助けてほしいだなんて都合が良すぎる。
でも助けてほしい。氏にたくない。もう一度だけ触れたい。

魔法使いは自身の内側の全てを支える大きな柱だった。
でも今は違った。彼女こそが自身の内側の全てに成り代わっていた。
魔法使いという人間こそが世界そのものなのだ。
そんなちいさな世界を救うこともできないのに、
一体俺はどんな世界を救おうとしてたっていうんだ?

返答は無い。声も無い。

920: 2013/12/07(土) 21:13:24 ID:26Ye4SVg

世界は遠ざかっていった。違う。世界から遠ざかってしまった。
自分から地面を蹴って、宙に飛び出したのだ。
さまざまなものを見誤って、身体を失くした。
世界は終わった。外の世界も内の世界も終わった。

「なあ」と影が言った。「お前の最期の場所はここなのか?」

「分からない」とユーシャは言った。

921: 2013/12/07(土) 21:15:21 ID:26Ye4SVg

「あのな、お前にはここから這い上がるだけの力があるんだ。
多分お前は知らないだろうけどな、お前は強いんだ。
力と強さはイコールじゃない。腕力が全てだなんて誰が言った?

お前は世界を救えるんだよ。どういうかたちであってもな。
世界を救う力を持っているんだよ。誰かと誰かをつなぐことができるんだ。
お前には怪物と人間をつなぐことだってできる。

まだ何も終わってない。始まってすらいない。ここはマイナスだ。
お前は今からゼロに向かうんだ。ここはまだプロローグの途中だ。

魔王だとか勇者だとか、そんな糞みたいなもんが
レールの途中にある物語なんてつまらないだろ?
“ここから先、勇者”とか、“ここから魔王まで一方通行”とか。
阿呆か。そんな道は最初から“勇者”とか“魔王”として
生まれた奴に歩かせときゃいいんだよ。

922: 2013/12/07(土) 21:17:10 ID:26Ye4SVg

お前は違う。俺も違う。俺もお前も勇者なんかじゃない。
そんな脇道を歩くのは時間の無駄だ。
お前にはやるべきことがあるだろ。
お前はちいさなひとつの世界を救えるんだよ。

俺とお前で、帰るべき場所に帰るんだ。
あるいはお前だけでも、あいつの隣に帰るんだよ。
こんな簡単なこと、すぐにできるだろ?
だってお前は強いんだから。それに、ひとりじゃない。

さあ行こうぜ」影は残された手を伸ばす。
「お前の勇者としての物語はここで終わりだ。
勇者の冒険は魔王に負けて終わったんだよ。
だからここから這い上がって、ゼロからやり直そうぜ。あいつと一緒にな」

923: 2013/12/07(土) 21:18:14 ID:26Ye4SVg

38


青い炎の球の出現と同時に、命を削るという感覚を魔法使いは理解した。

命を削るというのは、心臓を止めるようなイメージだった。
でもそれはすこし違った。むしろ心臓は激しく暴れまわった。
まるで檻に閉じ込められた獣が外に出たがるみたいに、
心臓という獣は肋骨という檻を押した。

力が抜けることも、視界が狭まることもない。
むしろ感覚は研ぎ澄まされ、力が湧いてくる。
身体が軽くなり、火照り始める。穏やかな殺意が湧いてくる。

もう振り返る必要はない。必要なものはもうこの頭の中にしかない。
目に映る景色には糞ほどの価値もない。世界を救う必要も意味もない。
あとはこの身体を燃やして魔王を頃し、彼のもとに向かう。それだけでいい。
だからもうこの身体に気を遣う必要はない。何も我慢することはない。
まっすぐにやればいい。

924: 2013/12/07(土) 21:19:26 ID:26Ye4SVg

魔法使いは杖で床を突く。乾いた音が鳴る。
それを合図に、青い炎の球はまっすぐ魔王に飛ぶ。
しかしその身体にぶつかる直前で、魔王の前に青い炎の壁が現れた。
七つの火球はそこへ飲まれて見えなくなる。やがて壁も消える。

「人間が呪術なんて使うもんじゃないぞ」と魔王は言った。

「黙れ」と魔法使いは言った。

後ろから勇者が飛び出し、魔王に突進する。
それに呪術の障壁を張り、剣に炎を灯した。

勇者は魔王に剣を振る。剣は障壁にぶつかり、雷と炎を散らした。
散った炎は雪のように見えなくもない。
そのまま何度も剣を振る。斬るというよりは殴りつけるような感じだった。

925: 2013/12/07(土) 21:20:47 ID:26Ye4SVg

呪文をつぶやき、魔王の頭上に巨大な氷柱を作り、そのまま落とした。
勇者は軽く後退し、成り行きを見守る。でも氷柱は魔王に刺さる前に溶けた。
そこに見えない炎があるみたいだった。

魔王はそのまま歩く。そして落ちていたユーシャの剣を拾う。
それは腸が煮えくり返るような光景だった。どうしてお前なんかがその剣を持つ?
それはあいつの剣だ。お前なんかが触っていいもんじゃない。

魔法使いは叫んだ。目の前に巨大な青い火球を作り、青い熱線を打ち出した。
魔王は跳んでそれを躱した。本の幾らかが焼け、跡形もなく消滅した。
壁に穴が空き、外の空気が流れ込んでくる。

「危ないな」と魔王は言う。「本が焼けてしまった」

「だから何だ」魔法使いは言う。「氏ね。氏ね! 頃してやる! 糞が!」

926: 2013/12/07(土) 21:21:34 ID:26Ye4SVg

魔法使いは前に飛び出す。自身に呪術の障壁を張り、拳に青い炎を灯した。
飛び上がり、背後に赤い魔術の球を作る。そしてそれを破裂させる。
爆風で身体を押して、そのままの勢いで魔王に殴りかかった。

魔王は身体を後ろに逸らし、剣で拳を受け止めた。
驚いたように目を丸め、「そんな使い方があるのか」と言った。

もう片方の手にも炎を灯して、殴りつけた。魔王の障壁は破れない。
ただ炎と雷を散らすだけで、歪みはしない。
魔法使いは歯を剥いて叫んだ。憎い。悔しい。どうして届かない?

927: 2013/12/07(土) 21:22:30 ID:26Ye4SVg

身体が押された。魔王が剣を振ったのだ。
障壁は破れなかったが、後ろに吹き飛ばされた。
何かに受け止められた。そのまま床に降ろされた。
入れ替わるように勇者は突進する。
それを追うように、青い炎の槍を射った。

勇者は身をすこし屈め、背後から飛んできた炎の槍を躱し、魔王に向かう。
炎の槍は炎の壁に阻まれる。構わず炎の壁に潜る。
身体が焼けるような熱気に包まれる。
しかしそれでも呪術の障壁は破れない。

炎の壁から飛び出し、魔王に向かって剣を振る。
それは剣で受け止められる。
魔王はこちらの足元を蹴った。体勢が崩れる。
頭上を仰ぐと、振り下ろされようとしている剣が見えた。

そこで、剣を遮るように、勇者と魔王の間に氷の壁が現れた。
勇者は床に倒れ、態勢を立て直す。

魔法使いは氷の壁に向かって、雷を撃った。氷は砕け、礫が魔王に飛ぶ。
ダメージはないと分かっていても、どうしてもぶつけたかった。
無駄なエネルギーの消耗だと分かっていても止めなかった。
全てを出し切って終わる。残るものは何もない。灰や身体も魂も残らない。
それでいい。全てに意味はない。視界が滲み、景色から色は消える。

928: 2013/12/07(土) 21:23:55 ID:26Ye4SVg

「私が憎いか」と魔王は言った。

「憎い」と魔法使いは言う。
「絶対に頃す。お前を頃すまでわたしは絶対に氏なない」

「あの子を頃したことは悪かったと思う」

「悪かった? だから何?
あんたが氏ねばあいつは帰ってくるの? 違うでしょう?
何、戦うのをやめろとでも言うの?
嫌。絶対に止めない。絶対に頃す」

「そんなことに何の意味がある?」

「どうして物事に意味が必要なの? 頃したいから頃して何が悪いの?
理屈っぽい奴は嫌い。お前みたいな奴はいちばん嫌い。
哲学するならひとりでしてろ。復讐の何が悪い?
お前を憎いと思って何が悪い? お前を頃すことの何が悪い?」

「何も悪くない。君が正しいと思ったことは全て正しい」

「だったら黙って氏ね!」

929: 2013/12/07(土) 21:24:50 ID:26Ye4SVg

魔法使いは杖を掲げ詠唱する。
背後に現れた七つの炎の球から、細い熱線が打ち出される。
魔王の障壁にそれはぶつかる。
そのうちのひとつが障壁を貫き、腕に穴を開けた。

魔王は訝しむように自分の腕に目を向けた。
確かに貫かれている。痛みもある。血も流れ出ている。
それは数百年の長い年月の中でも、多く経験したことのないことだった。

魔法使いは思わず口元を歪めた。「頃してやる」

勇者はすかさず障壁に開いた穴に剣を引っ掛け、切り上げた。
魔王の腕、手首の辺りから肩にかけて縦に切り傷が入る。

障壁が霧状になって拡散した。
魔王は信じられないものでも見たように、目を見開いた。

930: 2013/12/07(土) 21:25:22 ID:26Ye4SVg

勇者はそのまま手首を掴んで捻り上げて、魔王の腕を斬ってちぎった。
骨を折り、肉を裂く。細い管がぴんと張り、ちぎれ、赤い液体をまき散らした。

魔王は苦痛に声を上げた。
それを無視し、勇者は切り離した腕を地面に捨てて踏みつける。
何度も踏みつけた。何かが砕ける音と、粘っこい音が響く。
そのまま跡形が失くなるまで踏みつけた。大した時間はかからなかった。
靴の裏には肉片がこびりついている。
床を踏みつけると柔らかくて心地よかった。

魔王の障壁はゆっくりと再生した。

勇者は口元の笑みを堪えることができなかった。
静かな高揚が湧き上がる。それは血を沸騰させるようだった。
身体が熱を帯びる。目頭が熱くなる。もうすこしだ。

931: 2013/12/07(土) 21:27:03 ID:26Ye4SVg

「驚いた」と魔王は表情を歪めて言った。
腕からはちいさな滝みたいに血が落ちている。

魔法使いは鼻で笑った。「どうせ呪術で再生できるんでしょ」

「私には無理だ」魔王は呪文をつぶやく。
腕の切断面は皮膚で覆われ、血は止まった。
「でも、君にならできるかもしれないな」

「あんたも大したことないのね。何が魔王よ」

「才能には勝てないのさ。君はそれを持っていて、私は持っていない。
君は精霊に愛されて、私が愛されなかっただけの話だ」

932: 2013/12/07(土) 21:27:46 ID:26Ye4SVg

魔法使いは口元に笑みを浮かべ、まっすぐに極細の青い熱線を五本撃った。
魔王は自身の右側に黒い穴を作り、熱線の軌道をねじ曲げた。
熱線は穴に消える。はじめからそんなものはなかったみたいに消えた。

「それやめろ」と魔法使いは言った。

「やめない」

魔王は残された手を力なく振った。黒い穴がこちらに飛んでくる。
逃げようと思っても、身体がそこへ吸い寄せられるせいで逃げられない。
そこへ光の球をぶつけた。しかし光は暗い穴に飲まれて消えた。

拙い。魔法使いは自身に強力な呪術の壁を張った。
心臓に締め付けられるような痛みが走る。
鼓動が早くなる。口内に鉄の味が充満する。視界がクリアになる。
迫ってくる黒い穴の中心には宝石のような黒い球が見えた。

その時、前に勇者が飛び出して、黒い球を剣で突いた。
「伏せて」というちいさな声が聞こえた。魔法使いは指示に従い身を屈める。

黒い球体は周囲の空間を歪め、破裂した。
光と青い熱線があちこちに飛び散った。
魔法使いは身を屈めていたので、強い風に曝されただけで済んだ。
が、あの子はどうなった?

933: 2013/12/07(土) 21:28:58 ID:26Ye4SVg

頭を動かし、黒い穴のあったはずの場所を見る。でも勇者に遮られて見えない。
庇ってくれたのだ。魔法使いは勇者の姿を仰ぐ。
彼の腕は不自然な方向に折れ曲がっていた。

身体にもいくつかの穴が空いている。
足元には血だまりがある。急いで癒しの魔術で傷を治す。
腕は元に戻り、穴は塞がる。破損した内蔵も再生させ、呪術の障壁を貼り直す。

すると、すぐに勇者は前に出た。傷は塞がっても痛みはまだ残っている筈だ。
背中を見送っていると、その奥で苦笑いする魔王の姿が見えた。
どうして笑う? 何がおかしい?
身体の内側から炎が噴き出すのを感じた。エネルギーの波のようなものだ。

934: 2013/12/07(土) 21:30:12 ID:26Ye4SVg

勇者は炎の塗られた剣を振り下ろす。
雷と炎が散る。刃が届かない。

剣先で障壁を押す。するとすこし窪んだ。
力を込めて押すと、呪術の障壁は破れた。
そのまま魔王の腹を貫いた。
肉を焼き、骨を焼き、絶対的な自信を燃やし、灰にする。
何もかもを奪い取ってやる。

魔王は歯を剥いた。
直後に勇者の背後、魔法使いの前方に巨大な黒い穴が現れる。
魔法使いは四枚の巨大な氷の壁を作り、
その穴を囲った。そして呪術を唱える。

勇者は魔王から剣を抜き、血のこびりついた剣をもう一度振った。
地面に絵を描くように血が飛ぶ。
魔王の腹を抉る。繊維を引きちぎっているという感覚が、心地よくてたまらなかった。
性的な快感に近い何かがこみ上げてくる。

魔王は後ろに飛んで、態勢を立て直すことにしたらしい。
すこし離れたところで傷を塞ぎ、もう一度障壁を張った。

935: 2013/12/07(土) 21:30:52 ID:26Ye4SVg

背後から魔法使いが飛び出した。と思ったが、違った。
後ろから飛び出してきたのは、いつか見た、大きな剣を持った骸骨だった。
どうしてお前がここにいる? と疑問には思わなかった。
骸骨の大剣には青い炎が灯っていた。彼女の呪術だ。

あれは味方? いいや、どうだっていい。どっちも頃してやる。
勇者は駈け出し、骸骨に続いた。

骸骨は剣を振り下ろし、魔王に叩きつける。障壁は呆気無く、粉々に砕けた。
魔王は歯を剥いて叫ぶ。骸骨の背後に黒い穴が現れる。
骸骨はそこへ吸い込まれ、吐き出された空気と一緒に地面に叩きつけられた。
骨は粉々に砕ける。ほとんど跡形は残らなかった。残ったのは大きな剣だけだ。

勇者は無防備な魔王に剣を振る。魔王はユーシャの剣でそれを止める。

しかし、勇者の剣はそこで折れてしまった。
戦士から貰った剣は輝きを失い、手からこぼれ落ちた。
それはひとつの生物の氏であるとか、ひとつの世界の終焉のように見えた。

936: 2013/12/07(土) 21:31:59 ID:26Ye4SVg

魔王が剣を振り下ろす。

勇者は氷の槍を自身の手から生やし、
それを剣のように使って魔王の攻撃を止めた。
そしてもう片方の手で、懐に入れていたナイフを取り出した。
それは僧侶がお守りとして買ったナイフだった。

ナイフを魔王の腕に突き立てる。魔王はあえぎ、剣を腕から落とした。
勇者は氷の槍で魔王の喉を突こうと試みる。
が、背後に作り出された黒い穴に身体が吸い寄せられる。届かない。

魔王の手から落ちたユーシャの剣を拾い上げて、後ろに放り投げる。
身体と、地面に落ちていた大剣が、穴に吸い寄せられる。
そこで魔法使いが穴の周りをふたたび氷で覆った。吸い込みは止まる。

937: 2013/12/07(土) 21:32:43 ID:26Ye4SVg

魔法使いは前へ出る。飛んできたユーシャの剣が、地面に刺さっている。
それを引き抜き、青い炎を塗りたくった。
重い。剣がこんなに重いだなんて、知らなかった。
でもその剣は力をくれた。肉体的にも精神的にもレベルアップした。
自身に呪術の障壁を張り、身体の後ろで炎の球を破裂させる。

魔王は障壁を再生させる。
知ったことではない。魔法使いは爆風に乗って、魔王の喉に剣を突き立てる。
障壁は破れない。頃してやる。憎い。悔しい。
自分のなかの獣が叫んだ。

殺せ。殺せ!

938: 2013/12/07(土) 21:34:14 ID:26Ye4SVg

背後で次々と炎の球を破裂させた。
青い炎だろうが赤い炎だろうが透明の炎だろうが、
とにかく破裂させて身体を押した。

皮膚が裂け、骨が砕けるような気がした。
文字通り身を焼かれた。命を賭した攻撃だった。
構わない。どうせあいつはいない。この身体に価値はない。

透明な炎の爆発で、自身に纏わせた障壁が破れた。
皮膚が焼ける。背中の服が焼けた。顔の皮膚が爛れているのが分かる。
だから何だ。この身体に価値はない。
それに、どれだけ醜くてもあいつならわたしを愛してくれる。
手を握って、ここから救い出してくれる。

魔王の障壁は歪んだ。魔法使いはもう一度背後で炎を破裂させた。
背中の肉が焼け、抉られるような感覚があった。
でもそんなことは大したことではなかった。そこで魔王の障壁が破れたのだ。

魔法使いは大声で笑った。それから大声で泣きながら、魔王の喉を貫いた。

939: 2013/12/07(土) 21:35:43 ID:26Ye4SVg

魔王の目は見開かれたあと、何かを悟ったみたいに穏やかな表情を見せた。
そしてそこから光が消えた。

魔法使いは魔王から離れ、力なく崩れた。

勇者は僧侶のナイフで魔王の腹を裂いて、腸を引きずりだした。
そして床に投げつけ、何度も踏んだ。喉に手を突っ込んで、爪で抉った。

胸に何度もナイフを突き立てた。肋骨を一本ずつ丁寧に折った。
手足の骨も踏んで砕いた。眼球を引きずり出して握りつぶした。
耳を剥いで咀嚼して、生気の消えた顔に吐き出した。
もう片方の耳も剥いで咀嚼し、味わってから飲み込んだ。
そして胃の中身を全て魔王の亡骸にぶちまけた。
どれだけ魔王に感情をぶつけても衝動は収まらなかった。
こんな些細なことでは消えるわけがなかった。

940: 2013/12/07(土) 21:36:30 ID:26Ye4SVg

魔法使いは寝転びながらそれを見守っていた。
とても非現実的な光景だった。
勇者との間には見えない壁があり、
それを通して猛獣を眺めているみたいな気分だった。

立ち上がろうと思っても力が入らない。火傷を治そうにもエネルギーは空だ。
いいや、そもそも立ち上がる意味はすでにないのだ。

氏者を蘇らせる呪術は、想像を遥かに超える力を身体から奪っていった。
ふたたび誰かを蘇らせれば、間違いなく身体は朽ちる。
彼は蘇り、魔法使いという意識は氏ぬ。そんな事、彼は望んでいない。
魔法使いにはそれが分かる。

その力で、ユーシャを呼び戻すべきではなかっただろうか、と思う。
どうして今までそんな簡単な事を思いつかなかった?
どうしてお前はいつも、肝心な時にまともな判断ができない?

941: 2013/12/07(土) 21:37:21 ID:26Ye4SVg

視界は滲んだ。勇者の叫び声が聞こえた。手のひらには何も残っていない。
いったい、この七年にどんな意味があったというのだろう?
魔王を倒したことで、何が変わったというのだろう? 誰が救われた?

魔法使いは身体を引きずって、本棚のひとつに凭れかかった。
それからすすり泣いた。

旅は終わった。魔王は氏んだ。手のひらには何も残っていない。
目に映るのは血の海。聞こえるのは獣のような叫び。覚えるのは激しい喪失感。
世界は救われた。これが世界のあるべき姿なのだろうか?
これがどこかの国の王が望んでいたことなのだろうか?
何を信じればいい? どこへ帰ればいい?

942: 2013/12/07(土) 21:38:10 ID:26Ye4SVg

これからどうしようか、と思う。これからとは、何のことだろう?
わたしは、まだ生きようなどと思っているのだろうか? 何のために?
嫌だ。もう終わらせたい。それに、呪術で命を削り過ぎた。
もう両手で数えられるほどの年数しか生きられないはずだ。

抜け殻のまま一〇年近くを過ごす。耐えきれるわけがない。
全ての柱を失った神殿が一〇年も壊れないわけがない。

魔法使いの神は失われたのに、彼女の身体という神殿が存在する意味はない。
彼女の身体の中に、彼が入ってくることはない。
触れることもない。抱かれることもない。声さえも聞こえない。
空虚な神殿に響くのは軋む音と自分の声だけだ。

今日がその日に、今がその時になる、と魔法使いは思った。
今日がわたしの最期の日、今がわたしの最期だ――

943: 2013/12/07(土) 21:39:06 ID:26Ye4SVg

魔法使いは首筋にユーシャの剣を押し当てる。
剣は温かかった。すぐ側にユーシャがいるような気がした。
とても気分がいい。殺意や怒りは消えた。今は穏やかな氏がほしい。
目を瞑る。瞼の裏にユーシャが映る。彼は何かを叫んでいた。

その時、「行こう」と誰かが言った。

目を開き、顔を上げると、そこには血で汚れた勇者が立っていた。
こちらに向かって手を差し伸べている。その手は何よりも酷く汚れていた。

「どこへ」と魔法使いは訊ねる。

「“喉”。魔王をもう一度、完全に頃す」と勇者は言った。
「それに、僕は君を救うことはできないけれど、
多分、君の救世主を救うことができる」

944: 2013/12/07(土) 21:39:46 ID:26Ye4SVg
続く

946: 2013/12/08(日) 09:05:52 ID:JiZUATn2

39


勇者は魔法使いに、“喉”についての説明をした。
魔法使いは首筋に剣をあて、座り込みながら、黙ってそれを聞いていた。
その表情は、長い夜が終わって
待ちに待った朝が来たみたいに明るくなっていった。

「じゃあ」と魔法使いは言う。
「彼は生き返ることができるかもしれない?」

「そう。そしておそらく、魔王はまた復活する」

魔法使いの目に光が射すのを見て取れた。
魔王の復活は大した問題ではないらしい。
もう一度彼に会えるという事実は、彼女の内側に炎を灯した。

それでいい、と思った。もう一度魔王を頃すのは、勇者の役目だ。

947: 2013/12/08(日) 09:06:41 ID:JiZUATn2

「どうして」と魔法使いはこちらを見上げながら言う。
彼女の綺麗だった顔は、火傷と皮膚の爛れで酷いことになっていた。
服も背中部分が焼けて失くなり、真っ赤に腫れた肌が露出している。

「何?」

「どうしてもっと早く言ってくれなかったのよ」
魔法使いは涙をこぼしながら鼻を啜って、歯を見せて笑った。
それはとても綺麗でかわいらしい笑みだった。

勇者も微笑んだ。
「あの時の君には、何を言っても聞こえないような気がしたんだ」

「たぶん、聞こえなかったでしょうね」

「だろ」勇者は魔法使いに手を伸ばす。「行こう」

魔法使いはその手を掴み、立ち上がった。

948: 2013/12/08(日) 09:07:48 ID:JiZUATn2




勇者は魔法使いに肩を貸しながら歩き、町に戻ってきた。
起きているものはひとりもいなかった。
みんな地べたやら机やら椅子やらで眠っている。

どこを見ても明るいのだが、とても静かだった。
町は眠り、川のせせらぎだけが聞こえる。
空だけは相変わらずの暗さだ。夜は未だに続いていた。

川に架かった橋を渡るときに、僧侶に似たあの女性を見つけた。
彼女は机に突っ伏して、ひとりで眠っていた。
勇者はそれを寂しげな目で見下ろした。
近寄りはしない。彼女が必要としているのは、僕なんかじゃない。

彼らが目覚めた時、この国の王はいない。
彼らはそのことをどう思うだろう。知ったことではない。
でも考えてみると、彼らから見ればこちら側こそが魔王なのかもしれない。
突然現れて、王を頃して消える。ただのアサシンだ。
勇者とは、結局何なのだろう?

949: 2013/12/08(日) 09:08:38 ID:JiZUATn2

町を出ると、冷たい空気に身体を包まれた。血を吸った服が重く冷たい。
眼前に広がる森は獣の喉のように暗い。
飲み込まれると身体が溶けて、
帰ってこれないのではないかと思うが、そんなことはない。

足元の雑草を踏みしめ、木々の間を縫うように歩く。
身体が軽い。魔法使いを抱えていても、身体は思うように動いてくれる。
抱えていた全ての重荷は取り払われたのだ。
もう殺意や破壊衝動と決別できる。するかしないかは自分で決める。

今は穏やかな氏がほしい。もうここに存在している意味はない。
自分という身体には勇者という呪いの烙印のようなものが刻まれている。
そこにしか価値はない。いいや、そこにすら価値はないのかもしれない。
ものの価値とは、何で決まるのだろう?
分からない。ここには理解不能なものがあふれている。

950: 2013/12/08(日) 09:10:08 ID:JiZUATn2

「あれね」魔法使いは掠れた声を絞り出した。

目の前には真っ黒な湖がある。
真っ黒な穴にも見えるし、真っ黒な水溜りにも見える。
ここに魔王の意識があり、ユーシャの意識がある。
身体を失った者達は、ここで彷徨っている。

魔法使いをその場に座らせて、“喉”を覗きこむ。
それは巨大な獣の喉を思わせる暗さだった。
水中には魚がいた。熊も狼も竜も人型の何かもいた。

宝箱に詰まった宝石みたいだった。
彼らは皆、可能性を持っている。磨けば光る。でも欠けている。そんな石だ。
腕や足、心がなくとも、目がある。未来を見つめることのできる目だ。

底は見えなかった。そもそも底があるのかすらが疑問だ。
足を滑らせたら、永遠に落ち続けるのではないかと思う。
あるいはこれはトンネルのようなもので、
通り抜けた時に新たな存在に生まれ変わるとか――

951: 2013/12/08(日) 09:11:22 ID:JiZUATn2

戦士、と思った。僧侶、と思った。
ふたりに会いに行こう、と思った。

もう重い鎧を脱いで、自由になるんだ。
何にも縛られることなく、完全な自由になるんだ。
それは鳥とか四本足の獣なって、
地面や空を縦横無尽に駆け巡るのと同じように思えた。

気分は旅に出た日の空のように澄んでいた。
空気はいつか食べた食堂のご飯みたいに美味かった。
身体は誰かと交わっている時のように熱かった。
世界は色づいていた。鼻や耳がひりひりと痛んだ。
手は酷く汚れている。でも、これこそが自分なのだ。

自分には何もない。それでいい。今から手に入れに行こうじゃないか。
失う旅は終わりだ。手に入れる旅を始めるんだ。

952: 2013/12/08(日) 09:11:57 ID:JiZUATn2

「心は決まったかい」と影は言った。

勇者はうなずいた。

「そうか」影は笑った。「僕は迷っている」

「そうか」勇者は笑い、魔法使いの方を向いた。「頼みがあるんだ」

「何」魔法使いは掠れた声で言った。

953: 2013/12/08(日) 09:12:44 ID:JiZUATn2

「多分」と勇者は言う。
「多分、今から僕は氏ぬけれど、それは肉体的に
この世から消滅するってことだと思うんだ。

僕がいちばん怖いのはさ、忘れられることなんだ。
誰の記憶にも残らず、完全に消滅すること。
だから君には覚えていてほしい。僕という人間がいたってことを。

どんなかたちでもいい。頭のおかしい野郎がいたとか、
血も涙もない自称勇者だとか、そんなのでいいんだ。
とにかく、僕のことを君の記憶に繋ぎ止めてほしい。
誰かと繋がっていたいんだ。たとえ氏んでも、僕はそうでありたい。

誰かの記憶に残るってことは素晴らしいことだ。
どんなかたちであってもね。僕はそう思う。
みんながその存在を通して、自分の何かを振り返ることができると思うんだ。

べつに僕という存在を通して君の人生を振り返れとは言わない。
ただ、たまに思い出してほしい。そうすることで僕は救われるからさ。
だから、多分、結局は――」

勇者はそこで言葉を区切り、魔法使いに微笑みかけた。

「君こそが、僕を救ってくれるんだ」

954: 2013/12/08(日) 09:13:41 ID:JiZUATn2

勇者は僧侶のナイフを持って、湖に向かって歩く。
魔法使いはその背中を見送った。

「大丈夫」と勇者は魔法使いに背を向けて言った。「君の救世主は救うよ」

そう言い残して勇者は湖の中に消えた。
それは水に飛び込むというよりは、暗闇に溶けるみたいな感じだった。
魔法使いは黙って勇者の沈んだ場所を眺めていた。
波紋やさざなみは一切ない。鏡のように、湖はそこにあるだけだった。

魔法使いは目を瞑り、カマキリのように祈った。神には祈らない。
でも、今できる事はこれしかない。祈るものを演じることしかできない。

どうか、お願いします。わたし達を救ってください――

955: 2013/12/08(日) 09:14:15 ID:JiZUATn2

魔法使いはゆっくりと目を開く。黒い湖の水面に、白っぽい何かが見えた。
ひとの腕だった。水中から伸びた手が、天に向かって伸ばされている。
まるで太陽でも求めているみたいだった。

でもその手は太陽を求めているわけではなかった。魔法使いにはそれが分かる。
その手は魔法使いの身体の内側に炎をもう一度灯す。
そしてあれは救いを求めている。あるいはひとのぬくもりを求めている。

わたしだけが期待に答えられる、と魔法使いは思う。
わたしこそが、彼を救ってあげられる。

もう一度、視線を刺すように手を見つめる。間違いない。
その手の甲には、不細工な星形の痣があった。

956: 2013/12/08(日) 09:15:56 ID:JiZUATn2
続く

書き溜めが尽きそうだからちょっとペースダウンするよ

957: 2013/12/09(月) 17:18:31 ID:CQxfR4O6

40


いま向かっているのは、ほんとうに上なのだろうか?
この先には、ほんとうに光があるのだろうか?

「信じればいい」と影は言った。「それは正解になる」

ユーシャは二本の足と、残された片腕を必氏で動かした。
水を掻いているような感覚はないが、進んでいるということは分かる。
怪物の隙間を縫い、ひたすらもがいてるみたいに進んだ。

958: 2013/12/09(月) 17:19:33 ID:CQxfR4O6

しばらくそうしていると、かなり遠くに小さな気泡が大量に見えた。
綿みたいだった。その綿に隠れるように、何かの生物の影がある。
それはゆっくりとこちらに向かってくる。まるで雪のようにゆっくりと降りてくる。

それの正体は人間だった。同い年くらいの男だ。
短い髪は汚れきっていて、
身体も肥溜めとか血溜まりで転がったみたいに汚れていた。
右手にはナイフを携えていたが、それも血で汚れていた。
敵? でも、耳は尖ってない。人間だ。誰?

少年はユーシャの顔を見て、まるで長い間見ていなかった仲の良い友人を
見つけた時みたいにぱっと表情を明るくして、微笑んだ。「久しぶり」

959: 2013/12/09(月) 17:20:08 ID:CQxfR4O6

「久しぶり?」とユーシャは言った。「誰?」

「もう七年前になるのかな。馬小屋の掃除、手伝ってくれてありがとう」と
少年――勇者は言った。

「え?」ユーシャは微笑んだ。「あの時の、村の男の子か?」

「そう。僕、一七歳になったんだ」

「でっかくなったな……そりゃあでかくなるわな。七年だもんな。
そっか。ほんとうに俺がここに来てから七年くらい経ってたのか」
ユーシャは笑うことしかできなかった。「でも、なんで君がこんなところに」

960: 2013/12/09(月) 17:21:03 ID:CQxfR4O6

「僕は勇者だからね」と勇者は言った。
「とは言っても、魔王を倒したのは
あなたと一緒にいた魔女みたいなひとだけど」

「魔王は氏んだのか? あいつが倒した?」

勇者はうなずく。
「でも魔王は、まだこの“喉”のどこかにいる。僕はそれを沈めにいく」

「沈めるって」ユーシャは訝しむような視線を向ける。
「君はどうなるんだ」

「多分、氏ぬんじゃないかな」

「そんな」

「でもおそらく、そうしないと魔王はまた復活してしまう」

「ほかに何か方法はないのか?」

「もういいんだよ。ぜんぶ終わりにするんだ。
僕は氏んで、あなたは生き返る。
僕には何も残っていないけれど、あなたは違う。
この“喉”の上で、あの魔女さんは待ってるよ」

「あいつが」ユーシャは視線を上げる。「この上に」

「そう」勇者はユーシャの手を掴み、その身体を湖面に向かって放り投げた。
「だから、早く行ってあげて」

961: 2013/12/09(月) 17:22:07 ID:CQxfR4O6

ユーシャは小さな勇者を見下ろしながら、湖面に向かう。
酷く汚れただけの普通の少年にしか見えないが、
何か心に決めたことがあるらしかった。
ユーシャにはそれが見て取れた。
あの子の中には何本かの見えない柱があり、それが内側を支えている。

遠ざかる勇者をじっと眺めていると、
彼の身体から真っ黒の人間が現れた。
輪郭はぼやぼやとしていて、ほんとうに身体中真っ黒だった。
まるで影のようだった。

962: 2013/12/09(月) 17:23:06 ID:CQxfR4O6

「頼みがあるんだ」とその影は言った。
「どうかあの子のことを覚えていてくれ」

「……分かった」

「たまにでいいから、思い出してやってくれ。頼みはそれだけだ」

ユーシャはうなずいた。「君は何なんだ?」

影は笑った。
「僕は僕だ。彼が捨てた彼自身だ。僕は彼が消したかったものだ。
それは自分の弱さとか、未来に希望を抱く自分とか、そういうもんさ」

「未来に希望を抱く*自分を捨てた? どうして?」

「分からなくていい。あの子の根っこにはそういう部分があった。
でも、そういうのは捨てたつもりでも永遠に付きまとうんだ。
僕みたいに。錆や黴と一緒だ」

「でも君はあの子から離れてる」

「君を助けてやろうと思ってね」

「どうやって」

「僕の腕をやるよ。もう必要ないからな」

963: 2013/12/09(月) 17:24:02 ID:CQxfR4O6

影は自分の右腕を引きちぎって、こちらに放り投げた。
腕からは血が滴ることはない。ただ黒い煙が流れでるだけだ。

「どうすればいいんだ、これ」
ユーシャは輪郭の曖昧な腕を見ながら言った。

「繋げばいい」影は振り返った。

「どこに行くんだ?」

「あるべき場所」と影は言った。「僕にだって帰る場所くらいはあるさ」

964: 2013/12/09(月) 17:25:09 ID:CQxfR4O6




影が身体から剥がれた。お前までもが僕を見捨てるっていうのか?
勇者は思ったが、今更、怒りが湧くことはなかった。
失くすのが早いか遅いかの違いだ。どうせ全て消える。
手のひらには僧侶のナイフがある。それを強く握る。

喉の底へ向かう。周囲には何かが欠けた怪物が漂っている。
もちろん、戦士も僧侶もいない。彼らはどこへ行ったのだろう?

今から氏ぬというのに、身体の中に空があるみたいに気分は涼しい。
そこには重い鎧も硬い鎖もない。
勇者という作られた偽りの幻想が、雲のように漂っているだけだ。
太陽も星も月もない。鳥も飛んでいないし、風もない。

喉の底へ、自分の深みに落ちる。
喉の底には、自分の中心には何がある?

965: 2013/12/09(月) 17:26:13 ID:CQxfR4O6

欠けた怪物の間を縫い、落ちる。
魔王はすぐに見つかった。まるではじめから会うことが決まっていたみたいに。
力なく手足を伸ばして、湖中を漂っている。ナイフに力を込める。

魔王は勇者を見つけると、微笑んだ。

魔王の胸をナイフで突いた。黒っぽい液体が、湖に溶けていく。
魔王は抵抗しなかった。成り行きを見守るように、手足を広げていた。
呪文を唱え、背後に炎の球を作り、破裂させる。
身体を押し、魔王と“喉”の底へ向かう。

「なあ」と魔王は言った。口元からも黒っぽい液体が溢れ、水に溶けていく。
空気に溶ける煙みたいだった。「どうして君は喉に飛び込んだ?」

「さあね」と勇者は言った。

「七〇〇年前の勇者もそうだった。
こうやって喉に飛び込んで、自らを犠牲にして魔王を沈めた。
私には分からないんだ。いったい何が君たちをそこまでさせる?」

「七〇〇年前の勇者と僕は違う。
彼には彼の信念や守るものがあった。僕はそう思う。
彼は世界を想い、世界のために氏んだ。
でも僕は友人のために、自分のために氏ぬ」

966: 2013/12/09(月) 17:28:14 ID:CQxfR4O6

「私が憎いかい?」

勇者は黙ってうなずいた。目から落ちた雫は水に溶けた。

「そうか」魔王はぼんやりと虚空を見る。「悪かった」

「僕の方こそ。もう何も分からなかったんだ。
こうすることでしか終われなかった」

「それでいいんだよ」魔王は勇者の身体を抱き寄せた。
「君は勇者で、私が魔王だ。これが物語のあるべき姿だよ。
でももしかすると、私たちは勇者と魔王という鎖に
縛られていなければ、分かり合えたんじゃないだろうか?
手を取り合ってこのまま行けたんじゃないだろうか?」

勇者は微笑んだ。「ありえないね」

魔王も笑った。「だよな」

967: 2013/12/09(月) 17:29:41 ID:CQxfR4O6

光が見えた。それは太陽や星のような光だ。
あまりに眩しすぎて、先は見えない。
おそらくあの光の向こう、あるいはあの光そのものが“喉”の底なのだろう。
そしてその光は影をもう一度生み出した。

「ただいま」と影は背後で言った。

「戻ってきてくれたんだ?」と勇者は言った。

「当たり前だろ。僕らはひとつなんだから。
僕の居場所は君の足元にしかないんだよ」影は笑う。
「さあ行こうぜ。勇者の物語はエンディングを迎えるんだ。
あの光こそが君と僕の、失う旅の終着駅だ」

968: 2013/12/09(月) 17:30:43 ID:CQxfR4O6

勇者は目を瞑る。温かい光が身体を満たした。
瞼が消える。光は目を刺す。腕が捻れて、足が折れる。
骨が砕け、内臓が溶けた。毛は燃えて、皮膚が剥がれた。

痛みはなかった。誰かの腕の中にいるというのは、気分がいい。
何もかもが心地よく感じられる。性的快感にも勝るような快感と同時に、
果てのない開放感と喪失感がこみ上げてくる。

優しいふたつの声が聞こえる。声は芯に響いて、空っぽの心を満たした。
ふたつの声は近づいてくる。名前を呼ばれている。

969: 2013/12/09(月) 17:31:27 ID:CQxfR4O6

「待たせてごめん」と勇者は言った。「今から行くよ――」

971: 2013/12/10(火) 21:19:40 ID:Mf6CCFwY

41


不細工な星形の痣がある左手で水を掻く。
勇者の影から貰った右手でも水を掻く。
そうして偽物の勇者は前に進んだ。
でも今はただのひとりぼっちの人間でしかない。

勇者というしるしは背中から剥がれ落ちた。
魔王と繋がっていた見えない鎖も断ち切れた。
身体は軽い。頭のなかにはひとりの人間が居座っている。

魔法使い、とユーシャは思った。早く逢って、この腕で抱きしめてやりたい。
彼女の存在は、食事や睡眠なんかよりも多くの力をくれる。気がする。
良くも悪くも俺は単純だ、と思う。

伝えたいことがたくさんある。謝りたいこともある。
言ってほしいこともある。欲を言えば、やってほしいこともある。

972: 2013/12/10(火) 21:20:20 ID:Mf6CCFwY

水面までが果てしなく遠く感じる。まるで遠ざかっていってるみたいだった。
確かに近づいてはいるが、あまりにも遠すぎる。
自分の手だけじゃ、ろくに進むことができない。

あいつの言うことはいつも正しい。
やっぱり、俺はひとりでは何もできないのか?

「ユーシャ様はひとりじゃないですけどね」と誰かが言った。

懐かしい声だった。その声は内側の湖に大きな波紋を生んだ。
皮膚がざわざわとする。過去の出来事が蘇る。
声の方向に視線をやると、思った通り、
大きな剣を持った憎たらしいほどに綺麗な顔をした男がいた。

「お前」ユーシャは口元の笑みを堪えることができなかった。
「なんでここにいるんだよ」

973: 2013/12/10(火) 21:21:25 ID:Mf6CCFwY

「運命ってやつじゃないですかね?」と大剣使いは言った。
「あるいは私とユーシャ様はそういう糸で結ばれてるとか」

「そういうのも悪くないかもな」

「冗談ですよ」大剣使いは苦笑いをこぼす。
「彼女が生き返らせてくれたんです。呪術で。
まあ、すぐに氏んじゃいましたけど」

「あいつがお前を生き返らせた? なんで?」

「なんとしてでも魔王を倒したかったんでしょうね。
彼女、泣きながら怒り狂ってましたよ」

「どうして」

「ユーシャ様がやられたからに決まってるじゃないですか」

「そっか」ユーシャは弱々しく微笑んだ。
「ひとを生き返らせる呪術ってさ、ものすごくエネルギーを使うんだろ?」

「そうですね」

「大丈夫なのか? あいつ」

「大丈夫といえば大丈夫ですね。今のところは」

「今のところは」

974: 2013/12/10(火) 21:22:51 ID:Mf6CCFwY

「今のところはね。でも彼女、もう一〇年も生きられないと思いますよ」

「そんな馬鹿な」

「あなたのせいですよ、ユーシャ様。
彼女にはあなたしかいないんですから。
それが失くなったなら、もう彼女に心残りはないんですよ。あなたと同じように。

彼女は今、空っぽなんです。
エネルギーもないし、手を握ってくれるひとも隣にいない。
七年も待ったのに愛してた男は氏んだっていうんですから、
そりゃあ底知れない喪失感と虚無感を味わったでしょうね。

彼女はまだそのふたつの空白に囚われているんです。
喪失と虚無の隙間の、無限の空白の中にいるんです。
彼女の世界の色は未だに灰色なんですよ。
あなたがいないことには彼女の世界は始まらないんです。

だから、なんとしてでもここから這い上がって、しっかりとお礼を言って、
しっかりと謝るべきです。でもきっと彼女なら許してくれますよ」

「分かった」ユーシャは言った。

975: 2013/12/10(火) 21:24:34 ID:Mf6CCFwY

「無意味な五、六〇年よりも、意味のある一〇年を。
あなたのいない日よりも、あなたが隣にいる一秒を」

大剣使いはユーシャの手首を掴んで、水面に向かって泳ぎ始める。
「彼女が望むのはそういうものです。
あなたが隣にいないことには始まらないんです。
いやあ、うらやましい。ほんとうにうらやましいです。
私もそういう人間になりたかった」

水面はぐんぐんと近づいてくる。
暗い水面の向こう側に、魔法使いの姿が見えた。彼女は何かに祈っていた。

そこで、進路を遮るように怪物が立ちふさがった。
森で見た、四本の腕を持った熊のような怪物だ。
でも腕は三本しかなく、腹からは腸がとびだしている。
彼(あるいは彼女)もまた、欠けた存在だった。

大剣使いはその怪物を躱し、ユーシャを水面に向かって放り投げる。
「さあ、行ってください!」

976: 2013/12/10(火) 21:25:37 ID:Mf6CCFwY

ユーシャは叫ぶ。
「お前は! またそうやって自分だけかっこつけやがって!
お前はどうするんだよ!」

「私には約束がありますからね。私は約束だけは守る男なんです」
大剣使いは笑った。「氏んでもあなた達を守るって、
彼女と約束しちゃいましたからね。いちばん最初に」

「阿呆が!」

「また逢いましょうね」と大剣使いは言って、熊と格闘を始めた。

始まった格闘は子供の喧嘩みたいに幼稚な殴り合いに見えた。
心配したのが阿呆らしくなってくる。口元の笑みを堪えることができない。
もしかするとわざとそういう風に見えるようにしているのかもしれない。

あいつなら大丈夫、とユーシャは自分に言い聞かせる。
俺はやるべきことをやればいい。

977: 2013/12/10(火) 21:26:39 ID:Mf6CCFwY

ユーシャは前に進む。魔法使いは祈る。欠けた怪物は宙を舞う。

もうちょっとだ。ユーシャの心の内側に湯水が湧き上がる。
それは張った氷を砕き、ぬくもりを取り戻させる。
大声で魔法使いの名前を呼んだ。彼女は祈り続けている。

手を伸ばす。水面まではもうほんの数ミリだ。
でもそこで、足元に何かが絡みつくような違和感を覚えた。
水面が遠ざかっていく。魔法使いが遠ざかっていく。

足元に目を向けると、四本の腕を持った熊がいた。
大剣使いと格闘したのとは別のやつだ。
腕はちゃんと四本ある。でも足が一本欠けている。
熊はユーシャの足首を掴み、底へ向かって引きずり込もうとしている。

978: 2013/12/10(火) 21:27:35 ID:Mf6CCFwY

熊から迸る悪意は重く、水の底に沈む岩のようだ。
憎悪の塊が足に絡みついているのと同じだった。
特定の誰かに向かって向けられるような感情ではない。誰でもいいのだ。
自分以外が幸せになることを許せないというようなものが、怪物の中にもいる。
ユーシャにはそれを痛いほど感じることができた。

悪意は身体を光から遠ざける。嫌だ、とユーシャは思う。
必氏で水を掻いた。でも憎悪の塊はあまりにも重い。
浮かび上がることなどできやしない。

嫌だ、とユーシャは思う。魔法使い、と思った。助けて――

979: 2013/12/10(火) 21:28:29 ID:Mf6CCFwY

その時、悪意の塊は足から剥がれた。身体が軽くなる。
足元に目をやると、腹から内蔵をこぼした狼が、熊の喉に食らいついていた。
狼の目には悪意と怒りが迸っていた。
それが先程の、前脚と後ろ脚の間の血肉を
むき出しにしていた狼とは思えない。

狼はこちらにちらりと目をやった。
その目は言う。「早く行け」と。
悪意と怒りは、その瞬間だけは消えていた。

「ありがとう」とユーシャは言い、もう一度水面を目指す。

水面から手が出た。
空気に触れた部分に、皮膚が剥がれたような痛みが走った。
痛い。痛い。痛い! 誰か手を握ってくれ。助けてくれ。
俺をここから救い出してくれ!

980: 2013/12/10(火) 21:29:21 ID:Mf6CCFwY

その願いに答えたみたいに、足元にふたたび悪意の塊が絡みついた。
身体はゆっくりと落ちていく。今まで消えていた重力が復活したみたいに。
嫌だ。あとすこしなんだ。あとすこしなのに。
ユーシャの心に湧いた湯水はぬくもりを失いつつあった。
ふたたび氷が張ろうとしている。

誰かが手を掴んだ。手は小さかった。手のひらは柔らかく、指は細かった。
そして何よりも感触は懐かしく、温かかった。その手を強く握り返す。

その瞬間に、身体は“喉”から一気に引きずり出された。
まるで腹から飛び出した赤ん坊みたいな気分だった。

重力が反転したみたいに、身体は空に向かって大きく飛んだ。
全身の皮膚が剥がれたような痛みを覚えた。
そりゃあ赤ん坊だって泣きたくもなるさ、とユーシャは思った。
痛みのあまり、絶叫した。

981: 2013/12/10(火) 21:30:08 ID:Mf6CCFwY

42


ユーシャの手を掴み、力の限り引っ張った。
すると、彼の身体は釣り上げられた小さな魚みたいに飛び上がった。
その光景は魔法使いの内側に炎を灯し、世界に色を取り戻させた。

ユーシャは何かを叫んでいる。支離滅裂な呪文みたいだった。
気持ちいいくらいに大きな声だった。
まるで氏んでなどいなかったみたいだ、と魔法使いは思う。

どうしても口元の笑みを堪えることができない。
口元が緩むのと同時に、涙腺も緩んだ。
視界は滲むが、彼だけはよく見える。

彼は一七歳の時のままだった。身体も心も一七歳だった。
でも、右腕は真っ黒だった。左耳が潰れていた。
服は着ているが、あまりにも汚れすぎている。血まみれだ。

982: 2013/12/10(火) 21:31:19 ID:Mf6CCFwY

ユーシャは魔法使いを見つけると、また何かを叫んだ。
でもこちらに向かってくることはない。ただ地面に向かうだけだ。

魔法使いは必氏で足を動かして、
落ちてくるユーシャの身体を抱きとめる。
重すぎて、背中から地面に倒れてしまった。
覆いかぶさるように、ユーシャも倒れた。

背中を強く地面にぶつけた。声にならない絶叫をあげた。
背中の火傷は痛覚にこれでもかと訴えかけてくる。
意識が飛んでしまいそうだ。
こんなもの、七年間ひとりだったことと比べるとどうってことはない。
でも痛いものは痛い。痛みと嬉しさで視界は潰れた。

「……だから、俺は言ったんだよ」と
ユーシャは魔法使いに覆いかぶさったまま言った。

「なんて言ったの……」と魔法使いは涙声で言った。

「“お前こそが、俺を救ってくれるんだ”って」

983: 2013/12/10(火) 21:32:11 ID:Mf6CCFwY

「そんなの、一回も聞いてない……」

「魔王に言ったんだよ」

「そう」魔法使いはユーシャの身体を抱きしめた。彼の身体は大きかった。

ユーシャは魔法使いの頭を撫でた。
「でっかくなったな、お前。びっくりしたよ」

「そりゃあ七年も経ったんだもの。でっかくもなるわよ」

「そうだよな」ユーシャは笑う。
「俺のこと、七年も待っててくれたんだってな」

「うん」

「待たせてごめん」

「ほんとうに寂しかったのよ。ずっと逢いたかった」

984: 2013/12/10(火) 21:32:51 ID:Mf6CCFwY

「ほんとうにごめんよ」

「ぜったいに許さない。一生かけてわたしに謝れ」

「そうする」

「あんた、すぐに戻るって言ったわよね。
ぜったいに氏なないって言ったわよね。
魔王を倒すことはできるって言ったわよね。
帰ってきたらわたしのお願いを何でもひとつ聞くって言ったわよね」

「よく覚えてるな」

「あんたのことはぜんぶ覚えてる」

「ありがとう」

985: 2013/12/10(火) 21:34:14 ID:Mf6CCFwY

「……お願い、言っていい?」

「うん」

「お願いだから」魔法使いは言う。
「遠くに行かないで。わたしをあんたの隣にいさせて。
それだけでいいの。わたしはそれで救われるの。
わたしにはもう、ここしか居場所がないのよ……」

頬が濡れる。涙が爛れた顔の皮膚に染みる。痛みでまた涙が出てくる。
「我儘言ってごめん……ごめんなさい。
ほんとうは全部わたしが悪いの。

その痣ね、ずっと昔にわたしがつけたの。
それがなかったらあんたはこんな目に遭わずに済んだのに。
ごめんなさい……ごめんなさい……許して……
お願いだから、嫌いにならないで……わたしをひとりにしないで……」

「ならないよ」ユーシャは魔法使いの頭をもう一度撫でた。
「嫌いになんかなるもんか。それに、お前がこの痣を
俺につけたって知っても、俺はきっとここに来てた。

お前なら分かると思うんだ。俺はそういうやつだよ。
めんどくさいやつだ。そうだろ?

俺はここに来て、氏んで、お前に助けられるって、そういう風になってたんだ。
ぜんぶ最初から決まってたんだよ。だから謝ることなんてない」

「うん……」

986: 2013/12/10(火) 21:35:43 ID:Mf6CCFwY

「俺からもお願いがあるんだけど、いいかな」

魔法使いはうなずいた。

「“おかえり”って言ってほしい」

「……それだけ?」

「今はそれだけでいい」

魔法使いは必氏になって「おかえり」と声を絞り出した。
もう喉からは泣き声しか出てこなかった。
嬉しさと安堵と開放感が身体中を洪水のように巡った。
心の内側に炎が灯り、身体全体が熱くなる。
生き返ったみたいな感覚があった。

「ただいま」とユーシャは言った。「逢いたかったよ」

987: 2013/12/10(火) 21:36:30 ID:Mf6CCFwY

暗い森に魔法使いの叫び声が響いた。
風が吹いて、木々は踊る。空で星は瞬く。
それらはふたりの再会を祝福するみたいだった。

長い夜が終わろうとしているのが分かる。朝がやってくるのだ。
世界を平等に照らす大きな光が、あとすこしでやってくる。
でもそれを拝めるかどうかは、また別の話だ。

ユーシャは地面を押して、身体を起こす。

魔法使いはもう一度それに抱きつく。
「離れないで……。もうちょっとだけ……」

「うん」ユーシャも魔法使いを抱きしめ返す。彼の手は大きく、温かい。
でも真っ黒の手はとても冷たかった。「顔と背中の火傷、すごいな」

「わたしのこと、嫌いになった……?」

「そんなことで嫌いになるわけないだろ。
お前だって、俺の左耳と右腕がなくても、
俺のことを嫌いになんかならないだろ」

「当たり前じゃないの……」

「だろ。それと同じだよ」ユーシャは頭を掻く。
「魔術で治さないのか、その火傷」

「もうエネルギーが空っぽなの。今のわたしは、ただの不細工な女よ」

988: 2013/12/10(火) 21:37:34 ID:Mf6CCFwY

ユーシャが何かをつぶやいた。すると、顔と背中の痛みがすこし和らいだ。
それは下手くそではあるが、紛れも無く癒しの魔術だった。

「ありがとう……」魔法使いは囁く。喉は枯れる寸前だった。
「……癒しの魔術が使えたのね」

「下手くそでごめんよ」

「いつから使えたのよ……」

「第一王国に初めて行った時くらいからかな。
あいつに教えてもらったんだ。
でも傷はちゃんと塞がらないし、痛みも消えないんだ。
難しいよな、魔術ってさ」

「そう……。じゃあ、わたしがちゃんと教えてあげる」

「頼むよ」

「うん……。もっとわたしを頼って……」

ユーシャはうなずく。「ずっと俺のことを支えてほしい」

「うん……。もっと言って……何でも言って……ぜんぶ叶えてあげるから……」

「伝えたいことはたくさんあるんだ。
でも今は、どうやったら伝わるかが分からないんだ。
あとで、何年かけてでもぜんぶ伝えるから、
一緒にゆっくり行こう。いっぱい話をしよう」

989: 2013/12/10(火) 21:38:32 ID:Mf6CCFwY

「うん」身体から力が抜ける。瞼が重い。身体が重い。
大きな鎖から解かれた開放感と安堵は、心に平穏を与えた。
そして身体は眠りを求めている。心が彼を求めるのと同じように。

周囲で何かが蠢いている。
ぼんやりとする頭を動かし、状況の把握を試みる。
近くに、数匹の怪物が見えた。白い毛に覆われた、四本足の怪物だ。
狼のように見える。やがてそれは軍隊みたいな数に増え、
魔法使いとユーシャを中心にして円を描くように並んだ。

「怪物が来た」と魔法使いは言った。身体はもう動かなかった。
「わたし達、ここで終わっちゃうのかな……せっかく逢えたのに……
嫌よ、そんなの……。氏にたくない……もっと一緒にいたい……」

「終わらないよ」とユーシャは言った。「そうだよな」

990: 2013/12/10(火) 21:39:25 ID:Mf6CCFwY

怪物の一体が、ユーシャの声に答えるように吠えた。
吠え声の方に目を向けると、そこには小さな狼の怪物がいた。
小さな狼はこちらに歩み寄り、ユーシャの頬を舐めた。

ユーシャは嬉しそうに目を細める。
魔法使いには、何が起こっているのかが理解できなかった。

「道案内、ありがとうな」とユーシャは言った。

小さな狼は空に向かって吠えた。
その声には喜びのようなものを感じることができた。あるいは好意のような。
やっぱり彼には不思議な力がある、と魔法使いは思った。
これこそが彼の最大の強みなのだ。
何かと何かを繋ぐことができる。怪物と人間を繋ぐことだってできる。

何匹かの狼がこちらに歩み寄り、ユーシャと魔法使いの脇にしゃがんだ。
身体が狼たちの白い毛に包まれる。
とても温かい。怪物はぬくもりを与えてくれる。

ふたりは怪物たちのぬくもりに包まれて、
幸せな時間を噛みしめるように抱き合って眠った。

991: 2013/12/10(火) 21:40:06 ID:Mf6CCFwY
もうちょっとだけ続く
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」【完結】

引用: 勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」