1: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:09:47.42 ID:XMs4bPFB0
タラオ「ママの子供の頃の写真を見つけたですー」

休日の昼下がり、カツオが居間でくつろいでいると、甥のタラオが駆け込んで来た。
タラオの手には、古いアルバムが握られている。

カツオ「姉さんの子供の頃の写真だって?どれどれ見せてごらん」

タラオ「はいー。ママはとっても可愛いです」

タラオは得意げな顔をして、アルバムをカツオに手渡した。
アルバムを開いたカツオは、最初の数ページを開いてにやりと笑う。

カツオ「姉さん、ちっとも変わってないや。小さい頃からお転婆だなぁ」

カツオの姉、そしてタラオにとっての母であるサザエは、写真の中でいつも笑っている。
木登りをしたり、走り回っている写真がほとんどで、サザエの陽気さと活発さがよく表されているアルバムであった。

2: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:12:42.00 ID:XMs4bPFB0
サザエ「あらタラちゃん、駄目じゃない、勝手にママのアルバム持ち出しちゃ」

少しすると、サザエも居間にやって来た。
並んでアルバムを覗き込んでいたカツオとタラオを見て、呆れ顔で言う。

サザエ「そんなの見ても面白くないでしょう」

タラオ「そんなことないですー。ママは小さい頃からとっても可愛いです」

サザエ「あらタラちゃん、口がうまいんだから」

そう言うサザエだが、まんざらでもない表情を浮かべている。

カツオ「姉さんは自分のアルバムをどこにしまっていたの?僕はこんなものがあったなんて全然知らなかったよ」

サザエ「押入れを整理していたら出てきたのよ」

カツオ「じゃあ僕やワカメのアルバムもあるのかい?」

サザエ「さあ、どうだったかしら?」

サザエはそこで考える仕草を見せた。
タイミングよくワカメも居間にやって来て、カツオから事情を聞く。

3: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:13:46.84 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「なぁに?わたしもアルバムが見たいわ」

サザエ「あんた達2人のアルバムは出てこなかったけど…」

タラオ「カツオお兄ちゃんとワカメお姉ちゃんの写真も見たいですー」

タラオが口を尖らせ、可愛らしい上目遣いでサザエを見た。
サザエは困ったような表情を浮かべる。
しびれをきらしたカツオは、隣で同じようにアルバムをねだるワカメに提案した。

カツオ「お母さんなら僕達のアルバムがどこにあるか知っているはずだよ。聞いてみよう」

カツオはそう言うが早いか、立ち上がり、台所へと歩き出した。

ワカメ「ええ、そうしましょう」

ワカメがカツオの後を追いかける。
そんな2人を、サザエは困惑した顔で見つめていた。

タラオ「ママ、どうしたのですか?」

サザエ「いいえ、何でもないのよタラちゃん。さ、ママとお部屋に行きましょう」

タラオ「はいー。タマも一緒に行くですー」

タラオを無邪気に飼い猫の名を呼んだ。
どこからか首に鈴をつけた白猫がやって来て、タラオの足に擦り寄る。
サザエは息子と飼い猫を連れ、自室へと戻っていった。

4: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:14:51.83 ID:XMs4bPFB0
一方カツオとワカメは、台所で梅を漬けていた母、フネの元へやって来ていた。

カツオ「ねぇお母さん、僕やワカメの小さい頃の写真はどこにあるんだい?」

フネ「さぁ、どこに仕舞ったかしら…」

フネはしかし、梅干作りに集中しているのか、生返事を繰り返すばかりである。
カツオはついに待ちきれなくなり、ヒステリックな声を上げた。

カツオ「もしかして僕達の写真をなくしたんじゃないだろうね!」

カツオの声色に驚いたワカメが、びくりと肩を震わせる。
ワカメの目は、みるみるうちに涙で溢れた。

ワカメ「もしかして本当にお母さん、わたし達の写真をなくしちゃったの?」

ワカメがしゃくり声を上げたところで、ようやくフネは事態の深刻さに気付いた。
梅を漬ける手を止める。

フネ「あなた達、本当に小さい頃の写真が見たいの?」

フネは割烹着の裾で手を拭うと、目線をワカメに合わせるため屈んだ。
ワカメがこくりと頷く。
フネはワカメの涙を手で拭ってやり、憤慨するカツオの頭を撫でると、無言で台所を出て行った。

7: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:16:07.43 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「お兄ちゃん…」

ワカメは不安げに兄を見る。

――もしかしてお母さんは、忙しいところに僕達が我儘を言ったから、呆れて台所を出て行ってしまったのではないか…。

カツオはそこで我に返り、自身の子供じみた行動を恥じた。

カツオ「お母さんに謝りに行こう」

ワカメ「ええ、そうしましょう」

しかしほどなくして、フネは台所へ戻って来た。
数枚の写真を手にしている。

フネ「大丈夫ですよ。写真は母さんが大切に保管してありますから。ほらワカメ、もう泣くのはおやめなさい」

フネは優しくそう言うと、カツオに写真を手渡した。

カツオ「どれどれ…」

カツオはワカメにも見えるように、写真を広げる。

8: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:17:42.44 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「あ、これ運動会の時の写真だわ…」

ワカメの表情がぱっと輝く。

ワカメ「わたし、この時一等賞を取ったのよ」

カツオ「僕のは学芸会の時の写真だ…。この時は確か赤鬼の役をやったんだよ」

カツオも数年前の自分の写真を見て、表情を緩ませた。
それからすぐに気がついて、母を見上げる。

カツオ「でもこれ、小学校に上がった後の写真じゃないか。お母さん、これよりもっと前の、赤ちゃんだった頃の写真はないの?」

カツオから尋ねられ、フネを眉間に皺を寄せた。

フネ「そんな小さい頃の写真はもっと奥に仕舞ってあるから、すぐには出せないのよ。母さんじゃ腰が痛くてね。お父さんに言って取ってもらわないと…」

父、波平は昼食の後、隣家に遊びに行って不在である。
常日頃悪戯をしては母を困らせ、父に叱責されてばかりいるカツオは、その言葉を聞いてすぐに諦めた。

カツオ「父さんに頼まなきゃいけないのか…。じゃあもういいよ。写真、ありがとう母さん」

ワカメ「ええ、母さん。また今度ゆっくり見せてね」

優しいワカメは、これ以上母の手を煩わせたくないのか、聞き分けよく引き下がった。

9: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:19:11.59 ID:XMs4bPFB0
フネ「さあさあ、もうおやつにしましょう。2人とも、タラちゃんとサザエを居間に呼んで来ておくれ」

カツオ「はーい」

カツオはおやつ聞き、写真のことなどすっかりどうでも良くなってしまった。
食い意地が張っているのだ。

ワカメ「お母さん、今日のおやつは何?」

フネ「さっき裏のおじいちゃんからお団子を頂いたから、温かいうちに食べましょう」

ワカメ「わーい、お姉ちゃんタラちゃーん、お団子があるんですってー」

駆け出したワカメを追いかけ、カツオも台所を飛び出す。

カツオ「おい待てよワカメ、お団子と聞いたらまた姉さんが大騒ぎするぞ」

写真を見て安心したことで、元気を取り戻したらしい2人の背中を見送りながら、フネをシンクの周りを軽く片付け始めた。
団子をのせるための大皿を探す。
棚の一番上に仕舞ってあることを思い出し、ぐいと引っ張り出した。
その時、裏口の開く音が耳に届く。

10: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:19:54.89 ID:XMs4bPFB0
フネ「はい?」

三郎「ちわー、三河屋です!」

皿を持ったまま振り返ると、御用聞きの三郎が裏口からひょっこり顔を出していた。

フネ「あら三郎さん、いつもご苦労様」

三郎「ご注文頂いてたお醤油、お届けに参りました」

フネ「じゃあそこに置いていただけるかしら?」

三郎「承知しました」

三郎は人の良い笑顔を浮かべると、醤油の入った大瓶をそっと床に置いた。
それから思い出したように懐を探る。

三郎「あ、それからこれ、タラちゃんに渡してください」

11: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:20:55.69 ID:XMs4bPFB0
カツオ達に呼ばれ、サザエとタラオはちゃぶ台についていた。

カツオ「裏のおじいちゃんが買ってきてくれるお団子はいつもおいしいからなぁ」

カツオはおやつの頭がいっぱいのようで、ちゃぶ台の周りをうろうろと歩き回っている。

サザエ「カツオ少しは落ち着きなさいよ。タラちゃんだっておとなしく待ってるわよ」

サザエに諭され、カツオは渋々ちゃぶ台の前に座った。
隣ではすでにタラオがすまし顔で正座している。

タラオ「お団子楽しみですー」

行儀の良い息子の姿を見て、サザエは誇らしい気持ちになる。
それにくらべて我が弟ながら、カツオはなんて行儀が悪いのだろうと内心毒づいていた。

サザエ「ちょっとあたし、母さんを手伝ってくるわね」

サザエはいい娘を気取って、立ち上がった。
タラちゃんの品の良さは、きっと自分に似たのだろうと思っているサザエである。

――何もしないでただおやつが出てくるのを待つカツオやワカメと違って、あたしは本当によく気がつく娘だわ。だって、長女だもの…。

そんなことを考えながら、サザエが台所へ入ろうとした時、盆を持ったフネが居間にやって来た。

12: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:22:04.86 ID:XMs4bPFB0
サザエ「あら母さん、重いでしょう?あたしが持つわ」

サザエはフネからひったくるようにして盆を受け取ると、ちゃぶ台まで運んだ。
さり気なく一番大きな団子が自分の前に来るよう、計算して皿を置く。
フネは割烹着のポケットから風車を取り出すと、タラオに手渡した。

フネ「三郎さんがタラちゃんにって、持って来てくれたわよ」

タラオ「ありがとうなのです」

風車を手にしたタラオを、嬉しそうに息を吹きかけた。
カラフルな風車が、くるくると回転する。

ワカメ「良かったわね、タラちゃん」

タラオ「はいですー」

サザエは無邪気に遊ぶ息子の姿を一瞥すると、フネに向き直った。

サザエ「でも、いつもいつも悪いわ、サブちゃんそんなに気を遣わなくてもいいのに」

フネ「三郎さんはタラちゃんのことを本当に可愛がってくれてるからねぇ」

サザエ「でももうこれで5つ目よ、風車…。いつも御用聞きの度に持って来てくれて…」

フネ「そうねぇ、三郎さんの負担にならなければいいけど…」

サザエの言葉を聞き、フネは頬に手を当てて首を傾げた。

13: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:22:55.86 ID:XMs4bPFB0
タラオ「僕、三郎さん大好きですー」

タラオは2人の心配をよそに、楽しげである。
そんなタラオの姿を見ているうち、サザエとフネは三郎への心配を引っ込めた。

カツオ「いただきまーす」

2人の会話が終わるを待って、カツオは団子へ手を伸ばす。

カツオ「早く食べないと硬くなっちゃうよ」

フネ「そうね、いただきましょう」

サザエ「あ、カツオ!先に食べるなんてお行儀悪いわよ」

サザエの言葉もなんのその、カツオは団子を食べられて上機嫌である。
先ほどちゃぶ台の周りを歩き回って叱責された時は出なかったが、今回はお決まりの軽口を叩いた。

カツオ「姉さんにお行儀について言ってほしくはないね~」

サザエ「何よ」

瞬時に、サザエが眉を吊り上げる。

サザエ「文句があるならはっきりとおっしゃい!」

カツオは口の周りについた団子のタレを舌で拭うと、にやりと笑った。

14: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:23:49.10 ID:XMs4bPFB0
カツオ「さっきタラちゃんが見せてくれた姉さんのアルバム、ひどかったなぁ。女の子が木登りなんてはしたないと思わないの?」

サザエ「何よ。はしたないという言葉は使わないでちょうだい!元気がいいと言って欲しいわ」

カツオ「いいや、あれは元気がいいとはちょっと違うよ。ワカメだって元気がいいけど、さすがに木登りなんてしないよ」

ワカメ「そうね、わたしは男の子達に誘われても、一緒になって木に登ったりはしないわ」

ワカメは呑気に同意する。

カツオ「ほらごらんよ、姉さん」

サザエ「うるさいわね、もう昔のことでしょう」

にらみ合う2人の間に、見かねたフネが割って入った。

フネ「やめなさい2人とも!大きな声出して…ご近所に聞こえますよ」

フネの言葉に、2人は渋々引き下がった。
すると今度は、タラオがはしゃいだ声を上げる。

15: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:24:35.65 ID:XMs4bPFB0
タラオ「子供の頃のママはとっても可愛い女の子でしたー。リカちゃんより可愛いですー」

サザエ「あらありがとう、タラちゃん」

タラオの言葉に一瞬で機嫌が直るサザエである。

タラオ「カツオお兄ちゃんとワカメお姉ちゃんの写真は見つかったですか?」

ワカメ「ええ、さっき母さんに見せてもらったわ」

ワカメはそう言って、スカートのポケットから先ほどの写真を取り出した。

タラオ「僕も見るです。貸してください」

ワカメ「はい、いいわよ」

ワカメに写真を手渡され、タラオは上機嫌でそれを受け取った。
しかしすぐにタラオの表情が曇る。

サザエ「あら、どうしたの?タラちゃん」

タラオ「うわーん」

なぜだかタラオは泣き出してしまった。
タラオの泣き声は妙に神経を逆なでする。
ちゃぶ台の下でくつろいでいたタマが、たまらず外へと飛び出して行った。

16: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:25:21.03 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「わたし…何か悪いことしちゃったかしら…」

ワカメは眉を下げ、おろおろとしている。

サザエ「なんで泣くことがあるのよ、タラちゃん」

サザエは優しく話しかけた。

サザエ「話してごらんなさい」

タラオはサザエに抱きつくと、手渡された写真を振り回した。

タラオ「こんなの今のワカメお姉ちゃんと変わらないですー。全然小さい頃の写真じゃないですー。嘘つきー」

サザエは不思議に重い、タラオの手から写真を引き剥がした。

タラオ「僕が見たかったのは、もっと小さい頃の写真なのですー」

一連のやり取りを見ていたフネが申し訳なさそうに肩をすぼめる。
カツオはそんな母の様子が気になった。

17: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:26:21.77 ID:XMs4bPFB0
サザエ「仕方ないわよタラちゃん、カツオとワカメは写真自体少ないんだから…」

ついにサザエが決定的なことを口にした。

フネ「これ、サザエ!」

フネが慌ててサザエを叱る。

フネ「そんなこと言うんじゃありません!」

フネに指摘され、サザエはようやく自分の犯したミスが気がついた。

サザエ「ごめんなさい…」

しかしワカメはもうサザエの言葉が気になって仕方なくなっていた。

ワカメ「写真が少ないって、どういうことなの?」

彼女にしては珍しく、強い口調である。

ワカメ「どうしてわたしとお兄ちゃんの写真は少ないの?」

サザエ「そ、それは…」

サザエが言い淀む。
その態度にますますワカメは疑念を抱いた。
こういった場合一番に口を開くはずのカツオは、なぜだか無言でみんなの様子を観察している。
観念したのか、フネが静かに語り出した。

19: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:27:16.84 ID:XMs4bPFB0
フネ「やっぱりカツオとワカメは後から生まれた子だから、長女のサザエと比べると写真の量が少ないんですよ…ごめんなさいね。別に母さんと父さんはあなた達のことが可愛くないわけじゃないのよ。だけどついね…写真を撮るのは後回しにしてしまって…」

フネはそう言うと、そっと目元を拭う仕草を見せた。
ワカメはそんな母の様子に、胸を痛める。

ワカメ「泣かないでよお母さん…わたし気にしてないわ。写真が少なくたって、思い出はあるもの…」

フネ「そうかいワカメ…許してね」

ワカメ「うん、大丈夫よ。ね?お兄ちゃん?」

ワカメに尋ねられ、カツオも小さく頷いた。

カツオ「うん、そうだよ。思い出が残っているから、大丈夫だよ…」

23: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:29:02.01 ID:XMs4bPFB0
その夜、並んで布団に入ったカツオとワカメは、暗い天井を眺めながら昼間の出来事を話した。

ワカメ「お姉ちゃんと比べて写真が少ないことに気付いたら、わたし達が傷つくと思ってお母さんはずっと隠してたんだわ」

ワカメの細い声が響く。
兄と妹だけの子供部屋。
しかし性別が違うとあって、深夜に2人で話しこむことはこれまで少なかった。

ワカメ「お兄ちゃんはどう思う?お母さんにはああ言ったけど、やっぱり写真が少ないのはショックだった?」

ワカメはそう言って、頭をカツオが寝ているほうに向けた。
カツオの返事はない。
そういえば少し前から自分ばかり話していたことに気づく。
兄はもう寝てしまったのかもしれない。
ワカメがそう思い始めた時、隣からカツオの声が聞こえた。

カツオ「そりゃあショックだよ。姉さんばっかり写真が残っているなんて同じ兄弟として不公平だと思うよ。だけど…」

ワカメ「だけど?」

カツオ「さっきからずっと考えていたんだ。写真は残ってないけど、思い出は僕達の頭の中に残っている…。本当に、そうなのかな?」

26: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:30:54.04 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「どういうこと?」

ワカメはほんの少し声を高くした。
電気を消しているのでカツオには見えていないだろうが、実は首を傾げている。
隣でばさりと布団を跳ね除ける音が聞こえた。
カツオが起き上がったのだ。

ワカメ「お兄ちゃん…?」

カツオ「思い出せないんだよ。さっきから何かないだろうかって必氏に考えてるのに、小学校に上がる前の出来事が…思い出せないんだ…」

ワカメ「やだお兄ちゃん、忘れちゃったの?」

ワカメはカツオの言葉が冗談だと思い、ふっと息を洩らした。
しかしカツオの声は真剣そのものである。

カツオ「じゃあワカメは何か覚えているのかい?小学校に上がる前、僕達は何をして遊んでいた?お父さんやお母さんにどこへ連れて行ってもらった?どんなおもちゃを持っていた?」

ワカメ「それは…」

記憶を辿るワカメは、無意識のうちに目線を上に向けた。
それからはっとして、がばりと半身を起こした。
薄暗がりの中、すでに体を起こしていたカツオを目が合う。
ワカメは震える声で言った。

ワカメ「どうしちゃったのかしら…。わたしも思い出せないわ…」

ワカメの言葉を聞き、カツオはゆっくりと頷いた。

カツオ「おかしいだろう?小さい頃の写真も、思い出さえもないんだぜ…」

28: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:32:14.29 ID:XMs4bPFB0
翌朝、登校したカツオはすぐに親友である中島をつかまえた。

中島「やあ磯野、おはよう」

中島は眼鏡の奥の目を柔らかく細め、親しみのこもった眼差しをカツオへと向けた。

中島「どうしたんだい?なんだか顔色が悪いみたいだけど」

カツオは昨夜、写真のことが気にかかりよく眠れていなかった。
顔色が悪いのは当たり前である。
何も知らない中島は、カツオの体の具合を心配している。

中島「気分が悪いなら保健室に…」

カツオ「そんなことより中島、ちょっと答えてくれないか?」

カツオは中島の言葉を遮って尋ねた。

カツオ「中島は幼稚園の頃、どんな子供だった?」

中島「え?どうしたんだい急に…」

困惑する中島だが、生真面目にカツオの質問を反芻した。

中島「どんな子供…か…。えーっとそうだなぁ…」

カツオ「お、覚えているのかい?」

考え込む中島を見て、カツオは目を丸くする。
中島は不思議そうに首を傾けた。

29: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:33:26.61 ID:XMs4bPFB0
中島「覚えてるよ。だって幼稚園の頃の話だろ?僕はそうだな、正月の凧揚げが大好きだったな。うん、よく覚えてるよ。毎年正月になるとおじいちゃんが凧を揚げてくれてたんだ。うちのおじいちゃん、凧揚げの名人なんだよ」

中島は遠い目をして言った。
それから気がついて、はたとカツオを見た。

中島「だけど、それがどうしたんだい?」

カツオ「そうか…」

中島「え?」

カツオ「実は昨日、ちょっとしたことから小さい頃の記憶を思い出そうとしてワカメと話したんだ。そうしたら不思議なことに、僕もワカメも小学校に上がる前のことをすっかり忘れてしまっているんだよ」

カツオは神妙な面持ちで語った。

中島「え?磯野はともかく、ワカメちゃんもかい?そんなのおかしいよ」

カツオ「だろ?どうしたんだろう…僕…」

カツオはがっくりと肩を落とした。
中島は心配そうにそんなカツオを見つめる。
その時、聞きなれたダミ声が教室の中に飛び込んできた。

31: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:54:35.73 ID:XMs4bPFB0
花沢「あら磯野くん、中島くん、おはよう」

中島「あ、花沢さん」

やって来たのは同級生の花沢花子である。
花沢不動産の一人娘でお嬢様である彼女だが、やや太めの容姿とダミ声のせいで気品というものがまったく感じられない。
カツオは密かに花沢のことを苦手に思っていた。

花沢「やだ磯野くん、元気がないわね」

カツオ「ああ、そんなことないよ…」

花沢「何よ、磯野くんとあたしの仲じゃない?悩み事があるなら聞くわよ」

カツオ「いや、いいんだよ…」

カツオとしては、朝から花沢にからまれるなんて面倒であれ何の得もない。
早くどこかへ行ってもらいたかった。
しかし中島はそんなカツオの気持ちを理解していないのか、花沢を話に入れてしまった。

中島「花沢さんは幼稚園の頃、どんな子供だったの?」

花沢「あたし?」

花沢は相手にしてもらえたのがよほど嬉しいのか、意気揚々と語りだした。

32: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:55:54.01 ID:XMs4bPFB0
花沢「そりゃあ今と変わらず可憐でおとなしい子供だったわよ。うちの前にはあたしと遊びたい男の子達がわんさか集まっていたわ。磯野くんもその1人だったわよね?」

カツオ「え?僕が?」

思わぬ情報を得たカツオが、興味津々で花沢を見る。
カツオの態度に気を良くした花沢は、低い鼻をつんと上げて見せた。

花沢「そうよ。あたし覚えてるわよ。磯野くんいっつも青い三輪車に乗ってうちの前まで遊びに来ていたじゃない」

中島「へぇ、そうだったんだ磯野…」

中島はすっかりからかいの表情を見せ、カツオに視線を向けた。

カツオ「そうだったんだ…僕が花沢さんを…あれ?でもちょっとおかしくないか?」

花沢「え?何がおかしいのよ」

カツオ「だっていくら小さかったとはいえ、面食いの僕が花沢さんなんて…ゲヘッ!」

そこまで言いかけて、カツオは花沢から強烈なタックルを受け、床に沈んだ。

中島「お、おい大丈夫か?磯野!」

中島が慌ててカツオを助け起こす。

33: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:56:52.33 ID:XMs4bPFB0
花沢「まったく失礼しちゃうわ、磯野くんたら…」

花沢は腹を立て、さっさと女友達のところへ行ってしまった。

カツオ「あ、ありがとう中島…」

中島に支えられ、カツオが立ち上がる。服についた埃を叩き払った。

中島「でも良かったじゃないか、花沢さんの話を聞いて、小さい頃のことを思い出せたかい?」

カツオ「いいや、花沢さんの話はいいように捻じ曲げられてるんだよ。当てにならないさ…」

中島「そうか…」

中島はそこで声を落とした。

カツオ「中島が気にすることなんてないさ。少しすれば何か思い出すよ」

中島「そうかい?でもまた何かあったら、すぐに相談してくれよ」

カツオ「ありがとう」

いつもは頼りない外見の親友の姿が、今日のカツオの目にはたのもしく映った。
中島は本当に僕のことを心配してくれている。
子供の頃のことを思い出せないのは気にかかるが、今の僕にはこんなにも信頼できる友人がいるのだ。
そう思うと、カツオの心は晴れ晴れとした気持ちになった。

34: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:57:54.72 ID:XMs4bPFB0
中島のお陰で元気を取り戻したカツオは、給食を食べ終えた頃にはすっかり昨日の心配事を忘れていた。
昼休みになり、片思い中のカオリと鼻の下を伸ばして話している。
隣に花沢がいるのが残念ではあるが、やはり花沢と並ぶとカオリの可愛らしさが一段と惹き立つ。

カオリ「今日はうちのお母さんの誕生日なの。学校から帰ったらプレゼントを買いに行くのよ」

カオリはそう言って、優しげな笑顔を浮かべた。

カツオ「へえ、プレゼントなんて、カオリちゃんは優しいなぁ」

花沢「あたしだってプレゼントくらい毎年父ちゃんにあげてるわよ。で、今日は何をプレゼントするの?」

カオリ「それを今考えてるのよ。何をプレゼントしてくれたらお母さんは喜んでくれるかしら…」

カオリの言葉に、その場にいたカツオと花沢、それから中島と早川が考え込む。

36: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 14:58:54.34 ID:XMs4bPFB0
早川「お花なんてどうかしら?」

一番に口を開いたのはカオリの親友、早川である。
カオリと比べると少々地味で見劣りする彼女だが、カツオはそんな早川を心優しい女の子だと評価していた。
内面だけでいえば、カオリより早川のほうが話しやすく、また癒されるのは確かだが、生憎面食いのカツオである。

カオリ「それは去年プレゼントしたから、今年は違うものがいいの」

早川「そうねぇ…」

花沢「じゃあケーキは?今日駅前のケーキ屋さんが月一のセールの日だから調度いいじゃない」

カオリ「ケーキならお父さんがずっと前からホテルのを予約しているわ」

花沢「あら残念。駅前のケーキ屋なら安いのに」

カツオはここで、自分への評価を上げるチャンスとばかりに、知ったような口を利いた。

カツオ「やっぱり女性は身につけるものをプレゼントされるのが一番うれしいんじゃないかな?」

カオリ「身につけるもの…アクセサリーとかね!素敵!」

カツオの思惑通り、カオリはぱっと目を輝かせた。

37: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:00:05.58 ID:XMs4bPFB0
カツオ「僕の経験だと、前にお母さんかんざしをプレゼントした時はとっても喜んでくれたなあ」

カツオは調子に乗って話を続けた。

カツオ「アクセサリーじゃなくても、もっと実用的なものでもいいかもね。割烹着とか」

しかしそこで、カオリの顔色が変わった。

カオリ「かんざし?割烹着?」

カオリはなぜか意地の悪い表情を浮かべ、早川に目配せした。
早川は困ったように、苦笑いを浮かべる。

カツオ「ん?どうしたの?」

カツオは予期せぬ2人の様子を見て、焦った声を出した。

カツオ「僕なんか変なこと言った?」

中島「磯野…」

すべてを悟った中島が、気の毒そうにカツオを見る。
カオリはそこでつんと顎を反らせた。

38: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:01:26.23 ID:XMs4bPFB0
カオリ「うちのお母さんは磯野くんちのお母さんとは違うもの。かんざしや割烹着をプレゼントされても喜ばないわ」

カツオ「え?どういうこと?」

カオリ「だってうちのお母さんは磯野くんちと違って若いもの。プレゼントするならネックレスやエプロンじゃないと、喜ばないわよ」

花沢「そうね、カオリちゃんのお母さん若いものね」

うろたえるカツオをよそに、花沢も大げさに同意する。

花沢「カオリちゃんのお母さん、若くて美人でうらやましいわぁ~」

それから女子3人は、意味ありげに笑って見えた。
中島は居心地悪そうに肩を揺すっている。
カツオは1人、カオリの言おうとしている意味がわからず、おろおろと視線を泳がせていた。

カツオ「だってお母さんだよ?どこのうちも同じじゃないか…」

するとカオリは苛立った様子で、カツオを見た。

39: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:02:19.49 ID:XMs4bPFB0
カオリ「まだわからないの?磯野くんの意見は全然参考にならないのよ。磯野くんちのお母さんはかんざしや割烹着をプレゼントされて喜ぶおばあちゃんなのよ。うちのお母さんとは年齢が違うから仕方ないと思うけど」

カツオ「そんな…」

カツオは言葉を失い、がっくりと肩を落とした。
少し前まで得意げに語っていた自分が、急に恥ずかしく思えた。
カツオは生まれて初めて、自分自身を可哀想だと感じた。

早川「カオリちゃん言いすぎよ…」

さすがにいたたまれなくなったのか、早川がカオリをたしなめる。
しかしカオリは態度を改めるどころか、ますます声に悪意をこめた。

カオリ「磯野くんじゃ話にならないわ。もう向こうへ行ってちょうだい」

カツオ「そんな…カオリちゃん…」

中島「磯野…行こうぜ…」

捨て犬のような目でカオリを見つめるカツオを、中島はぐいと引っ張った。
そのままその場からカツオを離す。

中島「気にすることないよ、あんな女子の言うことなんか…」

中島はしょげるカツオを、優しく励ました。

40: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:03:22.87 ID:XMs4bPFB0
中島は苦労してカツオを励ましたものの、カツオは一向に元気を取り戻さなかった。
今や中島の目には、カオリの姿が悪魔のように映る。

――磯野のお母さんについてはクラスのみんなが薄々思っていたことだ。だけど、それを本人に言うなんてデリカシーがなさすぎるぜ…。

中島は黒板に向かうカオリを、ひそかに睨んだ。

――ちょっと可愛い顔してるからってあの女、調子に乗りやがって…。

中島はカオリへの憎悪を燃やした。
そんな中島の気持ちを知ってか知らずか、カオリを時折カツオのほうを見ては、にやりと含み笑いを浮かべている。
カツオは昼休みの出来事から、すっかりいつもの明るさを失い、机に突っ伏していた。

41: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:04:34.84 ID:XMs4bPFB0
授業が終わると、カツオは中島の野球の誘いを断って、早々と1人帰宅した。

カツオ「ただいまー」

玄関の引き戸に手をかけると、カツオは意識して明るい声を振り絞った。

――お母さんには何の罪もない…。心配させないようにいつも通りにしなきゃ…。

カツオの声を聞き、フネが玄関までやって来る。

フネ「おかえりなさい、おやつが用意してありますから、手を洗ってきなさい」

学校での出来事を知るはずもないフネが、いつものように朗らかな声でカツオを出迎えた。

カツオ「わーい、おやつだおやつだー」

しかしカツオはフネをまっすぐ見ることが出来ない。
おやつに喜ぶふりをして、すぐさま洗面所へと逃げ込んだ。
鏡には、暗い目をした自分が映っている。

――しっかりしなきゃ…。

カツオを手を洗うついでに、冷たい水で勢いよく顔も洗った。
少しすっきりした気分になると、鏡に向かって口角を上げる練習をする。
何度か挑戦して、納得のいく笑顔が作れると、それを保ったまま居間へ向かった。

42: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:05:42.08 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「あ、お兄ちゃんおかえりー」

先に帰宅していたワカメがゼリーを食べながらカツオを振り返る。

カツオ「お、ゼリーか。おいしそうだな」

カツオはワカメの隣に腰を下ろすと、スプーンを握った。
それから気がついて、辺りを見回す。

カツオ「あれ?タラちゃんは?」

ワカメ「そういえば来ないわねぇ…。いつもおやつの時間には遅れないのに…」

ワカメがスプーンの先を唇に当てながら、肩をすくめた。
サザエが声を聞きつけて、居間に入ってくる。

サザエ「タラちゃんならお昼を食べた後、裏のおじいちゃんの家に遊びに行ったまま帰って来ないのよ。カツオ、それ食べたら迎えに行って来てくれない?」

カツオ「姉さんの頼みなら仕方がない。その変わりといっちゃあなんですが…」

カツオはにやりと笑うと、ゼリーののった皿をうやうやしく掲げた。

44: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:06:30.45 ID:XMs4bPFB0
サザエ「仕方ないわね、あたしはこれから買い物に行くから、あたしの分のゼリーもカツオ食べていいわよ」

カツオ「そうこなくっちゃ!」

ワカメ「あ、お兄ちゃんずるーい」

カツオはいたずらっぽい笑いを浮かべると、内心でほっとした。

――大丈夫、いつもの僕だ…。

確かめるように、心の中で呟いた。

結局サザエの分のゼリーをワカメと半分ずつ食べたカツオは、タラオを迎えに行くため立ち上がった。
足元で丸くなっていたタマが気がついて、頭を上げる。

カツオ「お、タマいたのか」

ワカメ「ずっといたわよ」

カツオはそこで、タマの首輪に何か挟まっていることに気付いた。

カツオ「ん?何だろうこれ…」

迷惑そうな顔をするタマを撫でながら、首輪からそれを外す。

47: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:07:38.13 ID:XMs4bPFB0
カツオ「紙だ…」

広げてみると、それは絵本の一ページを破いたものらしかった。

ワカメ「桃太郎の絵本ね、それ…」

ワカメも興味深げにカツオの手元を覗き込む。
それは桃太郎がお爺さんの家ですくすくと育っていく様子を描いた一ページであった。

ワカメ「誰がやったのかしら…。絵本てことは、タラちゃん?」

カツオ「だけど何でわざわざタラちゃんは大切な絵本を破いて、タマの首輪につけたんだろう?」

ワカメ「タラちゃんがいたずらするなんて珍しいわね」

カツオ「まあいいさ、迎えに行ったらタラちゃん本人に聞いてみよう」

カツオは絵本のページをポケットに突っ込むと、裏のおじいちゃんの家に向かった。

48: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:08:48.28 ID:XMs4bPFB0
庭先から呼びかけると、裏のおじいちゃんは人差し指を口元に当て、そろそろと出て来た。

じい「ちょうど今タラちゃんはお昼寝しとるんじゃよ」

カツオ「なんだタラちゃん寝ちゃってるのか」

カツオはそう言って、こっそり玄関から中の様子を窺った。
それから裏のおじいちゃんの腕を見て、ぎょっとする。

カツオ「おじいちゃん、血が出てるよ!」

裏のおじいちゃんの腕と服が赤く染まっている。
かなり出血しているように見えた。

カツオ「大丈夫なの?おじいちゃん…」

じい「ああ、これか。これは血じゃなくてペンキじゃよ」

裏のおじいちゃんはカツオの勘違いに気付き、咳き込むような笑い声を上げた。

カツオ「ペンキか。びっくりしたなぁもう」

じい「ふぉふぉふぉ…なぁにタラちゃんの三輪車が剥げてたからな、こっそり塗り直してたんじゃよ」

カツオ「何だそうだったのか」

50: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:09:57.11 ID:XMs4bPFB0
それからカツオは庭の奥へと案内され、ぴかぴかになった三輪車を見つけた。
確かに以前のタラオの三輪車は錆びて、あちこち塗料が剥げかかっていた。
何度か買い直そうという話も出たが、タラオはよほどお気に入りらしく、断固として拒否し続けていたのだ。

カツオ「タラちゃんこれを見たら喜ぶだろうなぁ」

カツオはタラオの喜ぶ顔を想像して、頬を揺るませた。
その時、裏のおじいちゃんに抱かれて、まだ寝ぼけた様子のタラオが姿を現した。

カツオ「あ、タラちゃん、三輪車見てごらんよ」

カツオの呼び声に、眠い目をこすっていたタラオが、歓声を上げる。
すっかり目が覚めたようだ。

タラオ「すごいですー。僕の三輪車がぴっかぴかですー」

タラオは飛び降りるようにして裏のおじいちゃんから離れると、早速三輪車に跨った。

カツオ「タラちゃんが寝ている間におじいちゃんがペンキを塗り直してくれたんだよ」

タラオ「おじいちゃんありがとうですー」

51: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:12:03.55 ID:XMs4bPFB0
裏のおじいちゃんに見送られ、カツオとタラオは自宅へと向かった。
タラオはきこきこと可愛らしい動作で、懸命に三輪車をこいでいる。
タラオのスピードに合わせて、カツオはゆっくりと歩いた。
それから思い出して、ポケットから先ほどの絵本のページを取り出し、タラオに見せる。

カツオ「これをタマの首輪に付けたのはタラちゃんかい?」

絵本を見せられたタラオは、満足げに頷いた。

タラオ「そうですー」

カツオ「なんでこんなことしたの?」

タラオ「これは僕からのお手紙なのです」

カツオ「手紙?」

52: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:12:29.37 ID:XMs4bPFB0
タラオ「はいー。それを見れば僕が裏のおじいちゃんちに居るってわかるです」

カツオ「そうか、ここで書かれている桃太郎はタラちゃんのことだったんだね」

カツオはそこで気がついた。
破られた絵本のページに描かれているのはおじいさんの家にいる桃太郎。
タラオは桃太郎を自分に置き換え、裏のおじいちゃんの家にいることを手紙として伝えていたのだ。
しかしそれをタマの首輪につけるだなんて、なかなか手の込んだことをする。
カツオはタラオの知能の高さに舌を巻いた。

タラオ「早く帰ってママにぴかぴかの三輪車を見せるです」

カツオの驚きをよそに、タラオは無邪気にはしゃいでみせた。

54: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:13:45.11 ID:XMs4bPFB0
その日の夕飯は、タラオの三輪車の話題で持ちきりだった。

マスオ「いやぁ驚いたなぁ、すっかり新品みたいになっちゃって」

マスオはそう言って、首の後ろを掻いた。

ワカメ「良かったわね、タラちゃん」

タラオ「はいですー」

タラオを自分の三輪車が話題の中心となり、得意げに胸を反らせた。

サザエ「あの三輪車、前からどうにかしたいと思ってたところだったのよ」

マスオ「本当だったら僕が塗り直してあげなきゃいけないところを、面目ない」

サザエ「仕方ないわよー。マスオさんはお仕事があるんだから」

カツオ「何であんなにボロボロだったんだろうね、あの三輪車」

波平「これカツオ、口に物を入れたまま喋るんじゃない!」

カツオ「はーい」

波平に叱られたカツオは、しかししょげることなく視線は皿の上のおかずを捉えたままである。
いつものことなので、サザエはさして気にすることなく、カツオの疑問に答えた。

サザエ「仕方ないわよー。あの三輪車、カツオが昔使っていたお古だもの」

56: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:14:37.99 ID:XMs4bPFB0
タラオ「え?カツオお兄ちゃんが使ってたのですか?」

タラオは驚きの声をあげ、思わず箸を落とした。
サザエはそれを拾ってやりながら、言い聞かせるように答える。

サザエ「そうよー。だから古いのは当たり前です」

しかしすぐさま波平に指摘され、サザエは気まずそうに舌を出した。

波平「これサザエ、タラちゃんの前であんまり古いとか言うんじゃない!」

呑気なマスオは波平の言葉に食いつき、間延びした声を出した。

マスオ「なんだあれ、カツオくんが使ってたものだったのか。初耳だなー」

フネはちらりとそんなマスオを睨み、無言でマスオの茶碗を取り上げた。

マスオ「あ、お義母さん…?」

フネ「マスオさん、おかわりいただくでしょう。今よそいますからね」

マスオ「は、はぁ…すみません…」

カツオはフネとマスオのやりとりを観察するように、視線を走らせた。

57: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:15:35.30 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「お兄ちゃんは三輪車のこと知ってたの?覚えてる?」

ワカメがカツオに尋ねる。

カツオ「いいや、全然覚えてないよ。本当なの?お父さん…」

波平「カツオも小さかったからな、覚えてなくて当たり前じゃよ。さあ、食べ終わったならお風呂へ入りなさい。ちゃんと肩までつかるんだよ」

波平は今度、諭すように言うと、カツオを風呂へと促した。
そんな波平の態度に、若干のぎこちなさを感じながら、カツオを言われた通り風呂へ向かうため立ち上がる。

58: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:16:54.54 ID:XMs4bPFB0
その夜、カツオはワカメと2人、子供部屋で向かい合った。
ワカメに聞かせるにはショックが大きいかもしれないが、決心して、昼間の学校での出来事を話す。

ワカメ「確かにお母さんは他の子のお母さんと比べたら歳を取ってるかもしれないけど…」

カオリの言った言葉を話すと、ワカメは肩を落とした。

ワカメ「でもおばあちゃんみたいっていうのは言いすぎだわ…。ひどいわよ」

カツオ「そうじゃないんだ、ワカメ」

カツオは神妙な面持ちで呟いた。

ワカメ「え?そうじゃないって?」

カツオ「あれから授業中、考えたんだよ。何でお母さんは他のお母さんより歳を取っているのか」

ワカメ「そんなこと考えたって仕方ないじゃない。それよりカオリさんの言葉がひどいわ…」

59: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:17:46.90 ID:XMs4bPFB0
カツオ「うん。それはわかってる。だけどカオリちゃんの言葉で僕は気がついたんだ。そして昨日から引っかかっていた疑問を解く糸口が見つかった気がした…」

ワカメ「どういうこと?」

カツオ「ワカメ…覚悟して聞いてくれよ…」

カツオはそこで、ワカメの反応を見るため口をつぐんだ。
ワカメは不安の色を浮かべながら、しかし真剣な眼差しでカツオの言葉を待っている。
カツオは一度大きく深呼吸すると、おそるおそる口を開いた。

カツオ「もしかして僕達2人は、お父さんとお母さんの子供じゃないんじゃないか…?」

ワカメ「えぇ?」

ワカメは目を丸くし、息を呑んだ。
手が震えている。

ワカメ「そんな…まさか…嘘よ…」

61: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:19:46.60 ID:XMs4bPFB0
カツオ「いいや。そのまさかなんだよ。僕達2人がお父さんとお母さんの本当の子供じゃないと仮定した場合、昨日から抱えていた疑問の答えが明らかになるんだ。本当の子供じゃないから、小さい頃の写真が残っていない」

カツオ「そして本当の子供じゃないから、僕達は小学校に上がる以前の家族の思い出を思い出すことができない。きっと小学校に上がる以前は、僕達2人はどこか別の場所にいたんだ」

ワカメ「でも、タラちゃんの三輪車はお兄ちゃんが昔使っていたものだって言ってたじゃない…」

カツオ「それだって姉さんやお父さんが勝手に言ってるだけで、僕自身は記憶にない。きっと昨日の写真の一件で僕が変に勘ぐったりしないように、一芝居打ったんだよ」

ワカメ「そんな…信じられないよ…」

カツオ「でも考えてもごらんよ。お母さんは今50代だよ?ということは僕達を40代で生んだことになる。姉さんと歳も離れすぎているし、僕達2人だけ本当の子供じゃなかったとしてもおかしくないよ」

ワカメ「やだ、なんでお兄ちゃんそんな意地悪言うの?わたしとお兄ちゃんはお父さんとお母さんの子だよ!」

ワカメはそう言うと、ばさりと布団をかぶった。
まるで現実から逃れるかのように、小さく丸くなり、必氏に目を閉じている。
目が覚めれば、すべてが夢だったと思える。
幼い幻想だった。
カツオはそんな妹の姿に、胸を痛める。

――やはりワカメには話すべきでなかったか…。

カツオは後悔した。

62: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:20:37.11 ID:XMs4bPFB0
ワカメの布団から、くぐもった泣き声が洩れてくる。

――だけど、今の状態では僕やワカメがお父さん達の本当の子供ではないということばかりを証明している…。

カツオはそれから疲れて眠りに落ちるまで、必氏に幼い頃の記憶を呼び起こそうと試みた。
しかし何1つ、思い出すことができない。
記憶がないということが、これほどの恐怖を抱かせるとは知らなかった。
何だか自分が自分でなくなったようで、気味が悪い。
カツオは布団の中で身震いをした。
そこでふと、花沢の言葉を思い出した。

――昼間、花沢さんは僕が小さい頃青い三輪車に乗っていたと言った…。だけど今タラちゃんが乗っている三輪車は赤だ…。

タラオの三輪車はカツオのお古であるはずなのに、色が違っている。
これこそが、サザエ達が嘘をついている証拠ではないだろうか。
花沢のほうが嘘をつく理由はない。
ということは、ここは花沢の言葉が真実なのだ。

――やはり僕は、磯野家の本当の子供じゃないんだ…。

明日、もう一度花沢に子供の頃の話を聞いてみようと決め、カツオは目を閉じた。

64: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:21:41.22 ID:XMs4bPFB0
翌朝、なかなか起きてこないカツオとワカメを心配したフネが、子供部屋へやって来た。

フネ「2人とも遅刻しますよ!」

フネに揺り動かされ、カツオはようやく布団から抜け出す。

カツオ「あぁ…お母さんおはよう…」

フネ「ほらワカメも起きなさい!」

遅れてワカメももぞもぞと布団から顔を出す。

フネ「やっと起きたわね。さあ朝ごはんにしましょう」

フネの顔を見ると、ワカメを目を見開いて飛び起きた。

フネ「?ワカメ?どうしたの?」

ワカメ「あ…いえ…何でもないです…」

ワカメはそう言うと、フネから顔を背けた。
フネはそんなワカメの態度に気がついていないのか、慌しく台所へと戻って行った。

65: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:22:19.21 ID:XMs4bPFB0
フネの姿が消えると、カツオは小声でワカメに話しかける。

カツオ「おいワカメ、そんなあからさまな態度を取ったら、お母さんが怪しむだろう。もっといつも通りに…普通にしてろよ普通に…」

ワカメは抗議の視線をカツオに向けると、ふて腐れたように言う。

ワカメ「だって仕方ないじゃない。昨日お兄ちゃんが変なこと言うから…。もしわたし達が父さん達の子供でないのなら、あの人は他人てことでしょ?今まで通りの親子の態度なんて取れないよ…」

ワカメはそう言うと、涙をこらえるように唇を噛んだ。

カツオ「ワカメ…」

カツオはまたしても自分の失敗を悔いた。
ワカメを不安にさせるようなこと、言わなければ良かった…。

結局ワカメはほとんど無言のまま、朝ごはんを食べ終えるとそそくさと家を出てしまった。

66: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:23:17.34 ID:XMs4bPFB0
学校に着いたカツオは、早速花沢へ話しかけた。

花沢「磯野くんが乗ってた三輪車…?」

花沢は怪訝そうな顔で、カツオを見た。

花沢「確かに青い三輪車だったわ。だけどそれがどうしたの?」

カツオ「本当かい?本当に青い三輪車だったのかい?」

花沢「何よ、あたしが嘘ついてるっていうの?」

カツオの言葉に、花沢はあからさまに不機嫌の表情を浮かべた。
昨日のようにタックルされたのではかなわないと判断し、カツオを慌てて首を振る。

カツオ「いいや、花沢さんが嘘つくわけないよね」

花沢「ちゃんとうちに写真が残ってるわよ。学校が終わったら見に来るといいわ」

花沢の口から、思わぬ言葉が出た。
カツオは驚いて、花沢に一歩歩み寄る。
花沢は何を勘違いしたのか、少々頬を赤らめた。

67: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:23:46.48 ID:XMs4bPFB0
カツオ「え?写真があるのかい?」

花沢「ええ残ってるわよ。昔磯野くんとあたしが2人で撮った写真」

写真を見れば、昔のことを何か思い出すかもしれない…。
カツオの胸が躍った。

カツオ「じゃあ放課後、花沢さんの家に行くよ」

カツオとの約束を取り付け、花沢は嬉しそうに頷いた。

花沢「父ちゃんも磯野くんが来ると喜ぶわ。ケーキでも買ってもらいましょう」

カツオ「わぁ、ケーキかぁ…」

カツオは放課後を思い、目を輝かせた。

69: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:24:48.23 ID:XMs4bPFB0
放課後になり、カツオは中島と並んで昇降口を出た。
校門まで歩いていると、ふいに中島が校庭の奥を指差し、カツオを呼び止める。

中島「おい磯野待てよ。あれ…タラちゃんじゃないか?」

カツオ「え?どこだい?」

中島が指し示した方向に、小さな人影があった。

カツオ「あれ?何してるんだろう?」

カツオは小走りで人影まで近づく。
後ろを中島もついて来た。

中島「あんなところに立って、危ないなぁ」

人影はやはり中島の言うとおりタラオであった。
タラオは校庭の隅にある池の傍に立ち、熱心に水面へ視線を落としている。
カツオと中島が来たことにも気がついていない。

カツオ「タラちゃん?こんなところで何やってるのさ?」

カツオが声をかけると、タラオはびくりと肩を震わせ、それから人懐こい声を上げ駆け寄って来た。

70: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:25:49.90 ID:XMs4bPFB0
タラオ「カツオお兄ちゃん!僕亀さんを見に来たですー」

カツオ「亀?」

中島「あ、亀吉のことじゃないか?」

カツオ達の小学校では、池に亀を放している。
亀吉という安易なネーミングながら、低学年の児童からは可愛がられていた。

カツオ「なんだ、亀吉を見に来たのか。1人で来たのかい?」

タラオ「はいー。僕は時々亀吉に挨拶しに来てるですよ」

タラオを秘密を告白するように、小声でカツオに説明した。

タラオ「僕と亀吉はお友達なんです」

カツオ「そうかい。でも1人で池に近づいたら危ないよ」

タラオ「気をつけますー」

カツオ「このこと、姉さん達は知ってるのかい?」

タラオ「内緒です」

71: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:26:49.55 ID:XMs4bPFB0
タラオをそう言って、悪戯っぽく舌を出した。
カツオは日頃、年齢の割りに妙に聞き分けの良いこの甥を心配することがあった。
タラオの遊び友達は女の子のリカや年下のイクラである。
男友達がいない分、性格も女々しくなりがちだ。
このままだと将来タラオは、優しいだけで男らしさの足りない子になってしまうのではないか。
しかしカツオの知らないところで、タラオなりに悪戯心や秘密を持ち合わせていることがわかり、少しだけタラオのことを見直す。

――やっぱりおとなしそうに見えて、タラちゃんも一応わんぱくな男の子なんだな…。

カツオは感心する一方で、年上らしくタラオに注意をした。

カツオ「黙ってこんなとこ来たら姉さん達が心配するだろう。ちゃんと言わなきゃ駄目だよ」

タラオ「はいですー。でもママは忙しそうだったから…」

カツオに注意され、タラオはしょんぼりと肩を落とした。

――いけない、せっかくタラちゃんが普通の男の子らしくなったのに…。

カツオはそこで自分の失敗に気付き、慌ててタラオの肩を叩いた。

72: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:28:27.24 ID:XMs4bPFB0
カツオ「せっかくだからこういうのはどうだろう?またタマの首輪に絵本のページを挟んで、居場所を姉さん達に伝えるんだ。これなら姉さん達も安心するだろう」

カツオの提案に、タラオの表情が明るくなる。

タラオ「はいですー。僕今度からお手紙を出してお出かけするようにしますー」

タラオはそう言って、その場でぴょんぴょんと跳ね回った。
すっかり元気を取り戻したらしいタラオを見て、カツオはほっと胸を撫で下ろす。
それから中島のほうを振り返り、両手を合わせた。

カツオ「ごめんな中島、もう大丈夫だよ。帰ろう」

中島「タラちゃんは放っておいていいのかい?」

カツオ「平気さ。タラちゃんは小さいけど男なんだ。ね?1人で帰れるだろう?タラちゃん?」

カツオが問いかけると、タラオは薄い胸を精一杯張って答えた。

73: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:28:55.08 ID:XMs4bPFB0
タラオ「はい。僕男の子だから1人で平気です」

カツオ「だってさ。行こう中島」

カツオは中島の腕を引っ張り、踵を返した。

中島「う、うん…」

タラオ「ばいばいですー」

背後でタラオが弾んだ声を上げた。一人前の男扱いされたのがよほど嬉しかったのだろう。
カツオは少し歩くと、そっと背後を振り返ってみた。
タラオはまた熱心に池を見つめている。

76: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:31:42.12 ID:XMs4bPFB0
家に帰ると、カツオはランドセルを部屋へ放り投げた。

カツオ「花沢さんの家でケーキをご馳走になるからおやつはいらないよ」

出迎えたフネにそう言うと、再び靴を履く。
背中からフネの不満げな声が聞こえてきた。

フネ「ワカメもミユキちゃんの家に行くと言っていないし、タラちゃんも遊びに行ってしまって…。せっかくおやつを用意したのに残念ねぇ」

それを聞いたカツオの肩がぴくりと動く。

――ワカメの奴、お母さんと顔を合わせたくないからって…。

ワカメがおやつを食べずに遊びに行くのは、非常に珍しいことである。
カツオは適当にフネからワカメの話題を反らすと、表へ飛び出した。

78: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:32:47.01 ID:XMs4bPFB0
自宅を出たカツオは、真っ直ぐ花沢の家へと向かった。
花沢不動産――。
花沢の父は密かにカツオが婿養子になってくれることを望んでいる。
遊びに行くと過剰なまでに反応するので、あまり顔を出さないようにしていたが、今日ばかりは仕方がない。
忘れている昔の記憶を、思い出すことができるチャンスなのだ。
カツオは意を決して、花沢不動産の戸を引いた。

花沢「待ってたわよ、磯野くん。父ちゃーん!磯野くんが来たわよー!」

花沢の呼びかけに、奥から花沢の父が出てくる。
花沢をそのまま中年男性にしたような容姿だ。

――やっぱり親子って似るんだな…。

カツオは密かに笑いを堪えた。

花沢父「やあ磯野くんよく来たね。ケーキがあるから食べていきなさい」

カツオ「はい、じゃあ遠慮なく…」

カツオは頭を下げると、花沢家に上がりこんだ。
花沢の父は苦手だが、来るたびに豪華なおやつを用意してくれるところには好感が持てる。
この時ばかりは、将来婿養子に来てやってもいいとさえ思えてしまう、食い意地が張っているカツオである。

80: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:33:32.88 ID:XMs4bPFB0
カツオ「早速だけど花沢さん、写真見せてくれるかな?」

花沢「いいわよ」

花沢父「写真…?」

2人の会話を聞いて、花沢父が眉間に皺を寄せた。

花沢「磯野くんはうちにアルバムを見に来たのよ。ほら、小さい頃一緒に撮った…父ちゃんアルバムどこに仕舞ったっけ?」

花沢父「アルバムかぁ…探して持って行ってあげるから、先にケーキでも食べて待ってなさい」

花沢「はーい。さ、磯野くん行きましょう」

カツオ「う、うん…」

カツオは花沢に引っ張られ、部屋の中へと入った。

81: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:34:21.55 ID:XMs4bPFB0
花沢の父が用意してくれたケーキは、隣町で人気のケーキ店のものだった。
値段も駅前のケーキ屋より高く、普段の磯野家では滅多に口にすることのない高級感溢れる大人の味だ。

カツオ「これおいしいなぁ」

カツオは満面の笑みで、ケーキに舌鼓を打った。
ほどなくして、紅茶を載せた盆を抱えて、花沢の父が入って来た。
脇には分厚いアルバムを挟んでいる。

花沢父「ほら、アルバム見つかったよ。ゆっくり見ていきなさい」

カツオ「おじさん、ケーキご馳走様です」

カツオは上機嫌で挨拶をした。
花沢の父がいなくなると、花沢は受け取ったアルバムを開いた。
カツオは花沢の隣に移動して、アルバムを覗き込む。
写真に写る花沢はまだ幼く、しかし愛らしいというよりどこかふてぶてしい表情をしていた。

花沢「小さい頃のあたしも可愛いでしょう」

花沢は得意げに鼻の穴を膨らませる。

カツオ「あ、ああ…そうだね…」

カツオは適当に返事をした。
それから丁寧にアルバムを捲ったが、目当てであるカツオの写真は出て来なかった。

82: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:35:17.50 ID:XMs4bPFB0
花沢「あらおかしいわね、確かに2人で写った写真があったはずなのに…」

花沢はしかしそんなことはどうでもいいらしく、仕切りに子供の頃の自分の可愛さをアピールしてくる。
カツオはつい本音が飛び出しそうで、脂汗を滲ませながら必氏にお世辞を絞り出した。
正直に言うと、花沢は幼い頃から花沢で、ちっとも可愛くなんかなかった。

――さては花沢さん、僕を家に呼ぶ口実として写真があるなんて嘘ついたな…。

カツオはそこでようやく、花沢の思惑を理解した。
そうなればもう用済みである。
ケーキもご馳走になったし、カツオはさっさと家へ帰りたくなった。

カツオ「あ、そういえば僕、母さんに用事を頼まれてたんだった」

切りのいいところでカツオはそう言い訳し、立ち上がった。

花沢「あら、まだ最後まで見てないじゃない」

花沢が不服そうに唇を尖らせる。
しかしアルバムのページは花沢の小学校入学まで進んでいる。
カツオが見たかったのはそれより以前の写真だ。
もうこれ以上、お世辞を繰り返すのは口が達者なカツオでも辛いものがある。

83: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:36:08.08 ID:XMs4bPFB0
カツオ「また今度ゆっくり見せてもらうよ。じゃあまた明日、学校で」

カツオはそそくさと花沢の部屋を後にした。
外へ出るため、事務所となっている空間に足を下ろすと、デスクに向かって何やら作業していた花沢の父が、驚いて立ち上がった。

花沢父「なんだ磯野くん、もう帰るのかい?夕飯食べていけばいいのに」

カツオ「いえ、僕用事を思い出したんで帰ります」

花沢父「そうかい残念だな、で、どうだったかな?花子のアルバム…なかなか可愛いだろう?」

いいえちっとも可愛くなんかありません。
そう答えそうになったカツオだが、花沢の父が鋏を手にしていることに気付き、言葉を引っ込めた。
娘思いの花沢父の前でそんなことを口にした日には、刺し殺されてもおかしくない。
カツオは苦笑いを浮かべると、大げさに花沢を褒めた。

カツオ「おじさんにそっくりでとっても可愛かったです」

カツオの言葉を聞くと、花沢の父は満足気に頷いた。

花沢父「そうかいそうかい、磯野くんさえ良ければ、将来ぜひ花子の婿に…」

カツオ「お邪魔しましたー」

カツオは花沢の父の言葉が終わらぬうちに、外へと飛び出した。

カツオ「やれやれ…まったく困った親子だ…」

84: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:37:23.66 ID:XMs4bPFB0
カツオが出て行ったのと同時に、花沢が部屋から出て来た。

花沢父「おお、磯野くん花子のこと可愛いって褒めてたぞ」

花沢の父は鋏をペン立てに戻すと、娘のほうに顔を向けた。

花沢「当たり前じゃない。まったく磯野くんたら照れ屋なんだから」

花沢は照れた笑顔を浮かべた。
それから気がついて、父に向き直った。

花沢「それより父ちゃん、トイレの電球、また切れてるんだけど」

花沢父「おぉ、それはいけない。暗くなる前に替えなければ…」

花沢の父は慌てて奥へと引っ込んでいった。
1人残った花沢は、先ほどまで父の居たデスクの辺りを睨むように見つめる。

――父ちゃん、さっき何か隠していたような…。

花沢はサンダルを突っかけると、事務所へ下りて、デスクの辺りを探った。
デスクの周りが妙に片付いている。
不思議に思う花沢の目に、デスクの下のごみ箱が映った。

――何だろう…これ…。

花沢はごみ箱を漁る。中には細かく切り刻まれた紙が入っていた。
紙には光沢があり、蛍光灯の下、つるりと光っている。

85: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:38:03.17 ID:XMs4bPFB0
――これって…写真…?

父はここで写真を切り刻んでいたのだろうか。
しかしなんのために…。
興味を引かれた花沢は、パズルを組む要領で写真を復元しようとした。
だが、写真はかなり細かくされており、時間がかかりそうだ。

花沢父「おーい花子ー。手伝ってくれー」

奥から、父の呼び声が聞こえてくる。
花沢は写真の復元を諦めて、大声で返事をした。

花沢「はーい!」

――きっと母ちゃんに見られたまずい写真なんだわ。気になるけど…父ちゃんのために見なかったことにしてあげよう。

花沢はそう心に決めて、奥へと引き返した。
普段は乱暴者だが、これでなかなか父思いの娘である。

86: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:38:50.71 ID:XMs4bPFB0
夕飯の時間になり、帰宅した波平とマスオを加え、家族はちゃぶ台を囲んだ。

サザエ「マスオさん、タラちゃんたらまた何も言わずに出かけたのよ」

サザエはマスオの顔を見ると、早速昼間の愚痴を言い始めた。

サザエ「本当に心配したんだから。もうこんなことやめてよね」

普段であればここでカツオのした悪戯についての愚痴が披露されるわけだが、今日はタラオの話題である。

マスオ「駄目じゃないか、タラちゃん。ママに心配かけたら…」

マスオは父親らしく、タラオを諭した。

タラオ「ごめんなさいです。これからはちゃんとお手紙を残して置きます」

タラオは肩をすぼめて、小声で言った。

サザエ「お手紙?」

首を傾げるサザエに、カツオが説明する。

87: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:39:26.46 ID:XMs4bPFB0
カツオ「タラちゃんはタマの首輪に絵本の1ページを挟んで、自分の居所を教えることを覚えたんだよ」

サザエ「へえ、それが手紙ってわけね…」

サザエはしかし、さほど興味は引かれなかったらしい。
代わりに波平がカツオの話に食いついた。

波平「カツオ、それは本当なのか?タラちゃんはもうそんなこと考えつくようになったのか」

カツオ「そうだよ。まったくタラちゃんには恐れいったよ」

カツオはまるで自分のことのように、鼻を高くした。

波平「それではタマは伝書鳩ならぬ伝書猫か…。なかなかしゃれてるじゃないか」

波平は感慨深げに頷き、味噌汁を啜った。
それをサザエは抗議の目で見つめる。

サザエ「父さんまで面白がらないでよ。タラちゃん、お手紙じゃなくて、出かける時は直接ママかおばあちゃんに行き先を言っていかなきゃ駄目よ」

タラオ「……」

タラオはもじもじと、下を向いた。

88: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:40:29.35 ID:XMs4bPFB0
波平「まあいいじゃないかサザエ。親が子供の好奇心を摘み取るような真似するんじゃない。どうだろう、ここは1つ、タラちゃんのアイディアに付き合ってみたらどうかな?」

サザエ「父さん…」

サザエは口ごもり、助けを求めるようにマスオを見た。
しかし調子のいいマスオは瞬時に、義父の側に付いて揉み手する。

マスオ「そうですねお義父さん。いやぁ~お義父さんはやっぱり寛大だなぁ~」

サザエは眉を吊り上げ、そんな夫の姿を見つめる。

サザエ「マスオさんまで…まったくこれだから男の人は…」

同意を求めるようにフネへと顔を向けたサザエだったが、フネは我関せずといった具合にすまし顔でたくあんを齧っていた。

フネ「子供のすることですよ。いちいち目くじら立てなくても、どうせすぐに飽きます」

サザエ「母さん…」

波平「まぁまぁ、母さんの言う通りだよサザエ。よし決まりだ、タラちゃん、今度から思うままに手紙を残してみなさい。お祖父ちゃんもタラちゃんの想像力とやらを見てみたい」

波平に猫なで声で言われ、タラオは歓声を上げた。

タラオ「わーい。僕今度からお手紙残すですー」

89: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:42:13.50 ID:XMs4bPFB0
その夜、カツオはやはりなかなか寝付けず、1人布団の中で考えを巡らせていた。
夜という時間帯はいけない。
想像は際限なく広がり、思わぬところへと着地してしまう。
カツオの頭の中では、すでに自分が磯野家の本当の子供ではないと決定されていた。

――だとしたら、僕は一体どこで生まれ、どこで育ったのだろう…?

カツオの考えは、すでに自分の出生の秘密にまで及んでいた。

カツオ「気になるなぁ…」

暗い天井を眺め、カツオは小さく洩らした。
隣でワカメが寝返りを打つ音が聞こえてくる。

僕やワカメの出生の秘密…それはもちろんお父さんやお母さんなら知っているはずだ。
しかし直接訊いたところで、うまくはぐらかされるかして教えてはもらえないだろう。
それだけならいい。
もしかしたら僕が尋ねたことで、お母さんやお父さん…ワカメまで傷つく結果になってしまうかもしれない。

最早カツオの中では、赤の他人と確定した波平とフネだが、これまで通り親として気遣う気持ちは消えていない。
2人を悲しませることは絶対にしてはならないと思った。

91: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:43:14.35 ID:XMs4bPFB0
――2人に訊くのが無理なら、自分でどうにかして調べるしかないか…。

しかし子供の自分が役所に行くわけにもいかない。
探偵を雇うお金もない。
カツオは途方に暮れた。

――やっぱり調べるなら、僕が大人になった時じゃないと無理なのかな…。

だが、本来好奇心旺盛のカツオは、諦めることが出来ない。
必氏で何か方法はないだろうかと考えた。
そして、あることに気がついた。

――そうか、物置だ…。

磯野家の庭には小さな物置がある。
シーズンオフになった家電や、工具などを仕舞っている物だ。
そしてその物置の鍵は、波平が管理していた。
家族の者は物置に用事がある場合、いちいち波平に願い出なければならない。
また、よほどのことがない限り、波平以外の人間が物置に入ることは禁止されていた。
カツオはそこに、疑念を抱いた。

――たかが物置に、なぜそこまで慎重に人の出入りを制限する必要があるのだろう。

カツオが知る限り、同級生の家で物置に鍵をかけている者は少ない。
これが一体、何を意味するのか。

94: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:44:41.05 ID:XMs4bPFB0
カツオ「そうか、あの物置に何か秘密が隠されているんだ!」

カツオが声を上げると、隣で寝ていたワカメが目を覚ました。

ワカメ「お兄ちゃん…何をぶつぶつ言ってるの…?」

暗闇の中で、ワカメが瞼を擦っている。

カツオ「いいかワカメ、物置だぞ!物置に秘密があるんだ!」

ワカメ「物置…?何言ってるの?」

カツオ「お父さんがいつも鍵をかけてるだろ?なんだか怪しいと思わないか?きっとそこに僕達の出生の秘密が隠されているんだよ」

ワカメ「出生の秘密?母子手帳とか?」

カツオ「わからないけど、物置を調べれば何かわかるかもしれない…」

ワカメはすっかり目が覚めたようで、カツオの言葉に、重々しい声を出した。

ワカメ「物置…行ってみるしかないわね、お兄ちゃん」

96: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:45:39.68 ID:XMs4bPFB0
こうなったらもうおとなしく朝を待つことなど出来ない。
2人はパジャマの上にカーディガンを羽織ると、懐中電灯を手に忍び足で部屋を抜け出した。
そのまま音を立てないように玄関へ行き、静かに戸を引く。
真夜中、2人の吐く息は白い。
サンダルを履いた足元から、じんじんと寒さが伝わってきた。

ワカメ「でも、どうやって開けたらいいの…?」

物置の前までやって来ると、ワカメは肩を落としてカツオを見た。

カツオ「僕にまかせておけよ。こういうのは普段のいたずらで慣れているんだ」

カツオはそう言って片目を瞑ってみせた。
ポケットから安全ピンを取り出すと、鍵穴に差し込む。

ワカメ「そんなんで本当に開くの?」

カツオ「大丈夫大丈夫…」

そうは言ったものの、カツオはなかなか鍵を開けることができない。
隣で見守るワカメには、その間がずいぶん長い時間に感じられた。

97: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:46:26.26 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「お兄ちゃん、もう諦めたほうがいいんじゃない?」

ワカメが周囲を警戒しながらそう洩らした瞬間――。

カチッ!

カツオ「やった、開いたぞ」

カツオが震える声で言った。

ワカメ「すごいわ、お兄ちゃん!」

ワカメが囁く。

カツオ「よし…開けるぞ…」

カツオは大きく息を呑むと、物置の戸に手をかけた。
音を立てないよう慎重に引いていく。
物置は案外すんなりと、2人が入るスペース分開いた。

ワカメ「何だ…普通の物置じゃない…」

中を見たワカメが、落胆の声を上げる。

ワカメ「ここで何か見つかるのかな?」

98: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:47:37.70 ID:XMs4bPFB0
物置の中は、ダンボールや工具、こたつの足などが乱雑に置かれていた。
一見すると、まさかこの中に出生の秘密が隠されているとは到底思えない状態である。

カツオ「あのダンボールが怪しいな…」

カツオは一番上に積まれたダンボールに手をかけた。

ワカメ「わたしも手伝うわ」

兄のしようとしていることに気付いて、ワカメも手を伸ばす。
ダンボールの中身を確認していくつもりだ。

それから長いこと、カツオとワカメは物置に置かれたダンボールを調べていった。
しかし出てくるものは、サザエが昔夢中になっていた推理小説や、タラオが生まれたばかりの頃使っていた洋服、おもちゃばかりで、手がかりになりそうなものは何もなかった。

カツオ「だけど、ここにあるのはタラちゃんが使っていたものばかりで、僕達の赤ん坊時代の物は何もない…やっぱり変だよワカメ」

ワカメ「そうね、お兄ちゃん」

カツオはついに最後のダンボールに手をかけた。
その時だった。

カツオ「何だこれは…」

100: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:48:36.26 ID:XMs4bPFB0
ダンボールが置かれていた床に、切れ込みのようなものが見える。

ワカメ「これって、床下の倉庫じゃない?ほら、似たような切れ込みが台所の床にもあるわ」

ワカメが気がついて、そう指摘する。
磯野家の台所には確かに、フネの漬けた梅干の瓶などを入れるための床下倉庫があった。

カツオ「ついに見つけた…この中だ…」

カツオの体に、緊張が走る。

カツオ「よし、開けてみよう」

カツオは切れ込みの一部に取っ手のようなものを見つけて手をかけた。
ワカメがその辺りを懐中電灯で照らす。

ガタッ……。

カツオ「あれ?何だこれ?」

しかし床を開いたそこには、物を入れるスペースはなく、代わりに階段が続いていた。

106: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:54:02.71 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「地下室…?なんでうちにそんなものが…」

ワカメが驚きの声を上げる。
カツオはワカメに目線を合わせると、無言で頷いた。
ワカメが驚愕の表情を浮かべたまま、小刻みに首を動かす。
いつの間にか、2人は手を繋いでいた。
そして無言のまま、階段を下りていく。

ワカメ「寒いわ…ここ…」

カツオ「地下だからね」

カツオは震えるワカメを支え、階段をおり切った。
そこには六畳ほどのスペースが広がっており、一面の壁を本棚が覆っている。
学校の図書室に入った時のような、黴臭さが鼻をついた。

カツオ「ワカメ、懐中電灯貸して」

カツオはそう言って懐中電灯を受け取ると、本棚に近づいた。
本棚には番号を振られたファイルが、順番に並んでいた。
カツオはその中からナンバー1のファイルを取り出すと、パラパラと捲った。
小学生のカツオには読めない漢字や英語ばかりで、内容を把握することができない。
しかし何かの研究資料であることだけは、雰囲気でわかった。

107: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:54:51.32 ID:XMs4bPFB0
カツオ「こんなことならもっと真面目に勉強していれば良かったな…」

カツオは思わず、後悔の念を呟いていた。
いつの間にかワカメもすぐ傍にやって来て、ファイルを覗きこんでいる。
2人は寄り添うようにして、しばらくの間、得体の知れない研究資料に目を通していった。
やがてページの終盤までやってくる。
そこでワカメが声を上げた。

ワカメ「あ、これわたしとお兄ちゃんのことじゃない?」

カツオ「え?」

ワカメ「ほら、ここよここ!」

ワカメが指差したところには、カツオ121、ワカメ108という文字が書かれていた。

カツオ「本当だ、僕達の名前がある…」

ワカメ「でも、その後の数字は何かしら?」

カツオ「身長…じゃないしなぁ」

ワカメ「体重でもないわ」

カツオ「これってどういう意味だろう?」

108: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:56:22.82 ID:XMs4bPFB0
カツオはそれから自分達の名前が出てきた前後の文を読んでみた。
読めない漢字は飛ばしたので、それが果たして正しいのかはわからない。
しかし、ついに自分達の出生の秘密が明らかになったのだ。

カツオ「ここに書かれている内容をまとめると…僕達は何かの実験のために作られた人間?てことになる…」

カツオが説明すると、ワカメが小さく悲鳴を上げた。

ワカメ「そんなぁ…わたし達実験動物にされちゃうの?」

カツオ「わからないよ。だけどこのファイルの量からいって、すでに実験は始まってるのかもしれない。ほらここをご覧よ。初回実験実施日…で読み方は合ってるのかな?最初に実験が行われた日のことが書かれてる。僕が五歳、ワカメが三歳の頃だ…」

ワカメはそれを聞くと、しくしくと泣き出した。

ワカメ「やっぱりわたしとお兄ちゃんはお父さんとお母さんの子供じゃなかったんだ。お父さんとお母さんは、わたし達を実験動物として育てていただけだったんだ…えーん」

カツオ「こら、ワカメ静かにしろよ。誰か来たらどうするんだ」

ワカメ「お兄ちゃん…わたし達…これからどうしたらいいの?実験動物として、いつかは殺されちゃうのかな?」

カツオ「うーん、気になるのは一体どんな実験をしているかだよ」

110: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 15:57:10.98 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「でも人間を実験体にするくらいだから、きっと怖い実験なんだよ。わたし達って何者なの?なんでこんな目に遭わなきゃいけないの?」

カツオ「だけど、僕達が本当に実験動物だったとして、こういうのって人権侵害?てやつになるんじゃなかったかな?」

カツオは泣いている妹をよそに、ぶつぶつと独り言を言い始めた。

カツオ「だったらこのことを訴えて、世間に公表すれば…うーん、でも子供だけでどうやって…?何て説明したら大人は信じてくれるのかな?」

カツオの真剣な様子に、ワカメは涙を引っ込めた。
それからいつもの聡明な表情に戻ると、カツオの手からファイルを奪い、棚に戻してしまう。

カツオ「あ、ワカメどうしたんだ?」

カツオは慌ててファイルを取り返そうとする。それをワカメが制止した。

113: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:00:06.36 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「駄目よお兄ちゃん、わたし達が実験のことに気付いたと知ったら、お父さんとお母さんはきっとわたし達を頃すわ。こんな地下室なんか作って秘密でやっている実験だもの、きっと世間に言えない事情があるのよ」

ワカメ「今のわたし達はほんの子供…大人になんか勝てっこない。だから、時が来るのを待ちましょう。今まで通り普通に生活しながら、ここから抜け出すチャンスを窺うのよ。出来るわよね?お兄ちゃん…」

カツオ「ワカメ…」

急に頼もしくなった妹の姿を見て、カツオは冷静さを取り戻した。
この妹は、自分が思っているより遥に大人な考えを持っているようだ。
カツオは素直に、ワカメを尊敬した。

114: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:00:27.64 ID:XMs4bPFB0
カツオ「そうだな、ワカメの言うとおりだよ。取り合えず明日からはお父さんやお母さんの様子を見ながら、いつも通り過ごそう。おかしな点を見つけたら、すぐにお互い報告し合うこと。いいな?」

ワカメ「うん」

ワカメは力強く頷いた。
それから2人は上にあがると、苦労してダンボールを元に戻し、物置を後にした。
部屋に戻り、布団の中に潜り込む。
足先は感覚がなくなるくらい、冷たくなっていた。
もう眠いはずなのに、意識は妙にクリアだ。
カツオは明日からの生活を思い、決意を新たにした。

――絶対に生き延びてみせる…。実験台にされた上、無様に殺されるのだけは御免だ…。

116: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:01:28.82 ID:XMs4bPFB0
物置での発見から、一週間が経った。
日々は何事もなく過ぎていく。
家の中で警戒を続けるカツオとワカメだったが、波平やフネに怪しい行動は見られない。
拍子抜けするくらい、平和だった。
しかしいつも通りの自分を演じるカツオとワカメには、精神の限界が来ていた。
カツオは深夜、うなされるワカメの声で目が覚める。
そんなことが続き――。

楽しいはずのおやつの時間。
カツオとワカメはのろのろとプリンを口に運んでいる。
その様子を見たサザエが、首を傾げた。

サザエ「あら2人とも、まだ食べてたの?おなかいっぱいならプリン、姉さんが貰ってあげるわよ」

サザエが悪戯っぽい目つきで2人を見る。
ぼうっとスプーンを動かしていたカツオだったが、サザエの一言で我に返り、すぐに威勢のいい声を上げた。

カツオ「何だい姉さん、可愛い弟の分もプリンを食べようってのかい?」

117: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:02:32.19 ID:XMs4bPFB0
サザエ「あら?どこにそんな可愛い弟がいるのかしら?」

サザエがわざとらしく辺りを見回す。
フネが居間に入って来て、いつもの通り呆れ顔でカツオとサザエをたしなめた。
ワカメがそれを見て、すました態度でカツオに忠告する。

ワカメ「お兄ちゃん、口に物を入れたまま喋るのはお行儀が悪いわよ」

サザエ「そうよワカメの言う通りよー」

ワカメ「お姉ちゃんだって人のこと言えないわよ」

そこでお決まりの笑いが起きる。
見慣れた磯野家の風景だ。
サザエもフネも、カツオとワカメが慎重に演技していることに気がついてはいない。

118: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:03:07.83 ID:XMs4bPFB0
カツオ「あ、そういえばタラちゃんは?」

サザエ「こらカツオ、話を反らすんじゃないわよ」

フネ「タラちゃんならさっき三郎さんから風車を貰って、遊びに行きましたよ」

カツオ「へぇ、じゃあ僕も中島のところへ行こうかな」

ワカメ「わたしもミユキちゃんと遊ぶ約束してるんだったわ」

演技で疲弊しきったカツオとワカメは、そこで話を切り上げ、家を出た。
表へ出た途端、自然と肩が下がり、ため息が洩れる。

ワカメ「お姉ちゃんや母さん、何も気付いてないわよね?」

ワカメが確かめるように言った。

カツオ「ああ、僕達の演技は完璧だよ」

カツオが頷く。
2人は唯一自然体になれる場所――友人の家へ向かうため、玄関の前で別れた。

120: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:04:01.64 ID:XMs4bPFB0
カツオは中島の家へと向かった。
出迎えてくれた中島は、カツオの腕を引っ張ると、そのまま外へと連れ出した。

中島「実は兄貴が試験勉強の真っ最中なんだ。悪いけど今日は外で遊ぼうぜ」

カツオ「ああ、悪いな中島」

それから中島はマフラーを首元まで引き寄せると、小さく呟いた。

中島「今日は一段と寒いな…」

カツオと中島は並んで公園を目指した。
公園が近づいてくると、聞きなれた声がカツオの耳に届いた。

タラオ「リカちゃん風車で遊ぶですー」

公園にはすでにタラオが来ていて、友達と遊ぶリカの輪に入ろうするところだった。

中島「あ、タラちゃんじゃないか…」

121: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:04:48.37 ID:XMs4bPFB0
カツオと中島は、そのままなんとなくタラオの様子を眺めた。
タラオはとてとてと可愛らしい仕草でリカの元へと走っていく。
タラオが現れて、リカはどことなく迷惑そうである。
リカの手には、おもちゃのフライパンや鍋が握られていた。
おままごとの最中なのだ。
リカにとって、年下男児のタラオはおままごとの邪魔者でしかないのだろう。
しかし幼いタラオがそこまで周りの空気を察知できるはずもない。
タラオは嫌がるリカなど気にする様子もなく、強引に輪の中に入ってしまった。
リカの友人は、責めるような目でリカを見る。
リカは大人びた仕草で肩をすくめると、言い聞かせるようにタラオに声をかけた。

リカ「タラちゃん、あたし達おままごとしてるの。邪魔しないなら仲間に入れてあげてもいいわよ」

タラオ「はいー。邪魔しないですー」

リカ「本当はいるだけで邪魔なんだけどね…」

タラオ「え?」

リカ「ううん、何でもない、こっちの話よ」

タラオとリカのやりとりを聞き、カツオはタラオが気の毒に思えてきた。

123: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:05:40.59 ID:XMs4bPFB0
リカ「ちょうどいいわ、タラちゃんは犬の役をやってちょうだい。ほらタラちゃん、餌の時間ですよー。お手っ!」

リカがそう言うと、リカの友人達の間から笑いが起こった。
タラオのことを馬鹿にしているのだ。

タラオ「僕犬の役は嫌ですー。人間の役がいいです」

リカ「じゃあタラちゃんは赤ちゃんの役ね、バブーしか言っちゃ駄目よ」

タラオ「僕赤ちゃんじゃないですー」

泣き出したタラオを、リカは鬱陶しそうに一瞥する。
それからため息をついて言った。

リカ「じゃあもういいわよ。タラちゃんはお兄ちゃんの役ね」

タラオ「わーい、僕お兄ちゃんですー」

タラオは嬉しそうに両手を挙げて、小躍りした。

リカ「じゃあ始めるわよ。お兄ちゃん、今日のおやつはママの手作りクッキーよー。手を洗ってらっしゃい」

リカはすぐに切り替えて、ママ役を演じ始めた。

124: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:06:13.37 ID:XMs4bPFB0
タラオ「はいー。手を洗ってくるです」

リカ「はいクッキー」

リカはそう言って、皿に泥を持ってタラオに差し出す。
タラオは一生懸命、それを食べる演技をした。

――可愛いもんだな…。

カツオはタラオのおままごとを、微笑ましく見守る。
下に兄弟がいない中島も同じ気持ちらしく、頬を緩ませながらタラオを見つめていた。

125: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:07:24.40 ID:XMs4bPFB0
タラオ「僕お兄ちゃんだから写真がないですー」

リカ「は?何言ってるの?」

タラオ「お兄ちゃんはお姉ちゃんより可愛がってもらえないのです。だから写真がないのですー」

リカ「何それ、タラちゃんのうちの話?」

リカはタラオの言葉に、不快感を露にした。

リカ「真面目にやってよタラちゃん。タラちゃんはお兄ちゃんの役でしょ」

しかしタラオはそんなリカの態度を気にすることなく、喋り続けた。

タラオ「はいー。だからお兄ちゃんは写真がないです。小さい頃の写真がなくて、かわいそうなお兄ちゃんなのです」

リカ「ねぇ、タラちゃん置いて、別の場所でおままごとの続きしましょうよ」

リカは呆れておままごと道具を片付けながら、友人達にそう提案した。
しかしリカの友人の1人が、興味を示し、タラオに尋ねる。

リカ友「ねぇタラちゃん、それって本当の話なの?」

128: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:09:22.46 ID:XMs4bPFB0
リカの友人に話しかけられ、タラオを上機嫌である。
調子に乗ってぺらぺらと話し始めた。

タラオ「はいー。カツオお兄ちゃんとワカメお姉ちゃんは赤ちゃんの時の写真がないですー。かわいそうですー」

リカ友「えー、写真がないなんてかわいそう。うちのママはあたしが赤ちゃんだった時の写真を玄関に飾ってるよ。うちのおじいちゃんちも」

リカ「本当ね、タラちゃんちのお兄ちゃん達、とってもかわいそうだわ」

タラオ「はい、かわいそうです」

それからタラオ達は、口々にカツオとワカメをかわいそうと言い続けた。
しかし同情からというより、他人の不幸を面白がっているような言い方である。

129: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:09:58.24 ID:XMs4bPFB0
中島「磯野…学校の校庭で遊ぼうぜ…」

中島は隣に立つカツオに気を遣い、場所を移動させようとした。

カツオ「え?アハハやだなタラちゃん、おしゃべりなんだから。リカちゃんに注目されたくてあんな嘘言ってるんだよ…」

中島「磯野…」

中島は眉を下げ、カツオを見つめた。
カツオはそんな中島を心配させないよう、わざと元気に振舞う。

カツオ「校庭か…いいね、野球でもしよう」

カツオは肩を回しながら、そちらの方向へ歩き出した。
それを中島が引き止める。
中島はカツオを肩を掴んで、自分の方へ向けた。
中島に覗き込まれ、カツオは思わず目を反らした。
視線が合った瞬間、中島にすべて見透かされてしまいそうで怖かった。
中島が静かな声で言う。

132: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:11:00.88 ID:XMs4bPFB0
中島「磯野…僕の前で無理なんかするなよ。おまえここ最近変だぞ。目の下はすごい隈だし、なんだか疲れているように見えるし…」

カツオ「最近急に冷えたから、夜眠れないだけだよ」

中島「嘘つくなよ。頼むから、僕の前で元気な振りなんかしないでくれよ」

中島が懇願するように言う。
カツオはそこでようやく中島の目を見た。
中島は、今にも泣き出しそうなのを寸でのところで堪えている。

中島「な、磯野?」

カツオ「中島…」

カツオは中島の肩にもたれかかると、物置での発見以来抑えていた涙をこぼした。
そうしてしばらくの間、声を頃して泣き続けた。
中島は無言でカツオの背中を擦っている。
公園から、タラオ達の無邪気な声が2人のもとへ届く。

タラオ「かわいそうですー。かわいそうですー」

泣き止んだ時、カツオの中にはタラオへの憎悪しか残っていなかった。

135: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:12:00.36 ID:XMs4bPFB0
その後、校庭に移動して中島とキャッチボールをしたカツオは、辺りが暗くなったところで中島と別れた。
家路を急ぐ。
角を曲がったとき、目の前に三輪車を漕ぐタラオの後姿が飛び込んできた。

カツオ「おや、タラちゃんも今帰りかい?」

タラオ「あ、カツオお兄ちゃん!」

タラオは公園にカツオが居たことに気付いていなかったのか、何事もなかった顔でカツオを振り返った。
幼い振りをして、ちゃっかりリカ達の気を引くためカツオをダシにしたタラオ。
タラオの笑顔を見ると、カツオの中でますます憎悪が燃え上がった。

カツオ「リカちゃんと遊んでたんだろう?楽しかったかい?」

タラオ「はいですー」

カツオ「何をして遊んだの?」

タラオ「リカちゃんのうちでお人形遊びしてたです」

カツオ「ふーん」

――本当は公園でおままごとしていたくせに…。

136: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:12:53.74 ID:XMs4bPFB0
タラオはずるい。
自分の幼さを武器にして、平気でこずるい嘘を吐く。
幼いという理由で何もかもが許されると思っているのだ。
その小さな手に、世界のすべてを掌握しきった顔で、親の保護のもと、毎日のうのうと生きている。

カツオ「そういえばタラちゃん、さっき公園の前を通ったらリカちゃんのおままごと道具がベンチに忘れたままになっていたよ」

タラオ「そうですか。僕取りに行ってリカちゃんに届けてあげるですー」

カツオ「じゃあ僕も一緒に行こう」

カツオはそう言って、タラの三輪車を押してやった。

タラオ「わーい、カツオお兄ちゃんが押してくれると速いですー」

カツオ「そうかい、じゃあもっと速く押してあげようね…」

カツオは足に力をこめ、地面を蹴った。
勢いをつけて三輪車を押す。

137: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:13:34.08 ID:XMs4bPFB0
タラオ「キャー」

三輪車を押されたタラオは、悲鳴を上げながら数メートル先まで飛んで行った。
なんとか地面に足をつけ、三輪車を停車させている。

タラオ「怖いですー。カツオお兄ちゃん」

カツオ「ごめんよ。今度は気をつけるよ」

タラオ「もういいです。自分の足で漕ぎます」

タラオはカツオを睨みつけると、短い足できこきこと三輪車を漕ぎ始めた。

――あのまま地面に激突してしまえば良かったのに…。

タラオの背後を歩きながら、カツオを突き刺すような視線を向ける。
すると気配を察知したのか、タラオが振り返った。

タラオ「ん?どうしましたか?」

カツオ「いいや何でもないよ」

カツオは慌てて作り笑いを浮かべた。

139: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:14:17.45 ID:XMs4bPFB0
公園に着くと、タラオは三輪車を下りてベンチまで走っていった。
リカのままごと道具を探す。
しかし目当てのものは見つからなかった。

タラオ「あれー?ないですよー」

タラオは不思議そうに首を傾げて、まだ辺りをきょろきょろとしている。
すでに日は暮れて、公園内にはわずかな明かりしかない。
タラオの白い息が、冬の空へと溶けていく。

タラオ「本当にここにリカちゃんのおままごと道具があったのですか?」

タラオはベンチの辺りを探るのをやめ、背後に立つカツオを振り返った。

カツオ「あるわけないだろう。だって嘘だもん」

タラオ「あー!カツオお兄ちゃん僕に嘘ついたのですか?嘘つきは泥棒の始まりですよ」

タラオは頬を膨らませた。
しかしいつもと違うカツオの態度に気がつき、怯えた表情を浮かべる。

タラオ「カツオお兄ちゃん…?」

141: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:15:39.13 ID:XMs4bPFB0
カツオはゆっくりとタラオに歩みよると、その肩を掴んでしゃがみこんだ。
目線をタラオに合わせる。
それから鼻と鼻がくっつくくらい、タラオへ顔を近づけた。

カツオ「嘘ついてんのはてめぇのほうだろうが!」

カツオが低い声で言う。
そうしながら、タラオの肩を激しく揺すった。

タラオ「やめてください。痛いです。カツオお兄ちゃん怖いですよ」

カツオ「もう可愛い子ぶるのはやめたらどうなんだ?嘘つきのガキが!リカちゃんの家で人形遊びしてただと?だったらなんでベンチにリカちゃんのおままごと道具があると言われて不思議に思わないんだ?」

カツオ「家にいたはずのリカちゃんが、公園に忘れ物するわけないだろ?嘘つくならもうちっと頭を使うんだったな…」

タラオ「嘘じゃないですー。本当にリカちゃんとお人形遊びしてたです」

カツオ「嘘だっ!!」

カツオが怒鳴ると、タラオは一瞬呼吸を止め、それからおいおいと泣き始めた。

142: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:16:55.16 ID:XMs4bPFB0
カツオ「ここには優しいママもおばあちゃんもいないよ。泣いたって誰も助けてくれないんだよ…」

タラオ「グスン…グスッ…うぇぇ…」

カツオ「お前が昼間リカちゃんに何を話していたか、僕は知っているんだよ。かわいそうだと?ふん、馬鹿にしやがって。まだ小さいからって何でも許されるとは限らないんだよ!」

カツオをそう言うと、タラオの頭をひっぱたいた。
タラオをついに悲痛な声を上げ、助けを求めて逃げ出そうとする。
カツオはそれを許さなかった。
圧倒的な年の差、体格の差が、カツオの勝利を表している。

カツオ「氏ねぇぇぇタラオぉぉぉぉ」

すぐさまタラオを捕まえると、力いっぱい突き飛ばした。
タラオは無言のまま、地面に突っ伏している。
恐怖が頂点に達したのか、泣き声さえ上げない。

カツオ「何だよ、さっさと起きろよ」

カツオは倒れたタラオを見下ろすと、低い声で言った。
しかしタラオは起き上がるどころか、動こうともしない。

カツオ「おい、そうしてれば誰かが助けてくれると思うなよ」

145: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:18:18.33 ID:XMs4bPFB0
カツオはタラオの肩を掴み、乱暴に揺すった。
タラオはされるがままに、ぐにゃぐにゃと揺れるだけである。

カツオ「嘘だろ…タラちゃん…おい…起きろよ…」

そこでカツオは気がつき、さっと手を引っ込めた。

――もしかして…氏んでる…?

カツオ「…うわ…うわぁぁぁぁぁぁ…」

カツオはへなへなとしりもちを着くと、後ずさった。
タラオはカツオに突き飛ばされ倒れた姿勢のまま、地面に突っ伏している。
どこかでバイクの音が聞こえた。

――ここに居ることを誰かに見られたらまずい。

そろそろ会社帰りの波平やマスオがこの公園の傍を通るかもしれない。
カツオは飛び上がり、一目散に公園の出口へと走り出した。

149: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:19:21.01 ID:XMs4bPFB0
翌日、サザエはカーテンの隙間からこぼれる光で、朝が来たことを悟った。

――タラちゃん…どこへ行ってしまったの…?

サザエの横には、目を真っ赤にしたマスオが、無言でコーヒーを啜っている。
昨日、最愛の息子タラオが行方不明になり、夫婦は眠れぬ夜を過ごした。
サザエとマスオだけではない、波平もフネも、昨日の夜から何度も家を出ては近所を捜索して回り、一睡もしていなかった。

玄関の開く音が聞こえ、ノリスケがとぼとぼと居間に入ってくる。

サザエ「ノリスケさん!タラちゃんは…タラちゃんは…」

ノリスケの姿を見て、サザエは立ち上がった。
ノリスケは無言で首を振る。
サザエはへなへなと、その場に座りこんだ。

マスオ「悪かったねノリスケくん、君にまで捜索してもらって…」

ノリスケ「いや、そんな…」

いつもは陽気なノリスケも、今日は悲痛な表情を浮かべ、ぼそぼそと喋る。
近所への影響を考え、タラオの件は秘密にしてあった。
しかし捜索の人手が必要のため、ノリスケだけには打ち明けて、手伝ってもらっているのだ。

151: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:20:22.01 ID:XMs4bPFB0
サザエ「やっぱりあたしも捜索に参加して…」

ノリスケ「いえ、サザエさんはタラちゃんが帰ってきた時のために、家にいてあげてください」

マスオ「ごめんよ…タラちゃんのために…」

マスオは服の袖で目頭を拭った。

ノリスケ「駄目ですよマスオさんやサザエさんがそんなんじゃ…。タラちゃんが帰って来たら心配しますよ」

ノリスケがマスオの肩を叩いて励ます。

サザエ「そうよね。あたしおにぎりでも作るわ。マスオさんもノリスケさんも、おなかすいたでしょう。カツオやワカメを学校に行かせなくちゃいけないし」

サザエは気持ちを切り替え、台所へ向かった。
入れ違いに、カツオとワカメが眠い目を擦りながら居間に入って来る。

カツオ「おはようマスオ義兄さん、ノリスケおじさん」

ワカメ「タラちゃん…見つかったの?」

ワカメが不安そうに尋ねる。
マスオは慌てて笑顔を作り、優しくワカメに答えた。

154: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:21:04.54 ID:XMs4bPFB0
マスオ「大丈夫だよ。ワカメちゃん達が学校から帰って来るまでには見つかるから」

ワカメ「本当?絶対にタラちゃん見つかるわよね?」

マスオ「ああ、当たり前さ。サザエが朝ごはんにおにぎりを用意してくれているから、顔を洗っておいでよ」

ワカメ「はーい」

素直なワカメは、マスオの言葉をすっかり信じ、洗面所へ向かった。

ノリスケ「カツオくんは顔を洗わなくていいのかい?」

カツオ「うん、洗うよ。だけどタラちゃんのことが気になってね。どこへ行ったのだろう」

マスオ「大丈夫だよ。すぐに見つかるから。学校へ行く支度をしておいでよ」

カツオ「はーい」

156: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:21:55.15 ID:XMs4bPFB0
居間を出たカツオは、密かに震える足を擦り、心を落ち着かせた。

――やっぱりタラちゃんはあの時、氏んじゃったんだ…。

幸いまだ公園は捜索されていないようだ。
しかし今日のうちに、タラオの遺体は発見されるだろう。

――へ、平気さ…。例え遺体が見つかっても、誰も僕がやったなんて思うわけない…。

カツオはそう自分に言い聞かせた。

158: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:22:48.48 ID:XMs4bPFB0
学校に着いたカツオは、教室で中島と顔を合わせた。

中島「おはよう磯野。どうした?随分顔色が悪いみたいだけど…」

中島はカツオの様子を見て、心配そうに眉を寄せた。

カツオ「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけさ」

中島「また遅くまで漫画読んでたんだろう?」

カツオ「あ、あぁ…そんなとこだよ…」

カツオはそう言って作り笑いを浮かべ、ランドセルを下ろした。
しかしやはりタラオの捜索のことが気に掛かる。

――今頃もう、ノリスケおじさんあたりが遺体を発見しただろうか…。その場合、学校に連絡が入るのかな…。

160: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:23:18.58 ID:XMs4bPFB0
中島「…でさ、兄貴が……え?磯野聞いている?」

カツオ「あぁ、ごめん考え事してたよ」

もうカツオは落ち着いて中島の声に耳を傾けることができない。

――駄目だ、こんな状態じゃ遺体が見つかった時僕が怪しまれるかも…。

カツオは決心して、下ろしたばかりのランドセルを再び掴んだ。

中島「え?磯野?」

驚く中島を振り切り、カツオは教室を飛び出した。

カツオ「ごめん中島、僕やっぱり具合悪いから早退するよ」

一目散に公園へと走る。

163: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:24:38.79 ID:XMs4bPFB0
学校を出てから一度も足を止めることなく、カツオは公園へとたどり着いた。
幸い、まだ朝が早いとあって公園内に人影はない。
自然な動作を意識して、ぐるりと園内を見渡す。
しかしどこにも、タラオの姿はなかった。

――おかしいな…そういえば入り口に置いたはずの三輪車もなくなってる…。

カツオ「遅かったか…」

カツオはそこで足の力が抜け、しゃがみこんだ。
拳を握り、地面に叩きつける。

――やっぱりもう、遺体は発見されたんだ…。

カツオの作戦では、タラオの遺体が見つかる前にどこかへ隠す予定だったのだ。
そうすればまだタラオは行方不明のままということになり、いくらか時間稼ぎが出来る。
その間に、心を落ち着かせ、家族や警察に対して冷静に演技が出来るよう準備するつもりだった。

カツオ「仕方ない。これまでだって家族の前で演技してきたんだ。やってやる…一生タラちゃんのことは隠し通すんだ…」

カツオは再び地面を殴り、気合を入れた。
それからタラオの無事を祈る優しい叔父という表情を作り、とぼとぼと公園を出た。

165: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:25:34.00 ID:XMs4bPFB0
帰宅したカツオを見て、フネは目を丸くした。

フネ「こんな時間に帰ってきて、一体どうしたんです?」

カツオ「やっぱりタラちゃんが心配で、授業どころじゃなかったんだよ。僕も探すの手伝うよ…」

フネ「まぁカツオ…」

フネはカツオの言葉に、瞳を潤ませた。

フネ「さあ上がりなさい。今はマスオさんも捜索から帰って来て、一休みしているところですよ」

カツオ「捜索?じゃあまだタラちゃんは見つかってないんだね…」

フネ「えぇ…」

フネは暗い表情で、短く返事をした。

――おかしいな、まだ遺体は見つかっていないのか?でも公園からは確かに消えていたし…。

カツオは密かに首を傾げた。
しかし自ら詳しい事情を聞いたのでは、後々怪しまれてしまうかもしれない。
何か引っかかるが、ここはおとなしく、タラちゃんの無事を信じる演技を続けたほうがいい。

166: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:26:19.55 ID:XMs4bPFB0
カツオ「心配だな…」

フネ「そうね…」

カツオ「あ、お父さんは?」

フネ「お父さんは会社に行きましたよ」

カツオ「そっか、お父さんまで休むわけにはいかないもんね…」

波平がいないというだけで、随分気が休まる。
カツオは安心して家の中に入った。
もっとも、帰宅した理由を説明すれば、意外に涙脆い波平のことだ、すんなり許してくれただろうけれど。

――だけどお父さんやお母さんに、心を許しちゃいけないんだ…。

カツオは気を引き締めた。

169: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:27:26.24 ID:XMs4bPFB0
カツオ「あれ?姉さんは?姉さんもいないの?」

フネに淹れてもらったココアを飲みながら、カツオは尋ねた。

フネ「昨日から寝ていないからね、サザエならちょっと部屋で休んでいますよ」

カツオ「そうか、そうだよね…。僕もこれ飲んだらまたタラちゃんを探しに行くよ」

フネ「いけませんカツオ!」

カツオ「お母さん…?」

フネ「こんな状況でカツオにまで何かあったら…。危ないからおとなしく家の中にいてちょうだいな」

カツオ「…わかったよ」

フネは般若のような顔でカツオを睨んでいた。
下手に反抗しないほうがいいと思い、カツオは素直に引き下がる。

――やはりお母さんはタラちゃんが氏んだことに気付いてない…。ということはやはり遺体は見つかっていないんだ…。

カツオは不安な気持ちでココアを啜った。

――どうなってるんだよ、一体…。

171: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:28:15.71 ID:XMs4bPFB0
しばらくすると、青い顔をしたサザエがふらふらと居間に入って来た。

マスオ「サザエ、もういいのかい?」

サザエ「ええ平気よマスオさん。あたしも捜索に参加するわ」

マスオ「サザエ…」

マスオは普段の快活さをすっかり失った妻の姿を見て、心を痛めた。
タラオがいないことも、サザエが元気を失くすことも、マスオとしては耐えられないほどに辛い。

サザエがのそのそとお茶を飲んでいる時、勝手口の開く音と、この場に似合わぬ明るい声が聞こえてきた。

三郎「ちわー、三河屋ですー」

フネ「あら、三郎さんだわ…」

フネは少し迷う仕草を見せたが、ぱっと立ち上がり、静かに台所へと向かった。
タラオの件を知らぬ三郎は、いつもように人懐こい笑顔を浮かべ、ドアの隙間から半身を覗かせている。

172: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:29:07.38 ID:XMs4bPFB0
三郎「ひゃー今日も寒いですねー。あ、これ注文いただいてたお酒とみりん、ここに置きますね」

フネ「いつもありがとう」

三郎「いえいえ」

三郎は丁寧な手つきで酒瓶を下ろし始める。
フネはそこで思いついて、三郎に尋ねてみることにした。
普段御用聞きに近所を飛び回っている三郎なら、タラオの行方について何か知っているかもしれない。

フネ「そういえば三郎さん、タラちゃんたらここの所帰りが遅くて…。今度から夕方に道でタラちゃんを見つけたら、すぐに帰るよう伝えてもらえないかしら?」

タラオが行方不明になっていることを悟られないよう、フネはお願いを装って言った。
三郎は愛想よくそれを承諾する。

三郎「いいですよ。見かけた時には、ちゃんとタラちゃんに伝えるようにします。だけど、今までタラちゃんを遅くに見かけたことなんてなかったなぁ…」

173: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:30:12.93 ID:XMs4bPFB0
フネ「そ、そうかしら?ほんの最近なのよ、遅くまで外で遊ぶようになったのは」

三郎「そうでしたか。やっぱりタラちゃんも男の子だから、外遊びが好きなんですね。元気な証拠ですよ」

フネ「元気な…証拠…」

皮肉にも、三郎の言葉はフネの心に突き刺さった。

――本当に元気ならいいのだけど…。

表情を曇らせたフネを見て、三郎は気まずそうに頭を掻く。

三郎「あの、僕なんかまずいこと言っちゃいましたか?」

フネははっと我に返り、慌てて首を振った。

フネ「いいえ何でもないのよ。気にしないで」

三郎「そうですか?よくおやっさんに怒られるんですよ。お前は男のくせにおしゃべりだって。僕、つい余計なこと言っちゃうんですよねぇ…」

三郎はそう言って、軽く頭を下げた。

174: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:30:44.36 ID:XMs4bPFB0
三郎「じゃあまた明日伺いますから、御用があったら申し付けてください。まいどー」

三郎がいなくなると、フネはふっとため息を洩らした。

――あの様子だと、三郎さんはタラちゃんの行方について手がかりを知っているとは思えないわね…。

フネは肩を落とし、居間へと戻った。
するとなぜかサザエの様子が明るくなっていた。

サザエ「聞いてよ母さん、あたし名案を思いついたんだけど!」

フネ「まあ、何です?」

フネは詳しく聞くため、サザエの隣に腰を下ろす。

サザエ「さっきサブちゃんの声を聞いて思いついたのよ。だけどマスオさんに話したら止められて…母さんなら賛成してくれるわよね?」

フネ「賛成も何も…一体何を思いついたっていうんです?」

175: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:31:55.66 ID:XMs4bPFB0
サザエ「ほら、サブちゃんならご近所を回っているし、事情を話してあちこちにタラちゃんの行方を聞いてもらったらどうかしら?御用聞きのついでなら、サブちゃんの仕事に支障はきたさないはずよ」

サザエは今にも立ち上がり、三郎を追いかけていきそうな勢いでそう説明した。
それを聞いたフネが、眉間に皺を寄せる。

フネ「でも、三郎さんはおしゃべりだし、余計なことまで言ってご近所にいらぬ心配をさせやしないかしら…」

サザエ「今はそんなこと言ってる場合じゃないわよ。タラちゃんがこのまま見つからなかったら…」

サザエは乗り気でないフネの態度に、口を尖らせた。
それをマスオが宥める。

マスオ「やっぱりお義母さんも反対みたいじゃないか。ここで三郎さんい協力を頼むなんて、昨日から一生懸命捜索を手伝ってくれているノリスケくんにも失礼だよ…」

サザエ「それはそうだけど…」

サザエはそこで口ごもり、ぶつぶつと何事が呟き始めた。
三人の会話を聞き流すふりをして、カツオの心臓は早鐘を打っている。

――そんな…おしゃべりな三郎さんに知れたら、すぐにご近所中がタラちゃんの捜索に乗り出すに決まってる…。

それはカツオにとって一大事であった。
ここはどうにかして、サザエを諦めさせるしかない。

176: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:33:46.56 ID:XMs4bPFB0
カツオ「ぼ、僕も三郎さんに協力をお願いするのは反対だな」

サザエ「カツオには聞いていません。今はあたしとマスオさんと母さんの3人で話し合ってるのよ」

案の定、サザエはカツオを手であしらい、相手にしなかった。
しかしカツオはめげない。

カツオ「だって三郎さんはタラちゃんのことをすごく可愛がってるんだよ。タラちゃんが行方不明なんて知ったら、三郎さんはきっとすごく傷つくし、心配するよ。そんな酷な仕打ち、優しい三郎さんにしちゃ駄目だよ」

カツオの言葉に、サザエの心が揺らぐ。

マスオ「そうだよ。カツオくんの言う通りさ。家族でもない三郎さんまで落ち込ませることは出来ない。かわいそうだよ」

サザエ「そう…かしら…」

カツオ「そうだよそうだよ!いくらタラちゃんが心配だからって、姉さんは周りが見えなくなってるんだ!」

カツオ「タラちゃんのためなら、三郎さんを傷つけてもいいのかい?それは自分勝手というものさ!昨日だって、三郎さんはタラちゃんに青と緑の二色になってる風車をプレゼントしてくれたじゃないか」

カツオ「あの風車、絶対三郎さんの手作りだよ。そこまでタラちゃんを想ってくれてる人に心配をかけたら駄目だよ」

カツオは畳み掛けるように言い、サザエを見つめた。
うつむいていたサザエがゆっくりと顔を上げる。

――どうやら考え直したようだな。

カツオが安心した矢先、サザエが低い声で呟いた。

178: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:35:34.45 ID:XMs4bPFB0
サザエ「風車…ですって…?」

サザエはまっすぐにカツオを睨む。
その迫力に、カツオはたじろぎながらも頷いた。

カツオ「そうだよ風車。三郎さんがいつもタラちゃんに持ってきてくれるだろう?昨日だって…」

サザエ「何でカツオがそのことを知ってるのよ!」

サザエはそこで怒鳴り声を上げ、カツオに詰め寄った。

サザエ「昨日タラちゃんは三郎さんに風車を貰った後すぐに、それを持って出かけて行ったわ。だからその後に帰って来たカツオが、タラちゃんがどんな風車を貰ったかなんて知るはずない」

サザエ「だけどカツオ、あんたはさっき青と緑の二色の風車と言った。なぜそこまで詳しく知っているの?」

サザエ「あんた、タラちゃんの行方について何か知ってるんじゃないの?知ってて、今まで知らないふりしてたんでしょう?怪しいわね…」

サザエはそう言いながら、カツオの耳を掴んで引っ張った。
無意識の行動ではあったが、カツオには効果てきめんである。

カツオ「いてて、離してくれよ姉さん…」

カツオは身をよじらせ、サザエの手から逃れた。

182: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:36:46.17 ID:XMs4bPFB0
マスオ「サザエ、乱暴は良くないよ」

マスオはサザエの攻撃からカツオを守りながら抗議した。
それからカツオに顔を向け、静かに問い質す。

マスオ「カツオくん、君は何か知ってるね?教えてくれないかな?」

マスオの言葉に、カツオは小さく頷いた。

――ここは下手に嘘をつかないほうがいい…。

カツオはそう判断し、口を開いた。

カツオ「昨日中島と公園の前を通りかかった時、リカちゃんと遊ぶタラちゃんを見たんだ。タラちゃんは手に風車を持ってたから、わかったんだよ…」

しかしサザエはまだ疑り深そうにカツオを睨む。

サザエ「本当にそれだけでしょうね?タラちゃん、その後どこに行くとか言ってなかった?」

カツオ「通りかかっただけで話しかけてはいないから知らないよ。嘘だと思うなら僕よりリカちゃんに聞いてみたほうが早いんじゃない?」

185: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:37:40.71 ID:XMs4bPFB0
サザエ「そうね、早速リカちゃんのお宅に電話して…」

フネ「やめなさいサザエ、もうお昼時だから相手に迷惑よ」

フネの言葉に、カツオは壁の時計を見上げた。
タイミングよく、ノリスケが戻って来る。

ノリスケ「タラちゃんの行きそうなところは探しているんですけどさっぱり…で、お昼は何ですか?」

タラオの心配はするものの、食い意地は張っているノリスケである。

フネ「ノリスケさんの腹時計は随分正確なんですね」

フネはそう言って、昼食の支度をするため立ち上がった。

――助かった…。

ノリスケの登場により、追求を逃れ、ほっとするカツオであった。

186: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:38:33.15 ID:XMs4bPFB0
昼食を食べ終えると、マスオとノリスケは揃ってタラオの捜索に出て行った。
入れ違いにタマが外から帰って来る。

タマ「ニャーン」

サザエ「あらタマ、ごはんが欲しいの?」

サザエはタマの昼食を用意するため、立ち上がった。
タマは優雅に座布団の上へ座ると、毛づくろいを始める。

フネ「あら?」

その時、フネが何かに気付いた。

カツオ「どうしたの?」

フネ「タマの首輪に何か挟まってるわ…あぁこれ…タラちゃんのお手紙…」

フネは以前にタラオが言っていたタマを伝書猫にする話を覚えていた。
すぐさまタマの首輪から折りたたまれた紙を抜き取り、広げる。

フネ「これは…」

カツオ「え?何?」

フネ「これってどういう意味かしら?」

188: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:39:27.46 ID:XMs4bPFB0
フネはタラオからの手紙を、困惑の表情で眺めた。
ちょうどタマの餌を持って居間に入って来たサザエが、気がついて、フネの手からそれを取り上げる。

サザエ「なぁに?タラちゃんからのお手紙?」

カツオ「あ、姉さん僕も見たいよ」

カツオは立ち上がり、サザエの背後から手紙を覗き込む。
それは浦島太郎が海辺で、助けたばかりの亀と向き合っているページであった。

――何で亀なんだろう…。

カツオが考えていると、サザエが先にその意味に気付いた。

サザエ「そうだ、学校だわ!」

フネ「学校?どうしてタラちゃんがそんなところに?」

フネが尋ねる。

189: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:40:47.37 ID:XMs4bPFB0
サザエ「タラちゃんはカツオ達の学校にいる亀が好きで、よく眺めに行っていたの。あたしには内緒にしてるみたいだったけど。そうだわ、きっとそうよ。タラちゃんは昨日、亀を見に学校へ向かったんだわ」

フネ「じゃあ学校の周辺を捜索することにしましょう」

フネはすでに割烹着を脱ごうとしている。
今すぐにでも捜索へ出かけようという気なのだ。

フネ「良かった、これでタラちゃんの足取りがわかったわね。まさかタラちゃんが小学校に行くなんて思わないから、きっとあの辺りはまだ捜索していないはず。カツオ、ちょっとお留守番していてくれるかい?サザエ、私達で探しに行きましょう」

フネはそう言って、サザエを促した。
サザエは納得のいかない顔で、絵本のページを睨んでいる。

フネ「…サザエ?」

サザエ「…でも…おかしいわ」

フネ「何を言ってるの?早くタラちゃんを探しに行きましょう」

サザエ「ええ…でもその前に…カツオ?あんたさっき何て言ったかしら?」

サザエはフネの誘いを無視して、カツオに視線を向けた。
その顔は、疑心に満ちている。
カツオはサザエのただならぬ様子に、思わず両肩を硬直させた。

190: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:41:59.15 ID:XMs4bPFB0
カツオ「え?何が?」

サザエ「あんたさっき、タラちゃんは昨日公園でリカちゃんと遊んでいたって言ったわよね?だけどこの手紙から察するに、タラちゃんは昨日亀を見に行っているはず。あんたの発言とこの手紙、どうして食い違っているのかしら?」

そう言ってサザエは、じろりとカツオを睨んだ。
カツオの瞳から、真実を抜き取ろうとするかのように、そのままいつまでも見つめてくる。
先に目を反らしたほうが負けだと思い、カツオは意識してその視線に応えた。
2人は睨みあうような形になる。
フネはおろおろと、そんなサザエとカツオの動向を見守っていた。
その間にタマはさっさと餌を平らげ、また外へ出かけてしまった。

カツオ「姉さん、僕を疑っているんだね?だけどそれはお門違いもいいとこさ。タラちゃんのような小さな子がすることだよ?」

カツオ「亀を見に行こうとして途中で気が変わり、リカちゃんのところへ行ったのかもしれないじゃないか。タラちゃんの残した手紙を鵜呑みにするなんて馬鹿みたいだよ」

カツオはゆっくりと、サザエを見つめながら答える。

193: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:43:48.42 ID:XMs4bPFB0
サザエ「いいえ。学校はリカちゃんの家とは正反対の方向にある。学校に行く途中でリカちゃんと出くわしたとは考えにくい。だったら、学校に向かう途中で、何がタラちゃんを反対方向であるリカちゃんの家へ向かわせる気にさせたのかしらね」

カツオ「タラちゃんは昨日リカちゃんとは会っていない。僕が嘘をついていると言いたいんだね。そりゃあ実の弟より、実の子供の言うことを信じたい姉さんの気持ちはわかるよ。だけど姉さんは何か勘違いしている」

カツオ「そんなに僕を疑うなら、リカちゃんに直接昨日のことを聞いてみたらいいよ」

カツオがそう言うと、サザエはすっと視線を逸らし、無言で電話機へと向かった。
リカの家へ電話するつもりらしい。
これで自分への疑いは晴れるだろう。
カツオは余裕たっぷりに、電話をかけるサザエの背中を見つめた。

サザエ「えぇ、そうですか。わかりました」

すぐに電話を終えたサザエが戻って来る。

カツオ「どうだい?僕の言った通りだっただろう?」

194: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:44:42.85 ID:XMs4bPFB0
カツオは勝ち誇った顔でサザエを見た。
その直後、左頬に衝撃が走り、床に倒れた。
遅れてじんじんとした痛みが伝わってくる。
そこでようやく、自分がぶたれたことを知った。

カツオ「痛い、何するんだよ姉さん」

フネ「サザエ、乱暴はやめなさい!」

フネがカツオをサザエの間に入る。
しかしサザエはそんなフネを振り切って、カツオへと近づいた。

サザエ「リカちゃんは昨日タラちゃんとは会っていないと言ってるわ。どういうことなの?どうして嘘なんかついたの?タラちゃんを心配するあたしをからかって面白い?それともタラちゃんが行方不明になったことについて、あんたが何か関わってるんじゃないだろうねぇ?」

サザエはそう言って、倒れたままのカツオの頭に足をかけた。
体重をかけられ、カツオは冷たい床にぎりぎりと頭を押し付けられる。
サザエの足からは、ほんのりとそら豆の臭いが漂ってくる。
自分が今、サザエに頭を踏まれているのかと思うと、屈辱的だった。
カツオは懇親の力を振り絞り、サザエの足をどけると、一目散に玄関へと駆け出した。

196: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:45:38.32 ID:XMs4bPFB0
サザエ「あ、ちょっと待ちなさいカツオ!」

逃げ足だけは誰にも負けないカツオである。
サザエが玄関へ向かった時には、すでにカツオの姿はなかった。
開け放たれたままのドアから、サザエは外へと飛び出す。
そこでワカメと出くわした。

サザエ「あ、ワカメ。カツオどっちに行ったかわかる?」

ワカメはなぜか玄関の前で地団太を踏んでいたが、靴下のまま飛び出してきた姉の姿を見て、目を丸くした。

ワカメ「お姉ちゃん、どうしたの?靴も履かないで…」

サザエ「いいから、カツオどっちに行った?」

ワカメ「お兄ちゃん?知らないわ。わたし今帰って来たのよ」

ワカメはそう言って、不思議そうにサザエを見た。

197: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:46:12.34 ID:XMs4bPFB0
フネ「サザエ、またいつもの悪戯でしょう。悪気があったわけじゃないわよ」

遅れて玄関へとやって来たフネが、サザエを中へと引き入れようとする。

フネ「放っておけばそのうち帰ってきますよ。サザエをからかったことについては、お父さんに叱っていただきましょう。あら、ワカメも帰ってたのね。さあさ2人も、寒いからもう中へ入りなさい」

ワカメ「うん、ただいまー」

サザエ「だけど母さん、カツオは…」

フネ「いいからサザエ。大丈夫ですよ。もうじきお父さんも帰ってきますし」

サザエ「う、うん…」

ワカメ「?」

サザエは未練がましく外を眺めていたが、やがて諦めて靴下を脱ぎ、家の中へと入った。

199: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:47:01.28 ID:XMs4bPFB0
サザエの追求から逃げ出したカツオは、あてもなく近所をぶらついた。

――もう、あの家には帰れない…。姉さんは完全に僕を疑っている…。

カツオはうす曇の空を仰ぎ、途方に暮れた。

カツオ「これからどうすればいいんだよ…」

マフラーや手袋は家に置いてきてしまっている。
わずかな小遣いが入った財布でさえ、今は持って来ていない。
小学生のカツオに、行くあてなどそうあるはずもなく、思いついたのは中島の家だけであった。

――中島なら、きっと僕を受け入れてくれるはず…。

カツオはそう考え、中島の家へと向かった。

202: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:47:52.86 ID:XMs4bPFB0
中島の家に着くと、いつものように外から呼びかけた。
すぐに玄関の引き戸が開き、中島の祖父が顔を出す。

カツオ「あ、こんにちは…」

中島の祖父は、カツオの顔を見るとすぐに中島を呼んでくれた。

中島「何だ磯野、もう具合はいいのかい?寒いから中へ上がれよ」

中島は呑気な顔で、カツオを迎え入れてくれた。
中島の部屋に入り、座布団に座ると、カツオはガタガタと震えた。
逃げるのに必氏で忘れていたが、今になってサザエから追求された時の恐怖がやって来たのだ。
中島はそんなカツオの様子に気付き、暖房の設定温度を上げた。

中島「磯野、寒いのかい?何か温かい飲み物でも持って来ようか?」

カツオ「ああ、ありがとう…」

タイミングよく、下から中島の祖父がお茶を運ぶようにという声をかけてきた。

中島「はーいおじいちゃん、今取りに行くよー」

中島はドアに向かってそう応えると、カツオへ顔を向けた。

中島「ちょっと待ってな、磯野」

204: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:49:09.18 ID:XMs4bPFB0
中島が部屋から出て行くと、カツオはこれからのことを考えた。
いつまでも中島のもとにいるわけにはいかない。
しかし今夜、僕はどこで夜を明かせばいいのだろう。
ノリスケおじさんの家はどうだろうか?
いや、とうにサザエから話が通ってしまっているだろう。
今まで漠然と、困った時には誰かが手を差し伸べてくれると思っていた。
近所には顔見知りが多いし、みんな自分を可愛がってくれていると信じて疑わなかった。
だが、いざ窮地に立たされてみると、自分を助けてくれる人などほとんどいないことに気付いた。
みんな知り合い程度で、親身になって自分の話を聞いてくれる人となると、限られてしまっているのだ。
カツオは小学生にして、自分の置かれた世界の狭さを痛感した。

しばらくすると、盆に湯のみを乗せた中島が戻って来た。

中島「まだ熱いから少し冷ましたほうがいいな」

中島はそう言って、折りたたみテーブルに盆を置く。

カツオ「うん。ありがとう」

中島「それで磯野、今日はどうしたんだい?何かあったんだろう?早退したと思ったら、そんな恰好で突然やって来て…急用かい?」

カツオ「中島…」

中島「話してみろよ。聞くから」

カツオ「う、うん…」

中島は優しい目でカツオを見る。
カツオは決心して、口を開いた。

210: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:51:24.82 ID:XMs4bPFB0
カツオ「実は昨日から、タラちゃんが行方不明なんだ。それで、僕が何か知っているんじゃないかと姉さんに疑われてて…ぶたれたんだ」

カツオ「耳を引っ張られたり頭を小突かれたりしたことはあったけど、姉さんから頬をぶたれたのなんか初めてだったよ。それだけじゃない。頭を足で踏みつけられたのさ」

中島「何だって?それはひどいな…。磯野は何も知らないんだろう?なんで疑われるんだよ?」

中島はカツオの話を聞き、まるで自分のことのように憤慨した。

中島「磯野のお姉さんは確かにちょっと乱暴なところがあるような気がしていたけど、弟を殴るなんて最低だよ」

カツオ「実は僕、昨日中島と別れた後、タラちゃんと公園に行ったのさ。そこでついカッとなって、タラちゃんを突き飛ばしてしまったんだよ。タラちゃんは倒れて、動かなくなった。僕は怖くなって、そのまま家へ帰ってしまった」

カツオ「もしかしたらタラちゃんは、氏んでしまったのかも…。だけどそうだとしたら、公園にあるはずのタラちゃんの遺体がないんだ。どういうことなのか、僕もさっぱりわからなくて…」

中島「え?氏体が消えた?でも突き飛ばしたくらいで簡単に人って氏ぬもんなのかな?」

カツオ「わからないけど、タラちゃんはまだ小さいし…」

カツオはそう言って、湯のみに手を伸ばした。
しかしまだ熱くて持つことが出来ず、すぐに引っ込める。
その間、中島は難しい顔をして、考え込むように視線を上へ向けていた。
それから何かに気付き、眼鏡の奥の目を光らせる。

中島「磯野、タラちゃんはどういう向きで倒れたんだい?」

215: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:52:56.50 ID:XMs4bPFB0
カツオ「え?向きって?」

中島「仰向けに倒れたのか、うつぶせに倒れたのか」

カツオ「え?えーっと…確か横向き…ううん、ほとんどうつぶせに倒れていたかな」

中島「だったら倒れる際、咄嗟に手が出たはずだ。僕らだって走っていて転んだ時、思わず手が出て、体を支えようとするだろう。タラちゃんだって同じだよ。それだと頭は打っていないことになる」

中島「頭さえ守られていれば、そうは氏なないはずだよ。おそらく、タラちゃんはその時、磯野に襲われたショックで気を失っていただけなんだよ。氏んでなんかいない」

カツオ「じゃあ…どういうことなんだい?」

中島「タラちゃんは自分の意思でいなくなったか、誰かに連れ去られたか…」

カツオ「てことは生きているんだね?」

カツオの顔がぱっと輝く。

カツオ「良かった、僕はタラちゃんを頃していなかったんだ…」

中島「安心するのはまだ早い。磯野が疑われているのは事実に変わりはないんだから。なんとかしてタラちゃんを見つけ出し、磯野の疑いを晴らさないと…」

カツオ「だけど、どうやって…?」

220: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:53:55.82 ID:XMs4bPFB0
中島「そもそもなぜ磯野のお姉さんは磯野のことを疑っているんだい?」

カツオ「僕が昨日公園でタラちゃんがリカちゃんといるところを見たって言ったんだ。だけどリカちゃんに聞いたら、昨日はタラちゃんと会っていないと言う。それで僕が嘘をついているということになっちゃって…」

中島「それはおかしいな。僕だってリカちゃんの一緒にいるタラちゃんを見たよ」

カツオ「だろう?だけど姉さんはリカちゃんの言葉のほうを信じているんだよ」

中島「リカちゃんはなぜタラちゃんと会っていないなんて嘘をついたんだろう?」

カツオ「それがわからないんだよなぁ…。女って怖いよ…」

カツオはそう言って、再び湯のみに手を伸ばした。
直後、何かに気付いた中島が、その手を払いのけ、湯のみを倒した。

カツオ「あれ?どうしたの?」

カツオを驚き、手を引っ込める。
中島はうつむいて、ぶるぶると肩を震わせていた。

226: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:55:24.17 ID:XMs4bPFB0
中島「駄目だ…飲んじゃ駄目だ磯野…」

カツオ「え?中島?」

中島「さっきお茶を取りに行った時、見たんだ…。おじいちゃんが湯のみに何か薬のような物を入れるところを…」

カツオ「そ、そんな…何で中島のおじいさんが?」

中島「磯野…今すぐ逃げろ。リカちゃんの嘘の証言といい、それを信じた磯野のお姉さんといい、何かおかしいよ。磯野、おまえは大変なものを相手にしているのかもしれない。おまえははめられたんだよ。きっとうちのおじいちゃんも磯野をはめようとしている奴の手先なんだ…」

カツオ「そんな中島、漫画の読みすぎじゃないのか?おじいちゃんが薬を入れたのだって見間違いだよ。僕をはめて、何の得があるんだよ」

中島「タラちゃんを誘拐し、その罪を磯野に着せようとしているのかもしれない」

カツオ「え…?」

中島「磯野、最近身の回りでおかしなことはなかったか?きっと何か原因があるはずなんだ、小学生の磯野に罪を着せようとなんてまともな奴が考えることじゃない…」

カツオ「原因…」

229: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:56:25.15 ID:XMs4bPFB0
カツオはそこで口ごもった。
自分が父と母の本当の子供ではないかもしれないこと、自分とワカメが実験動物にされているかもしれないこと。
どこまで中島に話したらいいのだろう。
タラちゃんが行方不明になったことと、何か関係しているのだろうか。

その時、突然部屋のドアが乱暴に開かれた。

中島「あ、兄貴…」

そこには中島の兄が、気味の悪い笑みを浮かべて立っていた。
倒れた湯のみを確認すると、ふんと鼻を鳴らす。

中島兄「なんだカツオくん、お茶、飲まなかったのかい?」

カツオ「あ、はい…すみませんこぼしちゃって…」

カツオは慌てて頭を下げた。

――なんだか中島の兄貴、いつもと様子が違うなぁ…。

カツオは密かに身構えた。
中島の兄が、一歩部屋の中へと入って来る。
それから辺りを見回し、勉強机に立てかけられた野球のバットを手にした。

中島「何するんだよ兄貴、勉強はいいのかい?」

中島はそんな兄の姿を怪訝な顔で見つめた。

235: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:57:21.70 ID:XMs4bPFB0
中島兄「今日は勉強はやめにするよ。ちょっと野球がしたい気分でね。どうかなカツオくん、今日は僕と…野球でもして…遊ぼうじゃないかぁぁぁぁぁぁ」

中島の兄はそう言うなり、カツオに向かってバットを振り上げた。

中島「磯野危ない!!」

咄嗟に頭を腕で抱え、身を縮めたカツオのすぐ傍で、鈍い音が響いた。
おそるおそる、頭を上げる。
目の前で、中島が苦痛に顔を歪めていた。
頭から血を流している。

中島兄「邪魔をするからこうなるんだよ…」

弟が苦しむ姿を見ても、中島の兄はまったく動じていない。
血のついたバットを再びカツオへと向け、宣言する。

中島兄「さあ、今度こそカツオくんの番だよ」

238: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:58:21.85 ID:XMs4bPFB0
カツオ「やめてよ、何でこんなこと…」

中島兄「仕方ないよ。こういったケースは始めから危険視されていた。そのための僕がいるのさ。僕は与えられた仕事をこなすだけ…悪いねカツオくん」

カツオ「言っている意味がわかんないよ」

中島の兄が、冷酷な視線をカツオに向ける。
カツオは恐怖で奥歯を震わせ、後ずさりした。

中島兄「意味なんてわからなくていいさ。さ、もう時間がない。さようなら、カツオくん…」

カツオ「うわぁぁぁぁぁ」

中島の兄がバットを振り上げる。
カツオは咄嗟に、ぎゅっと目を瞑った。
しかし、いつまで経っても何も起きない。痛みもない。

カツオ「え…?」

カツオが目を開けると、兄と揉み合う中島の姿があった。

242: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 16:59:09.98 ID:XMs4bPFB0
中島「ここは僕が食い止める!磯野…逃げるんだ!」

中島兄「放せ馬鹿野郎!」

中島は血にまみれ、ふらふらになりながら、それでも必氏に兄を押さえつけている。

中島「磯野、早く!」

カツオ「中島…」

カツオは震える足でなんとか立ちあがった。
このまま中島を置いて、逃げてもいいのだろうか。
ここから逃げ出したい恐怖と、親友を置き去りにする罪悪感とが、カツオの中で戦っていた。

中島「磯野、お願いだよ。僕から親友を奪わないでおくれ。磯野がいなくなったら僕は…僕は…」

中島が苦しげに言う。

カツオ「中島…ごめん…ごめんよ…」

ついにカツオは親友を置いて、その場を逃げ出した。
一気に階段を駆け下り、玄関へ辿りつくと、制止する中島の祖父を振り切り外へと飛び出す。

――中島…ごめん…ありがとう…ごめん…。

カツオは手で涙を拭いながら、とにかく走った。

248: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:00:13.36 ID:XMs4bPFB0
一方サザエとフネから話を聞いたワカメは、兄を心配して家から飛び出した。

ワカメ「お兄ちゃん、一体どこへ行ったのかしら…」

兄の行きそうな場所を探して、近所を歩き回る。
すると向こうから、タラオの遊び相手であるリカとその母親が歩いて来た。

ワカメ「あの、うちのお兄ちゃん見かけませんでした?」

ワカメも顔見知りであるリカの母に、尋ねてみた。

リカママ「あらワカメちゃん、カツオくんならさっきあそこの道を走って行ったけど」

ワカメ「え?本当ですか?」

リカママ「ええ、挨拶をしようとしたんだけど、すごく急いでいたみたいで…さっきの電話のことも聞きたかったんですけどねぇ…」

ワカメ「電話ですか?」

250: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:00:58.84 ID:XMs4bPFB0
リカママ「そうよ。ワカメちゃん知らないかしら?さっきサザエさんから変な電話があってね、リカが昨日どこにいたか聞いてきたのよ。理由を尋ねようとしたんだけど、慌ててたのか切られてしまってね、どうしたのかしらって思ってたところなのよね」

リカの母は不思議そうに顎へ手をやり、首を傾げた。
母のスカートの裾を掴み、リカは急かすように引っ張る。

リカ「ママー、早くお買い物行きましょうよ」

リカママ「ええそうね、リカ。じゃあねワカメちゃん、サザエさんとタラちゃんによろしく」

リカの母はそう言って頭を下げた。
歩き出したその母娘を、ワカメが呼び止める。

ワカメ「あの、ちょっと待ってください。リカちゃんは昨日、タラちゃんと会ってないんですか?」

リカママ「ええ。だってリカは昨日ピアノのお稽古に行っていたから…」

ワカメ「本当に?リカちゃん?」

ワカメはリカの母を無視して、リカへと尋ねた。
リカは母の後ろに隠れるようにして、小さな声で答える。

251: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:01:34.83 ID:XMs4bPFB0
リカ「本当だよ。あたし、ピアノのお稽古に行ってたもん。だからタラちゃんと遊べるはずないわ」

ワカメ「そう…わかったわ、ありがとう」

ワカメは落胆の声を洩らした。
もしかしたらリカの証言から、カツオが嘘をついていないことを証明できるかもしれないと考えたのだ。

リカママ「じゃあワカメちゃん、またね。ほらリカ、挨拶しなさい」

リカ「ワカメお姉ちゃんさようなら」

ワカメ「はい、さようなら…」

ワカメは去っていくリカ達の背中を見送った。
それから気を取り直して、カツオを探すため歩き出す。

252: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:02:14.79 ID:XMs4bPFB0
一方ワカメと別れたリカの母は、先ほどのワカメの様子に不信感を抱いていた。

――ワカメちゃん、何かあったのかしら…。それにやっぱりサザエさんの電話も変だったし…。

主婦特有の好奇心が、リカの母の中で湧き上がってきた。

――磯野家にトラブル?今度サザエさんに会った時聞いてみましょう。

噂の種を見つけて、リカの母は内心ほくそ笑んだ。
その時、またしても知った顔を見つけて立ち止まる。

リカママ「あら先生、いつもお世話になっております。お出かけですか?」

出会ったのはリカの通うピアノ教室の講師であった。
まだ若いその講師は、優雅な身のこなしで頭を下げると、笑顔を見せた。

講師「ええそうなんです。新しい楽譜を買いに隣町まで」

リカママ「あらそうなんですか」

リカの母はそこでリカを促し、挨拶をさせようとした。
しかしリカは母の背中に隠れようとしてじたばたしている。
講師はそんなリカと目線を合わせようとしゃがみこんだ。

253: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:02:58.16 ID:XMs4bPFB0
講師「リカちゃん、もう体の具合はいいの?昨日はレッスンをお休みしたから心配だったのよ」

リカママ「え?お休み?」

講師の言葉に、リカの母が答えた。

リカママ「リカは昨日レッスンをお休みしたんですか?」

講師「ええ、そうですよ。お母様はご存知でなかったのですか?」

講師はそう言って、眉を上げた。
その様子にすべてを悟ったリカの母は、慌てて作り笑いを浮かべる。

リカママ「あぁそうでしたわね。リカは昨日ちょっと熱があって、ご連絡もせずにすみません」

講師「いいえ、元気になったのなら良かったです。それでは私は電車の時間がありますのでこれで…」

リカママ「私達も急ぎますので、先生お引止めしてすみませんでした。またレッスン、よろしくお願いしますね…」

講師はまた優雅に頭を下げると、駅へと向かって歩いて行った。
講師の姿が見えなくなるのを見計らって、リカの母は背中に隠れていた娘を引っ張り出す。
リカはもう観念したようで、涙ぐみながらうつむいた。

254: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:03:32.22 ID:XMs4bPFB0
リカ「ママ、ごめんなさい…」

リカママ「どういうことなの?リカ?昨日はレッスンに行ってないの?」

リカの母は厳しい目つきで娘を見据える。

リカ「お友達と遊びたくて、レッスンに行くふりをしていたの…ごめんなさい…」

リカママ「まぁ、ママに嘘をついていたのね?」

リカ「ごめんなさい…もうあんなことしないわ…。だから許して、ママ?」

リカはそう言って、可愛らしい上目遣いをした。
そうされると、母としてはつい娘を許してしまいがちである。
リカの母は1つため息をつくと、リカの頭を撫でた。

リカママ「もうママに嘘はつかないで。約束よ?」

リカ「はいママ…」

256: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:03:56.18 ID:XMs4bPFB0
リカママ「さあもう涙は拭いて。行きましょう」

リカの母はハンカチを取り出すと、リカへ手渡した。

リカ「ねえママ、お買い物の帰りにパフェを食べる約束、今のでなしにならないよね?」

リカママ「さぁどうかしらね~」

リカ「えーん、反省したからパフェの約束はなしにしないでよー」

リカママ「はいはい」

リカの母は、嘘泣きをする娘の姿を呆れながら見つめた。

260: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:04:37.01 ID:XMs4bPFB0
一方中島家から逃げ延びたカツオは、公園に辿り着いた。
昨日タラオを突き飛ばした場所である。

――無意識のうちにここへ来たけど、何か僕をはめた奴の手がかりが残されているかもしれない…。

カツオは注意して、公園内を歩き回る。
通りでマスオとノリスケの姿を見つけ、植え込みに身を隠した。

――こんな狭い町じゃ、すぐに見つかってしまうかもしれないな…。早く僕の無実を証明しないと…。

その時、肩を叩かれた。

カツオ「うわっ!」

カツオは飛び上がり、すぐに背後を振り返った。

263: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:06:08.63 ID:XMs4bPFB0
カツオ「ワカメ…」

そこにはワカメが口元に人差し指を当て立っていた。

ワカメ「大きな声出さないでよお兄ちゃん。一体何が起きているのか説明してちょうだい」

カツオ「ワカメ…来てくれたのか。どうもこうもないよ。タラちゃんが行方不明になった件について僕に濡れ衣を着せようとしている奴がいるんだ。姉さんに疑われて家を出た後、僕は中島の家に行った」

カツオ「そこで中島のお兄さんに襲われて…。誰かが僕を狙っているんだ。中島のお兄さんとおじいちゃんはその誰かの手先だったんだよ」

ワカメ「え?何でお兄ちゃんが襲われるのよ。濡れ衣ってどういうこと?」

カツオ「わからないよ。もしかしたら僕達がお父さんやお母さんの本当の子供じゃなくて、実験動物にされているかもしれないことと何か関係があるのかもしれない」

ワカメ「そんなぁ…それじゃあわたしも狙われるの?怖いよお兄ちゃん…」

カツオ「ワカメ、僕と一緒に逃げよう。この町には顔見知りが多すぎる。どこか遠くの町へ行って警察に話すしかないよ」

カツオはそう言って、ワカメを見た。

264: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:06:52.95 ID:XMs4bPFB0
カツオ「そんな不安そうな顔しなくても大丈夫だよ。僕がきっとワカメを守るから」

ワカメ「……」

しかしワカメは怯えた表情を浮かべ、遠くを見つめていた。
すぐには現実を受け止められないのだろう。
カツオはそう思い、久しぶりにワカメの頭を撫でてやろうとした。

ワカメ「そうじゃないのお兄ちゃん…」

ワカメがそこで震える声を上げた。

カツオ「え?」

ワカメ「もう遅いみたい…ほら…」

ワカメが指差す方向を、カツオは振り返った。
そこには伊佐坂家が勢ぞろいしていた。

266: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:08:14.48 ID:XMs4bPFB0
カツオ「どうして…」

ワカメ「いや…やめて…」

伊佐坂家は拳銃のようなものを手にしている。

伊佐坂「おとなしく来てくれたら攻撃はしない。君達は何か勘違いしているようだね。おいで、説明してあげるから」

伊佐坂家の主が代表して言葉を発する。
彼の背後ではその妻と子供達が無表情に拳銃を構えていた。

ワカメ「嫌よ!わたし達に何するつもり?」

ワカメは激しく首を振り、カツオにしがみついた。

カツオ「そんな物騒なもの仕舞ってよ。そんなもの出されて伊佐坂さんを信じられるわけないだろう。どうせ人目につかないところへ僕達を連れて行って、頃すつもりなんだろう」

ウキエ「頃す?なぜ?」

カツオの憧れの女性であるウキエが、低い声で言った。

カツオ「僕達はもう知っているんだ。伊佐坂さんも中島の兄貴達と同じ仲間なんだろう?」

カツオがそう言うと、伊佐坂家の主は面白そうに目を細めた。

伊佐坂「ほう、中島くんのお兄さんもだったのか…」

268: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:09:02.98 ID:XMs4bPFB0
カツオ「ほらやっぱり。僕はさっき中島のお兄さんに殺されかけたんだぞ!」

伊佐坂「殺されかけただと?ふん、最近の子供は成長が早いからな、そういう判断もあるだろう。しかし誓おう。私は君達を頃すつもりはない。黙ってついて来てくれたら攻撃はしないとさっきも言っただろう」

伊佐坂家の主はそう言うと、静かに拳銃を下ろした。

カツオ「本当に…?」

カツオは注意深く、伊佐坂家の様子を観察した。

ワカメ「駄目よお兄ちゃん。まだウキエさん達が拳銃を構えているわ!」

ワカメが悲鳴に近い声を上げる。

伊佐坂「もし君達が抵抗するようなら、すぐにでも私の妻や子供達が君達を撃つ。頃しはしないが、足や腕を撃たれれば耐え難い痛みが君達を襲うぞ。それこそ氏んだほうがましというような激しい痛み…子供の君達がその痛みに耐えることができるかな?」

伊佐坂は試すように言うと、にやりと笑った。

――くそ…どうすればいいんだ…。

伊佐坂家について行ったところで、果たして本当に頃すつもりはないのだろうか?
信じていいのだろうか。
例え殺されなかったとしても、何をされるかわかったもんじゃない。
ひどいことをされるに決まっている。

271: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:09:51.26 ID:XMs4bPFB0
カツオが考えていると、伊佐坂が一歩、また一歩と近づいてきた。
ワカメが小さく悲鳴を上げる。

――もう駄目なのか…。

カツオが覚悟を決めたその時、凄まじい音が響き渡り、公園内にトラックが突っ込んできた。
トラックは伊佐坂家に突進していく。

伊佐坂「くそ、誰だ!邪魔するな!」

伊佐坂家はちりじりに公園内を逃げ回った。

――何が…起きてるんだ…?

カツオはわけもわからず、トラックの動きを目で追っている。
やがて伊佐坂家は公園内を出て、退却していった。

カツオ「助かった…」

カツオはその場にへなへなと座りこむ。

ワカメ「あ、お兄ちゃんしっかりして」

ワカメがカツオの肩を支えた。

ワカメ「わたし達助かったみたい。でもあのトラック、誰かしら…」

カツオ「そうだな…」

273: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:10:39.59 ID:XMs4bPFB0
伊佐坂家の姿が見えなくなると、トラックは急停車した。
扉が開き、見知った顔が飛び降りてくる。
その人物はゆっくりとした足取りでカツオ達のもとへやって来ると、笑顔で手を差し伸べた。

三郎「大丈夫だったかい?カツオくん、ワカメちゃん。行こう、早くここから離れたほうがいい」

ワカメ「三郎さん!」

カツオは三郎の手を取り、立ち上がった。

カツオ「ありがとう三郎さん、だけどどうして…?」

三郎「説明は後だ。さ、トラックに乗って」

三郎は周囲を警戒しつつ、素早くカツオとワカメをトラックに乗せた。

三郎「行くぞっ!」

そう言って、思い切りアクセルを踏み込む。
トラックは急発進し、公園の入り口をぶち壊した。

277: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:12:00.29 ID:XMs4bPFB0
トラックが着いた場所は、古いアパートの前だった。

カツオ「ここは?」

三郎「僕が借りているアパートさ」

ワカメ「三郎さんの?」

アパートは郵便受けが歪み、階段は錆付いていたが、どことなく清潔感があり、落ち着いた雰囲気だった。
素朴な三郎の佇まいとよく合っている。

三郎「僕の部屋は二階の奥だよ」

三郎の案内で、廊下を歩く。
廊下には洗濯機やスキー板、古いタイヤやブルーシートなどが置かれており、住人達の乱雑さが伺える。

カツオ「お邪魔しまーす」

カツオはおそるおそる、三郎の部屋に入った。
想像していたよりも片付いている。

280: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:12:53.83 ID:XMs4bPFB0
三郎「そこに座って。今お茶淹れるから」

ワカメ「ありがとう三郎さん」

カツオとワカメは小さなちゃぶ台の前に腰を下ろした。
すぐ傍に大きめの本棚がある。
三郎がお茶を淹れている間、カツオはなんとはなしにその本棚を眺めていた。
難しそうな本ばかりで、漫画は一冊も置かれていない。

――三郎さんて意外に勉強家なんだな…。

カツオは感心して、適当に一冊手に取ってみた。
しかしすぐに三郎が現れ、注意されてしまう。

三郎「ああ、大事な本だから触らないでくれるかな」

カツオ「ごめんなさい…」

ワカメ「三郎さんこの本全部読んだの?すごーい」

ワカメはようやく安心したのか、無邪気に三郎を褒め称えた。
三郎は照れ笑いを浮かべながら、湯飲みをカツオ達の前に置く。
そうして背すじを伸ばすと、神妙な面持ちで口を開いた。

三郎「さてと、何から話したらいいのかな?」

288: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:19:56.85 ID:XMs4bPFB0
カツオ「どうして僕達は襲われたの?」

カツオは待ってましたとばかりに質問を投げかけた。

三郎「それはカツオくんとワカメちゃんが彼らにとって大切な保管者だからだよ」

ワカメ「保管者?」

ワカメが首を傾げた。

三郎「ああ。ここから少し難しい話になるけど、よく聞いて。君達の体には、あるウイルスが保管されているんだ」

カツオ「ウイルス?」

カツオが聞き返すと、三郎はゆっくりと頷いた。

三郎「そのウイルスは特殊でね、培養、保管するには子供の体を使うしかない。君達は知らぬうちにそのウイルスを保存するための入れ物にされていたんだよ」

ワカメ「ウイルスって病気を引き起こすんでしょう?じゃあわたしとお兄ちゃんは何か病気を持っているってこと?」

ワカメが怯えるように言った。

289: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:20:36.57 ID:XMs4bPFB0
三郎「大丈夫だよワカメちゃん。子供のうちは発症しない。このウイルスが働くのは、大人の体に対してだけなんだ。君達はこのままだと大人になる前にウイルスを取り出され、そして…殺される。入れ物としての役割を果たした君達は、彼らにとっては用済みでしかないからね」

カツオ「実は少し前に、物置の床下に地下室を見つけたんだ。そこに僕とワカメが何かの実験をされている記録が残っていたんだけど、それってこのウイルスのことだったのかな?」

三郎「ああ、間違いないだろう。君達は磯野家の本当の子供ではない。磯野家はウイルスを保管するため、彼らからの命令を受けて君達を育て、監視しているんだ」

ワカメ「やっぱり…そうだったのね…」

ワカメはそこでしくしくと泣き出した。
カツオはそんな妹を宥めながら、三郎に尋ねる。

カツオ「その、さっきから言ってる彼らって誰なんですか?僕達は何のためにウイルスの入れ物にされているんだろう?」

三郎「彼らとは…政府だ。政府はある目的のため、極秘でウイルスの培養を行っている…」

カツオ「えぇ?何だって?」

三郎「カツオくんはこの日本がおかしいと思ったことはないのかい?」

カツオ「おかしい?なんで?」

293: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:22:20.13 ID:XMs4bPFB0
三郎「日本は平和すぎるんだよ。他の国に比べたらはるかに安全で、犯罪率も低い。しかしまったく事件がないかと言えばそうでもない。ある一定の率で、日々犯罪は起こっている。この犯罪率というものが曲者なんだ」

三郎「他の国に比べたら低くはあるけれどまったく安全とは言い切れないという微妙な犯罪率。これはね、政府が犯罪を操作して行わせているからなんだよ」

カツオ「政府が…犯罪を起こさせている?そんな滅茶苦茶だよ!おかしいよ!政府は国民の安全を守るものだろう?なんでわざわざ犯罪を起こさせるんだよ?」

ワカメ「そうよ!変だわ!」

三郎「まったく犯罪のない、平和な国になると、自殺者が増えるからだよ」

カツオ「自殺…?」

三郎「そう。平和が続くと、人間は自分の命を簡単に考えるようになる。だけど身近に事件が起きて、人が殺されたり、事故でなくなったりすれば、少しは命の大切さを実感するだろう」

三郎「遠い誰かの不幸な事件を新聞やテレビで知り、ああ良かった自分には関係ない、自分は今生きているぞと安心する。生きていることに感謝する」

三郎「そのために政府は裏で操作して、犯罪を起こさせているんだ。日本国民が平和ボケしてあっさり自頃しないためにね…」

カツオ「でも、それが僕達の持っているウイルスと何か関係あるの?」

295: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:23:38.10 ID:XMs4bPFB0
三郎「関係大有りさ。政府はカツオくんやワカメちゃんのように入れ物となった子供からウイルスを取り出し、然るべき人物に感染させる。感染した人物はウイルスによって脳の一部を破壊され、善と悪の区別がつかなくなるんだ」

三郎「本能の赴くままに、自分のしたいことをするようになる。昔、僕の妹は、学校へ行く途中…ウイルスに感染させられた男にナイフで滅多刺しにされ…殺されたよ…」

ワカメ「ひどい!そんなのないわ!」

ワカメは流れる涙を拭おうともせず、怒りにまかせてちゃぶ台を叩いた。

三郎「ウイルスさえなければ…僕の妹が氏ぬことはなかった。事件について納得のいかなかった僕は長い時間かけて調べ、ついにウイルスの存在を突き止めたんだ。そしてそのウイルスによる犯罪操作に異議を唱えている組織の存在を知った」

三郎「組織は極秘で、ウイルス保管者である子供達の所在を探っている。僕はこの町に保管者である子供がいるという情報を掴み、やって来たのさ。それがまさかカツオくんとワカメちゃんだったなんてね…」

カツオ「だから三郎さんは僕達は助けてくれたんだね?」

三郎「ああそうさ」

三郎はそこで、にっと笑ってカツオの肩を叩いた。

三郎「これでもう安心だ」

297: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:24:31.80 ID:XMs4bPFB0
カツオ「じゃあ三郎さんは、僕達の体からウイルスを抹消させてくれるんだね?どうすればいいの?ワクチンがあるの?」

ワカメ「わたし、注射でも何でも我慢するわ」

ワカメが喜びの声を上げる。
しかし三郎は視線を落とし、暗い声を洩らした。

三郎「残念だけど、ワクチンの開発はされていないんだ…」

カツオ「えぇ?」

三郎「ウイルスを消滅させるには、入れ物となっている子供が氏ぬしかない。残念だけど君達には、氏んでもらうよ…」

三郎はそう言うと、ポケットから注射器を取り出した。

三郎「大丈夫。これを打てば苦しまずに氏ねるよ。僕としてもこんなことはしたくないんだ。ごめんよ…。だけど妹の敵であるこのウイルスは…自らの手で消滅させたいんだよ…」

299: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:25:18.37 ID:XMs4bPFB0
カツオとワカメは飛び上がり、壁際へと逃げた。
たった一つの出口へと続く玄関は、三郎の背後にある。

――どうすりゃいいんだ…。

三郎がじりじりとカツオ達のもとへ近づいてくる。

ワカメ「助けて…誰か…」

ワカメが祈るように呟いた。
誰か…だけど、自分達を助けに来てくれるような人はいないのだ。
僕とワカメは政府が作ったウイルスの入れ物でしかない。
家族なんかいない。
そんな自分達が、この先生きていて幸せになどなれるのだろうか…。
そう、生きていたって、なんにも楽しいことなどない…。

カツオはふらふらと、三郎のもとへ歩み寄った。

ワカメ「お兄ちゃん、何考えてるのよ!」

ワカメがそれを引きとめ、カツオを呼び戻そうとする。

カツオ「ワカメ…もう僕達はおしまいだよ。ここで終わりにしよう」

ワカメ「嫌よわたし…そんなの…」

301: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:25:55.25 ID:XMs4bPFB0
三郎「そうだよワカメちゃん。カツオくんの言う通りだ。大丈夫、この薬を注射すれば眠っているうちに氏ねるんだ。おいでよ…ワカメちゃん…」

カツオ「ワカメ、行こう…」

ワカメ「駄目!そんなの絶対駄目!」

三郎「ワカメちゃんいい子だから…こっちへおいで…」

三郎の手がワカメへと伸びる。
その時、ドアの開かれる音がして、誰かが部屋の中に入ってきた。

カツオ「誰だ?」

いつの間にか外は暮れかけ、沈みゆく夕日が開かれたドアから差し込んいる。
夕陽に照らされ、入って来た人物の顔を確認することはできない。
だけど、見覚えのあるあのシルエット…頭の上の一本髪は……。

304: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:26:41.90 ID:XMs4bPFB0
カツオ「お、お父さん?」

波平「そこまでじゃ三郎くん!」

波平は悠然と部屋の中央までやって来ると、驚く三郎の手から注射器を叩き落とした。

波平「母さん!」

フネ「はいはい、今拾いますよ」

波平の背後からフネが現れた、落ちた注射器を素早く拾い上げた。

三郎「くそ…どうしてここがわかった…?」

波平「なぁに伊佐坂さんからすべて聞いたんじゃよ」

三郎「くそ…くそっ…あの一家、皆頃しにしておけば良かった…」

波平「さてカツオ、ワカメ、帰るぞ」

ワカメ「お父さーん」

ワカメは嬉しそうに波平へと駆け寄る。
しかしカツオは動かなかった。

305: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:27:53.81 ID:XMs4bPFB0
カツオ「帰る?でもあそこは僕達の本当の家じゃないんだろう?僕達は磯野家の本当の子供じゃないんだろう?」

カツオは叫んだ。今まで聞きたくても聞けなかったことを、思い切り叫んだ。
フネが目を丸くする。

フネ「まあそんな…2人は私とお父さんの子供です。何を馬鹿なこと言ってるのかしら…」

カツオ「でも三郎さんから全部聞いたよ」

波平「それならわし達も鍵を壊しながら耳に入れておったわい。なあ母さん?」

フネ「ええ…そうですね」

波平「あんな馬鹿らしい嘘を鵜呑みにする奴があるか!ウイルスだの、政府が犯罪を操作するなど、つまらない嘘をカツオに吹き込みおって…」

波平はそう言って、三郎を睨んだ。
たった一つの武器である注射器を取られ、波平に威圧され、三郎はすっかり小さくなっている。

306: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:28:44.26 ID:XMs4bPFB0
カツオ「嘘だったの?三郎さん?」

三郎「いいや、全部本当だ。物置の下の地下室がその証拠だろ?」

カツオ「あ、そうだった!あの地下室は何なの?お父さん!」

カツオは波平へと詰め寄る。
波平は呆れ顔で言った。

波平「知らぬうちに人の家の庭にあんなもの作りおって、わしも見つけた時は驚いたわ」

カツオ「え?どういうこと?」

波平「あれはおまえ達を騙すため、三郎くんが作ったものなんじゃろう」

三郎「違う!僕はそんなもの作ってない!」

三郎がぶんぶんと首を振る。

三郎「信じてくれカツオくん」

その時、タラオを抱いたサザエが入って来た。
背後にはマスオも涙ぐみながら立っている。

308: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:29:18.80 ID:XMs4bPFB0

ワカメ「タラちゃん!」

フネ「やっぱりタラちゃんもここでしたか…」

サザエ「ええ、浴室に閉じ込められていたわ」

マスオ「良かった、タラちゃんが無事で…」

カツオ「どういうことなのこれ?」

カツオはわけがわからず、波平と三郎を交互に見た。

波平「タラちゃんを誘拐したのは三郎くんだ」

カツオ「え?」

314: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:30:29.59 ID:XMs4bPFB0
フネ「今日うちに顔を出した三郎さんは、いつもタラちゃんに持ってくるはずの風車を手にしていなかった。おかしいと思ったんですよ。三郎さんはあの時すでに、タラちゃんがうちにいないことを知っていた。だから風車を持って来なかったんです」

フネ「だけど、どうして家族以外タラちゃんが行方不明になっていることを知らないはずなのに、三郎さんにはタラちゃんがうちにいないことがわかったのでしょう。そう考えた時、答えがわかったんです。三郎さんがタラちゃんを誘拐したに違いないってね…」

三郎「くそ、ただの老婆だと思ってなめていたが…」

三郎はくやしそうに、その場へ崩れ落ちた。

波平「どうだいカツオ?これでも三郎くんのほうを信じるのかい?」

カツオ「……」

カツオが迷っていると、波平がフネを促した。

波平「母さん、きっとあれがあるはずだ」

フネ「そうですね」

フネはすっと歩み出て、本棚に近づくと、仕舞われていた本を次々と抜き取り、床へぶちまけた。

316: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:31:25.53 ID:XMs4bPFB0
三郎「あ、何するんだ!」

慌てる三郎を、波平が押さえつける。

波平「マスオくん、ちょっと手伝ってくれんか」

マスオ「はい、お義父さん」

マスオも加わり、三郎の動きは完全に封じられた。
その間にフネは一冊の薄い本を手に取り、戻って来た。

フネ「見て御覧なさい、カツオ」

フネに言われて、カツオはその本を手に取る。
浦島太郎の絵本である。

カツオ「まさか…」

中を開くと、ページが破られていた。
カツオはそれを見て、答えを決めた。

カツオ「三郎さん、やっぱりさっきの話は嘘だったんだね」

カツオはそう言うと、波平の背後に立ち、三郎を睨んだ。

カツオ「この絵本のページを破ってタマの首輪に挟んだのは、三郎さんの仕業だったんだ」

318: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:33:21.96 ID:XMs4bPFB0
フネ「そうですよ。三郎さんはきっとタマの伝書猫の話をタラちゃんから聞いて知っていたのでしょう」

フネ「カツオが嘘をついていると疑われ、家族から孤立させるためにわざとタラちゃんの行き先とは別の場所を連想させるページを破り、タラちゃんからの手紙としてタマの首輪に挟んだ」

フネ「三郎さんはそうやってカツオを孤立させ、言葉巧みに誘拐しようと計画したんですよ」

三郎「違う、これには理由があるんだ…カツオくん、僕の話を聞いてくれ」

三郎が最後の力を振り絞り、じたばたと動く。
カツオはそれを冷ややかな目で見つめた。

カツオ「もう観念したほうがいいんじゃない?三郎さん」

波平「こいつは子供を狙った誘拐犯なんじゃよ」

その時、外から階段を上がってくる足音がして、また誰かが部屋の中へ入って来た。

ワカメ「あ、伊佐坂さん…」

ワカメがその人物――伊佐坂を見て怯えた表情を浮かべる。

320: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:34:00.64 ID:XMs4bPFB0
伊佐坂「さっきはごめんよワカメちゃん。ああでもしないと誘拐犯が姿を現さないと思ってね、ちいと手荒な真似をしてしまった」

伊佐坂はワカメに詫びると、懐から手錠を取り出し、三郎に近づいた。

三郎「嘘だろ…」

波平「小説家は仮の姿…伊佐坂先生は公安の刑事なんじゃよ」

波平が勝ち誇った顔で説明する。
伊佐坂に手錠をかけられた三郎が連行されていく。

サザエ「これで…事件は終わったのね…」

サザエは呟くと、愛おしそうに眠っているタラオへ頬擦りした。

325: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:35:01.39 ID:XMs4bPFB0
三郎のアパートを出て、磯野家は揃って家路に着いた。
外はもう真っ暗である。
伊佐坂の計らいで、カツオやワカメへの聴取は明日へ持ち越された。
なんだか随分と久しぶりに家族が揃った気がするな、とカツオは思う。

波平「母さん、今日の夕飯は何かな?」

フネ「今から支度するので少し時間がかかりますが…」

波平「だったら今日はお寿司でも取ろうかね、子供達が無事に帰って来たお祝いじゃ」

サザエ「わかったわ、特上を7人前ね!」

波平「いいや、並で充分じゃ…」

話しているうちに、見慣れた我が家へとたどり着いた。
サザエを先頭に、どやどやと中へ入る。

327: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:35:38.54 ID:XMs4bPFB0
カツオ「あれ?これなんだろう?」

カツオはふと、玄関の前に白い粉のようなものが落ちていることに気付いた。
なぜか気になって、月明かりの下、地面に屈みこんでそれを観察する。

カツオ「蝶かな?踏み潰されてるや…タマの仕業かな…」

その時、サザエの呼び声が届いた。

サザエ「カツオー?何やってるの?玄関閉めるわよ」

カツオ「はーい」

カツオは慌てて家の中へ入った。

334: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:37:05.49 ID:XMs4bPFB0
その夜、カツオは子供部屋で布団の上にあぐらをかき、事件のことを考えていた。

――まさかあの三郎さんが誘拐犯だったなんて…。

事件は終わったけれど、カツオにはまだ気がかりなことが残っている。
公園で自分に拳銃を向けた伊佐坂の目は本気だった。
あれが三郎をおびき出すための演技だとしたら、刑事という職業はたいしたものだ。
家族であるウキエさん達もその演技に巻き込んで…。

――ウキエさん達が持っていた拳銃は、偽物だったのかな?

そもそもなぜ伊佐坂は三郎の狙いがカツオとワカメだと気付いたのだろう。
それに気がかりのは中島のことだ。
中島の兄はなぜ自分を襲い、弟である中島を殴ったのだろう。
三郎の仲間だったのか?

――明日の聴取で中島のお兄さんのことも刑事さんに言わなきゃな…。

考え込むカツオの傍で、ワカメはタマと戯れている。
今夜はタマと一緒に眠るつもりらしい。

337: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:37:58.12 ID:XMs4bPFB0
カツオ「ワカメー、そろそろ電気消すよー」

事件についてわからないことはたくさんある。
しかしすでに脳も体も限界だった。
ひとまず今日のところはゆっくり眠ろうとカツオは判断した。

ワカメ「待ってお兄ちゃん、三郎さんの話、あれってまったくの嘘だったのかな?」

ワカメはなぜか真剣な顔でカツオを見つめた。

カツオ「そうだよ、お父さんもそう言ってたじゃないか」

ワカメ「じゃあ本当に、わたし達の体の中にはウイルスはいないのよね?」

カツオ「うん、当たり前じゃないか」

343: ◆4zj.uHuFeyJ8 2012/01/05(木) 17:39:39.45 ID:XMs4bPFB0
ワカメ「子供の体には働かず、大人の体の中になると発症するウイルス…」

カツオ「?ワカメ?」

ワカメはタマを抱いたまま、突然立ち上がった。

カツオ「どうしたんだい?」

ワカメはそのまま無表情に語った。

ワカメ「お兄ちゃん、あたし変なのかな。今日、初潮が来たの。大人の体になったのよ。だからもう、この衝動を押さえることが出来ないかもしれない…」

ワカメはそう言うと、タマの首根っこを掴み、壁へと叩き付けた。
タマが断末魔のような声を上げ、ぐったりとする。

カツオ「ワカメ…」

ワカメ「お兄ちゃん、わたし、発症したみたい…」




―END―

345: 2012/01/05(木) 17:40:13.98 ID:RIsJURG90
えっ

346: 2012/01/05(木) 17:40:17.44 ID:zkV3cKgU0
終わったあああああああああ

360: 2012/01/05(木) 17:41:18.00 ID:BTIHyhqX0
壮絶な日常でござった

引用: カツオ「僕は磯野家の子供じゃないの?」