230: 2014/02/22(土) 20:24:15 ID:DYHyNxEk


【SS】こんな日が続けばいいのに【1】
【SS】こんな日が続けばいいのに【2】
【SS】こんな日が続けばいいのに【3】

◇03-01[FOXES]


 ノックの音で、目をさました。

「お兄ちゃん? 起きてる?」

 起きてる、と俺は答えようとする。でも、口が上手く開かなかった。
 擦れるような足音。妹の声がする。朝がきたのだ。

「お兄ちゃん?」

 返事をしなかったせいか、妹は戸惑ったような声音で、もう一度俺のことを呼んだ。

「起きてるよ」

 と俺は答えた。
 やけに、胸がざわついて、落ち着かない。
 寝起きなのに、奇妙なほど頭が冴えていた。

 俺は目をさましたときの姿勢のまま、ぼんやりと天井を見上げ続けた。
三ツ星カラーズ8 (電撃コミックスNEXT)
231: 2014/02/22(土) 20:25:46 ID:DYHyNxEk

「……どうかしたの?」

 妹はそう訊ねてきたけれど、俺は答えるかわりに、質問を返した。
 
「なあ、夏休みって、いつからだっけ?」

「どうしたの、急に」

「いいから。いつだっけ?」

 視線を向けると、彼女は不安げな表情をしながらも、答えてくれた。

「……あと、二週間くらい」

「そう、だよな」

 そうだろう。俺の認識も、それで合っている。まだ夏休みまで二週間ある。
 
「夏休みの夢、見てた」

 妹はほっとしたように溜め息をついた。そんなことか、とでもいうような。

232: 2014/02/22(土) 20:26:45 ID:DYHyNxEk

「やっぱり、寝惚けてたんだ」

「そう、なんだろうな。たぶん」

 俺の言葉に、妹は呆れたように溜め息をついた。

「やっぱり、寝惚けてるんだ」

「……うん。そうなんだろうな。妙に実感のある夢だったから」

「どんな夢?」

 俺は答えに窮した。
 クラスの女の子と、一緒に夏祭りに行く夢、なんて。
 そんなことを言ったら、きっと笑われてしまうだろう。

233: 2014/02/22(土) 20:27:52 ID:DYHyNxEk



「ひょっとしたら、予知夢ってやつかもよ」

 司書さんは、さして呆れた風でもなく、そんなことを言ってくれた。

 昼休みに暇を持て余してタイタンと共に図書室を訪れると、彼女はいつものように本の整理をしていた。

「そんな大層なもんじゃないですよ、きっと」

 タイタンは呆れたように肩をすくめて、椅子の背もたれに体重をあずけた。
 
「普段から眠りすぎてるから、夢と現実の区別がつかなくなってるんですよ」

 彼はときどき、俺に対して批判的になる。もっとしっかりしてほしい、という親心みたいなものなのかもしれない。
 そういうお節介やきな性格が、彼にはある。

 司書さんは、からからと笑う。

「気持ちは分かるけどね。ぽかぽかしてあったかいし」

 そこまで言って、彼女は忘れていた傷が痛んだような顔をした。

「どうかしました?」

 訊ねると、「ううん、何も」と愛想笑いを浮かべて首を横に振る。
 何もないにしては、少し不自然な態度だったけれど、俺もタイタンも、それ以上は何も聞かなかった。

234: 2014/02/22(土) 20:28:29 ID:DYHyNxEk

 司書さんは、取り繕うみたいな調子で、話を続けた。

「太陽の日差しがまぶしいと、カーテンを閉めて授業するでしょ? 薄暗くなって、余計に眠くなるんだよね」
 
 タイタンは「そうかなあ」と不機嫌そうに首を傾げている。彼は俺に、緊張感が欠けていると言いたいのだ。

「そうなんですよ」

 と俺は理解者の出現に嬉しくなって声の調子を高めた。
 司書さんはくすくす笑いながら、持っていた本をぱらぱらとめくって、状態を確認しはじめた。

「でも、授業中は寝ないようにした方がいいよ。勉強もそうだけど……」
 
 言葉は、途中で途切れる。彼女の様子はすこしおかしかった。

「……意味もなく周りを敵に回す必要もないでしょう?」

「……どうしたんですか?」

「なにが?」と司書さんはにっこり笑った。

「さっきから、様子がへんだから」

235: 2014/02/22(土) 20:29:02 ID:DYHyNxEk

 俺の言葉に、彼女は観念したように溜め息をつき、額を抑えた。

「なにか気がかりなことでもあるんですか?」

 今度は、俺ではなく、タイタンが訊ねる。

「べつに、そういうわけじゃないと思うんだけど……なんだか、さっきから変な感じがして」

「体調が悪いとか?」

「そういうんじゃないと思うんだけど――ううん、そうかもしれない。頭がぼんやりする」

 彼女は本を棚に置いてから、何か思い悩むように固まったまま動かなかった。

「変な感じがする。……ねえ、前もこんな話、しなかったっけ?」

「こんなって、どんな?」

 俺の問いかけに、彼女は答えなかった。

236: 2014/02/22(土) 20:30:04 ID:DYHyNxEk

 しばらく沈黙が続き、図書室に静寂が戻った。
 もともと図書室は静かであるべき場所だし、俺たち以外の利用者は、ずっと黙っていたんだけど。
 一応声は控えめにしてるから、そうそう咎められたりはしない。
 
 司書さんは俺たちでなくても、いつも誰かと話をしているような気がするし、みんな慣れっこなんだろう。

 とにかく、彼女は少しの間黙っていた。少しの間だけだったけど。
 彼女は苦笑を浮かべて、

「たぶん、きみの寝惚け癖がうつったんだよ」

 と俺のことをからかった。
 タイタンが静かに笑った。俺も一応笑った。
 
 気がかりな夢のことや、司書さんの奇妙な態度のことを気にしてしまい、その後はいまいち会話にのめりこめなかった。

237: 2014/02/22(土) 20:31:37 ID:DYHyNxEk


 
「すみません」

 と不意に声が聞こえた。カウンターの近くから、ひとりの女子生徒が司書さんを呼んでいる。

「はーい」

 と彼女は手に持っていた本を近くの机において、カウンターへと駆けていく。
 カウンターの前に立っている女子生徒。
 俺は彼女のことを知っている。

 子供の頃からの付き合いで、家だってすぐ近所で、昔からよく一緒に遊んだ。

 彼女はこちらを見て、「あ」という顔をした。それから何を言っていいのか分からないような顔をする。
 ぼんやりとした目。眠たげな。

 目が合ったまま数秒が経ち、俺はさすがに気まずくなって、口を開いた。

「おう」

 という俺のよく分からない挨拶に、

「オス」

 と彼女はやる気なさ気に呟いた。戸惑ったみたいに。
 俺は続ける言葉に困ったけれど、彼女はちょっと焦ったふうに、口を動かした。

「久しぶりだね」

238: 2014/02/22(土) 20:32:48 ID:DYHyNxEk

 たしかに、彼女と話すのは久しぶりだった。最後に話したのは、いつだったか。
 少なくとも春先までは、まだ言葉を交わしていたんだけど。

「……何か、借りるの?」

 訊ねると、彼女は「返すの」と答えながら、本を司書さんに差し出した。

「ねえ、喧嘩したの?」

 彼女は、不意にそんなことを言った。誰とのことを言っているのか、俺にはすぐに分かった。

「べつに、そういうわけじゃないよ」

「……だったら、いいけど」

 本当に、喧嘩したわけじゃない。
 俺と幼馴染の会話は、妙に途切れ途切れだった。

 そうこうしているうちに、司書さんは手続きを終わらせた。
 彼女は「それじゃ、行くから」とだけ言って、こちらに背を向ける。

「おう」と、俺はまたよく分からない挨拶をした。

239: 2014/02/22(土) 20:34:51 ID:DYHyNxEk



 放課後になって、部活に出ようか帰ろうか迷っていた。

 意味もなく幼馴染の方を見ると、彼女と目が合った。

 鞄を持って、教室を出ようとしているところだった。

「待ってよ」

 彼女は教室の外の誰かに向けてそう言った。
 そして、俺に向けて短く手を振って、口を「ばいばい」と動かした。
 ばいばい、と俺も口を動かした。彼女は満足したように頷いて、教室の外の誰かを追いかけた。

 放課後になってまだ少ししか経っていないから、結構な数の人間が教室に残っている。
 
 席についたまま、俺は今朝見た夢のことを思い出そうとしてみたけれど、もう輪郭すら蘇らなかった。 
 漠然とした印象だけが、頭の奥の方で疼いている。

240: 2014/02/22(土) 20:35:38 ID:DYHyNxEk

 俺はしばらく、意味もなくクラスメイト達の会話を聞いていた。

「そういえば、見つかったの?」

「なにが?」

「自転車の鍵」

「それが、見つからなかったんだよね。結局先週、学校に自転車置いたまま帰っちゃった」

「どうするの?」

「大丈夫。今日は合鍵を持ってきたから」

 替えがきくというのはすばらしいことだ。
 
 さて、と俺は立ち上がった。タイタンは既に部活に向かった。
 夏休みが近いし、俺も今のうちに部室に顔を出しておこう。そう思いながら、教室を出た。

241: 2014/02/22(土) 20:37:29 ID:DYHyNxEk



「また、事故ですか?」

 部室に行って定位置に座り、リレー小説用のノートを開くと、部長が静かに近付いてきて、そう訊ねてきた。
 俺は一瞬戸惑って、部長の顔を見た。
 
 彼女は、俺のその態度がよっぽど不思議だったのか、わざとらしく首をかしげてみせる。
 一瞬遅れて、俺は彼女の言葉がノートの内容についてのものだと気付いた。

「ああ、いえ……どうなってるかなって、開いてみただけなんです」

「ふうん?」

 部長は少し意外そうな顔で、傍にあったパイプ椅子に腰かけた。
 俺の隣から、彼女はノートを覗き込む。
 
 邪魔になった髪を耳に掛ける何気ないしぐさに、妙にどきりとさせられる。
 彼女は一瞬だけ、ちらりと俺の方を見ると、何かに気付いたようにいたずらっぽく笑った。

「どうしました?」

「近いです」

 と俺は正直な気持ちを言った。

242: 2014/02/22(土) 20:39:45 ID:DYHyNxEk

「失礼しました」

 と部長はくすくす笑いながら距離を取り直して、俺の前に置かれていたノートを自分の方に引き寄せる。
 からかわれてるんだろう。

 彼女はぼんやりとした表情で紙面を眺めはじめる。

「ループ、してますね」

 その言葉が、なんだか妙に気になった。
 物語の中で、不良が氏んでしまった。主人公の意識は暗転し、生活が繰り返される。
 
「……ですね」

「いいかげん、不毛ですよね」

 彼女は溜め息をついた。

243: 2014/02/22(土) 20:40:45 ID:DYHyNxEk

「そうは言っても、リレーですし、何もないところから始めたわけですから……」

 しっかりとした結末になんて、最初からなりっこない。俺はそう言おうとしたつもりだった

「だからこそです。みんながみんな納得できるような結末なんて、ないんですよ、こんなの」

 部長の声は、いつもより少し硬質だった。ほんの少しだけど、彼女が苛立っているような気がした。

「みんながみんな思い通りの結末にしようとしても、無理なんです」

 開け放たれた部室の窓から、柔らかい風が吹き込んできて、カーテンを揺らした。
 部室に集まった何人かの部員たちの、ざわざわという話し声。

 車が二台、別々の地点から、同じ位置に向けて走り出す。
 同じスピードで、同じ距離。障害物がないとしたら、目的地でぶつかる。

 どちらかが、ブレーキを踏まないといけない。進路を変えないといけない。

「じゃあ、どうするんですか?」

 俺が訊ねると、部長は困ったみたいに笑った。不思議と、泣きだしそうにすら見えた。
 彼女のことは、よくわからない。何を考えているのか。

244: 2014/02/22(土) 20:44:06 ID:DYHyNxEk

「そろそろ、終わらせてもらうつもりだったんです」

 彼女は、ノートを畳んで、そう言った。

「いつも書いてくれてる人に話して、どんな結末がいいか、相談してもらって、それで……」

 だとすれば、そう間を置かずに、無難なエンディングを迎えることになるだろう。
 俺はふと気になって、こう訊ねてみた。

「部長は、どんな結末が良かったんですか?」

 彼女は何秒かの間、じっと押し黙った。聞こえなかったのかと思うくらい、自然な沈黙が続く。
 それから、彼女は静かに口を開き、小さな声で、「きみと同じですよ」、と言った。

「……最初から、どうでもよかったんです。他人事にしか、感じられませんでしたから」

 まるで見透かしたみたいな言い方だった。そして、それは合っていた。

 たぶん俺と部長の間には、どこかしら似通った部分があるのだと思う。
 彼女も俺も、そのことに対して自覚的だった。その認識を、互いに共有しあっていた。言葉もなく。
 あるいは、俺の妄想かもしれないけど。

245: 2014/02/22(土) 20:44:37 ID:DYHyNxEk



「リレーじゃない小説は、書かないんですか?」

 べつに話題を変えようと思ったわけでもないが、なんとなく、そう訊ねる。
 今のままの空気が続いたら、俺自身が妙なことを考えてしまいそうだった。

 部長は取り繕うみたいに笑った。

「書きますよ」

「どんな話ですか?」

「……さあ?」

 困った返事だ。話の続けようがない。
 俺は質問を変えた。

「部長にとって、他人事じゃない小説って、どんなものですか?」

 彼女はむっとした顔で考えこんでしまった。真剣な表情が、なんだか子供みたいに見える。
 普段のような、老成したような、達観したような、大人びたものとは違う。

246: 2014/02/22(土) 20:45:45 ID:DYHyNxEk

 彼女はしばらく難しそうな顔で黙り込んでいたけれど、やがて唸るように言葉を吐きだした。

「つまり、他人事じゃない小説っていうのは……」

 まるで、何かを思い出そうとするみたいに、彼女は額を抑えた。

「つまり……」

「……つまり?」

 促すと、部長は苦しげに続けた。

「……"わたし"について、書かれた小説です」

 それはそうだろう、と思ってもいいようなものだけど、俺はその言葉に、いくらか感心した。
 その言葉は的を射ている。「自分のことについて書かれている」と思えない小説は、当然、他人事だ。
 
 フィクションに「他人事」を求める人間もいる。そっちの方が多いくらいだ。
 でも、少なくとも彼女は、「他人事」をあえて書こうとは思えない。そういうことだろう。

247: 2014/02/22(土) 20:46:34 ID:DYHyNxEk

 彼女は深い溜め息をついたあと、照れくさそうに笑う。

「ヒメくんは」

 と、彼女は俺を呼んだ。

「書かないんですか?」

「俺ですか?」

「何か、書いてみればいいじゃないですか」

「書いたこと、ないです」

「うそつき」と彼女は言った。

「書いたことない人の文章じゃないですよ。少なくとも、書こうとしたことのある人の文章です」

 たしかに、彼女の言葉は正しかった。俺は書こうとしたことがある。
 でも、俺には無理だったのだ。

248: 2014/02/22(土) 20:47:06 ID:DYHyNxEk



 文章は語の集合体だ。語は字の集合体だ。字は線の集合体だ。そして線それ自体に意味はない。

 線はただ線としてそこにあるだけだ。
 たとえば「線」という形に描かれた「線」が、自ら線という意味を手に入れるわけではない。

 線の集合体を字として扱い、字に意味を与えるのは、線そのものではなく、線を眺めている側の存在だ。
 線は本来、線ですらない。

 インクの染み、黒鉛の粒、光のかけら。それらは物質にすぎない。
 そして物質は意味を持たない。何も語らない。
 音が、単なる空気の震えにすぎないのと同じように。

 けれど人は、空気の震えに、空気の震え以上のものを与えることができる。
 空気の震えから、空気の震え以上のものを掬い取ることができる。

 意味。

249: 2014/02/22(土) 20:48:42 ID:DYHyNxEk

 ある人物が、言葉に意味を与える。ある人物が、言葉から意味を読み取る。
 言葉に与えられた意味と、言葉から読み取った意味とが一致する。

 そのとき言葉は、初めて言葉としての役割を果たす。

 言葉は「もの」でも「こと」でもなく、「もの」や「こと」の代理物、代用品に過ぎない。

 言葉の意味は秩序付けられた相対的なネットワークによって管理され、人々の間で共有される。
「猫」は「犬」ではなく、「犬」は「猫」ではない。

 もし秩序がなければ、「犬」が「猫」になり、「猫」が「犬」になる。それは既に言葉として機能していない。
 自由というのはそういうことだ。

250: 2014/02/22(土) 20:49:26 ID:DYHyNxEk

 文章は言葉によって構築されている。
 そうである以上、文章は「もの」「こと」そのものではない。

「もの」や「こと」の代理物なのだ。
 
 話者が語ろうとする「もの」「こと」は、代理物としての「言葉」という形をとる。
「もの」「こと」が「言葉」という形になったとき、実際の「もの」「こと」に付随する切実な感覚は霧消し、客観的な「言葉」だけが残る。

 このように、話者と聞き手との間には、「言葉」という一見同一のものを隔てた、大きな断絶が走っている。
 話者の文章によって簡略化された「もの」「こと」を、聞き手は完全に理解することができない。
  
 残るのは「誤解」か、「理解したという錯覚」か、「理解できない」という諦念、あるいは軽蔑だけだ。
 
 文章の価値を決めるのは読む側の人間だ。
 彼らが「読む価値がない」と判断すれば、文章はそれだけで意味と価値を失う。
 
 そうなればどんな文章も、インクの染み、黒鉛の粒、光のかけら、それ以外の何物でもなくなってしまう。

251: 2014/02/22(土) 20:50:20 ID:DYHyNxEk



 文章によって理解されるなどということはありえないし、文章によって誰かと繋がり合うということもありえない。
 
 言葉は言葉として他者の耳に入ったとき、話者の元から離れ、聞き手のものになる。
 聞き手は言葉を自分なりに咀嚼し、理解し、納得する。
 そのプロセスに話者は必要ない。「文章」に、「話者」は必要ない。

 話者の「もの」「こと」が完全に理解されることはありえない。
 そして聞き手は、その宿命的に不完全な理解によって話者を軽蔑し、嫌悪することさえある。
 
 話者の話し方が稚拙なのかもしれないし、聞き手の耳が遠いのかもしれない。
 あるいは意味の不定性が原因かもしれない。単に立場の違いかもしれない。

 いずれにしても、そうしたやりとりは、俺の神経を段々とすり減らしていく。

 どれだけ言葉を並べても、ほとんど誰とも分かり合うことなんてできない。
 文章は文章であり、話者そのものではないからだ。
 
 ……この話は比喩だ。

252: 2014/02/22(土) 20:51:16 ID:DYHyNxEk



「……俺には、無理ですよ。考えようとすると、眠りたくなるんです」

 しばらく考えてからそう答えると、彼女はちょっとがっかりしたように見えた。
 
「残念です」と実際に口に出してもいた。本当なのかどうかは、俺には分からない。

「俺には、自分が何を書きたいのか、まるで分からないんですよ」

「そんなの、誰だって分かりませんよ」

 と部長は間髪おかずに言った。

「書き切ってから分かるんです、そういうことは。
 書き切ってから、『ああ、このときの自分はこんなことが書きたかったんだな』って、ようやく納得できるんです。
 書き始める前から自分が何を書こうとしているのか、十全と理解できるなら、書く意味なんてなくなっちゃいます」

 彼女の言いたいことがよくわからなくて、俺は黙り込んだ。
 彼女はばつの悪そうに目を逸らしてから、気を取り直すみたいな声で言った。

「そうだ。もしよかったら、わたしに協力してもらえませんか?」

253: 2014/02/22(土) 20:52:21 ID:DYHyNxEk

「協力?」

「はい。えっと、知ってますか? 五年くらい前に、小学生の女の子二人が、監禁されて殺された事件」

 知らないわけがない。被害者は、学区こそ違えど、同い年の子供だったのだ。
 避けようとしたって、いやでも耳に入ってきた。

「……この辺りで起きた事件ですよね、たしか」

「うちの市です。それで、その事件で犯人が監禁場所に使ったっていう廃墟の洋館……。
 そこに、近いうちに行ってみようと思ってるんです。場所は、ネットとかで調べて、大雑把には把握してるんですけど」

「……どうして、そんな場所に?」

「都市伝説みたいなものがあるんです。人が亡くなった場所で、ちょっと不謹慎かもしれないですけど」

「どんな?」

「すみませんけど、それは追々。とにかく、わたしひとりで行くと、さすがに物騒かなって思って、躊躇していたんです」

 でも、と彼女は言う。そして俺の方を見る。俺は奇妙な不安を覚えた。
 不安というよりも、予感のような。でも、それとは別に、ほとんど衝動に近い興味もあった。

254: 2014/02/22(土) 20:53:04 ID:DYHyNxEk

「かまいませんけど」

 答えてから、俺はひどく落ち着かない気持ちになった。
 部長もまた、なぜか不安そうな顔つきをしている。

 それでも彼女は、「ありがとうございます」と言った。

「それじゃあ、今週末にでも」

「休みに入ってからじゃ、ダメなんですか?」

「あんまり時間を置くと、怖くなりそうな気がするんです」

 どうしてそんな場所に行きたがるんだろう?
 俺には、彼女の考えていることが、よくわからない。いつも。

「とにかく、お願いしますね」

 俺は、それでもなぜか、頷いてしまった。

255: 2014/02/22(土) 20:54:31 ID:DYHyNxEk



 帰り道の途中、いつもの公園で、シロを見かけた。

 いつものように高貴そうなふかふかの尻尾を翻して、とことこと四足で歩いている。
 
 この公園にはやたらと動物が多い。
 
 ミャーコにタヌキチ、ポチ、シロ、ミケ。思いつくかぎりでもそのくらいはいる。

 でも、ミャーコはこないだどっかの子供が拾っていった。ポチとミケは最近顔を見せない。
 タヌキチは、先月川沿いの堤防で車に轢かれて氏んでいた。

 俺は砂場の脇で毛繕いをはじめたシロを横切って、公園のベンチに腰かけた。
 細くて長い、白いひげが風に揺れて、心地よさそうに動く。

 昼間の暑さと比べればいくらか涼しいけれど、それでも太陽の余熱は街を息苦しくさせる。

 俺がベンチに座って休んでいると、シロはトコトコと俺の足元に近付いてきて、その場で丸く寝転がった。

256: 2014/02/22(土) 20:55:53 ID:DYHyNxEk

 こいつと仲良くなるのは大変だった。
 初めて公園で見かけてから、この白猫に一目ぼれした俺は、制服のポケットに毎日カツオ節のパックを常備するようになった。

 そしてこいつが来たタイミングを見計らって、カツオ節を足元にぱらぱらと撒く。
 カツオ節に夢中になっている間に、抱き上げてしまおうという魂胆だった。
 
 けれど上手くはいかなかった。他の猫がカツオ節をとってしまったり、風で飛ばされたり。
 ようやくシロが足元に来たと思っても、手を伸ばそうとすると跳ね上がるみたいにすぐに俺から距離をとった。

 無理に抱き上げようとしたときに、腕を引っかかれたことだってある。

 そういうさまざまな艱難辛苦の末に、俺とシロの関係性はできあがったわけだ。
 今だったら、きっと膝の上にのせたってシロは怒らない気がする。

 そう思って、俺はシロを抱き上げようとして、手を伸ばした。

 その瞬間、奴は何かに気付いたみたいにひょこりと起き上がって、公園の入り口の方に顔を向けた。
 そして、あっというまに走り去っていく。

257: 2014/02/22(土) 20:57:02 ID:DYHyNxEk

 俺はなんだか拗ねたような気持ちで、シロの行方を目で追った。

 そこには女の子が立っていた。

「こんにちは」

 と彼女は言った。
 少女の足元に、シロは心地よさそうに頭を摺り寄せている。

「こんにちは」

 と俺は返事をした。女の子は器用に笑った。ちょっと親密そうな笑み。
 小学校高学年くらいの女の子。年相応とは言いにくい技巧的な笑い方。

 彼女はその場に屈みこんで、シロの頭を撫でた。シロは気持ちよさそうに瞼を閉じて顎をあげた。

 俺は溜め息をついた。きっとこういう運命なんだ。何に関しても。

258: 2014/02/22(土) 20:57:39 ID:DYHyNxEk

「そいつ、シロって言うんだ」

 と俺は言った。女の子は笑った。

「知ってる」

「……どうして知ってる?」

 訊ねながら、俺はなんだかひどく落ち着かない気分になった。

「俺がつけたんだ。誰にも教えてない」

「教えてくれたよ」

 と少女は笑った。当たり前みたいな顔で。俺はなんだか怖くなった。
 落ち着け、と俺は自分に言い聞かせた。きっと、知らないのに知ってると言っただけだ。
 子供は、意味もなく知っていたふりをすることがある。

「わたしの名前も、シロって言うの」

 彼女は当たり前みたいな顔で言った。

「ホントの名前を忘れちゃったから、自分でつけたの」

259: 2014/02/22(土) 20:58:44 ID:DYHyNxEk

 俺はうまく答えられなかった。

「ねえ、お兄さん、ちょっと訊いてもいい?」

 彼女は屈みこんで猫の顎をくすぐりながら、そう言った。俺は頷いた。

「お兄さんの、本当の願い事って、なんだったの?」

「……え?」

「けっこう、上手にやってるつもりなんだけど、いまいち納得できてないみたいだよね?」

「……何の話?」

「だから、ひょっとして、何か隠してるんじゃないかと思って。べつに、いまさら知ったところでどうにもならないんだけどね」

 だって、もう叶えちゃったんだもん、と彼女は笑った。

「でも、教えて、お兄さん。本当の願い事は、いったいなんだったの?」

260: 2014/02/22(土) 21:01:50 ID:DYHyNxEk



 意識が、急に浮上する。

 気付けば俺は、自分の部屋のベッドで眠っていた。制服姿のまま。
 床には鞄が投げっぱなしになっている。どうやら、帰ってきてすぐ、眠ってしまっていたらしい。

 体を起こして、額を抑える。頭がズキズキと痛んだ。風邪をひいてしまったんだろうか。

 いつ帰ってきたのか、記憶が曖昧だった。

 窓の外は、残照で赤く染まっていた。

 立ち上がらなければ、と俺は思った。

 そして夕飯の準備をしないと。妹はすぐに帰ってくるだろう。
 俺が作らないと。……眠ってる場合じゃない。俺には眠っている資格なんてないのだ。本当は。

 でも、体が気怠くて、うまく動かなかった。ずっと眠っていたい気分だった。
 意識があるのが、苦痛だった。

261: 2014/02/22(土) 21:02:34 ID:DYHyNxEk



「疲れてる?」

「え?」

 妹の声に、ぼーっとしていた意識を現実に引き上げられる。

 野菜炒めと焼き魚と味噌汁。簡単な夕食。
 目の前に既に並んでいる。
 自分が作ったはずなのに、いつ作ったのか、思い出せない。

「上の空だね」

 いつも思うのだけど、妹の声は、どこか冷めているように聞こえる。
 しっかりしている、とか、凛としている、と言い換えてもいいんだけど。

 どことなく、冷めて聞こえる。

 あるいは、後ろめたさのせいかもしれない。

262: 2014/02/22(土) 21:03:35 ID:DYHyNxEk

「今朝から、なんか変だね?」

「……ごめん」

「べつに、謝ってほしいわけじゃないよ。ただ、何かあったのかなって、気になっただけ」

「何かあった、っていうより……」

「て、いうより?」

「……寝惚けてるのかも」

 妹は少しだけ笑った。

「まだ寝足りないの?」

「試験が終わって、気が抜けたのかも」

「まあ、休みも近いしね」

 いつもながら、思うのだけれど、俺の活力のなさとか、そういうものを、妹はあっさりと受け入れてくれる。
 まるで当たり前みたいに。俺は少し、それが怖かった。

263: 2014/02/22(土) 21:05:00 ID:DYHyNxEk

「試験、そういえば、どうだった?」

 俺はふと思い出して、そう訊ねた。妹は困った顔をした。

「……」

「悪かった?」

「べつに、そういうわけでもないけど」

「いつもよりは?」

「……ちょっと下がってた」

 俺は少し黙った。ちょっとどころじゃないくらい、意外な話だ。
 とはいえ、時期が時期だし、成績だって不動のものじゃない。不自然なことでもないんだけど。

 俺の沈黙をどう勘違いしたのか、妹は怒ったみたいに口を開いた。

「……いいの! ちょっと一学期はサボり過ぎただけ! これからちゃんと勉強するもん」

「その意欲を、テストの前に出せればよかったよな」

「うるさいな。……お兄ちゃんはどうだったの?」

264: 2014/02/22(土) 21:06:26 ID:DYHyNxEk

「俺は……」

「やっぱり、いい。答えなくて」

「どうして?」

「どうせ良いんでしょ?」

「まあ、うん」

 肯定すると、妹はむっとした顔になった。

「自分で言わないでよ」

「良い成績をとった奴は、自分を卑下しちゃだめだって俺は思うんだよな。
 優秀な奴が自分を全然だめだって言ったら、それ以上に駄目だった奴は気持ちをどこに置いたらいいんだよ」

「自分で優秀とか……」

「たとえ話だよ」

 妹は溜め息をついた。俺は自分の言葉について、しばらく考えていた。 
 思ったよりもずっと、その言葉は俺の胸に重くのしかかった。気持ちの置き場がない。

265: 2014/02/22(土) 21:08:32 ID:DYHyNxEk



 俺はバスの中にいる。
 バスの座席に腰かけている。

 バスは静かに移動を続けている。

 街並みは普段よりもずっと低く、小さく、遠く見える。

 乗客たちはやけに静かだった。
 ある人は退屈そうに、ある人は眠たそうに、口を閉ざしている。

 ときどき誰かがわざとらしく咳をした。咳は静かな車内にやけに大きく響く。
 咳が響いた後、バスの中はより一層静けさを増す。

 誰かと誰かが交わす囁き声。

 バスは目的地を目指している。

266: 2014/02/22(土) 21:09:39 ID:DYHyNxEk



 隣には、リュックサックを膝の上に抱えた部長が座っていた。
 
 約束の週末、俺と彼女は停留所に待ち合わせして、そのままバスに乗った。
 目的地は部長にしか分からない。

 彼女の私服を見るのは初めてだったけれど、意外にも動きやすそうな、ラフな格好だった。
 それも当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

 目的地は「森の中の洋館」なんだから。

 部長の手首には腕時計があった。
 リュックサックの中身を聞くと、「懐中電灯とか、コンパスとか、乾パンとかです」と真面目な顔で答えてくれた。

 俺たちはバスの座席に隣り合って座ったまま、ぼんやりと移り変わる窓の外の景色を眺めていた。

267: 2014/02/22(土) 21:11:54 ID:DYHyNxEk

「一応、今のうちに訊いておきたいんですけど」

 俺はバスの静けさを意識して、小声で言った。彼女は聞き取りやすいようにか、耳元を近づけてくる。
 自然と、頭を突き合せるような恰好になった。隣に座っておいて、いまさらどうという距離でもないのだが。

「都市伝説って、なんなんです?」

 彼女は小さく頷いて、俺の方を見上げた。
 立っていても座っていても、部長の頭は俺の顔より低い位置になる。
 
 私服姿だと、ほとんど小学校の高学年くらいか、せいぜい中学生一年生くらいに見える。
 そのくらいの時期に、彼女の中の時間は流れるのをやめてしまったのかもしれない。

「廃墟になった洋館、当り前なんですけど、もともとは人が住んでいたらしいんです」

「……はあ」

「そんなに大きくはない建物みたいなんですけどね。洋館っていうよりは、洋風家屋、というような」

 ひそめられた部長の声が、やけに距離を意識させた。
 こうしていると、なんだか年下の女の子みたいに思えて、妙に後ろめたかった。

268: 2014/02/22(土) 21:12:29 ID:DYHyNxEk

「べつに、別荘ってわけでもなかったみたいなんです。それなのに、結構森の奥まった場所に建っている。
 どう考えても、日常生活を営むには不便なんですけど、そこに家を建てなければいけなかった理由があったみたい。
 もちろん、建てられたのはもうずっと昔のことですから、今とは事情が違ったんでしょうけど」

 人目を避けなければいけない理由があったのか、それとも場所自体に意味があったのか。

「ここからは嘘か本当か分からない、ネットで調べた話です。
 なんでも、住んでいたのは五人。家族構成は、父、母、二人の娘と、一人の息子、だったらしいです。
 もともとは都会で暮らしていたんですけど、息子が重い病気を患っていて、療養の為に、家を建てて越してきた……」

 俺は、黙って彼女の言葉の続きを待った。

「でも、療養といっても、単に空気がきれいだからとか、そういうだけじゃなくて……。
 ……ヒメくん、知ってますか? この街の神様のこと」

「……神様?」

「はい。森の神様」

 急に話が変わってしまった。

「ずっと前からの言い伝えなんですよ。神様が住んでいる森って」

「……有名、なんですか?」

269: 2014/02/22(土) 21:16:24 ID:DYHyNxEk

 彼女は肩をすくめて笑った。

「逆です、ね。事件が起こって、どうして洋館がそんな場所に建っていたのかって興味をもった人がいたんでしょう。
 そうして調べてみたら、この辺りにはそういう言い伝え、伝承みたいなものが、けっこう残っていることが分かった。
 実際、この辺りに住んでるお年寄りの方なんかと話をすると、簡単に教えてもらえますよ」

「つまり、洋館が建てられたのは……」

「森に神様がいたからかもしれない、っていうお話です。個人的には、納得がいかないんですけど、そういう説もあるんです。
 子供の病気がそれほど重いものだったのかもしれない。そういう伝承を聞きつけて、藁にもすがる思いで越してきたのかも、と」

 詳細はもちろん分かりませんけどね、と部長は言った。
 それはそうだろう。少し根拠に乏しい。神様が住んでいるからって、家まで建てるか?

「もし事実だとすれば、一家は、神様が本当にいる、と考えられるような根拠を持っていたのかもしれません。
 知り合いが実際に神様に会ったとか。まあ、そのあたりのことは、この話とはあんまり関係がないんです」

「それで、その神様って?」

「願いを叶えてくれる神様、らしいですよ」

「……抽象的ですね」

 部長は頷いた。

270: 2014/02/22(土) 21:17:06 ID:DYHyNxEk

「小さな子供を自分の使いにして、願いを持つ人間の望みを叶える……そんな神様です」

「どんな目的で、人の願いを叶えるんでしょうね?」

「そのあたりは分からないです。人間に分かるものなのかどうかも、怪しいですけど」

「でも、じゃあ、その子供の病気は、治ったんでしょうか?」

「治らなかったみたいですよ。数年後に氏んでしまったみたいです」

 部長はあっさりと言った。俺はなんだか裏切られたような気持ちになる。
 でも、冷静に思い返してみれば、俺たちがしているのは「洋館」についての話だ。
「神様」の話の真偽は、今は問題じゃない。

271: 2014/02/22(土) 21:17:45 ID:DYHyNxEk

「一家は結局、この街を後にしたそうなんですが、変なのがここからですね」

「変?」

「二人の娘のうち一人が、行方不明になったそうなんです」

「……ネットのうわさですよね?」

「ある程度の客観的事実を踏まえた上での推論や憶測、と言った方が正確です」

 部長の顔はあくまで真剣だった。

「かなり後になっても、その子は発見されなかったらしいです。生きた姿でも、氏体でも。
 ……実を言うとこのあたりの話は、この街に住んでいるお年寄りによる言い伝えでもあるんです」

「……言い伝え?」

272: 2014/02/22(土) 21:18:45 ID:DYHyNxEk

「つまり、その一家の話がこんなに事細かに知られているのは、ひとつの神隠し譚として、街に語り継がれているからなんです」

「……神隠し譚、ですか」

「神様の庭に我が物顔で家を建てて、その怒りに触れたから、息子は氏に、娘がさらわれた。
 そんなふうに読み取っている人もいました。事実はもちろん分かりません」

「……それ。そこ、疑問なんですけど、神様の助けを借りようとしている人が、神様の庭に家を建てますかね?」

「そのあたりのことは、ちょっとわかりません。本当はもっと別の事情があったのかもしれない」

「……どんな?」

「人目を避けたい事情ですよ。とにかくそれ以来、洋館はずっと森に残されていたみたいです」

 数年前に事件が起こるまで、ずっと。俺はなんだか奇妙な虚脱感を覚えた。

273: 2014/02/22(土) 21:19:26 ID:DYHyNxEk



 俺は気付けば、眠ってしまっていた。

 不思議なことに、俺は夢が夢だとすぐに気付いた。明晰夢。
 
 夢の中で、俺はバスに乗っていた。隣には部長が座っていた。
 部長は窓の外をじっと眺めて、何かを考え込んでいる様子だった。

 乗客はもういない。

 窓の外の景色は、だんだんと人の気配のしない、物寂しいものに移り変わっていく。
 
 うんざりしそうな田園風景。
 部長は何かを見逃すまいとしているみたいに、そこにずっと視線を走らせている。

 ほとんど何かに追い立てられるみたいに、必氏そうな顔で。

274: 2014/02/22(土) 21:20:18 ID:DYHyNxEk



 そして、肩を揺さぶられて、俺は目をさました。

「つきましたよ、ヒメくん」

 その言葉に目をさましたとき、乗客は既に、俺たち以外にはいなかった。
 俺は一瞬、自分がどこにいるのか、何をしているのか、分からなくなってしまっていた。

 促されるままに立ち上がり、料金を払い、バスを降りた。
 地面に降りてからうんと伸びをして、あくびをする。それから、自分がいる場所を確認した。

 辺りに森はない。

「……ここですか?」

「ここから、少し歩くんです」

 部長は笑いもせずに言った。

275: 2014/02/22(土) 21:21:15 ID:DYHyNxEk

 それからお世辞にも「少し」とは言えない距離を歩いた。森というより、辺りの様子は山のようだった。

 田畑と木々、ときどき思い出したように立ち現れる人家。
 俺たちは夏の日差しに照らされながらその中を歩いた。
 
 やがて部長が、森の入口を見つける。木々の隙間にぽっかりと口をあけた、切り開かれたような土の道。

「家屋が立っていた場所ですから、獣道みたいにはなっていないはずです」

 俺は自分がどうしてこんな場所にいるのか、その理由が分からなくなりつつあった。

 森は、外から見るとそう広そうには見えなかったのに、中に入ってしまうと、その暗さ、深さに吸い込まれそうだった。
 鬱蒼とした木々。日の差し込まない梢の道。

 ふり返ると、森の入口が、ずっと遠くの方で、明るく光っていた。

 随分と、薄暗い。

276: 2014/02/22(土) 21:21:54 ID:DYHyNxEk

 ふと、道の脇の草ががさがさと揺れた。
 そこからひょこりと顔を出したのは狸だった。人間を前にしても、物おじしていない。
 むしろ、怖がっているのは俺たちの方だった。

「狸ですね」

 と、部長は言い聞かせるように言った。「それ以外の何かではない」。

「そういえば、ヒメくんは……」

 まるで沈黙のまま歩き続けることが苦痛だというみたいに、部長は口を開いた。
 ざわざわという風の声が、今だけはすごく気分を落ち着かなくさせる。

「猫を、助けたことがあるんですよね?」

「……何の話ですか?」

「子供の頃に、轢かれそうになった猫を助けたことがあるって、聞きました」

「……ああ。まあ。結果的に自分が轢かれそうになりましたけど」

「そうなんですか?」

277: 2014/02/22(土) 21:22:31 ID:DYHyNxEk

「どんな気分なんだろうって思ったんですよ」

「……何がですか?」

「つまり、身を挺して何かを庇うっていうのは、どんな気分なのかって」

「……どんな気分、だったんですか?」

 俺は少し考えた後、首を横に振った。

「一種の自己犠牲、みたいなものだと思ってたんです。ああいうのは。俺の場合は違ったけど」

「なんだったんですか?」

「俺は、犠牲にして惜しいほどの自分なんて、最初から持ち合わせちゃいなかったんですよ。
 たとえば、赤信号の横断歩道の前に立っているとき、誰かが背中を押してくれたらなって思うじゃないですか」

「……」
 
「そういうのと同じなんです。つまり、氏ぬための大義名分というか、そういうものが欲しかっただけ。俺の場合は、ですけど」

 部長は返事をしてくれなかった。俺は自分が何を話しているのか、よく分からなかった。
 森の空気は澄んでいるはずなのに、ひどく澱んでいるように感じられた。

278: 2014/02/22(土) 21:23:49 ID:DYHyNxEk



 携帯は圏外になっていた。

 午前十一時半を過ぎた頃、俺と部長はようやくひとつの建物を見つけた。
 森に入ってから四十分近く歩いた頃だった。

 部長の言う通り、「洋館」というイメージから想像するよりは、その建物は小さかった。
 何人かの家族が生活するために作られた家屋。

 それでも、建物の雰囲気は瀟洒で、一般的じゃない。二階建ての白い家。

 放置されていた名残りだろう。
 白かったはずの壁には濃い汚れがつきまとい、蔦が絡んでいる。

 周囲の森から草木が侵食し、足元に茂っている。
 家の脇に、大きなドラム缶がいくつか並んでいた。

279: 2014/02/22(土) 21:25:42 ID:DYHyNxEk

 廃墟というものには独特の空気がある。
 退廃的、というとあまりに耽美的すぎるし、虚無的、というのもあまりに悲観的すぎる。

 原始的な停滞。

「ここですか?」と俺は訊ねた。

「たぶん」、と部長は答えた。

「入るんですか?」

 部長は頷いた。

「そのために来たんですよ」

 彼女は繕うように笑う。
 この建物の位置を、部長はずっと前から知っていたんだろうか。
 最初話したときには、もっと曖昧に言っていた気がしたのだけれど。

280: 2014/02/22(土) 21:26:20 ID:DYHyNxEk

 最初、玄関を見つけることができずに、俺たちは家屋の周りを一周した。
 埃で白っぽく汚れた窓から、中の様子を窺う。
 
 窓は割れていなかった。
 室内にはモノが極端に少なかったけれど、ソファや机、椅子などの家具は当たり前のように残っていた。
 例の一家が置いていったのだろうか。

 玄関を見つけると、部長はリュックサックから軍手を取り出して、俺に手渡した。
 自分の手にもそれをつけると、躊躇せずに扉を開ける。

 扉を開けるとき、そのまま外れてしまうのではないかと思うほど大きな軋みをあげた。

 いくらか引っかかる扉を、半ば引きずるようにして開けると、中の様子がうかがえた。

 部長は扉を開けきってから、何度かこほこほという咳をした。

281: 2014/02/22(土) 21:27:12 ID:DYHyNxEk

 灯りのない屋内は薄暗かったが、思ったほどではなかった。 
 そもそもは人家なのだから、昼間から暗くなるようには設計されていないということかもしれない
 部長が次に取り出したのはマスクと懐中電灯だった。

「用意周到ですね」

「ただでさえ、森の中ですから」

 いったい何が彼女をそこまで駆り立てるのか。
 マスクに懐中電灯、軍手。我ながらどう考えても怪しい。

「ずいぶん古い建物ですね」

「話が間違って居なければ、数十年前の建物ってことになりますから」

「気になっていたんですけど……この洋館、例の誘拐事件のとき、犯人の隠れ家として利用されてたんですよね?」

 何を当たり前のことを、という顔で、部長は頷いた。
 埃っぽい床の上を、彼女は土足のまま進んでいく。

「あの事件のこと。俺、いまだに詳しくは知らないんですけど……」

282: 2014/02/22(土) 21:27:58 ID:DYHyNxEk

「まあ、無理もない、というか、いろんな点が謎のまま、報道されなくなりましたからね」

「……どんな事件でしたっけ?」

 部長は少し考え込んだ様子だったが、すぐに話し始めた。

「小学生の女の子三人が行方不明になったんです。
 そのうちの二人は友人同士で、もう一人は違う学校の生徒。合わせて三人、です。
 もっとも、これは後から分かった話で、当時は別々の出来事として受け止められていたみたい。
 つまり、二人の小学生の失踪と、一人の小学生の失踪、というふうに」

 廊下を進んでいくと、進路は三つに別れた。一つはすぐ傍の階段に繋がっている。
 一つは奥へとまっすぐ、もう一つは左側の部屋に。部長は左側の部屋への扉をくぐった。

 中は思ったよりも明るかった。大きな窓。どうやらリビングのようになっていたらしい。
 さっき外から覗いた部屋も、ここなのかもしれない。外に面していて、すぐに出られるようになっている。
 テーブルやソファは埃をかぶっていて、ちょっと直には触れそうにない。
 
 何かの参考になりそうなものはなかった。写真も日記も新聞も。当然だ。

283: 2014/02/22(土) 21:28:38 ID:DYHyNxEk

「それが関連したふたつの事件だと分かったのは全部が終わってからでしたけどね。
 というのも、事件が発覚したのは、すべてが終わったあとだったからなんですけど。
 つまり、それまでは誘拐事件だということも、犯人の目的どころか存在も、分かっていなかったんです」

 部長はそこで一度話すのをやめて、周囲の様子を窺い出した。
 
 庭に面した窓にはクリーム色のカーテンが掛けられていた。
 あるいは日に焼けてしまっただけで、もともとは白かったのかもしれない。

 大きめの窓から外の光が差し込むと、屋内の暗さがいっそう際立ったけれど、それは奇妙に静謐な印象をもたらした。

「事件が発覚したのは、通報があったかららしいんですが、この通報っていうのも奇妙なんですよね」

「奇妙?」

「つまり、小学生くらいの女の子だったらしいんですよ、声が」

「……」

 また、小学生くらいの女の子。

284: 2014/02/22(土) 21:30:35 ID:DYHyNxEk

「公衆電話からの連絡だったらしいんです。この場所に、女の子が監禁されている、という内容。
 悪戯だと判断しなかった警察は偉いですね。わたしだったら信じませんけど」

 そして、事件が発覚した。

「そして、事件が発覚したわけです。そのときには、女の子は氏体だったらしいですが」

 この家の中で。
 昔、女の子が殺された。この不思議と静謐な空間で。

「もちろん後の調査で分かったことですけど、犯人は二ヵ月にわたり女の子たちを監禁していました。
 そして何をしていたかっていうと、まあ、夕方のニュース風にいえば……性的暴行を加えていました」

 このあたりは、かなり曖昧なんですけどね。部長の声は妙にさめていた。

「犯人の男については、よく分かっていないですけど、どこにでもいるような男性だったらしいです。
 普通に学校を出て、普通に働いてて、ニュースに載せて映えるほどの卒業文集も書いていなかったらしい、と」

 つまり、ごく当たり前の男性だったわけです。彼女は笑いもせずに言う。

285: 2014/02/22(土) 21:31:46 ID:DYHyNxEk

「でも、この事件のおかしいところっていうのは、そういう部分じゃないんでしょう?」

 俺が言うと、彼女は頷いた。
 森の中はあんなに薄暗かったのに、この家の中から見ると、とても明るく見える。
 木の葉が日に照らされ、黄緑色に輝いている。

「犯人も、氏体で発見されたんでしたよね」

「はい。マスコミによれば、他殺体だという見方が強かったみたいですけど」

「しかも、ただの他殺体じゃなくて……」

「焼氏体」

 この家の庭で、炭のようになった氏体が発見された。
 でも、氏因は失血氏だった。背中にいくつもの刺突の痕が残っていたのだ。
 ナイフか何かで刺されたような、そんな痕。

286: 2014/02/22(土) 21:32:49 ID:DYHyNxEk

「だから、最初の頃、捜査はすごく混乱していたみたいですよ。
 通報に従ってきてみれば、氏体が三つ。女の子は、片方が縊氏、もう片方は頭を強く殴られて氏亡。
 そして庭には焼氏体、です。端的にいって、わけがわかりません」

 それでも、捜査の末に、焼氏体が犯人であることが判明した。
 犯人には共犯者がおり、その人物が何かの理由で犯人を頃したのかもしれない、という推論もあるにはあった。
 でも、結局その共犯者が見つかることはなく、事件はそのまま忘れ去られた。

「……部長、気になったこと、訊いてもいいですか?」

 外から差し込む光は、彼女の顔を、俺からは見えにくくさせた。

「なんですか?」

「氏体は、三つですよね? 女の子二人に、犯人の男が一人」

「はい」

「いなくなった女の子は、三人じゃありませんでしたか?」

287: 2014/02/22(土) 21:35:25 ID:DYHyNxEk

 部長は少し考え込むように黙り込んだ後、また口を開いた。

「見つかった女の子は二人。これが奇妙なんですけど、さっき、言いましたよね。
 二人組の子と、一人の女の子が失踪したって」

「はい」

「二人組の片割れだけが、見つからなかったんです。関連がなかったはずの二人が、同じ場所にいたのに」

「……その片割れは?」

「見つかりませんでした。生きた姿でも、氏んだ姿でも」

「……数が合いませんよね」

「共犯者に連れ去られた、っていう説もありますけど、そもそも共犯者説自体が、怪しいところです。
 状況的には、そう考えるのが一番自然といえば自然なんですけど……」

「……あるいは、今もどこかで生きているかもしれない?」

「……どうでしょうね」

 部長は曖昧に首を傾げた。それはなさそうだ、と言いたげに。

「でも、もし生きているとしたら、ヒメくんと同い年くらいになりますね」
 
 俺はその言葉に、少しだけ怖くなった。

288: 2014/02/22(土) 21:36:09 ID:DYHyNxEk



「もうひとつ、気になっていたことがあるんですけど……」

 と、俺は部長にそう訊ねようとしたのだが、途中で物音が聞こえた。
 二階から。……足音? 

 部長と目が合う。彼女の表情がこわばっている。

 俺たちは声を出せなかった。お互い黙り込んだまま、廊下の方の様子をじっと窺う。
 
 足音は近付いてくる。

 床板の軋みがやけに物々しい。
 俺は部長を促して壁の陰に移動した。

 部長は緊張した面持ちでじっと部屋の入り口を睨んでいた。

 俺たちはどうして隠れたんだろう? 
 数年前に事件が起こった廃墟。そこを調べにきた。興味本位で。
 たしかに褒められた行為じゃない。でも、隠れるほどのことでもないはずだ。

289: 2014/02/22(土) 21:38:08 ID:DYHyNxEk

 やがて、壁の向こうから話し声が聞こえた。
 ひそめられているわけでもない、堂々とした声。明るい声。
 
 女の子の声。聞き覚えのある。

 俺と部長は顔を合わせた。彼女は怪訝そうな顔をしていた。俺もしていたと思う。
 どうしてこんな場所で、女の子の声が聞こえたりするんだ?

 さっき聞いたばかりの事件のことを思い出して、俺はひんやりした気分になった。
 馬鹿げてる。子供が遊び場にしているだけかもしれない。

 でも、姿を現す気にはなれなかった。

「とにかく、三つくらい重なっちゃってるみたいなの」

 片方はそんなことを言った。聞き覚えのある声。

「ひとつは、たぶんあんまり影響がないと思うんだけど、そのうち問題が出て来るかも。
 ふたつめはちょっと変な感じ。うまく機能しなかったっていうか、不鮮明だったのかもしれない」

「もうひとつは?」

 訊ね返した声は、聴き覚えのないものだった。静かで、落ち着いていて、少し暗い雰囲気の、これも、少女の声。

290: 2014/02/22(土) 21:38:43 ID:DYHyNxEk

「もうひとつは……」

 と明るい声が言う。
 そして、足音が止まる。
 
 静かな沈黙。俺と部長は顔を見合わせた。なぜだろう?
 少女の声なのに……すごくまずいところに居合わせたような、そんな気持ちになる。

 どうしようかと、俺と部長は顔を見合わせた。
 そして、唐突に、

「わっ」

 という声と同時に、部屋の入口から少女がこちらに顔を覗かせた。
 俺の心臓は二秒くらい止まった。

「こんにちは、お兄さん」

 当り前のように、知っていたみたいに、彼女は笑った。俺たちの方をしっかりと見て。
 とっさに俺と部長は抱き合うような格好になった。

「あれ? デート?」

 シロはからかうように笑った。

291: 2014/02/22(土) 21:39:35 ID:DYHyNxEk

 追いかけるように、入口から姿を見せたのも、また、少女。
 シロはシロで、控えめな印象があるが、その少女は少し違う。

 控えめというよりは、物静かで、悟ったような。
 見下ろすような。

「初めまして」と少女は笑う。
 
 技巧的な笑み、ではない。
 取り繕う必要がない、とでも言いたげな、自然な笑い方。
 でも、その笑顔は、どこがというわけではないが、どこかしら、おかしかった。どこかしら、不自然だった。

 細くまっすぐ伸びた黒い髪は、首の半ばほどのところで切り揃えられている。
 目は切れ長で、釣り目がちな印象がある。
 
 背丈は、シロとだいたい同じくらい。でも、シロより、どことなく大人びた雰囲気がある。
 大人びた、というより……老成した、というような。

 でも何よりも印象的なのは、そうした細部ではなく、衣服。
 和装だった。それも本格的な。……それがやけに、似合っている。赤い和服。

「どうして、こんなところに?」

 と、俺はシロに訊ねた。公園で出会った少女。奇妙な記憶だったから、半分、夢かと疑っていたのだけど。
 彼女の反応を見るに、実際に起こった出来事だったらしい。

292: 2014/02/22(土) 21:40:30 ID:DYHyNxEk

「それはこっちの台詞だよ」

 シロは、以前あったときよりもずっと打ち解けた笑顔だった。

「お兄さん、こんなところに何をしに来たの? 用事なんて、ないよね?」

 自然な笑みだった。暗い森。廃墟の中。怖気づくこともなく、シロは笑っている。
 まるでここにいるのが当たり前みたいな顔で。

 その仕草があまりに自然すぎて、俺は上手く答えられなかった。
 言葉を引き継いだのは、部長だった。

「少し、調べものをしていたんですよ」

 部長は、いかにも子供に話しかけるような調子で、いつもの技巧的な笑みで、シロに返事をした。
 シロは一瞬、部長の返答に驚いたように見えた。
 まるで、それまで部長がそこにいるという事実に、気付いていなかったみたいに。

293: 2014/02/22(土) 21:41:37 ID:DYHyNxEk

「調べものって?」

 部長は答えに窮したようだった。シロの質問は、俺が部長にぶつけようとした質問と重なっていた。
 俺は、彼女がなぜ、こんなところを調べたかったのか、事件に興味を持ったのか、分からなかった。

「知りたいことがあったんです」

「そうなんだ」
 
 シロは、特に感慨もなさそうに頷くと、ちょっとだけ真面目な顔でうなった。
 そして、それから、ごく当たり前みたいな調子で、

「じゃあ、教えてあげようか?」

 そんなことを言う。
 部長は一瞬、面食らったようだった。

 なぜだか分からないけれど、俺はその瞬間、

「やめろ!」

 と半ば怒鳴るような調子で声をあげていた。漠然とした不安。
 シロの能天気な声が、なぜか、神経をやけに逆撫でする。

294: 2014/02/22(土) 21:42:24 ID:DYHyNxEk

 シロは目を丸くしたけれど、怯えた様子はなかった。
 彼女の隣にいる少女も、値踏みするような視線をこちらに向けているだけだった。

「……ヒメくん?」

 驚いていたのは、部長と、声を出した俺自身だけだった。
 自分でもなぜ、そんなに必氏な声をあげたのかは、分からない。

 でもとにかく、それはだめだ、と直感的に思った。

「ねえ、お兄さん」

 けれど、シロは俺の様子を気にもかけずに、にっこりと笑った。

「それは、もしかして――"お願い"?」

 冷え切った声。
 高みから見下ろすような。

「だとしたら、わたしがそれをきく理由は、ちょっとないかな」

295: 2014/02/22(土) 21:43:17 ID:DYHyNxEk

 シロの笑顔は、とても自然で、だからこそ、この場面には、不自然だった。

「だって――お願いは一人につき一つだから、よく考えて決めてねって、わたしはちゃんと言ったはずだよ」

 俺はうまく声が出せなかった。
 
「そのくらいに、しておいたら」

 諌めるような声でそう言ったのは、それまで黙り込んでいた、和服の少女だった。
 透徹したような視線が、シロを咎めるように動く。

「怖がっている、みたい、だから」

 少女の声は、途切れ途切れだった。調子はずれのオルゴールみたいに。
 その子の目が、俺をとらえた途端――背筋が凍りつくような感覚がした。

「……この人が、さっき、言ってた、"もうひとり"?」

 視線は俺を見ているのに、声は俺ではなく、シロに向けられていた。
 
「そう。でも、変なんだよ、この人のも。何か、混じっちゃってるのかもしれない」

 シロと、もう一人の目が、じっと俺をとらえる。薄ぼんやりとした暗闇の中で、空気はひんやりとして落ち着かない。

296: 2014/02/22(土) 21:43:54 ID:DYHyNxEk

 沈黙を破ったのは、それまで黙り込んでいた部長だった。

「訊いても、かまいませんか?」

 部長は、シロではなく、もうひとりの方を見つめていた。
 もう一人は、少しのあいだ部長を値踏みするように眺めた後、小さく頷いた。

「これは、"お願い"ではないので、答えてくれなくてもかまわないんですが……」

 部長の声はかすかに震えを帯びていた。

「ひょっとして、"神様"ですか?」

 荒唐無稽な言葉が、真剣な声音で、和服の少女に向けられる。
 俺は一瞬、何の話なのか、分からなかった。
 それでも少女は、とくに何の感慨もなさそうに、一足す一の答えを言うみたいに、簡単そうに。

「……はい」

 と、肯定した。俺は眩暈を覚えた。

297: 2014/02/22(土) 21:45:01 ID:DYHyNxEk



「……神様?」

 響いたのは俺の声だった。俺以外に、誰もなにも言わなかった。
 部長も、シロも……"神様"ですら、肯きの後には何も言わなかった。

 俺は笑った。我ながら怯えた感じの笑い方だった。

「どういう意味?」

「そのままの意味」

 シロは少しつまらなそうな顔で、俺の問いに答えた。
 
「神様なんだよ」

 たいしたことではない、というように、ごく当たり前の調子で、言う。
 和服の少女は、すこしおどおどした様子で、しばらく何かを言いあぐねていたようだった。

298: 2014/02/22(土) 21:46:07 ID:DYHyNxEk

 俺は彼女の言葉をじっと待っていた。何かの冗談か、ごっこ遊び。そう考えてしまえばいいはずなのに。 
 なぜか俺は、すごく真剣に、彼女の言葉を否定したくて仕方なかった。

「でも、神様というのは、本当は少し、語弊がある、と思います」

 誤解を恐れるような口調。

「神様、というわけではなくて、少し、外れている、ような、そんなかたちです、わたしは」

 かたち。

「神様、という言葉は、たぶん、この森に以前あった、偽物のことを指すのだと、思う。
 言葉の上では、似ているけど、わたしがしているのと、その偽物がしていることは、まったくちがうことだから。 
 でも、それは神様と呼ばれていたし、わたしも、そのことを利用もした。けど、わたしは、神様じゃないです」

 俺は何を訊けばいいのか、分からなくなってしまった。どこから訊けばいいのだろう。
 それとも、バカな冗談だと一笑に付せばいいのか?

「偽物が、あまりにひどいものだから、それならわたしが、本物になろう、と思いました。
 だから、わたしは、神様の真似事を、しているの。そういう力が、もともとあったんだけど。
 それも、いつのまにか、強くなっていて。いろんなことが、できるようになったから。
 ねえ、わたしが言ってること、ちゃんと、伝わって、いますか?」

 俺は返事ができなかった。

299: 2014/02/22(土) 21:47:04 ID:DYHyNxEk

「つまり……そういう遊びってこと?」

 俺は試すようにそう訊ねた。少女は真剣な顔で黙り込んでしまった。
 沈黙が怖い。

「そう、思われても、特に支障はないです。訊かれたから、答えただけだから。
 信じるか信じないかは、好きにすればいいと思う」

 女の子の言葉は、俺の言葉なんてほとんど無視しているようなものだった。
 嫌な気分になりかけたところで、部長が不意に口を挟んだ。

「神様ということは、誰かのお願いを、叶えているわけですか?」

 女の子は当然のように答えた。

「そう」

「少し疑問なんですけど、どうして人の願いを叶えたりするんですか?」

 少女は押し黙った。答えにくいというよりは、答えがないときのような沈黙。

300: 2014/02/22(土) 21:47:59 ID:DYHyNxEk

「わたしは、偽物からうまれました。偽物は、子供を使いにして、人の願いを叶える、そういう存在でした。
 時には子供を隠し、時には子供を頃しました。わたしも、そういう中のひとりでした。
 たぶん、そのことに、わたしは怒っているのだと思う。だから、反抗のようなつもりだったんです。はじめは。
 でも、今は、約束があるから。約束の為に、必要だから」

 だから、と少女は言う。

「わたしは、少し世の中に慣れていなくて、人と上手く話せないから。
 だからこの子に手伝ってもらって、願い事を、集めています。叶えられるもの、だんだん増えてきたから。
 でも、やり方が、そのぶん分からなくなってきて、わたしにも、よくわからなくなってきているんです、けど」

 ふと気付いたように、少女は俺の方を見上げた。 
 視線が、まとわりつくように澱んでいる。

「そろそろ、帰った方がいいと思う。どんな事情であれ、わたしみたいなのと長く話をするのは、よくないから。
 でも、そもそも、ここには何をしにきたの? こんなところ、用事もないでしょう?」

「神様について」、と部長は言った。

「知りたかったんです」

「……どうして?」

 部長は口籠ってしまった。答えなんてなかったのかもしれないし、言いにくかっただけなのかもしれない。

301: 2014/02/22(土) 21:48:39 ID:DYHyNxEk

「でも、もしこの森の神様について、何か知りたいなら、この家を出て、道なりにずっと進んでみるといいかもしれない。
 けっこう、歩くけど、開けた場所に出ます。そこに、昔、神様がいました。随分前だけど。偽物だったけど。
 たくさんの人の願いを、叶えた場所です。焼け落ちてしまった、けど。この森の神様の正体は、そこにあると思う」

「……ありがとうございます」

 部長は丁寧に礼を言って頭を下げると、俺を促して部屋から出させた。

「またね」

 とシロは笑った。俺は自分がどんな顔をしていればいいのか分からなかった。

「あなたも」、と和服の少女は俺に声を掛けた。

「気を付けて。わたし、誰かを不幸にしたいわけじゃないんです」

 その言い方だと、まるで。
 俺が不幸になりそうだ、とでも言いたげだ。

302: 2014/02/22(土) 21:49:39 ID:DYHyNxEk



 廃墟を出た。女の子をふたり、置き去りにしたまま。
 その選択は明らかに異常だった。俺も部長も、本当ならそんなことをするべきじゃない。
 
 でも、あの二人は……"変"だった。
 自分がおかしくなったんじゃないかと錯覚してしまいそうになるくらい、自然に、おかしかった。

 そうした感覚は数分間俺にまとわりついて離れなかった。
 神秘的、というと少し詩的すぎる。異質な、というと今度は毒々しい。

 ふさわしい言葉が見つからない。いつも。

 とにかく、そうした異質な感覚。それは数分間、俺の思考を支配していた。
 数分後には消えてなくなっていて、今度は彼女たちを置き去りにしたことに対して後ろめたさを感じるようになった。

 でも、その頃には俺も部長も、廃墟を後にしていた。しかも、例の言葉の通り、森の奥へと移動していたのだ。

303: 2014/02/22(土) 21:51:02 ID:DYHyNxEk

 どうして歩いているのだろう?
 時刻は正午を回っていた。俺たちは廃墟を出て十五分ほど歩いた。

「そろそろ、お昼にしましょうか」

 部長は歩いてきた道の凹凸を踵で確かめて、少しでも周囲より平らな場所に持参していたビニールシートを広げた。
 
 彼女はそこに腰を下ろすと、リュックサックを置いて、俺に座るように促した。
 普段から土日は昼を抜くことが多いから、俺は食事のことをまったく考えていなかった。
 持ち物だってほとんど何も持っていなかった。

 部長はそんなことは見越していたというように、リュックサックから二人分のランチボックスを取り出した。

「ちょっとしたピクニックですね」

 彼女がそう言って笑ったとき、俺はようやく、張りつめていた緊張の糸がゆるむのを感じた。
 罪悪感、焦燥、恐怖、よくわからない感情。そういうものが、言葉もなく歩いていた間中、ずっと俺の中にあった。
 それがようやく消え失せてくれた。

304: 2014/02/22(土) 21:51:55 ID:DYHyNxEk

「ピクニックといえば」と部長は言葉を続けた。

「ピクニック事件ですね」

「……なんです、それ」

 部長は楽しそうにランチボックスを開けた。中にはサンドイッチが入っていた。
 もし陽射しがもう少し差し込んでいたなら、たしかにピクニックみたいだっただろう。

「1989年」

 と部長は言った。

「……どっかのバンドが結成した年とかですか?」

「ベルリンの壁崩壊、です。……あれ? ヒメくんって成績よかったんじゃ」

「詳しい年号までは、そんなに。だいたい前後の文脈で覚えてますから」

「ふうん。さりげなく優等生っぽい発言ですね」

「わりと、優等生ですから」

「授業態度は劣悪なくせに」

 部長はさらっと毒を吐いた。俺は面食らってちょっと笑った。
 ピクニックという単語から歴史上の出来事を連想できる人も、そう多くないような気はする。
 彼女はサンドイッチをランチボックスから取って食べ始める。「どうぞ」、と俺にも促す。俺は従う。

305: 2014/02/22(土) 21:52:48 ID:DYHyNxEk

「どうして部長が、俺の授業態度を知ってるんですか」

「聞いたんです」

「誰から?」

「うちの部の佐藤君に」

「……そうですか」

 俺の話をするのか、と思って、妙に気怠い気分になる。
 
「そういえば彼、最近部活に顔を出しませんね」

「体調でも悪いんじゃないですか」

 と俺はつとめてどうでもよさそうな声を出して言った。部長は首を横に振った。

「この間会いましたけど、元気そうでしたよ。サボりですかって訊いたら、はいって言ってました」

306: 2014/02/22(土) 21:53:42 ID:DYHyNxEk

「会ったんですか?」

「はい。ついこの前。彼女さんと一緒みたいでしたから、長話はしませんでしたけど」

 変な言い方だ。

「……どこで会ったんです?」

「コンビニです。風除室のガラスに貼られた夏祭りのポスター、じっと眺めてました。
 何をやらせても、絵になる子ですよね。……どうかしましたか?」

「……あ、いえ」

「大丈夫ですか?」

「……少し、頭が痛んだだけです」
 
 ずきずきと。傷口を押し広げられるような。何かを突き立てられたような。
 でもその痛みはずっとそこにあったのだ。忘れてしまっていただけで。

 俺はそんなことを知りたくはなかった。

307: 2014/02/22(土) 21:55:04 ID:DYHyNxEk

 部長は心配そうな顔で俺の方を見た。「心配そうな顔」というのは、少しどころじゃないくらい意外な気がした。
 彼女はそんな顔をしそうにもなかった。少なくとも俺の印象ではそうだった。

 きっと俺はそういうふうに、他人のことを決めつけすぎてしまっているんだろう、いつも。
 これまでずっとそうだった。俺は誰かを侮って、決めつけて、見くびって、見下して、そういうふうに過ごしているのだ。
 そんなふうにして誰かを傷つけて、最後にはいつも、誰よりも矮小で惨めなのは自分自身だと思い知らされる。

「……あの」

 沈黙に気まずくなったのか、部長の声はいつもよりおどおどして聞こえた。

「……お茶、飲みます?」

「……いただきます」

 部長は持ってきていたらしい紙コップに水筒から冷たいお茶を注いだ。
 俺は手渡されたコップを受け取って少しお茶を啜った。よく冷えていた。

「荷物」と、俺は気付けば声に出していた。

「重くありませんでしたか」
 
 部長は一瞬、何を言われたのか分からないような表情で、じっと俺の方を見た。
 俺は目を逸らした。気まずさと後ろめたさ。逃げ出したいような気持ちになる。

308: 2014/02/22(土) 21:55:46 ID:DYHyNxEk

「ずいぶん、いまさらですね?」

 皮肉というわけでもなさそうだった。単に、思った通りの言葉がでてきてしまった、というような。
 それから部長は、楽しそうに笑う。

「いつも後になってから気付くんです」と俺は答えた。

「毎晩、眠る前に、その日の自分が発した言葉を、洗いざらい検証するんですよ。
 内容とか言い方とか、ニュアンスとか、言葉の選び方とか。そういうことを思い出すんです。
 あんな言い方をしなきゃよかったとか、そもそもあんなこと言わなきゃよかったとか、そんなことを考える。
 考えていると、全部が全部、無神経でどうしようもない言葉に思えてくるんです。そう思うのは後になってからなんです」

「そういうのは、なんとなく、分かるような気もしますけど」

「そうこうしているうちに、考えるのも嫌になって、気付いたら眠っているんです」

 まるで目を逸らすみたいに。逃げるみたいに。

「気にしすぎですよ」

「そうかもしれない」

 でも、気にしないでいることはできない。他の人は、そういうことを気にしなくても、上手くできるかもしれないけど。
 俺は、上手く振る舞うことができない人間だから。人一倍、気をつけなきゃいけない。

309: 2014/02/22(土) 21:56:32 ID:DYHyNxEk

「そろそろ、行きましょうか」

 食事を終えて、少し休んでから、部長は荷物を片付けて、そう言った。
 俺はそれを手伝いながら、どうしてあんな話をしてしまったんだろう、と、そんなことを考えていた。
 
 荷物をまとめ、リュックサックを背負おうとした部長の手を、俺は止めた。

「俺が持ちます」

「……でも」

「迷惑なら、いいんです。断ってください。でも、何も言わないでいたら、俺が今晩眠れなくなるんです」

 部長は笑った。

「……じゃあ、お願いします」

 俺はほっとした気持ちで、リュックサックを肩に担いだ。
 本当にたくさんのものを背負っていたんだろう。鞄はずっしりと重かった。おかげで俺の気分まで重くなった。

310: 2014/02/22(土) 21:57:16 ID:DYHyNxEk

 再び歩き始めてから、三十分以上、道は曲がりくねったり傾斜を挟んだりしながら続いた。
 不思議と、それでも歩きづらくはなかった。こんな森の奥まで、人の行き来があるとも思えないのに。

 やがて、和服の少女が言っていた通り、開けた場所に出た。
 
 俺と部長は言葉もなく目を合わせた。どうやらここらしい、と互いの目が言った。
 
 開けた、というよりは、広い空間。本当に。学校のグラウンドより広いかもしれない。
 それくらいの平らな空間に、何もない。草花すら生えていない。ただの空き地。

「何も、ない、ですよね?」

「そう、ですね。何もない。でも……」

 どうして、森の中に、何もない、広い空間があるのか。部長の言葉の続きは、聞かなくても想像がついた。

「……"焼け落ちてしまった"」

 部長は不意に、そう言った。"焼け落ちてしまった"。

311: 2014/02/22(土) 21:58:52 ID:DYHyNxEk

「……ここが、あの子が言ってた、神様の居た場所、ってことですか?」

「でも、ここ、変ですよ」

 部長は、俺の言葉が聞こえなかったかのように、言葉を続けた。

「変です、ここ。なにかが。だって、こんなの……」

「……変って、何がですか?」

「よく、分からないですけど、なにか――」

 ――気持ち悪い、と部長は言った。彼女の顔は青ざめていた。

「大丈夫ですか?」

 蒼白な表情。少し、体がふらつく。彼女はその場にしゃがみこんで、口元を抑えた。
 俺の言葉に返事すらせずに、けれど彼女は、怯えたような態度で、辺りを見回した。

 彼女の指先が、かすかに震えている。
 彼女は"何か"を感じていた。でも、俺は何も感じなかった。
 そこに何かあるようには思えなかった。

312: 2014/02/22(土) 21:59:52 ID:DYHyNxEk



 帰りのバスの中、時刻は四時半を回っていた。部長はあの空地に辿り着いて以来、ほとんど言葉を発していない。
 俺はどうしようもない据わりの悪さを感じていた。

 バスの中に、俺たち以外の乗客はほとんど乗っていなかった。
 ひどく静まり返っていた。普段なら俺も、そこで黙り込んでいただろう。

 でも、今は何かを話したい気分だった。
 何かを話していないと、怖かった。何が怖いのかは、よくわからなかったけれど。

「訊いても、いいですか」

 部長の顔色はだいぶマシになっていたようだったが、それもそう見えただけのことかもしれない。
 それでも、声を掛けずにはいられなかった。

「……なんですか?」

 部長は、いつものような笑顔すら見せてくれなかった。疲れ切ったような、眠そうな、顔。

「部長は……いつ、あいつに会ったんです?」
 
 俺は、けれど、訊きたかったのとは別の疑問を彼女にぶつけた。

313: 2014/02/22(土) 22:00:49 ID:DYHyNxEk

「あいつって……」

 訊ね返そうとして、途中で誰の話なのか分かったのだろう。彼女は少し考えてから答えてくれた。

「水曜、だったはずです。部活を休んだ日ですから」

「……部活、休んだんですか? 部長が?」

「意外ですか?」と彼女はようやく笑ってくれた。くたびれた笑みだった。
 
「病院に行ってたんです」

「……病院?」

 繰り返してから、しまった、と思った。部長は気にしたふうでもなく頷いた。

「検査があったんです。脳波の検査。わたし、軽度の癲癇なんですよ。
 日常生活に支障はないし、発作だって数えるくらいしか起こしたことないですけど。
 それでも毎朝、毎晩、欠かさず薬を飲んで、半年に一回、病院に行って検査をしなきゃいけないんです」

 俺はどう答えるのが正しいのか分からなかった。
 でもきっと、部長は正しい答えなんて、最初から求めていなかったのかもしれない。 
 眠たげな顔で、彼女は続けた。

314: 2014/02/22(土) 22:01:31 ID:DYHyNxEk

「脳波の検査って、したことありますか? なんかね、頭にたくさん、電極みたいなのをつけられるの。
 電極のコードはたくさんあって、機械に繋がってるの。それを一本一本、頭のいろんなところに貼るの。首と、腕にも貼るんだけど。
 薬みたいなのを塗られて、その上にテープで貼りつけて……。
 でも、最近はやり方もちょっと変わったのかな。昔はゴムの帽子みたいなの、被らされてた。
 子供だったからかもしれない。とにかくね、電極をつけて、脳波室のベッドに横になる」

 まるで、その場面を思い出そうとしているみたいに、彼女は話続けた。

「準備が終わったら、部屋が暗くなって、光の明滅を浴びせられたり、目を開けたり閉じたり、深呼吸をさせられたりして。
 それから、眠ってるときの脳波もはからなきゃいけないから、真っ暗になった脳波室の中で眠るの」

 眠らなくちゃいけないの、と彼女は言った。

「眠らなきゃって思うと、うまく眠れなくなるでしょう? 舌の位置とか、目の向きとか、そういうのが気になって。
 それでね、普段眠るとき、眼球の向きはどうだったっけって考えて、目を動かして落ち着く場所を探そうとするの。
 でも、そうすると、脳波室の扉が少し開いて、目を動かさないでください、って言われるの。分かっちゃうんだよね、きっと。
 わたしは余計に不安になって、余計に眠れなくなる。段々、自分がとてつもなく悪いことをしているような気分になって……」

 不意に彼女は、はっとしたような顔をした。
 それから首を横に振って、取り繕うように笑う。さっきまでのような、ぼんやりとした顔つきではなく。

「ごめんなさい。変な話、聞かせて」

「……いえ」

315: 2014/02/22(土) 22:02:34 ID:DYHyNxEk

 また、沈黙が続く。たぶん俺たちは疲れていた。
 
「妹だったの」と、部長は言った。

「……え?」

「五年前、わたしの妹が、あの家で殺されたの。本当は殺されるはずじゃなかった。 
 わたしが殺されるはずだったんだよ。夕方に、おつかいを頼まれてたんだ。
 でも、わたしは居眠りしちゃって、仕方なく、妹が代わりに出掛けて、そのまま帰ってこなかった」

 ばかみたい、と部長は自嘲するように笑った。

「いまさら何をどう調べたって、もう終わったことなのに。
 ごめんなさい、また、変な話して。誰にも話したこと、なかったんだけど。
 ごめんなさい。変なことに、付き合わせて。あんなところまで、連れていっちゃって。
 どうしても、行ってみたかったの。行ったところでどうしようもないって、分かってたんだけど」

 だって、わたし、本当はあそこで氏ぬはずだったんだから。

 眠たげな声でそう言ってしまうと、彼女は急に意識を失ったようにすっと眠り込んでしまった。
 俺の肩に彼女の頭の重みが掛かった。俺は何を考えればいいのか分からなかった。
 
 バス停につくまで、部長はずっと眠りこんでいた。
 眠り込んでいたはずなのに、ときどき彼女が泣いているような気がした。

316: 2014/02/22(土) 22:05:56 ID:DYHyNxEk



 バスを降りたときには既に、部長は眠たげな雰囲気すら残していなかった。
 自分の手で荷物をもち、自分の足で立って歩いていた。

 そしていつもみたいなよそよそしい敬語を使って、俺との距離を取り直した。

「今日はありがとうございました」と部長は言った。

 俺はなんと答えていいか分からずに、うなずいた。
 結局、今日一日をかけて俺たちがしたことは、なんだったんだろう。

 徒労とまでは言えない。でも、部長はあれだけのことで納得できたのだろうか? 
 でも、できていなかったとして、どうすれば納得できたのだろう? その答えも分からなかった。

 夏の夕暮れは日が沈むのが遅くて、空はまだ暗くなりきってはいなかった。
 俺たちは停留所でしばらく向かい合い、黙り込んでいた。

317: 2014/02/22(土) 22:06:38 ID:DYHyNxEk

 何かを、言わなければならない、と思った。
 でも、何を言えばいいのか、分からない。

 何を言えばいいのか、分かったところで、どうせ伝わらない。
 知ったようなことを言っていると、軽蔑されるのがオチだ。

 部長の顔は、夕陽の逆光のせいで、よく見えなかった。

「もうすぐ、夏休みですね」

 そんな、間を持たせるみたいな世間話を、彼女は急にはじめた。

「はい」

「来週、部活、出ますよね?」

「はい」

318: 2014/02/22(土) 22:07:21 ID:DYHyNxEk

「何かを……」

「……はい?」

 彼女は少しだけ間を置いた。緊張したような様子で。

「何かを、書いてみる気はありませんか?」

「……どうしてです?」

 彼女は困ったように笑った。みんな、俺を前にすると、そんなふうに笑う。
 子供の相手をしているみたいに。

「興味があるからですよ」

「そうですか」

 俺はどう断るべきか迷った。 
 普段なら、部長はそんなことは言わなかっただろう、と思う。
 でも、今日、彼女は少し疲れていた。だから、そんなことを言ったんだろう。

319: 2014/02/22(土) 22:07:58 ID:DYHyNxEk

「なぜ、書くのをやめたんですか?」

 彼女の質問は唐突で、だから俺は一瞬、その文脈が読み取れなかった。
 部長の中ではどうやら、俺が何かを書いていた人間だということは――事実として扱われているらしい。

「なぜでしょうね?」と俺は訊き返してしまった。はぐらかすつもりもなく。
 ただ、本当に自分でも分からなかったのだ。

「たぶん、書くことに疲れたんだと思います」

「どうして?」

「楽しくなかったから」

「最初から?」

「……楽しくなくなったから」

「どうして?」

 どうしてだろう?

320: 2014/02/22(土) 22:08:50 ID:DYHyNxEk

「きっと書くことがそんなに好きじゃなかったんでしょうね」

「わたしもですよ」と彼女は言った。

「おそろいですね?」と続けて笑う。ばかばかしさに俺も笑った。

「誰かを軽蔑するつもりなんてなかったんですよ」と俺は言った。

 部長は少しだけ眉を寄せた。言葉の意味を、上手く掬い取れなかったみたいに。

「でも、書いていると、段々といやになってくる。何も伝わらなくて、それはきっと俺のやり方の問題なんだろうけど。
 技量の、問題なんだろうけど、でも、嫌になってくるんです。誤解されて、決めつけられて、見くびられて……」

 その程度のものしか、書けなかった、という意味なのだけれど。

「それでも、好きなように書いてみようって思ったんです。好きなようにやってみようって。
 でも、やっぱり、違うんですよね。誰も思った通りには受け取ってくれない。
 だから人に見せるのが嫌になったんですよ。心底いやになったんです」

321: 2014/02/22(土) 22:09:44 ID:DYHyNxEk

「理解者がほしかったんですか?」

「そうじゃないと思っていたんですけどね。そうなのかもしれない。
 よくわからない。それ以前の問題なのかもしれない」

「それ以前……?」

「結局、方法論がすべて間違っていたのかもしれないってことです。対象化に失敗している。
 本来、そこに求めるべきじゃないものを求めていたのかもしれない。つまり、何もかもすべて間違っていたんですよ。
 誰もそんなものを求めていなかったし、俺だって本当はそんなものを書きたいわけじゃなかった」

「でも、書いた」

 俺は頷いた。彼女は首を傾げた。

「どうして?」

 どうしてだろう?

「きっとそれ以外に何もなかったんでしょうね」

 俺の答えに、彼女は溜め息をついた。

322: 2014/02/22(土) 22:11:16 ID:DYHyNxEk

「書いていると、段々不安になって、追いつめられてくるんですよ。
 楽しくなんてないし、いつも怯えてるし、段々自分の無知とか、非常識さとかを、責められてるような気がしてくる。
 書き終えたところで達成感なんてない。あるのは虚脱感だけ。
 誰かが褒めてくれるわけでもないし、誰かが感心してくれるわけでもない」

「……それでも、何作も、書いたんですよね?」

「書きました。ぜんぶ無意味でしたけど」

「……どうして、そんな苦痛なだけの作業を続けてきたんですか?」

「さあ? 書き終えてしばらく経つと、どうしようもなく不安になるんですよ。
 とにかく何かを書かなきゃいけない、と思う。それだけでした」

「今は?」

 俺はその質問には答えなかった。

「逆に聞きたいんですけど、部長はどうして書くんですか?」

「どうして?」と彼女は鸚鵡返しした。考えたこともなかった、というような表情。

323: 2014/02/22(土) 22:11:59 ID:DYHyNxEk



 部長と別れて家に帰る頃には六時を回っていた。
 
 ひどく疲れていた。

 妹は玄関までぱたぱたとやってきて「おかえり」と言った。「ただいま」と俺は答えた。
 彼女は俺から荷物を受け取ろうとしたけれど、俺は荷物という荷物を持っていなかった。
 なにひとつ持っていなかった。

「なんで急に出迎えなんてするの?」

 そう訊ねると、彼女はちょっと首をかしげた。

「新婚さんごっこ」

「だと思う」とでも言い出しそうな、曖昧な表情。
 俺たちは一人二役の生活をしている。欠けた穴を埋め合わせるみたいに。
 
「どんな気持ちになる?」

「分からないから、してる」

 そうだろうね、と俺は言った。ダイニングを抜けてキッチンに向かい、手を洗ってから冷蔵庫の中身を探る。
 夕飯の準備を始めないといけない。

324: 2014/02/22(土) 22:12:44 ID:DYHyNxEk

「ご飯なににするの?」

「うーん……」

 妹の問いかけに対して、俺は迷った。
 今日は遅くなるかもしれないと分かっていたから、あらかじめ買い物は済ませていた。
 それでも夕食の時間に間に合うのかどうか怪しかったから、インスタントのものも用意はしてある。

 正直体が重いから、手抜きしてしまいたいところなのだが。
 自分の都合で手を抜くのも、なんだか悪いという気もする。

「何が食べたい?」

「わたし、肉食系女子」

 真面目な顔でそんなことを言われて、俺は少し戸惑ってしまった。
 虫も殺せないような顔をしているくせに。

「じゃあ、生姜焼き」

 俺の提案に、彼女は、うん、と頷く。

「わたしも手伝う」

「ありがとう」

 どうして頭が痛むんだろう。

325: 2014/02/22(土) 22:13:25 ID:DYHyNxEk



「今日はどこに行ってたの?」

 夕飯の席で、妹は当たり前みたいに訊いてきた。

「デート」と俺は答えた。彼女は興味なさそうに頷いた。

 それから少し沈黙が続く。食器が鳴る音。淡々としている。
 
「今日、少し暑かったよね」

 沈黙を嫌ったように妹は口を開く。うん、と俺は頷いた。
 エアコンの排気音。妹はまだ言葉を続ける。

「テレビつける?」

「え? ……いいよ」
 
「……ねえ、何かあった?」

 俺は黙った。

326: 2014/02/22(土) 22:14:17 ID:DYHyNxEk

「変だよ、少し」

 真剣な顔。どう誤魔化そうか、と俺はとっさに考えていた。そう考えている自分に気付いて嫌になった。

「何もないよ」

「嘘」

「本当」

 妹は溜め息をついた。

「嫌なことでもあったの?」

「まさか」

 俺の答えに、彼女はむっとした顔になる。
 何を言えっていうんだ? 言えるようなことなんて何も起こってない。
 いやなことなんてひとつも起こっていない。

 伝えるべきことはひとつもない。
 結局妹は、その後食事を終えるまで、一言も話さなくなってしまった。

327: 2014/02/22(土) 22:15:02 ID:DYHyNxEk



 夕飯の片付けを済ませてから、俺は公園に散歩に出かけた。

 どこかから悲鳴が聞こえてきそうなくらい静かな夜だった。
 
 日はとうに沈み、人家と街灯の灯りだけが道を照らしている。
 週末の夜。

 公園にはシロが居た。

「こんばんは」と彼女は笑う。「こんばんは」と俺も返す。空の端に赤い明滅。
 飛行機は飛んでいく。

 彼女はベンチに座っていた。街灯の光にまとわりつく羽虫の気配。
 景色が淡く光をまとっている。

「ここにいると思ってたんだよ」と俺は言った。

「わたしに会いたかったの?」

 不思議そうな声。俺は「そう」と頷いた。彼女は笑った。

「どうして?」

328: 2014/02/22(土) 22:16:00 ID:DYHyNxEk

「つまり、きみは俺に対して、何か隠していることがあるんじゃないかと思って」

「隠す?」

「つまり、きみは、俺について何かを知ってるんじゃないか」

「なにかってなに?」

 シロの笑い方は技巧的だった。技巧的に隠されていた。せせら笑うような響き。

「それがなにかは分からないけど、きみは俺と会ったことがあるんだろ?」

 空には月が浮かんでいた。

「ねえ、神様のこと、信じた?」

 シロの問いかけは唐突だった。俺は肩をすくめた。

「半信半疑」

「半分は、信じたんだ?」

 俺は答えなかった。シロは退屈そうな顔をする。

329: 2014/02/22(土) 22:17:02 ID:DYHyNxEk

「神様はね、すごい力を持ってるの」

 ずいぶん抽象的な話だったが、俺は口を挟まなかった。
 シロはベンチに腰かけたまま、ぼんやりと空を見上げながら、言葉を続けた。

「生まれつき持ってたんだって。そういうのが。それがどんどん強まっていったんだって。
 氏んでからよりいっそう、力が強くなっていって、今も強くなり続けてるんだって」

「……今"氏んでから"って言った?」

「神様、むかしは人間だったんだって。氏んじゃったけど」

 どういうことなのかよくわからなかったけど、俺は考えるのをやめた。
 考えたところでどうしようもなかった。

「神様は、願いを叶えてくれる。それが自分の役目だと思うからって言ってた。
 だからね、わたしの願いも叶えてくれるはずだったの。でもわたしの願いは、ちょっとダメなんだって」

「……ダメ?」

「難しいって言ってた。たぶん無理かもしれないって」

 シロはちょっと冷めた顔をしていた。諦念。

330: 2014/02/22(土) 22:17:51 ID:DYHyNxEk

「でも、ひょっとしたらできるかもって、教えてもらったの。
 神様の力は、人の願いを叶えて集めるたびに、強まっていっているらしくて。
 だから、願いを集めれば、わたしの願いもいつか叶えられるようになるかもって」

「だから、協力している?」

「そう。いつになるか分からないって、神様は言ってた」

 奇妙な話だった。
 何よりも奇妙なのは、俺が納得しつつあることだ。

 なんとなく信じてしまっている。シロには、その話を信じさせるだけの雰囲気があった。
 
「わたしは神様の力を分けてもらって、その力を使って、願いを集めてるの」

「願いを集めるって?」

「つまり、願いを叶えるの。たくさん。そうすることで、蓄積されていくの」

「蓄積?」

「集めるっていうよりは、溜めこむっていう方が近いかもしれない。なんというか、強い感情みたいなもの。
 そういうのが一番力になるの。でもべつに、誰かからもらうわけじゃない。自分の中から出てくるの」

「よく分からない。誰かの願いを叶えることで、強い感情が蓄積されていって、それが力になるってこと?」

331: 2014/02/22(土) 22:18:39 ID:DYHyNxEk

「そういうこと。その強い感情が、蓄積された感情が、願いを叶える力になるの。 
 つまり、世界を変える力になるわけ。そういうものだけが、力になり得るの」

「たとえばどんな感情?」

「嫉妬と憎悪かな」と、シロはあっさりとした声で言った。
 それからちょっと気まずそうな顔をする。弟からもらったプレゼントが気に入らなかったみたいな顔。

「愛情とか憐憫でも、べつにかまわないんだろうけどね。どんなものでも、それがエネルギーになり得るなら。
 でも、ほら、たとえ誰かの願いが叶ったとしても……それはわたしの願いが叶ったってわけじゃないから」

「誰かの願いを叶えることで、きみは嫉妬のエネルギーを蓄積していっている?」

「基本的にはね」 

 そうだとすれば、それはかなり入り組んだ、倒錯した構造だと言えそうだ。
  
「きみは、俺の願いも叶えたの?」

 シロはしばらく黙っていた。べつに答えたっていいんだけど、答えなくても問題ない、というような曖昧な沈黙。
 
「だって、きみは言ったよね。願い事はひとりにつきひとつまでだから、俺のお願いをきくわけにはいかないって」
 
 ああ、そんなことも言ったっけ、とでも言うような、どうでもよさそうな溜め息。

332: 2014/02/22(土) 22:20:11 ID:DYHyNxEk


 どうしてこんなに、話している感覚が他人事のようなんだろう?
 シロと俺との間には、すごく距離がある。壁でもいい。断絶でもいい。とにかく大きな裂け目がある。

「そうだね、叶えたんだよ。ひとつ」

「どうして俺はそのことを覚えていないんだ?」

「わたしの都合としては、そんなことは考えないでいてくれた方がうれしいんだけどね」

 シロは飽き飽きしたとでもいうふうにベンチの背もたれに体重を掛ける。
 
「覚えていようが覚えてなかろうが、とにかくわたしはお兄さんの願い事を叶えたんだよ。
 まあでも、ちょっといろんな都合が重なって、わたしと神様も、その中に閉じ込められちゃったみたいなんだよね」

「……もっと分かりやすく話してくれないか?」

 空気が、やけに張りつめているような気がした。目の前にいる少女。
 彼女は得体の知れない力をもっている。でも問題はそこじゃない。

「わざと分かりにくく話してるんだよ。そんなに長くは続かないと思うけどね。
 安心してほしいのは、べつにこれはお兄さんの願い事の結果じゃないってこと。
 お兄さんはまったく無関係の、巻き込まれちゃっただけの、赤の他人だから。
 でも、同じ時期に叶えちゃったから、一応様子見してるだけ」

333: 2014/02/22(土) 22:21:19 ID:DYHyNxEk

 俺には彼女の言っていることがうまく掴めなかった。
 わざと分かりにくく話している、というように、きっと彼女には伝えるつもりがなかったのだろう。
 伝わらなくてもいい、と思いながら話している。
 
 その姿は不愉快だった。でも、不愉快になる資格を、俺は持っていなかった。
 なぜなのかは分からないけど、俺は彼女に対して、何かを言う権利を持っていない。直感的にそう思っている。
 
「どうして、俺にはきみに願いを叶えてもらった記憶がないんだろう?」

 俺は同じ問いを繰り返した。

「そういう願いだったからだと思うよ」
 
 彼女は簡単そうに答えてくれた。ほとんど答えになっていないけれど。

「お兄さんの願い事は、身勝手で、自己中心的で、惨めで、根暗で、しかも他力本願的だった。
 でも叶えてあげた。本質的には捌け口探しだったけど、でも、わたしに実害がなかったから」

 ひどい言われようだったが、記憶がないから、何を言われても他人事のようにしか感じない。
 でも、なぜだろう? ひどく落ち着かない気持ちにさせられる。

334: 2014/02/22(土) 22:22:19 ID:DYHyNxEk

 不意に、空気が緩んだ。しんと冷え切った異界のような夜の底が、ふと日常の光景へと切り替わる。
 ただの、夜の公園へと戻る。近くの家から家族の笑い声が聞こえた。

 景色は何も変わっていない。でも何かがさっきまでとは違っている。
 その変化はごく些細なものだったけど、すごく自然に世界の在り方すべてを変えてしまった気がした。
 気配の移り変わり。ざわめき。そういう一瞬がときどきある。ちょうど今だった。

 シロが、公園の入り口に視線を向ける。俺はそれを追いかける。
 そこに妹が立っていた。

「お兄ちゃん?」

 と、彼女は俺に向けて声を投げかけた。俺はとっさにどう返事をしていいのか分からなかった。

「ああ、そうなんだ」、と、シロが小さな声で言うのが聞こえた。

「え……?」

「なんでもない。わたし、帰るね」

「どこに?」と俺はとっさに訊ねてしまった。訊ねてから、強い罪悪感に駆られた。
 シロの技巧的な笑みに、一瞬だけヒビが入った気がした。彼女は傷ついたのだ、と俺は思った。

「ばいばい、"お兄ちゃん"」

 最後にわざとらしい皮肉を残して、彼女はあっというまに公園を去っていった。

335: 2014/02/22(土) 22:23:46 ID:DYHyNxEk



「さっきの子、誰?」

 妹は公園の中で立ちつくす俺に歩み寄ると、まずそう訊ねてきた。

「このあたりの子?」

「みたいだね」と俺は答えた。

「友達なの?」

「まあ、そうかもしれない」

 本当のことを言っても信じてもらえないだろうと思って、俺は嘘をついた。

「こんなところで何してたの?」

「話をしてただけだよ」

「本当に?」

 と妹は言った。からかうみたいに笑いながら。
 たぶん冗談のつもりだったんだろう。冗談になっていなかったけど。

336: 2014/02/22(土) 22:24:48 ID:DYHyNxEk

「どうしてきたの?」

「べつに、ちょっとした散歩みたいなもの」

 妹は当然のように言った。俺は溜め息をついた。
 嫌だったわけではない。嬉しかったわけでもない。

 ただなんとなく、落ち着かない気持ちにさせられる。
 でも、そんな気分でさえ、さっきまでの、シロと話しているときの気分と比べれば、だいぶマシだった。

「ねえ、本当に……」

 彼女は俺の顔を見上げた。

「本当に、何もなかったの?」

「どうして、何かあったって思う?」

「分からないけど……」

 俺たちは話を続けながら公園を出て、家への道を歩く。

337: 2014/02/22(土) 22:25:33 ID:DYHyNxEk

 妹は俺に対して何かを言おうとしていた。考えながら歩いていた。
 俺は彼女の言葉を静かに待つ。たぶんあまりよくないことを言われるんだろう、と思いながら。

「ときどき、お兄ちゃんはわたしのことをすごく遠くに見てるって感じるときがあるの」

「遠く?」

「うん。つまり、何かを間に挟んでるっていうか」

 上手く言えないけど、とにかく、"何か"があるんだ、と彼女は言った。

「よく分からないな」

「そうかもしれない。わたしの気のせいなのかも。でも、ときどき思うの」

 彼女は立ち止まって、俺の掌を掴んで、じっと見た。
 俺はとっさに腕を引いて、彼女の手を弾いた。

 数秒の沈黙。

「急に、どうしたんだよ」

「どうして、手を握られただけで怯えるの?」

 妹はまっすぐ俺の目を見据えて、そう言った。射るように鋭い視線。
 そこに攻撃的な意味が含まれていると感じるのは、きっと俺の感じ方の問題なんだろう。
 彼女の言葉を、すぐに否定したかったのに、できなかった。俺はなにも答えられなかった。

338: 2014/02/22(土) 22:26:33 ID:DYHyNxEk



「ガングリオン」

「ガングリオン?」

「……」

「なにそれ?」

 俺とタイタンは朝の教室で話をしていた。世間話の種もなくなってしまったので、仕方なく言葉遊びを始める。 
 意味はまっとうなのに、なんとなく技の名前みたいでかっこいい言葉を挙げていく遊び。

「よく知らないけど、関節近くに出来る腫瘍のことなんだそうだ」

 タイタンはどうでもよさそうに言う。俺たちは窓際の席に腰かけて、ただ始業の合図までの時間を潰している。

「技名っていうより、どっちかっていうとロボットの名前みたいだよな。なんとか戦士ガングリオン、みたいな」

「うーん……」

 タイタンは難しそうに腕を組んだ。

339: 2014/02/22(土) 22:27:19 ID:DYHyNxEk

 こういうくだらない遊びをするのは別に初めてじゃなかった。
 俺たちはいろんな本や教科書や辞書から、遊びに使えそうな響きの言葉を寄せ集めた。
 かき集めて、響きだけを借りて、意味はその場に打ち捨てる。残骸は見向きもされない。
 
 俺たちの足元には、意味の墓場がある。音から切り離され、役目を果たすことができなかった意味の氏骸。

 タイタンはうーんと考え込んで次の言葉を探したが、すぐには思いつかないようだった。

 彼が何かを要求するような目でこちらを見るので、俺も適当に頭の中を浚った。
 朝だというのに、教室の中はいやに暑い。

「オートマティスム」と俺は言った。

「なんだ、それ」

「知らない。技名っぽいだろ」

「カタカナにすれば、だいたいのものは技名っぽく聞こえる」

 そうかもしれない。でも、もし本当にそうだとしたら、この遊びには意味なんてまるでないってことになる。

340: 2014/02/22(土) 22:28:16 ID:DYHyNxEk

「あとは何かある?」

 俺が訊ねると、タイタンはまた考え込んだ。教室の賑やかさ。うんざりするような。
 俺の意識はクラスメイトたちの雑多な話し声の中に吸い込まれる。
 
 息苦しいざわめき。

「サバイバーズギルト」

 とタイタンは言った。

「……え?」

「サバイバーズ・ギルト」

「なにそれ」

「サバイバーは生き残り、ギルトは罪悪感、だそうだ」

「ふうん。技名っぽいね」

 サバイバーズ・ギルト。サバイバーズ・ギルト。

341: 2014/02/22(土) 22:30:22 ID:DYHyNxEk



 例のピクニック(あるいは、ハイキング)から、三日が経っていた。
 夏休みは、もう目前まで迫っている。

 俺はあの日から部室に顔を出せずにいた。

 なぜか分からないけれど、部長と顔を合わせるのが怖かったのだ。
 自分の中の何が問題なのか、それがよく分からなかった。

 部長から聞かされた話が原因なのか、あの廃墟なのか。
 それとも例の神様少女の話か、シロの意味ありげな言葉なのか。

 あるいは、妹のことなのか。

 とにかくいろんなものが俺の足元に乱雑に放り出されていた。
 無秩序で関連性がなく、一方的。

 それでも、とにかく俺は部室に顔を出すことにした。
 そういう約束だったし、よくよく考えて見れば、部室を避ける理由なんてひとつたりともありはしないのだ。
 ただなんとなく行きづらかっただけで。

342: 2014/02/22(土) 22:32:11 ID:DYHyNxEk



 俺が足を踏み入れたとき、部室には誰の姿もなかった。
 
 こんなことは初めてだという気がした。よほどのことがないかぎり、部室にはいつも誰かがいる。
 それなのに、今日はいなかった。

 俺は部室に入って、そのままいつも座っている定位置に置かれていたパイプ椅子に腰かける。
 鞄を椅子の脇に置いて背もたれに体重を預けてから、ホワイトボードに書かれている文字列を見つける。

「夏休みにお会いしましょう」

 とそこには大きな文字で書かれていた。ホワイトボードの前の長机にはプリントが積み上げられている。
 立ち上がって見てみると、それは夏休み中の部活動の日程表だった。

 もう、登校日中に部活はないらい。

 積みかさねられた日程表の一番上の一枚を手に取り、窓際に歩み寄った。
 なんだか空気が澱んでいるような気がして、窓を開ける。

343: 2014/02/22(土) 22:34:11 ID:DYHyNxEk

 俺は元のパイプ椅子にもう一度腰かけ、ホワイトボードの文字列をしばらくの間眺め続けた。
 それから理由もなく溜め息が出た。長い長い溜め息。

 ここにはもう誰もいない、と俺は思った。嘘をついてしまった。

 不思議と何もする気が起きなかった。妙な倦怠感が体を支配している。
 
 耳鳴りがきこえるくらいの静寂。

 一人でぼーっとしているとなんだか余計なことまで考えてしまいそうだった。
 俺はここに何をしに来たんだろう?
 
 ――だって、わたし、本当はあそこで氏ぬはずだったんだから。

 言葉が頭の中から消えてくれない。

 窓から吹き込む風が日焼けしたカーテンを揺すった。 
 空気が流れて息苦しさは少しだけマシになる。

 俺は何を言えばよかったんだろう。

344: 2014/02/22(土) 22:35:32 ID:DYHyNxEk

 ふと思いついて、例のリレー小説のノートを探した。
 所定の位置になっている部室脇の小さな机の上。

 俺は机に歩み寄って、ノートをぱらぱらと開く。

 物語は、たしかに綺麗に終わっていた。 
 登場人物たちはみんな笑っていた。割を食った悪役がいかにも痛快げに痛めつけられていた。
 こういうのは楽でいい。

 俺はノートを閉じて溜め息をついた。自分がどうしてここにいるのか、分からなくなる。

 また定位置のパイプ椅子に戻る。いっそ帰ってしまえばいいのに、何かをやり残しているような感覚が消えてくれない。
 俺は何かを言うべきだった。でも、何を言えばよかったんだろう。ぐるぐるとそんな言葉が意味もなく浮かび続ける。
 風が吹き込む。
 
 駐輪場から誰かが笑い合う声が聞こえた。

 椅子に戻る途中、俺は何かを蹴ってしまった。
 それは床の上をかすかにすべって弾きとんだ。なんだろう、と思って拾い上げると、小さな茶色の手帳だった。

 付着した土ぼこりを軽く払ってから、俺はその手帳をよく眺めた。 
 誰のものなのだろう。誰かが使っているのを見たことがある気がする。

345: 2014/02/22(土) 22:36:12 ID:DYHyNxEk

 俺は何気なく、その手帳をぱらぱらと開いた。
 手帳なんだから、名前なんて書く人の方が珍しそうなものだが。

 案の定、手帳を開いたところで何も分かりはしなかった。

「A→罪悪感。焦燥。加害意識、神経質?、悪党、倦怠感。 B→掃除。チョコレートを配る。綺麗なひと。対比。いいやつ」

 脈絡のない単語が繋ぎ合わせられた、ほとんど暗号のような言葉の並び。
 意味は考えようとすればなんとなく分かりそうでもあったが、俺はあまり深く考えないことにした。

「A→B、嫉妬。言い争い(退屈な男)。一方的な敵意。警戒心、懐疑。Bはあくまで綺麗。」

「自己嫌悪、メモ、眼鏡、髪を切る。携帯の不調。チョコレートに対する軽蔑。(1)"とにかくあてもなくても――"」

「(2)結末の逆説。痕跡。「本当にこれでよかったのだろうか?」は反語的に。騙し絵。」

「(3)解決した物語は他人事になる、(そして僕は途方に暮れる)」

 見覚えのある字だと思ったところで、俺はこの手帳が部長のものだと気付いた。
 彼女はこの手帳をいつも持ち歩いていた。
 どうも創作用のメモか何かのように見える。

 このままではどうも役に立ちそうにもないが、おそらくこれを起点に頭の中で考えていることを思いだすつもりなんだろう。

346: 2014/02/22(土) 22:37:47 ID:DYHyNxEk

 俺がなんだか申し訳ないような気持ちになりかけたところで、後ろでがらりと引き戸の開く音がした。

 とっさに振り向くと、やっぱりというかなんというか、そこには部長が立っていた。

「あ」

 と、彼女は最初、俺の顔を見て声をあげ、

「あっ」

 と次に、俺の手の中で開かれた手帳を見てもう一度声をあげた。

「あ、これ……」
 
 部長のですか、とか、そういう言葉を続ける暇もなく、彼女はとことこと俺の居る場所へと駆け寄ってきた。
 ほとんど必氏そうな顔で俺の手の中の手帳を引っ掴むと、彼女は勢いにブレーキを掛けようとする。
 
 ブレーキは大部分の勢いを頃したけれど、それでも止まりきれなかったようだった。
 俺の手から手帳を引き抜いた部長の体は、そのまま俺の方へと少しだけ傾いた。
 
 距離が一瞬だけものすごく近くなる。
 反動みたいにすぐに離れたけど。

347: 2014/02/22(土) 22:38:55 ID:DYHyNxEk

 部長は慌てた様子で俺との距離を取り直すと、手帳を隠すみたいに両手を背中の後ろで組んだ。

「昨日、落としちゃったみたいで」、と彼女は困ったような調子で言った。

「そうみたいですね」、と俺は返事をしたが、この答えはよくよく考えると変だったかもしれない。

「……読んじゃいました?」

「少し」

 部長の頬が朱に染まった。恥ずかしがるほど分かりやすくもないと思うのだが。
 
「忘れてください」

「忘れるほど読んでませんし、意味も把握できてないです」

「本当に?」

「……チョコレートに対する軽蔑っていうのは、比喩か何かですか?」

「忘れてください」
 
 と彼女は泣きそうな声で言った。自分でも意外に思うほど嗜虐心をそそられる。さすがに何も言わないけれど。

348: 2014/02/22(土) 22:39:58 ID:DYHyNxEk

 沈黙が続く。部長は俺と目を合わせようとすらしなかった。

「部活、昨日で最後だったんですか?」

 俺の質問に、部長は助かったでも言いたげな勢いで乗っかった。

「はい。昨日で最終日でした」

 それから少し、困ったような顔をした。いつものような。仕方のない子供を見るような。

「てっきり、きみはもう来ないのかと思いました」

「来るって、言ったじゃないですか」

「来なかったじゃないですか。……そうじゃなくて、もう部には顔を出さないかもって」

「どうして?」

「……変な話、しちゃいましたから」

 彼女はしっかりと覚えている。何もかも。いつもより、そわそわと落ち着かない様子。
 俺は何かを言うべきだった。

349: 2014/02/22(土) 22:40:43 ID:DYHyNxEk

 しばらく、迷っていた。それでも結局、諦めるような気持ちで口を開く。

「部長、これから帰るところですよね?」

「……はい。そうですけど?」

 彼女は不思議そうな顔をした。

「よければ、一緒に帰りませんか」

「……はい?」

 たしかに自分でも唐突だったとは思うが、そこまで驚かれると悪いことをしたような気分になる。

「少し話したいことがあるんです」

 仕方なくそう付け加えると、彼女は少しだけ緊張した顔で、頷いてくれた。

350: 2014/02/22(土) 22:41:41 ID:DYHyNxEk



「……話したいことって、なんですか?」

 校門を出た後、部長は俺の横を歩きながらそう訊ねてきた。

 とても当たり前のことなのだけれど、彼女からすれば、自分の隣に俺がいるように見えているのだろう。
 人が見ている景色はそれぞれ違う。

「話したいこと?」

 と俺は訊ね返した。我ながら白々しい問いかけだった。
 部長は怪訝そうな顔になる。それはそうだろうな、と思いながら、俺は黙った。

「さっき、話したいことがあるから、一緒に帰らないかって」

「……ああ、そのことですか」

「そのことですか、って」

「嘘です」

 部長が息を呑んだような気がした。
 蝉の鳴き声が通りを覆っている。

351: 2014/02/22(土) 22:42:35 ID:DYHyNxEk

 沈黙。部長は、立ち止まってしまった。そして傷ついたような顔をする。
 その表情は技巧的には見えなかった。本心から傷ついているように見えた。
 でも、どうなのだろう、そう見えるだけのことかもしれない、あるいは見た目よりずっと傷ついているのかもしれない。

 そんなことが誰に分かるって言うんだろう。

 俺もまた立ち止まり、部長の顔を見つめ、この人はどのように苦しんできたのだろう、と考えた。
 もちろんそんなことを考えたところで仕方なかったけれど、そう考えたくなった。

 俺の方をまっすぐと見つめて、彼女は口を開く。

「わたし、帰りますね」

 怒ったような、呆れたような、失望したような、そんな声音。
 取ってつけたような、悲しい笑顔だった。
 彼女は早足で俺の横を通り過ぎ、道をまっすぐに進んでいく。いつもよりずっと速いスピードで。

 俺は少しの間黙り込んだ。部長の後ろ姿を目で追うことすらしなかった。
"俺は何かを言わなければならない。""そのことはちゃんと分かっている。"
 
 それなのに俺は黙り込んだままだった。
 何かを言わなくてはならないのに。それは分かっているのに。
 言葉が出ない。

352: 2014/02/22(土) 22:43:29 ID:DYHyNxEk

「――待ってください」

 かろうじて吐き出した言葉。意味のない言葉。縋るような言葉。
 でも、それは厳密に言えば言葉ではなかった。音だった。意味のない音。

 部長は、けれど、その音に立ち止まり、振り返って、俺の顔を見た。

 よっぽど、惨めな顔をしていたんだろうか、彼女は俺の方を見て、心配そうな顔すらした。
 
「待ってください」、と俺は繰り返した。声が震えていた。どうして俺の声が震えたりするんだろう。

 理由なんて、ない。俺の声が震えたりする理由。
 それなのに、俺の声は、自分でも分かるくらい震えていて、細くて、消え入りそうだった。
 
 俺は、なにもかも全部やめにしてしまいたいような、惨めな気持ちになった。

 部長は立ち止まったまま、何も言ってくれなかった。俺たちはしばらく、その距離を保ったまま、視線を合わせていた。
 その間も、俺は必氏に、何かを言わなくては、と考えている。

 もはやこれは、一種の欠陥だな。俺はそう感じた。欠陥。すとんと胸に落ちる。
 自嘲の笑みすら出てこなかった。頬の筋肉が引きつるような感覚。

353: 2014/02/22(土) 22:44:42 ID:DYHyNxEk



 俺の母親は六年前、道路に飛び出した俺を庇って交通事故で氏んだ。
 俺を庇って氏んだんだから、事故というよりはもはや事件だった。頃したのは俺だ。

 俺のせいなんだよ、と当時の俺は言った。妹はわけもわからずに泣いていて、父親は呆然としていた。
 なんていうか、遠い目をしていた。何が起こっているのか掴みとれないような、そんな顔。

 俺のせいなんだ、と俺が繰り返すと、父親はぼんやりとした視線をこちらに寄越した。

 俺が道路に飛び出したんだよ、と説明を付け加える。まだ足りないような感じがした。
 車が来ているって分からなかったんだ。俺のせいなんだ。

 父親は俺のことを怒るだろうと思った。子供が悪いことをすれば親は叱るものだから。
 でも父親は怒らなかった。自分がどんな顔をすればいいのかも分かっていない様子だった。

 おまえのせいじゃないよ、と父親は冷えた声で言った。おまえのせいじゃない、と繰り返す。
 彼は間違っていた。でももっと間違っていたのは俺だった。
 問題は「誰のせいか」じゃない。「何を失ったか」だ。

 父は母の氏以降、家に居る時間を少しでも減らしたいかのように仕事に打ち込んだ。
 帰ってきても真っ青な顔で苦しそうな溜め息をつき、ソファで瞼を閉じるくらいしかしなくなった。

 父とはろくに顔を合わせなくなった。こちらから話しかけることもできなかった。
 俺は妹から両親を奪った。そのようにして今も生きている。毎朝妹に起床の手助けを受けている。現実。

354: 2014/02/22(土) 22:45:52 ID:DYHyNxEk



 言葉はなにひとつ思い浮かばなかった。
 部長はさっきまでと変わらない目で俺の方を見ている。たぶん俺の言葉を待っている。
 
 でも俺には言えることなんてひとつだってない。

 部長はふっと俺の方から顔を逸らして、歩くのを再開した。
 俺はそれを追いかける。

「ヒメくんは、小説を、書かないんですか」と、少し歩いてから、部長は言った。

 俺はとっさに上手く答えられなかった。どんなふうに返事をするのが正しいのか、分からない。

「わたし、なんとなく、分かりました。きみは、書きたくなくなったんじゃなくて……」

 書けなくなったんですね、と彼女は言う。

「もしかしたら、本当は最初から、書けなかったんじゃないですか?」

 俺が何も言えずにいると、部長は小さく溜め息をついて、まっすぐに俺の目を見て言った。

「わたしは、きみのことが好きですよ」

 大真面目な顔で、そんなことを言った。
 だから俺は怖くなった。

355: 2014/02/22(土) 22:47:54 ID:DYHyNxEk

 デレク・ジャーマンの映画を思い出した。ウィトゲンシュタインをモデルにした奴。

「あなたはなぜそんなに愛されたがるの?」と女が訊ねる。

「完璧でありたい」男は頭痛を堪えるようなしかめっつらで答える。

「私は違うわ」と、女は言う。

「それで友人になれると?」男は苦しげに訊ね返す。

「知らないわ」、と女はせせら笑う。人は摩擦がある世界の中でしか生きられない。

「嘘ですよね?」と俺は真剣に訊ねた。部長の表情はほとんど動かない。
 
 彼女は答えてくれなかった。沈黙が重みを増していく。
 
 長い静寂の後、彼女はいつもよりずっと感情の読み取れない顔で、言った。
 
「本当だとわたしが言ったところで、きみはきっと信じないでしょうね」

356: 2014/02/22(土) 22:48:32 ID:DYHyNxEk

 部長はそのまま黙り込んで、俺の顔をじっと見つめた。何かを期待しているのかもしれない。
 俺は何かを言うべきだった。それは分かる。ちゃんと分かる。
 
 部長は歩くのを再開した。俺もその後ろ姿を追う。夏の夕方。
 俺は、覚悟を決めた。

「部長は……」

 声を掛けると、彼女の背中は一瞬、こちらを振り返りそうになった。

「部長は、もし、願い事をひとつだけ叶えられるって言われたら、何を願いますか?」

「……彼女たちのお話ですか?」

 あの二人の少女。部長はすたすたと歩いていく。

「ただの質問です」

 俺の声はうさんくさかった。ひどく澱んでいた。

357: 2014/02/22(土) 22:49:10 ID:DYHyNxEk

 ふと、部長は立ち止まった。距離を保つように、俺も立ち止まる。
 沈黙。

「……きみは何を願ったんですか?」

 真剣な声で、彼女はそう言った。
 シロの言葉から、察したのだろう。

「自分でも覚えてないんです。大事なことを忘れてるような気がする」

 彼女は溜め息をついた。

「わたしは、何も願ったりしないと思います」

 そうだろうな、と考えながら、俺は話を続けた。

「俺の友達は、すごい奴なんですよ」

「……急に、何の話ですか?」

358: 2014/02/22(土) 22:50:13 ID:DYHyNxEk

「去年、何かのきっかけで、願い事を、ひとり、ひとつずつ言っていくって機会があったんですよ。
 三人で集まっていたんです。仲の良い友達同士だったから。俺はすぐには思い浮かばなかったけど、そいつは……」

 あいつは。

「こんな日が続けばいい、って言ったんですよ。こんな日が続けばいいのに、って言ったんです」

 部長は、何が言いたいのか分からない、という顔で、ようやく俺の方を振り返った。
 俺の言葉はいつだって上手く伝わってくれない。

「冗談かと思いました。だって俺には、そんなことを言いたくなる気持ちが、まったく分からなかったんですよ」

 心臓がやけにバクバクしていた。俺は今"話している"。彼女が求めているものと違ったとしても。
  
「こんな日がずっと続くくらいなら、いっそ、って、いつもそんな風に生きてきたんです」

359: 2014/02/22(土) 22:50:55 ID:DYHyNxEk

「……その友達のこと、嫌いだったんですか?」

 部長の声は、同情的に聞こえた。俺は首を横に振った。

「羨ましかったんでしょうね、たぶん」

「なんとなく分かるような気がする」

 部長はこちらを見たまま、かすかに笑った。

「……それが本当なら、とても嬉しいんですけどね」

 もしも、それが本当なら。
 部長は溜め息をついた。

「きみはもう少し人を信じるということを覚えた方がいいと思う」

「訊いてもいいですか?」

 なんですか? と部長は少し怒ったような顔で首を傾げた。
 その仕草が無邪気な子供みたいで、俺は思わず笑ってしまった。

「それ、本気で言ってますか?」

 部長は二秒くらい押し黙って、それから笑った。

360: 2014/02/22(土) 22:51:35 ID:DYHyNxEk



「変な話を、聞かせちゃいましたね」

 しばらく歩いてから、俺は部長に向けてそう言った。彼女は少しだけきょとんとして、小さく笑った。
 
「きみは皮肉ばかりを言いますね」

「それ以外に喋ることがないですから」

「わたしにもよく分からないんです」

 彼女はそれまでの会話の流れを断ち切って、静かにそう呟いた。

「どうしてきみを、あの廃墟に一緒に行く相手に選んだのか。
 帰りのバスの中で、あんな話をきみにしてしまったのか。よく分からない。
 でも、きみならきっと、変な慰めなんかは言わないだろうと思った」

 彼女は俺の目を見ようとしなかった。声はかすかに震えていた。
 たぶん怯えている。分からないけど。

「慰めって?」

 部長は少し笑った。

361: 2014/02/22(土) 22:52:18 ID:DYHyNxEk

「いろんな人が、わたしにいろんなことを言ったんです。
"君のせいじゃない"とか、"妹さんの分も君が一生懸命生きないと"とか、"彼女もそれを望んでいる"とか。
 でもどう考えたって、彼らは間違っているんです。氏んでしまった人間には、何かを望むことなんてできない。
 できないからこそ、氏んでいると言えるんです。それにもし、何かを考えられるとしたら、彼女はわたしを恨んでいると思う」

 俺は何も言わなかった。俺は彼女と彼女の妹について、ほとんど何も知らない。

「どうして氏んだのがわたしじゃなかったんだろう、って、いつも思っているんです。
 でも、そんなことを口に出すと、みんな顔をしかめる。わたしはとても真剣に考えているのに。
 みんな、考えることそれ自体が間違っているみたいに、言うから、だから――」

 口を噤んで、内側に隠した。

「暗いなあ」と俺は茶化してみた。
「性分ですから」と彼女もおどけた。
 
 俺は少し迷ってから、覚悟を決めて、口を開いた。

「俺、部長のこと、好きですよ」

「うそつき」

 と彼女は晴れやかに笑った。

362: 2014/02/22(土) 22:53:18 ID:DYHyNxEk

「半分は、たしかに嘘です。今は、好きじゃないです。全然ってわけじゃないけど」

 部長は、なぜだか知らないけど、楽しそうな顔をしていた。
 人の気も知らないで。あるいは、俺の緊張を見透かしているから楽しそうなのだろうか。

「でも、分かるんですよ。俺はこのままじゃ嫌なんです。このまま一人でなんて生きられないんですよ。
 誰かに傍にいてほしいんです。俺だって誰かのことを思い切り好きになりたいんです」

 あまりに、都合の良すぎる話。

 ――お兄さんの願い事は、身勝手で、自己中心的で、惨めで、根暗で、しかも他力本願的だった。
 ――でも叶えてあげた。本質的には捌け口探しだったけど、でも、わたしに実害がなかったから。

 俺はその瞬間、何かに気付きそうになった。気付きそうになって、目を逸らした。怖くなった。
 
 不意に、部長は、俺に向けて右手を差し出した。
 なんだろう、と思って彼女の顔を見ると、笑ってすらいなかった。作り笑いすら、そこにはなかった。

「手を、握ってくれませんか」

 ひどく、小さな声。頼りなくて、心細そうな声。どこか、怯えるような。
 彼女はまっすぐに、俺の目を見ていた

 その手を、取ってみたくなった。
 信じてみたくなった。

 ――誰かの手を、取ってみたかった。

363: 2014/02/22(土) 22:54:14 ID:DYHyNxEk



 終業式の日は、うっすらとした雨がぼんやりと降り続いていた。
 部長は校門で傘を差して俺のことを待っていた。彼女が自分でそう言っていた。

 ぼんやりとした表情。退屈そうな顔。吐き出される生徒の流れを、外側から眺めている。
 超然としている。

「部長」

 俺が声を掛けると、彼女はこちらに顔を向けた。
 
「待ってましたよ」

 彼女がそう言ったとき、俺は心底不思議な気持ちになった。

「どうして?」

 訊ねると、彼女は首を傾げた。

「どうしてだろう?」

364: 2014/02/22(土) 22:55:05 ID:DYHyNxEk



 俺たちは歩いていた。バス停までのごく短い時間だったけど。
 それでも一緒に歩いていた。

 部長は傘を差していた。

「傘、もってないんですか?」

「忘れてきたんです」

 嘘だった。
 雨を浴びるのが好きだったのだ。昔から。
 風邪を引いて寝込んだとしても、雨を浴びるのが好きだった。
 
 彼女は少し困ったような顔をした。それから俺の体を、自分の傘の中に入れようとする。
 背丈がだいぶ違うから、彼女が爪先を立てて背伸びするような形になった。

 俺は傘の持ち手を受け取って、彼女の方に傾けがちに傘を握った。
 彼女は少し慌てながらも、どこかほっとしたように溜め息をついた。

「今日で、終わりなんですね」

 どこか落ち着かない雰囲気の傘の中で、部長は言った。

365: 2014/02/22(土) 22:56:03 ID:DYHyNxEk

「何がですか?」

「学校。明日から、夏休みですもんね」

「そうですね」

 夏休み。

「部活は、出ますよね?」

 その質問に、すぐに答えられたらよかったのに。
 先のことがなにひとつ、自分でも分からなかった。

「眠っているかもしれません」

「休み中、ずっと?」

「たぶん」

 彼女は俯いてしまった。

366: 2014/02/22(土) 22:57:13 ID:DYHyNxEk

「でも、それだと、夏休み中は会えませんね」

 どう答えるのがいいのか、分からない。
 何を求められているのかが、わからない。 

「ねえ、わたしのこと、部長って呼びますよね」

「……そうですね」

 質問の意図が、よく掴めなかった。

「それ、やめませんか」

「どうして?」

「ちょっと遠い気がするじゃないですか」

 そう、なのだろうか? 

「じゃあ、なんて呼べば?」

367: 2014/02/22(土) 22:57:53 ID:DYHyNxEk

「名前を……」

 と、途中まで言ってから、彼女は思い直すように首を横に振った。
 
「忘れてください」

「……千紗先輩?」

「いま、わたし、忘れてくださいって言いましたよね?」

 彼女の顔は少し赤くなっていた。そんな気がしただけかもしれない。

「以前先輩が言ってたと思うんですけど、俺はひねくれものなので」

 彼女は怪訝そうな顔で俺を見上げた。

「……わたし、そんなこと言いましたっけ?」

「言ってませんでしたっけ?」

「覚えてません」

「……たしかに言われたような気がするんですけどね」

 ――いつだっただろう?
 まあいいや、と俺は思った。

368: 2014/02/22(土) 22:59:03 ID:DYHyNxEk

「今、どんな気持ちですか?」

 先輩は、そう訊ねてきた。まっすぐに前を向いたまま。

「よく、分からないです。しいていうなら……」

 いつもより距離が近くて、やけに緊張する。
 先輩の仕草のひとつひとつが、妙に気になってしまう。

 呼吸の音を聞かれているような気がする。

「……いや、特には」

「平然としてますね」

「そういうわけでもないですが」

「……ずるいなあ」

 その言葉の意味が気になって先輩の顔を見たけれど、彼女はそっぽを向いていて、どんな表情をしているのかは分からなかった。

369: 2014/02/22(土) 22:59:55 ID:DYHyNxEk

「千紗先輩」、と俺はもう一度名前を呼んでいた。
 彼女の肩がぴくっと動いた気がした。

「……なんですか?」

 拗ねたような顔で、こちらを見る。

「……なんでそんな顔をするんですか?」

「べつに、たいした意味はないです」

 彼女は溜め息をついてから、どこか不機嫌そうに、「それで?」と訊く。
 こんな態度を見せる人だったっけ。

「先輩は、俺のことが好きなんですか?」

「あれは嘘です」

「……」

 間髪置かない否定に、俺は少し戸惑った。

370: 2014/02/22(土) 23:01:08 ID:DYHyNxEk

「……えっと、そうなんですか?」

「……」

 沈黙。

「……嘘です」

「はあ」

「嘘というのが、嘘です」

「……」

 結局どっちなんだろう。

371: 2014/02/22(土) 23:01:58 ID:DYHyNxEk

「どうしてそんなことを訊くんですか?」

「もし本当にそうだったら、どうしてなんだろう、と思って」

「どうしてって?」

「好かれるような心当たりが、まったくないので」

「そうですか」

 そうですかって。
 こんな人だったっけ?

「ひとつ言えるのは、きみが見ている世界と、わたしが見ている世界は、まったく別物だということです」

「……はあ」

「同じものを見るとしても、その映り方はまったく違う。
 きみにとって大したことではないことが、わたしにとってはすごく大事なことだったりするんです。
 だから、きみが嫌っているものやことを、そうだからこそ、誰かが好きになってしまうこともあるんですよ」

 彼女の話は、よくわからなかった。いつも通り。

372: 2014/02/22(土) 23:02:58 ID:DYHyNxEk



 バスの停留所につくと、先輩は立ち止まった。
 何かを言いたげにしていた。

「本当に、部活には出ないんですか?」

「休み中ですか?」

「はい」

 どうだろう。出たくないわけじゃない。でも、たぶん眠気に負けてしまうだろう。
 何か特別な理由でもないかぎり、部活には出たくない。

「できたら、休み中も、顔を出してください。わたしのために」

「……」

「きみがいるかいないかで、部活中のわたしのやる気は最大50%まで増減するんです」

 こんな冗談を言う人だったっけ、と俺はもう一度思った。
 彼女は真剣な顔をしている。

373: 2014/02/22(土) 23:03:35 ID:DYHyNxEk

「もしどうしても出たくないなら」、と彼女は真面目な顔のまま続けた。

「連絡先を教えてください」

 俺は困った。本当にこの人は俺が知っている彼女なのだろうか。
 でも、これまでだってそうだった。
 俺は知った風な気になっていただけで、彼女のことなんて何ひとつ知らなかったのだ。

 そういうふうに、他人のことを決めつけてしまっている。いつも。
 これまでずっと。俺は誰かを侮って、決めつけて、見くびって、見下して、そういうふうに過ごしていた。
 
 俺は制服のポケットから携帯を取り出した。

 彼女はほっとしたような顔をして、それから慌てて取り繕うように、笑顔を作った。
 愛想笑い。きっと癖になってるんだろう。癖になっているとしたら、それはもう作り笑いじゃない。

 彼女は笑っている。とても上手に。
 
 バスが来るまで、俺たちはずっと一緒にいた。
 バスが来て、俺たちは別れた。

374: 2014/02/22(土) 23:04:14 ID:DYHyNxEk



 家に帰ったときには、妹はいなかった。
 俺は夕飯の準備をしながら、先輩のことを考えた。

 考えた、のではないかもしれない。思い出していたのだ。
 彼女の仕草とか、言葉とか、表情とか、話とか、そういうものを。

 いろいろなことを思い出しながら、俺は黙々と料理を続けた。
 自分のことがよく分からなかった。

「ただいま」と声がして、妹が帰ってくる。「おかえり」と俺は台所から声をかけた。

「今日、お姉ちゃんたちに会ったよ」

「……どこで?」

「駅の方の喫茶店。友達と行ったら偶然」

「ふうん」

375: 2014/02/22(土) 23:05:04 ID:DYHyNxEk

「学校で、あんまり話しないの?」

「まあ、最近はね」

 妹は何かを言いたげな目でこちらを見ていたけれど、結局俺の態度については何も言わず、話を続けた。

「あのふたり、付き合い始めたのかな?」

「さあ?」
 
 どうなのだろう。
 よく分からない。前までなら、もっと気にしていたはずなのに。

 不思議と、今は、そんなに気にならなかった。俺は先輩のことを思い出していた。

376: 2014/02/22(土) 23:06:25 ID:DYHyNxEk



 着信音で目を覚ました。

 夏休みに入ってすぐのある日の朝、めったに鳴らない携帯が鳴った。
 寝惚け眼をこすりながら見ると、携帯のディスプレイは「千紗先輩」という文字を表示していた。

 あくびをしてから電話に出ると、「おはようございます」、と先輩の声が聞こえた。

「朝の九時です。良い朝です」

 冗談めかした言葉の割に、彼女の声は少しこわばっていた。

「おはようございます」と俺が返事をすると、電話の向こうで彼女が戸惑ったような気がした。

「おはようございます」と彼女はもう一度言った。

「あの」

 その言葉から、先輩の声は少し途切れた。それだけでは、言葉に意味はない。
 単なる空気の震えでしかない。

 逡巡のような間の後、

「今日、会えませんか」

 彼女は音ではなく言葉を発した。

377: 2014/02/22(土) 23:07:04 ID:DYHyNxEk

「今からですか?」

「はい」

 俺は正直眠かったが、それをここで言ったら最悪だよなと自分でも分かっていた。 
 最悪で何が悪いと開き直るような気持ちもないではなかったが、さすがに先輩にそれを押し付けるわけにはいかない。

「大丈夫ですよ」

 実際、用事はなかった。眠る以外には。

「それじゃあ、あの、言いにくいんですけど……」

「……はい?」

「……きみの家に、行ってもかまいませんか?」

「は?」

378: 2014/02/22(土) 23:08:00 ID:DYHyNxEk



 一時間後に、先輩は俺の部屋にいた。
 知り合いが遊びに来る、というと、妹は自分の部屋に引っ込んでくれた。
 なんだかおかしな動物でも見るみたいな目で見られたけれど。

「ずいぶん急でしたね」

 当たり前の事実として話しただけだったのだけれど、彼女は皮肉として受け取ったのか、弱ったような顔をした。

「すみません」

「……いえ、いいんですけど」

 先輩の私服は森に行ったときとは違うよそ行きのもので、その姿はなんとなく俺を緊張させた。
 対する俺は休みだからと気の抜けた格好で、かろうじて着替えてはいるものの、並んで座るとやけに間抜けさが際立った。

「どうして急に?」

「……ごめんなさい」

 別に気にしているわけではない。目的が分からないだけで。

379: 2014/02/22(土) 23:08:36 ID:DYHyNxEk

「急に押しかけておいて、こんなことを言うのはなんなんですけど……」

「はい」

「……すごく散らかってますね」

「……片付ける時間がなかったもので」

 今度はまぎれもなく皮肉のつもりだった。
 先輩は困った顔をした。

「掃除、あんまりしないんですか?」

「はあ。まあ、月に一度くらい」

「……」

「……ほんとは三ヵ月に一回くらい」

 彼女は溜め息をついた。

380: 2014/02/22(土) 23:09:43 ID:DYHyNxEk

「掃除、した方がいいですよ」

「まあ、しないよりはした方がいいですよね」

「そうではなくて、掃除は世界に対する小規模な反乱ですから」

「……は?」

 彼女は自分の発言を後悔しているように見えた。
 その態度のせいで逆に、俺はその言葉の真意が妙に気になってしまう。

「どういう意味ですか?」

 先輩は諦めたように口を開く。

「つまり、こんなことをいきなりいうと、なんだか変な人みたいでいやなんですけど……」
 
 十分変な人だと思うけど、といったらたぶん傷ついてしまうのだろう。

381: 2014/02/22(土) 23:10:22 ID:DYHyNxEk

「この世界、宇宙っていうのは、秩序から無秩序へと向かい続ける性質があるわけです。人間の尺度で見ると」

「……はあ」

「放っておけば散らかって、埃がたまって、どんどん汚れていく。そういう向きがあるわけです」

「はい」

「汚れた部屋を掃除して片付けて、秩序ある状態に戻したとしても、ゴミや埃はありますよね。
 それを部屋から追い出しても、ゴミは依然として存在する。世界全体としては、無秩序に向かう一方なわけです」

「……はい」

 よくわからなくなってきた。

「どうがんばったところで、世界は無秩序へと向かって行くんです。どんどんと混乱していく。
 掃除をしたところで逆らえない。でも、だからこそ掃除をしなきゃいけないんです。
 身の回りだけでも、手の届く範囲だけでも、綺麗にしようと努めるべきなんです。
 無秩序になっていくことが当然だと、受け入れてしまわないためにも」

「世界に対する反乱ですね」

「反乱です」と彼女は話を結んだ。

382: 2014/02/22(土) 23:10:57 ID:DYHyNxEk



 それから彼女は本当に掃除を始めてしまった。

 ばらばらに積みかさねられた俺の衣服はまとめられ、畳まれ、片付けられた。
 幸い見られて困るようなものはなかったけど、唐突に来た先輩が自分の部屋を掃除するというのも変な話だ。

 俺の部屋は徐々に秩序を取り戻していった。
 枕元に積みかさねられたたくさんの本は本棚へと戻り、衣服は洋服箪笥へとしまわれ、教科書は学習机に立てかけられた。

 開け放たれた窓から風が吹き込んでくる。

「いい天気ですね」

 一通り部屋を片付け終えてからコーヒーを淹れ、ふたりで休んだ。
 時刻は昼過ぎを回っていた。

「そうですね」

 俺が頷くと、彼女はちょっと笑った。

「どうして笑うんですか?」

「だって、窓の外見てなかったじゃないですか。適当に相槌打ちましたよね」

 俺は苦笑した。

383: 2014/02/22(土) 23:12:54 ID:DYHyNxEk

 さて、と俺は思った。さすがに何もせずに二人でいるには、間が持たないだろう。

「映画でも見ますか?」

「あるんですか?」

「DVDが何枚か」

「いいですよ。おすすめなのをかけてください」

 セレクトを任されたとはいえ、さすがに「ウィトゲンシュタイン」を掛けるわけにはいかなかった。
 とはいえ、俺の部屋にまともな映画なんていくつもない。

 そんなわけで仕方なく、中でもまともな方だった「汚れた顔の天使」を掛けた。
 まともなのが白黒映画だけというのは、考えてみれば切ない話だ。

「古いですね」と案の定先輩は言った。

384: 2014/02/22(土) 23:13:59 ID:DYHyNxEk

 物語の筋は知っていた。
 パッケージの裏に書いてある解説を読むと、少年時代からの親友二人の友情がメインテーマらしい。
 でも、正直どうなのだろう、と俺は考えてしまう。

 二人の少年はあるとき貨車強盗をたくらみ実行しようとするが、失敗して逃走するはめになる。 
 けれど、片割れのロッキー・サリバンだけが途中で追跡者に捕まり、少年鑑別所に送られる。

 無事に逃げ切ったもう一人は自分だけが助かってしまった後ろめたさに自白しようとするが、ロッキーが押しとどめる。
 そしてふたりの道は分かれる。ロッキーは悪名高いギャングになり、親友であるジェリーは少年たちを導く神父となる。
 
 ふたりの運命を分けたのは、足の速さか、あるいは運か、せいぜいそんなものでしかなかった。

 何かが違えば、立場は入れ替わっていた。

 たぶん、宗教や信仰の違いがあるから仕方ないのだろうけど、俺にはこれが友情の話だなんて思えなかった。
 ジェリーは「偶然」逃げ切っただけ、「偶然」ロッキーのようにならずに済んだだけなのだ。
 
 彼はそれを忘れて(あるいは理解しながらも)、ラストシーンでロッキーに誇りすら捨てるように言う。
「より尊い誇り」とやらの為に。高みから見下ろしたように。そう感じるのは俺だけかもしれない。

 せめて誇りだけでも、持たせたままで氏なせてやればよかったのだ。
 もちろん、ロッキー・サリバンのあの氏にざまは、たしかに誇りあるものだったのだろうけど。

385: 2014/02/22(土) 23:14:58 ID:DYHyNxEk



「先輩は、どうして敬語なんですか?」

 映画を観終えて、俺たちは雑談を始めた。その流れで、俺はずっと気になっていたことを訊ねた。

「……どうしてって、理由はないですけど」

 彼女は困ったような顔をしていた。

「嘘ですよね?」

「……どうして分かるんですか?」

「最近、分かるようになってきました」

 本当は勘だった。

「……敬語にしておかないと、人との距離の取り方が、分からなくなるんです」

「距離の取り方?」

「敬語なら、あまり、近付けませんから。敬語を保てば、自然と距離も保てるんです」

386: 2014/02/22(土) 23:16:15 ID:DYHyNxEk

「そうですか」

「……呆れてますか?」

「というよりは、そうですね」

 俺は少し考えてから、言った。

「突然家にやってきて、掃除をして、一緒に映画を観て、それでもなお保つべき距離って、どんなものなのかなって思って」

 先輩はしばらく考え込んでから、急におかしくなったみたいに笑った。

「……たしかに、そうかもしれない」

「全部、いまさらですよ」

「そう、だね」

 俺は何も考えずに、彼女の顔を見ていた。

「いまさら、だね」

 くすぐったそうな顔で、彼女は笑った。

387: 2014/02/22(土) 23:17:45 ID:DYHyNxEk



 夕方頃まで、くだらない話が続いた。何をそんなに話すことがあるのかと思うくらい長い時間が、気付けば経っていた。
 不思議なほど、時間の流れが早かった。

「そういえば、今日、お祭り……」

 先輩がそう言ったのは、街並みが赤く染まり始めた頃だった。

「そう、でしたっけ?」

「はい」

 また敬語に戻ってる。これも癖になっているんだろう。
 まあいいや、と俺は思う。そんなものは、時間が経てばどうにでもなるだろう。 
 時間さえ流れれば。

「……せっかくですから、行きましょうか?」
 
 自分でも意外なほど、するりとその言葉が出てきた。
 たぶん俺は、環境や状況に左右されやすいタイプなんだろう。

 一緒にいるのが楽しかった。

「……うん」

 短い沈黙のあと、先輩は頷いた。

388: 2014/02/22(土) 23:18:47 ID:DYHyNxEk



 行きのバスの中には、浴衣姿の人たちも何人かいた。
 はしゃぐ子供たち。浴衣姿の女の子。

 俺たちはバスに乗っている。
 みんな、どこかしら、はしゃいでいる。

 その気持ちが、今ならなんとなく分かるような気がした。

「楽しみですね」、と先輩は言った。言ってから、はっと気づいて、「……だね」と言い直した。
 俺はその流れがおかしくて、少し笑う。

「どうして笑うの?」

 むっとしたような顔。
 俺はこの人のことを好きになれたのだ、と思った。
 好きになることができたのだ、と。どうしてそんなことを思ったのかも、分からない。

『好きになることができた』
 音は同じだけれど、意味は二種類ある。
 自分で考えておいて、どちらの意味なのか、分からなかった。

389: 2014/02/22(土) 23:20:13 ID:DYHyNxEk

 夏祭りはなかなかに盛況で、俺たちはすぐに人ごみの中ではぐれそうになった。
 先輩は背が低いから、ふと気付くと見失いそうになる。
 
 だから、俺たちは、きわめて実際的な結論から、手を繋いだ。
 
 バカみたいだな、と俺は思った。

 手まで繋いで、いまさら何を考えることがあるんだろう?
 
 そう思うと、なんとなく、言わずにはいられなくなった。

「先輩」

 と俺は彼女のことを呼んだけれど、うまく聞き取れなかったらしい。

「はい?」

 また敬語だ。あるいは敬語じゃないかもしれない。でも敬語に聞こえた。いや、もうどっちでもいい。

「千紗先輩」、と俺は少し大きな声で彼女のことを呼んだ。

「はい」

 彼女はちょっとびっくりしていた。

390: 2014/02/22(土) 23:21:02 ID:DYHyNxEk

「俺、先輩のこと、好きです。好きだと思います」

「は、はい」

 彼女は、状況をつかみかねているみたいに、戸惑っていた。

「先輩も、俺のことが好きだって、言いましたよね」

「はい」

「それが本当なら、俺と付き合ってくれませんか」

「えっと、はい」

 沈黙。

 人ごみは当たり前のように流れ続ける。

391: 2014/02/22(土) 23:22:06 ID:DYHyNxEk

「……あの」

「はい?」

「今のは、返事ですか?」

「……えっと。そのつもり、でしたけど」

 どことなく不安そうな顔で、彼女は俯いた。

「そう、なんですか?」

「……はい。そのつもりでした」

「それじゃあ、つまり……」

「はい。……よろしくお願いします」

 何が変わるというわけでもなかった。
 口にしたからといって、関係性がすぐに切り替わるわけではなかった。
 俺たちは手を繋いだまま人の流れの中にいる。

392: 2014/02/22(土) 23:22:38 ID:DYHyNxEk

「とりあえず、歩きましょうか」

「……はい」

 なんとも間抜けなやりとりだ。人が見ていたら笑うだろう。さいわい、誰も俺たちのことなんて、見ていなかったけれど。
 話す言葉も失って、俺たちは黙々と夜店を見て回る。
 
 水ヨーヨーにはしゃぐ子供たち。
 救急車のサイレン。

「……あの」

 小さな声で、先輩がそう言った気がした。気のせいかと聞き流しそうになるくらい、小さな声。
 俺は先輩の顔を見て、続きを待った。

「うれしいんですよ、すごく。うまく、表せないんですけど。うまく表せないんですけど、うれしいって思ってるって、わかってください」
  
 もどかしそうな顔で、彼女はそう言った。
 俺はその言葉に、なんだか急に泣きたくなって、手を握る力を強めた。

393: 2014/02/22(土) 23:23:53 ID:DYHyNxEk

「……俺も、うれしいですよ。手を繋いでいるのも、一緒に歩くのも。でも」

「――でも?」

 訊ね返されて、俺は怖くなった。
 どうして俺は「でも」なんて言ったんだろう?

「でも、なんですか?」

 先輩は真剣な顔でそう訊ねてきた。俺は正直であるために、自分の気持ちを静かに確かめた。

「……でも、少し怖いんです」

「……なにが?」

 すぐには答えられなかった。考えても、よくわからなかった。
 なんとなく、本当になんとなくだけれど。

『自分が幸せになっていいのだろうか』、と、そんな気持ちが湧き出るのを感じた。
 あるいはそれは、ずっと昔からそこにあった感情かもしれない。

394: 2014/02/22(土) 23:25:44 ID:DYHyNxEk

「なにはともあれ」と彼女は言った。

「なにはともあれ、今は一緒にいます」

 振り払うような声。手を、少し強く握られる。
 俺はなんだかうれしくなって、肯いた。

「そうですね」

「なにもかも、すぐには割り切れないかもしれない。
 でもわたしたちには時間があるし、これからできることだってたくさんある。
 わたしはまだ、きみに言っていないことがたくさんあるし、きみにしてほしいことだってたくさんあるんです」

「してほしいことって?」

「それは――」

395: 2014/02/22(土) 23:26:45 ID:DYHyNxEk



 言葉は途中で途切れてしまった。
 続きを失ったのだ。意味を剥奪された。単なる音になる。空気の震えでしかなくなる。
 誰もそこから意味を掬い取ることができない。

 世界から音が消えた。

 一瞬の停滞の後、景色が逆巻くようにうねりはじめる。
 俺はその中に立ち尽くしている。光の洪水。

 戸惑う暇もなく、世界が崩れていく。照明が消えたステージ。暗転。

 耳鳴りと眩暈。繰り返されている。続いている。何かを忘れている。
 誰かが遠くで泣いているような気がする。誰かが遠くで泣いている。助けを求めている。

 ノイズ。視界から光が失われる。俺はうねる景色の中で誰かの手を離した。離してしまった。
 それが誰の手なのか、もう思い出せない。誰かが笑っている。
 すべては暗闇の中に収斂する。

 そして、ノックの音。

396: 2014/02/22(土) 23:27:44 ID:DYHyNxEk

引用: こんな日が続けばいいのに